Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第12巻 「天舞」 天舞

小説「新・人間革命」

前後
2  天舞(2)
 最後に、山本伸一のあいさつとなった。
 彼は、設計・施工者、現場の工事関係者らに感謝の意を表したあと、力強い声で語り始めた。
 「親愛なる代表幹部の皆様方とともに、第三文明建設の新しい雄渾なる第一歩を、この立派な創価文化会館から踏み出せましたことを、私は、最大の喜びとするものであります」
 大拍手が鳴り響いた。
 「広宣流布とは、一口にしていえば、日蓮大聖人の大仏法を根底とした、絢爛たる最高の文化社会の建設であります。
 そして、世界の人びとの幸福と平和を基調とした、大文明の建設であります。
 すなわち、色心不二の大生命哲学を根幹とした、中道主義による文明の開花であります。
 今や、資本主義も、社会主義も行き詰まり、日本も、アジアも、さらに世界も、大きな歴史の流れは、一日一日、一年一年、この中道主義に向かっていることは間違いありません。
 また、それが時代の趨勢であると、私は断言しておきたい。
 この信念をさらに深くもって、仲良く、朗らかに、さっそうと、誇り高く、再び未来への大行進を開始していこうではありませんか!
 日蓮大聖人は、私ども一切衆生のために、茨の道を切り開いてこられました。また、在家の代表であり、大聖人の仏法を実践し抜いてきた創価学会も、同じく、茨の道を歩んでまいりました。
 しかし、今、いよいよ広宣流布の機は、熟しました。
 私たちは力の限り、広布の″金色の道″″黄金の道″を堂々と切り開きながら、新しい前進を開始していくことを、ともどもに誓い合い、本日のあいさつとさせていただきます」
 「文化会館」という新鮮な響きの名称も、山本伸一の提案であった。
 文化は、人間性の発露である。
 ゆえに、優れた文化を創造するには、まず、人間の精神、生命を耕し、豊かな人間性の土壌を培うことである。そして、それこそが宗教の使命といえる。
 その土壌のうえに、芸術、文学はもとより、教育、政治など、広い意味での優れた文化が、絢爛と花開くことを、伸一は確信していたのである。
3  天舞(3)
 落成入仏式に続いて、午後一時からは、創価文化会館の落成を祝賀するオープニングショーがホールで開催された。
 第三文明建設への開幕となる、広布の第二ラウンドの初舞台である。
 スポットライトに照らされての琴の独奏で幕を開けた舞台は、祝典の日本舞踊に移った。
 「雪」「月」「花」の三部からなる、総勢二十六人の芸術部員による、華麗なる舞台である。
 なかでも、「雪」の部で、十界論を基調に、生命の変化を表現した創作舞踊は、多くの観客を魅了した。
 これは、芸術部のメンバーが、仏法を根底にした新しい芸術の創造をめざして、思索を重ね、創り上げたものであった。
 苦しみの地獄界から平穏な心の人界へ、さらに人界から喜びの天界へ――と変化しゆく、人間生命のダイナミズムを、江戸末期の風俗を通して表現した舞踊には、新しき文化創造の気概が脈打っていた。
 舞台は、一転して「現代のリズム」に変わり、ダンス、ハワイアンの演奏などが続き、次いで合唱となった。
 都民合唱コンクール一位の実績を誇る、女子部の富士合唱団が、「さくら」など三曲を披露すれば、富士少年合唱団、希望少女合唱団が、「風車」など八曲を、はつらつと合唱。
 歓喜の熱唱に、大拍手がこだました。
 オープニングショーの掉尾を飾ったのは、富士交響楽団による演奏であった。
 ベートーベンの交響曲第五番″運命″の調べが場内を圧した。
 われらの手で、人間文化の花を咲かせゆかんとする、力強い、魂のこもった演奏であった。
 山本伸一は、青春時代から、この″運命″を、こよなく愛してきた。
 不自由な耳、次々と襲いかかる苦難の嵐――しかし、その運命の怒濤に、敢然と立ち向かっていったベートーベン。
 伸一は、この曲に、楽聖の魂の凱歌を聴く思いがしていたからである。
 ″無名の民衆である創価の同志もまた、宿命を使命に転じて、自らの運命に打ち勝ってきた。
 そして今、その凱歌のなかに、新しき人間文化の創造に立ち上がろうとしているのだ!″
 そう思うと、伸一の胸は高鳴るのであった。
4  天舞(4)
 東京・信濃町の創価文化会館に引き続いて、関西文化会館も大阪・天王寺区に完成。九月の十日には、山本伸一が出席して、盛大に落成入仏式が挙行された。
 その後、文化会館は、全国各地に、そして、世界各地に建設されていくことになる。
 それは、仏法を基調に平和と文化を推進する創価学会を、象徴するものとなったのである。
 伸一は、関西文化会館の落成入仏式を終えると、四国・九州指導に向かった。
 そして、十一日に高松で行われた四国の幹部大会の席上、四国のモットーとして、「楽土建設の革命児たれ」を発表したのである。
 彼は、この年、全国を回りながら、広布の第二ラウンドの出発にあたり、活動の旗印として、各方面のモットーを示してきたのであった。
 関西に対しては、既に一九六四年(昭和三十九年)の一月に、「常勝関西」「つねに勝利の関西たれ」と訴えたが、この六七年(同四十二年)六月、再度、「常勝関西たれ」をモットーとして確認した。
 次いで七月に入ると、九日の九州の幹部大会で「つねに先駆の九州たれ」を、十日の中部の幹部大会で「広布の堅塁・中部たれ」を、十五日の東北の幹部大会では「人材の牙城・東北たれ」を発表した。
 さらに、八月には、二十一日の北海道の幹部大会で「新しき時代の開拓者たれ」を、二十六日の中国の幹部大会で「広布の新しき潮流たれ」を示してきた。
 伸一は、九月十一日の四国に続いて、十月十八日には、「全国の模範・東京たれ」とのモットーを、東京周辺の各県も含めた首都圏のメンバーに贈った。
 これで、日本国内の各方面(当時)のモットーが、すべて決まったのである。
 前進には、具体的な目標とともに、使命、決意を端的に表現した、合言葉が必要である。
 そのモットーを、常に確認し合うことで、原点に立ち返り、新しい心で出発することができる。
 また、使命と誇りを呼び起こしていくこともできる。
 伸一が、各方面に示したこのモットーは、その後、各地の伝統精神となっていくのである。
5  天舞(5)
 前日の雨もあがり、美しく、さわやかな日本晴れが広がっていた。
 一九六七年(昭和四十二年)十月十五日――。
 東京・国立競技場で、世紀の大祭典・東京文化祭が、晴れやかに開催されたのである。
 すべてが、未曾有の祭典であった。
 すべてが、感動の大ドラマであった。
 すべてが、歓喜の大絵巻であった。
 すべてが、希望の未来を映し出していた。
 出演者は人文字の四万二千人を含め、六万二千人で、学会の文化祭史上、最も大規模なものとなった。
 前年秋に雨の甲子園球場で行われた、あの関西文化祭では、人文字二万二千人、出演者総数が四万一千人であった。
 また、三年前(一九六四年)にも、この国立競技場を使って、第二回文化祭が行われていたが、その時の人文字は三万人、出演者総数は四万五千人であった。
 それらを、はるかに上回る空前の規模の大文化祭である。
 この年の元日付の聖教新聞に、山本会長を囲む座談会が掲載されたが、そのなかで伸一は、こう訴えていた。
 「十月に東京で大文化祭を開催しよう。
 文化祭は、創価学会がいかに文化の向上に真剣であり、平和文化を愛好しているかということを示す縮図です。
 その姿を多数の来賓を招いて、見ていただこうではありませんか。
 これまでの文化祭を見た人たちは、学会に対する認識をあらためている人が多い。論より証拠として」
 記事を見た首都圏のメンバーは、文化祭を楽しみにし、希望としながら活動を進めてきた。
 また、男女青年部の首脳幹部たちは、「あらゆる面で、史上最高の文化祭にしていこう」と、決意し合ったのである。
 そして、五月三日の本部総会で、広布の第二ラウンドに入ったことが発表されると、″新時代開幕の文化祭を、我らの手で断じて大成功させよう!″と、その決意は、ますます堅固なものとなっていった。
 さらに、文化祭の直前の十月十二日に、正本堂建立発願式が行われることから、この文化祭は、世界平和の根本道場たる正本堂建立の、前夜祭と意義づけられたのだ。
6  天舞(6)
 東京文化祭の準備が本格的に始まったのは、六月下旬からであった。
 泉田理事長を委員長とする東京文化祭実行委員会が設置され、そのもとに、青年部の準備委員会が発足したのである。
 演技・演出の責任者は、副男子部長の久保田直広であった。
 彼は、民音(民主音楽協会の略称)の職員として、海外から招聘したソ連(当時)のノボシビルスク・バレエ団やベルギーの二十世紀バレエ団などの受け入れにあたり、舞台の研究をしてきた。
 その経験から、文化祭を一つの舞台ととらえ、全体を貫くテーマを設けようと考えた。
 これまでに行われてきた文化祭では、一貫したテーマのもとに、演目を構成するということはなかった。
 彼の頭にイメージとして浮かんだのは、一九三〇年(昭和五年)の学会創立以来、七年ごとに大きな前進の節を刻んできた、「七つの鐘」であった。
 彼は、このうち、戸田第二代会長亡きあと、山本伸一が後継の弟子として立ち上がり、第三代会長に就任し、怒濤の前進を開始した「第五の鐘」(一九五八年〜六五年)からの、広布の流れを表現しようと思った。
 そして、「第六の鐘」が鳴り終わる七二年(昭和四十七年)の、正本堂建立に向かって喜びの大行進を続ける、創価の友の姿を描こうと考えたのである。
 さらに、三月の臨時本部幹部会で、山本会長が提唱した、「緑の森と噴水のなかにそびえる高層都市・大東京」の構想や、いよいよ翌年に迫った創価中学・高校の開校という、希望のビジョンも謳い上げたかった。
 その全体を貫くテーマは、「世界平和」しかないと、彼は思った。
 それは、この年が、戸田城聖の「原水爆禁止宣言」から十年にあたっており、広布の第二ラウンドに入った今、いよいよ平和建設のために、本格的に立ち上がる時代を迎えたと、自覚していたからである。
 また、全同志が、その完成を待望し、指標としている正本堂こそ、平和祈願の根本道場であるからだ。
 問題は、それらを、いかに総合芸術としてまとめ上げるかであった。
7  天舞(7)
 久保田直広は、舞台の進行は、ナレーションや笛の合図などで行うのではなく、間断なく流れる音楽に合わせて、流麗に場面を展開させたいと考えた。
 それによって、一つの舞台としての、一貫した流れをつくることができるからだ。
 文化祭の準備委員会に先立って、青年部の首脳幹部で企画の原案の検討を行った折、久保田は、そのアイデアを語った。
 多くの人が、彼の着想のすばらしさには感嘆したが、実際に行うことには難色を示した。
 すべてを、音楽に合わせて進行するということは、途中、どこか一カ所でも滞ってしまえば、全体が失敗してしまうことになる。
 しかも、会場は劇場ではなく、競技場である。決して音響効果はよいとはいえない。
 十分に音楽を聴き取ることができるかどうかも危ぶまれた。
 成功すれば、すばらしいが、危険度も、あまりにも高かった。
 しかし、これまでの壁を破って、新しいものを生み出すには、新しい挑戦が必要である。
 結局、困難を覚悟のうえで、青年たちは、この試みに挑戦しようということになり、久保田の発想をもとに、演目の原案がつくられていった。
 六月二十四日、東京文化祭の初の準備委員会が開かれた。
 ほぼ原案通りに大綱が決まり、各部で出演者を募り、準備が進められることになった。
 各演目ごとに練習が開始されたのは、七月中旬のことであった。
 東京文化祭まで、約三カ月。この日から、晴れの大舞台をめざして、自身に挑み抜く、それぞれの人生ドラマが織りなされていったのである。
 国立競技場は、中天に昇った、まばゆい太陽の光に包まれていた。
 スタンドを埋めた、人文字メンバーも含め、七万余の人びとは、期待に胸を躍らせながら、刻一刻と迫る、午後一時の開会を待っていた。
 来賓も、財界人、言論人、学者、各国の駐日大使など五千人が出席。
 また、外務大臣や文部大臣などの閣僚や、都知事をはじめ東京近県の知事、野党のリーダーなど政治家の顔もあった。
8  天舞(8)
 「ドドーン!」
 東京文化祭の開始を告げる、祝砲が上がった。
 それまで、白かったバックスタンドの人文字席に、金、銀、赤、黄、緑など、十三色の横縞の幕が浮かび上がり、荘重な音楽に合わせて、左右に開かれていった。
 そして、富士が描き出された。
 観客席から、感嘆の声があがった。
 「ゴーン」
 荘厳な鐘の音に合わせて、富士は、暁闇から黎明へ、次第に姿を変え、明るさを増していった。
 鐘は五たび打ち鳴らされた。「第五の鐘」の開幕である。
 既に人文字は、観客を魅了していた。
 富士を背景に、一斉に五千羽の鳩が放たれた。
 鳩は、天高く舞い上がり、競技場の上空を旋回し、青空に吸い込まれていった。
 大拍手が起こった。
 鳩たちの見事な、リハーサルなしの名演技であった。
 この五千羽の鳩を集めることは、容易ではなかった。
 係の男子部員は、東京、関東一帯を、くまなく歩き回り、鳩小屋のある家を見つけては、鳩を貸してくれるように、交渉にあたった。
 九月下旬、担当の男子部員が鳩集めに苦労しているという話が、聖教新聞に紹介された。
 その記事を見て、岩手県に住む兄弟から、自分たちの飼っている鳩二羽を使ってくださいと、手紙が来た。
 自分たちは、東京文化祭には参加できないが、代わりに鳩を参加させたいとの思いで、手紙を記したのである。
 福岡県の青年からも、鳩が届けられた。
 鳩を飼っている人たちの協会も、全面的に、協力してくれた。
 鳩係のメンバーは、各所から借りる、大切な鳩に、怪我や病気があってはならないと、扱い方も勉強した。
 鳩が集結した前日からは、メンバーが徹夜で警備にあたった。
 そして、この瞬間、五千羽の鳩は、太陽の光をいっぱいに浴びて、希望の羽音を響かせながら、青空高く飛翔したのだ。
 富士が消えると、白地に赤と青の、「1967 東京文化祭」の文字が浮かび、バックスタンドいっぱいに広がった。
9  天舞(9)
 バックスタンドの人文字は、中央に一輪の牡丹を描き出した。
 その牡丹が次第に大きくなり、スタンド中を埋め尽くした。
 そして、紅白梅が現れたかと思うと、桜の蕾が描かれ、それが開花していく。さらに、菜の花、スミレ、バラと人文字は変わり、花園のなかを子鹿が駆ける。
 まさに、スタンドという大画面に展開された、大アニメである。
 人文字は、三年前(一九六四年)の十一月に、この同じ国立競技場で行った第二回文化祭で、″団結の演技″として脚光を浴びた。
 バックスタンドのメンバーが、何色もの色彩板を使って、次々と文字や絵を描くという本格的な人文字が、この時に登場したのである。
 一九六六年(昭和四十一年)の、雨の関西文化祭では、さらにその技術に磨きがかけられ、アニメのように、″動く人文字″が披露された。
 それがマスコミにも取り上げられ、人文字は、学会の文化祭の目玉ともいうべき演目になっていたのである。
 東京文化祭の人文字の関係者は決意した。
 ″未だかつてない、最高の団結美を、新しい芸術をつくりあげよう!″
 そして、関西文化祭の人文字が五十二種類の絵であったのに対して、東京文化祭では、二百七十九種類の絵が、大スタンドに描き出されることになったのである。
 この絵柄を作成したのが、洋画家や日本画家、グラフィックデザイナー、イラストレーターなど、三十人ほどの芸術部員であった。
 グラウンドでの演技が決定をみるにつれて、メンバーの作業は忙しさを増していった。
 その演技の内容に即して、人文字の下絵をつくり上げていくのである。
 説明として聞かされるのは、「青春の歓喜」や「未来都市」ということだけである。
 そこからイメージを考え、具体的な絵柄にしなければならない。
 皆で意見を出し合っているうちに、夜が明けてしまったこともあった。
 下絵を描き上げても、検討の結果、ボツになるものも多かった。
 人文字のすべての絵が決定するまでに、原画として出された下絵は、三千枚とも五千枚ともいわれる。
10  天舞(10)
 下絵の制作にあたった芸術部員のなかには、日展で特選を受賞した画家や、ある美術協会の創立会員として名を連ね、世間によく名の通った画家もいた。
 その著名な画家たちがつくった下絵も、容赦なくボツになった。
 検討するメンバーは、それを誰が描いたのか知らなかったし、皆が感嘆し、納得のいく絵でなければ、審査はパスしなかったからだ。
 だが、何度、ボツになろうが、そのことで文句を言ったり、やめると言い出す芸術部員は一人もいなかった。
 皆、自分の画壇での立場も権威も、かなぐり捨てていた。
 メンバーは、皆で力を合わせ、後世に残る最高の人文字をつくることに徹しきろうと、心を定め、集って来たのである。
 だから、絵がボツになると、自分の絵のどこに問題があったのかを真摯に思索し、挑戦の意欲をますます燃え上がらせるのであった。
 およそ、一般社会では考えられない、この姿を見て、若手の芸術部員が著名な画家に言った。
 「高名な先生が、ボランティアで、人文字の下絵を描かれるとは思いませんでした」
 すると、彼は笑いながら答えた。
 「私は、画家である前に学会員ですからな。
 一会員として、広宣流布の新時代を開く文化祭のために、何ができるかを考え、応援させていただいているんです。
 この文化祭は、映画にもなるそうですから、何百万という人が、文化祭を見ることになる。
 その人たちに、心から感動を与え、生きる勇気と希望を与えるお手伝いができるなんて、すごいことじゃないですか。
 さらに、この作業が、仏法のすばらしさを証明していくことにもなる。
 こうした偉業にかかわれるというのは、まさに千載一遇ですよ。
 また、いろいろな考えや画風の人が、力を合わせて、新しい芸術を創り出すことなんて、滅多にあるもんじゃない。
 普段は自分の世界に閉じこもっているだけに、この機会は、私にとっては、新しい刺激と発想が得られるチャンスだと思っています。
 今回の作業を通して、狭量な自分の殻を破り、境涯を開きたいと考えているんですよ」
11  天舞(11)
 日を追うごとに、人文字を制作するメンバーの仕事は増え、作業会場に泊まり込んで、絵を描き続ける人もいた。
 そのうえ、八月中旬からは、新たな作業が加わった。
 バックスタンドの正確な測量に基づいて作られた人文字の座席図に、採用された下絵を、一マス一マス、色を塗り、描き写していく作業である。
 座席図は、バックスタンドの縦と横の比率に合わせ、縦三十五センチメートル、横三メートルという、帯のような形になっていた。
 この形に合わせるために、時には下絵を大幅に修正することもあった。
 座席図のマスの数は四万二千マスで、一マスを塗るのに三秒かかるとすると、一枚を仕上げるのに、十二万六千秒、実に三十五時間もかかることになる。
 その座席図を、実際には使用しなかったものも含め、四百五十枚ほど、制作することになった。
 座席図を間に合わせるには、作業に携わるメンバーを、大動員する必要があった。
 芸術部で作業の協力を呼びかけると、二百人に及ぶ芸術部員が応援を買って出てくれた。
 だが、芸術部員は画家ばかりではない。俳優や音楽家など、絵とは関係のない人も多い。
 でも、そうしたメンバーが、「なんでもやらせていただきます」と言って、集って来てくれたのである。
 毎日のように、神奈川・大船の撮影所から駆けつけ、作業に励む女優もいた。ピアノ奏者も、声楽家も、茶道家もいた。
 皆、自分の仕事を行いながらの作業である。
 昼に来て作業をする人もいれば、夜から朝にかけて行う人もいた。作業会場は、二十四時間、フル回転であった。
 こうしてできあがった座席図をもとに、一人ひとりが、どこで、何色の色彩板を上げるかを番号で示した、「個人番号表」がつくられることになる。
 それにしたがって、合図一つで色彩板を上げる練習が、繰り返されていったのである。
 アニメのような動きのある人文字をつくり出すために、色彩板を、〇・五秒間隔で替えていかなければならない場面もあった。
12  天舞(12)
 バックスタンドの人文字は、世界の花々に続いて、赤を主体にした、燃えるような抽象絵画に変わった。
 グラウンドには、黄色とオレンジ色のドレスに身を包んだ二千人の女子部員が入場。ダンス「歓喜」が始まった。
 各演技では、山本伸一が第三代会長に就任して以来の、平和建設への怒涛の前進が表現されていくことになる。
 ダンス「歓喜」は、第二代会長の戸田城聖亡きあと、二年間の会長不在の期間を経て、山本会長が誕生した、新出発の喜びと躍動を表した創作ダンスである。
 振り付けを担当したのは、創作舞踊家の大内弘之・敬子夫妻であった。
 二人は一九六二年(昭和三十七年)に、「学芸部第二部」として二十人で発足した芸術部の、一期生であった。
 敬子の祖父は、青森・秋田の県境の十和田湖で、不可能といわれたヒメマスの養殖を成功させたことで知られる、和井内貞行である。
 敬子は、二一年(大正十年)に秋田県に生まれるが、子どものころから踊りが大好きで、十二歳で上京し、ある創作舞踊家の内弟子となった。
 師匠は、目が不自由であったが、優れた技術をもつ、創作舞踊家の第一人者である。
 内弟子の修業は厳しかった。
 敬子は師匠の食事係を命じられたが、食器や箸の置き場所が、ほんの少しずれただけで、激しく叱られた。
 また、毎朝三十分、丹念にタンスを磨き上げなければならない。
 神経をすり減らすような毎日であった。
 早朝から夜まで働き続け、その間隙を縫うようにして稽古に励んだ。存分に稽古をするには、睡眠時間を削って、深夜に行うしかなかった。
 何人もの内弟子がいたが、皆、その厳しさに耐えかねて辞めていった。
 だが、師匠は、じっと弟子を見ていた。
 数年が過ぎた時、師匠は彼女に、自分の相手役として舞台に立つように命じた。
 精密さや持続力、研ぎ澄まされた感覚などが要請される、難しい舞台である。
 その大役を、彼女は見事にこなした。
 厳しい修業のなかで、気づかぬうちに、鍛え上げられていたのだ。
13  天舞(13)
 敬子はやがて、同じ門下の舞踊家の大内弘之と結婚し、夫妻で創作舞踊研究所を開設した。
 二人の新しい人生のスタートは、好調であった。
 一九四一年(昭和十六年)には、芸能祭創作舞踊コンクールで演じた「大和」が、最優秀作となり、夫妻は、文部大臣賞を受賞した。
 しかし、ほどなく夫の弘之は兵隊にとられ、敬子は、乳飲み子を抱え、空襲のなかを逃げ回る日が続いた。
 戦争は、二人の生きがいであった舞踊までも奪っていったのだ。
 やがて終戦を迎えた。復員した弘之と敬子が、戦後第一回の発表会を開くことができたのは、一九五一年(同二十六年)のことであった。
 マスコミはこぞって絶賛した。夫妻の創作舞踊への評価は高かった。
 また、セイロン(現在のスリランカ)政府に招かれて、公演するなど、舞踊家として、再び栄光の道を歩み始めた。
 しかし、そんな華やかさとは裏腹に、夫妻は、発表会のために、多額の借金を抱え込んでいた。
 さらに、敬子には、もう一つ、大きな悩みが兆し始めていた。
 この先、年を重ね、五十代、六十代になり、若さと創造性が失われていったら、自分は舞踊家として、どうなってしまうのか――という不安であった。
 そのころ、夫妻は、近所の人たちから、仏法の話を聞かされた。
 夫の弘之は、創価学会と聞くと、猛反対した。
 努力に努力を重ねて、創作舞踊の世界で自分の地位を築き上げてきた彼は、信仰は、精神的に弱い人間がするものだと、決めつけていたのだ。
 だが、そのうちに弘之は、借金の返済に悩み、とうとう胃潰瘍になってしまった。
 ある時、知り合いの学会員が、また仏法の話をしに来た。
 入会を勧められると、敬子は切り返した。
 「信心をすれば、どんな願いでも叶うというんですね。それならお聞きしますけど、年老いても、舞踊家としてやっていけますか。
 年をとれば、体も衰弱するし、運動能力だって低下していくわ。それなのに、生涯、すばらしい芸ができると保証してくれるんですか」
14  天舞(14)
 相手の学会員は、答えに窮するものと、大内敬子は思っていた。
 ところが、躊躇なく、確信に満ちた答えが返ってきた。
 「絶対に大丈夫です。七十歳になっても、八十歳になっても、年を取るほど、芸に磨きがかかってきますよ」
 さらに御書をひもときながら、仏法とは自身の無限の可能性を引き出す力であることを語っていった。
 その力強い言葉が、敬子の心をとらえた。彼女は、この日、入会を決意したのである。
 夫の弘之も、胃潰瘍を治したい一心で、一緒に信心をすることにした。
 一九五四年(昭和二十九年)の七月のことであった。
 二人は、初信の功徳をすぐに実感することができた。
 入会後、間もなく公演が次々と決まり、抱えていた負債は、わずか一カ月後には返済することができた。
 また、ほどなく、弘之の胃潰瘍も克服することができたのである。
 夫妻は、喜びのなか、勇んで弘教に歩いた。
 友の幸福を願って、懸命に唱題し、活動に励めば励むほど、心の底から歓喜が込み上げ、生命の燃焼と躍動を覚えるのである。
 それは、これまでに体験したことのない、充実した境地であった。
 敬子は、宇宙の大生命が、自身の胸中にほとばしり出るような思いにかられた。
 ″この生命の高まりこそ、芸術の創造の源泉ではないのか!
 これがある限り、幾つになっても創造性を発揮し続けていくことができる!″
 彼女は、仏法の力を実感した。
 だが、学会への偏見が強い時代であり、夫妻の入会は、舞踊家たちの猛反発を招いた。
 あいさつをしても、皆が無視するようになった。「創価学会の先生」と呼んで、あざける舞踊家もいた。
 百人ほどいた生徒も、五人、十人と辞め、遂に二、三人になってしまった。生活も窮乏した。
 しかし、「此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず」との、仰せ通りではないかと思うと、夫妻の信仰への確信は、むしろ深まっていった。
15  天舞(15)
 ある舞踊家は、大内敬子に、吐き捨てるように言った。
 「創価学会というのは暴力宗教といわれているし、貧乏人と病人の集まりじゃないか。
 それなのに、なんであなたが、そんな宗教に入ってしまったんだね」
 敬子は、毅然として答えた。
 「学会が暴力宗教というのは、根も葉もない中傷なんです。
 誰が、いつ、どこで、誰に対して、暴力を振るったんでしょうか。
 そうした批判を口にされる方は、数多くおりますが、これまで、一度として、具体的な事例を示された方はおりません。
 結局、学会を誹謗するために捏造された噂話なんです。
 また、貧乏人や病人の集まりといわれますが、最も苦しんでいる人を救っていくのが、宗教の使命だと思います。
 学会では、信心に励むようになって、生活苦や病苦を克服していった方々の喜びの体験は、数限りなくあります。
 一度、会合にお出になって、ご自分の目で、学会の真実を確かめられてはいかがでしょうか」
 大内夫妻は、よく、こう語り合った。
 「あなた、私は、学会の正しさ、すばらしさがわかってもらえないなんて、悔しくて仕方ないんです」
 「そうだな。しかし、それを証明していく方法は、舞踊家である私たちにとっては、いかに見事な芸を完成させるかではないだろうか」
 「私もそう思うわ。みんなから、『さすがは学会員だ!』と言われるような、最高の舞台を披露していくことよね。
 でも、それにしても、なんの根拠もない世間の噂を鵜呑みにしたり、学会員に貧しい人が多いからといって蔑むなんて、とんでもないことだわ」
 「結局、舞踊家といっても、社会的な地位や肩書とか、経済力で人間を評価している人が多いんだよ」
 「本当にそうだわ。自分たちは特別なんだと思い込んで、庶民を睥睨しているのよ。芸術家特有の特権意識ね」
 敬子が、憤慨して語ると、弘之が笑いながら言った。
 「僕たちも、信心を始める前は、そうだったじゃないか」
16  天舞(16)
 大内夫妻は、学会の組織のなかで、活動に励むことによって、民衆の真実の輝きと偉大さを、痛感するようになっていったのである。
 今日、食べる物もないような生活のなかで、友の幸せを願い、布教に、激励に奔走する同志の誠実さ。
 日々、仏法の生命哲学への研鑽を重ね、人間の幸福と生き方を探究し、新しき社会の建設に情熱を燃やす気高さ。
 皆、無名であり、無冠であったが、その姿は、人間として、あまりにも尊く、崇高であった。
 また、夫妻は、信心に励み、広宣流布への使命感が深まるにつれて、芸に対する考え方も、大きく変わっていった。
 名声を追い求めるための芸ではなく、民衆に愛され、民衆に感動と勇気を与えられる、民衆のための芸を探究しようと、思うようになっていったのである。
 その気持ちは、やがて芸術部員になると、ますます強まっていった。
 だが、金銭や権威、格式にとらわれずに、民衆のための芸術の創造をめざす夫妻の生活は、至って苦しかった。
 学会活動の交通費にさえ、困るといったありさまだった。
 そのなかで、夫妻は、稽古日以外は、スタジオを学会の会合などの会場として提供し、活動の最前線に立った。
 大内一家の生活を心配して、夫妻に励ましを送り続けてきたのが、山本伸一であった。
 彼は、大内の自宅を訪問しては、懸命に激励を重ねた。
 「大変でしょう。しかし、苦労した分、必ず見事な人生の実りをもたらすのが仏法です。信心とは希望です」
 「あなたたちは、芸術の分野の開拓者です。何があっても負けずに、創価文化の大輪を咲かせてください」
 「水の流れるように、信心を貫いていくことです。勝負は、十年先、二十年先です」
 その激励を糧に、夫妻は広宣流布に走り抜き、文化祭が開催されるたびに、ダンスの振り付けなどを担当してきた。
 そして、この東京文化祭では、人びとの心に永遠に残る第三文明の芸術を創造しようと、全精魂を傾けて、振り付けにあたってきたのである。
17  天舞(17)
 ダンス「歓喜」について、女子部からは、「一人ひとりの動きに高度な技術を織り込みながら、全体が主役という″集団の美″を創造したい」との要請が出された。
 しかも、音楽は、前衛的な創作曲が既に出来上がっていた。
 その枠のなかで、要請にこたえる振り付けを行うことは、困難このうえなかった。
 大内夫妻は悩んだ。
 舞台は国立競技場のグラウンドで、出演者は二千人である。
 大集団の演技では、直線的な動きやスピード感があふれる演技の方が、効果は大きい。
 しかし、それだけでは、高い芸術性のあるものにすることは難しい。
 マスゲームでありながら、最高の芸術にまで高めるには、どうすればよいのか――それが、振り付け上の最大の課題であった。
 しかも、出演者は素人であり、体も硬く、足も十分にあがらない人も少なくなかった。
 だが、夫妻は、文化祭までには、全員を、どこに出しても恥ずかしくない、「プリマ」にしてみせると決意した。困難な条件のなかで成功してこそ、真実の勝利である。また、そこにこそ、本当の喜びがある。
 メンバーも、皆、真剣であった。
 柔軟体操、基本ステップなどを、来る日も、来る日も繰り返しながら、黙々と練習に励んだ。平日の夜の練習には、夕食をとらずに、職場から、一目散に駆けつけて来る人もいた。
 また、出演者にとっては、交通費の捻出も悩みの種であり、帰途はすぐには電車に乗らず、歩ける限り歩いて帰るというメンバーもいた。
 それでも、皆、明るく、希望に燃えていた。自分たちが、未聞の大文化祭を担う主役なのだと思うと、練習の苦しさも、喜びに変わった。
 彼女たちの間で、いつの間にか、こんな歌が歌われるようになった。
  流れる汗が出る限り
  まだ練習に耐えられる…………
 当時、よく歌われていた愛唱歌の替え歌だが、練習の往復の電車のなかでつくられたものだ。そこには挑戦の息吹があふれていた。皆で歌いながら夜道を歩くと、練習の疲れも吹き飛んだ。
18  天舞(18)
 「歓喜」の最初の振り付けは、九月初めにできあがった。だが、よりよいものにしようと、改善に改善が加えられ、本番直前まで毎日のように、変更が続いた。
 衣装も芸術部員が担当し、古代ギリシャ風の黄色とオレンジ色の二種類の、優雅なドレスがつくられた。だが、実際に衣装を着けて踊ってみると、軽やかさに欠けていた。皆の髪の毛の黒さが、重さを感じさせていたのだ。検討の結果、髪を茶色に染め、前髪をアップにすることにした。
 問題点は一つ一つ解消されていったが、それでも、完成にはほど遠く、全演目のなかで、最も課題を抱えていた。
 たとえば、円形をつくっても、完璧な円にならず、歪みが出てしまうのである。それだけ、高度な技術が要求される隊形変化であったのである。また、「歓喜」という題名を冠しながら、生命の喜びが、うまく表現できなかった。
 国立競技場を使って行われた、前日午前のリハーサルでも、まだ動作の乱れが目についた。女子部長である藤矢弓枝も、絶望的な気持ちになった。
 「歓喜」は、文化祭の開幕となる最初の演目である。それが、うまくいかなければ、全体をぶち壊してしまうことになりかねない。演技部門の役員たちの顔にも、不安の色が滲んでいた。
 振り付けを担当した大内敬子は、眉間に皺を浮かべ、唇を噛み締めた。
 ″午後の最終リハーサルで、完璧な演技に仕上げなくては!″出演者たちも、同じ気持ちだった。
 ところが、その最終リハーサルが、激しい雨のために、中止になってしまったのである。
 皆が動揺し、強い不安に襲われた。女子部の担当幹部が、必死になって叫んだ。
 「皆さん、元気を出しましょう! 炎天下で、また、夜露に濡れたグラウンドで、来る日も、来る日も、汗まみれになって練習を重ねてきたのは、明日のためではないですか! だから、断じて負けるわけにはいきません! 祈りに祈って、絶対に、絶対に、大成功させましょう!」
19  天舞(19)
 翌朝、空は、美しく晴れ渡っていた。その青空を見て、「歓喜」のメンバーは、大成功を確信した。彼女たちの心を覆っていた、不安の雲は消えていた。
 演技が始まった。黄色とオレンジ色のドレスが、グラウンドいっぱいに、見事な「V」の字を描き出した。
 どの人の表情も、明るく、晴れやかであった。歓喜があふれていた。
 その演技を、大内敬子は、必死になって心で唱題しながら、正面の観客席から見ていた。
 一度も、完全な演技が行われることなく、本番を迎えてしまったのだ。
 舞台の厳しさを知る大内は、心配で、心配で仕方なかった。だが、隊形変化も流れるように進み、大輪を思わせる円が、幾重にも広がった。まさに、完璧な円であった。
 琴の調べに合わせて織り成される、気品高く優雅な舞もあった。一切の動きを、瞬間、静止させる場面もあった。
 それらが、すべて決まり、天を舞いゆくような喜びのダンスが繰り広げられたのである。二千人が一つにとけ合った、融合と調和と躍動の舞台であった。
 観客の感嘆のなかに、「歓喜」は幕を閉じた。大成功だった。本番になって、初めて完璧な演技が行われたのだ。
 ロイヤルボックスの山本伸一も、身を乗り出して大拍手を送っていた。
 大内は、涙をこらえながら、心で感謝の祈りを捧げた。観客席にいた女子部長の藤矢弓枝もまた、小躍りしたい思いだった。
 退場してきた出演者に、女子部の担当幹部たちは、絶讃の言葉を惜しまなかった。
 「すばらしい演技だったわよ!本番で最高の舞踊ができたのよ!」
 それを聞くと、メンバーの目に、見る見る涙があふれた。すすり泣きが漏れ、やがて、手を取り合って、ワーワーと声をあげて泣き始めた。
 彼女たちは、「歓喜」を演じたのではない。彼女たちの生命そのものが歓喜であった。それが、至難の壁を突き破り、感動の大舞台をつくり上げたのだ。
20  天舞(20)
 バックスタンドの人文字は、白地のなかに、小さな赤鷲を浮かび上がらせた。
 その鷲は羽ばたき、白いカンバスを、威風堂々と舞い始めた。そして、中央に止まると、赤い羽を、バックスタンドいっぱいに広げた。
 その間、グラウンドには、白い帽子と、白いトレーニングパンツ姿の、筋骨隆々たる青年たちが、掛け声も勇ましく駆け足で入場してきた。
 男子部の体操「闘魂」である。
 「日本男子の歌」「男子青年部歌」(黎明の歌)などの愛唱歌の調べに合わせ、空手や柔道、合気道など、武道の形を取り入れた、気合のこもった演技が、力強く展開されていった。
 赤銅色に日焼けした上半身が汗で光る。その鍛え抜かれた体躯こそ、青年たちの闘魂を物語っていた。
 練習三カ月――皆、見違えるほどたくましくなった。
 最初は、貧弱な体格や肥満ぎみのメンバーも少なくなかった。行進の歩調さえ、合わせられない人もいた。
 練習は、徹底して、体をつくることから始めなければならなかった。
 駆け足、行進、腕立て伏せ、そして、柔軟体操が、何日も、何日も繰り返された。
 皆、働き盛りの青年である。仕事を終えて、定刻に練習会場に来ること自体、容易ではなかった。上司に頼んで、夕方から練習に出て、それから職場に戻って、深夜まで残業をしたという青年もいた。
 工事現場で肉体労働をして練習に駆けつけ、家に帰った時には、疲れきってしまい、玄関の前で倒れ込むように眠ってしまった人もいた。
 だが、彼らには、″どんなことがあっても、断じて勝つ!絶対に成功させてみせる!″との、燃えるような闘魂がほとばしっていた。
 その一念こそが、その粘り強い、執念の前進こそが、困難の壁を打ち破る力となるのだ。
 前日の午後、雨で最終リハーサルが中止になった時も、「闘魂」のメンバーは、あえて、雨のなかで、リハーサルを決行した。
 彼らは、何よりも、雨中のリハーサルを通し、試練に立ち向かう男子部魂を、生命に刻んでおきたかったのである。
21  天舞(21)
 若い力が炸裂した「闘魂」の演技は、観客を驚嘆させた。
 一糸乱れぬ団結の美、「動」と「静」との巧みな調和――来賓たちは、そこに、新しき時代を建設する、青年の連帯を発見した思いがした。
 東京に住む人の多くは地方出身者であり、若い世代もまた、上京青年が多数を占めていた。高層ビルが立ち、高速道路が走る首都・東京は、若者たちの憧れであった。だが、夢を描いて上京したものの、失望し、故郷に帰っていく人も少なくなかった。
 美しく林立するビルの下を流れる河川は、濁って腐臭を放ち、大気は、車の吐き出す排気ガスで汚染されていた。
 物価も高く、住環境にも恵まれず、中学や高校を卒業して、東京で就職した青年の暮らしは、決して、豊かであるとはいえなかった。仕事も、現場での、危険で、きつい労作業が多く、賃金も安かった。共同トイレで風呂もない、狭いアパート暮らしが、当時の平均的な青年の生活であった。しかも、ラッシュに揉まれての通勤である。
 また、何よりも、殺伐とした希薄な人間関係に、孤独に陥る若者が多かった。
 「花の都」はまた、「傷心の街」でもあったのである。
 そのなかにあって、創価の青年たちは、自分たちこそ、新しき時代を担う主役なのだという使命に燃え、純粋に、たくましく、それぞれの人生の目標に向かって前進していた。
 そして、職場の第一人者をめざすとともに、職場、地域に、信頼と友情の輪を広げながら、東京を″第二の故郷″として誇れる街にしようと、社会の建設に情熱を燃やしていたのである。
 グラウンドの最前列で、懸命な表情で拳を握り締め、力強い演技を披露する、ひときわ、たくましい体躯の青年がいた。元力士の今池政次である。彼も、東京で夢破れ、失意のなかから立ち上がった青年であった。
 今池は、故郷の福島で中学を卒業すると、集団就職で上京した。勤めることになった職場は、東京と川一本隔てた、埼玉県の川口の鋳物工場である。
22  天舞(22)
 鋳物工場に就職した、今池政次の仕仕事は、埃まみれ、汗まみれの労作業であった。溶けた鉄をひしゃくで鋳型に流し込む作業では、何度も火傷をした。
 当時、鋳物は、次第にプラスチックなどに取って代わられつつあり、業界の未来も、決して明るいとはいえなかった。
 今池の楽しみといえば、同じ部屋の同郷の先輩と、休日に、映画や野球を見に行くぐらいであった。
 ところが、翌年の夏、その先輩が鋳物工場を辞めて、田舎に帰ることになった。気心の知れた先輩がいなくなってしまうと思うと、いたたまれない気持ちになり、彼も夏休みに福島に帰省したまま、会社を辞めてしまった。
 今度は、地元で仕事を探すことにした。幸いに、化学工業の大手企業に就職することができた。仕事は、三交代勤務で、作業は単純このうえなかった。
 ″俺は、このまま、一生を終わりたくない。自分には、もっと可能性があるはずだ……″
 今池が自分をかけてみたいと考えていたのは、相撲であった。身長は一八〇センチほどあり、子どものころから体格のよかった彼は、相撲では人に負けたことがなかった。
 会社の近くに、彼がよく行く食堂があった。その食堂には、既に引退した、ある有名な力士の写真が飾られていた。店の主人に聞くと、親戚であるという。
 今池は、自分も相撲をやりたいので、この元力士に会わせてもらえないかと頼んだ。主人は、快く引き受けてくれた。
 彼は、上京し、元力士に会い、相撲部屋の親方を紹介してもらった。
 「それなら、明日から来なさい」
 親方は、こう言ってくれた。一九六二年(昭和三十七年)、十八歳の秋のことである。
 相撲部屋の生活は厳しかったが、ここが自分の生きる世界だと決めた今池には、さほど、苦しいとは感じられなかった。
 だが、入門して間もなく、巡業先で腰を痛めてしまった。「脊椎分離症」との診断であった。
23  天舞(23)
 医師は、今池に言った。「無理をしなければ、よくなるよ」
 確かに、休んでいれば痛みはなかったが、稽古をすると腰が痛んだ。しかし、強くなるには、人一倍、稽古をするしかない。今池は、医師に痛み止めの注射を打ってもらいながら、無我夢中で稽古に励んでいった。
 そして、着実に力をつけ、序ノ口、序二段と番付を上げ、入門して四年がたったころには、三段目の上位で活躍するようになった。
 彼に対する、周囲の期待は大きかった。
24  天舞(21)
 ところが、目標にしてきた関取の座が近づいてくるにつれて、今池の腰の痛みは、次第に激しさを増してきていたのだ。常に痛みが続き、注射も、ほとんど効かなくなっていった。
 腰も伸ばせなくなり、体をかがめなくては、歩けなくなってしまった。床についても、痛みで眠れない夜が続いた。診察を受けると、医師は告げた。
 「これ以上、無理をすれば、大変なことになりますよ」それは、もう相撲はできないという、宣告にほかならなかった。
 ″相撲を奪われたら、これから、俺の人生はどうなるんだ!″
 悔し涙があふれた。しかし、腰の痛みを思うと、引退以外に道はなかった。やむなく、親方に事情を話し、今度の場所が終わったら、相撲をやめたいと申し出た。
 親方は「もう少し頑張ってみてはどうか」と言ってくれたが、体は限界にきていた。
 最後の場所は、痛みをこらえて戦い、勝ち越した。死力を尽くした土俵であった。
 今池は、福島にいる兄に、相撲をやめるので親方にあいさつに来てほしいと、手紙を書いた。兄が上京してくると、親方も、もう引き留めようとはしなかった。
 あいさつをすませて外に出た。
 今池は、これで、すべては終わったと思った。体中から、力が抜けた感じがした。
 兄が口を開いた。
 「政次、まだ勝負は、ついちゃいないさ。これから、人生の土俵で勝ち越せばいいじゃないか。そのために、お前も、信心をしろよ」
 兄は学会員であった。
25  天舞(24)
 兄をはじめ、福島に住む今池の家族は、六年ほど前に、入会していた。今池政次が中学を卒業して、就職した直後のことである。実家からの手紙で、今池は家族の入会を知ったが、宗教には、なんの興味も感じなかった。
 だが、休暇で帰省した政次は、父母をはじめ、家族が明るくなり、生き生きとしていることに驚いた。
 以前は皆、生活に疲れ果て、口から出るのは嘆きと、愚痴と、ため息ばかりであった。それが、家中が、快活な笑いに満ちているのだ。
 父母の顔を訝しそうに見て、「みんな、明るくなったな」と漏らす政次に、兄は言った。
 「俺たちは、学会に入ってから、この信心があれば、どんな苦悩も乗り越え、必ず幸福になれるという、確信がもてるようになったからね」
 この時から、政次は、学会に強い関心をいだくようになっていった。また、相撲部屋の近くに日大講堂があり、ここで、よく学会の会合が開かれた。その折に、場外整理などにあたる、はつらつとした青年の姿に、彼は魅力を感じていた。
 だから、兄から入会を勧められると、素直に信心をしようという気になれた。
 しかし、彼は、学会に入会するには、何かテストがあるものと思い込んでいた。それが、決断をためらわせた。
 「信心はしてみたいけど、俺はお経も読めないから、入会の試験に受からないと思うよ」
 兄は、声をあげて笑い出した。
 「政次、学会には、そんな入会試験みたいなものはないよ。勤行もこれから覚えていけばいいんだよ。大事なことは、ひとたび信心したからには、周囲から、どんなに反対されようが、また、笑われようが、絶対に信心を貫き通してみせるという、決意をもつことだ」
 「じゃあ、俺でも学会に入れるんだね!」
 彼が入会したのは、この文化祭の、一年前のことであった。
 相撲をやめた今池は、アルバイトをして、部屋を借りる金を貯めることから始めた。その間、かつて、力士であった、友人のアパートに転がり込んだ。
26  天舞(25)
 今池政次は、相撲の世界を断念したことから、どうしようもない挫折感に苛まれていた。また、人生の指標をなくした空しさから、何をやっても、力が入らなかった。
 やがて、新宿区内に自分でアパートを借りた。その部屋に御本尊を御安置し、地域の学会員に勤行を教えてもらい、学会活動に参加するようになった。
 ある時、学会の先輩に腰痛に苦しみ続けてきたことを打ち明けると、確信にあふれた口調で、その人は答えた。
 「大丈夫!どんな苦悩も、すべて信心で乗り越え、最高の人生を生きることができるよ」
 今池は半信半疑であったが、信心に励むようになってしばらくすると、あれほど激しかった腰痛が、消えていることに気づいた。最初は、激しい運動をしなくなったからだろうと思った。だが、休養しても腰痛に苦しみ続けている人が多いことを考えると、これが功徳なんだと感じた。それは、仏法への確信となっていった。
 ″この信心で、人生を開くことができるのかもしれない!″挫折感に覆われた今池の胸に、一条の光が注いだ瞬間であった。
 やがて、彼は、男子部の先輩から、東京文化祭の話を聞かされた。
 「実は、十月の東京文化祭で、体操の出演者を募集しているんだ。この文化祭は、平和を創造し、民衆の幸福を実現する、学会の真実の姿を伝えるものといってもよいと思う。広宣流布の歴史に永遠に残る、不滅の祭典になるはずだ。
 君も、その担い手となって、青春の黄金の歴史をつくろうじゃないか」
 「はい。出演させてください!」彼は、この文化祭にかけてみようと思った。
 七月中旬から、練習が始まった。集って来たメンバーは、皆、意気軒昂であった。燃えるような情熱を感じさせた。
 今池が、感動を覚えたのは、出演メンバーが当初の数よりも絞り込まれたために、補欠に回された人たちの姿であった。彼らは「補欠隊」と呼ばれていたが、出演メンバーと同じように、毎日、練習に駆けつけ、唱題会にも参加していた。
27  天舞(26)
 「補欠隊」が文化祭に出演できる可能性は、極めて低い。しかし、誰も不平も、不満も言わず、積極的に皆の荷物番をしたり、時には、練習に励む人たちが怪我をしないようにと、黙々と練習会場の清掃に努めていた。
 ″自分たちが晴れ舞台に立てることは、ほとんどないのに、どうして、あんなに真剣になれるんだろう″
 彼には、それが不思議であった。
 ある時、「補欠隊」のメンバーに、率直に自分の思いをぶつけてみた。
 「もちろん、ぼくだって出演したいよ。でも、ぼくたちの目的は、文化祭を大成功させて、広宣流布の新しい流れを開くことにある。そのために、どんなことでもやらせてもらおうと思って、ぼくらは文化祭に参加している。清掃や場外整理の役員として参加する人も、みんな同じ気持ちだと思うよ」
 今池は、「補欠隊」のメンバーの、″自分″を超えて、文化祭の大成功に、さらに、広宣流布という大目的に、心を合わせて進もうとする生き方に胸を打たれた。
 ″みんな、補欠隊に自分の使命を見いだし、その任務に誇りと喜びをもっている。それに対して、俺は、自分だけの小さな世界にいて、いつも自分のことしか考えてこなかったのではないか。だから、相撲が取れなくなり、自分の夢が破れてしまったら、すべてがなくなってしまったのかもしれない″
 皆の姿を見て、考えることは少なくなかった。
 今池にとって、練習は感動の連続であった。なかなか演技が覚えられず、皆が帰ったあと、悔し涙をこらえて、一人で練習に汗を流している人もいた。そこから彼は、挑戦の心意気を学んだ。
 今池も、体が大きいせいか、動作が遅くなり、何度も、担当の先輩幹部から指摘を受けた。しかし、皆の姿が、彼に勇気を与えた。
 また、先輩をはじめ、仲間たちの励ましが、大きな心の支えとなった。
 「負けずに頑張れ!」
 「力を合わせて、絶対に成功させような!」
 今池は、そこに、限りない、人間の温もりを感じた。″俺は一人じゃない。同志がいるんだ!″
28  天舞(27)
 「闘魂」の演技は、皆の団結によって、日を追って上達し、着実に、完成に近づいていった。メンバーは、次第に、″やればできる!″という、思いをいだくようになった。
 今池も、自分の生命が、大きく変わりつつあることを、日々、実感していた。心にのしかかっていた挫折感が、いつの間にか消え、前途に、希望の光を見いだしていたからである。
 「闘魂」のメンバーは、文化祭までに、全員が弘教を実らせることを誓い合っていた。自ら弘教の先駆を切らずして、広宣流布への″闘魂″を表現することなど、できようはずがないと考えたのだ。
 今池も、果敢に仏法対話に励んだ。腰痛が治った自分の初信の功徳を語り、文化祭の練習を通して実感した、学会のすばらしさを力の限り訴えていった。
 「仏法は希望なんだ。信心によって、必ず新しい人生を開いていくことができると、ぼくは確信している」
 それは、彼の率直な思いであり、また、決意でもあった。
 友を思う、真心の叫びは強い。今池の話を聞いて、かつて一緒に相撲をやっていた友人や、アルバイト先で知り合った友だちなど、三人が次々と入会していったのである。
 文化祭を迎えるころには、今池は、生涯、学会とともに生き抜く決意を固めていた。人びとの幸福と社会の繁栄をめざす、広宣流布という崇高な目的に、彼は人生の意義と使命を見いだしたのである。
 ″俺は負けないぞ! 広宣流布の使命に生きて、人生を大金星で飾ってみせる!″文化祭は、今池の蘇生の舞台となったのだ。
 グラウンドでは、「闘魂」の男子部員が、握り締めた拳で、魔軍を打ち破るかのように力強く空を突いた。闘魂の炸裂を思わせる「ヤー」という雄叫びが、澄んだ秋空にこだました。
 演技を続ける今池の目に、ロイヤルボックスの山本伸一の姿が見えた。
 ″先生! これが俺の栄光の土俵です!″彼は心で叫んでいた。
29  天舞(28)
 バックスタンドの人文字が、翼を広げた赤鷲から、葛飾北斎の富士の名画に変わった。
 婦人部四千二百人による民謡踊り「日本の潮」のスタートである。「ソーラン節」や「会津磐梯山」「武田節」など、各地の代表的な民謡踊りが、次々と披露されていった。
 曲は軽快なテンポにアレンジされ、衣装も、青と白、赤と白に染め分けたものなど、色彩も大胆で華やかであった。その衣装が、明るく、はつらつとした婦人部の姿を、一段と際立たせていた。
 彼女たちの顔には、太陽の輝きがあった。それは、信仰から発する、歓喜であり、希望であり、躍動する生命の光彩であった。
 出演者のなかには、かつては、喘息や神経痛など、さまざまな病をかかえ、「病気の問屋」と言われていた人もいた。貧困と家庭不和で苦しみ、何度も、自殺を考えたという人もいた。
 だが、皆が苦悩の底から、信心で立ち上がり、自らの宿命に敢然と挑み、戦っていったのだ。そして、自己の弱さを克服し、家庭を革命し、人生の凱歌を奏でてきたのである。
 槍を手に、鉢巻き姿も凛々しく、「武田節」を舞う久保川貴子も、宿命の烈風のなかで立ち上がった一人であった。
 彼女の着物の裏にはポケットが縫いつけられ、そのなかに、一枚の写真がしのばせてあった。亡き夫の写真である。夫は建築請負業を営んでいた。腕のよい″大工さん″であり、棟梁として慕われていた。
 胸の写真は、屋根の上で金槌を手に微笑む、働く夫を写したものだ。
 夫妻は、班長、班担当員として、ともに尊き広布の黄金の思い出を刻んできた。二人して福島や長野など、地方にも足を運び、時には悔し涙を流しながらも、一世帯、一世帯と弘教を実らせていった。
 彼女にとって夫は、手を携えて広宣流布の使命に生きた、共戦の同志でもあった。
 だが、その夫が、交通事故の後遺症で、この年の二月、深々と雪が降る日に、安らかに息を引き取ったのだ。静かに眠るような顔であった。
 あとには、十八歳の息子を頭に、四人の子どもが残された。
30  天舞(29)
 夫の死は、彼女にとって、心の支えを失ったに等しかった。しかし、自分に言い聞かせた。
 ″私が、いつまでも悲しんでいれば、あの人も悲しむにちがいない。信心をしていても、人生には、当然、いろいろな試練や悲しみがある。それに負けないための、信心であるはずだ。私は、これから、あの人の分まで、広宣流布に走り抜く。そして、四人の子どもを、立派に育て上げ、必ず幸せになってみせる!″
 彼女は、悲しみの淵から決然と立ち上がった。悲しみ、苦しみをはね返す生命の力――それが信仰である。
 幸い、夫が残した家屋を人に貸せば、母子が細々と生計を立てていくことはできた。
 東京文化祭で婦人部が民謡を踊ると聞いた時、彼女は、すかさず出演を希望した。この文化祭を、自分の新しい人生の出発にしようと思ったからである。
 文化祭には、次男も、人文字のメンバーとして出演していた。彼女は、長い槍を懸命に操りながら、晴れやかに、力強く踊った。
 ″あなた、見ていますか。私は大丈夫です。広布の母として、子どもたちも、創価の後継者に育てていきます!″
 国立競技場のグラウンドは、久保川にとって、誓いと旅立ちの晴れ舞台となった。その舞に、微笑みかけるように、空には太陽が燃え輝いていた。
 婦人部の民謡踊り「日本の潮」が終わると、人文字は、青い地球とジェット機を描き出した。そのジェット機が轟音をあげて飛び立つと、「世界の波動」と題した、音楽隊、鼓笛隊のパレードの始まりである。
 「八十日間世界一周」「ラ・クンパルシータ」などの演奏を通して、広布の波動が世界に広がりゆく様子を表現したのである。
 なかでも、学会が世界に誇る鼓笛隊の華麗な演奏は、観客を魅了した。ここで、再び鐘の音が会場を圧した。
 「ゴーン、ゴーン……」
 バックスタンドいっぱいに描かれた波が、激しくうねり、怒濤となって広がっていく。波浪の彼方に帆船が姿を現し、次第に大きくなり、海には、美しい虹がかかった。
31  天舞(30)
 鐘は、六回にわたって鳴り響いた。
 ここからは、「第六の鐘」が鳴り終わる一九七二年(昭和四十七年)までの未来構想が、各演目によって、描き出されていくのである。
 まず、高等部員千五百四十人による、徒手体操「若い力」である。首都圏の高等部にとっては、文化祭は初めての出演であった。その感激を胸に、鳳雛たちの乱舞が始まった。
 「高等部歌」などのメロディーに合わせ、勢いよく芝生の上を跳び回る、きびきびとした動作は、未来に伸びゆく若竹を思わせた。
 演技の最後に、一斉に布を取り出すと、白に縁取られた、青、黄、赤の模様がフィールドの真ん中に広がった。中央はペンを、左右は鳳雛の羽を図案化したものだ。明春、開校の創価学園の校章である。
 そして、三つの色はスクールカラーである。向かって左の、羽の青は「英知」を、中央のペンの黄は「栄光」を、右の羽の赤は「情熱」を表していた。
 バックスタンドの人文字も、「英知」「栄光」「情熱」の文字を浮かび上がらせた。観客席からは、大きな拍手がわき起こった。
 この校章を見事に描くのが、最も難しい作業であった。特に左右の羽の部分の曲線が歪んでしまい、なかなか左右対称にならなかった。練習では、何十回となく、この隊形づくりを繰り返し、並び方の感覚を、体で覚えていったのである。
 出演したメンバーのなかには、定時制に通う高等部員もいた。彼らは、昼は仕事、夜は授業があるために、練習に参加できるのは、日曜日に限られていた。
 そこで、練習時間の不足を補うために、学校ごとに練習を行うなど、工夫を重ねてきた。出演者十五人が通う、ある定時制高校では、放課後、近くの公園に集まって練習を行った。そこに、毎日の練習に参加している、全日制の高等部員に来てもらい、その日に教わった内容を伝えてもらうのだ。
 十分な時間がないだけに、定時制のメンバーの練習は、ことのほか真剣であった。彼らは、困難への挑戦に、青春の命を燃え上がらせてきたのである。
32  天舞(31)
 山本伸一は、若駒のように、さっそうと退場していく高等部員たちに、いつまでも、いつまでも拍手を送り続けた。そして、すぐにメンバーに伝言を託した。
 「高等部の人文字は満点です。来賓の方々も驚嘆していた。次代を担う世界的な創価の力を示す演技でした。本当にご苦労様でした。ゆっくり休んでください」
 山本会長のメッセージを聞くと、大成功に演技を終え、興奮の坩堝のなかにあった鳳雛たちは、手を取り合い、小躍りして喜び合った。
 「やったー!」「やったぞ!」その瞬間、練習の苦しさも、深夜の勉強の辛さも、すべては、歓喜と誇りと自信に変わり、黄金の青春の思い出に変わっていた。
 労苦の汗こそ、人生を飾る最高の宝石となる。
 グラウンドでは、男子部、女子部のマスゲーム「建設」が始まった。
 これは、この年の三月の臨時本部幹部会で山本伸一が発表した、「国際都市・東京」のビジョンをもとに、理想都市の建設を、マスゲームで表現しようというものだ。
 伸一は、東京を愛する都民の一人として、通勤ラッシュ、都市公害、住宅難などの行き詰まった現状を改革し、″都民のための東京″の視点から、日ごろ、考えてきたことを、十項目にわたって提案したのである。
 たとえば、「一人一室の高層住宅群の建設」をはじめ、「モノレール、高速道路が縦横に走る立体交通網」「都民に健康と、いこいを与える森林公園」「芸術性豊かな総合文化施設の建設」「公害のない快適な工業地帯」などである。そして、その総括的なイメージとして、彼が語ったのが「緑の森と噴水のなかにそびえる高層都市・大東京」であった。
 さらに、この臨時本部幹部会で彼は、東京の住民のなかに、郷土愛を育てることの大切さを訴えたのである。
 東京は、仕事の関係等で、やむなく居住している人も多いことから、地域への愛着心も乏しく、近隣同士の連帯感も希薄であった。いや、隣に住んでいる人の顔や名前さえ知らないケースも、決して珍しくなかった。
33  天舞(32)
 東京を、人びとが心から誇れる理想都市にしていくためには、何が大切か――。
 住宅の建設や、都市公害対策など、政治面での対応も不可欠であることはいうまでもないが、何よりも必要なことは、住民の郷土愛であるといってよい。
 御聖訓には「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清し」と仰せであるが、地域がどうなるかの鍵は、ひとえに人間自身にある。
 政治を動かしていくのも、人間である。心と心を結び合い、友情と連帯を広げていくのも人間である。人びとが郷土愛をもたず、心がすさみ、自分勝手になれば、町も地域も荒廃していく。その郷土愛を育み、一人ひとりに地域建設の主役としての自覚を促していくことこそ、創価学会が担わなければならない社会的使命であると、伸一は痛感していた。
 青年たちは、その伸一と同じ思いで立ち上がり、この東京文化祭で、「国際都市・東京」のビジョンを訴えようとしたのである。
 銀の輪を手にした、赤いワンピース姿の女子部の「花組」八百人が、グラウンドに可憐なる花の舞を広げた。
 次いで、青いシャツに白いトレーニングパンツの男子部の「ハシゴ隊」千四百四十人が入場。四メートルの、二百数十本のパイプハシゴを駆使して、高層都市などを思わせる、美しい幾何学模様を、次々とつくり上げていった。時には、ハシゴを二本つないで、その上で演技をする場面もあった。
 高度な技術が求められる演技である。まかり間違えば、大怪我につながりかねない。
 これらの演技を成功させるには、ハシゴの迅速な上り下りが不可欠であった。そのために、メンバーは、脚力と握力を鍛えることから取り組んできたのである。
 練習では脚力をつけるためのウサギ跳びや、拳を握って開くという、握力増強の運動が繰り返された。また、家に帰ってからも、皆、ボールを握るように心がけ、入浴中もタオルをギュッと握り締めるようにしてきたのだ。
34  天舞(33)
 「ハシゴ隊」の演技には、鍛えの成果が、いかんなく発揮された。
 天高くそびえ立ったハシゴの塔に、観客は大歓声をあげた。
 続いて、緑のワンピースに黄緑色のポンポンを持った、女子部「森組」千五百人のダンスが始まった。それは、まさに、風にそよぐ緑の森を思わせた。
 この緑の「森組」に、赤の「花組」が加わり、幾重にも緑と花の輪が広がっていった。
 そして、最後に、その中央に、「ハシゴ隊」によって、大噴水がつくられたのだ。
 白と水色のユニホームで、噴水塔に見立てたハシゴのてっぺんで倒立したり、体を上下させるメンバーの姿が、噴き上げる水を思わせる。
 まさに、緑なす森に花々が微笑む、噴水のある平和都市が現れたのだ。人文字も、水を噴き上げる大噴水や高層ビル、芝生に樹木、咲き薫る花々を描き出した。
 観客席からは、感嘆の声が漏れ、拍手が大空に吸い込まれていった。
 自分たちの手で、東京を新しき理想の国際都市にしようという、青年たちの郷土愛と情熱を、来賓の多くは感じ取ったにちがいない。
 その若人の心意気こそが首都・東京の希望であり、建設の原動力であるといえよう。人間の心が、人間の自覚が、人間の連帯が、街を、地域を、社会を変えていくのだ。
 東京文化祭は、いよいよクライマックスを迎えようとしていた。
 「シュー、ドドーン!」という効果音が轟き、花火の人文字が浮かび上がった。新時代の到来を祝福する花火だ。
 白いユニホーム姿の青年二千五百人が、続々と入場して来た。
 男子部のマスゲーム「新時代」である。
 新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である――彼らは、生命の尊厳と自由と平等の、民衆勝利の新時代を開きゆく誓いを、この演技で表現しようとしていた。
 音楽に合わせ、五段に積み上げられた人間ピラミッドと三段円塔が、一瞬にして崩れる。そして、人間風車が林立し、一斉に回転を始めたかと思うと、人間ロケットが高々と宙を飛び交い、さらに、人間ブリッジをつくり上げる。
35  天舞(34)
 「新時代」は、息も継がせぬほど、意表を突く演技の連続であった。
 その演技の一つ一つに歓声が起こり、ため息が漏れた。
 「どうせやるなら、世界一をめざそう!」
 それが、メンバーの合言葉であった。
 世界最高のマスゲームといえば、チェコスロバキア(当時)のスパルタキアードであると言われていた。だが、それは国家の力で行われるものである。すべて民衆の力で行われる学会の文化祭で、スパルタキアード以上のものができれば、民衆の無限の可能性を世界に示すものとなる。
 「断じて、それ以上のものをやろう!」
 青年たちは、こう誓い合った。
 スパルタキアードの映画を見て、研究も重ねた。そして、演技の一つ一つに、最高のものをめざした。
 「新時代」の圧巻は、五段円塔であった。
 この演技の最後の場面は、正本堂の建設をテーマにしていた。
 グラウンドに人間によって、正本堂前にできる八葉蓮華の形をした池と噴水をつくりあげ、噴水の中心に、五段の人間円塔を打ち立てようというのである。
 それまで、学会の文化祭では、四段円塔までは立てたことがあったが、五段というのは、初めての挑戦である。
 社会でも成功したという話を、彼らは耳にしたことがなかった。
 体育の専門家の見解も聞いてみたが、「器具を利用して五段円塔を立てることはできるかもしれないが、人間だけでは極めて難しい」という結論であった。
 だが、むしろ、メンバーは燃えた。
 「だからこそ挑戦しよう!ぼくらの手で、限界を打ち破るんだ!」
 困難に挑んでこそ、新時代の扉は開かれる。
 研究を重ね、最下段は向かい合うかたちで二十人が二重の輪で支え、二段目は十人、三段目は六人、四段目は三人とし、最上段に一人が立つことにした。
 しかし、五段円塔は、なかなか立たなかった。何度やっても崩れ、失敗を繰り返した。重量計算もしてみた。肩の組み方、手の置き方も考え抜いた。
 「なんでなんだ!」
 皆、頭を抱えた。
36  天舞(35)
 五段円塔が崩れる原因を分析していくと、腰のふらつきにあった。
 もう一度、基本に立ち返って、下半身の鍛錬が行われた。肩に人を乗せ、しゃがんで歩く訓練も重ねられた。
 だが、それでも五段円塔は立たなかった。
 ″やはり、無理なのかもしれない……″
 そんな思いが、メンバーの頭をよぎった。
 「題目だ!最後は題目しかない!」
 誰かが叫んだ。皆、そうだと思った。練習後の真剣な唱題が始まった。
 文化祭の九日前の、十月六日のことであった。今日こそは、断じて五段円塔を立てようと、皆、必死で挑戦した。
 誰からともなく、唱題が起こった。
 自分の足が、下の人の肩から滑り落ちそうになっても、懸命に踏ん張り続けた。上にいる人の足が、顔を蹴る。それでも、じっと支え続けた。不屈なる闘魂の唱題が響くなか、一段、また一段と円塔は上がり、遂にこの日、五段円塔が完成したのだ。
 翌日の練習でも、再び立った。この日は雨で、足も滑りやすい、最悪な条件であったが、そのなかで五段円塔を立てたことが、メンバーの大きな自信となった。
 困難を乗り越えた数だけ、人間は自信と誇りに輝いていくものだ。
 バックスタンドには、正本堂が人文字で描き出され、グラウンドには、八葉蓮華の形の池がつくられていった。
 そして、力強く荘重な文化祭のテーマソングの「新時代の歌」の調べにのって、五段円塔が積み上げられていく。
 一段、二段……。やがて四段目が立った。
 最後の五段目である。
 すべての観客が息をのみ、手に汗を握って、この一瞬を見つめていた。
 最上段の青年が、静かに立ち上がった。
 ゆっくりと、両手を大きく広げた。学会の文化祭史上初となる、五段円塔の完成の瞬間であった。
 スタンドから、「オーッ」という歓声がわき起こり、拍手がうねった。
 ″やったぞ!俺たちはやったぞ!″
 そう叫びたい衝動を抑えながら、メンバーは、歯を食いしばり、互いに友を支え合っていた。
37  天舞(36)
 拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。
 メンバーは、人間の力の極致といわれた五段円塔を完成させることによって、信仰という無形の力を、ダイナミックに表現したのだ。
 そびえ立った五段円塔は、信仰と友情によって築き上げた、″青春の勝利の金字塔″であった。
 ――以来、五段円塔は、学会青年部の団結の象徴として、多くの文化祭で立てられてきた。
 しかし、青年たちの挑戦に終わりはなかった。
 一九八二年(昭和五十七年)三月、大阪市の長居陸上競技場で行われた第一回関西青年平和文化祭では、なんと六段円塔が打ち立てられることになるのである。まさに、創価の青年たちの、生の歓喜の表現がもたらした、世界的な壮挙といってよい。
 東京文化祭は、フィナーレに移っていった。
 人文字は、鮮やかな色彩で、世界各国の風景を次々と浮かび上がらせていった。
 アメリカの自由の女神やゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)、インドのタージ・マハル、中国の万里の長城、フランスの凱旋門やエッフェル塔、エジプトのピラミッド……。
 この文化祭には、四十五カ国の大使館関係者が出席していたが、自国の絵が出ると、ひときわ大きな歓声をあげ、拍手を送っていた。
 その間に、フィールドには、鉄の塔や立体交差のできるブリッジが運び込まれ、出演者たちの行進が始まった。
 ダンスの女子部員が、体操の男子部員が、徒手体操の高等部員が、鼓笛隊などが、黄、緑、赤、青の旗を振りながら、満面に笑みを浮かべ、胸を張り、さっそうと進む。青春の栄光を打ち立てた若人の凱旋行進だ。
 バックスタンドには、「世界平和」の人文字が浮かんだ。
 そして、「WORLD PEACE」(英語)をはじめ、ロシア語、スペイン語、イタリア語、フランス語、中国語、ヒンディー語、アラビア語など、″世界平和″を意味する各国の言葉が、次々と描き出されていった。
 長い戦争が続く、ベトナムの文字も出た。
 創価の友の、平和への強き、熱き、誓いの人文字であった。
38  天舞(37)
 行進の列は、「8」の字を描くようにグラウンドを進み、中央のブリッジで立体交差していく。グラウンドの左右に置かれた鉄塔には、「ハシゴ隊」のメンバーが上がって、波をつくり出す。鉄塔は、王冠のようにも、大輪の花のようにも見えた。
 バックスタンドに、金色の地に、赤い「世界平和」の筆文字が浮かび上がった。山本伸一の文字である。
 この文字を、人文字の座席図のマス目に転記する作業を担当したのは、膠原病と闘う一人の女子部員であった。
 彼女は、涙腺の炎症により、涙が涸れ、目のなかに砂が入っているような痛みに苦しんできた。また、唾液もほとんど出ず、口のなかは口内炎だらけであった。
 だが、デザインを学んでいた彼女は、東京文化祭が開催されることを知ると、人文字の手伝いをしたいと、自ら願い出たのである。
 やせ細った体を見て、担当幹部たちは心配したが、彼女は言った。
 「私は自分と戦いたいんです。私自身への挑戦なんです」
 そして、約三カ月間、睡眠時間を削って作業に取り組み、伸一の「世界平和」の文字も、彼女が描き写したのである。
 四万二千のマス目を、一日で埋めなければならない作業は、彼女にとっては、精神力と体力の限界への挑戦であった。
 だが、この挑戦が、彼女の人生の大きな自信となった。そして、その後、病と闘い抜き、健康を取り戻していくことになる。
 それぞれが、自己の壁に挑み、それぞれの、限界を打ち破った、青春の勝利の文化祭であった。
 五段円塔を支えた青年のなかには、九月に入って愛知県に長期出張を命じられた人もいた。一度は、文化祭の出場をあきらめようかと迷うが、彼は、やり遂げてみせると決意し、新幹線で練習に通い続けた。
 その姿が、仕事との両立に悩んだり、体力的に限界を感じるなど、壁に突き当たっているメンバーを奮い立たせていったのである。皆が、自身に打ち勝った勝者であった。
 皆が、感動の青春ドラマを演じたヒーローであり、ヒロインであった。
39  天舞(38)
 天を舞いゆくがごとき青春乱舞の感動の大舞台は、今まさに終わろうとしていた。
 文化祭の歌となった「新時代の歌」が、秋空高く響き渡った。
  新たなる理想の時代は
  我が前に今開けたり…………
 バックスタンドには、「世界平和」の赤い文字とともに、金色の色彩板が、太陽の光に、キラキラと輝いていた。
 世界の平和とは、与えられるものではない。人間が、人間自身の力と英知で、創造していくものだ。戦い、勝ち取っていくものだ。ゆえに、人間が、自身を磨き、自分の弱さに挑み、打ち勝つことこそが、平和建設の要諦といえる。つまり、自己の境涯を開き、高めゆく、人間革命の闘争なくして平和はない。
 また、戦争が″死の恐怖″の世界なら、平和は″生の歓喜″の世界でなければならない。東京文化祭の出演者たちには、″生の歓喜″がみなぎっていた。人生の輝きがあり、人間の讃歌があった。それは、平和の光であった。
 午後三時五十五分、絢爛たる人間絵巻は、怒濤のような大拍手と大歓声のなかに、幕を閉じた。
 この文化祭を通して、創価学会への深い理解と共感をもつに至った来賓も多かった。
 日本を代表する実業家の松下幸之助は、後日の取材にこう答えている。
 「一歩、会場に足を踏み入れた瞬間から興奮を覚え、荘厳華麗な人絵や演技が進行していくにつれて、会場全体が一つの芸術作品のるつぼと化し、躍動の芸術とでもいうか、筆舌し難い美の極致という感に打たれた。
 これも信仰から自然にわき出る信念により、観覧者をして陶酔境に浸らしめ、自分としても得るところ大なるものがあり、感銘を深くした」
 そして、やがて、彼と山本伸一との交流が始まり、後に往復書簡集『人生問答』を出版するようになるのである。
 また、あるジャーナリストは、「あの偉業を成し遂げたものこそ、創価学会の本質であるにちがいない。それは一口にいえば、多数の人間が、共通の目的に向かって自発的に共通の行動に参加することであろう」と、鋭く洞察している。
40  天舞(39)
 東京文化祭の感想を問われた、ある財界人は、文化祭の陰の力として活躍した役員の姿を讃えながら、こう評している。
 「華やかな舞台はもとより、それ以上に感動を深めたのは、陰の方々のご努力です。あれだけの大人数の催しでも、実にすがすがしく整理、整備し、それこそ会場の周りには紙屑一つ落ちてない。そこまで周囲に配慮し、実行することは、深い信仰なくしてはできるものではありません」
 「毎日新聞」の十月十八日付のコラム「余録」には、文化祭について次のような記述がある。
 「会場内外の秩序はみごとだった。中央線千駄ケ谷駅を降りると、白い運動帽の青年が『ご苦労さま』と、脱帽してあいさつし、道順を指示してくれる。ひとをよぶ以上、そんなことは当たり前かもしれないが、その当たり前のことに、いまは、なかなかお目にかかれないのである」
 山本伸一が、最も心にかけていたのも、陰で文化祭を支えてくれた、整理や清掃、設営などの役員の青年たちのことであった。
 彼は文化祭が終了し、来賓と丁重にあいさつを交わすと、外で黙々と整理や清掃に取り組んできた青年たちのもとに足を運んだ。陰の力に徹した彼ら、彼女たちこそが、この東京文化祭を成功に導いた、偉大なる功労者であると考えていたからだ。
 汗を滲ませ、懸命に走り回る整理役員の青年たちに向かって、彼は手を振り、声をかけた。
 「ご苦労様! ありがとう!」
 その声に振り返った青年たちの顔が、夕日を浴びて赤らみ、輝いた。
 さらに、近くで清掃作業に励む女子部員にも言葉をかけ、深々と頭を下げた。
 「ありがとう! 皆さんが黙々と頑張ってくださったお陰で、大成功の文化祭となりました」
 喜びを満面にたたえ、会釈を返し、また作業を続ける役員の女子部員の姿には、使命に生きる青春の誇りが満ちあふれていた。
 御聖訓には、「陰徳あれば陽報あり」と仰せである。
 それを確信できるかどうかに、信心は表れ、また、それが、一生成仏を決するといってよい。
41  天舞(40)
 この日の夜、いっさいの後片付けを終えた青年部の幹部が、学会本部の山本伸一のもとに、意気揚々と、終了の報告にやって来た。
 「本日は、大変にありがとうございました」
 伸一は、微笑みを浮かべた。
 「どうも、ご苦労様。すばらしかったよ」
 青年たちは、興奮ぎみに語り始めた。
 「はい。最高の文化祭になりました。ほかのどんな団体も、これだけの文化祭を行うことはできないと思います」
 「この文化祭を見て、どの来賓の方も、学会を大変に高く評価しておりました」
 「さっきも、これほど大規模で、完成度の高い文化祭は、空前絶後だろうと、みんなで話し合っていたところなんです」
 皆の感想を聞いていた伸一の顔は、次第に曇っていった。
 彼は尋ねた。
 「青年部長は、清掃の役員のところへは、御礼に行ったのかい」
 「いいえ」
 伸一は、青年部の首脳たちが、文化祭の成功に酔い、本人たちも気づかぬうちに、心に、うぬぼれと油断が兆しているのを感じた。
 伸一の厳しい声が響き渡った。
 「みんな、自分たちは、大したことをやったと思っているんだろう!」
 皆、黙って伸一に視線を注いだ。
 「君たちが文化祭の成功に酔っている間に、私は懸命に作業に励んでくれた場外の役員を全力で激励してきたよ。陰の力として働いてくれた人がいたから、成功したんだ。
 また、東京文化祭というのは、既に、もう過去のことなんだ。過去の栄光に陶酔していれば、待っているのは敗北だ。勝って兜の緒を締め、間断なく、前へ、前へと進むことだ。その心を忘れてしまえば、慢心と油断が生じ、そこから崩れていくことになる」
 ″青春錬磨″の舞台ともいうべき文化祭の、最後の最後まで、伸一は、青年の育成に全魂を傾けていたのである。
 青年部の首脳幹部たちは、厳しい伸一の指摘のなかに、自分たちへの限りなく大きな期待を感じ取り、目頭を潤ませるのであった。
42  天舞(41)
 一九六七年(昭和四十二年)の十月三十日、山本伸一は、東京・信濃町の創価文化会館に、ヨーロッパから賓客を迎えていた。
 血色の良い、気品をたたえた柔和な顔の、銀髪の老紳士であった。
 老紳士は、目を輝かせて語った。
 「私は、今日、世界で最もすばらしい宗教をもち、それを根底に平和の運動を実践されている山本会長にお会いできました。心から尊敬の意を表すると同時に、非常に嬉しく思っております」
 その人こそ、「ヨーロッパ統合の父」として知られる、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵である。
 彼は、この四日前の二十六日、日本の大手建設会社の会長が設立した平和研究所並びに、NHK(日本放送協会)などの招待で来日した。訪日の主な目的は、招待者である平和研究所から贈られる、第一回の平和賞の授与式に出席することであった。
 この訪日は、日本で生まれて、生後まもなく父の国オーストリア・ハンガリー帝国(当時)へ渡った七十二歳の伯爵にとって、実に七十一年ぶりの″里帰り″であった。
 彼の父は、ヨーロッパの由緒ある貴族の出であり、オーストリア・ハンガリー帝国の外交官であった。代理公使として日本に駐在中に、日本人女性の青山光子と結ばれたが、その結婚は、明治の社会の国際ロマンスとして話題を呼んだ。
 夫妻は、東京で二人の男児をもうけた。一八九四年(明治二十七年)に誕生した次男こそ、エイジロウという日本名をもつ、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーであった。
 やがて、一家は、父親の祖国に移り住むが、それから十年後に、父が他界するのである。子ども七人を残して。
 だが、リヒャルトが父から受けた影響は、計り知れないものがあった。
 父親は、ユダヤ人排撃に反対し、また、アジアを愛し、アラビア文化やインド文化にも造詣が深く、十八カ国語に通じているコスモポリタン(国際人)であった。そして、子どもたちと散歩する時には、さまざまな国の風俗や歴史を語って聞かせた。
 リヒャルトは、この父から、世界性を、平和の精神を学んだのである。
43  天舞(42)
 そして、彼は、二十八歳で自著『パン・ヨーロッパ』を出版。ヨーロッパ統合への行動を開始し、平和建設の旗手として活躍してきた。
 そのクーデンホーフ・カレルギー伯爵が、来日にあたり、招待した団体に、山本伸一との会見を、強く希望したのである。もともと、母の宗教である仏教に深い関心をもっていた彼は、民衆のなかに深く根を下ろし、急速に発展した、仏教徒の団体である創価学会に着目し、その運動や実態を研究していたようだ。そして、学会員が、仏法をもって人びとの苦悩を救おうと、精力的に活動していることに、感動していたという。
 来日前に、フランスのパリで、「東京新聞」のインタビューに応じた伯爵は、次のように語っている。
 「仏教の世界でも長い眠りから覚めて新しいルネッサンスが芽ばえている。(中略)日本でも創価学会の運動が伝えられているが、これは世界最初の友愛運動である仏教のよみがえりを意味している」(一九六七年九月二十三日付夕刊)
 伯爵のいう″友愛″とは、他者を思いやる″慈悲″を根本にした創価の運動の姿を、ヨーロッパの概念にしたがって表現したものであろう。
 ともあれ、伯爵は、学会のなかに、仏教の真実の精神と実践があることを、鋭く見抜いていたのである。また、そのリーダーである山本伸一にも、強い関心をもつようになっていったようだ。
 この日本訪問にあたって、クーデンホーフ・カレルギー伯爵が会見を希望したのは、天皇陛下、皇太子殿下、佐藤栄作首相、三木武夫外相ら、伸一を含めて七人であった。
 伸一は、会見の要請を受けると、快諾した。
 相互理解といっても、また、友情といっても、それは、直接会って、語り合うことから始まるからだ。対話には、人間と人間を結び合う、結合の力がある。
 彼は、仏法者として、人間として、人類の恒久平和の道を、探り当てていかなければならないと決意していた。そのためには、英知と英知の、触発の対話が不可欠であり、恒久平和を共通の目標として分かちもつ、堅固な意志と英知のネットワークを、国家や民族を超え、世界に広げていくしかないと考えていたのである。
44  天舞(43)
 彼は、クーデンホーフ・カレルギー伯爵の母親は日本人ではあるが、この語らいは、東洋と西洋との文明間の対話となるにちがいないと思った。
 伯爵は、伸一が深く敬意を抱いてきた人物の一人であった。伸一は、ヨーロッパ統合の先駆者として行動してきた伯爵から、その信念、哲学、経験を、謙虚に学びたかった。
 創価文化会館の玄関前で、伸一は、伯爵の一行を出迎えた。
 「ようこそ、おいでくださいました。お会いできて大変に光栄です。心から歓迎申し上げます」
 伸一は、握手を交わした瞬間から、旧知の間柄であるような思いがしてならなかった。それは彼が、日本語に翻訳されている伯爵の著作や関係書には、ほとんど目を通し、その主張や思想、生き方に、深く共感してきたからにほかならない。
 会見は、伯爵に同行してきた、招待団体であるNHKの関係者らも同席し、英語の通訳を介して行われた。
 最初に話題になったのは、世界平和に果たすべき日本の使命であった。
 伯爵は言った。
 「私が一番大事だと思っているのは、日本が先頭に立って、平和への理想を実現していくべきだということです。
 核時代の幕が開いたのは約二十年前ですが、現在、世界の多くの国が、次の戦争に向かって準備をしております。
 そのなかにあって、日本は、世界有数の経済力をもち、そして、世界に類例のない平和憲法をもっています。
 また、近代に至るまでの三百年間、日本には、国内でも、また、外国とも戦争がなかった時代があります。
 これは、平和の一つの先例といえます。
 さらに、現在の日本の文化には、西洋の文明、儒教、仏教が融合しています。
 これらを考えると、日本は世界に対して、平和への指導力を発揮していかなくてはならないというのが、私の考えです」
45  天舞(44)
 「大事なご意見です。全く、その通りであると思います」
 伸一は、伯爵の意見に、全面的に賛同することができた。彼も、「平和憲法」をもつ日本の使命の重さを、痛感していたからである。
 日本国憲法の前文と第九条には、平和主義と国際協調主義の理念が明確に謳われている。このうち、第九条の一項では、国権の発動たる戦争の放棄を宣言し、国家主権を、いわば自ら制限しているのである。
 伸一は、その条項に、国連などの国際機関に主権の一部を委ねようとする、憲法自身の″意志″ともいうべきものを感じていた。
 そこには、世界は一つという理想が内包されているといってよい。
 彼は、この憲法こそ、日本国民の最高の宝であると考えていた。
 また、第九条に込められた、戦争の根絶という人類の悲願の実現に、彼は生涯を捧げゆくことを決意していた。それが、とりもなおさず、仏法者の使命であるからだ。
 そして、日本国憲法に掲げられた平和の理念と精神を、全世界に広げゆくことこそ、二十一世紀に向かって日本が歩むべき方向性であると、伸一もまた、結論していたのである。
 語らいは、冒頭から、核心に入っていったといえよう。
 伸一は、伯爵と会見できたことに、大きな喜びを感じた。
 世界平和を希求し、その方途を懸命に探求する伯爵は、まさに、彼にとって″同志″にほかならなかった。
 「今日は、日本の青年を代表して、文化国家としての日本の将来のために、大きくは世界平和のために、私の方から、何点か質問をさせていただきます」
 最初に伸一が尋ねたのは、世界の恒久平和の実現を考えた場合、ヨーロッパの統合を推進するだけでなく、さらに、もう一歩、考えを進める必要があるのではないかということであった。
 また、共産主義を排斥するだけの西欧の在り方では、東西両陣営の緊張はますます深まり、平和を達成することはできないのではないかとの、彼の率直な意見を伝えた。そして、感想を求めた。
46  天舞(45)
 伯爵は、最初、伸一の問いに答えていたが、やがて「私にも質問をさせてください」と言って尋ね始めた。
 「創価学会の仏教の復興の運動は、全世界にわたるものなのでしょうか、それとも、日本の国だけのものなのか、どちらでしょうか」
 「もちろん、日本だけではありません。日蓮大聖人の仏法の哲理をもとに、全世界の平和と人類の幸福を実現していくことが、私たちの目的です。
 万人が、『仏』という尊極無上の生命を具えていると説く、仏法の生命の尊厳や平等の哲理、また、『慈悲』という考え方は、世界の平和を築き上げるうえで、必要不可欠なものです。このヒューマニズムの哲理を、人類の共有財産として、世界に伝えていくことこそ、私ども創価学会の使命であると考えております」
 「そうですか。よくわかりました。実は、創価学会に対して、民族主義的であるとか、国家主義的であるといった批判を、よく耳にするんです」
 伸一は、微笑を浮かべて言った。「日蓮というと、国家主義、民族主義のように思っている人がおりますが、それは、本質を見誤っています。日本の、いわゆる日蓮主義者たちの、誤った日蓮仏法の理解や言動から、そうした印象をつくられてしまったんです。
 日蓮大聖人は、鎌倉幕府の権力者を、『わづかの小島のぬしら主等』と言われているように、日本という国家の枠を超えて、広く人間の幸福を考えておられた。あの鎌倉時代に、仏法を『閻浮提えんぶだいに広宣流布せしめんか』と仰せになっているんです。『閻浮提』とは全世界の意味です。
 それは、一国家にとらわれた偏狭な発想とは、全く相反します。学会は、その御精神のままに、世界に仏法のヒューマニズムの運動を広げてまいりました」
 伸一の話を聞くと、伯爵は頷いた。
 「私は、創価学会の運動が、日本という一国家の民族主義的な運動ではないことが確認でき、大変に嬉しく思います。学会は、世界に大きく貢献できるでしょう」
47  天舞(46)
 伯爵は、さらに矢継ぎ早に、質問を発していった。
 「世界にメンバーは、どのぐらいいますか。そして、その人たちは、日本人ですか、それとも現地の人でしょうか」また、紛争の続くベトナムやカンボジア、さらにフランスなど、それぞれの国のメンバーの数や活動の様子などについて、丹念に尋ねるのであった。
 伸一は、それらの質問に丁寧に答えたあと、仏法とは何かについて言及した。
 「仏法というのは、人間と宇宙を貫く、生命の永遠不変の法則であり、また、人類の平和と幸福を実現するための指導原理といえます。したがって、現代科学とも、決して矛盾するものではありません。むしろ科学技術をリードし、人間の幸福に寄与するものにしていくための、哲学が仏法なんです。
 私たちの運動は、その仏法によって、人間自身の変革、つまり、人間革命をめざすものです。人間は、社会の担い手であり、創造の主体者です。ゆえに、その人間の生命、精神という土壌を耕していくならば、社会も変わっていきます。そして、陶冶された人格、生命の大地の上に、豊かな平和、文化の花を咲かせようというのが、創価学会の運動です。
 いっさいを育む人間の精神に、生命に、眼を向けよ――それが私たちの主張です」
 伯爵は、何度も大きく頷いた。
 「大事なことです。私は、仏教の、時代を超越した、科学と矛盾することのない、普遍妥当性を信じます。創価学会による日本における仏教の復興は、世界的な物質主義に対する、日本からの回答であると思います。これは、宗教史上、新たな時代を開くものとなるでしょう」
 そして、伸一をじっと見つめながら、感慨のこもった声で言った。
 「あなたは、常に非難中傷されながら、日本中の、いや世界の、実に多くの敵と戦っていることを、私は知っています。
 しかし、偉大な人というのは、皆、そうです。ただ、あなたの場合は、その敵でさえも、あなたが、天才的なリーダーであることを認めざるをえません」
48  天舞(47)
 当時、日本国内でも、また、諸外国でも、創価学会、そして、山本伸一への非難と中傷が、しばしば繰り返されていたのである。
 ナチス・ドイツに戦いを挑んで迫害を受け、亡命せざるをえなかったクーデンホーフ・カレルギー伯爵は、正義の旗を掲げ立った者の宿命を、知悉していたのだ。
 伸一は、毅然として語った。
 「今、私が、世界の多くの敵と戦っていると言われましたが、イデオロギーや宗教が異なっているからといって、私にとっては、本来、敵ではありません。
 もちろん、暴力やテロは絶対に悪ですし、民衆を支配し、隷属化させる権力とは、どこまでも戦います。
 しかし、人間の幸福、救済をめざす思想、宗教には、本来、人間を尊重するという共通項があります。それがある限り、必ず通じ合い、共感し合うはずであり、相互理解は可能であると思います。
 さらに、仏法で説く、万人が等しく『仏』の生命をもっているという考え方は、人間を貫く、内なる普遍の世界を開示するものといえます。
 人類がそこに着目し、人間の共通項に目を向けていくならば、分断から融合へと発想を切り替える、回転軸となっていくと確信しています。
 また、宗教の違いによって生じた文化的な差異は、違いを認めるというだけでなく、むしろ尊重すべきです」
 伯爵は、両手を広げて、賛同の意を表した。
 その瞳が輝き、顔には、屈託のない微笑が浮かんでいた。
 伯爵は、宗教戦争を、大きなテーマの一つにして、解決の道を探求してきた。
 そして、この時、伸一の話から、解決のための、なんらかのヒントを、得たのかもしれない。
 会見は、さらに、西洋哲学と仏法思想、国連の在り方、ベトナム問題などに及んだ。
 一時間の語らいは、あっという間に終わってしまった。
 伯爵は、名残惜しそうに席を立った。実りある会見であったが、伸一も、語りたいことや尋ねたいことが、まだ、たくさんあった。
 二人は固い握手を交わし、再会を約し合った。
49  天舞(48)
 日本を発った、クーデンホーフ・カレルギー伯爵から、十一月十八日、伸一のもとに、丁重な礼状が届いた。
 そこには、次のように綴られていた。
 「……貴殿とともに過ごしたあの会見は、私の日本訪問中、最も貴重な時間でありました。私は貴殿の偉大なる業績に賞讃の辞を送るとともに、私が心から敬服してやまない仏教のルネサンスによって、日本一国のみならず、アジアと世界の進路に貢献されんことを、衷心より期待するものであります」
 創価学会への伯爵の期待に、伸一は、世界平和への決意を新たにしたのであった。
 彼は、早速、返書を出した。
 そのなかで、三年後に、伯爵を日本にぜひ招待したいと述べ、次のように結んだ。
 「閣下がご指摘になり、また期待しておられます『仏教のルネサンス』を通じて、また全世界の平和勢力に協力を求めつつ、戦争なく軍備なき恒久平和を樹立することこそ、創価学会に課せられた最高の使命であると自覚し、ますますその決意を固めております。
 何とぞ閣下も長生きをされて、有意義な運動と重要な著作活動をお続けになられるよう、心からお祈り申し上げます。
 再び、近くお目にかかれる日を、楽しみにしております」
 会見の九カ月後、伯爵は、訪日の思い出を綴った、『美の国―日本への帰郷―』(鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会)を発刊した。
 そのなかで、山本伸一に「強く感銘した」として、こう記していた。
 「やっと39歳の、この男から発出している動力性に打たれたのである。彼は生まれながらの指導者である。鎌倉の大仏の模像ではないのである。生命力の満ち溢れている、人生を愛する人物である。率直で、友好的で、かつ非常に知性の高い人物である」
 「この会談は私にとっては、東京滞在中のもっとも楽しい時間の一つであった」
 伸一と伯爵の交流は続き、書簡のやりとりが重ねられた。
 そして、東西の文明論をテーマにした対談集を出版する話が持ち上がり、次回の来日の際に、その対談を行うことが決まったのである。
50  天舞(49)
 クーデンホーフ・カレルギー伯爵と山本伸一が再会したのは、一九七〇年(昭和四十五年)の十月であった。
 対談の第一回は、七日、創価文化会館で、約三時間にわたって行われた。
 さらに、十七日には、創価学園(一九六八年開校)で、伯爵が「私の人生」と題する講演を行ったあと、四時間以上にわたって語り合った。
 また、二十五日、二十六日の両日は、落成間もない聖教新聞社の新社屋で行われ、対談は、延べ十数時間に及んだ。
 二十一世紀に向かって進みゆく青年のために、指標を残したい――その一心で、伸一は会見に臨んだ。
 対談は、伸一から問題提起をするというかたちで進められた。
 話は、日本論に始まって、国際情勢、国連論、国家論、自然と人間、公害問題、宗教の復権、指導者像、太平洋文明、民主主義、生命の尊重、青年論、女性論、教育論等々、多岐にわたった。
 その底流には、いかにして世界平和を実現するかという、明確な問題意識があった。伯爵は語る。
 「第三次大戦の回避は、なんらかの精神運動によって、人種、宗教、イデオロギー、国籍などによるあらゆる違いと対立を超えて、人類の共存と相互信頼の重要性が徹底された場合にのみ可能だと思います」
 伸一が答える。
 「私が主張する思想的条件とは、まさにその精神的な運動のことです。
 共存への機運がいかに高まったとしても、国家間の対立を止揚するものがなければ、第三次大戦は阻止できないかもしれません。この、あらゆる対立を超えさせるものを、人類の精神の中に構築しなければならないと思います。
 ……つまり、地球民族としての普遍的な精神を打ち立てなければならないと思います。あなたのパン・ヨーロッパ運動が果たした役割も、そこにあったと思うのです。私は、パン・ヨーロッパ主義は、やがて全人類を含めたインターナショナリズムへのワンステップとなるべきものと考えるのですが」
 「おっしゃる通りです」
 魂と魂が触れ合い、発光するかのように、二人の語らいは、人類の暗夜を照らし出す、英知の光となって輝いていった。
51  天舞(50)
 日本を「独自の文明をもつ、太平洋に存在する大陸」であると位置づける伯爵の、日本への期待は大きかった。
 伯爵は、力を込めて、伸一に訴えた。
 「大事なことは、偉大な思想を(日本が)外国に向かって、世界に向けて紹介することです。私は、その時が、すでにきていると信じます。その偉大な思想とは、インドに起こり、中国を経て、日本で大成した、平和的な、生命尊重の仏教の思想です」
 それは、伯爵の熱願であったにちがいない。
 伸一には、その言葉が遺言のように感じられてならなかった。
 現代社会の不幸の元凶は、人間生命が尊厳なる存在であるという、本源的な考えが欠如していることだ。この思考を欠いては、人間の復権はありえない。
 生命の尊厳とは、人間の生命、人格、個人の幸福を、いかなることのためにも、手段にしないということである。そして、それを裏付ける大哲理が世界に流布されなくては、本当の人類の幸福も平和もない。
 伯爵は、それを痛感していたのであろう。
 伸一は、誓いを込めて語った。
 「それは、私自身、これまでも真剣に取り組んできた問題です。これからも、生涯の念願として、世界の平和のため、人類の幸福のために、微力をつくす決意でおります」
 伯爵の口もとがほころび、顔には幾重にも深い皺が刻まれた。
 この対談は、翌一九七一年(昭和四十六年)の二月から、サンケイ新聞に、「文明・西と東」のタイトルで、半年間にわたって連載された。
 週二回、五十三回にわたって、紙面を飾ったのであった。
 さらに、七二年(同四十七年)には、対談集『文明・西と東』として、サンケイ新聞社出版局から発刊されたのである。
 この書を手にした人びとは、世界的な知性が創価学会を渇仰していることに驚愕した。また、同志は、いよいよ仏法という希望の旭日が、世界の海原に昇りゆく、時代の到来を感じるのであった。

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