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日蓮大聖人・池田大作

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第11巻 「暁光」 暁光

小説「新・人間革命」

前後
2  暁光(2)
 今回の北・南米訪問のために、山本伸一が日本を発ったのは、三月六日のことである。
 サンフランシスコを経由してロサンゼルスに入り、ここで一泊し、現地時間の七日午後五時半過ぎにニューヨークに到着した。
 その夜には、二年半前にオープンしたニューヨーク会館を初訪問し、翌八日の午前中も、会館でメンバーの質問を受けるなどして、指導に全力を注いだ。
 このころから、彼の体調は崩れ、悪寒がし、発熱が始まったのである。
 八日の夜は、学会と取引のある企業の駐在員らと、食事をする予定でいたが、理事長の泉田弘ら、同行の幹部たちに出てもらい、やむなく、彼は欠席したのであった。
 同行していた妻の峯子が、持参してきた解熱剤をのませ、冷たいタオルで頭を冷やし、懸命に看病してくれた。
 翌日になると、多少、熱は下がった。しかし、まだ、微熱があった。
 峯子は、不安そうに伸一の顔を見たが、彼は、声を弾ませて言った。
 「これなら大丈夫だ。ブラジルに出発できるぞ!」
 彼の心は、既にブラジルに飛んでいた。
 その日の午後十時、伸一たちは、ニューヨークを発ち、ブラジルの最初の訪問地である、リオデジャネイロに向かったのである。
 機内で眠れぬ夜を過ごした伸一は、目にしていた本を閉じると、窓に額をこすりつけるようにして、外を眺めた。
 地平線がほのかに白み始め、眼下には、大地を縫うように、大河が流れているのが見えた。有名なアマゾン川であろうか。
 やがて、地平線の彼方に太陽が昇り始めた。世界を暖かく包みゆくような緑の大地が、果てしなく広がっていた。
 きらめく暁光を浴びながら、彼は決意を新たにした。
 ″アマゾン川のような、ブラジル広布の悠久の大河の流れを開くぞ!″
 リオデジャネイロに到着したのは、現地時間で十日の午前十時前であった。
 空港には、南米本部長の斎木安弘、彼の妻で南米本部婦人部長の説子をはじめ、数人の地元幹部、また、先にブラジル入りしていた婦人部長の清原かつらが迎えに来ていた。
 伸一は、斎木夫妻とは約七カ月ぶりの対面である。
 「いよいよ文化祭だね。
 ブラジルに″文化の華″″平和の華″″幸福の華″を咲かせよう。新しい歴史を開こうよ」
3  暁光(3)
 山本伸一の一行は、ホテルに着くと、直ちにスケジュールなどの打ち合わせに入った。
 その時、電話のベルが鳴った。
 同行の十条潔が受話器を取り、すぐに伸一にかわった。先発隊としてサンパウロにいる、副理事長の岡田一哲からである。
 彼は、緊張した声で話し始めた。
 「先生、実は、学会を取り巻く、ブラジル社会の状況は、非常に険悪なものがあります。昨日、サンパウロ日本文化協会に行きましたところ、私と同じ岡山出身の協会の幹部がおりまして、かなり打ち解けた語らいになりました。
 その時、この幹部は、ブラジルの政治警察が、学会をどう見ているか、教えてくれました。
 彼の話では、当局は、創価学会は宗教を擬装した政治団体であり、今回の先生の訪問は、ブラジルで政党を結成する準備のためであると考えているそうです。
 また、学会は、社会転覆をもたらす危険な団体という認識だと言います。それで、会合等の開催は認めるが、厳しく監視し、何かあれば、逮捕も辞さない構えだと言うんです」
 伸一は尋ねた。
 「しかし、なぜそんなことになったのかね」
 「一つは、二年半ほど前に、アメリカの有名な雑誌が、偏見だらけの学会の特集を組んだことが影響しています。
 学会は世界征服をねらう教団であるなどと報じたことを真に受け、ブラジルのマスコミも、同じようなことを書き立ててきました。そして、政府や警察も、それを信じてしまっているようなんです。
 また、ブラジルの社会には、日本から既成仏教をはじめ、さまざまな宗教が入ってきておりますが、その関係者のなかに、学会に敵意をいだいている日系人有力者がかなりおります。
 実は、彼らが、政府や警察に、学会は共産主義者たちとつながっており、危険極まりない教団であるなどと、吹聴していると言うんです」
 ブラジルでは、一九六四年の三月三十一日に政変があり、ゴラール政権が倒れると、それまでの民政から、軍政にかわり、陸軍参謀総長のカステロ・ブランコが大統領になった。
 彼は、インフレの克服や経済開発の実現をめざす一方、反共政策を打ち出し、言論、思想、政治などの活動を厳しく規制してきた。そして、多くの識者や文化人を、追放してきたのである。
4  暁光(4)
 大統領のカステロ・ブランコは、一九六五年の十月に、グアナバラ州等の州知事選で与党候補が相次ぎ敗北すると、全政党の解散や次期大統領を間接選挙で選ぶことなどを発表し、ますます独裁的性格を強めていったのである。
 そして、創価学会は世界征服を狙うなどといった突飛な報道や偽りの情報にも、ブラジル政府は過敏に反応し、警戒を強めていたようである。
 ブラジルの軍政は、八五年に民政移管するまで、二十一年間にわたって続くことになる。
 山本伸一は、岡田一哲の報告を聞くと、「わかった。慎重に、しかし、勇気をもって進めよう」と言って、電話を切った。
 それから彼は、岡田の話を皆に伝えたあと、斎木安弘に言った。
 「ブラジルも大発展し、広宣流布の大海原に船出したから、風も強くなり、波も高くなったんだ。
 まさに、御書に『行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る』と仰せの通りじゃないか。
 ブラジルの信心が本物になったから、起こるべくして起こった障害といえる」
 確かにブラジルの組織の発展は、近年、目覚ましいものがあった。
 一年前の一九六五年の初めには、メンバーはまだ二千五百世帯であったが、八月には五千六百世帯となり、年末には六千八百世帯となった。
 弘教は、さらに勢いを増し、この六六年に入ると、千二百世帯を超える拡大を成し遂げ、約八千世帯となったのである。
 「だから、何があっても決して恐れたり、臆病になってはならない。
 学会の真実がわかれば、国家も、社会も、学会を高く評価し、称賛することは間違いない。ブラジルに、本当の繁栄と幸福をもたらしていけるのは、仏法しかないんだから。
 いよいよ、これからが戦いだ。嵐を突いて進もう。真剣な唱題と、聡明な知恵と、必死の行動で、新しい局面を開いていくんだ」
 頷く斎木の目には、決意が光っていた。
 それから伸一は、力強い声で言った。
 「さあ、行動開始だ!
 今の一分一秒は、何カ月にも、何年にも相当する。
 まず、文化祭の練習に励んでいるメンバーに、激励のメッセージを送ろう」
 彼は、即座に、文面の口述を始めた。
 「皆さん、練習ご苦労様です。題目をしっかり唱えてください。また、団結することが大事です。そうすれば成功します……」
5  暁光(5)
 夢に見たリオデジャネイロに、山本伸一が到着した十日は、あいにく小雨であったが、翌十一日は次第に晴れ、やがて、まばゆい夏の太陽が輝き始めた。
 この日、伸一は、リオの街を視察することになっていた。
 ところが、出発の直前、ブラジルのある著名なジャーナリストが、「山本会長にインタビューをしたい」と言って、ホテルにやって来たのである。
 このジャーナリストは、以前、学会を批判するリポートを、ブラジルの雑誌に発表したが、その内容には多くの誤りがあった。
 最初に、同行の泉田弘と十条潔が応対した。
 二人の話では、会った印象からすると、真面目に真実を探ろうとしている様子であるという。
 「お会いしよう。学会への偏見と誤解を正しておかなければならない。
 会って話せば、誤解はとける。そうすれば、学会への不安や、無用な警戒心はなくなるし、信頼も生まれる。だから、積極的に、人と会っていくことだ」
 インタビューが始まった。通訳を通しての語らいである。
 伸一は、丁重にあいさつをしたあと、にこやかに笑みを浮かべて言った。
 「どんなことでも聞いてください。私どもは、学会の真実を知っていただくために、なんでもお話しするつもりでおります。
 ところで、最初に、私の方から、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
 ジャーナリストは、いぶかしそうな目で伸一を見ると、「どうぞ」と答えた。
 「以前、あなたは、学会のリポートを書いておられますが、あれは、いかなる情報をもとにして、まとめられたのでしょうか。
 あそこに書かれていることは、事実とは、著しくかけ離れています。
 あのリポートを読んで、学会のことを誤解してしまった人びとも少なくありません。真実を報道することこそ、マスコミの使命ではないでしょうか」
 ジャーナリストは、驚きの色を浮かべて尋ねた。
 「それほど事実と異なっていましたか」
 泉田が、勢い込んで語り始めた。
 「相当、間違いがありますよ。たとえば、牧口初代会長が、″戦犯″として捕らえられて死んだとありましたが、これはとんでもないことです。
 日本の軍部政府は、国家神道を精神の支柱にして、戦争を遂行しましたが、それに従わなかったために、弾圧を受け、殉教された方が牧口先生なんですよ」
6  暁光(6)
 泉田弘は、早口で、まくし立てるように語っていった。しかし、彼の人柄か、それがユーモラスな響きをもっていた。
 「軍部と戦われ、そのために獄死された牧口先生を、″戦犯″にしてしまっている。これじゃあ、あべこべだ。
 いくらブラジルが南半球にあって、日本と反対だからといっても、ここまでやることはない。
 このほかにも、大変な間違いが、まだまだ、たくさんあるんです」
 ジャーナリストは、山本伸一に視線を注いだ。
 「この人の言っていることは、本当ですか」
 「もちろん、本当のことです」
 伸一が答えると、彼は、沈痛な顔で語った。
 「もし、そうなら、私は大変な過ちを犯してしまったことになります。
 私は、創価学会のことをよく知っているという、ブラジルの日系の方々から伺ったのです。
 ただし、その方たちは、日本の宗教の関係者ではありますが、いずれも創価学会のメンバーではありませんでした。
 また、その人たちから借りた、創価学会に関する書籍や、アメリカの雑誌の創価学会特集などを参考にしました。
 できることならば、日本に行って、直接、皆さんにインタビューして、記事をまとめたかったのですが、それは、時間的に不可能でした。
 そこで、今回、山本会長が、リオに来られると聞きましたので、ぜひ、お話を伺おうと、こうしてお訪ねした次第です。
 しかし、私のリポートに間違いがあり、それによって、ご迷惑をおかけしたことは、大変に申し訳ありません。
 今日のインタビューをもとに、またリポートを書いて、ブラジルの人びとに、創価学会の本当の姿を伝えたいと思います」
 伸一は、非は非として認め、謝罪する、このジャーナリストの姿勢に謙虚さを感じ、好感をいだいた。
 「間違いは、誰にでもあるものです。おわかりいただいてよかった。
 さあ、始めましょう」
 インタビューは、創価学会の歴史に始まり、その目的と理念など多岐にわたったが、このジャーナリストが、最も関心をもっていたのが、公明党と学会の関係であった。
 質問の裏には、学会は世界各国で、政治支配を目論んでいるのではないかという、疑問があったようだ。
7  暁光(7)
 山本伸一に、ジャーナリストは尋ねた。
 「では、宗教団体である創価学会が、なぜ政界に進出したのか、お伺いしたいと思います」
 伸一は、大きく頷きながら答えた。
 「宗教は、なんのためにあるのでしょうか。人びとに幸福をもたらすためです。世界の平和を築くためです。よりよい社会を建設するためです――それが本来、宗教が果たさなければならない使命です。
 したがって、もし、宗教が、人びとの苦悩や社会の現実に対して目を閉ざし、無関心を決め込んでいるなら、それは、死んだ宗教といわざるをえません。
 さて、仏法の精髄である法華経では、慈悲の道を教えるとともに、万人に仏の生命があることを示し、生命の尊厳と平等を説いています。
 創価学会は、この仏法の哲理を、人間の営みである文化や教育など、あらゆる分野で生かし、人びとの幸福と平和に寄与することを目的としております。
 その考えに基づき、私たちは、政界にもメンバーを送り、さらに、政党をつくったんです」
 畳みかけるように、ジャーナリストは尋ねた。
 「すると、創価学会は、日蓮仏法と政治の一体化、つまり、政教一致をめざしているということですか」
 「いいえ、違います。政治には、確固とした政治哲学、政治理念が必要です。それがなければ、根無し草のように、ただ状況に流されるだけの政治になり、民衆は動揺し、不幸になってしまう。
 私たちは、仏法で説く慈悲や、生命の尊厳の哲理を理念とし、″根底″とした政治の実現をめざして、公明党をつくりました。
 だが、それは、宗教を直接、政治の世界に持ち込むこととは違います。
 公明党は、広く国民のために寄与することを目的とした政党であり、党と学会とは、運営面などでも、一線を画しております。
 公明党も、創価学会も、平和と人びとの幸福を実現するという根本目的は同じですが、政治と宗教とは役割が異なります。
 宗教は人間の精神の大地を耕すものです。そして、その広大な大地の上に、芽吹き、花開き、結実する草木が、政治も含め、広い意味での文化です。
 私たちは、精神の土壌を耕し、政党という種子を植えました。
 今後も、全力で応援はしますが、それがいかに育ち、どんな花を咲かせ、実をつけるかは、草木自体に任せるしかありません」
8  暁光(8)
 重ねて、ジャーナリストが、鋭く質問した。
 「今までのお話からしますと、宗教は、必然的に、政治に関わらざるをえないということになるように思えますが、ブラジルでも政党をつくる計画があるのでしょうか」
 これが、彼の一番聞きたかった問題のようだ。
 山本伸一は、微笑みながら言った。
 「私は、信仰上のことでしたら、アドバイスもしますが、それぞれの国にあって、政治にどう対応していくかということは、その国のメンバーが話し合って決めるべき問題です。
 日本人である私が決定し、指示するようなことではないし、また、そんなことがあってはならないというのが、私の考え方です。
 そのうえで、個人的な感想を申し上げると、ブラジルをはじめ、各国にあっては、政党結成の必要は、全くないと思っています」
 すかさず、次の問いが返ってきた。
 「さきほど、宗教は、よりよい社会をつくるためにあると言われましたね。それなのに、なぜ各国で政党をつくる必要はないと思われるのですか」
 さらに踏み込んだ質問であった。
 「よき時代をつくり上げる、また、よい社会をつくることは、仏法者の社会的使命です。また、政治という問題が、人びとの生活に深く関わり、社会の在り方を決定づける重要な要素であることも確かです。
 しかし、だからといって、必ずしも政党を結成するなど、教団として、まとまって何かを行うということではありません。
 創価学会は、各人が信仰によって、それぞれの人生を充実させ、完成させ、勝利していくことを指標としています。つまり、幸福を創造する人格をつくることであり、これを人間革命といいます。
 そして、人間として幸福に生きていこうとするならば、よりよい社会を建設していかなければならない。
 そのために、宗教を根本に、自身の信念のうえから、″よき市民″として、社会のために貢献していこうというのが、私たちの生き方です。
 そうした人格を磨くことこそ、宗教の大きな役割であると思っています。
 したがって、政治に対しても、各人が、よりよい社会の実現をめざして、個人のもつ政治観に基づき、個人の責任において行動していくのが、本来の姿といえます」
 追い打ちをかけるように、質問が続いた。
 「それならば、どうして日本では、政界に学会員を送り、さらに、公明党を結成するに至ったのでしょうか」
9  暁光(9)
 「核心」を突く質問であった。
 山本伸一の回答にも、一段と力がこもった。
 「それには、幾つかの日本独自の理由があります。
 その一つが、日本の再軍備という問題でした。
 日本は、戦後、戦争放棄を掲げてスタートしましたが、アメリカの要請で警察予備隊を新設し、それが保安隊となり、一九五四年(昭和二十九年)には自衛隊が発足しました。
 国をどう守るかということは、極めて大事な問題ですが、この急速な再軍備の流れを、私の恩師である戸田第二代会長は深く憂慮していました。
 かつて日本は、アジアを侵略したにもかかわらず、本当の意味での、反省もない。それで軍備に力を入れればどうなるのか。軍事大国化し、間違った方向に進みはしないか――という懸念でした。
 また、戸田会長は、東西の冷戦のなかで深刻化する核の脅威に対し、日本は世界でただ一つの被爆国として、反核を訴え、世界平和の発信国となる責任があると考えておりました。
 そして、日本が、そうなっていくには、戸田会長が提唱していた地球民族主義、つまり、地球共同体という人類意識に立った政治家の存在が不可欠であると、痛感されていました。
 しかし、日本の政界には、東西冷戦の対立の構図が、そのまま持ち込まれていたんです。
 各政党の政策も、政治家たちの主張も、イデオロギー色が濃厚であり、人類意識、真実の平和主義に立脚した政治家はいませんでした」
 ジャーナリストは、目を輝かせ、盛んにペンを走らせていた。
 「また、当時、日本には、大企業やその経営者を擁護する政党や、大企業で働く組織労働者のための政党はあっても、町工場や小さな商店で働く、未組織労働者を守ろうとする政党はありませんでした。
 しかし、その人たちこそ、人数も多く、苦しい生活を強いられている。
 私たちは、そこに政治の光を送り、政治を民衆の手に取り戻さなければ、真実の社会の繁栄は、永久になくなってしまうだろうと考えました。
 そこで、戸田先生は、一九五五年(同三十年)の地方議会の選挙に、弟子の代表を候補者として立て、政界に送ることを提案されました。
 さらに、翌年には、協議のうえ、参議院に代表を送ることになったんです。
 それが、大多数の会員の強い要望でもありました」
10  暁光(10)
 山本伸一は、さらに言葉をついだ。
 「当初、当選した学会員の議員は、特定の政党には属さず、無所属の議員として活動をしてきました。
 しかし、日本の政党政治という現実のなかで、民衆の声を政治に反映していくためには、無所属では十分に力が発揮できないとの意見が、議員たちから出てきました。
 また、政治団体を結成すべきだという強い世論もあって、公明政治連盟をつくり、やがて、公明党を結成することになったんです」
 ジャーナリストは、確認するように尋ねた。
 「日本での政党結成の経緯はわかりました。さきほどの質問と重なりますが、もう一度お伺いします。今回のブラジル訪問は、政党結成の準備のためではないのですね」
 「もちろんです!」
 伸一は、どの質問にも、懇切丁寧に、また、率直に答えていった。一時間半ほど取材に応じているうちに、ジャーナリストは、伸一の発言に、賛同の笑顔を見せるようになった。
 別れ際に、ジャーナリストは言った。「あなたのお考えも、創価学会の主張も、よくわかりました。どうやら、私は学会に対して、勘違いをしていたようです。今日、あなたにお会いできて、本当によかった」
 このインタビューをまとめたリポートは、その後、しばらくして、ブラジルの有力週刊誌に、「山本氏の晴れ渡った世界」と題して掲載された。それは、創価学会をファシズムなどと危険視する批判の検証というかたちをとっており、極めて客観的なリポートになっていた。そして、伸一の主張も的確にまとめられ、学会の真実に迫るものとなった。
 真実は、語らなければわからない。沈黙していれば誤解や偏見のままで終わってしまう。それは、結果的に誤りを容認し、肯定することになる。
 インタビューを終えた伸一は、リオデジャネイロのメンバーの案内で、市内の視察に出かけた。リオは、サンパウロにつぐ、ブラジル第二の都市であり、一八二二年のブラジル独立から、一九六〇年のブラジリア遷都まで、首都として栄えてきた。
 一行は、市内が一望できる、コルコバードの丘に車を走らせた。曲がりくねった坂道を上り、駐車場で車を降りると、徒歩で丘の頂にある展望台に向かった。
11  暁光(11)
 山本伸一は、同行してくれたリオデジャネイロ支部の支部長・婦人部長の河野政忠・美佐子夫妻に、リオでの生活の様子を聞きながら歩き始めた。
 河野夫妻は、一九五七年(昭和三十二年)に、静岡で入会していた。
 夫の政忠は、六〇年(同三十五年)の七月に、造船会社の技術移住者としてブラジルに渡った。
 五カ月後には、妻の美佐子と子供を呼び、リオで、一緒に暮らすことになっていた。
 美佐子は、出発の直前、学会本部に渡航のあいさつに行った。
 その時、初のブラジル訪問を終えたばかりの山本伸一と会うことができた。
 河野一家が、リオで暮らすことを聞くと、伸一は言った。
 「今回のブラジルの訪問では、リオに学会員はいないという話だった。
 だから、あなたたち一家が、リオの″一粒種(ひとつぶだね)″ということになる。
 どうせ、リオに行くなら、広宣流布の開拓者として、永遠に名を残すような歴史を築いてほしい。頑張れるかい」
 「はい、頑張ります」
 「そうだ。その決意が大事だよ。私も一生懸命、題目を送ります。
 私は、またいつか、必ずブラジルに行くから、その時に、リオでお会いしましょう」
 新天地での河野夫妻の活動が始まった。
 ブラジルの公用語であるポルトガル語の話せない二人は、日本語のわかる日系人を探して、仏法の話をして歩いた。
 そのうちの何人かが信心を始めたが、サンパウロと違って、リオには日系人は少なく、仏法対話する相手は、すぐに底をついてしまった。
 また、リオの日系人の多くは、日本からの派遣社員であり、信心をしても、何年かすると、皆、日本に帰ってしまうのである。
 河野夫妻は思った。
 ″リオの広宣流布を本格的に進めていくには、日系人だけを相手にしていたのでは限界がある。
 なんとかして、日系人以外の人たちに信心を教えなくては……″
 昨日と同じことをしているだけでは、飛躍も未来の発展もない。
 常に、新しき工夫、新しき挑戦があってこそ、新しき前進が生まれることを夫妻は感じ始めた。
 夫妻は、必死になってポルトガル語を覚え、顔見知りになったカリオカ(リオっ子)に、単語を並べて、身ぶり手ぶりで、懸命に仏法を語っていった。
12  暁光(12)
 河野夫妻は、人生行路が変わったように、真剣勝負で布教の毎日を過ごした。
 しかし、夫妻のポルトガル語は、あまり通じなかったようである。でも、彼らは挫けなかった。
 来る日も、来る日も、懸命に題目を唱えては、仏法対話を日課のように続け抜いていった。
 やがて、そのなかから、一緒に勤行をする人が誕生し、病を克服した体験や、経済苦を打開した体験が生まれ始めた。
 この生き生きと蘇っていく事実の姿を目の当たりにして、信心をする人が増えていった。
 また、河野夫妻が何を言いたいのかを理解し、代わりに話をしてくれるメンバーも出てきた。つまり、彼らの″ポルトガル語″を、ポルトガル語で通訳してくれる人といってよい。
 こうして、日系人以外のブラジル人が、次第に信心をするようになっていったのである。
 コルコバードの丘は、標高七一〇メートルであり、その頂には、両手を広げた巨大なキリスト像がそそり立っていた。
 これはブラジル独立百年を記念して建てられたもので、一九三一年に完成をみている。像の高さは三十メートル、さらに台座の高さが八メートルもあり、世界的に有名な像である。
 ここからは、リオデジャネイロの街とグアナバラ湾を一望することができた。
 眼下には、ビルが林立する街を囲むように、青い海が広がり、海に突き出た岬の突端には、円錐形の岩山がそびえていた。
 これがリオを象徴する、ポン・デ・アスーカル(砂糖パン)である。
 山本伸一は、河野政忠に語りかけた。
 「風光明媚な美しい街ですね。今、リオには、地区はいくつありますか」
 「はい。三地区十班で、百六十六世帯のメンバーがおります。
 こちらに来て、既に五年余りになりますが、なかなか広宣流布が進まないのです。恥ずかしい限りです」
 彼は、自分たちには、リオ中の人を幸せにする責任があると考えていた。
 だから、サンパウロが、何千世帯にも発展しているのに、リオが百数十世帯であることに、もどかしさと申し訳なさを感じていたのである。
 まさに、広宣流布の推進の如何は、この責任感にあるといってよいだろう。
 伸一は、笑顔で包み込むように語り始めた。
 「たった一世帯から、五年ぐらいで、ここまで発展したこと自体、すごいことではないですか。百六十六倍に発展したことになる。焦る必要はありません」
13  暁光(13)
 リオの空には、情熱の太陽が、燦々と輝いていた。
 山本伸一は、河野夫妻に言った。
 「何事にも、時というものがあります。
 ここの登り口に、小さな苗木が植えられていたが、あの木だって、十年、二十年とたてば、立派な木に育つでしょう。
 リオの組織も、今は小さいかもしれないが、十年、二十年と、題目を唱え抜いて、頑張っていくならば、必ず大発展します。
 大事なことは、最初の決意を忘れることなく、一日一日が前進であった、勝利であったという、悔いなき力強い歴史を、わが身につづっていくことです。
 つまり、″今日、何をするのか″″今、何をするのか″を、常に問い続け、必死になって、挑戦し、行動し抜いていくことです。
 これが法華経寿量品で説く『毎自作是念』(毎に自ら是の念を作さく)ということです。また、少し難しくなるが『未曾暫廃』(未だ曾て暫くも廃せず)ということでもある。
 すなわち、広布のための連続闘争こそ、仏の所作を実践している尊い姿であり、絶対的幸福への軌道なんです。
 この美しきリオの未来の栄光は、あなたたちの双肩にかかっている。一緒に、黄金の歴史をつくろうではありませんか」
 「はい!」
 河野夫妻の決意のこもった声が響いた。
 十八年後、伸一は、三たびブラジルを訪問するが、その時には、リオのメンバーは、六千世帯へと拡大することになるのである。
 伸一が視察からホテルに戻ると、新聞各社が取材に来ていた。
 彼は原稿の執筆があるため、泉田弘と十条潔の二人が、取材に応じることになった。
 出発前に、伸一のジャーナリストへの対応を見ていた二人は、自信をもって、質問に答えていった。
 夜の打ち合わせの折、泉田は伸一に言った。
 「マスコミが訪ねてくるということは、当然、警察なども、既に私たちの動きをつかんで、監視していると考えられます。今後のスケジュールを変えた方がよいのではないでしょうか」
 皆、伸一を見つめ、彼の言葉を待った。
 「なんで、そうする必要があるんですか。
 何事にも慎重を期していくことは大事だが、私たちは悪いことをしているわけではないのだから、当初の予定通りでよいではありませんか。
 そんなことをすれば、かえって、警戒心を強めさせるだけです」
14  暁光(14)
 山本伸一は、同行の幹部の心に、動揺の兆しがあることを感じ取っていた。伸一は、強い語調で皆に語った。
 「状況にばかり目が奪われ、物事の核心を見失うようなことがあっては絶対にならない。それでは、指導者としては失格です。今、最も大事なことは、どうやって、ブラジルのメンバーを励まし、信心の大確信を与えていくかです。
 信心の根を強く、深く張り巡らしていれば、どんなに大風が吹こうが、木が倒れることはない。しかし、根が弱ければ、ほんの少しの風でも倒れてしまう。信心で立て! 信心で戦え! 信心で勝て!――これが何事によらず、大勝利していく要諦です」
 それから伸一は、拳を握り締めて言った。「さあ、明日からはサンパウロだ。これからが本当の戦いだ!」
 同行の幹部たちは、その声の響きに、炎のような闘魂を感じた。つい三日前に、発熱に苦しんでいたことが、まるで嘘のような勢いである。
 泉田は思った。″ブラジルの同志を、断じて守るぞという強靭な一念が、病魔をはねのけてしまったにちがいない。これが、広宣流布の指導者の気迫なのか!″と。
 翌三月十二日、リオデジャネイロのいくつかの新聞に、山本伸一のブラジル訪問が大きく報道されたが、直接、取材をすることによって、学会の真実を理解したとみえ、偏見に満ちた批判記事はなかった。
 伸一は、この日の朝、南米本部長の斎木安弘から、その報告を受けると、同行の幹部に言った。
 「会えば、わかり合えるものだ。これからも、みんなで、あらゆる機会に、学会の正義を、声を大にして訴え抜いていこうじゃないか!」
 この日の午前十時半、伸一たちがリオの空港に行くと、前の便がまだ出発していなかった。空席もあるとのことなので、一行は、その便に搭乗することにした。リオからサンパウロまでの飛行時間は、五十分ほどであった。
 便が早まったためか、サンパウロのコンゴニアス空港には、報道陣もいなかったし、メンバーの姿も、ほとんど見かけなかった。だが、少し離れた柱の陰から、鋭い視線を注ぐ、二、三人のスーツ姿の男たちがいることに、伸一は気づいていた。政治警察の係官である。
15  暁光(15)
 サンパウロのホテルに着くと、山本伸一は、ブラジルの組織についての打ち合わせを行い、さらに、斎木安弘から相談されていた、新しい会館と寺院の候補の物件を見に行った。
 サンパウロには、一九六四年の八月に設置を決め、翌年一月にオープンした南米会館があった。しかし、この会館は民家を借りたもので、広間も、四、五十人も入ればいっぱいになってしまう、小さな建物であった。
 既に八千世帯を超えるに至ったブラジルの中心拠点としては、あまりにも狭かった。そこで、新会館、並びに寺院の購入が検討されていたのである。
 このあと、伸一は南米会館で人事面接などを行い、さらに、ブラジルの代表幹部会に出席したのである。
 ここで彼は、まず、ブラジルの新しい組織の布陣と人事を発表した。
 「ブラジルは、これまで一総支部でしたが、世帯数も大きくなりましたので、新たに三つの総支部に分割したいと思いますが、いかがでしょうか」
 大拍手がわき起こった。伸一は、その人事を紹介していった。このうち、第一総支部長には、南米本部長の斎木安弘が就いた。また、千田葵という青年が、第二総支部長と男子南米本部長を兼任することになった。彼は、南米本部の事務長として、一九六四年の十一月に、日本から派遣された青年であった。
 さらに、婦人部にも三人の総支部婦人部長が誕生。男子部、女子部にも、それぞれ各総支部ごとに部制が敷かれ、部長が誕生した。一方、支部も、ブラジリア、イタチーバなど、七支部が新設されたのである。
 次いで伸一は、購入が決まった、会館、寺院について発表していった。
 「なお、皆様から、もう少し大きな会館がほしい、寺院がほしいとのご意見が寄せられておりましたが、本日、候補としてあげられていた土地と建物を視察いたしました。そして、協議の結果、購入を決定しましたので、お知らせしたいと思います。場所はサンパウロ市の中心街に近い住宅地にあり、土地の広さは七百三十五平方メートルで、建物は二階建てです。しかも、敷地の奥には別棟もございます。今後、ここを南米本部にするとともに、寺院も併設することを、お知らせいたします」
 喜びの拍手が広がった。
16  暁光(16)
 ここで山本伸一は、「煩悩即菩提」の原理に触れ、人生には悩みも、苦しみも多いが、信心を根本に挑戦を重ね、一つ一つ、乗り越えていくなかに、真実の幸福があることを訴えた。
 また、信心は、我々を苦しめ、仏道修行を妨害する魔という力との戦いであることを強調していった。
 彼は、今こそ、わが同志の生命の奥深く、何があっても揺るがぬ信心の楔を、打ち込もうとしていたのである。
 「強盛に、正しい信心に励み、広宣流布が進んでいったならば、必ず三障四魔が競い起こり、難を受けることは、御書に照らして明白であります。
 飛行機にしても、上昇する時には、抵抗も大きく揺れも激しい。だからといって、臆病になって、途中で引き返してしまえば、目的地に行くことはできません。しかし、上昇し続けていけば、やがて、安定飛行に入り、大空を悠々と進むことができる。
 御書には、『三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く』と仰せですが、私たちは、難を受け、魔と戦い、信心を貫くことによって、自身の宿命を転換し、堂々たる幸福境涯を開くことができます。
 いわば、難と戦うことこそ、自己の生命を磨き、境涯を高めゆく直道であり、人間革命のための飛躍台なんです。
 人生も、信心も、障害物競走のようなものです。障害を越えれば喜びがある。ゆえに、本当の大聖人の弟子として、勇んで立ち上がっていただきたいのであります!」
 それは彼の念願であり、祈りであり、心の底からの叫びであった。
 「ともあれ、信心の基本は、″勤行・唱題″と″学会活動″であり、これは、ちょうど、地球の″自転″と″公転″にたとえることができます。
 ″自転″と″公転″とが相まって地球の運行があるように、″自行″としての″勤行・唱題″と″化他″としての″学会活動″の果敢な実践があってこそ、幸福生活の確立が、社会の平和と繁栄があるんです。
 どうか、生涯、何ものをも恐れず、勇気ある信心を貫かれんことをお願い申し上げ、私のあいさつといたします」
 大拍手が起こった。
 参加者の誰もが、軍事政権が、学会を危険視していることを知っていた。伸一のこの指導が、ブラジルの同志の胸に、深く、深く突き刺さり、固き決意の楔となったのである。
17  暁光(17)
 この三月十二日、共同通信社は、南米各地で創価学会の活動が問題化しているとする、サンパウロ発の記事を配信している。
 記事では、学会の会長ら一行がサンパウロ入りしたことを伝えるとともに、ブラジル政治警察、軍部および有識者らは、学会を「宗教を看板とする政治結社で、ブラジルの体質にマッチしない団体である」との解釈を捨てきれずにいるとしていた。
 また、政治警察は、八日に、日本の総領事に、学会に関する四十二条からなる質問状を出したことを、明らかにしていた。
 さらに、「ブラジルだけでなく他の南米諸国でも、ここ五、六年のうちに日本には公明党内閣ができ、旧軍国時代のような極右翼政治が再現されるという見方まで出て警戒されている」と報じていたのである。
 この記事は、三月十四日付の、日本の幾つかの地方紙に掲載されたが、学会員の憤りは激しかった。
 神奈川県のある地区でも、打ち合わせの折に、この記事が話題に上った。
 一人の婦人が言った。
 「公明党の内閣ができれば、軍国時代のような極右翼政治になるなんて、見当違いも甚だしいわね。大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに死んでいこうという、民主の精神に生きる政党が、どうして極右なのよ」
 男子部員が、相槌を打った。
 「そうだ。戦時中、信教の自由を貫き、軍部政府の弾圧と真っ向から戦ってきたのが、公明党をつくった創価学会ではないか! それで、初代会長の牧口先生が獄死されているのに!」
 壮年が頷いた。
 「学会は、常に、世界の平和を実現していくために戦ってきた。戸田先生は、『原水爆禁止宣言』を発表され、人間の生存の権利を守るうえから、いかなる国も核兵器を使用してはならないと叫ばれた。つまり、核廃絶への思想の潮流を起こされたんだ。
 その平和思想を政治の場で実現しようとする公明党を極右翼というなんて、偏見に凝り固まっているといわざるをえないな」
 それを聞くと、女子部員が言った。「そんな状況のなかで、同志を励ますために、山本先生はブラジルを訪問し、激励に奔走されている。本当に大丈夫なのかしら」
 婦人が答えた。「だからお題目なのよ。先生とメンバーの無事を祈って真剣に唱題しましょう。私たちにできるのは、それだけなんだから」
18  暁光(18)
 翌三月十三日は、南米文化祭であった。開会は、午後三時からである。
 山本伸一たちがホテルを出て、文化祭の会場であるサンパウロの市立劇場に向かうと、鋭い目をした屈強な男たちが、後をつけてきた。政治警察の係官たちである。
 会場の前には、カメラの放列が敷かれ、一斉にフラッシュが光った。マスコミ各社のカメラマンたちであった。そして、会場の入り口には、警察官が並び、入場してくる人びとに、目を光らせていた。戒厳令でも敷かれたような、いかにも、ものものしい雰囲気である。
 前日の代表幹部会で男子部の南米第三部長となり、伸一の通訳として同行していたノブヒロ・ウダという青年が、現場の責任者と思われる警察官に、ポルトガル語で尋ねた。
 「なんのために、こんなに多くの警察官が動員されているのですか。学会は、何も悪いことなんかしていませんし、危険な団体でもないのに、おかしいではありませんか」
 その警察官は、ウダをにらみつけながら答えた。
 「この催しが安全に行えるように、警備をしてやっているんだ。山本会長は、世界を支配することになる、″偉い人″だというからな……」挑発的な口調である。
 だが、「警備」などというのは、警察官の睥睨するような威圧的な態度から見ても、口実にすぎないことは明らかだった。
 「私たちは、警備など頼んでいない!」
 ウダが抗議すると、警察官は、「なんだ、文句があるのか」と言って、薄ら笑いを浮かべた。
 伸一は悠然としていた。整理役員の青年にも、また、その傍らに立つ警察官にも、笑顔を向け、「ご苦労様! ありがとう!」と声をかけながら、階段を上っていった。
 彼は、覚悟を決めていたのである。″広宣流布のためなら、弾圧もまた、名誉ではないか! もし、ここで不当逮捕されることがあっても、それでよいではないか!″
 彼には、微塵も、恐れなどなかった。ただ、ブラジルの同志は、なんとしても守らねばならないと決意していた。
 会場に入ると、伸一は、小声でウダをなだめた。
 「ウダ君、腹も立つだろうが、感情的になっては絶対にいけないよ。まかり間違えば、攻撃のための、格好の材料を与えてしまうことになりかねないからね」
19  暁光(19)
 ノブヒロ・ウダは、怒りに震えていた。山本伸一は、諭すように語っていった。
 「戸田先生は、よく『忍辱の鎧を著よ』と言われていたが、忍辱というのは、侮辱などの難を耐え忍ぶことなんだ。今は、耐えることが大事だよ。そして、十年後、二十年後に、勝てばいいじゃないか」
 ウダは「はい」と言って伸一を見つめた。その目には、うっすらと涙がにじんでいた。ウダは、正義感の強い、勤勉な青年であった。彼は、ブラジル生まれの日系二世であり、六人兄弟の長男であった。
 父親は十九歳で、母親は赤ん坊の時にブラジルに渡っており、彼は、祖父にひらがなやカタカナなどを教えてもらった以外は、ポルトガル語で育てられた。だから、日本語はほとんどわからなかった。
 ウダが信心したのは、一九六一年のことであった。まず、先に父親が入会した。原始林を開拓し、農園を開いたものの、経営が行き詰まり、農業をあきらめざるをえなくなったことが、父親が信心を始めた動機であった。
 農業をやめてから、人生に希望をなくし、落胆しきっていた父親が、日ごとに元気になっていく姿を見て、彼も、信心をする気になったのである。
 ウダは、日本語がわからない日系二世の、最初のころの入会者であった。やがて彼は、学会活動に励むようになるが、最も閉口したのは、ほとんどの出版物が日本語であることであった。
 一九六五年五月、ブラジルでポルトガル語の機関紙「ノーバ・エラ」(「新時代」の意)が創刊され、ウダは、その編集に携わることになった。
 彼は、御書や山本会長の指導などを、自らの手でポルトガル語に翻訳し、掲載しようとした。しかし、日本語がよくわからず、自分の力では翻訳できないことが、残念でならなかった。
 この年の八月、ウダは、日本での夏季講習会に参加した。胸には、熱い求道の炎が燃え盛っていた。ところが、一生懸命に幹部の指導を聞いても、話が理解できないのだ。
 御書の研鑽の時には、担当者から、拝読するように指名された。漢字を抜かして、ひらがなを読むのが精いっぱいだった。はるばるブラジルからやって来た青年の、たどたどしい御書の拝読を、周囲は称えてくれたが、ウダ自身は空しさを感じた。
20  暁光(20)
 翌朝になっても、ノブヒロ・ウダは、一人で悶々としていた。講習会の自由時間に、彼は、総本山を散策しながら考えた。
 ″俺は、ブラジルの機関紙をつくる、大事な使命を担っている。それには、日本語に習熟していることが不可欠だ。しかし、俺は、幹部の指導も、よくわからないし、御書を拝読することもできない。
 日本語は難しい。あまりにも難しすぎる。こんな自分が、機関紙の編集という大任を果たすことは、もともと無理なのではないか″
 その時、境内にたたずんでいたウダの肩を、ポンと叩く人がいた。
 「ブラジルから来たウダ君だね!」振り向くと、そこに立っていたのは、山本伸一であった。
 前日、伸一は、夏季講習会に参加した海外メンバーを激励し、握手を交わしていた。その時、ウダの顔と名前を心に焼きつけていたのであった。
 「先生……」ウダは、山本会長が自分のことを覚えていてくれたことに感動しながら、たどたどしい日本語で、胸の思いを打ち明けた。
 伸一は、「大変だな」と頷きながら、彼の話に耳を傾けると、簡潔に語った。
 「君ならできるよ。あきらめてはいけない! 負けてはいけない!君はブラジルの広宣流布の開拓者じゃないか」
 力強く、そして、温かい声であった。その言葉に、ウダの迷いは消え、勇気がわくのを感じた。彼の目には、熱い涙が止めどなくあふれた。
 最後に、伸一は「立派に成長してください。待っているよ」と言って、彼の手を握った。ウダは、その手を、力の限り握り返しながら、心で誓った。
 ″俺は、断じて、言葉の壁を乗り越えてみせる。そして、生涯、広宣流布の道を開き続けよう!″
 帰国したウダは、日本語の猛勉強を開始した。彼は、まず日本語のわかるメンバーに読み方を聞いて、学会の出版物を何十回となく読んだ。意味はわからなくとも、読み方を徹底して覚えたのである。
 そのうえで、言葉の意味を聞き、一語一語、習得していった。気がつくと夜が明けていることも、少なくなかった。こうして、短日月のうちに日本語の力をつけ、ウダは、この山本会長の訪問では、通訳をすることになったのである。
21  暁光(21)
 文化祭の会場の市立劇場は、世界的なオペラやバレエの公演なども行われてきた由緒ある建物であった。
 手すりや柱などには、彫刻が施され、重厚さと気品をたたえていた。
 開演は午後三時であったが、三十分ほど前には、ブラジル各地から集った千七百人のメンバーのほか、サンパウロ日本文化協会の関係者をはじめとする多数の来賓や、マスコミ各社の記者などで、会場は満員になった。
 山本伸一が二階の席に着き、周囲を見ると、制服を着た警察官や、私服を着てはいるが、政治警察の係官らしき人物の姿が、場内のあちこちに見受けられた。
 完全な監視下での文化祭である。
 だが、彼は、これも政治警察などの人たちが、学会のありのままの姿を知る、よい機会になると思った。
 間もなく、文化祭は開演となった。司会は、ポルトガル語と日本語である。
 幕が開き、鼓笛隊の演奏が始まった。ベレー帽と赤と白のユニホーム姿が、おとぎの国からの使者のようでもあり、その愛らしさに、場内からは、ため息がもれた。
 次いで、純白の制服姿の音楽隊による演奏、緑色のドレスに身を包んだ婦人部の合唱に続いて、大きな花の輪を手に、女子部のメンバーが入場した。リズムダンスの開始である。
 チャイコフスキー作曲の「花のワルツ」の曲に合わせ、花の輪が揺れると、舞台は、さながら″花畑″となった。その美しさに、感嘆の声があがった。実は、これが、最後まで難航した演目であった。
 かなり高度な技術を必要とするにもかかわらず、リズムダンスの心得のある人は、ほとんどいなかったからである。
 本番二日前になっても、動作がそろわず、演技は精彩を欠いていた。幹部たちは、頭を抱え込んだ。
 技術指導にあたってくれた体育の教師は、メンバーではなかった。しかし、彼女は、演技の成功に、強い確信をいだいていたのだ。
 彼女は断言した。「リズムダンスは、間違いなく大成功します。一人ひとりの踊りは、上手ではありませんが、みんな、山本先生に、自分たちの晴れの舞台を見てもらおうと、必死だからです。その心が、強い団結をもたらし、必ず立派なダンスとなって花開きます。情熱は困難の壁をとかします」
 その言葉通り、女子部のリズムダンスは、大喝采を浴びたのである。
22  暁光(22)
 舞台は一転して、「四季」と題する、婦人部の日本舞踊となった。
 琴の調べに乗って、桜の小枝を手に「春」を舞い、粋な三味線の音色と踊りで「夏」の涼を表現するなど、四季折々の風情が盛り込まれた演技に、盛んな拍手が送られた。
 さらに、雪の精たちの舞を思わせる女子部のバレエや、力強い男子部の合唱などが披露され、一時間三十五分にわたるプログラムはフィナーレを迎えた。
 舞台には、各演目の出演者がそろい、声を限りに学会歌を歌い始めた。山本伸一も、身を乗り出し、一人ひとりに視線を注ぎながら手拍子を打った。
 皆、時間も、経済的なゆとりもないなかで、一生懸命に練習に通い、仏法の真実と学会の心を表現しようと、無数の庶民の、歓喜の歴史的な大舞台を築き上げてきたのだ。
 どの顔にも、感涙が光っていた。どの顔にも、自信と誇りがあふれていた。そして、あの顔も、この顔も、人生の勝利の喜びに輝いていた。
 ある来賓は、頬を紅潮させて語った。
 「プロがやる舞台を、素人が、民衆が、やり遂げてしまった」
 伸一は、イスから立ち上がり、出演者に大拍手を送った。それを見た、舞台の上の出演者たちは、歓声をあげながら手を振った。彼もまた、大きく手を振ってそれに応えたあと、出演者をはじめ、会場の全参加者に深く礼をすると、出口に向かった。
 歩きながら、伸一は、南米本部長の斎木安弘と婦人部長の説子に言った。
 「おめでとう! すばらしい文化祭だったね。また、いつか盛大に文化祭をやろう。今日は、点数をつければ九十八点だ。大成功だよ」
 彼が百点と言わずに、九十八点と言ったのは、決して、演技が未熟であったからではない。次回、さらに、すばらしい文化祭をめざしてほしいとの、願いを込めての評価であった。
 伸一は、ロビーに出たところで、終始、彼を見張っていた政治警察の係官に、笑顔で語りかけた。
 「ご多忙のところ、ありがとうございます。文化祭を、ご覧になっていただけましたか」
 ノブヒロ・ウダが、それを通訳した。係官は、予期せぬ真心のあいさつに、戸惑いながら答えた。
 「……見ました。オブリガード(ありがとう)。ご苦労様でした」係官は会釈した。
23  暁光(23)
 山本伸一は、文化祭の会場の市立劇場を出ると、車で十分ほどのところにある、パカエンブー体育館に向かった。ここには、若々しい息吹の五千人のメンバーが、賑やかに集まり、伸一の到着を待っていた。
 市立劇場は格調の高い、由緒ある会場ではあるが、収容人員は千数百人にすぎなかった。したがって、この会場で文化祭を行うだけでは、一部の代表しか、伸一と会うことができない。
 そこで、斎木安弘らブラジルの中心幹部で協議し、大会場のパカエンブー体育館を借りて大会を開き、文化祭の終了後に、伸一に出席してもらおうということになったのである。
 斎木から、その話を聞くと、伸一は言った。
 「私も、一人でも多くの方々とお会いしたいと思っていた。ぜひ、寄らせてもらいます」
 パカエンブー体育館も、警官隊の厳しい監視下にあった。会場を包囲するように警察官が立ち、場内でも、あちこちで監視の目を光らせていた。
 伸一が体育館に姿を現すと、大歓声が起こり、嵐のような拍手が広がった。まず最初に、斎木が演壇に立ち、喜びに震える声で叫ぶように語り始めた。
 「皆さん、山本先生が、文化祭の会場から、駆けつけてくださいました!文化祭は、大成功でした。どの演技も、すばらしく、来賓の方々も、大変に感動した様子で、拍手喝采していました。これも、皆さんが団結して、応援してくださったからであります。本当にありがとうございました!」
 さらに、十条潔ら同行の幹部があいさつしたあと、山本伸一が静かにマイクの前に立った。
 「皆様方のお元気な姿に接して、私は、大変に嬉しく思っております。ただ今、文化祭を拝見させていただきましたが、大変に立派な文化祭であり、ブラジルの創価学会も、本当に大きな成長を遂げたなと、心から感銘を深くいたしました。
 しかし、会場の収容人数の関係で、皆様方は、文化祭には出席できなかったと伺い、お気の毒に思っております。
 でも、文化祭の方では、私は、何も話はいたしませんでしたが、こちらでは、ごあいさつを申し上げ、皆様にお喜びいただこうと、駆けつけてまいりました。これで平等になりますから、よろしいでしょ!」
 笑いと歓声と大拍手が広がった。場内は、和気あいあいとした雰囲気に包まれていった。
24  暁光(24)
 皆、求道に瞳を輝かせながら、山本伸一の話に耳を傾けていた。
 「私は、まだ三十八歳の青年であり、皆様方の会長としては、あまりにも未熟であり、申し訳ない限りでございます。創価学会は、日蓮大聖人の教えのままに、ともに平等に信心に励もうという団体です。その会長である私もまた、決して教祖ではありません。平凡な一青年であります。
 では、その学会の指導とは何か。それは要約していえば、″御本尊に題目を唱え抜いて、自分自身を磨き高め、必ず幸福者になろう。そして、社会に貢献しよう″ということであります。
 この指導の内容は、私だけでなく、ここにいる、泉田さんも、十条さんも、斎木さんも、そのほかの幹部も、皆、同じであり、学会共通の理念であり、目的であります。
 つまり、どこまでも日蓮大聖人の教えを根本として、互いに励まし合い、切磋琢磨し合いながら、人間革命をめざしている、最も民主的な団体が、創価学会であると思いますが、皆さんいかがでしょうか」またしても、大拍手がわき起こった。
 伸一は、政治警察など、ブラジルの政府関係者たちに語る思いで、力の限り訴えていった。
 「宗教といっても、教祖に奴隷のごとく仕えさせ、金や財産を搾り取ることを目的としたような宗教もあります。しかし、宗教は本来、人間のためのものです。社会の建設といっても、世界の平和といっても、その原動力は人間自身です。
 日蓮仏法は、その一人ひとりの人間を太陽のごとく輝かせ、家庭に、社会に、世界に、希望と幸福の光を送る、人間革命の道を説いております。
 社会の繁栄をどうやって築くか。また、未来の平和をどうやって建設するか――それを真剣に考えていくならば、世界の指導者は、人間革命の宗教ともいうべき創価学会に着目せざるをえないと、私は断言しておきます!」
 警察の監視のなかでの大宣言である。
 獅子吼を聞いて、獅子の子が奮い立つかのように、同志の胸には、熱い血潮がたぎり、勇気がほとばしるのであった。
 泉田弘や清原かつなど、古くからの会員である幹部たちには、特高警察の監視のなかで、堂々と仏法の正義を訴え抜いていた初代会長の牧口常三郎と、伸一の姿とが、重なって見えるのであった。
25  暁光(25)
 次いで山本伸一は、ブラジルに、会館と寺院を兼ねた建物を購入することや、正本堂の資材として、ブラジルの大理石などを使用することを発表したあと、こう語った。
 「正本堂が完成した時にも、また、東京で行われる学会の総会の時にも、悠々と参加し、世界中、どこへでも旅行できる、力ある人となり、自在なる幸福境涯を開いていただきたい。
 皆様が幸福になるための信心です。私は、創価学会員には、『自分は最高に幸福者である』と言い切れる『幸福の証明者』にならねばならない責任があると思いますが、いかがでしょうか!」
 「はい!」という日本語の返事とともに、大拍手が鳴り響いた。
 「では、その幸福を築き上げていくには、どうすればよいのか。
 それには、忍耐強い信心の持続です。ともかく題目をあげきることです。宇宙の根本法である題目を唱えることによって、自他ともの幸福が築けるんです。
 したがって、自分のためにも、ご家族のためにも、社会のためにも、勇敢に信心を貫いていくことが、正しい裕福な人生を開く行動となるのであります。
 しかし、信仰の道は、決して平坦ではないでしょう。険しい上り坂もあります。嵐の夜もあるでしょう。
 だが、何があろうが、負けないでいただきたい。負けないということが、信心の証なのであります。負けてしまえば、最後は、自分自身が不幸を感ずるだけです。信心の勝利のなかにしか、人生の真実も、絶対的な幸福もありません。
 どうか、皆様方が、一人も漏れなく幸せになるために、強い、強い団結のブラジルであってください。
 また、長い広宣流布の旅路ゆえに、楽しい、楽しい信心のブラジルであってください。
 私は、皆様方のご健闘とご健康を、日々、真剣に祈ってまいります。お体を大事にして、うんと長生きをしてください。本日は、大変にご苦労様でした!」
 嬉しく、楽しそうな大拍手が場内に轟いた。
 頬を紅潮させて、腕もちぎれよとばかりに、拍手を送る壮年がいた。目頭を潤ませる婦人がいた。雄叫びをあげる青年がいた。
 参加者の大多数は、初めて、伸一に接する人たちであった。皆、彼のブラジル訪問を、ひたすら祈り、この日、この時を、待ち続けてきたのである。
 メンバーは、退場する伸一の姿を生命に焼きつけんとするかのように、立ち上がって背伸びし、いつまでも、いつまでも、拍手を送り続けていた。
26  暁光(26)
 この日の文化祭と大会の模様は、日系紙をはじめ、各紙に報じられた。
 その内容はさまざまであり、事実を客観的に伝えている報道もあったが、間違いの目立つ記事や、偏見に満ちたものも少なくなかった。
 ある新聞は、「世界を征服する宗教がサンパウロにやって来た」との大きな見出しを掲げ、次のように報じていた。
 「市立劇場に集った二千人のなかに、日本人の信徒とともに、七百人のブラジル人の信徒がいた。
 男性は白い服を着ており、靴とネクタイは黒である。女性はグリーンの服という姿で、学会歌『新世紀の歌』を歌い、預言者で絶対的なリーダーである会長の話を聞いたあと、市立劇場の舞台から、行進しながら出ていった」
 思わせぶりな書き方であるが、なんのことはない、異様な制服に身を包んでいるかのような、この男性と女性というのは、文化祭に出場した合唱団のことではないか。
 また、文化祭では、山本伸一のあいさつはなかったにもかかわらず、話をしたことにし、その演説を聞いた男女が、街を行進したかのような印象を与える記事になっていたのである。
 さらに、「彼(伸一)が一九四六年に創設した宗派は極右とみなされ、そして、軍隊的に組織化された青年たちは、青年時代のヒトラーによく似ている」とも書かれていた。
 十四日の朝、泉田弘は、この新聞を手に、怒りに震えて、伸一の部屋にやって来た。
 「先生、翻訳をしてもらいましたところ、ひどいことを書いている新聞があります」
 記事の内容を聞いた伸一は、笑いながら言った。
 「学会を共産主義だという人もいれば、極右と書く新聞もある。
 牧口先生は『認識せずして評価するな』と言われたが、知らないということが、間違った評価を下す原因なんだね。
 相手のことがよくわからないと、デマなど、根拠のない話に飛びつき、憶測で評価し、全く見当違いな不安や恐れをいだいてしまうことになる。
 そして、その不安や恐怖心が、時には、非常に攻撃的な対処の仕方となって現れてくる。
 ブラジルの政治警察も、またマスコミも、学会に対して、そうした心理状態にあるのではないだろうか。
 だから、学会の真実を教え、認識を正していくならば、評価も、対応も、百八十度変わるでしょう」
27  暁光(27)
 山本伸一は、促すような口調で言った。
 「連続闘争ですよ」
 泉田弘は、ハッとした。
 リオデジャネイロでマスコミ関係者と会って、学会について語ったことから、それで大丈夫であるかのように、心のどこかで考えていたのだ。
 ″しまった! 油断していた。サンパウロでも、すぐに戦いを起こすべきであった。
 今がマスコミの無認識な批判を徹底して打ち破っておくチャンスではないか。一瞬一瞬が勝負なのだ。
 ほんの少しでも安逸があれば、手遅れになり、取り返しのつかないことになってしまう……″
 泉田は、そう痛感しながら、神妙な顔で語った。
 「うかつでした。状況の厳しいサンパウロだからこそ、先生が動かれている間に、私たちが記者と会い、学会のことを訴えておくべきだったと思います」
 「そうなんだよ。あらゆる人に真実を認識させるという作業は、並大抵のことではない。
 砂漠に水を撒くような執念が必要だ。右を撒くうちに左は乾き、左を撒くと右が乾いてしまう。
 でも、根気よく撒き続けることだ。
 また、岩を砕く波のように、何度も、何度も、粘り強く繰り返すことだ。忍耐がなければ、人の認識を変えることはできない。
 私も先頭に立って戦いますよ」
 この日、伸一は、ニューヨークから派遣されて来たというUPIの記者をはじめ、地元各紙の記者たちと会見を行った。
 ここでも、学会と政治の関係が焦点となった。嘲笑を浮かべながら、話を聞いている記者もいれば、悪意が感じられる、意地の悪い質問をする記者もいた。
 しかし、伸一は、誤解と偏見を打ち破ろうと、どこまでも誠実に、真剣に語り抜いていったのである。
 この会見の内容は、翌十五日付の日系紙など、いくつかの新聞に掲載された。
 「哲学宗教を根底に人類の安定と平和を」「他宗教とも仲よく」等の見出しを掲げ、伸一の主張を客観的に伝える、偏見のない報道となっていた。
 会見を終えた伸一は、斎木説子の案内で、妻の峯子をはじめ、同行の幹部らとともに、市内の視察に出かけた。
 途中、毒蛇の血清などの研究で知られるブタンタン研究所にも足を延ばした。
 三年前に奄美大島で、島民がハブの被害に苦しんでいると聞いたことから、なんらかの参考になればと、見学に訪れたのである。
28  暁光(28)
 山本伸一と同行メンバーは、市内を視察した帰り、斎木説子の家を訪問することにした。
 伸一は、南米の広布のリーダーである、斎木一家の生活の様子を、よく知っておきたかったのである。
 斎木の家は、サンパウロの中心に近い住宅街のアパートであった。
 伸一は、説子が入れてくれた緑茶をすすりながら、ブラジルでの暮らしについて尋ねていった。
 説子は、最初、言葉が通じない苦労などを、面白おかしく語っていたが、話題が昨日の文化祭のことに及ぶと、目を潤ませた。
 そして、ハンカチで目頭を拭うと、深々と頭を下げて言った。
 「先生、本当に申し訳ございません。
 文化祭をはじめ、どこへ行っても、警察の監視がつき、さぞかしお疲れのことと思います。
 また、ブラジルの私たちのために、長時間のマスコミの取材にも応じてくださり、大変にありがとうございます」
 心の清き彼女は、伸一たちがサンパウロに到着してから、終始、警察に監視され続けていることが、悔しくて仕方なかった。
 何度、こう言って、警察官に食ってかかろうと思ったことか。
 「先生は、何も悪いことなどしていないではないですか!
 ただ、ブラジルに幸福と平和の道を開こうと、サンパウロまでいらしてくださったんです。
 その先生が、なんで警察につきまとわれなければいけないんですか!」
 しかし、こうなってしまったのは、自分たちが、ブラジルの社会に、学会のことを正しく理解させてこなかったからだと考えると、彼女の怒りは、自身に向けられていった。
 説子は、自己の非力さが情けなく、自らを責め続けていたのであった。
 しかも、山本会長が記者会見に応じ、火花を散らすようなやりとりの末に、記者たちの学会への認識を変えてくれたことを思うと、申し訳なさに、熱いものが込み上げてきてならなかったのである。
 伸一には、説子の胸の内がよくわかっていた。
 彼は言った。
 「私は、ブラジルの同志を守るために来たんです。広宣流布を開くために来たんです。それが私の役目であり、責任です。
 したがって、私のことは何も心配する必要もなければ、気遣う必要も、いっさいありません」
29  暁光(29)
 山本伸一の声には、決定した一念から発する、厳たる響きがあった。
 「広宣流布の旅の途上で、銃弾に倒れるんなら本望です。法難に遭い、牢獄に繋がれるならば、それは誉れです。私は、もともと、その覚悟で来ている。何も恐れません。
 ただ、心配なのは、ブラジルの皆さんのことです。
 弾圧があっても、退転せずに、頑張り抜けるだろうか。勇気をもって前進し、栄光の人生を勝ち取れるだろうか――私の頭にあるのは、そのことだけです。
 皆さんが負けなければ、人生の勝利者になれば、それでいいんです。私の身に何が起ころうが、そんなことは問題ではありません」
 斎木説子は、伸一の言葉に、太陽のような暖かさを感じた。ありがたさに、身が震える思いがした。
 彼女の目には、再び感涙があふれた。
 しかし、決然と顔を上げると、きっぱりと言った。
 「先生、私たちは負けません。そして、このブラジルを、必ず、世界の広宣流布の模範となる、幸福の沃野に変えていきます。見ていてください!」
 説子の烈々たる決意に、伸一は笑顔で頷いた。
 「そうだ。その意気でいくんだよ。ありがとう。
 すべては一念で決まる。大宇宙をも動かしていくのが仏法なんだから、ブラジルのみんなが、懸命に祈り、戦っていくならば、必ず事態は大きく変わっていきます。
 雨が降ってこそ、大地は固まる。風があるから凧も揚がる。同じように、難があるから強くなれるし、それを乗り越えてこそ、広宣流布の大前進がある。
 自分の国の、学会を取り巻く環境が厳しいと、大変だな、困ったなと思うかもしれない。しかし、その時に、どう戦ったかによって、大飛躍、大勝利の因をつくることができる。
 だから大聖人も、『災来るとも変じて幸と為らん』と言われている。最後に勝つのは、迫害と戦った国です。
 しかし、焦ってはいけないよ。勝負は、二十年後、三十年後だ。いや、二十一世紀だ。
 楽しみだね、ブラジルの未来が!」
 説子の顔にも、微笑が浮かんだ。
 この日、伸一によって、斎木説子という一婦人の心に、広宣流布の魂の火がともされたのだ。
 それは、小さな火ではあったが、ブラジルの大地に吹き荒れる烈風のなかで、赤々と燃え上がり、同志から同志へと広がっていくことになるのである。
30  暁光(30)
 翌十五日、山本伸一は、ブラジルを発って、ペルーのリマに向かわなければならなかった。
 ペルーには、南米本部長・婦人部長の斎木安弘・説子夫妻も、同行することになっていた。
 飛行機の出発は、午前十時二十分の予定であったが、サンパウロの市の中心部から百キロほど離れた、ビラコッポス国際空港を使うため、一行は、午前七時半に車でホテルを出た。
 道路はすいており、早く空港に到着したために、出発までには、かなり時間があった。
 伸一は、斎木夫妻や見送りに来てくれた十数人のメンバーと、ロビーで懇談することにした。
 ロビーのあちこちに、政治警察の係官らしい、私服姿の男たちが立ち、聞き耳を立てていた。
 だが、伸一は、そんなことはまるで意に介さぬかのように、斎木安弘に声をかけた。
 「次のブラジルの文化祭を、楽しみにしているよ」
 「はい! それを目標に頑張ります」
 傍らにいた、斎木の妻の説子が言った。
 「先生から、こんなにブラジルは変わったのか、と言っていただけるくらい、大発展させてまいります」
 「その決意が嬉しいね。
 時代を変えていく本当の原動力は、婦人の祈りであり、生活に根ざした婦人の活動なんだ。
 婦人の力は、大地の力といえる。大地が動けば、すべては変わる。権威の王城など、簡単に崩れ、不動のように見えた、山をも動かしてしまう。その力は無限だ。そこに不可能はない。
 婦人部、頼んだよ」
 それから、伸一は、安弘に向かって言った。
 「ブラジルの状況を見ると、学会の真実を伝え抜く言論戦が何よりも大事だ。
 ただし、言論といっても機関紙などに原稿を書くことだけではない。むしろ、重要なのは、肉声の響きであり、一対一の対話だ。生命と生命の触発だ。
 一人ひとりが、明快に、さわやかに、仏法と学会の正義と真実を、語り抜いていくことこそ、最も大切な言論の白兵戦です。
 また、そのためには、友情と信頼の輪を、幾重にも広げていくことだ。それが対話の土台になるからね」
 その時、斎木の顔に緊張が走った。彼は、小声で伸一に告げた。
 「先生。真後ろの長イスに、肉づきのよい、ブラウンの髪をした、スーツ姿の中年男性がおります。
 彼は、政治警察の要職にある係官で、大変に有名な人物です」
31  暁光(31)
 山本伸一は振り向くと、そのまま、真っすぐに係官の方へ歩き始めた。
 伸一も、この係官には見覚えがあった。文化祭の会場で見た顔であった。
 彼は、係官が座っていた、長イスの前に立った。
 係官の表情は強張り、目には動揺の色が浮かんだ。
 見送りのメンバーも、何が起こるのかと、一瞬、息をのんだ。
 伸一は、係官に丁重に会釈をし、微笑を浮かべた。
 「朝早くから、ご苦労様です。何度か、お顔を拝見しているのですが、ごあいさつすることもできず、大変に失礼いたしました。
 私が創価学会の会長の山本伸一でございます。よろしくお願いいたします」
 日本語で話しかけると、政治警察の日系人青年が、すかさず通訳をした。
 それから伸一は、握手を求め、手を差し出した。係官も笑顔をつくって手を握ったが、その笑いは、どこか、ぎごちなかった。
 握手をしながら、伸一は言った。
 「私は、ぜひ政治警察の方とお会いし、私どもの考え方や活動について、お話しするとともに、ご意見もお伺いしたいと思っておりました。
 ちょうど、よい機会ですので、よろしければ、そこのレストランで、コーヒーでも飲みながら、お話しできないでしょうか」
 係官も、伸一と話をしたかったのか、黙って立ち上がった。
 新しき局面は、勇気によってのみ開かれるものだ。
 レストランで、通訳を介しての語らいが始まった。
 伸一は、単刀直入に切り出した。
 「文化祭や会合もご覧くださり、私どものことは、よくご理解いただけたのではないかと思います。
 創価学会には、社会の秩序を乱そうなどという考えは、全くありません。
 私たちが願っているのは社会の繁栄です。そして、人びとが、一人も漏れなく幸福になることです。
 また、全会員が誰からも信頼され、よき市民となって、社会に貢献しゆくことを目標としております。
 したがって、学会は、これまでに、一部のマスコミが報じてきたような、危険な団体では、決してありません」
 伸一は、ここでも、日本にあって学会が政界に進出した理由や、諸外国では政治活動を行う考えはないことなどを語っていった。
 また、学会の目的や日蓮仏法についても、諄々と、あらゆる角度から訴えていった。
 ″今こそ、政治警察の学会への認識を変えるのだ。この機会を逃すものか!″
 彼は懸命であった。
32  暁光(32)
 山本伸一の話を聞くにつれて、険しかった政治警察の係官の顔は、次第に柔和になっていった。
 伸一は言った。
 「もし、学会について、疑問に思っていらっしゃることや、言っておきたいことがありましたら、なんでもおっしゃってください。
 私どもが、ぜひお聞きしたいのは、率直なご意見なんです」
 係官は、極めて友好的な口調で答えた。
 「今回、あなたたちの、さまざまな催しを見て、創価学会は、社会を破壊するような危険な団体ではないことが、私にはよくわかりましたよ。
 安心していますし、むしろ、あなた方の運動に期待もしています。
 しかし、かなり多くの人が、創価学会について誤解しているし、憎んでいる人も少なくない。なかでも、なぜか、日系人のなかに、憎悪している人が多いようです。
 この国で、創価学会のような宗教を理解させることは、並大抵の努力では無理でしょう。
 何しろ学会は、個人の精神の内面に影響を与えるだけでなく、社会的にも、非常に大きな影響力をもっている。こんな宗教は、今までブラジルになかった。
 だから、『試練を覚悟せよ』というのが、私からのアドバイスです」
 「大変にありがとうございます。今のアドバイスは肝に銘じます。
 それにしても、あなたという理解者を得たことは、心強い限りです。
 どうか、ブラジルの創価学会のメンバーを温かく見守ってください」
 「わかりました。応援しますよ」
 伸一が差し出した手を、係官は強く握った。
 「あなたと、こうして知り合えたことが、今回の旅の最大の収穫です」
 彼の言葉に、係官は、にっこり笑った。
 既に、出発の時刻が迫っていた。
 「では、失礼します。また、お会いできることを、楽しみにしております」
 伸一は、係官に別れを告げると、見送りのメンバー一人ひとりと握手し、出発ゲートに向かった。
 だが、彼は、数メートル歩くと振り返り、見送りのメンバーに向かい、手を振って叫んだ。
 「みんな、頑張り抜くんだ! 必ず勝つんだよ。私も応援するからね!」
 ペルーに同行する斎木夫妻は、メンバーのために、出発の瞬間まで奮闘し、励ましを送り続けてくれる伸一の真心が、痛いほど胸に染みてならなかった。
33  暁光(33)
 ここで、その後のブラジル広布の歩みについて、少々、記しておきたい。
 この一九六六年の、山本伸一の訪問は、暗夜にともされた、一つの希望の光であったが、闇はまだ、果てしなく深かった。
 斎木夫妻は語り合った。
 「ブラジル社会に、学会のことを正しく認識させような」
 「ええ、警察に監視などされることなく、先生にご訪問していただけるようにしなくては……」
 特に、妻の説子の決意は、固く、強かった。
 ″ブラジルを絶対に変えてみせる。学会を、山本先生を、世界一理解し、賞賛する国にしてみせる!″
 彼女は、日々、それはそれは凄まじいほどの真剣勝負の唱題を重ねた。
 そして、婦人部のメンバーに、自分の思いを伝え、唱題と仏法対話の波を起こそうと、家庭指導に励んだ。
 ポルトガル語を書いた紙を頼りに、片言の言葉で道を聞きながら、三十キロ、四十キロと離れたメンバーの家まで、毎日のように激励に通った。
 電車がなくなり、寂しさと怖さに泣きじゃくりながら、一晩中、線路の上を歩いて帰ったこともあった。
 雨のために、バスが動かなくなってしまい、川のようになった道を、膝まで水につかりながら、何時間も歩いた日もあった。
 こうした説子の努力は、次第に実を結んでいった。
 婦人部のなかから、彼女と同じ心で、ブラジルの友の幸福のために生涯をかけようとするメンバーが、次々と育っていった。
 二年後の六八年六月には、婦人部はサンパウロで第一回の婦人部総会を開催。太陽のごとく、光り輝く平和の女王の、大行進が開始されたのである。
 また、「仏法即社会」の法理を実践するために、鼓笛隊が地域のパレードに参加するなど、社会貢献の活動も、活発に展開していった。
 そのなかで、年ごとに、学会への信頼と評価は高まり、七二年には、サンパウロ市議会からアンシェッタ章を受けるに至る。
 布教も進み、リオデジャネイロやロンドリーナにも会館が誕生した。
 一方、山本伸一も、ブラジルのメンバーのために心を砕き、あらゆる応援をしてきた。
 地元の要請に応えて、指導、激励のために、最高幹部の泉田弘や森川一正を派遣。また、後にブラジルの理事長となる、男子部の全国幹部をしていた田淵勝成を、南米指導長として斎木のもとに送ったのである。
34  暁光(34)
 山本伸一自身もまた、ブラジル訪問の機会を待ち望んでいた。
 そして、遂に一九七四年(昭和四十九年)の三月に北・南米を回り、ブラジルを訪問することが決まったのである。
 ブラジルでは、山本会長の訪問にあわせ、文化祭を開催することにし、七四年の年明けとともに、本格的な準備に入った。
 ″山本先生が出席して、再び文化祭を開くことができる!
 今度こそ、すべてにわたって、大勝利の文化祭にしよう!″
 メンバーの胸は躍った。
 皆、警察の監視のもと、サンパウロの市立劇場で行った、あの六六年(同四十一年)の文化祭の悔しさが、頭から離れなかった。
 以来八年、山本会長を招いて文化祭が行える日の到来を、待ち続けてきたのであった。
 文化祭の開催日は、三月十六日、十七日(現地時間)の両日で、会場はサンパウロのアニェンビー会議場と決まった。堂々たる大会場である。
 文化祭の企画も練りに練られ、練習に励む出演者も懸命であった。
 伸一にとっても、このブラジル訪問は、最大の念願であった。
 文化祭で、喜びを全身にみなぎらせ、踊り、歌う、愛する友の壮大な姿を思い描くと、彼の胸は高鳴った。
 伸一の日本出発は、三月七日の夕刻と決まった。
 アメリカのサンフランシスコ、マイアミを訪問したあと、十三日にブラジルに入り、サンパウロでの文化祭をはじめ、代表者会議など、各種の行事に出席する予定であった。
 ところが、伸一たち一行のブラジル入国のビザ(査証)が、なかなか発給されないのである。
 学会本部の担当者が、ビザを申請した、横浜のブラジル総領事館に理由を聞きに行くと、リオのカーニバルで休みがあることから、本国の事務が遅れているためではないかとのことであった。
 出発の日は刻々と迫ってくる。
 再度、総領事館に問い合わせると、今度は、この三月に大統領が交代し、エルネスト・ガイゼル大統領の就任式がある関係で、全体的に事務処理に遅れが出ているという話であった。
 伸一は、″何かある″と直感した。
 ″八年前と同じように、学会について、よからぬ情報が意図的に流され、ブラジル政府が、さらに警戒色を強めているのではないか……″
35  暁光(35)
 山本伸一は、来る日も来る日も、真剣に唱題しながら、ビザが出るのを待ったが、出発の前日になっても、発給されなかった。
 やむなく、学会本部として対応を協議し、山本会長には予定通り日本を発ってもらい、アメリカのブラジル総領事館で再申請することにした。
 三月七日、伸一は日本を発ち、サンフランシスコに向かったのである。
 シスコでは、カリフォルニア大学バークレー校の訪問、サンフランシスコ・コミュニティー・センターの開所式など、次々と精力的に行事に出席した。
 だが、伸一の頭からは、片時もブラジルのことが離れなかった。
 「まだ、ビザは出ないのかい!」
 日に何度となく、彼は同行の幹部に尋ねた。
 もしも、このままビザが発給されず、自分が入国できなければ、ブラジルの同志がどんなに嘆き悲しみ、落胆するであろうかと考えると、いてもたってもいられない心境であった。
 ブラジルの斎木安弘には、伸一が日本を発つ時に、一行のビザは、まだ発給されていないことが伝えられていた。
 伸一は、サンフランシスコからも、ブラジルと頻繁に連絡を取った。
 斎木は、電話が入るたびに、ビザが出た知らせではないかと、期待に胸を躍らせながら、受話器を手にした。しかし、毎回、意気消沈して、電話を切らねばならなかった。
 斎木自身も、山本会長一行のビザが発給されないわけを突き止めようと、ブラジルの政府関係者らと会っていった。
 すると、一部の日系人から、「山本会長の同行者には危険人物がいる」などといった情報が入り、政府もその話に踊らされていることが、次第に判明してきたのである。まさに、八年前と同じことが行われていたのだ。
 斎木は愕然とした。
 彼は、自分たちは、必死になって頑張り抜いてきたと思っていた。学会を取り巻く環境も、大きく変わったと感じていたのである。
 しかし、それは、ほんの表面にすぎなかった。学会を排斥しようとする水面下での流れは、何も変わっていない。むしろ、激しさを増していたのである。
 斎木は、現実の社会の壁が、いかに分厚いかを痛感したが、諦めなかった。
 ″いや、まだ、打つべき手はあり、やるべきことが必ずあるはずだ。すべての可能性にかけよう!″
36  暁光(36)
 一方、山本伸一は、十日に、サンフランシスコからロサンゼルスに向かった。
 アメリカの首脳幹部の要請を受け、ロス近郊のマリブ研修所で行われるアメリカの最高協議会などに出席するためであった。
 マリブの空は、美しく晴れ渡り、まばゆい太陽の光が燦々と降り注いでいた。
 だが、まだビザを手にできぬ伸一の心は、暗雲に閉ざされたように暗かった。
 ″ブラジルに飛んでいきたい。そして、苦労して頑張ってきた同志の、一人ひとりの肩を抱き、健闘を讃えたい!″
 懐かしきメンバーの、あの顔、この顔が、彼の頭から離れなかった。
 だが、サンパウロ入りすることになっていた前日の三月十二日になっても、とうとうビザは出なかった。
 伸一は、この十二日の昼前、遂にブラジル行きを断念し、当初の予定にはなかったパナマを、初訪問することにしたのである。
 そのころ、サンパウロにある会館の事務室では、斎木安弘をはじめ、何人かのブラジルの中心幹部が集まり、ロスからの連絡を待っていた。時差の関係で、サンパウロは、既に十二日の夕刻であった。
 斎木は、なんとしても山本会長のビザを発給してもらおうと、ブラジルの外務省の関係者を訪ねるなどして、奔走し続けてきた。
 しかし、道は開けなかった。前日の十一日深夜のロスとの連絡でも、ブラジル入りは難しそうだとのことであった。
 斎木は、この日の電話に最後の望みを託し、午前中から、会館の自分の机を離れずに待ち続けていた。
 午後になると、首脳幹部たちも、一人、二人と、会館にやって来た。皆、心配で仕方ないのである。
 誰もが不安を覚えながら、祈るような気持ちで待機していた。一分一分が苛立つほど長く感じられた。
 午後五時を回ったころである。デスクの上の電話が鳴った。
 斎木が受話器を取った。
 皆が耳をそばだてた。
 「はい、斎木です……」
 受話器からは、山本会長の同行メンバーである、国際本部事務総長の田原薫の声が響いた。
 これまで、何度もやりとりをしてきた、聞き慣れた声であるが、改まった口調であった。
 「まことに残念ですが、ビザがおりないために、山本先生のブラジル訪問は、今回はなくなりました」
 半ば覚悟していたこととはいえ、訪問の中止を告げられると、斎木は、全身から血の気が引いていった。
37  暁光(37)
 田原薫は、的確に山本会長の指示を伝えた。
 「したがって、文化祭等の行事は、斎木さんを中心に行ってください。
 また、訪問を予定していたサンパウロ大学等については、斎木さんが訪問し、丁重にお詫びするとともに、よく事情を説明してくださいとのことです。
 それから、文化祭の来賓の方々に対しては……」
 事務的ともいえる口調で、てきぱきと田原は語っていった。あふれる悲しみを懸命に抑えている斎木にとっては、かえって、それがありがたかった。
 「……以上が、先生からのお話でした」
 田原が、こう言い終わった瞬間、別の声が受話器から響いた。
 「大丈夫だね。君がしっかりすることだよ!」
 山本伸一の声であった。
 斎木は、自らを鼓舞するように、元気に答えた。
 「はい! 大丈夫です」
 「辛いだろう。悲しいだろう。悔しいだろう……。
 しかし、これも、すべて御仏意だ。きっと、何か大きな意味があるはずだよ。
 勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。
 負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。
 ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ。
 長い目で見れば、苦労したところ、呻吟したところは、必ず強くなる。それが仏法の原理だよ。
 今回は、だめでも、いつか、必ず、私は激励に行くからね」
 「はい……」
 斎木の声が詰まった。彼は、人前で涙など見せたことのない男であった。
 その彼の目が潤み、涙があふれた。こらえようとすればするほど、熱い涙が込み上げてくるのである。
 「いいかい。涙など決して見せずに、明るく、はつらつと、心からメンバーを激励することだよ。
 また皆に『くれぐれもよろしく』と伝えてほしい」
 伸一は、最後に、念を押すように、何度も、「頼んだよ。頑張るんだよ!」と言って電話を切った。
 斎木は、受話器を手にしたまま、しばらく呆然としていた。
 「先生は、来られないんですね!」
 説子の声で、彼は我に返ったように、受話器を置いて皆に告げた。
 「先生のご訪問はなくなりました」
38  暁光(38)
 皆、何も言わなかった。
 そして、すすり泣きが起こった。顔を覆って泣き崩れる幹部もいた。
 斎木安弘は、ハンカチで涙を拭うと、力を振り絞るように言った。
 「これからが始まりだ。我々の戦いはこれからだよ!」
 それは、自らに言い聞かせているようでもあった。
 普段は、涼やかな瞳の説子も、目を赤く腫らし、じっと涙をこらえていた。
 だが、彼女は、たまりかねて、外に飛び出すと、夕暮れの空を見上げて、声をあげて泣いた。
 彼女は思った。
 ″私は、なんと甘かったのだろうか……。自分たちは、こんなに頑張ってきたと思っていた。でも、そう思っていた時は、実は、壁の前で立ち止まっていた時だったのだ。頑張ってきたという心のなかにこそ、油断があったのだ。
 私は、この悔しさを、終生、忘れない。
 私は負けない。絶対に負けるものか!
 きっと、いつか、山本先生をお呼びしてみせる!
 ビザが取れなかったのなら、大統領が、ぜひ、先生をお呼びしたいという状況をつくればよいのだ!″
 ブラジルでの文化祭は、三月十六日、十七日の両日にわたって開催された。十六日の開会前、会場のアニェンビー会議場で、出演者の指導会がもたれた。
 席上、斎木は、山本会長のブラジル訪問の中止を、正式に発表した。
 その瞬間、誰もが息をのんだ。皆、山本会長の前で演技することを夢見て、今日までやってきたのだ。
 一瞬の静寂のあと、嗚咽が漏れ、号泣が響いた。
 歯を食いしばり、じっと天井を見ていた、屈強な男子部員の頬にも、涙があふれ、床に滴り落ちた。
 日ごろは、淡々と話す斎木が、声を限りに叫んだ。
 「皆さん、ブラジルの訪問が実現できず、一番、残念に思い、胸を痛めていらっしゃるのは、先生ではないかと思います。
 もし、嘆き悲しんでいるばかりの私たちを、ご覧になったら、先生は、もっと苦しまれるにちがいありません。
 私たちは、山本先生の弟子ではありませんか!
 今、私たちがやるべきことは、この文化祭を大成功させることです!
 文化祭には、多くの来賓が出席されますが、私たちの姿を通して、学会のすばらしさを、私どもを育ててくださった師匠・山本先生の偉大さを、証明しようではありませんか!
 今が、『まことの時』です。勇気を奮い起こそうではありませんか!」
39  暁光(39)
 それから、斎木安弘は、山本伸一のメッセージを発表した。
 伸一が、一人ひとりを抱き締める思いでつづった一文である。
 「……たとえ、お会いできなくとも、私の胸中には、今日の皆さんが、生き生きと躍動しております。
 どうか、ますますお元気に、幸せに満ち満ちたブラジルの天地で、わが家が最高の幸福の家庭であると言い切れる人生を送っていただきたい。
 そして、無限の未来性をもつ、愛するブラジルの広宣流布を、楽しく、勇敢に成し遂げていってください。
 今回だけが勝負ではない。勝負は永遠にある。
 私は、将来、必ず行きます。必ず、必ず行きます」
 涙に潤んだメンバーの目に、新しき決意が光った。
 この三月十六日、山本伸一は、アメリカの地から、文化祭の大成功を懸命に祈り続けていた。
 伸一は、この日が、十六年前に、師の戸田城聖から、彼をはじめとする青年たちに、広宣流布のいっさいの後事を託す儀式が行われた日であることを思うと、深い感慨を覚えるのであった。
 師に代わって、弟子が広宣流布の全責任を担って立ち、新しき道を開く誓いの日が「3・16」である。
 伸一は、この日が、ブラジルの青年たちが立ち上がる、実質的な広布後継の大式典となることを確信していたのである。
 文化祭では、開演に先立って、斎木から、山本会長の今回のブラジル訪問はなくなったことが、出席者に伝えられた。
 ざわめきが起こった。
 待機していた出演者たちにも、観客の落胆ぶりがよくわかった。
 ″俺たちが頑張るしかない。嘆いてなんかいられないぞ!″
 ブラジルの同志には、悲しみの涙を乾かし、情熱の炎を燃え上がらせる、太陽の強さがあった。
 文化祭が始まった。
 ブラジルの歴史を築き上げてきた開拓の気概を表現した、青年たちの勇壮な演技。ラテンの喜びをうたい上げた、アルゼンチンやペルーなど各国の民族舞踊。桜花と胡蝶を思わせる、優雅な舞もあった。
 ″生″の喜びをありのままに爆発させた、人間の祭典であった。
 全員が、「私が、この姿が、創価学会です!」と、心で叫びながらの、体当たりの演技であった。
 皆が主役であり、責任者であった。心の傍観者や脇役は誰一人いなかった。そこに勝利があった。
40  暁光(40)
 舞台は、美しい曲に合わせながら、フィナーレに移っていった。
 サンバのリズムに乗って出演者が入場すると、音楽は、ブラジルのメンバーの愛唱歌「ジュントス・コン・センセイ」(先生と共に)へと変わった。
 途端に、会場を埋め尽くした三千数百人の観客が総立ちになり、手拍子を打ち始めた。
 合唱が起こった。
 歌いながら、舞台の上でも、観客席でも、肩が組まれ、スクラムが広がっていった。そのスクラムが、右に、左に、歓喜の大波となって揺れた。
 ……呼ぼうよ 呼ぼうよ
 センセイを
 明日を築こう
 センセイと(日本語訳)
 出演者たちの視線は、舞台の上から、二階中央の最前列の席に注がれていた。
 そこは空席であった。イスの上には、花束が置かれていた。山本伸一のために用意していた席であった。
 今、その席に伸一はいない。しかし、みんなの心のなかには、微笑み、頷き、手を振る、山本会長の姿が、はっきりと映っていた。
 音楽が終わった。
 舞台の上で、誰かが前に進み出て、何か叫んだ。
 次いで、皆のかけ声が、会場にこだました。
 「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ。エ・オラ、エ・オラ、エ・オラ、オラ、オラ。ハ・チン・ブン、センセイ……」
 日本でいえば、「エイ、エイ、オー」という勝鬨にあたろうか。広宣流布への新しき誓いを込め、山本会長に届けとばかりに、誰もが、声を限りに叫んだ。
 十六日、十七日の二日間で三回にわたった公演は、いずれも感動のなかに、大成功で終了した。
 来賓たちも、「すばらしい!」を連発し、称賛を惜しまなかった。
 一人ひとりの生命の輝きと、その団結の姿に、「青年たちを、ここまで育んだ創価学会とその指導者に、心から敬意を表する」と語った来賓もいた。
 文化祭の初日の十六日、祝福のメッセージが、アメリカからも、フランス、イギリスからも、香港、オーストラリア、シンガポールからも、ガーナからも寄せられた。
 日本から届いた手紙は、この日だけで七百通にも達した。山本会長のブラジル訪問の中止を、聖教新聞の報道で知った日本の同志が、祝福と励ましの便りを寄せてきたのである。
 世界の目はブラジルに注がれていた。ブラジルの飛翔が世界の祈りであった。
41  暁光(41)
 ブラジルは、敢然と、大いなる翼を広げ、悠然として、未来の希望の大空に向かって、羽ばたいていった。
 メンバーは考えた。
 ――山本先生のビザが発給されなかったのは、軍事政権の誤解と偏見によるものだが、それを変えられなかったのは、やはり、私たちの側の問題ではないか。
 ブラジルの同志は、社会的な状況に原因を求めて事足れりとするのではなく、自分たちのこととしてとらえ、一歩一歩、前へ進んで、この解決に取り組もうとしていた。
 御書には、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」と仰せである。仏法は、自分の一念のなかに、大宇宙のすべての法が収まっていることを教えている。
 そうであるからこそ、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にするのだ。
 ゆえに、いっさいの結果をもたらす原因は、自己自身にあるととらえていくのが、一次元から見れば、仏法者の生き方といえる。
 メンバーは、社会の全幅の信頼を勝ち得ることができなかった自分たちの、努力と行動の不足を痛感していた。
 壁が厚ければ、これまでの倍の力を出そう。それでもだめなら、三倍、五倍、十倍と、力を出しきっていくのだ――それが、皆の結論であった。
 そして、まず真剣なる祈りから開始したのである。
 その先頭に立って、唱題の渦を巻き起こしていったのが、斎木説子であった。
 ″時をつくろう。時がくれば、決意の蕾は、必ず開花する!″
 また、メンバーは、仏法者として、文化と平和を推進することによって、社会貢献の道を開こうと、誓いを新たにしていった。
 山本伸一は、ブラジルの文化祭から二カ月半後、日中友好の万代にわたる「金の橋」をかけようと、初めて中国を訪問した。
 ブラジルでは、それを攻撃の材料として、「やはり、創価学会は共産主義勢力とつながる、危険な団体であることが明らかになった」と喧伝する者もいた。
 だが、負けなかった。
 「世界の平和を築こうとするなら、イデオロギーの壁を超えて、すべての国の指導者と交流し、語り合っていくことは当然です。
 イデオロギーが違う国だからといって、訪問も、対話もしないというのは、臆病だからです」
 皆、胸を張って訴えていったのである。
42  暁光(42)
 斎木夫妻は、ブラジルの土となって生涯を終える決意を固めていたが、この一九七四年の七月には、遂に念願であったブラジル国籍を取得することができた。
 名前も、斎木安弘は「ロナルド・Y・サイキ」とし、妻の説子は「グロリア・S・サイキ」とした。
 このころから、ブラジルに渡った日系人メンバーの多くが、ブラジルの名前を名乗るようになったのである。
 それは、積極的にブラジルの社会に溶け込んでいこうとする、決意の表れであった。
 また、この年の九月に、ブラジル独立百五十二周年を記念する、サンパウロ市主催のスポーツ文化祭が、パカエンブーの競技場で行われることになり、そこに、同市の要請で、ブラジル創価学会のメンバー八千人が、出場することになったのである。
 あの三月の文化祭を観賞した、市の関係者らの間から、称賛の声があがっていたのだ。
 要請から開催日までの期間が短く、準備は困難を極めたが、メンバーは、社会のためにと、全力でこの催しに取り組んだ。
 ――観客は、バックスタンドにメンバー五千人が描き出した、サンパウロ市街など、三十五景の人文字を見て、感嘆の声をあげた。
 それは、″人文字″というより、″人間大絵巻″であった。
 そして、フィールドでは男子部のフラッグ体操、女子部のリズムダンス、鼓笛隊や音楽隊の演奏行進など、華麗な演技の花が咲き、市民の絶賛を集めた。
 この模様は、ブラジル各地にテレビ放映された。
 さらに、翌七五年の四月には、首都ブラジリア誕生十五周年を祝う記念行事の一環として、ブラジル創価学会は、スポーツ文化祭を開催した。
 これもブラジリア連邦区の要請に基づいて企画されたもので、人文字を含め出演者は約五千人という大規模なものとなった。
 メンバーは、バス百三十七台に分乗し、本部のあるサンパウロから、約一千キロの道のりを、ブラジリアの体育館に向かった。
 団結の絵巻の人文字が、熱気みなぎる組み体操が、華麗なダンスが、二万人余の観客を圧倒。各紙はブラジル創価学会を、「わが国が誇る文化団体」と報道したのである。
 この二つのスポーツ文化祭は、ブラジル創価学会の社会的な評価を、大きく変えるものとなった。
 深く、信頼の根は、社会に、張り巡らされようとしていたのである。
43  暁光(43)
 一九七七年の八月には、ブラジル広布の中心拠点となるブラジル文化会館が、サンパウロに完成し、メンバーもさらに飛躍的に拡大していった。
 そして、苦労に苦労を重ね、友の幸福の園が広がれば広がるほど、″山本先生をブラジルにお呼びしたい″という皆の思いは、日ごとに強まっていった。
 サイキ夫妻はもとより、仕事などで来日したメンバーからも、幾度となく、山本伸一に、訪問の要請があった。
 ブラジルでは、八一年の八月から、週に四回、グロリア・サイキをはじめ、婦人部の有志が文化会館に集まり、伸一の訪問を祈念して、唱題会を開くようになった。
 また、メンバーは、学会の真実を万人に伝え抜いていくのだと、動きに動き、語りに語り、学会理解の輪を大きく広げていった。
 やがて、それは大統領にまで至るのである。
 八二年の五月のことであった。ジョアン・フィゲイレド大統領から、伸一のブラジル訪問を歓迎する親書が届いた。
 皆が決意し、祈った通りに、道は開かれていったのである。
 伸一も、大統領の厚情に対して返書を出し、訪問の早期実現に向けて、動き始めた。
 年が明けて、八三年の七月、青年部を中心に、ブラジルの代表三十八人が、研修会に参加するために来日した。
 メンバーは、東京や大阪などのほか、霧島の九州研修道場でも三日間の研修を受けることになっていた。
 その期間は、研修道場では九州広布三十周年の記念行事が行われており、伸一も、ここに滞在していたのである。
 「山本先生にお会いしたら、ブラジルに来てくださるようにお願いしよう!」
 メンバーは、そう誓い合い、霧島にやって来た。一方、伸一も、″遠来の友″の到着を待ち続けていた。
 彼は、まず、この三十八人で人材グループを結成し、「ブラジル霧島会」とすることを提案。
 また、その熱き求道心を称え、和歌を贈った。
  はるかなる
    ブラジル天地を
      飛びたちて
    ああ求道の
      君ら燦たり
 研修二日目の夜、伸一との会食に、数人のブラジルの代表が招かれた。
 ″訪問をお願いするチャンスは、今しかない!″
 メンバーは思った。
44  暁光(44)
 会食の途中、ブラジルの青年たちは、意を決して席を立つと、山本伸一の前にやって来た。
 それを見て、最初に声をかけたのは伸一であった。
 「やあ、ご苦労様!
 明日からは大阪で研修だったね。何時に出発することになっているの?」
 「朝の九時半です」
 「そうか。霧島は涼しいが、大阪は暑いから、体に気をつけてね」
 伸一は、冬のさなかである南半球からやって来た、メンバーの健康を気遣っていたのである。
 前回の訪問から、既に十七年余り。ブラジルの同志が、この歳月をどんな思いで過ごし、青年たちがどんな思いで日本へ来たのかを考えると、いとおしくてならなかった。
 彼は、一人ひとりを生命に焼きつけるように、視線を注ぎながら言った。
 「いよいよ、ブラジルにも、太陽が昇ろうとしている。これからはブラジルの時代になるよ」
 その言葉を待っていたかのように、ブラジル男子部長のジョルジェ・コウヤマが叫んだ。
 「先生! ブラジルに来てください!」
 皆がそれに続いた。
 「お願いします!」
 「お待ちしています!」
 すると、伸一は、宣言するように言った。
 「言わなくても、わかっている。近い将来、必ず行かせていただきます!」
 その瞬間、メンバーの顔が輝いた。
 この日のすべての行事が終了すると、伸一は、会食に参加した代表だけでなく、ブラジルのメンバー全員と、直接会って励ましたいと思い、彼のいる部屋に招いた。
 皆にとって、生涯の飛翔の原点となる思い出を、つくりたかったのである。
 青年たちは、頬を紅潮させて集って来た。
 彼は、笑顔で皆を迎え、静かに語り始めた。
 「私は、いつも、いつも、ブラジルの皆さんのことを思っています。どんなに遠く離れていても、皆さんは愛する家族であり、兄弟です。最も信頼し、尊敬する同志です。
 今も、皆さんが、お元気で、健康で、有意義な研修を終えられるように、真剣に唱題し、ご祈念いたしました」
 その言葉を聞き、目頭を潤ませる青年もいた。
 「泣いてはいけない。
 私は、必ずブラジルに行くんだから、また、会えるじゃないか……。
 広宣流布の獅子というのは、何があっても泣かないものだよ」
45  暁光(45)
 それから、優しい口調で山本伸一は言った。
 「皆さんが、わざわざ霧島まで来てくださったんだから、ピアノを弾きます。あまりうまくはないけれども、家族としての歓迎の気持ちです」
 彼はピアノに向かった。それを囲むように青年たちが立った。初めて聴く、伸一のピアノ演奏である。
 力強い調べが響いた。
 伸一が、師の戸田城聖の故郷をうたった詩「厚田村」の曲である。
 彼は、時折、皆の顔を見て、語りかけるように頷いては、演奏を続けた。
 曲は「熱原の三烈士」に変わった。
 これも、大聖人御在世当時の、農民信徒の殉難の物語を詠んだ伸一の詩をもとに、つくられた曲である。
 やがて、曲は、「荒城の月」へと移った。
 心に染み入る、旋律であった。
 その調べに誘われるかのように、それまで、涙をこらえていたメンバーの頬にも涙が光った。
 青年たちのなかには、日本語の全くわからないメンバーもいた。
 だが、ピアノ演奏を通しての生命の語らいによって、伸一の思いは、皆の胸に痛いほど伝わっていた。
 演奏が終わった。
 一瞬の静寂のあとに、大きな拍手がわき起こった。
 伸一は、皆の顔をじっと見つめた。
 「私は、ブラジルの尊き求道の勇者である諸君のことを、永遠に忘れません。
 また、お会いしよう。今度はブラジルで!」
 そして、全員と握手を交わした。
 「お元気で!」
 「頑張って!」
 「題目を送ります!」
 皆、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、強く、強く、彼の手を握り返した。
 この日、この時、ブラジルの青年たちの胸に、永遠に消えることなき誓いの炎が、赤々と燃え上がったのである。
 帰国したメンバーは、伸一との出会いの模様を、感動をもって語った。
 「山本先生は、必ず、ブラジルに行くとおっしゃってくださいました。
 今度こそ、私たちの祈りで、絶対に先生をお呼びしようではありませんか!」
 全同志の胸に、″山本先生が来てくださる!″との確信が光を放ち始めた。
 それは、″勇気の光源″となり、″希望の光彩″となっていった。
 ブラジル各地で唱題の渦が起こった。
 その一念のうねりが、社会を、時代を、世界を動かしていくのだ。
46  暁光(46)
 ブラジルの青年たちが研修会に参加した一九八三年の十二月、遂に、山本伸一のブラジル訪問が正式に決定をみた。
 訪問の時期は翌八四年の二月で、二十六日には、サンパウロでブラジル大文化祭を開催することになったのである。
 メンバーは大喜びであったが、ブラジルの首脳幹部は、慎重であった。
 彼らは、語り合った。
 「絶対に油断があってはならない」
 「そうだよ。広布が魔との戦いである限り、何が起こるかわからないからね」
 事実、訪問の日が近づくにつれて、学会への中傷も激しくなり、予期せぬ難問も生じた。
 その時、グロリア・サイキは、毅然として言った。
 「私は戦います! 絶対に先生をお呼びします。何があっても負けません」
 彼女は、自ら交渉にもあたった。その必死さが、困難の壁を、一つ一つ破っていったのである。
 戸田城聖の生誕八十四年にあたる、八四年二月十一日、山本伸一は、北・南米歴訪の旅に出発した。
 彼は、まず、アメリカのロサンゼルスに行き、次いで、ダラス、マイアミでの諸行事を終え、現地時間の十八日午後九時過ぎ、ブラジル入りするため、マイアミを発ったのである。
 十九日の朝、リオデジャネイロに着き、ここで国内線に乗り換え、サンパウロに向かった。
 一方、サンパウロの空港の駐機場では、理事長のロナルド・サイキたちが到着を待っていた。
 彼は、ニコリともしなかった。メガネの奥の目は険しく光り、眉間には、深い皺が刻まれていた。
 ″山本先生の姿をこの目で見るまでは、まだ、安心はできない!″
 彼には、時間がたつのがもどかしかった。数分が一時間にも、二時間にも感じられた。
 サイキの脳裏に、この十八年間の出来事が、次々と浮かんでは消えていった。
 ――山本会長を迎えながら、警察の監視のなかで行わなければならなかった一九六六年の文化祭。申し訳なさと、悔しさに震えながら、″勝利の旗″を打ち立てようと誓ったあの日。
 「今度こそ」と、祈り、戦い、来訪を待つも、ビザが発給されず、会長の訪問が中止となった七四年。
 「負けるな! 闇が深ければ深いほど、暁は近いのだ」と互いに叱咤し合い、励まし合った日々。
 そして、着実に、また、勇敢に、私たちは社会貢献の大道を開いてきた……。
47  暁光(47)
 澄み渡った空の彼方に、一機のジェット機が姿を現し、次第に高度を下げ、着陸した。
 「あれです!」
 航空会社の係員が、駐機場に待機していたロナルド・サイキに教えてくれた。
 ジェット機が止まり、タラップがかけられ、ドアが開いた。
 濃紺のスーツを着た山本伸一の姿が見えた。
 「先生!」
 サイキは、思わず、狂ったように叫んでいた。
 伸一がタラップを下りると、その手を、ぎゅっと握り締めた。顔は汗でびっしょりであった。
 「ようこそ、ようこそおいでくださいました!」
 「もう大丈夫だよ。さあ、一緒に、獅子のごとく進もう!」
 そして、十八年間の空白を埋めるかのように、伸一の獅子奮迅の行動が始まったのである。
 彼は、首都ブラジリアに飛び、フィゲイレド大統領と会見したのをはじめ、外相、教育・文化相らと相次ぎ会談。また、ブラジリア大学への図書贈呈など、日伯交流の懸け橋を、幾重にも築いていった。
 その間、行く先々で、渾身の力を振り絞って同志を励まし続け、二月二十五日には、ブラジル大文化祭のリハーサル会場にも、激励に訪れたのである。
 ″一人でも多くの同志と会って、励ましたい!″
 伸一が、サンパウロ市にある州立総合スポーツセンターのイビラプエラ体育館に姿を見せると、大歓声があがり、大拍手が轟いた。
 皆、この出会いを、待ちに待っていたのだ。
 伸一は、両手を掲げながら、中央の広い円形舞台を一周したあと、万感の思いを込めてマイクを握った。
 「十八年ぶりに、尊い仏の使いであられる我が友と、このように晴れがましくお会いできて、本当に嬉しい。
 この偉大なる大文化祭が、ブラジルの歴史に、広布の歴史に、燦然と輝き残るであろうことは間違いありません。
 しかし、これまでに、どれほどの労苦と、たくましき前進と、美しい心と心の連携があったことか。
 私は、お一人お一人を抱擁し、握手する思いで、感謝を込め、涙をもって、皆さんを称賛したいのであります。
 正法は、新世紀を築きゆく文化創造の源泉であります。これこそが、真実の幸福と安穏の世界をつくりゆく絶対の道であると、私は宣言しておきます」
 その指導は、同志の生命に、深く、深く、染みわたっていった。
48  暁光(48)
 山本伸一の声に、一段と力がこもった。
 「広宣流布に進みゆく皆さん方を、日蓮大聖人は必ずや御称賛され、御加護くださることは、絶対に間違いありません。
 私もまた、生命の続く限り、皆さん方を守りに守り抜いていくことを断言いたします!」
 大地を揺るがさんばかりの歓声と拍手が起こり、やがて、あの意気盛んな、歓喜と誓いのかけ声がこだました。
 「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ。エ・オラ、エ・オラ、エ・オラ、オラ、オラ……」
 皆、目を赤く腫らしながら、声を限りに叫んだ。
 そして、泣きじゃくりながら、跳び上がって手を振り、肩をたたき合い、また号泣するのだ。
 その光景を見て、グロリア・サイキの目から、滝のように涙があふれた。幾筋も、幾筋も、涙は流れて止まらなかった。
 十八年間、こらえにこらえ、溜まりに溜まった胸の思いが、堰を切ったようにあふれ出たのだ。
 彼女は、立っているのが精いっぱいだった。
 それでも、叫ばずにはいられなかった。
 「先生! ブラジルは勝ちました。先生との、あの約束を果たしました!」
 しかし、その声は、怒濤にも似た、激しい歓声にかき消された。
 翌二十六日午後六時から、「二十一世紀の大地に平和の賛歌」をテーマに掲げ、ブラジル大文化祭は、山本伸一が見守るなかで、開催された。
 あのリオデジャネイロからも、首都ブラジリアからも、四千キロを隔てた″緑の秘境″アマゾンの地からも、メンバーは喜々として集って来た。
 フィゲイレド大統領は、この大文化祭に祝福のメッセージを寄せた。
 そのなかで、大統領は、ブラジル創価学会は、「文化、教育、体育、さらには世界の平和への活動を、我が国において繰り広げ、核兵器廃絶など、広範な平和運動に貢献を示しております」と評価していた。
 そして、その「高貴なる理想が、実現されることを切望いたします」と述べている。
 大文化祭は、喜びを爆発させ、サンバのリズムで幕を開けた。
 未来からの使者・少年少女のリズムダンス。青春の歓喜を謳う女子部のモダンダンス。鼓笛隊、音楽隊が″希望の調べ″を明日に響かせ、フォークダンス、日本民謡が観客を沸かせた。
49  暁光(49)
 暗転した場内に、赤・黄・青……と、幻想的な光の世界が広がり、「SGI」の文字やブラジル国旗が、次々と浮かび上がる。懐中電灯を使った「電照人文字」である。
 続いて、大文化祭の圧巻・男子部の組み体操となった。人間の橋がつくられ、波がうねり、五段円塔が積み上げられていった。
 二段、三段、四段……。
 スタンドの同志は、手に汗を握り、祈るような気持ちで舞台を見守った。
 揺れる四段の人間円塔の上で、両手に旗を持った青年が立ち上がり、腕を大きく広げた。
 立った! 勝利の金字塔が打ち立てられたのだ!
 場内は、感動と興奮の坩堝となり、生命と生命が、魂と魂が、キラキラと輝きわたる、神々しいほどのフィナーレを迎えた。
 色とりどりの衣装が、舞台を人華の花園に変え、喜びの笑顔が揺れ、どの目にも、真珠の涙が光った。
 山本伸一の胸にも、熱い感動が、溶岩のように噴き上げていた。
 彼は、身を乗り出し、大きく手を振り続けた。
 そして、最大の敬意と称賛を込めて叫んだ。
 「オブリガード(ありがとう)! オブリガード!」
 大歓声(だいかんせい)と、猛然たる豪雨を思わせる大拍手が、ドームを揺り動かした。
 会場には、サンバの調べが響き、メンバーの愛唱歌「サウダソン・ア・センセイ」(ようこそ、先生)の合唱が広がった。
 出演者も、観客も一体になって、誇り高く、晴れやかに、歌い踊った。
  ラ・ラ・ラヤー……
  先生!
  あなたをブラジルに迎えることができ
  私たちの夢は叶いました
  ………… …………
  ありがとう 先生!
  真心の花を捧げます(日本語訳)
 それは、風雪に耐え抜き、自身の極限に挑んできた創価の勇者たちの、強き連帯の熱唱であった。
 そこには、人間正義と究極の平和の、真髄の実像があった。
 勝った! 遂に、遂に、わが同志は勝ったのだ!
 この時、ブラジルのメンバーは、信仰という人間の至上の情熱と、仏法という宇宙の究極の力をもって、暗黒の闇を破り、暁光を迎えたのである。
 そして、太陽が黄金の光を放って、刻々と空高く昇りゆくように、以来、ブラジル創価学会は、二十一世紀の世界広宣流布の先駆として、目を見張るほどの前進を遂げ、燦然と輝きわたっていくのである。

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