Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第11巻 「開墾」 開墾

小説「新・人間革命」

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1  開墾(1)
 「人間がなしうる最も素晴らしいことは人に光を与える仕事である」
 これは、南米解放の父・シモン・ボリバルの言葉である。
 一九六六年(昭和四十一年)三月十五日、予定より四十分ほど遅れ、午前十一時に、ブラジルのサンパウロを発った山本伸一の一行は、空路、次の訪問地である、ペルーの首都リマをめざした。
 南米大陸を横断する、五時間ほどの空の旅である。
 リマは、インカ帝国を滅ぼしたスペイン人のフランシスコ・ピサロによって、一五三五年に建設され、以後、南アメリカの植民地支配の中心となってきた都市である。
 ジェット機がアンデス山脈の上空にさしかかると、眼下には、紺碧の湖が見えた。チチカカ湖である。
 そして、六千メートルを超える白雪の山々を見下ろしながらの飛行が続いた。越えても、越えても、波のように山がうねる。
 アンデスを過ぎると、海が広がり、薄茶色の砂漠のなかに、緑が映える都市が姿を見せた。
 その美しき街がリマであった。
 伸一は、タラップを下りて、初めてペルーの大地に立った。
 吸い込まれそうな青空に輝く、夏の太陽がまぶしかった。
 空港には、ペルー支部長の知名正義と、前日にリマ入りしていた、春木征一郎をはじめとする数人の日本の幹部らが出迎えていた。
 当初、リマでは、たくさんのメンバーが空港に集い、初めてペルーを訪問する山本会長を、盛大に歓迎しようと相談していた。
 ところが、ペルーでも、政府が学会に警戒の目を向けていることから、先発の幹部が、派手な出迎えは避けて、支部長の知名だけにするように、説得にあたったのである。
 メンバーは残念でならなかったが、山本会長を無事にペルーに迎えるためならと、同意したのであった。
 知名は四十代前半の温厚な人物である。
 空港で春木から、この出迎えに至る経過を聞いた伸一は、胸を痛めた。
 「皆さんには、残念な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありません。
 その分、ペルーの未来のために、幾重にも手を打っていきますから、安心してください」
 知名は、伸一の言葉に、謙虚さと、深い思いやりを感じ、心の底から感動を覚えた。
 信頼とは、人柄が発する共感の響きである。
2  開墾(2)
 ペルー支部長の知名正義は、一九二四年(大正十三年)に沖縄に生まれた。
 知名の両親は、正義が生まれて間もなくペルーに移住し、彼は沖縄に残った祖母の手で育てられた。ペルーでの生活が安定したら呼び寄せることになっていたのである。
 そもそも、ペルーへの日本人の集団移住が始まったのは、一八九九年(明治三十二年)のことであった。
 「佐倉丸」で七百九十人が契約労働者として渡ったこの移住は、一九〇八年(同四十一年)の「笠戸丸」による最初のブラジル移住より九年も早く、南米移住の先駆けであった。
 しかし、ペルーでの移住者の生活は、悲惨このうえなかった。
 待遇も劣悪であり、風土病に倒れる人も多かった。過酷な労働に耐えかね、逃亡する人もいた。
 知名の両親がペルーに渡ったころには、既に最初の移住から四半世紀が過ぎており、日系人はペルー社会に地歩を築き上げつつあったが、それでも、新しい移住者が生活の基盤を固めることは容易ではなかった。
 両親が、ようやく彼を呼び寄せることができるようになった時には、十七、八年が経過していた。
 一方、知名は十七歳で志願して海軍に入り、国内各地の基地を転々としていた。さらに、四五年(昭和二十年)の二月に、ペルーは日本に宣戦布告したことから、互いに連絡が取れずにいたのである。
 両親は、「沖縄は玉砕した」という話を耳にし、知名も死んだものと思い込んでいた。
 知名は、戦後は祖母が疎開していた宮崎で暮らし、やがて、建築関係の会社を興した。
 仕事は軌道に乗ったが、常に心の片隅にあるのは、ペルーに渡った両親のことであった。
 三十歳を過ぎたころ、彼は知人から信心の話を聞かされた。
 幼い時から、両親と離れて暮らさなければならなかった知名は、宿命という問題を真剣に考えていた。
 だから素直に、仏法を受け入れることができた。
 彼が入会を考え始めたころのことである。
 ――たまたま聴いたラジオ放送で、自分を捜している人がいることを知った。
 連絡を取ってみると、彼を捜していたのは、かつてペルーにいたという、父の友人であった。
 その人は、父から「息子は死んだようだが、日本のどこかで生きているかもしれない。ぜひ、捜してほしい」と、頼まれたというのである。
3  開墾(3)
 知名正義は、信心をしてみようと思い始めた時に、父母の消息がわかったことに、何か不思議なものを感じた。
 そして、一九五七年(昭和三十二年)の三月に入会したのである。
 彼は信心に励むうちに、御本尊の功力を確信できるようになった。
 すると、″父と母に会って、仏法を教えたい″との気持ちがつのっていった。
 また、自分を育ててくれた祖母も既に他界していたことから、今度は両親の面倒をみようという思いもあった。
 やがて知名は、ペルーへ渡ることを決意した。独力で軌道に乗せた会社も手放し、六一年(同三十六年)に日本を発ったのである。
 父親はリマでホテルやレストランを経営していた。
 息子と父母の三十数年ぶりの再会は、手を取り合っての涙の対面となった。
 ところが、その喜びも束の間、知名が、学会員であることを口にすると、両親の顔色が変わった。
 さらに、信心の話をし始めると、顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。
 両親は、他教団の熱心な信者であり、特に母親は、その教団の、ぺルーの中心的な幹部であった。
 父は、叫んだ。
 「息子は、死んだはずだ! お前が本当に私の子供だと名乗るなら、明白な証拠を見せろ!」
 母は、彼をにらみすえて言った。
 「創価学会だなんて、とんでもない。苦労して、やっと築いたわが家に、よくも不幸をもたらしに来てくれたね」
 それでも、なんとか頼み込み、父が営むレストランに住み込んで、働くようになった。
 実の親子であるにもかかわらず、全くの使用人扱いである。しかも、レストランは赤字続きで、経営は行き詰まっていた。
 知名は落胆した。こんなことなら、ペルーに来なければよかったと思った。
 しかし、″いや、ここで負けたら、両親に信心を教えることなどできない″と自分に言い聞かせ、懸命に働いた。
 二年後、彼の奮闘によって、傾きかけたレストランが見事に立ち直っていた。父親も、彼を高く評価し、こう言うのであった。
 「私が悪かった。本当にすまないことをした。お前のような息子をもって誇りに思う」
 そして、学会にも理解を示し、両親がともに入会したのである。
 生活のなかで示した実証ほど、雄弁に仏法の真実を語るものはない。
4  開墾(4)
 知名正義は、布教にも真剣に取り組んでいった。
 ペルーに渡った直後は、スペイン語がよくわからないために、日本人を見つけては信心の話をした。
 日本人がいると聞けば、どこまでも出かけて行き、懸命に仏法対話に励んだ。
 気がつくと、帰りのバスがなくなってしまっていることもあった。
 そんな時は、通りかかった車に乗せてもらうしか方法がなかったが、これが大変だった。
 まず、場所によっては、車が滅多に通らなかった。たまに通っても、深夜であるためにドライバーも警戒し、いくら手を振って叫んでも、いっこうに止まってくれないのである。
 また、乗せてくれる車があっても、言葉が通じないために、行き先を説明できなかった。
 日々、苦労の連続であったが、やがて、彼の努力は実り、二人、三人と、信心する人が出始めた。
 一九六二年の二月、両親の故郷の沖縄に行っていた城山京子という女性が、御本尊を護持して、ペルーに帰ってきた。彼女は、スペイン語も堪能であった。
 以来、知名と城山の二人を軸にして、ペルーの広宣流布が回転していったのである。
 だが、その道は、決して平坦ではなかった。知名は何度も危険な思いをした。
 六二年の七月には、活動で遅くなり、未明にタクシーに乗っていて、軍隊の検問に遭い、川べりに連れていかれた。
 銃を突きつけられ、両手をあげさせられて、尋問が始まった。
 「こんな時間に、どこへ行っていたのだ!」「職業はなんだ!」など、矢継ぎ早に尋ねられた。
 拘束は、四時間余りに及んだ。実は、この時、軍部によるクーデターが起こっており、夜中に車に乗っていたところから、不審人物と見なされたのである。
 しかし、こうした環境のなかでも、着実にペルー広布は進んでいった。
 六二年の十一月には、理事の山際洋が指導に訪れ、ペルー支部が結成され、知名が支部長に就任し、城山京子が婦人部長に就いた。
 二地区、百二十五世帯からの出発であった。
 組織の誕生は、皆の決意を新たにした。弘教はさらに進み、アンデスの山間の村々にも、次々と同志が誕生していった。
 そして、山本伸一が訪問した、この六六年三月には、メンバーは千世帯を超えるに至った。
 同時に、政府も、学会に警戒の目を向けるようになっていたのである。
5  開墾(5)
 山本伸一の一行は、空港からリマ市内のホテルに向かった。
 車窓には、アドベ(日干しレンガ)やエステラ(茅葺き)の家々が立ち並んでいたが、リマの中心街に入ると、アンデスの山並みを背景に、大きなビルが林立していた。
 リマック川の近くに立つホテルからは、太平洋の青い海原が見えた。
 荷物を置いた一行は、直ちに打ち合わせに入った。
 伸一は、先発隊としてペルー入りしていた日本の幹部たちから、詳細な報告を聞いた。
 彼らは、教学試験をはじめ、組織の新しい布陣の検討や、人事面接を行うとともに、法務大臣とも会見するなど、精力的に奔走してきたのである。
 打ち合わせが始まると、先発隊の一人が、思い詰めた顔で言った。
 「私の方からは、ぺルーでの学会を取り巻く状況について、これまで関係者から聞いた話をまとめて、報告いたします。
 一言で申し上げますと、政府や警察の学会に対する認識は、相当厳しいものがあります。ブラジルと同じように、政府関係者もマスコミも、山本先生の訪問は、政党づくりの準備が目的ではないかとの、懸念をもっているようです。
 したがいまして、先生の行動については、かなり神経をとがらせています。
 ありのままにお伝えしますが、警察の関係者の一人は、『今回の訪問で、なんらかの扇動的な面が見られるなら、今後、ぺルーの創価学会については、警戒色を強めなければならない』と語っておりました」
 伸一は、この日、午後六時から、メトロポリタン劇場で開催される、大会に出席する予定でいた。そこでメンバーと会い、励ますことに、すべてをかけていたのである。
 だが、この瞬間、彼の頭は目まぐるしく回転した。
 ″もし、私が、予定通り、この大会に出れば、当局は、それを『扇動』ととらえ、『挑発』と見るにちがいない。
 そして、私が帰ったあとに、メンバーに対して、さまざまな締めつけが始まることが予測される。それでは、ぺルーの同志が、あまりにもかわいそうだ。
 メンバーは悲しむかもしれないが、長い目で見るならば、私が今夜の大会に出席することは、決して得策ではない。
 大事なことは、わが同志をいかにして守るかだ。皆が安心して信心に励める状況をどうつくるかだ″
6  開墾(6)
 同行の十条潔が、意を決したように山本伸一に言った。
 「現在の状況を考えますと、今日の大会には、先生は出席されない方が、よいのではないでしょうか。
 私たちが出ることには、当局もそれほど気にはとめないようですが、先生がご出席になれば、神経を逆なですることになるのではないかと思います」
 伸一は、静かに頷きながら語り始めた。
 「私も今、そう考えていたところなんだよ。大会の方は、みんなにお願いする以外にないな。
 メンバーはがっかりするだろうが、いつか、なぜそうしたのか、わかってくれるだろう。
 大会には出られないが、私はぺルーのために働き抜くからね。同志を思う強い一念があれば、どんな状況でも手は打てる!」
 その声には、厳たる決意の響きがあった。
 「ところで、ペルーの未来のために、私が会っておくべき人はいるかい」
 伸一が言うと、先発隊のメンバーがすぐに答えた。
 「まず、日系人の有力者に、会っていただきたいと思います」
 「わかりました。お会いします。それからマスコミ関係者も、みんなで手分けして会うことにしよう。ともかく、あらゆる人に、学会を正しく認識させることが、何よりも大事だ」
 ホテルの伸一の部屋は、ぺルーの未来を開く、電源地となった。
 それから、組織の新布陣と人事案について協議が行われた。
 そして、ぺルーをこれまでの支部から総支部とし、ぺルー、カヤオ、ビクトリアの三支部で出発することが決定をみた。総支部長は知名正義である。また、男女の部制も敷かれた。
 さらに、この日の大会の式次第の検討や、スケジュールの調整も行われた。
 最後に、伸一は言った。
 「大会が終わったあと、地区幹部以上の人たちでよいから、ホテルに来てもらえないだろうか。せめて、代表とは、直接、お会いして、激励したいんだ」
 午後五時過ぎ、彼は、理事長の泉田弘らを送り出すと、妻の峯子とともに、大会の成功を祈って、勤行・唱題した。
 伸一は、知名から、この大会には、アンデスの山間の村から駆けつけて来る人や、バスで何日もかかって来る人たちもいると聞いていた。
 その健気な一人ひとりの同志に、希望を、勇気を、歓喜をもたらす集いにしてほしいと、懸命に祈った。真剣勝負の唱題であった。
7  開墾(7)
 そのころ、大会の行われるメトロポリタン劇場では、ぺルー各地から集って来た千七百人ほどのメンバーが、午後六時の開会を待っていた。
 実に見事な結集といってよい。
 参加者は山本伸一と会うことを楽しみに、喜々として集まって来たのである。
 壇上には、学会のこの年のテーマである「黎明」の筆文字が躍り、その下には「SOKA GAKKAI DEL PERU」(ペルー創価学会)と、誇らかに書かれていた。
 やがて、壇上に幹部が着席した。
 皆の視線は、壇上に注がれ、伸一を探した。
 「どなたが山本先生ですかね」
 メンバーは、日本から送られてくる聖教新聞や聖教グラフなどで、山本伸一の顔を見てはいたが、直接、伸一と会った人はほとんどいないために、よくわからなかったのである。
 それにしても、壇上に、山本会長らしい人物は見当たらなかった。
 皆、どうしたのだろうと思っていると、開会が宣言され、最初に、理事長の泉田弘が立ち上がった。
 「こんばんは!
 皆さんは、山本先生のぺルーご訪問を待ちこがれていたと思いますが、先生は本日午後、お元気で、リマに到着されました!」
 大歓声と拍手が轟いた。どの人も、満面に笑みを浮かべ、盛んに拍手を送っていた。
 その姿を見ると、泉田は次の言葉を口にするのが辛かった。
 しかし、勇気を奮い起こして語った。
 「ところが、山本先生は大事な用事ができまして、この大会に出席することができません」
 その瞬間、場内はシーンと静まり返った。そして、今度は、落胆のため息が広がった。皆の顔は、見る見る曇っていった。
 泉田は、全生命力を振り絞る思いで訴えた。
 「山本先生が会合に出られないのも、ぺルーの皆さんのために、戦われているからです。
 先生からは、次のようなメッセージをお預かりしております。
 『本日の大会を、私は、最大の楽しみにしておりましたが、急な用事が入ってしまい、どうしても出席することができません。
 しかし、私は、皆様の活躍の舞台である、ぺルーの大地に立ち、皆様の黄金の未来を開くために、猛然と戦いを開始いたしました。
 私は、大切な仏子である皆様を、生涯、守り抜いてまいります』」
8  開墾(8)
 メンバーは、泉田弘が読み上げる山本伸一のメッセージを、一言も聞き漏らすまいとするかのように、真剣な顔で、耳を澄ましていた。
 「『私と皆様方は、同志であります。同志とは、同じ自覚、同じ決意で結ばれた人です。
 皆様方は、私と同じ自覚で、一人ひとりが獅子となって、友の幸福のために、社会のために立ち上がってください。
 また、私に代わって、悩める人を、優しく、力強く、励ましていただきたいのです。
 今日の大会は、皆様が獅子として立つ集いです。私も、お題目と声援を送りながら、見守っております。
 どうか、皆様の力で、明るく、元気な、希望みなぎる、歴史的な大会にしていってください。
 そして、ぺルー国歌を声高らかに歌いながら、社会貢献の市民として前進していかれんことを、念願してやみません。
 私は、また、必ずぺルーにまいります。いつか、お会いできますことを、楽しみにしております』
 以上が先生からのメッセージでございます」
 皆、大きく頷いていた。
 「また、本日、遠方から来られた皆様には、お土産として、袱紗をいただいております。
 さらに、先生は、ぺルーの組織のことについても、相談にのってくださり、今回、ぺルーを総支部とすることに決定いたしました」
 拍手が広がった。
 それから泉田は、組織の新しい布陣と、その人事を紹介していった。
 参加者の表情が、輝き始めた。
 式次第は、体験発表に移り、さらに、南米本部長の斎木安弘のあいさつ、伸一に同行してきた幹部のあいさつと進んでいった。
 幹部たちは、なんとしても、メンバーを元気づけようと、懸命であった。
 彼らは、決意していた。
 ″山本先生が出席できないからといって、希望も歓喜もない、つまらない会合になってしまえば、大勢の求道者の大切な人生の時間を奪うようなものだ。
 会合を担当した者の責任として、絶対にそんな結果に終わらせてはならない″
 その真剣さが、その必死さが、次第にメンバーの心を揺り動かしていった。
 いつしか、参加者の落胆は決意に変わっていった。
 最後に「世界広布の歌」に続いて、伸一の提案を受けて、皆でぺルー国歌を斉唱した時には、メンバーの顔は紅潮し、心は躍り、はつらつとした新出発の息吹に満ちあふれていた。
9  開墾(9)
 山本伸一は、ぺルーの大発展を祈念して、勤行・唱題したあと、直ちに日系人有力者と会い、学会への理解を促していった。
 渾身の力を振り絞っての対話であった。
 伸一は、見えざるところで、深く静かに、ぺルーの広宣流布の楔を打っていった。わが愛する同志を、断じて守り抜こう、と。
 彼がホテルに戻ってしばらくすると、支部長、地区部長など、幹部の代表二十数人が集まって来た。
 伸一は、このメンバーを温かく迎え入れた。
 「皆さん、ようこそおいでくださいました。
 お待ちしておりました。お会いできて嬉しい!」
 すると、五十過ぎと思われる、堂々たる体躯の、メガネをかけた日系人男性が恐縮して言った。
 「『ようこそおいでくださいました』と申し上げなければならないのは、ぺルーの私たちの方です。
 山本先生、本当にありがとうございます」
 温厚な、穏やかな話し振りだが、全身から、幾つもの人生の試練を乗り越えてきた風格が漂っていた。
 伸一は、壮年の名前を尋ねた。
 「はい、ビセンテ・セイケン・キシべと申します。本日、カヤオ支部長の任命を受けました」
 そして、隣にいた女性を紹介した。
 「また、これが私の家内でロサリア・ハルエ・キシベです。彼女も今日、カヤオ支部の婦人部長になりました。
 二人で力を合わせて、ぺルーの広宣流布を担ってまいります」
 強い決意が感じられる口調であった。
 キシべは一九一三年(大正二年)、沖縄の名護に生まれた。
 農林学校を卒業後、農業試験場に就職し、農牧の視察のため、アルゼンチンに渡ったのが、南米の大地を踏んだ第一歩であった。
 南米に魅せられていた彼は、そのまま、日本に帰ろうとはしなかった。
 ペルーのリマに兄が住んでいたことから、キシベは、リマで暮らすようになった。
 彼は、最初、兄の理髪店を手伝っていたが、やがて、兄弟で牛乳配達業を営むようになる。
 四五年(昭和二十年)の六月、彼は日系二世のロサリアと結婚した。
 この年の二月に、ペルーは日本に宣戦布告し、反日感情が強い時代であり、不安のなかでの第二の人生のスタートであった。
 戦争が終わると、彼は金物店を経営する一方、アメリカから下水用の鉄管を輸入し、販売する仕事を始めた。これが売れに売れた。
10  開墾(10)
 ビセンテ・セイケン・キシベの仕事は、成功を収めたかに見えた。
 しかし、好調の時代は、長くは続かなかった。
 ある時、仕事の取引で、契約の書類をろくに確かめもせずに、軽い気持ちでサインをしてしまった。
 それが、詐欺まがいの契約書であり、彼は多大な不利益を被ることになった。
 そこに、ぺルー社会のインフレの激しさが追い打ちをかけた。
 商売は失敗し、莫大な借金が残り、完全に窮地に立たされた。
 加えて、長女の関節炎、長男の喘息、三男のてんかんと、子供たちは病気をかかえていた。
 だが、毎日の食費にも事欠くありさまで、薬を買うこともできなかった。
 病に苦しむ子供たちを見ると、不憫でならず、自分が情けなかった。
 それまで面倒をみた、友人たちも離れていった。
 キシベは、既に四十代後半になっていた。ぺルーに来て、二十数年がかりで築き上げてきた人生のすべてが、足元から崩れていくように思えた。
 金策のめども立たず、ベッドに入っても、うなされる日が続いた。
 絶望感に襲われた彼は、二度、自殺を図った。
 一度は、リマ郊外の海岸の崖から、飛び降りた。重傷を負ったが、死ぬことはできなかった。
 さらに、猛スピードで走るバスから、飛び降りて死のうとした。これもまた未遂に終わった。
 一家の生活の糧を得るために、妻のロサリアは、父と弟に資金を出してもらい、美容院を始めた。
 そのころ、キシベは、故郷・沖縄の同じ中学出身の友人に誘われ、知名正義の家に行き、仏法の話を聞かされた。
 「真剣に信心に励むならば、どんな悩みでも、必ず解決できます!」
 こう言い切る知名の確信に打たれ、キシベはその場でサインをし、入会を決めた。一九六二年三月のことである。
 その話を聞いたロサリアは、血相を変えた。
 「あなた、なんでまた、サインなどしてしまったんですか! 軽率にそんなことをすればどうなるか――私たちは、それをいやというほど、思い知らされてきたではありませんか!」
 莫大な借金を抱えることになったのも、もとはといえば、夫が安易に書類にサインをしたからである。
 それに懲りずに、″得体の知れない宗教″の入会の書類に、またしてもサインをしてきた夫が、ロサリアは腹立たしかった。
11  開墾(11)
 ロサリアは、そもそも祈ることで問題が解決できるなどと教える宗教は、まやかしに決まっていると思い込んでいた。
 だから、夫が創価学会に入ることには、賛同できなかった。
 一方、キシベは、懸命に勤行・唱題に励んだ。
 そして、人生の再出発をしようと、義弟の写真店のアシスタントとして、仕事を手伝うようになった。
 彼は、学会活動に取り組むうちに、何か生命が躍動してくるのを感じた。
 さらに、自分の考え方が変わってきていることに気づいた。
 キシベはそれまで、自分ほど不幸な人間はいないと思っていた。
 ところが、人生の辛酸をなめたからこそ、御本尊に巡りあえたのであり、すべてが、これから幸福になっていくためのステップであると、感じられるようになっていった。
 この″幸福への確信″が、彼に勇気をもたらし、何事にも、意欲的に取り組めるようになっていったのである。
 やがて、キシベは独立して、リマ市の郊外で写真店を開いた。店の名前は「SIAWASE」(幸せ)である。
 ″信心で必ず幸せになってみせる″との決意を込めての命名であった。
 ロサリアは、夫が再起していく姿には喜びを感じていた。だが、信心に対しては冷ややかに見ていた。
 キシベは、熱心に妻を会合に誘った。
 彼女は、気が進まなかったが、夫の顔を立てるつもりで、座談会に出席してみることにした。
 ロサリアは、最初、うさん臭いと思いながら話を聞いていた。しかし、体験発表が始まると、身を乗り出して耳を澄ましていた。
 信仰によって、病苦や経済苦、家庭不和などを克服してきた証言には、重みがあり、説得力があった。
 また、「宿命の転換」という言葉が、鋭く心に突き刺さった。
 彼女は思った。
 ″信じがたい話だが、もしかしたら、この信仰で、一家の宿命を変えられるかもしれない。ほかに打開の道がないのだから、やってみてもよいのではないか″
 そして、思い切って、信心を始めたのである。
 夫妻で勤行・唱題に励み出すと、子供たちも一緒にするようになった。娘は関節の痛みに耐えながら、喘息の長男は、ぜいぜいと苦しい息をしながらの勤行である。
 生活は、相変わらず楽ではなかったが、そこには希望があった。
12  開墾(12)
 一九六二年の十一月、ペルーに支部が誕生すると、キシベ夫妻は地区部長、地区担当員に任命された。
 ビセンテ・セイケン・キシベは決意した。
 ″私は、生涯、広宣流布に生き抜くのだ。そのためには、生活の基盤を確立しなければ……″
 このころから、不思議なことに、ロサリアの美容院が繁盛するようになった。
 また、しばらくすると、彼の写真店の周辺の道路が整備され、役所や学校が次々と建ち、写真店が大繁盛するようになっていった。
 これによって、多額の借金も、短期間で返済することができたのである。
 また、嬉しいことには、いつしか、子供たちの病気も治っていた。
 キシベは、その感謝の思いを込めて、法のため、広布のために、身を粉にして働いた。
 苦しんでいる人がいると聞けば、二十時間、三十時間とかかろうが、勇んで出かけて行き、親身になって相談にのり、語り合い、励ました。
 ぺルー中の人びとを幸せにすることが、写真店「SIAWASE」の主人の願いであり、決意であったのだ。
 その一念が、キシベの人柄となって表れ、彼は、皆から「ペルー人以上にペルー人の心がわかる」と言われるようになるのである。
 スペイン語が達者なキシベ夫妻の活躍もあって、次第に日系人以外の入会者が増えていった。
 それにともない、彼らに新たな課題が生まれた。その一つが、仏法用語をどうスペイン語に翻訳し、理解させるかであった。
 たとえば、「宿業」について説明しても、ぺルーでは過去世からの罪業という考え方がないために、「私は報いを受けるような罪を犯した覚えはない」という人が少なくなかった。
 そして、カトリックの影響が強いだけに、神命に背いたアダムの子孫である人間が、生まれながらにして背負った、「原罪」のように考えてしまうのである。
 さらに、新入会のペルー人に、勤行を教えるのが、また一苦労だった。
 当初、勤行指導には、知名正義が手に入れた英字の経本をガリ版刷りにしたものや、それを書き写したものが使われた。
 しかし、ローマ字をそのままスペイン語で読むと、発音の違いがあるために、正確な勤行にならない。
 たとえば、「HOBENPON」(方便品)と書かれていると、スペイン語では、「H」は発音しないことから、「オウベンポン」となってしまう。
13  開墾(13)
 また、スペイン語を話す人にとっては、ザ行の発音は難しい。通常、スペイン語では、そうした音は使わないからだ。
 「ZA」は「ザ」ではなく、「サ」に近い発音をするのである。
 さらに、スペイン語には、「ッ」という促音がないために、かなりの練習を積まないと、正確な発音はできない。
 そこで、皆で話し合い、先輩が、新入会のメンバーの横について声を出し、一対一で勤行を教えることにした。
 そして、正確な勤行を教えるために、幹部が勤行の仕方を互いに試験し合い、それに合格した人だけが、新しいメンバーに教える資格をもつという方法がとられたのである。
 仏法用語の翻訳や勤行指導をどうするかは、ぺルーに限らず、世界各国で広宣流布の先駆けとなった人びとの、共通の課題であり、悩みであった。
 しかし、いずれの国も、試行錯誤を重ね、そうした問題を一つ一つ乗り越えていった。そして、仏法が、その国に定着し、人びとの生活に根ざしていったからこそ、今日の世界広宣流布の大潮流がつくられたのである。
 これほどの世界広布への苦労を、宗門はどれだけ知っていたか。
 わが同志が苦しみ抜いて世界広布を断行してきた努力に、最大の敬意を表すべきではなかったか。
 人間の深さも、世界の広さも、仏法の慈悲も知らずに、同志を見下げる坊主への海外メンバーの怒りが、宗門に向かないように、学会は懸命に努力してきた。
 それをよいことに、坊主たちは、威張りちらし、遊び回り、学会員を苦しめてきた。人間として最低ではないか。
 いわんや日蓮大聖人の正統たるべき法主が″買春″を行い、さらに、坊主たちが犯した種々の破廉恥行為を、大聖人はどれほど嘆き悲しまれていることか。
 山本伸一は、知名正義やキシベ夫妻をはじめ、ホテルに集まって来た尊き先駆けの友に、敬愛の思いを込めて、視線を注いだ。
 男子部の凛々しく澄んだ瞳が輝き、女子部のさわやかな笑顔の花が咲いた。
 彼は、包み込むような口調で、微笑を浮かべて語り始めた。
 「今日は、千七百人も集まったと聞きました。厳しい条件にもかかわらず、すばらしい結集です。日本の活動をはるかにしのぐものでしょう。
 日本の弱い支部は、このペルーに指導を受けに来るように、伝えておきます」
 喜びの笑いが弾けた。
14  開墾(14)
 山本伸一は、ぺルー広布の勇者たちへの、賞賛と感謝の思いを込めて語った。
 「開墾した人がいるからこそ、作物を育てることができる。偉大なのは、原野を開いた人です。ゆえに、先駆者の功徳というのは、一番大きい。
 私は、皆さんのことは、一部始終、聞いて知っています。
 八百キロ、九百キロと離れた友の家に、バスに乗って、何日もかかって激励に行かれている方がいることも、知っております。
 日々、皆さんが、どれほどご苦労をされているかと思うと、頭が下がります。感動を覚えます。敬意を表します。
 皆さんの姿を拝見して、まさに、経文の通りに、御書に仰せの通りに、地涌の菩薩が世界に出現していることを、強く、強く、確信する次第であります」
 皆、勇気がわいてくるのを感じながら、目を輝かせて、伸一の話に耳を傾けていた。
 「同じ幹部であっても、一生懸命に頑張っている人もいれば、いい加減であったり、要領よく立ち回る人もいるかもしれない。
 しかし、人がどうあれ、自分が広宣流布のために苦労し、働いた分は、すべて自身の功徳となり、福運となっていくのが仏法です。
 人の目はごまかすことができても、峻厳な仏法の因果の理法は、絶対にごまかせない。
 信心とは、妙法を信ずる一念であり、この因果の理法を信じ、生命のうえで実感し、生活のうえでわかることができるかどうかです。そして、広宣流布のために、生き抜いていく行動です。
 したがって、周囲の人がいい加減だから、自分も適当にやろうと思ったり、遊んでばかりいる人を羨んだりすることは間違いです。
 その考え方は、仏法ではありません。
 最後に、永遠の幸福を築くのは誰か。人生の勝利を収めるのは誰なのか――それは、生涯を、妙法とともに、広布とともに、学会とともに生き、真剣勝負で戦い抜いた人です。
 皆さんには、全員、人生の大勝利者になっていただきたい。
 では、そのための要諦は何かについて、今日は少しお話ししたいと思います。
 それは、第一に、お題目です。
 健康ということも、勇気も、智慧も、歓喜も、向上心も、あるいは、自分を律するということも、生命力のいかんで決まってしまうといえる。
 その生命力を無限に涌現しゆく源泉こそが唱題なんです。ゆえに、唱題根本の人には行き詰まりがない」
15  開墾(15)
 皆、題目の力は教えられてきたし、それぞれが、体験もつかんできた。
 しかし、唱題の意義を、山本伸一から聞くことによって、さらに確信を深めていった。
 「ともかく、日々、何があっても、題目を唱え抜いていくことです。題目は宇宙の根本の力です。
 朝な夕な、白馬が天空を駆け巡るように、軽快に、すがすがしい、唱題の声を響かせていくんです」
 すると、女性のメンバーが尋ねた。
 「先生。お題目を唱える時には、どういう気持ちで御本尊に向かえばいいのでしょうか」
 伸一は、ニッコリと頷きながら答えた。
 「仏と相対するわけですから、厳粛な気持ちを忘れてはいけませんが、素直な心で御本尊にぶつかっていけばいいんです。
 御本尊は、大慈悲の仏様です。自分自身が願っていること、悩んでいること、希望することを、ありのまま祈っていくことです。
 苦しい時、悲しい時、辛い時には、子供が母の腕に身を投げ出し、すがりつくように、『御本尊様!』と言って、無心にぶつかっていけばいいんです。
 御本尊は、なんでも聞いてくださる。思いのたけを打ち明けるように、対話するように、唱題を重ねていくんです。
 やがて、地獄の苦しみであっても、嘘のように、露のごとく消え去ります。
 もし、自らの過ちに気づいたならば、心からお詫びし、あらためることです。二度と過ちは繰り返さぬ決意をし、新しい出発をするんです。
 また、勝負の時には、断じて勝つと心を定めて、獅子の吼えるがごとく、阿修羅の猛るがごとく、大宇宙を揺り動かさんばかりに祈り抜くんです。
 そして、喜びの夕べには『本当にありがとうございました!』と、深い感謝の題目を捧げることです。
 御書には、『朝朝ちょうちょう・仏と共に起き夕夕せきせき仏と共に臥し……』と仰せですが、題目を唱え抜いている人は、常に御本仏と一緒です。
 それも今世だけでなく、死後も、御本仏が、諸天諸仏が守ってくださる。
 だから、生命の底から安堵できるし、何も恐れる必要がない。悠々と、人生を楽しみながら、生き抜いていけばいいんです。
 題目は、苦悩を歓喜に変えます。さらに、歓喜を大歓喜に変えます。
 ゆえに、嬉しい時も、悲しい時も、善きにつけ、悪しきにつけ、何があっても、ただひたすら、題目を唱え抜いていくことです。これが幸福の直道です」
16  開墾(16)
 山本伸一は、ここまで話すと、メンバーに飲み物を勧め、こう尋ねた。
 「このお題目ということが、人生を勝利する第一の要諦なんです。少々難しいかもしれませんが、おわかりになりますね」
 ここに来ているメンバーは、皆、日系人ではあったが、二世も多く、日本語がよくわからない人もいた。彼は、その人たちのことを気遣っていたのである。
 皆が頷くのを確認して、伸一は話を続けた。
 「そして、第二の要諦は教学です。
 ところが、教学と聞いただけで、難しいなと思う方もいるかもしれない。
 しかし、教学は、単なる知識ではありません。仏法者としての人生哲学をもつということなんです。
 具体的にいえば、まず最初は、難しい御書でなくてよいから、しっかりと拝読し、自分自身の身で読んでいくように提案したいと思います。
 たとえば『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる』との有名な御文でもよい。
 あるいは、『湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く』との御文でもよい。
 その仰せを信じて、心を定め、御文のままに精進していく。そうすれば、″まさにその通りだ!″と、実感し、御本尊への大確信をもつことができる。
 それが、本当の意味で、御書を拝するということであり、『実践の教学』ということなんです。
 一つの御文を、身で拝して、自分のものにすることができれば、自然に、ほかの御書もわかっていきます。すべてに通じていくんです」
 皆、伸一の指導を聞いているうちに、″教学″や″御書の研鑽″ということが、身近なものに感じられてくるのであった。
 「第三の要諦としては、私は、信心の持続ということをあげておきたい。
 人生、最後が大事です。一時期は、どんなに頑張っていようが、やがて、信心から離れ、学会から離れていってしまうならば、なんにもならない。
 東洋の名言に、『九仞の功を一簣に虧く』という言葉があります。これは、物事は最後まで全うしなければ、なんにもならないということです。
 家を建てても、マッチ一本で灰になることさえある。飛行機でも、いよいよ着陸という時に、事故にあってしまえば、目的地には着けない。
 とにかく最後まで、あきらめずに頑張り通していくことです。そのためにも、まず十年先を目標に前進していっていただきたい」
17  開墾(17)
 この人たちを、断じて、ぺルーの広宣流布の起爆剤にしなければならない――そう思うと、山本伸一は必死であった。
 一言一言、メンバーの生命の奥深く、開墾のクワを振るう思いで、全魂を注いでの指導であった。
 ここで彼は、皆から報告や要望を聞きながら、話を進めていった。
 そして、日系以外のぺルー人が、次々と入会してきていることを聞くと、スペイン語の機関紙を発刊してはどうかと提案した。
 実は、ぺルーでは「黎明」というガリ版刷りのスペイン語の新聞を発行したことがあった。
 しかし、二回ほど発行しただけで、立ち消えになってしまったのである。
 「機関紙も、持続が大事なんです。
 やると決めたら、中途半端ではいけない。そうしないためには、必ず、誰かが責任をもつことです。
 組織の活動は、ある時は布教であったり、ある時は教学であったり、絶えず変化していきます。
 それにつれて、大事だから始めたことであっても、ついつい忘れられてしまうことがある。だから、何があっても、そのことを考えて、責任をもつ人が必要なんです。
 すべて中心者が一人でやっていると、活動が多面的になればなるほど、行き詰まってしまうものです。
 中心者と同じ自覚で、それぞれの分野の責任をもってくれる人がいると、重層的な活動ができるし、組織も強く、盤石になります。
 ともかく、広宣流布の発展の力は、団結です。皆さんが、今、こうして、このぺルーの国に集っているのも、偶然ではありません。
 私たちのつながりは、久遠の縁のうえに成り立っているものであり、過去世からの、深い、深い絆に結ばれているんです。
 だから、みんな仲良く、互いに励まし合い、守り合って、力を合わせて前進していくことです」
 その時、メンバーの一人が言った。
 「先生、新しいスペイン語の新聞の名前をつけてください」
 「わかりました。日本の機関紙と同じ、『聖教』という言葉を使ってみてはどうだろうか。
 『ぺルー・セイキョウ』で、どうですか。
 ただし、それは、日本をぺルーの皆さんが引っ張っていくという意義を込めて、そうするんです」
 拍手が起こった。
 このあと、会館の設置などについても協議され、未来への希望弾む語らいとなった。
18  開墾(18)
 山本伸一は、こう言って話を結んだ。
 「ぺルーのメンバーが一千世帯を超えたということは、広宣流布の基盤が整ったことであり、歴史的な壮挙です。
 私は、ぺルーの皆さんが一人も漏れなく幸福になるよう、毎日、しっかりと、お題目を送ります。
 今度は、ぜひ、日本でお会いしましょう」
 思いやりも、友情も、祈りから始まる。祈りこそ、人間と人間を結びゆく力である。
 最後に、彼は、一人ひとりと握手を交わし、ともに記念のカメラに納まったのである。
 メンバーの頬は紅潮し、口元には笑みの花が咲いていた。その目には、新しき決意が光っていた。
 翌十六日、山本伸一たちは、皆、朝から、フル回転の一日であった。
 伸一は、日系人有力者との会見と視察に奔走し、十条潔は、マスコミ関係者と会い、泉田弘らは、ボリビアのメンバーの激励に出発した。
 途中、伸一は、リマから南に約三十キロメートルほど離れた、パチャカマの遺跡にも立ち寄ったが、彼は、行く先々で題目を唱え続けた。
 この大地の、この山河の隅々にまで、題目を染み込ませゆかんとの思いで。
 再びリマの街に戻り、中心街を歩いていると、広場の中央に、台座の上に立つ騎馬像があった。全体の高さは、四、五階建てのビルほどもある。
 この広場が、有名なサン・マルティン広場で、騎馬像がぺルーの独立運動に偉大な業績を残した、南米解放の英雄サン・マルティンである。
 ――ホセ・デ・サン・マルティンは、一七七八年、現在のアルゼンチン北東部のヤペユーで生まれた。
 当時は、アルゼンチンをはじめ、ぺルーやチリなども、スペインの植民地であった。
 サン・マルティンは、少年時代、両親の故郷であるスペイン本国へ渡る。スペイン軍の軍人である父の転任に伴う渡航であった。
 父の影響もあってか、やがて、彼も軍人となる。
 しかし、南米でスペインの支配に対抗し、独立を求めて革命が起こると、彼はスペイン軍を去り、一八一二年の三月に、ブエノスアイレスに帰った。
 サン・マルティン、三十四歳のことである。
 彼にとっては、南米は生まれ故郷であり、南米こそが祖国であった。その解放と独立のために、一身を捧げようと決めたのである。
19  開墾(19)
 やがて、サン・マルティンは、自ら訓練した四千人の解放軍(五千人との説もある)を率いて、アンデスを越え、スペイン軍と戦い、チリのサンティアゴを攻略した。
 彼は、チリの最高指導者にとの要請を受けるが、それを強く固辞。さらに戦いの旅を続けるのである。
 彼は、チリに続いて、ぺルー進攻作戦を立てて、海路、ぺルーに上陸する。
 この時、サン・マルティンは、全軍に告げている。
 「諸君がここに来たのは征服のためではない。この国民を解放するためだ」
 一八二一年七月、彼は、遂にリマを解放する。
 七月十日、サン・マルティンは、ただ一人の副官を連れてリマに入った。彼の姿を見た人が叫んだ。
 「将軍万歳!」
 すると彼は、「ノー」「ノー」と恐縮しながら、皆に向かって言った。
 「『将軍万歳』ではなく、『ペルーの独立万歳』と叫ぼうではないか」
 そして、七月二十八日、サン・マルティンは、広場に集った民衆の前で、ペルーの独立を、高らかに宣言したのである。
 さらに彼は、最高の軍事指揮権並びに行政権を有する護民官に就任した。
 その彼を待ち受けていたのは、嫉妬と中傷の礫であった。
 「あいつは『王』になる野望をもっている!」
 「彼は、暴君だ! 帝王だ! 悪魔だ!」
 彼が、いかなる心で、何をめざしているのか、誰も知ろうとはしなかった。
 そのころ、彼は、一人の同志に送った手紙に、こう記している。
 「ペルーは自由になった。(中略)自分は、無事にこの責任を適当な者に引き継ぐことを見極めた上で、ここを去りたい」
 サン・マルティンの念願は、決して権力を手に入れることではなかった。ただスペインの南米支配の中心拠点であるリマを、解放することであった。
 ぺルーは独立を宣言したとはいえ、完全に独立を果たすには、まだ、スペイン軍との戦闘を重ねなければならなかった。
 そのころ、チリから北上してきたサン・マルティンに対して、もう一人の南米解放の英雄シモン・ボリバルは、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル地方と南下し、解放していった。
 サン・マルティンは、ぺルーの独立のためには、ボリバル軍との協力が必要と考え、二人は、現在のエクアドルのグアヤキルで会見することになる。
20  開墾(20)
 サン・マルティンとシモン・ボリバルの会見の様子は、南米史の謎とされているが、この両雄の意見には、大きな隔たりがあったようだ。
 今後の南米諸国の政体についても、二人の考え方は、全く異なっていた。
 「両雄並び立たず」という言葉があるが、サン・マルティンは、偉業の完成をボリバルに委ね、自らは引退することを決意するのである。
 なぜ、彼がそう決断したのか、皆、よくわからなかった。多くを語ろうとはしなかったからである。
 だが、ボリバルにあてた手紙のなかで、彼は自分の考えを、こう記している。
 「私は、貴公が軍を率いてペルーにこらるるには、私の存在は御邪魔になるものと信じます」
 「私は、独立戦争は一人の将軍の命令のもとで、その将軍の尽力によるものと思われている時に終結されるのが最上の幸福だと思う。それで私は辞めねばならぬと思う」
 サン・マルティンは、自分の使命は、ペルーを解放し、独立を宣言することで、スペインの支配から南米の自由を勝ち取る道を開くことであると、自覚していたにちがいない。
 それが達成されたからには、一人の指導者のもとでまとまっていくことが、最も大切であると、彼は考えたのであろう。
 また、彼は、以前から健康を損なっていた。
 独立への、とどまることなき流れがつくられた今、彼は、権限や立場などには、なんの未練も、執着もなかった。
 だからこそ、自分より五歳若いシモン・ボリバルに、ぺルー解放の総仕上げを託そうと結論したのだ。
 サン・マルティンは、ぺルーに戻ると、独立宣言後の第一回の国会に出席し、そこで、自分に与えられていた、地位や権限を議会に返上した。
 そして、風のようにペルーを去ったのである。
 すると今度は、南米解放の偉大なる功労者である彼に、「甚だ無責任である」などという、罵詈雑言が浴びせられたのだ。
 だが、孤高なる無私の英雄は、そんな中傷に負けることなく、自らの信念を貫いたのである。
 その後、サン・マルティンは、アルゼンチンから、ヨーロッパに渡り、一八五〇年八月、フランスで七十二歳の生涯を閉じる。
 その暮らしは、南米解放の英雄とは思えぬほど、ひっそりとしていたという。
 しかし、どこまでも弱い者を守ろうとする心は、変わらなかったようだ。
21  開墾(21)
 晩年のサン・マルティンの、こんなエピソードが残っている。
 ――ある時、孫娘が泣きながら、彼の部屋に入ってきた。手には、人形が握り締められていた。
 孫が泣き声で言う。
 「お人形さんが、こわれて、寒がっているの」
 彼は、タンスから黄色のリボンのついた勲章を取り出し、孫に手渡しながら言った。
 「これを人形につけておやり。寒さが取れるから」
 孫は泣きやんだが、その母親である彼の娘が、怪訝な顔で言った。
 「お父さん、それはフランス軍を破った時に、スペイン政府からいただいた、名誉ある勲章ですよ」
 サン・マルティンは、笑みを浮かべて、諭すように語った。
 「子供の涙も止められないようなら、リボンや勲章の値打ちなんて、どこにあるんだい」
 人びとの苦しみを救ってこその、武勲であり、名誉であるというのが、彼の信念であったのであろう。
 山本伸一たちは、広場に立って、しばらくサン・マルティンの騎馬像を眺めていた。
 伸一は、この英雄の生涯に思いを馳せた。
 そして、ただ、ひたすら南米の解放を念願していたサン・マルティンが、「王への野望をいだく者」「暴君」と、誹謗中傷されたことを思うと、身につまされてならなかった。
 伸一もまた、民衆の幸福と世界の平和のために生き抜いてきた。
 しかし、日本国内にあっては、彼は公明党に天下を取らせ、自身が最高権力者となって、国家を支配することが狙いであるなどと、喧伝されていたのである。
 また、この南米でも、伸一は「独裁者」などと書かれ、各国で政党を結成し、世界征服を計画しているなどと中傷されているのだ。
 人間は、自分を基準にものを考える。だから、自己の野心、野望のために生きている人間は、「無私」の人の存在を認めることができないのだ。
 そして、「無私」の人に対して、「無私」ゆえに、人びとの賞賛と尊敬が集まると、我欲に生きる者たちは、強い反発と嫉妬をいだき、排撃の集中砲火を浴びせるのである。
 伸一は、毅然とそそり立つ、騎馬像に誓っていた。
 ″私の生涯もまた、迫害につぐ迫害であろう。
 しかし、私は戦い続ける。決して負けはしない。悲哀の宿命の鉄鎖から、人類を解放することが、私の使命であるからだ″
22  開墾(22)
 山本伸一のぺルー滞在は二泊三日であるが、到着は三月十五日の午後で、十七日の朝には出発するという、慌ただしいスケジュールである。
 そのなかで伸一は、代表メンバーの激励に始まり、未来のために、ありとあらゆる手を打った。
 そして、この十六日、彼は、ぺルーの同志の大いなる飛躍を願い、一首の和歌を贈った。
  妙法の
    健児の意気は
      今ここに
    黄金の種
      広くまきゆけ
 八年前のこの日は、戸田城聖が、山本伸一をはじめとする青年たちに、広宣流布の後事のいっさいを託す記念の式典が行われた日であった。
 この日この時、伸一に、青年たちに、広布のバトンが手渡され、その胸中深く、黄金の使命の種子が植えられたのである。
 そこから、日本の新しき広布の地平が開かれていったのだ。
 彼は、その「3・16」の意義を込めて、一人ひとりのメンバーの生命に、広宣流布の「黄金の種」を蒔く思いで、この歌を詠んだのであろう。
 伸一たちは、翌十七日朝には、リマを発ってマイアミに向かい、ロサンゼルス、ホノルルを経て、二十三日に帰国したのである。
 リマでは、当局を刺激させまいとする配慮から、メンバーの見送りも遠慮してもらった。
 ひっそりとした出発となったが、伸一の激励を受けたメンバーの心には、広布への闘魂が、激しく燃え上がっていったのである。
 なかでも、ビセンテ・セイケン・キシベは、ぺルー広布の全責任を担って立つ自覚を固めていた。
 キシベは、まず、スペイン語版の機関紙「ぺルー・セイキョウ」の編集を自ら買って出た。
 彼は思った。
 ″ラテンアメリカでは、多くの国がスペイン語を公用語にしている。
 そのスペイン語の機関紙ができれば、ぺルーだけでなく、ラテンアメリカの広宣流布が、大きく前進することは間違いない。
 先生は、ぺルーの私たちに、大事な使命を与えてくださったのだ。
 先生に名前までつけていただいたこの新聞を、絶対に成功させよう!″
 キシベは、その役割の大きさを考えると、体が震える思いがした。
 彼は、喜び勇んで、新聞制作を開始したのだ。
 使命の自覚は、果敢なる行動となって、発芽していくものである。
23  開墾(23)
 「ぺルー・セイキョウ」の編集スタッフには、ビセンテ・セイケン・キシベのほかに、数人がついた。
 彼らは、毎夜、学会活動を終えてから、編集作業に取りかかった。
 記者や編集者として特別な教育を受けた人がいるわけではない。皆が素人であり、見よう見まねの作業であった。
 キシベたちが最も頭を悩ませたのは、やはり翻訳である。
 なかでも、学会指導や御書講義の翻訳は、予想以上に難航した。
 一語一語と格闘しながら、記事にしていくうちに、朝を迎えることも珍しくなかった。
 こうして、タブロイド判四ページ、活版印刷の「ペルー・セイキョウ」が創刊されたのは、山本伸一の提案から三十六日後の、四月二十日のことであった。
 この日は、日本の聖教新聞が一九五一年に創刊された日であり、奇しくも、それから十五年後の同じ日の発刊となったのである。
 また、機関紙の創刊と、ほぼ時を同じくして、リマ市内にぺルー会館が設置され、海外で八番目の会館として、晴れやかにオープンした。
 「時代を変えよう!」
 「学会を取り巻く社会の環境を変えよう!」
 同志は、こう心に誓い、″信頼の種″″友情の種″を蒔きながら、希望の前進を開始したのである。
 やがて、キシベは、ぺルーの理事長となり、このインカの大陸に新しき広布の歴史がつくられていくことになる。
 また、メンバーは、仏法者として、よき市民をめざし、社会貢献に取り組み、人びとの深い信頼を勝ち得ていった。
 それは同時に、創価学会と山本伸一に対する理解を、深めさせることになっていったのである。
 そして、一九七四年に、伸一が八年ぶりにぺルーを訪問した折には、リマ市は彼の来訪を歓迎し、「特別名誉市民」の称号を贈ったのである。
 さらに、八四年、伸一の三度目の訪問の時には、ぺルーの最高勲章である「ぺルー太陽大十字勲章」が、フェルナンド・ベラウンデ・テリー大統領から贈られている。
 これは、世界の平和と文化と教育への、伸一の多大な貢献を評価して贈られたものであった。
 伸一の一念が、そして、彼と心を同じくする、ぺルーの同志の一念が、時代を、社会を、大きく変えていったのである。
 歴史は動き、希望の太陽が昇ったのだ。
24  開墾(24)
 この一九六六年(昭和四十一年)の三月に、山本伸一が訪問できたのは、アメリカとブラジル、ぺルーであったが、ほかの幹部が手分けして、中南米各国を回り、メンバーの激励にあたっている。
 伸一が日本を発つ二日前の三月四日には、春木征一郎、清原かつ、岡田一哲ら七人が、アルゼンチンを訪問した。
 彼らは、四日朝、首都のブエノスアイレスに到着すると、直ちにアルゼンチン支部の支部長である、白谷竹男と組織整備の打ち合わせに入った。
 そして、午後には教学試験を実施し、夜には、日本人会館で開かれた支部の大会に出席したのである。
 この大会には、百人余りのメンバーが集って来た。
 アルゼンチンに組織がつくられたのは、六三年(同三十八年)の八月、春木が理事の山際洋とともに、ブエノスアイレスを訪問した時であった。
 この折、二十世帯ほどのメンバーで、地区が結成され、白谷竹男が地区部長になった。彼は、初代学生部長を務めた白谷邦男の実弟である。
 白谷竹男は、四三年(同十八年)に、兄の邦男の勧めで入会した。
 彼は、太平洋戦争の末期に海軍砲術学校に入り、沖縄に派遣された。そして、あの凄惨な沖縄戦で九死に一生を得た。
 その時、″守られた!″と思いはしたが、自ら積極的に信心に励むことはなかった。
 戦後、白谷は、海外に雄飛したいとの思いをいだくようになり、友人がアルゼンチンに渡っていたことから、彼もアルゼンチンへの移住を考えた。
 しかし、迷いもあった。
 五三年(同二十八年)の十月、兄の邦男の結婚式で戸田城聖と会った彼は、兄が尊敬しているという戸田に、自分の進路について相談してみようと思った。
 「そうか、アルゼンチンに行きたいのか。いいじゃないか。行ってこい。男一匹、腕試しだよ」
 この言葉で、彼の心は決まった。
 翌年の七月、白谷は船で日本を発った。
 アルゼンチンでは、鉄工所から始まり、洗濯業組合の仕事や、鮮魚店の経営などを経て、やがて、海外移住事業団の現地採用の職員となった。
 この白谷を励まし、信心を奮い立たせたのが、日本から移住して来た、大木田和也という、秋田県出身の青年である。
 大木田にとって、アルゼンチンは、子供のころからの憧れの国であった。
25  開墾(25)
 戦後の窮乏時代、アルゼンチンで花卉栽培に成功したという父親の友人から、ノートや鉛筆、ビスケットなどが、よく大木田の家に送られてきた。
 そんな物資の山を見ながら大木田和也は、″いつか自分も、この豊かなアルゼンチンに渡って、大農園をやってみたい″と思うようになり、高校を中退し、渡航の準備を始めた。
 渡航のために、神奈川県で花卉栽培の技術を学んでいた一九五七年(昭和三十二年)九月、彼は、先に信心を始めた母の勧めで入会した。
 その翌年の九月に、大木田は日本を発った。
 アルゼンチンでは、ブエノスアイレス近郊にある、父の友人の家に住み込み、花卉栽培の仕事をしながら、一人で信心に励んだ。しかし、彼は寂しくて仕方なかった。
 ″仏法のこと、学会のことを語り合い、励まし合える同志がほしい!″
 彼は学会員を探そうと、日本人に会うたびに、「創価学会の人を知りませんか」と聞いてみた。
 すると、予期せぬ反応が返ってきた。
 「なんだ、お前は創価学会なのか。学会といえば、暴力宗教じゃないか」
 「カトリックのアルゼンチンで、創価学会だなんて口にしたら、どうなると思うんだ。将来、結婚して、子供が生まれても、学校にも行けなくなるぞ!」
 彼は、自分が何も言い返せないことが悔しかった。
 そんな時、学会の先輩がくれた手紙のなかに、「苦しかったら、学会本部の山本総務に手紙を書き、指導を受けなさい」とあったことを思い出した。
 ″山本先生は多忙であろうし、全く面識のない自分が、突然、便りを出すのだから、返事など来ないだろう″と思いはしたが、自分の胸のうちを率直につづり、学会本部に、伸一にあてて手紙を送った。
 ほどなく、伸一から返事がきた。
 「お手紙、拝見いたしました。御本尊を受持した学会員が、堂々と海外で活躍されゆくことは、世界の黎明を意味するものと確信しています。
 如来の使いとして、貴殿の置かれた職場、環境で、全力を尽くし、社会の勝利者になられんことを祈っております。
 御本尊の功徳、お力は、宇宙全体を包み、世界のいずこにいようが、すべて通じます。諸天善神の加護を信じ、強盛なる信心を奮い起こして、元気いっぱいに戦い、生き抜かれんことを祈っています。
 希望と勇気と確信をもって、堂々たる人生を闊歩されんことを」
26  開墾(26)
 山本伸一からの手紙に、大木田和也は感激した。
 ″俺のために、山本総務が手紙をくださった。申し訳ない限りだ。必ず勝ってこの激励に応えよう!″
 さらに、伸一が第三代会長に就任する直前の四月二十二日にも、励ましの便りが届いた。
 伸一は、単身、アルゼンチンに渡った一青年のことが、頭から離れなかったのである。
 世界広布という崇高にして壮大な作業もまた、そこに生きる一人の人間から始まる。ゆえに、その一人を力の限り、生命の限り、励まし、応援することだ。
 大木田は、伸一の手紙を宝物のように大切にし、何度も、何度も読み返しては決意を新たにしてきた。
 そして、仏法対話に、全精魂を注いでいった。ところが、アルゼンチンに渡って二年が過ぎても、信心する人は誰もいなかった。
 しかし、学会本部の海外部と連絡をとっているうちに、三人のメンバーがいることがわかった。
 彼は、早速、メンバーを訪問することにした。
 白谷竹男と会えたのは、一九六一年の二月のことであった。
 入会の古い白谷に、大木田は期待をもって会いに行ったが、学会員としての自覚は、至って乏しかった。
 大木田は訴えた。
 「白谷さん。御本尊の力は絶対なんですから、まず朝の『五座』の勤行から始めましょうよ」
 「君がそこまで言うのなら、勤行はやってみてもいいが、うちには『ゴザ』がないんだよ」
 白谷は、「五座」を、筵の「茣蓙」と勘違いするほど、信心とは無縁であったのだ。
 それでも、大木田が何度も通ううちに、白谷は信心に目覚めていった。
 大木田は、仕事の面でも奮闘を続けた。
 広宣流布のためには、社会で勝利の実証を示さなければならないと、痛感していたのである。
 彼は、花卉栽培のための温室を建て、独立して仕事を始めた。といっても、最初は他の農園でも働かなければ、生活はできなかった。
 そのなかで、どうすれば、よりよい花卉の栽培ができるのか、人一倍、工夫と研究を重ねていった。
 移住から五年目には、温室を三棟に増やした。また、花の品評会で、彼が研究してきたカーネーションが、見事、第一位の栄冠に輝き、地元紙にも大きく紹介された。
 さらに、花卉組合の栽培研究の責任者にもなり、その翌年には、温室も六棟にしたのである。
27  開墾(27)
 大木田和也は、アルゼンチン社会にあって、見事な信心の実証を示し始めたのだ。
 そのころから、周囲の人たちの学会への評価が大きく変わり、彼の語る仏法の話に、皆が耳を傾けるようになっていった。
 一方、白谷竹男も、目覚ましい信心の成長を遂げていった。
 アルゼンチンに渡る時に船で知り合った人や、仕事仲間などに、次々と仏法を教えるようになっていた。広宣流布の闘士に育ったのである。
 そして、一九六三年(昭和三十八年)の八月に地区が誕生すると、白谷は地区部長になり、翌年八月の支部結成の時には、支部長になった。
 もともと彼は、面倒みのよい人柄であり、メンバーは彼を慕い、仲のよい、和気あいあいとした組織がつくられていった。
 さらに、六五年(同四十年)には、男子部の支部の組織も確立し、大木田がその責任者となった。
 それから間もなく、大木田は、日本の幹部に紹介され、東京で本部職員をしていた、赤岩光子という女性と結婚した。
 光子は、海外広布のために役立ちたいという希望はもっていたが、実際に、アルゼンチンでの生活が始まると、驚くことばかりであった。
 大木田の家は、ブエノスアイレスから三十キロほど離れた農村地帯にあり、電気もなかった。
 しかも、全く経験のない農作業も手伝わなくてはならない。
 彼女は、日本を発つ前にアルゼンチンの女子部の責任者の任命を受けていた。
 だが、学会活動に出るといっても、周囲は草の生い茂る広大な大草原である。バスもほとんどなく、夫のスクーターの後ろに乗せてもらって出かけるしか、方法はなかった。
 それは、当初、彼女が思い描いていた、欧米の大都会のような海外のイメージとは、全く異なっていた。
 慣れぬ農作業で痛む体、ランプの明かりでの生活、通じない言葉……。
 光子は、大草原に沈む、大きな、真っ赤な夕日を眺めては涙を拭った。
 しかし、彼女は、日本を発つ前に、山本伸一が指導してくれた言葉を思い起こしては、挫けそうになる自分に言い聞かせた。
 ″山本先生は、苦しいこともあるだろうが題目だよ、と言われた。
 自分のいるこの場所が、常寂光土になると教えているのが仏法だ。
 私は広宣流布のためにここに来た。どんなことがあっても、負けるわけにはいかない!″
28  開墾(28)
 光子は、懸命に学会活動に取り組んでいった。
 東京で女子部の幹部であった彼女にとって、アルゼンチンのメンバーの活動は、のんびりしているように思え、まどろっこしくて仕方なかった。
 また、彼女の感覚からすると、厳格に時間を守ろうという意識や、いかなる困難にも挑戦しようという学会精神が、著しく乏しいように感じられた。
 だが、光子が懸命になればなるほど、皆の心は離れていった。ある時、メンバーから彼女は言われた。
 「あなたは一生懸命だけど、私は、あなたにはついていけないわ」
 ショックは大きかった。
 ″私のどこがいけないのだろう″
 彼女は、必死になって唱題した。題目を唱えるうちに、あることに気づいた。
 ″私は、日本での活動を基準にして、すべて、そこに当てはめようとして、焦っていた。結局、自分本位ではなかったのか。
 大事なことは、アルゼンチンの現実と向き合っていくことだ。
 メンバー一人ひとりの苦悩を、どう解決していくのか。また、みんなが心から納得し、喜んで活動できる組織にするには、どうすればよいのかを、中心に考えなければ……″
 リーダーが自分本位であったり、傲慢であれば、組織は行き詰まってしまうものだ。
 以来、光子は、徹底した個人指導を心がけた。
 広宣流布の作業は、波浪が岩を削ることに似ているかもしれない。地道な、粘り強い、対話と激励の繰り返しこそが、すべてを変えていく原動力なのである。
 こうして、アルゼンチンは、白谷竹男を中心に、大木田和也・光子という若い力が団結し、メンバーも百二十世帯を超えるまでに至った。
 そして、この一九六六年(昭和四十一年)三月四日の、春木征一郎らの訪問となったのである。
 四日の夜、ブエノスアイレスの日本人会館で行われた大会では、教学試験の合格者や新しい組織の布陣が発表された。
 組織の新布陣の焦点は、婦人部であった。アルゼンチンには、これまで婦人部の幹部がいなかったが、小堀代志江という四十代後半の女性が、支部の婦人部長に就任した。
 彼女は入会して一年ほどであったが、子供の喘息を克服するなど、幾つもの体験を積んでいた。
 また、支部の副婦人部長も誕生し、大木田光子が女子部の責任者と兼任で就くことになったのである。
29  開墾(29)
 派遣幹部の指導となり、春木征一郎が立った。
 「今回、山本先生は、アルゼンチンには来られませんでしたが、次のようなご伝言がございました。
 『愛するアルゼンチンの皆様の幸福と、ご一家の繁栄をお祈りし、私は、毎日毎日、懸命に題目を送っております。
 私も、やがて、必ずアルゼンチンにまいります。
 日本とアルゼンチンは、地球の反対側にあり、遠く離れていますが、広宣流布に生き抜く人の心は、私と一体です。
 私の心のなかには、常に皆さんがいます。皆さんの心のなかにも、私がいることでしょう。
 私たちは、ともどもに不二の同志として、明るく、仲良く、誇らかに、この世の使命を果たし抜いていこうではありませんか。
 お会いできる日を楽しみにしております』
 以上が、先生からのご伝言でございます」
 この伝言に、集ったメンバーの多くは涙した。
 ほとんどの人たちが、同志も数少ないなかで、寂しさ、悲しさに耐え、山本会長を思い、歯を食いしばりながら、広宣流布に邁進してきたからである。
 春木は呼びかけた。
 「今日は、アルゼンチンの新しい出発の日です。
 生きるということは、歴史を創るということです。
 それぞれが、自身の幸福とアルゼンチンの広布の新しい歴史を、創っていこうではありませんか!」
 魂の閃光が闇を破るような、誓いの拍手が轟いた。
 山本伸一は、北・南米へ出発する前日の三月五日正午、学会本部にあって、電話で春木征一郎からアルゼンチンの大会の報告を聞いた。
 そして、翌六日の夜、日本を発ち、ロサンゼルス、ニューヨークを経て、三月十日にブラジル入りしたのである。
 大会を終えたアルゼンチンの幹部たちは、相談の末に、支部長の白谷竹男と支部婦人部長の小堀代志江、男子部の責任者の大木田和也で、ブラジルの山本会長を訪ねることにした。
 十二日、まず、白谷と小堀がサンパウロに到着し、伸一が出席して開かれた、ブラジルの代表幹部会に参加した。
 事前に、その報告を受けていた伸一は、婦人部長になった小堀の激励のために念珠を用意しておいた。
 使命に生きようとする同志を、仏を敬うがごとく遇するのが、仏法指導者の在り方である。
 代表幹部会が終わると、伸一は言った。
 「アルゼンチンの小堀さんは、来ていますか」
30  開墾(30)
 小堀代志江は、びっくりした。山本会長が、突然、自分の名を呼ぶとは、思ってもいなかったからだ。
 伸一は、彼女に念珠を手渡しながら言った。
 「よく、おいでくださいました。アルゼンチンの婦人部を頼みます。
 リーダーというのは、一人立つ″勇気の人″でなければならない。そして、みんなと仲良く進むことができる、″調和の人″でなければなりません。
 ご苦労をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
 真摯で誠実な言葉であると、小堀は感動を覚えた。
 伸一は、さらに、支部長の白谷竹男に励ましの言葉をかけ、二人と固い握手を交わした。
 翌十三日には、仕事で出発が遅れた大木田和也も、サンパウロに着いた。
 三人は、市立劇場で行われたブラジルの文化祭終了後、伸一が宿泊していたホテルに行き、彼の帰りを待った。
 大木田は出入り口の付近で、白谷と小堀はロビーで待機していると、伸一が斎木安弘らと一緒に到着し、エレベーターに向かった。
 出入り口のところで待っていた大木田は、急いで駆け寄り、伸一に言った。
 「先生! アルゼンチンの大木田です」
 伸一の顔に微笑みが浮かんだ。
 「よく来たね。
 さあ、一緒に、私の部屋に行こう」
 大木田は、伸一とエレベーターに乗った。
 一瞬のことであり、白谷と小堀が、エレベーターのところへ来た時には、既にドアが閉まり、動き出してしまった。
 前日、伸一に激励を受けていた二人は、大木田が戻って来るまで、ロビーで待つことにした。
 伸一は、手紙で励まし続けてきた青年が、頬を紅潮させ、元気に自分の前に現れたことが、嬉しくて仕方なかった。
 部屋に入ると、彼は語りかけた。
 「君に会える日を楽しみにしていたんだ。それにしても、よく頑張ったね。
 一人の青年がアルゼンチンに渡り、広宣流布のための組織をつくり、百人、二百人という人が、希望と幸福の道を歩み始めた。
 これほど、偉大なことはない。これほど、すばらしい、最高に意義のある人生はないじゃないか」
 「はい。私も、そう感じております」
 大木田が答えると、伸一は頷きながら言った。
 「人間の一生というのは、短いものだ。その一生をなんのために使っていくかで、人生の価値は決まってしまうよ」
31  開墾(31)
 山本伸一は、真剣なまなざしで大木田和也を見つめ、力を込めて言った。
 「君はアルゼンチンにあって、生涯、広布のために生き抜いてほしい。私に代わって、この国の人たちを幸せにしてほしいんだ」
 「はい!」
 決意が凝縮された声であった。
 そこに、伸一に同行していた峯子が、焼きソバを持ってきた。
 「アルゼンチンでは、あまり食べられないのではないかと思いまして。さあ、召し上がってください」
 峯子と伸一に勧められ、大木田は焼きソバを頬張った。懐かしい味であった。
 彼は食べながら、真心を噛み締めていた。
 この日、大木田の心は定まった。
 ″俺の人生は決まった。山本先生とともに広宣流布に生きる。そして、いつか先生を、アルゼンチンにお呼びしてみせる!″
 アルゼンチンに帰った彼は、成功していた花卉栽培をスッパリとやめ、花の販売の仕事を始めた。
 メンバーのために思う存分に働くには、郊外ではなく、皆と連携のとりやすい、より都心に近い所に住もうと考えたからだ。
 最初は、見習いから仕事を始め、委託販売業者として独立した。
 仕事は、日々、挑戦と苦闘の連続であったが、かつて自ら栽培を手がけてきた経験が生きるなどして、生花市場で一、二を争うまでになっていった。
 大木田は、広宣流布のためにアルゼンチン中を駆け巡り、翌年、アルゼンチンに総支部が結成されると、やがて総支部長になり、光子は婦人部長となって、活躍していくことになる。
 だが、山本伸一のアルゼンチン訪問という念願が実現するには、実に二十七年後の、一九九三年まで待たなければならなかった。
 その間、伸一は、アルゼンチンの大学関係者や芸術家、駐日大使、また、大統領と会見するなど、日亜両国の友好と教育・文化交流に全力を注いできた。
 同時に、メンバーの奮闘により、仏法理解の輪は大きく広がり、学会の進める平和と教育の運動が高く評価されていった。
 そして、九〇年には、アルゼンチン政府から、最高栄誉の一つである「大十字五月勲章」が、山本伸一に贈られ、各大学からの顕彰も相次ぐことになる。
 パンパスに、草創の同志の手で植えられた社会貢献の種子は、信頼の大輪となって、美しく咲き薫っていったのである。
32  開墾(32)
 アルゼンチンを訪問した春木征一郎らの一行は、三月五日には、パラグアイに向かった。
 パラグアイにも、支部があり、百世帯ほどのメンバーが、信心に励んでいた。
 派遣幹部のうち、春木と岡田一哲の二人は、首都のアスンシオンへ、清原かつをはじめとする五人は、日本人移住地のチャベスに行くことになっていた。
 この訪問で、今後のパラグアイの飛躍のために、重要な鍵を握るのが、チャベスでの激励であった。
 アルゼンチンの広宣流布が、首都ブエノスアイレスの近郊に移住した日系人から始まったのに対して、パラグアイは、チャベスなどの移住地に入植した日系人によって、仏法が弘められていったのである。
 パラグアイは、一九三四年(昭和九年)にブラジルが移住を制限したあとの新たな受け入れ先となり、三六年(同十一年)から、移住が始まっている。
 その後、太平洋戦争によって、日本との国交が断絶し、移住は中止となる。
 しかし、戦後、国交が再開されると、再び計画移住が行われ、五四年(同二十九年)五月に、入植が始まったのである。
 日本人移住者は、南部のアルゼンチン国境の都市エンカルナシオンの北東十六キロから始まるチャベス移住地や、隣接のフラム移住地、北東へ六十キロほどのピラポ移住地などに入植した。
 移住者は、割り当てられた土地から木を切り出し、柱を立て、自分たちで家を建てるところから始めなければならなかった。
 ようやく作った、小屋のような家で、夜、ランプをともすと、容赦なく虫が入ってきた。蚊やブヨの大群にはじまり、ウジや砂ノミにも悩まされた。
 真っ暗なジャングルからは、ピューマやサルの遠吠えが聞こえてくることもあった。その心細さと戦いながら、移住生活が始まるのである。
 この移住者のなかに、学会員がいた。五七年(同三十二年)にチャベスに入植し、パラグアイの支部長となる宮地進七である。
 また、フラムには、五九年(同三十四年)に、安達鉄也・富代夫妻が、ピラポには、六〇年(同三十五年)に、山木邦宏・ハル夫妻が入植してきた。
 そうしたメンバーが核となって、それぞれの移住地で、活動が開始されていったのである。
 移住地で同志と巡り会うことは、筆舌に尽くしがたい喜びであった。
33  開墾(33)
 たとえば、安達鉄也は、入植した翌年、「新しく来た人のなかに、南無妙法蓮華経と、朝晩、唱えている人がいる」と聞くと、小躍りして喜んだ。
 彼は、早速、新しい入植者の家を片っ端から訪ね、「創価学会員ではありませんか」と聞いて歩いた。
 しかし、なかなか見つからなかった。
 「はい、そうです。あなたも学会員ですか!」との弾む声を聞いたのは、八軒目の岡村文昭という人の家であった。
 二人は、互いに飛びつくようにして抱き合い、固い固い握手を交わした。
 移住地での活動は、都会と違って危険も多かった。
 ピラポ移住地の山木ハルは、入植してきたメンバーとともに、勇んで活動に出かけた。
 歩き疲れて、木陰で休んでいると、どこからか、カラカラ、カラカラという音が聞こえてきた。
 ハルは、草むらをのぞきながら言った。
 「なんの音かしら」
 「危ないわよ! ガラガラ蛇よ」
 一緒にいた人が叫んだ。
 「ガラガラ蛇は、ジー、ジーという音でしょ」
 「こういう音を出す時もあるのよ!」
 移住地では、ガラガラ蛇が出ることも珍しくなかったのである。
 大木を伐採すると枝から落ちてきたり、道にとぐろを巻いていたりした。蛇に咬まれた人が出て、大騒ぎになることもあった。
 また、活動の途中、雨が降ると、軟らかくなった赤土が靴について、滑って歩けなくなる。
 しかし、メンバーは裸足になって、どこまでも歩いていくのである。
 移住者の生活は、安定とは、ほど遠かった。
 植えた種子や苗が雨で流されたり、霜や雹にやられたり、イナゴが大発生して作物が食べられてしまうこともあった。
 作物の収入がなければ、日本から持ってきた金も、すぐに底を突いてしまう。
 そうしたなかで生きる学会員にとって、信仰は「立ち上がる力」であり、困難に屈せぬ「勇気の源泉」であった。
 だから皆、必死になって、信心に励んだ。同志のなかからは、さまざまな体験が生まれた。
 知恵を絞って、見事な収穫を得た人もいれば、自然災害の被害を免れた人もいた。その実証が、移住地の人たちの仏法への共感を広げていった。
 また、亡くなった学会員の安らかな死相に感動し、信心をしたいと申し出る人もいた。 韶韶わが友に贈る
 幹部は会員に学べ!
 会員の心に生きよ!
 それが最高の
 創価の人生!
34  開墾(34)
 パラグアイのメンバーの努力は、実を結び、同志の輪も広がっていった。
 そして、一九六一年(昭和三十六年)の八月にはパラグアイに地区が誕生。さらに、二年後の六三年(同三十八年)八月には、パラグアイ支部が結成されたのである。
 チャベスの移住地に行く清原かつをはじめとする五人は、アルゼンチンのブエノスアイレスから、空路、四時間余りを費やし、ポサダスの空港に着いた。
 ポサダスは、まだアルゼンチンで、ここからパラナ川を渡ると、パラグアイになる。
 支部長の宮地進七をはじめ、十人ほどのパラグアイのメンバーが、ポサダスの空港まで迎えに来てくれていた。
 メンバーのなかには、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを四日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長もいた。
 一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。
 空港からは、車で船着き場に行き、二十分ほどランチに乗って対岸に着いた。パラグアイのエンカルナシオンである。
 ここで打ち合わせを行った。その時、一人の青年が清原に言った。
 「お願いがあります。
 実は、六十キロほど先のピラポという移住地に、四十世帯ほどのメンバーがおります。
 その人たちは、今夜の宮地支部長宅での指導会に、トラックで来ることになっていましたが、大雨だったために、車がスリップしてしまうので、出発できないでいます。
 ジープなら行けると思いますので、どなたか、行ってもらえないでしょうか」
 すぐに、春木征一郎の妻で副婦人部長の春木文子と、男子部の幹部が行くことになった。
 午後三時ごろ、清原たちはマイクロバスでチャベスへ、春木文子らはジープでピラポへ出発した。
 清原の乗ったマイクロバスは、ぬかるんだ道に車輪をとられ、何度もスリップした。途中、皆で車を押すこともあった。
 チャベスの宮地支部長の家に着いたのは、夕刻であった。
 辺りには、農地と森が広がり、ところどころに小屋のような家が立っていた。
 清原は、ここにも同志がいて、懸命に学会活動に励んでいることに、不思議な思いがしてならなかった。
 ″これが御書に仰せの、「地涌の義」なんだ。まさに、世界広布の時は来ているんだ″
35  開墾(35)
 一方、ジープでピラポ移住地に向かった春木文子たちは、ぬかるみの道をひた走った。
 それでも、あまりスピードを出すことができず、到着したのは、午後九時過ぎであった。
 ところが、ピラポのメンバーは、幹部が来てくれるようになったとは知らずに、危険を覚悟でチャベスの宮地の家に出発してしまったのである。
 春木たちは、急いで引き返したが、チャベスに着いたのは、午前一時を回っていた。
 宮地の家では、午後七時半から指導会が開かれた。会場は、百人を超す参加者でいっぱいであった。ランプの明かりに照らされての指導会である。
 ここでは、メンバーから質問を受けた。
 どの質問にも、苦悩と心の葛藤が滲み出ていた。
 農業が軌道に乗らず、かさむ借金に苦しみながら、なんとか活路を見いだそうと、必死な人もいた。
 病の苦しみを、悲鳴にも似た思いで語る人もいた。
 清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。
 三歳ぐらいの男の子を抱えた老婦人が尋ねた。
 「この子は孫ですが、生まれつき目が見えないんです。信心を頑張れば、この子の目も、見えるようになりますか」
 老婦人の一家は、移住地の人たちに、仏法のすばらしさを訴え、布教に励んできた。ところが、目の不自由な子供が生まれたことから、「なんで学会員が、そんなことになるんだ」と、批判を浴びせられていたのである。
 家族は、針の筵に座るような、いたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。
 もとより、近くには大病院もなく、診察してもらうこともできない。悲嘆に暮れ果てての質問であった。
 皆、黙り込んで、清原の言葉を待った。
 彼女は断言した。
 「明確なことが一つだけあります。それは、強盛に信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれるということです。
 このお子さんが、生涯、信心を貫けるように、育ててください。
 信心をして生まれてきた子供に、使命のない人はいません。その使命を自覚するならば、必ず最高の人生を送ることができます」
 この指導が、世間に引け目を感じ、信心に一抹の不安をいだいていた、この家族の心の闇を、打ち破ったのである。
36  開墾(36)
 清原に指導を受けてからというもの、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになった。
 そして、家族も、その子供の幸せを願い、真剣に信心に励み、団結が生まれていったのである。
 また、ある壮年は、懇願するように言った。
 「山本先生は、パラグアイにも来てくださるだろうか……」
 「祈り抜いていくなら、必ず、先生は来てくださいます。また、皆さんの思いを、すぐに先生にお伝えします。先生をお呼びすることを目標に、頑張ろうではありませんか」
 質問は深夜まで続いた。
 その夜は、チャベス以外の移住地から来たメンバーは、宮地の家や近くの同志の家に分宿した。
 翌朝、皆で勤行したあと、個人指導の時間がもたれ、次いで、教学試験が行われた。
 派遣された幹部が感動したのは、大白蓮華や聖教新聞がほとんどないために、掲載された御書の講義などをノートに写し、研鑽していたことであった。
 しかも、そうした悪条件であるにもかかわらず、皆が実によく勉強しているのである。
 派遣幹部たちは、いかなる環境条件であろうが、求道の心があれば、教学を研鑽することはできるのだとの実感を深くした。
 清原たちがチャベスを後にしたのは、三月六日の午後四時過ぎであった。
 木々の生い茂る道を、マイクロバスに揺られながら派遣幹部たちは思った。
 ″もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けていただろうか。
 皆に指導はしてきたが、学ぶべきは自分たちの方ではないのか……″
 信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。
 また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。
 メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問が実現するのは、一九九三年(平成五年)のことである。
 それは、名画のような、永遠に輝く、感動的な出会いとなった。
 この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を称え、「国家功労大十字勲章」が贈られたのである。
37  開墾(37)
 さて、三月十六日の朝、ぺルーの首都リマで山本伸一と別れ、ボリビアに向かった理事長の泉田弘、総務の春木征一郎ら五人は、午後零時半過ぎ、ボリビアの事実上の首都であるラパスに到着した。
 ラパスは、世界最高所の首都といわれ、海抜約三、七〇〇メートルの高原都市である。富士山とほぼ同じ高さということになる。
 空港には、このラパスの日系人の家に住み込んで家庭教師をしている、竹原雅恵という女子部員と、金物店で働く、その弟の克美が来ていた。
 雅恵は二十一歳であり、克美は十九歳であった。
 ボリビアには支部が結成されており、百世帯近くのメンバーがいたが、ほとんどがサンタクルス周辺のサンフアン移住地などに住んでいた。ラパスには、四、五人のメンバーがいるだけであった。
 そして、若い、この竹原姉弟が、ラパスの中心となって、活動に励んできたのである。
 泉田たちは、二人をホテルに招いて、一緒に勤行したあと、全魂を傾けて激励した。
 眼前の一人を励ませ、一人を育てよ――それが、伸一の指導であったからだ。
 竹原の姉弟は、家族とともに、五年前にボリビアに移住してきた。
 ほかの家族は、サンフアン移住地に住んでいた。
 派遣幹部は、春木征一郎を除いて、ラパスに来たのは初めてであり、高地の気圧の低さ、酸素の少なさに、面食らっていた。
 耳鳴りがし、階段を上ったり、少し走ったりすると、動悸やめまいがするのである。
 「世界は広いな。こういうところもあるんだ。日本を基準に世界を考えることは間違いだね」
 それが、泉田の実感であったようだ。
 一行は、翌十七日、朝の便で、空路、ラパスからコチャバンバを経由してサンタクルスへ飛んだ。
 サンタクルスに到着すると、空港の建物のなかで、赤い服を着た十数人の鼓笛隊が演奏を披露していた。
 「いやに大袈裟な出迎えだね。大統領でも、来るんだろうか」
 泉田が言うと、春木が表情を変えた。
 「あの曲は『威風堂々の歌』ですよ!」
 泉田も耳を澄ませた。
 「確かにそうだ。われわれを歓迎するための学会の鼓笛隊か。周囲のことも考えないと困るな」
 その時、ボリビア支部の支部長の川浦太郎が駆け寄って来た。
38  開墾(38)
 「理事長、お待ちしとりました。
 今日は鼓笛隊の演奏で、盛大に皆さんばお迎えさせてもらいました」
 川浦太郎は、メガネの奥の目を輝かせながら、長崎訛で胸を張って言った。
 泉田弘は、メンバーの気持ちは嬉しかったが、川浦には、注意をしておかなくてはならないと思った。
 「歓迎してくれる気持ちはありがたいが、あれでは周りの人たちが奇異な目で見るし、顰蹙を買うことになりかねない。
 今、南米各国は、創価学会に対して警戒の目を向けているだけに、人目を引くような派手なことは、避けたほうがいいよ」
 川浦は、そうしたことは全く考えていなかったとみえ、最初はキョトンとした顔をしていたが、しばらくすると、納得したらしく、「確かにそぎゃんですね」と言って頭をかいた。
 彼は、長崎県諫早の出身で、一九六一年にボリビアに移住した。日本では、長崎支部の班長をしていた。
 その移住船には、七世帯三十八人の学会員がいた。竹原の一家も、同じ船に乗っていたのである。
 ボリビアの地形は、ラパスに代表される、ぺルーとチリの国境側(西側)のアンデス山脈の高原地帯、ブラジル側(東側)の東部平原地帯、その中間に位置する渓谷地帯の三つに大別することができる。
 川浦たちが住んだサンフアン移住地は、東部平原地帯にあり、ボリビア第二の都市サンタクルス市の北西約百二十五キロメートルのところにあった。
 この川浦を中心に、メンバーは団結して、移住地で布教を開始していったのである。
 ここでの暮らしも、森の木を伐採し、家を建てるところから始めなければならなかったが、同志の絆に結ばれた学会員は、意気揚々としていた。
 何人かのメンバーは、家の敷地の入り口に、「創価学会員」と書き、下に自分の氏名を記した大きな表札を掲げていた。
 同志の胸には、″俺は天下の創価学会員だ!″という強い誇りがあり、広宣流布への闘魂が燃え盛っていたのである。
 このサンフアンの移住地より早く、五四年八月から移住が始まったのが、サンタクルスの北東約百キロメートルにあるオキナワ移住地であった。
 沖縄からの移住は、琉球政府の「植民十カ年計画」に基づいて実施されたものだが、最初に移住した土地では、原因不明の熱病が発生し、多くの人が命を失っていったのである。
39  開墾(39)
 沖縄の移住者は、熱病に苦しめられただけではなく、そのうえ、川の氾濫によっても大被害を受け、移転を余儀なくされた。
 オキナワ移住地に、広布の灯がともったのは、一九六一年に仲村秀哲の一家が来てからであった。
 さらに、翌年になると、六、七世帯の学会員が移住してきた。
 このメンバーを励まし続けてきたのが、川浦太郎であった。
 サンフアン移住地に住む彼が、オキナワ移住地に行くには、日に、一、二本しかないバスを使うか、トラックに乗せてもらって、まず約七十五キロ離れた、モンテーロという街に出る。
 今度は、そこから、やはりバスかトラックで、約五十キロ先にある、オキナワ移住地に向かうのである。
 しかし、雨で道がぬかるんでいたりすれば、途中までしか行けないために、山のなかを何時間と歩くことも珍しくなかった。
 また、移住地内でも、メンバーの家と家が、三、四十キロも離れており、荷馬車が使えなければ、徒歩で移動するしかなかった。
 彼は、オキナワ移住地に行く時には、二、三日がかりになることを覚悟して、仕事の段取りをつけ、バッグに着替えを詰め込んで、出かけていくのである。
 こうした川浦の努力が実り、次第に人材が育ち、布教も進んでいった。
 そして、六二年の十一月、理事の山際洋がボリビアを訪問した折に支部が結成された。
 サンフアン地区とオキナワ地区の二地区五十世帯からのスタートである。
 支部長は川浦であり、支部の婦人部長は、彼の妻のミキであった。
 翌六三年の八月にも、山際と春木征一郎がボリビアを訪問。メンバーは旺盛な求道心をたぎらせ、彼らの指導を、乾いた砂が水を吸い込むように吸収し、前進を開始したのである。
 夜の山道を、十キロ、二十キロと、歩いて活動に励むこともあった。
 長さ一メートルほどのパパイアの茎にボロ切れを丸めて詰め込み、石油を染み込ませて火をつけ、松明代わりにし、毒蛇に注意しながらの行軍である。
 雨あがりに、馬に乗って家庭指導に行く途中、川のようになった道で、馬もろとも転倒してしまった人もいた。
 しかし、自分はずぶ濡れになっても、必死に手を掲げて、同志に読ませるために持って来た聖教新聞だけは濡らさなかった。
 そして、意気揚々と、凱旋将軍のごとく、また、進んでいくのである。
40  開墾(40)
 サンタクルスの空港に到着した泉田弘らの一行は、サンフアン移住地に向かった。車で三時間半の道のりである。
 そこにある川浦太郎の自宅で、ボリビア支部の大会などの諸行事が行われることになっていた。
 川浦の家は、どの家もそうであるように、自分たちで作ったものだ。天井はなく、梁はむき出しで、板敷きであったが、四、五十畳分の広さがあった。
 活動の会場として使おうと考え、あえて広い家を建てたのである。
 一行が到着すると、既に百人余りのメンバーが集っていた。
 午後五時過ぎから、支部の大会が始まった。ほぼ全員が日系人である。
 誰もが、喜びを満面にたたえ、元気いっぱいに学会歌を合唱した。
 体験発表、ボリビア支部の婦人部長・支部長のあいさつ、そして、派遣幹部のあいさつと続いた。
 派遣幹部たちは、自分たちの指導に、一言一言頷きながら、時に涙さえ浮かべて耳を傾けるメンバーの姿に、心が洗われる思いであった。
 大会のあとは、教学試験と並行して、組織整備の打ち合わせが行われ、試験終了後に、新しい組織の布陣が発表された。
 ボリビア支部は、それまでの二地区から四地区となり、支部の男子部、女子部の責任者も誕生した。
 予定された行事が終わると、自然に派遣幹部を囲んでの懇談会となった。
 遠くの移住地から来たメンバーは、近くの同志の家に分宿させてもらうことになっているため、帰りの時間のことは心配しないでよかった。
 皆、この機会に、日ごろ思い悩んでいる問題について相談しようと、真剣であった。指導を受ける人は、後を絶たなかった。
 人生の苦悩を破る、力を与えられるか。希望を、勇気を、確信を与えられるか――派遣幹部は、懸命に指導にあたった。
 自らの生命を振り絞らずして、鉄をも溶かす炎の情熱なくして、人の心を揺り動かすことなどできないからだ。
 実に創価学会の強さは、常に幹部が、一人ひとりの同志と会い、指導と激励と触発に、全精魂を注ぎ込んできたことにある。
 派遣幹部が蚊帳の下に身を横たえることができたのは、明け方近かった。
 泉田たちの訪問によって、ボリビアの同志の心には希望の種子が植えられ、未来への大いなる飛翔の活力がもたらされていったのである。
41  開墾(41)
 泉田弘らがボリビアに向かう前日の三月十五日朝、清原かつ、岡田一哲の二人は、ブラジルのサンパウロから、ドミニカに向かって出発した。
 ドミニカは、カリブ海に浮かぶ西インド諸島の、イスパニョーラ島にある共和国である。
 戦後の中南米への日本人移住者のなかで、最も悲惨な事態にさらされたのは、このドミニカに渡った人たちであった。
 ドミニカへの移住は、一九五六年(昭和三十一年)から国策として実施されたが、この国が人びとの注目を集めたのは、示された条件があまりにもよかったからである。
 ″ドミニカでは、移住者に三百タレアの土地が無償譲渡され、家も用意されている″″自給できるまで大人一人につき一日六十セントの生活補助金が支給される″というのだ。
 一日に六十セントの補助金といえば、月に十八ドルである。当時は一ドル三百六十円の時代であり、日本円にすれば六千四百八十円になる。
 小学校の教員の初任給が七、八千円の時代であることを思えば、かなり高額な補助金といえよう。
 また、三百タレアの土地といえば、十八ヘクタールである。日本なら大地主になる。
 しかも、気候も、土地条件も、交通の便もよく、「カリブ海の楽園」という触れ込みである。
 だが、実際に入植してみると、現地の状況はあまりにもひどかった。
 話とは違い、灌漑設備が完備されていなかったり、肥沃な耕地と聞かされていた土地が、石だらけで耕作不能であったり、塩が吹き出て砂漠同然であったりしたのである。
 移住者は、愕然とした。
 ただ、途方に暮れるばかりであった。
 しかし、日本政府は、そうした条件の不備を、入植前に知っていたのである。
 ――たとえば、ダハボンの入植地は、水不足であることから、日本側は用水路の整備を要求してきた。
 それに対してドミニカ側は、五六年二月、早急に灌漑設備を整備することは不可能であるので、移住計画は見合わせるべきだと回答していた。
 ところが、なんと日本側は、乾燥地での耕作を経験している農民を送るので問題はないとして、この年の三月に移住者の募集を始め、実施に踏み切ったのである。
 「ドミニカ移民は、移民ではなく、棄民である」と言われたゆえんである。
42  開墾(42)
 ドミニカへの移住は一九五九年(昭和三十四年)まで続けられるが、移住者の実態は、惨憺たるものであった。
 そもそも配分された土地も、募集時の説明よりも、はるかに少なかった。
 それでも入植者は、耕作できる土地をつくろうと、力を合わせて開墾作業に励んだ。
 だが、自給できるまで支払われると聞いていた補助金も、早ければ半年で、長くても三年ほどで打ち切られてしまった。
 携行資金も、食糧代となって消え、日本から持ってきた衣類やミシンなどを、次々と現地の人に売っては食いつないだりした。
 遂には、売るものさえなくなり、ジャングルのなかで、バナナやオレンジをとり、その日、その日の空腹をしのぐ人もいた。
 入植者たちは、移住導入計画を推進した海協連(日本海外協会連合会の略称)や日本大使館、移住斡旋所の関係者にも抗議した。
 しかし、どこも、全く相手にしてくれなかった。
 土地は石ころだらけで作物など育たぬ、との涙ながらの訴えに、「石は三年もすれば砕けて肥料になる」と、平然と応じる無責任な者もいたのである。
 六〇年(同三十五年)の十月、移住者たちは、日本の外務大臣あてに、移住地の実情を訴え、救いを求める嘆願書を送ったが、その声も、どこかで握りつぶされてしまったようだ。
 この移住者の悲痛な声を最初にキャッチし、素早く行動を起こしたのは、学会員の議員たちであった。
 「移住者は、餓死寸前です。二年前から、死にものぐるいになって、帰国促進運動を起こしているのですが、誰も救いの手を差し伸べてはくれません」
 六一年(同三十六年)四月、母親がドミニカのネイバに入植したという女性の訴えを聞いた学会員の参議院議員は、問題の重大さを感じた。
 直ちに調査を開始する一方、外務省に、現地調査の実施を強力に申し入れた。
 また、同年五月三十日の参議院外務委員会で、この移住問題を取り上げて責任を追及。
 政府は、ドミニカの入植地の三分の一が、農耕に適さない土地であったことを認めたのである。
 そして、移住者の国費による帰還などの対応が、なされていくことになる。
 引き揚げは、この年の十月から翌年にかけて、数次にわたって行われ、移住した二百四十九家族千三百十九人のうち、百三十三家族六百十一人が帰国したのである。
43  開墾(43)
 ドミニカの移住者のなかには、日本には帰らず、ブラジルやアルゼンチンなどの南米諸国に、再移住していく人もいれば、ドミニカにとどまった人もいた。
 その人たちの多くは、″たとえ、どんな事態になろうが、今更、おめおめと日本には帰れない″という思いからであった。皆、すべてを処分し、ドミニカに渡って来たのである。
 残留者のなかに、村木広人という男性がいた。
 彼は、一九五七年(昭和三十二年)に、妻と、妻の家族の六人で、山口県から移住した。
 家も、畑も、家財道具も売れるものはすべて売り払い、ドミニカに骨を埋める決意でやって来たのだ。
 彼には、無償で譲渡されるという、三百タレア、つまり、十八ヘクタールもの広大な土地が、たまらない魅力であった。彼が住んでいた集落全体に匹敵する広さである。
 それが全部、自分のものになるのかと思うと、夢が広がった。
 入植地は、首都サントドミンゴから、北西約三百三十キロの、ハイチとの国境に近いダハボンであった。
 だが、実際に彼に与えられた土地は、六十タレアであり、しかも移住地の集落から五キロ以上離れた、赤土の荒れ地であった。
 村木は、土地を耕し始めたが、太陽に照らされて乾いた赤土は石のように硬かった。まるで、彼らの入植を拒むかのように、鍬の刃をはね返した。
 なんとか耕し、畑として使うことができたのは、配分された土地の三分の一の二十タレアであった。
 そこに、日本から持ってきた野菜の種などを蒔いても、全く育たなかった。暑さと水不足が原因である。
 トマトの苗をもらって植えた時だけ、わずかに収穫があったにすぎなかった。
 ともかく水が足りないのである。畑ごとに取水時間を取り決めており、水を流すと連絡のあった日には、寝ずに待った。
 ある日、時間になっても水がこなかった。
 水路をたどって行くと、上流の畑の人が、自分の水門を開き、水を横取りしていた。まさに「我田引水」である。
 皆、食うか食われるかの状況に追い詰められ、約束を守ったり、人のことを思いやるゆとりなど、とうに失っていたのだ。
 村木は、不毛な赤土の大地同様に、同胞の心までも荒れ果ててしまったことが、無性に悲しかった。
 水の取り合いで、兄弟や親戚同士で、取っ組み合いの喧嘩をすることも珍しくなかった。
44  開墾(44)
 村木の家では、日本から持ってきた米も底を突いてしまった。餓死を待つような暮らしである。
 彼には、一九五七年の九月と、五九年の七月に、ドミニカで生まれた二人の娘がいた。
 そのあどけない寝顔を見ると、胸が締めつけられる思いがした。
 彼は活路を開こうと必死だった。考え抜いた末に、配分された土地の側に、小さなトタン葺きの小屋を建て、食料品店を開いた。
 妻、妻の母、妻の妹が三人と、女手が多いところから、店をやった方が効果的に収入を得られると考えたのである。
 米や塩、清涼飲料水などを、馬車で仕入れに行き、それを売るのである。これで、なんとか飢えだけはしのげたが、客は畑の近くに住む現地の人たちであり、商売には限界があった。
 また、先に入植していた妻の姉が、お産がきっかけで死亡した。医療設備さえ整っていれば、命を失うようなことはなかったはずである。
 村木は、これ以上、希望のない暮らしを続けることに耐えられなかった。
 日本人移住者は、続々と帰国し始めていた。
 失意のなかで、彼は日本の母親に、「帰ろうかと思っている」と、相談の手紙を出した。
 村木は日本を発つ時、母親に言った。
 「十年たったら、きっと大成功した姿を見せに来るから……」
 それだけに、辛い思いでつづった手紙であった。
 やがて、母親から封書が届いた。鉛筆書きのたどたどしい文字である。
 手紙には、創価学会に入会したとあった。
 「このゴホンゾンサマには力があります。ナンミョウホウレンゲキョウととなえれば、きっと幸せになれます。お前も題目をとなえて、がんばりなさい」
 村木は、最初、″宗教で生活がよくなるものか″と思ったが、手紙を読み返すうちに、わが子の幸せを願う母の真心が、強く胸に迫ってきた。
 また、彼には、ほかにどうする方法もなかった。
 村木は、題目を唱えてみた。二十分、三十分と唱題していると、不思議と心が軽くなった。
 手応えを感じた村木は、「俺もこの信心をやってみよう」と思った。一九六二年のことである。
 彼が、勤行を始めると、家族のなかで、胃腸が悪かった妻の母親が、一緒に題目を唱え始めた。
 しかし、義母の胃腸の痛みは治まるどころか、ますますひどくなった。
45  開墾(45)
 近所の人たちからも、「村木は変な宗教に凝ってしまったから、家族が病気になるんだ」と言われる始末である。
 村木広人は、「この信心はだめだ。俺はやめる」と日本に手紙を書いた。しばらくすると、母を折伏した彼の兄から返事がきた。
 「それは、長く使わなかった水道管に水を流すと、錆や汚れが洗い流されて、最初は濁った汚い水が出るのと同じことだ。頑張り抜けば、必ずよくなる」と説明してあった。
 その言葉に従って、信心をやめずに、祈り続けた。すると、不思議なことに、義母の胃腸の痛みも次第に緩和し、以来、家族全員が信心に励むようになった。
 ある日、店にドミニカ人の紳士が来て、ジュースを買った。ダハボンから三十キロメートルほど離れたところにある市の、市長であった。市長はスペイン語で語りかけた。
 「君のところで、稲の苗を作ってみないかね。
 私の市の土には、塩分が多く含まれているために、苗は育てられないのだよ。そこで、ほかから苗を買って稲を作っているのだが、どうだろうか」
 カタコトのスペイン語で村木は答えた。
 「ここには、水がないので、何も育てることができません。
 少しでも水があれば、苗を作るぐらいのことはできるんですが……」
 すると、市長は胸を張って言った。
 「水のことなら、私がなんとかしよう」
 市長は、ダハボンの水の管理官に交渉し、すぐに村木のところに、欲しいだけ水を回すという優遇措置をとってくれた。
 その水で、田を起こし、籾を蒔いた。気温が高いので、年に数回、苗を作ることができる。現地の人を二十人も雇っての大作業となった。
 こうして、まとまった収入を得ることができた。
 初信の功徳であった。
 この一九六二年の暮れ、村木はダハボンから二百キロメートルほど離れた、水田地帯のコツイという土地に移り、ここで食料品店を開いた。
 ″俺は、この国で勝利者になってみせる。そして、信心の実証を示そう!″
 彼は懸命に唱題しては、どうすれば商売が軌道に乗るか考えた。
 そして、米で「おこし」を作っていた人がいたことを思い出し、その人から製法を教わり、製造販売を始めることにした。
 といっても、じっとしていたのでは客は来ない。自転車で売って回るのだ。
46  開墾(46)
 村木広人が住む町の周辺の人たちは、「おこし」を食べたことがないために、なかなか売れなかった。
 そこで彼は、「食べてみて、うまいと思ったら、次に来た時に買ってください」と言って、無料で置いてくることにした。
 これが功を奏し、やがて「おこし」が売れ始め、大評判になっていった。村木は、またしても信心の力を実感した。
 ある日、日本人組合の精米所に行くと、日本人移住者の青年が、結核でサントドミンゴの病院に入院しているという話を耳にした。
 村木は誠実であった。かわいそうだと思い、その青年に信心を教えようと、病院を訪ねた。
 会って、信心の話をすると、青年は言った。
 「うちの親父も創価学会に入っていました」
 父親は中尾寛一といい、コツイから百数十キロ離れた、コンスタンサの移住地に住んでいるという。
 翌日、乗り合いタクシーを乗り継ぎ、中尾の家を訪問した。初めて会う学会員である。
 中尾は、口髭を蓄えた五十代後半の朗らかな人物だった。一九五五年(昭和三十年)に福岡で入会し、翌年、ドミニカに渡ってからも、勤行だけは続けてきたのである。
 この村木と中尾の対面から、二つの歯車が噛み合って、ドミニカの広宣流布の回転が始まったのである。
 スペイン語があまりできない彼らは、まず、日本人移住者全員に、信心を教えようと決意した。
 村木は、車の免許をもっていないため、一生懸命に働き、運転手つきで車を借りて、妻の磯子とともに、毎月、数日がかりで布教に出かけた。
 移住地で苦労を重ねてきた日本人は、商売が順調に軌道に乗っている村木の姿から、信心の力を感じとり、次第に、メンバーが誕生していったのである。
 移住者には、身の不運を嘆いてばかりいる人が少なくなかった。
 だが、そのなかで、信心に目覚めた人たちは、人生の新たな意義を自覚していった。
 ″私たちには、仏法をもって、このドミニカの人たちを幸福にする使命がある。その使命を果たすためにも、自分が人生の勝利者にならねば……。何があっても、負けるものか!″
 幸福も、不幸も、すべては人間の一念によって決まってしまうものだ。
 そして、村木たちによって、百二十世帯ほどの日本人移住者のうち、四分の一にあたる約三十世帯が、信心を始めたのである。
47  開墾(47)
 三月十五日の朝、サンパウロを発った清原かつ、岡田一哲の二人は、その日は、カリブ海にあるプエルトリコ島のサンフアンに泊まり、翌十六日の朝、ドミニカ共和国の首都のサントドミンゴに到着した。
 日本の幹部がドミニカを訪問するのは、これが初めてであった。
 空港には、交通の便の悪いなか、百キロ以上も先の移住地から、十四、五人もの人が、求道に目を輝かせながら集って来た。
 清原たちは、中心になってきた村木広人や中尾寛一らの代表と、宿舎となるホテルで、組織をどうするかについて検討した。
 清原と岡田がサンパウロを発つ前日、山本伸一は言った。
 「もし、ドミニカの皆さんが賛成ならば、支部を結成してはどうだろうか。
 皆、苦労に苦労を重ねて頑張ってきた。一番苦労してきた人が、一番幸福になる権利がある。支部の結成は、そのための船出だよ」
 岡田が、この話を伝えると、村木たちは「先生は、私たちのことを心配してくださっているのですね」と言って目を潤ませた。
 支部の結成は、ドミニカのメンバーの念願であり、皆、大賛成であった。
 早速、支部結成の検討に入り、支部名はドミニカ支部とし、支部長には、村木より年長で入会も古い中尾が、支部の婦人部長には、村木の妻の磯子が就くことになった。
 また、日本人の移住地を中心に、ヒーマ、コンスタンサ、ダハボンの三地区が誕生することになり、村木はヒーマ地区の地区部長に決まった。
 さらに、男女青年部の組織もつくられ、それぞれ中心者も決定した。
 それから清原たちは、ドミニカ支部の支部結成大会となった指導会に出席するため、サントドミンゴから、コンスタンサの移住地に向かった。
 車は、もうもうと砂煙をあげながら、でこぼこ道を四時間ほど走り、ようやくコンスタンサ移住地に到着した。
 この移住地の集会所が結成大会の会場だが、そこは集会所というより、食糧倉庫を思わせた。
 だが、集って来たメンバーの顔は、生き生きと輝いていた。
 ドミニカ支部の結成大会には、六、七十人の人たちが参加した。
 最初に岡田一哲から、支部を結成することが発表され、人事が紹介されると、皆の喜びが爆発した。
 ″ドミニカの新時代が来た。支部が結成されたということは、広宣流布の泉が湧いたということなんだ″
 誰もがそう思った。
48  開墾(48)
 体験発表などのあと、清原かつを中心に、質問会が行われた。
 最後に、清原は訴えた。
 「皆さんの手で、皆さんの力で、ドミニカを幸せの楽園にしてください。
 そして、『先生、ドミニカの広布を見てください』と、胸を張って言える、見事なる歴史を残して、山本先生に来ていただこうではありませんか!」
 この呼びかけに、大拍手がわき起こった。
 支部結成大会の終了後、一人の婦人が駆け寄ってきて、清原の手を握り締めて言った。
 「今のお話で、ドミニカの目標ができました。
 何年、何十年かかったとしても、私たちは、必ず、このドミニカに、山本先生をお呼びいたします」
 それから、参加者全員で記念撮影をした。
 清原は、ドミニカのメンバーと語り合って、その信心の純粋さに、驚きを隠せなかった。愚痴や文句や怨嫉めいた話は、全くないのである。
 日本から幹部が来て、指導しているわけでもないのに、なぜ、皆がこれほど強い、すっきりとした信仰に立っているのか、彼女は疑問だった。
 しかし、話をしているうちに、その陰には、側面からメンバーを支え、励まし続けてきた、日本に住む一人の婦人がいることがわかった。東京・新宿区で班長をしている、田所キクという人である。
 彼女は、ドミニカには来たこともなければ、特にドミニカと深い関係があったわけではなかった。
 ただ、中尾寛一の弟が田所と同じ組織で、何かと世話になっていたことから、中尾が彼女の家に、あいさつに行ったことがあった。
 田所は、その後、中尾がドミニカに移住したと聞いて、新天地での活躍を祈ってきた。
 一九六四年(昭和三十九年)、彼女のもとに、中尾から手紙が届いた。
 そこには、村木広人と二人で活動を開始し、新メンバーも、次々と誕生していることが記されていた。
 田所は、世界広布のために戦う同志を、なんとしても応援したいと思った。
 そして、すぐに返事を書き、数珠や勤行要典、また、聖教新聞や大白蓮華など、学会の出版物を梱包して送った。
 現地のメンバーにとっては、それは、宝のような贈り物であった。
 大白蓮華や聖教新聞は、皆で回し読みした。御書の御文をはじめ、山本会長の指導など、大切だと思えるところは、皆、ノートに書き写していった。
49  開墾(49)
 田所キクは、ドミニカのメンバーのためにと、その後も機関紙誌など、学会の出版物を送り続けた。
 ドミニカには幹部がいなかっただけに、メンバーは全く面識がないにもかかわらず、何かあると、彼女に手紙で相談するようになっていった。
 田所は、問題によっては学会本部に問い合わせるなどして、その一つ一つに誠実に、一生懸命に対応し、励ましの便りを書いた。
 彼女が出す手紙は、月に十通を超えることもあった。しかも、季節ごとに、桜や桃などの押し花が同封されていた。少しでも、皆の心が和んでくれればとの、配慮からであった。
 その便りは、メンバーの大きな心の支えとなった。
 皆は、田所に、″ドミニカ広布のお母さん″という思いをいだくようになっていった。
 人に言われて始めたことではない。報酬や見返りを求めての行為でもない。同志を思い、世界の広宣流布を願うがゆえに、自ら始めた献身であった。
 こうした励ましの連帯の絆が、地下茎のように張り巡らされ、友と友の心を結んでいたからこそ、世界広布の揺るぎない基盤が、築かれていったのである。
 ともあれ、この支部結成によって、カリブの宝石・ドミニカに旭日が昇り、希望の行進が始まったのだ。
 同志が念願してきた、山本伸一のドミニカ共和国の訪問が実現するのは、それから二十一年後の一九八七年(昭和六十二年)のことである。
 これは、彼の海外訪問の四十カ国目という、記念すべき訪問となった。
 この折、伸一はホアキン・バラゲール大統領と会見し、さらに、「クリストバル・コロン大十字勲章」を受章したほか、サントドミンゴ自治大学から、名誉教授の称号が贈られた。
 それは、伸一とメンバーが、ドミニカ社会で大きな信頼を勝ち取った、最高の証であった。
 この六六年(同四十一年)から、中南米各国の広宣流布の、本格的な開墾が始まったといってよい。
 だが、その作業は、石だらけの大地を耕し、畑を作り上げるような、苦闘の連続であった。
 徒労に思え、空しさを感ずることもあったにちがいない。幾度となく、悔し涙を流したことであろう。
 しかし、どの国も、どの友も、見事に勝ち抜いてくれた。
 今、創価の勝利の旗は、あの地、この地に、誇らかに翻り、栄光の虹かかる、二十一世紀の開幕の瞬間を待っている。

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