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日蓮大聖人・池田大作

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第13巻 「北斗」 北斗

小説「新・人間革命」

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2  北斗(2)
 「はい、ありがとうございます!」
 伸一の言葉に、出迎えたメンバーは、頬を紅潮させて答えた。
 しかし、東京から同行してきた幹部の顔が曇った。伸一が会合等に出席すれば、仕事をする時間がなくなり、その分、睡眠時間を削ることになるからである。
 実は、伸一は一週間ほど前から体調を崩し、発熱が続いていた。そのなかで、九月の六日には、注射を打って、創価学園のグラウンド開きに出席し、八日には学生部総会で、「日中国交正常化提言」など、一時間十七分にわたる講演を行ったのである。
 そして、前日の十二日にも、民音(民主音楽協会の略称)の招聘で来日した、「アメリカン・バレエ・シアター」のディレクターらとの会談に臨んだ。まさに、激務の日々が続いていたのである。
 それをよく知っている同行の幹部たちにしてみれば、旭川では、伸一に少しでも休養をとってほしかったのだ。だが、伸一は、「次に旭川に来るのは、いつになるかわからないもの、みんなを激励したいんだ」と言って、勇んで会場に向かうのであった。
 彼は、常に「臨終只今にあり」と、自らに言い聞かせていた。そして、人との出会いの場では、いつも「一期一会」の思いで、生命を振り絞るようにして励ました。
 その真剣で必死な生命の弦から放たれる、炎のごとき魂の矢が、友の肺腑を射貫き、勇気を燃え上がらせるのである。
 旭川の空は晴れ渡り、彼方に大雪山連峰の雄姿が、浮かんで見えた。
 皆が集っていた大法寺には、伸一も忘れ得ぬ思い出があった。
 戸田城聖が亡くなった翌年の一九五九年(昭和三十四年)一月、伸一は旭川を初訪問し、この会場で全力を傾け、御書の講義を行ったのである。当時、彼は、ただ一人の総務として、事実上、学会の一切の責任を担っていた。
 そして、この年を「黎明の年」とするように提案し、弟子が立ち上がり、新しき時代を開く闘争の第一歩を、厳冬の北海道から開始しようと決めたのだ。
3  北斗(3)
 九年前の、この旭川指導の時、伸一から訪問の計画を聞かされたある幹部は、あきれたように言った。「ほう、この寒い一月に旭川に行くのですか。もっと暖かい時に行かれたらいいのに」
 有名大学出身の要領のいい幹部であった。伸一は、厳しい口調で語った。
 「厳寒の季節だからこそ、最も寒いところに行くんです。そうでなければ、そこで戦う同志の苦労はわからない。幹部が率先して、一番困難なところにぶつかっていくんです。法華経は″冬の信心″ではないですか!」
 信心は要領ではない。最も厳しいところに身を置き、泣くような思いで戦い抜いてこそ、本当の成長があり、初めて自身の宿命の転換も可能となる。さらに、その姿に触発され、同志も立ち上がるのである。
 北海道は、伸一が、師の戸田城聖に代わって、夕張炭鉱の労働組合による不当な弾圧と戦い、会員を守り、信教の自由を守り抜いた、青春乱舞の大舞台である。彼は、その師弟共戦の天地である北海道から、戸田亡きあとの、新しき創価学会の建設の狼煙を上げようと、雪の原野を走り、旭川を訪れたのであった。
 旭川は、歴代会長との縁深き天地である。初代会長の牧口常三郎は、一九三二年(昭和七年)七月、郷土教育の講演を行うために北海道を訪れ、旭川に滞在している。
 戸田城聖もまた、一九五四年(昭和二十九年)八月、旭川班の総会に出席したのをはじめ、旭川地区の総会、指導会、大法寺の落慶入仏式と、二年余の間に、四回にわたって足を運んでいる。戸田には、旭川を北海道広布の要衝にしようという、強い思いがあったのである。
 伸一は初訪問の折、小樽から列車に乗り、午後一時半に旭川駅に降り立った。空には雲が垂れ込め、一面の銀世界であった。一日のなかで、最も暖かい時間帯であるにもかかわらず、外気は、肌を刺すように冷たかった。東京で生まれ育った伸一には、″寒い″というより、″痛い″と感じられた。
4  北斗(4)
 極寒のなか、旭川駅頭には、多くの学会員が列をなし、歓喜の笑顔で彼を迎えた。御書講義の会場である大法寺に着くと、入り口でも大勢の青年部員が歓迎してくれた。伸一は、皆の体が心配でならなかった。
 「寒いなか、本当にありがとう。さあ、風邪をひかないように、早く中に入ってください」
 すると、一人の青年が笑って答えた。
 「山本先生、これぐらいの寒さは、全然、平気ですよ。今日は、暖かい方ですよ」
 既に会場は、満員であり、外にも、二百人ほどの青年があふれていた。
 講義が始まるころから雪が降りだした。だが、青年たちは、外で立ったまま、開け放たれた窓に向かって耳を澄まし、講義を聴いた。
 伸一は、「西山殿御返事」の一節を引き、朗々たる声で、語り始めた。
 「夫れ雪至つて白ければむるにそめられず……」
 彼は、旭川の同志に、どんな辛いことがあろうと、生涯、純白の雪のように清らかな信心を貫いてほしいと、力を込めて訴えた。講義は、次第に熱を帯びていった。その時である。
 「ドサーッ」会場の屋根の上に積もっていた雪が、突然、崩れ落ちたのだ。
 雪は、窓外で御書を広げていた、何人かの男子部員の頭上を直撃した。頭から雪をかぶり、まるで雪ダルマのようになった。しかし、彼らは、全くたじろがなかった。御書の上の雪を払い、頭を拭うと、何事もなかったかのように、真剣な表情で講義に聴き入っていた。
 そこには、″剣豪の修行″のごとき、峻厳さがあった。熱き求道の息吹があった。
 講義終了後、その話を聞いて伸一は思った。
 ″すごい求道心だ。これこそ、大成長の原動力だ。ここから、やがて多くの指導者が出るにちがいない。将来、必ず旭川が、北海道が、広布の一大推進力になるだろう″
 この日、伸一は、会場を移して再び御書講義をし、さらに青年部の幹部の会合でも、力の限り指導にあたり、発心の種子を蒔き続けたのである。
5  北斗(5)
 山本伸一が、二度目に旭川を訪れたのは、五年後の一九六四年(昭和三十九年)九月のことであった。
 会長となって初めての訪問となる、この旭川指導では、旭川会館の開館式に出席した。さらに、三年後の六七年(同四十二年)八月には、旭川、空知の両本部の記念撮影会に出席するため、三たび旭川を訪問した。
 そして、今回、約一年ぶりに、四たび、旭川の大地を踏んだのである。
 伸一が唱題会の会場になっていた大法寺に到着すると、大歓声と拍手がこだました。
 「さあ、皆さんのご健康と、ご一家のご繁栄を祈念して、一緒に勤行しましょう」
 伸一の導師で、勤行が始まった。唱題が終わり、同行の幹部の話に続いて、伸一が語り始めた。
 「私は、″学会の同志の皆さんを幸せにしたい。また、皆さんの子どもさんに幸福になってもらいたい″との一念で、今日まできました。御本尊の前で、仏・菩薩の前でお誓いします。これからも一生涯、最後の死の瞬間まで、私は皆さんの幸せを願い、何千万遍と、題目を送り続けていきます」
 その言葉に、皆、深い深い伸一の思いを感じた。感動が心にあふれた。彼は話を続けた。
 「世間の繁栄は相対的なものであり、諸行無常です。では、永遠の繁栄と幸福は、どうすれば得られるのか。それは、わが生命の宮殿を開き、自身の境涯を高めていく以外にありません。それには、広宣流布という大誓願に生き抜いていくことです」
 日蓮仏法の最たる特徴は、世界の広宣流布を指標に掲げ、その実践を説いていることにある。「広宣流布の宗教」ゆえに日蓮大聖人は、自行化他にわたる仏道修行、すなわち、唱題とともに修行の柱として折伏・弘教を打ち立てているのだ。
 では、なぜ大聖人は弘教を叫ばれたのか。衆生自身が大聖人と同じく広宣流布を誓願し、弘教に励みゆくなかにこそ、一生成仏の大道があるからだ。
6  北斗(6)
 大聖人は、仰せである。
 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」、「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり」。
 大聖人の御心である広宣流布を使命とし、正法を弘めゆく人は、地涌の菩薩であり、仏の使いであるとの宣言である。その実践のなかで自身が御本仏に連なり、仏・菩薩の生命が涌現するのである。清浄にして強き大生命力と無限の智慧とが脈動するのだ。そこに自身の生命の変革があり、「人間革命」「境涯革命」の道が開かれるのである。
 自分の生命が変わるならば、「色心不二」「依正不二」なるがゆえに、病苦も、経済苦も、家庭の不和も克服していくことができる。そして、さらには、宿命をも転換することができるのである。
 創価学会は、大聖人の教えのままに、まっしぐらに広宣流布の道を突き進んできた。
 戸田城聖は、第二代会長に就任した日、自身の生涯の願業として、会員七十五万世帯を達成することを宣言している。彼が、この大目標を示したのは、すべての同志に、「絶対的幸福境涯」への道を開きたかったからである。
 師のこの誓願を、弟子として必ずや成就しようと、ともに立ち上がったのが山本伸一であり、その彼に、青年が、数多の同志が続いたのだ。
 草創期のメンバーは、入会し、勤行を習うと同時に、先輩について弘教に歩いた。皆、借金をかかえ、家族の誰かが病苦に悩み、家では諍いが絶えないような状態のなかでの活動である。弘教といっても、最初は、何を、どう話していけばよいのか、全くわからなかった。ただ、相づちを打つのが精いっぱいであった。
 それでも、活動に励むと、全身に新しい力がみなぎり、希望が感じられた。新入会の同志は、その実感を、喜々として語っていった。さらに、先輩たちとともに動き、教学を学ぶなかで、信心への確信を深め、また、仏法をいかに語ればよいのかを、身につけていったのである。
7  北斗(7)
 広宣流布の尊き使命に目覚めた同志は、貧しき友の家にも、社会的に立派な地位や肩書をもつ人の豪邸にも、勇んで足を運び、喜々として仏法を語った。
 「本当の人間の道は、真実の幸福の道は、この信仰にしかありません」
 だが、「自分の頭のハエも追えないくせに、生意気なことを言うな!」と、怒鳴られもした。「あんたの病気が治ってから来い!」と、追い返されたこともあった。塩も撒かれた。水をかけられたこともあった。
 しかし、皆、意気揚々としていた。「信心の話が聞けないなんて、なんとかわいそうなんだ」というのが、心の底からの思いであった。同志の胸には、勇気の火が赤々と燃えていた。必ず幸福になれるのだという、強い、強い確信が芽生えていた。皆、さまざまな苦悩をかかえていたが、その苦悩に押しつぶされてはいなかった。地涌の菩薩として、仏の使いとして、弘教に励む、歓喜と誇りに満ちあふれていた。同志は、むしろ、自分の生活苦や病苦よりも、友の悩みに胸を痛めた。社会の、日本の将来を憂い、世界の平和に思いをめぐらせた。
 既に、その一念においては、自身の苦悩に煩わされることのない、大いなる境涯を会得していたのである。
 境涯の革命は現実生活の転換をもたらし、功徳の花々を咲かせ、幸福の果実を実らせていった。
 師と共に広布の誓願に生きる――そこにこそ、絶対的幸福へと至る自身の人間革命と宿命転換の直道がある。この広宣流布の聖業に参加できることは、われら創価学会員に与えられた栄誉であり、特権といえようか。
 山本伸一も、その幸福の大道を開くために、第三代会長に就任すると、会員三百万世帯の達成を目標として発表した。それが成就されると、六百万世帯の達成を掲げ、次々と広布の大誓願を起こしてきた。そして、この時も、正本堂が建立される一九七二年(昭和四十七年)をめざし、各組織にあって、それぞれ弘教の大目標を掲げて、来る日も、来る日も、驀進を続けていたのである。
8  北斗(8)
 山本伸一は、力を込めて訴えた。
 「広宣流布の聖業の意義を考えれば、私どもが御本尊を持ち、弘教に励めるということは、どれほど偉大なことであるか計り知れません。
 どうか皆さんは、その信心のすばらしさを、社会にあって、生活のうえに、実証として示しきっていただきたいのであります」
 次いで彼は、各部への指針として、「壮年部は皆の要として若々しく」「婦人部は一家の太陽として聡明に」「男子部は輝く未来を確信して力強く」「女子部は福運を積むために強盛な信心を」と望み、話を結んだ。
 「さあ、あとは楽しく歌でも歌いましょう」伸一の提案で男女青年部や高等部が、次々と歌を披露し、会場は交歓の広場となった。
 最後は、全員で学会歌を合唱した。旭川総合本部の副総合本部長で、旭川の初代地区部長を務めた中山一郎が指揮をとった。
 総合本部長は藤田房太郎という、まだ三十代後半の、堂々たる体躯のエネルギッシュなリーダーであった。一方、副総合本部長の中山は、物静かで生真面目な、五十代後半の壮年であった。
 「中山さん。いよいよこれからですよ。若いリーダーに任せ、自分は休もうなんて思わないで、頑張ってくださいよ」
 伸一が声をかけると、中山は、「はい!」と言って、メガネの奥の目を輝かせ、真一文字に口を結んで、元気に歌の指揮をとり始めた。
 中山の家は製紙会社の社宅であったが、長年、自宅を活動の拠点として提供してきた。いつも多くの会員が出入りし、遠方から旭川にやって来る同志が、彼の家に宿泊することも珍しくなかった。中山には五人の子どもがいた。子どもたちが、朝、目を覚ますと、見知らぬ人が自分の布団に、一緒に寝ていることもたびたびあった。
 暮らしは、裕福ではなかったが、訪れる青年たちには、いつも食事を振る舞い、生活苦と戦っている同志には、そっと米などを持たせることもあった。広宣流布のためのわが人生である――それが中山の決意であり、信念であった。
9  北斗(9)
 中山の妻の二三恵は、必死でやり繰りしながら家計を支え、旭川支部の初代婦人部長として、夫とともに活躍してきた。
 伸一は、旭川を初訪問した折、中山の家を訪ねた。彼らの献身を耳にしていた伸一は、その労をねぎらい、家族を励ましたかったのである。
 中山の家は、六畳二間に小部屋が二つほどの、間取りであった。ここに、昼となく、夜となく、何十人もの人が出入りしていることを思うと、子どもたちが不憫でならなかった。伸一は、申し訳なさに胸が痛んだ。
 ″こうした見えざる苦労が、広宣流布を、学会を支えているのだ。この家からも、いかに多くの人材が、育っていったことか。わが家を活動の拠点に提供し、広宣流布に貢献してきた功徳は、無量であり、無辺である。それは、大福運、大福徳となって、子々孫々までも照らしゆくにちがいない″
 伸一は、万感の思いで感謝を語った。「いつも、本当にありがとうございます」
 すると、中山一郎は言った。「先生、私は創価学会に尽くせることが、嬉しくて嬉しくて仕方ないんです。人生で学会と出あえたこと自体、最高の福運であり、功徳です。それが私には、よーくわかります」
 中山の言葉は、実感に裏づけられていた。
 彼は、もともと法華講であり、旭川近郊の深川にある日蓮正宗寺院・宝竜寺の信徒であった。その中山が、初めて創価学会の存在を知ったのは、一九四九年(昭和二十四年)の夏のことであった。
 ある日、宗門の僧侶が、学会が発刊した『大白蓮華』の創刊号を持って来たのである。
 中山は、そこに掲載されていた戸田城聖の「生命論」に、何気なく目を通してみた。ひきつけられる内容であった。「生命とは何か」という問題について、これほど明快に説き明かした論文を見たのは、初めてであった。
 彼は、読み進むうちに感激に震えていた。″これが仏法の説く、真実の生命なのか! この戸田城聖という人はすごい人だ!″
10  北斗(10)
 戸田の「生命論」を熟読した中山は、生命の究極の法であるこの仏法を、布教しなければならないと思った。
 彼は、初めて折伏に挑戦してみた。だが、満足に仏法の法理を説明することも、質問に答えることもできなかった。
 五一年(同二十六年)の十一月、学会から『折伏教典』が発刊されると、彼は、早速、二十冊ほど購入し、友人にも配って歩いた。また、「聖教新聞」を購読し、一人、仏法の研鑽に励んでいった。
 中山が孤軍奮闘を続けていた一九五三年(昭和二十八年)の初夏、旭川に近い愛別の法宣寺で檀家総代をしている野末徳一が、突然、彼を訪ねて来た。中山は琵琶の名手であったことから、法宣寺の行事に招かれたことも何度かあり、野末とも顔を合わせていた。
 なんの用かと思っていると、野末は、興奮ぎみに創価学会のことを語り始めた。――野末は、この年の五月ごろ、大石寺に行った折、学会の登山会のメンバーと対話する機会を得た。その学会員の話に興味をいだいた。
 「広宣流布を成し遂げていくことこそが、大聖人の御精神であり、折伏の実践が、最も大切である」というのだ。寺では、「折伏」が重要であるなどという話は、聞かされたことがなかった。野末は、もっと、学会の話を聞いてみたいと思った。そして、帰途、東京で小岩支部の座談会に出席してみたのである。
 勤行が始まった。なんと、全員が上手に読経するではないか。勤行が終わった時、彼は、隣にいた婦人に小声で尋ねた。「なんで、みんな、こんなに上手に勤行ができるのかね」
 婦人は、不可解そうな顔で答えた。「『なんで』って、当たり前でしょ。みんな毎日、朝晩の勤行をしているんだから、上手に決まっているじゃないの」
 彼は、大きな衝撃を受けた。地元の寺の信徒で、毎日、きちんと勤行をしている人など、ほとんどいなかったからである。総代の野末自身、題目は唱えても、朝晩の勤行を、日々、励行しているわけではなかった。
11  北斗(11)
 また、彼は、参加者が活気に満ち、生き生きとしている姿に心を動かされた。
 座談会は、功徳の体験にあふれ、皆に歓喜があり、確信があった。寺での行事は、いつも暗く、重たい雰囲気に包まれていたが、全く正反対といってよかった。
 ″これが同じ宗派なのだろうか。しかし、御本尊は同じである。いったい何が、これほど明暗を際立たせているのか″そう考えながら、野末は、冷静に座談会を観察していた。
 幹部は御書を拝して指導し、参加者の話にも、随所に御書の御文が引かれていた。御書に照らして、信心はいかにあるべきかを語り合う光景も見られた。
 ″学会では、御書を根本にし、皆が真剣に研鑽に励み、大聖人の仰せの通りに実践しようとしているのか!″
 寺では、住職が御書の研鑽を呼びかけるのを聞いたことは、ほとんどなかった。寺の行事の折などに住職が、御書の一節を講義するぐらいのものであった。
 野末は思った。″すごいことだ。こんな団体があったとは……″
 だが、何よりも彼を驚嘆させたのは、学会員が広宣流布の使命に燃えて、人びとを幸福にするのだと、勇んで弘教に励んでいることであった。住職でさえもしなかった折伏を、信徒である学会員が、懸命に実践しているのだ。彼は感動した。
 また、この時、見せてもらった『大白蓮華』のなかに、会長の戸田城聖が書いた論文の「創価学会の歴史と確信」が掲載されていた。
 それを読み、戦時中、戸田も、初代会長の牧口常三郎も、謗法厳誡の大聖人の御精神を貫き、天照大神の神札を拒絶するなどして、軍部政府の弾圧を受け、共に投獄され、高齢の牧口は獄死していることを知ったのだ。そこには、一方の宗門は、弾圧を恐れて神札を祭り、学会にも神札を受けるように迫っていたという、恐るべき事実も記されていた。
 野末は愕然とした。そして、こう結論したのである。″大聖人の御精神を受け継いでいるのは創価学会なのだ。学会にしか、正しい信心はないのかもしれない!″
12  北斗(12)
 彼は、北海道に帰る車中、考え続けた。
 ″創価学会こそが、大聖人の教え通りに実践している団体であることがわかった以上、自分は檀家総代として、皆にそれを伝える責任と義務があるのではないか。広宣流布のための実践がない、これまでの寺の信心では、せっかく正しい御本尊を持っていても、一生成仏など、できようはずがない。すぐにでも、寺をあげて、創価学会に入れていただくべきではないか″
 そして、愛別に戻った野末は、深川の宝竜寺の信徒である中山一郎のところに、相談に訪れたのである。
 野末は、中山より十七歳年上であり、既に六十歳を目前にしていた。中山は、野末の話を聞くと、頬を紅潮させて語った。「野末さん。実は、私も創価学会の信心でなければだめだと、全く同じことを考え続けていたんですよ」
 驚いたのは、野末の方であった。「えっ、あなたも、そう思っていたのか! 私だけじゃなかったんだ。それは心強い!」
 野末は喜びに声を震わせて言った。二人は意気投合した。創価学会に入って、信心を学んでいこうということになった。野末は、檀家である法華講員の家を回り、何が正しい信心なのか、なぜ学会がすばらしいのかを訴えていった。
 この一九五三年(昭和二十八年)の八月には、北海道にも学会の幹部が派遣され、夏季地方指導が行われた。彼らは、派遣隊のメンバーに協力し、ともに弘教を推進していった。
 九月には、小岩支部の地区部長が旭川を訪れたが、この時、野末と中山は、自分たちをはじめ、両寺院の檀家を学会員にしてほしいと願い出た。
 その地区部長から、野末と中山の要請を聞いた戸田城聖は言った。
 「皆を学会員にしたいという野末氏たちの気持ちはわかるが、大事なことは、一人ひとりが断固たる決意を固めているかどうかだ。学会に入っても、やがて心が揺らいでしまうようでは、なんの意味もない。決意が本物の人だけ入会を許可するようにしてはどうか」
 彼は、どこまでも慎重であった。
13  北斗(13)
 法宣寺では、彼岸法要の席上、野末が集まった信徒に向かって、創価学会への入会を呼びかけた。そして、最後に、こう訴えた。
 「……ただ今、申し上げましたように、日蓮大聖人の教え通りに、まことの信心を貫いていくには、創価学会員となって戸田先生の指導を受けていく以外にないと、私は思うのであります。しかし、創価学会に入るということは、広宣流布のために戦い抜くということです。決して、安易な気持ちでは、学会員としての信仰は全うできません。
 ゆえに、たとえ、親族であっても、信心のしっかりしない者、折伏意欲のない人は、入会メンバーに加えるわけにはいかないことを、申し上げておきます」
 野末の言葉を聞くと、会場はざわめいた。皆、そこまで決意を固めなければならないとは、思っていなかったからである。
 互いに顔を見合わせ、ひそひそ話が始まった。「どうするかねー。学会の信心は厳しいようだがの」
 「でも、野末さんがあそこまで言うのだから、学会はすばらしいにちがいない。活動は大変でも、功徳があると言い切っている」
 「一緒に、本気になって、学会の信心に取り組んでみてもいいのではないかね」
 やがて、一人が立ち上がった。「やりましょう。私は創価学会への入会を希望します!」
 「私もやるぞ!」二人、三人と、入会を希望する声があがった。
 結局、法宣寺と宝竜寺を合わせて、三十四世帯二百人が入会の決意を固めた。
 そして、野末が代表者となり、十月十五日付で会長の戸田城聖にあてて、創価学会への「加入願書」を作成した。
 戸田は、宗門の了解を得て、十一月三日、入会を許可し、「加入許可書」を送付した。このメンバーは、小岩支部の直属班となった。
 入会したメンバーは、学会の指導に従い、勤行・唱題に励み、弘教に奔走した。活動を開始した人たちは、日々、はつらつとしていった。
14  北斗(14)
 野末が総代を務める愛別の法宣寺の住職は、最初、檀信徒が学会員になることを喜んでいる様子であった。一九五三年(昭和二十八年)の十一月八日付の聖教新聞には、法宣寺の住職が野末らの学会入会を祝福し、ともに記念のカメラに納まる写真が掲載されている。皆が学会員となって折伏に励み、入信する人が増えれば、寺の供養も増えると期待してのことであったのかもしれない。
 しかし、やがて学会を批判し、組織の切り崩しを始めるのである。学会員となって勤行を励行し、御書を学び、折伏も行ずるようになった人びとは、我見に基づく住職の指導には、共感しなくなっていった。また、御聖訓に照らして、大聖人の御精神に背くような発言や謗法行為があれば、おかしいと指摘し、声をあげるようになった。
 つまり、檀信徒が賢明になっていったことから、″衣の権威″で覆い隠してきた、謗法や怠惰、まやかしを見抜かれ、意のままに操ることができなくなってしまったのである。
 住職は、そんな学会員の存在が、疎ましくて仕方なかったようだ。彼は、学会を快く思わぬ檀徒らと一緒に、学会員となった人たちに、学会をやめるように働きかけていった。
 このころ、法宣寺だけでなく、北海道各地の日蓮正宗寺院で、学会の組織を切り崩す動きが起こっていたのである。由々しき事態である。仏意仏勅の団体である創価学会を攪乱する、魔の所業といってよい。
 当然、学会としては、見過ごすわけにはいかなかった。当時の理事長であった小西武雄から、宗門に、学会の組織の切り崩しを直ちにやめるように、厳重に申し入れた。
 結局、北海道にあって、学会の大前進を妨げたのは他宗派ではなかった。御聖訓には、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」と仰せである。この御言葉の通り、仏弟子たる日蓮正宗の僧侶らが、魔の姿を現じて、広宣流布の破壊に奔走したのである。
15  北斗(15)
 僧侶の大多数は、口でいかに強信を装っても、広宣流布を実現しようという決意など、いささかもなかった。保身と名聞名利こそが、彼らを貫く行動原理であったといってよい。
 だから、檀家の機嫌を損ねないために、謗法さえも平気で見て見ぬふりをした。ましてや、難をも呼び起こす折伏など、決して行じようとはしなかった。
 僧侶の仮面を被って大聖人の御精神を滅ぼす、この「魔沙門」すなわち魔僧と戦うことこそが、大聖人御在世以来、広宣流布に生きる人の避けがたき宿命といえよう。
 中山一郎は、しみじみと思うのであった。″学会がなければ、大聖人の御遺命である広宣流布は忘れ去られ、仏法の精神は死滅してしまったにちがいない。学会があってこそ、仏法は蘇ったのだ。学会員になれたことは、なんとすばらしいことなんだ″
 魔僧の蠢動が激しさを増した一九五四年(昭和二十九年)の夏、戸田城聖が出席して旭川の班総会が開催されたが、その時、戸田は、班長になっていた中山に一首の和歌を贈った。
  君ありて
    北の砦も
      かたからん
    妙法のはたも
      永くはためく
 この年の十一月、旭川地区が結成されると、中山は地区部長になり、野末は地区部長待遇となった。彼らは、道北、道東の広大な天地を、喜々として弘教に駆け巡り、たくさんのメンバーを誕生させていった。その同志たちに、数多くの功徳の体験が生まれた。それが、さらに弘教を加速させた。
 仏法を語るには、体験談に勝るものはないというのが、中山の実感であった。その体験も、より新鮮なものほど、説得力があった。
 彼は、同志が難病を克服したという報告を受けると、早速、その人を連れて、病で苦しむ人のところに出かけていった。吹雪の夜も、歓喜に燃える、さまざまな体験のもち主を、自分の外套を掛けてソリに乗せ、自らソリを引っ張って折伏に行くのである。
16  北斗(16)
 一九五六年(昭和三十一年)には、旭川支部が結成され、四地区三十九班、二千三百世帯の陣容となった。
 この時の支部長は野末徳一であり、支部婦人部長には、中山一郎の妻の二三恵が就いた。中山一郎は、年長の野末を立てながら、力を合わせて支部の建設にあたった。
 中山も、野末も、正宗寺院の堕落に気づき、真の信仰を求めて創価学会に入会しただけに、学会のために、どんな苦労も惜しまない決意を固めていた。
 また、懸命に寺に尽くしても、それが、そのまま正法の流布にはつながらないことを痛感してきた彼らは、学会員として広宣流布のため、同志のために働けることに、無上の誇りと喜びを感じていた。
 だからこそ中山は、苦労を覚悟で、わが家を、活動の拠点とし、会場として、全面的に開放してきたのである。
 山本伸一は一九五九年(昭和三十四年)に旭川を初訪問し、中山の自宅に行った折、中山夫妻が目を輝かせ、学会のために尽力できる喜びを話す光景を、忘れることができなかった。その時、中山はこうも語っていた。
 「この仏法に巡りあえることは、三千年に一度咲く優曇華にあうように大変なことだと説かれていますが、仏法に巡りあっても、それだけでは不十分です。私も御本尊を受持していましたが、信心は全くわかりませんでした。卑近な言い方をすれば、高級車を手に入れながら、運転の仕方がわからず、放置していたようなものです。
 その私に、正しい信心を教えてくれたのが創価学会でした。それによって、たくさんの功徳をいただくことができました。また、人間として生まれた、自身の真の使命を自覚することもできました。
 したがって、学会に巡りあえたことこそが、本当に尊く、すばらしいことだと実感しています。もし、来世の最大の願いは何かといわれれば、大金持ちの家に生まれることでも、王子になることでもありません。ただ一つ、学会員となって、信心に励むということです」
17  北斗(17)
 伸一の初訪問から九年の間に、旭川は、総支部、本部となり、この一九六八年(昭和四十三年)の八月には、総合本部となったのである。だが、その五カ月前、中山一郎と苦楽を共にしてきた野末徳一は、七十四歳で世を去っていた。
 中山は今、自分を見守る山本会長の視線を背中に感じながら、野末の分まで戦い抜き、旭川に難攻不落の広布城を築き上げようとの誓いを込め、渾身の力で、学会歌の指揮をとったのである。
 山本伸一は、翌日の九月十四日の午前中、旭川会館を訪問したあと、昼過ぎの列車で旭川を発ち、稚内に向かった。彼の稚内訪問は、地元同志との約束であった。
 稚内に支部が誕生したのは、一九六二年(昭和三十七年)の八月のことである。
 稚内の初代支部長になった佐治秀造は、東京での支部長会や、夏季講習会などの折に、伸一に会うと、常にこう言うのであった。
 「先生、稚内へ来てください! お待ちしております」
 伸一も、日本の最北端の街である稚内を、ぜひ訪問し、力の限り同志を励ましたかった。しかし、北海道には何度も足を運んだが、稚内に行く時間は、どうしても取れなかった。彼は心苦しかった。
 前年の八月、伸一は、旭川で行われた記念撮影会に出席した折、稚内から参加した、佐治と言葉を交わした。
 佐治は、既に六十七歳になっていた。しかも、結核で入院中であった。それでも、この記念撮影会には、なんとしても参加しようと、外泊許可をもらい、痛む胸を押さえながら、旭川まで来たのである。
 佐治の頬はこけ、体も一回りほど、小さくなっていた。その彼が、気力を振り絞るようにして、訴えるのであった。
 「先生、お願いがあります。ぜひ、稚内へおいでください。みんな、お待ちしています」
 佐治は、その一言を伸一に言いたくて、病を押して、ここまで来たのであった。
 伸一の胸には、稚内を愛し、同志を思いやる佐治の深い心情が、痛いほど伝わってきた。
18  北斗(18)
 山本伸一は、佐治秀造に言った。
 「わかりました。お約束します。必ず、稚内にお伺いします。その代わり、佐治さんも、それまでに元気になってください。約束ですよ」
 以来、伸一は、佐治の一日も早い回復を祈り続けてきた。
 佐治は医師から、全快まで二年はかかると言われていた。しかし、彼は伸一との約束を果たそうと、必死に唱題した。病は見る見る快方に向かい、ほどなく退院したのだ。その報告を聞いた伸一は、稚内行きの実現を決意し、日程をこじ開けるようにして、訪問の計画を立てたのである。
 当時、旭川から稚内に向かうには、音威子府から、西の日本海側を北上する宗谷本線と、東のオホーツク海側を通る天北線(一九八九年に廃止)の二本の線があった。伸一の乗った列車は、天北線経由の急行「天北」であった。
 稚内では指導会が予定されていた。これには、札幌や旭川からも代表の幹部が参加することになっていたので、列車の一両を団体専用車両として借り切っていた。
 車窓には、黄や赤に染まり始めた平原が、果てしなく広がっていた。その錦の大地を、列車はゴトゴトと音をたてて進んでいった。
 この一九六八年(昭和四十三年)は、北海道に開拓使が設けられてから、ちょうど百年目にあたっていた。
 伸一は、この広漠たる原野を開拓していった、先人たちの苦労に思いを馳せた。
 ――寒さと飢餓と戦いながらの開墾作業。収穫への道は遠く、失敗、失敗、失敗の連続であったにちがいない。希望は失望に変わり、何度、絶望の淵をさまよったことか。
 しかし、彼らは、負けなかった。そのたびごとに、自分を打ちのめした凍てる大地に手をつき、足を踏んばって立ち上がった。そして、渾身の力を振り絞り、開墾の鍬を振るい続けた。絶え間なく挑戦を重ねた。来る日も、来る日も……。
 親から子へ、子から孫へ――以来百年、北海道は美しき黄金の大地となった。
19  北斗(19)
 伸一の眼には、開拓者たちの苦闘が、広布の道を切り開いてきた同志たちの奮闘と、重なって見えるのであった。
 広宣流布という聖業の開拓もまた、試練の吹雪のなかを突き進み、間断なき挑戦を続けてこそ可能となる。そして、親から子へ、子から孫へと、精神と敢闘の継承があってこそ、その成就がある。
 ″この北の天地を、幸福の花薫る広布の黄金城にしよう。そのための布石をするのだ!″そう思うと、伸一の胸は高鳴った。
 稚内までは、五時間ほどの旅である。日ごろ、ゆっくりと話すことの少ない北海道の幹部と懇談するには、絶好の機会であった。
 彼は、主な幹部と、次々と対話を交わした。指導と励ましの有意義な語らいの″時″は、瞬く間に過ぎていった。伸一が腕時計を見ると、午後五時半近くになろうとしていた。
 当初の予定では、もう到着のはずである。列車が遅れているようだ。その時、車窓に、燃えるような夕焼けに包まれてそびえる、利尻富士の雄姿が見えた。
 「ほら、みんな見てごらん!」
 伸一が言うと、一斉に感嘆の声があがった。幾筋もの黄金の光が走る紅の空に、利尻富士が紫のシルエットを、くっきりと浮かび上がらせていた。あまりにも見事な、荘厳な夕焼けであった。
 それは、一幅の名画であった。伸一は、その光景が、最北の厳しい環境のなかで、ひたすら広宣流布の大道を開いてきた稚内の同志の勝利を、象徴しているように思えてならなかった。
 列車は、定刻より十六分遅れ、五時四十四分、稚内駅に滑り込んだ。伸一は、稚内総支部の指導会が行われる会場の体育館に急いだ。
 会場の入り口には、佐治秀造が待っていた。
 「佐治さん、約束通り来ましたよ。お元気になられて、本当に嬉しい」
 伸一が差し出した手を、彼は両手で、ぎゅっと握り返した。
 「先生!」こう言ったきり、佐治の声が詰まった。その目には涙があふれていた。
20  北斗(20)
 会場の体育館は参加者で埋まり、周囲にも人があふれていた。体育館は、かなり古かった。だが、その柱や壁が、丹念に磨き上げられていることに、伸一は気づいた。彼は、同志の真心に合掌する思いで、会場に入っていった。
 歓声があがった。舞台の上には「栄光」の文字が大書され、会場の後方には、「先生 ようこそ北の果てまで おいで下さいましてありがとうございます」と書かれた、毛筆の横断幕が掲げてあった。それは、稚内の全同志の思いであったにちがいない。伸一は、胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。
 壇上に上がった彼は、参加者に向かい、深々と丁重に頭を下げた。
 メンバーは、この日をめざして、弘教の大波を起こしてきた。その奮闘の模様を、伸一は北海道の幹部から、詳細に報告を受けていた。
 彼は、法華経普賢菩薩勧発品の「当起遠迎、当如敬仏」(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし=法華経677㌻)の文を思い起こしていた。妙法を受持した衆生に対して、仏を敬うように敬意を表すべきことを説いた経文である。
 御書に照らして、広宣流布のために戦う同志こそ、仏の使いである。尊き地涌の菩薩である。最も偉大なる、民衆の王者である。ゆえに、その同志を敬い、讃え、守り抜くことが自分の使命であり、責任であると、伸一は、固く、深く、心に決めていたのだ。
 彼は、万感の思いと、最大の敬意を込めて、参加者に語りかけた。
 「大変に、ご苦労様でございます!本日は、礼文島、利尻島からも、船をチャーターし、百八十人の同志が参加されていると伺いました。遠いところ、ようこそ、おいでくださいました。はつらつとした、お元気な皆様にお会いできて本当に嬉しい。今日は楽しい会合にしましょう。
 私は、稚内が大好きです。皆さんが大好きです。わが同志のお一人お一人を、守り抜いてまいります」
 その言葉に、参加者は目頭を潤ませた。
21  北斗(21)
 伸一は、一人ひとりに視線を注ぐように、参加者を見た。
 「私は、皆さんのご苦労は、よく存じております。皆さんの戦いも、つぶさに報告を受けております。本当に、よく頑張ってくださった。皆さんは勝ちました。大勝利しました。今日は、まず、そのことを、宣言しておきたいんです」
 参加者の大多数は、山本伸一を″人生の師″と定め、吹雪をついて弘教に歩き、ただひたすら、彼の来訪を待ちわびてきたのだ。その伸一が、今、眼前に立ち、自分たちの労をねぎらい、讃えてくれたのだと思うと、とめどなく涙があふれてくるのであった。
 会場の一角から嗚咽が漏れた。利尻島、礼文島の同志たちであった。
 この数年、この二つの島の広布の躍進は、目覚ましかった。そして、先月の二十六日には、両島を合わせて、「利礼支部」が結成された。これによって、稚内総支部は、稚内、宗谷、天北、南稚内、東稚内、そして利礼と、六支部の陣容に拡大したのである。
 利尻島から参加したメンバーのなかに、必死で涙をこらえる、日焼けした顔の六十過ぎの男がいた。堀山長治である。彼の妻の千枝も、盛んにハンカチで涙を拭っていた。
 皆さんは勝ちました――という伸一の言葉が、夫妻の胸にじーんと響いたのである。長治は漁師であった。
 利尻島は、かつては、ニシン漁で賑わっていたが、一九五五年(昭和三十年)を境に、さっぱりニシンは来なくなった。不漁が続くと、長治は博打に夢中になった。花札である。博打に負けては、借金を重ねていった。
 千枝の負けず嫌いの性格が、その借金に拍車をかけた。彼女は、決して、夫に博打をやめてくれと、泣いて縋るようなまねはしたくなかった。長治が博打に負けて帰ってくると、千枝は黙って、自分の着物を持って質屋に行った。そして、つくったなけなしの金を、夫に突き出して言うのである。「これで、取り戻してこい!」
22  北斗(22)
 借金はかさみ、堀山の一家は、貧乏のどん底に転がり落ちていった。八人の子どもをかかえ、食べるものにも事欠き、冬が来ても、新しい靴下一つ買ってやれなかった。電気も止められた。雨が降ると、冷たい雨水が家の中に、ポトポトと漏った。妻の千枝は、天井を見上げながら、惨めさをかみしめた。
 一九五七年(昭和三十二年)のことであった。見知らぬ人が、突然、堀山の家を訪ねて来た。小樽からやって来た学会員である。窮迫した堀山の家の様子を見て、なんとしてもこの人に仏法を教えたいという思いにかられ、戸を叩いたのだ。
 夫妻の語る窮状に耳を傾けていた学会員から、確信にあふれた言葉がはね返って来た。
 「祈りとして叶わざるなしの信心です。絶対に借金も返せます!」
 その一言で、妻の千枝は入会した。しかし、長治は信心に反対だった。反対する理由は何もなかったが、入会すれば、男のプライドを捨てるように思ったのである。
 彼には、経済苦のほかに大きな悩みがあった。神経痛である。
 ″信心なんかで病気が治るものか″という、思いもあったが、ほかになす術のない彼は、ある時、試しに御本尊に手を合わせてみた。しばらく題目を唱えてみると、痛みが和らいだ気がした。続けて祈ってみると、日ごとに楽になっていった。それから、二人で、信心に励むようになった。
 島の人びとは、「今度の博打は宗教か」と陰口をたたいた。
 だが、それにめげずに信心を続けた。サンマやウニ、イカなど、大漁にも恵まれ、一年で借金を返済することができた。堀山夫妻は驚いた。驚きは、歓喜と感謝と確信に変わった。
 二人は、島中の人びとに仏法を教えようと、勇んで折伏に歩いた。吹雪の夜は、手拭いを頭にまいた長治が前に立ち、風を防ぎながら一列になって歩くのである。
 弘教が実り、一人、二人と、入会する人が出てきた。
 やがて、島に班が結成され、夫妻は班長、班担当員の任命を受けた。
23  北斗(23)
 常に同志の悩みに耳を傾け、素朴だが、誠心誠意、激励を続ける堀山夫妻は、皆から、「トッチャ」(父ちゃん)「カッチャ」(母ちゃん)と呼ばれ、慕われていった。
 ある年、利尻島では不漁が続いた。生活は逼迫していった。一方、本土では大漁続きだという。
 仕方なく出稼ぎに行くことにした。泣く子を人に預け、家の戸口を板で打ち付け、夫婦でオホーツク海沿岸の枝幸に向かった。気がかりは、同志のことだった。
 大漁であった。毎日、無我夢中で働いた。しかし、仕事を終え、ホッと一息つくと、二人で交わす言葉は、島に残っている同志のことばかりであった。
 生活苦にあえぐ人、目の不自由な人、足が悪くて動けない人……。皆、入会して日も浅く、信心への強い確信があるとはいえなかった。
 「困ったことがあったら、みんな、誰に相談するんだべな」
 「うんだね……」
 日ごとに不安が募り、もはや、居ても立ってもいられなくなった。
 「トッチャ、帰ろう! 島さ、帰るべ。いくら金を儲けてもしぁねぇべさ」二人は決めた。
 ″おらだぢを頼りにしている同志がいる。どんなに生活が苦しくってもいい。広宣流布のため、同志のために、利尻で暮らそう。それが、おらだぢ夫婦の使命だと思う″
 夫妻は島に戻った。それから、二度と出稼ぎに出ることはなかった。
 不漁が続けば、食うや食わずの生活になる。やむなくカッチャは、便所の汲み取りをして、わずかな金をもらい、生計を立てた。
 そのカッチャが信心の話をすると、こんな言葉が返ってきた。「何が、いい信心だ。あんたの、その姿はなんだのさ!」
 彼女は、快活に笑いながら答えた。「あんたは、人を格好でしか、見ることができねんだねぇ。それじゃ、いつまでたっても、人間の真実を見抜くこともできねぇし、この信心のすばらしさはわかんないべさ」
 カッチャは、強く、強く、決意していた。″どんなことを言われても、おらは、みんなにこの仏法を教えて、利尻を幸福の楽園にするんだ″
24  北斗(24)
 同志のために、島のために――それが、堀山夫妻の生きがいであり、活動の原動力であった。苦しみに泣く人がいると聞けば、いつでも、どこへでも飛んでいった。一緒に涙を流し、抱き締めるようにして、励ましの言葉をかけた。また、悩みを克服した同志がいれば、手を取って喜び合った。
 二人は、貧しい平凡な庶民であった。しかし、島の人びとを守り抜こうとする気概と責任感は、誰よりも強かった。
 だから家には、夫妻を慕って、学会員だけでなく、多くの地域の人たちが集まり、いつも社交場の様相を呈していた。
 カッチャは、ご飯時に来た客には、必ず、「まんま食ってけ」と声をかけた。食べ物が十分にない時には、自分は食べないで、笑顔で皆に振る舞うのである。人びとの幸せを願う一念が、面倒見のよさとなって表れていたのだ。
 ともあれ、堀山夫妻の入会から十一年、夫妻をはじめ、草創の同志の命がけの苦闘によって、利尻島にも、地域広布の盤石な基盤ができ上がったのである。
 ″華やかな表舞台に立つことはなくとも、黙々と献身してくださる無名無冠の同志こそが、学会の最大の功労者なのだ。ゆえに私は、その方々を守り、讃え、生涯を捧げよう″それこそが、山本伸一の決意であった。
 彼が、あえて稚内に足を運んだのも、そうした同志の一人ひとりを、全精魂を傾けて激励し、敢闘をねぎらいたかったからである。
 稚内総支部指導会は、午後六時に開会となり、北海道の幹部である総務の宮城正治が、あいさつに立った。「皆さん! 待ちに待った山本先生を、今日、私たちは、遂に、遂に、稚内に、お迎えすることができました!」
 こう言うと、彼は絶句した。感涙を抑えることができなかったのだ。割れるような拍手が轟いた。もはや、言葉はいらなかった。皆が同じ思いであったからだ。
 十条潔ら、同行の幹部の話のあと、伸一の指導となった。
 「ようやく、念願であった稚内に来ることができました。大変に嬉しく思っております」
25  北斗(25)
 山本伸一は、皆を包み込むような穏やかな口調で語り始めた。
 「車中、それはそれは美しい、荘厳な夕日を見ることができました。私には、それが、皆さんの栄光と勝利の象徴であり、また、諸天の祝福であるように思えてなりませんでした。今日は、みんなで、その夕日を眺めながら、懇談するような気持ちで、少々、お話をさせていただきます」
 そして、彼は、五項目の指針を示していったのである。
 第一に「自信をもて、そして、退転するな」
 第二に「みんな仲良く進んでいってほしい」
 第三に「先輩、後輩の分け隔てなく、なんでも相談し合える同志であってほしい」
 第四に「稚内が日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」
 第五に「この稚内の地から、日本、そして世界の偉人を、陸続と輩出していただきたい」
 彼が、「日本最初の広宣流布」を、稚内の同志に呼びかけたのは、北海道、とりわけ、サハリンを望む稚内は、ソ連(当時)に最も近く、東西冷戦下にあって、緊張を強いられていた地域であったからである。米軍はここにレーダー基地を置き、自衛隊も北海道には、北の守りとして力を注いできた。
 仏法では、人間の一念の転換、生命の変革によって大宇宙をも動かし、いっさいの環境を変えゆくことができると説いている。戦争の脅威にさらされてきた人は、平和と幸福を手にする権利と使命がある。それには、仏法という生命の大法をもって立ち上がる以外にない。
 だからこそ伸一は、稚内に広宣流布の模範の大城を築き、平和の灯台を打ち立ててほしかったのである。
 さらに伸一が、この地から、「世界の偉人」を輩出するように念願したのは、厳しい自然環境など、逆境のなかでこそ、民衆の苦悩を知る真の偉人が育つからである。また、その実現のためにも、稚内の同志には、自分たちこそが、時代、社会を建設する主役であり、ヒーロー、ヒロインであるとの、「覇気」と「誇り」とをもってもらいたかった。
26  北斗(26)
 ″広布の拡大の実証をもって、山本先生を迎えよう!″と、多くの弘教を実らせてきた稚内の同志には、勢いがあった。
 しかし、稚内地域は、日本の最北端にあり、幹部の指導の手もあまり入らぬところから、普段は、取り残されたような寂しさを感じながら、活動しているメンバーも少なくなかった。実は、伸一の指導の眼目は、その心の雲を破ることにあったといってよい。
 彼は「千日尼御前御返事」の「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に……」の御文を拝していった。
 この御書は、阿仏房が妻である千日尼の使いとして、佐渡から身延の日蓮大聖人を訪ねたことに対し、千日尼に与えられた御手紙である。伸一は、「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり」の御文から、こう訴えた。
 「佐渡という山海を遠く隔てた地にあっても、強い求道心の千日尼の一念は、大聖人と共にあった。地理的な距離と、精神の距離とは、全く別です。
 どんなに遠く離れた地にあっても、自分がいる限り、ここを絶対に広宣流布してみせる、人びとを幸福にしてみせると決意し、堂々と戦いゆく人は、心は大聖人と共にあります。また、それが、学会精神であり、本部に直結した信心といえます。
 反対に、東京に住んでいようが、あるいは、学会本部にいようが、革命精神を失い、戦いを忘れるならば、精神は最も遠く離れています。私も真剣です。広布に燃える稚内の皆さんとは、同じ心で、最も強く結ばれています。
 さらに大聖人は、『我等は穢土えどに候へども心は霊山に住べし』と仰せになっている。
 私たちの住む娑婆世界は、穢土、つまり汚れた国土ではあるが、正法を持った人の心は、霊鷲山すなわち常寂光土にあるとの大宣言です。ここが、わが使命の舞台であると心を定め、広宣流布に邁進する時、どんな場所も、どんな逆境も、かけがえのない宝処となっていきます。その原理を確信できるかどうかで、すべては決まってしまう」
27  北斗(27)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「今、関西といえば、″常勝″の模範であると、全国の同志が思っています。既に関西は、ある意味では東京をしのぎ、広宣流布の一大推進力となっているといっても過言ではない。しかし、初めから、そうであったわけではありません」
 関西は、かつては、東京と比べ、会員の世帯も至って少なく、組織も弱かった。
 広宣流布の未来構想のうえから、関西の重要性を痛感した戸田城聖は、一九五六年(昭和三十一年)の一月、伸一を関西に派遣したのだ。
 当初、関西の同志の誰もが、何をやっても東京には敵わないという思いをいだいていた。
 伸一は、何よりも、一人ひとりの、その一念を転換することに全精魂を注いだ。
 「関西に創価の不滅の錦州城を築こう!」
 「日本一の、模範の大法戦を展開しよう!」
 伸一という若き闘将の魂に触れ、関西の同志は心を一変させた。″自分たちこそ、広布の主役なのだ″″関西こそ、広布の主戦場なのだ″そして、皆が獅子奮迅の闘士となった。
 この年の五月には、大阪支部は一万一千百十一世帯という未聞の弘教を成し遂げ、広布史上に不滅の金字塔を打ち立てたのである。さらに、七月には、学会として初めて候補者を推薦した参議院議員選挙で、東京地方区が惨敗するなか、大阪地方区は、伸一の指揮のもと、当選は不可能だとする大方の予想を覆し、見事に勝利したのである。
 以来、メンバーは、この関西こそが、広布の模範の「常勝の都」であるとの、強い誇りをもつようになった。また、自分たちこそが広宣流布の中核であり、創価学会の代表であるとの、不動の自覚をもつようになったのである。
 伸一は、確信を込めて語った。
 「関西の大発展の要因は、同志の一念の転換にありました。一念が変われば、いっさいが変わります。そして、関西が、東京をしのいだことが、全国の同志の、新たな希望となったんです。
28  北斗(28)
 私は、皆さんに訴えたい!稚内は、東京からも遠く離れている。札幌からも遠い。交通の便も悪い。人口も決して多くはない。冬の寒さは言語に絶するほど厳しい。確かに、この地で頑張ることは、大変であると思います。しかし、大変といえば、どこでも大変なんです。苦労せずに広宣流布ができるところなんて、一カ所もありません。
 大変な理由を数えあげて、だから無理だ、だからダメだと言っていたのでは、いつまでたっても何も変わりません。自分の一念が、環境に負けているからです。戦わずして、敗北を正当化しているからです。
 この最北端の稚内が、広宣流布の模範の地になれば、全国各地の同志が『私たちにもできないわけがない』と、勇気をもちます。みんなが自信をもちます。
 北海道は日本列島の王冠のような形をしていますが、稚内は、その北海道の王冠です。皆さんこそ、日本全国の広布の突破口を開く王者です。やがて、二十一世紀を迎えた時には、『北海道の時代』『稚内の時代』が来ると、私は、強く確信しています!」
 大歓声と大拍手がわき起こった。メンバーの眼は光り輝いていた。
 「どうか、皆さんは、誉れある同志として、信心を全うし、有意義な悔いのない、所願満足の人生を送っていただきたいのであります。
 私は、東京から、皆様方の一層のご多幸とご繁栄、ご健康とご健闘をお祈り申し上げ、題目を送り続けてまいります」
 話を終えた伸一は、席に戻ったが、そこでも、マイクを手にした。そして、参加者の年齢を尋ね、明九月十五日の「敬老の日」を記念して、高齢のメンバーに念珠を贈った。
 それから伸一は、初代支部長を務めた佐治秀造を招いた。
 「佐治さん、私の隣に座ってください。こんなに元気になられているとは思わなかった。勝ちましたね。おめでとう!今日は、あなたが会長です。病を克服して臨んだ、栄光の晴れ舞台ですもの……」
29  北斗(29)
 「これからも、うんと長生きしてください」伸一は、こう語りかけながら、隣に座った佐治の肩を叩き、背中をさすっていった。
 佐治の目から、涙があふれて止まらなかった。
 「最初に支部長として頑張ってきた方が、いつまでも元気であれば、みんなが希望をもてます。道を開いた人には、みんなの模範として生き抜く責任があるんです」佐治は、涙を拭いながら、何度も、何度も、頷いていた。
 「それでは、ここで歌の合唱をしましょう」
 伸一は、稚内の同志の胸に、忘れ得ぬ思い出をとどめたかった。彼は、幹部を次々と指名し、歌の指揮をとるように言った。
 「みんな、いい声をしてるね。元気だな。仕事は何が多いの?」
 「漁師です!」場内の一隅から、青年の声が返って来た。
 「そうか。私の家もノリを製造し、海で生計を立てていました。家は貧乏で、そのうえ、体が弱かった。しかし、仏法では『如蓮華在水』と説かれている。蓮華は泥沼から生じて、あの美しい花を咲かせます。
 同じように、どんなに厳しい状況にあっても、最高に価値ある人生を開いていけるのが仏法です。私もそう確信して生きてきました。今、どんなに苦しくても、決して負けてはいけない。幸福と栄光の人生へと、劇的に転換できるのが信心です。大空を黄金に染める太陽のように、強く生きるんだよ」
 それから、みんなで、「夕焼け小焼け」などを合唱した。明るい、弾んだ歌声がこだました。どの顔にも、笑みの花が咲いていた。誰もが、嬉しそうであった。
 「では、最後に私が『武田節』の指揮をとります」
 伸一が扇を手にして立ち上がると、大歓声があがった。
   甲斐の山々
   日に映えて
   われ出陣に憂いなし
   …………
 それは、新しき旅立ちの合唱となった。伸一は″稚内の出陣だ! 戦おう!″と、心に叫びながら懸命に指揮をとった。
30  北斗(30)
 会場を出ると、満天の星であった。北西の空に、北斗七星が、清らかな光を投げかけていた。ヒシャクの形をしたこの七つの星は、時を計る星とされ、航海の指標ともなってきた。
 夜空を見上げながら、伸一は思った。
 ″牧口先生、戸田先生が青春時代を過ごされ、飛翔の舞台となったのが北海道だ。ここには、両先生の魂が刻まれている。そして、私も青春の全精魂を傾け、北海道広布の開拓の鍬を振るってきた。北海道は、この北斗七星のように、広宣流布の永遠なる希望の指標であらねばならぬ……″
 翌九月十五日の朝、山本伸一は稚内市内を回った。わが同志の活動の天地を、よく見ておきたかったのである。
 学会が建立寄進した寺院や、赤と白に塗られた灯台の立つノシャップ岬にも足を延ばした。そして、このあと、稚内会館を初訪問し、支部幹部と懇談会をもった。一人ひとりの自己紹介に耳を傾けながら、伸一は訴えた。
 「学会が大発展していけるかどうかは、幹部がどれだけ成長できるか、つまり『幹部革命』にかかっています。
 一番偉く、尊いのは会員である。幹部は、会員の皆さんのために働き、会員に尽くすためにいるのだ――この哲学を全幹部がもち、実践していけるかどうかです。
 学会も組織が大きくなれば、ともすれば、権威主義、官僚主義に陥ってしまう。そうなるのは、『会員第一』という目的を見失ったところに、根本的な原因がある。
 また、会員奉仕の姿勢に徹し、同志を守っていくことによって、自身の我慢偏執の殻が打ち破られ、偉大なる人間革命、境涯革命が成し遂げられていくんです。さらに、如来の使いである同志への献身は、それ自体、大福運を積む要因となります。大聖人は『人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし』と仰せです。
 会員の皆さんのために尽くすということは、結局は、自分の崩れざる幸福を築いていくことになるんです」
31  北斗(31)
 伸一は、二度と訪問できないかもしれぬ稚内の同志たちの心に、尊き使命の花を咲かせゆこうと、必死であった。彼は、最後に力を込めて訴えた。
 「稚内を広宣流布のモデルにしてください。それには、核となる幹部が心を合わせ、団結することです。私は、この訪問を、生涯、忘れないでしょう。″北の守り″をよろしくお願いします」
 皆に送られ、車で稚内駅に向かった伸一は、途中、丘の上にある稚内公園に立ち寄った。
 この公園には、海を背景に、女性のブロンズ像を挟むようにして、高さ八メートルほどの二本の石の柱が立っていた。「氷雪の門」である。
 樺太(現サハリン)で亡くなった人びとへの慰霊と、今は異国となった樺太への望郷の念を込めて、数年前に建てられた碑である。
 この碑の近くには、終戦直後、集団自決した若き女性電話交換手の慰霊碑「九人の乙女の碑」があった。――一九四五年(昭和二十年)八月二十日の早朝、樺太の真岡で電話交換手をしていた彼女たちは、いよいよ真岡にソ連軍が向かったという知らせを受信した。
 終戦を迎え、ソ連軍の侵攻が予想されたことから、既に女性の緊急疎開の命令が出されていた。しかし、彼女たちは、自ら交換台にとどまった。″電話が機能しなくなったら、大混乱をきたしてしまう。絶対に電話を止めるわけにはいかない!″
 ほどなく、ソ連の軍艦が港に入ってきた。艦砲射撃が始まり、兵士が続々と上陸してきた。街には銃声が轟き、絶叫がこだました。だが、最後まで職場を死守して、交換業務を続けたのである。
 彼女たちは、覚悟を決めていた。
 ″敵に辱めを受けるなら、自ら命を絶とう!″電話回線に、交換手の最後の声が響いた。
 「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」九人の交換手は、用意していた青酸カリを仰いで、自決したのである。碑には、この最後の言葉も刻まれていた。あまりにも痛ましい話である。
32  北斗(32)
 伸一は「九人の乙女の碑」の前で、平和への、深い、深い祈りを込めて題目を三唱した。それから、海の彼方に目を凝らした。
 「先生、サハリンが見えます」
 同行の幹部が、双眼鏡を差し出した。きらめく海原の向こうに、青みがかった島影が広がっていた。二十三年前、そこで悲劇が起こったのだ。
 彼は、沖縄の「ひめゆりの塔」を訪れた時のことが、ありありと思い出された。
 「ひめゆりの塔」は、沖縄戦で負傷者の看護にあたり、犠牲となった、沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒らを合祀した慰霊塔である。かつての日本の南と北で、戦争によって、乙女たちの尊い命が奪われる惨事が起こったのだ。
 ″こんな惨禍を二度と繰り返してはならない。女性は、常に戦争の最大の被害者であった。女性の幸福なくして、人類の平和はない。女性が輝けば、家庭も、地域も、社会も輝く。ゆえに二十一世紀は、女性が主役となる「女性の世紀」に、しなくてはならない″
 伸一は、女子部、婦人部を守り育てるために、全生命を注いでいくことを決意するのであった。
 彼が振り向くと、二人の婦人が、数人の子どもと一緒に立っていた。学会員であるという。
 「いつも元気で、はつらつと頑張ってください。婦人部の皆さんこそ学会の宝なんです」彼は、子どもたちにも、一人ひとりに声をかけ、一緒に記念のカメラに納まった。
 「この写真は、必ずお送りします。また、十年後にお会いしましょう。その日を楽しみにしています」
 伸一が稚内駅に着いたのは、列車の出発時刻の十分ほど前であった。彼は、駅でも発車寸前まで、地元の幹部を励まし続けた。
 列車が走りだした。車窓に目をやると、あちこちで手を振る人の姿があった。伸一は急いで窓を開けると、大きく手を振った。″頑張れ、頑張れ! 断固、負けるな!″と、心で叫びながら、いつまでも、いつまでも、手を振り続けた。
33  北斗(33)
 九月二十五日、東京・両国の日大講堂で行われた、九月度本部幹部会でのことである。
 「ご承知の通り、座談会は教学と並んで創価学会の根本の伝統であり、仏道修行の要諦であり、学会の縮図です。私は座談会を最も重視し、″戦う座談会″を学会の大伝統として再確認し、来月からあらためて実践に移したいと思いますけれども、いかがでしょうか!」
 会長山本伸一の呼びかけに、賛同の大拍手がドームに轟いた。彼は、この本部幹部会で、全幹部が一丸となって、全力で座談会に取り組み、広宣流布の堅固な礎を築こうと訴えた。そして、学会本部に、仮称「座談会推進本部」を設置し、自らが推進本部長として、座談会の充実に挺身していくことを表明したのである。
 彼は、常に率先垂範の闘将であった。
 民衆は賢明である。自らは行動もせず、実証も示せぬリーダーの号令など、誰も耳を傾けなくなるにちがいない。人を動かすのは、口先ではない。魂の触発である。実践、体験に裏打ちされた確信に、人は魂を揺り動かされるのだ。もしも、号令によって人が動くなどと考えているなら、それは、人間を侮蔑しきった傲慢の徒といってよい。
 ともあれ、伸一は、自らが先頭に立って、動き、戦い、学会の活動の柱ともいうべき座談会を盤石なものにしようと、決意していたのだ。
 牧口初代会長以来、学会は座談会とともにあった。いや、座談会こそが学会の民衆運動の最大の源泉であった。そこで学ぶ御書や、赤裸々な同志の信仰体験、幹部の明快な指導などが参加者の発心と決意を促し、学会発展の原動力となってきたのである。
 また、座談会には、職業も、世代も異なる老若男女が集い、苦悩に沈む友がいれば、皆がわが悩みとして励まし、歓喜の報告には、皆が喜びを分かち合ってきた。そこには、社会的な地位や貧富の差などによる分け隔ては、いっさいなかった。
 まさに、「民主」と「人間共和」の縮図であり、現代社会の「心のオアシス」をつくり出していたといってよい。
34  北斗(34)
 さらに、会員に限らず友人等も参加し、忌憚なく意見を交換し合う座談会は、「社会に開かれた対話の広場」であり、弘教の法戦場であった。
 人びとは、座談会を通して、創価学会を実感として知り、認識を深めていくのだ。座談会が充実し、活力と歓喜にあふれている限り、広宣流布の前進はとどまることはない。
 ところが近年、その座談会を軽視する風潮が生まれ、内容的にも、マンネリ化の傾向が見られ始めていたのである。
 伸一は、この事態を真剣に受け止め、座談会の改革に乗りだしたのであった。
 まず、九月十八日、彼は、学会本部の黒板に、「日々の指針」として、こう書き記した。
 「幹部は常に充実した座談会を推進しよう。そして一人ひとりと話し合い、自信を与え、幸せに導くことが大事だ」
 周りにいた本部職員がそれを見ていると、伸一は言った。
 「さあ、今日から座談会革命だ。みんなで力を合わせて、最高の座談会にしていこう」
 職員の一人が、伸一に尋ねた。
 「先生、座談会を充実させる秘訣というのは、なんでしょうか」
 「詳細は、次の本部幹部会で語ろうと思っているが、原理は明確だ。主催する幹部や担当幹部の一念で、すべては決まってしまうということだよ。
 本来、座談会は、弘教のための仏法対話の場だった。牧口先生も、戸田先生も、新来者のどんな質問にも、懇切丁寧に答えられ、なぜ、日蓮大聖人の仏法が正しいのか、真実の幸福の道とは何かを、大確信をもって、理路整然と語られた。まさに、座談会は法戦の最前線であった。
 また、集って来た同志に、勇気と確信を与えようと、真剣勝負の指導が行われた。座談会に参加すれば、どんな疑問も晴れた。
 つまり、ひとたび、座談会を開いたならば、友人も会員も、納得させ、歓喜させ、発心させずにはおくものかという、中心者の気迫と力量が勝負になる。幹部の自覚としては、″戦う座談会″にしていくことだ」
35  北斗(35)
 伸一は、既に、聖教新聞社の編集首脳に、座談会充実のための企画を提案していた。
 それを受けて聖教新聞では、九月十八日付から「見直そう座談会の力」と題する連載を開始した。
 さらに、二十四日に、学会本部で開かれた全国理事会でも、伸一は、学会伝統の最重要行事である座談会を軽視する風潮があることを、厳しく戒めた。そして、翌二十五日、本部幹部会での、座談会についての指導となったのである。
 伸一は、この幹部会では、座談会の重要性を語ったあと、これまで、実施の回数も、日時もバラバラであったので、開催日を定めていくことなどを発表した。
 そして、「私自身、十月から、率先して座談会に参加する決意です」と宣言したのである。
 この伸一の言葉に、大拍手が広がった。拍手が収まるのを待って、彼は言葉をついだ。
 「座談会で活躍し、育った人こそが、真の学会っ子であります。教学、そして、座談会は、誰がなんと言おうと、学会の礎であり、広布の推進力であります。
 したがって、本当に学会を大事にし、愛し、守ろうとするなら、私とともに、座談会の充実のために、涙を流し、汗を流して、戦い抜いていただきたいのであります」
 気迫に満ちた伸一の呼びかけに、参加者は取り組みへの決意を新たにしたのであった。
 伸一は、さらに、座談会を開催するにあたっての重要なポイントを語っていった。
 「どうか、新来者を連れて来られた人を、大事にしていただきたい。
36  北斗(36)
 新来者が信心に反対することもあるでしょう。しかし、紹介者は、この人を幸福にしたいとの真心で、苦労を重ねて連れて来たのであります。その紹介者の立場がなくなるような思いにさせることは、誠意と努力に対する冒涜です。新来者を連れて来た人には、心から尊敬の念をもって、激励していただきたいのであります。
 また、新来者が出席しない場合も、担当幹部は知恵を働かせ、集って来た同志とじっくり懇談し、質問を受けたりするなど、有意義な座談会にしていただきたい」
 伸一の言葉には、話すにつれて熱がこもっていった。
 「座談会は、全員参加が原則です。座談会の日は、最高幹部も、本部、支部の幹部も、必ず、どこかの座談会に出席するのは当然です。
 そして、座談会を迎えるにあたっては、幹部が手分けをして、連絡、指導、激励にあたり、全員が参加できるように力を尽くしていくことが大事になります。座談会は、当日だけでなく、結集も含め、事前の準備によって決まってしまうといえます」
 ここで、伸一の話は、担当幹部の在り方に及んでいった。
 「座談会を担当する幹部は、成功を真剣に御本尊に祈り、固い決意と大確信をもって臨む
 ことが大切です。どんなに面白い話をしても、信心の確信が伝わってこなければ、画竜点睛を欠いています。確信のない人は、結局、担当幹部としては失格です。そして、どの場面を見ても、学会精神にあふれているという座談会にしていただきたい。
 また、幹部に不可欠なのは配慮です。皆が発言するような場合でも、口下手な人もいるので、そういう人の気持ちも敏感に察知しなくてはならない。
 さらに、座談会でどんなことが起ころうと、臨機応変に対処できる聡明さと、明朗さがなくてはならない。なかには酒を飲んで、ふざけ半分で乱しに来る人もいるかもしれない。そういう場合には、参加をお断りするという、厳然とした対応も必要になります。信心の錬磨の清浄な世界を、かき乱されるようなことがあってはなりません。
 その毅然とした態度とともに、社会性ある、常識豊かな振る舞いが大事です。特に、言葉遣いは、どこまでも、丁寧であっていただきたい。たとえ、信心に批判的な発言をする人がいても、礼儀正しく、相手を尊敬した立場で話をしていくべきです。
 これまでも、一部の幹部の心ない言葉遣いに失望し、残念なことには、学会を離れていってしまった人もいるんです」
 こう語った時、伸一の表情は曇った。
37  北斗(37)
 彼は、担当幹部や主催者の地区部長などに必要な配慮について、微に入り細をうがつように述べていった。
 「会場提供者には、特に礼を尽くして、使ってもらってよかったと思えるように、幹部は心を砕いていただきたい。また、その会場のご家族、子どもさんにも、丁重に御礼申し上げていただきたい。
 さらに、会場周辺にも、十分に注意を払い、駐車違反をはじめ、騒音や駐輪等で、絶対に迷惑をかけることのないようにしてください。近所の方々に対しても、事前に、誠意あるあいさつをしておくことも大切です。誰が見ても、すがすがしいな、納得できるな、というものにしていかなければならない。
 座談会は、学会の地区など、一部分の、小さな行事であると思うのは、大きな誤りです。創価学会といっても、それは、どこか遠くにあるのではない。わが地区の座談会のなかにこそ、学会の実像がある。したがって、その充実こそが、学会の建設の要諦となるのであります」
 この本部幹部会での伸一の指導は、座談会の在り方を考える、重要な指針となったのである。参加者をはじめ、伸一の指導を機関紙で知った同志は、闘志を燃え上がらせた。
 「これが創価学会だといえる、最高の座談会を開こう!」
 「みんなで力を合わせて、頑張ろう!」
 ある人は、全友人に参加を呼びかけて歩いた。また、ある人は、家庭訪問に全力を注いだ。全国津々浦々に、座談会成功への息吹がみなぎっていったのである。
 それから十日後、全国の会場提供者に、一枚のしおりが届けられた。その栞には、馬に乗った女性の戦士の絵が描かれ、「創価学会座談会場」を意味する英語の文字が記されていた。
 ささやかだが、感謝の思いを伝えたいと、伸一が提案し、作られたものであった。たった一枚のしおりではあったが、贈呈された会場提供者は、山本会長の真心に胸を熱くした。また、座談会にかける、伸一の決意を感じ取っていった。
38  北斗(38)
 正本堂着工大法要が行われた、一九六八年(昭和四十三年)十月十二日の夜のことである。山本伸一は、富士宮市上条で開かれた、北山支部市場地区の座談会に出席した。
 会場は、大石寺の西側で、売店が軒を連ねる道から、二百メートルほど離れたところにあった。地区部長の佐原一郎の家の小屋を改築したもので、部屋の広さは三十畳近かった。
 定刻の午後七時前に伸一が会場に到着すると、入り口に、精悍な顔立ちの四十代半ばの壮年が待っていた。北山支部の支部長の清野智也である。
 「先生! ありがとうございます」感極まった声で、清野が言った。
 彼は、大石寺の売店組合の組合長をしており、地区部長の佐原も、売店を営んでいた。
 前日の十一日に、山本会長が総本山に来たことを知った二人は、勇んであいさつに行った。正本堂着工大法要を翌日に控えた慌ただしいさなかであり、伸一と会うことはできなかったが、応対に出た幹部が、こう告げたのである。
 「先生は、明日、座談会に出席される予定なんだが、佐原さんの地区になるかもしれないよ。といっても、ご多忙な先生のご予定は、最後までどうなるかわからないから、君たちの胸のなかにとどめておいてもらいたい。でも、その心づもりでいてほしい」
 小柄でメガネをかけた地区部長の佐原は、メガネを取り、レンズをハンカチで拭きながら、小躍りしたい衝動を抑えた。
 ″山本先生が座談会に出席されれば、みんな、どんなに喜ぶか!″
 しかし、それを皆に話せないことが、最大の苦痛であった。翌十二日、夜が明けると、佐原は、やむにやまれず、六人の班長に電話を入れた。
 「実は、今日の座談会に山本先生がお見えになるかもしれないんだ」
 「本当ですか!」皆、興奮した口調で応えた。
 「昨日、同行の幹部の人が、教えてくれてね。まだ、どうなるかわからないので、みんなに言うわけにはいかないが、ともかく大結集して、山本先生をお迎えしようじゃないか」
39  北斗(39)
 この日の午後六時前、清野智也に、伸一に同行して来た幹部から、会長の座談会への出席が決まったという連絡があった。その話は、直ちに、地区部長の佐原一郎をはじめ、地区のメンバーにも伝えられた。
 伸一は、会場の入り口に立つ清野に尋ねた。
 「あなたは、八月に、この北山支部の支部長になられたんですね。おめでとう」
 「はい! ここの市場地区の地区部長の佐原一郎さんも、その時に、一緒に任命になりました」
 「私は、お二人の出発のお祝いの意味も兼ねて来させてもらいました」
 「ありがとうございます!」清野は声を弾ませて言った。
 彼の家は、代々、大石寺の周辺で農業を営む法華講であった。
 清野の家が土産物店を始めたのは、学会の本格的な登山会が開始された一九五二年(昭和二十七年)のことである。彼の父親が、大石寺の知り合いの僧から、勧められたのである。農家にとって、現金収入を得られることはありがたかった。そこで、とりあえず、シキミを売ることから始めてみた。
 父親は、登山する学会員に接するうちに、自分たち法華講とは、全く違う雰囲気を感じた。皆が生き生きとしているのである。また、学会員と言葉を交わしていると、誰もが、信心の喜びにあふれ、功徳の体験が尽きなかった。
 そして、創価学会が目覚ましい発展を遂げる姿を目の当たりにして、感嘆した父親は、五四年(同二十九年)に、学会に入会した。
 登山者の増加にともなって店も繁盛し、シキミ以外に土産物も揃えるようになっていった。長男の清野智也も手伝うようになり、ほどなく彼が、店を取り仕切るようになった。
 彼は、父とともに、学会の会合にも参加した。
 学会の先輩たちは、一生懸命、朝晩の勤行や教学を教えてくれた。また、親身になって真心の激励を重ね、人間としていかに生きるべきかや、広宣流布の使命に生きることの大切さを語ってくれた。
40  北斗(40)
 清野は、学会活動に励むようになった。すると、総本山の儀式に参加するだけにすぎなかった法華講の信心が、形式と権威だけの″抜け殻″の宗教のように思えるのだった。また、真剣に活動に取り組めば取り組むほど、いまだかつて体験したことのない、躍動と歓喜が、全身に込み上げてくるのを感じた。
 売店の経営も順調で、経済的にも恵まれていった。学会員の登山者が増加し、年々、売り上げも伸びていたからである。
 彼は、売店が組合をつくると役員に推され、やがて、組合長を務めるようになった。
 清野は、学会に深い恩義を感じていた。生活にゆとりができたのも、学会の登山会のお陰であると思っていた。また、何よりも、学会に出あえたからこそ、本当の信心を知り、広宣流布の使命に目覚め、生きがいある最高の人生を歩むことができたと、心の底から痛感していた。
 彼は、学会への報恩感謝の思いで、支部長として同志のために尽くそうと、懸命に活動に取り組む決意を固めていたのである。
 仏法は「心こそ大切」と教えている。感謝がある人は幸福である。心には豊かさがあふれ、喜びに満ち、生き生きとして明るい。福徳が輝く。しかし、感謝のない人は不幸である。その心は暗く、貧しく、いつも、不平と不満、嫉妬と恨みと愚痴の暗雲が渦巻いている。
 だから、人も離れていく。希望も、福運も消してしまう。自分で自分の幸せを破壊し、空虚と絶望へと自らを追い込んでいるのだ。慢心の人もまた、感謝の心がないゆえに、不幸であり、孤独である。
 わが人生を輝かせゆく源泉は、報恩感謝の一念にこそあるのだ。
 山本伸一は、清野に言った。「御書にも仰せのように、『仏』と『魔』との戦いが信心の世界です。民衆救済のために、大御本尊をお守りすべき総本山だけに、仏法を断絶させようと、魔の働きも強くなる。ゆえに、大聖人の仰せ通りに、仏法の正義を貫こうとする強盛な信心がなければ、魔に食い破られてしまう」
41  北斗(41)
 本来、総本山は清らかなる信心の継承の地でなければならない。だが、歴史を振り返れば、その総本山大石寺で、幾度となく醜悪な勢力争いが繰り広げられてきた。
 古くは、日目上人が京都への途次、美濃の垂井で遷化したあと、目師に随伴していた日郷が、付嘱を受けたとして、第四世の日道法主と争った事件は有名である。これは、坊の土地の所有権争いとなり、宗内も二つに分かれ、七十年以上にわたって対決することになる。
 さらに、大正末期から昭和初期にかけて、阿部法運(日開。日顕の父)によって、総本山第五十八世の日柱法主(管長)を追い落とすための謀略が練られ、醜悪な泥仕合が続いたことは、あまりにも有名である。
 当時の「静岡民友新聞」にも、「大石寺の紛擾 更に擴大」「血で血を洗ふ醜争」「他宗の物笑ひ」等と報道されている。
 阿部法運の暗躍で、宗会は日柱法主の不信任を決議。そのうえ、宗会議員と評議員が、辞職を勧告したのである。大石寺では、以前から勤行中にピストルのような爆発音が響いたり、客殿に石が投げこまれるなど、威嚇、いやがらせが繰り返されていた。日柱法主は、やむなく辞表を提出する。だが、その後、脅迫によるものであったとして宗会議長らは告訴されている。
 やがて阿部法運は、宗内の選挙で法主の座を獲得するが、酒色を供したり、脅しをかけるなど、伏魔殿さながらの腐敗選挙の結果であった。
 「唯授一人血脈付法」とは名ばかりの、恐るべき実態といってよい。宗門は、こうした醜い権力闘争を重ねてきただけでなく、法義さえも平気で踏みにじってきた。戦時中には、御書の御文の削除や神宮の遥拝も指示しているのだ。
 大聖人は仰せである。
 「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり
 ゆえに、僧侶に、大聖人の御精神のままに、広宣流布に生きる清き信心がなければ、総本山も穢土となり、魑魅魍魎の魔の巣窟となるのである。
42  北斗(42)
 山本伸一は、牧口常三郎と戸田城聖が、謗法の魔の山と化した宗門を正し、正法正義を守り抜いたように、清野智也をはじめ富士宮の同志には、破邪顕正の大精神に生きてほしかった。それが、仏法を守り、総本山を守ることになるからだ。
 伸一は、清野と握手を交わしながら言った。
 「清野さん。あなたたちは、何があろうが、富士のように、堂々たる、また、清らかな信心を貫いてください」
 「はい!」
 清野の顔に、決意が光った。
 座談会場には、百人ほどが詰めかけていた。
 伸一が姿を現すと、大歓声があがった。
 畑仕事から駆けつけたのか、作業着姿の壮年もいた。乳飲み子を抱えた若い婦人も、女子高校生もいた。その顔に、一斉に笑みの花が咲きこぼれた。
 「どうも、大変にご苦労様です。実は、総本山に、もう一晩、泊まることになったもので、皆さんの地区座談会に、出席させていただくことにしました」
 伸一は尋ねた。
 「ご主人の佐原さんは、どなたでしょうか」
 「はい!」
 すぐ横にいた壮年が手をあげた。
 「どうも、お世話になります」
 伸一は、正座し、深々とお辞儀をした。まさに、会場提供者に礼を尽くそうと、語った通りの姿であった。
 佐原も、恐縮して、畳の上に両手をついて、何度も頭を下げた。その様子が微笑ましく、さざ波のように、笑いが広がった。
 題目を三唱すると、伸一は、参加者に笑顔を向け、正座している壮年に声をかけた。
 「どうぞ、あぐらをかくなど、楽な姿勢になってください。足がしびれて、転んで怪我をしたんじゃ、なんのために座談会に来たのか、わかりませんから」
 また、笑いが起こった。それが、皆の緊張を解きほぐした。
 「今日は形式は抜きにして、なんでも気軽に話し合いましょう」
 すると、真正面に座っていた婦人が言った。
 「先生、質問して、よろしいでしょうか……」婦人は、疲れきった顔をしていた。
43  北斗(43)
 「もちろん、結構ですよ。なんでも聞いてください。私は、皆さんの会長なんだもの。また、今日は、そのために来たんですから」
 婦人は、その言葉に人間の温もりを感じた。
 「私は、大石寺の従業員をしている武井チヨ子と申します。実は、題目を唱えていても、歓喜がわいてこないんです」
 この地区には、大石寺で従業員として働くメンバーが少なくなかった。武井が信心を始めたのは十年ほど前であり、総本山で働くことは、かねてからの夢であった。二年前に、その夢が叶い、彼女は従業員として採用され、一家で北海道から富士宮に出て来た。
 ″大石寺には、間もなく本門の戒壇となる正本堂が建立される。まさに霊山浄土にも等しいところなんだ。この私が、そこで働くことができるんだわ!″そう思うと小躍りしたい気持ちだった。武井は、登山者の弁当を作る、フードセンターで働くことになった。
 仕事は交代制で、早番の時は、夜明け前から働いた。学会の登山会が行われている時は、連日、休みなく働き、月末に休むという生活であった。しかも薄給である。でも、自ら望んで来たのだから、頑張り抜こうと心に決めていた。
 彼女が大きな衝撃を受けたのは、そんなことより、僧侶たちの実態であった。厳しい修行を積み、強盛な信心を貫いていると信じていた僧侶たちのなかに、酒色に溺れ、遊びほうけている者が、少なくなかったからだ。また、従業員に対する態度は横柄そのもので、人格を疑いたくなるような者が多かった。
 さらに、驚いたのは、陰で学会の悪口を言う僧侶がいたり、「ここで働いていれば、学会活動などしなくてよい」という話が、まかり通っていたことであった。
 武井は愕然とした。まるで、他宗教の本山にでもいるような気がしてならなかった。信心への確信が揺らぎ始め、いつも、心は悶々としていた。
 やがて、題目を唱えても、歓喜がわかなくなってしまった。また、月日を経るごとに、疲れもたまっていった。
44  北斗(44)
 彼女にとって、唯一の希望となっていたのが、山本会長が登山して来ることであった。伸一は、登山すると、「従業員の方へ」と言って、地元の幹部らに土産物を託すなど、配慮を重ねてきた。
 ″先生は、私たちの苦労を知って、励ましてくださっているんだ″暗い気持ちをかかえながらも、一日一日を、辛うじて踏ん張ることができた。でも、胸に潜む、僧侶への不信と失望を払拭することはできなかった。彼女は、座談会で、言葉少なに自分の心境を語った。
 総本山の多くの従業員を励ましてきた伸一には、それだけで、武井の置かれた状況と気持ちがよくわかった。
 「信心をしていくうえで、一番大事なことは、周りに翻弄されるのではなく、御書の仰せのままに、広宣流布に生き抜いていくことです。
 『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事』というのが、御開山上人である日興上人の御指南です。題目を唱えても、その根本の一念が揺らぎ、漫然と唱題していたのでは歓喜も力もわきません。御本尊に広宣流布を誓い願って、唱題していくことです。
 そして、″あの人を立ち上がらせてください″″折伏させてください″など、学会活動や職場、家庭のことなど、目標を明確にして祈り、信心に励んでいくことです。そうすれば力が出るし、その祈りが叶い、目標が成就すれば、さらに喜びがわきます。
 学会活動に励み、広宣流布に挺身していくならば、わが身に、地涌の菩薩の生命が脈動していきます。それは、大歓喜の生命です。必ず、元気になっていきますよ。
 今日から、新たな気持ちで、題目をあげていきましょう」
 次に、手をあげたのも婦人であった。
 「私は、現在、内得信仰をしていますが、母が信心に反対なので悩んでいます」
 「そのなかで、信心を続けるのは大変でしょうが、頑張ってください。ところで、もし、あなたが、学会以外の信心を始めたら、お母さんは反対したと思いますか」
45  北斗(45)
 伸一が尋ねると、婦人は答えた。
 「浄土宗とか、禅宗ならば、母は反対しなかったと思います」伸一は頷いた。
 「きっと、そうでしょうね。人間の常として、年をとればとるほど、それがどんなに正しいものであっても、新しいものは、なかなか受け入れられずに、反対しがちなものなんです。だから、お年を召されたお母さんが反対するのは、やむをえないことでもあるんです。この仏法は時代の最先端を行く思想であり、未来を開く哲学なんですから。
 あのコペルニクスの地動説も、正しい真理でありながら、長い間、認められなかった。しかし、今では、それ以前の天動説を信じている人など、いないではありませんか。
 また、お母さんは信心に反対だというけれど、それは、仏法のこと、学会のことが、よくわからないからです。あなたがかわいいから、心配して反対するんです。あなたが信心によって幸福の実証を示し、さらにお母さんが本当に誇りに思える娘さんになれば、必ず信心に理解を示すようになりますよ。娘の幸福を願わない母親なんて、いないんですから。
 私の母も、最初は信心しませんでした。でも、私は、母を絶対に幸せにしてみせると決意しました。今では学会員として幸福に暮らしています。
 あなたも、何があっても負けないで信心を全うし、お母さんにも仏法を教え、幸せにしていくんですよ。それが、娘としての義務であり、使命であると思ってください」
 伸一自身の体験を踏まえた指導には、説得力があった。
 話が終わるや、すぐに何人もの手があがった。今度は、壮年が指名された。
 「私は、仕事が忙しくて休日も取れません。でも、なんとか折伏をしたいと思っています。ところが、なかなかできないもので悩んでおります」
 「人を救おうとして悩むなんて、すごいことではないですか。尊く誇り高い、最高の悩みです。本当の慈悲の姿です。それ自体、地涌の菩薩の悩みであり、仏の悩みです」
46  北斗(46)
 集った同志は、弘教を実らせようと、日々、懸命に戦っていた。それだけに、折伏についての話に、皆、目を輝かせ、真剣な顔で聴き入っていた。
 「折伏を成し遂げる要諦は何か。
 それは決意です。一念が定まれば、必ず状況を開くことができる。
 折伏は、どこでもできるんです。戸田先生は、牢獄のなかでも法華経の極理を悟り、看守を折伏しています。まず、折伏をさせてくださいと、御本尊に懸命に祈り抜くことです。すると、そういう人が出てきます。また、ともかく、あらゆる人と仏法の対話をしていくんです。
 もちろん、信心の話をしても、すぐに入会するとは限りません。それでも、粘り強く、交流を深めながら、相手の幸福を日々祈り、対話を重ねていくことです。種を蒔き、それを大切に育て続けていけば、いつか、必ず花が咲き、果実が実ります。焦る必要はない。
 さらに、入会しなくとも、ともに会合に参加して教学を勉強したり、一緒に勤行したりすることもよいでしょう。自然な広がりが大事です。
 ともあれ、苦労して弘教に励んだ分は、全部、自分の福運になります。相手が信心しようが、しまいが、成仏の因を積んでいるんです」
 皆が笑顔で頷いていた。伸一の話を聞くうちに、安心感と勇気がわいてくるのである。彼は、言葉をついだ。
 「また、対話してきた人を入会させることができれば、何ものにもかえがたい、最高最大の喜びではないですか。折伏は、一人ひとりの人間を根本から救い、未来永遠の幸福を約束する、極善の実践です。寄付をするとか、橋を造ったとかいうような慈善事業などよりも、百千万億倍も優れた、慈悲の行為なんです」
 答え終わると、すぐに次の手があがり、質問は後を絶たなかった。皆の悩みや素朴な疑問に答える、この率直な語らいこそ、座談会の妙味といえよう。座談会に生き生きとした語らいがあれば、学会は常に満々たるエネルギーをたたえ続けることは間違いない。
47  北斗(47)
 地区部長の佐原一郎が、会場の端に座っていた一人の壮年を、伸一に紹介した。
 「先生、あの方は、座談会に出席するために、今日は、名古屋から来られました」
 伸一は、その壮年に尋ねた。「そうですか。遠くから大変でしたね。もう信心して長いんですか」
 「いいえ、私はまだ信心していません」
 「それは、どうも失礼しました。遠慮せずに、どうぞ、こちらにいらしてください」
 新来者の壮年が前に来ると、伸一は、「わざわざ、ご苦労様です」と言って、握手を交わした。
 壮年は、顔を赤らめながら語った。
 「いやー、まさか、会長さんが出席されるとは、思いませんでした。私も質問してよろしいでしょうか」
 「どうぞ。会長といっても、別に偉くもなんともないんです。みんな同じですよ。なんでも結構ですから、おっしゃってください」
 その言葉に安心したのか、壮年の顔に微笑が浮かんだ。
 「宗教とは、わかりやすくいえば、どういうものですか」
 「いろいろ言えますけれども、一言でいえば、生活の根本法です」
 そして、人間の価値観や生き方の根本をなすものが宗教であり、いかなる宗教を信じるかによって、人間の幸・不幸が決定づけられることを、諄々と語っていった。
 新来者の壮年は、何度も頷きながら話を聞いていた。
 「おわかりいただけましたか。それでは、仏法を生活の根本法とした結果、どうなったか、皆さんにお話ししてもらいましょう。どなたか、体験発表をしてください」
 伸一が司会役となっての鮮やかな進行である。
 「はい!」と一斉に何人もの手があがった。
 最初に、男子部員が、笑みを満面に浮かべて、語り始めた。
 「先生! 隣にいるのは私の父ですが、三年前に脳内出血で倒れ、半身不随になりました。
 一時は、もう駄目かと思いましたが、こうして、座談会に出席できるまでに回復しました。私は嬉しくって仕方ないんです」
48  北斗(48)
 伸一は、拍手を送りながら青年に言った。
 「それはよかった。親孝行ですね。お父さんには、お祝いに念珠を差し上げましょう」
 大きな、温かい拍手が広がった。
 体験発表の手は、次々とあがった。未熟児で生まれた娘が元気に育っているとの、報告もあった。夫婦喧嘩が絶えなかったが、互いに相手を思いやれるようになり、家庭のなかが明るくなったという体験もあった。職場に不満を感じていたが、入会後は考え方が変わり、意欲をもって仕事に取り組めるようになったという人もいた。
 「病気の問屋」と言われたほど、病に苦しんできたという婦人は、体験談の途中で、「先生、私は、こんなに幸せになれたんです」と言ったきり絶句し、ポロポロと涙を流した。その涙が、信仰の喜びを、最も雄弁に物語っていた。祝福の拍手が彼女を包んだ。
 体験という厳たる事実には、万人の心を打つ力がある。体験談が終わると、伸一は、ユーモアを交えて言った。
 「みんな、聖教新聞に出してもいいような、すばらしい体験です。これから、ますます頑張ってくださいよ。功徳を受けたから、もう信心をやめてもいいなんて考えると、また振り出しに戻ってしまいますからね」
 決意を秘めた、明るい笑いが広がった。
 このあと伸一は、「法蓮抄」の「今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや……」の御文を拝して、指導していった。
 「三世十方の諸仏は、すべて法華経の寿量品文底の大法である南無妙法蓮華経によって、成仏したんです。したがって、その法を持つ私たちは、諸仏の命を継ぐ人であり、諸仏がわれわれを守らないわけはないとの、御本仏・日蓮大聖人の御言葉です。
 ゆえに、皆さんは、どんな試練があっても、必ず最後は勝ちます。負けるわけがない。どうか、この御文を確信して進んでいってください」
49  北斗(49)
 御書の講義の最後に、伸一は、自らの思いを語った。
 「私の念願は、皆さんが幸福になっていただきたいということです。そのために、何があろうが、学会から離れることなく、生涯、信心を貫いてください。
 私は、皆さんが一人も漏れなく、正義の大道を歩み通して、幸せになっていただくために、お題目を唱えて、唱えて、唱え抜いて、死んでいくつもりです。個人的には、何もして差し上げることはできませんが、これだけはさせてもらいます」
 題目を三唱して、座談会が終わった。伸一は立ち上がると、皆に呼びかけた。
 「大変にご苦労様でした。外に出ましたら、近隣の迷惑にならないように、立ち話などはしないで、静かにお帰りになってください。また、路上での喫煙は火災の原因になりますので、自宅にお着きになるまで、しばらくの間、我慢してください。大丈夫ですね!車で来られた方は、安全運転で、無事故でお願いしますよ」
 絶対に事故など起こさせまいとの一念から発する、この一言が、皆の注意を喚起し、事故を防ぐ力となるのである。
 それから伸一は、参加者のなかに分け入り、一人ひとりと握手を交わしていった。
 「いつまでも、お元気でいてください」
 「いよいよ青年の時代です。広宣流布を頼みます!」
 彼の励ましに、目を潤ませる人もいた。
 感動的な心の交流のドラマが織りなされた座談会であった。この座談会には、九人の新来の友が出席していたが、終了後には、そのうち六人の人が入会を申し出たのである。
 市場地区の座談会のあと、伸一は、近くの会館に立ち寄った。
 そこでは上条支部富士見地区の座談会が行われていたが、既に終了し、新来の友と数人のメンバーが懇談しているところであった。
 伸一は、短時間ではあったが、残っていた人びとを激励した。
 彼は、瞬時も疎かにはできなかった。「時」というものは、二度と戻らないからだ。
50  北斗(50)
 座談会場を回ったあとも、伸一は参加者の顔を一人ひとり思い返しながら、さらに激励の手を打っていった。市場地区の会場の後方に座っていた学生服姿の中学生をはじめ、何人かのメンバーに、念珠などを贈ることにした。
 そして、全参加者の健康と長寿と、一家の繁栄を、懸命に祈念するのであった。
 翌週の十月十九日にも、伸一は、東京・北区の東十条にある、北会館(当時)で行われた、東十条支部北地区の座談会に出席した。
 彼の座談会への出席は、メンバーには全く知らされていなかった。直前まで、どうなるかわからなかったからである。伸一が会場に到着したのは、定刻の午後七時より十分ほど早かった。
 「こんばんは!」
 声のする方に視線を向けたメンバーは、そこに山本会長の姿を見て、目を丸くした。地区部長の細川喜芳と地区担当員(現在は地区婦人部長)の恵田美代子は、驚きのあまり、声も出なかった。
 北地区では、九月の本部幹部会で″座談会の充実″が打ち出されると、「模範の座談会を開こう」と、皆が団結して、大成功をめざした。その結果、六十九人が参加し、内容的にも充実した座談会を開くことができた。
 この時、地区担当員の恵田は、皆に、こう訴えたのである。
 「今回の座談会は、大成功でしたが、次は、もっとすばらしい座談会にしましょう。
 私たちにとって最高にすばらしい座談会とは、山本先生にご出席していただく座談会だと思うんです。そこで、絶対に、わが地区に先生をお迎えするんだと決めて、結集にも、準備にも、全力を注いでいきましょう」
 彼女の呼びかけに、全員が頷いた。そして、会場も、地区の活動の拠点ではなく、会館の大きな部屋を使って、大結集をしようということになった。
 山本先生を座談会に――それが合言葉となり、皆の唱題にも一段と力がこもった。
 特に婦人部は寸暇を惜しんで、徹底して真剣な唱題を重ねた。その祈りが、本当に叶ってしまったのである。
51  北斗(51)
 驚きのあまり、恵田の口から、「山本先生!」という言葉が出たのは、伸一を見て数秒ほどしてからであった。
 会場の広間に集っていたのは、まだ十二、三人であった。伸一は言った。
 「今日は、当初は別の座談会に出る予定でいたんですが、時間の関係もあり、最終的に、ここにお邪魔することになりました。まるで、磁石で吸い寄せられるように、この会場になってしまったんですよ。きっと、みんなで祈っていたんだろうね。題目をあげている人たちには敵わないね」
 恵田は、夢を見ているような気持ちであった。でも、目の前にいるのは、まぎれもなく、山本会長なのだ。
 ″お題目だ。お題目に勝るものはないんだ!″彼女は、今更ながら、唱題の力を実感するのであった。
 「では、勤行しましょう。そのうち、みんな、来るでしょうから」
 伸一の導師で、勤行が始まった。彼のすぐ横に座って勤行する恵田の声が、しばしば途切れた。込み上げる感涙のためである。
 やがて、続々とメンバーが集って来た。唱題を終えて伸一が振り向くと、皆、緊張した顔で彼を見ていた。伸一は、笑顔で包み込むように言った。
 「どうも、ご苦労様です。膝を崩して、楽にしてください。創価家族の集まりなんですから、自分の家にいるような、くつろいだ気持ちでいてくださっていいんですよ。
 皆さんもお疲れでしょうから、今日は堅苦しい話や、難しい話はやめましょうね。皆さんの方で、聞きたいこと、話したいことがあれば、自由に話してください」
 この言葉で、参加者の心が和んだ。三列目ほどのところに座っていた婦人が、ためらいがちに手をあげて、立ち上がった。
 「先生、うちの中学三年になる長男のことで、お伺いしたいんです。息子は小児マヒをやってまして、今も、ちょっと手が不自由なんです。将来のことを思うと、不安で仕方ないんです」
52  北斗(52)
 確信に満ちた伸一の声が返ってきた。
 「大丈夫です。皆、深い使命があって生まれてきているんです。息子さんが、生涯、強盛な信心を貫いていくならば、必ず幸福になります。息子さんは来ているの?」
 「はい」
 母親は、振り返って、息子を探した。後ろの方で学生服姿の少年が、小さく縮こまるようにして座っていた。
 「あれが息子です」
 「じゃあ、前にいらっしゃい! よく来たね」
 伸一に言われて、息子は、恥ずかしそうに前に出て来た。
 少年は、座談会に参加するのが嫌だった。大勢の人の前に出ると、疲れてしまうのだ。それに、幹部の難しい話は聞きたくないという思いが強かった。だから今日も、母親から座談会があると聞かされていた彼は、わざと遅く家に帰るようにした。ところが、帰る途中に母親と出くわしてしまい、仕方なく、一緒に参加したのだ。
 彼は、前に来るように言われた時、座談会なんかに来なければよかった、と思った。
 伸一は、少年を自分の横に座らせた。
 「どっちの手が不自由なの?」
 「こっちです」
 うつむきながら、右手を差し出した。
 伸一は、その手を両手で包み込むように、ギュッと握り締めた。そして、心のなかで叫んでいた。
 ″何があっても負けないで、強く、生き抜くんだ! わが人生の勝利者になり、必ず幸福になるんだ!″瞬間、伸一の口から題目が漏れた。少年の成長を願う強い思いが、祈りとなったのだ。
 「スポーツは何が好きなの?」
 上目遣いに伸一の顔を見て、少年は答えた。
 「野球をするのが好きです」
 「野球ができるのか。そりゃあ、たいしたものだな。それなら、もう、治っているようなものじゃないか」
 少年の顔に、穏やかな微笑が浮かんだ。
 「大変なこともあるだろうが、挫けて、自分に負けてはいけないよ。本当に強い人というのは、自分に負けない人のことなんだ」
53  北斗(53)
 少年は顔を上げた。その瞳が輝きを放った。母親の目は、感涙に潤んでいた。伸一は語った。
 「小児マヒであった君が、明るく元気で、勇気をもって幸福な人生を生き抜いていけば、同じ病気に苦しむ、多くの人の希望になるじゃないか。それは、君でなければできない、君の使命でもあるんだ。使命を自覚すれば、歓喜がわき、力があふれる。その根本が信心なんだよ。だから、何があっても、しっかり信心していくんだよ」
 「はい!」
 弾んだ声であった。
 「君には、念珠をあげようね」
 念珠を受け取る少年を拍手が包んだ。
 「よかったわね」
 「頑張れよー」
 あちこちから、声援が起こった。そこには、創価家族の温かさがあった。この座談会でも、さまざまな質問が続いた。家族のことで悩む、女子部員の相談もあった。心臓病など、幾つもの病をかかえた壮年の質問もあった。
 伸一は、その一つ一つに真剣勝負で臨んだ。そして、友の顔に微笑が浮かび、瞳が決意に燃え輝くたびに、励ましと賞讃の拍手が広がった。
 フランスの歴史家ミシュレは言った。
 「生命は自らとは異なった生命とまじりあえばまじりあうほど、他の存在との連帯を増し、力と幸福と豊かさを加えて生きるようになる」
 人間は、人間の海のなかで、励まし合い、触発し合うことによって、真の人間たりえるのだ。学会の座談会は、まさに、人間の勇気と希望と歓喜と、そして、向上の意欲を引き出す″人間触発″の海である。
 山本伸一が率先して、座談会を駆け巡っている様子や、その語らいの詳細が機関紙誌に報道されると、学会中に大きな波動が広がった。運営にあたる幹部をはじめ、皆の決意と意識が一新された。活気にあふれ、企画も創意工夫に富み、充実した座談会が、全国各地で活発に開催されるようになった。
 民衆の蘇生の人間広場である、「座談会革命」がなされたのである。

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