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日蓮大聖人・池田大作

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第18巻 「飛躍」 飛躍

小説「新・人間革命」

前後
1  飛躍(1)
 「何より貴重な財産は、どんな純度の高いダイヤモンドにも増して誠実で強靭な民衆なのだ」
 これは、南アフリカの人権の闘士マンデラの、信念の言葉である。
 学会が「社会の年」と定めた一九七四年(昭和四十九年)は、第四次中東戦争、石油危機に始まった世界経済の激動のなかで幕を開けた。
 元日の午前十時、全国各地の会館などで、新春恒例の新年勤行会が、一斉に開催された。
 この年の勤行会は「世界平和祈願広布勤行会」を兼ねて行われ、「仏法即社会」の原理のうえから、社会で勝利の実証を打ち立て、貢献していくことを誓うとともに、世界平和への深い祈りを捧げる集いとなった。
 どの会場でも、参加者の顔は、決意に燃え輝いていた。
 ″今こそ、私たちが立ち上がるのだ。試練の時代だからこそ、仏法を持った私たちが、希望を、勇気を、活力を、社会に発信していくのだ!″
 多くの同志は、そう誓って、喜々として勤行会に集って来たのである。
 学会本部での勤行会に出席した山本伸一は、マイクに向かうと、「減劫御書」の一節を拝した。
 「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ
 そして、確信のこもった声で語っていった。
 「大聖人御在世当時、社会は、大地震や同士打ち、また、蒙古襲来と、乱れに乱れ、激動しておりました。
 しかし、大聖人は『決して、悲観すべきではない。むしろ、こういう時代こそ、仏法の広宣流布という大善が到来するのである』と宣言されているのであります。
 私どもは今、戦後最大といわれる経済の激動のなかで、日夜、広宣流布に邁進しております。筆舌に尽くしがたい困難もあるでしょう。
 だが、どんな障害があろうが、『大悪は大善の来るべき瑞相』であると、強く、強く確信し、いよいよ意気盛んに大飛躍を遂げてまいろうではありませんか!」
 伸一の呼びかけに、「はい!」という明るい声がはね返った。
 すべての逆境を前進のバネへと転じていくのが、信心の一念なのだ。
2  飛躍(2)
 山本伸一は、激動する社会にあって、「大悪」を「大善」に転じ、広宣流布を実現していくには″如説修行″すなわち、仏の教え通りに修行し、信心に励むことの大切さを訴えねばならないと思った。
 「日蓮大聖人は、不惜身命の実践を訴えられた『如説修行抄』の末文に、わざわざ『 此の書御身を離さず常に御覧有る可く』と記されております。
 そして、この御文に対して日寛上人は、次のように言われている」
 伸一は、日寛上人の「如説修行抄筆記」を拝していった。
 「縦い常にこの書を頸にかけ、懐中したりとも、この書の意を忘れて折伏修行せざれば『離さず』に非ず云云。
 私に云く、常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向わざれば、身が謗法に同ずるなり」
 ″如説修行″の信心を貫くということは、形式をまねればよいということではないし、観念でもない。破邪顕正を深く心に誓い、正義の叫びを放ち、祈ることである。つまり、身・口・意の三業をもって、実践してこそ″如説修行″といえるのである。
 また、深く心すべきは″如説修行″の信心に中途半端はないということである。
 心に折伏を忘れたならば、心が謗法に同じ、口に折伏を忘れたならば、口が謗法に同じ、勤行を怠れば、身が謗法に同ずるのだ。
 「よいことをしないのは悪いことをするのと、その結果において同じである」とは、牧口常三郎初代会長の箴言である。
 たとえ、信心強盛そうに見せかけても、身・口・意をもって、本気で信心を全うし抜かなければ、謗法と等しく、一生成仏はありえないのだ。
 だからこそ、山本伸一は、信心という面では、弟子たちに厳しく言い切っていかなければならないと思った。
 仏法の峻厳さがわからず、一生成仏への道を踏み外すことになれば、結果的に無慈悲になってしまうからだ。
 彼は大切な同志を、誰一人として、落としたくはなかったのである。
3  飛躍(3)
 山本伸一は訴えた。
 「この″如説修行″こそ、私どもが夢にも忘れてはならない、創価学会の根本精神なのであります。
 わが創価学会は、創立以来、日蓮大聖人の仰せのままに、勇猛果敢に、また、純粋に、戦い抜いてまいりました。
 まさしく″如説修行″を実行してきた唯一の団体が、私ども創価学会なのであります。
 そして、学会活動に日夜、挺身しておられる同志の皆様方こそ、まさに″如説修行″の姿そのものなのであります。
 ゆえに、私どもこそ、″正信の勇者″であり、人生、生活のあらゆる面で、諸天善神の加護があることは、間違いありません」
 大確信にあふれた言葉であった。
 世間には、厳しいインフレの北風が吹き荒れていた。しかし、集った同志たちの胸には、勇気と闘魂が赤々と燃え上がったのだ。
 伸一は、最後に、こう締めくくった。
 「本年『社会の年』は創価学会として、広く文化活動、社会活動を推進し、『世間法』との関わりを、深く、密にしていくことになります。
 しかし、ただ今、申し上げました、この″如説修行″こそが学会の根本精神であり、それは、いつ、いかなる時代になっても、絶対に変わることがあってはならない。
 むしろ、仏法を社会に開いていけばいくほど、その精神を深めていかなければならない。
 したがって、広宣流布の『本格派』たるべき皆様方ゆえに、本日は、あえて″如説修行″という一点を、強調しておく次第であります」
 皆の心は定まった。信心という原点を互いに確認し合い、新しき年の出発を飾ったのである。
 山本伸一は、この日、総本山に移動し、各部の部長会議で指導したのをはじめ、二日には新年の集いに、三日には新たに結成された東京未来会第四期・静岡未来会第一期の合同の集いなどに相次ぎ出席している。
 「先んずれば人を制す」と。伸一は元日からフル回転で活動を開始していったのである。
 彼が先手、先手と、手を打ち続け、活動を推進してきたところに、創価学会の大いなる飛躍の原動力があったのである。
4  飛躍(4)
 元日以来、山本伸一は首脳幹部と顔を合わせると、必ず尋ねることがあった。
 それは「君は、今月は、どこの座談会に出席するのか」ということであった。
 学会は、この年、″ヒューマン・プラザ″すなわち″人間広場″運動を推進していた。
 それは″自主″″自由″″平等″を重んじ、人びとが心の交流を図る、精神的な広場の創出をめざすものである。
 つまり、人間と人間とが分断された現代社会にあって、新たな心の連帯を培っていく、人間性復興の運動である。
 そして、その具体的な実践の場を座談会とし、「人間的成長をはかる座談会を開こう」を活動方針として掲げ、前進を開始したのであった。
 この「座談会」、そして「教学」「折伏」「指導」は、広宣流布運動の柱となる四原則なのである。
 なかでも、座談会は教学研鑽の場とも、折伏の場とも、また、指導の場ともなる、一切の基盤といえよう。
 座談会は、民衆の連帯を築く創価学会の縮図である。老若男女が和気あいあいと集い、体験発表があり、御書講義があり、質問会等がある。
 そこには、歓喜と決意と信心向上への息吹が満ちあふれている。
 「すすんで民衆とまじわり、民衆からまなべ。まことの思想は、民衆のなかにある」とは、スイスの哲学者ヒルティの言葉である。
 座談会は、まさに民衆相互の、魂の触発の場といってよい。それだけに広宣流布の最も重要な主戦場なのである。
 伸一は、その座談会の充実に最大の力を注ごうと、心を砕き続けた。
 そして、「座談会について」と題して、婦人部幹部、青年部幹部と語り合い、その語らいが聖教新聞の新年号から三回にわたって連載されたのである。
 このなかで伸一は、信仰の深化は生命対生命の交流、すなわち「感応の妙」によってなされ、その場こそが座談会であることを強調していた。
 また、学会活動を川の流れに例え、友好活動や個人指導が″支流″であるとするなら、座談会は″大河″であり、すべては、ここに合流していかなくてはならないと訴えている。
5  飛躍(5)
 山本伸一は、聖教新聞の連載を通して、学会の伝統行事である座談会を大成功させるために、あらゆる角度からアドバイスを重ねていった。
 組織が停滞し、あまり人が集まらない座談会を担当することもあろう。
 しかし、伸一は、「なんといっても、中心者の一念によって決まる」と強く叫んでいる。それは、彼自身の体験から発した確信であった。
 法華経法師品には、次のように説かれている。
 「能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」(創価学会版法華経357㌻)伸一は、この文をあげて訴えた。
 ――たとえ相手が一人であったとしても、全精魂を注いで、全力投球で仏法の話をすることである。そうすれば、もったいなくも、仏と同じ振る舞いをしたことになるとの仰せなのだ。
 その際、「声仏事を為す」であり、生気にあふれ、皆に勇気をもたらす声の響きが大事であることを、伸一は強調した。
 また、座談会を開催する前後の家庭指導、個人指導の重要性についても語り合われた。
 組織の中心者や担当幹部が、全員が座談会に参加できるように、激励、指導に歩くことから座談会は始まるのである。
 個人指導に行けば、皆の要望や意見も聞ける。それぞれの特技や趣味もわかる。また、悩みや功徳の体験を聞くこともできる。
 それらを、企画などに反映させ、皆が主役となれるように工夫していくなかに、座談会の充実もあるのだ。
 さらに、座談会のあとの励ましが大事である。出席の労をねぎらい、発言を讃え、感想を聞き、次回の参加を呼びかけていくのである。
 また、伸一は、座談会の成功は団結にあることを確認し、中心幹部だけでなく、全員が主体者として立つことを訴えた。
 大聖人は、「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と述べられている。
 座談会の場では、皆が中心者の自覚で、信心の喜びや仏法のすばらしさを叫び抜くのだ。
6  飛躍(6)
 わが創価の同志たちは、「座談会について」の連載を熟読し、決意も新たに、座談会運動の第一線に躍り出ていった。
 皆、真剣であった。会長山本伸一と顔を合わせると、メンバーから出る質問は、決まって座談会のことであった。
 たまたま学会本部で出会った壮年の大ブロック長は、開口一番、伸一に尋ねた。
 「先生。明るく、希望に燃えた座談会を開く秘訣はあるんでしょうか」
 壮年は、これまで、最高の座談会を開こうと努力し、参加者の数は次第に増えてきたが、会合の雰囲気は、どちらかといえば暗く、盛り上がりに乏しかった。
 伸一は答えた。
 「座談会が明るくなる特別な秘訣というのはありません。しかし、あえていえば、どれだけの人が功徳の体験を語れるかが勝負です。
 功徳の体験を披露できる人は、歓喜しているし、生命が躍動している。それに全参加者が感応し、歓喜が波及していくから、座談会全体が希望にあふれ、結果的に盛り上がる。
 だから、リーダーとして大事なことは、一人ひとりに功徳を受けさせようという、強い一念と行動です。
 これが遠回りのように見えても、座談会に根本的な活力をもたらす直道なんです」
 功徳の体験こそ、仏法と学会の、正義と真実の証明である。御聖訓に「道理証文よりも現証にはすぎず」と仰せの通りだ。
 功徳は歓喜を呼び、希望を呼ぶ。学会の縮図である座談会には、功徳の花々が爛漫と咲き薫っていなくてはならない。
 伸一は、その壮年に視線を注ぎながら言った。
 「まず、あなた自身がしっかりと唱題し、学会活動に励んで、功徳の体験を積んでください。そして、それを生き生きと語っていくんです。
 さらに、新しい人材が育っているかどうかです。新しい人が張り切っている組織には停滞はない。つまり、折伏し、人材の育成がなされていることが大事です。
 ともあれ、マンネリを打破するには、受け身であってはならない。自らが勇んで行動し、戦いを起こすことです」
 「はい。頑張ります」
 真剣な凛々しい声が響いた。
7  飛躍(7)
 この年、山本伸一は、年頭から作家の有吉佐和子、評論家の加藤周一の各氏らと意欲的に対談も重ねた。
 仏法を社会に開くために、各界の第一人者と対話を重ねていくことの大切さを、彼は痛感していたのである。
 また、慶応大学会、東京大学会、女子大学会の総会や懇談会にも次々と出席した。彼は、二十一世紀のために、次代の社会を担う一騎当千のリーダーを育てることに必死であったのだ。
 さらに、一月の十三日には、創価大学の中央体育館で行われた第四回婦人部総会に、十五日には聖教新聞社での第五回教学部大会、創価文化会館での第五回壮年部総会に出席した。
 そして十九日には、九州指導のため福岡に飛んだのである。
 九州では、第二十二回青年部総会や本部幹部会が開催されることになっていた。
 前年の十二月には、関西の地で本部総会を開催したが、今度は、九州で創価学会としての青年部総会、本部幹部会が行われるのである。
 各方面・県は、伸一の構想通りに、自立した力をもつようになり、これまで東京で行ってきた大行事を開催できるまでになっていたのである。
 また、伸一は、この九州指導から、そのまま香港に出発することにしていたのだ。
 この年、彼は自身の活動の照準を、日本ではなく世界に合わせていた。世界の平和を実現するために、各国各界の指導者たちと、本格的な対話を開始しなくてはならないと決意していたのだ。
 それは、二年越しの対話を重ねた歴史学者トインビー博士から託された期待でもあった。
 「あなたが、世界に対話の旋風を巻き起こしていくことを、私は、強く念願しています」と。
 第四次中東戦争に始まった石油危機は、世界の経済に大きな打撃を与えていたし、中ソ国境でも一触即発の状況が続いていた。
 伸一は、固く心に誓っていたのである。
 ″二十一世紀を「人間の世紀」「生命の世紀」「平和の世紀」にするために、今こそ世界の指導者と対話を重ねるのだ。
 対話によって国家、民族、イデオロギーの壁を超え、人間の心を結ぶのだ″
8  飛躍(8)
 思えば九州は、第二代会長戸田城聖が、東洋広布を託した天地である。
 一九五七年(昭和三十二年)十月十三日、福岡での九州総支部結成大会に出席した戸田城聖は、生命を振り絞るようにして叫びを放った。
 「願わくは、今日の意気と覇気とをもって、日本民衆を救うとともに、東洋の民衆を救ってもらいたい」
 そして、「九州男児、よろしく頼む!」と、万感の思いを込めて、東洋広布、世界広布を託したのである。
 その九州から、東洋広布の起点となった香港に旅立つことに、山本伸一は深い意義を感じていた。
 九州入りした伸一は、一月十九日には、福岡市内で行われた九州大学会総会に出席した。
 会場には「平和の防塁九大山脈」と書かれた毛筆の文字が躍っていた。メンバーの平和建設への誓いを掲げたものだ。
 伸一が世界各地を訪問するのも、人類の″平和の防塁″を創るためである。大事なことは、その労作業を受け継ぎ、広げていく人材群を育て上げていくことだ。
 九大会総会は、女子学生が東洋の平和への祈りを込めて「イムジン河」を歌うなど、随所に平和後継の気概があふれた集いとなった。
 伸一は嬉しかった。
 会場には、皆の名を記した屋久杉の板が置かれていた。
 総会の最後に、司会の青年がマイクを取って言った。
 「山本先生にも、記念の揮毫をしていただきたいと思います!」
 歓声と拍手が場内を包んだ。
 「わかりました。書かせていただきます」
 伸一は筆を執った。
 今に見ろ われにこれあり 九大会
 そこには、九大会の誇りを自己の原点として、労苦に耐えて大成していってほしいとの、彼の願いが託されていた。
 また、それは″九大会のメンバーがいれば安心だ。どんな試練をも乗り越えて私は進むぞ″という伸一の心情を詠んだものでもあった。
 「師弟相違せばなに事も成べからず」である。師弟ありてこそ、大業の成就はあるのだ。
9  飛躍(9)
 一月二十日、会長山本伸一が出席して、第二十二回「青年部総会」が晴れやかに開催された。
 創価の青年たちは、寒風をついて、新しき社会を建設する息吹をみなぎらせ、会場の北九州市立総合体育館に喜々として集ってきた。
 全国の青年部総会を、首都圏以外の地で初めて行うとあって、九州の青年たちは先駆の誇りに燃えていた。
 伸一が会場に姿を現すと、場内を埋め尽くした参加者から、ひときわ大きな歓声が起こり、怒涛を思わせる大拍手がうねった。
 総会では、九州青年部長の「開会の辞」に続いて、女子部長の吉川美香子が登壇し、「若い女性の連帯を広げよう」と題して語った。
 女子部は学会の花である。さわやかで、はつらつとしたその姿は、皆の希望である。女子部員の躍動があるところ、組織は明るい光に包まれる。
 伸一は、若い女性たちが、人びとの幸福を願って、健気に仏道修行に励む英姿に、人間性の至高の輝きを見ていた。
 「他人のために勇気をもって苦しむところに、気高さがある」とは、歴史家カーライルが導き出した結論である。
 女子部が盤石であるならば、学会の未来は盤石である。ゆえに伸一は、女子部の拡大と育成のために全力を注ごうと深く心に誓いながら、吉川の話に耳を傾けた。
 彼女は、女子部の総ブロック(現在は部)討議の様子から語り始めた。
 「今回は『職場と女子部』がテーマでしたが、ある総ブロックでは、その討議の際に、最近の若い女性の一般的な傾向として、次のような話が出ました。
 自分の手を汚したがらず、苦労を避ける。しかし、自分のことは認めてもらいたい。また、相手を受け入れることはしない――というのです。
 そして、『やはり、これはわがままといわざるをえない。こうした傾向が強まっていることが、女性同士の友情が育たない原因になっている』と分析しておりました。
 皆、心の底では、本当に心を開いて話し合える友を求めているが、自分が傷つくことを恐れて、それができないというのが、悲しむべき現実であると思います」
10  飛躍(10)
 自ら手を汚したがらないという若い女性たちの傾向性の根底には、幸福は他から与えられるものだという考えがある。
 しかし、幸福は自分の心が創り出すものなのだ。自らの手でつかみ取るものなのだ。そのためには、労苦を避けて通ることはできない。
 ゲーテは警告した。
 「生活をもてあそぶものは、決して正しいものになれない。
 自分を命令しないものは、いつになっても、しもべにとどまる」
 また、苦悩なき人生はないのだ。どんなに華やかそうに見えても、人は悩みをかかえている。一時期は幸せを満喫しているようでも、それが永遠に続くことなどない。
 生きるとは、苦悩することであるといってもよい。それに負けて、希望を失い、自暴自棄になってしまうことから、人は不幸になるのである。
 だから、悩みや苦しみに負けない強い心、大きな心をつくるしかない。
 苦悩が大きければ大きいほど、それに打ち勝つ時、より大きな幸福を感ずることができる。
 いな、その挑戦のなかにこそ、充実と歓喜の生命が脈打ち、わが胸中は幸福の泉となるのだ。
 その能動的な自己をつくり、心を大きく、強くすることが、「人間革命」なのである。
 女子部長の吉川美香子は、そのための信仰であることを強く訴えた。
 さらに、真の友を求めながら自らが傷つくことを恐れ、深い関わりを避ける生き方の背後には、根深い人間不信があることを指摘していった。
 「人の尊さも、自分の可能性や強さも信じることができなければ、人間はどうしても臆病になり、閉鎖的になります。
 しかし、仏法では、すべての人が輝かしい個性をもち、その胸中に″仏″の生命があると説きます。
 この法理のもとに、互いに信じ合い、助け合い、励まし合う、この世で最も美しい宝石のごとき、若き女性の連帯をつくりあげてきたのが、わが女子部であります。
 今こそ、山本先生と共に、私たちの平和と幸福のスクラムを、社会に広げていく時であると思いますが、いかがでしょうか!」
 賛同の大拍手が会場を揺るがした。
11  飛躍(11)
 吉川美香子は、はつらつと、確信にあふれた声で訴えていった。
 「心から他人の生命の痛みを分かち合おうとする時、そこには深い友情の絆が生まれます。
 そして、友を思う真心は、自ずから仏法対話となっていきます。いわば折伏は、友情の帰結であり、また、それによってさらに強い友情が育まれていきます。
 不信と猜疑の渦巻く現代社会を蘇生させゆくものは、確たる信条をもった、春風のごとき人間生命の交流です。
 この最高無二の希望と幸福の道を教えてくださったのが創価学会であり、山本先生です。
 私たち女子部は、『友の幸せのために、私はいかなる苦労も惜しまない。いな、それこそ私の最高の喜びである』と胸を張って、折伏・弘教の実践に邁進していこうではありませんか!」
 さわやかな「はい!」という声が響き、共感と誓いの拍手が広がった。
 山本伸一も、女子部の清純な決意を心から賞讃し、大拍手を送った。
 日蓮大聖人は「女子おなごは門をひら」と仰せである。女子部の友情と仏法対話の広がりもまた、広宣流布の門を大きく開いていくにちがいない。
 女子部時代に折伏に挑戦することは、仏法者として、自分の生き方の芯をつくり上げ、福運を積むうえで、極めて重要なことといえよう。
 折伏は、すぐには実らないかもしれない。しかし、仏法を語り、下種をし、末永く友情を育んでいくならば、いつか、その人も信心に目覚める日が来るものだ。結果を焦る必要はない。
 大事なことは、友の幸福を願う心だ。仏法を語る勇気だ。勇気が慈悲にかわるのである。
 また、壮年、婦人は、広宣流布の未来のために青年を大切にし、徹底して応援し、その育成に全力を注がねばならない。
 大聖人は、阿仏房・千日尼夫妻の子息が、立派な後継者に育った姿を喜ばれ、「子にすぎたる財なし」と讃えられた。広宣流布は、後継の青年をいかに育てるかに一切がかかっているのだ。
 特に女子部の折伏、部員増加は、親の了解なども重要な課題となるだけに、壮年、婦人が責任をもって推進する必要があろう。
12  飛躍(12)
 草創期以来、大発展を遂げた地区や支部は、壮年や婦人が青年を大事にし、″学会家族″の温もりに包まれていた。
 折伏なども各部が一体となり、和気あいあいと進められていた。
 壮年、婦人に包容力があれば、青年は安心し、伸び伸びと活躍することができる。また、経験豊かな壮年、婦人の存在は、青年にとって、人生の諸問題についての、よき相談相手となる。
 その陰の支えがあってこそ、若い力が育まれていくのである。
 青年部総会の式次第は、男子部長の野村勇の「『社会の年』と青年部の使命」と題する話に移っていった。
 野村は、青年部は、この一九七四年(昭和四十九年)「社会の年」を、前年に引き続いて「青年の年」第二年と明確に定め、力強くスタートを切ったことを語った。
 さらに、「社会の年」を、こう意義づけた。
 「その眼目は、一言していえば、もはや時代精神となってきている仏法思想を、各人がいかに広く、社会に、地域にと展開し、すべての人びとの『心の財』にしていくかにあります。
 いわば、本格的な仏法運動の実践の年が『社会の年』なのであります」
 山本伸一は、壇上にあって野村に視線を注ぎながら、「そうだ!」と頷いていた。
 ハーバード大学の名学長として名高かった、チャールズ・ウィリアム・エリオットは訴えた。
 「われわれは行動する人間を育てるのだ。公共の利益に大きく貢献する人を世に送るのだ」
 伸一も、まさに同じ思いで、会長就任以来、青年たちの育成にあたってきたのである。
 野村は「社会の年」の具体的な実践として、青年が座談会運動の牽引力になることなどを訴えたあと、平和憲法の擁護について語り始めた。
 これは、前年十二月の本部総会で、山本伸一が平和憲法の擁護を青年たちに託すと語ったことを受け、青年部として検討を重ねた結論であった。
 平和の問題について、学会の青年たちは敏感であった。
 社会、世界の現実を見すえ、いかにして生命を守り、恒久平和の道を開いていくかを、仏法者として第一義のテーマとしていたからである。
13  飛躍(13)
 山本伸一が、平和憲法の擁護を訴えたのは、深刻な経済危機が進む日本の行方が、ナチスが台頭したドイツのワイマール体制末期のような事態になりかねないことを憂慮したからである。
 ワイマール憲法は、民主主義の典型ともいうべき、当時の世界の先端をいく憲法であった。
 ところが、深刻な生活不安に悩むドイツ国民は、ナチスという強力な勢力に、その不安の解消を期待した。そして、首相のヒトラーに全権を委任する授権法案が国会で可決されたのだ。
 それは、国民が自らの権利を放棄させられたことに等しかった。
 その結果、ナチスの独裁を許し、ワイマール憲法は形骸化され、人間の尊厳も、民主主義も、無残に踏みにじられ、あの悲惨な歴史がつくられていったのだ。
 人びとの幸福を実現するために、「生命の尊厳」と「人間の精神の自由」を、また、「民主主義」を、そして、「平和」を守り抜くのが、仏法思想を実践する創価学会の使命であると、伸一は考えていた。
 その意味で、基本的人権の保障、国民主権、恒久平和主義をうたった日本国憲法の精神を守ることの重要性を、彼は痛感していたのである。
 もちろん、時代も、社会も大きく変化していく。それにともない、長い歳月の間には、条文の補強や調整が必要となることもあろう。
 しかし、日本国憲法の精神自体は、断じて守り抜かなければならないというのが、伸一の信念であった。
 その思いを、彼は一ヵ月前の本部総会で語り、青年部に平和憲法の擁護を訴えたのである。
 平和を死守する人がいてこそ、平和は維持されるのだ。
 恒久平和とは、平和のための闘争の、連続勝利の帰結なのである。
 青年たちは、伸一の意見に大賛成であった。
 以来、何度となく討議を重ね、憲法の精神を守るための具体的な運動を練り上げていったのだ。
 野村勇は、叫ぶように訴えた。
 「われわれは、戦後日本の精神遺産である日本国憲法の精神を、一人ひとりの信条にまで高めていくために、この総会でアピールを採択したい」
 場内は大きな拍手に包まれた。
14  飛躍(14)
 野村勇は、力強くアピールを読み上げた。
 「われわれは、仏法の『生命の尊厳』『絶対平和主義』の理念に照らし、基本的人権の尊重、国民主権主義の原則とともに、世界に比類なき徹底した平和主義を高らかに掲げた日本国憲法を高く評価し、その理念を死守していくために、次の四点を強く決意するものである」
 参加者は、固唾をのんで次の言葉を待った。
 「一、日本国憲法に明文化された恒久平和主義の理念を、全世界の世論とし、ひいては世界各国の憲法にその理念が取り入れられることを目標に、そのための積極的な環境づくりを粘り強く展開していく。
 二、『人間の精神的自由』をはじめとする基本的人権と、『真実の民主主義』を堅持していくために、人権思想、民主主義思想の定着化および肉化を推進するとともに、日常生活のなかにおける人権侵害の事実に対しては、その救済に努力していく。
 三、なかんずく『人間として生きる権利』の実体的保障を規定した憲法第二五条を、改めて深く確認し、その精神をわれわれのあらゆる日常的生活場面において顕現させ、真に人間らしい文化的生活を獲得するための、新たなる観点からの運動を推進、展開する。
 四、憲法を空洞化し、無力化する動きに対しては、常にこれを監視し、警戒するとともに、憲法の基本理念を根底からくつがえすような重大な問題が生じた場合には、これに対し、断固たる反対行動を展開する」
 そして、アピールは、「人類の幸福と平和を願う全世界の人びとと連帯し、スクラムを組んで、この運動を持続的に展開していくことを決意するものである」との言葉で結ばれていた。
 野村は全文を読み終えると、こう呼びかけた。
 「このアピールに賛成の方は、挙手願います」
 「おー」という雄叫びとともに、参加者の手が一斉にあがった。
 「青年諸君、未来は君たちのものである」とは、中国の周恩来総理の叫びである。
 未来を腕にいだく青年には、責任がある。現実の大地にしっかと立ち、社会を担って進む、重い責任が!
15  飛躍(15)
 野村勇をはじめ、青年部の首脳たちは、ワイマール憲法をもっていたドイツがナチスの独裁を許したのは、″民主″という憲法の精神が、民衆一人ひとりの信念として根づいていなかったことに、大きな原因があるととらえていた。
 憲法も民衆という大地に根差さなければ、どんなに立派であっても、実を結ぶことはない。
 後に山本伸一と深い友誼を結ぶことになる、周恩来総理の夫人で中国の女性リーダーであった鄧穎超はこう訴えている。
 「密接に民衆と結びついて、民衆に依拠して、団結できるすべての人と団結する。これが戦う私たちの出発点です」
 青年部の首脳たちも、日本国憲法を守り抜くため、その精神を民衆の胸中深く浸透させることに力点を置いた運動を推進しようと考えたのだ。
 壇上の野村は、演台の水を飲むと、さらに話を続けた。
 「われわれは、具体的には、当面、次の運動を進めたい。
 日本国憲法の恒久平和主義の理念を世界の世論としていくため、戦争体験者の悲痛な戦争否定の叫びを集大成する一大反戦出版活動に取り組む。
 また、昨年来、進めてきた核兵器撤廃、戦争絶滅を要求する署名運動は、現在、三百万を突破したが、これをもう一歩進めて、本年末までにできうれば一千万署名を勝ち取り、われわれの平和への願いとして、国連へ提出する」
 このほかに、各地域で憲法講座を開催することや、人間の生存権の条件である健康にして文化的生活環境の建設をめざすことが発表された。
 最後に野村は、渾身の力を振り絞るようにして、参加者にこう呼びかけたのである。
 「この世で最も強いものは何か。 ――それは信心の二字であります。
 また、この世で最も強い人間の絆は何か。 ――それは師弟不二の絆であります。
 本日の、この青年部総会を期して、われわれは、山本先生のもと、再び″戦う男子部″行動する男子部″″チャレンジする男子部″を合言葉に、勇敢にして大胆に、広布の王道をたくましく歩んでいこうではありませんか!」
16  飛躍(16)
 平和創造の潮流となった、創価学会青年部による反戦出版や核廃絶一千万署名などの運動が、この日、この北九州の地で行われた第二十二回青年部総会で決定していったのである。
 日蓮仏法は、立正安国(正を立て国を安んずる)、すなわち、人びとの胸中に正法を打ち立て、社会の平和と繁栄をめざす宗教である。
 「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と仰せのように、自身の安穏と、「四表の静謐」つまり社会の平和とは、不可分の関係にあることを教えているのである。
 それは、日蓮仏法が社会と遊離した宗教ではなく、社会に開かれた時代変革の宗教であることを示している。
 青年部は今、その教えのままに、新しき社会の建設に向かい、勇躍、本格的な船出を開始したのである。
 総会は、青年部長や副会長のあいさつと進み、会長山本伸一の講演となった。
 彼はまず、″太陽の仏法″である日蓮大聖人の仏法を世界に広宣流布するために、海外の同志を激励し、民間次元の文化交流を推進するため、世界各国を駆け巡る決意を披瀝した。
 次いで、最近の異常な″悪性インフレ″は、利潤追求を至上目的とした社会の在り方自体の問題であり、精神変革、精神改良こそが、最も喫緊の課題であることを、強く訴えたのである。
 そして、人間にとって「志」が大切であることを強調していった。
 「産業革命以後、社会は、本然の『人間としての志』をめざすことを忘れて、『物財』を追い求めることに傾斜していったといえます。
 『忘れる』の『忘』という字は、『心』と『亡ぼす』から成り立っておりますが、志を忘れれば、精神は滅亡することを、この字は教えているように思えます。
 人間らしい志を失った社会は、無慈悲と教条主義と無知がまかり通る、殺伐とした社会になってしまう」
 伸一は、その精神を蘇生させる場こそ、座談会であり、座談会を青年部の力によって、生命触発の「人間広場」としていくことを期待していたのである。
17  飛躍(17)
 山本伸一は、さらに、この一年を「人間建設の年」と定めて前進していきたいと語ったあと、未来への飛躍のために、指針を述べていった。
 「二十一世紀を迎える時、諸君の年齢は平均したところ五十代です。
 職場でも第一人者となり、人間として円熟し、すべてに自信をもって運営していける年代となる。まさに諸君は、二十一世紀の人です。
 ゆえに今は、いろいろ難しい問題をかかえていたとしても、未来を見つめ、『忍耐』の二字を心に刻み、ひたすら人間革命に励んでほしい」
 また、青年は正義に生きよと呼びかけた。
 「信心の道を進む者は『正義感』を決して失ってはならない。
 世間ではよく『清濁併せ呑む』ということが度量のように言われるが、不正、不純を容認し、それに慣れてしまえば、自分自身が濁っていく。そうなってしまえば、本末転倒である。
 信仰の世界にあっては″濁″は呑んではならない。そこから、必ず『正義感』を失い、結局は無気力な日陰の人物になってしまうからです」
 さらに彼は、「鍛え」の大切さを力説し、「鍛えがなければ、人生の土台は築けない。
 どんなに辛いことがあろうとも、唱題に励み、挫けることなく、自身を築き上げていくことが、『生死即涅槃』の法理に通じるのであります」と訴えたのである。
 それらの指導は、青年部の生き方の規範となる重要な指針となった。
 青年部総会は歓喜のなか、「同志の歌」の誓いの熱唱で幕を閉じた。
 感動のうちに総会が終わり、伸一が車に乗ろうとすると、福岡の県長である丸山善信が意を決したように口を開いた。
 「先生、福岡に戻る前に、ぜひ田川会館にお寄りください。田川のメンバーも、ご訪問を待ち望んでおります」
 「もちろん、私はそのつもりだよ。だって、田川の同志との約束だもの」
 伸一は、前年の三月に北九州を訪問した折、田川会館に立ち寄る予定であった。しかし、スケジュールの関係で、どうしても実現できなかったのである。
 その時、伸一は、田川本部長の吉井寿実と、「次は必ず訪問します」と約束していたのだ。
18  飛躍(18)
 田川は、筑豊炭田最大の炭鉱都市であった。
 山本伸一が、田川のことを、とりわけ強く心にとどめるようになったのは、一九六八年(昭和四十三年)に九州を訪れた折、田川の一粒種の婦人から質問を受けたことがきっかけであった。
 「田川では炭鉱が閉山になり、皆、生活苦にあえいでいます。田川の人たちは、どうしたら幸せになれるのでしょうか」
 必死な訴えであった。
 石炭から石油へと時代は変わり、日本経済を支えてきた炭鉱は斜陽の一途をたどっていたのだ。同志も職を失い、次々と都会へ移っていった。
 そのたびに、この婦人は、皆を励まし、送り出してきた。
 「私たちは、誉れの田川の同志や。どこへ行っても、田川の名を絶対に汚したらいかんばい」
 しかし、田川での暮らしは逼迫していた。出ていく同志がうらやましく思えることさえあった。
 青年部員は、ほとんどいなくなり、座談会を開いても、参加者は五、六人になってしまった。
 そのなかで彼女は、田川の信心の炎を消すまいと、懸命に頑張り抜いてきたのだ。
 婦人の質問に伸一は確信に満ちた声で答えた。
 「どんな事態に追い込まれようが、必ず活路を開いていけるのが信心です。負けてはいけない。
 そして、題目を唱え抜いて、同志を守ってください。頼みますよ」
 翌年二月、東京に来たこの婦人から、伸一は報告を受けた。
 「先生、田川の同志は大変な状況ですが、今こそ信心の力を示そうと、真剣に戦っています。みんな元気です」
 「そうか。私は来月、福岡の九州幹部会に行くから、そこに、田川の代表を招待しましょう」
 三月七日、九電記念体育館での九州幹部会に、彼は代表五十人を招き、席も壇上に用意した。
 この幹部会で伸一は、厳しい条件のなか、健気に戦うメンバーの活躍を紹介したあと、叫ぶように呼びかけた。
 「皆さんは、どんなことがあっても、最高の幸せ者になってください」″よし、負けんばい!″
 田川の同志の顔に、誓いの涙が光った。
 さらに伸一は、帰途に就くメンバーに、心尽くしの菓子を贈った。皆、伸一の真心をかみしめ、決意を新たにしたのだ。
19  飛躍(19)
 田川のメンバーは、山本伸一への誓いを託して、愛唱歌を作詞作曲した。歌のタイトルは「田川に春を」であった。
 夢にまで見た 先生に 逢うよろこびは だれのもの 目ざそう君よ 我が師と共に
 田川に春を 田川に春を 築こうよ
 ″私たちは断じて勝とう。そして、いつの日かこの歌を、山本先生に聴いていただこう!″
 メンバーは、そう心に決め、この「田川に春を」を歌いながら、試練の坂道を越えてきた。
 ――伸一は、その報告を受けていたのだ。
 伸一たちが田川会館に着くと、本部長の吉井寿実らが、満面に笑みを浮かべて迎えてくれた。
 会館には数人の地元の幹部がいただけだった。
 吉井は言った。
 「今日は、田川の同志は、自宅などで唱題しております。先生はお忙しいでしょうから、会館に押しかけたりせず、ゆっくりお仕事をしていただこうと、みんなで話し合いました」
 「申し訳ないね。皆さんの温かい配慮が身に染みます。お会いできなかった同志に題目を送ります。くれぐれも、よろしくお伝えください」
 伸一がこたえると、吉井は紙に書いた歌詞と譜面を差し出した。
 「先生、これが私たちの愛唱歌『田川に春を』です。苦しい時も、悲しい時も、この歌を歌い、先生を思い浮かべて頑張ってきました」
 伸一は、歌詞と譜面に目を通した。
 「いい歌だね。田川の勝利の歌だ。皆さんは勝った。大勝利したんだ。
 あさって、福岡の九電記念体育館で本部幹部会があるから、そこで代表に歌ってもらおう。東京以外の地で本部幹部会を行うのは、これが初めてなんだよ。そこで凱歌を響かせてもらおう」
 この体育館は、かつて田川の代表が招待された、あの九州幹部会が行われた会場である。
 「ありがとうございます!」
 吉井の目が潤んだ。
 田川のメンバーは、晴れの本部幹部会で、高らかに、誇らかに、「田川に春を」を合唱した。
 それは、時代の波浪を乗り越えた、民衆の歓喜の凱歌であり、全同志の希望の歌声となった。
20  飛躍(20)
 「毎日、そして一瞬一瞬が、私たちにとっての新たな出発である」
 インドの初代首相ネルーは、こう訴えた。
 さあ、新しき出発だ!
 新しき前進だ!
 希望に燃えて、新しき第一歩を踏みだそう。時は待ってはくれないのだ。この大道を、晴れやかに突き進むのだ。
 青年部総会、本部幹部会など、福岡県での行事を終えた山本伸一は、一月二十三日には鹿児島県・九州総合研修所(現在は二十一世紀自然研修道場)に舞台を移した。
 ここでは初の「水俣友の集い」に出席したほか、離島本部の第一回代表者会議に集ったメンバーを励ますなど、渾身の指導を重ねた。
 そして二十六日、鹿児島から香港へ出発したのである。彼の香港訪問は実に十年ぶりであった。
 今回の滞在は五泊六日で、香港広布十三周年の意義をとどめる記念撮影会などの諸行事や、創価大学の創立者として、香港大学、香港中文大学への公式訪問などが予定されていた。
 香港の啓徳(カイタック)空港に到着した伸一の一行を、香港政庁の儀典局長をはじめ、
 メンバーの代表が賑やかに出迎えてくれた。香港の女子部の代表は、伸一に歓迎の花束を手渡しながら、日本語で言った。
 「センセイ、オカエリナサイ!」
 彼女たちは″山本先生を香港に″と、ひたすら唱題に励んできた。
 女子部のメンバーは頬を紅潮させて語った。
 「山本先生は、香港の私たちの師匠であり、お父さんです。ですから先生は、香港においでになったのではなく、お帰りになったのです」
 その思いが、「オカエリナサイ!」とのあいさつになったのである。
 師と弟子の距離は、決して地理的な条件によって決まるのではない。
 師を求め抜く弟子の強き一念が、いかなる隔たりも越えて、魂を結合させるのである。
 伸一は、彼女たちに笑顔を向けながら言った。
 「ありがとう! 香港の第二章の開幕だ。楽しい、歴史的な一日一日にしようね」
 九州での激闘に続いての訪問であったが、彼には力がみなぎっていた。使命に生き抜かんとする熱き闘魂は、あらゆる疲れを吹き飛ばすのだ。
21  飛躍(21)
 山本伸一の香港訪問は何紙かの地元紙にも報じられた。
 そこには、昨年結成された「東南アジア仏教者文化会議」の代表者会議への出席や、香港大学、香港中文大学への訪問など、伸一の予定も報道されていた。
 なかには、伸一について、次のように紹介している新聞もあった。
 「世界の平和と人類の幸福のために、常に努力し、一昨年、昨年と、二回にわたり、西欧の知性を代表するイギリスの歴史学者A・トインビー博士と、二十一世紀の文明について意義深い対話を行うなど、多角的な活動をしている」(「華僑日報」一九七四年一月二十七日付)
 香港に到着した伸一は、その日の夜には、メンバーの招待による「歓迎の夕べ」に出席した。
 会場は、十三年前の香港初訪問の折に、彼が宿泊したホテルであった。
 ″あの日、先生はここに宿泊され、香港広布の第一歩を踏み出された。その原点の地に集おう″との思いから、メンバーが決めた会場であった。
 伸一は宿舎から歩いて会場に向かった。
 歓迎会には、香港の草創期から、懸命に頑張り抜いてきた十人ほどの代表が集っていた。
 「先生、ようこそおいでくださいました」
 それに応えて、伸一は言った。
 「多謝、多謝! ありがとう。皆さんは香港の偉大なる歴史をつくられた。大勝利です。
 そのご苦労はいかばかりであったか、私はよく存じ上げているつもりです」
 その言葉を聞くと、皆の目に涙が滲んだ。
 伸一が一九六一年(昭和三十六年)に初訪問した時、メンバーは実質十世帯に満たなかった。座談会に集ったのも、わずか十数人であった。
 その時に結成した香港地区が、今や香港本部となり、八千世帯を超える同志が、喜々として信心に励んでいるのだ。まさに、千倍近い大飛躍を遂げたのである。
 大聖人は、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし」と断言されている。
 この御金言を日本のみならず、世界各国で実現してきた唯一の団体が、われら創価学会なのだ。
22  飛躍(22)
 「歓迎の夕べ」は、山本伸一と妻の峯子を囲んで、食事をしながらの歓談となった。
 食事の前、伸一は立ち上がって、真心の歓迎に感謝の意を表し、語り始めた。
 「香港は、十年前にあたる一九六四年(昭和三十九年)の十月、ヨーロッパに向かう途中、給油のために立ち寄ったきり、訪問できずにおりました。本当に申し訳なく思っております。
 その間、皆さんは、日夜、奮闘に奮闘を重ねられ、香港を世界広宣流布の模範の天地にしてくださった。
 心から御礼、感謝申し上げます。ありがとう!
 仏法西還を御予言された日蓮大聖人も、どれほどお喜びか。諸手をあげて御賞讃くださっていることでしょう。
 その功徳、福運は、いかばかりか。子々孫々まで、永遠の幸福の基盤が築かれたことは間違いありません」
 メンバーは、苦労に苦労を重ね、歯を食いしばりながら、香港広布に走り抜いてきたのだ。
 今、労苦に耐えたその顔に、晴れやかな微笑が浮かんでいた。苦闘の日々は、誇らかな思い出の勲章となって、胸中に輝いたのである。
 「苦労せざるものは幸運に値せず」とは、レオナルド・ダ・ビンチの指摘である。
 伸一は言葉をついだ。
 「今や香港広布の基礎は築かれ、第一章から、いよいよ第二章への飛翔の朝を迎えました。
 十三年前、仏法西還への、また、東洋広布への第一歩が印されたこの香港には、アジアの平和と文化の『起点』となる使命があります。
 これからも皆さんは、さらに深く、香港社会に根を張り、人びとの支持と信頼を勝ち得ていってください。信頼こそが、広宣流布の原動力であり、新たな前進の飛躍台となります。
 共々に力を合わせ、香港に民衆勝利の幸福城を築き上げようではありませんか」
 メンバーは決意をかみしめるように、感無量の面持ちで拍手を送った。
 伸一は、微笑みながら、朗らかに言った。
 「では、香港広布の新しい出発と、皆さんの健闘を讃え、また、ご一家の繁栄のために、乾杯をしましょう」
 「乾杯!」の声が高らかに響いた。
23  飛躍(23)
 食事をしながらの歓談が始まった。
 山本伸一は、メンバーが語る、この十年間の歩みに耳を傾けていった。
 「私たちは、『今度は山本先生に、正式に香港においでいただこう。そのためには香港を、
 平和と幸福を築く東洋広布の先駆けの地にしなくてはならない』と、懸命に仏法対話に励みました」
 伸一が立ち寄った年の翌年にあたる、一九六五年(昭和四十年)の初頭には、香港は、まだ約四百世帯であった。
 ところが、その年の暮れには、七百三十四世帯にまで発展している。
 一年で倍増に近い拡大である。ここから破竹の勢いで、大前進が始まるのだ。
 「この十年、香港は、本当に大飛躍を遂げた。その原動力はどこにあったと思われますか」
 伸一が言うと、「東南アジア仏教者文化会議」の議長である周志剛(チャウ・チーゴン)が語り始めた。
 「みんなに、学会の指導の通りに実践して、功徳を受けたという喜びがあったことです。
 病を克服した人、経済苦を乗り越えた人、なかには酒や博打に溺れていた生活を改めて立ち直った人など、みんなが体験をもち、歓喜と確信にあふれています。
 また、一部の人たちだけが頑張るのではなく、みんなが使命を自覚し、力を発揮していけることを目標にし、丹念に個人指導を行ってきました。私も家庭指導に歩き抜きました。
 特に新しく信心を始めた人を徹底して激励し、勤行と仏法対話ができるようになるまで応援しました。この人たちが拡大の力となったんです」
 香港では、翌一九六六年(昭和四十一年)一月、機関紙「黎明聖報」(ライメン・センポウ)が発刊され、二月には、香港は総支部に発展している。
 さらに、八月には香港会館が設置された。
 六七年(同四十二年)には、二番目の総支部となる九竜(カオルン)総支部が誕生。そして、六八年(同四十三年)、香港は本部となり、その翌年には、一本部四総支部の陣容となっている。
 しかし、「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」との法理通り、香港にも試練の嵐が吹き荒れたのである。
24  飛躍(24)
 一九七〇年(昭和四十五年)、日本で「言論・出版問題」が起こり、創価学会が激しい攻撃にさらされると、その影響は香港にも及んだ。
 学会は、反社会的な団体であるとする喧伝に、香港の一部のマスコミも同調したのである。
 そして、学会を「日本の軍国主義者」と決めつけ、「経済・文化分野のほかに、宗教の仮面を被って、政治活動も行っている」などと書き立てる新聞もあった。
 こうした報道の底流には、根強い反日感情があった。
 香港は戦時中、日本軍によって占領され、約四年間にわたって不当な支配を受け、人びとは辛酸をなめてきた。しかも、その軍国日本の精神的支柱は、国家神道という″宗教″であった。
 したがって、香港のマスコミは、日本に誕生した宗教ということで、創価学会に対して猜疑の目を向けていたようだ。
 また、台湾出身のメンバーも多かったことからか、創価学会は「『台湾の独立』の陰謀」に加担していると、根も葉もないデマを書く新聞もあったのである。
 台湾の国民党が反転攻勢してくると言われていただけに、こんな話を真に受けてしまう人もいたのである。
 また″共産主義者を育成する団体である″という批判もあった。
 そうした見方がなされた背景には、山本伸一が世界の平和を願い、日中国交正常化提言などを行ってきたこともあったのであろう。
 さらに、香港の機関紙「黎明聖報」では、「幹部」育成が強調されていたことが、誤解を招いたようだ。
 というのは、同じ「幹部」という表現が中国共産党でも、よく使われていたからである。
 ともあれ、全く的はずれの批判が、まことしやかに、なされていたのである。
 直接の取材もなく、なんの検証もなされず、それぞれが思い込みで、学会を批判していたのだ。
 その事実無根の喧伝に踊って、メンバーに対して、敵意をむき出しにする人も少なくなかったのである。
 だが、香港の同志は微動だにしなかった。信心でつかんだ功徳の体験が確信となって、一人ひとりの胸中に深く打ち込まれていたからである。
25  飛躍(25)
 大聖人は仰せである。
 「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり
 メンバーは、″いよいよ三障四魔が競い起こった。今こそ、まことの時だ!″と、闘魂を燃え上がらせていった。
 香港の首脳幹部は山本伸一と連携を取り、呼吸を合わせながら、激しい非難中傷も恐れることなく、冷静に、沈着に対応していった。
 彼らは、信仰の純粋な組織が、政治的な集団であるかのように誤解されたり、イデオロギー的な対立に利用されることのないように、懸命に舵を取った。
 そして、物議をかもすような大きな会合の開催は控えるなど、慎重に配慮し、家庭指導に力を注いだのである。
 メンバーへの徹底した指導、激励は、香港の組織を根底から強く堅固なものにしていった。
 また、そうした状況下にあっても、メンバーは悩みをかかえている人と出会えば、信心の力を、御本尊の功徳を、語らずにはいられなかった。
 香港のあの地、この地で、民衆という草の根のなかで、日々、仏法対話は弾んでいたのだ。
 なんと、この逆風の時代にあっても、毎月、四十世帯、五十世帯と、メンバーは着実に増えていったのである。
 広宣流布は状況のいかんが決するのではない。同志に脈打つ使命感と確信と歓喜ある限り、前進の大道は開かれるのだ。 香港での理不尽な学会への批判は、やがて沈静化していった。
 現地のマスコミ関係者は、メンバーの真実を知るようになると、日本の一部マスコミによる創価学会の報道と実像とは、大きな違いがあることに気づき始めたのである。
 ――メンバーは真面目で明るく、よき市民として社会に貢献しているではないか。決して反社会的な団体などではない。日本の報道を鵜呑みにしてはならない。
 それが、香港のマスコミ関係者たちの実感であったようだ。
 アインシュタインは、偏見を打ち破るために、何をなすべきかを、こう訴えている。
 「日常の生活のなかのあらゆる機会をつかまえて真実を表現していくことで、ゆっくりとではあっても成功を勝ちとっていくことはできる」
26  飛躍(26)
 香港のメンバーは、よき市民として、いかに社会に貢献していくかを、真剣に考え続けた。
 また、″次に山本先生を香港に迎えるまでに、学会を取り巻く香港社会の環境を大きく変えてみせる″と、皆が決意していたのである。
 一九七三年(昭和四十八年)九月、香港の法人資格の取得から十周年を迎えた。
 メンバーは、この佳節を記念し、社会貢献の一環として、児童養護施設での慰問公演などを行うことを企画した。
 十一月、メンバーは施設を訪問し、ホールを使って、文化祭さながらに、数々の演技を披露したのである。
 男子部による勇壮な獅子舞、女子部の華麗な天女の舞、少年・少女部の楽しい「幸せなら手をたたこう」の合唱、浴衣姿の婦人部の民謡踊りなど、夢と希望にあふれた舞台が展開された。
 ″次代を担う子どもたちに喜んでもらいたい。勇気を送りたい″
 そんな願いを込めての熱演であった。
 子どもたちは大喜びであった。キラキラと瞳を輝かせ、「本当に楽しかった!」「また来てね」と口々に語るのである。
 仏法者として、人びとの幸福と平和に寄与したいという思いが、社会貢献の一つのかたちとなって結実したのである。
 その模様は、地元の新聞などでも報道され、大きな反響を呼んだ。
 そして、十二月には、香港の各紙から、学会の目的や活動を知りたいとの要請を受け、幹部と記者との懇談会がもたれたのである。
 香港の首脳幹部は、日蓮仏法の理念を訴え、山本会長の平和行動を語り、自分たちの日々の活動とその目的を率直に述べた。
 ある記者は、メンバーが″民衆のため″という仏教本来の使命を担い、香港社会の繁栄に貢献してきたことに対し、賞讃を惜しまなかった。
 また、「あなたたちのこうした善行と崇高な理念を、もっと広く、世に紹介すべきであると思います」と、頬を紅潮させて語る記者もいた。
 この懇談会の模様も、各紙に詳細に報道されたのである。
 そして、年が明け、十年ぶりに、山本伸一が香港を訪問したのだ。
27  飛躍(27)
 「歓迎の夕べ」で山本伸一は、この十年間の歩みを聞きながら、メンバーの尊き敢闘をねぎらい、最大の讃辞を贈るのであった。
 「この十年で、香港の大発展の、堅固な基盤が出来上がりました。皆さんの血の滲むような努力で、最も大変な基礎工事は完了したんです。
 私は皆さんの、この功労を終生、忘れません。
 仏法のために、広宣流布のために、重ねた苦労は、流した涙は、拭った汗は、全部、自分の福運です。永遠の生命の財産になります。
 それを本当に確信できるかどうかが、実は、一生成仏できるかどうかの決め手なんです。
 もし、その確信がなければ、生命の因果の法則も、『冥の照覧』も信じられないことになる。
 それは『己心の外』に法を求めていることであり、仏法者の生き方ではありません。
 そうなれば、周囲の賞讃や直接的な見返りがあれば頑張るが、見えないところでは手を抜き、楽をしようという考え方になってしまう。
 いかに口で仏法を語ろうが、心が外道に堕してしまえば、信心の後退です。それでは、功徳もなければ、境涯革命も、真の幸福もありえない。
 したがって、信心はどこまでも清らかに、純粋に、貫き通していただきたい。その人が、本当の勝利者なんです」
 学会の世界は、なぜ清く、美しく、強いのか。
 世間の利害や打算に一喜一憂するのではなく、生命の法則に生きることを信念として、
 「冥の照覧」を確信してきたからだ。実は、そこにこそ、真の人間道がある。
 伸一は言葉をついだ。
 「ところで、皆さんは香港のマスコミ関係者と懇談会をもったとうかがいました。社会の理解と共感を勝ち取るためには、対話が大事です。
 各界のリーダーと、どんどん対話し、私たちの真実の姿を語り抜いていくことです。
 これほど民衆に希望を与え、勇気を与え、蘇生させてきた団体がどこにありますか。学会しかありません。
 幹部の皆さんは、臆病であってはならない。自信をもって人と会い、生き生きと仏法の真実を、学会の正義を語っていくことです。対話の広がりこそが、広宣流布の広がりだからです」
28  飛躍(28)
 周志剛が山本伸一に尋ねた。
 「私どもが香港社会のリーダーと対話し、外交を展開していくうえで、最も大切なことはなんでしょうか」
 「大事な質問です。 まず、戸田先生が、外交、渉外というものを、どのように考えられていたかから、お話ししましょう。
 先生は、外交を最重要視され、常々、『広宣流布は渉外戦、外交戦である』と言明されていた。また、『外交のできぬ人間を重用してはならない』とも言われていた。
 そして、私を、本部に新設した渉外部の初代部長に任命された。
 その時、先生は私に、こうおっしゃった。
 『伸一、大事なのは人間としての外交である。どんどん人と会って、友情を結んでいきなさい。すべて勉強だ。また、それが広宣流布につながるのだ』
 つまり、人間として、いかに信頼と尊敬を勝ち得ていくかが勝負である――というのが、戸田先生の渉外に対するお考えであり、それが私たちの外交なんです」
 伸一が渉外部長に就任したのは、一九五四年(昭和二十九年)十二月、二十六歳の時のことであった。
 渉外部長の戦いといっても、彼にとっては、決して特別なことではなかった。それ以前から、日々、実践してきたことであったからだ。
 伸一は決意していた。
 ″私がいる限り、学会に対する、また、戸田先生に対する、無責任な非難や中傷は断じて許さない。誠心誠意、話し合って、誤りは正し、偏見は払拭していこう″
 当時、創価学会は「貧乏人と病人の団体」と言われ、学会を見る世間の目は、偏見と侮蔑に満ちていた。
 大新聞でさえも事実をねじ曲げた報道が後を絶たなかった。
 それを放置しておけば、世間はますます学会への、誤解を深めてしまう。そうなれば、苦しむのは、なんの罪もない学会員である。
 ゆえに伸一は、「学会が香典を持っていく」などという、デマに基づく誤った報道があれば、直ちに抗議にでかけた。
 「善が沈黙を守っている間に悪がひょっと顔を出す」とは、文豪ビクトル・ユゴーの炯眼である。
29  飛躍(29)
 山本伸一の行動は素早かった。デマ記事を載せる新聞社などがあれば、一人で飛んで行き、厳重に抗議した。
 相手は、まず若い伸一の堂々たる態度に驚くのが常であった。
 彼の全身からは、無責任な中傷は断じて許さぬという、烈々たる気迫があふれ、それでいて礼儀正しく、話は理路整然としていた。
 デマ記事に対しては、いつ、どこで、誰が行ったもので、その裏づけはいかにして取ったのかを問い詰めていくと、すぐにあいまいになった。
 虚偽は、真実には勝てない。無責任な誹謗、中傷を垂れ流した新聞や雑誌は、結局、皆、非を認めざるをえなかった。
 また、道理を尽くして誠実に、懸命に、創価学会の真実と正義を訴える伸一の人柄に共感し、抗議を契機に、多くの人が学会の理解者になっていった。
 どんな相手であれ、たとえ敵であっても、必ず味方にしてみせるというのが、彼の信念であったのである。
 伸一は、話を続けた。
 「外交を行ううえで重要なことは、まず、第一に『勇気』です。
 難しそうだと思う相手であっても、勇気をもって会い、胸襟を開いて、率直に対話する。それが外交の第一歩です。
 臆病な人間は、直接、人と会って、対話することを避けようとするものです。そこからは、何も開けません。
 次に大事なことは、どこまでも『誠実』であるということです。
 外交といっても、相手に″この人なら人間として信じられる″と思わせることができるかどうかです。それは、社交上の小手先の技術などではなく、誠実さ、真剣さによって決まる。
 また、『根気』『粘り強さ』が大切です。
 こちらが対話を求めても、時には、拒絶されたり、たとえ会えても、誤解が解けずに終わることもあるでしょう。
 そうした場合には、根気強く挑戦を重ねていくことです。
 本来、外交というのは、一度や二度で思い通りの結果が出るほど、甘いものではない。
 壁が厚ければ、厚いほど、闘志を燃え上がらせて、粘り強く立ち向かっていくんです。心ある相手は、それを、じっと見ているものなんです」
30  飛躍(30)
 ″外交戦″についての山本伸一の話は尽きなかった。
 わが身をなげうつような思いで道を切り開いてきたなかで、体得したことがたくさんあったし、忘れ得ぬ思い出も多かったのである。
 「もうひとつ大事なことは、外交を行う場合には、自分が全学会を担い立つのだという、″全権大使″の自覚がなければならない。つまり、全体観に立つことだ。
 そうでないと、部分的なことに目を奪われ、判断を誤ってしまうこともある。
 私も、青年時代から、″自分は創価学会の代表なのだ″″戸田先生の名代なのだ″という気持ちで、外交にあたってきました。
 そして、瞬間瞬間″戸田先生ならば、どうされるだろう″と考え、行動し、決断してきました。
 外交といっても、そこには″師弟″の精神が脈打っていなければ、広宣流布のための渉外活動はできません」
 伸一は、外交戦の要諦を語ると、笑みを浮かべて言った。
 「ところで、明日は記念撮影会だね。参加者は全部で、何人ぐらいになりますか」
 現地の法人の理事長になっていた高井平治が答えた。
 「記念撮影の対象者は班長、班担当員以上にしておりますので、約千人になります」
 「そうですか。班の幹部以上で、千人にもなるんですか。すばらしい飛躍ですね。
 明日、私は、全力で皆さんを激励します。今回の香港滞在は五泊六日ですが、五年分、十年分の仕事をします」
 伸一は、仏法西還の要衝の地となる香港に、かくも多くのメンバーが誕生したことに、深い感慨を覚えていた。
 日蓮大聖人は、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」と仰せである。
 広宣流布の使命を担った尊い地涌の菩薩が、この香港の地に陸続と出現し、東洋広布の本舞台に躍り出たのだ。
 彼は、香港の男子部長になっていた梶山久雄に言った。
 「香港の三十年後が楽しみだな。これから青年がどう伸びるかが、そのまま香港の未来を決することになる。そのために私は力を入れるからね」
31  飛躍(31)
 「歓迎の夕べ」を終えて、宿舎のホテルに戻った山本伸一は、そこで、タイ、ラオス、インドから駆けつけた青年たちと懇談し、深夜まで激励を重ねた。
 同行していた妻の峯子は、伸一の健康を深く気づかい始めていた。
 しかし、時間は限られている。そのなかで、一人でも多くの人を励まそうと、一分一秒を惜しんで動き回る伸一を見ていると、体を休めてくださいとは言えなかった。
 チェコの哲人政治家マサリクは「おまえの時間が流れているうちに、為せ、働け」と、自らを戒めて走り抜いた。
 伸一もまた、同じ思いをいだいていたにちがいない。
 翌一月二十七日、香港広布十三周年を記念する撮影会が行われた。
 会場の九竜にある民生書院の講堂には、満面に笑みをたたえて、メンバーが晴れやかに集ってきた。
 民生書院は、幼稚園から高校までの一貫教育が行われている私立の名門校の一つであった。
 午後一時半、会場前で車を降りたところから、伸一の激闘は始まった。
 入場を待って並んでいるメンバーのなかに飛び込んで、握手を交わし、声をかけた。
 「ニハオマ?」(お元気ですか)
 すると、「好!」(はい)という、元気な声がはね返ってきた。
 彼は、今度は日本語で次々と語りかけた。
 「お会いできて、とても嬉しい」
 「外は少し寒いので、風邪をひかないように」
 「何があっても負けずに、必ず幸せになってください」
 それを、伸一に同行してきた、香港出身の創価大学の学生である周志英(チャウ・チーイェン)が、懸命に広東語で通訳した。
 伸一は、参加者のネームプレートを、声を出して読み、肩を叩いたりしながら、激励を続けた。
 ほとんどの人が伸一と会うのは初めてである。だからこそ彼は、一人ひとりの生命に、深く出会いの思い出を刻もうと真剣であった。
 「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」との御聖訓が、彼の胸から離れることはなかった。
32  飛躍(32)
 山本伸一が記念撮影会の会場となった民生書院の講堂に入ると、大拍手と歓声が炸裂した。
 会場には、赤い文字で「慶賀先生帰来 万象更新衆騰歓! (先生のお帰りを祝し、万象新たにして皆、喜びにわく)等と大書された横幕が掲げられていた。
 伸一は、マイクを取ると力強い声で語った。
 「十年ぶりに念願の香港訪問を果たしました。
 私どもは、久遠の縁に結ばれた″仏法兄弟″であり、″仏法姉妹″であります。
 その私たちが、元気な姿で集い、手を取り合って誓いを新たにし、記念撮影することに、深い、深い、意義を感じます。
 さあ、新しき未来へ、香港の第二期の建設に、勇躍、出発しようではありませんか!」
 記念撮影は九グループに分かれて行われた。
 撮影の前後には、全精魂を注いでの、伸一の懸命な激励が続いた。
 年配者に対しては、肩に手をかけ、抱きかかえるようにして語った。
 「うんと長生きしてください。そして、『私はこんなに幸福になれた』といえる日々であってください。それが最高の勝利の姿であり、その姿を見るのが、私の最高の喜びなんです」
 撮影が終わると、歓迎の歌の披露に移った。
 中国語の歌に続いて、流暢な日本語で「春が来た」の合唱が始まった。″春が来た″―
 ―それは試練の嵐を乗り越え、十年ぶりに師と慕う伸一を迎えたメンバーの実感であった。
 苦しみの荒れ野を越えてきた人ほど、春の花園の美しさが心に染みるのだ。
 自由貿易港の香港は、自由な経済活動が保障されている半面、貧富の差も大きく、豊かさと貧しさが同居していた。
 メンバーは、経済苦をはじめ、病苦や家庭不和など、さまざまな悩みをかかえて入信し、一つ、また一つと、苦悩を克服してきた。
 そして、その歓喜を語り抜くなかで、弘教の大波が広がったのだ。
 ロマン・ロランは「フランス大革命は″歓喜″から発したもので、けっして道徳的義務から発したものではなかった」と分析したが、香港広布もまた民衆の大歓喜から発したのである。
 歓喜を原動力とした平和革命が、我らの広宣流布なのだ。
33  飛躍(33)
 土地が狭く人口が過密な香港では、広い座談会場はほとんどなかった。
 高層アパートの小さな部屋で行われることが多く、部屋は、十数人も入ればいっぱいになってしまう。
 古い建物にはエレベーターもないため、四、五階ともなれば、高齢者にとっては階段を上がるだけで一苦労であった。
 一方、香港には船上生活をしている人もおり、船の上でも座談会が開かれていた。
 船は防波堤の内側に、ひしめくように並び、大きなものは全長が二十メートルほどあった。
 その船に、小舟に乗って集まり、活発に座談会が行われるのである。
 船からは、題目や学会歌の歌声、楽しそうな笑い声が響いた。
 周囲の船の人たちは、そんなメンバーの船を、「仏船」と呼んでいた。
 だから、船の座談会に参加する幹部は、渡し舟の船頭に「仏船」に行きたいと言うと、すぐに案内してもらえた。
 また、メンバーのなかには、貧しさゆえに教育を受けることができず、読み書きができない人もいた。したがって、信心を始めても勤行ができるようになるまでには、大変な苦労があった。
 ある婦人は、なんと自分で「絵文字」を考え、経本を作って勤行を覚えたのだ。自分にしかわからない、この世に二つとない経本である。
 その人たちが、活動をし、信心に励んでいくなかで、懸命に字を覚え、機関紙の「黎明聖報」を読むようになり、教学部員にもなっていったのである。
 香港にあっても、仏法は、民衆のなかに根を張り、活力を与え、民衆を蘇生させていったのだ。
 「歴史にとって必須の人間たちは、英雄たちではなく民衆である」とは、フランスの歴史家ミシュレの洞察である。
 山本伸一は、メンバーの奮闘についても、詳しく報告を受けていた。
 彼は、深く心に誓うのであった。
 ″皆、さまざまな苦悩に挑みながら、広宣流布の使命を自覚し、人びとの幸福と平和のために献身してくれている。
 仏は彼方におわすのではない。この方々こそ地涌の菩薩であり、仏なのだ。ゆえに私は、わが同志に尽くし抜き、命をかけて守り抜こう!″
34  飛躍(34)
 山本伸一は記念撮影会の会場で、「春が来た」の合唱を聴くと、マイクを手にして言った。
 「多謝! 多謝!
 真心が胸に染みます。皆さんが、爛漫と幸福の花咲く春を満喫されていることが、私は嬉しい。
 今の合唱は、敬愛する香港の皆さんの、勝利の調べです。ありがとう」 歓声が舞い、拍手が轟いた。
 引き続いて、同じ会場で、親善卓球大会が行われた。
 伸一も出場し、熱戦を繰り広げた。
 皆の心に残る、楽しい思い出をつくりたかったのである。
 彼は、試合の合間には応援席を回り、旧正月であることから、年の若いメンバーに、
 「利是」と呼ばれる赤いお年玉袋を手渡していった。
 また、額に汗を浮かべて奮戦する選手の顔をタオルで拭いながら、励ましの言葉をかけた。
 親愛の情があふれた、その微笑ましい仕草に、場内のメンバーも思わず頬を緩めるのであった。
 その伸一に、一人の老婦人が「センセイ!」と声をかけた。
 彼は笑顔でこたえた。 「いやー、お元気そうでよかった。お会いできて嬉しい」
 この老婦人は、前年、日本での研修会に参加して、伸一の激励を受けた人であった。
 彼女は、たった一回、言葉を交わしただけの自分を、伸一が覚えていたことに驚き、絶句した。
 伸一は人と会う時には、相手を深く生命に焼き付ける思いで接し、全精魂を注いで励ました。
 また、そのあとも、その人を思い起こし、懸命に題目を送った。だから一度励ましただけの同志のことも、深く心に刻まれていたのである。
 大聖人は門下に対して、「あなたのことは、いつでも法華経、釈尊、日天にお願いしています。
 それは、あなたが法華経の命脈を継ぐ人であると思うからです」(御書1169㌻、通解)と仰せである。
 伸一は、会員を大事にすることこそ、広宣流布の命脈を護ることであると確信し、一人ひとりに激励を重ねてきたのだ。
 伸一のもとに、メンバーが次々とやって来た。 なかには、「幸せになったわが家を見てください」と言って、子どもや孫の写真まで持ってくる人もいた。
35  飛躍(35)
 記念撮影会の帰途、山本伸一は、九竜塘(カオルントン)にある香港会館を初訪問した。
 会館は、啓徳空港から車で十分ほどの高級住宅地の一角にあった。既存の屋敷を購入したもので、一九六六年(昭和四十一年)にオープンしていた。
 建物は二階建てで、一階には、約八十平方メートルのホールがあり、二階にも四つの部屋があった。さらに、敷地内には平屋の別棟もあり、庭には噴水もあった。
 翌日には、ここで香港広布十三周年の記念の式典が開催されることになっていた。
 伸一は、その準備にあたっていたメンバーらと勤行したあと、懇談のひと時をもった。
 「陰で黙々と準備にあたってくださる方がいるから、行事の成功があります。しかし、その苦労や努力は、誰も評価してくれないかもしれない。
 でも、嘆くことはありません。
 経文に倶生神のことが説かれているのはご存じですね」
 何人かのメンバーは頷いていたが、多くは訝しそうな顔をしていた。
 「倶生神は、常に私たちが何をしているかを見ている、同名と同生という神のことで、すべてを閻魔王に報告するというのです。一方が報告に行っている時は、一方が見張っているんです。
 そして、『今は会合の設営で汗を流しています』『お題目を唱えています』とか、『会合も、勤行もさぼりました』とか、一切合切、正確に報告されてしまう。ごまかしはきかないんです」
 笑いが起こった。
 「これは、自分の一念や振る舞いは、すべて生命に刻まれ、宿命となっていくことを示したものであり、因果の理法ということを象徴的に表現したものです。
 広宣流布のために黙々と献身すれば、人が讃えようが讃えまいが、それは自身の功徳、福運となります。
 反対に、不正や手抜き、また、怠惰や怨嫉は、いつか、自分がその報いを受け、苦しまなければならない。
 ゆえに、生命の因果の理法を確信し、生涯、水のように、雪のように純粋な信仰を貫き、幸福の王者になってください」
 通訳が伸一の言葉を訳すと、皆、白い歯を見せて頷いた。
36  飛躍(36)
 香港滞在三日目となる一月二十八日、香港広布十三周年の記念の集いが香港会館で盛大に開催された。
 この一月二十八日は、十三年前、山本伸一が香港に第一歩を印した日である。そして、この日、座談会を開催し、その席上、香港地区が結成されたのだ。
 十三年の間に、香港の広宣流布は大きな進展を遂げた。だが、それは一日一日の真剣勝負の蓄積にほかならない。
 文豪トルストイは記している。
 「この世における使命を完うせんがために、われわれの仕事を明日に繰り延べる事なく、あらゆる瞬間において、自己の全力を傾注して生きなければならない」
 香港のメンバーは、まさにその決意で、日々、走り抜き、それが広宣流布の大飛躍をもたらしたのである。
 記念の集いでは、伸一の導師で、厳粛に勤行が行われた。
 そして、香港の幹部らの話に続いて、伸一があいさつに立った。
 彼は、十年後の一九八四年(昭和五十九年)を香港の第二期の目標とすることを提案し、三つの指針を示したのである。
 「仏法即生活なれば、一人も漏れなく功徳の生活の実証を!」
 「健康で価値ある日々を送るために真剣な勤行を!」
 「二十一世紀を開く仏法哲理を心肝に染めるために教学の研鑽を!」
 それは、そのまま、未来へと旅立つ友の、固い決意となったのである。
 そのあと、会館の庭で祝賀会が催された。
 伸一と峯子は、メンバーで用意してくれた、祝賀の時に着るという中国服に着替えて庭に出た。伸一は青、峯子は白である。二人は、メンバーの真心に応えたかったのである。
 その姿を見た参加者から、「ワーツ」という歓声があがった。
 伸一は語りかけた。
 「ありがとう! 私たちも香港の一員になりました。今日は、楽しく、有意義な、仏法家族の一日にしましょう」
 庭園の一角には、屋台が用意され、中華料理はもとより、マレーシア料理、インド料理、また、おでん、寿司などもあった。
 皆、満面に笑みを浮かべ、料理に舌鼓を打ちながら、歓談した。
37  飛躍(37)
 香港会館の庭では、アトラクションが行われることになっていた。
 山本伸一と峯子は、ステージの正面に座った。
 やがて、司会の女子部員の、はつらつとした声が響いた。
 「待ちに待った山本先生をお迎えすることができ、感激でいっぱいです。私たちの喜びの演技をご覧ください!」
 演目の最初は、後継の決意を勇壮な動きに託した、男子部による獅子舞であった。
 続いて赤と黒の衣装に身を包んだ女子部が、名月を眺める喜びの踊りを披露。さらに、少年・少女部の合唱と続いた。
 高・中等部は、故郷に帰ってきた親しい人と会えた喜びをドラマ風に表現した、創作舞踊「幸福年」を演じた。
 扇を手に、春の訪れを祝福する、優雅な女子部の舞もあった。
 伸一は一つ一つの演技に、賞讃を贈り続けた。
 真心には最大の真心で応える――それが生命の交流を深め、魂の絆を強めるのだ。
 最後に、女子部のメンバーが、日本語で「瀬戸の花嫁」と「古城」を歌った。その声に合わせ、伸一も、峯子も、一緒に歌った。
 合唱する乙女たちの目が潤んだ。
 師と仰ぎ、父と慕うその人が今、自分たちの歌声に合わせて、共に歌ってくれていると思うと、涙が込み上げてきてならないのだ。
 フィナーレは、出演者全員による「春が来た」の大合唱であった。
 歌い終わると、伸一は言った。
 「生命の歓喜と躍動にあふれた皆さんの明るい歌と踊りに、心から感動しました!
 すべての出演者、そして、陰で支えてくださった役員の皆さんに、せめてもの御礼として、今度は私がピアノを弾かせていただきます」
 歓声が舞った。拍手が轟いた。
 彼は、舞台の近くにあったピアノに向かった。
 「春が来た」の調べが響いた。そのメロディーに合わせて、再び大合唱が広がった。
 メンバーは皆、幸せの春を満喫していた。香港の同志の心には、歓喜の花が咲き薫っていた。
 春は、広宣流布の使命に目覚め、冬の試練に挑んだ勇者の胸にある。希望に燃えて突き進む「前進の人」の胸にある。
38  飛躍(38)
 ピアノを弾き終わると、山本伸一は言った。
 「今日は、少年・少女部をはじめ、未来部の皆さんが、本当に大奮闘してくださった。
 そこで、御礼の意味を込めて、一緒に記念撮影をしたいと思います」
 歓声とともに、嵐のような拍手がこだました。
 未来部のメンバーは前日の記念撮影会に参加できなかったので、その喜びは、ことのほか大きかった。
 いや、子どもたちだけでなく、壮年や婦人も、跳び上がって喜びを露にしていた。
 未来部のメンバーのなかには、親が字を書けないために、一緒に会合に行って指導や連絡事項などをノートに書いたり、御書の講義を筆記し、教学の勉強を親に教えてきた子もいた。
 そのなかで子どもたちは、信心の理解を深め、学会活動の意義や仏法のすばらしさを学び、吸収していったのである。
 また、″仏法の指導者である山本先生とお会いしたい″との思いを強くしていったのだ。
 そうした子どもたちの健気な姿を目の当たりにしてきた壮年や婦人は、伸一と未来部員との記念撮影が、わが事のように嬉しかったのである。
 長い間、募らせてきた、未来部員の「山本センセイ」への思いは、ここに結実したのだ。
 記念撮影のために、伸一の周りを囲んだ子どもたちの目は、キラキラと美しく輝いていた。
 「未来は、君たちの心にある。しっかり勉強して、できる限り大学に行くんだよ。二十一世紀を頼むよ」
 伸一は、そう語りかけながら、共にカメラに納まった。
 ――以来、三十余年。この時の未来部員の多くが、大学に学び、社会のリーダーとなり、また、香港SGI(創価学会インタナショナル)の組織にあっても中核に育ち、広宣流布の大きな推進力となっている。
 伸一は、このあと、屋台に向かい、裏方として奮闘した青年たちを呼び、手ずから料理を盛りつけ、一人ひとりに手渡していった。
 「多謝、センセイ!」
 青年たちは、笑みを浮かべ、目を潤ませ、伸一に言った。青年との交流のドラマは、いつまでも続くのであった。
39  飛躍(39)
 一月二十九日の午前、山本伸一は、図書贈呈のために、香港市政局公立図書館を公式訪問した。
 寄贈する本は、四千五百冊である。
 高政局が英文図書の充実を図ろうとしていることから、英文の図書が中心であったが、日本文学をはじめ、日本語の図書も数多く含まれていた。
 彼は、日本と香港の相互理解の道をいかに開くか、考え続けてきた。そして、その一つの結論が図書の贈呈であったのである。
 「善良な書物は生涯の後の生涯のために特に保存・貯蔵せられた卓越せる精神の貴い心血である」とは、イギリスの詩人ジョン・ミルトンの宣言である。
 良書を贈ることは、不滅の精神を贈ることであるといえる。
 しかも、それぞれの地域の歴史や民族性などについて書かれた書物は、相互理解を図るうえで、最も有効な贈り物といえよう。
 香港市政局公立図書館は、スターフェリーの埠頭に近い、十二階建ての市政局大会堂にあった。
 伸一たちを迎えてくれたのは、著名な女性社会教育者でもある、市政局図書館事務委員会のE・エリオット主席の柔和な微笑であった。
 メガネの奥で、理知と優しさをたたえた瞳がキラキラと輝いていた。
 贈呈式は市政局の主催で、四階の資料図書室で行われた。
 初めに、伸一があいさつした。
 「私の青春時代は、ご存じのように戦争中であり、最も本が少なかった時代であります。
 そのころ読んだ本のなかに、『書物なき部屋は、魂なき肉体の如し』という、胸を刺すような一節がありました。
 私は深く共感し、書物を″文化の魂″として大切にしてきました。
 この贈呈が、少しでも親愛なる香港の人びとの英知と文化の糧になれば望外の喜びであります」
 そして、伸一から目録と何冊かの書籍がエリオット主席に手渡された。
 それを受けて、主席は美しい微笑を浮かべながら、穏やかな口調で謝辞を述べ始めた。
 「市政局を代表し、心から感謝申し上げます。この図書贈呈によって、日本と香港の人びとが相互理解を深め、一段と絆を強めるものになることは間違いありません」
40  飛躍(40)
 エリオット主席は、清らな青い目で、山本伸一を見つめながら言葉をついだ。
 「この本が、香港の読者にとって、あたかもご馳走をいただくのと同じように、知識と文化の糧になりましたならば、どれほど嬉しいことでしょうか」
 香港の人びとが教養と知識を身につけるための力となりたい――それが彼女の願望であった。
 図書の贈呈式を終えた伸一は、図書館長の案内で三階の成人図書室、二階の児童図書室などを見学した。
 そして、市政局主催の昼食会に出席し、エリオット主席らと、日本と香港の文化交流について語り合った。
 伸一は、なぜ文化交流を進めようとするのか、自らの信念を述べた。
 「私は仏法者です。仏法は、平和と文化を創造する哲理であります。したがって、人類の幸福と世界の平和を築くために、文化交流の先端を担っていくことこそ、私の使命であると思っております」
 さらに彼は、現代にあっては、人間の″精神の荒廃″という問題が、極めて重要なテーマとなっており、その解決の一つの道が良書との出合いであると語った。
 すると、同席していた図書館の職員が言った。
 「良書を読むことは、人格を陶冶することにつながると思います。中国には、いかに多くの財を蓄えても、読書し、学問を身につけることには及ばないという考え方があります。
 あなたのお話こそ、その本質です」
 語らいは弾んだ。
 日本は、かつて香港を占領しただけに、人びとの反日感情も強い。その心の壁を超え、憎悪を友情に変えるには、人間と人間の相互理解を図るしかない。平和といってもそこから始まるのだ。
 そのために伸一は、文化交流の道を、懸命に切り開こうとしていた。
 彼は、この大会堂には博物・美術館、展示場もあることを聞くと、富士美術館との交流も検討したいと語った。
 さらに、エリオット主席の日本への紹聘を提案したのである。
 人びとの精神の世界を豊かにし、心と心を結びたい――伸一も主席も、同じ思いであり、魂と魂の共鳴音が広がる語らいとなった。
41  飛躍(41)
 香港市政局を後にした山本伸一は、そのまま、香港大学に向かった。
 彼は、創価大学の創立者として、学長でもある黄麗松(ウォン・ライチョン)副総長の正式招待を受けていたのである。
 当時の香港では、大学の総長には香港総督が就いており、副総長が実務の最高責任者であった。
 香港大学は、香港島の中腹にあり、海もよく見えた。尖塔をもつ、石とレンガ造りの校舎は、香港を代表する学問の府にふさわしい重厚なたたずまいであった。
 この大学は、一九一一年に創立された、香港初の総合大学である。
 医学部をはじめ、文学部、理学部などの学部があり、卒業生は、香港各界の指導者として活躍していた。
 また、東南アジア各国からの留学生も数多く学んでいた。
 伸一が訪問できた喜びを述べると、黄副総長は語った。
 「かねてより創価大学設立の話をお聞きし、創立者の来訪を心待ちにしておりました」
 黄副総長は、マレーシアの大学で学部長を、シンガポールの大学で学長を務めており、二十一世紀を担う新しい大学の在り方に、深い関心をいだいているようであった。
 語らいは短時間であったが、教育にかける情熱がとけ合う、親善交流となった。
 会見の最後に、副総長は言った。
 「できることなら、私も創価大学を訪問したいと思います」
 「ぜひ、おいでください。お待ちしています」
 二人は笑顔で、固い握手を交わした。
 このあと、伸一は、大学関係者の案内で構内を見学した。
 校舎を歩いていると、同行のメンバーが、感慨深そうに語った。
 「香港大学は伝統もあり、確かにアジアの星という感じがしますね。
 それは、イギリスの強大な力を背景に、西洋の最も進んだ学問を取り入れることができたからでしょうね」
 それを聞くと、伸一は言った。
 「もちろん、それもあるが、実は、私は別の面にも着目しているんだ。
 それは、この香港大学の、洋の東西を超えた深い師弟の絆なんだよ。教育の原点は、どこまでも人間と人間のつながりだからね」
42  飛躍(42)
 山本伸一は、同行のメンバーに語った。
 「中国革命の父・孫文が、香港大学の前身である西医書院で医学を学んだことは知っているね」
 皆が頷いた。
 「孫文は西医書院を卒業したあと、一八九五年に広州で清朝打倒を計画したが、失敗に終わる。
 そして、日本に亡命し、その後、アメリカからイギリスのロンドンに渡り、西医書院で外科の主任教授を務めていた恩師のカントリーを訪ねている。
 カントリー先生は、下宿先を紹介し、あれこれと面倒を見てくれるが、孫文は清国公使館に監禁されてしまう。本国に送り返されれば、待っているのは処刑だった」
 この時、師は弟子のために、敢然と立ち上がったのだ。英国で清国が政治犯を逮捕することは不法であるとして、外務省に訴えるとともに、新聞社にも連絡した。
 師の戦いによって、清国公使館を糾弾する世論がつくられ、孫文の監禁は解かれたのである。
 伸一は言った。
 「カントリーは孫文が知らないところで、弟子のためにありとあらゆる手を打っていた。
 師というのは、ありがたいものだ。私も弟子のためならば、自分が犠牲になってもよいという思いで、日々、懸命に戦っている。
 民族を超えた、こうした師弟の心が脈打っていたからこそ、香港大学の発展があったと思う」
 さらに、伸一は、教育学部の主任教授とも、研究室で、人間性を基調とした教育理念などについて意見を交換した。
 その折、伸一は、大学で教育を受けた者は、民衆に尽くす義務があり、その心を育むことの重要性を訴えていった。
 「聡明さや才能の大きなものは大きいだけ、その能力の限りをつくして、千万人のために服務し、千万人の幸福をはからなければならない」とは、孫文の信念である。
 伸一の訪問によって、この日、香港大学と創価大学の友好の第一歩が踏み出されたのである。そして、一九九一年(平成三年)には、学術交流協定が結ばれている。
 また、九六年(同八年)には、教育をはじめ、文化、世界平和への伸一の貢献に対して、同大学から、名誉文学博士の称号が贈られている。
43  飛躍(43)
 翌三十日、山本伸一は香港のもう一つの名門大学として知られる、新界(サンカイ)にある香港中文大学を訪問することになっていた。
 新界は広東省に接する地域で、山がそびえ、田園地帯が広がっていた。
 人の行き来の激しい九竜を出て、車で新界を北上していくと、右手には海が広がり、左側には九竜と中国の広州を結ぶ、九広鉄路(鉄道)が走っていた。
 「一口に香港といっても、この辺りは、全く別の顔をもっているね」
 車中、伸一は、同行していた香港男子部長の梶山久雄に言った。
 「はい。香港島にはヨーロッパ的な、九竜には中国的な情緒がありますが、新界には未来性があります。
 新しい工場や高層アパートも建ち始めています。でも、自然も豊かで、山や田園、漁村もあります。
 香港中文大学も、美しい海を見下ろす高台に立ち、風光明媚なすばらしい環境にあります」
 「君は、香港中文大学に留学していたんだね」
 「はい」
 梶山は、一九六四年(昭和三十九年)に、交換留学生として香港中文大学に留学した。
 六六年(同四十一年)に、機関紙「黎明聖報」が創刊されることになると、その編集に携わり、大学卒業後も、東洋広布をわが使命とし、職員となって香港に残ったのである。
 彼は、改まった口調で伸一に尋ねた。
 「先生、ご指導を受けたいことがあります。香港の広宣流布に生き抜いていく決意の表明として、中国名をつけたいと思っておりますが、いかがでしょうか」
 梶山は、中国人の自覚で、香港の平和と人びとの幸福のために、生涯を捧げていきたいと心を決めていたのだ。
 彼が中国名をつけようと思い始めた契機は、彼の「梶山」という名前にあった。「梶」という字は、中国では使われていなかった。
 中国人の友人から、何度も「この字はなんと読むのか」「どういう意味か」と聞かれたのである。 また、字が読めないから、名前も覚えてもらえないことが多かった。
 そこで″自分は香港の土となるのだから、中国名を名乗ろう″と考えるようになったのである。
44  飛躍(44)
 山本伸一は梶山久雄の相談に、香港広布に生きようとする彼の真剣さを感じた。
 伸一は答えた。
 「中国名を名乗り、香港の人になりきろうというんだね。いいじゃないか。大事なことだ。
 ″腰掛け″のつもりでいたのでは、その地域の広宣流布を本当に担うことなどできない。骨を埋める覚悟がなければ、力は出せないものだ。
 君が本気であることが嬉しいね。ありがとう! ところで、名前は考えているのかい」
 「はい。『レイ・ゴンホン』です。『レイ』は姓で、李白の『李』と書きます。『ゴン』は広宣流布の『広』で、『ホン』は健康の『康』です。日本語読みでは『李広康』となります」
 「いい名前だね」
 梶山は嬉しそうに微笑を浮かべた。
 伸一は尋ねた。
 「それで、奥さんの名前はどうするんだい」
 「妻ですか……。妻の名は、まだ考えていませんでした」
 笑いながら、伸一は言った。
 「君だけ中国名で、奥さんが日本名というのも変な話じゃないか」
 伸一は、少し考えて、口を開いた。
 「『妙玲』というのはどうかな。妙法の『妙』に、玉などが美しい音で鳴るという意味の玲瓏の『玲』の字だ」
 梶山は、感嘆の声をあげた。
 「すばらしい名です。広東語では『ミウレン』となります。妻も、きっと喜びます。ぜひそうさせてください。
 中国では、妻の姓も夫とは別にありますので、姓は″こざとへん″に″東″と書く『陳』にしたいと思います。
 『陳』は中国人には大変に多い姓です。広東語では『チャン』と発音します」
 「『チャン・ミウレン』か。いい響きだね」 梶山は真剣な顔で、言葉をついだ。
 「先生。実は私だけでなく、香港の主な日本人メンバーは、皆、中国名をもつ考えでおります」
 「私も大賛成です」
 広宣流布を担おうとするならば、己のいるその場所で、深く、深く、根を張ることだ。信頼を勝ち取ることだ。
 そうすれば、いかなる断崖絶壁であっても、いつか必ず勝利の花を咲かせることができる。
45  飛躍(45)
 九竜を発ってから四十分ほどで、山本伸一の一行は、香港中文大学の近くに着いた。
 伸一たちは、コーヒーショップに入り、昼食をとった。その店からは、丘陵地帯に広がるキャンパスを一望できた。
 香港中文大学の創立は一九六三年(昭和三十八年)である。創価大学より八年先輩になるが、まだ、大学建設の草創期にある若い大学である。
 香港大学が英語で授業を行うのに対し、香港中文大学は、主に中国語で授業が行われ、特に中国・アジア研究に力を注いでいた。
 午後二時前、大学に到着した伸一は、早速、大学本部の貴賓室で、学長である李卓敏(レイ・チョクマン)副総長と会談した。
 副総長は、親しみ深い微笑を浮かべ、バイタリティーにあふれた大きな声で、伸一の訪問を喜んでくれた。
 伸一は、あいさつが終わると、単刀直入に自分の信念を披瀝した。
 「今日は、率直に、私の心情を語らせていただきたいと思います。
 来るべき二十一世紀を『戦争の世紀』から『平和の世紀』へと転じていかなければならないというのが、私の考えであり、誓いでもあります。
 真実の平和とは、優れた教育と人間文化を根底にしてこそ、初めて成り立つものです。
 ゆえに私は、教育と文化に人生をかけようと決意しております。創価大学をつくったのもそのためです」
 伸一の言葉には、強い気迫があふれ、情熱がほとばしっていた。
 彼は、日本と香港の、そして、アジアの未来のために、実りある対話をしようと懸命であった。
 「未来を創造するためには、現在、何かを準備しなければならない」とは、フランスの哲学者ベルクソンの言葉である。
 伸一が語り始めると、副総長は身を乗り出し、メガネの奥の目を一段と輝かせた。
 李副総長は、香港とアジアの未来に思いを馳せ、教育事業に全精魂を傾けてきた偉大な教育者であった。
 それだけに、教育・文化をもって、恒久平和の道を開こうとする伸一の話に、強く共感したようだ。副総長は、全く同感であるという顔で、何度も頷くのであった。
46  飛躍(46)
 山本伸一は、創大生のために、世界との交流の窓を開きたかった。
 彼は、李卓敏副総長を見つめて言った。
 「そこで、一つ提案があります」
 「提案」と聞いて、副総長は襟を正した。
 「相互理解の推進のために、創価大学と香港中文大学で、教員・学生の交換をし合ってはいかがでしょうか」
 瞬間、副総長の顔がほころんだ。
 「おお、すばらしい! 交流は大事です。ぜひ、実現しましょう。
 わが校は、既にアメリカのカリフォルニア大学、フランスのパリ大学、また、日本の大学とも交流しています。
 そこに創価大学が加われば、さらに新しい道ができることになります」
 賛同の意を表する副総長に伸一は言った。
 「そのためにも、まず教授の代表を創価大学にお招きしたい。
 その時には、ぜひ、大学で講演していただきたいと思います」
 「オーケー、オーケー。また、招聘に感謝します。香港と日本の教員・学生が交流することは、次の時代に向かって、友情と相互理解の橋が架かることです」
 「副総長のおっしゃる通りです。
 世界は一つです。人間は皆、同胞です。国家や民族、宗教、イデオロギーの壁を超えて、同じ人間として手を結び合わない限り、真実の平和はありません。
 私は、そのことを青年たちに実感してもらいたいのです」
 副総長は頷いた。
 「全面的に賛成です。断じてやりましょう」
 平和を願い、青年を思う二人の心は、高らかに響き合った。どちらも真剣であった。
 語らいは一時間近くに及んだ。
 伸一と李副総長のこの合意は、創価大学と香港中文大学の交流の起点となった。
 この年の秋には、創価大学として香港中文大学の教授を招聘。翌一九七五年(昭和五十年)三月には両大学の間で、学術交流協定が調印されるのである。
 これが今日、四十四カ国・地域九十六大学に広がった創価大学の学術交流協定の第一号となったのだ。創立者自らが切り開いた、世界交流の道であった。
47  飛躍(47)
 山本伸一は副総長との会見のあと、大学の事務局長らの案内で構内を視察した。
 清朝時代の陶磁器などを陳列した文物館、中国文化研究所や図書館などを見て回った。
 図書館は立派な建物で、学生たちが、真剣に読書にいそしむ姿が印象的であった。
 蔵書を見ると、日本語図書や日本に関する書物が少ないように思えた。
 伸一は、大学の関係者に言った。
 「今日は、香港中文大学とわが創価大学の交流の道が開かれた歴史的な日です。
 その意義を込めて、日本関係の書籍を、将来、必ず寄贈させていただきます。貴大学の日本研究のお役に立てれば幸甚です」
 この申し出に大学関係者は恐縮してこたえた。
 「ありがとうございます。先生のお心遣いに感謝いたします」
 事実、この年の九月には、千冊の図書が寄贈されている。
 さらに伸一は、ロビーで学生たちに声をかけ、自治会活動やアルバイトの様子、教授への要望などを尋ねながら意見交換した。
 彼は、教員や学生の交流が実現すれば、この学生たちも創価大学で学生生活を送るかもしれないと思うと、一層、親しみが増すのであった。
 彼の胸には、世界に開かれた創価大学の未来像が広がっていた。
 アジアをはじめ、世界各地の学生が、創価大学のキャンパスに集い、また、創大生が世界の大学で学びゆく姿である。
 次代を担う学生が世界市民の意識に目覚め、国境を超えた友情に結ばれるならば、それはそのまま、堅固な平和のスクラムとなる。
 文豪ゲーテは感動を込めて述べる。
 「青年たちが世界各地から集まって、善のために固い盟約を結ぶ以上にすばらしいことがありうるでしょうか」
 訪問は二時間ほどであったが、この時に掘られた友誼の泉は、未来を潤す交流の大河となるのである。
 また、香港中文大学は伸一の平和、文化、教育への貢献に対して、一九九二年(平成四年)には同大学として初の最高客員教授の称号を、二〇〇〇年(同十二年)には名誉社会科学博士の称号を贈っている。
48  飛躍(48)
 香港中文大学を初訪問した一月三十日の夜、香港島のホテルを会場にして、「東南アジア仏教者文化会議」の第一回代表者会議が開催された。
 この「東南アジア仏教者文化会議」は、「ヨーロッパ会議」「パン・アメリカン連盟」に次いで、前年の十二月、アジアを中心としたメンバーで結成されたものである。
 各国・地域の組織が連帯し、協力し合いながら、真実の仏法を根底にアジアの平和と民衆の幸福を築いていくため、香港のメンバーが設立を呼びかけたのである。
 その趣旨に賛同して、シンガポール、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ラオス、タイ、インド、スリランカ、オーストラリア、マカオなどのメンバーが参加を表明したのだ。
 そして、設立準備委員会が設けられ、議長に香港の周志剛が選ばれた。
 アジアでは、いまだ戦火が絶えなかった。
 ベトナム戦争は、前年の一月、「ベトナム和平協定」が調印され、アメリカの直接介入はなくなったものの、依然として戦闘状態は続いていた。
 また、カンボジアでもロン・ノル政権と解放勢力の争いは激化していたのである。
 さらに、中ソの対立は、ますます深刻化しつつあった。
 メンバーは、そのなかで、生命の尊厳と慈悲を説く仏法哲理を根本に、平和と人道のスクラムを組み、アジアを″幸福の園″に変えようとの決意を胸に、喜々として集ってきたのである。
 「宗教的情熱が向けられるべき唯一の目標は人類の幸福である」とは、詩聖タゴールの鋭い洞察である。
 会場に姿を見せた山本伸一は、開口一番、感慨深い顔で語りかけた。
 「遠くから、ようこそおいでくださいました。
 戸田先生は、東洋広布を、アジアの広布を熱願され、こう和歌を詠まれました。
 雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん
 その先生が、今日の会議の開催を聞かれたら、どれほどお喜びになられたか……。
 さあ、アジアの平和のために、新しい一歩を踏み出しましょう!」
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 「東南アジア仏教者文化会議」の第一回代表者会議は幕を開けた。
 開会の辞、世界各国からの祝電の披露などのあと、議長の周志剛があいさつに立った。
 彼は、この日を迎えた喜びを語ったあと、用意した声明文を読み上げていった。
 「われわれは、アジアの歴史に画期的な一歩を印したこの会議において、東洋の歴史に輝く仏法が、今再び、平和と繁栄を希求するすべての現代アジアの人びとの胸に、清新な潮流となってわき起こっていることを確認した。
 また、現代文明の帰結として叫ばれている人間という原点に回帰するには、人間生命がいかなるものかを説き明かし、一個の人間存在に真実の救済の光を当てた、仏法思想を根本とする以外にない……」
 声明文を読み上げる周の声は、時として、込み上げる喜びに震えた。
 ――彼は鹿児島生まれの日本人であったが、中国の広州で終戦を迎えると、中国人の妻と共に香港に来て、中国人として生きてきた。
 日中の戦争は、中国人の心に反日感情を刻み、周も日本人とわかれば、どんな危険が待ち受けているかわからなかった。
 だから彼は、子どもたちにも、日本人であることは告げず、家のなかでも、日本語はいっさい話さなかった。
 戦争が、彼と祖国日本を引き離したのだ。
 周は、その自分が、アジアに平和の光を注ぐために、「東南アジア仏教者文化会議」の議長として声明文を発表していることを思うと、自らの不思議なる使命に、胸が熱くなるのである。
 ″自分は、戦争の辛酸をなめてきた。こんな歴史を繰り返させてはならぬ。だからこそ、平和のために立つのだ!″
 周の声に、一段と力がこもった。
 「われわれは、この仏法思想を基盤として、東南アジアの友好と連帯に努め、広く人類の福祉と世界平和のために、力強い運動を展開していくことを誓う。
 とともに、その目的に同意するものであれば、他の宗教者といえども、ともに協力し、連携を深め、それぞれの国のよき市民として、真にその崇高なる理想の実現をめざしていくことを、ここに声明するものである」
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 この声明文を作成するにあたり、周志剛をはじめ、メンバーは、山本伸一にも意見を求めた。
 伸一は、人類の福祉と世界平和のためには、宗教の違いを超え、ともに人間として力を合わせていこうという考えに、心から賛同した。
 なんのために宗教があるのか――。
 人類の平和のために、人間の幸福のためにこそ宗教はあるのだ。決して宗教の権威や教義をもって、人間を縛りつけるためにあるのではない。
 人間こそ「原点」であり、「目的」なのだ。ゆえに、宗教も、国家も、イデオロギーも、人間を手段化することがあっては絶対にならない。
 また、人間の生命と平和を守るためには、宗教や国家、民族等々、あらゆる壁を超えて、同じ人間として結び合うべきである。
 それこそが人類の黄金律でなければならない――というのが、伸一の確信であり、信念であったのである。
 いや、それこそが、一切衆生に「仏」を発見し、万人の幸福をめざす仏法の結論であろう。
 周は、声明文の結びを読み上げた。
 「本会議は本日より、さらに一致協力して、アジアの地に輝ける平和と希望の光を掲げつつ、勇躍、力強い船出を開始するものである」
 読み終えると、賛同の大拍手が起こった。
 ここで会議は表彰に移り、広報活動や地域活動などで功労のあった四人の代表の名が、次々と発表された。
 このうち出版活動部門の代表に選ばれたのは、陳鮑美蘭(チャン・バウ・メイラン)という香港の婦人部員であった。
 日本語が堪能であった彼女は、「聖教新聞」などに載った学会の指導や体験等を、香港の機関紙「黎明聖報」に掲載するために、翻訳作業に従事してきた。
 また、通訳としても、大いに力を発揮し、日本での研修の折などには、大活躍してきた。
 その彼女の人生もまた、戦争という激浪によって、翻弄され続けてきたといってよい。
 鮑美蘭は横浜の中華街で生まれた。一家は祖父の代に中国から日本に渡り、中華料理店を営んだ。父も母も、日本生まれの中国人であった。
 だが、一九三七年(昭和十二年)七月、日中戦争が始まったのである。
51  飛躍(51)
 日中戦争が起こると、鮑美蘭の一家は、父と二人の兄を日本に残し、母の親戚を頼って香港に向かった。そして、マカオで暮らすことになった。
 日本に残った父親は、警察に連行され、何日にもわたって、厳しい取り調べを受けた。父は中国国民党に所属し、孫文とも交わりがあった。
 その後、父たちもマカオに来て、ここで家族が合流した。
 一九四〇年(昭和十五年)、一家は祖父の故郷である広東省に帰った。
 このころ、汪兆銘の南京国民政府がつくられていたが、日本軍の傀儡政権にすぎなかった。
 鮑美蘭は広東省で師範学校に進んだ。一年生の時に、国民政府の派遣で、日本領であった台湾の台北師範学校に留学した。
 台湾では、皇民化政策が進められ、日本語を徹底して学ばされた。
 ある時、留学生同士で道を歩きながら中国語で話をしていた。すると、二人の男性が近寄って来て怒鳴りつけた。
 「お前たちは、なぜ国語(日本語)を話さないのだ。国語で話せ!」
 そして、友人がしたたかに顔面を殴打された。
 自分たちの言語を奪われることは、魂を奪われるに等しい屈辱である。
 また、台湾も爆撃機による攻撃を受け、何度となく逃げ惑わなければならなかった。
 鮑美蘭が台北師範学校を卒業したのは、終戦の年の四五年(同二十年)三月であった。
 広東省に帰りたくとも、既に船はなかった。
 終戦を迎えると、台湾は日本の植民地から、中華民国の一省となった。また、南京国民政府は消滅してしまった。
 そのため、鮑美蘭は、官費の支給も受けられず、留学生の寮も出なければならなかった。
 幸い、母親が送ってくれた金があり、しばらく旅館で暮らした。だが、胃を悪くし、医者にかかったことなどから、持ち金は底をついた。
 彼女は途方に暮れた。
 その時、「うちに来なさい」と言ってくれたのが、台北師範学校の日本人の友人であった。ありがたかった。
 国を超えた人間の温かさ、友情の麗しさに、彼女は泣いた。
 ユゴーは叫んだ。
 「社会的危機に際して最後に吾人に残されたる言葉は(中略)それは友情という言葉である」
52  飛躍(52)
 鮑美蘭は、戦後間もなく、台北師範学校の事務職員に採用された。
 中華民国の一省となった台湾には「行政長官公署」が設けられ、立法も行政も司法も、一切の権限は、国民党の中央政府から派遣された長官に委ねられていた。
 一九四五年(昭和二十年)の年末から、日本人の引き揚げが始まり、台北師範学校には、中国大陸から教職員が来ることになった。
 鮑美蘭を寄宿させてくれた日本人の友人の一家も、日本に引き揚げていった。
 この友人は、後年、日本で創価学会に入会し、一九七一年(同四十六年)に美蘭と再会を果たすのである。
 美蘭は、終戦の翌年、台湾で結婚する。
 夫となる陳済民(チャン・チャイマン)は、広東省から台北帝国大学に留学していたが、彼も終戦とともに学費などの支給を打ち切られ、専売局で働いていた。
 彼は結婚を機に、妻の勤める師範学校の事務職員となり、二人の結婚生活は、学校の教職員宿舎から始まった。
 一九四七年(同二十二年)二月二十八日、台湾で暴動が起こった。「二・二八事件」である。
 ―大陸から来た「外省人」である行政長官は、絶大な権限を背景に、「本省人」つまり台湾人を排除していった。
 また、国民党の役人の横暴、不正が目立っていたのである。
 本省人の胸には、″戦争は終わっても、日本人に代わって外省人の統治が始まったにすぎない″という思いがくすぶっていた。
 その怒りが暴動となって爆発したのだ。
 当局はそれを武力鎮圧し、多くの犠牲者が出たのである。
 この事件で、本省人と外省人の対立の溝は、一段と深まっていった。
 広東省から来た陳夫妻の家の門にも、外省人が住んでいるという、攻撃目標の記号が付けられていた。台湾もまた、美蘭にとっては安住の地ではなかった。
 やがて娘が生まれた。
 ″安心して暮らしていきたい……″
 夫妻は広東省に戻ることにした。
 なんとか貨物船に乗り込むことができた。
 夕日を見ながら美蘭は、ただただ、平和を祈るのであった。
53  飛躍(53)
 陳夫妻が広東省の土を踏んだのは、一九四七年(昭和二十二年)の十二月であった。
 広東省には、陳済民の仕事はなかった。やむなく、香港の新界にある農場の管理人の仕事を見つけ、単身、働きに行くことにした。
 妻の美蘭と娘は、夫の父母の家で暮らした。
 やがて革命によって、中華人民共和国が成立する。共産党に敗れた国民党の指導者・蒋介石は、台湾に退いた。
 それだけに、台湾から帰ってきた美蘭は、スパイの疑いをもたれ、警戒の目が注がれた。
 ″ここも、私を幸せにはしてくれない。なぜ私には安住の地がないの。私が何をしたっていうの。どこに行けば幸せになれるのよ……″
 彼女は、自らの運命を呪った。
 香港の夫のもとに行こうと、パスポートを申請しても、なかなか下りなかった。
 美蘭が子どもを連れて香港に来て、夫の済民と共に生活を始めたのは、一九五一年(同二十六年)のことであった。
 台北帝大に留学していた陳済民は、日本語力を生かして、日本の通信社に勤務するようになった。
 だが、給料は安かった。妻の美蘭も日本の広告などを扱う会社に勤めたが、それでも生活は苦しかった。
 陳済民が、日蓮大聖人の仏法の話を聞いたのは、友人の周志剛からであった。
 陳は周に勧められると、素直に入信した。一九六二年(同三十七年)の八月のことであった。
 信頼する周が熱心に勧めてくれるのだから、悪い宗教ではあるまいと思ったのである。
 彼が一生懸命に信心に取り組むようになったのは、周が胃潰瘍を克服した体験を目の当たりにしたことからであった。
 ほどなく美蘭も信心を始めた。
 彼女は病弱で、心臓が弱く、めまい、動悸、息切れなどに苦しんでいたのである。
 半信半疑で始めた信心であったが、不思議なことに、一週間ほどで、めまいが治まり、動悸も息切れもしなくなった。
 「発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し」(『文底秘沈抄』)とは、中国の妙楽大師の言葉である。
 正法の力は厳然としていた。
54  飛躍(54)
 陳鮑美蘭は、信心を始めて一カ月後、九竜の立信(ラップション)ビルで行われた香港支部大会で、初めて山本伸一と会った。
 伸一は力強く訴えた。
 「幸福への決め手は、何があっても、負けることのない精神の強さ、価値を創造していく智慧、そして、喜びと希望にあふれた、豊かな心をつくり上げていくことにあります」
 そして、幸福も、平和も、すべて自分自身の生命の変革、人間革命から始まり、その道を示しているのが仏法であることを述べ、「香港を幸福の花園に」と呼びかけたのである。
 美蘭はハッとした。
 彼女は、どこに行けば幸福になれるのかを考え続けてきた。
 しかし、生まれた日本をはじめ、台湾にも、広東にも、安住の地はなかった。
 伸一の話は、その幸福がどこにあるかを、明確に示していた。
 ″幸福は、私自身のなかにあるのだ!
 どんな逆境にも負けない強い心を、価値を創造していける豊かな心をつくる以外にない。
 そして、皆が自分を変え、人間革命していくならば、社会の平和を実現することができる。
 必ず、この仏法をもって、香港を幸福の花園にしよう″
 御聖訓には「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野せんごくこうや皆寂光土みなじゃっこうどなり」と。
 彼女は、広宣流布に生きることを、深く心に誓った。そして、夫の陳済民と共に、懸命に香港広布に走った。
 やがて彼女は、日本語学校の教師の仕事に就くことができた。
 美蘭は、メンバーのために、日本での講習会をはじめ、さまざまな機会に通訳として奮闘した。
 さらに、香港の機関紙「黎明聖報」の発刊が決まると、御書や学会の指導の翻訳を引き受けてきたのである。
 彼女は、しみじみと思うのであった。
 ″激動の歴史に弄ばれてきたように思える自分の人生も、決して無駄ではなかった。
 日本語を学び、戦争の恐ろしさを体験してきた私には、香港の人びとの平和と幸福のために、大聖人の仏法を伝える使命がある。私の半生は、そのためにあったのだ″
55  飛躍(55)
 山本伸一は、会議の式次第が表彰に移ると、妻の峯子と共に表彰状を授与する周志剛議長の傍らに立った。
 そして、一人ひとりに拍手を送り、「おめでとう」「ありがとう」と声をかけていった。
 陳鮑美蘭に表彰状が手渡されると、伸一はひときわ大きな拍手を響かせて語りかけた。
 「黙々と頑張ってこられた、あなたの功労は永遠に光り輝きます。
 香港の宝です。おめでとう」
 彼女は、決意のこもった目で伸一を見つめて、「先生、ありがとうございます」と言い、深く、深く、頭を下げた。
 夫の陳済民は、満面に笑みを浮かべ、目を潤ませながら、手を叩き続けていた。
 彼にとって妻は、共に香港の人びとの幸福と平和のために戦う、いわば広布の″戦友″であった。
 彼女が、仕事、育児、そして、日々の信仰活動のうえに、翻訳や通訳に奮闘し、苦労を重ねてきたことを、陳済民は誰よりもよく知っていた。
 戦争の悲惨さを味わってきた陳夫妻には、″どんなに大変でも、香港の、アジアの、そして世界の、平和につながることならなんでもしよう″という、固く、強い、信念があった。
 表彰に続いて、伸一のあいさつとなった。
 彼は一言一言、かみしめるように語り始めた。
 「本日、東南アジアの各組織が文化会議として初の代表者会議を開催しましたが、連帯するということは、それぞれの力を何倍にも引き出すものであります。
 連帯があれば、互いに長所を学び合い、応援し合うことができる。ゆえに、連帯は希望となり、勇気となるのであります。
 また、結合は善であるのに対し、分断は、反目と憎悪、対立を深める悪となる。しかし、残念なことには、分断への流れが、世界の趨勢となっております。
 私どものスクラムは、国家やイデオロギー、民族によって分断された人間の心と心を結ぶためのものであります。
 この会議には、アジア、さらに人類の、連帯と結合の要となる使命があるのであります」
 人間を結ぼう。世界を結ぼう――それが伸一の切実な叫びであった。
56  飛躍(56)
 山本伸一を見るメンバーの目は、アジアの繁栄と平和を築きゆかんとする誓いに燃えていた。
 伸一は言葉をついだ。
 「『諌暁八幡抄』には『月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり』と仰せであります。
 仏法西還、東洋広布は御本仏たる日蓮大聖人の御予言であり、御確信であります。
 しかし、それは、決して自然にそうなっていくものではない。
 断じて『そうするのだ』という、弟子の決意と敢闘があってこそ、大願の成就がある。
 私どもが立たなければ、大聖人の御予言も、虚妄になってしまうのであります。
 仏法西還とは、仏法の人間主義に基づく平和の哲理を、アジアの人びとの心に打ち立てることです。そのために大事なのが文化の交流です。
 文化を通して、民衆と民衆が相互理解を深め合っていくことこそ、反目を友情に変え、平和を創造していく土壌となっていきます。
 そこに『東南アジア仏教者文化会議』の大きな使命があることを知っていただきたい。
 私も仏法者として、アジアの、そして、世界の平和のために、命の限り走り抜きます。平和の大闘争を開始します。見ていてください!
 本日は、その決意を披瀝させていただき、私のあいさつといたします」
 大きな拍手が轟いた。
 だが、この時、メンバーのなかには、世界の平和のために生命をなげうつことも辞さぬ伸一の覚悟を、知る人はいなかったといってよい。
 ただ、峯子だけが伸一の心のすべてを知り、深く頷いていた。
 メンバーは、一年を経た時、伸一の平和への偉大なる軌跡に、感嘆することになるのである。
 アインシュタインは高らかに宣言する。
 「私はただ平和主義者というのではなく、戦闘的平和主義者です。私は平和のために闘いたいと思います」
 伸一の本格的な平和の闘争が、いよいよ始まろうとしていた。

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