Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第19巻 「虹の舞」 虹の舞

小説「新・人間革命」

前後
2  虹の舞(2)
 山本伸一は、沖縄広布の使命に燃える出迎えのメンバーに、微笑をたたえながら言った。
 「ありがとう! もうパスポートもいらないし、本土復帰を実感しますね」
 沖縄の返還は、これまでに伸一が、強く主張してきたことであった。
 一九六七年(昭和四十二年)八月の第十回学生部総会では、彼は沖縄について、「施政権の即時全面返還」「核基地の撤去」「通常基地の段階的全面撤去」を訴えるとともに、産業振興対策の具体案を提案したのだ。
 ジョンソン米大統領と佐藤栄作首相との会談で、沖縄の施政権返還の方針が明らかになる、三カ月前のことである。
 伸一は、本土復帰は実現したが、それは、沖縄の平和と幸福を築くうえで、第一歩を印したにすぎないと考えていた。
 むしろ、これからが、本当の試練と挑戦の時代であるというのが、彼の認識であった。
 伸一は皆に尋ねた。
 「復帰後の沖縄は、どう変わりましたか」
 上間球子が答えた。
 「本土から物資が入ってきて、モノは豊富になりました。でも、大変な物価高で、生活は苦しくなっています」
 政治も経済も、その実像は民衆の暮らしに端的に現れる。真実は評論家の言葉にではなく、生活者の声にある。「民の声」こそが、「天の声」なのだ。
 沖縄では、復帰とともに、通貨は米ドルから円へと切り替えられた。
 かつて、円は一ドル三百六十円の固定相場制であったが、復帰前年に変動相場制となって円高が進み、通貨切り替えの交換レートは三百五円となったのである。
 住宅ローンなどを抱えていた人は、その恩恵に浴したが、多くの人は減収に泣くことになった。
 また、通貨切り替えに乗じて物価が上げられ、その後も高騰が続いていた。
 那覇市では復帰の年の七月から翌年三月までに、生鮮魚介類は二三・二パーセントも上昇し、建築資材などは、ほぼ二倍になっていた。
 さらに、本土の企業や観光会社などが、沖縄の土地の買い占めに走り、地価も著しく高騰した。
 それによって、ささやかなマイホーム計画が消えてしまった庶民も少なくなかった。
3  虹の舞(3)
 上間球子は、県民の思いを代弁するかのように美しい声で語った。
 「基地のさまざまな問題も、復帰前とほとんど変わっていません。
 相変わらず沖縄は基地の島ですし、米軍のヘリコプターなどが墜落したりする事故も後を絶ちません。米軍兵士の犯罪も頻発しています。
 そして、何よりも人びとの関心がモノやお金に向かい、心が荒廃してきているように思います。特に、子どもたちの心は荒んできています。青少年の非行も、最近では目に余るものがあります」
 壮年の幹部が、上間の言葉を受けて言った。
 「祖国復帰への期待が大きかっただけに、いざ実現してみると失望も大きいようです。
 私たちは、山本先生にご指導いただいた通り、″平和も幸福も、外から与えられるものではなく、自分たちの手で築き上げていくものだ。
 そのためには、この人間革命の大仏法を広宣流布する以外にない″と結論しています。
 ″いよいよ沖縄広布の本舞台に立った。これからが本当の戦いだ。新しい前進を開始しよう″というのが、沖縄の同志の決意です」
 山本伸一は、その言葉に頼もしさを覚え、ニッコリと笑みを浮かべた。
 「さすが沖縄健児です。新しい戦いを起こすことが大事なんです。
 沖縄の広宣流布の基盤は、この二十年間で完壁に整ったといえます。
 しかし、基盤が出来上がってしまうと、ともすれば、″これまで通りにやっていれば、なんとかなるだろう″という考えをもつようになる。
 実は、その発想、その感覚自体が、惰性に陥っている姿です。
 状況や事態は、刻々と移り変わっているし、時代も人びとの感性も変化している。
 したがって、広宣流布を進めるうえでも、常に新しい挑戦を忘れてはならない。『月月・日日につより給へ』です。
 リーダーは、どうすれば新しい局面が開け、新時代に対応できるのかを考え、手を打ち続けることです。
 私は今回の訪問で、その新しい広宣流布の流れを開いていきます」
 確信にあふれた、力強い言葉であった。
 出迎えたメンバーの目が燃え、顔が輝いた。
4  虹の舞(4)
 山本伸一が沖縄本部に到着したのは、午後七時前であった。
 彼は、この日、沖縄未来会第二期の結成式が行われ、会館に高等部員、中等部員、少年・少女部員が集って来ていることを聞くと、会場に姿を現した。
 未来に輝く沖縄の後継者たちと会える――こう思うと、居ても立ってもいられなかった。
 伸一の胸には、三十年後の沖縄広布の未来像が鮮明に描かれていた。その時の主役こそ、この未来部員たちなのだ。
 未来への最大の布石とは、未来を担う人の胸中に、全生命を注いで、使命の種子を植えることである。
 「こんばんは!一緒に勤行をしましょう!」
 会場に、伸一の声が響いた。メンバーは、驚きのあまり、声も出なかった。一瞬の静寂の後、大歓声があがった。
 勤行が始まった。若々しい、弾んだ声が伸一の声に唱和した。
 勤行が終わると、伸一は語り始めた。
 「諸君は、二十一世紀の宝の人であります。私は、皆さんの未来を開くためならば、いかなる苦難も恐れません。喜んで犠牲にもなります。
 それが、会長である私の心であることを知っていただきたい」
 彼は、自分の思いを、若い生命に率直にぶつけていった。
 大事な大事な後継者を守り抜かんとする気迫にあふれた、魂の言葉であった。
 鳳雛の瞳が光った。
 「皆さんは、私を踏み台に、私を乗り超えて、郷土の発展のため、世界の平和のために、力ある社会の指導者に育ってほしい。
 また、指導者となる諸君には、生涯、労苦という尊い荷物を引っさげて生きる決意がなくてはならない。
 人びとのために、勇んで労苦を引き受けてこそ、真の指導者です。
 さらに、労苦は自身を磨く研磨剤であり、最大の財産です。
 どうか、苦難に挑み、雄々しき師子の道をたくましく進みきってもらいたいのであります」
 文豪ユゴーは、人間を正しき人たらしめることが「真の哲学の使命である」と述べている。人間として、いかに生きるかを教えることこそ、人間教育の根本といってよい。
5  虹の舞(5)
 翌二月三日、山本伸一は、那覇から空路、八重山諸島の石垣島に向かった。飛行予定時間は一時間二十五分であった。
 八重山諸島は、この石垣島をはじめ、西表島、竹富島、小浜島、波照間島、与那国島など、大小三十二の島々からなり、その行政・商業などの中心が石垣島であった。
 石垣の空は紺碧に、大海は青く、まぶしいばかりにきらめいていた。
 空港に到着すると、那覇から同行した沖縄の幹部が、顔をほころばせて伸一に告げた。
 「二月なのに、これほどの好天に恵まれることはなかなかありません」
 「そうですか。石垣島の皆さんの一念が、諸天を動かしたんですね」
 空港には、地元のメンバーが車を用意して待っていてくれた。
 この日は、″社会福祉センター″(岡崎会館)で、記念撮影会や「八重山祭」などが行われることになっていた。
 伸一は午後零時半に会場に到着すると、すぐに控室に入り、何人かのメンバーと面談した。
 八重山諸島の地域広布を一段と伸展させていくために、石垣島長や西表島長などの新たな設置が検討されており、彼は、その候補者らと会っておきたかったのである。
 人事は広宣流布の生命線である。だから伸一は、人事には常に真剣勝負で臨んだ。
 できる限り、自分が直接会い、人物を見極め、全力で励まし、使命に生き抜く決意を促した。
 今回の人事で西表島長に推薦されていたのが、島盛長英という五十代後半の壮年であった。
 彼は八重山保健所の西表東部出張所の所長を務め、また、「介輔」(医介輔)として医療活動にも従事してきた人であった。
 「介輔」というのは、戦後、米国の施政下の沖縄にあって、医師不足を補うために設けられた特例資格である。
 それまでに医療に従事してきた人を対象に、講習会、認定試験を実施して「介輔」とし、医師に準じた治療行為を認めたのである。
 島盛への島民の信頼は絶大であった。
 西表島からマラリアがなくなったのも、彼の奮闘によるところが大きかった。また、彼によって命を救われた島民も少なくなかったのである。
6  虹の舞(6)
 山本伸一は、島盛長英にあいさつした。
 「島盛さんですね。あなたのお話は、よく伺っております。
 実は今回、西表島長を設けることになり、あなたにお願いしたいと思っております。よろしいでしょうか」
 決意のこもった声がはね返ってきた。
 「はい! 粉骨砕身、努力してまいります」
 「それでは、よろしくお願いします」
 こう言って伸一は、島盛の左手を握り締めた。島盛は右腕を、少年時代に失っていたのだ。
 ――島盛長英は一九一六年(大正五年)に、八重山諸島の竹富島に、次男として生まれた。九人の兄弟・姉妹の六番目である。
 自給自足の生活であり、満足に食べることもままならない、貧しい暮らしであった。
 彼が五歳の時には父親が他界し、長兄も早世していた。以来、母親が麻織りの仕事をして、細々と生計を立ててきた。
 尋常小学校六年の時であった。飼っていた黒牛を家に連れ帰るために背に乗っていると突然、牛が暴走した。
 彼の体は、岩の上に強かに叩き付けられた。右腕は複雑に折れ曲がり、骨が見えた。
 母親の絶叫が響いた。
 船で石垣島に運ばれ、手術が行われた。麻酔から覚めた時には、右腕は切断されていた。
 母親は彼に、毅然とした口調でこう言った。
 「これから先、どんなに辛いことがあっても、人を羨んだり、妬んだりしてはいけないよ」
 それは″ハンディに負けるな。強くなれ!″との愛の叫びであった。
 目と耳と口に障害をもち、三重苦と闘ったヘレン・ケラーは断言した。
 「闇は不滅の魂の躍進を阻むものではない」
 島盛少年は母を守るために、海に潜って魚を捕り、片腕で舟を操って石垣島に売りに行き、家計を助けた。重労働だったが、島で働く大人の三倍ほどの収入になった。
 彼は漁を続けながら、勉学に励んだ。不自由な体だからといって、人には負けたくなかった。
 「決心する力があれば、苦しみに勝つことができます」とはゲーテの卓見である。
 ハンディがあるから不幸なのではない。島盛はハンディを飛躍台にしたのだ。
7  虹の舞(7)
 島盛長英は、二十一歳の時に、島の青年団長になった。青年たちは、彼を中心に、竹富の将来を真剣に話し合った。
 やがて竹富島に沖縄県の竹富診療所ができた。
 島盛は、そこの書記に推された。薬の手配などが主な仕事であったが、医師からは治療や看護の方法を教えられた。この書記の時代に、医学を徹底して学んだ。
 戦争が始まり、負傷者などが出ると、彼は軍から治療を命じられた。
 戦後、島盛は、石垣島で医学研修を受け、「介輔」(医介輔)の資格を取得した。
 その後、彼は八重山保健所の西表東部出張所の所長の任に就いた。主な任務はマラリアの撲滅であった。
 出張所といっても廃屋であり、看護婦(当時)も事務員もいなかった。
 マラリアを媒介するハマダラ蚊の撲滅のために薮を伐採し、水たまりなどにDDT(殺虫剤)を散布していく作業が続けられた。
 やがて努力が実り、数年後にはマラリア患者はゼロになった。
 その一方で、島には医師がいなかったことから、診療にもあたった。
 島は道路の整備がほとんどなされておらず、川にも橋がなかった。それだけに出張診療は大変であった。
 川があれば、服や荷物を頭にのせ、歩いて渡った。自転車も使えないため、やむなく馬に乗って山道を診療に回った。
 すべての病を一人で相手にした。逆子の出産も成功させた。心臓が停止した人も蘇生させた。
 日々、体はへとへとになった。しかし、少年時代に事故で右腕を失い、生命の尊さを痛感していた彼は、島の人の生命を守ることに闘志を燃やした。それが自分の使命だと感じていた。
 いかに苦しくとも、人びとの幸福のために、戦い、生き抜くなかに、人間としての勝利がある。
 ヘレン・ケラーは「私達が試練を新しい善の力に転化することも出来ます」と希望の言葉を記している。
 その島盛が信心をするようになったのは、一九六一年(昭和三十六年)のことである。
 西表島にいた姉夫婦から、三年間にわたって仏法の話を聞かされた末の入会であった。
8  虹の舞(8)
 島盛長英の姉である細野美枝は、長年、神経痛に苦しんできた。
 姉とその夫の徹男は、神奈川県の川崎で信心した息子から手紙で折伏され、一九五八年(昭和三十三年)に入会した。
 この夫妻が西表島で最初の学会員となったのである。
 島盛は、細野夫妻から折伏されたが、「拝めば幸せになるなんて、そんな宗教が信じられるか」と言い張ってきた。
 しかし、歩くことも大変だった姉の美枝の神経痛が、信心に励むうちに治ってしまったのだ。島盛は、この現証に目を見張った。
 細野夫妻は、「この仏法でなければ幸せにはなれない」と言い切って、折伏に歩いた。
 すると、「大和神を拝む南無妙法蓮華経のじいさん!」「村の破壊者!」と罵られ、村八分にもされた。だが、着実に学会員は増えていった。
 彼らには、絶対に広布の道を開いてみせるという強い執念があった。勝利への執念こそ、逆境をはね返す力となるのだ。
 島盛は、姉夫婦のところに送られてくる『大白蓮華』や「聖教新聞」、学会の出版物などには必ず目を通した。
 読むうちに、彼の仏法への関心が次第に深まっていった。
 病を治すうえで自然治癒力に着目していた島盛は、学会が教える「生命力」という考え方に強く共鳴した。
 さらに、医療従事者として、仏法の「慈悲」の心をもつことの大切さを痛感していったのである。
 島盛は、座談会にも参加するようになった。
 ある日の座談会で、義兄の細野徹男の話を聞いていた彼は、終了後、感想を語った。
 「あの説明では、話を聞いていた人は、腑に落ちないのではないかな」
 そして、こう説明すればどうかと、自ら語ってみせたのである。
 機関紙誌や学会の出版物を精読してきた彼は、仏法の法理をかなり理解していたのだ。
 細野は、頬を紅潮させて言った。
 「そうだな。その通りだよ。俺ではだめだ。お前が頑張ってくれないと。一緒に信心をしよう」
 これが契機となり、遂に島盛は信心を始めた。
 入会後の彼は、一途に信仰に励んだ。人間を根本から救う道を仏法に見いだした島盛は、″西表を幸福島にしてみせる″と決意したのである。
9  虹の舞(9)
 一九六四年(昭和三十九年)、西表島に地区が誕生すると、島盛長英は初代地区部長となった。
 島の人たちの生命を真剣に守り抜いてきた島盛に、人びとは深い尊敬の念をいだいていた。その彼が信仰している宗教なら間違いないと、信心を始める人もいた。
 そして、七〇年(同四十五年)ごろには、六百数十世帯ほどの島民のうち、三割近い、百八十五世帯が学会員になっていたのである。
 しかし、翌年には大旱魃が襲い、さらに追い打ちをかけるように、「ベス」と名づけられた大型台風が直撃した。
 この台風は、特に風が激しく、西表を長時間にわたって大暴風に巻き込んだ。
 海水を被った作物は枯れ果て、多くの島民が飢餓状態に陥った。
 日本復帰前のことであり、援助らしい援助もなかった。
 やむなく島を捨て、沖縄本土などに移り住む人が続出した。学会員も激減し、百世帯ほどになってしまった。
 しかし、西表に残った同志は、島盛を中心に団結し、「西表を日本一の幸福島にしよう」と、歯を食いしばって奮闘してきたのである。
 山本伸一は、記念撮影会の控室で、島盛に続いて、石垣島長の候補になっていた与那原朝明と、八重山諸島全体の責任者である八重山長に推されていた石山賢著に、声をかけていった。
 与那原は、臨床検査技師をしている、温厚な六十歳近い男性であった。
 また、石山もほぼ同年代であり、クリーニング業を営んでいた。彼は高見福安の義兄にあたり、高見の折伏で信心を始めた壮年であった。
 島盛をはじめ、皆、深く地域に根差し、大きな信頼を勝ち取っていた。
 人びとの信頼という土壌の上に、広宣流布の花は開くのだ。ゆえに、大事なのは人材である。
 だからこそ日蓮大聖人は、「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と仰せなのである。
 伸一は、これまでの健闘を心から讃え、ねぎらいながら言った。
 「同志に尽くし、同志を守り抜くための幹部です。よろしくお願いします」
 「はい!」という決意のこもった声が響いた。
10  虹の舞(10)
 山本伸一は、控室で何人かのリーダーとの面談をすますと、急いで昼食をとった。
 メンバーが用意してくれたオニギリに漬物、沖縄名物のアーサー汁という献立であった。
 彼は、「ありがたいね。おなかがすいていたんだよ。おいしいね」と感謝しながら、喜んで食べていった。
 食事のために彼に許されていた時間は、十分もなかった。一気に食事を食べ終えると、汗が噴き出してきた。
 「さあ、始めよう。戦いだ!」
 すぐに、記念撮影会の会場に向かって足早に歩き出した。
 メンバーは既に撮影の準備をして並んでいた。
 伸一が会場に姿を現した。「ワーッ」という大歓声と拍手がこだました。
 同志は、この日を、待ちに待っていたのだ。
 思えば八重山諸島に、最初に妙法の火がともされたのは、一九五五年(昭和三十年)の四月のことであった。
 沖縄広布の一粒種である高見福安・清子夫妻から、清子の兄にあたる石山賢著が折伏されて、信心を始めたのである。経済苦と喘息に悩んでの入会であった。
 石垣島は高見清子の故郷である。彼女は一族の幸せと郷土の繁栄を願い、夫の福安と共に二人三脚で、沖縄広布にひた走ってきたのだ。
 石山は勤行をするうちに、体調がよくなり、功徳を実感し、弘教に励み始めた。石垣島はもとより、島から島を訪ねては仏法対話を重ねた。
 同志は次第に増え、山本伸一が沖縄を初めて訪問した六〇年(同三十五年)には八重山に地区が誕生。その四年後には支部が結成された。
 しかし、八重山の社会は、土俗信仰が根強く、御書の仰せ通りに、たびたび三障四魔の嵐が吹き荒れた。
 偏見と誤解から「村の秩序を乱す宗教には、葬儀の道具などは一切貸さない」と言う村落もあった。青年部員が暴力を振るわれたこともあった。
 しかし、島の発展と皆の幸福を願う同志は、一歩も退かなかった。
 彼らには″島の人たちが、私たちの真心と学会の正義に気づく日が、必ず来る″との強い確信があった。
 いかに泥にまみれようが、黄金は黄金である。真実は必ず勝つのだ。
11  虹の舞(11)
 「私の決意さえ堅固であれば、希望が実現しないことはない」
 これは、中国の大指導者・周恩来総理の若き日の言葉である。
 八重山の誇り高き同志は、この言葉のように勇んで前進してきた。
 一九六六年(昭和四十一年)には、八重山は総支部となり、発展の盤石な礎が築かれていった。
 石山賢著と共に、八重山広布の中核として奮闘してきたのが、白戸洋行や山野タカ、佐久田豊らであった。
 白戸は、初代八重山支部長、初代八重山総支部長を務めた壮年である。社会にあっては司法書士として活躍し、島の発展に尽力してきた。
 また、山野タカは八重山支部の初代支部婦人部長である。彼女は、夫を海難事故で亡くし、女手一つで二人の子どもを立派に育て上げながら、石垣市で料亭の女将として働いた。
 そのなかで、一途に八重山広布に走り抜いてきたのである。
 佐久田豊は、八重山総支部の初代婦人部長になった女性で、薬店を営んでいた。
 二人とも、婦人会の会長などを務め、面倒みがよく、生き生きと人びとのために貢献していた。
 山野は、竹を割ったような気性で、同志の悩みを聞くとズバリと本質をつく指導をした。
 その言葉に心が定まり、信心に立ち上がったメンバーは少なくなかった。
 一方、佐久田は人を包み込み、皆を安心させる温かさに富んでいた。
 自信をなくし、意気消沈した人も、彼女に励まされると、元気を取り戻した。また、
 「生涯勉強」が口癖で、常に向学心を失わなかった。
 「八重山広布の母」ともいうべきこの二人の、「厳しさ」と「温かさ」という絶妙な励ましによって、同志は、あらゆる苦難を、力強く乗り超えてきたのだ。
 「困難は新たな進歩改善には当然の付きもの」にすぎないと、かのナイチンゲールが喝破したように――。
 美しい八重山諸島の同志の心に闘魂が燃え上がってきたのは、二年前の一月のことである。
 コザ(当時)での記念撮影会に出席した山本伸一が、参加していた八重山諸島と宮古諸島の代表に、二年後に石垣島、宮古島を訪問することを約束したのだ。
12  虹の舞(12)
 「山本先生が二年後に石垣島に来られる!」
 山本伸一の発表は、瞬く間に、八重山諸島の全同志に伝えられた。
 メンバーは、胸に電撃が走る思いがした。
 ″山本先生を迎えるまでに、さらに、八重山の広宣流布を進めよう!″
 同志は折伏に走った。
 依然として学会への無理解の壁は厚く、涙に暮れた夜もあった。
 だが、伸一の訪問を思い描いて、歯を食いしばって頑張り抜いた。
 「いかなる困難に突き当たろうとも、これを耐え忍んで、乗り超える覚悟――これこそ、われわれを深く結びつけている絆である」
 チャーチルが、力強く宣言したように、わが同志もまた、苦難を乗り越えて、勇気と希望と、わが宝である闘志を燃え上がらせながら、にぎやかに立ち上がった。
 広宣の友のスクラムは、大きく、また大きく広がり、地域の名士たちまで、次第に学会への評価を変えていった。
 同志たちは、伸一の石垣島訪問を指折り数えてスクラムを組み直しながら、その日を待った。
 そして、前日の二月二日の夕刻、遂に「山本先生、無事に那覇到着!」の知らせが入った。
 ″いよいよ明日、先生は石垣島に来られる″
 皆の胸は高鳴った。だが、この日、八重山地方は激しい風雨に見舞われたのだ。
 ″このままでは、明日は、那覇からの飛行機も飛ばないかもしれない″
 皆が″山本先生のご来島を実現させてください″と必死に唱題した。
 夜が明けた。
 前日の天気がまるで嘘のように、まばゆい旭日が昇った。
 その晴天の下、メンバーは喜び勇んで、記念撮影会の会場に集まり、伸一の入場を待っていた。
 会場に現れた伸一の姿を目にすると、歓声が起こり、日焼けした同志の顔に涙が光った。
 伸一は、マイクを握った。そして、真心込めて呼びかけた。
 「やっと皆様の八重山に来ました。
 先ほど、こちらのおいしいおいしいオニギリをいただきました。お新香もいただきました。お吸い物もいただきました。ありがとう!」
 伸一の飾らない言葉に、皆、親近感を覚え、会場いっぱいに笑顔の花が咲いていった。
13  虹の舞(13)
 記念撮影会の参加者のなかには、日本最南端の有人島である波照間島から、勇んで駆けつけた同志もいた。
 この前日、風雨のために、波照間島からの定期船は止まってしまった。
 メンバーは、やむなく小船を雇い、西表島を経由し、八時間がかりで石垣島まで来たのである。
 御聖訓には「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」と。
 そこには、尊き求道の心が光っていた。神々しい笑顔が輝いていた。
 すぐに記念撮影が始まった。山本伸一は、撮影の合間には、次々と励ましの言葉をかけ、希望あふれる提案をした。
 「皆様のご苦労、ご功労に対し、私は合掌する思いで、『ありがとう』と申し上げたい。
 もし、ご賛同いただけるなら、皆様の名前を刻んだ『八重山広宣流布の記念碑』を建立し、永遠に功労を顕彰していきたいと思いますが、いかがでしょうか」
 拍手が広がった。
 さらに彼は、香港で購入した土産の絵葉書を参加者に手渡していった。
 また、自らインスタントカメラで子どもたちを撮影し、その場で写真を贈る一コマもあった。
 ″八重山の同志と、生涯にわたる生命と生命の絆をつくるのだ!″
 伸一は必死であった。晴れ晴れとした記念撮影が終わると、西表島の竹富町立大原中学校への図書贈呈式が行われた。
 これは聖教新聞創刊二十三周年の記念事業として企画されたもので、全国の辺地にある学校二十五校に図書を寄贈することになっていた。
 大原中学校は、その一校目であった。
 贈呈式では、聖教新聞社の社主である山本伸一から、校長に″図書約千冊と書棚″の目録が丁重に手渡された。
 引き続き、会館横の広場で、晴れやかに「八重山祭」が行われた。
 広場の前には、エメラルドグリーンの海が広がり、太陽の光を浴びた水平線は、無数の黄金の矢をちりばめたように照り輝いていた。
 沖縄の幹部が、日差しが強いので、広場の一角に造った茅葺きの家の中で演技を見るように伸一に勧めてくれた。
 しかし、彼は、外にいた子どもたちのなかに入って腰を下ろし、一緒に観賞することにした。
14  虹の舞(14)
 「八重山祭」は、社会に開かれた市民祭として開催したもので、メンバーだけでなく、地元の名士をはじめ、多数の市民が参加し、二千人ほどの人が会場を埋めていた。
 山本伸一は、傍らにいた、東京から来た同行の幹部に語った。
 「八重山の広宣流布は十九年前から始まったんだ。それが、これほどの広がりとなった。
 つまり、二十年間、本気で戦えば、どんな地域でも大きく変えられるということだ。
 しかし、本当の決意と行動がなければ、何年たっても何も変えることはできない。大事なことは戦いを起こし、戦い続けるということだよ」
 「八重山祭」の開始を告げる司会者の弾んだ声が響いた。
 四人の婦人が登場し、古くから竹富島に受け継がれてきた太鼓の演奏で幕を開けた。
 八重山・黒島の″生活の喜び″を歌った「黒島口説」や、八重山に伝わる子守歌「こねまぬ父や」などが披露されていった。
 どの演技にも、喜びがあふれていた。伸一を八重山に迎えたことが、心の底から嬉しかったのである。
 プログラムは西表島の同志による「巻き踊り」に移った。これは、八重山諸島などに古くから伝わる踊りであった。
 竿の先に、赤や青、黄などの布をつけた纏を中心に、互いに手を取り合い、幾重にも輪をつくって陽気に踊るのである。
 マチギタール クルギタール  キユヌピヨ……
 (待ち続けていた  今日の良き日を)
 力を合わせ、よい村をつくろうとの思いを歌った歌詞である。
 「巻き踊り」が始まった時、西表の代表が、踊っているメンバーと同じハッピとハチマキを、伸一に差し出した。
 「先生に着ていただこうと、これを用意してまいりました」
 「ありがとう! 皆さんの真心が熱く胸に染みます。すぐに着させていただきます」
 伸一は、その場で上着を脱ぎ、ハッピを着て、ハチマキを締めた。
 そして、踊りの輪のなかに入って、皆と一緒に踊り始めた。
 大歓声があがり、拍手が舞った。
15  虹の舞(15)
 「巻き踊り」が終わると出演者たちが、山本伸一をめざして突進してきた。彼はもみくちゃにされながら、同志の肩を抱き、握手をし続けた。
 やがて、フィナーレに移り、最後に伸一がマイクを手にした。
 「喜びに満ちあふれた『八重山祭』の開催、まことにおめでとうございます。
 素朴ななかに、人間の歓喜の歌があり、生命の躍動がありました。
 私は、これからも皆様方の幸福と栄光を、日々祈り念じ、八重山の繁栄のために全力を尽くしてまいります。
 最後に、本日、ご出席の来賓の方々、地域の皆様方、そして、八重山全島のすべての住民の皆様の、ご健勝とご繁栄を願い、万歳を三唱したいと思います」
 大拍手が起こった。
 伸一の声に皆が唱和し、青空に「万歳!」の声が響き渡った。それは八重山の人びとの、勝利の雄叫びであった。
 島の名士たちは、創価学会に対しては、「暴力宗教」などという捏造された噂も耳にしていた。
 しかし、今、会長の伸一の振る舞いを目の当たりにして、それが、いかに根も葉もない中傷であったかを、実感するのであった。
 皆が、「百聞は一見に如かず」との言葉を、しみじみとかみしめていたのである。
 翌二月四日午後、山本伸一は車で石垣島を視察した。
 その途中、「ヤドピケの浜」と呼ばれる海岸に立ち寄った。
 地元の幹部から「男子部を中心に皆で漁をしておりますので、ぜひ、おこしください」と真心から言われていたのである。
 青年たちは、″八重山の暮らしを山本先生に知っていただきたい″と、浜に網を仕掛けて待っていた。
 伸一は、一人でも多くのメンバーと会い、全精魂を注いで励まそうと決意していた。
 そこに、魂の触発と共感が生まれ、それが未来への前進の活力となるからだ。
 彼がヤドピケの浜で車を降りると、三十人ほどのメンバーが海に入り、「エイサー、エイサー」と威勢のよいかけ声を響かせながら、網を引き揚げてくれた。
 伸一は声をあげた。
 「勇壮な光景だね」
16  虹の舞(16)
 ヤドピケの浜は、珊瑚礁の海が広がる、美しい浜辺であった。そこには多くの木が、平和を守るように、浜風にささやきながら揺れていた。
 水はどこまでも澄み、穏やかな波が、白い砂浜に寄せ返していた。
 青い青い海原を見つめていると、この海の底に有名なおとぎばなしの龍宮城があったような気がした。いや、事実そうであったにちがいないと、山本伸一には思えた。
 彼はサンダルに履き替え、ズボンの裾をまくり上げ、波打ち際に進んでいった。
 「大漁ですか」
 青年が日焼けした顔をほころばせて答えた。
 「はい。大漁です!」
 網には、タコ、ボラ、クロダイ、アイゴ、ブダイなどが、百匹ほどかかっていた。
 その時、「先生、カメです」と叫ぶ声がした。
 一人の壮年が、五、六十センチほどのウミガメを掲げてやってきた。
 「これは思わぬお客さんだね。まるで浦島太郎の話みたいだ」
 伸一は、そのカメを海に放した。カメは沖に向かって泳ぎ始めた。だが、途中から方向を変え、戻ってきてしまった。
 「カメも先生と一緒にいたいんですね」
 誰かが言った。皆の爆笑が空に舞った。
 伸一は提案した。
 「ありがとう。この出会いをとどめるために、記念撮影をしましょう」
 歓声があがった。
 伸一は、ほかにメンバーはいないかと、辺りを見渡した。すると、浜辺を取り巻く木々の茂みに何人もの人影があった。
 彼は、手招きした。
 「皆さんも一緒に写真を撮りましょう」
 真心は、配慮となって現れるものだ。
 弾ける笑顔が、カメラに納まった。
 引き続き、浜辺で懇談会が行われた。
 伸一は語り始めた。
 「網で漁をする姿を拝見させていただき、心より御礼申し上げます。
 皆さんとの出会いの喜びを句に詠みましたので、感謝を込めて発表させていただきます。
 忘れまじ ヤドピケ浜の 歓呼網  龍宮で 久遠の友との  出会いかな」
 伸一が詠み上げると、歓声と拍手が広がった。
17  虹の舞(17)
 山本伸一は、石垣島の未来像について言及していった。
 そして、二十年後、三十年後には、「日本のハワイ」として、必ず脚光を浴びていくと断言し、こう語ったのである。
 「そうした時代になればなるほど、八重山の自然や伝統文化を守ることが大事になります。
 経済的な豊かさばかりを追い求め、自然を破壊し、伝統文化を失っていくならば、本末転倒であり、八重山の生命線を断つことになる。
 自然を守るには、依正不二を説いた生命の哲学が必要です。
 また、真の幸福を築き上げるには、拝金主義に陥ったり、欲望などに翻弄されることなく、自分を律していける人間革命が不可欠です。
 人間の幸福を考えるうえで、本当に大切なのは金銭でもなければ、地位や名誉でもありません。いかに華やかに見えようが、そうした喜びや幸福は一瞬であり、虚栄である場合も多い。
 人生には、さまざまな困難や苦悩がある。真実の幸福は、いかなる事態に直面しても、決して負けない、強い心をもつ以外にありません。さらに、日々、歓喜し、感動し、感謝できる、豊かな心をもつことです。
 そのための信心です。だからこそ、地域の繁栄と、皆の幸福を考えるならば、八重山の広宣流布が大事になるんです。
 どうか皆さんは、愛する八重山の未来を開く、信念の灯台になってください」
 集ったメンバーは、決意を込めて頷いた。
 伸一は、ここで笑顔を浮かべて言った。
 「今日、ここに集った皆さんが、八重山の繁栄をめざし、互いに励まし合い、切磋琢磨し合っていくために、グループを結成してはどうでしょうか。名前は『ヤドピケ・グループ』としたいと思います」
 伸一の提案に賛同の大拍手が起こり、皆の顔に喜びの笑みが広がった。
 「法華経には生命の歓喜の舞が説かれています。今日は、みんなで楽しく踊ろうではありませんか」
 歓声が起こった。すかさず指笛が鳴り、かけ声が響き、三線の弦が鳴り始めた。
 八重山地方に古くから伝わる「安里屋ユンタ」を、皆が声高らかに歌い、踊り始めた。
18  虹の舞(18)
 サー安里屋ぬ クヤマにヨー  サーユイユイ  あん美らさ 生りばしヨ……
 山本伸一もハチマキを締め、皆と一緒に「安里屋ユンタ」を踊った。それは、底抜けに明るい、民衆讃歌の舞であった。
 「ユンタ」とは、皆で農作業などをする際に歌われる歌謡である。伸一と共に踊るその舞は、広宣流布の大歓喜のユンタであった。
 その夜、伸一は、宿泊先のホテルに八重山の中心的な幹部を招き、最高協議会を開いた。
 メンバーからは、大学進学のために八重山を出ていった青年たちが、卒業後、地元に戻ってくるケースが増えているとの報告もあった。
 伸一は言った。
 「その青年たちが育っていけば、地域の発展の原動力になる。学生部出身者が、互いに励まし合っていけるように、『八重山学生会』を結成してはどうだろうか。
 これは、いわば地域を基盤とした大学会です」
 八重山の壮年幹部が頷きながらこたえた。
 「ぜひ、お願いいたします。学生部出身者の励みになると思います」
 伸一は、全生命を注ぐ思いで、八重山の広宣流布のために何が必要か、何をなすべきかを熟慮し続けていた。だから一つの報告から、さまざまな構想が浮かぶのである。
 そして、即座に手を打っていくのであった。
 また、この席で、各島の特色を生かして飛躍を期すために検討を重ねてきた、石垣島長や西表島長など、島ごとの地域長制度の人事が発表された。
 伸一は、協議会の最後に語った。
 「私たちの願いは、島の人びとの幸福と、郷土の繁栄です。したがって社会と学会の間に壁をつくってはならない。
 ″地域のために尽くそう。社会に貢献しよう″という強い一念があってこそ、仏法を社会に開くこともできるし、広宣流布の広がりも生まれる。
 立正安国論にも『先ず四表の静謐を祷らん者か』と仰せです。
 幹部の皆さんは、すべての人びとの幸福と、島の繁栄を実現する責任者の自覚に立ってください。それが自分自身の境涯革命にも通じます」
19  虹の舞(19)
 八重山訪問の最終日となる翌二月五日、地元の名士をはじめ、市民、学会員約五百人が集い、八重山諸島の先祖代々追善法要が、石垣市内の寺院を会場に厳粛に営まれた。
 会場の入り口には「おーりたぼーらなーらシンシィ」と書かれた横断幕が掲げられていた。この地方の方言で「ようこそおいでくださいました、先生」の意味である。
 この法要は、八重山の先祖代々、戦没者、海難事故死者、警察の殉職者など、一切の諸精霊の冥福を祈り、郷土社会の新たな発展を期すために、山本伸一の発願で執り行われたものである。
 法要の主催は創価学会沖縄総合本部であるが、戦没者遺族会の八重山支部など四団体が協賛し、八重山毎日新聞社の後援という、地域をあげての催しとなった。
 沖縄の人びとは、伝統的に、先祖を敬う気持ちが強い。
 しかも、あの戦争では、多くの家で犠牲者を出した。それだけに、先祖の追善には、ことのほか深い思いがある。
 父母や、祖父母、そして、先祖を敬うのは人間として当然の、しかも大事な感情である。
 しかし、本来、先祖自体は信仰の対象とすべきものではない。
 成仏の道は、宇宙の根本法たる妙法への信仰以外にないのだ。
 他界した先祖も、子孫らが唱題に励むことによって、その題目が回向され、成仏への道が開かれるのである。そこに真実の先祖供養がある。
 人びとの追善の唱題が響くなか、焼香が続き、最後に伸一があいさつに立った。
 「私は今回、八重山の地を初めて訪問させていただき、八重山は、日本のなかでも、特にすばらしい最高の環境であることに感嘆いたしました。
 本日、私は、仏法者として、先祖代々の諸精霊の追善法要を発願し、八重山の発展に労苦を捧げてくださった方々に、真心のお題目を送らせていただきました。
 皆様のお題目で、必ずや戦没者をはじめとする方々が、霊山浄土で、喜んでくださっているものと確信いたします。
 最後にご列席の皆様方に、最大の感謝の意を表し、ごあいさつとさせていただきます」
 彼は、あえて話を簡潔に終わらせた。
20  虹の舞(20)
 追善法要に参加した地域の人びとのなかには、題目の音律を初めて聞いたという人も少なくなかった。
 しかし、その力強いリズムに、生命の躍動を感じ、故人に大きな力が回向されていく実感を覚えたという。
 日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」と仰せである。
 唱題こそ、大宇宙に轟き渡る一切の力の源泉である。
 法要が終わると、庭で記念植樹が行われ、さらに、会館の起工式が挙行された。前日の最高協議会で、この隣接地に会館を建設することが決まっていたのである。
 山本伸一は、このあと、宮古島に移動することになっていたが、飛行機の出発までの時間を使い、八重山長になった石山賢著の自宅を訪問した。
 片時たりとも時間を無駄にはすまい――それが彼の信念であった。
 決意は、行動にあらわれる。さらにいえば、限られた時間に何をなすかに、決意が本物かどうかが、端的にあらわれるのである。
 伸一の一行が家庭指導を終えて石垣空港に到着し、機内に入ると、激しい雨が降りだした。
 だが、ほどなく雨は小降りになった。そして空に大きな虹がかかった。
 見送りに来た人びとから歓声が起こった。その虹に向かうように、伸一の乗った飛行機は、空高く飛翔していったのだ。
 そのころ、宮古島はバケツをひっくり返したような激しい雨であった。
 宮古空港には、学会の地元幹部をはじめ、地域の名士らが、伸一を迎えるために集まっていた。
 宮古島の中心となっていた来島忠司が、島の幹部の一人である長尾常勝に言った。
 「飛行機が着くまで、あと三十分ほどですね。それまでに、この大雨があがって、晴れてくれたらいいのにね」
 「祈りましょう。私たちにできることは、それしかありませんよ」
 二人は、心のなかで、必死に唱題した。いや、この時、全宮古諸島のメンバーが、雨がやむことを願って、真剣に祈りを捧げていたのである。
 それから十五分ほどすると、なんと雨はあがったのである。
21  虹の舞(21)
 宮古島の上空には、青空が広がり始め、しかも、美しい虹がかかったのである。
 「おお、虹だ!」
 来島忠司と長尾常勝が同時に声をあげた。
 この虹の歓迎を受け、午後二時半過ぎ、山本伸一の乗った飛行機は宮古島に到着したのだ。
 伸一は、出迎えてくれた地元の名士らに丁重な御礼のあいさつをすますと、真っ直ぐに記念撮影会の会場である平良市民会館に向かった。
 会場の一角には、民具や、子どもたちの絵画などが展示されていた。
 さらに、宮古に伝わる麻織物の宮古上布をつくる作業の一部を、老婦人が実演してくれた。宮古上布は、軽く、強く、通気性に優れた織物として有名である。人間の知恵の結晶といえようか。
 伸一は、一本一本の糸をねじって撚りをかける、老婦人の巧みな手さばきに感嘆した。
 案内してくれた地元の幹部が言った。
 「宮古上布の製作は、骨の折れる細かい手作業ですから、熟練した技術が求められます。それだけに、後継者不足が深刻化しております」
 「それは大変ですね。 後継者の育成は、ただ個人に任せるのではなく、地域をあげて取り組まなければならない課題です。
 これは信心の世界でも同じです。後継の世代の育成は組織をあげて取り組むことです。
 わが地域の未来部員は、わが子、わが弟・妹と思って励まし、育てていくんです」 地元の幹部の一人が、口を開いた。
 「よく、『子は親の背を見て育つ』と言われますが、信心も親の影響は非常に大きいですね」
 「そうです。親は、子どもの模範となる信心を心がけることです。と同時に、ただ、『背中を見よ』と言って、放置していてはだめです。
 子どもと真正面から向き合い、手塩にかけて、教えるべきことを教え、心血を注いでいってこそ人間は育つ。
 親としてやるべきことを怠り、手を抜いていれば、それなりの結果しか出ません」
 力を入れた分だけ、人は育つ。だから伸一は、未来部各部をつくり、人材育成グループを結成して、自ら全力で育成にあたってきたのである。
22  虹の舞(22)
 撮影会場となったフロアに山本伸一が姿を現すと、大歓声が起こった。
 「美しい、美しい憧れの宮古島に、とうとうやってまいりました!」
 伸一は、朗らかに語りかけた。
 宮古島は、石垣島から約百三十キロの距離であり、沖縄本島と八重山諸島の間に位置している。
 また、宮古諸島は、宮古島をはじめ、池間島、大神島、来間島、伊良部島、下地島、多良間島、水納島の、大小八つの島々からなっている。
 この日、その島々から、メンバーが勇んで集って来たのだ。求道の心が燃えるところには、歓喜がみなぎる。
 記念撮影は、婦人部から始まった。
 「皆さんのご苦労を、私は、よく存じ上げております。
 何度となく、激しい台風にも襲われた。学会への偏見や差別にも耐え、戦い抜いてこられた」
 伸一がこう言うと、皆の目が潤んだ。
 宮古島は台風の通り道として知られ、なかでも「サラ」「コラ」「デラ」と呼ばれる巨大台風の被害は甚大であった。
 一九五九年(昭和三十四年)のサラ台風は、農作物に壊滅的な打撃をもたらした。
 そして、六六年(同四十一年)のコラ台風は、最大瞬間風速八十五・三メートルを記録。
 停電は全島に及び、外部との交信も断絶され、宮古島は孤島状態となったのである。
 その二年後の六八年(同四十三年)にはデラ台風が襲い、今なお、宮古諸島の随所に台風の爪痕が残されていたのだ。
 台風対策のため、多くの人びとは、家を鉄筋コンクリート住宅に建て替えたが、それによって多額の借金をかかえることになった。
 鉄筋コンクリートの家は″借金コンクリート″と椰瑜された。
 やむなく、島を離れ、出稼ぎに行く男性も多かった。
 また、働き手の多くが出ていったために、島は活気がなくなり、もともと肥沃ではない農地は荒れ果てる一方であった。
 そして、復帰後は、インフレの嵐が家計を直撃した。
 そのなかで、島の同志は、″この宮古を幸福の島にするために私たちがいるのだ″と、決然と立ち上がり、広宣流布の波を広げてきたのである。
23  虹の舞(23)
 山本伸一は、記念撮影会に集った一人ひとりの顔を見つめ、魂を注ぐ思いで訴えた。
 「皆さんは、よく頑張ってこられた。堂々たる大勝利です。
 これまでの奮闘で、広宣流布の確固不動なる礎は築かれました。さあ、今日からは、宮古の新時代です!」
 さらに彼は、ここでも広宣流布の功労者の名を刻んだ記念碑と会館の建設を発表した。
 伸一は、記念撮影の合間には宮古最高協議会を開き、会館建設や宮古各島の地域長の人事、宮古学生会の結成などについて協議を重ねた。
 記念撮影会のあとは、会場を市民会館の大ホールに移して、伊良部島にある伊良部小学校への、聖教新聞社からの図書贈呈式が行われた。
 そして、引き続いて、「宮古伝統文化祭」が開催されたのである。
 宮古の伝統文化を継承し、宣揚するとともに、郷土の発展を願っての催しであった。
 文化祭は宮古の歌謡「宮古トーガニ」で幕を開けた。十数枚の瓦を一瞬にして打ち砕く勇壮な空手の演技などに続いて、五人の婦人部員が宮古の誇りである「久松五勇士」の踊りを披露した。
 宮古の負けじ魂を表現する、「アララガマ!」という言葉がある。
 苦難にさらされた時、宮古の人たちは、″なにくそ!″″負けるか!″との思いを込めて、「アララガマ!」と叫び、試練を乗り超えてきた。
 それは不屈の魂の言葉である。そのアララガマ精神を託しての「久松五勇士」の舞であった。
 怒涛逆巻く黒潮の しぶきを浴びて 漕いで行く
 オオー 急げ急げ八重山へ 久松五勇士 男だよ
 歌に合わせて、鉢巻き姿の婦人たちが、櫂を手に勇壮に踊る。
 久松五勇士――それは日露戦争中、波浪を超えて、ロシアのパルチック艦隊発見の知らせを無線電信施設のある石垣島まで届けた、宮古島久松の五人の漁師である。無名の庶民が、危機を救おうと、命をかけたのだ。
 「名の知れた英雄よりも、ときには偉大な無名の英雄がいるのだ」とは文豪ユゴーの鋭い歴史の洞察である。
24  虹の舞(24)
 日露戦争も山場を迎えようとしていた一九〇五年(明治三十八年)五月二十三日、宮古島に向かう帆船が、北上するパルチック艦隊を発見する。
 その情報は宮古島の島庁に伝えられた。それは、海戦の勝敗を決し、日本の興廃に大きな影響を及ぼす、大切な情報であった。
 ところが、当時、宮古島には無線電信施設がなく、これを大本営に伝えるには、約百三十キロも離れた石垣島まで行かなければならなかった。
 そこで立ち上がったのが、後に「久松五勇士」と讃えられる、五人の青年漁師であった。
 彼らは「サバニ」と呼ばれる小さな「クリ舟」で石垣島に向かった。決死の覚悟で波浪と戦い、全力を振り絞って舟を漕いだ。
 そして、遂に石垣島に到着し、敵艦発見の打電がなされたのだ。
 しかし、哨戒中の信濃丸もパルチック艦隊を発見し、既に急報がもたらされた後であった。
 だが、この命がけの五勇士の熱誠には、もう一重深い次元から、賞讃され、宣揚されるべき意義があったといってよい。
 彼らの存在が、広く世に知られることになったのは、それから二十九年後のことである。
 「大阪毎日新聞」(昭和九年五月十八日付)が、「日本海海戦秘史」として彼らの苦闘を紹介し、この秘話を見いだした識者らによって、表彰運動が起こっていることを報じたのだ。
 ともあれ、国家といっても、こうした民衆の、目立たぬ、幾多の命がけの行動が根っこにあって支えられてきたのだ。
 山本伸一は、広宣流布もまた、同じであると思った。最高幹部でもなく、檜舞台に立つこともない同志が、日々、懸命に奮闘し抜いてくれているからこそ、広宣流布の前進があるのだ。
 わが創価学会は、広宣流布の開拓者を、庶民の英雄たちを、最大に賞讃し、永遠に顕彰していかなければ絶対にならない
 ――それが伸一の決意であり、信念であった。
 ゆえに彼は、どうすれば、尊き同志たちの功績を讃え、後世に名を残せるのかを、常に考え、心を砕き続けていた。
 彼には、舞台の上で踊る婦人たちをはじめ、会場のすべての同志たちが広布の「久松五勇士」に見えるのであった。
25  虹の舞(25)
 舞台では、続いて宮古の集団舞踊であるクイチャーが始まった。
 このクイチャーは「漲水のクイチャー」といわれ、一八九三年(明治二十六年)、人頭税廃止の請願のために東京に行った代表の、健闘を願ってつくられたものだ。
 宮古・八重山では明治時代まで、頭割りに一律に租税を課す人頭税があった。年齢で大別され、等級が設けられていたものの、納税能力を無視した、悪名高い、過酷な不公平税制であった。
 その廃止の請願のために上京し、島に戻った代表を、人びとは、この「漲水のクイチャー」で迎え、踊りながら行進したのだ。
 そして、一九〇三年(同三十六年)に人頭税は撤廃される。いわば、「漲水のクイチャー」は、横暴な権力の圧政に苦しんできた庶民の勝利の舞といえる。
 平良市民会館には、指笛が響き、「ヒーヤサッサ」という掛け声がこだまし、出演者は満面に笑みを浮かべて、舞台狭しと乱舞した。
 すると観客席の老婦人が立ち上がり、一緒に踊り始めた。さらに、また一人、また一人と立って踊り出したのである。
 客席のあちこちで頬を紅潮させ、喜びを抑え切れぬ様子で、皆が踊り始めたのである。
 山本伸一も、皆を応援するかのように、盛んに手拍子を打ち、威勢よく掛け声をかけた。
 いつしか会場全体が舞台となり、歓喜の坩堝となっていた。
 大聖人は仰せである。
 「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか
 成仏得道の大法を得た迦葉、舎利弗は歓喜踊躍し、末法に正法を流布する上行菩薩は、喜びのあまり、踊りながら出現すると記されている。
 宮古の同志は、夢にまで見た山本会長の訪問が実現した喜びに、そして郷土の建設に生きようとする決意の高まりに、じっとしていられなかったのである。
 その踊りは、苦難の波浪を乗り越え、勝ち越えた同志の、歓喜と勝利の幸の舞であった。
26  虹の舞(26)
 舞台はフィナーレに移った。宮古広布への誓いを込め、皆が「沖縄健児の歌」を大合唱した。
 山本伸一も、妻の峯子も熱唱した。
 彼らには気取りなど、微塵もなかった。
 共に同志として、共に人間として、喜びを分かち合おうと、二人とも、声を限りに歌った。
 皆の心は一つにとけ合い、希望と決意の歌声となって場内を圧した。
 そして、伸一がマイクを手にした。
 「本日は、大変にありがとうございました。皆様の真心が、深く、深く胸に刻まれました。
 皆様方の演技は、長い間、悲哀と苦渋に耐え、見事にそれを乗り越え、人生に勝利した喜びの舞であることを実感いたしました。
 私は、今まで、不幸な人びとの味方となって戦ってきたつもりでありますが、本日、庶民の凱歌ともいうべきこの舞台を見て、一段と、その決意を深くいたしました。
 今後も、いかなる中傷があろうが、敢然と一人立ち、民衆のために、皆様のために戦い抜いてまいります。
 私は、この美しい美しい宮古が、豊かな人間性に潤う『永遠の都』として、『人間の平和と幸福の都』として栄えゆくことを、心から念願いたしております」
 大拍手が起こった。
 誰もが宮古を思う伸一の心に触れた気がした。彼の言葉に、郷土への誇りを感じ、目に涙を浮かべながら拍手を送る人もいた。
 伝統文化祭は終了した。しかし、誰も席を立とうとはしなかった。
 「いついつまでも、お達者で! ありがとう」
 伸一もまた、皆に、ねぎらいと励ましの言葉をかけ続けた。
 石垣島に続いて、全生命を燃やし尽くしての奮闘である。彼はマイクを手にしながら、何度となく頭がくらくらした。
 しかし、″もう二度と、この土を踏むことはできないかもしれない。愛する宮古の同志に、発心の火をともすのは、今しかない″と、自らを鼓舞して激励を重ねた。
 人の心を打つのは、話術の巧みさではない。美辞麗句でもない。″君よ立て!″との、生命からほとばしる必死の思いが、友の心に働きかけるのだ。励ましとは、炎の一念がもたらす魂の触発なのである。
27  虹の舞(27)
 翌二月六日は、山本伸一の一行が那覇に戻る日であった。
 この日の午前中には、平良市(現在は宮古島市)内で宮古諸島先祖代々追善法要が営まれた。
 この法要もまた、宮古の戦没者をはじめ、先祖代々の追善供養を行うとともに、宮古の繁栄を祈願するために、伸一が発願したものであった。
 また、宮古島にはハンセン病の国立療養所があった。戦時中は、ここでも、戦災や飢餓、マラリアなどで、多くの入所者が亡くなっていた。
 伸一は、その方々も懇ろに追善し、冥福を祈りたかった。
 この法要には、地元の新聞社の社長をはじめ、地域の各界名士が数多く参列していた。
 厳粛な読経・唱題のあと、戦没者遺族代表らがあいさつし、続いて伸一がマイクに向かった。
 彼は、宮古の人びとが自分の訪問を大歓迎してくれたことに謝意を表したあと、生命の根本法たる妙法による追善供養の大切さを語った。
 さらに、この席上、参列していた、ハンセン病の療養所である宮古南静園の所長に、真心の寄付金の贈呈が行われた。
 入所者をはじめ、療養所の関係者のために、せめてもの役に立てばとの思いから行ったものであった。
 伸一は、強制隔離されて、根強い偏見と差別のなかで暮らしてきたハンセン病の人びとの身の上に、胸を痛めてきた。
 各地の療養所にいる同志から、手紙をもらうこともあった。
 その手紙の行間から、仏法によって自らの使命を自覚した喜びや、生きがいに燃える生命の躍動が伝わってくると、伸一は、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
 そして、手紙を宝前に供え、幸福と長寿を願い、懸命に題目を送るのであった。
 祈りながら、彼は心で叫んでいた。
 ″皆、仏子なのだ。 断じて負けない勇気を、希望を、強さを!
 私と共に、生涯、広宣流布の尊き使命に生き抜こう!″
 また、折に触れて、そうした同志たちに、励ましの伝言などを送り続けてきた。
 「現実の問題を考慮に入れず、問題の解決に役立たない宗教は、宗教ではない」とは、ガンジーの叫びである。
28  虹の舞(28)
 あいさつの最後に、山本伸一は、自ら詠んだ二つの句を披露した。
 哀歓を 乗り越え宮古の 碧き海
 今に見よ 胸に炎の 都島
 苦しみも、困難も突き抜けて、断じてこの島に幸せを築いてほしいとの願いを込めて、詠んだ句である。
 先祖代々追善法要に引き続いて、会場の庭で記念植樹が行われた。
 戦没者を顕彰するヤシなどとともに、広布途上に逝いた功労者を讃える二本のヤシも植樹された。
 そのうちの一本は「伊部ヤシ」で、草創期に宮古島の班長として活躍した、伊部盛正を讃えたものだ。
 彼は、妻のトキと共に、一九六〇年(昭和三十五年)に入会した。
 盛正は肺結核で喀血を繰り返し、仕事もできず、家族が満足に食べることもできないほど、生活は貧しかった。
 ところが、信心に励むようになると、日ごとに健康を取り戻し、元気にサトウキビ畑で働けるようになった。盛正は感謝の思いで折伏に歩いた。
 だが、島の人たちの学会への反感は強かった。座談会を開けばタライをガンガン叩いて妨害されたこともあった。
 それでも彼は、″宮古の人たちを幸せにするために、断じて負けるわけにはいかない!″と、一歩も引かなかった。
 燃える一念がある限り、破れぬ壁はない。やがて同志は三十世帯ほどに広がり、島の東部に班が結成された。
 ところが、一九六七年(昭和四十二年)七月、盛正は風邪をこじらせ、急逝したのだ。四十六歳の働き盛りであった。
 伊部夫妻には七人の子どもがいた。一番下はまだ二歳で、その上の子も四歳である。
 幼子を抱えて、妻のトキは途方に暮れた。
 「大和神など拝むからじゃ!」
 夫の死を契機に、周囲の学会への批判は一段と激しくなった。地域からは除け者にされ、子どもも学校でいじめられた。
 悔し涙を流しながら、トキは誓った。
 ″私は負けない!″
29  虹の舞(29)
 伊部トキの長男は、昼間の高校への進学を希望していたが、一家の生活を支えるために、母と共にサトウキビ栽培に励み定時制高校に通った。
 子どもたちはニワトリを飼い、畑で野菜を作って、生きる糧にした。
 トキはサトウキビ栽培のほかに養豚も始めた。地を這うようにして働きながら、亡き夫の志を受け継ぎ、歯を食いしばって信心を貫いてきた。
 そしてこの日、追善法要に参加すると、「山本先生がご主人の遺徳を讃えて記念植樹してくださる」と聞かされたのだ。
 記念植樹に臨んだトキは感慨無量であった。
 植樹のあと、伸一は彼女に声をかけた。
 「大変でしたね。全部わかっていますよ」
 温かく力強い声であった。こぼれそうになる涙をトキは懸命に堪えた。
 「今はまだ苦しいかもしれないが、あなたは既に勝っているんです。負けないということは、勝つということなんです。
 これからは、このヤシの木をご主人だと思って、お子さんと一緒に希望の年輪を刻んでいってください。ご主人は、じっと見ていますよ。
 信心し抜いていくならば、最後は必ず幸せになる。すべて、そのためのドラマなんです」
 彼女は、声をあげて泣き始めた。
 「大丈夫だ。大丈夫だよ。御本尊がついているじゃないか。私が見守っています」
 トキは涙を拭い、顔を上げ、大きく頷いた。
 その目は、決意に燃え輝いていた。
 「今に見よ胸に炎の都島」との伸一の句は、彼女の誓いとなった。
 一家の生活は、まだまだ苦しかったが、トキには、もはや恐れはなかった。胸には、まばゆい希望の虹が光っていた。
 生命が広宣流布の使命に燃える時、苦悩の闇は消え去る。現実は昨日と同じであっても、一念の転換は境涯を変え、わが世界を変えるのだ。
 植樹されたもう一本のヤシは「亀島ヤシ」で、宮古島広布の功労者である亀島鶴勝の遺徳を讃えるものであった。
 伊部トキも、亀島の妻の慶も、この記念植樹を心の支えに宮古の広布に生き抜き、子どもたちを広布の人材に育て上げ、幸福と勝利の実証を打ち立てていったのである。
30  虹の舞(30)
 山本伸一は記念植樹に続いて、隣接地で行われた宮古会館の起工式に出席した。
 そして、休む間もなく、島の東部にある城辺町(当時)でのシートーヤー(製糖小屋)の開所式に向かった。
 これは、宮古の伝統文化を伝え残そうとの趣旨から、地元青年部の有志が中心になって結成した「宮古伝統文化保存委員会」の主催で行われる行事であった。
 伸一は、招請を受けていたのである。
 宮古はサトウキビの生産で知られるが、砂糖への加工は、近代化した製糖工場で行われるようになり、その方法も様変わりした。
 委員会のメンバーは、地域貢献のために、昔ながらの方法で砂糖をつくるシートーヤーを復元し、宮古の歴史と先人たちの労苦を偲ぶよすがにしようと、準備を進めてきたのである。
 城辺までは、車で三十分ほどの距離であった。
 開所式には、城辺町の町長や、共催団体である町の教育委員会の関係者をはじめ、多数の地域の人びとが参加していた。
 伸一が車を降りると、歓声があがり、人びとの顔に光が差した。
 ″本当に山本先生が来てくださった!″
 伸一が、日本を代表する宗教団体である創価学会の会長であるのみならず、公明党、創価大学の創立者であることは、皆がよく知っていた。
 その伸一が、離島の宮古島の、しかも島の中心部から離れた城辺まで来るのかと、半信半疑の人も少なくなかったのだ。
 早速、伸一がアーチの下に張られた紅白のテープにハサミを入れ、復元された製糖現場に足を踏み入れた。
 開所式が始まった。
 「宮古伝統文化保存委員会」の委員長で、男子部の総ブロック長でもある神崎真正が、声を弾ませ、今回の開所式までの経過を報告した。
 神崎は、途中、何度か、声を詰まらせた。
 彼は、伸一が自分たちの要請に応え、時間のないなか、わざわざ足を運んでくれたことに、熱いものが込み上げてきてならなかったのである。
 弟子が戦いを起こしたならば、命をかけて応援しようというのが伸一の心であった。
 伸一は、笑顔で包み込むように、神崎を見守っていた。
31  虹の舞(31)
 城辺町の町長は、頬を紅潮させて、「世界平和のために陣頭指揮を執る山本先生を、わが町にお迎えできたことは、この上ない喜びです」と歓迎の言葉を述べた。
 山本伸一は、ここでもあいさつに立ち、温かい歓迎に感謝の意を表したあと、こう語った。
 「宮古の歴史には、あらゆる苦難を乗り越え、人間性の勝利を打ち立てようとする、人間の原点があります。
 その心の花は、やがていつの日か、繁栄の華となって咲き薫ることは間違いありません」
 そして、城辺の栄光燦たる前途を祝して、万歳の音頭をとった。
 学会員は、地域の人びとが山本会長の訪問を心から喜び、共に万歳を三唱する姿に、目頭が熱くなった。かつては学会批判の嵐が吹き荒れたことが、まるで嘘のように思えるのである。
 開所式のあと、製糖作業が開始された。
 広場の中央に置かれた製糖用歯車を馬の力で回して、その歯車と歯車の間にサトウキビを差し込み、圧搾していく。しぼり出された汁は鍋で煮詰め、黒糖が作られていくのである。
 来賓の一人が言った。
 「この製法には知恵があるし、昔の人が、こうして砂糖をつくった苦労を忘れてはならないと思います。
 伝統文化を保存するということは、郷土の歴史と精神を伝え残すことにもなり、大事なことだと思います。
 しかし、たいていの若者たちは、そんなことには見向きもしない。
 そのなかで学会の青年たちが中心になって、地域のために、伝統文化の保存に立ち上がってくれたことはすばらしい。
 学会の青年は、山本先生の指導のもと、地域のために、いかに貢献するか真剣に考えている」
 青年が育つことが、地域を活性化させることであり、未来を開くことになる。
 「若い世代のエネルギーのなかにこそ、良い変化をもたらす原動力があると、私は信じています」
 これはアメリカの″人権運動の母″ローザ・パークスの信念である。
 また、「仏法即社会」であるがゆえに、社会を大切にし、人びとのために貢献していくことは、仏法者の重大な使命といってよい。
32  虹の舞(32)
 「さあ、植物園に行こう!」
 城辺町でのシートーヤー(製糖小屋)開所式を終え、車に乗ると、山本伸一は言った。
 伸一は、宮古男子部の中心者である長尾靖史から、島内にある熱帯植物園に立ち寄っていただきたいと、強く要請されていたのである。
 長尾は″激闘を続けられる山本先生に、南国・宮古の植物に触れ、少しでもくつろいでいただきたい″と思い、植物園で待っていた。
 伸一の那覇への出発時刻は迫っていた。しかもそれまでに宮古の幹部と検討すべきことがたくさんあった。
 でも、伸一は、青年の真心に応えたかった。そこで、この植物園で会議を開こうと考えたのだ。
 人が集まれば、どこでも会議はできる。形式ではない。
 伸一は、何か検討すべき問題が生じた時には、道を歩きながらでも打ち合わせを行い、すぐに結論を出した。
 この伸一の迅速な実質主義によって、学会は大発展を遂げてきたのだ。
 植物園に着くと、長尾が入り口で、満面に笑みをたたえて立っていた。
 伸一は宮古の幹部らと共に、長尾の案内で園内を回った。そして、ガジュマルの木の近くにゴザを敷き、昼食を取りながら打ち合わせを行った。″青空会議″である。
 伸一は、宮古諸島の特色や、広宣流布を進めるうえでの課題について皆の話を聞き、今後の活動の在り方などについてアドバイスを重ねた。
 また、平良市とアメリカのハワイ州マウイ郡とが「姉妹都市」になっていることから、学会としても宮古とマウイ島で、広布と文化を推進するために、姉妹交流を図ることなどを提案した。
 伸一の指導と激励は、出発間際まで続いた。
 空港に向かう車に乗る直前、伸一は、彼方の野原岳を指差した。
 そして、微笑を浮かべて、青年たちに言った。
 「ほら、あの山が緑に包まれている。必ず宮古は繁栄するよ」
 野原岳が緑に覆われると、宮古は栄えるという伝説を、伸一は知っていたのである。
 皆の瞳が光った。″はい。絶対にそうさせてみせます!″
 同志は誓った。皆の心に、希望と確信の苗が植えられたのである。
33  虹の舞(33)
 眼下には、宮古の碧い海が広がっていた。
 山本伸一は、那覇に向かう飛行機の中でも、宮古の繁栄を願って、心で題目を唱え続けた。
 三泊四日に及ぶ八重山・宮古訪問を終え、伸一が那覇に着いたのは、二月六日の午後三時前であった。夜には那覇市内で行われる「琉球大学会」「沖縄大学会」「沖縄国際大学会」の合同総会が控えていた。
 伸一は、ちょうど五年前の二月、この三大学会の結成式に出席し、生命を注ぎ込む思いで、こう励ましたのである。
 「沖縄県民のため、日本のため、さらにはアジア、世界のために、沖縄の大学出身者が、二十一世紀のリーダーになっていかなければならない」
 その時、出会いを結んだメンバーが、どのように成長しているかと思うと、伸一は楽しみでならなかった。
 午後七時前、彼は会場に姿を現した。そこには二百数十人の大学会メンバーが集っていた。
 彼は、石垣島、宮古島を訪問してきたことを述べたあと、宮古の漁師である「久松五勇士」の史実をあげ、民衆の力の偉大さを訴えていった。
 「歴史を振り返れば、その転換点には常に庶民がいました。
 学会の歴史もそうです。学会が発展した大きな理由は、庶民を守る立場に徹したからです。
 そして、妙法を信じ、広宣流布のために師子となって一人立ち、戦い抜いた、皆さんのお父さんやお母さんの、血と涙の肉弾戦によって、現在の創価学会の、隆々たる発展があるんです」
 伸一は、石垣で、西表で、宮古で、草創の同志が理不尽な迫害と戦いながら、広宣流布の道を切り開いてきたことを思い起こしていた。
 その父や母の、広布開道に生きた庶民の英雄たちの、純粋なる信心を受け継いで、民衆を守り抜くための大学会である。
 エリートは、民衆に君臨するためにいるのではない。民衆に仕え、守るためにいる――このことを、絶対に忘れてはならない。
 伸一は、席上、大学会のメンバーは、その使命を果たすために、「千尋の谷底から這い上がる若獅子の強さをもて!」と、力を込めて訴えたのである。
34  虹の舞(34)
 山本伸一は、ここで新たな構想を発表した。
 「今や大学会は、二百七十四校を数え、メンバーも既に五千人を超えました。
 大学会からは、学術・教育・文化などの各界に、実に多くの人材が雄飛しております。
 そこで、次の段階として、『高校会』を結成してはどうかと考えております」
 この「高校会」という着想は、石垣、宮古を回り、同志と語り合うなかで、新たな人材育成の方途として、練り上げてきたものであった。
 大学会は多くの人材を輩出し、社会建設の推進力となってきた。しかし、大学には進まず、そのまま社会に出ていく人も多い。
 また、大学が都市に集中しているのに対して、高校は各地域に広がり、郷土性も強い。
 同じ高校に学び、共に青春時代を過ごした同志が連携を取り、強固な連帯を築いていくならば、地元の発展の原動力となるにちがいない。
 そこで伸一は、高校に光を当てて、各校の出身者をもって、「高校会」の結成を考えたのである。
 彼は、話を続けた。
 「高校生のなかには、優秀であっても、経済的な事情などで、やむなく大学進学を断念せざるをえない人もいるでしょう。
 しかし、同じ高校を卒業した同志によって『高校会』が結成され、友情を深め、励まし合い、切磋琢磨していく関係ができれば、互いに成長していくための大きな力になっていきます」
 フランスの思想家ルソーは断言する。
 「人間の心にとっては、はっきりとわかっている友情の声以上に重みのあるものはなにもない」
 伸一は、力のこもった声で言った。
 「私は、妙法の同窓会ともいうべき『高校会』が軌道に乗るならば、将来の学会にとっても、さらに社会にとっても、大きな意味をもつものであると、深く確信しております!」
 彼は、仏法という価値創造の哲理をもった同窓の友のスクラムによって、地域建設の新しい潮流を起こそうとしていたのである。
 そして、この席上、全国に先駆けて、「那覇高校会」と「首里高校会」の結成が発表されたのである。
35  虹の舞(35)
 翌日の二月七日には、那覇市でも、山本伸一が発願主となって、沖縄諸島先祖代々の追善法要が営まれた。
 石垣島、宮古島に続いての開催である。
 終了後、伸一は「沖縄最高会議」に出席した。
 ここでは、各部の人事や、婦人・女子部の書記局の新設、沖縄の諸活動の企画・立案にあたる「幹部室員」制を設けることなど、新たな布陣の検討が行われていった。
 「幹部室員」などの構想は、伸一から提案されたものであり、メンバーはその斬新なアイデアに、目を見張るばかりであった。
 沖縄広布の新展開のためには、今こそ、先手、先手で攻め抜き、あらゆる手を打っておかねばならない――伸一は必死であった。
 最高会議が終わったあと、同行の幹部が伸一に尋ねた。
 「先生は、常に斬新な提案をされますが、その発想は、どうやって生まれてくるのでしょうか」
 伸一は即座に答えた。
 「いつも懸命に祈り、いつも真剣に考え続けているからです。
 どうすれば、沖縄は発展するか。人材を育てることができるのか。組織を強くすることができるか。皆が幸せになれるのか――。
 その一念があれば、人との、ちょっとした対話などから、″そうだ、こうしてみよう″
 ″ああしてみよう″という、さまざまなヒントが生まれるものです。
 リーダーというのは、常に頭脳を使い続けていなければならない。だから『首脳』なんです。
 要は、断じて広宣流布をしよう、絶対に勝利しようという責任感です」
 八日夕刻、伸一は「沖縄広布二十周年記念総会」に出席するため、那覇市民会館に向かった。
 第二の二十年への出発となる総会は、「平和への波動」をテーマに掲げ、伝統文化祭と記念総会の二部構成で行われた。
 冒頭、実行委員長を務めた沖縄県青年部長の志垣晃があいさっした。
 彼は、感激に声を震わせながら語った。
 「わが沖縄の同志は、会長山本先生の指導によって、多くの信仰体験を積み、苦悩の淵から立ち上がっただけでなく、一人ひとりが時代建設の主体者の自覚を培ってまいりました!」
36  虹の舞(36)
 志垣晃は、叫ぶように訴えた。
 「私たちには、人間の苦悩を根本的な生命の次元から解決しゆく、仏法という哲学があります。それは、英知と創造の源泉であります。
 沖縄健児は、今後、いかなる試練があろうが絶対に挫けません。″沖縄は沖縄のわれらの手で変革していくぞ″という気概に燃えております。
 さあ、本日より、再び『じっとこらえて今に見ろ』との思いを胸に、私たちの力で、わが愛する沖縄を、理想の楽土にしてまいろうではありませんか!」
 賛同の拍手が場内を圧した。
 復帰後の沖縄の人びとの間には、物価の激しい高騰や、解決せぬ基地問題から、日本政府への失望感が漂っていた。
 そして、落胆のなかで次第に無気力になっていく人が少なくなかった。
 そのなかで沖縄の青年部員は、″変革の主体者は、どこまでも沖縄県民だ。被害者意識に陥り、生命が受け身になってしまえば、新たな建設はない″と考えていた。
 そして、″人を頼むのではなく、私たち青年こそが、一切の責任を担って立ち、沖縄の力と知恵で、理想郷を築き上げよう!″と誓っていたのである。
 来賓の多くは、「沖縄は沖縄のわれらの手で変革していくぞ」と訴える志垣のあいさつに、創価学会青年部の郷土建設への決意を知り、頼もしさを覚えたようだ。
 沖縄の繁栄は、日本政府への政治的な要求闘争だけで勝ち取ることはできない。また、青年が無気力になっては、社会は荒廃するだけだ。
 イタリアの革命家マッツィーニは叫んだ。
 「汝自身と他人とを改善すること、これこそあらゆる改革、あらゆる社会的変革の第一の意図であり、最高の希望である」
 沖縄に最も必要なものは、郷土の未来を担い立つ青年の育成であった。
 「伝統文化祭」が始まった。琉球舞踊などが次々と演じられた。
 どの演技にも、民衆の強さが、優しさが、歓びがみなぎっていた。
 出演者たちは、沖縄の伝統芸能に脈打つ民衆讃歌の精神を継承し、新しき人間主義の時代を建設しようとの気概に燃えていた。その心意気が、感動の波を広げた。
37  虹の舞(37)
 第二部の記念総会では、まず沖縄広布の功労者の代表に、山本伸一からの花束が贈られた。
 伸一は、旧習が深く、激しい反対にさらされながら、黙々と広宣流布の道を歩み抜いてきた沖縄の同志を、心から尊敬していた。
 できることならば、全同志に花束を渡して、それぞれの功労を讃えたかった。
 沖縄県婦人部長の上間球子にも、花束が贈られた。彼女は、目頭を熱くしながら心で叫んだ。
 ″先生、本当に、本当に、ありがとうございます!
 沖縄広布の道を開いてくださったのは、先生ではありませんか。
 沖縄の広布を願ってはいても、私たちには何もできませんでした。自分の非力も、いやというほど痛感してきました。
 先生は、そんな私たちを抱きかかえるように、温かく励まし、希望を与え、勇気の火をともし、的確なアドバイスをしてくださいました。
 私たちは、ただ先生のご指導のままに、無我夢中で走ってきたにすぎません。
 先生に最敬礼し、御礼の花束をお贈りすべきは私たちです″
 彼女は「蒼蠅そうよう驥尾に附して万里を渡り碧蘿へきら松頭に懸りて千尋を延ぶ」との御聖訓をかみしめていた。
 上間の胸には、伸一の沖縄訪問の一コマ一コマが次々と浮かんだ。
 ――会長就任直後の、一九六〇年(昭和三十五年)七月、猛暑のなか、激務をぬって沖縄を初訪問してくださり、支部が結成されたこと。
 激戦地となった南部戦跡の摩文仁に立ち、平和への深い祈りを捧げてくださったこと……。
 ――六二年(同三十七年)七月、沖縄本部の落成式に出席し、炎天下の屋上で、汗まみれになりながら「沖縄健児の歌」の指揮を執ってくださったこと……。
 ″先生は、どれほどお疲れになったか。私たちを勇気づけ、励ますためには、どんな苦労も惜しまないのが先生なのだ!
 さらに、六四年(同三十九年)十二月の訪問では、「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」で始まる、小説『人間革命』の筆を起こされた。
 それは、平和の先駆をめざす私たちの、最高の誇りとなった……″
38  虹の舞(38)
 上間球子は、しみじみと思うのであった。
 ″山本先生は、今回の訪問でも、石垣で、宮古で、那覇で、戦没者をはじめ、先祖代々の追善法要を提案され、自ら挙行してくださった。
 これによって、島をあげて感謝の声が起こっている……。
 私たちのことを、沖縄の全県民のことを、ここまで思ってくださる師匠がいる。なんという幸せだろうか!
 さあ、これからは、沖縄の「本門の時代」だ。いよいよ弟子が立ち上がる時がきた。先生へのご恩返しのためにも、私は戦おう。
 師の心をわが心として、同志のために、沖縄のために、尽くしに尽くそう。足が鉄板のようになるまで、どこまでも歩きに歩こう!″
 山本伸一は、上間をはじめ、沖縄の同志たちの、純粋で、誠実で、謙虚な気持ちを誰よりもよく知っていた。
 それゆえに、メンバーを信頼し、また、その健気な戦いに、最大の感謝をしていたのだ。
 師と弟子が、ともに感謝し合いながら進む、この魂の交流にこそ、創価の人間主義の真髄がある。団結の要諦があり、歓喜の前進がある。
 式次第は、山本伸一の講演に移った。
 大拍手のなかで、演台に向かった伸一は、力強い声で語り始めた。
 「親愛なる沖縄の皆さん、本日は晴れの記念総会、まことにおめでとうございます!
 二十年前に始まった沖縄の広宣流布は、今や大きな伸展を遂げ、盤石な基盤が整いました。
 今日からは、新たな二十年への出発です。
 次の目標を一九九四年の二月八日と定め、この日をめざして、沖縄を幸福と平和建設の模範の島とし、ここから、世界に平和への波動を広げていっていただきたいのであります!
 ここに沖縄の、新しき目標が示されたのだ。
 フランスの文豪ロマン・ロランは訴えた。
 「人生は進歩のための、前進のための絶えざる闘いです。だからみんなして戦いましょう、達成された目標に満足しないで、つねにいっそう高い目標を追究しましょう!」
 目標あるところには、希望の光がある。
39  虹の舞(39)
 山本伸一は、この日の講演のなかで、創価学会の運動の根本をなすものは何かについて述べていった。
 「それは一言すれば、どこまでも相手のことを思いやる『利他の一念』です。この利他の心を人びとの胸中に打ち立てることこそ、平和建設の要諦となります。
 自分の利益ばかり考える生き方では、このところ取り沙汰されてきた悪徳企業のように、結局は世の中をかき乱してしまうことになる。
 海外各地で、日本の経済活動が嫌われているのも、策や目先の計算ばかりが目立ち、『利他の精神』が欠如しているところに、その要因があるといえます」
 創価学会は、民衆の心に「利他」という生き方の柱を打ち立ててきた。
 メンバーの多くは、病苦や経済苦、家庭不和など、苦悩の解決を願って信心を始めた。いわば、自らの救済を求めての入会といえる。
 しかし、御書に「我もいたし人をも教化候へ」仰せのように、日蓮仏法は「自分も信心に励み、人にも仏法を教えよ」と説く。
 つまり、人びとの幸福を願い、広宣流布に生きてこそ、わが幸福が築かれるというのである。
 そこには、「自行」と「化他」の融合がある。自分自身の煩悩が、広宣流布という最極の菩薩行を推進する活力源となるのだ。
 そして、その「利他」の実践によって、「利己」に凝り固まり、汲々としていた、小さな生命の殻が破られ、自らの境涯が大きく開かれていくのである。
 まさに、この「利他の一念」こそ、「境涯革命」「人間革命」を成し遂げる、生命の回転軸なのである。
 友の幸せを祈り、懸命に弘教に走る同志の胸中には、歓喜が込み上げ、勇気がうねり、希望が広がっている。
 病苦や経済苦などの、さまざまな悩みを抱えながらも、あたかも波乗りを楽しむかのように、悠々と乗り越えていくことができる。
 信心の本当の大功徳とは、この「境涯革命」「人間革命」である。自分の境涯が変わるから、依正不二の原理で、環境も変化し、一切の問題が解決できるのである。
40  虹の舞(40)
 山本伸一が記念総会の席上、「利他の一念」を強調したのは、沖縄の同志の幸福も、平和の実現も、すべてがそこにかかっていたからである。
 彼は、「利他」の精神をわが胸中に打ち立て、思いやりをもって人びとに接し、地域社会のあらゆる人たちから、信頼され、感謝される存在になっていくよう望んだ。
 そして、今後の沖縄の進むべき道について言及していった。
 復帰によって、沖縄には、本土から新しい資本やモノ、文化も、どんどん入り始めていた。
 しかし、その結果、沖縄の心や伝統といったものが失われようとしていることを、伸一は憂慮していたのである。
 「沖縄の伝統的な地域文化は、高く評価されておりますが、とりわけ伝統の美を誇る民芸は、その美しさや豊かさにおいて、他に類を見ないといわれております。
 織物、染め物、陶器、漆器、その他を見ても、独創性に富み、随所で生活の知恵が立派に輝いております。
 その生活の知恵を発揮してきた県民性を、よき精神として、ますます磨き、生かしていくことが、今こそ望まれていると思います。
 現在の日本が陥った欠点とは、技術革新、経済発展のみに眼を奪われ、伝統的な文化のなかに輝く知恵を見失い、その活用を怠ってきたことであります。
 これからの沖縄は、そういうコースを踏襲するのではなく、生活の知恵に富んだ人間文化を、日本に、世界に発信する新しき文化地帯として、進みゆかれんことを願うものであります」
 場内は大きな拍手に包まれた。
 来賓たちも、身を乗り出すようにして、手を叩いていた。
 最後に伸一は、「新生・沖縄」の出発を心から祝福し、話を締めくくった。
 講演を終えた時には、場内の熱気のためか、体中から汗が噴き出し、喉も渇き切っていた。
 だが、壇上を去った伸一は、そのまま第二会場となっている二階のホールに向かった。
 ″一人も漏れなく、激励の手を差し伸べよう″と彼は心に決めていた。
 そこには、八百人ほどの人が集まり、スピーカーから流れる指導に耳を傾けていたのである。
41  虹の舞(41)
 山本伸一は、第二会場に急いだ。
 二階のホールの参加者たちは、″今回は、山本先生と直接、お会いすることはできないだろう″と、あきらめていた。
 そこに、突然、伸一が壇上に姿を現したのだ。
 歓声が響き、雷鳴のような拍手が起こった。
 彼はマイクを取った。
 「こんばんは! 今日は、本当におめでとうございました。
 どうしても皆さんにお会いしたくて、やってまいりました。
 この美しい沖縄を、真の理想郷に、常寂光土に変えるまで、どうか、英知と忍耐の、粘り強い戦いを続けてください。
 普段は、なかなかお会いできませんが、心はいつも一緒です。皆さんのことを、私は生命に刻んでまいります」
 舞台のすぐ下に、感極まったメンバーが集まってきた。伸一は、高齢の人たちを壇上に招き、声をかけ、握手を交わして、激励を重ねた。
 それから、二階のホールを出ると、急いで一階ロビーに向かった。ここで総会に引き続いて、来賓が参加し、祝賀会が行われていた。
 伸一は、わざわざ総会に足を運んでくれた来賓に、会長として心から御礼を述べたかったのである。
 また、来賓を招くために、多くのメンバーが、″学会を、真実の仏法を知ってもらおう″と、さまざまな努力を重ねてきたにちがいない。
 その苦労に、伸一は報いたかったのだ。
 彼は祝賀会の会場に入ると、一人ひとりに魂を注ぎ込む思いで、丁重にあいさつしていった。
 「本日はご多忙のなか、ご出席していただき、本当にありがとうございました。また、いつも大変にお世話になっております。会長の山本でございます」
 ロビー中を回り、名刺を交換し、深々と頭を下げる彼の額には、玉の汗が光っていた。
 さわやかな笑顔で包み込むような、伸一の誠実な応対に、来賓は恐縮し、感嘆した。
 「微笑は大なる勢力なり、春の風の如し、心の堅氷を解くの力あり」とは信念の思想家内村鑑三の名言である。
 ″自分に縁した人は、すべて学会の理解者にしよう″というのが、伸一の決意であった。それが、外交の心である。
42  虹の舞(42)
 「今日も新しい歴史をつくるよ」
 翌二月九日、山本伸一は、那覇から車で名護会館の開館式に向かった。
 連日の激闘である。彼が疲れていないわけがない。しかし、はつらつとした力強い伸一の振る舞いに、幹部たちは、ただ感嘆するしかなかった。
 名護までは、車で二時間ほどの道のりである。
 伸一は、前回の沖縄訪問(一九七二年)でも名護を訪れていた。
 その折、会館の建設用地に集っていた同志と記念撮影し、それをもって″起工式″としての意義をとどめた。その会館が完成したのだ。
 皆が、どんなに喜んでいるだろうか――そう思うと伸一の心は躍った。
 名護会館は、小高い丘の上に立つ、鉄筋コンクリート二階建ての白亜の建物であった。近くには名護湾が広がっていた。
 午後二時前、開館式が始まり、伸一の導師で厳粛に勤行が行われた。喜びに弾む躍動の勤行であった。
 あいさつに立った伸一は、名護のメンバーの活躍に大きな期待を寄せ、こう訴えていった。
 「この会館をわが家のように、思う存分に使って、自分以上の人材を、陸続と輩出していってください」
 後輩のために、自分は勇んで踏み台になる。自分を凌ぐ後輩を育成しよう――それが人材育成の要諦である。
 伸一は言葉をついだ。
 「名護は″名を護る″と書きますが、大聖人は四条金吾に対して、『強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ』と仰せになっております。
 そこには″強盛な信心を貫き、また、見事な信心の実証を示して、わが門下として名をあげよ″という、大聖人の叫ぶような思いが脈打っております。
 それが、″名を護る″ということです。
 名護の皆さんは、自分こそが学会の代表であるとの自覚に立って、広宣流布の勇者として名を轟かせていただきたい。
 また、社会の信頼と賞讃を勝ち取り、学会の名を、一族一家の名を、ご自身の名を、永遠に残しゆかれるよう、心からお願い申し上げます」
43  虹の舞(43)
 開館式に引き続き、地域の人びとも招いて、名護会館の庭で、東村立高江小・中学校への図書贈呈式と、郷土芸能文化祭「山原祭」が行われることになっていた。
 しかし、開館式の途中から雨が降りだしたために、北部会館という近くの建物を借りて行われることになった。
 伸一は、皆の移動が終わるまで、庭の一角に建てられた「山原家」といわれる昔の民家で、メンバーの代表と懇談した。
 雨は小降りになった。
 伸一が庭に出ると、何人かのメンバーが待っていた。
 がっしりとした体の、初老の男性が、日焼けした顔をほころばせ、大きな声で言った。
 「先生! 伊江島の知名豊作です。今日は伊江島から、五十八人の同志と一緒にまいりました」
 「そうですか。よくおいでくださいました」
 知名の入会は一九六一年(昭和三十六年)である。彼は入会前から、農業を営みながら村会議員をしていた。
 知名の転機となったのは、翌年七月、沖縄本部の落成式に参加したことであった。この時、初めて彼は、伸一と間近に接したのである。
 伸一は「皆さんが立派な家庭を築き、幸福になっていただくことが私の念願なんです」と語り、同志のなかに飛び込んでいった。
 そして、汗まみれになって握手を交わし、声を嗄らして激励の言葉をかけ続けた。また、学会歌の指揮まで執ったのである。
 知名は、その姿に衝撃を受けた。人間の誠実さと慈愛を感じた。
 ″体を張って沖縄の私たちを励ましてくれる人がいた。これが本当の指導者の在り方ではないか。
 自分は村会議員として、これほど本気になって村民のために尽くしてきただろうか……。
 俺も先生のような生き方をしよう。この信心をもって、伊江島に幸福の楽土を築こう″
 伊江島は、あの沖縄戦の戦場となり、当時、島に残っていた村民約三千六百人のうち約千五百人が戦死したといわれる激戦の地である。集団自決もあった。
 さらに、戦後も、島の四割近くが米軍の軍用地となった。
 それだけに知名の、島の平和と繁栄を願う気持ちは人一倍強かった。
44  虹の舞(44)
 知名豊作が伊江島の平和と幸福を願って、折伏の旋風を巻き起こすと、激しい非難の集中砲火が浴びせられた。
 勤行をしていると、石を投げられ、窓ガラスを全部割られてしまったこともあった。
 また、病に倒れ、入院生活を送らなければならなかったこともあった。
 それでも彼は、忍耐強く対話を重ね、妙法の種を植え続けた。
 「忍耐こそ、このうえなく真実の勇気なり」とは、イギリスの詩人ミルトンの真理の言葉である。
 その種は芽を出し、花を咲かせ始めた。
 苦しみに打ちひしがれていた人たちが、信心を始めて希望に燃え、蘇生していく姿を見て、やがて、島の人たちの、知名への批判は消え、信頼に変わっていった。
 十年前、彼は推薦を受けて保護司となった。罪を犯した人が再起できるように、全力で手助けをしてきた。
 その社会貢献の姿に、島の人たちの学会への認識と評価はますます高まっていった。
 山本伸一は、知名に尋ねた。
 「お幾つになられましたか」
 「六十四歳です」
 「そうですか。あなたの奮闘は、全部、報告を受けています。本当に大変でしたね。でも、あなたは見事に勝利された」
 彼は「先生!」と言うと、男泣きに泣いた。
 伸一は、笑顔で包み込むように言った。
 「ところで、伊江島からは、どのぐらいかかりますか」
 知名は涙を拭った。
 「今は沖縄本島の本部まで、フェリーで四十分ほどです。
 伊江島は人口五千数百人の島です。伊江島タッチューとよばれる標高百七十二メートルの岩山もあります」
 「行きたいですね」
 伸一は、知名の手を握った。その皮膚は硬く、節くれ立っていた。
 「農業をされているんですね」
 「はい!」
 伸一は、荒れた知名の手を、さらに、ぎゅっと握り締めながら語った。
 「そうですか。私も手伝ってあげたいな……。
 これからも、私に代わって、この事で、島の人ぴとを守り抜いてください。お願いします」
 「はい。頑張ります」 知名の目が輝き、決意のこもった声が響いた。
45  虹の舞(45)
 午後三時半から会場を北部会館に移し、多数の来賓が参加して、東村立高江小・中学校への図書贈呈式が行われた。
 続いて郷土芸能文化祭「山原祭」となり、二十人ほどの高等部員と、高等部出身の数人の青年たちによる合唱で幕を開けた。
 皆、歌いながら、込み上げる感涙を必死に堪えていた。
 紺碧の海原 潮高く 苦難の歴史 乗り越えて
 集いし我等 久遠の同志 師弟の契り 果たさんと……
 歌は、メンバーが作詞・作曲した、「久遠の同志」である。
 この歌の制作を提案し、推進してきたのは、進学や就職のために、東京や名古屋に出ていった高等部出身者たちであった。
 メンバーは、連携を取り合い、励まし合ってきた。
 その中心となっていたのが、玉井武士という、名古屋に住む青年であった。彼は商品取引会社に勤め、二部の大学に通う勤労学生であった。
 前年の八月、何人かのメンバーが集まった折、玉井は言った。
 「山本先生は来年の二月に、沖縄を訪問すると約束されている。それまでには名護会館も完成するから、先生は開館の記念行事にご出席くださるにちがいない。
 その時には、ぼくらも名護で先生をお迎えしよう。そして、広宣流布への誓いを託した歌をつくって、先生にお聴きいただこうじゃないか」
 皆、大賛成だった。
 心に師をいだく青春には希望がある。そこに無限の活力がわくからだ。
 「師弟不二の人生ほど、人間の究極を生き抜いていく、深く喜ばしき法則はない」
 これは、戸田城聖の尊極の指導である。
 歌の作詞は、高等部の出身者だけでなく、現役の高等部員も行い、それを合わせて一つの歌にすることにした。
 東京と名古屋、そして沖縄に分かれての歌づくりは難航したが、遂に完成し、それぞれがテープを聴いて練習に励んだ。
 二月九日の名護会館の開館式が迫ると、県外に出ていたメンバーも帰省してきた。その胸には、沖縄高等部の出身である誇りと、師匠を求める情熱が渦巻いていた。
46  虹の舞(46)
 ″山本先生に私たちの誓いの歌をお聴きいただくのだ。だめでも、ともかく、弟子として師にぶつかっていこう″
 名護会館の開館式に集って来た高等部出身者と高等部員たちは、そう心に決めていた。
 でも、それが実現する保証は全くなかった。
 メンバーは、青年部の運営担当の幹部に、自分たちの思いを伝えた。急な話であり、担当幹部は困惑した。
 しかし、一途な心は痛いほどわかった。
 その幹部は、会館の庭で待機するように言い、山本伸一にメンバーのことを報告した。
 伸一は言った。
 「名古屋や東京にいる高等部出身者と沖縄在住の高等部員が一緒に歌をつくって、私に会いに来てくれたのか!
 その心が嬉しいね。『山原祭』で歌ってもらおうよ」
 全力でぶつかってくる弟子の思いが、師匠に通じぬわけがない。本来、師と弟子の間を阻むものなど何もない。あるとすれば、それは弟子の心にこそあるのだ。
 メンバーの歌う「久遠の同志」の調べが、高らかに、誇らかに響いた。
 伸一は、わざわざ帰省してきた青年たちに、強い求道心と深い郷土愛を感じながら、歌に耳を傾けていた。
 愛郷心は、地域広布の原動力である。
 歌には、高等部出身者と現役高等部員が一体となって、広宣流布をめざそうという意気込みがあふれ、頼もしくもあり、微笑ましくもあった。
 合唱が終わると、伸一は、「ありがとう!」と言いながら、ひときわ大きな拍手を送った。
 伸一は、この名護の訪問で、「名護高校会」の結成を提案した。三番目となる高校会である。
 彼は、ここに集って来た高等部出身者の姿に、高校を基盤とした創価同窓の絆を培うことをめざす、高校会のモデルを見る思いがした。
 また、この時に合唱した青年たちが中心となって、後に「名護兄弟会」が結成され、同郷の同志の集いがスタートすることになるのである。
 「山原祭」では、優雅な琴の演奏や伝統舞踊が次々と披露された。
 誰もが大喜びし、フィナーレでは、舞台も客席も、老いも若きも、一体となっての大合唱が広がった。
47  虹の舞(47)
 人びとの喜びが沸騰するなか、「山原祭」は幕を閉じた。
 「心こもる熱演、ありがとう! 私は名護が大好きです。お元気で!」
 山本伸一は、皆に、何度も感謝の言葉を述べ、会場を出た。
 峯子が声をあげた。
 「きれいな虹!」
 見上げると、空には美しい、大きな虹がかかっていた。
 「すばらしい虹だね」
 伸一と峯子は、しばらく虹を仰いだ。
 虹は、消えかけては、また、鮮やかな弧を描いて、光っていた。
 伸一の胸に、句が浮かんだ。
 和やかに  天に虹舞い  友も舞う
 真心は   虹と開きて    勇み春
 彼がその句を口にすると、峯子がそれを書き留めた。
 伸一は、それから、愛する同志たちの郷土広布の舞台である名護を車で回り、視察した。
 彼が名護会館に到着すると、高校生をはじめ、中学生、小学生の出演者ら三十人ほどが館に集っていた。
 伸一は言った。
 「みんなと勤行ができるね。懇談もしよう」
 地元幹部のなかには、″なぜ、山本先生は、子どもの激励に、あれほど力を注ぐのだろう″と、内心、疑問に感じる人もいたようだ。
 伸一は、沖縄の未来のため、二十一世紀の広宣流布のためには、一人でも多く若い世代と会い、触発の対話をするしかないことを痛感していた。
 そして、沖縄に到着して以来、
 そこに、最大の力を注いでいたのである。
 勤行に続いて、懇談が始まった。
 伸一はまず、高校を卒業し、それぞれの進路を歩むようになっても、同郷の友として互いに連携を取り、生涯、友情を深めていくことが大事であることを訴えた。
 「人生から友情を取り去るのは、この世界から太陽を取り去るようなもの」とは、古代ローマの哲学者キケロの箴言である。
 また、良き友から得る触発は、自身の信心を深める力となる。
 ゆえに、広宣流布に生きる同志の存在が大事になるのである。
48  虹の舞(48)
 山本伸一の話は、あの沖縄戦に移っていった。
 「諸君は知らないだろうが、沖縄戦では、この名護の周辺も、目を覆うような悲惨な状況であったといいます。
 ――海にアメリカの軍艦がびっしりと並び、一斉に艦砲射撃が行われた。さらに、上陸すると家に火をつけ、集落ごと焼き払っていった。
 まさに地獄絵図です。
 名護の後世のため、人類の未来のために、そうした戦争の真実の姿を、克明に記録し、伝え残していかなければならないと私は思っております」
 この時、既に戦後二十八年半が経過し、しかも本土復帰によって、沖縄は大きく変わろうとしていた。
 そのなかで、人びとの戦争体験は風化の一途をたどっていたのである。
 戦争は悲惨である。戦争こそ、諸悪の根源である。断じて戦争を起こしてはならない―
 ―これこそが″沖縄の心″であるはずだ。
 その心が継承されずに失われつつあることを、伸一は憂慮していた。
 「平和を確かなものにするためには、教育が大きく変わらなければならない」
 これは、平和の闘士として誉れ高い、イギリスの哲学者ラッセルの指摘である。
 沖縄が、永遠に平和の発信地であるためには、若い世代に、子どもたちに、″沖縄の心″を伝え抜かねばならない。
 そのために、伸一は提案した。
 「学会の青年部では、今、戦争体験者の証言を収めた反戦出版活動を推進し、沖縄の青年部がその先駆を切るべく、着々と準備を進めているとうかがっております。
 しかし、この本とは別に、高校生、中学生の諸君が、戦争を体験した方々がお元気なうちに話を聞いて、その証言を立派な本にして後世に残してはどうだろうか」
 「はい!」と言って、皆が手をあげた。
 伸一は、じっと、一人ひとりに視線を注ぎ、頷きながら言った。
 「今、戦争の記憶が、社会から忘れ去られようとしている。
 だからこそ諸君には、二十一世紀のために、お父さん、お母さんたちの戦争の苦しみを、厳然と伝え残すべき使命と責任と義務があります」
49  虹の舞(49)
 山本伸一は、この世から戦争をなくすことこそ、仏法者の使命であると述べ、恩師の戸田城聖について語っていった。
 「戦争を引き起こした権力の魔性を打ち砕こうと、広宣流布を決意し、敗戦直前の焼け野原に一人立たれたのが、第二代会長の戸田先生です。
 先生は、それまで、師である初代会長の牧口先生と共に、軍部政府の弾圧で投獄されていた。
 牧口先生は獄死するが、弟子の戸田先生は生きて牢獄を出た。そして、″牧口先生の志を受け継いで、平和社会を創ろう。それが先生の敵を討つことだ!″と深く心に誓います。
 その二年後、私は十九歳で戸田先生とお会いし、信心を始めました。
 戦時中は軍部政府の弾圧と戦い、さらに、人類の幸福と平和を築くために生涯を捧げようとされている先生の生き方に、私は感動しました。
 先生の弟子となれたことに、無上の誇りと喜びを感じていました。
 そして、先生と共に戦うなかで、私は″この先生の伝記を必ず書こう。後世に真実を伝え残そう″と決意しました。
 その時に、最初の章のタイトルは″黎明″にしようと、密かに決めていました。この構想が、後に小説『人間革命』となって結実したんです。
 戦争も、歳月がたてば真実が忘れられ、歴史のなかに埋もれてしまう。書き残さなければ、真実は伝わらない。
 だから諸君にも、平和のために、″沖縄の心″を伝えるために、戦争体験の証言集を残してほしいというのが、私の願いです。私も、全力で応援します」
 皆、真剣な顔で頷いた。
 このメンバーの手で、約二年半後の一九七六年(昭和五十一年)六月二十三日、創価学会青年部反戦出版「戦争を知らない世代へ」の第十七巻・沖縄編として、
 『血に染まるかりゆしの海――父母から受け継ぐ平和のたいまつ』が発刊されるのである。
 クラブ活動や勉強の合間を縫い、父母や近隣の人びとに、戦争体験を聞いて歩いた。初めて聞く、悲惨な話に、眠れぬこともあった。
 だが、メンバーは、その話を自らの生命に刻みつけ、平和建設のために広宣流布に生き抜く誓いを新たにしたのである。
50  虹の舞(50)
 山本伸一の同志への激励は、二月十日午後、東京に戻る間際まで続けられた。
 この日の午前中には、沖縄本部で地元の職員や幹部らと懇談した。
 伸一は、愛する沖縄の幹部たちに、率直に自分の思いを語った。
 「今回、沖縄には各島などの中心者も誕生し、幹部室員の制度もでき、全国に先駆けて高校会も発足しました。
 また、さまざまな催しを通し、地域の人びとの学会への理解の輪も大きく広がりました。
 いわば、沖縄が、広宣流布の大空に、本格的に飛翔する条件は、すべて整った。その操縦桿を握るのは皆さんです。
 したがって、人を頼るのではなく、皆さんが会長の私と同じ決意、同じ自覚に立ち、全責任をもって活動を推進していかなければならない。
 つまり、新しき時代とは『弟子が立つ時』であり、弟子が勝利の実証を示す時代なんです」
 皆、決意を固めるように、真剣な顔で耳を澄ましていた。
 「沖縄は、本土に復帰したとはいえ、その前途は決して平坦ではないでしょう。基地の問題もあります。経済的にも多くの課題を抱えています。
 しかし、どんなに闇が深かろうが、嵐が吹き荒れようが、心に虹をいだいて、晴れやかに、威風堂々と前進していっていただきたい。
 虹とは、『希望』であり、『理想』であり、『大志』です。その源泉が『信心』なんです。
 最も戦争の辛酸をなめた沖縄には、世界の平和の発信地となり、恒久平和を実現していく使命がある。
 そのために、ここにいる皆さんが、宿命を使命に転じて、一人立つんです。一切は、自身の一念の転換、人間革命から始まります」
 彼は最後の最後まで、生命を削る思いで語りに語った。喉が痛み、声がかれた。それでも訴え続けた。
 さらに、次々と句や和歌を詠み、皆に贈った。
 その一句には、こうあった。
 うるま島  君立ち征けば  花の幸
 必死の一人の闘争が波動し、広がって、新しき歴史が創られるのだ。

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