Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第11巻 「躍進」 躍進

小説「新・人間革命」

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1  躍進(1)
 勢いは勢いを呼ぶ。
 燃え上がる炎が、大風にあえば、ますます燃え盛るように、勢いある前進は、逆境をはね返し、困難の壁を打ち砕く。
 目覚め立った民衆の、怒濤のごとき社会建設の潮流を、舞い踊るがごとき歓喜の行進を、いったい誰がさえぎれるというのか。
 いかなる権力も、時代を押し返すことはできない。それが歴史の教訓である。
 一九六六年(昭和四十一年)「黎明の年」から、六七年(同四十二年)「躍進の年」へ――創価学会はさらに勢いを増して、新しき年へと突き進んでいった。
 前年「黎明の年」の十一月末、学会は念願の会員六百万世帯を達成し、六百十万世帯になっていた。
 六百万世帯の達成は、六四年(同三十九年)五月三日の本部総会で、山本伸一が次の七年間の目標として示したものであった。
 この時点での会員世帯は約四百三十万であり、以来二年半で、百八十万世帯の拡大を悠々と成し遂げたことになる。
 そして迎えた、この六七年(同四十二年)は、伸一の会長就任七周年の佳節を刻む年であった。
 皆が燃えていた。自分たちが一生懸命に動いた分だけ、未聞の広宣流布の扉が確実に開かれ、時代が、社会が、大きく変わっていく手ごたえを、誰もが感じていたからだ。
 同志の毎日が躍動し、毎日が希望にあふれていた。
 皆、自己自身が広布推進の主役であることを深く自覚し、新しき年の大勝利へ、ますます情熱を燃え上がらせていたのである。
 「躍進の年」を迎えた、伸一の決意は強く、固く、深かった。
 彼はこの一年を、広宣流布の黄金の飛躍台にしなければならないと、心に決めていたのである。
 時間は、万人に平等に与えられている。
 しかし、大願を果たそうとする者にとっては、時はあまりにも短い。
 彼には、時は「光の矢」のように感じられた。だから、一瞬一瞬が真剣勝負であった。
 常に「いつ倒れても悔いはない」「今、倒れても悔いはない」と言い切れる実践を自らに課してきた。
 「不惜身命」とは、「臨終只今」の覚悟で、今を、今日を、明日を、戦い抜く心である。
 広布の大いなる飛躍のために何をなすべきか――答えは明確であった。
 第一線で活躍する同志を、仏を敬うがごとく讃え、励まし、勇気づけることである。
2  躍進(2)
 山本伸一は、大躍進のスタートを飾るために、この一月は、全国を駆け巡ろうと、年頭から、フル回転で動き始めた。
 九日に関西(兵庫、大阪)を訪問したのをはじめ、北海道(札幌)、九州(福岡)、中部(愛知)、千葉、中国(岡山)、静岡、神奈川など、二週間ほどの間に国内をほぼ一巡したのである。
 瞬時の休みもない激闘であった。
 全国の同志は、機関紙を通して、この伸一の動きを知ると、今まさに「躍進」の時が到来していることを実感するのであった。
 「先生は必死だ。懸命に動かれている。私たちも、法のため、友のため、社会のために、動きに動き、語りに語ろう!」
 波動は大きく広がった。
 人びとはリーダーの言葉についてくるのではない。行動についてくるのだ。
 口先だけのリーダーは、やがて、その欺瞞の仮面をはがされ、誰からも相手にされず、見捨てられていくにちがいない。
 ともあれ、新しき年の、広布の大回転が始まったのである。
 この一月の二十九日は、第三十一回衆議院議員選挙の投票日であった。
 衆院選挙は 戦後十回目で、一九六三年(昭和三十八年)の十一月に、第二次池田勇人内閣の時に行われて以来、三年二カ月ぶりであり、六四年(同三十九年)に佐藤栄作内閣が発足してからは、初めての総選挙となる。
 そして、何よりも、公明党にとっては、初の衆院選挙であったのである。
 今回、衆議院が解散した背景には、「黒い霧事件」といわれる、閣僚や代議士の職権乱用、汚職など、不正への疑惑が、相次いで浮上したことがあった。
 この「黒い霧」によって生じた、政治不信をぬぐい去り、本来の議会政治を確立し、政界を浄化することができるかどうかが、今回の総選挙の最大のテーマといえた。
 それだけに、政界浄化に積極的に取り組み、数多くの実績を上げてきた公明党の、衆議院進出に対する期待は、会員だけでなく、社会的にも大きかった。
 ″公明党が頑張らなければ、日本の国の未来は開けない!″
 同志は、誰もがそう痛感していた。そして、公明党の衆院選挙の初陣となるこの選挙で断じて大勝利し、日本の政治の新しい夜明けを開こうと、決意を新たにしていたのである。
3  躍進(3)
 そもそも衆議院への進出は、一九六四年(昭和三十九年)五月に、公明政治連盟として正式に決定。そして、同年十一月に公明党が結成されると、党として、次期衆院選挙に候補者を立てることを発表した。
 しかし、公明党の衆議院進出に、政界も、宗教界も脅威をいだき、党を誕生させた創価学会に、さまざまな圧力を加えてきた。
 脅迫とも思える強圧的な態度や、懐柔策をちらつかせながら、山本伸一に接触してくる、いわゆる″大物政治家″もいた。
 学会本部への脅しや嫌がらせの電話、手紙も、後を絶たなかった。
 その一方、公明党の結成前後から、衆議院の選挙制度を変えて、単純小選挙区制を採用しようとする自民党政府の動きが、本格化し始めていったのである。
 単純小選挙区制とは、選挙区を小さくし、一選挙区ごとに議員一人を選出するという制度である。
 当時の衆議院選挙区は、一選挙区で三人から五人の議員を選出する中選挙区制であったが、これを変えようというのである。
 単純小選挙区制は、当選者が一人であるため、多くの選挙区で一位になる可能性が高い、第一党、大政党にとっては有利このうえない制度である。
 しかし、二位以下の候補者に投じた票は、いっさい議席につながることなく、″死票″となってしまい、有権者の意思が反映されにくい制度といえる。
 選挙制度審議会では、単純小選挙区制以外にも、わずかに比例代表制を取り入れた併用案も検討していたが、実質は単純小選挙区制と、ほとんど変わらなかった。
 いずれにせよ、状況次第では一党支配を確立し、事実上、議会制民主主義を葬り去る選挙制度となりかねない。
 この動きに、敏感に反応したのは青年部であった。
 青年たちは、一党による権力の維持と、公明党の衆議院進出を阻むための党略であると見抜き、″小選挙区制″粉砕のデモを行いたいと申し出た。
 だが、山本伸一は、慎重であった。病苦や経済苦と闘いながら、健気に信心に取り組んでいる学会員に、このうえ、デモなどやらせたくなかった。
 また、学会が、選挙の支援活動以外で、政治にかかわる行動をすることは、できる限り避けたかったのである。
 ところが、青年たちは、何がなんでも、デモを行うという構えであった。
 いや、壮年も、さらに、女子部も、婦人部もやるというのだ。皆が義憤を感じていたのである。
4  躍進(4)
 山本伸一は考え悩んだ。
 彼は、東西両陣営の対立が、政界にそのまま持ち込まれ、保守と革新の対立の構図となり、真の意味での議論も、話し合いもなされていない、日本の政治の現状を憂慮していた。
 この保守と革新の溝を埋め、硬直化した事態を打開していくには、自民党、社会党という二つの極に対して、さらに新たな″第三の極″が必要になると、彼は考えていたのである。
 そして、その役割を担いうる政党こそ、仏法の中道主義を理念とした公明党であるというのが、伸一の確信であった。
 しかし、″小選挙区制″になり、公明党の衆議院への進出が阻まれてしまえば、その道さえも閉ざされてしまうことになる。
 これは、民衆の幸福と社会の繁栄を実現するために党をつくった学会としても、見過ごすわけにはいかない問題である。
 また、これまでの自民党議員の発言などから考え、″小選挙区制″が採用され、一党支配が永続化していけば、軍事大国への道を踏み出そうとすることが懸念された。
 ″もしも、今、黙って、何もせずにいれば、取り返しのつかないことになるにちがいない″
 彼は思った。
 一九六五年(昭和四十年)十一月二十三日、東京・両国の日大講堂で開かれた青年部総会で、伸一は、″小選挙区制″問題に言及し、その危険性を指摘したあと、厳とした口調で訴えた。
 「今、学会が動かなかったら、日本はどうなるか。もし、戦争に巻き込まれたら、民衆はどうなるか。
 それで、結論として、来年、″小選挙区制″を強行しようとするのであれば、東京で五十万、全国で三百万の、未曾有のデモ行進をしようと思いますが、いかがでしょうか!」
 「ウオー」という大歓声が起こり、怒濤のような大拍手が大鉄傘に轟いた。
 拍手がやむのを待って、伸一は話を続けた。
 「このデモは、私たちは、騎士道精神で、女子部、婦人部は含めないで行いたいと考えております。この点については、いかがでしょうか」
 彼の呼びかけに、男性たちから、盛んな賛同の拍手がわき起こった。
 そして、次の瞬間、獅子吼を思わせる、烈々たる伸一の声が響いた。
 「また、その時は、私がデモの先頭を切ります!
 いつまでも、いいように民衆を足蹴にさせては絶対にならない」
5  躍進(5)
 自らがデモの先頭に立つという山本伸一の叫びは、集ったすべての青年たちの胸に、黄金の矢となって突き刺さり、闘志を炸裂させたのである。
 社会のあらゆる階層、年代、職業の、八百万人を超える人びとによって構成される学会は、日本の民衆の一大潮流といってよい。
 その学会員が怒りをもって、″小選挙区制″の粉砕に立ち上がったのだ。
 虚勢や、ハッタリではなく、三百万人のデモが、日本列島を揺るがすことは間違いない。
 この同志の憤りと、粉砕への鉄の意志は、世論を目覚めさせた。
 自民党首脳は、それでもなおかつ選挙区制を変えようとすれば、民衆の支持を失い、党の存在の基盤を根底から揺るがす結果になりかねないと、考え始めたようであった。
 一方、公明党をはじめ、野党各党の選挙区制の改悪に反対する動きも活発化し、共闘の流れがつくられていった。
 年が明けて、一九六六年(昭和四十一年)の一月になると、自民党首脳は、選挙制度の変更を、当面、見送る意向を固めたことが、報道されるようになった。
 選挙区制の変更を強行しようとすれば、与野党の激突を避けられないうえに、与党の一部にも、根強い反対があることが、理由にあげられていた。
 この年も押し詰まった十二月二十七日、衆議院が解散し、それまでの中選挙区制のまま総選挙が行われることになったのである。
 そして、結果的に、選挙区制改悪のもくろみは、一旦、頓挫し、学会の抗議のためのデモが行われることはなかった。
 ところで、公明党の衆議院進出に対する他宗教の反対は、極めて激しいものがあった。
 六五年(同四十年)の八月には、既成仏教の団体が大会を開き、「創価学会対策の急務とその決め手」について協議が行われている。
 「創価学会が公明党を結成して政界に進出したことは、仏教盛衰の上に影響するところが少くない。
 この際、仏徒はいちだんと団結を強固にし、防衛より攻撃に大転し、破邪顕正の″聖戦″を戦うべきだ」(「中外日報」六五年九月一日付)というのである。
 ここで打ち出された具体的な対策のなかには、学会を″邪教″として禁止することなどを、時機を見て、国会及び政府に請願することが提案されていた。
 権力を動かしての学会弾圧の画策である。
6  躍進(6)
 新興の宗教団体のグループも九月はじめに理事会を開き、このグループに加盟する、九十余教団の信徒約七百万人を総動員して、創価学会・公明党と対決し、″逆折伏″を行うことを決めたのである。
 さらに、「ある日刊紙をはじめマスコミで創価学会や公明党に″色目″をつかい、おもねるような勢力に対して、断固とした態度でのぞみ、新聞などの不買同盟やボイコット運動も辞さない」(「中外日報」一九六五年九月八日付)ことを発表したのだ。
 こうした激しい攻撃の礫のなかで迎えた、初の公明党の衆院選挙であったのである。
 公明党は三十二人の候補者を立てたが、自民党をはじめ、各党が候補を絞ったことなどから、候補者は全体で九百十七人にとどまり、少数激戦となった。
 山本伸一は、衆院選挙を迎えるにあたって、支援活動に励む会員が、公明党の進むべき方向性について、より深く理解し、さらに自信をもてるようにしようと心を砕いた。
 そして、六七年(昭和四十二年)一月六日に、東京・千代田区の日本武道館で行われた新春の幹部会の席上、公明党の創立者として、党のビジョンを明らかにしたのである。
 「私には、公明党の創立者として、党の未来像を示し、かつ見守る責任があります。
 また、学会は党の母体であり、党員、支持者といっても、現在の段階では、ほとんどが学会員です。
 よって、私が、学会の同志の方々に党の未来像を申し上げることが、最も大事であると考え、少々、申し述べたいと思います。
 最初に、その大綱を申し上げます。
 われわれは、『中道政治で平和と繁栄の新社会』の建設をモットーに進んでいきたい。
 そのためには、まず第一に『清潔な民主政治の確立』を図らなければならない。
 具体的には『平和憲法を守る』『議会制民主主義を確立する』『言論、結社、信教の自由を守る』ことを実現していくべきです。
 次に内政面においては、『大衆福祉で豊かな生活』をスローガンに、『相互扶助で福祉経済を確立する』『最大の社会保障制度を確立する』『人間性豊かな文化を建設する』――以上を目標に、前進していただきたい」
 さらに、外交面においては、「戦争のない平和な世界」をめざし、「核兵器の全面廃止を実現する」「国連を改革し、世界完全軍縮を実現する」ことなどを語っていった。
7  躍進(7)
 山本伸一は、さらに、中道政治についても論じていった。
 「私どものめざす中道政治とは、一言でいえば、仏法の中道主義を根底にし、その生命哲学にもとづく、人間性尊重、慈悲の政治ということになります。
 人間性尊重とは、人間生命の限りない尊厳にもとづき、各人各人の個性を重んじ、あらゆる人が最大限の幸福生活を満喫していけるようにすることにほかなりません。
 社会のいっさいの機構も、文化も、そのためにあるものと考え、政治を行うのが、人間性尊重の政治であり、それによって築かれる社会こそ、われらの理想社会であると思うのであります」
 次いで彼は、資本主義も共産主義も、ともに「人間不在」の政治に陥り、本末転倒の姿となっていることに、本源的な行き詰まりがあると指摘していった。
 「資本主義社会においては、利潤の追求が第一義であって、そのため、人間一人ひとりの幸福が犠牲にされることも少なくない。
 共産主義社会においても、画一的な経済体制、全体主義的な国家形態のもとに、個々の人間の自由は強く抑圧されている。
 この結果、資本主義社会は、大衆の犠牲をなんとか少なくしようとする方向へ、修正を余儀なくされております。
 また、共産主義社会も、個人の自由を認めるように、大幅な修正を加えざるをえなくなっております。
 世界の時代の趨勢は、真に人間性に立脚した中道主義、中道政治を求めて動いていることは明らかです。
 まさに、中道主義によって、平和と繁栄の新社会を築くことを、全民衆が心から待望する時代に入ったと、私は確信するものであります」
 地鳴りのような大拍手が場内を揺るがした。
 皆、目の前の霧が、一瞬にして晴れていくような思いがしてならなかった。
 伸一は、ここで、中道主義によって築かれる社会とは、「信頼と調和」を基本理念とする新しき社会であることを述べた。
 そして、国家と国家の抗争も、国内のさまざまな対立も、その根底にあるものは常に相互不信であり、それらを超えゆく指標こそ、「信頼と調和」の社会であることを訴えた。
 そのあと、彼が目標として示した、「福祉経済体制」などの内容を論じて終わったが、この講演は、公明党の進むべき道を示しただけでなく、日本の政治の進路を照らし出すものとなった。
8  躍進(8)
 確かな未来像をもち、進むべき指標があれば、希望がわく。希望は、勇気を呼び、前進の活力となる。
 山本伸一が発表した公明党のビジョンを聞くと、同志の支援活動に一段と力がこもった。
 皆、胸を張り、自信をもって、政治のあるべき姿を訴えていった。
 そして、一月二十九日の投票日を迎えた。
 午後六時、投票が締め切られ、開票が始まった。
 公明党は、着実に議席を伸ばし、最終的に、三十二人の候補者のうち、二十五人が当選した。大躍進、大勝利といってよい。
 自民党は、この総選挙では、前回の当選者数二百八十三を下回り、当選者は、二百七十七にとどまった。
 また、社会党は百四十、民社党は三十であり、公明党は、一躍、衆議院で第四党となったのである。
 衆院選挙の結果が判明した三十日の夜、学会本部にいた伸一のもとに、公明党の首脳幹部が、数人であいさつに来た。
 伸一は、笑顔で労いの言葉をかけた。
 「おめでとう! 本当によく頑張ったね。何人か落選してしまった人もいるが、次の飛躍台にしていけばいいんだ。初めから、すべて順調にいくなんていうことはありえない。
 衆院選挙の第一回戦としては、大勝利ですよ」
 公明党の委員長の関久男が言った。
 「はい。ありがとうございます。
 これでようやく、一段落しました。本当にお世話になりました」
 「関さん。戦いはこれからですよ。
 昔は、政権を取るためには戦争をして多くの血を流した。時代は変わっても、皆、政権を取るために、食うか食われるかの、必死の戦いをしている。
 公明党が、この先、伸びれば伸びるほど、さまざまな勢力が、あらゆる手段を駆使して、叩きつぶそうとするはずです。
 それが、現実社会の厳しさです。
 皆さんは、何ものをも恐れぬ勇気をもち、そして、どこまでも″清潔″であり続けてください。それが国民の期待でもあります。
 これからは、公明党の議員への懐柔策もあるでしょう。少しでも私腹を肥やそうなどという野心があれば、全部、利用されます。
 学会や党を私利私欲のために利用しようという魂胆のある者は、やがて、必ず堕ちていくでしょう。
 もしも、一生懸命に応援してくれる学会員を、また、社会の信頼を裏切るような、堕落した議員がいたなら、即刻、党から叩き出すべきです」
9  躍進(9)
 山本伸一は、一人ひとりに、射貫くような視線を注ぎながら、言葉をついだ。
 「また、絶対に忘れてはならないことは、民衆の幸福のために、権力の魔性と戦い続ける精神です。
 これから先、党として、ある場合には革新政党と手を結ぶこともあろうし、保守政党と協力することもあるかもしれない。
 野党の立場で与党を正すこともあれば、政権に加わって、改革を推進することもあるかもしれない。
 あるいは、政策を実現するためには、妥協が必要な場合もあるでしょう。
 さまざまな選択はあるが、根本は国民の幸福のためであるということを、絶対に忘れてはならない。
 さらに、政権に参画したとしても、徹して権力の魔性とは戦い抜くことです。
 そうでなければ、公明党の存在意義はなくなってしまう」
 その夜、伸一は帰宅すると、当選した二十五人の議員の成長と、党の大発展を願い、深い祈りを捧げた。
 彼は、これで、公明党の創立者としての責任を、ようやく果たすことができたと思った。
 衆議院への進出という基盤ができれば、あとは党として独自に活動を進めていけばよい。
 いよいよ、本当の意味で、党が独り立ちしていく時が来たのだ。
 伸一は、二十一世紀に思いを馳せた。
 ″二十世紀は戦争につぐ戦争の世紀である。
 このまま進めば、二十一世紀はどうなるのか。
 果てしない核軍拡競争、第三次世界大戦の恐怖。環境破壊・汚染、食糧問題、民族等々の差別、暴力、虐待、貧困、飢餓、精神の荒廃……。
 しかし、二十一世紀を、断じて「滅亡の世紀」にしてはならない。
 絶対に、「希望の世紀」に、「平和の世紀」に、人間の尊厳を守り抜く「生命の世紀」にしなくてはならない″
 伸一が、公明党のビジョンを発表したのも、そのためであった。
 公明党の掲げる中道政治、すなわち人間主義の政治が、日本の潮となり、世界の政治哲学の潮流となるかどうかに、二十一世紀はかかっていると、伸一は考えていた。
 だからこそ、これまで、公明政治連盟を、そして、公明党を、命がけで育て上げてきたのである。
 真剣に唱題する伸一の胸には、二十一世紀の大空に轟く躍進の足音が、民衆の歓喜の勝鬨が、潮騒のようにこだましていた。
10  躍進(10)
 この一九六七年(昭和四十二年)の一月から二月の初旬にかけて、どこにあっても、少しでも時間があると、原稿用紙を取り出し、ペンを走らせる山本伸一の姿が見られた。
 彼は、小説『人間革命』をはじめ、『大白蓮華』の巻頭言など、常に、たくさんの原稿を抱えており、旅先でも原稿用紙に向かうことは少なくなかった。
 しかし、この時、書いている原稿は、そうしたものではなかったし、外部の出版社や新聞社から依頼された原稿でもなかった。
 短期大学の卒業資格を取得するためのリポートであったのである。
 彼は、四八年(同二十三年)の春、東洋商業の夜学を卒業すると、大世学院の政経科夜間部に入学した。
 昼は、中小企業の助成機関である城南工業会の職員として働きながら、夜は、大世学院に通っていたのである。
 大世学院は、政治学者の高田勇道が東亜学院(後に校名を変更)として創立した学院で、伸一が入学したころ、校舎は西武線の中井駅の近くにあった。
 戦災を免れた建物を借りたもので、明かりは暗く、床はきしみ、破れた窓ガラスからは、雨風が吹き込む教室であった。
 しかし、院長の高田が姿を現し、「いよー、諸君! 元気かね」と、親しく語りかけると、教室は一変して明るさに包まれた。
 胸を病んでいた高田は、痩せ細り、顔色は優れなかった。だが、ひとたび教壇に立つと、彼の顔は生き生きと輝き、声には情熱が満ちあふれていった。
 伸一は、彼から政治学などを教わったが、その講義に魅せられていた。
 高田は、授業中、にわかに咳き込むことがあった。苦しそうな咳であった。
 咳が治まると、また、何事もなかったかのように授業を続けた。
 伸一も、結核に苦しんでいた。それだけに、病苦と闘いながらの、高田の気迫の授業に、彼は深い感動を覚え、その人格にひかれていったのである。
 高田は、政治学を、社会を治め、民衆の苦しみを救う実践としてとらえていた。そして、人道による世界の平和の建設を力説し、「人間性の開発」の重要性を訴えていた。
 授業のあとも、彼は学生に気さくに声をかけては、語らいのひと時をもった。
 伸一が、哲学や文学について、意見を述べると、目を細めて頷いていた。
 伸一は、そこに高田の限りない温かさを感じた。
11  躍進(11)
 山本伸一は、大世学院に入学した翌一九四九年(昭和二十四年)の一月から、戸田城聖の経営する会社に勤め、少年雑誌の編集に携わるようになった。
 だが、その年の秋、戸田の会社の経営が行き詰まってしまった。
 伸一も残務整理に追われる日が続き、夜学に通うことはできなくなった。
 彼は、やむなく休学したが、仕事が一段落したら、復学しようと考えていた。
 だが、戸田の事業を全面的に支えていかざるをえない伸一にとって、それは不可能といってよかった。
 五〇年(同二十五年)の一月のある日、伸一は、戸田に言われた。
 「日本の経済も、まだまだ混乱が続いている。私の事業も、全く気を抜くことはできない。仕事はこれから、ますます忙しくなっていくだろう。
 ついては、君の学校の方も、断念してもらえないだろうか」
 伸一は、即座に答えた。
 「はい。先生のおっしゃる通りにいたします!」
 戸田の厳しい眼差しのなかに、柔和な光が差した。
 「そうか。ありがたい。
 そのかわり、私が責任をもって、君の個人教授をしていくよ」
 戸田は約束通り、毎週日曜になると、自宅に伸一を呼んで、高等教育の万般の講義をした。午前も、午後も、伸一への講義に費やされた。
 教授一人、学生一人という、まことに恵まれた「戸田大学」の授業である。
 しかし、日曜だけでは時間が足りなくなり、戸田は毎朝、会社でも講義をするようになった。
 この講義は、数名の社員も、特別に受講することが許された。
 ある時、戸田は言った。
 「優秀な大学以上の教育を授けたい。これから、あらゆる生きた学問を教えてあげたいのだ」
 事実、戸田は、経済学、法学、政治学、さらに、化学、天文学、生命論などの科学万般、そして、日本史、世界史、漢文などを、生命を削るようにして教えていった。
 大数学者であり、不世出の教育者であった戸田が、全魂を傾けたこの講義は、彼が他界する前年まで続けられたのである。
 一方、大世学院では、伸一が入学したころから大学建設の促進運動が起こっていた。
 そして、五一年(同二十六年)の三月には、遂に認可が下り、四月には、富士短期大学として、初の入学式が行われている。
12  躍進(12)
 富士短期大学の認可が下りる前年の一九五〇年(昭和二十五年)、山本伸一は大学建設のせめてもの役に立てばと、学生の呼びかけに応じて、ささやかな寄付をした。
 彼は、既に大世学院をやめており、戸田の事業も苦境下にあって、給料は遅配が続いていた時である。
 だが、大学設立は、院長の高田勇道の夢であり、そのために、重病の体を押して奔走している高田のためにも、なんらかの応援をしたかった。
 また、自分がお世話になった母校を守りたいとの、強い思いがあった。
 しかし、状況が状況だけに、大した力にもなれぬことが、むしろ伸一は残念でならなかったのである。
 高田は、念願であった、富士短期大学の入学式の翌月にあたる五一年(同二十六年)五月、四十二歳の生涯の幕を閉じる。
 死の一カ月ほど前、彼はノートに記している。
 「教育とは、学生に生命をあたへてゆくことである」と。
 教育に生涯を捧げた、偉大なる教育者の、魂の言葉である。
 その富士短期大学から、伸一に対して、六六年(同四十一年)に、卒業のためのリポートを提出してはどうかとの、強い勧めがあったのである。
 だが、伸一は、多忙を極めていた。
 創価大学設立の準備も本格的に始まっていたし、創価中学・高校も、六八年(同四十三年)の開校に向かって、急ピッチで準備が進んでいた時である。
 伸一に卒業リポートの提出の要請があったことを耳にした首脳幹部たちは、彼がそれに応じるとは、思ってもいなかったようだ。
 しかし、伸一は言った。
 「せっかくのお話だから、短大のリポートに挑戦することにしたよ」
 首脳幹部たちは、皆、唖然とした顔をした。
 彼らは、言葉を濁してはいたが、″今更、短大卒業の資格をとって、いったいなんの意味があるのだ″と言いたげな反応であった。
 もとより伸一には、卒業へのこだわりなど、いっさいなかった。
 ただ、それが高田院長の心に報いることになると考えたのである。
 また、富士短期大学側の厚意にあふれた要請に、応えたかった。
 提出を求められたのは、「第二次世界大戦の終了後から朝鮮動乱の終了までの間における我が国産業の動向」(産業概説)、「日本における産業資本の確立とその特質」(経済史)など、十のリポートである。
13  躍進(13)
 山本伸一は、移動の車中などで、経済史をはじめ、リポート作成のための関係書籍を読みあさらなければならなかった。
 そして、寸暇を惜しんで執筆に努めた。
 伸一は、学問の基礎的な部分を、再度、学習する機会を得たことに、むしろ、感謝していた。
 彼は、男女青年部や学生部の幹部に会うと、こう言って励ました。
 「ぼくは今、大学に提出するリポートを書いているんだよ。学ぶことは楽しいし、学ぶことは人間の権利なんだ。
 だから、どんなに忙しくても、激務の日々であったとしても、学ぶことをやめてはいけない。
 戸田先生は、大講堂が落成し、約一カ月にわたって記念の行事が行われた時にも、『今日はなんの本を読んだのか』と厳しく聞かれていた。
 人間は、学ぶことをやめれば、進歩も成長もなくなってしまう。″学ばずは卑し″だ。みんなも、生涯、勉強し抜いていくんだよ」
 伸一が、このリポートを大学に提出したのは、二月九日のことであった。
 リポートは、全部で、四百字詰めの原稿用紙で、約百枚になった。
 こうして単位を取得し、彼は富士短期大学経済科の卒業となったのである。
 伸一は、この二月も、十日に名古屋文化会館の起工式に、さらに翌十一日は、兵庫県尼崎市での関西本部の幹部会に出席したのをはじめ、第一線のリーダーの激励に奔走した。
 そして、三月に入ると、三日に岐阜の地区部長会に出席し、翌四日には、岡山市に完成した、中国文化会館の落成式に臨んだ。
 この中国文化会館が、学会として初の文化会館のオープンとなったのである。
 東京でも、九月の落成をめざして、学会本部の隣接地に文化会館の建設が進められていたが、それよりも半年も早い完成である。
 文化会館も、会館も、機能、内容は同じである。しかし、伸一が、あえて「文化」という名を冠した会館の建設を推進してきたのは、広宣流布とは、人間文化の創造であると考えていたからである。
 宗教はなんのために存在するのか――。
 それは、人びとの幸福のためである。生きがいある人生のためである。
 そして、それを実現するには、人間尊重の社会を築き、さまざまな人間文化の花を咲かせなくてはならない。
 つまり、宗教が社会建設の力となってこそ、宗教の目的を達成することができるといえよう。
14  躍進(14)
 山本伸一は、全国に先駆けて、中国地方に文化会館が誕生したことが、何よりも嬉しかった。
 それは、この地こそ、広宣流布、すなわち人間文化の花薫る社会建設の模範になってもらいたいという、大きな期待があったからである。
 彼は、広布の新しき飛翔のために、中国地方を極めて重要視していた。
 中国は、西日本の大動脈である。中国が大前進を開始すれば、関西にも、四国にも、そして、九州にも、その波動は伝わっていく。
 まさに、中国こそ、西日本の前進の要であると、伸一は考えていた。
 世界で初めて原爆が投下された広島がある中国は、世界の恒久平和を実現する生命の大哲学の、発信基地であらねばならない。
 また、中国は、明治以来、実に多くの政治家、指導者を輩出してきた。
 首相も、伊藤博文、山県有朋、犬養毅、岸信介、池田勇人、そして、現職の佐藤栄作など、数多い。さらに共産党の野坂参三ら、革新系の指導者も出ている。
 今度は、この中国から、各界に中道主義の大リーダーたちが、陸続と育ちゆくことを、伸一は確信していたのである。
 彼は、会長就任七周年を前に、中国の大発展の基盤をつくり上げることを、大きなテーマにしていた。
 そして、ぎっしりと詰まった日程を、無理にこじ開けるようにして、四日の中国文化会館の落成式に始まる、中国指導を決行したのである。
 五日には、島根県の松江市で、山陰本部の班長、班担当員など、三千人の記念撮影に臨んだ。
 この記念撮影には、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が流されたことで知られる隠岐島からも、五十人ほどのメンバーが参加していた。
 隠岐には、この一カ月ほど前に隠岐支部が誕生したばかりで、メンバーは新出発の喜びに燃え、小雨のなか、集って来たのである。
 九回にわたる記念撮影が始まった。
 伸一は、撮影の前後に、メンバーに声をかけ、全力で指導、激励を重ねた。
 撮影の最後に、支部幹部以上のメンバーとカメラに納まった。
 撮影台の前に立つと、彼は皆に尋ねた。
 「ご苦労様! ここまで来るのに、五時間以上かかった人はいますか」
 何人かが手をあげた。
 彼は撮影台の上の方で手をあげていた、婦人に声をかけた。
 「どこから来られたの」
 「隠岐島です!」
 隠岐支部の婦人部長になった筒井頼恵である。
 「遠くから、よく来たね」
15  躍進(15)
 筒井頼恵は目を潤ませながら言った。
 「隠岐は支部になりました。みんなで力を合わせて頑張ります!」
 彼女は、隠岐島の広宣流布のために、必死になって働いてきた婦人であった。
 筒井の入会は、一九五八年(昭和三十三年)のことであった。
 信心を始めて、病弱だった彼女が健康になったことから、四カ月後には、夫の重吉も信心をするようになった。
 さらに、事業の失敗を唱題で乗り越え、仏法への確信を深めた夫妻は、勇んで布教に励んだ。
 夫の運転するオートバイの後ろに乗り、島中を駆け巡った。
 山のなかでオートバイが故障し、二人で押して帰ったこともあった。家にたどり着いた時には、既に朝になっていた。
 だが、そうした筒井夫妻の努力が実り、次第に、島にも学会員が増え始めた。
 その人たちが、歓喜に燃えて、さらに、弘教の火が広がっていったのである。
 隠岐は、当時、旧習も深く、創価学会と聞いただけで、多くの人が、露骨に拒否反応を示した。
 メンバーは、折伏に出かけて、塩を撒かれたり、水をかけられたりすることも珍しくなかった。
 しかし、皆、意気揚々としていた。
 「こいでまた一つ、宿業を消すことができたわい」
 「こげなすごい仏法の話が聞けんことは、本当にいたわしいがのう」
 島の同志は、朗らかに語り合い、声高らかに学会歌を歌いながら、日々、活動に出かけるのである。
 メンバーの暮らしは、決して豊かではなかった。
 島の産業といえば、漁業をはじめ、農業、林業であったが、主力となる漁業自体、本土の資本の参入によって、経営面で圧迫されていた。
 水揚げを増やすには、漁船や漁具を整備しなければならなかったが、学会員のなかで、そんな資金がある人は、ほとんどいなかった。
 同志の多くは、金もなければ、名誉も、地位もなかった。浴びせられるのは、蔑視と罵りばかりである。
 しかし、隠岐の未来を開くのは自分たちだと自覚し、友の幸福を願い、いかに反対されようが、どんな仕打ちを受けようが、決してめげることはなかった。それが、創価の心意気である。
 メンバーには、活動帰りの夜道を照らす満天の星が、自分たちの未来の勝利と栄光を祝福しているように思えた。
16  躍進(16)
 隠岐のメンバーにとっては、本土の会合に出席するのも一苦労であった。
 一九六一年(昭和三十六年)ごろは、船の便も、夜の九時に隠岐の島後の西郷を出て、各港を回り、午前四時半に鳥取の境港に着く便しかなかった。
 帰りも、午後十一時半に境港を出て、午前七時に西郷に到着するという便があるだけであった。
 また、時間的な面だけでなく、交通費を捻出することも大変であった。
 そこで貨物船や漁船に乗せてもらい、本土に渡る人もいたが、客船と違って船の揺れは激しく、いたく船酔いに苦しめられた。
 しかし、中国のどの地の同志よりも、最も求道心を燃やして、集って来るのが隠岐のメンバーであった。
 山本伸一も、隠岐の同志のことに、心を砕き続けてきた。
 六二年(同三十七年)三月、彼は、隠岐の会員が任用試験のために米子まで来て、泊まりがけで受験していることを聞くと、次回から、現地で受験できるように手配した。
 二年前の六五年(同四十年)一月、伸一が出席して開かれた米子会館での地区部長会の折にも、隠岐からやって来た一人の幹部を、彼は全力で励ました。
 「隠岐と言えば、御書にも何回となく記されている仏縁の深いところです。
 その隠岐を、日本一、世界一、幸福な島にしていくんです。
 必死の一人がいれば、すべてを変えていくことができる。私は、これから、隠岐がどうなるのか、じっと見ています」
 そして、伸一は、「純心」という彼が書いた文字を染め抜いた袱紗を、記念として贈った。
 その隠岐に、支部が結成され、筒井重吉・頼恵夫妻が、支部長、婦人部長となったのである。
 伸一は、筒井頼恵をはじめ、山陰の地で黙々と活躍してきた同志の顔を見ると、強行スケジュールではあったが、松江まで足を運んでよかったと思った。
 彼は、会長に就任してこの七年の間、全国各地を、いや世界各地を駆け巡ってきた。
 しかし、これからの七年間も、最も大変な地域を、最も不幸に泣く人びとのいるところを、草の根を分けるようにして、体の続く限り、回り抜いていく決意を固めていた。
 釈尊は、不幸な民衆を救いゆくための、旅また旅の生涯であった。まさに、行動の人であった。
 伸一もまた、わが人生は広布の旅であると、深く心に決めていたのである。
17  躍進(17)
 山本伸一は翌三月六日には萩に移り、萩総支部の班長、班担当員らとの記念撮影に臨み、七日には、広島県立体育館での中国第三本部の幹部会に出席した。
 電光石火のごとき行動の中国指導であった。
 さらに、三、四月は、九州、関西、中部を回るなど、彼の広布の旅はとどまるところを知らなかった。
 この年の四月には、第六回統一地方選挙が実施されたが、十五日に投票が行われた東京都知事選挙には、公明党として初めて独自の候補者を推薦した。
 公明の推す候補者は、海運会社の社長をしている、矢部孝一であった。彼は五十七歳で、国際的な視野に富んだ事業家として注目されていた人物である。
 矢部は、海運会社のニューヨーク支店長を務めるなど、世界の各都市で仕事をしてきた経験があり、都市問題には、ことのほか精通していた。
 このころ東京の人口は一千万人を超え、さらに、増加の一途をたどっていた。
 そのなかで、住宅難、交通渋滞、通勤ラッシュ、下水道の不備、公害の増大など、東京は深刻な問題を抱え、もはや対症療法的な対策では打開は困難な、危機的な状況を呈していたのである。
 それだけに、未来を見すえ、全く新しい発想で、国際的な視野から大東京のビジョンを描き、実現できる人が都知事として嘱望されていたのである。
 矢部は、まさに、そのための最適な人物であったといってよい。
 また、公明党として、この時、独自の候補者を推したのは、中道政治の実現と党の福祉政策を、真っ向から訴えていきたいとの考えによるものであった。
 さらに、それが、学会員をはじめとする支持者の、強い意向であり、要請でもあった。
 この統一地方選挙では、公明党は、道府県議選挙では、前回の三十九人を大きく上回り、八十四人が当選したほか、五大市議選でも六十七人中六十一人が当選するなど、各地で大勝利を収めた。
 しかし、東京都知事選では、社会、共産の推薦する美濃部亮吉が、自民、民社の推薦する松下正寿を約十三万六千票引き離して当選。矢部孝一は善戦したものの、三位となったのである。
 だが、首長選で中道主義の立場で政策を訴え抜いてきたことから、生命の尊厳を守らんとする公明党の、人間優先の政治への理解が、大きく広がっていったのである。
18  躍進(18)
 会長就任七周年を前にして、山本伸一が最後に訪問した地方は新潟であった。
 四月二十二日、彼は三年半ぶりに新潟を訪れ、新潟本部の起工式、そして、班長、班担当員の記念撮影に臨んだ。
 彼が、新潟本部となる、新会館の設置を提案したのは、三年前の一九六四年(昭和三十九年)六月に起こった、新潟地震の直後のことであった。
 新潟市には、川端町に、五九年(同三十四年)に開設された新潟会館があったが、地震による津波で、側を流れる信濃川が氾濫したことから、床下まで浸水するという被害にあった。
 また、増築して事務所として使っていた部屋も傾いてしまった。
 その報告を受けると、伸一は、地盤のしっかりしたところに、堅固で立派な、新しい会館を開設しようと提案したのである。
 彼は、各県などの中心となる会館は、しっかりとした、大きな建物にしなければならないと思っていた。
 それは、ひとたび災害が起きた時には、学会の会館は救援対策本部となり、また、臨時の避難所として、被災者を受け入れられる建物にすることを、考慮してのことであった。
 最初、新会館は、既存の建物を購入する方向で、当時、新潟総支部の総支部長であった長部孝男と、副総支部長の江田金治が中心になって、条件に合った物件を探し始めた。
 しかし、地盤がしっかりし、そのうえ駅にも近く、人が集まりやすいところとなると、なかなか見つからなかった。
 この六四年(同三十九年)の八月、新潟総支部は、新潟本部となり、江田が本部長になった。
 それから間もなく、本部幹部会のために上京した江田は、学会本部で伸一に声をかけられた。
 「いい会館は、見つかったかい」
 「いいえ、まだ、見つかりません」
 江田が答えると、伸一は沈痛な顔で言った。
 「そうか、それは心が痛むな……」
 江田は、その言葉に、伸一の真心が痛いほど感じられてならなかった。
 翌年、上京した江田に、また伸一は尋ねた。
 「まだ、新しい会館は見つからないのかい」
 「はい……」
 「既存の建物でよいものがないのなら、土地を見つけて、新しく建てよう。
 新潟は、地震では大変な思いをした。だから、新しい立派な″幸福の法城″を建ててあげたいんだ。
 日本海側で、最初の鉄筋の本部にしようよ」
 江田は、喜びに震えた。
19  躍進(19)
 新潟に戻ると、江田金治らの土地探しに、一段と力がこもった。
 八方手を尽くして探した結果、新潟駅から徒歩十分ほどの場所に、土地が見つかった。
 近くに立っている高校の校舎は、地震の時も軽微な損傷であり、地盤もしっかりしているようだ。
 そして、この四月二十二日の、喜びの起工式となったのである。
 新潟では、数日前から雨や曇りの日が続いていたが、起工式の始まる直前の正午過ぎには、雲間に青空がのぞいた。
 会場に到着した山本伸一は、辺りを見回すと、出迎えたメンバーに言った。
 「いい場所だね。よかった。本当によかった」
 自分のことのように喜ぶ伸一に、メンバーは、彼の心に触れた思いがした。
 起工式で、伸一は、新潟の同志が災害で苦しむことなく、幸福を築きゆくように、懸命に祈った。
 起工式が終了すると、彼は、直ちに、班長、班担当員らとの記念撮影の会場に向かった。
 代表四千七百人が、十五グループに分かれての記念撮影である。
 伸一は、撮影のたびごとに、マイクを取り、メンバーに声をかけ、力の限り、励まし訴えていった。
 「どんなに大変なことが起ころうとも、必ず変毒為薬できるのが仏法です」
 「試練の時こそが、宿命転換のチャンスです」
 「勇気ある信心を!」
 「日々、御書の研鑽と唱題への挑戦を!」
 撮影のあとは、会場となった体育館で、「佐渡おけさ」など、郷土の民謡が披露された。
 浴衣に編笠を被り、佐渡のメンバーを中心に、二十数人が、喜びを体中にみなぎらせての舞であった。
 民謡の踊りに続いて、新潟の高等部員が作詞作曲した愛唱歌「師のもとに」が発表された。
 伸一は励ました。
 「ありがとう。私は、高等部の皆さんが、将来、使命の大空に自在に乱舞できるように、全力で道を切り開いていきます。
 二十一世紀は、君たちの時代だ。その時に、何をするか、そのために、今、何をするかです。頼むよ」
 それから、民謡を踊ったメンバーへの感謝の思いを込めて、一緒に記念撮影をすることにした。
 その大半は佐渡の同志であり、九年前に伸一が佐渡を訪問した折に、親しく言葉を交わした、懐かしい顔もあった。
 「佐渡か。思い出すな」
 彼は、つぶやくように言った。
20  躍進(20)
 山本伸一は、佐渡のメンバーに語りかけた。
 「確か、佐渡には、鉄道はなかったんだね」
 「はい。交通機関はバスです」
 「会館もなかったね」
 「はい」
 「佐渡は、大聖人が難をしのばれ、最高の法門を残されたところなんだから、広宣流布のうえで、大事な場所だ。近い将来、会館を建てようよ」
 その時、カメラマンが記念撮影の準備ができたことを伝えた。
 「それじゃあ、写真を撮るので、今、佐渡で困っていることがあったら、どんなことでも結構ですから、あとでメモに書いていってください。
 それから、羊羹をさしあげますので、帰りの船で、皆さんで召し上がってください」
 皆で、カメラに納まったあと、伸一は言った。
 「今度は、みんなで『佐渡おけさ』を歌おう。
 私は、『佐渡おけさ』を聴くと、いつも、佐渡の皆さんのことを思い出すんです」
 三味線や太鼓のメンバーが演奏を始め、合唱が始まった。
  ハアー
  佐渡へ 佐渡へと
  草木もなびくよ……
 皆、声を限りに歌った。その声が一つにとけ合い、体育館に響いた。
 伸一の胸には、九年前に佐渡を訪問した日のことが、鮮やかに蘇ってくるのであった。
 ――それは、一九五八年(昭和三十三年)の七月二十日のことであった。
 この年の四月二日、第二代会長の戸田城聖が世を去り、同志はまだ、その悲しみから立ち上がることができずにいた時である。
 戸田を失った学会は「空中分解するであろう」というのが、世間の大方の見方であった。
 そのなかで伸一は、六月に新設された、学会ただ一人の総務となり、実質的に全学会の指揮をとることになったのである。
 一日も早く全同志と会って励まし、勇気を、希望を与えたいというのが、彼の思いであった。
 七月二十日は、新潟支部の初の運動会が行われることになっていた。
 伸一は、この運動会に出席するため、当時、理事であった関久男、青年部長の山際洋らとともに、前夜、新潟入りした。
 そして、そこで二十日の夜に、佐渡で会合が予定されていることを知ったのである。
21  躍進(21)
 山本伸一は、関久男をはじめ、派遣幹部に言った。
 「佐渡で会合があるならば、運動会が終わり次第、みんなで佐渡に行き、同志を激励しようではありませんか。
 他宗の寺が多いなかで、孤軍奮闘している佐渡のメンバーこそ、最大に讃えるべき人たちです」
 こうして、急きょ、佐渡行きが決まったのである。
 二十日は、朝から雨が降っていた。運動会を中止するかどうかは、しばらく天気の様子を見て、判断することになった。
 伸一は、その間、新潟各地から集ったメンバーのために、指導会を開いた。
 それは、求道の息吹と朗らかな笑いに包まれた、楽しい集いとなった。
 やがて、空には晴れ間が見え始めたので、運動会は午後から実施されることになった。
 これには時間の関係で、山際洋ら青年部の派遣幹部が出席し、伸一は関と一緒に、正午の船で佐渡へ向かうことにした。
 佐渡の両津行きの船は、夕刻に、もう一便あったが、海が荒れているため、欠航する恐れがあったので、伸一たちは、急いでこの船に乗り込んだのである。
 雨は、降ったりやんだりを繰り返していた。運動会も、雨が強くなり、開始してから一時間ほどで、中止せざるをえなかった。
 伸一たちが乗った「おけさ丸」は、五百トンほどの船であったが、木の葉のように、揺れに揺れた。
 雨が激しく船窓を叩き、波は牙をむくように船腹に襲いかかった。
 船は漂流するような進み方であった。多くの乗客が船酔いに苦しんでいた。
 「いやー、すごい揺れですね……」
 関が苦しそうな声で言った。その顔は船酔いのためか、蒼白であった。
 「関さん、佐渡の同志が待っているんだから、頑張ってくださいよ」
 関は頷くと、額の汗を拭った。
 所要時間は三時間と聞いていたが、四時間近くかかって両津に着いた。
 佐渡も雨であった。
 指導会は午後七時から、公民館を借りて行われた。
 佐渡には、まだ地区も誕生していなかったが、全島から、二百人ほどのメンバーが集って来た。
 同志は、歓喜にあふれ、場内には、熱気がみなぎっていた。
 伸一は語った。
 「佐渡を訪れ、同志の皆さんとお会いすることは私の念願でした。遂に佐渡に来ることができました!」
22  躍進(22)
 山本伸一は、佐渡が金山で有名であったことから、御書を拝して、「黄金の人生」とは何かについて述べようと思った。
 「大聖人は『御義口伝』で、生老病死を金銀銅鉄にあてはめ、金は生、銀は白骨すなわち死であり、銅は老、鉄は病であると言われております。
 生老病死は、生命の実相であり、それぞれに深い意義と価値があります。そのなかで、生きるということは、黄金にあたると仰せになっているんです。
 しかし、ともすれば苦悩に負け、喜びも、笑顔の輝きも失い、黒ずんだ鉛のような、悲哀に満ちた人生を送ってしまいがちなのが、人間の常と言えます。
 だが、その苦悩を乗り越え、人生を最高に光り輝かせていく道を説いているのが仏法なんです。
 では、人生の輝きを増していくには、どうすればよいか。まず、人生の根本目的をどこに定めるかです。
 自分のみの幸せを願って、財産や、地位、名誉、名声、権威、権力を求めるのではなく、『広宣流布に生きよ!』というのが、大聖人の御指南です。
 人は、どこに人間の輝きを見るのか。
 それは、エゴイズムの殻を打ち破り、時には自分を犠牲にしながら、悩める友のため、人びとのため、社会のために献身する姿ではないでしょうか。
 それこそが、広宣流布に生きる姿です。
 しかも、広布の道には犠牲はない。苦労したことは、すべて未来の大福運となり、大功徳となります」
 参加者は、熱のこもる伸一の話に、真剣に耳をそばだてていた。
 「また、人生の輝きは、自身の使命を自覚して、自ら勇んで広宣流布に邁進していくなかに生まれます。
 信心は義務ではありません。権利です。ところが、受け身になり、ただ人に言われたから動くというだけになってしまうと、どうしても義務感の信心になり、歓喜もわいてきません。
 反対に、自分から一人立ち、積極的に、果敢に行動していくところには、大歓喜があります。
 さらに、日々、自分を磨き鍛えていくことです。つまり、持続の信心です。
 持続というのは、ただ、昨日と同じことをしていればよいのではありません。『日々挑戦』『日々発心』ということです。
 信心とは、間断なき魔との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。
 その戦いのなかにこそ、自身の生命の輝きがあり、黄金の人生があることを知っていただきたいのです」
23  躍進(23)
 次いで山本伸一は、佐渡の同志の使命について言及していった。
 「話は変わりますが、塚原の三昧堂があったとされる場所や、一谷など、大聖人ゆかりの地には、いずれも、大聖人の御精神に違背した、日蓮宗の寺院が立っております。
 そこには、真実の日蓮仏法はありません。精神の廃墟にすぎない。
 大聖人が魂魄をとどめられたこの佐渡の地に、まことの日蓮仏法を、大聖人の大精神を復興させ、佐渡を最高の″幸福島″にしゆくことこそ、わが創価学会の使命であります。
 佐渡島の広宣流布があってこそ、日本の広宣流布があると、私は申し上げたいのであります。
 佐渡が広宣流布の先駆を切るために大切なことは、まず、皆さんの心のなかにある、″無理だろう″″そんなことができるわけがない″といった、あきらめを打ち破ることです。
 大聖人は佐渡に流罪されるなどしても、『いまだこりず候』と仰せになっているではありませんか。
 また、力を出す要諦は団結です。反目があったり、心を一つにすることができなければ、本当の建設はできません。
 さらに、大聖人が佐渡から広宣流布の指揮をとられたように、自分たちが日本の広宣流布を担うのだとの心意気で、広く島の外にも目を向けることです。
 ひとたび、広布の戦いとなれば、海を渡り、全国各地を走り回るんです。
 そうした勢いがまた、地域広布の活力になっていきます。
 佐渡は、かつては日本海の海運の拠点であり、文化や経済の交流の要衝であったではありませんか!
 戸田先生亡き今こそ、弟子が立ち上がる時です。佐渡の皆さん、私とともに戦いを起こしましょう!」
 大拍手がわき起こった。
 皆が決意を新たにした。
 皆が猛然と奮い立ったのである。
 会合が終わり、伸一たちが宿舎の旅館に着くと間もなく、十数人のメンバーが訪ねてきた。
 壮年と婦人は、関久男らの派遣幹部が担当し、男女青年部は、伸一が担当して懇談が行われた。
 伸一は、青年たちへの励ましの意味をこめ、一緒に卓球をすることにした。
 「ぼくも、君たちも、戸田先生の弟子だ。生涯、何があっても、ともに広宣流布の旗を掲げ抜いていこうじゃないか!
 その決意を確認し合ったら、あとは、卓球をして楽しい思い出をつくろうよ」
24  躍進(24)
 山本伸一と男子部員との卓球が始まると、女子部のメンバーが話し合った。
 「山本総務に佐渡までおいでいただいたのだから、『佐渡おけさ』をご覧になっていただきましょう」
 しかし、誰も浴衣の用意はしていなかったし、皆が踊りに自信があるわけではなかった。
 そこで、旅館に頼んで浴衣を借り、踊りの上手な従業員にも、加わってもらうことにした。
 卓球を終えた伸一に、女子部員が言った。
 「山本総務、ぜひ、私たちの『佐渡おけさ』をご覧になってください」
 「そうか、ありがとう。喜んで拝見させていただきます」
 旅館が用意したレコードプレーヤーから、「佐渡おけさ」が流れた。
 女子部員の踊りは、どこかぎごちなく、決してうまいとはいえなかったが、一生懸命であった。
 伸一には、何よりもその真心が嬉しかった。
 途中から、壮年、婦人と懇談していた同行の幹部たちも、伸一たちがいるフロアに下りてきた。
 踊りが終わると、彼は女子部員に言葉をかけた。
 「真心が染み渡る、黄金の舞でした。佐渡に来たかいがあった」
 その横で、途中から踊りを見た派遣幹部の一人が、伸一に言った。
 「旅館のショーですか。従業員が踊っていたんですかね。あまり上手くなかったな」
 その言葉には、女子部員の真心を踏みにじる、横柄な響きがあった。
 伸一は、憮然とした顔で答えた。
 「何を言っているんだ。
 旅館の方も踊ってくださったが、あとの三人は、ぼくの妹だよ」
 「妹さんが、佐渡にいらっしゃったんですか!」
 そのやりとりを聞いていた女子部員は、胸を詰まらせた。「妹」という言葉に、彼の優しさと期待を感じとったのである。
 伸一は、記念として、青年たちに、旅館の売店で何か買って贈ろうと思ったが、あいにく、既に売店は閉まっていた。彼は、フロアに置かれていたピアノの前に行き、青年部員に、笑顔で語りかけた。
 「何か買って差し上げたいと思いましたが、売店も閉まっているので、ピアノ演奏をプレゼントします」
 彼の指が鍵盤に躍った。
 ″大楠公″(青葉茂れる桜井の)の調べが流れた。
 「さあ、みんなで一緒に歌おう」
25  躍進(25)
 山本伸一が弾く、″大楠公″(作詞・落合直文)の歌に合わせて、青年たちが歌い始めた。
  青葉茂れる桜井の
  里のわたりの夕まぐれ
  …………
 この歌は、戸田城聖が生前、よく青年たちに歌わせた歌であった。
 ″大楠公″は、一三三六年(延元元年・建武三年)、朝敵・足利尊氏の上洛を防ぐために、湊川の戦いに赴く武将・楠木正成と、長子の正行の、父子の別れを歌った歌である。
 敗北が必至の湊川の戦いに臨む正成は、桜井の地でわが子・正行を呼び、故郷に引き返すように告げる。
 だが、正行も父とともに死ぬ覚悟であり、帰ろうとはしなかった。
 しかし、正成は、二人が討ち死にするならば、尊氏の天下となってしまうことを訴え、生きて、早く立派に成長し、国のために仕えよと諭して、故郷に帰すのである。
 戸田は、この歌に広宣流布の師弟の精神を託して、青年たちに歌わせ、歌い方についても、厳しく指導してきた。
 特に、正行が父とともに討ち死にせんとする決意を歌った、「父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人……」の個所は、一人ひとりに何度も歌わせ、こう言うのであった。
 「正行の心は、そんなものではない! 君のそんな目では、ましてや広宣流布の戦いはできんぞ。俺の目を見ろ!」
 殉難を覚悟で広宣流布に生き抜く後継の獅子を、鍛え育もうと、戸田は必死であったのである。
 また、正成が正行に言う「早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為」のところでは、よく、こう語っていた。
 「君たちも、一日も早く大成長し、立派な指導者になって、広布のため、社会のために、献身していくんだぞ。いいな!」
 佐渡の青年たちも、″大楠公″の歌への戸田の思いは、何度となく、幹部から聞かされてきた。
 それだけに、伸一の奏でる″大楠公″の曲に合わせて合唱していると、戸田の姿が目に浮かび、胸が熱くなるのであった。
 伸一は、歌い終わった青年たちを励ますように、大きな声で言った。
 「早く生い立て――これが戸田先生の私たちへの願いであり、期待であった。
 佐渡のみんなも、その心で立ち上がり、大成長していくんだ。私は、もう立ち上がったよ。君たちも早く立とうよ」
26  躍進(26)
 翌二十一日の朝、両津の港には、東京に帰る山本伸一たちを見送ろうと、五、六十人もの佐渡の同志が駆けつけてきた。
 昨日とは打って変わって、雨(あめ)はあがり、海も穏やかであった。空には、雲間(くもま)に夏の太陽が輝いていた。
 「朝早くから、わざわざありがとう!」
 車を降りた伸一は、こう言って、詰めかけたメンバーに会釈をした。
 伸一たちが乗船する「こがね丸」は、既に停泊し、出港の時を待っていた。
 「それでは、記念にみんなで写真を撮ろう」
 伸一の提案で、船をバックにして、皆でカメラに納まった。
 記念撮影が終わると、すぐに出港であった。
 「どうも、ありがとう。お元気で!」
 伸一は、こう言って、何人かの人びとと握手を交わし、船上の人となった。
 銅鑼の音が響き、船は岸から離れ始めた。
 埠頭ではメンバーが、力いっぱい手を振って送ってくれた。
 船が次第に遠のいていくと、跳び上がって手を振る人もいた。
 伸一もデッキに立って、手を振り続けた。
 彼は、傍らにいた、新潟の幹部に語った。
 「佐渡の男子部は、まずこの両津の埠頭に、百人の男子部員を結集してみてはどうだろうか。
 それができれば、佐渡の広宣流布の基盤がつくれるし、未来は盤石になるよ」
 船は、白い波を蹴立てて進んでいった。
 佐渡は、紺青の海の彼方に、腕を広げたように浮かんでいた。
 伸一は、山々の稜線を見ながら、この佐渡の地での、日蓮大聖人の、まさに獅子王のごとき戦いに思いをめぐらせた。
 ――日蓮が、佐渡の松ケ崎に着いたのは、文永八年(一二七一年)の十月二十八日のことである。
 十月下旬といっても、旧暦であり、既に季節は初冬であった。日本海は、この季節になると、海は荒れ、風も強い日が多い。
 日蓮も、越後国(現在の新潟県)の寺泊で、波が静まり、船が出るのを何日も待って、佐渡へ向かったのである。
 船に乗ったのは、日蓮と弟子の日興、そして、幕府の役人に船頭ら、七、八人であった。
 荒海を渡る船は、揺れに揺れたにちがいない。
 島に上陸した日蓮が、配所の塚原に到着したのは、十一月一日であった。
27  躍進(27)
 塚原は、佐渡島のほぼ中央に位置し、相模国(現在の神奈川県)の依智に本領をもつ、地頭・本間六郎左衛門の館の後ろにある荒れ野であった。
 そこは、死人を捨てる場所であり、弔いのために里人が建てた、四本柱の荒れ果てた堂があった。三昧堂である。
 ここが日蓮の配流の場所である。
 この三昧堂で、彼は日興とともに、極寒の佐渡の冬を過ごした。日蓮は齢五十であった。
 「種種御振舞御書」には、三昧堂の様子が次のように記されている。
 「上はいたま板間あはず四壁はあばらに雪ふりつも降積りて消ゆる事なし、かかる所にしきがは敷皮打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐ住居なり
 日蓮の生涯は、迫害に次ぐ迫害であったことはよく知られている。
 そのなかでも、竜の口の頸の座から佐渡流罪に至る迫害は、最も過酷な大法難であった。
 この法難を引き起こしたそもそもの要因は、文応元年(一二六〇年)七月十六日、「立正安国論」をもって、時の最高権力者である北条時頼を諫暁したことにあったといえる。
 日蓮は、大風、洪水、飢饉、疫病、地震と、相次ぐ災厄に苦しむ民衆を救わんがために、「立正安国論」の筆を執り、経文を通してその災厄の原因を明らかにしていった。
 すなわち、この苦悩の根本原因は、正法に背き、誤った教えを尊崇していることにあると指摘したのだ。
 さらに、幕府の手厚い庇護を受け、隆盛を誇っていた念仏への信仰を断って、正法に帰依せよと、時頼に迫ったのである。
 そして、それこそが、国の安泰と人びとの幸福を実現する道であると訴えた。
 また、誤った教えに執着し続けるならば、まだ起こっていない三災のうちの兵革の災い、すなわち、七難のうちの自界叛逆難、他国侵逼難が起こるであろうと警告した。
 兵革とは、戦争のことである。また、自界叛逆とは、同士討ち、内乱であり、他国侵逼とは他国に侵略されることである。
 この諫暁によって、幕府の権力と癒着し、庇護されて栄華を極めてきた諸宗、なかでも念仏の僧らにとって、日蓮は、自分たちを脅かす、危険な人物となったのである。
28  躍進(28)
 この「立正安国論」の提出から、日蓮への本格的な迫害が始まるのである。
 一カ月余りが過ぎた八月二十七日の夜、突如、念仏者が大挙して、日蓮がいた鎌倉・松葉ケ谷の草庵を襲撃したのである。
 これは、幕府の重臣の北条重時も同意した策謀であったといわれている。
 さらに、翌弘長元年(一二六一年)五月には、時の執権・北条長時によって、理不尽にも、伊豆の伊東に流罪される。
 伊豆流罪は一年九カ月に及んだ。
 赦免された日蓮は、鎌倉に戻るが、母の妙蓮(梅菊女)が病床にあると聞いて、故郷の安房(現在の千葉県)に向かった。
 この安房の小松原で、前々から日蓮を憎み、北条重時につながっていた、東条の郷の地頭・東条景信ら多数の武士たちによって、襲撃されるのだ。
 同行していた弟子たちも、日蓮を守って、必死に防戦した。しかし、刀を振りかざし、矢を射て、襲いかかる武士たちによって、鏡忍房が殺され、さらに二人の弟子が重傷を負ったのである。
 また、日蓮も、額を斬られ、手を折られている。
 その後も迫害は続いた。
 文永五年(一二六八年)の閏一月のことである。蒙古のフビライからの国書が、高麗を経由して鎌倉に届いた。
 その文面は、表面的には蒙古との交流の要求であったが、意図するところは、服属を強い、断れば武力をもって攻めるという内容であった。
 日蓮が「立正安国論」で予言した他国侵逼難が、現実のものになろうとしていたのである。幕府も、朝廷も、驚き慌てた。
 国書は、幕府から朝廷に回されたが、朝廷は、蒙古の威嚇的な文面は非礼であるとして、返事を渡さず、使者を帰したのだ。
 蒙古が攻めて来る――その恐れと不安に、国中が包まれた。
 幕府は、諸社、諸寺に蒙古調伏の祈祷を命じた。
 また、西国の御家人たちは、襲来に備え始めた。
 そして、高齢の北条政村にかわって、十八歳の時宗が執権に就いたのである。
 日蓮は、蒙古から国書が来たことを知ると、四月五日、幕府に強い影響力をもっていた法鑒房に「安国論御勘由来」を送った。
 そこでは、安国論の予言が的中したことを述べ、この難を解決することができるのは、自分一人であると宣言し、幕府の反省を迫ったのである。
 だが、法鑒房からは、なんの返答もなかった。
29  躍進(29)
 (欠落)
30  躍進(30)
 文永八年(一二七一年)に入ると、大旱魃が続き、人びとの窮乏と疲弊は、一層激しさを増していった。
 対応の術のない幕府は、極楽寺良観に雨乞いを命じたのである。
 それを聞いた日蓮は、良観にこう伝えるよう、良観の弟子たちに言付けたのである。
 「もしも、七日以内に雨を降らすことができたら、自分が良観の弟子となる。降らなければ、良観が法華経に帰依せよ」
 それを聞くと、良観は泣いて喜んだ。
 「なんとしても、七日のうちに雨を降らす!」
 六月十八日、良観は弟子百二十余人を集め、一心不乱に祈祷を始めた。頭から煙を出さんばかりの、必死の祈りであった。
 しかし、数日が過ぎても雨が降る気配はなかった。
 良観は、さらに弟子数百人を呼び集めて、大音声を響かせて祈祷を続けた。
 約束の七日が過ぎた。
 だが、露ほどの雨も降らなかった。いや、そればかりか、暴風まで吹き荒れたのである。
 日蓮は、良観に使いを出して言った。
 「約束したように、急いでこちらにいらっしゃい。雨を降らせる方法と、仏になる道をお教えしよう」
 その言葉は、憎悪によって膿みただれた良観の胸に、痛烈に染み渡った。それは、虚構の権威の仮面をはぎ取られ、醜態をさらした者がいだく、屈辱感、敗北感といってよかった。
 この伝言に、良観も、その弟子たちも、悔しさに涙を流し、怒りに震えたのである。
 良観は、期限を七日間延ばしてもらって、祈祷を続けた。
 しかし、もとより、誤った教えに則った邪心の祈りが通ずるわけがなかった。雨は一滴も降らず、旱魃、大風は、激しくなるばかりであった。
 まぎれもなく、良観の完敗である。
 法の正邪は、文証、理証だけでなく、現証においても、厳然と明らかにされたのである。
 だが、良観に、日蓮との約束を守ろうとする気は、全くなかった。
 むしろ、恨みと憎悪と嫉妬の炎を燃え上がらせ、日蓮を亡き者にせんと、鎌倉の諸大寺と謀議を重ねていったのである。
 そして、彼らは、なんと幕府の高官の夫人や、尼となった未亡人に讒言して幕府を動かし、日蓮を葬り去ろうと計画したのだ。陰険な謀略であった。
 良観らに心酔していた女性たちは、まんまとこの画策に乗ったのである。
31  躍進(31)
 諸宗の僧らが、高官の夫人などに伝えた讒言は、次のようなものであった。
 ――″日蓮は、日本国を滅ぼそうと呪う坊主である″″最明寺入道時頼殿、極楽寺入道重時殿の死に対して、無間地獄に堕ちたと言っている″などというものであった。
 ″なんとひどいことを! 日蓮を放置しておいてはなりませぬ″
 女性たちは激昂し、「日蓮の頸を斬れ!」「遠国に流罪せよ!」と、北条一門の有力者たちに迫った。この訴えに幕府は動いた。
 九月十日、日蓮は評定所に召喚され、侍所の所司として軍事、警察、政務を担当していた平頼綱らの取り調べを受けたのである。
 日蓮は微動だにせず、頼綱の尋問に答えた。
 「私が、最明寺入道殿と極楽寺殿が地獄に堕ちたと言ったというのは、訴人のつくりごとです。
 また、最明寺、極楽寺等への帰依をやめ、邪法を捨てよ、というのは、お二人がご存命の時から、私が訴え続けてきたことです。
 なぜ、私がそう訴えているのか――この国の前途を憂えているからです。
 世の安穏を願うならば、諸宗の法師たちと私を公場対決させるべきです。その法論を聞けば、法の正邪は明らかになります」
 さらに、日蓮は、公場対決もさせず、理不尽に自分を罪に陥れるならば、法理に照らして、百日、一年、三年、七年以内に、自界叛逆難、さらに他国侵逼難が起こることを宣言した。
 そして、「あなたたちは、その時になって私を罪に陥れたことを後悔するにちがいありません」と、言い放ったのである。
 取り調べは、日蓮による折伏の場となった。
 頼綱は怒り狂った。
 自分を恐れもせずに諫める日蓮に、彼の胸は憤怒と憎悪で張り裂けんばかりであった。
 日蓮は、釈放され、松葉ケ谷の草庵に帰ると、一日おいた九月十二日、頼綱に真心をこめ、諫暁の書を認めた。そこには、国の安泰を願う日蓮の真摯な思いが滲み出ていた。
 だが、この同じ十二日、あの大事件が勃発するのである。
 夕刻、頼綱は、武装した数百人の兵士を率いて、松葉ケ谷の草庵に向かった。
 合戦ではない。日蓮を捕らえるためである。
 それは武器一つ持たぬ、一人の僧を捕らえるにしては、あまりにもものものしい光景であった。そこには頼綱の日蓮への恐れが表れていた。
32  躍進(32)
 兵士たちは、異様なまでに緊張していた。
 平頼綱の指揮のもと、草庵に踏み込むと、ものに憑かれたように、目をいからせ、怒声をあげて、狼藉の限りをつくした。
 そして、日蓮を捕らえると、頼綱の第一の郎従であった少輔房は、日蓮の懐にあった法華経第五の巻を奪い取り、それで、強かに頭を打った。
 ビシッ! ビシッ! ビシッ!
 この第五の巻には、末法において法華経を弘めるならば、刀で切られ、杖で打たれる、刀杖の難に遭うと説かれた勧持品が収められているのである。
 日蓮は、その第五の巻をもって杖の難を受けたのだ。法華経の身読である。
 兵士たちのなかには、狂ったように、経巻を広げて体にまとう者もいれば、むきになって踏みつける者もいた。
 魔酒に酔ったような、常軌を逸した光景が繰り広げられていたのである。
 その時、日蓮の大音声が響いた。
 「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら殿原但今日本国の柱をたをす
 大師子吼であった。その声は辺りを圧し、一瞬、草庵は静まり返った。
 やがて、兵士たちは我に返ると、日蓮を評定所に連行していった。
 ここで頼綱から、「佐渡流罪」が言い渡されたのである。
 日蓮の身柄は、武蔵国の国司である北条宣時の屋敷に留め置かれた。
 ところが、夜半、日蓮は、兵士たちに囲まれ、馬に乗せられた。
 佐渡に向かうならば、北条宣時の家人である依智の本間六郎左衛門の館に行くことになる。
 しかし、幕府は、表向きは佐渡流罪としながら、夜の闇に紛れて、竜の口の刑場で斬首することにしたのだ。
 日蓮は、それを、既に見抜いていた。だが、もとより、法華経のために命を失うことこそが、彼の念願であった。
 馬上の日蓮は、悠然としていた。
 若宮小路の八幡宮に来ると、彼は馬を止めた。そして、馬から降り、八幡宮に向かって叫んだ。
 「いかに八幡大菩薩はまことの神か!」
 日蓮は、法華経の行者を守護すると誓った諸天善神が、日本第一の法華経の行者である自分を守護しないならば、仏説を虚妄にすることになり、必ず釈尊の責めを被るであろうと叱咤したのである。
33  躍進(33)
 八幡大菩薩をも叱咤する日蓮の大確信、大境界を目の当たりにした兵士たちの驚きは、いかばかりであったことか。
 日蓮は由比ケ浜に出ると、供をしてきた童子の熊王丸を、近くに住む四条金吾のもとに遣わした。
 四条金吾も、日蓮が捕らえられたことは既に知っていたにちがいない。師匠の一大事に、苦慮して対応を考えていたのであろう。
 知らせを受けると、兄弟四人が直ちに飛び出してきた。裸足のままである。
 日蓮は、法華経のために命を奉ることができる喜びを、諄々と語った。処刑の瞬間まで、弟子のために法を説き、指導し続けようとする師であった。
 殉難を恐れぬ日蓮の言葉に、四条金吾も、勇気を奮い起こした。自分も、何も恐れまいと思った。
 四条金吾は、日蓮の乗った馬の轡にすがるようにして、ともに歩み始めた。
 もし、この師が死ぬならば、自分も、ともに殉ずる覚悟で竜の口までついて行ったのである。
 しばらく行くと、兵士たちが日蓮を取り囲み、騒然とし始めた。
 ここで処刑しようというのである。
 「いよいよ、お別れの時でございます」
 豪毅な四条金吾も、こう言うと声をあげて泣いた。
 すると、日蓮は毅然として言った。
 「なんという不覚の殿方か! こんな喜びはないではないか。笑いなさい」
 その叱咤は、限りなく力強く、それでいて、優しく包み込むような慈悲の響きがあった。
 ほどなく処刑の準備が整い、日蓮は、頸の座にすえられた。しかし、悠然と端座した姿には、威風が漂っていた。
 兵士の一人が、太刀を抜いた。頸を斬らんとした、まさにその時である。
 江の島の方向から、漆黒の闇のなかを、月のように光る物が現れた。それは鞠のようでもあった。そして、東南から北西の方角に光り渡った。
 兵士たちの顔が光に映し出された。どの顔も、恐怖に引きつっていた。
 太刀を手にしていた兵士は、目がくらみ、その場で倒れ伏した。一町(約百九メートル)ほども逃げ去った者もいれば、馬から下りてかしこまる者もいた。また、馬の上でうずくまっている者もいた。
 皆、怖じけづき、もはや頸を斬る気など、全く失せてしまった。
 凛とした日蓮の声が、未明の浜辺に響いた。
 「なぜ遠のくか。近く打ちよれや、打ちよれや」
34  躍進(34)
 日蓮が叫んでも、怯んだ兵士たちは、なかなか近づこうとはしなかった。
 再び彼の声が轟いた。
 「頸を斬るならば、早く斬れ! 夜が明けてしまえば、見苦しかろうぞ!」
 だが、日蓮を斬ろうとする者は、誰もいなかった。
 「光り物」の実体が、なんであったかはともかく、幕府の強大な力をもってしても、日蓮の命を奪うことはできなかったのである。
 厳然たる諸天の加護であった。
 まさに法華経に説かれた「刀杖不加」(刀杖も加えず)、「刀尋段段壊」(刀尋いで段段に壊れなん)の文の通りであった。
 それは、大宇宙に遍満する魔性の生命を打ち破り、本仏の生命が顕在化した証であった。
 この時、日蓮は、凡夫の生命から、久遠元初の自受用報身如来、すなわち末法の本仏の生命を顕したのである。発迹顕本の瞬間であった。
 その後、日蓮の身柄は、依智の本間六郎左衛門の館に預けられた。
 幕府では、日蓮の処置について評議が行われたが、なかなか意見はまとまらなかった。
 もともと、社会的に、罪に該当することは何もしていないのだ。ただ、諸宗の正邪を正せと主張し、悪を責めたにすぎない。
 本来、無罪放免となって当然であり、事実、そうした意見もあった。
 だが、この間に、鎌倉では、放火、殺人が頻発した。そして、それは日蓮の弟子たちのしわざであるとの噂が流されたのだ。
 しかし、これも念仏者たちの仕組んだ罠であった。
 このため、幕府は、日蓮の一門の二百六十余人を要注意人物として名簿に記載したのである。
 また、このほかにも、投獄されたり、所領を取り上げられたり、領地から追い出されたりする弟子が後を絶たなかった。
 この際、一気に、日蓮の一門を叩きつぶそうとしたのである。
 幕府の評議が決したのは十月上旬であり、結局、日蓮は佐渡に配流となったのである。
 日蓮の佐渡での暮らしが始まった。
 冬の塚原の風は激しく、雪は深く、衣は薄く、食は乏しかった。寒さと飢えにさいなまれながらの毎日であった。
 島民も、流人の日蓮に接する態度は荒々しかった。
 だが、日蓮は、法華経を身読できた法悦のなかで、正法流布への炎をますます燃え上がらせ、読経・唱題に余念がなかった。
35  躍進(35)
 佐渡にあっても、念仏者の力は強く、念仏を捨てよと叫び抜く日蓮への、彼らの憎しみは甚だしかった。
 念仏を信ずる者のなかでも、ことのほか強盛な信者がいた。阿仏房である。
 阿仏房は高齢であったが、日蓮が佐渡に流されてきたことを耳にすると、″わが手で、かの悪僧を退治せん″と、塚原に乗り込んできたのであった。
 彼は日蓮に迫った。
 「なにゆえ、念仏を誹謗するか!」
 日蓮は、阿仏房を包み込むように、念仏の誤りを経文に照らして、理路整然と語っていった。そこには、清廉さと威厳と、人格の輝きがあった。
 いつのまにか、日蓮を討たんとする心は消え、目から鱗の落ちる思いで、日蓮の法門を聴いている自分に、阿仏房は気づいた。
 彼は、その場で念仏を捨てて、日蓮に帰依したのである。
 阿仏房は、妻の千日尼にも念仏を捨てさせ、以来、二人は、信心の誠を尽くして、日蓮を外護していくことになる。
 監視の目をくぐり抜け、食物をはじめ、紙など、必要な品々の供養も届け続けた。その紙を使って、日蓮は、この佐渡の地で、次々と重要な法門を書き残していったのである。
 佐渡の念仏、禅、律の僧らは、日蓮への憎悪を燃やし、いかに対処すべきか詮議を重ねていた。
 当初は、殺害計画も考えたが、守護代の本間六郎左衛門が「法門で責めるべきだ」と、厳重に申し渡したことから、法論を行うことにしたのである。
 文永九年(一二七二年)の一月十六日、日蓮を屈服させようと、佐渡はもとより、越後、越中、出羽、奥州、信濃等の諸国から、諸宗の僧らが、続々と三昧堂に集って来た。その数は数百人に及んだ。
 塚原には、日蓮を罵る声が轟き、異様な興奮が辺りを包んでいた。
 日蓮は、騒ぎ、わめく群衆に言った。
 「静かにしなさい。法論のために、ここに来られたのではないか!」
 守護代の六郎左衛門もたまりかね、執拗に罵倒し、騒ぎ立てる念仏者の首根っこを押さえて、追い返すようなありさまであった。
 ようやく静まり、問答が始まった。
 日蓮は、諸宗の僧らの言い分を聞いて、それを一つ一つ確認したうえで、質問を発し、鋭く誤りを突き詰めていった。
 皆、一問か、二問で答えに窮し、経文を間違えたり、自語相違したことを口走る体たらくであった。
36  躍進(36)
 日蓮の破折は、利剣が瓜を切るような鮮やかさであった。鎌倉の大学匠でもかなわなかった日蓮を、浅学の僧らが、屈服させられるわけがなかった。
 皆、完膚なきまでに論破され、罵りの言葉を浴びせる者もいれば、押し黙ってしまう者もいた。
 また、「念仏は間違いであった」と言う者や、その場で袈裟や数珠を捨てて、念仏は唱えぬと、誓状を書く者もいたのであった。
 これが有名な「塚原問答」である。
 この問答を契機に、学僧の最蓮房をはじめ、多くの人びとが日蓮に帰依することになるのである。
 それから間もない、二月十一日、幕府では「二月騒動」が勃発する。
 これは「北条時輔の乱」ともいわれ、京都におかれた六波羅探題の北条時輔が謀反を企て、北条教時と通じて、執権の時宗を倒そうとした事件である。
 それを察知した時宗は、十一日、鎌倉名越の時章・教時兄弟を討たせ、十五日には、京都の時輔の館を攻めさせたのである。
 これは北条一族の争いであり、同士討ちである。日蓮の予言通り、自界叛逆難が起こったのだ。
 相次ぐ予言の的中に、幕府の高官たちも驚き恐れてか、捕らえていた弟子を釈放した。
 四月には、日蓮の身柄も、塚原から一谷にある一谷入道邸に移された。
 しかし、まだ、いつ殺されるかわからないという状況は続いており、その過酷さに変わりはなかった。
 この佐渡流罪中、日蓮は、多くの重要な御書を残している。
 本仏の立場から著した人本尊開顕の書「開目抄」、法本尊開顕の書「観心本尊抄」をはじめ、「如説修行抄」「顕仏未来記」「諸法実相抄」など、佐渡期のものとされる御書は、『日蓮大聖人御書全集』(創価学会版)に収められているだけでも三十九編に上っている。
 日蓮は、佐渡に流されてからも、弟子たちのことが頭から離れなかった。
 竜の口の法難以来、弾圧の過酷さ、恐ろしさから、退転したり、法門への確信が揺らぎ始めた弟子たちが、少なくなかったからである。
 「法華経の行者は『現世安穏』と言われているが、なぜ難が打ち続くのだ!」
 「流罪されたのだから、諸天の加護はなかったということではないか!」
 「迫害している者に、現罰が出ないではないか!」
 臆病と不信によって、信心の心が食い破られていったのである。
37  躍進(37)
 臆病になり、闘争の牙を失ってしまった弟子のなかには、日蓮に批判の矛先を向ける者もいた。
 「日蓮御房は師匠ではあられるが、その弘教はあまりにも剛直で妥協がない。我等は柔らかに法を弘めよう」と言うのである。
 もっともらしい言い方をしてはいるが、その本質は臆病にある。
 しかし、その臆病な心と戦おうとはせず、弘教の方法論に問題をすり替えて師匠を批判し、弟子としての戦いの放棄を正当化しようというのだ。
 堕落し、退転しゆく者が必ず用いる手法である。
 佐渡で認めた御書には、弟子の惰弱さを打ち破り、まことの信心を教えんとする、日蓮の厳父のごとき気迫と慈愛が脈打っている。
 曰く「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」と。
 天も捨てよ、難にいくら遭おうが問題ではない、ただ身命をなげうって広宣流布に邁進するのみであるとの、日蓮の決意を記した、「開目抄」の一節である。
 それは、諸天の加護や安穏を願って、一喜一憂していた弟子たちの信仰観を砕き、真実の「信心の眼」と「境涯」を開かせんとする魂 の叫びであった。
 そして、「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」と警鐘を発する。
 また曰く「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と。広宣流布の大願に生き抜くなかにこそ、生死を超えた、至高の人生の目的があることを宣言したのである。
 さらに、「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」と。
 法難の時こそ″師子王″となって戦え、そこに成仏があるとの指導である。
 ここには、「難即悟達」の原理が示されている。
 日蓮は、法難こそ、一生成仏のための不可欠な条件であることを教えている。それゆえに、難を「喜び」「功徳」ととらえ、難を呼び起こせと説いているのである。
 そして、自分を迫害した者たちに対しても、彼らがいなければ「法華経の行者」にはなれなかったと、喜びをもって述べているのである。
 これこそ、最大の「マイナス」を最大の「プラス」へと転じ、最高の価値を創造しゆく、大逆転の発想であり、人間の生き方を根本から変えゆく、創造の哲学といえよう。
38  躍進(38)
 そもそも法難が起こるのは、経文に照らして、「正義の証明」であり、「難こそ誉れ」というのが、日蓮仏法のとらえ方である。
 それは、軋轢を恐れず、普遍の法に則して、信念を貫き通すことに、人間の価値を見る思想である。
 そこには、「長い物には巻かれろ」といった、状況に追随し、正義も、自己の主体性も放棄する日本的な考え方とは対極にある、個の自立の人間哲学がある。
 ともあれ、日蓮は、紙も乏しい最悪な状況のなかで最重要の法門を認め、弟子に永劫の信心の楔を打ち込んでいったのである。
 さて、念仏の僧らは、塚原問答で完敗したあとも、日蓮を亡き者にせんとして謀略をめぐらし、隠然たる権力をもっていた北条宣時に処分を訴えた。
 宣時は、私製の偽の御教書を三たびも出し、日蓮の身辺の厳しい取り締まりを命じたのである。
 この危険極まりない、遠流の地である佐渡にも、弟子たちは日蓮を慕い、海を渡って訪ねて来た。
 また、佐渡の地にあっても、法華経に帰依する者が、増え続けていったのである。
 日蓮は、この国を救うために、さらに国主を諫暁しなければならないと考えていた。
 また、諸状況から、その時機が迫っていることを、ひしひしと感じていた。
 そのために、彼は、断じて鎌倉に帰らなくてはならないと思った。
 日蓮の赦免状が佐渡に届いたのは、文永十一年(一二七四年)の三月八日のことであった。
 幕府は蒙古の襲来に怯え、社会の混乱も激しさを増していた。
 そのなかで、太陽が二つ見えたなど、不可思議な現象が相次いで起こり、人びとの不安は増大するばかりであった。
 執権の時宗は、もはや日蓮の予言の的中を、見過ごすことはできなくなった。
 周囲の讒言に動かされ、佐渡に流罪したものの、もともと、罪の根拠は何一つないのである。
 時宗には、日蓮を流罪にしたままでいれば、さらに大きな災いが起こるかもしれないという、恐れがあったのであろう。
 彼は、日蓮の赦免を決断したのだ。
 佐渡の念仏者たちは、赦免の話を耳にすると、絶対に鎌倉に帰すまいと、さまざまな画策を続けた。殺害の計画も立てた。しかし、すべては虚しく終わった。
 三月の十五日、順風のなか、日蓮は、佐渡真浦の津を後にしたのである。
39  躍進(39)
 山本伸一は、佐渡を訪問した折、新潟に向かう船のなかで、自分もまた、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」との決意で、広布に生き抜こうと誓ったことが忘れられなかった。
 そして、七年前の第三代会長就任の日以来、この御文を身で拝する生涯を送ろうと、固く心に決めてきたのである。
 彼は今、新潟の記念撮影の会場となった体育館にあって、佐渡のメンバーに、力を込めて語った。
 「御書に明らかなように、私たちにも、必ず大難があるでしょう。むしろ、今までが順調すぎました。
 難があるのは、創価学会が蓮祖の仰せのままに、広宣流布を推進している、唯一の団体だからです。
 だが、皆さんは、現代の阿仏房、千日尼となって、生涯、純粋な信心で戦い抜き、佐渡の広宣流布を成し遂げていってください。
 大聖人は、皆さんの活躍を、じっと、御覧になっていますよ。
 また、お会いしましょう」
 伸一は、皆に別れを告げると、車で宿舎の旅館に向かった。
 途中、車は海沿いの道を走った。
 日本海の美しい夕焼けが広がっていた。
 空も海も、燃えるような紅である。
 だが、磯を打つ波は激しく、金の飛沫を高く上げながら、砕け散っていた。
 伸一は、佐渡の同志たちに、必ず大難があると語ったが、このところ、その予感が、日ごとに強くなっていくのである。
 特に、公明党が衆議院に進出してからは、それが、ことのほか、胸に迫ってきてならなかった。
 大聖人の御生涯を見ると、「立正安国論」をもって国主諫暁されて以来、怒濤のごとく大難が競い起こっている。権力者を諫め、正そうとしたがゆえである。
 創価学会も公明党を誕生させ、その党が衆議院に進出し、いよいよ仏法の慈悲を根底にした人間主義の政治の実現に、本格的に着手したのだ。
 これは、政治権力の悪を断とうとするものであり、諫暁に通じよう。ゆえに、それを排除せんとする画策がなされるのも、また、当然といえる。
 しかし、伸一は、すべてを覚悟で、進もうと思った。仏法を社会に開きゆくために――。
 彼方を、一隻の船が、波に揉まれながら、夕日に向かって突き進んでいた。

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