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日蓮大聖人・池田大作

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第14巻 「大河」 大河

小説「新・人間革命」

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2  大河(2)
 伸一は、十周年の意義に触れ、これからの十年は、「創業の時代」「建設の時代」を終え、「完成期」に入ったとして、社会での一人ひとりの活躍が、最も望まれることを訴えた。
 そこから、彼の話は、広宣流布観へと移った。
 学会は、二年後の一九七二年(昭和四十七年)十月の正本堂の完成をめざし、さまざまな目標を掲げて前進していた。そして、それを達成すれば、その日を境に、時代も、社会も一変してしまうかのような思いをいだいている人も、少なくなかったのである。
 「広宣流布とは決してゴールではありません。何か特別な終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思います。大聖人の仏法は本因妙の仏法であり、常に未来に広がっていく正法であります。
 また、日蓮大聖人が『末法万年尽未来際』と叫ばれたこと自体、広宣流布の流れは、悠久にして、とどまるところがないことを示されたものといえます。広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」
 その話に、参加者は眼が開かれた思いがした。
 広宣流布が「流れそれ自体」ということは、間断なき永遠の闘争を意味する。ゆえに、広布に生きるとは永遠に戦い続けることだ。そこに生命の歓喜と躍動と真実の幸福がある。
 さらに伸一は、「宗教は文化の土台であり、人間性の土壌である」と述べ、広宣流布とは″妙法の大地に展開する大文化運動″であると定義づけたのである。そして、「いっさいの人びとを包容しつつ、民衆の幸福と勝利のための雄大な文化建設をなしゆく使命と実践の団体が創価学会である」と語り、こう呼びかけた。
 「私どもは『社会に信頼され、親しまれる学会』をモットーに、再び、さっそうと忍耐強く進んでいきたいと思いますが、皆さん、いかがでありましょうか!」
 賛同の大拍手がわき起こり、会場の大鉄傘を揺るがした。参加者は、崇高な社会建設の使命を、一段と深く自覚したのである。
3  大河(3)
 伸一は、ここで、あの「言論・出版問題」に言及していった。
 「今度の問題は、学会のことを『正しく理解してほしい』という、極めて単純な動機から発したものであり、個人の熱情からの交渉であったと思います。ゆえに、″言論妨害″というような陰険な意図は全くなかったのでありますが、結果として、これらの言動がすべて″言論妨害″と受け取られ、関係者の方に圧力を感じさせ、世間にも迷惑をおかけしてしまい、まことに申し訳なく、残念でなりません」
 さらに彼は、今回の問題をめぐって、幾つかの新聞や雑誌が、フランスの作家ボルテールが述べたとされる、「私は、君の言うことには反対だ。しかし、君がそれを言う権利を、私は命をかけて守る」との言葉を引用していたことに触れた。
 そして、その考え方のなかに、「言論の自由の根本」があるとして、こう語った。
 「名誉を守るためとはいえ、私どもはこれまで、批判に対して神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。関係者をはじめ、国民の皆さんに、多大なご迷惑をおかけしたことを、率直にお詫び申し上げるものであります」
 伸一は頭を下げた。
 参加者は驚きを隠せなかった。
 ″先生が、なぜ謝らなければならないのだ!″
 ″学会は、法に触れることなど、何もやっていないではないか!″
 複雑な表情で壇上を見上げる人もいれば、悔し涙を流す人もいた。
 ある人は、学会の会長として、すべて自分の責任ととらえ、真摯に謝罪する伸一の姿に、申し訳なさと感動を覚えながら、心に誓った。
 ″私たちは、社会に迷惑をかけるようなことは絶対にしてはならない。それは、学会に迷惑をかけることになるのだ″
 また、ある人は、伸一が、今、発表した「社会に信頼され、親しまれる学会」というモットーを思い返した。
 そして、社会を大切にし、大きな心で人びとを包む寛容さを、会長は身をもって示したのだと思った。
4  大河(4)
 言論の自由の尊さを述べた伸一は、「言論の自由を守り抜くことを、私どもの総意として確認したい」と、力強く呼びかけた。参加者はそれに、雷鳴のような拍手で応えた。
 また、″学会は建設中の正本堂を「国立戒壇」にしようと考え、政界進出を果たした目的も、そこにある″との誤解が、いまだに社会の一部にあることから、伸一は、この問題にも言及していった。
 そして、「本門の戒壇」は「国立戒壇」の必要など全くないこと、政治進出は戒壇建立のための手段では絶対にないこと――を、改めて確認したのである。
 次いで、学会と公明党の関係についても明らかにしていった。
 学会は、公明党の支持団体として、党を支援するが、組織的には双方を明確に分離することを述べたのである。
 これまでも、彼は、なるべく公明党と学会を切り離して考えてきた。公明党の結党大会に出席しなかったのも、そのためであった。今後も、学会と党とは一線を画し、社会的にも、分離のかたちが明らかになるように、次の五点にわたる原則を発表したのである。
 ①創価学会と公明党の関係は、あくまでも制度のうえで明確に分離していくとの原則を、さらに貫いていきたい。②議員で学会の役職を兼任している場合、党の仕事に専念してもらうため、学会の役職を外す方向で進めたい。③創価学会は公明党の支持団体としていく。学会員の政党支持は従来通り自由である。④選挙に際しても、学会は支持団体として、当然、応援はするが、党組織を確立し、あくまで党組織の活動として行うようにしてほしい。⑤党員についても、学会の内外を問わず、幅広く募って、確固たる基礎をつくってほしい。
 伸一は、この五点を発表すると、参加者に語りかけた。
 「以上のように創価学会と公明党を分離していくことを提案いたしますが、賛成の方は、挙手願います」
 皆の手があがった。
 参加者の賛同をもって、新しい方向性が明確に定まったのである。
5  大河(5)
 伸一は、公明党と創価学会の関係を述べたあと、こう付け加えた。
 「また、当然のことながら、党の問題は、人事についても、政策についても、党の自主的決定によることは変わりありません。
 さらに私自身、生涯、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出るようなことは決してしないと、重ねて、明確に申し上げておきたいのであります」
 このころ、「やがて山本会長は、自らも政界に出て、首相になり、権力を手にするつもりである」といった噂が流されていた。それを実現するために、創価学会が公明党を誕生させたかのような印象をいだかせるための、デマといってよい。もとより伸一には、そんな考えは毛頭なかったし、それは、これまでにも、折に触れて、語ってきたことであった。
 しかし、謀略的な噂を打ち破るために、再度、その考えを明らかにしたのである。
 また、彼は、立正安国の原理についても、再確認しておきたかった。それは、公明党と創価学会の関係を考えるうえで、最も根本的な問題であったからである。
 「日蓮大聖人の仰せは″安国″を実現するためには、根底に″立正″がなくてはならないということであります。
 ″立正″とは正法を立てることであり、生命の尊厳を説く仏法の生命哲学をもってする、未曾有の宗教革命のことです。この宗教革命によってこそ、各人の人間革命が可能になる。これは、個人の内面を対象としており、信仰の次元の問題です。
 ″安国″とは社会の繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和であります。″立正″が宗教の次元であるのに対して、″安国″は社会の次元であります。
 そして、″安国″の直接的に拠って立つ理念とは、『生命の尊厳』であり、『人間性の尊重』『平和主義』の原理であるといえます。これらは人間の生存の本質から発するものであり、宗教、人種、民族、イデオロギーを超えて、人類が渇望する普遍の理念であります。その実現をめざすものが″人間主義″であり、ここが、すべての出発点であります」
6  大河(6)
 伸一は、宗教もまた「生命の尊厳」「人間性の尊重」「平和主義」の理念を究明していくものであり、日蓮大聖人の仏法は、この理念に確固たる実体を与え、その仏法を信ずることが、私たちの信仰であると述べ、こう訴えた。
 「これらの生命の尊厳等の理念こそ、″立正″と″安国″の接点であります。ゆえに、立正安国とは政治などの社会的な活動の次元に、直接、信仰や宗教それ自体を持ち込むことでは、決してありません。
 信仰によって陶冶された人格に、生命の尊厳等の理念が反映され、社会的な活動として結実していくことが、立正安国の実現へと向かう姿であります。そこが、政教一致との根本的な違いといえます。したがって、社会的活動の次元に、直接、宗教を持ち込むことは、むしろ、立正安国の原理からの逸脱といっても過言ではない」
 さらに、生命の尊厳等の普遍的理念を、いかにして具体化するかという″技術″が政治の課題であり、公明党誕生の意味もそこにあることを語り、党と立正安国の関係を述べた。
 「公明党は″安国″の次元に立つものであります。議員等が個人として″立正″の問題を考え、信仰に励むことは信教の自由でありますが、党として″立正″をテーマにし、宗教上の目的を党の目標とする必要はないし、すべきでもない」
 したがって、党は、あくまでも、現行憲法の定める信教の自由を遵守していくべきであるとの、考えを伸一は語った。
 「ただし、生命の尊厳を根本に、人間性の尊重、恒久平和の実現という理念、理想だけは、どこまでも堅持していく政党であってほしい。その限りにおいて、同じ志に立つ優れた人物を、公明党として推薦することにも、われわれはなんら異議はないし、選挙にあっても喜んで応援するものであります」
 このあと、彼は、今後の学会の在り方について語っていった。
 まず、あくまでも入会は厳格にし、入会に際しては、座談会への参加を条件とすることなどを発表した。
7  大河(7)
 次に伸一が言及したのは、学会の組織形態についてであった。
 「これまで学会は、紹介者と新入会者というつながり、つまり、『タテ線』を基調に組織がつくられてきました。しかし、広宣流布の基盤が盤石に整ったことから、地域社会と密接なつながりをもち、社会に大きく貢献していく意味からも、地域を基盤としたブロック、すなわち『ヨコ線』へと、移行していきたいと思います。
 この点は、皆さん、いかがでしょうか!」
 大拍手が轟いた。
 学会は、既に昨年来、長期間にわたってブロック活動が実施され、やがてブロックに移行するという話を、参加者は耳にしていた。その実施の発表が、遂になされたのである。いよいよ広宣流布の新しい時代が到来したことを実感するのであった。
 だが、これまでの「タテ線」のような深い人間関係が、ブロックでつくれるのかという不安をいだく人もいた。折伏をした人と、された人という、「タテ線」のつながりは、極めて深いものがあった。
 折伏は、紹介者が、相手の気心や悩み、家庭の状況などをよく理解したうえで、胸襟を開いた真心の対話がなくては成り立たない。だから、「タテ線」の人間関係は深く、強い団結も生まれたのである。
 それに比べて、ブロックでの人との結びつきは、まだ「タテ線」ほど強くはなかった。特に人口の流動が激しい都市部のブロック組織になると、親しくなったころには転居してしまうというケースも見られた。この人間関係を深めることの難しさが、ブロック組織の最大の問題とされてきたのである。
 しかし、伸一は、だからこそ、ブロック組織に移行し、学会員が中心になって、地域社会に、人間と人間の、強い連帯のネットワークをつくり上げなければならないと考えていた。
 それが、現代の社会が抱える、人間の孤立化という問題を乗り越え、社会が人間の温もりを取り戻す要諦であるというのが、伸一の確信であったのである。彼は、ブロック組織への移行に、学会と社会の未来をかけていたのだ。
8  大河(8)
 伸一の熱のこもった講演が続いていたが、まだ、体調は、万全とは言いかねた。途中、咳き込みかけたこともあったが、彼は、水を飲んでは力強く話を続けた。
 「今後も学会は、さらに最高に民主的な運営を心がけ、一人ひとりの意見を最大限に汲み上げ、衆知を集めて推進していくべきであります。教義の問題は、大聖人が定めた絶対的なものであり、その教えに従うことは当然ですが、活動の進め方などは、自由な発想で、どしどし意見を出すことが大事です。
 しかし、検討の末に、″これでいく″と決まったならば、皆が心を一つにして物事を遂行していくのが、本来の民主主義であり、仏法の異体同心の姿であります。
 また、それには、一人ひとりに、自分こそが学会の命運を担い、広宣流布を推進する主体者であるとの、強い自覚が何よりも必要であります。″会長や幹部がなんとかやってくれるだろう″といった、人を頼む心や、傍観者の気持ちが、もしも微塵でもあれば、本当の模範的な民主主義は成り立ちません。
 僭越な言い方ではありますが、私は、この十年間、いな、戸田先生の時代から、一瞬たりとも、学会のことを忘れた時はありません。また、私は、神経をすり減らし、命をなげうつ思いで、広宣流布のために戦ってきたつもりであります。今度は、皆さん方全員が、私と同じ自覚で、力を合わせて、学会を支えていっていただきたいのであります。
 今、学会は新しい段階に入りましたが、最も大切なことは、一人ひとりが、そうした″目覚めた意識″と″新しき自覚″に立ち、団結していくことです。それこそが、未来の大発展の根本であると、申し上げておきたいのであります」
 また、伸一は、新段階を迎えた今、学会本部の機構等も近代的なシステムに改革するなど、宗教界の先駆となる、最も民主的な学会をめざしていきたいと語った。
 参加者は、創価の新時代の到来を感じながら、希望に胸を高鳴らせていた。
9  大河(9)
 ここで伸一は、一九七〇年代、さらには、二十一世紀の展望を述べていった。
 彼は、七〇年代は、既に六〇年代で出尽くした現代文明がはらむ問題点の解決に向かって、その具体的な第一歩を踏み出す時代となるとの予想を語った。
 そして、科学文明が、人間の部品化や主体性の喪失、精神の空洞化といった弊害をもたらしてきた事実を指摘し、今後はコンピューターによる人権の侵害等も考えられることから、規制措置が必要であると訴えた。
 また、管理の度を強める国家権力にも言及。民衆は国家に隷属してきた状態から脱し、生命の尊厳を至上とする新しい舞台に躍り出る時を迎えたとして、″国家の論理″から″人間の論理″へ、と呼びかけた。
 次いで、二十一世紀は人間が科学技術の奴隷となるのではなく、科学技術を使いこなしていく「人間の世紀」としなければならないと強調。そのために、人間の精神を高めゆく、優れた宗教が不可欠であることを語った。
 「『科学の世紀』は即『宗教の世紀』でなくてはならない。そうでなければ、人間全体、生命全体の正常な姿はありえない。そこに、新しい未曾有の大宗教運動の必要性を痛感するものであります。
 二十一世紀までは、あと三十年――この一九七〇年という年を、この壮大な宗教運動の新しい夜明けとしていきたいと思いますが、いかがでしょうか!」
 怒濤を思わせる大拍手が、会場を揺るがした。
 仏法には、時代、社会のかかえる、すべての問題を乗り越える哲理と智慧が説かれている。その光をもって社会を照らしていくことこそ、仏法者の使命である。
 さらに、伸一は訴えた。
 「創価学会は、人間生命の開拓による英知の文化、創造の文化、すなわち、創価文化ともいうべき新しい文化の母体として、社会に貢献してまいろうではありませんか!」
 第二の十年の展望と方向性が、ここに明確に示されたのである。
 講演は、実に一時間二十七分にわたった。
 彼の叫びに呼応するかのように、皆、心を躍らせ、新時代の大空へ、大鷲のごとく勇壮に飛翔したのである。
10  大河(10)
 山本伸一の会長就任十周年となる第三十三回本部総会をもって、学会は「大河の時代」の幕を開き、文化の旗を高く掲げて、広宣流布という希望の大海原をめざして、新しき前進を開始したのだ。
 この新段階を迎えるにあたって、伸一が最も憂慮していたのは、皆の、なかんずく幹部の一念の改革が、十分になされていくかどうかであった。どんなに組織や機構が新しくなっても、人の心が一新されなければ、本当に事態を変えていくことはできないからだ。
 その一念の改革とは、結論すれば、彼が本部総会で訴えたように、一人ひとりが「自分こそが学会の命運を担い、広宣流布を推進する主体者である」との、自覚に立つことだ。つまり、″私自身が創価学会なのだ″と決めて、会長の伸一と、同じ決意、同じ責任感に立つことである。
 皆が本当に主体者の自覚をもてるかどうかに、団結の要諦もあれば、すべての活動の成否も、勝敗の決め手もあるのだ。
 主体者の意識がなく、受け身になってしまえば、人は、全体観に立つことはできない。すると、自分が皆のために何をするかではなく、何をしてもらうかだけを考えるようになり、結局は、私利私欲に陥ってしまう。その心に映るのは、現状への不平や不満である。そして、口をついて出るのも、愚痴や文句になってしまう。果ては、中心者や周囲の人たちを批判し、尊い学会の組織を攪乱することにもなりかねない。恐るべきは、一念の置きどころといってよい。
 学会が最も優れた民主的な運営をめざすうえで、大事な要件となるのは、全員が広宣流布の″主体者″″主役″として立つことである。
 また、伸一は、議員が学会の役職を外れたあとも、一学会員として、一人の信仰者として、生き生きと信心に励み抜くことを期待していた。
 個人の信仰活動は自由であり、それは、人間としての権利である。
 学会の役職を外れたからといって、地道に信心に励むことを怠ってしまえば、自身の人間革命、一生成仏への道が閉ざされてしまうことになる。
11  大河(11)
 本部総会終了後、控室にいた山本伸一のところに、何人かの公明党の議員がやって来た。党の幹部たちである。多くは浮かぬ顔をしていた。党と学会が人事面などで分離されたことから、寂しさを隠しきれないのである。
 一人の議員が、皆を代表して言った。
 「学会と党は、完全に組織的な分離がなされることになりましたが、今後、信心という面で、私たち議員は、どのように考えていけばよいでしょうか」
 伸一は、皆に鋭い視線を向けた。
 「皆さんは、学会の役職を外れ、党務に専念することになりますが、民衆の幸福、世界の平和を願う心は一緒です。″民衆を幸せにしよう。民衆のために働こう″という心が、学会精神です。この一点だけは、永遠に一緒でなければならない。
 また、仏法から発した人間主義という理念を、政治の場で実践していく使命を担っているのが皆さんです。それだけに、その根本となる信心を磨き抜き、深めていくことが極めて重要になる。常に学会の組織のなかにいれば、同志もたくさんおり、互いに切磋琢磨し合うことができる。信心の弱さを指摘し、励ましてくれる先輩もたくさんいます。しかし、これからは、そうした機会はほとんどない。
 それは、自由なように見えますが、信心を全うしていくうえでは、大変な環境といえます。ゆえに、自分との戦いを忘れてはならない。
 一信仰者として、どこまで、求道心を燃やして法を求め抜くか。自身の仏道修行として何をやるのか――これが最も大事になります。
 他人の目はごまかすことはできても、自分をごまかすことはできない。また、生命の因果の理法は厳然です。誰人たりとも、そこから免れることはできない。どうか、議員の皆さんは、自分に負けることなく、信仰者として、どこまでも、清らかな信心を貫き通していってください。それが、自身の崩れざる幸福を築く、唯一の道です」
 議員たちは、決意を秘めた目で、伸一を見ながら、深く頷いた。
12  大河(12)
 学会員にとって、何よりも大きな変化は、「タテ線」組織から、「ヨコ線」のブロック組織に移行したことであった。
 既に、前年も、かなり長期のブロック活動期間がもたれ、さらに、この年の三月にも、長期のブロック活動が打ち出されていた。それだけに、移行は円滑に進められた。
 これまでの「タテ線」では、最前線組織として組があり、組―班―地区―支部―総支部―本部―総合本部となっていた。「ヨコ線」の組織では、ブロック―大ブロック―総ブロック―総合ブロック―ブロック本部―ブロック総合本部となった。「タテ線」の地区、支部に相当するのが大ブロック、総ブロックである。
 また、「タテ線」では、男女青年部の組織名称は、壮年、婦人と異なる独自の名称を用いてきた。たとえば男子部では、長い間、分隊―班―隊―部隊といった組織の名称が使われ、この年の一月に、隊をグループに、部隊を部にするなど、新しい時代に即した改称が行われていた。だが、ブロック組織では、男子部も、女子部も、壮年、婦人と同じ、大ブロック、総ブロックなどの名称を使用することになった。
 かつての青年部の組織に、隊や部隊など、いかにも戦闘的な名称が使われていたことから、学会は「軍隊的な組織である」「ファッショだ」などといった、本質から目をそらした、的外れな批判を浴びせられたこともあった。しかし、この名称には、全民衆の幸福を実現する″平和の戦士″たれとの戸田城聖の期待と、その使命を勇んで果たしゆこうとする草創期の男女青年部の、心意気が託されていたのである。
 青年たちは、ブロックへの移行にあたって、意気軒昂に語り合った。
 「組織や役職の名称は変わっても、絶対に革命精神を忘れてはならないと思う。今は新時代の草創期だ。ぼくたちこそ開拓者なんだ!」
 「そうだ。新しい歴史を開くには、これまで以上に、果敢に行動することだ。転換期である今が勝負だ」
 創価の若獅子たちは、″新時代の開拓者″の誇りを胸に、さっそうと活動を開始したのである。
13  大河(13)
 ブロック組織は、活動の舞台が居住地域であることから、大いに時間を節約することができた。「タテ線」の時には、地区の会合に行くのに、一時間、二時間とかけて通ったという人も少なくなかった。しかし、大ブロックの会合だと、都内では、五分、十分で行ける人がほとんどであったし、交通費もほとんどかからなかった。
 大きな団地だと、そのなかに、総ブロックや大ブロックがあり、「雨の日でも傘を差さずに、会合の会場の家に行ける」と喜ぶ人もいた。皆、以前に比べると、家族が一緒にいる時間も増え、地域に貢献するための時間なども、確保しやすくなった。
 山本伸一は、ブロック組織への移行に際して痛感していたことは、学会員が核になって、日本の社会のなかに、地域的な人間の連帯をつくり上げなければならないということであった。特に、新しい住民が増加の一途をたどる大都市やその周辺では、地域的な連帯意識は至って乏しかった。人間がひしめき合う大都会にありながら、孤独に苛まれる単身生活者も多かった。同じアパートに暮らしていても、隣に誰が住んでいるのかもわからないという人もいた。また、顔を合わせても、あいさつさえしないことも珍しくなかった。
 単身者や核家族の多い都会にあっては、地域が強い連帯の絆で結ばれ、互いに助け合わなければ、人びとの暮らしは、さまざまな面で破綻をきたしかねない。独り暮らしのお年寄りが亡くなっても、何日間も、誰も気づかずにいたという話もあった。近隣の人と、日々の交流があれば、そんなことにはならなかったにちがいない。
 子どもを家に残して、働きに出ている夫婦にとっては、隣人が子どものことを少し気遣ってくれるだけでも、大きな安心となる。
 自分の住む地域が、人間と人間の交流もなく、殺伐としているなら、それは、精神の砂漠に等しい。そこに、真の幸福の花が咲くことはない。地域に、生き生きと、人と人の心が通い合ってこそ、幸福と繁栄の沃野がつくられていくのだ。
14  大河(14)
 国といい、社会といっても、それを支えているのは地域である。戦時中、軍国主義の日本を支えたのは、全国各地につくられた「隣組」であった。
 十戸ほどを単位としたこの組織は、互助的な役割を果たすとともに、生活必需品の配給などを通して、国家による管理、統制の、強力な末端組織となってきた。この「隣組」が、国を挙げての戦争を可能にしたといっても過言ではない。なかでも、″銃後の守り″の責任を自覚した婦人たちの働きは、目覚ましいものがあった。軍部政府は、母たちの労苦をいとわぬ健気な心と力を、戦争のために利用したのだ。
 戦後は、個人主義の風潮のなかで、人びとは地域での互いの干渉を嫌って、隣近所の付き合いにも、次第に距離を置くようになった。さらに、都市開発や新興住宅地の建設にともなう人口の流動で、地域での人間関係はますます希薄になり、連帯も断たれていった。その結果が、人間の分断であり、孤立化、孤独化であった。
 山本伸一は、近年の世相を見るにつけ、こう痛感してきた。
 ″地域に、互いに守り励まし合い、平和と幸福を創造するための民衆の連帯をつくり上げなくてはならない。そして、今度は、婦人が、平和建設のリーダーとして、大きな力を発揮していくのだ。それが「女性の新世紀」の開幕となるはずだ″
 伸一が、ブロック組織への移行を強く推進してきた最大の理由も、そこにあったといってよい。
 このブロック組織での新しい活動を進める機軸となるのが、大ブロック座談会であった。ブロックへの移行が発表された本部総会から五日後の五月八日には、早くも、大ブロック座談会が開かれた。
 どの座談会にも、新生・創価学会の主体者として、「社会に信頼され、親しまれる学会」を築こうとの息吹がみなぎっていた。皆、座談会をわが地域の人間共和の縮図にしようと、決意も新たに、大前進を開始したのだ。″地域広布″へ、創価の大河は、滔々と流れ始めたのである。
15  大河(15)
 「新生」とは、萌えいずる若芽の時代である。
 風雪を越えた創価学会の未来には、希望の青空が広がっていた。
 その限りない未来に向かい、山本伸一は敢然と新しき歩みを開始した。彼は、三十年先を、二十一世紀を見すえていた。
 五月三日の本部総会から二週間ほどしたころ、伸一は、マスコミ各社の要請に応じて、創価学会と公明党の今後の関係などについての、記者会見を行った。質問のなかには、学会を揶揄するような、意地の悪い質問もあった。
 その席で、伸一は、記者たちに宣言した。
 「学会がどうなるか、二十一世紀を見てください。社会に大きく貢献する人材が必ず陸続と育つでしょう。その時が、私の勝負です!」
 彼は、決意していた。
 ″二十一世紀を「平和の世紀」とし、「生命の世紀」としていくために、自分の手で、本物の人材を育てよう。本当の弟子をつくろう。広宣流布が仏意仏勅である限り、自分の期待を生命で受け止め、後継の使命を自覚し、二十一世紀のために立ち上がってくれる真の弟子が、絶対に現れるにちがいない″
 それが、伸一の確信であった。だが、何もしなければ、人間は育たない。人を育成するには、魂の触発をもって、使命の種子を芽吹かせることだ。そして、二十年、三十年と、忍耐強く、精魂を注ぎ続ける以外にない。
 伸一は、これまで、未来への人材の流れをつくるために、高等部をはじめ、中等部、少年部を結成し、未来への布石としてきた。
 そして、高等部には、核となる人材グループをつくり、直接、伸一自身が御書の講義を中心に、育成、訓練にあたった。「鳳雛会」である。
 この「鳳雛会」は、各方面に結成され、期を重ね、多彩な人材を輩出してきた。そして、高等部卒業後も、その世代の中核となって育っていた。
 今、二十一世紀を展望する時、さらに若い世代の中核となる人材を育成しておかなければならないと、彼は考えた。そして、高等部、中等部、少年・少女部の各部長と相談し、各部から人選された代表メンバーの、研修会を行うことにしたのである。
16  大河(16)
 一九七〇年(昭和四十五年)の六月二十七日のことであった。山本伸一は、箱根にある研修所(現在は研修道場)で、高等部、中等部、少年・少女部の代表の到着を待っていた。
 彼の体は、まだ、決して本調子ではなかった。五月も、六月も、会合等への出席は本部幹部会などに絞り、なるべく控えるようにしてきた。しかし、何をさておいても、未来への布石のために、高・中・少の各部代表とは、会わなければならないと思った。いや、この未来からの使者たちと会うことを、最高最大の楽しみにしていたのである。
 夕刻、首都圏のメンバー六十人が、研修のために、バスで到着した。
 すぐに食堂で、伸一を囲み、夕食が始まった。メニューはカレーライスである。
 年長でも、十七歳の高校二年生であり、最年少は十歳の小学校四年生であった。
 「待っていたんだよ。さあ、食べよう」
 伸一が言うと、皆、元気に食べ始めた。
 食事をしながら、話をしようと思ったが、子どもたちは皆、食べるのに夢中であった。
 料理は、瞬く間に平らげられた。
 その光景を、伸一は、妻の峯子とともに、目を細めながら見ていた。
 食事が終わると、皆で和室の集会室に移った。
 まず伸一は、この箱根の研修所が、学会の歴史のなかで、どんな意味をもっているかについて語っていった。
 ――一九五七年(昭和三十二年)七月、山本伸一が選挙違反という無実の罪を着せられ、逮捕されるという弾圧事件が起こった。「大阪事件」である。そこには、社会の改革に立ち上がった、創価学会という民衆勢力の台頭を阻もうとする、国家権力の意図が働いていた。以来、伸一は、約四年半にわたって裁判闘争を続け、六二年(同三十七年)一月、無罪判決を勝ち取るのである。
 伸一は言った。
 「巧妙に仕組まれた事件であり、弁護士も勝てないという裁判でした。しかし、断じて勝って、学会の正義を証明しようと、青年たちが集まり、打ち合わせを行った場所が、ここなんです」
17  大河(17)
 参加者のなかには、小学生もいたが、伸一は、広布後継の指導者になる使命をもった人ゆえに、学会の真実の歴史を教えておきたかった。
 そして、民衆を隷属させようとする魔性の権力との、熾烈な闘争が広宣流布であることを、若い魂に伝えておきたかったのである。
 小学生たちも、真剣な顔で頷きながら、伸一の話に耳を澄ませていた。
 ここで、伸一は話題を変えた。箱根や仙石原、芦ノ湖などの、地名の由来を、わかりやすく説明していった。皆、興味深そうに、目を輝かせて聞いていた。
 彼の話は、子どもたちを飽きさせなかった。″なぜだろう″という探究心をかき立てる話し方であった。伸一は、地名の由来から、何事も旺盛な好奇心をもち、勉強していくことの大切さを訴えた。
 「民衆を守り、幸福にするために、みんな、しっかり勉強してほしい。私は、このなかから、大文学者や大科学者、大記者、また、偉大な政治家も、どんどん出てもらいたいんだ。全員が、何かの道で、最高のものをめざしてください。羊千匹より、獅子一匹だ!
 それには努力です。天才とは何か。人より十倍、百倍、努力した人のことです。
 また、人生の勝負は何歳か。いろいろな考え方ができるが、一つの目標として、私は五十歳だと思っています。その時に、人間の真価が決まるといってよい。
 人生というのは、″絶対にこうしよう″″こうなっていこう″と心を定め、真剣に頑張り抜いていけば、必ず、自分が納得できる結果が得られるものです。大切なのは、毎日毎日の精進です。どんなに辛く苦しくとも、負けないで、懸命に努力を重ねることです。それが人生の根っこをつくることになる。
 根が深くなければ、大木には育たない。二十代、三十代で、有名になったとしても、人生の本当の価値とはならないことが多い。むしろ、それによって人生の真実の価値がわからなくなり、幻惑されてしまうこともある」
 人生をいかに生きるかという話である。学校では、ほとんど語られないテーマといってよい。だが、本来、最も大事な話である。
18  大河(18)
 伸一は、子どもたち一人ひとりに視線を注ぎながら言った。
 「私は、みんなが五十歳になった時に、どんな人生を歩んでいるか、じっと見ていきたい。
 みんな、頑張れるね」
 「はい!」
 元気な声が跳ね返ってきた。
 だが、彼は、あえて厳しい口調で言った。
 「返事は簡単です。実際にそうなるかどうかが問題だ。それには、自分に厳しく挑戦し抜いていくことです。人は、みんな自分の弱さに敗れていく。自分に勝つ人が、本当の勇者なんです」
 その言葉は、若い魂を激しく打った。皆の胸に、熱い決意がほとばしった。
 それから伸一は、何か聞きたいことがあれば、質問するように言った。
 男子中学生が尋ねた。
 「頭がよいということは、どういうことでしょうか」
 伸一は、ニッコリと頷いた。
 「いい質問だね。かつて戸田先生が、紙に筆で一本の線を引き、そのすぐ上と下を指さしながら、こうおっしゃったことがある。
 ――『頭がいいとか、悪いとか言ったって、所詮、この程度の差だ。違いなんてほとんどない』
 人には誰でも、得意、不得意はあるし、実は皆、なんらかの天才になる力をもっているものなんだ。だから、総合的に見れば、人間の能力なんて、そんなに変わるものではない。
 今日、金魚を買いに行ったが、その金魚屋さんは、金魚をすくうのが実にうまかった。私は″すごいなー″と思った。
 これから花火をやりますが、一流の花火師もいる。花を育てるのが上手な人もいる。人を思いやる能力もあれば、人を笑わせる能力もある。絵や文の才能がある人もいれば、野球がうまい人もいる。また、頭がよいといっても、記憶力や理解力だけが能力ではない。探究する能力や独創性に優れた人もいる。
 学校の成績は、もちろん、よい方がいいに決まっています。しかし、それだけで人間の能力を推し量ることなんかできません。だから、これまで成績が悪かった人がいたとしても、『自分は頭が悪い』なんて思うのは間違いです」
19  大河(19)
 伸一の話に、皆の目が一段と輝いた。
 「ある人が『頭がいい人というのは常に疑問をもっている人である』と語っていたが、私もそうだと思う。一つ一つの事柄を、ただ鵜呑みにするのではなく、『どうしてそうなるのだろう』『本当にそうなのだろうか』『もっとほかに方法はないのか』と考える人です。それは、偉大な発見や発明をした人にも、共通しています。
 考えても、すぐにはわからないことも多いでしょう。
 その場合には、学校の先生に質問することも大事です。本を読んで考えてみることもいいでしょう。その探究心が大切なんです。
 人には、皆、個性がある。全く同じ顔の人がいないように、もっている能力もさまざまです。だから、互いに尊敬し合いながら、獅子の子らしく、自分の決めた道で、一流をめざしていってもらいたい」
 ″獅子″とは、何も特別な存在になることではない。自身の使命に生き、個性を最大に伸ばしていくことである。
 「この世に生まれてきたということは、尊い使命をもっているということなんです。使命のない人はいません。未来に羽ばたく使命を自覚し、努力を重ねていった時に、才能の芽は急速に伸びます。
 君たちには、二十一世紀の広宣流布を担う尊い使命がある。その使命を本当に自覚するならば、能力が開発されないわけがない。最高の力が発揮できます。しかも、無限の智慧を湧現していくことができる、御本尊を持っているではありませんか!」
 皆、自信を得たのか、明るい顔になった。
 今度は、女子の中学生が質問した。
 「私は将来、世界平和に貢献できるようになりたいと思っていますが、そのために今、何をすればよいでしょうか」
 伸一は、健気な気持ちが嬉しかった。微笑を浮かべながら語り始めた。
 「まず、世界の平和を生涯のわが使命と決め、信心を貫いていくことです。人類の平和実現の根本的な道は、生命の尊厳を説き明かした仏法にしかないからです。だから今は、しっかり信心に励み、教学も学んで、仏法への確信を深めていくことが必要です」
20  大河(20)
 山本伸一は、女子中学生の質問に、全力で答えていった。
 「また、理想を実現していくためには、健康であることが大事です。したがって、体を鍛え、頑健にしておくことです。
 私は、体が弱かったから、健康の大切さが、人一倍よくわかる。
 そして、勉強です。実際に平和貢献する場合、なんらかの専門的な知識や技能が求められる。今は、その基礎となる勉強を、しっかりしておかなければならない。特に、語学は欠かせません。平和は対話から始まるからです。語学ができなければ、世界の人たちと、コミュニケーションが図れない。
 あとは、人格を磨いていくことです。お母さんや友だちと喧嘩したりしないで、誰からも信頼される人になっていってください。
 口で平和を唱えても、周りの人と喧嘩ばかりしているようでは、まやかしの平和主義者です。平和といっても、身近なことから始まります。まず、自分自身のなかにある、人に対する偏見や差別、また、わがままな心と戦い、勝たねばならない。同時に、慈悲、つまり人びとの幸福を願い、行動する強い心を培い、自らの人間性を高めていくことです。
 戦争を起こすのは人間です。だから、その人間の生命を変え、人間の心のなかに平和の砦を築かなければならない。それが人間革命であり、その源泉が題目です。
 この人間革命の思想と実践の道を世界に伝えていくことこそ、人類の平和を建設する根本なんです。わかるかな」
 皆が頷いた。どの目も、澄んで美しかった。
 伸一は、参加者のなかに、父親のいない人がいることを聞いていた。
 彼は、そのメンバーのために、一言しておきたいと思った。最も悲しい思いをしてきた人を励ますのが、″学会の心″である。
 「ところで、皆それぞれ、家庭環境は違っています。お父さんやお母さんがいないという人もいるでしょう。両親がそろっている人は幸せです。しかし、仏法の眼から見れば、親がいない場合は、もっと幸せとも言える。
 では、なぜ、そう言えるのか――」
21  大河(21)
 山本伸一の声が、力強く響いた。
 「お父さんやお母さんがいなければ、経済的にも精神的にも、大変なことが多いと思う。しかし、苦労があるということは、自分を磨き鍛えることができる。
 また、人の苦しみもよくわかる人になれるし、大変な状況にある人を、自分の体験を通して励ましていくことができる。
 つまり、苦労があるということは、自分を強くし、民衆のリーダーとして育つ大事な条件を手にしたことになる。だから結果的に見れば、それは幸せなことであるといえるんです。
 また、お父さんやお母さんが信心をしていない人もいるかもしれない。それもまた、深い意味があることなんです。
 私の場合は、最初、両親も、家族も、誰も信心をしていなかった。だから、一家の幸福と繁栄のために、私が頑張らなければならないと思った。それによって、甘えを排して信心に取り組むことができたんです。逆境は成長のための道場であり、幸福を創造するための舞台であることを知ってください」
 皆、一斉に頷いた。
 伸一の傍らにいた、背の高い女子高校生が、目を潤ませながら、何度も頷いていた。
 彼女は、小森京子という高校二年生で、三年前に、脳溢血で父親を亡くしていた。その時、中学二年であった彼女と、小学校五年だった妹を、母親は、女手一つで育ててきた。
 小森の一家は、彼女が二歳の時に学会に入会していた。
 京子は生まれて間もなく、血管腫という病にかかった。血管のなかの細胞が増殖し、皮膚が赤く隆起する病気である。放射線治療を受けて、膨らみはなくなったが、頬に赤いアザが残った。そんな時、近所の学会員から仏法の話を聞いた母親が、信心を始めた。
 しばらくすると、京子のアザは、きれいに消えていた。それを見て、父親も入会した。
 一家は、父の事業の失敗から、何年にもわたって経済苦に悩んできた。信心によって、その苦難の坂も乗り越えることができた。しかし、それからほどなく、父親が他界してしまったのだ。
22  大河(22)
 小森京子の母親は、二人の子どもを育てるために、″緑のおばさん″の愛称で呼ばれる学童擁護員となった。児童らの通学時の安全を確保する仕事である。炎天下で、また、雨の日も、雪の日も、路上に立ち、懸命に働く母の姿を目にして、彼女は高校を卒業したら、すぐに自分も働きたかった。一日も早く、母親に楽をさせたかったからだ。
 ある日、彼女は、中等部員会で、苦学しながら大学を卒業した担当幹部の話を聞き、感動した。
 ″働きながらでも大学に行けるんだ。それなら私も行きたい″
 高校に入ると、瀬戸物店などでアルバイトをしながら、一心に、勉強に励んだ。母親には、なるべく負担はかけたくなかった。″私が頑張らなければ″と、彼女は自らに言い聞かせてきたのだ。
 そんな彼女に、この日の山本伸一の指導は、大きな勇気を与えた。
 ″苦労というのは、大成していくための栄養なのか。私も、何があっても、負けないで、人びとの幸福のために尽くせる人になろう!″
 小森は、大きな目を涙に潤ませながら誓った。
 以来、大学進学への決意は固いものとなった。家計のことを考えると、学費の安い国立大学に進むしかなかった。猛勉強を開始した。
 一九七一年(昭和四十六年)に創価大学が開学した。彼女は、″自分も、山本先生が創立した創価大学に行きたい″と思った。創価大学の学費は、ほかの私立大学と比べれば、かなり安かったが、国立大学よりは高い。日々、真剣に祈った。
 受験が間近に迫った、高校三年の十二月のことである。彼女は、意を決して、自分の思いを母に打ち明けた。
 「わかったわ。創価大学を受けなさい。私も、お前を、山本先生がつくられた創価大学に進ませたくて、お金を貯めてきたのよ」
 母親の慈愛に、彼女は泣いた。そして、念願の創価大学に進学した。
 やがて、小森は、女子中等部長となり、未来部員の育成にあたり、伸一とともに、平和建設の後継者を育てていくことになるのである。
23  大河(23)
 山本伸一の指導が終わった。彼は、小さな子どもたちのことを考え、途中、福引をしたり、メンバーの書いた「書」などを見たりした。だが、全体的には、生命と生命がぶつかり合うような、峻厳な指導会であった。
 伸一は、小学生であっても、一個の対等な人格と見ていた。たとえ小さくとも、こちらが真剣に語ったことは、しっかり受け止められるはずであると確信していた。だから、子ども扱いは、したくなかったのである。
 人間の心を信じ切ることこそ、人を育てる要諦といえよう。
 メンバーのなかに、一番小柄で、剽軽な、中尾文哉という小学五年生がいた。彼は、この年の五月三日の本部総会に、少年部の代表として参加していた。そこで、会長の伸一が、言論・出版問題の責任をとって、謝罪する光景を目にした。
 言論・出版問題は、テレビやラジオでも盛んに取り上げられ、学校でも話題になった。中尾の一家が学会員であることを知っている同級生たちは、彼の前で学会の悪口を言った。
 彼は思った。
 ″苦しみ悩んでいる人びとのために、誰よりも真剣に戦っておられるのが山本先生ではないか!″
 それなのに本部総会で謝罪する山本会長を見ると、たまらなく悔しかった。
 ″絶対におかしい。ぼくは、学会の正義を社会に訴えたい!″
 中尾は、子ども心に、そう決めた。でも、そのために何をすればよいのかが、わからなかった。しかし、「全員が、何かの道で、最高のものをめざしてください。羊千匹より、獅子一匹だ!」との伸一の言葉に、目が覚めた思いがした。また、全生命を注ぐかのような、伸一の懸命な指導に触れ、体中に電撃が走る思いがした。
 ″力をつけよう。勉強だ。勉強だ!″
 この日の伸一との出会いは、中尾の生涯の原点となった。
 彼は、少年部の担当幹部に支えられながら、一生懸命に勉強に励み、創価中学に入学した。そして、創価高校を経て京都大学に学ぶ。
 やがて彼は、学会本部の職員となって、広宣流布の言論の闘士に育っていくのである。
24  大河(24)
 話を終えた山本伸一は、笑顔で言った。
 「これで難しい話は終わりだよ。さあ、外に出て一緒に花火をやろう。楽しく遊ぼうよ。自由でいいからね」
 伸一は、立ち上がろうとすると、体がふらっとした。発熱していたのである。周りにいた高校生たちが、彼を支えた。
 伸一に同行していた幹部が言った。
 「先生、夜露はお体にさわりますので、お部屋にいてください」
 「いいんだ。みんなと一緒にいたいんだ!」人間を育もうとするからには、生命を削る覚悟がなくてはならない。
 外に出ると、子どもたちが歓声をあげた。
 広々とした庭があり、彼方には黒い山並みが見えた。そして、空には、星が輝いていた。
 伸一も、竹の棒を杖代わりにして表に出た。彼の周りで一緒に花火をする子もいれば、友だち同士で花火に興じる子もいた。
 伸一は、周囲にいた子どもたちに声をかけ、家庭の様子などを尋ねた。
 両親の信心があまり強盛ではないという話を聞くと、彼は言った。
 「そうか、大変だね。でも、その分、あなたがしっかり信心に励めばいいんだよ。大きな暖炉が一つあれば、部屋中が暖まるじゃないか。同じように、あなたが頑張れば、その福運で両親を包んでいくことができるんだよ。だから、あなたは、絶対に退転してはいけないよ。約束しよう。よし、指切りだ」
 そして、彼は、「ご両親に」と言って、お土産を渡した。
 星空を見ていて、「宇宙に行きたい」と言い出した小学生の女の子とも対話を交わした。
 「宇宙か。ぼくも行きたいな。
 でも、仏法では自分自身が宇宙と同じだと説いているんだよ」
 そして、少女の頭を指さして説明していった。
 「頭はまるいよね。これは天を表し、髪の毛は無数の星。両目は太陽と月で、目が開いたり、閉じたりするのは昼と夜。眉毛は北斗七星だよ。
 鼻の息は谷間の風、大きな十二の関節は、一年が十二カ月であることを表し、小さな関節は、一年の一日一日を表している。また、体に流れている血管は川なんだよ。太いのは大河、毛細血管は小川だね」
25  大河(25)
 「宇宙に行きたい」と言った少女は、興味深そうに、山本伸一の話を聞いていた。
 「つまり、自分自身が一つの宇宙であり、自分の生命のなかに幸福の大宮殿もあるんだよ。そのなかに入っていくための信心なんだ」
 また、彼は、花火を見ながら、周りの子どもたちに言った。
 「花火はきれいだね。でも、華やかだけど、一瞬で終わってしまう。
 マスコミや芸能界で、もてはやされている人を見ると、″いいな″と思うかもしれないが、それは花火みたいに、一瞬にすぎないものだよ。大事なことは、何があっても崩れない、自分自身をつくりあげていくことだ。それが信心をすることの意味でもある」
 小・中学生のなかには「探検」だと言って、庭の向こうまで行き、姿が見えなくなってしまった子どももいた。担当の幹部が、慌てて捜しに行く一幕もあった。
 さらに、蛙を捕まえてきた男の子もいた。
 大人たちは顔をしかめたが、伸一は微笑みながら言った。
 「君は勇気があるね。ほかの人も、都会で暮らしているんだから、こういう時に、うんと自然に触れておくんだよ。そのために、ここに呼んだんだから、いろいろな体験をしておきなさい」
 花火を終えてからも、伸一は、食堂などでくつろぐメンバーを励ました。学校生活の悩みや、進路についての相談にものった。彼は、一人ひとりと言葉を交わし、皆のことを生命に刻印しておきたかった。
 夜更けて、伸一は、研修所のロビーで、メンバーを引率してきた担当幹部と懇談した。
 「みんな、いい子たちだね。学会の未来を託す大事な後継ぎだ。全力で育てなければ……。
 ところで、今回の参加者を、『未来会』と命名したいと思う。『未来』は、英語だとなんと言ったかな」
 「『フューチャー』になります」
 幹部の一人が答えた。
 「そうか。正式な名称は『未来会』、別名『フューチャー・グループ』としよう。これで二十一世紀の、勝利の流れは開かれた」
26  大河(26)
 翌日、メンバーは、担当幹部から、「未来会」結成の発表を聞いた。
 歓声があがったが、どの顔も緊張していた。皆、厳粛な思いで受け止めていたのである。
 清純なる若き魂は、誓っていた。
 ″必ず、広宣流布の未来を担える、力ある指導者に育とう!″
 ″人びとの幸福と平和のために尽くせる人になろう!″
 それは、広宣流布への父子の旅立ちとなった。
 メンバーは、午前中、芦ノ湖などを見学し、午後には、研修所をあとにした。
 伸一は、未来会の鳳雛たちを信じていた。彼は、確信していた。
 ″この子たちは、きっと使命のバトンを受け継ぎ、二十一世紀を人間主義の世紀にするために、立ち上がってくれるにちがいない。私は、若き後継者のために、人生のすべてを捧げる思いで、懸命に道を開こう!″
 彼は、このメンバーを東京未来会第一期とし、二期、三期と結成していこうと思った。また、東京だけでなく、全国各地に未来会を結成し、人材育成の壮大な流れをつくろうと決意したのである。
 翌月の七月二十三日には、神奈川県の三崎で、伸一が出席して、東京未来会の第二期の結成式並びに研修会が行われた。
 そして、九月一日には関西で、十月十八日には九州で、年が明けて一九七一年(昭和四十六年)には、中部、京都、四国、中国、北海道、東北と、相次ぎ全国に未来会が結成されていったのである。
 さらに、この五月三日には、聖教新聞社で第一回全国未来会が行われたのである。
 この七一年の「5・3」は、戸田城聖の会長就任二十周年にあたる意義深き日であった。また、ちょうど三十年後は、新世紀の開幕である二〇〇一年となる。
 ゆえに伸一は、この日こそ、二十一世紀の広宣流布を託す後継者の出発に、最もふさわしい日であると考えたのである。彼の期待は、限りなく大きかった。
 なお、毎年、五月三日に行われてきた本部総会は、この年から、主に秋を中心として開催されることになったのである。
27  大河(27)
 全国未来会の当日、山本伸一は、朝早く目を覚ました。メンバーが、全国から集って来ると思うと、寝ている気には、なれなかった。
 彼は、起床すると、直ちに仏壇の前に座り、大事な後継者たちが無事に到着するよう、懸命に唱題した。
 会合は、午前十時過ぎから、聖教新聞社の六階広間で、全国から集ったメンバー五百人が参加して行われた。
 伸一は、二十一世紀への新たな出発として、あえて、この五月三日に全国未来会を開催したことを述べたあと、自らの心情を語っていった。
 「二十一世紀に、いかなるリーダーが出るか。平和の旗手が出るか、どうか――それによって、人類の将来は決定づけられてしまう。
 しかし、私がこれまでに育成してきた人は、もう二十代、三十代、四十代です。三十年後の二十一世紀の主役として躍り出ていくには、年をとりすぎています。
 それに対して、諸君は四十代で新しい世紀を迎える。最も意気盛んに活躍できる年代です。その諸君に全幅の信頼を寄せ、全精魂を注いで育成していくことが、私の最重要の仕事であると思っています」
 それから彼は、人類最初の動力による飛行に成功した、ライト兄弟の話をした。
 「ライト兄弟は、空を飛ぼうと、一生懸命に飛行機の研究を重ね、遂に、自分たちの研究の結果を試す日が来た。観客は、たったの五人であった。その日の飛行の最高記録は五十九秒、約二百六十メートルに過ぎなかった。しかし、それは革命であった。この時、航空機時代の歴史が開かれたからです。
 歴史的な壮挙を成し遂げるといっても、その一歩一歩は、決して華やかなものではない。むしろ地道な、誰にも気づかれない作業である場合がほとんどです。だが、その前進の積み重ねが、時代を転換していく力なんです。
 したがって諸君も、未来の壮挙のために、黙々と学業に励んでいってください。また、仏法という生命の大哲学を学び、自身の生き方の骨格にしていってほしいのであります」
28  大河(28)
 物質の豊かさのみを追い求める現代の風潮のなかで、人間の心は次第に枯渇し、荒廃してきている。その果てにあるものは、社会の退廃である。二十一世紀は、精神の復興が深刻なテーマにならざるをえないと、伸一は考えていた。この精神復興の源泉こそが日蓮仏法であり、それゆえに伸一は、メンバーに、仏法の研鑽を強く呼びかけたのである。
 このあと、彼は、人びとの幸福と世界の平和の実現を託す後継者であるとの意義を込めて、未来会にメダルを授与することを発表した。
 「この未来会のメダルは、表に鳳がデザインされています。鳳というのは伝説上の鳥ですが、鳥のなかの王者であり、最高におめでたい鳥とされています」
 発表を聞くと、メンバーは頬を紅潮させた。同時に、自分たちに託された深い使命を感じ、緊張もした。
 メダルは、すぐに、一人ひとりに手渡された。箱からメダルを出して手にする、メンバーの瞳が光った。
 伸一は言った。
 「これは、誓いのメダルです。尊い使命に生きる君たちは、何があっても負けないでほしい。どんな場合でも、勝つと決めた人が勝つ。これが勝利の方程式だ。そして、その根源の力が、信心の一念です。頑張るんだよ」
 「はい!」
 メンバーの元気な声がこだました。
 この日は、午後から日本武道館で「'71鼓笛祭」が開催されることになっていた。
 この鼓笛祭を、伸一は未来会の鳳雛たちと一緒に観賞したのである。
 さらに、一九七二年(昭和四十七年)の一月三日には、未来会の代表などで、二十一世紀会が結成された。
 伸一は、中核のなかの中核をつくり、彼自身が、直接、二十一世紀のリーダーを、手塩にかけて育て上げていこうと考えていたのである。
 その後、未来会は、期を重ねるとともに、各県にも次々と結成され、全国で六十四グループが誕生することになる。そして、そのつど、伸一は、全力を傾けて、真心の励ましを送ってきたのである。
29  大河(29)
 未来会では、山本伸一は学会の真実の歴史を、忌憚なく語った。
 「戦時中、軍部政府の弾圧で牧口先生が逮捕され、弟子たちも危険にさらされるようになると、それまで『先生、先生』と言っていた人たちが、皆、牧口先生を恨み、学会を憎んだ。『こんな惨めな思いをしなければならないのは牧口のせいだ。学会のせいだ』と、大恩ある牧口先生を、口を極めて罵倒する者もいた。
 そして、当時の幹部たちは退転し、学会は、壊滅状態になる。
 そのなかで、牧口先生とともに逮捕された戸田先生は、こう感謝する。
 『牧口先生は、私を牢獄まで連れて来てくださった。これほど慈悲深い師匠はいない』これが人間の信義であり、信念です。これが真の師弟です」
 また、伸一は、人生の哲学も語った。
 「人生には、いろいろな時期がある。荒れ狂う暴風雨のような、大問題に直面することもあるでしょう。しかし、決して逃げないで、勇敢に突き進んでいくんです。その経験を総括し、そこから何かを発見していくならば、それこそが、価値創造の力になるからです。
 たとえば、学会の組織のなかで、いやな先輩がいたとする。それでも、逃げたり、投げ出したりせずに、信心を全うしていくんです。そして、そのなかで、先輩幹部としての在り方を考え、自らそれを実践していけば、偉大な指導者に育ちます。何事も、経験は財産であり、価値創造の母なんです」
 伸一は、メンバーと相撲も取った。ともにバレーボールに興じたこともあった。記念の写真にも納まった。まさに、体当たりでメンバーの育成に取り組んでいったといってよい。
 二十一世紀のために、後継の人材を必死になって育てようとする伸一の一念を、若い魂はびんびんと感じ取っていった。
 東京未来会の第二期に、福田朝子というメンバーがいた。彼女は、神奈川県・三崎で行われた結成式で、皆が蚊に食われないようにと、蚊取り線香の煙を、盛んに団扇で扇いで送ってくれる山本会長の姿が、深く心に焼き付いて離れなかった。
30  大河(30)
 福田は、一歳の時に、母や兄と一緒に学会に入会した。
 しかし、家族は信心に積極的ではなかった。彼女だけが学会員の叔母に励まされ、勤行をするようになった。
 そのなかで、人前で話ができなかったのが、できるようになるなど、幾つもの体験をつかんだ。その感動や信仰の喜びを、嬉しくて友だちに語ったりもした。小学校時代である。
 すると、それが親たちの間で噂になっていた。しかも、言いもしないことまで、言ったことにされていた。
 ″ひどい! 大人たちは、こうやって嘘をつくのか……″
 いたたまれぬ気持ちだった。その時、近所の婦人部の幹部は、こう指導してくれた。
 「悔しいでしょう。でも、今は勉強で実証を示すしかないわ。山本先生は、若い人たちの成長を待っているのよ」
 その励ましに、少女は胸を熱くした。そして、心に誓った。
 ″まず、難関といわれる都立高校をめざそう。それが最初の勝負だ!″
 彼女は猛勉強に励み、一九七〇年(昭和四十五年)の四月、晴れて志望校に入学したのだ。
 そして、三カ月半が過ぎた七月二十三日、東京未来会第二期のメンバーに選ばれた福田は、勇んで結成式に参加したのである。
 伸一の送る、蚊取り線香の煙が、彼女の方に流れてきた。
 彼は言った。
 「『田原坂』という有名な民謡に、『天下取るまで 大事な身体 蚤にくわせて なるものか』という歌詞がある。みんなは、大事な使命の人なんだもの、蚊になんか食わせるわけにはいかないんだ。つまらないことでつまずき、自分を傷つけ、人生を棒に振るようなことがあってはいけないよ」
 福田は、伸一の言葉に、熱い、熱い、期待を感じた。生涯、広宣流布の使命を果たし抜こうと、決意を固めた。
 彼女は、国立の最難関の女子大といわれる、お茶の水女子大に進んだ。
 大学卒業後、女子部の教学部長などを経て、二〇〇二年には婦人部の書記長に就任。青春の誓いを胸に「女性の新世紀」のニューリーダーとして羽ばたいたのである。
31  大河(31)
 後年、副会長として活躍することになる谷山春樹も、若き日に、山本伸一の指導に奮い立った一人であった。
 彼は、一九七三年(昭和四十八年)一月、創価高校の一年生の時に、二十一世紀会第二期の結成式に参加した。伸一の発する一言一言が、黄金の矢のように、彼の胸に刺さった。
 大きな、あまりにも大きな期待を、痛いほど感じた。
 「二十一世紀に、どれだけの人をつくるかが、私の勝負です。みんなは広宣流布の宝だ。学会の財だ。私の希望だ。
 どんなに辛いこと、悲しいことがあっても、批判されても、一人きりになっても、絶対に負けないで、二十一世紀に、創価の勝利の旗を振り、民衆の凱歌の時代を築いてほしい。
 そういう人材が出てくれれば、私は幸せ者だ。そうでなくては不幸だ」
 谷山は、生命が激しく揺さぶられたような思いがした。
 ″先生は、力もない私たちを、心の底から信じてくださっている。そして、自分が命がけで切り開かれてきた広宣流布の未来を、すべてを託そうとされている″
 谷山は、伸一の、燃え上がるような熱い思いに圧倒された。この師の期待を、絶対に裏切るまいと思った。
 彼は、創価高校から東大に進み、商社マンとなった。
 会社にあっても、未来を嘱望されていた。しかし、いつの日か、学会本部の職員として、広宣流布と会員のために人生を捧げたいというのが、彼の念願であった。
 人には、さまざまな使命があり、さまざまな人生の道がある。谷山は、あえて、商社マンから本部職員への道を選んだ。金銭も、社会的な栄誉も、名声も、すべてなげうっても、師弟共戦のこの道に勝る栄光はないというのが、彼の信念であった。
 彼は、やがて、学生部長、男子部長、青年部長などを歴任し、新世紀のニューリーダーとして、新しき勝利の歴史を築いていくことになる。
 伸一は生涯、未来会のメンバーを見守り、励まし続けていくつもりであった。
 彼は、折々に、メンバーと会い、真心の激励を重ねていった。
32  大河(32)
 九州未来会の第一期に、後に医師となったメンバーがいた。柳井武志である。
 彼は、三十歳を過ぎたころ、山口の大学病院に勤め、博士号取得をめざしていたが、次第に活動から遠ざかり、心も学会から離れていった。気がつくと、研究も行き詰まっていた。自分には、医師として未来がないように思えた。同僚と酒を飲み、悶々とする日々が続いていた。
 広宣流布という人生の根本の軌道を外れれば、待っているのは空転でしかない。
 山本伸一は、一九九三年(平成五年)五月、広島を訪問した折、彼を招いた。
 伸一は、未来会のメンバーは、一人ももれなく、尊き使命に生き抜く人材に育て上げようと、常に真剣勝負であった。
 柳井は、学会員である妻に促され、しぶしぶ広島にやって来た。
 伸一は、同志の激励のために、寸暇の休みもなく、生命を削るかのように動き回った。柳井にも役員として、陰の仕事の手伝いを頼んだ。
 この若い医師に、民衆のために働き、奉仕する気高き学会の精神を、思い起こしてほしかったのだ。医学の心も、広宣流布の精神も、そこにあるからだ。
 柳井は、汗まみれになって、必死に会員を励ます伸一の姿に、自分の生き方を恥じた。
 ″俺は、結局、ただ、自分の名聞名利のために生きようとしていたのではないか。先生との誓いを、忘れていたんだ!″
 やがて、精彩のなかった青年医師の顔に、光が差し始めた。
 帰り際、伸一は、柳井に言った。
 「優秀なんだから、頑張るんだよ。負けてはいけないよ」
 その言葉に、自信を取り戻した。勇気を覚えた。もう一度、信心で立とうと思った。
 やがて、柳井は、博士号を取ることができた。そして、人間医学のパイオニアとしての道を歩き始めるのである。
 伸一は、未来会のメンバーのことを忘れた時はなかった。
 特に、苦しみ、悩んでいる人がいると聞けば、全精力を注いで指導にあたった。厳愛の叱責もあった。肩を揺さぶりながら、「負けるな。負けるな」と、声を嗄らして励ましたこともあった。
33  大河(33)
 若き苗が、使命の大樹へと育ちゆくには、身悶えするような苦闘と精進の歳月が不可欠である。幾たびもの、風雪と嵐を経なければならない。
 伸一は、未来会のメンバーに、常に、そのことを訴え続けてきた。
 静岡県の東海研修所(現在は静岡研修道場)で行われた東京未来会第三期の結成式の折、伸一はメンバーと一緒に、整備中の研修所内に新しい道をつくった。ともに石拾いや草むしりの作業に励んだ。
 足腰の疲れを訴える小学生や中学生に、伸一は語りかけた。
 「道をつくることは、重労働だ。腰も、肩も痛くなる。でも、道ができれば、みんながそこを歩けるようになる。ぼくは君たちのために、懸命に道を開いておくよ。
 君たちは、さらに、その先の、未来への道を開いていくんだよ。それが師弟の大道だ」
 また、ある時には、彼は厳しい口調で訴えた。
 「未来会は、学会の全責任を担っていく人の集まりだ。だから、甘えてはいけない。君が山本伸一なんだ。君が会長なんだ。私の分身なんだ。自分がいる限り大丈夫だと言えるようになっていきなさい」
 毎回、毎回、真剣勝負の育成だった。
 その情熱が、その一念が、その祈りが、若き魂を揺り動かした。父から子へ、二十一世紀へ、創価の精神は、厳然と受け継がれていったのである。
 一九七〇年(昭和四十五年)六月の東京未来会第一期の結成以来、既に三十余年が過ぎ、新世紀の太陽は昇った。
 メンバーは、広宣流布の本舞台に、闘将となって、陸続と躍り出た。
 また、社会のあらゆる分野にあって第一人者となり、人間主義の旗を掲げ、平和建設のリーダーとして立ったのである。教育者も、最先端の研究に取り組む学者も、人権のために戦う弁護士もいる。実業家も、音楽家も、名通訳も育った。
 弟子の勝利はまた、伸一の誇りであり、彼の厳たる勝利の証であった。
 伸一は、二〇〇三年(平成十五年)の六月二十七日の結成記念日に詠んだ。
  未来会 
    広布と創価を
      展望し
    山の如くに
      人材育ちぬ
34  大河(34)
 秋の太陽を浴びて、ブルーと銀の七階建てのビルが、青空にそびえ立っていた。清涼感のある近代的な建築であった。東京・信濃町に完成した、聖教新聞社の新社屋である。
 一九七〇年(昭和四十五年)九月二十八日の午前、その落成式が、会長山本伸一が出席して、晴れやかに行われた。
 新社屋は、これまで本社として使われてきた三階建てのビルに隣接して建てられていた。
 一九六八年(昭和四十三年)の四月に、起工式が行われ、以来、二年五カ月を経て、竣工の運びとなったのである。
 建物は、地上七階、地下三階、塔屋三階であった。ボイドスラブ方式という梁の少ない工法が採用され、各階とも、広々とした間取りになっていた。
 また、この新社屋にはコンピューターや写真電送など、情報化時代に即応できる、当時としては最新の設備が備えられていた。
 一階の正面玄関を入ると、明るいロビーが広がり、応接室、会議室、事務室などがあった。二階は事務室、三、四階は編集室で、五階にはコンピューター室、電送写真室等、近代設備が完備されていた。六階は三百畳近い大広間となり、七階には会議室等があった。地階は、地下一階はピロティ、地下二階に食堂などがあり、地下三階は写真スタジオ、機械室となっていた。
 聖教新聞は、この前日の二十七日付で、ちょうど三千号となり、発行部数も四百万部を超え、当時、既に、朝日、読売、毎日の三大紙に続く存在になっていた。
 この日、新聞社に到着した山本伸一は、出迎えた職員の代表に言った。
 「おめでとう。見事な言論の城が完成したね。
 心も一新して出発しよう。日々、自分の惰性を打ち破っていくことが、良い新聞をつくる最大の要件だ。一日一日が戦いだよ。人間は、もうこれでよいのだと思い、挑戦の心を忘れた瞬間に惰性になり、保守になる。前進、前進、前進なんだ。
 さあ、ここを舞台に、正義の論陣を張り、人間の哲学を発信していこう。そして、希望を送ろう。勇気を送ろうよ」
35  大河(35)
 落成式は、午前十時半過ぎから、新社屋六階の広間で行われた。
 これには、職員、通信員、取次店主、配達員らの代表、工事関係者、さらに、研修会に参加するために来日していた海外メンバーも出席した。海外メンバーの参加は「世界の聖教」へとの思いから、山本伸一が提案したものであった。
 勤行、経過報告と進み、聖教新聞社社長に就いていた十条潔、専務理事の秋月英介があいさつに立った。
 そのあと、社主の山本伸一が、施工にあたった共同企業体の代表に記念品を贈呈した。
 そして、最後に、聖教新聞社歌「無冠の誇り」を声高らかに合唱した。新社屋の落成を記念して作られた歌である。
 一、高き理想に 胸躍る
   風雪耐えて 幾星霜
   生命の言葉に 力あり
   ともに拓こう 茨の道を
   輝くあしたの 勝利のために
 二、暗き世紀の 闇破る
   社会の指標 今ここに
   照らす光に 使命あり
   ともに刻もう 先駆の歴史
   永遠に崩れぬ 未来のために
 三、強き正義の 英知もち
   広布のたより 掲げゆく
   無冠の王者に 誇りあり
   ともに謳おう 平和の讃歌
   栄光燦たる 世界のために
 ″無冠の王者″――伸一は、かつて、この言葉を、聖教新聞の関係者に贈った。
 そこには、権威も名声も求めることなく、いかなる権力も恐れず、民衆のために果敢に戦う勇者たれとの、彼の熱い期待が込められていた。
 新聞が権力におもねり、その下僕となれば、社会正義の追求という、大事な使命を放棄してしまうことになる。さらに、真実を知る民衆の権利は奪われ、新聞は人びとの目を欺く煙幕と化してしまう。
 ゆえに、新聞人は″無冠の王者″として、民衆のために立ち上がり、民衆とともに戦わなければならないというのが、伸一の信念であった。
36  大河(36)
 彼は、この日、落成式を記念し、前庭の一角に桜を植樹し、職員らと記念のカメラに納まった。また、新社屋の館内も見て回った。
 編集室も広々としていた。彼は、職員には、何不自由なく最高の環境で働いてもらいたかった。そして、最高の仕事をしてほしかった。それが、会員の希望と勇気につながっていくからだ。
 四階に行くと、聖教新聞の歩みなどが、写真で展示されていた。
 伸一は、創刊当時に思いを馳せながら、傍らにいた、新聞社の幹部たちに言った。
 「建物が立派になり、みんなが喜んで働けることが、私は、何よりも嬉しい。しかし、あの市ケ谷のビルの狭い一室で、新聞を作っていたころの苦労を忘れてはいけない。環境が整えば整うほど、創刊のころの精神を、常に確認し合っていくことが大事ではないだろうか。
 そうでないと、恵まれた環境にいて当たり前だと思い、少し環境条件が悪いと、すぐに愚痴や文句が出てしまうようになるものだ。そうなれば、職員としては既に敗北であり、堕落だ。私は、それを、恐れているんです」
 伸一は、館内を巡りながら、師の戸田城聖と聖教新聞を創刊するに至った日々が、昨日のことのように、思い起こされてならなかった。
 聖教新聞の創刊は、戸田が事業の失敗という窮地を脱し、第二代会長に就任する直前の、一九五一年(昭和二十六年)四月二十日である。
 戸田が、その着想を初めて伸一に語ったのは、前年の八月、戸田が経営の指揮をとっていた東光建設信用組合の経営が行き詰まり、営業停止となった時のことであった。戸田と伸一は、東京・虎ノ門の喫茶店で、信用組合の営業停止を知った、ある新聞社の記者と会った。その帰り道、戸田は、しみじみとした口調で語った。
 「伸、新聞というものは、今の社会では想像以上の力をもっている。……一つの新聞をもっているということは、実にすごい力をもつことだ。学会もいつか、なるべく早い機会に新聞をもたなければならんな。伸、よく考えておいてくれ」
37  大河(37)
 戸田が学会の理事長の辞任を発表したのは、聖教新聞発刊の着想を伸一に語った日の夜のことであった。自分が経営の指揮をとってきた信用組合の営業停止の影響が、学会に及ぶことを憂慮しての辞任であった。
 その一九五〇年(昭和二十五年)の師走のことであった。戸田と伸一は、新橋駅近くの食堂に入った。
 戸田は、力を込めて、広宣流布の壮大な展望を語り始めた。そして、確認するように、伸一に言った。
 「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
 まだ、彼の事業は激しい嵐にさらされていた時である。しかし、その眼は、洋々たる大海原に船出する学会の未来を見すえていたのである。
 年が明けた一九五一年(昭和二十六年)二月の寒い夜であった。戸田は、伸一に宣言した。
 「いよいよ新聞を出そう。私が社長で、君は副社長になれ。勇ましくやろうじゃないか!」
 それから、慌ただしく準備が始まった。
 三月には、有志数人が戸田の自宅に集まり、新聞の企画会が開かれた。
 席上、戸田は言った。
 「この新聞をもって、広宣流布の火蓋を切っていくのだ。……あらゆる意味で、言論戦の雄とならねばならぬ」
 伸一は、決意した。
 その思いを彼は、日記に、こう記した。
 「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を心に期す」
 何度となく、準備の打ち合わせがもたれた。
 新聞の名前をどうするかでも、さまざまな意見が出た。
 「文化新聞」「創価新聞」「世界新聞」……。
 それを聞いていた戸田は、笑いながら言った。
 「『世界新聞』か。面白いな。でも、それなら、たとえば、『宇宙新聞』なんてどうだい。
 もっと、気宇広大じゃないか」
 だが、種々検討を重ねて、結局、「聖教新聞」と決まった。
 そこには、大宇宙の根本法たる仏法を、世界に伝えゆく新聞をつくるのだという、戸田の心意気がみなぎっていた。
 そして、四月二十日の創刊となったのである。
38  大河(38)
 戸田は、窮地に陥った事業の活路を開くために、新宿区百人町にあった大東商工を拠点に奮闘していた。その事務所が、聖教新聞創刊号の編集作業室にあてられた。
 事務所といっても、戦時中、レンズの製作をしていた町工場の建物であった。部屋はがらんとして、すきま風が吹き抜け、作業にあたるメンバーは、皆、寒さに震えた。
 この編集室で戸田は、すさまじい勢いで健筆を振るった。
 創刊号では、一面トップの論文「信念とは何ぞや?」を書いた。さらに、妙悟空というペンネームを使って、小説『人間革命』の連載を開始したのをはじめ、コラムの「寸鉄」などを、執筆していった。
 創刊から一カ月余りが過ぎたころ、大東商工は市ケ谷駅近くの市ケ谷ビルの二階に移り、聖教新聞の編集室も、同じ建物に移転した。机を二つ並べると、いっぱいという狭い部屋であった。
 山本伸一も創刊以来、懸命に筆を執った。幹部の人物紹介の記事も書けば、バイロン、べートーベン、ナポレオンなど、歴史上の人物の生き方を論じる原稿も書いた。
 戸田から、途中まで書かれた小説『人間革命』の原稿を渡され、「あとは君が書きなさい」と言われたこともあった。
 それは、戸田に代わって、伸一が戸田の思想と哲学を、後世に伝えていくための訓練でもあった。また、戸田は、伸一ならば、それができると、確信していたにちがいない。
 まさに、師弟共戦のなかで聖教新聞は誕生し、黄金の歴史を刻んでいったのである。
 また、学会の渉外部長に就任した伸一は、マスコミ各紙に誤解に基づく中傷や誤報があれば、すぐに関係者に会って、その誤りを正した。
 時には、誤報や悪質なデマを打ち破るために、自ら勇んで正義の論陣を張った。広宣流布は言論戦である。横行する「悪」を見ながら、沈黙し、放置しておけば、「悪」は際限なく増長する。「正義」なれば、断じて「悪」と戦い、勝たねばならない。「正義」が敗北すれば、民衆が深い闇の底に突き落とされることになる。
39  大河(39)
 戸田城聖も、山本伸一も、″聖教新聞は、わが愛する同志への手紙だ″との思いで、生命を刻みつけるように、原稿を書きつづっていった。
 創刊当初、聖教新聞は二ページ建てで、十日に一度の発刊であった。創刊号の発行部数は約五千部である。満足なカメラさえなかったが、紙面は充実し、勢いがあった。学会精神が脈打っていた。
 一九五三年(昭和二十八年)十一月、学会本部が東京・西神田から信濃町に移転したことにともない、聖教新聞社も、この時、信濃町の学会本部内に移った。
 「この新聞を、日本中、世界中の人に読ませたい」というのが、戸田の決意であったが、彼は、創刊五周年を迎える五六年(同三十一年)の年頭から、アジア諸国の指導者に、聖教新聞の贈呈を開始している。インドのネルー首相、フィリピンのマグサイサイ大統領、中国の毛沢東(マオ・ズードン)主席と周恩来(ジョウ・エンライ)総理など、十氏であった。
 贈呈の趣旨をつづった書簡には、「本紙を通じて仏教の何たるかの理解を一層深められ、以て東洋文明の為に尚一層の力を尽されます様御祈りするものであります」とあった。
 戸田は、聖教新聞をもって、東洋の平和と友好の道を開こうと考えていたのだ。
 五七年(同三十二年)八月、聖教新聞社は学会本部の隣接地に社屋を持った。これは二階建てのビルを改装したものだが、聖教職員の喜びは大きかった。
 さらに、創刊十周年にあたる一九六一年(昭和三十六年)の五月には、信濃町十八番地に、地上三階、地下一階の社屋が完成した。以来、九年間、この建物で、日刊化への移行など、激動の時代を乗り越え、聖教新聞は大飛躍を遂げてきた。
 そして、いよいよ創刊二十周年を翌年に控えた今、堂々たる新社屋が落成したのだ。
 伸一は、会長に就任してからの、この十年余りの間、いつも、聖教新聞のことが頭から離れなかった。彼の一日は、妻の峯子とともに、配達員等の無事故を懸命に祈り、インクの匂いも新しい、届いたばかりの新聞に、くまなく目を通すことから始まるのである。
40  大河(40)
 伸一は、朝、聖教新聞を目にすると、すぐに翌日の紙面のことを考えた。
 ″明日の一面のトップはなんだろうか″″社説は何を論ずるのだろうか″″どんな記事があるのだろうか″……。
 戸田城聖が魂を注いでつくり上げた新聞を大発展させていくことが、自分の責任であり、義務であると、彼は決めていたのである。
 だから、率直に、聖教新聞についてアドバイスをすることもあった。また、編集部から寄稿の要請があれば、どんなに多忙ななかでも、懸命に原稿を書いた。
 広宣流布と社会の未来を思えば思うほど、伸一は、聖教新聞の使命の重大さを痛感するのであった。
 学会の活動や指導、考え方を、七百五十万世帯に達した全国の同志に、誤りなく伝えるには、聖教新聞なくしては不可能である。
 また、日蓮大聖人は、「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり」と仰せだが、仏法の哲理を、人びとに正しく伝え抜いていくうえでも、聖教新聞の担う役割は極めて大きい。
 さらに、現代は情報が氾濫しており、ともすれば、その情報の洪水に押し流されて、自らがものを考え、自身の価値観を確立できないでいることが少なくない。それだけに、情報を見極める哲学の″眼″をもつことが極めて重要になる。そのための新聞が、聖教新聞であるといってよい。
 伸一は、聖教の新社屋が完成し、この新しき言論城を舞台に、いよいよ本格的な人間主義の大思想運動が巻き起こるのだと思うと、胸が高鳴るのを覚えた。
 落成式の翌日にあたる二十九日の午後には、各界の来賓約千人を招いて、新社屋の落成披露祝賀会が開かれた。伸一は、正面玄関で、二時間余りにわたって、来賓を出迎え、一人ひとりと、丁重にあいさつを交わしていった。人と直接会い、誠実に言葉を交わすことから、信義と友情のドラマは幕を開ける。
 自分が会ったすべての人を、学会の最大の理解者にしよう――それが、伸一の信条であり、決意であった。ゆえに彼は、真剣であったのだ。
41  大河(41)
 伸一は、新社屋の落成を祝って、句を贈った。
  聖教の
    本社そびえて
      言論譜
  富士見ゆる
    言論の府
      わが本社
  聳え立つ
    聖教本社
      躍る筆
 彼は、聖教新聞の職員には、崇高なる正義の言論戦を展開してほしかったし、自分もまた、その先頭に立とうと決意していた。
 現代の社会のなかで最も欠落しているものは、正と邪、善と悪の分別であり、邪悪と戦う心であろう。本来、平和や人間性といっても、邪悪と戦う心に裏打ちされていなければならない。邪悪が跳梁跋扈するのを黙認した平和は、精神の墓場に漂う、闇の静けさである。邪悪に目をつぶる人間は、決して寛容なのではなく、臆病で無気力であるにすぎない。
 不正を許す、事なかれ主義は、一時はよいように見えても、やがては、皆を不幸にしてしまう。邪悪と戦う正義の心をもって立つことこそが、本来、言論の使命といってよい。
 伸一が詠んだ句には、その思いが込められていたのである。
 希望に胸躍る新社屋完成から一カ月半後の十一月八日、全国の通信員の代表約五百人が本社に集って、通信員大会が開かれた。
 全国通信員大会は、前年に引き続き、二度目の開催となるが、今回は、完成間もない新社屋で行われるとあって、メンバーは喜々として本社に駆けつけてきた。
 この通信員大会の開催を聞いた伸一は、聖教新聞社の幹部に言った。
 「集った方々を心から大切にし、思い出に残る楽しい集いにしていくことです。
 通信員の皆さんは、配達員の皆さんとともに、新聞を支えてくださっている大きな力です。皆、仕事や学会活動で忙しいなか、足を棒にして取材をし、記事を書いてくださっている。だから聖教新聞は、地域に密着し、人びとに親しまれる新聞になっている」
42  大河(42)
 山本伸一の言葉には、力がこもっていた。
 「細かく張り巡らされた通信員の皆さんの取材網は、ちょうど毛細血管のようなものです。みんなは、ともすれば大動脈のような、大きなところ、目立つところばかりに目がいってしまうが、人体の隅々にまで血を送り、命を支えているのは毛細血管です。
 通信員の皆さんは、同じように、組織の隅々にまでアンテナを張り巡らせ、あの町、この村のニュースをつかみ、情報を吸い上げてくださる。それによって、聖教新聞は、日々、脈動した記事を読者に送り続けることができる。
 また、そうしてできあがった新聞を、毎日、読者のもとに届けてくださるのが、配達員の皆さんです。
 通信員と配達員の皆さんこそ、新聞の生命線です。ありがたいことではないですか。本社にいる者は、そのことを絶対に忘れてはいけない」
 厳しい口調であった。
 彼は、さらに続けた。
 「私は、通信員の活動にこそ、聖教新聞の原点があると思っている。当初、聖教新聞は、専従の職員というよりも、学会の幹部が皆でつくってきた。戸田先生をはじめ、私も、理事たちも、皆、懸命に原稿を書きました。
 男子部長で学者だった山際洋さんも、体験を担当していた。論文は得意だが、体験を短くまとめて書くのは苦手と見え、よく徹夜をしていた。
 戸田先生が見るに見かねて、体験の書き方を指導したんだ。ところが、できあがった原稿はボツになった。病気を克服した体験なんだが、根が学者だから細かく説明しすぎて、医学論文のようになってしまったんだよ。
 みんな、仕事をし、学会活動に励み、そして、新聞をつくった。忙しいが必死だった。その闘魂が紙面にあふれていた。だから、新聞には感動があった。今、その精神を受け継いでいるのが通信員の皆さんです。
 この制度をつくられたのは、戸田先生であったが、先生は、通信員を心から大切にされ、訓練されてきたんだ」
 聖教新聞社の幹部たちは、真剣な顔で、伸一の話に耳を傾けていた。
43  大河(43)
 通信員制度が発足し、初の通信員会議がもたれたのは、一九五四年(昭和二十九年)一月のことであった。
 当時、学会は十六支部であったが、通信員は各支部に一人、また、男子部、女子部に、それぞれ一人ずつ任命になった。
 信濃町の旧学会本部で行われた、この通信員会議では、業務内容などについての説明があったあと、戸田を囲んでの質疑応答となった。
 そして、最後に戸田は最大の期待を込めて、通信員に語った。
 「聖教新聞に対する皆さんのご協力は、大変にありがたい。
 今、皆さんは、新しい決意に燃えておられるが、人間は、ともすれば、次第に惰性に流されていくものです。記事を書くうえでも、その惰性との戦いが大事です。
 私は、通信員は本当の″闘争人″になってもらいたい。″闘争人″というのは、民衆を不幸にする邪悪を絶対に打ち砕いてみせるという、赤々とした闘魂、情熱を燃え上がらせている人です。胸に炎をもつことです。見栄や体裁で書く格好だけの文章では、邪悪を断つことはできない。そんな文は自己満足です。正法正義のために、民衆のために、命がけで書いてこそ、ペンは剣に勝つことができる」
 また、戸田は、この席上、紙面充実のために、各分野の人材十一人を社友として招聘し、随時、執筆してもらうことを発表した。
 一月三十一日付の聖教新聞には、この社友とともに、通信員十八人の氏名が掲載されている。社友には筆頭理事の小西武雄、大学の助教授である神田丈治、小説『日蓮大聖人』の著者である作家の湊邦三らとともに、二十六歳の山本伸一の名前もあった。
 通信員制度が始まって二年後の一九五六年(昭和三十一年)一月には、地方版がスタートした。この年の四月には、全国の通信員は三十三人の陣容となっている。
 五七年(同三十二年)には、北海道の夕張炭鉱で、炭労によって学会員が締め出される、夕張炭労事件が起こるが、その時、的確な対応ができたのは、通信員によるところが大きかった。前年の夏ごろから、炭労側の動きを察知した通信員が、逐一、本社に連絡を入れていたのだ。
44  大河(44)
 学会本部としては、通信員から聖教本社にもたらされた連絡で、次第に夕張炭労の学会員への圧迫が激しくなっていることがわかった。そして、その情報をもとに、戸田城聖を中心に協議を重ね、問題が表面化した時には、すぐに的確な手を打つことができたのである。
 この通信員は、自分は学会の目となり、耳となり、足となろうと決意していた。彼の心には、広宣流布を阻み、同志を苦しめる魔性の権力とは、断固、戦い抜こうという正義の炎が、赤々と燃えていたのである。それが聖教魂であり、通信員の心である。
 また、ある地域の通信員は、他紙の記者と語り合った折、聖教新聞について、胸を張って、こう語った。
 「私は、聖教新聞こそ最高の新聞であると信じています」
 すると、他紙の記者は言った。
 「なんで、そんなことが言えるのかね。主観的すぎるんじゃないか!」
 「では、申し上げましょう。聖教新聞には、人を救おう、不幸をなくそうという指導理念があります。事実、自分はこうして不幸から脱却し、幸せになったという、体験や声があふれています。不治の病であるとの宣告を受けて、それを克服したという人の体験もあります。
 事業の倒産から立ち上がったという人の体験もあります。そして、人生の途上に何があっても負けない、人間の生き方を説き示しているのが、聖教新聞なんです。
 あなたたちの新聞に、それがありますか。また、どれだけの人に生きる力や勇気を与えてきましたか。聖教新聞を読んで、絶望の淵から立ち上がった人や、生きる希望をつかんだという人は、枚挙にいとまがありません。
 だから、私は、自信をもって、聖教新聞こそ、最高の新聞だと言っているんです」
 新聞記者は、黙ってしまった。
 この通信員には、自分たちがつくっている聖教新聞への、強い誇りと大確信があった。その心意気こそが、聖教新聞の発展の原動力であったといってよい。
45  大河(45)
 その後、地方版の拡充にともない、通信員の制度はますます強化され、地方支局も整備されていった。そして、新社屋ができた、この一九七〇年(昭和四十五年)九月には、地方版は、沖縄を含め、二十一版となっていたのである。
 山本伸一は、聖教新聞社の幹部に、通信員の使命の重さを述べたあと、こう語った。
 「通信員大会が行われる日は、学会本部での勤行会もあり、私は出席することはできないが、みんなのために、記念の書籍などを用意しよう。
 また、せっかく、全国から集まるんだから、質疑応答や交歓会、さらに記念撮影なども、行ってはどうだろうか。皆、忙しいなか、時間をやりくりして参加してくださる。会合を主催する側は、式次第も、話の内容も、最高のものにするよう、真剣に心を砕かなければならない。そうでなければ、皆の時間を浪費させることになり、前進を遅らせることになる。大事なことは会合革命です」
 十一月八日の午前十時半、全国の通信員の代表五百人が参加し、聖教本社の新社屋で通信員大会が開催された。
 ここでは、新しい通信員の任命や、聖教新聞の歴史、通信員の使命などについて話があったが、参加者の大きな共感を呼んだのは、活動報告であった。
 北海道釧路で男子部総ブロック長をしている遠山正治が、訥々とした口調で語り始めた。
 ――彼は国鉄の職員として釧路鉄道管理局に勤務していた。入会は、一九六四年(昭和三十九年)の春であり、通信員の活動を始めたのは四年前である。
 もともと、入会の契機となったのも、パンを買った店で目にした聖教新聞であった。初めは信心することができた恩返しのつもりで意欲的に原稿を書いた。ところが、送った原稿が、「ボツ」になることが続いたために、嫌気がさし、通信員活動から遠ざかってしまった。
 しかし、学会活動には力を注ぎ、男子部の大ブロック長として活躍するようになった。遠山が担当した組織は、彼の寮から、自転車で四十分ほどのところにあった。
46  大河(46)
 遠山正治が担当する組織に、夫を亡くし、三人の子どもを育てる婦人部員がいた。子どもたちは、性格も明るく、特に中学生の男の子は生徒会長を務め、成績も優秀であった。そして、勉学と唱題に懸命に励み、念願の高校に合格するとともに、成績が認められて、奨学金が貸与されることになったのである。
 遠山は、信心のすばらしさを痛感した。この少年の体験を、なんとしても、多くの人に紹介したかった。
 ″そうだ、聖教新聞に原稿を書こう!″
 彼は、一家を取材し、写真も撮り、原稿を書いた。支局に送ったが、また、「ボツ」になるかもしれないと思った。
 何日かして、新聞を開いた彼は、跳び上がらんばかりに喜んだ。自分の書いた体験記事が、北海道版に大きく掲載されたのだ。手にした新聞に、大粒の涙が滴り落ちた。彼は、通信員の喜びと使命をかみしめていた。
 使命を果たし抜くところに、歓喜があり、幸福がある。
 ″考えてみると、俺は記事がボツになったことで、自分の使命までボツにしていたのだ″
 遠山は、決意を新たにした。
 彼の取材の″足″は、最初は自転車であった。冬など、ペダルを漕ぐと、顔面を寒風が突き刺し、ヒリヒリした。睫毛も凍った。厚い毛糸の手袋をしてはいても、寒さのために、ハンドルを握る指先がキリキリと痛んだ。
 しかし、その厳寒の天地で戦う、同志の活躍を伝えたいと、彼は闘魂を燃え上がらせた。
 信心の実証の花を咲かせた同志がいるところ、歓喜あふれる友が集うところには、必ず遠山の姿があった。
 道東の広大な根釧原野を走るために、やがて、彼は、中古の自動車を購入した。車を使うようになったとはいえ、冬など、零下二〇度を下回る吹雪のなかでの取材活動である。吹雪の日は、フロントガラスに張り付いた雪が凍って、ワイパーが浮き上がってしまう。すると雪を払いのけることができず、前が見えなくなってしまうのだ。そのたびに車を降り、凍った雪を手で取り除かなければならなかった。
47  大河(47)
 真冬のある夜のことであった。取材の帰り、遠山正治の車のエンジンが動かなくなってしまった。原野の中の道である。
 ″このままでは、凍死しかねない……″
 彼は、車の中でひたすら唱題しながら、車が通るのを待ち続けた。歯の根も合わないほど、体はガタガタと震えた。
 午前四時過ぎになって、ようやくトラックが来た。九死に一生を得た思いであった。
 トラックに乗せてもらって町まで行き、眠っている自動車修理工場の主人を起こし、無理を言って車を出してもらい、修理してもらった。
 遠山は、どんなに苦しくとも、取材で純真な信心を貫くメンバーに会うと、喜びを感じた。心が洗われる思いがし、勇気がわいてくるのだ。
 取材のあと、原稿の執筆に取りかかり、気がついたら朝になっていたということも、珍しくなかった。
 そんな時、彼を元気づけてくれたのが、聖教新聞を配る配達員さんの足音であった。
 ″俺は記事を書いているが、配ってくれる人がいるから、この記事を読者が読んでくれる。吹雪の日も、雨の日も、毎日毎日、新聞を配達してくれる人の苦労は、もっと、もっと、大変なものがあるはずだ″
 こう思うと、疲れも吹き飛んだ。
 遠山は、もともと口べたであり、人前で話そうとすると、なかなか上手に発音することができなかった。しかし、通信員の活動を続け、懸命に取材に励むにつれて、いつの間にか、自在に言葉を操れるようになっていったのである。
 全国から集った通信員の前で、はつらつと活動報告した遠山は、こう話を結んだ。
 「いよいよ言論戦が、広宣流布の流れを、大きく左右する時代に入ったと思います。私は、その先駆けともいうべき通信員として、力の限り、学会の真実の姿を伝えてまいります。仏法の正義を訴え抜いてまいります。
 皆さん、私たちの手で日本第一の、世界最高の聖教新聞をつくり、新しい歴史の幕を開いていこうではありませんか!」
 大拍手に包まれた。
48  大河(48)
 通信員は、男子部だけでなく、壮年、婦人、女子、学生の各部にわたっており、女性の活躍も目覚ましかった。なかでも、新潟支局では、女子部員の健闘が目立っていた。
 そもそも、一九五六年(昭和三十一年)に、草創の新潟支部に誕生した、支部でただ一人の通信員が、小沢悠子という女子部員であった。
 通信員を引き受けた当時、彼女は高校を卒業したばかりであった。
 高校時代に小沢が、新聞部に所属していたことを聞いた支部長が、「それなら通信員をめざしてはどうか」と、勧めてくれたのだ。
 勇んで活動を始めたものの、体験談を取材し、撮影した写真を現像してみると、取材した相手の首から上が写っていなかった。シャッターを切る時、カメラが動いてしまったようだ。愕然としたが、その失敗が、小沢の闘志に火をつけた。彼女は、撮影技術を徹底して学んだ。
 失敗を契機に、どうするかに、その後の勝敗の分かれ目がある。
 ある年、地方版の新年号を飾る写真を依頼された。彼女は思った。
 ″早朝の日本海の写真を撮ろう″
 小沢は、暗いうちに家を出て、張り切って、埠頭の突堤に立った。
 冬の日本海の風は、頬を刺すように冷たかった。オーバーの襟を立て、寒さに震えながら、明るくなるのを待った。
 やがて、夜が白々と明け始めた。朝霧のなか、波の上を行き交う、カモメの姿が見えた。
 小沢は、さらに、海の方へ歩みを運び、カメラを構えようとした。
 その時、背後から声がした。
 「娘さん!」
 振り向くと、警察官が立っていた。
 「早まっちゃいかん。交番で話し合おう」
 彼女は、強い口調で言った。
 「早まってなんかいません。私は、写真を撮ろうとしていただけです」
 カメラを見せられた警察官は、口ごもった。
 「……いやー、釣り人から、若い女性が海に飛び込もうとしていると、通報があったものですから。これは失礼いたしました。そそっかしい人がいるんで、私たちも、まいってしまうんですよ」
 警察官は、照れ笑いをしながら戻っていった。
49  大河(49)
 小沢悠子は、やがて、新潟の女子部の中心者となり、多忙を極めていくが、通信員の使命を果たし抜いていった。″広宣流布の現場証人として、ニュースを送り続けよう″というのが、彼女の決意であった。
 一九六四年(昭和三十九年)六月、マグニチュード七・五という地震が新潟県北部を襲った。四階建ての鉄筋コンクリートのアパートも横倒しになるという地震であった。
 この時、小沢は、被災地を駆け巡り、会員の激励にあたりながら、地震禍から立ち上がった学会員の様子を、いち早く記事にしたのである。
 地震の二日後には座談会が開かれ、互いに励まし合う同志の姿や、避難所で歌を歌って、被災者を激励した女子部員の様子などが、臨場感をもって記されていた。
 また、彼女は、全国版に手記も書いた。
 新潟の友の安否を気遣う同志は、それらの記事を見て、心から安堵するとともに、信仰をもつことのすばらしさを知るのであった。
 また、通信員の使命の大きさとやりがいを痛感してきた小沢は、その感動を、多くの女子部員に語っていった。彼女の話を聞き、新潟では、女子部員が次々と通信員を希望し、若い力が、支局の原動力となっていた。
 この聖教新聞社の新社屋での通信員大会に、新潟県の佐渡から参加していた本田芙美代も、小沢に励まされ、通信員となった一人であった。
 彼女は、中学時代に佐渡で、家族とともに入会し、高校を出ると、東京の薬科大学に進んだ。薬剤師の国家試験に合格した彼女は、東京での就職を希望していたが、持病の貧血のために、泣く泣く、故郷の佐渡に帰って来た。
 本田は、しばらくは悶々としていた。佐渡の海を見ていると、自分が荒波に翻弄される小舟のように感じられてならなかった。
 そんな時、女子部の新潟の中心になっていた小沢から激励された。
 本田は、ここで、もう一度、一から信心を学び、自分の宿命を転換していこうと思った。また、小沢に言われ、通信員の手伝いをすることになった。
50  大河(50)
 小沢は、本田に、通信員の手伝いを通して、再起のきっかけをつかんでほしかった。また、本田なら、通信員に最適ではないかと思ったのである。
 本田は、やがて、薬剤師の資格を生かし、薬局を開くことができた。彼女は、多くの同志の取材にあたるなかで、真実の人間の輝きに触れる思いがした。
 日蓮大聖人ゆかりの佐渡で、広宣流布に生きることを無上の誇りとし、黙々と弘教に励む婦人。創価の旗を掲げ、旧習と戦い、信頼の輪を村中に広げた壮年……。
 ″私も、佐渡の広宣流布のために生きたい″と願うようになっていた。
 体を悪くして故郷に帰ってきたのも、そのためであったと、思えてならなかった。
 本田は、正式に通信員となり、大きな力を発揮していった。
 緊急な取材もあった。彼女は、佐渡の小木港のすぐ近くに住んでいたが、この港から出る船は一日一往復であった。体験を取材して、原稿を書き上げ、港に急いだが、船は桟橋を離れ始めていたこともあった。
 「これ、お願いします」
 船に向かって、原稿とフィルムの入った封筒を思いっ切り投げた。顔なじみの船員が受け止めてくれた。
 島内の交通の便も、決してよいとはいえなかった。取材をしていて、最終バスに乗り遅れ、女子部員の家に泊めてもらったこともあった。
 彼女が最も心を砕いたのは、正確な記事を書くことであった。特に名前や日時などの確認には、細心の注意を払った。新聞の生命は正確さであり、一字一句でも間違いがあれば、営々として築き上げてきた聖教新聞の信用を、自分が失墜させてしまうことになるからだ。
 苦心して送った原稿や写真が、使ってもらえないこともある。しかし、本田は、その時こそが、勝負だと思った。
 落胆して情熱を失うのか。今度こそ、と闘魂を燃やすのか――その積み重ねが、自身の生き方となり、それが、人生の幸・不幸を決定づけていくことになる。
 彼女にとって、通信員の活動は、常に「挑戦」の心を鍛え、培うための訓練の場であった。
 そうした場をもてたことに、本田は感謝していた。
51  大河(51)
 彼女は、自分の記事や写真が紙面を飾るのを見ると、どんな苦労も吹き飛んだ。佐渡の同志の活動や体験が皆の目に触れるのだと思うと、通信員の使命を果たした喜びに、胸が熱くなるのであった。
 そして、自分でも気づかぬうちに、いつの間にか、持病の貧血も治っていたのである。
 彼女は、女子部にあっても、支部の中心者として活躍していった。
 女子部の幹部としての活動と通信員としての活動を両立させる苦心は、並大抵のものではなかった。しかし、一歩も退かなかった。
 山本伸一は、そうした新潟の通信員たちの活躍を耳にし、この一九七〇年(昭和四十五年)の九月、聖教新聞社の新社屋落成を記念し、代表して本田に書籍を贈った。
 そこには、次のような句が認められていた。
 「佐渡ケ島 わするることなし 師弟不二」
 伸一は、通信員の姿のなかに、広宣流布という平和社会を建設する、言論の闘士の模範を見ていたのである。だから、全国各地の通信員の活躍に最も期待を寄せ、その成長のために、力の限り、励ましを送り続けてきたのだ。
 広島の通信員に、子どもの時に原爆の惨禍に巻き込まれた女性がいた。原爆症がいつ発症するかもしれないという恐怖のなか、十七歳で信心を始め、その後、通信員となった。
 真の平和を建設する言論戦を展開しようと、通信員の活動を続ける、この女子部員のことを知った伸一は、書籍に「大思想は 原爆を恐れじ」と認めて贈っている。 
 新社屋での通信員大会は、喜びのうちに幕を閉じた。その報告を聞いた伸一は、自らに言い聞かせていた。
 ″私も、皆の先頭に立って戦おう。広宣流布という言論戦の砦たる聖教新聞に、生涯、一通信員、一記者のつもりで、原稿を書いて書いて、書きまくろう。さあ、戦闘開始だ!″
 夕刻、伸一は、本部周辺を車で回りながら、そびえ立つ聖教新聞社の新社屋を見上げた。
 その屋上には、新聞社の社旗が、夕焼けに染まった空を背景に、さっそうと翻っていた。

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