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日蓮大聖人・池田大作

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第20巻 「懸け橋」 懸け橋

小説「新・人間革命」

前後
1  懸け橋(1)
 さあ、心軽やかに、新しい歩みを踏みだそう。
 人生は、限りある生命の時間との闘争だ。なれば、間断なき前進の日々であらねばならない。
 ロシアの大詩人プーシキンはうたった。 
 「汝は王者なれば ただ一人征け
 自由の大道を自在なる英知もて進め
 その尊き偉業の報いを欲せず
 自らが愛する思想の実をば結びゆけ」
 それはまた、山本伸一の決意でもあった。彼は人類の平和のために、わが生涯を捧げようと、深く心に誓っていた。
 一九七四年(昭和四十九年)九月八日、彼は、モスクワ大学の招待を受け、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦の略称=当時)に向かっていた。ソ連は初訪問である。
 羽田の東京国際空港を発ったのは、この日の午前十一時過ぎであった。
 滞在は十日間で、訪問する主な都市は、首都モスクワと、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)である。
 そして、モスクワ大学をはじめ、ソ連対外友好文化交流団体連合会、文化省、教育省、レニングラード大学(現在のサンクトペテルブルク大学)などを公式訪問することになっていた。
 同行メンバーは、妻の峯子、創価大学の学長、教授、青年部・婦人部の代表、そして、聖教新聞の記者やカメラマンら十人である。
 この訪ソの目的は、教育・文化交流を通して、友好を促進し、平和のための相互理解を深めることにあった。
 国家と国家の関係といっても、最終的には人間と人間の関係に帰着する。真の友好を築くためには、友情と信頼の絆で人間と人間が結ばれていくことが不可欠である。
 ゆえに伸一は、国家というよりも、むしろ、民間次元で交流を深めることが必要であると考えていたのである。
 また、彼は、この訪問で、中国は決して戦争は望んではいないことをソ連の首脳に伝え、中ソの戦争を回避する道を、断じて開かなければならないと、固く心に決めていたのである。
 さらに、米ソ対立、そして東西冷戦という、分断され、敵対し合う世界を、融合へ、平和へと向かわせる、第一歩にしようと、深く決意していたのである。
2  懸け橋(2)
 山本伸一のソ連訪問は、前年(一九七三年)の十二月七日、ソ連科学アカデミー正会員のA・L・ナロチニツキーと準会員のM・P・キムとの出会いが契機となって、具体化していった。
 当時、日ソ両国は、ようやく関係改善の兆しが見え始めたものの、その前途にはさまざまな問題が横たわっていた。
 戦後、日本とソ連は、一九五六年(昭和三十一年)に、国交を正常化したが、六〇年(同三十五年)に日本が新日米安保条約を結ぶと、日ソの関係は冷え切っていった。
 北方領土問題についても、ソ連は、既に解決済みとの立場を取るようになり、返還交渉の道さえ閉ざされてしまった。
 そして、北方水域では日本漁船がソ連によって拿捕される事件が、後を絶たなかった。
 そのなかで、この七三年(同四十八年)十月、田中角栄首相が訪ソし、ブレジネフ書記長と会い、十七年ぶりに首脳会談が行われたのである。
 日ソは、平和条約の締結へ動き始めたかに見えた。しかし、前途は依然として濃い霧に包まれていたといってよい。
 国家による政治や経済次元の交流は、利害の対立によって分断されてしまうことが少なくない。
 だからこそ、平和と友好のためには、民間による、文化、教育、学術などの幅広い交流が不可欠であるというのが、伸一の主張であったのだ。
 彼は、その信念のもとに、日ソの文化交流に力を注いできた。
 六六年(同四十一年)には、民音(民主音楽協会の略称)がソ連のノボシビルスク・バレエ団を日本に招聘したが、伸一は民音の創立者として、その実現のために陰で奮闘を重ねてきた。
 一方、ソ連も、伸一と創価学会に注目し、学会が民衆を組織して日本の新しい潮流を形成してきたことに、大きな関心を寄せていたようだ。
 六三年(同三十八年)には、ソ連科学アカデミーの付属研究機関が発行する雑誌「今日のアジア・アフリカ」の編集局の招きで、青年部の代表が訪ソしている。
 また、六七年(同四十二年)に行われた東京文化祭には駐日ソ連公使らが出席。その翌年には、学会を深く研究・理解しようと、駐日ソ連大使らが総本山を見学に訪れている。
3  懸け橋(3)
 一九七三年(昭和四十八年)の秋であった。
 市民レベルでの日ソの交流窓口の一つとなっていた対文協(日本対外文化協会の略称)などを通して、ソ連から山本伸一に、訪ソの意向があるかどうか、打診があったのである。
 ソ連の日本担当者は、冷え切った日ソ関係の新たな交流のパイプとして、創価学会に期待を託していたようだ。
 伸一は、「日ソの文化交流を促進し、恒久平和を築く一助を担うために、機会があれば訪ソさせていただきます」と答えた。
 そして、その後、次のような要請が寄せられたのである。
 ――十二月に「日ソ歴史学シンポジウム」があり、ソ連の歴史学者が日本を訪問します。
 その学者たちは、創価大学の訪問を希望しており、できれば、そこで、創立者の山本会長にお会いしていただきたい。
 創価大学は、まだ開学三年目であり、最高学年が三年生という大学である。しかし、人間教育の最高学府をめざす新しい大学に、ソ連の歴史学者たちも、強い関心をいだいていたのであろう。
 対文協の関係者も、学会とソ連との交流を積極的に後押ししていた。
 日ソ間交流の新たな柱として、創価学会に、そして、その会長である伸一に、期待を寄せていたようだ。
 対文協の会長を務めていたのは、東海大学の松前重義総長であった。
 松前会長は大学の総長として、伸一の創立した創価大学に注目していたという。
 伸一は、ソ連の歴史学者たちが創価大学を訪問し、自分と会見を希望していることを聞くと、直ちに、創価大学の学長らと相談した。
 「私だけでなく、学生や教授とも、ぜひ、会って、交流していただきたいと思う。
 二十一世紀に羽ばたく創大生にとって、イデオロギーや社会体制の壁を超えて、ソ連の学者と交流をもつことは、人生の大きな財産になるにちがいない。これは、大事な機会です。
 大学として、正式にご招待し、記念講演も行っていただくようにしてはどうだろうか」
 伸一は、世界を担う創大生のために、さまざまな触発の機会をつくりたかったのである。
4  懸け橋(4)
 山本伸一と創価大学の学長らで検討し、ソ連の歴史学者を招待することが決まった。
 そして、十二月六日、七日の両日、ソ連科学アカデミーのナロチニツキー正会員、キム準会員の二人が、創価大学を訪問したのである。
 二人は、「ソ連邦の国際政策にみる平和と安全の諸問題」(六日、ナロチニツキー)、「ソ連邦諸民族間の文化的発展とその現状」(七日、キム)と題して講演した。
 さらに七日の講演のあとには、伸一をはじめとして、創価大学の学長や理事長、教授の代表らと懇談が行われた。
 伸一は、席上、四つの提案をした。
 それは、日ソ間の友好を深め、平和を実現するには、どうすればよいのかを、ソ連の立場に立って真剣に考え抜いた末の結論であった。
 提案の第一は、学生同士の大学交流を行うための仮称「日ソ学生文化交流協会」の設置である。
 第二は、「教育国連本部」をモスクワに設置することであった。
 「教育国連」とは、教育権の独立を守り、世界平和への精神的な砦とするための、教育の国際的な連合組織である。
 この「教育国連」構想は、一九七三年(昭和四十八年)十月、アメリカ学生部総会に寄せたメッセージのなかで、伸一が提唱したものである。
 第三は、モスクワ大学に仏教哲学、東洋哲学に関する科目(講座)を設置することであった。
 アジアの人びとの精神を支えている哲学の、研究と理解なくしては、心と心を結び合うことも、世界の平和もありえないからだ。
 そして最後の提案は、ソ連に仏教寺院を建設することであった。
 この提案にあたって、伸一は、こう述べた。
 「ソ連に対する多くの日本人のイメージは、率直に申し上げて、決してよいとはいえません。
 非寛容的であり、信教の自由を認めないイデオロギーの国であるとの印象があります。それでは損をするのはソ連です」
 歯に衣を着せぬ発言であった。
 通訳の日本人女性は、しばしば言葉をのみ、伸一の顔を見た。
 「わたしは、真実を語るには、遠慮もせず恥じらいもしない」とはプラトンの信念であり、伸一の決意でもあった。
5  懸け橋(5)
 通訳の女性は、あまりにも率直な山本伸一の言葉を、本当にそのまま伝えてしまってよいのか、戸惑っていた。
 伸一は言った。
 「どうぞ、心配せずにそのまま訳してくださって結構です」 
 彼は、さらに力を込めて話を続けた。
 「強圧的な態度であれば、人間の心は離れていってしまいます。大事なことは、日本はもとより、世界の民衆の共感を得ることです。
 それには、ソ連は寛容な姿勢に立つ必要があります。
 しかし、いくら自分たちは、寛容、寛大であると説明しても、なかなか信頼は得られないでしょう。百万言の理論よりも一つの証明です。
 その象徴として仏教寺院の建設を提案します。実現すれば、ソ連は、宗教に対して寛容であり、人間の精神の自由を保障していると、多くの日本人が、また、世界の人びとが納得するでしょう。
 それは、ソ連が他国の信頼を得るうえで、大きな意義を刻むものになります」
 伸一の四つの提案を聞くと、ナロチニツキーは語った。
 「わかりました。よく検討いたします」
 彼らは、伸一の率直な人柄と意見に共感したようであった。
 キムは感動の表情で言った。
 「山本会長には、現代人が探究すべき、創造の理念があり、歴史的な指導者であると思います」 そして、その二日後、帰国を前にして、彼らは語った。
 「私どもの個人的な意見ではありますが、ぜひとも山本先生を、モスクワ大学に招待したい。そのために、最大の努力を払ってまいります」
 こうして伸一の訪ソは、さらに具体化していったのである。
 彼のソ連への招待をめぐって、モスクワでは、激論が交わされた。
 ソ日協会の副会長で、ソ連共産党中央委員会国際部で日本を担当していたI・I・コワレンコは、後年、伸一をソ連に招待するに至るまでの経過を、「聖教新聞」(一九九四年九月八日付)に記している。
 ――それによれば、当初、党官僚の多くは、山本会長の招待に反対であった。「創価学会についての正しい情報をもっていなかった」からである。
6  懸け橋(6)
 コワレンコは、いち早く山本伸一と創価学会に着目し、駐日ソ連大使館の関係者らと、調査、研究を重ねてきた人物であった。
 学会の広報室長で副会長の山道尚弥とも直接会い、学会についての認識を深めてきた。
 コワレンコは、学会を高く評価し、学会との積極的な交流を訴えてきた。しかし、ソ連共産党の官僚の多くは、伸一についても、学会についても、よく知らなかった。
 そのために、どうしても学会の見方が、表層的にならざるをえなかったのである。
 そもそも宗教団体の創価学会と、宗教否定のマルクス・レーニン主義が理解し合えるのかという疑問もあったようだ。
 また、伸一は、ソ連と緊張関係にある中国と日本の国交正常化の提言を行ってきた。それだけに、伸一に警戒の目を向ける人も少なくなかったのである。
 創価学会の目的や哲学の背景にあるものなどをもっと検討し、山本会長のこともよく調べてから、招くかどうかは判断すべきだとの意見が大勢を占めたという。
 だが、そのなかでコワレンコは、招待すべきだと主張していった。
 彼は、一千万の会員を擁する創価学会が、日本との新たなパイプとなり、友好的な存在となるのか、反ソ的な存在となるのかは、極めて重要な問題であると考えていたのだ。
 コワレンコは、アジア情勢をよく洞察していた。日中の亀裂を埋め、両国を結びつけた本当の力は誰なのかも、鋭く見すえていた。
 彼は、終戦直後、ソ連に抑留された日本人向けに発刊した新聞の編集責任者を務めており、ソ連きっての日本通でもあった。
 また、鉄の信念をもつ男として恐れられていた。対日外交には、強面で臨み、強硬姿勢を貫くことで知られ、「恫喝外交」などという批判の声もあった。
 そのコワレンコが、声を大にして叫んだのだ。
 「山本会長の訪ソを実現させ、トップレベルの会見を行い、国家レベルの歓迎をすべきだ」
 結局、彼の情熱あふれる訴えに
7  懸け橋(7)
 山本伸一の招待の仕方について、ソ連は慎重に検討を重ねた。
 伸一は創価学会の会長であり、宗教者である。ソ連は共産主義を掲げる国である。党として招待することには問題があるという意見が強かった。
 そして、創価大学の創立者である山本会長を、モスクワ大学が招待するということになったのである。
 ソ連科学アカデミーの歴史学者が創価大学を訪問してから二週間後の十二月二十一日、東京・後楽園競技場で「大シベリア博」が開催された。
 マンモスの復元像も展示され、シベリアの自然や歴史、文化、開発の現状などを紹介する博覧会である。
 ソ連への理解を深めるために、ソ連政府や対文協も力を注いだ催しであった。
 ところが、開幕から一カ月後の一九七四年(昭和四十九年)の一月二十一日、パビリオンのエアドームの天井が積雪のために崩れ、展示物の一部が破損するという事態に遭遇したのだ。
 約一カ月半にわたって休館となり、損害も大きかった。
 日ソ友好の促進のために、この催しの成功を願っていた伸一は、胸を痛めた。
 それだけに、関係者から相談を受けると、彼は直ちに、学会としても応援することにした。
 伸一は、これまでもノボシビルスク・バレエ団の招聘をはじめ、さまざまな面で、日ソ友好のために尽力を重ねてきた。
 それがどう評価されるかなどといったことは、彼の眼中になかった。ただ、自らの信念に従い、誠実に行動してきた。
 「誠実な魂には動揺がない」とは、ロシアの作家ゴーリキーの慧眼である。
 この年の四月、伸一のもとに、モスクワ大学のR・V・ホフロフ総長から招待状が届いた。
 五月、伸一は、聖教新聞社で、O・A・トロヤノフスキー駐日ソ連大使らと会談した。
 この席で、モスクワ大学の招待を正式に受諾する返書を大使に託した。いよいよ秋に訪ソすることが決まったのである。
 そして、伸一は、この五月の末から、初の中国訪問に出発したのだ。
 ″対立する中ソの懸け橋となるのだ!″
 そう自分に言い聞かせながら。
8  懸け橋(8)
 初の訪中を終えた山本伸一は、共に訪ソするメンバーに語った。
 「私は、なんのためにソ連に行くのか。
 それは、なんとしても第三次世界大戦をくい止めたいからです。
 だから中国に続いて、ソ連に行き、それから、アメリカにも行きます。
 日蓮大聖人のお使いとして、生命の尊厳と平和の哲学を携えて、世界平和の幕を開くために行くんです。
 平和のための、失敗の許されぬ、真剣勝負が待っている。大胆に、勇気をもって、新しい歴史を開かねばならない。臆病では戦いはできません」
 烈々たる決意の言葉であった。
 ソ連訪問の準備は、着々と進められていった。
 しかし、伸一の訪ソに賛成する人は、ほとんどいなかった。副会長の十条潔ら、学会の首脳さえも反対であった。
 東京のある寺では、住職が婦人部の幹部に、せせら笑うように、こう語ったのである。
 「山本さんは、信者もいない宗教否定の国へ、なんで行くのかね」
 世界平和という仏法者の使命を自覚せぬ彼らには、伸一の心など、わかろうはずがなかった。
 また、財界のある重鎮は、伸一のことを心配して、切々と訴えるのであった。
 「共産主義の国は、次第に行き詰まってきています。付き合っても、決していいことはないでしょう。訪ソは、おやめになった方がよい。
 それにしても、どうしてソ連などに行こうと思われたのですか」
 心配してくれる気持ちに感謝しながら、伸一は明快に答えた。
 「そこに、人間がいるからです。人間に会いに私は行くのです。
 共産主義の国であろうが、資本主義の国であろうが、そこにいるのは、平和を願う、同じ人間ではないですか。
 ですから私は、その人間の心と心に橋を架け、結ぶために行くんです。それが平和への、最も確かな道であるというのが私の信念です」
 何ものをも恐れぬ、厳とした口調であった。
 伸一の言葉に、財界人は、感嘆した顔で深く頷くと、言った。
 「そこまでお考えになってのことですか。その志に、敬服します。ソ連訪問の大成功を祈っております」
9  懸け橋(9)
 山本伸一を乗せた飛行機が、モスクワの空港に到着したのは、現地時間で九月八日の午後三時過ぎのことであった。
 九月八日は、一九五七年(昭和三十二年)に横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部東日本体育大会「若人の祭典」の席上、第二代会長の戸田城聖が、青年たちへの「第一の遺訓」とした「原水爆禁止宣言」を発表した日である。
 また、六八年(同四十三年)に東京・両国の日大講堂で開催された学生部総会で、伸一が「日中国交正常化提言」を行った日でもある。
 その九月八日に、世界を二分する東西両陣営の一方の旗頭で、核大国でもあるソ連に訪問の第一歩を印したのだ。
 しかも、提言が淵源となって交流の道が開かれた中国と、ソ連の懸け橋になろうと決意しての訪ソである。
 伸一は、タラップに立つと、晴れ渡るモスクワの空を仰ぎながら、戸田の顔を思い浮かべ、深く心に誓うのであった。
 ″先生! 伸一は、このソ連に、先生の平和思想を、仏法の人間主義の哲学を伝え、世界平和の道を開いてまいります″
 心に師をもつ人は強い。師こそ、勇気の源泉であるからだ。
 タラップの下には、伸一たちを招待してくれたモスクワ大学の、R・V・ホフロフ総長、V・I・トローピン副総長、L・N・ハリュコフ副総長代理、通訳のL・A・ストリジャック主任講師らの姿があった。
 さらに、対文連(ソ連対外友好文化交流団体連合会の略称)やソ日協会の関係者らもいた。ソ連側の丁重な歓迎を表す出迎えの態勢であった。
 しかし、出迎えてくれた人びとの表情は、どこか硬く、緊張した空気に包まれていた。仏教指導者でもある伸一を迎えることに、戸惑いがあったようだ。
 その空気を察知した伸一は、皆を包み込むように、笑みを浮かべて語りかけた。
 「お出迎えいただき、ありがとうございます。
 皆さんのご尽力で、憧れのモスクワに来ることができました。
 私は、皆さんから学ぶためにまいりました。しっかり勉強して帰りますので、生徒と思って教えてください」
 伸一の言葉に、皆の顔にも微笑の花が咲いた。
10  懸け橋(10)
 山本伸一は、それからホフロフ総長の手を固く握り締めた。
 「お会いすることを楽しみにしておりました。
 私どもの創価大学は、モスクワ大学の長い伝統から比べると、まだ、孫のような存在であろうと思います。
 しかし、やがて二十一世紀には、モスクワ大学とともに、世界平和に貢献しうる大学に成長してまいります」
 気迫に満ちあふれた声の響きであった。
 ホフロフ総長は、通訳の言葉を聞くと、眼を輝かせ、「オー」と感嘆の声をあげた。
 教育にかける伸一の情熱を感じ、共感したようであった。
 彼は、伸一の手を強く握り返して語った。
 「人類の平和をめざす日本の新しい大学の創立者である山本先生に、ぜひ、お会いしたいと思っていたのです」
 総長は、伸一より二歳年上の四十八歳である。
 ソ連において、科学技術や芸術などの分野で最も優れた業績をあげた人に贈られるレーニン賞も受賞している、最優秀の科学者である。
 伸一は答えた。
 「もったいないお言葉です。総長とお話しすることは私の念願でした。
 ぜひ総長の教育哲学などもお教えください。大いに語り合いましょう。人類の未来のため、平和のために」
 そして伸一は、出迎えてくれた一人ひとりに笑みを向け、声をかけ、握手を交わしていった。
 「ソ連の新しい友人とお会いできて、嬉しく思っております」
 伸一の快活な笑顔に触れ、言葉を交わし合ううちに、出迎えの人びとの緊張はとけていった。
 笑顔は心を開き、和ませ、結びゆく力である。
 空港のターミナルビルに向かうバスの中では、既に皆が旧知の間柄のように話が弾み、笑い声が響いた。出会いの語らいで、互いに心は打ち解け合った。
 ホフロフ総長は、「モスクワは今、金の秋を迎えました。最もよい季節です。この時期に山本先生を迎えることができてよかった」と、嬉しそうに語るのである。
 「肝心なのはスタートではあるまいか。どんなことでも最初の第一歩によってその将来が左右されるものなのだ」とはロシアの文豪ドストエフスキーの分析である。
11  懸け橋(11)
 山本伸一の一行は、空港の貴賓室で、ホフロフ総長らと懇談したあと、宿舎となるロシアホテルに向かった。
 黒塗りの車の列の先頭に、交通警察の車がサイレンを響かせていた。
 車中、トローピン副総長が、町の建物や歴史を説明してくれた。それをストリジャック主任講師が、流暢な日本語で通訳してくれる。
 モスクワは美しい街であった。
 色づき始めた木々が、さわやかな風に揺れ、平和の調べを奏でているかのようでもあった。
 空港から四十分ほどでロシアホテルに着いた。約三千室もあるという、大きな近代的なホテルである。
 部屋の窓から、赤レンガの城壁に囲まれたクレムリンや、博物館になっているタマネギのような形をした屋根の聖ワシリー寺院が見えた。
 伸一と峯子は、荷物を整理すると、すぐに唱題を始めた。
 祈りから始める――それが彼らの信念であり、行動の原則であった。
 祈りは誓いであり、決意である。
 小声ではあるが、真剣な唱題であった。
 二人は、ソ連の人びとの幸福と平和を、そして、いつの日か、地涌の菩薩がこの地にも誕生し、乱舞することを、懸命に祈り念じた。
 御聖訓には「教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」と仰せである。
 一切の根源である妙法に連なるならば、すべてを変えていくことができるとの、大聖人の御確信である。
 この日、午後六時半、宿舎のレストランで、ソ連側からホフロフ総長ら十人ほどが出席して、「歓談の宴」が催された。
 総長が歓迎のあいさつに立った。 
 「今日は、日本の偉大なる社会活動家・山本会長一行を迎え、ソ連にとって記念すべき日となりました。
 私たちは、山本先生のご活躍、また、ご指導はよく存じています。
 創価学会の活動に私たちソ連の人民は、深い理解と共感を示しています。特に平和に対する立場、創価大学にみる教育への情熱には共鳴いたしております」
 総長の話に、同行のメンバーは驚きを覚えた。
12  懸け橋(12)
 同行メンバーは、初めて会うモスクワ大学の総長が、山本会長のことや創価学会の運動、また、創価大学について、深く理解していることに驚嘆したのである。
 しかし、ソ連が学会に目を向け、研究してきたのは、決して不思議なことではない。
 学会は戦後、ほとんど壊滅状態のなかから出発し、一九五一年(昭和二十六年)に戸田城聖が第二代会長に就任した時には、会員は実質約三千人にすぎなかった。
 それが、わずか二十余年で、事実上、日本最大の宗教団体に大発展したのだ。しかも、無名の民衆が社会建設の主体者となり、生き生きと文化・教育・政治など、各分野の改革を推進し、民衆の一大潮流をつくり上げてきたのである。
 まさに、それは「現代の奇跡」と言っても過言ではない、大変なことなのである。
 人民の活力をいかに引き出し、国家を発展させるかを考えるならば、ソ連の指導者たちが、創価学会やその会長である山本伸一に強い関心をいだくのは、自然の流れであったにちがいない。
 伸一は、学会の大発展のために、日々、生命を削る思いでさまざまな手を打ち、同志を励まし抜き、奮闘に奮闘を重ねてきた。
 そうして築かれた未曾有の学会の歴史なのである。
 しかし、同行のメンバーは、伸一の奮闘も学会の大興隆も、当たり前のように考えていたのだ。
 だから、ホフロフ総長らが、なぜ、学会に着目しているのかが、わからなかったのである。
 総長は、こう語って話を結んだ。
 「山本会長と、二十一世紀の人類の未来のために、教育について語り合える機会を得たことは大きな喜びです。
 では、この出会いを祝して乾杯をしたいと思います」
 乾杯のあと、伸一があいさつに立った。
 彼は、心温まる歓迎に対して、感謝を述べるとともに、創価学会について語っていった。
 「創価学会は、日本における民衆の自発的意志でつくられた最大の団体でございます。
 私どもの最大の関心は平和であり、人びとの幸福であります」
13  懸け橋(13)
 山本伸一は、力を込めて訴えた。
 「平和で豊かな二十一世紀を創出する″英知の泉″となるべきものは教育であります。
 その意味で今回の貴国への訪問により、実りある教育の交流をさせていただくことは、私どもにとり、無上の喜びでございます。
 そしてまた、各界の人びとと友情の灯をともすことができましたならば、これ以上の喜びもございません」
 それから伸一は、未来に思いをめぐらせながら、抱負を述べた。
 「シベリアの美しい冬に、人びとが窓からもれる部屋の明かりに心の温かさ、人間の温かさを覚えるように、私どももまた、社会体制は違うとはいえ、人びとの心の灯を大切にしてまいることを、お約束します。
 シベリアの凍てついた大地にも、草木萌ゆ春が訪れるように、人類の未来にも、今以上の希望燃ゆ若芽の息吹く春が訪れることを信ずるのであります」
 あいさつのあと、夕食を共にしながらの歓談が始まった。
 伸一は、自分の主張を明確に訴えていった。
 「友好の橋を築いていくには、百年、二百年先を見すえ、後に続く世代のために、道を開いていかなければならないと思っています。
 ゆえに私は、教育交流を最も重視しています。
 政治、経済の動きに左右されない永続的な交流が生まれ、日ソのみならず世界が結ばれていくならば、そこから世界平和の潮流が生まれるというのが、私の信念です」
 彼の遠大な構想は、仏法の人間主義という哲学から生まれたものだ。
 さらに、伸一は、教育国連についても言及していった。ホフロフ総長は、その構想を聞くと、強い関心を示した。
 「本当に興味深い、重要な提案です!」
 ソ連の人びとも、自国の教育政策などを、次々とぶつけてきた。白熱した語らいとなった。
 伸一がデザートのアイスクリームに手をつけようとした時には、溶けてしまっていた。
 伸一は言った。
 「友好の熱気で、アイスクリームも溶けてしまいました。これは、ソ連の飲み物です!」
 爆笑が広がった。彼のユーモアにますます心はとけ合った。
14  懸け橋(14)
 木々の生い茂る丘の上に、天に向かって、尖塔をもつ、白亜の壮麗な三十二階建ての建物が、辺りを圧するようにそそり立っていた。
 それは、まさに「知の宮殿」であった。
 九月九日、山本伸一たちは、モスクワ大学を初訪問したのである。
 黄葉の始まった白樺や菩提樹に囲まれた構内の花壇には、赤や黄色の花々が、モスクワの金秋を惜しむかのように、風に揺れていた。
 モスクワ大学の正式名は「M・V・ロモノーソフ記念モスクワ国立大学」であり、帝政ロシア時代の一七五五年、科学者のロモノーソフによって設立された、ソ連最大の名門大学である。
 ロモノーソフは、十八世紀ロシアの偉大な科学者であった。
 物理、化学、天文学の分野でも優れた業績をあげ、言語学者、詩人としても有名である。
 彼は、一七一一年十一月、モスクワ北方にある白海沿岸の漁師の家に生まれた。
 十九歳でモスクワに出て苦学を重ね、さらにドイツに留学。帰国後は科学アカデミーの会員となり、科学者として大成していった。
 やがて彼は、″ロシアの大地から多くのプラトンたち、また優秀なニュートンたちが、生まれるであろう″との希望を託して、モスクワ大学の創設に着手する。
 苦学を強いられてきた彼は、こう考える。
 ″自由を奪われた農民をはじめ、すべての階層の人びとが大学で学べる道を開こう″
 大学は、決して特権階級の独占物ではないというのが、彼の信念であった。
 彼は開学のために奔走した。
 帝政ロシアの時代、民衆に開かれた大学を設立したいというロモノーソフの理想を実現することは難しかった。
 元老院から大学設立の認可を得ることも容易ではなかった。
 モスクワ大学は、エリザベータ女帝の片腕として活躍する、高官のI・I・シュバロフの協力を得て、ようやく開学に至ったのである。
 薬局だった小さな木造家屋を改装した校舎からのスタートであった。ロモノーソフ四十三歳の時である。
15  懸け橋(15)
 ロモノーソフの奮闘によってモスクワ大学は開学したが、当時、彼が創立者として讃えられることはなかった。開学式にも彼の姿はなく、モスクワ大学の教壇に立つこともなかった。
 しかし、ロモノーソフは、ペテルブルクにあって、青年を育てるという遠大な希望に向かって悠然と生き抜いた。
 彼は詠う。
 たとえ我が生涯が
 不遇に終わろうとも
 若き英知が咲き誇り
 我が開きし道を
 ゆくならば
 無数の後継の子らを
 ロシアは生むだろう
 モスクワ大学は、ロシアの民衆のための新しい画期的な大学であった。
 一期生には、貴族は一人もいなかった。大学には、「大学で尊敬されるのは、人一倍学ぶ学生であって、家柄ではない」という、ロモノーソフの精神が脈打っていた。
 また、講義はラテン語だけでなく、ロシア語でも行われた。学問を広く民衆のものにするには、自国語が使われるべきであるという考えによるものであった。
 さらに、モスクワ大学では、学生だけでなく、一般民衆も講義を聴くことができたし、図書館も利用することができた。
 民衆が知識を身につけ、賢明になってこそ、新しい時代は訪れる。
 モスクワ大学に集った学生たちは、ロモノーソフを尊敬し、慕っていた。
 彼らは、ロモノーソフの創立の精神を受け継ぐことが、大学を永遠ならしめる道であると確信していたにちがいない。
 モスクワ大学が最初に出版した本格的な書籍はロモノーソフの選集であった。それを手がけたのは、彼の弟子でモスクワ大学の教授になったポポフスキーであった。
 だが、この弟子は本の完成を待たず、病に倒れ、世を去ったのである。
 師は、亡き弟子が心血を注いで作り上げた選集を、涙で読んだ。
 ポポフスキーは、師に捧げる詩を詠んでいる。
 ロシアの豊かなる言葉
 を駆使し
 自然の殿堂を開き
 ロシア民族の英知を学
 問で証明せしその人は
 ロモノーソフなり!
 この弟子たちの戦いによって、師の真実と正義が証明されたのである。
16  懸け橋(16)
 モスクワ大学は、ノーベル賞やレーニン賞の受賞者も多数輩出し、社会主義建設を担う英知の砦となってきた。
 山本伸一の一行は、ホフロフ総長、トローピン副総長をはじめ、教授の代表ら約二十人と、総長室の円形テーブルで懇談した。
 総長は、目を輝かせながら語った。
 「創価大学は二十一世紀の人材を育成していく大学であり、モスクワ大学は、二十一世紀の人材育成に多大なる関心をもっています。
 その意味で、創価大学との教育交流に、私は大変に深い意義を感じております」
 伸一は、その言葉に感動した。
 モスクワ大学は、東側陣営を代表する、最高峰の名門大学である。
 しかし、総長は、その権威に安住することなく、二十一世紀という未来に向かって、いかなる人材を育成していくべきかを、真摯に探究していたのだ。
 リーダーが権威の虜になるならば、新たなる発展はない。発展とは絶えざる探究の異名である。
 大学教育の在り方をめぐって、意見の交換が始まった。
 語らいのテーマは、教科書の選定、通信教育制度、大学付属の研究所と各学部との関連、大学院の現状、教授の採用および資格、モスクワ大学の日本研究など、多岐にわたった。
 なかでも通信教育制度については、創価大学も設置を決めていることから、創大の学長たちの質問が相次いだ。
 モスクワ大学の通信教育生は約四千人という。在学期間は長期になるが、大学卒業の資格は同じで、学生の九〇パーセントは卒業しているとのことであった。
 通信教育についての説明を聞き終わると、伸一は言った。
 「民衆に最高の大学教育を提供しようという、貴大学の姿勢を裏付ける制度であると思います。
 二十一世紀には、通信教育をはじめ、誰もが学べるシステムといったものが、ますます盛んになっていくでしょう。
 私は二十一世紀は、教育の世紀であると思っています。
 また、社会のための教育という考え方から、教育のための社会へと変化していくことが必要であると考えています」
17  懸け橋(17)
 モスクワ大学での、この懇談の折、図書贈呈が行われ、山本伸一は、邦文図書三千冊の目録をホフロフ総長に贈った。
 また、目録とともに、一行が持参してきた『日本考古学辞典』『日本の文化地理』『日本の美と自然』『概説日本美術史』などの二十冊が手渡された。
 三千冊の図書は、日本文化の理解に重点を置いて選定されていた。文化史、思想史、歴史、芸術などのほか、日本の教育関係書や語学関係の辞典も数多くそろえられていた。
 図書の贈呈は、文化交流の礎であると、伸一は考えていたのである。
 彼には、少年時代、海外の物語などの翻訳本を通して、諸外国の文化に触れることができたという、強い思いがあった。
 当時、軍国主義教育が行われ、さまざまな制限が加えられてはいたが、それでも、本には、世界の風が吹き抜けていたのである。
 だから、伸一は、文化交流の第一歩として、図書を贈呈することに力を注いでいたのである。
 ホフロフ総長は、目録を受け取ると、丁重に言った。
 「ご厚意に、深く感謝いたします。
 今回お贈りいただく書籍は、広く市民にも公開するように計画しております」
 総長室の壁の高いところに、横幅が二メートルほどの、モスクワ大学の全容を描いた美事な織物が飾られていた。
 「すばらしい織物ですね」
 伸一が言うと、総長が説明してくれた。
 「大学の二百周年の記念に、北京大学から贈られたものです」
 「そうですか! 中国から贈られたんですか」
 「国家間の対立はあっても、ソビエト国民は中国国民に好意をもって、友人と思っています。だから、今も飾っているんです」
 伸一は感動した。
 ″これだ! これなんだ! 教育交流のなかで育まれた友情と信頼は、国家の対立にも揺らいではいない。この流れを開いていくのだ!″
 彼は、小躍りしたい気持ちであった。
 もう一度、織物を見上げた。
 教育の大城が、中ソ紛争という国家と国家の反目を、見下ろしているように思えた。
18  懸け橋(18)
 図書贈呈のあと、山本伸一の一行は、ホフロフ総長らの案内で、大学の構内を見学した。
 高層階のバルコニーに出ると、モスクワの町が一望できた。
 伸一は総長に言った。
 「創価大学は、まだ、誕生したばかりの小さな大学ですが、二十一世紀には、貴大学に匹敵する大学になって、世界に貢献したいというのが、私の夢なんです」
 総長は答えた。
 「大学の意義は、決して大きさで決まるのではありません。
 創価大学には、全人類的価値を掲げる、すばらしい『建学の精神』があります。
 そこには、限りない未来があります。だからこそ私たちは、創価大学と真剣におつきあいしたいのです」
 その総長の言葉に驚いたのが、同行メンバーであった。社会主義の大学の総長が、これほど精神を重視しているとは考えていなかったからだ。
 しかし、精神を最も大切にしてきたからこそ、モスクワ大学の栄光の歴史があったのである。
 ガンジーは宣言する。
 「精神の力というものは常に前進し、限りがありません。この力を最大限に発揮することができれば、この世でそれを打ち負かせる力など他にありません」
 一行は、その後、地質学教室、音楽会や演劇などが行われる文化宮殿を視察し、また、数学の講義を参観した。
 屋外に出ると、創立者であるロモノーソフの像があった。
 その像は、堅固な意志を秘めた表情で、彼方を見すえていた。
 この像のある広場で、伸一は、居合わせた学生たちと懇談した。
 「外国へ行くとしたらどこがいいですか」などの彼の質問に、学生たちは快活に答えてくれた。
 「不得意な学問は、どうしていますか」との質問には、こんな答えが返ってきた。
 「私たちは、自分の専門に興味をもって、この大学を選び、専攻を選びました。ですから、たとえ不得意な学問があったとしても、興味深く、粘り強く学んでいます」
 「すばらしい! それならば、不得意科目も、必ず克服できるでしょう。秀才とは、学び続ける人のことです」
19  懸け橋(19)
 山本伸一は、さらに、学生たちにこう尋ねた。
 「寮生活で最も悩んでいることはなんですか」
 すかさず答えが返ってきた。
 「朝、講義に間に合うかどうかです」
 ユーモアあふれる答えに笑いが広がった。
 伸一は、人間の素顔に触れた思いがした。
 彼の胸に、このソ連の学生たちと創大生が、仲良く肩を組み、また、自由闊達に意見を戦わせ合う光景が浮かんだ。
 伸一は″そんな時代を断じて創ろう。世界に羽ばたく、若き翼を育むのだ″と誓うのであった。
 イギリスの哲学者ラッセルは記している。
 「わたくしは、近き将来、最も緊急の必要事は、世界市民としての、生き生きとした感覚を教育によって育てあげることであると考えている」
 伸一は、学生たちに笑顔を向けた。
 「お話ができてよかった。今度は、私の創立した日本の創価大学に、ぜひ、いらしてください」
 握手を交わすと、希望に弾む青年たちの鼓動が伝わってきた。
 モスクワ大学に続いて、午後三時から、ソ連対文連の本部を訪問した。
 対文連は、ソ連の重要な民間外交機構である。
 一行を迎えてくれた対文連のN・V・ポポワ議長は、レーニン平和賞を受賞したソ連を代表する女性リーダーの一人で、ソ連共産党中央委員、ソ連最高会議議員などを兼務していた。
 ふくよかな、いかにもソ連の″お母さん″という感じの婦人であり、その目には、強い信念の輝きがあった。
 彼女は、笑顔で、力強い声で語った。
 「対話こそ、友好の前提です。
 日本における有数の″世界団体″のリーダーである山本会長を迎え、意見を交換できることを嬉しく思います」
 また、峯子ら女性には、情熱を込めて、こう語りかけた。
 「古来、詩人が歌っているように、最も平和を願い、守り抜くものは女性です。
 したがって、国家と国家が、そして人間同士が危険な緊張関係にある時、女性は、孫、曾孫たちが永久に戦争の犠牲にならないように願い、行動すべきだというのが私の考えです」
20  懸け橋(20)
 ポポワ議長と山本伸一は、言葉を交わし始めてからほんの数分で、基本的な意見の一致をみた。
 ――それは、戦争のない世界をめざして、よき隣人として友好関係を樹立していくことこそ大事である、ということであった。
 ポポワ議長の言々句々には、平和への執念ともいうべき熱情があふれていた。
 彼女は、胸の怒りを吐露するかのように、強い口調で語った。
 「文化を守り抜くためには、ファシズムと戦わなくてはなりません。ファシズムを絶滅しないかぎり、その国の文化は必ず滅びます」
 それは、体験に裏付けられた、歴史の教訓であったにちがいない。
 あの第二次世界大戦でナチス・ドイツは、このモスクワへの侵攻を企てたのである。
 訪ソ第一日、空港からホテルに向かう車のなかで、トローピン副総長は窓の外を指さし、こう教えてくれた。
 「ナチス・ドイツの侵攻に際して、ここに防御線を築いたのです」
 一九四一年(昭和十六年)の十月、ドイツ軍は、北、南、西の三方から首都モスクワに迫り、熾烈な防衛戦が展開されたのである。
 伸一には、ポポワ議長の切実な思いが、痛いほどわかった。
 「議長のおっしゃる通りです。
 ファシズムの絶滅こそ、人類の大命題です。
 創価学会の初代会長は、軍部ファシズムの弾圧と戦って、獄死しました。また、第二代会長もファシズムと戦い、牢獄に入れられました。
 私も、長兄を戦争で失い、青春を犠牲にしました。学会は、永久にファシズムと戦う平和と文化と教育の団体です」
 ポポワ議長は真剣であった。
 目を輝かせて話に聞き入るその姿から、誠実さが伝わってくる。
 伸一は、議長に、率直な提案をぶつけてみた。
 「正直に私の意見を申し上げてよろしいでしょうか」
 真実を語ってこそ、信頼が生まれるのだ。
 議長は頷いた。
 「多くの日本人は、残念ながら、ソ連が好きではありません。ソ連には自由がないと思っているからです」
 議長は、まじまじと伸一の顔を見つめた。
21  懸け橋(21)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「これは以前、ソ連科学アカデミーの方に提案したことですが、ソ連は自由を重んじていることを証明するためにも、モスクワに仏教寺院を建設してはどうでしょうか」
 ポポワ議長は、少し戸惑ったようだ。当然、彼女の一存で決まるような問題ではない。
 伸一は、自由を保障する姿勢の大切さを訴えたかったのである。
 彼女は答えた。
 「おっしゃることは、よくわかります。検討させていただきます。
 ちょうど、この前にある古い建物を建て替えますので、その真ん中に仏教寺院を造ってしまいましょうか」
 そう言って議長は、ニッコリと笑った。
 語らいが終わるころには、伸一たちと議長の心は、すっかりとけ合っていた。
 議長は、帰り際には、峯子らに、こう言うのである。
 「今度、モスクワに来られる時には、私の家と子ども、そして孫を、ぜひ見に来てください」
 そこには、慈愛にあふれた「母の顔」があり、「人間の顔」があった。
 伸一は、ソ連に、この顔を見たくてやってきたのである。
 ″人間ならば、幸福を求め、平和を求める心は同じである。
 その人間という原点に立つならば、社会体制は異なっても、究極的にめざすところは一致するはずである。また、人間同士がわかり合えぬわけがない。だから対話を重ねることだ!″
 伸一は、その確信を、一段と深めながら、対文連の本部を後にした。
 続いて一行が訪れたのは、ゴーリキー通り(当時)にある、モスクワ市庁舎であった。
 外壁と柱のコントラストが美しい、伝統を感じさせる建物である。
 革命が成就し、首都を帝政ロシアのペテルブルクからモスクワに移したレーニンは、この建物から、人民に新たな建設を呼びかけたという。
 市庁舎の踊り場には、レーニンがこの建物の二階のバルコニーから、雪の降るなかで講演する絵画が掲げられていた。
 市庁舎では、V・P・イサエフ第一副市長らと会談した。その席で、伸一に「モスクワ市の鍵」が贈られたのである。
22  懸け橋(22)
 イサエフ第一副市長は、山本伸一に市の鍵を手渡しながら語った。
 「私どもは、山本会長の再度のモスクワ訪問を希望しております。そのために市の鍵を贈呈いたします」
 会談が始まった。
 第一副市長は、まず、市庁舎がレーニンゆかりの建物であることを述べていった。
 そして、かつて、通りを拡張しなければならなくなった時のことを語ってくれた。
 「市は、庁舎を壊すことはしませんでした。
 五十メートルほど移動させて、手狭になったために、その上に三階を付け足して残しました。
 私たちは文化財の保護を、都市計画の最も大事な事業の一つと考えています」
 そう語る表情は、誇らかであった。
 それから、第一副市長は、モスクワ市の住宅問題や交通問題への対策、ゴミ処理、水道問題や環境汚染への対策を多方面から説明し、モスクワの未来図を語ってくれた。
 たとえば、大気汚染対策として、暖房用燃料を石炭から天然ガスに切り替えようとしていた。
 だが、それには、シベリアなど、遠隔地からパイプラインを引くために、莫大な予算を必要とすることになる。
 しかし、第一副市長は力を込めて語った。
 「人間の健康には代えられません。私たちは断固やります」
 伸一は大きく頷いた。
 それらの一つ一つの計画は、人間に原点を置いたものであることに、共感したのだ。
 環境破壊など、都市のかかえる問題は、日本もまた世界も、共通のテーマである。
 それを克服していくためには、イデオロギーや体制の違いを超えて、世界の大都市が協力し合い、人類の英知を集めて対処していかなければならない。
 資料の提供や整備計画の交換など、打てる手はいくらでもあるはずだ。
 「人々の間に結合をもたらし、平和と調和を築くことこそが、文明の使命である」とは、詩聖タゴールの鋭い至言である。
 伸一は、手が痛くなるほど、真剣にメモを取り続けた。環境問題は、彼にとっても、なんとしても乗り越えなければならぬ、人類のテーマであったからだ。
23  懸け橋(23)
 市庁舎訪問を終え、宿舎のホテルに戻ると、タス通信の記者がインタビューを申し込んできた。
 山本伸一は、快く引き受け、ソ連訪問の率直な感想を語った。
 午後七時からは、モスクワ市内のレストランで、モスクワ大学の招待による会食であった。
 会食では、ホフロフ総長夫妻ら大学関係者らと忌憚のない語らいのひと時を過ごした。
 総長とは、語り合うごとに心は深くとけ合っていった。
 モスクワ大学と創価大学との交流計画についても総長の決意は固く、伸一たちの滞在中に、具体的な案を検討し、決定したいとのことであった。
 そのあと、伸一たちは、レーニン丘(現在は雀が丘)を訪れた。
 モスクワの夜景を見ながら、峯子が言った。
 「街の明かりがきれいですね。向こうに広がっているのは、アパートでしょうか」
 「そうだね。あの明かりの一つ一つに、人間の暮らしがある。その人びとの幸福をどうやって守るか――そこに、政治や経済の目的もある。
 ″人間のため″″人民への奉仕″という心を忘れてしまえば、どんな社会体制であっても、官僚主義に陥り、組織は硬直し、また、私利私欲にまみれていくことになる。 だから私は人間革命の哲学を、仏法の人間主義の精神を伝えたいんだ」
 毎日、強行スケジュールであり、同行メンバーにとっては、緊張の連続であった。訪問二日目の行事を終えたころには、皆、疲れ切っていた。
 伸一は、打ち合わせの折、メンバーに言った。
 「みんな、楽しくやるんだよ。緊張する必要なんかないよ。皆が底抜けに明るいということが、人間外交の輝きなんだ」
 翌十日は、高等中等専門教育省などの訪問の予定が組まれていた。
 一行は、朝、ホテルのロビーで、伸一が、さっと右手をあげるのを合図に集まる。そして、人数を確認し、行動を開始するのである。
 前の晩、伸一から、″楽しく″というアドバイスを受けたメンバーは、この日、それを、ことのほか楽しそうにやっていた。遠足に行く小学生のようであった。
 すると、一行の車を運転してくれるドライバーたちも、それを真似するようになった。
24  懸け橋(24)
 高等中等専門教育省では、V・P・エリューチン大臣が、執務室の入り口で、温かく歓迎してくれた。
 大臣は、山本伸一との意見交換を待ちかねていたかのように、自らの教育観を、情熱を込めて語り始めた。
 「いかなる国においても、文化の基礎は教育にあります。したがって、その国の教育を見れば、国の未来が判断できるのではないでしょうか」
 「おっしゃる通りです」
 初めから話が弾んだ。
 語らいは、伸一たちが問題を提起し、それに大臣が答えるというかたちで進められた。
 「社会の要請に応じた計画的人材育成について」「国際的視野に立った教育の在り方」「専門教育とトータルな人間教育との関連」など、テーマは多岐にわたった。
 伸一は真剣であった。
 大臣は、伸一の発する問いに、「鋭い質問です。緊張してしまいます」などと語りながら、誠実に答えてくれた。
 科学技術の発達に、いかに教育が対応しているかを尋ねると、大臣は語った。
 「科学技術の急速な発達のもとでは、現時点で学んでいる情報そのものが、すぐに古くなってしまいます。
 そこで、これまでに学んだもののなかで、必要な情報をいかに選択し、分析していくかという方法論が大事になります。
 それを教えていくことが、今後の教育のポイントです」
 また、新しい専門的な知識を生かしていくには、個人の全体的な教養と人格が重要になるとして、その人格を培う教育こそが、最も求められていると述べた。
 伸一は力強く語った。
 「全く同感です」
 教育の肝要は、人格の形成にこそある。
 さらに、大臣は、科学技術の進歩にともない、既に社会の第一線で活躍する専門家に対しても、ほかの分野での技術を学ぶために、再教育が必要であることを強調した。
 「一例をあげれば、医師がレーザー光線の利用を学ぶことによって、より近代的な医療が可能になります。その再教育をいかに行うかを、私たちは大きな課題にし、推進しております。教育に終わりはありません」
 教育の絶えざる改革と進歩のなかに、社会の発展があるのだ。
25  懸け橋(25)
 エリューチン大臣は、今後の教育の発展のために、モスクワ大学と創価大学との交流に、大きな期待を寄せた。
 山本伸一は、大臣がモスクワ鉄鋼大学の出身であることから、工学系に進んだ動機を尋ねた。
 大臣は、懐かしそうに語り始めた。
 「そもそも私が勉強しようと心に決めたのは、レーニンの訴えに共感したからです。
 レーニンの天才的な慧眼は、国内戦の結果、国全体が産業、農業などのあらゆる面で壊滅状態にあった時に、若い青年の最も重要な課題は学習である、と言ったところにあります」
 大臣は、少年時代に、その叫びに情熱を沸き立たせ、大学への進学を決意したのだ。
 そして、ソビエトの建設に、最も重要なものが工業であると考え、モスクワ鉄鋼大学に進学したのである。
 「この世には学問より強い力はない」とは文豪ゴーリキーが青少年に贈った言葉である。
 伸一は、荒れ果てた国を立て直そうという時に、青少年に学ぶことの重要性を訴えた指導者の着眼に感嘆した。
 教育は未来を創る。
 伸一が教育に力を尽くしてきたのも、それこそが新時代建設の原動力であると考えたからだ。     
 エリューチン高等中等専門教育相との懇談を終えた伸一の一行は、正午にクレムリンのソ連最高会議を表敬訪問した。
 クレムリンは、ソ連政府の諸機関が置かれ、ソ連政府の代名詞となっているが、もともとは「城塞」の意味である。
 モスクワ川の河畔にあり、周囲は高いレンガの壁で囲まれ、幾つもの尖塔がそびえ立っていた。
 伸一たちは、ここで、V・P・ルベン民族会議議長と会見した。民族会議は、連邦会議とともに二院制のソ連最高会議を構成する機関である。
 伸一は、ルベン議長に、このたびのソ連への招待に対して、丁重に御礼の言葉を述べたあと、こう語った。
 「日本には、『百聞は一見に如かず』という格言があります。私は今回の訪問で、貴国の方々が世界の緊張緩和のために力を注いでいるという真実を知りました。
 貴国が、平和への強い決意をもっていることを確信いたしました」
26  懸け橋(26)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「私どもは、戦争に反対し、平和と民衆の幸福を追求するという一貫した姿勢のうえから、この訪ソを第一歩として、誠心誠意、友好交流を推進していくことを、お約束申し上げます」
 限られた時間のなかでのルベン議長との会見である。伸一は通り一遍のあいさつで終わるのではなく、短時間でも、平和と友好への流れを開く語らいにしたかった。
 だから彼は、初めから平和への思いと決意をぶつけたのである。
 伸一の話にこたえて、議長は言った。
 「山本会長は大学者であり、また、大ヒューマニストであると伺っております。私どもは、皆さんの訪問を心から歓迎します」
 そして、平和を実現するための、ソ連の基本方針に言及していった。
 「ソ連は、すべての国と友情によって結ばれることをめざしています。私どもは、永遠の友好を望んでいます。
 それを実現するには、実現可能なことから着手し、速やかに相互交流を進めていくことが大事であると考えています。
 その意味から、モスクワ大学と日本の創価大学が交流していくことは、極めて大きな意義があると思います。
 若い世代には、われわれの将来が託されています。若いということは、それ自体、未来の希望にほかなりません。
 その青年たちが、新しいヒューマニズムに結ばれてこそ、世界の平和もあります」
 伸一は、大きく頷きながら言った。
 「全面的に賛成です。
 友好の大河を開くには、一時的な利害にとらわれるのではなく、誠実に、五年、十年と歳月をかけ、友情を育んでいくことが必要です。
 それには、民間レベルでの文化の交流が大事になります。
 私は、日本とソ連との民間交流の道を開くために、生涯をかける決意でおります」
 伸一が言うと、議長は笑みを浮かべて、彼の手を強く握り締めた。
 「自分の一生を、平和のために捧げようとされている山本会長に、敬意を表します」
 ルベン議長も未来を見つめていたのだ。
 信念の共鳴がクレムリンに広がった。
27  懸け橋(27)
 ルベン民族会議議長との会見のあと、山本伸一たちは、クレムリンでレーニンが使っていた執務室と私室を見学させてもらった。
 レーニンは、ボリシェビキ(後のソ連共産党)を創設して、ロシア十月革命を指導。世界初の社会主義国・ソ連を誕生させた。
 そして、ロシア革命に成功した翌年の一九一八年(大正七年)三月から四年九カ月にわたって、この執務室で建国の指揮を執った。
 レーニンの使っていた部屋は、いずれも質素であった。
 執務室の机は、彼が愛用していた文具が置かれ、壁には、大きな地図などが掲げられていた。
 一家が使用していた食堂は狭く、流し台と食器棚の間に四人がけの粗末な机が置かれていた。食堂というよりは、台所といった感じである。
 食器棚は、不要になった本棚を手作りで改造したように見えた。皿も茶碗も、大きさや柄も不揃いで、贅沢なものは、一つもなかった。
 一家が使った部屋のうち、最も大きな部屋を彼は妹に与えた。レーニンが使ったのは、狭い鉄製のベッドと机だけの簡素な部屋であった。
 それが、新国家ソ連の最高指導者のクレムリンでの暮らしである。
 伸一は、そこに、人民の苦悩を見すえ、革命に生涯を捧げようとしたレーニンの人間性の一端を見た思いがした。
 レーニンが人民の心を引きつけたのは、優れた理論や行動力のゆえだけではない。この質素な生活に見られるように、厳しく自らを律する、皇帝などとは対照的な、冷徹なまでの清廉潔白さによるところも大きかったのではないだろうか。
 思想の退廃は、その生活に表れる。住居には、その人の生き方がある。
 虚栄に流され、浪費に慣れ、華美や豪奢な暮らしを追い求める時、革命思想は退化し、精神の腐敗が始まっている。
 そうなれば、もはや民衆のリーダーとしての資格はない。
 レーニンの部屋を出る時、伸一は、署名簿に記した。
 「永遠に 人民大衆の 胸中深く 生きゆく魂の息吹きを
 忘れ去ることは 私には出来ない      山本伸一」
28  懸け橋(28)
 山本伸一たちは、さらに大クレムリン宮殿を見学した。
 ロシア皇帝の宮殿は、きらめくシャンデリア、豪華な調度品の数々に装飾されていた。レーニンの私室とは対照的に、贅沢の限りを尽くしたものであった。
 それを支えていたものは、権力の下で虐げられてきた「農奴」たちであった。
 民衆を足蹴にし、君臨してきた権力の横暴が革命を招いたのは、歴史の必然といってよい。
 伸一は、戸田城聖のもとで学んだ、ホール・ケインの『永遠の都』の一節を思い出していた。
 「民衆は真の主権者である、その主権者を圧迫する階級こそ反逆者ではないか」
 万人に「仏」の生命を見る仏法は、本来、民衆を王ととらえる思想でもある。民衆が本当の主権者となり、幸福を享受できる社会の建設が、われらの広宣流布なのだ。
 クレムリンを出た伸一たちは、北側の城壁の外にある無名戦士の墓を訪れた。平和への誓いを託して、献花するためであった。
 この墓は、第二次世界大戦の犠牲者を弔うためにつくられたものだ。
 幅四、五メートルほどの平らな石の上に、ヘルメットが置かれ、その前に、平和への祈りを込めた火が、赤々と燃え続けていた。
 石の前に、じっとたたずみ、涙ぐむ、老夫婦の姿があった。息子を亡くした人なのであろうか。
 そこに、戦争の傷跡を見た。それは、世界共通の、人類共通の痛ましい光景である。
 一行は、人の背丈ほどの花輪を先頭に、整然と墓の前に進み、献花すると、犠牲者の冥福を祈って、題目を三唱した。
 捧げた花輪には白地のリボンがつけられ、そこに金文字のロシア語で、「世界平和への祈りを込めて」と書かれていた。
 この日の行事を終えて伸一がホテルに戻ると、「ジェジュールナヤ」という、各フロアで部屋の鍵を管理している係りの人が、微笑みを浮かべて語りかけてきた。肉付きのよい、人のよさそうな婦人である。
 「今日はクレムリンで最高会議を訪問されたのですね。さっき、テレビのニュースでやっていましたよ」
29  懸け橋(29)
 鍵の管理をしている婦人の言葉を、通訳が山本伸一に伝えた。
 伸一も笑顔で答えた。
 「そうなんです。そして、クレムリンのあと、無名戦士の墓にも行き、献花をしてきました」
 婦人は、伸一の話に、大きく頷いた。
 最初、彼女たちは、笑顔を見せることはなく、応対は至って事務的であった。西側陣営の来訪者とあって、緊張していたのかもしれない。
 伸一と峯子は、毎日、鍵を預けたり、受け取ったりするたびに、あいさつを交わし、対話を心がけてきた。身近な人との触れ合いのなかにこそ、人間外交の第一歩があるからだ。
 時がたつにつれて、彼女たちもすっかり打ち解け、笑顔で言葉を交わすようになっていったのである。
 伸一は言葉をついだ。
 「無名戦士の墓で、涙ぐんでたたずんでいる、老夫婦の姿を目にしました。胸が痛みました。
 もう戦争は、絶対に起こしてはならないというのが、私の願いであり、決意なんです」
 すると婦人は視線を落とし、ポツリと言った。
 「私の夫も、戦争で死んだのです……」
 そして、伸一に願いを託すように訴えた。
 「戦争のない世界にしてください」
 ソ連の人びとも、戦争の被害者であり、強く平和を求めている。そして、ソ連にあっても、戦争の最大の被害者は、女性と子どもなのだ。
 伸一は、婦人の言葉を全生命で受け止めた。
 「戦います。平和のために! あなたも、平和のために立ち上がってください。今の叫びが世界を動かしていきます」
 詩聖タゴールが「女性は男性よりもいっそうたくましい生命力を自らのうちに宿している」と述べているように、女性の力こそ歴史を変える力である。
 その夜、伸一のホテルの部屋に、ソ日協会の副会長で、ソ連共産党中央委員会国際部の日本担当であるI・I・コワレンコが訪ねてきた。
 コワレンコ副会長は流暢な日本語で語った。
 「お疲れのところすみません。山本先生とお話がしたかった」
 言葉遣いは丁重であったが、眼光は鋭かった。握手をすると、強い力で伸一の手を握り締めた。
30  懸け橋(30)
 コワレンコ副会長は、山本伸一をソ連に招待した、実質的な責任者である。それだけに一行がどんな感想をもっているのか、気がかりで仕方なかったようだ。
 伸一が、「皆さんのご厚意で楽しく有意義なソ連訪問となり、大変に感謝しております」と語ると、コワレンコは相好を崩した。
 伸一の部屋の応接セットで懇談が始まった。
 コワレンコは、伸一に直接、自分の思いをぶつけたかったようだ。彼は、単刀直入に話を切りだした。
 「私は、あなたがソ日友好の懸け橋になることを期待しています」
 そして、彼は、北方領土問題に対する日本の政治家の対応を厳しく批判した。
 さらに、「ソ連と日本の友好関係を考えるうえで大事な問題は、ソ連を敵視するような日中平和友好条約は結ぶべきではありません」と言い、一九七二年(昭和四十七年)九月の日中国交正常化の共同声明について語り始めたのである。
 この共同声明には、アジア・太平洋地域において「覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」とある。
 コワレンコ副会長は、その「国」とはソ連を指しており、この文言は、ソ連を敵視するものだと言うのである。
 したがって、日中平和友好条約には、この反覇権条項を入れるべきではない。あなたは公明党の創立者なのだから、党に指示すべきだ――と、彼は主張したのだ。
 伸一は、″これは大きな誤解だ″と思った。
 彼は、きっぱりとした口調で言った。
 「それは違います。
 私は、公明党を創立しましたが、政治家ではありません。宗教者であり、教育者です。また、公明党は、独立した政党です。独自の政策に基づいて行動しております。
 ですから、政治の分野の問題を、私から指示するようなことはないし、あってはならない。これが鉄則です」
 人間として大事なことは、言うべき時に言うべきことを、明確に言い切る勇気をもつことだ。
 コワレンコは大きな声で言った。
 「いや、ソ日友好をめざすという、あなたの主張が嘘でないなら、これは断じてやるべきだ!」
31  懸け橋(31)
 コワレンコ副会長は、ドンドンとテーブルを叩き、山本伸一を鋭い目で、じっと見すえながら言った。
 「あなたたちは、ソ連を敵視した平和友好条約に荷担して、ソ連を敵に回すべきではない!」
 是が非でもそうさせてみせるという傲然たる自信に満ちた声であった。
 伸一は、ニッコリ微笑むと言った。
 「その手、痛くないですか!」
 コワレンコは拍子抜けしたような顔で、伸一を見た。
 伸一は、穏やかな口調で語り始めた。
 「コワレンコ先生。私は政治交渉のために貴国を訪問したのではありません。一民間人として、教育者として招待をお受けいたしました。
 私は、民間交流、教育・文化交流の流れを開き、永続的な平和友好の大きな潮流をつくりたいんです」
 今度は伸一の方がドンドンとテーブルを叩きながら、コワレンコ副会長の目を見すえて語った。
 「こうした、強硬で一方的な姿勢では、ソ連は嫌われます。対話のできない国だと思われます。
 それでは、あなたたちが損をします!」
 それから伸一は、また微笑を浮かべ、諭すように話した。
 「日本と中国が、どんな平和友好条約を結ぼうと、振り回される必要はないではありませんか。
 ソ連は日本と、もっと親密な、もっと強い絆の平和友好条約を結べばいいではないですか。
 大きな心で進むことです。本当の信頼を勝ち取ることです」
 この夜、二人の語らいは弾んだ。
 最後に伸一は言った。
 「私は、日ソ両国が、真の友情で結ばれることを念願しています。そのために、率直に、本当のことを言わせていただきます。これからも、大いに対話しましょう。激論を交わし合いましょう」
 以来、コワレンコは、何度となく伸一の部屋を訪れ、忌憚ない対話を交わすことになる。互いにテーブルを叩き合っての議論もあった。
 そして、二人の間には、深い友情が育まれていくのだ。
 勇気をもって真実を語ってこそ、心の扉は開かれ、魂の光が差し込む。それが、信頼の苗を育んでいくのだ。それが、折伏精神ということだ。
32  懸け橋(32)
 訪ソ四日目となる九月十一日も教育・学術交流に費やされた。
 山本伸一たちは、午前十時過ぎにはモスクワ六八二小・中学校を訪問。授業を参観し、地理教室や、生物教室などの設備を見学した。
 続いて、午前十一時半には、ソ連科学アカデミーを訪れたのである。
 アカデミーでは、A・P・ビノグラドフ副総裁が、白い眉の下の目を輝かせて、にこやかに一行を迎えてくれた。
 「本年、わがアカデミーは、創立二百五十年を迎えます。この記念すべき年のご来訪を、心から歓迎いたします」
 出迎えてくれたメンバーのなかには、前年の十二月、創価大学に来て、伸一をソ連に招待したいと語っていた、同アカデミーのキム準会員の姿もあった。
 テーブルを囲んで、副総裁らとの会談が、友好的な雰囲気のなかで進められた。
 伸一は、ここでも、明快に、自分の考えを述べていった。
 「私は、かねがね、科学、特に自然科学には、資本主義、共産主義といった体制やイデオロギーの壁というものは存在しないとの、信念をもってまいりました。
 ゆえに、科学者は、人類の真の進歩と向上、世界平和のために、主義主張を超えて、手を結びうると考えています」
 彼は、社会体制やイデオロギーの違いで、人間と人間が分断され、対立し、憎悪し合うことの愚かさを痛感していた。いや、強い憤りを覚えていたのだ。
 したがって、人類融合の手掛かりを示したかったのである。
 「人々を一つに結合させる唯一の手段は真理において結合することである」とは、トルストイの英知の言葉である。
 副総裁は、ゆっくりとした強い語調で語った。
 「真理をもとにしている科学は、体制のいかんを問わず、同じ道を歩む――それが結論です」
 こう語ると、副総裁は伸一に視線を注いだ。
 伸一は大きく頷いた。
 すると、副総裁は、口もとに笑みを浮かべて言った。
 「どうやら私は、あなたのテストに合格したようですね」
 笑いが広がった。
 副総裁の人なつこい笑顔に、伸一は、温かい人間味を感じた。
33  懸け橋(33)
 山本伸一にとっては、一人ひとりと、人類融合の道を探り当てることこそが、さまざまな会談の最大のテーマであった。
 彼はビノグラドフ副総裁に、イデオロギーの壁を超え、東西の科学者、学術者が結合していくために、ソ連科学アカデミー付属の東洋学研究所と、伸一が創立した東京の東洋哲学研究所が学術資料の交換を行っていくことを提案した。
 その前段階として、学術誌を交換していくことになった。
 さらに、会談では、自然破壊と生態系の問題などが話題になった。
 副総裁は、生態系が破壊され続けている根本原因は、人間と大自然とが対立状態に陥っていることにあると語った。
 伸一は、人間という主体と、客体である環境との関係を、「不二」ととらえる仏法の法理を紹介。生命の連鎖という視点に立って、宇宙全体の生命の調和を図ることが大切であると訴えた。
 また、彼は、科学技術の発達に対応すべき精神の立ち遅れを指摘し、科学を人間の幸福のために使いこなす精神の開拓こそ、二十一世紀の最大のテーマであると述べた。
 短時間ではあったが、有意義な、深い語らいとなった。
 会談を終えたあと、同行の青年が尋ねた。
 「先生は世界的な学者と、あらゆる分野の学問について論じられますが、どうすれば、そういう、幅広く、深い教養を身につけることができるんでしょうか」
 「戸田大学だ。戸田先生から、学問の基礎を徹底的に叩き込まれたからです。
 たとえば、科学だと、まず『新科学大系』全巻を暗記するぐらい勉強した。それからガモフの宇宙論など、専門的なものに取り組んでいった。
 厳しい先生であったが、それがどれほど大きな力となっているか。本当にありがたいことだ。
 その先生が、最も力を注いでくださったのが教学だった。すべての学問や事象を、仏法の立場から、どうとらえるのかを、厳しく訓練してくださったんだよ。
 それによって、知識が思想化され、本当の教養になっていったんだ。
 今、世界的な学問の権威が、私の発言に耳を傾けてくださるのも、仏法という視点が確立されているからだよ」
34  懸け橋(34)
 山本伸一の一行は、ソ連科学アカデミーからモスクワ大学に向かった。
 午後二時から、ホフロフ総長主催の昼餐会が開かれたのである。
 大学に到着すると、講堂内にある貴賓室に案内された。
 そこには、総長のほか、V・A・プロトポポフ同大学党書記、トローピン副総長をはじめ、学部長や教授などが集っていた。
 また、N・S・エゴーロフ副高等中等専門教育相、ソ連対文連のA・M・レドフスキー副議長など、伸一がこれまでの滞在で友好を深め合った関係者の多くがいた。
 最初にあいさつに立ったホフロフ総長は、伸一の人間性に深く共感したことを述べ、グラスを手にして言った。
 「山本会長のヒューマニズムのために乾杯!」
 食事をしながら、出席者の主だった人が立ち、あいさつをした。
 プロトポポフ大学党書記は、力を合わせ、戦争のない世界の建設へ進むことを力説した。
 エゴーロフ副高等中等専門教育相は、ソ日間の発展に最も寄与する分野は教育であると強調し、モスクワ大学と創価大学との今後の交流のために乾杯を呼びかけた。
 やがて、山本伸一があいさつに立った。
 彼は、文化、教育の交流こそ、末永い友好の道であると語り、ホフロフ総長夫妻の創価大学への訪問を要請した。
 さらに、恩師である第二代会長の戸田城聖が、″この地球上から悲惨の二字をなくすために、生命を捧げよ″と遺言したことに言及。弟子としてその遺言のままに、一民間人ではあるが、世界平和に生き抜く決意であることを語った。
 世界平和の実現こそが、創価の師弟の大誓願であり、それが広宣流布の精神なのだ。
 このあと、創価大学の学長から、モスクワ大学との交流計画の概要が述べられた。モスクワ大学と検討を重ねてきた計画案である。
 (1)両大学は教授を相互に交換、派遣する(2)学術研究資料を交換する(3)学生の交換、学術調査団の派遣を検討する――との内容であった。
 具体化できる事柄については、この滞在中に、さらに煮詰めていくことになった。両大学の交流への大道が、開かれようとしていたのである。
35  懸け橋(35)
 昼餐会の最後に、ホフロフ総長から、交流の記念に、モスクワ大学の創立者ロモノーソフのブロンズの胸像などが山本伸一に贈られた。
 胸像は、どっしりとして重たかった。モスクワ大学の誠実と友好の重さであるように、伸一には思えた。
 その後、伸一は、ホテルでモスクワ放送のインタビューを受け、さらにソ連科学アカデミーのキム準会員と懇談した。
 伸一が科学アカデミーを訪問した時には、個人的な対話はできなかったことから、キムが友人の学者を伴って、ホテルに訪ねて来たのだ。
 伸一は、二人を心から歓迎した。思えば前年十二月、キムとの出会いから、ソ連訪問という友好の道が大きく開かれることになったのである。
 伸一は、自著に、こう認めて贈った。
 「博士とのこの世に於ける出会いは、私にとって生涯忘れることはできません。……革命の闘いのなかで学問的真我の探求に歩まれた博士を、私は生涯見守ることでありましょう」
 キム準会員は東洋の血を引いていた。伸一は、彼がいかなる人生を歩んできたかは知らなかったが、争いが続く東洋に憂いの目を向けていることは明らかだった。
 キムは言った。
 「今日までの私の道程には、無残なこともありました。しかし、それは乗り越えなければならない試練でした。
 私たちは、立場は異なっても、″人間の幸せ″という、めざしている最終目的は共通しています」
 伸一は、人生にあって大事なことは、希望に向かって挑戦し続ける勇気であることを述べ、こう訴えた。
 「この限りある人生を、共に、人類の幸福のため、平和のために、生きようではありませんか。
 それが激動の時代を生きた私たちの使命です」
 別れ際、キムは、感無量の面持ちで言った。
 「私たちの愛する、久しく動乱の絶えない東洋に、山本先生という″英知の星″が生まれたことを心から感謝します」
 二人の心は響き合った。人びとの幸福と平和への共鳴音を奏でることに、対話の意義はある。
 それから伸一は、日本大使館に向かった。大使の招待によるレセプションが待っていた。
36  懸け橋(36)
 九月十二日、山本伸一は文化省を訪ねた。
 午前十一時過ぎに、V・F・クハルスキー第一副文化相、V・I・ポポフ副文化相らとの会談が始まった。
 この席上、伸一は、民音、富士美術館を窓口に、文化交流を推進していきたいと提案した。彼は芸術の橋を架けたかった。
 また、訪ソにあたって、民音、富士美術館からも、交流を図っていきたいとの意向が伝えられていたのである。
 副文化相も、過去に民音がノボシビルスク・バレエ団を招聘した実績もあることから、提案に喜んで賛同した。
 そして、民音とは、相互に民族舞踊団やアマチュア芸術団体等を派遣することなどで合意した。
 また、富士美術館に対しては、ソ連の各美術館から幅広く出品し、協力するので、美術展を開催してはどうかとの提案があった。
 そして、今後、文化省と民音、富士美術館の間で、事務レベルの具体的な折衝を重ねていくことになったのである。
 続いて訪問した教育省では、F・G・パナチン第一副教育相らと会談。
 ここでは、日ソの相互理解のために、教科書を交換していくことが決まったのである。
 伸一は、一本一本、糸をかけるように、交流の道を開いていった。
 その一つ一つは、ささやかであったとしても、細い糸が集まって絢爛たる錦を織り成すように、やがて人間交流の大河となることを、彼は確信していたのである。
 御聖訓には「衆流あつまりて大海となる」と仰せである。偉業の成就といっても、日々の行動の積み重ねのなかにこそあるのだ。
 伸一は、誠実に、黙々と、一本一本の流れを切り開くことに、全精魂を注いだのである。
 午後四時過ぎ、一行はモスクワ市内のピオネール宮殿を訪ねた。
 ピオネールは、健全なコムソモール(共産主義青年同盟)のメンバーの育成をめざす、少年少女の組織である。
 伸一は中国を訪問した折にも、小・中学校や、校外活動の場である少年宮を視察したが、ソ連でもピオネールの視察を希望していたのである。
 子どもたちとの交流にこそ、未来に至る友情の道があるからだ。
37  懸け橋(37)
 ピオネール宮殿には、明日に伸びゆく子どもたちのエネルギーがあふれていた。
 山本伸一たちは、B・D・モゲルマン所長と六人のピオネールの少年少女の案内で、宮殿内を回った。
 バレエや音楽、スポーツ、手芸などの各サークルに分かれて、活動に励んでいた。どの会場でも子どもたちは、温かく歓迎してくれた。
 体育サークルでは模範演技の披露があり、バレエ教室では一心不乱に練習に励む、凛とした少年少女の気概に触れた。
 また、別の部屋で伸一は、子どもたちとゲームに興じたが、何度、挑戦しても負けてしまった。
 手芸のサークルでは、来訪を記念して、少女たちが編んだ服を着た、背丈五十センチほどの大きな人形が贈られた。
 「これをいただいていいんですか! ありがとうございます。
 この人形は日本のお友だちに届けます。関西にある、創価女子学園という学校に飾ります。みんな、きっと大喜びするでしょう。
 この人形の名前はあるんですか」
 「ありません」
 子どもたちが、ロシア語で答えた。
 伸一は言った。
 「では、名前を付けます。モスクワ生まれですから、『モス子』にしたいと思います」
 子どもたちは、屈託のない笑いを浮かべた。世界共通の輝く笑顔だ。
 視察のあと、伸一は、日本製のテープレコーダー、日本の小・中学生から託された絵画、鼓笛隊から預かった手作りの銭太鼓などを贈った。
 子どもたちの表情を見ていた峯子が、伸一につぶやいた。
 「天使のようですね」
 伸一は、この子たちと日本の子どもたちが、自由に遊びやスポーツに興ずる姿を思い描いた。
 ″それが地球家族だ。人類の本当の姿だ。
 きっと、そういう時代をつくるからね″
 彼は心に誓った。
 子どもの未来のために道を開くことは、大人の使命である。
 アルバムへの記帳を求められた伸一は記した。
 「二十一世紀の未来の天使の 伸び伸びとした成長を祈りながら また日ソの子供達が やがて真実の兄弟となることを信じて この宮殿の発展を心からお祈りします」
38  懸け橋(38)
 この日も、山本伸一のスケジュールは過密を極めた。
 夜には、モスクワ大学のホフロフ総長の招待を受け、ボリショイ劇場で、バレエ「くるみ割り人形」を鑑賞した。
 チャイコフスキーを生んだ本場ロシアの「くるみ割り人形」は、実に美事であった。
 鑑賞後、総長との語らいの折、このバレエのストーリーに、くるみ割り人形軍とネズミ軍の戦いがあることから、話題が戦争に及んだ。
 伸一は、総長に尋ねてみた。
 「ナチス・ドイツが侵攻してきた時、モスクワは陥落すると考えませんでしたか」
 総長は、微笑みを浮かべ、明言した。
 「思いませんでした。
 モスクワは激しい爆撃を受けました。このボリショイ劇場にも爆弾が落ちました。しかし、市民は、われらが首都を守り抜くのだと、強く決心していました。
 モスクワを愛していたからです。皆、この街が陥落することなど、考えもしませんでした」
 愛する街を守ろうとする強い思いが、人びとの心に宿る、敵への恐れや臆病を駆逐していったのだ。
 そして、断じて勝つという、不屈の闘魂を燃え上がらせたのである。
 「すべての勝利、それは自分に勝つことから始まる」とは、ソ連の作家レオーノフの鋭い洞察である。
 この日の深夜、伸一たちは特急寝台列車「赤い矢」号で、モスクワからレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)へ向かったのである。
 車内はコンパートメント(個室)に分かれ、備え付けのテーブルがあり、ふかふかした赤い絨毯が敷かれていた。
 八時間半の快適な旅であった。
 レニングラードへは、モスクワ大学のトローピン副総長、通訳のストリジャック主任講師らが同行してくれた。
 朝、目を覚ますと、見渡す限り緑の原野が広がり、白樺の葉が、小雨のなかで風に揺れていた。
 レニングラードは、モスクワに次ぐ、ソ連第二の都市である。
 ロシア皇帝のピョートル大帝によって、一七〇三年に築かれた都市で、世界で最も美しい街の一つといわれてきた。
39  懸け橋(39)
 レニングラードは、当初、ドイツ風にサンクトペテルブルク(聖ペテロの町)と呼ばれていた。
 一七一二年、帝政ロシアの首都と定められ、一九一四年から、ロシア風にペトログラードと呼ばれるようになった。
 ロシア革命は、この街から起こり、レーニンの没後、彼の名を残すためにレニングラードとなった。だが、ソ連共産党解体後には、再びサンクトペテルブルクとなる。
 山本伸一の一行が乗った列車は、レニングラードにある「モスクワ駅」に到着した。
 列車の行き先が駅名になっているのだ。ここからモスクワ行きの列車が出発するのである。ちなみに、モスクワで「赤い矢」号に乗った駅の名は「レニングラード駅」である。
 列車を降りる時、同行の青年が伸一に言った。
 「いやー、ソ連の駅の名前というのは、本当に混乱しますね」
 伸一は、笑いながら、答えた。
 「すべて、日本を基準に判断しようとするから混乱するんだよ。
 その国、その地域の、文化、伝統、生活様式があるんだから、それをそのまま受け入れていくことが大事だ。
 ほかの国でも、こうしたやり方の駅名はある。
 考えてみれば、合理的じゃないか。その駅に行けば、行き先を間違えることはないんだから」
 青年は、日本の在り方にとらわれない伸一の柔軟な考え方に感嘆した。
 ″自分たちは、世界、世界と言いながら、日本を尺度にして、すべてを推し量ろうとする。実はその考え方のなかに、既に、心の壁がつくられているのかもしれない。
 先生は、違いをそのまま受け入れ、むしろ、そこに敬意を払っている。相互理解や友好のために最も必要なことは、この姿勢ではないだろうか″
 駅には、レニングラード大学のL・I・セズニャコフ副総長、ソ日協会レニングラード支部のN・A・ウラコフ部長とL・A・チェバダリヨフ支部長らが笑顔で出迎えてくれた。
 「ダブロー・パジャーラバチ!」(ようこそ!)
 「お出迎えいただき、ありがとうございます」
 また新しい出会いが生まれた。その出会いから友情を育んでいくなかに、平和の連帯が生まれるのだ。
40  懸け橋(40)
 駅を出るとネフスキー大通りであった。
 この道は、ドストエフスキーの傑作『罪と罰』にも出てくる目抜き通りで、プーシキン、ゴーゴリら多くの文豪が愛した街並みである。
 建物は五階建てが多く、歴史を刻んだ石造りの外壁が運河の水に美事に調和していた。
 山本伸一たちは、午後から市内を視察した。
 デカブリスト広場に立つと、聖イサク寺院のドームや旧海軍省などの重厚な建物がそびえていた。
 デカブリストは十二月に革命を起こした人びと(十二月党員)の意味で、専制と農奴制の廃止をめざして立ち上がった、一八二五年の蜂起を記念する広場である。
 ここには、プーシキンの叙事詩で知られる「青銅の騎士像」がある。
 また、帝政時代には女学校であり、レーニンが革命の指揮を執った「スモーリヌイ」も見学した。
 そして、午後三時、第二次世界大戦の犠牲者が眠るピスカリョフ墓地を訪ねた。
 レニングラードでは、大戦中、ナチス・ドイツ軍に包囲されながらも、兵士と市民が一丸となり、約九百日の攻防戦を展開したのである。
 その戦いで百万を超える兵士、民間人が亡くなった。そのうち六十数万人が餓死であったといわれる。
 だが、最後まで陥落することはなかった。都市を守るために、民衆が団結して戦い抜いたのだ。
 多様多彩な民衆の力が組み合わされば、いかなる強敵も落とすことができぬ鉄壁の城塞となる。民衆が立ち上がる時、歴史は変わるのである。
 この不屈の敢闘を讃えて、レニングラードには「英雄都市」の称号が贈られることになる。
 伸一たちが墓地に到着したころは雨であった。一行は墓地の入り口にある、レニングラード防衛の記録などが展示された記念資料館を見学した。
 そこには、″この街を跡形もなく全滅せよ″というヒトラーの命令書も展示されていた。
 通訳のストリジャックは、展示を見ながら、説明してくれた。
 「激しい攻撃が続き、食糧も底を突き、人びとは飢餓状態になっていきました。しかし、敵に包囲され、食糧や燃料を運び込むこともできない。人びとは考えました」
41  懸け橋(41)
 ストリジャックの説明に力がこもっていった。 「レニングラードの北にはラドガ湖という湖があります。湖が凍結するのを待って、食糧などを運び込む一方、人びとを疎開させました。
 老人や子どもはトラックに乗せ、体力のある市民は徒歩で氷上を移動し、氷が解けると船で避難したのです。その数は百万人にもなりました。この湖の道は『命の道』と呼ばれたのです」
 山本伸一は、古くなって赤茶けた、小さなメモの展示に視線を注いだ。その手前には、赤い花が添えられていた。
 ストリジャックが教えてくれた。
 「これは『ターニャの日記』として知られる、少女ターニャ・サビチェワの残した記録です。
 父親は彼女が五歳の時に亡くなり、残った家族も、この攻防戦のなかで、飢えと寒さのために、次々と死んでいきました」
 そして、そのメモを訳してくれた。
 「『ジェーニャが、死んだ。一九四一年十二月二十八日、午前十二時三十分』。ジェーニャというのは彼女の姉です。
 『おばあちゃんが死んだ。一九四二年一月二十五日、午後三時』
 『リョーカが死んだ。一九四二年三月十七日、午前五時』。リョーカは彼女の兄です」
 次いで、「ワーシャおじさん」「リョーシャおじさん」も死に、さらにこう記されていた。
 「ママ。一九四二年五月十三日午前七時三十分。 サビチェワ一家は死んだ。みんな死んだ。 ターニャひとりが、残った」
 事実を淡々と記した九枚のメモである。だが、悲嘆の深淵にたたずむ少女の思いが、刃のように胸に迫ってくる。それは、あまりにも過酷な事実の重さゆえであろう。
 そして、亡くなった家族の後を追うように、やがて、ターニャ自身も、短い生涯を閉じるのである。十二歳であった。
 トルストイは『戦争と平和』のなかで、こう喝破している。
 戦争とは「人間の理性と、人間のすべての本性に反する事件」と。
 伸一は、怒りに体が震える思いがした。
 彼は、自らに言い聞かせるようにつぶやいた。
 ″かわいそうだ。あまりにも悲惨だ。こんなことを、二度と許してはならない!″
42  懸け橋(42)
 レニングラードの市民は、同胞が次々と死んでいくなかで、わずかばかりのパンを分け合い、肌を寄せ合って、飢えと寒さをしのいだ。
 その市民たちを支えたものは、毎日、ラジオから流れてくる、励ましの声であった。
 放送局の呼びかけにこたえて、作家は講演し、詩人は詩を朗読し、歌手は歌を歌い、古都の不滅の誇りを伝え、希望を、勇気を、勝利への確信を送り続けた。
 ある時、中継用の電力が足りなくなり、市内のほとんどの地域で放送が停止した。すると、市内各地から人びとが放送局に集まり、懇願した。
 食糧の配給を減らすというなら我慢もするが、ラジオ放送だけは続けてほしいというのだ。
 衰弱しきった体に鞭打ち、自作の詩を懸命に朗読し、読み終えた直後に倒れ、数日後に亡くなった詩人もいた。
 ステッキで体を支えて歌を歌い、その晩、息を引き取った音楽家もいたという。
 その声が人びとの生命を支え、勇気を与えた。そして、皆が歯を食いしばって耐えたのだ。
 辛く、激しい攻防は続いた。多くの、あまりにも多くの犠牲者が出た。
 しかし、攻防九百日。遂にレニングラードは持ちこたえた。勝った。勝ったのだ。
 やがて戦争が終わり、犠牲者を弔うために、緑の広大な墓地が完成した。それが、ピスカリョフ墓地である。
 山本伸一たちは、記念資料館から、献花のために墓地に向かった。墓地には約五十万の人が眠っているという。
 雨はあがり、緑の木々が太陽の光に、まばゆく映えていた。
 どこからか、葬送の調べが流れてくるなか、一行は、大きな花輪を先頭に、墓地の一番奥にある「母なる祖国」の像に向かって、ゆっくりと進んでいった。
 その彫像は、不屈の精神の象徴である樫の葉で編んだ栄冠を差し出す、婦人の像であった。
 伸一には、この像が、深い悲しみをこらえて、懸命に平和を呼びかけているように感じられてならなかった。
 像の高さは、台座も含め、十二メートルほどもある。その巨大さが、そのまま、人びとの悲しみの大きさを表しているように、彼には思えた。
43  懸け橋(43)
 一行は、心からの追悼と、平和への誓いを込めて「母なる祖国」の像に献花し、厳粛に題目を三唱した。
 周囲には、幾つもの墓標が並んでいたが、そこには、ただ「1942」など、年が刻まれているだけで死者の名前はなかった。多数の兵士や市民がまとめて葬られているためである。
 彫像の後ろの壁にも、言葉が刻まれていた。
 攻防戦の間、放送を担当して詩を朗読し、勇気を送り続けてきた女性詩人オリガ・ベルゴリツの詩であるという。
 ストリジャックがその詩を訳してくれた。
 「ここにレニングラードの人びとが眠る。
 男、女、子どもの市民がここに!
 隣には、赤軍の兵士が眠る。
 革命の揺籃、レニングラードよ!
 彼らは、生命をなげうち、お前を守った。
 その高貴なる人びとの名を、ここにあげることはできない。
 この御影石の下に永眠する彼らの名はあまりにも多いから。
 しかし、この石碑を見し人よ、知るがよい。
 誰人も、何事も、忘れ去られはしないことを」
 山本伸一は、胸が熱くなった。黙って頷き、また、題目を三唱した。
 車に戻った伸一は、ストリジャックに怒りをかみしめるように語った。
 「私は、知りませんでした。いや、日本人の多くは、ソ連の人たちが、戦争でこれほど悲惨な思いをしたことを知りません……。
 なぜソ連の指導者は、もっと世界に、この事実を知らせないのですか。ソ連の指導者がしないならば、微力ですが、私が訴えていきます!」
 強い口調である。
 同乗していたモスクワ大学のトローピン副総長は驚き、戸惑った。
 ″山本先生は、いったい何を怒っているのか。私たちは、何か先生を怒らせることをしてしまったのか!″
 トローピンは、ストリジャックから説明を聞くと、目を潤ませた。
 彼は、戦争の犠牲者を悼み、戦争を憎む伸一の心に、深く感動したのだ。
 戦争という巨悪への怒りなくして、ヒューマニズムはない。
 「徳は、罪に対しては怒りに燃えたつ」とは、ルソーの記した真理の言葉である。
44  懸け橋(44)
 午後五時過ぎ、山本伸一たちはレニングラードの市庁舎を訪問した。
 市庁舎の階段の踊り場には、日本語で「歓迎」と書かれた幕が掲げられていた。
 伸一は、V・E・カザコフ市長に心から感謝の意を表した。
 市長はレニングラードの現状と歴史などを説明してくれた。その言葉には、伝統文化と革命の都市を担う誇りがあふれていた。
 市長から、表にレーニンの肖像が刻まれた「市のメダル」が伸一に贈られた。さらに、市長の案内で庁舎内を見学した。
 友好の道を開こうとする市長の真心が、伸一の胸に熱く染みた。
 夜には、対文連レニングラード支部の招待を受けて、氷上バレエを鑑賞した。その華麗にして躍動感あふれる演技に、伸一も、峯子も心から拍手を送った。
 翌十四日午前、伸一たちは、レニングラード大学を訪問した。
 同大学は、この年、創立二百五十年を迎えた、ソ連最古の大学である。
 卒業生には、元素の周期律で知られる化学者のメンデレーエフや、条件反射研究の創始者である生理学者パブロフなどがおり、何人ものノーベル賞受賞者を出している。
 訪問した一行を、セズニャコフ副総長、N・A・モイセーエンコ経済学部長らが、親しい友人を迎えるように、満面の笑みで歓迎してくれた。
 会談が始まると、副総長は、誇らかに語った。
 「わが大学の最大の誇りは『革命的精神』です。人民のために、いかなる障害も乗り越えて学ぶという気概が、学問研究にも脈打っています」
 レニングラード大学では、ナチス・ドイツとのあの攻防戦の時にも、防空壕などで講義が行われていたのだ。
 また、博士論文の審査も、防空壕や地下室で続けられた。
 戦いの渦中だからといって、いい加減になっては絶対にならないと、審査は厳格を極めた。そして、この攻防戦のなかでも、多くの博士が誕生しているのである。
 伸一は言った。
 「すばらしいことです。『革命的精神』とは挑戦の心です。惰性、怠惰、臆病、安逸を排する強き精神の一念です。
 それこそが、未来を開く力です」
45  懸け橋(45)
 山本伸一とレニングラード大学のセズニャコフ副総長らとの会談では、日ソ両国の理解を深めるためにも、文化交流が必要であるとの意見の一致をみた。
 この大学では、帝政ロシアの時代に、いち早く日本語学科を設置している。同席していた日本語学科のE・M・ピヌス教授は、流暢な日本語で、日本語教育の状況などについて語り、伸一にこう提案した。
 「現代日本の理解を深める意味からも、私は、日本との文化交流を切望いたします」
 「私も大賛成です。やりましょう。文化の虹の橋を架けましょう」
 人類の未来を見すえる学究者、教育者は、等しく、国境やイデオロギーを超えた人間の交流を希望しているのだ。
 地球は一つである。人類も一つである。人間同士、手を取り合うことは歴史の必然である。
 約一時間におよんだ会談のあと、伸一は、学生の代表とも懇談した。
 そして、学生生活の内容や結婚観、勉学の目的観などを学生たちに、尋ねるのであった。
 皆が二十一世紀に思いを馳せていた。その瞳は輝いていた。
 「青春には未来があるから仕合わせだ」とは、ロシアの作家ゴーゴリの実感であった。     
 それから伸一たちは、ピョートル宮殿、エルミタージュ美術館などを見学した。
 ピョートル宮殿は、レニングラード市の中心から南西へ三十キロほどの距離にあり、ピョートル大帝の夏の宮殿として建てられたものだ。
 今では、緑と噴水に彩られた広大な″市民の憩いの場″となっていた。階段状に幾つもの噴水が並び、彫像が林立する光景は荘厳で美しかった。
 また、エルミタージュ美術館は、市の中心部にあった。
 歴代ロシア皇帝の冬の宮殿として使われてきた建物などからなり、ソ連が世界に誇る美術博物館である。
 伸一は、レンブラントやラファエロの絵画など、名品の数々に感嘆した。こうした人類の遺産ともいうべき作品を、日本の民衆が国内でも鑑賞できたら、どんなにすばらしいかと思った。
 彼は、必ず、その美術交流の道を開こうと決意するのであった。
46  懸け橋(46)
 レニングラードに別れを告げる時は、刻々と近づきつつあった。伸一たちは、この日の夜行列車で、モスクワに戻ることになっていたのである。
 午後七時から、伸一の一行が宿泊したホテルで、対文連レニングラード支部主催の夕食会が行われた。
 冒頭、対文連のC・P・トフカネン副支部長があいさつに立った。
 「山本会長の一行を、わがレニングラードにお迎えできたことは、大きな喜びです。
 両国人民は友情と平和を強く求めております。その意味では、皆、″同じ仲間″であります。
 今後の会長の活躍が大きな成果を収めますように、また、両国間の友情のために、乾杯をしたいと思います」
 皆がグラスを掲げて唱和した。和やかな友情の語らいが広がった。
 伸一は強く思った。
 ″私の会ったソ連の誰もが、平和を渇望し、国境を超えて友情を結び合うことを希望している。
 ならば、その人びとの思いを、熱願を、実現させるのだ! それが、わが人生の戦いだ″
 彼は、関係者への感謝と両国の友好の大道を開く誓いをこめて、こうあいさつした。
 「創価学会は、日本の民衆の手で自発的につくられた団体であります。
 今回の訪問によって、日ソの民衆交流の道は開かれました。今後はさらに、平和を志向する両国民の友好の進展に、全力を注いでまいります。
 私は、この訪問で、レニングラード市民の、戦争への強い強い怒りの心を知りました。平和を願望する熱い熱い心を知りました。世界の友人たちに開かれた、広い広い心を知りました。
 私の人生で、大きな収穫となる訪問でした。
 世界有数の文化都市レニングラードが、民衆の幸せにつながる平和と革命の都として、ますます繁栄することを、心よりお祈り申し上げます」
 戦争の悲惨さを知る人びとには、平和を叫び抜く使命がある。
 トルストイは訴えた。
 「人間は、使命を果たすべく、この世に生まれてきたのである。後回しにすることなく、そのことに一瞬一瞬、全力を注いでいくべきである。
 それのみが、真の幸福である」
 会食が終了したのは、午後九時半であった。
47  懸け橋(47)
 再び特急寝台列車「赤い矢」号でレニングラードを発った山本伸一が、モスクワに着いたのは翌十五日の朝であった。
 モスクワは初冬を思わせる気温であった。
 そして、正午には、ホテルを出発し、宗教都市・ザゴルスク市(現在のセルギエフ・パッサード市)へと向かった。この訪問は、ソ連側の強い勧めによるものであった。
 パトカーに先導され、十数台の車が連なって進んだ。車窓には、牧草が刈り取られた大地が広がり、色づいた白樺の林が続いていた。モスクワを発って一時間余りでザゴルスクに到着した。
 ザゴルスクは、モスクワ市の中心から約七十キロほど離れており、十四世紀以来、ロシア正教の中心地である。
 一行は、タマネギ型のドームをもつウスペンスキー大聖堂など、歴史的な宗教建築を視察した。
 随所で、額に深い皺を刻んだ老婦人らが、祈りを捧げていた。
 祈りは、人間の本性に深く根差している。人は、希望がなければ生きられない。希望ある限り、祈りがある。
 ロシアの作家チェーホフは断言した。
 「人間は信仰を持たなくてはいけない、すくなくとも信仰を求めなくてはいけない、でなければ生活はむなしくなる」
 そのあと、伸一たちは神学アカデミーを訪問し、ウラジミル学長らと昼食を共にしながら会談した。
 「ソ連の宗教界関係者は、世界平和のために努力する方々の来訪を歓迎します!」
 学長は、こう言って伸一を迎え、神学アカデミーの概要について説明してくれた。
 それを受けて伸一は、ソ連の宗教事情などについて質問していった。
 ザゴルスクでは、ロシア正教は風俗や習慣として、深く人びとの生活に根差しているようであった。また、精神的な「なぐさめ」や「癒やし」を、民衆にもたらしているようだ。
 しかし、新しき創造をもたらす精神の活力源としての、宗教本来の役割を果たしているようには見受けられなかった。
 人間の心を磨いてこそ、社会も輝きを放つ。人間精神の活性化をいかにして図るか――それは、ソ連の大きなテーマになると伸一は思った。
48  懸け橋(48)
 山本伸一は、さらにウラジミル学長に、こう尋ねた。
 「学長は、なぜ神学の道を歩むことになったのでしょうか」
 個人の内面に一歩踏み込んだ質問である。学長は柔和な表情を浮かべ、言葉を選ぶように語っていった。
 「人間には、その人なりの使命があると思います。結果的にいえば、私は、心の中にある信念に従ったといえます。
 私は、第二次世界大戦で、兄を亡くしました。それは、実に大きな衝撃でした……」
 兄の死が、学長を宗教への探究に向かわせたのである。
 「死」というテーマの回答は宗教にしかない。
 「あらゆる信仰の本質は、死によっても消滅することのない意義を生に与えるという点にある」とは、トルストイの達観である。
 伸一は深く頷いた。
 「そうですか。
 私も、第二次世界大戦で長兄を亡くしました。ほかの三人の兄たちも戦地に行きました。私自身も、結核に苦しんでいました。戦争の悲惨さは、いやというほど身に染みております。
 私は、戦後、日本を戦争へと駆り立てた精神的支柱である、国家神道に疑問をいだきました。
 そして、十九歳の時に創価学会の第二代会長となる戸田城聖先生と会いました。
 学会が軍部権力に抗した希有の団体であったことなどを知り、人生の新しき哲学を求めて信仰の道に入ったのです」
 二人は共通した運命を感じた。互いに兄の死と平和への渇望が、求道の契機となっているのだ。
 学長は尋ねた。
 「宗教界の平和運動について、どうお考えになりますか」
 伸一は答えた。
 「民衆に根差し、支持を得ているかどうかが課題であると思います。
 また、それが自らの宗派の売名であってはならない。さらに、戦争をもたらす本質を鋭く看破した、しかも、現実に根差したものでなければなりません」
 今度は学長が頷いた。
 会談を終えると、伸一は記帳を求められた。
 「人間原点の橋を、更に高く長く。   創価学会会長 山本伸一」
 短時間だが、有意義な宗教間対話となった。
49  懸け橋(49)
 翌九月十六日は、ソ連訪問以来、協議を重ねてきた、モスクワ大学と創価大学の、交流に関する議定書の調印式の日であった。
 この調印をもって両大学の教育交流が具体化し、いよいよ動きだすことになるのである。
 ホテルを出る時、山本伸一は、創価大学の学長らに言った。
 「創価大学を世界の大学にしよう。本当の国際人を養成できる大学にしよう。そのために、私は道を開き続けるよ」
 会場のモスクワ大学には、テレビ、新聞など、ソ連の各報道機関が取材に訪れていた。
 正午前、ホフロフ総長らに迎えられ、伸一たちが円卓に着いた。
 テレビカメラが回るなか、総長と創価大学の学長が、学術交流をうたった日露両文の議定書に署名した。
 議定書には、次のようにうたわれていた。
 「創価大学とM・V・ロモノーソフ記念モスクワ国立大学は、日ソ両国間の友情と平和事業の強化に貢献することを目指し、学術交流と協力の拡大が、日ソ両国民間の相互理解を深めることを有意義なものとみなし、両大学間の学術交流を目的として下記の事項に合意した」
 そして、教授・助教授の交換、定期刊行物・学術文献・大学教育に関する資料の交換、学術研究のための研修生の交換の検討など、六項目の合意事項が記されていた。
 調印式を見守る伸一の胸には、愛する創価大学生たちの姿が、浮かんでは消えていった。
 彼は、未来のために、今、ソ連との学術・教育交流の道が開かれたことが嬉しかった。
 それはまだ、一本の細い、小さな道である。しかし、渓流が大河になるように、交流の持続は大道に広がっていくことを、彼は確信していた。
 調印式が終わると、伸一は峯子に語った。
 「私の目には、モスクワ大学と創価大学の、三十年後、五十年後の交流の様子が浮かぶよ。
 教員だけでなく、やがては学生も行き来し、幾百人という青年が、交流の橋を渡るようになるだろうね」
 峯子は、微笑みながら言った。
 「また一つ、新しい歴史を開きましたね。未来への金の懸け橋ができましたね」
50  懸け橋(50)
 モスクワ大学と創価大学の議定書の調印式のあと、山本伸一は、ソ連対文連主催の昼餐会に出席した。
 それから伸一は、ノーベル賞作家M・A・ショーロホフと会見するため、モスクワ市内の彼のアパートに向かったのである。
 伸一の心は躍った。
 彼は、革命の激動期のドン地方に生きるコサック農民を描いた『静かなドン』をはじめ、ショーロホフの作品に魅了されてきた。
 この会見については、伸一の方から希望したものであった。
 民衆こそが歴史の底流を支えるという、ショーロホフ文学を貫くテーマに、伸一は強い共感を覚えていたからである。
 しかし、ショーロホフは、体調を崩し、故郷のロストフ州で療養しているため、会見の実現は難しいとのことであった。
 ところが、前日の朝、「モスクワでショーロホフと、会談することが決まった」と伝えられたのである。
 モスクワの中心部にある質素なアパートの四階に、ショーロホフの部屋はあった。
 敬愛する文豪は、わざわざスーツに着替えて、丁重に迎えてくれた。
 伸一は、その真心に、いたく恐縮した。
 偉大な人格には真心の輝きがある。人徳とは誠実の結晶である。
 会談が始まったのは、午後四時であった。
 「ショーロホフ先生とお会いできて光栄です。今日は人生最良の日となりました」
 握手を交わしながら伸一が言うと、こぼれるような笑みで答えた。
 「ようこそ! お待ちしていましたよ」
 ショーロホフは、翌年の五月に七十歳を迎える。病気がちと聞いていた。最近行われたソ連作家同盟の会合にも欠席したとの話であった。
 しかし、直接、会った印象では、血色もよく、思いのほか、元気そうであった。
 伸一は、半ば安堵しながら、全世界のショーロホフ文学の愛好者を代表する思いで語った。
 「お体の具合はいかがでしょうか。
 世界にとっても大切なショーロホフ先生です。どうか、くれぐれもお大事になさってください」
 「ありがとう。誰でも体は大事です。あなたもお大事に」
51  懸け橋(51)
 実はこのころ、ショーロホフの『静かなドン』に対して、盗作疑惑が起こっていたのである。
 山本伸一が訪ソするしばらく前、ソ連を国外追放された作家が、ショーロホフのほかに『静かなドン』の作者がいたとする説を発表したのだ。
 そして、「盗作」であると喧伝されていったのである。
 そこには、ソ連の生んだノーベル賞作家を否定したいという、西側諸国の思惑も働いていたのかもしれない。
 しかし、そんな渦中にありながら、ショーロホフは堂々としていた。その目は輝き、気力にあふれていた。
 後の話になるが、『静かなドン』のショーロホフの手書き原稿が発見され、また、コンピューターによる文章の統計分析も行われ、真作の有力な証拠となるのである。
 大詩人プーシキンは喝破した。
 「中傷というものは高名な人につきまとい苦しめるものだが、真実と直面すればいつでも無に帰する」
 ショーロホフは、伸一に尋ねた。
 「ロストフへは行きましたか」
 ロストフは、ロシア共和国南部の州で、コサック縁の地であり、ショーロホフの故郷である。そして、彼の不朽の名作『静かなドン』の舞台でもある。
 その言葉には、故郷への誇りと愛着があふれていた。
 故郷を愛し、故郷に誇りをいだける人は幸せである。それは自己への誇りと自信の原点となる。
 伸一は答えた。
 「いいえ、今回は、訪問することはできませんでした。いつか、ぜひ、ご一緒に訪問させていただきたいと思います。
 そのためにもショーロホフ先生には、いつまでも、お元気でいていただかなくてはなりません。
 東洋には、深い使命に生きる人は、健康になるという考えがあります。一番、大切なのは、使命感です」
 文豪は大きく頷いた。
 「私も、それを信じます。何回も入院したが、病気を克服して出てきました。私は使命感を忘れたことはありません」
 トルストイは「教養の高い人間とは――人生における自分の使命を心得ている人である」と記している。至言である。
52  懸け橋(52)
 使命の自覚は、人に力を与え、勇気を与え、元気を与える。使命に生き抜く時、人間は最も輝きを放つのである。
 ショーロホフの姿は、それを証明していた。
 彼は、いたずらっぽい微笑を浮かべた。
 「山本さん、私は昔、日本に行った時、日本の習慣に従いました。ロシアでは、ロシアの習慣に従うべきだと思います」
 伸一が、その言葉の意味を測りかねていると、ショーロホフは言った。
 「乾杯をしましょう。大いに飲みましょう」
 伸一は困惑した。酒が飲めない体質なのだ。
 「お気持ちは嬉しいのですが、私はお酒が飲めないものですから……」
 「いや、大丈夫! 飲みましょう。私の健康を願ってくださるなら。
 乾杯のしたくだよ。トーリャ!」
 トーリャというのは、彼の身の回りの世話をしているアナトーリーという男性の愛称である。
 しかし、なかなか酒は出てこなかった。
 「どうしたんだ!」
 アナトーリーは、彼の健康状態を憂慮し、躊躇している様子であった。すると、ショーロホフは大きな声で叫んだ。
 「こんな大切なお客さんが来たんだ。今日ぐらいはいい!」
 グラスとコニャックが運ばれてきた。文豪は目を細めて伸一に囁いた。
 「このあと、医者が来るんです。その前に飲んじゃいましょう」
 そして、グラスを持ち上げ、乾杯し、一気に飲み干した。伸一も礼儀を重んじ、グラスを掲げ、かたちだけ口をつけた。
 だが、ショーロホフは「お空けください!」と言うのだ。
 通訳のストリジャックも、「ロシアでは、酒を飲み残すと″悪を残す″とされます」と言って、強く勧めるのである。
 伸一は言った。
 「健康のためには、お互い、飲み干さない方がいいと思います」
 「そうは思いません。この一点は、私たちの意見の相違点ですね」
 ショーロホフは高らかに笑い、酒を勧めるのだ。
 伸一は、意を決して、コニャックを喉に流し込んだ。なんと、すぐにグラスに酒がつがれた。
 「お空けください!」
 飲めば倒れてしまうにちがいない。予期せぬ展開になってしまった。同行メンバーも、ハラハラしながら見ていた。
53  懸け橋(53)
 二杯目も飲むように勧められた山本伸一は、グラスを持ち上げ、少し口をつけ、そして、背後に回した。
 そのグラスを、同行のメンバーが気を利かせて交代で受け取り、飲み干して戻してくれた。
 ユーモアに富んだ伸一の対応と連携プレーに、ショーロホフも微笑んでいた。
 何度か繰り返すうちに、同行のメンバーの顔が真っ赤になっていた。
 伸一は語った。
 「私は飲めませんが、私の師匠の前会長は、よく飲みました。その前の会長は飲みません。″飲む・飲まない″が交互になっているんです」
 そこから話は、自然に創価学会の師弟の歴史へと移っていった。
 「師弟の道」が、自身の精神、思想、生き方の根本となっている伸一にとって、それは当然の流れであったといってよい。
 彼は、創価学会の歴代会長が軍部政府の弾圧と戦ったことを述べたあと、笑みをたたえて言った。
 「今日は、ショーロホフ文学の愛好者へのメッセージをお願いしたいと思います」
 ショーロホフは上機嫌で答えた。
 「その方々のいっさいがうまくいくように、そして、私以上に、幸せであるように願っております。それだけです」
 それからショーロホフは目を細めて、言葉をついだ。
 「また、私が日本へ行った時には、非常な歓待を受け、今も良き思い出になっています。
 その忘れ得ぬ日本の友に、心からよろしくと申し上げたい」
 さらに、伸一が「二十一世紀に生きゆく青年に対してメッセージを」と頼むと、こう語った。
 「私は楽観主義者ですから、青年たちが望んでいるように、二十一世紀には、現在生きているよりは、もっともっと、暮らしが向上すると思っています。また、そうなるように祈ります」
 ショーロホフは革命後の内戦の時代に青春期を送っている。
 革命政府を支持した彼は、反対派の捕虜となり、銃殺刑を宣告されたこともある。
 それを乗り越えてきた彼には、未来を信じる、楽観主義の哲学がある。
 信念ある楽観主義こそ希望の源泉であり、人間を強くする力である。
54  懸け橋(54)
 山本伸一は、日ソの友好にとって重要なカギは何かを尋ねてみた。
 ショーロホフは言葉を選びながら語り始めた。
 「両国の友好に関しては、既にできている経済的ルートを大切にするのはもちろんですが、さらに、そのうえに、多くの分野での交流が必要になります。
 特に文化交流が重要になるでしょう。民衆の相互理解を促すからです。その意味からも、あなたのソ連訪問は、極めて有意義であると思います」
 伸一は、この機会に、ぜひ″運命″という問題について尋ねたいと思っていた。それは、ショーロホフの小説『人間の運命』に強く共感していたからである。
 『人間の運命』は、こんな物語である。
 ――主人公のソコロフは、革命後の内戦の時、赤軍にいた。故郷では、父と母と妹が飢饉で餓死し、天涯孤独となった。
 彼は、真面目に働き、幸せな家庭をもち、健康な三人の子どもにも恵まれる。しかし、第二次大戦が一家を引き裂いた。戦地に送られた彼は、ドイツ軍の捕虜になる。
 捕虜収容所から脱走を試みるが、捕まり、重営倉に叩き込まれる。
 また、同じ捕虜の告げ口から、銃殺されそうになったこともあった。
 だが、とうとう脱走に成功し、味方の陣営に逃げ帰る。
 しかし、そこに届いたのは、″二年前に、ドイツ軍の爆撃で家はなくなり、妻と子ども二人が死んだ″という知らせであった。
 一人、生き残った長男も、志願兵になったというだけで、行方はわからなかった。
 その長男から手紙が届いたのだ。ところが、再会も間近となった時、長男がドイツ兵に狙撃されてしまう。
 希望は、ことごとく砕け散った。あまりにも過酷な運命といえよう。
 人生は苦悩との戦いである。そして、それに打ち勝つなかにこそ、人間の輝きがある。つまり、いかなる運命も自身を光り輝かせる舞台なのだ。
 失意のなかで、ソコロフは、戦災孤児のワーニャ(イワンの愛称)と出会う。彼は、その子を自分の手で育てる決心を固める。ワーニャは彼を慕い、片時も側を離れない。
 この「父と子」は、希望に燃え、新しい土地に向かって歩き出す――。
55  懸け橋(55)
 小説『人間の運命』の主人公ソコロフは、過酷な運命に翻弄されながらも、ワーニャを育てるという新しい生きがいを見つけたのだ。
 生きがいとは希望である。希望ある限り、人間はいかなる運命にも立ち向かうことができる。
 だが、それは、労苦と表裏をなしている。一人の人間を育てることが、容易であるはずがない。
 しかし、人のために生きるなかにこそ、真の生きがいがあると、ショーロホフは訴えたかったのであろう。
 トルストイもこう記している。
 「人生にはただひとつだけ疑いのない幸福がある――人のために生きることである」
 「利己」のみを追い続けるなかには、人間の本当の幸福はない。「利他」あってこそ、幸福の大道は開けるのである。
 第二次大戦で、ソ連は二千万人の死者を出したといわれる。いたるところに、「ソコロフ」がおり、「ワーニャ」がいたのだ。
 また、ショーロホフ自身、ドイツ軍の爆撃で母親を失っている。
 母親は農家の出身で、幼い時に両親と死別し、苦労に苦労を重ねてきた。働き通しで教育を受ける機会もなかった。
 文字を覚えたのは、遠くの中学校に入った一人息子のショーロホフと、文通したい一心からであった。情熱的な母であったという。
 ショーロホフは、中学校に入ったものの、第一次大戦でドイツ軍が侵攻し、町に迫ったために、故郷に帰った。
 その後も、革命後の内戦が続いた。彼は、学業を断念せざるをえなかった。
 ショーロホフは、独学で学び、あらゆる仕事をした。文字が読めない人をなくすための成人学級の教師、食料調達の仕事、統計係や荷物の運搬、事務員、新聞記者……。
 ソビエト政権を支持する彼は、積極的に活動に参加していった。
 やがて、大作『静かなドン』を発表すると、故郷で反革命運動をしていると疑われたりもした。
 また、このころから『静かなドン』は盗作であるという中傷も繰り返されてきた。
 まさに、彼自身が激動の人生を生き抜き、戦い抜いてきたのだ。だからこそ、彼のペンは、不滅の輝きを放つのだ。
56  懸け橋(56)
 山本伸一は、『人間の運命』の内容を踏まえて、ショーロホフに質問した。
 「人間の運命を変えることは、一面、環境等によっても可能であるかもしれません。
 しかし、運命の変革を突き詰めて考えていくならば、どうしても自己自身の変革の問題と関連してくると思います。
 この点はどのようにお考えでしょうか」
 彼は、大きく頷いた。
 「そうです。運命に負けないかどうかは、その人の信念の問題であると思います。一定の目的に向かう信念のない人は何もできません。
 われわれは、皆が″幸福の鍛冶屋″です。幸福になるために、精神をどれだけ鍛え抜いていくかです。
 精神的に強い人は、たとえ運命の曲がり角にあっても、自分の生き方に一定の影響を与えうるものです」
 伸一は、身を乗り出して言った。
 「まったく同感です。
 たとえ、どんなに過酷な運命であっても、それに負けない最高の自己をつくる道を教えているのが仏法なんです。
 その最高の自己を『仏』と言います。また、そう自分を変革することを、私たちは『人間革命』と呼んでいます。
 仏法では、生命を永遠ととらえ、過去世からの自分自身の行為や思考の蓄積が、宿命すなわち運命を形成していくと説いているんです。
 したがって、現在をどう生きるかによって、未来の運命を変えることができる。今をいかに生きるかがすべてであるというのが、仏法の考え方なんです」
 ショーロホフは、目をしばたたき、盛んに頷きながら、伸一の話に耳を傾けていた。
 彼は、社会主義国ソ連を代表する文豪である。しかし、人間が根本であり、精神革命こそが一切の最重要事であるという点では、意見は完全に一致し、強く共鳴し合ったのである。
 人生の達人の哲学、生き方は、根本において必ず仏法に合致している。いな、彼らは、その底流において、仏法を渇仰しているのだ。
 日蓮大聖人は民を助けた賢人たちについて、「彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」と仰せである。
57  懸け橋(57)
 山本伸一は、さらに、こう尋ねた。
 「ところで、これまでの人生で、いちばん苦しかったことはなんでしょうか」
 ショーロホフは彼方を仰ぐように目を細めた。
 「長い人生になると、いちばん苦しかったことが、思い出しにくくなります。いや、いろいろな出来事の色彩が薄くなり、嬉しかったことも、悲しかったことも、一切合切、遠くに過ぎ去っていきます。
 私の言うことが真実だということは、山本さんが七十歳になった時にわかるでしょう」
 伸一は、その言葉に、人生の幾山河を乗り越えてきた文豪の、安心立命の境地を感じた。
 晩年になって、過去の怨念や憎悪に身を焦がして生きるならば、どんなに富や栄誉を得ようが、その人生は惨めであり、不幸である。
 慈愛をもって人びとを包めるように、自らの境涯を高めてこそ、人生の真の勝利者である。
 山頂に立てば、登攀の激しい労苦も吹き飛び、喜びがわく。同様に、境涯革命がなされれば、日々、さわやかな充足と歓喜に包まれるのだ。
 伸一には、まだまだ、尋ねたいこと、話したいことはたくさんあった。しかし、彼は会談を切り上げることにした。″ショーロホフ先生がお疲れになってはいけない″との配慮からであった。
 別れ際、ショーロホフは、伸一と固い握手を交わしながら言った。
 「また、お会いしましょう。来年の五月で私は満七十歳になります。その時に、またおいでいただけたら幸甚です」
 対談を終え、伸一たちが表に出ると、近くで遊んでいた子どもたちが近寄ってきた。皆、愛くるしい目を輝かせていた。
 その笑顔が、『人間の運命』に登場する少年ワーニャに重なった。
 主人公のソコロフがワーニャを守り育てることにしたように、この少年少女たちに幸せな未来を約束することは、大人たちの責任であり、義務であると、伸一は思った。
 彼は、子どもたちに言った。
 「私は日本から来ました。平和の橋を架けるために来たんです。一緒に写真を撮りましょう」
 皆、歓声をあげて、伸一と記念のカメラに納まった。街路樹が微笑むように秋風に揺れていた。
58  懸け橋(58)
 ショーロホフとの会談を終えた、この十六日の夜、山本伸一と峯子による御礼のレセプションが、モスクワ市内のレストランで行われた。
 モスクワ大学のホフロフ総長夫妻、対文連のイワノフ副議長、ソ日協会のコワレンコ副会長、また、エリューチン高等中等専門教育相、クハルスキー第一副文化相、モスクワ市のイサエフ第一副市長らをはじめ、交流を深め合った人たち二百五十人を招待しての催しであった。
 伸一は、明日の夜には帰国の途につくのだ。
 彼と峯子は、会場の入り口に立ち、出席者を出迎えた。
 一人ひとりを笑顔で包み込み、固い、固い、真心の握手を交わした。
 レセプションでは、初めに伸一があいさつに立った。
 彼はソ連滞在の日々を振り返り、行く先々での温かい歓迎に対して、深く感謝の意を表した。
 そして、今回の訪問でソ連との間に、確たる相互理解、文化・教育交流の広く長い絆を結ぶことができたと述べた。
 「その綱は、やがて、両国間の幾本もの綱となって広がり、人間と人間を結び、心と心を結ぶ、温かく平和な″金の綱″となっていくことを、私は、強く信ずるのであります。
 とともに、私はこの一生をかけて、世界平和の最も重要な軸であられる貴国の好意と公平なる理解とを、日本の民衆に伝えるよう、最大の努力をしてまいります」
 それから、ソ連人民の幸福と日ソ友好を願って乾杯の音頭をとった。
 歓談が始まった。
 伸一と峯子は、会場中を回りながら、一人ひとりに、丁重に御礼のあいさつをした。
 その時、ある高官が、伸一に話しかけた。
 「山本先生、わが国の外交には、大きな失敗がありました」
 伸一がいぶかしそうな顔をしていると、彼は言葉をついだ。
 「それは、山本先生をこれまでソ連にお招きしなかったことです。そのために、ソ日の文化交流が遅れてしまったのですから……」
 そして彼は、声をあげて朗らかに笑った。
 何度か語り合うなかで、こんなジョークが飛び出すほど、心は結ばれたのだ。友好とは心の結合である。
59  懸け橋(59)
 山本伸一に党の要人が語りかけてきた。
 「山本会長、ソ連に滞在されて、何か、ご不満な点はございましたか」
 「あります! 大いにあります」
 その答えがロシア語に訳されると、要人の顔がこわばった。
 伸一は、にこやかに笑みを浮かべた。
 「私は九十九・九パーセントは、満足しています。しかし、〇・一パーセントの不満足があります。満足度が高いだけに、その不満足が際立つんです。
 それは、貴国の多くの方々が、肉づきがよすぎることです。友好の抱擁をしようと思っても手が届きません」
 今度は訳された瞬間、どっと笑いが起こった。
 「笑いは太陽だ。人の顔から冬を追いはらってしまう」とは、文豪ユゴーの卓見だ。
 心から笑い合えてこそ友人である。屈託のない笑いは、信頼の大地に咲く花である。
 皆が近しい友人になっていた。皆が兄弟になっていた。
 席上、あいさつしたエリューチン高等中等専門教育相は、伸一との会談の感想を語り始めた。
 「私たちは、初めのあいさつが終わらないうちに、お互いの考えがわかり合っていたような気がしました。教育の問題では、ほとんど意見は一致しておりました」
 そして、教育の国際的な協力の大切さを力説し、こう訴えた。
 「われわれは一層のソ日間の友好の交換を期待します。この気持ちを、ぜひ、日本の皆さんにお伝えください」
 また、モスクワ大学のホフロフ総長は、あいさつもそこそこに、グラスを掲げた。
 「山本会長は心から尊敬すべき方であります。
 山本会長のために、会長が指導している創価学会のために、そして、ソ日両国民の友情のために乾杯を提唱します!」
 彼は、いかにも嬉しそうに、「ボリショイ・カンパイ!」と叫んだ。
 「ボリショイ」は「大きな」というロシア語で、「ボリショイ・カンパイ」は「大乾杯」の意味になろうか。日露両語からなるこの言葉は、日ソ友好の意義をこめ、訪問中に頻発されるようになった造語である。
 モスクワ最後の夜は、友情の歓喜の語らいのなかに更けていった。
60  懸け橋(60)
 御礼のレセプションの最中であった。ソ日協会のコワレンコ副会長が、山本伸一に告げた。
 「山本会長、朗報があります。実は明十七日の午前十時から、コスイギン首相がお会いしたいとのことです」
 伸一も、可能ならば、首相と会見したいと思ってはいた。世界平和の道を開くために、直接会って、語り合いたいことがたくさんあったからだ。
 なかでも、中国の首脳が平和を希求していることについては、ぜひ伝えなくてはならないと考えていた。 
 しかし、首相は多忙である。会見の時間はとれないであろうと思っていた。そこで、誰に、いかなる方法で伝えるべきか、思案していたのだ。
 伸一は「わかりました。それでは、表敬訪問のつもりで伺わせていただきます」と答えた。金秋のモスクワに、さわやかな風が吹き抜けていた。
 十七日午前九時半過ぎ、伸一はコスイギン首相との会見のため、クレムリンに向かった。
 会見会場には、伸一と、同行メンバーの一人が入室することになっていた。
 午前十時、伸一が会場に入ると、コスイギン首相の姿があった。
 鋭い眼光、額に刻まれた皺、固く結ばれた口元――首相の顔には、ブレジネフ書記長と共に、東側陣営の盟主・ソ連の重責を担ってきた意志の強さが漂っていた。
 首相は七十歳である。だが、若々しい活力にあふれていた。この活力こそ、新しき道を開くリーダーの、第一の要件である。
 伸一は、笑みをたたえて、握手を交わした。
 「ご多忙のなか、お時間をお取りいただき、ありがとうございます。お会いできて光栄です!」
 首相も顔をほころばせながら語った。
 「私も、山本会長とお会いするのを、楽しみにしていました」
 「恐縮です。今回の訪問では、閣下に見守られるなか、行く先々で皆様方の多大な歓迎を賜りました。心より感謝申し上げます」
 首相は、伸一がそれぞれの訪問先で、世界平和のために意見を交換し、深い交流を図ってきたことは、極めて有意義であったと、今回の訪ソを高く評価した。
61  懸け橋(61)
 最初のあいさつが終わり、山本伸一とコスイギン首相は、テーブルを挟んで席に着いた。
 首相に向かって右側には、ソ日協会のコワレンコ副会長、イワノフ対文連副議長が、左側には通訳であるモスクワ大学のストリジャック主任講師らが座った。
 伸一に同行してきた聖教新聞のカメラマンなどは、ここで退出しなければならなかった。
 伸一は、身を乗り出すようにして尋ねた。
 「率直に意見を述べさせていただいてよろしいでしょうか」
 首相が頷いた。
 「私は今回の訪問で、貴国について、よく勉強させていただきました。
 貴国が世界の緊張緩和を願い、懸命に努力されていることもよくわかりました。心より賞讃いたします。
 しかし、その貴国の姿勢は、残念ながら日本には伝わっておりません。
 率直に申し上げれば、日本人は、ロシア文学やロシア民謡には親しんでいても、ソ連には親近感をもっておりません。どこか″怖い国″という印象をもっております。
 本当に貴国が、自分たちの真実を伝え、多くの日本人の理解を得ようと思うならば、『親ソ派』と称される政治家や、限られた団体とだけ交流するのではなく、幅広い交流が必要になります。
 むしろ、ソ連のことを好きではないという人や、保守党の議員とも、積極的に会うことが大事です。また、政治や経済の分野だけでは、真の友好はありえません。文化交流こそ、最も大切になってきます」
 今後の日ソの関係は、強く、太い、幾重にもわたる交流と信頼の綱によって結ばれなくてはならない。それには、政府間の関係にとどまらず、民間レベルにまで広がる、重層的な人間相互の絆が必要不可欠になる。
 その信念に基づいての発言であった。
 「相互共感の原則だけが人類の進歩の因となる」とは、トルストイの洞察である。
 伸一は、首相に対して失礼かもしれないと憂慮しつつも、あえて思いのままを語った。
 コスイギンは、伸一が話し終えると、大きく頷き、きっぱりと答えた。
 「賛成です。山本会長のご意見をもとに、今後の対応を検討させていただきます」
62  懸け橋(62)
 人の話に耳を傾け、受け入れようとするコスイギン首相の真摯な態度に、山本伸一は、度量の大きさを感じた。
 ″話ができる人だ!″と思った。
 伸一は、さらに言葉をついだ。
 「そこで、新しい交流の道を開くために、首相にも、また、ブレジネフ書記長にも、ぜひ日本においでいただきたいと思います。ご予定はいかがでしょうか」
 ズバリと尋ねた。忌憚のない対話は、彼の人間外交の信念であった。
 ソ連首脳の訪日は、日本政府にとっても、大きな関心事であった。
 前年十月、田中角栄首相が訪ソし、日ソ平和条約の交渉継続を合意していた。しかし、ソ連首脳の訪日については、一向に具体化しなかった。
 コスイギン首相が語り始めた。
 「訪日の計画はあります。ブレジネフ書記長も、ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長も訪日を希望しています。年内は無理でしょうが、日程も検討しています。
 私たちは、日本との平和条約についても、締結のために、最大の努力を払っていきたい。
 その交渉は、両国の外相レベルで進めることになっています。
 そして、平和条約の方向が決まった後で、首脳が訪問するのが理想的であると思っています」
 さらに首相は、ソ連の平和条約に対する考え方などを、長い時間をかけ、力を込めて語った。
 伸一は、首相の話が一段落すると語り始めた。
 「日ソの平和条約等の問題については、外相など、政府関係者と大いに意見交換をし、論議を重ねていただきたいと思います。
 私ども創価学会は仏法者の団体であり、宗教的信念に立って、世界の平和をめざしております」
 伸一は、創価学会と公明党の立場の違い、宗教団体と政党との次元の違いを、首相に正しく認識してもらいたかった。
 言うべきことを、言うべき時に、明確に語っていく勇気が必要である。
 あいまいさは、後々の大きな誤解を生む元凶となる。
 文豪ドストエフスキーが「この世の多くの不幸は、誤解と説明不足から起こった。言葉が足りないのは、ことを害するものである」と喝破した通りだ。
63  懸け橋(63)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「私は公明党を創立しましたが、創価学会と党とは、財政、人事面も分離し、それぞれ独自性をもって運営しています。
 したがって、党のことには、私はタッチしておりませんし、政治の問題は、公明党に任せてあります。
 学会も、公明党も、人類の幸福と平和を実現するという根本目的は同じです。
 しかし、宗教団体と、日々、現実的に対応を迫られる政党とは、立場の違いから、具体的な政策面などで意見が異なる場合もあります。
 また、私ども創価学会が推進しているのは、国家による政治次元の交流というより、民衆レベルでの、大河のように幅広い文化、教育交流です」
 それから伸一は、創価学会の歴史に触れ、学会が軍部政府の弾圧と戦ってきたことを述べた。
 さらに、今や、メンバーの平和のスクラムは、全世界へと広がっていることを語った。
 コスイギン首相は、静かに頷くと、伸一に、こう尋ねた。
 「会長は仏教者として公明党を創立され、大学もつくられましたが、あなたの根本的なイデオロギーはなんですか」
 伸一は即座に答えた。
 「それは、平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」
 首相は、通訳の言葉に目を輝かせた。そして、感嘆したように、会心の笑みを浮かべた。
 伸一の生き方の根本にあるのは、仏法の生命尊厳の哲理を根底にして、人類の幸福と平和を打ち立てることである。
 人間の生命を磨き、豊かな社会を築き上げることである。つまり、広宣流布であり、立正安国の実現である。
 しかし、それを、そのまま表現したとしても、本当の意味は伝わらないにちがいない。
 戸田城聖は戦時下の獄中で、「仏」とは「生命」であると悟達し、仏法を生活に即した生命の哲学として、わかりやすく展開していった。
 それによって、仏法哲理を現代に開くことができたのである。
 仏法を根底にした私たちの主張や思想も、社会に即した表現がなされてこそ、説得性をもち、人びとの理解と共感を得ることが可能になるのだ。
64  懸け橋(64)
 山本伸一の根本的なイデオロギーとは何かを聞いたコスイギン首相は、張りのある大きな声で語り始めた。
 「山本会長の思想を、私は高く評価します。
 その思想を、私たちソ連も、実現すべきであると思います。
 今、会長は、『平和主義』と言われましたが、私たちソ連は、平和を大切にし、戦争を起こさないことを、一切の大前提にしています」
 伸一が最も語り合いたかったテーマに、話は移っていた。彼は、頬を紅潮させながら語った。
 「それは、大変にすばらしいことです。絶対に戦争は避けなければなりません。
 私はレニングラードへ行き、ピスカリョフ墓地を訪問しました。第二次大戦でソ連が払った多大な犠牲を、生命に焼き付けてまいりました。
 今回の訪ソでは、貴国の人民も、指導者も、平和を熱願していることを痛感いたしました」
 伸一の胸には、戦争への、強い、強い、憤りがたぎっていた。
 彼は、ナチス・ドイツに包囲され、激しい攻撃と、飢えと、寒さで生命を失った、レニングラードの人びとの苦闘を思いつつ、墓地を訪れた印象を語っていった。
 「ソ連の人びとは、あまりにも過酷な体験をしました。こんなことを二度と許してはなりません」
 この時、首相の目が、キラリと光った。伸一の目を、じっと見つめながら、話に耳を傾けていた。
 伸一は尋ねた。
 「閣下は、あの第二次大戦の時は、どちらにいらしたのでしょうか」
 首相は静かに答えた。
 「レニングラードがナチス・ドイツに包囲されていた時、私もレニングラードにいました……」
 そう言ったきり、しばらく沈黙が続いた。当時のことを思い返しているようでもあった。
 戦争の悲惨さを知るならば、断じて、その歴史を繰り返してはならぬ。 アインシュタインはこう呼びかけている。
 「この世代をして、戦争の野蛮さを永久に追放した世界という、量りがたい遺産を未来の世代に残さしめましょう。われわれが決意すればできるのです」
 それが、「現在」を生きる者の使命である。
 コスイギン首相の目には、平和建設の決意が燃えていた。
65  懸け橋(65)
 山本伸一は、コスイギン首相を凝視しながら、強い語調で訴えた。
 「ソ連の人びとと同様に、中国の人びとも、平和を熱願しております。
 中国は、決して侵略主義の国ではありません」
 語らいは、まさに佳境に入ろうとしていた。
 伸一は、会談した李先念副総理や中国の人びとの本当の思いを語れば、コスイギン首相は、最も賢明な決断を下してくれると確信していた。
 「外交によって解決されなかった問題は、煙硝と流血とによってもやはり依然として解決されはしない」とは、トルストイの達見である。
 首相は一九六九年(昭和四十四年)の九月、北ベトナムのホー・チ・ミン大統領の葬儀に参列した帰途、北京に立ち寄り、周恩来総理と国境問題について語り合っている。
 その年の三月から八月にかけて、ソ連軍と中国軍の衝突があり、中ソ関係は緊迫していた。
 そのなかで、解決の方途を探るために、中国首脳と率直に語り合ったコスイギン首相の姿勢を、伸一は高く評価していたのである。
 しかし、それでも、中ソの緊張関係は、依然として続いていたのだ。
 ソ連は、米中関係が正常化に向かい、さらに、日本と中国が国交を正常化したことで、強い危機感を募らせていた。
 中ソは、関係改善に向けて、代表による話し合いをもつなどしてはきたが、大きな進展は見られなかった。
 そして、互いに疑心暗鬼になっていたのだ。
 伸一は、三カ月前に中国を訪問した実感を、コスイギン首相に伝えた。
 「中国の首脳は、自分たちから他国を攻めることは絶対にないと言明しておりました。
 しかし、ソ連が攻めてくるのではないかと、防空壕まで掘って攻撃に備えています。中国はソ連の出方を見ています。率直にお伺いしますが、ソ連は中国を攻めますか」
 首相は鋭い眼光で伸一を見すえた。その額には汗が浮かんでいた。
 そして、意を決したように言った。
 「いいえ、ソ連は中国を攻撃するつもりはありません。アジアの集団安全保障のうえでも、中国を孤立化させようとは考えていません」
 「そうですか。それをそのまま、中国の首脳部に伝えてもいいですか」
66  懸け橋(66)
 コスイギン首相は、一瞬、沈黙した。
 それから、きっぱりとした口調で、山本伸一に言った。
 「どうぞ、ソ連は中国を攻めないと、伝えてくださって結構です」
 伸一は、笑みを浮かべて首相を見た。
 「それでしたら、ソ連は中国と、仲良くすればよいではないですか」
 首相は、一瞬、答えに窮した顔をしたが、すぐに微笑を浮かべた。
 心と心の共鳴が笑顔の花を咲かせた。
 伸一は、この会談に、確かな手応えを感じた。
 エマソンは結論する。
 「賢明で教養があり、心のこもった会話は、文明の最後の花であり、われわれが人生から受ける最良の結末である」
 対話は、閉塞した状況を切り開き、未来に希望の光を注ぐ太陽となる。
 さらに話題は、核兵器の問題に移っていった。
 首相は、憂いをかみしめるように語った。
 「既に現在、核は全世界が滅びるほど、十分にあります」
 そして、静かな口調ではあるが、断固たる決意を込めて言った。
 「核兵器をこのまま放置しておけば、ヒトラーのような人間がいつ現れて、何が起きないとも限りません。そうなれば、地上の文明を守る手立てはないのです。
 人類は遅かれ早かれ、核軍縮を決定するに違いありません」
 その言葉に、伸一は驚きを隠せなかった。
 当時、「ソ連の核兵器は、世界平和のために必要な保障である」というのが、ソ連の公的な主張であったからだ。その見解を根底から覆すことになる、画期的な発言といってよい。
 伸一は、勇気ある言葉だと思った。
 首相はそれから、核実験の禁止に始まる核兵器全面廃止のプロセスについて考えを語った。
 伸一は、全く同感であった。それは、彼が、かねてから強く主張してきたことでもあった。
 首相の話に、喜びが込み上げてきた。
 伸一は思った。
 ″中国も、核兵器の全面廃止が基本的な立場であると言明していた。
 したがって、ソ連も、中国も、同じ見解に立っているといってよい。
 それならば、核廃絶への世界の潮流をつくり出すことは、決して不可能ではないはずである″
67  懸け橋(67)
 山本伸一は、コスイギン首相の話を受け、ソ連が核兵器の廃絶へ、積極的にイニシアチブ(主導権)をとるよう強く望み、こう訴えた。
 「核廃絶を実現していくためには、各国、特に核保有国同士が、深い信頼関係で結ばれることが不可欠といえます。
 国と国とが相互に接触を図り、信頼関係を不断に積み重ねていくことが重要です。
 根底に相互不信がある限り、核兵器の全廃などできようはずがないからです。その意味でも永続的な交流が必要です。
 それには、政治、経済の次元を超えた、文化、教育の交流が大事であるというのが、私の一貫した主張です」
 不信を信頼へ――そこに、人間が共に栄えゆくための、最も重要なカギがある。
 伸一は質問した。
 「人類の未来には、今、テーマになりました核問題をはじめ、環境問題、食糧問題など、さまざまな難問が横たわっております。それらをふまえ、二十一世紀は明るいと見てよいでしょうか」
 首相は答えた。
 「私たちは、そう望んでいます。いえ、そうしなくてはなりません。
 もちろん、そのためには、人類は、これまでの営為それ自体を、再検討すべき時に来ていると思います」
 「首相のおっしゃる通りです。
 大量生産、大量消費という文明の在り方も限界にきております。天然資源も決して無限ではありません。
 これまでと同じ考え方では、人類は完全に行き詰まってしまいます。
 したがって、自然と人間との調和を説く仏法の生命の哲理に、着目する必要があるというのが、私の主張なんです」
 続いて伸一は、食糧問題に言及し、コスイギン首相に提案した。
 「戦争による難民、旱魃や洪水による飢餓に苦しむ人びとなどを救うために、たとえば『世界食糧銀行』ともいうべきものを設置してはどうでしょうか」
 「大事な意見であると思います。
 しかし、食糧問題をどうするかという前に、人類はまず、戦争という考えを捨てなければいけません」
 伸一は、首相の言葉に、平和への熱願と強い決意を感じた。
68  懸け橋(68)
 コスイギン首相は、自らの信念を吐露するように、確信にあふれた声で語った。
 「人間が戦争のための準備ではなく、平和のための準備をしていれば、武装に莫大な資金や労力を費やしたりせずに、多くの食糧を作ることができます。
 食糧問題を解決する道は、平和にあります」
 指導者の言葉は重い。山本伸一は、首相の「心」に触れた思いがした。
 時間は、既に一時間半が経過していた。首相の予定していた会談時間を、大幅に超えているにちがいない。伸一は、これ以上、時間を取らせてはならないと思った。 
 「本日は、ご多忙にもかかわらず、お会いしていただき、大変にありがとうございました」
 首相は答えた。
 「私の方こそ、大変に有意義な語らいができましたことを、感謝申し上げます。
 山本会長が提起した問題は重要です。政治、経済の分野だけではなく、諸問題に大きな影響をもたらす貴重な意見です」
 伸一は、会談の最後に日本画などの記念品を贈った。コスイギン首相からは、ソ連邦政府五十周年を記念した銀のメダルが贈られた。
 別れ際に首相は、伸一の手を、ぎゅっと握って言った。
 「モスクワに来られた折には、必ずお会いしましょう」
 「ありがとうございます。また、お目にかかれる日を楽しみにしております」
 伸一が会見会場を出ると、通訳を務めたストリジャックが、興奮した様子で語りかけた。
 「感動しました。本当に実りある会談でした」
 また、ストリジャックから会見の模様を聞いたホフロフ総長は、伸一の手を強く握り締めながら語った。
 「会見の内容を伺い、嬉しくて仕方ありません。ソ日友好の大きな流れを開く百点満点の会見であったと思います」
 伸一は答えた。
 「ありがとうございます。胸襟を開いた、率直な対話ができました。
 コスイギン首相の平和を愛する心、また、そのお人柄に、深く感銘いたしました」
 勇気と誠実をもって相手の心に飛び込んでこそ、胸襟は開かれ、深い魂の対話を交わすことができるのである。
69  懸け橋(69)
 コスイギン首相もまた、山本伸一との会見に深い意義を感じ、大いに満足したようであった。
 伸一の招待に尽力し、会見に同席したソ日協会のコワレンコ副会長は、後に、次のように記している。
 「会談が終わって、コスイギンは私に向かって、こう質問しました。
 『コワレンコさん。こういう優れた日本人をどこで見つけてきたのですか。どこで発見したのですか』と」
 そして、首相は、さらに、こう述べたという。
 「これからは密接に関係を保つことを、コワレンコさん、あなたに命令します。
 もし、クレムリン(政治局)で困難な問題が起こるなら、直接、私に電話しなさい」
 さらに首相は、帰宅後、愛娘のリュドミーラ・グビシャーニに、伸一との会見について、こう語ったのである。
 「今日は非凡で、非常に興味深い日本人に会ってきた。複雑な問題に触れながらも、話がすっきりできて嬉しかった」
 ともあれ、一民間人である山本伸一の手によって、歴史の歯車は、音を立てて回転し始めようとしていた。
 日ソの新たな友好の道が開かれただけでなく、中ソの対立の溝にも、一つの橋が架けられようとしていたのである。
 身を挺しての奮闘の持続が巨岩を動かす。
 伸一は、コスイギン首相との会見に続いて、正午からは、ソ連対文連友好会館を訪れた。
 今回のソ連訪問によって、日ソ両国の文化交流が推進されたことを確認するとともに、一層の交流促進への意思を明らかにするため、一行と対文連とのコミュニケ(声明書)を発表することになっていたのである。
 これには、ポポワ議長をはじめとする対文連の関係者のほか、ソ日協会のコワレンコ副会長、B・I・ウグリノビッチ事務局長らが出席した。
 日ソ両国の旗が立つテーブルに、ポポワ議長と伸一が着き、日露両文のコミュニケに調印した。
 コミュニケには、九月八日以来の友好交流の足跡が詳述され、「今後の日ソ両国民間の相互理解を深め、善隣友好関係を強化し、文化、科学、教育分野における交流を拡大する意思を表明した」と記されていた。
70  懸け橋(70)
 コミュニケは、「一行のソ連滞在が有意義であり、その間に確立された関係が、将来の日ソ両国民の友好善隣関係を促進させ、それがひいてはアジアと全世界の平和を強化するために役立つものであることを確認した」と結ばれていた。
 コミュニケの調印のあと、相互の親善に対して乾杯することになった。
 音頭を取ったのは山本伸一であった。
 「ボリショイ・カンパイ!」
 皆が笑顔で唱和し、友好のグラスを高く掲げたのである。
 乾杯のあと、ポポワ議長は、感極まった顔で、出席者に呼びかけた。
 「皆さん。山本会長はソ日友好の第一歩を踏み出され、道を開いてくださいました。さあ、これからは行動です。善隣関係の確立へ、行動に移ろうではありませんか!」
 それから、彼女は、伸一と峯子に言った。
 「ソ連と日本の未来のために、いつまでも元気で活躍してください。決して、無理をしてはいけません。大事な、大事な方なのですから……」
 そこには、優しい母の慈愛があふれていた。
 「大変にありがたいお言葉です。真心が胸に染みます。怖くて優しいお母さん!」
 伸一が言うと、議長の顔に微笑が浮かび、その目が涙に光った。
 心と心が結ばれてこそ、堅固なる人間の連帯が築かれる。
 対文連とのコミュニケの調印を終えた山本伸一が、宿舎のロシアホテルに戻ると、日本人記者団が待っていた。
 すぐに記者会見が始まった。
 伸一は記者たちの質問に答え、コスイギン首相やショーロホフとの会談の模様、今回のソ連訪問の成果やソ連の印象などを語った。
 伸一たちは、この日の夜にはモスクワを発って帰国の途につく。
 記者会見が終わると、同行の青年が、東京の学会本部と連絡を取った。
 彼は、すべての公式行事は無事に終了し、日本時間の明十八日の正午ごろには、羽田に到着することを告げた。
 電話に出た副会長の十条潔は、決意のこもった声で言った。
 「先日は、本当に申し訳ありませんでした。万全の態勢で先生をお迎えいたします」
71  懸け橋(71)
 実は、学会本部とのやりとりのなかで、こんなことがあったのである。
 山本伸一に同行していた青年が、レニングラードから、学会本部の十条潔に電話を入れた時のことであった。
 十条は、緊張した声で、伸一の帰国の日程を変えられないかと言うのである。
 理由を聞くと、口ごもりながら語った。
 「……羽田に不穏な動きがあるという情報があるんだよ。
 反共・反ソ的な勢力が、空港で先生を待ち伏せして、何かするかもしれないと言うんだ」
 青年は、すぐに伸一に報告した。
 「待ち伏せか……。
 私は、中国、ソ連に、友好の橋を架けようと決意した時から、覚悟を決めている。
 人類を分断してきた社会体制の壁や国家の壁を取り払い、『平和の道』『友誼の道』を開こうというのだから、当然、命がけの開拓作業だ。
 生命をなげうつ決意なくして、世界平和の実現など、できようはずがない。
 それなのに、学会本部が右往左往していたのでは、みっともないではないか!」
 伸一は、泰然自若としていた。彼は、朗らかに笑いながら言った。
 「それに、総大将が城に『帰る』と言っているのに、『ちょっと、待ってください』はないだろう。これじゃあ、戦いにならないよ。私は、予定通りに帰国するよ」
 「はい!」
 青年は、十条に伸一の言葉を伝えた。
 「先生は、予定通り、お帰りになると言われています。何があっても大丈夫なように、万全の態勢で迎えてください」
 「そうですか。わかりました」
 十条は、厳とした伸一の決意を感じ取り、体が震える思いがした。
 以来、学会本部では首脳幹部が心を一つにして唱題に励むとともに、無事故で伸一を迎えられるよう、万全の準備を重ねてきたのである。
 部屋に戻ると、峯子は伸一に言った。
 「このソ連訪問は大成功でしたね。皆さんのお題目の力ですね」
 「本当にその通りだ。一千万同志の唱題あってこその大成功だ」
 そして二人は、感謝の祈りを捧げるのである。
72  懸け橋(72)
 一行が荷物をまとめ、あとは空港に向かうだけとなった夕刻、連日、同行してくれていたモスクワ大学のトローピン副総長の主催で、歓送のパーティーが開かれた。
 会場は、宿舎のロシアホテルのレストランであった。
 ソ連側のメンバーは、トローピン副総長のほか、通訳のストリジャック主任講師、そして、モスクワ大学で日本語を学んでいる、彼の教え子の学生たちである。
 この学生たちは、滞在中、ホテルで一行と寝食を共にし、荷物の運搬や道案内、車や食事の手配を行うなど、さまざまな面で支えてくれたのである。
 山本伸一は、彼らを心からねぎらい、御礼を言いたかった。
 だから、ストリジャックから、サヨナラ・パーティーの話を聞かされた時、「喜んで出席させていただきます」と答えたのだ。
 学生たちは、将来は日ソの友好を担って立つ俊英である。伸一は彼らを、「若き友人」と思っていた。
 伸一の一行は、苦楽を共にしてくれた彼らを、親しみを込めて、愛称で呼ぶようになっていた。
 まとめ役の学生は″官房長官″、車の手配を担当してくれた学生は″運輸大臣″、食事担当の学生は″食糧大臣″、報道陣などとの連絡を担当してくれた学生は″外務大臣″、会計担当は″大蔵大臣″であった。
 彼らは、伸一の訪ソの成功を、わが事のように喜んでいた。
 「山本先生は、ソ日友好の歴史に残る偉大な仕事をされたと思います。そのお手伝いができたことは私たちの誇りです」
 会食のはじめに、伸一は立ち上がると、丁重に御礼を述べた。
 「この訪問で、日ソ友好の新しい橋を架けることができました。
 それを陰で支えてくださった、最大の功労者は皆さんです。
 私は、心から御礼、感謝申し上げます。ありがとうございました。
 東洋の英知の言葉は、『陰徳あれば陽報あり』と教えています。
 人に知られない善行であっても、明らかな善き報いとなって自らにかえってくるということです。これは人間が生きるうえでの大事な哲学です」
 皆、笑顔で頷いた。
73  懸け橋(73)
 次いで、トローピン副総長が、感慨をかみしめるように、山本伸一の訪ソの感想を語った。
 「山本先生には、もっとソ連にいていただきたい。滞在は、あまりにも短かったように思えてなりません。
 しかし、この十日間でソ日両国の強いパイプができあがり、平和の土台が築かれました。将来、両国の友好の歴史のなかで、輝きを放ち続ける訪問になることは間違いありません。
 この十日間は、″世界をゆるがした十日間″であったといえます」
 『世界をゆるがした十日間』は、アメリカのジャーナリストであるジョン・リードが著した、ルポルタージュ文学の傑作である。ソビエト政権が樹立されることになる十月革命をつぶさに描いた作品である。
 副総長は、伸一の訪ソを、この本のタイトルにたとえたのである。
 続いて、日本側から、同行メンバーの青年があいさつに立った。
 彼は、ここに集った人たちには、なんとしても伸一の本当の姿を、また、真情を知ってもらいたかった。
 「今日は、私の思いを率直に語らせていただきます。
 山本先生と共に、世界の国々を回るたびに、常に痛感していることがあります。それは、先生が人類の平和を願い、戦争のない世界をつくるために、いかに真剣勝負で臨まれているかということです。
 たとえば、皆さんもご覧になっていたと思いますが、山本先生の部屋は、毎日、午前一時、二時になっても、明かりが消えませんでした。
 なぜか――。それは、ソビエトの民衆の真の姿を、平和を愛する庶民の心を、日本中の、世界中の人びとに伝えようと、黙々と原稿を書き続けていたからです。
 先生は日本に帰れば、多くの行事が待ち受けています。そのスケジュールは過密であり、皆さんの想像をはるかに超えたものであると思います。
 したがって、一瞬一瞬が勝負なのです。私は、その誠実で真剣な先生の行動に、深い感動を覚えております」
 共感の大きな拍手が起こった。
 伸一の動きを、終始、見続けてきたソ連の人たちの、実感でもあったようだ。
74  懸け橋(74)
 山本伸一は、同行の青年の、思いもよらないあいさつに驚いて、口を挟んだ。
 「私のことは、どうでもいいんだよ。皆さんを讃えるんだよ」
 「すみません。どうしても、話さずにはいられなかったんです」
 青年はこう言って、話を続けた。
 「山本先生の訪ソが成功に終わるようにご尽力くださった、ここにいらっしゃる皆さん方のご苦労も、決して忘れることができません。
 皆さん方の部屋もまた、午前二時、三時と明かりが消えなかったことを知っております。
 共に平和のために骨身を惜しまないわれわれの仕事に対して、乾杯を提唱します。ボリショイ・カンパイ!」
 唱和する皆の声が一つになって、高らかに響いた。一緒に行動するなかで、互いの心がとけ合い、平和を担う気概に結ばれていったのである。
 遂に別れの時は来た。
 モスクワの秋は一瞬であった。到着した十日前には初秋であったが、白樺も、ポプラも、一日一日、黄葉し、既に吐く息も白くなっていた。
 ホフロフ総長夫妻をはじめ、対文連のイワノフ副議長、そして、学生など、多くの人びとがモスクワのシェレメチェボ空港まで、一行の見送りに来た。
 総長と伸一は、飛行機のタラップの下でも語らいを続けた。
 伸一は言った。
 「このご恩は決して忘れません。
 今度は、ぜひ、創価大学においでください。また、創価学園にもいらしてください。次は日本で語り合いましょう。
 共に力を合わせ、日ソの教育・文化の交流を推進し、平和の大潮流を起こしていきましょう。
 私たちの友情は永遠です。時の淘汰に耐えてこそ、真の友人です。
 今回、お世話になった学生さんたちのことは、生涯、見守らせていただきます」
 総長は、感極まった顔で、伸一の手を固く握り締めた。
 伸一は、決意のこもった声で、宣言するように言った。
 「あとは、行動をもって示すのみです!」
 行動なき決意は虚言である。誓いは実践となって結実する。「誠実の人」とは「行動の人」だ。
75  懸け橋(75)
 山本伸一の乗った飛行機が離陸したのは、九月十七日の午後八時ごろであった。
 モスクワの街の灯を見ながら、伸一は思った。
 ″今回のソ連訪問で、数多くの友情の種子を植えることができた。これからは、さらに交流を重ね、大誠実をもって、友情の大樹に育て上げていくのだ″
 日蓮大聖人は「火をきるに・やすみぬれば火をえず」と仰せである。
 友情もまた持続である。その場限りの交流に終わってしまえば、友情が育つことはない。
 ″ソ連の人びとも心から平和を願っている。コスイギン首相は中国を攻めないと言明していた。再び中国を訪問し、その言葉を、中国の首脳に伝えなくてはならない。
 また、ソ連の首脳や民衆が、どんな考えでいるのかを、中国だけでなく、日本中に、いや、世界中の人たちに伝えていこう″
 彼は、その決意を、全力で実行に移した。
 訪問中から書き始めたソ連についての新聞や雑誌への寄稿は、帰国後一カ月余りで本一冊分ほどになった。寸暇を惜しんでの執筆であった。
 また、十月初めにモスクワ大学のストリジャック主任講師と学生たちが来日すると、伸一は、滞在期間中、創価大学や鹿児島の九州総合研修所(当時)などに招き、交流を重ねた。
 今度は伸一が、自ら彼らの運輸担当となり、食糧担当となった。
 さらに、十月末からホフロフ総長夫妻らが来日すると、創価大学をはじめ、聖教新聞社や学会本部などで会談し、教育交流の展望を語り合った。
 総長との帰国前の語らいでは、伸一はコスイギン首相への親書を託した。総長からは「明春、モスクワでお会いしたい」との、強い要請が寄せられた。
 友誼の潮は、二十一世紀の大海原へ、勢いよく流れ始めたのだ。やがてそれは、教育・文化の、そして平和の、大潮流となるにちがいない。
 未来を開け! 開墾の鍬を振るえ! 勇敢に、恐れなく、生命ある限り――こう伸一は、自らに言い聞かせていた。
 「君よ播け、知性と善と永遠の種を!」とは、チェーホフの戯曲の一節である。

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