Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第17巻 「緑野」 緑野

小説「新・人間革命」

前後
2  緑野(2)
 福井地震一カ月後の一九四八年(昭和二十三年)七月、今度は豪雨によって九頭竜川左岸の堤防が決壊し、福井市内に濁流が流れ込んでいる。
 さらに福井県は、一九五〇年(同二十五年)、五三年(同二十八年)にも、台風による水害で多くの犠牲者を出したほか、三百戸以上が全焼するという大火もあった。
 山本伸一は、その悲惨な災禍を思うと、痛ましくて仕方なかった。また仏法で説く「国土」というものの宿命を痛感せざるをえなかった。
 しかし、福井の人びとは、畳みかけるように襲った災害に負けず、敢然と立ち上がったのだ。
 伸一は、そこに、福井人の潜在的な不屈の強さを感じた。その人びとが真実の仏法に目覚め、広宣流布に奮い立つならば、自らを人間革命し、さらには、「国土」の宿命転換をも成し遂げていくことは間違いない。
 御聖訓には「わざはひも転じて幸となるべし」と仰せである。宿命転換のための妙法である。
 その新しい歴史の幕を開こうとの決意で、この一九五九年(昭和三十四年)三月、伸一は福井指導の第一歩を印したのである。
 この時、山本総務の指導に接した同志は、地域広布を担うわが使命を深く自覚し、赤々と闘魂を燃え上がらせた。
 福井県は、その後も何度か、災害に襲われた。伸一は、そのつど、電話で、手紙で、あるいは、上京したメンバーと直接会っては、全精魂を傾けて励ましてきた。
 三度目となる一九六七年(昭和四十二年)の訪問では、福井本部幹部会に出席し、「無疑曰信」(疑い無きを信と曰う)について訴えた。
 「仏法の法理に照らして、やがて、私たちが幸福になることは絶対に間違いない。したがって、何があっても、決して御本尊を疑うことなく、最後まで、無疑曰信の信心を貫いてください。
 不信というのは、生命の根本的な迷いであり、元品の無明です。それは不安を呼び、絶望へと自身を追い込んでいきます。その自分の心との戦いが信心です。
 その迷いの心に打ち勝つ力が題目なんです。ゆえに、題目第一の人こそが、真の勇者なんです」
 彼は、わが生命を注ぐ思いで叫んだ。
3  緑野(3)
 山本伸一の四度目の福井県訪問は、一九七二年(昭和四十七年)三月の敦賀市での記念撮影会であった。
 その折、伸一は、現実の生活の場所を去って、彼方に幸福を求めるのではなく、自分が今いる、その場所で頑張り抜き、真実の仏法の力を証明していくことが大事であると強く訴えていった。
 日蓮大聖人は「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなりここを去つてかしこに行くには非ざるなり」と仰せである。妙法を持ち、広宣流布に邁進していくならば、自分のいるその場所こそが、悟りの場所となり、常寂光土になるというのが、真実の仏法の教えなのだ。
 さらに伸一は、福井の同志が郷土の幸福と繁栄を築く「広布第二章」の新出発をするために、一年後の訪問を約束し、前進の目標を示したのだ。
 そして、この五度目の福井県訪問となったのである。
 メンバーは伸一を迎える日をめざして、懸命に弘教に汗を流してきた。
 自分たちの手で、「国土」の宿命を転換しようと、皆、必死であった。
 伸一の訪問が決まってから、大ブロック一世帯の折伏を実らせ、この日を迎えたのであった。
 車窓には、美しい緑野が広がっていた。
 山本伸一が県幹部会の会場がある武生駅に着いたのは、六月五日の午後四時過ぎであった。この瞬間から、彼の渾身の激励は開始された。
 まず、駅の改札を出たところで、あいさつしてくれた子ども連れの婦人部員を励ました。
 そして、そこに集まって来た数人の女子中学・高校生に声をかけた。
 彼女たちは、敦賀の鼓笛隊メンバーで、一般参加者として幹部会に出席するのだという。
 伸一は言った。
 「そうか鼓笛隊か。いつもありがとう。勉強も頑張るんだよ。それからお母さんに心配かけないようにね」
 さらに、一人ひとりと握手を交わした。
 「また、会場でお会いしましょう。その時、ヨーロッパのお土産の絵葉書を差し上げます」
 伸一は、車に乗ってからも、窓を開け、彼女たちに手を振り続けた。
 一瞬の出会いをいかに生かすか――彼は、常に真剣勝負であった。
4  緑野(4)
 福井県幹部会の会場となった武生市の体育館には、六千人のメンバーが詰めかけ、場外にも人があふれていた。
 福井県で、これだけのメンバーが一望に会するのは初めてであった。
 県幹部会は、午後四時半から始まった。
 体験発表、幹部指導、表彰、合唱と続き、嵐のような拍手のなか、山本伸一が指導に立った。
 「約束通り、一年ぶりにお邪魔いたしました。 明るい、そして、朗らかな幹部会、本当におめでとうございます。
 ここに参加された皆さんは県下の代表であり、出席できない多くの方々がいらっしゃることと思います。その方々に、直接、お会いできないのが残念でなりません。
 お帰りになりましたら、参加できなかった皆様に、くれぐれもよろしくお伝えください」
 これが、伸一の偽らざる気持ちであった。
 御書を開くと、日蓮大聖人は、会えない門下や留守を支える家族のことをも、こまやかに思いやられている。
 伸一は、その御心を拝し、陰で黙々と頑張る同志に、どうやって光を当て、励ましを送るかについて、常に心を砕いていたのである。
 ここで伸一は、福井の歴史に言及していった。
 そして、古墳時代の三千基以上の古墳があることなどをあげ、福井地方はかつて大繁栄した地であり、福井人は誇りと気概にあふれ、優れた力を有していた事実を論証していった。
 「ところが現代では、福井県は″保守王国″といわれ、おとなしさや消極性が県民性であるかのごとくに見られがちであります。だが、私には、それが本来の福井人の性格そのものであるとは思えません。
 むしろ、古代からの誇りと気概と実力は、脈々として現代にも底流をなしており、条件さえ整えば、立派にそれが開花すると考えている一人であります」
 その証拠として、空襲をはじめ、地震、豪雨、火災、雪害などの大災害を、不撓不屈の精神で乗り越え、「不死鳥・福井」と讃えられていることを語った。
 さらに彼は、その本来の活力が生かされずに、″消極性″ ″保守王国″のレッテルが張られてしまった原因について考察していったのである。
5  緑野(5)
 山本伸一は、福井人は活力に欠け、″消極的″であるなどと評されているが、それは″仏教王国″といわれる中世以降の福井県の歴史と、深い関わりがあることを述べていった。
 福井県には、十三世紀に禅僧の道元が開き、江戸時代に曹洞宗の大本山となった永平寺がある。だが、より広く福井の人ぴとに浸透しているのは、浄土教、すなわち、念仏の教えである。
 室町時代に浄土真宗の蓮如が、北陸布教の拠点としたのが、現在の福井県であり、真宗各派の本山も多い。
 念仏の教えは、この世は汚れた穢土であるとし、西方十万億土を過ぎたところに極楽浄土があり、ただ念仏を唱えることによって、死んで後に極楽に行けるとする教えである。
 それは、現実の社会で、建設の主体者として、永続的な改革に挑む生き方とは相反する思想である。
 そうした教えが、福井人の活力にあふれた積極的な生き方を、消極的で他力本願的なものへと変質させてきたことを、伸一は鋭く指摘していったのである。
 宗教は、人間の生き方を決定づける根本の力である。
 だからこそ、日蓮大聖人は、生命の部分観に過ぎない仮の教えである、禅や念仏を破折され、円融円満にして完全無欠の諸経の王・法華経への帰依を、生涯、叫び続けられたのだ。
 それゆえに創価学会もまた、宗教の浅深・善悪・正邪をどこまでも研究し続けてきたのである。
 伸一は、訴えた。
 「では、この″保守王国″といわれる現実を転換し、バイタリティーを復興する道は何か。
 大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と断言されている。
 生命の大法たる日蓮大聖人の仏法によって、必ず、この郷土の本質的な大革命ができるということを、私は宣言しておきたいのであります。
 それは、ひとえに、皆さんの勇気と活動にかかっているのであります。
 どうか″福井のルネサンスを必ず成し遂げる″と誓い合い、勇んで前進していっていただきたい。それが皆さんの使命なのであります」
 怒涛のような賛同の拍手がわき起こり、いつまでも鳴りやまなかった。
6  緑野(6)
 山本伸一は、さらに、徳川時代の末期、福井地方からは、『蘭学事始』の著者・杉田玄白や、蘭学の振興に努めた橋本左内などが出たことをあげて、福井の進取性に言及していった。
 「このような観点から見れば、福井県は潜在力に満ちた地域性です。皆さん方は、自分の郷土に大いに将来性を見いだしてください。
 そして、過去の″仏教王国″なるものを、新しき真実の″仏教王国″につくり直していっていただきたいのであります」
 再び、誓いの大拍手が響きわたった。
 皆、目の覚める思いがした。愛する郷土建設のわが使命を痛感し、胸が高鳴るのを覚えた。
 伸一は、各地を訪問する際には、その地の歴史や風土、直面している問題等々を徹底して調べ、分析した。
 そして、仏法の視座から地域の発展と人びとの幸福のために何が必要かを熟慮し、意見や提案を述べていった。
 アメリカの哲学者デューイは結論している。
 「現実の動きの意味を明確にし明瞭にする仕事を進めるのが、転換の時代における哲学の任務であり問題である」
 ″妙法による郷土のルネサンスを!″――この山本会長の渾身の指導は、福井の同志にとって、郷土の新しき建設のための永遠の指針となったのである。
 伸一は、用意してきた話を終えると、会場のメンバーに、懇談的に語りかけた。
 「先ほど歌を歌ってくださった合唱団は、壮年部、婦人部、男子部、女子部からなる混声合唱団と伺いましたが、上手ですね。ありがとう!
 もし、皆さんがよろしければ、本部幹部会で、合唱していただき、福井の心意気を全国に示してください」
 歓声があがった。
 「これからは福井の時代です。『東京、何するものぞ!』という気概で存分にやってください。
 信心の世界では、遠慮する必要はありません」
 「はーい」という声とともに拍手が広がった。
 伸一は、さらに場内を見回しながら言った。
 「それから、さっき駅で会った鼓笛隊の方、手をあげてください。ヨーロッパの絵葉書を差し上げたいと思います」
 また、歓声と拍手が場内を包んだ。
7  緑野(7)
 参加者は、壇上の山本伸一に、一心に視線を注いでいた。
 彼は、静かに微笑を浮かべながら言った。
 「いつも気になっているんですが、昭和三十五年(一九六〇年)に、敦賀の駅で私を待っていてくださった方々は、いらっしゃいますか!」
 彼の呼びかけに、「はい!」と、場内のあちこちで手があがった。
 ――それは、彼が会長に就任する直前の、一九六〇年二月であった。
 伸一は二月五日から、静岡、京都、石川の指導に出かけ、七日深夜、京都駅から夜行列車で金沢に向かった。
 敦賀のメンバーには、同じ支部に所属する京都の同志から、山本総務が敦賀を通って金沢に向かうという電話が入った。
 時刻表を調べると、山本総務の乗った列車は、午前二時半ごろ敦賀に到着し、六分間の停車時間があることがわかった。
 敦賀の同志は、話し合った。
 「ぜひ、この機会に山本総務とお会いして指導を受けよう」
 そして、有志が敦賀駅のホームに集まったのである。その数は五十人ほどであった。
 真冬の二月、しかも深夜である。防寒具を着込んでも、体は凍りつくように寒かった。
 しかし、皆の心は燃えていた。
 この前年の三月、伸一は、初めて福井県を訪問し、武生で指導会を行っていたが、敦賀のメンバーは、その時の歓喜と感動が忘れられなかったのである。
 戸田第二代会長亡きあと、事実上、創価学会の全責任を担って広宣流布の指揮を執る山本総務に、再び指導を受けたいとの思いで、皆、喜々として敦賀駅に集って来たのである。
 やがて、列車がホームに入ってきた。
 白い息を吐きながら待っていたメンバーの顔が光った。
 「山本先生は、どこやろう」
 伸一を探すために、何人かのメンバーが列車の中に入った。また、窓をのぞき込みながら、ホームを行ったり来たりする人もいた。
 伸一は寝台車で横になっていたが、車外から響いてくる人声を耳にすると、跳ね起きた。
 ″もしかしたら、学会員が集まっているのではないか……″
8  緑野(8)
 山本伸一は、腕時計を見た。時計の針は午前二時半近くを指していた。
 隣の寝台にいた同行の十条潔も起きてきて伸一に言った。
 「学会員が駅に来ているんでしょうかね。ちょっと、私が様子を見てまいります」
 そして、十条は、すぐに戻って来た。
 「今、敦賀駅に停車中ですが、山本先生にお会いしようと、地元の学会員が五十人ほど、ホームで待っております」
 伸一は言った。
 「外は寒いだろうね。そのなかを、皆、指導を求めて、集まって来た。立派な求道心だ。
 その真心が尊く、ありがたいね。ぜひ会って、一人ひとりを、抱きかかえる思いで励ましたい。
 しかし、今、私が出ていったら、どうなるだろうか……」
 「そうなんです。山本先生が出ていかれれば、皆、歓声をあげたりして大騒ぎになることは間違いありません。
 そうなれば、ほかの乗客の迷惑になってしまいます……。
 ここは、私が皆さんとお会いして話をしましょう。気持ちはわかりますが、非常識な行動は慎むように、徹底しておかなければなりません」
 「そうだね。既成仏教が大きな力をもっているこの福井で、広宣流布を進めていくには、社会の信頼を勝ち取っていくことが、最も重要なポイントになる。
 信頼を失うことは、自分の存在基盤を切り崩すことに等しい。
 だから、周囲に迷惑をかけたり、顰蹙を買うような行動があっては、絶対にならない。
 すまないが、十条さんがみんなと会って、そのことをよく説明してくれないか」
 「はい」
 「そして、こう伝えてください。
 ――こんな夜中に、本当にご苦労様です。しかし、周囲の方たちの迷惑になるので、次の機会にお会いしましょう。また必ず福井に来ますから。ご家族の皆さんにも、くれぐれもよろしく」
 十条が席を立ち、通路を歩き始めると、地元の壮年幹部が寝台車両に入ってきた。
 「あっ、十条理事!」
 十条は、声を押し殺して言った。
 「しっ、静かに! 乗客の皆さんが休まれているではないですか」
9  緑野(9)
 十条潔は、乗車してきた壮年を伴ってデッキに向かった。
 ホームに降りた十条を学会員が囲んだ。
 彼は、なるべく小さな声で話していった。
 「皆さん、大変にご苦労様です。
 山本総務から伝言を預かってまいりましたのでお伝えします」
 十条は、最初に山本伸一の言葉を伝えたあと、こう語った。
 「本当は山本総務も、皆さんにお会いして、一言でも激励したい気持ちでいっぱいなんです。
 しかし、総務が出てきて、皆さんの歓声や拍手がホームに響けば、寝ている人を起こしてしまうことになる。
 そうなれば、周囲に迷惑をかけてしまうし、奇異に感じる人もいる。それでは、法を下げてしまいます。
 山本総務は、必ず、また来ますとおっしゃってくださった。ですから、次にお会いできる日を楽しみに、今日は、このまま、お帰りください。
 また、広宣流布のためには、常識豊かであるということが極めて大事なのだと肝に銘じて、慎重に行動するよう、お願いします」
 皆、頷いてはいたが、どの顔にも、落胆の色が滲んでいた。
 十条が話し終わると、ちょうど発車時刻となった。メンバーは寂しげな顔で、走りだした列車を見送った。
 山本伸一は、十条の報告を聞くと、胸が張り裂けそうな思いがした。
 ″社会に迷惑はかけられない。でも、同志は午前二時半という時間に、列車の到着に合わせて集まってくれたのだ。やはり一目でも会うべきではなかったか……″
 伸一は、常に熟慮に熟慮を重ねて、物事の結論を導き出してきた。
 しかし、それでも、時として悔やまれ、自分を責めることもあった。いや、すべての責任を担って、「最善の道」をめざそうとすればするほど、反省は尽きなかった。
 だが、そのなかで人間は磨かれ、自己完成への歩みを運ぶことができるのだ。
 「悔恨がないのは、前進がないからである」とは、トルストイの達観である。
 伸一は、以後、福井を訪問するたびに、「敦賀の駅に来てくれた人」のことを語り、感謝の意を表してきたのである。
10  緑野(10)
 今、武生での福井県幹部会の会場にあって、山本伸一は、また十三年前に敦賀駅に集ったメンバーが来ているかどうか、尋ねたのである。
 「はい!」と手をあげた三十人ほどの人たちに、伸一は言った。
 「皆さんとは、お会いすることができなかっただけに、私は生涯、あの夜のことは、忘れられないんです。
 今日は、皆さんに差し上げようと、ヨーロッパの絵葉書を用意してきました。
 これは、将来、皆さんが、自由に海外を旅行できるようになっていただきたいとの祈りを込めて、お贈りいたします」
 幹部会は、和やかな語らいのあと、学会歌の合唱となった。
 「新世紀の歌」を皆で合唱したあと、場内から声があがった。
 「山本先生! 歌の指揮を執ってください」
 続いて、大きな拍手が場内にこだました。
 「わかりました。やりましょう! それで、なんの歌がいいの?」
 「武田節!」
 「よし、広布第二章への福井の出陣だ!」
 音楽隊の奏でる調べが流れ、伸一が威風堂々と舞い始めた。
 参加者は、伸一の指揮に合わせ、「福井のルネサンス」への誓いを託して、熱唱した。
 壇上の中央で力いっぱい手拍子を打ち、声を限りに歌う、端正な顔立ちの青年がいた。
 その目からは、ポロポロと涙があふれていた。前年の三月に福井長になった魚津健司であった。
 伸一は、広宣流布の新展開のためには、方面や県を一つの独立した創価学会ととらえ、それぞれの方面、県で、地域に即した広宣流布の構想と運動を練り上げ、自主的に活動を推進していく必要があると考えていた。
 そして、県長制の導入を提案し、「地域の年」と名づけられた一九七二年(昭和四十七年)には静岡長、福井長などが任命されたのである。
 この県長制は、順次、各県に導入され、七三年(同四十八年)の九月には、全国的に布陣が整うのである。
 それは「広布第二章」の一つの在り方を示す、重要な布石であった。これによって各地の地域広布は、大きく加速していくことになる。
11  緑野(11)
 福井長になった魚津健司は、福井県に隣接する石川県の出身であった。
 彼は、一九六〇年(昭和三十五年)夏、高校三年生の時に、家族と共に信心を始めた。
 この年の十一月、石川に金沢支部が誕生し、その結成大会に出席した山本伸一に、彼は励ましの言葉をかけられる。
 それが、魚津にとって、発心の原点となったのである。
 やがて、彼は大阪の大学に進み、自動車販売会社に勤めたあと、学会本部の職員となった。
 組織にあっては、関西の男子部の中核となり、また関西高等部長として次代を担う鳳雛たちの育成に力を注いできた。
 そして、二十九歳で初代の福井長となったのである。
 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」とは、あまりにも有名な戸田城聖の宣言であり、大確信である。
 この日、魚津は、福井県幹部会の壇上で、「武田節」を熱唱しながら、山本会長の渾身の指揮を眼に焼きつけていた。
 ″先生は歌の指揮を一つ執るのも、真剣勝負なんだ。
 私も、一瞬一瞬、全力で、真剣勝負で戦おう。そして必ず、福井新時代の幕を開くのだ!″
 青年が立ち上がれば、未来が開かれる。
 福井県幹部会は、伸一の勇壮な歌の指揮によって、感動のうちに幕を閉じた。
 終了後、伸一は、控室で魚津に語った。
 「魚津君、大成功の幹部会だったね。おめでとう。自信をもって、力の限り頑張るんだよ」
 「はい!」
 決意のこもった返事であった。
 「保守王国といわれる福井を変えていくのは、青年の力しかない。
 青年とは、ただ年が若いということではない。
 青年とは、第一に大願を起こす心をもっていることだ。そして、その大理想に向かって、間断なき挑戦と向上を重ねていかなければならない。
 第二に、破邪顕正の革命精神にあふれていることだ。悪を絶対に許さぬ妥協なき正義の心をもつことだよ。
 第三に、勇気あふれる果敢な行動力だ。電光石火、苦悩する人びとのもとへ、広宣流布の最激戦地へと走り、戦う闘将でなければならない」
12  緑野(12)
 魚津健司は、山本会長の指導を、全生命で受け止めようとしていた。
 魚津は尋ねた。
 「先生、私は現在、三十歳です。若輩者の私が、県長として指揮を執るうえで、留意すべきことはなんでしょうか」
 伸一は言下に答えた。
 「誠実――これしかありません。同志に仕えるために自分がいるんだと決めて、一つ一つの問題に対して、真剣に、真面目に、謙虚に、全力で取り組んでいくことです。
 その姿に人は共感し、″応援しよう。共に戦おう″と思うんです。
 自分が中心者になったからといって、偉くなったようなつもりになり、舞い上がって、傲慢になるようなことがあっては絶対にならない。
 ましてや先輩や年長者に対しては、尊敬の思いをもって接していくことです。常に自分の方から『よろしくお願いします』と言って、あいさつに回る姿勢が大事です。
 横柄であったり、礼儀を欠いた馴れ馴れしい態度や言葉遣いは、厳に慎まなくてはならない。そういう言動は、自分が愚かで軽率であることを、公言しているようなものです。
 そんなリーダーでは、誰も、本気になって応援などしてくれません。そうなれば、自分も損ですし、何よりも、広宣流布にとってマイナスです」
 伸一は、魚津のために青年指導者の在り方を、徹底して語っておこうと思った。
 「ともかく、若ければ若いほど、誰よりも頑張り、苦労し抜いていくことです。自分が偉くなろうとか、少しでも楽をしようなどと考えるのは、既に堕落です。
 また、見えないところで手を抜いたりすれば、必ずいつか、みんなの落胆と不信を招きます。
 誰もが″うちの県長はここまで頑張っているのか″″これほどまでに皆のために尽くしてくれるのか″と感嘆するようでなければならない」
 この指導は、伸一の信念でもあった。
 彼自身、若き日より、蒲田で、文京で、また、大阪等々で、老若男女のリーダーとして激戦の指揮を執り、常勝の歴史を築くことができたのは、常にこの言葉通りに実践してきたからであった。
 人は、立場についてくるのではない。最終的には、その人柄についてくるのである。
13  緑野(13)
 山本伸一の指導に耳を傾ける魚津健司の顔は、緊張のためか、こわばっているようであった。
 それを見た伸一は、微笑を浮かべた。
 「周囲の人びとへの礼儀や気遣いは大事だが、そのために萎縮してしまい、力が出せなくなってしまうようでは、リーダーは失格です。
 自分らしく、堂々と、また、はつらつと、闊達に活動を進めていくことです。
 若々しいエネルギーにあふれているからこそ、青年指導者の魅力がある。また、皆、それを期待しているということを忘れてはならない。
 君は君らしく、勇気をもって思う存分に戦うことだ。期待しているよ」
 「はい。ありがとうございます!」
 闘魂を秘めた、魚津の声が響いた。
 翌日、伸一は、福井市に向かい、新たに建設が決まった福井文化会館の起工式に出席した。
 そのあと、福井市内に住む福井総合本部長の田山勝治の家を訪問した。
 田山は、ネジの販売会社を営む四十代半ばの壮年で、妻の美智代と共に草創期から福井の中核となって活躍してきた。
 「田山ネジ」という看板を掲げた立派な三階建ての家が、店舗兼自宅であった。
 田山夫妻は、真心を込めて、伸一と峯子、そして、同行の幹部らを歓迎してくれた。
 伸一は、田山夫妻に言った。
 「今日は、お世話になってすいません。
 この一年、福井の前進は、目を見張るものがあります。これも、若い魚津県長を、田山さんご夫妻が支えてくださったからです。
 先輩幹部が、後輩の中心者を守り、自由に力を発揮していけるように応援していくならば、広宣流布は大きく伸展していきます。
 逆に、先輩幹部に『俺が、俺が』という思いがあり、後輩の中心者の悪口を言い、足を引っ張るようなことがあれば破和合僧です。それでは、広宣流布は破壊されてしまいます。
 また、そんなことをすれば、仏法の法理に照らして、自分が罰を受け、苦しむことになる。
 田山さんご夫妻は、徹して魚津君を守ってくださった。私は、心から感謝申し上げます」
14  緑野(14)
 山本伸一は、田山勝治・美智代夫妻に言った。
 「どうか、これからも魚津県長を守り、支え、全国模範の福井を建設してください。よろしくお願いします」
 そして、丁重に頭を下げた。
 ここには、魚津健司も同席していた。彼も目を潤ませながら、田山夫妻にお辞儀をした。
 田山は、慌てて座り直し、畳に擦りつけるように頭を下げた。
 「何があっても、全力で県長を守ってまいります。ご安心ください」
 伸一は″総合本部長と県長の、この団結があれば、福井は盤石だ″と思った。
 大聖人は仰せである。
 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
 この御文は、「生死一大事の血脈」、すなわち生命の究極の法が、いかにして仏から衆生に伝えられ、衆生の生命に顕現するかについて、一つの結論を述べられた個所である。
 「自他彼此の心」とは自分は自分、他人は他人というように、自分と他人とを差別する、断絶した心である。
 たとえば、自分の利害ばかり考えて他者を顧みないエゴイズム、無関係を決め込む心、あるいは敵対視、また、己の感情を根本にした生き方といえよう。
 皆の心がバラバラに分断された、そんな集団に仏法の血脈が通うことはない。ゆえに大聖人は、そうした生き方を厳しく戒められたのである。
 また、「水魚の思」とは、切っても切れない同志相互の、密接不可分な関係を、深く自覚することである。
 互いに、広布の使命に生きる同志を、なくてはならない尊い存在として支え合い、敬い合っていくことが、「水魚の思」の姿といえよう。
 また、「異体同心」とは、それぞれの個性、特質を最大限に生かしながら、広宣流布という大目的に心を合わせて前進していくことである。
 大聖人は、総じては、御自身の生命に流れる血脈は、この「異体同心」の団結のなかに伝わり、「広宣流布」の大願に生きる、一人ひとりの生命に脈打つことを明言されているのである。
15  緑野(15)
 日蓮大聖人は、さらに「今日蓮が弘通する処の所詮しょせん是なり」と仰せである。
 「異体同心」の姿こそ、今、大聖人が弘通される最も肝要なことなのであると言われているのだ。
 一般的に、団結というのは、目標を成就するための一つの手段と考えられている。
 しかし、正法をもって万人を幸福にするための「異体同心」の姿は、それ自体が人間共和の縮図であり、広宣流布の実像である。いわば目的ともいえよう。
 そして、「異体同心」で進んでいくならば「広宣流布の大願も叶うべき者か」と仰せになっているのである。
 山本伸一は、田山勝治と魚津健司に言った。
 「これからも、二人仲良く頑張ってください。田山さんが一歩でも後退するようなことがあったら、それは魚津君の責任です。
 また、魚津君が県長として力を発揮できなかったら、それは先輩であり、総合本部長である田山さんの責任です。
 そのつもりで、互いに、″この人を日本一の総合本部長にしよう″″この人を日本一の県長にしよう″と決めて、頑張り抜くことです。それが『水魚の思』に通じます」
 「団結は諸君の力を百倍にする」とは、イタリアの革命家マッツィーニの叫びである。
 それから、懇談が始まった。
 田山の妻の美智代は、以前、雪道で交通事故に遭い、後遺症の頭痛に苦しんでいた。
 その話を聞いた伸一は、傍らにいた魚津に言った。
 「福井は、冬は雪が多いだけに、交通事故も起こりやすい。だから、会合のあとなどに、交通事故に気をつけるように、常に訴えていくことが大事だよ。
 何か問題や事故があったならば、二度と、そういうことで苦しむ人を出すまいと決めて、注意を呼びかけていくことだ。事故を教訓として生かしていけば、皆を守ることができる」
 伸一は、新しい若きリーダーを育成することに心を砕いていた。
 この福井指導でも、県の要となる魚津を指導・激励することに、彼は、多くの時間を割いたのである。青年の育成なくして、広宣流布の進展はないからだ。
16  緑野(16)
 大河が絶え間なく流れ続けるとうに、山本伸一の激励・指導の歩みも、とどまるところをしらなかった。
 伸一は福井県に引き続き、翌六月七日には、岐阜県幹部会並びに文化祭に出席するため、岐阜に向かった。
 岐阜県もまた、人びとの汗と涙の苦闘の年輪が刻まれた天地であった。
 終戦を迎える一九四五年(昭和二十年)には、三月ごろから岐阜県内でも空襲が本格化し、特に七月九日の岐阜市への空襲は、市内の半分が焼けたといわれるほど、凄惨を極めた。
 当時、女学生であった伸一の妻の峯子も、岐阜市美園町の叔母の家に疎開しており、ここで岐阜空襲に遭遇している。
 彼女は、叔母とその二人の子どもと共に、降り注ぐ焼夷弾を後ろに見ながら、必死に逃げた。
 辺りには、真っ黒に焼け焦げ、誰が誰とも見分けのつかなくなった骸が、幾つも横たわっていた。あまりにも悲惨な光景であった。
 大勢の人たちが、ぞろぞろと、長良川に架かる長良橋を渡り、市外へ、市外へと逃げていった。
 峯子の兄も、一緒に叔母の家に世話になっていたが、男手が必要だからと、叔父と共に町の消防団にかり出されていた。また、彼女の両親と弟は、郊外の福富にある母の実家に疎開していた。
 峯子は、皆の無事を祈りながら、避難する人びとの群れのなかにいた。
 しばらく行くと、葉を刈られた枝だけの桑畑があった。叔母たちと峯子は、その桑畑のなかで身を寄せ合うようにして、一夜を明かした。
 頭上を覆う桑の枝を見ていると、桑に守られているような気がして、不思議に安堵することができた。
 峯子は言った。
 「このなかにいると、なぜか、ほっとするわ。だから雷の時も『桑原、桑原』って言うのね」
 すると、叔母も、いとこたちも、声をあげて笑った。
 「峯子ちゃんたら、こんな大変な時に、そんなこと考えとったの」
 焼け出された地獄のような夜である。その笑いが、皆の心に、さわやかな生気を吹き込んだ。
 峯子たちは、翌日、焼け残った親戚の家にたどり着いたのである。
17  緑野(17)
 峯子たちが親戚の家に着いてしばらくすると、叔父と兄も、そこにやってきた。そして
 、福富から、両親と弟も駆けつけてきたのである。
 峯子は一家の再会のなかで、喜びと幸せをかみしめるとともに、戦争の悲惨さ、むごたらしさを深く胸に刻んだ。
 この戦災体験は、人類の平和を実現する、広宣流布という運動に、彼女が本格的に身を投じる原点ともなった。
 岐阜に向かう車中、峯子は伸一に、この岐阜での空襲の思い出を語ったのである。
 伸一は言った。
 「私も、終戦の年に、東京で空襲にあったが、君も岐阜で大変な思いをしていたんだね。
 岐阜県は、岐阜市だけでなく、各務原や大垣なども、かなり空襲でやられたようだね」
 「ええ、そうでした。
 それに、戦後の伊勢湾台風(一九五九年)の被害も甚大でしたし、去年(七二年)の七月豪雨の時も、皆さん、本当にご苦労されたようです」
 伸一は、頷きながら言った。
 「そういえば、一昨年の岐阜駅での追突事故も、大変だったな……」
 ――それは一九七一年(昭和四十六年)の暮れであった。岐阜駅構内で停車中の普通列車に貨物列車が追突し、多数の乗客が負傷するという事故が起こったのである。
 この普通列車には、総本山に登山した郡上や美濃などの同志が、数多く乗車していたのだ。
 東京で事故を知った伸一は、側近の幹部に、直ちに現地と連絡を取り、事故の正確な状況を掌握するように指示した。
 ″こんなことで大切な仏子であるわが同志を、一人たりとも亡くしてなるものか!″
 彼は懸命に唱題し、皆の無事を祈った。
 不幸中の幸いというべきか、怪我をし、入院した人もいたが、皆、命に別状はなかった。
 伸一は、「変毒為薬」を呼びかける伝言とともに、書籍や袱紗など、激励の品々を送り、中部の幹部らに見舞いと励ましを頼んだ。
 そして、三カ月後の七二年(同四十七年)三月に、岐阜市で記念撮影会を行い、岐阜を訪問したのである。
 苦しむ人のために実際に何をするのか――そこに人間の真実が現れる。
18  緑野(18)
 一九七二年(昭和四十七年)三月の岐阜訪問で山本伸一は、十一日には岐阜本部の落成式にも出席した。
 岐阜本部は、鵜飼で名高い長良川河畔に立つ鉄筋コンクリート四階建ての建物である。対岸には金華山があり、その山頂に岐阜城の天守閣がそびえる、風光明媚な地にあった。
 それまで中部にあって岐阜は、大都市・名古屋を擁する愛知県に比べると、自立した組織としての力は、十分に発揮できずにいた面がある。
 しかし、この岐阜本部の完成によって、本格的な岐阜の牙城が誕生し、地域広布の夜明けが訪れたといってよい。
 そして翌日、伸一は、岐阜市の県民体育館で行われた、ブロック幹部を中心とする四千二百人のメンバーとの記念撮影会に出席したのである。
 ここには、列車の追突事故で傷を負った郡上や美濃などの人たちも、元気な姿で参加していた。
 伸一は、何度も、何度も、呼びかけた。
 「元気な皆さんにお会いできて嬉しい。
 苦難を乗り越え、魔をはね返して広宣流布を進めていってこそ、一生成仏の道が開かれる。何があっても負けないことが信心なんです」
 そして、最後に、彼は言った。
 「どうか、皆さんは、未来に向かって、雄々しく進んでください。
 その意味から、明年、岐阜本部の落成一周年を記念して、盛大に県幹部会を開いてはどうでしょうか。
 この一年間で、皆さんは、ますます元気になっていただきたい。
 また、私は、皆さんが、どれだけ成長し、幸福になったかを見届けてまいりたい。そのために、来年も必ずまいります。約束しましょう」
 万雷の拍手が場内にこだました。未来の輝ける目標は、新しき活力をもたらす希望の光となる。
 伸一は、この時の約束を果たすために、日程をこじ開けるようにして、今回の岐阜訪問を実現したのである。
 「勇気のある男は、信義に厚いものだ」とは、フランスの劇作家コルネイユの卓見である。
 岐阜の同志もまた、地域広布の実証をもって山本会長を迎えようと弘教に励み、大勝利をもって県幹部会当日を迎えたのであった。
19  緑野(19)
 岐阜県幹部会の会場は前年に記念撮影会が行われた、同じ岐阜県民体育館であった。
 この日、岐阜市は朝から雨に見舞われ、県内各地から貸切バスが次々に到着した午前十一時ごろには、雨はどしゃ降りとなった。
 場外整理役員のレインコートの中は、雨が染み渡って、ぐっしょりと濡れ、ぬかるみとなった駐車場を歩く参加者の靴は泥水にまみれた。
 しかし、同志の顔は晴れやかであった。一年ぶりに、山本会長を迎える喜びにあふれていた。
 参加者は話し合った。
 「大丈夫やて。絶対にやむて。諸天が大地を洗い清めているんやよ」
 「そうやて。この日のために、お題目を唱え続けてきたんやもん」
 事実、開会時刻が近づくにつれて、雨脚は次第に弱まっていった。
 午後二時過ぎ、天に轟くような大拍手と大歓声に体育館が揺れた。山本伸一が会場に姿を現したのである。
 幹部会に先立ち、岐阜本部落成一周年を記念する文化祭が行われた。
 飛騨のメンバーによる「麦屋節」が始まった。銭太鼓を鳴らしながらの軽快な踊りである。
 続いて、赤、青、黄を配した笠を頭からすっぽりと被り、杵を手にした若者が乱舞した。
 恵那のメンバーによる「杵振り踊り」である。
 そして、舞台は一転、創作劇「一人立つ」に移っていった。
 ――江戸時代に現在の岐阜県の郡上で起こった「郡上一揆」を題材にした創作劇である。
 宝暦年間、郡上金森藩では、財政難のうえに藩主が幕府の要職について出費がかさみ、増税が続いていた。そのために農民たちは塗炭の苦しみに喘ぎ、遂に増税の撤回を求め
 て立ち上がった。
 藩側は、一度は要求を認めたものの、狡猾な切り崩しと弾圧を繰り返し、増税撤回の運動から脱落する者が、次々と出始めたのである。
 しかし、農民たちは死罪を覚悟で幕府への直訴を敢行する。
 ――創作劇は、こうした史実をもとに、迫害に屈せぬ丈夫の心意気を描き出していた。
 広宣流布の道もまた、権力の魔性との、熾烈にして間断なき大闘争である。ゆえに、電光石火の勇気ある行動が、その勝敗を決するのだ。
20  緑野(20)
 直訴のために江戸に向かった義民の代表は打ち首となった。
 農民たちは恐れ、おののき、絶望の淵に叩き落とされる。
 その時、青年・弥兵衛は決然と叫ぶ。
 「みんな、さっきの元気はどうしたんじゃ。代官所に押しかけるっちゅうのは、ありゃ嘘か!
 何をぐずぐずしてるんじゃ! 今、立たずしていつ立つんじゃ! 今こそ″まことの時 ″じゃねえか!″時″は待っちゃあくれないぞ!
 ……おらたちが臆病者になってしまったら、村のために死んでいった善右衛門さんは、 いったいどうなるんじゃ! おらぁ、善右衛門さんとの約束を忘れちゃいねえ。
 誰かが、誰かがやらねばならない。村のため、皆の衆のため、誰かが立ち上がらなければならないんだ!」
 迫真の演技であった。
 場内に弥兵衛の凛とした声が響く。多くの人が目を潤ませながら、その声に耳を澄ませていた。
 「おらぁ、戦って、戦って、戦って死んでいく。 たとえ、両手を取られようが、足をもぎ取られようが、この生命の続く限り、おらの生命の続く限り、戦い抜くんだ!」
 その叫びに万雷の拍手が鳴りやまなかった。
 山本伸一も舞台正面の二階席から、身を乗り出して拍手を送り、出演者にこう伝言した。
 「この精神が学会精神です。心から感動しました。本当にありがとう」
 主役の弥兵衛を演じた青年は、最後のせりふを語り終えると、伸一のいる二階席を凝視するように、潤んだ目を向けた。
 しかし、彼の目には、ほとんど何も見えなかった。ほんのわずかしか視力がないのだ。
 彼は長松正義という三十三歳の青年であった。
 出身は、「郡上一揆」が起こった、岐阜県郡上である。
 長松は、高校を卒業すると、青雲の志に燃え、希望に胸を躍らせ、東京の繊維問屋に就職した。
 だが、二年目を迎えたある日、カレンダーの大きな数字が、ぼやけて見えた。右目だけ
 で見ると、はっきりと見える。左目に異常が表れたのである。
 二カ月ほどすると、右目も、よく見えなくなった。不安と衝撃に襲われた。眼科医に診
 てもらったが、その原因はわからなかった。
21  緑野(21)
 長松正義は、内科にも行ってみた。
 尿に蛋白が出ていたところから、「腎臓が悪いことが視力の落ちた原因ではないか」と言われて入院した。だが、腎臓は良くなっても、視力は回復しなかった。
 今度は大学病院で徹底して精密検査をしてもらった。
 「視束交叉部癒着性くも膜炎」と診断された。眼球の裏側で視神経が交叉している部分が癒着しているため、視力が落ちているというのだ。
 その原因については不明であった。
 だが、長松には、思い当たることがあった。
 ――それは、彼が一歳半ごろのことであった。
 緑豊かな山村にある生家のすぐ近くに、線路があった。その向こうの水車小屋で、母親が野菜を洗っていた。
 彼は、母のところに行こうと、線路を渡り始めた。まだ、歩き始めたばかりのころであった。
 「来たらあかん!」
 悲鳴にも似た母の叫びが響いた。
 蒸気機関車が黒煙を吐きながら迫っていた。
 母は線路に飛び出し、子どもに体当たりした。
 急ブレーキの音が響いた。間一髪、母親はわが子を抱えて、線路際にうずくまっていた。
 子どもの頭からは、血が流れていた。しかし、九針縫っただけで、一命を取り留めたのである――。長松は、それが、この病の遠因になっているのではないかと思った。
 医師は言った。
 「あと数週間で失明するところでした。すぐに手術をしましょう。
 ただし、この手術は、これ以上の視力の低下をくい止めるためのもので、視力の回復はありません。視力はもう戻りません」
 それでも手術をする以外に道はなかった。
 手術は成功であった。
 長松は岐阜に帰ろうと思った。きれいな水と空気、豊かな緑が、たまらなく恋しかった。
 故郷に帰れば、目も治りそうな気がした。
 だが、医師はしばらく通院して様子を見るように告げた。頭蓋骨にメスを入れているので、発作が起こることが懸念されたのである。
 宿命の嵐は、時に容赦なく人間を翻弄する。だからこそ、人生の勝利のためには、宿命の転換が不可欠なのである。そのための信心であり、そのための学会活動なのだ。
22  緑野(22)
 手を顔に近づける。指が五本あることはわかる
 ――そんな視力の長松正義が、父親に付き添われて、故郷の岐阜県郡上に戻ったのは、 一九六一年(昭和三十六年)の晩秋であった。
 錦のように美しく色づいた木々の葉も、彼の目には、ぼんやりとしか映らなかった。いや、何よりも、自分の将来が見えなかった。
 東京で一旗揚げたいという夢が打ち砕かれた挫折感と空虚感、そして、運命への呪わしさにさいなまれながらの帰郷であった。
 それから二カ月が過ぎたころ、さらに悲しみが彼を襲った。自分の命を救ってくれた最愛の母が癌で他界したのだ。
 母の亡骸に向かい、泣きじゃくりながら、長松は言った。
 「ぼくが代わってあげればよかったんだ。ぼくなんか、生きていても仕方ないのに……」
 母親が亡くなったあとは、彼が家事を引き受けることになった。
 ある日、ミシンの女性販売員が訪ねてきた。学会の婦人部員だった。
 長松が悲観的になっていることを知った彼女は、やがて仏法の話をするようになった。
 学会の幹部も、彼を訪ねて来ては、入会を勧めた。
 彼は、むきになって学会を否定し、自分では、ことごとく論破したつもりであった。しかし、空しさが残った。
 ″学会員は、この信心で絶対に幸せになれると確信をもって言い切る。相手を言い負かしはしたが、では、ぼくに確信はあるのか……″
 そう自分に問い詰めると、惨めさを感じた。
 長松は、学会員のその確信と、熱心さの源は何か、知りたいと思った。
 そして、未知の世界をのぞいてみる気持ちで入会した。一九六二年(昭和三十七年)五月、二十二歳の春であった。
 会合にも参加した。人生に希望を見いだせずにいた彼には、感動をもって生きる学会員の純粋さがうらやましく思えた。
 彼も唱題に挑戦してみた。その直後、発作が起こった。全身が痙攣し、意識を失ったのである。
 それは、一歳半の時に機関車に轢かれそうになった、あの線路を渡っていた時であった。
 彼は、自分を縛りつけている″宿命″という見えざる鎖をも痛感するのであった。
23  緑野(23)
 長松正義は、線路の上で発作を起こし、意識を失ったが、幸いにも側に人がいたために、
 大事故には至らなかった。
 学会の先輩は、長松が発作を起こしたことを聞くと、心配して、すぐに激励に駆けつけ
 てくれた。
 「信心をして発作が起こった。それは、宿命転換への第一歩を踏みだしたということなんだよ。
 長い間、放置しておいたホースに水道の水を流せば、最初は、濁った泥水が出てくるやろ。しかし、水を流し続けりゃ、やがてきれいな水が出てくるようになる。
 それと同じだよ。信心を始めたから、自分の生命にたまっていた宿業が出てきたんだよ。
 これが生命の法則なんだ。
 必ず宿業は転換できるし、幸福になれる。だから、何があっても信心を貫き通していくんだよ」
 先輩の親身な真心の励ましに、長松は本気になって信心をしてみようと決意した。
 彼は『大白蓮華』など学会の出版物を貪るように読み始めた。といっても、視界の中心
 部は全く見えず、定めた視点の周辺だけが、ボヤーッと見える程度の視力である。
 『大白蓮華』を一ページ読むのに、三十分、四十分と時間を費やした。 
 しかし、一字一句、生命に刻み込む思いで、熟読していった。彼は、仏法の法理を学ぶにつれて確信が深まり、歓喜がわくのを覚えた。
 その後、発作は七回あった。だが、回を重ねるごとに症状は軽くなり、そして、ピタリとなくなった。
 就職の願いも叶い、保険会社を経て、金属加工の会社に入社した。
 最初は簡単な手作業から始まったが、次第に、鉄板や鋼材をミリ単位で加工する、高度な技術のいる仕事に取り組んでいった。
 細かい加工技術を習得するために、ルーペを使って、忍耐強く挑戦を重ねた。
 入会前は、著しく乏しい視力で生きねばならないことを嘆き、自らの宿命を呪う毎日であった。
 しかし、信心に励むなかで長松は、そのハンディをかかえながら、最高の仕事をし、幸福になることに、自分の使命があると自覚したのである。
 ヒルティは断言する。
 「試煉は、将来われわれの上に咲き出ようとする、新しいまことの幸福の前ぶれである」
24  緑野(24)
 一九七一年(昭和四十六年)暮れに岐阜駅で追突事故が起こった時、長松正義も、登山会の帰りで、父親と共にこの列車に乗っていた。
 彼も父も、幸いに怪我はなかった。しかし、学会の最高幹部が家まで来て、山本伸一の励ましの言葉を伝えてくれた。
 「……必ず変毒為薬できます。皆さんが一日も早く元気になられますよう、お題目を送ります」
 そして、伸一からの、激励の袱紗などを手渡していった。
 彼は、郡上の同志を、いや、会員一人ひとりを思う伸一の真心に、胸が詰まった。
 ″この先生の心に応えなければ……″
 そして、翌七二年(同四十七年)三月の岐阜県の記念撮影会に参加した彼は、伸一の言葉を涙で聞いた。
 「皆さんは、ますます元気になってください。また、皆さんが、どれだけ成長し、幸福になったかをへ見届けてまいりたい。そのために、来年もまたやってまいります」
 長松は燃えた。
 ″次に先生にお会いするまでに、郡上の広宣流布を、一歩でも、二歩でも前進させよう!″
 彼は、愛する郷土の山河を、弘教に、友の激励にと疾駆した。一日一日を勝ち抜いた。
 瞬く間に一年が過ぎようとしていた。
 伸一の岐阜訪問は六月と決まり、その折には、県幹部会とともに文化祭を開催することが決まった。そして、郡上の青年で、郡上一揆を題材にした創作劇を行うことになったのである。
 やがて、劇の配役の審査が行われ、長松が主役の弥兵衛に選ばれた。
 師である伸一への感謝と、郡上広布に一人立つ決意を劇に託し、彼は体当たりで演技した。
 弥兵衛の叫びは、皆の胸を打った。その言葉は岐阜の同志の、新しき出発の宣誓であった。
 伸一は、大拍手を送りながら思った。
 ″主役の青年の一途さが光る演技であった。
 彼には、妙法の弥兵衛として、生涯、求道心を燃え上がらせ、謙虚に自分を見つめながら、誠実に黙々と、広宣流布のために生き抜いてほしい。
 信心の世界にあっては自分が表舞台に立とうとするのではなく、皆のために勇んで労苦を担っていくことが大事だ。それが、弥兵衛の心である″
25  緑野(25)
 感動の文化祭が終了すると、岐阜県幹部会の開始である。
 県幹部や副会長のあいさつのあと、会長山本伸一の講演となった。
 開口一番、「昨年、お約束した通り、私は喜んで岐阜へやってまいりました!」と語ると、万雷の拍手が轟き、いつまでも鳴りやまなかった。
 この日、伸一は、岐阜の歴史をひもとき、天下取りをめざした戦国の武将たちの雄大な気概と勇気こそ、今なお、岐阜の人びとに脈打つ心意気であることを語った。
 しかし、戦国武将たちの戦いは、憂国の情熱の半面、野心、名聞名利によるものであったことを述べ、それに対して、創価の広宣流布運動は、慈悲から発する、平和への大闘争であることを訴えた。
 また、「生命の尊厳」が強く叫ばれているが、現実には、交通事故、自殺、公害等々、ますます社会は生命軽視の風潮に流されつつあることを指摘し、こう力説した。
 「生命の法理に暗ければ、いかに学校教育が普及し、また、学問の理論水準が高まろうとも、生命軽視の風潮を根絶することはできない。そこに、仏法の深遠なる生命哲理に着目せざるをえない理由があります。
 信心とは、結局のところ、この『生命の内なる法則の確認』をすることにほかなりません。
 私どもは、人間謳歌の新時代を築き上げるために、色心不二の大生命哲学を掲げ、生命軽視という恐るべき現代の風潮に、勇気凛々と、真っ向から挑んでいこうではありませんか」
 現実社会の改革を忘れた宗教は、もはや、死せる宗教である。社会の根本的な改革こそ、仏法者の使命なのだ。
 伸一は、最後に「崇峻天皇御書」を拝した。
 「『人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ
 この御書は、建治三年(一二七七年)九月、日蓮大聖人が、身延の地から四条金吾に与えられた御手紙です。
 金吾は、主君の江間氏を折伏したことや讒言から、江間氏の不興を買うことになり、信仰を捨てなければ所領を没収すると迫られました」
26  緑野(26)
 四条金吾は迫害に負けず、強盛に信心を貫く。
 やがて、主君の江間氏が大病を患い、医術に優れた金吾が治療に当たることになった。
 再び金吾は江間氏に用いられ、苦境は打開できるかに見えた。
 ところが、それが同僚の嫉妬を招き、命を狙われるようになる。むしろ大変な状況に追い込まれつつあったのである。
 山本伸一の声に、一段と力がこもった。
 「この御文は、その時の大聖人の御指導です。
 ――人間として生まれてくることは難しく、その可能性は爪の上の土のようなものである。また、人間として生まれてきても、人の一生は草の上の露のように、はかなく短いものである。
 つまり、その尊い一生を、いかに生きるかについて、大聖人は明快に結論されている。
 ――たとえ、百二十歳まで長生きをして、汚名を残して一生を終わるよりも、生きて一日でも名をあげることこそ、大切である。
 では、『名をあげる』とは、どういうことか。
 それが次の御文です。
 『中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心かりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ
 この『主君の御ため』とは、仕事・職場の第一人者、勝利者となることです。『仏法の御ため』とは、広宣流布の闘将となって、常勝の旗を打ち立てていくことです。
 そして、『世間の心根』とは、世間においての心がけであり、地域・社会での人びとの信頼といえます」
 参加者は皆、真剣な眼差しで、伸一の指導に聞き入っていた。
 「仏法即社会です。ゆえに信心の勝利は、社会での勝利とならねばなりません。社会での戦いで断固、勝つことです。
 どうか皆さんは、人生のあらゆる局面で誠実を尽くし、智慧を尽くし、努力し抜いて、周囲から『よかりけり・よかりけり』と賞讃される勝利者になってください。
 その実証こそが、創価学会の正義と真実の証明になるんです」
 壇上の後ろには大きな「実証」の文字が掲げられていた。それは、岐阜の同志の誓いであった。
27  緑野(27)
 岐阜県幹部会は、山本伸一の指揮で「威風堂々の歌」を大合唱し、午後三時半に終了した。
 伸一が退場し、表に出ると、すっかり雨は上がり、青空が広がり始めていた。
 雲間に輝く太陽を浴びて、金華山の緑は映え、長良川の水面には、キラキラと光が躍っていた。
 それは、まさに希望の緑野の光彩であった。
 伸一は同行の幹部に、会場の中にいる参加者への伝言を託した。
 「とうとう皆さんの信心で晴れましたね。見事です!」
 この伝言に、場内は大歓声に包まれた。
 岐阜の同志は、初夏の日差しのなか、「広布第二章」の山河に、さっそうと旅立ったのである。
 伸一は、県幹部会の会場から、岐阜本部に向かった。
 会館に着くと、庭や本部の前などで、居合わせた会員に次々と声をかけ、懇談した。
 「声仏事を為す」である。
 限られた時間のなかでどれだけの人と対話し、励ますことができるかと思うと、彼は、じっとしてはいられなかった。
 すべては時間との戦いである。″安逸″を打ち破ることから、勝利の道は開かれるのだ。
 伸一は、食事も、できる限り同志と一緒にし、少しでも多くの人と会って激励しようと、心に決めていた。
 夕刻には岐阜本部の館内を回り、県幹部会で役員を務めた青年たちを励ました。雨で風邪をひきはしなかったか、心配でならなかったのである。
 二階の奥にある部屋の前で、彼は、県の幹部に尋ねた。
 「ここは、なんの部屋だい」
 「はい。聖教新聞の岐阜支局の編集室です」
 伸一がノックしてドアを開けると、数人の青年が懸命に作業に励んでいた。紙面の割り付けをしている人もいれば、原稿を書いている人もいた。
 「ご苦労様!」
 伸一は声をかけた。
 メンバーは、支局員が二人と、通信員が六人であった。皆、県幹部会の準備で多忙ななか、取材や編集作業に励んできたせいか、顔には疲れの色が滲んでいた。
 「みんな、顔色がよくないよ。広宣流布を推進していくには健康が大事だ。智慧を使って、健康を管理していくんだよ」
28  緑野(28)
 編集室にいたメンバーは、作業の手を止め、山本伸一の周囲に集まってきた。
 伸一は言った。
 「みんな、やるべきことはたくさんある。しかし、時間は限られているから、ついつい睡眠時間を削ってしまう。それも若い時代には、仕方がない面もあるかもしれないが、体をこわしてしまったのでは、なんにもならない。
 寝不足は万病のもとであり、事故のもとだ。
 病気になったり、事故を起こしたりすれば、自分だけでなく、家族も同志も苦しむことになるし、社会にも迷惑をかけてしまう。
 だから、必要な睡眠時間を確保することも、大事な戦いといえる。
 そうした生活の基本を安易に考えてしまうのは油断なんです。また、慢心でもある」
 伸一は、皆を見た。
 ″忙しくて、十分に睡眠をとるなんて、とても無理です″と言いたげな、困惑した顔の青年もいた。
 伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「では、どうやって、睡眠時間を確保するかです。みんな、それが聞きたいんだね」 青年たちが領いた。
 「それには一瞬一瞬、自分を完全燃焼させ、効率的にやるべきことを成し遂げていくことです。
 人間は一日のうちで、ボーッとしていたり、身の入らぬ仕事をしている時間が、結構多いものなんです。
 そうではなく、『臨終只今』の思いで、素早く、全力投球で事に当たっていくんです。
 その原動力になるのが真剣な唱題です。特に朝が勝負だ。生命力が強くなれば、価値創造の活力も生まれ、能率を上げる智慧もわくからね。
 また、夜遅くまでテレビを見たりして、夜更かしをしないことです。
 この睡眠時間の確保とともに、過度な飲酒、喫煙、夜食の習慣なども、改めていかなくてはならない。
 さらに、食生活に注意を払い、ラジオ体操など、持続的に運動していくことも必要です。
 仏法は道理です。自己を律してこそ、仏法者なんです。ともあれ、健康管理は自分の責任で行うしかありません。力の限り戦い抜き、わが使命を果たしゆくために、体を大切にするんです」
29  緑野(29)
 山本伸一の青春時代は、結核と闘いながらの激務の毎日であった。
 寮養が必要であったが、師である戸田城聖の事業を再建し、広宣流布の基盤を築き上げるためには、そんな時間はなかった。
 結局、自分の体調をコントロールしながら、戦いのなかで、治すしか道はなかったのである。
 それだけに、健康に対する彼のアドバイスは、自身の体験に基づくものであった。
 伸一は尋ねた。
 「今日は、作業は、まだあるのかい」 支局員が答えた。
 「ほぼ終わりました」
 「それなら、みんなで風呂に行ったらどうかね。さっぱりして血行もよくなり、疲れも取れるよ。
 お小遣いをあげるから、そのあと、食事もしてきなさい。
 帰って来たら、また会おう。待っているよ」
 それから伸一は、岐阜本部の中で、青年部の代表と会食し、さらに職員らと共に勤行した。
 勤行が終わった時、ドーン、ドーンという音が轟き、花火が上がった。今夜は長良川で花火大会が行われるとのことであった。
 「まるで、今日の幹部会を祝福しているようだね。屋上で花火を見ながら会議をしよう。
 ところで、聖教のメンバーは、まだ帰ってこないのかい」
 伸一は、勤行の前にも同行の幹部に同じことを聞いていた。新聞に携わる青年たちと語り合い、励まそうと思うと、待ち遠しくて仕方なかったのである。
 「人間がなしうる最も素晴らしいことは人に光を与える仕事である」とは、南米解放の英雄シモン・ボリバルの名言である。
 伸一は、同行の幹部らと会館の屋上に上った。
 長良川を挟んで金華山がそびえ、その山頂に岐阜城が見えた。そして、空には弓形をした月が輝き、長良川の川面に金色の光を投げかけていた。
 そこに花火が上がった。伸一は言った。
 「花火は瞬間瞬間、完全燃焼している。だからこそ美しい輝きを放つ。人間も同じだ。
 広宣流布に生きるとは、魂を燃やし尽くして戦うということだ。その輝きが福徳の光となって人生を荘厳するんだ。
 戦い抜いて、共にこの世の使命を果たそうよ」
30  緑野(30)
 山本伸一たちが屋上で活動の協議をしていると、聖教新聞の通信員らが、ようやく帰っ て来た。
 「先生、ただ今、戻りました!」
 「待っていたんだよ。みんな、すっきりして、元気になったね」
 「はい。風呂に入ったあと、中華料理をいただきました」
 「そうか。それで、お土産は買ってきたかい」
 「……」
 「欲しいから言うんじゃないよ。将来のために、人の振る舞いとして、覚えておいてほしいんだ。
 では、今日は研修をしよう。みんな、俳句をつくりなさい。金華山に月、そして、花火 もあって、風流じゃないか」
 彼は一分一秒でも時間があれば、青年の育成のために費やしたかった。
 「えっ、俳句ですか」
 驚いたように声をあげる青年もいた。
 「そうだよ。みんな社会のリーダーになっていくんだから、俳句も詠めないといけないよ。
 腹いっぱい食べて寝るだけなら、動物と同じようなものじゃないか。
 みんなの俳句は、秋にオープンする関西記念館に永久保管します。
 制限時間は三分間だ。見たものをパッパッと詠んでいくんだ」
 「うーん」と声をあげて考え込む青年もいた。
 伸一は話を続けた。
 「俳句のリズムは、新聞の見出しにも通ずる。
 また、句や歌で、人を励まし、勇気づけることもできる。
 広宣流布は言論戦なんだから、青年は言論の力をつけなくてはならない。そのためには、 優れた論理展開の能力を培うことも大事だが、句や歌で、的確に心を表現する力も必要 です。
 特に聖教の支局員や通信員は、どんな文章も自在に書きこなせる、言論の大闘士に育ってもらいたい。
 ところで、ここの支局長は誰だい」
 「はい」と、一人の青年が手をあげた。久山忠夫という県男子部長を務める青年であった。
 彼は今回の県幹部会の実行委員長でもあった。
 「ご苦労様! 青年時代に、自分はこう戦ったといえる歴史を幾つつくるかだよ。この″胸中の勲章″こそが、生涯の誇りとなり、自信となっていく。それが人間を強くするんだ。
 青年の力で、新しい波を起こそうよ」
31  緑野(31)
 山本伸一は、皆に声をかけた。
 「さあ、それじゃあ、俳句をつくろう」
 伸一も同志の激励のために、次々と句をつくっていった。
 青年たちは、メモ用紙を手に苦闘していた。ペンを持ったきり、何も書けずにいる人もいた。
 伸一は「出来上がったら、ぼくが添削するから持っていらっしゃい」と言って屋上を後にした。
 やがて、皆の作品が届き、添削が始まった。
 伸一の筆が入ると、句は見事に蘇っていった。
 「月冴えて ロマンの潮流 長良川」は「月冴えて ロマンの花火 長良川」となり、
 「獅子を舞う 金華山に 花火上がって」は「金華山 花火上がって 獅子祝す」となった。
 添削を終えた伸一は、微笑を浮かべ、部屋に集っていた幹部に言った。
 「川柳もどきの作品もあるし、直しようがないものもあるな。
 これを残したのでは、みんなが末代までの笑いものになっちゃうから、永久保管するのはやめることにしよう」
 「はい。皆、ほっとすると思います」
 幹部の一人が答えた。笑いが起こった。
 それから、伸一は、支局長で県男子部長の久山忠夫を見て言った。
 「久山君だったね。
 青年部は、言論の勇者になり、民衆を足蹴にするような権力者や裏切り者とは、徹底して戦うんだよ。
 青年が悪を見破り、打ち破っていかなければ、健気な同志が、民衆が、かわいそうです。
 悪は放置しておけば、必ず増長し、蔓延する。
 現代の不幸の根源は、悪を見ても見ぬふりをし、それが寛容であり、平和的な態度であると、錯覚していることです。
 邪悪との闘争を忘れれば、幸福も平和もない。ダ・ビンチは『悪を罰しないものは悪をなせと命じているのだ』と鋭く叫んでいる。慈悲ゆえに、民衆の幸福を願うがゆえに、正義の声を放っていくんです。
 いかなる団体も、社会も、青年がどう育つかで未来は決定してしまう。その成長の原動力は、自分が一切の責任を担おうと決めることだ。主体者となることだ。それが師弟ということだよ」
 「はい!」
 青年の決意の声が、心地よく響いた。
32  緑野(32)
 広宣流布の建設とは、広布の使命に生き抜く、不屈の人間を育むことである。それには、 一人ひとりの心田に決意の種子を植えることだ。
 六月八日、岐阜から名古屋を訪問し、東京に戻った山本伸一は、十日には群馬県を訪問 した。伊香保で行われる「群馬・高原スポーツ大会」に出席するためであった。
 群馬は、どちらかといえば、組織的に光が当たる機会が少なかった。
 「広布第二章」とは、各県がそれぞれの特色を生かしながら、独自の広宣流布の歩みを開始していく時代である。
 それだけに、細部に手を入れることができなかった地域に足を運び、共に広宣流布の構想を練り、人材を育成し、新しい令法久住の地平を開こうと、伸一は心に決めていたのだ。
 これまでに行けなかったところに行き、会えなかった人と会い、魂と魂の触発の対話を交わす。その執念の行動が、広布の緑野を広げるのだ。
 この日、会場となった伊香保町のスケートセンターには、続々と貸し切りバスが到着し、 六千人の代表が集って来た。
 スポーツ大会に先立って、伸一との記念撮影も行われるとあって、皆、誇らかにスーツなどに身を包み、満面に笑みの花を咲かせていた。
 会場は、榛名山腹の標高千メートルの地点にあった。空気も澄み、緑もまばゆい、群馬らしい風光明媚な場所である。
 群馬県内で六千人もの人が集って、スポーツ大会や記念撮影が行える適当な会場は、な かなか見つからなかった。
 県の中心幹部たちは、懸命に唱題しながら、会場を探して東奔西走してきた。収容は可 能なのに断られてしまったこともあった。
 理由を聞いてみると、「学会は香典を持っていく」などといった、十年も、二十年も前 に捏造され、流された噂話を真に受けているのであった。 まったく根拠のない、悪質 極まるデマである。
 群馬の幹部たちは語り合った。
 「ひどい話だ。でも、これは学会への誤解を打ち砕き、認識を新たにさせるチャンスだ!」
 「そうだ。学会の正義とすばらしさを訴え抜いて交渉にあたろう」
 常に困難はある。それを飛躍台に転じてこそ、勝利の栄冠は輝くのだ。
33  緑野(33)
 障害を前にした時、自分自身が試される。
 日蓮大聖人は「賢者はよろこび愚者は退く」と仰せである。
 ″今こそ、賢者となるのだ! 真正の勇者となるのだ!″
 群馬の中心幹部たちはそう決意し、祈り、動き、学会の真実を語り抜いていった。
 そして、決まった会場が、伊香保の町立のスケートセンターであった。
 群馬は、一年半ほど前には、連合赤軍によるリンチ殺人事件の現場となるなど、暗いニュースが続いていた。
 ″六月十日は、そんな群馬を希望の山河へと変える、新章節の開幕の日にしよう!″
 群馬の同志は、このスポーツ大会の日をめざして、勇猛果敢に弘教に励んだ。地域広布の夜明けを開こうと、皆が必死であった。
 一カ月ほど前から、本格的な準備に入った。
 運営の担当幹部らが会場を視察すると、シーズンオフのスケート場とあって汚れが目立ち、割れたままになっている窓ガラスもあった。また、音響設備もほとんど用をなさなかった。
 さらに、会場内の道や駐車場などもデコボコであり、このままでは危険でさえあった。
 運営担当の幹部は、町長らと話し合い、自分たちの手で、会場の補修、整備を行うことにした。
 群馬の幹部たちは、メンバーに訴えた。
 「皆さん、山本先生を迎えてスポーツ大会と記念撮影会を行う会場である伊香保のスケートセンターを視察しましたところ、清掃や整備が必要でした。
 そこで、皆さんの力を貸していただきたいのであります。皆が心を一つにして、この記念すべき催しを大成功させようではありませんか!」
 この呼びかけに群馬の同志は、喜んで応じてくれた。文句を言う人は誰もいなかった。
 特に日曜日などは、多くの人が駆けつけ、屋内の割れた窓ガラスを取り換え、壁や床を丹念に磨いた。
 道路や駐車場では、盛り上がった場所の土や砂利を削って窪みをふさぎ、きれいにならしていった。
 いざという時、皆が勇んで立ち上がり、鉄壁のスクラムを組む――そこに、創価学会の金剛の強さがある。
34  緑野(34)
 地面の補修がほぼ終わりかけたころ、大雨が降った。整備した場所の土や砂利が雨に流され、またデコボコになってしまったのである。
 作業に従事してきた男子部員や壮年部員は落胆した。そんな彼らに勇気を与えたのは、婦人・女子部がつくってくれた、心づくしのオニギリであった。
 「よし、もう一度、頑張ろう。何があっても、へこたれないことが勝つことだ!」
 「そうだ。群馬の底力を、今こそ示そう!」
 同志の心は、一つになって燃え上がった。
 「困難でない仕事というものは、たいてい価値がないものです。さまざまな障害を見事に乗り越えるからこそ面白いといえましょう」とは、イギリスの女性作家シャーロット・ブロンテの箴言である。
 メンバーにとって、最も気がかりだったのは、当日の天気であった。
 ある男子部員は気象台に行き、過去七十五年間の六月十日の天気を調べてみた。
 梅雨入りの季節でもあり、晴れた日は数日しかないことがわかった。
 また、仮に晴れたとしても、山の天気は変わりやすい。
 「祈ろう! 唱題だ。題目しかない」
 群馬に唱題の渦が巻き起こった。
 だが、スポーツ大会前々日の八日は、雨が降った。皆の祈りに一段と力がこもった。
 前日も、伊香保周辺は濃い霧に覆われていた。皆、清掃や整備に励みながらも、心では必死になって唱題していた。
 そして、当日――。
 役員の青年たちは、早朝、表に出た。
 東から、日輪のまばゆい光が、スケートセンターを照らし始めた。太陽は、刻一刻と天空に昇り、緑の山々が、くっきりと姿を現した。
 見事な晴天である。
 「祈りが通じた!」
 皆の顔も、太陽のように輝いていた。
 十日の正午過ぎに渋川駅に到着した山本伸一は、車で迎えに来てくれた群馬の県幹部に、力強く語った。
 「きれいに晴れたね。おめでとう。諸天も賞讃し、祝福してくれているんだね。さあ、群馬の時代の幕を開こうよ」
 出迎えたメンバーは、誇らかな笑みを浮かべ、瞳を輝かせた。
35  緑野(35)
 伊香保町のスケートセンターに到着した山本伸一を迎えたのは、榛名の壮大な景観であった。
 伸一は、その風景に心を和ませながら、プレハブの控室に向かった。この建物もメンバーが造ったものであった。
 彼は、すぐに控室には入らず、建物の脇をのぞいた。そこに、身を隠すように立ってい
 た一人の青年がいた。
 ″やはり……″と思った。設営や警備など、役員の青年たちは、最も苦労しながら、自分は決して表面に出ることなく、目立たぬように陰の力に徹しようとするのが常であるからだ。
 伸一は、陰の力として誠実に奮闘してくれている人に光を当て、讃えることこそ、わが使命であると自覚し、常にあらゆる人に炯々たる眼を注いでいた。
 人間主義とは、具体的にいえば、その気遣いの心である。皆の献身的な尽力を当然であるかのように考えることは、官僚主義といってよい。
 伸一は、青年に笑顔を向け、手を差し出した。
 「役員だね。おめでとう!」
 彼は、阿相良正という建設会社を営む青年で、会場の整備責任者であった。突貫工事で会場の整備を成し遂げ、この日、役員として参加していたのである。
 阿相は、感動で頭の中が真っ白になった。
 「先生! ありがとうございます」
 こう叫ぶ阿相に、伸一は言った。
 「役員として陰で黙々と頑張ってくれている人がいるから、行事の成功もある。また、そういう青年たちがいるから学会は盤石なんです。
 大変だろうが、『陰徳あれば陽報あり』です。労苦は必ず報われるのが仏法です。『冥の照覧』を信じてください。本当にありがとう!」
 広宣流布のための労苦は、すべて、自身の福運となり、宿命転換の力となり、人間革命への飛躍台となる。ゆえに、われらは、勇んで今日も、使命の道を行く。
 信心とは、峻厳なる生命の因果の理法への深き確信である。
 したがって仏法者は、自分は楽をし、要領よく立ち回ろうとする者を最も哀れに思う。
 そして、労苦にこそ、無上の誇りと、未来の燦然たる栄光を見いだすのだ。
36  緑野(36)
 午後一時過ぎ、まず記念撮影が行われた。
 山本伸一が会場に姿を現すと、万雷の拍手と歓声が起こった。
 会場には「求道の群馬」の文字が大きく掲げられていた。
 撮影の途中、「ホー、ホケキョ」というウグイスの声が響いた。
 晴れ渡る空、そして、ウグイスのさえずり――伸一は、群馬の同志の晴れやかな旅立ち、諸天が祝福しているように感じられてならなかった。
 彼は、撮影のたびごとに、メンバーを全力で指導していった。
 壮年・婦人部には、こう訴えた。
 「健康第一で生き抜くことは幸福の一つの証であり、信仰者としても心すべきことです。
 また、子孫末代までも正法を伝え抜き、福運豊かな人生を送っていただきたい。そして、それぞれが、楽土・群馬の、幸福の実証者になっていただきたい」
 また、男子部には″一人ひとりが一騎当千の精鋭たれ!″、女子部には″福運大学の卒業生に″などの指針を贈り、励ましを重ねた。
 しかも、その間に、女子部や学生部などの人材育成グループのメンバーとも、次々と会い、激励を続けた。
 ″今しかない。この一瞬を無駄にすれば、大事な時を逃してしまう″
 伸一は懸命であった。
 さらに、群馬県が誇る群馬交響楽団の学会員とも懇談したのである。
 群馬交響楽団は、戦後間もなく、アマチュアの高崎市民オーケストラとして発足し、やがて群馬フィルハーモニーオーケストラと改称。その後、プロとして再発足する。
 楽団を創設した中心者の胸には、音楽をもって日本の復興を図ろうとの、強い思いがあった。
 しかし、プロのオーケストラは、東京や大阪のような大都市を拠点としなければ成り立たないとされていた。高崎市は、当時、人口十万人に満たなかった。
 事実、楽団は再発足と同時に財政難に陥った。オーケストラとしての仕事はなく、団員の食費を確保することさえままならなかった。皆、空腹を抱えながら練習に励んだ。
 その練習場も、喫茶店の二階であった。
 楽団が始めた仕事は、小・中学校などに出かけていって演奏する「移動音楽教室」であった。
37  緑野(37)
 「移動音楽教室」は、楽団員にとって、落胆の連続だった。
 ぎゅうぎゅう詰めの買い出し列車に大きな楽器を乗せて運び、ようやく着いた小学校の演奏会場は、ゴザを敷いた教室であった。
 演奏に飽きた子どもたちは、勝手にしゃべりはじめ、喧嘩も始まった。 そんななかで演奏することに、屈辱感を覚えることもあったようだ。
 しかし、学校からのわずかな謝礼が、生活の糧なのである。
 楽団員同士の間に軋轢もあった。辞めていく人もいた。
 それでも、「移動音楽教室」は粘り強く続けられた。音楽に出あい、そのすばらしさを知り、目を輝かせる子どもたちの姿が、楽団員の大きな心の支えとなった。
 難病の隔離病棟でのコンサートもあった。観客が不自由な体で拍手を送ってくれる姿に、楽団員は感動を覚えた。
 楽団の活動は、少しずつ評価を高め、群馬県及び高崎市から補助金も交付されるようになった。
 しかし、財政難は、なかなか好転しなかった。貧乏ゆえに病に倒れる人もいた。やむなく、東京の楽団などに移っていった人もいた。
 家庭を犠牲にして楽団の運営に没頭してきた中心者は、妻が子どもを連れて家を出ていってしまった。
 遂に解散の話も出た。
 毎日が正念場である。毎日が背水の陣である。一回一回の公演が存亡をかけた勝負であった。
 生き延びるか、滅び去るか――そこでは、執念こそが活路を開くのだ。″負けるものか。
 挫けるものか″と、突き進むなかに栄光はあるのだ。
 困難なき成功はない。大いなる労苦が、大いなる歓喜を生むのだ。
 やがて、この楽団をモデルにした映画が製作され、一九五五年(昭和三十年)の二月に封切られた。「ここに泉あり」である。映画は大ヒットしたのだ。
 山本伸一も、青年時代にこの映画を見て、感動した一人であった。
 彼も、戦後の日本は、文化国家としての道を歩むべきであるとの、強い信念をいだいていた。
 だから、地方都市に交響楽団をつくり、子どもたちに本物の音楽を聴かせようと懸命に努力する楽団員たちの姿に、心を動かされたのである。
38  緑野(38)
 山本伸一は、映画「ここに泉あり」の、ある言葉が忘れられなかった。
 それは、楽団の実力の向上を評価された時の、楽団の中心者と、音楽関係者のやりとりである。
 「ぼくら、何年間も、ただおんなじことを繰り返していたにすぎないんです。それが多少、鍛錬になったんでしょうか」
 「そうでしたか。進歩っていうのはそういうもんだ」
 いつもやることは同じである。特別な方法などない。しかし、前へ、さらに前へ、もっと前へと懸命に挑戦を重ねるなかに、誰もが刮目する大いなる前進があるのだ。
 時に悔し涙を浮かべながら、日々、自分に挑む。もがきながらも、自分の壁を破っていく。勝利とは、その積み重ねのなかに打ち立てられるものなのだ。
 この映画が公開された翌年、群馬県は文部省から「音楽モデル県」に指定され、県としても音楽の振興に力を注いでいくことになる。
 群馬フィルハーモニーオーケストラは、その後、群馬交響楽団と改称するが、この楽団は、一貫して音楽モデル県・群馬の原動力となっていくのである。
 また、後にウィーン国立歌劇場の音楽監督となる小澤征爾も、この楽団で指揮を執っている。
 「群馬・高原スポーツ大会」が行われた、一九七三年(昭和四十八年)には、群馬交響楽団に十人ほどの学会員がいた。
 皆、″群響″を愛し、地域文化の興隆をもって社会貢献の一翼を担いたいと考え、楽団員として活動に励んでいた。
 群馬の幹部は、このメンバーの活躍を伸一に伝え、スポーツ大会の折に会って激励してほしいと要請してきた。伸一は快諾した。
 当日、彼は、記念撮影の合間に、自ら″群響″のメンバーを探した。
 役員の控室になっていた建物まで来ると、伸一は窓から大声で叫んだ。
 「″群響″のメンバーはいますか!」
 皆、突然の伸一の訪問に驚き、窓際に駆け寄ってきた。
 「おっ、いた、いた!
 さあ、語り合おうよ」
 それから、特設されたテントに移り、懇談が始まった。メンバーには、指揮者もいれば、バイオリンやホルンなどの奏者もいた。
39  緑野(39)
 山本伸一は、メンバー一人ひとりに、視線を注ぎながら言った。
 「群馬交響楽団の皆さんとお会いできて、本当に嬉しい。今や″群響″といえば、地方文化の新しい象徴です。私も『群馬に″群響″あり』と思っています。
 皆さんの演奏で、どれほどの人が希望をもち、勇気を得ていったか、計り知れないものがある。大事な、尊い仕事です。
 ところで、生活の方は大丈夫ですか」
 指揮を担当している青年が答えた。
 「はい。なんとか生活はしていけます」
 「大変かもしれないが、しっかり頑張ってください。広宣流布は、大文化運動です。それぞれの立場で人間文化の花を咲かせ、社会に貢献していくことが、仏法者の使命なんです。
 そして、そのためには常に自分の魂を燃え上がらせ、″さあ、今日も頑張るぞ!″という、満々たる生命力をたたえていなければならない。その源泉が題目です。
 音楽は人間と人間の心を結ぶ、世界の共通語です。人間主義の哲学を根本に、平和の心を、歓喜の共鳴音を広げていってください」
 「はい!」
 ひときわ大きな声で返事をした、メガネをかけた青年がいた。学会の音楽隊で群馬県の責任者も務めた小田敬義である。
 彼は、伸一の言葉に、自分の音楽の原点を再確認された思いがした。
 ――小田は福島県に生まれたが、戦時中、四歳の時に、父の仕事の関係で中国の山西(シャンシー)省に渡り、戦後、七歳で日本に引き揚げてきた。
 中国では、現地の子どもたちのなかで暮らしたことから、日本語は半分ほどしか理解できず、日本での学校生活には馴染めなかった。
 小田のことを心配した担任の教師は、童謡を歌って、日本語を教えた。それによって日本語も覚えたが、関心は曲の方に向かった。
 小学校五年の時、アメリカの進駐軍の軍楽隊が学校に来て、演奏会が行われた。
 英語で話をしていた人たちが、日本の曲を奏で始めた。「木曾節」であった。彼らの心が伝わってくるようだった。
 ″音楽はすごいな!世界を結ぶことができるんだ″と思った。
40  緑野(40)
 小田敬義の中学校の担任は、バイオリンの演奏が上手な教師であった。事あるごとにバイオリンを弾いてくれた。
 小田は、音楽に魅せられていった。その教師から「器楽部をつくるから入らないか」と声をかけられて入部し、ホルンを担当した。
 練習に励むうちに、めきめきと上達していった。全国の代表が参加する吹奏楽個人コンクールにも出場し、中学の部の三位になった。
 高校でも音楽部に入った。将来はホルンの演奏家になりたかった。しかし、家は雑貨店を営んでおり、長男の自分が家業を継がなければならなかった。悶々とした日々が続いた。
 そのころ、知り合いに誘われ、創価学会の会合に出席した。
 「この信心をすれば、願いは必ず叶います」との確信あふれる言葉に、入会を決意した。一九五六年(昭和三十一年)十二月のことである。
 ある時、東京での男子部の会合に出席し、青年部の室長であった山本伸一の話を聞いた。
 「自らの使命に生き抜くことだ。世界は諸君を待っている!」
 その言葉が胸に突き刺さった。小田は、断じて音楽の道に進もうと心に決めた。
 しかし、両親のことを考えると気が重かった。
 彼は懸命に訴えた。最初は反対していた両親も、彼の熱意に打たれ、遂に同意してくれた。
 人の共感を勝ち得る力は、一途にして真剣な魂の叫びである。強き確信の声である。
 高校卒業後、一浪して東京芸術大学に進んだ。そして、大学を卒業した彼は、群馬交響楽団の団員となった――。
 彼は今、会長山本伸一の指導を聞いて、世界の心を結ぶ音楽を発信していこうと、決意を新たにしていた。
 小田は、「先生!」と言って立ち上がると、声を弾ませて語り始めた。
 「実は、群馬の青年部の有志で、『真っ赤な太陽燃えるとき』という愛唱歌を制作いたしました。歌詞をご覧いただけますでしょうか」
 彼が差し出した紙に、伸一は目を通した。
 「いい歌じゃないか。さすが″音楽モデル県″だね。曲も聴きたいね」
 「記念撮影が終わりましたら、合唱団が発表いたします」
41  緑野(41)
 山本伸一は、目を細めながら言った。
 「ここにいる皆さんの演奏も聴きたいね」
 すると、小田敬義の後ろにいた壮年が答えた。群馬交響楽団のコンサートマスターを務める宮坂要介である。
 「記念撮影の会場に流れていたテープは、私たちが演奏したものです」
 「やっぱり、そうでしたか。『桜花爛漫の歌』や『赤とんぼ』などですね。上手な演奏だと思っていたんです。
 あらゆる人びとに最高の音楽を伝えることが大事です。一切衆生に仏を見る仏法は、民衆の無限の可能性を教えている。
 その民衆とともに音楽はあるべきです。私は″群響″がそういう視点をもっていることが、すごいと思います」
 この言葉に、宮坂は目を潤ませた。彼は、まさにそのために、一年前、東京の日本屈指のオーケストラから、″群響″に移ったのである。
 宮坂は、実力を高く評価されるバイオリン奏者であった。彼は、二十代のころ、自分の人生に根本的な疑問をいだいた。
 ″音楽の根本をなす人間性は、いかにすれば培えるのか″
 その疑問は、常に彼の頭から離れなかった。
 ある時、近所の人から仏法の話を聞き、学会の出版物を手にした。
 初めて生命論に触れた。万人が仏の生命を具えていることを説き、人間革命の方途を示した仏法に彼は共感し、三十歳で信心を始めた。
 入会後は、学会の音楽隊にも所属し、一九六四年(昭和三十九年)に行われた国立競技場での東京文化祭では、何人かの専門家と一緒に、五百人近くの青年にバイオリンの指
 導をした。
 青年たちは、技術的には未熟であったが、人類の幸福と平和を実現しようと、広宣流布の使命に燃え、その情熱をバイオリンにぶつけた。
 「大変なのは覚悟のうえだ。だからこそ、学会の力を社会に証明できるチャンスなんだ。
 あきらめこそが敗因だ。ぽくらの手で、歴史の扉を開こう! 使命に目覚めた民衆のパワーを示そう!」
 彼らは、そう決意し、困難の峰を越え、競技場の空高く、歓喜と躍動の調べを響かせた。
 それは新しい民衆音楽の創造でもあった。
 宮坂は、感動と興奮に震えた。
42  緑野(42)
 東京文化祭をはじめ、学会の音楽隊の活動を通して、宮坂要介の仏法への確信は、次第
 に強まっていった。
 音楽家として彼が心に刻んできたのは、山本伸一が記した「音楽隊に」の一文であった。
 「虚栄や、技術や、才能を超越して、清純にして、怒涛をも打ちくだく情熱と、信心のほとばしる音律こそ、大衆の心を打たずにはおかないとの、強き強き確信をもって前進されたい……」
 宮坂は、自身の生命を磨き鍛えるために、真剣に信心に励んだ。また、努力に努力を重 ね、技術を磨いた。バイオリン奏者としての名声は、ますます高まっていった。
 だが、何か満たされぬものを感じていた。
 ″社会のあらゆる人びとにすばらしい音楽を聴かせたい。日本の民衆に根差した、聴衆との心の交流が図れる音楽活動をしたい″
 宮坂は、そう渇望するようになっていた。
 そのころ群馬交響楽団の関係者から、声がかかった。コンサートマスターが必要だというのだ。
 悩んだ。妻とも語り合った。在籍していた日本屈指のオーケストラと比ベれば、収入も大幅に減ることになる。しかし、宮坂は決断した。
 町から村へ、村から町へとバスを走らせる「移動音楽教室」に明け暮れる毎日が始まった。
 山村の子どもたちは、演奏がうまければ、大拍手をして、全身で喜びを表してくれる。
 彼は、″虚飾は通用しない。音楽家として修行をさせてもらっているのだ。もっと力をつけなければ″と思った。
 それだけに宮坂は、民衆とともに音楽はあるべきだという山本伸一の話に、大きな感動を覚えたのである。
 伸一は、″群響″のメンバーに言った。
 「皆さんは今、生活は大変かもしれない。しかし、人生の勝負は最後の五年間です。その時に充実と幸福をかみしめながら、『私は勝った!』と宣言できる生涯を送れるかどうかです。
 何事も最後が大事なんです。最後に勝つために、今、苦労し抜くんです。汗を、涙を、流して挑戦するんです。何があっても勇気をもってぶつかり、忍耐し、無我夢中で走り抜くんです。
 皆さんの勝利と栄光を私は見守っていきます」
43  緑野(43)
 記念撮影、そして、スポーツ大会と、行事は進行していった。山本伸一も卓球に出場し、 高等部員とチームを組み、熱戦を展開した。
 また、青年部有志が作成した、群馬の愛唱歌「真っ赤な太陽燃えるとき」の発表も聴い た。未来部のメンバーとも語り合い、鳳雛たちの決意の歌声に、耳を傾ける一幕もあった。
 鼓笛隊が屋外リンクをパレードした時には、伸一は用意されていたゴーカートを運転し、 後についていった。健気に奮闘する乙女たちを見守っていたかったのである。
 さらに、野外で演奏していた音楽隊のもとへも行き、声をかけた。
 彼は″一人も漏れなく激励したい。皆の信心の転機となる、心の交流を図りたい″と念 じながら、精力的に広大な会場を回ったのである。
 行動に妥協があれば、悔いを残す。中途半端は自身の恥辱である。やり抜くことが戦う ということなのだ。
 動き、語り、握手し、渾身の励ましを続けて三時間半、涼しい高原とはいえ、伸一の体 は、噴き出す汗にびっしょりと濡れていた。
 会場を後にする時、伸一は、傍らにいた群馬の幹部に言った。
 「群馬は音楽のモデル県だけあって、鼓笛隊も音楽隊も立派だね。
 群馬から人間文化の波を起こそう。群馬が地方の時代の先駆を切るんだよ。そのために、 群馬を広宣流布のモデル県にしていこうよ」
 伸一は、夜には宿泊先の旅館で、県の中心幹部と懇談会を開いた。群馬創価学会の未来 構想を検討するためである。
 ここで彼は、群馬県に「県長」「県婦人部長」を設けることを提案したのである。
 当時、群馬は三つの総合本部に分かれ、それぞれ奮闘してはいたものの、県としてのま とまりに乏しく、群馬広布の展望も立ちにくいというのが実情であった。
 歯車は、かみ合ってこそ力を発揮する。バラバラであれば、モーターがフル回転してい ても空転に終わってしまう。
 歯車と歯車をかみ合わせるためには、全体観に立って責任をもつ人の存在が不可欠である。伸一は未来の発展のために、県全体の責任者を設け、団結の要を定める必要性を痛感していたのだ。
44  緑野(44)
 翌十一日、山本伸一は前橋会館で行われた群馬県の最高幹部会に出席し、各部の代表者 たちと組織の人事案などについて、検討を重ねた。
 「広布第二章」の大空に、一県一県をいかに飛翔させていくか――これこそが、創価学会の最大のテーマであった。
 それゆえに、伸一は、東奔西走し、力の限り、大胆に動いた。皆に信心の活力をもたらし、人材を見つけることに必死であった。
 また、その地のメンバーと対話し、地域広布の方途を探り当て、皆が取り組むべき課題 を明らかにしていったのである。
 何事も漫然とした歩みでは前進はない。
 地域広布の実現のためには、まず、未来展望を広げ、必ず、こうすると決めることだ。
 それに向かって、年ごと、月ごとの具体的な挑戦目標を明らかにしていくのだ。
 その目標のもとに、皆が今日の課題に勇んで挑み、一日一日を勝利していくことである。
 そのために今を勝て!
 瞬間瞬間が勝負だ。勇気を奮い起こせ! 智慧を絞れ! 「懸命」の二字こそ一切の力の源泉だ。君でなければできぬ君の使命を果たし抜け! そこから、広宣流布の栄光の 未来が開かれるのだ。
 「群馬・高原スポーツ大会」の翌週の日曜である六月十七日には、山本伸一は茨城県水戸市の県立スポーツセンターを訪れていた。「茨城県スポーツ祭」に出席するためである。
 ここでも、約六千人の会員との記念撮影が予定されていた。
 このころ茨城県は、大きく変容しつつあった。東京に近い県南部の取手などは、新興住宅地として開発が進み、東京に通う人びとも増大しつつあった。
 また、筑波地区には、国の試験研究機関や大学などを集めた、筑波研究学園都市の建設が進められ、間もなく筑波大学も開学の予定であった。
 それらは、県の新たな発展をもたらす反面、従来の地域的な連帯が分断され、新旧住民の間に、心の溝をつくりかねないことを、伸一は憂慮していた。
 わが地域に「人間共和の都」を築き上げることこそ、仏法者の責務である。伸一は、茨城の同志に、その使命を自覚してほしかったのである。
45  緑野(45)
 「茨城県スポーツ祭」の会場には、鉢植えのアヤメが、美しく咲き誇っていた。
 この日、山本伸一は記念撮影の折、茨城の新しい前進のために、四つの指針を示した。
 その第一は「求道の茨城」である。
 茨城の県民性として、正義感が強い反面、怒りっぽい、理屈っぽいなどと言われ、我が強いことが指摘されてきた。
 独り善がりであれば、信心の成長はない。「心の師とはなるとも心を師とせざれ」というのが、仏法者の生き方である。
 どこまでも謙虚に、一途に、法を求めるなかに自身の成長もあり、広宣流布の大きな伸展もあるのだ。
 第二は「団結の茨城」である。
 われらの団結は、広宣流布という、人びとの幸福と郷土の繁栄を願う心の結合である。
 そして、それは自分の心を開き、周囲の人びとを、尊重することから始まる。
 その精神が地域に広がってこそ、未来を築く、新たなる人は共同体の建設も可能になるのだ。
 第三は「行動の茨城」である。
 大聖人は、自らを「法華経の行者」と言われた。行者とは行動の人のことであり、行動してこそ、真実の仏法者であることを示している。
 風が吹けば波が立つように、行動を起こせば状況は変化する。行動は壁を破り、自分の境涯を開く力である。
 行動の人には、あきらめはない。行き詰まったように見えても、行動のなかから、常に新しき道が開かれるからだ。
 第四に「人材育成の茨城」である。
 広宣流布の緑野とは、人材の園でもある。そして、人を育んでいくなかにこそ、自身の成長もあるのだ。
 後輩を育てるには、先輩は率先垂範の行動をもって、触発していかなくてはならないからだ。
 また、人を育成するには、私心を捨て、自分を犠牲にしても後輩を守り、育もうと決めることである。その心が定まってこそ、人を大きく包容することもできるし、相手のた
 めを思い、鋭い指摘もできるのである。
 ――伸一が示した、この指針は、梅花薫る″関東の先駆け″茨城の新章節を開く、力の源泉となっていったのである。
46  緑野(46)
 六月の二十五日には、山本伸一は、北海道・函館に飛んだ。
 機中、窓を見ると、眼下に、東北の美しき緑の大地が広がっていた。
 東北は広宣流布の総仕上げを託した地である。
 「広布第二章」とは、その東北が決戦の檜舞台に立つ、″東北の時代″である――そう思うと、彼の胸は躍った。
 伸一は機内にあって、東北の大勝利を確信しながら、心で真剣に題目を送り続けた。
 伸一は、函館では函館文化会館の開館式に出席し、信心の根本姿勢について指導した。
 「異体同心の″心″とは、具体的な行動面からいえば、仏意仏勅の団体たる創価学会という和合僧団を共に支え、守り、前進させることです。
 また、常に広宣流布の主戦場、激戦地にわが身を置き、苦闘する同志を断じて守り抜こうとする共戦の姿です。
 反対に、自分のエゴに左右され、広宣流布という根本目的を忘れれば同体異心です。それは師子身中の虫となり、麗しき信心の世界を破壊する魔の働きとなってしまう」
 開館式のあと、伸一は役員の青年たちに、次々と声をかけ、握手を交わし、書籍に励ましの一文を書き贈っていった。
 時間は限られている。だからこそ、彼は、″まだ、これならできる!あの手も打てる!″と、必死で行動していた。
 その執念の闘魂こそが、広宣流布の突破口を開く力となるのだ。
 翌二十六日、伸一は、大沼研修所で行われた「大沼湖畔・懇親の夕べ」に出席した。
 これは、地域の親睦と友好交流のために、学会の青年たちが結成した文化団体である函館青年文化連盟の主催で行われた催しであった。
 大沼の湖面は夕日に赤く染まり、彼方には静かに噴煙を上げる駒ヶ岳の雄姿があった。
 そして、緑の絨毯を敷き詰めたような研修所の庭には、歓談の花が咲いていた。
 伸一は、集った同志に提案した。
 「この研修所に『北海道広宣流布の碑』を建設し、そこに功労のあった方々の名を刻み、後世に永遠に残したい。
 また、民衆の手による宗教革命と社会建設の歴史をとどめる意味から、北海道の広布史を作成してはどうでしょうか」
 皆、大喜びであった。
47  緑野(47)
 北海道広布を切り開いてきた人びとの苦労を、山本伸一は誰よりもよく知っていた。
 同志たちは、病苦、経済苦、家庭不和など、さまざまな悩みを抱えながら、広宣流布の尊き使命に奮い立ち、厳寒の雪道を折伏に歩いた。食事代は、しばしば学会活動の交通費に変わった。
 だが、同志は、広宣流布のためには、すべてをなげうつ決意であった。
 その胸には、仏の使いとしての誇りがあふれていた。歓喜の闘魂が、赤々と燃え上がっていた。
 あの夕張の炭鉱にあっても、わが同志は、嘲笑され、罵倒され、組合から締め出されるという卑劣な仕打ちを受けながら、堂々と戦い抜いた。
 同志は常に″負けるものか!″と、歯をくいしばりながら、仏法の真実と学会の正義を叫び抜いてきた。命の限り、気迫の対話を重ねた。
 執念の行動であった。それが、闇夜を開く、逆転勝利の閃光となったのだ。この執念に創価の魂がある。
 そして、今、「広布第二章」を迎え、学会は隆々たる大発展を遂げ、民衆の凱歌は、高らかに轟き渡った。
 その庶民の英雄たちを未来永遠に讃え、名を残し、尊き足跡をとどめるために、伸一は、「北海道広宣流布の碑」と北海道の広布史をつくる提案をしたのである。
 この日、青年たちへの彼の激励は、間断なく続けられた。
 学生部の代表とは、共に入浴し、トインビー博士との対談などに触れながら、学問探究の姿勢や青年の生き方について語った。
 函館青年文化連盟のメンバーは、ヨーロッパ訪問、国内の指導行と続く伸一の激闘に感嘆していた。そして、″せめて、この日だけでも、くつろいでほしい″との思いから、彼に浴衣をプレゼントした。
 伸一は、青年たちの、その真心が嬉しく、ありがたかった。さっそく彼は、感謝の思いを歌に詠み、メンバーに贈った。
  美しき
    心しみいる
      浴衣きて
    友どち護ると
      我れは指揮とる
 広宣流布の緑野は、自分をなげうつ思いで、皆の胸中に、使命の種子、勇気の種子を、植え続けてこそ広がるのである。
48  緑野(48)
 翌二十七日も、山本伸一は、場所を駒ヶ岳山麓の高原に移して、青空の下、北海道の各部代表幹部と、約三時間にわたって懇談会を開いた。
 「大変にご苦労様です。さあ、新しい出発だ。未来に向かい、力強い前進を開始するために、青空会議を始めよう!」
 伸一は、各部の活動の様子を尋ねていった。
 小鳥のさえずりがこだまするなかでの、希望広がる懇談会となった。
 樹間を渡る初夏の風がさわやかであった。
 伸一は、皆の話を聞くと、確信に満ちあふれた声で言った。
 「開拓精神みなぎる北海道は『広布第二章』の電源地になるでしょう。その意味から、『広宣流布は北海道から』との言葉を、前進の合言葉として贈りたい!」
 「はい!」という喜びのこもった、賛同の声がはね返ってきた。
 また、北海道にあっても、森林や湿原が減り、自然破壊、環境破壊が進んでいるとの報告に対して、伸一はこたえた。
 「すぐに、緑を植える運動を起こしましょう。たとえば、学会員の子どもが生まれたら、誕生を記念し、未来の大成を願って、研修所や高原などに木を植えるんです。広布後継を願っての記念植樹です。
 また、草創の同志の功労を讃えて、若木の植樹をしてもよい。
 それを広げていけば、壮大な植林事業になります。だから私は、これまでも、折あるごとに記念植樹をしてきたんです。
 仏法は草木成仏を説いている。草木にも『仏』の生命を見て、大切にするのが仏法の思想です」
 社会のために、何を行うか――そこに、立正安国の実現に生きる仏法者としての、伸一の視点があった。
 彼は言葉をついだ。
 「釧路市に丹頂鶴自然公園があるが、かつてタンチョウは絶滅の危機に瀕していた。そのタンチョウを保護しようと、自然公園開設のための寄付を募ったことがあった。それを聞くと、戸田先生は、こう言われた。
 『大事なことだ。人間は、自分たちが地上の支配者であるかのように思い上がり、自然を破壊していけば、やがて大変なことになる。
 自然を守ることが人間を守ることにもなる。依正不二ではないか』」
49  緑野(49)
 山本伸一は、戸田城聖をしのぶように、目を細めながら話を続けた。
 「戸田先生は、タンチョウ保護のために、その時、金五十万円を寄付された。丹頂鶴自然公園開園の一年前にあたる昭和三十二年(一九五七年)のことです。まだ、公務員の初任給が一万円もしない時代です。
 私たちも自然保護に力を注ごう。それには、植樹などとともに、自然を大切にする仏法の思想を人びとの心に打ち立てていくことが大事です。
 その先陣を、大自然に恵まれた北海道の皆さんが切ってください。
 北海道を、『緑の寂光土』にしようではありませんか。仏法者として、新たな社会貢献の道を切り開いていくのが、『広布第二章』なんです」
 環境保護への伸一の構想は、日本国内はもとより、やがてSGI(創価学会インタナシ
 ョナル)各国に広がっていった。
 そして、ブラジルSGIの「アマゾン自然環境センター」の設立をはじめ、各国の植樹運動や環境教育運動となり、未来を開く、持続可能な環境保護運動の潮流となったのである。
 ――二〇〇五年(平成十七年)二月、伸一は、ノーベル平和賞の受賞者で、ケニアから広がった植樹運動「グリーンベルト運動」の指導者ワンガリ・マータイ博士と会見した。
 席上、彼女は、伸一に語った。
 「皆様が、仏教の教えにもとづいた深い価値観をもっていることに感銘しています。しかも、これらの価値観が、社会に根を張っている。
 皆様の思想は『生命を大切にする』思想です。『自然を大切にする』思想です。『人間の生命と社会を大切にする』思想です」
 そして、伸一が、その大切な価値観を何百万人もの人に広めたことに、「心から最大の感謝を捧げたい」と述べた。
 彼女は毅然と訴えた。
 「未来は未来にあるのではない。今、この時からしか、未来は生まれないのです。将来、何かを成し遂げたいなら、今、やらなければならないのです」
 それは、伸一の一貫した信条であり、彼の魂の叫びでもあった。

1
2