Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第16巻 「羽ばたき」 羽ばたき

小説「新・人間革命」

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2  羽ばたき(2)
 九日の夕方、山本伸一は仙台に着いた。
 東京は曇りであったが、仙台は雨が降り続いていた。
 伸一は、集中豪雨による各地の被害状況を詳しく調べ、報告するように指示したあと、東北大学会の二期の結成式に出席した。
 その懇談の途中、何度も、伸一のもとに、メモが届き、刻々と変化していく被害状況が報告されたのである。
 この九日の夜半になると、梅雨前線が南下したことから、再び西日本で大雨が降り、中国地方や九州の中・北部で、洪水などを引き起こした。
 さらに、その後、愛知や岐阜など、中部地方でも大雨が降り、山崩れ、崖崩れ、河川の氾濫が相次ぎ、多数の死者、行方不明者を出すことになった。
 東北では、翌十日に山形で、十二日には秋田で、そして、十四日には岩手で、伸一が出席して記念撮影会が行われることになっていた。
 このうち、大雨による被害が最も大きかったのが、秋田県であった。
 特に、県北部の山本郡二ツ井町では、九日の午前八時ごろ、米代川の水があふれて、町の七〇パーセントが水浸しになった。
 さらに、午後一時半ごろ、木材の町として知られる能代市で米代川の堤防が決壊し、家々は濁流に襲われ、四千人ほどが被害にあっていた。
 この洪水によって国道も不通となり、国鉄(当時)奥羽線も運転が打ち切られ、五能線も不通となったのである。
 記念撮影会の準備を進めてきた秋田の幹部たちは、県北部で洪水の被害が広がっていることを知ると、会館に集まり、記念撮影会の開催をめぐって協議を重ねた。
 被災地にも、県の幹部が急行した。
 秋田の同志たちは、この記念撮影を最大の希望とし、この日をめざして仏法対話に、地域貢献に全力を注いできた。
 それだけに、被災地から入る連絡も、「記念撮影には、絶対に駆けつけます!」と意気軒昂であった。
 しかし、被害は甚大である。最優先すべきは皆の安全であり、復興作業である。
 緊急の時に、感情に流されず、的確な判断を下すことこそ、リーダーの責務といってよい。
3  羽ばたき(3)
 秋田の幹部たちは、協議を重ね、被災地域の同志の現状から考え、「今回の記念撮影会は、涙をのんで中止とさせていただこう」ということになった。
 その意向を聞いた山本伸一は、直ちに、県の幹部たちに伝言した。
 「賢明な判断です。こういう時に、皆に無理をさせ、負担をかけてはならない。今は、全員が心を一つにして、復興に全力を尽くす時です。
 幹部の皆さんは一刻も早く、被災した方々の激励にあたってください」
 その夜、伸一は、仙台の東北文化会館で真剣な祈りを捧げた。
 秋田をはじめ、東北の同志が、さらに、再び豪雨となった西日本の同志たちが、無事であるように、彼は、強盛に唱題したのである。
 また、伸一は、各方面や県の幹部に対して、至急、救援態勢を整え、被災地のメンバーの激励に全力であたるよう徹底していった。
 彼に同行していた幹部の一人が尋ねた。
 「十二日の秋田での記念撮影会はなくなりましたが、明日の山形訪問のあと、スケジュールは、どのように考えればよろしいでしょうか」
 間髪を入れず、伸一は答えた。
 「記念撮影会はなくなったが、私は、秋田へは行きます!」
 「しかし、豪雨でかなり混乱しているようですが……」
 すると伸一は、毅然として言った。
 「だから行くんです!
 皆、記念撮影会もなくなり、暗い気持ちでいるでしょう。また、豪雨の被害も大きいだけに、さぞかし心細い気持ちでいるにちがいない。
 そういう時こそ、最も大変な人たちのところへ、万難を排して足を運ぶんです。それが真のリーダーです。
 一番、苦しんでいる時に励まさずして、いつ励ますんですか。
 何年もたってから現地に行って、『水害に負けずに頑張ってください』と言うんですか。
 何事にも、時がある。今こそ、生命を削る思いで、秋田の同志を激励すべき時なんです。私は行きます」
 苦しんでいる同志のために、幹部が率先して、迅速に励ましの手を差し伸べる――そこに学会の強さがあり、創価の人間主義の輝きがある。
4  羽ばたき(4)
 翌十日、山本伸一は、山形県の記念撮影会に出席するため、仙台から車で山形市に向かった。
 曇り空で、涼しい一日であった。
 伸一が記念撮影会が行われる山形県体育館に到着したのは、午後二時過ぎであった。
 山形県でも、庄内・最上地方で、河川の増水による、家屋の浸水や田畑の流失、冠水などの被害が出ていた。
 伸一は、会場に足を踏み入れるや、すぐにマイクを手にし、語りかけた。
 「大雨による影響が心配で、心配でなりませんでした。山形の皆さんのことを、心から案じておりました。
 明日は、秋田にも、お見舞いかたがた、訪問いたしますが、山形の皆さんは大丈夫でしょうか」
 「大丈夫です!」
 元気な声が響いた。
 「本当ですか! なかには、いろいろ悩んでいるけれど、大勢の人がいるから、言いにくいという人もいるでしょう。
 そういう方がおられましたら、相談したいことなど、なんでも結構ですから、後で紙にでも書いて提出してください。
 皆さん方のためにできる限り協力もしたいし、応援もしたいんです」
 その言葉を聞き、皆、伸一の真心に触れた思いがした。
 参加者のなかには、畑が流された婦人もいた。悶々と思い悩んできた。その暗かった表情が、伸一の励ましを受け、晴れやかになっていった。
 その婦人を見守りながら、伸一は力強い口調で言った。
 「大きな被害を受けた方もおられるでしょう。しかし、大聖人は『災来るとも変じて幸と為らん』とお約束です。
 その実証を示すための試練です。断じて勝たねばならない。私たちは師子だからです!」
 この叫びが、電撃のごとく彼女の胸を打った。
 婦人は、村でたくさんの人を折伏してきた。
 ″そうだ。私は負けるわけにはいかない!″
 彼女の目に決意が光った。その目を伸一が見つめていた。
 スイスの哲学者ヒルティは、『幸福論』の中で、こう分析している。
 「苦しみは人間を強くするか、それともうち砕くかである」
 強さを引き出す力が、まさに真心と確信の励ましなのだ。
5  羽ばたき(5)
 山本伸一は、撮影メンバーの入れ替えの際、青年たちと別室で山形大学会の結成式を行った。
 彼には、無駄な時間など、一瞬もなかった。そして、再び撮影会場に向かうと、廊下に一人の婦人が立っていた。
 伸一は、声をあげた。
 「いやー、懐かしい!
 ここでお会いできるなんて。本当に嬉しい」
 伸一が青年時代、戸田城聖が最高顧問を務める大東商工に勤務していた時、すぐ近くの食堂で働いていた、大鳥スギという婦人であった。約二十年ぶりの再会である。
 ――大東商工は、東京・市ヶ谷駅にほど近い、お堀端に立つ三階建ての市ヶ谷ビルにあつた。
 ここに移るまで、大東商工は、新宿区百人町にある、レンズ製作の町工場であった建物を事務所として使っていた。
 だが、一九五一年(昭和二十六年)五月三日に戸田が第二代会長に就任してほどなく、市ヶ谷ビルに移転したのである。
 併せて、百人町の大東商工の事務所にあった聖教新聞の編集室もここに移っている。また、同じ建物のなかに、学会本部の分室も設けられ、そこで戸田の、会員への個人指導が行われた。
 この市ヶ谷ビルにあった大東商工の事務室こそ、伸一が戸田から政治、経済、法律、漢文、化学、物理学など、百般の学問を学んだ「戸田大学」の学舎であった。
 伸一は四九年(同二十四年)の一月、戸田の経営する日本正学館に入社した時、東京・新宿区にあった大世学院(現・東京富士大学短期大学部の前身)の夜間部に在籍していた。
 しかし、この年の秋、戸田の事業が行き詰まると、伸一は、その再建のため、昼夜を分かたず、師子奮迅の力で奔走しなければならなかった。
 もはや、夜学に通うことは不可能であった。
 伸一の強い向学心をよく知る戸田は、不憫でならなかった。だが、伸一の奮闘がなければ、事業の再建はない。
 ある時、戸田は、断腸の思いで弟子に語った。
 「すまんが、夜学は断念してくれないか」
 即座に「わかりました」と答えた伸一に、戸田は続けて言った。
 「ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな。待っていてくれたまえ。学校は、ぼくに任せておけ」
6  羽ばたき(6)
 戸田城聖は、やがて、日曜ごとに山本伸一を自宅に招いて、個人教授を開始した。
 戸田は、あらゆる学問を教えようとしていた。日曜だけでは、とうてい時間は足らなかった。
 そこで、市ヶ谷に事務所が移って一年ほどした一九五二年(昭和二十七年)五月八日からは、会社の始業前に、早朝講義を行うことにしたのだ。
 本来、伸一への個人教授であったが、数人の社員も聴講を許された。
 伸一たちは、朝早く出社し、掃除などをいっさいすませて、戸田が来るのを待った。
 「私は、生きた学問を教えたいのだ」というのが、開講にあたっての戸田の言葉であった。
 戸田は、授業中、ノートをとることを許さなかった。彼は、こんな話をした。
 ――ある蘭学者が、長崎で、オランダ医学を学んだ。すべて書き取っていたため、筆記帳は行李いっぱいになった。ところが、海を渡って帰る途中、船が沈んで、筆記帳を失ってしまった。頭のなかには、何も残っていなかった。
 「だから、君たちは、頭のなかに入れておくのだ。メモはだめだ」
 伸一は、毎回、生命に刻みつける思いで、戸田の授業を聴いた。
 この講義は、戸田が他界する前年の五七年(同三十二年)まで続けられたのである。
 戸田は、まさに全生命を注いで、伸一をはじめとする青年たちを育てたのだ。
 その大東商工が入っていた市ヶ谷ビルの、一、二軒先に食堂があった。市谷食堂である。
 近くに大きな印刷会社があり、朝食をとる人も多く、食堂は早朝から営業していた。
 伸一も、よく、ここに食事に訪れた。また、戸田とともにやって来て、食事をしながら、打ち合わせすることもあった。
 その食堂で働いていた従業員の一人が、大鳥スギであった。
 彼女は、若き日の伸一を、懐かしく思い返しながら、記念撮影会場の廊下で、彼が来るのを待っていた。
 ――伸一は、精悍な感じの青年であった。
 店に来ると、いつもすがすがしい声で、「おはようございます!」と、元気にあいさつした。 希望を運ぶ朝風のようだと、大鳥は思った。
7  羽ばたき(7)
 山本伸一は、常に、さわやかなあいさつを交わすように心がけていた。
 市谷食堂でも、従業員の誰にでも、気さくに声をかけた。
 あいさつには、その人の人柄、性格、生き方が端的に現れるものだ。
 伸一は、すべての人は同じ人間であり、仲間であるとの思いをいだいていた。また、皆が元気で幸福であってほしい、希望をもってほしいとの気持ちでいた。
 だから、すべての人と分け隔てなく、あいさつを交わし、心の扉を開きたかったのである。
 大鳥スギが、「おまちどうさま」と言って食事を運んでいくと、伸一は必ず微笑みを返した。
 「ありがとう。ここの海苔はおいしいね。海苔は体にいいんだ。頭も良くなるんだよ。
 ぼくの家は海苔をつくっていたんだ。そのぼくが言うんだから間違いないよ」
 「山本さん、海苔よりも、料理をほめてくださいよ」
 「海苔を選ぶのも料理のうちだよ」
 伸一が来ると、いつも明るい笑いが広がった。″山本さん″は、皆から親しまれていた。
 大鳥は、毎日のように伸一を目にしていたが、創価学会については何も知らなかった。
 彼女は、やがて市谷食堂を辞め、結婚した。
 幸せな生活を思い描いての結婚であったが、それから間もなく、夫の勤めていた会社が倒産し、夫妻は、彼女の故郷の新潟に移り住んだ。
 そこで夫は、時計の出張販売の仕事をしながら修理技術を学んだ。
 ある日、山形に出張販売に行った時、親しくなった人から言われた。
 「山形の小国町には時計店はあまりないようだ。あそこで店を出してみたらどうかね」
 夫は静岡の出身であり、夫妻ともに全く知らない土地である。だが、意を決して、小国町に越してきた。
 それだけに、ここで本当に商売していけるのか不安であった。
 そんな時に、この町で知り合った夫妻から、仏法の話を聞かされた。
 どんな願いも叶うと言い切る、確信にあふれた話に、半信半疑であったが、大鳥は入会した。一九五八年(昭和三十三年)七月のことである。
8  羽ばたき(8)
 大鳥スギは、入会はしたものの、夫も信心に難色を示しており、なかなか心は定まらなかった。
 入会してほどなく、紹介者から、『大白蓮華』を見せられた。
 開くと、「戸田先生百力日忌法要」と書かれたグラビアがあり、そこに、焼香する山本伸一の顔が大きく写っていた。
 彼女は眼を凝らした。
 写真の下には、青年部の室長として、伸一の名前が紹介されていた。
 ″あの山本さんだわ。間違いない! 創価学会の幹部の方だったんだ″
 彼女は、声をあげた。
 「私、この人、知っているわ!
 東京で勤めていた食堂に、よく来てくれたお客さんよ」
 大鳥は思った。
 ″あの山本さんがやっている信仰なら、間違いないだろう。私も、真剣に信心に励んでみよう″
 彼女は、決意を新たにしたのだ。
 学会活動に参加するようになり、同志の功徳の体験や、何が正しい宗教かを語る幹部の話を聴くにつれて、彼女は次第に仏法への確信を深めていったのである。
 また、入会後は、店の売り上げも順調に伸び、病弱だった子どもも、いつの間にか健康になっていた。
 彼女は、会合で聴いてきた体験や指導を、夫にも一生懸命に話した。仏法のすばらしさを知ってほしかったのだ。
 彼女の入会から二カ月後に夫も信心を始めた。勝ち気な妻が、思いやりあふれる行動をとるようになっていったことが、入会の動機であった。
 やがて、夫妻で、毎日のように弘教に歩いた。
 ″この町中の人たちに仏法を教えよう。皆を幸せにするんだ!″
 二人は広宣流布の使命に目覚めていった。意気盛んであった。
 小国町の面積は、東京二十三区よりも広い。冬ともなれば、電柱も埋まってしまうほどの豪雪地帯である。そのなかを、二人は歩きに歩き、一世帯、二世帯と着実に弘教を実らせていった。
 入会から十四年、大鳥は、総ブロック委員(現在は、支部婦人部長)となり、地域広布の要として東奔西走の日々を送っていた。
 その彼女の願いは、いつか、直接、伸一と会って、学会員になれた喜びを伝えたいということであった。
9  羽ばたき(9)
 強き一念は、必ず実を結ぶものだ。
 大鳥スギは、かつて自分が、市ヶ谷ビルの近くにあった食堂に勤め、若き日の山本会長と、よく顔を合わせていたことを地元の幹部に話した。
 すると、その幹部が、記念撮影の折に、山本会長と対面できるように手はずを整えてくれたのである。
 そして、この日、山本伸一との約二十年ぶりの再会となったのだ。
 彼女は、報告したいことはたくさんあったが、言葉が出なかった。
 伸一は、満面に笑みをたたえて語った。
 「お元気そうで、本当によかった。市谷食堂では、お世話になりました。
 あなたのことは、よく覚えています。生涯、忘れません。
 今、学会の役職はなんですか」
 彼女は、誇らかに、胸を張って答えた。
 「はい。総ブロック委員をしております」
 伸一は、目を細めた。
 「そうですか。それは嬉しい。
 組織の責任を担い、中心者として活動するということがいかに大変か、私にはよくわかります。
 中心者というのは、日々、みんなのため、広布のために、個人指導に、折伏にと、走り回らなければならない。身も心も、休まる暇なんかないでしょう。
 しかし、皆を幸福にする使命と責任があるだけに、どんなに大変であっても、投げ出すわけにはいかない。
 でも、あえて、そこに挑んでおられるから、尊く、偉大なんです。
 そのなかにこそ、真実の菩薩の、また、仏の生命の輝きがあるんです」 フィリピン独立の英雄ホセ・リサールは、「民衆への奉仕のために、私は自分ができることは、何でもいとわずにやる」と宣言している。
 それは、創価学会のリーダーの心でもある。
 伸一は、さらに、大鳥に語った。
 「同じ学会活動をしていても、自由な立場で、気ままに動いている人もいるでしょう。
 そうした人を見て″いいな″と思うこともあるかもしれないが、苦労した分だけ、すべて自らの功徳、福運になる。それが、仏法の因果の理法であり、そのことを確信できるかどうかです」
10  羽ばたき(10)
 仏法は、生命の因果の法則を説き明かし、幸福への智慧と力が、すべて自分自身の生命にあることを教えている。
 日蓮大聖人は、一切衆生が妙法蓮華経の当体であることを示され、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」と仰せになっている。
 そして、一生成仏への道は、わが生命を磨くことであり、「只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」と結論された。
 自行化他にわたっての題目、つまり広宣流布の活動のなかにこそ、自身の生命を磨き絶対的幸福境涯を築く道がある。これが、日蓮仏法の教えなのである。
 ゆえに、学会員は、その御指導のままに、皆が「冥の照覧」を、そして「陰徳あれば陽報あり」の御文を確信し、わが信念としてきたのだ。
 だから、世間的な利害や損得をかなぐり捨て、広宣流布のため、仏法のために、勇んで苦労を買って出た。
 信心のことで、楽をしようとか、よい思いをしようなどとは、決して考えなかった。
 皆が、財もいらない、地位もいらない、名誉もいらないとの思いで、ただ、ただ、広宣流布のために走り抜いてきたのである。
 そこにこそ、創価学会の強さがあり、清らかさがあり、正義がある。
 しかし、この生命の因果の法則を見失い、「己心の外」に絶対的幸福の方法があるように錯覚し、権勢を求めたり、名聞名利や保身に走るならば、それは、仏法からの逸脱であり、浅ましき外道の姿である。
 この信心の「心」が崩れるならば、学会も、広宣流布も蝕まれ、崩壊していくことになる。
 山本伸一は、そのことを最も憂慮していた。
 それだけに、雪深い町で、総ブロック委員として、皆の幸福のために献身する大鳥スギに、彼は心から賞讃を惜しまなかったのだ。
 「人生の勝負は、晩年です。今、懸命に頑張り抜いた功徳は、七十代、八十代に、絢爛と咲き薫ります。
 共々に、広宣流布のために苦労多きことを名誉としながら、喜び勇んで黄金の汗を流そうではないですか」
11  羽ばたき(11)
 山本伸一は、大鳥スギに、「お元気で!」と言って固い握手を交わすと、記念撮影の会場に向かった。
 伸一が去ると、今度は妻の峯子が大鳥に声をかけた。
 「時計屋さんをなさっているんですってね。お店の方はいかがですか」
 峯子は、生活のことなど、いろいろ尋ねた。
 十分な時間がとれない伸一に代わって、話を聞くためである。峯子は、多忙な伸一を、自分がどうすれば、支え、補うことができるか、常に心を砕いてきたのである。
 彼女は、伸一がメンバーの代表と、懇談をするような場合にも、なるべく、一足早く会場に行き、参加者にねぎらいや御礼の言葉をかけるように努めてきた。
 また、伸一は、幹部を厳しく指導することもあったが、そんな時は、峯子が、あとから、そっと温かい励ましの言葉をかけるようにしてきた。
 伸一にとって峯子は、共に広宣流布の大願に生きる、かけがえのない同志であり、会長の重責を担っていくうえで、必要不可欠な「戦友」でもあった。
 峯子は、大鳥から話を聞くと、笑みを浮かべて言った。
 「本当によくおいでくださいました。どうか、これからも、お仕事も、活動も、しっかり頑張ってください。
 私たちも、一生懸命に、お題目を送らせていただきます。
 今日は、ゆっくりしていってくださいね」
 大鳥は、伸一の確信に満ちた励ましと、峯子のこまやかな気遣いが胸に染みた。
 彼女は、心に誓うのであった。
 ″今日は、私の新出発の日だ。
 生まれ変わった気持ちで、生涯、山形広布に生き抜こう!″
 山本伸一は、メンバーとの記念撮影の合間にも、少年少女や女子部の代表と一緒に体操をするなど、激励に次ぐ激励を重ねた。
 そして、撮影会終了後には、引き続き、国鉄(当時)山形駅の西側に建設される、山形文化会館の起工式に出席した。
 その折、伸一は、メンバーと約束した。
 「会館が完成したら、また必ずまいります」
 その言葉は、山形の同志の胸に、希望の虹となって広がったのである。
12  羽ばたき(12)
 翌七月十一日、山本伸一は秋田に移動した。
 秋田も雨はあがり、薄曇りであった。
 午後、秋田市の秋田会館に伸一が到着すると、会館は、救援対策本部の観を呈した。
 まず彼は、県内各地の豪雨被害の、詳細な状況を尋ねていった。
 そして、幹部の派遣や被害者への見舞い、激励など、矢継ぎ早に指示を発したのである。
 この日の夜、秋田では県内各地で、記念撮影の対象者であったメンバーへの、激励大会がもたれていた。
 皆、山本会長とカメラに納まることを最大の楽しみとし、目標として奮闘してきただけに、記念撮影会が中止になったと聞かされ、落胆は大きかった。
 そこで、そのメンバーを励まし、皆が心を一つにして、再び新しい前進を開始しようとの趣旨で、企画された大会であった。
 伸一は、この会合の話を聞くと、直ちにメッセージを書いた。そして、同行の首脳幹部や、秋田の最高幹部らを、各会場に派遣したのである。
 ある会場では、伸一に同行してきた首脳幹部が姿を現すと、大きな拍手がわき起こった。
 豪雨による災害の跡も生々しいわが県に、学会本部の幹部が真っ先に来てくれたことに、皆、強い感動を覚えた。
 派遣された幹部は、元気に山本会長のメッセージを読み上げていった。 「秋田の皆様! 今回の水害、心より心配しております。
 記念撮影は現地の方の意見もあり、中止せざるをえなくなりましたが、私は皆様の応援、激励のために、秋田にまいりました。皆様のご苦労に、なんとか応援してさしあげたいという気持ちでいっぱいです。
 『大悪をこれば大善きたる』の御金言を胸に、学会っ子らしく、希望に燃えて立ち上がってください」
 メッセージを読み進むにつれて、すすり泣きがもれた。
 ″記念撮影会は中止になったにもかかわらず、山本先生は私たちのことを心配して、秋田に来てくださっているのだ!頑張らなくては……″
 そう思うと、熱いものが込み上げてきてならなかったのだ。
13  羽ばたき(13)
 激励大会は、秋田会館でも百人ほどのメンバーが集い、午後七時過ぎから開催された。
 この日は、既に雨もあがり、美しい夕焼けとなった。しかし、集ったメンバーの心は、記念撮影が中止になった悔しさでいっぱいであった。
 また、参加者のなかには、県北の親戚が大きな被害に遭ったという人もいた。皆の心は晴れなかった。
 会合が始まった。
 地元の幹部は、頬を紅潮させて語った。
 「皆さん、明日、予定されていた、秋田の記念撮影会は、水害のために中止となりました。
 しかし、本日、山本先生は、泥だらけ、水だらけのこの秋田に、私たちの激励のためにおいでくださいました!」
 驚きの声が漏れ、それから歓声があがり、大拍手がわき起こった。
 幹部は話を続けた。
 「先生は、現在、水害の救援対策などの打ち合わせをされております。
 この辺りは、あまり被害はありませんが、秋田としては、県北では家が流されるなど、深刻な被害が出ております。
 しかし、信心には不可能はありません。絶対に再起できます。
 私たちは、団結をもって、この災害を乗り超えて、郷土の繁栄と地域広布の飛躍台にしていこうではありませんか」
 その時、会場の後ろから、元気な声が響いた。
 「こんばんは!」
 皆が振り向くと、そこには、山本会長の姿があった。
 「ワーッ」という大歓声が響いた。
 伸一は、会場の前方に来ると、にこやかに語りかけた。
 「どうも、ご苦労様です。皆さんのお宅は、水害は大丈夫ですか」
 「はい。秋田市内は大した被害はありません」
 前列の壮年が答えた。
 「今回、水害に遭われた方は、本当にお気の毒です。心から、お見舞い申し上げます。
 大事なことは、ここから、どうしていくかです。
 落胆して、自暴自棄になったり、諦めてしまうのか。それとも、″負けるものか″″今こそ信心の力を証明するのだ″と、敢然と立ち上がるのかです。
 その一念で幸・不幸は大きく分かれます」
14  羽ばたき(14)
 山本伸一は、力を込めて訴えていった。
 「長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、病気、事故、愛する人の死など、さまざまな窮地に立つことがある。順調なだけの人生などありえません。
 むしろ、試練と苦難の明け暮れこそが人生であり、それが生きるということであるといっても、決して過言ではない。
 では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の真の勝利を飾れるのか。
 仏法には『変毒為薬』つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれているんです。
 信心によって、どんな最悪な事態も、功徳、幸福へと転じていけることを示した原理です。これを大確信することです。
 この原理は、見方を変えれば、成仏、幸福という『薬』を得るには、苦悩という『毒』を克服しなければならないことを示しています。
 いわば、苦悩は、幸福の花を咲かせゆく種子なんです。だから、苦難を恐れてはなりません。敢然と立ち向かっていくことです。
 私たちは、仏の生命を具え、末法の衆生を救済するために出現した、地涌の菩薩です。
 その私たちが、行き詰まるわけがないではありませんか。
 人は、窮地に陥ったから不幸なのではない。絶望し、悲観することによって不幸になるんです」
 確信にあふれた伸一の話に、皆、吸い込まれるように耳を傾けていた。
 「もう一つ大事なことは、自分が今、窮地に陥り、苦悩しているのはなんのためかという、深い意味を知ることです。
 もし、災害に遭った同志の皆さんが、堂々と再起していくことができれば、変毒為薬の原理を明らかにし、仏法の偉大さを社会に示すことができる。実は、そのための苦難なんです。
 どうか被災した方々にこうお伝えください。
 『断じて苦難に負けないでください。必ず乗り超え、勝ち超えてください。私は真剣に題目を送り続けております』」
 伸一は必死であった。
 イギリスの作家ホール・ケインは、「苦しみを甘んじて受け、耐え忍んで強くなってきた人間こそ、この世でいちばん強い人間なのだ」と断言している。
 苦難に屈しない人こそが師子王である。
15  羽ばたき(15)
 山本伸一は、一人ひとりに視線を注ぎながら、話を続けた。
 「ここにいらっしゃる皆さんは、ほとんど被害に遭われていないようですが、被災した皆さんにとって、今、何よりも必要なのは、温かく、力強い励ましです。
 被災者の方々とお会いしたならば、自分の親や兄弟が苦しんでいるのだと思って、最大の真心をもって励まし、応援してあげてください。
 同志愛が、そして団結が、勇気を呼び覚ましていきます。
 ところで、今日は、皆さん方とゆっくりとお話ししたいと思い、時間をとっておりますので、困っていることや、意見、要望があったら、なんでもかまいませんので、おっしゃってください」
 伸一は、こう言うと、参加者の真ん中に進み、そこで腰を下ろした。
 彼を中心に車座になって、懇談が始まった。
 次々と質問が発せられた。伸一はユーモアを交え、皆を包み込むように励ましの指導を続けた。
 ある青年が質問した。
 「今回、水害で秋田の記念撮影会が中止になりました。これは、やはり、私たちの信心の姿勢に、何か問題があるのでしょうか」
 秋田の同志は、記念撮影に向けて、皆で真剣に晴天を祈ってきた。しかし、大雨になってしまっただけに、何か釈然としないものを感じていたのである。
 伸一は言下に答えた。
 「天候は自然現象ですから、大雨が降ることもあります。
 どんなに信心強盛な人でも、台風にも遭えば、冬の秋田なら、大雪にも遭うでしょう。それを、いちいち信心に結び付け、くよくよ悩む必要はありません」
 仏法は、希望の哲学である。勇気の源泉である――伸一は、そのことを訴えておきたかった。
 「もちろん、『一身一念法界に遍し』ですから、祈りは大宇宙に通じます。
 しかし、大雨になったという結果にとらわれ、力が出ないのでは、信心の意味はありません。
 現当二世の信心です。未来に向かい、わが地域を必ず常寂光土にしてみせると決意し、勇気を奮い起こして、力強く前進していくことが大事です」
16  羽ばたき(16)
 山本伸一は、皆の心に垂れ込めた雲のような思いを、一掃したかった。
 「私たちは、何があっても負けないために、堂々と、自分らしく人生の勝利を飾るために、信心をしているんです。
 すべてを前進の活力に変え、希望につなげていくのが仏法なんです。
 たとえば、水害で記念撮影ができなかったら、″よし、この次は、必ず大成功させるぞ″と新しい気持ちでスタートすればよい。
 また、災害に遭ったならば、″さあ、今が正念場だ。負けるものか。変毒為薬するぞ!
 信心の真価を発揮するぞ!″と、へこたれずに、勇んで挑戦を開始することです。
 どんな時も、未来へ、未来へと、希望を燃やし、力強く前進していくならば、それ自体が人生の勝利なんです。信心の証明なんです。おわかりですか」
 皆が頷いた。
 それから伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「皆さんは、一生懸命に晴天を祈ったのに大雨になって残念だと思っているかもしれませんが、今日は美しい夕焼けになったじゃありませんか。
 私は十一年前に、初めて西ドイツ(当時)を訪問しましたが、そこで見た夕焼けも美しかった。
 その日、私は、ドイツを分断するベルリンの壁やブランデンブルク門を視察したが、雨だったんです。
 でも、夕方には雨はあがり、すばらしい夕焼け空になりました。
 車を運転してくれた人の話では、最高に美しい夕焼けの時には、『天使が空から降りてきた』と言うんだそうです。
 今日の秋田の夕焼けは、それに匹敵する美しさでした。当初、記念撮影会が予定されていた明日も、おそらく晴れるでしょう。皆さんの祈りは叶ったことになる。
 ただ、皆さんは天気になるように祈ったけれども、記念撮影ができるようには、祈っていなかったんじゃないかな」
 笑い声が広がった。
 「やっぱり、そうか。
 では、今日は、天気のことを話しましたから、記念に、ここに集まったメンバーを″お天気グループ″としましょう」
 再び朗らかな笑いが起こり、大きな拍手が広がった。
17  羽ばたき(17)
 懇談に続いて、山本伸一は皆と一緒に勤行し、秋田の人びとの幸福と繁栄を、真剣に祈った。
 会館を後にするメンバーの足取りは軽く、その表情は決意にあふれ、晴れやかであった。
 伸一は、できることなら、米代川の堤防が決壊し、特に被害が大きかった県北の二ツ井町に行き、一人ひとりと会って励ましたいと思った。
 しかし、その時間を確保することはできなかった。そこで、東京から男子部の幹部を急行させ、救援作業にあたるように指示していたのだ。
 二ツ井町には、秋田市内や青森県弘前市の青年たちも、救援のために駆けつけてきた。
 道路の真ん中まで流された家屋もあった。どの家も泥だらけで、水が引いたあとも、何から手をつけてよいのかわからず、肩を落とし、呆然と立ちすくむ人の姿が、あちこちで見られた。
 学会の救援隊の青年たちは励ましの声をかけ、オニギリを配りながら、被災者に、何が必要なのかなど、要望を聞いていった。
 運転免許をもっている救援隊の男子部員は、近くの土木建築の会社と交渉してトラックを借り、路上にあふれたゴミの回収に駆け回った。
 また、家屋の泥水を掻き出し、清掃作業に汗を流す救援隊のメンバーもいた。
 仏法者として、学会員として、困っている人のために何ができるかを、真剣に考えての行動であった。
 その振る舞いのなかに、信仰の輝きがある。
 学会の救援隊を見て、感嘆する住民も少なくなかった。
 ある人は、配られたオニギリを、学会員と一緒に頬張りながら、しみじみと語った。
 「わざわざ、学会から応援に来てくれたんだなぁ。みんな、団結して、被災者以上に、一生懸命やってくれている。
 こういう時に、信仰している人のすごさが、よぐわがるなぁ」
 それを聞くと、被災した学会員は、奮起せざるをえなかった。
 ″私も落胆なんかしている時ではない。学会員の真価を発揮する時だ。わが姿が折伏になる。なんとしても、見事な蘇生の実証を示そう!″
 苦悩を使命に変えて、同志は次々と立ち上がっていったのである。
18  羽ばたき(18)
 山本伸一が、秋田入りした七月十一日、活発な梅雨前線の影響で豪雨となっていた西日本では、この日、再び、がけ崩れによる家屋倒壊や浸水など、大きな被害が広がっていたのである。
 伸一の対応は素早かった。各地に被害が出始めるや、それぞれの地域に救援本部を設置し、学会本部が全面的にバックアップしていくよう詳細に指示していた。
 彼のもとには、各地の被災状況が次々と寄せられた。
 島根では、宍道湖の水があふれて松江市内が浸水。島根総合本部の救援本部が置かれた松江会館も水に漬かった。
 総合本部長となっていた浜田厳介らは、会館の建物の中から、救援物資を積んだ舟に乗って、激励に出発しなければならなかった。
 浜田たちは、泥水のなか、浸水した会員宅などを訪れては救援物資を配り、復旧の具体的な手立てについて語り合っていった。
 その報告を受けた伸一は、秋田から、すぐに松江会館に電報を打った。
 「集中豪雨の報に接し、心配しております。同志の皆さんのご無事を祈るとともに、被災者に対しては、心からの激励をお願いいたします」
 伸一の電報が届くと、島根の幹部たちは、勇気がわくのを覚えた。
 ″山本先生は、水害の秋田で、自ら奮闘されながら、私たちに即座に励ましの電報までくださった。
 この真心だ。このスピードだ。私たちも先生のように頑張ろう……″
 皆、意気揚々と救援活動に飛び出していった。
 希望を配ろう。勇気を贈ろう――それが皆の心意気であった。
 翌十二日も、伸一は秋田で大学会の結成式や幹部との懇談会に出席し、指導を重ねる一方、全国の豪雨の被害状況を聞きながら、次々と救援対策の手を打っていった。
 さらに、東京にいる十条潔副会長らと電話で協議し、水害がますます広がりつつあることから、学会本部として、「水害救援本部」を設置することを決定した。
 そして、十三日午前、学会本部に「水害救援本部」が設けられ、直ちに会議を開き、全国的な規模での救援活動が検討されたのである。
19  羽ばたき(19)
 学会本部に設けられた「水害救援本部」の会議では、特に被害の大きかった岐阜や愛知、広島、島根、佐賀、熊本などへ、東京から救援隊を派遣することが決まった。
 早速、この日の夜には、最高幹部や男子部の幹部が、現地に向かったのである。
 山本伸一は、この十三日には、六年ぶりに岩手入りし、十四日には岩手県営体育館で行われた、代表三千六百人との記念撮影会に出席した。
 さらに、岩手訪問に続いて、再び仙台で、青年の代表や地元幹部に対して、渾身の力を振り絞っての激励が続いた。
 そして、その合間を縫って、「水害救援本部」と連絡を取り、被災者への救援物資などについて、こまやかなアドバイスを重ねたのである。
 伸一のいるところは、記念撮影会場の控室であれ、移動の車中であれ、「水害救援本部」を牽引する頭脳となった。
 被災地のメンバーと語らい、励まし続けている伸一は、今、いかなる救援物資が必要であり、いかなる激励が大事であるかを、肌で感じることができたのである。
 「リーダーは最前線を走れ! 現場に立て!」
 それを忘れれば、人の苦悩も、心もわからなくなる。そして、そこから、組織を蝕む官僚主義の悪弊が始まるのだ。動かぬ水は腐る。
 幹部たちは、いっせいに被災地に飛んだ。
 各地とも、深刻な被害が広がっていたが、中国地方では、広島の三次市の被害が大きかった。
 ここには、十四日の夕刻に、東京から男子部の幹部が到着した。
 直ちに現地の責任者と打ち合わせを行い、幹部率先で救援物資を持って、分担した地域を激励に回った。
 そのなかで、自らも被災者でありながら、率先して救援に動く、一人の男子部員の姿が感動を広げていた。二十一歳の渡瀬健也であった。
 七月十日夜からの集中豪雨によって、三次市の十日市町と三次町内の数カ所で、河川の水が溢れ出した。濁流は、市内中心部に流れ込み、ほとんどの家が浸水し、約一万六千人が避難した。
 渡瀬の住んでいた平屋建ての借家も、濁流に襲われたのである。
20  羽ばたき(20)
 七月十一日の早朝のことである。渡瀬健也は、母親と高校生の弟と家にいた。
 父親は病で入院中であり、母親も心臓を病み、病院から退院してきたばかりであった。
 左官の仕事をしている健也が、経済的にも、精神的にも、一家の柱となっていた。
 彼らが借りていた住まいは、低地に建つ、掘っ立て小屋のような家であった。豪雨が降り続くにつれて、家の中にじわじわと泥水が溜まり始めた。やがて、床の上にも浸水した。
 渡瀬一家は、最小限の荷物を持ち、御本尊を抱いて、空き家になっている隣の二階に避難した。
 昼ごろには水が引き始めたが、水に漬かった家は泥だらけであった。
 家財道具を外に並べ、後片付けをした。この日は、隣の空き家の二階で寝ることにした。
 夜、再び激しい雨が降り始めた。
 そして深夜、その家が見る見るうちに水に没し始め、二階も浸水していった。堤防が決壊したのだ。
 外を見ると、ドドドドドーッと、雨は滝のように激しく降り注ぎ、闇の中に、濁流の波だけが白くうねっていた。
 「二階も危ないけぇ、屋根の上に逃げようや」
 健也が叫んだ。
 「そりゃあ、できんよ」
 母親は首を振った。
 「大丈夫じゃけぇ!」
 彼は、シーツを結んで母親の体をくくると、ハシゴを使って、先に屋根に上った。弟が下から母親を押し上げ、健也がシーツの端を持って引っ張り上げた。
 どしゃ降りのなかでの作業であったが、兄弟が力を合わせ、なんとか母親を、屋根の上に避難させた。
 屋根の棟に跨るように健也と弟が母親を挟んで座った。三人とも着の身着のままであった。母には毛布を被せたが、すぐに、全身、ずぶ濡れになった。
 周囲の家の人たちも、二階の屋根に避難していた。時折、子どもの泣き声や、「助けてくれー」という叫び声が響いた。
 そのうちに、異様な臭いが漂ってきた。
 どこからか声がした。
 「ガスが漏れとるで。火をつけるな!」
 恐怖が走った。背筋が震えた。
21  羽ばたき(21)
 ガスが漏れていると聞くと、渡瀬健也は、とっさに題目を唱えた。
 濁流に押し流され、ゴムホースの外れたプロパンガスのボンベから、あちこちでガスが噴き出していたのだ。
 ″こんなことで死んでたまるか! わしは生き延びて、広宣流布をするんじゃ。信心の力をみんなに見せちゃる!″
 彼は必死に唱題した。その声に、弟も、母も唱和した。
 豪雨に打たれ、異臭に怯えながら、屋根の上で朝を待った。水に濡れた体は熱を奪われ、寒さに震えた。時がたつのがあまりにも遅く感じられ、一分が三十分にも、一時間にも思えた。
 やがて朝が来た。
 自衛隊が舟で救助に来てくれ、近くの避難所に運ばれた。
 ″助かった……″
 渡瀬の目に、涙があふれた。
 避難所に一泊し、翌十三日になって、ようやく水も引き、家族三人で、家の後片付けに戻った。
 家は傾き、壁もなくなっていた。とても暮らせる状況ではなかった。
 外に置いた家財も流されてしまった。
 皆、しばらく、呆然として立っていた。
 だが、渡瀬は、命が助かったこと自体が功徳だと、心の底から感じていた。それが、絶対に再起できるとの、大きな確信となっていた。
 彼は、ともかく、母親を励まさなければならないと思った。
 「大丈夫じゃ! 少しの辛抱じゃけぇ、必ずなんとかするよ。
 だいたい、わしんちは、もともと家もなかったんじゃけぇ、気楽でええじゃない」
 一家は、当面、空き家になっている隣家の二階を使わせてもらうことにした。
 浸水した二階の泥を掻き出していると、地域の男子部員が、オニギリを持って来てくれた。
 「元気出せぇや。また夕食も持ってくるけぇ」
 空腹をかかえていただけにありがたかった。
 オニギリを頬張った。同志の真心の温かさが胸に染みた。
 壮年の総ブロック長も、心配して激励に駆けつけてくれた。
 「助かってよかったのう。ほんまによかった」
 まるで、わがことのような喜びようである。
22  羽ばたき(22)
 総ブロック長は、渡瀬健也に言った。
 「実は、今、学会からの救援物資が、続々と届いとるんじゃ。これから派遣隊の人たちが配って歩いてくれるんじゃが、道案内が必要なんじゃ。できりゃ、協力してくれんかのぉ」
 渡瀬は言下に答えた。
 「はい。喜んで協力させてもらいます。わしら一家は、御本尊に命を救ってもろうたと思っとります。
 だから、感謝の思いで、なんでもやらせてもらいます」
 渡瀬は、地域の中心会場となっている学会員の家に行き、毛布や衣類、食料品などを担ぎ、広島市や福山市から来た派遣隊を案内した。
 その途中、県の最高幹部の一人である、副理事長の川口鉄平と出会った。彼を案内していた地元のメンバーが、渡瀬を紹介した。
 川口は尋ねた。
 「渡瀬君の家は、被害はどうじゃったんか」
 「家も浸水でだめになりました。家財も、みんな流されたし……」
 川口は、渡瀬の話を聞き終わると、じっと彼の顔を見つめ、肩に手をかけた。その手に力がこもった。
 「そうか。大変じゃのう。しかし、こけても、こけても、立ち上がる。それが信心じゃけぇの。
 山本先生も心配してくださっとるで。
 祈ろうや! 祈って、祈って、祈り抜いて、もう一遍、頑張ろうや!」
 力強い、気迫にあふれた声であった。
 渡瀬は、それまで胸のなかで抑えていたものが、一気に堰を切ったように込み上げてきた。その目に、大粒の涙があふれた。彼は、声をあげて泣いた。
 川口は、渡瀬の肩を揺するようにして語った。
 「辛いだろう。でも、頑張り抜こうや。それが学会健児やないか。断じて負けるな!
 そして、すべてを勝ち抜いて、山本先生に、勝利のご報告をしようじゃないか」
 渡瀬は、何度も、何度も、大きく頷いた。
 「はい。頑張ります」
 彼は、再起を誓った。真正面から、この問題に立ち向かおうと思った。
 古代ローマの大詩人ウェルギリウスは叫んだ。
 「汝は逆運に、決してたじろぐことなかれ、むしろ運命打ちこえて、より大胆に進むべし」
23  羽ばたき(23)
 派遣隊と一緒に、数日間、渡瀬健也は救援活動に奔走した。
 被災者の多くは、戸惑い、途方に暮れ、意気消沈していた。
 渡瀬は、はつらつと励ましの声をかけた。
 「今が正念場です。負けずに頑張りましょう」
 そして、その渡瀬自身も、水害ですべてを失ってしまった被災者であることを知ると、皆が目を見張った。
 ″この青年は、自分ちも大変じゃのに、こうしてみんなのために懸命に駆けずり回ってくれとる。うちも、自分のことばかり考え、おどおどしとっちゃいけん……″
 困難に負けぬ、意気軒昂な渡瀬の姿は、被災者の勇気を奮い起こしていった。
 彼は、救援活動で奔走しているなかで、知人に出会った。
 その知人は、渡瀬の窮状を聞くと、家を貸してくれると言い出した。ありがたかった。
 意外な展開であった。
 彼の信心への確信は、ますます深まっていったのである。
 渡瀬に限らず、自身も被災しながら、災害に負けず、友のために親身になって奔走する学会員の姿が各地に見られた。
 困難の闇が深ければ深いほど、一人ひとりの同志の行動を通して、その菩薩の生き方を通して、仏法は明々と光り輝いていったのである。
 復旧に向けて懸命に努力しているさなか、嬉しいニュースが届いた。
 山本会長が、九月に広島、島根を訪問し、記念撮影会を行うことが決まったのだ。
 しかも、被災地域のメンバーは、優先的に参加できるというのである。
 この記念撮影会は、各地の被災状況を知った伸一が、困難に立ち向かう同志を激励したいと、提案したものであった。
 伸一は、中国方面だけでなく、愛知県西加茂郡の藤岡村(当時)や小原村をはじめ、大きな被害を受けた地域の同志らと記念撮影を行っていくことを、次々と提案したのだ。
 被災した同志たちの、喜びは大きかった。
 ″水害なんかに負けるものか!″
 皆の胸に、闘魂の火がついた。復興作業に取り組むなかで、確固たる人生の哲学が重要であることを友人に訴え、弘教を実らせる人も少なくなかった。
24  羽ばたき(24)
 被災地のメンバーは、一日千秋の思いで、記念撮影会の日を待った。
 山本伸一は、七月末から約一カ月間にわたる夏季講習会を終えると、九月三日には九州に飛んでいた。
 福岡、鹿児島の記念撮影会をはじめ、各部代表との懇談会などに出席するためであった。
 この記念撮影にも、七月の豪雨で被災した多くの人たちがいた。
 彼は、十日に東京に戻り、さらに十四日には、中国訪問に向かったのである。
 十五日、広島の福山市体育館で、六千人のメンバーとの記念撮影会が行われた。このうち、千五百人が被災者であった。
 会場の待機場所は、一際、明るい談笑の花が咲いた。
 被災したメンバーと、救援隊として駆けつけてくれた同志が再会を果たすシーンが、随所に見られたのである。
 若い壮年が、救援隊の青年を見つけて言った。
 「こないだは、ほんまにお世話になりました。あん時のオニギリの味だきゃあ、忘れられんですよ。何より、ありがたかったんは、子どものミルクとオムツじゃった。
 いつか、あんたに会うて、お礼が言いたかったんです」
 「とんでもない。ぼくたちは、ただ配らせてもらっただけですよ。
 ぼくが感動したんは、被災した同志のことを心配されて、すぐに手を打たれた山本先生の迅速な行動じゃったんです。
 テレビで被害の模様が放映されるや、すぐに救援の指示が飛んどったんです。それも東北からじゃった」
 隣にいた婦人も語り始めた。
 「こないだの学会の救援に、近所の人がほんまに驚いとったんです。
 救援物資にしても、食料品、水、衣類、毛布、タオル、それに石鹸と、いちばん必要なもんばっかりじゃったでしょ。
 『ほんまに被災者のことを考えてくれとる。実際にこれだけのもんを、すぐにそろえるなんて、どこの団体にもできゃあせん』と、みんな感動しとったんですよ。
 また、同志の方が『大丈夫ですか』『頑張りましょう』って、励ましてくださったでしょ。それを見て、『学会が、生きる力を与えてくれた』って、しみじみ言うとったんですよ」
25  羽ばたき(25)
 最初に記念撮影を行ったのは、被災したメンバーであった。
 そのなかには、あの渡瀬健也の顔もあった。
 山本伸一は、会場に姿を現すと、撮影台に並んだ同志に語りかけた。
 「皆さん、もう災害の方は大丈夫ですか」
 「はい!」
 「お元気な皆さんに、お会いできてよかった。大変でしたね。心からお見舞い申し上げます。
 皆さんは、大きな苦難に遭いながら、広宣流布の使命を胸に、″負けるものか!″と、決然と立ち上がられた。
 そして、自分も大変ななか、被災したあの人を励まそう、この人を救おうと、懸命に奔走されてきた。それこそが、仏の振る舞いであり、地涌の菩薩の姿です。
 そこにこそ、自他共の幸福と繁栄の根本要因がある。その尊い皆さんが仏法の法理に照らして、幸せにならないわけがない。また、皆さんがいる限り、地域も栄えていくことは間違いない。
 いな、災害で苦労した地域だからこそ、最も幸せに満ち満ちた楽土を築かねばならない。
 それが皆さんの使命です。そして、必ず築くことができると、私は断言しておきます。
 長い目で見れば、今回の災害も、広宣流布の使命を果たすための重大な転機であることが、よくわかるはずです。
 大聖人は『大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき』と励まされております。
 どうか、一人ももれなく、幸せになってください。こんなに功徳を受けましたと、胸を張って報告に来てください。
 既に正本堂も、その威容を現し、新しい時代の到来を待っています。
 さあ、未来に羽ばたこうではありませんか!」
 参加者は、目頭を潤ませながら、再起への決意を新たにしたのである。
 渡瀬も、男泣きしながら、心で誓っていた。
 ″先生。わしも必ず地域広布の力になります″
 「信仰がひとを強くし、希望がひとを向上させる」とは、スイスが生んだ大教育者ペスタロッチの洞察である。
 九州で、広島で、島根で……、この各地での記念撮影会は、被災した人びとに、勇気の新風を送り、新しき飛翔の舞台となっていったのである。
26  羽ばたき(26)
 世界中の同志が待ちに待ったその日は、天高く見事な快晴であった。
 一九七二年(昭和四十七年)十月十二日――。
 総本山大石寺に建立寄進される正本堂の、完成奉告大法要が行われたのである。
 富士の山肌は青紫に映え、頂の白雪が王冠の如く輝いていた。
 その富士を背景に、堂々とそびえ立つ白亜の正本堂は、今まさに羽ばたかんと翼を広げた、鶴の英姿を思わせた。
 正面には大理石の巨大な円柱が立ち並び、妙壇(本堂)に入ると、美しい羽模様の天井が広がっていた。
 荘厳であった。雄大であった。誰もが、その威容に目を見張った。
 正午前、開式が告げられ、読経が始まった。
 六千人の参列者の声が一つになって、堂内に響いた。
 どの顔も、晴れやかであった。どの顔も、歓喜に燃えていた。
 参加者のなかには、飛行機をチャーターするなどして来日した、海外五十カ国・地域のメンバーの姿もあった。
 読経、日達法主の「慶讃文」に続き、臨華講総講頭で正本堂建立の発願主である山本伸一の「慶讃の辞」となった。
 モーニングに身を包んだ彼は、大御本尊が安置された須弥壇の下まで進み出た。
 そして、大御本尊を見上げると、「慶讃の辞」を語み始めた。
 「我等一同、唯今、凡愚の六根を整え、六千一会の信徒同心に襟を正し、此処妙壇宝塔に安置し奉る、事の一念三千、一閻浮提総与、本門戒壇の大御本尊を拝し……」
 伸一の声が、朗々と響き渡った。
 満座の参列者は、しわぶき一つせず、じっと耳を傾けている。
 「……抑も正本堂建立の念願は、二代戸田城聖会長に由来して、真の遺訓を汲みて山本伸一是れを構想、去る昭和三十九年五月三日創価学会第二十七回総会に於て此れを発議。大方の讃同を得て御法主日達上人睨下に誓願申し上げ、その欣諾を賜わりて決定致せし所の願業なり……」
 伸一は、感慨無量であった。
 彼の胸には、恩師である戸田の遺言を、実現することができた喜びが満ちあふれていた。
27  羽ばたき(27)
 「慶讃の辞」を読む山本伸一の脳裏に、正本堂完成までの、幾星霜の来し方が、次々と去来していった。
 一九五八年(昭和三十三年)三月、総本山に大講堂を建立寄進した戸田城聖は、伸一に、次は大客殿を建立するように伝え、さらに、こう語ったのである。
 「大客殿の建立が終わったならば、引き続いて世界建築の粋を集めて、一閻浮提総与の大御本尊を御安置申し上げる正本堂を建立しなさい」
 「正本堂」という名称は、第六十五世の日淳法主が用いている。
 戸田は、正本堂の建立に思いを馳せ、どこに建てるべきかなど、登座前の日達法主と、構想を語り合っていた。
 そして、大客殿に次いで、大本堂ともいうべき正本堂建設の大事業を、最も信頼する弟子に、託したのである。
 大業は一代にしてはならない。師弟ありてこそその成就もあるのだ。
 伸一は、師の言葉の通りに、六四年(同三十九年)四月、大客殿が落成すると、五月三日の本部総会の席上で、正本堂の建立寄進を提案した。
 彼は本部総会で、この正本堂の建立をもって、総本山における広宣流布の布陣は最後になることを述べ、「あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」と語ったのである。
 翌六五年(同四十年)の一月には、正本堂建設委員会が発足。日達法主から、発願主である伸一が委員長に任命された。
 委員は、伸一を除いて学会側三十人、宗門側二十人でスタートし、さらに法華講からも五人が加わった。
 第一回の正本堂建設委員会は、大聖人御聖誕の日に当たる二月十六日、総本山で開かれた。
 出席した日達法主は、冒頭のあいさつで、正本堂の意義に言及した。
 「正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置申し上げるかということでございます。
 過日来いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせがきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。
 いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたい」 重大な発表である。
28  羽ばたき(28)
 日達法主は、あえて、初の正本堂建設委員会の席で、一番重大な問題について、語るというのである。
 委員会のメンバーは、襟を正して、次の言葉を待った。
 「大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご遺訓であります。
 これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。
 堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。
 小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。
 よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。
 したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。
 それゆえ、百六箇抄には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。
 また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされておるのでございます」
 つまり大聖人が遺言された「本門寺の戒壇」建立とは、特別な戒壇堂を建立することではなく、日興上人が相承された大御本尊を安置した本堂が、そのまま、戒壇になるというのである。
 日達法主は、さらに言葉をついだ。
 「したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。
 ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります」
 参加者は目を輝かせながら、話を聴いていた。
29  羽ばたき(29)
 日達法主は、正本堂こそが戒壇の大御本尊を安置するところであり、広宣流布の暁には、この正本堂が、大聖人が仰せの「本門寺の戒壇」の意義をもつ建物であることを明らかにしたのである。
 日達法主は、あいさつをこう締めくくった。
 「この正本堂建立をめざして全力をそそぎ、僧俗一致して偉大な世界的建築となる正本堂を造っていただきたいと思うのでございます。
 もしこの建立にあたって、少しでも傷がつくようなことがあれば、それは宗門あげての恥にもなりますので、全力をあげて建設にあたっていただきたいと念願いたします」
 山本伸一は、日達法主の示した正本堂の深い意義に感動を覚えた。
 「本門の戒壇」の建立は、日蓮大聖人の御遺命である。
 戸田城聖も、伸一も、そこに大きな焦点を当てて、日夜、広宣流布に邁進してきた。弾丸列車のごとき大驀進であった。
 大聖人は、「三大秘法抄」で、その戒壇建立の条件を、次のようにお述べになっている。
 「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」――これは、「王仏冥合」の法理であり、仏法の生命の尊厳や慈悲の哲理を根底とした文化、社会の建設と拝される。
 「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」――社会に広く正法が流布され、人びとが慈悲などの仏法の精神に目覚めゆくことである。
 さらに、「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と仰せである。
 覚徳比丘は唯一の正法の護持者で、彼が破戒の悪僧に襲われた時、全身に傷を受けて覚徳比丘を守り、死んでいったのが有徳王である。
 この「不惜身命」「死身弘法」の戦いを再現する実践を、大聖人は、戒壇建立の条件として要請されたと拝察される。
 これは、仏法を実践する伝持の人と、社会的な指導者が、共に殉難を恐れずに、仏法の精神を貫くために戦う不撓不屈の信念の確立といえる。
 日蓮仏法は形式主義ではない。強き信念なくして、勇猛果敢な実践なくして、仏法の精神を社会に確立していくことはできないのだ。
30  羽ばたき(30)
 日蓮大聖人は、戒壇建立の条件を述べられたあと、「勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ」と、仰せになっている。
 大聖人御在世当時、新たに戒壇を建立しようとすれば、先例にしたがって、政治的権威をもつ朝廷の「勅宣」と、政治的実権をもつ幕府の公文書である「御教書」が必要であったにちがいない。
 また、当時は、国家の指導者の帰依がなければ、一国の広宣流布は考えられないことから、「勅宣・御教書」を得るように書き残されたのであろう。
 しかし、現在は「主権在民」である。
 一人ひとりの民衆が正法に帰依すれば、そのまま広宣流布の実現となる。今日では、民衆の意思が、それに代わるものとなろう。
 大聖人は、そうした条件を整え、霊山浄土に似た最もすばらしい場所を探して、戒壇を建立するよう、後世の弟子たちに託されたのである。
 さらに、この戒壇について、「一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」と仰せである。
 つまり、インド、中国、日本をはじめ、世界中の人びとが懺悔滅罪するための戒法であるばかりでなく、梵天や帝釈も参詣すると言われているのである。
 梵天・帝釈は諸天善神の代表である。世界を守護する力であり、世界のさまざまな指導者といえよう。
 いわば、各界の指導者をはじめ、あらゆる国の人びとが集い、人類の平和を祈願する場所が戒壇なのである。
 山本伸一は、広宣流布の暁に、その戒壇となるのが正本堂であるとの日達法主の話に、身の引き締まる思いがした。
 思えば一九六四年(昭和三十九年)の春、日達法主は、伸一に「既に広宣流布しておる」と語ったことがあった。
 学会の大前進を目の当たりにして広宣流布を実感し、″戒壇建立近きにあり″と感じ、正本堂の意義を明確に発表したのであろう。
 伸一は思った。
 ″時が来たのだ。広布の新章節の扉が、開かれようとしているのだ″
31  羽ばたき(31)
 山本伸一は、正本堂の重要な意義を明らかにした日達法主の話を、深く胸に刻みながら、固く心に誓った。
 ″私は、全精魂を注いで、この正本堂を建設しよう! 人類の文化遺産となる世界最高峰の、荘厳な宗教建築にしなければならぬ……″
 「意志ある所に道あり」との諺がある。一切は強き決意から始まる。
 聖教新聞では、この日達法主の話を受けて、「正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ意義をもつ」と報道した。
 また、宗門の機関誌である「大日蓮」でも、日達法主の発表を、次のように報じている。
 「戒旦に対する一般の見解についての誤りを御指摘なされたあと、戒旦の大御本尊は大石寺の正本堂にご安置申し上げるのが、もっともふさわしい、という趣旨を述べられ、正本堂建立が実質的に戒旦建立と同じ意義であるという、日蓮正宗の奥儀にわたる重大なお言葉があった」(昭和四十年三月号)
 三月二十六日の第二回建設委員会では、正本堂建立のための供養を呼びかける、御供養趣意書が作成された。
 この趣意書では、日達法主の発表をもとに、正本堂の建設は実質的な戒壇建立であることを訴えている。
 そこには、宗門の総監をはじめ、僧侶二十一人も名を連ね、当時、宗務院教学部長であった阿部信雄の名もある。
 阿部は、後に法主日顕を名乗り、やがて、先師の日達法主の業績である総本山の建物を次々と破壊し、なんと八百万信徒の赤誠によって建立された、この正本堂をも破壊するのである。
 趣意書を目にした全国の学会員は、欣喜雀躍して語り合った。
 「正本堂の建立は、実質的な戒壇の建立になるんやね。戒壇の建立は、まだまだ先のことや思ってたから、感激やわ」
 「広宣流布の時が迫りつつあるということや。もっと頑張って活動せなあかんちゅうこっちゃ。
 それにしても、この正本堂の御供養に参加できるやなんて、ほんまに千載一遇やな」
 「この七百年間、誰もこんな機会には恵まれへんかったんや。私も頑張りまっせ!」
 十月の供養の受け付けに向かって、皆が決意を新たにした。
32  羽ばたき(32)
 正本堂建設委員会のメンバーは、「実質的な戒壇の建立」という大きな使命に闘志を燃やしながら、着々と準備を進めていった。
 正本堂の設計は、奉安殿、大講堂、大化城、大客殿を設計した建築家の横田君雄が担当することになった。
 彼は、大客殿の設計で日本建築学会賞を受賞した建築家で、近代的な寺院建築の先駆者として、注目を浴びていた。
 横田は、山本伸一と対話し、正本堂の建立に全精魂を傾ける伸一の決意を、痛いほど感じた。横田も、その心に応え、正本堂は、断じて世界に誇る宗教建築にしなければならぬと誓った。
 それだけに、彼の悩みは深かった。
 ″妙法を表現できる建築物にしたい。雄大な富士とも調和し、しかも気高く、力強く、そびえるものにしなければならない……″
 思いは、様々に駆け巡った。横田は、何か参考になるものはないかと、動植物の動きをとらえた写真集や、鉱物の顕微鏡写真にも目を通した。
 また、施主である伸一の意向を知ろうと、毎週月曜日には学会本部を訪ねた。労苦は、偉大なる創造の母である。
 伸一は、横田の思い通りに、自由に設計してほしかった。だから、横田のイメージを束縛することがないよう、具体的なことは、ほとんど語らなかった。
 ただ、報告と連携だけは密にしてほしいことを望んだ。
 横田は、正本堂は、なんとしても、歴史に残る宗教建築にしたいと、祈りに祈り、思案に思案を重ねた。呻吟の日々が続いた。
 一九六五年(昭和四十年)八月、彼は、伸一と日達法主に同行し、アメリカとメキシコを訪問した。現地で見るメンバーの歓喜あふれる姿に、日蓮仏法の世界性を肌で感じた。
 横田は、メキシコを訪問したあとは、伸一たちと別れ、各国の有名な建築物を視察して回った。
 そして、帰国した彼は、浮かんでくるイメージをもとに、すさまじい勢いで下絵を描き上げていった。
 外観図だけでも早く発表し、皆を喜ばせたいというのが、伸一の希望であったからだ。
33  羽ばたき(33)
 正本堂の供養の受け付けは、一九六五年(昭和四十年)の十月九日から十二日まで、各地区ごとに、全国一斉に行われることになっていた。
 その受け付けを五日前にした十月四日、正本堂を正面から見た外観図が、聖教新聞の一面に、大々的に発表されたのである。
 建物の最も高いところは六十六メートルで、間口、奥行きともに百メートル近くあるという。
 皆、正本堂は、世界的規模の壮大な宗教建築になるのだと、実感することができた。感動を覚えた。そして、この時に生まれ合わせ、この大事業に参加できることに、大きな喜びを感じるのであった。
 九日から実施された供養の納金受け付けには、全国で約八百万人の同志が参加した。
 どの会場にも、喜びの笑顔があふれていた。
 各地で、爪に火をともすように、生活を切り詰め、供養に参加した同志の、涙と感動のドラマがあった。
 早朝、草刈りの仕事をし、供養の金を貯めた婦人部員がいた。交通費を節約して貯金をするために、毎日三時間は歩いたという男子部員もいた。
 「この一年、服も靴も買わずに貯金しました」と、胸を張る女子部員もいた。
 夏休み中、電球をつくる工場でアルバイトし、給料をすべて供養した高校生や、一年間、新聞配達をして、供養に参加した中学生もいた。
 また、酒もタバコもやめて貯金をし、「御供養は健康の直道だ」と、大笑いする壮年もいた。
 皆が″喜捨″の心で、財を仏法に捧げようと、供養に取り組んだのだ。
 正本堂の供養は、厳しい不況にもかかわらず、創価学会として三百五十億六千四百三十万五千八百八十二円に上った。
 これは、当初、目標として掲げていた額の十倍以上の金額であった。
 それに、僧侶寺族同心会の一億五千七百八十七万八千二百六十五円、法華講の三億一千三百八十二万百六十二円を合わせ、総額三百五十五億三千六百万四千三百九円となったのである。
 一人ひとりの真心から紡ぎ出された、尊き浄財が、誰人も予想しえなかった多額の供養となり、歴史的な大遺産となる正本堂の建設を可能にしたのだ。
34  羽ばたき(34)
 正本堂建設の場所は、「大御本尊は客殿の奥深く安置する」との相伝に基づき、大客殿の後方と決まった。
 設計については、正本堂建設委員会で検討を重ね、一九六六年(昭和四十一年)七月には外部基本設計が決まり、翌六七年(同四十二年)二月には、内部基本設計が決定した。
 横田君雄が設計に着手してから、描いた下絵は実に千枚を超えていた。そのなかで練り上げられた設計である。雄大で気高かった。
 正本堂の外観は、「法庭」「円融閣」「思逸堂」「妙壇」の四つに分かれていた。
 「法庭」は正本堂前面の広場で、その中央には「涌出泉水」の義にちなみ、八葉の花弁形の大噴水が造られる。
 「円融閣」は、正面玄関ともいうべき場所であり、妙法蓮華経の五字の意義を込めて、五本の大円柱が立っている。その柱の直径は五・三メートル、高さは屋根を含めて三十メートルを超えていた。
 「思逸堂」は玄関ホールにあたる場所で、ゆるやかなスロープとなっている。
 正本堂の中枢部となる「妙壇」(本堂)には、法華経従地涌出品に説かれた、六万恒河沙の地涌の菩薩の出現にちなみ、六千のイス席が設けられることになる。
 また、内部の空間には一本の柱もなく、世界に類を見ない「半剛性吊り屋根構造」であった。
 その屋根の形は、羽を広げて大空へ羽ばたく鶴をイメージした、まことに洗練されたデザインになっていた。
 横田は、戒壇として大御本尊を中心とした荘厳な建物にすることは当然のことながら、終始、参詣する人間を主体にして設計を考えた。
 「円融閣」で待機する人びとは、その壮麗な柱を仰ぎ、高まりゆく気持ちで入場し、静けさに包まれた「思逸堂」を通りながら心を落ち着かせる。
 そして、広くて、高い天井の「妙壇」の席に着き、荘厳な思いで、平和と幸福を祈願する。
 祈りを終え、満ち足りた心で、再び「法庭」に出ると、天高く噴水が舞い、美しい虹が懸かっている。
 参詣者は、生命の充実感、開放感を覚え、歓喜のなか、新たな出発を期すことになる。
35  羽ばたき(35)
 正本堂は、横田君雄の基本設計に基づいて、建設が進められることになった。
 建設については、複数の建設会社による、ジョイントベンチャー(共同企業体)方式で行うことが決まった。
 正本堂の工事は大規模であり、正確さと最高の技術を要することから、一社ではなく、秀でた技術と実績をもつ建設会社が、連合して建設にあたるようにしたのである。
 また、工事の期間は、作業の安全と工事の完璧を期すため、十分な時間をとり、完成は一九七二年(昭和四十七年)をめざすことになった。
 建設委員会の委員長である山本伸一は、六七年(同四十二年)の八月、日本を代表する大手建設会社六社の社長ら役員を総本山に招き、正式に施工を依頼した。
 この時、伸一が、強く念願したことは、各社が心を合わせて、最高の力を発揮してほしいということであった。
 インドの大詩人タゴールは叫んでいる。
 「多くの人の仕事の団結が、いままで考えられなかった大きな成果を産み出した」と。団結こそが最大の力を発揮する。
 反対に、それぞれが、いかに優れた力をもっていても、自分の分野のことしか考えず、呼吸が合わなければ、大事業の成就はない。
 各社の代表たちも、正本堂という二十世紀を代表する宗教建築の建設に携わることに、最高の誇りを感じていた。
 伸一が、「よろしくお願いします」と言って握手を交わすと、各企業の代表は、「心を一つにして、歴史に残る大建築にしてまいります」など、口々に決意を披歴した。
 その目には、共に歴史を創ろうとの、闘魂が燃え輝いていた。
 待望の正本堂建立発願式が挙行されたのは、この六七年(同)の十月十二日のことであった。
 その日は、見事な秋晴れであった。
 特設された祭壇の脇には、供養に参加した八百万人の名簿と、後に定礎される世界百三十五カ国・地域の石が桐箱に納められ、供えられた。
 式典は、午前十一時半から盛大に営まれた。
 正本堂は、建設の第一歩を踏み出したのだ。
36  羽ばたき(36)
 正本堂建立発願式は、読経、そして、日達法主の「願文」と続いた。
 「願文」には、日興上人が謗法の山と化した身延を離山し、南条時光の供養によって大石寺が建立されたことが述べられていた。
 そして、現代に至り、創価学会の外護を得て、宗門が大興隆したことに言及し、さらに山本伸一の功績を讃えていった。
 「前代より正法守護の大任を継いで折伏弘教に精進す。
 或る時は獅子王の如く国内に跳躍し或る時は鳳凰の如く海外に雄飛す。正に広宣流布の一時に来たるやと我等をして驚嘆せしむ」
 日達法主は、伸一の手で、広宣流布は一気に進んだことを、「願文」のなかで明言した。
 それは伸一と学会員の功績を賞讃する永遠の証である。
 そして、さらに、伸一が正本堂の建立寄進を発願したことを、讃嘆するのであった。
 「しかのみならず故恩師の遺志を紹いで茲に法華講総講頭として正本堂を建立せんとし発願を為す。
 其の規模たるや拡大に其の景観たるや荘厳なり。其の設計は既に成る……」
 伸一は、″正本堂は大聖人御遺命の本門の戒壇となった。ならば、全精魂を注いで建設にあたるのは当然である″と、深く決意していた。
 日達法主が「願文」を読み終えると、時計の針は正午をさしていた。
 続いて伸一の「発誓願文」である。
 「……夫れ正本堂は、末法、事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又、仏教三千余年、史上空前の偉業なり。
 我等この発願の盛儀をもって、将に四海の静謐と、万民の福祉を希う人類の、究極の大理想実現への第一歩と確信するものなり……」
 澄んだ力強い声が、青空に響いた。
 そこでは、大聖人は本門の題目を唱え、本門の大御本尊を出世の本懐として建立されたが、三大秘法のうち戒壇の建立を滅後の末弟に託されたのはなぜか――に言及していた。
 そして、それは、末法万年にわたる、広宣流布の揺るぎない基盤を、末弟たちに築き上げさせ、地涌の菩薩の使命を果たさせようとされたからであると訴えた。
37  羽ばたき(37)
 山本伸一は「発誓願文」で、正本堂の意義を述べていった。
 「唯我が日本民衆の鎮護国家の道場なるのみならず、世界人類の永遠の平和と繁栄とを祈願すべき根本道場なり……」
 ―過去の戒壇は、勅命による戒壇であった。また、在家への授戒も、王侯貴族など、上層の人びとに限られていた。
 しかし、正本堂は、民衆の信心の赤誠で建立され、老若男女の違い、また、職業、階級、民族等、いっさいの差別を超え、全世界の民衆が、等しく平和と幸福とを祈願する「根本戒壇」であることを、伸一は読み上げていった。
 さらに、正本堂の建設に至る経過や規模、設計の概要に触れ、供養に参加した全員の名を、百三十三冊の名簿に収めて、永遠に正本堂に保存することが決定した旨を発表したのだ。
 そして、「夫れ民衆は国家の主権者たり。されば、斯くの如き大戒壇は、正しく民衆立の戒壇とも呼ばれるべきなり」と、ここに宣言したのである。
 フランスの歴史家ミシュレが叫んだように、まさに、民衆こそ「歴史の主役」なのである。
 「発誓願文」は、こう結ばれていた。
 「その時代(広布)は、未だ未来に居すと雖も、而も亦、甚だ近きを信ず。
 我等末弟、その日の実現の一日も早からんことを希い願うて、日々、月々、年々に、更に折伏行に断固邁進せんことを堅く誓うのみ……」
 戒壇となる正本堂建立の伸一の誓願は、まさに広宣流布の大誓願にほかならなかった。
 それは、全学会員の決意でもあった。皆の目が輝いていた。
 根本の目的は、どこまでも広宣流布であり、その証、帰結としての戒壇の建立である。
 現実に正法が流布されて、人びとの幸福と平和が実現されるからこそ、戒壇は、尊く、偉大なのである。
 そして、その実践のなかにのみ、仏法の正法正義は流れ通うのである。
 集った同志の顔は、歓喜に燃えていた。広宣流布を、折伏を、皆が心に深く誓っていた。
 布教の聖業に励む人ほど、尊貴にして偉大な人はいない。
38  羽ばたき(38)
 発願式を終えると、正本堂建設委員会では、本山内の総合的な整備について検討を重ねた。
 正本堂建立地内にある墓地や納骨堂の移転先の検討をはじめ、将来、大幅に増える登山者が、安全に、快適に過ごせるよう、施設面などの見直しも真剣に行われた。
 また、基本設計をもとにして作成された正本堂の設計図は、建設委員会で、さらに吟味されていった。
 一九六八年(昭和四十三年)の十月には、正本堂建立に合わせた整備計画の一環として、三門前の広場や三門橋の整備も竣工した。
 特に、三門橋は、登山者が道路を渡らなくてよいように設置された歩道橋であったが、高齢者のことも考え、一般の歩道橋に比べ、ゆったりした幅で、勾配にも余裕をもたせていた。
 建設委員長である山本伸一が最も心を砕いていたのは、参詣者の安全と至便であった。
 やがて、日本は高齢化の時代を迎え、お年寄りも増える。また、体の不自由な人や、子ども連れの家族もいる。
 参詣に来た方々が、安全に、疲れず、快適に過ごせることを、彼は重要なテーマとしていたのである。
 建築には、思想が表れる。どんなに立派で、厳かな建物であったとしても、人びとの安全や快適さを二の次に考えた設計であれば、人間を手段とした権威づけのための伽藍となってしまう。
 正本堂も、それに関連したいっさいの施設も、人間を大切にする、人間主義の思想に貫かれた建物でなければならないというのが、伸一の信念であった。
 大聖人は、「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり」と仰せである。
 なれば、その方々を徹して守り、最高に大切にしていくなかにこそ、仏法はある。
 伸一は、自ら総本山を歩いて、危険な場所はないかを見て回った。また、皆がどこに不便を感じているかなど、直接、意見を聞いたりもした。
 体の不自由な人や高齢者の話も参考にした。
 そして、それを反映した建築になるよう、関係者とも、相談を重ねていったのである。
39  羽ばたき(39)
 正本堂の着工大法要が営まれたのは、建立発願式から一年を経た一九六八年(昭和四十三年)の十月十二日であった。
 勤行、鍬入れ式に続いて、山本伸一があいさつに立った。
 伸一はまず、「三大秘法抄」の一節を、朗々と拝し、この「法華本門の戒壇」たる正本堂の着工大法要が無事終了した御礼を簡潔に述べた。
 そして、伸一が工事開始のスイッチを押すと、式場の北側で、ダイナマイトが炸裂し、もうもうと土煙があがった。
 会場の西側では七つのくす玉が割れ、「慶祝正本堂着工」の文字が現れた。待機していた六台のブルドーザーが動きだし、六百六十羽の鳩が放たれ、天高く舞い上がっていった。
 この着工大法要を終えると、正本堂の建立地の測量や地質調査、また、地盤がどれだけの重さに耐えられるかを調べる、載荷試験などが行われていった。
 地盤の載荷試験では、当初の設計で要求された一平方メートルに六十トンという強度の、三倍以上の荷重強度があることがわかった。
 長期にわたって十分に建造物を支えうる、強い地盤であることも立証されたのである。
 やがて、基礎コンクリートを流すための、地盤の掘削工事が始まった。
 工事関係者を最も悩ませたのは、地中にたくさんある岩石であった。それをブルドーザーで移動させるのだ。
 だが、大きすぎて、ブルドーザーでも動かせない巨石もあった。
 最も大きなものは、なんと百八十四トンもあったのである。
 巨石の粉砕には、ダイナマイトが使われた。
 取り出された岩石は、石垣などに利用された。
 岩石を処理した穴は土砂で埋めるのではなく、一つ一つ、コンクリートを流し込んでいった。手間のかかる労作業であった。
 フィリピンの格言に、「苦闘が多ければ多いほど、勝利は輝かしい」とある。
 建設に従事する人たちも、二十世紀を代表する宗教建築の正本堂を、自分たちの手で造っていくのだという誇りにあふれていた。
 最高の仕事をしようと皆が燃えていた。作業場には活気があった。
40  羽ばたき(40)
 正本堂の建設にあたっては、使用するコンクリートは、最も品質の優れたものにすることが、基本方針として定められていた。
 半永久的に残る建物を建設するうえで、コンクリートの品質こそが生命線となるからだ。
 検討を重ねた結果、コンクリートは、建設現場で製造することにした。
 担当者には、プラント(生産設備)の設置からコンクリートの製造、施工、品質管理などのために、二カ月の技術研修も行われた。
 砂なども厳選され、富士川の砂と砂利が使われることになった。
 プラントが設置されると、コンクリートの品質管理基準も厳格に定められ、製造されたコンクリートから、適宜、サンプルを採取し、厳しい品質試験が行われた。
 基準値にわずかでも合わないコンクリートは、容赦なく返品された。
 皆が妥協を排して万全を期したのだ。
 風洞実験や振動実験等々の各種構造実験は、東京大学航空宇宙研究所(当時)などで、日本を代表する専門家の指導を受け、丹念に行われた。
 正本堂の建設で、最も複雑で困難であったのは本堂にあたる「妙壇」であった。
 その安全性を追求するさまざまな計算のために国内有数のコンピューターをフル回転させた。
 また、使用する鉄骨に対しても、加工や溶接後の引っ張り試験や衝撃試験などが厳密に行われたのである。
 さらに、正本堂建立地の一角に大実験室が設けられ、そこに妙壇の十五分の一の大型模型がつくられた。模型といっても、幅九メートル、高さ四メートルである。
 この模型で、起震機を使って、横揺れ、縦揺れで受ける影響や、風、雪に対する強度試験、妙壇屋根面の梁の強度試験などが繰り返された。
 失敗の許されない仕事である。検証がなされずに、あいまいさや不明な部分がわずかでも残っていれば、それが大事故の原因となる。
 大事業とは、どんな小さな事柄も疎かにせずに、一つ一つ検証し、確認することによって初めてなされる、完璧な小事の集積である。油断、妥協を徹底して排することから、大事業は成る。
41  羽ばたき(41)
 着工大法要から一年を経た、一九六九年(昭和四十四年)十月十二日には定礎式が行われた。
 御本尊を安置する須弥壇の基底部分に、世界百三十五カ国・地域の石を埋める儀式である。
 山本伸一は、正本堂建立を発表した六四年(同三十九年)五月三日の本部総会で、日本各県の石はもとより、世界各国の石も集め、正本堂の基礎に埋め、荘厳したいと語った。
 正本堂は、世界平和を祈願する大殿堂であり、人類の幸福を実現しゆくための道場である。
 それだけに、その礎には、なんとしても、世界の石を納めたかったのである。
 伸一は、その先頭に立ち、海外を訪問するたびに、自ら石を採取して歩いた。
 また、彼の提案に賛同した海外のメンバーも、来日の折に石を持ってきてくれるなど、協力を惜しまなかった。
 幾つもの言語や宗教、民族によって構成されるユーゴスラビア(当時)の石も届いた。
 パリで画家として活躍する長谷部彰太郎が、ユーゴスラビアで行われた版画展を訪れ、会場の美術館の前で見つけた美しい石を、送ってきたのである。
 仕事で海外に出張した会員や外国航路で働くメンバーも、各国の石を採取してきてくれた。
 これら同志の尊い尽力によって、分断された双方の国や、紛争が絶えない国の石も集まった。
 サウジアラビアやイスラエル、イラク、イランなど、中東諸国の石もそろった。ソ連をはじめ、社会主義国の石も、たくさん集まった。
 アフリカの石もあった。なかでも、ガーナからは、独立の父エンクルマ初代大統領の別邸として使われた家の庭の石が届けられた。
 その家に、日本から手工芸関係の技術指導員として派遣された壮年部員が住んでいたのだ。彼はこの庭の石を大西洋の海水で洗い、磨いて日本に送ったのである。
 南極観測船の乗組員となった学会員が届けてくれた、昭和基地周辺の石もあった。
 平和建設の礎石とは何か――それは、この世から断じて不幸をなくそうという、人間の固い誓いである。強き意志力である。その心が正本堂に結集されたのだ。
42  羽ばたき(42)
 定礎式が始まった。
 既に周囲には、建物の骨格となる鉄骨が立てられていた。
 式典会場の中心となる須弥壇の基礎部分には穴がつくられ、そこに世界の石を入れた、直径一メートルの円板形のカプセルが納められていた。
 このカプセルは特殊ステンレス製で、フタを開けると、中には蜂の巣状に穴があり、そこに、世界の石が一つ一つ入れられている。
 日達法主は、この式典の「表白文」のなかで、「正本堂は、本門戒壇の大本尊安置の霊堂にして、梵天帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇也」と、「三大秘法抄」の御文に即して、正本堂の意義を再確認した。
 そして、カプセルのフタに、山本伸一が願主として刻んだ銘文を読み上げていった。
 「此の正本堂は一閻浮提総与の大御本尊を御安置し奉る法華本門 事の大戒壇である。
 全人類の永遠の平和と繁栄を願望する民衆の建立による立正安国の根本道場たる大殿堂なのである。
 (中略)世界全民衆の参画を象徴し世界百三十五か国から寄せられた石を大御本尊御安置の真下の礎石のなかに収め茲に定礎とする」
 参列者は、その意味を深くかみしめていた。
 続いて定礎の儀式となり、日達法主と伸一が、カプセルに納めきれなかった世界の石を、スコップでカプセルの上に注いだ。
 伸一は、戦火の絶えない世界を思いつつ、心で真剣に、平和を祈り念じていた。
 この年、中ソ国境では三月に武力衝突が起こっている。核兵器を保有した両国の紛争は、第三次世界大戦に発展しかねない脅威を、人びとに与えていた。
 一方、ベトナムでは、段階的に米軍の撤兵が始まってはいたが、事態は泥沼化の様相を呈し、和平への確かな展望は、いまだ見えなかった。
 ″だからこそ、世界平和祈願の大殿堂たる正本堂を建立するとともに、仏法という生命の尊厳と平和の大哲理を、一日も早く、世界に流布しなければならない″
 それが、伸一をはじめ全学会員の決意であり、誓いであった。
 平和の実現を離れて宗教はない。平和への貢献こそ、宗教者が果たすべき第一の使命である。
43  羽ばたき(43)
 定礎式から、工事は第二期に入り、建設に拍車がかかった。
 一九七〇年(昭和四十五年)三月には、「妙壇」の最初の鉄柱が立てられた。
 この年の十月十二日には、上棟式が営まれ、須弥壇の真上にかかる「棟梁」の取り付けが行われた。地上約五十五メートルでの作業であった。
 その後の工事の大きな山場は、「妙壇」大屋根の支えを解除する「ジャッキダウン」であった。
 「妙壇」の屋根は東西百十メートル、南北八十二・五メートルもあり、完成時の屋根の重量は、約二万トンと想定されていた。
 その大屋根を吊り上げるのが、自転車の車輪のように、中央リングから楕円形の縁梁に、放射線状に延びた三十六本の鉄骨である。
 この鉄骨の要となる中央リングを、地上約三十メートルの高さで支えてきた仮設構台から、ジャッキを使って外す作業が「ジャッキダウン」である。
 仮設構台を外せば、中央リングは降下し、それによって柱も動く。もし、これまでの構造計算に間違いがあれば、どんな事態が生じるかわからなかった。
 七一年(同四十六年)六月十七日、遂にその日が来た。
 建設現場は、早朝から、ピリピリした空気が流れていた。
 ″問題はない。コンピューターを駆使して計算を重ね、実験に実験を重ねてきたのだ……″
 担当者には、完璧を尽くしてきた自負があった。しかし、それでも不安は拭えなかった。
 新しき挑戦に、「安心」という言葉はないのだ。
 中央リングは、十メートル四方の台の上に設置された、十二基のジャッキで支えられていた。
 午前十時五分、作業が開始された。
 油圧ポンプを使い、約十分かけ、十二基のジャッキにかかる荷重を均等にしながら、少しずつ下げていった。
 そのたびに、中央リングの降下量、梁の歪み、南北最高部の柱頭の内外への移動量などが計測された。
 三十分後に第二回、そのまた三十分後に第三回が行われた。
 そして、午後四時五十二分、最後の十一回目のジャッキダウンが行われたのである。
44  羽ばたき(44)
 作業員は、息を凝らして、中央リングを見つめていた。
 スピーカーから弾んだ声が流れた。
 「ただいま、ジャッキダウンが終了しました」
 肉眼では、何も変化は感じられなかった。大成功であった。作業員から、歓声があがり、拍手が沸き起こった。
 中央リングの降下量が測定された。
 結果は、三十四・二五ミリであった。これはコンピューターが予測した三十八ミリよりも少ない数値である。それにともなう柱の傾きもほとんどない。すばらしい技術であった。
 正本堂よ永遠なれ――との関係者の強き一念が、大規模で複雑な難工事を可能にしたのだ。
 一九七一年(昭和四十六年)の十月十二日には躯体完成式が行われ、工事は、いよいよ最終段階に入った。
 「法庭」の池のタイル工事や「円融閣」の大理石仕上げ、中央ブリッジの取り付け、「思逸堂」の絨毯張り、また、「妙壇」の縁梁外壁の仕上げや
 信徒席の設置など、細部に至るまで丁寧に作業が進められた。
 正本堂の完成を五カ月後に控えた、七二年(同四十七年)四月二十八日のことである。
 この記念すべき宗旨建立の日に、日達法主は訓諭を発表し、再度、正本堂の意義を確認している。
 そこには、次のようにあった。
 「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。
 但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。
 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし」
 つまり、正本堂は大聖人御遺命の戒壇を事前に建立したものであり、広宣流布の暁には、そのまま、本門寺の戒壇となることを、後世の証明として重ねて明言し、周知徹底したのである。
45  羽ばたき(45)
 一九七二年(昭和四十七年)の十月一日には、遂に正本堂の完工式が営まれるに至った。
 式典には、学会をはじめ、宗門、法華講、設計・工事関係者の代表のほか、国内外の来賓千数百人、報道関係者五十五社九十人など、合わせて六千人が参列した。
 山本伸一は、「法庭」から正本堂の中に入る中央ブリッジ入り口の紅白のテープにハサミを入れた。そして、日達法主を先導していった。
 白亜に輝く、正本堂の荘厳さに、参加者の誰もが息をのんだ。
 完工式は、読経に続いて、宗門の総監のあいさつとなった。
 ――正本堂の発願主であり、建設委員会の委員長として辛労を尽くしてきた山本伸一がいてこそ、今日の完成を迎えることができたと、彼は深く感謝の意を表した。
 さらに、正本堂建立共同企業体の代表から、山本伸一に、「正本堂竣工引渡書」が提出され、伸一からは「受領書」が渡された。
 そして、伸一から日達法主に御供養目録が差し出され、正本堂は、建設委員会から大石寺に正式に供養されたのである。
 副会長の十条潔の経過報告のあと、海外各地から寄せられた祝賀のメッセージの一部が紹介された。
 メッセージは国連事務総長やアメリカの副大統領、カナダの首相、フランス・パリのオペラ座の総支配人など、全部で百通を超えていた。
 この日、海外からも多くの来賓が出席していたが、席上、アメリカのサンタモニカ市長から、伸一に名誉市民の称号が授与された。
 サンタモニカには、アメリカの中心会館がある。市長は、苦悩にあえいでいた人びとが仏法によって蘇生していく姿を目にしてきた。
 その仏法の指導者である山本伸一に、賞讃の意を表して、名誉市民の称号を贈ることを希望したのだという。
 このほか、正本堂落慶に際して、伸一の社会と平和への功績を讃え、世界の三十一の州・都市からも、名誉市民などの称号が贈られている。
 また、式典では、ベネズエラの特命全権大使の祝辞もあった。
 それらは、まさに「大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」との御文を思い起こさせた。
46  羽ばたき(46)
 設計者、共同企業体代表の話のあと、山本伸一があいさつに立った。
 彼は、建設委員会の委員長として、関係者に対し、心から御礼の言葉を述べた。
 そして、民衆の真心によって建立された正本堂は、民衆のための施設であり、宗教的権威を象徴する建物ではないことを訴えていった。
 「正本堂は人類の恒久平和と世界文化の健全なる進歩、発展を祈願する殿堂でありますが、その祈願者は、総じてはここへ参拝する人、全部であります。
 すなわち人種や老若男女を問わず、民衆全体が祈願者でありまして、ここが最大の特徴をなしているのであります。
 古今東西を問わず、普通、『参拝者は聖職者から祈願を受けて帰る』のでありますが、ここ正本堂は『民衆が猊下とともに』『祈願をして帰る』のであります。
 この点において正本堂は解放された未来の世界宗教にふさわしい殿堂であると、私は信ずるのであります。
 『聖職者から祈念を受けて帰る』べきであるとするならば、それより私は『無教会主義』の方が、より進歩的であり、かつ正しいと、考えるものであります。
 また、宗教そのものは建物や形相的荘厳とは違うものであります。
 したがって、民衆が仏と一体関係下において、能動者として祈願するものでなければ、殿堂は不要である。無殿堂主義の方が進歩的であり、より正しいと、私は考えるのであります」
 一閻浮提の一切衆生、すなわち、全世界の民衆を、幸福にしゆくための大御本尊である。
 また、大聖人は「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」と仰せである。
 そこには、聖職者によって祈願してもらうなどといった発想はない。
 民衆一人ひとりが、御本尊と相対して自ら祈願することこそ、日蓮仏法の本義なのである。
 さらに伸一は、民衆が結束して建立した正本堂こそ、人類の生命の尊厳を祈る民衆の宗教殿堂であることを語った。
 そして、正本堂の完成をもって、広宣流布は第二章の開幕を迎えたことを宣言したのである。
47  羽ばたき(47)
 日蓮仏法は、人間主義の世界宗教である――山本伸一のあいさつには、その強い確信がみなぎっていた。
 彼の話に、場内からは大拍手が沸き起こった。
 完工式では、最後に伸一から、設計、施工にあたった各社の代表に感謝状と記念品が贈られた。
 彼は、できることならば、建設作業に携わった方々を、一人ひとり抱きかかえ、心から御礼を言いたい思いであった。
 正本堂の建設が始まってからというもの、作業に励む人たちのことが、伸一の頭から離れることはなかった。
 日々、彼は、全員の無事を祈って題目を送り続けてきた。
 厳寒の日や炎暑の日など、よく側近の幹部に、今日は何人の人が作業にあたっているかを調べてもらった。そして、靴下やシャツなどを手配し、贈ることもあった。
 また、伸一自身、何度となく、建設現場に足を運んだ。応対してくれた人や、黙々と作業に励んでいる人に、記念のメダルなどを贈呈したこともあった。
 汗だらけになって、セメントを運ぶ人がいる。鉄骨を担ぐ人がいる。高い鉄柱の上でボルトを締める人がいる。作業場に水を撒く人がいる……。
 その人たちこそが、世紀の大殿堂たる正本堂建設の大功労者なのだ。
 ある時、建設現場を訪れた伸一は言った。
 「作業に励む皆さんの姿から、永遠に残る不滅の正本堂を建設しようという心意気が、ひしひしと伝わってまいります。
 工事の無事故、大成功を、毎日、御祈念しております。本当にありがとうございます」
 そして、深く、深く、頭を下げた。
 伸一は、各社の代表に連なる、多くの作業従事者のことを考え、合掌する思いで感謝状と記念品を手渡していった。
 人は、建物の荘厳さには感嘆する。しかし、供養や労作業など、陰で精魂を尽くし、それをつくり出した人に、目を向けようとはしない。だが、その人こそが尊いのだ。
 そして、その労苦に眼を凝らし、心を砕くことから、人間主義の行動が始まるのだ。
 ――正本堂の建立寄進の発表から八年五カ月、ここに、本門の戒壇となる大殿堂が、晴れて完成したのである。
48  羽ばたき(48)
 山本伸一は、総本山にあって、全力で正本堂落成慶祝行事の指揮をとっていた。
 日達法主との打ち合わせや、次々と到着する海外メンバーへの激励など、日々、フル回転であった。
 十月五日には、総本山の総合整備計画の一環として建設が進められてきた、開闡会館、輸送センター、浣衣堂が完成。伸一がテープカットし、開館式が行われた。
 開闡会館は報道関係者のセンターとして、輸送センターは登山会の運営拠点として使用される。
 また、浣衣堂は登山会参加者の大浴場である。
 七日には、海外メンバーら三千人が唱題し、見守るなか、大御本尊を奉安殿から正本堂に遷座したのである。
 十一日、大御本尊御遷座大法要が執り行われ、正本堂での初の御開扉となった。
 本門の戒壇となる正本堂に、大御本尊が安置されたのだ。
 参列者の唱題が響くなか、須弥壇の円形扉が左右に開くと、さらに美しい朝焼けを思わせる、朱金の綴れ織をあしらった垂直扉がある。その扉が上がると、金色燦然たる厨子が現れる。
 皆、厳粛な思いで、合掌した。
 ――そして今、遂に慶祝式典の中心行事となる、十月十二日の正本堂完成奉告大法要を迎えたのである。
 山本伸一には、建立寄進の発表から、今に至るまでの奮闘の日々が、一瞬の出来事のように思えるのであった。
 真剣勝負がもたらす、日々の生命の燃焼は、歳月の長さを感じさせないものだ。
 正本堂の完成を大御本尊に奉告する伸一の「慶讃の辞」は続いていた。
 「今幸にも日中国交の正常化成ってアジアの断絶解消の曙光明らかなり。五濁の長闇破れて東洋の空、戦雲霧消せんとする瑞か。
 ……正本堂出現を契機として、弥々東洋広布の時代の幕は開くべき乎。
 法自ら広まらず・人・法を広むるが故に人法共に尊き道理。乞う、諸天も我等が指向する真実の平和への道を照覧あれ」
 平和への決意にあふれた「慶讃の辞」が終わると、再び読経となり、歓喜の唱題が響いた。
49  羽ばたき(49)
 完成奉告大法要の最後に、日達法主から山本伸一に記念品と感謝状が贈られた。
 感謝状には、彼が建設委員長となって、正本堂を建立寄進したことに対して、「宗門史上未曾有にして且つ永久不滅の大功績として宗門一同等しく稱歎するところであります」とあった。
 万雷の拍手が正本堂の大天井にこだました。
 伸一は、この感謝状は苦楽を共にしてきた全同志への賞讃であると思った。
 一方、参列した同志もまた、わがこととして心から祝福の拍手を送った。この不二なる心の連帯にこそ、創価学会の不屈の強さがある。
 完成奉告大法要のあとは、「法庭」で、千人のメンバーによる、琴の演奏が行われることになっていた。
 正本堂の「円融閣」には、幅百メートル、縦二十三・六メートルの、茜色の大緞帳が張り渡されていた。
 前年の東京文化祭で衣装係を務めたメンバー二百十人が担当し、二十日間を費やして仕上げたものだ。
 ″本門の戒壇となる正本堂完成の儀式に、どんなかたちでもよいから尽力し、共に荘厳したい″
 その思いで、仕事の合間をぬい、夜を徹するようにして、縫い上げたのである。
 その大緞帳が映える法庭に、一千人の琴の大演奏が響いた。
 メンバーは、流派も、技術力も異なっていた。しかも、居住地は全国に及んでいるため、全員が一堂に会して練習する機会は、ほとんどもてなかったのである。
 その条件のもと、ましてや屋外で、千人もの人が息の合った見事な演奏をすることは、至難この上なかった。だが、皆が燃えていた。
 ″大聖人の御遺命の実現となる正本堂落慶の大式典だ。絶対に大成功させてみせる!″
 伸一の妻の峯子も、この大演奏の一員として、琴の練習を重ねてきた。
 式典当日は、来賓の応対などのために出演できなかったが、同じ心で大成功を真剣に祈っていた。
 演奏は、「さくら変奏曲」「桜花爛漫の歌」、そして「正本堂讃歌」と続いた。
 歓喜が表現され、優雅であり、荘重であった。
 演奏が終わった時には、大拍手が晴れ渡った天空に轟いた。一念が不可能を可能にしたのだ。
50  羽ばたき(50)
 十三日は、正本堂法庭涌出泉水大法要が行われた。法庭に設置された八葉の池の大噴水を始動する儀式である。
 正本堂での法要に続いて、法庭で噴水の噴き上げ式が始まった。
 ファンファーレが高らかに鳴り響き、日達法主や山本伸一らが桶の水を池に注ぎ、伸一がポンプのスイッチを押した。
 池の中央から、高さ三十メートルの噴水が勢いよく噴き上げた。
 その水柱に向かい、池の周囲からも水が八本の曲線を描いた。
 さらに中央の噴水を囲むように設けられた、幾つもの水の噴き出し口からも、水が噴き上げた。
 音楽隊、鼓笛隊が、軽快な調べを奏で始めた。
 太陽の光を浴びて、噴水に虹が懸かった。
 噴水は、音楽に合わせて、歓喜の舞を踊っているかのようでもあった。
 水柱の向こうには正本堂が、彼方には富士がそびえていた。妙なる名画であった。
 噴水を見上げ、目を潤ませる一人の女子部員がいた。彼女は、語りかけるようにつぶやいた。
 「お母さん、あれが正本堂、そして、噴水にはきれいな虹……。見えるでしょ」
 彼女の胸には亡き母の写真が収められていた。 母親は、正本堂の外観図が発表された時、瞳を輝かせて言った。
 「本門の戒壇となる正本堂の供養に参加できるなんて、これほどの誉れはないわね。それに、立派な噴水までできるのね。早く見てみたいわ」
 そう語っていた母の、嬉しそうな顔が忘れられなかった。
 この時、母は癌の宣告を受け、あと一年の命と言われていた。
 しかし、「正本堂ができるんだから広宣流布を進めなければ」と、病魔に負けず、喜々として、一日、また一日を生き切っていった。
 母は、法華経寿量品に説かれた「更賜寿命」(更に寿命を賜う)の実証を示し、五年の
 歳月を生き抜いた。そして、二年前、正本堂の完成を楽しみにしつつ、他界したのである。
 噴水に懸かる虹を見ながら、娘は誓った。
 ″お母さんの分まで、私が頑張る。そして、必ず、社会に幸せの虹を懸けるわ″
 彼女には、青空に輝く太陽が、微笑む母の顔に思えた。
51  羽ばたき(51)
 翌十四日は正本堂落慶大法要が営まれた。
 席上、完成した正本堂を総本山に供養し、使命を果たし終えた正本堂建設委員会を代表して、副委員長の十条潔から会計報告が行われた。
 これは、建設委員会で正式に承認された、収支決算の報告であった。
 十条は、正本堂の建設にともなう収支と、総本山側に設置された、正本堂運営委員会に引き継いだ資産ならびに、残存事業について報告した。
 彼は、御供養金の最終額、それに対する受け取り利息、その他、雑収入を合わせ、正本堂総合事業の収入総額は、四百八十七億五千八百二十万五千十一円となったことを報告した。
 次いで支出を項目別に述べていった。
 正本堂の建物本体に二百二十八億七千八十万六千八百九十八円、正本堂の土地代金及び整備費に三十二億二千七百五十六万百二十円等々、正本堂建設事業費の合計は三百十六億二千五十九万九千六百一円であった。
 また、正本堂の維持基金として、六億円を確保したことを語った。
 さらに、この事業計画の残存工事とその予算について説明し、最終的に残余金が出た場合は、正本堂の維持基金に繰り入れることを発表した。
 一円たりともゆるがせにしない、極めて詳細な報告であった。
 最後に、法華講の総講頭である山本伸一が、あいさつに立った。
 彼は、全参加者に祝福と感謝を述べたあと、新しき出発の決意を促していった。
 「とかく人の気持ちというものは、何か大事な事業を完遂すれば、これで一段落したとホッとして、安易な気持ちになりがちなものであります。
 しかし、ここに正本堂が見事に完成したということは『終わり』ではなく、それは『始まり』なのであります」
 大きな課題を成就し、その喜びの余韻にひたっているうちに、人は油断し、闘争心も警戒心も忘れ、安逸と惰性に流されていくものだ。
 実は、それこそが「魔」なのである。
 「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せの通りである。
 ゆえに、常勝の道を行く者は、「勝って兜の緒を締めよ」との言葉を、生命に刻むことだ。
52  羽ばたき(52)
 山本伸一は、自らに新しき挑戦への闘志を燃え上がらせながら訴えた。
 「正本堂の完成は、この大仏法が世界宗教として、地球上のあらゆる人びとを迎え入れ、救済できる準備ができあがったということであります。
 正本堂ができあがったことで、基盤づくりは終わり、大聖人が目的とされた肝心要の広宣流布の『本番』が、この十月から、いよいよ始まったわけでございます。
 遂に広宣流布の総仕上げの、幕開けを迎えたのであります。
 日蓮大聖人の仏法は、永遠に本因妙です。したがって、広宣流布の旗を掲げ、未来へ、未来へと永遠に前進していくことこそ、私たちの使命であります。
 これから、ますます信心堅固に、川を渡り、山を越え、嵐も、怒濤も越えて、法のため、世のため、人類のために、長期的展望に立って、本格的な活動を進めていただきたいのであります」
 皆の心のなかには、正本堂の建立をもって、大闘争は終了するかのような思いがあった。
 伸一は、その気持ちを打ち破り、新しい旅立ちの銅鑼を、高らかに打ち鳴らしたのである。
 皆の目が光った。大拍手が鳴り渡った。
 翌十五日には、正本堂世界平和祈願大法要が行われた。
 この日午前、大石寺のある富士宮市では、日米の音楽隊、鼓笛隊によるパレードが行われた。
 日本語と英語で「みんなで築こう世界の平和」と書かれた横断幕を先頭に、勇壮なトランペット、ドラム、さわやかなファイフの音を響かせ、華麗な行進が始まった。
 市民の多くは、アメリカの音楽隊や鼓笛隊も参加した、これほど大規模なパレードを見るのは初めてであった。
 日米のメンバーが仲良く、はつらつと曲を奏でる姿を見て、ある住民は感嘆の声をあげた。
 「これは、世界の平和のモデルです。正本堂には世界中の人が参詣すると聞いてましたが、いよいよ″世界平和″がこの町にやって来るんですね。私たちの町が″世界の富士宮″になることは、本当に嬉しい」
 市民も、共に正本堂の建立を喜んでくれていたのである。
53  羽ばたき(53)
 世界平和祈願大法要に先だって、山本伸一は、正本堂の建設工事に携わってきたメンバーの代表や、妙壇の基底に埋めた″世界の石″の提供者たちと、法庭の階段で記念撮影を行った。
 伸一は、建設関係者に、深い感謝の思いを込めて語った。
 「大変にお世話になりました。この席をお借りしまして、厚く御礼申し上げます。
 皆さんが、命がけで努力してくださったことはよく存じております。真心に胸が詰まります。
 皆さん方の功績を讃え、お名前を刻んだ顕彰の碑を、永遠に妙壇の基底に納めさせていただくことにいたしました」
 銅板に名前を刻んだ顕彰の碑は既に用意され、皆の前に置かれていた。
 そこには、「人類悠久の平和を祈願する大殿堂たる正本堂を幾多の難工事を克服して完遂した妙法のたくみの姓名を銅板にきざみ永遠にその功績をたたえるものである」との一文が刻まれていた。
 メンバーは、伸一の心に触れた思いがした。
 皆、感無量で、記念のカメラに納まった。
 また、″世界の石″の提供者は、日本をはじめ、東南アジア諸国、アメリカ、イギリス、フランス、ギリシャ、ベルギーなどから、百二十余人が集っていた。
 伸一の提案で、この日の式典に招待されたのである。
 皆、大喜びであった。
 メンバーは、年齢も大きな開きがあり、職業も、貿易会社の経営者や商社マン、船員や芸術家など、多彩であった。
 伸一は言った。
 「ありがとう。皆さんの献身によって、″世界の石″が正本堂に定礎されました。この事実を、孫の孫の代まで語り伝えて、誇りにしていってください」
 「民衆立」である正本堂は、民主の時代の象徴であり、民衆讃歌の大殿堂であらねばならない。
 伸一は、正本堂の建立に尽力してくれた方々を、いかに讃え、励ますか、いつも心を砕いていたのだ。
 皆が「仏」の生命を具え、皆が「仏子」、皆が「宝塔」であると仏法は教える。したがって、一人ひとりを大切にするなかにこそ、仏法はある。
 ゆえに仏法のリーダーとは、配慮と気配りの人でなければならない。
54  羽ばたき(54)
 正本堂での世界平和祈願大法要に続いて、午後には円融閣前に特設されたステージで、「世界平和文化祭」が晴れやかに繰り広げられた。
 文化祭は、正本堂の完成を慶祝する、優美な日本舞踊で幕を開けた。
 第二景では、女子部のリズムダンスや婦人部の民謡踊り、音楽隊の演奏と、日本のメンバーによる歓迎の演技が続いた。
 舞台は第三景「世界は一つ」に移った。
 香港の友による獅子舞、ブラジルの友による陽気なサンバ、アメリカの友によるハワイアンダンスなど、さまざまな民族衣装に身を包んでの熱演であった。
 声援と大喝采が空に舞った。
 また、ヨーロッパのメンバーは、山本伸一の詩「栄光への門出に」をもとにした創作バレエを披露。世界平和への新しき旅立ちの決意が全身で表現されていた。
 「まいをも・まいぬべし」「立つてをどりぬべし」「をどりてこそいで給いしか」との御聖訓を彷彿とさせる歓喜踊躍の舞であった。
 伸一は、一つの演目が終わるたびに、″さあ、共に出発をしよう!″との思いを込めて、賞讃の拍手を送った。
 第四景「前進の誓」では、鼓笛隊が演奏するドボルザーク作曲の「新世界より」の調べをバックに、王朝風の衣装をまとった日本の男女青年による舞踊が展開された。
 新世界――まさに、その幕が開かれたのだ。
 ここで、各国の代表に伸一から花束が贈られ、フィナーレとなった。
 「フォーエバー・センセイ」の調べが流れた。これは日本の同志の愛唱歌「今日も元気で」に、アメリカの友が英語の歌詞をつけたものだ。
 メンバーは、あの地、この地で、苦しい時も、悲しい時も、人生の師である山本伸一との「共戦」の誓いを込めて歌ってきたのである。
 皆、曲に合わせて大きく手を振り、熱唱した。
 国籍も、民族も異なる人たちである。しかし、その心は、今、一つに結ばれていた。
 ″世界の人びとの幸福と平和を、断じて築くのだ。それが私たちの使命なのだ!″
 国家、民族を超えた人間と人間の結合――その縮図が、ここにあった。
55  羽ばたき(55)
 「フォーエバー・センセイ」を歌い終わると、大歓声があがった。
 「センセーイ!」
 皆が、そう叫んで、ちぎれんばかりに手を振っていた。肩車に乗って手を振る人もいた。
 どの目にも、涙があふれていた。抑えていた胸の思いが一気に爆発したのだ。
 海外メンバーは皆、正本堂落慶の式典への参加をめざし、懸命に仕事に励み、生活費を切りつめて、旅費を捻出した。そして、苦心に苦心を重ねて休暇を取り、世界中から日本に来たのだ。
 ″山本先生と共に正本堂の完成を祝おう!″″先生と世界平和への出発をしよう!″と、歯をくいしばって、頑張り抜いての来日であった。
 それだけに今、夢に見た出会いが実現し、喜びが弾け、涙が込み上げてきてならないのだ。
 熱き求道の心には、歓喜の炎が燃え上がる。その時、辛かった日々は、黄金の歴史となる。
 メンバーは、感涙を流しながら、新たなる世界広布への出発を誓うのであった。
 伸一には、皆の熱い心が切々と伝わってきた。その求道の一念が嬉しかった。彼は諸手をあげ、皆に応えた。
 「ありがとう! おめでとう! 今日は、大いに楽しみましょう。
 海外の皆さんのために、向こうに茶席も用意しました。日本情緒を満喫してください。私もまいります」
 大講堂横の庭園には茶席が設けられ、琴の音が響いていた。
 これは海外メンバーをもてなそうと、伸一が提案したものだ。
 彼は庭園に行くと、メンバーと握手をし、ねぎらいの言葉をかけていった。また、代表に茶の作法を教えるなどして、遠来の友を歓待した。
 それから伸一は、バスの発着場所に向かった。帰国第一陣のメンバーを見送るためである。
 ″今が発心のための光を送るチャンスだ。時を逃してはならない!″
 人波のなかに飛び込んだ伸一は、まず香港のメンバーと固い握手を交わした。
 「長い間の滞在、本当にご苦労さま!
 香港は、私がアジア訪問の第一歩を印した先駆けの天地です。どうか、皆さんは、東洋に幸の光を送る、太陽の存在となってください」
56  羽ばたき(56)
 山本伸一は、帰国するメンバーと次々に握手を交わし、声をかけた。
 「正本堂が完成したということは、いよいよ本格的な世界広布の幕が開いたということです。
 日蓮大聖人の仏法が、世界を照らす時代を迎えたんです。
 その希望の太陽こそ皆さんです。新しい広宣流布の歴史をつくってください。
 私も妻も、皆様方の幸福を願って、一生懸命にお題目を送り続けます。
 また、お会いしましょう。ありがとう!」
 真剣な励ましに、皆が伸一の真心を感じた。感動と新たな決意で、皆の目が潤んだ。
 メンバーがバスに乗り込むと、伸一は妻の峯子と共に移動し、バスが通る道路沿いの石垣の上に立った。
 そして、約一時間にわたり、帰国する第一陣のメンバーのバスを見送ったのである。
 同志は皆、その国の広宣流布を担う、大切な仏子である。
 それぞれの国へ帰れば、頼みとなる先輩や同志もほとんどいない。自らが一人立って、新たな広宣流布の道を開くしかないのだ。
 ″大河の流れも、一滴の水から始まる。この一人ひとりを、世界広布の源流にするのだ!″
 そう思うと、伸一の腕に力がこもった。
 伸一と峯子は″頑張れ! 頑張れ!″と、心で叫びながら、バスが見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。
 翌十月十六日は、「久遠の灯」の点火大法要が行われた。
 正本堂の中央ブリッジ前に設置された「久遠の灯」の灯火台に灯をともす儀式である。
 この灯には、無明の闇を破り、人類の未来を照らす、かがり火の意義がこめられていた。
 正本堂での御開扉に続いて、ブルーのブレザーに身を包んだ七人の青年たちが、白煙を上げるトーチを掲げて、法庭の階段に並んだ。
 アジア、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカ、南アメリカの世界六大州と、日本の代表の青年である。
 ファンファーレが秋空に高らかに鳴り響いた。
 青年たちは、一斉に灯火台に向かって走りだした。灯火台の前には、スーツ姿の、山本伸一が立っていた。
57  羽ばたき(57)
 「久遠の灯」の灯火台は、高さ一・四八メートル、直径二・三一メートルで、上広がりに五層の円盤を積み上げた形をしていた。
 走ってきた日本の青年が、山本伸一に、金色のトーチを手渡した。
 「ありがとう」
 伸一は、灯火台の横に立ち、受け取ったトーチを掲げた。六大州の青年も灯火台を取り囲んだ。
 伸一がトーチを傾けた。青年たちも続いた。
 灯火台の中央から、赤々と火が燃え上がった。
 号砲が轟き、拍手が響き、噴水が高々と飛沫をあげた。
 それは、世界広布への誓いの灯であり、人類の闇を照らす希望の明かりであった。また、平和を願う全人類の連帯と情熱の炎であった。
 伸一は、この日も、帰国する欧州、北・南米のメンバー約千三百人を、バスが通る道路の側に立って見送った。
 バスが走り去っていくたびに、メンバーの健闘を祈って、両手を高く掲げ、大きく振り続けた。
 彼は、わが同志の胸中に、広宣流布を誓う「久遠の灯」をともそうと必死であった。
 伸一の姿を見つけた海外のメンバーは、バスの中で歓声をあげた。そして、窓を開け、盛んに手を振り、叫んだ。
 「サヨナラ!」
 「ガンバリマス!」
 火は燃え広がる。魂もまた燃え広がる。リーダーの胸に、天を焦がす闘魂と情熱が燃え盛っているならば、それは、必ずや、友から友へと伝播していくのだ。
 翌十七日は、慶祝法要最後の日であり、正本堂記念品埋納大法要が営まれた。須弥壇下の埋納室に、さまざまな記念品を納める儀式である。
 勤行に続いて、山本伸一のあいさつとなった。
 彼は、今日までのすべての行事が晴天に恵まれ、無事故、大成功で終了したことに対して、皆に感謝の言葉を述べたあと、御宝前に供えられた、五つの楠の箱について説明していった。
 それぞれの箱には、正本堂建立発願式の際の日達法主の「願文」や伸一の「発音願文」などのほか、建立発願式で法主が着用した法衣一式、正本堂御供養者名簿、今回の大法要参列者署名簿などが納められていた。
58  羽ばたき(58)
 埋納する正本堂の記念品を入れた楠の箱は、さらに銅製の箱に納め、大御本尊の真下にあたる妙壇の基底部の部屋に格納されるのである。
 山本伸一は、その説明をしたあと、彼方を仰ぐように顔を上げると、力強い声で語った。
 「この部屋は、正本堂建設委員会で決議されたうえで、猊下の御認可を得まして、第一回は今日より七百年後、第二回は三千年後、そして第三回は一万年後に開かれることになっております」
 感嘆の声と拍手がわき起こった。
 気の遠くなるような、想像もつかない未来である。しかし、皆、壮大なロマンに胸が躍った。
 後世の人たちが、供養者名簿を見て、大偉業に参加した自分たちのことを想像する姿を思うと、誇り高かった。
 有名な報恩抄の「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」との一節が、皆の心に轟いた。
 また、この正本堂が幾世紀を越えて、平和の殿堂として存在し続けることを、誰もが確信していたのである。
 ところで、正本堂の耐久性について、構造設計担当者の恩師である東大の坪井善勝名誉教授は、こんなエピソードを紹介している。
 一九七一年(昭和四十六年)十月、日本で行われたIASS国際シェル会議に出席した折のことである。
 鉄骨構造の権威である、イギリスのマコースキー教授と、正本堂の技術的な問題について話し合った際、ある新聞記者が「この建物は何年ぐらいもつと考えるか」と尋ねた。
 すると、マコースキー教授は、「一万年」と答えたというのだ。
 坪井名誉教授は記している。
 「この建物がマコースキーの言う耐用年数を期待することは我々構造設計者の能力の限界を超えたことである。
 すなわちいつまでも我々の次の時代また次の時代、その次の時代……の人々が大石寺正本堂を大切に守るかどうかによって耐用年数は決定するのである」
 法要終了後、御宝前に供えられた、五箱の埋納品は、十人の青年の手で運ばれ、所定の部屋に納められたのである。
59  羽ばたき(59)
 参列者は、妙壇から出ると、法庭に集まった。
 円融閣いっぱいに掲げられている大緞帳の「開幕式」である。
 山本伸一が紅白の紐を引くと、十一日の大御本尊御遷座大法要以来七日間にわたって、正本堂落成慶讃の儀式を荘厳してきた茜色の大緞帳が、スルスルと巻き上がっていった。
 正本堂は、ここに、その全容を現したのだ。
 くす玉が割れ、紙吹雪が舞い飛び、色鮮やかなテープが風に泳いだ。
 これで、落成の式典はすべて終了した。
 伸一は「開幕式」を終えると、その足で戸田城聖の墓に向かった。一刻も早く、一切が無事に終わったことを、報告したかったのである。
 恩師の遺命を果たした弟子の心は、晴れ晴れとしていた。
 ″先生! 伸一は、ご遺言を成就しました。あとは、まっしぐらに世界広宣流布に突き進んでまいります。
 先生の弟子の戦いをご覧ください″
 合掌する弟子の目に、恩師の会心の笑顔が浮かんだ。
 正本堂建立の喜びは日本列島の津々浦々に広がっていた。
 落慶の式典が終了したこの十月十七日から、六日間にわたって、全国各地で正本堂落慶記念ブロック座談会が、盛大に開催されたのである。
 大聖人御遺命の戒壇となる正本堂を建立できたことが、皆、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
 どの会場にも、大きく描かれた正本堂の絵や、写真などが飾られ、参加者の満開の笑みが光っていた。
 有志が撮影した正本堂の八ミリ映画を観賞したところもあれば、記念式典を報じた聖教新聞を展示した会場もあった。
 地域の友人が二十余人も参加し、共に喜びを分かち合ったブロックもあった。
 ある人は、地域の来賓に、胸を張って訴えた。
 「人類の平和を実現することが、創価学会の目的です。その平和を祈願する大殿堂が、私たちの力で、民衆の力で完成したんです。
 世界の、どの宗教建築にも負けない、日本が誇る二十世紀を代表する最高の建物です」
 皆の顔には、歓喜と誇りがあふれ、晴れやかに輝いていた。
60  羽ばたき(60)
 正本堂は建立された。あとは、広宣流布を実現することである。
 日蓮大聖人が「三大秘法抄」に「王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて……」と仰せの社会を創り上げることだ。
 つまり、仏法に説かれた生命尊厳の哲理を根底とした、人間文化の建設である。社会のあらゆる人びとが、仏法の人間主義に目覚めた時代を創出することである。
 今、その広宣流布への、確かなる道標が打ち立てられたのだ。
 学会は勇躍、「広布第二章」に向かって、羽ばたいたのである。
 それは、線から面への、新しき展開の本格的な開幕であった。
 正本堂落成慶讃大法要の一連の儀式を終えた総本山では、記念登山会が始まり、連日、登山会参加者で賑わっていた。
 山本伸一は、しばらくは総本山にあって、各地から集って来るメンバーの激励に、日々、全力を傾けていた。
 儀式がいかに荘厳であっても、人間の一念が変わり、皆が立ち上がらなければ、単なる形式であり、一夜の夢に終わってしまう。
 日興上人は「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」と、弟子の道を示されている。
 その確固不動の決意に立った広布の戦士を育むことだ。一人ひとりの胸に、闘魂を燃え上がらせることだ。
 伸一は学会員の姿を見れば駆け寄り、全精魂を込めて激励した。
 「皆様方の血と汗と涙の御供養で誕生した正本堂です。本当にありがとうございました。
 人生の幸福を満喫するために、広宣流布のために、ますます元気に生き抜いてください。
 地元に戻られたら、皆さんにくれぐれもよろしくお伝えください」
 輸送班の青年とは、一緒にカメラに納まり、抱きかかえるようにして握手を交わした。
 「これからは、世界中の人が、この正本堂にまいります。輸送班の皆さんには、ご苦労をおかけしますが、私と共に、世界と日本の友を迎えてください。
 私も、日々、絶対無事故を祈ってまいります」
61  羽ばたき(61)
 学会員に対する、総本山での山本伸一の激励は、日に何度となく繰り返された。握手で手が痛み、喉も嗄れた。
 しかし、もう一人、もう一人と、彼は走った。
 「広布第二章」の伸一の戦いは、正本堂を訪れる同志への、生命を揺さぶるような励ましから始まったのである。
 完成した正本堂は、全信徒の誇りであった。
 民衆の力によって築かれた、民衆のための荘厳な正本堂を見て、日蓮大聖人の仏法への理解を深めていった各界の指導者や学識者も少なくない。
 また、全世界の友が、ここに集い、人類の平和と幸福を共に祈念する姿には、麗しき人間共和の実像があった。
 一九九八年(平成十年)の六月、落成からわずか二十六年にして、なんと、その正本堂の解体が始まったのである。
 この暴虐の破壊者は、日蓮正宗総本山第六十七世の法主を名乗る阿部日顕であった。
 八百万信徒の赤誠を踏みにじり、大聖人御遺命の「本門寺の戒壇」たるべき大殿堂を破壊するという大暴挙である。大聖人の法門に対する大変な反逆である。
 御聖訓には「謗法ほうぼうと申すは違背いはいの義なり」と厳しく仰せである。
 さらに、日顕は、師の日達法主にも背き、その指南をも覆したのだ。
 正本堂の解体は「世界の宗教上及び文化上の遺産を甚だしく傷つけること」だと、海外の識者も強く抗議した。
 日顕の常軌を逸した、この蛮行の淵源には、伸一と会員を離間させ、会員を信者として奪い取ろうとする悪辣な陰謀があった。
 いわゆる「C作戦」(Cはカットの意)である。
 一九九〇年(平成二年)の年末、突然、宗門は宗規の改正を口実にして、総講頭であった伸一をはじめ、大講頭らを一方的に、事実上、解任処分にした。
 「C作戦」が実行に移されたのだ。
 日顕は、自らの陰謀を正当化するために、伸一を″大謗法″の者に仕立てあげることに、躍起となった。
 そして、年が明けた一月、六八年(昭和四十三年)の正本堂着工大法要での伸一の発言に、全く見当違いな言いがかりをつけたのである。
62  羽ばたき(62)
 総本山では、一九九一年(平成三年)の一月六日に全国教師指導会、十日に教師指導会が行われた。
 その席で日顕は、正本堂着工大法要の折、山本伸一があいさつのなかで「三大秘法抄」の御文を引き、「この法華本門の戒壇たる正本堂」と語ったことを取り上げ、こう発言したのだ。
 ―日達上人は「明らかに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇が正本堂であるということは、そのものズバリの形でおっしゃってはいない」。正本堂が「本門の戒壇」という意義づけは、伸一が、勝手に行ったものである。
 そして、宗門として正本堂を位置づけた公式発表は、一九七二年(昭和四十七年)四月二十八日の、日達上人の「訓諭」であり、それ以前に、一信徒が正本堂の意義を確定するなど、言い過ぎである。反省し、訂正しなければならない――と非難したのだ。
 事実経過を無視した、支離滅裂な妄言である。
 着工大法要での伸一の言葉は、六五年(同四十年)二月に開かれた第一回正本堂建設委員会での、日達法主の説法を受けたものだ。
 その席で日達法主は、正本堂が広布の暁に本門寺の戒壇の意義をもつ建物であることを明らかにしたではないか。
 この説法が、正本堂がいかなる意義をもつかを示す原点となっていったのだ。
 さらに何よりも、その後、日達法主が、「事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります」(『大日蓮』昭和四十四年六月号)と述べているのだ。
 第一回建設委員会での日達法主の説法以来、宗内の僧俗をあげて、本門の戒壇としての正本堂の意義を強調していったのである。
 それは宗門関係者の発言を見れば明白である。
 まず、当時、宗務院教学部長であった日顕自身が、こう記しているのである。
 「宗祖大聖人の御遺命である正法広布事戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て……始めてその実現の大光明を顕わさんとしている。
 その事実こそ此の度の正本堂建立発願式であろう」(『大日蓮』昭和四十二年十一月号)
63  羽ばたき(63)
 正本堂を日蓮大聖人の御遺命の戒壇とする、宗門関係者の言葉は、『大日蓮』の昭和四十二年十一月号だけを見ても、枚挙にいとまがない。
 「この正本堂建立こそは、三大秘法抄や一期弘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり」(佐藤慈英宗会議長)
 「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ』との、宗祖日蓮大聖人の御遺命がいま正に実現されるのである」(椎名法英宗会議員)
 「この大御本尊御安置の本門戒壇堂の建立をば『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり時を待つべきのみ』云々と、減後の末弟に遺命せられたのであります。
 その御遺命通りに、末法の今、機熱して、本門寺の戒壇たる正本堂が……」(大村寿顕宗会議員)
 ところが日顕は、着工大法要で山本伸一が正本堂を「本門の戒壇」と言ったのは独断であり、以来、そのような空気が宗門を巻き込んでいったというのだ。
 これらの宗門関係者の発言は、着工大法要で伸一があいさつをする一年も前のものである。
 大聖人は「僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」と喝破されている。
 僻事とは道理に合わず、事実と違うということである。日顕宗は、自ら邪教であることを証明したことになる。
 また、仮に伸一の発言が間違っているならば、そんな大問題を、なぜ、二十年以上も放置しておいたのか。
 ましてや日顕は、当時、宗務院教学部長である。甚だしい責任放棄ではないか。
 さらに、日顕は、この一九九一年(平成三年)の全国教師指導会で、正本堂の意義について述べた七二年(昭和四十七年)四月の日達法主の訓諭と伸一の発言は、意味が「非常に違っておるのであります」と強弁したのだ。
 訓諭には「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり」とある。
 この「意義を含む……」について日顕は、次の趣旨の、珍妙な解釈をしてみせた。
 ―意義を含んでいても、まだ、その意義全体が現れたことではないから、正本堂は「一期弘法抄」「三大秘法抄」に仰せの戒壇そのものではない。
64  羽ばたき(64)
 日達法主の訓諭は、さらに「即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と明記しているが、日顕はそれに対しても、こう言って憚らなかった。
 ―「たるべき」とは「予想」「あらかじめ思う」ことであり、「予想はすなわち予定」である。「ですから一往、そうは思っても、将来において変わる場合もある」
 建立した正本堂が「本門の戒壇」となるというのは予定にすぎず、将来のことは不確定であるというのだ。
 これは正当な文法の解釈のうえからも、明らかに間違いである。
 日本を代表する最高権威の国語学者たちが、この「たるべき」は「確定している将来形の表現」(中田祝夫・筑波大学名誉教授)等と、日顕の解釈を否定しているのだ。
 つまり、訓諭の意味するところは、「まさに正本堂は、広宣流布の暁には本門寺の戒壇となる大殿堂である」ということなのである。
 ともあれ、この全国教師指導会、教師指導会での日顕の発言は、自語相違の極みであった。
 また一切を注いで供養に参加した八百万信徒の心を足蹴にする、悪逆非道な暴言であった。
 日顕の発言を知った学会員は、愕然とした。
 「こんなおかしな話があるものか!」
 「日達上人は、正本堂は″本門の戒壇″になると、おっしゃっていたではないか!」
 「そうだ。何度も言われていた。私も明確に心に刻みつけている」
 たとえば、一九七〇年(昭和四十五年)五月の本部総会に参加した学会員は、「この正本堂が完成すれば、今、奉安殿に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、正本堂にご遷座申すのでありますから、その時は正本堂は本門事の戒壇であります」との話が、胸に焼きついていた。
 皆、そうした言葉に、決意を新たにしてきたのである。
 それだけに、怒りはおさまらなかった。
 「変な理屈をつけて、日達上人の言葉を覆すなんて、まるで詐欺のような所業ではないか」
 学会としても、絶対に看過するわけにはいかぬ重大な問題であった。
 早速、この説法の矛盾点や疑問点について、文書をもって日顕に質したのである。
65  羽ばたき(65)
 学会の質問に対する日顕の回答は、三月九日付で、宗務院から書面で届いた。
 それは、空しい言い訳に終始し、矛盾だらけの回答であった。納得できないばかりか、ますます疑問が増した。厳たる歴史的事実を歪め、欺こうというのだから、嘘と詭弁で塗り固める結果になるのは当然である。
 学会としては、内容を整理し、書面で四十八項目にわたる質問を、再び提出したのである。しかし、回答はなかった。
 そして、この一九九一年(平成三年)の十一月七日、遂に宗門は、一方的に、創価学会に「解散勧告書」を送付した。
 さらに、二十八日には「破門通告書」を送り、正法正義を守り抜いて広宣流布に邁進しゆく学会を″破門″にするという、仏法破壊の極悪の大罪を犯したのである。
 愚昧な彼らは、これで学会は窮し、多くの学会員が宗門に付くと考えたのであろう。
 それは″衣の権威に民衆は従う″という、人間蔑視も甚だしい思い上がりである。
 謗法と腐敗にまみれ、信徒を蔑視してきた邪宗門に、真実の学会員が付き従うはずがなかった。
 学会員は、宗門の卑劣にして極悪な所業に苦しみ、憤怒しながら、その本質を鋭く見極めてきたのだ。
 ―宗門は、「本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体」などと法主を絶対化し、信徒には隷属を強い、一閻浮提総与の大御本尊をも私物化した。さらに、文化を否定し、世界広宣流布の道を閉ざそうとした。
 しかも、日顕自ら禅寺に墓を建てるなどの大愚も犯し、法師の皮を著た畜生さながらに供養を貪り、遊興を繰り返してきたのだ。
 その誤りを戒め、戦ってきたわが同志にとって、″破門″は、栄えある解放であった。
 それは、仏法の人間主義をもって世界を潤す、新しき夜明けの到来であり、その日は、創価学会の魂の独立記念日となったのである。
 ″破門″の知らせが流れるや、各地の会館に、万歳の声がこだました。
 この一カ月後には、全世界の千六百二十五万人が署名した「退座要求書」が日顕に突きつけられたのである。
66  羽ばたき(66)
 そもそも戒壇の重要な意義は防非止悪にある。自らが非法・悪法を止める深き信心を誓うとともに、社会が非道・悪道に陥っていくのを止める広宣流布の戦いを起こしていくことを誓ってこそ、事の戒法である。
 大聖人が、有徳王、覚徳比丘の不惜身命の戦いを戒壇建立の条件として掲げられているのも、この防非止悪の具体的な姿を示されていると拝することができる。
 しかし、宗門は、自ら日蓮仏法の正法正義を踏みにじってきたのだ。
 大聖人は「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(編年体御書1729㌻)と御遺言されている。ましてや法主を名乗る人物が、広布破壊の天魔の本性を明らかにした寺に、どうして参詣する必要があろうか。
 しかも彼らは、大聖人が全民衆のために御図顕された大御本尊を私物化し、その仰せ通りに広宣流布を推進する創価学会を、切り崩す道具にしているのだ。仏法破壊の輩が集う所は、いかに大御本尊が御安置されていても魔の巣窟にすぎない。
 大聖人は、「霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」と、厳と仰せであられる。
 大石寺が霊山ともいうべき意義をもち、そして正本堂が戒壇の意義をもちえたのは、まさに清浄な信心を起こし、広宣流布、立正安国の誓いを立て、法戦を貫き通してきた創価学会員が集ってきたからである。
 地涌の使命に生きる本門の勇者が集ってこそ、大聖人の仏界の御生命を御図顕された御本尊と相呼応し、そこが本門の戒壇となるのである。
 大聖人は、戒壇の建立を、後世の門下の目標として示されたが、それは伝教大師が比叡山延暦寺に法華経迹門の戒壇を建立したという先例に従って、当時の時代状況のなかで、広宣流布の目標を表現されたものとも拝察できよう。
 大聖人の根本目的は、どこまでも立正安国の実現にあった。民衆の幸福と、社会の繁栄と平和のために、生涯、戦い抜かれた。それを継承してきたのが学会である。
 その不惜身命の実践もなく、遊戯雑談に耽り、化儀を振り回して自らを権威づけ、民衆を脾睨する輩は、まさに仏法を弄んでいるのだ。
67  羽ばたき(67)
 日顕宗が創価学会に「破門通告書」を出してから四年後の、一九九五年(平成七年)秋のことである。
 日顕は、日達法主の時代に、山本伸一の発願により、創価学会が建立寄進した、大客殿の解体に着手した。
 地震対策を理由にしての解体であった。
 耐震診断を担当した大客殿の設計者と構造設計者は、診断結果を歪曲されたと厳重抗議したが、日顕は、多くの人びとの反対を押し切り、解体を強行したのである。
 伸一と学会への怨嫉のゆえか、先師の日達法主への嫉妬のゆえか、異常極まる行動であった。
 さらに彼らは、九八年(同十年)に入ると、″正本堂の大理石に赤サビが出た″″コンクリートに含まれる海砂が鉄筋を腐食した可能性が高い″などと騒ぎだした。
 そして四月五日、日顕は、突如、正本堂の閉鎖を発表。その日のうちに、大御本尊を遷座したのだ。
 それは、夕暮れ迫るなか、小人数で人目を避けるように強行された。二十六年前、奉安殿から正本堂に大御本尊を遷座した、あの晴れやかな式典とは、全く異なる陰々滅々とした光景であった。
 正本堂の解体工事が始まったのは、この年の六月のことである。
 日顕は正本堂を絶讃していたにもかかわらず、自語相違も甚だしく、「仏法を歪曲した謗法の遺物を徹底して駆逐」すると、臆面もなく言い放っての決行であった。
 取り壊しに、強い反対の声が起こった。保存を推進する建築家の集いも結成され、富士宮市や静岡県に保存の陳情書や要望書も提出された。
 しかし、頭破作七分のためか、もはや日顕には、いかなる良識の諫言も通じなかった。
 機械を使って、鶴の羽の形をした屋根がはがされ、壁が崩されていった。辺りには、連日、「ガガガガーッ」「ゴゴゴー」という不気味な音が響き渡った。
 富士宮の学会員は、怒りに打ち震えながら、日々、その解体の光景を目に焼き付けた。
 皆が「本門戒壇の建立」と信じ、命を削るようにして供養に参加したのだ。
 日々、破壊されていく正本堂を見ると、わが身が切り刻まれていく思いがするのであった。
68  羽ばたき(68)
 正本堂が破壊されていると聞いて、耳を疑い、自分の目で、直接、確かめようと、全国各地から正本堂を見に来た人も少なくなかった。
 夫を失い、女手一つで三人の子どもを育てながら供養に参加した北九州の老婦人は、長男夫婦と孫と一緒に東京に向かう途次、富士宮に立ち寄った。
 長男は、大学生の子どもをもつ、壮年になっていた。
 大石寺がよく見える畑の傍らで車を降りた。皆、変わり果てた正本堂の姿に息をのんだ。
 屋根もなく、壁も削られ、剥き出しの鉄骨が見えた。時折、「ゴゴーン」という音が響き、もうもうと土埃が上がっていた。
 残ったコンクリートの梁と柱が、天に向かって悲痛な叫びをあげる巨大な口のように思えた。
 皆、しばらくは言葉を失い、その光景を黙って見ていた。
 白髪の老婦人の背中がぶるぶると震えた。
 ―昼は魚の行商、夜は清掃の仕事をして働き、毎日、爪に火をともすように節約を重ね、供養に参加した日のことが彼女の頭をよぎった。
 辛いといえば辛い日々であった。しかし、彼女は、正本堂は、やがて「本門の戒壇」となり、世界中の指導者が、民衆がここに集い、平和への祈りを捧げるのだと思うと、どんな苦労も喜びに変わるのであった。
 だが、その正本堂が、今、無残この上ない姿をさらしているのだ。
 彼女の目には、涙があふれていた。
 それは、自分の人生の誇りを、信心の赤誠の証を、踏みにじられたことへの悔し涙であり、煮えたぎるような怒りの熱い血涙であった。
 しかし、老婦人は、決然と涙を拭うと、叫ぶように言った。
 「日顕はうちらを騙して、大聖人の御遺命の戒壇を、本門の戒壇を、ぶち壊しよる。信心の真心を、土足で踏んづけて、粉々にしてから!
 人間のやるこっちゃない。天魔や。第六天の魔王や!
 こんな悪坊主がのさばっちょると、仏法が滅んでしまう。みんなが不幸になる!
 うちは許さん。絶対に絶対に許さんけね!」
 怒りは、破邪顕正の炎となって、激しく燃え上がっていった。
69  羽ばたき(69)
 老婦人の言葉を受けるようにして、傍らの息子が口を開いた。
 彼は、正本堂の供養の時は中学生だったが、自ら新聞配達を始めて、供養に参加したのだ。
 「おふくろ、俺も日顕は絶対に許さん!
 純粋な学会員を利用するだけ利用しとって、供養を搾り取り、そして、裏切りよった。
 それに、誰よりも広宣流布に、宗門に尽くした大功労者の山本先生を切り捨て、仏意仏勅の広宣流布の団体である学会をつぶそうとした。
 『彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには』だ。日顕一派を打ち倒さんと、仏法破壊の根っこは断てん」
 隣にいた大学生の孫も老婦人に言った。
 「学会は宗門と離れてよかった。″現代の身延離山″をしたことになるんやけ。
 信徒を平気で見下したり、″伏せ拝″とか言うて、日顕を見たら土下座するような宗教なんかおかしい!」
 老婦人が、笑みを浮かべて頷いた。
 「本当にそうやね。
 仏法は勝負だ。うちらはすべてに勝って、必ず学会の正義を証明しちゃるわ!」
 彼方には、秋空に悠然とそびえる、富士の姿があった。
 孫が言った。
 「ばあちゃん。ほら、あそこの家に、三色旗が立っちょるよ」
 一軒の民家に、学会の三色旗が堂々と掲げられ、風に翻っていた。
 ″学会の正義は厳たり。邪宗門と断じて戦わん″との決意を込めて、大石寺周辺でも、創価の同志は、厳然と三色旗を掲げていたのだ。
 御遺命の戒壇となる正本堂を日顕は破壊した。
 しかし、正本堂の建立は、御本仏日蓮大聖人を荘厳したのだ。その功徳、福運は無量無辺であり、永遠に消えることはない。
 一方、日顕宗は、正本堂の破壊をもって、天魔の本性をさらけ出し、邪教であることを自ら証明したのである。その罪もまた、未来永遠に消えることはない。
 学会は、宗門による暴虐の嵐を勝ち越え、人間主義の世界宗教として二十一世紀の大空へ、雄々しく飛翔していったのである。

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