Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第18巻 「師子吼」 師子吼

小説「新・人間革命」

前後
2  師子吼(2)
 田中友幸は、創価学会に、かくも多くの人、しかも大勢の青年たちが集い、一つの共通の信念のもとに団結し、喜々として活動に励んでいることに、強い関心をいだいていた。
 そして彼は、その解答を、小説『人間革命』に見いだしたのだ。
 さらに、仏法の生命論や、戸田城聖の哲学にも、深い興味をもったのである。
 山本伸一は、田中友幸が、どんな作品を手がけてきたかもよく知っていたし、プロデューサーとしての力量も、高く評価していた。
 しかし、映画化には、ためらいがあった。
 『人間革命』は、恩師である戸田城聖の真実を後世に残すとともに、創価学会の歩みを通して、日蓮仏法の哲理を伝えるために執筆した小説である。
 そのテーマを離れた商業映画となることを、彼は憂慮したのだ。
 伸一が、田中と初めて会ったのは、一九七〇年(昭和四十五年)に大阪で行われた、万国博覧会であった。
 八月、万国博で三菱未来館を訪れた伸一を案内してくれたのが、このパピリオンの総合プロデューサーを務めた田中であった。
 館内を見学したあと、貴賓室で伸一は田中と歓談した。
 伸一が、田中の映画の思い出を話すと、田中は小説『人間革命』を読んで、どれほど感動したかを、情熱を込めて語っていった。
 話は尽きなかった。この日、二人は、東京で、また会うことを約して別れた。
 この年の十一月、伸一は、東京の聖教新聞社で田中と会った。
 この時、田中から直接、小説『人間革命』を映画化したいとの、強い要請を受けたのである。
 伸一は、一週間ほど、思案した末に、″この人ならば、原作の真意を汲んだ映画にしてくれるだろう″と考え、映画化を了承したのである。
 結論は、直ちに田中に伝えられた。
 御礼を述べる田中の声は震え、目には、うっすらと涙さえ滲んでいた。
 映画化に向けて、第一歩が踏み出された。
 さっそく学会からも、副会長の秋月英介や広報室長の山道尚弥など、数人のメンバーが加わり、「『人間革命』製作委員会」が発足した。
3  師子吼(3)
 映画「人間革命」製作の最初の課題は、誰に脚本を依頼するかということであった。
 田中が考えたのが橋本忍であった。
 橋本はブルーリボン賞の脚本賞を受賞した脚本家で、黒澤明監督の「羅生門」「生きる」「七人の侍」「どですかでん」などのシナリオを手がけてきた。
 田中は、橋本とは、何度も一緒に仕事をして、気心も知れていたし、何よりも、人間の内面世界を描き出す橋本の脚本家としての力量を、高く評価していたのである。
 だが、橋本は、すぐには回答しなかった。小説『人間革命』をはじめ、創価学会、仏法などについて研究し、結論を出したいというのである。
 橋本の研究は徹底していた。まず、ノートを取りながら、小説『人間革命』を、何度も何度も読み返した。
 さらに、学会の歴史や仏法の法理に関する出版物などを集めては、丹念に目を通した。
 学会員とも会って、話を聞いた。
 年が明けた一九七一年(昭和四十六年)の一月半ば、橋本は田中友幸の自宅を訪ねた。
 橋本は思案に暮れていた。
 「難しいですね。何を素材にしてまとめたらよいのか、まだ、はっきりしません。仏教の解明のような映画になったら、堅苦しくてしょうがないし……」
 対話は、深夜二時まで続いた。
 橋本との語らいが終わって一時間ほどしたころである。田中は発熱し、胸の痛みを覚えた。
 救急車で病院に運ばれた。
 急性肋膜炎であった。
 以来、二カ月の入院生活を余儀なくされたのである。
 田中は病床にあっても、映画「人間革命」の製作のことが頭から離れなかった。
 二月上旬、病院に来た橋本が、田中に言った。
 「なんとか、やれそうです。この映画で、闇のなかのような今の日本に何かを示すために、『心』という問題を探究してみようと思います。
 でも、脚本の執筆には、かなり時間がかかりそうです」
 田中の目が輝いた。
 「そうか。できるか。ありがとう!」
 それは、病床の田中にとって、何ものにも勝る活力源となった。
4  師子吼(4)
 脚本を書くためには、詳細な資料を集める必要があった。
 たとえば、戸田の開いた私塾「時習学館」や、学会本部となる西神田の出版社「日本正学館」にしても、建物の外観だけでなく、細かい間取りがわからなければ、そこを舞台にした脚本は作れないからだ。
 どうやって、その資料を収集するかは、脚本作りのカギを握る重要な問題であった。
 そこで学会本部としては、広報室の渉外部長である鈴本琢造らを、その担当につけたのである。鈴本は東北大学出身の二十八歳の青年であった。
 彼は当初、渉外は大の苦手であった。
 小学校低学年のころ、小児結核にかかり、その時の薬の副作用で、少し耳が遠かったからである。また、宮城県出身の鈴本には、東北なまりもあったからだ。
 その彼が、本部職員となって一年ほどした時、渉外を担当する部署に配属になったのだ。
 鈴本は困った。
 話がよく聞き取れないことがあるために、人と話すことに、強い緊張を覚えるのだ。
 特に、相手の顔が見えない電話でのやりとりは怖かった。早口で用件をまくし立てられると、理解不能になってしまうのである。
 絶句してしまう鈴本を見るに見かねて、先輩が電話を代わってくれたこともあった。
 日々、失敗の繰り返しであった。電話のベルが鳴ると、身のすくむ思いがした。″故郷の仙台に帰りたい″と思った。毎朝、出勤するのが、苦しくて仕方なかった。
 そのなかで、歯を食いしばって学会活動に励み、多くの先輩や仲間と接するうちに彼はあることに気づく。
 ″誰もが困難な課題や苦悩をかかえている。悩みがない人などいない。
 みんな、そのなかでそれを克服しようと、必死になって努力し、泣くような思いで挑戦している。それが生きるということなんだ。
 努力なくして、成長などあるわけがない。自分に挑むための信心じゃないか!″
 「困難な条件におかれていればいるほど、われわれの強味を生かすことができ、自己を鍛えることができる」とは、周恩来総理の信念である。
5  師子吼(5)
 鈴本琢造の挑戦が始まった。勇んで人と会い、真っ先に電話にも出て、話を聞き取ることに全神経を研ぎ澄ました。
 そして、半年、一年とたつころには、電話でのやりとりも、苦ではなくなっていった。
 むしろ、一心に人の話を聞こうとする鈴本の真剣さに、多くの人びとが好感をいだいた。
 自分のハンディや欠点を自覚し、その克服のために、懸命に挑戦を開始する時、それは新たな長所となって輝く。そこに信心の力がある。
 鈴本は、人には常に、誠実に接することを心がけていた。
 渉外とは心の交流であり、誠実こそが心の門を開く力である――というのが、山本伸一から学んだ渉外の仕事の要諦であったからだ。
 彼は、映画「人間革命」の資料提供に際しても、最大の誠意をもって臨んだ。
 脚本家の橋本忍から、「時習学館」の資料がほしいと頼まれれば、聖教新聞社をはじめ、関係各所をあたっては写真を探し出した。
 さらに、「時習学館」に関係のある人を見つけては、聞き取り調査をしながら、間取りなどを再現していった。
 西神田の、かつての学会本部も訪れた。建物は人手に渡り、そば店になっていたが、基本構造は変わっていなかった。
 頼み込んで建物の中を見せてもらい、昔の間取りを割り出していった。
 そうした陰の労苦を、じっと見守っていたのが山本伸一であった。
 橋本は一九七一年(昭和四十六年)の四月、脚本の執筆を開始した。
 このころには、映画は、「人間革命」製作委員会の企画で、田中友幸が社長となった東宝映像と、学会の記録映画を数多く手がけてきたシナノ企画が、共同で製作に当たることも決まった。
 七月下旬、脚本の第一稿ができあがった。製作委員会のメンバーで検討を重ねた。
 創価学会に流れる師弟の精神が、実に感動的に表現されていた。
 だが、仏法の法理の解釈など、再考してもらう必要のある個所も多かった。
 橋本は、最初から書き改めるつもりで、脚本に挑んだ。新しい価値観を社会に示す、時代を先取りした作品にしようと決め、思索に思索を重ねて、労苦をいとわず原稿を書き改めていった。
6  師子吼(6)
 映画「人間革命」を通して、人間の「心」を探究し、それを示すことによって、混迷した現代社会の闇を晴らす光を送りたい――その思いから、橋本忍はシナリオを引き受けたのである。
 そして、山本伸一の講演集などを読むなかで、人間が自己の欲望をコントロールし、自律するところに、新しい文明、文化の創造の道があるという伸一の考えに、強く共感した。
 さらに、その方途が「十界論」にあると、彼は確信したのである。
 それは、一切の衆生には、地獄、餓鬼、畜生から菩薩、仏に至る十の生命の働きが具わっており、仏の生命の涌現によって、苦悩や欲望、怒りをも、人間完成への力に転じることができると説く仏法の法理である。
 その十界を、どう描けばよいのか。なかんずく仏界をどう理解し、表現すればよいのか――彼の悩みは深かった。
 学会の教学部の首脳とも会って話を聞いた。仏法の法理に関する出版物も読みふけった。
 まさに、橋本自身が予感したように、脚本は遅々として進まなかった。
 しかも、橋本は、同じ姿勢で机に向かい続けたために、持病の脊椎の病が悪化していた。
 コルセットをはめ、痛みと戦いながら執筆を続けなければならなかった。
 手術をすれば治ると言われたが、一年半は寝ていなければならない。
 橋本は″脚本を仕上げるまでは手術などできない″と思った。
 日々、呻吟しながらの執筆であった。その苦悩が「人間革命」という名画を生み出すのだ。
 「人間はやり通す力があるかないかによってのみ、称賛、または非難に値する」とは、レオナルド・ダ・ビンチの格言である。
 年が明けて、一九七二年(昭和四十七年)の二月、伸一は田中友幸と橋本を招いて食事をした。
 必死になって「人間革命」の映画作りを進める二人に、せめてもの感謝と御礼の気持ちを伝えたかったのである。
 書き換えた脚本ができあがったのは、この年の八月であった。研究期間も含め、一年八カ月を費やしたのである。
 橋本がそれまでに、一番時間をかけた仕事が九カ月というから、なんと、その倍以上の時間を注いだことになる。
7  師子吼(7)
 映画「人間革命」の監督は、既に舛田利雄に決まっていた。脚本が完成すると、俳優の選考に入った。
 そして、翌一九七三年(昭和四十八年)二月十日、東宝スタジオで製作発表の記者会見が行われたのである。
 東宝映像の社長で、この映画のプロデューサーである田中友幸は、こう製作の意図を語った。
 「現代における精神の支柱は、仏法を奉じる創価学会をおいて語れない段階にきていると思います。その解明の手掛かりを、小説『人間革命』に求めました。
 この本は、現代人に何が欠けているかを指摘しており、これは、社会的に取り上げ、映像化しなければならないと思っていました」
 一方、脚本を担当した橋本忍は、映画のテーマを明快に語っていった。
 「シナリオを書く動機になったのは、小説『人間革命』に出てくる″十界論″のなかにこそ、人間の生き方が示唆されていると思ったことです。
 特に主人公の戸田城聖が、″仏とは何か″″生命とは……″を悟達するところが、この物語のポイントであり、最大のドラマです」
 そして、脚本に関しては、「自信がある」と微笑を浮かべた。
 また、監督の舛田利雄は、次のように抱負を述べている。
 「日本人に大きな影響を与えている仏法について考え直すことは、現代に生きる人びとにとって大切なことではないかと思います。
 一宗一派に偏らず、″これが仏法なんだ″″人間の真の姿なのだ″ということが、少しでもわかってもらえれば、この映画は成功だと思っています」
 それぞれの発言には、仏法、人間革命という大テーマの映画化に挑む、闘志がみなぎっていた。
 「心が燃えずに、かつて偉大なことの成就されたためしはない」とは、エマソンの名言である。
 映画「人間革命」の製作発表記者会見が行われた翌日の二月十一日は、戸田城聖の生誕七十三周年であった。
 その日の聖教新聞二面に、「小説『人間革命』を映画化」の見出しが躍り、記者会見の模様が、詳細に報じられたのだ。
8  師子吼(8)
 聖教新聞を目にした、学会員の驚きと喜びは大きかった。
 同志は、新聞を手に語り合った。
 「とうとう、『人間革命』が映画になる。戸田先生を主人公にした映画が一般公開されるんだ」
 「すごいことだね。この映画で、多くの人が、牧口先生、戸田先生の真実を理解し、創価学会への認識を新たにするようになるだろうね」
 「『人間革命』が映画になれば、迫力があるだろうね。でも、どんな映画になるんだろう。早く見てみたいな」
 皆、期待に胸を躍らせていた。
 撮影は、順調に進んでいった。
 撮影の場所は東宝スタジオだけでなく、日蓮大聖人流罪の地である佐渡や、御殿場などでも行われた。
 本部広報室は鈴本琢造のほかに、さらに若手のメンバーを担当につけ、どんな問題にも応じられるように対処した。
 映画製作のうえで、彼らの果たした役割は大きかった。
 戸田城聖役の俳優らに、数珠の掛け方や合掌の手の位置を教えることから始まり、勤行も見本を示し、御書の読み方のアドバイスもしなければならなかった。
 俳優たちからは、さまざまな質問が出された。
 「学会員は、何人ぐらいいるんですか」と尋ねる人もいた。
 「かなり前に、七百五十万世帯を超えています」と答えると、別の俳優が驚嘆しながら、次の質問を発するのだ。
 「どうして、創価学会は、そんなに発展することができたのですか」 かくも多くの民衆を蘇生させてきた事実を知るならば、学会に刮目し、関心をいだくのは、むしろ当然といってよい。
 そして、矢継ぎ早に質問が続くのである。撮影現場は、しばしば座談会場の様相を呈した。
 映画の製作発表から二カ月ほどした四月二十五日、山本伸一は、東京・江戸川区につくられたオープンセットに陣中見舞いに訪れた。
 プロデューサーの田中友幸らから、「一度、撮影の現場へ」と誘われていたのである。
 伸一も、俳優やスタッフに、心から御礼を述べたかったし、ねぎらいの言葉もかけたい
 と思っていたのだ。
9  師子吼(9)
 撮影現場は、旧江戸川の河口に位置する茫々と草が生い茂る埋め立て地のなかにあった。
 撮影現場に到着した山本伸一を、東宝株式会社の松岡辰郎社長をはじめ、田中友幸や監督の舛田利雄らが笑顔で迎えてくれた。
 そこには、戦禍で焦土と化した東京の街がつくられていた。
 焼けた電柱や煙突、瓦礫の山、そして、立ち上る黒い煙……。
 この日は、出獄した戸田城聖が妻の幾枝とともに、時習学館の焼け跡に立つシーンの撮影が行われることになっていた。
 伸一は、しばらく辺りを見回していた。
 セットは大がかりであった。
 黒こげになった柱や崩れた瓦屋根、ポツンと焼け残ったポンプなどが、戦災の焦土を見事に再現していた。
 田中に、伸一は感想を語った。
 「いやー、実によくできていますね。まるで、あの焼け跡の時代に戻ったようです」
 彼は、この焦土のなかから広宣流布に一人立った戸田城聖をしのびながら、セットの中を見て回り、子役やエキストラなどに、次々と声をかけていった。
 エキストラの一人が八十四歳であると聞くと、家庭の状況などを尋ね、こう励ました。
 「懸命に頑張っておられる姿というのは、そのまま心を打ちます。感動があります。
 どうか、お体を大切にして、いつまでも元気でいてください!」
 映画というのは共同作業である。画面に登場して、華やかに脚光を浴びるスターの陰には、何倍もの知られざるスタッフがいる。
 彼は、その″陰の人″にこそ、感謝とねぎらいの言葉をかけたかったのである。
 田中が、戸田に扮する男優と、戸田の妻を演ずる女優を紹介した。
 伸一は男優の顔を見ると、「これはこれは戸田先生! おはようございます」と言って、ペコリと頭を下げた。
 荒涼としたセットに笑いが広がり、スタッフの間に、ほのぼのとした雰囲気が漂った。
 「では、戸田先生と座談会を開きましょう」
 こう言って伸一は、セットの片隅に置かれたテーブルを囲んで、この二人の俳優と懇談した。
10  師子吼(10)
 山本伸一は、参考になればと思い、戸田城聖とその妻を演ずる二人の俳優に、戸田の思い出を語っていった。
 「私は、十九歳で戸田先生に師事しましたが、先生は偉大な数学者、教育者であり、また、幾つもの会社を経営する実業家でもありました。
 その先生が、心から尊敬し、慕い、仕えたのが地理学者であり、大教育者であった、初代会長の牧口先生なんです。
 牢獄にあっても、戸田先生がひたすら祈り続けていたことは、″罪は自分一身に集まり、牧口先生は一日も早く帰られますように″ということでした」
 周囲には、いつの間にか、ほかの出演者やスタッフも集まり、熱心に耳を傾けていた。
 「ところが、その牧口先生が獄死してしまう。しかも、戸田先生には、その死は伝えられず、それを知ったのは五十日ほどあとなんです。
 悔しくて悲しくて、生涯であれほど涙を流したことがないほど泣いたと、先生は語っておりました。
 そして、先生は牢獄を出ると、このセットのように焼け果てた東京で、師の遺志を受け継ぎ、人類の平和と幸福のために立たれたんです。
 ただ一人、学会の再建に着手し、亡くなるまでの十三年足らずの間に、七十五万世帯の創価学会をつくり上げます。
 それは、言語に尽くせぬ、壮絶な戦いでした。この焼け跡での、先生の決意こそ、戦後の創価学会発展の原点でもあるんです」
 主演の男優が尋ねた。
 「戸田先生は、どんな人柄の方でしたか」
 伸一は、大きく領き、語り始めた。
 「豪放磊落な、それはそれは、人間的な魅力に富んだ先生でした。生きるか死ぬかという瀬戸際の時でも、常に堂々としていました。
 しかも、豪放磊落ななかにも、こまやかな気配りを忘れることのない人柄でした。
 会員には、限りない慈愛をもって接していました。会員のかかえる苦悩に、人知れず涙を流すこともありました」
 在りし日の師匠を語る弟子の瞳は輝いていた。
 戸田を語る時、伸一の心は燃えた。師という太陽の光に、自分が照らし出されるように感じられるのである。
11  師子吼(11)
 映画「人間革命」は、製作発表から五カ月を経て、遂に完成した。そして、この七月七日の試写となったのである。
 ――画面には、空襲の焼け跡にたたずむ戸田城聖の姿が映し出されていた。彼が経営してきた私塾「時習学館」も焼失していた。
 映画の第一部では、広宣流布に生涯をなげうつ覚悟を決めた戸田が、まず事業の再建に取りかかり、教育出版事業を進めていく様子が描かれる。
 やがて、場面は一転して、戸田の生い立ちから出獄までの来し方をたどっていく。
 ――北海道から上京した戸田と、生涯の師・牧口常三郎との出会い。牧口に続いての入信。そして、戸田の尽力で、牧口の『創価教育学体系』第一巻が発刊される。
 創価教育学会の誕生である。
 日本は戦争に突入し、神道を精神の支柱に戦争を遂行しようとする軍部政府は、信教の自由を剥奪していく。
 宗門は政府の迫害を恐れ、学会も神札を受けてはどうかと迫る。だが、牧口は、それを敢然と拒否して叫ぶ。
 「今こそ、国家諌暁を行うのです!」
 神札を受けず、正法正義を貫き、折伏を続ける牧口は、伊豆の下田で、弟子の戸田もまた、東京で捕らえられる。
 そして、地方裁判所で戸田と牧口は、偶然、出会う。原作にはないシーンである。
 山本伸一の目は、画面に釘付けになった。
 ――手錠をはめられ、編み笠を被せられ、数珠繋ぎにされた戸田の一団と、同じ格好をした別の一団が廊下ですれ違う。互いに顔は見えない。
 しかし、戸田は体つきから、その一団のなかに牧口を見つける。
 「先生!」
 彼は叫び、牧口に駆け寄る。戸田の編み笠が落ちる。瞬間、牧口は立ち止まる。
 「戸田君……」
 看守は慌てて、戸田を押さえつける。
 「先生! 先生!」
 「さあ、早く行くんだ」
 だが、戸田は動こうとはしない。
 立ち止まって戸田を見すえる牧口を、看守が突き飛ばす。
 戸田は必死に叫ぶ。
 「先生! お体だけは、お大事に!」――
 一瞬に凝縮された、師弟の魂の交流に、伸一は胸が詰まった。
12  師子吼(12)
 映画「人間革命」の圧巻は、戸田の獄中の悟達であった。
 ――戸田は、拘置所の独房で法華経を読み、その真意を知ろうと、来る日も来る日も呻吟し、唱題し続ける。
 憔悴した体で独房の中を歩き回る彼の目は赤く燃え、目の縁にはクマができている。
 やがて、窓の外に朝日が昇り、光が走る。
 その時、戸田は、電撃に打たれたように、法華経のなんたるかを悟ったのだ。それは、広宣流布の使命を自覚した瞬間でもあった。
 法悦のなかで、彼は、吼えるように叫ぶ。
 「わかった! やっとわかったぞ!」
 戸田は、この獄中の悟達からしばらくして、検事から、師の牧口常三郎が獄死したことを、聞かされたのである。
 独房で彼は慟哭する。窓の外には激しく雪が降っている。泣き尽くした彼は決然と顔を上げる。そして、師の遺志を受け継ぎ、広宣流布に一人立つことを誓うのだ――
 ここで、第一部が終わった。
 山本伸一は、自分の小説がどんな映画になるのか、楽しみでもあり、少々、不安でもあった。
 牧口常三郎と戸田城聖という、信仰によって結ばれた峻厳な師弟の世界をどう表現できるのかも案じられた。また、日蓮仏法の法理を知らぬ人が見ても、理解できる映画になるのかという若干の懸念もあった。
 しかし、それは、全くの杞憂にすぎなかったようだ。
 伸一の左側には、東宝映像の社長でプロデューサーの田中友幸と、監督の舛田利雄がいた。
 二人は、原作者の伸一が、この映画にどんな感想をいだくのか気がかりでならなかったようだ。
 田中が尋ねた。
 「いかがですか」
 伸一は笑顔で答えた。
 「感動して、目頭を熱くしながら見ておりました。すばらしい仕上がりです。
 それにしても、よくここまで撮れましたね。また、若い時の戸田先生の様子が、実に生き生きと描き出されています」
 田中と舛田の顔に、安堵の微笑が浮かんだ。
 田中は言った。
 「まだ、第二部がありますので、どうか最後までご観賞ください」
13  師子吼(13)
 ほどなく第二部の上映が始まった。
 ――出版事業の再建が軌道に乗り始めると、戸田城聖は、いよいよ学会の建設に着手する。そして、戦時中、脱落していった牧口門下の経済人グループ数人に、法華経の講義を開始する。
 また、彼の出版社である東京・西神田の日本正学館に「創価学会本部」の看板も掲げられる。
 疎開していた若手教員をはじめ、散り散りになっていた会員たちも、一人、二人と、戸田のもとに集い、座談会も活発に開催されるようになる。
 戸田は、求道心に燃える新しいメンバーに、第二期の法華経講義を開始し、獄中で法華経を精読してつかんだ、広宣流布という地涌の菩薩の使命を強く訴えていく――
 映画「人間革命」の第二部では、地獄、餓鬼、畜生、修羅……などの十界論が、一貫したテーマとなっていた。
 脚本家の橋本忍は、この十界が、自分の生命のなかに具わっていることを正しく伝えられなければ、観客に「人間革命」という命題を理解させることはできないと考えていた
 ようだ。
 それだけに彼が、最も苦心したところである。
 十界論は、各界ごとにそれを象徴する映像が駆使され、わかりやすく解説されていた。
 映画は一・二部を合わせ、二時間四十分の大作となった。
 試写が終わると、山本伸一は、再び関係者に映画の感想を尋ねられた。
 彼は語った。
 「感動的な力作です。師弟の心の交流、また、人間の精神の世界がよく表現されています。
 PR映画のようなものではなく、感動できる芸術作品になっていると思います。
 ともかく、内面世界の昇華を映像化していく作業ですから、大変なご苦労があったことでしょう。スタッフの皆様に、くれぐれもよろしくお伝えください」
 それから伸一は、感謝の思いを込めて、関係者と固い握手を交わした。
 スタジオを後にした彼は、車中、一人、戸田城聖をしのんでいた。
 戸田が世を去ってから、既に十五年が過ぎていた。だが、久々に戸田に出会ったような思いがし、懐かしさが込み上げてきてならなかった。
14  師子吼(14)
 山本伸一は思った。
 ″もし、戸田先生が、この映画「人間革命」をご覧になったら、なんと言われるだろうか。
 師匠を宣揚しようという弟子の決意をご存じのうえで、照れを隠すために、あえて憮然とした口調で、こう言われるかもしれない。
 ――なぜ、私のことを映画になどするのだ!″
 伸一の顔に、思わず微笑が浮かんだ。
 戸田には深い慈愛があった。だからこそ、それはそれは厳しい師であった。青年の一途さを誰よりも愛するがゆえに、嘘やごまかしは、絶対に見逃さなかった。
 姑息な言い逃れなどをする者には「お前はキッネか! お前の言うことは、金輪際信じぬ!」と、雷鳴のような声で怒鳴りつけた。
 戸田が、最も激怒したのは、不知恩と裏切りに対してであった。
 牧口門下となり、さんざん世話になりながら、弾圧を恐れて退転し、師の牧口を悪口雑言した輩を、彼は終生、絶対に許さなかった。
 また、戦時中、神本仏迹論の邪義を唱え、権力にすり寄り、学会弾圧の要因をつくった宗門の悪僧とは、戦後も、謝罪するまで徹底抗戦の決意を固めていた。
 捜し出して厚顔無恥の仮面を引きはがし、その邪義を打ち砕くことを、戸田は深く心に誓っていたのだ。
 その機会は、立宗七百年記念祭(一九五二年)の折に訪れた。そんな悪人を放置しておけば、広宣流布という万人の幸福と平和の道が破壊されてしまうがゆえに、戸田は峻厳であった。
 御聖訓には「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云」と仰せである。
 外部からの非難中傷には微動だにせぬ人も、同じ仏法を持った立場にある人間の言葉には騙されやすい。
 また、社会も、その嘘を真に受けてしまいがちだ。結局、仏法も学会も、師子身中の虫によって撹乱され、破壊される。ゆえに、戸田は、裏切り者に対しては一歩も退かず、
 阿修羅のごとく戦い抜いたのである。
 山本伸一は、恩師をしのびながら、映画を製作してくれた関係者に、深い感謝の念を新たにするのであった。
15  師子吼(15)
 映画「人間革命」が東京・有楽町の有楽座でロードショー公開されたのは、九月八日のことであった。その公開を前に、「人間革命」が「青少年映画審議会」の推薦映画に決定した。
 この映画が「青少年にも信仰心を通じて教養を深め、情操面にも役立つ感銘深い作品」というのが、推薦理由であった。
 また、「人間革命」はこの秋の芸術祭参加作品にも決まっていた。
 九月八日は、十六年前の一九五七年(昭和三十二年)に、戸田城聖が横浜・三ッ沢の陸上競技場で「原水爆禁止宣言」を行った日である。
 その同じ日に、戸田の平和思想の根本を示した映画が公開されたのだ。
 しかも、その映画製作を要請してきたのは、学会員ではない映画人である。それも、日本を代表する著名なプロデューサーである。
 山本伸一は、この日、戸田の故郷である北海道の厚田村(当時)にいた。
 彼は、師を宣揚し、その正義と真実を広く社会に知らしめることは、弟子としての自分の責任であると決め、そのために全精魂を注いできた。
 そして今、いよいよ社会が戸田の偉業と思想に着目する時代に入ったことを思うと、心の底から喜びが込み上げてくるのであった。
 この日、ロードショー公開される有楽座の前には、朝から長蛇の列ができた。前売り券は既に完売しており、当日入場券も瞬く間に売り切れた。
 四回の上映は、いずれも満員であった。
 「人間革命」のロードショー公開は、東京だけでなく、主要都市でも行われ、十月の六日からは東宝系封切館で一斉に公開された。
 全国の上映館は、どこも盛況で、観客の反響も大きかった。
 「創価学会の歴史が不当な権力との戦いであり、真に平和と民衆の幸せを願う活動であることが実感としてわかりました」と、頬を紅潮させて語る壮年もいた。
 「学会の組織のリーダーが極めて人間的であり、俗に言われていた組織主義、権威主義などという批判はまったく間違っていることを知りました」と言う青年もいた。
 一本の映画が、創価学会への認識を変える契機となっていったのだ。
16  師子吼(16)
 聖教新聞(一九七三年十月七日付)では、映画「人間革命」を見た、各界識者の声を紹介していたが、そこには、次のような感想もあった。
 「この映画をみて、多くの人が社会の矛盾や苦しみを解く手がかりを得ることと思う。
 更に多くの市民がみて、生きるとは……を知るカギになることだろう。そうした意味で映画『人間革命』は、宗教映画の域をこえた人間映画だと考える」(キネマ旬報編集長・白井佳夫)
 「この映画は、どこにでもいる一人間戸田城聖の精神革命を主題としたもので、一般の方々にも感動と反省を与えるに違いない。
 戸田先生の人間臭さと崇高な理念と実践は、広く心に訴えるであろう」(英文毎日主筆・冨広哲郎)
 「映画はストレートに観賞者の視聴覚に訴えるものである。従って人間性を高めるものでなければならない――これが映画に対する私の持論である。(中略)
 映画『人間革命』はこの世界における″市民権″の回復とも感じられた。
 ともあれ、強烈な人間主義に貫かれており、世代を超えて大きな示唆を与えることのできるまれな映画である」(和歌山大学教授・角山榮)
 日本映画は、昭和三十年代に全盛期を迎えると、その後、次第に下火になり、名作も減り、観客動員数も低下していたのだ。
 そのなかで映画「人間革命」は大好評を博し、この年の興行収入で第一位を記録。日本映画の興行収入の記録をも塗り替える大ヒット作品となったのである。
 さらに翌年には、海を渡ってアメリカでも公開されることになった。
 この年の十一月、十二月と、山本伸一は東宝の松岡辰郎社長や田中友幸らと懇談の機会をもった。その際、松岡社長らから、続編製作の要請が出されたのである。
 「私どものもとには、現代の荒廃した人間の心を蘇生させ、価値観の喪失、道義の退廃等山積した難問題をかかえた社会に光明を送るのは『人間革命』しかないとの意見が、多数、寄せられています。
 山本先生、ぜひ『人間革命』の続編の映画化をお願いしたいのです」 懸命な訴えであった。
17  師子吼(17)
 東宝側の再三にわたる映画「人間革命」の続編製作の要請を受けた山本伸一は、その熱意に打たれて了承した。
 公開された映画「人間革命」は、一九四五年(昭和二十年)七月三日の戸田城聖の出獄から、翌年八月に行われた戦後第一回の夏季講習会までが描かれている。
 映画「続・人間革命」では、戦後初の地方折伏や、戸田と伸一の出会いなどをはじめ、一九五一年(昭和二十六年)五月三日の、戸田の第二代会長就任までが描かれることに
 なったのである。
 伸一は、自分をモデルにした青年が登場することに、恥じらいも感じていたが、かといって、変更してほしいとも言えなかった。
 「続・人間革命」の製作発表記者会見が行われたのは、「人間革命」の完成から二年が過ぎた七五年(同五十年)の七月であった。
 そして、翌七六年(同五十一年)六月に、遂に映画は公開され、この続編も、大好評を博すことになる。
 創価学会の歴史と思想を描いた小説を、大手映画会社が積極的に映画にし、それが次々と爆発的な人気を呼ぶ時代となったことに、伸一は、学会を取り巻く状況の大きな変化を感じていた。
 ″今や学会への社会の関心は、大きく強まりつつある。それは、真実の仏法を、学会の世界にある、平和と友情の人間主義の連帯を、人びとが強く求めている裏づけといえよう。
 広宣流布の時は来ているのだ。
 今こそ、もっともっと、仏法の哲理を社会に展開していかなければならない……″
 思えば一九七〇年(昭和四十五年)五月三日の本部総会で伸一は、「いっさいの人びとを包容しつつ、民衆の幸福と勝利のための雄大な文化建設をなしゆく使命と実践の団体が創価学会である」との、新しき展望を打ち出した。
 この理念のもとに開始された、青年を中心とした学会の社会貢献の運動や文化運動などが、次第に各地で実を結び、学会への大きな期待の目を、社会は向け始めていたのである。
 まさに、創価の人間主義の、勝利の旭日は、昇り始めていたのだ。
18  師子吼(18)
 一九七三年(昭和四十八年)七月八日は東京都議選の投票日であった。
 公明党では二十七人の候補者を立て、六月二十六日の告示以来、全力で選挙戦を展開してきた。
 前年十二月に行われた衆院選挙では、公明党は五十九人の候補者を立てたものの、当選は二十九人にとどまり、解散時の四十七人を大幅に下回る結果となった。
 この選挙結果から、公明党の凋落を予測する声もあった。
 都議選の行方についても、当初は十六、七議席にとどまると予想されていた。
 この事態に、公明党はもとより、支援する学会員も、むしろ闘魂を燃え上がらせた。
 ″常に社会の予想を覆してきたのが私たちの歴史だ。断じて新しい時代の流れを開こう!″
 公明党は、人間優先の福祉都政の実現を訴えて戦った。
 学会員は、立正安国の理想を胸に、本陣・東京の底力を発揮して、支援の大激戦を展開した。
 そして、改選前の議席数二十五を一議席上回る二十六人が当選を果たしたのだ。
 しかも、そのうち十七人がトップ当選し、前回の都議選(一九六九年)、さらに、昨年の衆院選よりも、大幅に得票数を伸ばしたのである。
 これで、公明党としては、来年に予定されている参院選挙の展望も、大きく開かれたといってよい。
 「わたしは困難な中で笑える者、苦しみを通して強くなる者、非難されて勇気を出す者を愛する」とは、アメリカの独立へと人びとを啓発した『コモン・センス』の著者トマス・ペインの至言である。
 七月十一日は、男子部結成二十二周年にあたる記念日であった。
 ちょうどこの日、聖教新聞は創刊四千号を迎えたのである。
 山本伸一は、前年秋から、足繁く聖教新聞社を訪れては、記者一人ひとりの本格的な育成を開始していた。
 ″広宣流布は言論戦であり、その要は聖教新聞である。ゆえに、聖教の記者、そして通信員を、仏法という確固たる哲理に立脚した一騎当千の言論人に、断じて育て上げねばならない″
 それが、伸一の結論であった。
19  師子吼(19)
 山本伸一は、聖教新聞社の社主でもあり、この二、三年、本社に足を運ぶ機会が増えていた。
 聖教の首脳幹部との打ち合わせをはじめ、小説『人間革命』など、さまざまな原稿の執筆も、主に聖教で行っていた。
 また、聖教新聞社は人間文化の牙城であることから、しばしばここで、文化人や識者などと会見もしてきた。
 そして、前年秋に正本堂が完成し、「広布第二章」が開幕すると、伸一は、聖教新聞の職員を育て上げることに、いよいよ着手したのである。
 敬愛する弟子である聖教の職員との″師弟共戦″をもって、広宣流布の壮大な未来を開く、新しき言論戦を展開していこうとの、強い思いからであった。
 彼は、自分の執務の中心を、学会本部から聖教新聞社に移し、まず編集の職員、一人ひとりのことを徹底して知ることから始めたのである。
 聖教新聞は、一九六五年(昭和四十年)に週三回刊から日刊となり、それにともない、この数年間で、職員は大幅に増加していた。
 そうしたメンバーのなかには、伸一が、あまりよく知らない職員もいたのである。
 彼は、最初に記者たちと会い、出身地や居住地、家族の状況、また将来の希望、業務上の要望や提案などを、こまかく聞いていった。
 聖教の記者には、多彩な人材がいた。
 中国の諸事情に精適し、中国語に堪能な記者もいれば、参議院法制局で法律に取り組んできたという経歴の記者もいた。また、医学部に学んだ人もいた。
 その記者たちが、広宣流布の全責任を担う決意に立ち、文を磨いていくならば、聖教新聞は人間の機関紙として、一段と魅力ある言論の光を放っていくにちがいないと、伸一は確信していた。
 彼は、記者たちと忌憚のない対話を重ね、聖教新聞の未来構想を練り上げ、それを次々と具体化し、実現していった。
 たとえば、海外取材班の派遣や、海外常駐特派員もその一つである。
 彼は、各記者が力を発揮していくために希望を与えたかったのである。
 アメリカの女性作家パール・バックは叫ぶ。
 「すべての活動になくてはならないのは、希望なのです!」 
20  師子吼(20)
 山本伸一は、聖教新聞の記者たちに、限りなく大きな期待を寄せていたが、憂慮もあった。
 それは一九七〇年(昭和四十五年)の「言論・出版問題」以来、一部の記者の間で、安易に社会に同調する風潮が強まりつつあったことである。
 ――この七〇年五月三日の本部総会で、伸一は「言論・出版問題」に言及した。
 学会を正しく理解してほしいとの担当者の熱情から発した交渉が、結果的に″言論妨害″と受け取られ、関係者に圧力を感じさせたことに対して、彼は会長としての責任のうえから謝罪した。
 そして、今後、創価学会は、さらに社会性を重視し、一層の民主的運営を心がけることなどを発表したのである。
 伸一の謝罪は、意思に反して圧力を感じさせてしまった、担当者らの対応の不手際、配慮不足によって、迷惑をかけたことへのお詫びであった。
 師弟を根本に、広宣流布、立正安国をめざす創価学会の使命、生き方の根幹は、なんら変わるものではない。いな、絶対に変わってはならないのである。
 「言論・出版問題」の背景には、公明党を誕生させた創価学会を、さらに、学会の会長である伸一を徹底して攻撃し、学会という一大民衆勢力に壊滅的な打撃を与えようとする政治的な狙いがあった。
 それを見抜けず、学会が攻撃され、伸一が謝罪したことは、学会の根本的な在り方が間違っていたからだと考え、信心への確信が揺らぎ始めた一部の記者たちがいたのだ。なんという浅はかさか!
 信心の眼を開いて見るがよい。創価学会は、日蓮大聖人の仰せ通りに、正法正義を守り抜き、広宣流布を推進し、立正安国の実現に取り組んできた、唯一の仏意仏勅の団体ではないか。
 だからこそ、大難が競い起こったのである。
 御書には「三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず之を顕すは法華経の行者なり」と仰せである。
 また、学会は、現に幾百万世帯もの人びとに、幸福の実証の花を咲かせてきたではないか。この聖業の、どこに誤りがあるというのだ。
 学会の根本的な在り方に、間違いなど微塵もなかった。
21  師子吼(21)
 広宣流布の尊き最前線の学会員は、「言論・出版問題」で、学会がどんなに非難中傷され、いわれなき悪質な喧伝がなされようが微動だにしなかった。
 学会によって仏法に巡り合い、学会の指導通りに信心に励み、幾つもの窮地を脱し、幸せになれたという体験があったからだ。
 また、さまざまな悩みをかかえる友人たちに仏法を教え、そうした人たちが蘇生する姿を、数多く目にしてきた。
 自分も体験をもち、身近な人たちの信仰体験も共有してきた壮年や婦人には、仏法と学会への確固不動な確信があった。
 しかし、心揺らいだ記者たちは、いわゆる苦労知らずであり、確たる信仰体験に乏しかった。そのため、信仰の根っこがなく、基盤が脆弱であったのである。
 本当の意味での生き方の哲学、信念が確立されていなかったのだ。
 揺るがざる確信は、体験によって培われる。
 では、どうすれば、信仰体験は積めるのか。
 それには、仕事や人間関係、健康の問題等々、自分の悩みを克服し、希望を叶えることをめざして、真剣に唱題し、一つ一つの学会活動に全力で取り組んでいくことである。
 ″仏法の偉大さを実証するために、この就職を勝ち取らせてください″″広宣流布のために自在に活動できるように、この病を克服させてください″等と、懸命に祈り、戦い抜いていくのだ。
 そうすれば、必ず、結果は出る。
 また、折伏や機関紙の購読推進など、学会活動のうえで、個人の目標、組織の目標を常に明らかにして、その達成を御本尊に誓い、祈り、目標を成就していくことが大切である。
 困難な状況のなかで、唱題を根本に自身の限界に挑んで必死に戦い、目標を達成していくならば、「歓喜の中の大歓喜」があふれ、信心への確信が深まる。
 その体験を積み重ねていくなかで、いかなる非難中傷や弾圧の嵐にも屈しない、富士のごとき確固不動な、堂々たる信仰が培われていくのだ。
 まさに、広宣流布へ進みゆく学会活動こそ、自身の心を強くし、体験をつかむ、生命鍛錬の道場なのである。
22  師子吼(22)
 創価学会への確信を失い、広宣流布の大情熱を失った記者の精神は、あまりにも空虚であった。その信念なき魂は、「社会性の重視」と称して、社会的な権威や風潮におもねり、追随していった。
 学会に誤解と悪意をいだく著名人の偏見に、容易に同調してしまう記者もいた。
 たとえば、「学会というのは、集団主義的傾向が強く、個人の顔が見えない。もっと個人を尊重し、民主的であるべきです」と言われると、ただ卑屈に頷いて終わってしまうのだ。まったくもって情けない話である。
 刮目して見るがよい。
 多種多様な社会の荒波にのまれ、苦悩にあえいできた民衆に励ましの手を差し伸べ、希望と勇気と歓喜の火を燃え上がらせてきたのは、創価学会ではないか。
 そして学会は、その一人ひとりを大切にし、輝かせ、社会建設の主体者として最大に尊重してきたではないか。
 これほどまでに個人に光を当て、一人の人間のために尽くしてきた団体がどこにあるだろうか。
 また、当然、創価学会の運営は民主的であらねばならないし、事実、制度的にも着々と、その方向に進んできた。
 しかし、信仰の根本問題は、合議や社会的な評価のいかんによって左右されるものではない。
 たとえば、南無妙法蓮華経は最高の法であることを、仮に万人が否定しようとも、その邪見には、絶対に従うわけにはいかないのだ。
 仏法の師弟についても基準とすべきは、社会のモノサシではない。
 日蓮大聖人が幕府権力によって佐渡に流罪された大法難のなかでも、日興上人は、正法正義の信念のうえから大聖人に仕え、守り抜かれた。
 それこそが、仏法の弟子の道である。
 また、戸田城聖は、師匠の牧口常三郎と共に逮捕・投獄されたことに対して、感涙のなかに、こう述べている。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました……」
 軍国主義の社会にあって、「非国民」とされるからといって、信仰を捨てることが正しいのか。
 たとえ、いかなる迫害を受けようが、仏法という人類の幸福と平和の哲理を掲げ、戦うことこそが正義ではないか。
23  師子吼(23)
 多数決による物事の決定を金科玉条とし、「民主的」というなら、信仰の世界は、その枠に収まり切るものではない。
 また、時代の風潮や大勢を占める見解を「社会性」というならば、それを絶対視することは、大きな誤りを犯すことになりかねない。
 しかし、そうした尺度で学会を推し量り、また学会の真実も、日蓮仏法の本義も知らぬ評論家の批評を真に受け、したり顔で学会批判をする記者もいたのだ。
 信仰の世界にあって、確信の喪失は魂の喪失を意味する。
 彼らは、仕事に対する意欲もなく、学会活動からも遠ざかり、職員として会員に奉仕していこうという精神もなかった。
 また、わがままになり、何かにつけて不平不満をもらすのである。
 そんな先輩の男子職員を見るに見かねた女子職員から、山本伸一に涙ながらの訴えもあった。
 「私たちは、学会によって、同志の方々によって、生活させていただいております。
 この一点を見ても、学会には大恩があると思います。そのお世話になっている学会を批判するなら、即刻、職員を辞めるべきです。私は許せません!」
 全くその通りであると伸一は思った。
 「心の底から卑しい人間の明らかな特徴は、忘恩である」とは、スイスの哲学者ヒルティの結論である。
 伸一は、本陣である学会本部の職員に、しかも言論城のペンの勇者たるべき聖教の職員に、そんな不甲斐ない恩知らずがいることが、残念で、残念で仕方なかった。
 本部職員の原点とは、本来、広宣流布という久遠の使命に生きようとする師弟の誓いにある。
 伸一が、少年雑誌の編集者として戸田城聖の会社に勤めたのは、戸田を師と仰ぎ、生涯、共に広宣流布の道を歩みゆかんとする、確固不動なる決意の帰結であった。
 一九四八年(昭和二十三年)九月、伸一は、戸田の第七期法華経講義の受講生となった。
 その講義の感動と誓いを、彼は日記に次のように記している。
 「ああ、甚深無量なる法華経の玄理に遇いし、身の福運を知る。
 戸田先生こそ、人類の師ならん」
24  師子吼(24)
 山本伸一は、さらに、日記にこう記した。
 「混濁の世。社会と、人を浄化せしむる者は誰ぞ。
 学会の使命重大なり。学会の前進のみ、それを決せん。
 革命は死なり。
 われらの死は、妙法への帰命なり。
 若人よ、大慈悲を抱きて進め。
 若人よ、大哲学を抱きて戦え。
 われ、弱冠二十にして、最高の栄光ある青春の生きゆく道を知る」
 この時、伸一は、「革命は死」であることを自覚し、「妙法への帰命」を決意したのだ。
 それは、具体的な実践でいうならば、希有の師である戸田城聖と一体になって、広宣流布に一身を捧げることである。
 それこそが、「最高の栄光ある青春の生きゆく道」であると、彼は確信していたのだ。
 そして、その決意の結実が、戸田の出版社への入社となったのである。
 しかし、ほどなく、戸田の事業は暗礁に乗り上げ、入社から十カ月後には、伸一が編集長を務めた少年雑誌も休刊が決まったのだ。
 そして、彼にとって全く不得手な、信用組合の業務に就いたのである。
 彼は胸を病み、発熱に苦しみながら、激闘を続けた。しかも、何カ月も給料の遅配が続いた。真冬も、オーバーなしで過ごさねばならなかった。夜学も断念した。
 その間に、社員たちは戸田への恨み言を残して次々と辞めていった。
 だが、伸一は一歩も引かなかった。命をかけて戸田を支え守り、戸田が第二代会長として立ち、自在に広宣流布の指揮を執れるよう、一切をなげうって戦い抜いた。
 「火は黄金を鍛え、苦難は強き人を鍛える」とは、古代ローマの哲人セネカの魂の言葉である。
 そのころ、伸一は日記に書き記している。
 「未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、此の師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする」
 広宣流布の師匠である戸田と共に、広布の大願に生きる――それが、自身の人生であると、伸一は、深く決めていた。
 この師弟の道にこそ、職員の精神があり、これこそ、職員の原点にほかならない。
25  師子吼(25)
 広宣流布のために師と共に戦い、学会を、わが同志を守るために生涯を捧げるというのが、職員の心である。
 その行動があるからこそ、学会員は職員を信頼し、生活を支えてくださるのだ。
 ゆえに職員とは、広布に生きる「不二の師弟」の異名である。その本義は、ここにあることを絶対に忘れてはならない。
 職業の選択肢はさまざまである。高額の給料を取り、楽をすることが目的ならば、職員になる必要はない。そうしたことを欲している人間を職員にする必要もない。
 師と一体になって、広宣流布への奉仕、会員への奉仕に徹してこそ職員なのだ。
 日蓮大聖人は、「御義口伝」の「第五作師子吼の事」で仰せである。
 「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経をおこすなり
 〈「師」とは師である仏が授ける妙法であり、「子」とは弟子が受ける妙法であり、「吼」とは、師匠と弟子が、共に唱える音声をいう。
 「作」とは「おこす」と読む。末法において、南無妙法蓮華経を作すことをいうのである〉 
 これは法華経勧持品の「仏前に於いて、師子吼を作して、誓言を発さく……」(創価学会版法華経417㌻)についての御言葉である。
 一言すれば、師から弟子へと仏法が受け継がれ、師弟が共に題目を唱え、広宣流布の戦いを起こすことが、「師子吼を作す」ことになる。
 その中核こそ、本部職員であらねばならない。そして、仏法の正義を叫び、人類の幸福と平和の道を示す聖教新聞は、師弟共戦の師子吼の象徴である。
 したがって、その聖教の記者は、一人ひとりが広宣流布の一切を担い立つ決意に燃え、勇猛果敢に師弟の道を行く、誇り高きペンの勇者でなければならない。
 職員は、万人を奮い立たせる師子であれ。
 戸田城聖は叫んだ。
 「烏合の衆になってはいけない。しかし、革命というものは、一人が立ち上がって叫んだ時、″そうだ!″と言って、ついて来る全員の声の力が大切なんだ」
26  師子吼(26)
 「さあ、師子をつくろう! 今こそ、本物の師子を育てようよ。聖教改革、職員革命だ!」
 前年の一九七二年(昭和四十七年)十月、山本伸一は正本堂落成の慶祝行事を終え、「広布第二章」が始まると、聖教首脳にこう宣言した。
 そして、十月下旬には記者たち七十余人と懇談会をもった。さらに、カメラマンや論説部、文化部の記者、書籍の編集者など、各部局ごとに、懇談を重ねていった。
 年が明けた七三年(同四十八年)の元旦、学会本部での新年勤行会に先立って、伸一が真っ先に訪れたのも聖教新聞社であった。
 伸一の聖教改革は、自ら記者のなかに飛び込んでいくことから始まった。サーチライトで照らし出すように、一人ひとりに光を当て、悩みや意見、要望を聞いた。
 校閲・整理など、主に工場で仕事に従事し、陰の力として新聞を支えているメンバーとも、会食をしながら懇談した。
 また、職員本人だけではなく、さまざまな機会を利用して、その家族とも会っていった。
 職員のなかには、父親が他界するなどして、母親の手で育てられ、大学まで出してもらったという青年が何人かいた。
 母親は、必死に働きながら、信心に励み、″わが子を広宣流布のお役に立てたい″と頑張り抜いてきたにちがいない。
 伸一は、そうした母親の心に報いるためにも、″お預かりした大切な宝であるお子さんを、立派な広宣流布の大指導者に育て上げなければならない″と、深く心に誓うのであ
 った。
 ともあれ、人を育成しようとするなら、その人の家庭、家族を大切にすることである。
 人は、家庭環境という基盤の上に成り立っている。病気の家族をかかえて奮闘している人もいるし、それぞれに家庭の事情がある。個人を取り巻く背景を十分に理解し、尊重
 してこそ、的確な指導、激励ができる。
 ――人を知れ。深く知れ。そこから人間主義は始まるのだ。
 また、大きな使命を担った職員が、その責任を果たしていくには、家族の理解と協力が不可欠である。
 ゆえに伸一は、感謝の思いを伝えたいと、折々に家族とも会うようにしていたのである。
27  師子吼(27)
 山本伸一は、信心への確信を失いかけている記者や、何かと批判的だといわれる記者とも会っていった。いや、そうした人にこそ、彼は最も心を砕いた。
 伸一は、職員は皆、わが子、わが兄弟、わが家族であると思っていた。
 ″皆、生涯を広宣流布に捧げ、学会と共に生き抜く決意で職員となったはずである。本来、全員が使命深き、尊き仏子なのだ。一人たりとも落とすまい!″
 それが、伸一の決意であった。
 そして、確信を失い、尊き使命を自覚できずにいる記者がいるなら、その心の迷いを打ち破り、必ず学会精神あふれる一流の言論人に育て上げようと、彼は固く心に誓っていたのである。
 日蓮大聖人は御書のなかで、「父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ちひとえに重きが如し」との経文を引かれ、大罪を犯した阿闍世王に心を砕く、釈尊の思いをつづられている。
 伸一は、その御文がいたく心に響いた。
 もし、職員となりながら、不信をいだいて悶々とし、学会活動もせずに学会を批判していれば、「師子身中の虫」となってしまう。
 そうなれば、峻厳なる仏法の法理によって厳しく裁かれよう。その悲惨な末路を思うと、彼は、断じて脱落などさせたくなかった。
 また、伸一は、聖教の職員のことは、すべて社主である自分が責任をもとうと心に決めていた。
 事実、聖教の記者と文筆家との間に、原稿依頼をめぐって行き違いが生じた時には、彼がその文筆家と会い、誠意をもって話し合ったこともあった。自らが矢面に立ち、職員を守ろうというのが彼の信条であった。
 伸一は、記者や編集者たちとの懇談を粘り強く続けていった。
 外報部や社説の執筆担当者、『大白蓮華』の編集部員らとの協議会も行った。さらに本社だけでなく、各地方の記者の育成にも力を注ぎ、関西訪問の折には、関西の「記者会」を結成した。
 しかし、なかでも、彼が全力を傾注したのは、本社の要となる、編集各部の部長に対してであった。一切は、幹部で決まってしまうからである。
28  師子吼(28)
 山本伸一は、編集部長会には、万難を排して出席した。記者の育成は、ひとえに、日常的に記者と接する各部の部長にかかっている。
 部長に力があり、懸命に仕事に取り組んでいるならば、後輩たちはそれを手本とし、真剣に仕事に励むようになる。
 だが、「魚は頭から腐る」と言われるように、部長が仕事を避け、いかに楽をするかばかり考えていれば、部員も勤労意欲を失ってしまう。
 部長は部員にとって、めざすべき目標とならねばならない。
 このころ、編集総局では、部長の大多数は三十代前半であり、部員との年齢差はあまりなく、力量の圧倒的な違いがあるわけでもなかった。
 役職という権威にものをいわせ、記者たちを立場で押さえつけようとすれば、皆の心は離れていってしまう。
 そこで伸一は、聖教新聞の部長たちに、リーダー論を教えることから始めていった。
 伸一は訴えた。
 「部長の諸君も、局幹部、総局幹部も、まだ若い。その若い君たちが、どうやって皆をまとめていけばよいのか。
 結論から言えば、力をつける以外にない。優れた文章力、豊かな知識、的確な判断力を身につけることです。
 デスクが不勉強で、力がなく、文章を改悪するような下手な直しを入れていれば、部員は、内心せせら笑うでしょう。
 そんなことが続けば、やがて、どんな指導をしても、聞かなくなってしまうものです。
 編集というのは実力の世界です。そして、文章を見れば、その人の力は一目瞭然です。
 一回一回の直しを部員が見て、『さすがだ。これほどすばらしい原稿になるのか!』と思わせるものがあるかどうかです。
 一字一句の直しも、見出し一本付け替えるのも、本来、真剣勝負でなければならない。
 だから、勉強して勉強して、勉強し抜くことだ。自分の実力をもって、信頼を、尊敬を、勝ち得ていってこそ本当のリーダーです」
 ニーチェは叫ぶ。
 「君たちが高く抜き出ようと欲するならば、自分の脚を使え! 人に持ち上げられるな、他人の背や頭のうえに乗るな!」
29  師子吼(29)
 山本伸一は、一人ひとりに視線を注ぎながら、言葉をついだ。
 「また、先日、懇談した記者のなかに、『うちの部長は、人には厳しいことを言いながら、 いつも自分は、さっさと帰ってしまう』と不満をもらしている人がいました。
 部長なのだから周囲が尊敬してくれると思い、偉そうにしていたら、とんでもないことです。
 部長は、部の誰よりも働く、率先垂範の人でなければならない。
 皆に『うちの部長は、毎日、膨大な仕事をこなし、必死になって働いている。とてもまねはできない』と言わせるぐらいの仕事をすることです。
 日々の行動、振る舞いこそが、指導の説得力となり、また、信頼、尊敬を集めていく要諦です。
 ところで、何か質問はないかい」
 すぐに何人かの手があがった。
 部長の一人が尋ねた。
 「遅刻をした部員がおりまして、よく話を聞いてみますと、寝るのも午前二時、三時だそうで、かなり私生活が乱れておりました。
 その点を指摘しましたところ、『プライバシーの問題なのだから干渉されたくない』と言います。どう対処すればよいでしょうか」
 伸一は、大きく頷くと語り始めた。
 「プライバシーは、当然、尊重されなければならない。
 ただし、職員は全学会員の依怙依託であり、私生活面も含め、皆の模範となる責任がある。
 私生活上のことでも、問題を起こしたりすれば、学会に迷惑をかけ、会員を悲しませることになる。
 したがって、職員の場合、プライバシーの問題だからではすはされない面がある。
 その意味から、上司は何か問題の芽を見つけたならば、誤りを指摘して、正すべきは正していかなくてはならない。
 特に戸田先生が、学会の伝統として厳しく言われてきたのは、人事が厳正であることと、金銭問題、異性問題でした。
 そして、先生は、職員はもとより、そうした問題を起こした幹部は、解任や除名など、厳格に処分された。
 厳しいようでも、それが学会を守り、また、長い目で見れば、本人を守り、堕地獄への道を塞ぐことにもなるんです」
30  師子吼(30)
 山本伸一の声に、力がこもった。
 「皆を不幸にしないために、悪いことは悪いと強く言い切っていくことが本当の慈悲です。
 こまかく社内の様子を見ていると、朝の出勤がだらしなかったり、勤務時間中に、どこに行っているのかわからない者もいる。しかし、部長が何も言わない。
 それは、ものわかりのいいように見えるが、その本質は臆病で、ずるいんです。言えば、うるさがられるし、嫌われるかもしれない。だからといって、見て見ぬふりをしているのは、責任の放棄ではないですか」
 伸一は、皆の顔に厳しい視線を注いだ。
 「なんじの隣人の安寧幸福のために、真実を語る勇猛心もて身をかためよ」とは、トルストイが愛した言葉である。
 伸一は話を続けた。
 「なかには部長自身がいい加減な場合もある。そうなると、部全体が馴れ合いになってしまう。
 人間は、切磋琢磨がなくなれば、結局、堕落していくだけです。
 職員は、部長も部員も常に磨き合い、互いに成長を競い合っていく関係でなければならない」
 それから伸一は、深い決意を秘めた口調で付け加えた。
 「私は、全職員の成長を、日々、懸命に祈っています。皆、広宣流布に生涯をかけようと集ってくださった方々です。職員は私の命です。
 君たちも部長として、部員の成長と無事故を、真剣に祈っていくことだ。その祈りがあれば、心も通じ合います」
 伸一は、語りながら戸田城聖の深い慈愛が思い返されてならなかった。
 戸田の事業が窮地に陥った一九五〇年(昭和二十五年)ごろ、伸一は、病に苦しみながら働きに働き、師に一身を捧げ、広宣流布に散りゆこうと密かに決心していた。
 後世に、まことの弟子の模範を残さねばならぬと考えていたのだ。
 しかし、彼の心の底まで、鋭く見抜いていた戸田は言った。、
 「お前は死のうとしている。俺に、命をくれようとしている。それは困る。お前は生き抜け。断じて生き抜け! 俺の命と交換するんだ」
 それが師であり、その師と弟子の魂の結合があってこそ、金剛不壊の言論城が築かれるのだ。
31  師子吼(31)
 聖教新聞の部長たちと山本伸一の語らいは尽きなかった。
 黒縁のメガネをかけた青年が手をあげた。社会部の部長をしている山上武雄である。
 彼は大分県出身で、温厚だが正義感みなぎる編集者であった。
 「社会部では体験談を扱っておりますが、体験を取材するうえで、大切な点は何でしょうか」
 伸一は即座に答えた。
 「今日は、一つだけ言っておきます。それは、人間の生き方を見つめる目をもつことです。
 たとえば、大きな事故に遭遇し、体は不自由になったが、九死に一生を得て、頑張っている人がいたとする。
 命拾いをしたということは功徳ですが、そこに着目するだけでは、薄っぺらなものになってしまう。もう一歩、掘り下げて、体が不自由になっても、力強く、希望に燃えて、
 生き抜いているという姿を取材し、描き出していくべきです。
 その生き方のなかに、人間仏法の脈動がある。
 体験の原稿には、記者の信仰観、仏法観が端的に表れる。仏法への正しい理解がないと、神秘や奇跡を追い求めるような体験の書き方になったりするものだ。
 だから社会部の記者には、特に深い教学、哲学が必要なんだ。
 体験談は、聖教新聞ならではのものだ。体験のページを読んで、勇気と希望を得て、信心に奮い立つ人、入会する人は実に多い。
 いかにすれば、客観的で、それでいて万人の胸を打ち、納得させることのできる体験が書けるか、みんなで検討し、工夫していくんだよ」
 「はい!」という、山上の元気な声が響いた。
 伸一は、編集部長の育成に力を注ぐとともに、社内をくまなく回り、編集以外の各局の職員と対話を重ねた。
 新聞の発刊は、輸送・配達などを担当する業務や、広告、出版、経理、管理等の各部署で、一人ひとりの職員が黙々と使命を果たし抜くことによって、初めて可能になるのである。
 ゆえに伸一は、すべての職員のことを、わが生命に刻もうと、深く心に決めていたのである。
 彼は、社員食堂にも頻繁に足を運び、皆とさまざまな意見を交換しながら食事もした。
32  師子吼(32)
 山本伸一は、聖教の職員たちの意見を積極的に聞いていった。
 「どんなことでもいいから、言いなさい」と言うと、記者たちからは遠慮なく要望が出された。
 「勉強するために学習室をつくってほしい」
 「休息できるようにソファを入れてほしい」
 なかには、伸一の万年筆が欲しいと言いだす青年もいた。
 彼は、無遠慮な要望や意見にも、誠実に対応した。そして、可能な限り希望を聞き入れ、次々と実現していった。
 「私たちは聖教家族だもの、私の前では、開けっぴろげでいいんだ」
 半ばしらけていたり、批判的な記者とも、粘り強く対話していった。一緒に卓球をしたあとに、胸襟を開いて意見交換したこともあった。
 時には、校閲室を訪れ、夜食用の魚肉ソーセージを校閲部員と一緒にかじりながら、歓談したこともあった。
 「心をひらかなければ相手の心もいつまでも閉ざされている」とは、ルソーの洞察である。
 また、若手の職員に、自分のありのままの姿を見せようと思った。
 伸一は、一九七二年(昭和四十七年)夏ごろから、編集首脳の育成を図ろうと、新聞編集局次長であった松倉進をはじめ編集幹部を、常に同行させてきた。
 各県での諸行事にも一緒に行き、自分の車に同乗させることもあった。そして、車中にあって、聖教の未来構想をはじめ、文章論、指導者論、人材論、組織論などを語ってきた。
 そのなかで彼らは、大きな成長を遂げ、物事の分析能力や文章力も磨かれ、リーダーとしての力を蓄えつつあった。
 伸一は、そうした機会を、若い記者たちにも与えたかったのである。
 そこで、数人の同行記者を選び、松倉を中心者に任命したのである。
 伸一は、彼らには、会合はもとより、執務から食事の様子まで、自分のすべてを見せるようにした。隠さねばならぬことなど何もなかった。
 創価学会の会長の責任と戦いが、どれほど重く激しいものであるかを、教えておきたかった。
 また、山本伸一という人間の実像を知って、共に広宣流布のリーダーとして、立ち上がってほしかったのである。
33  師子吼(33)
 山本伸一の会長就任十三周年となる、一九七三年(昭和四十八年)の五月三日には、伸一は、総本山の大客殿で行われた聖教新聞の全国通信員大会に出席した。
 「五月三日」という意義深き日に、通信員大会を行うことを決めたのは伸一であった。
 全国各地で最前線を走り、最も苦労している通信員の方々と共に、新たな出発をしたいと、彼は考えたのである。
 席上、伸一は約三十分にわたって講演した。
 この通信員大会で、二十一世紀にわたる聖教新聞の軌道を示そうと、何日も前から原稿の作成に取り組み、推敲を重ねてきたのであった。
 彼が聖教の記者たちと対話を重ねて痛感したことは、なんのための聖教新聞かという理念がわからなくなれば、そこから、記者としての生き方に迷いが生じてしまうということであった。
 講演で伸一は、聖教新聞は創価学会の機関紙であることを、改めて確認した。
 そして、聖教新聞社の精神とは「広宣流布遂行への大情熱であり、一言すれば『強盛にして正しき信心』であります」と叫んだのである。
 当然すぎることのようだが、この一点がずれてしまうことから、すべての狂いが生じるのだ。
 ゆえに、記者は、常に自らの信心を正すべきであることを、強く訴えたかったのである。
 さらに彼は、記者に要求される資質として、冷徹な心、批判の眼、鋭利な頭脳、究明能
 力、記述表現力の五つをあげ、そのうえで、こう警鐘を鳴らした。
 「これは、いわば、声聞は・縁覚(語句の解説)の二乗の能力であり、それゆえに記者は強い信心に立ち、菩薩行すなわち広宣流布という目的観を、絶対に忘れてはならない」
 次いで、聖教新聞の役割に言及していった。
 「その本務は、信仰を啓発し、信心を指導し、誤れる言論に戦いを挑み、一切の思想・哲学に対して指針を示し、信仰に関する一切の情報をニュース化して、提供していくことであります。
 したがって、世界を包容しつつも、その根底には、日蓮大聖人の仏法への大確信が脈打ち、全会員を守りきっていく力が満ちあふれていなくてはならないのであります」
 語句の解説 ◎声聞・縁覚
 声聞とは、仏の教えを聞いて、一部の悟りを獲得した境界。 縁覚とは、仏の教導によらず自ら理を悟り、一部の智慧を得た境界。
 十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)のうち、声聞・縁覚をまとめて「二乗」という。二乗は低い悟りに満足してそれ以上の悟りを求めようとはせず、利他の実践に欠け、利己の心に陥ってしまう。爾前経では永不成仏と厳しく破折された。
34  師子吼(34)
 山本伸一の講演は、聖教新聞の記者の生き方にも及んだ。
 「広宣流布のために戦う言論人は、常に、味方に対しては同情の眼を、人びとを不幸にする敵に対しては警戒の眼をもっているべきであります。
 また、皆さん方は、弱者の味方、善良なる者の味方であるということを、絶対に忘れないでいただきたい。
 記事というものは、いったん紙面に出てしまったならば、引っ込みがつかないものである。したがって、常に最高の言論を目指さねばならない。
 そのために戒めるべきは、『慢心』『油断』『怠慢』であり、この三つが記者の大敵となるのであります。
 そう心得たうえで、皆さん方は、″わが原稿は天の声なり″との自負をもち、″わが原稿は無冠の帝王の王勅なり″という気概で、思う存分、ペンを執っていただきたいのであります」
 さらに伸一は、機関紙の特質を論じ、「それは読者を『彼』として扱わず、親しい『あなた』として呼びかける新聞である」としてこう訴えた。
 「聖教の記者は、全読者に対して、喜んでいたら共感を表明し、悲しんでいたら勇気づけ、頭が疲れていたら知恵を、新知識を与え、脱線したら目標を示し、混乱したら整理し、弱ったら守るというように、常に臨機応変に、縦横無尽に、活躍していっていただきたいのであります」
 ここで、彼の声に、一段と力がこもった。
 「ところで、広布第二章という新しい時代の展開に対処するために、聖教新聞の理念を明確にしておきたいと思います」 そして、聖教の基本理念を発表していった。
 「一、世界一流の新聞社を目指せ。
  二、社員は常に原点に立て。
  三、常に伸び伸びと広宣流布のために、縦横無尽に活躍せよ。
  四、一旦緩急の時は、学会の全責任を担って立て。
  五、永遠に世界の庶民の味方たれ。
 ――以上の五点を提案申し上げますが、いかがでしょうか」
 会場に賛同の大拍手がわき起こり、いつまでも、いつまでも、鳴りやまなかった。
 聖教新聞の歴史に、未来永遠にわたる魂が注がれた瞬間であった。
35  師子吼(35)
 五項目の基本理念のうちで二番目に示された「原点」とは、広宣流布に生き抜く、師弟の誓いである。
 広宣流布、そして、世界平和への師と弟子の共戦の師子吼――それが聖教新聞なのだ。
 山本伸一は、講演の最後を、こう結んだ。
 「聖教新聞の制作にあたる皆さんは、精神は清らかに、志は遠大に、行動は緻密かつ着実に、心情は春のごとく温かくあってください。
 そして、団結して、広宣流布の道へと、創価学会を進めていっていただきたいのであります。
 また、今、申し上げましたように、もし、学会に何かあったならば、その時こそ、聖教の全職員が、聖教の通信員が、一切合切の責任を担って戦っていただきたい。
 皆さんの今までのご苦労に対して、深く感謝申し上げるとともに、これからのご健勝を心からお祈り申し上げまして、話を終わります」
 皆の感動が、大拍手となって広がった。
 聖教の首脳たちは、永遠不滅の原点が刻まれたことを実感しながら、この基本理念を聞いた。
 実は、首脳幹部も、記者たちも、聖教新聞の進むべき根本の方向性が見いだせずにいた。
 だから、聖教新聞は具体的に何をめざすかとなると、なかなか意見はまとまらなかった。
 社会の価値観に追随するあまり、学会としての主張が不明確になり、何を言いたいのかわからない原稿もあった。
 しかし、この講演によって、立ち込めていた霧が晴れるように、聖教新聞の進むべき道が豁然と開かれたのである。
 「信念ができると力が生まれる」とは、孫文の達観である。
 この直後の五月八日、山本伸一は、ヨーロッパ訪問に出発した。その朝も、彼は聖教新聞社を訪れ、各階を回って出発のあいさつをした。
 編集では、「行ってくるよ。君たちのために道を開いてきます。だから、うんと力をつけて、後に続くんだよ。君たちのことを思い描きながら、頑張り抜くからね」と励ました。
 管理局では、「留守を頼みます。君たちがいてくれるから安心なんです」と声をかけた。
 このヨーロッパ訪問には、編集を代表して、松倉進も同行している。
36  師子吼(36)
 五月二十七日にヨーロッパ訪問から帰国した山本伸一は、三十日の朝には、聖教新聞の編集部長会に出席した。
 そして、六月一日、午前八時過ぎに新聞社を訪れた伸一は、社内を一巡し、それから三階にある編集庶務部の出勤簿が並べられた場所で、編集の職員を迎えた。
 出勤の仕方を見ると、その人の仕事に対する姿勢や心構え、生き方がわかるものだ。
 早く出勤して、原稿の執筆に取りかかっている人もいれば、皆の机の上まで雑巾がけしている人もいる。何人かで御書を拝読し合っている人たちもいた。だが、始業間近になっても、姿を現さない人もいる。
 また、あいさつの声にも、仕事への気迫と人間性が表れるものだ。
 「声は何にもまして一人の人間の姿を正しく表わします」とは、スペインの哲学者オルテガの洞察である。
 この日、出勤してきた職員たちは、伸一の姿を見ると、一様に驚きの表情を浮かべた。
 そして、「おはようございます」と、元気に伸一にあいさつする職員もいれば、絶句する人もいた。
 始業開始の九時近く、印鑑を手に、猛スピードで駆け込んできた若い記者は、伸一がいることにさえ気づかず、出勤簿に判を押した。そのあと、ホッとして顔を上げると、目の前に伸一の顔があったのだ。
 「あっ!」と声をあげる記者に、伸一は微笑を浮かべて言った。
 「おはよう。朝はもう少し、余裕をもって出勤するんだよ」
 なかには、遅刻をした記者もいた。
 伸一は、穏やかな声で尋ねた。
 「君は、なんで遅れたんだい」
 「すいません。寝坊してしまいました」
 「正直だな。体は大丈夫か。疲れていないか」 「大丈夫です」
 それを聞くと、伸一は安心し、昮々と語り始めるのであった。
 「戸田先生は朝の出勤には、それはそれは厳しかった。いつも時間ぎりぎりで来たり、遅刻するような者は、絶対に信用されなかった。
 それは、そこに、だらしなさや甘え、いい加減さ、あるいは、要領よく立ち回ろうという人間の本性が出てしまうものだからだよ」
37  師子吼(37)
 山本伸一は、在りし日の戸田城聖をしのびながら、懐かしそうに思い出を語っていった。
 「遅刻などしようものなら、戸田先生は『遅参その意を得ずだ!』と言って、激しく叱責されたものだった。
 戦闘開始という時に、配置につくべき者が遅れたならば、全軍が滅びてしまうことにも なりかねないというのが、先生のお考えであった。
 私は、毎日、三十分前には出勤して、きれいに掃除をし、皆を待つようにしていた。
 戦闘開始になってから武器弾薬を引っ張り出し、磨いているようでは、戦いにならないからだよ。
 また、遅刻は、社会人として、大事な信頼を自分の手で汚すことに等しい。一事が万事であると見るのが社会の見方だ。
 また、寝坊するなどして遅刻が重なると、結局、嘘をつくようになる。しかし、そんなことは、すぐにばれ、信頼をなくすことになる。
 一度失った信頼を取り戻すことは大変だよ。
 まず、朝に勝とう。人間革命といっても、抽象的に考えるのではなく、身近な問題から挑戦していくことが大事だよ」
 「はい!」
 新たな決意に輝いた目で、青年が答えた。
 伸一は、翌六月二日には静岡に向かった。さらに、滋賀、福井、岐阜、愛知を訪問し、八日に東京に戻るが、その日も聖教新聞社を訪れている。
 そして、翌日には編集部長会に出席したのだ。
 部長が変われば、部員は変わる。部長を広宣流布の大リーダー、大言論人に育て上げようと、伸一は必死であった。
 六月には九日、十二日、二十二日、二十三日に、七月には九日、十日、十八日、二十四日に、部長会に出席している。
 ある日の部長会で、人名や会合名、日時などの間違いや、誤字脱字などがテーマになった。
 伸一は、皆の話を聞き終わると、強い語調で語り始めた。
 「日蓮大聖人は『なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し』と仰せです。
 同じように、ミスが一つでもあれば、せっかくの努力も水の泡です。紙面全体への信頼が失われてしまうからです」
38  師子吼(38)
 かつて少年雑誌の編集長を務めた山本伸一は、誤植など、ミスを犯さぬために、日々、神経をすり減らす思いで、懸命に仕事に取り組んできた。それだけに、彼の発言には重みがあった。
 「新聞にとってミスというものが、いかに致命的なものか、記者一人ひとりが生命の底から痛感しなければならない。
 たとえば、本部総会の日時や会場を間違えて予告してしまったら、どうなるか。大混乱をきたすでしょう。
 組織を使って訂正しても、なかなか徹底しきれるものではない。たくさんの人に大迷惑をかけてしまうことになる。
 ミスというのは、絶対に許されないものなのだという自覚を、まず全員がもつことです。
 危険物を扱う工場など業種によっては、一つのミスが大惨事につながり、多くの人命を奪ってしまうこともある。
 創価学会への信頼は、今や、外からどんなに攻撃されようが、揺らぎません。しかし、機関紙の紙面がミスだらけで、いい加減であれば、皆が不信をいだき、信頼も失墜して
 いきます。
 ミスをすることは、結果的に、『城者として城を破るが如し』につながっていく」
 部長たちの顔に緊張が走った。皆、ミスを起こしてはならないとは思っていたが、そこまで重大なこととは受け止めていなかったからである。
 「では、なぜミスが起こるのか――。
 最も多いのは、これぐらいは大丈夫だろうと高を括り、行うべき確認を怠って、手抜きからミスが起こるケースです。
 これは怠慢であり、由々しき問題です。
 体が自然に反応するぐらい、原則を徹底して教え込むしかありません。
 また、確認しているのに、寝不足などによる疲れや、体調の不良などから、注意力が散漫になってしまっていることで起こるミスもある。
 そこには、油断、気の緩みがある。
 職場は戦場であり、常にベストコンディションで仕事をするのだという姿勢がないからです。
 それでは、ボクシングの選手が、疲労困憊した姿で試合に臨むようなものです。
 部長は、仕事への考え方から、指導しなければならない」
39  師子吼(39)
 山本伸一の言葉には、聖教新聞から、ミスを断じてなくすぞという、気迫がほとばしっていた。
 それは、社主としての決意の表明でもあった。
 「ミスというのは、起こった時に、その原因を徹底的に究明して、ミス防止の具体的な対策を確立していくことが大事です。
 たとえば、この確認はこれと照合する。こういう方法で再チェックする――というように、各部でミス絶滅のための鉄則をつくっていくんです。
 そして、そのルールを決めたら、みんなが完壁に順守するよう、徹底し抜いていくことです。それができなければ、何度も同じミスを繰り返してしまう。
 ともかく、ミスが起きた時が大事だ。みんなの問題としてとらえ、部をあげて原因を究明し、対策を検討し、全員が二度とミスなど起こすまいと決意していけば、『変毒為薬』 (毒を変じて薬と為す)につながります」 ラテン語の格言には、こうある。
 「人間、誰しも過ちをおかす。しかし、愚か者のみが過ちを繰り返す」と。至言である。
 伸一は、皆に視線を注ぎながら、話を続けた。
 「また、もし名前などを間違ってしまったならば、訂正を出し、担当者や、しかるべき編集幹部がお会いして、丁重にお詫びしてくることです。
 ″聖教新聞は、ここまでするのか。さすがだ″と先方が思い、恐縮するぐらい、誠心誠意、対応すべきです。それが、信頼の回復になります。
 ともあれ、ミスというのは、一生懸命に防止に努めても、予期せぬかたちで起こる場合がある。ある意味で、魔との攻防戦ともいえます。だからこそ題目です。
 絶対にミスなど起こすものかという誓願の必死の祈りが、大事になるんです」
 伸一が話し終えると、校閲局長の針山敬介が質問した。
 「これまでのデータを見ると、ミスを起こす人は、たいてい決まっていて、同じ人が何度も起こす傾向があります。その点は、どう考えればよいでしょうか」
 「ミスを繰り返す背景には、その人の生命の傾向性がある。
 大事なことは、その人が自分を見つめ、人間革命してみせるという一念です」
40  師子吼(40)
 一切は自身の生命より起こる――それが、仏法の法理である。ミスも、その本質的な要因は自己自身にある。
 山本伸一は言った。
 「ついつい油断して、確認の原則を疎かにしてしまうというのも、その人の生命の傾向性です。
 そうした人は、仕事に限らず、交通事故なども起こしがちです。
 したがって、そこに自分の一凶があることを自覚し、それを変革していくのだと、毎日、具体的に、真剣に祈り続けていくことが重要になる。
 部長は、ミスをした部員を叱るだけでなく、むしろ、それを契機に一歩掘り下げた対話をし、人間革命への道が開かれるよう、指導、激励していただきたい。
 ミスを起こしたくて起こす人はいません。みんな、自分なりに一生懸命にやっているつもりなのに起こってしまう。だからこそ、対話と励ましが大事なんです。
 ほかに聞きたいことはないかい」
 すると、すぐに質問が飛び出した。
 「先生は、全国通信員大会で、聖教新聞の精神は『強盛にして正しき信心』であると言われましたが、それを習得していくうえで、最も大切なことはなんでしょうか」
 伸一は言下に答えた。
 「御書という原点に立ち返ることです。信心の在り方の根本を示した御書を心肝に染めて、その通りに実践していくことです。
 大聖人も『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず』と仰せではないですか」
 伸一は、編集総局長に視線を向けた。
 「ところで、毎朝の部長会では、御書を読み合っているかい」
 「いいえ、部長会ではやっておりません」
 「どういうかたちでもいいから、しっかりと御書を拝していくことが大事だよ。思想を深め、信念を確立していくには、それ以外にありません。
 御書は、私たちの信心と生き方の規範であり、根本です。学会は御書を根本としてきたからこそ大聖人に直結し、大発展したんです。
 その御書の研鑽を疎かにすることは、歯車が機軸から外れることであり、空転を繰り返すだけです。聖教は御書にかえることです」
41  師子吼(41)
 山本伸一は、聖教の記者たちが、いわゆる「順世外道」に堕していくことを最も憂慮していた。
 「順世外道」とは、世俗的な価値にのみとらわれて、唯物的な快楽を追求する、古代インドの哲学の一派である。
 すべては、死とともに無になるとし、善業・善果も悪業・悪果も存在しないとして、現世の享楽を説いたのである。
 記者たちも、社会の現象面にのみ目を奪われ、世間に迎合していけば、仏法の生命の法理を見失い、まさに「順世外道」の過ちを犯しかねない。
 そうなれば精神の崩壊であり、人間の進むべき道を示す羅針盤としての、聖教新聞の使命を果たすことはできない。
 伸一は、断じて、そうさせないために、御書の研鑽を訴えたのである。
 この日、伸一は、何人かの職員と共に、本社の屋上で懇談した。
 屋上からは、間近に創価文化会館が見え、神宮の森が広がっていた。
 また、彼方には、富士の雄姿が光り、眼下には、道に沿って家々の屋根が並んでいた。
 下を覗き込みながら、伸一は言った。
 「家並みは路地裏から見てもわからないが、高いところから見ると、一目瞭然だろう。こうして上から見下ろしていくような、境涯を確立していく道が仏法なんだよ」
 先哲は訴える。
 「人間について論ずる者は、高処から望むがごとく地上のことを見渡さなくてはいけない」
 伸一は言葉をついだ。
 「揺れ動く社会の波に翻弄されていたのでは、時代の行方を正しく見極め、変革していくことはできない。しかし、信心の眼を開き、自分の境涯を高めれば、すべてが手に取るようにわかる。
 それが仏法で説く『出世間』の重要な一つの意義でもある。『出世間』といっても、ただ、『世間』から隔絶するということではないはずだ。
 ともあれ、信心による境涯革命があってこそ、生々流転する、千差万別の世間の事柄に、柔軟に対処していくことができる。
 そのためには、御書を根本にして、信心で立つことだ。皆が自分を磨くことだ……」
 こうした伸一の指導を受けて、聖教新聞社では、朝礼などで、御書を研鑽していくことになったのである。
42  師子吼(42)
 聖教の職員と山本伸一との語らいは、頻繁に続けられた。青年たちはそれを何よりも楽しみにし、さまざまな質問をぶつけてきた。文章についての質問も多かった。
 ある日、伸一を見ると待ち構えていたように、若手の記者が尋ねた。
 「先生は、文は境涯で書くものだと指導してくださいました。
 『境涯で書く』とは、具体的にいうと、どういうことでしょうか。自分なりに考えてみましたが、はっきりしないのです」
 伸一は微笑んだ。向上心にあふれた青年の質問が、彼は何よりも嬉しかったし、大切にしたかったのである。
 「結論からいえば、私たちの″文″の根本は、折伏精神です。
 権力の横暴など社会悪や、人間生命に巣くう魔性を、絶対に許さぬ心です。そして、断じて広宣流布し、人びとの幸福と平和の道を開き抜くぞという一念です。
 この燃え上がるような学会魂をもってペンを握れば、たとえ表現は稚拙でも、それだけのものが必ず文に滲み出てくる。ちゃんと人の心を動かすものだよ。これが境涯で書くということです」
 今度は、隣にいた記者が質問した。
 「ぶしつけな質問ですが、良い文章とは、どういう文章でしょうか」
 伸一は頷いた。
 「私は、文章は自分の心の投影なのだから、自分の思想が的確に表現され、キラリと光る独自の鋭い視点があり、筆者の生命、魂を感じさせるものが、良い文章だと思っています。
 さらに名文の条件をわかりやすくいうと、すべての人を″うーん、なるほど″と納得させるものがなくてはならない。
 どんなにすごいことをいおうが、専門の学者しかわからないような文章では、民衆から遊離してしまう。
 みんなが読んでわからないというのは、記者の独り善がりにすぎない。
 だから、たとえば、みんなのお母さんが見て、よくわかり、感動する文であるかどうかという尺度が大事なんです。
 読者を忘れ、民衆を忘れた文章や新聞は、社会改革の力とはなりません」
 真剣にノートを取る記者もいた。
 それは、さながら文章論のゼミナールの観を呈していた。
43  師子吼(43)
 山本伸一は、青年たちに、いとおしそうに視線を注ぎながら、力強く話を続けた。
 「みんな力をつけるんだよ。そのためには人一倍苦労し、努力することだ。同じ十行の原稿でも一時間悩んだものには、それなりの深みがある。
 私が会った、ある著名な記者は、恥ずかしいから誰にもわからないように、家に帰って、社の先輩で名文家といわれる人たちの文を、ひたすら書き写して勉強してきたと告白していました。
 みんなも、見えないところで、どれだけ苦労して勉強し、努力しているかが勝負だよ。
 その時はわからないかもしれないが、五年、十年、二十年とたった時には、歴然とした実力の差になる」
 語り終わると、さらに質問が飛び出した。
 「記者として生きるうえで、どういう決意が必要でしょうか」
 伸一の目が光った。
 「大事な質問だ。
 ある新聞社の人が『記者ならば、いつでも、戸板に乗って家に帰ってくる覚悟がなくてはならない』と語っていたことが私は忘れられない。
 つまり、命がけで論陣を張るということだ。言論戦は真剣勝負だ。遊びではない!」
 叫ぶような言葉に、皆の顔に緊張が走った。
 「『人の一生には、どうしても命をかけなければならぬことがあるものだ』とガンジーは語っている。
 学会をつぶそう、広宣流布の前進を阻もうとする、あらゆる勢力の謀略を、言論の力をもって打ち砕き、学会への理解と賞讃を勝ち取っていくのが、私たちの戦いだ。
 悪を責め抜き、欺瞞の仮面を引きはがし、学会の真実と正義を叫び抜けば、御聖訓の通り、憎悪と怒りの標的になる。命を狙われもします。
 しかし、それでも民衆の側に立ち、無冠の師子として正義のペンを執り続けていくんだ。
 命尽きるまで、書いて、書いて、書きまくって死んでいくなら、言論人として本望ではないか。私も、その決意で日々、原稿を書いている。
 日蓮大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』と仰せのように、臆病者には創価の言論戦は担えない。勇気をもって立つことだ」
 青年たちの目には、闘志が燃え輝いていった。
44  師子吼(44)
 山本伸一が、一九六〇年(昭和三十五年)に、世界平和の旅に出発した記念日である十月二日も、伸一は編集部長会に出席した。
 この日は、彼を囲んで、明七四年(同四十九年)の新年号の企画が検討され、「生命の世紀へ前進する創価学会」「社会に開きゆく仏教運動」などのテーマのもと、プランが次々と決定をみた。
 編集部長会の最後に、伸一は言った。
 「今日は、君たちに贈りたいものがある。ブロンズ像だ。
 本社の一階のロビーに用意してもらっているから、一階に行って除幕式をやろう」
 ロビーに移動すると、台座の上に、白布が掛けられた像があった。
 「さあ、始めよう」
 伸一が言うと、メンバーの代表が白布を取り除いた。歓声があがった。
 美しい光沢の、凛々しいブロンズ像が姿を現した。
 カブトを被り、剣と盾を手にして立つ、裸身の若者の像である。その足元には泣いている幼子がいる。この命を守るために、若者は立ち上がったのであろうか。
 これは十九世紀のフランスの彫刻家キュニョ・ルイ・レオンの作品で、像の高さは一一八センチであった。
 伸一は語った。
 「この像を聖教に贈ります。これはローマ神話を題材にした作品ですが、私なりの解釈をして、この像を、『一人立つペンの勇士』と名づけました。
 私には、若者が持っている剣は、君たち記者にとってのペンに思えてならない。
 『ペンは剣よりも強し』です。みんなはペンをもって戦う勇士だ。
 泣いている幼子は、不幸に泣く民衆の姿です。若者が手にしている盾は、民衆を守り、学会を守り、防御することを意味します。
 勇者は、今、ペンを持って一人立った。『民衆よ、待っていてくれ。心配するな!』という勇者の叫びがここにある。
 また、この像は裸であり、服は着ていない。
 それは″地位や金なんかどうでもいい。ペンがあればよい。裸で戦うのだ″という、本当の言論人の気概を示しているように私には思える。
 それこそが″聖教魂″にほかならない」
45  師子吼(45)
 編集部長会のメンバーは、山本伸一の計り知れないほど大きな期待を感じながら、彼の説明に一心に耳を傾けていた。
 「ところで、この像は裸だが、カブトを被っている。それは何を意味していると思うかい」
 伸一は尋ねたが、皆からは、答えは返ってこなかった。
 「私は、このカブトは誇りを意味しているように思える。つまり″権威や名声などなくていい。しかし、自分は勇者の誇りだけはもち続けていくぞ″という心意気の表明のように感じられる。
 私たちの立場でいえば、いかなる状況になろうとも、信心の誇り、言論王としての心の王冠だけは失ってはならないということです。
 どうか、この像を聖教新聞社の象徴とし、精神の宝として、全記者が、″一人立つペンの勇士″の自覚で、立ち上がってもらいたい」
 さらに、その数日後、伸一は聖教の編集陣に木彫りの師子像を贈った。
 「聖教師子の像」と名づけられたこの像は、高さ約二十七センチ、横幅約六十センチで、力強く足を踏み出し、師子吼している力感にあふれた作品であった。
 常に伸一は、「師子を育てよう」と言い続けてきたが、まさに、彼のその気持ちの結晶ともいうべき像であった。
 この像を贈るにあたって、彼は提案した。
 「この像が入った木箱に、皆で決意の署名をしよう。師子として、育つ決意がある者のみが署名し、永遠に聖教に残していくのだ」
 彼の提案に、記者たちは大賛成であった。
 この署名は「我ら聖教師子の誓い」とし、本社の記者ら三百二十九人が署名したのである。
 「いよいよ、師子として立つ時がきた! 聖教の基本理念を体現する記者になろう!」
 「師子の道とは、師弟不二の実践だ!」
 各人が、そうした決意を込めて署名した。
 リンカーンは訴える。
 「はっきり胆に銘じておくことは、やりとげるんだという決意で、これがなによりもいちばんたいせつなのだ」
 皆の署名が終わると、伸一もペンを執り、こう記した。
 「広布の言論に 生死をかけて戦い進む 君達を信頼し 共に勝利を待ちつつ」
46  師子吼(46)
 「聖教師子の像」に引き続いて、山本伸一は、新聞配達をする少年のブロンズ像を聖教新聞社に贈った。
 高さ約一メートル三十センチの、新聞を携えて走る少年の像である。
 これは、第二回「第三文明展」に「無冠の友」のタイトルで出品された著名な彫刻家の小金丸幾久の作品である。
 伸一は、この像を、なぜ聖教新聞社に贈ったか、職員に語った。
 「新聞を本当に陰で支えてくださっている力は、配達員の方々だ。
 大雨の日はずぶ濡れになり、吹雪の日は寒さに凍えながら、来る日も来る日も、朝早く新聞を配ってくださる。その方々の健気な日々のご努力があるからこそ、聖教新聞が成り立っている。
 私は、その方たちを最大に讃えたい。そのせめてもの思いとして、この像を、聖教新聞社に設置したいんです」
 伸一の話を聞いた記者たちは、ハッとした。いつの間にか、新聞が配達されて当然のような感覚になっていたのだ。
 その心を見透かしたように、伸一は言った。
 「特に記者の諸君は、″陰の力″である配達員の方々への感謝を、絶対に忘れてはならない。
 一般紙の世界では、記者は原稿を書くだけで、購読の推進や配達については無関心であるというのが実情かもしれない。
 しかし、聖教新聞の記者は、そうであってはならない。原稿を書き、自ら率先して購読推進にあたり、読者の声に耳日を傾け、配達員さんを最高に尊敬していくんです。
 それは、新聞界の改革にもなる」
 この新聞少年の像は、伸一によって「広布使者の像」と名づけられ、聖教本社前の庭に設置が決まった。
 そして、この年の十二月二十九日、業務総局の職員や配達員、販売店の子弟の代表らと共に、除幕式を行ったのである。
 業務総局の職員には、始業時間より、一時間以上も前に出勤し、配達員や販売店主の無事故を、真剣に祈っているメンバーが数多くいた。
 伸一は、その姿をじっと見ていたのである。
 樹木の強さは、地中の根によって決まる。大切なのは、見えないところで、陰で何をしているかである。業務の職員の懸命な祈りこそ、無事故の原動力なのである。
47  師子吼(47)
 「若い人たちにたいする教訓はすべて、ことばよりもむしろ行動で示せ」とはフランスの思想家ルソーの箴言である。
 人間を育てようとするならば、自らの生命を削ることだ。自分のすべてをなげうつ思いで、接し抜くことだ。
 山本伸一は、聖教新聞の職員の育成に、心血を注ぎ尽くしていった。
 彼は、青年時代から、生活費を切りつめて買い求めてきた、思い出深い貴重な蔵書をはじめ、海外訪問の折に購入したものなど、洋書六千冊も、聖教新聞社の資料室に寄贈したのである。
 伸一は、そのために、二十人ほどの職員と一緒に、数日間にわたって、本の整理に当たらねばならなかった。
 伸一の文字で書き込みがなされた本を見て、記者の一人が言った。
 「先生にとって、本当に貴重な本だということがよくわかります」
 すると、伸一は笑いながらこたえた。
 「そうなんだよ。自分の子どもを手放すようで実に寂しいね。
 でも、みんながこれを読んで、大いに活用し、力をつけてくれればそれで十分だ。洋書もたくさんあるから、しっかり勉強して、世界的な指導者に育ってほしい」
 伸一は、編集幹部や記者たちに請われれば、原稿の書き方などについてもアドバイスした。
 一九七三年(昭和四十八年)の秋のある日、論説委員長の松田剛が、編集室にいた伸一に、社説の原稿を持ってきた。「ぜひ見てください」と言うのである。
 向学、求道の心こそ、成長の原動力である。
 松田は、かつて伸一が学生部の代表に行った「御義口伝」講義の受講生であった。
 彼はこの講義を聞き、″広宣流布は思想戦である。仏法は最高の生命哲理であり、平和思想なるがゆえに、断じて、その思想戦に勝たねばならない″と深く決意した。
 そして、社会の諸現象をどうとらえ、その底流にいかなる思想があるかを、真剣に研究してきたのである。
 伸一は言った。
 「君たちが希望するなら、見せてもらいます。また、ほかの原稿もあれば持っていらっしゃい。
 私は社主だから、特に社説には力を入れて見るからね」
48  師子吼(48)
 社説は、十一、十二月に実施される教学試験についてのもので、「いよいよ今月は教学試験が行われる」から始まっていた。
 原稿に目を通すと、山本伸一は言った。
 「まず出だしから、つまらないな。文章に季節感がほしいし、最初の一行で、読者の心をつかむことが大事なんだよ。ぼくが言うから書き留めてくれないか」
 口述が始まった。
 「菊と思索と英知の十一月……」
 彼は、「精神不毛」「哲学不在」が叫ばれる時代にあって、老若男女が仏法の研鑽に取り組む姿のなかに、真実の人間宗教の光彩があることを論じていった。
 しばらくすると、伸一は尋ねた。
 「よし、これで行数はどのぐらいだい」
 筆記していた松田剛が感嘆して答えた。
 「ちょうど、規定の分量です」
 口述が始まってから十五分であった。
 全く新しい原稿ができあがっていた。伸一は、原稿を読み返し、三、四個所に筆を入れた。
 記者たちは驚嘆した。一本の社説を書くのに、早い人でも一、二時間はかかっていたからだ。
 さらに、その内容に目を見張った。教学研鑽の目的が明確に述べられているだけでなく、合格しなかった人への配慮もなされていた。
 伸一は、居合わせた記者たちに語りかけた。
 「社説は、新聞社の生命だ。社説を書くということは、記者として最大の誉れなんだよ。
 だから執筆担当者は、どんな問題も深く論じられるように猛勉強し、考え抜くとともに、創価学会という全体観に立たなければならない」
 思想を貯めよ――とは牧口初代会長の指導である。学習と思索を重ね、思想を蓄積してこそ、鋭い主張が生まれるのだ。
 また、彼は、最も小さなコラムである「寸鉄」にも最大の力を注いだ。「寸鉄」は、聖教新聞が創刊されたころは戸田城聖が自ら筆を執り、破邪顕正の戦いの武器としてきた伝統がある。
 十一月初め、伸一は松田が持ってきた「寸鉄」に目を通した。
 ――「各地の大学祭で学生部員が活躍。精神の荒野うるおす英知と連帯の波動は学園にも滔々」
 「違うな、松田君」
 厳しい声であった。
49  師子吼(49)
 「寸鉄」の原稿を手にしながら、山本伸一は松田剛に言った。
 「この原稿の底流にあるのは、学会と社会とを分断した考え方だ。
 これだと、向こうに荒廃したキャンパスがあり、こっちに学会の英知の連帯があって、それが怒涛のように押し寄せていって、のみこんでしまうみたいじゃないか。
 学生部員は、母校を愛し、誇りに思うから、わが大学をよくしようと、大学祭で哲学の復興を訴えるなどして頑張っている。信仰者の魂の発露として、学生部員の奮闘がある。
 ところが、この原稿は集団で勢力争いでもしているような書き方になってしまっている。書いた記者が、学会を正しくとらえきれていないね」 伸一は書き換えた。
 ――「各地の大学祭で学生部員が活発に舞っている。
 母校を愛するが故に学問と自身の探究のうえに、その動きや尊し」 また、一九六八年(昭和四十三年)に東京・府中市で起こった三億円強奪事件の時効が、あと二年で成立することが話題になっていた時のことである。
 「寸鉄」の担当者たちは、この問題をどう取り上げればよいのか、もてあました。伸一は、それを知ると、すぐに自らペンを執った。
 ――「三億円事件、時効までにあと二年。この罪、世間法と国法律では裁けなくとも仏法律は裁く」
 彼は言った。
 「こういう時は、仏法の眼から見ていくことだよ。仏法の因果は極めて厳しい。その因果律を皆が自覚すれば、自ずから社会のモラルはつくられていく。だから広宣流布が大事なんだよ」
 伸一は皆の求めに応じて、割り付けや見出しにも目を通した。そして、直しを入れ、こうアドバイスするのであった。
 「何度も使ってきた言葉は避け、新鮮味を出そうよ。
 読者が″また同じじゃないか″と思えば、記事も読む気がしなくなってしまうからね。
 新聞作りはマンネリとの戦いだ。パターンに安住しないことだよ。斬新的なひらめきと豊かな創造の輝きが大事になる。創価学会は価値創造の団体じゃないか」
50  師子吼(50)
 山本伸一は、全精魂を注いで、聖教新聞の職員の育成にあたった。それが、二年、三年と続いていったのである。
 どうすれば記者たちが誇りと張り合いをもって仕事に励めるかにも心を砕き、本部幹部会で、各部の記者を壇上に上げ、紹介したりもした。
 また、人に即して、さまざまな角度からの育成を心がけた。創価学会史や教学問題などのテーマを与えた記者もいた。
 そうした研究成果や、海外紀行の新聞連載などを本にし、出版できるようにもした。社会部・機報部員による体験集『我が青春記』の出版も提案した。
 さらに伸一は、交通渋滞に巻き込まれながら、記者の家庭を訪問したこともあった。
 一人ひとりの職員が成長し、いかんなく力を発揮できるようにするために、彼は労を惜しまなかった。
 伸一が最も粘り強く指導・激励を重ねたのは、愚痴や文句の多いメンバーに対してであった。
 彼は、そうした記者の意見をすべて聞いたうえで、諄々と訴えた。
 「もし、学会に批判があるなら、ただ文句を言っているのではなく、君が自分で、理想的な学会をつくっていくことだ。私もそうしてきた。
 自分は傍観者となり、ただ批判をしているだけでは、破壊ではないか。主体者となって立ち上がろうとしなければ、自分の成長も広宣流布の建設もない。
 同じ一生ならば、傍観者として生きるのではなく、広宣流布のために、学会と運命をともにしようと心を定め、力の限り戦い抜くことだ。そうでなければ、あとで後悔することになる。
 お互いに赤裸々な人間として力を合わせ、学会の世界に、理想の連帯をつくっていこうよ」
 そう言って伸一は、青年の手を、何度も何度も握り締めるのであった。
 また、仲間同士で集まって酒を飲んでは、先輩幹部の批判ばかりしている、二、三人の記者がいた。
 彼らは大物ぶっていたが、付和雷同的な傾向があり、自分を見つめる姿勢に欠けていた。
 ゲーテは断言する。
 「きみがだれと付き合っているかを言いたまえ。そうすれば、きみがどのような人間であるかを言ってあげよう」
51  師子吼(51)
 幹部などの批判ばかりしている記者たちがいるという話は、山本伸一の耳にも入った。
 伸一も気にかかっていたメンバーであった。
 大事な職員である。伸一は、彼らが大成するために、誤りに気づいてほしかった。
 職員の会合の折、伸一は、彼らを次々と指名し、「みんなが感銘するような指導をしなさい」と言った。
 彼らは、しどろもどろになり、何も実のある話はできなかった。伸一は厳しい口調で語った。
 「批判は簡単だ。では自分は何ができるのだ。
 真剣に自分を磨くことを忘れてはいけない。不平不満は、自分を惨めにするだけだよ」
 その言葉は、深く彼らの心に突き刺さった。
 太陽を浴びて、草木が見る見る繁茂していくように、伸一の激励に触れた聖教の職員たちは、目覚ましい成長を遂げ、日ごとに生き生きとしていった。
 文句ばかり言っていた記者も、自分の言動を恥じ、学会を担う誇りに燃え、果敢に学会活動にも励むようになった。
 「ぼくは山本先生のことを知らなすぎた。ただ広宣流布に、人びとの幸福と平和のために生きる″不惜身命の人″が、師匠であることに最高の誇りを感じる。
 先生の正義を叫び抜くことは、その実像を知った弟子の義務だ!」
 なかには、伸一が真心を尽くして、指導、激励を重ねても、学会を見下し、広宣流布を忘れ、批判を繰り返す者もいた。
 しかし、やがて彼らは、誰からも相手にされなくなり、皆、自分から職員を辞めていった。
 清らかな信仰の世界では、悪心の者は、その醜悪なる正体が明らかになり、出て行かざるをえないのである。
 広宣流布をめざす清浄無比なる異体同心の連帯が聖教であり、本部である。ゆえに、悪を絶対に許してはならない。
 「悪人は叩き出すのだ! そうでなければ、学会が蝕まれてしまう」
 それが戸田城聖の叫びであった。
 伸一の生命を削るかのような、この聖教新聞への指導によって、聖教に永遠不滅の精神の柱が打ち立てられたのである。
 そして、この時、言論城に、赫々たる師弟の太陽が燦然と昇ったのだ。

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