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日蓮大聖人・池田大作

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第20巻 「友誼の道」 友誼の道

小説「新・人間革命」

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1  友誼の道(1)
 新しい時代の扉は、待っていては開きはしない。自らの手で、自らの果敢な行動で、勇気をもって開け放つのだ!
 山本伸一は、未来に向かって歩き始めた。
 一九七四年(昭和四十九年)五月三十日――。
 午前十時半、伸一を団長とする創価学会第一次訪中団は、中華人民共和国を訪問するため、イギリス領・香港(当時)の九竜(カオルン)を列車で出発した。
 一時間ほどで香港最後の駅となる羅湖(ローウー)に着き、ここで通関の手続きを済ませた。
 羅湖駅から百メートルほど歩き、中国の深セン(シェンチェン)駅に入るのである。
 七二年(同四十七年)に、日中の国交は正常化したが、まだ、日本から中国への直行便はなかった。北京へ行くにも、香港経由で入るしかなかったのである。
 訪中団の構成は、団長の伸一、妻の峯子、副団長で副会長の山道尚弥、秘書長で学生部長の田原薫、女子部長の吉川美香子らのほか、通訳、聖教新聞の記者、カメラマンなど十一人であった。
 羅湖に着くと、九竜を発つ時に降っていた雨は上がり、空はうっすらとした雲に覆われていた。
 伸一は、深セン駅へと続く道を歩きながら、日中交流の橋を架けるために人生をかけてきた先人たちとの語らいを、思い起こしていた。
 「LT貿易協定」を結び、日中交流の窓を開いた高碕達之助は、六三年(同三十八年)九月、伸一に語った。
 「私の人生の時間は限られている。どうしても新しい力が必要だ。あなたには、日中友好の力になってもらいたい!」
 高碕は当時七十八歳。亡くなる五カ月前のことである。
 また、七〇年(同四十五年)三月、日中の関係改善に生命をかけて取り組んできた八十七歳の松村謙三は、伸一に、懸命に訴えた。
 「あなたは中国へ行くべきだ。いや、あなたのような方に行ってもらいたい」
 伸一は、そうした先人たちの言葉を遺言として受け止めた。
 そして、日中友好の「金の橋」を架けることを、自らの使命と定めてきたのである。
 彼は、一歩一歩、踏みしめるように、深セン駅に向かって歩みを運んだ。
2  友誼の道(2)
 山本伸一の胸には、戸田城聖が一九五六年(昭和三十一年)の年頭に詠んだ和歌が、朗々と響いていた。
 雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん
 伸一は、その歌を目にした時、アジアの民衆の平和と幸せを願う、師の熱い心を痛感した。
 それは、戸田大学の講義などでも、折々に語られていた真情であった。
 以来、彼は、東洋の大国・中国の人びとの幸福のために、弟子として実際に何をすべきかを、真剣に、具体的に、考え始めた。
 思索を重ねた結果、中国と友好を結び、確かなる交流の道を開かねばならぬと、心に深く決意したのである。
 大願は、一代では成就できない。弟子が師の心を受け継いで立ち上がり、実現していくのだ。
 そこにこそ、弟子の使命があり、師弟の大願成就がある。
 伸一は、時を待った。
 そして、一九六四年(同三十九年)十一月、公明党の結党に際して、彼はこう提案した。
 「外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。これが創立者である私の、唯一のお願いです」
 さらに、その四年後の六八年(同四十三年)九月に行われた第十一回学生部総会で、日中問題に言及し、あの歴史的な「日中国交正常化提言」を行ったのである。
 一、日本は、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化する。
 一、中国の国連での正当な地位を回復する。
 一、日本は、中国と経済的・文化的な交流を推進する。
 これらを骨子とした画期的な提言であった。
 当時、中国には「プロレタリア文化大革命」の嵐が吹き荒れ、国際世論は、中国に批判の声を高めていた時である。
 そのなかで、中国との国交正常化や中国の国連での地位の回復を訴えるには、非難の集中砲火を浴びることを、覚悟しなければならなかった。
 「先覚者は、つねに故国に容れられず、また同時代人からも迫害を受ける」とは、文豪・魯迅の洞察である。
3  友誼の道(3)
 山本伸一は、世界平和の実現をめざすうえで、そのカギを握るのが、今後の中国の行方であると考えていた。
 というのは、世界平和の不安定な要素となっているのが、アジア情勢であり、その根本原因は、貧困と、自由圏と共産圏の隔絶・不信・対立にあったからだ。
 そのなかで、日本が率先して中国との友好関係を樹立することは、アジアのなかにある東西の対立を緩和することになるにちがいない。
 そして、それは、やがては東西対立そのものを解消するに至ることを確信して、伸一は「日中国交正常化提言」を行ったのである。
 伸一のこの提言は、朝日、読売、毎日をはじめ、新聞各紙に報道され、さらに、中国にも打電されたのである。
 提言の反響は、極めて大きかった。
 中国文学者の竹内好は、国交回復運動に「一縷の光りを認めた」(総合月刊誌『潮』一九六八年十一月号)と叫んだ。
 また、日中友好を推進する政治家の松村謙三は、「百万の味方を得た」と語った。
 だが、その一方で、伸一は、激しい非難の嵐にもさらされたのだ。
 嫌がらせの脅迫電話や手紙、街宣車を繰り出しての攻撃もあった。なぜ宗教者が″赤いネクタイ″をするのか、との批判もあった。
 外務省の高官も、強い不満の意を表明した。
 しかし、彼は、決して恐れなかった。命を捨てる覚悟なくしては、平和のための、本当の戦いなど起こせないからだ。
 伸一は、恐れるどころか、むしろ、勇んで日中の関係改善のために、第二、第三の言論の矢を放った。
 それが、戸田から薫陶を受けた師子の魂であるからだ。
 この年の学術月刊誌『アジア』の十二月号には、学生部総会の提言をさらに掘り下げ、「日中正常化への提言」と題する論文を発表した。
 そして、翌年の六月には、聖教新聞に連載中の小説『人間革命』のなかで、日中国交正常化をもう一歩進め、「日中平和友好条約」を、万難を排して結ぶべきであると訴えたのである。
 寄せ返す波が、巌を削るように、間断なき闘争が、不可能の障壁を打ち崩していくのだ。
4  友誼の道(4)
 日中関係の改善を訴える山本伸一の主張と行動を、創価学会を、中国の周恩来総理は、じっと見つめ続けていた。
 民衆を結合させ、組織し、絶望に打ちひしがれた人にも、無気力に陥った人にも、希望の光を送り、蘇生させてきたのが創価学会である。
 さらに、一人ひとりに生命の哲学と人間の使命を教え、社会建設の主体者へと育んできた。
 民衆という大地が開墾されなければ、平和と繁栄の花々を咲かせることはできない。学会の強さは、民衆のなかに、深く根差したことにある。
 そして、この民衆の力は、日本の新しき潮流となりつつあったのである。
 その運動を展開する学会と若き指導者である山本伸一に、周総理が着目したのは、必然のことであったのかもしれない。
 周総理は、以前から、伸一と創価学会に強い関心を寄せ、学会の調査研究を進めるとともに、学会との間に交流のパイプをつくるよう、関係者に指示していたのである。
 さらに総理は、訪中した作家の有吉佐和子に、「将来、山本会長に、ぜひ、中国においでいただきたい。ご招待申し上げます」との伝言を託した。
 彼女は一九六六年(昭和四十一年)五月、学会本部を訪ね、その言葉を伝えた。
 また、七〇年(同四十五年)三月、日中間のパイプ役というべき松村謙三も、伸一と会談した折、盛んに訪中を勧め、ぜひ周総理に紹介したいと語った。
 伸一は、松村の気持ちはよくわかったし、その厚意は嬉しかった。しかし、まだ、訪中は時期尚早であると感じ、丁重に辞退したのである。
 当時、中国は文化大革命の嵐が激しく吹き荒れ、中国国内では、宗教の否定に躍起になっていた時である。
 そのなかで、宗教者の自分が訪中すれば、松村自身にも、招聘した中国の関係者にも、迷惑がかかるかもしれないと、伸一は考えたのである。
 また、国交正常化は、基本的には政治の次元の問題である。表に立つのは政治家でなければ、有効に物事を進めることはできない。
 伸一は、その考えを松村に話し、中国には、宗教者の自分ではなく、公明党に行ってもらうようにしたいと告げたのだ。
5  友誼の道(5)
 松村謙三は、山本伸一と会談した直後に、中国を訪問し、周恩来総理に、伸一の意向を詳細に伝えている。
 周総理は、松村に「いつでも山本会長の訪中を熱烈に歓迎します」との伝言を託した。
 公明党の訪中が実現したのは、この翌年の一九七一年(昭和四十六年)六月のことである。
 公明党の訪中団と会見した周総理は、冒頭、「どうか、山本会長にくれぐれもよろしくお伝えください」と丁重に語った。
 この折、公明党は、日中国交正常化を実現するための基本的な条件を、中日友好協会代表団との共同声明として発表した。
 それは、「中国はただ一つであり、中華人民共和国政府は中国人民を代表する唯一の合法政府である……」などの五項目からなっていた。
 その共同声明は、伸一の「日中国交正常化提言」に賛同した公明党が、その考えを基礎にしてつくり上げた政策が骨子となったものであった。
 伸一は、そこに周総理の信義を感じた。
 この共同声明は、「復交五原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となったのである。
 伸一が命がけで訴えてきた「日中国交正常化」に向かって、時代の歯車は回り始めたのである。
 中国の革命家・孫文は叫んだ。
 「大きな事業をやりとげるには、なによりも大きな志をいだき、大きな度胸をもち、大きな決心をしなければならない」
 壮大な志をもって、勇気をもって、行動を起こす時、歴史を創る大事業の幕が開かれるのだ。
 その二週間後の七月半ば、アメリカのニクソン大統領は、翌年五月までに訪中する計画があることを発表。冷戦構造のなかで中国を敵視してきたアジア政策を大転換したのだ。
 さらに、七一年十月の国連総会では、中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府であることを認め、国連に招請することが可決される。
 翌年二月、ニクソン大統領が中国を訪問し、米中は日本の頭越しに国交樹立へと踏み出した。
 世界史の大きな動きに、日本は危うく取り残されるところであった。
 伸一の布石の重さを、心ある識者は、今更ながら実感するのであった。
6  友誼の道(6)
 一九七二年(昭和四十七年)七月、日本では田中角栄内閣が発足した。
 公明党は、この年、五月と七月に中国へ代表団を派遣。田中内閣発足直後の訪中では、国交正常化への政府とのパイプ役を務め、周総理と国交回復への問題点を、一つ一つ煮詰めていった。
 日本政府にとって最大の難問は、日本が中国に与えた戦争被害の賠償であった。
 対日戦争での中国側死傷者は三千五百万人、経済的損失は直接・間接合わせて総額六千億ドルともいわれる(一九九五年中国政府発表)。
 しかし、周総理は、公明党との会談で、その対日賠償の請求を放棄すると言明したのである。
 ――かつて中国は、日清戦争に敗れ、日本に多額の賠償を払った。そのため、中国の人民は重税を取り立てられ、塗炭の苦しみをなめた。
 戦争は一部の軍国主義者の責任だ。日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦しみを日本の人民に味わわせてはならない。
 それが、周総理の考え方であった。
 自国の人民が苦しめられたら、報復しようというのが、人間の常といえよう。
 しかし、周総理は、だからこそ、日本の人民にその苦しみを味わわせまいとしたのだ。
 これによって、日本がどれほど救われるか――伸一はそう思うと、いかに感謝しても、しきれるものではないと思った。
 日本は、その恩義を、永遠に忘れることがあってはならない。
 「忘恩は傲慢の産物にして、世に知られたる大罪の一つなり」とは、スペインの作家セルバンテスの指摘である。
 また、戦争の責任は一部の軍国主義者、すなわち戦争指導者にあり、民衆は犠牲者であるとの考えに基づいて、中国は対日賠償の請求を放棄し、その認識を基として、両国の友好の橋が懸けられたことも、絶対に忘れてはなるまい。
 周総理は、公明党との会談の最後に、これまで語り合ってきた事柄をまとめ、国交正常化のための、日中共同声明の中国側の草案ともいうべき内容を読み上げていった。
 公明党の訪中団は、それを必死にメモして、帰国後、田中首相、大平外相に伝えたのである。
7  友誼の道(7)
 日中国交正常化のお膳立ては整った。
 一九七二年(昭和四十七年)九月二十五日、田中角栄首相をはじめとする政府代表団一行が訪中した。
 そして、二十九日、国交正常化の日中共同声明の調印式が行われたのである。
 中華人民共和国の成立から二十三年にして、日中国交が樹立したのだ。
 公明党がそのパイプ役となりえた理由を、中日友好協会や新華社の関係者は、六八年(同四十三年)九月に山本伸一が行った、「日中国交正常化提言」によるものと断言している。
 提言を高く評価した周総理が、その伸一によって創立された公明党に大きな信頼を寄せてのことだというのである。
 あの提言から四年、遂に伸一が念願してきた、日中国交正常化は実現したのだ。長い交流の歴史をもつ一衣帯水の国である中国との間に、再び友好の橋が架けられたのである。
 勇気の言葉は、必ず歴史を変える。
 ゆえに、恐れなく、真実を、正義を、信念を語り抜くのだ。
 伸一は、ようやく架けられた日中国交の橋を、広く堅固な「金の橋」としていくことを深く心に誓いながら、このニュースをテレビで見ていた。
 国交正常化後、伸一は幾たびとなく、訪中の要請を受けていた。
 彼も、一日も早く、中国を訪問したいとの思いはあった。
 しかし、正本堂落慶の記念式典やトインビー博士との対談など、多忙を極め、訪問のスケジュールを確保することができなかった。
 伸一が中日友好協会の要請に応えて、訪中の意向を伝えたのは、七三年(同四十八年)も押し詰まったころであった。
 そして、この七四年(同四十九年)の三月に、駐日中国大使館を通して、伸一の訪中を歓迎する旨の返事が正式に伝えられたのである。
 以来、訪中の準備が慌ただしく進められたが、中国でのスケジュールの詳細は、なかなかわからなかった。
 五月二十四日に、中日友好協会から招請電報が届いた。
 この電報で、出発日時や訪問地など、日程の詳細が明らかになったのである。
8  友誼の道(8)
 五月二十九日の朝、山本伸一の一行は、羽田の東京国際空港を発った。
 伸一は、空港で、駐日中国大使館や新華社、日中文化交流協会の関係者など、見送りに訪れた人びとに、感謝の思いを込め、こうあいさつした。
 「今回は、中日友好協会のご招待をいただき、約二週間の予定で、中国を訪問してまいります。
 政治・経済次元での交流は、ともすれば、力の論理や利害が優先され、すきま風が生じてしまう場合があります。
 両国間の文化交流を第一義として、また、民間次元で人間と人間の真実の友好を促進し、永久的な、揺るぎない平和の基盤を築き上げていきたいと決意しております。
 特に、教育こそ新しい文化創造への一つの源泉であるとの認識に立って、新中国の教育の在り方を視察し、意見交換できれば嬉しいと思っております。
 また、訪中団のメンバーの多くは青年です。したがって、新時代を担い立つ中国の青年や学生たちとの交流を、積極的に図っていきたいと念願しております。
 その交流を通して、両国青年の相互理解を一段と深め、信頼と友情の絆を確たるものにしていければと思います」
 伸一は、国交の眼目とは、ただモノなどが行き交うことではなく、人間と人間の交流にこそあると考えていた。
 さらに、青年と青年の交流があれば、万代にわたる「友誼の道」を開くことができると確信していた。
 青年のために、道を創れ。その道は、はるかなる未来に通じる――それが伸一の信念であった。
 二十九日午後二時過ぎ(現地時間)に香港に到着した伸一の一行は、香港で一泊し、三十日朝、雨のなか、九広鉄路(鉄道)に乗り、九竜を出発したのである。
 香港のメンバーの代表も列車に同乗し、皆で楽しく歓談しながら、旅は始まった。
 途中、一月に伸一が訪問した香港中文大学の校舎が見えた。
 みずみずしい緑のなかに、紅色の花をつけた火炎樹(鳳凰木)が鮮やかに咲いていた。
 メンバーが、同行できるのは、羅湖駅の一つ手前の上水(シュンシュイ)駅までで、ここで別れを告げたのである。
9  友誼の道(9)
 羅湖駅から深セン駅に向かいながら、山本伸一は妻の峯子に言った。
 「松村謙三先生も、四年前の訪中では、車イスに身を委ねて、この道を行かれたんだろうね。既に八十七歳になられていた……。
 松村先生が、私の考えを、すべて周総理にお話ししてくれたからこそ、総理は公明党も大事にしてくださった。ありがたいね。
 私は、松村先生から、日中友好の道を開くバトンを託されたと思っている。先生のご厚意を、絶対に無にすることなく、私も、命がけで、信義と友情の橋を架けるよ」
 峯子は笑顔で頷いた。
 伸一は、空を見上げながら、言葉をついだ。
 「戸田先生も、今回の訪中を、きっと喜んでくださっているよ。アジアの平和と民衆の幸福を、願い続けてこられた先生だもの……」
 「そうですね。戸田先生の微笑むお顔が、目に浮かぶようですわ」
 伸一と峯子は、笑顔で言葉を交わしていたが、あとのメンバーの表情は暗く、皆、押し黙っていた。共産主義の国・中国を初訪問するとあって、緊張しているのである。
 だが、それも無理からぬことであったのかもしれない。
 中国は文化大革命が続いており、日本では、学者や文化人が三角帽子を被せられ、街中を引きずり回され、自己批判させられるような出来事ばかりが報じられてきた。
 だから、皆の頭のなかには、″中国は怖い国である″との印象が刷り込まれていたのである。
 伸一は、笑いながら皆に言った。
 「もっと嬉しそうな顔をしようよ。私たちは、これから新しい友人に会いに行くんじゃないか。
 どこの国の人も、みんな同じ人間だ。誠実に、ありのままに接していけばいいんだ。
 話し合えば必ず心は通じ合えるし、わかり合えるものだよ」
 イギリスの作家ウェルズは、「我等の本当の国籍は人類である」と叫んだ。それは、戸田城聖の唱えた「地球民族主義」と軌を一にしている。
 人は皆、同胞であり、互いに理解し合えるという信念と、万人を包み込む笑顔にこそ、人間主義の証がある。
10  友誼の道(10)
 羅湖と深センの間には小さな川があり、そこが中国とイギリス領・香港の境界であった。
 その川に架かる、飛行機の格納庫のような鉄橋を渡ると、カーキ色の軍服を着た、人民解放軍の兵士がいた。
 兵士にパスポートを見せる――。
 いよいよ山本伸一は、中国・深センへの第一歩を踏みしめたのだ。時計の針は、午前十一時五十分を指していた。
 「こんにちは!」
 日本語が響き、一人の男性と、二人の女性が、小走りで近寄ってきた。男性と女性の一人は中日友好協会のメンバーで、もう一人の女性は広州(コワンチョウ)市の関係者である。
 皆、さわやかな青年たちである。三人は笑顔で伸一をはじめ、訪中団全員と握手を交わした。
 中日友好協会の男性は葉啓ヨウ、女性は殷蓮玉であった。
 葉は、流暢な日本語で語った。
 「ようこそ中国においでくださいました。私たちは皆さんのご案内をさせていただくために、北京からまいりました」
 深セン駅の控室で和やかな懇談が始まった。
 葉啓ヨウは、訪日七回の経験をもつ、笑顔を絶やさない温厚な人柄であった。また、殷蓮玉は、北京外国語学院で日本語を学んだ、澄んだ目が印象的な女性であった。
 葉は、伸一の著書である小説『人間革命』を熟読していた。
 彼は、伸一に確認するように、創価学会は日本のファシズム勢力の弾圧と戦い、初代、二代の会長が投獄され、苦しめられた歴史を語った。
 また殷は「小説『人間革命』のテーマを知っています」と言って、「一人の人間における偉大な人間革命は……」と、すらすら暗唱してみせた。
 「すごい! 作者の私でも覚えていないんですよ」
 伸一のユーモアに、笑いが広がった。
 伸一と青年たちとの触れ合いを目の当たりにして、同行のメンバーがいだいていた中国への″怖い″というような印象は、一瞬にして吹き飛んでしまったようだ。
 明るく、はつらつとした青年の姿は、すがすがしい希望の風を、人びとの心に送る。
 国も、団体も、その認識、評価は、人によって決まるのだ。
11  友誼の道(11)
 山本伸一は、葉啓ヨウと殷蓮玉が、小説『人間革命』を熟読していることを聞くと、感謝の思いを込めて語った。
 「私の著作をお読みいただき、ありがとうございます。
 この小説に明らかなように、創価学会の精神は一貫して平和を守り抜くことにあります。
 そして、永久に崩れることのない平和友好のために、民衆のために戦い抜いていくことを、私たちは、あらゆる行動の原点としているんです」
 北京へ向かうために、一行は深セン駅から列車に乗り、広州に向かった。広州から、飛行機で北京に入るのである。
 車中、中日友好協会の二人の青年との語らいが弾んだ。伸一は、車窓から見える木々や花々に始まり、中国の主要都市の特徴や歴史などを、細かく尋ねていった。
 「謂う勿れ、今日学ばずして来日有りと」とは、南宋の朱子学の祖・朱熹の戒めである。「『今日学ばなくとも明日がある』と言ってはならない」というのである。
 伸一は、常にその決意で、瞬間、瞬間、何かを学び、何かを吸収しようと必死であった。
 その向学の心を失ってしまえば、人間的成長は止まってしまう。
 午後三時前、広州駅に到着した。広州は、広東(コワントン)省の省都である。
 ホームには、中国人民対外友好協会・広東省分会の副会長や秘書長ら数人が出迎えてくれた。
 「ニーハオ(こんにちは)! お出迎えいただき、ありがとうございます。光栄です。衷心より御礼申し上げます」
 伸一が笑顔で握手を交わすと、先方も満面に笑みの花をいっぱいに咲かせた。初対面ながら旧知のような交歓となった。
 さらに伸一は、待合室の長イスに座っていた四人の婦人を見ると、近寄っていって語りかけた。
 「はじめまして。私たちは、中国との友好のために、日本からまいりました」
 婦人たちは、一瞬、キョトンとしていたが、すぐに、微笑んで、あいさつを返してくれた。
 「まあ、日本から! ようこそ、いらっしゃいました」
 同行のメンバーは、しみじみと思った。
 ″みんな「同じ人間」なのだ。愛すべき隣人なのだ!″
12  友誼の道(12)
 広州駅から、山本伸一たちは、広東迎賓館に案内された。そこで食事を共にしながら、歓談のひと時がもたれた。
 広州の文化や、中国の食文化のことなどが話題にのぼり、相互理解を深める、和やかな語らいとなった。
 食事中、広東省分会の秘書長に、肉料理を勧められた。軟らかくて、淡泊で美味な肉であった。
 秘書長は、にこやかに尋ねた。
 「この肉は、なんの肉か、おわかりですか」
 一行の一人が答えた。
 「鶏肉ですか」
 「いいえ。カエルの肉です」
 皆、カエルを食べたのは初めてであり、驚きの表情を浮かべた。
 秘書長は、笑いながら語った。
 「『食は広州にあり』と言います。
 広州は料理が大変においしく、さまざまな食材を使います。
 広東では、なんでも食べます。
 空を飛ぶものは飛行機以外なら、海を行くものは船以外なら、地上にある四本の足のものは、机とイス以外は、全部、食べると言われています」
 爆笑が広がった。
 伸一が口を開いた。
 「さすが、大国・中国です。ユーモアのスケールも大きい。
 その言葉のなかに、天と海と地をのみ込んでおられる」
 再び笑いに包まれた。
 その心とけ合う姿に、同行メンバーは、「誠実に、ありのままに接していけばいい」との伸一の言葉をかみしめていた。
 この誠実な人間性の輝きにこそ、外交の要諦もあるのだ。
 会食を終えた一行は、空港へ向かった。
 午後七時、広州の空港を出発した飛行機が、北京に到着したのは午後十時近かった。
 空港には、「北京」という電飾を施した真っ赤な文字が輝いていた。
 伸一は、機内で案内を待ちながら、窓の外に目をやった。
 十数人の人影がゆっくりとタラップに近づいて来るのが見えた。出迎えの人たちのようだ。
 ″こんな遅い時間に申し訳ない……″
 伸一は恐縮しながらタラップを下りた。
 出迎えた人びとの先頭で、満面に笑みをたたえて立っていたのは、中日友好協会の廖承志会長であった。
13  友誼の道(13)
 廖承志会長は、恰幅がよく、まさしく「大人」の風格があった。
 その廖会長が、包み込むような微笑を浮かべ、流麗な日本語で、山本伸一に語りかけた。
 「ようこそ、おいでくださいました」
 日本生まれの廖会長は、日本人以上に日本語がうまいと言われる。
 「お出迎えいただき、大変にありがとうございます。また、このたびのご招待に対し、深く、御礼、感謝申し上げます」
 伸一は、こう言うと、廖会長の手を、強く握り締めた。ふっくらとした手の温もりから、日中の友好を願い、奮闘してきた情の深さが伝わってくるかのようであった。
 出迎えてくれたのは、中日友好協会の最高スタッフである。
 さらに伸一は、廖会長夫人の経普椿理事、張香山副会長、趙樸初副会長(全国政治協商会議常務委員)、孫平化秘書長、金蘇城理事らと、次々に握手を交わしていった。
 伸一は、その真心こもる歓迎に、両国の友好を願う中国の熱い思いが感じられてならなかった。
 一行は、数台の車に分乗して、空港から、宿舎の北京飯店に向かった。
 伸一の車には、孫秘書長が同乗してくれた。
 孫は、中国の現状を語りながら、静かな口調で言った。
 「中国は、まだ貧しい国です」
 謙虚な言葉であった。そして、「まだ」という言葉に、未来の建設に立ち向かう、気概と誇りが秘められていた。いや、未来の発展に対する自信と余裕さえ感じさせた。
 伸一は″中国は将来、必ず、大発展を遂げていくだろう″と確信した。
 現在、その国が、どんなに豊かであろうが、人びとに建設の気概がなければ、待っているのは衰退である。
 しかし、栄華に酔い痴れ、傲慢になってしまうと、それがわからなくなってしまうのだ。
 御聖訓には、中国の古典を踏まえて、「賢人は安きに居て危きを歎き佞人ねいじんは危きに居て安きを歎く」と仰せである。
 賢人は安全な所にいても危険に備え、邪な愚人は、危険な状態にあっても、それに気づかず、ただ安穏を願うというのである。
 栄枯盛衰は時流が決するのではない。人間の一念と行動が決するのだ。
14  友誼の道(14)
 山本伸一が宿舎の北京飯店に着くと、日本人記者団が待っており、インタビューを求められた。
 香港から広州、そして北京と、めまぐるしい行程の一日であった。時間も遅く、同行メンバーとしては、全力で行動し続ける伸一には、早く休んでもらいたかった。
 しかし、伸一は、快く丁寧に記者会見に応じた。
 彼は、日本と中国の未来のためにも、世界の平和のためにも、日中の友好がいかに大切かを、あらゆる機会を通して訴えたかったのである。
 ひとたび語り始めると力がわいた。信念への情熱は疲労をも焼き尽くし、新たな闘魂を燃え上がらせる。
 伸一たちが部屋に入って荷をほどき、さらに打ち合わせを終えた時には、北京時間の午前零時を回っていた。  
 朝の北京は、通勤、通学の自転車で埋め尽くされていた。そこには、民衆の躍動と活気がみなぎっている。
 三十一日午前、伸一たちは中日友好協会の金蘇城理事らの案内で、車で故宮博物院に向かった。明・清代の宮殿であった紫禁城(故宮)を博物館として公開しているのである。
 かつての紫禁城の城門が天安門であり、その前に広がる天安門広場と周辺の道路で、百万人が集えるという。
 一九四九年(昭和二十四年)の十月一日、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したのも、この門の上であった。
 故宮博物院の正門となっている午門で、一行は車を降りた。
 橋を渡り、「太和門」を抜け、「太和殿」の前に立った。この建物は中国最大の木造建築といわれ、皇帝の即位や誕生日の儀式など、重要な行事が行われたという。
 「太和殿」後方の「保和殿」後部の石段には、一枚の岩に、見事な竜が浮き彫りにされていた。「雲竜階石」という皇帝専用の階段であった。
 この岩は、北京の南西約五十キロにある房山(ファンシャン)で切り出されたもので、総重量は約二百五十トン、長さは十七メートル近くあり、幅も三メートル余りあるといわれる。
 これを故宮に運ぶために、冬場に水をまいて道路を凍らせ、その上に丸太を並べて滑らせたというのだ。
15  友誼の道(15)
 故宮は敷地約七十二万平方メートル、部屋数九千余といわれる。
 建造のために動員された人は、各地での採石や木材の伐採を含めると、優に百万人を超え、最初の完成までに十四年を要している。
 あらゆる建物が絢爛豪華であった。皇帝が、いかに強大な権力を誇っていたかが実感された。
 案内をしてくれた人が、遠くに見える建物の一つを指さして、山本伸一に言った。
 「あそこは、清の文宗の妃であった西太后の、食事を調理した場所です。毎日四百五十人が西太后の料理を作るために働いていました」
 伸一は尋ねた。
 「そんなに多くの人を使って、何を作らせて食べていたのでしょうか」
 「数え切れないほどの料理が用意されていましたが、箸をつけるのは、ほんの少しです。食べるというより、料理の匂いを味わっていたのです。
 彼女の一食分が、五千人の農民の一日分の食費といわれています」
 そこには、権力者の甚だしい驕りがある。
 伸一は、イギリスの歴史家アクトンの「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」との警句を思った。
 一方で、民衆は満足な食事もできず、飢えに苦しんでいたのだ。それでは、どんな力をもって押さえつけようとしても、革命が起こるのは必然であろう。
 その革命によって、紫禁城は今や人民に解放され、故宮博物院となったのである。
 「正義の思想は人民によって具現される」とは周恩来総理の鋭い洞察であった。
 その人民を見下して足蹴にし、栄耀栄華にふける権力者は、必ず滅び去る。それは歴史の鉄則といってよい。
 また、中国唐代の帝王学の書『貞観政要』には「国は人民を本とし」とある。これは万古不易の原理である。
 根本の人民を忘れれば国は崩壊する。
 創価学会の強さは、その人民を組織し、人民の連帯を広げ、一人ひとりの力を引き出してきたことにある。そして、それぞれが人間として自立し、社会建設の主体者となって正義を具現してきたのだ。
 そこに、周総理も着目し、深い信頼を寄せてくれていたのである。
16  友誼の道(16)
 山本伸一の一行は、午後には、北京市西城(シーチョン)区にある新華(シンファ)小学校や付属の幼稚園に案内された。
 伸一と峯子の胸は、躍っていた。中国の子どもたちがどんな表情で、何を見つめ、どんな日々を過ごしているのだろうと思うと、心が弾んでくるのである。
 子どもと接するということは、未来と接することだ。子どもを育てるということは、未来を育てるということだ。
 伸一は、訪中の最大の眼目を、教育交流においていた。
 万代の日中友好を願うならば、中国と日本の若き世代の交流の道を、広々と開く必要があると考えていたからである。
 一行の参観を、新華小学校の児童も教職員も、心から歓迎してくれた。
 校舎の一室で行われた教職員との交流の折、伸一は、真心こもる歓迎に感謝しながら、創価学会の歴史と教育への取り組みについて語った。
 「創価学会は、最初は創価教育学会といって、教師の集まりから出発しました。
 初代会長の牧口常三郎先生も、第二代会長の戸田城聖先生も教育者でした。
 初代会長は、教育の目的は児童が幸福な生活を送れるようにすることにあると叫ばれ、そのための創価教育学説を展開されました。
 しかし、民衆の幸福のために戦った初代、二代会長は、共に軍部政府の弾圧で投獄され、初代会長は獄死します。
 その初代会長の遺志を受け継いだのが、第二代会長であり、わが恩師・戸田先生であります」
 伸一は、創価学会の師弟を語る時、最も誇らかであった。
 新華小学校の関係者は、大きく相づちを打ちながら、伸一の話に耳を傾けていた。
 初代、二代の会長の戦いは、人類普遍の燦然たる正義の人道である。
 それゆえに、その歴史をありのままに語るならば、創価学会がいかなる理念と哲学の団体であるかを、世界のどの国でも、すぐに理解してもらうことができるのである。
 伸一は、あらためて歴代会長に心で感謝を捧げながら、言葉をついだ。
 「私は戸田先生から、牧口初代会長の教育思想・哲学を学び、その創価教育学説を実践する学校を創立いたしました」
17  友誼の道(17)
 山本伸一は続けた。
 「『創価』の名を冠した学校は、東京に中学と高校の男子校、大阪に中学と高校の女子校、そして東京に大学があります。
 これから小学校をつくる予定であり、現在、研究を進めております。
 したがって、今日は、皆さんの学校から、大いに学ばせていただきたいと思います」
 すると、教職員の代表が言った。
 「私どもこそ、わが校に参観に来ていただき、光栄です。山本先生一行のご来校は、教師にとっても、児童にとっても、大きな励ましです。
 また、中日の相互理解を深め、教育の未来を考えていくうえで、私たちにとっても、大事な機会になると思います」
 伸一は笑顔で訴えた。
 「私は、二十一世紀を思う時、最重要の課題は教育であると考えております。
 教育こそ、人間文化を向上させ、平和社会を建設していくうえで、極めて重要な役割を担っているからです。
 しかし、残念なことには、日本も世界も、教育は行き詰まっています。今日ほど、教育改革が必要とされている時はありません」
 伸一の話に、教員たちは眼を輝かせ、大きく頷いた。
 そして、教員の一人が、新華小学校の沿革や中国の教育方針などについて、情熱を込めて説明し始めた。
 「ここには、千人余りの児童が学んでおり、二十六学級があります。
 中国では、現在、小学校は六年制から五年制になっています。期間は、一年間、短縮されましたが、五年間で六年分の学習をしています」
 教員の話のなかで、伸一が強く共感したのは、「啓発主義」の教育をめざしているということであった。
 また、知育に偏ることなく、徳育、体育のバランスを保った育成に力を注いでいるという。
 さらに、社会性を身につけるために、高学年には「常識」という教科もあるというのである。
 中国では解放後、教育は、労働者、農民に広く普及し、発展の原動力となってきた。
 教員の声の響きには、自分たちがその重要な使命を担っているとの誇りがあった。この誇りと確信こそ、人間を育む、最も大きな力となる。
18  友誼の道(18)
 教員は語った。
 「私たちは、児童に、将来、何になりたいかという理想を描かせ、目標をもてるように指導しています。また、人民に奉仕することの大切さを自覚させることに力を注いでいます」
 さらに、教育を生産労働に結びつくものにするために、努力を払っていると説明し、力を込めて訴えた。
 「モノサシや秤を使えなくては、生活はできません。
 土地を測れない算数に、なんの意味があるでしょうか。トウモロコシとコーリャンの違いもわからない教育では、役に立ちません」
 伸一は何度も頷いた。
 「おっしゃる通りだと思います。皆さんのお話は、大変に参考になります。それが日本の教育にとっても必要なんです」
 伸一は、教育に情熱を燃やす教員たちの姿に触れて、中国の未来に大いなる希望を感じた。
 「未来は教師の手にある」とは文豪ユゴーの小説の一文である。
 それから伸一たちは、いくつかの教室を回り、授業を参観した。
 「ニーハオ!」
 伸一が、気さくに児童に語りかけると、「ニンハオ!」という元気な声がはね返ってくる。
 「全世界の人びとのために、しっかり勉強し、明るく、すくすくと育ってください」
 子どもたちは、はにかむような表情で、伸一の言葉に頷いていた。
 また、学校に、小さな象棋(中国将棋)の工場が併設されていた。
 ここでの労働を通し、子どもたちは労働の大切さを学び、学習した知識を労働生産に生かすのだという。その指導には、定年退職した技術者があたっていた。
 労働によって学習時間が不足し、学力の低下を招いてはならないが、大事な視点であろう。
 伸一は、喜々として生産作業に励む子どもたちを見て、顔をほころばせながら、つぶやいた。
 「牧口先生がいらっしゃったら、喜ばれるだろうな……」
 初代会長の牧口常三郎は、明治後期から、「半日学校制度」を提唱してきた。
 それは、半日は学校で学び、残りの時間は社会の生産活動に従事することによって、健全な心身の発達を図ろうという構想であった。
19  友誼の道(19)
 参観の後にも、教職員との懇談が行われた。
 山本伸一は、教師たちに次々と質問をぶつけていった。
 「家庭ではどういう教育をするように訴えていますか」
 「個人の個性の違いを伸ばすうえで、どのような教育啓発を行っていますか」
 「語学教育は、何歳ぐらいから行った方がよいと考えますか」
 伸一は、常に、あらゆる機会を通し、あらゆる人から、学んでいこうと心に決めていた。そう思うと、質問は際限なくわいてきた。
 質問は、向上心、向学心の表れといってよい。
 伸一の質問に、教員たちからは、自信にあふれた答えが返ってきた。
 彼は、こんな質問もぶつけてみた。
 「さきほど、政治教育、思想教育を行っているとのお話がございましたが、どのように行われているのでしょうか」
 「『政治』という教科もありますので、主に、そこで学習します。
 学年によって教え方は異なりますが、革命の伝統精神を学び、人民に奉仕する心を受け継ぐことに力を注いでいます。
 そのためには、雷鋒など、英雄的な人物から学ぶことも大事です」
 雷鋒は、貧しい農家に生まれ、幼くして父母を亡くしている。解放後、雷鋒は学校に通い、やがて人民解放軍に入る。
 彼は多くの善行を積み、模範兵士として周囲の信頼を勝ち得ていく。しかし、公務中に事故に遭い殉職するのである。二十二歳であった。
 思想といっても、それを体現する、模範の存在が必要である。
 人間の生き方によって、思想の正しさは証明されるのだ。
 伸一は重ねて尋ねた。
 「子どもたちが、客観的に自国の政治を見ていくために、どんな工夫をなさっていますか」
 「はい。時事問題などを通し、他国の政治についても学習しますし、以前の中国の政治との違いも学びます。
 さらに、教師が講義をするだけでなく、児童同士が討論し、思想を自分のものにするように努力しています」
 お仕着せの思想は、人間の心に深く定着することはない。子どもが主体的に判断できるようにすることに、教育の重要なポイントがある。
20  友誼の道(20)
 教育の道は遠路である。その成果が、本当に明らかになるのは、三十年後、五十年後であろう。
 教員たちは、自分たちの教育が、将来、見事に花開くという確信に満ちていた。
 ともあれ、中国は広大な土地に、八億(当時)もの人口をかかえた国である。その中国で、すべての人民の子弟に、等しく教育の機会が開かれたことは、壮大な偉業といってよい。
 教員たちには、それを可能にした新中国への、誇りが脈打っていた。
 山本伸一の一行は、応対してくれた教職員に、深い感謝の意を表して、新華小学校を後にした。
 続いて、午後五時過ぎには、中日友好協会を表敬訪問した。伸一は、今回の招待と真心こもる歓迎に、御礼と感謝の思いをあらためて伝えたかったのである。
 中日友好協会の廖承志会長は、この日も、満面の笑みで包み込むように、温かく一行を迎えてくれた。
 伸一は、丁重に昨晩の出迎えの礼を述べた。皆で記念のカメラに納まったあと、和やかな懇談となった。
 伸一が、四面楚歌のなかを戦ってきた創価学会の歴史を語ると、廖会長は愉快そうに語った。
 「四面楚歌の方がやりがいがありますよ。かえって力が出るものです」
 幾多の困難を乗り越えてきた、廖会長自身の体験に裏打ちされた、重みのある言葉であった。
 廖承志は、一九〇八年(明治四十一年)に東京で生まれた。その人生は、波瀾万丈であった。
 父は、孫文の片腕であった革命家・廖仲愷りょうちゅうがい、であり、母の何香凝も、父と同じく中国革命同盟会の活動家であった。
 夫妻は、孫文と共に日本に亡命したこともあった。孫文はよく廖家を訪問し、そこで会合も開いた。幼い廖承志を膝に乗せた写真もある。
 当時の日本にはアジアを蔑視する思い上がりがあった。廖承志も、こともあろうに、教師から「豚の子」と侮蔑されたことさえあった。
 だが、革命の息吹のなかで育った彼は、悔しさを改革のエネルギーへと転じていった。
 困難のない人生などない。逆風に負けずに飛び立っていってこそ、人生の飛翔があり、勝利の喜びと充実があるのだ。
21  友誼の道(21)
 廖承志は、やがて父母と共に中国に移る。
 彼が十六歳の夏のことである。広州で父親が暗殺された。母親の眼前で、政敵によって殺されたのだ。
 気丈な母は、自宅の門に毅然と横幕を掲げた。
 「精神不死」(肉体は殺せても、精神を殺すことはできない!)
 それは、あまりにも誇り高い、母の闘争宣言であった。
 婦人の強き一念こそ、目的を成就する難攻不落の要塞となる。
 廖承志は、この父母の革命精神を受け継いだ。
 彼は、弾圧を受け、七回も逮捕されている。
 長征の途中、スパイの容疑をかけられ、手枷をつけられたまま行軍させられた時もあった。
 また、文化大革命では彼にも理不尽な攻撃の矛先が向けられ、一九六七年(昭和四十二年)から四年間、軟禁された。
 この間、週に一度、夫人と会う以外は、誰とも会うことは許されなかった。心臓に持病があったが、診察も受けさせてもらえなかった。
 そのなかで彼を守ってくれたのが、周恩来総理であった。
 廖承志は記している。
 「私の最大の経験は、信念が堅ければ堅いほど敵には打つ手がないということである」
 試練のなかで鍛え抜かれた金剛の確信である。
 民衆の幸福のため、死闘を覚悟で生涯を捧げる山本伸一と廖承志の対話は弾んだ。信念と信念の美しき友誼の共鳴音が流れた。
 この懇談の席上、伸一は、教育と文化の交流のために、北京大学への五千冊の図書贈呈、中国の青年・学生の日本への招待を申し出た。
 その後、会場を北京飯店に移して、中日友好協会の主催で歓迎宴が行われた。
 廖承志会長夫妻をはじめ、張香山副会長、趙樸初副会長、孫平化秘書長、金蘇城理事、林麗韞りんれいうん理事らのほか、日中文化交流協会の西園寺公一夫妻、その子息で北京大学に学んだ新聞記者の西園寺一晃も出席した。
 あいさつに立った廖会長は、まず、創価学会代表団への、熱烈な歓迎の意を表明した。
 そして、中日人民の友好は、「いかなる力も阻むことのできない歴史の潮流である」と宣言するように語った。
22  友誼の道(22)
 廖承志会長は、一九六八年(昭和四十三年)の第十一回学生部総会で、山本伸一が行った、「日中国交正常化提言」に言及し、その内容を再確認するように語ると、強い語調で言った。
 「われわれは、中日関係の問題に対する山本先生のすぐれた先見の明と、積極的な態度を賞讃すると同時に、敬服しております」
 そして、さらに中日の友好関係を発展させたいと述べ、話を結んだ。
 それに応えて伸一は、真心の歓迎に謝意を表したあと、こう訴えた。
 「創価学会は、まだまだ小さく、未熟な存在かもしれませんが、真剣に平和と友好を保ちゆこうとする熱情だけは、ご了解いただきたいと思うのであります。
 また、諸先輩が築いた友好の″金の橋″を大切にしながら、さらに拡大し、子々孫々まで確かなものとするために、誠心誠意、生涯をかけて尽くしてまいる決心であります」
 やがて、食事を共にしながらの懇談となった。
 廖会長は、訪中団の一人ひとりに、中国に対する印象を尋ねていった。
 伸一の妻の峯子も、感想を求められた。
 彼女は、自分は、あくまでも、団を陰で世話をするための同行であると考え、努めて発言を控えてきた。
 ところが、中国側の人たちは、笑いながら「それは、ずるい」と抗議するのである。
 峯子は言った。
 「困りましたわ……。
 それでは、一言、率直に感想を語らせていただきます。
 日本では、共産主義は怖いと言われてきました。ですから、正直なところ、私は、貴国にも怖い国というイメージがありました」
 伸一は思わず峯子の顔を見た。何を言い出すのかと、驚いた。
 峯子はたじろぎもせず、微笑みを浮かべて言葉をついだ。
 「でも、お話をしてみると、愛情のあふれた、人間的なお国であることがよくわかりました」
 拍手が起こった。
 廖会長の声が響いた。
 「正直に本当のことを言われた。それでこそ、友人になれます!」
 峯子の発言で、心の距離は、ぐっと縮まった。
 真心をもって真実を語れ――そこから友情は深まるからだ。
23  友誼の道(23)
 語らいのなかで廖承志会長は、さりげない口調で、山本伸一に言った。
 「山本先生! 創価学会は、中国で布教してくださっても結構ですよ」
 伸一は、笑顔で、しかし、きっぱりと応じた。
 「その必要はありません。今、中国は、毛沢東思想の下で建設の道を歩んでいます。そのなかで人びとが幸せになっていけば、それは仏法にもかなったことになります。
 貴国の平和と繁栄が続けばよいのです」
 伸一は、中国で布教していくために訪中したのではない。
 訪中は、万代にわたる「友誼の道」を開くためであり、平和建設の信念に基づく、人間主義者としての行動であった。創価学会としてなんらかの″見返り″を求めてのことでは決してない――それを明確に言明しておきたかったのである。
 また、布教はしなくとも、信義の語らいを通して、中国の指導者たちが仏法で説く生命の尊厳や慈悲などの哲理に共感していけば、その考え方は、あらゆる面に反映されていくにちがいないと確信していたのだ。
 そもそも、「一念三千」も、「依正不二」も、中国で打ち立てられた法理である。
 翌日の六月一日は「児童節」(こどもの日)であった。
 伸一たちは、この「児童節」の催しに招待を受けていたのである。
 会場の北京市労働人民文化宮は、天安門の東側にあった。参加者は、合計五万人であるという。
 子どもたちは、各所で歌や踊り、手品、さまざまな展示や人形劇、ゲームなどを楽しんでおり、広い敷地は、歓声で沸き返っていた。
 歌や踊りの会場では、髪に黄色いリボンをつけた涼やかな目の少女が、伸一の手をとって、席に案内してくれた。
 彼女は、はにかみながら尋ねた。
 「おじさんは、どこから来たのですか」
 伸一は答えた。
 「日本から来ました。あなたに会うために来ました」
 少女は微笑んだ。
 彼は、相手が大人であろうと、子どもであろうと、一瞬一瞬の出会いを大切にし、友情を結ぶために全力で対話した。出会いを生かす誠実と努力と知恵によって、友誼の道は広々と開かれる。
24  友誼の道(24)
 山本伸一は、案内をしてくれた少女に尋ねた。
 「あなたは、将来、どんな仕事に就きたいと思いますか」
 少女は答えた。
 「人民が望むなら、どんな仕事でもします」
 伸一は感嘆した。
 人民に奉仕することの大切さを、徹底して教えているのであろう。
 人のために何をするか――人や社会への貢献の行動の大切さを教えてこそ、人間教育がなされるといえよう。
 この精神が子どもたちの共通の生き方として定着していくならば、他に類を見ない、すばらしい社会として発展を遂げていくにちがいないと、伸一は思った。
 彼は、少女と一緒にインスタントカメラに納まり、出来上がった写真を彼女に贈った。
 少女は、嬉しそうに、何度も「謝謝!」(ありがとう)と言って、顔をほころばせた。
 一行が会場を移動していると、「加油! 加油!」という掛け声と歓声が響いていた。
 見ると、三輪車競走が行われていた。「加油」とは、「頑張れ!」の意味であるという。
 伸一も「加油!」と一緒に叫んで応援した。
 三輪車競走の表彰式になった。
 伸一の近くにいた子どもが、おどけて、指で″カメラ″の形をつくり、ファインダーを覗いて、シャッターを押すしぐさをした。
 その姿に、笑いが渦巻いた。伸一は、同行していた聖教新聞のカメラマンに、インスタントカメラで、この少年のしぐさを撮ってもらった。
 「君の決定的瞬間を写真に撮ったからね」
 伸一の言葉を通訳が少年に伝えていると、子どもたちが集まってきた。そして、インスタントカメラの映像が浮かび上がるのを、まだかまだか、と待っていた。
 写真ができた。大歓声があがった。
 伸一は言った。
 「では、この写真の贈呈式を行います」
 そして、「日中友好のために、記念に差し上げます」と言って、少年に差し出した。
 少年は、それを恭しく受け取った。
 「ありがとうございます。私たちも中日友好のために努力いたします」
 少年の澄んだ声が響くと、拍手が起こり、明るい笑いがこだました。
25  友誼の道(25)
 山本伸一は、かつて魯迅が、上海の子どもたちについて記した一文を思い起こした。
 「一歩大通りへ出てみると、眼中に映じて来るのは胸を張って元気よく遊んだり歩いたりしている外国の子供ばかりであって、中国の児童は殆ど見られない。
 しかし決していないわけではない。ただ服装が見すぼらしく、しょんぼりして、外の者に圧されて影法師のようで、目に立たぬだけである」
 そして、この少年の姿は、とりもなおさず中国の「将来の運命」であると警告を発している。
 しかし、今、その中国の子どもたちは、元気はつらつとしていた。どの顔も、希望に輝いているように見えた。
 新中国の成立から二十数年にして、教育は普及し、子どもたちは大切にされ、伸び伸びと育っている。
 そして、衣食住は保障され、革命前と比べて生活は確かに向上したというのが、人びとの実感であるようだ。
 民衆の実感こそが、政治を支える基盤であり、民衆と遊離した政治は、支持を失うことになる。
 伸一は、出会った子どもたちの希望と幸福の未来を、強く祈った。   
 午後三時からは、宿舎の北京飯店で、中日友好協会の代表と座談会が行われた。
 これには、協会の副会長の張香山をはじめ、秘書長の孫平化、理事の林麗韞りんれいうん、金蘇城、通訳として黄世明らが参加した。
 座談会は、この日が三時間、さらに、三日午前も三時間にわたって行われ、話題は、世界情勢の分析、両国間の諸問題や戦争の本質、平和への課題など、多岐に及んだ。
 その複雑な問題に対して、率直に意見をぶつけ合う、有意義な語らいとなった。
 中国側のメンバーは、世界の情勢を「天下大動乱」という観点でとらえていた。
 伸一も、世界は激動期に入ったと認識しており、基本的な見解は図らずも一致した。
 そして、世界戦争の危険性があり、それを避けるために、平和への最大の努力を払わねばならないという点も、同じ意見であった。
 その危険性の根本要因を、中国側は、米ソの二超大国の対立にあると考えていた。
26  友誼の道(26)
 山本伸一は、戦争の根本原因として、人間自身の生命に目を向ける必要があることを主張した。
 人間生命の内奥に潜むエゴ、傲慢、権力の魔性、さらに、そこから生ずる相互不信や互いの脅威にこそ、戦争のより本質的な要因があると訴えていったのである。
 また、中国側は、日本に軍国主義が復活することを強く警戒していた。
 伸一たちは、ファシズムの台頭をもたらす温床として、民衆の精神的な空虚感と無気力があることを指摘した。
 民衆を賢明にし、民衆を強くする。それが、創価学会の運動である。また、そこに、本当の民主の実現がある。
 伸一が、最も憂慮し、中国の意見を聞きたかった問題は、中ソ対立であった。中ソ国境では、一触即発の緊張がみなぎっていたのである。
 中国とソ連は、共にマルクス・レーニン主義を掲げ、社会主義の国家を築き上げてきた。
 資本主義陣営と社会主義陣営の対立構造が、二つの国を、より強固な絆で結びつけ、国際社会の諸問題にも、同盟して取り組んできた。
 しかし、一九五六年(昭和三十一年)を境に、中ソは、やがて対立していくことになる。
 この年二月、ソ連共産党の第二十回大会で、フルシチョフ第一書記が、資本主義との平和的共存という新路線を発表したのだ。
 さらに、三年前に他界した書記長のスターリンを批判し、その独裁や粛清を弾劾したのである。
 ソ連のみならず、世界の共産党の指導者として君臨し、権力を振るってきたスターリンが否定されるとともに、社会主義としての路線の転換が図られたのだ。このフルシチョフ発言に、社会主義諸国は揺れた。
 当時、″アメリカ帝国主義との対決″などを打ち出していた中国は、フルシチョフの急激な路線変更に不信感を強め、異を唱えた。中ソ間に亀裂が走った。
 一九六〇年(同三十五年)四月には、中国は理論誌『紅旗』でソ連の路線を批判。ソ連側も反論を展開した。
 中国はフルシチョフらソ連指導部を「修正主義」と言い、ソ連は毛沢東ら中国指導部を「教条主義」と応酬。両国の論争は激しさを増していったのである。
27  友誼の道(27)
 一九六〇年(昭和三十五年)七月、ソ連は、中国に派遣していた千人を超える技術者の引き揚げや、物資などの供給停止を決めた。
 これによって、ソ連の援助に依存していた中国の経済政策は、根底から揺るがされることになったのである。
 中国は、六四年(同三十九年)十月、核実験に成功する。
 さらに、六六年(同四十一年)には、文化大革命が始まる。
 するとソ連は、″文革″こそ毛沢東思想の誤りであるとして、猛烈な批判を開始したのだ。
 六八年(同四十三年)八月には、チェコ事件が起こる。
 政治体制の民主化を求めた、社会主義国のチェコスロバキアに、ソ連などの社会主義国が軍事介入して鎮圧したのだ。
 中国はソ連に脅威を感じた。中国にも、いつ侵攻してくるかわからぬという危機感をいだいた。
 翌年三月、中ソ国境を流れるウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)の領有をめぐって、ソ連と中国の国境警備隊の間で武力衝突が起こった。
 さらに、七月にも国境の黒竜江(アムール川)にある八岔島(ゴルジンスキー島)で、中ソの軍事衝突が発生した。
 中国側は、強い脅威をいだき、緊張はますます高まっていった。
 北京市内では、地下壕が建設され始めた。
 その一方で中国は、これまで帝国主義と批判していたアメリカとの関係改善に取り組み、ソ連の軍事的脅威に対抗しようとする。
 七一年(同四十六年)には、中国が国連に復帰し、その翌年に日中の国交が正常化するが、ソ連との関係は悪化の一途をたどっていた。
 中国はソ連を「社会帝国主義」と言い、最大の敵としていたのである。
 山本伸一は、核を保有する中ソが戦争となることを、最も恐れていた。この事態だけは、絶対に阻止しなければならないと考えていた。
 そのために、生命をかけることも辞さない決意であった。
 彼は、対話の可能性を信じていた。仏法者としての信念のうえから、人間を信じていたからだ。
 対話をもって人間の良心を引き出すことによって、戦争は必ず避けることができるというのが、彼の確信であった。
28  友誼の道(28)
 山本伸一が中国を訪問する直前の一九七四年(昭和四十九年)三月にも、中国は領内に侵入したソ連のヘリコプターの乗組員を逮捕し、スパイ行為であるとソ連に抗議していた。
 中ソ対立は、いつ戦争の火の手をあげてもおかしくない、危機的な状況を呈していたのだ。
 「気取らずに行動しなさい。人間として人間たちに話しかけなさい」とは、フランスの歴史家ミシュレの箴言である。
 伸一は、張香山副会長に、率直に尋ねた。
 「私は戦争で長兄を失い、家も焼かれました。戦争は絶対に反対だというのが、私の信念です。
 ところで、中国は他国を攻めることはありませんか」
 「中国の歴史は、他国による侵略と圧迫の歴史でした。私たちは、独立の尊さと、侵略の悲惨さを身に染みて感じております。
 したがって、中国が他国を侵略することは、絶対にありません」
 張副会長は断言した。
 伸一は、この回答の意味は大きいと感じた。
 中国側は、この秋に、伸一がソ連を訪問することも知っている。その言葉は、伸一に託したソ連へのメッセージであったのかもしれない。
 しかし、伸一は、政治的な思惑や意図などを探ろうとは思わなかった。彼は、張副会長の発言を、そのまま受け入れ、深く心にとどめた。
 ともかく、中国は侵略の意思がないことを言明したのだ。それならば、中ソの戦争の回避は、決して不可能ではない。
 伸一は、その言葉に喜びを覚えた。彼は、人間外交を信条とした率直な対話の、一つの実りを感じていた。 
 二回にわたる中日友好協会の代表との座談会では、当然のことながら、核兵器の問題も話題にのぼった。
 一九六四年(昭和三十九年)に核実験に成功した中国は、米・ソ・英・仏に次ぐ、世界で五番目の核保有国である。
 伸一は、仏法者として、生命至上、人間至上の価値観を力説し、核兵器の廃絶をめざし、いっさいの核実験、核製造、核保有に反対であることを強く主張した。それが戸田城聖の、伸一をはじめとする青年たちへの遺訓であった。
29  友誼の道(29)
 世界の核開発競争は、ますます過熱化しようとしていた。
 この一九七四年(昭和四十九年)の五月には、インドが地下核実験に成功し、パキスタンも核開発中と伝えられていた。
 核兵器の拡散は進む一方であった。
 また、米ソの核能力は年々増大し、地球そのものが火薬庫化しつつあったのである。
 それだけに山本伸一は、核廃絶への流れを断じてつくらなければならないと必死であった。総会での講演などでも、機会あるごとに、それを訴えてきたのだ。
 その伸一の叫びに呼応し、青年部の有志が立ち上がり、核兵器廃絶への一千万署名運動の展開や被爆体験集の出版などを通して、反核への大きな流れが起ころうとしていたのである。
 伸一は、張香山副会長らに、核兵器の廃絶は、人類の未来のために絶対に成し遂げねばならないと力説した。
 自国を守るために、核武装という手段を選択した中国にとって、伸一の主張は、厳しい問題提起であったかもしれない。
 しかし、中国側は、核兵器の全面廃止と完全廃棄が、中国の立場であることを明確に語ったのである。
 そして、核軍縮の道として、核保有国が互いに核兵器の不使用の協定を結び、他国の領域内に設けられた核基地の撤去と、貯蔵してある核兵器の撤去を主張したのだ。
 張副会長は言った。
 「核兵器は、着ることもできなければ、食べることもできません」
 伸一は、この言葉に、核兵器に対する中国の本音を聞いた思いがした。
 しかし、中国は核実験を続けている。
 そのことを尋ねると、張副会長は答えた。
 「米ソは巨大な核兵器をもち、軍縮を主張しながら、実際には拡大の方向に進んでいます。その現実認識に立つ時、中国は核実験を行い、核を保有せざるをえません」
 伸一は、それでも勇気をもって、まず中国から核を廃棄し、全廃の叫びを強めていくべきであると訴えた。
 いくら核兵器の全廃を主張しても、自ら核に執着していたのでは説得力に欠けるし、核全廃への流れをつくる力とはなりえないからだ。
 時代を変えるために、伸一は決断を求めた。
30  友誼の道(30)
 中国側を代表して、張香山副会長が、誓約するように語った。
 「核実験は行っても、いかなる場合も、中国が最初に核兵器を使用することは絶対にありません。核は、あくまでも防衛的なものです」
 核兵器に対する考え方では、創価学会側と中国側とは、意見が異なる部分があった。
 しかし、「核保有、非保有にかかわらず、すべての国が平等の立場で、一堂に会して、核兵器全廃のための会議を開く」との意見に対しては、完全な同意を得た。
 また、この座談会では、山本伸一がかねてより、小説『人間革命』などで主張してきた、日中平和友好条約の締結もテーマとなった。
 伸一は、条約の締結とともに、日中の真実の友好のためには、民衆と民衆の交流こそが、最も大切であることを訴えた。
 平和友好条約といっても、それを支えるものは民衆であるからだ。
 条約という″かたち″に、内実をもたらすものは人間である。人間の心である。
 民衆相互の信頼と友情が芽生えてこそ、平和と友好を永続化していくことができる。
 「人間に関わるあらゆることの上に友情を置くべきだ」とは、古代ローマの哲学者キケロの至言である。
 中日友好協会の代表との語らいは白熱した。
 宗教否定のマルクス・レーニン主義を基調とする中国と、日蓮仏法を基調とした創価学会との対話である。同行メンバーの多くは、意見が一致することは、ほとんどないのではないかと考えていたようだ。
 しかし、二回にわたる語らいは、「ファシズムに反対する」「日中平和友好条約の締結」「核兵器の廃絶をめざす」など、実に多くの点で意見の一致をみたのである。
 本当に民衆のことを考え、平和を求め抜く誠実な心と心は、社会体制の壁を超え、共鳴の和音を奏でるものだ。
 社会の制度やイデオロギーは異なっていようが、そこにいるのは同じ人間であるからだ。平和を求め、共に、人民の繁栄を願う心が通じぬわけがない。
 同行の青年たちは、伸一から常々学んできた、「対話」による平和建設への確信を、さらに深めていった。
31  友誼の道(31)
 訪中四日目の六月二日、山本伸一は、北京市西城区の、半導体を使って精密機械を作っている工場に案内された。
 従業員は三百五十人ほどで、その中心は主婦である。
 解放前の中国では、女性は陰に追いやられてきた。しかし、解放後は、「女性は天の半分を支える」との考えのもと、男女の平等が徹底され、女性の社会的地位の向上が急速に進んできたのだ。
 工場の責任者によれば、この工場は、かつては″天秤″を作る町工場であったが、女性従業員たちの涙ぐましいまでの努力によって、工場は生まれ変わっていったというのである。
 一九六五年(昭和四十年)、この工場でトランジスタを作ることになった時、従業員のなかから選ばれた十人の婦人らが清華大学に送られた。
 しかし、そのメンバーは、ほとんど文字を読むことができなかった。だが、″私たちの中国を発展させたい″という思いは、人一倍強かった。
 大学で研修を受けていたある日、半導体を作る工程で使われる「拡散炉」の設計図を見るように言われた。
 彼女たちが青写真を広げて見ていると、周囲からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
 「何がおかしいの」
 尋ねると、逆さまであるというのである。
 最初は、何もわからなかった。でも、必死であった。
 決してひるまず、難しい内容もどんどん吸収していった。時に頭が痛くなることもあったが、鎮痛剤を飲みながら研修を受けた。
 一年後、婦人たちは、最初の「拡散炉」を完成させたのである。
 「よい習俗をたもっていた民族はすべて女性を尊敬していた」とは、フランスの思想家ルソーの分析である。
 国も、団体も、女性が存分に力を発揮できるところには大発展がある。
 この説明を聞いたあと、伸一たちは、工場内を見学した。
 清華大学に行ったという十人の婦人の一人を紹介された。伸一はインスタントカメラで記念撮影し、すぐにできた写真を贈呈した。
 「皆さんの苦闘に感動いたしました。その壮挙と努力を、私は永遠に讃えてまいります」
 婦人の顔が光った。
32  友誼の道(32)
 この日の午後、山本伸一の一行は、北京市郊外の人民公社を訪問した。
 人民公社は、生産部門と行政部門が一体化した、中国独自の農村の機構であった。
 この人民公社は、一万六千ヘクタールの敷地に一万八百ヘクタールの耕地があり、一万七千世帯、八万人の人びとがいるとのことであった。
 以前は、ここはアルカリ性の土地で、生産高も低く、窪地のため、水害にもたびたび見舞われ、人民の生活は苦しかった。
 しかし、中華人民共和国が成立(一九四九年)し、土地改革も断行され、人民公社がつくられると、生産高は次第に向上してきたという。
 説明によれば、一九七三年(昭和四十八年)には、一ヘクタール当たり五千二百キログラムの水稲生産があり、これは、解放前の七百五十キログラムの実に七倍とのことであった。
 さらに、養豚、果樹栽培などにも力を注ぎ、多角的な農業経営に挑戦していた。
 また、小学校や中学校の建設など、教育面での環境整備も大きく前進したという。解放前は大部分の人が学校に通えず、非識字者であったが、今は、子どもたちは皆、教育を受け、学力の向上が図られてきた。
 「大きな実績ですね」
 伸一は、感嘆した。
 案内してくれた人民公社の人が言った。
 「生産高の面では、今年はもっといいと思います。しかし、まだまだ遅れた面があります。もっと発展しなければなりません」
 伸一は尋ねた。
 「毎年、生産高の目標は、明確になっているんですか」
 「はい、そうです。目標に向かって人民が心を合わせ、懸命に努力することによって、さまざまな面で発展できたのだと思います」
 「鋭い分析ですね。理想を描き、その実現に向かって具体的な目標を設定し、みんなが心を一つにして進んでいけば力が出ます。目標のないところに前進はありません。
 そして、何よりも大事なことは、みんなのやる気を、どう引き出していくかですね」
 組織といっても根本は人間である。一人ひとりの意欲こそが一切の原動力である。それを忘れた時に、すべては行き詰まってしまう。
33  友誼の道(33)
 山本伸一は、人民公社では病院も視察した。
 また、人びとの暮らしを知るために家庭訪問を希望し、その家族とも懇談した。国と国との友好といっても、民衆と民衆の心が結ばれなければ、結局は、砂上の楼閣となってしまうからだ。
 ゆえに伸一は、人民との交流に、最大のエネルギーを注いだのである。
 六月三日、中日友好協会の代表と二回目の座談会を終えた伸一たちは、午後から、北京市第三十五中学校を視察した。
 校門を入ると、黒板に大書された、「熱烈歓迎 日本朋友」の文字が目に飛び込んできた。
 一行は教室で授業を参観した。伸一も峯子も、生徒の隣に座って、授業に耳を傾けた。
 授業の合間に、生徒たちは歌や踊り、ピアノやアコーディオン、胡弓の演奏を披露してくれた。
 卓球部の練習場をのぞいた伸一は、練習をしている生徒たちに言った。
 「よかったら、試合をしましょう」
 通訳が伝えると、皆、ニッコリと頷いた。
 伸一と対戦することになったのは、中学三年生の女子生徒であった。
 伸一は、少年時代から卓球に親しんできた。どちらかといえば得意なスポーツであった。
 だが、試合が始まると、たちまち点を取られた。この生徒は、動作も敏捷で、打ち込む球は驚くほど速かった。
 途中で同行のメンバーが、日本から持ってきた使い慣れた伸一のラケットを渡してくれた。
 劣勢をはね返そうと奮闘したが、伸一は惜敗してしまった。
 「強いね! 見事です」
 彼は、こう言って、握手を交わした。生徒の笑顔が光った。
 伸一は、お礼に自分のラケットを贈り、勝利を祝福した。
 帰りがけに、さっきの生徒が駆け寄ってきた。
 そして、真新しいラケットを差し出した。
 「私たちから、プレゼントしたいのです。これは、中国の選手が国際試合で使うラケットです」
 箱には中国語で「中日友好万歳。日本の友人に贈る」と書かれていた。
 「ありがとう。尊い真心に感謝します。必ず将来、日本に来てください」
 若い世代の胸にも、友情の種子は植えられた。
 伸一は、未来を思い、懸命に対話に努めた。すべては対話から始まる。
34  友誼の道(34)
 図工の教室には、生徒たちのさまざまな作品が展示されていた。
 その見事な出来栄えに、山本伸一は賞讃の声をあげた。
 「上手だね。すばらしい。日本の子どもたちに見せたいです」
 通訳が伝えると、教師や生徒が口々に答えた。
 「どうぞ、お持ち帰りください」
 「私たちからの、日本の友達への贈り物です」
 たくさんの絵などの作品が一行に贈られた。
 「ありがとう。最高の友情の宝です」
 伸一が言うと、屈託のない笑みを浮かべて生徒が語った。
 「この絵を見れば、日本の生徒は、きっと中国が好きになりますよ」
 伸一は御礼に、語学の勉強の役に立つようにと、テープレコーダーを学校に贈った。
 校庭に出た時である。地下深く穴を掘り、土木作業に励む生徒たちの姿があった。
 「ソ連の攻撃を受けた時に、避難するための壕です。授業もできるように地下教室をつくっているんです」
 案内者の言葉に、伸一は愕然とした。思わず、峯子と顔を見合わせた。
 戦争の影は、子どもたちの学校生活にまで及んでいるのだ。
 いつ攻めて来るかわからない――という恐れをいだきながら、生徒たちは、黙々と作業に励んでいるのであろう。いじらしくもあり、痛ましくもあった。
 伸一は、胸が締めつけられる思いがした。
 彼は、戦時中、空襲に備え、街のあちこちで防空壕を掘っていた日のことが思い出された。
 それは、三十年も昔の追憶だが、これは、今の隣国の「現実」なのだ。
 伸一は、その光景を眼に焼き付けるように、じっと眺め、自分に強く言い聞かせた。
 ″この事実を、必ずソ連の指導者に伝え、平和のための道を歩むように訴え抜くのだ。中ソの争いは、生命を投げ出しても、絶対にやめさせなければならない!″
 それは、不可能でも成し遂げねばならぬ、彼の最大の課題となった。
 「多分、私は、声を大にして叫べば、あらゆる問題のうち最大のもの――人々の間の善意と地球上の平和を助長することが、出来るでしょう」
 これはアインシュタイン博士の決意である。
35  友誼の道(35)
 湖に沿って茂る、緑の木々がまばゆかった。
 青い空に、綿のような雲が浮かんでいた。
 四日午前、山本伸一の一行は、北京市郊外の頤和園に招かれた。
 頤和園は、清朝の西太后の離宮として知られる大庭園である。
 万寿山と呼ばれる小高い丘には、楼閣が立ち、長い回廊が巡らされていた。その下に広がるのが昆明湖である。
 頤和園の入り口に、杖を手にした、銀髪の気品ある老紳士が待っていてくれた。中日友好協会の趙樸初副会長であった。
 趙樸初は、中国仏教協会の副会長でもあり、当時、仏教協会の責任を担っていた。
 伸一は、趙副会長とは北京に到着した折や歓迎宴で会ってはいたが、ゆっくり対話する機会はなかった。
 趙副会長は、微笑をたたえながら、穏やかな口調で言った。
 「山本先生のご高名については、かねてから伺っております。お話しできるのを楽しみにしておりました」
 伸一たちは、趙副会長の案内で、回廊を歩き、さらに、船に乗って昆明湖を遊覧した。
 伸一と趙副会長の話は弾み、湖上の船で、万寿山のふもとの食堂で、仏法をめぐっての語らいが進んだ。
 趙樸初の師は、天台宗の僧侶であるという。
 彼は日中戦争の時代、人民の救済に苦闘した体験を語り始めた。
 「道端で、飢えと寒さ、病気などで多くの人びとが死んでいきました。大部分が赤子であり、農民でした。皆、貧しい人たちでした。
 しかし、そうした姿を見ても、戦時下の古い社会では、救う手立てはありませんでした」
 仏教界も腐敗堕落し、むしろ、人民大衆を苦しめる存在に堕していた。
 彼は、ひときわ強い口調で訴えた。
 「本来、仏教の精神は人民に奉仕することにあるはずです。人民が苦しんでいる。しかし、何もしない。そんなことが許されるでしょうか!」
 伸一の目が光った。間髪を入れずに答えた。
 「おっしゃる通りです。
 人民のため、社会のために身を挺して戦う――それが菩薩であり、仏です。仏法者の在り方です。その行動のない仏教は、まやかしです」
 力強い声であった。
36  友誼の道(36)
 釈尊は、生老病死の四苦から、人間を解放するために立ち上がった。
 苦悩からの根本的な解放を説いているのが、仏法である。その実践の根幹をなす精神は、趙樸初副会長の言葉を借りるなら、「人民への奉仕」といってよい。
 日蓮大聖人は、苦悩する人びとを救済し、幸福の道を開こうと、大難を覚悟で立正安国の戦いを起こされた。
 仏法という慈悲の哲理を、さらに生命尊厳の思想を根底にした、平和社会の建設を叫ばれたのである。
 仏法者の使命は、広宣流布という宗教改革に始まり、立正安国という社会の建設に至るのだ。
 「政治は宗教の説く真理の道に従って進むべきであり、一方、政治を忌み嫌う宗教は、宗教の名にさえ値しないものです」とは、マハトマ・ガンジーの叫びである。
 仏教の精神について、趙樸初と山本伸一の意見は完全に一致し、意気投合した。
 伸一は、創価学会が、軍部政府の弾圧と戦い抜いてきたことを述べ、社会と民衆に奉仕していく真の宗教のあり方を語っていった。
 また、趙副会長が毎日、法華経を一巻ずつ読んでいるとの話から、対話は法華経や天台三大部にも及んでいった。
 打てば響くような語らいであった。
 伸一が「色心」と言うと、すぐに、「不二」と返ってくる。
 趙樸初が、「華厳経普賢行願品」について語ると、伸一は応じた。
 「″普″は″遍く″、つまり社会ということであり、″賢″は信念の哲学をもった人ととらえることもできます。
 そして、″行″は実践であり、″願″は人民大衆の幸福を願うということに通じるのではないでしょうか」
 「おお、すばらしい解釈です」
 仏法を現実に即して語る″人間仏法″の展開に、趙副会長はしきりに頷き、目を輝かせていた。
 別れ際に彼は言った。
 「山本先生が仏教の研究だけでなく、中日の友好のために努力されていることに感謝します」
 「私こそ、歓待に深く感謝いたします。また、お会いして、仏法について語り合いましょう」
 趙樸初と伸一は、この後も何度も会い、友誼を重ねていくのである。
37  友誼の道(37)
 「教育が進歩しなければ社会もまた進歩し得ない」
 アメリカの哲学者デューイが、北京大学で行った講演の言葉である。
 教育こそ、社会の発展の根本である。大学を見れば、その国、その社会の未来がわかる。
 頤和園を後にした山本伸一は、中国の次代を担う若者たちとの出会いに胸を躍らせながら、北京大学に向かった。
 北京大学は中国で最も伝統ある大学の一つで、新中国誕生後、それまでの北京大学、清華大学、燕京大学を再編し、新出発している。
 頤和園の東三キロほどのところに、北京大学はあった。伝統様式の朱色の門をくぐると、緑豊かなキャンパスが広がっていた。
 一行を、副学長や教師、学生代表が、さわやかな笑顔で出迎えてくれた。
 伸一たちは、かつて燕京大学の時代に学長の住居として使われていた「臨湖軒」という建物に案内され、懇談した。
 ここで伸一は、日中の文化交流と相互理解を図るために、日本語書籍など図書五千冊を北京大学に寄贈したいと述べ、その目録を副学長に手渡した。
 中国の青年たちが日本を知り、日本について学ぶ糧になることを願っての贈呈であった。
 さらに、創価大学の記念メダルや、創大生が中国映画を観賞した感想文などを贈った。
 伸一は、創立者として、創価大学とこの北京大学が、日中友好の未来への懸け橋となることを念願していた。
 副学長からは、「北京大学学報」、写真集『中国工芸美術』などが返礼として贈られた。
 伸一は言った。
 「この写真集に、今回の記念に、諸先生方から何かモットーなり、お言葉をお書きいただけないでしょうか」
 彼は、どうすれば一つ一つの事柄に深い意義を刻み、より強く心と心を結ぶことができるかを、常に考え続けていた。
 一冊の本、一枚の色紙に記された言葉が、後世の大切な宝となることもある。伸一は、はるかな未来を見つめながら、一瞬一瞬、手を打っていったのだ。
 伸一の提案を受けて、十人の教師と学生代表が署名し、「中日両国人民の友情が永遠に!」などの言葉が認められた。
38  友誼の道(38)
 山本伸一の一行は、北京大学の概要や教育方針などについて説明を受けたあと、体育館や図書館をはじめ、大学の各施設を見学した。
 当時の北京大学には、二十学部と七つの専攻科のほかに、学校が経営する七つの工場があった。
 工場は学生、教師、労働者による「自力更生」をスローガンとして、建設されたという。
 「生物化学製薬職場」では、実際に市販されている薬剤が製造されていた。学生たちは、学ぶとともに、現実に社会的責任を負っているのだ。
 学問と勤労とを連動させ、現実の生産に寄与させようとの試みである。
 また、学生が工場で労働に携わるのは、大学に学んだ青年が、大衆から遊離し、″精神的貴族″のようにならないための教育でもあった。
 そこに、伸一は、中国の教育革命の基本精神を見る思いがした。
 大学教育の在り方は、その国の状況や時代によって異なろう。この大学内工場も過渡的なものかもしれない。
 大切なことは、本来、大学は民衆を守るためのものであり、民衆に奉仕し、貢献するために大学で学ぶという原点を常に確認していくことではないだろうか。
 リーダーやエリートが″民衆に、直結していこう″″民衆に、奉仕していこう″という心を忘れ、人びとの上に君臨するようになれば、それは本末転倒である。
 伸一は、日本語科の学生とも親しく会話した。皆、驚くほど流暢な日本語であった。
 日本語を学んでどのぐらいになるのかを尋ねた。皆、まだ二、三年であるという。
 さらに、女子学生の一人に、なぜ日本語を学ぶのかを聞いてみた。
 瞳を輝かせながら、彼女は答えた。
 「中日友好の力となって、両国の繁栄のために尽くしたいからです」
 大きな理想をいだき、情熱をたぎらせ、日々、懸命に勉強に励んでいるのであろう。
 伸一は、さわやかな、青年の気概を感じた。
 一行は、その学生たちと、卓球の友好試合も行った。
 達者な日本語で話しかけてくる学生たちと試合をしていると、伸一は、日本で創価大学の学生と卓球に興じているように思えるのであった。
39  友誼の道(39)
 山本伸一の一行は、大学構内を見学したあと、再び、「臨湖軒」に戻って、教員らと懇談した。
 北京大学は、新生中国の未来を担う大学として、世界の注目を集めていた。
 伸一は、率直に幾つかの質問をぶつけてみた。
 「核の研究についてどう考えるか」「外国人留学生の受け入れについて」「中国の受験制度をどう考えるか」「教授・学生の国際交流の必要性を感じているか」などであった。
 伸一は、真摯な思いで、こう語った。
 「皆さんと共に新しい時代を築きたい。未来に横たわるすべての問題を、力を合わせて一緒に乗り越えていきたい――それが私の願いです。だから大いに意見を戦わせ合いましょう」
 副学長をはじめ、大学関係者は、その伸一の心に応えるかのように、率直に、真剣に意見を述べてくれた。
 互いに、人類の未来を開こうとする熱い思いを感じ合う、充実した意見交換となった。
 情熱は情熱を引き出し、真心は真心を引き出す。その生命の共感の調べこそが対話なのだ。
 この日の出会いから、北京大学と創価大学の交流が始まったといってよい。
 後に、両大学は交流協定を結び、多くの教員や学生が行き来することになる。それは、創立者自らが架けた、教育交流の金の橋であった。
 未来は、青年の腕にある。青年の進む道を切り開くことは、未来を開拓することである。
 伸一の北京大学での講演も三度に及んでいる。
 また、中国で初めて、伸一に名誉教授の称号を贈ったのは、北京大学であった。  
 翌五日の午前、伸一たちは、車で北京の北西に向かっていた。
 道の両側に茂る、並木の緑が美しかった。やがて、田畑が広がり、峨々たる山が迫ってきた。
 その雄大な峰を縫うように走る、石とレンガを積んだ城壁が見えた。万里の長城である。
 長城のある軍都山(チュントゥーシャン)の主峰・八達嶺(パーターリン)に到着した時には、既に昼近くになっていた。
 伸一たちは、中日友好協会の金蘇城理事らの案内で長城を歩いた。
40  友誼の道(40)
 万里の長城の上は、幅四、五メートルほどの歩道になっていた。
 かなり急勾配のところもあった。山本伸一が上るのに難儀していると、同行してくれている中日友好協会の青年が、後ろから支えるようにして伸一を押してくれた。
 「ありがとう。でも、『自力更生』で行きますから」
 「自力更生」は中国の行動指針である。伸一の言葉に、金蘇城理事の笑みがこぼれた。
 しばらく上ると、眺望が開け、彼方に永定河(ヨンチンホー)の流れが光っていた。
 晴れ渡った空の下、どこまでも続く長城は、鮮やかな緑の中をうねる巨大な龍を思わせた。
 伸一は、金理事と談笑した。
 「私は小さい時から、ここに立つことが夢でした。今日は歴史的な日になりました。
 私の師匠である戸田城聖先生は、生前、よく私に、いつか二人で中国に行き、万里の長城に立ってみたいなと言われました。
 今日は、先生と一緒に立っている心境です。
 戸田先生は、『人材の城をもって、民衆の幸福を築くのだ』と、よく話されておりました。
 国家といっても、団体といっても、結局は人間によって決まります。
 信念の人、英知の人、勇気の人、誠実の人など、どれだけ人材を育て、そして団結していくかによって、すべてが決定づけられてしまいます。
 だから、私は二十一世紀のために、教育に全精魂を注いでいます」
 詩人タゴールは叫ぶ。
 「国は人間が創造したものです。国は土からできているのではなく、人々の心でできています。もし人間が輝いていれば、国は顕現されます」
 その人間を輝かせるのが、学会の運動である。
 金理事は、伸一の話に頷きながら言った。
 「私も、山本先生の意見に賛同いたします。人間の力こそすべてです。そして、人間が力を出すには勇気が必要です。
 『奴隷になりたくないものは立ち上がれ、人民は哲学思想の長城たれ』というのが、私たちの指針です。
 勇気をもって立ち上がり、確固とした哲学をもつ、人民の″心の長城″が一番強いと思います。精神の長城は無敵です」
41  友誼の道(41)
 山本伸一は、頬を紅潮させて語った。
 「金先生! おっしゃる通りだと思います。
 最も強いのは人間の心です。その心から、無限の智慧も、創意工夫も生まれます。
 したがって、心が敗れなければ、どんな窮地に立たされても、絶対に負けることはありません。
 人生でも、社会を改革する戦いでも、敗れる前に、まず心の敗北があります。
 怠惰、臆病、油断、焦り、あきらめ、絶望――これらが精神を蝕み、結局、敗れてしまうことになります。だから、心を鍛え、強くしていかなければならない。そのための哲学なんです。
 創価学会は、何度も大きな苦難の嵐に襲われました。しかし、常に不死鳥のように立ち上がってきました。それは、どんな試練にさらされても、心は一歩も引かなかったからです」
 金理事の大きな声が響いた。
 「よくわかります!
 山本先生は、勇気をもって、日中国交正常化を提言され、さらに、日中平和友好条約の締結も主張されています。
 激しく批判されながらも、微動だにされませんでした。そこに、創価学会を貫く、精神の強さ、堅固な心を感じます」
 「ありがとうございます。世界平和に尽くしていくことは、私の人間としての使命です。
 日本と中国が友好を結ぶことは、世界の平和を実現していくうえで、絶対に不可欠な条件です。したがって、断じて成し遂げなければならない。その信念で、私は行動しております。
 私たちは、力を合わせて″平和の長城″″友好の長城″″精神の長城″を築いていきましょう」
 対話は尽きなかった。
 伸一は微笑みながら言った。
 「北方の民族の侵入を防ぐための防壁で、国家の壁を超えた、人間と人間の交流がもてたことに感謝します」
 一同の朗らかな笑いが青空に響いた。
 人類の歴史遺産である万里の長城で、結ばれた友情の劇であった。
 この日、一行は明の十三陵の一つである定陵に立つ定陵博物館、さらに十三陵ダムを視察した。
 伸一が宿舎に帰ると、明六日夜、李先念副総理と会見することが伝えられたのである。
42  友誼の道(42)
 六月六日の朝、山本伸一たちは、天安門広場の南の繁華街である大柵欄街を訪れた。
 地下防空壕を視察するためである。案内されたのはデパートであった。一階の床を持ち上げると階段があり、下りると地下壕になっていた。
 そこは防空壕というより、地下街を思わせた。明るく清潔な空間が広がり、中には、食堂や会議室、電話室、指揮室、放送室などもある。
 地下道によって、全市の街区が結ばれているとのことであった。
 大柵欄街には、デパートや映画館などが立ち並び、普段は八万人、祝祭日には、二十万人の人で賑わうという。
 その人たちが、いざという時には、五、六分で地下壕に避難できるというのである。
 案内者は語った。
 「他国からミサイルが飛んでくるのを七分と想定して、十分に間に合う時間です」
 また、付近の居住区の防空壕にも案内された。
 防空壕を掘る作業にあたったのは、主に婦人と年配者であり、平均年齢は五十歳を超えていたという。
 伸一は感想を述べた。
 「昨日は万里の長城へまいりましたが、これは地下の長城ですね」
 案内者は頷いた。
 「そうです。敵の攻撃を防ぐためのものです。私たちがこうして防空壕を掘ったのは、守りに徹するためであり、自ら他国を侵略することは絶対にありません。
 この地下壕はモスクワまでは掘りませんから」
 案内の人は、こう言って微笑むと、毅然とした口調で言葉をついだ。
 「私たちは、第一には戦争には反対です。しかし、第二には戦争を恐れません」
 伸一は言った。
 「わかりました。皆さんの団結の姿、平和を熱望する姿、勇敢な姿は、生涯、私の脳裏から離れないでしょう」
 伸一は、ソ連の攻撃に危機感をいだき、恐怖に苛まれながら、自らを鼓舞して生きる、中国の人たちの心中を考えると、胸が張り裂けそうな思いがした。
 「私は、皆さんの真実を、世界中で訴え抜いてまいります」
 伸一は、深い決意をこめて、こう語った。
 ″中ソの不信の溝を、絶対に埋めねばならぬ″
 彼は心に誓った。
43  友誼の道(43)
 この日、山本伸一は、午後六時から国際クラブで、北京で友好を結んだ人たちに対する答礼宴をもった。 
 廖承志会長夫妻や張香山副会長など、中日友好協会の人びとをはじめ、訪問した小・中学校、北京大学、工場、人民公社の関係者、さらには北京飯店の服務員の代表も招いての答礼宴であった。
 あいさつに立った伸一は、「北京滞在中、中国の朋友が示してくださった真心のご好意を、私は一生涯、忘れることはありません」と深く感謝の意を表した。そして、こう誓ったのである。
 「私は、この間、遺言にも似た心境で、今回、共に訪中した青年のメンバーに、『中国の人びととは世々代々、信義を貫いていくべきである』と心の底から訴えました。
 もはや言葉ではありません。私たちのこれからの行動を、見てください!」
 彼は、行動で自らの心を示そうとしていた。
 「行動がなければ、思想は決して実を結んで真理となりません」とは、思想家エマソンの洞察である。
 決意は行動となり、結果を示してこそ、意味をもつのである。行動なき決意は空想にすぎない。
 廖承志会長は、伸一の話に応えて、こうあいさつした。
 「これまで、山本先生は、中日友好と中日関係の改善のために、絶え間ない努力をされました。
 山本先生は、また、再三にわたって、『創価学会が中日友好を堅持する信念は、絶対に変わりません。今後も、必ず、先輩が築き上げた中日友好の″金の橋″を護持し、強固にします』と言われました。
 私は、この機会をお借りして、山本先生と創価学会の友人の皆さんが、中日友好のために身を捧げる決意でおられることに対し、重ねて、心から賞讃と敬服の意を表したいと思います」
 五つのテーブルに分かれて、食事をしながらの歓談が始まった。
 伸一は峯子と共に、テーブルを回りながら、一人ひとりに丁重に御礼を言い、再会を約した。
 「私はこれから、何度も北京に伺います。たくさんの青年を連れてまいります。堅固な″金の橋″を架けましょう」
 そして、友誼の握手を固く固く交わし合った。
44  友誼の道(44)
 答礼宴を終えた山本伸一の一行は、中日友好協会の廖承志会長、張香山副会長らと共に、北京の人民大会堂に向かった。
 李先念副総理との会見のためである。
 伸一たちが、人民大会堂に着いたのは、午後九時過ぎであった。
 会見会場の入り口に、李先念副総理らが一列に並んで、一行を笑顔で出迎えてくれた。
 李副総理は、過酷な長征を戦い抜いた人らしく、柔らかな物腰のなかにも、質実剛健という雰囲気が漂い、透徹した眼光を放っていた。 
 伸一は、出迎えてくれた一人ひとりと、固い握手を交わした。
 会見会場には、延安(イエンアン)の風景画が掲げられており、天井が高く、広々とした部屋であった。
 席に着き、互いにメンバーを紹介し合ったあと、副総理は言った。
 「今日は、何でも聞いてください」
 親しみにあふれた、友好的な言葉であった。
 「今回の訪中メンバーは青年の代表で、平均年齢は三十五歳です」
 伸一が言うと、副総理は顔をほころばせた。
 「それは、大変に結構なことですね。
 重ねて皆さんの訪中を歓迎いたします」
 それから副総理は、日本と中国の国交正常化に至る伸一たちの努力の足跡を確認するように述べたあと、こう語った。
 「山本先生は、大きな働きをされました。大変に価値あるものです」
 「恐縮です。私は、日中友好のために、世界の平和のために、ただ、ただ、全力投球してきただけです」
 一日一日を、一瞬一瞬を、大いなる目的に向かって、全力で戦い挑むのだ。そこにのみ、偉大なる黄金の歴史を織りなす道がある。
 李副総理は、言葉をついだ。
 「周総理も、山本先生と創価学会には、重大な関心を寄せておられます。本来なら総理が会って、ごあいさつすべきなのですが、総理は今、病気療養中です。
 総理は、『山本会長にお会いしたいけれども、今回はお会いできないので、くれぐれもよろしく伝えてほしい』と申しておりました」
 伸一も後に知ったことであるが、この時、周総理は、五日前に癌の手術をしたばかりであった。
45  友誼の道(45)
 周恩来総理は、以前から体調が思わしくなかった。プロレタリア文化大革命、いわゆる″文革″の辛労も大きかった。
 ″文革″は、革命精神を永続化するために、階級闘争を忘れてはならないとする、毛沢東主席の指導のもとに始まったが、権力闘争の道具となっていたのである。
 ″文革″を推進していた毛沢東主席夫人の江青をはじめとする四人組が、自分たちに従わない人物や反対派の、わずかな落ち度や問題点を探し出しては攻撃し、次々に失脚させていったのだ。
 周総理も攻撃の対象になり、紅衛兵に取り囲まれ、執務室に閉じこめられたこともあった。
 そうしたなかで、二年前の一九七二年(昭和四十七年)の五月に、癌が発見された。それでも入退院を繰り返しながら激務をこなし続けた。
 だが、病状は悪化し、遂に癌の切除に同意したのである。
 総理は重い病をかかえながら、山本伸一たちの訪問に対して、こまやかな気遣いをしてくれた。
 食べ物の好みや、喫煙するかどうかなども、人を介して尋ねた。
 伸一は周総理の思いを知り、「そのお心だけで十分です。一切、特別なことはしていただかなくて結構です」と答えた。
 それでも、伸一が少しでも安眠できるようにと、宿舎のカーテンを遮光性の強いものに、わざわざ取り替えさせたりもしていたのである。
 伸一は、この李先念副総理との会談にも、周総理の深い配慮を感じた。″自分の代理として語り合ってください″との、総理の真心が、痛いほど感じられてならなかったのである。
 イギリスの歴史家カーライルは書き記した。
 「誠実――深く、大きく、純なる誠実こそ、総じて苟くも英雄的なる人物の第一の特性ともいえよう」
 まさに至言であろう。
 会談は、友好的ななかにも、日中の未来を開くための、真剣な対話の場となった。実り豊かな語らいであった。
 伸一は、日中平和友好条約について意見を求めたのに始まり、社会主義と人間の自由、資源問題、組織と官僚主義、核兵器の問題など、十項目にわたって、深く掘り下げた質問をしていった。
 副総理も、快く質問に答えてくれた。
46  友誼の道(46)
 山本伸一は、中国が米ソ二超大国との対決姿勢を示していることから、李先念副総理に、次のように尋ねた。
 「中国は、米ソ以外のいわゆる先進国であるヨーロッパ諸国や日本などとは、いかなる基本姿勢で交流し、どのような方策で臨もうとされていますか」
 副総理は答えた。
 「内政不干渉など、平和五原則を堅持して臨んでいきます。
 現在、これらの国々との関係は、良好に進んでいます。問題によっては意見の食い違いもありますが、しかし、これは許されることではないでしょうか。
 なぜなら、社会の仕組み自体が中国とは異なるからです。
 中国の社会主義化が進んでも、将来にわたって中国の立場や制度を他国に押しつけることはしません。その国の民衆がどのような社会制度を選択するかは、その国の民衆自身だからです」
 伸一は、副総理の言葉に、嘘はないと思った。″真実″の重さを感じた。
 ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ・カレルギーは記している。
 「真実は人間を一つに結び、結合させる力を持っている。真実は錯誤と虚偽が人間同士の間に設けた柵を破壊する」
 さらに伸一は尋ねた。
 「私は、一九六九年(昭和四十四年)に、日本は中国との平和友好条約の締結を最優先すべきだと訴えました。
 この平和友好条約は、日中両国の人民ばかりでなく、アジア、そして世界の平和にとって重要なカギであると考えてきたからです。
 この点について、中国側のご意見をお伺いしたいと思います」
 率直な質問であった。
 副総理は、誠実に答えてくれた。
 「日中両国の関係は、現在、正常に発展しつつあります。
 平和友好条約は、できるだけ早い時期に実現したい。しかし、なお残されている政府間実務協定を、きちんと処理しなければなりません。
 また、何よりも、両国人民間の友好を着実に積み重ねていくなかで、平和友好条約の締結を実現していくべきでしょう」
 日本の国にとっても、また、世界にとっても、実に重要な話が語られていった。
47  友誼の道(47)
 山本伸一は李先念副総理に、こう尋ねてみた。
 「組織が巨大化してしまうと、どうしても官僚主義化されていく傾向があります。それをいかにして防ごうとされているのでしょうか」
 副総理からは、こんな答えが返ってきた。
 「上層の指導部は、大衆による『批判』と、『自己批判』がなされなければなりません。
 もし官僚化すれば、大衆に批判される。正義は大衆にある――ということを自らに徹底し、不断に自身を戒めていく努力が必要です。
 また、できあがった組織のなかで安住するのではなく、人民に奉仕し抜いていくことによって、官僚主義は乗り越えていくことができます」
 伸一も、まったく同感であった。
 指導者たちが、人民に奉仕するという姿勢を失えば、保身に陥り、組織は硬直化し、組織を維持すること自体が目的となっていく。
 すると、人間は手段化され、「人間のための組織」ではなく、「組織のための人間」という転倒が起こる。
 組織に温かな人間の血が通い、組織が人間のためのものであり続けるには、指導者や幹部は「人民への奉仕」を絶対に忘れてはならない。
 それは、学会に即して言えば、「会員への奉仕」である。
 学会の未来も、最高幹部や職員等が「会員への奉仕」に徹し抜いていけるか否かに、すべてはかかっている。
 幹部は、会員に仕えるためにいるのだという哲学を、幹部自身がもち、実践することである。その一途さ、誠実さに、人びとは信頼を寄せ、そこに団結も生まれるのだ。
 また、官僚主義化を防ぐには、国であれ、団体であれ、指導者層と構成員とが絶えず意見を交わし合い、胸襟を開いた対話が行われているかどうかも、重要なポイントといえよう。
 学会は、一貫して対話主義で進んできた。伸一は、どこへ行っても、地元のメンバーとの語らいに多くの時間を割き、率直に意見交換してきた。
 また、大きな会合に出席した折にも、質問を受けたり、一人ひとりに声をかけるなど、一方通行にならぬように努めてきた。この心と心の往復に、創価学会の人間主義がある。
48  友誼の道(48)
 山本伸一は、中国の後継者問題についても、李先念副総理に尋ねておきたかった。
 日本の新聞各社の北京特派員たちからも、「ぜひ、聞いてほしい」と要望されていたのである。
 伸一は、こう話を切り出した。
 「副総理のお名前である『先念』とは、『先に念う』、つまり『先見の明がある』ということを示されているのではないでしょうか」
 副総理の屈託のない笑い声が響いた。
 「そこで、先見の明ある副総理に、率直にうかがいたい。世界の注目は『毛沢東主席の後継者はどうなるのか』ということです。この点はいかがでしょうか」
 副総理は、その瞬間、表情を硬くし、言葉を選ぶようにして語った。
 「毛主席は、お元気です……」
 「よく存じ上げております。五十年先、百年先のことは、どうお考えでしょうか」
 すると、再び「毛主席は、お元気です」との答えであった。
 伸一は、微妙な事情があると直感し、即座に話題を変えた。
 このころ、四人組は毛沢東のあとの権力を握るため、さまざまな画策を続けていたのである。
 この会見に対しても、副総理に一言でも失言があれば、追い落としの材料にしようと、情報網を張り巡らしていたにちがいない。
 当時、″文革″の実態はベールに包まれていたが、李副総理も、また、周総理も批判の標的にされていたのだ。ほんの少しでも油断があれば、敵の術策にはまってしまうという緊張下で、日を送っていたのである。
 しかし、周総理らは、そのなかで、細心の注意を払いながら、真剣勝負で執務を続けた。冷静に、粘り強く、動向を見すえながら、嵐の時代を耐え抜いたのだ。
 一九七六年(昭和五十一年)一月、周総理が他界すると、人民は号泣した。そして、強大な力をもつ四人組に、公然と抗議の声をあげたのだ。
 歴史を動かすのは、人民である。「如何なる力量も人民の正義の事業が勝利に向うことを阻止できない」とは、周総理の達観である。
 李副総理は、四人組の追放に立ち上がった。
 やがて、国家主席として活躍することになる。
49  友誼の道(49)
 李先念副総理との語らいでは、核問題にも話題が及んだ。
 副総理は、「中国は、いついかなる状況のもとでも、核兵器を最初に使用することはない」との立場を明言した。
 そして、覇権主義の道は歩まないことを、強く訴えるのであった。
 対話は二時間十五分にも及んだ。初対面ながら心と心が通い合う友誼の語らいとなった。
 山本伸一は、会見を通して、中国は、強く平和を求めていることを確信したのである。
 この深夜の会見を終えたあと、伸一は日本人記者たちの取材に応じ、李副総理との会談の内容について語った。
 翌七日の朝日新聞夕刊の一面には、「社会主義化が進んでも 日欧と平和共存 李中国副首相語る」との見出しが躍り、会談の模様が大々的に報じられている。
 伸一が宿舎の部屋に着いた時には、午前零時近かった。
 明日七日は、次の訪問地である西安(シーアン)に向かう日である。出発は午前七時であった。
 伸一は、峯子と荷物をまとめながら言った。
 「今日は牧口先生のお誕生日だった。牧口先生は、中国からの留学生をこよなく敬愛し、大切にされている」
 牧口常三郎は三十代半ば、中国からの留学生のために設けられた学校である弘文学院で教鞭を執り、地理学を教えている。その同じ時期、魯迅もここで学んでいる。
 牧口の『人生地理学』に共感した中国の青年たちは、この書を翻訳し、発刊していったのである。
 「牧口先生のお誕生日に、李先念副総理とお会いして、日中友好の道を開く有意義な語らいができた。
 また、戸田先生は、東洋の民衆を救わねばならないと叫ばれ続けた。さらに、『十八史略』など、中国の歴史や文学に精通され、本当に中国を愛しておられた。
 牧口先生も、戸田先生も、この会見を心から喜んでくださっているよ」
 峯子は、微笑を浮かべて頷いた。
 「お二人の先生がお喜びになっている姿が、目に浮かびますね」
 伸一も、峯子も疲れてはいた。しかし、師匠を思うと心は燃えた。元気が出た。真の弟子にとっては、師こそが勇気と活力の源泉なのである。
50  友誼の道(50)
 六月七日、山本伸一の一行は、午前八時過ぎには北京の空港を飛び立ち、西安に向かった。
 一時間半ほどの空の旅である。
 案内役として、中日友好協会の孫平化秘書長らが同行してくれた。
 西安は、陝西(シャンシー)省の省都である。かつては「長安」と呼ばれ、長く中国の国都として栄えてきた。
 東西文明の交流に大きな役割を果たし、日本とも遣唐使など、古くから交流があった地である。
 また、近代においても「西安事件」が起こり、歴史回天の舞台となっている。
 ――一九三六年(昭和十一年)十二月、国民党の張学良が率いる東北軍と楊虎城の西北軍は、共産党を討つため、西安に駐屯していた。
 しかし、彼らは、共産党の「今は国を挙げて団結し、侵略してくる日本軍と戦うべきではないか」との主張に、心を動かされる。
 彼らは、南京から督励に来た国民党の蒋介石を監禁。共産党との戦いを停止し、共に協力して抗日の戦いを起こすよう要求した。
 ――これが「西安事件」である。
 そして、共産党の周恩来が交渉にあたり、蒋介石は要求を受け入れることになるのである。
 一九三七年(同十二年)七月、盧溝橋事件が起こり、日中戦争へと突入していった。
 中国では、この「西安事件」を契機に、第二次国共合作(国民党と共産党との協力体制)が実現し、抗日民族統一戦線が結成されるのである。
 西安に到着した伸一たちの一行は紡績工場を視察した。
 この工場にも、喜々として働く、多くの女性労働者の姿があった。
 工場には、幼稚園もあり、家庭をもつ女性たちが、心置きなく働けるように、さまざまな工夫がなされていた。
 女性を大切にしてこそ女性の活躍があり、そこに新しき発展がある。
 伸一は、はつらつとした女性たちの姿から、中国の輝かしい未来を、見る思いがした。
 「女性の参加なしで、真の意味の精神的社会革新が達成されたことは一度もなかったのだ」とは、スウェーデンの思想家エレン・ケイの卓見である。
51  友誼の道(51)
 山本伸一たちは、紡績工場では、工場労働者の家庭訪問もし、家族と意見交換もした。
 そのあと、かつて中国共産党の事務所があった「八路軍西安弁事処紀念館」を訪ねた。
 中国共産党軍である八路軍の、西安事務所を記念館としているのだ。
 西安城内にあるこの事務所は、西安事件後に「紅軍連絡所」として設置された。
 国民党と共産党の対立は、国共合作後も続いていた。
 西安から中国革命の根拠地・延安までは三百キロほどの距離である。
 この事務所は、延安と連絡を取り合い、革命を推進する出先機関、前線基地としての、重要な役割を担っていた。
 ここで青年たちは面接や審査を受け、延安に向かったのだ。
 そして、延安で教育を受け、革命の闘士に育っていったのである。
 伸一たちは、この記念館の内部を見学した。
 記念館の関係者に案内され、地下にも下りた。そこには、事務所の警備室があった。狭い部屋である。
 さらに、その地下に穴が掘られ、そこに秘密受信機の手動モーターが隠されていた。
 送信機が国民党によって破壊され、この受信機のみが、党中央との唯一のパイプとなっていたのだ。モーターが手動なのは、地上の電源が使えないためだという。
 この唯一のパイプを守り抜くため、受信は午前零時から夜明け前の午前四時までとした。その時間以外は、受信機は解体され、ばらばらに保管されたというのである。
 説明を聞きながら伸一は、連絡手段を断固守り抜こうとする、強い革命的警戒心を感じた。
 戦いにあっては、極めて大切なことである。
 堅固な城塞も、油断が生じた間隙を突いて破られるのが常であるからだ。革命的警戒心の欠如が、破滅をもたらすのである。
 ところが人間は″このぐらいは大丈夫だろう″と考え、油断し、怠慢になる。そこに敵は付け入ってくる。恐れるべきは敵ではなく、自分たちの、その心である。
 御聖訓には、「なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し」と仰せである。
52  友誼の道(52)
 八路軍の西安弁事処の周りには、国民党の幾つもの監視所があった。しかし、西安地区の多くの人民がこの事務所を支持し、陰に陽に守ってくれたという。
 案内者は、誇らかに語った。
 「この事務所が破壊されたら、人民は黙っていなかったでしょう」
 民衆の支持ほど強いものはない。全生命を注ぐ思いで民衆に訴え、勝ち取った賛同があれば、何も恐れる必要はない。
 さらに民衆のなかへ、さらに深く、心のなかへ――いかなる運動も、そこに勝利のカギがある。
 この事務所で受信機の手動モーターを汗まみれになって回し続けた、若い青年がいた。彼は中国の未来を信じ、歯を食いしばり、ひたすらモーターを回した。
 それが、この記念館の責任者であった。年は既に五十代のようだ。
 彼の父親も、母親も、解放前に餓死していた。だから彼は、新中国建設の理想に、青春を賭けたのであろう。
 彼は、社会の不条理によって父母が餓死していった苦しみを、怒りを、決して忘れなかった。ゆえに解放に感謝し、新中国を誇りに思い、人民に奉仕し続けていこうと、固く決意してきたのだ。
 また、若い世代にも、その歴史が語り伝えられていた。
 この記念館で案内にあたっていた若い女性も、そうした歴史をよく知り、虐げられてきた民衆を解放した新中国に、強い誇りをいだいていた。
 歴史という原点が、青年の胸中に深く打ち込まれている限り、革命の精神は永遠に継承されていくにちがいない。
 また、記念館の責任者は、日中戦争の末期に、国民党の高官と交渉にあたるため、ここを訪れた若き日の周恩来総理のことを、敬愛を込めて語ってくれた。
 「その時、車は一台もありませんでした。事務所のスタッフが特別に人力車を用意しましたが、総理は『歩いて行きましょう』と言って、頑として人力車には乗りませんでした。
 地位の高い党の幹部は、こんなにも質素を尊ぶ意志をもっているものかと感動したものです」
 いかに高邁な言葉を並べても、行動が伴わなければ、人はついてはこない。振る舞いと人柄こそが最高の説得力である。
53  友誼の道(53)
 山本伸一を団長とする訪中団一行は、七日夜、歓迎宴に招待され、ここでも、また新しき友情が織りなされた。
 翌八日午前、一行は、西安の陝西省博物館(現在は陝西歴史博物館)を訪問。周・秦・漢・隋・唐など、幾つもの王朝が興亡した陝西の歴史文物の展示を見て回った。
 かつて西安(長安)は、東西文化交流の道である「シルクロード」の都として、絢爛たる繁栄を誇ってきた。
 周時代初期の文物を見ていくと、貴重な品々と対比するように、「奴隷と馬と絹」の絵が陳列してあった。馬一頭と絹糸一束が奴隷五人に値することを示していた。人間の生命が、それほど軽んじられていたのだ。
 支配階層の栄華の背景に、計り知れない人民の苦悩があったことを伝えていた。
 前漢、後漢の時代の圧政に対抗する、農民の反乱の絵もあった。
 博物館は、「皇帝」が主役の王朝から、「人民」が主役の時代を築き上げる新中国建設の意義を学ぶ教育の場でもあった。
 また、日本からの遣唐使の数が克明に記録されているパネルもあった。
 日本からの遣唐使の総計は二千百四十二人となっていた。だが、このほかにも、大陸に着くまでに激浪にのまれ、命を失った人も数多くいたにちがいない。
 つまり、千年以上も前から、多くの先人たちが命をかけて海を渡り、中国と文化交流を続けてきたのだ。
 しかし、両国が保ち続けてきた友好の絆は、人為的に切断されたのだ。その断絶は融合に向かう人類史への逆行にほかならない。命がけで海を渡った遣唐使の青年たちは、それを知ったら、なんと言うだろうか。
 今では航空機もあり、万里の波濤も一っ飛びで行ける時代となった。
 だが、日中の交流の門は、ようやく開かれたにすぎない。その心の距離は遠い。
 伸一は思った。
 ″日中交流の、永遠に崩れぬ橋を架けよう。そして、将来は、その橋を青年たちが陸続と渡って行き来し、共に兄弟姉妹として友情を深め合う時代をつくるのだ!″
 新時代を思い描いて前進するところに、希望が広がる。理想に生きる人間には、勇気がみなぎり、力があふれる。
54  友誼の道(54)
 山本伸一は陝西省博物館に続いて、一キロほど南にある大慈恩寺も見学した。七世紀に建立されたものという。
 玄奘三蔵がインドから持ち帰り、漢訳した多くの仏典などを保存するために建立されたのが、この寺の大雁塔である。
 大雁塔は、創建時は五層で、その後、改築されて七層になり、六十四メートルの高さがある。
 遣唐使として日本から留学した青年僧たちの目的の一つは、長安(西安)の都で仏典を学ぶことであった。彼らは、この大雁塔にある経典を、懸命に学んだのであろう。
 玄奘は、年若くして仏教の門を叩き、仏教各派の学問を学ぶが、諸師の学説の違いに疑問をいだいた。そして、原典に基づいて仏教を学ぼうと、仏教発祥の地インドに行くのである。砂漠を越え、険しい幾山河を越えての旅である。
 彼は、二十代の青年であった。ひたすら仏法を求める強き一念が、彼を険難の道へと旅立たせたのである。
 求道は勇気を生み、力をもたらす。人間的成長は、求道の歩みのなかにあるといってよい。
 玄奘は、インド各地で学問修行に励み、サンスクリット仏典を研究し、十数年を経て、多くの経典や仏像などをもって長安に帰ってくる。そして、七十五部千三百三十五巻といわれる膨大な経論を翻訳したのだ。
 伸一は、同行のメンバーに語った。
 「しかし、残念ながら、玄奘は法華経の真髄を理解していなかった。彼の訳した経典についても、大聖人は厳しい評価を下されている。
 ただ彼が、仏教文化の興隆に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
 ともあれ、教えを後世に伝えるためには、文字として残すことが大事だ。だから私も、日蓮仏法の真実の精神を活字として残しているんだ。
 毎日毎日が真剣勝負だ。日々、遺言の思いで、生命を削る思いで、語りに語り、書きに書いている。
 そして、その翻訳に、学会の多くの語学人が、日夜、精魂を注いでくれている。
 それは、目立たぬ作業かもしれないが、世界広宣流布の流れを決する大偉業なんだよ」
 そこから話は、世界広布に広がるのである。
55  友誼の道(55)
 山本伸一の一行は、午後からは、新石器時代の村落跡を屋根で覆うようにして造られた半坡博物館や、秦の始皇帝陵、風光明媚な華清池などへ案内された。
 夜には、西安でお世話になった人びとを「西安人民大厦」に招待して答礼宴を開催した。
 翌六月九日は、上海に移動する日であった。
 午後一時四十分、伸一たちの乗った飛行機は西安の空港を発った。
 河南(ホーナン)省の鄭州(チョンチョウ)と南京を経由して、上海に行く予定であった。
 午後三時、鄭州に着いて、待合室で待機していると、孫平化秘書長が申し訳なさそうな顔で、伸一に告げた。
 「実は、南京の上空に雷雲が発生し、着陸できないために、この先の飛行を取りやめることになったそうです。
 申し訳ありませんが、今日は、この鄭州でお泊まりいただくことになります」
 「わかりました。お世話になります」
 伸一は、弾んだ声で答えた。同行のメンバーは皆、不安そうな顔をしていた。
 何事も、計画通りにいくとは限らない。むしろ常に予期せぬ事態との遭遇が、人生であるといえるかもしれない。
 その時に、狼狽するのではなく、智慧を働かせて、そこから新しい価値を創造していくのだ。その柔軟な姿勢と対応のなかにこそ、本当の人間の強さがあるといえよう。
 伸一は、笑いながら言った。
 「ここに一泊できるなんてすごいじゃないか。私は鄭州に憧れていたんだよ」
 鄭州は河南省の省都で、小麦や綿花などの集散地であり、中国古代の殷の都として栄えた歴史がある。
 伸一は、楽しそうに語り始めた。
 「黄河(ホワンホー)の中流域にある河南省一帯は、中国の中心に位置し、『中原』と呼ばれてきた。この中原を制するために、戦いが繰り返された。
 『中原に鹿を逐う』という言葉があるが、それは、ここからきている。『中原』は『天下』を、『鹿』は『帝位』を意味しているんだよ」
 伸一は、悠久なる歴史の天地に立つ感慨を、青年たちに伝えるのであった。
56  友誼の道(56)
 山本伸一の一行は、中州賓館に一泊することになり、宿舎に移った。
 突然の訪問にもかかわらず、中国人民対外友好協会の河南省分会の関係者が、熱烈歓迎してくれた。
 夜には、食事を共にしながら、歓談のひとときがもたれた。
 伸一は、河南省分会の責任者に言った。
 「雷雲のために、憧れの鄭州に泊まることができ、こうして新しい中国の友人と出会えました。雷雲に心からお礼を言わなければなりません」
 笑いが広がった。
 鄭州の人びととの、せっかくの出会いである。伸一は、この機会に、未来にわたる強い友誼の絆を結ぼうと思った。
 それには胸襟を開き、どこまでも誠実と情熱を尽くし、魂と魂の触れ合う対話をすることだ。
 語らいは弾み、河南省の文化や歴史について話に花が咲いた。そして、三国時代には、中原は魏の国の曹操が制していたことから、話題は「三国志」に移っていった。
 伸一は語った。
 「私の恩師である、創価学会の二代会長・戸田城聖先生は、『三国志』などを青年に読ませ、指導者論や人間学などを講義してくださった。
 その先生がお好きであったのが、蜀漢の名宰相・諸葛亮孔明の晩年をうたった、『星落秋風五丈原』の歌でした。
 これは、日本を代表する詩人である土井晩翠の詩です。
 今日は訪中団の青年たちが、皆さんにこの歌を披露いたします」
 拍手が起こった。
 同行の青年たちが、立ち上がって歌い始めた。
 キ山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原 零露の文は繁くして
 草枯れ馬は肥ゆれども 蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか 丞相病あつかりき 丞相病あつかりき
 歌声が朗々と響いた。
 ――赤壁の戦いで魏軍を破り、数々の戦功をあげてきた諸葛亮であったが、五丈原で魏軍と対陣中に病に倒れてしまう。
 彼の病は重く、蜀軍は敗色に包まれていた。
 ″蜀漢の未来はどうなるのか。苦しみにあえぐ民を誰が救うのか……″
 ″五丈原″の歌には、病の床に伏す諸葛亮の、その苦心孤忠がうたわれていた。
57  友誼の道(57)
 山本伸一は、この″五丈原″の歌に、忘れ得ぬ思い出があった。
 それは一九五三年(昭和二十八年)の一月五日、戸田城聖のもとに数十人の弟子が集い、都内の中華料理店で行われた新年会のことであった。
 この席で、師に″五丈原″の歌を披露したのである。
 それは、前日、伸一の家に数人の青年が集った時、伸一が提案したものであった。
 蜀漢の命運を担って立った諸葛孔明と、広宣流布に毅然と立ち上がった戸田城聖の心情と、どこか通じ合うものを、彼は感じたからである。
 新年会で戸田は、一人の青年の歌う″五丈原″の歌を、じっと聴いていた。その目には、時に涙さえ浮かんでいた。
 そして、とうとうメガネを外してハンカチを目に当てた。
 歌い終わると、戸田は言った。
 「いい歌だ。本当にいい歌だ。もう一度、歌って聴かせてくれないか」
 伸一も立ち上がって一緒に歌った。
 二人は、厳粛な思いで熱唱した。戸田も口ずさんだ。彼は流れる涙を拭おうとはしなかった。
 そして歌が終わると、また「もう一度!」と言って、何度も繰り返させたのである。歌は六回に及んだ。
 戸田は言った。
 「君たちに、この歌の本当の精神がわかるか!」
 それから戸田は、詩に即して、成さねばならぬ使命を自覚しながら、死に瀕した諸葛孔明の苦衷を語っていった。
 それは、紛れもなく、戸田の心境でもあった。
 「私も、今や病気だらけの生身の体だ。私がひとたび倒れたら、広宣流布はどうなるか。
 私は尊い偉大な使命を自覚するがゆえに……倒れるわけにはいかないのだ。死にたくも死ねないのだ!」
 切々たる言葉であり、至極の叫びでもあった。
 さらに「嗚呼五丈原秋の夜半 あらしは叫び露は泣き」の個所に至ると、声を震わせて語った。
 「諸葛孔明は遂に死ぬのだが、悲しいことに使命の挫折を歌っている。
 孔明の名は、確かに千載の後まで残るには残ったが、挫折は挫折です。
 ……私には、挫折は許されぬ。広布の大業が挫折したら、人類の前途は真っ暗闇だからです」
58  友誼の道(58)
 「私には、挫折は許されぬ」との戸田城聖の叫びは、山本伸一の胸を射貫いた。
 師が大願を成就できるかどうかは、弟子の戦いによって決まる。なれば伸一自身、広宣流布のすべての戦いに、敗北も挫折も、一切、許されないということである。
 伸一は、自らに、強く言い聞かせた。
 ″私は、常勝の闘将となるのだ。わずかでも敗北があれば、戸田先生の広宣流布の構想は崩れてしまう。真の弟子ならば、断じて、勝って、勝って、勝ち抜くのだ!″
 以来、伸一は、文京でも、札幌でも、大阪でも、山口でも、また、いずこの地にあっても、常に勝利の旗を打ち立ててきた。そこに、真正の弟子の証がある。
 山本伸一は今、鄭州の地にあって、青年たちの「星落秋風五丈原」の熱唱を聴きながら、アジアの、中国の、民衆の幸福を願い続けていた戸田を偲んだ。
 そして、弟子として、その実現のために、日中友好の「金の橋」を架けることに生涯を捧げようと、深く心に誓った。
 合唱が終わると、大きな拍手が起こった。
 中国側の中心者が微笑をたたえて言った。
 「いい歌でした。感銘しました。民の繁栄と平和を願った諸葛孔明は、自分をうたった歌が、中原に『友誼の歌』となって響いたことを、心から喜んでいるでしょう」
 鄭州の夜は、忘れ得ぬ友誼の語らいのなかに更けていった。  
 そのころ、東京の学会本部では、「山本先生の一行が行方不明だ!」と大騒ぎになっていたのである。
 伸一に同行していた田原薫らは、急遽、鄭州に一泊するようになったことを本部に伝えようと、鄭州の宿舎から何度となく、国際電話を申し込んだ。しかし、電話回線が少ないのか、一向につながらないのだ。
 本部からも一行が宿泊を予定していた上海の宿舎に連絡を入れたが、到着していないとの返事であった。
 ″何が起こったのか!″
 本部の首脳たちは、気が気でなかった。無事を懸命に祈った。
 彼らが胸を撫で下ろしたのは、翌日、上海に到着した一行から、連絡を受けてからである。
59  友誼の道(59)
 翌十日の午前七時半、宿舎を出発した山本伸一の一行は、鄭州から飛行機で上海へと向かった。
 途中、南京の空港を経由しての旅である。南京上空から、中国最長の大河である長江(チャンチヤン)が見えた。
 太陽の光を浴びて、銀の帯のように広がる雄大な流れが、どこまでも続いていた。
 午前十一時、山本伸一たちは上海に到着した。
 上海は、貿易、商工業の中心であり、街は活気にあふれていた。
 昼食を済ますと、早速、「光明電気メッキ工場」の視察に向かった。
 工場入り口にある黒板には、「熱烈歓迎 日本創価学会代表団」の文字とともに、色鮮やかな花束の絵が描かれていた。
 この工場では、従業員の健康や環境保全を第一に考え、電気メッキにともなう廃棄物の処理のために、さまざまな工夫をしているという。
 工場内も清潔であった。排水は、化学薬品によって浄化処理され、その水で魚を飼っていた。
 工場長らと懇談した折、伸一は語った。
 「この工場の在り方に感動いたしました。すばらしいことです。
 日本では、産業の発達が深刻な公害を招きました。利潤の追求を第一義として、人間の生命を軽視した結果です。
 豊かさや便利さを手に入れようとするあまり、人びとの健康や人命を軽んじてしまうならば、本末転倒です。
 人間の生命を大切にし、人間を守るということ――それは、人類が生きていくうえの普遍の鉄則です。その根本原理を説いているのが仏法なんです」
 伸一は、公害実験国のようになってしまった日本の失敗を、繰り返してもらいたくなかった。
 だから、彼の声には、力がこもっていった。
 「公害の問題は、人類が協力して防がなければならない問題です。
 どうか、人間の生命を尊重し、守ろうという、この工場の考え方を、中国全土に、アジアに、発信していってください」
 近代化が進めば進むほど、環境破壊も進まざるをえない。
 それだけに、自然を、環境を守るために、国境を超えて英知を結集し、環境保護の連帯を強固にしていくことの大切さを、伸一は痛感していたのである。
60  友誼の道(60)
 「タン能生存、我当然仍要学習……」(もし私が生きていくことができるならば、もちろん、私は学び続けていく)
 その文字に、山本伸一の目は釘付けになった。
 魯迅が亡くなる二カ月前に書いた手紙の一節である。
 伸一の一行は、メッキ工場の視察に続いて、魯迅の故居を見学した。石畳の道に面して、その家はあった。
 魯迅が上海での九年間のうち、晩年の三年半を過ごした住まいである。
 レンガ造りの三階建ての家であった。
 一階の応接間には、生前、魯迅が使ったままのかたちで、五脚の重厚な木製の椅子が、分厚い、黒っぽいテーブルの前に置かれていた。
 そして、その奥の部屋に、この手紙の言葉が掲げられていたのだ。
 伸一は無言で、しばらくの間、この一文を見つめていた。
 命ある限り学ぶ――その貪欲なまでの向学の一念こそ、新しき道を開き続け、革命に生きようとした魯迅を貫く精神であったにちがいない。
 向上、向学の心を忘れた時から、人間は惰性に陥ってしまう。そうなれば、待っているのは敗北であり、衰退である。
 前へ、前へ、もっと前へ――という飽くなき挑戦のなかにのみ、生の躍動と人生の勝利がある。
 魯迅は一九三六年(昭和十一年)の十月十九日に、五十五歳で亡くなっている。
 故居の二階には、彼が永眠したベッドが置かれていた。暦もそのままであり、時計も臨終の朝の時刻――五時二十五分で停止していた。
 魯迅は、伸一が青春時代から、深く共感してきた作家の一人であった。
 社会の矛盾、不合理への怒り。そして、民衆が強くあらねばならないという生命の叫びが、彼の作品から、感じられてならなかったからである。
 魯迅は、民衆の覚醒のために、文学の筆を執った。彼の筆は冴え渡り、その舌鋒は鋭く、社会の矛盾や悪を、容赦なく、えぐり出していった。
 彼は、一八八一年に浙江(チョーチヤン)省・紹興(シャオシン)の富裕な家に生まれるが、少年時代に一家は没落する。
 一九〇二年、魯迅は日本に留学し、医師を志すのである。
61  友誼の道(61)
 日本に留学した魯迅は、最初、東京の弘文学院で日本語などを学んだあと、仙台医学専門学校に進んだ。
 しかし、二年目には、突如、彼は医専を退学してしまう。
 その経緯については、魯迅の小説集『吶喊』の「自序」に詳しい。
 彼は教室で、幻灯(スライド)に映し出された一つの光景を目にした。
 ――一人の中国人が真ん中に縛られている。ロシア軍のスパイを働いたために、見せしめに日本軍の手で首を斬られるのだ。それを、屈強な体格をした、大勢の中国人が取り囲んで、ただ「薄ぼんやり」とした表情で見物していた。
 魯迅は、その衝撃と怒りを、こう記している。
 「愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか」
 彼は、民族を救うために「われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある」と考える。そして、医専を辞めて、文芸運動にかけたのだ。
 日蓮大聖人は「ただ心こそ大切なれ」と仰せである。自身の幸福も、社会の建設も、その勝負は人間の心にこそかかっている。
 わが心を、鋭敏にし、鋼のごとく強くするのだ。己の臆病と怠惰がつくった、「壁」という幻影に惑わされてはならぬ。
 強い心で、はつらつとした生命で、断じて勝つと決め、勇気をもって走り抜くなかに、新しき時代の旭日は昇るのだ。
 やがて、魯迅は帰国し、教育の仕事に従事しながら、ペンの闘士となって、人びとの精神改造のために健筆を振るう。
 小説『狂人日記』『阿Q正伝』をはじめ、随筆や評論、また、外国文学の翻訳も手がけていく。
 彼は、人間を縛り、無力にしてきた封建的な思想や秩序、制度を痛烈に打ち破っていった。
 彼の胸には革新の鼓動が脈打ち、若々しい青年の気概があふれていた。
 また、魯迅は、終生、青年を愛し、青年の育成に心血を注いだ。
 それゆえに、自分の本を買ってくれた青年が払ったお金の温もりを感じながら、自分の本が青年の前途を誤らせはせぬかと、心を砕き続けるのである。
62  友誼の道(62)
 魯迅は、面倒をみた青年たちから、非難を浴びることもあった。それでもなお、青年の可能性を信じ抜いた。
 さらに、政府の弾圧によって、青年たちが殺害されると、紅涙したたる追悼の筆を執る。
 魯迅が亡くなる十一日前に撮った写真も、青年と語り合う姿であった。
 彼は言う。
 「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」
 それは、山本伸一の思いでもあった。
 伸一も、自分の血を注ぎ込むようにして、青年たちを育ててきた。
 ″青年たちのためならば、自分は踏み台にもなろう。犠牲にもなろう″というのが、彼の信念であった。
 今回の歴史的な初訪中のメンバーを、青年たちの代表で構成したのも、自分を土台にして、青年たちに、平和友好の金の橋を架けてほしいとの思いからであった。
 魯迅の故居を見学した伸一は、案内してくれた人に語った。
 「意義ある歴史的な宝を見せていただき、感謝しております。感銘いたしました。
 魯迅先生の活躍を、これから折に触れて書き残し、日本はもとより、世界に向かって宣揚してまいりたいと思います」
 一行は、故居から数百メートルのところにある虹口(ホンコウ)公園に向かった。ここには、木々の緑に囲まれて、魯迅の墓があった。
 その手前には魯迅の座像がある。イスに座り、胸を張る姿は、凛々しく、堂々としていた。
 それを見上げながら伸一は言った。
 「幸せそうな顔だね。戦った人だからだね」
 信念のままに戦い抜いた人には、後悔はない。戦う人生には、魂の燃焼があり、充実がある。
 「人間の喜びは人間固有の仕事をなすにある」とは、古代ローマの皇帝にして哲学者マルクス・アウレリウスの言葉である。
 正義のため、人びとのために戦い、働くなかにこそ、人間としての真の幸福があるのだ。
 この日の夜、上海でも伸一たち一行のために歓迎宴がもたれた。訪中団が歌う「同志の歌」などの合唱が、交歓の一夜に彩りを添えた。
63  友誼の道(63)
 上海は新中国の発展を支える工業都市である。その上海で生産される新しい重軽工業製品のすべてを展示しているといわれるのが、上海展覧館である。
 十一日午前、一行は、ここを訪れた。
 展覧館は、尖塔のある宮殿のような建物であり、広々としていた。そこに五千点余の新しい製品が展示してある。
 山本伸一たちは、同館の責任者の案内で館内を回った。
 蒸気タービン発電機や自動車、船、自転車、電子計算機、各種の工芸品など、一つ一つの説明を受けながら、上海の工業発展の様子を見て回った。
 誇らかな、情熱のこもった説明であった。その説明から、中国が工業製品の開発に、懸命に力を注いでいることが、よく伝わってきた。
 まだ、欧米や日本の方が進歩している製品が多いかもしれない。でも、その開発と創造の息吹を考えると、中国がリードする時代が来るにちがいないと、伸一は思った。
 彼は、同行のメンバーに語った。
 「日本は今、技術力があるからといって油断していたら、二十一世紀には中国に追い抜かれてしまうことになるかもしれないね」
 未来の勝負を決するのは、人びとの向上心と気力のいかんである。次の時代を見ようと思うならば、人間の、なかんずく、青年の心意気を見ることである。    
 続いて、伸一たちは、盧湾(ルーワン)区の少年宮へ見学に向かった。
 少年宮は、子どもたちの課外活動のセンターである。
 伸一は、声を弾ませて峯子に言った。
 「さあ、また子どもたちに会えるぞ。中国の未来との対話だ!」
 日本を出発して既に十三日である。伸一の疲れはピークに達していたといってよい。しかし、子どもたちと会えると思うと、力がわくのだ。
 未来のために、友好の橋を架けることが、彼の訪中の目的である。それだけに、子どもとの触れ合いには、ことのほか、心が燃えるのであった。
 伸一は、一瞬一瞬が真剣勝負であった。眼前の一つ一つの課題に全生命を完全燃焼させた。その時、暗い疲労は消え去り、新しき挑戦の闘魂がみなぎるのである。
64  友誼の道(64)
 山本伸一の一行が盧湾区の少年宮に着いた時には、朝方、降っていた雨はやんでいた。雨あがりの石畳を歩いていくと、拍手がわき起こった。
 少年宮の責任者や教師、子どもたちが、満面に笑みを浮かべて迎えてくれた。
 「日本のおじさま、おばさま、ようこそおいでくださいました。ありがとうございます」
 中国語の、元気な歓迎の声が響いた。
 えくぼの印象的な高学年の少女と、リボンの似合う低学年の少女が、左右から伸一の手を取って案内してくれた。
 歓迎の席で、一人の少女が、少年宮の目的や設立経過を、さわやかな声で説明してくれた。
 さらに、教師からも、説明があった。
 上海には、各区に、それぞれ少年宮があり、区内の子どもたちが、代わる代わるやってくる。
 そして、ゲームを楽しんだり、体を鍛えたり、文芸や科学技術、人民に奉仕することなどを学ぶのである。
 少年宮の教師は教員だけでなく、工場の労働者や技術者など多彩であるという。
 子どものためには、学校以外にも、それぞれの自主性を生かし、さまざまな特性を生かせる教育の場が必要である。
 特に、日本の学校教育は、知識偏重の傾向が強いだけに、人間の生き方を学び、心を磨き鍛える教育の場が強く求められているといえよう。
 創価学会の未来部の活動は、その先駆となる課外活動といえよう。社会の期待は、今後、ますます大きくなっていくにちがいない。
 孫文夫人の宋慶齢国家副主席は、「子供たちは、私たちの未来であり、希望です」と述べている。
 大人は、その子どもたちに、何を贈るのか。
 ――それは、平和である。生命の尊厳と人権尊重の社会である。未来に希望をいだける社会である。
 そこに、大人の義務がある。子らの未来のために戦うのだ。そのために勝つのだ。
 子どもや教師の説明が終わると、伸一があいさつした。
 「私は日本からまいりました。
 皆さんにお会いすることは私の希望であり、この訪問を最大の楽しみにしておりました」
65  友誼の道(65)
 山本伸一は、笑顔で話を続けた。
 「私は、日本の富士鼓笛隊の少女たちから、友情のしるしとして、プレゼントを預かってきました。レコードとファイフ(横笛)二十本です。
 このレコードは、真心を込めて、自分たちで演奏した、『小朋友』(小さなお友だち)というレコードです。また、ファイフを包んでいる袋も、全部、手作りです」
 さらに、語学の勉強に役立つようにと、伸一はテープレコーダーなどを贈るのであった。
 その時、一人の少女が立ち上がった。
 「私たちの思いを詩にしましたので、聞いてください」
 即興詩の朗読である。
 「おじさま、おばさまからの贈り物。
 私たちの心は、喜びに高鳴る。
 一つ一つのプレゼントから、友情が伝わる。
 中国と日本の人民の、心と心はつながる」
 伸一は、大きな拍手をした。
 「すばらしい。ありがとう。大詩人です!」
 彼は、子どもに詩心が育っていることが、何よりも嬉しかったのだ。
 それから一行は、さまざまな教室を参観した。
 習字をしている部屋に入ると、七歳の少年が書いたという作品が壁に張られていた。見事な字であった。
 爺爺七歳去討飯
 バーバ七歳去逃荒
 今年我也七歳了
 高高興興把学上
 <祖父は、七歳の時に物乞いになった。父は、七歳の時に飢饉のため、故郷を逃げて流浪した。今年、私は七歳になり、このように喜んで学校で、勉学に励んでいる>
 戦乱や自然災害、封建的な制度によって塗炭の苦しみをなめてきた民衆が、新しい中国が誕生し、飢えることなく、子どもは教育を受けられるようになった。
 詩には、中華人民共和国の不滅の初心がある。
 人民の解放、人民の幸福――そのための新中国の建設であったし、その実現に向かって歩み始めた国を、人民は誇りとしているのである。
 国も、個人も、この初心を、絶対に忘れてはなるまい。常に、この初心に帰って、みずみずしい心で挑戦を重ねていくなかに、新しき向上があるからだ。
66  友誼の道(66)
 山本伸一も、峯子も、子どもたちのなかに入って、楽しく交流した。一緒に輪投げもした。五目並べもした。
 模型飛行機を製作している部屋にも足を運んだ。楽しそうに作業に励んでいた少年に伸一が話しかけると、少年は胸を張って語った。
 「大きくなったら、本物の飛行機を造って日本へ行きます」
 伸一は答えた。
 「その時は、ぜひお会いしましょう。その飛行機にも乗せてください」
 少年は、ニコニコしながら、伸一の差し出した手を、ぎゅっと握った。
 子どもたちは、訪中団のために、演奏や歌も披露してくれた。
 伸一は語った。
 「今日は、皆さんの清らかな心に触れ、生命が洗われるような思いがしました。忘れがたい半日でした。
 皆さんは、未来からの使者です。人類の宝です。皆さんのことは、日本のお友だちにも、必ず伝えます」
 すると、一人の少女が代表して言った。
 「山本のおじさん。私たちは、中日両国の友好のために、山本のおじさんが大変に努力してくれたことを知っています。
 私たちは、日本の子どもたちと、友情を結びたいと思います。
 今日のことは、学校で、みんなに伝えます」
 一行は、子どもたちの笑顔と歓声に送られ、少年宮を後にした。
 伸一は、少年少女たちの、さわやかさ、清らかさに、感動を覚えた。その余韻は、いつまでも消えなかった。
 彼は、この子どもたちのためにも、日本と中国の万代にわたる友好の絆を、強く、固く、結んでいかなくてはならないと思った。
 さらに、頭に浮かぶのは、中ソの関係悪化の問題であった。
 ″ひとたび中ソ間で戦争が起これば、この子どもたちはどうなってしまうのか……。
 かわいい少年少女たちのためにも、絶対に、中ソ間の平和を実現しなくてはならない。
 ソ連では、中国の人びとの思いを、力の限り、生命の限り、訴え抜こう″
 伸一は、固く拳を握りしめていた。
 強き信念と深き決意から発する、懸命にして誠実なる行動は、いかなる状況をも、必ず切り開いていくものだ。
67  友誼の道(67)
 杭州(ハンチョウ)の街は雨に霞んでいた。水に濡れた梧桐や柳の緑が、一段と鮮やかさを増していた。
 六月十二日、山本伸一の一行は、西湖と絹織物で知られる浙江省の省都・杭州にいた。
 前日の十一日、上海で少年宮を訪問したあと、午後七時半に列車に乗り、深夜十一時近くに杭州に着いたのである。
 伸一は、車中での三時間余、同行してくれた孫平化秘書長と、創価学会が何をめざしているか、また、日中関係の未来などについて、盛んに意見を交換し合った。
 孫秘書長は、創価学会を理解してくれている中国の友人である。しかし、さらに深く、創価学会の現状と真実を知ってもらおうと、伸一は必死であった。
 学会を取り巻く状況は刻一刻と変化している。そのなかで、常に正しい認識をもってもらうには、対話し続けていくことが大切になる。また、その内容も、より深まっていかなくてはならない。
 十二日午前、伸一たちは、錦の織物工場を訪問したのである。
 製造過程の説明を受けたあと、製品が色鮮やかに織り上げられ、完成するまでを見学した。優れた技術であった。
 午後、一行は西湖に案内された。西湖は周囲十五キロほどで、緑の山に囲まれた風光明媚な湖である。
 北宋の詩人・蘇東坡が「山色 空濛として 雨も亦奇なり」と詩ったように、雨の西湖には、風情があった。
 船で湖上を巡ったあと、湖畔の花港観魚公園を訪れた。雨は、まだやまなかった。
 一行は、公園の休憩所で雨宿りした。そこには二十人ほどの人が、雨がやむのを待っていた。
 伸一は、気さくに声をかけた。中国の民衆と触れ合うことができる、よい機会である。
 彼は、なんのための訪中かを思うと、わずかな時間も無駄にはできなかった。一人でも多くの人と対話し、友好の絆を結びたかった。
 八億といわれる中国人民である。一人ひとりとの対話は、あまりにも小さなことのように思えるかもしれない。しかし、一滴の水が大河となるように、すべては一人から始まるのだ。一人から開けるのだ。ゆえに、一人を大事にすることだ。
68  友誼の道(68)
 山本伸一は、居合わせた壮年に、笑顔で声をかけた。
 「私は日本からまいりました。西湖の美しさは日本でも有名なんです」
 伸一の笑顔に、壮年も笑顔で応えた。
 「日本の桜も有名ですよ。桜の季節は美しいと聞いています」
 二言、三言、言葉を交わすうちに、たちまち心は打ち解けていった。
 伸一は言った。
 「では、日中の友好を願って、桜に関係する歌を皆さんにお聴かせしましょう」
 同行のメンバーが「桜花爛漫の歌」を合唱した。
 桜花爛漫 月朧ろ 胡蝶の舞を …………
 歌い終わると拍手が起こった。
 伸一は、雨宿りをしていた人のなかに一人の少年を見つけると、励ましの言葉をかけた。
 「君たちが二十一世紀の主役です。しっかり勉強して、立派な人になってください。日本へも、ぜひ来てください」
 通訳が伝えると、少年は、はにかみながら笑いを浮かべて頷いた。
 また、経験豊富な鉱山労働者だという人には、こう語りかけた。
 「力を使い、大変であるかもしれませんが、尊い仕事です。どうか、いつまでも長生きをしてください。
 あなたが元気であるということが、人民の勝利です」
 その壮年は、嬉しそうに答えた。
 「そう言われると、やる気が出るね。頑張ろうという気になるよ。あんたも元気でな!」
 「ありがとう。お互いに永遠の青年でいきましょう」
 二人は、笑顔で握手を交わした。
 花港観魚公園をあとにした時、同行していた学生部長の田原薫が、伸一に尋ねた。
 「先生は、いつ、どこにあっても、相手の心を的確にとらえた、励ましの言葉をかけられますが、その秘訣はなんなのでしょうか」
 伸一は言った。
 「秘訣などあるわけがない。私は真剣なんだ。
 この人と会えるのは今しかない。そのなかで、どうすれば心を結び合えるかを考え、神経を研ぎ澄まし、生命を削っているのだ。その真剣さこそが、智慧となり、力となるんだよ!」
69  友誼の道(69)
 山本伸一の一行は、この六月十二日の午後十時過ぎに上海に戻った。
 そして、翌十三日午前には、上海市普陀(プートゥー)区の「曹楊新村」(ツァオヤンシンスン)を訪れた。
 ここは、一万五千世帯、七万人の人びとが住む労働者団地である。
 伸一と峯子は、託児所や幼稚園も訪れた。子どもたちに頬ずりし、時には膝の上に抱きながらの参観であった。
 子どもたちは、かわいらしい歌や踊りを披露し、歓迎してくれた。それは、まるで天使の踊りのようであった。
 伸一は、お礼にとピアノに向かい、「さくら」「春が来た」「むすんでひらいて」を演奏した。
 子どもたちはニコニコして、リズムに合わせて手や首を動かしながら、その演奏を聴いていた。
 心は、深く、強く、通じ合っていった。
 子どもたちに寄せる伸一の親愛の情を、誰もが感じ取ったようだ。
 「音楽は人類普遍の言語である」とは、アメリカの詩人ロングフェローの言葉である。
 一行は午後には、虹橋(ホンチャオ)人民公社を訪れ、工場や地下用水路などを見たあと、この公社で働く七人の青年と語り合った。
 伸一は率直に尋ねた。
 「『人民に奉仕する』ということは、新中国の根本をなす教育思想であると思います。
 しかし、その精神に立てない青年もいるのではないでしょうか。そういう青年に対しては、どのように啓発を行っていますか」
 すると、一人の青年が、自分の体験を語った。
 「私は農業に従事していますが、農作業を始めたころは、天秤棒を使って土を運ぼうとしても、すぐにバランスが崩れ、歩くに歩けませんでした。
 その時に、私をなぐさめ、勇気づけ、畑仕事を一生懸命に教えてくれたのが、かつて貧農であった人でした。
 『頑張るんだよ』との、温かい励ましは、忘れられません。
 この素朴な触れ合いを通して、私は人間の真心を、すばらしさを実感し、この人たちに奉仕しようと決めました」
 人民と行動し、苦楽を共にし、人民に学ぶことが、人民への奉仕の心を培うというのだ。
70  友誼の道(70)
 青年は頬を紅潮させて語った。
 「人びとに励まされ、頑張り抜いたという体験は、私の大きな自信になりました」
 続いて、親元を離れ、ここで初めて農作業を経験したという女性も、体験を語り始めた。
 「最初は激しい労働に疲れ果て、体も痛み、食べ物も喉を通りませんでした。そんな日が続き、農業などやめて、両親のもとに帰りたいと思うようになりました」
 彼女は「その迷いを先輩に聞いてもらい、弱い心に打ち勝って、自分を強くすることができました」と言う。
 先輩は、解放前、多くの人民が餓死し、虐殺されていった様子を、自分の生々しい体験を通して語り、こう訴えた。
 「人民が苦汁をなめた時代に、絶対に逆戻りさせてはならない。そのために苦労に耐えて、人民のための社会を、さらに完成させていくのよ」
 その先輩との触れ合いから、彼女は、「人民に奉仕する」自分をつくるには、よき先輩の触発が大事であると強調した。
 人間は一面、弱いものだともいえる。一人になれば、何かあると、思想も、信念も、揺らぎがちなものだ。
 それだけに、自分を励まし、啓発してくれる人が必要となる。
 また、彼女は、解放前の人民の苦しみという原点を忘れないことが大切であると言う。
 そして、若い世代にとっては、先輩から、当時の人民の様子や解放のための苦闘を聞き、体験を共有し合うことが、原点になると語っていた。
 原点に立ち返るならば「なんのため」という根本目的が明らかになり、力が出る。ゆえに、心に原点を刻んだ人は強い。
 新中国の成立から、すでに四半世紀が過ぎようとしている。解放前と比べ、中国は発展したが、かつての惨状を知らない世代が育っている。
 草創の魂、革命精神を失えば、どうしても安逸に流され、腐敗、堕落が始まる。そうなれば、建国の理想は崩れ去っていく。だからこそ、中国は「自己変革」の方途を、必死になって模索しているのであろう。
 山本伸一は、中国の青年たちに活力があることが嬉しかった。青年が生き生きと活躍しているところには、希望の未来があるからだ。
71  友誼の道(71)
 人民公社での青年たちとの語らいは、結婚観から、「労働についての考え方」「物質的な繁栄が実現したあとの課題」など、多岐にわたった。
 青年同士が友好を深めるうえでも、中国を知るうえでも、実に有意義な語らいとなった。
 この夜、山本伸一たちが上海でお世話になった方々を招いて、宿舎の錦江飯店で答礼宴が行われた。
 出席者を出迎えた学生部長の田原薫が、一人の青年を見て声をあげた。
 「あっ、ここでお会いできるとは!」
 その青年は、四カ月前に来日した中国青年代表団の一員であった。
 この代表団を歓迎する学生大集会が、東京大学で行われ、創価学会学生部は、この実行委員会の要請を受けて、田原らがこれに参加し、熱烈歓迎したのである。
 席上、あいさつに立った田原は、伸一の「日中国交正常化提言」の精神を踏まえて、「日中の永遠の不戦」「平等互恵の精神で両国の発展を推進する」「日中両学生の友好でアジアの平和と繁栄を図る」ことを訴えた。
 さらに、「あらゆる体制やイデオロギーの壁を乗り越え、中国の青年の皆さんと共に、世界の民衆の幸福のために、力強く前進していきたい」と呼びかけたのである。
 その集会で田原は、この青年と固い握手を交わしていたのである。
 そして、思いがけなくも、ここで対面したのだ。
 伸一は一九六八年(昭和四十三年)の学生部総会で「日中国交正常化提言」を行った時、日中の青年が手に手を取って、友好と平和を誓い合う日を思い描いた。
 彼は、今、手を握り合って再会を喜ぶ二人の青年を見ながら、その夢が実現しつつあることを感じるのであった。
 渓流も、やがては大河となる。日中の友好は青年に受け継がれ、何をもってしても止めることのできない、時代の本流となるにちがいない。
 ビクトル・ユゴーは叫んでいる。
 「光の点は大きくなります。光の点は時々刻々と大きくなります。それは未来です」
 ゆえに、未来のために、今、火をともし、光を掲げることだ。今日、何をするかだ。
 青年の友情が燃え輝くなかに、上海の夜は過ぎていった。
72  友誼の道(72)
 中国訪問も、間もなく終わろうとしていた。
 翌六月十四日の昼、山本伸一たちの一行は、上海を発って、空路、広州に向かった。
 中日友好協会の孫平化秘書長は、広州まで、行動を共にしてくれた。
 広州には午後三時前に到着し、夕方、「広州農民運動講習所」を訪ねた。ここは中国革命の原動力となった場所である。
 一九二四年(大正十三年)七月に開校し、中国全土から集って来た青年が講習を受け、農民運動を果敢に展開していったのである。
 毛沢東も数カ月の間、この講習所の所長を務め、周恩来も講師として教えている。
 青年たちは、ここで軍事教育も受け、故郷に帰って農民を組織するなどして、旧体制の巨木を切り倒していったのだ。
 だが、残念なことには、その途上で、多くの若人が亡くなっている。
 何が無名の農村青年たちを、一騎当千の革命の旗手に育て上げていったのか――伸一の関心は、そこにあった。
 もちろん、背景には、地主や役人の横暴や、疲弊し切った農民生活の惨状があったことはいうまでもない。
 この講習所で毛沢東が使ったという部屋を見ると、質素そのものであった。置かれていたベッドも、いかにも硬そうな、木製のものである。
 つまり、指導者も、質実剛健に徹し、青年と一緒になって生活し、行動していたのだ。
 そのなかで、強い共感と同志の絆が育まれ、青年たちは志を固めていったにちがいない。
 また、食堂を見学した折に、案内者は、こう教えてくれた。
 「中国の北からの学生には、彼らの習慣にしたがって、麺類を用意し、豚肉を食べない少数民族の青年たちには、牛肉が用意されました」
 厳しい講習の日々のなかでも、指導者の温かい配慮が光る話である。
 その思いやり、気遣いに対する感激と感謝が、青年たちの闘魂を燃え上がらせ、人間を強くしていったのであろう。真心が人間を育んだのだ。
 訪中最後の夜となるこの夜、一行は広州市の要人たちと食事を共にした。伸一も、峯子も、懸命に対話に努めた。友誼の道を開くために、最後の最後まで情熱を燃え上がらせるのであった。
73  友誼の道(73)
 一切の予定を終えた山本伸一は、孫平化秘書長をはじめ、中日友好協会の関係者と、宿舎の広東迎賓館で、三時間近くにわたって懇談した。
 ここでは、人間をどうとらえるかをめぐって、議論が交わされた。
 伸一は、人間を集団化された階級としてとらえて判別するのではなく、一個の人間という視点に立って、人間を見ていくことが、今後の中国の発展のうえで、大きな力になるのではないかと語った。
 彼は友人として中国の繁栄を願い、誠実に自分の思いをぶつけ、対話に努めた。
 自分の接した身近な人と、信義と友情に結ばれてこそ、本当の意味での国と国との友誼の道も開かれる。眼前の一人と、どこまで心を結び合えるかである。
 また、伸一は、中国滞在中の関係者のこまやかな配慮に、何度も、感謝の言葉を述べた。
 「皆さんと出会え、皆さんの真心に接し、毎日が感動の連続でした。有意義な中国訪問となりました。皆さんと友人になれたこと自体が、訪中の最高の収穫です」
 一国の印象も、身近に接した人によって決まってしまうものだ。大切なのは人である。
 伸一は、最後に、中日友好協会の関係者に、次々と真心の句を色紙に認めて贈った。
 秘書長の孫平化には、「晴れの日も 雨にもかわらぬ 友誼かな」と。
 滞在中、親身になって世話をしてくれた葉啓ヨウと殷蓮玉には、「忘れまじ 世々代々の 歴史旅」「中日の 心と心の 金の橋」と詠んだ。
 北京から同行してくれた陳永昌という青年には、「ともどもに 人民の道 友の旗」との句を贈った。
 すると、孫平化も筆を執った。まず、伸一と峯子に、「中日友好 松柏長青」(中日友好は松、柏のように永遠に)、「友好伝万代」(友好は万代に伝う)と揮毫してくれた。
 さらに訪中団全員のために、「為人民服務」(人民に奉仕する)と認め、その下に四人が署名して贈ってくれたのだ。
 「ありがとうございます。これこそ学会の精神です。共々に、日中の人民、世界の民衆の幸福のために奉仕しましょう」
 伸一と孫平化は、固い握手を交わし合った。
74  友誼の道(74)
 遂に別れの朝が来た。それは、永遠なる友誼への新しき旅立ちの朝であった。
 午前八時、山本伸一の一行は、宿舎の広東迎賓館を出発した。
 広州駅で、北京到着以来、一緒であった中日友好協会秘書長の孫平化、陳永昌と別れた。
 葉啓ヨウと殷蓮玉は、出迎えてくれた深センまで送ってくれるという。
 一行の乗った列車が、中国最後の駅である深セン駅に到着したのは、午前十時五分であった。そこから、往路と同様に、徒歩で香港側の羅湖駅に向かった。
 狭いところでは川幅が数メートルほどの小さな川が、中国とイギリス領香港との境界線である。この川に架かる鉄橋で、葉啓ヨウと殷蓮玉ともお別れである。
 伸一は二人に言った。
 「大変にお世話になりました。お二人のご恩は生涯、忘れません。
 私たちの友情は永遠です。また、お会いしましょう。ぜひ、日本にも来てください」
 伸一は、二人と固い握手を交わした。
 そして、伸一は葉啓ヨウの、峯子は殷蓮玉の肩を強く抱き締めた。
 それから、訪中団のメンバー全員が、この二人の案内者と握手した。
 名残は尽きなかった。
 「謝謝。再見!」(ありがとう。さようなら)
 伸一は笑顔で言うと、歩き始めた。
 葉と殷は目を潤ませ、一行の後ろ姿に、いつまでも手を振り続けた。
 伸一たちも、何度も振り返っては、「再見!」と叫んで手を振った。
 まさに、そこに確かなる友誼の実像があった。
 伸一は、歩きながら、深く心に誓っていた。
 ″この中国の友人たちのためにも、中ソの戦争は絶対に回避しなければならない。さあ、次はソ連だ!″
 彼の胸には、中ソの平和を実現するための、新たなる闘魂が赤々と燃え上がっていた。
 「私は今までやっていた仕事が仕上がったその日に、次の仕事を始めたものであった。一息入れて休むということは絶対にしなかった」
 これは、伸一が対談を重ねたトインビー博士の信念である。大業を成すための要件といえよう。
 なお、博士は、伸一の訪中の直前に、心からの喜びの声を寄せてくれていた。
75  友誼の道(75)
 羅湖駅を出発した列車が次の上水駅に停車すると、車内をのぞき込みながら、ホームを走ってくる数人の人たちがいた。
 香港の幹部である周志剛らであった。
 誰もが自由に乗り降りできるのは、この上水駅からである。
 周たちに気づいた山本伸一と峯子は、列車の窓を開けて手を振った。
 「あっ、先生!」
 周をはじめ、メンバーが、列車に乗り込んで来た。周の額には、汗が噴き出していた。
 彼は、満面に笑みを浮かべ、メガネの奥の目を細めて言った。
 「お疲れさまです。中国訪問の大成功、大変におめでとうございます」 
 香港のメンバーは、日本から送られてくる聖教新聞を読み、訪中の様子を知っていたのである。
 「出迎えありがとう。友誼の道を開いてきたよ。香港の皆さんのためにも、中国の平和と繁栄に、私は私の立場で、全力を注いでいくからね」
 周は、自分たちのことを思ってくれる伸一の真心を感じ、心が熱くなるのである。
 車内で伸一は、原稿用紙を取り出し、盛んにペンを走らせ始めた。
 十七日間にわたる中国訪問の終盤から、彼は時間を見つけては、原稿の執筆を始めた。
 出発にあたって、今回の訪中の印象記を書くように、幾つもの新聞や雑誌から依頼されていたのである。
 帰国後のスケジュールは、ぎっしりと詰まっていた。また、中国への共感や賞讃を記せば、非難の的になることは明らかであった。
 しかし、伸一は、すべてを覚悟し、少しでも多くの人が中国のことを知り、理解を深めてほしいとの思いで、勇んで執筆を引き受けたのである。
 「今」という一瞬に、未来を開く勝負がある。だから伸一は、真剣であった。必死であった。全生命を完全燃焼させた。
 この訪中後、彼が書いた原稿は、本一冊分近くになった。それをまとめて、『中国の人間革命』として発刊している。
 伸一は、北京での答礼宴で、こう宣言した。
 「もはや言葉ではありません。私たちのこれからの行動を、見てください!」
 日中の永遠の友好へ、命をかけての、信義の実践が開始されたのだ。

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