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日蓮大聖人・池田大作

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第12巻 「新緑」 新緑

小説「新・人間革命」

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2  新緑(2)
 参加者は、高鳴る胸の鼓動を抑えながら、開会を待った。
 「苦難のなかに毅然として立つ人を見るほど、われわれに大きな感動を与えるものはない」とは、古代ローマの哲学者セネカの言葉である。
 午前十一時半、海外からの祝電が披露された。
 「謹んで会長就任七周年をお祝い申し上げ、アフリカ広布に邁進することを誓います。
 ――ナイジェリア同志一同!」
 次々と、世界各地のメンバーの、喜びと決意が伝えられた。
 そのたびに、大きな拍手がドームの大天井にこだました。
 広宣流布のこの広がりこそ、山本伸一が十二回にわたって海外訪問を重ね、世界の五大州を駆け巡ってきた、奮闘の結実であった。
 定刻の正午、万雷の拍手のなか、伸一が入場。開会が宣言された。
 開会の辞に続いて総務の十条潔が、伸一の第三代会長就任以来の歩みを語り始めた。
 「この七年間の前進はなんとすばらしい、大偉業の歳月であったことでありましょうか!
 恩師戸田城聖先生のご遺命のことごとくが、山本先生の手によって現実のものとなりましたが、幾つかの観点から、それを見てまいりたい。
 世帯数は先生の会長就任前には、百四十万世帯でしたが、この七年で広宣流布は大前進し、今や六百二十五万世帯となり、支部数は六十一から、国内だけで三千三百九十三と、大飛躍を遂げたのであります。
 また、山本先生は、高等部、中等部、少年部という、未来に羽ばたく鳳雛たちの組織を結成。広布後継の大河の流れをつくられたのであります。
 さらに、教育部、芸術部、学術部など、文化創造のための各部も誕生。多彩な人材が陸続と育ってまいりました。
 一方、広く社会に、新しき人間文化の光を送るために、音楽・芸術の分野では民音を設立。
 学術研究の分野にあっては東洋哲学研究所(発足時は東洋学術研究所)などを、政治の分野では公明党を創立されたのであります。
 また、現在、創価中学・高校は、明年の開校をめざして着々と建設が進んでおりますし、創価大学も開学に向かい、準備が進められております」
3  新緑(3)
 十条潔は、海外においてもメンバーは十五万世帯となり、アメリカ本土のロサンゼルス近郊にも、新寺院がオープンすることなどを発表して、こう話を結んだ。
 「まさしく、この大偉業、大発展は、山本先生が億劫の辛労を尽くされたからであると、痛感いたしております。
 そのことに対し、私は心から先生に、御礼、感謝申し上げたい。
 私たちは、ともどもに報恩の一念を燃やして、新しい決意と勇気をもって、次の七年への大前進を誓い合おうではありませんか!」
 怒濤のような大拍手がうねった。
 皆、十条と同じ気持ちであった。
 だが、山本伸一は拍手を送る同志を見て、むしろ申し訳なさを感じた。
 確かに彼は、この七年間、無我夢中で走り抜いてきた。
 なかなか家に帰ることもできないような、東奔西走の日々であった。
 もともと病弱であった彼は、何度となく体調を崩しもした。
 それでも、自分を待っている同志がいると思うと、じっとしているわけにはいかなかった。
 伸一は、会長に就任した時、広宣流布のため、同志のために、一身を捧げようと誓った。だから当然のこととして、激闘を自らに課した。
 だが、その分、学会員には、よく休養をとり、人生の楽しさを満喫しながら、信心に励んでほしいと念願してきた。
 しかし、会員の多くは″広布こそ、わが人生!″と定め、来る日も来る日も、全力で走り抜いてくれたのだ。
 伸一は、その健気なる姿を、日々、涙が出る思いで見てきた。
 そうした同志の敢闘あってこその、七年間の大発展であると考えていたからだ。
 何人かの幹部のあいさつが終わり、雷鳴のような拍手が轟いた。遂に伸一の講演である。
 凛とした声が響いた。
 「……わが学会も、これまでの七年間は、航海にたとえれば、近海の航路を航行していたようなものでありました。
 しかし、いよいよ、いっさいの訓練を終えて、偉大なる目標へ、一直線に太平洋の荒波に、雄々しく船出する壮挙の時を迎えたのであります!」
4  新緑(4)
 勇み集まり来った同志は、嬉しい限りとばかりに大拍手を送り、その歓喜の脈拍は、ますます高まっていった。
 若き山本伸一の、あの透き通った声が、皆を魅了した。
 「広布の第二ラウンドとなるこれからの七年は、これまでの学会創立以来の歴史よりも、さらに重要であり、広宣流布達成の勝負を決し、基礎を築く七年間であると思います。
 大聖人の御遺命を果たし、人類の恒久的な平和と繁栄を実現するために、断じて一歩も退くことなく、″信心の英雄″となって、また、再び、私とともに、勇敢に戦い進んでいただきたいのであります!」
 参加者は、身を乗り出し、大きな拍手をもって応えた。
 次いで、待望久しい正本堂の完成の時期について述べ、「七つの鐘」のうちの「第六の鐘」が鳴り終わり、「第七の鐘」の出発となる一九七二年(昭和四十七年)の完成になることを発表した。
 そして、過去の世界的な権威をもつ建造物が、権力者の名によって建てられ、その陰には多くの人びとの懊悩があったのに対して、わが正本堂は、人民の誠意と歓喜による建立である。世界に誇るべき民衆の建立による本門の戒壇である――と訴えた。
 ここで、伸一は、現代社会に鋭い分析の眼を向け、人間疎外の問題について論じていった。
 現実社会のかかえる問題を直視し、その解決に取り組んでいくなかにこそ、仏法者の真実の生き方があるからだ。
 「現代の思想家、知識人が憂えている文明の行き詰まり等の問題は、究極的には、人間性喪失、すなわち、人間疎外の問題であります。
 これは、物質文明、機械文明の目覚ましい発達に比べて、精神文明が立ち遅れ、人間が主体性を失い、生命の尊厳を忘れたゆえであります。
 その幾つかの局面をあげてみますと、まず、生活のあらゆる部門が機械化され、人間は機械に従って動いていればいいような、機械が主人で、人間が家来といった関係になってしまった。
 企業等でも、機械化、合理化のために、労働者が首を切られるという現象も起きております」
5  新緑(5)
 山本伸一は、さらに鋭く、言葉をついだ。
 「いわゆる官僚機構に見られるごとく、組織が膨大となり、人間一人ひとりは、その歯車にすぎなくなってしまっております。
 そこでは、組織それ自体が巨大なメカニズムとなり、個人の意思を超えて動き、個人は言い知れぬ無力感と虚無感に覆われている。
 また、マスメディアによって、情報、ニュースが、洪水のように流されるなかで、現代人の多くは、ただ、それを受け取るだけになっているというのが、悲しき現状であります。
 そうした状態が続くうちに、自分から意欲的に主体性をもって働きかけるよりも、いつも何かを待っているような、受け身的で消極的な、弱々しい精神構造になりつつあるといえます。
 また、生き方、考え方の確固たる基準がないところから、理性的な判断に欠け、その場、その場で、衝動的、本能的に行動してしまう傾向が強くなってきている」
 伸一は、このほかに核兵器の脅威などをあげ、機械文明、物質文明に押しつぶされ、人間が疎外されている現実を明らかにしていった。
 彼は、人間疎外の進行に、強い危機感をいだいていた。そして、人類の未来のために、解決の糸口を示さなければならないと、考え続けてきたのである。
 伸一は、それらを乗り越えていくには、機械文明の力を自在に使いこなしていける、強い自己自身をつくっていくことが肝要であり、そのためには、支柱となるべき思想、宗教が不可欠であることを述べた。
 しかし、西洋の資本主義の基盤となったキリスト教も、また、共産主義も、行き詰まりを呈しており、色心不二の大生命哲学、すなわち、日蓮仏法こそが、新しき精神文明を開きゆく力であると訴えたのである。
 最後に、伸一は、決意も深く、こう結んだ。
 「私どもは、生涯、いかなる嵐が吹き荒れようが、地を走る獅子王のごとく正々堂々と、天空を翔る鷲のごとく自在闊達に、思想界、宗教界の王者の自覚で、日蓮門下として、決して恥じない法戦を、貫き通していこうではありませんか!」
6  新緑(6)
 皆、山本伸一の講演を聴くと、目から鱗が落ちる思いがした。
 多くの参加者は、それぞれ、生活苦や病、家庭不和などを信心によって克服してきた体験をもち、仏法への強い確信をいだいてはいた。
 しかし、「人間疎外」といった、現代社会のかかえる大テーマに対しての仏法の役割となると、戸惑いを覚えるメンバーが少なくなかった。
 だが、この講演によって、「人間疎外」という難問を解決していく唯一の道が、仏法にあることを知り、ますます確信を深めたのである。
 同時に、それは、ここに集った同志たちに、人類のかかえる難問題に挑み、解決していく仏法者の使命と責任を、深く促すものとなった。
 式次第は、最後の学会歌の合唱に移った。
 この年の一月に総務になった、秋月英介の指揮で、「勝利への歌」の合唱が終わると、司会者が叫んだ。
 「ここで、山本先生に学会歌の指揮をとっていただきたいと思いますがいかがでしょうか!」
 大拍手が波打った。それが皆の願いであった。
 伸一は、ニッコリと頷くと、扇を手にして立ち上がった。大歓声がこだました。
 まさに会長の陣頭指揮である。常に、それが学会の勝利の大前進をもたらしてきたのだ。
 「威風堂々の歌」の勇壮な調べが流れた。皆の手拍子の音が一つになって、ひときわ高く鳴り響いた。
 濁悪の此の世行く
 学会の
 行く手を阻むは……
 雄渾にして、優雅な、大鷲が舞いゆくような指揮である。
 ″次の七年間も、私は力の限り、生命の限り、広宣流布の指揮を、断固、とり続ける!″
 こう誓いながらの、出陣の舞であった。
 同志たちは、伸一の堂々たる指揮から、その決意を感じ取っていった。手拍子に一段と力がこもった。皆の瞳は一段と光り輝いていった。
 本部総会は、山本会長の指揮のもと、新しき前進と勝利を誓う大合唱で幕を閉じた。
 創価の闘将たちは、再び広宣流布の、無限に広がりゆく新緑の戦野に、さっそうと歩みを開始したのである。
7  新緑(7)
 本部総会から十日後の五月十三日には、山本伸一は、アメリカ、ヨーロッパ各国の歴訪の旅に出発した。
 早くも世界広布の第二ラウンドへ、伸一の大回転が始まったのである。
 彼に休息はなかった。
 「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」との仰せのままに生き抜くことを、伸一は信念としていたからである。
 さらに、それが、日蓮仏法を受け継ぐということであり、創価の精神であるからだ。
 彼の最初の訪問国はアメリカで、ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨークを回ってヨーロッパに入り、フランス、イタリア、スイス、オランダを歴訪することになる。
 これには、理事長の泉田弘、総務の十条潔らのほか、妻の峯子も同行することになっていた。
 また、ハワイのホノルルなどで寺院の入仏式が行われるため、宗門の日達法主らを案内しての旅である。
 伸一が東京を発ったのは、五月十三日の午前十時半であったが、ホノルル到着は、時差の関係で現地時間の十二日の午後十時ごろであった。
 翌十三日正午からは、ハワイに誕生した本誓寺の入仏式が行われた。
 青空に輝く、常夏の太陽がまぶしかった。
 この寺院は、ハワイ会館から、一・五キロメートルほど離れた、小高い丘の上にあった。
 入仏式への出席は、二百人ほどの代表に限られたが、この時には、ハワイのメンバーは、既に二千世帯を超えていたのである。
 七年前の十月、伸一が世界平和への旅の第一歩を、このハワイの地に印した時、座談会に集って来たのは、わずか三十数人にすぎなかった。
 それが、今や太平洋の一大拠点に発展し、会館に引き続き、寺院まで建立されるにいたったのである。
 七年前を知る同行の幹部たちにとっては、まさに隔世の感があった。
 だが、大発展にあらためて驚きはしたものの、その原動力がなんであったかを、誰も考えようとはしなかったにちがいない。
 それは、伸一の、同志一人ひとりへの徹底した励ましであった。
8  新緑(8)
 組織といっても、あるいは運動といっても、それを支えているのは、一人ひとりの人間である。
 その人間が一念を転換し、使命に目覚め立ち、最大の力を発揮していくならば、すべてを変えることができる。
 ゆえに、個人指導という、目立たぬ、地道な活動こそが、広宣流布の生命線を握る、最も重要な作業となるのである。
 ハワイを初めて訪問した折にも、山本伸一は、寸暇を惜しんで、幾度となく、メンバーと対話を重ねた。
 座談会でも質問会を行い、日本に帰りたいと泣きじゃくる人の言葉に耳を傾け、同苦することから、彼の行動は始まったのである。
 ホテルでも、個人指導に余念がなかった。
 ともかく、対話を根気強く、惜しみなく続け、使命の種子を植え、希望の風を送り、皆の一念を変えていった。
 以来、ハワイを訪問するたびに、個人指導を積み重ねてきたのである。
 対話による一念の転換――そこに、勝利を打ち立てる一切の鍵がある。
 山本伸一は、広宣流布の第二ラウンドとなる新しき七年の世界旅で、再び、このハワイに第一歩を印したことに感慨を覚えながら、本誓寺の入仏式に臨んだ。
 今回の旅で彼が決意していたこともまた、七年前と同じく、一人でも多くの人と会い、励まし、その胸中に使命の種を植えることであった。それ以外に、広宣流布の飛翔の王道はないからだ。
 彼のスケジュールは、各種の行事や日達法主らの視察の案内などで、ぎっしりと詰まっていた。
 しかし、彼は、必ず、日々、メンバーを激励することを、自らに義務づけていたのである。
 入仏式に引き続いて、記念撮影、さらに、ヤシの木の記念植樹が行われたが、彼は、その合間を縫うようにして、次々とメンバーに声をかけ、握手を交わしていった。
 そして、直ちにハワイ会館に向かった。
 ここにもメンバーが待機していたからである。
 会館に入ると、皆が握手を求めてきた。
 伸一は、その手を強く握り返しながら、ねぎらいの言葉をかけた。
 「ご苦労さまです! お会いできて嬉しい」
9  新緑(9)
 山本伸一は握手をしながら、その人のための励ましの言葉を、瞬時に紡ぎ出した。
 ある年配者には、こう激励した。
 「いつまでも、長生きをしてください。
 人生の勝利の姿は、地位や名誉を手に入れたかどうかで決まるものではありません。最後は、どれだけ喜びをもって、はつらつとした心で、人生を生き抜いたかです。
 あなたの、その姿自体が、信心のすばらしさの証明になります」
 また、ある青年には、こう語った。
 「″信心の英雄″になろうよ。
 それには、自分に負けないで、君自身の広布の歴史をつくることだよ。
 私もそうしてきたし、それが最高の人生の財産になる」
 どの言葉も、最も的確に、相手の心をとらえていた。
 魂の琴線をかき鳴らし、歓喜の調べ、勇気の調べを奏でた。
 この日の夜、ホテルで打ち合わせをした折、アメリカの日系人の幹部が伸一に尋ねた。
 「先生がそれぞれのメンバーに語られる、激励の言葉を聞かせていただきまして、その内容が本人にとって、本当にぴったりのことばかりなので驚いております。
 どうすれば、ああいう言葉をかけることができるのでしょうか」
 「私は真剣なんです!」
 伸一から返ってきたのは、その一言であった。特別な秘訣や技巧など、あるはずがなかった。
 真剣――この二字のなかには、すべてが含まれる。真剣であれば、勇気も出る。力も湧く。知恵も回る。
 また、真剣の人には、ふざけも、油断も、怠惰もない。だから、負けないのである。
 そして、そこには、健気さが放つ、誠実なる人格の輝きがある。
 伸一が、一人ひとりに的確な励ましを送ることができるのも、″もうこの人と会うのは最後かもしれない″という、一期一会の思いで、瞬間、瞬間、魂を燃焼し尽くして、激励にあたっているからである。
 相手が″どういう気持ちでいるのか″″何を悩んでいるのか″″どんな生活をしているのか″など、一念を研ぎ澄まして洞察し、発心と成長を祈り念じて、魂の言葉を発しているのだ。
10  新緑(10)
 山本伸一のメンバーへの激励は、あらゆる場所で続けられた。
 移動の車中でも、車を運転してくれている青年を励ました。
 また、その青年から、生まれた子どもの名前をつけてほしいと要請されると、すぐに命名した。
 同志のためには、どんなことでもしようと、彼は心に決めていたのだ。
 さらに、いっさいの行事を終えたあとも、メンバーに贈るために、深夜までかかって、色紙や書籍に励ましの言葉を認めるのであった。
 彼は、一人ひとりと心を結び合いたかった。
 学会は、ただ組織があるから強いのではない。そこに心の結合があるから強いのである。
 山本伸一は、五月十五日にはロサンゼルスに移り、翌十六日には、ロス郊外のエチワンダに完成した、妙法寺の入仏式に出席した。
 彼方には、サンガブリエル山脈の残雪が、陽光に映えていた。
 空は見事に晴れ、新緑の木々を渡る風がさわやかであった。
 午前十一時、日達法主とともに伸一が、エチワンダの妙法寺に到着すると、待機していた音楽隊が、勇壮なマーチを奏で始めた。
 喜びを満身に表しての歓迎演奏である。
 この寺は、平屋建てで一部二階の、高い天井が特徴の近代的な木造建築であった。
 庭には、芝生が植えられ、築山、池、松などを配した、日本庭園もつくられていた。
 ブドウ畑やオレンジ畑だった土地を整地して、雑草も、一本一本、丹念に抜き取り、石を運び、樹木を植えていったのである。
 そのための労働力は、すべてメンバーが提供したものであった。
 ″寺院ができれば、これまでのように、出張御授戒を待つことなく、いつでも御本尊流布をすることができる。どれだけ広宣流布が進めやすくなることか!″
 そう思うと、メンバーは嬉しくてたまらず、自ら勇んで、重労働を買って出たのである。
 伸一は、同志が炎天下で、汗と埃にまみれながら、毎日、毎日、労作業に励んでくれたことが、ありがたくもあり、申し訳なくもあった。
11  新緑(11)
 前日の夜、山本伸一はアメリカの幹部の代表に提案した。
 「私は、どうすれば、アメリカ広布の大伸展の流れがつくれるのか、メンバーが歓喜と希望に燃えて前進できるか、いろいろと考えてみた。
 それで今回、ヨーロッパ、東南アジアに続いて、アメリカを総合本部とし、大飛躍の布陣を敷いてみてはと思うが、どうだろうか」
 皆、大賛成であった。
 そして、この入仏式の折に、それが発表されたのである。
 あいさつに立った伸一は、にこやかに笑みを浮かべて語り始めた。
 「いよいよアメリカ本部も、第二ラウンドの新しい時代に入りました。アメリカ広布の″本門の時代″に入ったと、私は申し上げたい。
 七年前の第一回の渡米の際、アメリカに初めて支部が誕生した時には、メンバーは三百世帯ほどにすぎませんでした。
 しかし、今、アメリカは本部となり、九総支部三十九支部に発展し、メンバーも約三万世帯となりました。
 そこで本日は、新しき出発の布陣として、検討の結果、アメリカを総合本部とし、西部本部、東部本部、ハワイ本部の三本部でスタートすることが決定しましたので、発表いたします」
 歓声が轟き、雷鳴のような拍手が広がった。
 メンバーは、いよいよ本格的なアメリカ広布の時が、到来したことを感じた。
 アメリカの同志には、山本会長が、世界の平和旅の第一歩を印したアメリカこそ、世界広布の先駆であるとの強い誇りがあった。
 総合本部の結成の発表は、その誇りを決意に変え、″世界広布の第二ラウンドもアメリカから″という、闘志を爆発させたのである。
 実に的確な、未来への布石であった。
 さらに伸一は、アメリカの同志は、人種、民族の違いを超えて、ともに手を携え、仏法民主主義の世界を建設してほしいと念願し、この日の指導とした。
 引き続き支部旗などの授与が行われたあと、祝賀会が開催された。
 この祝賀会の間も、メンバーに対する伸一の激励が、矢継ぎ早に続いたのである。
12  新緑(12)
 芝生が広がる庭で、婦人部の合唱団、音楽隊、鼓笛隊が、喜びの合唱、演奏を、次々と披露していった。
 「月の沙漠」や「荒城の月」の合唱もあれば、アメリカ音楽の演奏もあった。
 山本伸一は、合唱や演奏が終わるたびに、大きな拍手を送り、出演者に賞賛の声をかけた。
 また、音楽隊の選抜メンバーで構成されるバンドに、まだ名前がないと聞くと、「トリビューン・バンド」と命名した。
 「トリビューン」というのは「護民官」の意味であり、どこまでも民衆を守り、正義と勇気を呼び覚ます演奏を続けてほしいとの思いを込めて、名づけたのである。
 さらに伸一は、全参加者と記念のカメラに納まった。
 撮影は、何回も繰り返された。
 メンバーは、大喜びであったが、皆に声をかけ続けた伸一の喉はかれ、額には汗が噴き出ていた。
 妻の峯子は、微笑みを浮かべてはいたが、ハラハラしながら、彼を見ていた。
 炎天下に出て、声がかれるほどメンバーを励まし続けることが、伸一にとって、どれだけ大きな負担になるかを、峯子は誰よりもよく知っていたからである。
 もともと病弱で、結核に苦しんできた彼は、元気になったとはいえ、体力はなかった。無理をすれば、必ず発熱するなど、体調を崩した。
 しかし、広宣流布に一身を捧げ尽くす決意の伸一は、無理に無理を重ねてしまうのである。だが、誰も、それを止めることはできなかった。
 彼女は、せめて風邪をひかせないようにと、伸一が汗をかけば、すぐにタオルを用意し、着替えの準備もしていた。
 また、旅行中は、彼の食事にも、普段にも増して、細心の注意を払っていた。
 そして、ひたすら、心で題目を唱え続けるのである。
 峯子のその気遣いによって、伸一がどれほど守られてきたか、計り知れなかった。
 ともあれ、彼の激励は命を削って行われていたのである。いや、だからこそ、魂の発光があり、友の生命を燃え上がらせていったのである。
13  新緑(13)
 五月十七日には、山本伸一はニューヨークに入った。これが四度目の訪問であった。
 そして十八日、彼は、ニューヨーク会館での勤行会に出席した。
 伸一は、アメリカの幹部から、ニューヨークでも若いメンバーが増え、目覚ましい成長を遂げていると聞き、青年たちと会うことを楽しみにしていた。
 この日、ホテルから勤行会に出発しようとすると、出入り口の近くに、一人の日本人の青年が立っていた。
 現地の幹部が、彼を紹介した。
 「笹原行彦君といいまして、ダンサーをしております。
 今回は、先生の警備をさせていただきたいと自分から申し出て、任務についているんです」
 「そうですか。ありがとう!」
 笹原は、幾分、緊張した様子で、自己紹介を始めた。
 「笹原です。よろしくお願いいたします。
 私は、昨年、信心をしまして、もっと学会のこと、仏法のことを知りたくて、今、一生懸命に活動に励んでおります」
 彼は、眉の濃い、凛々しい顔立ちをしていた。だが、その顔には、どことなく苦渋の色が滲んでいた。
 何か悩みを抱えているようだ。
 ダンサーと言っていたが、人生の進路の問題かもしれないと、伸一は直感し、こう語った。
 「青年時代というのは、悩みとの戦いの時代といえます。
 でも、どんな苦労も、信心を貫き通していくならば、すべて生かされ、自分の人生の財産になっていくものだ。信心こそ、自身を輝かせていく、最高の道なんです。
 大事なことは、広宣流布をわが使命と定め、前進し抜いていくことではないかと思う」
 笹原は、目を輝かせ、「はい!」と大きな声で答えた。
 実は、彼はこの時、ダンサーを続けるべきかどうか、悩み抜いていた。
 ――笹原がダンサーになろうと思ったのは、高校二年の時であった。
 たまたま見た、アメリカのミュージカル映画に魅了されたのである。
 両親に気持ちを打ち明けると猛反対された。しかし、反対されればされるほど、その思いは強まっていった。
14  新緑(14)
 笹原行彦の一途さに両親も根負けしてか、最後は、彼がダンサーをめざすことを許してくれた。
 高校を卒業した笹原は、大学に進んで演劇を学んだ。
 将来の目標であるミュージカルのダンサーになるのに、有利だと考えてのことだ。
 だが、大学の二年生になった時、父親が胃癌のために他界した。
 経済的にも窮地に陥り、やむなく大学を中退せざるをえなかった。
 しかし、そのことで、むしろ、ダンサーで身を立てる決意が固まった。
 笹原は、ビル清掃のアルバイトなどをしながらダンスの教室に通い、本格的にジャズダンスを学んだ。
 やがて、努力が実り、高名なダンサーと弟子たちが創設したバレエ団に加わることができた。
 次第に活躍の舞台も広がり、テレビ番組にも出演するようになった。
 そのころ、結婚してサンフランシスコに渡った妹から、熱心に渡米を勧められた。
 ミュージカルの本場といえば、アメリカの″ブロードウェー″である。
 夢は膨らんだが、渡航費用のことなどを考えると、なかなか決断できなかった。
 しかし、行かなければ、後悔すると思った。
 費用をなんとか工面して、船で日本を発ったのは、一九六四年(昭和三十九年)の三月のことであった。
 彼は、既に二十八歳になっていた。
 渡米した笹原は、妹のところに一週間ほど滞在したあと、″ブロードウェー″にやって来た。
 ニューヨークのタイムズスクエア一帯が、通称″ブロードウェー″と呼ばれる劇場街である。
 そこには、世界中からダンサー、俳優、歌手などが集まっていた。
 街は、きらめくネオンに彩られ、深夜まで賑わいが絶えず、まさに「不夜城」であった。
 そして、そこには、点滅するネオンさながらに、スターを夢見る人たちの、栄光と悲哀の闇が交錯していた。
 ここでヒットしたミュージカルは、全米のみならず、世界を席巻することも珍しくなかった。
 あの「王様と私」や「ウエスト・サイド物語」も、″ブロードウェー″で初演され、世界中で大ヒットしていった作品である。
15  新緑(15)
 無名のダンサーや俳優、歌手であっても、″ブロードウェー″で主役を獲得し、作品が大ヒットすれば、一躍、世界のトップスターになることも珍しくなかった。
 それだけに競り合いも熾烈であり、浮沈も激しかった。
 笹原行彦は、レストランの皿洗いの仕事をしながらダンス学校に通い、レッスンを受け始めた。
 借りることができた住まいは、バスもトイレも共用の、狭い一間のアパートであった。
 言葉も通じないアメリカでの暮らしは、当初の予想以上に苦しいものがあった。
 本場のダンスは、さすがに優れていた。
 笹原は、越えるべきハードルの高さを感じた。
 だが、それが、闘志に火をつけた。
 彼は、人一倍、努力を重ねた。
 彼のダンスを見ていたトップダンサーから、「君のダンスには独特のセンスがある」と称えられたこともあった。
 しかし、技術面では勝っても、肉体的に均整のとれた美しさとなると、日本人である彼は、ハンディを痛感した。
 それを技術で乗り越えようと工夫を重ねたが、なかなかオーディションには受からなかった。
 笹原の胸に、次第に不安がくすぶり始めた。
 そのころ、日本レストランで働く、日系人の女性従業員から仏法の話を聞き、彼は座談会に参加した。
 皆の熱心な勧めに真心を感じて、入会した。一九六六年の二月のことである。
 しかし、学会活動となると消極的であった。
 その年の八月、ニューヨークで開催される全米総会に引き続いて、民音の主催で、合唱や演奏、ダンスなどの催しが行われることになった。
 笹原は、そこにダンサーとして出演を依頼された。彼は、二つ返事で引き受けた。
 舞台に立てることが嬉しくて仕方なかったのである。
 関係者の話では、まだダンサーの数が足りないとのことであった。
 そこで、ダンス仲間の栗山孝文という青年にも声をかけた。
 栗山は、学会が母体となって創立した、民音の舞台であることを聞くと、自分も六〇年に、日本で入会していたことを打ち明けた。
16  新緑(16)
 栗山孝文も入会はしたものの、組織に縛られるような気がして、日本では、会合の誘いなども断り続けてきた。
 だが、民音の舞台の話を聞かされた栗山は、ダンスを披露するだけならと、出演を承諾した。
 栗山も、アメリカのミュージカル映画に魅了され、ダンサーをめざした一人であった。
 彼は、高校を中退し、芸能学校などに通ったあと、日劇ダンシングチームに入った。
 やがて頭角を現し、新聞などでも、「ホープ中のホープ」と評されるようになった。
 ところが、来日したアメリカ人ダンサーの魅力ある踊りに接して、衝撃を受けた。
 そして、自分も本場で勉強しようと決意し、一九六四年(昭和三十九年)の六月、二十五歳で渡米したのである。
 栗山も、日々、アルバイトに追われながら、レッスンに励まなければならない生活であった。
 その辛労のゆえか、しばらく前から、胃潰瘍に苦しむようになった。
 そんな時に民音の催しに出てみないかと、笹原行彦から言われたのだ。
 栗山と笹原は、日本でダンスを通して知り合い、ニューヨークに来てからは、同じ日本人ということで付き合いが深まっていった。
 二人は、民音の舞台の準備に取り組んだ。
 それを通してメンバーとの交流が始まり、そろって、男子部の会合や座談会にも参加するようになった。
 彼らは、創価学会の組織が、自分たちが想像していたような堅苦しいものではなく、明るく、希望にあふれ、和気あいあいとしていることに驚きを覚えた。
 そこには、自分だけでなく、人びとの幸福のために献身しようとする、尊き人間の輝きと温かさがあった。
 また、唱題を重ねるなかで、生命が躍動していくのを実感し、仏法への確信も、次第に深まっていった。
 民音の催しを終えたころには、二人とも、喜び勇んで学会活動に励むようになっていた。
 栗山の胃潰瘍も、いつの間にか治っていた。
 信心をして彼らが特に感銘したのは、広宣流布とは新たな人間文化の創造であるという、山本会長の指導を聞かされたことであった。
17  新緑(17)
 笹原行彦と栗山孝文の二人は、布教にも力を注ぎ、ダンサーやミュージシャンに、次々と仏法の話をしていった。
 このころ、アメリカでは、ベトナム戦争の拡大政策にともない、若者たちの間に、兵役の恐怖が広がっていた。また、各地で反戦運動が活発化していた。
 そのなかで、既成の社会制度や習慣、価値観を否定し、脱社会的行動をとり、自己の心の充足を求める「ヒッピー」と呼ばれる若者たちが増えていった。
 多くは長髪で、奇抜な服装をし、マリフアナの常習者もいた。
 ロックを愛するミュージシャンには、「ヒッピー」も少なくなかった。
 笹原や栗山の布教は、この「ヒッピー」の若者たちにも向けられた。
 彼らは訴えた。
 「ベトナム戦争は間違っているし、今のアメリカ社会には、たくさんの問題がある。
 でも、社会からドロップアウトして、自分だけ心の充足を得ようというのは、結局は、エゴイズムだし、現実逃避じゃないか。
 そこには、本当の幸福なんてあるわけがない。
 大事なことは、逃げるのではなく、現実の社会のなかで戦い抜いていくことだと思う。
 何があっても負けない、強い自分をつくり、社会もよくして、自他ともの幸福を築き上げることではないだろうか。
 その方法を説いているのが、日蓮大聖人の仏法なんだ」
 笹原たちは、人間革命を根本に、一国の宿命の転換をも可能にする、仏法の法理を、確信をもって語っていった。
 そして、「ヒッピー」の若者たちのなかにも、信心をする人が出始めたのである。
 そうした青年は、その後ますます増え、信仰によって、真実の生きがいと幸福をつかんだという体験が、数多く生まれることになる。
 まさに「″ヒッピー″から″ハッピー″へ」の転換劇であり、それは、アメリカの創価学会を象徴する、一つの言葉ともなるのである。
 二人は、ダンスにも懸命に取り組み、子ども劇場の仕事なども、入ってくるようになった。
 また、オーディションにも、合格するようになった。だが、役は回ってこなかった。
18  新緑(18)
 ある時、東洋人の配役が必要なミュージカルのオーディションに、笹原行彦と栗山孝文は、そろって応募した。
 二人とも合格し、手を取り合って喜んだ。
 しかし、アメリカ人ダンサーから、監督にクレームがついた。
 「ここはアメリカだ。なぜ、東洋人を使わなければならないのだ。
 リズム感からいっても、表現力からいっても、私たちが出演した方が、うまくいくはずだ」
 「そうは言うが、この役柄は東洋人なんだ」
 「それは全く問題ない。化粧をすれば、私たちだって、東洋人になれるじゃないか!」
 役を得るためには、手段を選ばなかった。生き延びるための熾烈な戦いもまた、″ブロードウェー″の現実であった。
 結局、監督は、アメリカ人を起用した。
 笹原たちは、悔しさ、やるせなさに打ちのめされそうになりながら、夜の″ブロードウェー″をひたすら歩いた。
 握り締めた拳がぶるぶると震えた。涙に潤んだ目に、ネオンが染みた。
 二人は、その後も、オーディションへの挑戦を続けたが、本格的なミュージカルの舞台には立てなかった。
 笹原は三十歳を超えていた。肉体的な限界も、次第に感じ始めていた。
 日本に帰ろうと考えたが、ダンサーとして一花咲かせるまでは帰れないとの気持ちもあり、彼は、迷い続けていた。
 そのさなかに、ニューヨークのホテルで山本伸一と会ったのである。
 この時の、「広宣流布をわが使命と定め、前進し抜いていくことである」という伸一の言葉は、深く笹原の胸に突き刺さった。
 そして、学会活動のなかで兆し始めていたアメリカ広布というテーマが、彼の新たな人生の課題としてクローズアップされていった。
 彼は、これからどうするべきかを考え、懸命に唱題を重ねた。
 すると、アメリカ広布という大舞台が胸いっぱいに広がり、そこを駆け巡ることこそが、自分のこの世の使命であると思えてならなかった。
 彼の心は高鳴った。
 広布の大舞台に比べれば、あの″ブロードウェー″の舞台さえも、色あせて見えるのである。
19  新緑(19)
 笹原行彦は、自分がダンサーを志し、アメリカに渡って来たのも、アメリカの広宣流布に生き抜くためではなかったかと思えてきた。
 彼は、唱題の末、ダンサーを断念した。
 しかし、日本には帰らなかった。アメリカ広布のために、この国の土になろうと決めたのだ。
 そして、生活の足場を固めるために、仕事を探し始めた。
 翌一九六八年、彼は、航空会社に勤務が決まったのである。
 人生の道は、人それぞれであり、さまざまな生き方がある。
 しかし、広宣流布の大使命に生き抜くならば、いかなる道を進もうが、最も自身を輝かせ、人生の勝者となることは絶対に間違いない。
 妙法は「活の法門」である。すべてが無駄なく活かされていく。
 広宣流布という大願の成就に邁進する時、個人の諸々の願いもまた、ことごとく成就できるのが仏法の法則である。
 笹原は、ダンサーをやめたあと、自分が活躍できなかった分、仏法を持った多くの優秀なダンサーなどの芸術家を育てようと心に誓った。
 それが、広宣流布という新しき人間文化の創造に寄与する道であると、考えたのである。
 彼は、ダンサーやミュージシャンたちに仏法を教え、親身になって相談にのり、真心の激励を重ねていった。
 ″自分は、みんなの成長のための土台となろう!″と、笹原は心に決めていたのだ。
 こうして、芸術家を育成する、アメリカの組織の伝統がつくられていったのである。
 そのなかで、やがて、ベース奏者のバスター・ウィリアムスやピアノ奏者のハービー・ハンコック、サックス奏者のウェイン・ショーターなど、ジャズ界の世界的な音楽家がメンバーとして活躍していくようになる。
 さて、その後、笹原はアメリカの創価学会の職員となり、メンバーへの奉仕と広宣流布に、献身していくことになる。
 また、栗山孝文は、別の仕事につくなど、紆余曲折をたどりながらも、ダンスを続け、後年、ミュージカルの企画・制作に着手するとともに、日本でダンス教室を開くことになる。
20  新緑(20)
 山本伸一は、ニューヨーク会館に向かう車中、現地の幹部に尋ねた。
 「メンバーで芸術家は多いのかい」
 「はい。女子部にもアメリカ人のフルート奏者がおりますし、女子部の責任者の小野沢富士枝さんも、日本人形の関係の仕事をしています。
 彼女が二年前に、ニューヨークの女子部の中心者になってから、女子部も拡大しています。
 小柄ですが、闘志にあふれ、何事にも一生懸命です。また、面倒みのよい人です」
 「ニューヨークも、青年が伸びてきているんで安心したよ。
 今、どんなに意気盛んで、盤石そうに見える組織でも、青年が育っていなければ、やがて行き詰まってしまう。
 広宣流布を考えるならば、大事なことは青年の育成だ」
 現地の幹部が尋ねた。
 「若い世代を育成するための要諦というのは、なんでしょうか」
 言下に、伸一の答えが返ってきた。
 「後輩を信頼し、尊敬することです。信心して日が浅いからとか、年齢が若いからといって、自分より下に見るというのは間違いです。
 そして、自分以上の人材にしようという強い一念をもち、伸び伸びと育てていくことです。
 そのうえで、広宣流布のリーダーとしての考え方や行動などの基本を教え、しっかりと、身につけさせることだ。
 基本というのは、体で覚えなければならないことが多い。頭でわかっていることと、実際にできることとは違う。
 たとえば、地震や火災の場合の、適切で迅速な行動も、理解していればできるというものではない。そのためには訓練が必要になる。
 信心の世界でも、同じことがいえる。
 最近、輸送班(現在は創価班)の男子部は、職場での評価が高いという報告を聞いたが、訓練が生きているからだ。
 元気で、さわやかなあいさつに始まり、常に時間を厳守し、すべてに責任をもって、率先して行動することが、信頼につながっている。
 御書には『くろがねは炎打てば剣となる』と仰せです。
 だから、青年の立場でいえば、積極的に訓練を受け、自らを鍛えていくことが大切になる」
21  新緑(21)
 車中での山本伸一の指導は続いた。
 「また、青年を育成するためには、実際に仕事を任せ、活躍の舞台を与えることです。
 人間は、責任をもち、経験を積み重ねていってこそ力がつく。何もやらせなければ、いつまでたっても成長はない。
 ところが、未経験な青年に仕事を任せるよりも、自分でやった方が早いし、安心なので、つい口を出したり、与えた仕事を取り上げてしまったりする。
 つまり、仕事を任せるには、幹部の側に、″失敗しても、責任は私がもつから大丈夫だ″という、大きな度量がなくてはできない」
 質問した幹部は、苦笑した。
 「しかし、経験を積ませるといっても、何も教えないで、ただ『これをやれ』『あれをやれ』と言っているだけでは、失敗を待っているようなものだ。
 まずは自分がやって見せて、模範を示し、実際にやらせ、そして、励ましていくことです。
 もちろん、問題点は問題点として明らかにし、次の課題を示すことも必要だ。しかし、もっと大事なことは、やればできるという自信をもたせ、希望を与えることです」
 伸一は、全魂を込めて青年の育成の要諦を教えようとしていた。
 「もう一つ忘れてならないのは、青年時代は結婚をはじめ、さまざまな悩みをかかえているということです。
 人間は、心配事があれば、思う存分、力を発揮することはできない。したがって、青年の悩み事をよく聞き、きちんと相談にのって、激励していく必要がある。
 そして、悩みを信心のバネにしていくように励ますことが大事だ。
 たとえば、職場の人間関係で悩んでいる青年がいたら、その解決を願って、広布の活動に励むように指導する。
 広宣流布の大願への前進が公転だとしたら、各人の悩みの解決や願いの成就は自転といえる。この自転と公転が相まっていくなかに、幸福の軌道が開かれる。
 ともかく、青年を育成するには、わが弟、妹のごとく思って、よく面倒をみてあげることです。
 冷淡な組織であっては、青年は育たない」
22  新緑(22)
 やがて車は、ニューヨーク会館に到着した。
 会館には、三十人ほどの代表が集っていた。
 この会館は、アメリカの東部方面の中心拠点として、四年前に設置された会館であった。
 だが、ビルの一階の二部屋を借りた、狭い会館であることから、あまり多くの人が参集するわけにはいかなかった。
 メンバーは、近隣のことを考え、会館の使用に際しては、配慮に配慮を重ね、唱題も、できる限り小さな声でするように心がけてきた。
 山本伸一は、前年三月の北・南米訪問でニューヨーク会館を訪れた折、皆が細心の注意を払って会館を使っている姿を見て、胸を痛めた。
 ″メンバーが気兼ねなく使える、広い、立派な会館がほしい……″
 そして、アメリカの首脳幹部と、新しい会館の設置について、検討を進めていたのである。
 思えば、七年前、伸一が初めてニューヨークを訪れた折に開かれた座談会には、新来者も含めて十数人が集ったにすぎなかった。
 それが今では、ニューヨークを中心に総支部がつくられるまでに発展したからこそ、会館が小さくなってしまったのだ。
 伸一は、メンバーの奮闘がありがたかった。
 勤行のあと、あいさつに立った伸一は、丁重に感謝の意を表した。
 「皆様方はこれまで、ニューヨークの、また、アメリカの広宣流布のために、黙々と道を切り開いてこられました。
 本当にありがとうございます。その献身的なご努力に対し、心より御礼申しあげます」
 こう言うと、彼は、深々と頭を下げた。
 リーダーの感謝と真心は、同志の共感を呼び覚まし、美しき団結の錦を織り成していく。
 その姿を見て、手で顔を覆って泣く、何人かの日系人の女性がいた。
 彼女たちは、ニューヨークをはじめ、アメリカ東部を駆け巡ってきた、広布草創の開拓者たちであった。
 伸一の指導のままに、運転免許を取り、車を駆って、どこまでも布教に出かけていった。
 真冬は、零下一〇度以下になるところもある。車が濃霧に閉ざされ、立ち往生してしまったこともあった。深夜に車が故障し、泣き出したくなるような時もあった。
23  新緑(23)
 草創期を開いた日系人女性の胸には、試練の坂道を乗り越えてきた、たくさんの思い出が詰まっていた。
 アメリカ人に、片言の英語で仏法の話をしたら、「ジャップ!」と怒鳴られた人もいた。
 戦争は終わっても、日本人への憎悪は、まだ残っていたのである。
 しかし、彼女たちは、広宣流布という大偉業を成し遂げようとしているのだから、辛いことや苦しいことがあるのは、当たり前だと語り合い、歯を食いしばって頑張ってきた。
 その苦労を、すべて山本会長がわかってくれていたのだと思うと、嬉しさが込み上げ、涙があふれてくるのだ。
 苦しみに耐え抜いてきた人ほど、人の心の温かさが、よく胸に染み入るのであろう。
 ともあれ、学会活動で苦労した分だけ、自分自身の生命を磨き、宿命を転換し、福運を積み、幸せになることができる。
 ゆえに、学会活動は、断じて守り抜かねばならない、自身の人間としての権利なのである。
 山本伸一は、御礼を述べたあと、集ったメンバー全員と、握手を交わしていった。
 参加者のなかに、懐かしい笑顔があった。
 七年前に、伸一がカナダのトロントを訪問した折、空港で、ただ一人、迎えてくれた泉谷照子である。
 当時、彼女は未入会であり、日本にいる学会員の母親に言われ、出迎えに来たのであった。
 泉谷が信心を始めたのは、それから一年七カ月後のことであった。
 彼女は、カナダでの慣れない生活によるストレスのためか、アレルギー性の疾患にかかってしまった。
 その時、伸一が空港で「もし、何かあったらお題目を唱えることです」と、語っていたことを思い出したのである。
 また、東京にいる母親も、わが子の病に胸を痛め、手紙で熱心に入会を勧めた。
 泉谷は、病を治したい一心で、信心を始めることにした。
 最初、彼女は半信半疑であったが、勤行・唱題に真剣に取り組むと、病状は好転し、ほどなく完治した。
 泉谷の心に、確信が芽生えた。
24  新緑(24)
 泉谷照子は、夫の仕事の関係で一時帰国していた一九六四年(昭和三十九年)の十一月、学会本部に山本伸一を訪ねた。
 彼女は、山本会長は、自分のことなど、当然、忘れているにちがいないと思っていた。
 しかし、伸一から開口一番、発せられたのは、「トロントでは本当にお世話になり、ありがとうございました」との、丁重な言葉であった。
 また、彼は、泉谷が信心を始めたことを、心から喜び、こう語った。
 「広宣流布のために生き抜くことほど、崇高で幸福な、充実した人生はありません。カナダの広宣流布をよろしくお願いしますよ」
 「はい、頑張ります!」
 とっさに、彼女は、そう答えていた。
 これが、泉谷がカナダ広布の大使命に立ち上がった瞬間であった。
 そして、彼女の奮闘が始まった。
 以来、二年半、泉谷は一段と成長した姿で、この日、トロントから車で十時間以上もかけて、ニューヨークにやって来たのだ。
 泉谷は、頬を紅潮させて、伸一に言った。
 「今日は、メンバー三人と一緒にまいりました。カナダも、着実にメンバーが増えています」
 「そうですか。あなたがそうして奮闘されていることが、私にとっては最大の喜びです」
 彼は、健闘を称え、固い握手を交わした。
 七年前に植えた励ましの種子が、今、見事に結実したのだ。
 種を蒔かなければ、芽は出ない。ゆえに、未来のために、今日も対話の種子を蒔くのだ。今の行動のなかにのみ、明日の実りがある。
 伸一は、全員と握手をすると、皆に諮った。
 「ニューヨークもメンバーが増え、会館が狭くなってきていますので、さらに大きな会館を設置しようと思いますがいかがですか!」
 大拍手が起こった。
 ここに、また一つ、前進の指標が打ち立てられたのである。
 会館での勤行会を終えた伸一は、日達法主を、国連本部をはじめ、エンパイアステートビルなどに案内した。
 そして、翌五月十九日の昼には、ケネディ国際空港から、大西洋上を、次の訪問地であるフランスのパリに向かって飛行していたのである。
25  新緑(25)
 五月十九日の午後十時前、山本伸一の一行は、パリに到着した。
 「山本先生!」
 空港のロビーに出ると、ヨーロッパ第一本部長の川崎鋭治が、蝶ネクタイ姿で、満面に笑みを浮かべて立っていた。
 前年の八月にパリ支部長になった、画家の長谷部彰太郎の姿もあった。
 伸一は、川崎と握手を交わしながら尋ねた。
 「痛みはまだあるの?」
 「もう、ほとんどなくなりました」
 「そうか、それはよかった。日本で会った時よりも顔色もいいし、元気になったね」
 「あの時、学会本部でご指導いただきましてから、妻と一緒に、生まれ変わった気持ちで頑張っております。
 それから、体調も、非常にいいんです」
 傍らにいた、伸一の妻の峯子が、微笑みながら言った。
 「川崎さんたちが交通事故で入院されたと伺ってから、主人は、毎日、お題目を送り続けていたんですよ」
 「いやー、本当に申し訳ございません」
 前年の四月、川崎夫妻は交通事故を起こし、二人とも重傷を負い、半年以上も入院しなければならなかったのである。
 その日、夫妻は、パリから三百キロメートル余り離れたポワティエのメンバーの家に、車で激励に出かけた。
 運転していたのは鋭治であった。
 家を探すのに時間がかかり、訪問して帰途についた時には、夜もかなり更けていた。
 二人は夕食もとっていなかったが、翌日が月曜日であることから、少しでも早く帰ろうと、家路を急いだ。途中、雨が降り始めた。
 午前一時ごろ、オルレアンでガソリンを補給した。百年戦争の時、救国の乙女ジャンヌ・ダルクが、イギリス軍を撃退した町である。
 ここで束の間、休息をとったが、雨もあがったので、すぐに出発した。
 「君は眠っていなさい」
 妻の良枝は、鋭治に言われ、助手席でまどろみ始めた。
 ここからは、百キロメートル余りである。
 もう一安心だ――鋭治は、そう思いながらハンドルを握っていると、急に深い疲労を覚え、眠気が襲ってきた。
26  新緑(26)
 次の瞬間、睡魔のために閉じかかった川崎鋭治の目に、ヘッドライトに照らされた、道路脇の大きなプラタナスの木が迫ってきた。
 「あっ!」
 急ブレーキを踏んだが、間に合わなかった。
 川崎夫妻が乗った車は、そのままプラタナスの木に、正面から突っ込んでいった。
 フロントガラスが粉々に砕け散った。
 だが、鋭治は、辛うじて意識を保っていた。
 激突の強烈な衝撃のなかで閉じた目を、静かに開けた。
 雨あがりの空に、皓々と輝く月が見えた。
 ボンネットから煙が立ち上っていた。
 その煙のなかに、彼を見つめる山本伸一の顔が浮かんだ。
 ″先生……″
 すると、電撃に打たれたように、″こんなところで死んでたまるか!″という、強い思いが込み上げてきた。
 不思議なことに、痛みは全く感じなかった。
 助手席の妻を見ると、フロントガラスに上半身を突っ込むようにして倒れていた。
 ″良枝!″
 妻の名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
 右手で良枝の体を揺すった。反応がない。
 ″死んだのか……″
 彼女の方に体を動かそうとしたが、右足が動かなかった。飛び出したエンジンが、彼の右足を押しつぶすように挟んでいたのだ。
 鋭治の頬にも、フロントガラスの破片が突き刺さっていた。
 どれくらいが過ぎたであろうか。遠くから、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
 通りかかった車が事故を発見し、通報してくれたのである。
 二人は、オルレアンの病院に運ばれた。
 鋭治の右足は、大腿骨が折れ、膝の皿も砕けていた。
 一方、良枝も、大腿骨と脛の骨が複雑骨折するという大怪我であった。
 事故には、必ず予兆があるものだ。
 川崎鋭治は、以前、雨のなかでハンドルを切り損ねて、大きな石に乗り上げ、車が転倒するという事故を起こしていた。
 この時は、怪我はなかったものの、車は廃車にせざるをえなかった。
27  新緑(27)
 以前の事故の直後、日本に来た川崎鋭治から、その話を聞いた山本伸一は、こう指導した。
 「これは、さらに大きな事故の前兆と受け止めるべきです。
 リーダーというのは、神経を研ぎ澄まし、一つの事故を戒めとして、敏感に対処していかなくてはならない。
 そうすれば、大事故を未然に防げる。
 これからは、もう交通事故など、二度と起こすものかと決めて、真剣に唱題し、徹して安全運転のための原則を守り抜くことです。
 また、疲労や睡眠不足も、交通事故を引き起こす大きな原因になる。だから、常にベストコンディションで運転できるように、工夫しなければならない。
 それが、ドライバーの義務です。
 睡眠不足の時には、別の人に運転してもらうとか、面倒くさくとも、電車やバス等を利用することです。
 遠出をするような時には、一定時間運転したら、必ず休みをとり、疲れをためないことだ。
 そして、少しでも、眠気を感じたなら、ガムを噛むとか、すぐに、眠気の解消をすることです。
 さらに、運転しながら話をして、脇見をするようなことがあっては、絶対にならない。
 それから、幹部は、自分だけではなく、会合が終わったあとなどに、無事故と安全運転を呼びかけていくことも大事です。その一言が、注意を喚起し、事故を未然に防ぐ力になる」
 日蓮大聖人は、門下の四条金吾に「さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし」と仰せである。
 そして、「よき馬にのらせ給へ」等々、こまやかな御注意を重ねておられた。
 伸一の指導もまた、極めて具体的であった。
 彼は、川崎の肩に手をかけて言った。
 「川崎さん。今度は、車も、大型で頑丈なものにするんだよ。
 事故を起こしてしまえば、すべては水の泡になってしまう。
 自分も、家族も、苦しむし、学会にも迷惑をかけることになる。
 私は、大切な同志を、事故で怪我をさせたり、亡くすようなことは絶対にしたくない……」
28  新緑(28)
 川崎鋭治は、山本伸一のアドバイスを、守ろうと心に決めた。
 そして、事実、彼はそう努力してきた。車も大型のものにした。
 しかし、ポワティエに行った日は、たまたま睡眠不足が続いていたうえに、朝早くから、個人指導と仏法対話に奔走し、疲労がたまっていた。
 そういう時には、運転をすべきでないことは、よくわかっていた。
 しかし、車を運転して行く方が、はるかに便利であった。
 ″今日は仕方がない。題目を唱えながら、慎重に運転しよう″
 そして、疲労がたまったまま、長時間の運転をしたのである。
 何事によらず、原則を踏み外して、″信心をしているから守られるはずだ″″題目を唱えているから大丈夫だろう″などと考えることは、全くの誤りである。これほど危険な考えはない。
 それ自体が、魔に侵された思考といってよい。
 御聖訓には「小事つもりて大事となる」と説かれている。
 大きな事故といっても、その原因を形成している一つ一つの事柄は、一見、ささいに思えることである。
 だが、その小さなミスや小さな手抜きが、魔のつけ込む隙を与え、取り返しのつかない大事故を生むのだ。ゆえに、小事が大事なのである。
 川崎夫妻の事故も、わずかな心の隙をついて起こったといってよい。
 彼は、救急車で病院に運ばれる途中、気を失ってしまった。
 やがて、病室で意識を取り戻した鋭治の頭をかすめたのは、″妻は生きているだろうか″ということであった。
 彼は看護婦に尋ねた。
 「重傷ですが、命は助かりました。
 今、別の病室で眠っています」
 看護婦は、フランス語でそう答えた。
 その瞬間、彼の目から涙があふれた。
 ″守られた! 御本尊に守られたのだ!″
 それから彼は、看護婦に長谷部彰太郎の電話番号を教え、連絡してくれるように頼んだ。
 川崎は、翌朝、病院に来た長谷部に言った。
 「山本先生に、交通事故の報告をしてほしい」
 長谷部は、学会本部に、川崎夫妻の事故を伝える電報を打った。
29  新緑(29)
 長谷部彰太郎からの電報を見た山本伸一は、愕然とした。
 そして、川崎夫妻の命が助かったことには安堵したものの、身体の機能は完全に回復するのか、心配でならなかった。
 ちょうど秋月英介がヨーロッパに出張することになっていたので、伸一は、川崎夫妻を見舞うように頼んだ。
 秋月が病院を訪ねてみると、二人は、同じ病室で、そろって足を固定され、身動きのとれない状態で寝ていた。
 彼は、伸一の見舞いの品を渡し、語り始めた。
 「山本先生は、『二人は信心を貫いてきたから助かった。これで宿業を断ち切ることができた。転重軽受できたのだ』と言われていました」
 「転重軽受」とは、仏法の功徳力によって、過去世の重罪を転じて、現世で軽くその報いを受けることをいう。
 「さらに、こうおっしゃっておりました。
 『でも、もっと真剣に信心に励んでいたなら、事故を起こさずにすんだかもしれない』と」
 この言葉を聞いて、川崎はハッとした。
 医学博士である彼は、フランスが誇る研究・教育機関であるコレージュ・ド・フランスの研究員をしていたが、この前年に退職していた。
 共同研究していたアメリカの教授が帰国し、一人で研究を続けるのが困難になったために、退職に踏み切ったのである。
 その教授からは、一緒にアメリカで研究をするように、再三にわたって勧められた。
 川崎は悩んだ。
 彼には″自分は山本先生からヨーロッパ広布を託された。だから、ここを離れるわけにはいかない″という強い思いがあったからだ。
 結局、彼は、思案し抜いた末に、研究をやめ、フランスに残ることにしたのである。
 そして、学会の職員に採用され、新しい人生のスタートを切ったのだ。
 だが、長年、研究者として生きてきた彼は、研究への未練を、なかなか断ち切れなかった。
 座談会の会場に行くつもりが、無意識のうちに、コレージュ・ド・フランスに向かって歩いていたり、会合に出席していても、研究のテーマについて考えていることがよくあった。
30  新緑(30)
 川崎鋭治は、学会の職員として、メンバーに奉仕し、広宣流布のために生き抜こうと決めたつもりであった。
 しかし、研究生活が忘れられず、どこか中途半端な思いを引きずっていたのである。
 その迷いが、自身の広布の使命を果たすうえで、完全燃焼を妨げていたのだ。
 信心をして小さな功徳を受けるのはたやすい。しかし、宿命の転換という大功徳を受けることは容易ではない。
 宿命を形成してきた自身の心、性格を見つめ、生命を磨き、人間革命せずしては、宿命の転換はないからだ。
 そして、それには、自身の広布の使命を果たし抜いていくことだ。決定した信心に立って唱題に励み、障魔と戦い、悪を打ち砕いていくことだ。
 だが、川崎は、厳しくいえば、徹して広布に走り抜くことができずにいたといってよい。
 彼の微妙な一念の揺らぎが、生命の大きな飛翔を妨げ、宿命という大障壁を、完全に飛び越えるにはいたらなかったのである。
 彼は、秋月英介から、山本伸一の話を聞くと、目が覚めたような思いにかられた。
 「山本先生の言われたことの意味が、よくわかります。私は、中途半端な信心であったと思います。反省することばかりです。
 山本先生には、『ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません。一日も早く元気になり、生まれ変わったつもりで、広宣流布のために働かせていただきます』とお伝えください」
 その後、川崎夫妻は、大腿骨に金属を埋め込んで固定するなどの手術を受けた。
 手術では、二人とも大量の輸血を必要とした。
 川崎は、事故から半年後の十月、ようやく退院することになるが、その時、彼は妻の良枝と語り合った。
 「輸血を受けた、ぼくたちの体には、フランス人の血が流れている。
 だから、これからは、フランスの人びとの幸福のために、ヨーロッパの平和のために、走り抜く義務があると思う」
 「本当にそうね。私の退院は、まだ先になるけど、動けるようになったら、私も頑張り抜くわ」
31  新緑(31)
 川崎夫妻は、この事故を契機に、フランスの、そして、ヨーロッパの広宣流布のために、人生を捧げようと、心の底から決意した。
 先に退院した川崎鋭治は、半年間にわたる入院中の空白を埋めるかのように、勇んで学会活動に取り組んだ。
 彼は、まず、すべてのメンバーと、直接会って激励しようと決意し、活動を開始した。
 人間の発心を促すものは、大きな会合よりも、むしろ、一対一の対話であるからだ。
 退院できたとはいえ、彼の足はまだ痛んだ。
 パリの街には、エレベーターのないアパートが多かった。
 疼く足を引きずりながら、そのアパートの階段を、一段、また一段と上って、四階、五階まで行くのである。
 足の痛みと息切れで、何度も、階段の途中でうずくまった。額には脂汗が滲んでいた。
 しかし、彼は歯を食いしばりながら、階段を上っていった。
 ″同志に会おう! 会って全力で励まそう″
 再起した川崎の姿を見ると、メンバーは、抱き合いながら、喜びの涙を浮かべてくれた。
 また、信心にためらいがちであった人たちも、川崎の体験に耳を傾け、最後には、発心を誓うのである。
 翌一九六七年の春に、良枝が退院した。
 彼女が松葉杖を使わずに歩けるようになるのを待って、川崎夫妻は日本に出発した。
 一日も早く、山本伸一に会って、礼が言いたかったのである。
 一方、その連絡を聞いた伸一は、小躍りしたい気持ちであった。
 「元気になったんだ。本当によかった!」
 彼は、妻の峯子に、何度も、嬉しそうに、こう語るのであった。
 だが、川崎夫妻に学会本部で会った時、伸一の口から飛び出したのは、厳しい叱責であった。
 「この大切な時に、事故なんか起こして、どういうつもりなんだ!」
 笑みをたたえていた川崎夫妻の顔がこわばった。彼らは、いたわりの言葉をかけてもらえるものと思っていたのだ。
 伸一もそうしたかったが、夫妻は、ヨーロッパの広宣流布を担うリーダーである。
32  新緑(32)
 「リーダーが交通事故を起こすなんて、もってのほかです! みんなに迷惑をかけ、広布の前進を遅らせてしまったではないですか!」
 広宣流布の指導者の責任は重い。山本伸一は、川崎夫妻に、それを痛感してほしかった。
 伸一の言葉は、川崎鋭治と良枝の胸に、鋭く突き刺さっていった。
 「本当に申し訳ございません!」
 二人は、こう言って深く頭を下げた。鋭治の目にも、良枝の目にも、涙が滲んでいた。
 今度は、伸一は諭すような口調で言った。
 「わかれば、それでいいんです。広宣流布のリーダーには、同志を幸福にする責任がある。
 そして、広布の重責を担えば担うほど、御書に仰せの通り、魔も盛んに競い起こるようになる。
 だが、決して、魔につけ入る隙を与えたり、負けるようなことがあってはならない。
 最高幹部としての責任が果たせなくなれば、みんなを苦しめることになるからです。
 もう事故なんか、絶対に起こしてほしくないから、私は、あえて厳しく言ったんです」
 こう言うと、伸一は微笑を浮かべた。
 「川崎さんたちが元気になって、本当によかった。
 一時は、どうなることかと思ったんだよ。
 五月三日の本部総会が終わったら、ヨーロッパに行くからね。新しい出発をしようよ」
 その喜びのこもった声に、夫妻は山本会長が、どれほど自分たちのことを心配してくれていたのかを、身に染みて感じるのであった。
 川崎夫妻は、伸一の会長就任七周年となる本部総会に出席すると、一足先にフランスに帰った。そして、伸一の一行を迎える準備にあたってきたのである。
 山本伸一は、出迎えてくれた川崎の手を、強く握り締めながら言った。
 「日本も広布の第二ラウンドに突入し、希望の大前進を開始した。
 ヨーロッパも、いよいよ第二ラウンドだ。大飛躍の時だよ」
 「はい。報恩感謝の心で、命の限り、走り抜いてまいります」
 川崎の顔には、闘魂が光っていた。
33  新緑(33)
 翌日の五月二十日は、快晴であった。
 この日、山本伸一は、パリ郊外のヌイイに設置された、パリ会館の入仏式に出席した。
 二階建てで敷地は六百六十平方メートルほどの立派な会館である。
 この会館が誕生するまでは、川崎鋭治のアパートが、ヨーロッパの事務所兼会館として使われてきた。
 だが、二間しかなく、二十人も集まれば、いっぱいになってしまった。また、会合を開くと、周囲から苦情も出た。
 それを思うと、新しい会館は、申し分のない広さといえた。
 会館には、地元フランスをはじめ、イギリス、ドイツ、オランダ、スウェーデンなど、ヨーロッパ各国から、百五十人のメンバーが喜々として集ってきた。
 読経・唱題のあと、同行の幹部らのあいさつに続いて、伸一の指導となった。彼は訴えた。
 「広宣流布の大河も、日蓮大聖人お一人から始まりました。
 創価学会も、最初は牧口先生と戸田先生のお二人であったが、今では、世界に広まりました。
 ヨーロッパも、今はまだ八百世帯ほどの小さな組織ですが、この方程式のうえから、十年後、二十年後には、必ず大発展することは間違いありません。
 だが、それには、互いに人を頼るのではなく、皆が一人立たなければならない。
 ″私がいる限り、たとえ自分一人になっても、絶対に広宣流布をしてみせる。必ず勝つ!″と、獅子となって戦い続ける人が、何人いるかです。
 その一人の発心、一人の勝利が積み重なってこそ、大勝利がある。
 したがって″時代を開く″″歴史を創る″といっても、特別なことではない。一人ひとりが自分の決めた課題に挑み、今日を勝ち抜くことです。今、何をするかです。
 それぞれが広布の主役であることを自覚し、信心のヒーロー、ヒロインとして、果敢なる挑戦のドラマをつくっていただきたいのであります」
 決意の拍手が響いた。
 また、この席上、フランスに三つ目の支部としてモンパルナス支部が、イギリスに初の支部としてロンドン支部が結成されたのである。
34  新緑(34)
 山本伸一は、指導を終えると、庭に出て、皆で糸杉の記念植樹をした。
 さらに、そのあとは、数グループに分かれて、参加者と記念のカメラに納まった。
 その間、伸一は、メンバーに声をかけ続けた。
 彼が真っ先に励ましたのは、パリ支部長の長谷部彰太郎であった。
 伸一は、長谷部の肩を叩きながら言った。
 「長谷部さん、よく頑張ってくれたね。ありがとう。あなたが立ち上がってくれたんで、フランスの組織は守られたよ」
 長谷部は、川崎夫妻が交通事故で倒れると、今こそ自分が頑張らなければと、メンバーの激励に奔走してきた。
 皆が、川崎の事故によって動揺し、仏法に不信をいだいたりすることがないよう、心を砕いて指導に歩いた。
 ″ここで退転者を出してしまったら、自分の負けだ。みんなが、一歩も二歩も成長した姿をもって、先生をパリにお迎えしよう!″
 こう決めて、毎日、張りつめた気持ちで、中心者不在の組織を支え続けてきたのである。
 伸一は、川崎が入院したにもかかわらず、フランスの組織の活動が着実に進んでいることから、必ず、陰で奮闘している人がいるはずであると考えた。
 そして、それが長谷部であることを知り、彼を称えようと思っていたのである。
 伸一の言葉を聞くと、長谷部の目が潤んだ。
 山本会長が、自分の陰の努力を見てくれていたことが、限りなく嬉しかったのである。
 それから伸一は、メンバーに視線を注いだ。
 何人かの日本人の女子部員が、頬を紅潮させながら会釈した。
 「フランスも女子部が増えたね。女子部が大事です。
 皆さんの春風のような笑顔がある限り、フランスの創価学会は、永遠に発展していきます。二十一世紀をめざして、明るく、仲良く、はつらつと前進してください」
 伸一が言うと、まだあどけなさの残る日本人のメンバーが、「はい!」と、ひときわ大きな声で返事をした。
 半年ほど前に、佐賀県からフランスにやって来た、村野貞江という女子部員であった。
35  新緑(35)
 村野貞江は一昨年(一九六五年)の秋、故郷の佐賀県で女子部の会合に出席した。
 その席で、担当の幹部から、フランスで活躍している、水沢正代という女子部員の話を聞いた。
 「水沢さんは、美容師として、勉強のためにフランスに渡り、向こうで信心を始めた人です。
 今日の会合には出席していませんが、現在、帰国中です。
 そして、またフランスに行き、フランス広布に人生を捧げたいと決意しています。
 これからは世界が舞台です。私たち女子部が、世界に羽ばたいていく時代が来ているのです」
 同じ佐賀県の女子部員が、広宣流布のためにフランスに行くという話は村野に衝撃を与えた。
 彼女は、その年の春に高校を卒業したが、将来の進路を決めかね、悩んでいた時であった。
 家族とともに、子どものころから信心に励んできた村野には、世界の平和を実現する広宣流布のために生きたいという、強い気持ちがあった。
 でも、具体的に、どうするのかとなると、わからなかった。
 それだけに、「フランス広布」という言葉に、彼女の心は動いた。
 会合のあと、村野は話をした幹部のところへ行き、「水沢さんに会わせてください」と頼んだ。
 後日、村野は、その幹部とともに水沢正代と会うことができた。
 水沢は、村野より十歳ほど年上であった。
 「私も、フランスの広宣流布のために生きたいと思っています。一緒に連れて行っていただけないでしょうか」
 唐突な申し出に困惑しながら、水沢は言った。
 「向こうに知り合いはいるの?」
 「いいえ」
 「フランス語は?」
 「全くできません。これから勉強します」
 「それなのに、なぜ、フランスに行こうなんて考えたの?」
 「あなたのことを、お伺いしたからです」
 もし、アメリカでも、アフリカでも、誰か行くという人がいれば、村野は連れて行ってほしいと頼んだにちがいない。
 「ともかく、ご迷惑でしょうが、フランスに連れて行ってください」
 なんの計画性もない、無謀な話である。
36  新緑(36)
 村野貞江の話を聞くうちに、同席していた女子部の幹部が焦り始めた。
 ″私が、女子部が世界に羽ばたいていく時代だなんて言ってしまったから、こんなことになってしまったんだわ。
 冷静に考えるように言わなくては……″
 村野の心を燃え上がらせた幹部が、今度は、火消し役に回らなければならなかった。
 女子部の幹部が口を開いた。
 「村野さん、あなたはなんのためにフランスに行きたいの?」
 「さきほども申し上げましたように、フランスの広宣流布のためです」
 「でも、それだけではだめよ。
 フランスではどうやって生計を立て、何をもって社会貢献するのかとか、具体的な展望がなければ、みんなの足手まといになるだけよ」
 村野には、彼女が会合での指導とは違ったことを言っているように思え、ムッとした。
 ひとたび燃え上がった村野の情熱の火は、もはや消えなかった。
 その日は、両親とも、よく話し合ってみるということになり、村野は水沢正代と別れた。
 家に帰って、家族に自分の思いを伝えると、猛反対された。
 母親は言った。
 「女の子が身寄りもないのに外国に行くなんて。そんな危ないことは許しません!」
 彼女は七人姉妹の五番目であったが、姉たちの言葉は辛辣であった。
 「夢を見てるのよ!」
 「ただ花の都・パリに、憧れているだけよ。頭を冷やしなさいよ!」
 家族は皆、入会していた。その家族にさえ、″広宣流布のため″という、純粋な気持ちが理解してもらえないことが悔しかった。
 彼女は、″必ずフランスに行ってみせる!″と心に誓い、泣きながら唱題した。
 それから間もなく、山本会長が高等部員に贈った、指針「鳳雛よ未来に羽ばたけ」が、一九六五年(昭和四十年)十一月号の『大白蓮華』の巻頭言として発表された。
 村野の目は、そのなかの「今こそ、世界平和、すなわち世界広布のため、全力を傾注して、前進せねばならぬ時代なのである」との一節に釘付けになった。
 彼女は、ますます闘志を燃やした。
37  新緑(37)
 年が明けると、村野貞江は水沢正代に会った。
 水沢と会うのは、これが三度目だった。
 フランスに行こうという村野の気持ちは、最初に会った時よりも、一段と強くなっていた。
 彼女は訴えた。
 「私の意志は変わりません。できる限りご迷惑をおかけしないようにしますから、どうか、フランスに連れて行ってください。お願いします」
 水沢はこれまで、フランスで生きていくことの厳しさを語り、村野が、あきらめるように仕向けてきた。
 しかし、どこまでも一途な彼女の情熱に、水沢の心は動いた。
 ″この人なら、フランス広布の大きな力になるかもしれない″
 人の心を揺り動かすものは、真剣さであり、情熱である。
 頭を下げ、懇願する村野に言った。
 「わかりました。応援するわ。一緒にフランスに行きましょう」
 村野の目が光った。
 「本当ですか。ありがとうございます!」
 「では、すぐに語学の勉強を始めるのよ。
 また、相手が納得するように、仏法を語れる力がなければ、広宣流布の役には立たないわ。だから、折伏をたくさんしておくこと。
 おそらく秋ぐらいの出発になると思うから、それまでに、十世帯は折伏するのよ。いいわね」
 こう言うと水沢は、自分の思いを語り始めた。
 「私は、今度でフランスは三度目になるけど、これまでは、自分の勉強のための渡仏だった。
 でも、今度は違うわ。フランス広布に生き抜く決意で、渡ろうと思っているの。だから、一緒に頑張りましょう」
 水沢が初めに渡仏したのは、一九六三年(昭和三十八年)であった。
 日本で新進の美容師として注目を浴びつつあった彼女は、新しい技術を学ぶためにフランスに渡ったのである。
 語学学校に通ううちにフランス語は上達していったが、当時のフランスでは、日本人を研修生として受け入れてくれる美容室は、なかなか見つからなかった。
 美容師としての勉強ができなければ、渡仏した意味は全くない。
 水沢は、そのころ、知り合った日系人の婦人から仏法の話を聞き、「願いは必ず叶う」との言葉に、すがるような思いで信心を始めたのである。
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 信心に励むと、水沢正代の願いは、ほどなく叶った。
 たまたま知り合った人の紹介で、パリの有名な美容室で勉強できることになったのである。
 初信の功徳であった。
 翌年、多くの成果を携えて、水沢は帰国した。
 彼女の実家は美容室を営んでおり、母も、二人の妹も美容師であった。
 水沢は、家族に信心の話をし、入会させた。
 そして、今度は下の妹を連れて、再びパリに渡って勉強を続けた。
 また、その間、懸命に学会活動にも励み、信心の面でも、目覚ましい成長を遂げていった。
 メンバーとの心温まる交流もあり、彼女は、フランスが大好きになっていた。
 八カ月後、学んだ技術を生かして日本で仕事をするために、帰国することになった。
 水沢は、夏季講習会に参加するフランスのメンバーとともに帰国し、そのまま、一緒に講習会にも参加した。
 ところが、そこで、フランスの女子部の幹部の任命を受けたのである。
 彼女は思った。
 ″役職をいただいたということは、私には、フランス広布のために頑張る使命があるということではないのか。私の人生の舞台は、日本だけではないはずだ!″
 彼女は、三たび、渡仏を決意した。
 しかし、両親は、パリでの勉強を生かして、実家の美容室を継いでほしいというのだ。
 話し合いの末に、経済的にも家には負担をかけないことを条件に、水沢は、フランスに渡ることにした。
 村野貞江が、一緒にフランスに連れて行ってほしいと言ってきたのは、その直後のことである。
 一方、村野は、ラジオ講座で語学の勉強を始めるとともに、折伏に奔走し、次々と弘教を実らせていった。
 その姿を、彼女の父親は、じっと見ていた。
 ″どうやら、娘は本気のようだ……″
 ある時、父親は、母親に語った。
 「うちには、七人も娘がいる。山本先生が、世界広布の時代だとおっしゃっているんだから、一人ぐらい、海外に出してもいいんじゃないか」
 これで、彼女の渡仏は決まったのである。
39  新緑(39)
 水沢正代と村野貞江は、一九六六年(昭和四十一年)の秋に、日本を発つことになった。
 女子部の幹部は、二人がフランスに渡ることを知ると、八月の夏季講習会に、参加できるようにしてくれた。
 講習会で水沢と村野はグラウンドのテントにいた山本会長に、あいさつすることができた。
 「ヨーロッパの広宣流布のために、フランスにまいります!」
 「そうか。嬉しいね。私も応援に行くから、一足先に行っててください。向こうでお会いしましょう」
 その一言で、二人の心は軽くなった。
 伸一は、このあと、女子部長の藤矢弓枝に、水沢と村野への餞別を託すとともに、歓送会をしてあげるように伝えた。
 二人はこの餞別で、それぞれ仏壇を購入した。フランスで信心をし抜いていこうとの、決意を込めての買い物であった。
 九月の末、彼女たちはパリに出発した。
 横浜港から船に乗り、列車と飛行機で大陸を横断し、パリのオルリー空港に着いたのは、十月の二日であった。
 タラップを下り、フランスの大地に第一歩を印した瞬間、村野は込み上げる感慨に身が震えた。
 ″遂に来てしまった。私は、一生、ここで頑張る。日本には帰れなくてもいい!″
 若い彼女には、人脈も、財産も、いや、語学力さえもなかった。
 ただ、その胸には、清らかな、まばゆいばかりの、フランス広布への決意があった。
 それは、水沢も同じであった。
 彼女たちは、到着した翌日、交通事故でオルレアンの病院に入院中の川崎夫妻のところへ、あいさつに行った。
 夫妻は、足を固定され、同じ病室でベッドを並べていた。
 二人が「日本から来ました!」と報告をすると、川崎鋭治は言った。
 「しっかり頑張ろう。そして、見事な実証をもって、山本先生にお会いしに、日本へ行こうよ」
 「…………!」
 この国に骨を埋める思いで、念願のパリに来たばかりの彼女たちは、日本に行こうと聞いて、言葉を失った。
 実は、それがメンバーの合言葉であったのだ。
40  新緑(40)
 水沢正代と村野貞江のパリでの生活は、安価なホテルに泊まり、仕事とアパートを探すところから始まった。
 やがて、水沢は、美容師として、日本の商社の駐在員夫人などを相手に仕事を始めた。
 村野もアシスタントとしてそれを手伝いながら、語学学校に通った。
 そして、二人は喜々として学会活動に励んだ。
 村野は、知り合いになったすべての人に、仏法の話をしたかった。
 だが、フランス語が話せない彼女は、「仏教に興味はありませんか。会合がありますので出席しませんか」と、フランス語で書いた紙を見せることにした。
 ただ座談会場に案内することしかできなかったが、退院した川崎鋭治や、長谷部彰太郎たちが、新来者に、懇切丁寧に話をしてくれた。
 その結果、村野は、山本伸一を迎えるまでの半年余りの間に、四、五人の人に弘教することができたのである。
 伸一は、村野に視線を注いだ。その斜め後ろには、水沢もいた。
 あの夏季講習会から九カ月ぶりに見る二人の顔は、晴れやかであった。
 伸一は安堵した。
 また、もう一人、決意のこもった目で、伸一を見つめる、日本人の女子部員がいた。美術大学に通う入瀬真智子である。
 入瀬は、日本の美術大学で学んだあと、商業デザインの勉強のためにパリに来た。そこで学会の話を聞き、入会したのである。
 この入瀬に信心の基本を教えたのは、三年前に長谷部彰太郎の紹介で入会した、画廊を営むフランソワーズ・ウォールトン・ビオレであった。
 彼女は、喘息で苦しむ愛娘が、信心を始めて元気になったことから、仏法への確信を深めた。
 そして、弘教に、教学に力を注ぐなかで、広宣流布の使命を自覚していったのである。
 フランス人の女性リーダーの誕生であった。
 ウォールトン・ビオレは、自分には人一倍厳しかった。
 題目も、実によく唱えた。また、ひとたび活動となれば、目標が達成できるまで、決して妥協しなかった。
 その彼女が、精魂込めて、日本人女性に、仏法と学会の精神を教え、育成していったのである。
41  新緑(41)
 フランソワーズ・ウォールトン・ビオレは、日曜日の朝などは、入瀬真智子に電話をして起こし、一緒に勤行・唱題するようにしていた。
 また、座談会を開いて新来者が来ていないと、彼女は言った。
 「これから友人を誘いに行きましょう。広宣流布の拡大のための座談会ですもの、私たちだけでは意味がないでしょ」
 そして、すぐに行動を開始するのだ。
 ウォールトン・ビオレはナチス・ドイツによってフランスが占領された時、夫とともにレジスタンス(抵抗)運動に身を投じた。
 その夫は、ゲシュタポ(秘密国家警察)に捕らえられ、非業の死を遂げている。
 それだけに、彼女は、生命の底から、平和を希求していた。
 そして、平和は与えられるものではなく、権力の魔性、人間の魔性と戦い、打ち勝たなければ、手に入らないものであることを痛感していた。
 だから、何事にも真剣であった。遊び半分であったり、曖昧さやいい加減さのある、中途半端な活動を、彼女は許さなかった。
 そのウォールトン・ビオレに触発され、入瀬真智子は信心を学び、弘教の炎を燃え上がらせていったのである。
 人を育む力は、信心年数の長さによって決定づけられるものではない。 燃え盛る薪が、他の薪も燃え上がらせていくように、断じて広宣流布を成し遂げようとする情熱こそが、後輩の心に燃え移り、人間を育てていくのである。
 ともあれ、フランスは女子部の日本人メンバーが新しい風を起こし、希望の前進が始まろうとしていたのである。
 山本伸一は、女子部員たちに言った。
 「皆さんは、青春をフランス広布にかけた、妙法のジャンヌ・ダルクです。不思議なる使命の人たちです。
 生涯、私とともに、広宣流布の大道を歩み抜いてください!」
 この女子部のメンバーは、伸一との誓いを忘れなかった。
 そして、後年、村野貞江がフランスSGIの婦人部長になるなど、皆、フランスの中核として、活躍していくことになるのである。
42  新緑(42)
 山本伸一は、イギリスから参加した四人のメンバーにも笑顔を向け、この日、ロンドン支部の支部長になったエイコ・リッチに声をかけた。
 「いよいよ、イギリスの新出発だね。この『いよいよ』という決意が大事なんです。
 大聖人は『始より終りまでいよいよ信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん』と仰せです。
 人間は、最初は決意に燃えていても、いつしか惰性に陥ってしまうものです。
 そうなると、一生懸命動いているように見えても、勢いを失い、空転してしまっている。
 それを打ち破っていくのが、『いよいよ、これからだ!』『いよいよ、今日からだ!』という、挑戦の心です。
 いつまでもみずみずしい、新緑のような信心を貫いてください」
 続いて、ドイツなど、ヨーロッパ第二本部の記念撮影になった。
 五十人ほどのメンバーのうち、半数が日系の女性である。
 本部長の佐田幸一郎の妻の雪子や、諸岡道也の妻の三千代、また、女子部の欧州部長で医師である高石松子など、伸一にとって懐かしい顔が並んでいた。
 ここにも、何人もの、新しい女子部員の笑顔があった。一年ほどの間に西ドイツ(当時)に渡って来たメンバーである。
 そのほとんどが、看護婦などとして、病院に勤務していた。
 彼女たちも、世界広布に生きようと、西ドイツに来たメンバーである。
 西ドイツには、佐田たちの呼びかけに応じて、十人の男子部員が日本から渡って来たが、女子部員も、高石などの呼びかけによって、渡独して来るメンバーが増えていたのである。
 伸一は、そのうちの四人とは、彼女たちが日本を発つ前に会い、こう言って励ましたのである。
 「大聖人は『からんは不思議わるからんは一定とをもへ』と言われているが、苦労して当然であるという気持ちで行くことです。
 そして、何があっても負けないことです。
 感傷的になったり、挫けてはいけない。自分に負けないことが、人生に勝つことです」
43  新緑(43)
 西ドイツに渡った女子部員たちは、まず、必死になってドイツ語に取り組んだ。
 病院で働く彼女たちにとって、ドイツ語ができなければ、大きな事故にもつながりかねない。だから、学習は真剣勝負であった。
 そのなかの一人で、看護婦の武井頼子は、最初、自分の言いたいことを、ドイツ語のわかる日本人などに聞き、ドイツ語に訳して書いてもらい、それを暗記して医師や患者と接していた。
 そして、勤務を終えるとドイツ語の学校に通い、勉強に励んだ。
 だが、三カ月ほどした時、遅番の勤務に回ったことから、学校に通えなくなってしまった。
 まだ、ドイツ語は未習熟であった。医師からは何度となく、「君の発音はおかしい。何を言っているのかわからない!」と厳しく叱られた。
 それを見て、冷笑する同僚もいた。
 しかし、勉強しようにも、学校に行くこともできないのである。
 医師から叱られるたびに、自分が情けなく、込み上げてくる涙を、じっと堪えた。
 そんな時に、心に浮かぶのが、何があっても負けるなという、山本会長の指導であった。
 ″ここで挫けたら、私の負けだ! 学校には通えなくても、ドイツ語を身につけてみせる!″
 困難に直面した時、逡巡し、立ち止まるか。勇気を奮い起こして突き進んでいくか――それが、すべての勝敗を決する要諦といえよう。
 彼女は、通勤途中も、ベッドのなかでも、辞書を離さず、死に物狂いでドイツ語を学んでいったのである。
 皆、学会活動にも懸命に取り組んだ。
 職場の同僚など、身近な人には漏れなく仏法の話をした。
 デュイスブルクの病院に臨床検査技師として勤務する千野エリ子は、一時間、二時間とかけて列車やバスを乗り継ぎ、毎日のようにメンバーの激励と仏法対話に歩いた。
 エッセンでは、新たに六人の女子部員を誕生させることができた。
 さらに、国境を越えてオランダやデンマーク、スウェーデンにも出かけていった。
 私たちが歴史を変えるのだ。さあ、行動を起こそう――それが彼女たちの誓いであった。
44  新緑(44)
 山本伸一は、ドイツの女子部員に声をかけた。
 「ドイツにも、広宣流布の大輪である女子部が見事に開花したね。
 花は春を告げ、人びとの希望と喜びを誘う。また、花は先駆けです。
 広宣流布の悠久の未来を考えると、女子部は最も重要な部といえる。
 女子部が伸びれば、学会も伸びる。
 やがて、学会の要ともいうべき婦人部となり、後継の子どもたちの育成も、夫や父や親族のリードも、その双肩にかかってくる。
 つまり、今、女子部がどれだけ力をつけ、成長したかが、広布の未来を決することになる。
 私は、皆さんとお会いして、安心しました。ドイツの未来も、ヨーロッパの未来も盤石です」
 激励に次ぐ激励の記念撮影を終えた時には、伸一は、疲労のためか、頭がくらくらした。
 街には、マロニエの白い花が、そよ風に揺れていた。伸一は、その清楚な美しさに、女子部員の笑顔を重ねていた。
 五月二十三日には、伸一の一行はイタリアのローマに移った。
 ローマでは、日達法主らを案内しての視察が続いていたが、伸一は、留学生の小島寿美子の弟で、美術学校に通う保夫と会って、励まそうと考えていた。
 ローマには、一年前まで、山岸政雄・公枝夫妻が地区部長、地区担当員をしていたが、仕事の関係で帰国したことから、新しい人材を育てたかったのである。
 小島保夫と話ができたのは、ホテルのエレベーターのなかであった。
 語らいは、痩せ細った小島の健康を気遣う言葉から始まった。そして、心の扉が開かれ、青年の胸に決意の火がともされていった。
 伸一は、彼を男子部の隊長に任命した。隊長というのは、当時の、地区の男子部の責任者のことである。
 また、会長就任七周年を記念して制作した、鷲がデザインしてあるメダルを贈った。
 いかに多忙でも、人に会おうとする一念があれば、必ず時間をつくり出すことはできる。
 また、会える時間は短くとも、一言一言に込められた、凝縮した祈り、真心、真剣さは、相手の胸に、深く染みわたっていくものだ。
45  新緑(45)
 二十五日の午後に到着したスイスのチューリヒでも、山本伸一は、空港に出迎えてくれた三人の日本人青年を激励した。
 そのなかの一人は、高山光次郎という青年であった。
 彼の母親のサチのことは、伸一もよく知っていた。初めてスイスを訪問した時に、出迎えてくれたメンバーである。
 サチはその後、スイス人と結婚して、サチ・ブルーノを名乗り、スイスの組織の中心者として活動に励んでいた。
 伸一は、光次郎と握手を交わしながら言った。
 「ありがとう。スイスの人びとの幸せのために頑張ってください」
 「はい!」
 元気な声が響いた。
 彼は、三カ月前に、日本からスイスに来たばかりであった。
 伸一は、決意のこもった彼の声から、息子に信心を伝えようとするサチの一念が、実りつつあることを感じた。
 ――光次郎は、一九四四年(昭和十九年)の二月、福島で生まれた。父親は、戦死していた。
 戦後、母親のサチは、光次郎とともに、栃木の黒磯の親戚の家で暮らし始めた。
 だが、やがてサチは、神奈川の葉山で、住み込みで働くことになった。
 息子は親戚に預かってもらった。いたいけなわが子と離れて暮らすことは、身を切られるように辛かった。
 買い物の途中などで、息子と同じ年頃の子どもを見るたびに、光次郎のことが思い出され、胸が痛んだ。
 夜ごと、わが子を思っては枕を抱きしめ、涙ぐむ日が続いた。
 この葉山でサチは信心の話を聞き、″あの子を幸せにできるなら″と、入会したのである。
 彼女は、息子が遊びに来ると、学会の青年部員に会ってもらい、信心の話をしてもらった。
 その後、勤め先の主が仕事の関係で、スイスに赴任することになり、サチも一緒に行くように要請された。
 彼女の人柄や仕事が高く評価されてのことであった。
 既に光次郎は、高校生になっていた。
 わが子のことを考えると、躊躇もあったが、彼女は断りきれずに、スイスについていくことになったのである。そのスイスで、サチは結婚を考えることになる。
46  新緑(46)
 サチに好意を寄せる、スイス人男性が現れたのである。
 それが、電気関係の会社で修理技師をしているブルーノであった。
 彼は誠実な人柄で、サチも好感をもつようになり、二人は結婚を考え始めた。
 しかし、日本に残してきた息子は十七歳で、多感な年頃である。自分が結婚すると聞いたら、どれほどショックを受けるかと思うと、彼女は、なかなか結婚に踏み切ることはできなかった。
 一九六一年十月、ヨーロッパを初訪問した山本伸一と、スイスのジュネーブの空港でサチが会ったのは、ちょうど、結婚問題で悩んでいるさなかのことであった。
 彼女は指導を求めた。
 伸一は、率直に話し合ってみることを勧めた。その指導通りに、息子の光次郎に手紙を出し、結婚について相談した。
 息子は「ぜひ結婚してほしい」と記してきた。
 彼は戸惑いもあったが、母の幸福を奪うようなことは、言いたくなかったのである。
 それから半年ほどして息子から手紙が来た。そこには、創価学会に入ったと書かれていた。
 光次郎は、その年の三月に高校を出て、東京の貿易会社に就職した。だが、黒磯の自然のなかで育った彼にとって、東京での生活は窒息しそうなほど耐えがたかった。
 まず、人間関係に行き詰まった。
 そんな時に知り合いになった学生から、学会の話を聞かされた。
 宗教というものに胡散臭さを感じ、最初は反対もしたが、自分の話によく耳を傾け、誠実に接してくれる姿に心を打たれ、入会したのだ。
 サチは入会を知らせる手紙を、喜びに震えながら、涙で読んだ。
 彼女は、息子が信心をし、幸せになれるようにと、日々、題目を送り続けてきたのである。
 サチがブルーノと結婚したのは、その後、間もなくのことであった。
 息子は、入会はしたものの、積極的に活動しようとはしなかった。
 それを知ったサチは、さらに猛然と祈り始めたのである。
 ″これではあの子は、宿命も転換できないし、幸せにはなれない。
 一生懸命に信心に励むようにしてください″
 わが子を思う母の一念ほど、強いものはない。
47  新緑(47)
 そんなある日、夫が、サチに提案した。
 「日本に残してきた君の息子を、スイスに呼んで、一緒に暮らすようにしてはどうだろうか」
 夫の心遣いは嬉しかったが、彼女は迷った。
 言葉も、文化も違う国で、息子の光次郎が暮らしていけるのか、心配であったからだ。
 でも、ともかく、本人の気持ちを聞いてみようと、手紙を出した。
 サチは手紙に、夫の考えとともに、「こちらに来ても、言葉を覚えるのは大変ですし、何かと苦労も多いので、それが心配です」と、自分の気持ちも記した。
 だが、息子からは、ぜひスイスに行きたいという返事が来た。母親と一緒に暮らすことが、子どものころからの夢であったのである。
 受け入れの準備は、予想以上に手間取り、息子をスイスに呼ぶことができたのは、この一九六七年の二月であった。
 サチと夫、二人の間に生まれた娘、そして、光次郎と、四人での生活が始まった。
 「父親」という存在を知らずに育った息子は、義父にどう接すればよいのか、わからないようであった。
 また、言葉が通じないことが、よけいに彼の緊張を募らせ、心の交流はうまく図れなかった。
 光次郎は、語学学校に通い、フランス語を学んでいたが、言葉の習得にも悩み抜いていた。
 そして、自分の将来にも、不安と焦りを感じていったようだ。
 彼は、次第に無口になっていった。
 やがて、強い孤独感に苛まれるようになり、精神的に追い詰められ、ノイローゼ気味になってしまった。
 周囲の人が、皆、自分のことを笑っていると、漏らすこともあった。
 サチは、悶々と、悩み続けるわが子を見ると、自分も苦しくて仕方なかった。
 息子のために、寸暇を惜しんで、題目を唱え続けた。唱題しながら、彼女は思った。
 ″そうだ。これは、息子が信心できるチャンスなんだ!
 いよいよ転機が来たんだ。これからが本当の勝負の時だわ。私は絶対に負けない!″
 彼女は光次郎に、懸命に訴えた。
 「今こそ信心で立つのよ。信心で勝つのよ!」
48  新緑(48)
 サチの言葉に従い、息子の光次郎は、素直に信心に励み始めた。
 サチについて、メンバーの激励などにも一緒に行くようになった。
 彼の表情は、日ごとに明るくなっていった。不安が消え、ほのかな希望を感じ始めたのだ。
 また、少しずつではあるが、義父とも打ちとけて話し合うようになっていった。
 光次郎も仏法の力を、次第に実感し始めていたようであった。
 そして、この日、彼は、山本伸一を迎えるために、ジュネーブからチューリヒに駆けつけて来たのである。
 出迎えの青年たちは、ホテルまで荷物を運ぶのを手伝ってくれた。
 伸一は、母の祈りの勝利を痛感しながら、光次郎に言った。
 「本当にありがとう。お母さんに、くれぐれもよろしく」
 わが子の幸せを願い、信心をさせたいという母の一念は、必ず通じていくものだ。
 それには、絶対に願いを成就させるのだと決めて、弛まず、決してあきらめずに、真剣に唱題し抜いていくことである。
 また、子どもは、日々、親の姿、生き方を見て、信仰への理解と共感を深めていく。
 ゆえに、親自身が、いかなる困難にも負けない強さや明るさ、人への思いやりなど、人格の輝きを増していくことが大切であり、それが、仏法の偉大さの証明となる。
 ともあれ、信心の継承は、仏法者としての親の責務であり、そこにこそ、真実の愛がある。
 五月二十七日、伸一の活動の舞台は、アルプスの国・スイスから、最後の訪問地となる、オランダのアムステルダムへと移った。
 アムステルダムの空港には、数人のメンバーが集まり、山本会長を待っていた。
 小野寺誠三という日本人の青年と、二組の若い夫婦、そして、二人の小さな子どもであった。
 伸一たちの乗った便が到着してから、既に一時間近くが経過し、この便の乗客は、皆、出てしまったが、一行の姿は見えなかった。
 「山本先生はどうされたのかしら」
 日系の女性が不安そうにつぶやいた。オランダ地区の地区部長のイチコ・プライスである。
49  新緑(49)
 小野寺誠三が、航空会社の社員に、山本伸一の一行のことを尋ねた。
 すると、「その方たちでしたら、だいぶ前に、出られたはずですよ」と教えてくれた。
 行き違いになってしまったようだ。
 そこで、一行が宿泊するホテルに行くことにした。
 だが、地区担当員のアイコ・シモンの子どもが車に酔い、体調を崩してしまったことから、シモン一家は、この日は家に帰ることになった。
 小野寺たちがホテルに着いた時には、伸一は外出したあとであった。
 しばらくロビーで待っていると、伸一が帰って来た。
 「先生! 男子部の小野寺です。空港でお待ちしていたんですが、お会いできなかったので、ホテルまで押しかけて来てしまいました」
 伸一は、申し訳なさそうに答えた。
 「出迎えてくれたんですか。悪いことをしてしまったな。では、私の部屋に行きましょう」
 懇談が始まった。
 だが、皆、緊張のためか、体を硬くしていた。
 その緊張を解きほぐしたのが、峯子が出してくれた、冷たいジュースであった。
 伸一は、小野寺とは、パリ会館の入仏式で顔を合わせていたが、わずか一週間で、すっかりやつれてしまっているのに気づいた。
 彼は常に、一人ひとりの同志の様子に、細心の注意を払っていたのだ。
 「何かあったのかい」
 小野寺は、ぶっきらぼうに答えた。
 「勤めていたホテルを辞めてしまいました」
 彼は、入会して六年になる、二十八歳の青年であった。
 日本でホテルマンをしていた小野寺は、八カ月前、同じ系列のロッテルダムのホテルに、研修生として派遣されて来た。
 彼の話では、辞めたのは、次のようないきさつからであった。
 ――小野寺は、同僚に勤務を交代してもらい、二十日のパリ会館の入仏式に参加した。
 終わってすぐに列車に乗れば、その日のうちにロッテルダムに帰り着けるはずであったが、乗り遅れてしまった。
 ホテルに電話を入れると同僚が出た。
 事情を話すと、「うまくやっておくよ」と言ってくれた。
50  新緑(50)
 五月はチューリップのシーズンで、オランダのホテルは観光客で賑わい、猫の手も借りたいほど忙しい時期である。
 小野寺誠三は、申し訳なさを感じながら、翌日の列車で、ロッテルダムに帰った。
 ホテルに着くと、フロントには、総支配人が仁王立ちになっていた。
 「君は、研修生でありながら、いったい、どういうつもりなのだ! そんなだらしない人間は、日本に帰りなさい!」
 激しく叱られた。
 なんと言われても、返す言葉もなかった。
 最初は、平身低頭、謝り続けたが、いつまでも叱られ続けると、つい感情的になってしまった。
 「わかりました。結構です。それなら辞めさせてもらいます!」
 ヨーロッパのホテルで研修を受けられるのは、ホテルマンとしては大変な栄誉であり、将来の飛躍のステップであった。
 だが、彼は、それを自ら捨ててしまったのだ。
 小野寺は、山本伸一に経過を説明すると、「本当に短慮なことをしたと思います」と言って、肩を落とした。
 伸一には、彼が深く反省もし、悩み苦しんできたことがよくわかった。
 伸一は、包み込むように微笑を浮かべた。
 「そうか。大変だったな……」
 それは、小野寺にとっては、予想外の言葉であった。
 彼は、自分の誤りを指摘され、厳しく指導されると思っていた。
 小野寺は、人間の温もりに触れた気がした。安堵感を覚え、涙が込み上げてきた。
 「小野寺君、過去のことを悔やんでも始まらないんだから、明日に、未来に生きることだよ。
 君は、まだ若い。若いということは、無限の可能性があるということなんだ。
 そして、その可能性を開いていくには、一度ぐらい失敗したからといって、自分を卑下したり、自信をなくしたりしないことだ。
 失敗を恐れず、前へ、前へと進むことだ。
 今日からが勝負だ。明日こそ勝つんだ! 絶対に勝つんだ!」
 「はい!」
 小野寺は頷いた。
 「ところで、これからどうするんだい。お金はあるのかい」
51  新緑(51)
 山本伸一から、これからどうするのかと聞かれた小野寺誠三は、答えに詰まった。
 この何日間か、考え続けてきたが、結論を出せずにいたからである。
 彼は、あらためて自分に問い直してみた。
 ″そもそも俺が、ヨーロッパに来たのは、なんのためだったのか。
 ホテルマンとして研修を受けることが直接の理由ではあったが、根本的には、世界広布のために役立ちたいと思ってのことではなかったか……″
 小野寺は、しばらく考え込んでいたが、意を決したように、伸一を見つめて言った。
 「お金は少しはありますので、当面の生活は大丈夫です!
 私は、こちらに残ります。そして、どんな仕事をしてでも、オランダの広宣流布に生き抜いていきたいと思います」
 その瞬間、伸一の力強い声が響いた。
 「そうだ! その意気だよ。仕事に貴賤などない。君は使命あって、このオランダに来たんだから、頑張り通してみることが大事だと思う。
 人生の戦いというのは″もうだめだ″と思ったところから、どう立ち上がっていくかにある。そこから、本当の勝利への飛翔が始まるんだ。
 私が応援するよ」
 懇談は、さらに続いた。和やかな語らいであったが、伸一にとっては、生命の岩盤を穿つかのような、真剣勝負の指導であった。
 話が一段落した時、伸一は言った。
 「それでは、これから皆さんの健康と幸福とオランダの発展を願い、一緒に勤行をしましょう」
 彼の部屋で、勤行が始まった。オランダの広宣流布と繁栄、そして、メンバーの成長を願い、懸命に祈りを捧げた。
 勤行のあと、伸一は、川崎鋭治に尋ねた。
 「オランダは、地区ができていたんだね」
 「はい。イチコ・プライスさんが地区部長で、アイコ・シモンさんが地区担当員です。ただ、メンバーは数人です」
 「私は、オランダに支部を結成したいと思うがどうだろうか。
 世界で一番小さな支部になるかもしれないが、将来の大発展を考えて、今のうちに、先手を打っておきたいんです」
 メンバーは、笑顔で頷いた。皆、賛成のようである。
52  新緑(52)
 山本伸一は、皆の同意を確認すると、言った。
 「では、支部を結成します。
 人事については、これまでの経過を踏まえ、イチコ・プライスさんが支部長で、アイコ・シモンさんが支部婦人部長ということでどうだろうか。
 また、小野寺君は、男子部の部長という、より大きな責任をもった立場で活躍してほしい」
 「はい!」
 小野寺は、緊張した顔で答えた。
 当時の学会の組織は、幾つかの支部が集まって総支部がつくられていたが、部長は、その男子部の責任者である。
 それから伸一は、イチコ・プライスのオランダ人の夫に語りかけた。
 「あなたには、男子部の支部の責任者になってもらおうと思いますが、よろしいですか」
 小野寺が、その言葉を伝えると、彼も「ハイ」と日本語で返事をした。
 「さあ、これが支部結成式だ。今日は、オランダの出発の日だよ」
 それは、小さな語らいであったが、歴史的な瞬間となった。
 この日の魂と魂の触発から、オランダの広宣流布の火は、燃え上がっていったのである。
 伸一は、三人に、袱紗など、記念の品々を贈り、祝福した。
 さらに、小野寺の生活を心配し、日本から持ってきた缶詰などの食糧を、抱えきれないほど持たせた。
 「小野寺君。たとえ、どんな窮地に追い込まれても、絶対に弱気になってはいけないよ。
 一番怖いのは、自分に負けてしまうことだ。就職だって、すぐには決まらないかもしれない。
 しかし、挑戦、挑戦、挑戦だ。最後まで、希望をもって、勇気をもって、挑戦し抜くんだよ。それが学会精神だ。
 君とは、また明日、会おうじゃないか」
 ホテルを後にした小野寺は、その足で、シモン夫妻の家を訪ねた。
 伸一との語らいで、彼の落胆は決意に、不安は歓喜に変わっていた。彼の足取りは軽かった。
 オランダ支部の結成を聞いた、アイコ・シモンは言った。
 「メンバーは増えていないのに、支部にしていただいて申し訳ないわ」
 「だから拡大ですよ。戦いは今日からです」
53  新緑(53)
 アイコ・シモンは、翌二十八日の午前中、小野寺誠三と一緒に、山本伸一に会いに来た。
 伸一は、この日の午後の便で、帰国の途に就くことになっていたが、二人を部屋に招き、出発間際まで激励を重ねた。
 「シモンさん、わざわざおいでいただいて、ありがとう。
 オランダ支部の結成にともない、あなたには支部の婦人部長をお願いしたいと思いますが、よろしいでしょうか」
 「私のような者でもよろしければ、やらせていただきます」
 「それは、よかった。今日は、ご主人は?」
 「子どもをみてもらっております」
 「そうですか。お会いできなくて残念です。
 実は、ご主人には地区部長をやっていただこうと思うんです」
 「わかりました。大丈夫だと思います」
 「ご主人に『どうか、よろしくお願いします』とお伝えください」
 その時、小野寺が、決意を込めて語り始めた。
 「先生。オランダはメンバーを増やして、大発展させてまいります!」
 アイコ・シモンも、大きく頷いた。
 伸一は、微笑を浮かべながら言った。
 「すぐに組織を大きくしようと考えるのではなく、まず、しっかりと核を固めていくことが大事です。
 少ないメンバーであっても、強い友情に結ばれ、信心の歓喜にあふれた組織ができあがれば、そこから、広宣流布の波は広がっていきます。
 また、未来の大発展のためには、それぞれが広布の一つ一つの課題に、全力で挑戦し、勝ち抜いていくことです。小さな勝利が集まってこそ、大勝利があるんです。
 さらに、広布の戦いは持続です。苦労に苦労を重ねて、あと一歩というところまで来ても、気が緩み、手を抜けば、そこから崩れてしまう。
 大聖人は『始より終りまでいよいよ信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん』と仰せです。
 だから、決して油断したり、あきらめたりするのではなく、闘魂を、情熱を、いや増して燃え上がらせ、最後の最後まで、一つ、また一つと、着実に勝利の旗を打ち立てていくことです」
 それから伸一は、一緒に勤行・唱題した。
54  新緑(54)
 唱題が終わると、ちょうど一行の出発の時刻であった。
 ロビーに下りた山本伸一は、さらに、小野寺誠三を励ました。
 「オランダはいいところだね。花と風車と運河――まるでお伽の国のようだ。この国で、力の限り、君の人生の名画を描いていくんだよ。
 信心を貫き通していくならば、必ず、わが人生劇場の大勝利者、大英雄になれる。
 勝とうよ。断じて勝とうじゃないか。
 君の勝利の報告を、私は待っているからね。
 また、お会いしよう。今度は、勝ち誇った、凛々しい姿の君と」
 伸一は、こう言って、別れを告げた。
 この二日間にわたる伸一の激励が、小野寺の人生を変えた。
 彼は、オランダ広布に生涯をかけようとの決意を固め、住まいもロッテルダムから、活動に便利な首都のアムステルダムに移し、そこで仕事を探した。
 最初は、観光客の通訳兼ガイドからのスタートであった。
 だが、航空会社の社員や、運輸会社の旅客部門の責任者を経て、やがて彼は、自らホテルを経営することになる。伸一に励まされてから、二十一年後のことである。
 まさに、見事な勝利の実証であった。
 また、小野寺は、活動の面でも、オランダの理事長として、奮闘を重ねていったのである。
 広宣流布に生き抜くなかにこそ、人生の凱歌は轟くのだ。
 二十八日の午後一時四十分、伸一たちが乗った飛行機は、アムステルダムの空港を離陸した。
 眼下には、中世を思わせる古い建物が連なり、幾重にも走る運河が、街を仕切っていた。
 運河に沿って茂る、新緑がまばゆかった。
 新緑は希望である。青年の色である。
 伸一には、それは、広宣流布の使命に目覚め、各地に躍り出た、若き地涌の勇者を、象徴しているように思えた。
 青年が立てば、新しき朝が来る。青年さえ育てば、すべては開かれる。
 伸一は、青年たちの未来に思いをめぐらすと、心に希望の太陽が昇り、生命は躍動していった。彼は、長旅の疲れが吹き飛んでいくのを感じた。

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