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日蓮大聖人・池田大作

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第17巻 「民衆城」 民衆城

小説「新・人間革命」

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2  民衆城(2)
 山本伸一は、目を輝かせて婦人に言った。
 「十六年前というと、夏季ブロック指導で、荒川に入った時ですね。それで、お体の方は?」
 彼女は答えた。
 「はい。あの時は、結核で苦しんでおりましたが、その後、一年余りで完治いたしました。
 今では、この通り、すっかり元気になりました」 「それはよかった。
 あの荒川での戦いを、私は永遠に忘れることはありません。その一コマ一コマが、鮮烈に生命に刻まれております。
 皆さんと共に汗を流した、あの一週間の闘争こそ、学会を、民衆を苦しめる、横暴な権力の魔性への、私の反転攻勢の狼煙だったんです」
 一九五七年(昭和三十二年)八月八日から一週間にわたって実施された夏季ブロック指導で、伸一は荒川区の最高責任者として、活動の指揮をとった。
 この一週間で、当時の荒川の会員世帯の一割を超える、二百数十世帯の弘教を成し遂げたのだ。
 その直前の七月、学会は大阪事件という弾圧の嵐に襲われた。
 この年の四月に行われた参院大阪地方区の補欠選挙で、学会は候補者を推薦し、支援活動を展開した。
 その時、一部に選挙違反者が出てしまったことを口実に、選挙の最高責任者であった青年部の室長の伸一が、不当逮捕されたのである。
 彼は、前年の参院選挙でも大阪地方区の支援の最高責任者を務め、敗北は必至との予測のなか、学会が支援した候補者を見事に当選させていた。
 それだけに権力は、民衆勢力の台頭に恐れをいだき、伸一という若き闘将に攻撃の狙いを定めたにちがいない。
 この参院補選で、青年たちを引き連れて東京から乗り込んだ、英雄気取りの師子身中の虫ともいうべき人物がいた。こともあろうに、タバコに候補者の名前を書いて街頭でばらまくなどしたのである。
 検察は、彼らを逮捕すると、この買収事件の首謀者に、こう言って偽証を迫ったのだ。
 事件を収束させるために山本室長の指示ということにしてはどうか。ほんの形式上のことだから、山本を逮捕したりはしない。君らもすぐに釈放してやる。
3  民衆城(3)
 警察もまた、たまたま戸別訪問をしてしまった壮年会員を逮捕すると、脅しをかけ、山本伸一の指示だという嘘の供述をさせたのである。
 この壮年の子どもは、修学旅行が間近に迫っており、父である彼の帰りを待ちわびていた。
 その壮年に、刑事は言った。
 「おまえ、聞くところによると、長男が修学旅行へ行くそうやないか。はよ白状して帰ったらええやないか。
 強情張ったら、いつまでも泊められることになるんやで。
 素直に白状すれば、わしが担任の先生に言って、旅費も半額にまけてもらったる。千円ぐらいの小遣いなら、わしがやるで」
 しかし、山本室長から選挙違反をせよなどという指示は受けていないと言い通すと、さらに、こう恫喝されるのだ。
 「おまえ、子どもがかわいそうやないか。慈悲がないのか。鬼か。
 いつまでも強情張っとると、入れ代わり、立ち代わり、晩もろくに寝かさんと、おまえを責めて白状させるで」
 魔性の権力は、陰湿に庶民を追い込んでいった。そして、遂に彼は、嘘の供述をするのだ。
 壮年は法廷で、その時の心境を、涙ながらにこう語っている。
 「自分が働いておっても生活が苦しいのに、ここにいつまでもいたら、家族は飢えることになってしまう。
 それで、心のなかで御本尊様にお詫びして、嘘をついたんであります。『室長の山本先生に言われました』と」
 ともあれ、こうして捏造された供述を根拠にして、選挙から二カ月余りが過ぎた七月三日、山本伸一は、大阪府警に逮捕されたのである。
 その日の朝まで、彼は北海道にいた。
 夕張の炭鉱労働組合が学会員を不当に差別し、圧迫を加えた、夕張炭労事件の解決のために、北の大地を奔走していたのである。
 そして、大阪府警に出頭するために、空路、大阪に向かった。伸一は、自身の潔白を明らかにしようと、自ら府警の要請に応じて、出頭することにしたのである。
 乗り換えのために降りた東京の羽田空港には、師の戸田城聖をはじめ、妻の峯子、それに何人かの同志が待っていた。
4  民衆城(4)
 空港の待合室で、戸田城聖を見た山本伸一は、胸を突かれた。
 師は、いたく憔悴し、やせ細っていた。
 夕張の炭労事件、そして、伸一の出頭と、戸田は心労を重ね、それが彼の体を苛んできたのであろう。
 だが、戸田は、伸一を見つめ、意を決したように強い語調で言った。
 「われわれがやろうとしている広宣流布の戦いというのは、現実社会での格闘なのだ。現実の社会に根を張れば張るほど、難は競い起こってくる。しかし、戦う以外にないのだ。
 また、大きな苦難が待ちかまえているが、伸一、征ってきなさい!」
 「はい!」
 伸一は、こう言うと、戸田の顔に視線を注いだ。めっきりやつれた師の姿を見ると、胸がえぐられる思いがした。
 伸一は、戸田に健康状態を尋ねたが、戸田は、ただ「うん」と言ったきり、何も答えなかった。
 そして、伸一をまじまじと見つめ、肩に手をかけた。
 「心配なのは君の体だ……。絶対に死ぬな、死んではならんぞ」
 次の瞬間、戸田の腕に力がこもった。彼は、伸一の体を抱き締めるように引き寄せ、沈痛な声で語った。
 「伸一、もしも、もしも、おまえが死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、おまえの上にうつぶして一緒に死ぬからな」
 電撃が、伸一の五体を貫いた。彼は、あふれ出そうになる涙を、必死にこらえた。
 伸一は、決意の眼差しを戸田に向け、わが心に言い聞かせた。
 ″どんな大難が降りかかろうと、決然と闘い抜いてみせる。戸田先生の弟子らしく、私は力の限り戦う……″
 大阪行の飛行機の出発時刻が迫っていた。
 伸一が妻の峯子から着替えの入ったバッグを受け取り、歩き始めると、東京の文京区に住む婦人部の幹部である田岡治子が追いかけて来て、心配そうに尋ねた。
 「山本室長、文京の人に、このことをどう言えばよいでしょうか。何かご伝言を!」
 その目は、涙で潤んでいた。
 伸一は、悠然として言った。
 「『夜明けが来た』と伝えてください」
5  民衆城(5)
 山本伸一は、国家権力が創価学会という民衆勢力の台頭におののき、いよいよ迫害に乗り出したことを肌で感じていた。
 だが、権力の魔性を打ち砕き、敢然と乗り越えていくならば、真実の民衆の時代が到来する。
 ゆえに、山本伸一は、田岡治子に「夜明けが来た」と答えたのである。
 大阪府警に出頭した伸一は、この七月三日の夕刻、身に覚えのない公職選挙法違反の容疑で不当逮捕された。
 七月の三日といえば、一九四五年(昭和二十年)、軍部政府の弾圧によって投獄されていた戸田城聖が、中野の豊多摩刑務所を出獄した日である。まさに、師が一人立ち、広宣流布の黎明を告げた日であった。
 なんたる不思議か、その同じ日の、ほぼ同じ時刻に、伸一は逮捕されたのである。
 この大阪事件は、戸田が出獄以来、十二年間の歳月を費やして築き上げた、創価学会という民衆の平和と幸福の連帯が、権力の弾圧という試練に耐えられるかどうかの試金石でもあった。
 御聖訓には、「強敵を伏して始て力士をしる」と。
 最強の敵を倒してこそ、力の真髄を示すことができる。
 伸一は燃えた。
 ″何があっても、私は断固勝つ。学会の正義と真実を師子吼し抜いてみせる!″
 それが弟子としての彼の決意であった。
 伸一への取り調べは過酷であった。
 検事が二人がかりで、夕食も与えずに深夜まで尋問することもあった。
 まるで晒し者にするかのように、手錠をかけたまま、大阪地検の本館と別館の間を往復させたこともあった。
 そして、遂に検事は、伸一に、「罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する」と迫ったのである。
 検察の狙いは、会長の戸田を逮捕し、学会を壊滅状態に追い込むことにあるようだ。
 伸一の脳裏に、羽田での憔悴した戸田の姿がありありと浮かんだ。
 ″体をこわし、衰弱しきった戸田先生が逮捕されれば、命を縮めることは間違いない。場合によっては初代会長の牧口先生のように、獄死することになるかもしれない。
 絶対に、絶対に、先生を、逮捕などさせてなるものか!″
6  民衆城(6)
 山本伸一の苦悩は深かった。
 ″戸田先生あっての私の人生である。いかなることがあっても、私は先生をお守りするのだ。
 では、検事の言うままに真実を捨て、嘘をつくのか。
 それは、自らの手で愛する学会を汚すことになりはしないか……″
 伸一の心は、激しく揺れ動き、深夜の独房で苦悶が続いた。
 彼の胸には、憤怒の炎が燃え盛っていた。
 苦悩は、夜通し彼をさいなみ続けた。
 しかし、一念に億劫の辛労を尽くしゆかんとする祈りの果てに、彼の心は決まった。
 ″ひとまずは、自分が一身に罪を背負おう。そうすれば、戸田先生をお守りできる。あとは、裁判の場で、真実を明らかにするのだ″
 そして、七月十七日、伸一は大阪拘置所を出たのである。
 後年、伸一は、自身が逮捕された七月三日を、こう句に詠んでいる。
  出獄と 入獄の日に 師弟あり
  七月の 三日忘れじ 富士仰ぐ
 七月三日を日本の「夜明け」にすることこそ、彼の固い誓いであった。
 それには、裁判に勝利を収めることはもちろんだが、仏法の人間主義の旗のもとに、各地に人道と正義と平和の強固な民衆の連帯を築き上げることだ。
 そして、民衆を支配し抑圧する力として君臨する権力を、民衆の手に取り戻し、民衆を守る力としなくてはならぬ。
 伸一は、堅固な人間主義の民衆城を築き上げ、生涯、権力の魔性と戦い続けることを、深く、深く、心に誓った。
 そのための歴史的な闘争の第一歩が、この荒川区での夏季ブロック指導であったのである。
 彼は、夏季ブロック指導期間に入る前日の八月七日、荒川の主だったメンバーと打ち合わせを行うことにした。
 会場は、荒川ブロック指導の婦人部の責任者となった、土田千代子の家であった。彼女の家は、日暮里の道灌山にあり、夫妻で牛乳販売店を営んでいた。
7  民衆城(7)
 荒川区は庶民の町であった。
 ひしめくように家々が立ち並び、夕方ともなれば路地に魚などを焼く煙が漂っていた。
 また、火をおこす団扇の音や菜っ葉を刻む包丁の音、赤ん坊の泣き声や子どもを叱りつける母親の声が聞こえてくる。
 区民には地方出身者も多く、集団就職で上京してきた青年たちも少なくなかった。
 上品ぶって冷淡な、仮面を被ったような人間はいなかった。皆、率直で開けっ広げであり、人間の温もりがあった。
 山本伸一は、荒川が大好きであった。
 荒川に向かいながら、伸一は決意した。
 ″よし、庶民の縮図ともいうべき荒川から、民衆勝利の波を起こそう。いかなる権力にも屈せぬ、正義の城を、ここに築こう″
 打ち合わせ会場の土田宅の前まで来ると、土田千代子が外に出て、待っていてくれた。
 部屋には十人ほどのメンバーが集まっていた。伸一は皆に言った。
 「荒川の大勝利を祈って、皆で一緒に勤行をしましょう」
 戦いは祈りから始まったのだ。
 伸一の朗々たる声が響いた。勝利の誓いを込めた厳粛な勤行であった。
 勤行が終わると、伸一は尋ねた。
 「ご主人の土田さんはどちらですか」
 「私です」
 一番後ろで、五十歳ぐらいの壮年が、ぶっきらぼうに答えた。土田民雄である。
 伸一は、深々と頭を下げた。
 「初めまして、山本伸一でございます。お世話になります。
 また、このたびは座談会の会場などとして使わせていただくことになりますが、よろしくお願いいたします」
 民雄は、恐縮した様子で、「いや……」とだけ言った。
 彼はタテ線では地区幹事であったが、妻の千代子は支部の幹部であり、彼女の方が家を空けることも多かった。いきおい彼が留守番役に回ることになった。
 「わが家は女房が中心だ。俺はそれを支える無冠の太陽だ」と言うのが民雄の口癖であり、学会活動に対しても、どこか逃げ腰の面があった。
8  民衆城(8)
 山本伸一は、土田民雄に言った。
 「ご主人は、そんな後ろにいないで、前に来てください。ご主人が、どんと控えていれば、来られた方も安心します。どうぞ、こちらへ」
 伸一に促されて、土田が前にやってきた。
 「私の隣に座ってください」
 土田は、いかにも、言われたから仕方ないという顔で、伸一の隣に座った。しかし、どこか嬉しそうでもあった。
 「お宅で会合を行う時は、ご主人はいつも、前の方にいてください。
 また、次の座談会では開会の辞をやってください。そして、『ようこそ、わが家へ』と言っていただきたいんです。
 そうすれば、初めて訪れた学会員も、また、座談会に誘われてやってきた友人たちも、心和むと思います。お願いできますか」
 土田は、「はい」と答えていた。彼の心のなかにあった、傍観者のような感覚は消えていた。
 いかなる活動も、勝利への道は、一人ひとりが主体者となることから始まる。そして、真剣にして必死の奮闘のなかで、皆が偉大なる闘将へと変わっていくのだ。どこかに、特別な力をもった人がいるわけではない。
 ゆえに眼前の一人を、全力で励ますことだ。
 それから伸一は諄々と語り始めた。
 「このたびの大阪の事件では、大変にご心配をおかけいたしました。
 この事件の本質は、なんであったか――。
 ひとことで言えば、庶民の団体である創価学会が力をもち、政治を民衆の手に取り戻そうと、政治改革に乗り出したことへの権力の恐れです。
 そして、これ以上、学会が大きくなる前に、叩いておこうとした。
 学会には常勝の若武者がいる。まず、それを倒そうと、私を無実の罪で逮捕した。
 さらに壊滅的な打撃を与えようと、衰弱されている戸田先生にまで手を伸ばそうとしたんです。
 罪なき人間を地獄の底に叩き落とし、正義の指導者を葬り去ろうとする――こんな権力の横暴を絶対に許すわけにはいきません」
 悪への怒りなくして正義はない。そして、それが、戦いの突破口を開く力となるのだ。
9  民衆城(9)
 語るにつれて、山本伸一の言葉には、怒りがあふれ、力がこもった。
 「誰が本気になって権力から庶民を守るのか。また、誰がその力をもっているのか。
 創価学会しかありません。だから、権力も躍起になって、学会を倒そうとするんです。
 学会が強くならなければ、庶民がいじめられてしまう。それではかわいそうです。民衆を守るためには、学会が強くなるしかない。その突破口を開くのが今回の戦いなんです。
 学会の縮図であり、庶民の縮図である荒川で、大折伏戦を展開し、広宣流布の東の錦州城をつくろうではありませんか。
 永遠なる民衆勝利の大絵巻を、私と共につづりましょう!」
 「はい!」
 皆、瞳を輝かせ、決意のこもった声で応えた。
 「よし、これで決まった。荒川は勝てます。
 私たちが本気になりさえすれば、どんな障害も乗り越えられます」
 この時、権力の魔性に対する反転攻勢の狼煙が上がったのだ。
 それから、ブロック指導期間の活動の詳細が検討されていった。
 伸一は、皆の話を聞きながら、区内を五地域に分けて担当者を決め、活動の拠点や座談会の日程などを決めていった。
 計画ができあがると、伸一は言った。
 「この一週間という短期間で、未曾有の拡大を成し遂げるには、まず、『智慧』が必要です。
 皆さんは″先月だって、先々月だって、精いっぱい折伏をしてきた。もう限界だ。折伏する相手などなくなってしまった″と思っておられるでしょう。
 実は、それを壁というんです。
 では、その壁は、どこにあるのか。皆さんの心のなかです。自分でつくったものなんです。
 本来、私たちの周囲には、折伏すべき人はたくさんいます。ただ、話すきっかけがつくれなかったり、一歩踏み込んだ深い対話ができずにいる。
 そこで大切なのが、智慧です。どうすれば仏法対話ができるのか。相手の琴線に触れる語らいができるのか――智慧を絞って考えるんです」
 皆、頷きながら、真剣な顔で、伸一の話に耳を傾けていた。
10  民衆城(10)
 山本伸一は、一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。
 「ともすれば一度ぐらい話をしただけで、″あの人はだめだ″ ″この人は無理だ″と思い込んでしまう。でも、人の心は刻々と変わる。いや、執念の対話で、断じて変えていくんです。
 それには自分の話し方に問題はないか、検討してみる必要もあります。
 たとえば、家庭不和で悩んでいる人に、病気を克服することができると訴えても、関心は示さない。病気の人に商売がうまくいくと訴えても、共感はしません。
 相手が納得できるように、いかに語るか――これも智慧なんです。
 さらに、同志の方々のなかには、友人はたくさんいるのに、確信も弱く、うまく話せないという人もいるでしょう。
 そうした人と先輩が組んで、折伏にあたるという方法もあります。
 ともかく、智慧は、本来、無尽蔵なんです。その智慧が不可能を可能にするんです。
 そして、智慧というのは、断じて成し遂げようという懸命な一念から生まれます。必死の祈りこそが、智慧を生む母なんです」
 伸一はさらに、智慧がわいたら、それを行動に移す「勇気」が不可欠であることを訴えた。
 「御聖訓には『つるぎなんども・すすまざる不進人のためには用る事なし』と仰せです。
 無量の智慧をもたらす法華経という剣も、臆病であっては、使いこなすことはできません。
 苦手だから避けようと思う心。仕方ないのだと自らの臆病や怠惰を正当化しようという心
 ――その自分の弱さに挑み、打ち勝つ勇気をもってください。そこに自身の人間革命があり、一切の勝利の要諦があります」
 アメリカ独立革命の思想家トマス・ペインはこう叫んでいる。
 「勇気と決断とがあれば、なにかを、いなすべてを成し遂げることができるのだ」
 山本伸一の荒川での活動が始まった。期間は一週間であり、時間との壮絶な戦いでもあった。
 そこでは、一瞬一瞬をいかに有効に、最大限に活用するかが勝敗の分かれ目となる。また、一瞬の油断や手抜きが取り返しのつかぬ敗因となる。
11  民衆城(11)
 山本伸一は、荒川の町々を走りに走った。日暮里へ、尾久へ、町屋へ、南千住へ……。
 そして、一回一回の座談会に真剣勝負で臨んだのである。
 どの会場も、熱気にみなぎり、玄関の外まで人があふれた。
 町屋の会員宅での座談会では、こんなことがあった。
 一人の高校生が手をあげて質問した。会場は満員で、伸一のいるところからは、質問者の顔がよく見えなかった。司会をしていた青年が言った。
 「質問は立ってお願いします」
 高校生は答えた。
 「立っています」
 彼の背が低かったのではない。床板が傷んでおり、たくさんの人が入ったために、彼が座っていた辺りの三畳分ほどの床が、すり鉢状にへこんでしまったのだ。
 床は、静かに下がっていった。その部分にいた人たちは、声ひとつあげず、真剣に伸一の指導に耳を傾けていたために、会場の多くの人は、陥没に気づかなかったのである。
 その床の上にいた高校生は、立って、話を聞き続けた。
 ″断じて未曾有の弘教を成し遂げ、新たな民衆の時代を開こう″との決意に燃える同志たちは、床がへこんだぐらいでは微動だにしなかった。
 座談会終了後、伸一は会場提供者の一家に丁重に詫びた。主人は、悠然として言った。
 「粗末な家ですから、壊れても怪我をした方がいなければいいんです。
 こんな家に、仏の使いである同志の皆さんが集まってくださり、広宣流布のために使ってくださること自体、申し訳ないかぎりです」
 その言葉に、伸一は感動した。
 大聖人は「ただ心こそ大切なれ」と仰せである。信心の深き心にこそ、大福運の種子が宿るのだ。
 伸一は語った。
 「会場を提供してくださるご苦労は、大変なものがあると思います。
 声が響いたり、自転車で道をふさいだりして、隣近所の迷惑になっていないかなど、気遣いも絶えない。畳やトイレなども汚れ、掃除も一苦労でしょう。
 それに会合中は子どもさんのいる場所もない。
 しかし、その功徳は計り知れません」
12  民衆城(12)
 山本伸一は、会場を提供することの功徳を語っていった。
 「家を学会活動の拠点や会場にするということは、釈尊の時代でいえば精舎を供養することに通じます。
 大福運を積んでいることは間違いありません。
 また、家中が、大勢の方のお題目に包まれるというのは、すごいことなんです。それは、そこに住んでいるご一家を、永遠に荘厳します。
 ともかく、広宣流布のために、わが家を提供してくださる方は、未来は王宮のような家に住み、大長老となることを確信してください」
 伸一の励ましを受けたこの一家は、会場を提供することに、大きな誇りと感謝をいだいた。
 家は年末には新築し、その後も、末永く、広宣流布の宝城として使われたのである。
 伸一は、座談会では必ず質問を受けた。疑問に明確に答え、勇気と希望を与えてこそ、前進の活力がみなぎるからだ。
 ある会場では、こんな壮年の質問があった。
 「組長をしておりますが、組座談会を開いても人が集まらないし、盛り上がりません。どうしたらいいでしょうか」
 伸一は尋ねた。
 「失礼ですが、あなたには奥さんがいますか」
 「はい、おります。信心もしています」
 「そうですか。座談会は奥さんと二人でもできます。まず夫妻で最高の座談会を開き、二人の決意で皆を包み込むように、参加を呼びかけて歩くんです。
 人を頼ろうという気があれば負けです。そこに一切の敗北の要因がある」
 壮年は、ドキリとした顔をした。
 「日蓮大聖人も『大将軍よはければ・したがうものも・かひなし』と仰せです。
 自分が立つんだ、自分が戦うんだ、たった一人でも必ず勝つ――と決めることです。その一念が、その気迫が、みんなに波動していくんです。
 このたびの活動で、それを実践してみてください。自分の殻を破ることができれば、組座談会も成功します。ほかの折伏などの活動も、さらに仕事の面でも、大きな力を発揮できるようになる。
 信心即生活です。信心の根本姿勢が変われば、仕事も、生活も変わらないわけがありません」
13  民衆城(13)
 山本伸一は、誰のどんな質問に対しても、″この人の発心の契機になってほしい。人生の転機にしたい″と、全力投球で指導にあたった。
 それは、子どもに対しても同様であった。
 南千住の座談会に行った時のことである。
 この日、伸一は、折伏に時間を取られ、到着が約束の時刻より、少し遅れてしまった。
 会場の近くまで行くと、何人かの青年たちが通りまで出て待っていてくれた。
 そのなかに、座談会場となった家の娘もいた。田畑幾子という小学校五年の少女であった。
 伸一の顔を見ると、彼女は言った。
 「先生、遅かったですねー」
 「ごめん、ごめん。折伏をしていて、遅くなっちゃったんだよ」
 彼は、少女と一緒に歩いて会場に向かった。
 この座談会でも質問を受けることにした。
 「今日は聞きたいことがあったら、なんでも質問してください。信心のことだけでなく、歴史や文学のことでもけっこうですよ」
 生活苦の問題など、何問かの質問のあと、さっきの少女が手をあげた。
 「先生! ジャンヌ・ダルクという人は、本当にいたんですか」
 唐突な質問であった。参加者は″この子は何を言いだすんだ″といった表情で少女を見た。
 しかし、伸一は、ニッコリと頷くと、少女の大成を強く願いながら、真剣に、誠実に、質問に答えていった。
 「実在しました。十五世紀に生まれた、フランスの乙女です。
 彼女は、国を救おうと軍を率いて戦い、イギリス軍を破り、包囲されたオルレアンという地域を解放しています。
 でも、最後は不幸でした。まだ十代で火あぶりにされたんです。だからあなたの方が、ずっと幸せなんですよ。
 しかし、民衆の幸福を願い、人びとを救うために、自分を犠牲にしても戦おうとした、その心は立派です。
 あなたも、生涯、そうした心をもって、民衆のため、平和のために戦い抜き、自分も幸福になってください。妙法のジャンヌ・ダルクになってください。約束しよう」
 少女は、「はい!」と言って、大きな瞳を輝かせながら頷いた。
14  民衆城(14)
 山本伸一は、座談会を終えて、田畑宅を後にする時、質問した娘の田畑幾子を見て言った。
 「さよなら、ジャンヌ・ダルク!」
 この座談会での伸一の指導は、まだ少女だった田畑幾子にとっても、生涯の指針となった。
 少女は、自分は民衆のために戦う「妙法のジャンヌ・ダルク」になろうと、固く固く、心に誓ったのである。
 後年、彼女は、女子部長となり、さらに婦人部長などを歴任することになる。
 まさに、民衆凱歌の旗手として、さっそうと広宣流布の戦野を駆け巡ることになるのだ。
 フランスの歴史家ジュール・ミシュレは、ジャンヌ・ダルクは「善意、慈愛、やさしい心」の持ち主であったという。
 しかし、「彼女は『フランス王国にあった悲惨さ』を知ったとき、武器をとった。彼女は『フランスの血が流れる』のを見ていることができなかった」と記している。
 善意、慈愛、優しさをもつがゆえに、女性は、不幸があるところ、正義の大闘士となるのだ。
 伸一の荒川での夏季ブロック指導は、わずか一週間ではあったが、一つ一つの事柄に対して、全情熱を注いで、真剣勝負で臨んだ。
 その誠実な行動が、広宣流布への民衆蜂起の突破口となった。
 「どんな小さな努力でも、それをすることで、無限の結果が生まれてくる」とは、フランスの哲学者アランの洞察だ。
 荒川区の中心拠点となった土田宅には、夜ごと折伏の成果をたずさえ、皆が報告に訪れた。
 そして、遂に二百数十世帯を超える弘教を実らせたのである。
 以来十六年、山本伸一は今、聖教新聞社の前で荒川の婦人部員と語り合いながら、その時の模様が、懐かしく思い起こされてならなかった。
 伸一は、荒川の二人の婦人に言った。
 「私の心は、常に荒川の同志と共にあります。荒川が勝てば庶民の凱歌が轟く。それが創価学会の勝利です。荒川に広宣流布の不敗の黄金城を築こうではありませんか。
 またいつか、荒川にお邪魔しますので、同志の皆様にくれぐれもよろしくお伝えください」
15  民衆城(15)
 四月二十二日は、本部幹部会であった。
 会場となった東京・墨田区の両国にある日大講堂に、「開目抄」の一節を拝読する参加者の声が響いた。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
 いかなる難があったとしても、疑うことなく信心を貫いていくならば、必ず成仏できることを断言なされた御文である。
 ――天の加護がなくとも疑ってはならぬ! 現世が安穏でないからといって嘆いてはならぬ!疑いを起こさず、師弟の約束を守り抜くのだ!
 そこには、弟子たちの成仏を願われる、師匠・日蓮大聖人の魂の叫びがある。
 山本伸一は、前月の本部幹部会でも、この御文を拝読し、力を込めてこう訴えた。
 「ここには、信心の極意が示されております。この一節を、生涯にわたって、生命の奥底に刻み込んでください。
 日蓮大聖人の仰せ通りに仏法を実践している教団は、創価学会しかありません。それゆえに、必ず諸難が競い起こる。
 しかし、何があっても広宣流布の根本軌道を踏み外すことなく、揺るがぬ信心を貫き、悠々と明るく進んでいっていただきたいのであります」
 今、学会は「広布第二章」の大空に飛翔した。それは本格的な社会建設の時代の到来である。
 政治の世界に限らず、既成の勢力は、改革の旗を掲げる新しき民衆勢力の台頭を、躍起になって阻止し、粉砕しようとするのが常である。
 学会が、社会の建設に力を注げば注ぐほど、その前進をとどめようとする迫害も、激しさを増すことは間違いない。
 それだけに伸一は、必死になって、確固不動なる信心の「核」を、一人ひとりの胸中に、つくり上げようとしていたのである。
 そして、「開目抄」のこの一節を、全同志が座右の銘として、生命に刻むことを提案したのだ。
16  民衆城(16)
 四月度の本部幹部会が終了したあと、山本伸一は、会場の清掃など、裏方として活躍してくれている何人かの役員の青年たちに声をかけた。
 居住地を尋ねると、この日大講堂がある墨田区のメンバーが多かった。
 伸一は言った。
 「墨田というのは、初代会長の牧口先生と第二代会長の戸田先生の絆が深く結ばれていった、師弟の源流の地なんです」
 一九二〇年(大正九年)六月、現在の台東区・西町尋常小学校で校長をしていた牧口は、墨田区内にあった三笠尋常小学校に異動となった。すると、代用教員をしていた戸田も、牧口の後を追い、同校に移った。
 この小学校は、貧困家庭の児童のためにつくられた学校であり、児童の多くは家計を助けるために働かねばならなかった。そのために、学校を欠席する子どもも多かったのである。
 校長の牧口は、積極的に家庭訪問して児童を励ましていった。また、弁当を持たずに登校する児童のために、芋や豆餅を用意した。学校給食の先駆けといってよい。
 その牧口を人生の師と定めていた戸田は、日記に、こう記している。
 「我れを救いしは、牧口常三郎先生なり」
 この墨田の地で、牧口と戸田の師弟の絵巻は、一段と鮮烈に織りなされていったのである。
 やがて、日蓮仏法に巡りあった牧口と戸田は創価教育学会を設立する。だが、軍部政府の弾圧によって二人は投獄され、牧口は獄死するのだ。
 一九四五年(昭和二十年)七月三日、弟子の戸田は広宣流布への師の遺志を胸に、生きて牢獄を出た。そして五一年(同二十六年)五月三日、第二代会長に就任する。
 伸一は言葉をついだ。
 「その戸田先生の会長就任式が行われたのも、墨田です。先生は、この席上、会員七十五万世帯の達成を宣言し、こう叫ばれた。
 『もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい!』
 この師子吼は、師である牧口先生を獄死させた権力の魔性の牙をもぎ取らんとする叫びです。
 民衆が真に栄えるために、この世から『悲惨』の二字をなくす、闘争開始の宣告だったんです」
17  民衆城(17)
 戸田城聖の師子吼は放たれ、会員七十五万世帯の達成へ、学会は前進を開始した。
 しかし、折伏は遅々として進まず、戸田の誓願が成就する目途は、全く立たなかった。
 そこで戸田は、二十四歳の山本伸一を、蒲田支部の支部幹事に任命し、蒲田での折伏戦の指揮を委ねたのである。
 ″師匠の構想を必ず実現するのが弟子だ。戸田先生の誓願を、絶対に虚妄になどするものか!″
 若武者は、さっそうと戦い、挑んだ。
 そして、一九五二年(昭和二十七年)の二月、当時の支部の成果としては未聞の、一カ月で二百一世帯という弘教を成就したのだ。全学会員に衝撃が走った。
 「蒲田ができたなら、私たちにもできないわけがない!」
 皆、決意を新たにした。広宣流布の突破口は、開かれたのだ。
 以来、学会の折伏の成果は、飛躍的に伸びていった。
 しかし、それでも年末の学会の陣容は二万二千世帯にすぎなかった。
 年が明けた五三年(同二十八年)の一月二日、戸田は伸一を、男子部四個部隊のうちの第一部隊長に任命した。その日は伸一の二十五歳の誕生日であった。
 この第一部隊の活動の舞台が、墨田区をはじめとする、江東・江戸川区など、下町であった。
 四日後の六日、戸田が出席し、青年部幹部の就任式が行われた。
 伸一は、戸田から第一部隊旗を授与された時、広宣流布の歴史に残る大闘争を展開しようと、固く決意した。
 席上、指導に立った戸田は、五百人余の青年部員を前にして、二年前の会長就任式での宣言を再び口にしたのである。
 「学会が発展しているというものの、いまだ約二万世帯にしか至っていない。会員七十五万世帯の計画が達成できなかったならば、私の葬式はしてくださるな!」
 そして、戸田は、その後、七十五万世帯達成の道を切り開くために、広布の先駆・男子部に、各部隊千人の陣容に発展させるよう目標を示した。
 伸一の部隊は部員数は三百三十七人。つまり三倍の部員増加の戦いとなる。若き闘将は燃えた。
 ――伸一は、墨田での敢闘の思い出を、役員の青年たちに話し始めた。
18  民衆城(18)
 山本伸一は、懐かしそうに語っていった。
 「私は、戸田先生が会長に就任し、会員七十五万世帯の達成を宣言した天地である墨田区から、新たな戦いの火蓋を切ろうと、必死でした。
 墨田で男子部の拠点として使わせていただいたのが、壮年の班長をしていた、押上の広川英雄さんの家でした……」
 広川は玩具製造業を営む三十代半ばの壮年で、人柄には、一途な下町の気風があふれていた。
 彼の家は、六畳と四畳半、台所と、玩具製造の作業場にしている四畳ほどの板の間という造りだった。そこに妻の清子と、四人の子どもと暮らしていた。
 その家を広川夫妻は、青年たちのためになるならと、喜んで提供してくれたのである。
 当時は、まだ日本中が貪しかった。食事代を交通費にあてて、学会活動に飛び回る青年もいた。
 広川は、そんな青年たちに、パンや菓子など、家にある物はなんでも振る舞った。
 ″青年が伸び伸びと、思う存分に活動できるようにしなければ、学会の前進はない。青年を心から応援し、育てることが広宣流布の未来を開くことになる!″
 それが、夫妻の決意であり、信念であった。
 ある時、御礼に訪れた伸一に、広川は言った。
 「遠慮なく、思う存分使ってください。
 ご覧のように、うちは子どもが小さくて、いつもギャーギャーうるさくしてるんです。むしろ、皆さんに迷惑をおかけしないか、それが心配なんです」
 伸一は、丁重にお礼を述べ、こう励ました。
 「本当にありがとうございます。
 やがて、創価学会は、必ず日本一の大教団になります。その時に、学会は、この墨田の地から大発展したんだと胸を張ってください。
 その第一歩の戦いを、このお宅から、青年が開始していきます」
 伸一の、大きなスケールと、強い確信に、広川は心打たれた。
 伸一は、決意した。
 ″自分たちの生活を犠牲にしてまで、青年を守ろうとしてくれる人がいる。だから、創価学会は強いのだ。
 こうした人びとを、庶民を、厳然と守り抜くために、私は断じて戦い、勝とう!″
19  民衆城(19)
 第一部隊長としての山本伸一の戦いは、痛快なる劇を思わせた。
 墨田区の男子部員の家で行われた最初の班長会で、伸一は、戸田城聖が示した「部隊千人」の陣容を達成するために、六つであった班を十に増やした。
 そして、十人の班長を、「部隊十傑」と命名し、活動の核とすることを発表したのである。
 さらに、それぞれの班で十人の分隊長を登用して「部隊百傑」とし、各分隊は十人の精鋭をそろえるというのが、伸一の計画であった。
 彼は訴えた。
 「男子部の各部隊が部員一千人を達成することができれば、戸田先生の誓願である七十五万世帯達成の基礎を築くことができる。
 まさに広布の歴史を画する戦いです。これに参加できる使命の深さは、計り知れないものがあります。
 大聖人は『今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり』と仰せですが、私たちも、その自覚に立つべきです。
 そして、われわれは第一部隊なのだから、この部員千人達成の戦いをはじめ、すべての活動で、″第一″になろうではないか。
 学会活動は、すべて自分のためであり、自身を磨き、鍛える、自己訓練の場といえます。
 信心の戦いで、自分の限界に挑み、壁を破れば、それはそのまま、人間としての自分の力となり、人間革命の飛躍台となります。また、永遠の福運となっていきます。
 未来の栄光のために、戦おうではないか!」
 伸一は、新しき前進のため、班長たちに、「妙法の 縁は深し 法戦に
 連なる君を 吾は信ぜん」など、次々と歌を贈った。
 伸一の魂が凝結した歌であった。
 班長たちは、感動に打ち震えながら、決然と立ち上がった。
 また、伸一は、日曜日を面接指導日と定め、自宅で青年たちの指導にあたった。
 一人ひとりの悩みや課題に対して、適切なアドバイスがなされ、励ましがあってこそ、人は勇気と希望をもって、広宣流布の道に邁進することができるからだ。
 メンバーは、伸一の家に通うのが楽しみになっていった。
20  民衆城(20)
 戸田城聖は常々、「勉強せぬ者は、わが弟子ではない」と訴えていた。
 ゆえに山本伸一は、第一部隊のメンバーを、戦い、学ぶ、真正の戸田の弟子として訓練し、社会の大リーダーに育てようと決意していた。
 部員のなかには、しっかりとした教育を受けることができず、「読む、書く、話す」ことが苦手だという人もいた。
 伸一は、それを克服できるように、文学などの名作を読むことを勧めたり、会合の感想文を書くことや、機関紙誌への投稿を呼びかけた。
 また、広宣流布の闘将に育つには、仏法への大確信をもつことが大切であり、それには、教学力をつけることが必要不可欠である。
 そこで彼は、自ら御書の講義を行うとともに、教学部長や青年部長も呼び、講義を担当してもらった。
 皆の成長のために力ある先輩幹部を招き、最高の触発の場をつくろうと、心を砕いていったのである。
 さらに、全員が習得する教学の課題として、法華経の経文や日蓮仏法の法理に関することなど、教学の基本百二十項目を定めた。
 このほか、部隊独自の教学試験や弁論大会も企画していったのである。
 当時、伸一は、戸田の事業を全面的に支えなければならず、仕事は多忙を極めていた。
 また、学会にあっても、第一部隊長のほかに、全青年部員の育成の責任をもつ、教育参謀を兼任していた。
 そして、そのうえに、四月には、文京支部の支部長代理に任命されたのである。
 文京支部は、これまで低迷を続けており、支部としての力のランクも、一番低い、「C級支部」であった。
 伸一は、ますます多忙になった。第一部隊の会合に出る時間を確保するのさえ、大変であった。
 だが、彼は思った。
 ″これからが本当の戦いだ。十分な時間があって活動することなど、誰にでもできる。
 時間がないなかで、工夫し、スケジュールをこじ開け、泣くような思いで戦ってこそ仏道修行ではないか。一歩も引くまい。断じて負けるまい″
 必死の一念は、無限の活力を、智慧を、わかせる源泉である。
21  民衆城(21)
 広宣流布のために断じて戦い抜こうとする強き一念の前には、逆境はない。すべての困難や悪条件は、闘魂の炎を燃え上がらせる風となる。
 山本伸一は、思うように部員と会うことができないだけに、寸暇を惜しんで、皆に手紙を書き、激励を重ねた。
 悩みを抱えたメンバーがいれば、深夜でも自宅に招き、全力で指導にあたった。
 彼は、毎日の激闘で、床に入っても寝付けぬほど、心身ともに疲労困憊した。しかし、唱題と執念で、一日一日を乗り越えていった。
 ″今、戦わなければ、戸田先生の広宣流布の構想を破綻させることになる。そうなれば、終生、悔いを残すことになる。そんなことは、絶対にできない!″
 伸一は「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」との御文を胸に刻み、日々、自己の極限に挑んだ。
 彼のその真剣さと気迫は、第一部隊の青年たちに、大きな衝撃と共感をもたらしていった。伸一の姿自体が、最高の目標となり、指導となっていったのである。
 第一部隊は着々と拡大を遂げ、この年の九月末には、伸一が部隊長に就任した時の二倍近い六百数十人の陣容となった。
 その躍進にメンバーは喜んでいたが、七十五万世帯の達成を思えば、まだほんの助走を開始したにすぎなかった。
 十月半ばのことであった。
 年末に予定されている第二回男子部総会に、各部隊とも部員千人を結集しようという目標が打ち出された。
 それを実現するには、第一部隊としては、総会までの二カ月で、これまでの十カ月分に相当する、三百人以上の部員増加を成し遂げなければならないことになる。
 皆に、無理ではないかとの思いが兆した。
 その時、伸一から、烈々たる決意のほとばしる葉書が、各班長に届いたのである。
 ある班長には、「班員を愛してください。そして、目標達成まで御本尊に祈り抜き、君自身が成長していくことです」とあった。
 また、別の班長には、「班会では『青年訓』を徹底し、同志の意気を盛り上げよ」など、具体的な助言がなされていた。
22  民衆城(22)
 御聖訓には「文字は是一切衆生の心法の顕れたるすがたなり」と仰せである。
 山本伸一は叫ぶような思いで、全精魂を込め、第一部隊の同志に、決起を促す便りを次々と書き送った。
 わずかな間に、何通もの激励の手紙をもらったメンバーもいた。
 「山本部隊長は、あれほど多忙ななかで手紙を書き、われわれの弱い心を打ち破ろうとしてくださっている。戦おう!断じて勝利しよう!」
 同志は奮い立った。その息吹は、全部員に波動し、拡大への燎原の火のごとき、大前進が始まったのである。
 さらに、男子部総会の一カ月前にあたる十一月二十日、第一部隊の臨時の決起大会が開かれ、参加者に一枚の印刷物が配られた。
 そこには、「我が親愛なる同志諸君に告ぐ」との文字が躍っていた。伸一が自費で作った活版刷りの檄文である。
 檄文では、青年部の歴史をたどり、このたびの部隊一千人結集の意義を述べたあと、自らの決意を歌に託し、こう呼びかけている。
 学会の 先駆はくずさじ 第一部隊 生死を共に 怒涛に進まん
 そして、広宣流布の使命を果たすうえで、次の四つの心構えが必要であると訴えていた。
 「第一に、ただただ御本尊を信じまいらせ、自分は折伏の闘士であると確信することである。
 第二に、教学に励むことである。
 第三に、行動にあたっては、勇気をもち、沈着にして粘り強くあらねばならない。
 第四には、学会精神を会得して自ら広宣流布の人材たらんと自覚することである」
 班長たちは、決起大会に参加できなかった人には、その檄文を配って歩いた。伸一の心を伝え、全員が呼吸を合わせ、同じ一念で進もうと必死であった。そこに、鉄の団結が生まれていった。
 皆の闘志は燃え上がり、一千人の結集へ、一段と拍車がかかった。
 最前線組織である各分隊にあっては、十人の結集をめざし、皆が一丸となって、メンバーの激励・指導に、また折伏に、奔走したのである。
23  民衆城(23)
 山本伸一は、戸田城聖のもとで、また、文京支部にあって、不眠不休の闘争を展開していた。
 そのなかで、男子部総会まで二週間を切った十二月七日にも、再び伸一は、総結集を呼びかける檄文を送った。
 その文面には、″全部員を意義ある大総会に参加させたい。参加できずに、生涯、悔いを残させるようなことがあってはならない″との、情熱がほとばしっていた。
 「残り十三日、人生をかけた戦いをしよう!」
 「自分の新しい歴史をつくる挑戦をしよう!」
 皆が発奮した。断じて勝つと心を定めた同志の力はすさまじかった。全員が一騎当千の闘士となった。
 行き詰まっていた班も、次々と壁を打ち破っていった。それまでの二倍を超える結集の確認ができた班もあれば、弘教を実らせたメンバーが続出した班もあった。
 人間は計り知れない力をもっている。執念がその底力を爆発させた時、破竹の勢いがつくり出されるのだ。
 そして、十二月二十日に星薬科大学講堂で行われた第二回男子部総会では、第一部隊は目標の千人を優に超える大結集を成し遂げたのである。
 並田辰也という青年が班長を務める班では、四月の時点で部員は二十人ほどであり、メンバーは東京のほか、埼玉の羽生方面に点在していた。
 彼は決意した。
 ″石にかじりついても、班で百人の結集をしてみせる! これは山本部隊長との約束だ″ 
 並田は鉄工関係の工場に勤め、三交代の不規則勤務のなか、平日は都内の部員の激励にあたり、週末には、泊まりがけで埼玉に出かけ、部員の指導や弘教に走った。
 そして、遂に総会では、埼玉で五十人、東京で五十人を超える結集を成し遂げたのだ。
 埼玉のメンバーは、大型の貸し切りバスでやって来た。バスには「創価学会青年部第一部隊並田班」と書かれた横断幕が掲げられていた。
 メンバーが校門の前でバスから降りようとすると、山本伸一が飛んで来て、出迎えていた並田に言った。
 「並田君、よくやったな。見事だぞ。こんなところで降りないで、会場の入り口まで来なさい」
 伸一は、会場の前まで自らバスを誘導した。
24  民衆城(24)
 埼玉のメンバーが乗ったバスは、会場の前に横付けにされた。
 その場にいた青年たちの大拍手に迎えられ、埼玉の同志は、勝ち誇ったように、学会歌を声高らかに歌いながらバスを降りた。
 どの顔も輝いていた。どの顔も晴れやかであった。広宣流布のために戦い抜いた大歓喜の境涯こそ、人間としての勝利の証なのだ。
 山本伸一は、翌一九五四年(昭和二十九年)三月に青年部の室長に就任するまで、第一部隊長として懸命に指揮をとり、会員七十五万世帯達成の流れを開いたのである。
 その間に、第一部隊の部員数は当初の四倍近くにまで拡大した。また、第一部隊からは、広宣流布の多彩な人材が陸続と育っていったのである。
 伸一は、墨田区の青年たちに、第一部隊長当時の思い出を語ると、瞳を輝かせて言葉をついだ。
 「墨田は、私が心血を注いだ、燦然たる民衆城です。
 そして、私が第三代会長に就任し、新しき広宣流布へ旅立ったのも、この墨田の日大講堂です」
 何人かのメンバーの脳裏には、「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して化儀の広宣流布をめざし、一歩前進への指揮をとらせていただきます」との、就任式での伸一の師子吼が、まざまざと蘇った。
 その席上、伸一は、師匠・戸田城聖の七回忌までの目標として、会員三百万世帯の達成を発表したのである。
 この日から、学会の怒涛の前進が始まり、三百万世帯の達成は、当初の計画より一年半も早く成就し、本格的な広宣流布建設への盤石な土台が築かれたのだ。
 伸一は、墨田の青年たちに力を込めて訴えた。
 「皆さんは、使命深くして、歴代会長が魂魄をとどめた広布誓願の天地である、誉れの墨田に集っていることを忘れないでいただきたい。
 大聖人は『願くは我が弟子等・大願ををこせ』と仰せです。皆さんも、広宣流布の大願に生き抜く師子であってください。
 私の心は、常に皆さんと共にあります。断じて勝とうよ」
 本部幹部会を終えた伸一の疲労は深かったが、彼は、皆と固い握手を交わすのであった。
25  民衆城(25)
 あの区にも、あの地にも、「広布第二章」の新出発の原点をつくりたい――山本伸一は、固く、固く、決意していた。
 一九七三年(昭和四十八年)の四月二十五日には、伸一は、信濃町の創価文化会館で行われた、渋谷区の壮年・婦人部との記念撮影会に臨んだ。
 さらに二十九日には、大田区体育館での大田区のメンバーとの記念撮影会、並びに「大田区青少年スポーツ大会」に出席した。
 大田は、彼が生まれ育った故郷である。
 会場の体育館に到着した伸一は、場外指揮本部のテントに立ち寄った。
 「ありがとう! ご苦労様!」
 そして、一人の細身の青年を見つけると、声をかけながら、手を差し出した。
 「遂に大田に来たよ。あなたとの約束を守ったよ!」
 「はい! ありがとうございます」
 青年は感無量の面持ちで答え、伸一の手を握った。彼は、沢口幸雄という、男子部のブロック長であった。
 一年前のちょうどこの日、伸一は、ヨーロッパ訪問に出発したが、その飛行機の中で、二人は出会ったのである。
 学会の山本会長が搭乗していることを知った沢口は、緊張した顔であいさつにやって来た。
 伸一は初対面のこの青年を笑顔で包み、言葉を交わした。
 出身地を尋ねると、沢口は言った。
 「愛媛ですが、現在は先生の故郷である大田に住んでいます」
 「ああ、大田ですか。懐かしいですね。大田の皆さんはお元気ですか」
 「はい。元気です」
 沢口は、こう答えながら、大田の同志たちと、いつも語り合っていたことが頭に浮かんだ。
 ――それは、「山本先生に故郷・大田に帰って来てもらい、記念撮影をしていただきたい」ということであった。
 彼は、その同志の願いを、″この機会に伝えなくては……″と思った。
 しかし、それは、場違いで、唐突な話のようにも感じられた。
 一瞬ためらった。だが″今、言わなければチャンスはない!″と、勇気を奮い起こして言った。
 「先生! お願いがあります。大田の同志と記念撮影会をもっていただきたいのです」
26  民衆城(26)
 沢口幸雄の突然の要請に、山本伸一は、驚いたように彼の顔を見た。
 沢口が″しまった″と思った次の瞬間、伸一は笑顔を浮かべて言った。
 「そうだね。大田区の方たちと記念撮影をしたいね。では、来年、盛大に行いましょう」
 青年の勇気の言葉が、事態を開いたのだ。
 沢口が伸一の席から戻ってしばらくすると、伸一に同行していた幹部が「先生からです」と言ってメモを持ってきた。
 そこには、「来年の今日、四月二十九日に行いましょう」とあった。
 沢口は、大田の同志がどんなに喜ぶかと思うと涙が込み上げてきた。
 彼は、涙が乾くのを待って、伸一の席に、お礼に向かった。
 「先生、ありがとうございました……」
 こう言うと、また堰を切ったように涙があふれてきた。
 「泣いてはいけませんよ。ほかの乗客の皆さんが、変に思うではないですか。まるで、私が泣かしているみたいじゃないですか」
 その言葉に沢口は、泣きながら微笑み、何度も何度も頭を下げた。
 しばらくすると、伸一から彼に一冊の本が届けられた。″ヨーロッパ統合の父″クーデンホーフ・カレルギー伯爵と伸一の対談集  『文明・西と東』である。
 表紙をめくると、伸一の揮毫があった。
 遙かなる 平和祈りて 広布旅
 さらに伸一は、飛行機を降りる時、「それじゃあ、来年の今日、今度は大田の地でお会いしましょう」と言って、彼と固い握手を交わしたのだ。
 ――以来、一年ぶりの再会であった。沢口は、一青年にすぎない自分との約束を果たしてくれた山本会長の誠実さに、深い感動を覚えた。
 伸一は言った。
 「今日は、あなたは私の側にいてください。一緒に行動しましょう」
 沢口は、この日、伸一の渾身の激励を、間近に見ることになった。
 伸一は、記念撮影の会場に入るや、大きく手をあげ、集っていた婦人に力強い声で語りかけた。
 「大田の皆さん、勝ちましょう。みんなが勝って幸福をつかむための信心です。勝つには執念です。粘り強い行動です」
27  民衆城(27)
 山本伸一の声には、師子を思わせる力強さがあった。信念の響きと、慈愛の温もりがあった。
 撮影会が始まると、彼は懐かしい大田の友と再会できた喜びを語り、次々と自作の句を披露していった。
 「故郷の 友どち懐かし 撮影会」
 「大田より 獅子は育ちて 広布かな」
 彼が読み上げた句は、全部で十句になった。
 撮影会の参加者は、合計で五千人近かった。撮影回数も多いだけに、フラッシュを浴び続ければ、きっと目も痛くなるにちがいない。
 しかし、この記念撮影で、大田の同志が決然と立ち上がり、「広布第二章」の出発の原点を刻めるならば、自分の疲労など、なんでもないと伸一は思った。
 「法華経の御ためには名をも身命をも惜まざりけり」との御聖訓を、伸一は自らの決意としてきた。
 広布の戦いにあって、立つべき時に立たず、やるべき時にやらなければ、後に残るのは後悔だけである。
 記念撮影会には伊豆諸島の大島や八丈島、三宅島、新島、神津島、さらに、小笠原諸島からもメンバー百四十二人が集っていた。
 その報告を受けた伸一は、離島からの参加者に呼びかけた。
 「遠くから、大変にご苦労様です。離島での生活には、筆舌に尽くしがたい苦労もあることと思います。
 だからこそ、その島を常寂光土へと転じ、幸福島に変えていくために皆さんがいるんです。
 したがって、何があろうが、また、みんなが絶望的になったとしても、決して、へこたれてはならない。
 皆さんこそ、島の勇気の灯台となり、希望の灯台となっていく、使命の人だからです。
 辛い時、苦しい時こそ明るさを失わず、人びとを励まし、力強く前進していってください。その生き方自体が、仏法の真実の証明となり、広宣流布の力となります」
 伸一は、何度も「いいですね!」と確認し、声を嗄らしながら訴えていった。
 沢口幸雄は、その姿を目の当たりにして、伸一が自分の命を削って生命力を皆に分け与えているかのように思えた。
28  民衆城(28)
 撮影は、婦人部、女子部、壮年部、男子部、未来部と続いた。
 撮影のたびに、山本伸一はマイクを手に、「大田から『広布第二章』の新しき勝利の狼煙を!」など、全力で励まし、指導を重ねた。
 特に、青年たちとの撮影の折には、大田区に流れる創価の本流の精神を永遠に継承し、分かちもっていくために、「大田兄弟会」を結成してはどうかと提案。万雷の拍手が鳴り響き、満場一致で決定をみたのである。
 また、伸一は、撮影メンバーの入れ替えの時間などを使い、蒲田支部で共に戦った同志などと会い、激励を続けた。
 ″この日一日で、大田の同志をどこまで励まし、一人ひとりの胸中深く、発心の種子を植えることができるか″
 時間は限られている。彼は必死だった。
 人の心を変えるには、必ずしも、長い時間が必要とは限らない。人の心が変化するのは″瞬間″である。
 一瞬に一念を凝縮し、真剣勝負で挑む時、触発と共感の電撃が発し、人の心を変えていくのだ。懸命こそが力である。
 撮影のあと、アトラクションに移り、有志がフォークソングを演奏。さらに「森ケ崎海岸」と題する歌が披露された。
 これは、伸一が十九歳の時に作った詩に、大田区の男子部員が曲をつけたものであった。
 森ケ崎海岸は、伸一が当時住んでいた自宅近くの海岸である。
 詩には、この岸辺で友と語らい、真実の人間の道を模索した青春の光景が歌われていた。伸一が戸田城聖に出会い、信心を始める直前に作った詩である。
 この詩は、一九七二年(昭和四十七年)一月に発刊された、伸一の詩集『青年の譜』に収録されていた。
 詩集を見た作曲者の青年は、「森ケ崎海岸」の詩の美しさ、ロマン、格調の高さに感動を覚え、メロディーが自然に頭に浮かんできた。
 そして、曲を完成させて、青年部の会合で発表したところ、大好評を博した。
 以来、区内各地で歌われるようになっていったのである。
 記念撮影会会場の体育館に、「森ケ崎海岸」の歌声が流れると、参加者もいつの間にか、一緒に口ずさみ始めた。
29  民衆城(29)
 岸辺に友と 森ケ崎 磯の香高く波かえし
 山本伸一は「森ケ崎海岸」の歌を聴きながら、美しい調べであると思った。青春の日が、蘇ってくるような気がした。
 歌が終わると、彼は大きな拍手を送った。
 「ありがとう。感動しました。作曲してくださった方を、また、大田の皆さんを讃える意味から、この歌をレコードにしたいと思いますが、いかがでしょうか!」
 歓声とともに、万雷の拍手が轟いた。
 そして、この歌は、やがて日本全国で歌われるようになるのである。
 引き続きスポーツ大会に出席した伸一は、卓球の部に参加し、熱戦の末に優勝した。
 体育館での行事は終了しても、伸一の、同志への激励は終わらなかった。彼は、急いで羽田会館に車を走らせた。五百人ほどのメンバーが、訪問を待っていると聞いたからだ。
 会館には、昔懐かしい奴凧や海苔を採取する船などが展示されていた。
 伸一は、その真心に応えようと、用意されていた金魚すくいなどをしながら、感謝と励ましの言葉を、皆にかけ続けた。
 そして、メンバーに贈るために、次々と色紙に句を書き記していった。
 さらに、蒲田会館を訪問し、集っていたメンバーを激励したあと、かつての小林町にあった自宅の近辺を回り、縁のある同志の家を訪ねた。
 「こんばんは。山本です」と言うと、「どちらの山本さんですか」と訝しそうな声がする。
 やがてドアが開くと、「あっ、山本先生!」と驚きの声とともに、満面に笑みが広がる
 ――そんな光景が見られた。
 語らいは弾んだ。別れ際、発心を誓う同志の固い握手は、彼にとって最大のお土産であった。
 伸一は、自身の生命を振り絞るように、友との語らいを続けた。
 ″わが大田には、広宣流布を牽引する伝統と使命がある。未来への、その新しき流れを、断じて開くのだ!″
 彼は必死であった。
 完全燃焼の日々であってこそ、わが生命は黄金の輝きを放つ。今日を勝つことが、明日の勝利を約束する。
 威風堂々と戦い進む、紅潮した闘将の頬に、春の夜風が心地よかった。
30  民衆城(30)
 山本伸一の会長就任十三周年となる一九七三年(昭和四十八年)の五月三日、静岡県富士宮市に富士美術館が完成し、その落成式が挙行された。
 この美術館は、正本堂建立記念事業の一環として設置が決まり、七一年(同四十六年)七月に起工式を行い、開館の運びとなったのである。
 美術館の開設は、日蓮大聖人の仏法を根底にした新たな芸術の創造のために、また、民族や国境を超えて、人間と人間の心を結ぶために、伸一がかねてから構想してきたことであった。
 展示場の陳列ケースの前に渡された紅白のテープに伸一がハサミを入れると、参加者の大きな拍手が館内にこだました。
 「広布第二章」を象徴する、創価文化運動の新しき幕が開かれたのだ。
 彼は、この日、さらに、聖教新聞の通信員大会に出席して約三十分間にわたって激励した。
 また、夜には、七年前に首都圏の高等部の代表で結成され、その後、全国に誕生した人材育成グループ「鳳雛会」の、初の全国大会に出席。約四十分間にわたって、渾身の指導を重ねた。
 伸一は休む間もなく、五月五日の「こどもの日」には、東京・豊島区の会員との記念撮影会に出席した。
 彼は、豊島には強い愛着があった。文京支部長代理の時代に、豊島区には、頻繁に足を運んだ思い出があった。
 さらに、かつて戸田城聖が、法華経の方便品・寿量品講義、御書講義を行い、毎月の本部幹部会が開催された豊島公会堂も、区内の池袋にある。また、初代会長の牧口常三郎の自宅も、豊島区の目白である。
 そして、牧口と戸田が囚われ、牧口が獄死した東京拘置所も、当時の豊島区西巣鴨にあった。
 ″豊島は権力の魔性による、創価学会の迫害の地である。なればこそ、ここから民衆の凱歌を、高らかに響かせねばならない――それが戸田先生のご決意であられた。
 だから先生は、豊島の地で師子吼ともいうべき講義をされたのだ″
 日蓮大聖人は、「いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし」と仰せである。
 伸一は、この記念撮影会を、その新しき出陣にしようと決めていた。
31  民衆城(31)
 山本伸一の心は燃えていた。しかし、彼の体調は優れなかった。
 三日後の五月八日には、ヨーロッパに旅立ち、前年に引き続き、トインビー博士と対談を行うことになっており、その準備と連日の会員の激励で、彼の疲労は激しかったのである。
 豊島区のメンバーとの記念撮影会に向かう車中にあっても、発熱して、体はだるかった。
 ″こんなことで、負けられるものか……″
 彼は自分に言い聞かせるようにつぶやくと、ぎゅっと拳を握り締めた。
 記念撮影会の会場である文京区内の私立中学・高校に到着すると、伸一は、さっそうと車を降り、出迎えた区の幹部に、力強い声で呼びかけた。
 「さあ、歴史をつくろう。豊島が立ち上がる時が来たよ」
 そして、勇ましく歩みを運び、役員を激励していった。
 だが、控室に着くと、伸一は、倒れ込むようにソファに体を横たえた。悪寒がし、めまいさえするのであった。
 数分が過ぎた。
 彼は、静かに体を起こすと、おしぼりで顔を拭き、同行の幹部に宣言するように言った。
 「戦闘開始だ!」
 そして、室内を見回した。ソファの前のテーブルには、分厚い二冊の本が置いてあった。
 彼はそれを手にして表紙を見た。題字には、「日蓮大聖人御書全集索引」とある。
 ページをめくっていった。一冊は、御書に出てくる人名や経典名、地名などが五十音順に配列され、それが、御書の何ぺージの何行目にあるかが示されていた。
 もう一冊は、人名、地名、年時などが項目別に分類されていた。
 伸一は、同行の幹部に尋ねた。
 「よくできた索引だ。これは新しい試みだね。この索引集があれば、御書が研鑽しやすくなる。誰が作ったんだい」
 「豊島区の学生部だそうです」
 「そうか。青年の力はすごいな。青年が本気になれば、必ず新しい道が開かれる。若い世代が、どれだけ力を発揮していくかで、広宣流布は決まってしまう。
 青年ならば、自身の勝利のドラマをつくることだ。それが人生の軌道を決定づけるし、生涯の誇らかな財産となる」
32  民衆城(32)
 この年一月、豊島区学生部は、五月の記念撮影会で展示することになった、豊島公会堂の写真など、広布史に関係する資料や物品の収集に駆け回っていた。
 そのなかで、一人の学生部員から、御書の索引集も作ってはどうかとの意見が出されたのだ。
 彼は、この年が「教学の年」であったことから、学生部の手で、教学研鑽の力となり、末永く広宣流布の役に立つものを残すべきだと考え、提案したのだ。
 これまで学会としての御書索引集は、作られていなかったのである。
 提案を受けて区の学生部で協議を行い、索引集の制作が決定し、中核となる担当のスタッフも決まった。
 問題は、作業に従事するメンバーを、どうやって確保するかであった。
 索引を作るには、一つの用語が御書のどこに出ているかを調べるために、御書全文を入念にチェックしなければならない。それには、多くの人手を必要とする。
 ところが、学生部のグループ長や班長など、主だったメンバーの大多数は、広布史の展示作業の準備にあたっており、索引集のために人員を割くことは難しかった。
 計画は、早々に頓挫せざるをえないかに見えたが、担当のスタッフたちは、あきらめなかった。
 彼らは語り合った。
 「これまで未活動だった人のなかにも、人材はたくさんいるはずだ。その人たちと会って真剣に訴え、力を結集しよう」
 「そうだ。最後の切り札は新しい力しかない」
 そして、区内の学生部員に呼びかけていった。
 「後世に残る索引集を作りたいんです。役職などは一切問いません。ぜひ編纂に参加しましょう」
 御書索引集の編纂作業が本格的に開始されたのは、記念撮影のおよそ二カ月前であった。作業場は、区内にある仏具店の倉庫の二階を借りた。
 そして、一日二十四時間のうち、自分の時間の都合に合わせて、いつでも来て作業できるように態勢を整えた。それでも、集ってきたメンバーは、至って少なかった。
 スタッフは作業の傍ら学生部員に会いに行き、編纂への参加を必死に訴えた。メンバーは一人、二人と増えていった。
 困難の氷壁をとかすのは、熱意という太陽だ。
33  民衆城(33)
 御書索引集の編纂といっても、作業内容は、御書を読んで仏法用語をはじめ、人名、地名などを見つけだすことが、主な仕事であった。
 単純といえば、単純であり、それだけに、根気のいる作業であった。
 スタッフの一人は、皆の心を燃え上がらせようと、編纂の意義を力説していった。
 「作業は単純だが、小さな事の積み重ねが大偉業になる。今はわからないかもしれないが、御書の索引集を作るということは歴史的な仕事なんだ。
 必ず、この作業に携われたことを誇りに思う時がくるよ。
 だから、日々、全力で取り組もうじゃないか」
 皆、心を新たにして作業に励んだ。すると、日を追うごとに、目の輝きが増していった。
 毎日、御書に接するなかで、仏法への理解と確信が深まり、歓喜が込み上げてくるのだ。
 皆が使命に燃え、充実を感じていた。
 その脈動する生命に吸い寄せられるように、作業への参加を希望するメンバーが増えていった。そして、最終的に、作業に関わったメンバーは百八人に上ったのである。
 だが、編纂スタッフの苦労は尽きなかった。
 予算もほとんどなく、原稿用紙さえ、満足に購入することができないのである。
 そこで安価なワラ半紙を買い、マス目を引き、自家製の原稿用紙を作ることから始めなければならなかった。
 また、作業に時間をとられ、学会活動が思う存分にできないことも、皆の悩みの種であった。
 しかし、御聖訓には、「行学の二道をはげみ候べし」と仰せである。「戦わずして作った御書の索引集では、大聖人の御精神に反する」というのが彼らの決意であった。
 そこで、思案の末に、作業場を座談会場にして友人を招き、果敢に折伏を展開した。
 仏法対話をしている横で、黙々と作業に励む学生を見て、友人のなかには、「創価学会は、こんなに勉強する団体だったのか」と驚嘆し、入会する人もいた。
 障害を恐れてはならない。労苦から、感動の劇は生まれるのだ。怯めば「障害」だが、勇気を奮い起こして突き進む人には、それは、勝利の「飛躍台」となるのだ。
34  民衆城(34)
 豊島区の学生部員たちは、以前にも増して弘教を実らせながら、御書索引集の編纂作業に取り組んでいった。
 しかし、四月末日になっても、作業はかなり残っていた。予想以上に、作業が手間取っていたのである。
 スタッフたちは、強い不安と焦りを覚えた。
 彼らは語り合った。
 「残りの日数は、わずかしかない。客観的に見て、記念撮影会までに完成させるのは難しい」
 一人が言うと、別のメンバーが強く訴えた。
 「だから、これからが本当の戦いなんだ。不可能を可能にするんだよ。それが、学会の精神じゃないか!
 あきらめの心をもつことこそが敗因なんだ。最後の最後まで、加速度をつけて頑張り抜けば、きっと完成する。
 疲れていようが、自分を燃やし尽くす思いで、大奮戦するんだ。最後の奮闘が、勝敗の分かれ目だと思う」
 もう一人のメンバーが頷きながら言った。
 「そうだな。最後の粘りを見せよう。
 これからは、最終の点検作業も大事になる。油断して、いい加減なチェックになってしまえば、ミスだらけの索引集になってしまうからね。それでは『九仞の功を一簣に虧く』ことになる。
 一瞬一瞬、全力投球、全力疾走だ。もし、間に合わないなんてことになれば、一生涯、後悔するぞ。限界を打ち破ってこそ本当の挑戦だ!」
 彼らは、作業が遅れている旨を全メンバーに伝え、奮起を促した。皆が徹夜覚悟で、懸命に追い込みをかけた。
 青年には無限の力がある。それを引き出す鍵は真剣の二字だ。
 記念撮影会の開始まで二十四時間を切った。
 作業は驚異的な勢いで進んだが、それでも、まだ、完成はしなかった。
 そして、遂に記念撮影会当日の五月五日午前零時になってしまった。
 作業場には二十人ほどが残っていた。
 ″なんとしても間に合わせる。負けるものか!″
 時は刻々と過ぎていった。皆、必死で、黙々と作業に励んでいた。どの目も充血して赤かった。
 とうとう明け方近く、最終段階である表紙の仕上げ作業に入った。
 皆、息を詰めて、索引集の完成の瞬間を見守っていた――。
35  民衆城(35)
 索引集の表紙ができあがった。
 金文字で「日蓮大聖人御書全集索引」と書かれた、分厚い二巻の書が作業台に置かれた。
 皆の目が光った。
 「やったぞ!」
 「完成だ!」
 誰かが「万歳!」と叫び、勢いよく両手を振り上げた。その声に皆が唱和した。
 それは、青春の勝利の雄叫びであった。
 いつの間にか、夜は明けていた。黄金の光が若人の顔を染めた。
 皆、互いに手を取り、肩を叩き合い、完成を喜び合った。その目は涙に潤んでいた。
 勝利には歓喜がある。勝利は常に爽快である。
 記念撮影会の控室で、索引集に目を通した山本伸一は、編纂スタッフの代表を部屋に招いた。
 「すばらしい索引集ができたね。見事です。大勝利です。青春の金字塔を打ち立てたね。
 これは、何人のメンバーで作ったの?」
 「はい。百八人で制作いたしました」
 「そうか。みんなよく頑張った。これは本来、創価学会の教学部としてやるべきことだ。ありがとう!」
 伸一は、学生部員が教学の興隆を真剣に考え、自主的に索引集の編纂に着手し、苦心の末に完成させたことを、最大に讃えたかった。
 「この索引集をもとにして、御書辞典や法華経辞典などを作ることもできる。これは教学の新時代を開く、発火点となるでしょう」
 彼はメンバーの成長のために、さまざまな応援をしていこうと思った。
 ――記念撮影会から四カ月後の九月のことである。伸一は、索引集の編纂に取り組んだ百八人と会った。
 そして、その席上、このメンバーで、「豊島区学生教学研究会」の結成を提案したのである。
 また、このグループは、創価学会の教学を後世永遠に受け継いでいく使命を担っている意味から、別名を「継承会」と命名したのだ。
 「継承会」のメンバーは、『法華経 並 開結』や伸一の『御義口伝講義』の文庫本の索引制作に携わったほか、『日蓮大聖人御書辞典』発刊の手伝いをするなど、教学運動の推進に意欲的に尽力していったのである。
36  民衆城(36)
 山本伸一は、記念撮影会の控室で、御書索引の編纂メンバーの代表を励ますと、飛び出すように撮影会場に向かった。
 彼の胸中に燃え盛る闘魂は、発熱も忘れさせていた。
 伸一は、撮影会場でマイクを手にすると、全力で激励を開始した。
 「皆さんは、今日という日をめざして、弘教に励み、地域に広宣流布の大きな波を起こし、ここに集ってくださった。大勝利、おめでとう!また、ありがとう!
 新しき前進への活力とは何か――それは、勝つことです。勝利は、新しき希望を生み、新しき勇気を育みます。
 ゆえに、一つ一つの課題に勝ち続けていくことが、広宣流布の原動力となります」
 そして、伸一は、この五月五日を、豊島区創価学会の前進の節とし、毎年、この日を中心に皆が集い、広布への誓いを新たにしていってはどうかと提案した。
 さらに、「勇気と団結の豊島」「友情と行動の豊島」「教学と全国模範の豊島」との三指針を示したのである。
 記念撮影のあと、伸一は会場に設置された「文京支部と山本先生」と題する展示を観賞した。
 タテ線の文京支部には豊島区に在住していた人も多かった。そうしたメンバーの協力を得て、記念の品々を収集していったのである。
 そこには、伸一が入会したばかりのころに使用していた厨子や、文京支部の支部長代理としての激闘の渦中に、支部員に送った激励の葉書などが展示されていた。
 「懐かしいなー」
 思えば、文京支部での日々は、師子奮迅の闘争の明け暮れであった。
 この間に、青年部の室長となり、学会の一切の運営の責任を担うようになる。
 そのなかでも彼は、徹底して支部員の個人指導を行い、また、毎月の幹部会などでは、必ず皆の希望となる新しい目標や指針を示してきた。
 そして、支部長代理就任から一年三カ月後、豊島公会堂で行われた第三回文京支部総会では、二千五百人の大結集を果たしたのである。
 ――全精魂を注いできたからこそ、懐かしさが込み上げるのである。広布の美しき思い出とは、わが生命に刻印された汗と涙の敢闘なのだ。
37  民衆城(37)
 記念撮影会の行われた五月五日は、「こどもの日」でもあることから、引き続きグラウンドで、「こども運動会」が盛大に行われた。
 山本伸一は、豊島区のメンバーと共に、ゴザの上に座り、未来部員の競技を観戦した。
 「追いかけ玉入れ」や親子がペアになって行う「樽転がし」などの熱戦が繰り広げられた。
 伸一が競技を見ていると、一人の幼児が近寄ってきた。
 彼は笑顔を向けると、その男の子を、さっと抱き上げ、自分の膝の上に座らせた。そして一緒に競技を見た。
 会場は、ほのぼのとした、「創価家族」の温もりに包まれていった。
 紙で作った兜を差し出し、「先生、被ってください」と言って、彼の頭にのせてくれた小学生もいた。
 伸一は笑顔で語った。
 「ありがとう。平和の武将として戦います。少年部のみんなにバトンを託す日まで、私は、戦い抜きます。
 君たちは、しっかり勉強して、立派な指導者に成長してください」
 また彼は、皆に、こう提案するのであった。
 「楽しい、和気あいあいとした運動会でした。
 喜びと幸福に満ちあふれた、創価家族の確かな実像を示していく意味から、毎年、この五月五日の『こどもの日』に、運動会を行っていってはどうでしょうか!」
 嵐のような賛同の拍手が起こり、なかなか鳴りやまなかった。
 伸一は、会場をあとにする時、見送る豊島の幹部たちに言った。
 「学生部も頑張っているし、未来部も元気なのが嬉しいね。
 後継の人材をしっかり育てよう。それによって二十一世紀の広宣流布は決まるよ。
 また、牧口先生が殉教された豊島に集う皆さんは、誰よりも幸せになってください。誰よりも功徳を受けてください。そのための広宣流布の活動なんです。
 皆が功徳を受けられるようにするために、幹部がいるんです。幹部には、皆を幸福にする義務がある。
 ゆえに、幹部は、地域の幸福責任者であるということを忘れないでください」
 この豊島区での激闘の三日後、伸一はヨーロッパ訪問に出発したのだ。
38  民衆城(38)
 山本伸一のヨーロッパ訪問は、一年ぶりであった。今回の訪問国は、フランスとイギリスの二カ国である。
 フランスでは、「第三文明絵画・華展」の鑑賞、パリ大学ソルボンヌ校の訪問などが、また、イギリスでは、前年に引き続いて、アーノルド・J・トインビー博士との対談などが予定されていた。
 伸一は、出発直前まで同志の激励と、トインビー博士との対談の準備に追われ、過労と睡眠不足が重なり、決して体調はよいとはいえなかった。
 しかし、現地時間の五月八日午後六時、パリに着いた彼は、直ちにメンバーの激励を開始した。
 伸一の体を気遣う同行の幹部に、彼は言った。
 「日本の同志が、ヨーロッパ訪問の大成功を祈って題目を送ってくれている。それを思うと、私は、じっとしてはいられないんだ」
 同志の真心に全精魂を注いで応える――それが伸一の生き方であった。
 十日には、パリ郊外のパンセンヌの森にある「バルク・フロラル」で、フランスのメンバーが主催して行われた、第二回「第三文明絵画・華展」に出席した。
 公園のなかにある、幾つかの東屋風の建物が、展示会場にあてられた。
 絵画展には、彫刻や油彩・水彩画、版画などの多くの応募作品のなかから、厳正な審査で選ばれた六十八点が展示されていた。
 また、華展には、四十五点のオブジェが陳列されていた。
 この″第三文明展″の総合テーマは「欧州に太陽を」であった。そこには、″太陽の仏法″である日蓮大聖人の人間主義の哲理をもって、新しき生命のルネサンスの時代を開こうとの決意が込められていた。
 この総合テーマに合わせ、華展の作品には「黎明」「太陽讃歌」などの題がつけられていた。
 どのオブジェも、メンバーが力を合わせた力作であり、民衆の新しき総合芸術であった。
 伸一と妻の峯子は、メンバーと共に、作品を鑑賞するためにつくられた小径を歩いた。
 伸一は、白砂の上に置かれた作品をゆっくりと鑑賞しながら、フランスでも、仏法の人間主義を根底にした文化の花が開き始めたことに、大きな喜びを覚えた。
39  民衆城(39)
 ″第三文明展″は大好評であった。「信仰に根差した喜びが作品に脈打っている」と感想を語った人もいた。
 「精神運動に基づき、利害関係を超えた人間と人間の連帯と友情の温かさを感じる」と評した識者もいた。
 大宇宙の法則を説く宗教という深い精神性があってこそ、偉大なる芸術は花開く。それゆえに彫刻家ロダンは宣言する。
 「真の芸術家は、要するに、人間の中の一番宗教的な人間です」
 各マスコミも、″第三文明展″を取り上げた。
 フランスの代表的な新聞「フィガロ」(五月十日付)は、″第三文明展″はフランス社会のさまざまな階層の人びとが集って行われ、展示には「現代社会に仏法哲学の精神を示さんとする作品が目立った」と論評。
 そして、人間疎外が進む現代にあって、人間性の回復をめざす戦いの大切さを強調し、その精神が、ここに表れているとしていた。
 また、テレビも、この展覧会を紹介した。
 ″第三文明展″は、民衆のなかから生まれた、民衆のため、人間のための、生命讃歌の芸術の催しである。
 フランスの人びとは、そこに刮目し、強い関心をいだいたようだ。
 伸一は、こうした芸術の交流をもって、世界の民衆の心と心を結ぶことを念願していた。
 彼は″第三文明展″の成功を讃えて句を詠み、メンバーに贈った。
 フランスに  文化爛漫  友の幸
 翌十一日には、伸一の一行は、パリ大学ソルボンヌ校を訪問し、大学構内を視察。そして、各分野の権威である教授らと懇談したあと、総長と対談した。
 その際、伸一は、創価大学の″建学の精神″である「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」のモットーを紹介した。
 総長は、頬を紅潮させて語った。
 「本当にすばらしい。共感し、感動しました」
 創価大学への、世界の知性の賞讃であった。
 まさに、このモットーには、本来、大学のめざすべき使命が集約されていたといえよう。
40  民衆城(40)
 五月十二日、パリに欧州各国のメンバーの代表二十二人が集い、「ヨーロッパ会議」の設立準備会議が開かれた。
 これは、欧州各国のメンバーの連携と協力体制を確立するために、山本伸一が提案したものであった。
 これまでヨーロッパには、日本と同様、総合本部が設けられていたが、フランス、西ドイツ(当時)では、現地の法人資格を得ていたし、その他の国々も、各国の社会に根差し、独自性のある活動を展開していた。
 つまり、それぞれの国のメンバーが力を蓄え、自立して活動を推進していける段階を迎えつつあったのである。
 日蓮大聖人は、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と仰せである。
 その国、その地域にいる人こそが、地域広布の主体者として責任を担っていくというのが、広宣流布の方程式である。
 各国のメンバーが、その使命を自覚し、国情や風俗、習慣などを考慮し、国民性、地域性を生かしながら、果敢に活動を推進していってこそ、広宣流布はなされるのだ。
 だが、各国の組織が孤立していたのでは、刺激も触発もない。互いに緻密に連携を取り、よい点を吸収し合い、応援し、助け合っていってこそ、それぞれの国の大きな発展もある。
 その協力体制が整えば、各国とも、これまでの五倍、十倍の力が出せるにちがいない。まさに、連合は力である。
 そこで伸一は、世界広布の展望のうえから、欧州における人間主義の連合体として、「ヨーロッパ会議」の設立を提案したのである。
 また、当時、ヨーロッパの統合化は、社会的にも、未来の大きなテーマとなっていた。
 したがって、人類の幸福と平和をめざす精神の結合ともいうべき「ヨーロッパ会議」の設立は、次元は異なるものの、時代を先取りする価値ある第一歩であったといってよい。
 伸一も出席して行われた設立準備会議では、フランス理事長の川崎鋭治が、「日蓮大聖人の仏法を根底とする、人類の福祉と国際親善及び世界平和への貢献」をはじめ、五項目にわたる、「ヨーロッパ会議」設立の目的を発表していった。
41  民衆城(41)
 川崎鋭治は、さらに、「ヨーロッパ会議」の事務局をパリに置くことや、会議の会員は欧州各国のメンバーで、この会員のなかから代議員を選出していくことなどを提案していった。
 そして、各国代表との活発な質疑応答があり、最後に投票が行われ、全員一致で「ヨーロッパ会議」の設置が可決されたのである。
 また、議長には川崎が就任した。
 こうして、フランス、西ドイツ(当時)、イギリス、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、スイス、オーストリア、スペイン、ギリシャの十三カ国をもって
 「ヨーロッパ会議」はスタートしたのである。
 議長としてあいさつした川崎は訴えた。
 「欧州のいかなる国のメンバーにとっても、山本先生は、共通の師匠であります。この仏法の師弟の絆は、決して変わるものではありません。
 したがって、ぜひ山本先生に『ヨーロッパ会議』の名誉議長に就任していただきたいと思いますがいかがでしょうか!」
 期せずして大拍手に包まれた。
 伸一は、川崎に促されて立ち上がった。
 「わかりました。皆様がよろしければ、お引き受けし、陰ながら応援させていただきます」
 伸一の受諾に歓声があがり、さらに一段と大きな拍手が鳴り響いた。
 「ヨーロッパ会議」の設立は、翌十三日、欧州各国の代表約三百人が参加して、パリ本部で行われた世界平和勤行会で、正式に発表された。
 それは、「世界広布第二章」の暁鐘となったのである。
 席上、川崎は「ヨーロッパ会議」の議長就任の抱負を、こう語った。
 「御聖訓には『異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし』とあります。
 世界に先駆けて、新しい連合を結成したヨーロッパは、団結第一で大前進を遂げてまいりたいと思います。
 また、私は、ヨーロッパ各国の同志の皆様に奉仕していくために、議長になったのだと決め、皆様のために、粉骨砕身してまいりますので、よろしくお願い申し上げます」
 真心にあふれた、さわやかな決意であった。
42  民衆城(42)
 最後に、「ヨーロッパ会議」の名誉議長としてあいさつした山本伸一は、簡潔に欧州のメンバーの使命を語った。
 「世界に先駆けて『ヨーロッパ会議』が設立されたことは、ヨーロッパの皆様こそ、二十一世紀の、いや、永遠の平和を築く先駆者であることの証明であります。
 『足下を掘れ、そこに泉あり』といわれますが、平和といっても、それは、身近なところから始まります。
 つまり、皆さんがいる組織のなかに、友情と信頼の人間共和の縮図をつくり上げていくことです。そして、それを国中に、ヨーロッパに広げていくことです。そこに広宣流布の実像がある。
 どうか、誇り高く、勇気と哲学と慈悲をもって、いかなる嵐があっても、師子王のごとく前進されんことをお願い申し上げ、私のあいさつといたします」
 決意のこもった雷鳴を思わせる拍手が轟いた。それは、ヨーロッパの新しき行進の開始を告げる号砲でもあった。
 伸一は、五月十四日にはイギリスのロンドンに移り、現地の青年たちを励まし、翌日からは、前年に引き続いて、アーノルド・J・トインビー博士との対談が始まった。
 アフリカ大陸と未来、日本論、中国論をはじめ宗教論、教育論、人種問題等々、幅広く人類のかかえる諸問題について語り合ったのである。
 トインビー博士は高齢である。博士は、伸一に遺言を託すがごとく、真摯に語り続けた。
 それだけに伸一は、一回一回の対談を、決して疎かにはできなかった。彼は日々、深夜まで、準備に余念がなかった。
 そのなかで十七日には、ロンドン市内に開設された、イギリスメンバーの活動の中心となるロンドン事務所の開所式に出席したのである。
 これは、前年のイギリス訪問の折に、メンバーから出された要望に応えて設置されたものだ。事務所といっても、二間しかないアパートであった。仏間も二十人ほど入ればいっぱいになってしまう小さな部屋である。
 しかし、ここから新しき歴史が始まるのだ。
 「すべて偉大なことは、小規模に、小人数から始まるものだ」とは、ヒルティの箴言である。
43  民衆城(43)
 ロンドン事務所の開所式で山本伸一は、イギリスの広宣流布のために、幾つかの指針を示した。
 「皆が仲良く、同志の連帯を深め、個人個人を尊重し、また、自分より仏法を知っている人を尊敬し、後輩をわが子のように慈しんでいっていただきたい。
 また、それぞれが社会を大切にし、着実に自分を磨きながら、未来をめざしてください。
 そして、永久不変の仏法の哲理を、一生涯、求め抜き、実践していっていただきたい。これが人間として、最高に価値ある人生であることを知ってほしいんです」
 また、彼は、人びとの幸福のために立ち上がる先駆者には、必ず非難中傷の嵐が吹き荒れることを述べ、力強い声で言葉をついだ。
 「しかし、何があっても負けることなく、強盛な信仰を貫いていくならば、いつの日か、非難中傷は尊敬に変わっていきます。仏法という普遍の法に立脚した信念は、時とともに、赫々と輝いていきます。
 正義は必ず勝つとの確信をもって、仲良く、団結して、進んでいってください」
 開所式のあと、伸一は同行していた妻の峯子に語った。
 「この事務所は、国の中心となる場所としては世界で一番、小さいかもしれない。でも、世界の平和と人びとの幸福のために献身する、民衆の王者たちが集う、尊い民衆城だ。
 メンバーは皆、無名の民衆かもしれない。しかし、行っていることは、どんな王侯、貴族も及ばない大聖業だ。
 たゆまず、黙々と頑張り続けていくならば、十年先、二十年先には、イギリスにも、立派な王城のような会館ができるよ。それが仏法の因果の理法だもの……」
 事実、この時から十六年後に、ロンドン郊外のテムズ河畔に、池や古墳、由緒ある館を擁する、広大なタブロー・コート総合文化センターがオープンしている。
 さらに伸一は、トインビー博士との対談を終えた十九日には、初のイギリス代表者会議に出席してメンバーを激励した。
 そして、翌二十日にはサセックス大学を訪問するなど、イギリスに平和と人道の新しき歴史の幕を開くための、奮闘が続いたのである。
44  民衆城(44)
 山本伸一は、二十一日にロンドンからパリに戻ったが、疲労のために発熱していた。
 しかし、メンバーへの彼の激励は、間断なく続けられた。
 二十二日には、初のフランス代表者会議に出席して指導した。
 翌日には、鉄道でロワール地方に向かい、二十人ほどのフランス青年らと、約四時間にわたって、食事を共にしながら懇談したのである。
 伸一は、疲れ切ってはいたが、畑が広がり、まばゆい緑の生い茂るロワールは、彼の心を和ませた。また、その美しい田園風景は、日本の埼玉を思い起こさせた。
 ここに一泊した彼は、翌日、レオナルド・ダ・ビンチが晩年を過ごした館などを視察した。
 そして、パリに帰っても、帰国の途につくまで激励に次ぐ激励を重ねるのであった。
 いや、帰国の途次にも、伸一の奮闘は続いたのである。
 五月二十六日、パリを出発した伸一たちの飛行機は昼過ぎ、経由地であるオランダのアムステルダムの空港に到着した。、
 待機時間は一時間ほどの予定であったが、飛行機にトラブルがあり、四時間ほど出発が遅れるとのことであった。
 一行は、休憩室で待機することになった。伸一にとっては、ありがたい休息の時間であった。
 妻の峯子が言った。
 「休息の時間ができてよかったですね。まだ熱もありますので、ソファでゆっくり、お休みになってくださいね」
 ところが、その時、オランダのメンバーの中心者で、航空会社に勤めていた小野寺誠三があいさつに来た。
 彼は、この時間を利用して、街を案内したいと申し出たのだ。
 「あなたの真心がありがたい。見学させてもらいます。行きましょう」
 伸一は、スタスタと歩きだした。
 小野寺の車に乗るために到着ゲートに行くと、「センセーイ!」という歓声があがった。
 そこには、十数人のメンバーが待っていた。
 そのなかの一人の女性が進み出ると、目を潤ませて、花束を差し出しながら言った。
 「ようこそオランダにおいでくださいました。先生が来られることを、祈り続けてきました」
45  民衆城(45)
 メンバーは、「山本先生を絶対にオランダにお呼びしよう」と、来る日も来る日も、懸命に唱題に励んできたのである。
 山本伸一は言った。
 「皆さんのお題目に引き寄せられたんですね。
 お題目の力に勝るものはありません。何があっても唱題し抜いた人は勝ちます。
 日蓮大聖人は、『只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬさいわいや有るべき』と仰せです。
 題目こそが、幸福の源泉なんです。どうか、このことを強く確信して、進んでいってください。
 今日は、天気もいいので、公園かどこかで、座談会を行いましょう」
 小野寺誠三は、伸一と峯子を車に乗せ、空港近くの公園に向かった。メンバーも車に分乗し、後に付いてきた。
 大きな風車小屋がある公園の芝生の上で、伸一を囲んで、青空座談会が始まった。雲間に輝く、太陽の光がまばゆかった。
 彼は、一人ひとりに声をかけた。オランダにも着実に新しいメンバーが誕生していた。メンバーからは、仕事や病気の悩みなど、さまざまな質問が出された。伸一は、その一つ一つに誠実に答えていった。最後に、彼は訴えた。
 「人生には、悩みはつきものです。要はそれに負けない自分をつくることです。その直道が、人びとの幸福と世界の平和を実現する広宣流布に生きることなんです。
 広布の使命を自覚し、戦いを起こしていく時、地涌の菩薩の大生命が、わが胸中に脈動します。それが何ものにも負けない強靭な生命力をもたらし、自らの境涯を高め、広げていくんです。
 皆さんは、世界広布の尊い使命を担って、今、このオランダに集った地涌の菩薩です。皆さんこそ、人びとの苦悩の闇を晴らす、希望の太陽なんです。さあ、出発しましょう。広宣流布の旅へ!」
 伸一の胸には、シラーの詩の一節がこだましていた。
 「もろもろの太陽が 壮麗な青空を飛びめぐっているように 兄弟たちよ たのしく君たちの道を進め。 英雄のように喜ばしく勝利をめざせ」

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