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日蓮大聖人・池田大作

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第13巻 「金の橋」 金の橋

小説「新・人間革命」

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1  金の橋(1)
 人間を離れて宗教はない。ゆえに、社会を離れて宗教はない。
 日蓮大聖人は、仰せである。
 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし
 君たちよ、惨禍の果てしなく続く世界をば、直視せよ! そして、苦悩の渦巻く現実から眼をそらすな! 常に人間は、人びとの幸福のために、平和のために、勇気の叫びをあげていくべきだ。 英知の言葉を発していくべきだ。
 ともあれ、行動だ。生きるとは戦うということなのだ。 そこに、仏法者の使命があり、大道がある。
 一九六八年(昭和四十三年)も、既に九月の声を聞いていた。しかし、残暑は厳しかった。この数日の間、山本伸一は、執務中、少しでも時間があると、原稿用紙に向かっていた。
 だが、ペンはなかなか走らなかった。いつもなら、一時間もあれば、原稿の五、六枚は、すらすらと書き上げてしまうのだが、今回は違った。
 大綱は決まっているのに、複雑に絡み合った問題を前に、数行ほど進んだかと思うと、また、書き直し、原稿を破り捨ててしまうこともあった。彼は、九月八日に、東京・両国の日大講堂で行われる、第十一回学生部総会の講演の原稿づくりに取り組んでいたのである。
 伸一は、近年、本部総会や青年部の各部の総会では、ベトナム戦争をはじめ、世界、社会が直面する諸問題を取り上げ、その解決のための提言を重ねてきた。
 この年の五月三日の本部総会でも、核兵器問題に言及した。そして、核保有五カ国(米、英、ソ、仏、中)は、一堂に会して、核兵器の製造、実験、使用を禁ずること。現在、保持している核兵器の廃棄を話し合うこと――などを提案したのである。
 イデオロギーや国家、民族、宗教等々によって分断され、憎み合う人間同士が、地球家族として結ばれ、人間共和の世界を実現することが、伸一の誓願であった。彼は今度の学生部総会では、未来永遠にわたる日中友好の大河を開くために、中国問題について提言を行うことを、心深く決意していたのだ。
2  金の橋(2)
 伸一は、ベトナム戦争が終結すれば、必ず中国が次の焦点にならざるをえないと考えていた。
 中国は、当時、既に七億を超す世界第一の大きな人口を抱える国であった。しかし、国連からも締め出され、極端な孤立化の道を歩んでいた。
 また、中国は、アメリカの巨大な力に激しく反発していた。それが、韓・朝鮮半島、台湾から東南アジア全域にわたる、政治的緊張と国際不安の誘因となっていることは、否定しようのない事実であった。
 ベトナム戦争に象徴されるように、アジアには東西両陣営の対立が持ち込まれてきたが、資本主義陣営の後ろ盾がアメリカであるのに対して、共産主義側の後ろ盾は、ソ連(当時)よりも、むしろ、中国であった。しかも、中国とソ連の関係も悪化し、一段と緊張は高まりつつあった。
 国際情勢のなかでの中国の立場は、北と西はソ連によって、南と東は事実上、アメリカによって包囲されている状況といってよかった。
 この包囲網を突き破ろうと、中国は軍事力を強化し、ミサイルと核の開発に力を注いでいた。その中国を、国際社会の″異端児″のような状態に追い込んでいたのでは、アジアの平和と繁栄の実現はありえない。いや、世界の平和もありえない。
 伝教大師も、そうした人たちの子孫であったと伝えられている。さらに、地理的にも、日本はアジアの一国であり、海によって隔てられてはいるが、紛れもない隣国である。この縁も深き、計り知れない大恩の国である中国を、かつて、日本は侵略した。悪逆非道の限りを尽くした。なんたる不知恩、なんたる傲慢か!
3  金の橋(3)
 だからこそ、伸一は、一人の日本人として、また、仏法者として、中国、そして、アジアの人びとの幸福と平和のために、一身をなげうつ覚悟を決めていた。それは、師の戸田城聖の誓いでもあった。
 一九五六年(昭和三十一年)の年頭、戸田は、その壮大なる決意を、こう和歌に詠んだ。
  雲の井に
    月こそ見んと
      願いてし
    アジアの民に
      日をぞ送らん
 しかし、二年後、戸田は、後事のすべてを伸一に託して、世を去った。
 戸田の中国に対する思いは、ことのほか深いものがあった。
 ゆえに伸一は、一日も早く、他の多くの国々と、平等、公正に話し合える国際舞台に、中国を登場させなければならないと、これまでも、声を惜しまず主張し続けていたのである。
 その実現のために、大いに力を発揮できる国が日本であり、それこそが、わが国が担うべき国際的使命であると、彼は確信していた。なぜなら、日本は自由主義アジアの中心であるとともに、歴史的伝統、民族的な親近性、地理的条件など、どの観点からみても、中国とは深い関係があるからだ。
 日本は、古代国家として統一する以前から、一貫して中国文明の強い影響を受けながら、発展を続けてきた。これは周知の事実だ。
 日本の文化に決定的な影響を及ぼした仏教も、古くは弥生文化の稲作技術も、中国から日本に伝来したものであった。あの江戸時代の鎖国のなかでさえ、道徳や政治哲学は中国の儒教に学んでいたし、日本の文物、風俗、習慣の多くは、中国に起源をもっているといっても過言ではない。また、古代、日本に渡って来た人びとのなかには、大陸からの渡来人が多く、
 伸一は、二十二歳の時から、戸田の個人教授を受けたが、中国に関する授業には、一段と熱がこもっていた。漢詩や中国文学を語る時には、満身に情感をたたえ、一つ一つの作品の情景を生き生きと再現させながら、その思想に迫っていくのであった。伸一は、この授業を通して、中国の気宇壮大な理想と、豊かなる精神性に、深く、強く、魅了されていったのである。
 だが、その中国と日本との関係は断たれ、戦後、既に二十余年が過ぎても、正常化される気配さえなかった。伸一は、中国を国際舞台に登場させるとともに、行き詰まった日中関係を、速やかに正常化させる必要性を痛感せざるをえなかったのである。
4  金の橋(4)
 日本は、戦後、なぜ中国との国交正常化に踏み切ることができなかったのか。また、中国は、なぜ国際社会のなかで孤立化していったのか――。その淵源は、第二次世界大戦末期にまで、遡らなければならない。
 一九四三年(昭和十八年)十一月、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石(ジャン・ジエシー)の、米、英、中の三国首脳が集まり、戦後処理について語り合った、あの世界的に有名なカイロでの会談があった。この結果、日本の支配下にあった台湾は、終戦後は、満州(現在の中国東北部)などとともに、中国に返還することが決められたのである。
 大戦が終わると、アメリカは蒋介石の国民党による中国の統一を後押ししたが、毛沢東(マオ・ズードン)が率いる中国共産党が内戦に勝利し、国民党は台湾に逃れた。一九四九年(昭和二十四年)十月、中華人民共和国が成立する。
 翌年一月、トルーマン米大統領は、アメリカは中国の内戦に介入するつもりはなく、台湾の国民党に軍事援助は行わないとの声明を発表した。
 ところが、六月に朝鮮戦争(韓国戦争)が勃発すると、共産主義の拡大を恐れたアメリカは、方針を変えて、次のような声明を出した。――米第七艦隊を台湾海峡に派遣し、共産勢力の台湾への攻撃の阻止にあたらせるとともに、台湾の国民党政府に対しても、大陸への空・海の作戦中止を要請するというのである。
 また、台湾の地位については、太平洋の安全の復活、日本との講和、そして、さらに国連の検討を待たねばならないとしていた。これは「二つの中国」、もしくは「一つの中国、一つの台湾」を生み出すことにつながる内政干渉といえるものであった。
 こうした状況下で、アメリカの主導のもとに、第二次世界大戦の連合国と日本国の講和が進められていった。そして、五一年(同二十六年)九月に、サンフランシスコで講和会議が開かれたのである。これは、日本の戦争状態を終結させ、日本が独立を果たすためのものであったが、日本の軍国主義の最大の被害者である中国の代表も、また、台湾の国民党政府の代表も、招請されなかった。
5  金の橋(5)
 講和会議には、日本を含む五十二カ国が参加したが、東側の陣営であるソ連、そして、ポーランド、チェコスロバキアは、講和条約の署名はしなかった。結局、対日講和条約は全連合国が調印する全面講和には至らず、西側諸国のみの片面講和となってしまった。この時、日本はこの講和条約とともに、日米安保条約を結び、防衛をアメリカに依存し、冷戦構造のなかの反共体制の一環に組み込まれたのである。
 国連では、依然として台湾の国民党政府が、全中国を代表する政権としての地位を維持していた。アメリカは日本に、この国民党政府との講和締結を迫った。そして、一九五二年(昭和二十七年)四月、日本は平和条約に調印した。
 これが、日本と中国との関係に、決定的な溝を刻むことになってしまったのである。
 しかし、中国の周恩来(ジョウ・エンライ)総理は、この悪条件下、中日の間に国交はなくとも、貿易を中心とする民間交流を活性化させる方針を打ち出していった。まさに″民をもって官を促す″ことによって、中日の友好の道を開こうとしたのである。
 また、日本側にも、積極的に、中国との貿易を推進しようとする政治家や経済人がいた。こうした人びとの努力が実り、日中間に民間貿易協定が結ばれたのは、一九五二年(昭和二十七年)六月のことであった。
 しかし、五七年(同三十二年)二月、首相に就任した岸信介は、中国との対決姿勢を鮮明に打ち出し、東南アジア、アメリカを訪問し、反共・反中国的な発言を繰り返したのである。
 特に、台湾では、蒋介石に、「大陸を回復するとすれば、私としては非常に結構である」と、″大陸反攻″を支持し、中国の猛反発を引き起こした。
 こうした首相の言動によって、日中交流の前途に、暗雲が垂れ込め始めてしまったのであった。
 そのなかで、五八年(同三十三年)五月、″長崎国旗事件″が起こった。長崎のデパートで開かれた中国の切手などの展示会で、一人の男が、会場に掲げていた中国の国旗を引きずり降ろすという事件である。
6  金の橋(6)
 折しも、貿易協定延長をめぐって、中国の国旗の掲揚が焦点となっていたさなかであった。日本政府は、新たに日本に設置される中国の民間通商代表部に、中国の国旗を掲げることを頑として認めなかった。国家として承認していない中国の旗を、掲揚させるわけにはいかないというのである。そして、中国の国旗は国を代表する旗ではなく、″器物″として扱うことを明らかにしたのだ。
 長崎の事件では、警察は旗が破れていないことを理由に、中国の国旗を引きずり降ろした男を、すぐに釈放した。
 中国にしてみれば、国家の名誉と尊厳が、踏みにじられたに等しい出来事であった。これが契機となって貿易交渉は決裂し、日中貿易は不幸にも中断してしまった。
 中国は、日中関係の改善の条件として、日本政府に対して次のような内容を提示した。
 一、中国を敵視する政策はやめること。
 二、アメリカに追随して、「二つの中国」をつくる陰謀には加わらないこと。
 三、中日両国の関係が正常化の方向に向かって発展していくのを妨げないこと。
 これらは、「政治三原則」と呼ばれ、関係打開への大前提とされた。
 また、中国は、政治と経済を分離し、経済交流のみを容認する日本政府の「政経分離」の立場を批判し、「政経不可分」の原則を強調したのである。日中貿易の途絶は、中国から輸入される「食材」や「漆」等を扱って成り立っていた、中華料理店や中小企業など、社会に大きな打撃を与えた。
 周総理は、その窮状を救おうと、中小企業等で、中国の特定物資の供給を希望するものは、友好団体の紹介があれば、特別に配慮すると発表した。いわゆる、当時、有名な言葉となった「配慮物資」である。それは、本来の「貿易」とは異なってはいたが、これによって日中の交流の命脈は、辛うじて保たれることになったのである。
 この激動の時代のなかで、必死になって、日中間の亀裂を修復しようとする人物がいた。代議士の松村謙三である。
7  金の橋(7)
 彼は、古武士を思わせる″信念の士″であった。青春時代に早稲田大学で中国語を学び、戦前から、中国大陸に足を運んだ経験があった。また、戦後は、厚生大臣、文部大臣、農林大臣も務めた政界の重鎮でもある。
 松村は、新中国の実情を自分の目で確かめるとともに、自ら日中のパイプ役になろうと、中国訪問を望んでいた。周総理も、両国の未来のために、松村の訪中の意向を重要視して、彼を中国に招いた。一九五九年(昭和三十四年)の秋のことである。
 松村は当時七十六歳であり、迎える周総理は六十一歳であった。この訪中は、全行程一万五千キロにわたる四十余日の緊張の旅であったが、松村は、勇んで中国の大地を踏んだ。座していたのでは、事態は開けない。行動である。会って語り合う勇気こそが、歴史を変えていくのだ。
 松村と周総理との会談は、四度にわたった。周総理は、日本の中国敵視政策を厳しく批判した。友好を願う人にとって、それは、当然の発言であろう。さらに、総理は、アメリカの強大な影響下で、日本は軍国主義を復活させるのではないかと、深く憂慮していることを語った。
 松村は、強い語調で訴えた。「賢明な日本人は、そんなことには、決してなりません!」
 息詰まる議論の応酬であった。真剣なるがゆえに、互いの言葉には力がこもった。誠実なるがゆえに、率直に、歯に衣を着せない、ありのままの意見が戦わされた。この語らいを通して、互いに、日中関係の改善に尽くそうとする、燃えるような熱意と、人間としての信義を感じ取っていったのである。
 さらに、松村は、密雲(ミーユン)ダムの視察に向かう列車の中で、日中国交の推進に大きな力を発揮する人物を待望する周総理に、高碕達之助を推薦したのであった。高碕は、バンドン会議(一九五五年)にも、日本の首席代表として参加しており、周総理も以前から知っていた人物である。
8  金の橋(8)
 高碕達之助は、進取の気風に富み、常に未来を鋭く見据えてきた、関西の財界を代表する実業家であった。
 戦前は、東洋製罐を創立し、満州重工業総裁にも就任している。満州で終戦を迎えた彼は、決死の覚悟で、ソ連軍の司令官に対して、日本人の生命を守るように掛け合った、熱血の人である。
 戦後は、電源開発総裁を務めるとともに、大日本水産会会長として、日ソ漁業交渉に尽力した人物でもある。また、鳩山一郎が首相に就任すると、経済審議庁長官として入閣し、岸内閣では通産大臣を務めた。松村謙三が高碕を日中友好の力となる人物として推薦したことから、周総理と高碕との絆は一段と強まり、やがて新たな貿易再開の道が、開かれていくのである。
 一方、反中国政策を続けていた岸首相は、一九六〇年(昭和三十五年)に安保改定を強行し、世論の猛反発を買い、退陣を余儀なくされた。代わって登場したのが池田勇人である。彼が首班指名を受けたのは、六〇年七月のことであった。
 この池田内閣の時代、日本は高度経済成長を遂げるとともに、日中関係も、改善の道をたどっていくことになる。周総理も、中断されていた日中貿易の再開に前向きな姿勢を見せ、「政治三原則」を前提として「政府間協定」「民間契約」「個別的配慮」という、「貿易三原則」を明らかにした。
 周総理は、貿易協定の原則は「政府間協定」でなければならないと考えていた。それは、民間協定といっても、政府の保障がなければ、極めて不安定な貿易にならざるをえないからである。しかし、仮に政府間協定に至らなくとも、その企業が「政治三原則」などを重んじるならば、「友好商社」として認め、「民間契約」を結ぶことができるとした。つまり、「友好貿易」が行えるのである。
 さらに、日本側で日中貿易の中断で危機に陥っている企業に対しては、引き続き中国側は、「個別的配慮」を行うとしたのである。
9  金の橋(9)
 周総理によって、「貿易三原則」が示されると、低迷していた日本の経済界は沸き立った。多くの企業が中国との取引の希望をもっていたのである。
 一九六〇年(昭和三十五年)の十月には、高碕達之助が、経済界の代表とともに訪中した。友好商社の数も増大し、民間契約による友好貿易は活発化していった。
 翌年には、中国の代表団も来日した。一九六二年(昭和三十七年)九月には、再び松村謙三が、代表団を組織し、貿易の新しい流れを開くために中国に飛んだ。松村は、池田勇人首相から、中国に関するすべてを任されていた。
 この訪中で彼は、三度にわたって、周総理と会談した。そして、「政治三原則」「貿易三原則」の堅持の確認とともに、次のような合意がなされたのである。
 「双方は、漸進的かつ積み重ねの方式をとり、政治関係と経済関係をふくむ両国の関係の正常化をはかるべきであると一致して認めた」翌月の十月には、この合意を実務のうえで具体化するために、高碕達之助が総勢四十二人の大型代表団を引き連れて訪中したのである。
 彼は、中国側の代表である廖承志(リャオ・チョンジー)と検討を重ねた。そして、″長期延べ払い″を柱とし、五カ年にわたる貿易を取り決めた「日中総合貿易に関する覚書」に調印した。
 これは、覚書に署名した廖と高碕のイニシャルから、「LT貿易」と呼ばれることになる。この「LT貿易」は、個別の企業の責任でなされる友好貿易とは異なり、″半官半民″的な性格をもち、国交正常化をめざす、新たな連絡ルートの誕生となった。「LT貿易」によって、交流は活発化し、日中関係は、新たな段階を迎えたのである。
 こうして日中友好の歴史が編まれていくなかで、周総理の目は、日本の新しい民衆勢力として台頭する、創価学会に向けられていった。
 松村、高碕が相次いで訪中した折、二人はそれぞれ、創価学会のことを周総理に伝えていたのである。松村は、日中の友好のためには、中国が創価学会と交流し、日本に友人をつくることが大事であると強調していた。また、高碕は、「創価学会は、今は小さな団体ではあるが、見逃すことのできない庶民の団体です」と語っている。
10  金の橋(10)
 松村も、高碕も、創価学会が民衆に希望と勇気を与え、人びとのエネルギーを引き出し、短日月のうちに大発展を遂げてきたことに注目していた。
 山本伸一は、折に触れて、国連は中華人民共和国を認めるべきであることなどを訴えてきたが、二人は、伸一の中国観をよく研究していたようであった。特に高碕は、信濃町の学会本部のすぐ近くに住んでいたこともあり、学会員の、はつらつとした姿をつぶさに見て、学会への認識と理解を深めていったのであろう。
 周総理は、松村や高碕の話を聞くなかで、民衆のなかから生まれ、民衆を組織し、民衆を蘇生させてきた創価学会に、強い関心を示していった。
 しかし、中国にもたらされる学会の情報は、あまりにも少なく、また、偏っていた。学会は、民衆を魅了し、破竹の勢いで発展しているにもかかわらず、伝わってくるのは、「軍隊式の宗教」「暴力的である」といった悪評がほとんどである。
 周総理は、このころ、真実を知ろうと、創価学会についての調査、研究を指示している。
 総理の意向は、対外政策を担う中央機関である国務院外事弁公室に伝えられた。そして、国交がない日本との窓口になっていた中国人民外交学会が、調査にあたることになったのである。
 外交学会は、創価学会の存在は知っていたが、外事弁公室が調査を必要とするほど、重要視されている団体とは思ってもいなかった。だが、調査を開始したスタッフは、創価学会の発展の勢いに驚嘆した。
 また、個人の心の平安や来世の安穏を説くだけの宗教とは異なり、公明政治連盟(当時)を発足させるなど、現実社会の改革を実行していることにも驚かされた。これは見過ごすわけにはいかない――というのが、彼らの実感であったようだ。
 外交学会は、創価学会についての調査、研究のリポートを、上層部の多くの人に伝えるために、本にすることにした。
 そのリポートは、一九六三年(昭和三十八年)十一月、世界知識出版社から刊行された。
11  金の橋(11)
 『創価学会』と題されたリポートは、学会の歴史や教義、組織機構、活動、会員の社会階層、財源など、多岐にわたって研究、調査されていた。戦時中に、初代会長の牧口常三郎が、軍部政府の弾圧で、治安維持法違反、不敬罪によって逮捕され、殉難の生涯を閉じたことも克明に記されている。さらに、各年度ごとの学会の世帯数や、男女青年部員数なども、詳細に調査してあった。
 しかし、リポートには誤解もあった。たとえば創価学会は宗教を旗印にした「社会政治団体」との分析も見られた。考えてみれば、それも仕方のないことだったのかもしれない。当時、手に入る資料といえば、学会の出版物以外は、たいてい、「暴力宗教」とか、学会をドイツのナチスの台頭と同一視するような、偏見に満ちた批判記事や論評であったからだ。それらをもとに分析していけば、当然、誤解も生じよう。
 また、「宗教は阿片」とする共産主義思想による、先入観もあったにちがいない。それでもリポートは、より客観的なものにしようと、一方的な観点から、結論を出すことを控えていた。このリポートを目にした周総理は、外交学会のスタッフに、今後も、さらに創価学会の調査、研究を続けるように指示している。
 日本での表層的で軽薄な批判とは大きく異なる創価学会の″本質″を、総理は直感していたのであろう。そして、深く民衆の心をとらえ、民衆の力を引き出し、大発展し続ける創価学会の真実を、冷静に探究しようとしていたのである。
 日本人と会見した折には、総理自ら、学会について詳しく尋ねることがよくあった。周総理に学会のことを語った高碕達之助と、山本伸一が親しく語り合ったのは、一九六三年(昭和三十八年)の九月であった。
 新装なった創価学会本部を高碕が訪問したのである。彼は、既に七十八歳になっていた。三十五歳の伸一とは、親子以上の年の隔たりがあった。
12  金の橋(12)
 高碕は、中国の様子や周総理との会見の模様を伝えると、背筋を伸ばし、気迫に満ちた声で、伸一に訴えた。
 「日本は、中国と国交を回復し、仲良くしなければならない。しかし、道は遠い。まだまだ時間がかかるが、私の人生の時間は限られている。どうしても、新しい力が必要だ……」そして、伸一の顔を、じっと見すえ、一段と力を込めて言った。
 「あなたには、その日中友好の力になってもらいたい!」
 その声には、一歩も引かぬという気概があふれていたが、また、懇請のようでもあった。メガネの奥で光を放つ高碕の目には、真剣勝負の輝きがあった。伸一の胸に、彼の言葉が、深く響いた。
 「わかりました! ご安心ください。必ず、やらせていただきます!」
 高碕は、伸一の手を、ぎゅっと握り締めた。それから、満足そうに微笑を浮かべ、何度も、何度も頷いた。
 ″日中友好の「金の橋」を架けてみせる!″以来、それが、伸一の固い決意となった。
 山本伸一が高碕と会った翌月の、一九六三年(昭和三十八年)十月、中国は「中日友好協会」を発足させた。″友好協会″は、中国では、国交を樹立した国と民間交流を推進する窓口として設置しており、国交のない日本のために″友好協会″が設けられたことは、例外的な措置であった。
 「中日友好協会」の名誉会長には郭沫若(グオ・モールオ)、会長に廖承志、副会長に南漢宸(ナン・ハンチェン)、趙樸初(ジャオ・プーチュー)らが就任。錚々たる対日関係の専門家や、周総理が手塩にかけて育ててきたメンバーが勢ぞろいしていた。
 さらに、翌一九六四年(昭和三十九年)四月、日中両国への、「LT貿易」の連絡事務所の設置と、記者交換が決定をみた。だが高碕は、既に二カ月前の二月に他界していたのである。伸一は、どれほど高碕がこの日を待ちわびていたかと思うと、胸が詰まった。その駐日事務所の、首席代表として来日したのが、後に中日友好協会の会長を務める孫平化(スン・ピンホア)であった。
13  金の橋(13)
 孫平化は、周総理から、ある時、次のように言われていた。
 「あなたたちのように中日友好に携わっている人は、なんとか創価学会との間に交流のパイプをつくり、友人をつくらなければなりません」
 彼は、総理の言葉を命に刻み、そのチャンスが到来するのを待っていたのだ。山本伸一もまた、日中友好のために、自分に何ができるかを、真剣に考え続けていた。
 国と国との関係といっても、永続的に友好を維持していくには、民衆と民衆の相互理解が根本となる。それには文化、教育をはじめ、民衆次元での活発な交流が重要になる。その窓口を開くには、どうしても政治の力が必要である。
 一九六四年(昭和三十九年)十一月、公明政治連盟が公明党として新出発することになった。その結党に際して、伸一は、こう提案した。
 「公明党の外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。これが創立者である私の、唯一のお願いです」この伸一の要請に、公明党も、懸命に応えようとしていた。
 松村謙三や高碕達之助らの努力が少しずつ実を結び、日中関係に光が差したかに思えた。しかし、それも束の間、日中間には、再び暗雲が垂れ込めていったのである。
 六四年十月二十五日、池田勇人首相が病気療養のため、辞意を表明。後継首班には佐藤栄作が指名された。佐藤政権がスタートしたころから、アメリカはベトナム戦争への軍事介入を強め、翌六五年(同四十年)二月には、北爆が開始された。
 佐藤首相は、アメリカのこの政策を積極的に支持し、安保条約に基づいて、できる限りの協力をするとともに、アメリカの反共包囲網に同調し、台湾重視政策をとっていった。そして、台湾への配慮から、輸出入銀行の資金を日中貿易には使わせないとする、いわゆる「吉田書簡」を、政府の方針として正式に採用したのである。
14  金の橋(14)
 「吉田書簡」は、一九六三年(昭和三十八年)に起こった中国人の亡命事件で、日本の対応に激怒した台湾との関係修復のために、元首相の吉田茂が、蒋介石政権の秘書長あてに出した手紙であった。
 書簡では、日中貿易には輸出入銀行の資金は使わせないとしていたが、吉田は既に首相でもなく、この手紙自体、私信にすぎなかった。しかし、それを、政府が方針としたことによって、輸銀の資金の使用が前提となっていた中国との大型取引は、すべて無効となり、日中貿易の発展に大きな障害が生じてしまったのである。
 佐藤政権もまた、中国敵視政策をとった岸政権と同様に、日中関係の亀裂を、再び深めていくことになるのである。
 松村は、佐藤政権がこうした事態を招くことを予想し、政府与党内にあって、佐藤派とは対決姿勢を固めていた。しかし、日中友好を推進する松村らのグループは少数派であり、政権交代の計画もままならなかった。まさに高碕達之助が、日中国交回復の道は遠いと語っていたように、確かに一筋縄ではいかなかった。
 空は青く澄み渡り、時折、吹き渡る微風に、若葉が揺れていた。一九六六年(昭和四十一年)五月のある日、山本伸一は学会本部で、一人の作家と、対談のひと時をもった。対談の相手は、『紀ノ川』や『香華』などで知られる、有吉佐和子である。
 この対談は、婦人月刊誌が企画したもので、編集者も同行していた。彼女は、伸一より三歳年下で、三十代半ばであったが、人なつこく、天衣無縫で、童女のような笑みが印象的な女性であった。
 伸一が、本部を案内すると、伸一のデスクを見て言った。「あら、これが会長さんのお席なんですか。皆さんと一緒なんですね」屈託のない、快活な性格を感じさせた。
 対談が始まると、彼女は、旺盛な好奇心をたぎらせ、インタビュアーのように、次々と質問をぶつけてきた。
15  金の橋(15)
 有吉佐和子の質問は、山本伸一の小説『人間革命』に始まり、学会の組織のことや伸一の家庭のこと、公明党のことなど、縦横無尽に広がっていった。
 話題が主婦に及ぶと、彼女は、中国の婦人について語り始めた。これまでに三度、中国を訪問したのだという。中国を語る時、彼女の瞳は輝き、その頬は紅潮していった。
 「今、中国は音をたてて変貌しています。日本人の多くがいだいていたような、暗いイメージはありません。希望と建設の息吹にあふれています」
 また、三度目の訪中では、半年ほど北京(ベイジン)に滞在し、毛沢東主席、周恩来総理とも会見したという。対談が一段落すると、彼女は、居ずまいを正して、真剣な面持ちで伸一に言った。
 「実は、ご報告しなければならないことがあります。中国は、創価学会に対して、非常に強い関心をもっています。それで、周総理から、伝言を預かってまいりました。『将来、山本会長に、ぜひ、中国においでいただきたい。ご招待申し上げます』と伝えてください、とのことでした」
 重大な″メッセージ″である。伸一は、中国が学会に関心をいだいているという話は、高碕達之助からも聞いていたが、間接的であれ、招待したいとの意向を聞いた驚きは大きかった。
 彼は、丁重に感謝を述べた。「ありがとうございます。将来、いつの日か、必ず考えます。ご厚情は忘れません」
 既に周総理は、数年来の調査・研究を重ねて、創価学会の真実の姿を、鋭く見抜いていたのだ。学会は、民衆の中から湧き起こった団体であり、日本の国家主義と戦ってきた歴史も、熟知していたにちがいない。そして、学会の近年の大発展が、山本伸一という若き指導者のリーダーシップによること、さらに彼が、日中交流の重要性を主張してきたことも知ったのであろう。
 伸一は、いよいよ本格的に、日中友好に動き始める「時」が来たことを実感した。
16  金の橋(16)
 有吉佐和子との対談から、しばらくして、彼女から学会本部に連絡が入った。自分の中国の友人が、創価学会の幹部との語らいを強く希望している――というのだ。
 その友人とは、「LT貿易」の駐日事務所首席代表の孫平化と「光明日報」記者の劉徳有(リュー・ダーヨウ)であった。
 彼女は、彼らに会い、山本伸一の人物像や、創価学会がどんな団体かを語った。すると、二人は、「ぜひ学会の幹部に会いたい」と言いだしたというのである。孫たちは″創価学会と交流を″との周総理のアドバイスを、この機会に実現したかったのであろう。
 伸一も、日中の未来のために、交流の窓口を持つことは重要であると思っていた。そして、中国とは、末永く交流を図り、忌憚のない率直な語らいをしていくうえから、当然、青年が会うべきであると、彼は考えた。
 結局、当時、青年部参与であった秋月英介をはじめ、三人の青年部の幹部が会うことになった。中国側は、孫平化、劉徳有のほか、「大公報」記者の劉宗孟(リュー・ゾンモン)である。会談は七月に、東京・港区内で、食事をしながら行うことに決まった。
 会談の日、秋月らは、出発前に、伸一のところへ、あいさつに来た。青年たちの表情は硬かった。かなり緊張しているようである。伸一は、微笑を浮かべて語りかけた。
 「みんな、すごい怖い顔をしているな。それじゃあ、打ち解けた話し合いはできないよ」
 「はい。日中友好は大事だと思いますし、先方も、そのために会いたいと言っているようですが、どうしても警戒心を拭いきれません。共産主義国では、宗教を否定的に見ているにもかかわらず、なぜ、学会と交流を希望するのか疑問です。何か、別の意図があるように思えます」
 青年部の幹部の一人が語ると、伸一は、厳しい口調で言った。
 「そういう先入観をもって、人と会うのは失礼だ。それは偏見につながり、真実を見る目を曇らせてしまう」
17  金の橋(17)
 山本伸一の声に、さらに力がこもった。
 「たとえ、どこの国の人であれ、いかなるイデオロギーの人であれ、また、どんな肩書や立場の人であれ、みんな同じ人間なんだ。人間に変わりはない。
 友情を育み、友好を結ぼうと思うなら、同じ人間であるという意識で、語り合うことだ。相手の国や民族、あるいは、地位や肩書などによって、態度を変えるというのは、人間として卑屈ではないか。また、それは、裏返せば、傲慢でもあるということだ。
 相手によって威張ったり、下手に出たり、また、″立場″を鼻にかけてものを言うような生き方では、本当の友情は芽生えないし、本当の外交もできない。しかし、一個の同じ人間であるとの視点に立てば、共通項が見え、互いに身近に感じられるものだ。それが相互理解の手がかりにもなるし、共感も生まれる。
 私は、学会員の一婦人と会う時も、世界的な学識者と会う時も、いつも同じ人間として接して、理解し合うように努めている。だから私は、相手が誰であろうと恐れないし、見下すこともない。率直な語らいができ、心も通い合う。共感し、尊敬し合えるんです」
 青年たちは、真剣な顔で頷きながら、伸一の話を聞いていた。
 「こういうことは、体験を重ねなければ、よくわからないだろうな……。まあ、今日は、硬くならずに、青年として、率直に意見を交換してくることだ」
 伸一は、こう言って彼らを送り出した。
 会談の席では、最初に有吉佐和子が双方のメンバーを紹介した。秋月英介らは、中国側の出席者が、想像した以上に若いのに驚いた。「LT貿易」の駐日事務所首席代表の孫平化は、日本との交流の窓口という重責を担っているが、年齢はまだ五十前である。また、二人の記者は、秋月よりも若いように思われた。
 学会の幹部の平均年齢も、若いといわれてきたが、中国でも、若い力が台頭していることに、秋月たちは、この国の未来性を感じた。
18  金の橋(18)
 会談は、緊張した雰囲気で始まった。双方ともに、誤解を恐れてか、慎重であり、言葉も少なかった。だが、学会の青年たちは、この機会に中国のことを学ぼうとの思いで、単刀直入に疑問点を尋ねていった。中国の社会の現状や青年の様子などを聞くうちに、互いに打ち解け、時には、活発に議論する場面もあった。
 この日の会談は、懇談的なものであったが、学会の青年部の代表と中国の代表が初めて会い、相互理解のために意見を交換した意義は、極めて大きかった。
 本部に戻った秋月たちから、報告を聞いた伸一は言った。
 「やはり最初は硬い雰囲気だったんだね。初対面の時は、互いに緊張するだけに、その硬さを解きほぐしていくことが大事なんだ。
 それは笑顔だよ。そして、最初に何を言うかだ。包み込むような温かさがあり、相手をほっとさせるようなユーモアや、ウイットに富んだ言葉をかけることだよ。
 おそらく、君たちは、苦虫をかみつぶしたような顔で、頬を引きつらせて、あいさつをしたんだろうな」
 皆、苦笑した。
 「それから、人と会う時には、相手がどういう経歴をもち、どういう家族構成かなども、知っておく努力をしなければならない。それは礼儀でもあるし、渉外の基本といってよいだろう。たとえば、君たちだって、自己紹介した時に、『あなたのことは、よく存じております。こういう実績もおもちですね』と言って、自分の業績を先方が語ってくれたら、どう感じるかい。
 この人は、自分のことを″ここまで知ってくれているのか″と感心もするだろうし、心もとけ合うだろう。それが、胸襟を開いた対話をするための第一歩となるんだ。だから私も、常にそうするように、懸命に努力している。
 お会いする方の著書があれば、できる限り目を通すようにしているし、その方について書かれた本なども読んで、頭に入れているんだよ」
19  金の橋(19)
 伸一は、後々のために、青年たちに、外交の在り方を語っておきたかった。
 「それから、中国などのように、日本に支配され、辛酸をなめてきた国の人と接する場合には、その歴史を、正しく認識しなければならない。
 アジアには、日本軍によって肉親が虐殺されたり、家を焼かれたり、略奪されたりした悲惨な歴史をもつ国が多い。それは、その国の人びとにとっては、永遠に忘れることのできない、憤怒と悲哀の屈辱として、魂に刻印されている。
 ところが、日本人は、その事実をあいまいにしようとする。また、若い世代も、その歴史を知ろうともしない。それでいて日本人は、経済力を鼻にかけ、アジア諸国の人びとに、傲慢で横柄な態度で接する。こんなことでは、本当の信頼も、友情も、育つわけがない。誰がそんな国と、そんな人間と、永遠におつきあいしたいなんて思いますか。
 まずは、歴史を正しく認識し、アジアの人びとが受けた、痛み、苦しみを知ることです。その思いを、人びとの心を、理解することです。そうすれば、日本人として反省の念も起こるでしょう。当然のこととして、謝罪の言葉も出るでしょう。それが大事なんです。相手が、こちらの人間としての良心、誠実さを知ってこそ、信頼が生まれていくからです。
 国と国との外交といっても、すべては人間同士の信頼から始まる。だから、私たちは、日本の国が、どういう政策をとろうが、中国の人たちとの、人間性と人間性の触れ合いを常に大切にし、人間としての誠意ある外交をしていかなければならない」
 佐藤政権は、その後も中国を敵視する政策を強化していった。一九六七年(昭和四十二年)十一月、訪米した佐藤首相はジョンソン米大統領との共同声明で、次のように発表した。
 「中国共産党が核兵器の開発を進めている事実に注目し、アジア諸国が中国共産党からの脅威に影響されないような状況をつくることが重要であることに合意した」
 中国は、佐藤政権の姿勢を厳しく非難した。
20  金の橋(20)
 中国の国内も、揺れに揺れていた。あの「プロレタリア文化大革命」が猛威を振るっていたからである。″文革″は、革命精神を永続化する意図で、文芸や歴史学の批判から始まり、修正主義、資本主義へと傾斜していく傾向を改めようとするものであった。
 六六年(同四十一年)、急進的な学生、生徒によって「紅衛兵」が組織されると、その動きは、一挙に過激化していった。紅衛兵は「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣」の「四旧」の打破を掲げ、激しい″文革″の嵐を巻き起こした。紅衛兵は″兵″といっても、年少者は十三歳ほどの少年少女までいた。
 その″文革″の第一歩は、「反動的」「ブルジョア的」な旧地名などの変更から始まった。繁華街の王府井大街は「革命大路」に書き換えられ、「共産主義大道」や、アメリカ帝国主義を滅ぼす意味の「滅帝路」などの通りが誕生した。
 商店の古い屋号の看板も叩き壊された。高級料理店や骨董品店、古書店などは、特に批判の対象となったのである。「最後通告」と書かれたビラを張り、街を闊歩する紅衛兵の姿は、人びとを震撼させた。破壊は孔子廟、寺院、教会にも及んでいった。
 さらにまた、革命前からの知識人や著名な学者、芸術家、旧地主、香港・台湾の出身者などが、次々と攻撃にさらされたのである。家を荒らされ、「階級の敵」「ブルジョアの畜生」などと罵倒された。そして、自己批判を迫られ、三角帽子を被せられて、街中を引きずり回されるのである。中学校でも、知識の重要性を叫んできた校長や教師の多くが、生徒たちの標的となった。
 いわゆる″文革″は、権力闘争の道具にされ、痛ましい流血の惨事も起こしてしまった。周恩来総理も、紅衛兵に取り巻かれ、執務室に閉じこめられるという事態もあった。
 こうしたなかで、新しい権力機構として、「革命委員会」が全国の省や市にいたるまでつくられていったのである。
 一九六九年(昭和四十四年)には文革推進派の勝利が宣言されるが、″文革″の嵐は、まだ、終息することはなかった。
21  金の橋(21)
 ″文革″の大混乱が続く六七年(同四十二年)の八月十七日、対立の溝を深めていたソ連の大使館に、中国人のデモ隊が乱入するという事件が起こる。さらに、五日後の二十二日には、英代理大使事務所が、イギリスの香港政策に抗議する紅衛兵らのデモ隊に包囲された。相次いで起こった、これらの出来事が、中国に対する国際世論の批判の声を、ますます高めていったのである。
 また、九月には、中国政府は、日中記者交換で駐在が認められていた新聞社のうち三社の記者に対して、反中国宣伝を行い、中日友好関係を破壊したとして、常駐資格を取り消した。これによって、日本のマスコミも、中国に対して、一段と強い警戒心をもつようになった。日本国内には、日中友好を口にするなど、もってのほかであるという雰囲気が漂ってしまった。
 この年末、日中間の貴重な政治交渉のパイプでもあった「LT貿易」は、期限切れとなった。協定延長の貿易交渉は、年が明けた一九六八年(昭和四十三年)二月になって行われたが、こうした事態のなかだけに、交渉が難航を極めたのも当然であった。
 また、内政・外交を掌握している周総理にも、″文革″の嵐が襲いかかり、総理が強硬な外交姿勢をとらざるをえない状況がつくられてしまった。それでも、双方の粘り強い協議によって、期限を「LT貿易」の五年から一年に短縮した、日中覚書貿易の協定が調印される。窮地に陥った日中関係のなかで、民間契約の友好貿易とともに、″半官半民″の性格をもつ、この覚書貿易が、細々とした交流の″糸″として残されたのである。
 日中の関係打開への見通しは、依然として立たなかった。両国の友好への歩みは次々と挫折し、国交正常化をめざして運動を続けていた人びとの心には、絶望と敗北感が、深い闇となって広がっていたのであった。
 ″こんな事態が続き、中国がいつまでも世界の孤児のような状態に置かれていたのでは、七億の民衆がかわいそうだ″
 山本伸一は、今こそ、日中国交正常化への提言を、断じて発表しなければならないと、一段と決意を固めたのである。
22  金の橋(22)
 彼は、日中国交正常化の提言に踏み切ることが、いかに危険の伴う決断であるか、よくわかっていた。八年前には、日中の国交回復を推進しようと、″アメリカ帝国主義は日中共同の敵″と語った社会党委員長の浅沼稲次郎が、右翼の少年によって刺殺されている。
 提言を行えば、当然、創価学会の本質は共産主義であるといった類の、囂々たる非難がわき起こることを、伸一は、重々承知していた。場合によっては、これが契機となり、学会を危険視してきた勢力が、いよいよ壊滅に追い込もうと、本格的な動きを開始することも、予測されていたのである。
 しかし、世界の平和を願うならば、そして、そのために日中の友好を考えるならば、誰かが命を張って、声を大にして叫ばなければならない重要な問題である。
 伸一は深く思った。
 ″私が、発言するしかない! 私は仏法者だ。人びとの幸福と世界の平和の実現は、仏法者の社会的使命である。何が起こっても、断行する決意を固めるしかない!
 私の考えが正しかったかどうかは、後世の歴史が証明するはずだ″こう決断した瞬間、彼の眼には、アジアの民衆の救済を叫び続けた戸田城聖が、微笑み、頷く姿が見えた。また、伸一に、日中の友好を託し、既に世を去った、高碕達之助の顔が浮かんだ。
 伸一は、その発表の場を、九月八日の学生部総会とし、若き英才たちに、呼びかけようと決めたのである。それは、日中友好の永遠なる「金の橋」を築き上げるという大業は、決して、一代限りではできないことであるからだ。世紀を超えた、長く遠い道のりである限り、自分と同じ心で、後を受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない。
 だからこそ、伸一は、平和の波を広げゆく、後継の人材群の第一陣として、この数年間、学生部の育成に、総力をあげてきたのである。
 彼には、″学生部員のなかから、自分の提言の実現のために、生涯、走り抜いてくれる同志が必ず出るにちがいない″との、強い、強い、確信があった。
23  金の橋(23)
 学生部は、このころ、大学ごとの活動に焦点があてられ、新たな学内運動の流れがつくられ始めていた。
 学生部の首脳幹部たちは、キャンパスを舞台に、学生部員が仏法思想への共感の輪を広げていくうえで、各大学ごとに、徹底して御書を研鑽していく場が必要であると感じていたのだ。それは、山本会長の「御義口伝」講義を受けたメンバーが、仏法への強い確信をもち、目覚ましい成長を遂げていたからであった。
 そこで、さらに多くの学生部員が、仏法の精髄に触れる機会をつくりたいと、大学別講義の開催を企画したのである。そして、前年の一九六七年(昭和四十二年)五月に、東京大学で「観心本尊抄」、早稲田大学で「開目抄」、慶応大学で「撰時抄」の講義が真剣に開始された。次いで七月には、北海道大学、京都大学など、全国七大学の大学別講義の開催が発表された。
 さらに、年が明けた、この年の一月には、全国百八大学に、三月には、百五十四大学に拡大していったのである。
 講師には、主に、その大学の出身者である、副理事長などの幹部がつくことになっていた。大学別講義を実施するにあたっての、最大のポイントは、最高幹部に講師を引き受けてもらうことであった。
 山本伸一は、学生部の首脳から大学別講義の構想を聞くと、最高幹部の会議の折に、こう訴えたのである。
 「皆さんは、日々の活動に多忙を極めているかもしれないが、学生部から講義の要請があったならば、最優先して担当していただきたい。私もこれまで、『御義口伝』や『百六箇抄』の講義など、全力を尽くして学生部の講義を担当してきました。次代のリーダーを育成するには、思想、哲学を生命の奥深く打ち込むことが、最も大事だからです。
 戸田先生は青年に対して、御書を心肝に染めよと、厳しく言われた。若い時代に教学を徹底して学び、仏法の哲理を自己の規範としておかなければ、本当の意味で広宣流布を担うことはできないからです。なぜなら、広宣流布は思想戦だからです」
24  金の橋(24)
 山本伸一は、言葉をついだ。
 「青年たちが、とりわけ学生部員が、真剣に教学に取り組まず、行事などの運営の真似事みたいなことだけ覚えて、リーダーになっていったら、怖いことです。
 また、たとえ、教学を学んだとしても、知識として覚えただけで実践がともなわず、自分を偉そうに見せるための教学であれば、″畜生の教学″です。仏法の大精神を死滅させる行為です。そんな幹部が出てきたら、学会は食い破られてしまう。
 したがって、最高幹部である皆さんが、全力を注いで講義し、魂の触発を与え、真の教学と大聖人の御精神を、学生部の諸君に伝え抜いていただきたい。
 知勇兼備の闘将を、手作りで育て上げていってほしいのです。後継の育成は、最高幹部である皆さんの責任です。ゆえに、不勉強で浅薄な講義をしたり、いい加減な気持ちで臨むようなことがあっては絶対にならない。それでは、むしろ迷惑です。大学別講義は、未来の広宣流布のための、大事な、大事な布石です。
 忙しいからといって、幹部が当面のことだけしか考えなければ、やがて広宣流布も、学会も、行き詰まってしまう。だからこそ、よろしく頼みます」
 伸一に言われ、最高幹部たちは、後継の人材育成を決意し、勇んで大学別講義に取り組んでいったのである。
 各大学とも、受講生は厳選され、当初は大きな大学でも、数十人ほどであった。メンバーには、自分たちは、大学を代表して受講しているのだという誇りがあった。
 研鑽御書は、「御義口伝」や、「開目抄」「観心本尊抄」などの重書である。講義の前には予習会も行われ、皆、真剣に勉強に励んだ。予習会や講義の前には、大学の図書館などで、仏教辞典等を引きながら、一心不乱に御書に取り組む学生部員の姿が見受けられた。この大学別講義は、当時の学生部の教学力を培い、信仰の骨格をつくり上げるうえで、極めて大きな力となっていったのである。
25  金の橋(25)
 学生部として、一九六八年(昭和四十三年)の春の活動について検討していたころ、山本伸一は、青年部の最高幹部と懇談する機会があった。その時、学生部の首脳が、大学別講義が軌道に乗り、学内活動が活発化していることを報告した。
 伸一は、大きく頷きながら、語り始めた。
 「同じ大学に学ぶ学生部員同士が、大学別講義をはじめ、学内での活動を通して、友情を深め、信心を切磋琢磨していくことは、大変に重要なことだと思う。
 しかし、卒業してしまえば、みんな離ればなれになって、会うこともほとんどなくなってしまうだろう。そこで、もう一歩、思索を進めて、生涯にわたって友情を育み、広宣流布の使命を確認し合えるような方法を、考えてみてはどうだろうか」
 「はあ……」学生部の首脳は困惑した。そんなことは、考えもしなかったからだ。
 「私は既に考えているよ。たとえば、OBも含めて、大学ごとに人材育成のグループを結成する。これを、大学会と呼んでもいいだろう。何年かしたら、二期、三期と結成していってもいいかもしれない。
 そして、大学会として連携を取り合い、たまにはみんなで集まって、励まし合っていくんだよ。大学を卒業して実社会に出れば、さまざまな障害や軋轢があるものだ。その時に、青春時代の清らかな誓いを忘れずに前進していくためには、激励し合っていける友人が大事になる。また、大学会ができれば、卒業していった先輩と、現役学生との絆も、強くなるじゃないか」
 山本会長の話を聞きながら、学生部の首脳は感嘆した。すばらしい布石であると思った。
 「みんなが賛成なら、早速、大学会を結成していこうじゃないか」
 「お願いいたします」
 「ただし、一気に結成するのではなく、大学別講義を着実に拡充していったように、少しずつ広げていこうよ」
 そして伸一は、そこに、何人かの東大出身者がいたことから、まず、東大から着手し、名称を「東大会」にしてはどうかと提案した。
26  金の橋(26)
 伸一が出席して、最初の大学会となった東大会の結成式が行われたのは、四月九日の夜のことであった。彼は、自ら丹精を込めて、人材を育てようと、心に決めていた。
 東大会には、現役学生とOBを合わせて、五十人ほどのメンバーが選抜されていた。結成式は、伸一を中心に食事をし、懇談的に、意見の交換をしながら進められた。その冒頭、彼は、大学会の意義について語っていった。
 「これまで、学会には水滸会、華陽会、潮会などの人材育成のグループがあったが、それは学会の組織を基盤とし、名称も学会独自のものであった。
 しかし、『東大会』という大学会の名称には、社会性がある。そうした名前を冠したグループは、学会のなかで初めてです。それは、何を意味するのか――。
 世間の一切法は、突き詰めていけば、皆、仏法になり、仏法は即世間の法になる。その仏法即社会を表した人材グループが大学会です。ゆえに皆さんは、広宣流布の指導者として生き抜くとともに、『世雄』となって社会で大活躍し、人びとの幸福のために、生き抜いていっていただきたい。実は、そこに大学会の使命がある。また、それが私の願望です」
 メンバーからは、人種問題の解決の方途や、福祉経済の在り方など、多岐にわたる質問が次々と飛び出した。伸一は、社会の諸問題を自身のテーマとし、真剣に新しき道を模索する、メンバーの真摯で一途な姿が嬉しかった。
 続いて、四月の二十六日には慶大会が、五月二十二日には、お茶の水女子大学、東京女子大学、日本女子大学、実践女子大学などからなる女子大会が誕生した。
 さらに、七月には、東京で一橋大学に、関西で京都大学、同志社大学、大阪大学、神戸大学に、大学会が結成された。そして、八月の学生部夏季講習会の折にも、九州大学、東北大学などの大学会の結成式が行われている。
27  金の橋(27)
 伸一は、すべての大学会の結成式に、喜び勇んで出席し、青年たちと意義ある語らいのひと時を過ごした。彼は、一人ひとりのメンバーを、わが生命に刻み付けようと、必死であった。
 就職や結婚など、皆の人生の進路の相談にものった。それぞれの家庭の状況にも、丹念に耳を傾けた。彼は、共に同志として、皆の生涯を見守っていく、強き決意であった。
 大学別講義、そして、この大学会は、学生部員たちに、広宣流布の全責任を担って立つ、後継の深い使命を自覚させるものとなっていったことはいうまでもない。
 折から、日本列島中のキャンパスには、大学紛争の嵐が広がっていた。そのなかで、学生部員は、仏法の中道主義という視座から、紛争解決の方途を探りつつ、勇んで思想闘争の炎を燃え上がらせていった。
 そして、見事な拡大の実力を示して、学生部総会を迎えようと、心弾ませながら、来る日も来る日も、真剣に、有意義な仏法の対話の花を咲かせていったのである。
 一九六八年(昭和四十三年)九月八日――。新しき歴史への船出となる第十一回学生部総会が、午前十一時から、東京・両国の日大講堂で盛大に開催された。
 会場の正面には、黒い筆字で大書された、「英知」の文字が掲げられていた。日大講堂の大鉄傘にこだまする怒濤のような拍手と歓声に、若い生命の力が満ちあふれていた。
 総会は研究発表「大学の使命」に始まり、「人間回復への胎動」や「二十一世紀への思潮」と題する代表の主張などが発表されていった。
 やがて、この日のために学生部有志が作詞作曲した愛唱歌「生命の世紀」が披露されたあと、旧制大阪高等学校全寮歌「嗚呼黎明は近づけり」(作詞・沼間昌教)の合唱が行われた。
 一、嗚呼黎明は 近づけり
   嗚呼黎明は 近づけり
   起てよ我が友 自由の子
   帝陵山下の 熱血児
   侃諤の弁 地をはらい
   哲人の声 消えんとす
28  金の橋(28)
 この「嗚呼黎明は近づけり」の歌は、七月に山本伸一が関西を訪問し、大阪大学会、神戸大学会の合同結成式を行った折に、大阪大学のメンバーが披露した歌である。
 阪大の学生に歌い継がれ、学生部員たちも大好きな歌であった。堂々たる調べと救世の情熱にあふれた歌詞が、学会精神と重なるように感じられるのであった。
 阪大のメンバーは、大学会の結成式の連絡を受けると、「ぜひ、この機会に、ぼくたちの広宣流布への気概を、あの歌に託して合唱していこう」との心が燃え上がっていった。
 伸一は、メンバーの熱唱を耳にした時、衝撃にも似た感動を覚えた。この歌に脈打つ気概は、新しき時代の幕を開かんとする、創価の心意気そのものであると思えたからである。そして、これからも、皆で歌っていくように提案したのだ。
 学生部総会での大合唱は、一万数千の若人の心を一つにした。
 「生命の世紀」の黎明を開かんとする熱気が満ちるなか、式次第は、幹部のあいさつへと移っていった。青年部長の青田進、総務の十条潔らの指導が終わると、いよいよ山本伸一の講演である。
 「会長講演! 山本先生!」
 さっそうと立ち上がる若き会長の伸一を、参加者は目を輝かせ、身を乗り出して、盛んな拍手で迎えた。彼は、全国各地から集った参加者の労をねぎらい、深々と頭を下げ、演台に向かった。
 この日、伸一が用意していたのは、四百字詰め原稿用紙にして五十数枚分の講演原稿であった。凛とした声が響いた。
 「本日、九月八日は、昭和三十二年(一九五七年)、横浜の三ツ沢の競技場で、恩師戸田前会長が、原水爆に対する声明を発表した、忘れもしない歴史的な記念の日であります。
 私は、英知と情熱あふるる妙法の自由と平和の戦士たる諸君と共に、この恩師の遺訓を、再び胸に刻んで前進したい!」
 伸一は、冒頭、戸田城聖の「原水爆禁止宣言」を確認し、この声明こそ「創価学会員の永遠の根本精神であり、世界人類への不滅の指針」であると訴えた。
29  金の橋(29)
 火を吐くかのような、烈々たる気迫にあふれた伸一の声が、参加者の胸に轟いた。
 「私は、世界から″悲惨″の二字をなくすまで、諸君と共に、全生命、全生涯をかけて、この恩師の精神を訴え続け、横暴と増上慢の権力者たちと、断固として戦い抜いていく決意であります」
 そこには、これから発表する提言への、伸一の並々ならぬ覚悟が示されていた。皆、大拍手を送りながら、固唾を飲んで、伸一の言葉を待った。
 彼は、まず、全国に広がった大学紛争に言及していった。この年、中央大学、東京大学、早稲田大学、日本大学などで、学生たちが次々にストライキに突入した。それは、さらに全国に拡大し、七月初めの警察庁の報告によれば、既に紛争中の大学は五十四大学に達していた。
 学生たちがストライキを起こした原因も、経過も、大学によってさまざまであった。東大のように、医学部の登録医制度の導入に端を発した紛争もあれば、日大のように、大学の経理の使途不明金問題に対する追及から、紛争に発展したケースもある。また、学費値上げ、総長選挙、キャンパスの移転、学生会館の建設等々が、紛争の引き金となっていた。
 大学側の対応もさまざまであったが、概して権威的、威圧的であり、学生の意見が聞き入れられることは、ほとんどなかったといってよい。校舎などを占拠した学生たちを排除するために、機動隊を導入する大学もあった。こうした大学側の強硬策は、ますます学生の怒りに油を注ぎ、運動は全学に広がっていったのである。各大学で学生たちは、全学共闘会議(全共闘)を結成し、結束を固めていった。
 この全共闘運動は、それまでの政治党派主導の学生運動とは異なり、セクトに所属しない、「ノンセクト」の学生たちが組織した、広範な運動となったのである。
 この運動に通底していたのは、大学の在り方を根本的に問いただし、大学の「民主化」を主張していることであった。
30  金の橋(30)
 学生たちは、戦後の民主主義教育を受け、教授も学生も、人間的には対等であると教えられて育った。大学もまた、本来、その理念のもとに、戦後のスタートを切ったはずである。しかし、知性の府である大学の実態は、民主主義とは、まことにほど遠いものと、学生たちの目には映っていた。
 進歩的な学説を唱えたり、″思想的良心″と仰がれている教授たちが、大学という″象牙の塔″のなかでは、権威、権力を振り回し、特権意識に浸る姿に失望してきたのである。
 医学部から始まった東大紛争も、階級的な上下関係のうえに成り立つ、非民主的な旧態依然とした医学界、そして、大学の在り方に対する″改革″の狼煙であったといってよい。
 また、学費値上げ反対や総長選挙をめぐってのストにしても、学生不在の大学の運営に対する抗議の表明でもあった。
 山本伸一は、そうした学生の運動に対して、ただ上から圧力をかけて弾圧しようとする大学側の誤りを、正しておきたかったのである。彼は、大学によって紛争の契機は異なるが、共通の重大問題として、教授の精神の老齢化により、情熱が欠如し、それが、学生との距離感をつくり出していることを指摘し、こう訴えた。
 「根本的には、学生と教授の隔絶感、すなわち、世代の断絶に本当の原因があると私は言いたい。この問題に真剣に取り組み、教授と学生との間のミゾを埋めない限り、決して現今の学生運動、いわゆる大学の危機を解決することはできないと思うのであります」
 教育の本義は、触発にこそある。大学教育といっても、最大の教育環境は、教師自身である。教授に、向上の情熱がなければ、学問のうえでも時代に取り残され、人間としても精彩を欠き、知的触発も、魂の触発ももたらしえない。それでいて、大学教授という権威をカサに、学生を見下し、抑え付けようとすれば、反発は必至であろう。
 伸一は、教師自身の改革にこそ、大学紛争の解決があることを、示しておきたかったのである。
31  金の橋(31)
 次いで講演は、先月起こった、ワルシャワ条約機構軍が東欧のチェコスロバキアに侵攻した事件に移った。
 この年の一月、チェコスロバキアでは、ソ連の圧力を排除して首脳交代が行われ、アレクサンデル・ドプチェクが、四十六歳で党第一書記に就任した。彼は「人間の顔をした社会主義」を掲げ、検閲の廃止による言論の自由や、結社、集会、政治的信念の自由、さらに、国外旅行、国外滞在の自由の権利を認めるなど、次々と自由化を推進していった。
 首都プラハをはじめ、チェコスロバキアに訪れた自由は、「プラハの春」と呼ばれた。
 だが、ソ連は、この自由化、民主化の波が広がることに、強い危機感をいだいた。そして、八月二十日、ワルシャワ条約機構軍(ソ連、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツが出動)が、遂にチェコスロバキアへの侵攻を開始したのである。
 翌二十一日には、首都プラハを占領。チェコスロバキアは、十二年前のハンガリーと同じ運命をたどっていった。戦車によって自由の若芽は押しつぶされ、束の間の「プラハの春」は、冬へと逆戻りしてしまったのだ。
 プラハは、四年前(一九六四年)の十月に、伸一が訪問した街である。あの美しい古都の街並みで、自由を渇仰する人びとの夢が、武力によって踏みにじられたことを思うと、彼は、強い怒りを覚えた。その不幸を繰り返させぬために、彼は今、力の限り、叫んだのである。
 伸一は、この武力介入は、アジアにおけるアメリカのベトナム戦争と同じく、小国に対する大国の力の抑圧であり、ナチス・ドイツの武力侵略と同じ系列に立つものと断じた。
 「ソ連は、社会主義を看板に人間性を抑圧し、アメリカは、自由主義の旗を掲げて、生命の尊厳を蹂躙している。いかなる大義名分を掲げようと、武力に訴え、暴力によって、一国の自主、独立、人間性の尊厳を踏みにじること自体が、それは悪魔の所業であり、断固、排斥されるべきであると、私は強く訴えたい!」その舌鋒は鋭かった。
32  金の橋(32)
 大国が小国を支配し、蹂躙する、こんな弱肉強食の権力主義を、いったい、人類はいつまで放置しておくのか。また、社会主義といっても、自由主義といっても、本来、人間の幸福のためにあるはずのものである。ところが、そうした制度やイデオロギーが優先され、何ものにもかえがたい、尊極無上の人間の生命が脅かされる。
 伸一は、この本末転倒の現実を転換し、真実の人間性の世界を開くには、どうしても生命の尊厳を裏づける「確固たる哲学」を根底とした大運動が不可欠であることを力説していったのである。
 「日蓮大聖人の大生命哲学をもった私どもの実践と闘争こそ、既存の権力主義の牙城を完膚なきまでに打破し、過去数千年にわたる悪夢の連続の歴史に終止符を打つ、真実の生命の世紀への本流であることを、強く、強く、自覚していこうではありませんか!」
 大拍手が轟いた。どの顔も決意に光っていた。伸一は、一段と力のこもった声で語り始めた。
 「ここで私は、日中問題について触れておきたい。この時期に、日中問題を論ずるのは時宜を得ていないという人も多くいるかもしれない。しかし、われわれの地球民族主義、世界民族主義の理念のうえからも、中国問題は、どうしても触れなければならない第一の根本問題なのであります。私は、あくまでも日本人の一人として、また、未来の平和を担う一青年として、諸君とともに、この問題を考えておきたいのであります」
 いよいよ、この日の最大のテーマである中国問題に入った。彼は、問題解決への方途として、次の三点を訴えた。
 第一に、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。
 第二に、国連における正当な地位を回復すること。
 第三に、経済的・文化的な交流を推進すること――であった。
 この総会には、日本国内はもとより、海外からも、新聞、テレビなど、多数の報道関係者が詰めかけていたが、彼が中国問題に触れた時から、報道陣が色めき立った。
33  金の橋(33)
 伸一は、今回、あえて中国の問題を論ずる理由を述べていった。
 それは、日本がアジアの一国として、アジアの民衆の幸福の実現を考えるのは、当然の「道理」であり、「義務」であるからだ。また、日本と中国の間の諸問題は、あの日中戦争の延長線上にあり、未来に生きる両国の青年に、「かつての戦争の傷を重荷として残すようなことがあっては断じてならない」との思いからであった。彼は訴えた。
 「諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。
 この日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになった時こそ、今日のアジアを覆う戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が燦々と降り注ぐ時代である――と、私は言いたいのであります」
 さらに、伸一は、平和という観点からも、提言に踏み切った理由を明らかにした。
 「私は、決して、共産主義の礼賛者ではありません。ただ、国際社会の動向のうえから、アジアはもとより、世界の平和のためには、いかなる国とも仲良くしていかなくてはならないということを訴えたいのです。核時代の今日、人類を破滅から救うか否かは、この国境を超えた友情を確立できるか否かにかかっているといっても過言ではない。
 中国の問題をあえて論ずるのも、この一点に私の発想があったためであることを、知っていただきたいのであります。この問題の解決なくして、真に戦後は終わったとはいえません」
 「友情」という言葉によく表れているように、伸一は、単に国家の対応を論じようとしたのではなく、民衆次元から、中国、そして、世界との関わりを考えていた。
 国交も、その本義は人間の交流にあり、民衆の交流にある。友情と信頼の絆で、人間同士が結ばれることだ。国家といっても、それを動かすのは人間であるからだ。
34  金の橋(34)
 当時、保守派の人びとの間では、中国は侵略的で危険な国であるとの見方が強かった。
 そこで、伸一は、毛沢東主義は本質的には民族主義に近く、東洋的な伝統を引き継いでいると分析するとともに、中国が「武力をもって侵略戦争を始めることは考えられない」と断言したのである。
 このあと、彼は、日中の国交正常化、中国の国連加盟、経済・文化交流の推進について、個別に論及していった。
 国交正常化の問題については、一九五二年(昭和二十七年)に、日本と台湾の国民党政府との間で結ばれた平和条約をもって、講和問題は解決済みであるとする日本政府の立場は、大陸の七億の民衆を無視した観念論にすぎないと断じた。
 この主張は、国交の正常化とは、国民同士が互いに理解し合い、交流し合って、相互の利益を増進し、世界平和の推進に貢献できて、初めて意義をもつとの、彼の信念に裏付けられていた。
 日中両国の間には、日本が戦時中に中国に与えた損害に対する賠償問題等、国交正常化を実現するうえで困難な問題が山積していた。それだけに、交渉は難航が予想された。
 ゆえに、伸一は次のように提案したのである。
 「日中間の問題は、いずれも複雑で困難な問題であり、両国の相互理解と深い信頼、また、何よりも、平和への共通の願望なくしては解決できない問題であります。これまでの小手先の外交や、細かい問題を解決して、最後に国交回復にもっていくという、いわゆる西洋式の帰納法的ないき方では、いくら努力しても失敗するでありましょう。
 私は、むしろ、まず両国の首相、最高責任者が話し合って、基本的な平和への共通の意思を確認し、大局観、基本線から固めていくべきであると思う。
 そして、それから、細かい問題に及んでいく。この演繹的な方法でいくことが、問題解決の直道であると、主張しておきたいのであります」
 そのうえで、佐藤政権が国交正常化に動く意思がないことを指摘し、復交の担い手として、公明党に、強い期待を表明したのであった。
35  金の橋(35)
 次いで、伸一は、中国の国連加盟問題について論じていった。国連が、中華人民共和国政府と台湾の国民党政府の、どちらを中国の代表として認めるかという問題である。
 国連総会において、中国代表権の問題が、初めて取り上げられたのは、一九五〇年(昭和二十五年)のことであった。
 四九年(同二十四年)に中華人民共和国が成立すると、同国政府は、国連における代表権を主張した。国際情勢も、当初はこれを承認する動きがみられたが、翌年の朝鮮戦争(韓国戦争)が流れを変えた。一九五一年(昭和二十六年)二月、国連は、新中国の政府を侵略者として非難する決議を採択。代表権は引き続き、台湾の国民党政府がもつことになった。
 以後、十年間、代表権問題は、アメリカが提出した「審議タナ上げ案」が多数を占めた。
 しかし、戦後、独立したアジア・アフリカ諸国などが、台湾の国民党政府に代わって、中華人民共和国政府を招請する案に賛成していき、やがて過半数を上回ることが確実となったのである。
 それに対して、アメリカは、中国の代表権問題を、「重要事項」に指定する決議案を提出して対抗した。これは、安保理事会の非常任理事国の選出や新加盟国の承認などのように、議決には三分の二の多数を必要とする事項に指定することである。
 「重要事項」には、過半数の賛成があれば、指定することができた。
 そして、中国の代表権問題は「重要事項指定」とされ、三分の一を超える反対で、中華人民共和国の招請を阻止することができるようになったのである。
 日本政府は、この「重要事項指定」に、積極的に加担した。それが、中華人民共和国の怒りを買ったことは、いうまでもない。
 伸一は、この対応の誤りを厳しく指摘したのである。「わが国の政府は、これまで一貫して対米追従主義に終始してまいりました。
 だが、日本も独立国である以上、独自の信念をもち、自主的な外交政策を進めていくのは当然の権利であります」
 政府の外交姿勢の転換を迫る発言である。
36  金の橋(36)
 報道陣の顔には、驚きの表情が浮かんでいた。伸一は、歯に衣を着せずに、言うべきことを、明確に言い切ろうと心に決めていた。
 彼は、なおも強い語調で、話を続けた。
 「日本はこれまでのように、アメリカの重要事項指定方式に加担するのでなく、中国の国連参加を積極的に推進すべきであります。およそ、地球の全人口の四分の一を占める中国が、実質的に国連から排斥されているというこの現状は、誰びとが考えても、国連の重要な欠陥といわねばならない。これを解決することこそ、真実の国連中心主義であり、世界平和への偉大な寄与であると思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 豪雨のような大拍手が響いた。伸一の講演は、既に五十分を経過した。場内の温度は、かなり上昇していた。背広姿の伸一の額には、汗が噴き出していた。いや、全身汗まみれであった。だが、彼は、その汗を拭うことも忘れていた。
 演台の上に置かれたコップの水を口にすると、今度は、日中貿易の問題について、その歴史をたどりながら、詳細に論じていった。
 「この日中貿易に対して、日本政府の態度はどうかといえば、財界の有志任せで、全く消極的であるばかりでなく、対米追従主義から、種々の制限を加えているのであります」
 彼は、その最たるものとして、日中間の貿易に際して、輸出入銀行などの政府資金を使って、長期延べ払いをしないことを述べた″吉田書簡″に言及していった。
 「これは、吉田氏の私信であり、しかも、吉田元首相は、既に亡くなっているのですから、これに拘束される理由は何もない。政府資金による長期延べ払いを認めないということは、事実上、貿易取引の首を絞めるのと同じ効果をもちます。
 佐藤首相は、その書簡を政府の方針として採用しておりますが、私は、何よりも、まず政府は、この″吉田書簡″の廃棄を宣言し、貿易三原則にしたがって、貿易を拡大する方向に、努力を積み重ねていくべきであると訴えたいのであります」
37  金の橋(37)
 さらに、伸一は、日中の友好関係樹立の意義について語った。
 「世界の平和にとって最も不安定で、深刻な危機をはらんでいるのが、悲しくもアジア地域であります。そのアジアの不安の根本的な原因は、アジアの貧困であり、自由圏のアジアと共産圏のアジアとの隔絶と、不信と、対立にあることも明瞭な事実であります。
 日本が率先して中国との友好関係を樹立することは、アジアのなかにある東西の対立を緩和し、やがては、必ずや、見事に解消するに至ることは間違いないと、私は訴えたいのであります」
 また、かつてない経済成長を遂げた日本の繁栄は、「低所得の国民大衆と、アジア民衆の貧困の上に立った、砂上の楼閣にすぎない」と喝破し、国際社会における今後の日本の在り方を述べていった。
 「国家、民族は、国際社会のなかで、自分たちの利益のみを追求するための集団であってはならない。広く国際的視野に立って、世界の平和と繁栄のため、人類の文化の発展、進歩のために、進んで貢献していってこそ、新しい世紀の価値ある国家、民族といえるのであります。
 私は、今こそ日本は、この世界的な視野に立って、アジアの繁栄と世界の平和のために、その最も重要なカナメとして、中国との国交正常化、中国の国連参加、日中の貿易促進に、全力を傾注していくべきであることを、重ねて訴えるものであります」
 賛同の大拍手が、潮騒のようにドームに舞い、伸一を包んだ。彼は、後継の学生部員に、自分の思いが通じたという、確かな手応えを感じた。伸一は、静かに頷きながら、言葉をついだ。
 「私の中国観に対しては、種々の議論があるでしょう。あとは賢明な諸君の判断に一切まかせます。ただ私の信念として、今後の世界を考えるにあたって、どうしても日本が、青年の諸君が、経なければならない問題として、あえて申し述べたわけであります。これを一つの参考としていただければ、望外な喜びであります」
38  金の橋(38)
 最後に伸一は、力を振り絞るようにして語っていった。
 「ここで、学生部の、さらに偉大な発展と、諸君の成長のために、今後の指針を申し上げておきたいのであります」
 彼は、五項目の指針を発表した。
 第一に、ひとたび妙法に生きた学徒は、未来に雄飛する革命児であることを疑ってはならない。
 第二に、妙法を実践する学徒は、今、どれほどの困難にあろうとも、断じてひるんではならない。恐れてはならない。
 第三に、人類数千年の文化遺産は、ことごとく諸君のために用意されている。したがって、知識に対しては貪欲でなければならない。
 第四に、新しき生命の世紀の動向は、すべて諸君の掌中にあることを知るべきである。
 第五に、喜々として妙法を信じ、行じ、学び、真摯な学徒として行動するならば、輝く知性と、鉄の意志と、頑健な身体は、諸君の生涯のものとなろう。
 そして、「戦う学生部に、栄光の未来に進む諸君に栄冠あれ!」と励ましの言葉を贈り、話を結んだ。
 実に一時間十七分にわたる大講演であった。激しい拍手が堂宇を揺るがした。
 集った一万数千の学徒は、平和への新たな使命を自覚し、若き命を沸き立たせていた。
 この日、この時、アジアを覆う暗夜に、平和の松明が燃え上がったのである。
 伸一の、この講演は、「日中国交正常化提言」として、日中友好の歴史に、永遠にその名を残すことになる。
 講演を終えた伸一は、前年の十月に会談した、クーデンホーフ・カレルギー伯爵との語らいを思い起こしていた。その時、二人は、戦争放棄をうたう日本国憲法に掲げられた平和の理念と精神を、全世界に広げることが日本の使命であるとの合意に達した。
 戦争を放棄するためには、不信を信頼に、憎悪を友情に変え、戦争など起きない友好関係を、すべての国々と築いていく以外にない。イデオロギーの壁を超えた、日中国交正常化の提唱は、その合意の具体的な実践でもあった。
39  金の橋(39)
 アジアの未来を開く燦然たる″希望の光″を放った、歴史的な第十一回学生部総会は、午後一時半に終了した。
 山本伸一の「日中国交正常化提言」は、朝日、読売、毎日をはじめ、翌九日付の新聞各紙が一斉に取り上げた。そのうち毎日新聞は、一面の報道のほかに、四面に解説記事を掲載。そこでは、首脳同士がまず語り合うことを提唱した、国交推進の方法に着目していた。
 ――従来の政府の対応は、できる問題を事務的に処理して、それを積み上げていくという「積み上げ方式」であった。これに対して、大局的な立場から相互理解と信頼によって演繹的に解決をはかるという伸一の提案は、「新しい着想」であると評していた。また、提言は、海外にも発信された。
 中国にこのニュースを打電したのは、秋月英介らと会った、あの劉徳有記者であった。劉は、後に中国文化部副部長(文化省の副大臣)などの重責を担っていくことになる。
 提言のニュースは、新華社発行の海外報道紙「参考消息」の九月十一日付に、一面の四分の一を使って大きく報じられた。伸一の提言を知った周恩来総理は、その内容を高く評価した。
 また、日本の民衆組織である創価学会のリーダーの伸一が、日中友好を熱願し、堂々と主張を発表したことに、感嘆したようだ。この提言は、さらに、日中友好に取り組んできた人たちに、大きな反響を巻き起こした。
 中国文学者の竹内好は、総合月刊誌『潮』の十一月号に、「光りはあったのだ」と題して、提言の感想を発表した。彼は、そのなかで「既成の国交回復運動や友好運動のなかで傷ついた人たち」に向かって、こう呼びかけている。
 「講演を読むことをすすめたい。あなたがたの愚直さ、その愚直さのために傷ついた心、その心をなぐさめる拠りどころの一つがここにあることを指摘したい。それは信仰の相違を超え、また政治的信条の相違を超えて、ひとしく共感できるものである。徳、孤ならず。仁人は稀であるが、天下に皆無ではない」
40  金の橋(40)
 竹内は、戦後、日中友好の運動に身を捧げてきた人物である。しかし、その前に立ちはだかる国家権力の分厚い壁に阻まれ、呻吟し、幾度となく辛酸をなめてきた。希望も失いつつあった。伸一の提言は、そんな竹内の心を、強く揺さぶったようだ。
 竹内は、伸一が戦争の危機を、ひしひしと感じているのがわかったと述べたあと、次のように結んでいる。
 「ここに先憂の士がいる。私は悲観論を変えたわけではないが、一縷の光りを認めたことは告白したい。ご健闘を祈ります」
 また、松村謙三が提言に対して、「百万の味方を得た」と語ったことも伸一の耳に届いた。
 提言を知った学術月刊誌『アジア』からも、すぐに、さらに提言を掘り下げた原稿を発表してほしい旨の依頼が来た。伸一は快諾し、早速、講演の日中提言に関する部分について、学術的な観点から筆を加え、「日中正常化への提言」と題する論文を書き上げた。これは、同誌の十二月号に掲載された。彼は、日中の関係改善のために、徹底して戦い抜く決意を固めていたのである。
 しかし、反響は、決して共感と賛同だけではなかった。伸一が予測していたように、彼は、激しい非難と中傷にさらされなければならなかった。
 学会本部などには、嫌がらせや脅迫の電話、手紙が相次いだ。街宣車を繰り出しての、けたたましい″攻撃″もあった。宗教者が、なぜ″赤いネクタイ″をするのかとの批判もあった。
 また、学生部総会の三日後の十一日から開かれた日米安全保障協議の席でも、外務省の高官が、伸一の提言を取り上げ、強い不満を表明した。提言は、「中国に対して、ひどく誤った期待を高めさせる」もので、日本政府の外交の障害になるというのだ。アメリカの駐日大使、在日米軍司令官らとの協議の席での、露骨な非難である。山本伸一も、創価学会も、日米両政府にとって「害悪な存在」であると、強く印象づけたかったのであろう。
41  金の橋(41)
 日中国交正常化の提言は、伸一が、アジアの平和を願う仏法者としての信念のうえから、命を賭しても新しい世論を形成し、新しい時流をつくろうとの決意で、発表したものだ。だから、いかなる中傷も、非難も、迫害も、弾圧も、すべて覚悟のうえであった。伸一に恐れなど、全くなかった。だが、妻の峯子や子どもたちのことが、気にかかった。家族にも、何が起こってもおかしくない状況であったからだ。
 ″私は死を覚悟しての行動である。だから何があってもよい。しかし、妻や子どもたちまで、危険にさらされるのは、かわいそうだ。せめて、家族には無事であってもらいたい″
 伸一は、夜、帰宅し、妻や子どもたちの姿を見ると、今日も無事であったかと、ほっと胸を撫で下ろす毎日であった。
 ある時、家族を案じる彼に、峯子は微笑みながら言った。
 「私たちのことなら、大丈夫です。あなたは、正しいことをされたんですもの、心配なさらないでください。子どもたちにも、よく言い聞かせてあります。私たちも十分に注意はします。でも、何があっても驚きません。覚悟はできていますから」穏やかな口調であったが、その言葉には、凛とした強さがあった。
 伸一は、嬉しかった。勇気がわいてくるのを覚えた。それは、彼にとって最大の励ましであった。戦友――そんな言葉が伸一の頭をよぎった。彼も微笑を浮かべ、頷きながら言った。
 「ありがとう! 偉大な戦友に最敬礼だ」
 山本伸一は、さらに翌一九六九年(昭和四十四年)六月、聖教新聞に連載中の小説『人間革命』のなかで、日中国交正常化をもう一歩進め、「日中平和友好条約」の締結を強く訴えた。
 「――日本は、みずから地球上のあらゆる国々と平和友好条約を早急に結ぶことである。まず第一に、中華人民共和国と万難を排しても結ぶことである」
 伸一の日中友好への叫びは、打ち寄せる波のように、二度、三度と、強く、激しく、繰り返されたのである。
42  金の橋(42)
 提言から一年半が過ぎた、七〇年(同四十五年)の三月のことであった。
 伸一は、日中友好の先達である松村謙三と会見した。ある新聞記者から、松村が会見を希望していることが伝えられたのだ。学生部総会での提言を知り、ぜひ会って、日中関係について話し合いたいとのことであった。
 伸一は、松村の会見の要請を快諾した。彼もまた、松村の日中友好にかける信念に、強く共感し、深く敬意を表していた。そして、機会があれば、ぜひ会って話を聞きたいと考えていた人物であったからだ。
 松村は、この前年に、八十六歳で半世紀にわたった議員生活に終止符を打ち、代議士を引退していた。引退を表明した挨拶状のなかで、彼はこう宣言した。
 「私には生涯をかけた悲願がございます。私の健康を維持し、この生涯をかけた事業に献身する為には私の活動分野をできる限りこれに限定、集中することもやむをえないことだと感ずるに至りました。この大いなる願いと申しまするのは、『日中両国関係改善』これでございます」
 高齢による、体力の衰えは激しかった。そのなかで、命をかけて、人生の最後になるであろう訪中を決行し、もう一度、周恩来総理と会おうと、決意を固めていたのである。
 松村は、厳しい政治状況のなかで、日中総連絡役という立場で、両国の関係改善に努力に努力を重ねてきた。しかし、彼らが汗と労苦で切り開いた日中貿易のルートは、佐藤政権の中国敵視政策と中国の文化大革命によって、今や風前の灯火となっていたのである。
 燃える志を胸にいだきながらも、限りある命の時間を考えると、彼の胸は、張り裂けんばかりであったにちがいない。そのなかで、あの提言を知り、彼は奮い立ったのだ。そして、日中国交正常化に、全精魂を注ぎ込むことを決意するとともに、伸一と会うことを熱願してきたのである。伸一は、この出会いに運命的なものを感じていた。
43  金の橋(43)
 二人の会見は、なかなか実現しなかった。松村も、伸一も、ともに体調を崩していたためである。松村は、風邪をこじらせて、しばらく伊豆で静養していた。
 その知らせを聞いた伸一は、懸命に祈った。日中友好の日本の柱ともいうべき松村には、一日も早く元気になり、両国の未来のために活躍してほしかった。そして、松村が大好きであるという、蘭の花を届けてもらった。
 一方、伸一も、一九六九年(昭和四十四年)の年末から、風邪をこじらせ、気管支障害で苦しんでいたのである。一時は、四〇度を超す熱があり、その後も微熱が続いていたのだ。ペンを持つことさえも困難になり、小説『人間革命』も口述をしてテープに吹き込み、連載を続けるような状態であった。
 しかし、七〇年(同四十五年)三月十一日、ようやく会談は実現した。早春のやわらかな日差しが、庭の芝生を優しく包んでいた。伸一は、渋谷区内の創価学会分室で、松村謙三の来訪を待っていた。
 そこには、この年の一月に新設された副会長になった十条潔や、総務の山道尚弥、そして、伸一に松村を取り次いだ新聞記者もいた。
 正午前、一台の黒い車が到着した。ドアが開き、和服姿の、メガネをかけた老紳士が、車からゆっくりと姿を現した。松村である。
 中国の大地を駆け巡ってきたその足は、既におぼつかなかった。耳も少し不自由のようであった。しかし、古武士の風格が全身にあふれていた。
 伸一は、さっと歩み寄ると、松村の腕を自分の肩に回すようにして、彼の体を支えた。
 「若い私の方から出向くのが本来ですのに、わざわざお越しいただいて恐縮です。誠に、ありがとうございます」
 松村は、自分の体を支えている伸一の肩に視線を落としながら言った。
 「いやいや、こんなに気を使ってくださって、ありがとうございます。大丈夫です。一人で歩けますから」
 伸一は恐縮する彼を支え、応接室に案内した。
44  金の橋(44)
 松村が、イスに腰かけると、伸一は、威儀を正して語った。
 「先生のご功績に対して、かねがね尊敬申し上げておりました。このたびは、また中国に渡って、日中関係の打開のために尽力されると伺いました。アジアの平和、ひいては世界平和のために、どうか今後ともご活躍くださることを、切に念願しております」
 「ご丁寧に、恐れ入ります。私は、あなたの提言で、百万の味方を得た思いでございます」
 松村は、この時、八十七歳であり、伸一より四十五歳も年上であった。だが、伸一に対する松村の言葉遣いは、まことに丁重であった。
 時計は正午を回った。松村と伸一、そして、松村の子息、また、松村が信頼を寄せる与党の代議士、さらに、十条潔の五人が別室に移り、寿司をつまみながらの会談が始まった。松村は、日中問題について、情熱を込めて語り始めた。
 「中国は、偉大な国です。将来、必ず大発展するでしょう。日本の未来と平和のために、日中の共存共栄は不可欠です」彼は、自分の率直な思いを、次々に、伸一に訴えていった。
 「日中の友好といっても、互いに本当のことを話し合うことが大切です。それが厚い信頼につながっていきます」
 松村の話は、簡潔であった。だが、その言々句々に日中関係の改善を願う熱い心情があふれていた。いや、命をかけていることが実感された。
 二人は意気投合した。信念と信念が強く共鳴し合い、旧知の間柄であるかのように、語らいは弾んだ。
 しばらくすると、松村は、身を乗り出すようにして、ひときわ高い声で伸一に言った。
 「あなたは中国へ行くべきだ。いや、あなたのような方に行ってもらいたい。ぜひ、私と一緒に行きましょう」その声には、切実な響きがあった。
 ″国交正常化は、自分の存命中にできないかもしれない。だからこそ、今のうちに、未来のための盤石な手を打っておかなければならない″そんな、切迫した心情を、伸一は感じ取った。
45  金の橋(45)
 松村は、日中友好を託すべき後継者を、懸命に探し求め、育もうとしていたのであろう。今回の訪中にも、これはと思う人物を連れていこうと決めていたようだ。松村は、続けてこう語った。
 「ぜひとも、あなたを周恩来総理に紹介したいのです」
 松村と周恩来は、いわば日中の両岸にそびえ立つ大柱であった。これまでの日中友好の歩みは、この柱と柱の間に、綱を渡す作業であったともいえよう。今、その一方の柱が、残された命の時間を推し量り、後事を託すために不自由な老躯を運び、周総理に紹介したいというのだ。
 松村の思いが、痛いほど伸一の胸に染みた。自分への期待を、ひしひしと感じた。
 しかし、伸一は、どこまでも冷静に考え抜いた。″今、民間人の自分が訪中して、本当に有効な仕事ができるのか。また、ほかによい方法はないのか。国交回復の推進は、基本的には政治の次元の問題である。表に立つのは政治家でなければ、有効に物事を進めることはできない。
 また、今は文化大革命の嵐が吹き荒れ、中国の国内では、宗教の否定に躍起になっている。そんな渦中に、宗教者の自分が訪中すれば、松村氏にも、招聘した中国の関係者にも、迷惑がかかるかもしれない……″
 伸一は答えた。「大変にありがたいお話です。恐縮いたしております。しかし、私は政治家ではありません。その私が今、中国に行くというのはどうでしょうか。
 私は宗教者であり、創価学会は仏教団体です。今の中国は社会主義体制です。その国に、宗教者の次元で行くわけにはいかないと思います」
 松村の顔が曇った。伸一は言葉をついだ。
 「もちろん、松村先生のお心はよく存じております。ご依頼も、よくわかりました。
 しかし、国交を回復するには、政治の次元でなければできません。したがって、宗教者の私が行くのではなく、私の創立した公明党に行ってもらうように、お願いしようと思いますが、いかがでしょうか」
46  金の橋(46)
 伸一の言葉に、松村は頷いた。顔には安堵の色が浮かんでいた。
 「実にありがたい。わかりました。公明党のことも、山本会長のことも、全部、周総理にお伝えします」
 伸一は、深く、頭を垂れた。
 「本当に恐縮です。私は、今はまだ、訪中はできませんが、時機を見て、必ず中国にまいります」
 約一時間にわたる会談は終わった。
 ″松村先生の志を、受け継がねばならない″と、伸一は心に誓った。彼は、別れ際、訪中の成功への思いを託して、松村に花束を捧げた。この九日後、松村は、中国に旅立っていった。羽田の空港では、タラップまで、車イスを使わねばならないほど、体の衰弱は激しかった。
 ″日中の国交の流れを開くのだ。生きて日本の土を踏めずともよい″との覚悟を決めての、壮絶な出発であった。家族もまた、「仮に中国に行って倒れるようなことがあっても、おそらく本望でしょう」と考えて送り出したのである。
 この訪中での松村の立場は、三度目の「覚書貿易」の交渉の後見役であった。交渉は難航したが、四月十九日、協定の調印が行われ、彼は周総理と会見した。その直後、彼の側近から東京に連絡が入った。
 「松村先生は山本会長のことを、間違いなく周総理にお伝えしました。総理は『山本会長に、どうかよろしくお伝えください。訪中を熱烈に歓迎します』と、述べておられました」
 公明党の訪中が実現したのは、その翌年の一九七一年(昭和四十六年)の六月である。
 出発を前に、伸一を訪ねてきた党の幹部に、彼は言った。「私の名前を出す必要は、一切ありません。あくまでも、誠心誠意、中国の指導者の話を伺い、誠心誠意、友好を進めていくことです」
 公明党の訪中団は、日中国交正常化の基本的な条件について合意を得ようと、勢い込んで出発した。
 松村は、この時、既に病床にあった。二月に入院して以来、病床を去れずにいたのである。
47  金の橋(47)
 中国では、初訪問の公明党との交渉に、中日友好協会副会長の王国権(ワン・グオチュエン)らがあたった。それは、廖承志、孫平化などの対日関係のエキスパートが、文化大革命の影響で一線を退いていた時期にあって、最も強力な布陣といえた。この一点からも、周恩来総理が、創価学会が母体となって誕生した公明党を、いかに重要視していたかがわかる。
 六月十八日、歓迎宴が開かれたが、その際、公明党の訪中代表団は、戦時中の軍国主義による侵略を心から謝罪した。
 中日友好協会代表団との会談は、翌十九日から、北京のホテルで行われ、国交正常化の条件をめぐって、率直に意見を交わし合った。公明党側は、国交正常化のために主張してきた、「一つの中国」「台湾は中国の不可分の領土」「日台条約は廃棄すべき」「中華人民共和国の国連加盟」などの見解を語った。
 中国側も、これらの主張には、賛同の意を示したが、アメリカのアジア政策に対する認識をめぐっては、なかなか合意に至らなかった。
 中国側は、アメリカのアジア政策は、「アメリカ帝国主義の侵略」であるととらえていた。そして、日本政府が日米安保体制を維持していることは、これに加担するものであり、「日本軍国主義の復活」であると主張した。
 それに対して、公明党は、インドシナ三国などからの米軍の撤退は主張したが、基本的には、アメリカとの友好関係を尊重していた。したがって、公明党としては、同意することはできかねたのである。
 何度も小委員会を開いて、討議を重ねたが、議論は平行線をたどった。そのため、国交正常化の基本的な条件を示せる共同声明の発表の見通しは立たなかった。
 訪中団の顔には、落胆の色がにじみ、重苦しい雰囲気に包まれていた。二十七日、彼らは荷物をまとめ、帰国の準備を始めた。
 その時、周総理との会見が伝えられたのだ。翌二十八日の午後十時(現地時間)、会見会場の人民大会堂に到着した一行を、周総理らが温かく出迎えてくれた。
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 会談が始まった。周総理は、丁重な口調で言った。
 「どうか、山本会長にくれぐれもよろしくお伝えください」その言葉には、深い信頼の響きがあった。
 メンバーは、真っ先に山本会長への伝言が伝えられたことに、驚きを隠せなかった。総理は、山本会長の日中友好への命がけの取り組みを、知悉しているのだと実感した。
 公明党の訪中団の一人が、周総理に、国交を正常化し、日本と平和条約を結ぶ条件とは何かを、率直に尋ねた。周総理は語り始めた。
 「公明党が成立してから、皆さんの主張に注目してきました。皆さんは中日関係について、よい意見をもっており、私たちも、高く評価しております。このたび、私たちが皆さん方をお招きしたのも、こういうことから出発しています」
 公明党は、結党に対して山本伸一から提案された日中国交正常化を、外交政策の柱としたが、総理は、そこに着目してきたのである。さらに総理は、「皆さんは、どうすれば中日国交の回復ができるか、正しい意見をおもちです」と前置きして、公明党の主張を確認するように列挙していった。
 (1)一つの中国を認め、中華人民共和国が中国人民を代表する唯一の正統政府と認めている。
 (2)「二つの中国」「一つの中国、一つの台湾」に反対し、台湾は中華人民共和国の一つの省であることを認め、台湾の帰属未定論という誤った見解に反対している。
 (3)日台条約は不法であり、廃棄すべきであると主張している。
 (4)アメリカの軍事力が台湾と台湾海峡を占領したことを侵略と認め、すべての外国軍隊は、これらの地域から撤退すべきであると主張している。
 (5)中華人民共和国が国連のすべての組織において、安全保障理事会常任理事国としての合法的な地位を回復すべきであると主張している。
 これらは、伸一の日中国交正常化提言に賛同した公明党が、その考えを基礎にして、つくり上げてきた政策であった。
 周総理は、メンバーに視線を注ぎ、微笑を浮かべた。
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 周総理は断言した。
 「公明党の主張する、この五つの点が実現すれば、日本政府と中華人民共和国政府との国交を回復することができ、戦争状態を終わらせることができます。
 さらに皆さんの期待している中日友好が進み、中日両国は平和五原則に則って平和条約を結び、なお、それにとどまらず、相互不可侵条約を結ぶ可能性もあります」
 訪中団のメンバーが重ねて尋ねた。
 「日中国交回復のためには、双方が、すべての点において、意見が一致しなければならないとお考えですか」
 「すべての点で一致することは不可能です。私たちは中国共産党で、皆さんは公明党です。世界観も、立場も違います」そして、こう明言したのである。
 「すべての意見の一致が国交回復の条件ではありません」
 周総理の言葉は、訪中団にとって、全く予想外であった。
 前年秋の社会党訪中団との共同声明では、「米帝国主義と日本軍国主義の復活への反対」や「日米安保条約の廃棄」などが盛り込まれ、国交回復の条件とされてきた。
 また、訪中してからの公明党との交渉でも、中国側は、盛んにそれを主張していたのである。日本政府としては、中国側が、反米や日米安保条約の廃棄を条件とする限り、国交正常化には、とうてい動きだすことはできなかった。
 ところが、周総理は、それを覆して、極めて柔軟な姿勢を見せ、日本政府が、公明党の五つの主張を受け入れるならば、中国は国交正常化に踏み切ることを、明らかにしたのである。訪中団の顔が輝いた。
 実は、この年の四月、中国はアメリカの卓球チームを招待し、両国の新たな関係が築かれつつあった。水面下にあって、歴史を画する、大きな動きが起こり始めていたのである。
 翌六月二十九日から、公明党の訪中団は中国側と、国交正常化の条件を示すことになる共同声明の作成に入り、三十日には、内容、表現ともに、ほぼ合意に達した。
 そして、遂に七月二日、公明党訪中代表団と中日友好協会代表団との共同声明の調印が行われたのである。
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 中国と公明党の共同声明が発表されると、日中国交への機運は、次第に高まっていった。
 ここに示された条件なら、日本政府としても、了承できるはずだとの見方が、世論となっていったのだ。国交正常化の基本条件が明示された、この共同声明は、「復交五原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となったのである。
 共同声明の発表から二週間ほどした七月半ば、人びとが予想だにしなかったニュースが世界を駆け巡った。アメリカのニクソン大統領が、突如、テレビ放送で、翌年五月までに訪中する計画があることを発表したのである。そして、すでに極秘裏のうちに、大統領補佐官のキッシンジャーが訪中し、周恩来総理と会見していたことが明らかになった。
 最も大きな衝撃を受けたのは、アメリカの反共政策に同調し、中国に対して非友好的な態度をとり続けてきた、日本政府であったにちがいない。
 アメリカは、冷戦構造のなかで中国を敵視してきたアジア政策の、大転換に踏み切ったのだ。日本の中国政策の変更も、もはや時間の問題となった。
 山本伸一は、歴史の歯車は、いよいよ動き始めたと思った。彼は、あの学生部総会で、まず日中の両国首脳が話し合い、基本的な平和への意思を確認し、細かい問題の解決を図るべきだと提案したが、それを、米中首脳が先に行おうとしているのである。日本政府の優柔不断さが、伸一は残念でならなかった。ニクソン訪中計画のニュースを、松村謙三は病床で知った。彼も同じ思いであったようだ。雷雨が激しく窓を叩く病棟で、彼は力を振り絞るようにして語った。
 「世界平和のためにいいことだ。これからわが国としても、打つべき手はある。首相が中国へ行くことだ!」
 その松村は、八月二十一日、日中国交の橋を見ずして、八十八歳の生涯を閉じた。
 伸一は、その知らせを涙で聞いた。そして、故人の遺徳を讃え、世界平和への誓いを記した、長文の弔電を送った。
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 ほどなく、日本政府も中国への外交政策を転換することになる。しかし、それは自らの信念によってではなく、″状況の変化″に従ったにすぎなかった。
 時代は、日中国交正常化へ、急速な勢いで進んでいった。また、国連でも、中国の代表権を認める国が大半を占めていった。この一九七一年(昭和四十六年)十月の国連総会では、中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の政府であることを認め、台湾の国民党政府にかわって、国連に招請すべきだとするアルバニア案が、七十六対三十五の大差で可決された。
 そして、翌七二年(同四十七年)の二月には、ニクソン米大統領が中国を訪問。米中は、日本の頭越しに国交樹立へと踏みだしたのである。
 七月、田中角栄内閣が発足した。外相は大平正芳であった。公明党は、この年の五月と七月、中国へ代表団を派遣した。
 田中内閣発足直後の七月の訪中では、国交回復への政府とのパイプ役を務めた。公明党の訪中団は周総理と、国交回復の具体的な問題点を、一つ一つ煮詰めていった。
 日中国交の実現に際して、日本政府には、幾つかの憂慮があった。その最大の難問が、日本が中国に与えた戦争被害の賠償問題であった。一九三七年(昭和十二年)から終戦に至る八年間の、中国抗日戦争中での中国側死傷者は三千五百万人、経済的損失は直接・間接を合わせて、総額六千億ドルともいわれる(一九九五年、中国政府発表)。日本がそれを支払うことになれば、日本経済は破綻をきたし、経済発展など、思いもよらなかったにちがいない。
 しかし、周総理は、公明党との会談で、中国は対日賠償を放棄すると語ったのである。
 ″かつて中国は、日清戦争に敗れ、日本に多額の賠償を払った。そのため、中国の人民は重税を取り立てられ、塗炭の苦しみをなめた。戦争は一部の軍国主義者の責任だ。日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦しみを、日本の人民に味わわせてはならない″
 それが、周総理の考えであったのだ。
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 周総理は、公明党との最後の会談の折、これまで話し合ってきた事柄をまとめた、日中共同声明の中国側の草案ともいうべき内容を読み上げていった。
 公明党の訪中団は、必死にメモし、帰国後、それを田中首相、大平外相に伝えた。
 そこには、日米安保条約の見直しなど、日本に苦渋の選択を迫るような問題は、いっさいなかった。首相も、外相も、安堵した。日中の未来に、確かなる光が差した。こうして、電撃的なスピードで、田中首相の訪中が可能となったのだ。
 なぜ、この時、中国との交流の歴史も浅い公明党が、国交正常化のパイプ役となりえたのか――それは、一つの″謎″とされてきた。
 中日友好協会副会長の黄世明(ホアン・シーミン)、新華社の元東京特派員の李徳安(リー・ダーアン)は、ともに、山本伸一の「日中国交正常化提言」によるものと語っている。
 提言を高く評価した周総理は、その伸一が創立した党である公明党に、大きな信頼を寄せたというのである。
 伸一は、平和を願う一人の人間として、言うべきことを言い、行うべきことを行ってきたにすぎないと考えていた。また、自分、歴史の底流をつくればよい。日中の国交正常化が実現できれば、自分のしたことなど、誰も知らなくてよいと思ってきた。
 ところが、周総理は、公明党に光をあて、提言を行った伸一への、厚情を示してくれたのだ。伸一は、総理のその誠実さに、「飲水思源」(水を飲む時、源を思え)との、中国の名句が思い起こされ、胸が熱くなるのを覚えた。
 田中角栄首相をはじめとする政府の代表団一行が、中国の大地に立ったのは、一九七二年(昭和四十七年)の九月二十五日のことであった。
 そして、二十九日午前十時十八分(現地時間)――。北京の人民大会堂で、日中共同声明の調印式が行われた。日中両国は、遂に歴史的な瞬間を迎えたのである。そのニュースに、日本中が沸き返った。
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 田中角栄、周恩来の両国首相、そして、外相が厳粛に声明に署名し、首相同士が、何度も固い握手を交わした。ここに、中華人民共和国の成立から二十三年にして、遂に日中国交が樹立し、両国の新時代の幕が開かれたのである。
 山本伸一は、この調印式の模様をテレビのニュースで見ながら、深い感慨を覚えた。学生部総会でのあの提言から、はや四年の歳月が経過していた。
 彼は、自分が丹精込めて植えた種子が、ようやく花開いたような喜びを感じていた。また、師の戸田城聖が幸福を願い続けたアジアの、不幸の芽が一つ摘み取られたことが、嬉しくてならなかった。
 テレビは、一衣帯水の両国が、大きな祝福ムードに包まれている模様も伝えていた。
 伸一は思った。″今、日中国交の扉は開かれた。
 しかし、政府レベルの国交だけでは、真実の正常化には至らない。大切なことは、友情の橋、信義の橋を架け、民衆の心と心が、固く、強く結ばれることだ。
 民衆は海だ。民衆交流の海原が開かれてこそ、あらゆる交流の船が行き交うことができる。次は、文化、教育の交流だ。人間交流だ。そして、永遠に崩れぬ日中友好の金の橋を築くのだ!″
 彼のこの決意を知るものは、誰もいなかった。
 山本伸一が、中日友好協会の招きを受け、念願の中国訪問が実現するのは、一九七四年(昭和四十九年)五月三十日のことである。
 伸一を団長とする創価学会の代表団一行は、英国領であった香港の九竜(カオルン)から、列車で香港最後の駅である羅湖(ローウー)まで来た。ここから鉄道に沿って百メートルほど歩き、中国領内の深圳(シェンジェン)に入るのである。
 伸一は、香港と中国の境界の川に架かる鉄橋を渡って、深圳駅の構内に至ると、四年前、最後の訪中に旅立った松村謙三を思った。八十七歳の老躯を車イスに委ね、迫り来る命の時間を、ひしひしと感じながら、国交回復への闘志を燃やして、中国の旅を開始したのであろう。
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 伸一は、心で叫んでいた。″松村先生! 私は、お約束通り、今、中国の大地を踏みました。あなたの志を受け継ぎ、永遠不滅の堅固なる日中の金の橋を、断じて架けてまいります″
 九竜を発つ時に降っていた雨は、既にあがっていた。深圳の空を見上げると、薄雲の間から顔を覗かせた太陽が、微笑みかけているように思えた。
 伸一は、第一次となるこの訪中で、北京、西安(シーアン)、上海、杭州(ハンジョウ)、広州(グアンジョウ)などを訪れた。そして、教育・文化交流の新しい道を開くために、北京大学をはじめ、幼稚園、小学校、中学校などを訪問する一方、中国仏教協会の責任者らと対話していった。
 また、李先念(リー・シエンニェン)副総理、中日友好協会の廖承志会長らと会談し、日中平和友好条約や社会主義と自由の問題、さらに、資源、国連、核兵器の問題等について語り合った。
 工場も視察した。民衆のなかへと、家庭も訪問した。託児所にも立ち寄った。青年たちとも語り合った。深夜の移動の車中も、中日友好協会の孫平化秘書長らと、寸暇を惜しんで対話を重ねた。
 伸一の中国での十七日間は、日中友好の沃野を開くための、全力を尽くしての、間断なき開墾作業であった。
 周総理は、山本伸一との会見を強く希望していた。しかし、彼の滞在中に、癌の手術のために入院したのである。総理と伸一の歴史的な会見が実現したのは、第二次訪中となった、半年後の一九七四年(昭和四十九年)十二月五日のことであった。
 総理は病床にあり、病は重かった。それを聞かされていた伸一は、答礼宴の席上、中日友好協会の廖承志会長から、「周総理が待っておられます」と言われた時、会見を辞退した。総理に負担をかけてはならないとの、思いからであった。しかし、もはや変更できぬ状況のようである。
 伸一は、廖会長の勧めにしたがい、「ひと目、お会いしたら失礼させてください」と言って、会見会場に向かった。
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 周総理が、訪中した伸一に会うと言い出した時、病院の医師団は、全員が反対した。
 「どうしても会見するとおっしゃるなら、命の保証はできません!」
 「いや、私は、どんなことがあっても会わねばならない!」
 困惑した医師団は、総理の妻の鄧穎超とうえいちょう(ドン・インチャオ)に、説得を頼んだ。
 夫人は答えた。「恩来同志が、そこまで言うのなら、会見を許可してあげてください」
 伸一を乗せた車が着いたところは、周総理が入院中の三〇五病院であった。時刻は既に午後十時(現地時間)近かった。
 玄関には、人民服に病躯を包んだ総理が立っていた。その全身から発する壮絶な気迫を、伸一は感じた。待ちに待った対面であった。会見には、伸一の妻の峯子も同席した。
 周総理七十六歳。伸一四十六歳――。
 二人は、固い固い握手を交わした。その瞬間、伸一は、互いの魂と魂が通い合い、熱く脈動し合うのを覚えた。
 瞬きもせずに、彼を見つめる総理の目は、鋭くもあり、また、限りなく優しくもあった。
 「二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとって最も大事な時期です」
 「中日平和友好条約の早期締結を希望します」
 総理の発する一言一言が、遺言のように、伸一の生命を射貫いた。
 彼は、総理の言葉に、″日中の友好の永遠の道を!″との魂の叫びを聞いた。平和のバトンが託されたと思った。
 「桜の咲くころに、再び日本へ」との伸一の申し出に、総理は、寂しそうに微笑み、静かに首を振った。
 「願望はありますが、実現は無理でしょう」
 胸が痛んだ。これが、世々代々にわたる、日中の民衆交流の新しき歴史を開く、一期一会の出会いとなったのである。伸一は、深く、深く、心に誓った。
 ″私は、わが生涯をかけて、堅固にして永遠なる日中友好の金の橋を、断じて架ける!″
 師走の北京の深夜は、底冷えがしていた。しかし、彼の胸には、闘魂が赤々と、音を立てて燃え盛っていた。

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