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日蓮大聖人・池田大作

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第19巻 「凱歌」 凱歌

小説「新・人間革命」

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1  凱歌(1)
 「私の僚友よ しかし私達は歩きます、自由に、全地球を隈なく、私達の消し難き足跡を時と各時代の上に印するまでここにかしこに旅をつづけます」
 アメリカの詩人ホイットマンは、こう叫んだ。
 それはまた、世界広宣流布の第二章の幕を開きゆこうとする山本伸一の決意でもあった。
 しかし、その彼の行く手に、一つの障壁が立ちはだかっていたのだ。
 一九七四年(昭和四十九年)三月十二日、伸一は、アメリカのロサンゼルス近郊にあるマリブ研修所の庭に立った。
 芝生の向こうには太平洋が広がり、寄せ返す波は陽光に輝いていた。
 伸一は拳を握り、大海原を見つめながら、傍らの妻の峯子に言った。
 「今日になってもビザ(査証)が出ないのでは、やむをえないな……。
 ブラジル行きは中止しよう」
 峯子は、憂いをたたえた目で伸一を見ながら、静かに頷いた。
 「仕方ありませんね。
 でも、ブラジルの皆さんのことを思うと、胸が痛みますね……」
 伸一は、アメリカ、ブラジル、ペルーの三カ国を訪問する予定で、三月七日に日本を発った。各国のメンバーの激励と、教育・文化交流を推進するためであった。
 アメリカではサンフランシスコに到着したその日に、サンフランシスコの最高指導会議に出席。
 翌八日には、招聘を受けていたカリフォルニア大学バークレー校を訪問し、アルバート・H・ボウカー総長と会談した。
 九日には、サンフランシスコ・コミュニティー・センターの開所式等に臨み、十日にロサンゼルスに移動した。
 そして、マリブ研修所を中心に、アメリカの最高協議会に出席するなど、連日、激闘が続いていたのである。
 当初の予定では、三月十三日にブラジルに入国し、サンパウロでの世界平和文化祭などの諸行事に出席することになっていた。しかし、ブラジルに入国するビザが下りないのだ。
 大聖人は「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」と仰せである。
 広宣流布の道は、予期せぬ障害が打ち続く険路である。深き覚悟なくして踏破はない。
2  凱歌(2)
 山本伸一たちのブラジル入国のビザは、二月中旬に申請しており、月末には発給されるはずであった。
 ところが、三月に入っても発給されなかったのである。
 学会本部の担当者は、横浜のブラジル総領事館に、何度も足を運んだ。
 総領事館では、そのつど、リオのカーニバルで休日が続いていたことや、新大統領の就任式があることを理由にあげ、事務手続きの遅れによるものと説明した。
 報告を聞いた伸一は、八年前の一九六六年(昭和四十一年)三月に、ブラジルを訪問した折の状況が思い起こされてならなかった。
 ――この訪問中、伸一には、常に政治警察の監視の目が光っていた。南米文化祭が行われた時にも、会場には警察官が並び、まるで戒厳令でも敷かれたような、ものものしい雰囲気であった。
 当局が創価学会を、宗教を擬装した政治団体であり、社会の転覆をもたらす危険な団体であると、誤解していたのだ。
 アメリカの一部のマスコミが、世界征服を狙う教団であるなどと、偏見に満ちた報道をしてきたことを、真に受けてしまったようだ。
 また、学会に敵意をいだく日系人の他宗派有力者らが、政府や警察に、「学会は共産主義者たちとつながっている危険な団体である」などと吹聴していたのだ。
 当時、軍事政権であったブラジル政府は、政治・思想的な動きには、ことのほか警戒心を強めていただけに、政治に絡めて学会を中傷するデマに乗ってしまったのだ。
 「人を殺して血もみせない武器がある。それはデマを製造することだ」とは、文豪・魯迅の怒りの叫びである。
 伸一は、また今度も、背後に学会を排斥しようとする力が働いているのではないかと直感した。
 八年前の訪問の折、メンバーは誓い合った。
 ″山本先生に、こんな思いをさせて申し訳ない。
 次に先生をお迎えする時には、政府の関係者も学会を正しく理解し、国をあげて先生を歓迎するような状況を、必ずつくろう″
 そして、メンバーは、学会の真実と正義を社会に示そうと、懸命に努力してきた。しかし、誤解の壁は、あまりにも厚かったのである。
3  凱歌(3)
 ブラジルのメンバーは、一九六六年(昭和四十一年)以来、八年ぶりとなる山本伸一の訪問を、待ちに待っていた。
 ところが、伸一が日本を発つ前日の三月六日になっても、一行のビザの発給はなかった。
 伸一は、予定通りに出発し、アメリカで、ブラジル総領事館にビザを再申請した。しかし、ビザは発給されぬまま一日一日と過ぎていった。
 ブラジルの理事長になっていた斎木安弘も、山本会長一行のビザが下りない理由を突き止めようと、ブラジル政府の関係者らと会っていった。
 すると、またしても、「山本会長の同行者に危険人物がいる」などといった根も葉もない情報が一部の日系人から流され、政府もそのデマに踊らされていることが判明してきたのである。
 斎木も、彼の妻の説子も、愕然とした。
 ―伸一は、アメリカで奮闘を続けながらも、ブラジルのことが頭から離れなかった。
 そして、とうとうブラジル入りを予定していた前日の、三月十二日を迎えたのである。
 いつまでもビザを待っていて、伸一のスケジュールが決まらなければ、ブラジルのメンバーにも迷惑がかかってしまう。
 伸一は、悩み考えた末に、断腸の思いで、ブラジル行きの「中止」を決断したのである。
 伸一は、マリブの研修所で、事務室に戻ると、同行の幹部らに告げた。
 「ブラジル行きは中止にするよ」
 斎木には電話で、残念だろうが、これも、すべて「御仏意」であり、「きっと何か大きな意味があるはずだ」と、懸命に訴えた。
 伸一には、斎木の、悔しく、無念な胸のうちが、痛いほどよくわかった。だからこそ、必ず変毒為薬してほしかった。いな、一切を変毒為薬できるのが妙法である。
 伸一は、強い語調で言った。
 「勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。
 ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ」
4  凱歌(4)
 山本伸一は、生命力を振り絞るようにして、斎木安弘に語った。
 「長い目で見れば、苦労したところ、呻吟したところは、必ず強くなる。それが仏法の原理だよ。今回はだめでも、いつか必ず、私は激励に行くからね」
 伸一は、すぐにでも飛んで行きたかった。励ます彼も辛かった。いや、伸一こそ、最も苦しんでいたといってよい。
 しかし、彼の声は、明るく、力強かった。
 同志を断じて勇気づけねばならないという強い使命の自覚が、常に感傷や落胆を厳然と超克していたのだ。
 「いいかい。涙など決して見せずに、明るく、はつらつと、心からメンバーを激励することだよ。また、皆に『くれぐれもよろしく』と伝えてほしい」
 彼は、何度も、「頼んだよ。頑張るんだよ!」と念を押して、受話器を置いた。
 皆、心配そうな顔で、押し黙っていた。
 伸一は、その重い空気を一声で吹き飛ばすように、悠然と語った。
 「今は、ブラジルに行けなくとも、必ず行けるようになるよ。
 また、全世界がある。地球があるじゃないか。人間がいるところ、いずこであれ、我が使命の舞台だ」
 それから伸一は、同行の幹部に、高らかに宣言するように言った。
 「私は、今回は、アメリカからパナマに入る。 パナマの同志が喜んでくれるぞ!」
 伸一は、パナマのメンバーとパナマ政府から、訪問を強く要請されていたのである。
 早速、現地と連絡を取ると、メンバーも政府関係者も、大喜びで、歓迎の意向を伝えてきた。
 伸一の決断は素早かった。
 日程調整がなされ、マリブの研修所からルイジアナ州のニューオーリンズ、フロリダ州のマイアミを経て、三月十八日にパナマを訪問し、それからペルー入りすることになったのである。
 広宣流布は、間断なき挑戦、また挑戦の旅である。いかなる事態に遭遇しようが、前へ、前へと進み抜く、不退の行動のなかにこそ、勝利の朝が訪れるのだ。
 「一歩たりとも退いてはならない。行動の優柔不断は頭脳の空虚を意味する」とは、文豪ユゴーの警句であった。
5  凱歌(5)
 山本伸一はマリブ滞在中、三回にわたって青年研修を行い、次代のアメリカを担うリーダーの育成に全力を注いだ。
 そして、三月十四日の夜、空路、ニューオーリンズに移ると、翌日には州立ニューオーリンズ大学を訪問し、ホーマー・L・ヒット総長と会談した。
 さらに夜には、メンバーの指導会に出席した。ニューオーリンズは、ミシシッピ川河口の都市で、綿花などの取引で栄えてきた町である。また、ジャズも、ここから生まれている。
 この都市の繁栄の陰には、労働力となったアフリカ系アメリカ人の苦しみの歴史があった。
 その民衆の悲哀が刻まれた地を幸福の大地に転換しようと、伸一は精力的に対話を重ね、この日集ったメンバーを「幸福グループ」と命名した。
 以来、メンバーは、わが使命を自覚し、地域に、社会に、幸福と信頼の大樹を育てていった。
 そして三十年後、このニューオーリンズ市のシティーパークに、山本伸一と峯子の名を冠した「友情の森」が誕生するのである。まさにそれは、わが同志の凱歌のドラマであった。
 伸一は、アメリカで同志の激励にあたりながらも、ブラジルのメンバーのことが、片時も頭から離れなかった。
 彼は、ブラジルでの世界平和文化祭に、万感の思いを込めてメッセージを送った。
 「たとえ、お会いできなくとも、私の胸中には、今日の皆さんが、生き生きと躍動しております。
 どうか、ますますお元気に、幸せに満ち満ちたブラジルの天地で、わが家が最高の幸福の家庭であると言い切れる人生を送っていただきたい。
 そして、無限の未来性をもつ、愛するブラジルの広宣流布を、楽しく、勇敢に成し遂げていってください」
 皆、伸一を思い、その一言一言を涙で聞いた。 伸一は十六日にマイアミに入り、ここでブラジルでの世界平和文化祭が大成功に終わった報告を受けた。
 すると彼は、眼前にブラジルの青年がいるかのように叫んだ。
 「ありがとう!弟子が立ってくれた。みんなが山本伸一となって戦ってくれた。これでブラジルの大発展の因はつくられた。万歳だ、万歳だ」
6  凱歌(6)
 今、新たな歴史の一ページが開かれようとしていた。
 三月十八日、アメリカのマイアミからパナマに向かった山本伸一は、カリブ海の上空から、沈みゆく太陽を見ていた。
 「間もなく到着のようですね」
 隣の席にいた峯子が、シートベルトを締めながら言った。
 伸一は、頷きながらこたえた。
 「いよいよパナマだ。
 私は子どものころから、壮大なパナマ運河に憧れをいだいていた。
 運河ができたのは一九一四年だが、その十年ほど前に、牧口先生も『人生地理学』のなかで、運河の完成に期待を寄せられていたんだよ。
 パナマという国は、太平洋と大西洋、また、南北アメリカを結ぶ、文明の交差点ともいえる要衝の地だ。ところが、日本とパナマの関係は、決して深いとは言えない。特に文化、教育の面での交流は少ない。
 平和を築くうえで大事なことは、単に経済の結びつきだけではなく、幾重にも友好の橋をかける必要がある。
 国家と国家でなく、民間交流でもよい。相互理解のために、人間交流の道を開くことだ。
 私は、世界の平和を担う仏法者として、日本の未来のためにも、あらゆる国の、さまざまな人びとと交流の道を開いておきたいんだよ」
 峯子は、瞳を輝かせて微笑んで言った。
 「今、そのパナマにも、たくさんのメンバーが誕生したんですね」
 「そうなんだ。報告では、メンバーは八百世帯近くになったという。
 どの国でも一千世帯ぐらいになるころから、政府の関心は強くなる。
 場合によっては強い警戒心をもち、排斥しようとすることもある。特に軍政では、そうしたことが起こりやすい。
 しかし、パナマ政府は学会に好感をもって、招聘してくださった。
 さらに、この機会に、パナマ社会の多くのリーダーに、学会のこと、仏法のことを、正しく、深く、認識してもらおうと思う。
 とにかく、メンバーが安心して信心に励むことができるように、あらゆる手を打っておきたい。それが、私の仕事だと決めているんだよ」
7  凱歌(7)
 山本伸一が、パナマに到着したのは、午後七時過ぎであった。既に夜の帳に包まれていた。
 伸一がタラップを下りると、空港に大歓声が響き、報道関係者のカメラのフラッシュが光った。
 タラップの下からターミナルビル、送迎テッキまで、人、人、人であふれていた。
 「ビエンベニードス!」(ようこそ)
 最高の歓迎の意を表そうと、民族衣装を身につけた人もいた。
 懐中電灯を大きく振る人もいた。
 伸一は、両手を高く掲げ、皆の真心に応えた。
 メンバーは、伸一のパナマ訪問が予定されていなかった時から、″山本先生がアメリカから南米に行かれる時に、一時間でもいいからパナマに降りていただきたい″と、毎日、懸命に唱題し続けてきた。
 それが、思いもよらぬ正式な訪問となって実現したのだ。
 メンバーの喜びは、限りなく大きかった。
 伸一たちが空港の貴賓室に入ると、元駐日大使であったパナマの高官が笑顔で迎えてくれた。
 伸一は、感謝を込めて語った。
 「わざわざ空港にお出迎えいただき、大変にありがとうございます。
 今回の私の訪問が、民間レベルの文化交流の推進に、少しでも寄与できるならば、これほどの喜びはありません」
 その言葉を、伸一に同行してきたアメリカの日本人幹部が英語に訳し、さらにそれを、スペイン語のわかるアメリカ人メンバーがスペイン語に訳して伝えられた。
 また、先方の話は、スペイン語から英語に訳され、そして、日本語に翻訳されるのである。
 今回、スペイン語と日本語のできる通訳は同行していなかった。
 同じ言語で話し合うのに比べ、三倍も時間がかかることになる。伸一が会見を予定している人びとは、皆、多忙を極める要人である。
 伸一は思った。″これでは、あまりにも時間がかかりすぎる。弾むべき対話も、弾まなくなってしまう″
 「瞬間を大事に使うことにしよう」とは、アメリカの思想家エマソンの信念であった。
 時間の浪費は、生命の浪費につながる。価値の創造は、有効な時間の活用から始まる。
8  凱歌(8)
 山本伸一は、パナマの空港で、元駐日大使とのあいさつを終えると、同行の田原薫に言った。
 「誰か、スペイン語の通訳はいないかね」
 田原は、間髪を入れずに答えた。
 「ペルーに先発で入った海外担当の職員の吉野貴美夫君が、スペイン語ができます。
 運営の応援をしてもらおうと思い、実は彼をパナマに呼んでおります。間もなく、こちらに到着いたします」
 吉野は、三年前に本部の職員となった三十代半ばの男性である。
 彼は、伸一のペルー訪問の運営役員として、日本から直接、この日の未明にペルーに入った。
 そして、ペルー会館で仮眠していたところに、田原から電話があり、すぐにパナマに来るように言われたのである。
 伸一は空港から車で、宿舎のホテルに向かった。ここでも政府関係者らとの交歓のひと時がもたれた。
 そこに吉野が、ペルーから到着したのである。 吉野は、交歓会の会場のドアを開けた。
 なかには大勢の人がおり、山本会長が報道陣に囲まれ、カメラのライトを浴びていた。
 政府高官らしき人たちの姿もあり、ものものしい雰囲気であった。
 吉野が戸惑っていると、田原が彼を見つけて手招きした。
 吉野は人波をかきわけて進んでいった。
 田原は彼に、「君は先生の通訳をするんだよ」と小声で告げると、背中を押した。吉野は伸一の前に押し出された。
 伸一は、メガネをかけた純朴そうな顔の青年が前に出てきたのを見て、微笑を浮かべて言った。
 「君がスペイン語の通訳をしてくれる吉野君だね。よく来てくれたね。よろしく頼むよ」
 吉野は面食らった。頭の中は真っ白になった。
 彼は大学時代にスペイン語を専攻し、卒業後、旅行会社に勤め、スペイン語を使ってはきた。
 また、勉強も重ねてきた。しかし、通訳の経験は全くなかったのである。
 人生には、自分が試される″まことの時″がある。ゆえに、日ごろ、いかなる心構えで生き、どう努力しているかが大事になる。
 日々、地道な精進を重ねていてこそ、いざという時にチャンスをものにすることができるのだ。
9  凱歌(9)
 吉野貴美夫が「はい」と言いかけた時、既に山本伸一は、パナマの高官に語りかけていた。
 「パナマ訪問は、少年時代から私の夢でした。
 私は今回、パナマ大学なども訪問させていただきますが、パナマと日本の、平和と文化交流のために、今日を第一歩として、これからも全力を尽くしてまいります」
 伸一は、吉野に通訳するように促した。
 吉野は意を決してスペイン語で伝えた。大きな声であった。
 政府高官は笑みを浮かべてこたえた。それを今度は日本語に訳した。
 「パナマ国の名において、山本会長を心から歓迎します。これを友情と相互理解の一助としていけるなら幸いです」
 途中、先方が怪訝な顔をするなど、十分に意味が通じていないのではないかと思われる一コマもあったが、それでも語らいは弾んだ。
 吉野の額には汗が光っていた。冷や汗であったのかもしれない。
 その後、伸一の部屋に同行メンバーが集まり、打ち合わせが行われた。
 伸一が、何か意見はないかと尋ねると、アメリカの幹部が言った。
 「先生、私どもがアメリカから連れてきた、英語からスペイン語に通訳したメンバーによれば、今日の吉野さんのスペイン語は、六割ぐらいしか先方に伝わっていないということです」
 「六割」と聞いて、吉野は打ちのめされた思いがした。
 彼はうつむいたまま、顔を上げることもできず、小柄な体をさらに小さくしていた。
 ″申し訳ない。私が先生の通訳をするなんて無理なんだ。通訳を代えていただくしかない……″
 だが、次の瞬間、思いがけない言葉が、伸一から発せられた。
 「私の通訳を初めてやって、六割も伝えることができたのは彼だけだよ。すごいね。すごいじゃないか! 自信をもってやりなさい」
 吉野は耳を疑った。感動で体が震えた。
 ″なんと大きな先生か! 先生は、こんな私を庇ってくださる。断じて頑張り抜くぞ!″
 ロシアの詩人プーシキンは、高らかに謳う。
 「希望をもち心浮きたたす自信をもって すべてに立ち向かえ」
 挑戦の心こそ、自らの可能性を開く力だ。
10  凱歌(10)
 山本伸一は、トインビー博士との対談以来、世界の知性との交流のためにも、また、世界広布のためにも、本格的な各国語の通訳の必要性を痛感していた。
 そして、自らの手で、通訳を育成する以外にないと決意していたのだ。
 伸一は、この日、吉野貴美夫の奮闘を見て、彼をスペイン語の一流の通訳に育てようと思った。
 一方、伸一は、英語の通訳をしたアメリカの日本人幹部にも、配慮を忘れなかった。
 「二十日にはラカス大統領との会見が予定されているが、大統領は英語も堪能だと伺っている。
 この日は、私が最初に日本語であいさつをするから、それを君たちが、スペイン語と英語で同時に通訳しなさい。
 大統領がスペイン語でおこたえになったら会見はスペイン語で行うし、英語であったら英語で行おう」
 吉野は、大統領と聞いて緊張したが、闘志がわくのを覚えた。
 翌十九日、伸一は創価大学の創立者として、国立パナマ大学を公式訪問した。
 パナマ大学は一九三五年に創立された大学である。卒業生はパナマ社会の各分野のリーダーとして活躍している。
 伸一が、パナマ訪問を決断し、スケジュールを検討した折、まず決定をみたのが、この大学訪問であった。
 たとえ政権や政情は変わったとしても、大学は残り、次代のリーダーたちを輩出していく役割を担うものだ。
 「今日進歩しつつある国は大学の栄えている国である」とは、イギリスの哲学者ホワイトヘッドの洞察である。
 大学は国の基盤である。ゆえに、大学との交流こそが、平和・文化の悠久の大河になるというのが、伸一の信念であり、哲学であった。
 伸一がパナマ大学に到着し、ロータリーで車を降りると、三人の学生が出迎えてくれた。メンバーであった。
 「いやー、ありがとう。皆さんとお会いできて本当に嬉しい。
 私はこれから、皆さんの愛する母校の総長と懇談します。また、文化交流と友情の印に、私の蔵書などを贈らせていただくつもりです」
 吉野が通訳すると、学生たちは歓声をあげた。
11  凱歌(11)
 山本伸一は、メンバーである三人の学生と固い握手を交わしながら、深く、強く、思った。
 ″この大学にも地涌の菩薩たちがいる。世界広布の時は、まさしく到来しているのだ″
 英知の学生部員が真剣に信心に励み、社会に雄飛していくならば、広宣流布の未来は洋々と開かれる。
 大聖人は「此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」と仰せである。
 普賢とは宇宙をも包みゆく智慧である。まさに、世界を結ぶ知性のリーダーの陣列ありて、広宣流布があることを示す御文とも拝せよう。
 伸一は言った。
 「それでは、行ってきます。皆さんのためにも頑張ります。また、お会いしましょう」
 玄関前では、ロムロ・エスコバール・ペタンクール総長ら大学の首脳が出迎えてくれた。
 総長は、精悍さのなかに知性が光る、バイタリティーにあふれた紳士であった。
 総長との会談の冒頭、伸一は語った。
 「未来のために、生涯をかけて、教育事業に貢献していこうというのが私の決意です。その意味で、総長との今日の会談は、極めて示唆に富む、有意義なものになると信じております」
 総長は応じた。
 「こうした出会いを、私も大変に嬉しく思っております。パナマ国民の多くは、日本に対して、非常に強い関心を示しています。
 今後、経済的な関係性のみならず、文化的な交流が進展していけば、両国の友好関係はさらに発展することでしょう」
 そして、伸一が英文蔵書など三千冊の寄贈を申し出ると、総長は、深く感謝の意を表し、「これを教育交流の輝ける第一歩としていきたい」と抱負を語った。
 話題は、学生の求める大学像になった。
 ペタンクール総長は、この問題について徹底して思索していたようだ。
 総長は、伸一の反応を確認するかのように彼に視線を注ぎながら、意見を述べていった。
 「現代の大学がかかえる最大の問題点は、学生と教授の心の溝にあると思います。
 学生は本来、教授との心の触れ合い、一体感を真剣に求めています」
12  凱歌(12)
 ペタンクール総長は、教授と学生の人間的な関わりの重要性を力説していった。
 「教授は学生の声を聴き取り、個別の問題一つ一つについて、徹底して話し合っていくことが大事です。
 私はその理想を、ソクラテスとプラトンの師弟の関係に見ています」
 山本伸一は、ひときわ大きな声でこたえた。
 「全く同感です。ソクラテスは青年との対話に終始していますが、決して権威的な態度で、高みからものを言うのではなく、どこまでも青年を尊重し、対等の立場で接しています。
 一方、プラトンはソクラテスを師として敬愛し、全幅の信頼と尊敬を寄せております。
 この互いの尊敬のうえに成り立つのが、本来の師弟という人間関係なんです。
 その魂の結合があってこそ、真の触発があり、学問の深化もあるといえます。
 単に断片的な知識を得るだけならば、書物があれば、師はなくてもよいかもしれません。
 しかし、人生の真理を探究する、また、人間を育むという作業は、人格を通してのみ行われるものです。
 ゆえに教育には、『師弟』が不可欠であると思います」
 総長は、何度も頷きながら、伸一の話に真剣に耳を傾けていた。
 「私は、戸田城聖先生という師匠から、万般の学問を教わりました。先生は最高の思想家であり、優れた数学者でもありました。
 それはそれは、厳しい師匠でしたが、この師に学んだことが、私の最高の誇りです。
 戸田先生は、既に十六年前に亡くなっておりますが、私は今でも、日に何度となく、師と心で対話しています。
 一つ一つの問題に対して、先生ならどうされるかを常に考えています。また、自分の行動や決断をご覧になったら、先生は喜ばれるか、悲しまれるか、日々、自分に問いかけております。
 師をもつということは、自分の生き方の規範をもつことであり、それは教育の根幹をなすものであると思います」
 伸一は、戸田の弟子として師を語る時、最も誇りに燃え、歓喜があふれた。それが真の弟子の心である。
13  凱歌(13)
 ペタンクール総長と山本伸一の語らいは、語学教育の問題や大学のモットーなどにも及んだ。
 総長は、パナマ大学では日本語教育が行われていないことを残念そうな顔で伸一に伝え、こう語った。
 「日本に行く機会があったら、ぜひ創価大学を訪問し、特に日本語教育について意見交換したいと思います。
 そして、もし、日本語教育が実現したら、私が日本語を学ぶ最初の学生となるでしょう」
 ユーモアに包まれてはいたが、真摯にして旺盛な向学心を感じさせる言葉であった。
 フランスの大化学者パスツールは、「青年に神聖な火を伝えるためには、自分自身が聖なる火に充ちていなければならぬ」と、教師への鋭い箴言を残している。
 伸一は総長の姿勢のなかに、その「聖なる火」が燃え盛っているのを深く感じ取った。
 二人は、文化交流の大切さなど、多くの点で意見の一致を見た。
 最後に総長は、感慨無量といった表情で、手を差し出し、伸一に握手を求めた。
 未来のために青年を育もうと心を砕く、教育者の魂と魂が響き合う語らいとなった。
 一時間に及んだ会談のあと、伸一の一行は、総長の案内でキャンパスを見学した。
 伸一は、出会った学生たちに、大学への要望や学生生活の感想などを率直に尋ねながら、こんな質問をぶつけてみた。
 「ところで、皆さんは何のために学んでいるのですか」
 間髪を入れず、学生たちの答えが返ってきた。
 「愛する祖国パナマの進歩と繁栄のためです」
 「社会への貢献のためです」
 「民衆を豊かにするためです」
 皆、気負うわけでもなく、当然のことのようにこう答えるのである。
 伸一は、日本の学生からは、なかなか出ない言葉であると思った。
 パナマの学生たちが、学問することの大目的をもち、理想に燃えて未来をめざしていることに、彼は深い感銘を覚えた。
 新しき歴史を築く原動力は、青年の胸に燃える大志である。
 青年の″志″は、自身と社会の未来を決定づける。
14  凱歌(14)
 何のために学ぶのか――多くの学生がその答えを見いだせないでいるのが、日本の大学教育の現状といえようか。
 また、立身出世のためだけに、勉学に励むという学生も少なくない。
 実は、そうした事態こそ、教育の根本的な荒廃の表れにほかならない。
 山本伸一は、それゆえに、学問、そして人生の根本目的を教える創価教育の使命の重大さを、痛感するのであった。
 彼は、パナマ大学の学生たちの答えを聞くと、微笑みながら言った。
 「感動しました。すがすがしい答えです。
 一生懸命に勉強し、パナマの民衆に、最も貧しい人びとに、幸福をもたらす指導者に育ってください。
 大学に行けなかった人びとのためにこそ大学があるというのが、私の信念なんです。
 皆さんの栄光を祈ります。また、いつかお会いできることを楽しみにしております」
 学生との懇談を終え、構内を歩いていると、一体の像があった。
 目の不自由な人が両手を前に伸ばし、手探りをしながら、前へ進もうとしている像であった。
 その台座には「光に向かって」の文字がスペイン語で刻まれていた。
 総長が語らいのなかで、モットーとして紹介していた言葉である。
 伸一は、しばらく、この像を眺めていた。
 そこには、真理の光を求め抜く″意志″が、見事に表現されていた。
 伸一の目には、この像と、パナマ大学の学生たち、そして、愛する創価大学の学生の姿とが重なって見えるのであった。
 生きるということは、学ぶということだ。先師の牧口常三郎も、恩師の戸田城聖も、命の燃え尽きるまで学びに学んだ。
 軍部政府の弾圧によって逮捕された牧口は、独房にあっても必死になって読書に励んだ。
 死去する一カ月余り前の葉書にも、「カントノ哲学ヲ精読シテ居ル」とある。
 また、戸田も、生ある限り読書を怠らなかった。病床で大講堂落慶の式典の指揮を執りながら『十八史略』を読み、伸一にも、「今日は何を読んだか」と、厳しく尋ねるのであった。
 命ある限り、学びに学び、戦いに戦うのだ。そこにこそ、価値創造の人間道がある。
15  凱歌(15)
 中米の大学では初めてとなるパナマ大学の公式訪問によって、教育交流の新しい一ページが開かれた。
 山本伸一は″創価教育の父たる牧口先生も、きっとお喜びくださるにちがいない″と思うと、嬉しくて仕方なかった。
 彼は「創価の道」を世界に開き続けようと心に誓いながら、パナマ会館に向かった。
 この会館は、市内のメキシコ街にある平屋建てを改修した建物で、一年ほど前から会合などに使ってきた。今回、メンバーの希望で、伸一の訪問を記念し、正式に開所式が行われることになったのである。
 会館の前には、大勢の人が集まっていた。
 伸一の姿を見ると、一人の青年が全身で喜びを表すかのように、「オーッ」と拳を掲げた。
 「先生が、遂にわが家に帰って来てくださった!」と叫ぶ婦人がいた。
 「ムーチャス・グラシアス! マエストロ!」(先生、ありがとうございます)と、涙声で体を震わせる女子部員もいた。
 山本先生をパナマにお呼びしよう――それは、草創期以来のメンバーの夢であった。
 このパナマの広宣流布を切り開いてきたのは、アメリカの軍人と結婚し、渡米した日系の女性たちであった。
 パナマ運河とその両岸の地域はアメリカが支配権をもっており、米軍基地があった。
 一九六五年(昭和四十年)、軍人の夫のパナマ赴任にともない、メンバーの夫人が、一人、また一人と来たことから、パナマ広布が始まった。
 「女性が自信をもてば、勢力の旋風となり、強さの泉となる」とはパール・バックの至言である。
 そして、その年十月、メンバー七人でパナマに班が誕生。六六年(同四十一年)の暮れにはパナマは地区に発展した。
 このころになると、パナマ人のメンバーも増え、会合には日本語、スペイン語、英語が飛び交った。
 あるメンバーは車を駆って活動に励んだが、一日の走行距離は百キロを超えた。しかも、鬱蒼としたジャングルを切り開いた、光さえ差さない道路が続き、不気味な獣の咆哮が響くのである。
 心細さに震えながら、懸命に唱題し、ハンドルを操る毎日であった。
16  凱歌(16)
 パナマの婦人たちの努力は実り、一九六八年(昭和四十三年)には、念願のパナマ支部が誕生したのである。
 メンバーは、いつも話し合った。
 「いつかきっと、山本先生に、パナマにおいでいただこうね」
 夫の軍務の関係でパナマに来た婦人たちは、何年かすると、別の地に移っていかなければならなかった。
 しかし、「先生をパナマに!」は、メンバーの合言葉のようになり、悲願となって受け継がれてきたのである。
 メンバーからは、何回となく、山本伸一のもとに、訪問を要請する手紙がきた。皆が、彼の訪問を祈りに祈ってきた。
 そして、それが、遂に実現し、伸一が今、会館の前に立ったのである。
 彼は、一人ひとりを抱き締めるように励まし、固い握手を交わした。
 それから、花で飾られたゲートのテープカットを行うと、傍らにいた少女の手を引いて会館に入った。
 彼は、参加した百人ほどの代表と勤行した。朗々とした、喜びに弾む唱題の声が一つになって響いた。
 勤行が終わると、伸一は懇談的に話を進めた。
 「私は、世界のどこにいようが、皆さんの健康と幸福、人生の栄光を祈っております。
 共に題目を唱え、広宣流布に進む私たちは、どんなに遠く離れていようが心は一体です。それが創価の師弟です」
 さらに彼は、信心の持続の大切さを訴えた。
 「一時は、華やかに活躍していても、迫害に負けたり、あるいは、わがままになって慢心を起こしたりして、退転する人もおります。
 大聖人も『受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり』と仰せです。
 信心の肝要は持続にこそある。持続は力であり、持続のなかにこそ、大願の成就があります。
 どうか、パナマの皆さんは、一生涯、地道に信心を貫き通していただきたい。
 その意味から、まず『信心二十年』を一つの目標に、自身の人間革命に、宿命の転換に挑んでいっていただきたい」
 メンバーは、出会いの喜びをかみしめながら、伸一の指導を生涯の指針として深く心に刻んだ。
17  凱歌(17)
 パナマ会館の開所式に出席した山本伸一は、夜は、パナマ市内のレストランで行われた最高指導会議に臨んだ。
 ここには、伸一に指導を求めようと、ニカラグアからも山西清子ら二人が参加していた。
 山西は、かつて女子部の北米部長をしていた女性である。
 ニカラグアは、一九七二年(昭和四十七年)十二月に大地震があり、首都のマナグアは壊滅的な打撃をうけ、数千人といわれる死者が出た。
 この時、山西は、商社マンの夫の仕事の関係で、家族と一緒にマナグアのホテルに滞在していた。しかし、家族全員、九死に一生を得た。
 彼女は、信心によって守られたと、心の底から感じた。そして、報恩感謝の思いで、ニカラグアの広布に走り続けてきたのである。
 伸一は、この最高指導会議の席上、パナマのメンバーを励ますとともに、山西の奮闘を心から讃えた。
 また、パナマの組織について協議が行われ、これまでの支部から、本部として新出発することが決定したのである。
 翌三月二十日、ホテルを出る時、伸一は峯子に力強く語りかけた。
 「さあ、平和の大道を開こう!」
 この日、伸一は、オマール・トリホス将軍、そして、デメトリオ・ラカス大統領と、相次ぎ会見することになっていたのである。
 午前九時過ぎ、彼は峯子と共に、パナマ市内にあるトリホス将軍の私邸を表敬訪問した。通訳は吉野貴美夫である。
 トリホス将軍は、軍を掌握する、事実上、パナマの最高指導者である。
 銃を持った兵士が、将軍を護衛していた。
 その厳めしい雰囲気に、伸一に同行したメンバーは緊張し、表情は硬くなっていた。
 将軍は軍服姿で伸一たちを迎えてくれた。精悍な顔立ちで、肉体的にも精神的にも、鍛え抜かれた強さを感じさせた。
 伸一は、にこやかに握手を交わした。
 微笑みは、万人の心を和ませる花である。豊かな人間性の大地にこそ、微笑の花は開く。
 彼は、多忙ななか、会見の時間を割いてもらったことに感謝しつつ、パナマを訪問できた喜びを将軍に語った。
18  凱歌(18)
 トリホス将軍は、信念を披瀝するかのように、語り始めた。
 「パナマは新しい″第三の国″です。その道を開くために、私は若者に期待しています」
 その言葉には、東西両陣営の対立のなかで、第三の新たな道を切り開く国との自負があった。
 伸一は力強く応えた。
 「同感です。二十一世紀の理想の国家を建設する力は青年です」
 「青年のみが熱意と、意志と、希望と、信念と、力を持っている」とは、伸一が対談したクーデンホーフ・カレルギー伯爵の至言である。
 伸一は言葉をついだ。
 「また、いわゆる大国のかかえる諸矛盾にとらわれず、新しい理想のパターンを追求していけるのは、パナマのような若い国です。
 しかし、そのパナマと日本には、文化・教育の交流がないことが残念でなりません。それがなければ、人間同士の相互理解も図れないからです。
 私は日本とパナマの、いや、世界の民衆と民衆を結びたいのです。そのために、今後も全力を尽くしていく決意です」
 そして、パナマが民間レベルの交流を通して、より多くの国々の民衆と友好を結び、連帯を築いていくならば、それは必ず、国の発展に還元されると力説したのである。
 語らいはパナマ運河の主権にも及んだ。伸一は力を込めて語った。
 「パナマ運河はパナマのものであるべきです。今はアメリカの支配下にありますが、必ずパナマに戻るでしょう」
 将軍は、目を大きく見開いて、まじまじと伸一の顔を見つめた。
 伸一は、将軍が運河の返還をめぐり、アメリカと条約改定の交渉を続けてきたことをよく知っていた。
 それだけに自分の見解を、明確に伝えておこうと思ったのである。
 ――パナマ運河は、パナマ地峡を横断し、太平洋と大西洋(カリブ海)を結ぶ、約八十キロの水路である。
 一八八一年に工事に着手したのは、フランスの民間会社であり、スエズ運河を建設したフランス人のレセップスの指揮のもと工事は進められた。
 だが、高温多雨の気候のなか、ジャングルや岩山を掘り進む作業は困難を極めた。黄熱病、マラリアなどで亡くなった人は約三万人といわれる。
19  凱歌(19)
 パナマ運河の工事は難航し、全体の四割ほどに達した段階で資金は底をついた。フランスの会社は倒産し、未完成のまま手を引かざるをえなかったのである。
 その後、アメリカ政府がこの工事の権利を引き継ぐことになる。
 当時、パナマはコロンビア共和国の一部であった。アメリカはコロンビアからのパナマの独立を援助し、一九〇三年に、パナマ共和国を成立させる。
 そして、このパナマと条約を結び、運河と、運河に沿って両岸それぞれ八キロの幅の地帯を、永久に使用、占有、支配できるようにした。
 二十世紀最大の土木工事といわれたパナマ運河が開通したのは、一九一四年であった。太平洋側と大西洋側の船の往来が可能となったのだ。
 しかし、条約によって運河の莫大な通行料は、アメリカのものとなった。また、運河地帯には、米軍の巨大な軍事基地が設けられていた。
 当然、パナマ国内にあっては、運河と両岸地帯の返還を要求する声が高まっていった。
 トリホス将軍は、その条約改定の交渉を続けてきた。この一九七四年二月に、アメリカとパナマは、運河を最終的にはパナマのものとする共同宣言に調印した。
 しかし、返還期日は具体化せず、アメリカ国内などに強い反対もあり、前途は暗澹としていた。
 山本伸一は、将軍に語った。
 「日本では沖縄がアメリカの施政権下に置かれてきましたが、二年前に返還されました。もちろん、そこには政治的な駆け引きもありました。
 しかし、大国が小国を支配する時代は、終わらなければならないというのが、世界の趨勢です」
 伸一は、平和へと向かう、本然的ともいうべき大きな時代の流れを感じていた。人類の英知は平等互恵をめざすことを、強く確信していたのだ。
 伸一は言葉をついだ。
 「今日もアンコンの丘に二本の旗が立っていました。貴国パナマの旗と星条旗です。しかし、二十一世紀には、あの旗が一本になるでしょう」
 アンコンの丘は、市内を一望できる海抜二百メートルほどの丘である。アメリカが管轄し、パナマ人は自由に出入りすることができない場所であった。
20  凱歌(20)
 山本伸一は、トリホス将軍とは初対面ではあったが、忌憚なく語り合うことができた。
 伸一は、誠実に、率直に、意見を述べた。
 会見が一段落すると、将軍は、頬を紅潮させて語った。
 「私は、常に、偉大な仕事をされている方々から、いろいろな事柄を学ぼうと考えております。
 また、多くの国の人びとと交わり、パナマに対して、どんなイメージをもっているかを知ることが、極めて重要であると思っております。
 その意味で、今日の会見に心から感謝します」
 会見は、新たな友情を育み、日本とパナマの文化交流の重要性を確認し合う語らいとなった。
 ――トリホス将軍は、パナマ運河の返還をめぐって、この後も、粘り強くアメリカとの交渉を続けていった。
 その主張に国際世論も味方し、遂に、三年後の一九七七年(昭和五十二年)九月、アメリカのカーター大統領とトリホス将軍によって、新運河条約の調印が行われた。
 それは、九九年(平成十一年)十二月末に、パナマに運河を返還することを認めた内容であった。
 外交学の大家と謳われるイギリスのハロルド・ニコルソンは明言する。
 「忍耐と根気もまた成功を望む交渉にとって必須のものである」
 パナマの人びとの悲願がここに結実したのだ。
 だが、トリホス将軍は一九八一年(昭和五十六年)に飛行機事故で亡くなり、「返還」の歴史の瞬間に立ち会うことはできなかった。
 しかし、将軍の名は、運河返還の功労者として讃えられている。
 トリホス将軍との会見を終えた伸一は、続いて大統領官邸に向かった。
 通訳の吉野貴美夫は緊張していた。
 ラカス大統領と山本伸一の会見は、スペイン語の通訳を使うか、英語の通訳を使うか、まだ決まっていなかった。
 伸一の第一声を、吉野がスペイン語で、アメリカの幹部が英語で、同時に通訳し、英語も堪能な大統領が、どちらの言葉で答えるかによって、会見の通訳を決めることになっていたのである。
 大統領官邸は「白鷺の館」ともいわれ、小さな池の周りに、数羽の白鷺の姿があった。
21  凱歌(21)
 山本伸一と峯子は、通訳をするメンバーと共に、階段を上って二階の会見場に入った。
 そこには、メガネをかけ、温厚篤実な風格をたたえた、堂々たる体躯の紳士が、笑顔で立っていた。
 ラカス大統領である。
 伸一は大統領に、丁重に語りかけた。
 「念願のパナマを訪問することができました。本日は、ご多忙のところ、大変にありがとうございます」
 伸一の言葉が終わるのを待って、吉野貴美夫はスペイン語で、アメリカの幹部は英語で、同時に通訳した。
 吉野の声はひときわ大きかった。生命力みなぎる彼の声に共鳴するかのように、大統領の口から発せられたのはスペイン語であった。
 「ようこそ、おいでくださいました。お会いできるのを楽しみにしておりました。
 どうぞ、何日でも、自分の家のように過ごしてください」
 この瞬間、会見の通訳は、吉野が行うことに決まったのである。
 伸一は、文化・教育の交流こそが、最も世界平和に寄与するとの信念で、これまで世界の大学を訪問してきたことを述べ、パナマ大学の印象を語っていった。
 「私は学生に、″なんのために学ぶのか″と尋ねました。すると、『愛する祖国パナマの進歩と繁栄のため』との答えが返ってきました。
 青年の信念、生き方を見れば、その国の将来がうかがえます。私は、この青年たちの姿から、パナマのますますの発展を確信しました」
 大統領は、嬉しそうに盛んに頷いていた。
 さらに伸一は、創価学会について述べ、学会は仏法を根本とした団体であり、仏法哲理の基本は、生命の尊厳と平和主義にあることを訴えた。
 そして、仏法者の生き方に触れ、「自分が住んでいる地域や国の、真の繁栄を願っていくための信仰であり、それこそが仏法者の使命です」と語った。
 伸一は、メンバーを守るために、誤りなく、創価学会の真実を伝えようと必死であった。
 この時を断じて逃すわけにはいかなかった。一念を込めた真剣勝負の語らいは、相手の魂を打ち、共感の響きをもたらす。
22  凱歌(22)
 山本伸一の仏法哲理についての説明が終わると、大統領は言った。
 「仏法の考え方は、よくわかりました。
 ところで、パナマと日本との関係をさらに密にし、よい方向にもっていくには、どのような分野が一番、重要であると考えますか」
 伸一は言下に答えた。
 「工業的な面での協力も必要ですが、これは国家間の利害という複雑な問題をともないます。
 そうした問題を超えて、友好関係に永続性をもたらし、実りあるものとしていくためには、教育、文化の交流以外にありません」
 大統領は、メガネの奥の瞳を輝かせて言った。
 「私もそう思います。学生を交換するなど、地道に交流を積み上げていくべきです」
 伸一は大きく頷いた。
 「まさに大統領のおっしゃる通りです。その交流こそ、未来にわたる友好の底流となります。
 それが実現してこそ、初めて世界平和への崩れない路線が確立できるというのが、私の信念です」
 すると、ユーモアあふれる大統領の言葉が返ってきた。
 「今日は、あなたの生徒になったようです」
 笑いが弾けた。
 会見の最後に、伸一は決意を込めて語った。
 「私は今後も、日本とパナマのために、また、世界各国との崩れぬ友好親善のために、世界を駆け回ります」
 握り合った手と手に、温かい友情の鼓動が脈打っていた。
 この三月二十日の夜、伸一は、再び、パナマ大学を訪問した。 
 大学の一室を借りて行われる、メンバーの集いに出席するためである。
 強行スケジュールであった。しかし、パナマのメンバーの大飛躍のためには、今、魂を打ち込むしかなかった。時を失えば、待っているのは永遠の後悔だ。
 会場は、千人を超える人であふれた。
 会合の冒頭、伸一は、皆でパナマ国歌を歌うことを提案した。
 この提案には、メンバーがパナマを担い、社会の平和と繁栄のために貢献する力ある人材に育ってほしいとの、深い思いが込められていた。
 全員で誇らかに国歌を斉唱したあと、伸一の講演となった。
 彼は、まず仏教の歴史から語り始めた。
23  凱歌(23)
 山本伸一は、仏教史を概観しながら、仏法が生命の尊厳を説いた人間主義の哲理であることを語っていった。
 そして、日蓮大聖人の仏法は、その大法理を、人間の生き方、振る舞いとして示しており、「人生いかに生きるべきか」という根本問題を解決する最極の教えであることを述べた。
 そして彼は、力を込めて訴えた。
 「結論すれば、それぞれが、この仏法を自らの人生哲学として心に打ち立て、人びとの幸福のため、社会のために貢献していくことが、私たちの使命なのであります。
 その実践こそが、二十一世紀を照らす人類救済の本源的な運動であると、私は声を大にして叫びたいのであります」
 雷鳴のような大拍手がわき起こった。
 最後に、彼は言った。
 「愛するパナマの同志の皆さん! どうか、幸福の花華に包まれた人生を築いてください。 パナマの″平和の主役″となって輝いてください。
 また、日本にも何回も来てください。私はいつも全力をあげて、皆様方を歓迎いたします。 ありがとう!」
 講演の終了後、女子部員による鼓笛の演奏などが相次ぎ披露された。
 やがて、皆で手拍子を打ちながら、愛唱歌の合唱が始まった。
 熱唱するメンバーの目が潤み、幾筋もの涙が頬を伝った。
 それは、労苦の幾山河を越え、念願の師を迎えたパナマの友の、晴れやかな凱歌であった。
 合唱が終わると、伸一は、メンバー一人ひとりと、固く握手を交わしていった。
 目を赤くしながら、「先生、パナマは広布の先駆を切ります」と決意を語るメンバーもいた。
 伸一は言った。
 「頼みます。
 『魔競はずは正法と知るべからず』と大聖人が仰せのように、広宣流布の途上には、驚くような試練があるものです。
 しかし、何があっても恐れてはならない。最後まで戦い、勝ってこそ、本当の勝利者なんです」
 ドイツの詩人ヘルダーリンは叫ぶ。
 「嵐を翼として 精神は 生の至高の歓びを目ざして翔り行け!」
 試練が人を強くする。
 伸一の励ましは、いつまでも続いた。
24  凱歌(24)
 翌二十一日は、パナマ滞在の最終日であった。
 この日、山本伸一の一行は、パナマの幹部の一家を家庭訪問したあと、パナマ運河を視察するため、ミラフローレス閘門に向かった。
 閘門とは、水量を調節する堰である。パナマ運河は、三つの閘門からなる運河で、そのうち最も太平洋側にあるのがミラフローレス閘門である。
 伸一は、閘門を見下ろす展望台に案内された。
 ――船が水路を進み、水槽に入ると、水門が閉じ、給水が始まる。水位は見る見る上がっていく。
 そして、水門で遮断されていた前方の水槽と同じ水位になると水門の扉が開き、船が進む。
 それを繰り返していくのである。
 パナマ運河の太平洋側と大西洋側は、水位に差があるうえに、水路は海面よりもかなり高い位置にある。そのため、船のエレベーターともいうべき、この閘門式が採用されたのである。
 伸一の隣で峯子が、上昇する船を見ながら感嘆の声をあげた。
 「すごいものですね。これを造るのは大変だったでしょうね」
 「アメリカが工事を引き継いでから、完成するまででも、十年という歳月がかかっている」
 伸一はこう言うと、自らに言い聞かせるように語っていった。
 「大事業を成功させるには、それなりの時間が必要だ。
 ましてや広宣流布という未聞の大業を成し遂げるには、堅固な土台を築かねばならない。
 その場しのぎの、いい加減なものをつくってよしとしていれば、やがて将来、そこから崩れ、広宣流布は破綻していくことになる。建設は死闘だが、破壊は一瞬だ。
 したがって、拙速は絶対に避けねばならない。しかし、急がねばならない。だから、不可能への挑戦なんだ。
 日々、真剣勝負で道を切り開くしかない。生命を削って戦い、一つ一つを完璧に仕上げていくしかない」
 深い決意のこもった伸一の言葉に、同行の幹部たちは、粛然として襟を正した。
 「不可能事を可能にしよう。人類の歴史における偉大な出来事とは、不可能と思われることに打ち勝つことであった」とは、チャップリンの叫びである。
25  凱歌(25)
 パナマ運河を視察した山本伸一と峯子は、夕刻には、駐パナマ大使とパナマ日本人会の主催で行われた「懇親の夕べ」に出席した。
 最初に、日本人会の代表があいさつした。
 「日本が誇る偉大な宗教者であり、思想家でもある山本会長と懇談の機会をもちえたことは、われわれパナマ在住の日本人として、心からの喜びであり、熱望していたところであります」
 伸一は、その真心こもる言葉に、日本人会の創価学会に対する深い理解を感じた。
 その国に住む日本人が正しく学会を認識していることは、仏法の人間主義運動を展開していくうえで、大きな影響力をもっている。
 それは、偏見や誤解に基づく情報を正し、その国の人びとが学会への理解を深める力となるからである。
 あいさつに立った伸一は、パナマの日本人会の賞讃に、心から感謝の意を表した。
 広宣流布の推進のためには、まず足元を固めることだ。身近な人たちを最大の理解者にすることだ。そこから新しき道が開かれるのである。
 午後七時過ぎ、「懇親の夕べ」が終了すると、伸一たちは、そのまま空港に向かった。最後まで、分刻みのスケジュールであった。
 空港の貴賓室でも、伸一は、政府関係者らの尽力に、丁重に感謝の言葉を述べていった。
 その時、政府高官からトリホス将軍のメッセージが手渡された。それを通訳の吉野貴美夫が、日本語に翻訳した。
 「……会長が、全世界の幸福のため、かつまた人類平和のために、数々の仕事をしておられることは、かねてから存じ上げておりました。
 この地球上の何十億の民の責任を担い、さまざまな行動を起こされていることも、よく存じております。
 それゆえ、次の機会にも、ぜひパナマにおいでくださるよう、心から切望いたしております。
 そして、次にパナマに来られた時には、再び会長のご意見を拝聴したいと念願しております」
 パナマの最高実力者であるトリホス将軍が、最大の敬意を表し、誠意あふれるメッセージを届けてくれたのである。
 人間交流の潮流は、深く大きく広がったのだ。
26  凱歌(26)
 出発の時刻となった。 山本伸一が貴賓室を出ると、大歓声があがり、皆が手にしていた国旗が一斉に揺れた。
 空港は、伸一を見送るメンバーで、ぎっしりと埋まっていた。
 「センセイ! ムーチャス・グラシアス!」(先生、大変にありがとうございます!)
 伸一も、渡された旗を振って懸命に応えた。
 女子部が演奏する笛の音にのって、メンバーの合唱が始まった。
 先生いつまでもお元気で。先生は私たちの太陽なのですから――との思いを託した熱唱である。
 伸一は言った。
 「私は、皆さんにお会いするために、また、パナマにまいります。
 私はパナマが大好きです。故郷のように感じています。
 ですから『さようなら』ではなく、こう言わせていただきます。
 『それでは、行ってまいります! またお会いしましょう!』」
 その言葉が通訳されると、メンバーの目に涙があふれた。誰もが伸一の深い親愛の情を感じ取ったのである。
 それまでメンバーは、口々に「アディオス」(さようなら)と叫んでいたが、次の瞬間、「アスタ・ルエゴ」(また会いましょう)に変わった。
 伸一が飛行機のタラップに向かって歩き始めると、並んでいた護衛車の列から、儀礼のサイレンが響いた。
 それは、パナマの新章節を告げるファンファーレのように、高らかに夜空に鳴り渡った。
 伸一と峯子は、飛行機のタラップを上ると、振り返り、見送りのメンバーに大きく手を振った。
 「ありがとう! ビバ(万歳)、パナマ!」
 午後八時過ぎ、伸一の乗った飛行機は、パナマを発ち、ペルーのリマに飛び立っていった。
 パナマ滞在は、七十三時間にすぎなかった。しかし、必死の行動は、時間を何倍にも広げる。
 伸一の真剣勝負の奮闘によって、日パの文化交流のうえでも、パナマ広布のうえでも、大きな布石がなされたのである。
 「この世には、真剣にやらないでできるものはなに一つない」とは、ゲーテの箴言である。
 満天の星のなか、搭乗機は、南米ペルーをめざして飛行していた。
 到着は、午前零時を回る予定である。
27  凱歌(27)
 ペルーに向かう機中、山本伸一は、八年前(一九六六年)の三月、ブラジルに続いて、ペルーのリマを訪問した時のことを回想していた。
 ――その時、リマで、彼を迎えて大会が行われることになっていた。
 しかし、当時、ペルーでは、学会に厳しい目が向けられ、伸一の訪問は政党づくりの準備が目的ではないかなどという、まったく根拠のない疑いがかけられていたのだ。甚だしい誤解である。
 ペルーの警察関係者は「今回の訪問で、なんらかの扇動的な面が見られるなら、今後、ペルーの創価学会については、警戒色を強めなければならない」と、同行のメンバーに告げていたのだ。
 伸一が大会に出れば、それ自体が″扇動″とみなされかねない危険性があった。
 伸一は、悩み、考えた。
 ″メンバーは悲しむかもしれない。しかし、大事なことは、わが同志をいかにして守るかだ″
 そして彼は、やむなく大会への出席を取りやめる決断を下したのだ。
 大会には、ペルー各地から千七百人のメンバーが集って来た。バスで何日もかかって、会場に駆けつけた人もいた。
 しかし、そこに山本会長の姿はなかった。皆の落胆は大きかった。
 伸一は、学会への理解を促すために、日系人の有力者らと懸命に対話を重ねた。ペルーの未来のために、水面下で必死になって道を切り開こうとしていたのである。
 伸一は、不屈の闘魂がある限り、障害こそ跳躍台になることを確信していた。勝因は苦境のなかにあるのだ。
 彼は、メンバーの代表二十数人をホテルに招いて、激励・指導した。
 「あきらめずに頑張り通していくことです。そのためにも、まず十年先を目標に前進していっていただきたい」
 以来、ペルーのメンバーは、″社会の人たちの学会への認識を、必ずあらためさせてみせる!″と、それぞれが社会に大きく貢献し、良き市民として、深く信頼の根を下ろしてきた。
 そして、創価学会への高い評価を勝ち取ってきたのだ。
 今回、メンバーが主催して行う「世界平和ペルー文化祭」は、リマ市が後援につくなど、八年前とは、すべてが大きく変わっていたのだ。
28  凱歌(28)
 山本伸一の一行がリマの空港に着いたのは、三月二十二日の午前零時過ぎであった。
 飛行機のタラップを下りた伸一を、理事長のビセンテ・セイケン・キシベが出迎えてくれた。
 八年前の訪問の折、ペルーは総支部となり、三つの支部が誕生した。キシベはその時、カヤオ支部の支部長になった沖縄出身の壮年である。
 既に六十歳を超えた彼は、白髪が目立っていたが、古武士のような頑健さを感じさせた。
 そのキシベが、メガネの奥に涙を滲ませ、「先生、ようこそ……」と言ったきり絶句した。
 「おめでとう。ペルーは大勝利しましたね。本当によく頑張ってくださった。お世話になります」
 伸一は、こう言うとキシベを抱きかかえた。
 その時、空港の建物から声が響いた。
 「センセイ! センセーイ!」
 目を凝らすと、百人ほどの人が、大きく手を振っていた。
 キシベが申し訳なさそうに言った。
 「遅いから空港には来ないように徹底しておいたのですが、どうしても先生をお迎えしたくて、駆けつけてしまったメンバーです」
 空港ロビーに出ると、伸一たちは、そのメンバーに囲まれた。
 「深夜であるにもかかわらず、わざわざお出迎えいただき、大変にありがとうございます。
 さあ、私と一緒に、ペルーの新しい幕を開きましょう。未来の勝利のために今があるんです」
 皆の瞳が輝いた。
 二十二日の午後、伸一は、市街の視察に出かけた。首都リマの様子や、人びとの暮らしを見ておきたかったのである。
 伸一の一行がやってきたのは、海岸沿いに近代的なビルが立ち並び、商業の中心となってきた新市街にある、ミラフローレスと呼ばれる地区であった。
 ミラフローレスは「花を見る」街の意味で、その名のように、公園にも沿道にも、色とりどりの花が風に揺れていた。
 伸一は、一軒の洋服店を見つけると、店の中に入っていった。
 キシベが尋ねた。
 「先生、洋服をお買い求めになるのですか」
 「そうです。あなたに服をプレゼントしたいんですよ」
29  凱歌(29)
 山本伸一は、理事長のキシベが、着古したスーツを着て、前歯も抜けたままになっているのを見て、胸を締めつけられる思いがした。
 キシベは、写真店のほかに、文房具店も営んでいるというが、生活は決して楽ではないようだ。
 つましい暮らしのなかで、生活費を切り詰め、交通費を工面しては、メンバーのために地方を回っているのであろう。
 広宣流布のために、喜び勇んで私財を投じて戦う――尊い菩薩の振る舞いである。その信心の「志」は、永遠の大福運となることは間違いない。
 伸一は笑顔で言った。
 「キシベさんは、私に代わって、ペルーの同志の幸せのために、すべてをなげうって、戦ってくださった。その功労を讃え、御礼として、スーツをお贈りしたいんです。
 お好きなものを選んでください」
 「いや、それは……」
 キシベは、ありがたさと申し訳なさに、胸がいっぱいになった。
 「私は、まだまだ、先生のご期待にお応えできてはおりません。本当に不甲斐ない限りです。私には、先生にスーツを買っていただくような資格はございません」
 伸一は、諭すように語った。
 「これは私の、せめてもの真心です。日本にいる弟からのお土産だと思ってください。さあ、遠慮なく!」
 そして、自ら、キシベに似合いそうな服を探し始めた。
 「先生、そんな、もったいない……」
 キシベは目頭を潤ませながら、「すいません。では、お言葉に甘えさせていただきます」と言って、深く頭を下げた。
 謙虚な人には感謝がある。感謝の心は、感動と感激を生み、幸福の源泉となる。
 キシベが選んだのはグレーのスーツであった。
 この日の夜は、伸一の宿泊しているホテルのレストランで、メンバーの主催による歓迎祝賀会が行われた。
 これには、ボリビアから伸一を訪ねてきたメンバーも含め、代表三十人ほどが出席した。
 祝賀会は、伸一を中心に、ペルーの広宣流布を協議する場となった。
 この席上、月二回刊であった機関紙の「ペルー・セイキョウ」が旬刊になることなどが、次々に決まっていった。
30  凱歌(30)
 歓迎祝賀会であいさつした山本伸一は、これから一九八五年までをペルー広布の第二期とし、この目標に向かって、前へ、さらに前へと、希望の前進を開始してほしいと訴えた。
 キューバの英雄ホセ・マルティは叫んだ。
 「栄光は後ろではなく、前を見る人にある」
 この席上、人事も発表され、新たにペルーに指導長が設けられることになり、島井国太郎が就任し、皆に紹介された。
 島井は、二カ月前にペルーに赴任してきた聖教新聞の常駐特派員で、三十五歳であった。日本では名古屋支局長を務めていた。
 彼は石川県の出身で、金沢大学に在学中に腎臓疾患からくるネフローゼ症候群にかかり、この難病を乗り越えたい一心で信心を始めた。
 そして、見事に病を克服し、大学卒業後、高校の英語の教師を経て本部職員となり、聖教新聞の記者となったのである。
 信心で難病を乗り越えた彼には、自分は、仏法によって、学会によって命を救われたという、強い確信と感謝の思いがあった。
 ″その恩返しの意味からも、広宣流布のためなら、なんでもやらせていただこう″と心に決めていたのである。
 この前年の一月、愛知県豊田市で行われた記念撮影会の折、島井は山本会長と面談した。
 その時、こう告げられたのである。
 「君にはペルーに行ってもらおうと思う。
 キシベ理事長からも、若いリーダーを日本から派遣してほしいという要請がきているし、世界広布の展望のうえから、どうしてもペルーを強化しておく必要がある」
 島井は海外特派員の希望はあったが、日本とは地球の正反対に位置するペルーに行くなど、考えたこともなかった。
 まったく予期せぬ、突然の話である。
 人間の心根は、いざという時に明らかになるものだ。
 彼は驚きはしたが、戸惑いはなかった。
 島井は即座に答えた。
 「はい。どこへでも行かせていただきます」
 これが本部職員の心であり、学会精神である。青年の心意気である。
 そして、この一九七四年(昭和四十九年)の一月に、島井はペルーに赴任したのである。
31  凱歌(31)
 歓迎祝賀会で山本伸一は、メンバーの近況報告に耳を傾けた。
 ペルー女子部長であるミツエ・フクロイが結婚が決まったことを報告し、相手の青年を紹介した。食品関係の仕事で一年前からペルーに来ていた、沖縄出身の末光洋道という青年であった。
 二人は、伸一の滞在中に式を挙げたいというのである。
 ほかにも、会館の職員をしている日系人の青年が、同席していた女子部員と、結婚式を挙げたいとのことであった。
 伸一は、この二組を、自分の席に招いた。
 「それなら、明日、ペルー会館の開所式が行われるが、二組の結婚式を兼ねて行ってはどうだろうか。私が勤行の導師をさせていただきます」
 四人が、異口同音に答えた。
 「はい。よろしくお願いいたします」
 伸一は、微笑を浮かべて頷いた。
 「おめでとう。これで開所式が、さらに深い意義をもったね。
 広宣流布は、青年が立つかどうかで決まる。明日、式を挙げる君たちが立ち上がって、生涯、ペルーの広布のために戦うならば、私が来た目的の半分は果たせたようなものだ。青年万歳だ!」
 伸一は、女子部長のフクロイに言った。
 「あなたは、ペルーの女子部の育成に青春をかけてきた。その功徳、福運は永遠にあなたを輝かせていくでしょう」
 彼女は、八年前のペルー訪問の折、懇談したメンバーの一人であった。
 伸一は、この時、「しっかり頑張り抜いて、日本にいらっしゃい」と再会を約した。
 彼女は、その約束を果たそうと、節約に節約を重ねて、費用を捻出し、日本での夏季講習会に参加した。
 そこで、伸一の激励を受けた彼女は、ペルー広布を、さらに深く心に誓ったのだ。
 そのために、女子部として何をすればよいのか――彼女は考えに考え、鼓笛隊を結成した。
 本当の誓いは具体的な行動となって結実する。実践なき誓いは、心の遊戯にすぎない。
 鼓笛隊といっても、最初は満足に音も出せなかった。しかし、皆に勇気と希望を送る演奏をしようと、必死に練習を重ねた。そのなかで、多くの人材が育っていった。
32  凱歌(32)
 ミツエ・フクロイは、ペルーの女子部の中心者として、徹底して、家庭訪問、個人指導に挑戦していった。
 一人を大切にし、一人の人に、勇気と使命の火をともす。胸中に幸福の花を咲かせる――そこにしか、広宣流布の大道はない。
 彼女は、女子部員がいるとわかると、千キロ離れた場所でも、バスを乗り継いで家庭訪問し、激励を重ねた。
 その奮闘によって、ペルーの女子部は大きく発展してきたのである。
 伸一は言葉をついだ。
 「女性の力は大きい。学会の宝であり、偉大なる太陽です。
 大事なことは、婦人部にいって、自分がどういう立場になろうが、信心だけは一歩も引いてはならないということです。
 結婚すれば家事や育児に追われることになるし、婦人部にいけば、周りはみんな先輩ばかりです。今とは全く環境も異なってしまう。
 しかし、何があっても負けてはならない。女子部時代の決意を、生涯もち続け、誓いを果たし抜いていくことです。それができてこそ、本物なんです。
 これからが女子部で培った力を、いよいよ本格的に発揮していく、人生の本番です。
 私は、今後、あなたがどう生き抜いていくのか、じっと見守っていますよ」
 祝賀会の最後に、伸一は言った。
 「どうか、ペルーの皆さんは、″世界一仲の良いペルー″をモットーに進んでいってください」
 そして、伸一の提案でペルー国歌を斉唱した。
 ペルーの幸福と繁栄を築く、良き市民としての誓いを込めての合唱であった。
 伸一も、右手を胸に当て、皆と一緒に歌った。
 彼はメンバーに頼んで、ペルー国歌を紙に書いてもらっていた。
 その紙を見ながら、自分もペルー国民の自覚で、一生懸命に歌ったのである。
 翌三月二十三日、ペルー会館の開所式が晴れやかに行われた。
 会館は、緑の木々に包まれた、閑静な場所に立つ、レンガとコンクリート造りの二階建ての建物であった。
 求道の瞳を輝かせ、皆が待っていた。
33  凱歌(33)
 ペルー会館を初訪問した山本伸一が、真っ先に足を運んだのは、陰の力として開所式を支えてくれている人たちのもとであった。
 彼は、まず館内を回って、役員の青年などを励ましていった。
 人間主義とは、たとえば、人目につかぬところで、最も苦労している人を、最大に讃える行為のなかにあるといえるかもしれない。
 伸一は、台所へも顔を見せた。
 何人かの婦人部のメンバーが、開所式の終了後に行われるガーデンパーティーの準備に、真剣に取り組んでいた。
 伸一は声をかけた。
 「グラシアス(ありがとう)。ご苦労をおかけしてすいません」
 皆、驚きのあまり、声も出なかった。
 「皆さんは、開所式の勤行にも参加できず、陰で頑張ってくださっている。そうした方々がいるからこそ、式典の成功もある。皆さんこそ、最大の功労者です。
 その努力、苦労は、必ず大功徳、大福運となります。これが生命の法則なんです。
 それを確信することが、信心の眼を開くということなんです」
 生命の因果の理法から逃れることは、誰もできない。誠実の人こそが、最後の勝利者になる。これが仏法の世界である。
 会館の仏間には、最前列の中央に、純白のドレスを着てベールを頭につけた女性とスーツ姿の男性が二組、緊張した顔で座っていた。
 伸一は、参加者に紹介した。
 「本日は、めでたく結婚にゴールインする二組のカップルがおります。
 今日の開所式の勤行は、その結婚式の意義も兼ね、新しい門出を祝したいと思いますが、いかがでしょうか」
 温かい賛同の拍手が広がった。
 勤行のあと、日本式に三三九度が行われた。
 伸一は、それぞれの盃に酒を注いだ。親たちが、盃を手にするわが子の姿を、目に涙を浮かべながら見守っていた。
 さらに伸一は、二人の花嫁に、峯子が用意したネックレスを贈った。心づくしのプレゼントであった。
 ″青年のために、どんな応援もしよう″というのが、伸一と峯子の決心であった。
34  凱歌(34)
 ペルー会館の開所式に引き続いて、ガーデンパーティーが行われた。
 山本伸一と峯子が、会館の庭に姿を現すと、大歓声が広がった。
 二人は、メンバーが贈ってくれた、民族衣装に着替えていたのだ。
 伸一はポンチョといわれる中央に頭を出す穴が開いた上着を着て、丸いツバの付いた帽子を被っていた。
 峯子も、少女のような白いブラウスに、赤い線の入った黒地のスカートをはき、頭には左右に編んで垂らした髪をつけていた。
 彼らは、皆の真心に応えたかったのである。
 「私は、今日はペルー人です。本来、私は世界市民ですから、私に国籍はありません」
 伸一の言葉に、小躍りして拍手する人もいた。
 それから二人は、少年少女とカメラに納まり、記念植樹を行った。
 この日、集ったメンバーは、学会への偏見や誤解を打ち破り、ペルー広布の道を切り開いてきた勇者たちである。
 伸一は、その一人ひとりに励ましの言葉をかけ、自ら料理を配った。
 仏子への奉仕のために自分がいる――伸一も、峯子も、常に、そう心に決めていたのだ。また、その心こそ、学会の人間主義の原点である。
 翌二十四日は、リマ市の日秘文化会館で記念撮影会が行われた。この日も伸一は、メンバーの激励に全力を傾け続けた。
 日秘文化会館は、ペルー在留邦人の福祉事業推進や文化交流の場として建設された建物である。
 撮影は、会館の庭で七回に分けて行われ、約二千人が、晴れ渡る空のもと、伸一と記念のカメラに納まったのである。
 リマから八百数十キロ離れた、ブラジル国境に近いプカルパから、アンデス山脈を越えて来たメンバーもいた。
 何度もバスを乗り継ぎ、幾つもの山を越え、三日がかりで着いたという人もいた。
 伸一が撮影台に近づくと、待機していたメンバーが、手拍子を打ちながら、雄叫びをあげた。
 「アラビン、アラバン、アラビン、ボン、バン、センセイ、センセイ、ラ、ラ、ラ」
 日本の「エイ、エイ、オー」という勝鬨にあたるかけ声である。
 誰もが嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ。
35  凱歌(35)
 山本伸一は、記念撮影の前後にはマイクを取り、仏を敬う思いで激励を重ねた。
 「皆さんにお会いするために、日本からまいりました。私は、今日のこの出会いを、永遠に忘れません。お一人お一人のことを、胸中深く刻んでまいります。
 どうか皆さんは、一人残らず幸せになってください。そのための信心です。そして、ペルー社会の模範となり、社会の繁栄に、大きく貢献していってください」
 彼は、小さな子どもを見ると抱き上げ、膝の上に乗せて記念撮影した。
 伸一は、皆に何度もねぎらいの言葉をかけた。
 「ご苦労様です。暑いから、倒れないように気をつけてくださいね」
 南半球のペルーは、まだ夏である。
 そう語る彼の首筋には、玉の汗が流れ、ワイシャツもびっしょりと濡れていた。
 ペルーの幹部は、同志を思いやる、その伸一の姿を見て胸を熱くした。真心は魂の電撃となって、人を奮い立たせる。
 七回の記念撮影が終わると、伸一は言った。
 「何か聞きたいことや要望があったら、遠慮なく言ってください」
 すると、一人の老婦人が手をあげた。
 「センセイ……」
 彼女はスペイン語で、切々と語り始めた。
 伸一のすぐ横に、理事長のキシベがいて、話を聞いていたが、老婦人が話し終わっても訳そうとはしなかった。
 「あのご婦人は、なんと言われたんですか?」
 伸一が聞くと、キシベは答えた。
 「あっ、いいんです。『ありがとうございました』と言っております」
 「『いい』って、何か一生懸命に話していたじゃないか。いいから、そのまま訳しなさい」
 キシベは困惑した顔をした。
 傍らにいた吉野貴美夫が、代わって伝えた。
 「あの老婦人は、目がよく見えないようです。 彼女は、こう言っております。
 『今日は、記念撮影ありがとうございました。先生のお声を直接聞くこともでき、幸せです。
 ただ、私は目が不自由なのです。先生がどういうお顔か、ぜひ知りたいのです。
 申し訳ございませんが、先生のお顔を触らせてください……』」
36  凱歌(36)
 吉野貴美夫が、目の不自由な老婦人の話を通訳すると、山本伸一は笑顔で答えた。
 「お安いご用です。 いいよ、いいよ、前にいらっしゃい」
 老婦人が手を引かれて前に出てきた。
 伸一は彼女の手を取って言った。
 「さあ、私ですよ」
 老婦人は伸一の顔を、そっと触り始めた。彼女の目から、ぽろぽろと涙が流れた。
 やがて彼女は、伸一に深々と頭を下げた。
 「先生、ありがとうございました。もう、私の生涯で、思い残すことはありません……」
 伸一は言った。
 「いやいや、そんなことを言わずに、まだまだ長生きしてください。もう三十年は生きるんですよ。きっとですよ。約束しましょう。
 もっと、もっと、幸せになってください」
 深い皺を刻んだ老婦人の顔に、明るい微笑みが浮かんだ。
 鼓笛隊の演奏や表彰のあと、最後に伸一がマイクに向かった。
 「本日は、ペルーの広宣流布に尽力され、大発展の礎を築いてこられた全ペルーの皆さんを代表して、キシベ理事長に、『広布の塔』のミニチュアをお贈りします」
 「広布の塔」は、正本堂の完成を記念して造られた高さ十メートルの塔で、挑戦、情熱、歓喜、英知などを表す六体の像を配し、民衆の群舞をテーマにしていた。
 このミニチュアは高さ七、八十センチで、大理石と銀でできていた。
 キシベは、伸一から贈られた真新しいスーツを着て、緊張した顔で伸一の前に立った。
 そして、「広布の塔」を受け取ると、「ありがとうございます!」と叫ぶように言った。
 その目に涙が光った。
 キシベは、皆の方を振り返り、塔を両手で高々と掲げた。ずっしりと重たかった。
 「先生から、ペルーにいただいたものです!」
 彼は「広布の塔」を掲げたまま、皆の前を一周した。大拍手と歓声が青空に舞った。
 わがことのように涙ぐみ、身を乗り出して拍手を送る人もいた。
 メンバーがキシベを愛し、慕っていることがよくわかる光景であった。
 皆が共に喜びを分かち合う姿のなかに、団結はある。
37  凱歌(37)
 記念撮影会のあと、山本伸一は、リマ市内のミラフローレス地区にある天野博物館に向かった。
 天野博物館は、中南米などで事業を展開した実業家で、考古学者でもある天野芳太郎が開設した博物館である。
 そこには、天野が長年にわたって発掘、収集してきた土器や織物など、アンデス文明の貴重な品々が展示されていた。
 日本人が他国の文化の発掘、保護に貢献している数少ない例といえよう。
 伸一は、八年前にペルーに来た折にも、この博物館を訪問し、天野と親しく懇談していた。
 その天野が病気療養中であると聞き、見舞いに訪れたのである。天野は七十五歳であり、伸一は、彼の容体が心配でならなかった。
 しかし、出迎えてくれたのは、なんと、療養中の天野であった。
 伸一は、恐縮した。
 彼は、天野を抱きかかえるようにいたわり、見舞いの言葉を告げた。
 「天野先生は、ペルーの文化史に、偉大な貢献の足跡を残されました。日本の誇りです。
 先生が一日も早く健康を回復され、元気でご活躍されんことを、心よりお祈り申し上げます」
 そして、伸一が創立した「富士美術館」の記念メダルを贈った。
 さらに、伸一は、少しでも楽になればと、一生懸命に天野の背中をさするのであった。
 「山本先生に、こんなことまでしていただいて申し訳ない……」
 恐縮する天野に、伸一は言った。
 「父を思い出します。天野先生はペルーの日系人の父ですから、いつまでもお元気でいてもらわなければなりません。親孝行させてください」
 ほのぼのとした父子の交流を思わせる光景であった。そこには、人間の温もりがあった。
 また、伸一は、博物館の経営が難しく、存続が危ぶまれていることを聞くと、援助を申し出たのである。そして、三カ月後に、寄付金が届けられている。
 伸一は、ひとたび結んだ友情と信義は、生涯、貫く決心でいた。
 「あらゆる友情の基礎は、誠実ということです」とは、哲学者ヒルティの信念である。
 やがて、健康を回復した天野は、この日のことを友人に、「一生の感激」と語っている。
38  凱歌(38)
 翌二十五日正午、山本伸一の一行は、リマ市の市庁舎を訪ねた。
 同市から、伸一を「特別名誉市民」としたい旨の話があり、その授章式に出席するためである。
 リマ市庁舎は、歴史を感じさせる荘重な建物であった。高い天井には、シャンデリアがまばゆい光を放っていた。
 メガネをかけた、理知的なリサルド・アルサモーラ・ポーラス市長の歓迎の言葉が、朗々と室内に響いた。
 そのスペイン語を、吉野貴美夫が日本語に訳していった。
 「ペルーは、強い連帯に結ばれた人間性豊かな新しい社会をめざしております。
 そのなかにあって、わがリマ市に、生命の尊厳を実現し、人間性の向上を図るために活動されている多くの創価学会のメンバーがいることは、嬉しい限りです。
 そのメンバーの貢献は、山本会長のように、世界平和を願い、行動しているリーダーがおられるからこそであります。
 この活動によって、新しい世代にとって、住みよい世界が実現されるものと信じております。
 私たちは、メンバーの行動を通して、仏法を、さらには山本会長の哲学者、歴史家、思想家としての偉大さを知ることができました。
 本日、私たちリマ市民は、その山本先生ご夫妻を、誇りをもって、貴賓としてお迎えすることができました。
 これをもって、わがリマ市と創価学会は、ますます親密の度を深めていくものと確信します。
 ここに最高の尊敬の念をこめ、特別名誉市民の称号と、市の鍵をお贈りいたします」
 この市長の言葉を聞きながら、ペルー理事長のキシベは、涙を堪えるのに必死であった。
 伸一の八年前の訪問では、政府当局の警戒の目が向けられ、伸一がペルーの大会にさえ出席できなかったことを思うと、すべてが夢のように感じられるのだ。
 市長から伸一に、特別名誉市民の証書と市の鍵が手渡された。
 拍手が高鳴った。
 キシベは、顔を涙で濡らしながら、拍手を送り続けた。
 弟子の勝利は師の勝利であり、師の勝利は弟子の勝利であった。
39  凱歌(39)
 山本伸一のあいさつとなった。
 「ただ今、市長より、リマ市の最高賓客としての証と、貴市の鍵を賜る光栄に浴しましたことは、私にとって永遠に忘れることのできない名誉であります」
 また、彼は、二十一日に開幕した「世界平和ペルー文化祭」に対する、市をあげての惜しみない応援に、深く感謝の意を表した。
 続いて妻の峯子に、市長から「名誉市民」の称号が贈られた。
 このあと、市長自ら庁舎内を案内してくれた。
 芳名録の置かれた場所に来ると、伸一は、署名を求められた。
 彼は記した。
 「私は今日より リマ市民となった。
 私は今日より リマのために働く。
 私は今日より その責任を持った。
 そして私は 誰よりもペルーとリマの益々の発展と興隆を祈る人生でありたい」
 見守る市長たちの表情も輝いていた。
 ペンを置くと、伸一はいたずらっぽい笑顔を浮かべ、市長に言った。
 「リマ市民となったからには、税金も納めなければいけませんね」
 ユーモアあふれる言葉に、市長は答えた。
 「税金は不要です。しかし、その分、ペルーと日本の交流に力を注いでください。それが、リマ市民の唯一の願いです」
 どっと笑いがわき起こった。
 ユーモアは、人の心を和ませようとする人間性の表れである。
 この夜、四日間にわたって行われてきた「世界平和ペルー文化祭」の最終公演が行われた。
 伸一は、アルサモーラ市長をはじめ、副市長、各局長、また、サンマルコス大学の総長、日秘文化協会の会長などと共に文化祭を観賞した。
 会場のテアトロ・ムニシパル(市立劇場)は、リマ市を代表する由緒ある建物である。
 文化祭は、ペルー国歌の斉唱で幕を開けた。
 舞台は二部構成の十五幕である。
 第一部「これが私のペルーです」では、ペルー北部の海岸地方に伝わるダンスや、農耕の喜びを託した舞踊、「フェステホ」という情熱的なリズムの踊りなど、各地の多彩な民族舞踊が、晴れやかに披露された。
40  凱歌(40)
 「世界平和ペルー文化祭」の出演者は、総勢九百人になる。
 皆、″この幸せを見てください!″と言わんばかりに、はつらつと快活に、こぼれそうな笑顔で、舞い踊っていた。
 背景のパネルは、雄大な山や海原、森などに変化していく。
 その裏には足場が組まれ、百数十人の男子部員と壮年部員が、息を潜めながら、誇り高くパネルを支えていたのだ。
 彼らには、自分たちこそ、文化祭の守り手だとの自負があった。すべてが団結の結晶であった。
 さらに第二部では、婦人部の合唱、少年・少女部のダンス、友情をテーマにした女子部の踊り、音楽隊、鼓笛隊の演奏など、未来開拓の創造力あふれる舞台が続いた。
 圧巻は男子部の組み体操であった。人間ピラミッドやブリッジが次々とつくられ、四段円塔を完成させた。
 その躍動感あふれる演技に、立ち上がって拍手を送る人もいた。
 フィナーレでは、各演目の出演者が肩を組み、「新世紀の歌」を声高らかに合唱した。
 どの目にも感涙が光っていた。この八年間、待ちに待ち続けた、山本会長の訪問である。社会の誤解と戦い、賛同と賞讃を勝ち取って迎えた、この文化祭である。
 舞台からも、一層目のボックス席にいる伸一の姿がよく見えた。その隣には、拍手を送り続ける市長の姿も見える。
 誰もが感極まり、心で叫んでいた。
 ″やりました、先生。私たちは勝ちました!″
 御聖訓には「しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし」と。
 苦闘を越えてこそ、凱歌は轟くのだ。
 天井のくす玉が割れ、五色の紙吹雪が舞い、伸一の頭にも降り注いだ。
 伸一は、足元に落ちた紙の一片を拾い上げた。桜の花びらのかたちに切られていた。
 ″私たちをねぎらおうと、一生懸命に作ってくださったのだろう″
 皆の熱い思いが、痛いほど心に染みた。
 「ありがとう……」
 こうつぶやくと、友の真心を胸に納めるように、花びらを、そっと胸のポケットにしまった。
 その動作を、アルサモーラ市長は、目を輝かせて、じっと見ていた。
41  凱歌(41)
 歓喜の坩堝のようなフィナーレが終わると、山本伸一がボックス席でマイクを取った。
 「美事な、あまりにも美事な大文化祭、おめでとう!」
 その言葉に、大歓声があがり、雷鳴のような拍手が轟いた。
 「皆さんに対する私の願いは、一人ひとりがペルーの国民として、模範の存在となり、かつまた、幸福と平和の人生を送っていただきたいということであります。
 そして、隣人のため、社会のために、最大限に貢献し、ペルーの新たなる平和と繁栄の建設に励み、誰からも賞讃される仏法者であっていただきたいのであります」
 最後に、彼は叫んだ。
 「ビバ、ペルー! ビバ、リマ!」
 歓呼の声が怒濤のように広がった。
 それを受けて、リマ市を代表してあいさつに立ったアルサモーラ市長は、こう話を結んだ。
 「山本会長、本当にありがとうございます。メンバーのリマ市に対する日々の貢献を、心より感謝申し上げます!」
 市長の賞讃の言葉に、メンバーは目頭を熱くし、勝利の喜びをかみしめながら、いつまでも、いつまでも、拍手を送り続けるのであった。
 山本伸一の体調が急変したのは、ホテルに戻って、しばらくしてからであった。腹痛と下痢、発熱が始まったのである。
 日本を出発して二十日間、心身ともに疲れがピークに達していたところに、口にしたものがいけなかったのであろうか。
 峯子は、日本から持参した常備薬から、薬を選んで伸一に飲ませると、題目を唱え続けた。
 伸一もベッドに横たわり、痛みを堪えながら、ひたすら唱題した。
 翌日は、サンマルコス大学のファン・デ・ディオス・ゲバラ総長との会見が予定されていた。
 総長は創価大学の創立者である伸一の教育、平和への貢献に深く敬意を表し、これまでに大学の記念メダルや自著も贈呈してくれていた。
 そして、以前から会談を強く希望していたのである。
 総長の心を思うと、伸一は、なんとしても訪問しないわけにはいかなかった。
 人生は不測の事態の連続といえる。そのなかでいかに行動するかに、人間の生き方が現れる。
42  凱歌(42)
 山本伸一は、ほとんど眠れぬ夜を過ごした。
 朝になると、下痢と腹痛は治まったが、体はぐったりと疲れていた。熱もまだあった。朝食は喉を通らなかった。
 ゲバラ総長との会見は午前十一時からである。スーツに着替え、ホテルの玄関を出て、車に乗ろうとした時、伸一の体がぐらりと揺れた。足がふらつくのである。
 すぐ後ろにいた同行の田原薫が、慌てて伸一の腕を取り、体を支えた。 「先生、今日の大学訪問は中止にしましょう」
 伸一の言葉が飛んだ。
 「そんなことはできない! 総長は、大学の在り方について深く考えられ、私と話をしようと、待っておられるんだ。
 何があってもお伺いするのが、人間の信義じゃないか」
 サンマルコス大学は、一五五一年に創立された南米最古の伝統と格式のある総合大学である。
 しかし、このころ、学生食堂の助成金をめぐる問題などで、大学当局と学生が対立の溝を深めていたのである。
 田原は、伸一の厳たる決意を聞くと、返す言葉もなかった。だが、同行メンバーは、皆、心配でならなかった。
 伸一は、そんな皆の心を察すると、通訳の吉野貴美夫に言った。
 「今日は、早めに終わろう。ぼくは短めに話すから、言葉不足で補った方がよいと思うことがあったら、遠慮せずに補足してくれていいからね」
 午前十一時前、伸一の一行は、当時、リマ市内のビルに置かれていた総長室に、ゲバラ総長を訪ねた。
 総長はメガネの奥の眼を光らせ、喜びを満面に表して伸一を迎えた。
 伸一は招聘への感謝を述べたあと、日本とペルーの交流のために、総長夫妻や教授の代表を創価大学に招待することなどを提案していった。
 彼は毅然としていた。精神の力が体を制していたのだ。
 総長は粛然として、創価大学との交流への固い決意を語った。
 「ありがとうございます。今日、ここに山本会長が来られたことによって、当大学は、既に創価大学と″親友″の関係になりました。
 私は、今後の交流のために、誠心誠意、努力してまいります」
43  凱歌(43)
 会談が始まった。
 ゲバラ総長をはじめ、副総長、十二人の教授が同席し、大きな長いテーブルを囲んでの語らいとなった。
 一人ひとりの前にマイクが置かれ、まるで国際会議のような厳かな雰囲気であった。
 会談は、山本伸一が問題提起し、それについて意見を交換するかたちで進められた。
 「新しい大学像とは」「教授と学生の断絶について」「学生自治会の運営について」など、伸一は自説を展開しながら問題提起し、教授らに意見を求めていった。
 それらの問題は、学生運動の嵐が吹き荒れる渦中で、創価大学を創立した伸一が、考えに考えてきた問題であり、また、サンマルコス大学が直面している最重要のテーマでもあった。
 語らいは白熱した。
 「良き教育こそはそこから世界の一切の善が発する源泉なのである」とは、カントの至言である。
 教授たちは、皆、真剣であった。仏法思想をはじめ、さまざまな質問を伸一にぶつけてきた。
 もはや、早めに終わることのできる状況ではなかった。
 伸一は、毅然として訴え抜いた。
 さらに彼は、世界的視野に立った、二十一世紀の教育興隆の流れを開くために、「教育国連」の構想を語った。
 これは、前年の十月に彼が提唱したもので、政治的権力に左右されず、教育権の独立を守り、世界平和への精神的な砦とするための、教育の国際的な連合組織である。
 そして、その準備段階として、彼は「世界大学総長会議」の開催を提案したのである。
 ゲバラ総長は、頬を紅潮させて言った。
 「その構想が実現するならば、大学の諸問題の解決はもちろん、教育の振興へ、人類すべての英知を結集していくことができます。すばらしい!
 この壮大なるスケールの提唱を、私は心から祝福いたします」
 会談終了後、伸一はゲバラ総長から、昼食を共にするように誘われた。
 しかし、伸一の体力は限界に達していた。彼は感謝の意を伝え、丁重に辞退した。
 伸一の顔には、疲労の色が滲み出ていた。
 総長は伸一を、心配そうに見送るのであった。
44  凱歌(44)
 山本伸一はホテルに戻っても、体調は優れず、食欲も全くなかった。
 ホテルに待機していたペルー女子部長のミツエ・フクロイと女子部の幹部のマリア・ハナシロは、それを聞くと、心配で胸が張り裂けそうな思いがした。
 ″このままでは先生の体力は、ますます衰えてしまう。何か召し上がっていただかなければ″
 そして、婦人部のメンバーと相談して、粥をつくってもらい、伸一に届けた。これなら彼も、なんとか口にすることができた。
 また、彼女たちは、伸一の体調を考え、何度かヘラティーナ(ゼリー)も届けてくれた。
 彼女たちの思いは、伸一の胸に熱く染みた。彼は、その真心がありがたく、嬉しかった。
 翌日の二十七日は、文化祭を後援したリマ市への答礼昼食会や「ペルー中央日本人会」(当時)への運営基金の寄付、図書贈呈などが予定されていた。
 しかし、伸一は出席せず、理事長の泉田弘に代行を務めてもらい、メッセージを託した。
 伸一はホテルで休養しながら、懸命に唱題し、健康の回復を祈った。
 ″旅程はまだ、半分余りが過ぎただけだ。これからさらに大事な仕事がある。病魔などに負けてたまるか!″
 断じて病に打ち勝つという一念こそが、病魔克服の原動力となる。
 午後には、熱がわずかに下がり始めた。
 すると彼は、メンバーに贈るために、色紙にペンを走らせ、激励の言葉を認めるのであった。
 この日の夕刻、女子部長のフクロイが、五センチほどの人形を伸一に届けに来た。ペルーの国旗を手にして馬に乗った、鉛でできた兵隊の人形である。
 「これは、文化祭に出演した鼓笛隊のメンバーから預かったものです。
 ぜひ、先生にお贈りしたいとのことでした」
 伸一は尋ねた。
 「これをくださったのは、どういう方ですか」
 フクロイは、そのメンバーの名前を告げ、家庭の状況などを語った。
 ――人形を贈ったのは十五歳の少女で、母と共に信心に励んでいたが、家は貧しかった。父親は酒浸りの生活で、母が飲み物を売って生計を立てていた。
45  凱歌(45)
 少女は、文化祭に出演することが決まったが、練習に通う交通費さえままならなかった。
 母の仕事を手伝ってバス代をもらい、練習に駆けつける毎日であった。
 彼女は練習の折に、女子部の先輩から聞かされる山本会長の話に、大きな感動を覚えた。
 ″山本先生は、世界の平和のために、人びとの幸福のために、真剣に戦っていらっしゃるのだ″
 少女は″山本先生″のことを思うと勇気がわいた。″先生に何かお礼をしたい″と思った。
 練習に通う途中、ある店で、馬に乗った兵隊の人形を見つけた。
 ″これなら、練習に通うバス代を節約すれば、買うことができる!″
 少女の家から練習会場までは、歩けば片道二時間ほどかかったが、何日か徒歩で通い、人形を手に入れたのだ。
 伸一は、その話を聞くと、人形を押し戴くようにして言った。
 「何物にも勝る最高のプレゼントです。これほど真心が光る、すばらしい贈り物はありません」
 彼は、すぐに少女への激励の一文を口述した。
 「尊い黄金のような贈り物、本当にありがとう。一生涯大切に私の部屋に飾ります。二十年後には幸福の女王になってください」
 それをスペイン語で書籍に認めてもらい、サインした。
 そして小遣いと一緒に、ミツエ・フクロイに託した。
 「『本当に、ありがとう』と言って、これを渡してください。
 こういう少女が、幸せになっていかなければならない。また、必ずそうさせていくんだ。そこに私たちの使命がある」
 それを受け取った少女は、感動のあまり、言葉も出なかった。熱い涙を流しながら誓った。
 ″絶対に負けずに、自分の未来を切り開こう。幸福の女王になりましたと、胸を張って報告できる自分になろう……″
 ″誓い″は未来を開く。″誓い″は成長の源泉となる。
 その後の彼女の人生は平坦ではなかった。生活苦との戦いが続いた。
 しかし、教員をめざして苦学しながら大学に進み、十八年後に念願の小学校の教師になっている。
 伸一の励ましによって心田に植えられた決意の種子は、見事に花開いたのである。
46  凱歌(46)
 山本伸一が夕食を終えた、午後七時半ごろであった。思いがけないことに、サンマルコス大学のゲバラ総長が、ホテルを訪れたのである。
 伸一の体を心配して、見舞ってくれたのだ。
 「お体が優れないと聞いて、心配でお訪ねいたしました。ご迷惑とも思ったのですが……」
 総長とは、昨日、一時間ほど語り合っただけである。しかし、わざわざ訪ねてくれた、その厚意に伸一は感動を覚えた。
 総長は、伸一の手を握りしめながら言った。
 「昨日の訪問に対する感謝の言葉を、ぜひ、お伝えしたかったのです。
 明日、ご出発と伺っておりますが、未来のために、お元気で、よい旅をお続けください」
 伸一は微笑を浮かべてこたえた。
 「ありがとうございます。温かいお心遣いに深謝いたします。
 しかし、私は、まだ若いし、大丈夫です。総長こそ、ご多忙ですので、健康に留意されながら、ご活躍ください」
 総長は、伸一を見つめて言った。
 「私のような者で恐縮ですが、ペルーの親友と思って、いつでもおこしください。心から歓迎させていただきます。
 どうか、ゆっくりお休みを。私は、これで失礼いたします」
 深い友愛の言葉が、伸一の胸を射貫いた。
 「総長のご厚意を、私は終生、忘れません」
 伸一は、総長と固い握手を交わした。
 彼の足元は、まだふらついていた。
 伸一に代わって峯子が、通訳の吉野貴美夫らと共に、総長をホテルの玄関まで送った。
 すると、そこに総長夫人の姿があった。
 「主人が、どうしてもお見舞いに行くというもので、失礼とは存じながら、まいりました」
 そして、一緒に部屋を訪ねたのでは、かえって山本会長を疲れさせてしまうと考え、待機していたというのである。
 峯子は、その配慮に恐縮した。
 真実の心遣いとは、自分本位ではなく、どこまでも相手の立場に立って、ものを考えることから始まる。
 総長夫人は「山本会長の旅がご無事で、実り多きものでありますよう、心からお祈りいたします」と言うと、峯子を強く抱き締めるのであった。
47  凱歌(47)
 ペルーで結ばれた、山本伸一とゲバラ総長との友情の絆が源流となり、サンマルコス大学と創価大学の交流が始まる。
 また、一九八一年(昭和五十六年)四月、同大学は、伸一の世界的な平和活動と、科学、哲学、宗教、文化への貢献を高く評価し、南米の大学として初めて、彼に名誉教授の称号を授与している。
 遂にペルー出発の三月二十八日が来た。
 伸一の体調は、まだ、万全ではなかった。
 彼は、女子部長のミツエ・フクロイの姿を見ると、笑顔で語りかけた。
 「お世話になったね。私はあなたたちの真心を、生涯、忘れません」
 すると、彼女は懇願するように言った。
 「先生、完全に健康を回復されてから、ご出発になってください」
 「ありがとう。でも、アメリカの同志も待っている。私は行きます。それが私の心です」
 伸一は、ペルー最後の一日を精力的に動いた。
 お世話になった方々に贈るために、次々に書籍に揮毫もした。
 なすべきことをしなければ、必ず悔いが残る。使命に生き抜こうと心を定めた人間にとっては、後悔は恥辱である。
 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」である。
 出発は、午後四時である。彼は、前日、訪問できなかった日秘文化会館を訪ねた。
 日本人会の代表に会い、ペルー訪問が大成功のうちに終わったことに、深く感謝の意を表しながら懇談した。
 そして、「ペルーの繁栄のために、生涯、全力を尽くしてまいります」と決意を披瀝するのであった。
 肝心なのは、最後である。そこで手を抜いてしまえば、「九仞の功を一簣に虧く」ことになる。
 一行は空港に向かう途中、国会議事堂近くの「宗教裁判所博物館」に立ち寄った。宗教裁判所はインカ帝国を征服したスペインが一五七〇年に開設したものである。
 スペインは南米に黄金を求めたが、さらに「キリスト教の布教」による心の支配を考えていた。
 ペルーは三百年近くにわたってスペインの植民地となり、この間、ローマ・カトリックの信仰に反する行為は、すべて禁じられたのである。
48  凱歌(48)
 宗教裁判所では、キリスト教のカトリック以外の教えを信ずる異教徒や、異端と見なされた人たちは、厳しく審問され、拷問を受けた。
 「宗教裁判所博物館」では、当時の拷問の模様が、蝋人形を使って生々しく再現されていた。
 山本伸一は、同行のメンバーに尋ねた。
 「みんなは、これを見て、どう思うかい」
 国際本部の事務総長であり、学生部長でもある田原薫が答えた。
 「イエスがその生涯を通して示したものは、人類愛でした。
 ところが、その教えを実践するはずのキリスト教会が、異教徒に対して残酷極まりない拷問や処刑を重ねたことは、最大の矛盾だと思います。驚愕と憤りを感じます」
 伸一は、頷きながら言った。
 「本当にそうだ。
 しかし、人間の救済を掲げてスタートした宗教が、やがて異教徒を迫害、弾圧したり、宗教同士が戦争を引き起こしているのが、残念ながら人類の歴史といえる。
 本来、宗教は人間のためのものだ。ところが、その原点を忘れ、宗教のための宗教や、権威・権力のための宗教になってしまえば、宗教が人間を抑圧するという本末転倒が起こってしまう。
 人類の未来を考えるなら、宗教差別や宗教戦争を根絶していくために、人間という原点に立ち返って、宗教間、文明間の対話を展開していくことが、何よりも重要な課題になる。
 その突破口を開いていくのが、仏法者としての私の使命であると思っている。仏法の本義は、一言すれば、人間宗ともいうべき、人間生命の尊重の思想だからだよ」
 伸一の言葉には、なみなみならぬ決意があふれていた。
 「宗教の名において、人間が抑圧されたり、尊い血を流す。そんなことは、絶対にあってはならない。
 ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、また、ヒンズー教も、人びとを幸福にするために生まれたものであるはずだからだ」
 インドの初代首相のネルーは叫んだ。
 「宗教を理由に人を抑圧するものとは、それが、たとえ誰であろうとも、私は命の続く限り戦い続ける」
49  凱歌(49)
 宗教紛争には、長い歴史がある。根深い憎悪や怨恨があり、一筋縄ではいかないかもしれない。しかし、憎み合い、人を殺し合っていれば、憎悪はますます深まり、その連鎖は果てしなく続く。
 未来のために、これから生まれてくる人たちのために、そんな連鎖は、絶対に断ち切らねばならない。憎悪を友情に、反目を理解に変えるのだ。
 人間は皆、平和を求めているのだ。
 ゆえに、互いに一念を転換し、勇気の対話に踏み出すのだ。自身の心に巣くう、不信と憎悪と恐怖を打ち破るのだ。
 山本伸一は、同行のメンバーに強い決意を込めて語った。
 「宗教間の紛争もそうだが、国家間の争いや、イデオロギーの対立をどう超えるかも、原理は同じだ。
 人間という根源に立って対話し、粘り強く、人間の心と心を結んでいく以外に解決の道はない。
 そこに、真実の平和の道、立正安国の道、人間の勝利の道があることを、私は生涯をかけて示していく覚悟だ」
     
 山本伸一たちがリマの空港に着くと、送迎デッキは、伸一を見送ろうという千五百人ほどのメンバーであふれていた。
 伸一と峯子は、皆に大きく手を振った。
 理事長のセイケン・キシベは、目を潤ませながら語った。
 「先生、ありがとうございました。今回の先生のご訪問で、みんなの心に、忘れ得ぬ永遠の信心の原点が刻まれました。
 ペルーは仲良く、大前進してまいります」
 伸一はキシベと、何度も何度も抱擁し合った。
 彼が峯子と共にタラップを上ると、一段と激しく拍手が高鳴り、天空に歓声が舞った。
 伸一たちが機中の人となり、飛行機が動き出しても、皆、手を振り続けていた。伸一も、窓に顔を押しつけるようにして盛んに手を振りながら、心で唱題していた。
 彼は、皆に、幾度となく、「私は、どこにあっても、皆さんにお題目を送り続けてまいります」と語っていた。その約束通りの行動が、もう始まっていたのだ。信義の人とは、行動の人である。
 やがて、飛行機は離陸し、空高く上昇していった。新しき、希望の明日に向かって。

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