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日蓮大聖人・池田大作

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第14巻 「智勇」 智勇

小説「新・人間革命」

前後
2  智勇(2)
 次いで山本伸一は、一九七一年(昭和四十六年)の開学をめざして着々と準備が進められている創価大学の在り方と、現今の学生運動について言及していった。
 「現在、各大学で紛争が続発し、深刻な社会問題となっておりますが、この泥沼化した姿こそ、新しい理念と思想による全く新しい大学の出現を待望する、時代の表徴であると考えたい。
 創価大学の第一の特色は、教授はたとえ無名であっても、青年のように旺盛な研究意欲をもち、教育に生命をかけて取り組んでいく人をもって、構成するということであります。そうした人びとを核にして、あとはテーマに応じて、創価大学設立の精神に賛同する、内外の一流の学者などに、どしどし教壇に立っていただこうと考えております。
 私も勉強し、もし、大学当局のお許しをもらえれば、文学論の講義をさせていただきたいと思っております」
 拍手が高鳴った。「しかし、おそらく、だめでしょう」
 すると、今度は、どっと笑いが起こった。
 伸一は、学生運動の提起した問題の本質は、教授の精神の老い、権威主義などによる教授と学生の隔絶感、対立にあるととらえていた。
 吉田松陰という一人の青年教師が、長州・萩の松下村塾で、近代日本の夜明けを開く原動力になった塾生たちを育んだように、教師の情熱、魂の触発を、彼は最も重要視していたのである。
 「教授と学生とは、相互に対峙する関係ではなく、ともに学問の道を歩む同志です。いわば、先輩と後輩であり、あくまでも民主的な関係でなくてはならない。
 したがって、学内の運営に関しても、学生参加の原則を実現し、理想的な学園共同体にしていきたいのであります」
 さらに伸一は、民衆に開かれた大学として、将来、通信教育部を開設する展望を語っていった。
 彼は、建学の構想の段階から、いち早く「通信教育部」に焦点を当てていたのである。
 「かつて一人として民衆の要求にもとづく大学の設立を考えた者はいない」とは、文豪トルストイの指摘だ。今、伸一は、その課題に、敢えて挑戦しようとしていたのである。
3  智勇(3)
 また、仏教東漸の道となったシルクロードへの学術調査団の派遣や、人間主義経済の研究等も行っていきたいなど、創価大学の構想を語っていった。
 次いで、創価大学の基本理念として、「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」との、三つのモットーを発表したのである。
 「このモットーの第一は、人間を社会のメカニズムの部品と化し、人間性を無視している現代の教育界の実情に対して、あくまでも社会をリードしていく英知と創造性に富んだ、全体人間をつくっていく大学でなければならないということを示したものです。
 モットーの第二は、行き詰まっている現代文明のなかにあって、仏法の生命哲学を根底に置き、人間生命の限りなき開花を基調とする、新しい大文化を担っていくことであります。
 そして、モットーの第三に、人類の平和を標榜したゆえんは、新しき文明の建設も、未来社会の開拓も、平和の実現なくしてはありえないからであります。
 世界を戦乱に巻き込んで、民衆を不幸のどん底に叩きこむようなことがあっては、絶対になりません。
 いかにして平和を守るか。これこそ、現代の人類が担った、最大の課題であります。
 今、私どものつくる創価大学は、民衆の側に立ち、民衆の幸福と平和を守るための要塞であり、牙城でなければならないと申し上げておきたいのであります」
 フランスの哲学者アランが、「われわれの未来全体が、教育にかかっている」と述べているように、いかなる大学をつくるかが、いかなる次代の指導者を育むかを決定づける。それは、そのまま日本の、さらに、世界の未来を決定づけてしまう。
 たとえば、日本を代表する大学である東大設立の目的は、鎖国による遅れを取り戻し、西欧文明を急速に吸収し、国家のために働く人間をつくり出すことにあった。 
 この考えは、その後にできた大学にも、深く浸透していった。伸一は、ここに、今日の日本の大学教育の限界があると考えていたのだ。
4  智勇(4)
 大学が社会に貢献し、国家の進歩、発展に役立つ人材を育成するのは当然であるが、さらに大きく視野を広げるべき時代がきていると、伸一は確信していた。
 二十一世紀は、「国益」の追求から「人類益」の追求へ、「分断」から「融合」へ、「戦争」から「平和」へと向かわねばならぬ時代である。大学も、国家のために働く人間から、人類の幸福と世界の平和・繁栄のために働く人間の育成へと、変わるべき時を迎えているといえよう。人材像もまた、単に知識や技術の吸収にとどまらず、人類の幸福を実現する高い理念と、優れた人格をもち、技術、学術を使いこなしていける創造的な人間へと変化していかねばならない。そして、そうした人材を育むには、大学に、精神の基盤となる、確たる教育理念が求められる。
 まさに、仏法の人間主義ともいうべき生命の哲学を根底にした、創価大学の誕生が待たれるゆえんであった。
 伸一は、ここで、学生運動に話を移した。
 「現在の学生運動が、既存の大学の在り方、また、ひいては社会それ自体の矛盾と不合理への抵抗として起こっていることは、私も、よく理解しております。しかし、その半面、純粋な青年の心情が、一部の扇動家や政治家によって利用され、改革の理想とは逆コースに入りつつあります。
 学生運動が分裂を重ね、幾つものセクトに分かれて、無用な混乱を繰り広げていることも、その一例です。こうした学生の姿を見るにつけ、私は残念でならない。
 もしも、このまま混乱が続き、いつまでも悪循環を繰り返していけばどうなるか。
 健全な学生運動の発展のために、日本の将来のために、学生運動の第三の道を考えることも必要ではないか――こうした気持ちをいだくのは、私一人ではないと思いますが、皆さん、いかがでしょうか」
 日大講堂の大鉄傘を揺るがさんばかりの、大拍手がわき起こった。
 「あとは慎重に、学生部の諸君に検討していただきます。そして、皆が正しいと思った方向に進んでいってもらいたい」
5  智勇(5)
 伸一はこのあと、人類文化史上における仏法の意義、折伏と慈悲の関係などについて話し、講演を終えた。
 彼が最も心を砕き続けていたのは、学生運動の行方であった。
 学園紛争の火は、六月末には、全国百三大学に広がっていたが、その発端は大学ごとに異なっていた。学費の値上げや、学生会館の管理権をめぐる問題など、さまざまであった。
 各大学では、当初、セクトに所属しない、いわゆる「ノンセクト」の学生が中心となって、全学共闘会議を結成し、問題の解決や責任の糾明を求めてストライキなどを行っていった。そこに多くの学生が参加し、「全共闘運動」として広がっていったのである。
 そのなかで学生たちは、大学のもつ封建的、特権的な体質と伝統、学生不在の自治の実態など、現代の大学の積年の病理を暴き出していった。
 そして、″大学は国家権力と結びつき、結果的に公害や人間の抑圧などをもたらすシステムの一環になっているのではないか″という、大学そのものへの疑問と矛盾が提起されたのである。それは、既成の価値観を否定し、戦後日本の支配構造と権力者たちのエゴイズムを明らかにすることでもあった。
 同時に学生たちは、大学に学び、研究する自分自身もまた、人間を管理し、支配、抑圧しようとする国家権力に加担している存在であるとの自覚をもつに至った。単に「被害者」として自分を位置づけるのではなく、「加害者」としても位置づけていった。
 その帰結として、大学の解体とともに、「自己否定」「自己変革」がテーマとなっていったのである。つまり、自身の内面に目を向け、人間としていかにあるべきかという根源的な問いを突きつけたところに、全共闘運動の特徴があり、また、そこに、この運動の広がりもあったといえよう。
 しかし、そのテーマが、徹底して掘り下げられることはなかった。「自己否定」という言葉も、むしろ他者に自己批判を迫り、攻撃する際の、″憎しみ″の言葉となっていったのである。
6  智勇(6)
 いずれの大学も、学校側は、学生たちの突きつけた問題に対して、なんら根本的な解決を図ろうとはしなかった。
 各大学で学生たちは、校舎を占拠し、バリケードを築いていった。立てこもった学生たちを、力ずくで排除しようと、警官隊を導入する大学もあった。
 ところで、スチューデントパワーの台頭は、決して日本だけの現象ではなかった。前年(一九六八年)の三月には、フランスでもパリ大学のナンテール校で、大学の制度や施設の改善などを要求していた急進派の学生たちが教室を占拠するという出来事が起こった。大学側は、その後、対抗措置として、同校の閉鎖に踏み切った。
 すると、学生たちは、五月三日(現地時間)、カルチェ・ラタンにあるパリ大学ソルボンヌ校で、ナンテール校閉鎖に抗議する集会を開いた。大学側は、警官隊を導入し、学生たちを排除した。これが、多くの学生の怒りの火に油を注ぐことになった。
 学生たちは、カルチェ・ラタンの街にバリケードを築いた。マロニエの並木が新緑に染まる街路に、火炎瓶が炸裂し、炎と黒煙が上がった。そこに、警官隊の発射した催涙ガスが充満した。学生と警官隊の、激しい市街戦が繰り広げられたのである。そして、学生約六百人が逮捕され、ソルボンヌも閉鎖された。
 これが、ド・ゴール政権を揺さぶることになる″五月危機″の始まりであった。以後、三万人の学生が凱旋門に集まるなどの抗議行動が繰り返された。この動きに、労働総同盟などの大労組も連帯を表明し、全国的な規模での大ストライキに発展していった。各地で労働者による工場の占拠も行われ、八百万人を超える人が参加する大々的なゼネストとなったのである。
 一方、アメリカでも、ベトナム戦争に反対する学生たちのデモが、盛んに行われていた。
 こうしたスチューデントパワーの高まりは、人間性を抑圧する社会の管理機構への、青年たちの不満の爆発であり、さらには、既存の社会の価値観に対する、拒否の宣言にほかならなかった。
7  智勇(7)
 青年の純粋な心は、曇りのないレンズのように社会の歪みを正直に映し出し、容赦なく批判の矢を放つ。日本にあっても、経済的な豊かさや生活の便利さと引き換えに生じた、人間疎外、環境破壊等々には目を背け、欺瞞の「繁栄」に安住する大人たちの感覚に、青年たちは我慢がならなかったのである。
 だが、そのスチューデントパワーの波も、結局は、国家権力によって、打ち砕かれていくことになる。その象徴的な出来事が、この年一月、東大・安田講堂を占拠していた学生たちが、機動隊との二日間にわたる激しい攻防戦の末に、排除されたことであった。
 東大紛争は、前年一月の、インターン制度廃止にともなう登録医制の導入に反対する、医学部の無期限ストに端を発していた。
 このストのなかで、付属病院の医局長の監禁事件が起こり、大学側は、学生、研修生ら十七人を処分した。しかし、そのなかに、事件の現場にいなかった学生も含まれていたことから、学生たちは抗議行動を起こし、医学部の建物の一部を占拠し、さらに六月には、東大のシンボルである安田講堂を占拠した。
 学生たちは、処分の白紙撤回と、教授会との団体交渉を求めていた。だが、大学側は、すぐに機動隊を導入し、学生たちを排除したのだ。それが学生たちの怒りを爆発させた。これを契機に、紛争は全学に広がっていった。
 再び安田講堂は学生に占拠され、この講堂で東大全共闘が結成されたのである。
 そして、安田講堂をはじめ、工学部列品館、法学部研究室などが、学生によってバリケード封鎖されたなかで年を越し、新年を迎えた。
 入学試験も次第に迫ってきていた。一月十七日の午後十一時、大学側は、籠城を続ける学生たちに「退去命令」を出した。もとより学生たちがそれに応じる気配はなかった。大学側は、警視庁に機動隊の出動を要請した。
 十八日、午前七時、約八千五百人の制・私服警官が、続々と東大構内に入り始めた。
8  智勇(8)
 東大構内の三四郎池には薄氷が張っていた。機動隊員の吐く息が白かった。
 警視庁のヘリコプターが轟音を響かせるなか、放水車、防石車など、百台近い車が導入されていった。警視庁は、学生たちの激しい抵抗に備え、一万発の催涙ガス弾を用意したほか、警察官の一部には、ピストルも携帯させていた。
 安田講堂をはじめ、占拠した校舎に立てこもっていたのは、反日共系の学生たちであった。機動隊が入るまでは、日共系の学生たちも医学部本館や教育学部校舎にいたが、既に姿を消していた。
 攻防が始まった。紺のヘルメットに、紺の制服、長靴に身を固めた機動隊員が、構内になだれ込み、次々と封鎖を解除していった。
 攻め込む機動隊も、学生たちと、ほぼ同年代の若者である。
 五十人ほどの学生が立てこもっていた工学部列品館では、五百人ほどの機動隊員が封鎖解除にあたったが、強い抵抗にあった。機動隊はガス銃を一斉に撃ち込み、放水を繰り返した。学生たちは、ベニヤ板で水をよけ、ガス弾を投げ返し、火炎瓶やコンクリートの破片を投げて応戦した。
 学生にも、機動隊にも怪我人が出た。学生側の怪我人を救出するために、″休戦″する一幕もあった。
 また、列品館の屋上にいた学生の一人は、顔にガス弾の直撃を受け、重傷を負った。
 学生たちは、マイクを手に叫んだ。
 「学友が直撃弾で失明しかけている。われわれを攻撃している隊長に申請する。この学友の救出をお願いしたい!」
 機動隊員は、口々に叫んだ。
 「甘ったれるな!」
 殉職を覚悟で任務についた機動隊員には、学生たちの要求が、あまりにも身勝手なものに感じられたのであろう。
 機動隊のスピーカーが答えた。
 「抵抗をやめて、全員出てこい!」
 「それが、隊長の答えですか?」
 学生たちは、繰り返し尋ねた。
9  智勇(9)
 しばらくの間、沈黙が流れた。
 それから、意を決したように、学生たちのスピーカーは告げた。
 「われわれは、学友を救うために、無条件降伏する……」
 午後一時過ぎ、列品館に立てこもっていた学生たちは白旗を掲げた。突入した機動隊員が学生たちを取り囲み、女子学生三人を含む、三十数人が逮捕された。
 一方、安田講堂でも激しい攻防が展開された。
 突入しようとする機動隊に、学生たちは、火炎瓶や石を投げつけて抵抗を続けた。
 機動隊は、空中からヘリコプターを使い、講堂屋上に向かって、催涙ガス弾を投下。さらに、地上からも、ガス弾の一斉射撃を開始した。そして、放水車を使って、催涙液の放水も行われた。その模様を、加藤一郎東大総長代行は、眉間に深い皺を刻んで、腕を組みながら、沈痛な顔で見つめていた。
 この十八日の夕刻までに、機動隊の手で、工学部列品館、法学部研究室など、二十三の教室や研究室の封鎖が、次々と解除されていった。
 だが、安田講堂の学生たちを排除することはできなかった。日が沈み、危険度も増したために、解除作業は、翌朝に持ち越された。機動隊は、学内で一夜を過ごした。翌十九日も、早朝から機動隊が、安田講堂に立てこもる学生の排除にあたった。
 放水車に援護され、講堂内に入った機動隊は、ロッカー、机、イスなどで築かれたバリケードを、電気ドリルや切断機を使って、次々と取り除いていった。
 講堂のなかでも、ガス弾が発射された。学生たちは、火炎瓶、石、竹槍などを使って応戦したが、二階、三階、四階と次第に封鎖は解除され、屋上に追い上げられていった。
 午後四時過ぎ、講堂の屋上の学生たちは、投石をやめ、「インターナショナル」を歌い始めた。その歌声に合わせて、右に左に赤旗が揺れた。
 スピーカーを使い、学生の代表が悲痛な声で訴えた。
 「われわれがなぜ戦いをやめないか、考えてほしい……」
10  智勇(10)
 夕闇が迫っていた。
 機動隊は、安田講堂の屋上へ、さらに、講堂の時計台の上へと駆け上がっていった。
 学生たちは、次々と逮捕された。屋上に立てられた赤旗も外された。
 これによって、前年の七月以来、約半年ぶりに、学生による安田講堂の封鎖が、遂に解除されたのである。この日、不退去罪などの現行犯で逮捕された学生は、女子学生十三人を含む、三百七十五人と発表された。また、前日の十八日から、国電(当時)御茶ノ水駅周辺では、″東大闘争″を支援しようとする反日共系の学生と、機動隊が激突し、攻防が続いていた。
 学生たちは″解放区″をつくろうと、机やイスを路上に積み上げてバリケードにし、激しい投石等を行った。そのため、一帯は、車や商店街のガラス戸、看板等が壊され、電車も止まるなど、大混乱に陥ったのである。
 山本伸一は、これらの模様を、テレビのニュースで見ていた。そして、十八日の朝以来、学生にも、機動隊員にも、断じて死者など出ないように、懸命に祈り続けていた。
 彼は、機動隊が入る数日前の夕刻、東大構内を視察し、安田講堂のすぐ側まで足を延ばした。半年余りも講堂内に立てこもっている学生たちの様子が、気がかりでならなかったからである。
 構内の随所に、学生が数十人ずつ、ゲバ棒を持って集まっていた。講堂からは、ヘルメットを被り、タオルで口元を覆った、幾つもの学生の顔がのぞいていた。
 数分であったろうか、伸一は立ち止まって、講堂を見ていた。
 ――食事や入浴はどうしているのだろうか。改革のために、いかなるビジョンを描いているのだろうか。自分の将来については、どう考えているのだろうか……。
 彼の頭に、さまざまな思いが浮かんだ。
 二、三人の学生が、講堂から出て来た。
 伸一は、彼らに話しかけようとした。
 だが、それを同行の幹部が、腕を引っ張って制した。
 伸一も、もしトラブルになってはいけないと思い、言葉をのんだ。
11  智勇(11)
 機動隊によって安田講堂の封鎖が解除された十九日は日曜日であり、教学部の任用試験が、午後一時から、全国各地で行われた。山本伸一は、この日、東京・墨田の墨田会館、葛飾の青戸会館を訪問して受験者を激励した。引き続き、足立区の増改築中の会館を視察したあと、文京区内で行われる明治大学会の結成式に向かった。
 車のラジオは、東大の安田講堂の攻防の模様を伝えていた。
 伸一は、ドライバーに頼んだ。
 「御茶ノ水方面から、東大を回ってもらえないだろうか。車で近づけるところまででいいから、行ってほしい」しかし、御茶ノ水駅周辺は、学生たちが″解放区″をつくろうと、道路にバリケードを築いて封鎖したために、迂回せざるをえなかった。東大のある本郷周辺の道路も車は通行できず、学生と群衆で大混雑していた。
 ニュースでは、学生にも、機動隊にも、かなりの怪我人が出ていると報じていた。伸一の胸は、激しく痛んだ。皆、未来を担う、大切な宝の青年たちである。また、立てこもっている学生のなかにも、学生部員や学会員の子弟がいるかもしれない。
 でも、どうすることもできなかった。
 ″こんな事態を繰り返さぬために、新しい運動の道が開かれなければ、皆が不幸だ……″
 このころ、東大構内は静寂に包まれていた。屋上で投石を続けていた学生たちが抵抗をやめて、整列し始めたのだ。遂に″安田城″落城の瞬間が、迫りつつあったのである。
 明大会の結成式の会場に伸一が到着したのは、午後四時過ぎであった。
 五十人ほどのメンバーが集っていた。
 「どうもご苦労様! 東大だけでなく、明大のある御茶ノ水の辺りもひどいことになっているね。今、見てきたんだよ。運動が迷路に入ってしまったね……」それから、伸一の導師で勤行したあと、懇談が始まった。
 学生の一人が尋ねた。
 「革命児として生き抜くとは、どういう生き方でしょうか」
12  智勇(12)
 質問したメンバーだけでなく、参加者は皆、国家権力による人間の抑圧を粉砕するために、社会の改革が必要であると感じていた。そこに「人間の良心」が、「正義の道」があると確信していた。
 しかし、ストライキを起こし、大学にバリケードをつくって籠城することで、社会を革命できるとは思えなかった。また、学生時代は革命を口にしながらも、就職してサラリーマンになれば、企業の論理に従わざるをえない。そうなれば、人間を抑圧する側の、歯車の一つになりかねないと思っていた。そのなかで、いかにして革命の理想を貫けばよいのかというのが、多くの学生部員の悩みであったといってよい。
 伸一は、メンバーの質問に答えて、語り始めた。
 「革命というと、ロシア革命とか、フランスの革命にとらわれ、その先入観でものを考えてしまうが、そんな必要はありません。昔の革命と同じ方法で、新しい社会の建設がなされると考えるのは浅薄です。ゲバ棒を振るって、暴力革命で、社会が改革できるなんていうのは幻想です。また、そんな革命家像は過去の英雄です。
 私は、青年たちのなかから、絶対に一人も犠牲者を出したくない!」
 強い語調であった。皆、その言葉に、伸一の思いを感じ取った。
 「帝政ロシアの時代や、フランスのアンシャンレジーム(旧制度)の時代は、一握りの支配者が栄華を貪っている、単純な社会だった。しかし、今は、社会は高度に発達し、多元化しています。利害も複雑に絡み合っている。矛盾と不合理を感じながらも、既存の秩序の安定のうえに、繁栄を楽しむ人びとが圧倒的多数を占めています。そうした現代社会に、単純な暴力革命の図式はあてはまりません。
 全共闘が提示した最大のテーマは、権力をもつ者のエゴを、さらに、自己の内なるエゴを、どう乗り越えるかということではないかと思う。つまり、求められているのは、権力の魔性、人間の魔性に打ち勝つ、確かなる道です」
13  智勇(13)
 伸一は断言するように語った。
 「人間のエゴイズム、魔性を打ち破り、人間性が勝利していく時代をつくるには、仏法による以外にない。それは、生命の根本的な迷いである『元品の無明』を断ち切る戦いだからです。大聖人は『元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか』と仰せです。仏法によって、内なる『仏』の大生命を開き、人間自身を変革する広宣流布なくして、解決はありません。
 広宣流布とは、一個の人間の人間革命を機軸にした、総体革命なんです。仏法の生命尊厳の哲理と慈悲の精神を、政治、経済、教育、芸術など、あらゆる分野で打ち立て現実化していく作業といえます。
 そして、科学も、医学も、法律も、さまざまな制度も、人間のつくりあげたすべてのものが、人間の幸福のために寄与し、価値を創造していく社会をつくることが広宣流布の目的です。したがって、仏法者は現実の社会に対して眼を閉ざしてはならない」
 質問したメンバーが頷いた。
 伸一は話を続けた。
 「結論を言えば、一人の人間の生命を変革する折伏に励むことこそが、漸進的で、最も確実な無血革命になるんです。さらに、生涯を広宣流布のために生き抜くことこそが、真の革命児の生き方です。また、君自身が社会のなかで力をつけ、信頼を勝ち得ていくことが、折伏になります。私たちが、行おうとしていることは、未だ、誰人も成しえない、新しい革命なんです。それを成し遂げ、新しい時代を築くのが君たちなんだ」
 伸一は、一人ひとりに視線を注いだ。皆の顔は、新時代建設の決意に燃え輝いていた。
 機動隊の導入によって東大の封鎖が解除された翌一月二十日、加藤一郎総長代行は坂田道太文相と、一九六九年(昭和四十四年)の入試について会談した。
 大学側は入試の実施を強く主張したが、授業の再開に全力をあげるべきだとする政府側の合意は得られなかった。そのため、結局、この年の東大入試は、中止と決定したのである。
14  智勇(14)
 機動隊による東大の封鎖解除は、その後の学生運動に極めて大きな影響を与えることになる。″東大闘争″に加わった学生をはじめ、全共闘を支援してきた各大学の学生は、国家権力の壁がいかに堅固であるかを痛感した。
 逮捕され、挫折と失望に、打ちのめされた青年も少なくなかった。進むべき道を見失い、空虚感に苛まれる学生もいた。
 そのなかで、警察の武力に対して、角材や火炎瓶ではなんの力にもならないと考え、軍隊を組織し、武装化しようとするセクトが台頭していくことになる。山本伸一は大学の現状と未来を憂慮しながら、どうすれば、解決の道が開かれるのかを考え続けてきた。
 ――学生たちは、純粋な思いで、大学の抱える矛盾や社会の不合理を、鋭く突いていった。それは、青年の正義感の発露であった。しかし、その訴えに対して、問題解決のためにともに悩み、考えようとした教授が、果たして何人いたであろうか。学生たちがストライキを起こしたり、「団交」などを要求してくる以前に、総長も、学部長も、教授も、自分の立場や権威など振り捨てて、学生の訴えに本気になって耳を傾け、対話を重ねるべきではなかったか。
 だが、その勇気がなかった。その情熱と努力があまりにも乏しかったといわざるをえない。むしろ、教授たちは、権威を振りかざして、居丈高な対応に終始してきた。それが、学生の不信を募らせていったのだ。
 伸一は、東大の封鎖が解除される前に発刊された、婦人雑誌『主婦の友』(一九六九年二月号)に、「学生問題に私はこう思う」と題して原稿を寄せた。
 そのなかで彼は、教授たちに、「学生への愛情と信頼がなかったところに、紛争がかくまで手のつけようのないものとなった根本原因があったのではないかと思う」と述べている。彼は、警察の力で強引に学生をねじ伏せ、紛争の解決を図るようなことは、絶対にあってはならないと思っていた。国家権力の介入によって、大学の自治が侵されることを恐れていたからである。
15  智勇(15)
 さらに、政府内部に警官隊の導入など、強硬意見があることについても、「自らの文部行政の無能をタナにあげた愚行であり、事態をますます紛糾させるだけである」と訴えた。
 そして、大学紛争が拡大していく背景には、階級闘争を目的とした一部の破壊主義者の扇動があることに触れ、次のように記している。
 「彼らが、一般学生を動員し、今日の騒ぎを起こすことができたのは、それなりの欠陥と、不合理が現実にあるからである。
 したがって、解決の糸口は、まず、この欠陥なり、矛盾なりを是正して、病源を取り除くことが急務だ」
 また、学生たちが、純粋な動機とは裏腹に、ゲバルトという破壊的な抵抗運動に走っていった原因は、確かな理念がないからであると指摘するとともに、断じて暴力行為は許されないと訴えたのである。
 「現実に、国民大衆の大多数が、学園での暴力主義に眉をひそめ、学外での過激な活動に憤りさえ感じている。それでは、革命的大衆を立ち上がらせるための起爆剤という目的が、しだいに失われていってしまうであろう。(中略)大衆を敵にまわしては、いかなる革命もありえない」
 さらに、これからの時代の革命に言及していった。
 「人間尊重の精神を基調とした高い理念と、思想による個々の人間の精神革命でなくてはならないと私は思っている。一人の人間を、心より納得させ、変革できないで、どうして社会全体を変えることができようか。暴力による破壊は、相手の理性に訴え、納得させる理念と、思想とをもたない、人間失格者の用いる手段といわれてもしかたあるまい。それが、私は残念でならない」
 目的は手段を選ぶものだ。暴力という方法を用いた瞬間、いかに崇高な理想も汚辱にまみれる。革命途上に生じた矛盾や非人間的な実態は、革命後の社会の在り方を映し出す鏡なのである。
 伸一は、祈るような気持ちで原稿を綴った。学生たちが、わが子、わが弟妹のように思えてならなかったからである。
16  智勇(16)
 東大の封鎖が解除されたあと、学生たちの運動は″学園闘争″から″政治闘争″の色合いを濃くし、その行動は先鋭化していった。
 山本伸一が「学生運動の第三の道」を提案した本部総会から、三週間後の一九六九年(昭和四十四年)五月二十四日のことであった。政府は「大学の運営に関する臨時措置法案」、いわゆる「大学立法」を国会に提出した。
 この法案は、紛争大学の「自主的な収拾のための努力をたすける」ことを主眼とするとうたっていたが、教育・学問の府への、国家権力の介入、管理であることは間違いなかった。
 たとえば、文部大臣は紛争が九カ月以上経過した国立大学に対しては、教育・研究停止(閉校措置)ができるとしていたし、閉校後三カ月以上経過しても収拾が困難な時は、廃校などの措置を取るとしていた。法案は、公立、私立大学についても、準用をうたっていた。
 管理の強化によって紛争の解決を図るというのでは、大学問題の本質から目をそらし、ますます病根を深くすることになりかねない。
 伸一は、直ちに、「大学革命について」と題して筆を執った。それは総合月刊誌『潮』に連載中の「文明随想」として、六月初旬発売となる七月号に掲載された。
 そのなかで彼は、大学の再建にはビジョンが必要であり、それは、人間存在そのものについて明快な解決を与える理念でなくてはならないとして、「『生命の哲学』を求めよ」と訴えている。そして、最後に、こう提案したのである。
 「現在の政界の一部には、政治権力の介入によって大学の再建を図ろうとする動きがあるようだが、それでは、さらに火に油を注ぐことにしかなるまい。真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならないと思う。
 本来、教育は、次代の人間と文化を創る厳粛な事業である。したがって、時の政治権力によって左右されることのない、確固たる自立性をもつべきである。その意味から、私は、これまでの立法、司法、行政の三権に、教育を加え、四権分立案を提唱しておきたい」
17  智勇(17)
 教育権の独立は、伸一が、大学問題を通して、教育の在り方を思索し続けてきた、一つの結論であった。
 真に人間の幸福に寄与する教育を実現していくには、人間への深い洞察に基づいた教育理念や教育方法等の研究が不可欠である。そのためには教師、学識者、学生、さらには父母も加わった自由な話し合いが必要であり、なかでも、教師の主体的な研究や教育実践を認めることが極めて重要となる。
 ところが、教育権は行政権の一部とされ、一般行政のなかに、文部省を中心とする教育行政が含まれているのだ。これでは、どうしても、政治権力の教育への介入を避けることはできない。
 そこで伸一は、教育の自主性、独立性を確保するために、立法、司法、行政の三権に教育を加えた「四権分立」を提唱したのである。
 それは、まさに、政府が推し進めている大学立法の対極に立つ主張であり、大学、そして、教育の在り方を根本から改革する提唱であった。
 伸一の対応は、実に素早かった。時宜を得た発言であった。どんな気構えをもっていようが、声をあげるべき時にあげなければ、眠っているに等しい。言論戦とは、まさに、「時」を見極める戦いであり、また、時間との勝負でもある。
 大学立法が国会に提出され、学問の自由に強い危機感をいだいていた学生部員は、伸一の「四権分立」構想に、強い共感を覚えた。目から鱗が落ちる思いであった。
 各キャンパスでは、この提言が載った総合月刊誌『潮』を手に、語り合う学生部員たちの姿が見られた。
 「これ、読んだか!」「もちろんだよ! ぼくは、四権分立という斬新的な構想に、体が震えたよ。
 大学立法は、大学の自治、学問の自由を脅かし、大学そのものを崩壊に追い込むものだと思う。しかし、ただ反対するだけでは、積極的な大学の改革にはならない。めざすべき教育構想を明示する必要がある。この教育権の独立という山本先生の主張は、まさに、その明確な進路を示すものだ」
18  智勇(18)
 学生部員たちは、高揚していた。
 女子学生の感想も鋭かった。
 「山本先生は随想のなかで、さりげなく『四権分立』構想を発表されたけど、これは大変なことだと思うわ。権力の濫用を防ぎ、教育・学問の自由を勝ち取っていくにはこれしかないもの。『三権分立』を主張したロック、モンテスキュー以来の大構想よ」
 別の女子学生が頬を紅潮させて語った。
 「その通りだわ。これは、人間主義の時代を開く、歴史的な提唱よ。この先生の提言を、埋もれさせては、絶対にならないと思うの。
 でも、ただ月刊誌に掲載されただけでは、わずかな人しか目にしないし、やがて、みんな、忘れ去ってしまうわ。だから、私たちが、この提言を、日本中に伝えて、世論を起こしていくべきだわ。そのために、まず、全教授、全学生に訴えていきましょうよ」
 哲学者プラトンは、「正しくて真実であると思われることは、何としてでも語らなければなりません」と述べている。まさに、それこそが、学生部員たちの決意でもあった。
 男子学生が、勢い込んで言った。
 「ぜひ、そうしよう。そして、教育権の独立を目標にした、ぼくたちの大学立法反対の運動を起こそうじゃないか」
 「賛成だ。ぼくらはこれまで、根本的な社会変革の道である折伏に全力を傾けてきた。
 しかし、大学という自分たちの存在基盤を脅かす悪法を前にして、反対運動も起こさずにいるなら、それは学生として無責任だと思う。やろうじゃないか!」
 全国各地のキャンパスで、学生部員は、「四権分立」と大学立法反対を叫んで立ち上がった。立正安国を使命とする仏法者としての自覚が、事態を黙って見過ごすことを許さなかったのだ。
 「四権分立」を提唱した文明随想「大学革命について」は、学生部員の強い要請があり、学生部の機関紙に転載された。メンバーは、この新聞を手に、キャンパスで、あるいは街頭で、大学立法の粉砕を叫んでいったのである。
19  智勇(19)
 学生部の書記局には、全国の大学から、連日のように、大学立法を阻止する広範な運動を展開すべきであるとの要請が寄せられた。書記局としても、これに賛同し、有志が中心となって立法阻止の全国的な協議会づくりの準備が進められていった。
 そして、「大学立法粉砕全国連絡協議会」が結成され、その結成大会が六月二十六日午後、東京・杉並公会堂で行われたのである。
 この運動を待ちわびていた学生部員も少なくなかった。
 九州を代表して参加した中山正治も、その一人であった。彼は、福岡県の私立大学の三年生であった。入会は中学生の時であり、学会の庭で育ってきた。
 大学に入学した中山は新聞会に入ったが、彼の大学では、自治会とともに、新聞会が学生運動の柱となっていた。ある時、大学が一方的に学費の値上げを発表したことから、自治会と新聞会は、大学側の代表との話し合いを求めた。
 学生たちは、理路整然と、値上げ反対の意見を語った。言葉遣いも丁寧であった。しかし、一人の教授は罵るように言った。
 「お前らのような学生と話し合う必要はない。そんな余地も時間もないんだ。問答無用だ」同席していた中山は、唖然とした。思わず、教授に詰め寄っていた。
 「それが良識ある教授ともあろう方の、学生に対する言い方ですか!」
 教授たちには、対話に応じようという姿勢は全くなかった。
 ″これほど権威主義だったのか。学生の自治など、皆無だと言わんばかりではないか!″
 中山の胸には、激情があふれ返り、闘志に火がついた。
 ″こんな不合理を放置しておくわけにはいかないぞ。変えなければ!″
 以来、彼は、学費値上げ反対の運動の先頭に立った。それは、学会のなかで育まれてきた、正義感のゆえであったともいえよう。彼は、各セクトの学生たちと一緒に運動を推進していくなかで、ベトナム戦争など、社会の諸問題に対して、仏法を持った人間として、どう取り組んでいくべきかを考えざるをえなかった。
20  智勇(20)
 中山正治は思った。
 ″各セクトの学生たちは、懸命に運動に取り組んでいる。しかし、機動隊とぶつかり、仲間が逮捕されたりするなかで、皆、国家権力に強い憎しみをもち、運動は次第に過激化し、破壊的になりつつある。そんな運動ではなく、仏法を基調にした、建設的な新しい大衆運動が必要ではないか。また、山本先生は、日中国交正常化やベトナム戦争の即時停戦、核問題等々、数多くの重要な提言を重ねてこられた。それらを実現するためにも、学会のなかから、民衆に根差した、新しい運動が起こらなければならない。
 そこに、私たち後継の青年の使命があるのではないか″
 中山は、そう考え続けてきただけに、本部総会での、「学生運動の第三の道」を、という山本伸一の訴えに、強く心を打たれた。そして、「全協」(大学立法粉砕全国連絡協議会の略称)の結成を聞き、勇んで結成大会に駆けつけたのである。
 中山に限らず、大学のさまざまな矛盾や不合理の解決のために、全共闘などの学生運動に参加している学生部員もいた。また、仏法者の立場から、反戦平和をはじめ、社会の諸問題に対して、新しい運動を起こすべきだと考える学生部員も少なくなかった。
 宗教は人格を陶冶し、陶冶された人格は、他者への同苦の心をもつ。そして、不幸や矛盾、不平等をなくそうと、社会的使命を自覚するに至る。
 まさに、「全協」は、社会的使命を自覚した学生たちの、新しき人間主義運動の発火点となったのである。
 会場となった杉並公会堂の壇上には、「大学立法粉砕 6・26全国連絡協議会結成大会」の横幕が掲げられ、「学問の自由を守れ!」などの文字が躍っていた。
 会場には、幟やプラカードを手に各大学の代表千数百人が駆けつけ、シュプレヒコールがこだまするなか、結成大会は幕を開いた。式次第は、開会宣言、経過報告、役員の紹介・承認、基調報告、代表決意と進められていった。
 議長に就いたのは、東大大学院一年の津野田忠之という青年であった。
21  智勇(21)
 議長の津野田は、決意表明で、大学立法を激しく糾弾していった。
 「同法案が五年という時限法案であることから見ても、安保改定を一年後に控え、激化する学生運動に対する、政府の治安対策であることは明らかである。しかも、政府は、この法案によって、大学への直接管理統制を図り、学問の自由を脅かす、国家権力の教育への不当な介入をめざす暴挙に出ようとしているのである」
 さらに、この大学立法は、教職員、学生の生活の侵害をも併発する恐れがあることを指摘し、こう訴えた。
 「われわれは、全国主要大学の創価学会学生部の有志、および大学立法に反対する一般学生諸君からつくられたグループの呼びかけに応え、ここに大学立法粉砕全国連絡協議会を結成し、より統一的、全国的な行動を国民大衆の前で展開するものである。
 この運動に対して、政府が強硬な態度で立ち向かってくるならば、われわれは、圧倒的な学生による野外大抗議集会等をもって、断固、立ち上がろうではないか!」
 集った千数百人の学生たちは、賛同の大拍手で応えた。
 政府は、法案成立に躍起になっていた。前年の十二月末に始まった第六十一通常国会は、五月二十五日までの百五十日間の予定であったが、会期は大幅に延長され、八月五日までの二百二十二日間という、異例の長期国会となった。なんとしても、この国会で成立させようというのだ。強行採決も辞さない構えであった。
 そこで全協では、七月十日に大阪・国民会館で抗議集会を行ったのに続いて、二十三日には、東京・明治公園で、代表約一万人が集って、野外抗議集会を盛大に開催したのである。
 この一万人集会では、「われわれ全協は、政府、国家権力の手に、大学の生殺与奪の権限を委ねた『大学法案』に断固反対し、政府の横暴を粉砕するまで戦い抜くことを宣言するものである」との抗議声明を発表した。
 しかし、そんな学生たちの叫びをせせら笑うかのように、翌二十四日、大学運営臨時措置法案は、衆院文教委員会で強行採決されたのである。
22  智勇(22)
 この暴挙は、野党の猛反発を招いた。だが、引き続き七月二十九日夜には、衆院本会議でも可決され、大学法案は参院に送付されたのである。
 学生部員たちは、圧倒的多数の学生が反対している法案が、強引に可決されていく様子に、憤りと悔しさを覚えた。そして、政治を動かしている、議席の「数」という現実を思い知らされ、選挙の重要性を痛感するのであった。
 男子学生部では、七月三十日から八月三日にわたって、総本山で、前・後期に分かれ、それぞれ二泊三日で夏季講習会が行われた。
 前期の二日目にあたる三十一日夕、グラウンドで全国野外統一集会が開かれた。
 参院で可決されれば、大学法案は成立してしまうことから、この統一集会は、立法の阻止に学生部員の最後の総決起を促す集いとなった。
 全国から集った学生たちは、各宿坊からデモの隊列を組んで、大学の旗やプラカードを掲げて、グラウンドに向かった。
 山本伸一は、各部の夏季講習会参加者の指導・激励のために総本山に滞在していた。彼は、学生部が野外統一集会を開くと聞き、自分も出席して、智勇兼備の若き同志を見守ろうと思った。
 彼には、大学立法粉砕に立ち上がった学生たちの気持ちが、痛いほどよくわかった。伸一自身も、大学の自治、学問の自由を、守り抜かねばならないと考えていたからだ。
 伸一はグラウンドに向かう途中、学生たちのデモの隊列に出くわした。
 「ご苦労様! どこから来たんだい」
 「東京です!」
 「そうか! 私も戦うよ。一緒に力を合わせて未来を開こうよ」
 こう言うと、彼は、一人の学生が持っていた旗を自ら握って、デモの隊列の先頭に立った。そして、学生から笛を借りると、ピッピッ、ピッピッと、吹き鳴らしながら、旗を手に、胸を張って行進し始めた。
 それに合わせて、学生たちは、「立法・粉砕! 闘争・勝利!」と叫びながら後に続いた。
23  智勇(23)
 グラウンドには、既に多くのメンバーが参集して、ジグザグデモを続けていた。
 そこに、デモ隊を率いて、伸一が入場してきた。彼は、グラウンドの入り口で、ヘルメットを被って顔をタオルで覆った学生に声をかけた。
 「その格好をしていると、みんな、ゲバルトの闘士のようだね」「ヘルメットは、私たちにとっては″反権力″の象徴なんです」
 「そうか。じゃあ、私も被るから、貸してください。学会は、権力の魔性と戦い続けていくんだから」
 伸一は、ヘルメットを被り、その紐に、学生の汗にまみれたタオルをくくりつけた。
 そして、再び高々と旗を掲げた。ウォーという歓声が広がった。
 やがて、開会が宣言され、京大、東北大など、各大学の代表から、時代変革への決意が披瀝された。会場には、終始、怒濤のような賛同の雄叫びがわき起こった。
 あいさつに立った全協の議長は、大学立法の粉砕に総力をあげて取り組んできた経過を報告したあと、強く訴えた。
 「今こそ、われわれは新たな決意で立ち上がるべき時を迎えた! 最近の国会審議に見られる強行採決など、政府・自民党の傍若無人なやり方は、議会制民主主義を根底から覆す暴挙であり、満身に怒りを覚えるものである。こうした事態が続く現在、われわれは、大学法案の立法阻止にとどまることなく、その横暴を打ち破り、民主主義と人権を守るために、より広範な戦いを展開していくべきであると考える。
 したがって、ここで全協をさらに拡大、発展させ、今秋には新しい学生同盟を結成したいと思うが、どうだろうか!」
 大歓声が轟き、大拍手が舞った。集った七千五百人の学生の顔は、闘魂に赤く染まっていた。伸一も、身を乗り出して、拍手を送った。
 彼は、心で語りかけていた。
 ″広宣流布は人類愛の闘争である。ゆえに、人びとの幸福の前進につながると考える、すべての課題に挑戦し、自由自在に、広宣流布の未来図を描いてくれたまえ。君たちこそ、二十一世紀の全責任を担うリーダーなのだから……″
24  智勇(24)
 学生部の幹部の一人がマイクを取った。
 「全国の戦う学友の諸君! 闘争の勝利を誓って、シュプレヒコールを行おうではないか!」
 伸一は、グラウンドに用意されたイスに座っていたが、彼も勢いよく立ち上がった。そして、学生たちとともに、右手を高く掲げながら叫んだ。
 「われわれは戦うぞ!」
 「大学立法、粉砕!」
 伸一は、学生部員を信頼していた。心から尊敬していた。だから、彼らの決断を全面的に支持し、ともに行動しようと決めていたのである。
 青年部幹部のあいさつが終わると、「先生! 先生!」という大歓声が地鳴りのように響いた。
 伸一は歓呼の声に応えて、マイクに向かった。
 「元気な諸君と、お会いできて嬉しい!
 創価学会は、正義と平和を守ることを第一義として、広宣流布の旗を掲げ、初代会長牧口先生以来、純粋に、命をかけて戦ってきました。今、その後継者たる諸君が、日本民衆を救い、世界の平和を築くために立ち上がった。
 学生部は、新しき社会を建設する日本第一の実力を備えている。諸君の決起こそ、日本の、世界の黎明を告げるものであります。どうか、民衆の幸福の実現のために、学友たちの未来のために、勇気と情熱をもって、新しい道を開いてもらいたい。また、さらに勉強し、団結しながら、五年先、十年先をめざして進んでいただきたい。
 私は、諸君が社会の檜舞台に立ち、悠然と戦っていけるよう、十センチでも、一メートルでも、道を開くために、命をかけて戦っていきます。
 私は、諸君の踏み台でいい。どうか、私を乗り越えて、民衆のために、また、自分自身の幸福のために、堂々と、朗らかに、前進していっていただきたい」
 最後に彼は、学生たちとスクラムを組み、ともに学生部の愛唱歌を合唱した。
 青年を守ることは、未来を守ることである。青年を利用し、その献身と犠牲のうえに、わが身の安泰を図ろうとする指導者がいる。どんなに巧妙に立ち回ろうが、やがて、若き英知は欺瞞を見破り、厚顔無恥なる仮面を引きはがすにちがいない。
25  智勇(25)
 男子学生部夏季講習会の後期二日目にあたる八月二日にも、グラウンドで全国野外統一集会が行われた。前夜から降り続いていた雨も午後にはあがり、雲間から差し込む太陽の光に、木々の緑が映えていた。
 しかし、学生部員の顔は曇り、緊迫した空気に包まれていた。延長国会の会期切れが迫り、参院文教委員会で、大学法案の強行採決が行われることが懸念されていたからである。
 午後四時過ぎ、山本伸一は、彼が宿坊としていた雪山坊の前で、デモ行進しながら、統一集会に向かう学生たちを見守っていた。
 やがて、「B52撤去」と書かれたプラカードなどを掲げた、沖縄学生部の隊列がやって来た。伸一は、前に進み出ると、両手をあげ、声をかけた。
 「沖縄じゃないか! 遠くからよく来たな」
 彼は、そのデモのなかに飛び込み、学生が手にしていた、琉球大学の旗を握った。
 「よし、私が持とう。一緒に、恒久平和のための戦いを起こそう。どこまでも戦おうじゃないか!」
 旗竿は太い竹でできており、長さは三メートルほどである。かなり重たかった。
 伸一は、その旗を高く掲げ、この日も先頭に立って歩き始めた。
 「沖縄・返せ!」
 力強い彼の声が大空に響いた。
 皆がそれを復唱しながら、行進していった。
 沖縄の学生部員のなかには、何人もの見覚えのある顔があった。二月の沖縄訪問の折、大学会の結成式で懇談したメンバーである。
 そのなかで、頬を紅潮させ、皆をリードするように、ひときわ大きな声を張り上げる、精悍な顔立ちの青年がいた。沖縄の学生部書記長である盛山光洋であった。
 盛山は、旗を手に、自分たちとともにデモをする伸一に、沖縄学生部への強い、強い期待を感じ取っていた。このころ、沖縄の本土復帰の運動は、日ごとに高まりを見せていた。だが、新左翼といわれる各セクトの学生たちが加わるにつれて、運動は次第に過激さを増していったのである。
26  智勇(26)
 学生部員は、武装闘争や暴力革命を主張する、学生たちに訴えた。
 「暴力を肯定することは間違いだ。人間性を喪失した革命では、人間の幸福を約束することなんかできない。ぼくらの戦いは、どこまでも対話を根本にし、一人ひとりの生命の尊厳を守りながら、社会を担っている人間自身の生命を変えていく戦いだ。この人間革命を軸にして、社会を変えていこうとするものだ。
 また、階級闘争や社会体制の変革では、人間の不幸の根本的な解決はない。学会の運動こそ、最も平和的で、根源的な革命だ」
 また、過激な新左翼の学生に、こう断言するメンバーもいた。
 「君の語る階級闘争が正しいか、学会の運動が正しいのか、いつか、必ず明らかになるはずだ。互いの人生をかけて、結果を見極めようじゃないか!」
 山本伸一は、基地をかかえた沖縄の学生部員の奮闘を、誰よりもよく知っていた。
 だから彼は、沖縄を訪問すれば、時間をこじ開けるようにして学生部員と会い、対話と激励を重ねてきた。
 また、この年の三月末の学生部全国部員会に、沖縄からもメンバーが参加することを聞くと、彼は著書に揮毫して代表に贈った。その時、沖縄の書記長の盛山光洋には、「沖縄をよろしく」と認めたのである。
 伸一は思っていた。
 ″今の学生部員の親たちは、沖縄戦の惨禍に苦しみ、生死の淵をさまよってきた。そして、戦後は、アメリカの施政権下で辛酸をなめながら、懸命にわが子を育て、平和への夢を託した。そうして育まれた彼らには、沖縄に平和と繁栄をもたらし、人びとを幸せにする責任と義務がある。いわば、彼らこそ、「沖縄の幸福責任世代」といってよい″
 その沖縄の学生部員が、闘志をみなぎらせて集ってきたことが、伸一は嬉しくて仕方なかったのである。
 旗を高く掲げて振りながら、かけ声を発し続ける伸一の体には、汗が噴き出していた。
 いつの間にか、伸一の声は、「沖縄・返せ!」から「沖縄・頑張れ!」に変わっていた。
27  智勇(27)
 学生部夏季講習会後期の全国野外統一集会は、午後五時前に開会され、各大学の代表、全協の議長らが、次々とアピールに立った。
 参院文教委員会で大学法案が強行採決されそうななかでの統一集会である。学生たちは怒りに燃え、舌鋒鋭く、次々と政府を糾弾していった。
 山本伸一は、三十一日に行われた前期の統一集会では、当初、あいさつや指導をするつもりはなかったし、この日も、学生部員を見守るつもりで参加し、終始、賛同の拍手を送っていたのである。
 だが、最後に、学生たちは、伸一に話をするように求め、大拍手が鳴りやまなかった。
 伸一は立ち上がった。そして、右手を握り、シュプレヒコールを呼びかけた。
 「われらは民衆のために戦うぞ!」
 それに続いて、はつらつとした参加者の声が、富士の麓にこだました。
 「われらは二十一世紀の平和と幸福のために、断じて勝つぞ!」
 さらに、彼は叫んだ。
 「ぼくは、君たちの成長を待っているぞ!」
 伸一の期待と念願を託しての、シュプレヒコールとなった。
 それから、伸一は簡潔に語った。
 「仏法という人間主義の哲学を持った学生部員の前進こそが、混迷する日本、そして、世界を救済し、平和を実現する力であると、私は、強く確信しております。
 諸君のために、私は命をかけます。諸君こそ、私の宝です。その成長を見守っていくことこそ、私の人生の最高最大の喜びであります。
 さあ、民衆のために、戦おう。威風堂々と、勇気と正義の前進を開始しようではないか!」
 夕焼けに染まり始めた空に、若人の大歓声と拍手が舞った。
 再び、デモの隊列を組んで、元気に退場していく参加者を、伸一は丘の上から見送った。
 それに気づいた学生たちが、盛んに手を振りながら叫んだ。
 「先生! 先生!」
 伸一も、大きく手を振って応えた。
 薄紅色の空を、風が駆け抜けていった。
 その空のように、伸一と学生部員の心と心を遮るものは何もなかった。
28  智勇(28)
 淡い夕焼けのなかで手を振り続ける会長山本伸一の姿に、目を潤ませる一人の青年がいた。二カ月前に入会した、東京の私立大学二年生の森井孝史である。彼は、大学の教師の人間性に落胆し、それが一つの契機となって学生運動にのめり込んでいった経験をもっていた。
 森井は、北海道・函館の出身であった。父親は国鉄に勤務し、中間管理職になっていたが、四人の子どもがいる一家の暮らしは、決して楽ではなかった。森井の姉も大学を卒業したばかりであり、二人の妹も、大学進学を希望していた。
 彼は、自分のことで家に負担をかけまいと、新聞奨学生として新聞販売所で働きながら、大学に行く道を選び、東京の私大に進んだ。
 だが、販売所での生活は、森井が予想した以上に辛いものがあった。朝は午前三時半過ぎには起き、朝刊を配達してから授業に出る。そして、午後二時半ごろには、夕刊の配達のために、学校を出なければならなかった。そのあとは、集金や拡張が待っていた。休みたくとも、休むわけにはいかなかった。
 また、マスプロ化した大学にも失望した。日本武道館で行われた入学式。大教室でマイクを使っての授業。教授にも、情熱も、人間性も感じなかった。森井は、人であふれるキャンパスのなかで孤独を感じていた。
 比較的人数の少ない授業では、こんな一幕もあった。アルバイトをしなければ生活費が工面できないため、あまり授業に出られない苦学生がいた。その彼が、久しぶりに授業に出席した。
 彼の顔を見ると、教師は冷たく言い放った。
 「なんだ、君は生きていたのか!」
 教室に、どっと笑いが起こった。
 「毎年、一人ぐらい、どこかで死んでしまったり、行方がわからなくなってしまうのがいるんですよ」
 学生は、黙って下を向いてしまった。教師は、冗談のつもりであったのかもしれないが、青年を育てようなどという心は、いっさい感じられなかった。
29  智勇(29)
 森井は、一カ月ほどすると、ほとんど授業に出なくなった。マンネリ化した講義には、もはや何の魅力も感じられなかった。
 また、仕事で疲れ果て、授業に出ていても、眠たくて、何も頭に入らないのだ。
 汗まみれになって新聞を配り、拡張で頭を下げて歩き回り、心身ともにへとへとになって、販売所と大学を往復するだけの生活だった。
 ″俺は都会の片隅ですり減っていく、下層労働者なんだ″と思った。大学には、そんな森井とは対照的に、親のスネをかじりながら、高級品で身を固め、スポーツカーを乗り回し、遊び暮らしているような、金持ちの家の子女もいた。
 彼は、そうした学生たちを見るたびに、自分が惨めに感じられてならなかった。
 そのころ、友人から、共産主義思想の話を聞かされた。
 ――資本主義社会では、一部のブルジョア階級に多くのプロレタリア階級が支配され、搾取され、圧迫されている。そこから自己を、さらに社会を解放する、階級闘争が必要だ。
 社会の不平等を感じていた森井は、「搾取」「階級闘争」といった言葉に魅了された。
 彼は、この友人が所属していた反日共系のセクトに入り、マルクスの思想を懸命に学んだ。武装闘争を主張する過激なセクトであった。
 デモにも参加した。石や火炎瓶も投げた。他の大学の″闘争″の応援に出かけることもあった。
 森井は、燃えていた。″俺は戦っているんだ″という、かつてない充実感を覚えた。
 やがて、彼は警察にマークされ、周辺に刑事の目が光るようになった。
 ″販売所にいれば、店にも迷惑をかけてしまうし、自由に闘争に参加することもできない。ここを出よう″大学一年の秋、彼は抗議集会に行ったまま、販売所には戻らなかった。
30  智勇(30)
 森井は、一度、実家に帰った。
 販売所をやめたために、支給された奨学金を返済せねばならなかったからだ。
 「新聞販売所にいたのでは、勉強ができないのでやめたい」という彼の話を信じて、父親が代わりに、奨学金を返済してくれることになった。
 東京に戻った森井は、アパートを借りた。そこは、セクトの仲間のたまり場となった。
 彼は、革命を夢想しながら、アルバイトをして生活費を稼いだ。
 デモの時には、意気揚々と旗を持った。機動隊とぶつかり、倒れた人の下敷きになって、命からがら逃げ出したこともあった。
 東大紛争の時には、機動隊が導入されるしばらく前まで、「解放講堂」と呼んでいた安田講堂に立てこもり、″闘争″を支援した。機動隊が入った日は、御茶ノ水駅周辺を解放区にしようと、道路にバリケードをつくる学生たちと、行動をともにした。
 そのころ、実家から、″父親が仕事で行き詰まり、体調を崩した″という連絡が入っていた。二年生への進級を前にした一九六九年(昭和四十四年)の三月下旬、森井は函館に帰った。父親は、親族とトラブルがあったうえに、部下の起こした不祥事の管理責任を厳しく追及され、以来、ノイローゼぎみになってしまったというのである。
 父の顔には全く生気がなかった。父は孝史を見ると、苦しい自分の胸の内を漏らし、「仕事を辞めて、東京で暮らしたい」と言い出した。
 孝史は、いっさい取り合わなかった。
 ――父は、資本主義の国家体制を支える鉄道の中間管理職であり、ブルジョア階級に追随する小市民である。そんな反革命的な父親や家族とのしがらみに縛られていては、社会主義革命を断行することはできない。
 だから、父親への関わりを努めて避けようとしていた。
31  智勇(31)
 彼は、決別の思いを込めて父に告げた。
 「俺は、学生運動をやっている。これからは、活動家として、革命のために生きていこうと考えている」
 「なに!」
 父の体が、わなわなと震えた。
 父は、特攻隊の生き残りで、典型的な国粋主義者であり、共産主義が大嫌いであった。
 彼を東京に送り出す時にも、「お前はのめり込みやすい性格だが、学生運動だけは絶対にやるな」と、何度も言っていたのである。
 父親と口論になった。
 「どうせ、おやじは認めやしないだろうから、俺は、俺の道を行くよ。もう息子は死んだものと思ってほしい!」
 父親の顔は、落胆の色に包まれた。その夜、父は、床に就いても、寝つくことができなかったようだ。幾度となく起きてきては、何をするでもなく、また布団に戻った。
 翌日――。
 父親は、岬から海に飛び込み、自殺を図った。救出され、病院に運ばれたが、意識は回復しなかった。数日後、息を引き取った。
 ″俺のせいで死んだんだ。俺が殺したんだ!″
 森井は、自分を責め苛み続けた。
 葬儀を終えて東京に帰った彼は、悶々としながら日々を過ごした。父の苦悩になんの手も差し伸べようとせず、冷淡であることが革命の道であると考えていた自分が、悔やまれた。また、自分たちはプロレタリア階級の前衛であると位置づけていたが、家族との分断を余儀なくする運動で、大衆との本当の連帯は可能なのかという疑問も起こった。このまま運動を続ければ、母も、父の後を追いかねないという危機感もあった。
 彼は、何もする気が起きなかった。いや、生きていく気力さえ失われていった。
 そんな森井の様子を気遣い、温かい声をかけ、励ましてくれる婦人がいた。アパートの家主である。彼女は、学会員であった。
 森井は、この婦人から、以前にも、何回か仏法の話を聞かされたことがあった。だが、「宗教は阿片である」と決めつけていた彼は、聞く耳をもたなかった。
32  智勇(32)
 婦人は、再び、信心の話をし始めた。挫折感に打ちのめされていた彼は、今度は耳を傾けた。時折、彼がむきになって反論しても、婦人は、笑顔で、優しく受けとめてくれた。そして、諄々と信仰の必要性を説いた。
 悩みは必ず乗り越えられると、確信をもって語る言葉のなかに、自分のことを本気になって心配してくれる気持ちが、痛いほど伝わってきた。
 森井の部屋には、家主の婦人だけでなく、壮年部や学生部のメンバーも訪ねてきて、仏法の生命の法理を語ってくれた。色心不二。依正不二。絶対的幸福境涯。人間革命……。その一つ一つに人間洞察の深さがあり、新鮮な響きがあった。
 また、皆の語る信仰体験には、それぞれの苦悩に真正面から向き合い、挑み、乗り越えた、感動があった。
 個々人の内面的な苦悩を、どうすれば克服できるか――それは、人間が生きるうえで、最も重要なテーマであるにもかかわらず、マルキシズムには、解決の道は示されていなかった。しかし、仏法には、その解答があった。
 さらに、森井の心に強く響いたのは、仏法対話のなかで聞かされた、戸田第二代会長の言葉であった。
 「……衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」
 彼は、全くその通りだと思った。
 人間のモラルと革命とが、矛盾せずに融合している思想に、深い関心をもった。
 さらに、森井は、学会員のほのぼのとした温かさに引かれていった。
33  智勇(33)
 学生運動の世界にも、同志的な結合や連帯はあったが、運動論のわずかな意見の対立などから、互いに憎悪し合い、決裂し、「敵」となることが少なくなかった。
 プロレタリアの解放という、極めて人間的な要素が運動の起点になっているはずなのに、運動のなかで、思いやりや人間的な温もりを感じることは滅多になかった。
 彼は、心のなかで必死になって宗教を否定しながらも、次第に学会に魅せられていった。
 だが、信心をすれば、セクトの仲間を裏切るような気がした。
 二カ月余り悩んだ末に、六月、森井は入会に踏み切った。
 信心を始めて二週間ほどしたころ、セクトの仲間たちが訪ねて来た。彼らは、最近、なぜ運動に参加しないのかと詰め寄り、自己批判せよと迫った。
 森井は、セクトの仲間に、父親の自殺に始まる心の葛藤を語り、新しい人生の道を求めて、創価学会に入ったことを打ち明けた。
 「ぼくは、おやじになんの励ましも、希望も与えられなかった。プロレタリア独裁の社会を実現しても、人間の内的な苦悩の解決がない限り、人間の解放はないのではないか。
 しかし、創価学会の掲げる仏法思想には、人間の精神的な苦悩や、宿命からの解放の道が示されている。ぼくは、この創価学会の信仰にかけてみたい」
 彼の決意は固かった。
 皆、絶句した。結局、仕方ないという顔で帰っていった。
 入会した森井は、必死になって、勤行に励んだ。一日も早く、信仰の確信をつかみたかったのである。
34  智勇(34)
 信心を始めてしばらくすると、父親の死以来、心の底にたまっていた無力感が消え、生命力がみなぎるのを覚えた。闇を破り、太陽が昇っていくような気がするのだ。
 彼は、果敢に弘教を開始した。新聞販売所のかつての同僚や学友を次々と折伏していった。プロレタリア革命の闘士は、広宣流布の闘士となった。
 そして、森井は、この夏季講習会に、喜々として参加したのである。
 彼は、グラウンドに向かう途中、沖縄の学生部員とともに、大学の旗を持ってデモをする、山本伸一の姿を目にした。
 それは、森井が描いていた山本会長のイメージとは全く異なっていた。彼は、大教団の会長なのだから、やはり、厳かな雰囲気を漂わせた、近寄りがたい存在にちがいないと思っていた。ところが、森井が見たのは、威厳などかなぐり捨てた、赤裸々な人間・山本伸一であった。
 汗まみれになって、懸命に「沖縄・頑張れ!」と励ます伸一に、森井は人間の誠実さを見た思いがした。
 さらに、統一集会で、「諸君のために、私は命をかけます。諸君こそ、私の宝です。その成長を見守っていくことこそ、私の人生の最高最大の喜びであります」との、伸一の言葉に触れた時、森井は、全身に衝撃が走るのを感じた。
 彼は思った。
 ″これほどまで、学生を信頼し、愛情を注ぎ、ともに行動しようとする指導者がいたのか。大学の総長や教授、政治家たちに、この心があれば、紛争など起きなかったはずだ!″
 だが、それは、伸一からすれば、当然のことにすぎなかった。青年の育成のために心血を注ぎ抜くというのが、彼の信念であったからだ。
 統一集会の会場を後にする学生たちを見送る伸一に、森井も感涙に目を赤くしながら、一生懸命に手を振った。伸一という人間の振る舞いに触れたことが、彼にとっては、信仰への確信となっていった。
35  智勇(35)
 この夏季講習会の感動を胸に、森井は東京に戻ると、弘教に一段と力を注いだ。仏法から導き出される人間主義の思想を、一人でも多くの人に伝えたいとの思いからであった。
 彼は、入会から三カ月が過ぎたころには、母親と二人の妹を含め、十六世帯の折伏を実らせることになるのである。
 父親が他界した寂しさと苦しさから、母の体はすっかり衰弱していた。しかし、その母も、信心を始めると、日を追って元気になっていった。
 森井は痛感した。
 ″苦悩に打ちひしがれた一個の人間の胸中に、希望と勇気の火をともすことから、人間解放の戦いは始まる。そして、人びとが生きる力を得て、変革の主体者として立つ時、社会は一変する!″
 八月二日、学生部夏季講習会後期の、全国野外統一集会が終わった直後のことであった。
 参院文教委員会で、大学法案が強行採決されたとのニュースが流れた。
 延長国会の会期切れを間近に控え、自民党は野党の反対を押し切り、委員長職権で文教委員会を開会。もみ合いと怒号のなかで、午後六時二十分過ぎ、大学法案の採決を強行したのだ。法案の提案理由の説明から採決まで、審議なしで一気に推し進め、その間、わずか四、五分であった。
 あとは、参院本会議での可決によって成立することになる。
 その横暴さに学生部員は激怒した。時代を変えゆく力は、青年の正義の怒りである。全協は、直ちに議長名で抗議声明を発表した。「これは、議会制民主主義を踏みにじる暴挙であり、大学紛争に更に火に油を注ぐ以外のなにものでもない。(中略)
 法案を強行成立させようとする政府・自民党の態度は、まさしく、学問の自由を破壊するものであり、ひいては文化を破壊しようとするファッショであると断ぜざるをえない。我々は、この『大学立法』粉砕に、更に強く戦っていくことを国民の皆さんに訴えるとともに、政府の横暴に断固、抗議するものである」
36  智勇(36)
 また、翌三日の午前には、強行採決に対する抗議ビラを、都内主要七駅前で一斉に配布した。そのあと、全協の代表は国会を訪れ、自民党をはじめ、野党の代表らと会見。大学法案の廃案を要望する陳情書を手渡し、大学立法に断固反対の旨を強く訴えた。さらに、参院副議長、官房長官、文相にも、陳情書を手渡した。
 しかし、この日の夜、自民党は、議会の混乱に乗じて、議長発議で抜き打ち的に大学法案を採決に持ち込んだ。審議は全く行われることなく、起立多数で、一瞬にして、可決・成立させたのだ。まさに、数を頼みにした、やりたい放題の暴挙であった。
 「議会政治の父」と仰がれた尾崎行雄は、国会を「議事堂は名ばかりで、実は表決堂である」と嘆いたが、まさに、この時も、議事なき表決が行われたのである。八月の十七日、遂に大学運営臨時措置法が施行された。
 この時点で文部省(当時)は、国公・私立合わせて六十六校を紛争校とし、このうち十八校を、いわゆる″重症校″に認定したのである。
 この認定に慌てた各大学は、機動隊を導入し、強引に授業の再開に踏み切っていった。
 「制圧」の「勝利」は、「教育」の「敗北」にほかならない。
 機動隊に囲まれての授業の再開は、およそ″正常化″とはほど遠いものであった。学生たちの提起した問題は、なんら解決がなされぬまま、大学の自治、学問の自由だけが奪われていった。
 大学運営臨時措置法が施行されると、凶暴な権力に対処するためには、それを上回る武力が必要であるとする理論がますます台頭していった。
 九月五日、各大学の全共闘と、革マル派を除く反日共系の各派が合流し、全国全共闘連合が結成された。この合流には、ノンセクトの学生大衆のパワーを取り込もうとする、各セクトの思惑が、強く働いていた。これによって、全共闘のなかで、セクト色が強く打ち出され、主導権争いなどから内ゲバも激しさを増していった。
 そして、大多数の学生たちの心は、全共闘から次第に離れていくことになる。目的の純粋さには、心情的支持をいだきながらも、武装闘争という方法の非人間性、過激さに疑問をいだくようになっていったのである。
37  智勇(37)
 全協として大学立法の粉砕に力を注いできた学生部員たちは、あの強行採決に激しい憤りを覚え、権力の暴走を阻止する、大規模な運動の必要性を痛感していた。
 また、何よりも、これを契機に、学生運動の流れが、ゲバルトへと加速していくことを憂慮していた。そうなれば、純粋な動機から発し、社会の矛盾をついてきた運動も、結局は、残酷な破壊行為以外の何ものでもなくなってしまうからだ。
 「一刻も早く、新しい学生同盟を誕生させなければならない」
 「その通りだ。民衆とともに戦う、平和的な学生運動の道を開こう」
 学生部員は、勇んで行動を開始した。
 夏季講習会の野外集会で発表されたように、全協のメンバーが中心となって、学生同盟結成が進められ、九月の二十五日には、結成準備委員会が発足。名称も「新学生同盟」(略称・新学同)と決まった。
 各大学のキャンパスでは、新学同加盟の申し込みの受け付けを行っていった。「新学同」という機関紙の発刊も決まり、綱領もつくられていった。遂に、激動の時代の闇夜に、希望の新星が輝き始めようとしていた。智勇兼備の若人が、大学革命に、平和の創造に、いよいよ本格的に立ち上がるのだ。
 十月十九日、東京・渋谷区の代々木公園は、「新学同」と書かれた白いヘルメットで、ギッシリと埋め尽くされた。北は北海道、南は沖縄をはじめ各地から集った三百六十八大学、七万五千人の学生たちである。
 中央に設けられたステージの上には、「新学生同盟結成大会」の横断幕が掲げられ、会場には、青や赤、黄、白など、各大学の色とりどりの旗が翻っていた。
  ……第三の道切り拓く
   古き権威を打ち砕き
   組もう勝利のスクラムを
 開会前、小雨がパラついていたが、会場は熱気にあふれ、肩を組み、はつらつとした歌声が、高らかに響き渡っていた。雨があがった午後一時過ぎ、学生部員が念願としてきた新学同の結成大会の開会が宣言された。
38  智勇(38)
 マスコミ関係者は、まず、その数に驚いたようであった。当時、学生運動の動員力は、日共系約四万七千人、反日共系約四万二千人といわれていた。したがって新学同の七万五千人というのは、最大規模の学生集会である。
 議長団の選出に続いて、結成準備委員の明治大学四年の岡山正樹が、新学同結成にいたる経過を報告。次いで、人事、規約、綱領が発表された。
 人事では、全協の議長を務めてきた津野田忠之が議長に就任。副議長には岡山正樹と、京大大学院修士課程二年の大谷宏明が、書記長には東大二年の村田康治が就いた。
 また、綱領には、次のようにあった。
 「世界的な規模で、既存の体制と価値観が崩壊し始めている。西欧的近代市民社会の産物である近代合理主義に立脚した、全ての思想・哲学の行き詰まりを示すものである。
 その原因は近代合理主義の人間不在にある。それは人間の本質について深く把握できず、人間自身の変革を成し遂げる思想・哲学たり得なかったところに、現代社会の混乱の本源がある。我々新学同は、何よりも人間性の正しい把握と人間生命の尊重を第一義とする生命哲学を思想的背景として、新しい学生運動を展開せんとするものである」さらに綱領では、近代合理主義が招いた、さまざまな疎外形態、人間性の喪失に言及。今日の大学革命に要求される最も重要なポイントは「人間生命を指向する生命哲学を基軸として、新しい人間観に基づいた新しい学問を創り上げていくことにある」としていた。
 そして、四点に分け、新学同の任務が述べられていた。
 「①人間主義に立脚した無血平和革命による反戦・平和を勝ちとる。
  ②革命の主体者たる広汎な大衆を結集し、組織し、より強力な大衆運動を領導し、大衆と我々の手で幻想の民主主義を告発し、真の民主主義を樹立する。
  ③人間主義に基づく人間のための新たなる学問を創造し、大学革命を成し遂げる。
  ④右の三項目の達成のため、新しい運動形態を自ら構築する」
 ″人間主義″という言葉が、鮮烈な響きを放っていた。どこまでも、人間を根本とした無血革命の狼煙が上がったのだ。
39  智勇(39)
 支持を表明する怒濤のような大拍手が起こり、綱領は承認された。
 このあと、議長に就いた津野田忠之が「結成宣言」を行った。
 彼は、沖縄問題、日米安保条約、大学立法、ベトナム問題などに触れ、こう力説した。
 「七〇年代こそ、資本の論理に貫徹された近代合理主義のもとに、科学技術を駆使し、大衆を手段化してきたところの国家権力を打倒するか、その延命を許すかという、歴史的分岐点をなす時である」
 そして、新しき思想に基づく一大革命勢力の結集が最も重要な課題であることを述べ、力の限り叫んだ。
 「我々は、次代を築く歴史の主体者としての自覚に立って、今、全国三百六十八大学、十二万人の学友と、多くの市民大衆の連帯のうえに、ここに『新学生同盟』を結成することを内外に宣言するものである!」
 空は、分厚い雲に覆われていた。
 だが、その雲を突き破るかのように、雷鳴を思わせる拍手が天にこだました。
 この結成宣言を受けて、東大、早大、阪大の三大学の代表が、烈々たる気迫で決意を披瀝した。
 続いて、書記長に就いた村田康治が登壇した。彼は、まず、「反戦・平和の七〇年代」「新しい学問創造の七〇年代」「大衆とともに闘う七〇年代」からなるスローガンを発表。さらに、日米安保の問題点を論じ、沖縄即時無条件返還、北方領土返還、在日米軍基地撤去、世界各国との平和友好条約の締結、日中国交回復などの闘争方針を述べていった。参加者は、賛同の拍手でこれを採択した。
 最後は、七万五千人の大シュプレヒコールが、神宮の森に轟き渡った。
 「われわれは戦うぞ!」
 「新たなる学問創造の場をつくろう!」
 ここに、自由主義、共産主義という二つの思想を止揚する、人間主義に立脚した、学生運動の新しき「第三の道」の建設が始まったのである。
 それは、日共系、反日共系という、従来の学生運動の枠組みを超えた、発想を異にする独自の運動であり、その意味からも、スチューデントパワーの「第三の道」が示されたといってよい。
40  智勇(40)
 新学同結成大会が開会されて間もない午後一時過ぎ、一台の車が、会場となった代々木公園の周囲を回っていた。車には、山本伸一の姿があった。
 彼は、神奈川県幹部会に出席するため、横浜に向かうことになっていたが、結成大会の様子を一目見ようと、会場に車を走らせたのである。
 公園は、詰めかけた学生でぎっしりと埋まり、色とりどりの旗が揺れていた。決起を呼びかける力強い声が、車内にも聞こえてきた。
 伸一は、同行の幹部に語りかけた。
 「すごい数の参加者だな。学生部は、いよいよ立ち上がったね。
 社会のために何をするか――実は、そこに宗教の大きな意義がある。これで、新しい時代の幕が開かれるね。
 暴力化した学生運動が多くの学生を巻き込んでいけば、時代は、極めて危険な方向に流されていってしまう。それを防ぎ止める、真の学生運動の潮流をつくっておかなければ、青年がかわいそうだ。だから、私は、新学同に期待したい」
 伸一は、車の窓ガラスごしに空を見ると、心配そうにつぶやいた。
 「今にも、雨が降り出しそうだな。みんな、風邪をひいたりしなければよいが……」
 彼は、小声で題目を唱えた。無事故、大成功で終わるように、祈念しての唱題であった。
 会場となった代々木公園の周囲を、車が一巡すると、伸一は、ドライバーの青年に、もう一度回るように頼んだ。
 ゆっくりとしたスピードで走る車のなかに、伸一がいることを、誰も気づかなかった。新学同結成のニュースは、直ちに、テレビでも放映された。
41  智勇(41)
 神奈川本部に到着した伸一も、そのニュースを同行の幹部らとともに見た。
 「みんな意気軒昂だな。大集会になったね」
 そして、遠隔地から来た学生たちの宿泊場所のことや、食事代や交通費は大丈夫か等々、どこまでも、学生たちを気遣う伸一であった。
 山本伸一や学生部員が懸念したように、その後の学生運動は、激しい武装闘争に突入していったのである。
 武器を奪うために交番を襲撃したり、鉄パイプ爆弾などを使用するセクトもあった。また、軍事訓練も行うセクトもあった。
 そして、翌七〇年(昭和四十五年)三月三十一日には、赤軍派が、北朝鮮で軍事訓練を受けるために、日航機「よど号」をハイジャックする事件が起こっている。
 内ゲバも多発するようになっていった。日共系と反日共系の学生の争いはもとより、運動の主導権をめぐって反日共系のセクト同士の争いも激しくなっていったのである。さらに、意見や運動方針の違いからセクトは細分化され、互いにいがみ合い、小競り合いは日常茶飯事となっていった。報復のための襲撃も繰り返された。
 こうした事件が頻発するにつれて、警察当局の監視や追及も、さらに厳しくなり、過激派の学生たちは精神的にも追い詰められていった。
 スパイや裏切りによる密告を恐れ、疑心暗鬼になり、セクト内での査問やリンチ事件も少なくなかった。
 暴力化したセクトの、最も凄惨な末路が、「連合赤軍事件」であった。
 連合赤軍は、一九七一年(昭和四十六年)七月に結成されている。
 銃砲店を襲って手に入れた武器で、群馬県などの山岳地帯を転々としながら、軍事訓練を行っていった。その間、仲間十四人を、「総括」などの名のもとに、集団リンチによって、次々と殺していったのである。
42  智勇(42)
 翌年二月、警察の山狩りによって、最高幹部二人をはじめ、逃亡途中のメンバーが相次ぎ逮捕され、連合赤軍は次第に追い詰められていった。
 しかし、残った五人は、二月十九日、長野県軽井沢町にある楽器会社の保養所「浅間山荘」に逃げ込み、管理者の妻を人質にして、立てこもったのである。以来十日間、警察は、延べ約三万五千人を動員して警備にあたるとともに、救出作戦を展開した。二十八日、遂に警察側は強行突破を決行。大きな鉄球をクレーン車で吊り上げ、山荘の壁にぶつけた。そして、銃撃戦の末に、全員を逮捕し、人質を救出したのだ。
 だが、この攻防戦で警察側は二人が死亡、十二人が重軽傷を負っている。
 最高学府である大学に学んだ者たちによって、「革命の正義」を掲げて行われた、まことに残虐非道な事件であった。
 ロシアの文豪ドストエフスキーは、『悪霊』のなかで、一人の革命家の青年に、「主義と人間性、――これは多くの点において、全然ことなった二つのものらしい」との思いをいだかせている。
 どんな高邁な主義主張も、人間性が伴わなければ、必ず破綻をきたすことになる。本来、主義とは、自分の生き方であり、人間性の帰結であるからだ。ゆえに、いかなる理想を説き、いかに立派な言辞を連ねようが、人間性の革命がなければ、その主義が真に実現されることはない。
 ともあれ、大衆とともに戦う人間主義の学生運動――それこそ、多くの心ある学生たちが、渇望していた道であった。活動を開始した新学同に集って来たメンバーのなかには、それまで、他のセクトに属して運動していた学生部員もいた。東京の私立大学の学生であった海野哲雄も、あるセクトの一員として学生運動を続けてきた一人であった。
 だが、激しい武装闘争が打ち出されるに及んで、疑問と運動の限界を感じ、そのセクトを去ることになる。
43  智勇(43)
 彼は、大阪で生まれ、中国地方の中小都市で育った。市を牛耳っているのはある金属関係の大企業で、その工場を中心に町が成り立っていた。
 市長も、市会議員の多くも、この企業の忠実な″しもべ″に等しく、系列会社と町内会組織を使って、町の支配構造ともいうべきものがつくられていた。庶民の暮らしは貧しかったし、工場の排水の人体への影響も懸念されていたが、皆、口をつぐんだままだった。
 人びとは改革に立ち上がるのではなく、義理と人情のしがらみのなかで、その支配の構造に馴らされ、互いに足をすくい合うようなありさまであった。また、いわれのない差別意識をもち、社会的弱者が、さらに弱者を蔑むことで、うっぷんを晴らすような状況もあった。
 海野が三歳になるまで、彼の父親は大阪で働いていた。しかし、勤務先の会社が倒産したことから、知人の紹介で、この市で仕事をすることになった。勤めたのは、あの市を牛耳る大企業の下請け会社であった。「よそ者」の一家に、世間の風は冷たかった。
 一家が学会に入会したのは、彼が小学校の高学年の時であった。彼も家族と一緒に入会し、親に言われて勤行をするようになった。また、学会の座談会にも、よく参加した。そこには、ほのぼのとした人間の温もりがあった。座談会に出ると、心が安らいだ。
 経済的に決して恵まれているとはいえない少年期を送った海野は、社会の不合理や矛盾を、肌で感じることが少なくなかった。
 高校生になると、担任の教師の影響もあり、経済的不平等が存在しないといわれる社会主義に、憧れるようになった。
 彼は大学進学を希望して、浪人した末に、難関といわれる東京の私大に合格した。
 海野が学生運動に参画していく契機となったのは、高校時代の友人との再会であった。
44  智勇(44)
 善きにつけ、悪しきにつけ、友人は青春の最も強力な触発剤である。
 上京して、久しぶりに会った友だちの変わりように、海野は目を見張った。高校時代の穏やかな表情は消え、いかにも闘士然としていた。
 話は、ベトナム戦争から、日本の産業・政治構造に及び、友人は、階級闘争の必要性を強く訴えた。彼の発する言葉は、耳新しく先鋭的で、理論も極めて緻密であった。海野は圧倒された。社会の問題を何も考えていない自分に、恥ずかしさを覚えた。
 海野も、マルクス主義関係の本を読みあさるようになった。それまでにない、新たな視点をもてたような気がして、満ち足りた思いがした。
 大学入学後、海野は、アパートに御本尊を安置し、地域の学会員や、学内の学生部員から連絡をもらい、何度か会合にも出席していた。
 しかし、このころ、彼の関心は、信仰よりも、大学の民主化闘争や反戦運動にあった。海野は、友人に誘われ、″闘争″に参加した。
 彼は、学会の会合で、仏法によって人間を変革し、社会を変えるのだという、「人間革命」の話も耳にはしていた。
 だが、それは、あまりにも迂遠であり、結局は、現状に追随してしまうことになるのではないかと感じられた。
 海野は、国家公務員試験のための勉強会に入っていたが、やめてしまった。現実の矛盾に立ち向かわず、立身出世のために汲々として勉強する、自分の利己主義を打ち破りたかったのだ。
 彼は、バリケード封鎖した大学のなかで寝泊まりし、″闘争″を続けるようになった。バリケードのなかでの暮らしは、栄養不足、睡眠不足に苛まれた。しかし、理論と実践の一体化を感じ、それまでの大学生活では得ることのできない、充実感があった。また、連続する緊張感のなかで、仲間との連帯感も強固なものとなっていった。こうした関わりのなかで、彼は、あるセクトの一員となったのである。
45  智勇(45)
 学生運動にのめり込むにつれて、海野は、学会の座談会で聞いて感動を覚えた、功徳の体験に対する考え方も変わっていった。
 経済苦を克服した、病を乗り越えた、会社での実績が認められた等々の体験は、利己主義的であり、小市民的ではないかと、思うようになった。また、それは、矛盾に満ちた現在の社会体制を肯定し、それに加担するものだと考えた。
 ところが、たまに洗濯のためにアパートに帰った時などは、仏壇の前に座り、勤行することもあった。
 海野は、デモに参加していて機動隊とぶつかり、警棒でしたたかに殴られたことがあった。信心をほとんどやめてしまっただけに、″これは罰ではないか″と感じられ、不安でならなかったのである。彼は、″デモに行っても、無事でありますように″と、御本尊に祈り、さりげない顔でバリケードに戻って行った。そこに、人間の心の微妙さがある。だからこそ仏縁を結ぶことが大事なのである。
 占拠した校舎での学生たちの生活は、次第に乱れ、腐敗、堕落を感じさせる光景が目立つようになった。酒盛りも頻繁に行われた。
 大学法案が成立すると、大学は警察を導入した。海野たちは、機動隊と攻防戦を展開したが、あえなく排除されてしまった。
 この時、学生たちの多くは、野球でも観戦するように、高みの見物を決め込んでいた。なかには、記念に写真を撮っている人もいた。学生同士の連帯さえ築けないことが、海野は無性に悲しかった。
 機動隊によって封鎖が解除されると、大学当局はロックアウト攻勢をかけ、活動家学生の締め出しを図った。
 彼のセクトは、運動の焦点を学内闘争から政治闘争に切り替えた。そして、安保条約の堅持のもとに、沖縄の施政権返還に決着をつけようとする佐藤栄作首相の訪米を、実力で阻止する武装闘争が打ち出された。
 海野は武装闘争には反対であった。しかし、「国家権力の強力な武力に抗するには、こちらも武装するしかない」との主張に押し切られた。武装闘争の準備が整ったころ、警察がアジトを急襲した。武器はすべて押収された。情報が漏れていたのだ。
46  智勇(46)
 仲間の何人かが逮捕されたが、海野は、なんとか、逃げることができた。しかし、逃げる途中で、腕を怪我した。
 公園のベンチで休んでいると、血の滲む彼のシャツを見て、一人の婦人が近づいて来た。
 「まあ、大変。急いで傷の手当てをしなければ……。ちょっと待っていなさいね」
 婦人は、近くの薬局で薬を買って戻ってくると、傷口を消毒し、薬を塗ってくれた。
 「これで大丈夫よ」
 婦人が微笑んだ。人間の温もりを感じた。その人のバッグから、『大白蓮華』がのぞいていた。
 ″学会員だ!″
 アパートに戻った彼は、腕の痛みと敗北感に苛まれながら、自分たちの行っていることの意味を問わざるをえなかった。
 ″民衆の解放をめざすと言いながら、セクト中央の出す闘争方針は、あまりにも現実離れしている。武装蜂起で社会が変革できるとは思えない。どこかで、歯車が狂ってしまった気がする″
 この日を最後に、彼はセクトから離れた。心にぽっかりと穴が開いたような気がした。
 部屋にこもり、悶々と考え続けた。
 ――これまで学友たちにも闘争を訴えてきたが、ぼくにはどんな思想があるのだろうか。
 ――学生運動が行き詰まってしまった原因の一つは、大衆から離れた前衛意識にあったのではないか。では、大衆とともに歩む革命の道が、存在するのだろうか。
 ――そもそも、革命とは、人間とは、なんなのだろう。政権を打倒し、政治や経済の体制を変えれば、本当に理想社会が実現するのだろうか。
 思考は、迷路のなかを堂々巡りしていた。
 彼は、何気なく、机の上に積み上げてあった、学会の出版物を手に取った。そこには、御書の講義録もあれば、戸田城聖や山本伸一の指導が収められた書籍もあった。
 親が持たせてくれたものだが、見向きもしなかった本である。
47  智勇(47)
 暇つぶしにと思い、本を開いた。出版物の多くは、「人間革命」という問題に触れていた。
 「人間革命」という言葉は、日本の敗戦から二年後の一九四七年(昭和二十二年)秋に行われた東大の卒業式で、南原繁総長が、その必要性を語り、社会の注目を浴びるようになった。この時、南原総長は、時代は政治革命、社会革命、特に第二産業革命の時を迎えているが、この革命は人間のためのものであり、人間に奉仕するものでなければならないと述べている。
 そして、人間への奉仕のためには「人間そのものの革命『人間革命』を成し遂げねばならぬ」と強調したのである。
 さらに「これは道徳的宗教的な『精神革命』、また『文化革命』であり、これなくしては民主的政治革命も社会的経済革命も空虚であり、ついに失敗に終るであろう」と指摘している。まことに鋭い洞察であった。
 戸田城聖は、南原総長が「人間革命」の大切さを述べたことを知ると、喜びを隠せなかった。それは、学会の再建を開始した戸田が、法華経や御書の講義の折などに、訴え続けてきたことであったからだ。人間の幸福も、社会の繁栄も、世界の平和も、根本である人間の変革から始まるというのが、彼と初代会長であった牧口常三郎の、思索の結論であった。
 さらに戸田は、戦時下の獄中で法華経を身で読み、呻吟を重ねた末に、仏法は生命の変革の方途を説き明かした大法理であることを悟達する。そして、仏法による生命の変革があってこそ、「人間革命」がなされることを強く確信し、広宣流布に一人立つ決意を固め、出獄したのである。
 もともと牧口が教育改造を推進してきたのも、社会を改革するには、教育によって人間自身をつくる以外にないとの信念からであった。
 牧口は、創価教育学会の創立の月となる、一九三〇年(昭和五年)の十一月、教育雑誌『環境』に「創価教育学緒論」と題する原稿を寄せ、次のように述べている。
 「世は政治経済芸術の各分野を通じて、根本的の改革と進展を教育の力にまたんとする。社会的矛盾と葛藤の解決は根本的な人間性の改造の問題であり、人間性改造終局的役割はやがて教育の担うべきものとされているのである」
48  智勇(48)
 さらに牧口は、三五年(同十年)十二月には、社会の改革について触れ、「所詮宗教革命によって心の根柢から建て直さなければ、一切人事(人間社会の一切の出来事の意)の混乱は永久に治すべからず」と記している。
 社会改革のためには、日蓮大聖人の仏法による人間の心の根底からの立て直し、つまり、表現こそ違うが、「人間革命」しかないというのが、創価の父・牧口の、一貫した考えであった。
 南原繁総長の主張は、牧口、戸田という創価の師弟が、叫び、貫いてきた思想と響き合っていたのである。ただ、戸田城聖は、その「人間革命」を実現するには、仏法による以外にないということを、総長に強く訴えたかった。
 そもそも仏法は、人間の内面を変えることによって、世界を変えていくという哲理である。日蓮大聖人は、こう述べられている。
 「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし
 土とは、自身が住む社会・自然環境である。それが清らかか、汚れるかの根本原因は、人間の心が清浄か、汚れているかによるのであり、環境そのものには、もともと「浄土」や「穢土」などという隔てはないとの仰せである。つまり、社会変革の要諦は、人間自身の一念の革命にあるとの御指南といってよい。
 海野哲雄は、「人間革命」という言葉を、学会の会合などでよく耳にしてきたが、その内容に踏み込んで、考察することはなかった。
 しかし、学会の出版物を読み進むにつれて、その深さに驚かされた。
 仏法の「一念三千」や「依正不二」などの法理も、生命とは何かを説き明かし、「人間革命」の原理を示しているものであることが、初めて理解できたからである。
 また、彼は運動に参加するなかで、人間そのものが、利己主義、無慈悲であれば、革命は成功しても、社会は、決してよくなるはずがないとの思いを強くしていた。
 それだけに今、「人間革命」の必要性を痛感するのであった。
49  智勇(49)
 仏法は説く。
 ――自身の内なる、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三毒という煩悩が、人間の不幸の根本原因である。そして、それを打ち破る、大宇宙の根源の力であり、尊極無上の生命が「仏」なのである。仏法は、その「仏」の生命を、万人が具えていると教えている。
 「仏」の生命とは、要約していえば、最高の慈悲、最高の智慧の働きであり、いっさいの生命活動の源泉である。この「仏」の生命の湧現こそ、苦悩や欲望などに支配、翻弄されている自身を乗り越え、本来の自己を確立する原動力となるのである。
 わが胸中の「仏」を湧現して、「仏の境涯」を確立することが、一生成仏、すなわち絶対的幸福境涯への道であり、「人間革命」の究極の目的なのである。
 では、いかなる方法によって、それが可能となるのか。
 日蓮大聖人は、末法の一切衆生のために、大宇宙の根源の法たる「仏」の大生命を、御本尊として御図顕になられた。この御本尊を信受し、一切衆生の救済を、わが使命として生き抜くなかにこそ、自身の「仏」の生命を開く唯一の道があるのだ――。
 海野哲雄は、何日か、学会の出版物を熟読し続けた。行き詰まりを呈していた自分の精神の闇夜に、光が差していくように感じられた。
 ″万人が「仏」の生命を具えているということは、国家、民族等々を超えた、生命の尊厳と人間の平等を裏づける原理ではないか。また、仏法の法理に裏づけられた生命の変革、境涯の革命は、道徳や自己啓発、意識改革といった次元より、遥かに深く緻密だ。
 これだ! こんなに身近に、自分の求めていた思想があったのだ!″
 彼は、声をあげて叫びたい衝動にかられた。
50  智勇(50)
 そのころ、地域の学会員が訪ねて来てくれた。
 久しぶりに顔を出した学会の会合は、明るさに満ちていた。皆が、「よく戻って来たね」と、温かく迎えてくれた。
 海野は、自ら進んで学会活動に励んだ。そこで、感動的ともいえる、幾つもの発見をするのである。まず彼は、学会のなかにこそ、未聞の大衆運動の大潮流があることに気づいた。
 学会では、職業も、年代も、社会的な立場も異なる人たちが、広宣流布という、世界の平和と人類の幸福の実現に向かい、日夜、懸命に活動に励んでいる。
 自営の社長もいれば、大企業の役員もいる。工場労働者もいれば、商店に勤務する人も、専業主婦も、学生もいる。それが対立し合うのではなく、同じ目的に向かって、仲良く団結し、前進しているのである。
 そこには、「前衛」と「大衆」の乖離などなかった。
 あえていえば、最も保守的になり、他者に依存し、追随しがちであるといわれる婦人が、学会では、たいてい「前衛」の役割を担っていた。彼女たちが、全体を触発し、牽引している事実に、海野は驚きを覚えたのである。
 また、学会の運動は、「生活者」に立脚し、常に個々人の具体的な苦悩と向き合うことから出発していた。
 これまで海野は、社会的な成功や健康を願い、それが成就したという体験を、利己主義的であると感じてきた。しかし、その願いが広宣流布という革命の活力となっており、そこに民衆運動の広がりがあったことを知ったのである。
 彼は、革命に生きるということと自己の幸福とは、相反するものであると考えていた。しかし、自他ともの幸せを築いていくのが、仏法の在り方であるというのだ。
 また、学会員は、よく「煩悩即菩提」という言葉を口にした。仏法は、煩悩、つまり欲望などを否定するのではなく、信仰に励み、広宣流布という目標に生き抜くなかで、それが、菩提、すなわち人間完成への原動力となっていくというのである。
 事実、日々、学会員が多くの功徳の体験を積みながら、希望と喜びにあふれて、友のため、社会のために奔走する姿が、それを物語っていた。
51  智勇(51)
 つまり、創価学会の運動には、個人の身近な幸福の追求と革命の理想とが、地球が自転しながら公転しているように、なんの矛盾もなく、共存し、連動しているのである。
 そして、同志の語る体験談には、まさに「人間革命」の実証があった。
 会合では、人間不信に陥り、勤労意欲もなくなり、家に閉じこもりがちだった青年が、入会後は、生きがいと勇気をもち、積極的に仕事に励むようになっていった報告もあった。
 また、人間関係に行き詰まって、信心を始めたところ、自分があまりにも自己中心的であったことを痛感。そんな自分を変えようと唱題を重ねていくなかで、人への思いやりをもてるようになったという、婦人の体験発表も聞いた。
 その一つ一つが、民衆の自立と蘇生のドラマとして、海野の胸を激しく打った。
 しかも、そうして立ち上がった庶民が、自分たちこそ、社会建設の主体者であるとの深く強い自覚をもち、友の幸福や地域の繁栄、さらに、国家や世界の平和を願い、真剣に行動しているのだ。その原動力こそ、自分たちは広宣流布を成し遂げるために生まれてきた「地涌の菩薩」なのだという、強い宗教的使命感であることを、海野は知ったのである。
 広宣流布、すなわち人びとの幸福の実現のためには、仏法という生命の尊厳と慈悲の哲理を伝えるとともに、自らその教えを実践し、体現していかなくてはならない。そして、人間を不幸にする、戦争や貧困、病、差別などをなくすために、教育、政治、経済等々の、社会のあらゆる改革に立ち上がらなければならない。
 いわば、宗教的使命の自覚が、必然的に、社会的使命、人間的使命の自覚を促していったのである。
 インドの独立運動の指導者ガンジーは言う。
 「私は、人間の活動から遊離した宗教というものを知らない。宗教は他のすべての活動に道義的な基礎を提供するものである。その基礎を欠くならば、人生は『意味のない騒音と怒気』の迷宮に変わってしまうだろう」海野は、学会の運動によって、民衆の大地が動き始めたと感じた。
 それに比べ、自分たちは、大闘争を展開していたように錯覚していたが、樹木の小枝の先を、むきになって揺すっているにすぎなかったとさえ思えるのであった。
52  智勇(52)
 学生運動の第三の道を開くために、新学同が結成されたことを聞いた海野哲雄は、勇んで、この運動に参加することになるのである。
 新学同は、一九七〇年(昭和四十五年)六月に日米安保条約の期限が切れることから、安保の自動延長に反対し、世界各国と平和友好条約を締結することや、沖縄の即時無条件全面返還等を掲げて、恒久平和実現の道を模索し、運動を展開していった。
 「七〇年安保」以後、学生運動は急速に下火となっていったが、新学同は、人間主義の立場から人権を守るために、公害など、環境問題にも積極的に取り組んでいった。
 だが、時代の変化のなかで、大衆運動の推進という、新学同に求められる役割も変わり、新たな時代を創造する理論集団としての使命を担っていった。そして、新しき人間主義のパイオニアの重責を果たした新学同は、結成から十余年を経た八〇年代初めに解散している。
 学生部員は、この活動を通して、仏法者の立場から社会の諸問題をいかにとらえ、どう行動していくべきかを、真剣に考え、試行錯誤を重ねていった。
 やがて学会は、青年部による難民救援の運動や反戦出版など、広範な平和運動を展開していくことになるが、その推進力となっていったのは、新学同に携わり、山本伸一の薫陶を受けてきた青年たちであった。いわば、新学同は、学会が、平和・教育・文化の運動を本格的に推進していく先駆的試みとなったのである。
 大聖人は「すべからく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と仰せである。
 自身の幸福を願うならば、まず社会の繁栄と平和を祈るべきであるとの御指南である。
 仏法即社会なるがゆえに、仏法者は、自身の人間革命の光をもって社会を照らし、時代建設の汗を流し続けるのだ。
 わが学会が、その名称に「創価」すなわち「価値の創造」を掲げていること自体、社会への貢献を使命とする宣言といってよい。また、そこに学会が、人類史を画する、人間宗教たるゆえんがある。

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