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日蓮大聖人・池田大作

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第11巻 「常勝」 常勝

小説「新・人間革命」

前後
1  常勝(1)
 第二次世界大戦中、ナチスと戦い抜いた、フランスの行動する女性哲学者シモーヌ・ベーユは言った。
 「言葉は序の口にすぎない。行動こそ、人びとの 魂を形成するさらに強力な手段である」
 まさに、行動こそが新しき波を起こす。行動こそが人を触発する。そして、行動こそが、民衆の勝利の歴史を織り成すのである。
 一九六六年(昭和四十一年)三月、北・南米訪問を終えた山本伸一は、班長、班担当員など、第一線で活動に励むメンバーとの記念撮影、激励のために、疾風のごとく、日本各地を回り始めた。
 四月だけでも、大阪、和歌山、静岡、香川、愛媛などを回り、五月三日には、東京・日大講堂で行われた本部総会に出席した。
 この席上、彼は、学会が広宣流布の指標としてきた「七つの鐘」について再確認し、「第七の鐘」を目標に、幸福に満ちあふれながら、悠々と前進していくよう呼びかけたのである。
 「七つの鐘」は、学会が創立以来、七年ごとに大きな節を刻んできたことから名づけられた、広布の歩みであり、未来展望である。
 これは、戸田城聖が逝去した直後の、五八年(同三十三年)五月三日の本部総会で、後継の弟子として立ち上がった伸一が、新しき前進の指標として発表したものであった。
 牧口常三郎の『創価教育学体系』が発刊され、創立の日となった、一九三〇年(同五年)の十一月十八日から、創価教育学会の発会式が行われた三七年(同十二年)秋までの七年間を「第一の鐘」とし、以後、七年ごとに、第二、第三……としてきたのである。
 第三の七年に入る四四年(同十九年)十一月十八日には、初代会長の牧口が獄死している。
 その七年後の五一年(同二十六年)には、戸田が第二代会長に就任。戦後の広宣流布の本格的な歩みが始まるのである。
 さらに、七年を経た五八年(同三十三年)四月二日には、会員七十五万世帯の達成など、生涯の願業を成就した戸田が、世を去っている。
 その悲しみのなかで、伸一によって、広布の新しき出発を告げる「第五の鐘」が、高らかに打ち鳴らされたのである。
 そして、二年後の六〇年(同三十五年)五月三日、伸一は、第三代会長に就任すると、戸田の七回忌までの目標として、会員三百万世帯の達成、大客殿の建立寄進などを掲げて、怒濤の大前進を開始したのだ。
2  常勝(2)
 学会は、早くも一九六二年(昭和三十七年)の十一月には、会員三百万世帯を達成し、さらに大客殿の完成の喜びのなかに、六四年(同三十九年)四月、戸田城聖の七回忌を迎えた。
 それは、翌六五年(同四十年)から始まる「第六の鐘」の黎明となった。
 六六年(同四十一年)の五月三日の、この本部総会で、山本伸一は、今や七二年(同四十七年)をめざして、「第六の鐘」が始まっていることを述べた。
 そして、この間の目標としては、既に発表したように、創価文化会館、また、事実上の本門の戒壇となる正本堂の建設をめざしていることを確認した。
 さらに、「七つの鐘」が鳴り終わる七九年(同五十四年)をめざして、広宣流布の大飛躍を期そうと訴えたのである。
 次いで、「第七の鐘」が終了したあとの指標として、戸田の三十三回忌にあたる一九九〇年をめざし、広宣流布の総仕上げの時としていきたいと語り、こう訴えたのである。
 「しかし、もしも、この広宣流布の構想通りにいかない場合は、それは、御仏智です。
 その時には、広宣流布の成就は、現在の男子部、女子部、学生部、そして、最愛の若き弟子である、高等部、中等部、少年部の皆さんに託す以外にない。
 どうか、使命深き皆さんは、戸田先生の三十三回忌を、また、西暦二〇〇〇年を目標に前進し、さらに、二十一世紀の新しい『七つの鐘』を、決然と打ち鳴らしていただきたいのであります!」
 この本部総会には、高等部の代表も出席していた。
 伸一は、祈るような思いで、そのメンバーに向かって訴えたのである。
 講演を終えて、伸一は思った。
 ″二〇〇〇年には、今の高等部員のほとんどが五十代に入る。また、中等部、少年部も、大多数が四十代である。
 あらゆる面で、最も力を発揮できる年代となる。
 そのメンバーが、私の精神を受け継ぎ、本気になって立ち上がってくれるならば、広宣流布は、必ず、必ず、成就できる!
 もし、その人たちが、いい加減であったり、真剣勝負のできない、ひ弱な格好だけのリーダーになってしまうならば、それは私に福運がないからだ。
 しかし、戸田先生に仕えることができた私は、世界一の幸福者である。私に福運がないわけがない。
 みんな、必ず、やってくれるだろう。立ち上がってくれるだろう。
 あとは頼むぞ、鳳雛たちよ!″
3  常勝(3)
 本部総会を終えた山本伸一は、この五月も、大分、熊本、福岡、山形、宮城、神奈川などへ、力の限り奔走し、六月には、大阪、奈良、岡山、三重、静岡に飛んだ。
 七月の下旬から八月の上旬にかけては、夏季講習会の陣頭指揮をとり、その間に岩手を訪問している。
 また、八月下旬には、ハワイの寺院の開院式のためにホノルル入りし、とんぼ返りで帰国すると、九月には二日に総本山に行き、三日は兵庫、四日は京都、さらに、九日には北海道の帯広、十日には札幌、十一日には函館での記念撮影に臨んだ。
 こうした過密なスケジュールのなかで、伸一は常に未来のことを考え、そのための布石を打ち続けていたのである。
 その一つが、御書の英語訳の推進であった。
 一閻浮提、即ち全世界の広宣流布は、大聖人の御遺命であり、日興上人は「本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し」と仰せである。
 本朝の聖語、つまり大聖人の御書も、広宣流布の時にはまた、仮名交じり文を外国語に翻訳して、広く世界に伝えるべきであるとの御指南である。
 伸一は、世界広布のために、御書を各国語に翻訳するにあたって、英語訳の大切さを痛感していた。
 それは英語を話す人が多いだけでなく、御書の英訳から、ほかの外国語に重訳されていく可能性が高いからであった。
 そこで伸一は、英語の教学誌である『セイキョウ・タイムズ』の編集スタッフと相談し、海外メンバーの夏季講習会用の研鑽御書に決まっていた「経王殿御返事」(1124㌻)を、英文で掲載することにしたのである。
 この英訳が同誌に掲載されたのは、一九六六年(昭和四十一年)の七月一日号であった。
 その後も翻訳作業は、御書講義などでよく研鑽される御抄を中心に進められていったが、担当したスタッフにとっては、苦悩の連続であった。
 大聖人の教えを正確に翻訳し、伝えていくには、何よりも、御書の原文を、正しく解釈することが重要になる。
 しかし、古文であり、仏法の精髄を説き明かした御書を、誤りなく理解し、解釈することは、決して容易なことではない。
 教学部の関係者に聞いたり、山本会長の講義や仏教辞典などにあたりながら、まず解釈に幾晩も費やさなければならなかった。
4  常勝(4)
 仏法用語など、英語にはない概念の言葉や、文化の違いをどう説明するかも、難しい問題であった。
 スタッフは、時に黙々と辞書と格闘し、時に互いに意見をぶつけ合い、激しく議論することもあった。
 たとえば、有名な「諸法実相抄」に、「鳥と虫とはけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし」という御文がある。
 日本では、虫の音についても、「なく」という感覚でとらえる伝統があるが、欧米では、そうとらえる人は少ない。これは、文化的な風土の違いによるものといえよう。
 御書を翻訳し、正しく文意を伝えていくには、そうした文化的な背景など、複雑な要素を、一つ一つ考慮し、作業を進めなければならなかった。
 翻訳は、華やかなスポットライトを浴びることもない、地味で目立たぬ労作業である。しかし、それは、世界の広宣流布を推進するうえで、いかに大きな貢献であったか。
 偉業というものは、称賛も喝采もないなかで、黙々と静かに、成し遂げられていくものといえる。
 翻訳作業は着実に進み、十三年後の一九七九年(昭和五十四年)には、「観心本尊抄」「佐渡御書」など、三十六編の英語訳を収め、『英文御書解説』第一巻として発刊されることになる。
 以後、二年に一巻のペースで刊行し、その第七巻までを『英訳御書』として一冊にまとめ、翻訳の見直しを行ったうえで、九九年(平成十一年)に発刊。
 収録された御書は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』に収められた四百数十編のうちの百七十二編であるが、分量としては、実質半分にあたっている。
 また、六六年(昭和四十一年)の七月三日に、「日蓮大聖人御書十大部講義」の第一巻として、山本伸一の『立正安国論講義』が発刊された。
 彼は、恒久平和の建設の原理を伝えゆくために、命を削る思いで、この講義の筆を執ってきたのである。
 さらに、八月三十日には、伸一が出席して第一回の御書講義録編纂委員会が開かれ、御書全編の講義録の出版に向かって、大回転が始まったのである。
 大聖人の御指南が、いかにすばらしくとも、現代人が御書を理解できないのであれば、価値を創造することはできない。
 だからこそ、偉大なる仏法の哲理を、人びとに、民衆に知らしめるために、彼は必死であったのだ。
5  常勝(5)
 御書講義録編纂委員会では、早速、御書の研究並びに講義録の執筆を開始していった。
 そして、一九六八年(昭和四十三年)の八月には、『日蓮大聖人御書講義』の第一回の出版として、「如説修行抄」「顕仏未来記」「当体義抄」を収めた巻が発刊されている。
 その後も、着実に巻を重ね、九九年(平成十一年)六月には、全三十九巻の計画のうち三十五巻が発刊されるに至っている。
 英訳御書にせよ、御書講義録にせよ、日蓮仏法の正しい解釈に基づいて、これほど多くの御抄を収めたものは未曾有であり、二十世紀の一つの金字塔といってよい。
 六六年(昭和四十一年)九月、山本伸一の一家は、大田区の小林町(当時)から新宿区信濃町に転居し、十二日、入仏式を行った。
 場所は、信濃町駅から五分ほどのところにあり、学会本部にも、聖教新聞社にも近かった。
 築数十年たっており、前の坂道を車が通ると揺れる古い家であった。
 伸一と峯子が、五二年(同二十七年)の五月三日に結婚し、最初に住んだのは、目黒区三田の借家であった。
 この家はプロ野球の選手であった春木征一郎の家で、彼が仕事の関係で大阪に移ったことから、そこを借りたのである。
 ある時、伸一の生活を心配して、戸田城聖がアドバイスしてくれた。
 「君は、広宣流布のために日本中を駆け回らなくてはならない。将来は世界中に行くことになるだろう。
 留守中のことが心配だから、峯子の実家の春木家に近いところに、居を構えた方がいい」
 その年の秋には、大田区山王のアパートに移った。
 しかし、長男の正弘、次男の久弘が生まれ、子どもが二人になったために、アパートを出なければならなかった。そういう契約であったのである。
 そこで、より春木家に近い小林町の家をローンで購入した。価格は、当時の金で百万円である。転居は五五年(同三十年)の六月十九日であった。
 しかし、それは、古く、簡素な家であった。夏は蚊が多く、冬は寒く、すきま風に悩まされた。
 当初は、門も塀もなく、部屋は、四畳半の仏間と、六畳二間からのスタートとなった。この家に、たくさんの同志が、指導を求めてやって来た。
 あまり狭いので、伸一の部屋と子ども部屋として、二間を建て増し、さらに安全面も考慮し、簡単なブロックの塀と門を作った。
6  常勝(6)
 山本伸一は、通勤には、小林町の自宅からは、国電(現在はJR)蒲田駅まで自転車で行き、そこから電車を使った。
 帰りが遅くなる時には、駐輪場が閉まってしまうので、妻の峯子に連絡し、先に自転車を出して、待っていてもらった。
 自転車を押して、星を仰ぎながら、帰る夜道は、夫婦の希望の語らいの場所であった。
 この家に住んでから、三男の弘高も生まれた。
 子どもたちが成長するにつれて、襖は破れ、部屋の壁も汚れて、家の中は、さながら戦場のようになっていった。
 子どもたちは、寝ている伸一の周りを、朝早くから駆け回った。休日でも、おちおち休んでいることもできなかった。
 しかし、この小林町の家には、伸一にとって、たくさんの黄金の思い出が詰まっていた。
 一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日、伸一の三代会長の就任式となる本部総会に出発したのも、この家からであった。
 義母が呼んで来たタクシーで、義父の春木洋次、峯子と一緒に、両国の日大講堂に向かったのだ。
 その日の夜、食卓に祝いの赤飯はなかった。
 その時、峯子が言った、今日は山本家の葬式です、との言葉は、伸一の胸に深く焼きついていた。
 彼女は、夫を、学会に、広宣流布に捧げたものと、心に決めていたのである。
 伸一は、子どものことも、峯子に頼んだ。
 「子どもたちは、一生涯、学会と共に生き、学会と運命を共にしていくように育ててほしい」
 「全部、わかっております。それが最も正しい人生です」
 夫婦二人の、広宣流布の大海原への船出であった。
 以来、小林町の家は、広布の本陣となった。
 その年の十月二日、伸一は、世界平和の道を開くために、初の海外訪問の旅に出るが、それも、この家からの出発であった。
 大勢の人が集まり、「世界広布の夜明けだ」と言って喜び、タクシーで羽田の空港に向かう伸一を、手を振って見送ってくれた。
 会長就任後は、ますます訪問者は多くなった。指導を受けに来る人や、報告のために訪れる幹部など、千客万来である。
 また、社会の各界のリーダーなど、著名人の訪問もあった。
 ところが、あまりにも簡素な家であるために、見過ごしてしまい、長い時間、探し回る人が少なくなかったようである。
7  常勝(7)
 小林町の家は、道路の拡張による区画整理の対象となり、山本伸一は、転居することになった。
 移転にあたっては、ぜひ信濃町にとの、学会本部の要請により居を定めた。
 そこに住めば、自分だけでなく、家族の私生活も、これまで以上になくなることはわかっていた。
 しかし、最優先すべきは広宣流布であることを、峯子も、子どもたちも覚悟していた。
 そして、この九月十二日の入仏式となったのだ。
 伸一は、創価学会本部があり、生活の舞台となる信濃町を、断じて興隆させようと、固く心に誓い、深い祈りを捧げた。
 自身が住んでいる地域を愛し、地域に貢献し、そこを栄えさせ、常寂光土としていくのは、仏法者の責任であり、使命である。
 九月十八日の午前九時過ぎ、伸一は大阪に向かう東海道新幹線の車内にいた。
 この日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で行われる「関西文化祭」に出席するためであった。
 阪神方面では、二日前の夜から、雨が降り始めていた。折から、九州の南海上を北上中の、台風二十一号の影響によるものである。
 台風が上陸しないとも限らない状況のなかで、関西の同志は、文化祭を迎えようとしていたのである。
 関西では、台風にも勝る激しい唱題の渦が巻き起こっていた。皆、必死であった。懸命に祈りに祈った。
 その祈りが、天をも動かしたのか、十七日の正午には、台風の中心の気圧は九八二ヘクトパスカルと衰えを見せ始めた。
 唱題に、ますます力がこもった。すると、台風は、文化祭当日の十八日午前六時、九州上陸を目前に、種子島の南西の海上で温帯低気圧に変わったのである。
 これで、最悪の事態は免れたが、台風崩れの低気圧に刺激され、秋雨前線は活発になり、阪神方面では激しい雨が降り、風が吹き荒れていたのである。
 伸一は、大阪に向かう列車のなかで、窓を叩く雨を見ながら、「関西文化祭」が無事に開催できることを祈って、心で唱題し続けていた。
 関西で文化祭を開催するのは、これが三度目であったが、関西の同志は、今回の文化祭に、一段と深い意義を感じていた。
 それは、名称こそ「関西文化祭」であったが、これまでのように一方面の行事ではなく、理事長の泉田弘を実行委員長とする、学会あげての、最大行事となっていたからである。
8  常勝(8)
 また、関西の同志には、この文化祭をもって、山本伸一が「常勝関西」の歴史を開いた一九五六年(昭和三十一年)の大闘争十周年を祝賀しようという、強い思いがあったのである。
 当時、青年部の室長であった伸一とともに、関西に広布の不滅の錦州城を築いた、あの「黄金の共戦譜」は、同志の胸に、燦然と輝く栄光の歴史として刻印されていた。
 ひと月に一支部で一万一千百十一世帯という、未曾有の弘教を成し遂げた、勇猛果敢なる五月の折伏戦。
 「″まさか″が実現」と新聞が報じた、七月の参院選大阪地方区の劇的な逆転大勝利……。
 ここに、関西の「常勝」の源流がつくられたのだ。
 だが、翌五七年(同三十二年)の四月に行われた大阪の参院補欠選挙では、選挙戦の終盤、心ない東京のメンバーが引き起こした選挙違反事件によって、学会が推した候補者の信頼が失墜したこともあり、惜敗したのである。
 創価学会という民衆勢力の台頭に恐れをいだいていた権力は、この選挙違反を口実に、選挙の最高責任者であった伸一に無実の罪を着せ、七月三日、彼を不当逮捕したのだ。
 検察は、伸一への過酷な取り調べを続け、罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田城聖を逮捕すると迫った。
 五七年の七月といえば、戸田の逝去の九カ月前である。既に体の衰弱は激しかった。戸田の逮捕は、そのまま死につながりかねなかった。
 伸一は、やむなく、罪を一身に被った。いっさいを裁判で証明しようと決意して……。
 彼が出獄した七月十七日の夕刻、大阪・中之島の中央公会堂では、豪雨と雷鳴のなか、大阪府警、並びに大阪地検を糾弾する抗議集会が開かれた。「大阪大会」である。
 伸一は叫んだ。
 「正しい仏法が、かならず勝つという信念でやろうではありませんか!」
 彼のこの獅子吼を聞いた同志は、安堵と悔しさに涙しながら、心に誓うのであった。
 「負けたらあかん! 戦いは、勝たなあかん!」
 これが関西の「不敗」の源流となったのだ。
 まさに、関西の歴史は、伸一が生命をかけて築き上げたものであった。
 関西の同志は、「常勝」の金字塔を打ち立ててから十周年の佳節に開催されるこの文化祭を、伸一とともに、新しき飛翔を遂げゆく大舞台にしようと、固く決意していたのである。
9  常勝(9)
 学会の文化祭の淵源は、一九五四年(昭和二十九年)に、当時、青年部の室長であった山本伸一の発案で行われた、青年部体育大会にさかのぼる。
 ここでは、徒競走や障害物競走などのほか、音楽隊の演奏行進も行われた。
 以後、体育大会は、「若人の祭典」と銘打ち、広布建設の心意気を示す青年部の行事として、各方面で開催され、学会の伝統行事となっていった。
 そして、体育競技だけでなく、音楽隊・鼓笛隊の演奏行進や、ダンス、日本舞踊、人文字などにも力が注がれるようになり、回を重ねるごとに、技術的にも大きく進歩し、洗練されていったのである。
 この体育大会とは別に、六二年(同三十七年)の十月、東京・共立講堂(第一部)と横浜文化体育館(第二部)で、青年部の第一回文化祭が開催された。
 これは、合唱、演奏、舞踊、演劇、映画、また、絵画や写真、書道の展示などを主体にした文化・芸術の祭典であった。
 翌六三年(同三十八年)の九月に行われた関西の体育大会に出席した伸一は、今度は十一月に、甲子園球場を使って、初の「関西文化祭」を開催してはどうかと提案した。
 関西の幹部は、甲子園で文化祭を行うと聞いて、驚きを隠せなかった。
 文化祭は、学校の講堂や劇場で行うものであるという固定観念があり、野外の、しかも、大球場で開催するなどという発想は、全くなかったからである。
 驚く皆の顔を見ながら、伸一は言った。
 「文化とか、芸術というと、″個人″によるものと思い込み、小さな会場を考えているんじゃないかい。
 もちろん、芸術・文化を生み出していくのは、一人ひとりの人間であり、″個人″だ。
 しかし、みんなが一つの偉大な理想に向かっていくなかで、これまでにない、新しい最高の芸術を生み出すことができると、私は確信している。
 権力によってではなく、多くの民衆が力を合わせ、生きる歓喜と躍動を表現する芸術をつくり上げることができれば、すばらしいじゃないか。
 既に、体育大会のマスゲームなども、最近は、極めて高度になり、優れた芸術の域に達しているものも少なくない。
 それを、文化祭に取り入れるとなれば、大会場で行う必要がある。
 私たちは、新しい人間文化を創造しようというのだから、常に、柔軟にものを考えていくことだよ」
10  常勝(10)
 山本伸一の提案を受け、関西のメンバーは、通常のホールなどで行う演奏会等とは、全く発想を変えて、文化祭の企画を練り上げていった。
 そして、組み体操などのマスゲーム、人文字、音楽隊・鼓笛隊の演奏行進等を取り入れた第一回「関西文化祭」を、甲子園球場で開催したのである。
 文化祭は大成功であった。民衆の「団結の美」、人間の「融合の芸術」ともいうべき、ダイナミックな学会独自の文化祭の突破口が開かれたのである。
 まさにそれは、新しき文化の創造であった。以来、この形式が、学会の文化祭の基調となっていった。
 関西では、翌一九六四年(昭和三十九年)にも甲子園球場で文化祭を開催しており、この六六年(同四十一年)の「関西文化祭」が三度目となったのである。
 九月十八日早朝、文化祭の関係者は、目覚めるとすぐに空を見た。
 「雨がやんでる!」
 皆、胸を撫で下ろした。
 この日の午前五時ごろには、大阪周辺は、降り続いていた雨が、あがっていたのである。
 メンバーは、小躍りしながら、会場の甲子園球場に急いだ。
 ところが、雨は再び降り始め、出演者が甲子園球場に集合した午前八時ごろには、降ったり、やんだりを繰り返していた。
 それでも、役員、出演者の誰もが、雨はあがるものと確信していた。
 事実、午前九時には、いったん、雨はやんだ。人文字のメンバー二万二千人が、スタンドに着席した。
 風は、かなり強かった。スタンドに掲げられた万国旗が、バタバタと音をたて、激しく揺れていた。
 しかし、青年たちは、やらんかなの意気に燃え、その顔は晴れやかであった。
 午前十一時過ぎ、また、雨が降り始めた。
 今度は、いっこうにやむ気配はなかった。いや、時とともに、激しさを増していった。
 鉛色の空から、滝のように落ちてくる雨を、皆、心配そうに見ていた。
 やむなく、女子部の人文字メンバー八千人が、大鉄傘の下などに退避した。
 彼女たちは、濡れた髪やシャツをサッと拭うと、すぐにその場で手を合わせ、天候の回復を祈り、懸命に題目を唱え始めた。
 その時、外野スタンドにいた男子部の人文字メンバーから、大地を揺るがすかのような、「エイ、エイ、オー」という、元気な勝閧があがった。
 そして、雨のなかでスクラムを組み、声を限りに学会歌を歌い始めた。
11  常勝(11)
 既に、一般参加者の学会員は、入場し始めていた。
 関西の同志は、男子部の人文字のメンバーが歌う学会歌を耳にすると、一緒に手拍子を打ち、ともに歌い始めた。
 ″雨なんかに負けへん! 文化祭は、絶対に決行するで!″という男子部の心意気と、″負けたらあかんで!″という観客の思いが唱和し、まさに、天を衝く魂の歌声となって、球場を揺るがしたのである。
 ほかの役員たちも、必死であった。
 メンバーに、風邪をひかせてなるものかと、ビニールを懸命になって調達し、皆に配布する、献身的な青年たちの姿も見られた。
 だが、男子の人文字のメンバーのなかには、スタンドでずぶ濡れになりながらも、そのビニールを自分の体に被ろうとする人は、一人もいなかった。
 皆、それで、紙でできている人文字用の色彩板を覆い始めた。
 色彩板が濡れて色が落ちれば、人文字は描けなくなってしまうからだ。
 ホームベース側にある大鉄傘の下には、報道席が設けられ、そこに、海外を含め、七十数社、百人を超える報道関係者が、取材のために待機していた。
 なかには、雨のなか、声を張り上げて学会歌を歌う青年たちの姿を見て、冷笑を浮かべる記者もいた。
 また、雨で中止になるだろうと判断し、帰りかけた記者も少なくなかった。
 しかし、自らが濡れるのもかまわず、必死に色彩板をビニールで覆って守ろうとする人文字のメンバーの姿が、その足を止めた。
 帰りかけた記者の何人かが席に戻ってきた。
 気迫にあふれたメンバーを見て、これなら、どんなに大雨でも文化祭は決行されるだろうと、感じたのであろう。
 また、なぜ、あそこまで打ち込めるのか、その秘密をさぐりたいとの気持ちもあったようだ。
 真摯でひたぶるな青年たちの姿が、記者たちの心を揺さぶったのである。
 雨は、なお盛んに降り続いていた。
 激しい雨脚に蹴られるように、グラウンドの土が砕け散り、ところどころに溜まった水の上では、雨がしぶきをあげていた。
 屋根のないスタンドを流れ落ちる雨水は、滝のようでもあった。
 大鉄傘を叩きつける雨は、獣の咆哮のような音を響かせ、スタンドを圧していた。
 球場の外壁に絡みついた深緑の蔦も、びっしょりと雨に濡れながら、悶えるように、風に震えていた。
12  常勝(12)
 甲子園球場の運営指揮所では、青年部の参与の秋月英介や副青年部長で関西の最高幹部である大矢良彦らが、文化祭を決行するかどうか、話し合っていた。
 大矢たち関西の幹部は、強硬に開催を主張した。
 「文化祭は、どんなことがあっても、強行するしかありません。
 プロ野球の日程から考えても、甲子園球場を使える日曜日は今日しかありませんから、延期というわけにはいかないんです。
 もし、中止になれば、これまでのみんなの苦労は、水の泡になります」
 秋月は、眉間に皺を寄せて、沈痛な顔で語った。
 「みんなの気持ちはよくわかるし、私も、できることなら、予定通りに行いたいと思う。しかし、冷静に考えてもらいたい。
 豪雨と強風のなかで、決行すれば、どんなことになるか。
 男子部の演目には、何段にも組み上げる″人間円塔″や、何メートルも人を飛ばす″人間ロケット″もあるじゃないか。
 もし、雨で滑ったりすれば、人命にもかかわる大事故になってしまう。
 また、女子部のバレエの純白のドレスが、泥にまみれてしまったら、どうなってしまうのか。すべては、台無しになってしまうじゃないか。
 人文字の色彩板も、雨に打たれ続ければ、色は落ちる。そうなれば、絵も文字も判別できないだろう。
 来賓だって、ずぶ濡れになるだろうし、出演者には小さな子どもたちもいる。風邪でもひかしたら、大変なことになるじゃないか」
 「しかし、その困難に挑むのが、学会精神じゃないですか。関西魂を見てほしいんです。
 秋月参与、ぜひやらせてください!」
 関西の首脳幹部は、決行を叫んで、引き下がらなかったが、慎重な対応が求められていることは、皆よくわかっていた。
 話し合いの末に、秋月は言った。
 「まだ、しばらくは様子を見る必要があるし、最終的な判断は、山本先生にお願いする以外にない。
 しかし、このまま雨が降り続くようなら、諸条件を考えると、残念ではあるが、中止もやむをえないだろう。
 もし、中止ということになれば、参加者の帰路の輸送態勢等も、大幅に変わることになる。そのほかの部門でも、さまざまな緊急対応が生じるだろう。
 したがって、各部門の責任者には、中止の方向も想定して、万全な対策をたてるように徹底してほしい」
13  常勝(13)
 「中止の方向」も想定した対策を――という話が各部門の責任者にも伝えられると、皆、顔色を変えた。
 「なんでや! なんで中止の方向なんです!」
 「そんなこと、承知できまへん!」
 「雨がなんや! ぼくらは負けへんで」
 雨のグラウンドを駆け抜け、最高幹部に掛け合いに行くメンバーもいた。
 それは、女子部も同じであった。関西女子部長の花村智代子は、女子部の演目の責任者数人と一緒に運営指揮所に行くと、秋月英介に迫った。
 「文化祭は絶対に開催してください。関西の女子部は、雨が降っているから中止だなんて言っても、誰も納得しません」
 開催と決まるまで、一歩もそこを動かないという、構えである。
 そのころ山本伸一は、新大阪の駅から、車で豊中会館へと向かっていた。ここで、待機することになっていたのである。
 先に関西入りし、駅に伸一を出迎えた十条潔が、車中、状況をかいつまんで報告した。
 「こちらは、昼前から、雨が激しくなっておりますが、関西の同志は、天候の回復を懸命に祈り続けています。
 現地では、役員や出演者が、何がなんでも決行してほしいと、必死に幹部に訴えているようです」
 伸一は、ガラス窓を打つ雨を見ながら語った。
 「私にとって一番大事なことは、仏の子である同志の健康だ。
 雨のなかを決行して、みんなが風邪をひいたり、病気になるぐらいなら、思い切って中止にした方がよいと思う」
 それから伸一は、しばらく押し黙って、何かを考えているようであったが、やがて、再び口を開いた。
 「しかし、まだ、結論を出すというわけにはいかないな……。
 中止にするかどうかは、もう少し、雨の様子を見たうえで、判断することにしよう」
 伸一が豊中会館に到着すると、彼のもとに、次々と報告が寄せられた。
 球場に集う来賓や報道関係者の様子。開催を願って真剣な祈りを捧げる出演者の姿。現在の雨模様と、今後の予報……。
 伸一は、その一つ一つを鋭く分析しながら、思索をめぐらしていた。
 雨は、会館の屋根を、これでもかというほど強く、叩き続けていた。
 それは、関西の同志の一途な心を、あざ笑うかのようでもあった。
14  常勝(14)
 山本伸一は、側で待機していた、関西の幹部で副理事長の、浅田克美に声をかけた。
 「雨がますます激しくなってきたね。
 みんなの健康が第一だから、残念だが、やはり、延期してはどうだろうか」
 伸一は、どこまでも慎重だった。
 それは、会員を守らんとする責任感の強さからであった。
 関西の同志の、これまでの奮闘も、心意気も、伸一には、痛いほど、よくわかっていた。彼にとって、関西の友は、老いも若きも、共戦の盟友なのだ。
 浅田は、懸命に、胸の思いを語り始めた。
 「先生、ぜひ、決行させてください! 関西は、決して雨なんかに負けません。雨だからこそ、みんなの心に、生涯、残る文化祭になると思います。
 雨の試練に勝って、これからの人生の苦難に耐えていく、強固な自信を培うことができると、私は確信しております。
 それに、甲子園球場は、日曜や祝日は、かなり先まで予約が入っていますし、ほかの球場も同じ状況です。延期すれば、会場を確保することはできません。
 また、既に雨に濡れた、人文字の色彩板などの作り直しも、相当、困難な作業となります。
 どうか、時間を短縮してでも、今日、開催させてください!
 これが、関西の同志の気持ちであると思います。なにとぞ、よろしくお願いいたします!」
 浅田は、真剣であった。
 伸一は、諭すように語っていった。
 「根性を示すように、冒険的に勇ましくやると、一見、威勢がよく、立派そうに見えるが、必ず、なんらかの犠牲を生んでしまうものだ。
 確かに、雨のなかで開催する意義もあるかもしれない。しかし、何度も言うようだが、私は、皆の体のことが一番心配なんだ。
 健気な、大事な関西の同志から、いかなるかたちであれ、一人たりとも、犠牲になるような人を出すわけにはいかない。それが、指導者のあり方だよ」
 浅田は、伸一の同志を思う真心に、胸を熱くした。だが、決行したいという気持ちは、いささかも変わらなかった。
 その浅田の心を見透かしたように、伸一は言った。
 「それでも、どうしても開催したいんだろう?」
 「はい!」
 浅田は迷わずに答えた。
 「それなら、たとえば、集まった人たちで、学会歌を歌って解散し、十万人の大合唱の文化祭とするようにしてはどうだろうか」
15  常勝(15)
 浅田克美は、山本伸一の言うように、この雨のなかでは、学会歌の合唱で終わらせることが、最善の選択かもしれないと思った。
 まだ、″すべての演技を山本会長に見てもらいたい″という、強い気持ちはあったが、断腸の思いで浅田は言った。
 「はい、わかりました。残念ではありますが、こんな雨ですし……」
 こう言いながら、彼は、窓の外を見た。
 その瞬間、浅田の目が輝いた。
 「先生! 雨が、雨がやみ始めています!」
 伸一と浅田は、立ち上がって、空を眺めた。
 雲がすごい勢いで流れていた。雨は小降りになり、やがて、雲の切れ間から、わずかながら青空が見え始めた。
 全出演者の、全役員の、それらの人びとの家族の、そして、全関西の同志の切なる願いが、通じたにちがいない。
 伸一は、微笑を浮かべて浅田に言った。
 「よかったな……。なんとか、開催できそうじゃないか」
 浅田は、目を潤ませて叫んだ。
 「はい! ありがとうございます!」
 「ただ、空模様は、どう変わるかわからない。だから、時間を早めて開催することにしよう。
 また、演技を短縮して行うのか、あるいは、すべて行うのかは、現地に行ったうえで判断しよう」
 伸一は、文化祭は、時間を繰り上げて行うことと、「関西魂を発揮して、全力で挑戦し抜いていこう」との伝言を、電話で会場に伝えるように、十条潔に告げた。
 午後二時二十分、甲子園球場の、運営指揮所の電話が鳴った。十条からの電話である。
 受話器を取った幹部は、喜びに声を震わせながら、叫ぶように言った。
 「はい。決行ですね! 時間を繰り上げて開催するんですね! ありがとうございます!」
 それを聞くと、運営指揮所は歓声に包まれた。
 「やった! やった!」
 涙を浮かべ、手を取り合って、小躍りするメンバーもいた。
 直ちに、青年部長の谷田昇一が、球場の放送設備を使って、文化祭の決行を伝えた。
 「ウォー」という歓声が、甲子園の空に轟いた。
 出演者も、役員も、スタンドの参加者も、互いに肩を叩き合い、いだき合い、決行を喜び合った。
 雨は残っていたが、同志の顔に光が差した。
16  常勝(16)
 文化祭の開始時刻は、一時間繰り上げられ、午後三時半となった。
 それからが、大騒ぎであった。二万二千人の人文字のメンバーが、それぞれ指定された席について、点検などの準備を完了するには、リハーサルでも、優に一時間以上はかかった。
 しかし、既に開演まで一時間を切っていた。
 座席の配置を一つでも間違えれば、人文字は成り立たない。
 メンバーは、急いで自分の席をめざして走り始めたが、何分後に人文字の開始の態勢が整うかは、わからなかった。
 山本伸一が甲子園球場に到着したのは、午後二時四十分ごろであった。
 雨は弱まり、薄い雲の上に太陽の光が見えていた。
 伸一は、車を降りると、「ご苦労さま! 風邪をひかないように工夫してください」と、役員の青年たちに声をかけながら、控室に向かって歩き始めた。
 すると、どのメンバーからも、元気な声が跳ね返って来た。
 「文化祭開催の決定、ありがとうございます!」
 「雨なんかに、絶対に負けません!」
 「ぜひ、すべての演技をやらせてください!」
 皆、意気軒昂であった。
 青年たちの決意に燃える姿を目にして、伸一は決断した。
 ″ここまで、みんなが決意し、どうしてもやるというのだ……。
 雨もかなり弱まっている。よし、私の責任で、予定通り、すべての演目を行うことにしよう!″
 彼は、関西での雨の大行事は、これで三度目になると思った。
 最初は、一九五六年(昭和三十一年)四月、豪雨のなかで開いた、大阪、堺の二支部連合総会であった。
 雨に打たれながら、同志は誓いを新たにし、それが一万一千百十一世帯の弘教をはじめ、「常勝」の不滅の金字塔を打ち立てる起爆剤となったのである。
 そして、二度目が、伸一が不当逮捕され、出獄した、五七年(同三十二年)七月十七日に行われた、中之島の中央公会堂での「大阪大会」である。
 つまり、試練の風雨のなかで、決然と勝利の旗を打ち立ててきたのが、まぎれもなく、関西の広布の歴史であった。
 「雨は花の父母」という言葉があるが、花を養う慈悲深き母のような雨も、時として、厳父のごとく、激しく若芽を叩きもする。
 だが、それに負けずに伸びることによって、青年は使命の大輪を咲かせることができるのだ。
17  常勝(17)
 球場内に設けられた控室に入ると、山本伸一は、同行の幹部に言った。
 「文化祭は、基本的には予定通りのプログラムで決行しよう。ただ、雨で危険が伴う可能性のある演技などについては、どうするか、皆で検討しなさい」
 この決定は、直ちに、十条潔を通して、関西の幹部に徹底された。
 それを受けて、協議した結果、雨に濡れるので、小学生で編成されている鼓笛隊のジュニア隊の出場などを見送ることにした。
 午後三時、十条が、演技部門の指揮所がある、三塁側のダッグアウト(選手控席)に姿を現した。
 彼は、演技部門の総責任者である、大矢良彦の姿を見つけると言った。
 「開演は三時半ということだが、すぐに始められないだろうか。
 いつ雨が強くなるかわからないから、一刻も早くスタートしたいんだがね」
 「すぐには無理です。人文字のメンバーが配置につけませんから」
 「そうか、困ったな。
 それじゃあ、あと何分で始められるんだい」
 大矢は答えに窮した。
 「どんなに急いでも、まだ、十五分はかかります」
 十条は、腕時計を見て言った。
 「十五分で大丈夫なんだな。今、ちょうど三時になるところだから、三時十五分開始だ。頼むぞ」
 大矢は、言ってから、本当にその時間にスタートできるのか不安になったが、もう後へは引けなかった。
 彼は、各部門に開始時刻の変更を告げると、必死で心で唱題した。
 時間は、瞬く間に過ぎていった。
 午後三時十五分、山本伸一が控室を出て、スタンドに姿を見せた。
 雨は、ほとんどあがっていた。
 意を決して、大矢は開始を指示した。
 力強いファンファーレが鳴り渡り、祝砲の花火が轟いた。
 赤、青、黄の色鮮やかな風船が空に舞い、ハトが飛び立つ。
 そして、大矢がマイクを握り締め、開会を宣した。
 「ただ今より、創価学会関西文化祭を開催いたします!」
 その瞬間、外野スタンドいっぱいに、白地に赤と青で、「祝 関西文化祭」の人文字が、見事に浮かび上がった。大矢は、ほっとして、ため息をついた。
 この時、空を覆っていた雨雲が途切れ、そのかすかな隙間から、青い空がのぞいた。西の空には、うっすらと、太陽の光が差し込んでいた。
18  常勝(18)
 大成功を予感させる天の演出のなか、怒濤のような拍手の渦に迎えられて、音楽隊九百人が、マーチを奏でながら、誇らかに行進を始めた。
 グラウンドには、大きな水たまりが広がっていた。
 だが、彼らは、″我らの心意気を見よ!″とばかりに、高らかにトランペットを吹き鳴らし、勇壮にドラムを響かせながら、そのなかを、水しぶきを上げて突き進んでいった。
 はね返る泥水で、白いズボンの裾は、たちまち真っ黒になった。
 悪条件をものともせぬ、「広布楽雄」による、堂々たるオープニングである。
 続いて、白いユニホームに身を包んだ、男子部員千五百人がグラウンドいっぱいに広がり、「ヤーッ!」というかけ声とともに、持っていた布を広げた。
 すると、縦三十六メートル、横四十六メートルの、紺地に金色の若鷲と月桂冠をあしらった、巨大な男子部の旗が浮かび上がった。
 広布の大空に飛翔しゆく青年たちの決意を感じ、観客席からは、感嘆の声と大きな拍手が天に舞った。
 次は、鼓笛隊の可憐な演奏行進である。メンバーには、高校生や中学生も多かった。
 空は陰り、雨がパラつき始めた。
 水滴が、楽器を濡らし、乙女たちのリンゴのような頬を濡らした。
 ″雨になんか負けん。うちらは関西の女子部や!″
 彼女たちは、はつらつと胸を張り、グラウンド狭しと、軽快な調べを奏で、花の輪を広げた。
 そのころ、出演者の待機場所の一角で、鼓笛隊の演技の成功を祈り、必死になって題目を唱える少女たちがいた。
 雨のために出場しないことになった、ジュニア隊のメンバーであった。
 彼女たちが、出場がなくなったことを知ったのは、白と黄色のユニホームを着込み、今か今かと、開演を待っていた時であった。
 「雨に打たれて、小さな皆さんが、風邪をひいたりしてはいけないので、今回は、ジュニア隊の出場はなくなりました」
 関西の鼓笛部長から、こう聞かされると、皆、声をあげて泣き出した。
 ″文化祭で山本先生に見ていただくんや!″と、小さな胸に闘志を燃やし、夏休みを返上して、来る日も来る日も、炎天下で練習を重ねてきたのだ。
 それなのに文化祭に出ることができなくなったと思うと、悔しくて、悲しくて仕方なかったのである。
19  常勝(19)
 ジュニア隊の責任者で女子部の幹部の吉倉稲子にも、少女たちの悔しい気持ちはよくわかった。
 自分も、一緒に泣き出したいくらいであった。
 しかし、彼女は、心を鬼にして、泣きじゃくる少女たちに、あえて、厳しい口調で言った。
 「学会っ子は、何があっても、絶対に泣くもんやあらへん!
 あんたら山本先生の弟子やろ! 獅子の子やろ!
 先生は、泣き虫は大嫌いなはずや!」
 ジュニア隊の少女たちが泣いていた顔を上げた。
 彼女は、それから、諄々と諭すように訴えた。
 「今日、皆さんの出場を中止にしたんは、皆さんが学会の宝やからです。絶対に、風邪なんかひかせるわけにはいかんからです。
 まだ、みんな小さいんやから、出場の機会は、いくらでもあります。
 今日までの練習は、これから先、必ず生かせると思います。
 皆さんのことを、一番、心配されているのは、山本先生です。今のみんなの悔しい気持ちも、よくご存じやと思います。
 残念で仕方ない気持ちはようわかりますが、先生に『私たちは大丈夫です』言うて、ご安心していただいてこそ、鼓笛隊やないでしょうか……」
 それでも、すすり泣きがあちこちから聞こえた。
 吉倉は、涙ぐむ一人の少女の傍らに行き、腰をかがめて、ハンカチで涙を拭いてあげた。
 そして、肩に手をかけ、体をゆすりながら言った。
 「悔しいやろうけど、頑張るんや! これも、文化祭の戦いや! あんたは、弱虫やない!」
 泣いていた少女は、コクリと頷いた。
 吉倉は、少女たちに、笑顔で呼びかけた。
 「これから、雨の中で、鼓笛隊の″お姉さん″たちが演奏するんやから、みんな応援してや!
 では、みんなで、山本先生に届くように、元気いっぱいに歌を歌いましょう」
 目を赤く腫らし、涙を拭い、一生懸命に学会歌などを合唱する、いじらしい姿に、今度は、周りにいた女子部の幹部たちが、目頭を押さえるのであった。
 一方、鼓笛隊のメンバーは、妹のようにいとおしいジュニア隊が出場できないことを聞くと、かわいそうでならなかった。
 彼女たちは誓い合った。
 ″ジュニア隊の分まで頑張ろうね!″
 その決意が、雨をついての、はつらつたる清新の演技となって結実し、観客の大喝采を浴びたのである。
20  常勝(20)
 雨は断続的に降り続いていた。
 鼓笛隊にかわって、元気なかけ声とともに、グラウンドに飛び出して来たのは男子高等部の徒手体操のメンバー九百人であった。
 外野スタンドの人文字は「未来に羽ばたけ!」に変わった。
 白い帽子、紺のシャツ、白いトレーニングパンツで、力いっぱい走る姿は、高校生らしい、爽快な若さにあふれていた。
 高等部だけで独自の演目を企画し、出場するのは、学会の文化祭史上、初の試みであった。
 それだけに、全国の高等部員の期待も大きかった。
 メンバーのなかには、交通費を捻出するのが大変なために、自転車で、片道一時間、一時間半とかけて練習に通う人もいた。
 また、大学進学をめざす人も少なくなかった。出場者は、高校一、二年生を原則としていたが、二年生にとっては、この夏休みは、入試の勝敗の流れを決する重要な時期であった。
 だが、メンバーは、すべてに大勝利することを誓い合い、勉学にも練習にも、全力を尽くしてきた。
 連日の炎天下の練習で、皆に疲れが見え始めたころのこと、埼玉県のある高等部員から、関西の高等部員に励ましの便りが届いた。
 同じ高等部員が、猛暑のなか、文化祭の大成功をめざして、頑張っていることを思うと、励まさずにはいられなかったのである。
 「いよいよ関西文化祭ですね!
 高等部十万を代表し、われわれの分まで、元気いっぱいに演技してください。
 われわれ埼玉の高等部員は題目の応援をします。
 ファイト! 関西高等部の諸君。頑張れ! 関西高等部の諸君。健闘を祈る」
 この手紙が紹介されると、メンバーは決意を新たにし、奮い立った。
 ″ぼくらは、全国の高等部の代表なんや! みんなが応援してくれてるんや!大成功させるで!″
 そして、皆、自身に挑み、打ち勝って、この日を迎えたのだ。
 グラウンドでは、その彼らの、はつらつとした演技が繰り広げられていった。
 やがて、五人一組になって手をつなぎ、″人間扇″がつくられた。
 次の瞬間、″扇″が一斉に泥沼のグラウンドに倒れた。泥水が勢いよく飛び散った。観衆から、驚嘆の声があがった。
 彼らが立ち上がった時、純白のトレーニングパンツの前半分は、泥で真っ黒に染まっていた。
 あえて苦難に挑む、青春の誇りを表現したような体当たりの演技に、拍手がわき起こった。
21  常勝(21)
 さらに、高等部員がグラウンドいっぱいに、「大志」の人文字をつくり上げると、外野スタンドの人文字は、その未来を祝福するかのように、赤と紺の一対の鳳凰の絵に変わった。
 嵐のような大拍手が、高等部員の敢闘を称えた。
 それは、関西の鳳雛たちの、未来への飛翔の瞬間であった。
 文化祭を終えると、大学進学をめざす二年生の勉強に拍車がかかった。
 その後の、受験という孤独な戦いのなかで、彼らを支えたものは、この文化祭の体験であったという。
 挫けそうになると、歯を食いしばりながら、練習に汗を流した日のことを思い返し、自らに言い聞かせるのであった。
 ″ぼくは、あの練習に耐え、堂々と文化祭に勝利したんや。だから、受験勉強だって頑張れるはずや!
 ぼくは負けへん!″
 そして、山本会長の前で力の限り演じた、あの日の感動を思い起こしては、闘魂を燃やしたのである。
 山本伸一は、来賓席にあって、文化祭が無事故で、大成功で終わるように、心で唱題していた。
 彼は一つ一つの演技が終わるたびに、身を乗り出して手を振り、拍手を送り、側近の幹部に、出演者への激励の伝言を託すのであった。
 グラウンドでは、真っ赤なレオタードに身を包んだ女子部のリズムダンスが終わり、外野スタンドいっぱいに、音楽に合わせて、次々と人文字の大絵巻が描かれていった。
 グラウンドで演技が行われている時には、″脇役″であった人文字が、ここでは″主役″となって、観衆を魅了した。
 ――羽を休めた二羽の孔雀が、向かい合って現れ、次第に、その羽を広げていく。まるで、生きているようだ。
 そして、今度は、四本のバラのつぼみが描かれ、やがて、花弁を開き、鮮やかな赤と黄色の大輪となって咲き誇る。
 さらに、アメリカの雄大なグランドキャニオンを背景に、実物大に近い紙の幌馬車が、砂煙を上げながら進んでいく。
 また、鉄腕アトムや、オバケのQ太郎といった、人気漫画のキャラクターも登場した。
 もはやそれは、人文字の域をはるかに超え、″人間絵画″″人間動画″ともいうべき世界をつくり出していた。
 まさに、絢爛たる″人文字芸術″であった。
 観客は息をのみ、歓声をあげ続けた。
22  常勝(22)
 学会の催しで、初めて大がかりな人文字が登場したのは、一九五八年(昭和三十三年)に開催された、青年部第五回体育大会「若人の祭典」であった。
 この時、八百人余の男子部員によって、グラウンドに、富士山の形が描かれたのである。
 その後も、人文字は積極的に取り入れられ、山本伸一が会長に就任した年の体育大会では、「祝渡米」の文字で、彼の初の海外訪問を祝った。
 関西でも、甲子園球場で開催された、六三年(同三十八年)の初の関西文化祭、翌年の第二回関西文化祭で、外野スタンドの一部を使って、人文字がつくられてきた。
 だが、それは、簡単な絵模様や、「第三文明」「世界広布」の文字などを描いたもので、祭典に彩りを添えるにすぎなかった。
 この人文字が、いわば一つの芸術に昇華したのは、六四年(同三十九年)十一月に、東京の国立競技場で行われた第二回文化祭であった。
 この時、スタンドを使って、三万人による人文字が描かれ、「団結」などの文字だけでなく、「カルメンと闘牛士」や「二頭の若獅子」、各種の花々などを、色鮮やかに浮かび上がらせたのである。
 さらに、圧巻は、山本伸一の、「勝利」という毛筆の字を、金地の上に赤く描き上げたことであった。
 画一的な太い線ならともかく、筆文字は極端に細い部分もあり、決して単調ではない。
 しかし、その毛筆を見事に再現し、国立競技場の大スタンドを大扁額に変え、絶賛を浴びたのであった。
 二年前の、この東京の文化祭を超える人文字を――というのが、関西のメンバーの決意であった。
 そして、外野スタンドをいっぱいに使い、絵が動く画期的な人文字をつくろうと、挑戦が始まった。
 ところが、実際に甲子園球場で人文字の練習をしてみると、図案とは違い、大きく歪んだ文字や絵が浮かび上がったのである。
 ″なんでや!″
 担当者は顔色を失った。
 この球場の外野スタンドは、湾曲が大きく、平面で考えた図案をそのまま座席図に写すと、歪みが出てしまうのである。
 湾曲の少ない、東京の国立競技場のスタンドでは、生じなかった問題である。
 担当者は、外野席の測量から始めて、湾曲を考慮に入れた新しい座席図を、つくり直さなければならなかった。
23  常勝(23)
 人文字では、孔雀が羽を広げたり、バラが開花していくなど、絵が動くシーンをどうするのかも、大きな課題であった。
 これまで、人文字は、振り下ろされる旗を合図に、それぞれ指定された色彩板を出すという方法がとられてきた。だが、そのやり方だと一斉に絵が変化するために、断続的な動きになってしまうのである。
 担当の役員は、アニメーション映画なども研究した。しかし、人文字の秒単位での連続的な変化を可能にする方法は、思い浮かばなかった。
 それでも、担当者たちは、決してあきらめなかった。唱題に唱題を重ね、考えに考え抜いた。
 そして、次のようなアイデアが生まれたのである。
 連続的な動きの場面では、役員が先端に赤い布を巻いた棒を持って、外野スタンドの最下部の通路を走る。この「棒」が自分の目の前を通った瞬間に、メンバーは色彩板をめくる――というものだ。
 実際に行ってみると、これが見事に功を奏した。
 人文字の変化は滑らかになり、自然な動きが可能になった。
 こうして、壮大にして華麗なる、動く人文字の″大絵巻″が、織りなされていったのである。
 まさに懸命なる一念こそ、創造の母といえよう。
 外野スタンドの絢爛たる絵巻を操る、人文字のメンバーの席は、熱気に満ちあふれていた。
 皆が持つ色彩板は十七枚であり、大きさは、縦三十一センチ、横四十五センチである。
 その中央に空いた窓から、ホームベース側のスコアボード(得点掲示板)に示される番号を見て、自分の出すべき色が記載された「個人表」と照らし合わせ、色彩板を準備する。
 連続変化を伴わない場合は、大きな白旗が振られるのを合図に、一斉に色彩板を掲げるのだ。
 「大丈夫か!」
 「次は速いぞ!」
 互いに声をかけ合い、励まし合いながらの演技であった。
 この人文字のメンバーのなかに、目の不自由な、北野富美子という高校一年の高等部員がいた。
 北野は、生来の弱視であり、右目は全く見えず、左目も、〇・〇四の視力しかなかった。スコアボードの数字を読むことも、合図の旗の動きを見ることもできない。
 しかし、会合で文化祭の人文字の出場希望者を募ると、彼女は、躊躇なく手をあげた。
24  常勝(24)
 北野富美子には、目は不自由であっても、小学生のころから、鼓笛隊員として活動してきたという体験があった。
 それが、困難ではあっても、必ず演技を全うしてみせるという、決意と自信になっていたのである。
 だが、実際に練習を始めてみると、やはり、合図の旗も見えなかった。
 その彼女を支えてくれたのが、同じ組織で、近くに住んでいた山田広子という、一歳年下のメンバーであった。
 山田は、一緒に練習に通ううちに、目が不自由であるにもかかわらず、人文字に挑戦する北野の姿から、信心のすばらしさを学んでいった。
 そして、ともに見事な人文字を成し遂げ、青春の勝利を飾ろうと決意したのである。
 山田は、隣の席から、北野が出すべき色を素早く確認し、声に出して伝えることにした。
 自分が出す色を見極めて、色彩板をめくるだけでも大変なうえに、人の面倒をみることは、容易ではなかった。だが、山田は頑張り通した。
 また、北野も、自分が出す色を間違えたり、遅れたりして、皆に迷惑をかけてはならないと、懸命に練習に励んだ。色彩板を触るだけで、何色か、わかるまでになっていた。
 練習が始まってしばらくしたころには、二人は、一度も間違えることはなかった。彼女たちは、誰よりも真剣であったのである。
 人文字は、絢爛たる大絵巻を繰り広げていった。だが、メンバーには、自分たちの描いた文字や絵柄が、どうなっているのかは、全くわからなかった。
 しかし、わき起こる歓声に、確かな手ごたえを感じながら、雨のなかで色彩板を掲げ続けたのである。
 山本伸一は、来賓席で、関西の幹部から、目の不自由な女子高等部員が人文字に参加し、隣のメンバーに協力してもらい、頑張っているとの報告を受けた。
 彼は、美しき友情の絵巻を見る思いがした。
 ″これから先、どんな試練があろうが、決して負けないで、学会とともに生き抜き、不滅の幸福城を築き上げてもらいたい″
 伸一は、その思いを託して、北野に念珠を贈った。
 文化祭の終了後、「障害に負けず、よく頑張りました」という、伸一の伝言とともに、念珠を受け取った北野は、感激に震えた。
 やがて彼女は、自分も障害をもった人たちのために尽くそうと、養護学校の教員となり、社会に貢献していくことになるのである。
25  常勝(25)
 グラウンドには、「串本節」の調べに合わせて、揃いの浴衣に花笠を被った婦人部が入場し、民謡の踊りが始まった。
 このころから、次第に雨が強くなっていった。
 観客もビニールやハンカチを頭に被り始めた。
 山本伸一は、胸を痛めつつ、雨に打たれながら、元気いっぱいに、「木曾節」などを踊る婦人部の演技を見守っていた。
 彼女たちは、雨が激しくなればなるほど、ますますその表情は生き生きと輝いていった。
 メンバーのなかには、あの九年前の七月十七日、大阪・中之島の中央公会堂の外で、沛然たる豪雨に打たれながら、スピーカーから流れる、出獄した山本伸一の獅子吼を聞いた人も多かった。
 あの時、大地を叩きつける滝のような雨のなかで、「負けたらあかん!」と誓い合い、関西の不敗の歴史が始まったのだ。
 そう思うと、雨が激しさを増せば増すほど、胸の底から、闘志がわいてくるのである。
 ぬかるんだグラウンドに足を取られながら、彼女たちは懸命に踊った。
 白足袋も泥に染まった。花笠の青や赤の染料が雨に溶け、顔に付着し、化粧も流れ落ちた。
 しかし、″関西婦人部ここにあり!″と、はつらつと踊る彼女たちの素顔は、不屈なる信念と歓喜の光にあふれ、最も美しく輝いていた。
 雨は、激しくなるばかりであった。ともされたナイター用の照明が、大きく広がった水たまりに反射しながら、叩きつける雨を照らし出していた。
 関西の首脳幹部たちは、暗い空を見上げて、心で叫んでいた。
 ″これ以上、降らんといてくれ! 次は、女子部のバレエなんや″と。
 実は、この女子部のバレエは、最後まで、中止が検討された演目であった。
 バレエの演技は、身を伏せる場面が多く、泥のグラウンドでは、バレエの優雅さが損なわれてしまうからである。
 だが、出演者たちは、必死になって訴えた。
 「泥んこになってもいいんです。見てくれやない。心で踊るのが、関西女子部の心意気です」
 関西の幹部は、その熱意を実らせてやりたかった。だから、せめてこの時だけでも、雨がやんでほしいと祈らずにはいられなかったのである。
 雨は無情にも、グラウンドを叩き続けていた。
26  常勝(26)
 雨に打たれて、純白のバレエの衣装を身にまとった女子部千六百人が、水色のスカーフをなびかせながら入場してきた。
 メンバーにとっては、どんなに激しい雨であろうが、演技を行えたこと自体が、最高の喜びであった。
 彼女たちは、青春の勝利を謳いあげるかのように、「皇帝円舞曲」に合わせて、誇らかに舞い始めた。
 この日を迎えるまでに、さまざまな苦闘があった。
 ――思うように足が上がらず、昼休みも会社の屋上で、ただ一人、黙々と練習を重ねてきた人もいた。交通費を捻出するために食費を切り詰めつつも、日々、喜々として練習会場に駆けつけた人もいた……。
 水のたまったグラウンドは、ライトを浴びて、黄金の鏡のようにキラキラと輝いていた。
 彼女たちは白鳥のように優雅に舞い、そして、グラウンドに伏した。そこは泥の海であった。
 だが、そのまま、ぬかるみのなかで体を伸ばし、身動きもしなかった。背中に大粒の雨が、刺すように降り注いでいた。
 身を起こした時には、衣装は泥に染まり、褐色に変わっていた。
 しかし、彼女たちは、何事もなかったかのように、笑顔で、軽やかに、再び舞い始めた。
 その姿に、嵐のような拍手がわき起こった。
 そこには、雨をもってしても、泥をもってしても汚すことのできない、王女の気高さがあった。
 純白で一途な、生命の清らかさ、美しさが満ちあふれていた。
 山本伸一は、法華経の涌出品に説かれた、「如蓮華在水」(蓮華の水に在るが如し)の文を、眼前に見る思いがした。
 この文は、地涌の菩薩がよく菩薩道を行じて、世俗に染まらぬさまを、泥沼のなかにあって清らかな花を咲かせる、蓮華の姿にたとえたものである。
 彼は、皆が、今日の決意を忘れることなく、自らの使命に生き抜く限り、生涯、何があろうが、いかなる環境に置かれようが、必ず幸福の花を咲かせるにちがいないと、確信することができた。
 伸一は、戸田城聖の逝去から四カ月後の一九五八年(昭和三十三年)八月、関西の女子部員に、「大いなる 希望に燃えて 今日もまた 王女の如くに 清く舞いゆけ」との、和歌を贈った。
 以来八年、その関西の女子部が、見事に成長し、まさに″王女の舞″を見せてくれたことが、彼は嬉しくて仕方なかった。
27  常勝(27)
 ライトに照らされ、幾筋も、銀の雨が光っていた。
 もはや、どしゃ降りといってよかった。
 関西文化祭は、いよいよクライマックスを迎えようとしていた。
 雨空を突くように、「ワッショイ! ワッショイ!」という、怒濤のようなかけ声が響いた。
 帽子、シャツ、トレーニングパンツと、白ずくめの男子部体操メンバー二千四百人の入場である。
 会長山本伸一の小説『人間革命』を大テーマにしたマスゲームである。
 「序曲」「前哨戦」「黎明」といった小説の章名を、体操で表現しようというのだ。
 関西の男子部の幹部は、この演技を通して、「学会精神」「関西魂」を表現し、皆に勇気と希望を与えようと協議を重ねてきた。
 そして、伸一の小説『人間革命』のなかにこそ、広布に生きる真実の革命児の姿があるとの結論に達し、小説の章名などをテーマにして、体操をつくり上げていったのである。
 さらに、バックに流れる音楽は学会歌にした。その調べのなかにこそ、学会精神の脈動があると考えたからだ。
 また、自分たちの歌である学会歌に、強い誇りをいだいていたのだ。
 学会精神とは――人びとの幸福のため、世界の平和のために戦い抜く、慈悲の心である。
 何ものをも恐れず、苦難にも敢然と一人立つ、挑戦の心である。
 断じて邪悪を許さぬ、正義の心である。
 その学会精神を表現しようとするうえで、雨は最高の演出であった。
 青年たちの誰もが、″雨よ降れ! 風よ吹け!″と胸を張り、喜び勇んで、雨のグラウンドに飛び出したのである。
 やがて、一波が万波へと広がっていくことを表す「波」の演技となった。
 彼らは、ぬかるみのなかに、後ろから倒れて、仰向けになった。そして、力いっぱい、順番に跳ね起きていった。
 後ろ半分は、頭から肩、背、腰、足まで、真っ黒である。
 さらに、風車のように人が回る″人間プロペラ″、頂点の青年が倒立する″人間ピラミッド″、腕の力をバネにして人が飛び出す″人間ロケット″や″人間ブリッジ″と、極めて高度な演技が、矢継ぎ早に展開された。
 演技が進むにつれて、胸も、腕も、顔さえも、泥だらけになっていった。
28  常勝(28)
 観客は、食い入るように演技を見ていた。
 グラウンドの男子部員たちは、降りしきる雨に挑むかのように、四段円塔を築き始めた。
 雨で手や腕が滑り、円塔が崩れたりすれば、大事故につながりかねない。皆、微動だにすまいと、歯を食いしばっていた。
 観客が息をのんで見守るなか、円塔のてっぺんに一人の青年が立ち、雨に打たれながら、両手を広げた。高さは六メートルを超えている。
 青年の顔も、ユニホームも、泥だらけであった。
 彼は、彼方を見すえ、大きく目を見開いた。闘志に燃えた、爛々と輝く、勝利の勇者の目であった。
 アルプススタンドに、歓声と拍手が、凱歌のようにこだました。
 男子部の体操のメンバーが、潮が引くように退場すると、照明が消された。
 雨の夜空に花火が打ち上げられ、文化祭は、フィナーレへと移っていった。
 スポットライトを浴びて、音楽隊が力強い調べを奏でながら、グラウンドを行き交う。
 その明かりが消えると、外野スタンドには、懐中電灯で、星座やハワイの夜景が描かれる。
 グラウンドには、松明隊によって、炎の波がつくられていった。
 さらに、炎は幾つもの渦となり、水のたまったグラウンドに反射し、きらめき揺れた。
 甲子園球場は、幻想的な光の世界と化した。
 そして、再び、照明がグラウンドを照らし出した。
 軽快な調べに合わせ、二万余の出演者の大行進が始まった。
 徒手体操の高等部員、リズムダンスの女子部員、マスゲームの男子部員……と、続々と入場してくる。
 雨は降り続いていたが、皆、堂々と、誇らかに胸を張り、手を振り上げて、さっそうと行進する。
 中央には、マスゲームの男子部員によって、鉄塔を使った″人間タワー″がつくられていた。
 それを取り巻くように、二万余の出演者が勢ぞろいし、幾重にも人の輪が描かれていった。
 グラウンドは、一つの大きな花のようでもあった。
 音楽は、学会歌「勝利への歌」に変わった。
 外野スタンドの向かって右側には「勝利」の人文字が浮かび上がった。
 期せずして、大合唱が起こった。
 一、いざ革命の時は来ぬ
   不滅の哲理かかげつつ
   大地ゆるがす若人の
   障魔を払う 大前進
29  常勝(29)
 出演者の衣装は、皆、泥にまみれていた。
 しかし、どの顔にも涙が光り、輝くばかりに、笑みの花が咲いていた。
 魂の勝利の喜びが、熱い感慨となって、込み上げてくるのである。
 皆、辛い練習に耐え、限界に挑み、雨という最悪な条件のなかで、見事なる、実に美事なる、最高の演技を成し遂げたのだ。
 それは、団結の勝利であった。
 互いに励まし合い、時には叱咤し合い、幾つもの友情のドラマが生まれた。
 ある部門では、御書や小説『人間革命』のほか、太宰治の小説『走れメロス』も学習し、人間の信義と青年の生き方を学んだ。
 そして、挫けそうになるたびに、真剣に題目を唱えて、自己の弱さやわがままと戦い、乗り越え、打ち勝ってきたのだ。
 誰もが、「やった!」という手ごたえを感じ、「やればできる!」という、自信と誇りと希望に満ちあふれ、大きく、大きく、成長していたのである。
 まさに、「人間錬磨」の大文化祭であった。
 まさに、「青春勝利」の大文化祭であった。
 そして、何よりも、青年たちが、不屈の「関西魂」を継承し、新しき「常勝関西」の金字塔を打ち立てた大文化祭であった。
 「勝利への歌」が終わると、「ワーッ」という、大スタンドを揺るがさんばかりの大歓声があがった。
 涙と雨でくしゃくしゃになった青年たちの顔は、尊貴なまでに誇らかな、人間の輝きに満ちていた。
 午後五時五十分、約二時間半にわたる文化祭が終了した。
 山本伸一は、大きな拍手を送り、手を振り続けていたが、やがて、立ち上がると、来賓への御礼のあいさつに向かった。
 来賓は、皆、称賛を惜しまなかった。涙ながらに、「感動しました」「すばらしい」と語る人もいた。
 後に日本写真家協会会長となる写真家の三木淳は、後年、次のような声を寄せている。
 「……雨に打たれ、泥濘にまみれ、演技する若者を見ているうちに、私の胸は熱くなり、眼より涙が滂沱と流れてきた。
 この若者達は、何かをやろうとする情熱がある。それは功利を超越したものであり、わが国の将来は絶対に明るい」
 この感動は、国境も超えて広がった。
 中国の周恩来総理の指示を受けて、創価学会を研究していた側近たちも、この雨の文化祭の記録フィルムを見て、大衆を基盤とした学会への認識を深めていったのである。
30  常勝(30)
 文化祭の終了を待っていたかのように、雨はさらに激しさを増し、沛然たる豪雨となった。
 山本伸一は思った。
 ″守られた。時間を繰り上げて、早めに開催してよかった。あとは、みんなが風邪をひかなければよいのだが……″
 この十八日、甲子園球場のある西宮市に隣接する尼崎市では、午前十時から午後十一時までに一〇九ミリの降水量を記録し、浸水地区が続出した。
 また、大阪市では一万戸を超す家屋に、床上・床下浸水の被害が出ている。
 伸一は、控室に入ると、直ちに側近の幹部に、役員への激励の伝言を託した。″陰の力″として文化祭を支えてきたメンバーに、真っ先にお礼が言いたかったのである。
 早朝から、文化祭の歓声さえ聞こえぬ駅や、雨の路上に立って、場外整理にあたった人もいる。
 徹夜で設営作業を行ったメンバーもいる。
 一日中、トイレの清掃に励んだ人もいる。
 こうした″陰の力″としての役割を担ったメンバーが、どれほど使命を感じ、誇らかに、生き生きと、作業に励んでいるかに、実は、その催しの意義の深さと、その団体の真価が表れるといえよう。
 また、学会の真実を見極めようとする人は、そうしたところに、鋭い眼を注ぐものだ。
 いわば″陰の力″となる人こそが、最も重要な働きを担っているのである。
 甲子園球場から、関西本部へ向かう車中、伸一は、浅田克美に言った。
 「今日は、本当にすばらしい文化祭だった。百点満点だ。いや、百二十点だ。
 二年前の東京の文化祭もよかったが、関西は、雨という最悪な条件のなかで大成功させた。すべてをバネにし、ドラマに変え、感動に変えて、勝った。
 これが関西魂だよ。
 ″常勝″とは、逆境に打ち勝ち続ける者に与えられる栄冠だ。
 今日を″常勝関西″の新しいスタートにしようよ」
 「はい!」
 浅田は、嬉しかった。文化祭が百二十点だと聞いたら、関西の同志はどんなに喜ぶだろうと思うと、涙が込み上げてきた。
 伸一は、言葉をついだ。
 「この雨の文化祭は、年とともに、関西の勝利の金字塔として、ますます輝いていくよ。あの泥だらけの衣装は、みんなの生涯の宝物になるよ」
 雨は激しく車窓を叩いていたが、伸一の胸には、関西の澄み渡る常勝の空が、無限に広がっていた。
31  常勝(31)
 このころ、山本伸一が胸を痛め続けていた、大きな問題があった。
 果てしない泥沼のような様相を呈してしまった、ベトナム戦争である。
 この一九六六年の七月十七日、ベトナム民主共和国(北ベトナム)大統領のホー・チ・ミンは、アメリカの北爆拡大に対して、ハノイ放送を通して、国民に徹底抗戦を呼びかけた。
 彼は叫んだ。
 「戦争は五年、一〇年、二〇年、あるいはそれ以上長びくかも知れないし、ハノイ、ハイフォンその他いくつかの都市、企業は破壊されるかも知れない。
 しかし、ベトナム人民は絶対におどかされはしない。独立と自由ほどとうといものはほかにはない。勝利の日がきたとき、わが国人民は、より壮大な、よりすばらしいみずからの祖国をふたたび建設するであろう!」
 米軍が北ベトナムのドンホイを攻撃し、「北爆」を開始したのは、前年の六五年二月のことであった。
 アメリカの、この本格的なベトナムへの直接介入以来、事態は混迷の一途をたどっていったのである。
 ――ベトナムは、美しき緑の天地である。
 過去には、漢帝国の遠征軍の侵攻以来、一千年にわたって、他国の支配を受けたが、十世紀半ばに独立。これ以後、北部ベトナムを中心に、幾つかの王朝が興亡し、一時期を除いて、北方勢力の侵入を撃退し続け、独立を保ってきた。
 ところが、十九世紀後半に、フランスによって、植民地とされてしまった。
 さらに、一九四〇年には日本軍の進駐が始まったのである。
 これによって、ベトナムは、日本とフランスの二重支配という構造のなかで、塗炭の苦しみに喘ぐことになるのである。
 だが、四五年の八月、太平洋戦争が終わると、ホー・チ・ミン率いるベトミン(ベトナム独立同盟)が立ち上がり、ハノイで、ベトナム民主共和国臨時政府が樹立される。
 ベトミンは、四一年に、インドシナ共産党の指導のもとに、独立を目的として組織された民族統一戦線である。
 翌四六年一月、ハノイ政府は、全国で総選挙を実施。三月、国会が開かれ、ホー・チ・ミンを、大統領兼首相に選出し、独立国家としての歩みを開始した。
 しかし、植民地支配の再確立を狙うフランスは、四六年六月、かつて直轄植民地であった、南部ベトナム(コーチシナ)に、コーチシナ自治共和国の独立を宣言したのである。
32  常勝(32)
 ″北から南までベトナムは一つ″と主張するベトナム民主共和国に対して、フランスは武力行使に出た。対立は激しさを増した。
 遂に、一九四六年の十二月、ホー・チ・ミンは、フランスへの全面抗戦をベトナム人民に呼びかけ、第一次インドシナ戦争(第一次ベトナム戦争)が始まったのである。
 この戦争には、仏領インドシナを構成していたラオス、カンボジアも巻き込まれ、八年にわたって、戦いが続くことになる。
 四九年六月、フランスは国家としての内実のともなわないコーチシナ共和国に代わって、前ベトナム皇帝バオ・ダイを擁立、南部にベトナム国を建国させる。
 戦いはフランス軍が優勢であったが、ベトミン軍のゲリラ戦が功を奏し、やがて戦況は変わっていった。
 また、世界情勢も、大きく動いていた。
 四九年の中国大陸における共産軍の勝利、中・ソによるベトナム民主共和国の承認という事態のなかで、アメリカは、共産勢力の伸長を警戒し始めた。
 そして、バオ・ダイ政権を承認し、フランス軍への軍事経済援助に踏み切ったのである。
 だが、ベトミン軍も、必死だった。
 ハノイの北西に位置し、周囲を高い山に囲まれた盆地である、ディエンビエンフーでの戦いが、攻防戦の最後を決した。
 ベトミン軍は、五四年の五月、ここでフランス軍を撃破する。
 そして、スイスのジュネーブで休戦会議が開かれたのである。これには、紛争当事国のフランス、ベトナム民主共和国、ベトナム国(バオ・ダイ政権)、ラオス、カンボジアのほか、次の四カ国が参加した。
 すなわち、フランスを援助してきたアメリカ、第二次世界大戦直後に連合国軍としてベトナム南部を管理したイギリス、ベトナム民主共和国を支援した中国、ソ連である。
 会議の結果、七月二十一日にジュネーブ協定が結ばれ、暫定的に北緯一七度線を軍事境界線として南北に分け、その両側に最大限五キロにわたって非武装地帯を設け、両軍は撤収することが定められた。
 また、ベトナムは、二年後の五六年に国際監視のもとで統一選挙を行うことが決まった。
 さらに、関係諸国は、ベトナム、カンボジア、ラオスの独立と主権を尊重し、仏領インドシナという植民地の歴史に終止符が打たれたのである。
33  常勝(33)
 このジュネーブ会議では、アメリカは統一選挙を明記した最終宣言への参加を拒否した。
 また、バオ・ダイ政権は休戦協定自体にも反対し、やはり最終宣言の調印を拒んだのである。
 もし統一選挙を行えば、ホー・チ・ミンが圧倒的勝利を収めることが、明らかであったからだ。
 その後、南部のベトナム国では、バオ・ダイのもとで首相だったゴ・ジン・ジェムが、権力の独占に成功する。
 一九五五年十月、国家の元首を決める国民投票でバオ・ダイが敗れると、政体はベトナム共和国(南ベトナム)に改められ、ゴ・ジン・ジェムが大統領に就任した。
 これによって、ベトナムの南北分断が、固定化されていったのである。
 休戦協定後、ベトナムから撤兵したフランスにかわって、アメリカがベトナム国の支援にあたってきたが、アイゼンハワー米大統領は、このゴ・ジン・ジェム政権を支持し、引き続き、軍事支援を約束した。
 このアメリカの対応は、いわゆる「ドミノ理論」の思想からである。
 ある国が共産化すれば、ドミノ倒しのように隣国も次いで共産化する。さらに広がって、やがて全体が共産化していくという考え方である。
 ソ連、中国、そして北ベトナムと広がった共産主義の流れを、ベトナムでくい止めようとしたのである。
 しかし、アメリカが支援したゴ・ジン・ジェムは、独裁者と化していった。
 露骨な縁故による人事で一族支配の体制を固め、自らの政権に反対する者は、ことごとく共産主義者とみなし、徹底的に弾圧した。
 ベトミンへの苛烈な弾圧はむろんのこと、共産主義者と疑われた一般大衆も、犠牲になった。投獄され、拷問を受け、死に至る者が続出した。
 さらに、自分が信ずるカトリックの信者を優遇し、仏教僧侶・仏教徒は徹底して迫害した。
 また、五六年に実施することになっていた、南北統一のための選挙も無視したのである。
 裏切られた北ベトナムは自力の解放をめざした。
 そして、六〇年の十二月に、ベトナム労働党(五一年、インドシナ共産党から改称)の南部中央局の指導のもと、南ベトナム解放民族戦線が結成される。
 これは、南ベトナムの反米、反ゴ・ジン・ジェム勢力が結集した統一戦線であり、農民、労働者をはじめ、青年、婦人、学生、作家・芸術家、仏教徒など、広範な大衆団体が加わっていた。
34  常勝(34)
 南ベトナム解放民族戦線は、ゴ・ジン・ジェム政権やアメリカの側からは、ソ連や中国の手先だと非難され、「ベトコン」(ベトナムの共産主義者の意)と呼ばれた。
 だが、実際には、共産主義者だけではなく、広く民衆の支持を得ていたのである。
 解放民族戦線は、ゲリラ戦を展開していった。
 ゲリラ戦には、敵から奪った銃などの武器をはじめ、配水管から組み立てた手製のショットガンや弓、槍、竹槍など、あらゆる武器が使われた。
 ゲリラは神出鬼没であり、戦いはしたたかであった。それが、南ベトナム政府軍を疲弊させていった。
 また、テロ攻撃も行われ、政府軍支援のために、アメリカから派遣された軍事顧問が死傷する事件などが頻発した。
 これに対して、アメリカは軍事顧問の増員を図り、対ゲリラ訓練のための特殊部隊(グリーンベレー)を送ったのである。
 だが、解放勢力の勢いは止められなかった。
 加えて、ゴ・ジン・ジェム大統領の圧政はとどまるところを知らず、それを支援するアメリカへの反発も高まっていった。
 一九六三年六月には、一人の老僧が仏教徒弾圧に抗議し、サイゴン(現ホーチミン)の中心街で焼身自殺するという、衝撃的な事件が起きている。
 それでも、圧政は激化するばかりであった。
 しかし、十一月、密かにアメリカが関与したといわれる、軍部によるクーデターが発生し、ゴ・ジン・ジェムは捕らえられて、殺されてしまう。
 クーデター以後、南ベトナムの政権は、ますます不安定なものとなり、人びとの苦悩、不安は、さらに増していく一方であった。
 六四年八月――。
 アメリカは、北ベトナムのトンキン(バクボ)湾沖で、米駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に二度にわたって攻撃を受けたと発表した。
 いわゆる「トンキン湾事件」である。
 この事件については、二度目の攻撃はなかったとの証言もあり、今なお不明な点が多いが、ともあれ、これを契機にアメリカの報復攻撃が始まるのである。
 六五年二月七日、米軍の本格的な北ベトナムへの継続的な爆撃が始まった。
 「ローリング・サンダー作戦」と呼ばれる「北爆」である。
 こうして始まった攻撃で、北ベトナムに落とし続けた爆弾は、第二次世界大戦で使用された爆弾の総量を上回ったといわれる。
35  常勝(35)
 一九六五年三月、アメリカは海兵隊をベトナムに投入し、以後、米兵の派遣は増大し続けていった。
 そして、南ベトナム政府軍を米軍が支援するという段階をはるかに超え、アメリカが完全に戦いの主役となっていった。
 ベトナム戦争の「アメリカ化」である。
 アメリカの「北爆」に対する、北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線の「ゲリラ戦」――というこの戦争は、長期化の一途をたどっていった。
 六六年になると、ベトナム戦争は、まさに″泥沼″の深みに陥っていた。
 六五年末には約十八万人であったベトナム派遣の米軍は、六六年の十月末には三十四万五千人に上った。
 これが、最高時(六九年)には、五十四万人を超えるまでに膨れ上がるのである。
 また、アメリカの要請により、自由主義陣営から、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの軍隊が参戦していたが、六六年にはフィリピン、タイの軍隊も参加し、米軍とともに戦うようになった。
 六六年の十月二十四日、二十五日の両日には、これら自由主義陣営のベトナム戦争参戦国が一堂に会し、フィリピンのマニラで首脳会議を開催した。
 この会議は「平和会議」と称されたが、和平に向かう新しい局面は開かれず、参戦国間の結束を固め合う場となった。
 北ベトナム側も、ソ連、中国の支援を受け、まさにベトナムは、冷戦状態にある東西両陣営が激突する、熱戦場となったのである。
 この事態を、山本伸一は憂慮し続けてきた。
 戦争が激しさを加えるたびに、彼の苦悩は深まり、心は激しく痛んだ。
 戦争で真っ先に死んでいくのは青年であり、最大の犠牲となるのは罪もない民衆である。
 六六年の一月に行われた首都圏の高等部員会に出席した伸一は、南ベトナム政府軍に捕らえられ、処刑された解放民族戦線の兵士について言及した。
 「昨年、あるグラフ雑誌に、民族解放のため、祖国復興のために戦う、ベトナムの二十歳の一青年が、政府軍に捕まって銃殺された写真が出ておりました。
 まだ、若い、若い命であり、いろいろ人生の夢もあったにちがいない。家には家族が待っていたかもしれない。
 しかし、『ベトナム解放軍万歳!』『アメリカはベトナムから出ていけ!』との思いを胸に、彼は死んでいった」
36  常勝(36)
 山本伸一は、場内の一人ひとりに語りかけるように話を続けた。
 「私は、信念を貫いて、銃殺されていったその青年は、偉いなと思いました。
 だが、半面、かわいそうで仕方ありませんでした。
 そして、その写真を、脳裏に刻みつけ、若い皆さん方を苦しめるような、そんな社会にしては絶対にならないと、私は、深く決意いたしました……」
 彼は、ここに集った高等部員が、自分の心を受け継いで、生涯、世界平和の実現のために生き抜いてほしいと祈り念じつつ、心情を語ったのである。
 ベトナムの空は硝煙に覆われ、和平の光を見いだすことはできなかった。
 日を追うごとに、犠牲者の数も増していった。
 伸一は、戦火に怯える民衆を思うと、胸は張り裂けんばかりであった。
 当時、ベトナムには学会のサイゴン支部もあった。
 伸一は、ともかく、この凄惨な戦争を、一日でも、一瞬でも早く、やめさせなければならないと思った。
 そして、この年(一九六六年)の十一月三日に行われる青年部総会で、仏法の平和思想を語るとともに、ベトナム戦争解決への、提言を行うことを決意したのである。
 そうした発言をすれば、アメリカに追随する政府関係者や政治家などが、さまざまな圧力をかけてくることは、十分、予測された。
 しかし、何があろうが、仏法者として、いや、一人の人間として、語らないわけにはいかなかった。
 青年部総会は、秋晴れに恵まれた三日、午前十時前から、東京・千代田区の日本武道館で開催された。
 伸一の講演が始まった。
 彼は、まず、『ヨーロッパの内幕』や『アジアの内幕』『アメリカの内幕』等々の著作をもつ、世界的なジャーナリストである、ジョン・ガンサーのインタビューに応じた折の語らいから話を始めた。
 「私は、ガンサー氏に、米中戦争はあると思いますか、と聞きました。
 氏の答えは、ないと思うが、その可能性はある、というものでした。
 さらに、あなたは、ベトナム問題を、どのように解決していけばよいと思いますか、と質問いたしました。
 すると氏は、困ったという顔をされていましたが、『非常に難しくて、私にもわからない。知っている人は誰もいないでしょう』と述べておりました」
37  常勝(37)
 山本伸一は、現在のままでは、世界情勢は大変な事態になりかねないと指摘し、世界平和を創出するための哲学こそ、仏法の「中道主義」であることを訴えていった。
 ――この「中道」とは、政治的な穏健派の意味ではなく、仏法で説く、「空仮中の三諦」の中諦をいう。
 「諦」は「つまびらか」「明らか」ということで、「三諦」とは、一切の現象の真実の在り方を三つの次元でとらえたものである。
 「三諦」を生命論の立場から述べると、「空諦」とは、目に見えない性分であり、主に心、または精神作用にあたる。
 心や精神は「空」であって、有でもなければ無でもない。冥伏していて、縁に触れて現れる不可思議な実在である。
 たとえば、人間の怒りにせよ、何かを契機にして、込み上げてくるが、やがてその感情は去ってしまう。
 また、「仮諦」とは、主に物や肉体、姿、形、その活動の面をいう。
 それは、種々の条件の組み合わせにより、仮に成立し、存在している。ゆえに、花もいつかは、散っていくのである。
 さらに、「中諦」すなわち「中道」とは、生命の本質、本体、または生命の全体をいう。
 人の生命は、心という「空」の面と、肉体という「仮」の面を兼ねそなえながら、どちらにも偏らずに存在しており、それらを貫く、生命の本源、本質が「中」なのである。
 怒りを例にとれば、人は怒っていない時でも、怒りは心のなかに冥伏しており、怒りの生命そのものがなくなってしまったわけではない。
 あるいは、草木の場合でも、咲いていた花は枯れても、その草木自体の実体に変わりはない。
 この生命の妙理、全体像を把握したのが、「中道」である。
 爾前経では、この「空仮中の三諦」を別々に説いていたが、法華経に至って、「円融三諦」、すなわち三諦のそれぞれが他の二諦を具え、融合し、一体となっていることが明かされる。
 つまり、完全無欠なる生命の真実の姿が説かれたのである。
 この円融三諦の完全な生命観を自在に展開したのが、末法の法華経である日蓮仏法である。
 そして、この日蓮仏法に基づき、肉体、物質にも、心、精神にも偏することのない、生命の全体像に立脚した「中道主義」を掲げ、「生命の尊厳」の時代を築きゆくのが、創価の大運動なのである。
38  常勝(38)
 山本伸一は、「空仮中の三諦」と中道主義について説明したあと、現代の支配的な思想を、「三諦」という生命の法理にあてはめて論じていった。
 「唯心思想は空諦の一部分を説いたものといえますし、唯物主義は仮諦の一部分を説いたにすぎません。実存主義もまた、中諦の一部分の哲理にすぎない。
 しかも、その三諦は別々であり、あくまでも爾前経の域を出ません。
 ゆえに、生命の本質的解明なきその哲学、思想は、全世界の民衆を納得させ、救済していくものとはなりえないのであります。
 この唯心、唯物、実存の各思想・哲学を包含し、また、それらを指導しきっていく中道の哲学、中道思想こそ、日蓮大聖人の仏法であると、私は声を大にして訴えたいのであります」
 青年たちは、伸一の語る仏法の哲理の深遠さに感嘆しながら、目を輝かせ、拍手を送るのであった。
 さらに、伸一は、この中道主義に基づく政治について、言及していった。
 「中道主義を根底にした政治、すなわち中道政治は、対峙する二つの勢力の中間や、両極端の真ん中をいくという意味ではありません。
 あるいは、両方から、そのよいところをとって、自己の生き方とするような折衷主義でもありません。
 色心不二の仏法の生命哲学に立脚した、人間の尊厳を守り、平和と幸福を実現しゆく政治ということであります。
 また、その政治は、党利党略が中心であっては絶対にならない。何よりも国民大衆の利益を第一義に、大衆福祉をめざす政策を実践する政治であるべきです。
 それが、私どもが支援する公明党の、永遠の在り方であると、私は断言しておきたい。
 そして、そのためには、ある時は、保守政党の政策を擁護していく立場をとることもあるでしょう。
 ある時には、革新政党と協調し、進んでいくこともあるでしょう。
 常に現実的であると同時に、大局観に立った、高い次元の政策を実践していくというのが、中道主義に生きる政治家の行動でなければなりません」
 このあと、伸一は、日本の使命について述べ、世界で原爆が投下された唯一の国であり、地理的にも東西の接点にある日本は、アジアの先駆けとして、恒久平和実現の第三勢力とならねばならないと語った。
 それは、自国が安泰であれば、それでよしとする日本人の生き方を覚醒せんとする叫びでもあった。
39  常勝(39)
 それから、山本伸一は、ベトナム戦争について、解決のための具体的な提案を発表していった。
 「今、私は、恒久平和を実現しゆく仏法者の見地に立って、当面するベトナム問題について、次のように提案したい。
 すなわち、即時停戦のうえ、南ベトナム解放民族戦線を含めた関係国による、世界平和維持会議を東京で開く。そして、合意のうえで米軍の引き揚げを行う。
 また、今後、紛争が起きないよう、非武装地帯に国連軍を駐在させる。
 この解決案を、日本が国連において提唱し、またベトナム紛争に関係していない国々を結集して、ベトナム和平への呼びかけを強力に行うべきであると主張したいと思いますが、いかがでしょうか!」
 戦争など、断じて許すものかという、怒りと決意を含んだ伸一の叫びが、青年たちの魂を射貫いた。
 次の瞬間、日本武道館の大天井を揺るがさんばかりの賛同の大拍手が轟いた。
 青年たちの多くもまた、ベトナム戦争に心を痛めてきたのである。
 しかし、この提案を、アメリカをはじめ、当事国が、直ちに聞き入れることはないかもしれない。
 たとえ、そうであっても、泥沼化したベトナム戦争を終結させるために、命をかけて叫び続けていかねばならないと、伸一は心に決めていたのである。
 さらに彼は、遺言の思いで、こう呼びかけた。
 「諸君の力によって、地球民族主義の旗を高らかに掲げて、やがて国境のない世界連邦を築いていただきたい!」
 参加者は、拍手でこれに応えながら、世界の平和のために、伸一の提案をあらゆる機会に叫び抜いていくことを決意し合った。
 この一週間前には、イギリスの哲学者でノーベル文学賞受賞者のバートランド・ラッセルが中心となり、「ベトナム戦争犯罪国際裁判」の創設を正式にアピールしていた。
 これは、ベトナム戦争の実態を、兵器の実物の公開や、被害者の証言などの事実によって明らかにし、アメリカ首脳部の戦争犯罪を明確にしようとの運動であった。
 また、五カ月前には、アメリカの大学教授ら六千四百人が、「ニューヨーク・タイムズ」紙に、三ページにわたるベトナム停戦要求の広告を掲載するなど、ベトナム和平を望む声が広がりを見せ始めていた。
 そのなかで、伸一によって、東洋からの声として、和平への新たな提案が発表されたのである。
40  常勝(40)
 山本伸一の即時停戦の提言は、日本から送られてくる聖教新聞等を通して、世界の同志にも伝えられた。
 伸一のこの提言に、最も大きな反応を示したのは、アメリカの青年部員たちであった。
 彼らにとっては、ベトナム戦争は、極めて切実な人生のテーマであった。
 だが、メンバーのベトナム戦争の受け止め方は、決して一様ではなかった。
 アメリカ社会の多くの人びとの認識がそうであったように、「共産主義からベトナムを守るための戦い」であるととらえている人もいれば、アメリカのアジア侵略であると考えている人もいた。
 ただ、いずれにしても、戦争はやめるべきであり、殺戮や破壊に対しては絶対に反対であるという点では、メンバーの考えは共通していた。
 だから、伸一の即時停戦の提言には、皆、大賛成であった。そこに、仏法者の在り方を見いだし、平和実現への誓いを固め合ったのである。
 しかし、それは、すぐには社会を動かす力にはなりえなかった。時代を変えるには、当時のメンバーは、あまりにも少なすぎた。
 また、メンバーの年代も、職業も、立場も異なっており、平和建設のために、具体的に何をするかとなると、意見もさまざまであった。
 したがって、アメリカの創価学会として、統一的な運動を起こすことは難しかった。
 たとえば、ベトナム戦争の抗議デモを行えば、それに参加した職業軍人の立場はどうなるか――。
 そう考えると、それぞれが、個人の判断で、山本会長の提言の実現に取り組む以外になかった。
 ベトナム戦争はますますエスカレートしていった。
 一九六七年になると、北爆もさらに激しくなり、八月には、アメリカのジョンソン大統領は、南ベトナム駐留米軍を、最大限五十二万五千人とする増強計画を明らかにしている。
 その八月の二十四日、東京・両国の日大講堂で開催された第十回学生部総会で、山本伸一は、再び、ベトナム戦争について、北爆停止等の提案を行った。
 この日は、彼の入信満二十年の記念日であった。
 彼の入信した四七年(昭和二十二年)といえば、まだ、街のあちこちに戦争の爪痕が残され、人びとは飢えと戦いながら、必死に生きていた時代であった。
 しかし、それでも、戦争が終わり、空襲も灯火管制もなくなった街は、平和であり、自由があった。
41  常勝(41)
 戦争で長兄を失い、その悲惨さを痛感してきた山本伸一は、ベトナム戦争の終結のために、全精魂を注ぎ抜いていくことを固く決意していた。
 学生部総会で講演に立った伸一は、戦火に喘ぐベトナム民衆の苦悩を思い、一日も早く平和が実現するように祈り続けてきたことを述べ、次のように訴えていった。
 「私は、昨年十一月三日の青年部総会の席上で、ベトナム問題の解決のため、若干の提案をし、青年部諸君の賛同を得ましたが、ベトナム戦争の一層のエスカレートにともない、ここで再び、提案を発表しておきたい。
 アメリカ軍の北爆強化は、もはや米中戦争の危機さえ招かんとしている。
 ゆえに私は、第一に、直ちにアメリカ軍の北爆を停止し、次に非武装地帯をはじめとする南ベトナム内の軍事行動や、軍隊派遣を同時に停止する。
 そして、南ベトナム解放民族戦線を含めた関係国による世界平和維持会議を東京で開く。さらに、合意のうえでアメリカ軍の引き揚げを行う。その後、各国が南北ベトナムに対し、経済援助を行う。
 また、今後、紛争が起きないよう、非武装地帯に国連監視軍を常駐させる。さらにまた、ラオス、タイ等に、絶対に戦火を拡大させない。
 この解決策を日本が国連において提唱し、また、ベトナム戦争に関係していない国々を結集して、ベトナム和平への呼びかけを強力に行うべきであると主張するものでありますが、いかがでしょうか」
 泥沼化するベトナム戦争の行方を憂えてきた学生部のメンバーは、この伸一の提言に光を見いだした思いがした。
 賛同の大拍手が大鉄傘を揺るがした。
 伸一は、さらに力を込めて語った。
 「本年に入って、ウ・タント国連事務総長は、ベトナム問題解決のために、即時停戦を基調とする新提案を行いましたが、北爆停止を先決条件としない新提案は、実を結ぶにいたりませんでした。
 情勢は、どうしても、アメリカ軍の北爆停止を先決条件とせざるをえなかったのであります。
 北爆停止を先決条件とする即時停戦こそ、平和への方途であります。
 われわれは、最後まで、決して望みを捨てることなく、国際世論を喚起し、ベトナム戦争を早急に解決することをめざして、前進してまいろうではありませんか!」
42  常勝(42)
 山本伸一の学生部総会での提言に共感した学生部員は、自信と誇りをもって、この提言を友人たちに語り抜いていった。
 アメリカのメンバーも、平和の流れを開こうと懸命であった。
 彼らには、ベトナム戦争の重い現実が、もろにのしかかっていた。
 徴兵され、あるいは職業軍人として、ベトナムに行かねばならない人も、少なくなかったのである。
 そうした青年たちや、その家族の苦しみは、人一倍深かった。
 ハワイの男子部の副部長であるS・G・ライクは、海軍の軍人で、伸一が一九六六年(昭和四十一年)十一月の青年部総会で、最初にベトナム戦争の停戦を提案した直後、ベトナムに派遣されることになった。
 彼は、ベトナム行きを悩み続けた。
 戦争に行けば、殺されるかもしれない。あるいは、自分の手で、人を殺すことになるかもしれないのだ。
 だが、彼は、愛する家族のためにも、広宣流布の使命を果たすためにも、断じて生きて帰りたかった。また、仏法者として、絶対に人など殺すわけにはいかないと思った。
 しかし、軍の命令に逆らうことはできない。
 ″国家のために戦うのが軍人の務めだ。俺は、どうすればいいんだ!″
 ライクは、祈り続けてきたが、悶々としたまま、ベトナムに向かう駆逐艦に乗り込んだ。
 太平洋の波は荒く、船は揺れに揺れた。彼の心も、揺れ続けていた。
 途中、ライクを乗せた駆逐艦は、日本に寄港した。
 横須賀港に着いた彼は、早速、東京の学会本部に、山本会長を訪ねた。
 伸一は、笑顔で彼を迎え入れた。
 しかし、ライクはニコリともしなかった。
 堂々たる体躯のライクが、身を縮ませるようにして、青ざめた顔で語り始めた。通訳がそれを伝えた。
 「私は、今からベトナムへまいります。人を殺すかもしれませんし、自分が殺されるかもしれません」
 ライクの悲痛な訴えを聞くと、伸一は、包み込むように言った。
 「心配する必要はありません。あなたには、御本尊があるではありませんか。御本尊はすべての願いを叶えてくれます。だから、どんな状況でも、題目だけは忘れてはいけない。
 私も、あなたが無事にハワイに帰るまで、お題目を送り続けます」
 ライクは、心の底から、勇気がわき上がってくるのを覚えた。
 彼は、戦地では、駆逐艦の砲手の任務に就いた。
43  常勝(43)
 S・G・ライクは、戦地にあっても、「必ず生きて帰れますように。また、どうか、一人の敵も殺さないですみますように」と、懸命に唱題した。
 だが、遂に戦闘が始まってしまった。
 イヤホンを通して、ライクに、「撃て!」という指示が伝えられた。
 彼は、やむなく「発射」のスイッチを押した。
 轟音とともに砲弾が飛び出す――はずであった。
 しかし、大砲から砲弾が発射しないのである。故障であった。
 ライクは、来る日も、来る日も、大砲の修理に明け暮れた。
 そして、結局、一度も砲弾を撃つことなく、帰国することができた。
 彼は功徳を実感した。
 それから数カ月後にも、ライクは、再びベトナムに送られることになった。
 彼は、ハワイにとどまっていたかった。この時も、必死になって祈った。
 すると、今度は、乗船する直前になって、膝に激痛が走った。軍医に診てもらうと、とても船に乗れる状態ではないと言われた。
 ベトナム行きは中止になり、彼は陸上勤務になったのである。
 こうしたアメリカのメンバーの体験は、枚挙に暇がない。
 苦悩し、葛藤し抜いて、人を殺すことを絶対に避けようとした彼らの生き方は、軍人という現実の重さを背負っての、精いっぱいの戦争への″抵抗″であったといえよう。
 また、海兵隊にアルバート・E・パートンという少尉がいた。彼は、南ベトナムのダナンに派遣され、小隊の指揮官になった。
 小隊の兵士は六十人で、大半が十八、九歳の若者であった。彼は兵士たちを見ながら思った。
 ″みんな、本当に若い。輝く未来をもっている。この小隊からは、一人たりとも、死ぬような人間を出すものか。
 俺は「名誉の戦死者」を出すための指揮官ではないはずだ。全員を「名誉の帰還者」にするための指揮官だ! 必ず、生きてアメリカの大地を踏ませるぞ!″
 彼は、小隊員の無事を祈念して唱題した。「みんなが元気に、今日も生き延びられるように」と、懸命に祈った。
 ほかの小隊からは、戦闘のたびに、多くの戦死者が出た。一年間で、半数を超す兵士が犠牲になった小隊も少なくなかった。
 しかし、不思議なことに彼の小隊からは、一人の戦死者も出すことなく、全員が、無事に生還できたのである。
44  常勝(44)
 アメリカの青年部のなかには、真っ向から反戦・平和の旗を掲げて立ち上がった人もいた。アルバート・スタイナーという、ボストン大学の学生である。
 彼は、山本伸一が青年部総会で即時停戦の提言をする二カ月前の、一九六六年九月の入信であった。
 信心を始めたのも、初代会長の牧口常三郎や第二代会長の戸田城聖が、戦時中に軍部政府と戦い抜いたことに感銘してのことだ。
 スタイナーは、友人と一緒に、北爆の停止とアメリカ軍の帰還を政府に訴えるデモを計画し、自らその先頭に立った。
 罪もない若者たちが、虫けらのように殺されていく戦争は、断じて間違っているというのが、彼の確信であった。
 外国に移り住めば、徴兵を逃れることができた。事実、富裕な家の息子たちのなかには、そうしている人もいた。
 しかし、彼は、そんなことはしたくなかった。
 むしろ、自分と同世代の若者が戦場で死んでいるのに、学生である自分には、徴兵延期の特典があることに、矛盾と痛みを感じていたのである。
 ある日、彼は、選抜徴兵局に行って、兵役につくことを申し出た。
 徴兵が決定したら、ベトナム行きを拒否し、牢獄に入って、反戦の信念を貫こうと考えたのである。
 それから一カ月後に、スタイナーの徴兵は決まり、身体検査を受けた。
 検査は合格したが、選抜徴兵局の関係者は、彼に大学に戻るように告げた。
 当局は、デモを企画するなどの、スタイナーの行動を危険視し、兵役につかせるべきではないと判断したようだ。
 自分では、獄中闘争を貫徹するつもりでいたが、結局、肩すかしをくわされた感じだった。
 日を追うごとに、アメリカ社会は、暗澹とした雰囲気に包まれていった。特に、若者の精神の荒廃は激しかった。
 いつ戦場に送られるかもしれない不安と恐怖。やり場のない怒りから、酒や麻薬、犯罪に走る青年も多かった。
 帰還した若者もまた、悲惨このうえなかった。負傷し、手や足を失った人もいた。また、誰もが、心には、多くの無残な傷跡が刻まれていた。
 砲撃で頭蓋骨が吹き飛んだ戦友や、自分が撃ち殺したベトナム人の兵士のことなどが頭から離れず、うなされ続ける人もいた。
 虚脱感に襲われ、生ける屍のように無気力になった若者も少なくなかった。
45  常勝(45)
 アメリカの若者たちの多くは、戦争に突き進む、国家という巨大なメカニズムの前には、個人の無力さを痛感していた。
 そのなかで、青年部のメンバーは、仏法には、この地上から、永遠に戦争をなくす方途が説かれているはずだと確信し、必死になって、御書や山本伸一の講義を研鑽していった。
 仏法の研鑽が進むにつれて、彼らは、戦争は仏法で説く、「魔」の働きによるものであることを、強く実感するようになった。
 「魔」は「殺者」「能奪命者」「破壊」などと訳され、煩悩など、衆生の心を悩乱させ、生命を奪い、智慧を破壊する働きである。
 そして、この「魔」の頂点に立つのが、「第六天の魔王」である。
 それは「他化自在天」といわれ、他者を隷属させ、自在に操ろうとする欲望を、その本質としている。
 だが、「第六天の魔王」といっても、人間に潜む生命の働きなのである。
 この魔性の生命が人間の心を支配する時、人間は殺者や破壊者の働きをなし、戦争を引き起こしていくのである。
 では、何をもって、この「第六天の魔王」を打ち破ることができるのか。
 それは、ただ一つ、「仏」の生命のみであることを、仏法は教えているのだ。
 青年たちは語り合った。
 「国家を形成しているのも人間だ。戦争を引き起こすのも、平和を築くのも、すべて人間だ。つまり、人間こそがいっさいの原点だと思う。
 その人間の心のなかに宿る、憎悪や破壊や支配といった『魔性』の生命を打ち砕き、『仏』の生命を打ち立てていかなければ、本当の平和はないのではないだろうか」
 「ぼくも同じ考えだ。
 国家の指導者同士の和平交渉も大事だが、根本的な平和の道は、一人ひとりの人間の生命を変革する以外にない。
 つまり、人間の心のなかに、崩れざる″平和の砦″を築く、″人間革命″しかないんだ」
 「だから、結局は、遠い道のりのように思えても、広宣流布の推進こそが、最も確かで、本質的な平和への道ということになる。
 すべての人間が仏の生命をもち、尊厳無比なる存在であると説く仏法の考え方が、人びとの心に根ざしていけば、戦争を起こし、人を殺すなどという発想は出てこないからね」
 アメリカの青年部のメンバーは、世界平和の実現のために、生涯、広宣流布に生き抜くことを誓い合ったのである。
46  常勝(46)
 ベトナムに在住している学会員も、日本から送られてくる聖教新聞などで、山本伸一の二度にわたる提言を知った。
 ベトナムには、一九六二年の九月に、支部が結成されていた。
 サイゴンとその周辺に住む八十世帯ほどで構成され、支部名はサイゴン支部であった。
 メンバーは、最初はほとんどが日本人であったが、次第にベトナム人も増えていった。
 六五年二月、アメリカ軍の北爆が始まるが、それは北緯一七度以北で、サイゴンからは八百キロほど離れており、サイゴンの人びとの生活には、大きな支障はなかった。
 しかし、日を追うごとにアメリカ軍、南ベトナム政府軍に対する、解放戦線のゲリラ活動が盛んになっていった。政府軍も躍起になり、捕らえたゲリラを、見せしめとして銃殺するなど、凄惨な光景が見られるようになった。
 また、北ベトナムの軍隊が進攻して、サイゴンも戦場になるのではないかという不安に、人びとはさいなまれていたのである。
 そのなかで、活発に座談会が開かれていたのだ。
 メンバーの中心となっていたのが、支部長の深瀬孝治と、彼の妻で支部婦人部長の道枝であった。
 深瀬は、造船の技術者として六二年からベトナムに派遣された、五十過ぎの男性であった。
 サイゴンの彼の家で開かれる座談会には、日本人、ベトナム人だけでなく、アメリカをはじめ、韓国やフィリピンから派遣された軍の関係者など、さまざまなメンバーが集って来た。
 当然、互いに言葉は通じない。
 そこで、座談会は、朝はベトナム語、昼は英語、夜は日本語と、三回にわたって行われることもあった。
 また、戒厳令が敷かれると、多人数の集会は禁止されるため、座談会は食事会の形式をとって行わなければならなかった。
 ある時、メンバーの活動に警戒の目が向けられ、支部長の深瀬が警察に連行された。
 だが、彼は「今が学会のことを教えるチャンスだ」と、意気揚々と警察に向かった。
 そして、ベトナムの繁栄と平和を築くための信仰であることを訴え、無事に帰宅したのであった。
 そうしたなかでベトナムの同志は、山本会長の六六年の青年部総会での提言を知ったのである。
 ベトナム人のメンバーには、日本人が現地の言葉で伝えていった。
47  常勝(47)
 山本伸一の即時停戦の提言を聞いた人たちは、涙ながらに誓い合った。
 「山本先生は、ベトナムのことを、本当に心配してくださっているんですね」
 「まず私たちが、平和のために頑張らなければ……。それには、仏法の平和の哲学を語り抜いていくしかない」
 戦火の国に、布教の火が燃え上がった。
 そして、学生部総会で伸一が二度目の提言を発表した一九六七年ごろには、メンバーは数百世帯になっていた。
 ベトナム戦争の戦況が大きく変化したのは、六八年一月三十日、解放勢力が展開した「テト攻勢」からであった。
 「テト」とは、ベトナムの旧正月のことであり、この戦いで北ベトナム側は勢いにのった。
 旧正月を迎える前、北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンは、全国民に向かって恒例の新年のメッセージとして、詩を贈った。
  ことしの春は過ぎゆきし春よりどんなにかすばらしいものとなるだろう
  疾風怒濤の嵐の勝利のうれしい知らせをわが祖国は待ち望んでいる
  南も北も競ってアメリカの侵略主義者と戦おう
  突撃せよ。完璧な勝利をわたしたちのものとしよう
 この詩は、解放をめざすベトナムの人びとの魂を揺さぶった。民衆とともに生きる指導者の詩は、「勇気」を爆発させる号砲となったのである。
 解放戦線軍は、首都サイゴンをはじめ、約四十の都市を攻撃した。
 サイゴンでは、三十一日、アメリカ大使館、大統領官邸、南ベトナム政府軍の統合参謀本部、サイゴン空港、サイゴン国営放送局などが攻撃の的となった。
 アメリカ大使館は、わずか二十人ほどの解放戦線の兵士の奇襲攻撃によって、その一部が六時間にわたって占拠された。
 これが世界に伝えられた「テト攻勢」である。
 また、解放戦線軍は、南ベトナム政府軍兵士への説得活動も行っていった。
 メガホンで、人民の幸福と祖国の解放のために、ともに戦おうと呼びかけるのである。
 最初、返って来るのは、たいてい一斉射撃であった。
 しかし、「ベトナム人同士が、なぜ殺し合わなければならないのだ」と、粘り強く訴え続けるなかで、政府軍から解放戦線軍に加わる兵士が、増えていったのである。
48  常勝(48)
 サイゴンも、決して安全ではなくなった。銃撃戦も頻発した。
 しかし、そのなかで同志は、懸命に信仰に励んだ。命拾いしたという体験も、数多く生まれた。
 メンバーに一人のアメリカ兵がいた。ある時、解放戦線軍の兵士に捕らえられてしまった。彼のポケットには念珠が入っていた。
 それを見つけた解放戦線軍の兵士が尋ねた。
 「これは、なんだ!」
 「祈る時に使うものだ。祈れば命が守られる」
 「俺にくれ! そうすれば逃がしてやろう」
 念珠を渡すと、約束通り逃がしてくれた。
 メンバーのアメリカ兵は、一目散に駆け出し、深瀬の家に向かった。ちょうど、座談会の真っ最中であった。
 彼は息を弾ませ、目を潤ませながら、たった今、体験した出来事を語った。
 集った同志は、ともに涙を流し、「うん、うん」と頷きながら、信心への確信を深くするのであった。
 こんな話もある。
 戦いが始まった時、一人のメンバーは、紫色の袱紗を握りしめ、必死で題目を唱えながら逃げて、助かった。すると噂が広がった。
 「紫の布を持っている人がいたら、後について逃げれば助かる!」
 以来、メンバーが袱紗を持って逃げると、後ろに人の列ができた。
 メンバーには、南ベトナム政府軍や米軍の兵士だけでなく、口にこそ出さなかったが、解放戦線軍に加わっている青年もいた。
 互いに戦わねばならない相手である。
 しかし、座談会の折には、一日も早く、ベトナムに平和が訪れるように、皆が心を合わせて、真剣に勤行・唱題した。
 そこには敵も味方もなかった。いるのは久遠の誓いに結ばれた仏子であり、創価の家族、兄弟であった。
 ″ここに平和の縮図がある。この世界を広げよう″
 それが、皆の決意であった。一遍、一遍の題目に真剣さが光った。
 山本伸一は、ベトナムのメンバーのことが心配でならなかった。
 夏季講習会などに、サイゴン支部のメンバーが参加していると聞けば、何度も会い、全魂を注いで激励にあたった。
 「ベトナムは今は大変でしょうが、最も不幸に泣いた人が、最も幸福になるのが信心です。
 平和と幸福の種子を、ベトナムの人びとの心に、蒔き続けていってください。
 私も、一生懸命、お題目を送っています」
 彼の心は、ベトナムの同志とともにあった。
49  常勝(49)
 「テト攻勢」によって、威信を砕かれ、焦るアメリカ軍は、町を、村を無差別的に爆撃していった。
 そして、一九六八年の三月には、南ベトナム沿岸のソンミ村で、アメリカ軍が、女性、老人、子どもを含む百人余り(五百人以上とする説もある)の、無抵抗な村民を虐殺するという事件も起こった。
 一年八カ月後、新聞報道によって発覚する、「ソンミ虐殺事件」である。
 また、解放戦線軍が立てこもる密林の木を枯らすために、毒性の高い、枯れ葉剤の散布も激しくなった。
 これによって、数多くの障害児が生まれただけでなく、生態系にも大きな異常が生じたのである。
 ベトナム戦争の模様は、テレビ放送をはじめとするマスメディアを通じて、世界に伝えられた。
 そのひどさに、こんな悲惨な戦争をいつまで続けるのかという非難が、アメリカ国内にも、また、世界にも高まっていった。
 日本でも、「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合の略称)など、ベトナム戦争反対を訴える市民団体の運動が活発化した。
 さらに、アメリカでは、戦争による莫大な出費も問題化し、ジョンソン政権も、次第に、北ベトナムとの話し合いを模索せざるをえなくなった。
 六八年一月の「テト攻勢」開始から二カ月後、ジョンソン大統領は、北爆の部分的停止と和平交渉の開始を提案した。
 そして五月、パリにアメリカと北ベトナムの代表が集って、ベトナム和平交渉が始まった。
 交渉は難航したが、この年の秋には、ジョンソンは北爆停止を発表。
 翌六九年の一月には、アメリカ、北ベトナムの両国のほか、南ベトナムと、南ベトナム解放民族戦線を加え、第一回の拡大和平会議が開かれるに至った。
 この一月、米大統領はジョンソンからニクソンに代わり、ニクソンは六月、アメリカ軍の一部撤退を発表した。
 これは、南ベトナム軍を強化し、戦争をベトナム人同士の戦いにする、いわゆる戦争の「アメリカ化」から「ベトナム化」への政策の転換であった。
 撤退が進み始めていた九月二日、「ホーおじさん」の愛称で人びとから親しまれ、尊敬されてきた、北ベトナムのホー・チ・ミン大統領が心臓発作のため死去した。七十九歳であった。
 「わが祖国は再統一されるであろう。北と南の同胞がふたたび、一つの屋根の下に暮らせる日が来るだろう」との遺書を残して。
50  常勝(50)
 一九七〇年の五月になると、米軍と南ベトナム政府軍は、カンボジア内の解放勢力を一掃するため、カンボジアへ侵攻を開始した。
 さらに七一年二月八日、南ベトナム大統領は、北ベトナムと解放戦線軍との補給路を断つため、ラオス侵攻を命令。米軍の支援のもと、作戦が展開されたのである。
 まさに戦線は、山本伸一が憂慮していたように、インドシナ全域に広がっていった。
 彼は強い憤りを覚えた。
 ″インドシナの人びとはどうなるのか!″
 七二年三月、北ベトナムと解放戦線軍は、総力を尽くして、春季大攻勢を開始した。
 一方、アメリカ軍は北爆を再開。ハイフォン、ハノイを猛攻撃するとともに、北ベトナムの港湾を機雷封鎖したのである。
 同年七月、和平交渉が再開され、北爆は、部分的に停止されるが、十二月になって交渉が行き詰まると、アメリカは、過去最大といわれる北爆を行い、絨毯爆撃を開始したのだ。
 新聞には、その悲惨な模様が報じられた。
 ″もはや、一刻の猶予も許されない。直ちに、なんとしても、この戦争をやめさせなければならぬ!″
 伸一は、いかにベトナムの和平を実現するか、熟慮し抜いた。そして、アメリカのニクソン大統領にあてて、停戦を訴える書簡を送ることに決めたのである。
 彼は、祈る思いで筆を執った。
 「初めに、率直に問題の核心に触れることをご了解ください」と前置きし、冒頭から、爆撃の即時停止を訴えていった。
 そして、「あなたにとっても米国にとっても、その決断が少しでも遅れることは、取り返しのつかぬ結果を引き起こすでありましょう」と忠告し、さらにこう記している。
 「あなたも現在、『平和の大統領』として後世に長く語り伝えられていくか、それとも全人類の平和への期待を裏切った人として歴史の断罪を受けるか、その分かれ目に立たされているような気がいたします」
 また、独立を守るというベトナム人の信念は、決して武力攻撃では屈しないことを強調したうえで、爆撃の停止を世界に宣言し、平和のために会談する用意があることを明らかにするように求めている。
 ついで、この戦争はアメリカのいうような「共産主義者」に対する戦いではなく、「ベトナム人」に対する戦争になっていることを指摘。民族自決の原則に基づき、アメリカは、ベトナムから手を引くべきであると訴えたのである。
51  常勝(51)
 山本伸一は、さらにベトナムをはじめとするインドシナに対して、今後、アメリカは、どのような方向をめざすべきかを述べた。
 その一つは、ベトナムの新しい建設のエネルギーを蘇らせるために、アメリカがリーダーシップをとり、全世界の国々、科学者、教育者、医師等々の、友愛と善意の精神を結集する国際的な機構を設置するというものであった。
 そして、ベトナムの未来のために、「ベトナム復興国際委員会」「教育国際委員会」「医療と保健衛生国際協力委員会」等の機構の設置案を示した。
 この委員会の基本的な性格については、次のように訴えている。
 一、ヒューマニズムと友愛の精神に基づく。
 二、恒久平和のために、人間の尊厳を踏みにじるいっさいの暴力や人間抑圧の廃絶をめざす。
 三、一部の国家に従属したかたちではなく、国連機構の一環とする。
 四、軍事上の目的にいっさい関係しないで、ベトナム民衆の生活向上、教育普及、保健衛生の充実をめざす。
 五、あくまで民族自決の原則を尊重しつつ、当事国を側面から支援する。
 また、同じような紛争が起こり、第二、第三の″ベトナム″が生まれることを防ぐために、「アジアの平和のための国際委員会」の設置を提案していった。
 「委員会のメンバーには、東南アジア諸国、インド、日本、韓国・北朝鮮、米、中、ソの代表が加わり、責任をもってアジアの紛争を処理していく。
 その話し合いには、紛争当事国、あるいは紛争を起こしている勢力の代表が参加し、平和的に問題を解決していく。この委員会は、そのための平和機構であります。
 なお、同委員会のセンターの候補地の一つとして、私は、沖縄がどうかとも考えております」
 沖縄は、最も戦争の悲惨さを味わい、戦後もまた、基地の島となってきた。
 さらに、アメリカ、中国、東南アジア諸国と、歴史的に極めて深い関係をもっている。
 伸一は、その沖縄には、アジアの恒久平和の発信地となりゆく使命があると、考えていたのである。
 結びに彼は、大統領の大英断を期待して、こう呼びかけた。
 「世界は一同に、あなたの″決断″と″実行″を、どれほどか待っていることでしょうか! 心ある人びとは、どれほど深く、あなたの人間性を信じていることでありましょうか!」
52  常勝(52)
 山本伸一のニクソン大統領への書簡は、日本語で四百字詰め原稿用紙にして四十数枚、英文タイプにして三十八枚に及んだ。
 文面には、ベトナムの、そして、アメリカの人びとを思い、平和を願う、伸一の熱烈な心情がみなぎっていた。
 それは、「提言の書」であると同時に、「平和への誓願の書」であり、また、「諫言の書」でもあった。
 この書簡は、新しい年に希望の旭日が昇りゆくことを念じて、一九七三年一月一日付で認められた。
 そして、人を介して大統領補佐官のキッシンジャーに託し、ニクソン大統領に届けられたのである。
 当時、キッシンジャーはニクソン政権の国家安全保障問題担当の特別補佐官であり、六九年から、和平交渉の北ベトナム代表団のレ・ドク・ト特別顧問との間で、ベトナム和平への秘密会談を行っていた。
 なお、書簡を送った二年後の七五年一月、キッシンジャーと伸一は、初めての出会いを果たす。
 さらに、二人は親交を深め、やがて、対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』を編むことになるのである。
 伸一の書簡を、ニクソン大統領が、どのような思いで読み、それがいかなる影響を与えたかは、定かではない。
 ともあれ、それから間もない一月二十三日、キッシンジャーとレ・ドク・トが、「ベトナムにおける戦争の終結と平和回復に関する協定」(ベトナム和平協定、パリ協定)に仮調印している。
 そして、二十七日には、南北両ベトナム、南ベトナム共和臨時革命政府(六九年六月樹立)の三外相、アメリカの国務長官がこれに調印。この協定が正式に成立し、翌日、停戦となったのである。
 この協定では、調印後、六十日以内のアメリカ軍の撤退や捕虜の相互釈放などが決められていた。
 これで、ベトナムの人びととアメリカとの戦いに、終止符が打たれたのだ。
 しかし、まだ、ベトナムに平和は訪れなかった。
 南ベトナム政府は、南におけるただ一つの合法的な政府であることを主張し、南ベトナム共和臨時革命政府との間で戦いが始まったのである。
 アメリカ軍が手を引いたあとでは、南ベトナム政府軍には、もはや奮戦する力はなかった。
 ″解放軍″は次々と各地を制圧し、首都サイゴンに進攻。七五年四月三十日、南ベトナムは無条件降伏するのである。
53  常勝(53)
 北爆から十年、フランスと戦った第一次インドシナ戦争の勃発からは実に足かけ三十年――戦火の絶えなかったベトナムに、遂に平和が訪れたのだ。
 翌一九七六年七月、ベトナムは悲願の統一を成し遂げ、ベトナム社会主義共和国が誕生する。
 だが、戦いの混乱のなかで、日本人メンバーの多くは帰国を余儀なくされ、現地のメンバーも散り散りになってしまった。
 サイゴン支部の支部長、婦人部長の深瀬夫妻は、危険を覚悟で、可能な限り、ベトナムにとどまろうと決意していた。
 ″もし、同志が来たら励まさなければ″と考えてのことである。
 戦闘が始まると、三人の子どもとともに、地下室に身を潜めた。
 周囲の家が焼かれることも珍しくなかった。自分の家の門柱にも、弾痕が刻まれた。家の前に、手がちぎれた、血まみれの遺体が転がっていたこともあった。
 それでも、サイゴンから動こうとはしなかった。
 しかし、日本大使館から退避勧告があり、七三年一月、やむなく深瀬一家は、ベトナムを離れることになったのである。
 山本伸一は、和平が成立したあとのベトナムの行方にも、心を砕き続けた。
 ベトナム難民が急増した時には、青年部によるベトナム難民の救援募金を支援した。
 また、九〇年には、学会は、「戦争と平和――ベトナム戦争の軌跡展」を全国各地で開催し、平和へのアピールを行った。
 さらに、九四年夏には、ハノイ、ホーチミン(旧サイゴン)両都市で「世界の少年少女絵画展」を開催。
 これには、パリ和平会議に南ベトナム共和臨時革命政府の代表で参加していた、女性革命闘士のグエン・ティ・ビン副大統領も鑑賞に訪れたのである。
 米国防総省は、この戦争で米軍の戦死者・事故死者は約六万人、戦費は約千三百九十億ドルと発表した。
 また、ベトナムの死者は北ベトナム・解放戦線軍は約百万人、南ベトナム政府軍が約二十四万人、さらに民間人の犠牲者も約五十万人に上ったといわれる。
 いったい、なんのための戦争であったのか。
 いかに大義名分をつけようが、いかに「正義」を装っても、戦争は、人間の魔性の心がもたらした、最大の蛮行であり、最大の愚行以外の何ものでもない。
 創価学会は、すべての戦争に反対する。この世から一切の戦争をなくすために、我らは戦い続ける。

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