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日蓮大聖人・池田大作

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第15巻 「創価大学」 創価大学

小説「新・人間革命」

前後
99  創価大学(99)
 創価大学からも多くの学生が、交換留学生として世界の各大学に留学していった。
 その創大生たちは、自分たちがパイオニアなのだとの自覚で、猛勉強を重ねた。
 そして、そこで培った語学力などを生かし、平和の懸け橋となっていった人も少なくない。
 たとえば、モスクワ大学への最初の交換留学生となった斎木いく子は、ロシア語の通訳として、活躍するようになる。
 そこにも、山本伸一の励ましがあった。
 彼は、斎木に対して、大学二年の時から、育成を心がけてきた。
 有志がロシア語研究会をつくり、語学の習得に励んでいることを聞いた彼は、ソ連の要人と創価大学で会見した際に、ロシア語研究会の二人の学生を同席させた。その一人が斎木であった。
 伸一は、彼女にも通訳をするように言った。斎木は、懸命に通訳しようとしたが、最初のあいさつぐらいしか、うまく伝えられなかった。
 彼は、斎木が生きた語学を身につけるとともに、ロシア語を学ぶうえで、挑戦の目標をつくってほしかったのである。
 これを契機に、斎木の猛勉強が始まり、モスクワ大学への交換留学の道が開かれると、その第一号となった。
 厳冬のモスクワは零下二〇度を下回った。
 ″私はパイオニアなんだ。自分の評価が創価大学への評価になる″と思うと、いやがうえにも闘志が燃え上がった。ひたぶるに勉学に励む毎日であった。
 彼女は帰国し、卒業したあと、ソ連の男性と結ばれるが、当時のソ連は自由主義国の国民との結婚には厳しく、幾つもの困難があった。
 伸一は、親身になって彼女の相談にのり、さまざまな応援をした。
 結婚した二人は、ソ連のカザフ共和国に渡り、やがて日本で暮らすことになった。
 彼女は、ロシア語の通訳として、次第に頭角を現していった。
 だが、数年後、予期せぬ悲しみが彼女を襲った。突然、夫が他界したのである。絶望の底に叩き落とされた。
 もはや、生きる気力さえなかった。日本で葬儀を終えた彼女は、夫の故郷にも遺骨を埋葬するため、カザフ共和国に向かった。
 斉木いく子のカザフ共和国への旅は、二人の幼子を連れての、長く悲しい道のりであった。
 夫の遺骨は、四歳になる長男が、リュックサックに入れて背負った。
 モスクワから、さらに飛行機に乗り継いで数時間、夫の実家に着いた時には、身も心も疲れ果てていた。
 そこに、創立者の山本伸一から、電報が届いたのである。
 「人生には、いろいろな出来事があります。その一つ一つが深い意味をもっています。だから、あなたのこれからの人生を、堂々と歩いていきなさい」
 文字が涙で霞んだ。絶望の闇に閉ざされていた彼女の心に、一筋の光が走った。
 ″そうだ。すべてに意味があるのだ。私の人生は決して終わりではない。これから始まるのだ。子どもたちもいる。負けるわけにはいかない……″
 深い苦悩の淵から立ち上がった人のみが、苦悩する人に勇気を与えることができる。また、苦しみが人間を深め、輝かせていくのだ。
 斎木は、苦しむ人のため、平和のために役に立ちたいと、一段と強く心に決めた。そして、ロシア語の力を磨き抜き、日本屈指のロシア語通訳となっていったのである。
 伸一は、創立者として生涯にわたって、創大生を見守り、励まし続ける決意を固めていた。
 卒業後、皆がいかなる人生を歩んでいくかに、教育の価値は現れる。それを見続けていくことこそ、自分の責務であると考えていたのだ。
 創大生には海外の大学院に留学し、博士号を取得したメンバーも多い。
 一期生の経済学部からは、矢吹好成、高山一雄、船馬勝久の三人が、アメリカの大学院で博士号を取得し、後年、母校の創価大学で教鞭をとることになる。
 さらに矢吹は、アメリカ創価大学のオレンジ郡キャンバスがオープンすると、初代の学長となるのである。
 このほかにも、創大の教員になった人は少なくない。また、国内はもとより、海外の他大学で、教員として活躍する卒業生もいる。
 皆、創価大学に学んだことを無上の誇りとし、最高の誉れとして、人類の平和を担う、次代のりーダーの育成に、懸命に取り組んでいる。
 創価大学は、最も世界に開かれた大学といってよい。各国の大学の学長や総長はもとより、世界の指導者や学識者の来学も後を絶たない。
 ゴルバチョフ元ソ連大統領、キッシンジャー元米国務長官、ローマクラブのホフライトネル会長、平和学者のガルトゥング博士などもキャンパスを訪問し、賛辞を寄せている。
 創価大学は、年ごとに、学部や学科なども拡充されていった。
 一九七五年(昭和五十年)には、一期生の卒業を受けて、大学院を開設したのをはじめ、翌年には経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科が設けられた。
 この年には、開学以来の念願であった通信教育部が開設され、年齢、居住地等に関係なく、学びの場、生涯学習の場が開かれたのである。
 八五年(同六十年)には、人間主義の哲学を根底にした、社会に有為な女性リーダーの育成をめざして、創価女子短期大学が開学した。
 八八年(同六十三年)には文学部に人文学科、九〇年(平成二年)に日本語日本文学科と外国語学科(中国語・ロシア語)を開設。九一年(同三年)には工学部がスタート。現在、六学部十三学科となっている。
 また、中央図書館をはじめ、記念講堂、本部棟などの施設も、相次ぎ完成していった。
 そして、いよいよ二〇〇四年(同十六年)には司法制度改革に呼応し、新たな法曹養成のための法科大学院が開学の運びとなった。
 一方、アメリカにあっては、一九八七年(昭和六十二年)に創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープンしている。 その後、アメリカ創価大学(SUA)へと発展し、九四年(平成六年)には大学院を開設。
 さらに二〇〇一年(同十三年)には、オレンジ郡キャンバスがオープンし、アメリカ創価大学はリベラルアーツ・カレッジ(教養大学)として、人類の平和を創造する世界市民の育成に船出したのである。
 教育の道は、永遠なる開拓である。
 この世に不幸がある限り、教育開拓のクワを振るう手を、絶対に休めてはならない。
 不幸の克服こそ、教育の真実の目的であり、使命であるからだ。
 人間の一生は、あまりにも短い。その人間が未来のためになせる最も尊い作業は、次代を創造する人を育て、人を残すことである。
 山本伸一は、激動、混迷する世界の未来を見すえながら、国家や民族、イデオロギーの枠を超え、世界市民として人類益のために立ち上がる、新しき平和のリーダーをつくらねばならぬと思ってきた。
 また、民衆一人ひとりの幸福を願い、民衆に奉仕しゆく、人間主義のリーダーを育成しなければならぬと決意してきた。
 それゆえに彼は、学校建設に踏み切ったのだ。
 創大出身者がどうなるか。創価大学がどうなっていくか――それこそが自身の人生の総決算であると、彼は考えていた。
 教育という大樹は、一朝一夕には育たない。長い歳月を必要とする。
 伸一は、彼の″命″ともいうべき創大生に、限りない期待と、全幅の信頼を寄せていた。
 ″私には、創大生がいる。もしも、戦い、倒れようとも、創大生がすべてを受け継ぎ、発展させていってくれる″
 そう思うと、勇気がわいた。力があふれた。どんな試練にも耐えられた。どんな苦しみも、莞爾として乗り越えることができた。
 彼は、創大生の成長を祈り念じ、三十年、五十年、百年先を思い描きながら、走りに走った。
 大学開学以来、既に三十余年が過ぎた。女子短大、通信教育を含め、五万数千の創大生が社会に巣立っていった。
 教育界にも四千人近くが羽ばたき、鳳雛の育成に全魂を傾けている。
 各企業で重責を担う友も多い。
 法曹界や政界で活躍するメンバーもいる。
 また、世界各国で、社会に貢献する創大出身者の凛々しき姿がある。
 伸一が手塩にかけ、命を削る思いで育んだ人材の樹木は、今、しっかと根を張り、青々と葉を茂らせたのだ。
 ″伸びよ、伸びよ、創価の大樹よ! 永遠なれ、わが創価大学よ!
 私は、命の尽きる時まで、創大生のために、断じて道を開き続ける!
 教育の勝利こそ、人間の勝利であるからだ″
  創大生
    生き抜け勝ち抜け
      この一生

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