Nichiren・Ikeda
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53 常勝(53)
北爆から十年、フランスと戦った第一次インドシナ戦争の勃発からは実に足かけ三十年――戦火の絶えなかったベトナムに、遂に平和が訪れたのだ。
翌一九七六年七月、ベトナムは悲願の統一を成し遂げ、ベトナム社会主義共和国が誕生する。
だが、戦いの混乱のなかで、日本人メンバーの多くは帰国を余儀なくされ、現地のメンバーも散り散りになってしまった。
サイゴン支部の支部長、婦人部長の深瀬夫妻は、危険を覚悟で、可能な限り、ベトナムにとどまろうと決意していた。
″もし、同志が来たら励まさなければ″と考えてのことである。
戦闘が始まると、三人の子どもとともに、地下室に身を潜めた。
周囲の家が焼かれることも珍しくなかった。自分の家の門柱にも、弾痕が刻まれた。家の前に、手がちぎれた、血まみれの遺体が転がっていたこともあった。
それでも、サイゴンから動こうとはしなかった。
しかし、日本大使館から退避勧告があり、七三年一月、やむなく深瀬一家は、ベトナムを離れることになったのである。
山本伸一は、和平が成立したあとのベトナムの行方にも、心を砕き続けた。
ベトナム難民が急増した時には、青年部によるベトナム難民の救援募金を支援した。
また、九〇年には、学会は、「戦争と平和――ベトナム戦争の軌跡展」を全国各地で開催し、平和へのアピールを行った。
さらに、九四年夏には、ハノイ、ホーチミン(旧サイゴン)両都市で「世界の少年少女絵画展」を開催。
これには、パリ和平会議に南ベトナム共和臨時革命政府の代表で参加していた、女性革命闘士のグエン・ティ・ビン副大統領も鑑賞に訪れたのである。
米国防総省は、この戦争で米軍の戦死者・事故死者は約六万人、戦費は約千三百九十億ドルと発表した。
また、ベトナムの死者は北ベトナム・解放戦線軍は約百万人、南ベトナム政府軍が約二十四万人、さらに民間人の犠牲者も約五十万人に上ったといわれる。
いったい、なんのための戦争であったのか。
いかに大義名分をつけようが、いかに「正義」を装っても、戦争は、人間の魔性の心がもたらした、最大の蛮行であり、最大の愚行以外の何ものでもない。
創価学会は、すべての戦争に反対する。この世から一切の戦争をなくすために、我らは戦い続ける。