Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第19巻 「宝塔」 宝塔

小説「新・人間革命」

前後
1  宝塔(1)
 「『立宗の日』にちなみまして考えますことは、″日蓮大聖人は、いったい何をこの世に弘めようとなされたのか″という一点であります」
 山本伸一の力強い声が響いた。大きな、根本的な問題提起であった。
 金沢市の石川県産業展示館を埋め尽くした参加者は、求道心にあふれた視線を、伸一に注いだ。
 一九七四年(昭和四十九年)の「立宗宣言の日」にあたる四月二十八日、伸一は、北陸広布二十周年を祝す記念総会に出席していた。
 その講演のなかで、彼は大聖人門下として最も重要な、このテーマに言及していったのである。
 「大聖人がこの世に弘めようとされたものは、端的に申し上げれば『本尊』であります。
 『本尊』とは、『根本として尊敬すべきもの』です。
 人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがなければ、枝葉末節の迷いも、おのずから消えていくものである。
 ゆえに、いちばんの根本となる『本尊』を、一切衆生に与え、弘められたのであります。
 では、その『本尊』の内容とは何か」
 物事の本質にまっすぐに迫っていく伸一の講演に、参加者はぐいぐいと引き込まれていった。
 「それは、『御本尊七箇相承』に『汝等が身を以って本尊と為す可し』(『富士宗学要集』第一巻所収)とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、『人間の生命をもって本尊とせよ』ということであります」
 「御本尊七箇相承」とは、日蓮大聖人から日興上人に相承された、御本尊に関する七箇の口伝である。
 伸一は、力強い声で語っていった。
 「つまり、大聖人の仏法は『一切の根源は″生命″それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに″人間生命″そのものである』という哲理であり、思想なのであります」
 明快な話であった。明快さは、そのまま説得力となる。
 この総会には、五百人ほどの各界の来賓も出席していた。
 「生命をもって本尊とせよ」という話に、皆、身を乗り出した。
 これまでの宗教にはない、斬新な哲学性を感じ取ったからである。
2  宝塔(2)
 山本伸一は、さらに、「御本尊七箇相承」の「法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり」、また、「法界即日蓮、日蓮即法界なり……」の文を引き、こう語った。
 「つまり、宇宙を構成している要素である地・水・火・風・空という、同じ五大種によって、人間も構成されている。
 大聖人は、『宇宙法界の全要素』と『日蓮という一個の生命体の全要素』とは、全く同じものであると断言されているのであります。
 これは、大聖人御自身だけでなく、一切衆生にも共通することであります。
 わが身は即大宇宙であり、妙法の当体である。それゆえに、生命を『本尊』として、大切にするのであります。私どもは、この御指南に、『生命の尊厳』の原点を見いだすものであります」
 伸一は、日蓮仏法の本尊とは、決して神秘や幻想の象徴ではなく、人間自身の生命であることを明らかにしたのである。
 日蓮大聖人は、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」と仰せになっている。
 また、法華経に説かれた宝塔について、「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」とも言われている。
 仏は、遠い彼方の世界にいるのではない。また、人間は神の僕ではない。わが生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体なのである。ゆえに、自身の生命こそ、根本尊敬、すなわち本尊となるのである。
 そして、その自身の南無妙法蓮華経の生命を映し出し、涌現させるための「明鏡」こそが、大聖人が曼荼羅として顕された御本尊なのである。
 「宇宙の法則は本来人間の中にも宿っているのだ。このことを悟る時、はじめて人間は自分の力を信ずることができる」
 これはインドの大詩人タゴールの卓見である。
 人間の生命を根本尊敬する日蓮仏法こそ、まさに人間尊重の宗教の究極といってよい。そして、ここにこそ、新しきヒューマニズムの源泉があるのだ。
3  宝塔(3)
 誰もが、平和を叫ぶ。誰もが、生命の尊厳を口にする。
 しかし、その尊いはずの生命が、国家の名において、イデオロギーによって、民族・宗教の違いによって、そして、人間の憎悪や嫉妬、侮蔑の心によって、いともたやすく踏みにじられ、犠牲にされてきた。
 いかに生命が尊いといっても、「根本尊敬」という考えに至らなければ、生命も手段化されてしまう。
 ボリビアの人間主義の大詩人フランツ・タマーヨは訴えた。
 「世の中に存在するすべては、生命に奉仕するために存在する。哲学も、宗教も、芸術も、学問も、すべて、生命に奉仕し、生命に仕えるために存在するのである」
 人類に必要なのは、この思想である。そして、生命が尊厳無比なることを裏付ける、確たる哲学である。
 人間の生命に「仏」が具わり、″本尊″であると説く、この仏法の哲理こそ、生命尊厳の確固不動の基盤であり、平和思想、人間主義の根源といってよい。
 その生命の哲理を、人類の共有財産として世界に伝え、平和を実現していくことこそ、自身の使命であると、山本伸一は決意していたのである。
 伸一は言葉をついだ。
 「この仏法という生命の法理を原点として、あらためて人間とは何かを問い直し、新しき『人間の復権』をめざしているのが、私たちの広宣流布の大運動なのであります」
 そして、学会が、人間の復権のために、地域に根ざした広範な文化活動を展開し、社会の建設に取り組んでいることを訴えていった。
 出席した来賓の多くは、伸一の話から、宗教が人類社会に果たす役割の大きさを知り、驚きを隠せなかった。
 北陸は、浄土信仰が深く根を下ろしてきた地域である。
 その念仏の哀音と思想は、心の″なぐさめ″にはなったとしても、社会を変革・創造し、未来を切り開く理念とはなりえなかった。
 そうした仏教に慣らされてきた人びとにとっては、「生命の尊厳」の哲理を根本に、人間の復権をめざす創価学会の仏法運動は、衝撃的でさえあったようだ。
4  宝塔(4)
 山本伸一は、記念総会での講演の最後に、この四月二十八日を「石川の日」「富山の日」として前進の節を刻んでいくよう提案した。
 賛同の拍手が場内に響き渡った。
 伸一は、創価学会の方向として、それぞれの方面や県などが、独自性を発揮し、地域貢献をめざしていかなくてはならないと考えていた。
 そして、各県や各地域の前進の節とするため、学会として「県の日」などを定めるように推進してきたのである。
 彼は、北陸訪問に先立って、長野を訪れているが、四月二十六日に行われた長野県総会の席上でも、この日を「長野の日」としてはどうかと提案し、決定をみている。
 山本伸一の行動に休息はなかった。
 彼は、二十一世紀を「生命の世紀」「平和の世紀」とするには、今こそ仏法の平和の哲理を、地域に、社会に、世界に、広く浸透させなければならないと、決意していたのである。
 伸一は、平和と友好の橋を架けるために、五月末には初めて中国を訪問することになっていた。また、ソ連からも訪問の要請を受けていた。
 中ソは国境紛争によって対立の溝を深くし、一触即発の状況にあった。
 彼は、その事態を回避するためにも、中ソ両国を訪問し、人間主義に生きる仏法者として、平和の道を開かねばならないと考えていたのだ。
 また、未来を建設する最重要の柱となる教育事業にも、一段と力を注ぐ必要性を痛感していた。
 ゆえに彼は、片時の休みもなく走り続けた。
 四月の十三日夕刻、三十八日間にわたるアメリカ、パナマ、ペルー歴訪から帰国すると、早くも翌日には、学会本部の最高会議に出席した。
 さらに、外部の月刊誌などに原稿を執筆し、十八日には創価大学の入学式、十九日には創価学園大会に出席し、講演している。
 「もしも諸君がただ今善事をなし得るならば、絶対にそれを延期してはならない」とは、大文豪トルストイの箴言である。
 未来というゴールで競り勝つには、「今」が勝負である。この一瞬一瞬に勝たねばならない。
5  宝塔(5)
 帰国した山本伸一が、師子奮迅ともいうべき勢いでフル回転していたころ、間近に迫った締め切りに追われながら、原稿の校正作業に没頭する青年たちがいた。
 沖縄、広島、長崎の青年部反戦出版委員会のメンバーである。
 青年部が反戦平和運動の一環として取材を重ねてきた戦争体験の証言集が、いよいよ本になろうとしていたのである。
 青年部が、この反戦出版に取り組む契機となったのは、一九七二年(昭和四十七年)十一月に開催された、第三十五回本部総会での山本会長の講演であった。
 伸一は、そのなかで、青年たちに、こう訴えたのである。
 「世界のあらゆる国の民衆が、生きる権利をもっている。それは、人間として、誰にも侵されてはならない権利である。
 その生存の権利に目覚めた民衆の運動が、今ほど必要な時はないのであります。
 私は、その運動を青年部に期待したい」
 人間が「仏性」をもつという生命尊厳の法理は、万人が「生存の権利」を有することを裏付ける原理である。
 そして、ここに、仏法者の生き方、行動の起点がある。
 ゆえに第二代会長の戸田城聖は、「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」と断じて、「原水爆禁止宣言」を発表したのである。
 伸一は、戸田の弟子として、仏法者として、この思想を世界に弘めようと、東奔西走を重ねてきた。そして、人類の生存の権利を守ろうとの思いから、さまざまな識者との対話も推進してきた。
 さらに、平和のための提言も行ってきた。
 この生存の権利を守る戦いを、彼は青年たちに委ね、未来に流れる、人間復権運動の大河を開こうとしていたのである。
 青年たちは燃えた。
 ″核の脅威は人類の前途を覆い、戦争の惨禍は絶えない。また、公害の蔓延や人命軽視の風潮など、まさに現代は生存の権利が危機にさらされている″というのが、皆の実感であった。
 それだけに、使命の重さを感じた。
6  宝塔(6)
 第三十五回本部総会での山本伸一の講演を受けて、青年部では真剣に検討を重ねた。
 そして、翌一九七三年(昭和四十八年)二月に行われた第二十一回男子部総会で、「生存の権利を守る青年部アピール」が採択されたのである。
 そこでは、戦争の廃絶や公害の絶滅、生命軽視の風潮や暴力などとの戦いが掲げられていた。
 また、女子部も、この年の三月に行われた第二十一回女子部総会で「平和と信仰」をテーマに掲げ、平和運動の展開を発表したのである。
 青年部では、この方針をもとに、各地で、生存の権利を守り、平和を築き上げるための、具体的な取り組みについて、協議が重ねられていった。
 いち早く計画がまとまったのは沖縄であった。
 沖縄では五月十九日、県青年部総会を開催し、席上、「戦争体験記を発刊する」との項目を盛り込んだ「沖縄決議」を採択したのである。
 終戦から二十八年、四十代、五十代で戦争を体験した人たちから、証言を取材するには、最後のチャンスともいうべき時を迎えていた。
 その一方で、「戦争を知らない子どもたち」は、「戦争を知らない大人」へと成長していた。既に、戦後生まれが、日本の人口の半分に達しようとしていたのである。
 日本で唯一、凄惨な地上戦が行われ、地形が変わるほどの爆撃や砲撃を受けた沖縄にあっても、戦争体験は次第に風化しつつあったのだ。
 何事にも「時」がある。「時」を見極め、「時」を逃さずに行動を起こしてこそ、大業の成就もある。
 「今」を見失うことは、「未来」を失うことである。
 沖縄の青年たちは立ち上がった。
 「戦争体験記」は、一年後の″沖縄終戦の日″である一九七四年(昭和四十九年)の六月二十三日の出版をめざすことになった。
 編纂委員長には沖縄学生部長の盛山光洋が、副委員長には男子部の桜原正之が就いた。
 盛山は一九四四年(同十九年)の六月、桜原は四五年(同二十年)の四月の生まれである。二人とも、戦時中に生まれてはいたが、悲惨な戦争の記憶はなかった。
7  宝塔(7)
 盛山光洋は、沖縄の竹富島に五人兄姉の末子として生まれた。
 竹富島も空襲を受けており、彼は周囲の人たちから、戦争の恐ろしさをよく聞かされてきた。
 また、父親は徴兵され、戦地で結核にかかった。
 戦後も、家で寝たきりの状態が続き、母親が祖母と父の面倒をみながら子どもたちを育てた。
 家族で、わずかな畑を耕して、粟や麦を栽培した。それが生活の糧であった。
 だが、しばしば訪れる旱魃は、その作物さえも奪ってしまった。
 光洋が八歳の時、一家は、開拓のために西表島に移住した。父は竹富島に残った。
 入植者の仕事は、茅葺きの家をつくるところから始まった。
 そして、木を倒し、根を掘り出し、犂を水牛に引かせて、畑や水田をつくった。
 西表島に来てから二カ月後に、父親が亡くなった。だが、悲しみにふける暇さえなかった。家族には、現実の生活をどう乗り越えていくかという課題が、重くのしかかっていた。
 母は石垣島まで芋などの作物を売りに行き、一家を養った。盛山が中学三年の時、伯母の勧めで母は創価学会に入った。幸せになれるものならとの、思いからであった。
 中学を卒業した盛山は、高校進学のために石垣島に出た。西表島と比べると、石垣島は大都会に思えた。
 彼には″自分は田舎から出てきた″という引け目があった。
 石垣島の環境になじめず、自分からクラスメートに話しかけることもできなかった。
 一学期が終わっても、友だちはできなかった。夏休みになり、寂しい思いで西表島に帰った。
 彼は、母親から何度となく、「『祈りとして叶わざるなし』の信心だよ」と聞かされてきたが、そのたびに、″そんなことがあるものか!″と反発してきた。
 しかし、もはや完全に行き詰まってしまった。孤独を感じていた。
 ″自分も題目を唱えてみようか。本当に願いは叶うのだろうか……″
 「悩みある人は願いを立てよ。仏法は真剣勝負です。万一、実行して解決しなければ、戸田の生命を投げ出そう」
 戸田城聖は大確信をもって、こう述べている。
8  宝塔(8)
 家族がいなくなるのを見計らって、盛山光洋は実家で題目を唱えた。
 さんざん信心に反発してきただけに、御本尊に手を合わせる姿を、見られたくなかったのだ。
 盛山は、唱題を重ねるうちに、勇気と力がわいてくるのを覚えた。不思議であった。
 夏休みが終わり、石垣島に戻った盛山は、皆に積極的に声をかけるようになった。
 すると、ほかの島から来ている生徒も、自分と同じように、環境になじめずにいることがわかった。友人もできた。
 率直な一言が心の扉を開く。勇気をもって対話するなかで、人間の絆は深まる。
 石垣島では、座談会など、学会の活動にも参加した。
 しかし、高校三年になり、受験勉強を始めるようになると組織から遠ざかり、信心もおろそかになっていった。
 大学は琉球大学を受験したが、失敗した。やむなく、小浜島の製糖工場に就職した。二カ月ほどしたころから、彼は不安にさいなまれ始めた。
 ″俺の人生は、このまま終わってしまうのか。もっとほかに、やるべきことがある気がする″
 無性に大学に行きたいという思いが込み上げてきた。母親に相談した。
 「いいよ。お金のことなら心配しなくて……」
 母は、そう言ってくれた。盛山は会社を辞め、那覇に出て、予備校生活を始めた。
 この年の暮れ、従兄が訪ねてきた。
 「お母さんは、那覇に送り出した君が信心していないことを、心配しているよ」
 その言葉が、胸に突き刺さった。
 苦労させ通しで、貧しいなか仕送りまでしてくれている母に、心配をかけていることが申し訳なかった。せめてもの親孝行にとの思いで、再び勤行を始めた。
 聖教新聞も購読し、学生部という組織があることも知った。
 母は、必死に祈っていたのだ。子を思う母の祈りが通じぬわけがない。母の祈りには、海よりも深い慈愛がある。
 盛山は、誓いを立てながら唱題に励んだ。
 ″自分に大学に行く使命があるなら、合格させてください。合格したならば、必ず、人材に成長し、一生涯、学会を守り抜きます!″
9  宝塔(9)
 盛山光洋は、琉球大学の合格発表の日、西表島の実家で、ラジオ放送を聴き、合格を知った。
 母と手を取り、跳び上がらんばかりに喜んだ。
 彼は入学の手続きをすませると、すぐに那覇の沖縄本部を訪ね、学生部の人を紹介してほしいと頼んだ。
 盛山は、学会を守り抜くとの御本尊への誓いを、必ず果たそうと、心に決めていた。
 琉球大学の同学年で、盛山と共に学生部員として活動したのが、反戦出版で編纂委員会の副委員長を務めることになる桜原正之であった。
 桜原は六人兄姉の末子として横浜で生まれた。両親は沖縄出身である。
 生後間もなく、家が空襲に遭った。一家は着の身着のままで必死に逃げた。しかし、桜原は何も覚えていない。
 終戦から二年後に一家は沖縄に帰り、父親は大工をして働いた。生活は至って苦しかった。
 五歳の時、母は糖尿病がもとで他界する。翌年には、後を追うようにして父も病死した。
 父母が他界したあとは、既に結婚していた長兄が、妹弟五人の面倒をみてくれた。
 桜原は、親戚から戦争の話をよく聞かされた。
 ――空襲があると、亀甲墓といわれる、亀の甲羅のかたちをした一族の墓の中に逃げたこと。水や食料を調達するために、夜中に外に出ると、海から艦砲射撃を浴びせられたこと……。
 桜原の幼少期、沖縄には、随所に戦争の爪痕が痛々しく残っていた。
 田んぼには、赤く錆びた米軍の二台の戦車が放置されていた。
 弾丸も、いたるところに落ちていた。それを探して薬莢から火薬を出し、地面に撒き、火をつけて遊ぶのだ。危険極まりない遊戯だった。
 彼が信心をしたのは、中学三年の時である。先に信心を始めた、三女である姉の姿を見てのことであった。
 姉は皮膚病で苦しんできた。そのために、学校へも行けず、外出もできず、いつも、暗く沈んでいた。その姉が、入会後は、はつらつと家事を手伝うようになり、やがて皮膚病を克服したのだ。
 ″この信心には、何かがある!″
 桜原は思った。
 実証は力である。現実にどうなったかに勝負の鍵がある。
10  宝塔(10)
 桜原正之は、中学を卒業したら、働くつもりでいた。兄や姉も、そうしてきたからだ。
 しかし、担任の教師は全日制の高校への進学を強く勧めた。桜原も、できることなら高校へ進みたいとの思いはあった。
 兄たちに頼んでみると、「家族で一人ぐらい高校に行く者がいてもいいだろう」ということになった。
 桜原は、名門の首里高校を受験し、見事に合格した。
 進学できたことに功徳を実感し、勇んで学会活動に励むようになった。
 首里高校の同級生は、ほとんどが大学進学を希望していた。
 桜原は、″自分も大学に行き、広宣流布の力ある人材に育ちたい″と考えるようになった。
 希望は、使命の自覚となり、力となる。
 彼は、猛勉強と唱題に励み、琉球大学に合格したのだ。正之の大学合格を、兄も姉も喜び、進学を支援してくれた。
 同じ琉球大学に学び、共に広宣流布の使命に生きようとする盛山光洋と桜原は、すぐに親友になった。
 二人は互いに励まし合いながら、勉学に、学生部の活動にと、懸命に取り組んでいった。
 彼らは、アルバイトに追われる苦学生という境遇も似ていた。金がなくなると、まとめ買いしておいた片栗粉に、砂糖とコーヒーを混ぜて食べ、空腹を紛らした。
 だが、彼らは、貧しくとも、心は沖縄広布の大願に燃えていた。
 十七世紀フランスの著名な文人ラ・ロシュフーコーは、次のような真理の言葉を残している。
 「ほんとうの友人は、あらゆる宝のうちで最大のものであるとともに、人がもっとも得ようと思いつかない宝である」
 学内で盛山と桜原は、仏法哲理を研鑽するサークルの活動にも力を注いだ。また、沖縄の未来を開くために、仏法を基調にした平和運動の在り方も、真剣に模索していった。
 大学に入学した一九六四年(昭和三十九年)の十二月二日のことである。
 沖縄本部で学生部員会が行われていた。そこに突然、沖縄を訪れていた会長の山本伸一が、姿を見せたのだ。
 誰もが息をのんだ。盛山も桜原も、伸一と会うのは初めてであった。
11  宝塔(11)
 学生部員会に出席した山本伸一は語った。
 「沖縄の歴史は、悲惨であった。宿命の嵐のごとき歴史であった。だからこそ、ここから、幸福の風が吹かねばならない。平和の波が起こらねばならない」
 盛山光洋と桜原正之は、伸一の言葉に、世界の平和を建設しゆく沖縄の使命を感じた。
 また、指導する伸一の言々句々から、″自分たちを大成長させ、絶対に幸福にしよう″という、強い、深い思いが伝わってきた。
 最後に伸一は、「諸君は、広宣流布の獅子として立ってもらいたい」と述べたあと、一人ひとりに鋭い視線を注ぎながら言った。
 「仏法は、絶対に間違いありません。まず、十年間、私についていらっしゃい」
 盛山も、桜原も、この時、腹を決めた。
 ″よし、山本先生につき切っていこう!″
 決意は一瞬である。しかし、それが、未来を、生涯を、決するのだ。
 決意なくして、人生の飛躍はない。
 大学時代は、瞬く間に過ぎていった。
 それぞれ就職も決まった。盛山は銀行に、桜原はテレビ局に勤めることになった。
 その二人に、本部職員の試験を受けてみないかとの話があった。
 彼らは、迷いなく、職員の採用試験を受けた。結果は合格であった。
 盛山は沖縄本部の事務局へ、桜原は聖教新聞社の沖縄の支局に配属されたのである。
 二人は、大学一年の時に聞いた、沖縄から「平和の波が起こらねばならない」との伸一の言葉が頭から離れなかった。
 あの沖縄戦では、十数万人といわれる県民が、命を失っていた。近隣のどの家でも、犠牲者を出していた。
 そして、広大な米軍基地が今なお存在し、そこから、多くの兵士たちがベトナム戦争に送り込まれていったのだ。
 沖縄は″戦後″ではなく、まだ″戦中″といってよかった。
 それでも沖縄戦の体験は次第に忘れ去られ、風化しつつあったのだ。
 それだけに、盛山たちは、「生存の権利を守る青年部アピール」を受けて「沖縄決議」を行うにあたり、「戦争体験記」の発刊を入れるように主張してきたのである。
12  宝塔(12)
 「戦争体験記」の発刊準備にあたる盛山光洋らを燃え立たせたのは、山本伸一が、一九六四年(昭和三十九年)の十二月二日に、沖縄の地で小説『人間革命』の筆を起こしていたということであった。
 そして、この歴史的な日に、伸一と盛山たちとの出会いがあったのだ。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない……」
 この平和宣言ともいうべき一節で始まる『人間革命』の起稿の日に、自分たちは、生涯、伸一についていこうと決意を定めたのだ。
 そう考えると、平和の永遠の礎となるような反戦の書を、自分たちの手で真っ先に完成させたかった。いや、それが沖縄に生きる自分たちの使命であると思った。
 七三年(同四十八年)五月の沖縄青年部総会で「沖縄決議」が行われた直後から、編纂会議は回を重ねてきた。
 戦争体験の収集は、手記としてまとめてもらうか、聞き書きしていくことになった。
 また、戦争体験がより多くの人の目に触れ、平和への波動を起こしていけるようにするため、その原稿を、聖教新聞の沖縄版に紹介してはどうかとの提案もなされた。
 聖教新聞社の那覇支局も同意し、連載することが決まった。通信員も全面的に協力してくれることになった。
 取材が始まった。それぞれが戦争体験をもつ、友人の家族や近所の人などに会い、体験を聞き出すのだ。
 「反戦平和のために、戦争の真実を証言として残しておきたいのです」
 皆、趣旨には快く賛同してくれた。しかし、実際に本題に入ると、涙ぐみ、口をつぐんでしまう人が少なくなかった。
 戦場で受けた恐怖、むごたらしい死、愛する家族を奪われた悲しみ――思い出すには、あまりにも辛いことであった。
 青年たちは困惑した。
 だが、勇気を奮い起こして懇請した。
 「苦しいお気持ちは、お察しいたします。でも、今、その戦争の悲惨さが忘れ去られているんです。将来、同じ過ちを繰り返さないために、真実を話していただけないでしょうか」
 誠実が、真剣さが、その固い口を開かせた。
 誠意によって動かせぬ心はない。
13  宝塔(13)
 「真実の言葉ほど、強力なものはない」とは、フィリピンの格言である。
 その真実を語ってもらうことが、いかに難しいかを、青年たちは痛感したのである。
 また、戦争体験を聞き出せても、時系列があいまいであったり、話が前後で食い違ってくることも珍しくなかった。そんな時には、何度も取材を重ねるのである。
 粘り強さが求められる作業であった。
 何事を成し遂げるにも、不可欠な条件は忍耐ということだ。疲れたからといって井戸を掘る手を途中で止めれば、水を得ることはできない。
 聖教新聞の沖縄版で、戦争体験の連載が始まったのは、一九七三年(昭和四十八年)の八月三日付からであった。タイトルは「戦争を知らない子供達へ」である。
 この連載の最初に登場したのは、「ひめゆり部隊」で生き残った婦人であった。
 「ひめゆり部隊」とは、県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒で編成された学徒看護隊である。
 婦人は、学会員ではなかったが、取材に快く応じてくれた。
 彼女の話は、衝撃的であった。
 ――配属された陸軍病院では、兵士の屎尿を取ったり、亡くなった患者の死体運びなどが、彼女たちの仕事となった。
 敵弾が飛ぶなか、恐怖に震えながら、患者に食事を運ぶこともあった。
 米軍が間近に迫り、病院の移動が決まった時、歩けない患者は残すことになった。
 彼女は、″残った患者たちに、衛生兵が青酸カリ入りのミルクを飲ませた″と聞かされる。しかも、その人たちは「戦死」とされたのである。
 米軍の攻撃で、生徒も次々と死んでいった。
 壕に身を潜めていた彼女たちは、どうせ死ぬなら皆で一緒に死のうと決めて、米軍が壕を爆破するのを待った。だが、壕は爆破されなかった。
 艦砲射撃のなか、アダンの葉の下に隠れて暮らした。
 食糧が残っているという壕に行ってみると、重なり合うようにして、たくさんの骨があった。死後、火炎放射器で焼かれたのだ。
 その壕こそ、現在、「ひめゆりの塔」が立っている場所であった。
14  宝塔(14)
 ひめゆり学徒隊であった、その女性は、白骨の残る壕にとどまった。
 終戦を迎え、日本の降伏を聞かされても、彼女は信じなかった。
 そして、八月二十二日まで、壕の中で息を潜めていたのである。
 語りながら婦人は、何度も声を詰まらせ、泣き濡れた。取材した女子部員も、共に泣いた。
 婦人は、最後に、怒りをかみしめるように、こう語るのであった。
 「国のため、必ず勝つ、と教え、信じ込ませた教育。今になって軍国主義教育がいかに大へんなものであったかが分かります。
 私は戦争を体験したが故に、戦争は再び起こしてはならないと思うし、また、あのような軍国主義の教育にも絶対に反対しなければならないと思っています」
 この婦人の証言は、八回にわたる連載となった。支局には、感動の声や反戦を誓う声などが、数多く寄せられた。
 体験には、何ものにも勝る説得力がある。共感がある。体験を語ることは運動の波動を広げる。
 編纂委員会のメンバーは、ますます闘魂を燃え上がらせた。
 集められた証言は、どれも戦争の暗部をえぐり出していた。
 「集団自決」の悲劇もあった。
 また、沖縄の人びとにとっては、米軍だけでなく、日本兵の横暴もまた大きな恐怖であった。
 日本兵は、自分たちが隠れるために、住民を殴って自然壕から追い出し、食糧を奪い取ったのだ。それを拒んだために射殺された人もいた。
 壕の中で空腹のために子どもが泣き出すと、日本兵に″敵に見つかるからすぐに殺せ″と言われ、銃剣を突きつけられた母親もいた。
 さらに、こんな婦人の証言もあった。
 ――死を覚悟していた軍人の夫と離れ、四人の子どもを連れて本土に疎開。彼女は子どもを身ごもっており、疎開先で女の子を出産した。
 戦争は終わっても、夫が戦地から帰ることはなかった。
 戦後は、女手一つで五人の子どもを育てるという″闘争″が待っていた。
 疎開先で生まれた末娘が急性肺炎を患った。しかし、高価なために特効薬のペニシリン治療を行うことができず、三歳で死んだ。
15  宝塔(15)
 末娘を亡くした婦人は、残った子どもたちを育てながら、″主人さえいれば″と、いつも思い続けた。
 そして、後悔に襲われるのである。
 「たとえ主人は戦死を覚悟していても、私がしがみついて『死んではいけない。どんなことがあっても生き延びてください』と叫び続けておけば、あるいは思い返して、生きていたかも知れない」
 ところが、その一言を口にできなかったのである。彼女は、そんな自分を、「私も戦争協力者」であったのだと、さいなみ続けてきたのだ。
 何の罪もない、けなげな庶民の女性に、癒やし難い心の傷を残してしまう戦争の残酷さを、彼女の手記は訴えている。
 「戦争を知らない子供達へ」の連載は五十八回に及び、一九七三年(昭和四十八年)の年末まで続いた。さらに、翌七四年(同四十九年)三月から、「続・戦争を知らない子供達へ」の連載が続けられた。
 そして、この連載を中心に、戦争体験記として一冊の本にまとめることになったのである。
 本の題名は『打ち砕かれしうるま島』とつけられた。学会歌として全国の同志に親しまれてきた「沖縄健児の歌」の一節を、題名にしたのだ。
 『打ち砕かれしうるま島』(第三文明社)は、沖縄戦の終結から二十九年後の七四年の六月二十三日に、「創価学会青年部反戦出版委員会」による「戦争を知らない世代へ」の第一弾として、発刊されたのである。
 青年たちの反戦平和への熱き血潮と、戦争体験者による涙の証言の結晶ともいうべき、この本の反響は大きかった。
 二度と戦争を起こすまいとの誓いの声が、数多く寄せられ、地元紙でも大きく取り上げられた。
 そして、この一冊が、各県の青年部による、反戦出版の突破口を開いたのである。
 「わが県も、ぜひ戦争体験の証言集を出したい」と、各県の青年たちが、次々と名乗りをあげたのだ。
 「第一歩を踏み出せば、第二歩はたやすく踏み出せる。誰かが先頭に立てば、これに続く人にこと欠かない」とは、伸一が交友を結んだ中国の著名な作家である巴金の名言である。
16  宝塔(16)
 青年部反戦出版の第一号となる、『打ち砕かれしうるま島』は、完成すると、直ちに山本伸一のもとに届けられた。
 伸一は、その刷り上がったばかりの数冊の本を仏前に供えて唱題し、青年たちの健勝と、沖縄の平和を深く祈った。
 それから、ゆっくりとページを開き、丹念に目を通していった。
 彼は、峯子に語った。
 「どれも涙なくしては読めない体験ばかりだ。沖縄の青年部は、よく頑張ったな。歴史に残る仕事をしたよ」
 そして、本の扉に、一文を認めていった。
 「創価学会は  平和反戦の  集団なり  此の書 その証なり」
 さらに、次の一冊には、こう記した。
 「平和の点火 いま ここに燃ゆ 君よ この松明を 生涯にわたって 持ち進め 走れ」
 最初の本は、全国の反戦出版を推進している男子部長の野村勇に、次の本は沖縄県の反戦出版の委員長を務めた盛山光洋に贈った。
 伸一は、この年の二月に沖縄を訪問した折、盛山が高見福安に伴われて、反戦出版の報告にきたことが思い出された。
 盛山は、黒い大きな目を輝かせながら言った。
 「先生は、この沖縄の地で、小説『人間革命』を起稿し、『戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない……』との言葉を、残してくださいました。
 その思想を、沖縄中、日本中、世界中に伝え、平和建設の波を起こしていくために、沖縄青年部は立ち上がりました。
 その証が、今、取り組んでいる反戦出版です。四十人以上の方々の、戦争体験が収録されることになります。
 六月の発刊をめざし、作業は最終段階に入りつつあります」
 伸一は答えた。
 「それはすごいな。
 日蓮大聖人は、立正安国を掲げ、広宣流布の戦いを起こされた。
 正法、すなわち正しい思想・哲学を人びとの胸中に打ち立てて、社会の平和と繁栄を築き上げることが立正安国です。
 社会の建設というテーマを明らかにした、この立正安国という主張こそ、人間のための宗教の在り方を示すものだ」
17  宝塔(17)
 現実社会の問題に目を向けず、改革の力となりえない宗教は、死せる宗教である。
 山本伸一は、彼方を見すえるような目で、力強く語った。
 「平和ということは、人類の未来を考えるうえで、最も大切な問題だ。
 しかも世界は、米ソの対立だけでなく、中ソの対立も、ますます深刻化しつつある。
 だから私も、今年は仏法者として、世界の平和のために、いよいよ本格的に行動を開始します。
 世界の識者の、私たちへの期待は大きい」
 この四年前に伸一が対談したヨーロッパ統合の父クーデンホーフ・カレルギーも、こう述べている。
 「新しい宗教波動だけが、この(第三次世界大戦の)趨勢を止め、人類を救うことができる。創価学会は、それ故に、偉大なる希望である」
 それから伸一は、盛山光洋に、じっと視線を注いで言った。
 「私の平和への行動に呼応するかのように、沖縄の君たちが、反戦出版をもって平和の潮流を起こそうとしてくれていることが、私は何よりも嬉しいんだよ」
 盛山は、微笑みながら答えた。
 「私たちは、この時を待っておりました。戦争体験の風化を、なんとしても、くい止めたいと考えていました。
 それで、先生が、一年三カ月前の第三十五回本部総会で、生存の権利を守る運動を青年部に託された時、沖縄の青年部では、すぐに反戦出版ということを考えました」
 「そうか。その心意気が尊いね。
 ひとたび進むべき方向が決まったならば、皆が呼吸を合わせて、積極果敢に行動することだ。言われたから仕方なくやるというのでは力も出ないし、つまらないからね。
 受け身になるのではなく、自ら勇んで戦いを起こし、広宣流布に生き抜くことが大事だよ。
 大聖人も『我が弟子等・大願ををこせ』と仰せじゃないか。それが、使命に生きるということだ。
 そして、その時、人間は最も主体性にあふれ、生き生きとし、いちばん大きな力を発揮することができる。
 そうなれば、どんなに大変なことがあっても、決して苦にはならないものだよ」
18  宝塔(18)
 山本伸一は、しみじみとした口調で、なおも話を続けた。
 「沖縄は、本土に復帰し、新時代を迎えた。
 沖縄の歴史は、あまりにも悲惨だった。だからこそ、仏法という生命の大哲理をもって、最も平和で幸福な島にしなければならない。そうなることで、仏法の真実を証明するのだ。
 それが沖縄の使命なんです。『宿命』を『使命』に転ずるのが妙法の一念です」
 それから伸一は、盛山光洋に尋ねた。
 「君の出身は、沖縄のどこだったかな」
 「生まれたのは竹富島です。それから西表島に移りました」
 「竹富島は、珊瑚や星砂で有名なところだね」
 「はい。私は小学生の時に父を亡くし、家は大変に貧乏でした。高校は石垣島ですが、口下手で人前で話をするのが苦手でした」
 「そうか……。
 お父さんもいない。家も貧しい。人前で話もできない――だからこそ盛山君には、沖縄の民衆の大リーダーになる使命がある。その資格があるんだよ」
 盛山は、戸惑った顔で、伸一を見た。
 伸一は、微笑を浮かべて語り始めた。
 「だって、そうじゃないか。そういう体験をしてきた君だからこそ、父親を亡くした人の苦しみがわかる。貧乏であることの辛さも身に染みてわかる。口下手である人の気持ちを察することもできる。
 それは全部、民衆のリーダーたる者の大事な要件なんだよ。
 そして、その君が、大リーダーに育てば、みんなの希望となる。
 父親がいないから、貧しいから、話すのが苦手だからといって、自信をなくしていた人たちが、みんな、勇気をもてるようになるじゃないか。
 その実証を示せば、仏法の正しさが証明され、広宣流布の大きな力となる。したがって、自分のもって生まれた宿命は、そのまま使命になる。
 人生には、意味のないことなど一切ないし、すべてが生かされるのが信心なんだよ。だから『妙とは蘇生の義なり』なんだ。
 頑張って、沖縄の大リーダーに育つんだよ」
 「はい!」
 盛山は、決意に燃えて答えた。
19  宝塔(19)
 山本伸一は、高見福安と盛山光洋に、宿命の転換ということについて、さらに語っておこうと思った。
 伸一は話を続けた。
 「私は、沖縄の地で、小説『人間革命』を書き始めた。この小説のテーマは知っているね」
 盛山は即座に答えた。
 「はい。『一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする』です」
 「そうだ。では、どうすれば、自身の人間革命を成し遂げ、宿命を転換していけるかだ」
 二人は、伸一の次の言葉を待った。
 伸一の厳とした声が響いた。
 「宿命を転換するといっても、それはまず、自分の一念を転換することから始まる。
 結論するならば、一念の転換とは、広宣流布の使命を自覚し、広布に生きると決めることです。
 戸田先生は、妙悟空のペンネームで書かれた『人間革命』で、そのことを教えてくださっているんです。
 軍部政府の弾圧で投獄された主人公の巌九十翁、すなわち戸田先生は、獄中にあって法華経を読み、唱題に唱題を重ね、こう悟達する。
 『おお! おれは地涌の菩薩ぞ! 日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、光栄にも立会ったのだぞ!』
 法華経の虚空会の会座で地涌の菩薩が出現し、教主大覚世尊から、日蓮大聖人が地涌の菩薩の上首として、末法の正法流布を託される。
 戸田先生は、その場に自分もいたことを覚知されたんです。
 それを、巌さんの体験として、先生は『人間革命』に描かれた。
 そして、次のように巌さんが決意するところで小説は終わっている。
 『よし! ぼくの一生は決まった! この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ!』
 この言葉こそ、戸田先生の究極の決意であり、創価学会の使命を明言しています。そして、ここに、人間革命、宿命転換の直道があるんです」
 高見も盛山も、目から鱗の落ちる思いがした。
 自分たちは今、仏法の極意ともいうべき、重大な話を聴いているのだと思った。
20  宝塔(20)
 話すほどに、山本伸一の言葉には力がこもり、熱を帯びていった。
 「末法にあって、題目を唱え、広宣流布の戦いを起こせるのは、地涌の菩薩だからです。
 ゆえに、大聖人は『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』と仰せなんです。
 私たちは、どんな宿業に悩んでいようが、本来、地涌の菩薩です。
 宿業も、末法に出現して広宣流布するために、自ら願って背負ってきたものなんです。
 でも、誰を見ても、経済苦や病苦など、苦しみばかりが目立ち、地涌の菩薩のようには見えないかもしれない。事実、みんな、日々悩み、悶々としている。
 しかし、広宣流布の使命を自覚し、その戦いを起こす時、自らの胸中に、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が厳然と涌現するんです。
 不幸や悩みに負けている仏などいません。
 苦悩は必ず歓喜に変わり、境涯は大きく開かれ、人間革命がなされていく。そして、そこに宿命の転換があるんです。
 では、地涌の菩薩の生命とは何か」
 ここで伸一は、地涌の菩薩の生命について言及していった。
 地涌の菩薩の上首は、上行菩薩をはじめとする無辺行、浄行、安立行の四菩薩である。四大士とも言い、これは、勇気をもって大衆の先頭に立つとの意味でもある。
 日蓮大聖人は「御義口伝」に法華文句輔正記を引いて、四菩薩が、仏の生命に具わる四徳である「常楽我浄」に配せることを示されている。
 また、東洋思想で宇宙の万物を構成する四つの元素とされる、「地水火風」の四大にも関連させながら論じられている。
 上行は「我」を表し、「火」の働きをなす。
 「我」とは、自らが仏であることを覚知し、何事にも動じない、強い主体性と信念を確立した境涯といえる。
 また、「火」には物を焼く作用があるが、苦しみの元であるはずの煩悩を焼いて智慧の光へと転じ、世間の闇を照らす働きをいう。
 つまり、周囲の人びとを熱き慈悲の一念で包み、勇気を与えゆく大リーダーの生命である。
21  宝塔(21)
 無辺行は「常楽我浄」の「常」を表し、また、「地水火風」の「風」の働きをなす。
 「常」とは、生命は三世常住であることを覚知した境涯である。
 生命が永遠であることがわからず、死に怯え、苦悩に縛られた自己を脱して、三世にわたる因果律に立った、広々とした自由自在の境地を会得することである。
 この境地に立つならば、風が塵や埃を吹き払うように、いかなる苦悩も吹き飛ばしていくことができる。
 大聖人は、種々の大難も、「風の前の塵なるべし」と仰せである。
 さらに、浄行は「浄」を表し、「水」の働きをなす。
 これは、常に仏の清浄なる生命を涌現し、決して現実の汚濁に染まることなく、清らかな水のように、万物を清めていく働きである。
 清らかな心には、豊かな感受性が宿り、感謝があり、感動がある。そこに美しき人間性の花が咲き薫るのだ。
 安立行は、「楽」を表し、「地」の働きをなす。いわば安心立命の境地にも通じよう。
 つまり、何があっても紛動されることなく、豊かな生命力をもって、人生を楽しみきっていける境涯ということである。
 また、大地が草木を育むように、人びとを、支え守る働きといってよい。
 法華経の会座において、末法の広宣流布を託されたのが地涌の菩薩である。
 したがって、私たちは広宣流布の使命に生きる時、その本来の生命が現れ、四菩薩の四徳、四大が顕現されるのである。それによって、境涯革命、人間革命、宿命の転換がなされていくのだ。
 一人ひとりが、凡夫の姿のままで自分を輝かせ、病苦や経済苦、人間関係の悩みなど、自身のかかえる一切の苦悩を克服し、正法の功力を実証していくことができるのである。
 その実証を示すための宿業でもあるのだ。
 ベートーベンは、こう叫びを放った。
 「どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。――おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!」
 その道こそが、われらの信仰なのだ。
22  宝塔(22)
 山本伸一は、地涌の菩薩について語ったあと、強い口調で再確認するように盛山光洋に言った。
 「人類の平和を実現するには、仏法の哲理を根幹とする以外にない。
 たとえば、人類には生存の権利があるといっても、それを裏付ける哲学がなければ、本当の思想の潮流とはならない。
 仏法では、万人が仏であり、また、慈悲の当体であると説き明かしている。これこそ生命尊厳の大原理です。
 その思想が、世界の指導者に、全人類の胸中に打ち立てられるならば、戦争など起こるはずがない。また、貧困や飢餓、疾病、人権の抑圧などが、放置されるわけがない。
 私たちがめざす平和は、誰もが人間らしく、幸福に生きることのできる社会の実現だ。
 そのための広宣流布であり、一宗派のためなどという偏狭な考えは、私にはありません。
 私が世界に伝えようとしているのは、この世から戦争をなくすための、生命の尊厳という普遍の哲理です。人間が人間らしく生きるための人間主義の哲学です」
 彼は語らいの最後に、盛山の手を握り締めて言った。
 「君たちの手で、沖縄に本当の平和を築いていくんだよ。
 それが戦争の惨禍に苦しみ、君たちを守り育ててくれた、お父さん、お母さんへの恩返しだ。
 今回の反戦出版は、その第一歩だね」
 「はい!」
 盛山の、燃えるような元気な声が響いた。  
 ――この語らいから四カ月半が過ぎた今、反戦出版の第一巻として『打ち砕かれしうるま島』が完成したのだ。
 約束通りの結果をもたらしてこそ誓いであり、弟子である。これが沖縄健児の魂であった。
 沖縄青年部は、その後も反戦出版に取り組み、翌一九七五年(昭和五十年)の六月には、『沖縄戦――痛恨の日々』が発刊される。
 これは、沖縄青年部が県下の百余会場で開いた「戦争体験を聞く会」で語られた体験をまとめたものである。
 この集いには、数千人の青年が参加している。いわば県民に根ざした反戦平和運動の大きな広がりのなかで、反戦出版沖縄編の第二集が誕生したのである。
23  宝塔(23)
 沖縄では、一九七六年(昭和五十一年)六月には、名護の高校生と中学生が、父母や親戚などに聞いた戦争体験をまとめた『血に染まるかりゆしの海――父母から受け継ぐ平和のたいまつ』が完成する。
 翌年には、娘たちが母親に取材した戦争体験を収録した、『沖縄戦・母の祈り――娘が綴る母親の記録』を発刊。
 七九年(同五十四年)六月には、県で五冊目となる『沖縄―6・23平和への出発――戦中・戦後を生きぬいて』が刊行されている。
 これは、戦後の体験まで広げ、証言を聞き書きしたもので、戦争が人の一生にどれほど暗い影を落とし、重くのしかかるのかを語りかけている。
 琉球大学の仲程昌徳教授は、自著の『沖縄の戦記』(朝日新聞社刊)でこの五冊の反戦出版を詳細に紹介している。
 そして、七〇年代初期からの、非戦闘員であった人びとが戦争体験を集め、記録化した時期のなかで、この五冊は「もっとも注目に値する」と賞讃を惜しまない。
 なかでも『血に染まるかりゆしの海』『沖縄戦・母の祈り』に着目し、こう述べている。
 「肉親の体験を直接耳にしていくことによって『青年個々の胸中に反戦へのたいまつがともされ、それが確かな砦となって構築されて』いくということはありえる。戦争体験談を記録化する目的にかなった、それは当を得た編集方法であったといえるであろう」
 事実、ヘゴ(常緑シダ)の根を食べ、焼け跡に食糧を取りにいって米兵に発砲された母たちの体験を聞いた高校生は、取材後記のなかで、こう記している。
 「僕にはとうてい考えられませんが、しかしこれが僕を生んでくれた人の体験だったのです。
 『こういう思いは、今の子供たちに絶対させたくない。させてはならない』という母の顔は今までになく厳しく、僕には美しくさえありました。そして、母たちの心からの叫びを僕たちが継承していこうと思いました」
 若い世代が立ち上がってこそ、平和という偉業はなる。崩れざる平和を築くために、青年を、若い力を育むのだ。
 これらの反戦出版は、″平和後継の灯台″として、未来に光を放ち続けている。
24  宝塔(24)
 沖縄の青年たちが、反戦出版の第一巻『打ち砕かれしうるま島』発刊の最終校正に追われていたころ、広島と長崎の青年たちも、反戦出版の編纂作業に追い込みをかけていた。
 広島の青年部では、広島の原爆投下二十九年にあたる、この一九七四年(昭和四十九年)の八月六日に、反戦出版の第二巻となる、『広島のこころ―二十九年』を出版することになっていたのである。
 また、長崎でも、やはり長崎の原爆投下の日である八月九日に、反戦出版の第三巻『ピース・フロム・ナガサキ』を発刊する予定であった。
 広島と長崎の青年たちは、第二代会長・戸田城聖が示した、「原水爆禁止宣言」の遺訓を実践する誇りに燃えていた。
 被爆都市に生きる自分たちの使命として、「平和の世紀」「生命の世紀」の創造を、固く心に誓っていたのだ。
 そして、そのために、原爆の悲惨さを、世界に向かって叫び抜かなければならないと、強く決意していたのである。
 フランスの文豪ゾラは『青年への手紙』の中で、こう呼びかけている。
 「おお青年よ、若き君たちを待っている偉大な使命を思い出してくれ!
 終焉を迎えつつある今世紀がもたらした『真実』と『正義』の課題を、来るべき新世紀が解決してくれるであろうと、我々は深く確信している。そして、この新世紀の土台を築くのは、若き君たちなのだ!」
 創価の青年たちは、世界の恒久平和のために、陸続と立ち上がったのである。
 広島の青年部は、一九七三年(昭和四十八年)八月に″原水爆禁止平和集会″を行い、被爆体験を後世に残していく活動をしていくことを発表した。
 そして、県青年部に反戦出版委員会を設け、そのメンバーが中心となって、具体的な取り組みが始まったのである。
 委員会の青年たちは、学会員などで被爆した人を捜し、被爆体験を原稿にまとめてほしいと頼んで回った。
 「被爆に関する思い出なら、どんなことでも結構です。原水爆絶滅のために、書いていただけませんでしょうか」
 青年たちは、学会員なら、二つ返事で書いてくれるものと思っていた。
25  宝塔(25)
 被爆した人たちの反応は、青年たちが考えていた以上に、厳しいものがあった。
 「あんたぁ、わしにピカ(原爆)のことを書け、言うんね! 勘弁してつかーさいや。恐ろしゅーて、もう思い出しとうもないんじゃ」
 被爆体験の執筆を断る人も少なくなかった。考えることさえ、辛く、忌まわしいと言うのだ。
 青年たちは、自分たちの考えの甘さを思い知らされた。
 被爆者の心に刻まれた傷の深さは、自分たちの想像を、はるかに超えていたのだ。
 しかし、メンバーは、ここからが本当の戦いだと思った。
 ″一度ぐらい断られたからといって、あきらめてなるものか!″
 青年たちによる説得が始まった。
 「なんのための反戦出版か」ということから、誠意を込めて懸命に訴えていった。
 「私たちは、誰人であれ、どの国であれ、もう絶対に原爆を使用させてはならないと決意しています。
 それには、原爆がいかに恐ろしく、悲惨であるかを、世界中の人たちに訴えていかなければなりません。そのための反戦出版なんです。
 原爆の本当の恐ろしさは、体験した方でなければわかりません。だから実際に被爆された方々の証言が、どうしても必要なんです。
 世界の平和を実現していくのは、仏法者である私たちの使命です。
 辛く、悲しいお気持ちは、よくわかります。
 でも、原爆の惨禍を防ぎ、世界の平和を築き上げていくために、ぜひ、ペンを執っていただきたいのです」
 青年たちが何度かお願いに通うと、ある婦人は遂にこう言って、執筆を約束してくれた。
 「あんたらの熱心さにゃあ、負けたわ。書かせてもらうけぇ。
 原爆の犠牲になるなぁ、もう、うちらだけでたくさんじゃけぇ。辛いけど、平和のために、うちも勇気を出して書かにゃいけんね」
 誠実と粘り強さ――これこそが人間の心を動かすのだ。
 また、反戦出版委員会のメンバーは、聖教新聞の広島支局と相談し、地方版で被爆体験の募集を呼びかけていった。
 皆が必死であった。
26  宝塔(26)
 『広島のこころ―二十九年』には、最終的に五十五人の貴重な証言が掲載されることになった。
 全四章からなり、第一章の「あの日 私は」では、原爆投下の一九四五年(昭和二十年)八月六日を中心に、被爆体験がつづられている。
 ――体の皮は、はがれて足まで下がり、白い布を引きずるようにして歩く人の群れ。
 「水をくれ!」と叫ぶ人。目はつぶれ、背中は真っ赤にただれ、息を引き取った娘。髪が抜け、顔は土色になり、鼻・口・肛門から出血し、死んでいった夫……。
 ある婦人は、その惨状を再現し、「思い出すだけでも胸がいっぱいで涙がほおをつたいます」とつづっている。
 どの証言も、この世のこととは思えぬ悲惨さを伝えていた。
 表裏のわからぬ死体。ガラスの破片で六十数カ所も負傷し、血まみれになった子ども。火傷の傷口にわくウジ。周囲には、医師もいない、薬もない。やり場のない、怒り、悲しみ、不安……。
 しかも、被爆の苦しみは、それで終わりではなかった。
 第二章「生き抜いて」には、被爆者として生きた苦闘も記されている。
 被爆によって、不自由になった体、無残な火傷の跡、そして、治療方法のわからぬ原爆症との闘い。社会の偏見……。
 被爆して死んでいった人びとの光景も地獄であり、生きることもまた、地獄の苦しみを強いられた。何度も自殺を企てた人もいる。
 しかし、証言者が学会員であるだけに、多くの人が、手記の後半には、その苦悩を、信仰によって、いかに乗り越えていったかを、感動的につづっていた。
 「人が真実の信仰を知ることは、暗い部屋に明かりを灯すようなものである。すべてが明らかになり、心が朗らかになる」
 これは、トルストイが『人生の道』に記した深き洞察である。
 絶望の淵から、毅然と顔を上げ、身を起こし、幸福への道を歩み出す力となってこそ、真の信仰なのだ。
 だが、委員会のメンバーは、集まった原稿を前に頭を抱えた。
 ″作ろうとしている本は、被爆体験をまとめた反戦出版であり、信仰の体験談集ではない……″
27  宝塔(27)
 反戦出版委員会のメンバーは、話し合いを重ねた末に、手記のなかで、信仰によって原爆症や差別に打ち勝った部分は極力削ってもらい、被爆体験とその後の苦闘に焦点を絞った。
 たとえば、十四歳の時に被爆し、大火傷を負った金子光子という婦人の手記も、入会後の話は省き、被爆とその苦しみのなかで、いかに生きたかに絞ってもらった。
 ――金子は被爆後、やっと床の上に座れるようになると、杖をついて洗面所に行き、初めて鏡を見た。部屋の中の鏡は母が隠してしまっていた。
 「これが自分の顔かとなんども首を曲げたり、ほおをつまんだりしてみたが、鏡の中の顔は私のする通りのことをした。
 真っ赤な顔、耳の下からほおにかけて赤黒く盛り上がった肉、髪はほとんど抜けて坊主頭。それっきり私は鏡を見たいといわなくなった」
 乙女の衝撃は、あまりにも大きかった。外出をしなくなり、笑いを忘れたようになった。
 女学校のクラスメート五十人のうち、生き残ったのは四人。登校途中で別れた姉も死んでいた。
 その後も「原爆症に悩まされ、寒くなれば風邪を引き、夏になると貧血で倒れ、季節の変わり目には火傷の跡がひきつるように痛む」のだ。
 掲載された金子の手記は、「なんで私ばかりこんなに苦しい目にあわなければならないのか、と生きる楽しみもなく病院通いをしたものであった」で終わっている。
 手記には省かれているが、子どもたちから「ケロイド娘」と、はやし立てられたこともあった。
 銭湯に行くと、「ほかのお客が気味悪がるから来ないでくれ」と言われた。
 泣きながら走って帰り、その悲しさ、悔しさ、怒りを母にぶつけた。
 「なんであの時、死なせてくれなかったの!」
 母は、娘を抱き締めて言った。
 「誰がなんと言おうとお前が一番素敵だよ。お母さんは、ずっと、そう思っとるんよ」
 母の言葉は、限りなく温かかった。傷ついた心が癒やされ、生き抜く勇気がわいた。
 春風が若芽を目覚めさせるように、真心の励ましは凍てた心をとかし、人間を奮い立たせる。励ましは、最大の蘇生の力である。
28  宝塔(28)
 母親の励ましを支えに金子光子は、懸命に生き抜いていった。
 和裁を教える資格を取り、着物も仕立てるようになる。人生の峰に挑み、社会に目を向けるなかで、彼女は思う。
 ″私よりも、もっと、もっと、辛い思いをしている人もいる。戦争で苦しめられた人を、一人でも多く助けたい″
 人のために――そこに真の生きがいがある。
 彼女は、動員学徒の犠牲者の会を広島に発足させるために尽力し、活動を始めた。
 一九五九年(昭和三十四年)に、同じ被爆者と結婚。六一年(同三十六年)に長女に恵まれた。
 その喜びも束の間、彼女は出産直後から、貧血や頭痛に苛まれた。
 また、娘は、生まれながらの虚弱体質であった。娘が三歳になったころ、つまずいて、よく転ぶことが気になった。
 医師に診てもらうと、重度の視力障害で、失明に近い状態であるとの診断であった。
 ″この子には、なんの罪もない! 原爆は、私たちを、どこまで苦しめるのか……″
 打ちのめされるような思いがした。自分の運命を呪った。
 そんな時、地域の婦人から仏法の話を聞き、金子は入会を決意したのである。娘を救いたいとの一心であった。
 宿命の転換、そして、人類の恒久平和をめざす広宣流布の運動に、強く共感した。
 入会した彼女は、懸命に学会活動に励んだ。
 一年後、娘を診た担当の医師が尋ねた。
 「別の病院で治療を受けていますか」
 なんと、娘の視力が回復してきたというのだ。
 金子は、信仰に励むなかで、原爆の恐ろしさを未来に伝え、平和の永遠の礎をつくることが、被爆者である自分の使命だと考えるようになった。
 そして、被爆体験を語り継ぐ会の一員となり、広島を訪れる修学旅行生などに、被爆体験を語るようになる。
 それは、彼女の生命の叫びであった。平和を熱願する民衆の魂の声であった。
 「自覚の声が起れば、その響きは、尋常の響きとちがって、非常に大きく清らかであるから、その一つ一つが必ず人の心を撃つのである」とは、中国の文豪・魯迅の確信である。
29  宝塔(29)
 一九九三年(平成五年)夏のことである。
 広島を訪れたインドのガンジー記念館館長のラダクリシュナン博士は、金子光子に尋ねた。
 「原爆を投下したアメリカをどう思いますか」
 彼女は率直に答えた。
 「憎んだ時期もありました。でも、恨むことに心を費やすことが、どれほど惨めであるか……」
 そして、毅然として語った。
 「人生は何に生命をかけるかが大切です。私はすべての人の幸福のため、すべての国の平和のために生命を捧げます」
 憎しみを乗り越え、世界の平和のために生命をかける婦人の言葉に、博士は感嘆の声をあげた。
 「ワンダフル!」
 それから博士は、感動に頬を紅潮させながら、一人の青年に言った。
 「あのご婦人の心のなかに、不滅の力がある。あのご婦人の心の行く手に、世界の希望がある」
 修学旅行生らに原爆の悲惨さを語り、平和を訴える、被爆者である金子光子の言葉には、計り知れない重みがある。
 多くの人たちから、「魂を揺さぶられるようであり、強い説得力がある」と言われる。
 そこには、宿命を使命に転じた、人間の蘇生の輝きがある。
 また、胎内被爆し、原爆小頭症として生まれた娘をもつ壮年は、信心を始めてから、同じ障害のある子とその親たちの会を結成。会長として活躍する。
 原爆小頭症は、放射線の影響で頭が小さく生まれ、発育不全になる障害である。
 胎内被爆者の女性が十九歳で自殺した事件が、行動の契機となった。
 さらに彼は、胎内被爆者の「原爆症」認定を求める運動を起こしたほか、平和のために、原爆の悲劇や放射能の恐ろしさを訴えていった。
 彼は以前、″この子はいっそ、生まれなかった方が……″と思いもした。
 しかし、仏法は彼の一念を変え、強く、深い心を培っていったのだ。
 発刊された反戦出版では、障害のあるこの娘が「我が家になくてはならない存在になっている」と記している。
 後年、彼はこう語った。
 「ワシが生まれたから娘がいるんじゃない。娘を守るために、ワシが生まれたんじゃ。娘は、誰にもできん仕事を授かった、″平和の天使″じゃ」
30  宝塔(30)
 広島の原爆は、推定約十四万人(一九四五年末)といわれる人の命を奪っただけではなく、生き残った被爆者の子や孫にまで、多大な影響をもたらし、苦悩の底に叩き落としていったのだ。
 そこに、原爆は悪魔的兵器といわざるをえない恐ろしさがある。
 『広島のこころ―二十九年』の第四章「被爆二世の叫び」には、胎内被爆者など、被爆二世の体験も収録されている。
 この広島県反戦出版委員会のメンバーである山上則義も、胎内被爆者であり、彼自身の手記も収められている。
 山上が、自分が胎内被爆者であることを意識したのは、中学二年生の夏の終わりであった。
 体がだるく、食欲がなく、首に腫瘍ができた。
 悪性腫瘍であった。すぐに入院し、手術を受けた。しかし、医師は「命は長くないかもしれない」と言うのだ。
 その言葉に、母は号泣した。そして、思い詰めたように語った。
 「お母ちゃんが、あの原爆の黒い雨で、リンゴを洗って食べたのがいけんのかねえ」
 あの日、母は爆心地から二・五キロほど離れた自宅で被爆。その時、彼は母の胎内にいたのだ。
 山上は自分が「被爆二世」であることを思い知らされた。絶望の淵に突き落とされた。
 半年間の入院中、同室にいた三人の人が亡くなったが、彼の病状は、次第に好転し、翌年の春から学校にも復帰した。
 母は、嬉しそうに送り出してくれたが、山上の心は、いつ死ぬかもしれないという恐怖に苛まれていた。
 黒い雨は、十数年を経て、山上の心から希望という太陽を奪った。太陽なき青春の闇は、限りなく深かった。
 未来に希望を思い描くことのできない彼は、自暴自棄になり、ケンカに明け暮れた。
 原爆を落としたアメリカが憎かった。バイクに乗って米軍基地のある山口県の岩国に行き、米兵と殴り合った。負けてボロボロになった。
 もともと勝つつもりはなかった。殺されてもいいと思っていた。
 「諦めとは停滞であり、死を意味します」とは、アメリカの作家パール・バックの箴言である。だからこそ、人生には、希望の哲学が必要なのだ。
31  宝塔(31)
 山上則義は、勉強なんかしても仕方がないと思った。高校には進学したが、出席日数が足りずに留年した。
 そのころ、今度は母親が入院した。卵巣癌であった。手術を重ねた。
 母の体は、原爆の放射能に侵されていたのである。
 山上の生活は、一層すさんでいった。高校はケンカで退学になった。
 母は、バケツいっぱいの血を吐いて死んだ。肝臓も、肺も、癌に食い荒らされていた。
 さらに、その十日後、やはり原爆症で癌を患っていた祖母も、後を追うように亡くなった。
 五人家族は、父親と弟と三人家族になった。
 三カ月後、山上は広島から逃げ出すように、東京行きの夜行列車に飛び乗った。
 友人の下宿に転がり込んだあと、独り暮らしを始めた。
 生活は荒れたままだったが、自分自身の生きる意味を探し求めた。
 彼は翌年の四月から東京の高校に編入学した。もう一度、やり直したかった。アルバイトをしながら高校に通った。
 だが、悶々とした日々が続いていた。
 そんなある日、知り合った日系カナダ人の婦人から仏法の話を聞いた。
 彼女は親身になって励ましてくれ、別れ際、一冊の本を貸してくれた。山本伸一の小説『人間革命』第一巻であった。
 下宿で本を開いた。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」という文字が目に入った。鮮烈な感動が襲ってきた。
 原爆で苦しんだ、母や祖母の姿が浮かんだ。
 胎内被爆し、人生を狂わされた、自分自身の来し方を振り返った。
 被爆直後に十数万人が命を失い、今なお、多くの被爆者が苦しんでいる、広島の現実を思った。
 ″本当にこの言葉の通りだ……″
 「黎明」の章の終わりの一節に、彼の目は釘付けになった。
 そこには、「闇が深ければ深いほど、暁は近いはずだ」とあった。
 ″この数年、俺は闇のなかをさまよっていた。でも、俺も、立ち直れるかもしれない″
 そう思えた。
 すると、涙がポロポロとこぼれた。
 真実の言葉は、心に希望の火をともし、挑戦の勇気をわき上がらせる。
32  宝塔(32)
 山上則義が入会したのは、日系カナダ人の婦人から仏法の話を聞いた一週間後の、一九六六年(昭和四十一年)二月のことであった。
 その後、彼は、高校に通いながら新聞販売店で働き始めた。ある日、新聞配達中に喀血し、救急車で病院に運ばれた。
 小学生の時に患った結核が再発したのである。
 彼は、信心に不信をいだいた。下宿に戻ると、仏壇を叩き壊した。
 ″俺はこれから、どうなるのか……″
 不安と絶望に、何もする気になれなかった。
 そこに、青年部員が訪ねて来た。青年は、目を潤ませながら、山上の話を聞いてくれた。そして、力強く励ましてくれた。
 赤の他人のことに涙してくれる真心が、山上の心に熱く染みた。
 以来、青年たちが、週に二、三回は訪ねて来て、共に唱題してくれた。
 山上は、自分も皆と一緒に、真剣に信心に励んでみようと思った。
 唱題にも熱がこもった。折伏にも挑戦した。
 生命の底から込み上げる充実を感じた。
 山上の話を聞いて、友人たちが、二人、三人と、信心をするようになった。彼の奮闘を、地域の婦人たちは、心から讃え、喜んでくれた。その姿に、亡き母親の面影が重なった。
 十六人の友人の折伏が実ったころ、胸のレントゲンを撮った。なんと結核は固まっていた。
 山上は、この体験で信心の確信をつかんだ。胸に希望の光が差した。
 「信仰の基盤の上に大いなる希望が建つのです」とは、ダンテの真理の言葉である。
 山上は、父親に近況を手紙で報告した。父は、息子が真面目に生活していることを喜び、送金してくれるようになった。
 編入学した高校を卒業後、専門学校に学んだ。
 一九六八年(昭和四十三年)、広島に戻って就職し、男子部員として、はつらつと学会活動に励んだ。
 やがて結婚し、子どもも生まれた。
 山上には、幼いころ母がよく語っていた、忘れられない言葉があった。
 「お母ちゃんは、おまえが大人になっても戦争にいかんでいい世の中を、一生かけてつくっていくよ」
 彼は、子どものために、自分も、そう生きようと思った。
33  宝塔(33)
 山上則義は、広島県青年部として反戦出版に着手することになると、この委員会の委員長を引き受けた。
 反戦出版を通して、原爆の悲惨さを伝え残し、平和を叫び抜いていくことこそ、胎内被爆者である自分の使命であると思ったからだ。
 使命を自覚すれば、どんな困難の壁も打ち破る無限の力がわく。そして、勇気の行動を開始する時、さらに力は増していくのである。
 山上は、「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」との御聖訓をかみしめていた。
 校正作業も大詰めとなってきた一九七四年(昭和四十九年)五月、彼は広島平和記念館(当時)で、母の朝子を追悼して友人たちが発刊してきた、数冊の被爆体験誌『あさ』を見つけた。
 母は、自宅で親しい友人たちと「女性史」や「歴史と人間」などの勉強会を行っていた。また、平和と人権を守ろうと、原水禁運動なども、果敢に推進してきたのである。
 山上は、反戦出版に携わる自分と、この文集との出あいは、単なる偶然とは思えなかった。母が自分の作業を見守っているように感じた。
 彼の心は燃えた。
 『広島のこころ―二十九年』は、創価学会青年部反戦出版「戦争を知らない世代へ」の第二巻として、当初の予定通り、この七四年の八月六日に出版された。
 その反響もまた、大きなものがあった。
 この三日後の八月九日には、反戦出版の第三巻として、長崎青年部による『ピース・フロム・ナガサキ』が発刊されたのである。
 証言によって描き出された被爆地・長崎も地獄絵図さながらであった。
 死体に埋まった防空壕。一瞬にして六人の家族を失った人もいた。
 被爆の混乱のなかで死亡者とされ、自分の名前が書かれた骨箱と対面した人もいる。
 また、被爆者の原爆症との長い闘い。発症せぬ人もまた、不安をかかえながら生きねばならない。二十年後に原爆病の宣告を受けた人もいる。
 一つ一つの証言は、青年たちが真剣に取材したものであり、また、懇請して原稿にしてもらったものだ。
34  宝塔(34)
 長崎の青年たちが被爆体験の取材、証言収集を重ねるなかで、長崎原爆の記録に残されていなかった新事実が発掘されたのである。
 これまで、被災当日の八月九日午後一時五十分に運行された救援列車による被災者の収容が、国鉄(当時)の救援活動の最初とされてきた。
 しかし、その前に、線路状況の確認などのために、トロッコを連結したモーターカーが出され、その段階で、既に救援活動が行われていたことが判明したのだ。
 それは、当時、国鉄職員をしていた壮年の手記から、明らかになったのである。
 反戦出版の委員会メンバーは、書いてもらった証言の原稿を校正しながら、不明な点については、再取材していった。
 壮年は原稿に、原爆が落ちた市街地の情景を、最初は「煙で真っ黒で何も見えない状態だった」と書いていた。
 ところが、後ろの方には、「焼け野原になっていた」とあるのだ。
 このわずかな食い違いに、担当者の江上敏幸は鋭く反応した。
 小事を見落とさないことこそが、大事を成し遂げるうえで、重要なポイントとなる。
 江上は、国鉄職員であった壮年に電話し、被災地の情景が、なぜ異なるのかを尋ねた。
 「救助には、二回行ったんです。最初は、線路がどうなっているかもわからないから、まず、トロッコで行きました」
 「トロッコ! ちょっと、待ってください。
 これから、すぐにお伺いしてもよろしいでしょうか。ぜひ、詳しく教えてください」
 江上は″これは大事な話だ″と思った。
 はやる心を抑えて、タクシーに飛び乗った。
 神経を研ぎ澄まし、素早く行動する――何事につけ、それが、成否を決するのだ。
 壮年は江上の質問に答え、あらためて被爆当日の様子を語ってくれた。    
 ――あの被爆の日、壮年は前日からの勤務を終え、自宅に戻るため、長崎駅から長崎本線の上り列車に乗った。浦上駅、道ノ尾駅を過ぎ、長与駅に向かう途中であった。
 「ピカッ」と目のくらむような閃光が走り、「ドカーン」という轟音とともに、猛烈な爆風に襲われた。
35  宝塔(35)
 爆風で窓ガラスは吹き飛んだ。多数の乗客が負傷し、車内は大混乱になった。
 彼は、一刻も早く、この負傷者の手当てをしなければと考え、乗務員と協力して長与駅まで列車を運転した。
 そこで負傷者を降ろし、手当てをしている時、長崎市内に多数の死傷者が出ているとの情報が入った。救援列車を出すことが決まった。
 そのためには、線路が破壊されていないか確認する必要があった。保守作業に使う、モーターカーを走らせることになり、そこにトロッコ二台が連結された。
 彼はモーターカーで、長崎駅へ向かった。
 長与駅の隣の、道ノ尾駅は窓が吹き飛ばされ、壁が崩れ落ちていた。
 さらに、爆心地に近い浦上駅へと進んだ。カーブを進んだ途端、前方に見えたのは真っ黒な空と火の海、そして、もうもうとした煙であった。
 ″これが、自分が朝までいた長崎の街か!″
 線路上の障害物などを取り除きながら、爆心地に向かって、徐行しながら進んでいった。
 線路沿いの道には、爆心地から離れようと、歩いてくる人たちが列をなしていた。皆、顔は真っ黒であり、髪もチリチリであった。衣服もボロボロである。
 爆心地に近い、浦上川にかかる大橋の鉄橋は破壊がひどく、モーターカーは、ここまでしか進めなかった。壮年は、この大橋付近で、十人近い被爆者をトロッコに救助し、引き返した。
 道ノ尾駅まで戻ると、最初の救援列車が着いていた。壮年は、その列車に乗り、再び、救援活動に向かった。
 黒煙が薄らいだ時に見えた長崎の街は、焼け野原になっていた。
 壮年は、必死に救助作業を続けた。
 人のため、社会のために、懸命に働くなかにこそ、人間の輝きがある。
 救援列車より約二時間も早く、被爆直後の市内に入って救援活動を行ったという、国鉄職員だった壮年の証言に、マスコミも注目した。
 まさに、長崎の原爆被災史の空白を埋める新証言となったのである。
 青年の機敏な反応と行動が、新たな事実を発掘したのだ。
 敏捷な、熱意あふれる執念の行動こそ、新しき扉を開く力となるのだ。
36  宝塔(36)
 沖縄、広島、長崎と進められた青年部の反戦出版は、一九七九年(昭和五十四年)には一都一道二府二十四県に広がり、五十六巻を数えた。
 さらに、八一年(同五十六年)からは、「戦争を知らない世代へII」として、再び出版を開始。
 八五年(同六〇年)までには、新たに二十四巻が発刊され、全四十七都道府県を網羅するに至った。
 この十二年間にわたる青年の地道な取り組みによって、全八十巻、三千二百人を超える人びとの平和への叫びをつづった″反戦万葉集″が完結したのである。
 各県の青年部は、郷土と戦争の関係を考えながら、「空襲体験」「出征兵士の体験」「戦時下の生活」「外地からの引き揚げ体験」など、テーマを絞り込んでいった。
 出征した兵士たちの証言からは、戦地での壮絶な行軍や悲惨な食糧事情、また、上官の横暴、戦友の凄惨な死などが語られていった。
 そのなかで加害者としての側面も浮かび上がっていった。
 宮城県や和歌山県、岡山県などの青年たちは、加害者としての視点から反戦出版を進めた。
 和歌山県の青年部は『中国大陸の日本兵』を上梓した。日本兵は中国で何をしたかを記した証言集である。
 ″日中友好を考えるならば、たとえ目を背けたい歴史であっても、真摯に凝視しなければならない″と、青年たちは考えたのである。
 証言は、永久に自らの胸の内に秘めておこうと決めてきた、兵士の″忌まわしい過去″である。
 取材に応じてくれた一人の元兵士は、取材を契機に、やめていた酒を飲み始め、夜ごと、苦悶の叫びをあげるようになった。彼の妻は、そのたびに馬乗りになって、彼を押さえつけなければならなかった。
 その後、落ち着きを取り戻し、再取材できたが、青年たちは加害者のもつ、心の傷の深さをあらためて知った。加害者もまた、軍国主義の被害者であることを痛感したのである。
 ゲーテは、近代の戦争というものの本質をこう指摘している。
 「近代の戦争は、それがつづいている間は多くの人を不幸にし、済んでしまっても誰一人をも幸福にはしない」
37  宝塔(37)
 熊本県の青年部も、加害者の側からの視点で反戦出版を行っている。
 当初、メンバーは、熊本の第六師団は最強であったと聞かされてきたことに着目し、軍人であった人たちに、「なぜ第六師団は強かったか」との質問をぶつけてみた。
 多くの人が快く取材に応じてくれ、戦争の武勇伝を語る人も多かった。
 しかし、再度、取材に行き、戦闘で勝利したあとの捕虜の扱いなどを問い始めると、次々と取材を拒否された。
 なかには、加害者としての体験を語ってくれた人もいたが、テープを起こして、確認してもらうために原稿を持っていくと、こう言うのだ。
 「本にはしたくない。辞退させていただく」
 また、虐殺の証言をしてくれた壮年がいた。事実関係のあいまいなところは、戦友に確認してくれることになった。
 だが、翌日になると、「あれは俺の勘違いだった」の一点張りで、虐殺自体を否定するのだ。
 戦友から証言することに反対されたようだ。
 結局、五十人ほどに取材して、証言集に掲載することができたのは、十七人であり、そのうち九人は仮名での掲載が条件となった。
 被害と加害の両面が明らかにされてこそ、戦争の全貌が浮かび上がる。それでこそ、真実の反戦出版となるのだ。
 残忍な行為に加担した人も、会って話を聞いてみれば、皆、好々爺であった。「出征前は、鶏一羽殺すこともできなかった」という人もいた。
 ″なぜ、そんな人が無感覚に人を殺せるようになってしまったのか″
 編集メンバーは、取材を続け、討議を重ねていくなかで、そこに、戦争というものの魔性の仕組みがあることに気づく。
 「自分が死にたくないという本能を、逆に利用して人を殺させるのだ。
 ひとたび戦場に押し出されたら、もはや、その流れに逆らうことはできないものだ」
 そして、「戦争になってからでは遅い。その前に、戦争なんかさせないために、諸外国との友好の推進など、政治を、平和の方向に動かすことだ」というのが、青年たちの結論であった。
 「青年は心して政治を監視せよ」とは、戸田城聖の叫びである。メンバーは、その言葉の重さをかみしめるのであった。
38  宝塔(38)
 外地での抑留や引き揚げを反戦出版のテーマとした県もあった。
 引き揚げ港となった博多港を擁する福岡県青年部でも、『死の淵からの出帆――中国・朝鮮引揚者の記録』を発刊している。
 引き揚げの道もまた、悲惨であった。
 そこに登場する、ある婦人は、満州(現在は中国東北部)の開拓民として入植。二人の子どもをもうけたが、二人とも病死した。
 三人目の子どもの出産を間近に控えた一九四五年(昭和二十年)八月十三日、突然、避難命令が出された。夫は徴兵されていた。
 彼女は家財道具を売り払い、義父、母と馬車に乗って、二百人ほどの開拓民らと共に逃げた。
 盗賊団にも襲われた。ソ連軍の爆撃も受けた。機銃掃射の標的にもなった。恐怖のために精神が錯乱し、自分の子どもを次々と馬車から投げ捨てる母親も見た。
 一カ月間、逃げ続け、ソ連軍の収容所に入った。女性は、次々と暴行された。彼女は頭を丸坊主にし、顔に墨を塗って難を逃れた。
 彼女は、腸チフスにかかったが、女児を出産する。しかし、母乳も出なかった。
 ゆでたコーリャンの上澄みを、必死になって飲ませた。だが、赤ん坊は日に日にやせ細り、四十四日目に死んだ。
 彼女と母親は、三十人ほどの女性たちと収容所を脱出した。逃亡中、さらに発疹チフスにもかかった。騙されて売られそうにもなった。
 自暴自棄になり、アヘンを飲んで自殺を図ったが、飲んだアヘンはすべて戻してしまった。舌を噛み切っても、死ぬことはできなかった。
 盗賊団に襲われ、逃げ惑うなかで、苦楽を共にしてきた母親とも離れ離れになってしまった。
 彼女が九死に一生を得て、帰国したのは一九四六年(昭和二十一年)十月であった。
 戦争の最大の犠牲者は女性と子どもである。だからこそ、女性は、平和を守るために立ち上がらなければならない。社会の主役として、正義の声をあげるのだ。
 「もし、非暴力が人類の守るべき教義であるならば、女性は未来の創造者としての地位を確実に専有するでありましょう」とは、マハトマ・ガンジーの確信である。
39  宝塔(39)
 反戦出版では、子どもたちの被害に焦点を当てたものも少なくない。
 そして、戦争がその国の″今″を破壊するだけでなく、″未来″をも破壊する非道な行為であることを、様々な角度から訴えている。
 東京の青年部は、「学童疎開」した子どもたちを取材し、疎開先での空腹、いじめ、教師の横暴など、抑圧された生活を浮き彫りにした。
 滋賀県の青年部は、戦時中の教育者を中心に取材を進めた。
 そのなかには、″忠君愛国″を訴え、満蒙開拓青少年義勇軍などに教え子を送り出した教師たちの、拭い去ることのできない罪悪感がつづられた手記もあった。
 また、静岡県青年部の『みんな かつことをしんじてた――子供達の見た聖戦(1)』には、次のような話が紹介されている。
 寝かすと「ママー」と泣く、ドレスを着たママー人形を、ロープで縛って木につるし、国民学校の教師が猟銃で撃つ。そして、少年たちに木刀で叩かせたというのだ。
 子どもたちは、あの戦争を「聖戦」と教えられてきた。
 それを真っすぐに受け止め、国のために戦おうと、予科練などに志願した少年も多かった。
 この本には、こんな話も収められている。
 農学校に通っていたが、志願して予科練に入り、その訓練途中に終戦を迎えた少年がいた。
 彼は、母校である農学校に戻った。
 授業中、ある教師は冷淡に言い放った。
 「志願して兵隊に行った馬鹿者がいる」
 それを聞いていた、同じ予科練帰りの少年が、教壇に向かって走り出し、教師に殴りかかったのだ。
 信頼してきた大人たちに裏切られた、悲憤であったにちがいない。
 この軍国主義教育が行われていった時代のなかで、「教育は児童に幸福なる生活をなさしめるのを目的とする」として、教育改革を叫び続けてきたのが、牧口常三郎であり、創価教育学会であった。
 それは、命がけの平和建設の作業でもあった。
 「植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる」とは、フランスの思想家・ルソーが、『エミール』に記した名言である。
40  宝塔(40)
 反戦出版に携わった青年たちは、人びとの証言から、国家神道を精神的支柱とした軍国主義思想の恐ろしさを、痛感するのであった。
 守るべき中心は国民ではなく国家とし、国のために勇んで死んでいける人間をつくることが教育であったのだ。それは万人を「仏」と見る、生命尊厳の仏法の法理とは対極の思想である。
 経文には「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とある。鬼神とは、現代的には思想といえよう。
 思想の乱れ、すなわち誤った思想が、国家を、社会を、民衆を狂わせ、やがて国をも滅ぼしてしまうことを戒めているのだ。
 青年たちは、この反戦出版を通して、一人ひとりの胸中に生命尊厳の哲理を確立する広宣流布こそ、恒久平和への直道であることを深く自覚していった。
 また、人間の生命を制御し、善の方向に変えていく人間革命なくして、平和の創造はないことを強く実感したのだ。
 反戦出版全八十巻の完結は、平和への一大金字塔として大きな反響を広げ、多くの識者が「偉業に脱帽」「反戦平和への一大証言集」等と絶讃の声を寄せてくれた。
 反戦出版が完結して間もなく、山本伸一は青年部の首脳と懇談した。
 「よく頑張ったね。大変な壮挙だ。これで戦争体験の風化をくい止め、反戦平和の一つの砦を築くことができた」
 すると、青年の一人がはつらつと応えた。
 「先生は、世界平和のために一人立たれ、ベトナム戦争の即時停戦や日中国交正常化の提言等を、命がけで発表してくださいました。
 ″私たちも弟子として平和のために戦いを起こそう。先生に続こう″との思いで、この活動に取り組みました。
 そう心を定めると勇気が出ました。力がわきました。この反戦出版は師弟共戦の賜物です」
 「ありがとう。君たちが後に続いてくれると思うと力が出る。二十一世紀を『平和の世紀』『生命の世紀』にするために共に戦おうよ」
 反戦出版の完結は、終わりではなく、始まりであった。それは伸一と青年たちの、新しき平和運動の旅立ちを告げる号砲となったのである。
41  宝塔(41)
 会長就任十四周年を迎えた一九七四年(昭和四十九年)の五月、山本伸一は、中国やソ連、シンガポールの駐日大使との会談や、フランスの作家アンドレ・マルローとの対談など、平和への語らいに力を注いでいた。
 そして、月末には初の中国訪問が控えていた。
 その準備に多忙を極めていた、五月二十六日のことである。
 午後四時、伸一が、聖教新聞社の和室で行われていた、視覚障害者のグループである「自在会」の座談会に、突然、姿を見せたのである。
 この日の昼に、「自在会」の座談会があるとの報告を受けた彼は、短時間でもメンバーと会って励まそうと、急いで執務に区切りをつけ、駆けつけたのである。
 ″最も大変な思いをして信心に励んでいる同志を最大に励ますのだ!″
 それが、伸一の心であった。それが、人間主義であるからだ。
 視覚障害があるメンバーは、以前から互いに連携を取り合い、励まし合ってきた。友の輪は次第に広がり、グループを発足させたいとの機運が高まっていった。
 その報告を男子部長の野村勇から聞いた山本伸一は、即座に賛同した。
 グループの名称は「自在会」となった。
 たとえ、目は不自由であっても、広宣流布の使命を自覚するならば、その生命は自由自在である――との意義を込めた名である。
 そして、前年の十二月に三、四十人が集って、「自在会」発足記念の座談会を行い、以来、毎月、座談会を開催してきたのである。
 メンバーの願いは「いつの日か、私たちの座談会に、必ず、山本先生に出席していただこう」ということであった。
 周囲の幹部たちは「無理だ」と言ったが、決してあきらめなかった。皆が真剣に祈った。伸一に手紙を書いた人もいた。
 必死の一念を燃え上がらせよ。それは、いかなる状況も変えゆく力だ。
 会場の後方の扉が開いた。室内には、「自在会」メンバーと、ヘルパーとして一緒に参加した学会員など、約七十人が集っていた。
 振り向いたヘルパーの一人が息をのみ、そして叫んだ。
 「先生!」
 歓声が起こった。
42  宝塔(42)
 山本伸一は、微笑みを浮かべて言った。
 「こんにちは!
 皆さんは勝ちました。人生の試練を見事に乗り越えてこられた。今日は、さらに新しい前進のために、一緒に勤行をしましょう」
 そして、仏壇の前に進むと、一人ひとりを見つめながら語り始めた。
 「皆さんとは、お会いできなくとも、毎日、お題目を送っております。
 苦しみ、悩み、そして信心に目覚め、懸命に広宣流布のために戦っている人こそ、誰よりも幸福になる権利がある。
 しかも、皆さんは、障害がありながら、どんな困難も乗り越えて、私と共に広宣流布に生きようと決意されている。本当の私の弟子です。日蓮大聖人の子どもです。
 その尊い方々を、大聖人が守られないわけがありません。ゆえに、皆、最高の幸福の道を歩みゆく方々であると、私は断言しておきます」
 大確信にあふれた、強い語調であった。
 その言葉に、皆の胸は熱くなった。うっすらと涙を浮かべる人もいた。
 集ったメンバーは、いやというほど、人生の辛酸をなめてきた。
 不慮の事故で失明し、絶望のどん底に叩き落とされた人もいる。職を得ることもできず、家族からも冷たい仕打ちを受けてきた人もいた……。
 子どものころから、目が不自由なために、いじめられてきた人もいる。
 しかし、信心に巡り合い、山本伸一の指導に接して、希望の人生行路を歩み始めたのである。
 それだけに、伸一を求める心は強く、彼の言葉が、人一倍強く胸に響くのであった。
 「人生を確固たる信仰の基盤の上に打ち立てるということは、不幸はありえないということです」
 これは、トルストイの言葉である。そこに信仰というものの力がある。
 伸一が話を終えると、会場のあちこちで、「先生!」という声があがった。皆、自分の思いを、伝えたくて仕方なかったのだ。
 彼は、一人ひとりの話に耳を傾けたかったが、次の会議が迫っていた。
 伸一は言った。
 「皆さんの気持ちは、よくわかっています。同志ではないですか。何も心配はいりません。一緒に生きていこう! 一緒に戦い抜いていこう!」
43  宝塔(43)
 山本伸一は、それから笑顔で呼びかけた。
 「さあ、勤行をしましょう。大きな声でお題目をあげよう」
 伸一の導師で勤行が始まった。呼吸のぴったりとあった、清々しい勤行であった。
 題目をしばらく唱え、鈴を叩いて御観念文に入ろうとすると、伸一の背中に、ゴツンと後ろにいた青年の頭が当たった。
 視覚に障害があることから、伸一との距離がつかめなかったのである。
 頭をぶつけた青年は、慌てて後ずさりし、恐縮して小さくなっていた。
 伸一は、メンバーの苦労を深く感じ取った。そして、皆が一人ももれなく、信心を根本に強く生き抜き、なんとしても幸福な人生を勝ち取ってもらいたいと、ひたぶるに祈念するのであった。
 一つの事柄から、何を感じ取るか。人の苦悩に対して想像力を広げることから、「同苦」は始まるのである。配慮とは、人を思いやる想像力の結晶といえよう。
 勤行が終わると、伸一は振り向いて、緊張しているメンバーに、優しく語りかけた。
 「どうぞ、お楽に!」
 皆が膝を崩すのを待って、伸一は語り始めた。
 「これからも皆さんの人生は、多難であるかもしれない。
 しかし、何があろうとも、勇気と希望をもって、人間王者として、晴れ晴れと生き抜いていただきたい。
 仏法では、衆生は『色・受・想・行・識』という五つの要素が、仮に和合して成り立っていると説いています。
 少々、難しい言葉ですが、簡単に言えば、私たち人間は、肉体や感覚、認識作用など、五つの要素が集まって、仮に構成されているというのです。
 そして、この仮の和合を、いかようにもつくり替えることのできる本源の力、生命の当体が、妙法であり、南無妙法蓮華経なんです。
 やがて肉体は滅び、死んでいっても、生命は永遠です。
 妙法に生きるならば、今世のみならず、三世にわたって永遠の幸福を獲得することができるんです。この三世の生命への確信こそが、信心の根本となります」
 皆、伸一の話を、生命に吸い取ろうとするかのように、真剣な顔で耳を澄ませていた。
44  宝塔(44)
 ここで山本伸一は、仏道修行は、どのような難をも耐え抜いていく、忍辱の心が大切であることを訴えていった。
 メンバーが現実社会のなかで生き抜き、信心に励んでいくうえでは、さまざまな試練もあろう。心ない偏見、また、冷たい仕打ちに泣くこともあるにちがいない。
 しかし、それに負けていれば、本当の幸福を築くことはできない。心が弱ければ不幸である。幸せという花は、強い心の大地にこそ開くのだ。
 ゆえに伸一は「強くあれ! 断じて強くあれ!」との祈りと願いを込めて、釈尊が過去世に忍辱行を修行した時のことを明かした、仏教説話を語っていった。
 それは、大智度論などに説かれているもので、一人の仏道修行者が、嫉妬とおごりに狂った王によって、耳や鼻、手足を次々と切られていったが、心は微動だにしなかったという話である。
 「この精神は、私たちにも通じます。何があっても決して動じることなく、″広宣流布に生き抜こう″″わが使命を果たし抜こう″と、前へ、前へと進んでいくのが、師子です。
 右足を切られても、まだ左足がある。その左足で生き抜き、戦い切るんです。
 今度は左足を切られた。でも、まだ手がある。次は一方の手を切られた。しかし、まだ片手がある。
 そして、両手を切られた。でも、耳がある。耳があれば、法を聴聞することができる。
 片耳を切られても、まだ、一方の耳がある。両耳を切られても、まだ目がある。
 さらに、その目を一つずつ取られたとしても、まだ口がある。口があれば、仏法を語り説くことができる。題目を唱えることができる。
 口を失っても、命はある。命ある限り、心で唱題し続けるんです。
 どこまでも信心に、広宣流布に、生き抜いていくのが地涌の菩薩であり、それが学会精神なんです。
 その信心に立つ時に、必ずや仏も讃嘆し、一生成仏の大道が開かれる。
 幸福は自身の信心でつかむ以外ない。ゆえに、信心には甘えがあってはならない」
 厳しい口調であった。
 しかし、そこに伸一の慈愛があった。
45  宝塔(45)
 人間は助け合わなければならない。体などに障害があれば、温かい援助の手が必要である。とともに、自立自助をめざす心が大事になる。
 その自立を阻むのが、甘えの心である。
 甘えは、時に自分自身を不幸にする要因となる。自分の思いや要求が満たされないと、他人や環境、運命を恨み、憎むようになるからだ。
 不平や文句、恨みや憎悪に明け暮れる人生は悲惨である。
 幸福とは、自分の胸中に歓喜の太陽を昇らせることだ。自身の輝ける生命の宝塔を打ち立てることだ。それには自らの生命を磨く以外にない。
 「人間を変えるものは環境ではなく、人間自身の内なる力なのです」とヘレン・ケラーは訴えている。
 自分を磨き、強くし、自身を変えゆく道こそが信心なのだ。
 山本伸一は、深き偉大な使命を担った「自在会」のメンバーに、強くなってもらいたかった。一人ももれなく幸せになってもらいたかった。
 宿命に、社会の冷たさに、自己自身に、決して負けないでほしかった。
 だから彼は、信心の姿勢を、厳しいまでに訴えたのである。
 伸一は言葉をついだ。
 「南無妙法蓮華経は生命の本源であり、宇宙の大法則です。その仏法を皆さん方は、幸せにも持っている。
 世界を見れば、また過去の歴史を見れば、何十億という人が、この妙法に巡り合うことなく、亡くなっている。不幸に泣き、死を恐れ、不安に苦しみながら死んでいった人も少なくない。
 あえて言えば、それはわびしく沈みゆく人生といわざるをえない。
 しかし、妙法を持った皆さん方は、昇りゆく人生です。赫々たる太陽の人生です。
 生命の奥底に信心の輝きがあるならば、三世永遠の生命観のうえから見て、来世、再来世と、体も健康で、幸せに満ちあふれた所願満足の境涯になっていかないわけがありません。
 これを確信して、朗らかに進んでください」
 「はい!」
 力のこもった、晴れやかな声が響いた。どの顔にも涙が光っていた。
 皆、自分たちを思う伸一の真心を、限りない優しさを、強く、強く、感じていたのである。
46  宝塔(46)
 山本伸一は、皆の目を見ると、微笑みながら言った。
 「みんな泣いて目が腫れてしまったよ。水で拭いてあげよう。私たちは兄弟なんだから」
 彼は、同行の幹部に脱脂綿を用意してもらい、それをきれいな水に浸して、近くにいたメンバーの瞼をさっと拭いた。
 その隣にいたメガネをかけた青年が、皆を代表するかのように、「ありがとうございます」と涙声で言った。「自在会」の中核の一人である勝谷広幸であった。
 彼は先天性緑内障で、生まれた時から左目は、ほとんど見えず、右目の視力が〇・〇一であった。小学校の二年から盲学校に通い、五年からは寮に入った。
 中学校の二年の時、右目も視力の衰えが進み、手術を受けた。
 それまでの視力は、なんとか維持できたが、やがて、緑内障で失明するのではないかという不安にさいなまれながら、入院生活を送った。
 ある日、隣のベッドに付き添いで来ていた婦人が、「すばらしい記事が載っているから」と、新聞をくれた。「聖教新聞」であった。
 小学校五年の時に、父親が学会に入会し、勝谷も入会はしていた。だが、本格的に信心に励んだことはなかった。
 受け取った新聞は、しばらく放置しておいた。目が悪いのに新聞を読めと言われたことに、無性に腹が立ったのである。
 しかし、読まないで捨てるわけにはいかないと思い、二、三日後に新聞を開いた。
 顔にこすりつけるぐらい近づけないと、文字は見えず、しかも、読むのに時間がかかった。
 新聞には、難病を克服した体験が載っていた。半信半疑ではあったが、ひかれるものがあった。
 「聖教新聞」は、心の扉を開き、心を結ぶ、広宣流布の手紙である。
 勝谷は退院後、自宅療養したが、その時も、家にある「聖教新聞」や学会の出版物を貪るように読んだ。
 そして、生命は永遠であり、今世の苦しみの因は、過去世に自らつくった宿業にあり、現世の因が未来世を決定づけるという、生命の因果の理法を知ったのである。
 自分の運命を恨んでいた彼の、心を覆っていた雲が晴れ、希望の光が差した。
47  宝塔(47)
 ″よし、ぼくも真剣に信心をしてみよう!″
 勝谷広幸は思った。
 彼は盲学校に復帰し、寮生活に戻ると、放課後は近くの学会員の家に行き、勤行をさせてもらうなどして、信心に励んだ。
 座談会に出ると、皆が息子や弟のように、温かく励ましてくれた。
 ″これが学会の世界なのか! 信仰で結ばれた同志の世界なのか!″
 勝谷は感嘆した。
 さらに教学を学ぶなかで、大聖人は自分が幸せになるだけでなく、人びとを救済するために、広宣流布に生きよと教えていることを知った。
 皆が地涌の菩薩であり、末法の衆生を救うために、この世に出現したと説いているのだ。
 ″目が不自由なぼくも、地涌の菩薩なのだ。みんなを幸せにしていく使命があるのだ!″
 それは、彼にとって、この世に生を受けたことの、深き意味の発見であった。
 使命を自覚する時、人間の生命は蘇生する。その時、真の主体性が確立されるのだ。
 勝谷は、学会活動に参加すると、生命が躍動し、元気になっていくのを感じた。
 さらに、以前は、すぐにひがんだり、挫けたりしていたが、物事に前向きに取り組んでいけるようになっていった。
 やがて彼は、マッサージや鍼、灸の免許を取得。病院に勤務し、リハビリ治療などを行うようになった。
 また、視覚障害のあるメンバーと連携を取り合って励ましを重ね、「自在会」の結成にも力を尽くしてきたのである。
 山本伸一は、新しい脱脂綿を水に浸し、ほてった勝谷の顔も拭いた。
 勝谷は、なんとも言えない、さわやかな気分になった。
 「こんなことまでしていただいて、申し訳ありません」
 「よく頑張ってきたね。君の輝いた姿を見ればわかるよ」
 勝谷は、意を決したように語った。
 「先生。実は、もうすぐ子どもが生まれます。広宣流布のお役に立つように育てます」
 彼は前年の十月に、結婚していた。妻も大きなお腹をして、彼に付き添って参加していた。
 「おめでとう! 立派な広宣流布の後継者に育ててください」
48  宝塔(48)
 山本伸一は、脱脂綿を取り替えては、何人かの、泣いて赤く腫らした瞼を拭き、励ましの言葉をかけていった。
 皆、大切な兄弟である。伸一は、メンバーのためなら、どんなことでもするつもりであった。
 その伸一の心を感じ、メンバーはさらに、目を潤ませるのであった。
 伸一は、会場の前方に戻ると、皆の顔に、じっと視線を注いだ。
 「これで全員の顔を覚えたよ」
 その時、メンバーの一人が大きな声で言った。
 「先生! 私たちのつくった愛唱歌を聴いてください」
 「はい。聴かせていただきます」
 ギターの調べに合わせて、皆の歌声が響いた。
 当時、ヒットした歌謡曲の替え歌であった。
 一人ぼっちで夕暮れの 海をながめて 泣いていた
 あなたが今では 誰よりも 明るい地域の太陽よ
 皆の顔は涙に濡れていたが、その声は明るく、はつらつとしていた。
 歌い終わると、伸一は言った。
 「いい歌だね。もう一度歌ってよ」
 メンバーは、さらに力を込めて熱唱した。
 伸一は、大きな拍手を送った。
 「ありがとう! 
 この歌を吹き込んだカセットをください。私は三日後に中国に出発します。そのカセットを持っていって、毎日、聴きたいんです」
 歓声があがった。
 「では、次の予定があるので、これで失礼しますが、最後に皆で題目を三唱しましょう」
 彼は、メンバー一人ひとりを、尊極なる仏と仰ぎ、最敬礼する思いであった。
 「毅然として頭を上げるがよい。私の生命は飾り物ではなく、それを生きるために与えられたのだ」とは、トルストイが記したエマソンの言葉である。
 伸一は心で叫びつつ、題目を唱えた。
 ″君でなければ、あなたでなければ、果たせぬ尊き使命がある。
 その使命に生き抜き、広宣流布の天空に、尊厳無比なる宝塔として、燦然と、誇らかに、自身を輝かせゆくのだ!″

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