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日蓮大聖人・池田大作

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第19巻 「陽光」 陽光

小説「新・人間革命」

前後
2  陽光(2)
 午後十一時(現地時間)、山本伸一たちが乗った飛行機は、給油のために、メキシコ市の国際空港に着陸した。
 伸一は、機内の窓から目を凝らして、空港の建物を見た。すると、懸命に手を振る大勢のシルエットが見えた。
 「あれは、うちの人たちじゃないのか!」
 伸一が言うと、同行幹部の田原薫が、飛行機を降りて確認に走った。
 しばらくすると、田原は、息を弾ませて戻って来た。
 「先生のおっしゃる通りでした。百人ほどのメンバーが待機しておりました」
 「こんな時間に待っていてくれたのか。会って全力で励まそう」
 伸一は、峯子と共に、走るようにしてメンバーのいる空港の一室に向かった。飛行機の出発までは四十五分しかない。
 歴史を創るとは、今を真剣勝負で生き抜くということである。その積み重ねが、偉大なる建設の歩みとなるのだ。
 伸一の姿を見ると、大歓声があがった。
 理事長のラウロ・イワダテは、「先生!」と言って、飛びつくようにして伸一を抱き締めた。
 メンバーが、イワダテから、「先生が乗られた飛行機が、給油のためにメキシコに寄航するようだ」との連絡を受けたのは、既に午後七時過ぎであった。
 急な連絡にもかかわらず、メンバーは″ぜひ、先生にお会いしたい!″と、空港に集って来たのである。
 伸一は、笑みをたたえて、皆に語りかけた。
 「夜遅く、これほど大勢の皆さんが来てくださり、感謝の思いでいっぱいです。ありがとうございます」
 彼がメキシコを訪問したのは、九年前(一九六五年)であった。
 その時、空港に、二、三十人のメンバーが見送りに来てくれた。皆、身なりは質素であったが、瞳は生き生きと、決意に燃え輝いていた。伸一は、この健気な友が大功徳を受けきっていくことを真剣に祈った。
 今、ここに集った同志は、衣服も立派であり、表情も喜びに満ち満ちていた。
 伸一は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「今日は功徳に満ちあふれた皆さんの姿を拝見し、嬉しくて仕方ありません。勇気百倍です!」
3  陽光(3)
 山本伸一は訴えた。
 「皆さんが幸福になっていただくことが、私の最大の願いであり、そのための私の人生であると決めております。
 信心は一生涯の戦いです。どうか焦らず、御書に『月月・日日につより給へ』とあるように、日々、着実に自身の信仰を深めながら、大きな、大きな、幸福の花を咲かせていってください」
 伸一がこう呼びかけると、「ムーチャス・グラシアス!」(ありがとうございます!)と、元気な声が返ってきた。
 「では、一緒に記念撮影をしましょう」
 伸一が言うと、メンバーは、喜々として、彼と峯子を取り囲むようにしてカメラに納まった。深夜の記念撮影であった。
 写真を撮ったあとも、伸一は、出発時刻ぎりぎりまで、絵葉書を贈ったり、書籍にサインをするなどして、励まし続けるのであった。
 時は激流のごとく、瞬く間に流れ去る。その瞬間、瞬間を逃さず、全精魂を注いで、人に尽くす――それが誠実ということなのである。
 最後に伸一は言った。
 「また、必ず、メキシコに戻ってきます。お元気で!」
 短時間の語らいではあったが、メンバーは伸一の心に触れ、発心の原点を刻んだのである。
 伸一たちが、ロサンゼルスの空港に到着したのは、現地時間の二十九日午前三時過ぎであった。リマを出発してから、十四時間が経過していた。
 伸一は、マリブ研修所に向かった。夜明け前であったが、研修所ではアメリカの首脳幹部が出迎えてくれた。
 日系人の男性幹部が言った。
 「先生、お疲れのことでしょう。ゆっくりとお休みになってください」
 すると、伸一は、毅然とした口調でこたえた。
 「ありがとう。でも、私に『疲れた』という言葉はありません。
 戦場にあって、将軍が疲れたと言えば、兵卒も全員が疲れてしまう。
 私は広宣流布のリーダーとして、どんな時でも同志の前では生き生きと指揮を執るように、戸田先生から訓練を受けました」
 皆、息をのんだ。その言葉が、出迎えたメンバーや同行の幹部たちの、闘志に火をつけた。
4  陽光(4)
 マリブ研修所に着いた山本伸一が就寝したのは、明け方であった。
 だが、三、四時間もすると、伸一は起床し、行動を開始した。
 マリブは、まばゆい春の陽光に包まれていた。
 彼は、午前中には、アメリカの首脳幹部らと会議を開き、今後のスケジュールを協議した。
 さらに伸一は、四月一日にUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で行う、
 「二十一世紀への提言」と題する講演原稿の仕上げに取りかかった。
 特に、日本語の原稿と翻訳した英語とのニュアンスに食い違いがないかなど、一つ一つ翻訳者に確認しながら、推敲を重ねていったのである。
 そして、午後には、アメリカ青年部の代表の研修を行った。
 芝生の上で、皆の質問を受け、対話しながら、勤行の意義や基本姿勢を語っていった。
 伸一が日本を発って三週間が経過していた。疲労は溜まりすぎるほど溜まっていた。
 しかし、アメリカ広布の新しい幕を開くためには、停滞も、油断も、決して許されないことを、彼は深く自覚していた。
 御聖訓には、「大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり」と仰せである。
 リーダーが、自分を鼓舞し続けることを忘れれば、皆が戦う気概を失ってしまう。だから伸一は、自分自身に最も厳しく、挑戦を課していたのである。
 間断なき彼の奮闘に、同行のメンバーも気力を奮い起こしていった。
 闘魂は燃え移る。リーダーの闘魂が本物であるならば、それは、瞬く間に、組織の隅々にまで、覇気となって燃え広がっていくものだ。
 さらに伸一は、スペイン語の通訳を務めた吉野貴美夫をはじめ、現場での経験を積ませるためにアメリカに呼んでいた英語の若手通訳らとも、懇談の機会をもった。
 世界広布のためには、仏法の理念をはじめ、すべてを明快に伝えることのできる、一流の通訳や有能な翻訳者の育成が不可欠であると、伸一は考えていた。
 ゲーテは、「なんといっても翻訳は一般世界において最も重要で最も価値ある仕事の一つであり、また常にそうでありましょう」と明言している。
5  陽光(5)
 山本伸一は、吉野貴美夫に言った。
 「本当にご苦労様。君が頑張ってくれたんで、パナマ、ペルー訪問は成功したよ。ありがとう!」
 伸一の賞讃に、吉野は目頭が熱くなった。
 初めての通訳とはいえ、失敗の連続であり、どうやってお詫びしようかと思っていたのだ。それだけに、伸一の言葉が熱く胸に染みた。
 恐縮している吉野に、伸一は笑顔で語った。
 「君の通訳は声が大きいところがよかったね。
 声が大きいということは、通訳の第一の要件といえる。
 仏法の教えには『声仏事を為す』とあるが、声が大事なんだ。通訳に限らず、大きな声だと、わかりやすいし、説得力がある。
 君の場合も、声の大きさで、三割ぐらい上手に感じられたよ」
 笑いが広がった。
 吉野は、しきりに頭をかいた。
 「通訳の二番目のポイントは、話し手の言葉が終わったら、間髪を入れずに話し始めるということだよ。実は、その呼吸が勝負だ。
 たとえば、私が話し終わって、五秒も時間があいたら、通訳の戦いとしては負けだ。せめて二秒が限界だ。私の口をよく見て、閉じたらすぐに話し始めるぐらいでなければいけない」
 話題は、いわば、通訳論になっていた。
 「そして三番目は、よどみなく話すことだ。
 通訳を始めたら、怒濤のごとく、一気に話し続けることだ。
 途中で言葉に詰まったりすれば、対話の流れが途切れてしまう。
 また、『ええっと』などと言ってしまえば、相手は″この通訳はわかっていないな″と思い、不安を覚えてしまう。
 それでは対話は弾まないし、深い語らいはできなくなってしまう」
 通訳たちは、一言も聞き漏らすまいと、目を輝かせながら、伸一の言葉に耳を傾けていた。
 「四番目には、通訳の臨機応変な対応力が大事だということだね。
 日本語と外国語では、当然、言葉の構造も違うし、文化的な背景も異なっている。
 したがって、私が日本語で話した通りに訳しただけでは、十分に意味が伝わらない場合がある。その時は、的確に言葉を補い、説明することだ」
6  陽光(6)
 山本伸一の声には、熱がこもっていった。
 「たとえば、『依正不二』などの仏法用語が出たら、その説明をしなければわからない。
 したがって、私が三分間しゃべったら、通訳する時には五分、十分と話さなければならないこともある。いや、そういう場合の方が多いかもしれない。
 まさに、そこが通訳の実力発揮の場所であり、その機転こそが勝負といえる。
 仏法用語の説明だけでなく、時には言葉のもつ文化的な背景なども、語らなければならないこともあるだろう。
 だから通訳は、幅広い教養を身につけなければならない。これが五番目のポイントだ。
 そのためには、読書は必須条件だよ。
 男性だから料理やファッションに関心がないとか、『私は政治や経済には興味がありません』というのではだめだ。
 自分の専門分野は徹底的に深めていくことはもとより、あらゆる分野のことを、幅広く身につけていくことです」
 メンバーは、伸一の一言一言を生命に刻み込むように、頷きながら話を聞いていた。
 「また、通訳は、事前の準備が大事だよ。
 もし、通訳をすることが決まったなら、会う相手の方の経歴などは頭に入れ、著作は必ず目を通しておく必要がある。
 さらに、相手の国や地域の状況、自然や歴史なども、しっかり勉強しておかなければならない」
 こうしたアドバイスは、伸一が多くの海外の識者らと対話を重ねてきたなかでの実感であり、結論であった。
 それから彼は、彼方を仰ぐように、目を細めて言った。
 「御書には『終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし』と仰せである。これからは、広宣流布は世界が舞台だ。
 戸田先生は、こう言われたことがある。
 『世界の広宣流布のためには、語学の勝利が前提である。語学の達人が何人いても、足りないことになるだろう』
 皆さんの使命は限りなく深く、大きい。実力を蓄えて、偉大な通訳、力ある翻訳者に大成長するんだよ」
 伸一は、祈るような気持ちで、通訳の一人ひとりに眼を注いだ。
7  陽光(7)
 山本伸一は、翌三月三十日は、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)での講演原稿の推敲に余念がなかった。
 そして、三十一日は、カリフォルニア州オレンジ郡のサンタアナ市で行われた、サンタアナ会館の開所式に出席した。
 これには同市のジェリー・M・パターソン市長も来賓として出席し、伸一に、名誉市民称号を授与した。
 市長は、個人の幸福を確立し、世界平和に貢献する伸一の行動を讃える授章の辞を読み上げ、証書を手渡した。そして、市の「鍵」と「盾」を贈った。
 さらに記念撮影、地域祭と行事は進んだ。伸一は汗にまみれながら、友のなかを動き回り、魂を注いで励まし続けた。
 四月一日――。
 いよいよUCLAでの記念講演の日を迎えた。伸一にとって、世界の大学での正式な講演は、これが初めてであった。
 UCLAは、一九一九年に創立された州立の総合大学で、約三万人の学生が学ぶ名門校である。
 伸一は、キャンパスに着くと、ノーマン・P・ミラー副総長と会談した。
 副総長は、伸一の来校と講演を、心から歓迎してくれた。
 二人は初対面であったが、会話は旧知の仲のように弾んだ。
 「現在と未来はすべて教育にかかっている」とはナポレオンの至言である。伸一は、教育者と会い、教育について語り合うことが何よりも嬉しかった。
 ミラー副総長は、前年の七三年(昭和四十八年)七月に、伸一が創価大学で行った「スコラ哲学と現代文明」と題する講演に言及していった。
 それは、中世の時代精神を形成したスコラ哲学に新たな光をあて、近代の出発点であるととらえた講演であった。
 そして、現代文明が行き詰まりを呈した今、新しい時代の開幕のために、新しい大学、新しい哲学の興隆が必要であることを訴えていた。
 副総長は、その講演の翻訳を読み、大いに共感したというのである。
 同行の幹部たちは、世界の知性による賞讃に驚嘆した。同時に、身近にいながら、師の本当の偉大さが、まだまだわかっていなかった自身を恥じるのであった。
8  陽光(8)
 山本伸一は、ミラー副総長の案内で、歩いて講演会場に向かった。
 UCLAの構内には、ロダンの「歩く人」をはじめ、著名な彫刻家の手による彫像が、あちこちに設置されていた。
 伸一は、副総長の説明を聞きながら、一流の作品に日常的に触れることのできる教育環境のすばらしさに感嘆した。
 講演会場となったディクソン講堂の外には、既に一時間も前から多くの学生たちが待っていた。
 学内の掲示板や学生新聞を見て、創価大学の創立者で、日本を代表する仏教団体である創価学会の会長・山本伸一が、生命哲学について講演することを知り、勇み集ってきたのである。
 伸一が会場に到着した時には、講堂は教授や学生など六百人ほどの人たちで満員であった。
 講堂の壇上には、左右に大きな花が飾られ、英語で「二十一世紀への提言」「講師 山本伸一会長」「創価大学創立者」と記された、大きな横幕が掲げられていた。
 伸一の歴史的な大学講演が始まったのは、現地時間の四月一日午後三時過ぎであった。
 日本時間では、四月二日の午前七時過ぎ、つまり戸田城聖の祥月命日の朝である。
 伸一は、講演の開始を待ちながら、戸田から世界広布を託された日のことが、まざまざと思い起こされてならなかった。
 ――それは一九五四年(昭和二十九年)の夏、戸田と共に、師の故郷である厚田村(当時)を訪れた折のことである。
 厚田の海岸に立って戸田は言った。
 「ぼくは、日本の広宣流布の盤石な礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ。構想だけは、ぼくがつくっておこう。君が、それをすべて実現してくれ給え」
 伸一は、師の遺言を聴く思いで、その言葉を胸に焼き付けた。
 さらに力のこもった、戸田の声が響いた。
 「……世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」
 伸一は、その言葉通りに、仏法の生命の尊厳の哲理を、仏法の平和思想を、世界に流布するために、生命を賭して駆け回ってきたのである。
 弟子が師の構想を実現していってこそ、広宣流布の大願の成就がある。そして、そこに真実の師弟の道がある。
9  陽光(9)
 山本伸一は、心で戸田城聖に語りかけた。
 ″先生! 私は今日、アメリカの名門校として知られる、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に来ております。
 これから先生に代わって、先生にお教えいただいた仏法の生命論の一端を語ってまいります。世界に向かって、創価思想の叫びを放ちます。弟子の戦いをご覧ください″
 伸一の胸に、微笑みながら頷く、戸田の顔が浮かんだ。
 師を思うと、勇気がわいた。歓喜があふれた。それが師弟である。
 ほどなく、嵐のような拍手が轟き、伸一の講演が始まった。
 凛とした、それでいて温かみのある、伸一の声が講堂に響いた。
 「本日はUCLAのヤング総長、また、ミラー副総長のご招待をいただき、アメリカの知性を代表するキャンパスで講演できることを、心の底から喜んでおります。
 これからのアメリカを、いな、二十一世紀の世界を担う皆さんへの満腔の期待と敬意を込めつつ、講師としてというよりも、むしろ、共に未来を語り合う友人として話をさせていただきます」
 伸一は、一人の人間に語りかけるかのように、講演を始めた。
 まず彼は、前年と前々年に行った、イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビー博士との対談の概要を語っていった。
 そして、博士が、こう警鐘を鳴らしていたことを紹介した。
 「二十世紀において、人類はテクノロジー(科学技術)の力に酔いしれてきた。しかし、それは環境を毒し、人類の自滅を招くものである。人類は自己を見つめ、制御する知恵を獲得しなければならない」
 そして、博士との対談で、「生命をこのうえなく尊厳とする思想を、全人類が等しく分かちもつことが急務である」と確認し合ったことを述べ、参加者に訴えた。
 「私は、来るべき二十一世紀は、結論していうならば、生命というものの本源に、光があてられる世紀であると思っております。いな、そうあらねばならないと信じています。
 そうあってこそ、真実の意味でテクノロジーの文明から、ヒューマニティーの文明へと発展するであろうと思うからであります」
10  陽光(10)
 哲学者プラトンは、鋭い指摘の矢を放った。
 「国家のことも個人のことも、およそそれらの正しいあり方は、哲学からでなくては見きわめることはできない」
 山本伸一は、仏法という生命哲理の上から、現代文明のひずみの根源を明らかにしようとしていたのである。
 ここで彼は、仏法では人生を、生老病死など苦しみの集積であると説いていることを語り、「ではなぜ、人は人生に苦しみを感ずるのか」を論じていった。
 ――それは、万物万象は「無常」であるにもかかわらず、「常住不変」であると思い、そこに執着し、煩悩のとりこになっているからであると、仏法では説いている。
 現代文明も、この「無常」なるものへの執着、煩悩の充足をバネに発展してきた。
 その結果、人類は便利さや快適さなどを手にしたものの、環境破壊や核戦争の脅威に怯え、滅亡の淵に自らを追い込んできたといえよう。
 一部の仏教では、苦悩を離れるには、煩悩を断つ以外にないと教えてきた。では、人間は煩悩を断つことができるのだろうか。
 生ある限り、生きることに執着し、愛を大切にし、利を求めようとするのは、人間の自然な感情である。
 仏法の真髄の教えは、煩悩を断って、執着を離れることを説いたものではない。
 無常の現象に目を奪われ、欲望に翻弄され、煩悩に責められているというのは、自己自身の小さな我、すなわち「小我」にとらわれている状態である。
 真実の仏法は、煩悩や執着の働きを生み出す生命の奥に、無常の現実の奥に、それらを統合、律動させている常住不変の法があると説いているのである。
 そして、この普遍的真理を悟り、そのうえに立って、無常の現象を包み込んでいく生き方、つまり「大我」に生きることを教えているのだ。
 この「大我」とは、生命のさまざまな動きを発現させていく宇宙の根源的な力であり、「法」である。
 それをトインビー博士は、宇宙の「究極の精神的実在」と表現している――。
11  陽光(11)
 山本伸一が論じようとしていることは、仏法の生命哲学の究極であるだけに、難解といえば難解であった。
 しかし、出席した教授や学生たちは、生命論の奥義を説く伸一の話に目を輝かせ、一心に耳を傾けていた。
 さらに彼は、「大我」に生きるということは、「小我」を捨てることではなく、「小我」をコントロールし、人間の幸福のために生かすことであると述べた。
 もし「小我」を驀進する列車とするなら、「大我」は、その軌道と考えることもできよう。
 軌道を踏み外せば、暴走し、転覆してしまうが、「大我」という確かな軌道を進めば、崩れざる幸福を実現することができるのだ。
 次いで伸一は、人間の最大のテーマともいうべき、生死の問題を掘り下げながら、「大我」について論じていった。
 「仏法では、『生死不二』と説きます。
 生も死も、永久不変に流れゆく生命の二つの顕れ方であって、どちらかに他方が従属するものではない。
 たとえば、人間は生まれてから、肉体も、精神も大きな変化を遂げている。しかし、そのなかにも一貫して変わらざる自己というものがある。
 仏法は、その本質的な『我』が宇宙大の生命、すなわち『大我』に通じていると説きます。
 さらに、この『大我』は、永遠不滅の働きをなし、ある時は『生』、ある時は『死』の姿をとります。
 これが『生死不二』という考え方です。
 人間は、その『大我』を、わが生命の内にもっているのであります」
 いかなる死生観をもつかが、人間の生き方を、さらには文明の在り方を決定づける。
 伸一は、「小我」に支配されてきた文明から、無常の奥にある常住の実在、すなわち「大我」に立ち、宇宙生命と共に呼吸しながら生きる文明への転換を訴えたのだ。
 彼の言葉は、話すほどに熱を帯びていった。
 「二十一世紀は、人間が生命に眼を向ける『生命の世紀』としなければなりません。
 新世紀が、夢に見た人間謳歌の文明になるかどうかは、常住不変、不動の力強い不変の生命を発見しうるかどうかにかかっているのであります」
12  陽光(12)
 最後に山本伸一は、こう話を結んだ。
 「欲望に翻弄され、自滅の危機に陥った人間は、極論すれば、知性をもった動物の域を出なかったと言えましょう。
 私の信奉する日蓮大聖人の経典のなかに、『才能ある畜生』という表現があります。
 人間は、知性的に人間であるだけでなく、エゴから脱却して、精神的、生命的にも自立し、跳躍を遂げねばならない。
 私は仏法に、その道を発見し、『生命の旅』を開始いたしました。
 皆さんも、一人ひとりが、未曾有の転換期に立つ若き建設者、開拓者として『人間自立の道』を考えていただきたい。
 本日は、その参考として、仏法の英知の一端をお話しいたしました。この私の講演が、なんらかの皆さんの指標となれば幸いです。
 サンキュー!」
 一時間十五分に及ぶ講演が終わった。
 講堂を埋めた聴衆は、頬を紅潮させ、総立ちになった。次の瞬間、雷鳴のような拍手が轟いた。
 欲望、煩悩に支配された現代文明の本質を、仏法という生命の視座から浮き彫りにし、人間のための文明を創造する根本哲理を明らかにした講演である。
 講演を聴いた多くの人が、その着眼に、新鮮な感動を覚えたようだ。
 なかには、初めて接する東洋の英知に、仏法思想に、驚嘆し、しばし呆然とする教授もいた。
 聴衆が、伸一に握手を求めて殺到した。
 このあと、あいさつに立ったミラー副総長は、叫ぶように語った。
 「会長は、われわれに新鮮な勇気と感動を与える、歴史的なスピーチをしてくださいました!」
 また、講演を聴いたある教授は、現代人は目先の行動のみにとらわれ、将来を見通そうとしないと憤り、こう語った。
 「会長の講演は人類の未来開拓へ、根本的な道標を示した、重要な意義をもつものでした」
 また、ある学生は、仏法の真髄ともいうべき奥義を学ぶことができたと述べ、「仏法思想は、自分が生涯をかけて勉強するに値する″人間の哲学″だと思いました」と感想を語った。
 現代文明の暗雲を破る希望の陽光こそ、仏法という生命の法理なのだ。
13  陽光(13)
 山本伸一にとって海外初の大学講演となる、UCLAでの講演は、大成功に終わった。
 伸一は、帰りの車の中で、師の戸田城聖をしのび、深い感謝の題目を捧げた。
 伸一に、自らの生命を注ぎ込むようにして、仏法を、さらに万般の学問を教えてくれたのは、戸田であった。
 また、戸田は、よく伸一に語っていた。
 「仏法の生命尊厳の法理と慈悲の精神が、創価の思想が、人類救済の大哲理であることを、世界に知らしめていかなければならない。
 それには、大学が大事だ。世界の大学が仏法哲理の重要性を知り、研究に取り組むようになれば、そこから新しい思想潮流が起こる」
 そして、戸田は、その範を示すように、初代会長・牧口常三郎の没後十年を期して、自ら補訂した牧口の『価値論』を出版し、世界の大学、研究所に寄贈したのだ。
 その数は、約五十カ国で、四百二十二カ所に及んでいる。
 伸一は今、戸田の弟子として、師が示した構想の実現へ、第一歩を踏み出せたことに喜びを覚えていた。
 ″先生が念願された、人類の幸福と平和のために、さらに世界中の大学で、仏法の智慧が人類の未来を救うことを訴え抜いていこう。
 それには、先生の不二の弟子として、今まで以上の力を発揮していかねばならない″
 弟子が師を超える働きをしてこそ、師匠を宣揚することになる。
 レオナルド・ダ・ビンチは、警告を発した。
 「師をしのぐことができない弟子は哀れである」
 この日、ホテルに着くと、伸一は同行の幹部に言った。
 「これからも、仏法を社会に開いていくために、さらに大学講演を行っていこう。
 また、いつかハーバード大学などでも、講演することになるだろう」
 この時、それが現実となるとは誰も想像しなかった。
 しかし、後年、山本伸一は、モスクワ大学、北京大学、フランス学士院、ハーバード大学など、世界の知性の府で、次々と講演を行うことになるのである。
14  陽光(14)
 空は晴れ渡り、海は陽光に映え、青く輝いていた。吹き抜ける微風が、さわやかであった。
 空を見上げながら、山本伸一は峯子に言った。
 「戸田先生も、きっとお喜びだよ」
 一九七四年(昭和四十九年)四月二日――。
 伸一は午後二時前、サンタモニカのアメリカ本部で、恩師戸田城聖の十七回忌法要を挙行した。海外で戸田の祥月命日の追善法要を行うのは、初めてのことであった。
 戸田は、東洋広布、世界広布を念願しつつも、一度も日本から出ることなく、生涯を閉じた。その師の法要を、アメリカの地で行えることが、伸一は嬉しかった。
 仏法の根本は師弟にある。「師弟の道」がわかれば、自身の人間革命も一生成仏も間違いない。また、広宣流布の永遠不滅の道も開かれる。
 ゆえに大聖人は「師弟相違せばなに事も成べからず」と仰せである。
 伸一は、文化の背景が東洋とは異なるアメリカにあって、いかにして仏法の「師弟の道」を伝え、その精神を継承させていくか、心を悩ませていた。
 この法要には、アメリカの青年部の代表を中心に約三百人が参加した。
 メンバーは、戸田第二代会長の法要とあって緊張していた。
 三階の広間に姿を現した伸一は、英語で声をかけた。
 「グッド アフタヌーン! プリーズ・リラックス」(こんにちは! どうぞ楽にしてください)
 この一言で、会場は、明るく、和やかな雰囲気に包まれた。
 参加者は、伸一の入場前から正座して唱題しており、足がしびれている人も多かった。
 それを察知した伸一は言った。
 「足が痛くなったでしょうから、しばらく歩行運動しましょう」
 メンバーの顔に笑みが広がった。
 皆、伸一の配慮に温かな人間性を感じながら、大喜びで会場をぐるぐると歩き始めた。
 振る舞いのなかに、人格も、思想も、哲学も表れる。心遣いを欠いた人間主義など断じてない。
 また、「師弟の道」とは、決して堅苦しい、形式的なものではない。広宣流布という同じ目的に生きる師と弟子の、魂と魂の結合の道なのだ。
15  陽光(15)
 アメリカ本部で営まれた戸田城聖の十七回忌法要には、メンバーの先祖代々の追善と、広宣流布の途上に逝いた全物故者への回向の意義が込められていた。
 山本伸一を導師に、厳粛に勤行が始まった。アメリカの青年たちの若々しい声が、伸一の読経に唱和した。
 一糸乱れぬ清々しい音声の勤行である。
 読経・唱題のなか、伸一をはじめ、参列者の焼香が行われた。
 勤行終了後、アメリカの幹部のあいさつがあり、続いて伸一の指導となった。
 彼は、アメリカの地で戸田城聖の初の法要が挙行できた喜びを述べたあと、恩師への思いを静かに語っていった。
 「私はいつ、どこの地にあっても、戸田先生のご指導が、あの師子吼の姿が、瞬時も脳裏から離れたことはありません。
 そして、常に″先生が今の私をご覧になったら、なんと言われるか″″先生ならば、どうされるか″と自分に問い続け、師の遺志を受け継いで広宣流布に邁進してまいりました」
 彼は、「師」とは「人生の規範」であり、「広布の道」とは「師弟の道」であることを伝えようとしていたのである。
 「戸田先生を知らない皆さんは、先生のことを、もっともっと知りたいと思われていることでありましょう。
 しかし、先生と何度もお会いし、指導、激励を受けながら、広宣流布のために本気になって戦おうともせず、退転していった人もおります。
 先生を知るとは、先生の信心を学び、実践することです。その人の心にこそ、戸田先生がいらっしゃるんです。
 平和を願い、広宣流布に邁進する、生命の脈動のあるところに、戸田先生の生命が通うのであります。
 私たちは、ともどもに広宣流布の大指導者たる戸田先生の弟子として、この四月二日を人生と信仰と広布への意義ある跳躍の日と定めて、前進していくことを誓い合おうではありませんか!」
 法華経には「在在諸仏土常与師倶生」(在在の諸仏の土に常に師と倶に生ず=創価学会版『妙法蓮華経並開結』317㌻)とある。
 師の心をわが心として広布の庭で戦う人は、常に師と共にある。
16  陽光(16)
 戸田城聖の大きな偉業の一つは、難解な仏法の法理を、わかりやすく現代的に解釈し、展開したことにある。
 イギリスの哲学者ホワイトヘッドは、こう訴えている。
 「宗教の諸原理は永遠的なものではあろうが、これらの原理の表わし方は絶えず発展しなければならない」
 たとえば戸田は、あの獄中にあって、「仏」とは「生命」であると悟達し、やがて仏法を生命論として展開していった。
 これによって、仏法は現代を照らす、生きた人間哲学としてよみがえったのだ。
 また彼は、信仰の目的である「仏の境涯」に至ることを、「人間革命」と表現した。
 この「人間革命」という、新しい概念を導入したことによって、仏教界で死後の世界の問題であるかのように言われてきた「成仏」が、今世の人間完成の目標として明確化され、深化されたのである。
 私たちが信心に励む目的は、この人間革命にこそあるのだ。
 山本伸一は、青年たちに、日蓮仏法は人間革命の宗教であることを知ってほしかった。
 そして、その人間革命のための指標を、具体的に示しておこうと思っていたのだ。
 彼は、参加者に視線を注ぎながら話を続けた。
 「われわれの生命、肉体は、即南無妙法蓮華経の当体であります。この南無妙法蓮華経の生命を顕していくことが人間革命なのであります。
 では、人間革命とは、どのような姿、在り方となるのか。
 本日は、その指標を明らかにしておきたいと思います。
 その第一は『健康』ということです。私たちは『健康即信心』をめざして、確たる信心の証拠を示していきたい。
 宿命等の問題もありますが、健康を損ねてしまっては、思う存分動くことができなくなる。
 もちろん、生身の体である以上、体をこわすこともあるでしょう。しかし″常に健康であろう″という強盛な祈りをもって、わが生命を大宇宙の本源のリズムに深く合致させていくことです。
 この祈りと、規則正しい生活なくしては、真の信仰とはいえません」
 皆、食い入るような視線を伸一に向けていた。
17  陽光(17)
 山本伸一が第二に示した指標は、「青春」であった。
 生涯、青春の気概をもち続けているかどうかが人間革命の証明である。
 生き生きと信心に励み、わが生命を磨き抜いていくならば、″精神の若々しさ″が失われることはない。
 彼は、第三に「福運」をあげた。
 唱題に励み、広宣流布に尽くし、仏法者として日々の生活に勝利してきた帰結は、福運となってわが身を、一家を、荘厳する。
 荒れ狂う怒濤のごとき社会にあって、福運こそが自身を守り、旭日の隆盛をもたらす力となるのである。
 第四には「知性」を強調した。
 人間完成をめざし、社会の常識あるリーダーに育っていくならば、知性の輝きも増していなくてはならない。知性を磨くことを忘れれば、社会の敗北者となってしまう。
 第五に伸一が掲げたのは「情熱」であった。
 広宣流布への大情熱に燃え、生命が躍動していてこそ、真実の仏法者である。
 いかなる知性をもっていようが、情熱を失ってしまえば″生ける屍″といっても過言ではない。
 また、情熱は幸福の要件である。人生の大部分の幸・不幸というものは、物事に対する情熱をもっているか否かによって、決まるからだ。
 第六に、彼は「信念」をあげた。
 人間革命とは、確たる信念の輝きといえる。
 生き方の哲学をもたず、信念なき人生は、羅針盤なき船に等しい。進むべき方向を見失い、ひとたび嵐が吹き荒れると、難破船のような運命をたどってしまう。
 そして、最後に、第七として「勝利」をあげたのである。
 仏法は勝負である。常に勝利を打ち立てていくなかにこそ、人間革命がある。勝利の人生こそが人間革命の人生なのだ。
 人生も、広宣流布も、すべて戦いである。勝ってこそ、正義も、真実も実証されるのだ。
 伸一は、この「健康」「青春」「福運」「知性」「情熱」「信念」「勝利」の七項目を人間革命の指標として示したあと、さらに、これらを包括し、仏法者の規範として確立されなければならないものこそ、「慈悲」であると訴えた。
18  陽光(18)
 山本伸一は、慈悲について戸田城聖の指導を通して論じ、「私たち凡夫の場合は、勇気をもって行動することが慈悲に変わるのである」と力説した。
 そして、慈悲と勇気の実践である広宣流布に生き抜くことの大切さ、尊さを訴えたのである。
 「人間革命といっても一言すれば、地涌の菩薩の使命を自覚することが肝要であり、喜び勇んで広宣流布に生きる姿こそが人間革命であります。
 たとえ、名誉や財産があろうとなかろうと、真実の法をもって、人のため、社会のために尽くす人こそ、真実の″尊貴の人″であり、その人の生命は菩薩であります。
 最も苦しんでいる人に救済の手を差し伸べ、蘇生させてきた団体が創価学会です。また、そのために命をなげうってきたのが、歴代の会長なのであります」
 スウェーデンの女性教育者エレン・ケイは「最も偉大なる英雄は、権力や光栄のために闘う人ではなく、他人を助けるために闘う人である」と記している。
 まさに創価の道こそ、最も偉大なる英雄の大道といえよう。
 伸一は、四月三日は、欧米環境設計協会のチーフコンサルタントと会談し、建築の理念、人間と建築などについて意見を交換した。
 少しでも時間があれば、あらゆる分野のリーダーと会い、対話し、平和への友情のネットワークを広げようと、心に誓っていたのだ。
 翌四日には、「サンディエゴ・コンベンション」に出席するため、サンディエゴ市に向かった。この市はロスから南へ約二百キロにあり、メキシコ国境に近く、海軍基地もあった。
 サンディエゴは初夏を思わせる気温であった。
 沿道のヤシが、南国情緒を感じさせた。
 伸一は、五日には、市庁舎の訪問、サンディエゴ会館の開所式への出席が予定されていた。
 そして、「サンディエゴ・コンベンション」第一日の六日には、パレードや花火大会が、第二日の七日には、サンディエゴ・スポーツアリーナで氷上文化祭、さらに、第十一回全米総会が開催されることになっていたのである。
19  陽光(19)
 山本伸一がサンディエゴ入りした四日には、既にハワイやニューヨーク、さらに、メキシコからも、メンバーが続々と集まって来ていた。
 また、ブラジルからも世界平和文化祭を終えた理事長の斎木安弘が駆けつけて来た。
 斎木は、サンパウロ州のオザスコ市から、伸一に贈られた銀製プレートを届けに来たのである。
 この銀製プレートの贈呈は、伸一の平和貢献を高く評価し、名誉ある市民に当たるとして、オザスコ市の市議会で決定したものであった。
 伸一は、同行の幹部らと共に、ホテルで斎木と懇談した。
 斎木は、喜々として報告した。
 「先生のご訪問がなくなったことをメンバーに伝えました時には、皆、悔し涙にむせびました。
 しかし、『先生がいらっしゃらないからといって、泣いているような弱虫でどうする! 私たちの手で、文化祭を大成功させるのだ。それでこそ真の弟子じゃないか!』と語り合いました。
 そして、みんなが″先生、見ていてください″との思いで、懸命に挑戦しました。
 文化祭は大成功でした。出席した各界の来賓も、感動し、学会への理解を深めております。
 また、みんなが、あらゆる機会に、学会の正義と真実を、勇気をもって語り抜いてきました。
 そうしたなかで、オザスコ市のように、市をあげて先生の平和行動を賞讃するケースも出てまいりました」
 伸一は、斎木の顔を見つめて言った。
 「みんな、さぞかし悔しかっただろう。辛かっただろう。
 しかし、そのなかで立ち上がった。
 ブラジルはきっと大発展するよ。二十一世紀の″世界広布の雄″となることは間違いない!」
 経文には「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」とある。
 今、いかなる決意で、どう行動しているのか――それによって、未来の結果は決定づけられていくのだ。
 誰よりも労苦を背負いながら、黙々と広宣流布のために戦う。その人こそ、誰よりも強く、誰よりも幸せになり、誰よりも栄光をつかむのだ。
 それが、因果の理法である。
20  陽光(20)
 山本伸一は、斎木安弘に約束した。
 「私は、必ずブラジルに行きます。その時は、苦労したことがすべて、大きな喜びに変わるよ。いや、苦労した分だけ、喜びも大きくなる。
 ともかく、広宣流布が進めば、魔が競い起こるのは当然だ。
 御書にも、『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず』と仰せじゃないか。
 ブラジルの青年たちは、それを体験を通して学んだ。そして勝った。これは、すばらしい財産だよ。
 栄光の未来のために、しっかり青年を育てていこうよ」
 「はい!」
 斎木は、決意のこもった声でこたえたあと、伸一に尋ねた。
 「先生、青年を育成するためのポイントはなんでしょうか」
 伸一は言下に答えた。
 「青年を信頼し、大切にして、尽くし抜いていくということです。未来の指導者に仕えるような気持ちで、青年に接していくことです。
 そして、青年が全責任をもって、主体的に、伸び伸びと頑張れるようにしていく。そうすれば、青年たちは、自信と誇りと希望がもてる。それが成長の原動力になっていくんです」
 文豪ロマン・ロランは記した。
 「先輩の人たちがあなたに尽くしてくれたよりも、もっとよく、後輩の人たちに尽くしておやりなさい」
 太陽の光を浴びて草木が伸びるように、後輩を思う先輩の温かな人間性に育まれ、人は伸びていくのである。
 伸一は言葉をついだ。
 「そのうえで、基本をしっかり身につけられるようにしていくことが大事になる。
 連絡や報告にはじまり、勤行、折伏、教学、家庭指導など、特に信心の基本が習得できるよう応援することです。
 また、訓練も大切です。訓練というのは、物事を体で覚えて、体得していくためのものです。それができていないと、頭ではわかっていても、いざという時に的確な対応ができない。
 さらに、新しき挑戦こそ、青年の生命です。仮に失敗があっても、青年の挑戦を最大に讃え、見守っていくことが必要だと思う」
21  陽光(21)
 翌五日、山本伸一は、サンディエゴの市庁舎を表敬訪問した。
 今回のコンベンションには、アメリカ各地はもとより、日本などからの参加者も含め、一万人を超える人びとが集うことになる。
 コンベンションを円滑に安全に行うには、多くの人びとの協力が不可欠である。特にパレードの折の交通規制をはじめ、さまざまな面で、市をあげての協力なくしては成功はありえない。
 サンディエゴ市は、市長をはじめ、関係者が積極的に応援してくれていたのだ。
 伸一は、アメリカのメンバーに代わって、心から御礼、感謝申し上げようと、真っ先に市庁舎を訪れたのである。
 迅速な行動であった。その迅速さこそが、外交の勝負を決する。
 市庁舎では、ピート・ウィルソン市長が、満面に笑みをたたえて、伸一と峯子を迎えてくれた。
 市長は、四十歳の若さあふれるリーダーであった。長期的展望に立った都市計画を推進し、その手腕は連邦政府からも高く評価されていた。
 伸一は、市長と握手を交わしたあと、丁重にこう語った。
 「サンディエゴ・コンベンションに招待を受け、こちらの市を訪問させていただきました。メンバーに代わり、市当局のご協力に対して、心から御礼申し上げます」
 すると市長は、頬を紅潮させて言った。
 「コンベンションの開催地に、わがサンディエゴ市を選んでいただき、ありがとうございます。
 さらに会長ご夫妻をお迎えできましたことは、最大の喜びであり、最高の光栄です。
 今回、企画されているパレードや花火大会などの催しは、市の歴史に残る祭典になると思います。コンベンションの大成功を祈るとともに、深く感謝いたします」
 「ありがたいお言葉です。私どもこそ、感謝に堪えません」
 アメリカのメンバーは、創価学会の正義と真実を、市長をはじめ、関係者に、堂々と胸を張って訴え抜いてきた。その努力の結実であった。
 学会の行事の開催を、市民が心から喜んでくれる――その状況がつくられた時、広宣流布の流れは大きく加速する。
 そこに「仏法即社会」の勝利の実証がある。
22  陽光(22)
 ウィルソン市長は、山本伸一に告げた。
 「本日は、会長ご夫妻の訪問に心から感謝申し上げ、最高賓客の証として『市の鍵』をお贈りいたします」
 「最高の栄誉です。全メンバーを代表し、謹んで拝受いたします」
 伸一は、感謝の思いを胸に、市の鍵を受けた。
 さらに市長は、市の歴史を綴った本を伸一に贈った。
 そこには、「会長ご夫妻へ、温かい心と尊敬を込めて」との献辞が記されていた。
 また、峯子には、イルカをデザインしたペンダントが贈られた。
 伸一も返礼として、秋の七草をあしらった屏風などを市長に贈った。
 語らいは弾んだ。
 市長は、自ら伸一にコーヒーを注ぎながら、嬉しそうに語った。
 「世界平和への会長の指導力、卓越した行動力に、私は敬服しております。せめて滞在中は、ゆっくりと、おくつろぎになってください」
 伸一は言った。
 「温かいお心遣い、ありがとうございます。しかし、私には、ここでなすべき仕事があります。未来のために、今、果たすべき使命があります。私に休息はありません。
 それが、民衆のために生きる指導者の宿命ではないでしょうか」
 市長の瞳が光った。
 伸一は、力を込めて語っていった。
 「私は、これから大きな仕事をしてもらいたい人には、物事を率直に語ることにしております。
 あなたはお若く、まさに″未来の人″です。自由と民主の旗手であるアメリカ社会の発展のために、大いに活躍していかれる方です。
 そのために健康に留意してください。健康であることが、理想や大志を支える一切の根本です。
 そして、信念と勇気をもって、正義のために生きることです。
 どんなことがあっても微動だにしてはなりません。未来を見すえ、二十年先をめざして、まっしぐらに進んでください。
 そこに、政治家としても、人間としても、勝利があるからです」
 伸一は、一言一言に魂を注ぎ込む思いで話していった。
 市長は頷きながら、その言葉をかみしめるように聞いていた。
23  陽光(23)
 山本伸一は、相手が、市長であっても、庶民であっても、何も変わらなかった。
 一個の同じ人間として、相手の幸福と人生の勝利を願い、ただただ、誠心誠意、励ましを送った。そこに、真の人間交流の道が開かれるのだ。
 市長は、感無量の面持ちで言った。
 「会長の、この温かいお気持ちを、生涯、大切にしたいと思います」
 やがて、会見は終わった。初対面とは思えぬ、心と心が通い合う、深い語らいとなった。
 この日の夕刻、伸一はサンディエゴ会館の開所式に出席した。
 会館は全米総会の会場となるサンディエゴ・スポーツアリーナの近くにあり、ミッション湾から吹き抜ける風がさわやかであった。
 この建物は、何年か前までは教会であった。会館としてオープンするにあたり、有志が塗装作業などを引き受け、改装工事に勇んで汗を流した。
 ″私たちの法城は私たちの手で!″
 それが、皆の心意気であった。
 会館には、黄、白、紫など、色とりどりのパンジーの鉢植えが並び、華やかな光を放っていた。
 その鉢植えには、小さな木片が付けられ、そこにメンバーの名前と、所属組織が書かれていた。
 メンバーは、真心の花をもって伸一の来館を歓迎し、会館を荘厳しようと、パンジーの種や苗を分け合い、それぞれが大切に育ててきたのだ。
 皆の願いは、開所式の日に、最も美しい″花盛り″の状態にすることであった。
 太陽の光に当てすぎれば、花は早く散ってしまう。しかし、当てなければ開かない。
 皆、細心の注意を払って花を育てた。
 その苦労が実り、すべての花が、美事に開いたのである。この日の朝に、花開いた鉢植えもあった。
 人のため、広宣流布のためにとの心で、誠実に努力したことは、福運となって自身を荘厳する。
 「誠実さと信念だけが人間を価値あるものにする」とは、文豪ゲーテの卓見である。
 伸一は、皆に言った。
 「ありがとう。真心に涙が出ます。
 皆様方のご家庭も、幸福の花が爛漫と開くことを確信してください」
24  陽光(24)
 サンディエゴ会館の庭にはポールが立てられ、″鯉のぼり″を掲げる用意ができていた。
 この″鯉のぼり″は、コンベンションに参加する日本の代表が、会館の開所式を祝って贈ったものであった。
 山本伸一が見守るなか、メンバーの代表がロープを引いた。
 ″鯉のぼり″がサンディエゴの空に泳いだ。
 伸一は、青年たちに語った。
 「″鯉のぼり″は、五月五日の『こどもの日』を祝う日本の風習です。
 そこには、さっそうと大空に舞う″鯉のぼり″のように、大きく、強く育ってほしいという願いが込められています。
 私も、諸君が広宣流布の大空に躍り出て、人びとの幸福と平和のために大活躍されんことを願っています。
 その思いから、今日は一緒に″鯉のぼり″を掲げました」
 そのあと、広間で、勤行が行われた。歓喜に弾む、軽快なリズムの勤行であった。
 マイクを取った伸一は、信心の根幹をなす、南無妙法蓮華経とは何かについて、一つの側面から、わかりやすく語っていった。
 「自然界を見ても、さまざまな法則というものがある。それを正しく認識し、合致した生活を営んでいくところに、価値の創造があります。
 たとえば、水力発電は水が落下するエネルギーを用いますが、これは、万有引力の法則のうえに成り立っています。
 南無妙法蓮華経とは、一言するならば宇宙の根本の法則であり、宇宙を動かしている根源の力であるといえます。
 それを大聖人は、一幅の本尊として顕されたのであります。
 その御本尊に唱題する時、わが生命が宇宙の法則と合致し、最大の生命力が涌現し、幸福への確かな軌道を、闊歩していくことができるのであります」
 それは、アメリカのメンバーが最も知りたい問題であった。
 メンバーは「功徳があるから唱題しよう」とよく言われてきた。しかし、「なぜ、唱題すると功徳があるのか」という説明を聞くことはあまりなかった。
 皆が本当に知りたい問題を鋭敏に察知し、明快に答えてこそ、真の指導といえよう。
25  陽光(25)
 「なぜ」ということがわかれば、納得して信仰に励むことができる。
 信心の世界には、言葉では説明しきれず、体験を通して実感する以外にない問題も当然あろう。
 しかし、人びとが納得できるように説明するために、努力し、心を砕いていくことは、リーダーである幹部の責務といってよい。
 ゆえに、仏法の法理を説き示した御書への真剣な取り組みが、幹部の必須の要件となるのである。また、そのなかに、教学の深化もある。
 山本伸一は開所式の終了後も、参加者のなかに入り、次々と励ましの言葉をかけていった。
 ある婦人には、こう激励した。
 「仏法は生命の因果の理法を説いており、誰人たりとも、その法理を逃れることはできません。
 何があろうとも、黙々と信心に励み、人びとの幸福のために尽力していくならば、それは、必ず自身の大きな功徳となり、福運になります」
 ベネズエラで社会の繁栄を願い、懸命に信心に励んでいるという青年には、こう訴えた。
 「仏法では、万人が仏の生命を具えていると説いています。
 したがって、その仏の生命を涌現していくならば、どんな試練や逆境にも、絶対に負けることはありません。
 だから、勇気をもって生きていくんです。あなたが戦い、勝っていく未来を、私は、祈り、見つめています」
 伸一は常に、一人ひとりへの励ましに最大の力を注ぎ、仏法という「人間の道」を、「幸福の道」を、「平和の道」を説いていった。
 そして、人びとの胸に、「希望の火」を、「勇気の炎」をともし、人間の蘇生に全生命を傾けたのである。
 それは、国会や国連を舞台にした政治家の言動のように、世間の脚光を浴びることもない、最も地道で忍耐を要する作業である。
 しかし、一人ひとりが強く、はつらつと幸福に生き抜くことこそ、平和の実像であり、社会建設の一切の根源である。
 ゆえに、釈尊も、日蓮大聖人も、一個の人間を全力で励まし、仏法を語り説くことに、生涯を捧げられたのである。
 友の幸せを願う、誠意を尽くした対話のなかに仏道修行があるのだ。
26  陽光(26)
 四月六日の午後一時、「サンディエゴ・コンベンション」が「スプリング・フェスタ・パレード」をもって、晴れやかに開幕した。
 パレードに先立って、サンディエゴ・カウンティー(郡)から山本伸一に、「名誉郡民」の称号が贈られた。
 前日、サンディエゴ市から「市の鍵」が贈られたことに引き続いての慶事であった。
 サンディエゴ・カウンティーは、サンディエゴをはじめ、オーシャンサイド、デルマール、ラホヤ、インペリアルビーチ、チュラビスタ等の市などからなる郡である。
 燦々たる太陽の下、郡の参事官は、「名誉郡民」の宣言書を高らかに読み上げていった。
 そのなかで、伸一をはじめ、アメリカのメンバーが、「ヒューマニズムと生命の尊厳を基本とする生命哲学の実践により、個人の幸福を確立するとともに、世界平和への推進に全力を傾注してきた」と賞讃していた。
 また、伸一の数多くの著作活動や創価大学・学園の創立、富士美術館の開設などは、全人類の福祉への貢献であると高く評価し、「名誉郡民」の称号を贈ることを宣言していたのである。
 宣言書を参事官が読み終えると、沿道の市民たちから、嵐のような拍手がわき起こった。
 さらに、アメリカに隣接したメキシコのティフアナ市のマルコ・アントニオ・ボラーニョス・カーチョ市長からも、「市の楯」が贈呈された。
 また、メキシコからは、国立観光審議会のミゲル・アレマン・バルデス会長の親書も伸一に届いていた。アレマン会長は、元メキシコ大統領である。
 親書には、将来は、ぜひメキシコでコンベンションを開催するよう望んでいる旨が記されていた。
 伸一は、ありがたいことだと思った。
 メンバーが良き市民として、日々、黙々と、地域のため、社会のために献身してきたことが実を結んだのである。
 御聖訓には「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわ」と。
 社会こそ、仏法者の修行の道場であり、活躍の舞台である。
 ならば社会貢献は、仏法者の誇り高き使命にほかならないのだ。
27  陽光(27)
 山本伸一に対する顕彰が終わると、アメリカの幹部が傍らに待機していたオープンカーのドアを開けて、言った。
 「先生、奥様! こちらにお乗りになってください。それで、この座席の背もたれの上に腰掛けてください」
 アメリカの幹部から、パレードの開始前に、オープンカーから手を振って沿道の人たちを励ましてほしいと、要請されていたのである。
 最初、伸一は「私は大統領でもなければ、スポーツ選手でもない。むしろ目立たぬところから皆さんを見守っています」と言って辞退した。
 しかし、アメリカの幹部たちは真剣であった。
 「本日は、メンバーを含め、約五万人の市民が沿道に集まっています。
 特にメンバーは″一目でよいから、先生、奥様のお顔が見たい。お姿が見たい″と言って集って来ております。
 なかには何時間もバスに揺られてやって来た人もいます。そうしたメンバーのために、ぜひ、お願いしたいのです。
 また、こうしたことをやるのは、アメリカの慣習なんです」
 こう言われると、断り切れなかった。
 「わかりました。皆さんへの敬意と感謝を込めて、オープンカーから手を振らせてもらいます」
 伸一たちが乗った車が走りだすと、沿道に歓声があがった。
 大きく手を振る伸一と峯子に応え、人びとは、手を振り返しながら、「ウエルカム(ようこそ)!」「センセイ!」と、口々に叫んだ。
 車の進行に合わせ、歓声がこだまし、笑顔の花が咲いた。
 伸一の姿を見て、喜びのあまり、「エイ、エイ、オー」と勝鬨をあげる青年もいた。
 なかには、伸一の車めざして走り寄ろうとする人もいて、それを制する整理役員は汗まみれになって奮闘した。
 スーツに身を固め、太陽を浴びながら手を振り続ける伸一たちの顔にも、汗が噴き出ていた。
 しかし、″皆が喜んでくれるなら″″励ましになるのなら″と、力を振り絞るようにして、手を振り続けた。
 ″同志のため、人びとのためには、どんなことでもしよう″というのが、伸一の心であった。
 「誠実」こそ、彼の行動の哲学であった。
28  陽光(28)
 山本伸一と峯子は、車を降りると、沿道のテントのなかに用意された席で、パレードを観賞した。
 ファンファーレが高らかに轟き、ロサンゼルス鼓笛隊を先頭にパレードが始まった。
 全米各地をはじめ、メキシコ、パナマ、プエルトリコ、ベネズエラなどから集った三十二チーム総勢約三千人のメンバーによる、一マイル(約一・六キロ)余りにわたる大パレードである。
 メンバーは、各地の特色を生かした衣装で、歌い、奏で、踊りながら行進する。
 テキサスのメンバーはカウボーイのスタイルで、シアトルは海兵隊のユニホーム姿で、ハワイはハワイアンドレスでといった具合である。
 ″ジュニア・パイオニア″と名づけられた、子どもたちのドラム隊やポンポン隊なども大喝采を浴びた。
 沿道に並ぶ五万人の歓呼の声に包まれながら、パレードは、晴れやかに、堂々と進んでいった。
 弾ける笑顔がまぶしかった。
 参加者には、信仰で人生の試練を乗り越えた体験があり、歓喜と希望があった。
 不和を克服して、仲むつまじくパレードに参加している夫妻もいた。
 肝臓ガンの宣告を受けたが、唱題根本に乗り越えた、ブラスバンドの指揮者の青年もいた。
 鼓笛隊には、父親を亡くし、母と共に家計を支え、弟を大学に進学させた女子部員もいた。
 メンバーのなかには、あのベトナム戦争で夫を失った女性もいた。また、徴兵され、帰還したあと、心的障害や健康障害で苦しんできた青年もいた。
 しかし、そうした悲しみや人生のさまざまな試練を信心によって克服し、晴れやかにこの日を迎えたのである。
 皆が信仰の喜びをかみしめ、胸を張って進んでいった。どの顔も希望に燃え輝いていた。
 ビクトル・ユゴーは綴った。
 「希望のあるところ、平和がある」
 戦争がないだけでは、平和とはいえない。人間が人間らしく、希望に燃えて、はつらつと生きてこそ真の平和なのだ。
 その真実の平和を、民衆の力で創出していくのが、われらの広宣流布運動なのである。
29  陽光(29)
 パレードしてくるメンバーは、テントの中にいる山本伸一の姿を見ると、歓声をあげ、全身で喜びを表し、盛んに手を振った。
 メンバーは、日本から遠く離れた地にあって、人生の師と定めた伸一を、一心に求め抜いてきたのである。
 皆、心で叫んでいた。
 ″先生、私はこんなに幸せになりました。見てください!″
 ″人びとの幸福のために、平和のために、戦い抜きます!″
 伸一と峯子は、メンバーから贈られたレイを首にかけ、パレードに向かって手を振り続けた。
 やがて、伸一は立ち上がった。
 そして、一人ひとりを生命に焼き付けるかのように皆を見つめ、懸命に拍手を送った。
 そこには、生命と生命の熱い交流があった。
 パレードには、フロート(山車)も登場した。
 「WORLD PEACE」(ワールドピース=世界平和)の文字を飾り付けた、おとぎの国の城もあれば、闘牛士と牛のフロートもある。
 掉尾を飾ったハワイのフロートは、山から滝が流れ落ちるという、手のこんだ趣向であった。
 このハワイのフロートを見ると、伸一は心で題目を唱えた。
 ハワイに住む、パシフィック方面長になっていたヒロト・ヒラタの、健康回復を願っての題目であった。
 ヒラタは、このコンベンションに参加する打ち合わせを自宅でしていた時に倒れ、救急車で病院に運ばれ、ICU(集中治療室)に入れられた。心臓発作であった。
 その報告を聞いた伸一は、予定を変更し、帰途、ハワイを訪問して、ヒラタを見舞うことにしたのである。
 日蓮大聖人は、四条金吾にこう言われている。
 「殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり
 伸一もまた、″広宣流布の命脈を継ぐ同志が、全員、無事故で健康でありますように″と、朝な夕な、真剣に、強盛に祈り念じていた。
 断じて、私はわが同志を、仏子を守り抜く――その一念で、伸一は戦い抜いてきた。また、それが、リーダーたる者の精神である。
30  陽光(30)
 ヒロト・ヒラタは一九六〇年(昭和三十五年)の十月、山本伸一がハワイを初訪問し、海外初の地区を結成した折に、地区部長の任命を受けた壮年である。
 ヒラタの顔が、大人気のプロレスラーであった力道山に、よく似ていたことから、伸一は彼に、″リキさん″というニックネームをつけた。
 ″リキさん″は、伸一の期待に応え、力闘を開始した。
 そして、ハワイは、世界広宣流布の要衝として大発展してきた。
 それだけに伸一は、なおのことヒラタの病状が、気がかりでならなかったのである。
 伸一は、パレードの終わりごろには、隊列の近くまで駆け寄り、メンバーと握手をしたり、レイをかけるなどして励ました。
 彼の渾身の激励は、最後の最後まで続いたのである。
 パレードが終わると、伸一は直ちに、鼓笛隊や音楽隊などの出場者に、メッセージを送ることにした。
 この日のために、来る日も、来る日も、練習に次ぐ練習を重ねてきたメンバーである。
 練習会場に通う交通費で、小遣いを使い果たしてしまった人もいるかもしれない。練習を終えてから、深夜まで勉強や仕事に励んだ人もいるに違いない。
 伸一は、そう思うと、感謝と励ましの言葉を贈らずにはいられなかったのである。
 「わたしたちに必要なのは、機械ではなく、人間性です。頭のよさよりも親切と思いやりが必要なのです」とは、喜劇王チャップリンの箴言である。
 伸一は、メッセージを口述した。
 「皆さん方の、晴れやかな、幸福の風を呼び起こすような希望に満ちあふれた乱舞に接し、私は世界平和への巨歩が、ここに厳然としるされたことを、強く確信いたしました。
 本当に感動の連続でありました。かわいい妹や弟たちが、これほど純粋に、伸び伸びと成長したのかと思うと、目頭が熱くなるのを禁じ得ませんでした。
 皆さん方のこの日のパレードは、新しき創造の世紀に、まばゆいばかりに刻印されていくことでありましょう」
31  陽光(31)
 パレードを終えたメンバーは、各グループごとに市庁舎前などに集合していた。そこに、山本伸一からのメッセージが伝えられたのだ。
 大歓声があがった。
 隣の人と肩を抱き合って喜ぶ人もいれば、感極まって泣き出す乙女もいた。
 トランペットを持った青年が、「フォーエバー・センセイ」(原曲は「今日も元気で」)の調べを奏で始めた。ファイフやドラムも続いた。
 快活な調べに合わせ、誰かが歌い始めた。
 やがて皆が唱和し、大合唱となった。
 ……センセイ センセイ フォーエバー センセイ
 それは、涙の熱唱であった。
 寒さを耐え忍んできた人ほど、陽光に感動を覚える。苦労して頑張り抜いた人ほど、伸一のメッセージに彼の真心を強く感じ、その喜びは大きかった。
 伸一と峯子は、この日の夕刻、コンベンションを支える″陰の力″ともいうべき、コントロールセンターを訪れた。
 それは、市の全面的な協力によって、市庁舎別館の一、二階に設けられていた。
 伸一は自ら、コントロールセンターに案内するように、アメリカの幹部に要請したのである。
 彼は、行事の無事故の運営と成功のために、陰で奔走するメンバー一人ひとりを、全力で讃え励ましたかった。
 ″感謝″と″励まし″のなかにこそ、人間主義の生き方がある。
 しかし、要請されたアメリカの幹部は、予想外のことであったのか、戸惑いを隠し切れない様子であった。
 「えっ、先生がコントロールセンターに行かれるんですか!
 あそこは雑然としていて、先生に、ゆっくりしていただけるスペースはありませんが……」
 伸一は、厳しい口調で言った。
 「そんなことはわかっている。私は休んだりするために行こうというのではない。
 みんな睡眠時間を削って、黙々と頑張ってくださっている。その方々に、お会いして、一言でも感謝の言葉をかけたいのだ!」
32  陽光(32)
 山本伸一は、アメリカの幹部たちに言った。
 「真剣に頑張ってくれている人がいたならば、心から讃え、励ますべきです。
 誰もわからないところで苦労している人には、誰よりも深い愛情と感謝をもって接していかなければならない。それが人間の道です。
 そして、そこから、人間対人間の本当の交流が生まれるんです」
 伸一は、かつて青年部の室長として、学会の一切の行事を担当し、運営の指揮を執ってきた。
 会場の手配に始まり、輸送手段の確保、役員の配置、備品の調達等々、すべてが彼の双肩にかかっていた。
 したがって彼は、陰の力となって働く、裏方の苦労というものを、誰よりもよく知っていたのである。
 コントロールセンターに、伸一の元気な声が響いた。
 「おじゃまします!」
 皆が息をのんだ。スタッフたちは、まさか山本会長が、自分たちのところに現れるなどとは、夢にも思っていなかったのである。
 伸一は、笑みを浮かべて言った。
 「パレードや文化祭など、一切の行事を万全の態勢で推進してくださっている皆さんに、御礼、感謝申し上げたくてまいりました。ありがとうございます」
 そして、救護や輸送など、各部門の部屋を回っては、一人ひとりに声をかけ、用意した花束や記念品を手渡していった。
 一つの行事を成功させるためには、幾多の陰の努力が必要である。
 それは、一輪の花を咲かせるために、地中深く、幾重にも根を張り巡らさねばならないことに似ているかもしれない。その根を大切にしてこそ見事な花が開くのだ。
 伸一は、確信にあふれた声で語った。
 「このサンディエゴ・コンベンションという大いなる壮挙を担った皆さん方は、後世永遠にわたる、大いなる功徳の種子を植えたことは間違いありません。
 陰の苦労を勇んで買って出られた若きリーダーの皆さんを、私は心から尊敬します」
 そして、誠心誠意、深く頭を垂れるのであった。
 「誠実。それは、いっさいの根本である」
 イギリスの歴史家カーライルの名言である。
33  陽光(33)
 午後八時、ミッション湾に浮かぶフィエスタ島から花火が打ち上げられ、花火大会が行われた。
 ドドドーン!
 絢爛たる光に夜空が彩られ、轟音が響いた。
 この花火を山本伸一は、アメリカの下院議員やスペインの大学教授らと共に観賞した。
 伸一は、あらゆる機会を、広宣流布と平和のための対話に費やそうと心に決めていた。
 食事も、たいていはメンバーや要人たちと対話しながらであり、のんびりと食事を楽しむことなどなかった。
 彼は、自分の生きているうちに、世界広布の盤石な基盤を創り上げねばならないと誓っていた。
 ゆえに、一分一秒たりとも、時間を無駄にすることはできなかったのである。
 仏典には、「今日、まさになすべきことを、一心になせ」とある。
 伸一も、まさに、その思いで、一日一日を送っていたのである。「時」の浪費は、生命の浪費にほかならないからだ。
 コンベンション第二日の四月七日、サンディエゴ・スポーツアリーナで、「春の氷上文化祭」「第十一回全米総会」が、晴れやかに行われた。
 これには、中南米や日本からの代表を含めた一万二千人のメンバーが集ったのである。
 氷上文化祭は、スケートリンクが舞台である。
 厳しい冬から春へ、一人から全人類の連帯へと広がりゆく流れを各種の演技で表現し、「同志の歌」を基調のテーマとしていた。
 氷の上に一人の男性が立つ。「同志の歌」の力強い独唱が流れる。
 我いま仏の 旨をうけ 妙法流布の 大願を  高くかかげて 独り立つ……
 氷上の人は、一人から次第に数を増し、ダイナミックな動きが始まる。
 一人立つ――それは、広宣流布の原点である。創価学会を貫く大精神である。
 人を頼む心、依存の心があれば、本当の力は出せない。一人立つ人こそが真の信仰者であり、創価の後継者なのだ。
 そして、その一人立つ人と人との団結によってのみ、広宣流布の大願の実現は可能となるのだ。
34  陽光(34)
 氷上文化祭では、世界の冬を表した踊りが次々と披露された。
 冬は必ず春に――その確信を胸に、人生の冬の試練と戦い、歓喜をもって生きるメンバーの姿が、躍動の調べと踊りで表現されていく。
 氷上には、オランダの風車、ロシアの宮殿、日本の富士山などのフロート(山車)が、相次ぎ登場した。
 さらに、メキシコの闘牛士の舞に続いて、ハワイのメンバーの踊りが始まった。
 来年のコンベンションは、「ブルー・ハワイ・コンベンション」の名称で、ハワイで行われることが既に決定していた。
 ハワイアンの軽やかな調べは、そこでの再会の呼びかけでもあった。
 やがて、場内のライトが一斉に消えた。
 そして、ツリーに明かりがともり、場内の観客席にも、赤、白、青、黄の、無数のライトが光った。会場全体が光の海となっていった。
 明るくなった場内にサンタクロースが登場し、子どもたちの喜びが爆発したあと、再び舞台は、荒れ狂う冬となった。
 スクリーンには稲妻が映し出される。
 ここで再び、「同志の歌」が流れる。
 誰をか頼りに 闘わん 丈夫の心 猛けれど 広き戦野は 風叫ぶ 捨つるは己が 命のみ
 松明を高らかに掲げた青年が一人、リンクを滑る。一人は二人となり、二人は三人に……。妙法の青年の輪が、力強く広がる。
 観客席の伸一は、″そうだ!″と、拳で膝を叩いた。
 彼は、アメリカの青年たちに、たくましき学会精神を感じた。それが嬉しくて仕方なかったのである。
 彼の脳裏には、戸田城聖の、あの生命の言葉がこだましていた。
 「……現今の大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ。
 青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう」
 伸一は心で叫んだ。
 ″すべては一人から始まる。皆が、地域で、職場で、その最初の一人になるのだ。
 広宣流布の新しき前進のためには、青年が立つ以外にない!
 君が、君が、君が、立つのだ! 頼んだぞ!″
35  陽光(35)
 舞台の最後は、「春のメロディー」である。リンクに花の舞が広がり、冬眠から目を覚ました動物も、楽しく踊る。
 冬を耐え忍び、乗り越えた「勝利の春」「幸福の春」の到来だ。
 そして、出演者が続々とリンクに登場し、フィナーレとなった。サンタクロースもいる。愛らしい少年少女もいる。さまざまな国の民族衣装を着た人たちもいる。
 場内は、陽光を浴びて凍てた大地がよみがえるように、万朶と咲き誇る歓喜の笑顔でいっぱいになった。
 皆が肩を組み、「フォーエバー・センセイ」の大合唱が始まった。
 スクラムが、右に左にうねる。それは、喜びの大波であった。
 ある出演者は、深く心に誓っていた。
 幼くして父を亡くし、母と共に信心を励んできた女子部員である。
 「冬の嵐がいかに激しくとも、もう私は負けません。心に太陽をいだくことができたからです。私の胸には花咲く春の野が広がっています。
 センセイ、センセイ、ありがとう!」
 それは、全参加者の思いでもあった。
 『幸福論』で知られるスイスの哲学者ヒルティは結論している。
 「人生の幸福は、艱難が少ないとか無いとかいうことにあるのではなく、それらのすべてを常勝的に輝かしく克服するにある」
 人生に試練はつきものだ。それに負けないことが、勝つことだ。
 山本伸一は、皆が何ものにも負けない強さをもち、幸福をかみしめている姿が、何よりも嬉しかった。
 十三年半前に、アメリカの大地に蒔いた、妙法の種子は、今、美事な幸の花々を咲かせたのだ。
 それは、日蓮仏法が、国家、民族を超え、人類の幸福の実現を可能にする世界宗教であることを証明する歴史ともなった。
 彼は観客席で立ち上がり、マイクを手にした。
 「感動いたしました。二十一世紀への夜明けともいうべき、本日の美事なる文化祭を、私は心から祝福いたします。
 この乱舞のなかにこそ、真実の平和があり、文化があり、人間性があることを、私は強く確信いたします。ありがとう!」
 出演者は、氷上に跳び上がって喜んだ。
36  陽光(36)
 氷上文化祭に引き続き、「第十一回全米総会」が開始されたのは、約一時間後の午後四時前のことであった。
 その間に、スケートリンクの上に板が敷き詰められ、イスが並べられ、総会用の舞台が設けられたのである。
 会場の関係者も、驚嘆するほどの早変わりであった。周到な準備と団結の勝利であった。
 御聖訓には「異体同心なれば万事を成し」と。アメリカのメンバーは、まさにその御文を、あらゆる場面で実践して見せたのである。
 全米総会は、アメリカ国歌の斉唱で始まった。
 開催地サンディエゴの代表などのあいさつが続いたあと、山本伸一のスピーチに移った。
 「グッド アフタヌーン! ハウ・アー・ユー?」(こんにちは! 皆さん、お元気ですか?)
 親愛の情を込めた英語のあいさつで、伸一の話は始まった。
 「このサンディエゴの町に、世界一美しい人間の花が咲いたような総会、大変におめでとうございます!」
 通訳を通して伸一の話が伝えられると、歓呼の声があがった。
 彼は、仏法とは何かということを、簡潔に語ろうとしていた。
 「仏法では、わが身は妙法の当体であると説いております。
 そして、妙法には、また、妙法によって顕現される仏界という生命には、英知も含まれれば、慈悲も、さらに哲学も、福運も、正義も、人間性も、道理も、すべてが包含されております。
 ゆえに、そのわが身の仏界を顕現させていくために、みんな仲良く、晴れがましい、勇気ある信心に励み抜くことを、心からお願いするものであります」
 賛同の大拍手がこだました。メンバーの瞳は燃え輝いていた。
 伸一は、この歓喜を、決して一時的なものに終わらせるのでなく、それぞれが、人間革命をめざし、生涯、信心を貫き通してほしかった。
 ″持続″によってこそ、信心の本当の力を得ることができるからだ。
 ゆえに彼は、力を込めて訴えた。
 「広宣流布の使命に生きる皆さんは、いかなることがあっても、退転してはならない。怨嫉があってはならない」
37  陽光(37)
 山本伸一は、メンバーが一人も漏れなく、広布と人生の勝利者になることを強く念願しながら、話を続けた。
 「退転は、幸福の軌道を自ら踏み外すことであります。また、怨嫉は、広宣流布の団結を破り、自らの心を腐らせてしまう。それは、汝自身の損失であります。
 どうか皆さんは、豊かな福運を身につけ、『社会正義』と『人間革命』の哲学を掲げて、確たる自身の建設と自由の国アメリカの平和を築いていってください。
 皆さんの勝利こそ、私の最大の喜びです」
 その言葉に、参加者は目頭を熱くしながら、広宣流布への決意を固めるのであった。
 最後に彼は、万感の思いで呼びかけた。
 「皆さんは、毎回の総会を前進の節とし、幸福と平和の波動を社会に広げてこられた。私にとって、これほど嬉しいことはありません。
 私も、皆さんと共に、命の続く限り、アメリカの人びとの幸福と平和のために、走り抜きます。
 尊いこの一生を、共々に、広宣流布に生き抜き、人生の大勝利を飾ろうではありませんか。
 サンキュー・ベリーマッチ!」
 伸一が話を終えると、怒濤のような歓声がわき起こった。
 そして、次の瞬間、感極まった参加者たちが、舞台目がけて駆け寄り、壇上の伸一に、握手を求めるのであった。
 伸一は、差し出された手を握り、固い握手を交わしていった。
 彼の体は、メンバーの手に引っ張られ、今にも落ちそうであった。壇上の幹部らが、彼を懸命に支えた。それでも、伸一は握手をし続けていた。
 総会終了後も、彼のメンバーへの激励は続けられた。
 各部門の役員に、「皆様のおかげで大成功の総会となりました。本当にありがとうございました」などの伝言とともに、パンや飲み物などを届けるよう、次々と幹部に指示していった。
 さらにこの日、メンバーに贈るために、深夜までかかって、色紙や書籍などに歌や句、励ましの一文を認めていった。
 伸一は同志の激励のために生命を燃焼した。
 それが彼の毎日であり、彼が決めた人生でもあった。
38  陽光(38)
 「サンディエゴ・コンベンション」を終えた山本伸一は、四月八日の午後、マリブの研修所に戻った。そして、夕刻にはアメリカ本部を訪問し、本部の職員の激励に渾身の力を注いだ。
 このスタッフが、不眠不休でコンベンションの準備にあたり、労を惜しまずに働いてくれたからこそ、大成功に導くことができたのである。
 ゆえに伸一は、その職員たちを、最大に賞讃したかった。
 彼は、寸暇を惜しんで励ましの一文を認めた自著などを皆に贈呈し、ねぎらいの言葉をかけていった。
 「ありがとう。すべて皆さんのおかげで成功しました。
 高層ビルを支えているのは、鉄骨であり、鉄筋です。しかし、それは外からは見えない。その存在にさえ、気づかない人もいる。
 同じように、陰に徹して、広宣流布のため、同志のために奉仕するのが職員です。その生き方にメンバーは信頼を寄せてくださるんです。また、そこに、自身の大福運の道があります」
 それから伸一は、アメリカの中心者に言った。
 「これまで、アメリカは順調に発展してきた。しかし、本当の勝負はこれからです。
 さらに、大発展を遂げていくためには、中核の人材を大切に育てていくことです。
 また、中心者と本部の職員が団結していくことです。中心者が、本部のスタッフに信頼、尊敬されていなければ、やがて組織は崩壊します。
 職員には、アメリカの創価学会を体を張って守る責任があるし、皆、戦おうと決意している。
 だから、どうすれば、皆が気持ちよく、よい仕事ができるのか。また、どうすれば、皆が力を発揮することができるのか――を真剣に考え抜いていかなくてはならない。
 ところが、中心者が名聞名利に走り、権力欲をもつようになると、皆を生かすのではなく、自分のために利用しようと考えるようになる。
 そして、自分になびかない人や異なる意見を言う人は排斥してしまう。
 また、中心者が保身に陥ると、自分が泥をかぶらないためにどうするかばかりを考え、皆を縛り付け、自主性、主体性、頑張ろうという意欲を削いでしまう」
39  陽光(39)
 山本伸一の口調は、いつになく厳しかった。
 彼は、アメリカ本部の職員のなかに、アメリカの中心者に対して、「独断的である」など、不満が兆していることを耳にしていた。
 コンベンションは、大成功に終わったものの、中心者が職員の信頼を失い、団結することができなければ、早晩、広宣流布の前進は行き詰まってしまうことになる。
 伸一は、そうした事態だけは、なんとしても避けなければならないと思った。
 だから彼は、あえて厳しく、アメリカの中心者に語ったのである。
 「人間が権威的、官僚的になるのは、力のない証拠です。周囲の人を納得させる力もなく、尊敬を勝ち取る人間的な魅力もないと、立場や権威で人を従わせようとするようになってしまう。
 偉ぶって一方的に指示をするだけでは、みんなの心は離れていきます。
 職員に頑張ってもらうためには、気さくに声をかけ、胸襟を開いた対話をしていかなくてはならない。
 そして、良い意見を聞いて、どんどん取り上げていくことです。
 アメリカは民主主義の象徴の国です。その国で独裁のような体質の組織をつくってしまえば、必ず広宣流布は破綻してしまいます。
 みんなでなんでも話し合い、″対話第一″でいくことです」
 アメリカの哲学者デューイは断言している。
 「民主主義は話し合いからはじまる」
 伸一の話は続いた。
 「身近なスタッフの支持を得られなければ、本当の戦いは起こせない。
 大きな会合に出た時は笑顔を振りまいていても、日ごろ、スタッフと接する態度が、横柄、傲慢ではいけないよ。
 みんなに、『お世話になります。よろしくお願いします』という態度を忘れないことです。人は結局は、人間性、人柄についてくるんです」
 仏典には釈尊の人柄について、こう記されている。
 「実に<さあ来なさい><よく来たね>と語る人であり、親しみあることばを語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色はればれとし、自分のほうから先に話しかける人」
 それが仏法者の真の在り方である。
40  陽光(40)
 四月九日午後、山本伸一は、マリブの研修所で、アメリカ滞在中最後となる青年リーダーの研修会を行った。
 彼は、今回のアメリカ訪問の眼目は、青年の育成にあると決めていた。
 ″今こそ、アメリカ広布の中核となっていく青年を育成しておかなければ、未来の発展はない″と考えていたのだ。
 だからアメリカ到着二日後の三月九日には、サンフランシスコで男女青年部の代表四十人に対する研修会を開催した。
 ここでは、社会に仏法を開いていくために、教学研鑽が最重要であることを訴えるとともに、広宣流布のための出版活動の推進などを提案し、活動の展望を示した。
 そして、このメンバーで「ウィズダム(英知)グループ」を結成したのである。
 さらにマリブでは、パナマ・ペルー訪問をはさんで、これまで計六回にわたり、時間をこじ開けるようにして、青年研修を実施してきた。
 研修は、いずれも懇談会形式で進められた。
 伸一は、できる限り、最初に勤行を共にするようにした。そこにこそ、真実の生命の交流があるからである。
 また、信心の基本である、唱題の意義などについて、あらゆる角度から語っていった。
 「南無妙法蓮華経こそ生命を革命する、世界共通の音声です。宇宙の大生命と自己とを融合させる道は、唱題しかありません。
 勤行によって、わが生命は覚醒し、生命力を汲み上げることができる。さらに、自身の生命を磨き、仏性を現していくのが唱題です」
 一回一回の研修に、彼は真剣勝負で臨んだ。
 ある時は結婚について論じ、ある時はスランプをどう乗り越えるかなど、青年の直面する問題について語っていった。
 そして、生涯、広宣流布の使命に生き抜くことを訴えたのである。
 伸一は、知識を教えたのではない。「不惜身命」の決意という″志″の種子を懸命に植えようとしたのである。
 文豪ゲーテは「動ずることのない志、それだけが人間を不朽の存在にする」と明言した。
 大切なのは心である。その心に使命の火を点ずるために、わが生命を燃やし尽くし、青年の育成にあたったのである。
41  陽光(41)
 最後となったマリブ研修所での青年研修では、山本伸一からメンバーに卒業証書が授与された。
 「アメリカの未来を頼みます」
 「平和の戦士になってください」
 「民衆のために戦う幸福博士に!」
 伸一は、一人ひとりに声をかけながら、卒業証書を手渡していった。
 それから彼は、青年たちと共に、研修所の庭を散策したあと、芝生の上で懇談のひと時をもった。樹間を渡る海風が、さわやかであった。
 青年の一人が、瞳をキラキラと輝かせながら伸一に尋ねた。
 「先生のUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)での講演を聴かせていただき、その視野の大きさと哲学的な深さに感動いたしました。
 そうした力は、どうやって身につけられたのでしょうか」
 伸一は言下に答えた。
 「すべて、師匠である戸田先生によって育まれたものです。つまり、戸田大学で学び、教育された成果なんです」
 伸一は、懐かしそうに戸田をしのびながら語っていった。
 「私の最高の栄誉は、戸田大学の卒業生であるということです。
 私は二十一歳の時に、戸田先生の出版社に勤めましたが、先生の会社の経営は行き詰まってしまった。先生をお守りするために、私は夜学を断念して、事業の再建にすべてをなげうちました。
 その私のために、先生は、命を削って個人教授をしてくださった。日曜ごとにご自宅で、また、会社でも毎朝、万般にわたる学問の授業をしてくれました。講義は何年も続きました。
 それが戸田大学です。
 先生は講義を通し、学問のホシとは何かを教えてくださった。
 また、単に知識を詰め込むのではなく、智慧の眼を開かせることに、最大の力点を置かれて講義された。
 先生は晩年、皆にこう言われた。
 『戸田門下生で伸一にかなう者はいないな。どこに出しても恥ずかしくない。
 どんな指導者と議論しても、どんな学者と議論しても、負けない男をつくっておいたよ』
 この先生があってこそ、今の私があるんです」
42  陽光(42)
 山本伸一の声は、厳粛さを帯びていった。
 「戸田大学には校舎も図書館もありません。卒業証書もなかった。
 しかし、師匠と弟子の黄金の絆が、永遠不滅の輝きを放つ師弟の魂がありました。人類のための平和博士を、幸福博士を育む大学でした。
 ゆえに、戸田大学は世界一の、最高の大学であると確信しています。
 私は、その戸田大学の優等生として、それを世界に証明する義務があると思っています。いや、必ずそうしてみせます。それが弟子の道です。
 皆さんは、アメリカ山本大学の第一期生です。短い期間ではありましたが、私は全生命を、全精魂を注ぎ尽くす思いで研修を行いました。
 皆さんが、私と同じ決意で、アメリカの人びとの幸福のために、平和のために、その生涯を捧げてくださることを信じております」
 唇をかみしめながら、頷く青年がいた。眼を潤ませ、決意を固めるように、拳を握りしめる青年もいた。
 潮騒が空に響いた。
 それは、青年たちの新しき出発を祝福する、天の拍手を思わせた。
 伸一は話を続けた。
 「戸田先生は、苦境のさなか、ある講義が修了した時、机の上に飾ってあった一輪の花を取ると、私の胸に挿してくださった。
 『この講義を修了した優等生への勲章だ』
 そして、こう言われて微笑を浮かべられた。
 『苦労をかけて申し訳ない。伸一は、本当によくやってくれているな』
 私は厳粛な気持ちで、先生を見つめました。一輪の花といえども、師匠から授かった勲章です。世界中で最も尊い、最高の誉れであると思いました。実は、その心が大事なんです。
 私は今回の訪問で各地から名誉市民の称号などをいただきましたが、こうして顕彰される根本の因は、その心にあったと確信しています。
 本日、私も戸田先生と同じ思いで、諸君に卒業証書をお渡ししたことを忘れないでください」
 青年たちの瞳が決意に燃え輝いた。
 フランスの作家アンドレ・ジッドは、青年たちに「諸君のうちに未来がかかっている」と訴えた。
 それはまた、伸一の魂の叫びでもあった。
43  陽光(43)
 四月九日の夜、「サンディエゴ・コンベンション」の大成功を祝い、文化祭などを支えたメンバーの代表八十人が集い、祝賀会が行われた。
 会場となったサンタモニカの中華レストランに、山本伸一と峯子が到着すると、文化祭の陰の立役者たちが勢ぞろいしていた。
 千三百着の衣装を仕立てた責任者や、延べ一万七千人分の食事を用意した部門の責任者もいた。
 資材などを運搬した輸送チームの責任者もいる。チーム全体の走行距離は延べ百十万五千マイル(約百七十七万八千キロメートル)になった。
 さらに、音楽や美術部門の関係者もいた。
 皆、喜びに頬を紅潮させていたが、どこか寂しさがあった。明日、伸一がハワイに出発すると聞いていたからである。
 そんなメンバーの心を察した伸一は、優しく包み込むように、最敬礼する思いで語った。
 「皆さんの力で、また一つ、アメリカ広布の新しい歴史が開かれました。本当にありがとうございます。
 私は、明日、ハワイに発ちますが、また、来年の『ハワイ・コンベンション』で、一段と成長した姿の皆さんと、お会いできることを、楽しみにしております。
 私の胸には、いつも皆さんがいます。私たちの心は、互いに題目で結ばれています。
 広宣流布をめざして、私と同じ決意で戦うならば、生命はいつも通い合います。それが、師弟不二です。
 また、仏法の師弟は三世常住です。ゆえに、皆さんとは、今世だけでなく、来世も一緒です」
 それから伸一は、自ら買い求めたリボンフラワーなどのプレゼントを、メンバー一人ひとりに、ねぎらいの言葉をかけながら手渡していった。
 「これを買ったので、私の財産は、全部、なくなりました。
 奥さんが、『明日から、どうやって暮らすつもりですか!』って怒るんですよ」
 そのユーモアに、どっと笑いが広がった。
 彼は皆に、決して寂しい思いをさせたくなかった。自ら陽光となって、笑顔の花を咲かせようと、懸命であった。
 「指導とは激励なり。励ましなり」
 これは戸田第二代会長の教えであった。
44  陽光(44)
 ロサンゼルスを発つ四月十日も、山本伸一は出発間際まで、メンバーの激励を重ねた。
 伸一の激励は、あらゆるメンバーに及んだ。
 陽光が大地の隅々まで降り注ぐように、″あの人は″″この人は″と、陰で働く人、目立たぬ努力の人、献身の人などを次々と照らし出していったのである。
 伸一の宿泊場所となったマリブ研修所の管理者や、食事の準備にあたってくれたメンバーにも、記念品をプレゼントし、句などを詠んでは贈っていった。
 此の国に 君ありにけり  金の宿
 朝夕に  ともに語りし   君が味
 また、日本からUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に留学している一人の青年にも句を詠んだ。
  海を越え
    わが師子生立て
      嵐にも
 われらは、何のためにこの世に出現したのか。地涌の菩薩なれば、広宣流布のためである。
 広宣流布とは、一切衆生の成仏得道の法である妙法を弘めゆくことだ。
 それは、人びとの仏の生命を涌現せしめ、大いなる生命力を、善なる心を、正義の意志を、勇気を、希望を、呼び覚ますための聖業である。
 その行為を、平易な言葉で表現するなら、「励まし」といえよう。ゆえに伸一は、わが人生は、人への「励まし」のためにあると決めていたのである。
 本来、地涌の菩薩の使命をもつ私たちは、友を、家族を、自分に連なるすべての人びとを励ますために、生を受けているのだ。
 いかなる苦境にあろうが、病床にあろうが、体が動けなくなろうが、生命ある限り、人を励まし続けるのだ。
 たとえ言葉がしゃべれなくなっても、表情で、微笑で、眼差しで励まし、地涌の使命を果たし抜くのだ。
 そこには、人間としての、能動性、主体性がある。その時、生命は、美しき太陽の輝きを放ちゆくのだ。それが、「生きる」ということなのだ。
45  陽光(45)
 山本伸一の乗った飛行機が、ハワイのホノルル空港に到着したのは、四月十日の午後五時(現地時間)であった。
 機中、伸一は、パシフィック方面長のヒロト・ヒラタのことを、祈り続けていた。
 ヒラタは、既に退院したとの報告を受けてはいたが、実際にどこまで健康を回復しているのか、心配でならなかったのである。
 ――ヒラタは、サンディエゴ・コンベンションに参加する打ち合わせをしていて、心臓発作を起こして倒れた。
 これまで糖尿病と高血圧をかかえていたが、百キロを超す巨体で、精力的に動き回ってきた。
 病院に運ばれた彼は、一時は意識不明の状態となり、病院のICU(集中治療室)で治療が続けられた。
 医師は、妻のタツコに告げた。
 「これまで何もなかったのが、不思議なぐらいです。ご主人の心臓には傷があります!」
 やがて意識を回復したヒラタは、妻から医師の言葉を聞かされた。
 また、伸一が帰途、自分を見舞うために、ハワイを訪問してくれることも知った。
 ヒラタは、病室で必死に唱題し、むさぼるように御書を拝した。
 「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり
 この御文に、彼の目は釘付けになった。
 これまでに何度も拝してきた御文であるが、この時、初めて自分自身のこととして、鮮烈に胸に迫ってきた。
 彼は思った。
 ″今こそ、広宣流布の大きな流れを開き、ハワイが大飛躍していく時なのだ。だから、魔が競い起こった。断じて負けるものか!″
 彼は″ハワイの広宣流布を成し遂げるために、生命を与えてください″と、真剣に祈った。
 正しき信心がある限り、恐れるものなど何もない。
 スイスの哲学者ヒルティは言明している。
 「人生のあらゆる困難がこの信仰を深めるための単なる修練となるであろう」
46  陽光(46)
 ヒロト・ヒラタは、山本伸一のハワイ訪問を前に退院した。しかし、まだ、本格的に健康を回復したわけではなかった。
 四月十日、ヒラタは空港に駆けつけ、伸一の到着を待っていた。
 午後五時、伸一たちが乗った飛行機が到着する直前、上空に、大きな鮮やかな虹がかかった。
 その虹のアーチの下、伸一はホノルル空港に降り立ったのである。
 「先生!」
 ヒラタが叫んだ。
 「おおっ、リキさん」
 伸一は、ヒラタのニックネームを呼ぶと、駆け寄り、彼の手を強く握り締めた。
 百キロを超えていた巨体の″リキさん″は、すっかり痩せ細り、痛々しいほどであった。
 伸一は、彼を抱き締めながら言った。
 「リキさん、まだ、倒れちゃだめだよ。
 心配したよ。ずっと、ご祈念していたんだよ。
 ……でも、元気になってよかった。本当によかった」
 「先生……」
 ヒラタは、こう言ったきり、絶句した。
 自分のことを気遣い、わざわざハワイに寄ってくれた伸一の心を思うと、申し訳なさと、ありがたさで胸がいっぱいになり、言葉が出なかったのである。
 ヒラタの目から、大粒の涙があふれた。
 伸一は、包み込むような微笑を浮かべて、語っていった。
 「リキさん、題目しかないよ。今こそ信心で宿命を乗り越える時だ。広宣流布に生き抜く決意を定めることだよ。
 それが宿命転換の原動力だ」
 広宣流布をわが使命として生きる時、わが身に地涌の菩薩の大生命力が脈打ち、宿命の鉄鎖は打ち砕かれていくのだ。
 伸一は言葉をついだ。
 「来年は、このハワイで大々的にコンベンションが行われる。これは、世界平和の夜明けとなるコンベンションだ。
 リキさんが、あなたが、その主役だ。
 もっと、もっと元気になって、大成功のハワイ・コンベンションにしてください。頼むよ」
 ヒラタは、ポロポロと涙を流しながら言った。
 「もう、大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません。頑張ります。断固、頑張ります」
47  陽光(47)
 山本伸一がヒロト・ヒラタを励ますのを、ムームーやアロハシャツを着た地元のメンバーも、共に目を潤ませながら、じっと見ていた。
 一人の弟子を思う師の心に、皆、感動せずにはいられなかった。
 ″これが、創価学会の師弟の世界なのか!″
 メンバーは、伸一の振る舞いを通して、仏法の師弟の真髄を学んでいったのである。
 伸一は、皆に向かって言った。
 「わざわざ出迎えていただき、ありがとう!」
 メンバーは笑みを浮かべ、口々に歓迎の言葉を述べた。
 「アローハ!」
 「センセイ、お帰りなさい!」
 そして、伸一や峯子の首にレイをかけた。
 「ありがとう。皆さんのところへ、帰ってきましたよ。みんな元気だったかい」
 「はい!」という明るい声が響いた。
 伸一のハワイ訪問は、前年の八月以来、八カ月ぶりであった。
 彼は、出迎えてくれたメンバーに呼びかけた。
 「さあ、また一緒に、ハワイ広布の新しい歴史をつくろうよ」
 伸一は、空港から宿舎のホテルに向かい、午後八時から、パシフィック方面の最高スタッフ会議に出席した。
 席上、新たにホノルル本部が誕生することになった。これまでパシフィック方面はハワイ本部のみであったが、二本部となることが決まったのである。
 伸一は、ここでも、指導者としての在り方や、人材育成の重要性などを力の限り、語っていった。まさに、間断なき闘争であった。
 翌十一日、伸一はパンチボールの太平洋国立記念墓地を訪れた。第二次世界大戦をはじめ、朝鮮戦争やベトナム戦争の戦没者が眠る墓地である。
 悲惨な戦争の犠牲となった人びとの冥福を祈るとともに、世界の平和を誓っての墓参であった。
 彼は一九六〇年(昭和三十五年)に、初めてハワイを訪問した折にも、この墓地を訪れている。
 広宣流布とは恒久平和の異名でもある。断じて戦争をなくそうという戸田城聖の誓いから、戦後の創価学会は始まった。
 ゆえに、平和を祈り、平和のために戦うことが、学会の精神なのだ。
48  陽光(48)
 山本伸一の一行は、太平洋国立記念墓地から、ハワイ会館に向かった。会館の庭で行われる、交歓の集いに出席するためである。
 この集会は、伸一の提案によって、「一九七五――プレ・ハワイ・コンベンション」と名づけられていた。
 彼は、この集いをもって、明年七月のハワイ・コンベンションへの、スタートにしようと考えたのである。
 迅速なスタートこそが勝利を決するからだ。
 また、せっかく皆が集まるならば、そこに大きな意義を与え、価値を創造したかった。それが、そこに参画する人びとの真心に、応えることになるからだ。
 会館に到着した伸一は、出迎えたメンバーに笑顔で語りかけた。
 「アローハ!」
 彼は、現地の人たちと同じように、アロハシャツ姿であった。
 伸一は、皆の決意を促すように言った。
 「さあ、今日から、来年のハワイ・コンベンションへの出発だよ。
 来年は、第二次世界大戦の終戦三十周年だ。
 そして、私が世界の平和旅への第一歩を、このハワイで皆さんと共に踏み出してから十五周年になる。
 このコンベンションをもって、ハワイから、世界平和と人類の幸福の大潮流を起こそう。黄金の広布の歴史を残そうよ」
 メンバーの目標は明確になった。皆の胸に、新しい希望が広がった。
 「人間の活動は新しい目標を追うてはじまる」とは、ドイツの詩人ヘルダーリンの至言である。
 プレ・ハワイ・コンベンションは、午後六時半過ぎから行われた。
 満天の星であった。
 暗闇のなか、トーチに火がともされると、庭の青々とした草木や、色とりどりの花々が、浮かび上がった。
 伸一が会場に姿を現した。大歓声が起こった。
 彼は、用意された席には着かず、メンバーのなかに入って、激励し始めた。
 皆、伸一を迎えることのできた喜びに、瞳を輝かせていた。彼を力の限り抱き締める老婦人もいた。彼の手が痛くなるほど、力いっぱい握手をする青年もいた。
 伸一は、一人ひとりに用意してきたレイをかけ、記念品を贈った。
49  陽光(49)
 プレ・ハワイ・コンベンションが始まった。
 真っ白いドレスに身を包んだ婦人部の優雅な踊りもあった。フラダンスもあれば、松明を手にしての、勇壮な民族舞踊もあった。
 山本伸一は、一つの演技が終わるつど、立ち上がって拍手を送り、励ましの言葉をかけた。
 ハワイの民族舞踊を踊っている男子部のメンバーに、日本で何度か会った、一人の青年がいることに気づいた。
 中島健治である。
 演技が終わったあと、伸一は彼と会った。
 中島は、日本で学習院大学を卒業し、世界広布の使命に燃えて、ホノルルの語学学校に留学していたのである。
 彼は、かつて総本山で役員の任務についていた時、伸一に声をかけられたことがあった。
 その時、中島は、幼少期に父親が家を出て行き、母親が小さな書店を営みながら、女手一つで兄と自分を育ててくれたことなどを語った。
 すると、伸一は言った。
 「そのお母さんの心を受け継ぎ、広宣流布に一人立つことだよ」
 この励ましが彼の飛躍の原点となった。そして、以前から思い描いていた世界広布に、生きようと決意を固めた。
 一九七三年(昭和四十八年)の十月、中島はハワイに渡る報告をした。
 伸一は、自著の『青年の譜』に「弟子巣立ちゆく新世紀」と揮毫して贈ったのである。
 以来、半年ぶりの再会であった。
 「元気だったかい」
 伸一は尋ねた。
 中島は、雨漏りがしてネズミも出る古いアパートに、二人の友人と住んでいた。仕送りもなく、満足に食べることもできず、苦しい日々を送っていた。
 中島は、伸一に心配をかけまいと、生命力を振り絞るようにして、元気に「はい!」と答えた。
 だが、少しやつれた中島の姿から、伸一は、彼の苦闘を感じ取った。
 伸一は言った。
 「世界広布のために生きようという正義の弟子が育ってくれて、私は嬉しい。
 今は、どんなに辛く、苦しくとも、頑張り抜くんだ。絶対に負けてはいけないよ。
 春になれば、一斉に花が咲くように、今の苦労が花開く勝利の時が、きっとくるよ」
50  陽光(50)
 各演目が終わると、山本伸一はマイクを取って語り始めた。
 「このすばらしい満天の夜空の下、いよいよハワイは、世界的な焦点の地となるべき松明を掲げました。
 皆さんは、世界平和の原型を構築しゆく″核″となり、また、コンベンション大成功への導火線となっていただきたい。
 そして再び、このハワイの地から、私と共に、世界平和の波を起こしましょう。
 今日は、私が皆さんをお見送りします。皆さん方の熱烈な歓迎に対して、感謝の心を込めて送らせていただきます」
 そして、自ら退場口に立ち、ねぎらいと励ましの言葉をかけ続けた。
 声も嗄れた。握手を交わす手もしびれていた。しかし、伸一は自分の体など、かばおうとは思わなかった。
 ――励ましの陽光を、一人ひとりの胸中深く送ることだ。この光ありてこそ、人の勇気が、希望が、使命が目覚める。
 この生命と生命の絆こそが、創価の金剛の団結をつくっているのだ。
 プレ・ハワイ・コンベンションの終了後も、伸一の激励は続いた。
 彼は、グアム島からもメンバーが参加していることを聞くと、代表を会館の仏間に招き、共に勤行し、懇談した。
 グアムはマリアナ諸島南端に位置する、ミクロネシア最大の島である。
 十九世紀末、スペイン領からアメリカ領となり、第二次世界大戦中には、一時、日本軍の占領下に置かれた。
 そして、これを奪還しようとするアメリカ軍との間で、激しい攻防戦が展開されたのだ。
 日米両軍はもとより、罪もない多くの住民も犠牲になった。
 また、二年前の一九七二年(昭和四十七年)一月には、この島で元日本兵の横井庄一が発見されている。終戦を迎えても、二十六年五カ月もの間、ジャングルに身を潜め続けてきたのだ。
 彼が日本の土を踏んだ最初の言葉が、「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってきました」であった。
 伸一は、そのニュースに接した時、胸が張り裂ける思いがした。
 ″恥ずべきは誰なのか! 国のために死ねと教え、民衆に塗炭の苦しみをなめさせた戦争指導者ではないか!″
51  陽光(51)
 山本伸一は、グアム島の代表に、島の気候や産業、メンバーの様子などを尋ねていった。
 現地のメンバーのなかには、発見された横井庄一の通訳をしたという人もいるという。
 また、戦時中、日本軍に、死ぬほどの拷問を何度も受けた人もいたというのだ。
 伸一は語り合ううちに、頭のなかで、一つの構想が次第に具体化していった。
 ――彼は以前から、日蓮大聖人の仏法を基調にして、世界平和と全人類の幸福と繁栄をめざす国際団体の、結成の必要性を痛感していたのだ。
 これまで、各国・地域の組織が連帯し、協力し合いながら、仏法を根底に、平和と幸福を築いていくために、「ヨーロッパ会議」「パン・アメリカン連盟」「東南アジア仏教者文化会議」が発足していた。
 伸一は、それをさらに広げ、全世界を一つに結ぶ、「創価学会インタナショナル」ともいうべき、国際団体の発足を構想していたのである。
 核戦争の脅威や地球環境の深刻な悪化、差別、貧困、飢餓など、現代のかかえる諸問題を見ても、国や地域を超えて、世界が連帯して立ち向かわなければならないテーマであるからだ。
 この地球から不幸の二字を絶滅すること――それこそが、われら仏法者の使命である。
 伸一は、その国際団体の結成の時期を、創価学会創立四十五周年にあたる明一九七五年(昭和五十年)の初頭と考えていた。そして、その結成の場所を、世界平和への誓いを込め、戦場の島となったグアムにしてはどうかと構想したのである。
 伸一は、グアムの代表に言った。
 「グアムには、戦争に苦しめられた、悲惨な歴史があります。
 だからこそ、みんなが力を合わせて、グアムを平和と幸福の楽園にしていってください。
 そのための仏法です。そのために、皆さんがいるんです。
 グアムは世界広宣流布の歴史のうえで、大事な意義をもつ地域になるでしょう」
 メンバーは、伸一の言葉が、何を意味するのかはわからなかった。しかし、自分たちの大きな使命を感じ取り、決意を新たにするのであった。

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