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日蓮大聖人・池田大作

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第17巻 「希望」 希望

小説「新・人間革命」

前後
1  希望(1)
 ″教育は、わが生涯の最後の事業である。人類の未来のために、人間教育の大河を開くのだ!″
 それが、山本伸一の厳たる決意であった。
 教育なき宗教は偏頗な教条主義に陥り、宗教なき教育は「なんのため」という根本目的を見失ってしまう。
 ゆえに、人類の幸福と平和を築く、広宣流布という偉業の実現をめざす創価学会は、教育に最大の力を注がねばならない――これが、伸一の結論であった。
 仏法を根底とした社会建設の本格的な開幕を迎えた一九七三年(昭和四十八年)、彼は教育に全精魂を傾けていく決意を固めていた。
 三月十五日には、東京・小平市にある創価学園の第三回卒業式に出席し、同校で初めて記念講演を行ったのである。
 ここでは「青春期は限りない可能性を秘めた時代である。
 意志を強固にし、使命を強く自覚してすべてに挑戦を!」と述べ、青春期の「可能性」を強調したのをはじめ、「友情」「求道精神」「忍耐」「健康」の五項目の指針を示した。
 また、四月七日に挙行された同校の第六回入学式にも出席し、再び講演を行っている。
 さらに、九日には創価大学の第三回入学式に臨み、記念講演をしたのである。
 伸一の創価大学の入学式への出席は、これが初めてであった。彼は、講演で「創造的人間たれ」と呼びかけ、現代文明に果たすべき創価大学の役割などについて論じた。
 そして、十一日には、大阪府の交野市を訪れていた。人間主義の女性教育の城として開校した創価女子中学・高等学校の第一回入学式に出席するためであった。
 前日、関西入りした伸一は、大阪市天王寺区の関西文化会館から車で交野に向かった。
 男子を対象にした東京の創価中学・高等学校に始まり、創価大学、さらに、今また、関西に創価女子学園が誕生したのである。
 ″創価教育の父である初代会長牧口先生、そして、第二代会長の戸田先生が、どれほどお喜びくださっているだろうか″
 そう思うと、伸一の胸は躍った。
 「充実した事業に生きることが、わたしの幸福だ」とは、ドイツの詩人の達観である。
2  希望(2)
 創価女子中学・高等学校の入学式を祝い、山本伸一は詠んだ。
 来りけり  世紀の門出の  交野校
 この日は、妻の峯子と長男の正弘が同行していた。一家をあげて、学園のために尽くし抜こうというのが、山本家の決意であった。
 女子学園の白亜の校舎は、緑が萌える生駒の連山にいだかれるように、そびえ立っていた。
 前日は雨であったが、空は晴れ、満開の桜がまばゆかった。
 伸一の乗った車は、校門を通り、坂道を上って校舎の前で止まった。
 女子学園を含む創価学園の理事長である青田進、女子学園の校長の牧原光太郎ら、数人の関係者が彼を出迎えた。
 「ありがとう。いよいよ歴史が開かれるね」
 伸一は笑顔で語りかけると、しばらく辺りの景色に見入っていた。
 「自然に囲まれたいい環境ですね。心洗われる思いがします……。
 ここに来る途中、桜の花が美しかったが、確か『新古今和歌集』には、『またや見む 交野のみ野のさくらがり花の雪散る 春のあけぼの』という歌がありましたね」
 牧原が、温厚な笑みを浮かべて言った。
 「はい。交野は平安朝の昔から、桜の名所として知られております。
 また、交野の名は『枕草子』にも記されておりますし、近くには『天野川』という川や『星田』という地もありまして、ロマンにあふれた地域なんです。それに、この辺は蛍も多いんです」
 「詩情がありますね。
 この最高の環境のなかで、集った乙女たちの、豊かな情操と英知と正義の心を育んでください。
 校長先生、どうかよろしくお願いします」
 こう言って、伸一は深々と頭を下げた。
 牧原は「はい」と答えながら、恐縮して小柄な体をさらに縮め、髪の薄くなった頭を何度も下げた。そして、メガネの奥の瞳を輝かせ、毅然とした声で語った。
 「かけがえのない宝をお預かりするつもりで、全力を傾けて、最高の教育を行ってまいります」
 「大変にありがたいことです」
 伸一は答えた。
 教師の情熱こそが、教育の光源である。
3  希望(3)
 校長の牧原光太郎は、五十代半ばの人柄のよい壮年であった。
 戦時中、京都大学の工学部を卒業したあと、陸軍の燃料廠で研究に従事してきた。
 戦後、京都の私立の女子高校で教鞭を執り、その後、大阪府立の工業高校の教頭も務めている。
 牧原が生徒たちに注ぐ愛情は深かった。
 彼には脳性小児麻痺の子どもがいた。その子の幸せを願い、親として苦労を重ねながら、生命の尊さと、子どものもつさまざまな可能性を、実感してきたのである。
 山本伸一は、牧原に語った。
 「将来、この創価女子学園は、関西屈指の名門校になります。牧原先生の決意が、それを明確に物語っています。
 何事においても、結果という果実をもたらすには、種子が必要です。
 その種子となるのが、断固、最高のものをつくってみせるぞという金剛の決意です。校長先生の今の決意こそいっさいの源泉です。
 あとは行動です。
 マハトマ・ガンジーが『未来は、″今、我々が何を為すか″にかかっている』と叫んだように、未来のために、今日から日々、どう行動していくかです。一瞬一瞬が、一日一日が真剣勝負でなければなりません」
 それから、伸一は、副校長の永峰保夫に声をかけた。
 「永峰先生もよろしくお願いします。
 牧原校長としっかり力を合わせ、最高の学園にしていってください。団結こそが力です。
 みんなで大業を成し遂げるためには、それぞれが、自分が全責任を担っていくのだと決意することです。一人立つことです。
 同時に、自分が表に出ようとするのではなく、みんなのために尽くし抜き、陰で支え切っていこうと決めることです。それが団結の要諦です」
 永峰は、東京の創価学園の開校時から学園建設に携わり、寮長も務めてきた教師である。
 その経験は創価女子学園でも生かされ、さまざまな不測の事態にも、的確な対応がなされていくにちがいない。
 ゆえに、校長と副校長の固い団結こそ、学園の発展の鍵であると、伸一は考えていたのである。
4  希望(4)
 山本伸一は、歩きながら、校長の牧原光太郎たちに語った。
 「二十一世紀は女性の世紀です。その時に、ここで学んだ生徒たちが、人間主義のニューリーダーとして活躍していくことになる。夢がふくらみます。楽しみです」
 伸一が、関西に創価女子学園の設置を発表したのは、四年前の一九六九年(昭和四十四年)七月であった。
 前年に、東京・小平市に男子校の創価中学・高等学校が開校して以来、娘をもつ人たちから、女子校をつくってほしいという要望が、数多く寄せられていた。
 それは伸一も構想していたことであった。女性教育のいかんが、人類の未来を決定づけると、彼は考えていたからだ。
 創価教育の父である牧口常三郎も、女性教育を極めて重要視していた。
 三十四歳の時には、女性のための通信教育機関として「大日本高等女学会」を設立し、主幹となっている。
 彼は『創価教育学体系』では、「母性は本来の教育者であり、未来に於ける理想社会の建設者」であると論じている。
 伸一は、この牧口の理想を実現したかった。
 また、彼が女性教育の必要性を痛感してきた背景の一つには、母の思い出があった。
 伸一の母親は、戦時下の窮乏生活のなかで、必死になって、たくさんの子どもたちを育てた。しかし、男の子たちは次々と兵隊にとられ、しかも、長男は戦死したのだ。
 その知らせを聞いて、母が声を押し殺し、背中を震わせて泣いていた光景を、彼は忘れることができなかった。
 伸一は思った。
 ″女性こそ戦争の最大の被害者だ。しかも、それは時代を超えた、世界共通の現実である。
 また、子を産み、慈しみ育てる女性には、生命の尊厳を守ろうとする強い心があり、その特質は深き平和主義であるはずだ。それゆえに、最も平和を望み、平和の尊さを知っているのは女性だ″
 そして、彼は、崩れざる平和建設の鍵は、女性たちが特質を生かし、社会のさまざまな分野で活躍していくことにあると確信したのである。
 エマソンは訴えた。
 「文明とは何であろうか? わたくしは、善良な女性の力であると答える」
5  希望(5)
 山本伸一は、やがて、こう結論するに至った。
 ″女性が平和主義という本然の特質を発揮し、社会、国家、さらには世界を舞台に活躍していくための教育を行う学園をつくろう。二十一世紀の女性リーダーを育成するのだ……
 牧口初代会長、その遺志を受け継いだ戸田第二代会長の創価教育の夢は、第三代の彼の心のなかで、創価女子学園の創立へと結実していったのである。
 伸一は、女性が幸福を勝ち取るために必要なものは何かを、常に考え続けてきた。
 ――かつて女性は、旧習や古い制度に縛られ続けてきたが、戦後、女性の置かれた環境は大きく変わった。
 だが、制度的には解放されても、受動的な生き方に陥ってしまう心の弱さを打ち破り、人間的な強さを自在に発揮していかなければ、真の主体性の確立はない。
 いわば、女性が幸福になり、平和を建設していくためには、自身の内からの「解放」が最も重要なテーマとなろう。
 それには、人間の内面を鋭く見すえた、真の人間主義の哲学を、女性の胸中に打ち立てる以外にない――。
 伸一は、そう強く確信してきたのである。
 また、彼は、めざすべき女性像についても、以前から、思索をめぐらせていた。
 ――従来、日本の女性教育にあっては、多くは「良妻賢母」が、その理想とされた。
 だが、家事をやっていればよいという生き方では、人類の悲願である平和実現に寄与する大きな力とはなりえない。
 広く社会的な見識と、人生についての英知をもち、地域を、社会を舞台に活躍していける女性でなければならない。
 しかし、だからといって、家庭など捨てて、職業婦人として自分の専門分野で力をつければよいというものでもない。
 要請されるのは、家事であれ、仕事であれ、立派にこなし、豊かな個性をもち、文化や政治などの社会的な問題に対しても積極的に関わり、創造的な才能を発揮していくことのできる人である。
 つまり、なんでもこなしていける″全体人間″である――それこそが、これからめざす女性像であると、伸一は考えたのである。
6  希望(6)
 山本伸一は、東京に男子校の創価学園の開校が決まると、次は関西に、創価女子学園を開校しようと心に決めていた。
 女子学園の建設用地は緑と水が豊かで風光明媚なところというのが、彼の構想であった。
 情操を培ううえで、四季折々に花と語らい、鳥の声に耳を澄ませ、星に励まされながら、青春時代を送ることが、どれほど大きな影響をもたらすことか。
 一九六九年(昭和四十四年)の五月、関西を訪問した伸一は、学園の候補地となっていた、この交野の土地を視察した。 彼は、かつて交野を訪れた日のことが、懐かしく思い起こされた。
 一九五七年(同三十二年)四月、関西に民衆勝利の時代を開くために奔走していた彼は、交野町で行われた座談会に出席した。その折、豊かな自然に恵まれた交野に魅せられ、ここに理想の学園をつくりたいとの夢を、ひそかに描いたのである。
 以来、十二年の歳月が流れていた。
 学園の候補地は、彼方に河内平野を望む丘陵地で、背後には、なだらかな山が連なっていた。周囲には田んぼや段々畑などがあり、小さな池も散在していた。
 しかも、大阪の東北部に位置し、大阪市、京都市、奈良市から、二十キロほどの距離にあり、通学が可能である。
 木々の間を飛び交う野鳥の鳴き声が、将来、集い来る生徒たちの笑いさざめく声のごとく、彼の耳に響いた。
 伸一は、この地に学校建設を進めることを決定したのである。
 関西に創価女子学園が設置されることが発表されたのは、この視察から二カ月後に、東京・両国の日大講堂で行われた七月度本部幹部会の席上であった。
 関西の同志の喜びが爆発した。それは大いなる希望であった。
 「関西から世界の女性リーダーが育つことになるんや。なんでもさせてもらいまっせ!」
 これが、皆の思いであった。
 関西の学会員は、用地の草取りや清掃など、一声、協力を呼びかけられると、喜び勇んで、駆けつけてくれた。
 地域との連帯と協力こそ、学校を守り、育む大地といってよい。
7  希望(7)
 創価女子学園に対して関西の同志は、実に献身的に応援してくれた。
 遠隔地からの新入生のために、積極的に下宿も提供し、こまやかに面倒をみてくれた。
 また後年、「学園守る会」を結成し、父のごとく、母のごとく尽力してくれることになるのである。
 山本伸一は、その後も関西訪問の折に、何度か交野に足を運んだ。そして、「女性の世紀」の大空に羽ばたく、鳳雛たちの気高き姿を思い描くのであった。
 一九六九年(昭和四十四年)十月、設立準備委員会が発足した。高校、中学校、小学校の教員や短大の講師など、四十人が委員となった。
 委員たちは、創立者の構想を誤りなく実現した学校をつくろうと、伸一の講演や著作等から、彼の教育哲学や女性教育の理念を徹底して学んでいった。
 設立準備委員会では、いかなる学校にすべきか、白熱の議論が交わされた。時には、意見が真っ二つに分かれることもあった。
 しかし、最高の女子学園を誕生させようとの思いは一緒であった。ゆえに、意見の対立は新しき創造のバネとなり、検討を重ねるなかで、さらに強固な団結をもたらしていった。
 中高一貫教育か、高校だけを設けるのかも、大きなテーマとなった。
 最終的には、肉体的にも精神的にも重要な成長期に、受験に追われることなく、読書やクラブ活動に励み、人間的な成長をはかるために、中高一貫教育にしたいということになった。
 また、女子短期大学の設置も検討されたが、創価大学が一九七一年(昭和四十六年)に開学となることから、結論は留保することになった。
 委員たちは、校舎の設計についても、熟慮を重ね、心を砕いた。皆、交野の豊かな自然環境を残したものにしたいとの思いが強かった。
 それには、土地の傾斜や高低差をうまく取り入れる必要があった。そのために大阪をはじめ、兵庫、奈良、京都、三重、さらに東京へも行き、大学、短大、高校などの校舎を視察して回った。
 メンバーは、最高の学園をつくるために、どこまでも足を運んだ。
 真実の決意は、必ず行動をともなうものだ。
8  希望(8)
 設立準備委員会の要望を聞き入れ、設計者も大奮闘してくれた。
 そして、創価女子学園は、グラウンドが校舎の三階の高さに位置するなど、土地の高低差も生かし、交野の自然と調和した、すばらしい設計となった。
 「細心の配慮がなされた最高の教育環境を」というのが、山本伸一の強い要請でもあった。
 もちろん、建物などの環境が教育のすべてではない。しかし、教育において環境がもたらす影響は、極めて大きい。
 伸一は、入学して来る生徒たちに、設備などの環境面で、絶対に不自由な思いをさせまいと、固く心に決めていた。
 同じ苦労をするなら、学業など、自分を高めるために、精いっぱい苦労してほしいというのが、彼の思いであった。
 また、設備を整えるために予算が足りなければ、自分が働いて働いて働き抜いて、費用を捻出する覚悟であった。
 自分を犠牲にする決意なくして、人間を、後継の人材を育むことなどできない。
 この伸一の心が反映され、各教室も極めて充実した設計となっていた。
 たとえば、すべての科目ごとに特別教室が設置され、社会科には歴史と地理の二つの特別教室、理科には生物と化学に、それぞれ二つの実験室があった。
 また、英語科には、視聴覚機器を備えた語学演習室であるLL教室が三つあるほか、会話室、タイプ室、録音室が設けられることになった。
 芸術教育のためにも十分な設備が施され、音楽科には二つの音楽教室、ピアノを備えた四室の個人レッスン室、二つのグループ練習室があった。
 また、家庭科には、調理室、被服室、家庭科実験講義室があり、このほか、書道のための和室の教室もあれば、茶室、作法室などもあった。
 図書館には、五万冊の収容能力をもたせ、閲覧室は、採光に配慮し、二階まで吹き抜け式になっていた。
 随所に、最新の設備も導入され、こまやかな配慮が行き届いた、女性教育の美しき城であった。
 ここに集った乙女たちが、やがて、社会の各分野のリーダーとして育っていくことを思うと、その設計図は、二十一世紀という「女性の世紀」の設計図でもあった。
9  希望(9)
 山本伸一が出席し、創価女子学園の起工式が行われたのは、一九七〇年(昭和四十五年)九月一日のことであった。
 建設用地にあった蓮池には、起工式を祝賀するかのように、赤い蓮の花が咲き誇っていた。
 やがて工事が始まると、「建設現場」から、七世紀中ごろのものと推定される土器や土器を焼いた登り窯が発掘された。
 また、多くの住居遺構も発見され、かつて付近一帯は大集落であったことなどが確認されたのである。
 関係者の誰もが、万葉のロマンを感じながら、創価女子学園建設に取り組んだのであった。
 だが、地域の人たちのなかには、「創価学会の学校ができる」と聞いて学園の建設に不安を覚える人もいたようだ。
 それまで、一部の政治家や週刊誌などによって、学会が反社会的な宗教団体であるかのような、悪質な事実無根の喧伝がなされてきただけに、学会の真実を知らない人びとのなかには、危惧をいだく人たちもいたのである。
 「そんな宗教団体の学校ができて本当に大丈夫なのか」と、行政に相談する人もいた。だが、開校後ほどなく、それは全くの誤解であり、杞憂にすぎなかったことがわかるのである。
 一九七二年(昭和四十七年)一月の本部幹部会の席上、伸一は、創価女子学園は七三年(同四十八年)四月に開校の予定であることを述べるとともに、モットーとして、「良識・健康・希望」を発表した。
 工事は、開校をめざして、急ピッチで進められていった。
 その一方で、教職員の採用についても、検討が始まった。
 伸一は、学校の建設には「豊かな自然環境」と「近代的な教育設備」、そして、「情熱ある教師陣」という、三つの条件が必要不可欠であると考えていた。
 自然環境も、教育設備も申し分なかった。あとは創立の精神に共鳴し、教育に命をかける、情熱あふれる教師が集うかどうかにかかっていた。
 一切は人で決まる。教師こそ生きた最大の教育環境である。
 伸一は″わが創価女子学園に、よき教師よ、集い来たれ!″と懸命に祈った。
10  希望(10)
 創価女子学園の教員採用にあたっては、既に内定をみていた校長、副校長らが、推薦されてきた候補者と、何度か研修を行い、ディスカッションするなどして人選にあたった。
 そして、学問的な能力はもとより、人格、見識など、あらゆる観点から厳密に審査し、優秀で情熱あふれる人材を教員に選んだ。
 一九七二年(昭和四十七年)十一月、山本伸一は、創価女子学園の建設現場を視察し、工事関係者の労をねぎらった。
 この時、第一次として採用が決まった、何人かの教職員と会うことにしたのである。
 伸一は、その一人ひとりと握手を交わし、祈るような思いで語った。
 「私は、この創価女子学園の建設に、命をかけています。
 この学園に、日本の、いや人類の未来の大きな命運がかかっていると確信しているからです。
 これから、草創の開拓の時代を迎えるだけに、新たな難問も数多くあるでしょう。辛いことや苦しいこと、大変なこともたくさんあるでしょう。
 しかし、すべてが挑戦です。自分の経験の範囲でものを考え、行動していたのでは、新しい創造はありません。それを惰性というんです。
 まず、自分の殻を破って、新しい挑戦を開始してください。
 どうか、私の娘を育てると思って、まず十年、歯を食いしばって、頑張り抜いてください。
 皆さんが創立者です。くれぐれも、よろしくお願いします」
 一切を託すかのような真剣な口調であった。
 採用になった教員は、これまで教師として、その実力を高く評価されてきた人たちである。
 だが、伸一は、全く新しい、二十一世紀を担う未聞の女性教育の学校を創ろうとしているのだ。新しき建設は新しき心から始まる。
 ″やるぞ! ゼロからのスタートだ。これほどやりがいのある仕事はない……″
 皆、襟を正し、決意を新たにしたのである。
 ここでの伸一の励ましは、創価女子学園の教員たちの原点となった。
 この年の十二月には、建設工事も完了し、引き渡しが行われ、校内に事務所を開設した。
 また、大阪府に申請していた学校設置の認可が下りた。
11  希望(11)
 創価女子学園の開校準備は、教員と職員が一丸となって、全力で進められていった。
 教員も職員も、昼間は、見学者の案内や教具の準備・搬入などに追われ、息継ぐ間もないほど忙しかった。
 夕方からは、生徒の下宿探しに奔走した。当初、生徒の寮を設けず、家庭的な下宿先を斡旋していくことにしていたのである。
 だが、弱音を吐く者は一人もいなかった。使命に生きる歓喜が、あらゆる労苦を吹き飛ばした。
 「友よ、たとえ雲に包まれていても、勇気をもって楽しく働こうではないか。われわれは偉大な未来のために働いているのだから」
 ドイツの思想家ヘルダーの、この言葉さながらに教職員は燃えていた。
 年が明けた一九七三年(昭和四十八年)の一月十四日には落成式が挙行された。
 二月十五日には、高校入試の筆記試験が、十八日には、面接試験が行われた。次いで三月一日には、中学の筆記試験が、四日には面接試験が実施された。
 合格者も決まり、あとは開校を待つばかりとなった。
 教育界をはじめ関西各界の来賓を招いて、創価女子学園の開校式が挙行されたのは、戸田第二代会長の祥月命日にあたる四月二日であった。
 来賓は、豊かな自然に恵まれた教育環境、充実した教育設備に感嘆するとともに、人間主義を掲げた教育理念に大きな関心を寄せていた。
 当時、女性の高学歴化や社会進出は、目を見張るものがあった。
 しかし、あの大学紛争のなかで、女子大でも学生によるストライキが相次ぎ、女性教育の在り方が問われていた。それだけに、創価教育への期待は高かったのである。
 四月十一日――。
 遂に待望の第一回入学式を迎えた。
 入学式の会場となった体育館には、紅白幕が張り巡らされ、正面のバックパネルの中央には、ペンと鳳雛の羽をあしらった、東京の創価中学・高校と同じ校章が描かれていた。
 その下に、大きく「入学おめでとう」の文字が配されていた。
 そして、会場の入り口には、はつらつとした乙女らの顔が輝き、笑みの花が咲いていた。
12  希望(12)
 新入生が入場してきた。北は北海道から南は奄美諸島まで、全国各地から集ってきた中学百四十八人、高校二百三十九人の乙女たちである。
 真新しい紺地のセーラー服に、高校生は赤い花、中学生は白い花をつけ、頬を紅潮させて、胸を張ってさっそうと歩く姿が愛らしかった。
 その光景を、父母や来賓が、涙と微笑を浮かべて見守っていた。
 それは、未来への船出であった。挑戦への新しきスタートであった。
 明日に向かって進む人には希望の光彩がある。
 その輝きを、人は「若さ」と呼ぶ――。
 入学式では、校長の枚原光太郎が、入学許可を発表し、引き続いて式辞を述べた。
 彼は、全国各地から創立者を慕って生徒が集ってきたことに、創価女子学園の特色があることを語った。
 そして、皆が仲良く団結し、勉強に、スポーツに力を注いで、輝かしい伝統をつくっていこうと呼びかけた。
 次いで、中学と高校の新入生代表による「誓いの言葉」となった。
 中学代表は、背は高かったが、まだあどけなさの残る、兵庫県出身の生徒であった。
 壇上に上がると、元気な、しっかりとした口調で、「誓いの言葉」を読み上げていった。
 「……私たちは世界中に平和を築いていく人材になるという一心で、この学校を志望しました。
 今の世の中は、ひどく乱れ、人の心まで汚れきっています。
 とても残酷で悲惨な戦争。自然を破壊し、人の心までむしばみつつある公害……。
 二十一世紀に羽ばたく私たちには、この世の中を平和にする責任があります。
 私たちは、創価女子中学校でしっかり勉強し、教養を身につけ、平和に向かって力強く進んでいきます。
 一期生の私たちは、この学園を日本一の誇り高い母校として、伝統を築き上げていかなくてはなりません。
 そして、開拓精神をもって、高校生のお姉さん方と力を合わせて、立派な学園を築いていきます。さらに、外見だけではなく、心のなかまで、立派な女性に育っていきます」
13  希望(13)
 次代を担おうとする、清らかな使命感にあふれた中学生代表の誓いに、山本伸一は誰よりも先に拍手を送った。
 その拍手に続いて、怒涛のような大拍手が体育館にこだました。
 伸一は、まだ中学生の少女が、平和の実現を自分たちの責任であると考えていることに大きな喜びと希望を感じた。また、開拓者としての挑戦の気概が嬉しかった。
 皆の拍手に、壇上の少女は、恥ずかしそうに笑みを浮かべたが、拍手がやむと、また凛とした口調で言った。
 「先生! ご健康でお体を大切になさってください。そして、どうか、私たちの巣立つ日を見守ってください」
 それから、句を詠んで結びとしたのである。
 「万葉の 花も喜ぶ入学式」
 「師のもとに いのちはもえる 女子学園」
 またしても、万雷の拍手がわき起こった。
 伸一は拍手を送りながら、心で語りかけた。
 ″ありがとう。忘れません。清らかな心が、胸に染み渡ります。
 私は、皆さんをわが娘として、また、最高の宝として、生涯、見守っていきます″
 次は高校生代表の「誓いの言葉」である。
 メガネをかけた、勤勉そうな乙女が進み出た。
 「……私たちは、創価女子高校の完成を夢にまで見ました。
 その一員となる日まで、自分のことのように心配し、励ましてくれたお友だちや、わがままな私を見守り、育ててくれた両親には、本当に感謝しています。
 それにも増して、私たち一人ひとりに、大きな期待をかけ、こんなにすばらしい学校をつくってくださった、創立者の山本先生に対しては、ただただ、感謝の気持ちでいっぱいです。
 その温かい真心にお応えするためにも、私たちは、将来、社会のためになる、力ある人に成長することをめざします」
 彼女の誓いは、自分に関わるすべての人への深い感謝と報恩の言葉から始まったのである。
 感謝は、心の豊かさを意味する。感謝のある人には喜びがあり、幸せがある。
 伸一は、その豊かな心が、さらに、豊かさを増すことを祈りながら、彼女の言葉に耳を傾けていった。
14  希望(14)
 高校生代表の「誓いの言葉」は、一期生の使命に言及していった。
 「私たちは、幸運にも一期生となることができました。そのことを誇りに思うと同時に、使命というものを、強く自覚しなければなりません。
 創価学園とは、どんな学校だろうと注目している人たちは、学園生の日常の姿や行動を通して、学園の教育理念や創立者の考え方を、知ろうとしているのではないでしょうか。
 創立者の人間教育の理念に賛同し、ここに集った私たちは、その第一歩として、『良識・健康・希望』というモットーを、日々、実践していきたいと思います」
 まさに、教育理念も、建学の精神も、すべては生徒、学生という人間の行動に現れる。
 そして、人も、社会も、それを見て評価を定める。人間の振る舞いこそが、一切の結実なのである。
 二人の「誓いの言葉」には、学校によって教育されるのを待っているという、受け身の姿勢は感じられなかった。
 自分たちこそが学園建設の主体者なのだという誇りに貫かれていた。
 伸一は、ここにいる高校の一期生たちは、一九五七年(昭和三十二年)の四月から、翌年の三月に生まれた世代であることを思い起こした。
 一九五七年といえば、民衆勢力の台頭を阻もうとする国家権力によって、彼が不当逮捕された、あの大阪事件が起こった年である。
 七月十七日、出獄した彼を迎え、豪雨のなか、中之島の中央公会堂で権力の横暴を糾弾する大阪大会が行われた。
 そこには、多くの母たちがいた。ある人は生まれて間もない乳飲み子を背負い、ある人は出産を間近に控えた体で参加してくれた。民衆の幸福のために敢然と立ち上がった母の姿は、あまりにも気高く尊かった。
 高校一期生には、そうした母の子どもも少なくなかった。
 伸一の脳裏に、イギリスの作家ホール・ケインの叫びがこだました。
 「人間としてのわれわれの義務とは、民衆の進む道に横たわるあらゆる障害を取り除くことであります」
 伸一は、女子学園生たちが、民衆のために生きるリーダーとして育ちゆくことを願いながら、盛んに拍手を送った。
15  希望(15)
 入学式に集った中学の一期生が生まれたのは、山本伸一が第三代会長に就任した年である一九六〇年(昭和三十五年)の四月から、翌年の三月にかけてであった。
 伸一は、自分が民衆の幸福のため、世界の平和のために、会長として立ち上がった時に、この世に生を受けた人びとが集ってきたことに、深い、深い宿縁を感じた。
 彼は″この創価女子学園を、断じて、民衆を守るための、世界一の教育の城にせねばならぬ″と、深く心に誓った。
 創価学園の青田進理事長のあいさつのあと、創立者の伸一が登壇し、祝辞を述べた。
 彼は、開口一番、自分の気持ちを、そのまま口にした。
 「さっきから皆さんのことを見ていて、かわいくて、かわいくて、仕方ないんです。
 今朝、妻に『うちは男の子しかいないから、全員、娘にしたいな』って言ったら、妻も
 『そうしたいですね』って言うんですよ」
 「わー」という歓声があがった。入学式に緊張して臨んでいた新入生たちは、まるで家族に語りかけるような伸一の第一声に、ほっとした。
 それから彼は、一期生の入学を心から祝福し、力強い声で呼びかけた。
 「ただ今、門出したこの学園は、真新しい感光板のように、全くの白紙の状態であります。
 本日から、この感光板に、皆さんは、さまざまな影を刻み、学園の映像がつくりあげられていくことでありましょう。
 見事な映像にするか、凡俗な映像にするか、醜悪な映像にするか――それは、すべて皆さんの一挙手一投足にかかっているのであります。
 それゆえに、この記念すべき日に、平常、この学園について私が考えておりましたことを、五つの提案として述べ、はなむけとさせていただきたいと思います」
 彼が最初に語ったのは、よき「伝統」ということであった。
 伸一は、理想を秘めた″日常の行動″のうえに見事な伝統が生まれ、それが花咲き、次の世代へと伝えられていくことを訴えた。
 今日、自分が何をなすかだ――その積み重ねが歴史となり、輝ける伝統となるからである。
16  希望(16)
 山本伸一は、祈るような思いで語った。
 「どうか、この学園らしい、新しい、はつらつたる伝統を築いていただきたいと、私は切にお願いしたいのであります。
 では、この第一の項目に賛成の人は、起立してください」
 伸一の呼びかけに、全生徒が立ち上がった。
 座り続けているのは、生徒たちが大変であろうと考え、彼はあえて、体を動かすために起立を呼びかけたのである。
 思想も愛情も、単なる言葉にではなく、こまやかな人間的な配慮のなかに表れるものだ。
 振る舞いのなかにこそ、信念と哲学が光る。
 次いで彼は、「平和」について述べ、平和の危機という問題も、人類社会を治める人間にこそ本質があり、人の心の波動が、善悪の社会現象を生んでいくと指摘した。
 そして、こう訴えたのである。
 「私が、今から皆さんに望むことは、『他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない』という信条を、培っていただきたいということであります。
 すべてにわたって、この心をもち、実践していったならば、まれにみる麗しい平和な学園が実現するでありましょう。
 地球は大きく、この学園は、その地球から見るならば、ケシ粒ほどのものであるかもしれない。
 しかし、原理は一つです。皆さんのささやかな実践は、そのまま人類の平和への軌道に通じ、やがて、地球をも覆う力をもつはずであると、私は確信したい。
 そして、平和の戦士の卵が、この学園から陸続と育っていっていただきたいのであります」
 平和といっても、日々の自分の生き方、行動のなかにこそあるのだ。
 他人の不幸のうえに自分の幸福を築かない――との信条は、女性の生涯を崇高なものにすると、彼は確信していた。
 伸一が三番目に訴えたのは「躾」であった。
 彼は、躾のもつ、古くさい、束縛や窮屈といったイメージを払拭することから話を始めた。
 そして、「生活が闊達に、円滑に楽しく回転するためには.一つのリズムがあり、このリズムを体得することを、私は躾と申し上げたい」と定義づけたのである。
17  希望(17)
 山本伸一は、「躾」の意味について語っていった。
 「ご承知のように『躾』という言葉は、和裁でも使われております。それは、美しく縫い上げるための予備工作として、縫い目や折り目を固定するために、あらかじめ仮に縫うことであります。
 本番の人生は、取り返しのつかぬものである。そのために、若いうちから躾られるということが、生活のリズムを体得するために必要なのであります」
 そして、躾は理屈で理解させるのではなく、実際の行動を通し、慣れることによって、体自体で納得させていく教育法の一種ではないか、との考えを述べた。
 躾は、本来、人生の全般にわたって必要とされているはずである。
 しかし、それを束縛や押しつけのように考える風潮が、社会の通念になってしまっていることを伸一は憂慮していた。
 有効な教育方法の一つを、軽視することになってしまうからだ。
 彼は訴えた。
 「皆さんは、私が未来をかけた誇りある女性であります。
 若き女性を陶冶する学園に学ぶ生徒として、日常、反復して訓練されるであろう、さまざまな躾を、きらわないことを私は望みます。
 どうか皆さんの身に、よい躾糸がかかりますように、そして、本番の人生の縫い上げが立派で、見事でありますことを、私は心より願うものであります」
 四番目に伸一が訴えたのは「教養」であった。
 現代は情報の氾濫する社会である。
 好奇心のまま、あふれる情報にいたずらに流されていたのでは、本当の知識も、教養も身につかず、人格を輝かせていくことはできない。
 伸一は、そのことを心配していたのだ。
 「学問の道では、一つの物事を深く追究していくことが大事になります。その時に、知識は初めて教養となり、生活の知恵としていくことができます。
 また、そのことが、他の多くの知識も理解する応用力へとつながっていくでありましょう。
 たとえ、小さなことでもよいから、深く学ぼうと心がけて、真に教養ある、おくゆかしい女性として巣立っていかれますよう望んでやみません」
18  希望(18)
 最後に、山本伸一が語ったのは、「青春」についてであった。
 彼は、「青春時代」は長い人生のなかで、最も華やかで楽しい時代であるといったような、通り一遍の話をするつもりはなかった。
 女子学園生たちが行き詰まり、落胆した時に、″そうだ!″と勇気を鼓舞できる話をしておきたかった。
 無内容な、ありきたりの話というのは、皆の貴重な時間を奪う罪悪といってよい。
 伸一は、青春とは何かについての、自らの洞察を語っていった。
 「私は、青春時代というのは、無限の可能性を前にして、非常に不安定で落ち着きがなく、鋭敏な神経が常に働いているというのが実情であろうと思う。
 未来の夢が、大きければ大きいほど、心労も大きい。
 しかし、若い皆さんは傷つきやすく、弱いように見えますが、決して、そんなものではない。
 どんな困難をも乗り越えていける活力、生命力をたたえているのが青春です。
 どうか、そのことに自信をもっていただきたいのであります。
 感情の振幅の激しさから、時に絶望に陥ることもあるかもしれない。
 しかし、皆さんの生命の底には、それを跳ね飛ばして克服するだけの力がある。
 これが、青春というものの本体であると私は叫びたい。これが、青春の特権です」
 伸一は、いつの間にか叫ぶような、祈るような思いで訴えていた。
 「人が老いて青春を懐かしむのは、まさに、この青春の活力を懐古しているということを知っていただきたい。
 ゆえに、苦悩や困難を決して避けるようなことをしてはならない。
 堂々と、それに挑戦し、立派に克服する皆さんであってください。
 ともかく、青春は無限の歓喜とともに、また、必ず心労がある。悩みがある。
 これは表裏一体であることを忘れてはならない。
 それを知って戦っていくところに、輝かしい青春時代があります」
 「伝統」「平和」「躾」「教養」「青春」――伸一が魂を注ぐ思いで訴えたこの五項目は、創価の女性教育の永遠の指針となっていったのである。
19  希望(19)
 生徒たちは、瞳を輝かせながら、創立者の山本伸一の話に、真剣に耳を傾けていた。伸一は、最後に、強く呼びかけた。
 「さっそうたる創価女子中学・高等学校の第一期生の皆さん、どうか本日を、モットーに定めた『良識』と『健康』と『希望』という、生涯にわたり輝ける生命の財宝を築く第一歩の門出としていってください。
 心から皆さんの栄光をお祈り申し上げます」
 怒涛のような誓いの拍手がわき起こり、いつまでも鳴りやまなかった。
 ある人は、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」との言葉を座右の銘にしようと決めた。
 ある人は、徹底して勉強しようと心に誓った。また、ある人は困難を決して避けまいと、自分に言い聞かせた。
 そして、皆が感激のなか、この学園で人生の確たる土台を築こうと、決意したのである。
 「諸君の精神は活躍するのに今がいちばん好都合な時期にある」とは、シラーが青年に送った言葉である。
 伸一は、入学式に続いて、中庭で生徒の代表と海棠の木を記念植樹し、さらに、モットーの碑の除幕式にも出席した。
 彼が見守るなか、二人の生徒代表が碑を覆っていた白布のテープを引くと、高さ一メートル、幅二メートルの赤御影石が姿を現した。
 そこには、伸一の文字で「良識 健康 希望」と刻まれていた。
 拍手とともに、アコーディオンやファイフを持っていた二、三十人の生徒が、東京の創価学園の寮歌「草木は萌ゆる」を演奏し始めた。その調べは、交野の山々に高らかにこだました。
 演奏が終わると、伸一は言った。
 「ありがとう。もう鼓笛隊ができているんで、びっくりしたよ。いつの間につくったんだい」
 音楽科の教諭である田宮泰通が答えた。
 「はい。高校の合格者に電話をし、楽器の経験があり、春休み中に集まれる人に声をかけて練習しました」
 伸一は、その意欲が嬉しかった。
 「ところで、楽器はどうしたの」
 「それぞれの楽器を持ち寄りました」
 「それなら、ぼくが買ってあげよう」
 演奏した生徒たちから歓声があがった。
20  希望(20)
 山本伸一は、引き続き生徒と父母との記念撮影に臨み、さらにスポーツウエアに着替え、「卓球場開き」に出席した。
 彼は″自分は創立者として、この生徒たちのために生命を削ろう。一切を注ぎ込もう″と心に決めていた。
 それが教育の根本精神であるというのが、彼の信念であった。
 卓球場では、集まっていた生徒に声をかけ、名前を聞き、家はどこか、家族は何人かなどを尋ねていった。
 彼は、一人ひとりのことを覚えようと必死であった。
 生徒の顔、名前、特徴、出身地、家庭の状況などを、心に深く刻みつけていった。
 相手をよく知ることから、教育の第一歩が始まるからだ。
 それから、生徒の代表と試合もした。共に行動するなかで、心は通い合うからである。
 「先生、頑張って!」
 大声援を浴びながらラケットを手にした。
 教員たちも、伸一がどんな卓球をするのか、目を輝かせて見ていた。
 彼は、相手がまだ、あどけない中学一年生であっても、全力で試合に臨んだ。決して手を抜かなかった。
 試合が始まってしばらくすると、生徒の顔から笑いが消え、目には闘魂が燃えていた。
 そして、鋭い球が、はね返ってくるようになった。
 時々、伸一はスマッシュに失敗した。「あっ、やっちゃったー」と、声を出して悔しがる姿に、笑いが起こった。
 生徒たちは伸一に対して、当初、近寄りがたい印象をいだき、緊張していたようだ。
 しかし、そんな伸一を見て、彼が身近に感じられるようになったのであろう。「ドンマイ、ドンマイ!」の声が起こった。
 急に親近感をいだいたのか、なかには「お父さん、頑張って!」と、声援を送る生徒もいた。
 立場や肩書にとらわれるのではなく、ありのままの人間として接するなかに、人間教育の心の交流は生まれるのだ。
 伸一は、卓球に興じたあと、「テニスコート開き」に向かった。
 ここでも彼は、生徒の輪の中に入って対話を重ねた。
 やがて、練習が始まると、伸一は言った。
 「ぼくがサーブを打つから、みんなが交代で受けてごらん」
21  希望(21)
 山本伸一は、生徒とネットを挟んで、向かい合った。
 彼は、力いっぱいサーブを打った。生徒たちは、必死にボールを追った。
 なかには、初めてテニスをする中学生もおり、懸命にラケットを振っても、なかなか、うまく打ち返せなかった。
 そんな時、伸一は、あえて厳しい口調で、こう言うのであった。
 「くらいつくんだ。もう一度!」
 彼は容赦なく、より強いボールを打ち込んだ。
 生徒は、息を弾ませ、全力でボールを追いかけた。
 甘えや弱さは、自分を不幸にする。
 何があってもへこたれずに、自身に挑む契機を、伸一はつくりたかったのである。
 サーブを打ち続ける彼の額には、幾筋もの汗が流れていた。
 少女たちは、必死になってテニスボールにくらいついていった。
 サーブのたびに、伸一の声が響いた。
 「全力で走るんだ!」
 「あきらめるな!」
 「もう少しだぞ。頑張れ!」
 挑戦し続ければ必ず成長がある。人生の勝利を飾るには、自分に勝つことである
 ―彼は、テニスという競技を通して、そのことを懸命に教えようとしていた。
 しばらくすると、伸一は、休憩にした。
 集まってきた生徒たちに、彼は言った。
 「何か得意なスポーツがあるということは、すばらしいことなんだ。
 そこから人間の交流も広がっていくし、また、青春時代に体を鍛えておくことは、将来のために大事なことなんだ」
 それから彼は、通学に要する時間を尋ね、下校時のことなどを、こまやかにアドバイスした。
 「下校する時は、二人以上で帰るんだよ。そして、帰りが遅くなる時には、必ず家に電話を入れることだね。
 また、いつ、どんな時でも電話がかけられるように、常に十円玉だけは持っておきなさい。
 いくら千円札を持っていても、何かあった時に、電話をかけることはできないからね」
 彼の話は、具体的であった。
 ただ注意を促しても、具体性がなければ、実際には役に立たないからだ。
22  希望(22)
 山本伸一は、さらに高校生の代表と試合をしたあと、真顔で生徒たちに言ってみた。
 「さあ、今から一緒に大阪駅まで走ろうか!」
 大阪駅までは直線距離にしても、二十キロ以上はあったが、生徒の「はい!」という元気な声が返ってきた。
 その挑戦の気概と掛け値なしの純粋さに、彼はすがすがしさを覚えた。
 「じゃあ、準備をしなさい」
 生徒たちは、喜び勇んでネットの近くにラケットを置いて戻ってきた。
 伸一は、微笑みを浮かべて尋ねた。
 「おうちの人に電話をかけてきたかい?」
 「いいえ……」
 「こういう時に、十円玉を用意しておいて、すぐに電話をするんだよ。
 遅くなったら、お父さん、お母さんが心配するんだから。
 頭では理解しても、それが実際の行動に結びつかなければ、なんの意味もないじゃないか。
 みんな、家に電話していないから、大阪駅まで走るのは中止だよ」
 笑いが広がった。
 生徒たちの胸には、この日、伸一が語った″十円玉のアドバイス″が、深く刻まれた。
 さっそく全校生徒に伝えられ、以来、彼女たちは、常に財布に十円玉を入れるようになった。
 帰りを待ってくれる親がいる。帰りが遅いと、心配してくれる親がいる。その親心を感じることができずに、道を誤る人がいる。
 この″十円玉″は、親に心配をかけないための「躾」であると同時に、親の愛情を認識させる、「教育」でもあった。
 「最も重要なものは、人生の活動を指導する知識である」とは、トルストイの洞察である。
 「さあ、帰ろう」
 伸一は、校舎に向かって歩き始めた。その後ろに、ラケットを手にした生徒が続いた。
 教員たちは、その姿を見ながら、しみじみと思った。
 ″創立者は、まさに手作りで、この学園をつくろうとされている……″
 伸一は、この夜、教職員と夕食を共にしながら胸中の思いを語った。
 「生徒は私の命です。娘です。皆さんは、創立者と同じ自覚、同じ決意に立ってください」
 そして、彼はこの日、そのまま、学園に宿泊したのである。
23  希望(23)
 入学式の日に、創価女子学園に泊まった山本伸一は、翌朝、校舎四階の窓辺に立った。
 登校して来る生徒たちを見守るためである。
 危険はないか。希望に燃えているだろうか。体調のよくない生徒はいないか――祈るような思いで視線を注ぎながら、生徒たちを迎えた。
 なかには、校舎の窓に伸一の姿を目ざとく見つけ、「先生!」と言って手を振る生徒もいた。
 この日、伸一は、食堂で生徒たちと一緒に、昼食をとることにした。
 ともかく彼は、少しでも多く、生徒と行動を共にし、交流を図りたかったのである。
 生徒たちが食事を始めたころ、伸一は食堂に向かった。
 彼が食堂に姿を現すと大歓声がわき起こった。
 伸一は、テーブルの一角に座り、生徒たちと席をならべて食事をしながら尋ねた。
 「おかずは足りる?」
 「はい。たくさんあります」
 「そうか。足りなかったら、どんどん言うんだよ。お茶は薄くない?」
 「ちょうどいいです」
 生徒のための学校である。ならば、どんな小さなことでも、耳をそばだてるようにして生徒の声を聞くことだ。
 そして、それが生徒のためになるなら、万難を排して実現しようと努力することである。
 そこに、学校建設の要諦があるといえよう。
 伸一は、周囲にいた生徒に、家庭のことなどを尋ねていった。
 そして、時には、生徒の両親や祖父母、姉妹にまで、激励のプレゼントなどを贈るのである。
 一人の背後には、何人もの人間がいる。その方々に支えられて、学園生という存在がある。
 だから彼は、そのすべての人たちを大切にしたかった。もしも、可能ならば、そうした人たち全員と会って、御礼を述べたかった。
 また、学園生一人ひとりが大成長すれば、それらの方々が喜び、さらに学園を応援してくださるにちがいない―
 ――そう思うと、目の前の生徒への激励に、ますます力がこもるのである。
 それから伸一は、学園を後にしたが、兵庫や神奈川での諸行事を終えると、東京には戻らずに、四日後の四月十六日の夜には、再び女子学園を訪問したのである。
24  希望(24)
 山本伸一は、翌日の四月十七日の夜には、教職員や生徒の代表と会食をした。
 彼は、寸暇を惜しんで対話に努めたのである。
 ソクラテスがそうしたように、対話を通しての触発こそが教育である。
 また、思想や哲学も、自身の信条も、胸の思いも、言葉に出して語ってこそ、初めて相手に伝わるのだ。そのためにこそ口があるのだ。
 対話を避けて、語り合おうとしない人は、せっかく最高の楽器をもちながら、奏でることを忘れた奏者に等しい。対話は、人間の特権なのだ。
 翌十八日、伸一は出発時刻を延ばして、再び、生徒たちと食堂で昼食を共にしてから、東京に帰った。
 一分でも、一秒でも多く、生徒と語り合う時間をつくりたかったのだ。
 伸一は真剣であった。彼女たちの双肩にこそ、二十一世紀の未来がかかっていると確信していたからだ。
 彼のその思いと限りない期待を、創価女子学園生は、強く、強く、感じ取っていた。
 彼女たちは、入学式で創立者が語った、「この学園らしい、新しい、はつらつたる伝統を築いていただきたい」との言葉を深く胸に刻み、どうやって自分たちが伝統を築いていくか、毎日、真剣に語り合った。
 無からの創造である。伝統といっても、何をどうすればよいのか全くわからなかった。
 道なき道を開くには、筆舌に尽くしがたい苦労があるものだ。しかし、苦闘の青春は、自分自身にとってかけがえのない未来の財産となる。
 「労苦は気高い心を育てます」とは、古代ローマの哲人セネカの達観である。
 毎朝のホームルームでは、皆で伸一の入学式の祝辞を学び合った。
 そして、「何がよき伝統となるのか」「どうすることが創立者の指導を実現することになるのか」など、それぞれが考え抜いて、活発に意見を交換した。
 誰もが、自己の最重要のテーマとして、この問題に取り組んでいった。学園をどうしていくかについて、他人事のように考える傍観者は、一人もいなかった。
 それ自体、尊き伝統の萌芽であった。
25  希望(25)
 生徒たちの多くは、よき伝統をつくるうえで、「『他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない』という信条を、培っていただきたい」との山本伸一の言葉を、思索のヒントにしていた。
 生徒は語り合った。
 「私たちは、どんなことに対しても、他人の幸福のなかにこそ、自分の幸福があるのだという考えに立って、行動していくべきだと思います」
 「私もそう思います。
 そして、いつまでも、ただ考えているのではなく、身近な小さな事でもいいから、一日も早く行動に移さなければならないと思います」
 「歳月人を待たず」である。悩み考えているうちに時は去ってしまう。迅速な行動なくしては、結果は生まれない。
 「まず、動こう!」
 「さあ、みんなのために何かを始めよう」
 それが皆の合言葉のようになっていった。
 ある人はモットーの碑を、ある人は音楽室を、自主的に清掃し始めた。ある生徒は、皆が心を合わせるために愛唱歌をつくろうと作詞を始めた。
 友人に声をかけ、クラブをつくる生徒もいた。
 各クラスのクラス委員が決まると、そのメンバーが中心になって、校内の行事の運営も担うようになった。
 また、クラス以外の生徒の絆を深めるために、通学生は「清流会」、下宿生は「希望会」というグループを発足させた。
 通学生は、居住地域を五ブロックに分け、さらに、そのなかでグループを編成した。
 彼女たちは、通学路でマナーを遵守することも徹底し合った。
 通学の最寄り駅は、国鉄(当時)の河内磐船駅と京阪電鉄の河内森駅であったが、生徒たちは駅を降りると、一列になって歩くようにした。
 横に広がって歩けば、道をふさいでしまうことになるからだ。
 そして、行き交う人や沿道の田畑で農作業に励む人たちに、「おはようございます!」とあいさつした。
 春の訪れとともに春風のような、さわやかな乙女たちの笑顔が、交野にやって来たのだ。
 「あの子らと、あいさつするんが楽しみやから、朝早くから畑に出てますねん」という声も寄せられた。
26  希望(26)
 生徒たちは創価女子学園の制服を着ると、身の引き締まる思いがした。
 ″通学の時に出会う人は、自分の姿を通して創価女子学園を知る。私が学園の代表なのだ″
 制服に身を包むと、その自覚と責任感が込み上げてくるのだ。
 入学式から、ひと月ほどしたころであった。
 大阪環状線の弁天町駅から乗車する通学生たちは、駅員への感謝を込めて、駅に花瓶と花を贈った。駅員は、大変に喜んでくれた。
 その話は、すぐに生徒たちの話題となり、こんな意見が出た。
 「それなら、みんなが降りる河内磐船駅と河内森駅にも花を飾りましょうよ」
 「賛成!」
 皆が賛同した。彼女たちはカンパを募り、一輪挿しと花を購入し、それぞれの駅に花を飾った。
 花は、定期的に新しいものに変えられた。
 たった一輪の花ではあったが、駅を利用する人たちの心を和ませた。
 ある日、河内磐船駅の一輪挿しに、短冊がつるされ、和歌が認められていた。
 「山あいの 学舎見える この駅に 花さす乙女 心うるわし」
 学園生への感謝の気持ちが込められた、詠み人知らずの一首であった。
 山本伸一は、こうした生徒たちの様子について、校長などから、つぶさに報告を受けていた。
 彼は、学園生が開道者の強い自覚をもち、積極的に行動を開始したことが何よりも嬉しかった。
 伸一は五月に入ると、ヨーロッパ訪問のために八日に日本を発ち、二十七日に帰国した。
 この旅は、パリ大学ソルポンヌ校の訪問や、イギリスでのアーノルド・J・トインビー博士との対談など、スケジュールは過密を極めた。
 だが、そのなかでも、女子学園生たちのことが、伸一の頭から離れなかった。
 ″みんな、学校生活になじんだだろうか。元気でいるだろうか……″
 パリの街を散策した折には、妻の峯子と共に、フランス人形を買い求めた。女子学園に贈るためである。
 五月末、彼の帰国を待ちわびていたかのように、女子学園の教師である原野秀美が、生徒たちの手紙を携えて、学会本部に伸一を訪ねてきた。
27  希望(27)
 原野秀美は、お茶の水女子大学出身の国語の教師であった。
 山本伸一は、原野の顔を見ると、満面に笑みを浮かべて言った。
 「やあ、みんな元気で頑張っているかい」
 「はい。明るく、はつらつと、学園生活を送っております。今日は、生徒たちからの手紙を、お届けにあがりました」
 「そうか、嬉しいね。ぼくも渡したいものがあるんだよ。フランスで買ってきたお土産なんだ」 伸一は、フロアにいた職員に、それを持って来るように頼んだ。
 原野は、伸一夫妻が忙しいヨーロッパ訪問のなかでも、女子学園生のことを考え、お土産を買い求めてくれたことを思うと、胸が熱くなった。
 運ばれてきたのは、金色の縁取りのある美しいドレスを着たフランス人形であった。
 「わー、すばらしいですね。生徒たちは、大喜びすると思います」
 原野は感嘆し、頬を紅潮させて言った。
 「それはよかった。すまないが、これを持って帰ってくれないか。
 そうだ。名前をつけよう。女子学園の象徴という意味で、園の字をとって、『園子ちゃん』ではどうかな」
 「親しみやすい、かわいい名前だと思います」 「よし、決定だ。学園生はみんな園子だ」
 原野は、丁重に礼を言うと、生徒たちからの手紙を渡した。
 伸一は、その場で、手紙を読み始めた。彼の顔がほころんだ。
 「『お父さんへ』って書いてあるよ」
 伸一が言うと、原野はこたえた。
 「みんな、そういう気持ちでおります」
 伸一は、手紙に目を通しながら声をあげた。
 「おっ、クラブ活動も始まったのか。みんな忙しそうだね」
 「はい!」
 「学園は将来、間違いなく、日本一、世界一になるよ。
 経文には『未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』とあるが、みんな必死になって頑張っているもの。
 未来の結果は、今日の一瞬一瞬の行動で、今、何をしたかによって決まってしまう。今は、日々泣くような思いで奮闘しなければ栄光などない。
 みんなに『頑張れ!絶対に負けるな!』と伝えてください」
28  希望(28)
 山本伸一は、生徒たちからの手紙を読んでいたが、しばらくすると、腕を組んで言った。
 「うーん、困ったな。『六月四日にプール開きを行いますので、ぜひ出席してください』と書いてあるんだが、この日は難しいな。
 最後まで日程の調整はしてみるが、だめかもしれない。
 でも、行って、みんなの顔を見たいな」
 このプール開きは、生徒たちが、自分たちで創立者を迎えようと、自主的に運営にあたった初の行事であった。
 ″山本先生に来ていただくのだから″と、丹念に校舎を掃除し、庭の草刈りもしていたのだ。
 それだけに原野秀美も、なんとしても、伸一に来校してほしかった。
 彼女は最後に、「ご出席のほど、よろしくお願いします。お待ち申し上げております」と言って伸一と別れた。
 原野は、伸一から託されたフランス人形を、大阪に持ち帰った。
 生徒は大喜びした。
 「園子ちゃん」は学園のマスコットになった。以来、生徒は、自分たちのことも、誇りをもって「園子」というようになるのである。
 プール開きの前日、伸一は総本山から、学園に電話を入れた。
 彼は、生徒たちが準備に夢中になり、帰宅が遅くなることを、心配していたのである。
 校長の枚原光太郎に伝言し、「暗くならないうちに自宅に着けるように、早く下校しなさい」と、生徒たちに伝えてもらった。
 この日、伸一は深夜まで、なんとかプール開きに出席しようと、スケジュールの調整に余念がなかった。
 しかし、翌四日は、富士宮の会館や静岡本部の視察などをしなければならず、遂に出席は断念せざるをえなかった。
 当日の朝、伸一は、やむなく欠席する旨を校長に伝え、また生徒への伝言を託した。
 女子学園のプールの壁には、「先生おかえりなさい」と、ひときわ大きな文字が躍り、生徒たちは伸一の到着を、今か今かと待っていた。
 皆が″山本先生は絶対に出席してくださる″と確信していた。
 果たして生徒はどうするのか――そこに人間教育の真価が現れる。
29  希望(29)
 いよいよプール開きが始まった。だが、用意した創立者席に、山本伸一の姿はない。
 校長の牧原光太郎があいさつに立った。
 「本日、創立者は、どうしても外せない用事がございまして、ご出席にはなれません」
 すると、「えーっ」という声が起こった。
 「また、山本先生からは、次のような伝言をいただいております。
 『残念ですが、大切な用事があって、今日は、どうしても出席できません。しかし、皆さんが元気なことはわかっています。パンと牛乳を届けましたから、皆さんで召し上がってください』」
 だが、生徒たちの落胆は大きかった。目に涙を浮かべる生徒もいた。
 枚原は懸命に訴えた。
 「皆さんは山本先生からパンなどをいただきました。私は、そこに、皆さんを家族の一員であると思ってくださっている、先生の温かいお心が感じられてなりません。
 こうした創立者のご配慮の意味をよく理解し、先生が私たちのことを見守ってくださっていると思い、明るく頑張ろうではありませんか。
 私たちは今、一人ひとりが本当に開拓者なのか、本当に山本先生の娘といえるのかが、試されていると思います。
 創立者が来られないからといって、落胆し、元気をなくしてしまうのであれば、甘えているだけではないでしょうか。
 それでは、先生に、ご心配をおかけしてしまうだけです。
 自分は先生の娘であると思うならば、こういう時こそ、元気あふれる大成功の催しを行い、先生にご安心していただくべきではないでしょうか」
 生徒たちは、牧原の話を聞くうちに、決意に瞳を輝かせ始めた。
 校長が話を終えた時には、賛同の拍手がわき起こった。
 皆、気を取り直した。
 ″私たちは師子の娘だ″と、そこに伸一がいるかのように、元気にプール開きを行った。
 できたばかりの愛唱歌も、創立者の耳に届けとばかりに熱唱した。
 物事が思い通りに運ぶことなどないものだ。むしろ、予想外の事態に苦しみ、落胆を繰り返すのが現実といってもよい。
 しかし、その時に、めげずに、明るく突き進むなかに、人間としての成長があるのだ。
30  希望(30)
 山本伸一は、翌五日に福井の幹部会に出席するため、この日、滋賀の琵琶湖研修所(現在は滋賀研修道場)に移動することになっていた。
 その移動の途中も学園に電話を入れ、生徒たちの様子を聞くとともに、全員にアイスクリームを配るように伝えるなど、こまやかな配慮を重ねるのであった。
 彼が研修所に到着したのは夕刻であった。
 しばらくすると、女子学園の校長の牧原光太郎ら三人の教師が、プール開きの報告に来た。
 伸一は、生徒たちが元気であったことを聞くと、胸をなで下ろした。
 「それはよかった。みんな、立派に成長しているね……」
 牧原は大きく頷き、ガリ版刷りの新聞を差し出しながら言った。
 「はい。生徒たちの成長は著しいものがあります。この学校新聞も、生徒が作りました。
 名前は『創価女子新聞』といいまして、これが創刊号でございます」
 伸一は、その新聞を、一行一行、丹念に読み始めた。生徒が必死になってガリ版を切り、爪の先までインクまみれになりながら印刷する光景が、彼の脳裏に浮かんだ。
 「よく頑張ったね。内容にも明確な主張があり、意欲的だね。
 文を書くことは自分の思想を培うことになる。将来は女子学園生のなかから、一流のジャーナリストも出てほしいね。
 この新聞は、どのぐらいのサイクルで発刊するんだい」
 「週刊です」
 原野秀美が答えた。彼女は、この編集委員会の顧問であった。
 「週刊か。すごいね。大変かもしれないが、持続は力だよ。
 何があっても投げ出さずに続けていくならば、そこから新しい道が開かれるものだ。十年続ければ、大変な歴史と伝統ができる」
 「はい。みんな燃えています。新聞を通して全校生の意識を啓発していくとともに、学園建設の記録を残していこうと決意しています」
 「ぼくは毎号、隅々まで読むからね。一番の愛読者になります」
 以後、新聞は毎週一回の発刊を続け、そのたびに、伸一のもとにも届けられた。彼は、毎回、女子学園のことを生命に刻みつけようとするかのように熟読したのである。
31  希望(31)
 牧原光太郎は、それから、カセットテープと譜面、歌詞の書かれた紙を山本伸一に差し出した。
 「実は、生徒たちが愛唱歌を完成させました。
 二曲ございまして、中学の生徒が作詞したものが『未来をめざし』で、高校の生徒が作詞したものが『この広い空をかけよう』です。
 作曲は、どちらも、ここにいる音楽の田宮先生がいたしました。
 山本先生に、ぜひ、お聴きいただきたいと思いまして、お持ちいたしました」
 早速、テープをかけてもらった。明るい、希望が広がる歌であった。
 「どちらもいいね」
 そして、作曲者の田宮泰通に言った。
 「曲も、大変にすばらしい。あなたは大作曲家ですね」
 田宮は、大阪学芸大学の音楽科出身で、それまで大阪府の市立中学校に勤務していた、三十代後半の温厚な性格の教師であった。
 彼は顔を赤らめ、「ありがとうございます」と言って微笑んだ。
 伸一は、声を出して、歌詞を読み始めた。
 「交野の丘に 朝がくる……」
 そして、しみじみとした口調で語った。
 「まだ入学式から二カ月もたっていないのに、早くも生徒たちが、新聞をつくり、愛唱歌をつくる。いじらしいほど真剣じゃないですか。
 一つ一つが真心の結晶です。嬉しい。本当に嬉しい」
 それから、牧原校長に言った。
 「いい歌詞だが、最高のものにするために、少しアドバイスさせてもらっていいだろうか」
 「はい、ぜひ、お願いいたします」
 「たとえば一番の『良識学び 育ちゆく』のところは、『良識の道 光満つ』にしてはどうだろうか。そして……」
 伸一は、鉛筆を手に、真剣に歌詞を検討し始めた。生命を凝結させての作業であった。
 「これは、あくまでも私のアドバイスであり、一つの案です。学園に持ち帰って、作詞者をはじめ、皆に諮って、どうするか決めてください。
 どこまでも中心は生徒です。生徒に了解を求めることが大事です」
 教師たちは、伸一の直し案の入った歌詞をもって、喜々として帰っていった。
32  希望(32)
 山本伸一が愛唱歌の歌詞を手直ししてくれたことを聞くと、生徒たちの喜びはひとしおだった。
 作詞をした生徒は、自分の歌詞では女子校らしさが出せずに不満足であった。
 しかし、伸一の直し案を見ると、まさに自分が表現したかったことが十二分に引き出されており、優雅な雰囲気が漂っているのだ。
 皆、伸一の案に大賛成であった。生徒たちは、早速、喜んで歌い始めたのである。
 六月下旬、伸一からフランスのロワールの写真が学園に送られてきた。ヨーロッパ訪問の折に、彼が撮影したものだ。
 ロワールは、その美しき自然に、伸一が最も魅了された天地であった。
 写真は三枚あった。
 鮮やかな緑の葉をつけた木々の中に、真っすぐにのびる一本の道を撮った写真の裏には、こう認められていた。
 「ロワールには 詩があった。絵があった。曲があった。
  ロワールには 人間がいた。自然がいた。太陽と星がいた。
  そして ロワールには 自分がいた。 平和がいた。
  わが娘たちに贈る。  伸一」
 生徒たちは、「わが娘たちに」との、伸一の言葉を目にすると、歓声をあげた。
 また、別の写真には、「いつの日か あなた達と共に ロワールの大地に 歩みゆく事を 願いつつ」とあった。
 彼がロワールの写真を贈ったのは、女子学園生に世界を身近に感じてほしかったからだ。
 「世界はきみたちに大きく開かれている。どしどし遠慮なく進むがいい」とは、文豪ゲーテの青年たちへの呼びかけである。伸一も、同じ思いであった。
 世界を見聞し、グローパルな視座に立って民衆の幸福を考える、教養と品格のある一流の女性に育ってほしいというのが彼の願いであった。
 この日から、いつかロワールを訪れることが、女子学園生の一つの目標となっていった。
 そして、その夢は、十四年後の一九八七年(昭和六十二年)に実現するのである。
 卒業生の代表が、フランスに滞在中の伸一のもとに駆けつけ、ロワールを訪問したのである。
33  希望(33)
 入学式から五カ月後の九月、山本伸一は開校後三度目となる、創価女子学園の訪問を果たした。
 最初の学園祭となる、第一回「希望祭」に出席するためであった。
 伸一は「希望祭」前日にあたる十三日の夜、学園に到着し、数人の教職員と校内を回った。
 小雨の降るなかの視察であった。
 中庭に一体のブロンズ像があった。吹雪に向かうかのように、コートを着てフードを被り、さっそうと胸を張る少女の像であった。
 伸一は、校長の牧原光太郎に尋ねた。
 「この像を、皆はなんと呼んでいるんですか」
 「『雪国の詩』という題の作品だったようですが、今は定まった呼び名はありません」
 「では、名前をつけましょう。そうだな、『負けない乙女』の像としてはどうだろうか」
 校長が答えた。
 「すばらしい名前だと思います」
 「まだ、ほかの案も考えてみますが、どんな、困難にも負けない、学園生の象徴です。明日、生徒たちと、命名を記念して、除幕式を行ってはどうでしょうか。私も出席します」
 「ありがとうございます。また一つ、生徒たちの思い出ができます」
 伸一が構内を歩いていくと、今を盛りと花を咲かせている萩が夜目に見えた。東京の創価学園から贈られた萩である。
 彼は、その萩も「姉妹の萩」と命名し、さらに「友どちの道」など、道にも名をつけた。
 伸一は牧原に言った。
 「どうすれば、みんなが希望をもち、楽しく、有意義な学園生活が送れるのか、必死になって知恵を絞っていくことが大事です。それが教育者の生き方です。
 知恵というのは、懸命な一念、真剣さから生まれます。
 花にせよ、道にせよ、よい名前をつければ愛着がわくし、ロマンがあふれる。たとえば、さっきの銅像だって名前がつけば、苦難に負けないための誓いの像になる。
 名づけるということは意味を与えることになるんです。意味とは、価値ということです。
 意味を見いだすことは、人間の心を豊かにし、生き方を変え、価値の創造につながっていく。その教育が創価教育ではないですか」
34  希望(34)
 山本伸一は、校内を一回りしたあと、校長の牧原光太郎と別れた。
 牧原は、″山本先生はこれでお休みになられるのだろう″と思った。
 ところが夜更けて、伸一から連絡が入ったのである。
 少女の像の名を、『負けない乙女』から、『希望の乙女』に変えたいとのことであった。
 少しでもよい命名をしようと、深夜まで考え続けてくれる伸一の真剣さに、牧原は深い感動を覚えた。涙があふれた。
 何事も、「小事」の積み重ねが「大事」となるのだ。
 瞬間瞬間、自分は何をなすべきかを考え、そのテーマに向かって全力で取り組む。その積み重ねのなかに、大業の成就があり、大勝利があるのである。
 翌十四日は、待望の第一回「希望祭」を祝賀するかのように、雨もあがり、晴れ渡る空に、秋風がさわやかに吹き抜けていた。
 父母たちも、この日を楽しみにし、成長した娘の姿を一目見ようと、全国各地から喜々として集ってきた。
 初の「希望祭」を記念して、伸一は詠んだ。
 晴れやかに  乙女ら はずむ 希望祭
 模擬店の並ぶ校庭では、青い服、赤い服に身を包んだ鼓笛隊が軽やかな調べを奏で、校舎の中には、生徒の作品などの展示コーナーもあった。
 伸一は、この日、体育館で全体集会として行われた「交野秋の夕べ」に出席した。
 生徒たちと一緒に、体育館のフロアに座って、共に演技を観賞したのである。
 「交野の四季」と題する童謡のメドレーに始まり、扇を使った日舞「青春の譜」、モダンダンス「青春と平和」と進んでいった。
 日舞も、モダンダンスも、すべて生徒による創作である。
 そして、舞台はコント「授業風景」に移った。
 チョッキを着てネクタイを締めた、副校長の永峰保夫に扮した生徒が登場した。動作も話し方も、本物そっくりである。
 その巧みなものまねが爆笑を誘った。伸一も大笑いした。
35  希望(35)
 続いて創作劇「最後の一句」が始まった。
 原作は森鴎外の同名の小説だが、設定などは大幅に変えた脚本になっていた。
 ――舞台は江戸時代。飢饉のさなか、年貢の厳しい取り立てに苦しむ民の姿を見るに見かねて、庄屋の太郎兵衛は立ち上がり、お上に直訴する。
 しかし、見せしめのために捕らえられ、死罪を言い渡される。
 父を救おうと、娘の「おいち」と、その妹、弟が代官所に行き、自分たちの命と引き換えに、父の命を救ってほしいと願い出る。
 子どもたちも捕らえられるが、「おいち」は父の真実と正義を訴える。
 「父は、人の幸福を一途に願う平凡な人間なのです……」
 懸命な、理路整然とした訴えに代官は、遂に父子共に釈放するのだ。
 崇高な理想に生き抜く父子の誓いを込めた、迫真の演技であった。
 来賓たちは、生徒の清純な魂の叫びを聞く思いで、涙を潤ませながら万雷の拍手を送った。
 次に生徒が創作した「交野音頭」が披露された。浴衣姿で、楽しく賑やかに歌い踊る様子は、体育館に花が咲き薫ったようであった。
 ここで生徒から、近隣の人びとに、感謝の心を込め、風流なススキの束が贈られた。
 生徒たちは、地域の人たちの恩を、強く感じていたのである。
 最後に、創立者としてあいさつに立った山本伸一は、まず、この第一回「希望祭」を記念して、図書二千冊を贈呈したいと述べ、その目録を生徒の代表に手渡した。
 さらに、鼓笛隊、模擬店、設営等を担当した生徒の代表にも記念品や花束を贈った。
 「ありがとう!」
 伸一は、何度も感謝の言葉を口にしながら、各部門のメンバーに記念の品々を手渡していった。
 彼は、この日のために生徒たちが、来る日も来る日も厳しい練習を重ね、また、準備に奔走してきたことを、皆からの手紙などで、よく知っていた。
 だからまず、その苦労を最大にねぎらい、賞讃したかったのである。
 一人ひとりの見えざる努力や苦労に光を当て、讃えていく時、それは、何ものにも勝る最大の励ましとなり、勇気を呼び覚ましていく。
36  希望(36)
 山本伸一は、さらに来賓らに丁重に御礼を述べたあと、ユーモアを交えて語り始めた。
 「いやー、恐れ入りました。副校長先生にそっくりな、上手なものまねなんで驚きました。
 どの演技も本当にすばらしい。まさに百点満点の『希望祭』です」
 大きな歓声と拍手が体育館を揺るがした。
 「皆さんは、道なき道を開き、『希望祭』というすばらしい伝統を創ってくださった。その苦労は、十年先、二十年先に開花するための、偉大なる人間教育の養分となることを、私は強く確信しております。
 人間の偉大さは、自分のためだけに生きるのか、自他共の幸福のために生きようとするのかによって決まるといえる。
 後輩のために尽くし、先駆を切って道を切り開く――それは最も尊く、真の誇りと喜びにあふれた行為であります。
 どうか皆さんの手で、この創価女子学園を、新しき時代を築く″平和の女性″を育む、日本一、いや、世界一の学園にしてください」
 再び大拍手がわき起こった。世界一の学園を断じて建設しようという、決意の拍手であった。
 成長も、成功も、勝利も、その源泉は「意を決める」ことにこそある。ゆえに、決意を促すことは、教育の源泉であり、人材育成の根幹である。
 「希望祭」のあと、伸一は、「希望の乙女」像の除幕式に出席し、さらに校内を回った。
 「あっ、山本先生だ!」
 彼の姿を見ると、生徒たちは歓声をあげた。
 伸一が中庭で生徒と語り合っていると、「希望祭」を記念して作った大きなケーキが運び込まれた。
 「みんなで食べよう」
 彼は自らナイフでケーキを切り、配り始めた。
 「娘たちにサービスしなくちゃ。さあ、召し上がれ!」
 カメラを抱え、両手がふさがっている生徒を見ると、口にケーキを運んで食べさせた。
 いつしか彼の手は、クリームで真っ白になっていた。
 「先生。手がクリームだらけで真っ白ですよ」 その生徒の頬にも、クリームがついていた。
 「あなたの顔にも、いっぱいついているよ」
 「やだー」
 底抜けに明るい、笑いの渦が広がった。
37  希望(37)
 創価女子学園の「希望祭」には、来賓として市の教育長など、教育関係者も多数出席していた。
 ある来賓は言った。
 「生徒さんたちが、実に伸び伸びとして、それでいて、礼儀正しく、きちんとしている姿に驚きました」
 また、別の来賓は、純粋に創立者を求め、時には涙しながら、その話に聴き入る生徒たちを目の当たりにして、心から感動した様子で語った。
 「私はここに″教育″があると感じました。
 開校五カ月で、どうしてここまで絆が強まっているのか、学びたい思いです。本当の師弟一体の教育を見た気がしてなりません」
 師弟は、教育の原点である。伸一は、未来を託す人ゆえに、生徒を信頼し、尊敬し、尽くし抜いてきた。また、尊敬するがゆえに、生徒の甘えを排してきた。
 「教育の秘訣は生徒を尊敬することにある」とはアメリカの思想家エマソンの鋭い洞察である。生徒はその心に応え、頑張り抜くのだ。
 伸一は、模擬店などを一巡したあと、再び体育館に戻った。既に、館内はガランとしていた。
 彼は体育館の隅に置かれたピアノのところに行くと、鍵盤に向かった。ピアノの調べが響いた。
 ″大楠公″(青葉茂れる桜井の)の曲である。建武三年(一三三六年)、兵庫・湊川の戦いに赴く武将・楠木正成と長子・正行との別れを歌ったものだ。
 伸一は、歌詞のなかにある、正成が正行に言う「早く生い立ち……」の言葉を胸の中で反覆しながら、祈る思いで一心にピアノを奏でた。
 いつの間にか、何人もの教師や生徒たちが集まってきていた。伸一は、何度も、何度もこの曲を弾き続けた。
 ″大楠公″に託した創立者のあふれんばかりの期待を、誰もが感じた。激しく胸を揺さぶられる思いがした。
 乙女たちの頬には、誓いの涙が光っていた。
 伸一は、ピアノを弾き終えると、生徒たちに視線を注ぎながら語った。
 「みんな、早く力をつけ、立派に生い立っていくんだよ。
 ぼくは、そのためには、どんな苦労でもするからね。
 君たちはかけがえのない宝だ。いや、ぼくの命なんだ」
38  希望(38)
 夕方、山本伸一は、数人の学園生を車に乗せ、駅まで送ることにした。
 疲れた生徒たちの帰途を心配するとともに、通学路の様子を見ておきたかったのである。
 学園から河内磐船駅までは一本道である。
 両脇の田には稲穂が垂れ、のどかではあったが、舗装されていない場所が多いデコボコ道であった。雨が降れば、車が泥水をはね上げるにちがいない。
 車中、伸一は尋ねた。
 「歩くと、どのぐらいかかるの?」
 「二十分ぐらいです」
 「それは大変だね」
 「もう慣れました。健康になりますよ」
 こう言って、快活に笑う乙女たちの笑顔がさわやかだった。
 駅に着いた。
 「さようなら、気をつけてね」
 伸一は生徒たちの姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。できることなら、こうしていつも、生徒を見守っていたいと、彼は思った。
 伸一は、後年、通学路を喜々として歩む、創価女子学園の生徒たちの姿を詩に詠んだ。
 この道よ この一筋の この道 ああ 交野の路よ
 君よ 昇りゆく 朝日につつまれて
 いついつも あゆみし この道を 忘れまじ
 青春の あの日 この日を
 乙女の語らいし ああ 交野の路
 この詩に音楽の田宮泰通教諭が曲をつけ、女子学園生たちの愛唱歌となったのである。
 「希望祭」の日は、伸一は学園に泊まり、翌九月十五日、生徒寮の起工式に出席し、それから、島根、鳥取の会員の激励に向かった。
 そして、九月の二十日には、再び学園に帰ってきたのである。
 彼は、日々、生徒と一緒にいるわけではないし、授業を行うわけではない。
 それだけに、可能な限り学園を訪れ、生徒と行動を共にしながら、自分は自分の立場で、人間教育にあたろうと、必死であったのだ。
 状況のいかんではない。強き一念は、いかなる困難の壁をも破る。
39  希望(39)
 山本伸一は、十一月も十二月も、創価女子学園を訪れた。
 教職員とも、少しでも接触の時間をもとうと懸命に努力していた。
 関西の諸会合に出席して全精魂を注いで指導にあたり、それから、教職員に会うために、学園を訪問したこともあった。
 その日、既に時刻は午後八時半を回っていた。
 「たまには、一緒に卓球でもしようよ」
 伸一は、残っていた教職員に呼びかけ、卓球場に向かうと、ラケットを手にした。
 彼が疲労しきっていることは、誰の目にも明らかだった。
 だが、「生徒たちを頼みますよ」と声をかけながら、何人もの教職員と卓球に興じるのである。
 時とともに、伸一の息は次第に荒くなっていった。さらに疲れは増しているにちがいない。
 ″山本先生、私たち教職員のことは心配なさらずに、もうお休みになってください!″
 皆が、そう叫びたい気持ちであったが、一生懸命な伸一の姿を見ると、口には出せなかった。
 「さあ、あなたともやりましょう! 楽しい思い出をつくりましょう」
 伸一は、汗まみれになりながらも、なかなかラケットを放そうとはしなかった。
 ″創立者は、ここまでして教職員を励ましてくださる。私たちも、こうした心で、生徒のために尽くすのだ!″
 皆が心に誓っていた。
 卓球を終えると、男性の若手教員が言った。
 「先生! 今日は、幾つもの会合に出席され、そのうえ私たちのために卓球までしていただき、ありがとうございます。
 お疲れですから私たちが騎馬を組みます。お部屋まで乗ってください」
 「いいえ、とんでもありません。大事な先生方に、そんなことをさせるわけにはいきません。それに、かえって肩が凝っちゃいますから」
 「そうおっしゃらずに乗ってください。私たちは体力があり余っているんです。お願いします」
 次の瞬間、伸一の体は騎馬の上にあった。
 「オー」
 教員たちは雄叫びをあげた。そこには、創立者と一体になって、二十一世紀の平和を担う人材を育成しようという、教師の気概があふれていた。
 騎馬は、勢いよく走り始めた。
40  希望(40)
 若手教員たちが組んだ騎馬は、山本伸一を乗せて廊下を進んでいった。
 途中に、何カ所も梁があり、そのたびに伸一は、ヒョイと頭を下げなければならなかった。決して乗り心地がよいとはいえなかったが、皆の真心を大切にしたかった。
 伸一は、部屋の前で騎馬から降りた。
 「いやー、どうもありがとう」
 すると教員の一人が、改まった口調で尋ねた。
 「先生、ぜひ教えてください!
 私たちは、創立者である山本先生の教育哲学を実践し、理想の学園を築いていく決意ですが、そのために、最も大切なことはなんでしょうか」
 向上の意欲に燃える青年は、必ず質問をいだいているものだ。
 伸一は即座に答えた。
 「結論から言えば、教師は、すべてを生徒のために捧げ尽くすという姿勢に立つことです。
 それが創価教育の父である牧口先生の生き方であり、また、私の精神です。
 今日は遅いので、あとは、今後、ゆっくりと話し合っていくことにしましょう」
 この言葉通り、伸一はその後、教員たちと何度も懇談の機会をもった。
 男性の教員と、女子教育のあり方について語り合ったこともあった。
 「女の子は、男性教員を、男性のモデルとするものです。だから教師は理想的な男性をめざしてください。
 だらしない格好や振る舞いをするのではなく、いつもピシッとしているように心がけるべきでしょう」
 また、非行化などの問題に話が及ぶと、彼は言った。
 「どの学校でも、さまざまな問題があるものです。創価女子学園は例外だなどと、考えるのは間違いです。
 ただ、問題の芽を事前に見つけて、未然に防ぐための真剣さという面では、大きな違いがなければならない。
 それには、生徒一人ひとりのことを、よく知ることが必要です。
 また、問題が起こった場合には、すぐに対処していく迅速さが大切になる。初期のうちに、あるいは、問題が起こる以前に対処できれば、生徒が苦しんだり、行き詰まったりせずにすむ。
 教師の感度が鈍いと、生徒が不幸になってしまうんです」
41  希望(41)
 山本伸一は、さらに、教員たちに、こう語るのであった。
 「有名な女子校のなかには、親・子・孫と三代続いて通っているというケースも多い。そうなれば、すごい伝統となる。
 生徒が、自分の子どもも、孫も入れたいと思うような、そういう教育をしていくことです」
 教員たちは向上心にあふれていた。時には、伸一と共に懇談に出席した妻の峯子に、女性の視点から男性教員に対するアドバイスを求めることもあった。
 「女の子は集めて号令をかけても、心には入らないものなんですよ。一人ずつ、または少人数で、対話しながら教えていくことが女子教育の基本だと思います」
 創立者夫妻との語らいは、教員たちの貴重な財産になっていった。
 伸一は、一九七三年(昭和四十八年)の十二月に女子学園を訪問した折には、校長の牧原光太郎と共に、朝、校門に立って生徒を迎えた。
 寒い朝であった。吐く息は白かった。
 牧原が、雨の日も風の日も、毎朝、校門に立って生徒を迎えていると聞き、伸一は共に行動することにしたのである。
 生徒を出迎えると、顔色やあいさつの声で、体調はどうか、悩みがないかなども、だいたいわかるものだ。
 牧原校長の、校門での出迎えは、生徒一人ひとりを大切にする教育の在り方として、交野市近辺の中学や高校で話題になっていたのである。
 この日の朝、登校してきた生徒たちは、校長だけでなく、創立者までが立っているのを見て、驚いて頬を紅潮させた。
 「あっ、山本先生だ!おはようございます」
 寝ぼけ眼で登校してきた生徒も、伸一を見るとシャキッとした。
 伸一は牧原に言った。
 「この出迎えを続けていけば、女子学園の美しい伝統になりますね。
 法華経には『当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし』(創価学会版法華経677㌻)とあります。
 これは、法華経を持つ人への接し方を説かれたものですが、創価の人間主義の精神でもあります。
 使命深き未来の宝である生徒にも、同じ心で接するべきではないでしょうか。それが、創価教育の姿です」
42  希望(42)
 この訪問の折、山本伸一は食堂で行われた下宿生と自宅通学生の交歓会にも出席した。
 この交歓会は、二学期の試験を終え、下宿生の帰省を前に、友好を深め合うために開いた集いであった。
 伸一は、交歓会の最後に、会場に姿を現した。最も大変な思いをしている下宿生を、最大に励ましたかったのである。
 彼女たちは、小学校、中学校を出たばかりの年齢で、親元を離れ、掃除も洗濯も、全部、自分でしなければならない。
 白いシャツと色物を一緒に洗濯し、赤く染めてしまった人もいた。セーターを締めてしまった人もいた。
 下宿生活に、なかなかなじめず、ホームシックにかかる人もいた。
 しかし、下宿生は、そうした悩みを一つ一つ乗り超え、大きく成長してきた。
 それは容姿にも現れ、顔つきも、しっかりしたものになっていた。
 苦労は人間を鍛え、精神の成長の滋養となる。
 伸一は語った。
 「下宿生活は、苦しく辛いこともあるかもしれない。今は、下宿なんかしたくないと思うこともあるでしょう。
 しかし、皆さんは、親元を離れ、自立への第一歩を踏みだした。
 今、皆さんが『大変だな』『めんどくさいな』と思う、掃除や洗濯、また、生活の自己管理は、人生の基本であり、極めて大事なことなんです。
 それがきちんとできないために、大人になって失敗していくケースもあります。
 そう考えると、下宿生活で体験したことは、人生のうえで、大学の四年間で学ぶのと同じぐらいの、大きな価値があるともいえます。
 それはすべて、生涯の得がたい財産となり、苦しかったことも、最高の思い出になります。
 将来、下宿をしていてよかったと思う時が必ずあるはずです。
 どうか、これからも、明るく、元気に頑張ってください」
 そして彼は、生徒の代表と一緒にピアノに向かい、「早く生い立て」との祈りを込めて、また、あの″大楠公″の曲を弾いたのである。
 その後も、皆と昼食をとりながら、一人ひとりの報告に耳を傾けた。
43  希望(43)
 この日、山本伸一と一緒にピアノを弾いた下宿生は、後日、創立者との交流を振り返り、詩を詠んでいる。
 「お父さんのピアノ、力強くて、優しくて
 お父さんの手、大きくて、あったかくて
 お父さんの目、キラキラして
 お父さんの肩からは、いつも優しさがあふれて
 ほんとうにすてきな私たちのお父さん……
 でも、そのお父さんが卓球の時
 とても苦しそうに胸をたたかれる。
 はじめは、びっくりして、そして涙が出そうになる」
 それは全生徒の気持ちであったといってよい。
 彼女たちは、せめて伸一が学園に帰ってきた時には、「体を休めてもらおう。心配をかけないようにしよう」と、語り合うのであった。
 開校から早くも一年が過ぎた。二期生の入学式は、一九七四年(昭和四十九年)の四月九日に行われたが、山本伸一は、これには出席することができなかった。
 三月七日から四月十三日にかけて、北・中・南米を訪問し、平和への道を開くために、懸命に奮闘していたのである。
 彼は入学式には、ロサンゼルスからメッセージを送り、二期生の出発を祝福した。
 その後も伸一は、五、六月に中国、九月にソ連を初訪問するなど多忙を極め、女子学園の訪問が実現したのは、十月半ばのことであった。
 第二回「希望祭」を二日後に控えた十六日、伸一は校内を回った。
 彼は″みんな元気だろうか。二期生が学園生活になじんでいるか″と、心配でならなかった。
 だが、行き交う生徒たちの明るい表情を見て、ほっとした。
 昼には、学園生との昼食会が予定されていた。
 伸一は、早めに食堂に向かうと、そのまま厨房に入った。
 学園生が育つうえで最も大切な食事を担い、陰で黙々と学園を支えてくれる人に、御礼に伺わなければならないと思っていたのである。
 伸一は、常に陰の担い手への、深い感謝を忘れることはなかった。その方々に、最高の敬意を表し、賞讃することから人間主義は始まるからだ。
44  希望(44)
 厨房に現れた山本伸一は、食堂の関係者に語りかけた。
 「いつもありがとうございます。また、今日はお世話になります」
 こう言って深く頭を下げる伸一に、皆、驚きを隠せなかった。
 さらに彼は、「今日はせめてもの御礼に、私もお手伝いさせていただきます」と言うと、手を洗い、エプロンを着け、昼食のメニューであるミートボールのケチャップ煮を、皿に盛り始めた。
 その時、昼食の準備のために、配膳係の生徒たちが食堂に来た。
 カウンターの向こうにいる伸一の姿を見つけると、目をパチクリさせながら声をあげた。
 「先生や!」
 伸一は笑顔で応えた。
 「やあ、ご苦労様。
 今日は特別に、たくさんミートボールを入れておいたからね」
 生徒たちは、満面に笑みを浮かべ、伸一が盛った皿を運んだ。
 それは、ほのぼのとした父子の共同作業の光景であった。
 伸一は、生徒と席を並べて食事をした。笑顔の語らいが弾んだ。
 この会食の席で、伸一は、少女の人形を生徒の代表に手渡した。
 セーターを着て帽子を被り、ネコの入ったカゴを手にした人形である。これは、九月に伸一がソ連を初訪問した折に、モスクワの少年少女から贈られたものであった。
 その時、彼は、この人形を「モス子ちゃん」と命名し、日本の少女を代表して、創価女子中学・高校の生徒に贈ることを約束したのである。
 伸一は言った。
 「これは、私とソ連の少年少女との友情の証です。その友情の道を皆さんに受け継いでいただきたい。
 友情は信頼の結実であり、人間性の輝きです。
 皆さんは、イデオロギーや国家の壁を超え、人間として友情の絆を世界に結んでいってください。それが私の願いであり、皆さんの使命です」
 学園生は人類のために貢献してほしいというのが、伸一の願望であり、祈りであった。
 この日、彼はソ連訪問の記録映画の上映会や卓球大会に出席し、さらに、生徒と記念のカメラに納まった。
 そして、夜には、この年の春にオープンした生徒寮である「月見寮」にも足を運んだ。
45  希望(45)
 月見寮で山本伸一は、寮生に菓子をプレゼントし、女学校で寄宿生活を送った偉人たちの話などをしながら、青春時代の苦労は未来の財宝であることを語った。
 また、日夜、寮生の健康を気遣い、面倒をみてくれる管理者夫妻の部屋にも立ち寄り、感謝の思いを伝えた。
 その時、管理者室の電話のベルが鳴った。
 伸一は、素早く、受話器をとった。
 「はい、月見寮です。山本でございますが、どうも初めまして……」
 「はあ、山本さん?」
 中学生の寮生への、母親からの電話であった。
 この母親は、いつもと様子が違うことから、一瞬、戸惑いを覚えた。
 だが、二日後に「希望祭」が迫っているので、″きっと創立者の山本先生が訪問しているのだろう″と思った。
 「……あっ、先生!
 こちらこそ、娘が大変にお世話になります」
 伸一は、管理者に、その寮生を呼びに行ってもらった。
 その間に、彼は母親と話をした。
 「今は、お母さんも寂しいでしょうが、娘さんは一生懸命に頑張っておりますよ。
 創価女子学園は最高の教育をしています。この恵まれた環境で学んだことの意義は、四十代、五十代になった時にわかります。安心してお任せください」
 彼は、母親の不安を取り除きたかった。安心があれば、元気が出る。力がわく。ゆえに不安を取り除くことこそ、リーダーの役目である。
 ほどなく、中学生の娘が管理者室に来た。
 彼女が通話を終えて受話器を置くと、また、すぐに電話が鳴った。
 今度も伸一が受話器をとった。
 高校生の寮生に、妹からの電話であった。
 「管理人の山本です。お呼びしますので、しばらくお待ちください」
 姉が電話口にやってきた。実家から送った荷物が届いたかを確認するために連絡してきたのだ。
 姉は、電話をしてきた妹に言った。
 「今、電話に出た人、誰かわかる? 山本先生やで! ……ほんまや! ほんまにほんまやて!」
 伸一はつぶやいた。
 「どうも、信用しないようだね」
 爆笑が広がった。
46  希望(46)
 この夜、山本伸一は、校長の牧原光太郎から、寮への指針をいただきたいとの強い要請に応え、色紙に筆を走らせた。
 「健康美」
 そして、その裏には「わが娘の月見寮に諸天よ護れと祈りつつ」と記したのである。
 伸一は、親元を離れて暮らす寮生や下宿生には特に心を砕いていた。
 母親や父親が病気で入院したという生徒がいると聞けば、すぐに呼んで励まし、その場から実家にも電話を入れ、家族も激励した。
 彼の行動は迅速であり、手の打ち方は的確であった。それは権威主義や形式主義を排して、常に生徒のなかに入ることを、最優先していたからであるといってよい。
 キューバの英雄ホセ・マルティは断言する。
 「偉大な事業が成功するか失敗するかは『細かい配慮を配るか否か』にかかっている」
 十月十八日には、第二回「希望祭」が「未来にかける創造のシンフォニー」をテーマに、
 教育関係者、地元来賓、父母などを招いて、盛大に開催された。
 鼓笛隊は、さっそうとパレードを繰り広げ、人形劇やフォークソングの演奏、弁論大会なども行われた。
 校庭の模擬店には乙女たちの元気な声がこだまし、校舎の中では、生物クラブや家庭科クラブ、美術クラブなどが、研究の成果や作品を展示し、発表していた。
 「希望祭」の全体集会の会場は、今年は体育館ではなく、グラウンドであった。色づき始めた交野の山々を背景にステージが設けられ、虹を模したバックパネルには「万葉フェスティバル」の文字が躍っていた。
 全体集会では、リズムダンス、コント、なぎなたの模範演技、日舞、マンドリンやギターの演奏などが続いた。
 演目の最後は「マイ・フェア・レディ」と題する、学園生活を再現したミュージカルであった。
 シナリオも、衣装も、演出も、生徒たちが考案し、学園に織りなされる友情物語が、感動的に描かれていた。
 第二回「希望祭」は、演技にも、展示にも、設営にも、美事に創造性が開花し、この一年の大きな成長を感じさせた。
47  希望(47)
 全体集会では、来賓を代表して、交野市の市長があいさつに立った。
 「鳩が飛び、赤トンボが舞う希望祭――。
 創価女子学園の皆さん、よくここまでしてくださいました。この交野の地に来てくださって、本当にありがとう。
 本日は、すばらしい行事に、よくぞ参加させていただいたと感謝にたえません」
 感極まった声である。
 そして、市長は、こう語ったのである。
 「開校当時には、さまざまな障害があり、率直に言って、決して、積極的に、女子学園の開校に力添えできたとはいえません……」
 学園の開校にあたって障害があった――生徒たちにとっては、初めて聞く話であり、驚きを隠せなかった。
 市長は、感無量の面持ちで、言葉をついだ。
 「しかし、今、生徒さんのこのような熱演の姿を見て、女子学園を、わが交野の地に迎えることができて、これほど嬉しいことはないとの感にひたっています」
 市長は頬を紅潮させ、学園への期待を語って話を終えた。
 生徒たちは、ただ、創価女子学園生の誇りに燃えて、一人ひとりが学園の代表であるとの思いで、地域の人びとに接してきた。
 また、地域を大切にするのは、創立者から学んだ当然の礼儀と考えて、行動してきたのである。
 物事の真実も哲学も、人の振る舞いのなかにこそ表れるものだ。
 地域の人びとは、生徒の明るく、礼儀正しい、はつらつとした姿に触れるなかで、学園への理解を深め、学園を心から応援してくれるようになっていったのである。
 信頼とは、日々の誠実な行動の積み重ねによって、獲得されるものといえよう。
 創価女子学園に、地域の信頼という勝利の旗が、また一つ高々と翻ったのである。
 最後に創立者の山本伸一のあいさつとなった。
 彼はまず、地域と学園の繁栄を願い、万歳三唱を提案した。
 「万歳! 万歳! 万歳!」
 その声は、交野の山々にこだました。
 それは、生徒の、教職員の、そして、学園を支えてくれたすべての人びとの、勝利の雄叫びでもあった。
48  希望(48)
 創価女子学園の開校三年目となる一九七五年(昭和五十年)の入学式には、中学一年から高校三年まで、全六学年がそろった。
 入学式は、四月九日であったが、山本伸一のスケジュールは多忙を極め、出席することは難しかった。しかも、十四日からは、第三次訪中が控えていたのである。
 しかし、″なんとしても生徒たちと会いたい″と、思案を重ねた末に、女子学園を訪ね、関西から中国へ出発しようと決めたのである。
 学園に到着した十二日には、新たに採用になったという三人の男性教員と校内で語り合った。社会科の狩田俊介と谷内哲朗、英語科の松中誠司であった。
 彼らは、東京の創価高校、創価大学の一期生であった。創価大学はこの年、初の卒業生を送り出したのである。
 三人のことは、伸一も高校生のころからよく知っていた。
 なぜ、彼らは教職の道を選んだのか――。
 三人とも、高校時代から創立者に接し、伸一が全精魂を注ぎ、生命を削るようにして、生徒、学生を励ます姿を目の当たりにしてきた。そこに、生徒一人ひとりを思う情愛と、教育への炎のごとき熱情を感じた。
 その激励、指導によって、使命を自覚し、勇気を得て、大きく成長していった同級生たちは、枚挙にいとまがなかった。いや、何よりも彼ら自身がそうであった。
 彼らは、伸一を通して人間教育のすばらしさを知ったのだ。
 そして、″自分も、山本先生が生涯をかけた教育という大事業の一端を担いたい。自分の手で創価教育の後輩を育成し、師匠の恩に断じて報いたい″との思いをいだいて、伸一の創立した学校の教師になることを強く希望したのである。
 ナチスと戦ったユダヤ人医師で教育者のコルチャックは「よりよい未来のために、生き、働き、闘うことが最大の幸福なのだ」と高らかに宣言している。
 彼らも、そう実感していたにちがいない。
 伸一は、創価教育の出身者が、創価女子学園という兄妹校で教鞭を執る時代が来たことが、たまらなく嬉しかった。苦労して植えた種子が、今、芽吹き始めたことを感じたからだ。
49  希望(49)
 山本伸一は、創価教育出身の若き教師と、固い固い握手を交わしながら言った。
 「いよいよ、君たちの真価を発揮する時が来たね。おめでとう。
 未来をつくろう。未来のために生きようよ」
 「はい」
 決意に瞳を輝かせて頷く青年の顔が、すがすがしかった。
 翌日、伸一は、まだ記念撮影の機会がなかった二期生、そして、三期生となる新入生と共に、記念のカメラに納まった。
 高校の新入生のなかには、学園生を身近に見ていて感動した母親の強い勧めで、入学したという生徒もいた。
 彼女の家は、学園の通学路に面していた。
 一家は、創価学会には関心はなかったが、登下校する学園生たちが、道行く人、農作業に励む人たちに、さわやかにあいさつする姿に、母親は好感をいだいた。
 ″どの生徒さんも、明るく、真面目で、思いやりにあふれている。
 どうすれば、あのような教育ができるのだろうか……″
 母親は、創価学会について、悪い噂を耳にしたこともあったが、それが本当ならば、こんなにすばらしい生徒が育つわけがないと思った。
 そして、娘も、ぜひ、この学校で学ばせようと決めた。娘は、母の強い要請に従い、学園を受験した。娘も学園生への憧れがあった。
 人の振る舞いによって評価は大きく変わる。一人ひとりの行動こそが壁を破る力だ。
 面接の日の朝、母は娘に創立者の名前を教え、覚えるように言った。面接で尋ねられるかもしれないと思ったのだ。
 面接は保護者も一緒であった。母親の勘は的中し、担当の教師から「創立者の名前はご存じですね」と聞かれた。娘は、大きな声で答えた。
 「はい。山本伸介!」
 隣にいた母親が彼女の肘をつつき、「違うがな。伸一さんや、伸一さんや」と小声で教えてくれた。
 「あ、あの、伸一さんです!」
 元気に言い直したが、″これで落ちた!″と彼女は思った。しかし、結果は合格であった。
 ともあれ、学園は年ごとに評価を高め、地域の誇りとなっていたのだ。
50  希望(50)
 二期生、三期生との記念撮影を終えると、山本伸一は、女子学園生に語った。
 「明日から私は、中国にまいります。これが三度目の訪中になります。
 向こうでは北京大学、武漢大学、復旦大学などを訪問する予定です。皆さんが、必ず後に続いてくれることを信じて、教育交流を図り、日中友好の『金の道』を開いてまいります」
 そして、翌日、中国に向かったのだ。
 イデオロギーなどの厚い壁が立ちはだかるなかで、全力で友誼の道を開く中国の旅は著しく伸一の体力を消耗させた。
 そんな時、彼は学園生を思い浮かべた。
 ″自分には、後に続く若き友がいるのだ!″
 そう思うと心は燃え、疲れも吹き飛んだ。
 師の力の原動力は、弟子への期待である。
 次に伸一が創価女子学園を訪問したのは、秋十月であった。
 学園では、十月十日の「体育の日」に、「健康祭」と名づけた体育大会を予定していた。
 だが、この日、伸一には、どうしても外せぬ、東京での行事が入っていた。
 生徒は、伸一に「健康祭」を見てもらうことを楽しみにしながら、練習に励んできた。
 そこで、学園では、六日に予定していたリハーサルを「健康祭」の開幕行事とし、その席に伸一を招待することにしたのである。
 前日の五日は、雨であったが、生徒の願いが通じたのか、六日は抜けるような青空であった。
 午後一時、グラウンドで開幕行事が始まった。
 後方のくす玉が割れると、中から「お父さんお帰りなさい」の文字が下りてきた。
 応援合戦や障害物レース、棒引き、リレー、マスゲームなど、青春のエネルギーあふれる競技が繰り広げられた。
 皆、はつらつとして、楽しそうであった。
 しかし、高校三年生の表情には寂しさがあった。彼女たちは、半年後には、はや学園を巣立っていくのである。
 ″惜別の寂しさを胸にいだきながら、今日のこの時を、生命に刻む思いで、青春のすべてを注いでいるのであろう″
 伸一は、その心情が痛いほどわかった。
51  希望(51)
 やがて、山本伸一のあいさつとなった。
 彼は、「成長とは自分自身との戦いである」ことを述べたあと、明春、卒業していく高校一期生のことに話題を移した。
 「早いもので、一期生の皆さんが卒業していく日が現実となる時が来ました。
 友だちと、また先生方と離れ離れになっていくことは、人の世の定めとはいえ、寂しい気持ちでいっぱいであろうかと思います。
 これは先生方とも話し合ったことですが、皆さんの同窓会の名を、私は『蛍会』としてはどうかと思います。
 そして、この『蛍会』の集いで、私は、卒業生の皆さんと、いついつまでも、お会いしていきたいと思いますが、いかがでしょうか」
 大歓声と、賛同の大拍手が轟いた。
 「この学園では、蛍の飛ぶ姿を目にすることができる。
 また『蛍の光 窓の雪』という、向学、求道の姿を示した歌の一節もあります。
 そうした意味も含め、『蛍会』とさせていただいた次第です。
 卒業してからは、この『蛍会』の集いを自身の成長の節として、最高に充実させながら、尊い人生を生き抜いていただきたい」
 伸一の声に、一段と力がこもった。
 「皆さんには、家族をはじめ、人びとの期待と注目がある。
 また、社会に出ても、大学に行っても、さまざまな試練が待ち受けているでしょう。
 しかし、どんなに辛いことがあっても、それは一瞬にすぎない。
 生涯、嵐が吹き続けることなどありません。今日のこの天気のように、雨のあとは必ず晴れる。
 それを繰り返していくのが人生でもある。ゆえに、断じて負けてはならない。皆さんに『絶望』という二字はあってはなりません。
 私は二十一世紀に、いっさいの勝利をかけております。その二十一世紀に向かって、力の限り、頑張り抜いていただきたいのであります」
 高校一期生たちは、伸一の期待をひしひしと感じた。そして、自分自身と戦い、成長し抜いて、卒業の日を迎えようと決意するのであった。
52  希望(52)
 山本伸一は、一期生が卒業するまでに、できる限り学園に足を運ぼうと心に決めていた。未来に羽ばたきゆく彼女たちの胸を、黄金の思い出で満たしたかった。
 古賢は言う。「時は失うべからず」と。時を逃せば、飛翔の力を与えることはできない。今、やるべきことを、今、全力で行うことだ。
 だから伸一は、時間を割いては学園を訪ねた。
 年が明けた一九七六年(昭和五十一年)の一月十二日、彼は学園を訪問し、三日間にわたって滞在した。
 その間、伸一は、寮生の代表との懇談会や全校生徒との昼食会、「新春卓球大会」「かるた大会」と、さまざまな行事に、次々と出席していった。
 また、トランプの手品を披露したり、共にピアノを弾くなどして、生徒たちを元気づけた。
 学園を出発する前には生徒たちの下宿に歌などを贈り、皆を励ました。
 「ひまわり寮」には、次のような歌を詠んだ。
   ぶどうさく 金と銀との みちみちに 咲けやひまわり 幸の朝日と
 「青春寮」には、こんな指針を贈った。
   娘たちよ  長征なれば  忍耐づよく 青春の一生たれ
 さらに伸一は、校内を散歩し、駐輪場まで来ると、メモに、さらさらと一文を書いて、自転車の荷台に挟んで学園を後にした。
 やがて、授業が終わり、駐輪場に来た生徒たちが、そのメモを見た。
 ″なんだろう……″
 不審に思いながら、急いで開いてみた。
 そこには、こう書かれていた。
 「絶対に無事故でね。頼みます。伸一」――。
 メモを見た生徒の目頭が潤んだ。
 自分たちのことを、本当の娘のように心配し、無事故を願う創立者の心が痛いほど感じられた。
 人間は、慈愛を力として成長する動物といえるかもしれない。思いやりの強き心が、強き人を育てるのだ。
 そして、伸一は、二月にも、寸暇を惜しむようにして、女子学園を訪問している。
53  希望(53)
 遂に、その日は来た。
 春の陽光を浴びて、山々の木々は芽吹き、梅花がほころぶ、うららかな日であった。
 一九七六年(昭和五十一年)三月十三日、創価女子高校の第一回卒業式が、晴れやかに挙行されたのである。
 山本伸一は、卒業生にこう指針を贈っていた。
 園子よ いかなる厳しい生活と 社会の中にあっても 蓮華の花の如く 美しき心だけは 絶対に勝ち取れ
 伸一は、卒業式の会場にあって、三年前の入学式のことが、思い返されてならなかった。
 皆、今より、一回りも二回りも小さな体を、真新しい制服で包み、緊張した顔で瞳を輝かせて体育館に集っていた。
 その少女たちは、今、凛とした梅花のごとく、美事に咲き薫り、新しき世界に旅立とうとしているのだ。
 ″もう三年間たったんだな。早いものだ……″
 伸一は、深い感慨を覚えながら、一人ひとりに視線を注いだ。
 卒業式は、校歌斉唱、卒業証書授与と進んでいった。
 彼は、誇らかに卒業証書を受け取る生徒たちを見つめ、″ありがとう。開拓者たちよ″と、心で声援を送り続けた。
 祝辞のあと、在校生代表の送辞となった。
 登壇したのは、東京出身の横山昌子という生徒である。
 彼女は、卒業生たちとの思い出を述べたあと、一言一言、かみしめるように誓いを語った。
 「お姉さんのいない、これからの学園の建設には、思いもかけない苦しい問題が、必ず待ち受けているでしょう。
 自分たちの力のなさを思い知らされる時も、きっとあるにちがいありません。けれども、私たちは負けません。お姉さんとの建設の日々のなかで、この身に刻んだ不屈の精神があります。
 『誰がやるのでもない。私がやるのだ』と決めて、一つ一つの問題に取り組み、絶対に道を開いてみせます。
 社会の風潮がどんなに乱れていこうと、善悪をはっきり見極め、正しいことは正しいと言い切る勇気をもって、大好きな学園を守っていきます」
54  希望(54)
 山本伸一は、送辞を聞きながら、一期生が身をもって示してきた開拓精神は、美しき伝統となって、後輩たちに受け継がれていることを実感し、嬉しかった。
 いよいよ卒業生代表の答辞である。立ったのは兵庫県出身の香取泰子という生徒である。
 はつらつとして、誇らかな声が響いた。
 彼女は、青春の輝きに満ちた建設の日々を振り返っていった。
 「創立者が入学式で示された『伝統』『平和』『躾』『教養』『青春』の五項目の指針を、いかにして体得するかが、私たちの学園生活の目標でした。
 私たちは、この指針を、それぞれが持続の実践によって読み切ろうと誓い合ったのです。
 ある友は、三年間、無遅刻無欠席を通し、ある友は、毎朝早く登校しては、教室の清掃を続けました。
 また、通学時には誰もが、近隣の方々に、さわやかなあいさつを実践してきました。
 そして、『理想を秘めた″日常の行動″のうえに、見事な伝統が生まれ、花咲く』との創立者の指導を実感することができたのです。
 私たちの使命は、学園で培った『他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない』という信条を、自ら体現し、またその精神を訴え、人びとのなかに、平和の波動を起こしていくことであると自覚しています」
 答辞は、社会建設の使命感にあふれていた。来賓たちは、そこに創価教育の見事なる成果を見る思いがした。
 「卒業しても、学園を故郷として、毎年、戻ってきたいと思います。
 そして、何十年かたって孫ができても、共に学園を守っていく永遠の姉妹として、仲良く進んでいきましょう。
 山本先生は『希望の乙女』像を指して、『姿は女王、心は勇士』と教えてくださいました。
 優しくて聡明な女性として、しかも、人間としての芯を確立した、不動の人生――。
 私たちにとってその芯こそ、学園で生命に築いた″父と娘の絆″なのです。
 山本先生! 私たちは先生の胸中に輝く娘として、いかなる時代になろうとも、この絆だけは、生涯、離さずに、弟子の道を歩んでまいります」
55  希望(55)
 創立者のあいさつとなった。
 山本伸一は卒業生の目覚ましい成長に感動しながら、演台に向かった。
 彼は、第一回となる卒業式を心から祝福したあと、教職員、来賓、地元関係者らに、丁重に御礼の言葉を述べた。
 次いで、この卒業式をもって、創価女子学園の歴史・伝統の基盤ができあがったとして、こう訴えた。
 「この基盤を踏まえ、これからますます力強き伝統、光り輝く校風を建設され、『わが国の教育界に創価女子学園あり』と、万人から認められる、発展、繁栄をされますよう心から祈ってやみません」
 そして、友情の大切さに言及していった。
 「互いに生涯の友として、美しき信義を貫き通していただきたい。
 信ずるということ、信頼するということ――これこそが、人間にとって大いなる力である。
 私は、この言葉を、卒業へのはなむけとして、お贈りしたい」
 また、「人には、得手、不得手があるが、苦手な部分に負けることなく、得意な部分を存分に伸ばしていくことが大事である。
 それが、実社会での優等生への道である」と強調した。
 さらに、何があっても卑屈にならず、自分らしく、雄々しく開拓に進むことの大切さを語ったのである。
 伸一の話は短かった。長い講演をするのではなく、父が旅立つ娘に語るように、簡潔に真心のアドバイスをしたかったのである。
 卒業式の最後は、生徒が、この日のためにつくった「惜別の歌」の合唱であった。
 れんげ花咲く 交野路の 春の陽光に 浮かぶ学舎
 多くの卒業生が顔を上げ、彼方を仰ぐように歌っていた。
 明日からは離れ離れになると思うと、皆、涙が込み上げてきてならなかった。それを必死にこらえていたのだ。
 伸一は、心で語りかけていた。
 ″ありがとう。あえて私のつくった学園に学んでくれて。
 私たちは、生涯、同じ心で進もう。二十一世紀を頼むよ″
56  希望(56)
 卒業式のあと、山本伸一は、彼が一期生の入学式で贈った、「伝統・平和・躾・教養・青春」の五項目の指針を刻んだ碑の除幕式に臨んだ。
 さらに、卒業生の父母の真心で完成した「蛍の池」のオープニング式典や謝恩会にも出席した。
 彼は、卒業生たちに、何度も声をかけた。
 「何かあったら、会いにいらっしゃい。いつまでも一緒だよ」
 それは、卒業生の大きな希望となった。
 四月二日のことである。開館式を翌日に控えた関西戸田記念館にいた伸一のもとに、早速、数人の卒業生が、自分たちで作ったタンポポの押し花を持って訪ねてきた。
 そのなかに、浪人することになった四人のメンバーがいた。
 伸一は胸が痛んだ。ゆっくり時間をかけて、そのメンバーを励ましたかったが、この日は、時間が取れなかった。そこで、四日にも会うことにした。
 四日、伸一は彼女たちと学園で会い、さらに教職員との会食の席にも招いて、懇談した。
 「聞きたいことがあったら、なんでも言いなさい」と伸一が言うと、浪人することになった一人の卒業生が、不安そうな顔で尋ねた。
 「先生、女性としての浪人への心構えを教えてください」
 彼女は落胆しているのであろう、疲れ果てて見えた。また、浪人することによって、家族に経済的な負担をかけることにも、心を痛めているようであった。
 伸一は言った。
 「まず、惰性に流されることなく、一日のスケジュールを明確にして、規律正しい生活をすることです。
 また、勉強が大変かもしれないが、生活にメリハリをつける意味で、家事もしっかり手伝うようにしてはどうだろうか。
 これは、女性としての将来のためにも、家族への感謝を表す意味でも、大事なことです。
 この一年で、家事はすべて身につけてしまおうというぐらいの気持ちで、やってください。
 浪人という未知の経験をするんだから、当然、不安や悩みはある。
 しかし、ともかく一年間、本気で頑張ることです。そうすれば、この一年は、五年、十年に匹敵するものになります」
57  希望(57)
 山本伸一は、力強い声で言葉をついだ。
 「受験に敗れたことで暗い気持ちになっているかもしれないが、誇りをもちなさい。
 あなたは創価女子学園で、どこの学校にも負けない、女性としての最高の教育を受けてきたんですから」
 そして彼は、包み込むように微笑を浮かべた。
 「それに、長い人生にあって、一年や二年、浪人したとしても、どうってことないんだよ。
 そんなことで引け目を感じたり、肩身の狭い思いをする必要は全くありません」
 すると、別の浪人生が言った。
 「先生。でも、私としては、浪人は一年だけにしたいんです」
 外国語大学を受験したメンバーである。
 「そうか。立派な決意だ。でも、合格するのは難しいよ。一年で入れたら逆立ちしてあげるよ」
 「本当ですか。じゃあ逆立ちの練習をしておいてください。絶対に受かります」
 「よし、じゃあ、練習をしておこう」
 父と娘の、屈託のない対話であった。
 周囲の教員は、創立者の前でも物怖じせぬ教え子の態度に、はらはらしながら、やりとりを見ていた。
 浪人生たちは、伸一と語り合ううちに、次第に元気になっていった。
 スイスの哲学者ヒルティは、「人間が大きな進歩をするための道は、いつも苦しみによって開かれなければならない」と断言している。
 その苦しみに打ち勝つためには、何よりも励ましが必要なのだ。励ましは勇気の母となる。
 伸一は名門大学に合格した人のことよりも、浪人したメンバーのことを深く気にかけていた。
 成功した時はよい。しかし、失敗し、傷つき、悩み苦しんでいる時こそ、わがもとに来れ――それが、彼の真情であったからだ。
 伸一は、教職員に、浪人する人は何人ぐらいいるのかを尋ねた。そして、その家族の経済的な負担が少しでも軽くなればと、希望する人には、アルバイトも紹介することにした。
 彼は、この日会った卒業生たちと、明日もまた学園で会うことにした。乙女らの新しい飛翔のために、彼は徹して励まそうと決意していた。
58  希望(58)
 翌日、山本伸一は、創価女子学園で行われた寮生との会食会に、あの数人の卒業生らと共に出席した。
 伸一は、卒業生たちに提案した。
 「あなたたちが永遠に友情を結び合っていく意味から、このメンバーでグループをつくろうよ」
 彼女たちは、満面に笑みを浮かべて頷いた。
 「どういう名前にするかは、みんなで話し合って決めなさい」
 メンバーの一人が、すぐに答えた。
 「先日、先生に、みんなでタンポポの押し花を作ってお届けしました。タンポポで仲良くなったので、『たんぽぽグループ』がいいです」
 「そうだな。いい名前だね。
 『踏まれても 踏まれても なお咲く タンポポの笑顔かな』という詩があるが、君たちも、どんなに辛いことがあっても頑張るんだよ」
 「はい!」
 浪人することになったメンバーの顔にも、明るい光が差した。
 東京に戻った伸一に、このメンバーから、お礼の手紙が届いた。
 それぞれ、新たな決意に燃え、力強く勉強のスタートを切ったことがつづられていた。
 伸一は、すぐに和歌を贈った。
 春の野に たんぽぽ女王と 咲き薫れ 雨にも風にも 微笑わすれず
 色紙の裏には「ほほえましいお手紙 本当にありがとう。お父さんも元気です。娘たちと会う日を 心から愉しみにしております」と記した。
 また、伸一は、関西に来た時には、彼女たちに会って、励ましの声をかけるようにした。
 彼は生涯、″娘″たちの幸福を祈り、見守り続ける決意であった。
 ″創立者の真心にこたえよう″と、浪人生たちは必死になって、受験勉強に挑戦した。
 翌年、伸一のもとに、皆の「合格!」の朗報が届いた。
 トルストイは叫ぶ。
 「たとえ、相手が一人であっても、教育を軽んじてはいけない。これは、偉大な仕事なのである」
 伸一も、それを実感していた。その一人から歴史が始まるのだ。
59  希望(59)
 山本伸一は、その後も創価女子学園には、何度も足を運んだ。
 そのたびに生徒たちは「お父さん、お帰りなさい」と言って、彼を迎えてくれた。
 人間のなしうる最大の偉業は、人を育てることである。
 その労作業によってのみ、世界を、未来を変えることができる。
 それには生命を削る思いで、若き魂にぶつかることだ。石と石とがぶつかり合って火が生まれるように、生命の触発があってこそ、新しき創造がなされるからだ。
 一九七七年(昭和五十二年)の秋であった。 伸一の長男の正弘は、大学卒業を翌年に控え、進路に悩んでいた。
 正弘は慶応大学の法学部を卒業したあと、文学部史学科に学士入学し、中学・高校社会科の教諭免許取得にも取り組んだ。
 彼の人柄に触れた有名私立高校の関係者から、「うちの学校の教師に」との話もあった。
 しかし、彼は海外への留学や、大学院に進んで学者への道を歩むことも考えていたのである。
 また、正弘は知らぬ話であったが、伸一が会見した企業のトップのなかには、「ご子息を、ぜひわが社に」と、声をかけてくれる人も少なくなかった。
 厚意はありがたかったが、伸一は丁重にお断りした。正弘にも、そのことは言わなかった。
 自分の進路は自分で選び、自身に恥じない信念の道を歩み抜いてほしかったからである。
 伸一はよく、三人の息子たちに語ってきた。
 「偉くなる必要はない。有名人になる必要もないし、なってもらいたくもない。
 ただ、正しい信仰を貫き通して、どんな立場であっても、学会のために尽くしてほしい。
 学会に尽くすことが、世界平和にも、すべてに通ずることになる」
 息子たちも、伸一の気持ちは、十分に理解していた。
 ある日、進路について悩む正弘に、峯子は、一言、アドバイスした。
 「人間として生きるうえで、最も大事なことは報恩よ。
 あなたも学会にお世話になったんだから、学会に尽くしていきなさい」
 明快な進路指導であった。その一言で、正弘の心は決まった。
60  希望(60)
 山本正弘は、自分にとって、何がいちばん創価学会に貢献できるかを考えた。
 そして、できることなら、創価教育の場で尽力したいと思った。
 思えば彼は、東京の創価学園の入学式の日にも学園を訪れていたし、創価大学の起工式にも参加していた。さらに、関西の創価女子学園の入学式にも出席していた。
 正弘はそこに、父であり、師でもある伸一の、″創価教育の道に尽くせ!″という、意思と期待があったのではないかとも思えた。
 また、それが自分の使命であると感じられてならなかった。
 ちょうど女子学園で、社会科の教員を探していた時であった。正弘は就職を希望し、推薦してもらうことができた。
 そして、幸いにも採用が決まったのである。
 彼は、親元を離れて暮らすのは初めての経験であった。
 峯子は言った。
 「あなたは、東京生まれの東京育ちだから、ずっと東京にいるよりは、遠くで苦労することも、将来のための財産になるでしょう」
 伸一もまた、教師として新しい人生のスタートを切る正弘に、こうアドバイスした。
 「健康に気をつけ、学園のため、生徒一人ひとりのために、生命を燃やしていきなさい。
 まず、十年を目標に、忍耐と持続で頑張り抜くことだ。
 それが自分も勝利し、生徒も勝利し、学園も勝利することになる」
 初代会長の牧口常三郎も、第二代会長の戸田城聖も、共に教育者であった。伸一は教師ではなかったが、先師、恩師の構想と遺志とを実現するために、創価学園、創価大学を創立し、教育に最も力を注いできた。
 今、息子の正弘が教育者の道を選び、未来の人材育成に人生をかける決意を定めたことが、何よりも嬉しかった。
 一方、正弘は、父の伸一が、青年時代に全精魂を注いで築き上げた「創価の民衆城」ともいうべき関西の地で、社会人としての第一歩を踏み出すことに、無量の喜びと誇りを感じていた。
 一九七八年(昭和五十三年)四月、彼は奉職した。高校一年のクラスの副担任となった。
61  希望(61)
 初めて教壇に立った時、山本正弘は、心で叫んでいた。
 ″この生徒たちを、一人も漏れなく幸福にするための教育をするぞ!″
 彼にとっては、すべてが新たな経験であった。
 豊かで美しい自然に恵まれ、広々とした交野の学園は、おとぎの国のようにも思えた。
 また、男子校育ちの彼は、女子生徒の対応の基本から学ばなければならなかった。
 女子学園は、既に開校から五年がたっていた。正弘は、これまでに創り上げられた歴史と伝統を知ろうと、「創価女子新聞」を創刊号から集め、熟読していった。
 また、先輩教師から教えられた事柄はすべて実践し、自分のものにしていこうと決意していた。帰宅してからも、指導案づくりや教材研究に没頭した。気がつくと、よく深夜になっていた。
 その年の四月末、山本伸一が学園を訪問した。新入生である六期生の入学を祝う昼食会に出席するなどして生徒たちを激励したほか、教員の代表とも懇談会をもった。
 その時、自然保護が話題になった。
 伸一は、教員たちに尋ねた。
 「学園の近くには『蛍川』がありますが、最近も、この辺りには、蛍はいるんですか」
 教員の一人が答えた。
 「おりますが、大変に少なくなっています」
 「そうですか。残念ですね。水がきれいじゃないと育ちませんからね。きっと、環境汚染が進んでいるんでしょう。
 蛍は平和の象徴ともいえます。生徒のため、地域のために、蛍を呼び戻してはどうでしょうか。市民の方々も大喜びすると思います。
 また、交野は桜でも有名ですが、春には満開の桜で、新入生を迎えるようにしてはどうですか」
 教員たちは、たくさんの蛍が飛び交い、春には桜の花が咲き薫る交野を思うと、希望がわいてくるのを覚えた。
 伸一は言葉をついだ。
 「可能ならば、皆さんで担当を決めて挑戦してみてください。そこから生徒も、自然のすばらしさを学ぶと思います」
 伸一の提案を聞いて、教員たちは″自然を守るという新しい学園の伝統をつくろう″と誓い合ったのである。
62  希望(62)
 山本伸一の提案に、正弘もまた、胸を高鳴らせていた。
 ″地球環境を守るといっても、自分の身近な環境を守り、自然を育んでいくことから始まる。それができれば、生徒たちは、環境保護の大きな体験と自信をもつにちがいない″
 正弘は、一人の弟子として、伸一の教育思想を実践するために、蛍と桜の保護に取り組もうと決意した。
 教師たちは皆、真剣であった。
 蛍の保存・育成を買って出た、松尾繁男という数学の教師は、蛍の研究から開始した。
 さまざまな文献を読みあさり、蛍に関して知識の豊富な人がいると、どこへでも飛んで行って話を聞いた。
 また、深夜、川に出かけて行き、腹這いになり、蛍の幼虫を観察した。警察官から不審者と思われ、職務質問されたこともあった。
 さらに、蛍を育てるための人工の川を校内に造り、池から竹の樋で水を引いた。
 この川は「蛍の川」と名づけられた。
 蛍を育てるには、幼虫の餌となる「カワニナ」という貝を採取しなければならなかった。
 正弘も担当の教師と共に、この「カワニナ」を探りに歩いた。ズボンを泥だらけにしながら、川に入り、懸命に探した。
 ″必ず蛍を飛ばそう″
 教師たちの誓いは固かった。
 生徒たちの有志で蛍保存会もできた。
 伸一もまた、応援を惜しまなかった。
 鳥取を訪問した折には、たくさんの蛍を飛ばして歓迎してくれたメンバーに頼んで、蛍を分けてもらい、学園に送った。
 学園では、そのなかから雌を選んで、水槽の中で養殖を始めた。
 産卵から幼虫になるまで、毎日、水温や水質を調べながら、水をかえ、餌を与え、細心の注意を払い、根気強く育てた。
 しかし、わずかな環境の変化で、すぐに死んでしまう。何度か失敗も重ねた。だが、失敗に学んで、一つ一つ困難を克服しながら、幼虫へと育て上げていった。その労苦には喜びがあった。
 ゲーテは叫んだ。
 「小事によろこびを感じる人を見るならば思え
 彼はすでに大事をなしとげたのだ」
63  希望(63)
 一九七八年(昭和五十三年)十一月、山本伸一は、創価学会創立四十八周年を記念して、「環境問題は全人類的な課題」と題する提言を、聖教新聞紙上に発表した。
 そのなかで彼は、環境問題は全人類が避けて通ることのできない問題であると指摘し、「環境国連」の創設などを提唱するとともに、次のように訴えていた。
 「自然保護、環境増進の運動の土壌には、幅広い民衆の支持、コンセンサスが必要不可欠であります。
 自然とともに生きる人生観を信念とした人びとの、大いなる共感と支持があってこそ、この運動は、着実な歩みを進めることができるのであります」
 創価女子学園の教師も生徒も、この提言を目にすると、今、自分たちが推進している自然保護の運動に、大きな意義と誇りを感じた。それは、使命の深い自覚を促した。
 蛍の幼虫は、成長した段階で、校内に造った「蛍の川」に放流することになる。
 そして、川から陸に上がった幼虫がサナギとなり、成虫になる。そのために、幼虫が上陸できるように、土手を造らなければならなかった。
 十二月から一月にかけて、寒風が吹きつけるなかで、土を盛る作業が行われた。教師も、生徒も一体となって、喜々として作業に励んだ。
 山本正弘も、ジャージ姿で黙々と土を運んだ。輝く蛍が、交野の夜空いっぱいに舞う日を思い描きながら……。
 学園で養殖した蛍が、最初に飛んだのは、伸一が蛍の保護を提案してから一年後の、一九七九年(昭和五十四年)の五月のことであった。
 三匹の蛍が、ほのかな光を放ちながら、すーっと夜空に舞った。
 学園中に、大きな歓声がこだました。この三匹の″小さな飛翔″こそ、蛍の園が誕生する歴史的な第一歩であった。
 数は多くはなかったが、それから二週間余りの間、毎日、蛍の飛ぶ姿が見られた。源氏蛍も、平家蛍もいた。
 伸一は、その報告を聞くと、句を詠み、蛍の養殖に情熱を傾け続けてきた松尾教諭に贈った。
 ほたる飛ぶ  源氏も平家も  ともどもに
64  希望(64)
 創価女子学園の蛍は、年ごとに増えていった。
 また、学園の蛍保存会による蛍の飼育、観察、幼虫の放流などの活動が契機となって、地域にも蛍保存の運動が広がっていった。
 また、学園では、地域の人びとが、校内で蛍を楽しむための「蛍観賞週間」を設けた。
 さらに、近くの養護学校や熱海市などへ、蛍や幼虫を贈呈したのをはじめ、各地の河川に、幼虫の放流も行っていった。
 山本伸一が、学園の空に舞う、美しき蛍の群れを目にしたのは、一九八六年(昭和六十一年)六月のことであった。
 この日、学園を訪れていた伸一は、夜が来るのが待ち遠しくて仕方なかった。
 夕暮れを待って妻の峯子や正弘と共に、「蛍の川」の近くに立った。
 ほどなく、夕闇のなかに、幾筋もの緑の光が明滅しながら走った。
 何十、いや、何百という数であろう。夢を紡ぐかのような荘厳な光の乱舞であった。
 「美しいですね」
 峯子は感嘆の声をあげた。伸一が、うちわを前に出すと、一匹の蛍がゆっくりと近づいてきて、うちわの先にとまった。
 「平安朝時代に戻ったようだ。本当に美事だ」
 伸一の提案に応えて、立ち上がった教師の情熱の炎が、生徒に、地域に、燃え広がり、蛍は蘇ったのだ。
 そして今、生命の光を放って、満天の星のごとく、夜空を彩ったのである。交野の空は、美しき宝石箱となった。
 伸一は正弘に言った。
 「やったね。私は、この光景は永遠に忘れることはないだろう。
 奮闘してくださった方々に『ありがとう』と伝えてください」
 正弘は「すべての喜びは苦難から生まれる」との、ドイツの詩人ヘルダーリンの言葉をかみしめながら、大きく頷いた。
 帰途、伸一は、万感の思いで句を詠んだ。
  万葉が  今かと光らむ  螢かな
  優雅なる 宝石飛び交う  螢池
  王朝の  樹々に源氏の  螢かな
65  希望(65)
 創価女子学園では、桜の保存活動も着実に進められていった。
 学園の校内には、間引きしたものを譲り受けた桜も含め、数百本の桜の木が植樹されていたが、整備は、ほとんどなされていなかった。
 作業は、まず雑草を刈り、幹に巻き付いていた針金などを取り除くことから始まった。
 山本正弘は、この作業にも率先して参加した。彼は学園のため、生徒のためには、どんな労作業も厭うまいと、心に決めていた。
 最初の作業は、ほんの二、三人の教師から始まった。作業は重労働であった。
 しかし、″やがて、この学園が、美事な桜の園になるのだ″と思うと、滴り落ちる汗もまた、心地よかった。
 やがて、放課後には生徒も共に作業に加わるようになった。
 また、桜の本数や種類、幹の太さも調査し、校内の桜の分布図もつくられていった。
 手入れは功を奏し、年を経るごとに、桜は美しく咲き薫った。染井吉野や、しだれ桜など、十種類ほどの桜が絢爛と咲き競うようになった。
 学園では、毎年、四月の初めに近隣の人びとを招いて、「桜まつり」を行うことにした。
 女子学園は美しき「桜の園」となり、「友好の園」となったのである。
 このほか学園には、竹林や蓮、サザンカなどの保存会もつくられ、自然保護の運動が、輝ける環境教育の伝統となって定着していくのである。
 長男の正弘が創価女子学園の教員となった翌年(一九七九年)には、次男の久弘も創価大学の大学院を修了して、大学職員として母校に勤務することになった。
 また、三男の弘高も、創価大学を卒業し、八三年(昭和五十八年)には関西創価小学校(八二年開校)の教員となった。
 伸一も、峯子も、三人の子どもたちが、創価教育に従事するようになったことが、何よりも嬉しかった。
 伸一は、目を細めながら言った。
 「三人合わせると創価一貫教育だな」
 「本当ですね……」
 峯子も、満足そうに頷いた。
 それは、彼女の家庭教育の、一つの結実であったのかもしれない。
66  希望(66)
 社会科の教師であった山本正弘は、「政治・経済」も担当した。だが、教科書だけを使っての授業では、生徒の多くが関心を示さなかった。
 彼は「政治・経済」が、どれほど密接に生活に結びついているかを実感してほしかった。
 そこで、戦後を舞台にした小説も教材に使い、民衆の暮らしが、「政治・経済」のいかに大きな影響を受けているかを共に学習した。また、海外から引き揚げてきた経験をもつ教師に、体験を語ってもらったりもした。
 やがて生徒たちは、「政治・経済」に強い関心と興味をもつようになったのである。
 開校から九年後の一九八二年(昭和五十七年)、女子学園は転機を迎えた。男子生徒も受け入れることになり、名称も関西創価中学校・高等学校となった。
 この時、男子校であった東京の創価中学校・高等学校は女子生徒を受け入れ、創価学園は東西両校ともに、男女共学へ移行していったのである。
 両校とも、それぞれの特質を生かした教育が行われ、よき伝統が築かれてきたが、東京と関西の創価小学校は男女共学である。
 一貫教育のうえから、男女共に受け入れるべきだとの、意見が寄せられていたのである。
 実施の一年前に男女共学を推進する委員会が発足し、正弘は委員となって準備にあたった。
 協議を重ねた結果、中学は共学で、高校については、当初は男女別クラスでスタートすることが決まった。
 女子生徒だけの教育に慣れてしまった教師たちは、男子クラスの担任になることに躊躇があったようだ。
 正弘は、自分は男子校で学んできたことから、それならと、自ら名乗り出た。
 女子と違い、確かに男子は難しかった。校則を守らない生徒もいた。ある時、学校として、そんな生徒たちに、厳重に注意した。、
 翌日、正弘は坊主頭で登校した。教師である自分にこそ責任があると、彼は考えたのだ。
 学園での正弘の誠実な奮闘は、伸一の耳にも入っていた。しかし、伸一は、当然だと思った。生徒のためにわが身をなげうち、苦労して苦労して苦労し抜いてこそ、真の教師であるからだ。
67  希望(67)
 男女共学となった関西創価学園から、初の男子卒業生が出たのは、一九八五年(昭和六十年)のことであった。
 山本伸一は、この男子の同窓会を「金星会」とした。
 いずれの場所、いずこの地にあっても、一番星として輝き、民衆を守るリーダーに育ってほしいとの願いをこめての命名であった。
 女子学園時代から、伸一が一貫して訴え、努力してきたのは、生徒たちが世界に眼を向けることであった。
 日本という島国のなかだけで物事を見ていたのでは、どうしても偏頗な価値観に陥ってしまう。
 伸一は、青春時代に、その殻を打ち破る契機を与えたいと思った。
 後年、生徒たちと一緒に作成した新しい校歌「栄光の旗」にも、「世界を結べや 朗らかに」との一節を贈っている。
 また、彼は、関西校にも、東京校や創価大学と同様に、世界の各国各界のリーダーを、積極的に招くようにしてきた。
 学園生が世界一流の指導者の知性と人格に触れるなかで、人間の正義と不屈の信念とを学んでほしかったのである。
 また、世界のリーダーたちに次代の世界を担う使命に燃える生徒たちに会ってもらい、創価の人間教育の姿を見てほしいとの強い思いもあった。
 「ごく若いときから、気高い人物に会うことのできたものは、しあわせである」とは、ドイツの詩人ヘルダーリンの至言である。
 関西学園には、現在までに、ゴルバチョフ元ソ連大統領、モスクワ大学のログノフ前総長、ヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長、キューバのハルト文化大臣、フィリピン大学のアブエバ総長、韓国・済州大学の趙文富総長等々、来校者の数は五十カ国・地域、千二百人以上に及んでいる(肩書は来校時)。
 平和のために挺身してきた識者たちは、人類の幸福の実現をわが使命とする生徒たちに、一様に讃辞を惜しまなかった。
 たとえば、ブラジルのロンドリーナ大学のプパト総長は、こう賞讃している。
 「若い生徒たちが、世界平和を考えている姿に感動しました。未来のため、平和のために、共に戦ってくれる方々なのだと感じました」
68  希望(68)
 関西創価学園は、女子学園の時代を含め、開校三十三年目を迎えた。
 今や東京の創価学園とともに、日本を代表する最優秀の人間教育の府となった。
 世界市民の育成をめざして語学教育にも力を注いできた結果、英検の優秀団体として表彰もされている。
 また、NASA(米航空宇宙局)が行っている教育プログラム「アースカム」への参加は、世界最多の連続十六回を数える。「アースカム」とは宇宙から地球を写真撮影し、地球について学ぶ取り組みである。
 さらにディベート部、硬式野球部、箏曲部、吹奏楽部、ダンス部、陸上部、バレーボール部、剣道部などが、全国大会で活躍し、ラグビー部、囲碁部、合唱団などが、関西の大会で優秀な成績を収めてきた。
 また、卒業生は約一万人となり、大学教員や小学・中学・高校の教員など、教育関係者も多い。
 母校の関西創価学園で教鞭をとっている卒業生もおり、そのなかには、山本正弘が担任を務めたクラスで学んだ男子の一期生もいる。
 さらに、医師、看護師、弁護士、公認会計士、議員などとして社会に貢献するメンバーも数多い。その活躍の舞台は、日本国内にとどまらず、世界五大州に及んでいる。
 しかし、伸一が何よりも嬉しいのは、学園出身者が、民衆を守り、民衆に奉仕する精神を堅持し抜いていることだ。
 人間は等しく幸福になる権利をもっている。それを実現するための価値創造の教育、人間主義の教育が創価教育である。ゆえに、一人ひとりが、その実現に生涯を傾けていってこそ、創価教育の結実がある。
 したがって学園出身者は、「平和をいかに創造するか」「人間のための社会をどう実現するか」といった、人類の不幸をなくすための闘争を永遠にとどめてはならない。
 不幸を見過ごすな!民衆を守れ! 人間を守れ! 平和を守れ!
 それこそが山本伸一の学園生への遺言であり、魂の叫びなのだ。
 そして、その実践のなかに、創立者との″師弟共戦″の希望の道がある。
 「君も王者と栄光の旗
 君も勝利と栄光の旗」
 伸一が学園生と共に作った校歌の結びである。

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