Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第18巻 「師恩」 師恩

小説「新・人間革命」

前後
2  師恩(2)
 「白糸会」の淵源は、一九六八年(昭和四十三年)の夏季講習会にさかのぼる。
 山本伸一は、広宣流布の未来を開くために、各地にあって、二十年後、三十年後の学会を支える皆の模範となる精鋭の人材を育てなければならないと考えていた。
 そして、この年の八月十日から始まった男子部の講習会参加者のなかから、各総合本部で一人ずつ、代表のメンバーを人選してもらった。
 伸一は、その際、役職は隊長で、年齢は二十五歳以下という条件を付けた。「鉄は熱いうちに打て」である。求道の息吹あふれる若き闘将たちの生命に、広宣流布の魂を打ち込んでおきたかったのである。
 メンバーは十日、男子部長らの面接を受け、翌十一日、再び集合するよう連絡を受けた。
 そこで、「今日、男子部を代表して、このメンバーが、山本先生と懇談会をもっていただくことになった」と聞かされたのである。
 皆、驚きを隠せなかった。彼らが喜びと緊張を胸に、バスで白糸研修所に向かったのは正午過ぎであった。
 研修所は、白糸の滝から数百メートルの場所にあった。
 先に到着した伸一は、研修所内の清らかな渓流のほとりで、皆の到着を待った。
 ほどなくして青年たちがやって来た。
 「ご苦労様! 待っていたんだよ。今日は一緒に釣りをしよう。ここにはマスがいるから」
 何本もの釣り竿が用意されていたが、彼らはすぐには、釣り竿に手を出そうとはしなかった。
 「遠慮しなくていいんだよ。私たちは、家族なんだ。
 どんどん釣りなさい。釣ったマスは、みんなで食べていいからね」
 伸一が、あえて釣りを勧めたのは、皆の緊張を解きほぐすとともに、思い出を残してあげたかったからである。
 青年たちは、釣り糸を垂れ始めた。
 あちこちでマスが釣れ、歓声があがった。
 「よし、頑張れ!」
 伸一は、声援を送りながら、見守っていた。
 心に鎧を着ていては、精神を通い合わせることはできない。対話を欲するならば、まず自ら胸襟を開け。人の育成は心の交流から始まるのだ。
3  師恩(3)
 しばしマス釣りに興じたあと、山本伸一は皆に言った。
 「では、仏間に行って一緒に勤行しよう。諸君の成長を祈ります」
 伸一の導師で、厳粛に勤行が始まった。
 伸一は、五十五人の青年たちの大成を懸命に祈った。長い真剣な唱題であった。
 勤行が終わると、伸一は同行の幹部に、皆に水を出すように頼んだ。
 「みんな、喉が渇いているだろうから、出会いの乾杯の意味も兼ねて、水を飲もう。
 水を飲んだら、順番に立って名前を言ってくれないか。一人ひとりのことを覚えたいんだよ」
 皆、喉を潤すと、元気に自己紹介した。
 伸一は皆の顔と名前を生命に刻印するように、じっと視線を注いだ。
 そして、青年たちに、自分の真意をぶつけた。
 「私の願いは何か。ただただ、令法久住です。
 真実の仏法を、広宣流布の流れを、そして、創価学会を、どうやって永遠ならしめていくかにあります。
 一時はどんなに隆盛を誇ろうが、やがて衰微してしまうようでは、なんにもならない。
 しかし、師弟があり、真の弟子が育っているならば、無窮の流れが開かれる。だから私は、諸君と会って、広宣流布の未来を託そうとしているんです。
 君たちは、各自の栄光の人生を築くために、どんな苦難にも負けずに、一生涯、信心を貫いてほしい。
 そして、まずは『七つの鐘』の『第六の鐘』が終わり、『第七の鐘』が始まる四年後の昭和四十七年(一九七二年)をめざしていただきたい。
 今日は、その出発の意義をとどめて記念撮影をします。
 四年後に、支部幹部等になって活躍している人には、この写真の裏に私が署名をします」
 それから研修所の玄関で記念撮影が行われた。皆、不退の誓いを込め、凛々しい顔でカメラに納まった。
 一瞬の決意が、人生を変える転換点となる。
 御聖訓には、「凡夫は志ざしと申す文字を心て仏になり候なり」と仰せである。
 まさに、この時の決意が、青年たちの生涯にわたる前進の原点となったのである。
4  師恩(4)
 写真を撮り終えると、山本伸一は呼びかけた。
 「このすぐ下に、小さな滝があるから、そこに下りて懇談しよう」
 空は雲に覆われていたが、青年たちの心は晴れやかであった。
 坂道を下りながら、伸一は言った。
 「こういう時は、意気揚々と、歌でも歌おうじゃないか」
 「はい!」
 元気な声がはね返ってきた。
 「よし、じゃあ″一高寮歌″を歌おう」
 鳴呼玉杯に花うけて 緑酒に月の影やどし
 最初は力強い歌声が響いたが、途中から聞こえなくなってしまった。
 歌詞がうろ覚えであったのだ。
 「しょうがないな。
 何事も中途半端ではだめだ。どんなことも、途中でやめてしまっては、なんの役にも立たない。
 物事は徹することだ。やり遂げることだよ。最後までやり遂げた人こそが勝利者なんだ。
 戦い続ける人が仏なんだ」
 それから伸一は、真剣な表情で語った。
 「私は、生涯、何があっても、命の燃え尽きる日まで、広宣流布の道を歩み抜きます。それが、私の誓いです」
 一つ一つが全精魂を傾けての訓練であり、青年にとって、大事な黄金の指導でもあった。
 滝壷には、幾筋もの白い糸を引いたような滝が静かに注いでいた。白糸の滝よりも、ずっと小さいものであったが、風情のある滝であった。
 周囲には緑の木々が茂り、小鳥のさえずりが聞こえた。
 河原にはキャンプファイアーの薪が組まれ、テントも立てられていた。
 滝壷に、一艘のボートがあった。
 「よし、ボートに乗ろう。一緒に乗りたい人はいるかい」
 「はい!」
 伸一が言うと、すかさず一人の青年が、勢いよく手をあげた。
 「では、君と乗ろう。ぼくがボートを漕ごう」
 ボートは、ギギィー、ギギィーと音を立てながら水面を進んでいった。
 青年は、いたく緊張している様子であった。
 伸一は、彼に、名前や家庭の状況、仕事のことなどを尋ねていった。
5  師恩(5)
 山本伸一とボートに乗った青年は、大阪の町工場に勤め、金属加工の仕事をしているという。
 伸一は、オールを操りながら言った。
 「仕事も、生活も大変かもしれない。しかし、君には君の使命がある。
 広宣流布のためのわが生涯であると決めて、自分を磨き、あらゆる力をつけていくことだ。そうすれば、人生は必ず開かれる。
 人と比較して、自分を卑下し、嘆くことなんかないんだよ」
 自分をつくれ、自分を輝かしめよ――そこにすべての成否の鍵がある。
 文豪・吉川英治も小説『宮本武蔵』のなかで、武蔵に次のように語らせている。
 「あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」
 伸一は、この青年の目が少し充血して、濁っていることが気になった。どこか体調を崩しているのかもしれない。
 「目が赤いようだが、疲れているのかい」
 「いいえ」
 「目は心の窓ともいわれるが、健康状態も目に現れる。いろいろな意味で、清らかで、生気はつらつとした目であることが大事だよ」
 伸一がボートを下りると、雨が降り出した。
 あらかじめ用意してあったテントの中で懇談することにした。
 スイカやマスの塩焼き、ふかしたジャガイモなどを食べながらの語らいであった。
 ほどなく、雨があがった。まだ明るかったが、組み上げられた薪に火がつけられ、キャンプファイアーが始まった。
 伸一は一人ひとりに声をかけ、仕事や家族のことなどを尋ね、皆の抱負や要望も聞いていった。
 本部の職員になりたいという青年もいれば、子どもが生まれるので名前をつけてほしいという人もいた。
 また、仕事で南米に行くという青年もいた。
 「そうか、頑張れ!君には世界広布の使命があるんだ。
 生涯、学会から離れてはいけないよ。
 みんな、どんなに辛いことがあっても、負けてはならない。私と共に生き抜こう!
 久遠の使命に結ばれた私たちだもの、師弟共戦の壮大な絵巻をつづろうじゃないか!」
6  師恩(6)
 山本伸一は、最後に、再び念を押すように青年たちに語った。
 「絶対に退転してはいけないよ。また、お会いしよう」
 全国から集った五十五人の青年たちの胸深く、飛翔の原点が刻まれ、その喜びは、若き世代に大きく広がっていったのである。
 それから四年の歳月が流れ、一九七二年(昭和四十七年)の夏が来た。
 伸一は、あの青年たちが、本当に自分のもとに集って来るのか、じっと見ていた。
 真実の師弟の道とは、師を求め抜く、弟子の強い志があってこそ、成り立つものである。
 メンバーは、懸命に学会活動に励みながら、伸一と再会できる日を、心待ちにしていた。
 だが、いつ、どこで伸一と会えるのか、具体的な話はないままに七月を迎えた。
 ″きっと、山本先生の方から、お話があるにちがいない……″
 多くのメンバーは、そう考え、受け身の姿勢で伸一から声がかかるのを待っていたのである。
 しかし、東北の一人のメンバーは考えた。
 ″このまま、連絡がくるのを、ただ待っているだけでよいのだろうか。それでは、弟子として、主体性も、自発性も全くないではないか。
 私たちの方から働きかけ、先生にお願いすべきではないだろうか……″
 「まずなによりも行動を起こせ!」と、ドイツの劇作家ブレヒトは戯曲に記した。
 東北のメンバーは、自分の思いを、連絡先を聞いていた東京のメンバーに伝えた。
 その東京の青年が、伸一との記念撮影の写真を持って、男子部の幹部を訪ねたのである。
 「先生は、昭和四十七年にまた会おうと言われて、その時に、支部幹部等で戦っていたら、この写真の裏に署名をしようと、約束してくださったんです」
 その報告を聞いた男子部長は、早速、伸一にメンバーとの再会を要望する一方、一人ひとりと連携を取ることにした。
 だが、困ったことに、メンバーの名簿がないのである。
 全国の各総合本部に連絡し、写真を手がかりにメンバーを捜し出してもらうしかなかった。
7  師恩(7)
 山本伸一は、四年前に白糸研修所で会った男子部のメンバーが再会を待ち望んでいることを男子部長から聞いた。
 「わかった。ぜひ、お会いしよう。
 この四年間は、激動の歳月だった。言論問題もあった。
 政治権力が躍起になって学会を攻撃し、一部のマスコミもそれに同調した。批判を恐れ、学会を離れていった人もいた。
 そのなかで、誓いを忘れずにいてくれたことが嬉しいね。
 人間の真価は、嵐がなければわからない。大聖人も『賢聖は罵詈して試みるなるべし』と仰せだもの。
 私は、試練を乗り越えて、私のもとに集おうとする青年の心意気を大切にしたいんだ」
 再会の日は、八月十三日と決まった。場所は四年前と同じ、白糸研修所である。
 しかし、メンバーのなかには、移転するなどして、なかなか消息がつかめない人も少なくなかった。開催日の前日になって、ようやく連絡が取れた人もいた。
 当日は、海外赴任や病気療養中の人などを除き、全国から五十一人が喜々として集って来た。
 この四年の間に、学会の組織はタテ線からヨコ線のブロック組織に移行していたが、かつての支部幹部に相当する、総ブロック幹部以上の立場で活躍している人は、三十六人に上った。
 人間には目標が必要である。「曖昧な的に向かって放たれた矢が当たるわけはない」とは、牧口初代会長の箴言である。
 漫然とした歩みには力はこもらぬが、目標のある人の歩みは力強い。
 師のもとに集うという約束を果たした勝者の顔は、一様に輝いていた。
 伸一は、四年前と同じように、滝壺のほとりにキャンプファイアーの薪を組んでもらい、できる限り、あの日を再現するようにした。
 ボートにも乗った。
 皆の原点となった四年前の誓いを、深く思い起こしてほしかったからである。
 この二回目の集いで、伸一は、メンバーを「白糸会」と命名した。
 また彼の詩集『青年の譜』を全員に贈り、白糸会の会合のたびごとに、伸一の印を押すようにし、前進の歩みの刻印としていきたいと語ったのである。
8  師恩(8)
 山本伸一は、この一九七二年(昭和四十七年)の懇談の折、土井晩翠作詞の中等唱歌「ウォーターロー」(ワーテルロー)の歌を、皆で歌うように提案した。
 この歌は、一八一五年に、ベルギー中部の町ワーテルローで行われた、ナポレオン一世率いるフランス軍と、イギリス・プロイセンの連合軍との、壮絶な戦いを歌ったものである。
 エルバ島を脱出し、帝位に復帰したナポレオンは、欧州の連合国との戦いを余儀なくされ、このワーテルローの戦いで敗北を喫したのだ。
 世界の歴史が変わった瞬間であった。ナポレオンの栄光の軌跡に、この時、ピリオドが打たれたのである。
 そして、彼はパリに戻り、二度目の退位をし、セントヘレナ島に流刑となるのだ。
 「ウォーターロー」はその戦いの激しさと、敗北したフランスの悲しき運命を歌っていた。
 渦巻く硝煙  飛び散る弾雨 万兵斉しく  大地を蹴って……
 最初に、伸一に同行してきた男子部の幹部が歌を歌って聞かせた。
 皆、初めて聴く歌であった。
 皆で何度か繰り返して歌ったあと、伸一は、一言一言、かみしめるように語り始めた。
 「二番の歌詞の最後に『運命非なり ああ仏蘭西』とあるが、フランス軍は敗れ、ナポレオンの最後は悲惨であった。
 しかし、学会は、断じて敗れるわけにはいかない。もしも、将来、学会が窮地に立ち至ったならば、その時こそ、諸君が立ち上がり、必ず活路を開くのだ。私は、常にそうしてきた。
 それが『白糸会』の使命だ。いかなる事態になっても、最後まで戦い抜き、学会を守り抜いてほしい。
 その決意に立った、これだけの勇者がいれば、学会は安心だ。これは私の遺言です。頼むぞ!」
 「はい!」
 皆の声が響いた。厳粛な語らいであった。
 また、この日、伸一は約束した。
 「いつの日か、ここに『白糸会の碑』を建てます。君たちの名前も刻みます。それまで一人も落ちるようなことがあってはならない」
9  師恩(9)
 最初の研修から第三回となる「白糸会」の集いは、一九七三年(昭和四十八年)八月三日、結成五周年記念総会として白糸研修所で開催されたのである。
 メンバーは、山本伸一の弟子として、生涯の誓いを立てる日にしようと決めて、「白糸の誓」と題する宣誓文を作成した。そして、皆が署名し、持参してきたのだ。
 この「白糸の誓」は三項目からなり、一項目では、学会の本流にあって学会を死守し、もし、学会が窮地に立ち至ったならば、それを好転させる使命に生き抜くことを誓っていた。
 二項目では弟子の道を全うすることが、そして三項目では不退転を貫くことがうたわれていた。
 伸一は、メンバーの成長を祈り、この日、句を詠み、贈った。
 師子の子は 今日も吼えたり 白糸会
 午後四時過ぎ、白糸研修所に到着した伸一は、まず、地元の同志が用意してくれた流しソウメンを、メンバーと一緒に食べた。
 「君たちと会いたかったんだ。よく来たな。たくさん食べるんだよ」
 伸一は、メンバーのために、自ら樋にソウメンを流した。
 そして、箸をとる青年たちに視線を注ぎながら、「みんな、よく成長した……」と、目を細めるのであった。
 それから、皆で滝壺に下りていった。そこには一回目、二回目と同様、キャンプファイアーの薪が組まれていた。
 「それでは、火をつけよう」
 伸一が言うと、青年の代表が火をつけた。薪は勢いよく燃え上がった。
 彼は、その火を見ながら、欧州統合の父クーデンホーフ・カレルギーの言葉を思い起こした。
 「青年は炎を持っており、その炎がなかったら、いかなる理念も光を発しないし、また勝利を占めることが出来ない」
 伸一は、力強い声で語り始めた。
 「燃え盛る炎は、君たちの闘魂の象徴だ。
 今は皆、真剣だろうし、広宣流布への情熱を燃え上がらせているにちがいない。
 大事なことは、一生涯、灰になって燃え尽きる時まで、自身を完全燃焼させていくことだ」
10  師恩(10)
 山本伸一は尋ねた。
 「では、ボートに乗ろう。この前、一緒に乗った人は来ているかい」
 「来ております!」
 こう言って、一人のメンバーが前に出た。
 この青年とは、前年にも、また、最初の集いの折にも、一緒にボートに乗っていた。
 「君とは三度目だね。みんなが″いいな、あれを悪乗りというんだ″と思っているよ」
 伸一のジョークに笑いが広がった。
 伸一は、この青年をボートに乗せ、自ら懸命にオールを漕いだ。
 その姿には″青年の成長のためには、なんでもしよう″という信念が満ちあふれていた。
 伸一は語りかけた。
 「きれいな目になったよ。君は、金属加工の町工場に勤めているんだったね」
 「はい」
 「長い人生には、さまざまなことがあるだろうが、自分の使命を果たし抜くことだよ。
 君が、どうなっていくか、私は、一生涯、じっと見続けていくよ」
 青年の目が潤んだ。自分の生き方を、見つめ続けてくれる師匠がいることが、たまらなく嬉しくもあり、ありがたくもあった。胸に沸々と勇気がたぎり立つのを覚えた。
 ボートを下りると、キャンプファイアーを囲んで食事になった。メンバーは、伸一と一緒に、マスの塩焼きや豚汁などに舌鼓を打った。
 やがて、野外研修が始まった。
 伸一は、この席で、また新たな提案をした。
 「諸君は、いよいよ三十代に入る。青年時代のなかでも、人生の基礎を完成させる、極めて大事な時代といえる。
 そこで、広宣流布をめざす自分の生き方、思想を確立する意味からも、また、後輩たちに範を示していくためにも、『僕の人生観』と題して、一人原稿用紙二十枚ぐらいで、原稿を書き残してはどうだろうか」
 文を書くことは、思想を深める。
 「世界を導いてゆくものは、機関車ではなくて思想である」とは、ユゴーの洞察である。
 思想が信念となり、行動と融合してこそ初志の貫徹はなる。
 伸一は彼らに、なぜ広宣流布に生きるのかを掘り下げ、自らの堅固なる人生哲学をつくり上げてほしかったのである。
11  師恩(11)
 この日もまた、山本伸一は、一人ひとりの仕事の様子や家庭の状況などを詳細に尋ねていった。
 子どもがいると聞けば、お小遣いやお土産を渡し、家庭教育についてアドバイスした。
 また、結婚が決まったという人には、結婚生活について助言した。
 そうした語らいのなかで、信心については、どこまでも謙虚に、求道心を燃やし続けていくことが大事であると訴えた。
 「幹部になり、慣れてくると、学会のことも、仏法のこともわかったような気になって、″こんなものか″と思い込んでしまう場合がある。
 しかし、それは求道心が乏しく、慢心になってしまったということなんです。
 たとえば、朝顔の花を見ても、″なぜ、こういう花の色になるのか″″原産地はどこなのか″など、淵源にまで遡って探究しようとする人がいる。
 その人は、朝顔から生命の不可思議さをも知り、自分は、まだまだ何もわかっていないのだと感じるはずです。いくらでも学ぶことがある。
 しかし、朝顔を一つ見て、″これが朝顔か。もうわかった″と思う人もいる。それは、人間としてまだ浅いんです。
 同様に、妙法蓮華経というのは、宇宙の根本法則であり、最も難信難解の法門なんです。
 それをわかったつもりになるというのは、『未だ得ざるを為れ得たり』と思う、増上慢の姿です」
 また、伸一は、勤行の大切さをあらゆる角度から語っていった。
 「職場や学会の組織のなかにあっても、人間関係をはじめ、さまざまな問題で悩むことがあるでしょう。
 しかし、どんな険路でも、エンジンが強力で快調であれば、車は前進することができる。
 このエンジンに該当する、何ものにも負けない挑戦と創造の原動力が勤行なんです。勤行し、しっかりお題目を唱えている人は、最強のエンジンがフル回転しているようなものです。
 人生には必ず悩みはある。大変だな、辛いなと思うことも、題目を唱え抜いていくならば、むしろ、成長のための養分とし、自身の跳躍台にすることができる。
 いやな上司や先輩だって、すべて善知識に変えていけるのが信心です」
 皆の顔が輝いた。
12  師恩(12)
 「白糸会」は、一九七二年(昭和四十七年)の第二回の集いから、毎年、記念総会として、皆が山本伸一のもとに集まるようにしてきた。
 ″自分たちは華やかな表舞台には立たなくともよい。しかし、学会になくてはならぬ存在 になり、常に師と共に戦い、生きる弟子でありたい″
 それが、彼らの決意であった。そして、七六年(同五十一年)には、その思いを託して、伸一に靴を贈った。
 彼らの心に感動し、伸一は歌を詠んだ。
  白糸の 君らの心 仰ぎみつ
  大地を踏みしむ 靴のうれしさ
 彼らは一途に求道心を燃やし、仏法の師を求め抜いた。総会といえば、海外をはじめ、遠隔地からも駆けつけてきた。
 「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」と大聖人は仰せである。
 宗門の悪僧によって、理不尽な学会攻撃が繰り返され、伸一が事態を収束するために第三代会長を退き、名誉会長になった一九七九年(昭和五十四年)――。
 それは、弟子が師匠を求めて、「先生!」と言って慕っていくことさえ、嫉妬の坊主から圧迫されるという、異常な状況がつくりだされていた時期である。
 そのなかで「白糸会」の勇者たちは、五月三日を記念し、弟子の誓いを届けたのだ。
 それに応えて伸一は、師弟の魂を注ぐ思いで、歌を贈った。
 白糸の 誓い忘るな 祈るらむ 君らはわが弟子 いざや立ち征け
 この年もメンバーは、神奈川文化会館にいた伸一のもとに、勇んで駆けつけてきた。
 伸一は、玄関でメンバーを歓迎した。
 「よく来たな。大勝利だ。みんな成長したな。
 本当の広宣流布の攻防戦が始まったんだ。これから面白くなるぞ!
 来年もまた会おう。私は元気だからな!」
 また、彼らは、大型台風が中部地方に近づくなか、長野県の松本平和会館にいる伸一のもとに集ったこともあった。
13  師恩(13)
 山本伸一は「白糸会」には最優先して出席するようにし、メンバーの育成に全力を注いだ。
 毎回、会うたびに、生命を揺さぶる思いで、入魂の指導を重ねた。
 「僕の人生観」に続いて、「私の確信の御書」というテーマで原稿を書くように提案するなど、文章の訓練も行った。
 幾たびとなく、共に食事もし、記念のカメラにも納まった。
 伸一の頭には、一人ひとりのことが、家族も含めて、鮮明に記憶されていた。いや、深く生命に刻まれていたのだ。
 「白糸会」の結成三十周年にあたる一九九八年(平成十年)八月、伸一は、七二年(昭和四十七年)の集いで約束した「白糸会の碑」を、原点の地である白糸研修道場(当時)に建てた。
 中央の石には、伸一の文字で「白糸会の碑」と刻まれ、向かって右側の石には、伸一が記した碑文が刻まれていた。
 「白糸会――その名に我が胸高鳴れり 遙かなる薫陶の夏 若き日の誓い忘れじ 君らが瞳の旭光は 我が心に常に燦たり……」
 そして、左側の石にはメンバー全員の名前が刻まれていた。
 今、「白糸会」は結成から幾十星霜の年輪を刻み、既に他界した人もいる。メンバーは、その分まで頑張ろうと、広布の第一線で、誇らかに晴れ晴れと活躍している。
 また、後継の子どもたちの成長も目覚ましい。
 メンバーの大多数は、いわゆるエリートではない。むしろ、庶民の集いといってもよい。
 「白糸会」には、見栄も格好もかなぐり捨てた土着の強さがある。実はそれこそが、真の人材たる要件といえよう。
 彼らの人生も、決して順風満帆ではなかった。大病を患った人もいる。経済的に苦境に立たされた人もいる。
 しかし、互いに連携を取り、励まし合い、切磋琢磨し合いながら、「青春時代の誓いを断じて果たそう」「山本先生の恩に報いよう」と、滝の如く撓まず、懸命に前進してきた。
 「友情は力を生み出す」とは、周恩来総理の卓見である。
 風雪を乗り越えて、遂に彼らは勝ったのだ。さらに人生の総仕上げをめざし、万里の果てまで、意気揚々と進みゆくことを伸一は祈った。
14  師恩(14)
 一九七三年(昭和四十八年)夏、山本伸一は、夏季講習会前期の最後のグループとなる女子部・文化本部のメンバーを激励すると、八月十一日(現地時間)にはハワイを訪問した。
 「終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」とは、日蓮大聖人の大宣言であられる。
 海外各国の「広布第二章」の新たなる飛翔のためには、入念な布石が必要であった。
 ハワイでは、オアフ島のホノルル市に完成した第二ハワイ会館の開館式などに出席したほか、マウイ島にも飛んだ。
 ここでは、伸一はマウイ会館の開館式に出席した。その折、マウイに支部が結成されたのだ。
 さらに、ホノルルに戻った伸一は、「パン・アメリカン連盟」の結成準備委員会に臨んだ。
 これまで、北・中・南米では、各国・各地域で独自の活動を展開してきた。しかし、日蓮仏法が世界宗教として興隆すべき時を迎え、国際化時代に対応していくには、その独自性のうえに協力態勢を必要としていた。
 各国代表からは、パン・アメリカン規模の機構を設立し、相互の連携を密にしたいとの要請が出されていたのだ。
 伸一も、その必要性を痛感し、かねてから構想を練ってきたのである。
 八月十八日、ホノルル市内のレストランに、北・中・南米三十カ国・地域の代表六十人が集って代表者会議が開かれた。
 席上、全員の賛同をもって、「パン・アメリカン連盟」が結成されたのである。
 設立の目的としては、広宣流布を推進し、信心の向上、教学の研鑽を図るために、互いに交流を深めていくことなどがうたわれていた。
 伸一が五月にフランスを訪問した折には、「ヨーロッパ会議」が誕生し、今また、「パン・アメリカン連盟」が設立されたのである。
 互いの国が真摯に学び合い、助け合い、切磋琢磨する時、幾倍もの智慧と勇気と希望とを共有することができる。結合は大力の母である。
 伸一が北・南米に平和旅の第一歩を印してから十三年――。
 いよいよ、日蓮仏法を基調とした平和と人道の波は、大潮流となって、南北アメリカに広がろうとしていたのである。
15  師恩(15)
 「行動こそが人生に価値を与える」とは、南米ベネズエラの文豪ガイェゴスの言葉である。
 夏季講習会の後半を終えた山本伸一は、間断なく、九月には神奈川、そして、北海道を訪問した。
 この北海道訪問で伸一は、戸田城聖が原水爆禁止宣言を行った記念日の八日、戸田の故郷・厚田村(当時)を訪れた。
 伸一の厚田訪問は、十三年ぶり三度目であった。
 厚田に着いた伸一は、戸田の親戚が営む戸田旅館を訪れ、懇談した。かつて戸田と宿泊した、懐かしい旅館である。
 このあと、厚田中学校に向かった。そこで、村の有志による「村民の集い」が行われることになっており、伸一は、招待を受けていたのである。
 会場の体育館の入り口に、山内悦郎という学会員の壮年が立っていた。厚田広布の草創期から、中核となって奮闘してきたメンバーである。
 戸田旅館で、厚田村の広宣流布が飛躍的に進んだという報告を受けていた伸一は、山内の顔を見ると、手を握り締めた。
 「ありがとう。厚田は勝ちましたね」
 山内は頬を紅潮させ、「はい!」と応えた。
 伸一が初めて戸田と共に厚田を訪れた一九五四年(昭和二十九年)の八月には、まだ学会員は誕生していなかった。
 その翌年の十二月、小樽から折伏に来た学会員の勧めで、山内夫妻ら数世帯が入会する。
 そして明くる年の一月、小樽の幹部を招いて座談会が開かれることになった。
 数人の小樽のメンバーは、早朝、汽車で小樽を発ち、札幌まで来ると、バスで石狩川の渡船場に向かった。
 しかし、猛吹雪のため、途中でバスは動かなくなり、雪上車に乗り換えた。
 渡船場まで来て、船で石狩川を渡った。そこから先は、歩くしかない。
 激しい吹雪は、やみそうもなかった。食堂に入って昼食をとり、決行か、中止かを検討した。
 厚田村は、まだ十数キロも先である。吹雪だけに、六、七時間は要することになろう。
 「厚田の同志が待っている。行こう!」
 皆の結論は「決行」であった。勇んで雪中行進を開始した。やがて、日が暮れた。声をかけ合いながら歩いた。
16  師恩(16)
 ″こんな吹雪のなか、小樽の人たちは、本当に来るのだろうか……″
 ″これでは、遭難の危険さえある″
 厚田村の学会員は心配していた。
 「迎えに行こう!」
 何人かが飛び出した。
 小樽の同志は、吹雪く闇夜を黙々と歩き続けていた。
 その闇のなかに、大きく揺れる明かりを見た。急いだ。
 近づいてみると、厚田村のメンバーであった。
 小樽の同志が叫ぶように言った。
 「わざわざ出迎え、ありがとう!」
 厚田の同志が応えた。
 「吹雪のなか、よくぞおいでくださいました」
 互いに、抱き合い、肩を叩き合って喜んだ。
 厚田の人たちは、広宣流布に生きる、同志の熱い心に触れた思いがした。それこそ、「学会の心」であった。
 小樽の同志の、情熱と気迫に突き動かされるように、この日の座談会では、参加した村人たちが次々と入会を決意し、新たに十人ほどの同志が誕生したのである。
 また、この座談会の席上、厚田村に、当時の最前線組織である「組」が誕生し、山内悦郎と妻の和子が組長と組担当員になった。
 入会一カ月で中心者となった山内夫妻は、どうやって布教を進め、同志を励ましていけばよいのかがわからず、手紙で戸田城聖に指導を求めた。
 戸田は、和子の親戚筋にあたっていた。
 すぐに戸田から『折伏教典』が送られてきた。それを貪るように読んでは、学会活動に励んだ。
 厚田村は戸田の故郷ではあっても、当時は、決して創価学会への理解が進んでいるわけではなかった。
 学会員は「戸田法華」などと嘲笑され、折伏に行けば塩をまかれることもあった。
 小さな社会である。学会に入れば、すぐに村中に知れ渡った。非難中傷を恐れて、入会をためらう人も少なくなかった。
 「厚田は、戸田先生の故郷ではないか。だからこそ、なんとしても、広宣流布の模範の天地にしてみせる!」
 厚田の同志は、そう誓い合い、歯を食いしばって戦い抜いた。吹雪のなかを、一歩、また一歩と進むように、粘り強く、厚田の広布を推進していったのである。
17  師恩(17)
 「さあ、出発しよう!
 悪戦苦闘をつき抜けて!
 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」
 民主と平和の大詩人ホイットマンは、こう高らかに呼びかけた。
 勇み戦う人の心は青年である。そこにのみ、新しき躍進がある。
 厚田の同志も、「悪戦苦闘をつき抜けよ」と、勇んで正義の大闘争を展開していった。
 彼らは、戦時中、軍部政府の弾圧で、師の牧口常三郎と共に投獄された戸田城聖が、獄中の悟達を経て勝ち得た、「広宣流布」という結論を、わが生命に刻んできた。
 戸田は決意する。
 「これでおれの一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ!」
 ここに創価学会の原点がある。学会の使命は広宣流布にこそあるのだ。
 広宣流布とは、万人に絶対的幸福への道を教える究極の聖業である。
 分断された人間の心と心を結び、この地上に、慈悲と平和の人間共和の社会を築き上げる未聞の大作業である。
 「情熱をもって君たちの使命を愛せよ。これより美しい事はない」とはロダンの卓見だ。
 大聖人は「一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」と仰せである。
 折伏を行ずる人は如来の使いであり、そこに真の仏道があるのだ。
 その時、仏の無限の智慧が、勇気が、歓喜が生命にあふれ、人生のいかなる苦悩をも乗り越えゆく、境涯革命がなされるのである。
 厚田の同志は、対話に対話を重ね、無理解を共感へ、不信を信頼へと変えていった。
 そして、戸田の生涯の願業であった七十五万世帯の大法弘達が達成された一九五七年
 (昭和三十二年)の年末には、厚田村の同志は八十世帯近くに達していた。
 年が明けた二月、戸田は山本伸一に、会員三百万世帯の達成とともに、一千万人の同志の誕生を遺言として託した。
 以来、伸一は、一千万人の平和と人道の確かなる連帯を築き上げることを、わが人生の戦いと考えるようになっていたのである。
 この戸田との誓いを、伸一は、片時も忘れることはなかった。
18  師恩(18)
 会員七十五万世帯の達成という広宣流布の誓願を果たし、一切の後事を山本伸一を中心とする青年たちに託した戸田城聖は、一九五八年(昭和三十三年)四月二日、その生涯の幕を閉じた。
 戸田の逝去の悲しみのなか、五月三日、東京・両国の国際スタジアム(後の日大講堂)で本部総会が行われた。
 厚田村からも代表が参加した。この席上、青年部の室長の山本伸一が、「七つの鐘」の指針を発表し、希望と勇気の前進を呼びかけたのである。
 ビクトル・ユゴーは叫んだ。
 「曙の光は立ちのぼるときは断じて立ちのぼる」と。
 厚田の同志は、深い悲しみの暗雲を破り、心に燦たる一条の光が走るのを感じた。
 ″山本室長は、厳然と立たれた! 弟子が立ち上がり、戦う時代が来たのだ。戸田先生が亡くなった今、先生の故郷に生きる、厚田の私たちが立ち上がらなくてどうするのだ!″
 メンバーは、誓いを新たにした。
 一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、山本伸一は第三代会長に就任する。そして、八月、彼は厚田村を訪問したのだ。同志の喜びが爆発した。
 メンバーの待つ戸田旅館に着いた彼は、開口一番、こう語った。
 「このたび戸田先生の弟子として、第三代会長になりました山本です。今日は先生の故郷に、会長就任のご報告にまいりました」
 皆、そこに、弟子の生き方を見た思いがした。
 伸一は、集った数十人の同志と歓談し、海岸を歩き、共に記念のカメラにも納まった。
 別れ際、彼は言った。
 「戸田先生の故郷の厚田は、私の第二の故郷です。また、私の世界への旅立ちの舞台です。
 どうか、皆さんで力を合わせて、私に代わって、ここに幸福の花園を築いてください」
 厚田の同志は、この言葉から、戸田の故郷を理想の広布の天地にするとともに、厚田村を断固として繁栄させたいという、伸一の強い、強い、思いを感じ取った。
 「私たちは、山本先生から、厚田の広宣流布を託されたのだ。山本先生に代わって、戸田先生の故郷を守り抜こう」
 厚田のメンバーは、固く誓い合うのであった。
19  師恩(19)
 厚田村は、次第に漁業も衰退し、人口も減少の一途をたどっていた。若者たちは、皆、都会に出ていったきり、戻ろうとはしなかった。
 そのなかで同志は、郷土の繁栄を祈りながら、意気揚々と広宣流布に走った。
 仏法対話は、千世帯ほどの村のほぼ全世帯に及んだ。いや厚田にとどまらず、石狩、札幌、小樽にも、拡大の波を広げていった。
 「たゆまず、休みなき努力によってこそ、『信念』は『豊かで揺るぎなき体験』に変わるのです」とは、マハトマ・ガンジーの箴言である。
 その「豊かで揺るぎなき体験」が、メンバーの仏法への確信を、ますます強く深いものにした。
 そして、その歓びが、さらに旺盛な行動力を生んでいったのである。
 当時、厚田の同志は小樽支部に所属していた。小樽での会合には、小型トラックなどで、出かけていった。
 石狩川では、車を船に積んで渡らねばならず、小樽まで三時間ほどかかる。夕方に急いで厚田を出発しても、着いたころには、会合は終わりかけていた。
 すると司会者は、「ただ今、厚田の同志が到着しました!」と劇的にメンバーを紹介し、会場は大拍手に包まれた。
 しかし、十五分もすると帰らなければならない。石狩川の渡船が終わってしまうからだ。
 再び「厚田の同志が帰ります!」と紹介され、「ご苦労さま!」「気をつけてな!」の励ましの声と大拍手に送られて、会場をあとにするのであった。
 この精神の連帯が、学会の世界なのである。
 短時間しか参加できないからこそ、真剣勝負であった。学会指導を、一言も聞き漏らすまいと、必死になって吸収していった。
 時には、渡船の時刻に間に合わないこともあった。そんな時は、石狩川上流の江別まで行って、大回りして橋を渡った。厚田に着くと、午前二時近くになった。
 だが、燃える心は、苦労も歓喜に変えた。
 吹雪にも敢然と胸を張り、歩みをとどめることはなかった。
 同志の徹し抜いた努力によって広宣流布は拡大し、一九六二年(昭和三十七年)八月には、厚田地区が結成された。
20  師恩(20)
 厚田のメンバーは、地域に深く根を張り、村の繁栄のために、一心に奮闘していった。
 次第に商工会の会長や理事、農協の理事、漁協の参事など、地域の責任を担って活躍する学会員も多くなっていった。
 一九七二年(昭和四十七年)には厚田総ブロック(現在の支部)が結成され、山本伸一を迎えた七三年(同四十八年)九月には、五大ブロック(現在の地区)、二百十三世帯の陣容に発展していた。それは、村の総世帯の約五分の一にあたっていた。
 真剣に地域に貢献する学会員の姿は、村の希望となっていった。
 山本伸一も、恩師の故郷を守ろうと、小・中学校への図書贈呈や、医師らの派遣などを懸命に推進してきた。彼は、ただただ厚田の繁栄を願い続けていたのである。
 この伸一の思いを知った厚田の人びとは、さらに学会を深く理解し、その指導者である戸田城聖を輩出したことに、強い誇りをいだくようになっていった。
 そして、伸一を招いて「村民の集い」が開かれるに至ったのである。
 彼は、村の方たちの、その深い真心が、嬉しく、ありがたかった。
 また、村のために、地道に頑張り抜いてきた同志たちを最大に讃え、励ましたかったのである。
 「村民の集い」の会場入り口で、伸一に「厚田は勝ちましたね」と声をかけられた山内悦郎は、頬を紅潮させてこたえた。
 「私たちは、戸田先生の故郷である厚田村の繁栄と広宣流布を願う、山本先生のお心に触れて、立ち上がったんです。
 これまで、辛い時もありました。苦しい時もありました。しかし、皆が″山本先生が見ていてくださる。先生ならどうされるか″と真剣に考えながら、心を合わせて頑張りました」
 心に師をもって戦う人は強い。広宣流布に敢然と突き進む師の心をわが心とする時、弟子もまた師の大境涯に連なり、無限の力がわくのだ。
 師弟の魂の結合に勝る団結はない。そして、団結の力が、新しき歴史を開くのである。
 「一滴の水も大海原に流れこむとき、底知れぬ力を持つようになるものです」とは、中国の文豪・巴金の生命の叫びである。
21  師恩(21)
 山内悦郎は、決意を込めて、山本伸一を見つめて言った。
 「これからも、さらに頑張り抜いて、この厚田村を、日本一すばらしい地域にしてまいります」 伸一の顔に微笑が浮かんだ。
 「嬉しいね。やりましょう。皆さんなら、きっとできます。私も、全力で応援します」
 体育館には、数百人の住民が集い、伸一を歓声と拍手で迎えてくれた。
 彼は、村長や漁業組合長をはじめ、一人ひとりに丁重にあいさつし、握手をしながら、場内を一巡した。
 集った人びとのなかに、見覚えのある着物姿の白髪の老婦人がいた。その瞳は、誇らかな輝きを放っていた。
 十三年前の八月、伸一が二度目に厚田を訪問した折に、歓迎してくれた三、四十人の学会員の一人であった。
 その時は、直接、言葉を交わすことはなかったが、大切な厚田の同志の顔を、伸一は眼に焼き付けていたのである。
 彼は、老婦人の側に行くと、彼女の手を取って言った。
 「また、来ましたよ。お会いできて嬉しい。よく頑張りましたね」
 伸一が手を握り締めると、老婦人は目に涙を浮かべ、「はい……」と言って頷いた。
 彼女は、菅野ミチといい、八十二歳であった。
 十五年前に入会し、五十人近くの一族に信心を教えてきたのである。
 菅野は、尋常小学校の三年までしか、学校へは通えなかった。
 しかし、向学心は旺盛で、大変な物知りであった。そのうえ、弁も立つことから、皆から「大学」という愛称で呼ばれていた。
 面倒みもよく、周囲の人たちは、「何かあったら、菅野のところへ行けば大丈夫だ」と言うほど信頼は厚かった。
 彼女は「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」との御文を心肝に染めていた。
 人は死を避けることはできない。財産も、地位も、この世限りのものである。
 仏法によって、生命が三世にわたることを知った彼女は、永遠の福運を積もうと、生ある日々を広宣流布に捧げ抜く決意をしていたのである。
22  師恩(22)
 菅野ミチは、山本伸一に言った。
 「先生、私はもう十年早く信心できたら、どんなによかったかと思うんです。今、それを取り返そうと、一生懸命に頑張っています」
 伸一は、微笑みながら応えた。
 「いえ、決して遅くはありませんよ。長く信心をしていても最後に後退してしまえば、福運を消してしまう。しかし、一番大事な総仕上げの時に頑張り切っていけば、立派に成仏できないわけがありません。
 どうか、健康で、うんと長生きしてください。そして、最後の最後まで、みんなを励ましてください」
 彼女は、童女のような笑みを浮かべ、何度も、何度も頷いた。
 ――菅野ミチは皆に慕われながら厳然と九十五歳まで生き抜いた。その臨終の相の美しさには、誰もが感嘆したという。
 「村民の集い」の開会に先立ち、伸一から、厚田中学校に百二十冊、厚田小学校に百九十冊の図書贈呈が行われた。
 彼は目録を読み上げ、それを、生徒と児童の代表に手渡した。
 この図書贈呈は、これまでに何度か行われてきたが、その契機となったのは、一九五四年(昭和二十九年)八月に、戸田が初めて伸一を伴って、厚田村を訪問した折のことであった。
 この時、戸田は、厚田小学校、厚田中学校の校長らと懇談した。
 その席で本が足りなくて困っていることを聞いた戸田は、寄贈を約束し、帰京後、何十冊かの図書を贈ったのである。
 陰で、その手配を進めたのは、伸一であった。
 両校では、この書籍を収めた本棚を、「戸田文庫」とした。その後、伸一も戸田に代わって図書贈呈を続け、各校数百冊に達していた。
 伸一は、目録を渡しながら言った。
 「これからも一生懸命に働いて寄贈させてもらいますから、しっかり勉強してくださいね」
 次いで、小学校五年生の少女が、代表してお礼の言葉を述べた。
 「跳び上がりたいくらい嬉しい気持ちです。みんなもきっと「声をあげて大喜びすることでしょう。この本を生かして必ずよい子に成長します」
 屈託のない喜びの言葉に、伸一は目を細めた。
23  師恩(23)
 山本伸一は、「村民の集い」で、児童のお礼のあいさつにこたえて、自作の詩「厚田村」を朗読することにしていた。
 この詩は、伸一が戸田城聖と共に、初めて厚田村を訪れた一九五四年(昭和二十九年)の夏、戸田の少年時代をしのんで詠んだ作品であった。
 朗読は関係者からの強い要請でもあった。
 彼は、マイクの前に進み出た。
 「何もできないものですから、せめてものお祝いに、十九年前に作ったこの詩を、読ませていただきます」
 伸一の朗々たる声が体育館に響いた。
 「厚田村 ――恩師の故郷に憶う
 北海凍る 厚田村 吹雪果てなく  貪しくも 海辺に銀の 家ありき これぞ栄ある わが古城  
 春夏詩情の 厚田川 鰊の波は 日本海 松前藩主の 拓きしか 断崖屏風と 漁村庭」
 皆、目を輝かせて耳を澄ましていた。なかには涙ぐむ人もいた。
 「厚田の故郷  忘れじと 北風つつみて 美少年 無名の地より 世のために 長途の旅や 馬上行」
 朗読が終わった。一瞬の静寂のあとに大拍手がわき起こった。立ち上がって手を叩く人もいた。
 かつてはニシン漁で賑わいを見せた厚田村も、今では、人口が減少し、村の前途は決して安泰とはいえなかった。
 しかし、厚田村の美しさをうたい、戸田城聖を育んだこの天地のもつ深い意義を明らかにした詩は、村民の誇りを呼び覚まし、郷土建設への勇気と希望をわき起こしていったのである。
 大聖人は「浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」と仰せになっている。
 その場所がどうなっていくかは、人間の一念によって決まっていく。
 人びとが正法を受持して、強く清らかな善なる心で、郷土の建設に取り組んでいくならば、いかなる地も、必ず常寂光土となることを教えているのが、まことの仏法である。
 伸一の胸には″厚田の友よ、負けるな!″との叫びがこだましていた。
24  師恩(24)
 続いてアトラクションに移った。
 小・中学生による童謡の合唱のあと、札幌のバンドのメンバーが友情出演して、「北海盆唄」などを演奏すると、手拍子が広がり、会場は一段と盛り上がりを見せていった。
 山本伸一は、そっと席を立つと、子どもたちをはじめ参加者に、励ましの声をかけながら、自らトウモロコシや菓子などを配って歩いた。
 村人たちは、伸一の、その人間味あふれる誠実な振る舞いを、驚いて見入っていた。
 権威と威圧によって飾った人間は、いかに立派そうに見えても、虚像にすぎない。素朴にして赤裸々な交流のなかに輝く人間性こそ、人間の真価といえよう。
 ここで、漁業協同組合の組合長から司会者に、「一曲、歌を歌いたい」との要請があった。
 組合長は、故郷の誇りである戸田城聖の愛弟子・山本会長を招いて、村民が一堂に会し、この楽しい「村民の集い」が行われたことが、嬉しくて仕方なかった。
 しかも、その山本会長が気さくに皆に声をかけ、励ます姿を目の当たりにして喜びが爆発し、歌わずにはいられなかったのである。
 彼は、フロアの中央に用意されたマイクに向かうと、「津軽おはら節」を歌い始めた。
 渋い喉である。皆、手拍子を打って、その歌に和した。
 歌い終わり、二曲目を歌おうとした時、喉が詰まり、声が出なくなってしまった。何度か咳払いをしても、かすれた声しか出なかった。
 すかさず、伸一が同行のメンバーに言った。
 「水を差し上げて!」
 水が届けられると、組合長は一気に飲み干し、神妙な顔つきで言った。
 「山本先生! どうもすいません」
 喉を潤した組合長は、今度は名調子で、北海道民謡の「ソーラン節」を歌い始めた。そして、さらに「いやさか音頭」へと続いた。場内には「アー、イヤサカサッサ」と掛け声が響いた。
 歌は、一曲の予定が三曲になっていた。
 歌い終えた組合長は、「どうも長くなって失礼しました」と言って、ペコリと頭を下げた。
 笑いと喝采に包まれた。伸一は、身を乗り出して拍手を送った。
25  師恩(25)
 「村民の集い」では、「青い山脈」など、懐かしい調べの大合唱や、民謡踊りが続いた。
 浴衣姿もワイシャツ姿も一緒になって、老若男女が幾重にも踊りの輪を広げた。どの顔にも喜びがあふれていた。
 山本伸一も、村の人びとと一緒に、合いの手を入れたり、手拍子を打つなどして、楽しい人間交流のひと時を過ごした。
 アトラクションを終えると、村長のあいさつとなった。
 「これまで山本先生には、厚田村を深く心にとどめていただき、図書の贈呈をはじめ、健康相談のために医師の方々を派遣してくださるなど、数々のご配慮をいただき、住民一同、深く感謝申し上げております。
 私たちの村を、これほどまでに愛し、守っていただける熱い真心に、御礼の申しようもございません。
 理想の郷土をつくるために、私たちは山本先生の生き方を模範として、必ずそのモデルケースをつくってまいります」
 伸一は、恩師の故郷・厚田村を″理想の郷土″にしようという村長の気概に、最敬礼して感謝の意を表した。
 最後に、伸一があいさつに立った。
 彼は、盛大な真心の歓迎に感謝を述べたあと、自分は東京育ちであることから、自然豊かな故郷を渇望していたことを述べ、こう呼びかけた。
 「美しき自然に恵まれた、この人間共和の村である厚田を、私は第二の故郷であると思ってまいりました。今後も、そうさせていただいてよろしいでしょうか」
 大きな賛同の拍手と歓声がわき起こった。
 「ありがとうございます。これほど嬉しいことはありません」
 戸田城聖は、故郷の厚田村に、誇りと、仏法で説く「国土」への恩を強く感じていた。
 よく「厚田の海と厳しい自然が、ぼくを育ててくれたんだ」と語っていた。
 伸一は思った。
 ″戸田先生がご存命ならば、どれほど厚田村に貢献されたことだろうか。その先生亡き今、弟子の私が師に代わって、厚田村を守り、繁栄の道を開いていこう″
 師の心を、わが心として生き抜く――それが、師弟不二の姿であり、伸一の誓いであった。
26  師恩(26)
 厚田村は、山本伸一にとって、恩師戸田城聖の故郷であるだけでなく、師弟の誓いの天地でもあった。
 ――一九五四年(昭和二十九年)の八月、伸一を連れて厚田村に帰った戸田は、海を見ながら伸一に言った。
 「ぼくは、日本の広宣流布の盤石な礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ!
 ……この海の向こうには、大陸が広がっている。世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯える子どもたちもいる。
 東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって」
 その師の言葉は、強く弟子の胸を打った。
 翌朝、伸一は、ただ一人、厚田の港に立った。
 そして、戸田の言葉を何度も反復しながら、込み上げる無量の思いを世界に放つように、海に向かって叫んだ。
 「先生! 東洋広布は伸一がいたします。世界広布の金の橋を、必ず架けます!」
 それは、彼の生涯にわたる世界広布への宣誓であり、師子吼であった。
 さらに伸一は、この地から人類救済の長征に旅立った戸田の黄金の軌跡をとどめた伝記小説『人間革命』の執筆を、心に深く誓ったのである。
 師弟の魂の地であるその厚田村は、今、多くの人びとの賛同の拍手に包まれ、伸一の第二の故郷となったのだ。
 ここで伸一は、自分が書いた小説『人間革命』が映画化され、この日、ロードショー公開されたことを紹介し、次のように語った。
 「今回、私は、恩師への映画完成の報告の思いで、厚田村を訪問いたしました。
 この映画には、厚田村の風景も収められております。
 そこで、いつの日か、この映画『人間革命』と、本日の『村民の集い』を収録した記録映画を、厚田村で上映できるようにしたいというのが、私の希望なのであります。
 また、私の願いは、この美しい自然そのものの厚田村が、いついつまでも、日本一、世界一の、人間性に満ちあふれた、清く、平和で幸せな村であっていただきたいということであります」
27  師恩(27)
 山本伸一は、あいさつの結びに、こう述べた。
 「皆様のご健康と安穏を心からお祈り申し上げます。とともに、また、必ず厚田村を訪問させていただくことをお約束し、私の御礼とさせていただきます」
 この日のあいさつで伸一が語った、映画「人間革命」と、「村民の集い」を収めた記録映画「人間共和のふるさと厚田村」は、訪問から約一カ月後の十月五日に、厚田村で上映されることになるのである。
 村の人びとは、大喜びであった。
 「村民の集い」が終わると、伸一は、教頭の案内で図書室を見学した。
 その一角に「戸田文庫」と書かれたコーナーがあり、幾つもの書架が並んでいた。これまでに、戸田と伸一が寄贈した図書を丁寧に管理し、大切にしてくれていることがよくわかった。
 厚田中学校の前は、伸一を見送ろうとする人びとであふれていた。
 伸一は、何人もの人と握手を交わし、そして、大きく手を振りながら言った。
 「ありがとうございました。皆様のご厚意は、生涯忘れません。私も厚田村を故郷とする者の一人として、厚田の未来を考えに考え、精いっぱい働きます。また、お会いしましょう」
 「汝の幸せを他人の幸せによって造れ」と叫んだのは、フランスの文学者ボルテールである。それは、まさに伸一の生き方でもあった。
 厚田中学校をあとにした彼は、″奇勝″として知られるルーラン海岸に向かった。
 海に突きだした岩が波によって穿たれ、小舟が通れるぐらいの穴が開いた珍しい景観である。
 ここは、厚田村の名所で、日本海に沈む夕日とともに見る風景の美しさは、よく知られている。
 伸一は、穴の開いた岩が見える海岸で車を降り、夕日に染まる日本海に立った。
 戸田が少年時代に、何度も目にしたであろうその風景を見ると、心が和んだ。
 まばゆい金波の上に輝く紅の太陽を見ていると、それが微笑む戸田のようにも見えた。
 「伸一、どこまでやるか見ているぞ!」
 彼には、戸田が、そう語りかけているように思えてならなかった。
28  師恩(28)
 ″青年のために道を開こう。生命を削って、青年を育てよう!″
 北海道訪問の三日目となる九月九日、山本伸一は、札幌市の北海道産業共進会場で行われた、第一回北海道青年部総会に出席した。
 総会の前には、「北海道青年センター」の開所式に臨んだ。
 この「北海道青年センター」は、札幌市内の羊ケ丘会館(当時)の別名である。青年部の全道的な中心として、この会館が使用されるようになったことから、こう名づけられたのである。
 その命名の意義も含め、この日、伸一を迎えて、改めて開所式が行われたのだ。
 伸一は、テープカットや記念植樹など、オープニングのセレモニーに出席すると、直ちに青年部総会の会場に向かった。
 「新開拓」をテーマに掲げた総会には、全道から男女青年部員が喜々として駆けつけ、会場は熱気に満ちあふれた。
 「新開拓」――とのテーマには、北海道広布の第二章は、断じて青年が担おうとの決意が込められていた。
 伸一が到着したころには、既に総会は始まっており、ほどなく彼の講演となった。
 伸一は、北海道は五年前の一九六八年(昭和四十三年)に開道百年の祝典が行われたが、その折のスローガンは「風雪百年輝く未来」であったことに言及した。
 そして、信心も、人生も、さまざまな「風雪」との戦いであり、北海道の青年部は、広宣流布の新しき開拓にあたり、この言葉を深く胸に刻んで前進していただきたいと訴えた。
 さらに彼は、当初、学者の間では、寒冷の北海道では無理であると言われていた稲作が、道庁の役人の指導のもとで成功に導かれていった史実を紹介し、こう語った。
 「私はここに、理論家と実践家の決定的な違いというものを見せつけられた思いがしたのであります。
 理論は大事なものであって、決して軽視すべきものではない。しかし、理論家たちが不可能と断定した稲作でも、実践家が立派に可能にしてしまった事実は、何を物語っているか。
 これは、万事にわたっての、まことに尊い教訓ではないかと、私は思うのであります」
29  師恩(29)
 理論家は、観念という尺度で現実を計る。その時、物事は抽象化してとらえられ、細部は切り捨てられてしまう。
 したがって、可能か、不可能かの結論も、至って単純に出されることになる。
 しかし、現実というものは、複雑多岐であり、しかも、事態は時々刻々と変化していく。
 実践家は、現場に足を運び、多様な現実に眼を向けつつ、改善のための試行錯誤を重ねる。すると、観念の眼では見えぬものが見え、新たな局面が発見される。
 不撓不屈の実践家にとっては、現実は決して固定的なものではなく、常に変化を重ねており、常に無限の可能性を秘めているのだ。
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「われわれの広宣流布という戦いも、北海道という地域の建設も、現実との格闘によって、初めてなされる壮挙なのであります。
 誰もが、不可能とあきらめてしまうことでも、やり方次第では可能となるのだという確信と、また、そうしていくための賢明さを身につけていただきたい。
 どうか、北海道の皆さんは、決して底の浅い虚栄の理論家になるのではなく、不屈の実践指導者になられんことを念願するものであります」
 さらに伸一は、北海道の開拓指導者を育成するために創設した札幌農学校から、クラーク博士の精神を継いで、実に多くの人材が巣立っていったことに触れた。
 「博士が教鞭を執った期間は、わずか八カ月です。短期間であっても、全身全霊を注ぎ込んだ仕事というものは、いかに大きな成果をあげるものか。これは、まさに、その見本です。
 こうして開かれたのが、この北海道の歴史であることを知っていただきたい。一念を凝縮した懸命な闘争は、未来永遠の光源となります。
 私も常に心血を注ぎ、真剣勝負で広宣流布の道を開いてきました」
 最後に伸一は、キリスト教精神に基づくクラーク博士の指導理念が、北海道開拓初期の原動力の一つとなってきたことを語った。
 そして、第二期の新開拓にあたって、その精神の柱となるものこそ妙法の生命哲理であると訴え、話を結んだのである。
30  師恩(30)
 山本伸一は、北海道指導に、まさに全身全霊を注いだのである。
 彼は、青年部総会に続いて夕刻には、北海道本部で行われた北海道女子部の部長であった嵐山春子の十三回忌法要に出席した。
 この法要は、六月に大沼研修所(当時)を訪問した折、女子部の代表と話し合って決めたものであった。
 その時、伸一は、北海道女子部の基礎を築き上げた嵐山の功績をとどめるために、彼女の歩みを記した追悼の書を発刊してはどうかと提案したのである。
 それに応えて、女子部の有志が、刊行委員会をつくり、さっそく準備に取りかかった。
 伸一も「嵐桜よ 永遠に」と題する一文を寄せた。嵐桜とは、嵐山春子を永遠に顕彰するために植樹した桜の名である。
 彼は、嵐山をしのびつつ記していった。
 「彼女は、北海道の草創期を、欣然と担ってくれた一人である。病身でありながら、妙法への帰命を決定し、ひたむきに、いさぎよく戦ってくれた。
 私は彼女に、限りない感謝をささげ、冥の照覧あるを信じたい。
 静かに目をつむると、折伏の法旗を高く掲げ、北海の原野を思う存分駆け回る、彼女のけなげな姿が、鮮明な像となってあらわれる。
 花の香ただよう春も 草いきれのする夏も かりがねの鳴く秋も 凍てつく冬も
 ……彼女の行動はとどまるところがなかった。ひとたび選んだ使命の道を、迷わず、惑わず、ただひたすら走ってくれたのだ」
 ペンを手にしながら、伸一は、あまりにも一途な嵐山の姿が思い返され、何度も目頭が熱くなった。
 彼女は、吹雪の日も御書を手に、留萌から羽幌や増毛に折伏に通った。
 「若い娘が法華でおかしくなってしまって」と村人たちから嘲られたこともあった。
 嵐山は、人間としての気高さ、尊さとは何かを考え続けてきた。
 そして、華やかさに憧れ、自分だけの幸せを求める生き方ではなく、人ぴとの幸福のために働くなかにこそ、最も尊い至高の人間道があると結論したのだ。
31  師恩(31)
 ″不幸な人に幸福の道を教えたい。妙法の哲理で人びとを救うジャンヌ・ダルクになりたい″
 それが、嵐山春子の決意であった。
 「友の幸福のために、尽くした分だけ、人は確実に偉大になる」とは、マハトマ・ガンジーの信念である。
 嵐山には人間としての哲学の″芯″があった。その″芯″をさらに確固不動のものとしようと、求道の炎を燃やし、広宣流布の師に、真っすぐに向かっていった。
 山本伸一が北海道に行くたびに、嵐山は必ず、「こうなりました」という勝利の報告をもって訪ねて来た。そしてまた、指導を求めるのである。
 伸一は、追悼の一文をこう結んでいた。
 「一瞬に永劫の未来を込め、私は再び爽やかな告別の歌を、新生の、地涌の讃歌を送りたい。
 嵐山さん、どうかおすこやかに。そしてまた、悲しみのなかから毅然と立った春子さんのおかあさん、妹さん、弟さん、お元気で――。
 あなたは再び″生″ある人として、広布の第二章の戦列へ、欣然と加わっていることだろう。かたみを宿す嵐桜は、永遠に、北海道の妙法回天の旅路を見続けることであろう」
 本のタイトルは『北国の華』であり、ライラックの花を思わせる清楚な紫色の装丁となった。
 そして、十三回忌法要のこの日に、発刊されたのである。
 伸一は、嵐山春子に限らず、広宣流布の途上に逝いた弟子たちのことを、決して忘れることはなかった。
 日々、追善を重ね、その功績を顕彰し、後世永遠に伝え残すことに心を砕いた。
 この日の法要で、彼は訴えた。
 「嵐山さんと私たちとは、広宣流布という使命に結ばれた同志です。その崇高な目的ゆえに、われらの絆は尊く、強く、深い、のであります。
 私どもは、同志として嵐山さんの志を受け継ぎ、広宣流布の大道を走破し抜いていかなければならない。
 それが、故人に報いる追善であり、また、あとに残った私たちの義務であり、使命であります」
 最後に、皆で題目を三唱した。
 師弟の天地たる北海道に、広布誓願の唱題が厳かに響いた。
32  師恩(32)
 九月十日、北海道から東京に戻った山本伸一は、十ニ日には、埼玉の大地を踏んでいた。
 上尾市の県立上尾運動公園体育館で行われた埼玉県幹部総会に出席したのである。
 彼は、「広布第二章」の成否を握る重要な地域の一つが埼玉であると考えていた。東京は広宣流布の本陣である。そしてその大東京を牽引していく原動力こそが、埼玉であると、伸一は確信していたのだ。
 だから彼は、埼玉の強化に力を注いできた。この年の二月には県幹部会に出席し、さらに七月にも県の代表幹部による最高会議に出席した。そして、「埼玉は、妙法のロワールたれ!」と呼びかけたのである。
 この年の五月、伸一はフランスのロワール地方を訪問し、緑の楽園ともいうべき、その美しさに大きな感動を覚えた。
 しかも、ロワールは絢爛たる歴史とロマンに彩られ、パリを動かす豊かな力と文化をもち、フランス・ルネサンスの源泉となった地である。
 また、伸一は、新生・埼玉の大発展を念願し、「鉄桶の団結」の指針も贈った。彼の広宣流布の未来展望は、埼玉の躍進にかかっていたのだ。
 県幹部総会の会場となった体育館の壇上には、「鉄桶の団結」の文字が掲げられていた。
 広宣流布という目的に向かって、それぞれが仲良く、はつらつと、力を合わせて前進する異体同心の姿は、それ自体が人間共和の実像であり、信心の勝利の実証である。
 わがままや慢心、嫉妬心が強く、自分中心の生き方をしていれば、皆と心を合わせ、団結することはできない。
 各人が「異体同心」を自身のテーマとして「鉄桶の団結」を築き上げるなかに、自らの人間革命がなされていくのだ。
 「団結は進歩の保証である」とはイタリアの革命家マッツイーニの叫びである。
 山本伸一は、この日の幹部総会で訴えた。
 「自身の輝ける歴史は労苦と敢闘によって創られる。それを、どれだけもつかが人間の財産であり、生きた証となる。
 ゆえに、忍耐と勇気と明朗さをもって、広布の開拓に喜々として取り組み、自身の人間革命の歴史をつくっていただきたいのであります」
33  師恩(33)
 ここで山本伸一は、歴史をたどりながら、民衆の力で、関東を一大穀倉地帯に変えた、利根川の治水工事について言及していった。
 江戸時代に河川の流路変更、用水路の開削などの難事業が行われたなかで、その最大の工事が利根川の東遷であった。
 江戸湾に注いでいた川筋を東に移し、現在の千葉県の銚子から太平洋に流し込むというものであった。
 この工事は文禄三年(一五九四年)に始まり、完成は六十年後といわれる。
 伸一は訴えた。
 「この難工事を指揮した武士は、親から子へ、子から孫へ――親子三代をかけて難事業に取り組み、成功させたのであります。
 川一本の治水にも、親子三代を費やした。いわんや、世界を潤す人間主義の大河をつくる私たちの広宣流布の運動には、どれほどのエネルギーと時間とが必要か。
 未来を見すえながら、後継者の育成に全精魂を傾けていただきたいのであります」
 また、埼玉は、古くから、江戸の経済や大衆の生活を支えてきた。「埼玉」あっての「江戸」であり「東京」であった歴史的事実に触れながら、伸一は、今後の埼玉の役割を語った。
 「もはや東京の一極集中の時代ではない。都市の分散にともなって、埼玉としては、どういう面を引き受けていくかという展望をもつ必要がある。
 埼玉は埼玉らしく、堂々たる大勝利の歩みを開始していただきたい。
 そのためには、東京が陥った経済主義、物質主義の弊害に巻き込まれてはならない。この埼玉の麗しき国土と県民性とを、豊かに守ることであります。
 そして、新しき型の生活環境を確保しながら、新しい精神環境を提供していける埼玉をつくっていただきたい。
 それが、これからの埼玉の最も大切な使命ではないでしょうか!」
 創価学会は社会の柱である。仏法では「治生の産業は皆実相と相違背せず」と説かれている。
 ゆえに伸一は、社会自体のめざすべき在り方を示し、その建設のリーダーたることを、わが同志に託したのだ。
 その指導は、まさに新生・埼玉の旭日となった。
34  師恩(34)
 山本伸一の連続闘争はとどまるところを知らなかった。
 九月の十三日には、関西・中国方面の指導のために大阪に向かい、十六日には、島根入りしたのである。
 島根は、ちょうど一年ぶりの訪問であった。
 その訪問は、「昭和四十七年七月豪雨」で甚大な被災を受けた島根の同志を激励するためであり、松江市で記念撮影会を行ったのである。
 この時、豪雨禍から二カ月がたっていたが、精神的に完全に立ち直るためにも、経済的な損失を取り戻すにも、まだまだ時間が必要であった。
 記念撮影会の折、伸一は参加者に提案した。
 「来年、この島根と、今回はお会いできなかった鳥取の皆さんで、一緒に文化祭を開催してはどうでしょうか。
 今回の豪雨のことを、全国の同志は、心配してくださっています。
 それだけに、来年は、元気いっぱいに文化祭を行って、『私たちは勝ちました。こんなに元気です』という姿を見せていただきたいのです」
 目標は、希望と勇気を燃え上がらせる。
 伸一の話に、同志の顔は見る見る明るくなり、賛同の決意は大きな拍手となって響き渡った。
 島根、鳥取の同志は、「文化祭には、全員が一段と成長した姿で、山本先生を迎えよう」と、懸命に折伏に、友の激励に走った。
 特に青年たちからは、はつらつと活動を展開しているという数多くの便りが、毎日のように伸一のもとに寄せられた。
 やがて、文化祭の日程も定まり、名称も「’73山陰郷土まつり」と決まった。演目は青年部の実行委員会で検討され、各地の踊りなどを中心に構成することになった。
 青年たちは、この文化祭を、郷土の豊かな伝統芸能を継承し、発展させる、新しき人間文化創造の飛躍台にしようと考えたのである。
 青年が何をなすか。そこに未来の一切がかかっている。
 ゆえに若人よ、君こそが明日を開く主人公なのだ。なれば、恐れなく挑め。堂々と胸張り、創造の大道を行くのだ。
 フランスの思想家シモーヌ・ベーユも誇り高く語った。
 「未来は待つべきものではない、作り出さなければならないのだ」
35  師恩(35)
 島根にも、鳥取にも、数多くの伝統芸能が光っている。
 しかし、残念なことには、過疎化が進み、発表の場も、機会も、至って少ないことなどから、青年層に受け継がれることなく、衰退の一途をたどっていたのである。
 学会の青年たちは、人間文化の創造という仏法者の社会的使命のうえから、伝統文化を保護し、社会貢献の新たな道を開こうとしていた。
 島根、鳥取両県の青年部は、この「’73山陰郷土まつり」をもって、地元の伝統文化の保護と宣揚の流れを開こうとしたのだ。社会への貢献は、仏法者の生き方の帰結である。
 演目には、郷土に伝わる「どう行列」「貝殻節」「しげさ節」「関の五本松」「さいとりさし」「田植えばやし」「安来節」などの民謡が選ばれた。
 それを各地域ごとに担当し、演じることになったのである。
 また、学会精神と若人の躍動を表現するため、男子部のマスゲームや音楽隊・鼓笛隊の演奏、女子部のリズムダンスなども行うことになった。
 伝統芸能については、各地の郷土芸能家などの協力を得ながら、練習を重ねていった。
 最終的に、出演者は千五百人、役員千人という、鳥取・島根の創価学会始まって以来の大規模な催しとなった。
 ″郷土まつり″は、九月十五、十六日の昼夜、合わせて四回にわたって公演され、来賓も、各界の識者や地域の有力者など、七百人を招待した。
 山本伸一は、十六日の昼の部に出席した。
 ″見事に苦難を勝ち越えた、健気な同志にお会いし、その敢闘を大賞讃したい!″
 彼は、勇んで会場の島根県民会館を訪れたのである。
 出迎えてくれたメンバーに、伸一は言った。
 「皆さんのお元気な姿を拝見しに来ました。この日を、一日千秋の思いで待ち続けていました」
 歓喜に満ちあふれた、待望の″郷土まつり″が始まった。
 舞台は「山陰の自然」「生命のふるさと」「郷土まつり」「希望の民衆舞」の四景に分かれ、漁師の力強い歌やコミカルな演技、勇壮なリズムの太鼓や優雅な踊りなどが、次々に披露されていった。
36  師恩(36)
 ″郷土まつり″には、親・子・孫の三代で出演したメンバーもいた。
 また、親は役員、二人の子どもは出演者で、家族そろって参加したという一家もいた。
 まさに、創価家族の歓喜みなぎる″郷土まつり″となった。
 「二十世紀梨」の産地として知られる鳥取の女子部によるリズムダンス「梨娘」では、最後に、麦わら帽子や布を頭に被った出演者たちが、手に梨の入ったカゴを持ち、観客に梨を配って回る一コマもあった。
 二階席の伸一のところにも、何人かの″梨娘″が、梨を届けてくれた。
 「ありがとう! おいしそうだね」と言うと、「はい!」と胸を張って答える姿が微笑ましかった。
 二番目に、彼に梨を差し出した女子部員は、目にいっぱい涙をためて、「先生!」と言ったきり絶句した。
 彼女の名前は高尾美代子といった。
 小児麻痺の後遺症をかかえながら出演し、見事に「梨娘」を演じたのである。
 その勝利は、姉と妹の励ましによって手にした青春の栄冠でもあった。
 ″郷土まつり″の二カ月前、鳥取の女子部でリズムダンス「梨娘」を行うことになり、メンバーの人選が始まった。
 女子部の本部長をしていた姉の真由美が、この部門の副責任者に決まり、妹の栄利子も出演することになった。
 そんな姉と妹を見て、美代子は、自分も出演したいと思った。しかし、彼女は、その思いを打ち消した。
 ″無理だわ。だって、手が自由に動かせないのだから……″
 美代子は一歳半の時、小児麻痺にかかった。
 微熱と高熱を繰り返す日が数日続いていた彼女を、当初、診療所の医師は風邪と診断した。
 しかし、ぼんやりとした目つきをし、右手がすっかり脱力している娘を見て、母親の隆枝は疑問に思った。
 母は美代子を連れて、別の診療所に駆け込んだ。だが、ここでも診断は要領を得なかった。
 隆枝は、医師から医師を渡り歩き、四軒目で、小児麻痺と告げられた。一九五三年(昭和二十八年)七月のことである。
37  師恩(37)
 小児麻痺――そう聞いて、母親の高尾隆枝は、打ちのめされた思いで、娘の美代子を背負い、炎天下の道を帰宅した。
 隆枝は、建築業を営む夫の照正に、娘が「小児麻痺」と診断されたことを伝えた。
 「なに! どんなに金がかかってもいい。もっと立派な病院に行って診察してもらってこい」
 夫も、美代子が小児麻痺ということが信じられなかった。いや、信じたくなかったのだ。
 隆枝は地元で一番大きな病院に行った。
 「小児麻痺ですな」
 医師から返ってきたのは、同じ言葉であった。認めたくない現実が再確認されたのである。
 即刻、入院となった。
 隆枝は、美代子に付き添い、小さなベッドの傍らで寝た。娘の将来を思うと、いたたまれぬ気持ちであった。
 ″腕も動かせないで、どうやって生きていくのだろうか。学校は、就職は、結婚は、どうなるのだろうか……″
 隆枝には、美代子の明るい未来は何も見えなかった。
 娘は不幸になるために生まれてきたようにしか感じられなかった。
 いたたまれない思いに襲われ、隆枝は、眠っている娘に語りかけた。
 「いっそのこと、母ちゃんと一緒に死のうか」
 可愛い、細い首に手を伸ばした。美代子は、無邪気な顔で、すやすやと眠っていた。
 その時、隆枝の腹部に軽い衝撃が走った。おなかには、新しい生命が宿っていた。その子が、時折、動くのである。
 彼女は、伸ばした手を止めた。必死になって生まれようとしている生命まで、奪うわけにはいかないと思った。
 やがて、美代子の病状の進行は止まった。しかし、麻痺した右腕の回復はないと言われた。
 美代子は退院したものの、隆枝も、夫の照正も、悶々としながら日々を送った。
 その高尾一家が入会したのは、一九五六年(昭和三十一年)の二月のことであった。
 どんな悩みも必ず解決できるとの、確信あふれる学会員の話に、美代子が幸せになれるものならと、信心を始めた。
 法華経には「是好良薬」(是の好き良薬)と説かれている。いかなる大苦悩にも打ち勝つ最高の良薬こそ仏法なのである。
38  師恩(38)
 四歳の高尾美代子は、朝晩の勤行の時には、父母と一緒にちょこんと仏壇の前に座った。左手だけをあげて祈る姿がいじらしかった。
 入会して一年ほどしたころ、針仕事をしている母の隆枝の後ろで、三女の美代子と、四女の栄利子が遊んでいた。
 むすんで ひらいて てをうって…………
 隆枝は顔色を変えた。単純な遊戯だが、栄利子にはできても、右手が麻痺した美代子にはできない動作である。
 隆枝は、美代子の心が傷つくことを恐れた。
 ″やめなさい!″と叫ぼうとした時、栄利子の甲高い声が響いた。
 「お母ちゃん! 美代ちゃんも、栄利ちゃんみたいにできるよ!」
 麻痺している右腕が、少し曲がり、手拍子を打ち、指先もゆっくり動いていたのだ。
 「美代ちゃん!」
 隆枝は、喜びの涙にむせんだ。希望の光が、暗く閉ざされていた彼女の胸に差した。
 楽聖ベートーベンは叫んだ。
 「希望よ、お前は心を鉄にきたえる!」
 高尾夫妻は、喜びに燃えて、勇躍、広宣流布にひた走った。
 一九五七年(昭和三十二年)十月、大阪支部鳥取地区が分割され、倉吉地区が結成されると、夫妻は地区部長、地区担当員となった。
 夫妻は″美代子は、手は不自由でも、明るく、強い子に育つように″と、日々、御本尊に懸命に祈った。
 小学校の入学式を間近にした日のことである。
 美代子が、突然、仏壇の前で「ウソつき!」と言って、大きな声で泣き始めた。
 長女の真由美も、妹の栄利子も、驚いて美代子のもとに駆け寄った。
 「どーしたん?」
 真由美が尋ねると、美代子は、目にいっぱい涙をため、右手を見つめて叫ぶように言った。
 「ウソつき! こっちの手で書けない」
 美代子は、小学校では、右手で文字を書きたいと、真剣に唱題してきたのである。
 「こっちのお手てで、字を書かせてくださいって、ずっと、ずっと、お願いしたのに」
 こう言って泣きじゃくるのである。
39  師恩(39)
 四歳年上になる長女の真由美は、優しく諭すように、美代子に語っていった。
 「美代ちゃん、御本尊様は、絶対にウソなんかつかないよ。美代ちゃんの手はね、最初は、全く動かなかったのよ。お医者様でも、どうしようもなかったんだよ。
 それでお父ちゃんとお母ちゃんが信心して、美代ちゃんも、お題目を唱えるようになってから、少しずつ、手が動くようになったんだよ……」
 語りながら、真由美も目を潤ませていた。
 「美代ちゃんの手が、こんなに動くようになったのは、御本尊様の力なんだよ。わかる?
 わかるよね。だから、いつか必ず、右手で字も書けるようになるよ。もっと、もっと、お題目をあげて、お願いしていこうね」
 真由美は、美代子と共に仏壇の前に座って、唱題し始めた。次女の真貴子も、四女の栄利子もそれに続いた。
 母の隆枝は、ただ美代子が小児麻痺の後遺症に負けずに育つことを願って、信心に励んできた。
 しかし、気がつくと、体の不自由な美代子を皆で守り、支え、励まし合うという、強く美しい絆が、子どもたちのなかにつくられていたのだ。
 隆枝は、御書に仰せの通り、わが家に無量の「心の財」が積まれゆく大きな功徳を感じた。母として、胸を熱くしながら、後ろに座り、唱題したのである。
 小学校に入学した美代子は、懸命に努力を重ねて、右手でも字が書けるようになった。
 中学生のころには、右手を使っての激しい運動や力仕事は難しかったが、外見からは小児麻痺だった腕とは、わからないほどになっていた。
 日蓮大聖人は「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬさいわいや有るべき」と断言されている。
 一九六〇年(昭和三十五年)五月三日、山本伸一が第三代会長に就任した第二十二回本部総会で、母の隆枝は、新たに誕生した鳥取支部の支部婦人部長に任命された。
 彼女は報恩感謝の思いを胸に、鳥取広布に挺身していった。
 やがて、姉妹は高校を卒業して、次々と社会に巣立っていった。次女の真貴子は大阪に出たが、真由美、美代子、栄利子の三人は地元に残った。
40  師恩(40)
 地元の鳥取にとどまった三人の姉妹は、″父母に続こう″と、故郷の広宣流布に青春をかけた。
 そのなかで山本会長を迎えての、「,73山陰郷土まつり」の開催が決まったのである。
 高尾美代子は、腕が自由に動かせない体で、リズムダンス「梨娘」に出演するのは無理だと、必死になって自分に言い聞かせてきた。それでも、どうしても出演したいという思いが込み上げてきてならなかった。
 ″私も出たい。でも、みんなと同じように踊れるだろうか。私一人のために演技が失敗したら、取り返しのつかないことになる…:」″
 彼女は悩んだ。自分のために、皆に迷惑をかけることを恐れた。かといって、このままあきらめてしまえば、生涯、悔いが残る気がした。
 美代子は、小児麻痺の自分がここまで元気になれたのは、信心のおかげであり、信心に不可能はないとの確信があった。
 また、この仏法を自分たちに教え、生きる勇気と希望を与えてくれた学会に、そして、会長の山本伸一に、深い感謝の念をいだいていた。
 ″山本先生に、はつらつと踊る、私の姿をお見せしたい! こんなに元気になりましたと、ご報告したい!″
 その思いは、日ごとに強くなっていった。
 妹の栄利子の出演が決まってから何日かしたころ、彼女は、栄利子に尋ねた。
 「もう『梨娘』の練習は始まったの?」
 「まだよ。少し人数が足りないんだって」
 「そう……」と言って美代子は黙った。
 栄利子には姉の気持ちは痛いほどわかった。この数日、姉が必死になって唱題する姿を目にしてきたからだ。
 美代子は、つぶやくように言った。
 「……私もやってみようかな」
 「ほんと! 本気になれば、美代ちゃんもできるわよ。一緒にやりましょう。私も応援するから」
 美代子は、決意を固めた。″郷土まつり″という晴れの舞台に立ち、見事に演じきることが、師の恩に報いることだと考えたのだ。
 それは、自身の限界に挑む戦いであった。
 「不断の闘争のなかでのみ、進歩が得られる」とは周恩来総理の、人生哲学である。
41  師恩(41)
 二日後、出演者の追加の人選が行われた。
 部門の副責任者である姉の高尾真由美は、その会場で、初めて妹の美代子が来ていることを知った。驚きは大きかった。
 この日、ステップダンスなどを通して、リズム感を試す審査が行われ、その結果、美代子はメンバーに選ばれた。
 真由美は、諸手をあげて、妹の挑戦を讃えたかった。
 しかし、実際の演技では、右手の激しい動きが求められる。それを思うと、美代子が皆についてこられるのか、心配でならなかった。
 その夜、真由美は、あえて厳しい口調で美代子に言った。
 「美代ちゃん、練習は大変よ。やると決めたなら、最後までやらんといけんよ」
 練習は、七月中旬から、倉吉市内の小鴨川のほとりなどで行われた。
 両手を高くあげる動作が繰り返された。
 美代子は右手をあげたまま静止することができず、動きも遅れた。
 演技指導の担当者からは、「ほら、だめよ。もっと高くあげて!」と、何度も指摘を受けた。
 結局、美代子は補欠に回された。
 それを知った真由美は、心で叫んでいた。
 ″美代ちゃん、負けちゃだめよ!″
 人間の真価は、壁に突き当たった時にこそ、問われるのだ。
 その夜、姉妹は、父親の照正に、三人とも″郷土まつり″に関わっていることを伝えた。
 照正は、七年前に、くも膜下出血で倒れた。その後、健康を回復したものの、この年の五月からまた体調を崩し、自宅療養していたのである。
 照正は、満面に笑みを浮かべた。
 「うん、そうか。美代子も出られるのか。よかった、よかったな……。頑張るんだぞ」
 そして、彼は、美代子の右腕をさすりながら、何度も頷くのであった。
 父の喜びようを見ると、補欠に回されたことは言えなかった。
 照正が息を引き取ったのは、それから、二日後のことであった。眠るように安らかな臨終の相であった。
 葬式の朝、母親の隆枝は子どもたちを呼んだ。
 「これから、私の言うことを、よく聞いてちょうだい!」
 毅然とした声である。
42  師恩(42)
 高尾隆枝は、子どもたちを前に、御書を開き、力強く拝読し始めた。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ……」
 隆枝は、目を赤く腫らしながら、声を震わせて言った。
 「山本先生が心肝に染めるように言われた御書よ。何があっても負けずに、この御文の通りに生きるのよ。
 今、あなたたちがやるべきことは、″郷土まつり″を大成功させることだよ。お父さんも、それが一番嬉しいはずだと思う。今は悲しんでいる時じゃない。戦う時よ」
 娘たちは、父の成仏を強く確信しながら、後継の決意を新たにした。
 美代子は、妹の栄利子と共に、その後も猛練習を重ねた。不自由な美代子の右腕は痛み、しびれた。その腕を、栄利子が懸命にさすった。
 それから唱題が始まるのだ。長女の真由美も、母の隆枝も、その声に唱和し、一家の懸命な祈りが続くのである。
 美代子にとっては、辛く苦しい挑戦であった。彼女を支えたのは、山本伸一が青年たちに贈った詩「青年の譜」の一節であった。
 「われには われのみの使命がある君にも 君でなければ 出来ない使命がある」
 美代子は、この一節を深く生命に刻み、体の不自由な自分が、信心を根本に、立派な演技を成し遂げれば、仏法の力の偉大さを証明することができると思った。
 さらに、さまざまな障害をかかえる人たちの心に、希望と勇気の火をともすことができると確信していた。
 ″これは、まさに、私でなければできない、尊き使命なのだ!″
 使命を自覚する時、無限の活力がわく。使命に生きる時、自身の境涯は大きな躍進を遂げる。
 彼女は、自分の尊き使命を教えてくれた山本伸一に、師恩を深く感じながら、報恩感謝の思いで練習に励んでいった。
 連日、猛練習と唱題を重ねるうちに、美代子の右腕は、高く伸ばした位置で動かしたり、静止することができるようになった。
 そして、最終的に美代子も、「梨娘」のメンバーとして、出演することが決まったのである。
43  師恩(43)
 山本伸一は、リズムダンス「梨娘」を、二階席から、身を乗り出すようにして観賞していた。
 高尾美代子は、妹の栄利子と共に、黄緑色のスカーフを頭に被り、はつらつと踊った。
 高く腕を伸ばし、梨をもぎ取る動きも、見事に決まった。
 美代子は、心で叫んでいた。
 ″お父さん! 山本先生! 見てください!私は勝ちました!″
 最後に、出演者が観客に梨を配った。美代子は″山本先生に、お礼が言いたくて″、梨のカゴを手に二階席に走った。
 伸一は、笑顔で包み込むように彼女を迎えた。
 「ありがとう! 頑張ったね」
 美代子は、何も言葉にならなかった。ただ感涙が頬を伝うのである。
 「障害と戦い、これに打ち勝つことが人を幸せにする」とはドイツの哲人ショーペンハウアーの至言である。
 やがて″郷土まつり″はフィナーレを迎え、最後に山本伸一がマイクを取った。
 「大変に美事な″郷土まつり″を観賞させていただき、心より御礼申し上げます。
 島根に、鳥取に、これほどすごい力があったのかと、ただ驚嘆し、感動するばかりであります。
 私は、多くの文化祭や社会の文化的諸行事を見てまいりましたが、美しい真心と、尊い団結が光る、この″郷土まつり″は最高の名画でした。
 絢爛たる舞台で展開される、どのような一流の芸能よりも、幾千倍も勝る尊い人間文化の薫りがありました。
 また、各人が自身に打ち勝った生命の歓喜が脈動し、人間の凱歌と讃歌が響いておりました。
 この尊い、偉大なる人間性を発現させる根源とは何か。それこそ、私たちの信心であることを強く確信し、誇りとして、さらに郷土の建設のために、前進していっていただきたいのであります」 
 怒涛のような、大歓声と拍手がうねった。
 豪雨禍から一年二カ月――ここには、苦難をものともせぬ、たくましき同志の、不死鳥のごとき不屈の闘魂が躍動していた。伸一は、それが何よりも嬉しかった。
 その強さ生命の発露こそ、人間文化を創造する原動力にほかならないからだ。
44  師恩(44)
 ″郷土まつり″翌日の九月十七日の午後、山本伸一は鳥取県幹部総会に出席するため、松江から米子へ移動することになっていた。
 この日の午前中、現地幹部の強い勧めがあり、伸一は日御碕などの視察に向かった。
 日御碕は、日蓮大聖人も御書のなかで言及されている地であり、彼も、ぜひ立ち寄ってみたいと考えていたのである。
 伸一たちは、石造りの灯台としては地上からの高さが日本一といわれる、出雲日御碕灯台の近くで車を降りた。
 岬の下には、日本海の荒波が砕け散っていた。
 降り注ぐ太陽の光がまばゆかった。
 雄大な景色を眺めつつ、彼は御書の一節を思い返した。
 「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は我国に天下り始めし国は出雲なり、出雲に日の御崎と云う所あり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり
 〈久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神である天照太神が、我が国に初めて天から降りてきた国は出雲(現在の島根県の東側)である。
 出雲には、日御碕という所があり、天照太神が初めて天から降りてこられたゆえに日御碕というのである〉
 天照太神は、日神、太陽神であり、法華経の行者を守護する善神の働きである。それは、普く万物を照らす太陽の恵みの象徴であり、天照太神の降りた地とは、光満つ天地といえよう。
 伸一は思った。
 ″島根、鳥取は山陽に対して、山陰と呼ばれ、どこか暗いイメージで語られてきた。
 しかし、出雲をはじめ山陰地方は、その伝説のうえからも、景観のうえからも、光り輝く太陽の国といえる。
 ここに生きる人びとがその自覚をもち、郷土の建設に取り組んでいくならば、新時代をリードする、山河光る希望の天地となるにちがいない。
 そのためには、太陽の仏法たる日蓮仏法を広宣流布し、諸天善神が威光勢力を増して人びとを加護する、福光に満ちた楽土にしていくことだ″
 伸一は、そう考えるならば、島根、鳥取は、本来、「山陰」というよりも、「山光」というべき天地ではないかと、ふと思った。
45  師恩(45)
 日御碕を後にした山本伸一は、松江会館で、広島、山口の幹部らと打ち合わせをし、両県の未来構想を検討した。
 そして、夜には、米子市民体育館で行われた、鳥取県幹部総会に出席したのである。
 幹部総会の開会前、伸一は、控室で、何組かのメンバーと会い、激励を重ねた。
 そのなかに、あの高尾一家の姿もあった。彼は、柱と頼む父を亡くした子どもたちに、全精魂を注いで、激励をしておきたかったのである。
 「お父さんの遺志を受け継いで、広宣流布に生き抜くことです。それが最高の追善です。
 そして、お母さんを大切に。幾十億の人類のなかで、たった一人のお母さんです。お父さんの分まで、お母さんを幸せにしてください。
 また、あなたたちが幸せになることです」
 師の真心の励ましに、母も泣き、子も泣いた。新たなる出発を誓う、母子の涙は、水晶のように清らかであった。
 伸一は、この一家の勝利の劇を、生涯、見守るとともに、家族の幸福を祈り続けていこうと決意していた。
 この幹部総会で伸一が力を込めて訴えたのは、次の一点であった。
 ――地域の開発、繁栄といっても、その基礎は「一念の変革」「精神の開発」から出発する。ゆえに、題目という生命変革の根源に還れ!
 鳥取の同志の奮闘ぶりを見守ってきた伸一は、鳥取創価学会は、あらゆる面で全国の模範となる潜在的な力があると感じていた。
 鳥取は、「中国の雄」たる広布の組織であるというのが、彼の確信であった。
 もし、それを阻んでいるものがあるとするならば、″自分たちには無理だ″という、自身がつくり上げた心の壁である。それは、自らが描き出した幻にすぎない。
 その一念を変えることこそが、一切の勝利の源泉といってよい。
 フランスの作家アンドレ・モロワは断言する。
 「最も深い革命は精神的なものである。精神的革命は人間を変革し、こんどはその人間が世界を変革する」
 「一念の変革」という伸一の叫びは、同志の胸深く、永遠の指針として刻まれたのである。
46  師恩(46)
 広宣流布の道に安逸はない――それが、山本伸一の信念であった。
 伸一は、十月は正本堂建立一周年の記念行事に参加するために来日した世界各国のメンバーの指導に力を注ぐとともに、「創大祭」に出席するなど、創価大学の学生や教職員の激励に時間を割いた。
 そして、十一月の六日には、宇都宮市の栃木県体育館で行われた第一回栃木県幹部総会に出席したのである。
 伸一の栃木訪問は、一九六七年(昭和四十二年)四月以来、実に六年七カ月ぶりであった。
 栃木県は、工場の誘致や都市化が進み、便利さと引き換えに、それまであった地域的な連帯や伝統文化などが、次第に失われつつあった。
 そのなかで同志は、地域社会に、新たな人間のネットワークをつくり、「人間の都」を築こうと懸命に活動に励んでいたのである。
 午後六時過ぎ、会場の体育館に到着した伸一がロビーに入ると、そこに初老の紳士と婦人が立っていた。尋常小学校時代の恩師である檜山浩平とその夫人であった。
 「檜山先生!奥様!
 わざわざおいでいただき、ありがとうございます。お会いできて嬉しく思っております。お元気でしたでしょうか」
 檜山は、伸一が羽田第二尋常小学校(現在は大田区立糀谷小学校)の五、六年生であった時の担任であった。
 伸一は、檜山が栃木県内の小学校長を最後に、定年を迎えたと聞き、″できることなら一目お会いし、御礼を申し上げたい″と思い、栃木県幹部総会に招待していたのである。
 檜山は喜び勇んで、バスで一時間半もかけ、わざわざ夫妻で駆けつけてくれたのだ。
 教え子を思うその真心に、伸一は、胸が熱くなった。彼が差し出した手を、檜山は嬉しそうに握り締め、何度も頷いた。
 伸一は、檜山夫妻を丁重に控室へ案内した。
 お世話になった先生の恩には、生涯をかけて報いていこうというのが、伸一の思いであった。
 報恩は、人間の人間たる証といえよう。
 仏典にも、釈尊は「報恩者」(恩返しをする人)と呼ばれたと説かれている。
47  師恩(47)
 山本伸一の担任をしていたころ、檜山浩平はまだ二十五、六歳であった。長身で眉が濃く、額の広い、精悍な顔立ちの青年教師であった。
 悪いことは絶対に許さぬという厳しさと、温かさを併せもった教師であり、児童の誰からも慕われていた。
 長い歳月は、彼の広かった額をさらに広く光らせていたが、その目には、教え子への深い慈愛があふれていた。
 檜山は、目を細めながら語った。
 「……ご立派になられて。大変なご活躍、嬉しく、誇りに思っておりますよ。
 先生の本は読ませてもらっています。トインビー博士とも対談をされたんですね」
 伸一は、敬愛する恩師に「先生」と言われ、いたく恐縮して答えた。
 「はい。人類の未来のために、真剣に語り合いました。檜山先生が、私のことを、そこまで知ってくださっていることに感動しました。
 教え子をいつまでも思い、大切にしてくださる先生の優しさに、心打たれます」
 「檜山先生」についての伸一の思い出は、数限りなかった。
 よく檜山は、吉川英治の小説『宮本武蔵』を、授業の合間に読んでくれた。身振り手振りを交えての朗読は、臨場感に富んでいた。
 伸一は、武蔵と小次郎の決闘の場面など、自分がそこにいるような思いにかられ、胸を躍らせて聴き入っていたことが忘れられなかった。
 また、ある時の授業で、檜山は世界地図を広げると、児童たちに「どこに行きたいか」と尋ねた。
 伸一がアジア大陸の真ん中辺りを指差し、「ここです!」と答えると、檜山は会心の笑顔を浮かべて言った。
 「そこは、敦煌といって、すばらしい宝物がいっぱいあるところだぞ」
 そして、子どもたちの夢の扉を開き、好奇心を呼び覚ましながら、シルクロードについて語るのであった。
 牧口常三郎は「教育の根本は児童のもっている天性を発揮させ、興味をもたせることがまず大切である」と述べている。
 檜山は、まさに、その達人であり、伸一も檜山によって、どれほど多くのことに興味を覚えたか計り知れなかった。
48  師恩(48)
 「檜山先生」との思い出のなかで、山本伸一が絶対に忘れることができないのが、六年生の修学旅行でのことであった。
 関西方面への四泊五日の旅であったが、伸一は母親がやりくりして持たせてくれた小遣いを、一日目で使い果たしてしまった。
 同級生との泊まりがけの旅行の嬉しさからか、菓子などを買っては気前よく友人たちに分け与え、あっという間に、小遣いは底をついてしまったのである。
 担任の檜山は、そんな伸一の行動をじっと見ていた。彼は、旅館の階段で伸一を呼び止めた。
 「山本君、君のお兄さんたちは、戦争に行っている。
 だから君は、せめて、お父さんやお母さんに、お土産を買って帰らなければいけませんよ。少しでも、ご両親に喜んでいただくのです」
 伸一は″そうだ。先生の言われる通りだ″と思ったが、次の瞬間、小遣いを使い果たしてしまったことに気づいた。
 苦労して小遣いを工面してくれた母の顔が浮かんだ。しょんぼりした。
 檜山は微笑みを浮かべて、伸一の腕を引き、階段の陰に連れて行った。
 そして、そっと、紙幣を伸一の手に握らせた。 「これで、家族にお土産を買っていきなさい」
 一円札が二枚あった。当時の一円は、子どもにとっては、かなりの大金であった。
 檜山は、教え子には、分け隔てなく接する教師であった。
 しかし彼は、友人に菓子を振る舞う伸一の心を思い、その家庭状況もよく理解し、深く配慮してくれたのである。
 家に帰った伸一は、母に土産を渡し、そのことを話した。母は、彼を見つめて言った。
 「ありがたいことですね。檜山先生のご恩は、決して忘れてはいけませんよ」
 人間として恩を忘れるな――それが母の教えであった。
 伸一が小学校を卒業したあと、檜山は、学童疎開で静岡や秋田に行き、戦後は、故郷である栃木に戻った。そして、定年を迎えたのである。
 伸一は、「檜山先生」の、あの心遣いを、忘れることはなかった。折に触れて、深い感謝の思いを込め、近況を伝える便りなどを出し、交流してきたのである。
49  師恩(49)
 山本伸一は、「檜山先生」が、かつて教室で、「人材は宝である」と感慨深く語っていたことが忘れられなかった。
 また、檜山は「平和のために尽くす人材を育てるのが教育である」との信念をもっていた。その思いは、子どもたちの心にも強く伝わってきた。それは伸一にも大きな影響を与えたといえる。
 伸一は、檜山と語り合いたいことはたくさんあったが、既に栃木県幹部総会は始まっていた。
 伸一は、最後に、檜山に言った。
 「檜山先生、本日は、本当にありがとうございました。今日の私があるのも、先生のお陰でございます。
 先生の教え子として、誇りをもって、社会のために尽くし抜いてまいります。先生のご恩は決して忘れません」
 そして、深々と、丁重に頭を下げた。
 檜山は、成長した教え子の姿に、感無量の面持ちで、笑みを浮かべて語った。
 「どうか、体を壊さないように頑張ってください。もっとも、休む暇もないようですが……」
 どこまでも教え子を思いやる檜山の心が、伸一の胸に熱く染みた。
 伸一は、「檜山先生」だけでなく、自分が教わった先生方全員に、強い感謝の念をいだき、深い恩義を感じていた。
 いや教師に限らず、自分がこれまでに関わったすべての人に、同じ思いをいだいていた。
 それは、仏法者としての、彼の信念によるものであった。
 仏法の基本には、「縁起」という思想がある。それは「縁りて起こる」ということであり、一切の現象は、さまざまな原因と条件が相互に関連し合って生ずるという意味である。
 つまり、いかなる物事も、たった一つだけで成り立つことはなく、すべては互いに依存し合い、影響し合って成立することを、仏法では説いているのである。
 人間もまた、自分一人だけで存在しているのではない。あらゆる人に助けられ、影響や恩恵を受けて、生きているのだ。
 その考えに立つならば、父母、兄弟、教師はもとより、あらゆる人びとに、自ずから感謝の念をいだくことになる。
50  師恩(50)
 恩を感じ、恩に報いるということは、人類共通の倫理といえよう。
 ラテンアメリカ解放の父シモン・ボリバルは「忘恩は人間があえて犯すことのできる最大の犯罪である」と叫び、スペインの哲学者オルテガは「最も重大な人間の欠点は忘恩である」と結論する。
 イランの詩人サアディーは「恩を弁える犬は感謝を知らぬ人間に勝る」と断ずる。
 日蓮大聖人は、「報恩抄」で、人間として恩に報いることの大切さを述べられ、「いかにいわうや仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや」と仰せになっている。
 父母の恩、師匠の恩に続いて国恩とあるが、これは、国家、社会の恩恵といってよい。
 だが、その国家は、大聖人に何をしたか。弾圧に弾圧を重ね、命をも奪おうとしたのだ。
 それでもなお、国恩に報いることを述べられているのはなぜか。
 それは、その迫害によって、法華経を身読され、一生成仏への大道を開かれたからである。そこには「難即悟達」の原理がある。
 また、ここで仰せの師恩とは、大聖人が十二歳の時に安房(千葉県南部)の清澄寺にのぼり、修学された折の師匠である道善房への恩である。
 道善房は師匠ではあったが、臆病であり、念仏者の地頭・東条景信の迫害を恐れ、保身のために念仏を離れることもできなかった人物である。
 しかし、それでも大聖人は、仏法を教えてくれた師であるがゆえに、師恩を深く感じられ、手厚くその恩に報いられたのである。
 山本伸一は思った。
 ″ましてや、正法正義のために殉教された牧口先生、そして、日本の広宣流布の基盤を築かれたわが恩師である戸田先生のご恩は、いかに深甚であることか。その希有の師に巡り会えた福運はいかばかりか。なんと幸せなことか。
 戸田先生は、私に久遠の使命を教え、心血を注いで仏法の指導者に育て上げてくださった。
 先生なくば、今の自分も、創価学会も、そして、広宣流布の現在の広がりもなかったにちがいない。
 ゆえに私は、広宣流布の大師匠への、報恩感謝の生涯を生きるのだ!″
51  師恩(51)
 日蓮大聖人は、「日蓮は草木の如く師匠は大地の如し」と仰せである。師匠の存在がなければ弟子はない。
 では、その師への報恩の道とは何か――日蓮大聖人は結論されている。
 「此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか
 仏法を学び究め、幸福と平和の道を開く智者、すなわち広宣流布の大リーダーに育つことなのである。
 弟子は、師匠以上に成長し、法のため、社会のために尽くし抜くのだ。
 その功徳は師に回向され、最高の追善となっていくのである。いや、師の評価も、師の構想が実現できるかどうかも、弟子によって決定づけられてしまう。
 大聖人は「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」と御断言になっている。
 師弟不二の道こそ、創価学会の魂であり、広宣流布の生命線なのだ。
 山本伸一は、栃木県幹部総会で、新たなる地域社会の発展のためには、人間の精神の総開発が急務であり、そこに仏法者の使命があることを力説していった。
 檜山浩平は、二階の来賓席で、教え子の伸一の講演を、感無量の面持ちで聴き入っていた。
 幹部総会が終了したあと、再びマイクを取った伸一は言った。
 「本日は、私の小学校時代の大切な恩師である、檜山先生ご夫妻がおいでくださっております。
 先生のご健康、ご長寿を願い、感謝を込めて、ここで万歳を三唱させていただきます」
 大拍手が起こった。
 伸一は、「檜山先生、万歳!」と叫び、大きく手を振り上げた。
 その声に、全参加者が唱和した。
 「万歳! 万歳!万歳!」
 檜山は、民衆のたくましき大リーダーに育った教え子の姿に、目を潤ませながら、じっと彼を見つめていた。
 伸一は、広宣流布の師である戸田城聖もまた、微笑みを浮かべて、自分がいかに戦い抜くかを、じっと見ているように感じられてならなかった。

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