Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第16巻 「対話」 対話

小説「新・人間革命」

前後
1  対話(1)
 紺碧の空に吸い込まれるように、ジェット機はグングンと高度を上げていった。天空の太陽を浴びて、銀翼はまばゆく光り輝いていた。
 一九七二年(昭和四十七年)四月二十九日の午前十一時過ぎ、山本伸一は、東京・羽田の空港を飛び立ち、モスクワ経由で、パリへと向かった。
 上昇を続けるジェット機の轟音を聞きながら、伸一は思った。
 ″エンジンを全開にして、向かい風のなかを突き進む――この烈風との激しい闘争があってこそ、重い機体は浮かぶ。広宣流布の飛翔もまた、苦難の大風に向かって、全力で突き進んでいく以外にない″
 伸一の今回の訪問先は、フランスのパリ、イギリスのロンドン、そして、アメリカのワシントン、ロサンゼルス、ホノルルであり、期間は約一カ月の予定であった。
 主な行事としては、新しいパリ本部の開館式、イギリスでは、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学の訪問、アメリカでは、ワシントン会館の訪問や世界平和文化祭への出席などが予定されていた。
 そして、何よりも、今回の旅の最大の目的は、イギリスの歴史学者であるアーノルド・ジョーゼフ・トインビー博士との対談であった。
 大著『歴史の研究』で知られる博士は、独自の史観をもって文明興亡の法則を体系化し、「地球人類史観」ともいうべき歴史観を打ち立てた。
 まさに、二十世紀を代表する歴史学者である。
 現代文明の、そして、人類の未来を憂え、高等宗教の必要性を訴える博士の著書を、伸一も、真剣に熟読・研究し、広い視野と深い洞察に富んだ歴史観に、大きな感動を覚えてきた。
 ――トインビー博士は一八八九年(明治二十二年)四月、ロンドンに生まれている。
 博士には、彼が生まれる六年前に、三十歳の若さで他界した、優秀な伯父がいた。オックスフォード大学で教鞭を執り、「産業革命」という歴史学上の概念をつくりあげたことでも知られる、著名な経済学者アーノルド・トインビーである。
 この″アーノルド伯父さん″の名が、甥にあたる博士に受け継がれたのである。
2  対話(2)
 アーノルド・ジョーゼフ・トインビー博士の父ハリー・バルピー・トインビーは、医師として働く傍ら、社会奉仕活動に情熱を注いでいた。
 過酷な運命をたどった文明に向けられる、温かな眼差しを秘めたトインビー博士の歴史観は、社会的な弱者を守るために献身し抜いた父の生き方と、決して無縁ではあるまい。
 親の生き方にこそ、最良の教育がある。
 また、母のセアラ・イーデス・トインビーは、ケンブリッジ大学に学び、教科書の著作もある歴史家であった。
 彼女は、博士の幼少期に、ベッドでイギリスの歴史を語っては寝付かせたという。
 起伏に富んだイギリスの歴史を、壮大な物語として語り聞かせる母によって、アーノルドの歴史への興味が、目覚めていったのである。
 彼は、感受性の強い聡明な少年ではあったが、決して、いわゆる″優等生″ではなかった。
 十歳の時、アーノルド少年は、パブリックスクールに進むための予備学校である、寄宿学校に入学する。
 しかし、その生活にはなかなか馴染めず、学校がいやでたまらなかった。当初は、先輩からいじめられ、悔しい思いもしたようだ。重いホームシックにもかかった。
 博士は回想している。
 「私にとっては学期の始まる日は、死刑を宣告された囚人に対する死刑執行日のごとくであった。この恐ろしい瞬間に向かって時がどんどんたつにつれて、私の苦悩は絶頂に達した」
 苦悩のない人生などない。その苦悩に、忍耐強く立ち向かっていくなかでこそ、人間は鍛えられ、磨かれていくのだ。
 博士は、パブリックスクールのウィンチェスター校で奨学金を受けるための試験にも挑んだ。
 一年目は合格せず、補欠に止まった。二年目にようやく三番で合格を果たしている。
 試験を前に、緊張する彼に、両親は言った。
 「ベストを尽くせばいいんだ。それ以上のことは誰にもできはしない」
 ベストを尽くすことならできる――彼はホッとした。胸が晴れた。
 心の闇を払い、胸の重石を取り除き、活力をわき出させてこそ、真実の励ましといってよい。
3  対話(3)
 トインビー博士は、オックスフォード大学に進んで古代史を学び、卒業後も研究員とチューター(学生指導教師)を兼ねて母校に残った。
 研究のための旅行中に汚染された水を飲んだ博士は、赤痢になる。しかし、結果的には、それが彼の命を救った。一九一四年(大正三年)に、第一次世界大戦が始まるが、軍隊では「不合格」となったのだ。
 この戦争で、良き友人たちを次々と失ったのである。
 その多くの友の写真を、博士は生涯、座右から離さなかった。
 やがて外務省の政治情報部に入り、一九一九年(同八年)、大戦終結のパリ講和会議に、イギリス代表団の中東地域専門委員として出席する。
 その後、ロンドン大学教授となり、二一年(同十年)には、「ギリシャ・トルコ戦争」の視察に出かけた。
 旅費の調達のため、イギリスの新聞「マンチェスター・ガーディアン」の特派員を兼ねての視察であった。
 彼は、一方の主張だけを取り上げるのではなく、ギリシャの言い分にも、トルコの言い分にも公平に耳を傾けた。
 ヨーロッパ人には、長い間、トルコ人に対する根強い偏見があった。
 しかも、この六年前には、オスマン・トルコによるアルメニア人の虐殺があったことから、人びとは、トルコ人に憎悪と恐怖を感じ、「偏見」にとらわれていた。
 ″それだけに、トルコ人の言い分を、よく理解する努力が必要だ!″
 彼は、トルコ人住民が虐殺された街にも、足を運んだ。トルコ人難民の悲惨な実情も視察し、真摯に話を聞いた。
 そして、事実をありのまま原稿にして、「マンチェスター・ガーディアン」紙に送った。
 同紙は、それをそのまま紙面に掲載した。すると、囂々たる非難の集中砲火が浴びせられた。
 「トルコ人に同情的であるとは何ごとだ!」
 真実の正論に対する反動であった。
 ボリビアの詩人フランツ・タマーヨは、こう叫んでいる。
 「悪が存在するとき、究極の悪とは、悪それ自体ではない。それは、悪の存在を知りながら、隠すことである。悪を見ていながら、口に出して言わないことである」
4  対話(4)
 「マンチェスター・ガーディアン」紙に掲載された、アーノルド・J・トインビーの送った記事は、イギリスでは猛反発を招いた。
 しかし、トルコ人には喜びの大反響をもたらした。自分たちの真実が、ヨーロッパに伝えられたからである。
 これによって同紙は、″イスラム教徒へのキリスト教的偏見に屈しなかった新聞″という永遠の栄誉に浴すことになる。一方から、ものを見ただけでは、真実はわからない。より多くの視点からものを見れば見るほど、真実は浮かび上がってくるものだ。
 正しい評価を下すには、正しい認識を必要とする。「認識せずして評価するなかれ」とは、牧口先生の箴言である。
 トインビー博士は″象牙の塔″に閉じこもることを潔しとはしなかった。現地に足を運び、より多くの人と対話し、行動する探究者であった。
 博士が、西洋中心史観を乗り越える大著『歴史の研究』の、全般的な構想を練ったのは、トルコのイスタンブールから帰る、列車の中でのことであった。
 だが、トルコの真実を伝えた彼は、やがて、若くして手にした、ロンドン大学教授の座を失うことになる。
 しかし、イギリス王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)に迎えられたのである。
 ここで博士は、現代の国際問題を研究・調査し、『国際問題大観』を発刊する仕事を担当した。
 そして、いよいよ『歴史の研究』の執筆にも、着手したのである。
 しかし、第二次世界大戦が始まると、博士は、同研究所の対外調査出版室長に就任。さらに、外務省の調査部長を務めることになる。そのため、大戦中は『歴史の研究』の執筆作業を中断せざるをえなかった。
 大戦後の一九四六年(昭和二十一年)、博士はイギリス代表団の一員として、パリ平和会議に出席。その後、執筆を再開し、黙々と作業を続けていった。
 刊行を重ねてきた『歴史の研究』が、十巻で一応の完結をみたのは、実に構想から三十三年を経た、五四年(同二十九年)のことであった。
 偉業というものは、気の遠くなるほどの忍耐と、執念を必要とするものだ。
5  対話(5)
 『歴史の研究』は、従来の歴史学が単位としてきた、「民族」や「国家」の枠にはとらわれなかった。
 それは、「文明」を単位として考え、世界史は多くの文明の結合と考える、独創的な歴史研究であった。
 そして、すべての文明は、発生、成長、挫折、解体、消滅を繰り返していくという法則性を示したのである。
 また、文明の盛衰は、自然をはじめ、環境の大きな変化や戦争などが人間に試練を与える時、その「挑戦」に屈服せず、いかに乗り越えていくかという「応戦」によって決まるとしている。
 そして、他の文明によって征服されるという、最大の苦難の「挑戦」を受けた文明から、苦悩を乗り越えるための叡智として、高等宗教が生み出されると洞察していた。
 『歴史の研究』は、まず、一九三四年(昭和九年)に一巻から三巻までが出され、五年後に六巻まで出版された。
 過去の歴史学の範疇を大きく超えたトインビー史観に、多くの学者たちは驚きとともに、強い関心をいだいた。
 当初は、おおむね好意的に受け止められ、批判はあっても、丁重な扱いであった。
 だが、第二次大戦後の四六年(同二十一年)、『歴史の研究』を要約した縮冊版が発刊され、アメリカをはじめ、世界的に彼の名声が高まると、批判は激しく、辛辣なものになっていった。
 トインビー史観は、人びとを「憂鬱」にさせると言った学者もいた。
 真の科学に必要な「顕微鏡的な技術」の裏づけに欠け、「望遠鏡的な研究」でありすぎるとの論難もあった。
 なかでも、オランダの有名な歴史学者の批評は手厳しかった。
 「『歴史の研究』は、けっして歴史の研究書ではない」「同氏はけっして歴史家ではない。同氏はあくまで予言者である」と断言したのだ。
 さらに、「大げさで、熱狂的で、頑迷にして一方的なる予言と断定の数々は、学者が社会によって負わせられている第一の義務であると心得るべき学究心に対する背反である」とまで言い切っていた。
 革新的であればあるほど、批判は激しいものだ。それもまた、人の世の法則である。
6  対話(6)
 トインビー博士は、自らの学説に寄せられた反論には、誠実に、思索、検討を重ねた。
 そして、正論は真摯に受け入れ、自説に誤りがあれば正していった。
 彼は、一九六一年(昭和三十六年)、批判をふまえて、自説を修正した「再考察」を、『歴史の研究』の第十二巻として発刊している。
 博士の、学問に対する探究心、謙虚さの表れといえよう。
 博士には、多くの批判が浴びせられたが、その大多数は、批判のための批判であった。
 それは、彼の仕事が、いわゆる民族や国家など、従来の歴史研究の範囲を超えていたことから生じたものであったといってよい。
 いわば、トインビー史観への根本的な無理解によるものであった。
 彼が、多大な影響を受けたドイツの哲学者シュペングラーは、『西洋の没落』を著し、西洋文明の終焉を予告した。
 博士が、歴史を部分的にとらえるのではなく、世界の文明を比較研究し、包括的な観点からとらえていったのも、現代の西洋文明全体の行方を考察しなければならないとの、強い思いからであったにちがいない。
 しかも、その西洋文明は、次第に世界化しつつあり、西洋の没落は、人類全体の未来ともなりかねなかった。
 また、二十世紀の半分も経ないうちに、二度にわたる世界大戦が行われ、核兵器までもが登場したのだ。
 それは″没落″というより、人類の″終焉″の予兆ともいわざるをえなかった。
 『歴史の研究』を書き進める博士の胸には、人類の未来を鋭く考察し、再生の道を探らねばならないとの、強い使命感が脈打っていたのであろう。
 後年、彼は『回想録』に、こう記している。
 「戦争を廃止する方向に向かって私の生きている間にできるかぎりのことをすることに、一九一四年八月以来とりわけ意を用いてきた。戦争は人間の現存する一切の制度のうち最も悪しきものである」
 そして戦争は原爆の出現によって人類を抹殺するに至ったことを述べ、ボルテールの言葉をもって叫ぶ。
 「この忌わしきものを根絶せよ」と――。
7  対話(7)
 山本伸一は、トインビー博士の著作が翻訳され、日本語で出版されるたびに、直ちに買い求めては、精読してきた。
 伸一は、博士の挑戦に刮目した。
 まず、その学説が、従来の西欧中心型の歴史観から脱却している点に、驚きを覚えた。
 歴史の多くは、勝者の側に立った記録といってよい。
 征服に成功した民族や国家の歴史は、正史となって伝え残され、敗れ去った側の歴史は、葬り去られてきた。
 しかし、トインビー博士は、虐げられた側の民族や文明にも、平等に光を当てて、考察を加えていた。
 しかも、博士は、イギリス人である。
 イギリスは、かつては大英帝国として栄え、「日の沈まない国」と称されるほど、地球上に領土を拡大し、世界に君臨してきた。まさに、世界史の中心軸であり、勝者の側の歴史を形成してきた国家である。
 博士の『歴史の研究』縮冊版(日本語版)に寄せた序文には、次のような一節がある。
 「わたし自身はたまたま西欧人であり、したがってわたしのかかっている近視は、この普遍的な欠陥の西欧的な形態であるに相違ない。『歴史の研究』を書いているあいだ、わたしは絶えずこの限界を意識し、それを乗り越えるために最善をつくした……」
 博士が、西欧人として無意識のうちに芽生えてしまう、偏見や優越感と葛藤しながら、虐げられた民衆の「声なき声」に耳を傾け、執筆を続けたことに、伸一は感嘆したのである。
 また、博士の歴史研究は、歴史の部分的、専門的解釈に終始するのではなく、グローバルな視点に立ち、現在、人類がかかえている諸問題に照準を合わせていた。
 そして、それらを乗り越える、曙光を探し出そうとする、ひたむきな姿勢に、伸一は、何よりも共感したのだ。
 ″人類の苦悩から目を背けて、なんのための学問か! 歴史を通して、未来の平和と繁栄と幸福の方途を探り出すことこそ、真の知性の根本的な使命ではないか″
 そう考える伸一にとって、博士の存在は大きな希望となったのである。
8  対話(8)
 それは、一九六九年(昭和四十四年)の秋であった。
 山本伸一は、タイプで打たれた、一通の手紙を受け取った。
 アーノルド・J・トインビー博士からの書簡であった。
 二十世紀を代表する歴史学者からの、初めての便りである。
 伸一は、胸を高鳴らせながら、訳文に目を走らせた。
 そこには、まず、博士の創価学会に寄せる強い関心が、率直につづられていた。
 「創価学会並びにあなたのことについて、多くの人びとから伺いました。以来、あなたの思想や著作に強い関心を持つようになり、英訳の著作や講演集を拝見しました」
 そして、伸一と存分に語り合いたいとの、博士の心境が記されていた。
 「これは提案ですが、私個人としてあなたをロンドンにご招待し、私たち二人で、現在、人類の直面する基本的な諸問題について、対談をしたいと希望します」
 さらに、こう付け加えられていた。
 「時期的にはいつでも結構ですが、あえて選ばれるとしたら、五月のメイフラワー・タイムが、最もよいと思われます」
 伸一は、あまりにも過分な提案に深く感謝するとともに、不思議な思いに駆られた。
 彼もまた、仏法者として、「人類の直面する基本的な諸問題」の解決の方途を、真剣に模索していたからである。
 トインビー博士が、伸一との対談を強く希望するに至った背景には、博士が現代文明の危機を超える高等宗教として、仏教に強い関心をいだいていたことがある。
 元来、博士は、大変な親日家であり、日本の文化や宗教の研究に情熱を傾けてきた。
 博士の最初の来日は、一九二九年(昭和四年)であった。太平洋周辺諸国の友好と学術研究を推進する「太平洋問題調査会」が京都で開催した、国際会議に出席するためである。
 二回目は、五六年(同三十一年)で、日本の文明を、より正確に、深く理解するため、日本の学者たちとの交流、意見交換に努めている。
 トインビー博士に注目していた伸一は、六五年(同四十年)、自著『科学と宗教』の英訳本を謹んで贈呈していた。
9  対話(9)
 トインビー博士の三回目の来日は、五年前となる一九六七年(昭和四十二年)であった。
 この折、博士は、日本の学者たちに、仏教について熱心に尋ねた。
 そのなかで、創価学会についても、多くの人から話を聞いた。
 そして、創価学会は、民衆の中から生まれた仏教団体であり、仏法の哲理を現代に生かして、社会の建設に取り組んでいるという事実に、博士は心を引かれたようだ。
 以来、異彩を放つ仏教団体として学会に着目するようになった。さらに、英語版の学会の出版物などにも目を通すうちに、その会長である山本伸一の思想と実践に、強い関心をいだくようになっていったのである。
 博士の『図説・歴史の研究』の翻訳に携わった桑原武夫(京都大学名誉教授)は、後に、次のように記している。
 「政治権力によって教団が骨抜きにされてしまった日本とは異なり、宗教が政治権力と拮抗しうる力をもった西欧の知識人は、創価学会にたいして、日本の知識人とは比較にならぬほど強い興味をもっている。トインビーもその一人である」
 日本の多くの宗教団体は、権力に迎合することで生き長らえてきた。
 しかし、創価学会は、日蓮大聖人の御精神のままに、宗教改革の旗を掲げ、どこまでも民衆の側に立って、人びとの幸福実現への運動を推進してきた。
 それゆえ、戦時中は、軍部政府による迫害の的となり、幹部二十一人が投獄され、初代会長牧口常三郎は獄死したのだ。
 また、戦後、学会は、仏法をもって、すべての創造の主体である人間を変革する人間革命を機軸に、政治、経済、教育、芸術など、広範な分野で社会建設のための運動を推進してきた。
 民衆が主役となった、その宗教運動の未聞の広がりは、新たな民衆勢力の台頭でもあった。
 それゆえに、さまざまな権力や既成宗教は、創価学会に猛反発した。学会員への弾圧事件も各地に頻発してきた。
 だが、学会は、その苦難を一つ一つ乗り越え、勝ち越えて、民衆の歓喜の歌を響かせながら、年ごとに発展を続け、事実上、日本第一の大教団となったのである。
10  対話(10)
 トインビー博士の三度目の来日となった一九六七年(昭和四十二年)から、山本伸一に対談を申し入れる書簡を送った六九年(同四十四年)にかけては、創価学会が未曽有の躍進を遂げた時期であったといえる。
 また、公明党も衆議院への進出を果たした直後であり、そのためか、学会への、いわれなき中傷も激しさを増していたころである。
 当然、それは博士の耳にも届いていた。
 しかし、博士は、皮相的な論難は学会の本質と関係ないことを達観していた。博士自身が、同時代の嫉妬の批判と戦ってきた信念の知性である。
 博士は、悪口罵詈を乗り越えて進む学会を通して、生々発展する東洋の「生きた宗教」の存在を感じ取り、仏教の新たな可能性を見いだしていたにちがいない。
 世界に冠たる、曇りなき歴史家の慧眼は、鋭く創価学会の未来を見つめていたのだ。
 そこに、山本伸一は、風評に左右されることなく、真実の探求に突き進む、学者としての真摯にして孤高な精神が感じられてならなかった。
 伸一も、トインビー博士から意見を聞きたいことや、語り合いたいことは、たくさんあった。
 博士が人類の未来を憂い、人類の平和共存と、幸福への道を模索しているように、伸一もまた、同じテーマについて、日々、悩み、考え、呻吟していたからである。
 ――この一九六九年の七月には、アメリカの宇宙船アポロ11号が月面着陸に成功し、人類が初めて月面に降り立った。
 しかし、地球上では、人類の危機的状況が、いたるところで露呈していたのである。
 アメリカとソ連を中心とした東西両陣営の対立の溝は依然として深く、冷戦構造は、一層、堅固なものとなっていた。
 それが、世界の各地で国の分断と紛争をもたらし、ベトナム戦争は泥沼化の様相を呈して久しかった。
 さらに、韓・朝鮮半島も南北に分かれ、ドイツも東西に分断されたまま、およそ二十年の歳月が流れていた。
 また、共産圏内部でもソ連と中国の関係が悪化し、イデオロギー上の対立だけでなく、中ソ国境で、両国軍隊が武力衝突を繰り返すに至っていたのである。
11  対話(11)
 アラブ世界では、一九六七年(昭和四十二年)に第三次中東戦争が起こり、イスラエルがアラブ諸国に、短時日で圧倒的な勝利を収めた。
 それは、その後のパレスチナ・ゲリラの武力闘争を激化させる契機となった。イスラエルの報復も繰り返され、互いの憎悪の火は、ますます燃え上がっていた。
 また、核問題、公害の蔓延、人口増加、食糧危機など、人類のかかえる難題は尽きなかった。
 山本伸一の胸には、苦悩にあえぐ、民衆の声が常にこだましていた。
 彼は痛感していた。
 ″戦乱の絶えなかった、激動の二十世紀も、既に七十年ほどが過ぎようとしている。
 残された約三十年のうちに、確かな平和への道標を、人類に提示しなければならない。
 そうでなければ、二十一世紀もまた、世界は対立と抗争の悲劇を繰り返すことになる。
 そして、それは、人類の存亡の危機を招くにちがいない″ 
 彼は、その根本的な解決の道は、仏法の広宣流布にあることを、強く確信していた。
 しかし、一つ一つの具体的な問題についての解決策を見いだすには、さまざまな英知を結集する必要がある。特に優れた知性との語らい、触発が不可欠である。
 また、″仏法の哲理を基盤とした自身の人間主義ともいうべき思想に、全く文化も宗教的な土壌も異なるトインビー博士から、どこまで賛同を得られるか。そして、どこまで互いに共感し合えるのか″も、伸一の大きなテーマであった。
 それは、今後の世界広布を展望するうえで、極めて重要な試金石となるからである。
 アメリカの哲学者デューイは、喝破している。「伝達もされず、共有もされず、表現において再生もされない思想は独白にすぎない。そして、独白は半端で不完全な思考にすぎない」
 伸一は、博士が自分との対談を希望してくれたことが、嬉しかった。
 博士は、既に八十歳になっていた。四十一歳の自分とは、親子ほどの年の開きがある。
 伸一には、あえて博士が、二十一世紀への精神的な遺産を残すために、若い自分を対談相手として選んだように思えた。
12  対話(12)
 山本伸一は思った。
 ″私と対談したいというトインビー博士の要請に、ぜひ、応えさせていただこう!″
 伸一は、博士に、丁重に返事をしたためた。
 「……御好意あふるる貴信、拝受致しました。
 かねてより、私の最も尊敬する博士と親しくお会いできますことは、秘の生涯を通じて、最高に有意な機会と存じます」
 しかし、伸一は多忙を極めていた。この段階では″御招待をお受けしたいと願い、実現のために懸命に努力する″としか言えなかった。
 伸一は、この一九六九年(昭和四十四年)の年末から、呼吸器疾患にかかり、体調を崩すことになる。さらに、七一年(同四十六年)には、創価大学が開学するため、準備にも奔走しなければならなかった。
 その後も、博士からは、強い対談の希望が寄せられた。博士は、伸一が訪問できなければ、自ら日本に出向く考えもあったようだ。しかし、高齢の身で長途の旅は難しかった。
 伸一は、創価大学の開学を迎えると、翌年には、必ずイギリスを訪問し、博士の要請に応えようと決断した。
 以後、書簡のやりとりを重ね、質問したい事柄を記して送るなど、準備を進めた。
 世界の情勢も、刻々と変化していた。中ソ対立は激しさを増し、一触即発の状況を呈していた。
 一方、アメリカは中国政策の転換を図った。七一年七月、キッシンジャー米大統領補佐官が北京を電撃的に訪問し、周恩来総理と会見。両国は、急接近し始めたのだ。
 また、同年十月には、中華人民共和国政府が中国代表として国連に迎えられた。六八年(同四十三年)の学生部総会での伸一の提案が、現実となったのである。
 この流れは、戦後の米ソによる両極体制という国際社会の秩序を、米ソ中の三極構造へと再編成するものとなった。
 さらに、緊張が続いていたインドとパキスタンが全面戦争に突入し、パキスタンが降伏するという出来事もあった。
 ″断じて、平和の潮流を築かねばならぬ!″
 それだけに、伸一の胸には、若い世代を代表して、博士とあらゆる問題について対話を重ね、教えを受けたいとの強い思いが噴き上げていた。
13  対話(13)
 山本伸一は、トインビー博士との対談にあたって、三つの大きな柱となるテーマを考えた。
 それは、第一に、「人間とは何か」という問題であった。
 伸一は、人間を、動物的側面や肉体的、精神的側面など、多面的にとらえ、人間を取り巻く自然環境、社会環境について考察したいと思った。
 そのうえで、「いかに人生を生きるべきか」という根本命題に迫りたいと考えていた。
 話題は、都市論、環境論、教育論、健康・福祉、労働運動等に発展していくにちがいない。
 第二に、世界の平和を実現する方途について、意見を交わしたかった。
 二十一世紀に向かって世界はいかなる方向に進むのか。未来のために、人類は何をなすべきなのか――それは、人びとの最大関心事であると同時に、人類が暗中模索している問題といってよい。
 伸一も、博士と同じように、身近に何人もの戦争の犠牲者がいた。彼は平和の大道を開くことこそ、自分の責務であると心に決めていた。
 ゆえに、現代の国々がかかえる諸問題を直視しながら、なぜ、戦争が繰り返されてきたのか、その愚かな歴史を断ち切るには、人類はどうすればよいのかを、語り合いたかった。
 ここでは、指導者論やファシズム論、軍事問題などを論じながら、地球を平和的に統合していくための方法を見いだしたかった。
 第三に、生命の根源に迫る対話である。
 「生命とは何か」「人間はいずこより現れ、いずこへ消えていくのか」などである。
 こうした問題は、縦の時間軸では、生命の永遠を論じ、横の空間軸では、限りない宇宙について語り合う壮大なテーマとなり、宗教・哲学論となろう。
 そして、宗教が文明の創造に、いかなる役割を果たせるのか、また、博士が主張する「究極の精神的実在」などについて意見交換することを希望していたのである。
 ともあれ、東洋人である伸一と、西洋を代表する知性との対話である。
 人類の未来を開く示唆に富んだ対談にしなくてはならないと、彼は深く決意し、準備に余念がなかった。
14  対話(14)
 山本伸一の乗ったジェット機は、シベリア上空を飛行していた。
 これまでは、アラスカのアンカレジを経由して、ヨーロッパに入っていたが、今回は、初めてモスクワを経由しての訪問であった。
 やがて、搭乗機がモスクワの空港に到着した時、伸一は、ロシアの大地に題目を染み込ませるかのように、心で懸命に唱題した。
 当時の日ソ関係は、決して、良好とはいえなかった。
 この一九七二年(昭和四十七年)一月、ソ連のグロムイコ外相が来日し、五年ぶりに日ソ定期協議が行われたが、平和条約締結への道のりは、前途多難といった状況であった。
 ソ連は、日本の隣国である。隣人同士が互いに猜疑心をいだき、反目し合っていることほど、不幸なものはない。
 両国は、信頼と友情に結ばれ、共に平和の道を歩まねばならないというのが、伸一のかねてからの主張であった。
 それには相互理解が不可欠と考え、民音(民主音楽協会の略称)の創立者として、ソ連の「ノボシビルスク・バレエ団」の招聘(一九六六年)を推進するなど、文化交流に力を注いできた。
 また、伸一は、スターリン時代に、ソ連の多くの人びとが粛清されたという話も耳にしていた。
 それだけに、このソ連の指導者にも、生命の尊厳観に立った人間主義の哲理を、さらに、
 人類は家族であるという地球民族主義の思想を、訴え抜いていかなければならないと、彼は、強く感じていたのである。
 その思いから、真剣に唱題していたのだ。
 彼は、同行者たちに宣言するように言った。
 「私は、近い将来、必ず、このモスクワを正式訪問するよ。ソ連の指導者たちと、どうしても平和の道について、語り合わなければならない」
 皆、黙って頷いてはいたが、実現性の乏しい願望にすぎないと感じていたようだ。
 しかし、妻の峯子だけは、それは、断じて成し遂げなければならない伸一の使命であり、鉄のごとき誓いであることを見抜いていた。
 事実、彼は、それから二年後の秋には、ソ連を訪問し、クレムリンでコスイギン首相と会談することになるのである。
15  対話(15)
 山本伸一の一行が、パリに到着したのは、現地時間で四月二十九日の午後六時過ぎであった。
 パリのオルリー空港では、フランスの理事長になっていた川崎鋭治ら二十人ほどのメンバーが、満面の笑みで出迎えてくれた。
 一行は、空港から、ソー市に誕生したパリ本部に向かった。
 パリ本部は、一九六九年(昭和四十四年)に購入し、既に会館として使用されてきた。
 しかし、「山本会長を迎えて正式に開館式を行うことにしたい」とのメンバーの要請で、今回、開館式が行われることになっていたのである。
 空港から二十分ほどでパリ本部に着いた。
 会館は、閑静な住宅街にあった。
 芝生の庭が広がり、広間のある鉄筋コンクリート造り二階建ての建物や、三階建ての別棟などがあった。
 川崎は、会館を案内しながら、感無量の面持ちで伸一に語り始めた。
 「七年前に、パスカル通りにあった私の二間のアパートを、ヨーロッパ事務所としてスタートしたことを思うと、まるで夢のようです。
 そして、五年前にヌイイにパリ会館をオープンしましたが、それよりもはるかに広く、すばらしいこのパリ本部が誕生し、感謝の思いでいっぱいです」
 その言葉を聞くと、頷きながら伸一は言った。 「川崎さん。『初心忘るべからず』と言いますが、今のその心を大切にすることです。そして、この会館から、仏法の人間主義の波を、幸福の波を、フランス中に広げていってください。
 みんなが動き、広宣流布が進むことによって、会館は荘厳されていくんです。休んでいれば、会館も、みんなの魂も、朽ちていきます」
 レオナルド・ダ・ビンチは、こう警鐘の叫びを放っている。
 「鉄は使わないと錆びる。澱んだ水は濁る、寒さには凍結する。同じように、活動の停止は精神の活力を喪失させる」
 川崎は、決意に目を輝かせながら語った。
 「わかりました。働き抜いて、功徳の花咲く会館にして、フランスの、いやヨーロッパの、人間主義の新時代を、必ず開いてまいります」
16  対話(16)
 山本伸一は、メンバーからの強い要請で、パリ滞在中は、パリ本部に宿泊することにした。
 短期間の滞在中に、なるべく多くのメンバーと会い、激励しようと思うと、ホテルとの往復時間がもったいないという思いもあった。
 パリ本部では、何人もの人たちが、明後日の開館式の準備にあたっていた。
 伸一は、メンバーを見ると、声をかけ、短時間だが、午後七時過ぎから懇談の時間をもった。
 日本時間だと、既に午前三時を回っていることになる。起床から、二十時間以上が経過しているのだ。
 彼は、疲れ果ててはいたが、飾り付けや清掃作業に精を出すメンバーを見ると、励まさずにはいられなかったのである。
 翌朝、伸一は、川崎鋭治や、フランス女子部の幹部である入瀬真智子らと共に、パリ本部の周辺を散策した。
 会館を出て、五百メートルほど行くと、入瀬が伸一に言った。
 「先生、この家は、キュリー夫人が住んでいたんです」
 閉ざされた木の門の向こうに、三階建ての赤い屋根の家があった。
 キュリー夫人は、ポーランド生まれの科学者である。放射能の研究や新元素の発見、ラジウムの単離などの功績を讃えられ、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を受賞している。
 この家には、一九〇七年から一九一二年まで住んでいたという。
 ノーベル賞受賞者の住まいとしては、思ったより質素であった。
 彼女は、ここにいた一九一一年に、純粋なラジウムの抽出の成功によって二度目のノーベル賞を受賞した。
 それは最愛の夫を、突然の交通事故で亡くした五年後のことである。
 その悲哀のなかから立ち上がり、子どもを育てながら、使命の道を歩み続けたのだ。
 伸一は語った。
 「私は、キュリー夫人の偉大さは、二つのノーベル賞をとったということより、悲哀に負けない強さにこそあると思う。
 順風満帆の人生なんてありえない。むしろ困難ばかりです。それを乗り越えるには、自分の使命を自覚することです。そこに希望が生まれます」
17  対話(17)
 山本伸一は、四月三十日は、トインビー博士との対談の準備にあたっていたが、夕刻には、メンバーと共に勤行し、激励した。
 翌五月一日は、パリ本部の開館式であった。
 式典を祝福するかのように、空には太陽がまばゆく輝いていた。
 会館の庭には芝生の緑が映え、チューリップやマロニエなど、色とりどりの花が咲き競っていた。
 この日、メンバーは、フランス各地をはじめ、イギリス、西ドイツ(当時)、イタリア、オランダ、スイスなどの欧州各国、さらに、エジプトやイランに駐在しているメンバーも、喜び勇んで駆けつけてきた。
 午前十一時三十分、伸一が、正面玄関前に張り渡されたテープにハサミを入れると、大きな拍手が鳴り響いた。
 引き続き、二階の広間で、代表二百数十人が出席して、開館記念の勤行会が行われた。
 伸一の導師で読経が始まった。各国のメンバーの声が一つに溶け合った軽やかな勤行であった。
 次いで、川崎鋭治が、一九六一年(昭和三十六年)の山本会長の欧州初訪問から現在に至る発展の足跡を語った。
 そして、近代文明を生んだヨーロッパから、人類文化の蘇生のために、新たな生命のルネサンスを起こそうと訴えた。
 温厚な川崎とは思えぬほど、気迫にあふれた話し方であった。
 彼は、日本語で話を終えたあと、今度は、フランス語で語り始めた。
 参加者の大半はフランス人であるために、もう一度、フランス語で同じ話を繰り返したのである。それは、日蓮仏法が、広くフランスに浸透し、定着し始めた証でもあった。
 伸一は、メンバー一人ひとりに視線を注いだ。
 嬉しいことに、五年前にパリを訪問した時には見なかった、新しい顔が多かった。
 大聖人は「高橋殿御返事」のなかで「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と仰せである。
 国により、文化も、習慣も、考え方も異なる。それゆえに、世界広宣流布もまた、その国の人が立ち上がり、責任をもって推進してこそ、仏法が深く人びとのなかに根差していくのである。
18  対話(18)
 パリ本部の開館記念勤行会では、最後に山本伸一がマイクに向かった。
 彼は、世界広布に邁進する尊き同志の奮闘を讃えたあと、自分の率直な真情を語っていった。
 「私は、皆さんとは、普段、なかなかお会いすることはできませんが、兄、弟であり、姉、妹であると思っています。
 その最愛の皆さんが、健康で、家族仲良く、幸せな人生を歩みゆかれんことを、毎日、懸命に祈り念じて、題目を送っております」
 伸一の言葉に、一段と力がこもった。
 「また、広宣流布に生きる皆さんは、民族や国籍に関係なく、等しく日蓮大聖人の子どもなのであります。
 広宣流布とは、仏法の慈悲の光をもって、世界中の人びとを幸福にする聖業であり、そのために皆さんは生まれてきたという、厳たる事実を自覚していただきたい。
 そして、その使命に生き抜くなかにこそ、自身の人間革命があり、自他共の、崩れざる幸福境涯を築いていくことができるんです。
 なんのために生きるのか。なんのための人生なのか――その目的観が、確立されていないことにこそ、現代社会の混迷と不幸の根本原因があるといえます。
 皆さんは、大聖人の子どもであるとの、自覚と誇りをもって、いずれの国、いずれの地域、いかなる環境にあっても、堂々と胸を張って、わが使命の道を歩み抜いてください。
 大事なことは、使命を果たし抜く勇気であり、挑戦です」
 かの哲学者パスカルは「考えが人間の偉大さをつくる」と記した。それを現実たらしめるのは実践である。ゆえに、「行動が人間の偉大さをつくる」というのが、伸一の信念であった。
 彼は、さらに、話を続けた。
 「各国、各地域で、広宣流布の一つの目標として、まず十年先をめざして、前進していってはどうでしょうか。
 唱題を根本に、強盛に信心に励み、十年たって振り返った時、″こんなにすばらしい、充実した人生を歩めたのか!″と、自分でも驚くような幸福の軌道を進んでいけるのが信心なんです。 さあ、共に前進しましょう!」
 誓いの拍手が響いた。
19  対話(19)
 開館式のあと、会館の庭で、パリ本部のあるソー市の市長夫妻をはじめ、多数の来賓を招いて祝賀の集いが行われた。
 さまざまな花が咲く庭で、茶をたてたり、鼓笛隊の演奏や女子部の合唱なども披露された。
 山本伸一は、来賓一人ひとりと言葉を交わしていった。来賓の多くは、″創価学会の会長である山本伸一とは、いかなる人なのか″と、大いに興味をいだいていた。
 ″仏教の団体の指導者だから、衣をまとった僧侶か、いかにも神秘的な雰囲気を漂わせた人物ではないか″と思っていた人が多かったようだ。
 しかし、スーツ姿で、「お忙しいところ、おいでくださって恐縮です。感謝いたします。
 私が会長の山本でございます」と、丁重だが、気さくにあいさつを交わす伸一に、来賓は、一様に驚きを隠せなかった。
 しかも、彼の振る舞いには、真心の気遣いがあふれていた。相手がお年寄りなら、「通路に段差がありますので気をつけてください」といって、途中まで、手を引いて先導した。
 また、彼の話は、ウイットとユーモアに富み、周りには、明るい笑いの渦が起こっていた。
 そして、伸一の隣には和服に身を包んだ妻の峯子が立ち、「本当にありがとうございます」と、包み込むような優しい微笑を浮かべて、皆を迎えていた。
 帰り際、来賓の一人が川崎鋭治に言った。
 「あなたたちの仏教の教えがいかなるものか、私にはわかりません。
 しかし、山本会長と接していて、ありのままの姿で、誠意をもって、私たちを迎え入れてくださっていることを感じました。人間を大切にする心があふれていました。
 私は、権威の仮面を被った聖職者が君臨し、厳かに教えを説く宗教の時代は終わったように思います。大事なのはヒューマニズムです。そのヒューマニズムを、あなたたちの団体に感じました」
 川崎は、声を弾ませて言った。
 「そうなんです。それが真実の仏教なんです。私たちの宗教なんです」
 教義は、人格、行動をもって表現される。
 日蓮仏法の、国境を越えた、世界宗教としての今日の広がりは、「人の振る舞い」によるものといってよい。
20  対話(20)
 山本伸一は、五月四日に、パリからロンドンに移動する予定であった。
 パリでは、トインビー博士との対談に備え、メンバーの激励の合間に、質問内容の整理などにあたっていた。
 そのなかで、会長就任十二周年となる五月三日を、パリの地で迎えたのである。海外で五月三日を迎えたのは、初めてのことであった。
 それは、まさに″世界広布新時代″の到来を象徴していた。
 学会では、この五月三日を、一九三〇年(昭和五年)の創価教育学会の創立から始まる、七年ごとの節である「七つの鐘」の、「第七の鐘」のスタートとしていた。
 日本では、その出発を記念し、学会本部をはじめ、全国の会館等で、盛大に勤行会が行われた。
 その席で、パリにいる伸一が書き送ったメッセージが、紹介されたのである。
 冒頭、伸一は、会長就任以来、十二年間にわたる同志の健闘を讃え、深く感謝の意を表するとともに、さらに新しき前進を呼びかけた。
 次いで、今や日蓮大聖人の御予言通り、世界広布の流れが開かれつつあることを語り、なかでも本年は、「仏法史上刮目に値すべき一大転機の年」であると訴えた。
 この広宣流布の使命を果たしゆくためには、各人が、自ら責任をもち、勇んで行動する「自発能動」の姿勢が大切であると強調。
 さらにまた、「一切法皆是仏法」の原理を体得し、礼儀や見識、人格などを磨いていくことが重要であると語った。
 そして、メッセージは「時代は開け、世界の友が待っております。私も今月、率先して世界を回ります。皆さまも存分にご活躍ください……」と結ばれていた。
 ヨーロッパにあって、世界広布に奔走する伸一に思いを馳せると、皆の心は燃えた。
 また、今回の欧州訪問では、伸一がトインビー博士と対談することも、多くのメンバーが耳にしていた。
 ″世界の知性が、創価学会に強い関心をもつようになったのだ。すごい時代が来た!″
 それが、学会員の実感であり、大きな誇りとなり、力となっていったのである。
21  対話(21)
 五月三日を記念する勤行会は、パリ本部でも、山本伸一が出席して、晴れやかに行われた。
 勤行のあと、伸一は、第二次世界大戦の折、創価学会は軍部政府の弾圧を受け、初代会長も、二代会長も共に投獄された殉難の歴史を語った。
 そして、その苦難との粘り強い戦いによって、今日の広宣流布の世界的興隆がもたらされたことを訴えたのである。
 フランスをはじめ、ヨーロッパの広宣流布の歩みは、アジア各国やブラジルなどと比べて、これまで、極めて順調であったといってよい。
 しかし、日蓮大聖人は「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」と仰せである。仏法の法理に照らすならば、常に順風満帆であるはずがない。必ず難が競い起こる。
 「魔競はずは正法と知るべからず」である。この仏法の原理だけは、皆の生命に刻んでおかなければならないと彼は思った。
 伸一は、力を込めて語った。
 「将来、いかなる難があろうが、その時こそ、題目を唱え抜き、信心を根本に、敢然と乗り越えていっていただきたい。それによって、宿命も打開できるんです。
 また、そのために、教学を探究し、一人ひとりが最高の仏法哲学者となっていただきたい。
 さらに、皆が平等に、仲の良い友だちとして、共々に励まし合い、守り合いながら、朗らかに前進していっていただきたいのであります」
 勤行会の最後は、メンバーの提案で、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」の合唱となった。
 終了後、伸一は庭に出て、皆と記念のカメラに納まった。その庭の一角に、大きなケーキが飾られていた。
 川崎鋭治が言った。
 「先生! 会長就任十二周年、そして、先生、奥様のご結婚二十周年、誠におめでとうございます。今日は、お正月を迎えたような気持ちです。私どもの、ささやかなお祝いです」
 「そうなんだよ。戸田先生が会長に就任されてから、五月三日は、学会のお正月なんだ。ありがとう。申し訳ないね」
 夫妻でケーキにナイフを入れると、拍手が空に舞った。庭の白いリラの花も微笑んでいた。
22  対話(22)
 五月四日の正午前、山本伸一の一行は、パリのオルリー空港を発った。
 飛行機はドーバー海峡を越え、一時間ほどでロンドンに到着した。
 街路樹は、新緑に染まり、街の随所で、花々がそよ風に揺れていた。
 まさに、トインビー博士が手紙に記した、「メイフラワー・タイム」の季節である。
 伸一は、この時期に招待してくれた博士の真心に、深く感謝した。
 心遣いには、人柄がにじみ出るといえよう。
 翌五日の午前十時過ぎ、伸一は、妻の峯子、そして、川崎鋭治と共に宿舎のホテルを出て、車でトインビー博士の自宅に向かった。
 みずみずしい若葉が揺れる街路には、二階建てバスも見られた。
 博士の自宅は、ロンドンの中心部から、西へ車で二十分ほど行った、オークウッド・コートの閑静な住宅街にあった。
 車の前方に、赤レンガ造りの落ち着いた色調の、七階建てほどの建物が並んでいた。
 博士の住まいは、その五階にあるという。質素な外観であるというのが伸一の印象であった。
 車を降りると、川崎の後について建物の中に入った。川崎はこれまで、博士と、何度となく打ち合わせを重ねてきた。
 「先生、エレベーターで上がってください」
 すぐ前にある古いエレベーターに乗った。蛇腹式のドアである。
 ゆっくりと上昇し、ガッタンと大きく揺れて、五階に止まった。
 エレベーターを降りると、背広を着た、白髪の紳士が、穏やかな笑みを浮かべて待っていた。トインビー博士、その人であった。
 「おお、ミスター・ヤマモト! ミセス・ヤマモト!
 遠いところ、ようこそいらっしゃいました!」
 英語の、弾んだ声が響いた。
 長身の博士が、少し身をかがめるようにして、手を差し伸べてきた。
 伸一は、その手を、強く握りしめた。待ちに待った瞬間であった。
 トインビー博士の後ろには、ベロニカ夫人の笑顔があった。
 夫人はケンブリッジ大学を卒業し、長年、博士の研究を支えてきた、学問のうえのパートナーでもある。
23  対話(23)
 山本伸一たちは、川崎鋭治に英語で通訳してもらい、ベロニカ夫人とも出会いの喜びを語り、丁重にあいさつした。
 トインビー夫妻は、伸一たちを家の中に招き入れると、書斎など、住居の隅から隅まで案内してくれた。
 きらびやかな調度品など、何一つなかった。 そこは″知の砦″を思わせた。
 人類の未来のために、ひたすら歴史研究に取り組んできた博士の生き方が、部屋の隅々にまで、表れているように感じられた。
 「依正不二」なれば、住居という空間には、その人の人生の価値観や生き方が、端的に表れるといえよう。
 ソファに座ると、博士は、真っ白な髪を無造作にかき上げ、伸一の顔をまじまじと見つめた。そして、何度も頷きながら言った。
 「待っていました。待っていましたよ……」
 伸一も、博士の顔を凝視した。
 耳には補聴器をしていた。心臓にも病をもっていると聞いていた。
 しかし、メガネの奥で、世界の歴史を俯瞰してきた英知の眼が、強い信念の光を放っていた。
 ″心に思い描いていた通りの方だ……″
 初対面ではあったが、これまで何度となく、書簡を交わしてきたこともあってか、何か懐かしい人と再会したような思いにかられた。
 偉大な碩学の素顔は、誠に温かかった。
 「真の功績がある人々は、高慢でも傲慢でもなく、むしろ謙虚である」とは、哲人カントの名言である。
 伸一は言った。
 「私は、博士と対話できますことを、仏法の探究者として、また、未来に生きる青年の一代表として、心から、嬉しく思います」
 博士は答えた。
 「私もです。あなたとお会いできて、本当に嬉しい……」
 伸一は言葉をついだ。
 「激動の世界にあって人類が疑問とし、解決しようと苦慮している多くの問題があります。それらの問題について、ぜひ博士のご意見を承りたいと、私は、かねてより念願しておりました。
 この対談が、二十一世紀に生きる多くの人びとにとって、なんらかの問題解決への糸口となるならば、望外の幸せです」
24  対話(24)
 トインビー博士は、頬を紅潮させ、目を輝かせながら語った。
 「私もまた、きたるべき世紀に照準を合わせ、物事を考えています。
 未来はどうなるのか。私はもちろん、あなたさえも、この世から去り、さらに長い時を経た時代に、世の中はどうなっているのだろうか――このことに、私は大きな関心を寄せています」
 博士の目は、はるかな未来を見つめていた。
 今を生きる人間には、未来を築く責任がある。
 山本伸一は言った。
 「私はこれまで、仏法者として、『生命の尊厳とは何か』『人間とは何か』といった根源的なものを、常に探究してまいりました。
 対談でも、この点を深く掘り下げていければと思います」
 「イエス、イエス、イエス……」
 博士は微笑を浮かべ、しきりに頷いた。
 「まさに、私もその点を話したかったのです。長い間、この機会を待っていました。
 やりましょう! 二十一世紀のために語り継ぎましょう! 私はベストを尽くします!」
 八十三歳とは思えない、力強い、決意のこもった声であった。
 さらに、今後の日程や対談の方向性などを、互いに確認して、昼食となった。
 博士は、フランス料理のレストランに、伸一たちを招待してくれたのである。
 その真心が、伸一の胸に深く染みた。
 いよいよ午後からは、本格的な対談である。
 今回の通訳には、フランスの川崎鋭治のほか、アメリカの日本人幹部や、かつてニューヨーク支部の支部長を務めた商社マンで、日本に帰国後、学会本部の職員となった、春山富夫があたることになっていた。
 彼らは、対談時間が迫ってくると、博士の居間にテープレコーダーやマイクロホンをセットさせてもらい、入念にマイクテストも行った。
 後世に誤りのない内容を伝えるために、二人の発言を正確に記録する必要があったからだ。
 午後三時に、対談は開始された。
 窓を背に置かれたソファに、博士と伸一は、腰を下ろした。峯子とベロニカ夫人も同席した。
25  対話(25)
 トインビー博士と山本伸一の、歴史的な対談が始まった。
 対談は、伸一が用意してきた質問をし、博士が、それに答えるかたちで進められた。
 伸一は、まず、「人間はいかなる存在か」という大テーマのもとに、質問していった。
 そこには、堅苦しさはなかった。和やかな雰囲気の語らいであった。
 だが、話が生命論や歴史哲学などに入り、難解さを増してくると、対談は、暗礁に乗り上げてしまった。
 通訳が、伸一の質問に対する博士の回答を伝えながら、言葉に詰まってしまったのだ。
 「えー、あのー、つまり……」
 こう言って、しばらく沈黙が続き、ようやく話し始めても、よく意味がわからない日本語になっていた。そして、また言葉を詰まらせた。
 同席した三人は通訳としては素人である。深遠な哲学的な話になると、直ちに的確に訳すことは難しかったのである。
 しかも、博士の語彙は極めて豊富であり、緻密で複雑な論理が展開されていた。
 そのうえ、博士の英語は、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の出身者が話す、独特のものであった。
 彼らは、すっかり面食らってしまった。
 また、伸一の意思も、どうもうまく通じていないようなのである。博士は、時折、いぶかしそうな顔をする。
 伸一は、通訳しやすいように、難解な言葉を避けて、なるべく短く、易しい表現にした。
 これによって、博士には、伸一の話は通じるようになったようだ。
 博士は、にこやかに頷くことが多くなった。そして、熱を込めて答えを語ってくれるのだ。
 ところが、通訳は、その博士の回答が正しく訳せず、しどろもどろになってしまうのである。
 伸一は、博士の話を受けて、さらに踏み込んだ質問をしたかったが、それができないのだ。
 「どうしたんだい。わからないのかい」
 伸一は尋ねた。
 通訳をしていたアメリカの幹部が「はい」と言って頷いた。その顔には、じっとりと汗が滲んでいた。
 窮地は常にある。それを、乗り越えていくなかに、知恵の輝きがある。
26  対話(26)
 通訳の問題は、対談の予期せぬ″落とし穴″となった。
 山本伸一は、通訳にあたっているメンバーに言った。
 「落ち着くんだよ。これは、後世に残すための大事な対談なんだから、焦って不正確に訳してはいけないよ。
 うまく訳せないところがあったら、仕方がないから、あとで録音したテープを聴いて、みんなで正確な日本語に翻訳しなさい。
 その日本語訳を見たうえで、私が、さらに新しい質問を考え、また、博士の質問に対する答えも考えるようにするから。
 博士には、次の対談の時に、その質問や回答を伝えることにしよう」
 三人の通訳の顔に、安堵の色が浮かんだ。
 「では、博士にお詫びして、英語の力が不足しているため、そうさせていただく旨、申し上げなさい。正直に言うことが必要だよ」
 アメリカの幹部が、そう伝えると、トインビー博士は、大きく頷きながら、「オー、イエス」と答えた。
 イギリスのことわざにも、「正直は最良の策である」とある。事実を率直に伝えることが、結果的には信頼を深めることになる。
 伸一は、海外を訪問するたびに、有能な通訳の必要性を感じてきたが、この時ほど、それを痛感したことはなかった。
 彼は、これまで、世界広布の本格的な時代の到来に備え、語学陣の育成に力を注いできた。
 一九六八年(昭和四十三年)八月に、学生部の代表で「近代羅什グループ」(男子)、「近代語学グループ」(女子)を結成。さらに、その年の十二月には世界語学センターの設置を発表し、語学研鑽の流れを開いた。
 そして、七一年(同四十六年)二月、通訳、翻訳家などからなる国際部を結成。八月には、伸一は、国際部の部旗を、部長になった増山久に授与している。
 ″仏法の人間主義への共感を世界に広げていくうえで、優れた通訳の育成が喫緊の課題だ。
 語学陣の育成が遅れた分だけ、世界広布の遅滞をもたらすことになる。一日も早く、各国語の力ある通訳を育てなければならない……″
 伸一は、この対談の席で、あらためて、そう決意したのである。
27  対話(27)
 トインビー博士と山本伸一の対談の通訳にあたっていたメンバーは、難解な部分は、あとでテープを聴いて訳すことになり、かなり気が楽になったようだ。
 それから、通訳も比較的スムーズになった。
 また、博士の言葉の通訳は、主に川崎鋭治が担当するようになった。
 これまで、伸一と博士の間に入って、交渉役を務めていたこともあり、博士の英語を、最もよく理解することができたからである。
 この日の対談で、博士が、ぐっと身を乗り出すようにして、耳を傾けたのは、伸一の語る生命論であった。
 「仏法には″十界論″という生命観があります。この″十界論″は、生命を、その幸福感の状態ないし姿勢について、十種の範疇に分けるものです。
 そして、人間をはじめ、あらゆる生物に、一瞬一瞬、その条件に応じて、この″十界″の生命が現れることを説いております。
 この″十界″の考え方は、たとえていえば、ダンテが『神曲』で描いた地獄、煉獄、天国に相当します。
 ただし、ダンテの場合は、″三界″という大きな立て分けになりますが、仏法では、さらに精密に″十界″に分けているんです」
 伸一は、地獄界から仏界までの十界を、丁寧に説明していった。
 博士は感嘆した。
 「仏教では、極めて精緻な心理分析をしていますね。その精密さは、これまで西洋でなされてきた、いかなる心理分析にもまさるものです」
 また、伸一は、法華経方便品に説かれた″十如是″は、刻々と変化していく生命の運動法則であることを語り、その一つ一つを詳述していった。
 そして、仏法で説く、生命に内在する因果の法則について、博士の見解を尋ねた。
 博士は、情熱を込めて語り始めた。
 「私は、生命の法則とはカルマ(宿業)のことであると思います。
 行動は必ず結果を生み出しますが、その結果からは、誰も逃れることはできません。
 しかし、その結果は変えられないものではありません。次に起こす行動によって、良くも悪くも変えることができるわけです」
28  対話(28)
 トインビー博士は、山本伸一が″十如是″の説明のなかで、″因″という生命内奥のものを形成するために、″縁″という外界との交流があると述べたことに、強い関心をもったようだ。
 博士は、声を弾ませて語り続けた。
 「十如是の概念は″跳戦と応戦″という私自身の考えに、似ていないこともありません」
 ″挑戦と応戦″という考え方は、互いに関係し合う当事者が、「どのような関係性をもつものか」を示すものであるというのである。
 伸一も、頷きながら言った。
 「博士のいわれる″挑戦と応戦″が、生命自体における現象であるとするならば、それは仏法に説く生命の因果律と同じことの、異なった表現であると思います。
 挑戦があれば、応戦がある。それは、そこに生命の法があるからだといえます」
 第一日の対談は、生命論のほか、歴史哲学、学問論、芸術論などをめぐって、活発に議論が交わされた。
 博士の主張の多くは、仏法と響き合っていた。いな、ほとんどが、仏法の法理を証明するかのような言葉であった。
 偉大なる″知性の人″の深い探究は、仏法という究極の法へ、限りなく迫っていたのである。
 対談は、尽きることがなかった。しかし、午後六時半になると、伸一は語らいを切り上げた。高齢の博士を、疲れさせてはならないと思っていたからである。
 伸一たちは、トインビー夫妻に丁重に御礼を述べ、宿舎のホテルに向かった。
 初日の対話は、通訳上の問題はあったが、極めて実り多い対話となったことが嬉しかった。
 ホテルに戻ると、一行は、夕食もそこそこに、次の作業に取りかからなければならなかった。
 対談の録音を聴き、博士の回答や質問を翻訳し、それに基づいて、伸一が、新たな質問や回答を考える作業が待っていたのだ。
 川崎鋭治ら通訳の三人をはじめ、日本から同行した幹部やイギリスのメンバーは、作業用に確保したホテルの一室に集まった。そして、皆で力を合わせ、翻訳作業に着手したのである。
29  対話(29)
 通訳担当者や同行の幹部、イギリスのメンバーらは、まず、トインビー博士と山本伸一の対談の録音テープを聴いた。
 テープレコーダ―の再生ボタンが押された。
 川崎鋭治らは、博士の家で、事前に、何回もマイクテストを行ってはいたが、うまく録音されているかどうか、不安でならなかった。
 ″もし、ちゃんと録音されていなかったら、対談を未来に残すこともできず、すべては水泡に帰してしまう……″
 彼らは、祈るような気持ちで耳を澄ました。
 伸一の若々しい声が響き、渋みのある博士の声が流れた。音声は至って明瞭であった。
 皆、目と目を見合わせて、頷き合った。
 対談の会場となった博士の自宅に入れなかったスタッフは、これを聴いて、今日、まさに、歴史的な対話が始まったことを実感したのである。
 録音テープを聴きながら、タイプライターに熟練したイギリスのメンバーが、トインビー博士の発言部分をタイプで打ち出していった。
 キーを叩くと、「ガチャ、ガチャ、ガチャ」と大きな音が部屋中に響き渡った。改行の時は、さらに、「ガッチャー、ガッチャー」と、大きな音が鳴り響く。
 英文が一枚一枚、打ち出されるたびに、川崎や春山富夫をはじめ、英語のできる日本人メンバーが意見を交わしながら、日本語に訳していった。
 この部屋は、テープから流れる声、タイプを叩く音、翻訳をめぐって話り合う声が飛び交い、熱気に満ちあふれていた。
 イギリス人スタッフのなかには、休暇を取り、率先して作業の手伝いを買って出た人も少なくなかった。
 ″山本先生と共に、歴史的な仕事に、自分も参画したい″
 それが、メンバーの願いであった。だから、誰もが、意欲にあふれ、喜びに満ちていた。
 時のたつのも忘れ、皆が作業に没頭した。
 「よろこびをもって仕事をし、なしとげた仕事をよろこべる者は幸福である」とは、文豪ゲーテの達観である。一方、伸一は、自分の部屋で、明日の対談に備えて、質問を整理しながら、翻訳原稿ができあがるのを待っていた。
30  対話(30)
 トインビー博士の語った回答と質問の日本語訳が、山本伸一のもとに届けられた時には、既に深夜になっていた。
 彼は、陰で尽力してくれるスタッフに深く感謝しながら、日本語訳に目を通した。
 博士の話を熟読し、そこから、さらに質問すべき事柄や、博士からの質問に対する回答を考えていった。
 そして、その内容を、通訳たちに伝えた。
 翌五月六日は、伸一と峯子がトインビー博士夫妻を昼食に招待した。
 日本料理の店であった。日本の文字文化などを話題にしながら、歓談の花が咲いた。
 伸一は尋ねた。
 「博士は、日本食では何がお好きですか」
 「なんでも好きです。なかでも、刺身は大好物なんです。
 ただ、妻はあまり好まないようですが……」
 三回の来日経験がある博士は、列車で旅をし、車中で駅弁を食べることが大好きだったという。
 弁当のご飯を、一粒も残さずにきちんと食べ、同行した日本人が驚いたとの話もある。
 博士は、世界のどこを訪れても、異なる文化に速やかに溶け込んでいる。その第一歩は、先入観や偏見を捨てて、現地の食文化を体験することなのかもしれない。
 昼食のあとも、博士の自宅で対談が行われた。
 伸一は、用意していた幾つかの質問や回答を語り、一段落すると、こう切り出した。
 「大変に失礼とは思いますが、博士ご自身の思い出など、個人的な事柄についても、お聞きできればと思います」
 前日の対談は、生命論など、哲学的な話題に終始していたために、伸一は、引き続き深い思索を必要とする問題をテーマにして、博士を疲れさせてはならないと考えたのである。
 伸一の提案に、博士は「イエス、イエス……」と、にこやかに答え、快諾してくれた。
 人間を知り、生き方を知ることは、そのまま思想を知ることになる。
 伸一は尋ねた。
 「博士は、ご高齢にもかかわらず、お元気で盛んに執筆活動をされています。
 健康のため、どのような日課を守っていらっしゃるのか、お聞かせ願えますか」
31  対話(31)
 山本伸一の質問に、トインビー博士は答えた。
 朝は六時四十五分に起床します。妻と私の二人分の食事を用意して、ベッドを片づけ、午前九時から仕事を始めます。
 ともかく仕事を始めるのです。仕事をしたいという気持ちになるのを待っていては、いつまでも仕事はできません。
 また、世の人びとのためになればとの思いで、ものを書くことが、私の楽しみです」
 さらに、「どんな座右の銘をおもちですか」と尋ねると、博士は即座に答えた。
 「ラテン語で『ラボレムス』。″さあ、仕事を続けよう″という意味の言葉です」
 博士は、この言葉の背景も語ってくれた。
 ――それは、二世紀末から三世紀初頭のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに由来する箴言である。
 彼は、遠征先のブリタニア(現在のイギリス)で病に倒れた。重病である。皇帝は死期の近いことを悟った。
 皇帝は、毎日、彼の率いる軍隊に、モットーを与えることを常としていた。そして、まさに死なんとする日も、自らの任務を遂行した。
 その時、彼が全軍に与えたモットーが「ラボレムス!」(さあ、仕事を続けよう)であった。
 伸一は感嘆した。
 「すばらしいモットーです。短い言葉のなかに責任感や持続の精神が凝結しています。博士の生き方そのもののように思えます」
 彼には、最後の最後まで「ラボレムス!」と叫んだ皇帝の姿と、八十三歳にして、今なお、人類の未来のために働き続けようとする博士の生き方が、完全に重なり合っているように思えた。
 弛まざる前進のなかにこそ、人間性の勝利がある。戦い続けることこそが生の証なのだ。
 伸一は重ねて尋ねた。
 「今、最もなさりたいことは何でしょうか」
 博士は力強く答えた。
 「私とあなたが、今、この部屋でしていることです。
 この対話が意味するものは、人類全体を一つの家族として結束させる努力です。
 人類が生存を続けるためには、全人類が単一の大家族になっていかねばならないと、私は信じるからです」
32  対話(32)
 山本伸一は、さらにトインビー博士に尋ねた。
 「再び、この世に生を受けるとしたら、何に生まれたいでしょうか」
 博士は、一瞬、寂しそうな笑いを浮かべ、それから、静かに語り始めた。
 「再び人間として生まれてくることに、躊躇せざるをえません。なぜなら、人間は他のどの動物よりも、不幸な存在になることが考えられるからです。どうしても悲観的になってしまうのです」
 そして、つぶやくように言葉をついだ。
 「……鳥になりたいと思います。それもインドの鳥に。
 インドの人びとは、人間以外の生物にも、すべて人間的な権利があることを信じていると思うからです」
 博士は、未来への安易な楽観論を口にすることはなかった。その炯眼は人類史の深刻な危機を見抜いていたのであろう。
 伸一には、博士の心情が痛いほどわかった。彼は心に期していた。
 ″断じて創るのだ。博士が希望を感じられる人間の未来を!″
 談たまたま、衣服が話題になった時、伸一は博士に、スーツの好みの色を尋ねた。
 博士は答えた。
 「特に好みの色はありません。私は、今、持っている服で、余生は十分に間に合うと思っていますので、新調する必要は全く感じていません。
 妻からは、よく新調するように言われます。その心遣いには、いつも申し訳なく思っています」
 そう語る博士のズボンは、長身のわりに短く、着古されていた。
 「しかし、私としては服は今までの古服を着ていても、本をもっと買いたい心境なんです」
 その言葉が伸一の胸に突き刺さった。
 後年、ベロニカ夫人から伸一に届いた手紙には、博士が病床に就き、意識もはっきりと戻らぬような状態のなかで、どう過ごしていたかが記されていた。
 「本当に読めていたかどうかはわかりませんが、主人は、病床にあってもなお、本を手にし、そのページをめくっていました」
 死の間際まで、本を読もうとしていたのだ。
 学ぶことに徹し抜いた博士の、すさまじいまでの気迫を感じさせる話である。
33  対話(33)
 この日の話題は、トインビー博士の個人的な事柄も含め、政治家論、指導者論、芸術論、文学論、音楽、スポーツ、日本論などに及んだ。
 博士との対談は、一日一日が、充実した珠玉の語らいとなっていった。
 翌七日、山本伸一は、対談の合間を縫って、創価大学の創立者として、ケンブリッジ大学を視察した。
 ケンブリッジ大学は、ロンドンの北約八十キロにあり、オックスフォード大学と並び、イギリス指導者階層の最高教育機関の役割を担ってきた、伝統ある大学である。ニュートンやダーウィンらの偉大な自然科学者のほか、ノーベル賞受賞者も多い。
 伸一たちは、ケンブリッジ大学の東洋学部を訪れ、学部長らと有意義に会談したあと、数多くのカレッジ(学寮)を視察し、学生たちと交流した。
 翌日の対談の折、伸一が大学を訪問したことを語ると、ベロニカ夫人は満面に笑みを浮かべ、襟を正して言った。
 「私の母校・ケンブリッジを訪問してくださったことに、心より感謝申し上げます」
 それはそれは、丁重なあいさつであった。伸一は、いたく恐縮した。
 同時に、卒業から幾十年を経ても、いささかも変わらない夫人の母校愛に、感動を覚えた。
 夫人だけではなく、博士もまた、強い母校愛の人であった。
 伸一は、博士との対談を終え、十日に博士の母校のオックスフォード大学を訪れた。その後、博士から届いた手紙には、伸一が自分の母校を訪問したことへの、喜びが記されていたのだ。
 母校には、人生の原点がある。母校への誇りは自身の人生への誇りでもある。
 本当の優等生とは、一生涯、母校を愛し、同窓の友を大切にする人だ。
 ケンブリッジ、オックスフォードという、イギリスを代表する両大学の偉大さは、単に多くのノーベル賞受賞者や国家の指導者を出したことにあるのではない。
 真の偉大さは、そこに学んだ者に、生涯にわたる誇りを育んだことだ。
 そして、その誇りとは、自分こそが大学自体であり、母校の栄光を担いゆくのだとの自覚である。
 伸一は、わが創価大学生の、希望の未来を思った。
34  対話(34)
 八日も、話題は多岐にわたり、個人と集団、未来文明と人間像、知識人と大衆の断絶、さらに、労働運動、階級制度と未来社会、信教の自由等々に及び、しかも、内容も一段と深まっていった。
 トインビー博士は、王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)での自身の仕事に触れながら、人間としての道義的責任に言及していった。
 ―チャタム・ハウスでの仕事は、国際問題に関する執筆であり、その執筆委託の条件は、「公平無私でなければならない」ということであった。
 「しかし、なかには、それが不可能な場合も出てきました……。ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺といった問題になると話は別でした。これに関しては公平無私ということはありえない、と私には思えたのです。
 もし、このユダヤ人虐殺を、まるで天気予報でもやるような調子で、感情を交えずに書いたとしたら、それは、この虐殺問題を公正に記録したことにはなりません。
 道義的な問題を無視して、ユダヤ人虐殺を黙認したことになってしまうからです」
 そして、一段と力を込めて語った。
 「道義的にどうしても避けられないと感じたからこそ、私は心に正しいと感じたままの立場をとったまでのことです。これが、私にとっての中道でした」
 それは、悪を前にして第三者的に客観的評価や態度をとることは誤りであり、人間ならば、断じて戦わなくてはならぬとの良心の表明であった。
 「悪をつよく憎まないものは、善をつよく愛さないものである」とはロマン・ロランの叫びだ。
 悪を悪と叫び、戦い抜いてこそ、正しき人間性である。
 伸一も、博士と全く同感であった。
 「確かにおっしゃる通りだと思います。
 現代の学問は、すべてを科学的に分析しようとして、そこに人間性の、もっと大切なものを忘れているように思えます。
 私は、人間とは、思想により、理念を形成し、理想を設定し、それに向かって努力する存在であり、ここに人間の尊さがあると思うのです。
 …その人間に一つの観念を提示しているのが宗教です」
35  対話(35)
 対談は、日を追うごとに熱がこもっていった。
 山本伸一は、連日にわたる語らいだけに、トインビー博士の体調を心配した。
 開始時刻を遅らせてはどうかとも提案したが、博士はこう言うのだ。
 「いいえ、予定通りにやりましょう。私は、この機会を逃したくない。一分が、一秒が、惜しいのです」
 対談後の翻訳作業なども、連日、続けられ、スタッフは皆、大わらわであった。伸一は、皆が作業に励む部屋に、何度も姿を現した。
 イギリス社会には、休日を返上して働いたり、深夜まで働くという習慣は、ほとんどない。しかし、現地のメンバーも、自主的に、喜々として、作業に励んでくれていた。
 彼は、作業に精を出すスタッフに、心から感謝した。
 「ありがとう。特にイギリスの皆さんには、ご苦労をおかけして、大変に申し訳ありません。
 メンバーのなかには、″山本会長は、せっかくイギリスに来ているのに、信心をしている私たちに会わないで、なんでトインビー博士とばっかり会っているんだろう″と思っていらっしゃる方もいるでしょう。
 でも、この対談が、人類のためにいかに大事であるか、将来、必ずわかります」
 すると、イギリス総支部長のエイコ・リッチが笑顔で答えた。
 「私たちは、先生と共に戦ってこそ本当の弟子だと話し合い、この対談が大成功するように、皆で真剣にお題目を唱えています」
 「嬉しいね。ありがたいことです」
 伸一は、メンバーの信心の大飛躍を感じた。
 彼は、言葉をついだ。
 「黙々とテープを再生してくださったり、タイプを打ってくださる。これほど地味な仕事はないかもしれません。
 しかし、目立つ仕事だから価値があるのではない。むしろ、なんの変哲もない、地道な仕事の積み重ねこそが、時代や社会を動かしてきました。
 この作業は、必ず後世に輝く仕事となり、そこに携わったことは、一生の誇りになります。私と一緒に、新しい歴史を開きましょう」
 事実、メンバーは、年を経るごとに、この言葉の意味を、実感していくことになるのである。
36  対話(36)
 対談は、順調に進んでいった。
 山本伸一と語り合うトインビー博士の顔は、実に楽しそうであった。だが、時には、遺言を託すかのように、伸一を見すえ、一語一語、言葉を選びながら、力をこめて語ることもあった。
 また、日がたつにつれて、博士から伸一への質問が多くなっていった。
 峯子と共に、対談を静かに見守っているベロニカ夫人が、ティータイムには、紅茶や手作りのクッキーなどを、ワゴンにのせて運んでくれた。
 時には、「夫は日本茶が大好きなんです」と、玉露茶を出してくれることもあった。
 伸一も、峯子も、日本人である自分たちへの、夫人の優しい心遣いがありがたかった。
 時折、ベロニカ夫人は部屋の空気を入れ換えるために、博士と伸一が座っていたソファの後ろにある窓を開けた。
 室内に、さわやかな五月の風が、一服の清涼剤のように舞い込み、小鳥のさえずりが聞こえた。
 対談は、和やかに進んだ。しかし、それでいて、人間の深淵を極めるかのような、鋭い洞察に満ちていた。
 それは、すべてを包み込み、平和の大海原に向かって悠然と流れゆく、静かなる大河のごとき語らいであった。
 途中、この対談を、どうやって後世に残すかも話題となった。
 博士は、対談集としての出版を希望し、すべて伸一に任せたいと言うのである。
 だが、伸一には、ためらいがあった。未来のために博士から教えを受けることが、当初、彼が考えた対談の目的であったからだ。
 伸一は、キッパリと答えた。
 「博士は大学者であられますが、私は無学な人間です。対談集など、不釣り合いです。遠慮させてください」
 しかし、博士は対談集の出版を強く主張した。
 結論は、対談をすべて終えてから出すことになった。
 ″博士と語り合った事柄は、人類の未来への道標として、当然、伝え残さなければならない。
 それには、やはり、博士の言うように、対談集として世に出すことが望ましいのか……″
 伸一に、また一つ、新たな課題が託されたのである。
37  対話(37)
 対談は、遂に最終日の五月九日を迎えた。
 この日は、幸福論、自殺の問題、東洋医学と仏法、日本人論などが、主なテーマとなった。
 語らいの最後に、山本伸一は尋ねた。
 「長い人生経験を積んでこられた人生の大先輩である博士に、これからの世代に対するアドバイスがあれば、お伺いしたいと思います。
 初めに、十代、二十代の青年が、二十一世紀に向かって、一番、心がけなければならないことはなんでしょうか」
 博士は即答した。
 「『忍耐強くあれ』ということです。そして、なかんずく『暴力を避けよ』と申し上げたい」
 伸一も、同じ思いであった。戸田城聖が、新しき世紀を創る青年たちの戦いとして、その第一にあげたものも、「『忍辱のよろい』を著よ」ということであった。
 「忍辱」とは、侮辱や迫害を耐え忍ぶことであり、忍耐といってよい。平和といっても、粘り強い対話から始まる。忍耐は、すべての大業の原動力である。
 博士へ、若い女性たちに対するアドバイスを求めると、それも、同じく「忍耐強くあれ」ということであった。
 「忍耐は何事も成し遂げる」とは、フランスのことわざである。
 勝利は、ひとえに人間の忍耐にかかっているといえるのかもしれない。
 午後五時半、伸一は質問を切り上げた。
 博士に尋ねたいことは、まだまだ、たくさんあった。また、博士からも次々と質問が出され、答えねばならないことも多かった。彼の思いとしては、さらに何日でも、対談を続けたかった。
 博士も、伸一と同じ気持ちであったようだ。
 「もう、終わってしまうのですか……。
 晴天が続いていますし、いつまでも滞在してください」
 しかし、約束の日程はこの日までであった。
 それに、博士の体調を考えれば、これ以上、負担をかけるわけにはいかなかった。さらに、伸一自身のスケジュールも詰まっていた。
 伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「博士のお心に感謝します。しかし、約束の時間は過ぎました。今回は多くのことを学ばせていただき、貴重な経験になりました」
38  対話(38)
 山本伸一も、トインビ一博士も、まだ、対談は続けなければならないと考えていた。
 そこで、当面、互いの質問や回答は、書簡で行うことにした。さらに、いつの日か、再会することを約し合った。
 ベロニカ夫人が、名残惜しそうに言った。
 「天気もよいので、一緒に、少し公園を散歩しましょう」
 皆が賛成した。
 博士は、山高帽をかぶり、コウモリ傘を持ち、コートを羽織って外出した。さすがに英国紳士である。
 伸一たちは、大きな仕事が一段落した開放感にひたりながら、博士の家のすぐ側にあるホーランド・パークを散策した。
 夕方とはいえ、外はまだ、明るかった。風がさわやかであった。
 公園は、豊かな緑に包まれ、小鳥や野生の小動物も多く棲息していた。
 伸一は、博士の腕を取り、ゆっくりと足を運んだ。反対側の腕は、川崎鋭治が支えていた。
 博士は、興奮気味に語った。
 「私の長年の願いは叶いました。実に、有意義な対話ができました。
 ミスター山本、私はあなたと対話すると、啓発されます。感動があるのです。
 本当の問題点を論じ合えたと思います。最高に価値ある時間がもてました。学者として、これ以上の喜びはありません」
 「ありがとうございます。私こそ、貴重なお話をうかがうことができ、感無量です」
 「あなたは、人間の生命に関する大事な問題を話された。しかも観念論でなく、現実の諸問題を解決しようと、本質に肉薄する熱い心に満たされている。
 私は、この対談で、自分の学問の整理が可能になりました」
 真の対話には、魂の触発がある。対話こそ″創造の母″といってよい。
 博士は、伸一の顔を、まじまじと見つめて、力強い声で言った。
 「ぜひ、続きをやりましょう。また、わが家においでいただけますか」
 「はい! 喜んでまいります」
 「オー、サンキュー・ベリーマッチ!」
 博士は、伸一の手を取り、ステップを踏み、踊るように歩きだした。
 傍らの林から、鳥が鳴きながら、大空へ羽ばたいていった。
39  対話(39)
 トインビー博士との対談を終えた山本伸一は、翌五月十日、オックスフォード大学を訪問し、副総長らと会談し、十一日、フランスに移った。
 フランスで伸一は、メンバーとの懇談会をもったほか、ルーブル美術館や印象派美術館などを訪問した。
 実は、正本堂の完成後、富士宮に富士美術館をオープンすることが決まっており、そのために世界の美術館を、視察しておかなければならなかったのである。
 そして、十四日、アメリカのワシントンDCに入り、滞在中、フリーア美術館を視察し、ワシントン会館の記念祭などに出席している。
 十七日には、ロサンゼルスに移動し、サンタモニカのアメリカ本部を訪問したのをはじめ、また、マリブ研修所の開所式、世界平和文化祭、全米総会などに出席した。
 さらに、ハワイのホノルルを訪問し、五月二十八日に帰国している。
 その後、伸一は、トインビー博士と、幾度となく往復書簡を交わした。書面をもって″対談″は続けられたのである。
 そのなかで、博士は、自らの宗教観や学説をさらに深めるため、伸一との再度の対談を、強く求めていた。
 博士からの丁重な招聘状が届いたのは、翌一九七三年(昭和四十八年)の三月のことであった。
 「今年も、イギリスを訪れる時間を、おとりになれるでしょうか」
 「私たちにとって、共通の関心事である多くの検討すべき問題があり、ぜひ、その機会をもちたいと思います」
 博士は八十四歳になろうとしていた。しかし、その文面には、最後の最後まで、前へ、前へと、進みゆこうとする気迫が脈打っていた。
 博士を思うと、伸一の胸には、十九世紀のアメリカの詩人ロングフェローの叫びがよみがえってくるのであった。
 「楽しみも、悲しみも、吾らの定められた行手でなく道でもない、明日ごとに今日よりも進んだ吾らになるよう行動することこそ、吾らの目的だ、道だ」
 伸一は、決断した。
 ″行こう! トインビー博士のご厚意にお応えしよう。そして、対談を完結させよう″
 彼がヨーロッパに出発したのは、この年の五月八日のことであった。
40  対話(40)
 パリでの諸行事を終えた山本伸一が、ロンドンに向かったのは、五月十四日であった。
 翌十五日、午前十時から、トインビー博士の自宅で、一年ぶりに対談が再開された。
 通訳は、前年と同じく川崎鋭治ら三人である。
 懐かしい赤レンガのオークウッド・コートの五階に上がると、玄関前でトインビー博士が、ベロニカ夫人と共に伸一と峯子を待っていてくれた。
 博士は、顔をほころばせ、手を握りしめ、頬ずりをして、ありったけの親愛の情を示して、伸一を歓迎した。
 再会を記念して、伸一は、博士への贈り物を手渡した。伊万里焼の絵皿である。
 皿に描かれていた長寿の象徴である鶴を話題に、しばし東洋の文化談議が行われた。
 この日から、五月十九日まで、ありとあらゆる人類の課題をめぐって、静かだが、熱こもる対談が、再び続けられたのである。
 アフリカ大陸と未来、日本論、中国論、高齢化問題。そして、宗教論に入ると、宿業論、仏法とキリスト教、一神教と多神教などに及んだ。
 さらに、教育論、民主主義とファシズム、人種問題、文学論、マスコミ論、食糧問題、都市論、人口問題、宇宙論等々の語らいが展開されたのである。
 前年の対談では、主に伸一の質問に博士が答えるというかたちがとられたが、今回は、博士の質問が多かった。
 また、対談は、宗教の役割の大きさを浮き彫りにするものとなった。
 博士は、核兵器や環境破壊など、人類を滅ぼしかねない諸悪の原因は、人間の貪欲性と侵略性にあり、それは、自己中心性から発するものであると指摘した。
 さらに、その克服の道を、こう語ったのである。
 「人類の生存に対する現代の脅威は、人間一人ひとりの心のなかの革命的な変革によってのみ、取り除くことができるものです。
 そして、この心の変革も、困難な新しい理想を実践に移すに必要な意志の力を生み出すためには、どうしても宗教によって啓発されたものでなければならないのです」
 博士は、創価学会が展開してきた人間革命運動に、大きな期待を託したのである。
41  対話(41)
 トインビー博士は、キリスト教徒の家庭で育ったが、宗教を客観的に比較研究し、宗教の在り方を探究してきた。
 山本伸一は、博士の宗教への鋭い洞察に感嘆していた。
 博士は自著『一歴史家の宗教観』(深瀬基寛訳、社会思想研究会出版部)のなかで、どうしてキリスト教が広く流布されるに至ったかを明らかにしている。
 博士は、まず、キリスト教徒たちが毅然として迫害に耐えつつ、良心に反しない限り、あらゆる市民の義務を履行し、立派な市民として振る舞ったことをあげる。
 さらに、キリスト教が「大衆の心」をとらえたことに着目している。
 では、なぜ、大衆の心をとらえたか――博士は三つの理由をあげる。
 第一に、キリスト教徒は大衆を単なる労働者としてではなく、「魂をもつ人間」として扱ったからだという。
 また、キリスト教徒たちは、都市国家も、帝国の政府も、ほとんど面倒をみなかった、夫を亡くした女性や孤児、病人や老人に救いの手を差し伸べ、世話をしたことをあげている。
 しかも、「すべてこれらのことを行うにあたり、支持者をつのろうとする底意をもたず、キリスト教の理念の命ずるままに、私心を棄てて行ったからであった」と述べている。
 つまり、キリスト教徒たちが、誰よりも大衆のために尽くしたからこそ、大衆はキリスト教に希望を見いだしたのだ。
 草創の時代に、こうした堅固な基盤をつくり上げたがゆえに、やがてキリスト教は、一気に広まったのである。
 伸一も、民衆に尽くすことこそ、宗教本来の姿であると考えていた。
 そもそも、民衆の苦悩に胸を痛め、迫害を覚悟で救済に立ち上がったのが日蓮大聖人であり、その精神を受け継いできたのが創価学会であるからだ。
 庶民の中に分け入り、勇気と希望の光を注ぎ、無数の蘇生のドラマをつづってきたのが、創価の誇らかな歴史である。
 日蓮大聖人は、「民の愁い積りて国を亡す」と仰せである。
 民衆のために何をするか――それによって、国も、宗教も、未来が決定づけられるのだ。
42  対話(42)
 大衆に尽くして、発展の基盤をつくったキリスト教ではあったが、十七世紀になると、退潮傾向が生じ始める。
 トインビー博士と山本伸一の対談では、その後の近代西欧がテーマとなった。
 伸一は訴えた。
 「宗教は常に文明の源泉であり、創造性の原動力となってきましたが、これに反して、近代以後の西欧文明は、むしろ、宗教からの離脱を起点としている、いわば非宗教的文明とみることができます。
 しかし、もう一歩″宗教″の概念を広げて考えてみると、近代科学技術文明も、それなりの″宗教″をもっているとみることができると思います。
 たとえば、物質的な富への憧憬、科学への進歩の信念といったものは、現代人の″宗教″となっているといえるのではないでしょうか」
 博士は、「まったく同感です」と述べ、キリスト教の後退によって西欧に生じた空白は、三つの新しい″宗教″によって埋められたと分析する。
 それは「技術に対する科学の組織的応用から生まれる進歩の必然性への信仰」と「ナショナリズム(国家主義)」と「共産主義」であるという。
 しかし、科学の進歩は原爆をもたらし、ナショナリズムは戦争を引き起こし、共産主義は不寛容と排他性に陥ったことをあげ、これらの″宗教″は、「いずれも満足のいくものではなかった」と結論したのである。
 博士は力説した。
 「したがって、私は新しい種類の宗教が必要だと感ずるのです。
 人類の未来の宗教は一体何なのかという疑問が生じているのです」
 ここで博士が示した、「未来の宗教」の条件は「人類の生存を今、深刻に脅かしている諸悪と対決し、これらを克服する力を、人類に与えるものでなければならない」ということであった。
 さらに博士は、新しい文明を生み、それを支えていく宗教が対決しなければならない「諸悪」とは何かについて言及。
 それは、「生命につきまとう貪欲」「戦争、社会的不公正」「人間が己の欲望を満足させるために科学を駆使してつくり出した人為的環境」であると指摘したのだ。
43  対話(43)
 対談は、いよいよ佳境に入った。
 山本伸一は、トインビー博士の語った「諸悪」を克服する宗教こそ、仏法であることを、諄々と語っていった。
 「貪欲は人間の内面にあるものであり、戦争や社会的差別は、人間対人間、つまり、社会の次元にあるものであり、環境破壊は人間対自然の関係に生ずる問題です。
 この自己――社会――環境という三つの範疇について、仏法では″三世間″として説き明かしています‥‥‥」
 そして、人間と、人間を取り巻く社会環境や自然環境は、不可分の関係にあり、深い次元で関連し合っていることを説いたのが、仏法の法理であることを訴えた。
 博士は大きく頷いた。そして、宣言するように言った。
 「正しい宗教とは、人間も人間以外をも含む自然全体がもつ尊厳性と神聖さに対して、崇敬の念をもつべきことを教えてくれる宗教のことです。
 これに対して、誤れる宗教とは、人間以外の自然を犠牲にして、人間自身の貪欲さを満足させることを許す宗教です」
 伸一は、さらに、仏法とは何かについて論じていった。
 「仏教は、自然の森羅万象と一切衆生とに遍く存在している生命の法を根本にした宗教です。
 言い換えれば、宇宙と生命に内在する根本の″法″に合致していくことが、仏教の第一義であり、そこから、人間が自然と融和し、協調していく道が説き明かされているわけです……」
 博士は言った。
 「仏教のもつ性質についてのただいまのお話、よく意味がわかります。そのことは、私のいう高等宗教がいかなる性質のものかという点に私を立ち戻らせます。
 私が高等宗教というとき、その意味は、人間各自を、″究極の精神的実在″に、直接触れ合わせる宗教ということです」
 ″究極の精神的実在″とは、博士の宗教観を象徴するものであった。
 宇宙には、人間自身よりも偉大なる精神的な存在がある。宇宙の現象の背後にある、その″究極の実在″に調和することこそが人間の目的である――と、かねてから博士は主張してきたのである。
44  対話(44)
 トインビー博士の考えでは、聖職者などを介在しないと、″究極の精神的実在″に触れることのできない宗教は、決して、高等宗教たりえないということになる。
 山本伸一も、本来の宗教は、博士の言葉を借りるなら、″究極の実在″に民衆が直接触れ合うものでなければならないと考えてきた。一人ひとりの人間が、主役であるべきはずだからだ。
 したがって伸一は、権威の衣を身にまとって、民衆の前に立ちはだかる聖職者の横暴など、断じて許すまいと、心に決めていたのである。
 高等宗教についての考え方でも、二人は意見の一致をみたのだ。
 伸一は力強く訴えた。
 「そうした意味での高等宗教が、今日、切実に必要とされていることは、まさに疑いの余地がありません。
 ただ私は、さらに突き詰めるべき基本的な問題として、それらの宗教が何を根本とする宗教であるかという問題があると思います。
 すなわち、高等宗教は″神″を根本とすべきか、あるいは″法″体系を根本とすべきか――。
 私の考えでは、現代人がもつべき宗教は″法″を根本とする宗教であると思います。
 このような宗教こそ、合理的思考の試練に耐えるだけでなく、それを超え、リードしうる宗教ではないでしょうか」
 人間は″究極の実在″に対して、人格神という人間的なものを求めずにはいられないようだというのが、博士の分析であった。
 しかし、博士は、人間は自然を構成する一部であり、その人間と同形である神を″究極の実在″とすることは、やはり不合理であるとの見解を示したのである。
 そして、こう結論した。
 「仏教に説かれる普遍的な生命の法体系の方が″究極の精神的実在″をより誤りなく示し出しているように思います」
 伸一は、宇宙生命に内在する″法″こそが″究極の実在″であり、この″法″は、宇宙のさまざまな現象を起こし、かつそれらの現象の間に厳然と調和を保つ、あらゆる法則の根源であることを力説した。
 その話に、博士は目を輝かせながら、耳を傾けていた。それは、宇宙の根本法たる妙法への開眼であったにちがいない。
45  対話(45)
 山本伸一は、トインビー博士とは、多くの点で意見の相違があり、話が平行線をたどることも、多々あると思っていた。
 ところが、ほとんど意見の一致をみた。
 特に、宗教の目的ともいうべき″自己超克″のためには、自己中心的な″小我″を″究極の精神的実在″たる宇宙の根本法、すなわち″大我″に合一させなくてはならないという点では、二人は完全に同意見に達したのである。
 また、人類が滅亡の危機を回避するには、世界の統合化が必要であるという点でも、共通の認識に立った。
 ただ、統合化への道については、二人の意見は食い違った。
 伸一は、諸民族を一つに結ぶ宗教や哲学によって、精神的一体感を形成し、人類は自発的に統合されなければならないと、強く主張した。
 それに対して博士は、現在では武力による世界統合は不可能との認識を示しつつも、武力の行使なくして、「今日の世界が自発的な政治統合を行う可能性について、悲観的な見方をせざるをえません」と言うのである。
 この時、博士は、悲しげな表情で、さらに、こう語った。
 「とはいえ、早急に政治統合を成し遂げなければ、人類の存続が不可能になることも、間違いありません。こうみてくると、私は人類の未来性について、悲観的にならざるをえないのです」
 それから、伸一に視線を注いだ。
 伸一は、″人類存続の道は絶対に守り抜いていきます″との決意を込めて頷き、博士を見つめ返した。
 すると、博士は、口元に微笑みを浮かべ、静かに言葉をついだ。
 「ただし、宗教面での革命を通じて、急激かつ広範な心情の変化が人びとに生ずるのも、ありえないことではなく、あるいは、それが事態を好転させるかもしれません」 断じて人類の幸福と平和を築き上げようとする伸一の気迫に、博士は新たな可能性を見いだしたのかもしれない。
 確信に満ちた対話が、人の心を動かすのだ。エマソンは訴える。
 「私たちの最上の経験は何かと問われるならば、私たちは答えよう、叡知にみちた人々との腹蔵のない対話の数数であると」
46  対話(46)
 五月十七日のことであった。山本伸一と峯子は、トインビー夫妻に、バッキンガム宮殿の近くにある、「アセニアム・クラブ」での昼食に招かれた。
 このクラブは、百五十年ほど前の創立で、ロンドンの知的階層が出入りし、会員になるには、極めて厳格な審査にパスしなければならないという。博士は、クラブの名誉会員である。
 食事の場所は、クラブの″別館″であった。
 ダンテの『神曲』や、ゲーテの『ファウスト』についてなど、文学談議に花を咲かせながらの会食となった。
 食事が済むと、博士は、通訳も連れずに、伸一と二人だけで″本館″に向かった。
 正面玄関を入ると、格調高い大理石の階段があった。ここは、紳士しか入れなかった。
 二階には図書室があり、歴史、哲学、文学、政治、経済など、あらゆる分野の書物がそろっていた。
 博士は、ソファに座り、コーヒーを飲みながら、盛んに伸一に語りかけた。
 しかし、通訳もいないため、伸一は、答えに窮した。
 困惑する伸一を見て、博士は、ゆっくりと、できるだけ平易な英語で話してくれた。それで、なんとか、意味を汲み取ることができた。
 博士は、ぜひ、二人の対談を本にしたいと言うのである。
 伸一は、汗を滲ませ、四苦八苦しながら、意見を述べた。最小限の意思の疎通はできたようだ。
 一方、峯子やベロニカ夫人たちは、伸一と博士が連れ立って姿を消したまま戻らないので、気を揉んでいた。
 やがて伸一たちが姿を現すと、峯子が尋ねた。
 「どちらにいらしていたんですか?」
 「紳士専用の場所に招かれて対話してきたよ」
 「まあ、通訳もいないのに……」
 「身振り手振りでも、心は通じるからね。今日は、実に意義のある、歴史的な日になったよ。なにしろ、手話での初の対談が行われたんだから」
 通訳として同行していた川崎鋭治が、それを英語に訳した。心配そうにしていたベロニカ夫人も大笑いした。
 ユーモアは、張りつめた心を和ませる最高の清涼剤となる。
47  対話(47)
 トインビー博士と山本伸一の対談も、いよいよ最終日の五月十九日を迎えた。
 対談は、マスコミ論をはじめ、食糧問題、都市論、人口問題、宇宙論など、多岐にわたるテーマが語り合われた。
 この日、テレビのニュースは、ソ連(当時)共産党のブレジネフ書記長が、西ドイツ(当時)を訪問し、ブラント首相と会談したことを、大々的に報じていた。
 博士は、それが話題に上った時、毅然として言った。
 「政治家同士の対談に比べ、私たちの対談は地味かもしれません。
 しかし、私たちの語らいは、後世の人類のためのものです。
 このような対話こそが、永遠の平和の道をつくるのです」
 その声は、強い確信にあふれていた。
 対談の終わり近く、伸一は、博士の長い人生行路のなかで遭遇した、一番、悲しかった思い出について尋ねてみた。
 博士は静かに頷いた。
 「私は、幾多の悲しみに遭遇してきました。そのなかで……」
 こう言うと、瞬間、博士の顔がこわばり、言葉が途切れた。
 しかし、意を決したように、沈痛の表情で口を開いた。
 「……最も悲しい出来事は、私の息子が、自ら命を絶ったことです」
 博士の目には、涙さえ浮かんでいた。
 伸一は、聞いてはならぬことを尋ねてしまったと思った。非礼な質問になってしまったことが悔やまれた。
 ソファに腰掛けた博士は、体の前で指を組み、祈るような姿勢のまま、しばらく彫像のように動かなかった。
 そして、ゆっくりと、言葉をついだ。
 「それから、もう一つは、あの第一次世界大戦中に、私と同年配の人びとや、親しい友人たちの大半が、戦死してしまったことです。
 年をとるにつれて、戦死した彼らのことが、一層、強く思い起こされます。私がさまざまな機会に恵まれるたびに、彼らは、そうした機会が奪われ、早世したことを考えてしまうのです……」
 隣室の暖炉の飾り棚に、小さな額に入れて飾ってある二十枚近い写真が、戦死したオックスフォード大学の学友たちであるというのだ。
48  対話(48)
 第一次世界大戦の折、トインビー博士は、たまたま伝染病にかかり、兵役を免れて生き残った。
 山本伸一は思った。
 ″博士は、そのことを申し訳なく思い、自分の責務として、生きて、生きて、生き抜き、人類の平和の道を探究し続けようと誓っているのではないか……″
 そうであるなら、博士の偉大なる歴史研究の業績は、一面からいえば、亡き学友たちとの友情の産物でもある。
 友情とは、魂と魂の結びつきである。博士の友情は、生死を超えて結ばれた、永遠なる魂の結合といえようか。
 友人たちと、そして愛息の死――次々と襲う、苦悩と悲しみへの″応戦″が、博士の精神を鍛え上げ、気高い人格を培っていったのであろう。
 また、生と死を見すえるなかで、人間と宗教への、確かな洞察の眼が開かれていったのかもしれない。
 さらに伸一は尋ねた。
 「最後の質問になりますが、二十一世紀に生きる人類全体のために、なんらかのアドバイスがあれば、お伺いしたいと思います」
 博士は、人間の富への貪欲性が生んだ技術が、随所でわれわれの環境を毒し、かけがえのない天然資源も失われつつあることを指摘し、憂いに満ちた顔で語った。
 「このまま同じ道を進むならば、待っているのは人類の集団自殺です。
 私が伝えたいことは、二十一世紀に至るまでに全人類がその責任を自覚するとともに、直ちに行動を開始しなければならないということです」
 そして、そのためには自己克服、自己抑制、自己犠牲の精神の回復が大切であると述べた。
 しかし、極端な抑制に走るのではなく、中道的な在り方こそ、二十一世紀に生きる人びとの歩むべき正しい道であると、博士は訴えた。
 伸一は確信した。
 ″博士の主張は、創価学会の人間革命運動そのものではないか。
 私たちは、欲望に翻弄された人間自身の生命を変革し、一人ひとりを人類の幸福と平和を築く主体者にする運動を推進してきた。
 そして、地域に人間主義の連帯の輪を広げ、世界平和への広範な運動を展開してきた。
 その広がりのなかに、二十一世紀を開く確かな道がある″
49  対話(49)
 トインビー博士は、最後にバートランド・ラッセルの言葉を紹介した。
 「彼は語っています。
 『人間は自分の死後に何が起ころうとしているかに、思いをいたすことが大事である』と。これは、ラッセルが八十四歳の時に残した言葉です。
 ″遠い先のことを考えて生きよ″ということですが、この言葉を贈りたい。私も年老いて、この助言の重みを感じます」
 まさに、この対談が、何のために行われたのかを、再確認するかのような警句であった。
 未来とは、現在の結果である。未来をどうするかは、今に生きる人間の責任である――それが山本伸一の信念であった。
 彼は、博士が、自分と全く同じ思いであったことに、大きな驚きを感じたのである。
 伸一は、深い感銘を覚えながら言った。
 「博士、では最後の最後に、もう一つだけ聞かせてください。大変に恐縮ですが、私個人に、山本伸一個人に、何か忠告があればお願いします」
 博士は、伸一の顔をじっと見つめ、静かに口を開いた。
 「それは、差し出がましいことです。
 というのは、私は学問の世界の人間です。しかし、あなたは極めて重要な組織の責任ある指導者であり、仏法の実践者として行動されている。
 ″行動の人″に対して″机上の学者″がアドバイスするなど、おこがましいことです」
 伸一は恐縮した。その謙虚さに胸を打たれた。
 博士は、さらに話を続けた。
 「したがって、私に言えることは、これだけしかありません。
 ――ミスター山本と私とは、人間がいかに生きるべきか、見解が一致した。あとは、あなたが主張された中道こそ、今後、あなたが歩むべき道なのです」
 一言一言に、魂の重みがあった。
 伸一は、″私の分まで行動してほしい″と、博士からバトンを託されたような思いにかられた。
 これで対談は、すべて終了した。
 「博士、ありがとうございました。心から感謝いたします。
 対談の記念に写真を撮らせていただけますか」
 博士が頷いた。
 待機していたカメラマンが、立て続けにシャッターを切った。
50  対話(50)
 ベロニカ夫人が用意してくれたお茶をすすりながら、山本伸一は、トインビー博士に言った。
 「今日で私は、トインビー大学の、栄えある卒業生です」
 通訳が訳すと、博士は愉快そうに、声をあげて笑った。
 「私は、トインビー先生の生徒として、何点ぐらいとれたでしょうか」
 博士は微笑を浮かべ、目を細めて語り始めた。
 「イギリスの大学では、成績はギリシャ語の『Α』(アルファ)、『Β』(ベータ)、
 『Γ』(ガンマ)で評価することがあります」
 ここで、咳払いをし、伸一の成績を発表した。
 「私は、ミスター山本に最優等の『Α』を差し上げます。
 『Α』の文字は、牛の頭の形に由来しているのです。『Α』を逆さまにすると、牛の頭にある、二つの角の形になるでしょう。
 『Α』は、非常な力強さと、意志の固さ、つまり決意を感じさせる、吉兆を示す文字なのです」
 伸一は言った。
 「過分な評価をいただき、大変にありがとうございます。
 私には、この牛の角は、いかなる邪悪にも、雄々しく挑む″戦いのシンボル″のように思えてなりません。
 トインビー先生から、『Α』をいただいたかぎりは、人類を不幸にする諸悪と、勇敢に戦い抜いてまいります」
 博士は、嬉しそうに頷きながら語った。
 「オー、イエス……。人類の未来を開くために戦ってください。
 あなたの平和への献身を、やがて、世界は最大に評価するでしょう。
 私は、母校のオックスフォード大学をはじめ、幾つかの大学から、名誉称号を贈られています。
 トインビー大学の最優等生であるあなたは、必ず将来、私以上に世界中から名誉称号を贈られるでしょう」
 博士のこの言葉は、まさに事実となったのだ。
 伸一は、対談から三十一年余を経た、二〇〇四年(平成十六年)九月には、モスクワ大学をはじめ、世界の学術・教育機関から贈られた名誉学位記は、実に百六十三を数えるに至っている。
 トインビー博士の未来を見抜く鋭さには、感嘆せざるをえない。
51  対話(51)
 別れ際、トインビー博士は、山本伸一の手を強く握り締めながら、こう語った。
 「私は、対話こそが、世界の諸文明、諸民族、諸宗教の融和に、極めて大きな役割を果たすものと思います。
 人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話を、さらに広げていってください。ロシア人とも、アメリカ人とも、中国人とも……。
 米ソも、中ソも対立していますが、あなたが、ロシア人とも、アメリカ人とも、中国人とも対話を重ねていけば、それが契機になって、やがてはロシア人とアメリカ人、ロシア人と中国人などの対話へと、発展していくでしょう。
 また、世界に広がった創価学会は、そうした対話を推進していく大きな力になると思います」 その言葉は、博士から託された使命として、伸一の胸に響いた。
 「わかりました。お約束いたします。
 命ある限り、世界中に対話の波を広げてまいります。そして、生涯をかけて、堅固な平和の基盤を築いてまいります」
 互いに見つめ合う、目と目が光った。
 別れの時が来た。
 前年五月の対談と合わせ、語らいは、延べ四十時間ほどになっていた。
 伸一は、博士とベロニカ夫人に、丁重に御礼を言った。
 「ありがとうございました。
 博士からは、人類の未来のために、貴重な数々のご助言をいただくことができました。
 博士との対談は、私にとって人生最高の財産となりました。心より、御礼、感謝申し上げます」
 峯子も、お礼の言葉を述べた。
 博士は伸一を、ベロニカ夫人は峯子を抱き締めて、別れを惜しんだ。
 博士夫妻は、わざわざ伸一たちを見送りに出てくれた。
 伸一の腕時計の針は、午後三時を回っていた。
 博士と、何度も、何度も、握手を交わして、伸一は車に乗り込んだ。
 「サンキュー・ベリーマッチ!」
 窓を開け、手を振りながら、伸一は叫んだ。
 博士夫妻は、いつまでも、いつまでも、手を振り続けてくれた。
 その光景は、魂の名画となって、伸一の心に永遠に刻まれたのである。
52  対話(52)
 対談終了後、今後のことを打ち合わせるために、川崎鋭治がトインビー博士の家に残った。 歴史的な対談を終えた博士の家の中は、静寂につつまれた。
 川崎は、博士が十分に回答できなかつた点や、さらに質問があれば、往復書簡で話し合うことなどを取り決めた。
 帰ろうとする川崎に、博士は、しばらく待つように言い、紙片にペンを走らせた。
 「ドクター川崎、よろしければ、これを、ミスター山本に渡していただけないでしょうか」
 博士は、大切なものを託すように、その紙片を川崎に手渡した。
 「これは、私の友人の名前です。ミスター山本はお忙しいでしょうが、可能ならば、お会いしていただければと思う人たちです」
 そこには、几帳面な字で、アメリカの微生物学者のルネ・デュボスや、ローマクラブ創立者のアウレリオ・ペッチェイなど、何人もの、錚々たる世界的な学識者の名前が記されていた。
 博士は、穏やかな表情だが、強く訴えかけるように語った。
 「どうか、ミスター山本に、重ねて、次のように伝えてください。
 ―あなたが、世界に対話の旋風を巻き起こしていくことを、私は、強く念願しています」
 「はい。早速、山本会長に伝えます!」
 この日、山本伸一は川崎からメモを受け取り、博士の伝言を聞いた。
 伸一は、博士の深い気遣いを感じた。
 ″直接、私に、このメモを渡せば、負担を感じさせてしまうと思われ、押しつけにならないように、人を介してメモを渡してくれたのであろう″
 伸一は、紙片の文字を追いながら、博士の伝言を何回もかみしめた。
 ″よし、やろう! 人類の平和のために、世界に対話の旋風を巻き起こそう。仏法の人間主義の哲学をもって、世界を結ばねばならない……″
 伸一は、今、自分が四十五歳であることを思った。それは、師である戸田城聖が、牢獄を出て、戦火の焼け野原に一人立ち、広宣流布を誓った年である。
 その自分が、世界の平和のために、いよいよ本格的に立つべき時がきたと思うと、彼は深い感慨を覚えるのであった。
53  対話(53)
 トインビー博士と山本伸一の対談は、博士の強い要請もあり、対談集として刊行されることになった。
 その編集作業の中心となったのは、日本在住の著名な翻訳家である、リチャード・L・ゲージであった。
 博士と伸一が直接会って語り合った、約四十時間に及ぶ対談以外に、書簡を通してのやりとりもかなりあり、話題も広範囲にわたっていた。
 それを整理してまとめるには、根気強い作業が必要であった。
 編集作業は、対談の録音テープの再生から始まった。
 最も頭を悩ませたのは、日本語と英語への翻訳もさることながら、章立てなどの編集作業であった。
 編集スタッフは、発言内容を系統立てて分類していった。話の順序を入れ替えねばならぬ個所もあった。
 また、個人的な事柄の多くを、対談集から外していった。
 そうして、編集された原稿に、博士と伸一が、それぞれ筆を入れ、言葉不足な部分を補うなどの作業が行われた。
 対談集の名前は、日本語版は、『二十一世紀への対話』と決定した。
 伸一は思った。
 ″本にして残していくということは、永遠に思想を残していくことになる。世界中に本が残っていけば、そこから、平和の道を考え、仏法に限を向けていく人も、少なくないはずだ″
 労作業を経て、日本語版の対談集が完成したのは、一九七五年(昭和五十年)の春であった。
 伸一は、この年五月、ヨーロッパ、ソ連(当時)を訪れ、世界的な学識者と次々と対談を重ねた。
 新しき時代の幕が開いたのだ。
 そのなかには、トインビー博士に紹介された、ローマクラブ創立者のぺッチェイ博士もいた。
 伸一は、博士から託された言葉を生命に刻み、いよいよ″対話の旋風″を、世界に巻き起こしていったのである。
 彼は、このヨーロッパ訪問中、フランスでの、作家のアンドレ・マルローや美術史家ルネ・ユイグらとの対談などの合間を縫うようにして、イギリスに向かった。
 遂に完成をみた対談集『二十一世紀への対話』の特装本を、トインビー博士に届けるためである。
54  対話(54)
 山本伸一がイギリスを訪問した時、トインビー博士は、長期にわたって病気療養中であり、面会は不可能であった。
 伸一は、王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)に博士の秘書を訪ね、丁重な伝言とともに、対談集を託した。
 この一九七五年(昭和五十年)の秋、博士は、対談集の完成を見届けるようにして永眠した。八十六歳であった。
 翌七六年(同五十一年)には、対談集の英語版がオックスフォード大学出版局から発刊された。『CHOOSE LIFE』(生への選択)というのが、その題名である。
 これは博士が『旧約聖書』の申命記の言葉を引用したものだ。
 「私は生と死、および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは生を選ばなければならない。そうすれば、あなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」
 人類よ、生を選べ。人間よ、生き抜け――まさに、そのタイトルには、博士の熱願が込められていた。
 その後、トインビー博士との対談集は、フランス語版、スペイン語版、ドイツ語版、中国語版、スワヒリ語版、トルコ語版などに次々と訳され、出版されていった。
 そして二〇〇四年(平成十六年)現在、この対談集は日本語を含め、二十四言語で発刊されるまでに至っている。
 外国語に訳されたトインビー対談を読んで、大いなる触発を受けたという、世界の指導者や識者も少なくない。
 インドのナラヤナン大統領、チリのエイルウィン大統領、国連のガリ事務総長、ハーバード大学のヌール・ヤーマン教授等々である。
 さらに、対談集は世界の大学や高校で、教材にも使われていった。
 二十世紀を代表する知性であるトインビー博士が、生命を削るようにして紡ぎ出した、未来を照らす平和への珠玉の哲学に、世界が刮目しているのだ。
 イギリスの詩人ミルトンが叫んだように、第一級の書籍は、不滅の生命をもっている。
 伸一は、自分が、その書の対談者に選ばれたことに、深く感謝するとともに、博士の願いを、断じて実現しようと、深く、深く、決意するのであった。
55  対話(55)
 トインビー博士の「世界に対話の旋風を」との言葉を、遺言として受け止めた山本伸一は、国家や民族、宗教、イデオロギーを超えて、世界の国家指導者をはじめ、識者らと、本格的な対話を重ねていった。
 中ソ紛争が一触即発の状況にあった一九七四年(昭和四十九年)九月、彼はソ連を初訪問し、コスイギン首相と会見。そこで、率直に尋ねた。
 「ソ連は中国を攻めますか」
 「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」
 「中国に伝えていいですか」
 「結構です」
 三カ月後、中国を訪問し、ソ連の意向を伝え、さらに、病身の周恩来総理と会見するのである。
 また、伸一は、翌年一月には、アメリカのキッシンジャー国務長官と会談している。
 ″中ソの紛争を、東西の対立を、いや、この世から戦争を、絶対になくさねばならぬ。その道を開くのは対話しかない″
 その不動なる信念のもとに、彼は走りに走り、語りに語り抜いた。
 対談した世界の主な国家指導者だけでも、ソ連のゴルバチョフ大統領をはじめ、フランスのミッテラン大統領、イギリスのサッチャー首相、インドのラジブ・ガンジー首相、南アフリカのマンデラ大統領、キューバのカストロ国家評議会議長など枚挙にいとまがない。
 また、周総理の夫人である鄧穎超とうえいちょう全人代常務委員会副委員長とも、友誼の対話を重ねた。
 博士との対談以降、伸一が重ねた世界各界の指導者、学識者らとの会談は千六百回を超える。
 それは、ある時には東洋と西洋の対話となり、ある時には仏法の人間主義と社会主義との、また、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教との対話となった。
 その対話が対談集として結実したものも多い。
 ゴルバチョフ元大統領との対談は『二十世紀の精神の教訓』に、ノーベル化学・平和賞受賞者のポーリング博士との対談は『「生命の世紀」への探求』となった。
 海外識者との対談集は三十三冊を数える(二〇〇四年九月現在)。
 対話こそ人間の特権である。それは人間を隔てるあらゆる障壁を超え、心を結び、世界を結ぶ、最強の絆となる。

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