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日蓮大聖人・池田大作

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第15巻 「創価大学」 創価大学

小説「新・人間革命」

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1  創価大学(1)
 雲間から差し込む太陽の光が、幾筋もの金色の矢となって、杉木立に走っていた。
 一九七一年(昭和四十六年)四月二日午後、山本伸一は、総本山にある恩師戸田城聖の墓前で、深い祈りを捧げていた。
 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」
 その唱題の声は、常にも増して一段と力強く、喜びに弾んでいた。
 彼は、心で、戸田に語りかけた。
 ″先生! 本日、念願の創価大学が、遂に、遂に開学いたしました。
 さきほど、開学式も終わり、希望に胸弾ませる新入生の語らいの声が、キャンパスにこだまし始めました……″
 伸一の胸には、微笑をたたえ、何度も、頷く戸田の顔が、くっきりと浮かんでいた。
 思えば、戸田が伸一に、最初に大学設立の構想を語ったのは、忘れもしない、一九五〇年(同二十五年)十一月十六日のことであった。伸一、二十二歳の晩秋である。
 それは、戸田が経営していた東光建設信用組合が、経営不振から営業停止となり、彼が学会の第五回総会で、正式に理事長を退いて四日後の、まさに窮地のさなかのことであった。
 その日、西神田の会社近くにあった大学の食堂で、昼食をとりながら、戸田は伸一に、宣言するように語った。
 「伸一、大学をつくろうな。創価大学だ」
 そして、初代会長の牧口常三郎が、自分の創価教育学を実践する学校を必ずつくろうと言っていたことを、懐かしそうに回想するのであった。
 一九三〇年(同五年)の十一月十八日から発刊された『創価教育学体系』にも、創価大学・学園につながる構想は、既に明確に記述されている。
 戸田の瞳は、燃え輝いていた。
 「人類の未来のために、必ず創価大学をつくらねばならない。しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」
 最悪な事態のなかで、師は弟子に、大学設立の希望を語り、その実現を委ねたのである。
 彼は、この言葉を遺言として受け止め、深く、深く、心に刻んだ。
 以来二十一年、伸一はその構想の実現に、全生命を注いできたのだ。
2  創価大学(2)
 戸田城聖の胸のなかでも、学校創立の構想は、年とともに具体化していった。
 一九五四年(昭和二十九年)の九月のことであった。水滸会の野外研修のため、東京・氷川に向かったバスが、八王子方面を通りかかった時、戸田は山本伸一に言った。
 「いつか、この方面に創価教育の城をつくりたいな……」
 さらに、翌五五年(同三十年)一月二十二日、伸一とともに高知を訪問した折、学会は学校をつくらないのかとの会員の質問に答えて、戸田は力強く宣言した。
 「今につくります。幼稚園から大学まで。一貫教育の学校をつくる。日本一の学校にするよ!」
 しかし、その戸田は、教育の城の実現を見ずして世を去った。
 創価大学の創立は、牧口常三郎、戸田城聖の念願であり、三代にわたる師弟の精神の結晶として、伸一が断じて成し遂げねばならぬ、一大事業であった。
 伸一が、創価大学の設立を正式に発表したのは、彼が会長に就任して四年を経た、六四年(同三十九年)六月三十日に行われた第七回学生部総会であった。
 翌六五年(同四十年)十一月には、創価大学設立審議会が発足した。
 審議会の会長は、伸一である。
 そして、六八年(同四十三年)には、大学の開学に先立って、東京・小平市に、創価学園(中学校・高等学校)が開校している。
 当初、大学の開学は七三年(同四十八年)にするとの計画もあったが、高校の一期生が卒業する七一年(同四十六年)に、予定が繰り上げられたのである。
 伸一は、創価大学を建設する場所は、戸田の構想通りに、東京・八王子にしようと決め、土地の取得など、着々と準備を進めてきた。
 彼は、大学には、豊かな緑に恵まれた、広々としたキャンパスが必要であると考えていた。
 しかも、彼方には、日本一の名山である富士が見える地にしたかった。
 また、都心の喧騒を離れ、冬は少し寒いぐらいの方が、勉学に励む環境としては適していると思えた。
 八王子は、それらの条件にすべて適っていた。
3  創価大学(3)
 八王子は、さらに、中央自動車道が走り、豊かな自然が残っている地としては、都心からの交通の便もよかった。
 また、山本伸一は、この八王子で、何度か夕焼けを目にする機会があったが、その美しさにも魅せられていた。
 真っ赤に西の空を染める夕日は、荘厳であり、完全燃焼し抜いた勇者の気高さを感じさせた。
 童謡の「夕焼け小焼け」は、八王子の夕焼けを歌ったものといわれる。
 さらに、彼は、八王子という名前も、好きであった。
 それは、法華経に八人の王子、つまり「八王子」のことが説かれていたからである。
 法華経序品には「日月灯明仏」のことが述べられている。日光や月光、また灯明のように、一切衆生を照らす智慧を具えた仏である。
 この「日月灯明仏」という名の仏は、二万も続いて出現するが、その最後の仏は、出家前、王であり、八人の王子がいたと説かれている。
 この八王子には、有意(智慧)、善意(善き智慧)、無量意(無限の智慧)、宝意(宝の智慧)、増意(優れた智慧)、除疑意(疑念を打ち破る智慧)、響意(雄弁の智慧)、法意(法の智慧)という名前がつけられていた。
 そして、「是の八王子は威徳自在にして、各おの四天下を領す」と説かれている。
 八人の王子は、威徳を自在に発揮して、それぞれが四天下、つまり世界を領土としていたというのである。
 いわば、八人の王子が世界をリードしていったのである。
 伸一は、その八王子という名の場所に大学が建つことに、深い意義を感じたのだ。
 彼には、法華経の八王子の教えは、智慧の光をもって世界を照らし出し、人類の幸福と平和を築く多くの人材を輩出する創価大学の使命を、象徴しているように思えてならなかった。
 また、初代会長の牧口常三郎も、八王子方面には白金小学校の遠足で、何度か足を運んでいる。
 ″ここに大学が開学することを聞いたら、牧口先生も、さぞかし喜んでくださるにちがいない″ 伸一は、そう強く確信していた。
4  創価大学(4)
 学校建設にあたり、山本伸一が最も苦心したのは資金の捻出であった。
 彼が会長に就任した当初、学会には、学校をつくるような財政的な余裕は全くなかった。
 だから伸一は、自分が原稿を書き、働きに働いて、学校設立の資金をつくろうと決意した。
 創価学園の設立にも、伸一は自分の印税を投じたが、創価大学の開学に際しては、全印税七億円を投入したのであった。
 また、会長である伸一の出版物による学会収益の二十五億円も、大学の設立に使われた。
 伸一は、自分の生命を削ってでも、世界の平和を築くための大学を、人類の幸福を実現するための大学を、絶対に残さなければならないと心に決めていたのだ。
 しかし、設立資金は、約六十億円を必要としていた。
 新たに学会本部からも寄付金十六億円を投入することになったが、まだ足りなかった。
 やむなく寄付金を公募した。そして、十二億円が集まり、創価大学が設立できたのである。
 寄付をしてくれた方々のなかには、質素な幕らしをしている学会員も少なくなかった。
 小さな借家住まいの婦人は、頬を紅潮させて担当者に語った。
 「山本先生は、二十一世紀の世界の平和を築くリーダーを育成するために、創価大学をつくろうとされている。私は家が貧しくて、尋常小学校もまともに通えませんでした。そんな私ですが、わずかでも寄付をさせていただき、その大事業に協力できるなんて、夢のようです。人生最高の誇りです」
 そして、何枚かの、折り畳んだ皺だらけの千円札を手渡したのである。
 伸一と心を同じくする民衆の真心によって、汗と涙の浄財によって、建てられた大学が創価大学なのだ。
 念願の起工式が行われたのは、一九六九年(昭和四十四年)の、戸田城聖の祥月命日にあたる四月二日であった。
 この年の五月三日の本部総会で、伸一は、創価大学の基本理念として、「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」との三つのモットーを発表した。
5  創価大学(5)
 「大学の解体」が叫ばれ、大学の在り方自体が根本的に問われていた時代にあって、新しき人間教育を掲げ、文化と平和の創造をめざす創価大学への社会の期待は、次第に高まっていった。
 大学建設の槌音に合わせ、一九七一年(昭和四十六年)四月の開学に向け、カリキュラムや教員の招聘など、準備が進められていった。
 七〇年(同四十五年)九月には、経済学部経済学科、法学部法律学科、文学部英文学科・社会学科の三学部四学科で、文部省へ認可を申請した。
 そして、七一年(同四十六年)一月に、文部省の正式な認可が下りたのである。
 校舎、体育館などの建物も一月末には完成し、二月十一日には山本伸一も出席して、晴れやかに竣工式が行われた。
 いよいよ十八日から、入学試験が始まることになる。
 出願者は、募集に対して法学部が十二・六倍、経済学部が十五・三倍、文学部に至っては二十四・五倍という、新設校としては異例の高い競争率となった。
 大学の職員は、多くの出願者があったことを、喜び勇んで、伸一に報告した。
 しかし、それを聞くと彼の顔は曇った。
 「そうか……。伝統も何もない創価大学を、そんなにたくさんの人が、あえて志願してくれたんだね。ありがたいね。
 しかし、そのなかの多くの人が不合格になってしまうんだな。
 そう思うと、かわいそうでならない。本当にかわいそうだ。なんとかできないかね」
 できることなら、全員に合格してもらいたいというのが、伸一の真情であったのである。
 その職員は、入試の出願者が多いということは、それだけ社会の評価も高いということであり、創立者ならば諸手をあげて喜ぶものと、思い込んでいたのだ。
 それだけに、「かわいそうだ、かわいそうだ」とつぶやく伸一に、驚きを隠せなかった。
 彼は、創立者の心に触れた気がした。それが、忘れてはならない人間教育の根本精神ではないかと、決意を新たにした。
 二月末には、全学部の合格者が決まり、開学を待つばかりとなった。
6  創価大学(6)
 三月十六日、創価大学では、大学関係者や報道陣など、約千人の来賓を招き、体育館で落成開学祝賀会を行った。
 だが、そこには、山本伸一の姿はなかった。
 この日、ある新聞に創価大学について伸一のインタビューが掲載されたが、そのなかでも彼は、祝賀会には出席しないことを明らかにしていた。
 伸一は、自分は大学を創立するが、あとは、学長、理事長をはじめ、大学関係者に、すべて任せるつもりであった。
 彼は、以前、教員の代表に、自分の思いをこう語っていた。
 「創価大学はまだ小さな大学であり、その出発は、ささやかに思えるかもしれません。しかし、既に完成された大学を皆様方にお渡ししたら、かえって失礼になるのではないでしょうか。皆様の手でレールを引いて、思い通りのすばらしい大学をつくってください。教育は、私の最終の事業です。創価大学は、私の命よりも大切です。その大学のすべてを、先生方にお任せいたします」
 創価大学には、それぞれの分野で第一人者といわれる、錚々たる学者が集ってくれた。
 たとえば、経済学部長に決まった関谷順治は、国立大学で教授を務め、将来は、その大学の学長にもなれるのではないかと、言われていた人物である。彼は、地租改正の研究で高い評価を得ている、日本経済史の大家であった。
 また、経済学部教授の大熊田俊行は、マルクス経済学に精通し、文化・社会評論などでも知られる著名な経済学者であった。
 特に戦争責任論や国家悪の問題を鋭くえぐり出した著作は、大きな注目を集めていた。
 法学部では、国立大学で学部長を務めた憲法の大家をはじめ、日弁連の元副会長や司法試験考査委員を務めた人などが、教授に就任していた。
 文学部では、英米文学の権威、理論社会学の第一人者などがいた。
 皆、山本伸一の教育理念、教育哲学に共感し、創価大学に教育の理想を見いだし、勇んで集ってくれたのである。
 祝賀会では、その教授らが、来賓たちに、創価大学の使命を力説する光景が随所に見られた。
7  創価大学(7)
 大学紛争によって露呈された、大学教育の混迷と行き詰まりを憂える多くの識者が、創価大学に期待を寄せていた。
 「人間教育、平和の創造を掲げたその理念は、二十一世紀を照らし出す希望の光です」と語った来賓もいた。
 また、「人間としての新しい価値観を示せる大学は、創価大学しかないでしょう」と賞讃を寄せる人もいた。
 しかし、期待の声の一方で、学会に対する反発からか、偏見と憶測に基づく創価大学への批判も少なくなかった。
 「創価大学は、学会のエリート幹部を養成するための大学であり、そこでは偏った宗教教育が行われるにちがいない」というのも、その一つであった。
 見当違いも甚だしい中傷である。
 学会の幹部を養成することが目的なら、私塾で十分である。
 その方が、なんの干渉も受けずに、自由な教育ができるではないか。
 もちろん、将来、創価大学の卒業生からも、学会の幹部や本部の職員等になる人も誕生するにちがいない。
 学会の会長である創立者の山本伸一の生き方や人格、思想に共感し、入学を希望した学会員が少なくないのだ。そのなかから、やがて、学会の指導者になるメンバーが出たとしても、何も不思議ではあるまい。
 創価大学を創立した伸一の目的は、学会員であるなしを問わず、人類益のために貢献し、世界の平和を創造する、人間主義のリーダーを育成することであった。
 だが、「創価大学をつくった狙いは、卒業生を各界に送り出し、国家、社会を支配し、意のままに操ることにある」などという、妄想じみた話も流された。
 最高学府である大学の出身者が各界に進出し、リーダーに育ち、社会に貢献していくのは当然である。そのための高等教育ではないか。
 ある大学の出身者が各界に雄飛したからといって、法治国家のなかで、ルールを無視して国や社会を操ることができるなどと、本当に考えているのだろうか。
 学会が反社会的な集団であるかのように思わせ、イメージダウンを図ろうとした、嫉妬による悪質な喧伝であったといってよい。
8  創価大学(8)
 前年、創価学会は「言論・出版問題」の嵐に襲われたが、今なお、会長の山本伸一を狙い撃ちにし、学会の前進を阻もうとする勢力の画策は続いていたのだ。
 かつて戸田城聖は、事業の失敗という最大の試練のなかで、伸一に大学設立の構想を語ったが、創価大学の船出もまた、荒れ狂う嵐のさなかであったのである。
 伸一は、宗教を教育の場に、そのまま持ち込むのではなく、仏法を人間教育の土壌とした、新しい大学の建設を考えていた。
 教育には、宗教的な基盤は、不可欠である。宗教なき教育は、羅針盤を失った船に等しい。
 いかに多くの知識という燃料を注入しても、宗教という生き方の芯がなければ、人生の航路を見失ってしまうことになるからだ。
 創価大学は、牧口常三郎の創価教育を根本にした大学であり、さらに、その根底には、仏法の人間主義の哲理がある。
 そして、真実の仏法は、万人に尊極の「仏」を見る、生命の尊厳と平等の哲理である。
 また、人びとの苦を抜き、楽を与えようとする慈悲の思想である。
 つまり、人類の幸福と平和を実現する、普遍的な原理を説き示しているのが仏法であり、それは決して、特別なものではない。仏法の精神は、人道となって、光り輝くのである。
 それを教育の基本理念として具体化したのが、「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」とのモットーである。
 ゆえに伸一は、大学として特別な宗教教育はしなくとも、教職員や学生が、この建学の基本理念に賛同し、その実現に取り組むなかに、仏法の人間主義の精神は、創価大学の教育に、自ずから脈打つはずであると確信していた。
 また、教職員の人格、生き方を通して、創価教育の道を開いてほしいというのが、彼の希望でもあった。
 伸一は、世界の平和と文化の創造という、人類の普遍的なテーマに貢献する人材を育成するために、教職員は、全生命を燃焼させてほしいと、強く願っていた。
9  創価大学(9)
 創価大学に対して、一部のマスコミは、面白おかしく批判を書きたてていたが、予想を上回る多くの人が志願し、高倍率の入学試験を突破した七百数十人が一期生となったのである。
 山本伸一は、創価大学に集ってきた学生たちの、その気持ちがありがたく、嬉しかった。
 開学式の行われた日、彼は、戸田城聖の墓前で誓ったのである。
 「先生、必ず将来は、創価大学の出身者のなかから、数多くの博士も、大教育者も、大政治家も誕生いたします。ノーペル賞を取る人も、きっと出ることでしょう。
 わが生涯をかけて、この創価大学を、日本一、世界一の大学にしてまいります」
 この四月二日の午前十一時から、四百人ほどの新入生の代表をはじめ、父母や教授などの大学関係者が出席し、晴れやかに開学式が行われた。
 入学試験は地方都市でも行われていたので、この日初めて、大学のキャンパスを歩く人も少なくなかった。
 大学のある八王子市丹木町は、丘陵地帯にあり、その起伏に富んだキャンパスは、約四十六万平方メートルもの広さがあった。
 樹木が茂り、武蔵野の面影を残す自然のなかに、八階建ての文科系校舎や体育館など、白亜の学舎が、美しくそびえていた。
 中央体育館で行われた開学式では、学長らがあいさつに立った。
 学長は中杉和己という、東北大学で教授を務めた経済学博士である。
 彼は力説した。
 「創価大学は、国際的な視野に立つ教育、研究の場であるとともに、民衆をリードしゆく英知と創造性に富んだ、人材の育成をめざします。
 この大学を、ともどもに力を合わせ、人類の希望の灯台にしていこうではありませんか」
 開学式に集った新入生や父母たちは、この日は創立者である会長の山本伸一が、出席するものと思っていた。
 しかし、伸一の姿を見ることなく、やがて、開学式は終わった。
 続いて、校舎の正面玄関の左右に立つ、一対のブロンズ像の除幕式が行われた。
 伸一が、大学のシンボルとして寄贈したものである。
10  創価大学(10)
 学生らが見守るなか、二つの像を覆っていた白い布が、順番に取り払われていった。
 見事なブロンズ像が姿を現した。
 像の高さは、それぞれ、台座を除いて四メートルほどで、作者はフランスの彫刻家アレクサンドル・ファルギエールである。
 向かって右側は、髭をたくわえた鍛治職人と、腕を高くかざした天使の像であった。
 鍛治職人の目は鋭く、信念の炎を燃え上がらせているようでもある。
 この像の台座には、「労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる」との、伸一の言葉が刻まれていた。
 現代の社会には、楽をすることが得であるかのような風潮があるが、それは不幸だというのが伸一の結論であり、信念であった。
 苦労を避け、面白おかしく生きることは、一時的には、よいように思えるかもしれない。
 しかし、結局は自身を軟弱にし、敗北させるだけである。
 労苦なくしては歓喜もない。また、人間形成もありえない。
 苦労に苦労を重ね、自らの使命を果たしゆくなかでこそ、自分自身が磨かれ、真実の人生の価値が生まれることを、伸一は、最愛の創大生たちに、知ってもらいたかったのだ。
 そして、左側は、片膝をつき、未来を見すえるように彼方に目をやる若き印刷工と、翼を広げ、ラッパを吹き鳴らす天使の像である。
 台座には、「英知を磨くは何のため 君よそれを忘るるな」と、刻まれていた。
 学問や学歴は、本来、立身出世のための道具ではない。
 人びとの幸福に寄与するためであり、むしろ、大学で学ぶのは、大学に行けなかった人たちに奉仕し、貢献するためであるといってもよい。
 ましてや、創価大学は多くの民衆の真心によって実現した大学である。
 それだけに、創大生には、その学問の目的を、断じて忘れないでほしかったのである。
 いずれの言葉も、伸一が創価大学の出発にあたって、考え抜いた末の指針であった。
 それぞれ、日本語の下には、英語、ドイツ語、フランス語でも、文字が書かれていた。
11  創価大学(11)
 ブロンズ像の台座に刻まれた創立者山本伸一の言葉は、新入生たちの永遠の指針となった。
 皆、創立者とは会えなかったが、この言葉の意味を噛み締めながら、新たな決意を胸に、キャンパスを後にした。
 そして、四月十日、いよいよ入学式を迎えたのである。
 創価大学に向かう八王子の街のあちこちに、桜の花が美しく咲き薫っていた。それは、新入生たちの、新しい人生の旅立ちを、祝福しているかのようであった。
 入学式は、大学の中央体育館で行われた。
 七百数十人の新入生をはじめ、その父母や大学関係者が列席しての入学式であった。
 だが、会場は、数千人は収容できる体育館であり、二階席は、ほとんど人が入っていないために、閑散として見えた。
 しかし、″山本先生の創立した創価大学で学びたい″と、全国各地から集って来た学生たちの表情は明るく、意気揚々としていた。
 新入生たちは、真新しいスーツや学生服に身を包み、瞳を輝かせ、頬を紅潮させながら、開会を待った。
 定刻の午前十時半、壇上に学長、理事長ら教職員が着席し、高らかに開会が宣言された。
 法学部長が入学式を迎えるまでの経過を報告して、教授陣を紹介した。
 その錚々たる顔ぶれに、父母たちも感嘆の声をあげた。教授たちもまた、烈々たる建設の気概にあふれていた。
 経済学部長の関谷順治は、かつて、創立者の山本伸一と、吉田松陰について語り合ったことがあった。その時、伸一が「松下村塾のような大学をつくりたいのです」と語ったことを、胸深く受け止めていた。
 そして、「松下村塾から近代日本の指導者が出たように、これから創価大学という、いわば『創価村塾』で、世界に貢献する大人材を輩出するのだ」との決意に燃えて、この日の入学式を迎えたのである。
 一対一の人間の交流なくして、人間教育ができるはずはない。創立者に代わって、その精神を、哲学を、理念を、伝え抜いていこうというのが、関谷の誓いであった。
 こうした燃えるような思いを胸に、入学式を迎えた教員は、彼一人ではなかった。
12  創価大学(12)
 教師こそ、教育の力の源泉である。学生にとって、最大の教育環境は教師である。
 ゆえに山本伸一が、大学の設立にあたって、設立審議会の委員たちに最も強く訴えてきたのが、教授をはじめ、教員の充実であった。
 各委員たちも、教員の招聘に全力で奔走した。何日間も、教育理念や学問研究の在り方について語り合うこともあった。
 そして、各分野で第一人者といわれる、優秀にしてユニークな教授陣をもって、創価大学はスタートしたのである。
 入学式では、教授陣の紹介に続いて、学長の中杉和己が入学許可の発表並びに告辞を行った。
 彼は、創立者の山本伸一が示した三つのモットーを通し、人間教育、文化建設、平和創造こそ、創価大学の使命であることを述べた。
 さらに、大学紛争に見られるように、今や、多くの大学が行き詰まりを呈しており、「大学革命」が極めて重要な課題となっていることを強調し、その先駆を担って誕生したのが創価大学であると語った。
 また、民衆の幸福と平和を守り、二十一世紀に向かって、新しい文明を築く、スケールの大きい人材を送り出す大学を建設していきたいとして話を結んだ。
 「大学革命」は、次代の社会を建設するうえで、山本伸一が、最もその必要性を痛感してきたテーマであった。
 根本的な問題としては、なんのための大学かという新しい理念が、大学に確立されなければならない。
 さらに、大学のもつ封建的・特権的な体質、学生不在の運営、教授と学生の対話不足など、大学が改善、改革すべき課題は山積していた。
 その「大学革命」が遅れれば遅れるだけ、日本という国が、人類の将来が、暗い闇に閉ざされ続けることになる。
 ゆえに伸一は、「大学革命」の旗手となり、世界の模範となる大学を築くために、創価大学の創立に踏み切ったのだ。
 彼は、日本のためにも、人類のためにも、開学を急がねばならないと思った。そして、開学の時期を早めるように、設立審議会に提案したのである。
 委員たちも、その提案に賛同し、総力をあげて準備を進めたのである。
13  創価大学(13)
 次いで、新入生代表の宣誓となった。
 壇上に進み出たのは、創価高校から進学した、福岡県出身の田所康之であった。
 彼は、高校時代、寮生をまとめる執行部の部長を務め、創立者の山本伸一とも、数多くの出会いを重ねてきた。
 そのなかで田所は、伸一が、人類の幸福と平和を実現するために、心血を注いで自分たちを育もうとしていることを、肌で感じてきた。
 ″自分も、山本先生の理想を実現するために、ぜひ創価大学に学びたい″と、彼は強く念願するようになっていった。
 当時、創価高校から創価大学に進む場合でも、推薦入学の制度はなく、一般の受験生と一緒に入学試験を受けなければならなかった。
 田所は、合格の栄冠を手にし、建設の決意を胸に、一期生となった。
 彼の朗々とした声が、体育館に響いた。
 「桜の花も咲きそろった今日四月十日、創価大学の栄えある一期生として入学できた私たちは、喜びで胸がいっぱいであります。創価大学は、世界のいかなる大学にも優る、理想的な教育を実践し、二十一世紀を担いゆく使命深き大学であります。この新しい大学の建設には、多くの苦難が伴うことは必然であります。しかし、日本の、いな世界の未来を決する、この創価大学の建設に一期生として参加できますことは、最高の誇りであり、栄誉であります。私たちは、使命深きパイオニアであります。私たちの心には、創立者の山本先生が示された、建学の精神が赤々と燃えております。この大学の開学のためには、創立者の並々ならぬご苦労があったと、伺っております。私たちは、そのことを深く心に刻み、山本先生の理想をともどもに分かち合い、輝かしい大学の伝統を築いていくことを、ここに誓います。全学友の皆さん! 私たちは戦おうではありませんか!」
 田所の語った「バイオニア」との言葉が、皆の胸を打った。
 ″そうだ! そうなんだ! 創価大学がどうなっていくか。それは、すべて私たちの双肩にかかっているのだ。ほかの誰でもない。私たちこそが建設の主役なのだ″
14  創価大学(14)
 入学式に参加した学生たちも、父母たちも、創立者の山本伸一に会うことを、最大の楽しみにしていた。
 ″山本先生は、開学式には出席されなかったから、入学式には来ていただけるのではないだろうか……″
 それが、皆の思いであったといってよい。
 また、創価高校の出身者は、三年前の創価学園の第一回入学式にも、創立者の出席はなかったが、終了後に駆けつけ、記念撮影してくれたことを思い起こしていた。
 しかし、伸一は、大学には姿を見せなかった。
 彼は、この日、静岡県の東海研修所(現在は静岡研修道場)で、原稿の執筆に余念がなかったのである。
 だが、入学式が始まって間もなく、伸一は、仏壇の前に座り、深い祈りを捧げた。
 創価大学の大発展と、学生たちが人格と学力を磨き、新世紀の大空に飛翔していくことを願っての、真剣な読経・唱題であった。
 彼は、大学の運営に関しては、学長をはじめとする教職員に任せようと決めていた。
 もちろん、困ったことがあれば、相談にはのる決心であった。だからといって、学長など、大学を担い立つべき人たちが、いつまでも創立者である自分を頼りにして、自立できないようでは困ると思った。
 創価大学がめざしているのは、″学生参加″を原則とした、新しい理想的な学園共同体である。
 それは、使命に目覚め立ち、大情熱に燃える、″教育の獅子″によって初めて成し遂げることのできる労作業である。
 ゆえに伸一は、教職員は人を頼むのではなく、大学のことは、すべて自分たちが責任をもつのだという強い自覚を、早く固めてもらいたかった。
 ともあれ、何事も初めが肝心であるとの考えから、伸一は、開学式にも入学式にも、出席しなかったのである。
 ただ、彼が気がかりでならなかったのは、新入生や、その父母たちが、自分が出席しないことで、寂しい思いをするのではないかということであった。
 伸一は、一期生が、どんな思いで、伝統も何もない創価大学への進学を決意してくれたか、よく知っていた。
15  創価大学(15)
 山本伸一のもとには、入学式を前に、創価大学に入学する人たちから、何通もの手紙が来た。
 そのなかには、他の大学に在籍していたが、再び受験勉強を始めて、創大に入学した学生の喜びの手紙もあった。
 また、旧帝国大学であった国立大学や、「私大の雄」などと言われる有名大学に合格しながら、あえて、創価大学に進学した人の、決意の手紙もあった。
 地元の国立大学にも合格したという、関西の学生は、こう記していた。
 「高校で、私が創価大学に進みたいと告げると、担任の教師は、こう言いました。
 『どこの大学を出たかということは、生涯、自分の肩書としてついて回ることになる。
 有名校、一流校を出れば、それが自分のステータスとなり、優れた人物として評価されることになる。就職にも、絶対に有利だよ。
 せっかく、名門大学に合格しているのだから、新設の創価大学に入るのは、よした方がいい』
 私は反論しました。
 『ぼくは創価学会の高等部員です。創価大学生として生きることは、ぼくの誇りです。
 それに、大学に進むのは、自分の就職や立身出世を望んでのことではありません。
 確かな教育理念を掲げた大学で人格を磨き、教養を身につけ、人類の平和に貢献したいからです。
 その希望を叶えてくれる大学が、どこにあるでしょうか。創価大学しかありません。
 先生の言われた、偏差値の高い、すばらしいはずの名門大学で大学紛争が起き、大学の力では、何一つ解決できなかったではありませんか。
 なかには、学生が死んだりしています。そんな大学には、ぼくは、なんの魅力も感じません』
 こう言うと、教師は黙って苦笑していました。
 また、私の家は父が病弱なために、入学金だけは用意してくれましたが、あとの学費や生活費は、アルバイトをして、自分で稼がなければなりません。
 しかし、先生が贈ってくださった、『労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる』との言葉を思うと、胸には勇気がわいてきます。力がみなぎります」
16  創価大学(16)
 手紙は、次のように結ばれていた。
 「山本先生の創立された創価大学の一期生となり、先生の人間主義や平和思想を実現していく使命を担えることは、大きな喜びです。この四年間、懸命に勉学に励み、私の人生のなかで、最も充実した有意義な歳月にしていくとともに、人類の平和に貢献できる人材に、必ずや育ってまいります。創大のキャンパスで、お会いできる日を楽しみにしております」
 創価学会員ではない新入会からも、何通もの手紙が寄せられていた。 その一通には、こうあった。
 「以前、私は、山本先生が月刊誌に寄稿した、大学問題や公害問題についての、提言を読ませていただきました。
 そして、先生のおっしゃる、″生命の哲学″や″生命の尊厳″という言葉に共感し、先生の著書の小説『人間革命』も読んでみました。
 人間がいっさいの根本であり、人間を変革することで、すべてを変えられるという思想に感動しました。
 私は山本先生が大学を創立されることを知り、ぜひ、入学したいと思い、このたび晴れて創価大学生になることができました。
 先日、先生は、ある新聞のインタビューに答えて、万葉集などの文学論を講義したいと言われていましたが、私も本当にお聴きしたいと思っております。絶対に実現してください。お願いします」
 皆、伸一を慕っていた。創立者を求めていた。
 伸一は、こうした学生たちの気持ちを思うと、入学式に出席しなかったことが申し訳なく、胸は激しく痛んだ。
 そして、彼は、創立者として、一生涯、創大生を厳然と見守り、励まし続けていくことを、一段と強く決意していたのである。
 創価大学の入学式終了後、「創大生協創立学生発起人会」が発足し、いち早く、生活協同組合がスタートした。
 これは大学生活の向上に役立つための福利厚生施設としてつくられたもので、その設立を提案したのは伸一であった。
 「新入生たちが、困らずに生活できるようにしてほしい」というのが、彼の願いであった。
17  創価大学(17)
 開学当初、創価大学の周りには、食事ができる店も、生活必需品を購入できる店も、ほとんどなかった。
 山本伸一は、学生たちが生活をするうえで、できる限り不自由な思いをさせたくなかった。
 また、「大学内でアルバイトができる場を提供したい」との考えもあった。
 そこで、伸一は、生活協同組合の開設を提案し、積極的に応援してきたのである。
 大学では、教職員で「創大生協創立発起人会」を発足させ、二月には設立が認可された。
 そして、入学式終了後に、教員、職員、学生と三者一体になっての実質的な活動が開始されたのである。
 この生協によって、食堂、喫茶室の経営をはじめ、書籍、文具、日用品等の購入・販売などが行われ、創大生の学生生活が支えられていったのである。
 伸一は、人類の未来を担う人材を育成しようと遠大な理想に燃えていたが、その日は、学生一人ひとりの生活という、足元に注がれていた。
 創価大学に入った学生たちは、どこで食事をするのか。商店街までは遠いが、書籍や文具、着替えの下着、タオル、歯ブラシなどはどこで買うのか……″
 人間という存在を支えている基盤は、生活である。満足な食事もとれず、日々の暮らしが成り立たなければ、勉学に力を注ぐことは難しい。
 だから、彼は、学生たちのためにも、教職員のためにも、少しでも環境を整えておきたかったのである。
 また、伸一は、日々、どうすれば創大生を激励することができるか、心を砕き続けた。
 学会の会合などの折にも、創価大学に学ぶ学生部員がいれば、できる限り声をかけ、学生生活の様子を尋ねるなどしながら、励ましを送った。
 入学式から一カ月ほどが過ぎた五月九日、伸一は、創価大学の体育館などを借りて行われた学会の女子部の球技大会に、招かれて出席した。
 終了後、彼は、創大の十人ほどの学生をはじめ、教員らと、構内にある合掌造りの家で食事をした。これが開学後の、初めての訪問であった。
18  創価大学(18)
 山本伸一は、まだ、どことなくあどけなさの残る、丸顔の女子学生に語りかけた。
 「今日は『母の日』だね。お母さんを大事にするんだよ」
 彼女は、大崎美代子という、福岡県出身の学生であった。九州大学の文学部にも合格したが、伸一の創立した大学に入りたいと念願し、創価大学に進んだのである。
 だが、父親は、当初、創大進学には難色を示した。名門として知られる九州大学に入れたいという思いもあったし、かわいい娘を、親元から離したくないという気持ちもあったようだ。
 しかし、彼女の強い決意を知った母親が、父親の説得に一役買ってくれたのである。
 そして、入学式の日には、大崎は、父親に付き添われて創大のキャンパスに立った。
 父は言った。
 「きれいな大学だね。いいところに入ったね。入学するからには、しっかり頑張りなさい」
 創大入学の希望が叶ったのも、母が尽力してくれたお陰であると痛感していた大崎にとって、伸一の「お母さんを大事にするんだよ」という言葉は、深く心に染みた。
 この時、伸一とともに食事をした学生のなかには、入学式で宣誓をした田所康之や、創価高校で下宿生の中心となっていた矢吹好成もいた。
 伸一は、皆に食事を勧めながら語った。
 「創価大学は、学生のための、学生中心の大学なんだ。
 だから、″自分たちが主体者である。主役である″と決めて、すべての問題に、積極果敢に取り組んでいくんだよ。
 まだ、設備も完璧ではないし、頼るべき先輩もいない。自治会もない。そのなかで新しい歴史を開くためには、筆舌に尽くしがたい苦労があると思う。
 しかし、後に続く後輩たちのために、その茨の道を切り開いていくのが君たちの使命だ。
 今は、どんなに大変でも、苦労して開いた道は残る。一期生の名前も永遠に残る。
 君たちみんなが、創価大学の創立者だ。私と同じだよ。
 もし、困ったことがあったらなんでも相談しなさい。できる限りの応援をします」
19  創価大学(19)
 折々の山本伸一との語らいを通して、創大生たちは、大学建設のバイオニアの決意を、さらに堅固にしていった。
 五月には、有志の働きかけで自治会設立への動きが始まり、下旬に設立準備会議が発足した。
 さらに六月にかけ、各クラスごとに討論会を行い、運営の大綱が検討され、全学集会が開かれている。
 また、課外活動の運営機関として学友会組織も整い、各サークルの設立が進められていった。
 そして、文化系のサークルとしては、中国研究会やフランス語研究会、英語研究会、シルクロード研究会、日本伝統文化研究会、新聞会、生命哲学研究会などが誕生することになる。
 語学など、海外に関係するサークルが目立ったが、それは、「人類の平和を守るフォートレスたれ」とのモットーを実現しようという、強い思いの表れでもあった。
 学生たちは″恒久平和のためには、諸外国との相互理解を深めなければならない。
 それには、語学力を磨き、それぞれの国々について研究を重ねることが不可欠である″と考えていたのである。
 たとえば、中国研究会を結成した学生たちは、一九六八年(昭和四十三年)九月八日に、創立者の山本伸一が日大講堂での学生部総会で行った、日中国交正常化の提言に、強い触発を受けたメンバーであった。
 特に、「諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない」との言葉は、深く、皆の心に刻まれていた。
 ″創立者の山本先生が命がけで開かれた、日中の平和の流れを、誰が受け継いでいくんだ!″
 それを自分たちの使命と考える創大生は、少なくなかった。
 その一人に、倉田城信という学生がいた。
 彼は隣国・中国との交流なくしては、東洋の平和も、世界の平和もないという創立者の主張に共鳴した。
 そして、日中友好のためには、まず中国という国の民族、人びとの暮らし、地理、文化、歴史、思想などを知らなければならないと思った。
20  創価大学(20)
 倉田城信は、中国について学ぶためのサークルをつくろうと、大学の寮に張り紙をするなどして、学生たちに呼びかけていった。
 すぐに何人かが集って来た。皆、日中の懸け橋になりたいという熱意に燃えていた。
 そのなかには、中国語の習得が不可欠であると考え、他大学に通う台湾の留学生に頼んで、中国語を教えてもらっていた学生もいた。
 倉田たちは、熱い胸の思いを語り合った。
 「ただ、大学時代に中国のことを勉強したという思い出をつくるだけでなく、卒業後も、日中友好のために貢献できる人材を輩出していくサークルにしたいな」
 「そうだね。ぼくはこのサークルを通して、創価大学を日中関係についての、最も権威ある大学にしていきたいと思う」
 山本伸一の理想を胸に立ち上がった、彼らのその決意こそ、創価大学と中国との交流の源流であった。
 源流は、人間の心の内から流れるのである。
 名称も「中国研究会」と決まり、サークルとして登録し、活動が開始された。
 メンバーは、中国の古典から毛沢東思想まで、手当たり次第に勉強していった。
 また、一九七二年(昭和四十七年)九月に日中共同声明の調印が行われ、両国の国交が正常化すると、学生訪中団などに自主的に参加するメンバーもいた。
 創立者の山本伸一が第一次訪中を行った年(一九七四年)の秋には、中国研究会の主催で、中国語弁論大会も開催されることになる。
 周恩来総理が伸一と会見したのは、この年の十二月五日、第二次訪中の折のことであった。
 その翌年に、創価大学は六人の中国政府派遣留学生を受け入れている。
 新中国となって、日本の大学で初めて中国の留学生に門戸を開いたのである。
 それは創立者の伸一の、粘り強い努力の結実であった。
 伸一は、全精魂を傾けて、日中友好の金の橋をかけようとしていた。
 その橋を創大生たちが渡り、万代にわたる友誼の道を開いてくれることを、彼は、強く確信していたのである。
21  創価大学(21)
 創価大学が中国の留学生を受け入れると、中国研究会の活動も、にわかに活気づいていった。
 部としても積極的に留学生と関わり、さまざまな面で応援していこうということになった。
 留学生から、中国語や中国事情を教えてもらうこともあった。
 諸行事の折には、一緒に餃子をつくるなど、さまざまな思い出を刻みながら、深い友情が結ばれていったのである。
 創価大学は、一九七五年(昭和五十年)に香港中文大学と交流協定を締結。さらに、北京大学など、中国の大学と次々と交流を推進していくが、中国研究会からは、多くのメンバーが、交換留学生となっていった。
 また、初代の部長を務めた倉田城信は、日中貿易の会社に勤務し、両国の懸け橋として活躍することになるが、日中の交流に尽力する中国研究会の出身者は数多い。
 創大生は、世界の平和を考え、国際的な意識をもつことを心がけていた。青年時代の志という絵筆が、人生のカンバスに荘厳な名画を描き上げていくのだ。
 日本伝統文化研究会が結成された背景の一つにも、国際交流という問題があった。
 創価大学には、開学間もない四月、タイのチュラロンコン大学の経済学部長が訪問していた。
 学生たちは、未来を考える時、海外の人たちとの交流は、ますます盛んにならざるをえないだろうと思った。
 ″その時に、華道や茶道など、日本の伝統文化を身につけ、紹介できたら、相互理解の大きな力になるにちがいない″
 そう考えて、サークルの結成に踏み切ったのである。
 さらに、有志によって新聞会も結成された。
 「新しい時代を切り開く論陣を張ろう」「人類の平和を守るフォートレスである創価大学の声を、社会に発信しよう」というのが、メンバーの決意であった。
 まだ、部室もなく、編集会議は食堂の片隅などで行われた。
 ほとんど予算がないなかで、どうやって新聞をつくるかも、大きなテーマだった。
 「創大ジャーナル」と名づけられた新聞が発刊されたのは、九月の下旬であった。
22  創価大学(22)
 新聞会のメンバーは喜びと誇りをもって、刷り上がった「創大ジャーナル」を学友に手渡した。
 しかし、皆の反応は至って悪かった。ガリ版刷りであったからだ。
 「えっ、これ! ワラ半紙大のガリ版刷りじゃあ、小学校の学級新聞みたいで恥ずかしいよ」
 新聞がガリ版刷りになったのは、それが最も安価であったからである。
 「新聞は体裁じゃないよ。内容が勝負だ」
 事実、八ページ建ての新聞の内容は、極めて充実していた。
 「主張」では、時代の覚醒と革命には常に新聞が大きな役割を果たしたことを述べ、平和革命を推進する新しい新聞をめざしたいと、烈々たる決意が記されていた。
 創価大学の使命を考察する企画や、教授へのインタビュー、書評や声もあった。
 そして、ある月刊誌に宗教学者が書いた、「創価大学に学問の自由はあるか」と題する批判への学生の反論も掲載されていた。
 それは、″宗教とは何か″″″学問とは何か″という、根源に立ち返っての鋭い反論であり、中傷を断じて打ち破ろうとする、若き正義の叫びがみなぎっていた。
 彼らは、自分たちもまた創立者と同じ心で、誉れのパイオニアとして、大学建設の道を切り開こうと決意していた。そして、自身の存在こそが、まぎれもなく創価大学であると自覚していたのである。
 ″自分は主体者として生きる。傍観者の座に甘んじることは責任の放棄である″というのが、一期生の信念であった。
 だから、悪意に満ちた批判や中傷など、絶対に看過することなどできなかったのである。
 新聞は、月一回の発行をめざし、刷り上がるたびに、創立者の山本伸一にも届けられた。
 伸一は、その新聞にくまなく目を通し、仏前に供え、学生たちが健やかに成長し、未来に飛翔していくよう、心を込めて祈り続けた。
 翌年四月には、新聞の名は「創価大学新聞」と改められた。
 新聞の創刊から二年が過ぎたころ、伸一は新聞会の代表を励ました。
 「私も読んでいるよ。誰もが共感する最高の新聞にしていこうよ。新聞社をつくれるぐらいの力をつけるんだよ」
23  創価大学(23)
 山本伸一は、新聞会の代表に、何か困っていることはないかと尋ねた。
 メンバーの一人が、意を決したような口調で答えた。
 「新聞をタイプ印刷にしたいので、タイプライターがほしいんです」
 伸一は、タイプライターの値段を聞くと、メンバーに言った。
 「そうか……。私がなんとかするよ」
 ほどなく、伸一から、お金が届けられた。
 彼は、学生たちのために、自分にできることは、なんでもする決意であった。そして、メンバーには、善悪を鋭く見抜く、正義の言論人に育ってほしかった。
 また、開学一年目の二月に、学生自治会が発足すると、やがて、自治会でも、新聞を発行していった。
 「自治会新報」、さらに、毎日の発行をめざした「デイリー新報」なども創刊され、後に「創大学生新聞」が誕生するのである。
 それは、大学建設の大きな力となっていった。
 次代の改革は、青年の双肩にかかっている。学生が立ち上がり、学生が叫び、新しき言論の潮流を起こしてこそ、未来の扉は開かれるのだ。
 一方、文化系サークルだけでなく、柔道、ラグビー、硬式野球、アメリカンフットボールなど、スポーツ系のサークルも、次々と設立された。
 後に全日本大学野球選手権大会で好成績を収め、創価大学の名を社会に知らしめることになる硬式野球部も、開学の年にスタートしている。
 当初、同好会の届け出をすることになったが、必要とされる人数が集まらなかった。
 ようやくメンバーを集めたが、初めて硬球を握ったという人もいた。
 バットやグラブなどの用具は、個人が持っているものを持ち寄って使うことにした。
 練習場所の大学のグラウンドは、まだ十分な整備がされていないため、石ころだらけであり、整地作業から始めなければならなかった。
 それは、グラウンドを使う、ほかのサークルも一緒だった。
 草むしりをしたり、スコップを手にしているうちに、日が暮れてしまうこともあった。
 しかし、あとに続くであろう後輩たちのためにもと、誇り高く青春の汗を流した。
24  創価大学(24)
 グラウンドで練習する場合も、野球だけで、単独で使用することはできなかった。
 アメリカンフットボールやサッカー、ラグビーも、同じグラウンドを使うしかなかったからだ。
 だから、グラウンドには、大小さまざまなボールが飛び交っていた。
 また、グラウンドは野球場とは形が違うため、打球の方向によっては、ただの外野フライでもホームランになってしまった。ところが、実際には、ホームランなど極めて少なかった。
 初めは野球の練習に、九人がそろうことさえ珍しかった。
 アルバイトをしないと、生活できない人が多かったからである。
 したがって、他校との練習試合も、なかなかできなかった。
 ようやく近くの高校の野球部と練習試合を行うことになったが、七対八で敗れてしまった。
 この高校との二度目の試合でも、やはり惜敗したのである。
 創価高校の野球部とも試合をしたが、三対四でサヨナラ負けした。
 しかし、メンバーの胸には、闘魂が燃え始めていた。
 ″やる限り、何事も勝たなければつまらない。でも、まともに練習もせずして、試合に勝てるわけがない!″
 皆が真剣に練習に臨むようになった。
 すると、具体的な目標の必要性を痛感した。
 彼らは話し合った。
 「大学のリーグに加盟しよう」
 しかし、周囲には「時期尚早」だとする声もあった。他校との試合で好成績を収めるなどの実績が、なかったからだ。
 野球部がリーグ加盟を希望しているとの話は、創立者の山本伸一の耳にも入った。
 伸一は、その気概が嬉しかった。何か応援してあげたかった。
 そこで、クラブ活動の資金を寄付した。
 野球部が東京新大学野球リーグに加盟したのは、開学から三年が過ぎた一九七四年(昭和四十九年)のことであった。
 二部の春季リーグ戦の初戦は、大量の点差で負けた。
 だが、第二戦では初勝利を飾り、以後、勝ち続け、二部第二位となったのだ。勝利の喜びを初めて噛み締めた。
 燃えた。断じて勝ち続けようと皆が決心した。
25  創価大学(25)
 勝負の世界とは厳しいものだ。たまたま好調で勝つことがあったとしても、本当の実力がなければ、勝ち続けることはできない。
 絶好調で勢いづいている時に、好成績を上げることは容易である。本当の実力とは、最悪な状態の時でも、着実に勝利を収めることができる力である。
 創大の硬式野球部は、一九七四年(昭和四十九年)秋のリーグ戦では三勝三敗一分けであり、伸び悩んでいた。
 それを聞いた山本伸一は、十一月下旬、練習中の野球部員の激励に、グラウンドにやって来た。
 伸一は、この日、彼の宝ともいうべき貴重な品々を野球部に託そうと思っていたのである。
 それは、一週間ほど前に、アメリカ大リーグの名門チームであるロサンゼルス・ドジャースの選手たちから、伸一に贈られた野球用具であった。
 背番号「一〇〇」の、伸一用のユニホームや、この年にチーム最多のホームランを打ったジミー・ウィンのサイン入りバット、選手たちのサインボールなどである。
 創立者の姿を見つけた野球部員は、「先生!」と言って、彼の周りに一目散に走り寄ってきた。
 「みんな、頑張っているね。今日は、私の大事な宝を野球部に託しに来たんだよ。
 これは、今シーズン、ドジャースのホームラン王となった選手のバットです。そして、ボール、ユニホーム一式です。
 諸君が持っていてください。野球部の宝として、後輩に伝えていってもらいたいんです」
 メンバーは、わが目、わが耳を疑った。皆、驚きで声も出ないという顔であった。
 伸一は、微笑みながら、言葉をついだ。
 「私には、世界の各界で活躍する第一人者の友人がたくさんいます。創価大学もまた、すべての面で世界の最高峰とつながっているんです。
 それから、試合で惜敗する理由は、油断、気の緩みである場合が多い。
 だから、『勝って兜の緒を締めよ』というが、創大野球部は、『負けて兜の緒を締めよ』の精神でいくようにしてはどうだろうか。
 また、試合は、勝つ時も、負ける時もある。しかし、大切なことは、人間的に成長し、人間として勝つことです」
26  創価大学(26)
 グラウンドでの山本伸一との語らいは、野球部員にとって、忘れ得ぬ思い出となった。
 彼らは語り合った。そして、伸一の話から「人間勝利の野球部」というスローガンをつくった。
 皆が奮起した。人間として勝ったといえる野球をやりたいと思った。
 一九七五年(昭和五十年)の、二部春季リーグ戦が開幕して間もない、五月五日のことであった。
 大学近くのグラウンドを借りて、創価大学や創価学園の教職員らの親善野球大会が行われた。
 伸一は、そこに野球部員を招き、テントのなかで一緒に試合を観戦しながら、対話を交わした。
 彼は、期待を込めて野球部員に言った。
 「『さすが、創大野球部だ。すがすがしい』といわれるチームになっていくんだよ。 
 創価大学も、野球部も、まだ草創期であり、苦労も多いかもしれない。しかし、その苦労が大事なんだ。
 また私は、一番苦労した人を、一番大切にしていきます。何か質問はないかい」
 野球部員が尋ねた。
 「試合の流れが一方的になり、追い込まれてしまった場合は、どうしたらいいでしょうか」
 「ピンチになった時には、みんなで集まって、心機一転して頑張っていくことだよ。これは、野球の試合でも、人生でも一諸です。
 戦いで負ける時というのは、相手に負ける前に自分に負けてしまっているものだ。
 プレッシャーや状況に負けてはいけない。その時こそ、心を一新し、ますます闘志を燃え上がらせていくんだ」
 試合が一段落すると、伸一は言った。
 「一緒に練習しよう。ぼくがノックをするよ」
 野球部員は、伸一がノックするボールを懸命に追った。体当たりで白球に食らいついた。
 「うまいねー」
 「大したもんだ!」
 伸一は、彼らがボールを捕るたびに、声をかけていった。
 野球部員が受け止めたのは、創立者の期待と、真心であったのかもしれない。白球を追いながら、目を熱く潤ませる部員もいた。
 ノックするボールの快音が、いつまでもグラウンドにこだましていた。
27  創価大学(27)
 ″断じて勝とう! 勝って創立者に応えたい″
 それが全野球部員の決意となっていった。
 折から二部春季リーグ戦が始まっていた。
 山本伸一の激励を胸に、創大野球部は大奮闘し、このリーグ戦で初優勝を果たしたのである。
 そして、この年、一部リーグに昇格。さらに、念願の野球場が完成したのだ。
 一九七七年(昭和五十二年)の春季リーグ戦では、初の一部優勝を果たし、全日本大学野球選手権大会に出場した。
 惜しくも準決勝で敗退したが、学生監督に率いられた大学野球らしいさわやかなプレーは、清々しいとの評判を呼んだ。
 以来、創大野球部は、数多くのリーグ優勝を飾り、全国大会でも、好成績を収めるまでになる。また、プロ野球選手も輩出している。
 また、後年、伸一は、野球部の勝利と栄光を願い、次のような指針を贈っている。
 「心で勝て 次に技で勝て 故に 練習は実戦 実戦は練習」
 創立者とともに、創大の″人間野球″の伝統が築かれていったのである。
 創価大学の特色の一つは、学生寮を教育の場として、積極的に取り入れていたことにある。
 一期生は、八割近くが寮生であった。
 かつての旧制高等学校がそうであったように、学友同士が寝食をともにしながら、深い友情を結び、人間的な啓発を図ろうと、大学をあげて、寮の充実に力が注がれたのである。
 大学紛争では学生寮をめぐる問題が紛争の火種となったり、闘争の拠点となるケースが多かったことから、社会的には、とかく寮は問題視されていた。
 しかし、それは、寮の失敗ではなく、大学教育そのものの失敗であるといわねばならない。
 学生の自治に委ねた寮の運営が成功するならば、それは創価大学の人間教育の勝利である――創大の学生寮は、その決意から出発していた。
 だから、寮生を管理する「舎監」などは置かず、いっさいは学生に任された。学生たちにも、理想的な学生寮にしてみせるとの意気込みがあった。
 寮は、鉄筋コンクリートのビルで、各部屋に皆が集まれるミーティング用のスペースがあった。
28  創価大学(28)
 寮生は多彩であった。
 南は沖縄、北は北海道と、全国から学生が集まって来ており、どの部屋にも、各地の方言が飛び交っていた。
 最初、寮生たちは、互いに、方言や文化、習慣の違いに驚き、戸惑ったようだ。
 しかし、若人は柔軟であった。言葉や文化の違いに慣れるまで、さして時間はかからなかった。
 ある部屋では、やがて皆が関西弁を話すようになり、″標準語″になっていた。東京弁も追いやられてしまったのだ。
 しかし、茨城など、東の出身の学生が納豆を食べ始めると、関西の出身者は、途端に元気がなくなった。
 「頼むわ。近くで食べんといてくれ! 関西人は、納豆はあかんのや。匂いがあかんし、そのネバネバがあかん!」
 でも、数カ月後には、関西の出身者で、好んで納豆を食べるようになった学生も多かった。
 また、一期生には、高校を卒業して社会に出ていた人や、他大学に通っていた学生も多いために、年齢の幅もあった。それだけに、深い語らいが弾んだ。
 「創大生として何をなすべきか」「どうすれば、創大を世界的な大学にすることができるのか」など、熱のこもった議論が、夜明けまで続くことも珍しくなかった。
 惰性に流され、目的を見失ったような寮生に、「君は、なんのために創大に来たんだ!」と、涙を浮かべて、兄のように厳しく叱咤する同室の友もいた。
 皆が真剣であった。
 家からの仕送りもわずかで、授業料の納入期限がきても、納められない学生がいると、皆が応援した。
 即日、賃金が支払われる高収入のアルバイトを紹介したり、実家から送ってもらった野菜や米を分けた。
 寮生数人で、大学側に、「納入期限を延ばしてほしい」と直談判しに行ったこともあった。
 寮生活は、学業の面でも大きな触発があった。特に国家試験をめざすメンバーなどは、互いによきライバルとなった。
 ″今夜も、彼以上に勉強しよう。彼が寝るまでは、絶対に寝ないぞ!″
 こう互いに決意して、黙々と机に向かって勉強するのである。
29  創価大学(29)
 大学建設のパイオニアの使命に生命を燃やしていたのは、もちろん学生ばかりではなかった。
 大学職員もまた、必死であった。
 開学の準備にあたった職員のうち、大学事務職員を経験した人など、ほとんどいなかった。
 それで大学を立ち上げようというのだ。
 日々、闇のなかを手探りで進むような状態であった。
 学生の募集要項や履修要項の作り方さえわからなかった。
 他大学や自分の出身大学に行って、頭を下げて教えを請うたことも数知れなかった。悔しい思いもした。
 しかし、どれをとっても創価大学ならではの最高のものをつくろうと、懸命に頑張り通した。
 その支えとなったのが、伸一の言葉だった。
 「大学における職員というのは、船でいえば機関部です。
 機関は人目にはつかないが、止まってしまえば船は動かなくなる。誰が見ていようがいまいが、職員が頑張って、最高の大学をつくっていってください」
 職員は、創立者の心をわが心として立った。
 草創期は職員の人手も少なかったため、自分の担当部門に関係なく、なんでもやらなければ、先へ進まなかった。
 教務課に籍を置いていても、造園作業もやれば、トイレの掃除もやった。文句を言う暇もなければ、文句を言う相手もいなかった。
 ″創価大学は山本先生の理想であり、人生をかけた大学だ。私も、ともにその理想に向かって進む。先生に代わって、この大学を、断固、守り抜いてみせる!″
 それが、職員の誓いであった。
 学生課の職員は、学生の生活すべての面倒をみる決意でいた。
 オートバイで事故を起こしたと聞けば、すぐに現場に駆けつけた。
 授業料が払えない学生がいれば、紹介状を書き、アルバイトを紹介した。そのために職員は、アルバイト先の確保にも奮闘した。
 皆、二十四時間、学生と関わっていく覚悟を固めていたのだ。
 だから、学生部長なども、大学近くに下宿していた。
 また、多くの職員が、全学生の顔と名前、出身地等を頭に入れていた。
30  創価大学(30)
 教員たちの多くは、創立者である山本伸一の建学の精神を分かち持ち、二十一世紀を開く大学建設の気概に燃えていた。
 学生に気さくに声をかけ、食堂などでは、自ら進んで、学生たちの輪の中に入る教授も少なくなかった。
 アラビア語の大家の教授は、学生たちとテーブルを囲みながら、アラブの食事の仕方からマナーまで、身振り手振りを交えて語って聞かせた。
 学生たちのために、自分の研究室を開放する教員もいた。
 他大学から創価大学に来た学生たちは、教員と学生の身近な関係に驚きを隠せなかった。
 なかでも、講師や助手などの若手教員は、特に熱意にあふれていた。
 「どうすれば、二十一世紀のリーダーを育てることができるのか」と、真剣に考えていたのだ。
 授業のほかに、学生と読書会を開く若手教員もいた。
 また、学生の進路や人生の在り方、恋愛などについても相談にのった。
 寝坊して朝の授業を休みがちな寮生がいると、起こしに行き、日々の生活の大切さを、諄々と指導する教員もいた。
 大学には教員宿舎があったが、仕送りが途絶えたり、金を使い果たしてしまった学生は、あえて食事時に、教員の宿舎を訪ねた。
 教員も、学生たちの事情をよくわかっていた。だから、教員の多くが一家をあげて歓迎し、食事をご馳走してくれた。
 なかには、缶詰や即席ラーメンを持たせて帰す教員もいた。
 そこには、微笑ましい教師と学生の絆があり、″大学家族″の温もりがあった。
 ある教授は、若手の教員に、しみじみと、こう語るのであった。
 「創価大学の学生たちの多くは、山本先生を慕って集まって来た。しかも、皆、優秀な人材だ。
 私は、山本先生から、学生という先生の最高の宝を、お預かりしていると思っている。
 でも、とうてい、山本先生のような教育はできない。だから、一日も早く、創立者に大学に来ていただきたいのだよ」
 しかし、一部ではあったが、大学は、学会の会長である伸一とは、距離をおくべきだと言う教員もいたのである。
31  創価大学(31)
 創価大学は、間もなく夏休みを迎えようとしていた。
 学生たちの願いは、創立者に大学を訪問してもらうことであった。開学以来、山本伸一が創立者として、公式に大学を訪問したことは一度もなかったのである。
 創立者を大学へ――との学生たちの思いは、日ごとに強まっていった。
 ある日、一人の男子学生が、授業のあとで教員に、その思いを語った。すると、教員の口から、耳を疑う言葉が飛び出したのである。
 「創立者には、大学に来てもらう必要はないのではありませんか。
 教育や学問研究は、教員が責任をもって行っているわけですから……」
 その場には、数人の学生たちが残っていたが、皆、唖然とした。
 学生たちは、全教師が、自分たちと同じ気持ちでいるものと思っていたからだ。
 男子学生が怒りに満ちた口調で質問した。
 「先生が、創立者をお呼びすることに反対する理由はなんですか!」
 「私は、別に反対などしていません。
 ただ、創価大学と宗教団体の創価学会とは、別のものです。
 そこに、学会の会長である山本先生がお見えになるというのは、社会的に見ていかがなものか、慎重に考えた方がいいと申し上げたいだけです。
 また、近年、創価学会はいろいろと批判されてきた。大学の社会的なイメージという面からいっても、少し距離をおくべきではないですかね」
 「では、お聞きしますが、先生は、創立者の精神に賛同して、創価大学に奉職したのではないのですか」
 「賛同していますよ。
 私が言いたいのは、教団と大学は、立て分ける必要があるということなんですよ。
 また、先生方のなかには、創立者は大学をつくったことで、役割を果たしたと考えるべきだという意見もある」
 別の男子学生が、鋭い声で尋ねた。
 「そんなこと、誰が言っているんですか!」
 「個人の名前など言えませんよ」
 女子学生が、叫ぶように訴えた。
 「私は、創立者が大学に来るべきではないと考えている先生方の発想自体が、根本的におかしいと思います!」
32  創価大学(32)
 女子学生は、教員の言うことが、どうしても納得できなかった。
 「私は、山本先生の人間教育に共感し、創価大学に来ました。もっと言えば、山本先生の人格に触れ、教えを受けたくて入学したんです。
 いえ、私だけでなく、たくさんの学生が山本先生を師と慕って、創価大学に集っています。
 創立者が来ることができないような大学が、いったい世界のどこにあるんですか。
 そんな大学なら、私にとって、創価大学を選択した意味は、全くなくなってしまいます」
 いつしか、彼女の目は潤んでいた。
 女子学生の話を受けるように、別の男子学生が語り始めた。
 「先生の言われるように、宗教団体と大学は、制度的に立て分ける必要はあると思います。そして、事実、学会と創価大学は、制度として明確に分離されています。
 そうであれば、山本先生に創立者として大学に来ていただくことには、何も問題はないではありませんか!
 また、山本先生は仏法者なんですから、先生の教育理念の根底に仏法があるのは当然です。
 かつて札幌農学校で、クラーク博士が行った青年教育はよく知られていますが、博士は敬虔なキリスト教徒でした。そして、その人格教育のもとになったのはキリスト教精神です。
 創価大学としては、創立者が示された建学の精神を実現するために、一日も早く創立者を大学にお呼びし、その教育理念や人間哲学を、もっと学ぶべきだと思います」
 教員は、学生たちの勢いに、圧倒されたようであった。
 「君たちの意見はわかりましたが、先生方のなかにも、社会にも、いろいろな見方や考え方があるということなんです。
 では、私はこれで!」
 教員は、逃げるように教室を出ていった。
 学生の一人が、激昂しながら言った。
 「ぼくらとは、全く違う考えの教員もいたんだ。これでは、大学として創立者に来ていただくのは難しいな……」
 「それなら、ぼくたち学生が、山本先生をお呼びすればいいんだ。学生の総意なら、文句を言われる筋合いはない」
33  創価大学(33)
 「創立者の山本先生を創価大学に招こう!」
 その機運は、日を追うごとに、学生たちの間にみなぎっていった。
 「ぜひ創価大学へ」という、創大生からの手紙も、数多く山本伸一のもとに寄せられた。
 学生部員の創大生は、学会の会合などで伸一と会う機会があると、必ず創価大学への訪問を要請した。
 八月に総本山で行われた、学生部の夏季講習会でのことであった。伸一は、河原で、ともにスイカを食べながら、代表と懇談した。
 その時、一人の学生部員が、意を決したように言った。
 「先生、実は、お願いがあります。創価大学に来てください!」
 創大生であった。その言葉には、ひたむきさがあふれていた。
 「何かあるのかい」
 創大生は返事に詰まった。皆で、「山本先生を大学にお呼びしよう」と誓い合ってはきたが、何に招待するかも、決まっていなかったのだ。
 とっさに彼は、学友との語らいのなかで、「大学祭をやりたい」という話が出ていたことを思い出して言った。
 「大学祭をやります」
 「いつ、やるんだい」
 「……秋です」
 日時も未定の、漠然とした答えであった。
 「みんな、頑張っているのかい」
 「はい、元気です。先生のご訪問をお待ちしています」
 「わかった。学生の皆さんの招待ならば、私は、必ず行きます!」
 創大生の顔が輝いた。
 その学生は、夏季講習会を終えると、一目散に大学へ向かった。
 創立者に、大学祭を開催すると言ってしまったが、何も具体化していなかった。皆、ただ希望を口にしていただけであったからだ。
 しかし、創立者が「必ず行きます」と言ったのである。もはや、″後には引けないぞ″と、彼は思った。
 キャンパスは、夏休みで閑散としていた。
 彼は主だった学生に電話をかけ、電報を打ち、また、葉書を出すなどして連絡を取った。
 「山本先生が、大学祭に来てくださる!」
 喜びの連絡が、各地に帰省していた学生から学生へと駆け巡った。
34  創価大学(34)
 九月に入ると、大学祭の実施計画も具体化し、準備が始まった。
 実行委員会がつくられ、文学部の奥田義雄が実行委員長に選ばれた。
 名称は「創大祭」、テーマは「ロマンと英知と表現と」と決まり、期間も十一月二十一日から二十三日までの三日間に決定した。
 各クラスやサークルでも、「創大祭」で何を行うか、連日、話し合いがもたれた。
 しかし、初めての大学祭である。皆の描くイメージも異なり、なかなか話はまとまらなかった。
 実行委員長の奥田は、別の大学から創大に入った学生で、年長であり、大学祭も経験していた。
 彼の、その経験とリーダーシップが大いなる力を発揮し、一つ一つ課題を克服していった。
 準備の時期と試験期間が重なるなど、困難は数知れなかった。
 「創大祭」の直前は、準備にあたった学生のほとんどが徹夜の連続であり、悪戦苦闘を重ねた。
 だが、皆、闘志を燃やしていた。研究のまとめや展示一つにも、最高のものにしようとの気迫がみなぎっていた。
 赤く腫れた目をこすりながら、学生たちは語り合った。
 「『創大祭を見てください』と言って、山本先生に来ていただくんだ。だから、先生に『さすが創大生だ。見事だ!』と感嘆していただけるものにしようじゃないか!」
 弱音を吐く者など、誰もいなかった。
 その様子は、山本伸一に寄せられた、大学職員や学生の手紙からも、よく伝わってきた。
 伸一も、「創大祭」を楽しみにしていた。
 「創大生たちは、一生懸命に頑張っているんだろうな。会いたいな」
 彼がこう言うと、学会本部の首脳のなかにも、心配そうに、顔を曇らせる人もいた。
 本来、創立者が大学に行くのは当然のことだが、それを一部のマスコミなどが、大学への干渉などと騒ぎ立て、伸一への攻撃材料にすることを、彼らは憂慮していたのである。
 伸一も、そんなことはわかりすぎるほど、わかっていた。
 しかし、創大生の気持ちを思うと、自分に向けられる非難など、どうでもよかった。
35  創価大学(35)
 秋晴れの空が広がっていた。頭上には太陽が、黄金の光を放っていた。
 山の彼方に、白雪を頂いた富士が見えた。
 十一月二十一日、「創大祭」開幕の日である。
 午後一時過ぎ――。
 創価大学の文科系校舎の正面玄関前には、「創大祭」実行委員長の奥田義雄をはじめ、学生の代表ら数人が、緊張した顔で立っていた。
 ほどなく、正面玄関前に車が止まった。メンバーが駆け寄るより早く、ドアが開いた。
 山本伸一のこぼれるような笑顔があった。
 「ご苦労様! 約束通り来たよ!」
 「先生、ようこそ創価大学に……」
 奥田の声は、そこで詰まった。
 熱いものが込み上げ、最後は声にならなかったのである。
 「今日は、全部、見せてもらうよ。みんなが苦労に苦労を重ねて、準備したんだもの」
 こう言うと伸一は、早速、周辺の模擬店の学生たちを励まして歩いた。
 そして、各教室で行われている展示を、くまなく見て回った。
 案内する奥田は、夢を見ている気がした。
 伸一は「工夫しているね。準備には何日ぐらいかかったんだい」など、行く先々で学生たちに声をかけた。
 創立者を初めて間近に見る学生も多かった。そのせいか、幾分、緊張した表情の学生もいた。
 すると、彼は、ユーモアを交えて言った。
 「おなかが空いているのかい。
 あとで屋台のおでんをご馳走するから、元気を出すんだよ」
 心をほぐすような言葉に、笑いが広がった。
 展示には、新潟水俣病の研究もあった。
 粘土で作った阿賀野川流域の模型や、パネル、写真が飾られ、新潟水俣病の経過や悲惨な実態が浮き彫りにされていた。
 そこには、人びとの苦悩を見逃さずにはおくものかという、社会正義の心があふれていた。
 伸一は、学生たちに、″人間教育の最高学府″を標榜する創価大学の建学の精神が、力強く脈打っているのを感じた。
 大学祭が、単にお祭り騒ぎの場となりつつあるなかで、真剣な研究成果が光る展示が、伸一は嬉しかった。
 「よく研究したね。大変だっただろう」
36  創価大学(36)
 新潟水俣病の展示企画を、中心となって進めてきた浜田正明が、山本伸一に言った。
 「現地調査を行ったことで、公害の実態がよくわかりました」
 彼らは、新潟まで車を飛ばして、現地の被害状況を調査した。また、患者を診てきた新潟大学の医師にも話を聞いた。
 その調査の際に、よく「どちらの大学ですか」との質問を受けた。
 「創価大学です」と答えると、聞き慣れぬ大学の名前に、誰もが首をかしげた。
 学生たちは、まず、創価大学の説明から始めなければならなかった。
 「ほう、そんな大学があったんですか」という人もいれば、「それは、あの創価学会がつくった大学ですか」と、興味津々という顔で尋ねる人もいた。
 創大生たちは、胸を張って答えた。
 「はい、創立者は、創価学会の会長の山本伸一先生です」
 すると、なかには冷笑を浮かべる人もいた。
 しかし、新潟水俣病の調査・研究に情熱を燃やす学生たちの、真面目で真剣な態度に接するうちに、多くの人が、創価大学への認識を深め、好感をいだくようになっいった。
 新潟水俣病への対策に取り組んできた、ある関係者は、地元の学会員にこう語ったという。
 「創価学会がつくった大学の学生というから、どんな人たちかと思っていたら、実に誠実で、社会正義に燃えていた。
 それは、最も大切な、人間をつくる教育が創価大学でなされているということだ。感心したよ」
 創大生たちは、自分たち一人ひとりが、創価大学の代表であるとの、強い自覚をもっていた。
 だから、不勉強であったり、だらしのない態度ではいけないと、皆が強く、自分を戒めていたのである。
 山本伸一は、浜田の説明を聞きながら、ねぎらいの言葉をかけた。
 「ありがとう。すばらしい研究です。展示にもみんなの顔にも、苦労のあとが滲み出ているよ。
 ところで、今夜は、ぐっすり眠るんだよ」
 不眠不休で「創大祭」の準備にあたってきたために、メンバーの目は、赤く充血していたのだ。
 しかし、その表情は晴れやかであった。
37  創価大学(37)
 教室の展示には、戦時中、日本本土を守るための捨て石とされ、犠牲となった沖縄の歴史から、平和とは何かを考える企画もあった。
 国際社会で注目されていた現代中国の研究もあった。国際交流をテーマにした展示も多かった。
 討論会もあれば、各種の音楽演奏や映画、演劇、そして、落語と、実に多彩であった。模擬店も大盛況であった。
 すべての展示を見て回った山本伸一の体は、疲労の極にあった。足は棒のようになっていた。
 彼は、総本山での行事に出席し、寸暇を惜しんで原稿の執筆にあたっていたが、この日、時間をこじ開けるようにして「創大祭」にやって来たのだ。
 首も、肩も、凝り固まり、腕を上げようとすると、ボキッと音がした。
 それを聞いた同行の幹部が言った。
 「先生、お疲れではありませんか。
 このあと、体育館で創大祭記念フェスティバルが行われますが、ご出席になりますか」
 伸一は、毅然としたロ調で答えた。
 「当然、出席します。最も敬愛する創大生に招かれ、皆を励ますために来たんです。たとえ、倒れようが、全力を振り絞って、私は皆と会う」
 伸一が体育館に姿を現した。
 「ワー」という大歓声と、嵐のような拍手がわき起こった。
 立ち上がって、手を振る学生もいた。
 ″山本先生だ! 先生が来てくださった!″
 入学以来七カ月余り、待ちに待った創立者の正式な来学である。
 喜びのなかで、記念フェスティバルは幕を開けた。
 伸一は、身を乗り出しながら、学生の演奏や演技を見守り、喝采を送り続けた。
 やがて、伸一にマイクが渡された。全学生に向かっての、初めてのスピーチである。皆、固唾をのんだ。
 伸一の声が響いた。
 「私は、心から感動しております。
 創価大学は、日本ではまだ最も少人数の大学であるかもしれない。しかし、これほど有意義で、清潔で、美しい大学祭はほかにはないと確信しています」
 誰もが、深い感慨を覚え、熱い感動が胸いっぱいに広がっていた。
38  創価大学(38)
 山本伸一は、一人ひとりに視線を注ぎながら、力を込めて訴えた。
 「苦労して第一回の大学祭を運営した諸君の努力は、二十年先、三十年先に、必ずや偉大な栄光の花として咲き薫ると、私は信じております。
 今後、諸君の後には、何万、何十万という後輩が、陸続と創価大学の門をくぐることでしょう。
 その後輩たちのためにも、先駆を切って、道なき道を開き、建学の精神に貫かれた人間教育の軌道を、つくっていただきたいのであります」
 さらに彼は、人間の社会にあって、最も教育が大切であることを述べたあと、学生たちへの思いを語った。
 「私は、皆さん方に、偉大な人格をもつ人として、相対していきたい。皆さんは私よりも、何十倍、何百倍も偉い、無限の可能性を秘めた人格者であると、心の底から尊敬いたしております。
 ヨーロッパの大学の歴史を見ても、本来、学生と教師は、人間的には対等の関係にあった。
 その人間関係の絆があってこそ、世界的な偉業を打ち立てる人や、立派な平和の指導者が輩出できたのであります。
 教育の世界は、そうでなければならないと、私はかねてより、深く心に決めておりました。
 それが私の基本精神であります。
 私は、諸君は人間主義の理念を掲げ、社会に飛翔していく、偉大なる指導者の集まりであると、固く信じております。
 その意味からも、私は諸君の成長を、何よりも楽しみにし、何よりも期待し、陰の陰の立場で、生涯、応援してまいる決意であります。
 本日は大変にありがとうございました。また、お会いしましょう」
 伸一のスピーチは終わった。簡潔であった。
 しかし、そのなかに、創立者の情愛があふれ、「学生中心の大学」という創価大学像が鮮明に浮かび上がっていた。
 再び大拍手が舞った。 伸一は、深く礼をし、出口に向かった。
 「先生!」という声があちこちから響いた。
 創価教育の師と弟子たちの、出会いの原点は刻まれた。
 それは、人間教育の城に、師弟のシンフォニーが、高らかに鳴り響いた瞬間であった。
39  創価大学(39)
 幸福の 一生飾れや 今日勝ちて
 歴史を創るのは人間だ。その主役は君自身、あなた自身だ。
 人を頼むな。君が、あなたが、痛快な創造のドラマを演ずるのだ。
 猛然と立ち上がれ! 自身の殻を打ち破れ! 新しき時代は、新しき挑戦によって開かれる。
 日々前進だ! 日々向上だ! 挑戦を忘れれば惰性に陥り、待っているのは停滞と敗北だ。
 昨日の自分を断じて越えよ! そして、今日という日を、断固として勝て! そこに完勝の方程式がある。
 一九七一年(昭和四十六年)十一月に、山本伸一を招いて行われた初の「創大祭」は、創価大学の学生たちにとって、創立者の魂に触れた師弟交流の原点となり、新しき旅立ちの集いとなった。
 学生の多くは、こう心に誓ったのである。
 ″自分たちが、山本先生とともに、理想の大学を建設するんだ。
 教員や職員が、なんとかしてくれるのではないかなどと考えること自体が、甘えであり、責任の回避だ。
 パイオニアとは、一人立つ人だ。その一人立つ勇者の団結が、新しい歴史を開くんだ!″
 創立者との出会いの感動がさめやらぬなか、冬休みに入った。
 学生たちの心は燃えていた。帰省すると、皆、大学受験を間近にした高校の後輩らと会い、創価大学のすばらしさを訴え抜いて歩いた。
 「創価大学は、まだ新しい大学で、伝統はないかもしれない。
 しかし、大学紛争によって既存の大学教育の破綻が露呈した今、旧態依然とした大学の伝統や権威に、もはや価値は見いだせないと思うよ。
 これからの大学に要請されるのは、未来を切り開く確固たる教育理念と、豊かな創造性を培う人間教育だよ。それは、わが創価大学に光っているというのが、実際に進学してみた実感なんだ」
 創価大学に学ぶ誇りと喜びを、語らずにはいられなかったのだ。
 また、パイオニアの使命に燃える一期生たちは、初めて後輩を迎える二年目こそが、大学建設の本当の勝負であると、決意を新たにしていたのである。
40  創価大学(40)
  真剣な
    君らの努力で
      勝利かな
 新年に入ると、学年末試験が待っていた。
 一年間の研鑽の成果が試されることになるだけに、学生たちは、必死になって、試験勉強に取り組んだ。
 ″自分がどれだけ学力をつけるかが、創価大学の力の証明になる″
 そう考えると、いやがうえにも、勉強に熱がこもるのであった。
 創大生の多くは、人類の平和と二十一世紀の世界をどうするか、本気になって考えていた。そこに、創価大学創立の意義があり、自分たちの使命があると、確信していたからである。
 「人間は、一層大きな目的があってこそ、大きくなる」とは、ドイツの詩人シラーの有名な言葉である。
 その崇高な目的観が、創大生たちを勤勉にさせていたのである。
 二月十七日からは、二期生の入学試験が行われた。二月末には合格者も決まり、新入生を迎える準備が始まった。
 寮生も、一期生は、後輩の受け入れのために、各部屋に二人ほど残る以外は、退寮しなければならなかった。
 新年度を前にして、男子寮では、全寮代表の田所康之を中心に、残った寮生たちが、後輩に少しでも有意義な寮生活を送ってもらうために、何ができるかを話し合った。
 そのなかで、「寮に名前をつけよう」という声があがった。
 「確かに、ただ『男子寮』の一号棟、二号棟じゃ味気ないな」
 「この近くに滝山城址があるから、滝山寮というのはどうだろう」
 皆、賛成であった。男子寮の四つの棟も、「東寮」「南寮」「北寮」、そして「中寮」となった。
 寮生たちは、そのことを、すぐに山本伸一に報告した。学生たちと創立者の間には、既に垣根はなかった。学生は何かあると、伸一に伝えてきたし、彼もまた、創大生の報告には即座に反応し、激励やアドバイスを重ねてきたのである。
 寮の名を「滝山寮」にするという報告を聞くと、伸一は言った。
 「滝山寮か。ロマンがあっていいね。しかし、滝山城は落とされたりしていないか、調べた方がいいよ。落城していたら元気が出ないからね」
41  創価大学(41)
 寮生に、山本伸一の話が伝えられると、皆、ハッとした。滝山城の歴史も、落城しているかどうかも、全く調べていなかったからである。
 伸一は、こうした機会を通して、学生たちに歴史を深く知ることの大切さを、教えておきたかったのである。
 寮生たちは、慌てて史料にあたり、八王子の歴史を研究した。
 その結果、滝山城は、丘陵の地形を巧みに利用した、難攻不落の関東屈指の名城であったことがわかったのである。
 ――滝山城は、戦国時代の永正十八年(一五二一年)に、関東管領の上杉氏の重臣であった大石定重が築城したと伝えられている。
 その後、北条氏康が武蔵国を支配するようになると、時の城主は、氏康の息子である氏照を養子とした。この氏照の時代に、滝山城は大改修を行ったとされている。
 永禄十二年(一五六九年)、武田信玄の二万の軍勢が滝山城を攻撃した。
 城主の北条氏照は、陣頭指揮でこれを迎え撃ち、城を守り抜いたという不屈の歴史がある。
 寮生たちは、調べた滝山城の歴史を、文書で創立者に報告した。
 それを目にした伸一は側近の幹部に言った。
 「よく調べたな。氏照の必死の戦いが、皆を勇気づけたんだ。″必死の一人は万軍に勝る″といわれるが、リーダーが必死で勢いがあれば、全軍に波及していく。創大生は、民衆を守り抜く、闘将に育ってもらいたいね。
 寮の名を滝山寮としたことに、皆、誇りを感じているだろうな」
 伸一は後年、妻の峯子とともに、滝山城址を訪れている。
 滝山街道から、木が鬱蒼と生い茂った狭い坂を上った。城址に立つと、創価大学の白亜の校舎が、青空に、凛々しくそびえ立っていた。美しい景観であった。
 彼は、その感動を、二〇〇〇年(平成十二年)一月、「滝山城址に立ちて」と題する詩に詠み、創大生への満腔の期待を記し、こう綴っている。
 青春は 強くあれ!
 人生もまた 強くあれ!
 徹して 断じて
 強くあれ!
 そこに
 一切の勝利が あるからだ!
42  創価大学(42)
 寮生たちのもう一つのテーマは、創立者の山本伸一を、寮に招待することであった。
 彼らは、開学の年の七月、大学の中央体育館などを使って、学生寮夏祭りを行った。
 盆踊りや、出身地別に歌や踊り、寸劇を行うといった企画であったが、そこに創立者を招こうと考えたのである。
 しかし、伸一の訪問は実現しなかった。それだけに、寮生たちは、「今年こそ、寮祭に山本先生を!」と燃えていた。
 彼らは、検討の末に、寮祭の名称も「滝山祭」とし、七月に二日間にわたって開催することにしたのである。
 一九七二年(昭和四十七年)の四月十日には、二期生の入学式が行われた。だが、この時も、創立者の出席はなかった。
 伸一は、晴れやかな表舞台に立つのは、学長や教授たちであり、自分はあくまでも
 「陰の人」として学生を支え、励ましていこうと決めていたのである。
 授業が始まると、学生数が昨年の二倍になったキャンパスには、賑わいがあった。
 しかし、学生たちの表情には、どこか寂しさがあった。
 滝山寮でも、一年生の寮生たちが、先輩に胸のうちを語った。
 「ぼくは、山本先生にお会いできるのを楽しみにしてきたんですよ。
 しかし、先生は、入学式にも来られなかった。いつ大学にお見えになるんですかね……」
 その言葉を聞くと、一期生は力強く答えた。
 「ただ、創立者が来られるのを待っているというのは、青年としては、消極的すぎないかね。受け身的な生き方からは、何も生まれないよ。戦いを起こすんだ。
 本当に山本先生にお会いしたいのなら、『これを見てください』とか、『こういう成果を残しました』とか、胸を張って報告できるものをつくりあげ、お呼びする努力をすべきだよ。
 昨年、ぼくらは、そうして『創大祭』に先生をご招待したんだ。
 実は、今年は、まず七月に、寮生の『滝山祭』を盛大に開催し、そこに山本先生をお招きしたいと思っている。
 だから、みんなで力を合わせて、この『滝山祭』を大成功させようじゃないか!」
43  創価大学(43)
 「滝山祭」の準備に寮生たちの力がこもった。
 模擬店も充実させて、近隣の人たちにも来てもらおうという意見も出された。
 「滝山の二十九日」と題するミュージカルや舞踊も行うことになった。
 さらに、寮歌をつくって、それを発表する寮歌祭も行うことにした。
 また、真心込めてつくりあげた招待状を、創立者に届けた。
 すると、すぐに伝言が来た。
 「ありがとう! 寮生の皆さんのお招きですから、必ずまいります」
 この伝言を聞くと、寮中がわき上がった。
 伸一は、真心には、最大の真心をもって応えようとしていたのだ。
 「滝山祭」初日の七月六日、伸一は、雨の中、初めて滝山寮を訪れた。
 彼が車から降りると、出迎えた寮生の、弾んだ声が響いた。
 「先生!。ありがとうございます。
 早速ですが、お願いがあります。記念植樹をしてください」
 「わかりました。なんでもやります!」
 伸一は、雨に打たれながら、寮の前の記念植樹が行われる場所に向かって歩き始めた。全寮代表の田所康之が急いで傘を差しかけた。
 田所は言った。
 「先生、雨の中、申し訳ございません……」
 彼らは、創立者が、せっかく初めて寮を訪問してくれたのに、雨になってしまい、申し訳ない思いでならなかったのだ。
 その心を見抜いていた伸一は、微笑を浮かべながら語った。
 「今日は、春雨のような、いい雨じゃないか。雨でよかった。晴れたら暑くてたまらないよ」
 励ましとは、落胆を勇気に転ずる力である。
 伸一は、用意された二メートルほどのヒマラヤ杉の前に行くと、スコップを手にした。
 「さあ、植えよう!」
 そして、土をかけた。
 「この木の高さを測っておくんだよ。将来、大きくなるよ。二十一世紀に向かって、どんどん伸びていくぞ。
 君たちも、負けずに成長するんだよ」
 そのすぐ近くに、日本庭園があった。南寮の横にあたる場所である。そこには、三、四畳ほどの池も造られていた。
 「きれいな庭園だね」
 彼は池の前に立った。
44  創価大学(44)
 山本伸一は、田所康之に尋ねた。
 「この庭園は、前からあったのかい」
 「いいえ、今回の滝山祭のために、寮生が造りました。これまでは空き地でした」
 「試験もあって、大変ななかで、よく頑張ったね。殺風景な空き地を庭園に変えるなんて、すばらしい知恵だね。
 また、みんなの真心が胸に染みるね」
 伸一は、池の前にたたずんだ。
 時折、風が吹くと、小雨の降る水面が、白く波立った。
 彼は詠んだ。
  春雨に
    英智 波あり
      滝山祭
 日本庭園の横には、竹垣やスダレを使った模擬店があった。素麺の店である。
 伸一は、この模擬店にも立ち寄った。
 浴衣姿の寮生が、「先生、召し上がってください」と言って素麺を運んできた。
 「いただきます。みんなが一生懸命につくってくれたんだもの……」
 伸一は、簀の子のような長イスに座って、箸をとった。
 食べ終えると言った。
 「おいしいよ。ありがとう! 店も風流でいいね。落ち着くよ。この店には名前はあ
 るの?」
 「まだ、ありません」
 「では、ご馳走になったお礼に、命名させてもらいます。ここは『春雨亭』、それで、池は『春雨の池』にしよう」
 「はい!」
 喜びに弾んだ声が返ってきた。
 人の真心に、いかに敏感に反応するか――それが、人間教育の第一歩である。
 また、人の思いを受け止めることから、人間の交流も始まる。
 それから伸一は、寮に入った。
 「先生、ぼくたちの部屋を見てください」
 「友人として、おじゃまします」
 寮生たちに案内されたのは、南寮の一室であった。なかは、スタディールーム、ベッドルーム、ミーティングルームに分かれていた。
 「結構、きれいに使っているね」
 寮生たちは苦笑した。 どうやら伸一を迎えるために、大掃除をした様子であった。
45  創価大学(45)
 山本伸一は、寮生たちのベッドを見ると、「みんな、ここに寝ているのか」と言って、ゴロリと横になり、両手を大きく伸ばした。
 「うらやましいな。ぼくも、こんなところで、思う存分、本を読んで、勉強したいな」
 会長としての執務の合間を縫うようにして、会員の激励に飛び回らなくてはならない伸一にとって、それは、率直な心境であった。
 また、働きながら大世学院の夜学に通い、しかも、その夜学さえも、師の事業を支えるために、途中で断念せざるをえなかった彼には、思う存分、学問に打ち込める大学の寮は、憧れの環境であったのである。
 ベッドから起き上がると、伸一は言った。
 「寮生活は、何かと窮屈で、煩わしい面もあるかもしれない。
 しかし、やがて、その寮生活が、人生の貴重な財産になるよ。
 実はオックスフォード大学を訪問した時、案内してくれた教授に、『この大学のことを知りたければ、学生寮に行ってください。それも突然に』と言われたんだ」
 伸一は、この一九七二年(昭和四十七年)の四月末から五月末にかけて、フランス、イギリス、アメリカを回り、イギリスでは、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学を訪問していた。
 「それで、私も寮に行き、四階の部屋を訪問すると、十九歳だという二人の学生がいた。
 『何が一番、お困りですか』と尋ねると、そのうちの一人が、『ぼくが勉強しようとすると彼が遊び始めるし、彼が勉強している時は、ぼくが遊びたくなることです』と言うんだよ。
 私は、『それは社会に出た時に、どうやって人と対応していくのかという人間学を学ぶ、大事な訓練なんです』と言ったんだ。彼は、納得していたよ。君たちも、同じ思いでいるんだろうね」 居合わせた寮生は、笑いながら頷いた。
 自分の直面した事柄から、未来への積極的な意味を見いだし、何かを学び取っていく――そこに逆境をも人生の飛躍台へと転ずる哲学がある。
 また、その生き方を貫くなかに、価値創造の実践があることを、伸一は語りたかったのである。
46  創価大学(46)
 山本伸一は、寮生に、力を込めて言った。
 「オックスフォード大学の寮は、大変に質素だった。
 しかし、寮の学生たちは、ここから、たくさんの首相が出たと、胸を張って語っていた。
 そして、だから自分たちは世界一の学生であるという、強い誇りをもっていた。
 君たちも、二十一世紀を創造する、誉れ高き、選ばれた創価大学の寮生だという、強い、強い、誇りをもってほしい。
 また、君たちの手で、二十一世紀に向かって、輝かしい伝統をつくり上げていってほしい。
 頼んだよ!」
 「はい!」という声が部屋に響いた。
 そのあと伸一は、寮の広間に案内された。
 入り口で、寮生が手作りの学帽を差し出した。
 「山本先生! これを被ってください。ぼくたちがつくった先生用の学帽です」
 紙で作った学帽であった。しかし、そこには、創立者を慕い、誇りとする、寮生たちの気持ちが込められていた。
 それを感じ取った伸一は、丁重に答えた。
 「ありがとう。
 創価大学に集ってくださった、私の宝である学生諸君からの、私への顕彰としてかぶらせてもらいます」
 寮生の真心を、彼は冠したのである。
 広間には、彼が訪問したオックスフォード大学とケンブリッジ大学の歴史等が模造
 紙に書かれ、展示されていた。
 また、寮生の暮らしなどを紹介するコーナーもあった。
 伸一は、周囲の寮生に励ましの言葉をかけ、対話を交わしながら展示を見た。
 それから、「滝山祭」のメーン会場である中央体育館に向かった。
 伸一が会場に入ると、歓声があがった。
 創立者を迎えた喜びが爆発するなか、「寮歌祭」と銘打った催しが始まった。
 初めに、寮生たちが作詞作曲した「滝山音頭」の歌と踊りや、寮生活をテーマにしたミュージカルなどが披露された。
 そして、いよいよ寮歌の発表となった。
 男子が入っている滝山寮の各寮だけでなく、女子寮も、自作の寮歌を発表した。
47  創価大学(47)
 各寮ごとの寮歌の発表が終わった。
 山本伸一がマイクをとった。
 彼は事前に学生たちから、スピーチをしてほしいとの、強い要請を受けていたのである。
 「第一回『滝山祭』、おめでとうございます。
 昨年の六月、私は、日本の名勝として知られる奥入瀬の渓谷に立ち寄りました。
 そこには、数多くの滝がありました」
 彼は滝山祭の「滝」にちなんだ話から始めた。
 「私は、その滝の写真を撮り、次のような一文を書いて、ある友人に贈りました。
  滝の如く 激しく
  滝の如く 撓まず
  滝の如く 恐れず
  滝の如く 朗らかに
  滝の如く 堂々と
  男は 王者の風格を持て
 この言葉を、私は敬愛する諸君にも贈りたいのであります」
 そして、安政年間に、その奥入瀬川の水を引いて三本木原台地を穀倉地帯にした、新渡戸伝の苦闘を紹介した。
 そこから伸一は、偉業というものは、幾多の挫折や非難中傷を乗り越えて、信念を貫いてこそ成就できるものであることを語っていった。
 さらに、自由な精神と、旺盛な批判力をもつことの大切さを述べたあと、魂を注ぎ込む思いで、こう訴えた。
 「日本だけでも何百という大学がある。世界を数えれば、膨大な数の大学があるでしょう。そのなかには、伝統のある大学や有名大学も数多くあります。
 しかし、皆さんは、あえて、この創価大学に集われた。その原点、その誇りを、永遠に忘れないでいただきたい。
 創価大学には、既存の大学では、なすことのできない、人間教育という一点がある。
 何十年、何百年先のために、その人間教育をみんなでつくり上げ、後世に残し、伝えていこうというのが、本学の精神であります。
 それは、人類の未来のために最も大切な、世界第一の偉業です。
 皆さんは、この尊き使命を誇りとし、名誉として、先駆者となって、道を切り開いていただきたいのであります」
48  創価大学(48)
 それから山本伸一は、発表された寮歌の感想を語っていった。
 「皆さんの寮歌については、努力をほめたい気持ちですが、今日は、率直に語っておきます。
 紹待を受けておいて、皆さんが自発的につくったものに、批判をして申し訳ありませんが、私はお世辞を使いたくないんです。
 ただ『すばらしい』などと言って帰れば、嘘になり、かえって失礼になってしまう。
 正直な意見として、今日、聴かせていただいた寮歌では、誰も歌わないのではないかという気がいたします。
 全体的に、あまり特色がなく、心に響くものが少なかった。
 たとえば、創価学園寮歌の、『英知をみがくは何のため』『人を愛すは何のため』などは、一度聴いたら、心に残る言葉です。
 この『何のため』を中心に歌詞が構成されているから、特色ある歌になっている。
 私がお会いする識者の方々も、学園寮歌を聴くと、『いい歌ですね』とよく言われます。
 また、旧制の一高や三高の寮歌も、非常に特色があり、今でも多くの人が歌っています。
 皆さんは、″自分としては一生懸命にやったのに″と思っているかもしれない。
 しかし、何事も客観的な評価が大切であり、『なるほど』という過半数の声がなければだめです。
 九千九百九十九人が反対し、自分一人になっても、『信念』を貫かなければならない場合もありますが、寮歌はみんなで歌うものですから、みんなに愛され、親しまれなければならない」
 伸一は、集った寮生たちに視線を注いだ。皆、真剣な顔であった。
 彼は言葉をついだ。
 「私は全国各地の大学の学生と会ってきました。校歌や寮歌も聴かせてもらいましたが、本来、いい歌なのに、たいてい下手なんです。
 自分の大学の校歌を知らないケースもあるし、歌ってもらっても、その歌に込められた建学の精神が感じられることは、あまりありません。
 それは、もはや精神の断絶です。
 連帯の絆が断たれ、個人の殻に閉じこもれば、力もわきません」
49  創価大学(49)
 校歌、寮歌は、建学の精神や学生たちの心意気の表現であり、魂の叫びである。
 山本伸一は、寮歌をつくるなら、創価大学の寮生としての気概と決意を、堂々と謳い上げてほしかったのである。
 ここで伸一は、話題を変え、机の上に置かれた花籠に目をやりながら語った。
 「女子学生の方が、この花籠を用意してくださいました。ありがたいことです。
 これは、自分たちの手で作ってくれたものかもしれないし、二千円、三千円で買われたものかもしれない。
 たとえば、財力のある人は、三千円の花籠を見て、『なんだ三千円か』と思うでしょう。
 しかし、苦学生が、そのお金をアルバイトでつくるには、大変な苦労がある。
 皆さんは将来、社会のあらゆる分野で指導者に育っていくでしょう。
 その時に、人が贈ってくれたものを自分の立場で見て、たかだか幾らだなどと、軽率な判断をしては絶対にならない。そうなれば傲慢です。
 同じ千円でも、人によっては、何千円、何万円にも値する。いな、お金で計れない価値がある。その真心を感じ取ることです。
 そして、″本当にありがたいな″ ″申し訳ないな″という姿勢を忘れないでいただきたい。
 これが人間学です。
 政治家でも、教育者でも、人の上に立つ人が、皆、そういう気持ちになってくれれば、どれほどすばらしい世界になることか」
 学生たちの瞳は輝いていた。
 それは、創立者による「人間学」の特別講義といってよかった。皆が求めていたのは、まさに、こうした触れ合いであり、触発であった。
 最後に伸一は尋ねた。
 「来年も、滝山祭を行いますか」
 「はい!」という声が響いた。
 「その時は、私も、たくさん友人を連れて来ます。もっと盛大にやりましょう。
 それを目標にして頑張ってください。今日は本当にありがとう」
 ここに、創立者と寮生の交流のドラマが織りなされ、滝山祭という伝統の種子が植えられた。また一つ、創価大学の歴史が刻まれたのである。
50  創価大学(50)
 夏休みが終わり、やがて、開学二年目の秋が訪れた。
 それは、十月半ばのことであった。
 大学の理事会から、全学生にパンフレットが配布された。
 そこには、翌年度以降に入学する学生の学費を、値上げする方針であることが記されていた。
 創価大学の学費は、創立者の山本伸一の要請もあって、私立大学の平均よりも安く設定されており、開学時の初年度の学費は、合計十六万七千二百円であった。
 だが、消費者物価指数の対前年上昇率は、この数年、五パーセントを上回っていたのである。
 そのため、私立大学の多くが、この一九七二年(昭和四十七年)度には学費を値上げしていた。
 創価大学の理事会としては、できることなら、値上げは避けたかった。しかし、このままでは、大学の経営自体が危ぶまれることになる。
 そこで、苦渋の末に、やむなく、学費改定に着手したのである。
 パンフレットには、学費改定の理由があげられ、合計二十一万三千円に増額する改定案が示されていた。
 理事会のメンバーには、この改定案は、十分に検討し、他の私大の学費と比べても、かなり低額に抑えた、妥当な内容であるとの、強い思いがあった。
 しかし、学生にとっては、まったく″寝耳に水″の話であり、驚きは大きかった。
 学費値上げは、当時の大学社会において、極めて神経質にならざるを得ない問題であった。
 多くの大学で、この学費値上げが紛争の火種となり、「大学の解体」を叫ぶスチューデントパワーを爆発させる、導火線となってきたのである。
 もし、このまま、大学当局と学生が対立してしまうことになれば、他の多くの大学と同じ轍を踏むことになる。
 そうなれば、創価大学の存在意義さえ問われることになりかねない。
 しかし、大学当局と学生が心を合わせ、他大学にはない解決策を探り当てるならば、新しい大学の在り方を社会に示すことになる。
 つまり、学費問題は、創価大学の真価が問われる、試金石であったといってよい。
51  創価大学(51)
 学生たちは学費の改定に、大いに不満だった。 値上げの対象は新入生からであり、在校生の学費は据え置かれるため、自分たちが直接、痛みを感じるわけではない。
 しかし、「学費」という大学経営の根幹をなす重要問題について、理事会だけで案を練り、ほぼ最終段階に至って、その案を学生たちに示してきたことに、学生は憤りを感じたのである。
 「これは、創立者が示された、″学生参加″の原則に反しているではないか!」
 ″学生参加″の原則とは、開学二年前(一九六九年)の第三十二回本部総会で、創価大学の大学像として、山本伸一が発表したものであった。
 彼は、創価大学は「学内の運営に関しても、学生参加の原則を実現し、理想的な学園共同体にしていきたい」と語ったのである。
 この構想に共感し、創価大学への入学を決意した若者が少なくなかったのである。
 そして、創大生たちはこの創立者の構想の実現に燃えていたのだ。
 学生たちの行動の中心となったのは、この年の二月に正式に発足した学生自治会であった。
 パンフレットの配布から三日後、学生たちは、理事長らの出席を要請し、大教室を使って、全学集会を開催した。
 理事長の原沢照道が行った学費値上げの説明に対して、学生からは、次々と、鋭い質問が発せられた。
 物価上昇を見込んでの対策を、なぜ立てなかったのかと迫る学生もいれば、教職員の給与など、人件費について尋ねる人もいた。
 学費値上げ以外の財源確保について、どう考えているのかを、問い質す人もいた。
 また、アルバイトに明け暮れなければならない苦学生の生活を、切々と訴える学生もいた。
 理事長の説明で、大学財政が逼迫していることは、学生たちもよくわかった。
 だが、理事会の進め方は、″学生参加″の原則を無視した、創価大学の教育理念にかかわる問題である。学生たちは、それを見過ごすわけにはいかなかった。
 理想の大学をつくろうとの強い思いをもつがゆえに、皆、妥協するのではなく、″筋″を通したいと思ったのだ。
52  創価大学(52)
 自治会の役員をしている学生が発言した。
 「この問題の本質は、学費を上げるとか、下げるとかいったことではありません。
 創立者が示した″学生参加″の原則を、どう実現していくかという問題であると思います。
 今回のようなやり方がまかり通れば、創価大学を創立した意味がなくなります。理事会の手で、建学の精神を断ち切ることになります。
 したがって、私は、学費値上げには、断固、反対します。白紙撤回を要求いたします。
 また、今後、同じ轍を踏むことなく、″学生参加″の原則を実現していくために、学生の要求を聞き、その意見が反映される機構をつくっていただきたい」
 学生たちから、大拍手がわき起こった。
 理事会は、案がまとまった段階で学生に諮ったことで、″学生参加″の原則を守ったつもりでいた。理事会のメンバーには、心のどこかに、財政問題は学生の領分ではないとの考えがあったにちがいない。
 一方、学生たちは、大学のすべての問題に責任をもち、″学生参加″の新しい大学の模範をつくろうとの決意に燃えていたのだ。
 大学の財政という問題に対しても、徹底して議論し、検討し、真正面から取り組もうとしていたのである。
 大学の理事たちは、学生たちの反応に、驚きを隠せなかった。いや、感動さえ覚えていた。
 ″大学建設の主体者たらんとする学生たちの意識は、これほどまでに強いものだったのか。皆、理想の大学をつくろうと真剣なんだ。われわれの認識不足だった……″
 最後に、理事長の原沢照道が語った。
 「皆さんのご意見は、よくわかりました。私たちも″学生参加″をめざしてはおりましたが、実際には、これまで話し合いの機会をもつことはありませんでした。
 私は理事長室にこもってばかりいて、皆さんのことをわかっていませんでした。率直にお詫び申し上げます」
 理事長は、学生たちに深々と頭を下げた。
 「皆さんのご意見を最大限に尊重し、学費の改定については、再度、検討させていただきます」
53  創価大学(53)
 理事会のメンバーは悩み抜きながら、検討を重ねた。
 大学の財政は、このままでは、完全に行き詰まってしまう。しかし、学生たちは、現段階では学費値上げには反対だ。それを押し切って断行すれば、確かに″学生参加″の原則を破ることになる。
 それだけに、理事たちは、頭を抱え込んだ。
 だが、理事たちもまた、理想の大学建設に燃えていた。
 ″学生参加″は、創価大学のめざす、新しい大学像の基本である。したがって、財政的には、どんなに苦しくとも、この原則は、絶対に最優先されなければならない―それが理事たちの、最終的な意見であった。
 十月二十七日の夕刻、理事会は学生自治会の執行部と会談をもった。
 理事会の結論を伝えるためである。
 学生たちは、緊張した顔で、理事長の原沢照道の言葉を待った。
 「理事会としては、先日、全学集会で学生諸君の意見を聞き、学費値上げ問題のかかえる本質に目を向け、慎重に検討いたしました。
 その結果、創立者の山本先生の理想である″学生参加″の原則をふまえなかった点を、深く反省しております。
 そして、今こそ、″学生参加″の具体的実現に踏み出さねばならない時であると痛感しました。
 大学としては値上げをしなければ、日を追うごとに、経営はますます苦しくなるというのが現状です。
 しかし、それ以上に、創立者の言われた、″学生参加″による理想的な学園共同体の実現を、何よりも第一として考えたいと思います」
 そして、原沢は、意を決した口調で言った。
 「したがって、今回の値上げ案に関しては、これを白紙撤回します」
 学生たちの顔に光が差した。拍手が起こった。
 原沢は、さらに言葉をついだ。
 「また、今後は″学生参加″を実現していくための機構として、教員、職員、学生、理事の四者一体となった、仮称『全学協議会』を設置してまいりたいと思います。
 そこに学生の意向を反映させながら、一つ一つの問題について、協議、検討を行うようにしていきたいと考えています」
54  創価大学(54)
 学生たちは、理事会が自分たちの意見を全面的に聞き入れ、意向を最大限に尊重してくれたことが嬉しかった。
 自治会のメンバーは、話し合うことによって、すべての問題を解決していくことができるとの確信をもつことができた。また、理事会への信頼感が深まっていった。
 学費値上げの「白紙撤回」は、大学の掲示板にも掲げられた。多くの学生が、驚きをもって掲示板を見つめた。
 山本伸一は、大学の運営については、全面的に大学側に任せていたが、学費改定の問題については、理事たちから報告を受けていた。
 彼は思った。
 ″理事会が事前に学生の意向を聞かず、学費値上げを進めたことは、どんな事情があったにせよ、やはり誤りであり、失敗である。
 人間には失敗もある。だが、その失敗を、単に失敗のまま終わらせてしまうのか、あるいは未来への飛躍台に転じていくのかによって、結果は全く異なったものになる。
 理事会が今回の問題を契機に、学生参加の原則を実現しようと、真摯に行動を開始したことは、新しい飛躍をもたらすにちがいない″
 人間の心の姿勢によって、ピンチはチャンスとなるのである。
 伸一は、大学の財政が深刻な事態になりつつあることはよく知っていたが、学生には、極力、負担をかけたくなかった。
 十一月二十四日、学生たちの招きを受けて、第二回「創大祭」に出席した彼は、自分の心情の一端を、こう語った。
 「私は諸君が、財政面の問題で悩まされず、のびのびと勉強できるように、また、先生方にも満足していただけるように、この生命をすり減らし、死に物狂いで働き抜きます。
 皆さんに心配をかけるようなことは、絶対にさせない決心です」
 事実、伸一は、学費を値上げせずにすむよう、懸命に働き、大学への多額の寄付を続けた。
 翌一九七三年(昭和四十八年)になると、創価大学と他の私大との学費の開きは、ますます大きくなっていった。
 そして、遂に学生たちの間から、「学費が安いことは学生にとってはありがたいが、本当に、これでいいのだろうか」という声があがり始めた。
55  創価大学(55)
 この一九七三年(昭和四十八年)の六月、山本伸一は、イギリスのサセックス大学などを訪問した報告に創価大学を訪れ、学生や教職員の代表と懇談した。
 伸一は、その席でも、学費問題について、自分の思いを語った。
 「物価の上昇は続いていますが、私としては、学生の皆さんには、最後の最後まで、負担はかけたくないんです。私が働きます。
 ただし将来、皆が自主的に話し合って、『これでは大学が大変だ。創立者が大変だ。自治会として、このぐらいは値上げしようじゃないか』という時が来たら、学費を改定してください。
 何年先でも、何十年先でも結構です。
 それまでは、私が働きますから、安心して、現在の学費を継続してください」
 大学の財政問題への、学生たちの関心は極めて高かった。自分たちこそ大学建設の主体者であるとの、強い自覚と責任感があったからだ。
 だから、ただ学費が安ければいいという発想ではなく、大学の財政全体をどうするかについて、皆が真剣に考えていた。
 開学から三年半が過ぎた七四年(同四十九年)秋のことであった。
 学生たちが、学費の改定に動き始めた。全学代議員会で、学生による学費審議委員会が設置されたのである。
 同委員会では、まず、創価大学の経営状況をはじめ、学生の経済状況や他大学の学費などの調査を行うことにした。
 実態を正しく把握せずしては、どんな議論も、机上の空論となってしまうからだ。
 学生の経済状況の調査では、アンケートも実施され、仕送り、奨学金、アルバイトなど、学費がどこから出ているかの分類や、生活が苦しいかどうかなども、詳細に調査がなされた。
 翌七五年(同五十年)六月、学費審議委員会から最終答申が出た。
 答申では、創価大学の学費は私立大学文系のなかで最も安いところにランクされており、他大学と比べて収入合計に対する学生納付金の比率が極めて低く、寄付金の比率が高いことが明らかにされていた。
 しかも、そのうち創立者からの寄付金が、毎年、かなりの額に上っていたのである。
56  創価大学(56)
 学費審議委員会の最終答申は、創価大学は経常費の欠損額(赤字)が年々増大し、借入金が膨らみ、経営は至って困難な状況であることを指摘。学費値上げの必要性を述べていた。
 この最終答申に関する公聴会も開かれた。
 また、答申を受けて、クラス・ゼミ討論、全学討論集会などが行われ、全学生が参加して、活発に意見交換がなされていったのである。
 ″学生参加″の原則とは、学生自らが、大学運営の主体者としての自覚に立ち、責任をもとうとすることから始まる。
 学生がその自覚に立たず、無関心、無責任な傍観者である限り、本来、学生の自治などありえない。いな、それは、学生自らが、自治を放棄した姿といってよい。
 創大生たちは、大学を担い立つ責任を、厳しく自らに問いつつ、討議を重ねていった。
 「学費値上げはやむなし」というのが、多くのクラスやゼミの結論であった。
 その討議の結果を、アピールや決議として発表したゼミもあった。
 あるゼミの「決議文」では、次のように呼びかけていた。
 「創価大学の財政の現状を考える時、あまりにも創立者に甘えているように思えてならない。
 経営困難は、今も現実の検討を急務とする問題であり、これ以上、創立者に甘えることを潔しとせず、学費問題について、全学友が責任ある態度で検討する必要を感じざるをえない」
 また、各ゼミなどからは、学費値上げを「やむなし」とする意見だけでなく、大学や、生活が大変な学生に対する、さまざまな援助の提案がなされていた。
 「大学経営の一助としてカンパを募り、学債購入にあてる」
 「仮称『創大経済援助学生機構』をつくり、大学の経済的援助をしていける窓口を設けたい」
 「卒業後は、経済的に困っている学生に対して、OBのカンパによる奨学金制度などをつくるよう推進していきたい」
 そこには、学生たちの母校愛があふれていた。
 学生が学費値上げを主導するという、この異例の事態に着目し、いち早く、ニュースとして取り上げた新聞もあった。
57  創価大学(57)
 六月二十六日午後、学費問題をめぐって、臨時学生大会が中央体育館で開催された。
 討議の末に、学費値上げを前提として学生と理事会による「学費対策委員会」を発足させ、値上げ実施の具体的な諸問題の解決に取り組んでいくことが可決された。
 この委員会に、原案となる理事会の値上げ案が提出され、それに対して学生案が提示され、審議が重ねられた。
 さらに、アンケート調査の実施、クラス・ゼミ討議などを行い、学生一人ひとりの意見を吸い上げ、学費対策委員会として、最終答申が提示されたのである。
 この答申を受け、十月十五日午後、中央体育館で、再び臨時学生大会が行われることになった。
 この日の出席者は一七六五人、有効委任状二二四通で、学生大会開催の定足数である三分の一をはるかに上回っていた。
 そして、その大多数の賛成をもって、昭和五十一年度(一九七六年度)の学費改定が可決承認されたのだ。
 同時に、学費値上げによって、経済的に大変な学生を支援するために、奨学金の拡充、短期貸付金制度の開設、緊急貸付基金の設置、福利厚生委員会の設置も決議されたのである。
 臨時学生大会の最後に、学費問題に取り組んできた、学生自治会の中央執行委員長の柾谷正道があいさつに立った。
 彼は三期生であり、学費問題は、彼の入学以前からの大テーマであった。それが今、遂に、決着を見たのだ。
 眉の太い、凛々しい顔を紅潮させながら、柾谷は叫んだ。
 「今や、昭和四十七年(一九七二年)に始まる学費問題は、学生自治運動の歴史に、大学運営における″学生参加″の実現をもって、不滅の金字塔を築きました。
 しかし、この戦いは、決して、終止符を打ったのではありません。
 未来に陸続と集いくるであろう後輩のため、さらに磐石なる礎を築くとともに、理想的学園共同体の構築に向け、勇んで挑戦を開始しようではありませんか!」
 学費問題の解決によって、″学生参加″の大学運営は、現実のものとなって光を放ち始めた。それは、大学という学園共同体の、新たなる歴史の開幕であった。
58  創価大学(58)
 学費値上げ問題が起こった一九七二年(昭和四十七年)の十月半ばのことであった。
 自治会室の一隅で数人の学生が、頭を抱え込んでいた。十一月下旬に第二回「創大祭」が行われることになっていたが、彼らは、その実行委員会のなかにつくられた、学生歌作成委員会のメンバーであった。
 全学生の心を鼓舞し、一つに結ぶような学生歌をつくって、「創大祭」で発表しようということになり、七月に、この作成委員会が発足したのである。
 以来、「歌詞大募集」の看板をブロンズ像脇に掲げたり、ガリ版刷りのチラシを作るなどして、作品を募ってきた。
 そして、この日が、応募の締め切り日であったのである。
 学生たちは、七月の「滝山祭」で、各寮の寮歌を披露した折、創立者の山本伸一から、″心に響かない″と、厳しい指摘を受けていた。
 それだけに、作成委員会のメンバーは、創立者をうならせるような学生歌をつくろうと、意気込んでいたのである。
 ところが、よい歌詞が集まらず、″まあ、いけそうだ″と思えるのは、詩の好きな学生に声をかけて作詞してもらった一作ぐらいであった。
 委員会では、応募者のために、作品を入れる応募箱を作っておいた。
 この日、最後に箱の中を確認すると、歌詞を記した一枚の紙があった。
 メンバーの一人が、目を通した。声をあげた。
 「おっ、すばらしい歌詞だよ!」
 皆の目が、紙に注がれた。そこには、キャンパスの四季が詩情豊かにうたわれ、「人間の道」を究めんとする学生の使命と誇りが、格調高く表現されていた。
 作詞者は、「沖洋」となっていた。
 委員会で検討の末、この歌詞と、既に手元にあった、もう一つの歌詞が候補にあがり、音楽サークルのメンバーに曲をつけてもらうことにした。
 そして、学生集会の折に、歌詞を発表し、テープに吹き込んだ曲を聴いてもらった。
 歌詞は、皆が「沖洋」の作品を推した。
 また、この歌詞には二つの曲がつけられたが、吹奏楽部の学生がつくった曲に決まった。
59  創価大学(59)
 学生歌作成委員会の委員たちは、「沖洋」の作詞した歌を学生歌として発表する前に、本人に会うことにした。歌詞を、さらに推敲してもらう必要があったからである。
 ところが、連絡を取ろうとしても、クラスも、住所も、電話番号もわからなかった。
 学生課に問い合わせると、そんな名前の学生はいないというのだ。
 「どういうことだ?」
 「誰がつくったんだろう。創大生以外の人が、応募してきたのかもしれないな……」
 メンバーは、創大生の手で、後世に残る学生歌をつくろうと決意し合っていただけに、落胆は大きかった。
 彼らは、必死になって「沖洋」を探したが、何もわからぬまま、日にちが過ぎていった。
 しかし、執念が道を開いた。意外なところから手がかりが発見された。美術部の作品の制作者に、「沖洋」という名前があったのだ。
 既に「創大祭」の数日前である。委員の一人が美術室に走った。
 「″沖洋″さんという人は、美術部におられますか」
 すると、部員の一人が、一心不乱に七宝焼に取り組む、メガネをかけた男子学生を指さして言った。
 「ああ、″沖″というのは、彼のことですよ」
 委員の学生は、つかつかと歩み寄って尋ねた。
 「あなたが沖さんですか。創大の学生ですか」
 「はい」
 「では、学生証を見せていただけませんか」
 委員には、″作詞者が創大生でなければ、どんなに優れた歌詞でも、意味はなくなってしまう″との強い思いがあった。
 そのせいか、まるで不審人物を尋問するような口調になっていた。
 彼は、法学部の二年生で、「沖洋」は絵画や詩などを発表する際に使う別名だった。
 彼が学生歌の作詞に着手したのは、応募締め切り日の前夜であった。
 高校時代から詩作に励んできた彼は、自分の手で、創価大学の建学の精神をうたい上げた、後世に残る学生歌をつくりたいと思った。
 しかし、いざ書き始めると、一行目がなかなか決まらなかった。春夏秋冬を盛り込んだ四番までの歌詞ができた時には、締め切り日の午前八時ごろになっていた。
60  創価大学(60)
 そもそも「沖洋」が、学生歌をつくることにしたのは、それが、皆の恩に報いることになればとの思いからであった。
 彼は、創価大学での学生生活に、環境面でも、精神面でも、最大の満足と充実を感じていた。
 そして、その陰には、創価大学を、また、自分たち学生を支えてくれている、数多くの人たちがいることを、彼は自覚していた。
 ″創立者の山本先生は、創価大学の建設にあたって、自分の原稿の印税をはじめ、すべてを投じられた。それによって立派な校舎も、快適な寮もつくられた……″
 また、創価大学の建設になんらかのかたちで参加したいと、敷地の草を刈ったり、石を取り除いてくれた、たくさんの青年部の先輩もいた。
 創大生をわが子のように考え、生活のことまで心配し、面倒をみてくれる、学会の壮年や婦人もいる。
 ある婦人は言った。
 「あなたたちには、山本先生の命である創価大学を、世界一の大学にしていく使命があるのよ。そのために、私たちは、あなたたちを全力で応援するわ。
 困ったことがあったら、遠慮せずに、何でも言いなさい」
 さらに、働きながら学ぶ苦学生でありながら、「創大生は大事だ」と、食事に連れて行ってくれた学生部の先輩もいた。
 彼は、そうした人びとの真心に支えられ、創大生として、恵まれた環境で勉強できることを思うと、深い感謝の念を禁じ得なかった。
 ″その人たちの期待に応えるために、自分に何ができるのか……″
 彼は考え、やがて、一つの結論に達した。
 ″創価大学を最高の大学にすることだ。それには、後輩たちのためにも、創大の輝かしい歴史と伝統をつくることが大事ではないか″
 そして、学生歌の募集を知った彼は、″将来、後輩たちが誇りをもって歌える、最高の学生歌をつくろう″と決意し、作詞に取りかかった。
 人びとの恩を感じ取る優れた感受性と、その恩に報いようとする気高い心意気が、彼の詩作の源泉となったのだ。
 こうして出来上がった「沖洋」の歌詞が、学生歌に決まったのである。
61  創価大学(61)
 作成委員会の委員は、学生歌の作詞者が創大生であったことを知り、胸を撫で下ろした。
 「沖洋」の歌詞は四番まであり、長すぎるのではないかというのが、委員たちの感想であった。
 そこで、本人に手直しをしてもらうことになったのである。
 その作業にあたって、アドバイスしてくれたのが、法学部の助手である高峰忠正であった。
 高峰は、十歳の時に小児マヒにかかり、右足が不自由であったが、困難を乗り越え、力強く人生を生き抜いてきた。
 それだけに、人の苦労がよくわかり、学生たちからも兄のように慕われていたのである。
 高峰の研究室で推敲が重ねられ、歌詞は三番までに書き改められた。
 一番はツツジの花香る創大キャンパスを、二番は桑都といわれた八王子を、そして、三番は武蔵野をうたった。
 また、結びの部分を、一番は「誰がために 人間の道学ぶかな」、二番は「誰がために
 平和の要塞築きたる」と、「誰がために……」でまとめたのである。
 「沖洋」は、創価高校の出身であった。
 創価学園の寮歌「草木は萌ゆる」は、「英知をみがくは 何のため」など、「何のため」との問いかけを、歌詞の機軸にしていた。
 そして、「次代の世界を 担わんと」など、その答えが示されていた。
 彼は、常にこの歌を口ずさみながら、創価学園で勉学に励むのは「何のため」かを自身に問いながら、青春の道を歩んできた。
 「沖洋」は、創大の学生歌では、大学の三モットーの目的を問い、学生自らが答えを導き出す歌にしたいと考えたのだ。
 「誰がために……」とは単なる疑問ではなく、答えを示唆していた。「誰」すなわち「人間」のためであることが示されているのだ。
 彼は、この歌詞が閃いた時、創立者の山本伸一や父母、自分を励ましてくれた壮年や婦人、男子部や学生部の先輩、大学の後輩たちの顔が、次々と浮かんだ。
 そして、さらに、日本中、世界中の民衆を、戦火や貧困、飢餓に苦しむ人びとを思った。
 ″このすべての人たちのために頑張るのだ″ それが、彼の導き出した結論であった。
62  創価大学(62)
 「創大祭」の前夜になっても、歌詞も、曲も、まだ、手直しが続けられていた。
 最後は、作曲者も、作詞者も、作成委員会の委員も、音楽の練習室に集まり、曲と歌詞の最終調整を行った。
 皆、″末永く歌い継がれてゆく名曲にしなければならない″と、強く決意していた。
 「これで、どうかね」
 作曲者が考え抜いた変更部分をピアノで弾き、意見を求めた。
 「よくないな」
 「まだ、だめだ」
 こんなやりとりが、何度も続いた。時刻は午前零時を回った。とうとう「創大祭」当日になってしまった。
 部屋の中は冷え込み、深々としていた。だが、皆の顔には、最高の作品を残そうという気迫があふれていた。
 空腹を紛らすために、チーズをかじりながら、作業を続けた。
 考え込んでいた作曲者が、急に立ち上がって、「書く物! 書く物!」と言って叫んだ。
 傍らの学生がペンを渡すと、もぎ取るようにして、楽譜を直した。
 そして、ピアノに向かった。
 皆が耳をそばだてた。
 曲が流れた。
 皆の目が光った。
 「いいね!」
 委員の一人が頷きながら答えた。誰もが納得する、会心の作だった。
 妥協を排して、挑みに挑んでこそ勝利はある。″青春″とは、不屈なる″挑戦″の軌跡である。
 もう一度、力強くピアノが弾かれた。
 「いいよ! これだ、これだよ!」
 作詞者と作曲者が、委員が、肩を抱き合い、握手を交わし合った。
 「創価大学学生歌」誕生の瞬間であった。
 皆で完成した学生歌を声高らかに合唱した。既に時刻は午前四時近かった。長い夜であった。
 朝から、合唱団の練習が始まった。「創大祭」で学生歌を披露するためにつくられた、即席の合唱団である。
 十日ほど前から募集を始めたが、学生の多くはクラブなどで「創大祭」の準備があり、ほとんど集まらなかった。
 そこで、国家試験を受ける学生なら、寮で勉強しているだろうと考え、彼らに頼み込んで合唱団に入ってもらった。そして、ようやく三十人ほどになったのである。
63  創価大学(63)
 第二回「創大祭」当日となる十一月二十四日の朝、合唱団のメンバーは手渡された学生歌を見ると、戸惑いを覚えた。
 歌詞も曲も、最初に渡されていたものと、かなり違っていたからだ。
 だが、ともかく、急いで歌を覚えるしかなかった。この時、国家試験の勉強で培ってきた集中力が、大いに生かされたのである。
 この日の午後、「創大祭」の実行委員会の招きで創価大学を訪問した山本伸一は、まず、校舎の前庭に建てられた「建学の碑」の、除幕式に出席した。
 これは、創価大学の基本理念として、創立者の伸一が発表した「人間教育の最高学府たれ」などの三モットーを刻んだ碑であり、文字も彼の筆によるものであった。
 それから伸一は、各クラブやクラスの展示などを、丹念に見ながら、学生たちに励ましの声をかけていった。
 教育は、励ましから始まる。それは、人間に内在する可能性の扉を開く力である。
 引き続き、中央体育館で行われた記念フェスティバルに出席した彼は、一階フロアに座り、学生たちの楽器演奏などを鑑賞した。
 そして、いよいよ、学生歌の発表である。
 合唱団のメンバーが声高らかに歌い始めた。短時間の練習であったが、見事なハーモニーを奏でていた。
  紅群れ咲く
  つつじの丘を……
 伸一は、「創大祭」実行委員会のメンバーが用意してくれた歌詞の紙を見ながら、学生歌に耳を傾けた。
 力強い調べである。
 歌詞もまた詩情にあふれ、理想があった。希望があり、大志があった。
 建学の精神が、見事に謳い上げられていた。
 すばらしい歌が誕生したと、彼は思った。
 歌が終わると、伸一がマイクを手にした。
 「誰がつくったの?」
 「はい」
 作詞と作曲をした二人が手をあげた。
 「いい歌だね。感動しました」
 場内から、喜びの拍手がわき起こった。
 「でも、少し直していいかな」
 作詞者が頷いた。
 今度は歓声と、さらに大きな拍手が広がった。
64  創価大学(64)
 山本伸一は、作詞者の了解を得ると、直しを口述していった。
 「一番の『白蝶一色喜び舞いて』は『白蝶あそこに』が、『青嵐はげしく虚空に吹いて』は『天空吹いて』がいいね。
 二番の『燃えなんわが胸義憤の心』は『正義の心』がいいだろうね。
 三番の『青山洋々遥かな地平』は『青山洋々かなたに富士が』に、最後の『生命の真窮むかな』は『生命の真求むかな』としてはどうだろうか」
 作詞した学生は感嘆した。言葉の矢が、見事に的を射るような思いがした。どの個所も、最後まで悩み、迷いがある部分であった。
 硬く、難しかった表現が平易になり、豊かな情景が目に浮かぶようになっていくのを感じた。
 学生と伸一の共同作業で、「創価大学学生歌」の完成をみたのである。
 一、紅群れ咲く つつじの丘を 白蝶あそこに喜び舞いて
   葉桜薫れる キャンパス広く集える若人 緑のしげり
   青嵐はげしく 天空吹いて 凛々しくそびゆる白亜の学舎
   筆とる心に 秘めたる思い 誰がために人間の道 学ぶかな
 この日、伸一は、約四十分間にわたってスピーチしたが、そのなかで、人生に平坦な道はなく、「苦難を乗り越えることが、人間教育の原点」であることを語った。
 鉄は溶鉱炉のなかでつくられる。人間もまた、灼熱の苦難なくして完成はない。
 そして、一期生、二期生の使命に言及し、「創価大学の創立者たれ!」と訴えたのである。
 大教育者ペスタロッチは、自ら創立した学園の学生らに呼びかけた。
 「私と共に学園の礎石を築き、創業の困難な時代に友情深く私を助け、私と共に忍従と愛のうちに創立の重荷を擔った人々よ、友よ、諸君がなかったなら、私の事業は、創業後幾何も経たないで再びその終を見たことであろう、友よ、学園の創立者達よ……」
 伸一もまた、愛する学生たちに、満腔の感謝の意と期待を込めて、「創立者たれ!」と叫んだのである。
65  創価大学(65)
 「山本先生が、入学式に出席してくださる!」
 年が明けた一九七三年(昭和四十八年)の一月末、創大生の間を朗報が駆け巡った。
 創立者の入学式への出席は、開学以来、学生たちの悲願であった。
 伸一も、入学式に出席して、皆を励ましたいという思いは強かった。
 しかし、大学の公式行事は、学長や理事長らが中心になって行うべきであり、自分は表舞台に立つべきではないと考え、あえて出席を避けてきたのである。
 だが、「創立者を入学式に!」という学生の声は、次第に大きなものになっていった。
 創大生たちは、当初、七三年に創価大学を開学するという計画もあったことから、開学三年目にあたるこの年を「真の開学年」と位置づけ、新出発の年にしようと、心を新たにしていた。
 キャンパスには、″この第三回の入学式には、なんとしても創立者を招こう″との機運がみなぎっていたのである。
 自治会では、創立者の入学式への招請を代議員会の議題とし、満場一致で可決した。創大生の決意は固かった。
 伸一は、入学式への招請が学生の総意であることを聞くと、出席を決断せざるをえなかった。
 「わかりました。
 学生諸君の強い要望ですから、創立者として、出席しないわけにはいきません。喜んで出席させていただきます」
 さらに、彼は、その折には、創価大学論ともいうべき講演も行うことを約束したのである。
 この知らせを耳にした学生たちは、跳び上がらんばかりに喜んだ。
 また、自治会では″学生参加″の原則をあらゆる面で実現していくために、入学式の運営にも、学生が積極的に参加していくべきであるとの結論に達した。
 そして、職員とも協議し、学生によって、第三回入学式実行委員会を発足させたのである。
 創立者を迎えての、しかも、学生が実行委員会を組織しての、初めての入学式である。
 実行委員会のメンバーは燃えた。そして、入学式を迎えるにあたって、何をすべきかから、徹底して話し合った。
 自分たちこそ主役である――その自覚が、現状を打破し、新しい歴史を創る原動力となる。
66  創価大学(66)
 第三回入学式実行委員会のメンバーは、後輩の三期生たちが、創立者の講演を聴くうえで予備知識が必要であると考え、創大祭や滝山祭などでの伸一のスピーチを収録した小冊子を作った。
 本の題名は、新世紀の新たな流れをつくる決意を込めて、『二十一世紀の潮流』とし、三期生全員に配布したのである。
 四月九日、第三回入学式が、晴れやかに開催された。
 学生たちは、自分たちの手で、後輩となる三期生を迎えるのだと、案内係や整理役員なども、積極的に担当した。
 また、「祝入学式」と書いた、レンガを模した歓迎の門も作られていた。さらに、祝福の言葉を書いた、各サークルの立て看板も目立った。
 伸一は、入学式の開始前に、教室で教員たちと会った。
 彼は、常々、こう考えていた。
 ″自分は、いつも学生と接することはできない。当然、学生の教育は、全面的に教員の方々にお願いするしかない″
 教育の原点は教師である。その人格こそが教育という価値創造の根源である。ゆえに教師こそ、最大の教育環境となる。
 だから伸一は、まるで愛するわが子を託すかのように、一人ひとりの教員に、丁重に頭を下げて頼んだ。
 「学生たちを、くれぐれもよろしくお願いいたします」
 そして、固い握手を交わしていった。
 教員たちは、学生を思う創立者の心を感じた。
 入学式の会場は、中央体育館であった。
 新入生とその父母、そして、一、二期生も入って、二階席も人で埋まっていた。賑やかな入学式となった。
 壇上には「第三回創価大学入学式」の大きな文字も掲げられていた。
 司会者も学生である。
 学長の告辞、新入生の宣誓、さらに、三期生の入学を祝う、先輩の熱烈な歓迎の辞もあった。
 やがて、司会が、創立者の講演を告げた。
 待ちに待った瞬間であった。
 雷鳴のような拍手が響き渡った。
 演台を前に立った伸一は、新入生を祝福するとともに、これまでの二年間、労苦を厭わず、大学建設に取り組んできた教職員、学生に、心から感謝の意を表した。
67  創価大学(67)
 山本伸一は、力を込めて語っていった。
 「言うまでもなく、創価大学は、皆さんの大学であります。同時にそれは、社会から隔離された″象牙の塔″ではなく、新しい歴史を開く、限りない未来性をはらんだ、人類の希望の塔でなくてはならない。
 ここに立脚して、人類のために、社会の人びとのために、無名の庶民の幸福のために、何をすべきか、何をすることができるのか――という、この一点に対する思索、努力だけは、永久に忘れてはならないということを、申し残させていただきます」
 それこそが、創価大学開学の意義であった。
 続いて彼は、歴史を振り返りながら、大学が社会に、いかに大きな影響を与えるかを論じた。
 ルネサンスの淵源となった、十二世紀の学問の復興と本格的な大学の出現。
 インドのナーランダー大学が東洋の精神にもたらした影響。さらに、ヨーロッパの精神的源流となったプラトンのアカデメイア等……。
 その一つ一つに深い考察が光っていた。
 彼は、そこから、学問の役割は、「歴史に進路を示し、かつ、切り開いていく」ところにあるとし、この大学本来の使命を果たしていくために、「創造的人間であれ!」と訴えたのである。
 「我が創価大学の『創価』とは、価値創造ということであります。
 すなわち社会に必要な価値を創造し、健全な価値を提供し、あるいは還元していくというのが、創価大学の本来めざすものでなければならない」
 その創造性を養うには、豊かな精神的な土壌が不可欠であり、それには、人間の潜在的な力を開発する哲学が重要であると、伸一は、強く主張したのである。
 創造を忘れた学問は、″権威のしもべ″である。学問が人間に仕えるものである限り、価値を創造し続けねばならない。
 次いで彼は、現代は、戦争兵器や、「進歩」に対する誤った信仰などが、人類の生存を脅かしており、現代文明そのものが転換点に立っていると指摘した。
 そして、今や、新たな人間復興が要請されていると述べ、それには「哲学・思想・学問におけるネオ・ルネサンス」を必要とすることを訴えたのである。
68  創価大学(68)
 ここで山本伸一は、新しき人間復興を成し遂げ、人類が生き延びるための新たな哲学・思想の確立こそが、喫緊の課題であることを力説し、こう結論した。
 「これからなさねばならない、この壮大な人類の戦いの一翼を創価大学が担うならば、そして、少なからぬ貢献をなしうるならば、創価大学の開学の趣旨も結実したと、私は思うのであります」
 最後に彼は、一語一語、噛み締めるように、自らの決意を語った。
 「私のこれからの最大の仕事もまた、教育であります。
 それは、二十一世紀の人類を、いかにしたら幸福と平和の方向ヘリードしていけるか、この一点しか、私の心にはないからであります。その心から、私は皆さんに、『人類の未来を頼む!』と申し上げておきたい。
 また、教師の先生方には、学生を立派に育てていただきたい。
 先生方に、衷心より『よろしくお願いいたします』と懇願するとともに、全人類に『創価大学ここにあり』と誇らかに宣言し、私のあいさつとさせていただきます」
 大拍手が体育館を揺るがした。
 創価大学の、崇高な使命を痛感させる講演であった。その使命を果たしゆかんとする創立者の、烈々たる気概があふれる講演であった。
 ギュッと唇を噛み、拳を握り締め、決意を固める新入生がいた。ハンカチで盛んに眼を拭う母もいた。誰もが、大きな感動を覚えた。
 人間の魂を揺さぶるものは、未来を思う、強き使命感から発する、燃える闘魂の言葉である。
 講演を聴いた教員たちの衝撃は大きかった。人類の歴史という大きな視点で学問と大学をとらえ、その使命を明らかにし、学生の自覚を促す講演に、驚きを隠せなかったのである。
 教員たちは、興奮しながら語り合った。
 「創立者の、歴史への深い洞察と、学生の魂を揺さぶる気迫あふれる講演に、私は感嘆した」
 「私もだ。山本先生の講演を聴いていて、私自身、血湧き、肉躍る思いだった」
 「山本先生は、われわれに授業のお手本を見せてくださった。本来、講義は、あのようでなければならない。自分の授業が恥ずかしい限りだ」
69  創価大学(69)
 勝ちにけり 栄えゆかなむ 創価大
 開学三年目に入った六月半ば、山本伸一は大学の要請を受け、初めて授業を参観した。
 教員たちのなかにも、創立者に大学の在り方について、真摯に教えを求めようという機運が高まっていた。
 伸一は、教室の後ろの扉を静かに開け、学生たちに気づかれないように中に入った。
 後ろに立って、少し授業の様子を見ただけで、別の教室に移ることもあれば、空いている席に座って、何分間か、講義を聴くこともあった。
 ある教室で伸一は、そっと後列の席に座って、講義を聴講し始めた。
 教授は、緊張した様子で、やがて言葉を詰まらせてしまった。学生たちは、怪訝そうに、教壇に視線を注いだ。
 教授は咳払いを一つすると、再び口を開いた。
 「私は今、不覚にも、授業中に言葉を失ってしまいました。それは、まさに今、わが人生のなかで最も緊張した、また念願し続けてきた、最高の喜びの一瞬を迎えたからであります。
 皆さん、今、この教室に、創立者の山本先生が見えているのです」
 学生たちが、一斉に振り返った。そして、驚きの声と歓声があがった。
 伸一は、授業を中断させてはならないと思い、席を立った。
 「では、勉強を続けてください。人間は、年をとると、記憶力はどんどん低下します。だから、若いうちに勉強しておかないと損ですし、悔いを残すことになる。力ある人とは粘り強く、挑戦し抜いた人なんです」
 こう笑顔で語り、彼は教室を後にした。
 伸一が去ると、教授は感極まった声で言った。
 私は、創立者が微笑をたたえて、後ろの席から皆さんを見守っていた今の光景を、永遠に忘れることはないでしょう。
 山本先生の目の輝きには、皆さん方への限りない愛情と期待があふれていました。一幅の名画でした。
 さあ、授業を続けましょう。徹して、徹して学ぼうではありませんか」
 学生たちは、心に伸一の眼差しを感じながら、決意も新たに、ノートにペンを走らせていた。
 教育とは、自身の心に師をもつことである。
70  創価大学(70)
 入学式での山本伸一の講演を聴いた学生や教員から、「ぜひ、また講演をしていただきたい」との強い要請が、数多く寄せられていた。
 伸一は、六月半ばに創価大学を訪れた折、七月に行われる寮祭の第二回「滝山祭」の実行委員長らと懇談した。
 その時、彼は、「滝山祭」への出席とともに、また、記念講演を行うことを約束したのである。
 第二回「滝山祭」は、一九七三年(昭和四十八年)七月十三日から十五日までの日程であり、伸一の講演は、初日の十三日午後、中央体育館で行われた。
 テーマは「スコラ哲学と現代文明」であった。
 「スコラ哲学」とは、十二世紀から十四世紀を頂点として栄えた、中世ヨーロッパ哲学の総称である。当時の教会や修道院に付属する学校で研究された学問で、キリスト教神学を権威あらしめるために存在した、いわゆる″御用哲学″とも言われてきた。
 しかし、伸一は、この講演で、「スコラ哲学」は中世暗黒時代の象徴などではなく、むしろ近世、近代の出発点であると、とらえ直したのだ。
 また、その時代は中世ヨーロッパを象徴するゴシック建築や、ボローニャ、パリ、オックスフォード、ケンブリッジ等の大学の形成に見られるように、優れた文化が花開いたことを述べた。
 さらに、この「スコラ哲学」の時代に、ヨーロッパ文明の原型が実質的に完成し、ルネサンス、宗教改革、ナショナリズムの勃興など、幾多の変遷を重ねながら、現代文明が築かれてきたことを論じていった。
 だが、伸一は、その現代文明は、今や人間性の喪失や公害、大学の崩壊など、既に深刻な行き詰まりを見せていることを指摘し、新しい次の時代の開幕のために、新しい大学、新しい哲学の興隆が、今こそ必要であることを訴えた。
 青葉は、厳寒の冬に発芽の準備を整える。人生も、また文明も、試練に挑む戦いによって、大きく開花していくのだ。
 伸一の講演は四十五分間であり、一回の授業にも満たない時間にすぎなかった。
 しかし、創価大学の使命を明らかにし、学生たちに次代を建設する深い自覚を促す、歴史的な講演となったのである。
71  創価大学(71)
 「滝山祭」二日目も、山本伸一は、学生たちとともに過ごした。
 三〇度を超す厳しい暑さであったが、寮生から贈られた麦ワラ帽子を被り、滝山寮前の道に立ち並ぶ模擬店を回って、学生と次々に言葉を交わしていった。
 浴衣にわらじ姿の寮生が担ぐ、手作りの駕籠にも、請われて乗った。
 彫刻を作ったので除幕をしてほしいとの学生の要請にも、伸一は快く応じた。
 紐を引くと、肩を組み、励まし合っているような二人の学生の像が姿を現した。
 その一方の像は空に向かって指をさしていた。
 「先生、この彫刻に名前をつけてください」
 彼は、即座に「激励の像」と命名した。
 次いで、第二回の「滝山祭」を記念して、滝山寮の前にヒマラヤ杉を植樹したあと、寮内に展示された世界の大学の歴史や、寮生の絵画、書などを見学した。
 また、将棋の″名人戦″を行っていることを知ると、伸一はメンバーと対局した。
 伸一の鋭い攻めに、相手をした学生は、三十分ほどで投了した。
 学生は、元気な声で言った。
 「今度、対戦する時は必ず勝ちます!」
 伸一は答えた。
 「将棋だけでなく、すべての面で、私に勝ってほしい。学問でも、言論でも、全部、私を凌いでほしい。 それでこそ、私は安心なんです」
 限りなく大きな信頼と期待を感じさせる、胸に染みる言葉であった。
 その学生は、決意に瞳を輝かせながら、深く頷くのであった。
 それから伸一は、再び模擬店を回り、学生の輪の中へ入っていった。
 彼の体には、ビッショりと汗が噴き出ていた。
 また、各クラブの代表や寮生、職員との記念撮影も行った。
 夕刻には、教授らとの懇談のほか、女子寮生代表とも語らいのひとときをもった。月が美しい夜であった。
 さらに、そのあとも、模擬店の学生に声をかけて、励まして歩いた。
 真心と情熱によって、人間の魂は触発され、使命への自覚が促される。まさに、教育とは、大誠実の異名といってよい。
72  創価大学(72)
 山本伸一は、この日、随所で学生たちの求めに応じて、色紙などに句や指針を認めて贈った。
 焼き物のコーナーを担当する学生は、白地の素焼きの大皿や壺を用意して待っていた。
 そこに、揮毫をしてほしいというのだ。
 伸一は、大皿には、毛筆で「わが弟子よ 人間の王者たれ」と認めた。
 また、壺には、「健康・栄光・英知・勝利・福運・情熱・正義 一九七三年 第二回滝山祭」と書いたのである。
 「滝山祭」三日目となる十五日も、伸一は、八王子市内で行われた法要に出席したあと、すぐにキャンパスに戻り、学生の激励に汗を流した。
 前日、猛暑のなかを動き回った伸一の疲労は激しかった。
 しかし、彼は自らに言い聞かせていた。
 ″私の体は、どうなろうが、徹底して学生を励まし抜く!
 学生を守り育てる教育者の姿勢に、微塵も、嘘、偽りの精神があってはならない。
 私は、学生を成長させるために生命をかける。その信念なくして教育などない″
 教育の真髄とは、青年に尽くし抜く慈悲であるといえよう。
 彼は、「滝山祭」の掉尾を飾って、午後六時から体育館で行われた納涼盆踊り大会にも、寮生から贈られた浴衣を着て、姿を現した。
 伸一は、ここでもマイクを取り、創価大学は学内の運営でも、″学生参加″の原則を実現し、理想的な学園共同体にしていってほしいと訴えた。
 そして、前日、素焼きの大皿と壺に揮毫した言葉を紹介し、そこから、新たに七項目の指針を示したのである。
 生涯、健康たれ
 生涯、青春たれ
 生涯、栄光たれ
 生涯、福運をもて
 人生の勝利者たれ
 生涯、英知の人たれ
 生涯、正義の人たれ
 ここに、また一つ、創価大学の永遠の指針が生まれたのである。
 スピーチを終えると、伸一は言った。
 「さあ、それじゃあ楽しくやろうよ。お祭りだもの。ぼくも踊るよ!」
 彼は鉢巻きをすると、率先して、やぐらの上で盆踊りを踊り始めた。
73  創価大学(73)
 はつらつと真っ先に踊り始めた創立者の山本伸一の姿を見て、学長や理事長も後に続いた。
 この盆踊り大会には、学生だけでなく、父母たちや市民も数多く参加していたが、皆、大喜びであった。
 さらに、伸一は、太鼓のバチを手にし、打ち方の手ほどきを受けると、学生たちの生命に轟けとばかりに、力いっぱい叩き始めた。
 今度は、伸一の太鼓に合わせての踊りとなった。「東京音頭」や「炭坑節」など、熱こもる太鼓演奏が何曲も続いた。
 伸一の指のつけ根に痛みが走った。皮が剥けていた。
 それでも、もう一曲、もう一曲と、太鼓を叩き続けた。少しでも、皆に励ましを送りたかった。
 叩き終えた伸一の手を見て、滝山祭の実行委員長が、慌てて絆創膏を用意し、張ってくれた。
 伸一の激闘は、盆踊り大会のあとも続いた。
 「私はこれから、役員として奮闘してくれた諸君とお会いしたい。その人たちと、大学の屋上で月見の宴をしよう」
 陰で献身してくれる人の労苦に、いかに報いるか――その心遣いに人間主義の哲学がある。
 彼の言葉に、周囲にいた教職員たちは、驚きを隠せなかった。
 伸一の体調を心配したのだ。連日、命を削るようにして、学生たちを激励し続ける姿を、皆が目にしてきた。創立者の体は、疲れ切っているはずである。
 教職員の心を感じて、伸一は言った。
 「牧口先生も戸田先生も教育者だった。この二十一世紀の先駆を切る創大生の姿をご覧になったら、どんなに喜ばれることだろう。
 教育者は、学生を守り育てることに命をかけるものだ。私も、そのために激闘しています。学生が成長するのなら、倒れても本望じゃないか。その決心で、体当たりの教育をするべきです」
 百人ほどの学生と、大学の屋上に上った。この日、空には満月が輝いていた。
 学生が弾く琴の音が、静かに流れた。
 「こういう時は、みんなで句を詠もう」
 伸一の提案で、皆に紙が配られた。
 彼は、空を仰ぐと、すぐに一句詠んだ。
 「晴れやかに 名月ほほえむ 滝山祭」
74  創価大学(74)
 学生たちは、句など作ったことは、ほとんどなかった。
 なかなか言葉が出ず、ペンを持ったまま、身を硬くしている学生もいれば、書いては直しを繰り返す人もいた。
 ライトの光と月明かりが、句作に頭を捻る学生たちの顔を照らし出していた。
 しばらくすると、伸一は皆に語りかけた。
 「さあ、できたかな。句というのは、一瞬が勝負だよ」
 それから、改まった口調で言った。
 「今回は、みんなのために、役員として奮闘してくれて、本当にありがとう。その分、私も諸君のために、どんな苦労もいといません。
 責任者、リーダーというのは、人の苦労を背負う人のことです。そういう決意、哲学をもった指導者が出なければ、本当に人びとに尽くし、社会を変えていくことなどできない。
 今の世の中は、多くの指導者が、みんなエゴではないですか。
 平和のため、民衆のために、私は立ちます。
 諸君も、厳然と、二十一世紀の勇者として立ってください」
 皆、創立者の大きな期待を感じた。学生たちの胸は熱くなった。
 伸一は、皆に視線を注ぐと、笑いを含んだ声で、一人の学生に向かって言った。
 「あっ、君は、ぼくが講演していた時に、居眠りしていた人だね」
 言われた学生の驚きは大きかった。
 確かに一昨日、伸一の講演中に居眠りをした記憶があった。
 「はい、すいませんでした。
 一生懸命に聴こうとしたのですが、ついつい眠ってしまいました」
 伸一は、にこやかに頷いた。
 「大勢いるから、わからないと思うかもしれないが、結構、目立つものなんだ。
 見えないところでも、一生懸命で誠実であろうとすることが、人生では大事だよ。
 では、今日を記念して君に一句贈ろう。
 『名月に 師弟はきびし 滝山祭』」
 学生たちの顔に、微笑の花が咲いた。
 その顔を、皓々たる月の光が照らした。
 創立者の心が染み渡る、厳しくも温かい、月下の語らいであった。
75  創価大学(75)
 山本伸一は、常に一人ひとりに眼を凝らしていた。人間教育とは、一人の人間の尊さ、偉大さ、無限の可能性を知ることから始まるからだ。
 三日間にわたる滝山祭は、伸一にとっては、体当たりの人間教育の場であった。
 夜は更けていた。
 伸一は言った。
 「それでは、寮に帰って、ゆっくりお休みください。私は、これから原稿がありますので、お先に失礼します。
 ありがとう!」
 学生たちは、伸一の言葉にハッとした。
 ″山本先生は、ぼくたち以上に、お疲れになっているはずだ。それなのに、さらにこのあとも、原稿を書かれるんだ″
 伸一には、七月の末から学会の夏季講習会が待っていたし、八月の半ばにはアメリカを訪問する予定になっていた。
 そのなかで依頼を受けている月刊誌等の原稿を仕上げるためには、空いた時間など皆無であった。どこかで時間を使えば、その分、睡眠時間を削って、仕事をするしかなかったのである。
 「使命」は「命を使う」とも読める。わが身を削る思いで行動せずして、尊き使命を果たし抜き、歴史を創ることなどできようはずがない。
 彼の胸には常に、「命限り有り惜む可からず」との御聖訓が響いていた。
 この一九七三年(昭和四十八年)の夏休み中にあたる、八月二十五、二十六日の二日間、創価大学では、第一回「夏季大学講座」が開講された。
 前年の夏には、夏季市民講座として、法律問題などをテーマにした講座を行っていた。
 市民に開かれた大学をめざして、実施されたものである。
 それを、さらに、発展・充実させた公開講座が、この夏季大学講座であった。
 この日、創大キャンパスには、向学の意欲を燃やす、サラリーマンや主婦などが″一日大学生″となって、喜々として集ってきた。
 夏季大学講座では、午前中は、法律、政治、経済、社会、文化など、十六教室に分かれて、教授らの講義があった。
 そして、午後には、中央体育館で、創立者の山本伸一による「文学と仏教」と題する記念講演が行われたのである。
76  創価大学(76)
 山本伸一の「文学と仏教」の講演は、二十五、二十六日の二日間にわたった。
 彼は、上代から現代にいたる日本の時代精神の変遷に、仏教がいかに関わり、その形成に寄与したかを語っていった。
 さらに、「万葉集」「源氏物語」「徒然草」などの古典に言及しながら、仏教が日本文学の思想的土壌となっていったことを論じた。
 伸一は、「偉大な仏法思想を源泉とした、新しい″世界文学″というものが興ってくるのも、これまた必然でありましょう」と述べ、講義の結びとしたのである。
 仏教と文学の関係を論じながら、新たな人間復興の到来を訴える伸一の講演に、参加者は心を躍らせた。
 彼が大学の要請を快諾し、夏季大学講座で講演をしたのは、大学は市民と遊離した″象牙の塔″であってはならないとの、強い思いをいだいていたからである。
 市民と一体になった創価大学の伝統をつくるために、彼は、勇んで原稿を書き、市民のなかに飛び込んでいったのだ。
 伸一は、開学前に、創価大学には通信教育部を設置する構想も発表している。
 この夏季大学講座と通信教育という二本の柱を打ち立て、市民に開かれた大学を実現したいと、彼は念願していたのだ。
 学問が、選ばれた一部の人たちの専有物であり続けるならば、永遠に社会の変革はない。
 民衆に大学が開かれ、万人が学問を学び、知恵を磨いていってこそ、社会は真の意味で、向上、発展していくのである。
 この一九七三年(昭和四十八年)の秋、創価大学の一期生から、″難関の双璧″といわれる司法試験と公認会計士試験に、それぞれ一人ずつ合格者が出た。
 皆が彼らを祝福した。
 司法試験は法学部三年の林田芳也で、公認会計士試験は経済学部三年の前野清行である。
 二人は中部と関西の出身で、アルバイトに追われ、苦学しながら、合格最短距離の現役三年で難関を突破したのだ。
 しかも、前野は、公認会計士試験の合格者三百三十一人(受験者数四千八百九十四人)のなかで最年少であった。
77  創価大学(77)
 公認会計士試験に合格した前野清行は、下宿の部屋に、「誇り高く開道者の道を!」と大きく書いた紙を張り、自分を鼓舞しながら勉強に取り組んできた。
 後輩のために、創立者とともに、自分が道を開く――それが難関を突破した二人の創大生に共通した決意であった。
 山本伸一は、大学関係者から、司法試験と公認会計士試験に、創大生が現役合格したことを聞くと、心から賞讃を惜しまなかった。
 「大変な快挙だね。『労苦と使命の中にのみ 人生の価値は生まれる』ことを、見事に実証し、青春の金字塔を打ち立ててくれた。心から祝福します。
 私には、創価大学という新設の無名の大学を一流の大学にしようと、懸命に奮闘してくれた彼らの気持ちが、痛いほど伝わってくる。
 開道者、創立者の自覚で頑張ってくれたんだ。その心が尊い。その心がありがたい。その心が嬉しいんです」
 伸一は、創価大学を訪れた折に、二人と会い、全力で励ました。
 「よくやったね。道を開いたね。君たちの名前は、創価大学の歴史に永遠に残るよ」
 この二人の合格は、皆に大きな自信を与え、励みとなった。
 ″ぼくも、やればできるはずだ!″
 ″彼のように頑張れば、受かるんだ!″
 身近に手本が示されたということは、暗中模索のなかに、明かりがともされ、道が照らし出されたことになる。
 大事なのは最初の一人である。多くの創大生が彼らに続けと、闘志を燃え上がらせていった。
 各種の国家試験に合格したメンバーは、試験に挑戦する後輩の勉強をはじめ、生活上のことまでよく面倒をみてくれた。やがて、それが大学のよき伝統となっていった。
 また、一九七四年(昭和四十九年)には、国家試験研究室を開設し、現在までに、司法試験は百八人、公認会計士試験には百四十五人(創価女子短大を含む)の合格者を出している。
 自分の経験を伝え、共有してこそ、後輩は育っていく。先輩にその努力がなければ、人材育成の流れは開かれない。
 人材は、見つけ、育て、訓練しなければ、本当の人材とはならないのだ。
78  創価大学(78)
 一九七三年(昭和四十八年)十月二十六日、三度目の「創大祭」が巡ってきた。
 山本伸一は、その前日の夕刻に、創価大学を訪問した。
 ロビーでは、学生たちが、展示の設営作業に追われていた。
 そこに、創立者が姿を現したのだ。皆の驚きは大きかった。
 伸一を見ると、作業をしていた学生たちが集まってきた。
 「いやー、突然、来てしまってすいません。
 本来ならば、明日、伺うべきでしょうが、明日になれば、全部、できあがってしまい、諸君の労作業を見ることができなくなってしまう。
 私は、苦労して、懸命に働いている諸君を、見守っていたいんです。
 また、その方が、大事であるし、意味があると思って、おじゃまかもしれませんが、一足早くまいりました」
 ″学生と苦労を分かち合いたい。みんなの苦労に報いたい″というのが伸一の真情であった。
 「さあ、作業を続けてください」
 こう言うと伸一は、傍らにあったペンキを塗るための刷毛を手にした。そして、学生たちの設営作業を、手伝い始めたのである。
 人の苦労を知ってこそ、人の心を知ることができる。そこから、人間の触発が始まる。
 彼は、この日、構内を回って、作業に精を出す学生たちを励まし続け、大学に一泊した。
 翌日も、朝からフル回転であった。
 午前中、七月に他界した教員の功績を後世にとどめるために、大学内にその教員の名を冠した杉を植樹した。
 続いて、図書館を視察し、洋書二千冊と寄付金を贈呈。さらに、図書館の職員らと懇談し、記念のカメラに納まるなど、激励を重ねた。
 その後、伸一は、中央体育館での祝賀会に向かった。
 これは、開学三年目を迎えた創価大学の教育の成果を見てもらおうと、各企業の代表や報道関係者ら約七百人を、「創大祭」に招待して行われた祝賀会であった。
 伸一が体育館に入ると、既に歓談が始まっていた。彼は、来賓のなかに飛び込むように、一人ひとりに声をかけ、名刺を交換し、丁重にあいさつを交わしていった。
79  創価大学(79)
 山本伸一は、名刺を交換するたびに、こう言って、深々と頭を下げた。
 「私が山本でございます。大変にお世話になっております。
 来年は、一期生の就職活動が始まります。初めてのことですので、ご指導、ご尽力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます」
 ほとんどの人が、伸一と直接、言葉を交わすのは初めてであった。
 皆、伸一の丁重さに恐縮し、何度も頭を下げる来賓もいた。
 彼は必死であった。
 ″伝統のある他大学に進学していれば、就職も有利であり、多くの学生が、希望通りの企業に就職できるにちがいない。
 それを、あえて、苦労を承知で、私の創立した新設校の創価大学に来てくれたのだ。
 だから、自分が直接、各企業の代表と会い、誠心誠意、創大生のことをお願いしよう。それが創立者である私の義務だ″
 伸一は、そう深く心に決めていたのである。
 会場は、立食パーティーの形式をとっており、料理をのせたテーブルのほか、壁に沿って、学生の模擬店が並んでいた。
 伸一は、そのなかを右へ左へと歩き回った。
 ″七百人の来賓全員とお会いしよう″と、彼は決意していた。
 動き、語る伸一の顔には、いつの間にか、汗が噴き出していた。
 ″そこまでやるのか″と、人は思うかもしれない。しかし、その行動なくして″開道″はない。道を開くには、まず自らの意識を開くことだ。
 彼は、ある来賓には、こう尋ねた。
 「『創大祭』をご覧になった、率直な感想はいかがですか」
 来賓は語った。
 「今、どの大学も、学園祭は、面白ければなんでもよいという風潮が強くなっています。
 しかし、『創大祭』は違いました。真面目に研究や調査に取り組み、自分たちの主張を真正面からぶつけている企画が実に多い。また、社会正義に燃える、学生らしい心意気があふれています。卒業生が社会に出るのが楽しみです」
 「ありがたいお話です。光栄です。学生たちに伝えます。
 創大生は、私の命なんです。皆、純粋ですし、限りない可能性をもっています。今後とも、お力添えください」
80  創価大学(80)
 山本伸一は、来賓と精力的に言葉を交わし、名刺交換していった。
 伸一の汗は、スーツの襟にまで滲んでいた。
 彼の後ろには、「創大祭」の実行委員長である押山和人という学生がついて歩いていた。
 押山も一期生で、来春には四年になる。だが、卒業後の進路について、まだ、真剣に考えてはいなかった。
 就職活動をするにしても、先輩もいないために、よく状況がつかめず、まだ先のことのように感じていたのである。
 しかし、創立者の姿を見て、押山は目の覚める思いがした。
 ″先生は、本気になって、ぼくたちの将来に心を砕き、就職の問題も学生自身よりも真剣に考えて、手を打ってくださっているんだ。
 よく、『諸君のために道を開く』と、先生は言われるが、今、まさに、体を張って道を開いてくださっている!″
 押山は、創立者の姿を生命に焼き付ける思いで見ていた。彼の胸には熱いものが込み上げ、太い眉の下の大きな目が、何度も曇った。
 この日、伸一は、体育館に集った、ほとんどの来賓とあいさつを交わしたのであった。
 さらに、このあと、彼は「創大祭」を記念して行われた、卓球大会やテニス大会にも、相次いで出場した。
 伸一は、疲れ果てていた。しかし、そんな素振りは全く見せずに、学生と対戦した。
 夕方からは、教授の有志の招待を受け、構内の合掌造りの「万葉の家」で、食事をともにしたのである。
 最初に、教授の代表があいさつに立った。
 この教授は、感無量の面持ちで語った。
 「私は、本日、創立者の姿を拝見し、心の底から感動いたしました。
 山本先生は、全来賓と会われ、時に、深く、深く頭を下げておられた。
 学生の未来を開くために、すべてを捧げるご決意が、痛いほど伝わってまいりました。
 私は反省しました。その慈愛が自分にはあったのか、と。
 先生は、身をもって教師の精神を教え、創価大学の建学の精神を体現してくださった……」
 真の共感は、行動のなかに生まれる。
81  創価大学(81)
 第三回「創大祭」の祝賀会で、創大生の進路を開くために、身を粉にして各企業の代表者と対話する山本伸一の姿を目の当たりにして、学生たちは、就職という壁に体当たりする決意を固めていった。
 年が明け、四期生を迎えた一九七四年(昭和四十九年)の五月一日、会社訪問が解禁になると、一期生たちは、一斉に就職活動に動き出した。
 創価大学の職員たちは、一期生が二年生になった年の秋から、公務員試験の資料を収集したり、教員などから縁のある会社を紹介してもらい、あいさつ回りを重ねてきた。
 だが、当初、求人はなかなか集まらなかった。しかし、山本伸一の奮闘が次第に実を結び、新設の大学としては、かなり多くの企業が門戸を開いていったのである。
 ところが、七三年(同四十八年)の暮れから景気は悪化し、しかも、大卒予定者は史上最高といわれていた。就職戦線も激戦となっていったのである。
 会社訪問が解禁されてほどなく、創価大学を訪れた伸一が、校舎のロビーを歩いていると、三十人ほどの学生が、就職の求人票を張った掲示板の前に集まっていた。
 彼は話しかけた。
 「どう、いい会社はあったかい?」
 振り返った学生は、声をかけたのが伸一だと知って、やや緊張した顔で答えた。
 「それが、思い通りの会社がないんです」
 伸一は、笑顔を向けながら言った。
 「すべて希望通りの会社なんて、ないのが普通だよ。
 むしろ、自分のあげた条件のなかで、一つでも二つでもかなえば、よかったと考えるべきだ。
 仕事は趣味とは違う。月給をもらうんだから、大変なことや苦しいことがあるのは当然です。
 どんな会社でもいい。そこで、頑張り抜くことが大事だよ」
 「はあ……」
 学生たちは、少し納得がいかないような声で返事をした。皆、いわゆる一流企業でなければならないと考えていたのだ。
 「君たちは、有名な大企業なら、安定していると思っていないかい」
 皆が頷いた。
 青年に必要な素養は、外形にとらわれず、内実を見極める眼である。
82  創価大学(82)
 山本伸一は、学生たちの就職に対する考え方を正しておかなければならないと思った。
 「世の中に安定している会社なんて、一つもありません。社会が激動しているんだから。
 日々激戦に勝ち抜くために、どの会社も必死です。発展している会社は常に商品開発や機構改革などを行い、真剣に企業努力をしています。
 たとえば、食品会社にしても、医薬品の分野に進出したり、生き残りをかけて、懸命に工夫、研究し、活路を開いているんです。どの業界も、食うか、食われるかの戦いです。
 昨日まで、順調であっても、今日、どうなるかわからないのが、現実なんです。
 大会社に入っても、別会社への出向もあれば、人員整理もある。また、倒産することだってあるでしょう。
 だから、″この会社に入れば安心だ。将来の生活が保障された″などと考えるのは間違いです」
 学生たちは、真剣な顔になっていた。
 ″挑戦″を忘れ、″依存″の心をもった人が何人いようが、発展の力とはならない。
 伸一は言葉をついだ。
 「就職する限りは、どんな仕事でもやろうと、腹を決めることです。たとえば、出版社というと、多くの人は編集をイメージするが、会社には経理もあれば、営業もある。また、受付もあれば、清掃や営繕を担当する部門もある。
 有名出版社に入ったとしても、どこに配属されるかはわかりません。また、自分の好きな部署に配属されても、部署は、状況に応じて変わっていくものです」
 皆、頷きながら話を聞いていた。
 「社会も企業も、常に変化、変化の連続です。その時に、自分の希望と違う職場だから仕事についていけないとか、やる気が起こらないというのは、わがままであり、惰弱です。敗北です。
 就職すれば、全く不得意な仕事をしなければならないこともある。いやな上司や先輩がいて、人間関係に悩み抜くこともあるかもしれない。
 しかし、仕事とは挑戦なんです。そう決めて、職場の勝利者をめざして仕事に取り組む時、会社は、自分を鍛え、磨いてくれる、人間修行の場所となります」
83  創価大学(83)
 山本伸一の口調は、語るにつれて、厳しさを増していった。
 伸一にとっては、創大生は皆、最愛のわが子である。実社会の試練に、決して負けないでほしかった。そう思うと、自然に、言葉に力がこもるのであった。
 「私は、青年時代に、戸田先生の会社に、少年雑誌の編集者として勤めました。編集長にもなりました。
 ところが、先生の会社は経営不振に陥り、私がやることになったのは、全く畑違いの、最も苦手な金融の営業でした。
 しかし、どうせ働くならば、その道の第一人者になろうと、毎日、泣くような思いで、懸命に努力しました。苦労の連続でした。
 でも、それによって、戸田先生の事業を再建することができたんです。また、そのなかで、実に多くのことを学びました。それが、私の人生の力となっています。
 会社を、ただ、給料をもらうためだけの場と考えるのは、使用人根性です。その考え方だと、一定の給料であれば、一生懸命に働くことは損だということになる。それでは、結果的に会社の″お荷物″になってしまう。
 君たちには、全員、職場の勝利者になってほしいんです」
 学生の一人が尋ねた。
 「職場の勝利者になるうえで、何を心がけるべきでしょうか」
 伸一は言下に答えた。
 「自分がいる、その場所で信頼を勝ち取ることだ。その部署で、第一人者になることです。
 また、仕事で実績をあげることは当然だが、まず、朝は誰よりも早く出勤し、掃除ぐらいして、元気なあいさつで、皆を迎えることだよ。朝に勝つことだ。
 遅刻なんてもってのほかだし、あいさつができない者は、それだけで社会人失格だ。
 もう一つ大事なことは、どんな立場であれ、自分が会社を担っていくのだという決意で、全体観に立って、仕事をしていくことだ。
 どこにあっても、受け身ではなく、主体者、責任者の自覚をもつ――実は、これが、自分を大成させるかどうかの決め手でもある。
 君たちが、誇り高き、わが創価大学の一期生として身につけてきたものは、まさに、その精神じゃないか」
84  創価大学(84)
 山本伸一は、居合わせた三十人ほどの学生一人ひとりに視線を注いだ。 皆、凛々しく、たくましい顔立ちをしていた。
 彼は、微笑を浮かべながら言った。
 「就職に際しては、なんとかなるだろうという甘い考えを捨て、絶対になんとかするのだと決めて、自分の将来の道を切り開いてください。
 就職する会社は小さくとも、あるいは、有名ではなくとも、いいではないか。
 どこであれ、入った会社で、君たちが核となって、後に続く創大生のためにも頑張り抜いてほしい。それが、一期生の責任です。
 よく牧口先生は、こう言われていた。
 『人間には、三種の人間がいる。
 ――″いてもらいたい人″″いてもいなくても、どちらでもよい人″″いては困る人″』
 創大生は、どの職場にあっても、″いてもらいたい人″にならなければいけないよ。
 私も、諸君の未来のために、全力で応援していきます」
 伸一は、その場にいた全員に、「就職の前祝いに」と言って、心ばかりの小遣いを渡した。
 一期生は、創価大学に入学した時から、就職は厳しいものになることは覚悟していた。
 創大生たちは、よくこう語り合ってきた。
 「新設の私立大学で実績がないだけに、一流といわれる企業は、創大生を採用しないと思う。
 でも、ぼくは、山本先生の創立した大学の建設に尽力したくて、創大を選んだ。悔いなどない」
 「そうだよ。どんな仕事をして生きるようになってもよい。覚悟はできている」
 しかし、伸一の励ましを受けた一期生たちは、後輩のために、なんとしても就職の道を開きたいと決意した。それもまた、自分たちに課せられた、パイオニアの戦いであると思った。
 皆、勇んで就職活動に取り組んだ。だが、事前に、その会社について、話を聞くべき卒業生の先輩はいなかった。
 自分で、ここぞと思う会社と連絡を取り、訪問していったのである。
 勇気を振り絞って、自ら戦いを起こす――そのなかでこそ、人間は磨かれ、自身を輝かせていくことができる。
85  創価大学(85)
 大手企業は、あらかじめ採用する大学を指定しているのが普通だった。
 創大生が、会社を訪問しても、「おたくは指定校ではありませんので、採用枠がありません」と断られることも少なくなかった。
 しかし、創大生は毅然としていた。
 「わかりました。私は結構です。
 でも、後輩たちには、平等に採用のチャンスを与えていただけませんでしょうか。優秀な後輩たちが続いております。どうか、来年まいります後輩については、よろしくお願いいたします」
 その精神は、二期生にも、三斯生にも受け継がれていった。
 こうした創大生の姿は、企業の人事関係者などの心を、強く揺さぶったようだ。重役がその態度に感銘し、創価大学の採用枠を設けた企業もあった。
 どこにあろうが、ダイヤモンドはダイヤモンドである。その輝きは、決して失せることはない。そして、必ずいつか、人の目にとまるものだ。
 ともあれ、一期生は開拓魂を燃え上がらせ、就職活動に果敢に挑んだ。それは、断崖絶壁を素手でよじ登るかのような、厳しい挑戦といえた。
 そして、内定を勝ち取った報告が、次々と就職部に寄せられていったのである。
 新設大学の一期生としては、異例なほど、一流企業への内定が多く、最終的に、就職率は百パーセントを達成した。
 また、この年も、前年に引き続き、公認会計士試験に二人が合格したほか、外務公務員上級試験にも一人が合格し、大きな話題となった。
 創大生のなかには、並みいる有名大学の学生とともに採用試験を受け、一番の成績を取り、大学の評価を大きく変えた人もいた。
 さらに、入社式で新入社員の代表として決意を語った人もいた。
 また、入社後の奮闘ぶりに、上司から、「あなたを見ていると、創価大学の認識を改めなくちゃいけないね」と言われた女子の卒業生もいた。
 まさに、皆が創立者の自覚で、勇敢に、開拓の道を歩んでいったのである。その姿、その生き方のなかに、創価の人間教育が脈動していた。
 そこに各企業も、やがて高い評価を寄せるようになっていくのである。
86  創価大学(86)
 国境を超えて、人類の幸福と平和のために貢献できる人材を創価大学で育てたい――それが、山本伸一の念願であった。
 一期生に、経済学部に学ぶ金敏恵という在日韓国人の女子学生がいた。
 彼女は、物心ついたころから、どうして韓国人の両親が日本に来たのか不思議に思っていた。
 両親は、その経緯を、決して娘には語ろうとはしなかった。父親は何も語らぬまま、中学一年の時に他界した。
 朝鮮民族が日本人から受けた、韓国併合以来の非道な歴史を彼女が知ったのは、中学三年のころであった。
 愕然とした。そして、怒りに燃えた。その憤慨は、いつしか日本人への嫌悪感となり、憎しみともなった。
 高校三年の時に、彼女は重度の結核にかかり、治療のために入院する。そこで知り合った学会員から、仏法の話を聞いて入会した。
 唱題に励んだ。医師が驚くほど、病状は回復していった。
 退院した金敏恵は、高校を卒業すると、岡山から東京に出てきた。
 姉の家に身を寄せ、大学進学のために、受験勉強に取り組んだ。
 彼女のところに、よく女子部や学生部の先輩が激励に訪れ、創価大学が開学することを教え、進学を勧めてくれた。
 金は、会長の山本先生が創立した大学なら学んでみたいと受験し、合格した。
 一期生となった彼女は、「創大祭」などで創立者と接し、その思想と生き方を学ぶにつれて、伸一への尊敬の念が深まっていった。
 ″私の生涯の師に巡り会えた″と、彼女は思った。しかし、それとともに、金の胸には、葛藤が生じていった。
 このまま、日本の大学に同化していくことは、韓国人への背信行為ではないかという思いがするのであった。
 彼女は、その悩みを、大学の教員に話した。
 この教員は、伸一と懇談した機会に、彼女のことを報告した。
 伸一は答えた。
 「民族の歴史をかかえて、彼女は、悩み、苦しんでいるんだね。 私がお会いして、話し合いましょう」
 悩める人がいれば、決して見過ごさず、直ちに行動を起こす――それなくして人間主義はない
87  創価大学(87)
 山本伸一は、間もなく三期生を迎えようとする一九七三年(昭和四十八年)の三月末、創価大学を借りて行われた学会の会合に出席した折、何人かの学生たちと会う機会をもった。
 そこに、金敏恵も招いたのである。
 伸一は微笑を浮かべ、彼女に声をかけた。
 「あなたのことは、伺っています。
 人間が人間であるという視点に立つならば、どこの国籍であるとか、民族だとか、そんなことは問題ではありません。ちっぽけなことです。
 青年にとって大事なことは、未来に向かって、皆が幸福になるために、いかに生きるかです。
 あなたは、一人の人間として、自由に伸び伸びと頑張ってください。見守っています」
 伸一の話に、彼女は、胸に立ち込めていた靄のような思いが、スーッと晴れていく気がした。
 伸一は、さらに、大学内の喫茶室でも、語らいを続けた。
 そして、励ましの思いを込めて、大学の正面玄関前に立つブロンズ像を写した写真の裏に、こう記して彼女に贈った。
 「元来、人間には国境なぞなかった。それが、いつしか人為的に国境がつくられていった。 ゆえに、私共は、国境の奥の次元の人間連帯に到達し、生きゆくことを忘れまい」
 この一文を見て、彼女は魂が揺さぶられた。
 ″確かにそうだ。 国家といっても、人間がつくったものだ。民族の違いといっても、人間と人間を分ける、本質的な要素ではない。
 また、自分は、過去の歴史に縛られ、未来を見つめる眼を閉ざしていたのかもしれない″
 そして、決意する。
 ″創大生であることこそが、私の原点だ。 ここが、私の人間としての目覚めの大地だ。 山本先生のこの励ましに、自分の生き方をもって応えていこう!″
 一念の変化は、ものの見方、考え方を変え、人生観を変えていく。
 以来、彼女は、これまで以上に、真剣に学業に励み、卒業の年に税理士の資格を取得。晴れ晴れと創大出身の税理士第一号となったのである。
 また、女性平和運動のリーダーとしても、活躍していくことになる。
88  創価大学(88)
 創価大学には、海外からの留学生も集うようになっていた。
 一九七三年(昭和四十八年)には、香港出身の二人の学生が入学した。
 そのうちの一人が、山本伸一が六三年(同三十八年)の一月に香港を訪問した折に、励ました周志英(チャウ・チーイェン)であった。
 彼の両親は、香港の創価学会の中核として活躍していた。父親の周志剛(チャウ・チーゴン)は日本人で、戦前から中国に渡り、やがて、中国人の徐玉珍(チョイ・ヨッチャン)と結婚した。
 結婚後、間もなく終戦を迎えるが、日本軍の残虐な姿に憤慨してきた彼は、戦後も中国に残り、中国人として生きることを決めたのである。
 戦後は香港で貿易の仕事をし、一家を養うが、彼は、家ではいっさい日本語は使わず、子どもたちにも日本人であることを話さなかった。
 戦争の傷痕が人びとの心に深く刻まれ、反日感情の激しい時代が続いていただけに、日本人であることがわかれば、生命の危険さえあったからである。
 ただ学会員となった彼は、子どもたちに、学会のすばらしさと、山本伸一が世界平和と人類の幸福のために全力を尽くしていることは、懸命に教えてきた。
 そのなかで、幼い志英の心にも、世界平和のために働きたいとの思いが芽生えていった。
 六三年、九歳であった志英は、香港から帰国する伸一を、父母とともに、空港に見送りに行ったのである。
 その時、志英の姿を見つけた伸一は、こう語りかけた。
 「私は、やがて大学をつくるから、大きくなったら日本にいらっしゃい。今は、しっかり勉強しておくんだよ」
 父は、その言葉を訳して伝えた。志英はニッコリと頷いた。
 その後、志英は、医学の道をめざし、懸命に勉学に励んでいった。
 七一年(同四十六年)、遂に、創価大学が開学した。彼は日本行きを決意する。
 ″創価大学には医学部はない。しかし、山本先生の創立された大学で学び、先生のように、世界の平和のために貢献できる人間になりたい!″
 清らかな生命に下ろされた誓いの種子が、結実しようとしていた。
89  創価大学(89)
 周志英は、中国が文化大革命の混乱期にあったころ、船で通学する途中に、何度も、海に浮かぶ遺体を目にした。
 中国を脱出し、イギリス領の香港に海から入ろうとして溺れたり、見つかって射殺されたりした人たちであった。
 周の胸は痛んだ。
 ″平和が実現されなければ、人びとの幸福はない……″
 そう痛感してきただけに、″人類の平和を守るフォートレス(要塞)″をめざして、創価大学が開学したことを知ると、彼は、日本に飛んで行きたい気持ちだった。
 ″山本先生との、約束を果たす時が来た!″
 一九七二年(昭和四十七年)の九月、周は創価大学進学を決意して、日本にやって来た。
 父の友人の家に住んだが、日本語がわからず、買い物一つするのもままならなかった。
 彼は、日本語の学校に通った。
 翌年の二月には、創価大学の入学試験がある。試験はすべて日本語で行われる。
 それまでに、入試を勝ち取る日本語の能力を、身につけなければならなかった。
 周は必死であった。
 日本人と積極的に対話することを心がけた。分厚い日漢辞典を引きながら、山本伸一が少年少女向けに書いた著作を、一心不乱に読破した。日本の歌も覚えた。
 寸暇を惜しんで、あらゆる方法で、日本語の習得に努めたのである。
 そして、五カ月後の七三年(同四十八年)二月に、経済学部を受験。見事、合格の栄冠を手にしたのであった。
 勉学は自己自身との戦いである。″もう、このぐらいでよい″という妥協の心を打ち破った者が最後の勝利者となる。
 また、もう一人、香港の鄭芳芳(チェン・フォンフォン)という女性も合格した。
 山本伸一は、二人の入学を心から祝福し、教職員にも、よく面倒をみてほしいと頼んだ。
 やがて、翌年一月に伸一が、香港大学や香港中文大学を公式訪問することが決まった。
 伸一は、その時に、二人を香港に連れて行ってあげたいと思った。
 ″家族に、日本での生活の報告もしたいにちがいない。しかし、自費では旅費も大変だろう″との配慮からであった。
90  創価大学(90)
 山本伸一は、周志英が世界平和に貢献したいという志をもって、創価大学に来たことを知っていた。
 だから、せっかく学んだ日本語の能力を生かして、通訳の手伝いをしてもらおうと思った。
 平和といっても、それは人間と人間の対話から始まる。そのためには優れた通訳の存在が大事になるからだ。
 周と鄭芳芳は、創立者と一緒に香港に帰れることは嬉しかったが、緊張もした。
 伸一の香港訪問は、一月の二十六日から三十一日まで、五泊六日にわたった。
 周志英の日本語は、まだ、たどたどしさがあった。しかし、伸一は、あえて、さまざまな場面で、彼に通訳をしてもらったのである。
 語学は、実践の場数を踏み、体験を積み重ねてこそ、本当の実力が身につくからだ。
 彼の父である周志剛は、息子が必死になって通訳する姿を、目を細めて見ていた。
 父は、息子に言った。
 「山本先生に、香港に連れてきてもらってよかったね。
 留学生としても、創大生としても、みんなの模範になるように、しっかり勉強することだよ」
 香港滞在の最終日であった。伸一は周志英に語りかけた。
 「今回はありがとう。 今度、私は中国に行くから、その時も、君に通訳をしてもらおうと思うんだよ」
 周は、恐縮しながら答えた。
 「すみませんが、中国では通じません」
 香港は広東語だが、中国の公用語は北京語である。同じ中国語でも発音は全く異なっている。むしろ、別の言語といってもよい。
 伸一も、それはよくわかっていたが、周には、北京語も習得し、世界平和の実現のために、日中友好の担い手に育ってほしかったのである。
 伸一は、おどけて周に言った。
 「できないというが、君は毎日、中国語を話していたじゃないか」
 「私が話しているのは広東語であって、北京語ではありません。これは全く違う言葉です……」
 生真面目な周は、広東語と北京語の違いを、一生懸命に説明した。
91  創価大学(91)
 山本伸一は、周志英に言った。
 「そうか、広東語と北京語は、そんなに違うのか。残念だな……。
 中国では、国家の指導者とも会見することになる。君が通訳をしてくれれば、安心なんだがな。いつかやってよ」
 その言葉は、深く、周の胸を射貫いた。
 彼は、これを契機に、北京語での通訳をめざして、猛勉強を開始した。
 人生にも、また、日々の生活にも、目標が必要である。目標に向かって前進していくところに、希望がわき、力がわくからだ。
 周の北京語の上達は目覚ましかった。この一九七四年(昭和四十九年)十月に、創価大学では初の中国語弁論大会が行われたが、彼は「特別賞」を受賞したのだ。
 しかし、そんな彼に試練が襲った。その弁論大会の翌月、父親の周志剛が心臓病で急逝したのだ。六十一歳であった。
 創立者に連れて行ってもらった香港での父との語らいが、最後の思い出となった。
 香港には、母と、間もなく結婚する姉、そして二人の妹がいた。下の妹は九歳である。父が残したわずかばかりの財産は、母や妹の生活費にあてなければならない。
 以来、周はアルバイトに明け暮れる学生生活となった。昼間は大学の食堂で働き、夜になると、図書館で働いた。土日には道路工事や警備などのアルバイトをした。
 そのなかで必死になって北京語を学んだ。
 翌年には、創価大学が中国政府派遣の留学生を受け入れるが、周は同じ寮で、習い覚えた北京語を駆使して、コミュニケーションを図った。
 さらに、アルバイトで得た収入を貯め、入学金にあてて、大学院に進んだのである。
 その彼を支えたのが創立者の励ましであった。
 伸一は、機会あるごとに固い握手を交わし、″強くあれ、強くあれ″と、激励した。
 また伸一は、その後も香港訪問に、周が同行できるよう配慮した。そして、一緒に彼の実家を訪ね、亡き父の追善の祈りを捧げたこともあった。
 ある時、周に言った。
 「何があっても、負けてはいけない。君がどう生きていくのか、私は、じっと見ているよ」
 創立者は、彼の成長を見守り続けた。
92  創価大学(92)
 周志英は、一九七八年(昭和五十三年)秋、山本伸一の第四次訪中に通訳として同行することになる。
 周は、既に北京語を自在に操れるようになっていたし、日本語も完璧であった。
 しかし、中国の国家を代表するような指導者の通訳としては、まだ経験不足であった。
 それでも伸一は、周を通訳として選んだ。本人のために、より早く、真剣勝負の舞台に立たせたかったのである。
 この訪問では、故周恩来(ジョウ・エンライ)首相の夫人である鄧穎超とうえいちょう(ドン・インチャオ)全国人民代表大会常務委員会副委員長をはじめ、中国の要人と、伸一の会見の通訳もした。
 緊張のあまり、全身にビッショリと汗をかきながらの通訳であった。
 その後、周は、さらに北京語と日本語の研鑽を重ね抜いた。
 そして、名通訳となり、念願通り世界平和に貢献していくことになる。
 また、SGI(創価学会インタナショナル)の公認通訳の中心となり、多くの後輩を育んでいったのである。
 周に続いて、創価大学には、最優秀の留学生が世界中から集っている。
 伸一は、創価大学が″人類の平和を守るフォートレス(要塞)″の使命を果たしていくには、国際交流が大切であると痛感していた。
 彼は、自らその道を開こうと、七二年(同四十七年)には、イギリスのケンブリッジ大学、オックスフォード大学を訪問し、各大学の要職者と、大学教育の在り方などについて意見を交換した。
 翌年には、フランスのパリ大学(ソルボンヌ校)、イギリスのサセックス大学を訪ね、大学首脳や学生と懇談した。
 七四年(同四十九年)一月の香港訪問では、香港中文大学の学長と会談し、創価大学との教員・学生の交流を提案。
 翌七五年(同五十年)三月、両大学は学術交流の覚書を交換した。
 これが創価大学にとって、最初の交流協定となった。
 また、七四年の三月には、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校、ニューオーリンズ大学、そして、パナマ大学、ペルーのサンマルコス大学を訪問している。
93  創価大学(93)
 ニューオーリンズ大学の訪問では、山本伸一は総長と会見し、「教育国連」構想や、その前段階としての「世界大学総長会議」「学生自治会会議」の開催などについて話し合った。
 また、四月一日には、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で、「二十一世紀への提言」と題する講演を行っている。
 彼は、世界の大学と大学、学生と学生を結び合い、恒久平和実現への、若き知性と友情のネットワークを築き上げようと決意していたのだ。
 そして、その推進力となって、人類の平和に貢献する人材を育むことこそ、創価大学の使命であると考えていた。
 この年、伸一は、社会主義国の大学にも精力的に足を運び、中国の北京大学、ソ連のモスクワ大学、レニングラード大学(現サンクトペテルブルク大学)を訪問した。
 理想を成し遂げるためには、まず自らが動くことだ。対話の門戸を開くことだ。そこから人間の交流が生まれ、新しき時代の流れが開かれる。
 伸一は、学生たちが世界に羽ばたく日を思い描きながら、一心不乱に道を切り開いた。また、学生の要請には、常に全力で応え続けた。
 第四回となるこの一九七四年(昭和四十九年)の「入学式」では、学生の求めに応じて、創造的生命について記念講演を行った。
 さらに、六月の第三回「滝山祭」にも出席した。
 初の中国訪問を終えたばかりで、多忙を極めていたが、時間をこじ開けるようにして日程を調整したのだ。
 伸一の顔には、うっすらと隈が浮かんでいた。疲労がたまりにたまっていたのである。
 それでも彼は、体当たりするかのように、寮生の激励にあたった。
 その姿を、じっと見つめる一人の教授がいた。経済学部教授の大熊田俊行であった。他大学で学部長も務めた、著名な経済学者である。
 大熊田は、開学以来、創立者の行動を、注視し続けてきた。
 そして、こよなく学生を愛し、自らを犠牲にすることも辞さない伸一の姿に驚嘆し、衝撃を覚え続けてきた。
 彼は、その気持ちを伸一に伝えたいと思った。
94  創価大学(94)
 「滝山祭」の後夜祭でのことであった。
 会場の中央体育館で、山本伸一の近くにいた教授の大熊田俊行は、そっと伸一にメモ用紙を渡した。そこには、和歌が認められていた。
 「頬につたう 涙ぬぐわず 後夜祭 おどる五千を 見守るわれは」
 「大学と きけば紛争 世の人に 滝山祭をひとめ見せたし」
 彼は、学生に接する伸一の姿に、自分が探し求めてきた、人間教育の実像を見ていた。その喜びを表現したかったのだ。
 十月には四度目の「創大祭」がやってきた。
 創価大学では、創立者の山本伸一に、第一号の「名誉教授」の称号を贈ろうと検討してきた。そして、創大祭の初日となる二十五日午前の教授会で決定をみたのである。
 学長は、直ちに、その旨を伸一に伝えた。しかし、彼は辞退した。
 そうした社会的な名誉は、本来、自分には必要のないものと、伸一は考えていたのである。
 学長らは困惑した。
 「山本先生には、やがて、世界の大学から名誉称号が贈られるようになることは間違いない。
 わが大学が最初にお贈りできなかったら、後世永遠に汚点を残すことになる」
 伸一は、再三にわたって、受けるように要請された。
 ″これで断れば、皆の気持ちを踏みにじり、大学に対して失礼になる。お受けするしかないのかもしれない……″
 やむなく、伸一は了解した。
 それを耳にした学生たちも、大喜びであった。
 授与式は、この日の夕刻、大学内の会議室で行われた。授与する学長の声は緊張していた。
 「本日、わが創価大学として、第一号の名誉教授の称号を、創立者に授与できますことは、最高の名誉であり、喜びであります!」
 それは、ここに参加した教員、学生ら全員の偽らざる気持ちであった。
 伸一の凛とした声が響いた。
 「これは、学生の皆さん、教職員の皆さんをはじめ、大学を守るという意味の象徴として、さらに、一段と発展させるという誓いの証として、謹んでお受けいたします」
 彼が「名誉教授」の証書を受けると、喜びの拍手がこだました。
95  創価大学(95)
 誇りあれ 英知と使命の 創価大
 時の流れは早い。特に青春時代という黄金の時は、瞬く間に過ぎ去る。ゆえに悔いなき敢闘の日々でなければならない。
 創大一期生も、入学以来、既に四春秋が過ぎ、卒業の時を迎えようとしていた。
 建設の青春であった。挑戦の青春であった。
 苦闘もあった。涙もあった。しかし、友情があり、歓喜があった。
 そこには、自身を燃焼し尽くした人のみが発する、青春の勝利の輝きがあった。
 卒業していく学生は、創大出身の誇りを胸に、再び新しき挑戦の決意に燃えていた。
 山本伸一は第一回「卒業式」が迫ると、一期生へのせめてもの励ましとして、自分の蔵書から選んだ本を、記念として代表に贈ろうと考えた。
 彼が選び出した本のなかには、青春時代に読んだ思い出が詰まった哲学書もあれば、自分の著作もあった。また、洋書もあった。
 伸一は、一期生が前年の秋につくった記念文集『草創』を傍らに置き、一人ひとりの顔写真を生命に焼き付けるように見つめた。さらに、皆の書いた文章を、丹念に読み返した。
 そして、選んだ蔵書に学生の名前を記し、その脇に自分の名前を書いていった。
 時には、励ましの一文を書くこともあった。
 伸一は、一期生の入学式には出席せず、寂しい思いをさせてしまったことを、いまだに申し訳なく感じていた。
 だから、精いっぱいの励ましを送るとともに、卒業式には、なんとしても出席して、建学の四年間の労に報いようと、心に決めていた。
 彼は、一期生の名を記しながら、心で叫び、祈っていた。
 ″創価大学に来てくれてありがとう。生涯、私とともに、道を開き続けてくれたまえ!
 自身の栄光のために、後輩たちのために、決して負けるな!″
 それらの本を、彼は大学に送り、学生たちに渡してもらったのである。
 卒業を前に、伸一から贈られた本を手にした一期生たちは、皆、目頭を熱くした。
 創立者の心が、強く、強く、響いた。
96  創価大学(96)
 創価大学の第一回卒業式が行われた、一九七五年(昭和五十年)三月二十二日は、美しい青空が広がっていた。
 彼方には、一期生の未来への旅立ちを祝うかのように、白雪の富士が光っていた。
 会場の中央体育館は、初の卒業生を祝福しようと集った教職員、理事、来賓、父母、そして、在校生で埋まり、熱気にあふれていた。
 四年前の入学式は、二階席の多くが空席であり、閑散とした印象があった。しかし、今は卒業生を祝う、たくさんの後輩たちがいた。
 創価教育によって育まれた、人類の幸福と平和を築く英才の第一陣が、いよいよ、社会に躍り出るのだ。
 正午前、伸一が会場に姿を現すと、期せずして歓声があがった。
 ″創立者の山本先生が出席してくださった!″
 卒業生のなかには、入学式のことを思い返す人もいた。
 あの日、創立者の出席はなかった。いや、初年度は、「創大祭」以外には、公式に大学を訪問することさえなかった。
 ″それは、残念なことではあったが、結果的に見て、そのことが私たちに、パイオニアの自覚を、一人ひとりが創立者であるとの自覚をもたらすことになった。それ自体、山本先生の訓育であったのかもしれない″
 一期生の多くは、そう実感していたのである。 恵まれた条件が、必ずしも、人間を育むとは限らない。時に逆境こそが最高の教師となる。
 卒業式が始まった。開式の辞、卒業証書授与、表彰、告辞、答辞と式は進んだ。
 卒業生の目には、希望の輝きがあった。その顔には、栄えある創大一期生としての、誇りと決意がみなぎっていた。
 最後に、雷鳴のような拍手のなか、山本伸一があいさつに立った。
 「若き英才の諸君に、一言ごあいさつを申し上げます。
 陽光燦たる本日は、諸君にとっては、人生の春とも言うべき、めでたい卒業式であります……」
 伸一は、まず卒業生を心から祝福するとともに、教職員に、深く感謝の意を表した。
 そして、それぞれ進路は異なっても、「たくましき福運の青春であれ」と、万感の思いを込めて呼びかけたのである。
97  創価大学(97)
 山本伸一は、開道者として歴史を築き上げてくれた一期生に、敬愛の念を込めて語っていった。
 「私の信ずる仏法には『霊山一会儼然として未だ散らず』という一つの原理がございます。これは、砕いていえば、散ってなおかつ散っていない、という不思議な原理であります。卒業して離れ離れになることは、散っていく姿と言えます。
 しかし、諸君は、生涯、『創価大学の一会儼然として未だ散らず』との心で生き抜くことを、この席において盟約してはどうかと、ご提案申し上げたいと思いますが、いかがでありましょうか!」
 皆が大拍手で応えた。
 ″自分たちは、どこに行こうが、創立者のもとに集った栄光の創大一期生だ! 生涯にわたる、固く強い友情に結ばれた永遠の友だ!″それが、全卒業生の気持ちであった。いわば、伸一の提案は皆の思いを代弁するものであったといってよい。
 さらに彼は、師であった戸田城聖の、「社会に信念の人を」という言葉を贈り、実社会で生き抜くうえで、正しく深い信念を堅持することの大切さを語った。
 また、人生の成功のカギとして、金銭問題には断じて正義感を崩さず、異性の問題には
 慎重に、賢明に臨み、職場の人事問題で悩むことがあっても、「人生修行」と受け止めていくことが大事であると訴えたのである。
 次いで、大学を卒業したあとは、自分で自分を教育する生涯教育のコースに入ると述べ、何歳になろうと、向学心を燃やし続けることが必要であると強調した。
 そして、こう話を結んだのである。
 「学ぶのは、充電であり、それを役立てていくのは発電であります。一生、この充電、発電を絶やさずに繰り返していけるようになったならば、その人は必ず人間の勝利者になっていくでありましょう。
 ともあれ、二十一世紀の担い手たる前途有為の諸君! 私は皆さんの健康、そして、長寿を祈って、晴れの門出のお祝いとするものであります。では、未来に向かって勇ましく第一歩を踏み出してください」
 怒濤を思わせる大拍手が、いつまでも鳴りやまなかった。
98  創価大学(98)
 学生歌の大合唱で、卒業式は終わった。
 山本伸一は、舞台のソデから退場せず、フロアに降りた。
 そして、最前列に並んでいた卒業生に手を差し出し、一人ひとりに声をかけながら、固い握手を交わした。
 「お元気で!」
 「何があっても負けないで!」
 「君たちのことは、生涯、忘れません」
 「創大生の誇りを忘れずに!」
 「はい!」と答える卒業生の手に、力がこもった。目に涙を浮かべ、伸一の手を、両手で握り締める青年もいた。
 ″大学の真価は卒業生で決まる。君たちの前途には、烈風の日々もあろう。暗雲に包まれる時もあるだろう。しかし、創大生なら断じて勝て!″
 伸一は心で、そう呼びかけながら、皆を抱き締める思いで、握手を交わしていった。
 卒業生のなかに入り、励ましを送る創立者の姿に、在校生も、父母も泣いた。
 そこには師弟の魂の触れ合いがあった。
 それは、永遠の誓いが刻印された、栄光への旅立ちの集いとなった。
 一期生が卒業した、この一九七五年(昭和五十年)の春、創価大学は、中国政府の派遣留学生を受け入れている。
 ″人類の平和を守るフォートレス(要塞)″として、創価大学の国際交流が、本格的に開始されたのである。
 七二年(同四十七年)九月、日中国交が樹立したが、まだ、中国の文化大革命は終息せず、日本の各大学は中国の留学生を、正式に受け入れようとはしなかった。
 日本語や日本事情を勉強させるために、日本の大学で学ばせたいと考える中国政府にとって、頭の痛い問題であった。中国大使館員から、その話を聞いた伸一は、自ら保証人となって、中国人留学生を創価大学に受け入れようと思った。それが、日本留学の思い出を伸一に語った周恩来総理への恩返しにもなると、考えたのである。
 大学も、検討の結果、伸一の考えに賛同した。そして、創価大学は、中国からの六人の留学生を迎えたのだ。日本の大学による正式な中国の留学生の受け入れは、戦後初めてであった。
 この一九七五年(昭和五十年)五月に、山本伸一はモスクワ大学を訪問し、「東西文化交流の新しい道」と題して講演を行った。
 また、その際、同大学の名誉博士の称号を贈られている。そして、この時、創価大学とモスクワ大学の間に交流協定が結ばれたのである。
 まだ、時代は東西冷戦の真っ只中であり、多くの日本人は、ソ連に脅威を感じ、そのイメージは決して好ましいものではなかった。
 だからこそ伸一は、次代のために教育の交流を推進し、不信を信頼へ、反目を友情に変えようと、懸命に努力していたのである。
 創価大学との学術・教育交流は、その後、世界各地に広がっていった。
 その数は現在までに、四十一カ国・地域八十九大学に及んでいる。
 七六年(同五十一年)春、創価大学は留学生のために、別科日本語研修課程を開設した。
 別科長に就任したのは理学博士で教授の若狭正光であった。十一年間、アメリカとカナダで研究を続け、カナダのマニトバ大学では准教授を務めてきた数学者である。
 創価大学には、留学生を皆が支援し、友情を結ぼうとの機運がみなぎっていた。
 最初の中国からの留学生のなかには、日本の生活になじめず、体調を崩す人もいた。
 話し合いの末に、気分転換になればと、創大生の有志と留学生が、一緒に農作業を行うことにした。その農場の開園式には、伸一も出席して、「日中友誼農場」と命名している。
 伸一は、かつて日本に留学し、仙台医学専門学校に学んだ中国の大文学者・魯迅と、指導教官の藤野厳九郎との交流を思い描いていた。
 二人の間には、民族、国家の壁を超えた、人間と人間の温かい心の触れ合いがあった。
 伸一は、創大の教員や学生と留学生の間にも、そうした友情が育まれ、友好の大樹に育ちゆくことを強く願っていた。
 別科開設以来、別科に学んだ留学生は約千七百人に上っている。そして、伸一の願い通り、国境を超えた友情の輪が、幾重にも、結ばれていったのである。この結合こそ、二十一世紀の人間主義の連帯の要と光りゆくであろう。
99  創価大学(99)
 創価大学からも多くの学生が、交換留学生として世界の各大学に留学していった。
 その創大生たちは、自分たちがパイオニアなのだとの自覚で、猛勉強を重ねた。
 そして、そこで培った語学力などを生かし、平和の懸け橋となっていった人も少なくない。
 たとえば、モスクワ大学への最初の交換留学生となった斎木いく子は、ロシア語の通訳として、活躍するようになる。
 そこにも、山本伸一の励ましがあった。
 彼は、斎木に対して、大学二年の時から、育成を心がけてきた。
 有志がロシア語研究会をつくり、語学の習得に励んでいることを聞いた彼は、ソ連の要人と創価大学で会見した際に、ロシア語研究会の二人の学生を同席させた。その一人が斎木であった。
 伸一は、彼女にも通訳をするように言った。斎木は、懸命に通訳しようとしたが、最初のあいさつぐらいしか、うまく伝えられなかった。
 彼は、斎木が生きた語学を身につけるとともに、ロシア語を学ぶうえで、挑戦の目標をつくってほしかったのである。
 これを契機に、斎木の猛勉強が始まり、モスクワ大学への交換留学の道が開かれると、その第一号となった。
 厳冬のモスクワは零下二〇度を下回った。
 ″私はパイオニアなんだ。自分の評価が創価大学への評価になる″と思うと、いやがうえにも闘志が燃え上がった。ひたぶるに勉学に励む毎日であった。
 彼女は帰国し、卒業したあと、ソ連の男性と結ばれるが、当時のソ連は自由主義国の国民との結婚には厳しく、幾つもの困難があった。
 伸一は、親身になって彼女の相談にのり、さまざまな応援をした。
 結婚した二人は、ソ連のカザフ共和国に渡り、やがて日本で暮らすことになった。
 彼女は、ロシア語の通訳として、次第に頭角を現していった。
 だが、数年後、予期せぬ悲しみが彼女を襲った。突然、夫が他界したのである。絶望の底に叩き落とされた。
 もはや、生きる気力さえなかった。日本で葬儀を終えた彼女は、夫の故郷にも遺骨を埋葬するため、カザフ共和国に向かった。
 斉木いく子のカザフ共和国への旅は、二人の幼子を連れての、長く悲しい道のりであった。
 夫の遺骨は、四歳になる長男が、リュックサックに入れて背負った。
 モスクワから、さらに飛行機に乗り継いで数時間、夫の実家に着いた時には、身も心も疲れ果てていた。
 そこに、創立者の山本伸一から、電報が届いたのである。
 「人生には、いろいろな出来事があります。その一つ一つが深い意味をもっています。だから、あなたのこれからの人生を、堂々と歩いていきなさい」
 文字が涙で霞んだ。絶望の闇に閉ざされていた彼女の心に、一筋の光が走った。
 ″そうだ。すべてに意味があるのだ。私の人生は決して終わりではない。これから始まるのだ。子どもたちもいる。負けるわけにはいかない……″
 深い苦悩の淵から立ち上がった人のみが、苦悩する人に勇気を与えることができる。また、苦しみが人間を深め、輝かせていくのだ。
 斎木は、苦しむ人のため、平和のために役に立ちたいと、一段と強く心に決めた。そして、ロシア語の力を磨き抜き、日本屈指のロシア語通訳となっていったのである。
 伸一は、創立者として生涯にわたって、創大生を見守り、励まし続ける決意を固めていた。
 卒業後、皆がいかなる人生を歩んでいくかに、教育の価値は現れる。それを見続けていくことこそ、自分の責務であると考えていたのだ。
 創大生には海外の大学院に留学し、博士号を取得したメンバーも多い。
 一期生の経済学部からは、矢吹好成、高山一雄、船馬勝久の三人が、アメリカの大学院で博士号を取得し、後年、母校の創価大学で教鞭をとることになる。
 さらに矢吹は、アメリカ創価大学のオレンジ郡キャンバスがオープンすると、初代の学長となるのである。
 このほかにも、創大の教員になった人は少なくない。また、国内はもとより、海外の他大学で、教員として活躍する卒業生もいる。
 皆、創価大学に学んだことを無上の誇りとし、最高の誉れとして、人類の平和を担う、次代のりーダーの育成に、懸命に取り組んでいる。
 創価大学は、最も世界に開かれた大学といってよい。各国の大学の学長や総長はもとより、世界の指導者や学識者の来学も後を絶たない。
 ゴルバチョフ元ソ連大統領、キッシンジャー元米国務長官、ローマクラブのホフライトネル会長、平和学者のガルトゥング博士などもキャンパスを訪問し、賛辞を寄せている。
 創価大学は、年ごとに、学部や学科なども拡充されていった。
 一九七五年(昭和五十年)には、一期生の卒業を受けて、大学院を開設したのをはじめ、翌年には経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科が設けられた。
 この年には、開学以来の念願であった通信教育部が開設され、年齢、居住地等に関係なく、学びの場、生涯学習の場が開かれたのである。
 八五年(同六十年)には、人間主義の哲学を根底にした、社会に有為な女性リーダーの育成をめざして、創価女子短期大学が開学した。
 八八年(同六十三年)には文学部に人文学科、九〇年(平成二年)に日本語日本文学科と外国語学科(中国語・ロシア語)を開設。九一年(同三年)には工学部がスタート。現在、六学部十三学科となっている。
 また、中央図書館をはじめ、記念講堂、本部棟などの施設も、相次ぎ完成していった。
 そして、いよいよ二〇〇四年(同十六年)には司法制度改革に呼応し、新たな法曹養成のための法科大学院が開学の運びとなった。
 一方、アメリカにあっては、一九八七年(昭和六十二年)に創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープンしている。 その後、アメリカ創価大学(SUA)へと発展し、九四年(平成六年)には大学院を開設。
 さらに二〇〇一年(同十三年)には、オレンジ郡キャンバスがオープンし、アメリカ創価大学はリベラルアーツ・カレッジ(教養大学)として、人類の平和を創造する世界市民の育成に船出したのである。
 教育の道は、永遠なる開拓である。
 この世に不幸がある限り、教育開拓のクワを振るう手を、絶対に休めてはならない。
 不幸の克服こそ、教育の真実の目的であり、使命であるからだ。
 人間の一生は、あまりにも短い。その人間が未来のためになせる最も尊い作業は、次代を創造する人を育て、人を残すことである。
 山本伸一は、激動、混迷する世界の未来を見すえながら、国家や民族、イデオロギーの枠を超え、世界市民として人類益のために立ち上がる、新しき平和のリーダーをつくらねばならぬと思ってきた。
 また、民衆一人ひとりの幸福を願い、民衆に奉仕しゆく、人間主義のリーダーを育成しなければならぬと決意してきた。
 それゆえに彼は、学校建設に踏み切ったのだ。
 創大出身者がどうなるか。創価大学がどうなっていくか――それこそが自身の人生の総決算であると、彼は考えていた。
 教育という大樹は、一朝一夕には育たない。長い歳月を必要とする。
 伸一は、彼の″命″ともいうべき創大生に、限りない期待と、全幅の信頼を寄せていた。
 ″私には、創大生がいる。もしも、戦い、倒れようとも、創大生がすべてを受け継ぎ、発展させていってくれる″
 そう思うと、勇気がわいた。力があふれた。どんな試練にも耐えられた。どんな苦しみも、莞爾として乗り越えることができた。
 彼は、創大生の成長を祈り念じ、三十年、五十年、百年先を思い描きながら、走りに走った。
 大学開学以来、既に三十余年が過ぎた。女子短大、通信教育を含め、五万数千の創大生が社会に巣立っていった。
 教育界にも四千人近くが羽ばたき、鳳雛の育成に全魂を傾けている。
 各企業で重責を担う友も多い。
 法曹界や政界で活躍するメンバーもいる。
 また、世界各国で、社会に貢献する創大出身者の凛々しき姿がある。
 伸一が手塩にかけ、命を削る思いで育んだ人材の樹木は、今、しっかと根を張り、青々と葉を茂らせたのだ。
 ″伸びよ、伸びよ、創価の大樹よ! 永遠なれ、わが創価大学よ!
 私は、命の尽きる時まで、創大生のために、断じて道を開き続ける!
 教育の勝利こそ、人間の勝利であるからだ″
  創大生
    生き抜け勝ち抜け
      この一生

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