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日蓮大聖人・池田大作

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第13巻 「光城」 光城

小説「新・人間革命」

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1  光城(1)
 紺碧の空、きらめく太陽、エメラルドの海、砕け散る銀の波……。
 南国・奄美は、美しき光の城であった。
 常緑樹の緑に染まる島のなかで、微風に揺れる黄金のススキの穂だけが秋を感じさせた。
 山本伸一が奄美空港に降り立ったのは、一九六八年(昭和四十三年)十一月十三日の正午過ぎのことであった。
 彼は十日から九州を訪問し、福岡県北九州市での芸術祭(十日)、熊本市での大学会結成式(十一日)、鹿児島市での婦人部と女子部の指導会(十二日)などに出席し、この日、空路、奄美大島に飛んだのである。
 奄美本部の班長、班担当員らの幹部との記念撮影会に出席するためであった。
 伸一の奄美訪問は、五年ぶりであり、これが二度目であった。
 一九六三年(昭和三十八年)六月の初訪問の時には、まだ奄美大島への航空便はなかった。鹿児島から徳之島まで飛行機に乗り、そこから奄美大島の名瀬港まで、五、六時間も船に揺られなければならなかった。
 伸一は激しい疲労を覚えたが、一日で五年分に相当する仕事をするのだと、奄美大島会館の落成式や総支部結成大会などに相次ぎ出席した。
 渾身の力で、メンバーの激励にあたった彼は、五年後に、再び奄美を訪問することを約束したのである。新たなる希望は、闘魂を燃え上がらせる。メンバーは再会を目標に、懸命に広布に走った。そして、この五年の間に奄美諸島は、一総支部から一本部二総支部へと大発展を遂げたのだ。
 伸一は、出迎えた地元幹部とともに、奄美大島会館に向かった。
 車は、大海原が広がる太平洋岸の道を進んでいった。風に揺れる海岸のヤシやソテツが、南国情緒を漂わせていた。それから、波のない、青い鏡のような、東シナ海側の内海に出た。
 伸一は、車を運転してくれている地元の幹部に尋ねた。
 「弾圧事件があった村の同志は元気ですか」
 「はい。新しい決意で頑張っております」
 奄美では、この前年、ある村で、学会員への大々的な弾圧事件が起こったのである。
2  光城(2)
 車は木々の生い茂る峠道に差しかかっていた。
 伸一は、重ねて尋ねた。
 「事件があった村は、今はどんな状況ですか」
 「かつてのような激しい村八分は収まり、一応の解決はみました。しかし、村の人たちの学会に対する偏見は、まだまだ根強いものがあります」
 「そうだろうね。誤解が晴れ、偏見が払拭されるには、長い歳月が必要です。何があっても粘り強く、頑張り抜いていくしかない。学会は、村の人たちの幸福と、地域の発展を願って行動しているんだもの、きっと、いつかわかる時がくるよ。
 しかし、こうした難が起こったということは、奄美の同志の信心も、いよいよ本物になったということです。あの事件は、奄美広布の飛躍台なんです。大聖人は、『大悪をこれば大善きたる』と仰せではないですか。
 皆が、いよいよ決意を新たにして前進していくならば、奄美は必ずや日本で一番、広布が進んだ地になるでしょう」伸一は、車中、静かに題目を唱え、深く祈りを捧げた。
 その村に弘教の波が広がったのは、村の出身である富岡トキノが、一九六〇年(昭和三十五年)の春に、福岡から帰って来てからであった。
 彼女は、奄美で生まれたが、尋常小学校四年の時に、父親の仕事の関係で神戸に移った。十九歳でトキノは、父が決めた男性と結婚。男の子をもうけた。
 だが、その夫に、妻子がいることが発覚したのである。彼女は子どもを連れて家を飛び出した。終戦後、トキノは、神戸で再婚する。
 ほどなく、奄美に帰っていた父親から、跡取りが必要だからと言われ、泣く泣く息子と別れなければならなかった。
 息子は、トキノの父のもとで、奄美で暮らすことになったのである。
 やがて、トキノと新しい夫との間に娘が誕生する。トキノは夫と、名古屋で製菓業を始めた。仕事は、なんとか軌道に乗り、幸せを手に入れたかに思えた。だが、夫が結核で他界してしまう。
 追い打ちをかけるように店が火事になり、さらに、借金をして店を再建した矢先、従業員が店の金をすべて持って、消えてしまったのである。
3  光城(3)
 富岡トキノは失意のどん底に叩き落とされた。
 幼い娘を連れて、知人を頼って福岡に来た。牛小屋の二階を改造したアパートを借り、せんべいを焼く仕事などをした。細々と母子二人が生きるのが精いっぱいの暮らしである。しかも、娘は虚弱体質であった。
 希望の見えぬ、暗澹たる日々が続いた。そんななかで、学会員に出会い、仏法の話を聞いた。「宿命」という言葉が心に突き刺さった。その「宿命」が転換できるとの確信にあふれる話に、彼女は入会を決意した。一九五六年(昭和三十一年)の秋のことであった。
 トキノは、結核にも侵されていた。入会した彼女は、一心不乱に信心に励んだ。むさぼるように御書も拝した。そして、人生の崩れざる幸福は、自分自身の生命の変革にあることを知った。
 ″それには折伏に励むことだ!″
 彼女は、娘の香世子の手を引き、弘教にも奔走した。折伏に行き、訪ねた相手が激怒し、池に突き落とされたこともあった。
 でも、微動だにしなかった。学会活動を続けるなかで、幾つもの体験をつかんでいった。病も克服した。
 そして、一九六〇年(昭和三十五年)の春に、彼女は、故郷の村に帰って来たのである。
 離れて暮らしていた息子の正樹は、既に二十歳になっており、香世子は、小学校の四年生になっていた。
 トキノの父親は、信心に猛反対だった。しかし、子どもたちは、彼女と一緒に信心に励むようになった。
 富岡一家が住む集落には、数人の学会員がいたが、指導の手が入らなかったせいか、真剣に信心に取り組んでいる人はいなかった。トキノは、来る日も来る日も、集落の人びとに仏法の話をして歩いた。三カ月もしたころには、集落の二百数十軒の家を、くまなく折伏し、入会者も出始めた。
 だが、土俗信仰の根強い地域であり、人びとの反発は強かった。さらに、トキノをはじめ、学会員が、神社の修復の寄付を拒んだことから、大騒ぎとなった。
 集落で、富岡一家と学会への対策が協議されたのである。
4  光城(4)
 富岡トキノへの非難は激しかった。
 「トキノは島に帰って来たと思ったら、創価学会だなんていう、とんでもない宗教を持ち込んで、集落の秩序を壊そうとしている」
 「これは、黙って見過ごすわけにはいかん。断固とした処置が必要だ」
 集落の人たちは、彼女たち一家を、村八分にする取り決めを行ったのである。
 人びとは、トキノたちを避けるようになった。道で会っても、皆、目をふせ、足早に通り過ぎていった。集落の店では、何も売ってくれなくなった。ほかの店に行くには、何キロも歩く必要がある。
 祭りの日、御輿をぶつけられ、家の壁を壊されたこともあった。
 また、息子の正樹は、普段は農業をしていたが、農閑期には土木工事に出ていた。彼は、身長が一八〇センチほどあり、体格もよく、力も人一倍強いことから、雇い主には喜ばれていた。しかし、その正樹が、「雇うわけにはいかない」と断られたのである。
 「私は君に働いてもらいたいのだが、集落の人たちが、君を雇うなら働かないというのだよ。申し訳ないが、うちで使うことはできない」
 富岡の家は、収入源も断たれてしまった。
 小学生の香世子も、いつも空腹をかかえていた。もともと虚弱な子どもだけに、倒れてしまうこともあった。学校では「ナンミョーの子」といって、皆に、はやし立てられることもあった。
 ある日、香世子は、川の洗い場から、野菜クズを拾ってきた。
 「お母さん、これ、おいしそうだよ。私、いっぱい、集めてきたよ」
 無邪気に、得意そうに微笑む娘の顔を見て、トキノの胸が詰まった。こんなことまでさせてしまったと思うと、わが子が、不憫で、不憫でならなかった。
 彼女は黙って、ギュッと娘を抱き寄せた。
 娘は、不思議そうな顔をしながら、手に野菜クズを握ったまま、クスクスと笑って、母に抱かれていた。気丈なトキノの目にも涙があふれ出た。
 それでも彼女は、決して弱音は吐かなかった。むしろ、御書に仰せの通りだと、確信を深めていったのである。
5  光城(5)
 村八分のなかでも、富岡の母子は、明るさを失わなかった。食べ物のない時、どこからかニワトリが庭に入って来て卵を産んで、出ていった。母子は、「功徳だね」と、手を取り合って喜ぶのであった。
 母のトキノは、子どもたちに言った。
 「日蓮大聖人は、正法を弘めれば、必ず迫害されると言われている。その通りになっただけのことだよ。
 また、大聖人様は『末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず』と断言していらっしゃる。折伏を行じる私たちをいじめれば、絶対に現証が出るよ。見ていてごらん。それが、仏法の生命の法理だからね。
 だから、何があっても『スットゴレ!』(″なにくそ″の意味)って、歯を食いしばって頑張り抜くんだよ」
 母子は負けなかった。
 仕事のない正樹は、山に入ってハブを追った。ハブによる死傷事故をなくすために、捕らえたハブを、買い取ってくれる制度ができていたのだ。危険な作業だが、怖いもの知らずの正樹は、勇んで、山のなかを駆け回った。
 トキノは御書を携え、他の集落に、せっせと弘教に通った。
 一九六一年(昭和三十六年)八月、奄美に支部が誕生すると、彼女は、地区担当員となった。母子への圧迫はまだ続いていたが、それから間もなく、集落にあった神社が、台風で吹き飛ぶという出来事があった。さらに、迫害の中心的な人たちが、病に罹るなどの事態が生じた。
 すると、人びとはこう囁き合った。
 「学会の信心を悪く言うと、悪いことが起こる。トキノが読んで聞かせて歩いている、あの黒い本に書いてある通りだ」
 「ともかく、罰を避けるには、反対などしない方がよい」
 「黒い本」とは御書のことである。
 そして、村八分は次第に解消されていった。
 しかし、富岡母子に対する、この村八分は、その後、村に起こる迫害事件の、ほんの序章にすぎなかったのである。
6  光城(6)
 一九六四年(昭和三十九年)の初夏のことであった。
 地区担当員の富岡トキノは、ある集落の学会員の家で、二十人ほどのメンバーに対して、「聖人御難事」の講義をしていた。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ
 彼女は、いかなる迫害があろうとも、決して恐れてはならないと、力を込めて訴えていった。その時、部屋の障子が開き、一人の男が入って来た。顔は赤く、息は臭かった。酒に酔っているのだ。男は村会議員で、日ごろから、学会を誹謗していた人物である。
 参加者の顔に緊張が走った。
 彼は、睥睨するように会場を見渡した。それから、どっかりと腰を下ろすと、講義を聴き始めた。参加者は胸を撫で下ろした。
 トキノは、そのまま、講義を進めていった。
 「大聖人は、信心をして難に遭っても、それによって、後生は仏になるのだと言われ、続いてこうおっしゃっています。『たとえば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず』」
 こう語った時、男は立ち上がり、トキノに詰め寄った。
 「何が灸治だ! これは誰が書いたんじゃ。島の者か!」
 「いいえ、日蓮大聖人です」
 「日蓮? いい加減なこと書きやがって!」
 そして、男は、やにわにトキノの手をつかみ、捻り上げた。
 「なんですか!こんなことしなくても、いいでしょ。話があるなら、終わるまで待ってください」
 「早く終われ!」
 「そういうわけにはいきません。まだ、残りがあります」
 「うるせい!」
 男は、トキノの顔面を力いっぱい殴打した。彼女は、畳の上に倒れた。
 皆、息を飲んだ。男を取り押さえようと身構える人もいたが、倒れたトキノが起き上がって、それを制した。
 男は喚きだした。
 「お前ら、今度の選挙で、勝手に候補者を立てて、俺の票をもっていくんだろ!」
7  光城(7)
 村では、八月に村議会議員選挙が予定されており、その選挙に公明政治連盟(当時)から初めて候補者を立て、学会として支援することが決まっていた。
 相手は酔漢である。何をするかわからない。富岡トキノも、さすがに不安になった。しかし、こんなことで皆を動揺させてはいけないと自分に言い聞かせ、心で唱題しながら、勇気を奮い起こして、座り直した。
 そして、男の顔を見すえて言った。
 「それは、選挙ですもの、公政連(公明政治連盟の略称)の候補者の政策や人柄に共感した人は投票してくれるでしょうから、票はいただくことになりますよ。でも、私たちは、ソウメンや焼酎で、票を買ったりはしません!」
 島では、選挙のたびにソウメンや焼酎などを配り、投票を依頼するといった買収行為が後を絶たなかった。
 男は大声で叫んだ。
 「俺にも票を回せ!」
 男は、次の村議選で自分が落選してしまうことを恐れ、酒を飲んだ勢いで、学会の会合に押しかけてきたのだ。
 「そんな相談にはのれません。それより、厳粛な御書の講義の最中にこんなことをして、今に必ず後悔しますよ」
 男が暴れだすことを、皆、心配していた。
 誰かが、小声で題目を唱え始めた。皆が、その声に唱和し、唱題が広がった。
 すると、男は逃げるように帰っていった。トキノは、参加者に笑顔を向けた。
 「皆さん、驚いちゃいけません。今、御書で学んだ通りじゃないですか。信心をして、広宣流布をしようと思えば、必ず難が競い起こることが、よくわかったでしょ。
 私も殴られたんですから痛いですよ。でも、大聖人様が『後の薬なればいたくていたからず』と仰せのように、これで宿命転換ができると思うと、痛みなんか、飛んで行ってしまいましたよ」
 トキノは、ますます元気になっていた。
 「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし
 彼女は、困難に出あうたびに、確信が深まり、喜びが込み上げてくるのであった。
8  光城(8)
 八月三十日に投票が行われた、村議会議員選挙では、公政連の候補者は二百八十一票を獲得して、第一位で当選した。
 この選挙で、苦戦した現職議員や落選した候補者は、学会に見当違いな恨みをいだいた。そして、村の一、二の集落で、学会員が村八分にされるなどの事件が起こっている。
 さらに、それから三年がたった一九六七年(昭和四十二年)四月、鹿児島県議会議員選挙が行われた。
 公政連は、六四年(同三十九年)十一月には公明党として新出発し、この六七年一月、初めて衆議院議員選挙にも候補者を立て、全国で二十五人が当選した。公明党は社会の最大関心事となっていた。
 そのなかで鹿児島県議選に、奄美の大島郡区(定数五)でも、初めて公明党が候補者を立てた。投票は、四月十五日に行われ、公明候補は、学会員の懸命な支援によって三位で当選した。
 一方、この村の出身で、村の大多数の人が推した現職県議が、落選したのである。村では、誰も予想しなかったことであった。
 動揺は、落選した候補者よりも、村会議員や地域の有力者たちの方が大きかった。翌年に村議会議員選挙が控えていたからである。この県議選で公明候補が獲得した村での票は、村議選なら優に三人は当選できる数であった。
 再選を狙う現職村議や、立候補を考えている人たちは、強い危機感を覚えた。
 また、地元出身の県会議員とつながり、何かと便宜を図ってもらっていた有力者たちは、その後ろ盾を失ったことに、不安をいだいた。
 ある集落では、何人かの村会議員や有力者が集まり、自分たちが推した現職県議が、なぜ落選してしまったのか、検討が行われた。
 「公明党が初出馬して当選し、票をもっていったからだ!」
 「公明党といっても、支援に動いているのは創価学会だ」
 攻撃の矛先は、筋違いにも学会に向けられた。
 ″今のうちに対策を講じておかなければ、われわれのなかから、誰かが落ちることになる″
 彼らは焦っていた。
9  光城(9)
 村会議員ら地域の有力者は、学会員の信心をやめさせ、学会の動きを封じようということで、もくろみが一致した。
 そして、各集落に呼びかけ、村をあげて学会員を圧迫し、締め出そうと謀ったのである。
 もともと奄美は、選挙熱の高い地域であった。奄美を代表する産業といえば、大島紬と砂糖キビだが、それだけでは本土並みの経済の発展は望めなかった。地域の振興は、公共事業に頼らざるをえないのが現実であった。
 その公共事業を、いかに島に持ち込み、どれだけ便宜を与えてくれるか――それが政治の力とされ、誰が当選するかによって、利害は大きく分かれた。
 選挙で自分の推した候補が落選すれば、公共事業の指名から外されたり、役所のポストから降ろされるなど、もろに影響が表れた。まさに、選挙には、自分の生活がかかっていたのである。
 そこに、物事をはっきりさせぬと気がすまない島民の気質も加わり、選挙戦は過熱した。
 選挙となれば、現金も乱れ飛んだ。村や集落が真っ二つに分かれ、親戚同士で激しい争いとなったり、暴力沙汰になることも珍しくなかった。対立する候補者の運動員を、自分たちの地盤に入れさせぬために、焚き火をしながら夜通し見張りを立てたりもした。また、誰が当選するかを賭ける″選挙賭博″まで行われた。
 そんな風土のなかで、この村の村議選に公明政治連盟が候補者を立てて当選を果たし、さらに、県議選でも、公明党の候補が議席を獲得したのである。
 候補者も、支援する学会員も、奄美の繁栄を願い、利権で結びついた濁った政治を変え、政界を浄化したいとの一心で、懸命に選挙活動に取り組んだ。それが、愛する島の未来を開いていくために、不可欠な課題であると、真剣に考えたからだ。
 だが、これまでの島の選挙や政治の旧弊に慣れてきた人たちの目には、学会の支援活動が、村や集落の団結を壊し、島を混乱させる危険な動きであるかのように、歪められて映ったのである。
10  光城(10)
 学会員を締め出すという有力者たちの謀議は、直ちに行動に移された。
 ある集落では、退転状態にあって学会に批判的だった会員や、信心の弱いメンバーの御本尊が、密かに集められた。御本尊を集める際には、本人に委任状を書かせ、しかも、誰が来たのか、学会に言ってはならないと釘を刺した。
 こうして、五日ほどの間に、十数世帯の家の御本尊が没収されたのである。この事実をつかんだ、学会の地元の幹部は、その集落の代表と、話し合いをもつことにした。
 四月二十二日、地元の地区部長ら三人が集落の有力者の家を訪ねた。
 彼らは、会員から取り上げた御本尊の返却を求めるとともに、信教は自由であり、信心をやめるように圧迫を加えるのは違法であることを訴えていった。また、学会員は島の繁栄を願って信心に励んでいるのであり、地域の団結を乱す意思など全くないことを語った。
 交渉にあたった地元の幹部は、集落の代表と人間関係があり、話し合いが進むうちに、緊張もほぐれ、和やかな雰囲気になっていった。
 有力者たちは、学会の主張に同意する姿勢を見せ始めた。問題は解決の方向に向かうかに思えた。
 その時であった。「ウウー」火災を告げる集落のサイレンが、突然、けたたましく鳴り響いた。
 このサイレンの音を聞くと、集落の代表は顔色を変えた。そして、改まった口調で言った。
 「今回の件は、集落の総意で行ったものだ。だから、私たちだけで判断するわけにはいかない。これから公民館で、集会を開くから、皆の前で、もう一度、説明してもらいたい」
 この地域では、公政連が初めて候補者を立てた村議選の直後に、一部の学会員に圧力をかけ、脱会させるという事件が起こっていた。
 その時、名瀬から十数人の男子部員が来て、同志の激励に回った。それを地域の人たちは、学会の示威と感じたようだ。そして、今回、学会の男子部が大勢で来るようなことがあったら、サイレンを鳴らすことにしていたのである。
11  光城(11)
 サイレンを合図に住民を公民館に集め、学会を威圧しようと決めていたようだ。
 学会の方は、全くそんなことは知らずに、名瀬から三十数人の男子部員が、この時、集落を訪れたのである。
 彼らは、この集落の学会員の御本尊が取り上げられるという事件が起こっていると聞き、メンバーの家を訪問し、激励しようと、バイクや乗用車で駆けつけて来たのだ。
 それを見た集落の人たちは、「学会は、いよいよ若い者を送り込んできた。実力行使の構えだ」と憶測し、サイレンを鳴らしたのである。
 住民は、続々と、公民館に集って来た。
 そのサイレンは、本来、火災を知らせる警報であったが、学会員以外の人たちは、誰も慌てる様子はなかった。事前にサイレンの意味が徹底されていたのだ。
 そのなかで、何も知らされていない学会員だけが、「火事だ!」と声をあげながら、バケツを手にして家を飛び出した。
 集落の緊急集会が始まった。公民館は、百人近くの人で埋まり、場外には、さらに多くの人があふれていた。会場に入った学会員は、わずか十人ほどに過ぎなかった。多勢に無勢である。
 集会では、学会側と集落側の双方から、順番に発言していくことになった。学会側で最初に話をしたのは、名瀬から来た男子部の幹部であった。
 彼は、学会への誤解を晴らすために、冒頭、学会の理念と実践を説明していった。
 すると、激しい野次と罵声が起こった。
 「黙らせろ! あいつの口をふさげ!」
 「勝手なことばかり言うな!」
 「我田引水だ!」
 学会側の話には、全く耳を傾けようとはしなかった。
 一方、集落の有力者たちが、「村を混乱させる学会を、断じて撲滅しようではないか」などと叫ぶと、嵐のような喚声に包まれた。冷静な話し合いや説明など、とうてい行える状況ではなかった。
 集会が始まって一時間ほどしたころ、学会側は、これでは話し合いにならないと判断し、引き揚げることにした。
12  光城(12)
 この集落での集会が、学会員締め出しの号砲となり、他の集落でも同志への圧迫が始まった。村の有力者や親戚などが押しかけ、学会をやめろと迫るのである。もし断れば、「商売も、仕事もできないようにする」「紬の織子をやめさせる」「台風の被害があっても協力しない」「田植えも手を貸さない」などと脅すのだ。
 紬は奄美の基幹産業であり、「織子」というのは、それを織る人のことで、ほとんどが女性であった。紬工場を営む学会員は、「織子」がやめてしまえば、経営は成り立たなくなる。
 また、奄美は、台風の通り道であり、常に被害に泣かされてきた。
 暴風で家が浮き上がり、礎石から落ちてしまうこともよくあった。そうなれば、住むこと
 はできないし、柱も腐ってしまう。直すには人びとの協力が必要だが、それを拒否するというのだ。
 そして、こうした不当な制裁が、実行に移されていったのである。学会員の商店には、買い物に来る人はいなくなった。
 一方、集落の商店は、学会員には、いっさい、商品を売らなくなった。
 紬を製造する学会員の工場では、従業員が次々とやめ、経営が困難になった。
 残念なことには、こうした理不尽な圧力に耐えかねて、次第に、信心を捨てる人が出始めたのである。
 学会としても、退転者を出すまいと、必死であった。地元の幹部だけでなく、名瀬からも、連日幹部を派遣し、家庭指導に回り、同志の激励に全力を注いだ。
 しかし、迫害を加える有力者たちの対応は、陰湿であった。名瀬などから来た幹部が引き揚げたのを見計らって、深夜に脱会を迫って回るのである。
 前夜に激励・指導した会員が、翌日になると翻意していて、「信心をやめます」と言うことも少なくなかった。
 それをまた、説得し、励まし、信心を貫く決意を固めさせるのである。
 まさに、攻防戦であった。安堵した瞬間に覆されるのである。一瞬として、気を抜くことは許されなかった。
13  光城(13)
 公民館での緊急集会から数日後、学会は、この村を中心とした地域の決起大会を開催した。会場となったメンバーの家は、公民館のすぐ近くにあった。同志は、続々と決起大会に詰めかけ、四百人を超す大結集となり、場外にも人があふれた。
 集落の男たちも、会場の周りに集まって来た。そして、大声をあげ、バイクのエンジンを一斉にふかすなど、会合を妨害し始めたのである。その音に、しばしば、登壇者の声もかき消されたが、それでも、元気に決起大会は進められた。
 ある壮年は叫んだ。
 「私たちは、村の団結を乱すつもりなど、全くありません。信仰も、選挙で誰に投票するかも、憲法に保障された国民の権利ではないですか。村のやり方は、人権侵害であり、誤りです。そんなことに屈するわけにはいきません!」
 また、ある婦人の幹部は力説した。
 「この難を乗り越えていってこそ、宿業を転換し、人間革命していくことができるんです。
 今こそ、自身の信心を磨き、一生成仏への飛躍台としていくチャンスなんです」
 集った同志の決意は、固く、強かった。
 しかし、学会排斥の動きも強まり、各集落では毎日のように、学会への対策会議が開かれた。そして、有力者たちは、学会員を呼び出し、執拗に脱会を迫った。
 「明るい村づくりのためには、みんなが心を一つにしなければならん。だから、村の団結を乱す学会をやめろ」
 すると、メンバーは毅然として答えた。
 「明るい村にしていくために、信心が必要なんです。病苦、経済苦、家庭不和などの宿命に泣いていたのでは、村は明るくなりません。私たちの仏法は、その宿命転換ができる、唯一の信仰なんです」
 村の若者に取り囲まれて、「殺してやろうか」と脅された婦人もいた。しかし、同志は、″熱原の三烈士″を信心の鑑とし、どんな弾圧が襲いかかろうが、絶対に負けまいと誓い合った。このころ、「いぬちんかぎり、きばらんば」(命の限り頑張らなければ)というのが、皆の合言葉となっていた。
14  光城(14)
 五月に入って間もなくのことであった。三つの集落が合同して、「学会撲滅」を掲げたデモを行うという話を、学会員は耳にした。
 調査してみると、六日午前、あの公民館の前に集まり、車やバイクなどを連ねて、村中を巡る計画になっていることがわかった。
 地元組織としても、九州の幹部と連携をとりながら、協議を重ねた。
 そして、学会としてはこのデモに対して、実力で阻止するなどの行為は厳に慎み、静観することになった。ともかく、挑発にのって、暴力事件などを絶対に起こすことのないよう徹底されたのである。
 また、デモが過熱化して、学会員の家を襲ったり、暴行を加えたりすることを防ぐため、地元警察に、警備の強化を強く要請した。
 さらに、デモが実施される六日は、夜には、一斉に座談会を開き、団結を固め合うとともに、座談会に参加できなかったメンバーの家を訪ね、激励を重ねていくことに決まった。
 五月六日、公民館の前には、午前八時過ぎから村の人たちが集ってきた。
 その数は、約三百人に達した。このデモを主催した、三つの集落の世帯数が約二百七十世帯というから、集落をあげての企てであったといってよい。
 午前十時、集会が開かれ、宣言が朗読された。
 そこでは、「選挙につながる折伏」を排除し、平和な村づくりをしようと呼びかけていた。
 それから、二台の乗用車を先頭に、約五十台のバイク、四台の大型バス、さらに、小型トラックや乗用車に分乗し、デモが開始された。
 バスなどには「邪教を許すな」「選挙につながる折伏に絶対反対」「病気が治る、金持ちになると言う宗教にだまされるな」等の横幕が掲げられていた。
 それは、あまりにもものものしい、異様な光景であった。その列は、約一キロメートルにわたった。
 デモの行列は、スピーカーを使い、「邪教にだまされるな!」などとがなり立て、学会への誹謗を繰り返しながら、村内を回っていった。
15  光城(15)
 ある家では、デモの列から発せられる罵声を聞いて、小さな子どもたちが、母親にしがみつき、火がついたように泣きだした。
 ある婦人は、悔し涙に濡れ、必死で唱題した。
 ″学会がどんな悪いことをしたっていうの! こんなことが許されていいわけがない!″
 また、ある壮年は、デモの通る道の脇にある畑で、黙々と農作業に励んでいた。だが、デモが近づいて来ると、じっと、天を仰いだまま、動こうとしなかった。動けば、涙がこぼれ落ちる。決して涙は見せたくなかったからだ。
 各集落の沿道には、見物人があふれていた。そのなかに、三十過ぎの一組の夫婦がいた。男子部の班長の天竜和夫と妻のエリ子である。
 和夫は、人情に厚く、一本気な性格であった。また、短気で腕っぷしも強く、入会前は、よく喧嘩もした。だが、信心を始めてからは、そのエネルギーは折伏に向けられ、仏法対話の闘士となった。集落の人たちには、ほとんど信心の話をし、喜界島などにも頻繁に布教の歩みを運んだ。
 彼は、この日、家にいたが、デモの声が響き始めると、じっとしてはいられなかった。
 「連中がどんな顔でデモなんかしているのか、見に行くぞ!」
 妻のエリ子は言った。
 「あんた、どんなに腹が立っても、絶対に手を出しちゃだめよ」
 夫の性格をよく知る彼女は、彼の怒りが爆発することを恐れていた。
 「もし、手出しをすれば、学会に迷惑がかかるんだからね。何があっても堪えるのよ」
 「ああ……」
 「本当よ。もし、どうしても、どうしても、我慢できなくなったら、私を殴って!」
 二人は、デモの行列が通っている道に立った。
 周りには、何人もの人が出ていた。
 夫妻が、路上でデモを見ていると、村の有力者として知られる、顔見知りの村会議員の男がやって来た。そして、向こうから声をかけた。
 「学会も、えらいことになったな。私は、この″パレード″とは、何も関係ないからな」
16  光城(16)
 天竜和夫は、有力者を睨みすえた。
 この男は、学会を締め出すために、陰で糸を引き、さまざまな動きをしていた。天竜は、それをよく知っていた。
 「関係ないことはないでしょう。あなたがやっていることは、全部、わかっていますよ」
 その時、デモの行列の車から、有力者に声がかかった。
 「先生! 絶大なご協力、ありがとうございます! 学会を撲滅するまで頑張ります!」
 天竜は言った。
 「あなたが陰で何をやっているか、明確じゃないですか!」
 「私は知らん! そんなことより、君らは、公明党、公明党と、別の集落の人間を担ぐ。なんで地元が送り出そうとする代表を、落とそうとするんだ」
 「私たちは、政治をよくしようとして頑張っているだけです。何も悪いことはしていません。それなのに、どうしてこんな卑劣なまねをするんですか!」
 「何を言うか! この″貧乏たれ″が!」
 学会員を見下しきった態度であった。天竜の胸に、怒りが込み上げた。
 「″貧乏たれ″で結構だ! 学会は、あんたのように私利私欲の固まりじゃないからな。それに俺たちは、あんたから、びた一文、もらったことはないんだ!」
 路上で激しい言い合いになった。
 妻のエリ子は、はらはらしながら夫を見た。集落の住民も、遠巻きにして彼らを見ていた。
 有力者は、吐き捨てるように言った。
 「だいたい、″貧乏たれ″が集まって、ホーレンゲキョーで何が変わるか。学会には、まともなもんなど、おらんだろ」
 天竜は、拳を握り締めていた。自分のことなら我慢もできた。しかし、学会のことを、ここまで言われると、もう、堪えることはできなかった。
 エリ子には、夫が我慢の限界に達していたことがよくわかった。いや、誰でも、同じ気持ちになると思った。
 「あんた、ダメよ! 絶対ダメよ。殴るなら、私を殴るのよ!」
 エリ子が叫んだ。
 有力者の顔に怯えが走った。
17  光城(17)
 「この野郎!」
 天竜和夫の拳が風を切った。
 だが、彼が殴ったのは有力者ではなく、妻のエリ子であった。彼女は、のけぞるように倒れた。天竜は、″すまん″と心で詫びた。感情を抑えることができなかった自分が、不甲斐なかった。
 エリ子は、痛みを堪えながらも、夫が約束を守ってくれたことが嬉しかった。これを見て、遠巻きにしていた住民たちが近寄って来た。
 有力者の顔からは、血の気が引いていた。天竜は、溜飲が下がったのか、落ち着いた声で言った。
 「仏法は勝負だ。見ていなさい。正しい者が必ず勝つ!」
 すると、有力者の妻が出てきて、天竜とエリ子を指さして言った。
 「まあ、なんて暴力的なの! この人たちは、いつもこうなのよ。それに、うちのことをいつも立ち聞きしているのよ! 気持ちが悪くてしょうがないわ!」
 全く身に覚えのないことだ。今度はエリ子が憤った。
 「そんなことは、していません!」
 「しているでしょ!」
 居合わせた住民は、有力者の夫人に迎合した。
 「そんなやつらは、村から出ていけ!」
 「追い出せ!」
 背中に村人の罵声を浴びながら、天竜夫妻は家に戻った。
 ″学会排斥デモ″は、地元の新聞で大きく取り上げられた。
 この出来事が山本伸一に伝えられたのは、デモのあった日の夜のことであった。
 九州の幹部から、電話で連絡を受けた理事長の泉田弘が、報告に来たのである。
 話を聞くと、伸一は厳しい口調で言った。「報告が遅すぎます。こうした大変な状況になるまでには、幾つもの段階があったはずです。最初の段階で手を打っていれば、問題をこじらせず、こんな事態になるのは防げたはずです。鹿児島や九州の幹部は知っていたんですか」
 「知っていましたが、大きな問題になるとは思わず、報告をしなかったということです。また、対応も、基本的には、すべて現地に任せていたようです」
18  光城(18)
 伸一は、言葉をついだ。
 「この奄美の問題は、本部の対処が遅れた分だけ、対立の溝が深まっていったように思う。
 ともあれ、幹部は、報告を受けたら、聞き流したり、放置しておくことなく、本部とよく連携をとり、直ちに反応することです。それが、同志の信頼につながる。
 学会がこれまで、なぜ大発展してきたのか。それは、たとえ、北海道の原野の村で起きたことも、九州の山里で起きたことも、その日のうちに本部に報告され、即座に適切な手を打ってきたからです。つまり、緻密な連絡・報告、そして、迅速な反応と対処にあった。
 連絡・報告が速やかに行われず、幹部がすぐに反応しない組織というのは、病んでいる状態といえる。いや、死んでいるようなものです。幹部が、惰性、マンネリに陥っている証拠といえます。そこに、油断が生じ、魔の付け入る隙ができてしまう。そして、結果的に、同志を苦しめることになる。怖いことです」
 「おっしゃる通りだと思います」
 泉田弘は、緊張した顔で答えた。
 「問題は、これからどうするかです。まず、現地に副理事長など、最高幹部を派遣して、詳しい実情を調べてください。そして、全力をあげて地元の同志を守り抜くことです。
 私は、こんな仕打ちを受けた奄美の同志が、かわいそうでならない。すぐにでも飛んで行って、一人ひとりを抱き締め、讃え、励ましたい。
 しかし、今、私は、その時間がとれません。だから最高幹部が、私に代わって皆を激励し、全力で解決にあたってほしいんです」
 早速、理事長の泉田を中心に検討し、学会本部から副理事長の澤田良一を派遣する一方、九州からも幹部を送り、この問題の解決にあたることになった。
 澤田たちが奄美入りしたのは、五月十一日のことであった。
19  光城(19)
 派遣幹部は、村八分によって生活が脅かされたり、暴力を振るわれた会員がいることから、被害にあった人たちから詳しく話を聞いた。また、同志への激励、指導の方法などについても協議を重ねた。
 そして、鹿児島地方法務局の名瀬支局へ、人権侵害の実態の調査を依頼するとともに、集落の首脳らを名瀬警察署に告訴した。もはや法的手段に出なければ、同志の人権は守りきれないところまできていたのである。
 さらに、澤田は、幹部会や御書講義などを担当した。そして、今回の問題は御聖訓に照らして見るならば、三障四魔が紛然として競い起こってきた姿であり、どこまでも、信心第一に乗り越えていくことが肝要であると訴えたのである。
 村八分事件の起こった村の状況と対応の詳細は、電話で学会本部に伝えられた。
 山本伸一は、その報告を泉田弘から聞いた翌日の五月十三日、アメリカ・ヨーロッパ訪問に出発した。この訪問は十七日間にわたったが、伸一は、その間、奄美の同志のことを思い、真剣に題目を送り続けた。
 副理事長らの派遣は、奄美のメンバーを、一段と勇気づけた。
 広宣流布への闘魂を燃え上がらせた村の同志は、名瀬の幹部の応援も得て、勇猛果敢に、家庭指導と折伏を敢行していったのである。
 家庭を訪ねると、迫害を恐れ、安置していた御本尊を隠してしまっている人もいた。「周りから睨まれたくないから、来ないでくれ」という人もいた。
 折伏に行けば、門前払いされることが多かったし、罵声だけでなく、水までも浴びせられた。しかし、そんななかでも、「学会の言っていることの方が正しい」と、共感を示す人もいた。また、懸命に語り合うなかで、入会を決意する人もいたのである。
 一方、告訴された有力者のなかには、事情聴取が始まると、自分たちの行き過ぎを後悔する人も出始めた。
 さらに、村八分に加担し、デモに参加した人びとが、集落の首脳に、こう言って詰め寄る場面もあった。
 「あんたたちがやれと言ったからやったんだ。警察に引っ張られたら責任を取ってくれるのか」
20  光城(20)
 学会員締め出しを画策した有力者の足並みに、乱れが見え始めた。
 一方、学会員は心を一つにし、ますます団結は強まっていった。
 村八分に対しても、可能な限り、学会員同士で協力して守り合った。不買運動に泣く学会員の店があれば、遠く離れた集落であろうと、自転車を飛ばして買いに出かけた。
 紬工場を営む会員が、従業員がやめて困惑していることを知ると、婦人部員や女子部員が「織子」になって応援した。
 学会員は語り合った。
 「絶対に負けないわ。どっちが正しいか、やがて、すべては明らかになるもの」
 「そうよ。何をされようが、私たちは、最後は、必ず勝つ。今、私たちをいじめた人たちは、正邪が明らかになった時に、なんと言って来るんだろうね」
 その確信は、現証となって現れていった。
 婦人部の塩野松子は商店を営み、雑貨とともに塩、たばこ、米、酒などを販売していたが、不買運動に苦しんでいた。収入は、以前の十分の一ほどに落ち、暮らしは困窮していった。しかし、塩野は負けなかった。
 「スットゴレ!」(なにくそ)
 こう必死に自分を励ましながら、懸命に唱題に励んだ。
 ある日、彼女の集落の付近に、トビウオの大群が来た。普段、農業をしている人も、皆、総出で漁に出た。
 捕ったトビウオを保存するには塩が必要であったが、あまりの大漁のために、各家庭で蓄えていた塩では、とうてい足りなかった。だが、集落のなかで塩を売っているのは、塩野の店だけであった。人びとは、やむなく彼女の店にやって来て、売ってくれと、頭を下げて頼まなければならなかった。店の売り上げは、かつての倍以上になった。そして、これを境に、この集落では、不買運動がなくなっていった。
 だが、村の各集落では、依然として村八分は続いていた。
 しかも、村の有力者の一部は、学会の撲滅を叫んで二回目のデモを計画し、その運動を全国に広げると放言していたのである。
21  光城(21)
 山本伸一は、五月二十九日、アメリカ・ヨーロッパ訪問から帰ると、最高幹部らに、すぐに奄美の現状を詳しく尋ねた。
 そして、奄美総支部長の野川高志に、励ましの葉書を書き送った。
 「前略 選挙後、奄美に三障四魔起こる。これに対し、貴君等の敢然たる戦いを心から喜ぶものです。魔起こるは、これ奄美に偉大なる発展ありしを意味し、御金言通りの実証なれば、少しも驚くに非ず。大いなる変毒為薬をなし、歓びと確信に満ちて、更に団結を固めて、次の前進をされんことを祈っております。同志にくれぐれもよろしく。不一」
 奄美の同志にとって一番大切なことは、信心の眼を開いて、この問題が仏法上、いかなるえていた塩では、とうてい足りなかった。だが、集落のなかで塩を売っているのは、塩野の店だけであった。人びとは、やむなく彼女の店にやって来て、売ってくれと、頭を下げて頼まなければならなかった。店の売り上げは、かつての倍以上になった。そして、これを境に、この集落では、不買運動がなくなっていった。
 だが、村の各集落では、依然として村八分は続いていた。
 しかも、村の有力者の一部は、学会の撲滅を叫んで二回目のデモを計画し、その運動を全国に広げると放言していたのである。
 山本伸一は、五月二十九日、アメリカ・ヨーロッパ訪問から帰ると、最高幹部らに、すぐに奄美の現状を詳しく尋ねた。
 そして、奄美総支部長の野川高志に、励ましの葉書を書き送った。
 「前略 選挙後、奄美に三障四魔起こる。これに対し、貴君等の敢然たる戦いを心から喜ぶものです。魔起こるは、これ奄美に偉大なる発展ありしを意味し、御金言通りの実証なれば、少しも驚くに非ず。大いなる変毒為薬をなし、歓びと確信に満ちて、更に団結を固めて、次の前進をされんことを祈っております。同志にくれぐれもよろしく。不一」
 奄美の同志にとって一番大切なことは、信心の眼を開いて、この問題が仏法上、いかなる意味をもつかを、深く認識することであった。
 伸一は、同志が強盛なる信心に立ったがゆえに、競い起こった魔であり、根本的には、信心で乗り越えるべき問題であることを、まず、訴えておきたかったのだ。
22  光城(22)
 この葉書を手にした野川は、沸々と勇気がたぎり立つのを感じた。彼は山本会長のこの指導を、皆に伝えて歩いた。
 また、伸一は、事態の解決とメンバーの激励のために、再び副理事長の澤田良一ら最高幹部を派遣することにした。さらに伸一は、奄美の問題について、これまでの報告をもとに、あらゆる角度から分析を重ねていった。
 ――発端は、学会が県議選で支援した公明党の候補者が当選し、この村の出身である候補者が落選したことにある。そこから、村の有力者である村議らは、次の村議選で自分が落選することを恐れ、学会の排斥を画策した。これが、この事件の構図である。
 本来、選挙でどれだけ票を獲得できるかは、政策や人柄、実力、実績など、候補者の側の問題である。それを、学会を排斥することで、当選を果たそうなどと考えるのは、甚だしい筋違いである。そんなことは、誰にでもわかるはずだ。
 問題は、その音頭をとったのが、村の有力者であったとはいえ、なぜ多くの村民が、理不尽な扇動に乗ってしまったのかということである。
 山本伸一は、奄美の人びとの目に、創価学会がどう映っていたのかを考えていった。
 学会は、「広宣流布」をめざす宗教である。入会した同志は、病苦や経済苦に挑みながら、未来への希望をいだき、生命力をたぎらせ、勇気をもって、布教に励むようになる。
 さらに、学会は、「立正安国」をめざす宗教である。「立正安国」とは正法を立て、国を安んずることであり、仏法の生命の尊厳や慈悲の哲理を根底に、社会の平和と繁栄をめざすことである。
 ゆえに、学会員は、選挙の支援をはじめ、さまざまな社会的な活動に、意欲的に取り組んできたのだ。
 それは、奄美に古くから伝わる、神霊や死霊と交流し、託宣や占いを行うといったユタ信仰などとは全く異なる、島の人びとの常識をはるかに超えた宗教といえる。
 しかも、学会は、破竹の勢いで拡大の一途をたどってきた。
 ところが、その学会について、もたらされる情報といえば、偏見と悪意に歪められていた。「香典を持っていく」「暴力宗教」「政治支配が目的だ」などといった、根も葉もない中傷、誹謗ばかりであった。それだけに、村の人びとは、学会を誤解し、不気味な脅威を感じていたのであろう。
23  光城(23)
 ″恐れ″は、真実を見る眼を曇らせ、妄想をかき立て、さらに、人間を残酷にする。その結果、理不尽な学会排斥の呼びかけに、大多数の人たちが同調してしまった。
 いわば、村の人たちは、己の心の影ともいうべき妄想に怯え、冷静な判断力を失い、過激な反学会の人権蹂躙へと走ってしまったのである。
 島には、強い共同体意識があった。同胞は守り、庇い、面倒をみる。しかし、外敵と見なせば容赦なく排除する。その激しい気質を巧みに利用し、煽り立て、学会の弾圧に悪用したのだ。
 結局、人びとは、学会の真実を知らないために、学会員が選挙で独自の候補者を推したことから、村の結束、秩序、伝統を壊そうとしているかのように思い込まされてしまったのであろう。
 知らざるがゆえの誤解に基づく弾圧――それがこの奄美の事件であるというのが、山本伸一の結論であった。
 ″そう考えるならば、この問題の根本的な解決は、地域の一人ひとりに対して、学会の真実を教え、誤解を解きほぐしていく以外にない。本来、島の人びとと学会が対決し、争う理由など何もないはずである。
 奄美の人たちは、郷土を愛し、郷土を守ろうという思いが人一倍強い。学会員も、地域の発展、島の発展を、誰よりも真剣に願っている。だからこそ、政治の改革にも、積極的に乗り出したのである。
 郷土愛の強い奄美の人びとが、島を愛する学会員の心を知り、学会の目的と、その本当の姿を直視していくならば、誰よりも学会を理解し、共感するにちがいない。戦いとは、分断ではない。地域の発展のために結び合うことだ″
 奄美に向かう幹部があいさつに来た時、伸一は言った。
 「奄美の同志には、私からの伝言として、『憎み合うことは、決して信仰者の本義ではありません。皆と仲良くすることが大切です』と、伝えてください。
 みんなの怒りも、悔しさも、悲しみも、私はよくわかっています。しかし、地域の人たちが感情的になっているからといって、同じように感情的になってしまったら、対立の溝は、ますます深まるだけです。
 大多数の人たちは、仏法のことも、学会のこともわからずに、一部の有力者の言葉に乗って、学会を攻撃しているにすぎない。本当に創価学会が攪乱され、仏法が破壊されてしまうような時には、徹底して悪を責めて、完膚なきまでに、その誤りを正していかなければならない。しかし、今回の問題は次元が違います。
 私たちの目的は、自分が幸せになるとともに、すべての人を幸福にすることであり、地域を繁栄させることです。そのためには、柔和忍辱の衣を着て、大きな境涯で相手を包みながら、粘り強く対話を重ね、友情と信頼の絆を結び、広げていくことが大切になります」
 派遣幹部の一人が、口を開いた。
 「現地のメンバーは、ひどい仕打ちをされたことから、先生がおっしゃいましたように、かなり感情的になっていることは確かです。私たちも、それを心配しておりました」
24  光城(24)
 伸一は頷いた。
 「今回の出来事は、みんなが純粋に戦い抜いたから、三障四魔が競い起こってきたことは間違いない。しかし、村の人たちが魔であると、固定的に考えるのは誤りです。魔とは、衆生の心を悩乱させ、善事を妨げ、仏道修行を阻む″働き″のことです。魔は、仏身や権力者、父母、師匠、妻子など、あらゆる姿を現じて、衆生の心を惑わします。
 たとえば、母親が幼い娘を祖母に預けて学会活動に出ようとしたら、娘が行かないでと言って泣いたとする。それでやめてしまえば、魔に負けた姿です。
 では、娘さんという存在自体が魔なのか。そうではない。自分にとって魔の″働き″になっただけで、娘さん自体は、魔でも、敵でもない。愛すべき対象です。
 人間は、魔の働きをすることもあれば、諸天善神の働きをすることもあります。また、一つの現象が魔となるのか、人間革命への飛躍台になるのかは、自分の一念の問題です。
 大弾圧が起こっても、御書の仰せ通りであると確信を深め、歓喜する人もいる。逆に、功徳を受け、生活が豊かになったことで、真剣に信心に励まなくなる人もいる。さらに、戸田先生の時代から、師匠の厳愛の指導に怨嫉し、反逆していく者もいました。結局、外の世界のすべての現象は、魔が生ずる契機にすぎず、魔は己心に宿っているんです」
 派遣幹部は、大きく頷きながら、伸一の話を聞いていた。
 「また、今、村の人たちが信心に反対しているからといって、永遠に反対するとは限りません。法華経には提婆達多の成仏が説かれているように、いかなる人も、善の力へと変わっていくことを教えているのが、仏法なんです。現在、幹部となって活躍している人の多くが、かつては大反対していたではありませんか」
 伸一は、彼方を仰ぐように、目を細めて言った。
 「この問題の根本的な解決は、奄美の同志の境涯革命にある。
 大聖人は『我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』と仰せです。自分を迫害した権力者たちを、最初に救おうという、この御境界に連なれるかどうかです。
 また、大聖人は、弾圧を加える者がいたからこそ、法華経の行者となることができたとも言われている。奄美の同志も、その考えに立って、人びとを大きく包容し、皆の幸福を願いながら、仲良く進んでいってほしいんです。奄美のこれからの戦いとは、信頼を勝ち取ることです。そのための武器は誠実な対話です。さらに、社会にあって一人ひとりが、粘り強く社会貢献の実証を示していくことです。
 私も、必ず、もう一度、奄美に行きます。奄美の皆さんには、『私に代わって、地域広布を頼みます』と伝えてください」
25  光城(25)
 伸一の深き心を知った派遣幹部たちは、速やかな事態の収拾を決意し、東京を発った。
 六月七日に奄美入りした彼らは、地元幹部に、伸一の伝言を伝え、感情的な溝を乗り越えていくように訴えた。
 そこに、再び、十日の日に、デモが行われることが決まったという情報が入った。しかも今度は、奄美の中心である名瀬市まで行くというのである。
 派遣幹部は、このデモの中止を要請するために、すぐに村の有力者らと会って、話し合うことにした。
 村役場で代表と会談した派遣幹部は、選挙は地域の繁栄を願って、国民として認められた権利を行使しているのであり、学会は村の人たちと対決する考えなど、全くないことを述べた。また、互いに誤解もあったことから、事態が紛糾した面もあるので、今後は話し合いを重ね、和解のための努力をしていきたいと語った。
 村の代表たちは、学会は対決姿勢を強め、強硬な手段に出るのではないかと恐れていたようだ。それだけに、この対応には、驚きと戸惑いを隠せなかった。
 派遣幹部は、デモの中止を求めた。しかし、既に準備は完了し、もう、後へは戻れないところまできていたようだ。説得にあたったが、話は平行線をたどった。結局、デモをやめるという答えを引き出すことはできなかった。
 翌六月八日付の地元各紙を見た学会員は、愕然とした。
 「今度は名瀬にデモ 尾を引く学会との紛争」「強まる反創価運動 十日名瀬市で示威行進」の見出しが躍っていたからである。そこには、「明るく平和な島づくり」のスローガンのもと、村から五百五十人が参加し、バス十台、自家用車二十台、オートバイ八十台を連ね、名瀬市に向かい、創価学会反対を訴えるデモが行われることが報じられていた。
 さらに、この日の地元の新聞には、御本尊を返却した人たちの連名で、「声明書」と題する広告が掲載されていた。
 ――御本尊を返却したのは、集落の強制によるものではなく、自分の意思に基づくものであるというのだ。
 なかには、自分の意思で信心をやめていった人もいたが、御本尊を返却した人の多くが、集落での圧力に脅えていたことを、激励、指導にあたってきた学会員は、よく知っていた。「声明書」は、その圧力の事実を否定するためのものであったといってよい。
26  光城(26)
 しかも、翌九日には、地元紙に、村の「愛郷同志一同」の名で、「明るく平和な島造り推進 パレード宣言」と題する広告が掲載された。
 そこでは、最近、平和だった村内に告訴問題が生じるなど騒然としているが、その告訴内容は事実無根であるとし、平和な島づくりをするために、翌十日にパレードを行うとしていた。
 この広告には、「創価学会」の名は一言もなかった。だが、地元の人なら、誰の目にも、学会排斥のデモであることは明らかであった。
 島の人びとの幸福と平和を願い、懸命に献身してきたのが、学会員ではなかったか。その学会員を排斥するために、またしてもデモが行われるのだ。
 六月十日、デモは予定通りに実行に移された。名瀬市などにも呼びかけ、集まった六、七百人が、バスや自家用車、オートバイなど、約百台に乗って、午前十一時に村を出発した。
 オートバイを運転する人の頭には、赤い文字で「和」と書かれた鉢巻きが締められ、バスなどの車体には、「平和な島にバチを与える神様にだまされるな」等の横幕が取り付けられていた。デモの規模は、前回の倍以上であった。
 行列が名瀬市内に入ると、十数発の花火が打ち上げられ、屋外放送で到着が伝えられた。車を連ねて、「重病人への折伏は精神的暴力だ!」などと叫びながらのデモである。
 学会員は、悔しさに体を震わせながら、このデモを見ていた。住用村に住む奄美総支部長の野川高志は、デモの前日、中学三年生の娘の輝子を呼んで言った。
 「明日、名瀬に行く。お前に見せたいものがあるから、一緒に来い!」
 当日、輝子は、何を見せてくれるのだろうと思いながら、父と一緒に名瀬に向かった。
 街の大通りに立っていると、長い車の列がやって来た。
 車からスピーカーで、「平和を乱す折伏を許すな!」などと、盛んに、がなり立てていた。
27  光城(27)
 輝子は、怖かった。でも、それ以上に憤りを覚えた。
 「お父さん。どうしてなの! なぜ、学会がこんな目にあわなければいけないの!」
 父の高志は言った。
 「ともかく、この光景をよく胸に焼き付けておくんだ。父さんも、島の学会員さんも、島の人たちの幸福のために懸命に戦ってきた。正しいことをしてきた。
 でも、だからこそ、こんな仕打ちを受け、攻撃をされるんだ。正しいことだから、みんなが認めて、讃えてくれるわけじゃあない。むしろ、大反対がある。
 お前は、この悔しさを決して忘れずに、学会の正義と真実を語り抜け! そして、いつか必ず、お前たちの手で、奄美を幸福の楽園にするんだ。広宣流布の理想郷にするんだ。それが、学会っ子の使命だぞ」
 列をなした車のなかから、大きな声が響いた。「村の平和を乱す宗教は出ていけ!」
 野川輝子は、ギュッと唇をかみしめ、その車を睨んだ。父親の高志が、彼女の肩を叩いてなだめた。
 「彼らはいつか、今日のことを、きっと恥じるようになるさ。また、そうしていかなくてはならない。そのために、お前たちが学会のすばらしさを証明し、みんなを最高の理解者、味方にしていくんだ。いいな!」
 輝子に限らず、多くの中等部員や高等部員が、このデモを目にした。その衝撃的な光景は、痛憤の思い出として、若い魂に焼き付けられていったのである。
 デモは、名瀬市内を二時間にわたって回り、気勢をあげた。だが、思いのほか、市民の反応は冷たかった。「明るく平和な島づくり」などと銘打っていても、村の一部の有力者らが、選挙対策のために学会員に圧力をかけようとして推進したデモであることを、皆、知っていたからである。
 沿道では、こんな語らいも聞かれた。「信仰も、選挙も自由なのに、なんでここまでやるんだ。村の方がおかしいぞ」
 「しかも、学会員は脅されたり、村八分にされているらしい」
 「それじゃあ、学会員が怒って告訴をするのも当然だろう」
 地元各紙は翌十一日、「『折伏反対』名瀬に乗り込む 七百人がデモ行進」などの見出しを掲げ、デモの模様を大々的に報じている。
28  光城(28)
 新聞の報道を見た同志たちは、喜々として語り合うのであった。
 「この前のデモと、今回と、二回も大きく新聞に報道された。これで、奄美中の人たちの関心は、完全に学会に向いた。もう奄美で学会のことを知らない人はいないだろう」
 「そうだな。今こそ、学会のことを、大いに語り抜くチャンスだ。奄美中の人と仏法対話しようじゃないか」
 信念と勇気の眼を開く時、いかなる逆境の闇にも、″好機″の光が映し出される。デモ騒ぎは、同志の広宣流布への闘魂に火をつけたのである。
 奄美総支部としては、山本伸一の伝言にあったように、争いを避け、すべての村の人たちと仲良くすることを第一として、学会への理解を促すために、対話の大波を起こしていくことになった。
 また、脅迫や傷害などで、学会員が数件の告訴をしていたが、これが功を奏したのか、同志への極端な迫害行為は減少していった。もともと、告訴は、人権を守るための非常手段としてなされたものであり、争うことが目的ではない。そこで、それぞれの学会員が告訴を取り下げることにしたのである。
 この村に吹き荒れた弾圧の嵐は、次第に収まっていったが、感情的なしこりは一朝一夕にはなくならなかった。学会員への冷たい仕打ちも、陰に陽に続けられた。
 だが、同志は歯を食いしばり、粘り強く、広宣流布の歩みを開始した。伸一の二度目の奄美訪問を待ちわびながら――。
 あのデモから一年数カ月がたっていた。山本伸一を乗せた車は峠を抜け、再び海岸線に出た。
 伸一は、地元の幹部に尋ねた。
 「弾圧事件で、信心をやめていった人は、最終的に何人ぐらいになりましたか」
 「はい。百人ほどでした。村のメンバーの三分の一ほどにあたります」
 「そうですか……」
 車窓には、穏やかな海が広がっていた。この同じ道を、デモの行列が通ったのである。
29  光城(29)
 伸一は、奄美の同志がどれほど辛い思いをしながら、耐えてきたかと思うと、胸は張り裂けんばかりに痛んだ。″もっと早く来てあげたかった……″
 実は、この奄美訪問にも、学会本部の首脳たちは反対であった。大がかりなデモが行われたところだけに、山本会長が行くことがわかれば、何が起こるかわからないと、首脳たちは考えていたのである。
 だから、最初、伸一が奄美行きの計画を語った時、理事長の泉田弘は言った。
 「山本先生が、今、あの奄美に行かれるのは、極めて危険であると思います。お気持ちはわかりますが、時期を延ばしてはどうでしょうか」
 即座に、伸一の言葉が返ってきた。強い語調であった。
 「今だからこそ、行くんです。むしろ、遅いぐらいです。私の身に何が起ころうが問題ではない。私は、奄美の同志に申し訳なかったと思っています!」
 この烈々たる決意を聞くと、もはや、誰も、何も言えなかった。車中、伸一は、心の中で、奄美の同志に題目を送り続けた。
 彼が、記念撮影の会場である奄美大島会館に到着したのは、午後二時近かった。
 強い日差しに、会館の白い壁が映え、前庭にはバナナやソテツ、パパイアなどの木々が茂り、南国情緒を感じさせた。
 伸一は、庭の一隅に、″大王ヤシ″を記念植樹すると、すぐに撮影会場の広間に姿を現した。既に撮影台の上には、壮年部のメンバーが並んでいた。
 「どうも、お待たせしました」
 伸一が声をかけると、割れんばかりの拍手がわき起こった。どの顔も歓喜に輝いていた。山本会長の来島を目標とし、希望としながら、悔し涙を堪えて、頑張り抜いてきた同志たちである。
 伸一は、撮影台の最前列に用意されたイスに座った。広間の壁には、赤いソテツの実を並べて書かれた、「先生 奄美の島までようこそ」との文字が躍動していた。
 彼は、皆の深い真心を感じた。カメラのフラッシュが光った。撮影が終わると、伸一は立ち上がり、参加者に語りかけた。
 「私は、奄美の皆さんが今日まで、どれほど苦労され、どんな思いで戦ってこられたか、よく存じております。
 皆さんの純粋にして強盛なる信心は、三障四魔の嵐を、難を呼び起こしました。そして、その大風に向かって突き進み、見事に難を乗り越え、未来への晴れやかな飛翔を遂げられました。
 本当によく頑張ってくださった。私は、心から賞讃申し上げたい。もはや、皆さんの大勝利は間違いない。前途には栄光の虹が輝いております」
30  光城(30)
 伸一の指導を聞いた参加者は、希望の光を浴びた思いがした。
 「最後の勝負は二十一世紀です。どうか、それまで、若々しく、伸び伸びと、生きて、生きて、生き抜いてください!
 そして、激しい試練にさらされた奄美こそ、広宣流布の先駆けとなって、希望の光城を築いていってください」
 「はい!」
 たくましく日焼けした南海の男たちの目が、決意に光った。そして、口もとには、真白い笑みの花が咲いていた。
 メンバーの入れ替えの間、彼は会館の庭に出て整理役員を激励した。さらに、垣根の外から会館の様子を見ていた近隣の婦人にも、笑顔を向け、声をかけた。
 「お騒がせして大変に申し訳ございません。私が会長の山本です。よろしくお願いいたします。お土産のお菓子がありますので、お子さんに差し上げましょう」
 「あら、まあ、どうしましょう」伸一の丁重なあいさつに、恐縮する婦人の姿が微笑ましかった。
 また、次の入れ替えの時には、事務室に入り、参加者の代表に贈るために、「多宝」「奄美の同志に栄光あれ」「友よ強くあれ 妙法の子なれば」など、次々と色紙に揮毫していった。
 記念撮影は、婦人部、そして、女子部、男子部と続いた。皆、晴れやかに、胸を張っていた。
 伸一は、婦人部には、こう語った。
 「広宣流布の要諦は、極めて身近なところにあります。まず、朗らかに近所づきあいをし、周囲の人から、『立派な人だ』『本当にいい人だ』と、言われるようになれるかどうかなんです。皆さんが、どれだけ信頼され、尊敬されていくかに、広宣流布のすべてがかかっています。
 次に大切なことは、お子さんのいらっしゃる方は、子どもさんを広宣流布の、大人材に育て上げていくことです。皆さんのお子さんのなかから、必ず、日本、世界をリードしていける人材が出ると確信しております。
 また、必ずそうなるよう、私はあらゆる手を打ちながら、全力で指揮をとっていきます」
31  光城(31)
 伸一は、女子部に対しても、全精魂を込めて指導をした。
 「女子部が大事です。学会の将来は、女子部がどれだけ成長するかによって、すべてが決まってしまう。二十一世紀は女性の世紀となるでしょう。その時に、堂々たる大女性リーダーとして、一家を、学会を支えるのが、女子部の皆さんです。ですから、女子部の時代に、あらゆる人を折伏し、広宣流布の未来の、堅固な陣列をつくっていただきたい。
 また、未来のために、自分を磨き抜いてください。それには、学会活動で、うんと苦労することです。今は大変であっても、その苦労が自分の生命を輝かせ、何があっても崩れない、大福運となっていきます」
 男子部には、信念に生き抜くことの大切さを訴えていった。
 「このなかには、大変な窮地のなかで、歯を食いしばりながら、頑張り抜いている人もいるでしょう。私も、戸田先生の事業が苦境に陥った時には、活路を開くために、自分の限界に挑み続けました。給料は遅配が続き、胸も病んでいました。
 その時、私は自分に言い聞かせました。
 ″戸田先生の弟子ならば、絶対に事態を打開して、広宣流布の栄光の道を開いてみせる。勝利の実証を示してみせる。今に見ろ!″
 そして、先生に、こう申し上げたんです。
 『学会は今、経済的にも大変なさなかにありますが、将来、必ず立派なビルも建てます。また、先生のご構想は、すべて実現いたします。ご安心ください』
 事実、今は、その通りになっています。
 人間は、苦境に負けるのではない。自分自身に負けるんです。自らあきらめ、信念を捨て去り、敗れていくんです。今は、どんなに苦しくとも、広宣流布という最高の目的に生き抜いていくならば、十年後、二十年後には、絶対に花開かないわけがないと、私は断言しておきます」
32  光城(32)
 記念撮影が終盤になったころ、伸一は言った。
 「会館の周りに来ている人や近隣のメンバーとも、このあと、一緒に写真を撮りますから、呼んであげてください」
 山本先生が一緒に写真を撮ってくださる――その連絡は、会館周辺に集まって来ていた人たちや、近隣の学会員に、直ちに伝えられた。
 この日、奄美大島の高等部員の何人かは、授業を終えると、唱題のために寺院にやって来た。高等部員は、この日は平日で授業があることから、記念撮影の対象にはなっていなかった。また、警備上の問題もあるので、撮影の該当者以外は、会館に入ることはできないと、伝えられていたのである。
 当初、山本会長の奄美訪問が発表された時、皆、大喜びした。しかし、その後、高校生は、記念撮影会に参加できないと聞かされたのである。メンバーの落胆は大きかった。
 だが、一人の高等部員が言った。
 「先生にお会いできないのは、確かに残念だ。でも、未来の指導者をめざすぼくたちは、自分たちのことだけを考えていては、いけないのではないだろうか。今、奄美にとって、一番大事なことは、先生の今回の奄美指導が、無事故、大成功に終わることだと思う。
 ぼくらは、まだ若いんだから、これからだって先生にお会いできる機会は、きっとあるはずだ。だから、今回は唱題に徹して、まず、先生の奄美訪問が実現すること、そして、無事故、大成功を、真剣にご祈念していこうじゃないか」
 すると、別の高等部員がこたえた。
 「ぼくも、そうするべきだと思うな。昨日も男子部の人が、デモのことを考えると、何が起こっても不思議ではないなかでの、先生のご訪問だって話していたんだ」
 あの学会排斥のデモと村八分事件は、彼らにとっても、大きな衝撃であった。
 理不尽極まりない仕打ちに、鳳雛たちは、怒りで胸をいっぱいにしながら、必ず、自分たちの手で学会の正義を宣揚しようと、深く心に誓ってきたのである。
 そして、そのために、将来、社会で信心の実証を示そうと、懸命に勉学に取り組んできた。また、広宣流布の大指導者に育つために、信心を磨き抜かなければと、高等部の活動にも力を注いできたのだ。
33  光城(33)
 高等部員は、山本会長の奄美訪問が発表されてから、寺院などに集まり、皆で真剣に唱題を重ねてきた。そして、撮影会の当日も、授業が終わると、三々五々、寺院に唱題に来たのである。
 すると伝言があった。「参加者でない人たちとも、先生が一緒に記念撮影をしてくださるそうなので、至急、会館に来てください」
 メンバーは、小躍りしながら、急いで会館に向かった。途中、出会った高等部員にも、その話は伝えられ、瞬く間に、連絡が流れた。
 ある人は放課後の学校から、ある人は自宅から、一目散に奄美大島会館に走った。
 最初に会館に着いた三人の女子高等部員は、近隣のメンバーなどと一緒に、記念のカメラに納まることができた。
 その撮影の折、山本伸一は尋ねた。「ほかの高等部員は来ていないのかい」
 一人の女子高校生が、元気に答えた。「はい。参加できないことになっていましたが、今、向かっています」
 「そうか」伸一は、高等部員と会って、励ますことを楽しみにしていたのだ。
 二十一世紀に、奄美の広宣流布の中核として躍り出るのが、高校生たちであると、彼は確信していたからだ。
 記念撮影が終わると、会場では、婦人部と女子部が民謡の「月の白浜」「稲摺節」の合唱と踊りを披露。ついで、男子部が奄美広布への決意を託して、力強く愛唱歌を合唱した。
 このあと、伸一は、参加者の代表と勤行・唱題し、さらに、指導のマイクを取った。
 「奄美の皆さんは、日本国内では本部から一番遠い地域で頑張っておられる。その求道心あふれる信心があれば、絶対に幸せにならないわけがありません。
 海外のメンバーがそれを実証しています。大変であればあるほど、大きな功徳を受けています。それが仏法の原理です。
 今、苦闘している奄美は、三十年後、四十年後には、日本の広宣流布の理想郷になります。皆さんが幸福になり、島中の人が、学会は誇りであるという時代が来ます。いや、絶対に、そうしていっていただきたい」
34  光城(34)
 さらに伸一は、断固たる口調で言った。
 「誰が、なんと言おうが、また、どんなに力があるといっても、仏法に敵うわけがありません。最後は、信心を貫いた人が必ず勝ちます。何があっても負けずに、異体同心の団結をもって前進してください。
 私は、今日の皆さんの姿を思い浮かべては、毎日、お題目を送ってまいります」
 それから、伸一は場内を見回しながら言った。「高等部員は、もう着いたのかな」
 「はい!」と会場のあちこちから声がした。
 「待っていたんだよ。よし、外に出よう」三十人ほどの高校生が歓声をあげて、立ち上がった。
 庭に出ると、伸一は、何人かのメンバーと握手を交わしながら、声をかけていった。
 「大学に行きなさい。無理なら、通信教育でもいい。ともかく、青春時代に、未来のために、勉強し抜いていくことです。それが、奄美の発展の力になる」
 伸一の前にいた脊椎カリエスの男子高等部員には、肩に手をかけ、抱きかかえるようにして励ましを送った。
 「自分に負けてはいけないよ。自らの使命に生き抜いて、君らしく光り輝いていくんだ」
 また、女子高等部員には、こう語った。
 「女性は幸せになりなさい。それには福運をつけるとともに、時流や安易な風潮に流されないための確かな哲学、確かな価値観が必要です。それが信心なんです」
 彼は、遺言の思いで語った。
 伸一は、迫害に耐えながら信心を貫いた、父や母の正義を明らかにするために、ここに集った高等部員には、民衆勝利の時代を開き、奄美広布の総仕上げをしていく使命があると思った。
 「君たちがいれば、大丈夫だな。奄美の広宣流布は任せたよ。きっと勝つんだよ」
 その言葉には、彼の熱願が込められていた。
 「今日は全員と握手したいけど、ずいぶん多くの人と握手をしたんで、もう、手が痛くなってできないんだ。その代わり、一緒に写真を撮ろう。みんなは前に並びなさい。私は、後ろから、君たちを見守っているからね」
35  光城(35)
 彼は、高等部員たちの最後列に立った。
 カメラマンがシャッターを切った。
 撮影が終わると、伸一は、一人ひとりに、視線を注ぎながら言った。
 「私は、みんなのことを忘れないよ。頼んだよ。勝とうよ。仏法は勝負だもの」
 鳳雛たちの頬は、紅潮していた。
 その瞳には、決意の輝きがあった。感涙に潤んだ瞳もあった。
 「今日は高等部員に送ってもらって帰ります。それが一番、嬉しいんです。ありがとう!」
 時刻は、午後五時近かった。伸一は、皆に手を振ると、車に向かって歩きだした。
 そして、振り返って、また、手を振った。
 「頼むよ!」
 高等部員も手を振りながら、郷土の広布を、深く、深く、心に誓うのであった。
 会館を後にした伸一は、車中、奄美の発展とメンバーの敢闘を願って、一心に唱題した。
 ″もう少しの辛抱だ。頑張れ! 闇が深ければ深いほど、暁は近い″
 インドの独立運動の指導者であったマハトマ・ガンジーは、歴史上、偉大な運動というのは、必ず、五つの段階を経ると語っている。
 それは、「無関心」「嘲笑」「非難」「抑圧」「尊敬」の五つである。
 そして、「抑圧」にあっても生き残る運動は、必ず成功の異名である「尊敬」を集めると述べ、その秘訣は「誠実」であると結論している。
 伸一は、激しい「抑圧」にさらされた奄美の同志は、ほどなく「尊敬」の時代を迎えると確信していた。メンバーが、誠実に、粘り強く、友情と信頼の根を広げていくなら、人びとの学会への偏見は、理解と賞讃へと変わることは間違いない。
 「楽しみだな。奄美の未来が……」伸一は、弾んだ声でつぶやいていた。
36  光城(36)
 奄美を日本の広宣流布の理想郷に――との、この日の伸一の指導を、同志は、決して忘れなかった。いや、それが皆の誓いとなったのである。
 しかし、奄美のメンバーを取り巻く環境の厳しさは、一朝一夕には変わらなかった。
 奄美の同志は痛感していた。
 ″島の広宣流布は、ここに住む、私たちがやるしかない!″
 奄美は、本土との人の行き来も、それほど多いわけではなかった。だから、ほかの人の力に頼ることはできなかった。また、互いに互いの家の中までよく知り尽くしており、見せかけやハッタリなど、いっさい通用しなければ、逃げ場もない社会である。
 学会、仏法への理解を深め、共感を促すには、ここで、自身の信頼を獲得する以外にない。自己の人格で、生き方で、家庭の姿で、職場・地域での貢献で実証を示さなければ、学会、仏法のすばらしさは証明できないのである。
 それは、波浪が岩を削るように、日々、精進と忍耐を積み重ねなければならぬ、持続の戦いであり、自己自身への粘り強い挑戦である。奄美の同志は、果敢に戦いを開始した。
 また、子どもにも、学会の精神を伝え抜いていった。なかでも、山本伸一の二回の奄美訪問については、誇りと喜びと感謝をもって、何度となく、語って聞かせた。
 メンバーは、広布への闘魂を燃やし続けた。
 皆が勇んで社会貢献に取り組んだ。また、仏法の人間主義に根差した学会の平和・文化運動などを紹介する催しがあれば、地域のすべての人びとに声をかけた。一つ一つの活動に皆が真剣勝負で臨んだ。
 そして三十余年――。
 二十一世紀の奄美は、見事に、日本の広宣流布の先駆となり、まばゆいばかりの希望の光城となった。
 ある村では三割近い人が学会員となり、約六割の人が学会の理解者になっている。メンバーのなかには、村長もいれば、村の商工会の会長、島で有数の大きな建設会社の社長もいる。役場や農協の女性リーダーもいる。(二〇〇二年現在)
 あの日、伸一とカメラに納まった高等部員は、それぞれ使命の大空に飛翔し、奄美にあって、地域広布の中核として活躍するメンバーも多い。
 奄美は勝った。かつて流した、同志たちの悔し涙は、誇らかな珠玉の思い出と変わった。南国に、地域広布の勝利の旗が翻ったのだ。
37  光城(37)
 この一九六八年(昭和四十三年)の秋には、芸術祭が、各方面で盛大に開催された。
 芸術祭は、芸術部員の日ごろの研鑽の成果を発表するとともに、仏法の人間主義を基調にした新時代到来の喜びを、高らかに謳い上げようとするものであった。
 この年の芸術祭を提案したのは、山本伸一であった。
 八月に行われた文化局の夏季講習会(総本山)の折、彼は、芸術部の代表から、部員一万人の達成が目前であるとの報告を聞いた。
 「それは、すごいことだね。その芸術部の力を結集して芸術祭をやろう。今回は、可能ならば、各方面ごとに開催してはどうだろうか」
 思えば、芸術部は、六一年(同三十六年)十二月、学芸第二部の名称で設置が発表され、翌年三月、部員二十人をもって結成式が行われている。
 さらに九月には、芸術部として新出発し、翌六三年(同三十八年)十一月には、同部主催の初の芸術祭が行われたのである。「音楽と躍動のプリズム」をテーマに、東京・新宿の厚生年金会館で開催されたこの芸術祭では、日本、中国、インドの舞踊、ギター演奏、独唱などが披露され、大いに観衆を魅了した。どの演技も躍動感にあふれ、新しき人間文化の創造の息吹に満ちた、芸術の祭典となった。
 それから三年後の一九六六年(昭和四十一年)七月には、第二回の芸術祭が、東京・渋谷公会堂で開催されている。
 第二回は、出演者約五百人という大規模なものとなり、演技のほかに、絵画や生け花、盆栽などの展示も行われた。
 また、翌年十一月には、関西でも芸術祭(東大阪市民会館)が開催され、仏法の生命の哲理を根底にした芸術運動の機運は、ますます高まりを見せていった。
 そして、今回は各方面ごとの開催である。開催方面は、検討の結果、中部、四国、九州、関西、東京の五方面と決まり、各地の芸術部員は喜々として準備に取り組んでいった。
38  光城(38)
 仏法の人間主義の、新しきルネサンスの幕を開こう――芸術部員は、そのパイオニアであるとの自覚に燃えていた。各地とも、芸術祭の企画をめぐって、連日、協議が行われた。
 新しい人間文化を創造する芸術祭に――と、芸術部員の意気は盛んであった。しかし、具体的に何をやればよいのかとなると、なかなか名案は浮かばなかった。
 伸一は、芸術部の首脳と懇談した折、芸術祭の企画に悩んでいることを聞くと、こうアドバイスした。
 「私たちの芸術祭には、こうしなければならないという形式があるわけでもなければ、イデオロギーの宣伝でもありません。一念三千の当体である人間の、生命の開花がもたらす芸術です。
 だから、信心をもった自分自身の生きる喜びを、そのまま表現していけばいいんです。
 日蓮大聖人は信心の大歓喜を『迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし』と仰せになっている。
 私は、ベートーベンのあの有名な『第九』は、『苦悩を突き抜けて歓喜へ』という、彼の生命の躍動のほとばしりであり、その一念、境涯の表現であると思う。
 同様に、宿命と苦悩の淵から敢然と立ち上がり、友の幸福と平和のために、広宣流布に奔走する芸術部員の胸中には、大歓喜が脈打っているではありませんか。それが歌や舞踊、あるいは、演劇等々として結実するならば、大芸術が生まれることは間違いありません」
 それから伸一は、微笑を浮かべて言った。「今回、中部、四国、九州は、初めての芸術祭の開催だが、どんな催しになるか楽しみだね。せっかく、各方面で行うのだから、郷土芸能などに光を当てていくことも、いいかもしれないよ」
39  光城(39)
 その時、一人の芸術部の幹部が尋ねた。
 「先生。芸術祭を成功させるうえで、一番大切なことというのはなんでしょうか」
 伸一は即座に答えた。
 「皆が仲良く、団結して行っていくことです。踊り一つとっても、流派も違うし、それぞれの個性も異なる。また、皆が自分の踊りへの強い自負がある。その人たちが、一つのものをつくりあげるには団結しかありません。
 芸術の世界では、ちょっとした意見の食い違いや感情的な対立等で、分派していくケースも少なくない。
 芸術家が自分の芸や個性を大切にするのは当然のことだが、協調も、団結もできないと、自分の小さな殻に閉じこもるばかりで、新しい境地が開けなくなってしまう場合もある。また、それでは、人間的にも偏頗であるし、芸術祭のような総合的な芸術の創造は難しい」
 質問した芸術部の幹部が、再び尋ねた。
 「一人ひとりの″個性″を尊重することと″団結″とは、どうも相反することのように思えるのですが……」
 伸一は、ニッコリと頷いた。
 「大事な質問です。実は、その原理が『異体同心』ということなんです。
 世間では、団結というと、よく『一心同体』と言われる。これは、心も体も一体ということであり、心を同じくするだけでなく、行動や形式も同じことを求める。つまり、全体主義となり、どうしても、個性は抑圧されることになる。
 それに対して、大聖人は『一心同体』ではなく、『異体同心』と言われた。これは″異体″である個人、また、それぞれの個性や特性の尊重が大前提になっています。
40  光城(40)
 その一人ひとりが″同心″すなわち、広宣流布という同じ目的、同じ決意に立つことから生まれる、協力、団結の姿が異体同心です。
 つまり、それは、外側からの強制によるものではなく、個人の内発的な意志による団結です。だから強いんです。また、自主性が基本にあるから、各人が個性、特質をいかんなく発揮できるし、それによって、さらに全体が強くなる。
 たとえば、城の石垣というのは、同じ形の石ではなく、さまざまな形の石を組み合わせ、積み上げていくから、堅固であるといわれている。野球をするにも、優秀なピッチャーばかり集めたからといって、勝てるものではない。『異体』すなわち、いろいろな人材が必要なんです。芸術部員は、一人ひとりが力もあり、強い個性をもっているだけに、皆が心を一つにして団結すれば、すごいパワーが発揮できます。
 学会の強さは、この『異体同心』の団結にありました。その力によって、常に不可能の壁を破り、新しい歴史を開いてきた。
 さらに、皆が仲よく団結しているということは、それ自体が、各人の境涯革命、人間革命の証なんです。なぜなら、我欲が強く自己中心的な人、傲慢、見栄っ張り、嫉妬心が強い人、わがままな人などは、団結することができないからです。
 そして、結局は、組織をかき乱し、皆に迷惑をかけ、最後は、自分から学会を離れていってしまうことになる。しかし、そうなれば、自分が不幸です。最後は哀れです。
 だから、広宣流布のために団結しようと決め、自分を見つめて、わがままや慢心に挑戦し、人間革命していくことが大事になるんです」
 「わかりました。芸術部もしっかり団結して、最高の芸術祭を行ってまいります」
 芸術部の幹部が答えると、伸一は頷いた。
 芸術祭に対する、この伸一の指導は、直ちに、各地の芸術部員に伝えられ、準備は着々と進められていった。
41  光城(41)
 芸術祭のトップを飾ったのは、十月十四日に、愛知県の岡崎市民会館で行われた中部芸術祭であった。
 前日、名古屋入りし、男女青年部の班長との記念撮影を終えた伸一は、この日の昼の部に出席したのである。
 女性だけで演ずる「勧進帳」に続いて、たおやかな琴と尺八の音色が流れた。見事にとけ合った優雅な演奏であった。この琴の演奏こそ、流儀の違いを超えた、「団結」の調べであった。
 出演した十二人の女性たちは、皆、それぞれの芸へのこだわりと強いプライドがあり、演奏上の相違点も多かった。流儀の違いを調整するために、演奏の仕方を取り決めたが、皆、心のどこかで、自分の流儀への強いこだわりがあった。
 それが、どうしても演奏に表れてしまうのである。一人ひとりは優れた技術力をもっているにもかかわらず、何度やっても、調べが完全に調和することがなかった。
 ある日、練習が終わった時、メンバーの一人が言った。
 「今日も、音が揃いませんでしたが、それは、私たちの心がバラバラだからだと思います。御書には『異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし』と記されています。みんなが心を一つにしなければ、成功はありません。だから、成功を御祈念することから始めてはどうでしょうか」
 皆が感じていたことであった。
 「芸術祭」と書かれたマス目の文字が用意され、一マス何遍と決めて、それぞれが題目を唱えては、一つ一つ塗りつぶしていくことにした。
 メンバーは、唱題を重ねるうちに、芸術祭の成功を口にしながらも、自分の立場やプライドにこだわり、振り回されていたことに気づいた。
 ″こんな自分を乗り越えなければ……″
 祈りが深まるにつれ、メンバーの心は一つになり、いつの間にか、皆が互いに気遣い合い、団結を第一に考えるようになっていった。
42  光城(42)
 そして、芸術祭当日を迎えた。ピッタリと息の合った絶妙な演奏となった。大成功だった。
 琴演奏に限らず、流派の違いを超えて、また、さまざまな分野の人が力を合わせて創り上げた芸術祭の舞台は、新しい芸術の流れを開くものとして、多くの人びとの賞讃を集めた。
 また、出演者たちは、自身の世界を大きく広げることができたとの、実感をもつようになっていたのである。
 中部芸術祭の舞台は、バンド演奏や、童謡の独唱、洋舞などが次々と披露され、ハイライトである舞踊劇「竹千代」に移っていった。
 竹千代は、乱世に生まれ、江戸幕府を開き、二百数十年にわたる太平の世の礎を築いた、徳川家康の幼名である。芸術祭の開催地となった岡崎が、彼の生誕の地であることから、郷土の英雄の忍苦の少年時代を題材に、舞踊劇を創作したのだ。
 人質という最悪の環境のなか、使命の心を燃やし、未来に羽ばたかんとする竹千代の姿に、平和建設への決意を託しての熱演であった。
 中部だけでなく、各地の芸術祭に、郷土色があふれていた。
 翌日の十月十五日に高松市民会館で行われた四国芸術祭では、四国の生んだ快男児・坂本竜馬の青春時代を題材に、舞踊劇「新しい時代の黎明」が演じられた。
 十一月十日の北九州市・小倉市民会館での九州芸術祭でも、小倉祗園太鼓など、郷土の芸能が披露された。さらに、新しい日本を建設する力となった大分県出身の福沢諭吉と、その弟子たちを描いた創作劇「ああ黎明の鐘は鳴る」が上演されている。
 また、十三、十四日の両日にわたって、大阪厚生年金会館で開催された関西芸術祭では、旧制大阪高等学校全寮歌「嗚呼黎明は近づけり」を全出演者で大合唱した。
 このほか、各地とも、郷土の民謡の合唱や演奏、踊りなどが、ふんだんに盛り込まれていた。各方面の芸術部員は、地域文化の振興に情熱を燃やしていた。
 そして、そのためには人びとが郷土への誇りと愛着をもつことが大切であると考え、郷土の歴史などにちなんだ演目を企画していったのである。
43  光城(43)
 芸術祭の掉尾を飾ったのは、「二十一世紀への讃歌」をテーマに、十一月二十五、二十六日の二日間にわたって、日本武道館で行われた東京芸術祭であった。
 そのテーマには、戦争という破壊の歴史に決別し、生命の尊厳を実現しゆく新しき世紀を建設しようとの、強い誓いが込められていた。
 舞台は「戦争と破壊」「失われた世代」「新時代の建設」「二十一世紀の舞台」の四部で構成され、幸せそうに見えた人びとの生活が、突然の空襲で崩れ去るところから始まる。
 民衆の恐怖、原爆の悲惨、精神の荒廃、刹那の享楽、そして、民衆の目覚め、建設の躍動……。それらが、パントマイムで、独唱で、合唱で、クラシックバレエで、モダンバレエで、日本舞踊等々で表現され、新時代建設の喜びが謳い上げられていった。
 山本伸一は、五方面のすべての芸術祭に出席したが、どの舞台にも、芸術部員の生命の輝きがあり、躍動があった。そこには、広宣流布という崇高な使命に生きる、喜びがほとばしっていた。
 東京芸術祭に出演した芸術部員のなかには、何人もの、著名な俳優や人気歌手などがいた。芸術祭を見て、「あの人も芸術部員なんだ!」「この人も学会員だったんだ!」と、感嘆する人も多かった。
 なかでも、人びとを魅了したのは、人気歌手の幸山エリカであった。
 彼女は、エキゾチックな顔立ちの十代の歌手で、初めてデートに誘われた乙女心を歌ったデビュー曲が大ヒットして、前年の「紅白歌合戦」にも初出場していた。芸術祭では、軽快なリズムに合わせ、はつらつとした踊りを披露しながら、そのデビュー曲を熱唱した。
44  光城(44)
 幸山エリカは、福岡県の小倉で、アメリカの軍人であった父と、日本人の母の間に生まれた。父は、彼女が生まれて間もなく、朝鮮戦争(韓国戦争)で戦死した。
 母子は、やがて横浜に移り住んだ。母の百合枝は、女手一つで懸命にエリカを育てた。
 夫が他界してからというもの、百合枝は働きづめであった。ダンサーもやれば、布団づくりの内職もした。早朝、鮮魚を洗う仕事もした。
 だが、働いても、働いても、いっこうに暮らしは楽にならなかった。
 百合枝は、内臓疾患の持病に加え、いつも頭痛に苦しんでいた。しかも、爪に火をともすような生活のなかで貯めた金を知人に貸し、トラブルが生じたりもした。
 「私たちは何も悪いことなんかしていないのに、どうして悪いこと続きなんだろうね」
 ため息まじりに漏らした母の言葉が、エリカは忘れられなかった。
 母子が入会したのは、一九五八年(昭和三十三年)のことであった。
 確信をもって、「宿命の転換」を説く学会員の話に心を打たれ、信心を始めた母の百合枝と共に、小学生のエリカも入会したのである。
 初めて出た座談会に、エリカは感動した。
45  光城(45)
 集っていた人たちは、身なりは質素であった。しかし、希望に燃え、その表情は生き生きとしていた。そこには、朗らかな笑いがあり、温かい励ましがあった。また、同志の語る体験談に胸を熱くした。
 ″信心を貫いていけば願いは叶うんだ!″エリカは思った。
 彼女は、アメリカ人の父の血を引いているためか、小学生にしては背も高く、彫りの深い顔立ちだった。そのことで、周囲の子どもたちから、よくいじめられてきた。涙ぐむエリカに、母の百合枝は言った。
 「そんなことでいじめたりする子は、心が貧しく、狭い子なんだよ。これからは、世界が一つになっていく時代なんだから、どんな国の人とも、仲良くできることが大事になるのさ。お前は、どんな人とも公平に接していくんだよ」
 また、大人たちからは、よくこう言われた。
 「スタイルもいいし、すごくきれいよ。ファッションモデルになるといいわね」
 彼女は、次第に自分の容姿に自信をもつようになり、ファッションモデルに憧れを抱くようになっていった。
 そして、小学校六年生の時、服飾雑誌に載っていた「子どものモデル募集」を見て、自分で応募したのである。真剣に唱題した。母も一緒に祈ってくれた。結果は合格であった。功徳を実感した。
 中学生になると、モデルとして、次第に脚光を浴びていった。
 エリカは、女子部の先輩について、よく会合にも参加した。そのなかで、人びとの幸福と平和を実現する、広宣流布という大目的に生きる人生のすばらしさを知るのである。
46  光城(46)
 彼女には、モデル以外に、もう一つ夢があった。それは、歌手になることであった。エリカは、コンテストに応募した。二次審査で不合格になったが、歌のレッスンを受けさせてもらえることになり、全力でチャレンジしていった。
 一九六六年(昭和四十一年)の七月、東京・渋谷公会堂で、第二回芸術祭が行われた。モデルとして芸術部に所属していたエリカは、受付の役員を務めた。歌手としては、まだ、デビュー前であった。
 この時、受付で、山本伸一の姿を目にした。直接、言葉を交わす機会はなかったが、彼女は心で語りかけた。
 ″先生! 次の芸術祭の時には、私は、必ず歌手として舞台に立てるようになります!″
 エリカは、絶対に歌手になると決めて、日々、厳しいレッスンに挑み、祈りに祈った。必死であった。
 彼女が歌手として成功したいと思ったのは、それが、単に、自分の夢であるからというだけではなかった。芸術部員として、学会員として、信仰の実証を示したいという、強い思いがあったからである。
 彼女は、信心に励むなかで、財産も、地位も、名声も、人間の永遠の幸福を約束するものではないことを学んできた。そして、″自分自身の宿命を転換し、福運をつけなければ、本当の幸福はない。その道は、仏法しかない″と、実感してきた。
 また、自分だけの幸せを追い求めるのではなく、人びとの幸福と社会の繁栄、平和を実現する広宣流布に生きる人生こそ、人間として最も尊い生き方であると確信していた。
 エリカは、自分も、その広宣流布に貢献していくために、絶対に歌手になって、芸術部員として最高に力を発揮していくのだと、心に決めていたのである。
47  光城(47)
 第二回芸術祭から間もなく、彼女は念願の歌手デビューを果たした。一九六六年(昭和四十一年)の、秋のことであった。
 エリカを売り出すことにしたレコード会社も、社運を賭けていた。デビュー曲は、爆発的な売れ行きとなった。まことに幸運なスタートであった。
 しかし、その一方で彼女は、「甘ったるい歌い方だ」などと、酷評の集中砲火も浴びた。芸能界の熾烈な戦いにさらされたのだ。まだ、十代の少女にとって、それは、あまりにも大きな衝撃であった。打ちのめされたような気がした。
 だが、必死に唱題し、自らに言い聞かせた。
 ″私は、学会っ子なんだもの、絶対に負けるわけにはいかない。下手ならば、レッスンを重ね、上手になってみせる!″
 エリカは、誇りをもって、自分が創価学会員であることを皆に語ってきた。それだけに弱音を吐いたり、つぶれてしまったりすれば、学会に傷をつけてしまうことになると思った。
 喜々として、皆に仏法を語り、学会を語る彼女に、芸能界の関係者は忠告した。「創価学会が嫌いな人も大勢いるんだから、学会員であるなんて言わない方がよい。仕事もこなくなるし、人気もなくなるよ」
 しかし、彼女にとっては、自分が学会員であることを、あえて隠すなど、全く考えられないことであった。宗教は、人間の信念や価値観、生き方などを形成する土台である。だから自分を紹介する時も、場合によっては、宗教に触れるのは極めて自然なことであると、彼女は思っていた。そうでなければ、本当の自分はわかってもらえないからだ。
48  光城(48)
 さらに、広宣流布のために、歌手として実証を示したいと願う彼女にしてみれば、学会員であることを伏せて、どんなに高い評価や人気を得ようが、全く意味のないことであった。
 彼女にとって学会員であることは、自分の支えであり、人間としての最高のプライドであった。その信仰を隠したり、偽ったりして、手に入れるべき仕事や名声が、この世の中にあるとは、とうてい思えなかった。
 エリカは、懇意になった人と対話が弾むと、よく自分の体験を通して、仏法のすばらしさを語った。特に、悩みを抱えて苦しんでいる人を見ると、黙っているわけにはいかなかった。仏法という解決の方途を知っていて、教えようとしないのは、人間として無慈悲であり、不誠実であると、彼女は感じていた。
 こんなこともあった。雑誌の取材で生い立ちを聞かれ、話は、いつの間にか信仰体験になっていった。その結果、掲載された記事は、当初の企画とは全く違うものになっていた。
 自分のプロダクションの社長にも、一生懸命に信心の話をした。彼女は、華やかな芸能界のスポットライトに幻惑され、人生の価値を見失うことはなかった。信仰という幸福への確かな軌道を、不屈の信念をもって、聡明に歩み続けていたのである。その彼女を、守り励ましたのが母の百合枝であり、エリカの信心も母親譲りといってよかった。
49  光城(49)
 幸山エリカのデビュー曲は大ヒットし、翌一九六七年(昭和四十二年)の五月には、レコードの売れ行きは五十万枚を超えたのである。
 この年の十月、彼女は民音(民主音楽協会の略称)の企画で、アメリカ公演に出かけた。父の国での公演である。心は燃えた。
 出発を前にして、彼女は、山本伸一にあいさつに行った。エリカは、瞳を輝かせながら、緊張した声で報告した。
 「先生、アメリカ公演に行くことになりました。大成功で飾ってまいります」
 伸一は、笑顔で頷きながら答えた。
 「幸山エリカさんですね。よく知っています。成功を祈って、お題目を送っています」
 この励ましを胸に、彼女は、母と共にアメリカへ旅立った。彼女たちは、時間が空けば、現地の座談会などに参加し、アメリカのメンバーと親交を結んだ。
 ロサンゼルスでの公演のことであった。著名な日本人歌手で、アメリカに渡っていた月村ますみが、公演会場に足を運んでくれた。月村は、五三年(同二十八年)にレコードデビューし、歌謡界の女王と呼ばれるようになる歌手らと「三人娘」で売り出し、一世を風靡した大スターであった。
 だが、母親の事業の失敗から借金をかかえ、その返済のために、必死に働かなければならなかった。また、結婚の失敗もあり、彼女の華やかなイメージとは反対に、宿命の悲哀に泣き続けてきたのである。
50  光城(50)
 エリカの母親の百合枝は、月村の大ファンであった。その月村が大変な境遇にあることを耳にし、胸を痛めていた。
 終演後、楽屋にエリカを訪ねて来た月村に、百合枝は仏法の話をし始めた。憧れの人に、なんとしても幸せになってほしいとの思いからであった。月村は、それまでにも、親しくしていた現地のメンバーから、学会の話は聞かされていたが、入会の決意は固まらなかった。
 エリカも母と一緒に、誠心誠意、信心のすばらしさを語った。そこに、アメリカのメンバーも次々と訪れ、さながら座談会の様相を呈した。
 月村ますみは、人生に疲れていた。幸山親子やアメリカのメンバーが、自分の幸せを願い、懸命に情熱を込めて話してくれる言葉が、月村の渇いた心に、温かく染みた。
 「月村さん、一緒に信心しましょう。幸せになりましょう」
 「はい!」百合枝の言葉に、彼女は、抗うことのできない真心を感じ、思わず、こう答えていた。
 「よかった!」
 「おめでとう!」
 百合枝も、エリカも、目を潤ませ、月村に握手を求めた。
 そのあとに、カタコトの日本語で、「オメデトウ」と現地のメンバーの祝福が続いた。
 そして、月村の入会を祝って、皆で、アメリカのメンバーの愛唱歌を合唱した。どの顔にも、涙が光っていた。
 月村は思った。
 ″この人たちは、他人である私のために、涙を流している。こんな人たちがいたんだ。こんな世界があったんだ……″
 九歳で父親を亡くし、さらに母親が病に倒れたために、十代半ばから、歌手として働いてきた彼女は、いやというほど人生の辛酸をなめてきた。人間の冷酷さも、知り尽くしてきた。それだけに、学会員の温かさに、大きな衝撃を受けたのである。真心こそ、触発の最大の力といってよい。
 これが、月村ますみの蘇生の瞬間であった。
 彼女は、やがて日本に帰り、芸術部の中核として大活躍していくことになるのである。
51  光城(51)
 東京芸術祭の最終公演が行われた十一月二十六日夜には、山本伸一も会場に駆けつけた。その舞台で、幸山エリカは、紺と白の衣装に身を包み、力の限り、デビュー曲を熱唱していった。
 それは、可憐な妖精が舞い降りたかのようにも見えた。
 彼女は、二年前の心の誓いが現実となり、今、歌手として芸術祭の舞台に立っていることが、夢のように思えてならなかった。歌い、踊る、彼女の胸に熱いものが込み上げ、目には感涙があふれた。だが、声が上擦りそうになるのを懸命にこらえて、エリカは、はつらつと歌い続けた。
 エリカが歌い終えると、大拍手が日本武道館にこだました。
 その躍動感あふれる歌声と踊りに、観客は、若々しい生命の息吹と力を感じた。
 東京芸術祭は、やがてフィナーレへと移り、山本伸一が青年たちに贈った、詩「元初の太陽を浴びて」に曲をつけた歌の合唱となった。
   新世紀の舞台か
   地平線に 躍りでたのは
   わが愛する 若人たち
   諸君の背に かがやくのは
   光彩陸離たる 栄光
   とどろく その跫音は
   世紀への警鐘と 救済の乱打だ……
   ………… …………
52  光城(52)
 歌声は場内を圧した。高らかに″二十一世紀への讃歌″を歌い上げ、芸術祭は、感動のなかに幕を閉じた。
 伸一は立ち上がって、芸術部員の奮闘に、惜しみない拍手を送った。そして、会場を後にする時、傍らの芸術部の幹部に声をかけた。
 「本部で待っているからね。芸術部の新しい船出にしよう」
 芸術祭終了後、創価文化会館で出演者の勤行会と、山本会長を囲んでの、若手女性芸術部員の指導会が予定されていたのである。
 芸術部では、歌手や俳優などの、若い女性の活躍が目立っていた。彼女たちは、それぞれの分野で第一人者をめざし、芸術の創造に情熱を注ぐ一方、広宣流布の大きな推進力となっていた。
 浮き沈みの激しい芸能界で生きる、彼女たちの信心への取り組みは、誰よりも真剣であり、懸命であった。甘えやいい加減さはなかった。また、それぞれが、多くの信仰体験をもち、仏法への強い確信をつかんでいた。
 その存在は、全会員の希望であり、各地から、会合等に来て、体験を話してほしいなどの要請が後を絶たなかった。
 彼女たちの活躍を見てきた伸一は、最大の敬意を表するとともに、未来のために、″学会の宝″として、大切に育てていかなくてはならないと思っていた。
 そこに、芸術部からの要請もあり、若手の女性芸術部員の″核″となっていく、二十人ほどのメンバーを選抜し、指導会を開いていくことになったのである。
 創価文化会館での出演者勤行会に出席のあと、館内の一室で、その第一回の会合が開かれたのである。
 伸一は、皆を笑顔で迎えた。
 「どうもご苦労様! 大成功の芸術祭でした。ありがとう!
 皆さんのことは、よく知っております。広宣流布の若い力です」
 メンバーには、あの幸山エリカの姿もあった。日本の新聞社が主催したカンツォーネのコンクールで優勝した歌手や、有名なジャズシンガー、テレビドラマで人気を博している女優もいた。
53  光城(53)
 指導会は、懇談的に進められた。家族の死や病気の報告もあれば、仕事上の抱負を語る人もいた。また、悩み事の相談もあった。
 伸一は、親身になって耳を傾け、真心を込めて激励を重ねた。
 「私は、皆さんを、生涯、見守っていきます。
 有名になることも、人気があることも、ある場合には、大事であるかもしれない。しかし、それが、そのまま実力ではないし、芸の深さであるとは限らない。
 また、優れた芸を身につけた人が、幸福であるとは限りません。ゆえに、自身の永遠の幸福を築くために、信心が大事なんです。私の念願は、皆さんが幸福になるとともに、最高に充実した、意義ある人生を歩んでいってほしいということです。そして、それぞれが人間性を開花させ、見事な芸術の大輪を咲かせていってほしいんです。
 そのために、このグループを、『ヤング・パワー』とし、互いに信心を根本に切磋琢磨していっていただきたい。
 私は、これからも、何度も皆さんにお会いし、応援してまいります」
 ここに、″創価文化の華″たる「ヤング・パワー」が誕生をみたのだ。
 伸一は、その後も時間を捻出しては、メンバーと懇談の機会をもち、激励に激励を重ねた。一人ひとりを懸命に育て上げていった。
 現代の妙音菩薩というべき「ヤング・パワー」の活躍は目覚ましかった。
 第三文明の先駆けとして、新しき芸術の道を切り開きながら、人びとの心に七彩の光を注ぎ、仏法理解の輪を、幾重にも幾重にも、広げていくことになるのである。

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