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日蓮大聖人・池田大作

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第15巻 「開花」 開花

小説「新・人間革命」

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1  開花(1)
 思想、哲学は、行動となって開花されなければならない。
 「大河の時代」を迎えた創価学会は、一九七一年(昭和四十六年)「文化の年」に入ると、新たなる人間文化の創造という、広宣流布の大海に向かって、滔々たる流れを広げていった。
 その水面には、民衆の歓喜の波が躍っていた。
 山本伸一は、この堂々たる創価の″大河″を思うたびに、源流を開いた殉難の先師牧口常三郎への、強い感謝の念が込み上げた。
 七一年の六月六日は、その牧口の生誕百年にあたっていた。
 四月には、牧口の創価教育学を基調とする創価大学が開学し、初代会長の教育構想は、第三代会長の伸一の手で、着々と実現されつつあった。
 この六月六日には、伸一の提案で、生誕百年を記念し、牧口の胸像の除幕式が、東京・信濃町の聖教新聞社で行われた。
 牧口の孫にあたる蓉子が、広間に置かれた胸像の白布を取り除くと、台座を含め、高さ一・七メートルのブロンズ像が現れた。
 伸一は、その胸像をじっと見つめながら、先師の死身弘法の大闘争をしのんだ。
 牧口は、日本が軍国主義の泥沼に突き進む時代のなかで、民衆の崩れざる幸福を願い、広宣流布の戦いを起こした。
 誤った思想、宗教は人間を不幸にする。正法に目覚め、大善生活を送れ――というのが、牧口の叫びであった。
 正義によって立つ彼の批判は、国家神道にも、容赦なく向けられた。
 しかし、思想統制を行い、国家神道を精神の支柱にして戦争を遂行する軍部権力が、それを許すはずがなかった。
 四三年(同十八年)の七月六日には、会長の牧口常三郎、理事長の戸田城聖が拘束され、最終的に逮捕者は幹部二十一人に上ったのである。
 だが、牧口は屈しなかった。取り調べに際しても、国家神道の間違いを鋭く指摘し、日蓮仏法の正義を厳然と叫び抜いた。
 戦時下の獄中生活は、高齢の牧口の体をいたく苛んだ。満足な栄養もとれず、冬ともなれば氷を割って、顔を洗わねばならぬ毎日である。
 そのなかで、三男の蓉三が戦地で病死したことを知るのであった。
2  開花(2)
 一九四四年(昭和十九年)の十月十三日、牧口常三郎は東京拘置所で、現存する手紙としては、最後となる便りを書いた。そこには、こう記されている。
 「百年前、及ビ真後ノ学者共ガ、望ンデ、手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰二結ビツケ、下、数千人二実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。
 コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文通リデス」
 文面には、獄中にありながらも悠々とした、彼の境地がよく表れている。だが、その体は、栄養失調と老衰によって日を追って弱っていった。
 拘置所の係官は、何度も牧口に、病監に移るように勧めたが、彼は辞退し続けた。
 しかし、遂に十一月十七日、自ら病監に移ることを申し出たのである。そして、衣服、頭髪を整え、午後三時ごろ、歩いて病監へ向かった。
 牧口の体は、立っていることさえ難しいほど、衰弱していた。
 同行の係官が、手を貸そうとすると、彼は丁重に断った。
 何度も転びそうになりながらも、自ら廊下を歩いていった。
 それは、″権力の助けは借りぬ″という、孤高な意志の表れでもあったのであろう。
 病監に移って、ほどなく、牧口は危篤状態となった。
 夕刻、牧口の自宅に「危篤」を告げる電報が届いた。家にいたのは、亡くなった三男・蓉三の妻・貞枝だけであった。
 彼女は、取るものも取りあえず、拘置所に駆けつけた。
 病監といっても、狭い独房にべッドが一つ置かれているだけであった。
 昏睡状態の牧口は、すやすやと、安らかに眠っているように見えた。
 貞枝は、その夜は家に帰った。
 翌十八日の午前六時過ぎ、牧口は息を引き取ったのである。享年、七十三歳であった。
 彼の遺体は、貞枝の実家の履物店に勤める従業員に背負われて、目白の自宅に帰った。
 葬儀に訪れたのは、指折り数えるほどの人たちであった。
 凶暴な権力への恐怖が、臆病な忘恩の弟子を引き離したのである。
 苦難は人間を淘汰し、ニセモノを暴き出す。
3  開花(3)
 牧口常三郎が推進した創価教育学会の運動は、日蓮仏法をもって、人びとの実生活上に最大価値を創造し、民衆の幸福と社会の繁栄を築き上げることを目的としていた。
 日蓮仏法の最たる特徴は、「広宣流布の宗教」ということにある。
 つまり、妙法という生命の大法を世界に弘め、全民衆の幸福と平和を実現するために生きよ。それこそが、この世に生を受けた使命であり、そこに自身の幸福の道がある――との教えである。
 したがって、自分が法の利益を受けるために修行に励むだけでなく、他人に利益を受けさせるために教化、化導していく「自行化他」が、日蓮仏法の修行となる。
 大聖人は仰せである。
 「我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と。
 ゆえに、勤行・唱題と折伏・弘教が、仏道修行の両輪となるのだ。
 そしてまた、日蓮仏法は「立正安国の宗教」である。
 「立正安国」とは、「正を立て国を安んずる」との意義である。
 正法を流布し、一人ひとりの胸中に仏法の哲理を打ち立てよ。そして、社会の平和と繁栄を築き上げよ――それが、大聖人の御生涯を通しての叫びであられた。
 一次元からいえば、「立正」という正法の流布が、仏法者の宗教的使命であるのに対して、「安国」は、仏法者の社会的使命であるといってよい。
 大聖人は「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と仰せになっている。「四表の静謐」とは社会の平和である。
 現実に社会を変革し、人びとに平和と繁栄をもたらす「安国」の実現があってこそ、仏法者の使命は完結するのである。
 ところが、日本の仏教は、寺にこもり、世の安穏や死後の世界の安楽を願って、経などを読むことでよしとしてきた。
 それは、世を避けて仏門に入る「遁世」を、信仰の一つの形態としてきたことにも、端的に表れている。社会の建設を忘れた宗教は、現実逃避であり、無力な観念の教えにすぎない。
 大聖人は、そうした仏教の在り方を打ち破る、宗教革命を断行されたのである。
4  開花(4)
 「広宣流布」「立正安国」を成し遂げ、人類の幸福と平和を築き上げようとされた日蓮大聖人の教えのままに、牧口常三郎は戦いを起こした。
 大聖人は、どこまでも民衆を根本とされた。牧口も民衆のなかに分け入り、民衆と対話し、一人ひとりに社会建設の主体者としての自覚を促していった。
 創価教育学会は、最盛期といえども、会員は三千人ほどの小さな団体にすぎなかった。
 だが、小さくとも、正義の教団であった。唯々諾々と軍部政府に従う、権力に骨抜きにされた宗教ではなかった。
 ここに邪宗門と化す宗門との根本的な違いがあった。
 教育改造を、宗教改革を叫び、新たなる価値の創造を説き、社会の悲惨をなくすために、敢然と立ち上がった改革の教団であった。軍部政府も調査を重ね、それを鋭く感じ取っていたのだ。
 権力は民衆を支配し、隷属させ、意のままに操ろうとする″魔性″をもつ。それゆえに、獰猛な弾圧の牙を剥き、学会に襲いかかったのだ。
 もし、学会が「広宣流布」「立正安国」を放棄し、権力におもねっていたならば、弾圧にあい、牧口が獄死することもなかったにちがいない。
 しかし、そうなれば、仏法者としての魂の死であり、日蓮大聖人への違背にほかならない。
 戦後、時代は軍国主義から民主主義へと変わった。強大であった国家権力にも制限が加えられ、権力は分散し、大小さまざまな権力が、複雑に絡み合う構造となった。
 一方、学会は、牧口の遺志を継いで一人立った戸田域聖によって、新たな「広宣流布」の前進を開始していった。
 やがて学会は、民衆のスクラムを広げ、「立正安国」の実現のために、文化・社会の建設に着手した。政治を民衆の手に取り戻すために、政治の変革にも取り組んでいったのである。
 まさに、新しき民衆勢力の台頭であった。
 そこに、国家権力をはじめ、既得権益をむさぼり、権力の″魔性″の毒に侵された諸勢力は、強い恐れと危機感をいだいた。そして、学会への攻撃、迫害が繰り返されたのである。
 法華経に説かれ、御聖訓に仰せのように、難こそ最大の誉れである。
5  開花(5)
 学会への弾圧は、「広宣流布」が進み、「立正安国」の建設が進めば進むほど激しさを増した。
 地域で、権勢をふるう有力者らの画策による村八分。
 既成宗派の寺院が、学会員の遺骨の埋葬を拒否した墓地問題。
 北海道の夕張炭鉱で、「天下の炭労」といわれた炭鉱労働組合が、学会員を締め出そうとした夕張炭労事件。
 山本伸一が選挙違反という無実の容疑で不当逮捕された大阪事件……。
 さらに、教団の名誉を毀損する虚偽の報道など、マスコミによる誹謗中傷も繰り返された。
 伸一が第三代会長に就任してからは、攻撃の的は、会員の団結の要である彼に絞られていった。
 しかも、その弾圧の手口は、次第に巧妙、狡猾になっていったのだ。
 学会に偏見と嫉妬をいだく評論家や学者などを使って、非難の集中砲火を浴びせ、学会排斥の世論をつくろうと躍起になる、新聞や週刊誌も少なくなかった。
 国会で議員が、事実無根の話を織り交ぜ、学会を激しく中傷し、会長の伸一を証人喚問せよと騒ぐ、卑劣極まりない宗教弾圧の暴挙も、何度となく繰り返された。
 しかし、伸一は、自分のことなら我慢もできた。彼が断じて許せなかったのは、さまざまな迫害によって、多くの学会員が人権を踏みにじられ、筆舌に尽くしがたい苦汁をなめさせられてきたことであった。
 村八分で、水道を止められた人もいた。
 周囲の脅しや嫌がらせに泣いた人もいた。
 子どもまでもが、仲間はずれにされ、いじめ抜かれた。
 権力の″魔性″といっても、それは権力を掌中に収めた人間の生命に宿る″魔性″である。
 仏法では、正法を信ずる人に害をなし、仏道修行を妨げる働きとして、「第六天の魔王」すなわち「他化自在天」について説かれている。
 これは、すべてを奪って、支配しようとする際限のない欲望であり、これこそが権力の″魔性″の本質といえよう。
 ゆえに、学会が「広宣流布」と「立正安国」の使命を果たし抜くためには、権力の弾圧、迫害と永遠に戦い、勝ち越えていく以外にない。
6  開花(6)
 わが学会の前進は、第六天の魔王との、権力の″魔性″との、壮絶なる闘争である。
 そして、魔軍を抑え、権力の″魔性″の鉄鎖を断ち切って、断じて民衆勝利の旗を打ち立てねばならぬ戦いである。
 山本伸一は、除幕された初代会長牧口常三郎の胸像を見つめながら、直接、まみえることのなかった先師に誓った。
 ″牧口先生、私は、先生の敵を必ず討ちます。 先生を獄死させた権力の、魔性の牙をもぎとってみせます。
 そして、人間主義の平和と人道のスクラムをもって、傲岸な権力を抑え、民衆が喜びにあふれた社会を築いてまいります。それが私の仇討ちです″
 牧口の胸像の除幕式が行われた二日後の六月八日には、伸一は北海道に飛んでいた。
 北海道は、牧口が少年時代から、東京に旅立つ二十九歳までを過ごした、人生の飛翔の天地である。
 そこから、新しい広宣流布の流れをつくろうと、伸一は決意していたのである。
 彼は、札幌での勤行会に出席し、会員の激励を重ねたあと、九日には大沼に舞台を移した。
 翌十日に行われる、大沼研修所(現在は函館研修道場)の開所式に出席するためであった。
 研修所は、美しい新緑に埋まる、大沼湖畔にあった。
 夕闇が迫ると、辺りは薄紫に包まれ、やがて濃い墨色のなかに沈んでいった。
 伸一は、夕食後も、研修所内を回り、開所式を万全に迎える準備に当たった。
 午後八時を過ぎたころ、車で研修所の周囲も視察することにした。
 車窓を見ると、黒々とした空に、東の山の向こうが白く光って見えた。
 「あの明かりは、なんだろう」
 同行の幹部が答えた。 「街の明かりではないでしょうか」
 伸一は、人工的な光とは違うような気がした。
 車は、大沼湖畔の外周道路に出た。
 東の空を見た伸一は、思わず息をのんだ。雲の切れ間から、大きな、大きな、丸い月が壮麗に辺りを圧し、皓々と輝いていた。
 先程の空の明るさは山の背後に隠れていた、月の光であったのだ。
7  開花(7)
 月は、天空に白銀のまばゆい光を放ちながら、悠々と荘厳なる舞を見せていた。そして、湖面には、無数の金波、銀波が華麗に躍っていた。
 それは、大宇宙が織りなした、″美の絵巻″であった。
 ″今だ! この瞬間しかない!″
 伸一は、車を止めてもらい、傍らにあったカメラに手を伸ばした。
 このカメラは、前年、体をこわしていた時に、知人が贈ってくれた一眼レフであった。
 彼は、その真心に報いようと、カメラを身近に置き、写真を撮るように心がけていたのである。
 伸一は、後部座席の窓を開けると、シャッターを切った。
 彼は、「一瞬」の大切さというものを、身に染みて感じてきた。
 広宣流布を進めるうえでも、生きるうえでも、その瞬間、瞬間になすべき″勝負″が必ずある。
 伸一は、同志の激励にせよ、仕事にせよ、常に「今しかない」との思いで、奮闘に奮闘を重ねてきた。
 人生といっても、瞬間の連続である。ゆえに、「今」を勝つことが、完勝へとつながっていくのだ。
 御聖訓には、「命已に一念にすぎざれば……」と仰せである。
 命は永遠だが、あるのは過去でも、未来でもなく、今の一念(一瞬の心)にすぎない――と洞察されている。
 人生の時間は限られている。「一瞬」を疎かにすることは、生命を軽んじていることに等しい。
 伸一は、月に向かい、夢中でシャッターを切り続けた。
 月天子が創り出した、この美しき瞬間を永遠にとどめたかった。
 そこに、後続車に乗っていた、聖教新聞の二十代前半の若いカメラマンが走り寄ってきた。
 カメラマンが叫んだ。 「運転手さん。車のエンジンを止めてください」
 それから、伸一に向かって言った。
 「先生! 車の窓枠に両肘をつけて、カメラを構えていただくと、揺れません」
 月の撮影は難しく、手ぶれを防ぐために三脚を立て、カメラを固定して行うのが普通である。それだけに、手ぶれを心配していたようだ。
8  開花(8)
 山本伸一は、真剣にアドバイスしてくれるカメラマンの言葉に、素直に従った。
 確かに、両肘を窓枠にしっかりつけて構えてみると、カメラの安定感が明らかに違っていた。
 ファインダーをのぞくと、月光の反射で、湖面に金の帯が走っていた。風が吹き抜けるたびに、小さな波が起こり、金の光が明滅した。
 静かな湖畔に、伸一がシャッターを切る音が、断続的に響いた。
 伸一は、さらに湖畔を移動し、フィルム数本分を撮影した。
 この写真が上手に撮れていたら、同志に贈りたいと思った。
 日夜、人びとの幸福のため、社会のために献身する同志たちと、大自然がもたらした束の間の美の感動を分かち合い、励ましを送りたかったのである。
 伸一は、青春時代から写真には強い関心をもっていたが、前年に、カメラを贈られて以来、写真を撮ることが多くなっていた。
 その一九七〇年(昭和四十五年)の五月三日に行われた本部総会で、彼は、広宣流布とは「妙法の大地に展開する大文化運動」であると語った。
 日蓮仏法を根底に、いかなる文化の花が咲き薫るのか――そこに広宣流布の実像がある。
 この広宣流布の新展開を迎え、学会としては、「第三文明華展」や各方面ごとに文化祭を開催するなど、人間文化、民衆文化の創造に、本格的に取り組んでいった。
 そのなかで伸一は、カメラが一般家庭にも普及し、写真が民衆に親しまれていることから、写真で大自然の美をとらえ、生命の讃歌を表現したいと考え、自分のテーマとしたのである。
 仏法は、人間のみならず、あらゆる生き物に、いや、路傍の小石にも、一枚の草の葉にも、生命を見いだす思想である。
 その一つ一つの姿のなかに、宇宙の神秘と生命の妙なる法則がある。
 また、烈風にそびえ立つ山には、厳しき闘争の詩が響き、あどけない子どもの笑顔には、生命愛の詩が広がる。
 伸一は、それらを写し取り、自然のもつ美を、生きゆく勇気を、無限の希望を、人びとに伝えたかった。
 そこに人間文化の光があると、彼は確信していたのである。
9  開花(9)
 写真には、人びとの心の城門を大きく開き、大宇宙と交流させていく力があるというのが、山本伸一の確信であった。
 しかし、彼は、写真の技術に関しては、全くの素人であった。
 ピントの合わせ方や露出の決め方は、聖教新聞のカメラマンに教えてもらった。
 まだ若いカメラマンからも、伸一は、技術の基本を謙虚に学んだ。
 向上心とは、柔軟な魂と謙虚さに裏打ちされた勇気である。
 激務の伸一である。カメラを構えるのは、もっぱら、執務の合間や移動の車中であった。
 夏季講習会に集った参加者や、身近な人物のスナップも撮ったが、彼の関心は、自在に変化する雲、富士の英姿、田園風景……など、次第に自然界に向けられていった。
 一見、なんの変哲もない自然の風景のなかに、伸一は美を感じ、ドラマを見ていたのである。
 真っ先に花開く福寿草には、冬を耐え忍び、春を迎えた、先駆けの人の凛とした心意気を見る思いがした。
 真っ赤な夕日には、自身を燃焼し尽くし、威風堂々と人生の最終章を迎えた王者の、荘厳なる凱歌の調べを聴くような気がした。
 ドイツの大詩人ゲーテは高らかにうたった。
 「美は秘められた自然法則の啓示である。それが美となってあらわれなければ、永久に秘められたままである」 
 伸一は、カメラによって、自然の美に触れ、宇宙と生命の神秘に迫ろうとしていたのである。
 彼はこれまで、多くの詩を書き、和歌や句を詠んできたが、その創作の源泉となっていたのは、友への励ましの一念であった。
 そして、彼をカメラに向かわせる力となったのも、写真をもって、人間文化の旗手である同志を励まし、讃え、勇気づけたいとの、強い思いであった。
 伸一が、北海道の大沼で出合った皓々たる満月は、まさに、彼が待ち望んでいた″被写体″であった。その輝きは、苦悩の闇を払う、英知の光彩にも思えた。
 さらにまた、日夜、広宣流布の道をひた走る同志を照らし、見守ってくれる、慈悲の光のように感じられるのであった。
10  開花(10)
 山本伸一が大沼で撮影した月のフィルムは、さっそく、現像・プリントされた。
 彼が撮影するのを見ていた、聖教新聞のカメラマンは思った。
 ″月の写真は、三脚を使って、周到に準備しても難しい。先生の写真は、どんな写真になっているのだろうか……″
 伸一が撮った写真には、露出不足ぎみのものや、ぶれていたカットもあった。
 しかし、何コマかには、斬新な美の世界が映し出されていた。
 伸一は、届けられたプリントを、感慨深く見つめた。
 ――夜空は、黒い闇である。大沼の湖面も天の色を写し取ったかのように、黒々としていた。しかし、やや青みを帯びた満月だけが天座に君臨し、湖面に一筋の金の帯を走らせていた。
 それは、大沼に浮かぶ月というより、無窮の宇宙空間を絶え間なく運行する、大きな星の写真のようにも見えた。
 伸一は、あの時、輝く月という現象世界の奥にある、宇宙の神秘に眼を凝らしていた。
 心のレンズに映っていたのは、悠久なる大宇宙であった。
 自分が感じたままの、その世界が、印画紙に焼き付けられていたのである。伸一には、写真の巧拙はわからなかったが、それが嬉しかった。
 彼は、それから十日ほどしたころ、学会本部で行われた、男子部の中堅幹部との記念撮影の折に、この月の写真を代表に贈った。
 そして、撮影した時の思いを、率直に語っていったのである。
 「私は、夜空に光る月を見ながら、大宇宙を貫く生命の法則を感じました。
 また、月の青い光は、研ぎ澄まされた英知の光のようにも思えました。 御書には『今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし』と記されています。
 ″日夜、戦っている学会員の皆様が、この月の光に照らされ、英知輝く人になってほしい。
 名月天子よ、我が友を見守ってくれ″との願いを込めて、シャッターを切りました」
 青年たちは、その写真に、月光のように自分たちを包む、伸一の心を見る思いがした。
 彼らの喜びは大きかった。
11  開花(11)
 山本伸一は、大沼での月を撮影して以来、機会があれば、月の写真を撮った。
 伸一にとって、月には特別な意味があった。
 かつて、師の戸田城聖は、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」と詠んだ。
 戸田は、アジアの人びとが求めてやまぬ幸福を月にたとえたのである。
 そして、そのアジア同胞の悲願を実現するために、月よりもはるかに明るい、太陽たる日蓮仏法の「東洋広布」を、遺言として、伸一に託したのだ。「諌暁八幡抄」には「日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」と仰せである。
 伸一は、月を見ると、戸田の勇姿が思い起こされてならなかった。
 「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」と戸田は詠んだが、その歌は、弟子である伸一の胸に燃え上がる「東洋広布」の決意であった。
 一九七三年(昭和四十八年)一月、各地で撮った月の写真のなかから十六点を選び、『写真集・月』を発刊した。
 同志に贈り、励ましになればとの思いから、要請に応えて発刊に踏み切ったもので、非売品であった。これが彼の最初の写真集となったのである。
 また、夕日をテーマにした写真にも取り組み、さらに、撮影対象は風景全般に広がっていった。
 伸一は、「聖教写真展」の審査員など、多くの著名な写真家と交友があった。
 そうした人たちが、伸一の写真に、深い関心をもった。プロの写真家の作品とは異なる斬新さを感じたようだ。
 事実、伸一の写真は被写体から違っていた。
 雄大な空や、華やかに咲き競う季節の花々もあったが、プロの写真家が、およそ写そうとはしない鉄塔の電線や石垣、道端の雑草や路面などにもカメラが向けられた。
 彼は、それら一つ一つに、生命の息づかいや声を聞いていた。
 ありのままの姿を写し取るなかで、仏法の「本有無作」の自然観、生命観を表現したいというのが、伸一の素朴な願望であった。それが結果的に、日常の風景の延長にある親しみやすさを感じさせる、彼の作風となっていたのである。
12  開花(12)
 山本伸一の写真に、ことのほか関心を寄せる写真家の一人が、後に日本写真家協会の会長となる三木淳であった。
 彼は、日本を代表する報道写真家で、米国の雑誌『ライフ』の表紙を飾る写真も撮影した人物であった。
 戦後、三木が日本の総理だった吉田茂の写真を表紙に掲載した折のことである。
 彼は、敗戦国で国際的に弱い立場にあった日本のイメージを払拭しようと、あえて総理に葉巻をくわえてもらい、シャッターを切った。
 これによって、堂々とした日本の印象を海外にアピールしたのである。
 三木は、一枚の写真が持つ力を熟知した芸術家であったといってよい。
 彼が学会と関わりをもったのは一九六一年(昭和三十六年)ごろのことであった。
 そのしばらく前に、友人の一人が、人生に挫折した末に、学会に入会した。
 ある日、その友人が、雑誌の編集をしている学会の幹部を伴って訪ねてきた。三木が海外で撮影した写真を使わせてもらいたいというのだ。
 三木は、学会に対する、「人の仏壇までも焼いてしまう暴力的な宗教だ」などといった噂を耳にしていた。甚だしい偏見と悪意に満ちた、無責任な風評である。
 だが、その編集者と接するうちに、学会員は、およそ「暴力的」とは異なり、勤勉で礼儀正しいことに驚いた。
 ″これが、創価学会員なのか。噂話とは、全く違うではないか……″
 彼は、「真を写す」ベき写真家として、学会の真実を見極めようと思ったようだ。
 三木は、この編集者との出会いが機縁となり、何人もの学会員と親しく交わるようになった。
 当時、高度経済成長の歪みのなかで、社会には拝金主義の風潮が蔓延していった。
 ところが、学会の青年たちは、何よりも自身の人間性を磨き、高めようと努力していた。
 また、世の中の不幸をなくそうと真剣に考え、懸命に生きていることに、三木は感動を覚えたという。
 そうしたなかで、聖教新聞社の写真部から、写真技術の指導を依頼された。彼は快諾し、指導に通うようになった。
 そして、伸一とも交流が始まったのである。
13  開花(13)
 三木淳は、山本伸一という人間に、強い興味をいだいたようだ。
 彼がまず驚いたのは、その若さであった。
 また、大教団のリーダーというから、さぞかし権威ぶっているのではないかと思っていたが、事実は全く反対であった。エネルギッシュで、誰とも分け隔てなく、気さくに言葉を交わし、ユーモアに富み、実に率直であった。
 「形式にこだわらない融通無碍な性格だが、配慮に富んだ、温かい人柄ですね」というのが、彼の感想であった。
 三木のカメラは、伸一を追い始めた。彼は、学会のさまざまな会合に出たり、地方指導に同行することもあった。
 なかでも三木が深い感動を覚えたのは、伸一が全国各地で、第一線の幹部と行っていた、記念撮影であったという。
 伸一は、高熱を押して撮影に臨むこともあった。目を痛めながら、日に何十回も、フラッシュを浴びることもあった。
 しかも、撮影の間には指導、激励を続け、手が上がらなくなるほど、たくさんの人と握手を交わし続けた。
 透徹した写真家の眼には、偽善か真心か、保身か献身かを、鋭く見抜く力がある。
 体当たりするかのように、会員のなかに入り、励ましを送り続ける伸一の姿に、三木は、慈悲という仏法の精神を見る思いがしたという。
 人間の生き方、振る舞いを離れて仏法はない。その人の行動のなかに、仏法があるのだ。
 御聖訓には「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と仰せである。
 また、三木は、その記念撮影が、会員にとってどれほど大きな喜びとなり、励みになっているかを知った。
 最高の宝でも披露するように、誇らしそうに笑みを浮かべ、記念撮影の写真を見せる会員もいた。困難に直面するたびに、その写真を取り出して眺め、自らを鼓舞し、苦境を乗り越えてきたという会員もいた。
 彼は、写真のもつ力の大きさを、経験を通して、よく知っていた。
 だが、一枚の写真が、これほど多くの人びとの人生を大きく変えていく姿を目の当たりにして、驚きを隠せなかった。
14  開花(14)
 山本伸一は、三木淳としばしば懇談の機会をもった。
 三木は、話し好きで、誰に対しても歯に衣を着せずにものを言った。また、熱中してくると、べらんめえ口調になった。
 その彼が、ある時、自身の思いを、率直に伸一にぶつけた。
 「先生! これから先も、ぜひ、会員の皆さんとの記念撮影を続けてください。
 その一枚の写真が、どれだけ皆に勇気を与え、希望をもたらしているか、計り知れません」
 「わかりました。私もそのつもりでおります」 伸一が答えると、三木の顔がほころんだ。
 彼は、伸一の写真を撮ることに、ますます情熱を燃やした。
 「民衆の指導者は″かくあれ″という姿を、映像で後世に残したい」
 よく彼は、こう語っていたが、伸一は、過分な言葉だと恐縮しつつ、さらに頑張らねばと、決意するのであった。
 また、三木は、創価学会にカメラを向け続けるなかで、その真実を知り、学会の深き理解者となり、共感者になっていった。
 彼は、「学会員は組織に操られている」などという、偏見に満ちた的外れな批判を耳にすると、厳しい口調で言った。
 「君は人間をみくびっていますね。強力な国家権力ならともかく、組織の力なんかで、人間は動きませんよ。
 給料を払っている企業でも、人間を思い通りに動かすことなんか、できないではないですか。
 学会は、山本先生という指導者が、自分を犠牲にしても会員を守ろうと、徹して一人ひとりを大事にしている。また、それを、皆が痛感している。この信頼の絆こそ、創価学会の強さの源泉なんです。
 そして、その山本先生の指導に、皆が同意、共感し、自分の使命を自覚するから、学会員は、勇んで活動に励む。
 それぞれの内発的、自発的な行動だから、皆に喜びがあり、学会は大いなるパワーを発揮できるんです」
 自ら真実を見極めもせぬ、軽率な発言を、彼は許せなかったのだ。
 三木が数年間にわたって撮影し続けた、『写真 創価学会』が発刊されたのは、一九六八年(昭和四十三年)三月のことであった。
15  開花(15)
 三木淳は、山本伸一に映像の力の大きさを語り、よく「先生も写真を撮られてはどうですか」と勧めてきた。
 それだけに、一九七一年(昭和四十六年)六月の大沼訪問から、伸一が本格的に写真を撮り始めたことが、三木は嬉しくてならなかった。
 シャッターを押す瞬間に、撮影者の心のすべてが凝縮される。眼前にある被写体から、何を外し、何を画面に取り入れるのかというなかに、撮影者の知識や教養、人生観までもが集約される――それが、三木の写真観であった。
 伸一も、全く同感であった。
 写真は撮影者の心の投影であり、被写体を借りて写し出された、自身の生命の姿といってよい。
 三木は、伸一の写真を″てらいや気負いが感じられない、全くの自然体で天衣無縫な写真″であると思ったという。いわば、写真家の技術の枠を超えた写真であるとの、印象をいだいたのだ。
 そして、その写真のなかに、伸一の「無限大の心の広さ」と、自然の大法則を感じたのである。
 八〇年(同五十五年)代を迎えようとしていたころのことである。伸一の撮影方法に、大きな転機が訪れた。
 この少し前に、被写体にレンズを向け、軽くボタンを押すと、自動的に焦点が合う、オートフォーカスカメラが開発され、その性能が急速に進歩していったのだ。
 伸一も、このタイプのカメラを使い始めた。
 このカメラだと、必ずしも、ファインダーをのぞき、ピントを確認する必要はなかった。
 彼は、胸の前でカメラを構える、ノーファインダーの撮り方に変えていった。
 四角く区切られた世界ではなく、広々とした風景を視界に収めながらシャッターを押すと、自然と対話している実感が深まった。それが作風に、ますます自在な広がりを生んでいった。
 後年、アメリカ民主主義の大詩人ホイットマンの研究の第一人者であるアイオワ大学のエド・フォサム博士は、この伸一の闊達な撮影法を聞くと、大きな驚きをもって語った。
 写真愛好家であったホイットマンも、極力、ファインダーをのぞかず、カメラそのものを対象に向け、撮影することを好んだというのである。
16  開花(16)
 山本伸一が本格的に写真撮影を始めてから十年が過ぎようとしていた。
 伸一が創立し、一九七三年(昭和四十八年)に静岡・富士宮に開館した富士美術館の関係者をはじめ、懇意にしていた写真家などから、彼の写真展の開催を勧める声があがった。
 伸一にとっては、汗顔の至りであった。プロの写真家でもないし、もともと、そうした意図で撮ったものではない。
 しかし、開催を要望する声は強かった。
 思えば、伸一なりに、新たな民衆文化の波を起こしたいとの考えもあって始めた写真である。
 彼は、皆の要請に押されるかたちで、了承することになった。
 「平和と文化を写す」と題して、彼の写真展が富士美術館で行われたのは八二年(同五十七年)四月のことであった。
 ここには、日本国内だけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、中国などで撮影してきた作品も含めて、約二百五十点が展示された。
 写真展を鑑賞した人たちの反響は大きかった。
 「自然と平和を愛する気持ちが伝わってきて、心が豊かになる思いがしました」「身近な風景のなかに、生命の鼓動が感じられ、強く生きなさいと言われているようで、元気づけられました」など、大好評であった。
 自分の撮った写真を贈ることで、少しでも同志の激励になればというのが、伸一がカメラを手にした最大の動機であった。だから、自分の写真で元気づけられた人がいたことが嬉しかったし、それで満足であった。
 この写真展には、フランスの著名な美術史家のルネ・ユイグも鑑賞に訪れている。
 後に、彼が館長を務める、パリのジャックマール・アンドレ美術館でも、伸一の写真展が行われることになるが、その折、彼は、伸一の写真を、こう評している。
 「先生の写真は、大変にすばらしいものです。日本の詩情、繊細な美しさを、十分に味わい尽くして表現されているところに感動しました。
 先生はポエム(詩)もつくられていますが、ポエムは、口で詠まれた詩であり、写真は目で詠まれた詩です」
 伸一は、こうした好意あふれる言葉に、申し訳なさを感じ、身の縮まる思いがした。
17  開花(17)
 山本伸一の写真展や写真集を目にした本部の職員たちから、「先生の写真を、学会本部や各会館に飾りたい」との声が起こり始めた。
 学会の会館は、人間文化を地域に発信する″文化の城″の役割を担っている。しかし、ロビーや階段の踊り場などに、絵画を飾れば、かなり高額なものになる。
 伸一は、自分の写真が少しでも役に立つのならと、その要請に応えることにした。
 「創価」とは、すべてにわたる価値の創造である。
 こうして、全国の会館で、彼の写真が飾られるようになっていった。
 その写真と対話し、額縁の中に、伸一の「励ましの心」を感じ、勇気を奮い起こしたという同志も少なくない。
 伸一の写真展は、その後も行われ、やがて「自然との対話」写真展の名で、国内はもとより、世界各地で行われるようになっていった。
 そして、現在までに、海外では三十三カ国・地域、七十六都市で開催されるに至っている。
 写真は「世界語」である。言葉は理解できなくとも、写真を見れば、すべてがわかる。心を分かち合うこともできる。
 人は、ほとばしる水を見れば、生命の躍動を感じ、岩にしがみつくように根を張る雑草の健気さに、勇気を覚える。
 伸一は、写真を通して、民族、国境を超えて、人間と人間の心をつなぎたかった。
 写真には力がある。かのビクトル・ユゴーが、亡命先で数多くの肖像写真を撮らせたことは有名である。それは、権力者ナポレオン三世の暴圧に対する挑戦であった。
 亡命生活は最終的に十九年に及んだ。″ユゴーはめげて、意気消沈しているにちがいない″と、誰もが思った。
 しかし、送られてくる堂々たる彼の肖像写真は、こう宣言していた。
 ″われは健在なり!″
 ″われは不屈なり!″
 彼にとって、写真は単なる写真ではなかった。敵を打ちのめす武器であり、挑戦状であった。
 伸一にとっても、写真は、人びとの胸の奥深く、歓喜と希望と勇気を送る、蘇生への光の弾丸であった。そして、「負けるな! 強くあれ!私とともに進もう」との、同志への励ましのメッセージとなった。
18  開花(18)
 一九七一年(昭和四十六年)六月九日、北海道・大沼で月の写真を撮り、写真文化の新たな創造に着手した山本伸一の胸には、人間文化建設への強い決意がみなぎっていた。
 豊かなる土壌は、豊かなる実りをもたらす。
 偉大なる宗教が流布し、人間の精神の土壌が耕されるならば、そこには、必ず優れた文化の花が開花し、社会の平和と繁栄という実りがもたらされる。
 つまり、どれだけ人間に寄与する優れた文化を創造したかに、宗教の偉大さの証明がある。
 文化は、野蛮に抗する力である。文化という人間性の力をもって、社会を建設していくこと――それが、われらの広宣流布の運動である。
 伸一は、日本の文化の行方を憂えていた。なかでも、各地域文化の著しい衰退に、彼は心を痛めていた。
 伸一が、これまで、各方面ごとに文化祭の開催を提案し、推進してきたのも、地域文化の復興と新しき創造を願ってのことであった。
 六月十日に大沼研修所の開所式に出席した伸一は、翌十一日には函館会館を訪問し、青年部の代表らと懇談した。
 席上、彼は訴えた。
 「北海道の開拓の歴史は、道南の函館から始まりました。
 また、北海道広布の本格的な開拓も、函館から始まりました。
 皆さんは、その先駆者としての自覚と誇りをもち、新しい北海道広布の歴史を開き、自分自身の歴史を築いていっていただきたいのであります」
 さらに、伸一は、青年部から文化団体の結成を望む声があることを聞くと、「函館青年文化連盟」の結成を提案した。
 文化には、広い意味で、芸術、教育、政治、経済等々、人間の生活のすべてが含まれよう。
 その一つ一つに人間主義の光を当て、人びとの幸福と人間性の勝利のために、新しき文化を創造していくことに、創価学会の使命がある。
 また、人びとを不幸にし、人間を抑圧するあらゆる″悪″と、断じて戦い、善の連帯、正義のスクラムを広げ、人間文化の花を咲かせゆくのだ。
 その建設の原動力たることを、伸一は青年に期待したのである。
19  開花(19)
 創価学会と社会の間には、垣根などあってはならないと、山本伸一は考えていた。
 学会の発展は、即地域の興隆であり、社会の繁栄であらねばならないからだ。
 日蓮大聖人は、大師子吼された。
 「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ
 そこには、日本国の一切衆生を救わんとされる大聖人の、烈々たる決意と確信が脈打っている。
 学会は、この大聖人の御心のままに、社会を支えゆく″精神の柱″となり、幸福と平和を創造するための社会の″哲学の眼″となり、″民衆を守る大船″となってきた。
 その学会の象徴ともいうべき各地の会館は、地域社会の誇りと安心の牙城とならねばならない。それが、伸一の信念であった。
 一九七一年(昭和四十六年)七月二十二日の午後、伸一は、神奈川に向かった。
 この日、神奈川県の鎌倉会館で行われる「鎌倉祭り」と、翌日に三浦市・三崎会館に隣接した海岸で行われる「三崎カーニバル」に出席するためであった。
 この二つの催しは、伸一の提案をもとに、地域との交流を図るために、新たな試みとして開催されることになったものである。
 彼が、地域の人びとと懇親の集いをもつことを提案したのは、前年の七月、三崎会館でのことであった。
 この年、伸一は呼吸器疾患にかかり、著しく体調を崩していた。
 しかも、そのうえに、「言論問題」の嵐が吹き荒れ、一段と激しい非難の集中砲火にさらされていた年であった。
 三崎会館は六八年(同四十三年)に誕生しているが、以来、伸一は、毎年、ここを訪れ、神奈川の同志などの激励に全精魂を注いできた。
 また、メンバーは、それを最高の喜びとし、誇りとしてきた。
 そのなかに、「鎌倉グループ」と命名された若者たちがいた。
 このグループは、六九年(同四十四年)一月、伸一が鎌倉会館を訪問した折に、居合わせた学生部、高等部、中等部のメンバーで結成された人材育成グループである。
20  開花(20)
 「鎌倉グループ」のメンバーは、「言論問題」が起こると、山本伸一への理不尽極まりない攻撃に、日々胸を痛めた。
 「山本会長を国会喚問せよ」と騒ぎ立て、宗教弾圧をもくろむ国会議員もいた。
 週刊誌をはじめとするマスコミの人権蹂躙の攻撃も、連日のように続いていた。
 しかも、山本会長は最悪な健康状態にあると聞いていた。
 メンバーは、時に悔し涙を浮かべながら、怒りを語った。
 「民衆の幸福のために命を削って戦ってこられたのが、山本先生じゃないか!
 先生を攻撃し、学会を批判する政治屋や俗悪週刊誌の記者が、庶民のために何をしたんだ!」
 「そうだ。正義の山本先生が、どうして、ここまで迫害されなければならないんだ。これほどの悪逆はない」
 その伸一が、この一九七〇年(昭和四十五年)の夏も、三崎の会館を訪問する予定があることをメンバーは耳にした。
 皆、瞳を輝かせて語り合った。
 「それなら、せめて先生に、くつろいでいただけるようにしよう」
 「ぼくらの広宣流布への誓いを、歌などで表現する企画も考えよう」
 伸一が三崎会館を訪れたのは、七月の末のことであった。
 二十六日の夕刻、伸一は、「鎌倉グループ」のメンバーと懇談のひとときをもった。
 丘の上に立つ会館の庭からは、太平洋の大海原が展望できた。
 空は夕焼けに染まっていた。
 そこには、地元の同志も集っていた。
 メンバーは、伸一のために、慣れない手つきでお茶をたてた。琴の演奏も行った。
 また、会館の芝生の庭で、歌や踊りも元気いっぱいに披露した。
 歌も踊りも、決して上手とはいえなかったが、伸一には、皆の心意気が痛いほど感じられた。
 一途さが心を打った。
 「ありがとう。今日は皆さんの真心に触れ、私も元気になりました。
 来年は、地域の人たちも招いて、もっと盛大にやりましょう。
 この明るく楽しい人間の輪を、社会に開いていこうではありませんか。
 私も再び、悠然と指揮をとります!」
21  開花(21)
 山本伸一は、広宣流布の新しい流れをつくるためには、何よりも社会との交流が大切であると痛感していた。
 無認識は誤解の母である。人は真実がよくわからないと、根も葉もない噂や悪意の喧伝を真に受けてしまったり、憶測で判断してしまうものだ。
 学会に対しても、人びとが本当の姿を知る機会がなかったことから、憶測や誤解を募らせ、実態と全くかけ離れた風聞がつくられてきたケースが少なくなかった。
 ゆえに伸一は、地域の人びととの交流を図るには、どうすればよいかを、常に思索し続けていたのである。
 そして、その一つのかたちを、「鎌倉グループ」の行った企画のなかに発見したのだ。
 また、彼は、会館は堅固で立派な建物にし、災害の折などには、避難場所としても使えるようにしたいと考えていた。
 「地域社会への貢献の城」――これが、伸一の会館像でもあった。
 一九七一年(昭和四十六年)の五月ごろになると、三崎での催しの内容は、かなり具体化していった。
 名称も「三崎カーニバル」と決まった。
 また、鎌倉会館でも広い庭園があることから、庭を使って「鎌倉祭り」を行うことが決まったのである。
 この年の九月十二日は、日蓮大聖人の竜の口の法難から七百年の佳節にあたっていた。
 鎌倉は、大聖人が「たつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや」と仰せの天地である。
 その鎌倉に、そして、神奈川に、広宣流布のモデルを築くことは、極めて重大な課題である。
 伸一は、三崎とともに、鎌倉の同志にも、幾たびとなく励ましの伝言を送って、地域広布の新しい流れを開く、大成功の催しとするよう呼びかけてきた。
 勝利のためには、的確な布石を、一つ一つ積み重ねていくことだ。
 七一年(同)七月二十二日、午後三時に伸一の一行が鎌倉会館に到着すると、ほどなく「鎌倉祭り」が始まった。
 会館の庭園に特設の舞台が設けられ、周囲にはおでん、寿司、ソバなどの模擬店が並び、浴衣姿の人でにぎわっていた。
22  開花(22)
 鎌倉会館は、木造二階建ての屋敷を改装した建物で、一九六六年(昭和四十一年)五月にオープンしている。
 日蓮大聖人が竜の口の法難で刑場に向かわれる折、法華経の行者である御自身を加護しようとしない諸天善神を叱咤された、あの鶴岡八幡宮にも近く、閑静な住宅街にあった。
 地域には、大きな屋敷が立ち並び、文化人など、社会的に著名な人びとの住居も多かった。
 地元の学会の幹部たちは、「鎌倉祭り」の開催にあたって、近隣の家々にあいさつに回った。
 こちらの誠意を感じてか、好意的な応対をしてくれる家が多かったが、なかには、なるべく学会とは、関わりをもつまいとする雰囲気が感じられる家もあった。
 しかし、丁重に、日ごろの御礼と感謝を述べると、次第に態度は変わっていった。
 また、「もし、ご迷惑をおかけしておりますことがございましたら、なんなりとおっしゃってください」と言うと、誰もが安心した顔になった。
 いつでも対話の窓口が開かれていることがわかるだけで、無用な緊張はとけていくものだ。
 そして、会館の庭を使って「鎌倉祭り」を行うことを話すと、「楽しそうですね。孫と一緒にぜひ参加させてください」という家もあった。
 あいさつをすませて帰ろうとすると引き止め、学会のことについて尋ねたり、自分の家族のことなどを話す人もいた。
 普段から声をかけ、対話してきた家は、どこも友好的であった。
 幹部たちは、日ごろからの交流が、いかに重要であるかを痛感するのであった。
 あいさつは心のドアを開くノックである。さわやかで感じのよい、あいさつの姿には、人間性の勝利がある。
 大聖人は「まことの・みちは世間の事法にて候」と仰せである。真実の仏法の道は、世間の道理そのものだとの御言葉である。
 ゆえに、山本伸一は、会館の使用に関しては、騒音や駐車、駐輪、立ち話や喫煙などで、近隣に迷惑をかけることの絶対にないよう、常に細心の注意を払うことを訴え続けてきた。
23  開花(23)
 会館を使用していくうえで、ほんの少しでも油断があり、注意を怠り、近隣に迷惑をかけるようなことがあれば、蟻の穴から堤が崩れていくように、地域広布は崩れてしまうことになる。
 山本伸一は、各地を訪問した際などに、会館の周辺を徒歩や車で回ることがよくあった。
 それは、周囲の環境がどうなっているか、道幅がどのぐらいか、会館での勤行の声などがどのぐらい外に響くのかなど、実際に調べてみるためであった。
 そして、時には、会館の使い方の検討や、駐車・駐輪の対策、防音のための改修などを、細かく指示した。
 伸一は、「鎌倉祭り」を行うに際しても、周囲に迷惑がかからないようにすることと、無事故を徹底してきた。
 もし、会館で事故が起これば、大問題になってしまう。
 しかも、会館は、学会の前進を阻もうとする、さまざまな勢力に狙われる可能性もある。
 それだけに、油断して警戒心をなくせば、いつ何が起こるかわからないのだ。
 伸一は、この催しが無事故、大成功で終わるように、連日、懸命に祈り続けてきたのである。
 「鎌倉祭り」は、近隣の人びとや地域の友人を含め、数百人が参加し、盛大に行われた。
 学会員は、ほとんどのメンバーが浴衣姿で集ってきたが、それは古都・鎌倉の風情を出すためであった。
 また、入り口に提灯を吊るすなど、設営にも情緒を感じさせる工夫が凝らされていた。
 庭のあちこちで、模擬店のおでんやトウモロコシなどを頬張りながら、談笑が始まった。
 伸一も一人ひとりとあいさつを交わしていった。
 「私が会長の山本でございます。会館は人の出入りが多いもので、いつも何かとご迷惑をおかけし、まことに申し訳ございません。
 近隣の皆様の、日ごろからの、ご理解、ご尽力に心より御礼申し上げます。大変にありがとうございます。皆様のご協力あっての会館でございます。今後とも、よろしくお願い申し上げます」
 創価学会の最高責任者の丁重なあいさつに、近隣の人たちは驚いた。
24  開花(24)
 山本伸一は、何事につけ、自分が直接、人に会い、誠心誠意、対話するように心がけてきた。
 自らが会い、対話することを避けるリーダーは官僚主義であり、臆病といってよい。
 伸一は鎌倉会館でも、″断じて、この人と心を通わせ合おう″と、魂をぶつける思いで、皆に声をかけていった。
 学会理解の広がりといっても、人間的共感の広がりにほかならない。気さくに言葉を交わす伸一に、近隣の人たちも心を和ませ、話は弾んだ。
 「いやー、学会の会長さんと、ここでお会いできるとは驚きました。
 この辺は、夜なんか寂しいもので、家族の者も不安がっていたんです。しかし、学会の会館ができてからは、心強くなりましてね……」
 なかには、「学会というのは、怖い宗教だとさんざん聞かされてきたので、不安に思っていましたが、聞くと見るとでは大違いですな」と、大笑いする人もいた。
 知らないことは人びとの不安をつのらせる。ゆえに、心を開き、交流をもって、真実を伝えることが大事になるのだ。
 コロンビアのことわざには、「『語り合う』ことが『分かり合う』こと」とある。
 伸一の周りには、談笑の輪が広がり、対話と友情の花が咲いた。
 午後五時過ぎからは、特設の舞台を使って、バンド演奏をはじめ、少年少女たちによる合唱、琴、笛の演奏などが披露された。
 伸一は、皆と演技を鑑賞し、演目が終わるたびに、身を乗り出して大きな拍手を送った。
 なかでも、参加者に深い感銘を与えたのが、青年たちによる、「延年の舞」と「鎌倉源氏節」と題する二つの創作舞踊であった。
 「延年の舞」は、「鎌倉グループ」の代表六人による日本舞踊である。
 前年(昭和四十五年)、伸一が体調を崩し、病と闘い続けていたことから、いつまでも元気で、広宣流布の指揮をとり続けてほしいとの思いを込めた舞であった。
 作曲や振り付けは、芸術部の専門家に担当してもらった。
 出演者は、日本舞踊の経験など皆無であった。そこで、芸術部の舞踊家に頼み、東京にある稽古場まで、二カ月間ほど通って練習に励んだ。
25  開花(25)
 「鎌倉グループ」のメンバーは真剣であった。 師である山本伸一の長寿を願う心と広布後継の誓いを、舞を通して伝えたいと、懸命に練習に励んだ。
 その一途な心意気が、日舞の技を、驚くほどのスピードで吸収していった。その上達の早さは、踊りの師匠も舌を巻くほどであった。
 男子は鎌倉武士の正装である狩衣姿で、女子は清楚な小袖に身を包み、凛々しく、優雅に「延年の舞」を舞った。そこには、青年の熱情と伸一の長寿を願う真心があふれていた。
 伸一は、演技が終わると、盛んに拍手を送り、メンバーに言った。
 「ありがとう。君たちの真心が嬉しい。私の長寿を願ってくれている気持ちが、よく伝わってきます。ありがとう!
 私は大丈夫です。これからも、元気に戦い抜きます。そして、戦って、戦って、戦い抜くことによって、健康になっていくという姿を示していきます」
 それから、彼は、同行の幹部に語った。
 「考えてみれば、三十歳まで生きられないと言われていた私が、戦い続け、働き続けて、四十三歳になった。
 それ自体が寿量品に説かれた『更賜寿命』(更に寿命を賜う)の姿であり、延年の実証ではないだろうか。
 仏法は道理だから、健康に留意することは大事です。当然、疲れたらよく休むことです。
 しかし、広宣流布のために、人びとの幸福のために働けば、歓喜が込み上げ、生命力がわき、元気になっていく。だから私の健康法は、戦うことなんです」
 その言葉に、幹部たちは、伸一の烈々たる闘魂に触れた思いがした。
 舞台は、青年部有志による「鎌倉源氏節」に移った。これは、都を追われ、伊豆で雌伏の二十年を過ごして、遂に平氏打倒に立ち上がった源頼朝、そして、義経の心意気を表現したものだ。
 青年たちは、そこに、民衆の勝利の時代を築きゆく、正義の誓いを託したのである。曲も軽快で力強い調べであった。
 この踊りにも、伸一は真っ先に拍手を送った。
 「すばらしいね。青年はいつの時代も、源氏の精神でいこう。創価の旗を掲げて、さっそうと新しい時代を開こうよ」
26  開花(26)
 源氏というと、山本伸一は、胸が躍った。
 平治の乱で源氏は平氏に敗れたが、彼らには、不屈の精神があり、勝利への執念があった。
 なかでも伸一は、若き義経が京都に討ち入り、さらに、一ノ谷、屋島、壇ノ浦で平氏を破っていく痛快な戦いに、心引かれるものがあった。
 伸一は、この「鎌倉祭り」が行われた年の十月に、「義経」と題する詩を発表するが、そのなかで、こう歌っている。
 雲は乱れて堅塞の 峨々と岩壁屹つ一の谷 嵐の前の木の葉にて 人馬踏むべき道もなし
 名うての勇者躊らうも 生死の誉れここなりと 日の出の将に怖れなく 鴇越の奇襲戦
 一ノ谷の合戦を歌ったところである。
 平氏が陣を構えた一ノ谷は、北側に険しい山が断崖となって迫り、南側の海は、平氏の軍船が制圧していた。
 いかに攻めるか――。
 源氏の歴戦の武将たちであったが、″この断崖から攻めるのは無理だ!″″不可能だ″と、あきらめの心をいだいた。
 厳しい状況が、彼らを臆病にした。負け犬根性とは、不可能という重石に縛られ、果敢な挑戦を忘れた心である。
 そうなれば、もはや苦境を切り開いて、勝利の流れをつくることなど、とうていできない。
 だが、宇治川の合戦で木曽義仲を破り、至難の大闘争を勝ち抜いた義経は、決して不可能とは考えなかった。
 彼も、戦いの厳しさは知悉していた。しかし、どんな戦いでも、必ず勝利の道があることを確信していたのである。
 若き闘将・義経は経験は乏しかったが、何ものをも怖れぬ勇気があった。絶対に勝利してみせるという決定した心があった。そして、旭日の勢いがあり、英知の輝きがあった。
 義経は、断崖を鹿が通ると聞くと、ならば馬が通れぬわけがないと、そこから平氏の背後を奇襲する戦法をとった。そして、自ら馬を駆って、断崖を駆け下りた。
 これが、″鵯越の逆落とし″である。
 その勇壮な姿に、皆が奮い立った。全軍に勇気が燃え広がった。
27  開花(27)
 義経の決死の行動に皆が続いた。
 そして、平氏は源氏の猛攻撃を受け、海上に追いやられてしまった。
 義経という青年の勇気が、勝利への執念が、勢いが、知恵が、歴史を転換する力となったのだ。
 山本伸一は、「鎌倉源氏節」の踊りを鑑賞しながら、彼の周りにいた青年たちに言った。
 「青年は、義経のように、自分にとっての″鵯越の逆落とし″の歴史をつくってもらいたい。
 つまり、みんなの惰性や臆病を打ち破り、″こうやれば、わが地域の広宣流布はできるんだ″という自信と確信を与える突破口を開くんだ。それが、青年の使命だよ」
 やがて、踊りが終わった。伸一は、立ち上がって、両手を高く掲げるようにして拍手を送った。
 それから、傍らにいた男子部の幹部に語った。
 「鎌倉には、日蓮大聖人ゆかりの史跡も多い。また、ここには、数々の伝統文化もある。
 鎌倉の未来を考えるならば、若い世代がそれを守り抜いていくことが、極めて大切ではないかと思う。
 その意味から、社会貢献の一環として、青年部が中心となって、たとえば、仮称『鎌倉文化保護連盟』といったものをつくってはどうだろうか。
 後で、皆でよく検討してもらいたい」
 「鎌倉祭り」は、参加者の労をねぎらう伸一のあいさつで、午後六時に幕を閉じた。
 伸一は、すぐに地元の幹部を呼ぶと言った。
 「近隣の方たちに、少しでも早く、御礼に伺ってください。
 やる時だけ、あいさつに行っても、終わった後は、知らん顔をしているようでは、無責任です。
 友好というのは、持続であり、対話の積み重ねです。
 それがなければ、心はとけ合いません。
 むしろ、終了後、いろいろな意見を聞くなどして、次につなげていくことが大事なんです。
 また、私が『くれぐれもよろしく』と言っていたとお伝えください」
 彼は、午後六時半過ぎ鎌倉会館を出発すると、そのまま車で三崎会館へ向かった。
 翌二十三日には、三崎で、第一回「三崎カーニバル」が予定されていたのである。
28  開花(28)
 三崎に向かう車中、山本伸一は思った。
 ″学会の世界には、社会に誇るべき、数多くの無形の財産がある。それを社会に開き、共有化していくのが、これからの時代の大事なテーマだ。その先駆を神奈川が切るのだ……″
 たとえば、万人が仏性を具えていることを教える仏法の生命哲理は、人間の尊厳と平等を説く大原理であり、それが学会員の現実の生き方、行動となって現れている。
 さらに、「真実の幸福とは何か」「人生の苦難を、いかに乗り越えるか」など、人生にとって最も重要なテーマの答えが、学会にはある。
 また、友の悩みをわが悩みとし、その幸福を祈り、励まし、助け合う、慈悲を基調とした確かなる連帯がある。それは、かけがえのない新たな人間共同体といってよい。
 カネやモノを手に入れることが最大の価値となり、精神は荒廃し、人間関係も分断された現代社会にあって、人びとが学会から啓発されることは、あまりにも多い。
 それを、積極的に社会に開き、貢献していこうというのが、伸一の考え方であった。
 その具体的な展開の場が、それぞれの住む地域であると、彼は結論していたのだ。
 鎌倉のメンバーは、その伸一の心を知り、地域貢献の先駆けとして、この催しに全力で取り組んできたのである。
 信心を根本に、地域、社会を担い立つ使命を自覚し、行動を起こす時、自らの境涯を飛躍させ、大きな力を発揮することができる。それが仏法の原理である。
 そこに「鎌倉祭り」の大成功もあったのだ。
 ドイツの作家ブレヒトは、平和のために、真実を全世界に向かって訴える場合、「隣人はその隣人に呼びかけねばならない」と述べている。
 伸一は、明日の「三崎カーニバル」も、きっと成功するにちがいないと確信していた。ただ、気がかりなのは天候であった。明七月二十三日の予報は、「曇時々晴、夕方俄雨」である。
 伸一が三崎会館に到着し、しばらくすると、雨が降り始めた。
 彼は、明日は雨がやむように真剣に唱題した。
 このカーニバルを迎えるために、メンバーがどれほど苦労してきたか、彼はよく知っていた。
29  開花(29)
 三浦市三崎は、マグロ漁船の基地として知られているが、地元の人びとの多くは、半農半漁で、沿岸漁業に従事している人が多かった。
 神社仏閣の祭事も盛んで、三十人ほどが集まり、大きな数珠を回す念仏講の儀式なども行われていた。
 旧習の深い地域であったが、草創の同志は勇んで折伏に歩いた。
 しかし、創価学会と聞くと拒否反応が激しく、時には水を撒かれたり、天秤棒を振りかざして追われることもあった。
 それでも同志は御聖訓の通りの難と受け止め、粘り強く仏法対話を続けていった。
 マグロ漁船が帰港すると、親しくなった乗組員にも弘教の手は伸びた。
 仏法の話をすると、こう語る人もいた。
 「俺は、北海道でさんざん信心をするように言われ、それがいやで、逃げようと思って北海道を離れたんだ。それなのに、なんで、ここまで来て、また学会の話を聞かなければならんのだ」
 すると、すかさず、学会員は切り返した。
 「それを仏縁というんです。もう、腹を決めるしかない。あなたは、この信心をして、幸せになるために生まれてきたんですよ」
 その乗組員は、仏法対話の末に、入会を決意した。「三崎に来た人には、一人残らず、仏法を教えて幸福にしたい」というのが、メンバーの決意であった。
 ボルテールは言った。
 「徳とはなんであるか。隣人にたいする善行である」。その姿が学会にあった。
 一九六五年(昭和四十年)には、三崎支部が誕生。その後、城ケ島支部も結成され、ブロック制に移行していった。
 伸一は、三浦半島の先端である三崎の広宣流布に、重要な意味を見いだしていた。
 初代会長の牧口常三郎は、半島について『人生地理学』のなかで、「初代の文化の転送は、半島の一天職にはあらざるか」と述べている。
 つまり、半島には新しい文化を伝える″天職″があるというのだ。
 さらに、半島に住む人びとの先駆性にも着目している。大陸に先んじて半島の人びとが覚醒することから、半島の国民は「文化の起発点」として賞讃されてきたことを述べているのである。
30  開花(30)
 アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが、一八五三年(嘉永六年)に来航したのも、三浦半島の浦賀であった。
 浦賀は江戸の″喉元″に位置することから、ペリーは、ここに艦隊を進めたのだ。
 それによって日本は、鎖国の扉を開き、開国に踏み切ったのである。
 いわば、三浦半島から近代日本の新たな歴史が開かれていったといってよい。
 山本伸一は、広宣流布の展望のうえからも、三浦半島のもつ大きな役割に着目していた。
 「広布新時代の起発点」というのが、伸一の三浦半島への期待であった。
 特に、旧習も深い三崎で、地域友好のモデルケースを創り上げることができれば、それは、全神奈川に、さらに東京に、そして、全国に波及していくにちがいない。
 そこで伸一は、三浦半島の付け根の鎌倉と、先端の三浦市三崎で、地域に開かれた催しを行うことにしたのである。
 三崎のメンバーも、伸一の思いを深く理解し、新たな活動に挑戦した。
 同志たちは、こう話し合った。
 「設営や催しの準備は大事だが、肝心なのは、どれだけ地域の人たちが参加するかだ。演技や設営がどんなにすばらしくとも、それだけでは自己満足に終わってしまう」
 「せっかくカーニバルをやるからには、地域中に声をかけよう」
 「中途半端では、学会理解の最大のチャンスを棒に振ることになる」
 広宣流布が進むか、どうかの決め手は、一つ一つの行事に、どこまで徹して取り組むかである。
 同じ行事を行っても、表面的な形だけの取り組みでは、上滑りに終わってしまう。それでは空転である。
 一回一回の会合等を、無事故で大成功させていくことが、勝利への勢いを加速する。
 三崎の同志は、全友人に参加してもらおうと真剣だった。
 しかし、友人のなかには、こんなことを言う人もいた。
 「学会がカーニバル?そんな甘い言葉にのるもんかい。一歩足を踏み入れたらよー、入会するまで帰さんつもりだろう」
 甚だしい邪推であり、誤解だ。断じて、晴らしてみせる――同志は、ますます闘志を燃え上がらせた。
31  開花(31)
 三崎の同志たちは、地域の交流と発展のために「三崎カーニバル」を行うことを、地域の人たちに懸命に訴えて歩いた。しかし、ほとんど色好い返事はもらえなかった。
 メンバーは、たとえ、いやな顔をされても、ニッコリと微笑むことを忘れなかった。そして、その後も、さわやかなあいさつを交わし続け、対話を重ねた。
 その誠実さが、春の太陽が雪をとかすように、誤解に基づく学会への先入観を、ゆっくりととかしていったのである。
 ゲーテは言う。誠実さこそが「最高の財産なのだ」と。
 総ブロック長をしている岡村昇太も、男子部の幹部らとともに、地域の人びとの家を何十軒も回った。
 地域の有力者である、漁業協同組合の役員の家も訪ねた。最初、その役員は、出席をためらっていた。
 岡村は、彼とは親しかったこともあり、何度も足を運び、学会が地域の繁栄と皆の幸福を真剣に願っていることを語り抜いていった。
 その役員は、岡村の熱心な訴えに、断りきれなくなってしまった。
 「しょうがねえな」
 渋々ながら、参加を約束したのである。
 誤解と偏見から生じた学会と社会との溝を埋めていったのは、粘り強い対話であった。
 山本伸一は、そうした三崎のメンバーの苦闘を耳にしていた。
 また、カーニバルを迎えるにあたって、合唱や楽器演奏、踊りなどの練習に汗を流し、模擬店等の準備にも大奮闘してきたことも聞いていた。
 だから伸一は、皆のことを思うと、翌日の晴天を祈らずにはいられなかったのである。
 「三崎カーニバル」当日の七月二十三日を迎えた。朝から、雨が降ったりやんだりしていた。
 開会は夕刻である。
 伸一は、晴天を深く祈った。地元のメンバーも婦人部を中心に、懸命に唱題に励んでいた。
 仏法では「一心法界」と説く。わが心に、宇宙のすべてが収まっているのだ。だから、自分たちの祈りの一念で雨を晴らせないわけがないというのが、皆の決意であり、確信であった。
 そして、なんと、午後の最終リハーサルが終わりかけたころ、雨は完全にあがった。
32  開花(32)
 山本伸一は、会館の窓から空を見た。青空が見え、太陽が輝いていた。
 だが、晴れているのはこの一角だけで、周囲には雲が垂れこめていた。
 彼は、同行していた妻の峯子と語った。
 「空を見てごらん。この辺りだけ、きれいに晴れているよ。諸天も守ってくれているね」
 午後の三時半過ぎ、伸一は準備にあたるメンバーの激励のために、周囲を回り始めた。
 盛夏の到来を感じさせる強い日差しであった。
 彼は、崖になっている会館裏手の急な階段を下りた。この崖の下に広がる浜辺が、「三崎カーニバル」の会場である。
 そこは、相模湾に面した諸磯湾内にあった。
 三百メートルほど先の対岸の油壺は、かつて戸田城聖が、女子部の華陽会の野外研修で訪れた緑のある場所である。
 浜辺には、舞台が設置され、模擬店が並び、大勢の役員が準備にあたっていた。
 「ありがとう! 晴れてよかったね」
 伸一は、皆に声をかけながら励まして歩いた。
 運営にあたっていた、男子部の中心者を見ると、彼は確認した。
 「近隣へのあいさつは終わっているね」
 「はい。大丈夫です」
 「そうか。向こう岸の方たちにも、あいさつはしたね」
 その言葉を聞くと、男子部の幹部は、ハッとした顔をした。
 「すみません。まだです。すぐに行ってまいります」
 彼は、即座に駆け出して、あいさつに向かった。
 伸一が役員を励まして歩いていると、やがて、その幹部が戻ってきた。
 「行ってまいりました」
 伸一は語った。
 「どうもご苦労様!運営する側に、油断があってはいけないよ。
 こうした行事では、地域中にあいさつし、招待して、ともに楽しんでもらうことが大事になる。
 声をかけられなかったお宅は、寂しい思いをするだろうし、また、わいわい騒いでいれば、近所迷惑だと感じるだろう。それでは、なんのための催しかわからない。
 あいさつ一つ、配慮一つで、同じ行事を行っても、結果は全く異なってくる。
 だから幹部は、鈍感であってはならない。細かいところまで気を配っていくんだよ」
33  開花(33)
 山本伸一は、地域友好のための基本を一つ一つ教えていった。
 彼は、観客席の中央にある、ビーチパラソルを見ると、運営に当たっていた男子部の役員に尋ねた。
 「これは誰の席だい」
 「はい、先生に座っていただくお席です」
 「これは必要ありません。今日は、地域の皆さんがお客様です。私も、おもてなしする側です。撤去してください」
 午後四時半ごろには、会場の浜辺は人びとで埋まった。家族連れの姿も目立った。
 伸一は、来賓たちを丁重に迎えた。
 「いつも、お世話になっております。地域を繁栄させ、皆を幸せにしていきなさいというのが、仏法の教えなんです。
 地域でお困りのことはなんでしょうか。私どもも、一緒に解決の道を探ってまいりたいと思います。皆様とともに、三崎の大発展のために、尽力させていただきます」
 伸一の話を聞くと、皆が安心できた。学会の運動の目的が、よく理解できたからだ。
 アメリカの女性で、初のノーベル平和賞を受賞したジェーン・アダムズは語っている。
 「近隣の人たちの力になれることは、どんなことでも手を差し伸べよう」
 それは伸一の真情でもあった。
 午後五時前、第一回「三崎カーニバル」の第一部が開演になった。
 海岸には、「ジャンボ三崎カーニバル」と書かれた舞台がつくられていたが、演技は、砂浜も使って行われた。
 まず、女子部のフラダンス、アロハシャツ姿の少年部員とムームー姿の少女部員によるハワイアンの合唱と続いた。
 寸劇や、壮年、婦人の「三崎甚句」の歌と踊りもあった。多彩に、愉快に、演技が繰り広げられていった。出し物が終わるたびに、大拍手と喝采が天に舞った。
 近隣の人たちのなかには、楽しく一緒に踊り出す人もいた。
 伸一が演技に見入って声援を送っていると、役員の一人が叫んだ。
 「先生、向こうをご覧になってください! 富士が見えます!」
 海の方向は、つい先ほどまで厚い雲に覆われていたが、空が晴れ、くっきりと富士の雄姿が浮かび上がっていた。
34  開花(34)
 地元の有力者たちが、語り合っていた。
 「学会が、こういう催しを行ってくれるとは思わなかったな。みんなの心が一つに結ばれたような気がする」
 「そうだな。学会の青年たちは、実に真面目で、地域のことを一生懸命に考え、行動してくれていたんだな。頼もしいかぎりだ」
 「漁業も、農業も、今はどこも後継者不足だ。そのなかで、これだけの青年を立派に育てているのは、もはや学会しかないかもしれないな」
 いかなる青年が育っているのか。どれだけの青年が、喜々として社会の建設に取り組んでいるか――それこそが力の証明といえよう。
 やがて、第二部に移っていった。浜辺には、かがり火がともされ、南国情緒が増していった。
 バンド演奏や、「城ケ島の雨」の独唱などに続いて、高等部員によるダンスが披露された。若々しい躍動感がみなぎっていた。
 さらに、″浦島太郎″に扮した凛々しい少年部員が、大きなウミガメに乗って砂浜に登場した。
 カメは体長百三十センチ、重さ二百五十キロもある本物のアカウミガメであった。
 地元のメンバーが、飼育していたカメを提供してくれたのだ。
 ″浦島太郎″は元気にあいさつした。
 「あまり浜辺がにぎやかで楽しそうなので、思わず竜宮城から帰ってきました。
 今日は山本先生をお迎えして、三崎カーニバルとのこと。まことにおめでとうございます。
 乙姫さまも、山本先生に、『くれぐれもよろしくお伝えください』とのことでした」
 かわいらしい演技に、どっと笑いが起こった。
 ″浦島太郎″は、それから伸一の前に進み出ると、手にしていた玉手箱を伸一に差し出した。
 なかには、魚や貝など、海の幸が入っていた。三崎の同志の心づくしの土産であった。
 伸一は、それを受け取ると、″浦島太郎″の頭を撫でながら言った。
 「ありがとう。乙姫さまによろしく!
 ″浦島君″は、勉強もしっかり頑張るんだよ」
 ここで、全員で、「浦島太郎」の歌の合唱となった。明るい歌声が浜辺に響きわたった。
 誰もが楽しそうに熱唱した。
35  開花(35)
 「浦島太郎」の歌の合唱が終わると、海上に横幕が広がった。
 そこには、夕日を浴びて、「三崎の繁栄のために頑張ります」との文字が躍っていた。
 伸一は、地域建設の使命を自覚し、郷土の繁栄のために貢献していこうとする、メンバ ーの決意に頼もしさを覚えた。
 彼はマイクを握った。
 「三崎の皆さん、第一回の三崎カーニバル、大変におめでとうございました。非常に楽しい、また有意義なひと時を過ごすことができました。
 来年も第二回のカーニバルを、ここで開催し、一緒に楽しんでまいりたいと思いますが、いかがでしょうか」
 歓声と賛同の大拍手がわき起こった。皆が心から喜んでいるのだ。
 そして、伸一は、こう話を結んだ。
 「三崎の繁栄と、三崎の方々のご健康を、衷心よりお祈り申し上げます。本日は、まことにありがとうございました」
 あいさつを終え、しばらくすると、伸一は会館に続く急階段を上がっていった。
 途中、何度も振り返りながら、浜辺の友に手を振った。空は、夕焼けに赤く染まっていた。
 会館の中に入ると、伸一は、青年部の幹部らに語りかけた。
 「地域の方たちも、みんな喜ばれていたね。これから大事なことは、青年が地域に対して、どう貢献していくかだ。
 今、社会では、青年は地域から離れつつある。このままでは、地域社会は、どんどんすたれていってしまう。
 だから、学会の青年部が先頭に立って、地域の繁栄のために、積極的に行動を起こしていかなければならない。
 そのために、青年部が中心になって、地域の文化や産業などを守り、発展させることを目的とした、社会的な団体を結成してはどうだろうか」
 「はい。大切だと思います。検討いたします」
 青年たちは、目を輝かせながら頷いた。
 地域社会の要請を青年が敏感に感じ取り、先取りしていってこそ、新しき時代は開かれる。
 ゲーテは歌った。
 「世の人みな臆しためらうとも、雄々しく起ちて事をなせ」
 三崎の地域貢献をめざして創価の青年たちは、意気揚々とスタートを切ったのだ。
36  開花(36)
 「鎌倉祭り」と「三崎カーニバル」は、地域友好の突破口を開いた。
 御聖訓には、「竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るる」と仰せである。一カ所、勝利の国土が築かれれば、皆がそれを模範として続くのである。
 九月初めには、滋賀県の琵琶湖で「びわこ祭り」が、また、十月初めには神奈川県の箱根で「箱根すすき祭り」が盛大に開催されている。
 伸一は、いずれの行事にも出席し、自ら地域、近隣の人びととの交流に努めた。そして、それぞれの催しが、地域の伝統行事となっていくように望んだのである。
 また、伸一の提案を受けて、「鎌倉文化保護連盟」「三崎青年文化連盟」が結成されたのは、十月五日のことであった。
 文化の開花をもって地域貢献をめざす、新たな運動が開始されたのだ。
 これが、全国の青年部員に大きな触発をもたらし、やがて各地に、社会貢献のための団体が誕生していくことになるのである。
 「地域友好の精神は、あたかも雪だるまのように、どんどん大きくなり、加速度的に勢いを増して、地球全体をも包む」とは、ガンジーの言葉である。
 三崎では、一九七三年(昭和四十八年)の七月二十五日、第二回の「三崎カーニバル」を開催した。この主催は、「三崎青年文化連盟」と「鎌倉文化保護連盟」等の団体であった。
 地域友好の行事を成功させるには、さまざまな場面で、地域の人びとの協力が不可欠である。
 第二回のカーニバルを、最も積極的に応援してくれたのが、最初のカーニバルに参加し、学会員の真剣な姿に触れ、催しの趣旨を深く理解した、漁業協同組合の役員であった。
 彼らは、必要とあれば、一緒に地域の人びとの家にまで足を運び、その意義を説明し、懸命に協力を呼びかけてくれもした。
 共感と信頼に結ばれた理解者の存在は大きな力となる。その輪の広がりこそが、人権と平和の連帯を築く広宣流布を決定づけていくといえよう。
 第二回のカーニバルは規模も内容も一段と充実し、市民行事として盛大に開催されたのである。
37  開花(37)
 山本伸一は、第二回の「三崎カーニバル」にも招かれて出席した。
 ここでは、千五百人を超える市民が、喜々として集い、模擬店で舌鼓を打ち、歌や踊りを楽しんだ。
 やがて日が暮れると、花火が夏の夜空に打ち上げられた。次の瞬間、海上には、サーチライトに照らされて、高さ三メートルほどの巨大なタコの飾り船が出現した。
 それを追いかけるように、タイや竜宮、浦島太郎など、色鮮やかな飾り船が続いた。岸辺に大喝采が起こった。
 これは、地元の青年たちが、三崎の繁栄と大漁の願いを込めて作ったものだ。
 三崎は、マグロ漁の港として知られているが、町の未来を考えると、観光にも力を注ぐなど、新たな活路を開くことが求められていた。
 青年たちは、そのためにも、カーニバルを充実させ、地域の伝統になっていくような、特色のある企画を考えていかなくてはならないと思った。
 そして、青森の伝統行事である″ねぶた″に着目したのである。
 ″竹や木の枠に紙を張って作った、あの人形などの大灯籠を応用することはできないか……″
 話し合いの結果、三崎らしく魚などの灯籠を作り、船にのせ、海上を走らせようということになったのである。
 青森から″ねぶた″の職人を招き、真剣に技術を学んだ。その奮闘の成果が海上を飾ったのだ。
 ユーモラスな飾り船は大好評であった。地域を担い立とうとする青年の知恵と情熱が咲かせた、海の花であった。
 伸一は、「世の中のどんな偉業も情熱なしには成就されなかった」との、ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉を思い出していた。
 この第二回のカーニバルが行われた翌日、伸一が出席して、三崎会館の庭で、横須賀総合本部の最高会議が行われた。その席上、全国に先駆け、三崎のある三浦市に地域長制を設けることが発表された。
 地域長は、市などの単位で、その特色を生かしながら、地域広布を考えていくための中心者である。三崎を地域建設のモデルにしたいとの思いから、伸一が提案したものであった。
38  開花(38)
 三浦市の初代地域長に任命になったのは、地元で副総ブロック長として活躍してきた西崎厳太という壮年であった。
 西崎は、高知県の出身で、戦争中は志願兵となった。国に命を捧げるつもりであった。だが、日本は戦争に敗れた。
 一途な軍国青年だった西崎は、激変する戦後の社会に、生きる希望も、目的も、見いだすことはできなかった。
 彼は、自暴自棄になっていった。二十代半ば、人生を捨てるような気持ちで、三崎に来てマグロ漁船に乗った。
 仕事は重労働であったが、金にはなった。やがて三崎で所帯をもった。
 仕事は体にこたえた。八年ほどで船を下り、漁船員を相手に雑貨商を始めた。船に出向いて日用品を売るのである。
 西崎は、漁船に乗っているころから、同僚の学会員に、仏法の話を聞かされてきた。
 しかし、神も仏もあるものかとの思いで、戦後の混乱期を生きてきた彼は、宗教の話には、いっさい耳を貸さなかった。
 西崎が船を下りてからも、その学会員は、彼の家に足繁く通ってきた。居留守も随分つかった。
 怒鳴って、追い返しても、学会員は、また笑顔でやって来た。
 「西崎さん、この信心をすれば、絶対に、あんたも幸福になれる!」
 そう言い続ける学会員に、西崎は、自分にはない熱意と確信を感じた。と同時に″俺が信心をすると言えば、もう俺のウチには来なくなるだろう″との考えも働いた。
 「わかった。創価学会に入ればいいんだな」
 西崎は家族とともに入会した。一九五八年(昭和三十三年)一月のことである。
 学会員は、わが事のように喜んでくれた。
 そして、入会したその日から、勤行だ、折伏だ、教学だと、学会員が、ますます頻繁に訪ねてくるようになったのだ。西崎の誤算であった。
 しかし、言われるままに、勤行・唱題するうちに、持病の扁桃腺の腫れが治まり、痛みが消えていることに気づいた。
 ″信じられん……。しかし、実際に功徳があった。これは、侮るわけにはいかんぞ。
 それに信心をしてから毎日が楽しい。本格的に信心をしてみるか″
 生命の実感は、百万言の理論に勝るものだ。
39  開花(39)
 西崎厳太は一本気な男であった。こうと決めたら、とことん突き進んだ。
 妻の昭子と、一生懸命に折伏・弘教に歩いた。訪問先で追い返されることも、しばしばあった。
 だが、自分も学会員を追い返してきた彼は、これが当たり前だと思い、微動だにしなかった。
 しかし、その西崎が、仕事でつまずいた。
 彼の商売は、マグロ漁に出かける漁船員に、先に商品を渡し、帰って来た時に金を受け取る″掛け売り″であった。
 人のよい西崎は、商品は売ったものの、集金がうまくいかなかったのである。
 商売を始めて四年ほどした時には、莫大な借金を抱え、行き詰まってしまった。
 心のどこかに、″信心をしているから大丈夫だろう″という思いがあったのだ″油断である。
 借金を返せる当てはなかった。
 ″もう、夜逃げをするしかない……″
 しかし、唱題に励むうちに、彼の考えは変わっていった。
 ″俺はこれまで、三崎の人たちを折伏して歩いた。その俺が逃げれば、誰も学会員の言うことを信じなくなる。三崎の広宣流布は遅れる。
 俺は学会員だ。創価学会の西崎だ。広布のために三崎に骨を埋めるんだ。断じて、逃げるわけにはいかん!″
 創価学会員であるという誇りが、夜逃げを思いとどまらせた。
 ″逃げも隠れもせず、迷惑をかけたところに、一軒一軒お詫びに歩こう。そして、わずかでも月々、返済していくことで了承してもらおう″
 しかし、行動には勇気が必要であった。その勇気を奮い起こすために、彼は懸命に唱題した。題目は勇気の源泉である。真剣に祈れば心が決まる。力がわき上がる。
 古代ローマの哲人セネカは記している。「最高の善は砕けることのない心の強さ」であると。
 彼の要請を債権者たちは、どうにか承諾してくれた。西崎の誠実な姿勢を認めてくれたのだ。
 誠実こそが、人の心の巌を動かす。
 借金を返すには、新しい商売を始める必要があったが、そのための資金はない。しかし、倉庫には、売れ残った缶詰がたくさんあった。彼は、それで、食料品店を開けないかと考えた。
40  開花(40)
 西崎厳太の再起を応援してくれたのは、三崎の友人たちであった。
 食料品店の店舗にする建物を、低額で借りられるように家主と交渉してくれたり、銀行から資金を借りる際にも応援し、力になってくれた。
 西崎は、地域の人たちに深い恩義を感じた。広宣流布に生きようとする彼の一念が、法華経の行者を守護する諸天善神を動かしていったのだ。
 彼は必死で働いた。当初は売り上げも少なかった。借金の返済が滞ることもあった。仏壇にすがりつき、揺さぶるような思いで、男泣きしながら懸命に祈った。
 ″御本尊様、地域広布を成し遂げるために、私に財力をください!″
 広宣流布の力になりたいという強い決意が、彼を支えた。
 商品を売るために、日々、知恵も絞った。
 しばらくすると、周辺にどんどん住宅が建てられ、商売は繁盛していった。そして、十年足らずで莫大な借金も完済することができたのだ。
 社会は激動している。事業の失敗もあろう。しかし、決して自分に負けないことだ。
 人間は、事業に負けるのではなく、自分に敗れる。落胆、逃避、自暴自棄……。その心が自身を滅ぼしてしまう。
 信仰とは、自らを励まし、奮い立たせる、精神の究極の力である。
 見事に、雄々しく再起した西崎は、以前よりも信用を増していった。
 その彼が三浦市の地域長になったのである。
 地域長の人事が発表されると、山本伸一は西崎に声をかけた。
 「地域長は、地域広布を推進し、人びとを結ぶ″友好の名士″です。皆を幸福にする責任をもつ″幸福の市長″です。
 どこまでも、信心を根本に、社会の興隆の要となって地域を繁栄させ、模範の楽土をつくりあげていってください。私も全力で応援します」
 「はい!」
 西崎は、地域の人びとへの恩返しのつもりで、この地に人間共和の楽土を築こうと、心に誓っていた。
 さらに、伸一は、西崎に和歌を贈った。
 ほまれある 三浦の地にて 君ぞ立て 師子の子なれば 今日も恐れず
41  開花(41)
 三崎カーニバルは、その後も回を重ね、地域興隆の新しい道を開いていった。
 山本伸一は、地域長の西崎厳太と約束したように、三浦を地域友好と社会貢献のモデル地域にするために、応援を惜しまなかった。
 三崎会館を訪れた折には、よく自転車で周辺を回っては、地元の店に立ち寄り、対話を交わし、地域の人たちとの交流を深めていった。
 気さくに声をかけ合う、何人もの友人ができた。そのなかには、伸一の人格に共感し、入会した人もいた。
 さらに伸一は、三崎の同志が経営する店や家も訪問し、激励を重ねた。
 後年のことになるが、西崎の食料品店にも足を運んでいる。
 また、三崎青年文化連盟は、三崎カーニバルの推進のほか、教育セミナーや地域映画鑑賞会の開催、老人ホームへの慰問、花の贈呈運動など、地道な地域貢献の活動を続けていった。
 そうした貢献に対して三浦市などから表彰もされている。
 この第一回「三崎カーニバル」が行われた一九七一年(昭和四十六年)ごろから、学会の青年たちは、全国各地で、自分たちは地域のために何ができるかを考え、自主的に、さまざまな催しや運動を展開していった。
 地域の安全を守ろうと、夜回りを始めたメンバーもいた。自然保護や環境保全のために
 ″守る会″を結成し、地域の清掃や環境整備等を行うようにしたところもある。
 緑化運動を進める地域もあれば、伝統文化を守るために立ち上がった青年たちもいた。
 それが地域に定着し、実りをもたらすには、長い歳月を必要とする。まさに持続の戦いである。
 青年たちは″自分たちの地域は私たちが守る。この地域を必ず繁栄させてみせる。それが、仏法を持った者の使命だ″との決意に燃えていた。
 そして、仕事や勉学、学会活動の合間を縫い、地道に粘り強く、社会への貢献を重ねていった。
 その姿を通して、多くの地域で、学会への理解が深まり、皆が共感と賞讃を寄せるようになっていったのである。
 民衆とのつながりを失わないかぎり、無敵なのだ――それは、ガーナ建国の父・エンクルマ大統領の信念であった。
42  開花(42)
 この一九七一年(昭和四十六年)の夏季講習会は、七月二十九日から八月二十七日まで、合計十三期にわたり、十万人が参加して、総本山大石寺で盛大に開催された。
 講習会では、少年・中等部を除いて、各部とも二日間にわたって「立正安国論」を研鑽した。さらに唱題会もふんだんにもたれ、本格的な信心修行の場となった。
 その間、山本伸一も総本山にあって、陣頭指揮をとっていたのである。
 高等部の夏季講習会が行われていた、八月五日のことであった。
 この日、大型の台風十九号が九州地方を北上し、激しい風雨のために、死者や負傷者が続出し、床上浸水などの被害も広がっていた。
 総本山周辺も断続的に強風をともなった雨が降り続き、時とともに激しさを増していった。しかし、高等部員は、はつらつと御書講義や雄弁大会などに参加していた。
 午後六時ごろであった。総本山の雪山坊にいた山本伸一のもとに、一人の幹部が、慌てた様子でやってきた。
 「先生! たった今、富士宮の市長から登山部長のところに電話が入りました。
 近くの朝霧高原でボーイスカウトの世界ジャンボリーが行われていますが、台風で危険なので、参加者を六千人ほど、こちらに避難させてもらえないかという要請です」
 総本山には、七千人の高等部員がおり、どの宿坊もいっぱいである。多数の避難者を受け入れれば、大混乱になりかねない状況であった。
 しかし、それを聞いた伸一は、間髪を入れずに言った。
 「世界から集って来た少年たちが、台風で大変な思いをしているんだ。受け入れるのは、人間として当然です。直ちに、万全の準備をして、受け入れるようにしたい。
 講習会の行事は変更して、大講堂や大化城も開放するようにしよう。
 すぐに宗務院と連絡を取り、私たちの意向を伝え、相談してください」
 個人であろうが、国家であろうが、信頼の基盤となるものは、″相互扶助の精神″である――というのが、アインシュタインの主張であった。
 仏法は生命の尊厳を説いている。ゆえに人命を守り、人間を大切にすることこそ、仏法者の根本義でなければならない。
43  開花(43)
 学会の登山部長をしている平原恵介が、直ちに宗務院と連絡を取った。
 電話に出た宗門の渉外部長は言った。
 「こちらにも富士宮市長から、同じ要請がありましたよ。どうしましょうかね」
 「ぜひ、受け入れさせてください。また、大講堂などを開放するようにお願いします」
 「そうですか。大変なことになりましたな。では、検討して、後ほど、折り返し電話をします」
 ほどなく連絡がきた。
 「こうした事態ではやむをえませんね。まあ、受け入れるしかないでしょう。
 以前、ジャンボリーの運営本部から、何かあった時の緊急避難先にしてほしいという話あったんですが、まさか、現実になろうとは……」
 「えっ、そんな話があったんですか!」
 平原は、憮然とした。
 ″ジャンボリーの開催日程は学会の夏季講習会と重なっているのだ。当然、宗門は、その時点で学会と連絡を取るべきではないか。
 連絡があれば、学会としては、そのための万全な構えを整えて、夏季講習会を行っていたはずである……″
 連絡、報告の漏れや不正確さは、物事を破綻させる元凶となる。だが、そのことに気づかず、安易に考えてしまうところに恐ろしさがある。
 平原は″なぜ、すぐに連絡をくれなかったのですか″と言おうとしたが言葉をのんだ。事態は急を要していたからだ。
 宗門の渉外部長は「あとは任せますので、学会の方で責任をもってやってください」と言って、電話を切った。
 ロシアの哲学者ベルジャーエフは訴えている。
 「自己の救いとは、隣人を救い、他人を救い、この世を救うことがあってこそ、はじめて可能なのである」
 それから平原は、すぐに富士宮の市長に電話で連絡を取り、受け入れることを告げた。
 市長は言った。
 「本当に助かります。 早速、バス三十五台でピストン輸送します」
 世界ジャンボリーは、世界各国のボーイスカウトがともにキャンプをしながら、相互理解と友情を深め合う大会である。
 静岡県富士宮市の朝霧高原で行われたこの大会は、日本での初めての開催であった。
44  開花(44)
 朝霧高原での世界ジャンボリーは、八月二日から十日までの予定で開催され、世界八十七カ国・地域から二万三千人のボーイスカウトが集ったのである。
 初日の二日は、好天のなかで幕を開け、鮮やかな富士の雄姿を仰ぎ見ることができた。
 三日夜も、十三夜の月が冴え渡っていた。
 しかし、四日の夕刻から、激しい雨が断続的に降り始め、台風十九号の接近にともない、次第に風も強まっていった。
 野営地は標高七二〇メートルから八六〇メートルに位置していた。
 豪雨は濁流となって草原を駆け下り、テント内に浸水。窪地には五十センチを超す水が溜まったのである。
 五日の未明には、テントを移動したり、ほかのテントに緊急避難するなど、野営地は大騒ぎとなった。
 ずぶ濡れになって避難する少年たちは、寒さに震えていた。
 夜が明けると、風雨はさらに激しさを増した。
 浸水したり、強風に吹き飛ばされるテントが続出した。ほぼ水没した野営地もあった。
 五日の午後四時から、世界ジャンボリーの運営本部では緊急会議を開いた。暴風雨は、翌日まで続くと判断せざるをえなかった。
 被災したメンバーについては、安全な場所に避難させるしかない。避難が必要な人数は参加者全体の四分の一にあたる約六千人である。
 そんな大人数を、緊急に受け入れてくれるところがあるだろうか。大石寺には、事前に頼んだが回答はなかった――運営本部の関係者は、祈るような気持ちであった。
 常に不測の事態を考慮し、万全を尽くしておくことは、リーダーの責務といってよい。
 「避難させたい」との運営本部の決定を受け、早速、静岡県、富士宮市、自衛隊、バス会社が運営本部と合流して、「緊急待避対策本部」が設けられた。
 そして、富士宮の市長を通じて、一括収容が可能な大石寺に、避難場所を提供してほしい旨の要請をしたのである。
 学会側から、受け入れ了承の連絡が入るや、バスを使って、直ちにボーイスカウトの大石寺への移動が始まった。
45  開花(45)
 避難者の受け入れが決まると、大石寺の雪山坊にいた山本伸一は、幹部たちに言った。
 「避難して来るボーイスカウトのメンバーは、ずぶ濡れになり、さぞかし心細い思いをしているにちがいない。
 だから、みんなで盛大に歓迎しよう。
 温かいシャワーも使えるようにして、毛布の用意もするんだ。
 大講堂の一階には、机やイスを出し、電話も引いて、ボーイスカウト受け入れの歓迎指揮本部を設置しよう」
 彼は、矢継ぎ早に指示すると、雪山坊を飛び出し、車で総本山の売店に向かった。
 時計の針は、午後六時十分を指していた。
 風雨は、車の窓ガラスを叩きつけるように激しく打っていた。
 売店に着いた彼は、販売しているタオルに手を伸ばしながら尋ねた。
 「これは一束で何枚になっていますか。全部で何枚、用意できますか」
 いつもは笑顔で、包み込むように声をかけてくる伸一だが、切迫した声であった。
 売店の人が、緊張した表情で答えた。
 「とりあえず、これで八百枚です」
 「わかりました。これは、全部、購入します」
 伸一は、雨に濡れたボーイスカウトには、まず最初に必要なのはタオルであると考え、自ら購入に走ったのである。
 配慮とは、相手の立場に立ってものを考えることから始まる。そこから″かゆいところに手が届く″ような、的確な対応が生まれる。
 瞬間、瞬間、相手を思い、最大の誠意を尽くすなかに、人間性は輝きを放つのである。
 伸一は車を運転してくれている青年に言った。
 「タオルを積んだら、大至急、数息洞に向かってください!」
 数息洞は、普段は、参詣者の休憩施設として使われてきた建物で、避難者の第一陣を、まず、ここに受け入れることにしていたのである。
 朝霧高原から大石寺までは、車で二十分ほどであり、伸一が数息洞に着いた時には、ちょうど、第一陣のメンバーが到着した時であった。
 バスから降りてくるボーイスカウトたちは、雨で、びしょ濡れになり、靴や足は泥まみれになっていた。疲れて、ぐったりとした少年もいる。
46  開花(46)
 山本伸一は、ボーイスカウトの少年たちに、快活に声をかけた。
 「ようこそ! 皆さんを歓迎します」「安心して、くつろいでください」「どうか、風邪をひかないように!」――こう一人ひとりに語りかけながら、用意したタオルを手渡していった。
 そこに、ボーイスカウトの日本連盟の理事長がお礼にやって来た。
 「このたびは、緊急にもかかわらず、受け入れていただき、本当にありがとうございます」
 伸一は、笑顔で包み込むように言った。
 「大変でしたね。
 世界各国から来られた未来を担う人たちです。私どもも、全力で応援させていただきます。
 雨に濡れたので、風邪をひく人が出なければよいと願っています。
 食料も、毛布も用意します。シャワーも利用できるよう手配しております。私どもの友情です」
 こう言って差し出した伸一の手を、理事長は感無量といった顔で、強く、強く握りしめた。
 窮地という闇夜に光るのは、人を思いやる心と行動である。それは、人への尊敬から発する、誠実の火といってよい。
 アメリカの第三十二代大統領の夫人エレノア・ルーズベルトは、「文明社会のあらゆる人間関係の基となっているのは、相互の尊敬である」と述べている。
 それから伸一は、大講堂に向かった。雨は断続的に降り続いていた。
 大講堂の前に立つと、伸一は言った。
 「これからメンバーが次々と大講堂に到着することになるから、この周辺に歓迎のかがり火をたこう。
 みんな、元気が出るし、安心するから。すぐに用意をしよう!」
 大講堂のロビーには、トレニアとイスが運ばれ、歓迎指揮本部がつくられていた。
 「ここには、誰にでもわかるように、大きく『指揮本部』と書いて張り出そう。英語でも書くんだよ。
 ところで、今、大講堂でやっている会合は?」 役員の青年が答えた。
 「午後六時から、高等部の全国部員会が行われています」
 「ここにもボーイスカウトを収容することになるので、少し早めに終わってもらおう。国境、民族を超えた国際友情のためだもの」
47  開花(47)
 山本伸一は、さらに、こう提案した。
 「ボーイスカウトは世界から集まって来ているんだ。高等部の語学委員会や英語ができる
 メンバーで通訳団をつくろう。言葉が通じないほど不安なものはないからね。 大至急、高等部員に協力を呼びかけてほしい」
 伸一の指示を受けて、幹部が走った。
 高等部の全国部員会で、担当幹部が、マイクを通して呼びかけた。
 「ただ今、世界ジャンボリーに参加したボーイスカウトのメンバーが、台風のために総本山に避難してきております。
 通訳が必要ですので、英語に自信がある人は手をあげてください!」
 嬉しいことに、直ちに百五十人ほどの手があがった。すぐに会場から出てもらって、避難してくるボーイスカウトの通訳と世話を頼んだ。
 「日ごろの勉学が役に立つ」と、メンバーは大はりきりであった。
 伸一の陣頭指揮のもとに、青年部の幹部も、輸送班も、高等部員も、皆が一体となり、歓迎と受け入れの歯車が、轟音をあげて回り始めた。
 伸一の指示は、間断なく発せられた。
 「怪我をした人や病気になった人もいるかもしれないので、医者にも来てもらうように!」
 「次のバスは何時何分に到着するのか、すぐに掌握を!」
 「毛布の数は、全部で何枚あるのか、直ちに報告すること」
 「食料品は、何と何が幾つ確保できたか、そのつど、報告を!」
 伸一は、あいまいさを許さなかった。一つ一つ厳しく確認した。
 もし、緊迫した状況のなかで、いい加減な情報に基づいて物事が進められれば、大失敗や大事故につながる。正確さこそが、行動の生命だ。
 伸一たちの奮闘を目の当たりにしていた音楽隊、鼓笛隊から、「避難してくるボーイスカウトの歓迎演奏をさせていただきたい」と申し出があった。
 皆が心を一つにして、自分に何ができるかを考える時、自ずから、よき提案が生まれる。
 伸一は言った。
 「ありがとう! みんなで大歓迎しよう。世界のボーイスカウトにとって、いい思い出をつくってあげたいんだ。
 明るく、にぎやかな演奏を頼むよ」
48  開花(48)
 山本伸一の指示は、素早く、的確であり、しかも詳細であった。
 「みんな、おなかを空かせているだろうから、最優先して確保するのは、パンなどの食べ物やジュースだ。
 少年たちにとっては、空腹ほど辛いものはないからね」
 こう言うと、彼は自ら指揮本部に設置された電話を取り、売店に残っている食べ物を聞き、注文していった。
 午後七時二十分、かがり火の用意ができた。
 ボーイスカウトの乗った第二陣のバスが、次々と到着し始めた。
 途中から、全国部員会を終えた高等部員たちも大講堂前に並んだ。
 赤々と燃えるかがり火と、音楽隊、鼓笛隊の奏でる軽快な調べ、そして、高等部員の温かい大拍手に迎えられたボーイスカウトの少年たちは、驚きを隠せなかった。
 不安そうに、寒さに震え、背中を丸めてバスを降りたメンバーの顔にも、安堵と喜びの花が咲いた。
 伸一も、指揮本部にいた幹部と一緒に、大講堂の入り口に立ち、やって来た少年たち、一人ひとりに温かな声をかけた。
 「よく来たね。もう大丈夫だよ」
 「ゆっくり休んでください」
 すると、笑顔と感謝の言葉が返ってきた。
 「サンキュー・フォー・エア・カインドネス」(ご親切に感謝します)
 なかには、覚えたての日本語で、あいさつを返す人もいた。
 「ドウモ、アリガト」
 「スミマセン」
 伸一は、一緒に出迎えた幹部たちに言った。
 「みんなも黙って立っていないで、どんどん声をかけようよ」
 たとえ言葉はわからなくとも、声をかければ心は伝わる。それが励ましになって、勇気の火がともされる。大切なのは心の交流である。
 大講堂のなかは、ボーイスカウトたちで、埋まっていった。
 少年たちは、全身がびっしょりと雨に濡れていた。膝まで泥にまみれている人もいた。
 また、靴を脱ぐ習慣がないため、土足のまま、上がってしまうメンバーもいた。
 高等部員の通訳が、靴を脱ぎ、足を拭くように伝えるのを、幹部たちは汚れを心配しながら、ハラハラして見ていた。
49  開花(49)
 大講堂は、意義ある建物であり、建立寄進した学会としても、大切に、大切に使ってきた。
 それだけに、大講堂の廊下や床が汚れるのを見ると、幹部たちは、いたたまれぬ気持ちでいたのである。
 山本伸一は言った。
 「大変な思いでいる人たちに救援の手を差し伸べることが、仏法の精神なんだ。今は、床や畳の心配をするのではなく、この人たちを守り抜くことだ。
 後で、きれいに掃除をすればいいし、もし、畳がだめになったら、替えればいいじゃないか」
 自分たちの心を見抜いたかのような伸一の言葉であった。幹部たちは、仏法の人間主義の奥深さを知った思いがした。
 伸一は言葉をついだ。
 「雨でびしょ濡れになるというのは、切ないものなんだよ。
 私は、少年時代、新聞配達をしていたが、途中から雨に降られることが一番いやだった。新聞が濡れないように、上着やシャツで覆いながら、自分は、ずぶ濡れになって配ったこともある。
 そのやるせない気持ちは、経験した者でなければわからないだろうな。
 あの少年たちは、異国の地でキャンプし、嵐にあった。泣き出したいほど不安な気持ちだったにちがいない。
 そのうえ、風邪でもひいたりしたら、かわいそうじゃないか。だから、せめて、私たちの手で、安全な一夜を保障し、楽しい思い出をつくって、帰ってもらおうよ」
 伸一の心を知り、幹部は、自分たちの考え方を反省した。
 午後八時ごろになると、三陣、四陣と、ボーイスカウトの乗ったバスが、続々と到着し、大講堂前は入場を待つ人で埋まった。
 伸一の指示が飛んだ。
 「ここだと雨があたるから、後から来るメンバーは、一時、大客殿のピロティで待機してもらうようにしよう。
 また、鼓笛隊や音楽隊には、どんどん歓迎演奏をやってもらおう。楽しく、明るい雰囲気をつくることが大事だよ」
 皆に寂しい思いをさせまいとする伸一の、強い一念と責任感が、最も適切で臨機応変な対応となっていったのである。
 演奏を聴いた少年たちは、大喜びだった。口笛や指笛を鳴らすメンバーもいた。
50  開花(50)
 避難してきたボーイスカウトたちには、通訳の高等部員らの手で、パンやオニギリ、スイカ、ジュース、牛乳、菓子等が配られていった。
 オニギリは、総本山の売店の人たちなどが、炊き出しをしてくれたものであった。
 また、そのほかの食料品は、輸送班の青年たちが、雨のなか、総本山の売店をはじめ、富士宮市街にまで行って調達してきたものだ。
 高等部員は、忙しく立ち働いた。皆、ことのほか生き生きとしていた。
 充実感も、歓喜も、瞬間瞬間、わが使命を見いだし、真剣に行動するなかにこそ、みなものだ。
 ボーイスカウトの少年たちのなかには、まだ寒そうな表情をしている人もいた。山本伸一は、それを見ると、輸送班の青年に、大量の新聞紙を用意してもらった。
 そして、通訳の高等部員に言った。
 「寒い人は、新聞紙を衣服の下に入れると暖かくなるよ。
 毛布がそろうまでの間、そうするように教えてあげてください」
 高等部員とボーイスカウトの少年たちは、ほとんどが同世代であった。パンなどを配っているうちに、すぐに打ち解け合っていった。
 「友だちに交わるのは一種の藝術です」とは、中国を代表する女性作家の謝冰心の言葉だが、高等部員の真心は、容易に対話の扉を開いた。
 一段落すると、あちこちで、英語での談笑の輪が広がった。自己紹介にはじまり、学校生活や町の様子などを尋ね合い、語らいが弾んだ。
 「日本の食べ物では何が好きですか」と聞かれたアフリカの高校生は、即座に答えた。
 「ここで食べたライスボール(オニギリ)が好きです。おいしい」
 指相撲を教えたり、新聞紙で折り紙をしてみせる高等部員もいた。
 アメリカから来た少年は、頬を紅潮させて語っていた。
 「昨夜は、雨でテントが水浸しになり、どうなってしまうかと思ったんです。不安で仕方がありませんでした。
 でも、もう安心です。みんなと友だちになれたし、いい思い出ができました。ここに来ることができて本当によかった。感謝しています」
51  開花(51)
 やがて、世界ジャンボリーの役員たちが、指揮本部にそろった。
 山本伸一は、歓迎の言葉を述べた。
 「誇り高きボーイスカウトの皆さん方が、安心して休息し、世界ジャンボリーが大成功に終わりますよう心から念願し、歓迎いたします。
 どうか、お困りのことがありましたら、遠慮なく言っていただければと思います。また、ゆっくりとお休みください」
 伸一の歓迎に応えて、ボーイスカウト日本連盟の役員が、感無量の面持ちで叫ぶように言った。
 「私どもは、こうした機会を得たことに、心から感謝しようではありませんか!
 世界ジャンボリーの成功と、心からの感謝を込めて″弥栄!″」
 その発声に、各国のメンバーも続いた。
 「イヤサカ!」
 「弥栄」とは、ともどもに、ますます栄えていこうとの意味である。
 外は、雨が降り続いていた。だが、ここは、歓談の花が咲き、和やかな友情の曲に包まれた。
 午後九時を過ぎても、十時になっても、バスは次々と到着した。
 そのたびに伸一は、大講堂の入り口に立って、ボーイスカウトのメンバーを温かく出迎えた。
 人間の真実は行為にこそ表れる。人びとのために、今、何をし、今日、何をなすかである。
 その姿を見ていた、ある国のチーフが、伸一に感謝を述べに来た。
 「私たちの仲間には、砂漠の国から来た者もいます。生まれて初めて、台風を体験した少年もいます。恐ろしさで、胸がいっぱいだったと思います。
 それだけに、これほど深い真心に包まれ、一夜を送れることは、生涯の思い出となるでしょう。ありがとうございます」
 伸一は答えた。
 「人間として当然のことをしているだけです。次代を担う少年を守り、育むことは、大人たちの義務です。
 そこには、国境も、宗教の違いも、民族の違いもありません」
 チーフの目が潤んだ。
 この日、約六千人のスカウトの受け入れを終えて、伸一が大講堂から雪山坊に戻ったのは、午後十一時半過ぎであった。
 夕方から、約六時間、時に激しい風雨にさらされながら、彼は陣頭指揮をとり続けたのである。
52  開花(52)
 翌朝、ボーイスカウトの少年たちは、目覚めると、大講堂の廊下を駆け回るなど、すっかり元気になっていた。皆、熟睡し、体力を回復したようであった。
 メンバーにとって、大広間で国の別なく、一緒に一夜を過ごしたことは、忘れられない思い出となったようだ。
 お互いを身近に感じ、まさに、ジャンボリーのテーマである、「相互理解」の深まる一夜となったのである。
 メンバーは、この日、大石寺から、御殿場の自衛隊駐屯地などへ移動することになっていた。
 午前十時過ぎから、バスの乗車が始まった。
 まだ、雨は降り続いていたが、ゆっくり休んだ少年たちの表情は明るかった。
 前夜、雨に打たれた山本伸一は、風邪をひいたらしく、熱があり、体が重たかった。咳も出た。
 しかし、彼は、勇んで見送りに向かった。
 皆、二十一世紀を担いゆく少年たちである。世界の宝である。その未来に、励ましの光を送りたかったのである。
 この日は、三日間の夏季講習会を終えた高等部員も、下山する日であった。それぞれのバスに乗るため、高等部員とボーイスカウトは、並んで道を歩いた。
 ボーイスカウトのメンバーに傘を差しかけたり、荷物を持ってあげる高等部員もいた。
 バス乗り場の前では、あちこちで、「シー・ユー・アゲイン」(また会いましょう)と言って、固い握手を交わし合い、ニッコリと頷き合う姿があった。
 そこには、若き魂の共鳴があり、美しき触れ合いのドラマがあった。
 それは、国境を超えた″友情の名画″を思わせた。
 伸一は、前夜、受け入れの慌ただしさのなかではあったが、集められるかぎりの花束を集めるように、青年部の幹部に頼んでいた。
 人を思う強き一念は、細やかな配慮となって表れるものだ。
 バス乗り場で彼は、その花束を、一台一台、車窓からメンバーに手渡していった。
 「お元気で、また、日本にいらしてください」
 「アリガト……」
 頬を紅潮させて少年が答えた。
53  開花(53)
 山本伸一は、バスのなかにいる、ボーイスカウトの少年たちに向かって語りかけた。
 「今回、嵐に遭遇したことは、大変だったかもしれない。でも、それは忘れ得ぬ、生涯の思い出になります。
 人生も一緒です。皆さんのこれからの人生には辛いこと、苦しいこともたくさんあるでしょう。
 でも、それを乗り越えた時には、最高の思い出ができます。最も光り輝く体験がつくられ、人生の財産になります。
 ゆえに、将来、何があっても、苦難を恐れてはならない。敢然と立ち向かっていく、皆さんであってください」
 伸一は、高等部員に語りかけている時と、全く同じであった。彼には、相手が学会員であるかないかなど、問題ではなかった。
 伸一は、眼前にいる、未来に生きる少年たちを、ただただ、全精魂を注いで励まそうとしていたのである。
 英語のできる青年部の幹部が、彼の言葉を通訳した。皆、瞳を輝かせ、大きく頷いていた。
 伸一は、バス乗り場でメンバーを送り出すと、大講堂の指揮本部に向かった。
 ここでは全体の出発状況を確認したあと、大講堂の周辺にいたボーイスカウトと言葉を交わした。
 中米のホンジュラスから来たメンバーがいることを知ると、語らいのひと時をもち、一緒に記念撮影をした。
 また、イギリス隊のメンバーを見ると、彼は言った。
 「昨日、皆さんの勇気ある行動についてお聞きし、感銘いたしました」
 ――イギリス隊は、自分たちのテントは水浸しになりながらも、ほかの国のメンバーを先に避難させ、最後の最後まで、皆の安全のために奮闘した。その姿が、皆に勇気を与えたというのだ。
 臆病者の溜め息は、希望を奪う。しかし、一人の勇気ある行動は、万人を勇者へと変える。
 伸一は、賞讃を惜しまなかった。
 「皆さんには、ボーイスカウト発祥の地の誇りがあります。誇りは勇気の母です。人間を支える力です。
 将来、何があったとしても、私はイギリス隊だと、胸を張って生きてください。 イギリス隊、万歳!」
54  開花(54)
 山本伸一は、この日も陣頭指揮をとり続け、午後三時前、再びバス乗り場にやって来た。最終バスに乗るボーイスカウトを見送るためである。
 音楽隊、鼓笛隊の奏でる「蛍の光」の調べが響き、見送りのメンバーの歌声がこだましていた。
 「サヨウナラ!」
 「アリガトウ!」
 ボーイスカウトたちはバスの窓をいっぱいに開け、口々に感謝の言葉を語りながら、大きく手を振っていた。
 ここでの一夜は、国境や民族、宗教を超えて、相互理解を深め合った、もう一つの「ジャンボリー」となったのである。
 アインシュタインは、「信頼は個人の結びつきを培うことによってのみ、つくり出されうる」と分析している。
 ボーイスカウト日本連盟の世話役の一人が、伸一に駆け寄って来て、感慨深げに語った。
 「私どもは、外国の人と理解を深めることはもちろんですが、その前にもっともっと、日本のなかで、理解すべきものがあったことを知りました。それは、創価学会についてです。
 このたび、私たちは、暴風雨という大変な事態のなかで、皆様方の真心と人間性に触れることができました。
 この温かい友情に包まれた一夜に、山本会長のご好意を身に染みて感じた次第です。私たちは、この友情の灯を、消してはならないと思います」
 伸一は言った。
 「全く同感です。友情は人間性の証です。友情を広げ、人間と人間を結び合い、人類の幸福と平和の連帯をつくるのが、私どもの目的です」
 世話役の壮年は、大きく頷いた。二人は、固い固い、握手を交わした。
 この救援活動に、学会員は、慈悲の光を万人に注ぐ、社会貢献の時代の到来を強く感じた。
 後日、ボーイスカウト日本連盟の理事長は、学会本部を訪問して、山本伸一に感謝状と楯を贈っている。
 また、伸一は、後年、世界を旅するなかで、「あの時、お世話になりました」という青年たちと、思いがけぬ嬉しい再会を重ねることとなる。
 社会を離れて仏法はない。ゆえに、わが地域、わが職場に、君の手で、人間主義の花を断じて咲かせゆくのだ。

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