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日蓮大聖人・池田大作

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第10巻 「桂冠」 桂冠

小説「新・人間革命」

前後
1  桂冠(1)
 初代会長牧口常三郎の、また、第二代会長戸田城聖の理想に向かい、弟子・山本伸一の手によって、遂に光の矢は放たれた――。
 「創価大学設立審議会が発足」
 一九六五年(昭和四十年)十一月八日付の聖教新聞一面のトップに、大きな見出しが躍った。
 いよいよ、念願の創価大学の設立に向けて、歯車は回り始めたのだ。
 山本伸一は、十月三十一日、ヨーロッパ訪問の旅から帰ると、直ちに、創価大学の設立の打ち合わせを開始し、設立審議会を発足させたのである。
 審議会長には、伸一が就き、審議会の委員長には、理事長の十条潔が就任。委員会は、十条委員長以下、副理事長、学術部員、教育部員の三十六人で構成されることになった。
 今後、この審議会が、創価大学、並びに高校の設立準備にあたることになる。
 そして、十一月の二十六日には、第一回創価大学設立審議会が学会本部で開催された。
 席上、伸一は、設立の運びとして、「まず、六八年(同四十三年)ごろに高等学校を開校して、次いで、七〇年(同四十五年)以後に、大学の設立にとりかかりたい」と語った。
 さらに彼は、その実現のために、設立審議会のなかに、法律的な準備にあたる設置基準委員会と、大学、高校の設立の具体的な準備を進める大学専門委員会、高校専門委員会を設けることを提案し、全員の賛成で決定をみた。
 これによって、創価大学・高校の設立へ、スタートが切られたのである。
 伸一は、高鳴る胸の鼓動を感じた。
 彼は、心で叫んだ。
 ″戸田先生! いよいよ動き出しました。必ず、先生の理想とされた人間教育の最高学府をつくります″
 伸一は、師の戸田から大学設立の構想を聞かされた折のことが、一日として頭から離れなかった。
 ――それは、戸田が経営していた東光建設信用組合が、経営不振から営業停止となり、再起を期して設立した新会社の大東商工が、細々と回転し始めようとしていた、一九五〇年(同二十五年)の十一月十六日のことであった。
 戸田のもとにいた社員たちも、給料の遅配が続くと、一人、また、一人と、恨みごとを残して去っていった。伸一も、オーバーなしで冬を迎えねばならぬ、秋霜の季節であった。
 この日、伸一は、西神田の会社の近くにある、日本大学の学生食堂で、師の戸田と昼食をともにした。
2  桂冠(2)
 安価な学生食堂にしか行けぬほど、戸田城聖の財政は逼迫していた。
 彼にとっては、生きるか死ぬかの、戦後の最も厳しい″激浪の時代″である。
 しかし、戸田は泰然自若としていた。彼は、学生食堂へ向かう道々、山本伸一に、壮大な広宣流布の展望を語るのであった。
 食堂には、若々しい談笑の声が響いていた。
 戸田は、学生たちに視線を注ぎながら、微笑みを浮かべて言った。
 「伸一、大学をつくろうな。創価大学だ」
 伸一が黙って頷くと、戸田は、彼方を仰ぐように目を細めて、懐かしそうに語り始めた。
 「間もなく、牧口先生の七回忌だが、よく先生は、こう言われていた。
 『将来、私が研究している創価教育学の学校を必ずつくろう。私の代に創立できない時は、戸田君の代でつくるのだ。小学校から、大学まで、私の構想する創価教育の学校をつくりたいな』と……」
 ここまで語ると、戸田は険しい顔になった。
 「しかし、牧口先生は、牢獄のなかで生涯を閉じられた。さぞ、ご無念であったにちがいない。
 私は、構想の実現を託された弟子として、先生に代わって学校をつくろうと、心に誓ってきた。
 牧口先生の偉大な教育思想を、このまま埋もれさせるようなことがあっては、絶対にならない。
 そんなことになったら、人類の最高最大の精神遺産をなくしてしまうようなものだ。
 人類の未来のために、必ず、創価大学をつくらねばならない。
 しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。
 伸一、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」
 この時の戸田の言葉を、伸一は、決して、忘れることはなかったのである。
 だが、既に、その戸田も世を去っていた。
 創価教育の学校の設立は、牧口から戸田へ、戸田から伸一へと託され、今、すべては、彼の双肩にかかっていたのである。
 伸一は、先師・牧口の、そして、恩師・戸田の構想の実現に向かい、いよいよ第一歩を踏み出せたことが嬉しかった。
 広宣流布のために、師匠が描いた構想を現実のものとし、結実させてこそ、まことの弟子である。
 その不断の行動と勝利のなかにのみ、仏法の師弟の、尊き不二の大道がある。金色に輝く、共戦の光の道がある。
3  桂冠(3)
 この一九六五年(昭和四十年)の十一、十二月も、山本伸一は、記念撮影を中心に、各地のメンバーの激励に、全力を注いでいた。
 記念撮影といっても、伸一の場合は、決して、写真を撮るだけでは終わらなかった。
 記念撮影という出会いの場を、皆の幸福への大飛躍の舞台にしようと、全魂を込めて指導し、時間の許すかぎり、一人ひとりに声をかけ、励ましを送った。
 たとえば、十一月の四日には、関西本部新館で奈良本部の班長、班担当員と記念撮影をしたが、それは、さながら懇談会であり、個人指導の場でもあった。
 伸一は、壮年のメンバーに、年齢や健康状態などを尋ねていった。
 そして、体調が優れないという、一人の年配者の話に耳を傾け、真心を込めて激励するのであった。
 「寿量品に『更賜寿命』(更に寿命を賜う)とありますが、死ななければならない寿命さえも延ばしていけるのが仏法です。
 強盛に信心に励んでいくならば、ほかの病が克服できないわけがないではありませんか。
 どうか、たくさんお題目を唱え、うんと長生きをしてください」
 伸一は、この男性に、念珠を贈ると、皆に尋ねた。
 「ほかに、このなかに、体の悪い方はいらっしゃいますか」
 やや、ためらいがちに、数人のメンバーの手があがった。
 「その方は、少しお残りください。語り合いたいんです」
 次の撮影までの間、伸一は、そのメンバーを懸命に励まし、病気の原因から語り始めた。
 「大聖人は、病の原因について、天台大師の『摩訶止観』を引かれて、こう述べられています。
 『一には四大順ならざる故に病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼便りを得る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む』」
 ――この意味を詳述すると、次のようになる。
 最初にある「四大順ならざる」の四大は、地・水・火・風をいう。東洋思想では、大自然も、また人間の身体を含めた宇宙の万物も、四大から構成されていると教えている。
 「四大順ならざる故に病む」とは、気候の不順等で大自然の調和が乱れると、人間の身体に重大な影響をもたらし、各種の病気が発生することをいう。
4  桂冠(4)
 第二の「飲食節ならざる故に」と、第三の「坐禅調わざる故に」は、飲食と生活の不節制のことである。
 生活のリズムが乱れ、その結果、食生活が不節制になったり、また、運動不足や睡眠不足になると、内臓や神経、筋肉の病気につながっていくことをいわれたものである。
 さらに、第四の「鬼便りを得る」の鬼は、身体の外側から襲いかかる病因であり、細菌、ウイルス等々の病原性微生物もあれば、外界からのさまざまなストレスも、ここに含まれるといえる。
 第五の「魔の所為」とは、生命に内在する各種の衝動や欲求などが、心身の正常な働きを混乱させることである。
 そして、この「魔の所為」によって、仏道修行を妨げるための病が起きる。
 第六の「業の起るが故に」は、生命の内奥から起こる病気の原因である。
 生命自体がもつ歪み、傾向性、宿業が、病気の原因になっている場合をいう。仏法では、この生命の歪みを「業」ととらえているのである。
 病気の原因は、このように六種に分けて考えることができるが、具体的な病気について分析してみると、これらのうちの、いくつかの原因が重なり合っている場合が多い。
 インフルエンザの流行を例にとれば、ウイルスが原因であり、それは「鬼便りを得る」にあたると考えることができる。
 しかし、この「鬼便りを得る」には、気候の不順等、つまり「四大順ならざる」ことが引き金になったり、「飲食節ならざる」生活から体力を弱め、それが機縁になったとみることもできよう。
 さらに、その奥には、仏道修行を妨げようとする魔の働きがあったという場合もあるし、人によっては、「業」まで考慮しなければならない場合もある。
 山本伸一は、この病の起こる六つの原因を、御書の御文に即して、詳細に説明していった。
 「つまり、病気を防ぐには、まず、環境の変化に適応できるように、衣服などにも十分に気をつけることが大事です。
 また、規則正しい生活をし、暴飲暴食を慎み、運動不足、睡眠不足にならないようにすることです。
 これで、三番目までの病の原因は除けます。この予防のための知恵を働かせていくことが信心です。
 また、医学の力を借りることによって、第四の細菌などによる病の原因も、除くことはできます」
5  桂冠(5)
 山本伸一は、ここで、力を込めて語った。
 「ただし、どんな病気でも、それを、どれだけ早く治せるかどうかは、生命力によります。その生命力の源泉こそ、信心なんです。
 また、同じ病気であっても、その根本原因が『魔』と『業』によるものである場合には、いかに医学の力を尽くしても、それだけでは治りません。
 御本尊への強い信心によって、『魔』を打ち破り、『業』を転換していく以外にないんです。
 この『業』による病のなかでも、最も重いのが、過去世からの法華誹謗によるものです」
 ここまで話すと、伸一のすぐ前にいた、五十代半ばの小柄な壮年が、不安そうに言った。
 「先生! 先日、胃が痛みましたので検査をしたところ、癌と診断され、手術をすることになりました。
 実は、半年前にも、車を運転していて追突され、二週間ほど入院したばかりなんです。また、この三年ほど、いろいろな病気で苦しんできました。
 私は、かつて、五年にわたって、先に入会した女房の信心に反対してきましたが、病に苦しむのは、その宿業でしょうか。
 また、私の場合も、病気の宿命を乗り越えることができるんでしょうか」
 伸一の、確信にあふれた声が響いた。
 「どんなに深い宿業だろうが、必ず断ち切っていけるのが、日蓮大聖人の大仏法です。
 あなたは、″それにしても、これほどまでに苦しまなければならないのか″と思っているかもしれませんが、私たちは、今世の謗法の罪はわかっても、過去世の罪はわかりません。
 過去世に、大謗法を犯し、深い宿業をもっているかもしれない。
 本来、その宿業は少しずつしか出ないために、何世にもわたって、長い間、苦しまなければならない。
 しかし、信心に励むことによって、これまでの宿業が、一気に出てくる。そして、もっと重い苦しみを受けるところを、軽く受け、それで宿業を転換できる。『転重軽受』です。
 宿業による病苦を乗り越えるには、正法誹謗の罪を、御本尊に心からお詫びし、唱題することです。
 提婆達多にそそのかされて仏弟子を殺し、仏を苦しめ抜いた阿闍世王は、その罪によって業病にかかる。
 だが、悪逆の限りを尽くした阿闍世王でさえも、釈尊にお会いして罪を悔い、お詫びすることで、たちまちのうちに、その病が癒えたと御書にある」
6  桂冠(6)
 まさに、真剣勝負の指導であった。
 山本伸一は話を続けた。
 「大聖人は、『諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし』と仰せですが、それが御本尊の偉大なる功徳力です。
 自分の罪を心から悔いることができれば、″こんな私でも、救っていただけるとは、なんと、ありがたいことだ″という、御本尊への感謝の思いが込み上げてくるはずです。
 御本尊への、深い感謝の一念が、大歓喜の心を呼び覚まします。そして、この大歓喜が大生命力となっていくんです。
 唱題するにしても、ただ漫然と祈っていたり、御本尊への疑いを心にいだいて祈っていたのでは、いつまでたっても、病魔を克服することはできません。
 大事なことは、必ず、病魔に打ち勝つぞという、強い強い決意の祈りです。そして、懺悔滅罪の祈りであり、罪障を消滅してくださる御本尊への、深い深い感謝の祈りです。
 胃が癌に侵されているというのなら、唱題の集中砲火を浴びせるような思いで、題目を唱えきっていくんです。
 さらに、重要なことは、自分は広宣流布のために生き抜くのだと、心を定めることです。
 そして、″広布のために、自在に働くことのできる体にしてください″と、祈り抜いていくんです。
 広宣流布に生き抜く人こそが、地涌の菩薩です。法華経の行者です。
 広布に生きる時には、地涌の菩薩の大生命が、全身に脈動します。その燦然たる生命が、病を制圧していくんです」
 壮年は、大きく頷きながら言った。
 「わかりました。
 先生のお話を聞いて、勇気がわいてきました。新しい決意で頑張ります」
 その顔は、赤みを帯び、目には、生気がみなぎり始めていた。
 伸一は、笑顔で包み込むように語った。
 「あなたが癌の宣告を受けたことも、仏法の眼から見れば、深い意味があるんです。
 大聖人は『病によりて道心はをこり候なり』と仰せになっているが、病にかかったことも、あなたが強い信心を奮い起こしていくための、御仏意といえます。
 病を、信心の向上の飛躍台にしていくのが、仏法者の生き方です。
 今こそ、″わが人生は、広布にあり″″広布のために生き抜くぞ″と決めて、信心で立ち上がるんです」
7  桂冠(7)
 語るにつれて、山本伸一の声には、ますます力がこもっていった。
 「あなたが重い病で苦しむということは、使命もまた、それだけ深いということなんです。病苦が深ければ深いほど、それを克服すれば、仏法の偉大なる功力を証明することができ、広宣流布の大きな力となるではないですか。
 あなたは、そのために、さまざまな宿業をつくり、病苦を背負って、地涌の菩薩として出現したんです。だから、病を乗り越えられないわけがありません!」
 今度は、別の人が、口ごもりながら尋ねた。
 四十代と思われる男性だが、痩せて、顔色は優れなかった。
 「私は、糖尿病で、インシュリンの注射を続けております。
 医師からは、注射と、指示された通りの食事と運動を続ければ、普通の人と、ほとんど同じように生活できるが、慢性病なので、一生、治ることはないと言われました。
 それで、人生の希望を断たれたようで、元気が出ないのですが……」
 伸一は答えた。
 「強盛に信心に励んでいくならば、持病があっても、必ず希望に満ちあふれた、最高に幸福で、充実した人生が歩めます。
 御書には、『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや』と仰せです。
 南無妙法蓮華経は師子吼です。その声を聞けば、どんなに獰猛な動物も逃げ出すように、いかなる病も、幸福への、また、広宣流布への障害にはなりません。
 現代人は、みんな″半健康″であるといわれるぐらい、なんらかの病気をかかえているし、年齢とともに、体も弱っていきます。
 では、病気だから不幸なのか。決して、そうではない。病に負けて、希望を失ってしまうから不幸なんです。広布の使命を忘れてしまうから不幸なんです。
 体は健康でも、精神が不健康で、不幸な人は、たくさんいます。反対に、病気をかかえたり、体が不自由であっても、自らも幸福を満喫し、人をも幸福にしている同志もいる。
 生命の根源においては、健康と病気は、本来、一体であり、″健病不二″なんです。ある時は、健康な状態として現れることもあれば、ある時は病気の状態となって現れることもある。
 この両者は、互いに関連し合っているがゆえに、信心に励み、病気と闘うことによって、心身ともに、真実の健康を確立していくことができるんです」
8  桂冠(8)
 山本伸一の話を聞くうちに、この壮年の頬にも、赤みが差してきた。
 伸一は、壮年の肩に手をかけて言った。
 「インシュリンの注射を続けなければならない人もいるでしょう。
 でも、考えてみれば、人間は、毎日、食事をし、睡眠をとらなければ、生きていけないではないですか。
 そこに、もう一つ、やることが加わっただけだと思えばいいではないですか。
 打ちひしがれていても、何も開けません。
 あなたの場合は、病気をかかえていても、『あそこまで、元気に生きられるんだ』『あれほど、長生きができるんだ』『あんなに幸福になれるんだ』と、同じ病をもった方が、感嘆するような、人生を歩んでいってください。
 そうすれば、仏法の力の見事な証明になります。それが、あなたの使命です。
 絶対に、自分に負けてはいけない。頑張るんです。挑戦し抜くんですよ」
 こう言って伸一は、壮年の肩を大きく揺さぶった。
 壮年は、目を潤ませながら言った。
 「はい。負けません。負けるものですか!」
 伸一は、それから、皆に語った。
 「広宣流布に生き抜く人を、大聖人がお守りくださらないはずがありません。
 大聖人は、南条時光が病にかかった時、お手紙に、こう記されています。
 『鬼神らめ此の人をなやますは剣をさかさまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか
 日蓮門下を病で苦しめる鬼神は、『剣を逆さまにして飲むことになるぞ。大きな火を抱き、身を焼かれることになるぞ。全宇宙の仏の大怨敵になるぞ』と、鬼神をも激しく叱咤し、門下を守ってくださっている。
 私たちは、この大聖人の大確信、御一念に包まれているんです。
 ですから、皆さんも、『鬼神めらめ! 絶対にお前たちなどに負けるか!』という大信念と不屈の心をもつことです。勇気を奮い起こすことです。
 かつては、私も病弱で、医者からは、『三十まで生きられないだろう』と言われていた体です。
 しかし、今は、元気になり、どんな激務にも耐えられるようになりました。
 皆さんも、必ず健康になれます!」
 笑顔が弾けた。
 残った人たちの顔が、さっきまでとは、別人のように輝いていた。
 全生命力を注いでの、伸一の気迫の指導であった。
9  桂冠(9)
 また、十一月七日には、信濃町の学会本部で、千葉・埼玉の、男女青年部を含む地区幹部の記念撮影が行われたが、ここでも山本伸一は、メンバーとの対話を心がけ、一人ひとりの指導に魂を注いだ。
 メンバーの入れ替えの時間を使って、ある女子部員の結婚の相談にものった。
 伸一は、常に、陰で苦労している人や、大変ななかで頑張っている人を探し出し、激励することに、心を尽くしていた。
 また、そうした人を発見できるように、日々、真剣に祈っていたのである。
 その努力と一念の積み重ねのなかで、伸一の生命のレーダーは、ますます研ぎ澄まされていった。
 この日、彼は、時間の許す限り、メンバーの近況に耳を傾け、時には、優しく包み込むように励まし、時には、厳父のごとく、強く奮起を促していった。
 そして、激励のために用意してきた、袱紗などを贈るのであった。
 千葉の女子部の記念撮影では、自身を鍛え、磨きゆくことの大切さを訴えた。
 「人生というのは、試練との闘争といえる。
 幾つもの苦難の峰を越えてこそ、真の幸福がつかめるんです。
 ゆえに、苦労こそが、人生の財産です。自身を磨き上げる研磨剤です。
 だから、青春時代に、どんな困難に出合おうが、決して負けないで、堂々と進み勝ってください」
 伸一の話が終わると、彼を呼ぶ声が響いた。
 「先生! 私は、今年の八月に父親を亡くし、母親と二人きりになってしまいました……」
 「そうか、大変だな。でも、頑張りなさい! 苦労は必ず生きる。きっと、幸せになるんだよ」
 今度は、撮影台の上の方で、二人の女子部員が手をあげ、同時に「先生!」と叫んだ。
 最上段にいた女性が、名乗った。
 「宗田敏枝と申します」
 すると、そのすぐ前の段にいた女性が言った。
 「私は、宗田睦美です」
 二人は姉妹で、この女性が姉であるという。
 姉の方が、語り始めた。
 「実は、昨年の十月に母を亡くしました。
 父は、以前から、信心に反対で、今では、ある程度、理解は示してくれますが、まだ、入会するには至りません。
 でも、姉弟六人、力を合わせて、必ず、幸福な家庭を築いてまいります。
 また、千佳という高等部の四女の妹が、高等部員会で体験発表をさせていただくことになりました」
10  桂冠(10)
 山本伸一に、家庭の様子を報告する宗田睦美の目には、涙が光っていた。
 その後ろにいる、敏枝の眼も潤んでいた。
 ――宗田家に妙法の灯がともったのは、八年前のことであった。家庭不和と経済苦が入会の理由である。
 家には姉弟が六人おり、上五人が女であり、一番下が男であった。睦美は次女で、敏枝は三女である。
 入会した時には、長女が十六歳で、下の弟は、まだ二歳であった。
 父親は、製鉄所に勤務していたが、妻と六人の子供を養うには、給料は薄給すぎた。
 働いても、働いても、一向に楽にならぬ暮らしに、精根尽き果ててしまったのか、父親は、毎晩のように、酒を飲みに出かけ、給料の大半を使ってしまうようになっていた。
 母親のキクが、「もう少し、お金を入れてください」と言うと、父親は怒り出し、母を殴った。
 顔を腫らし、泣いている母の姿が、子供たちの胸に焼きついていた。
 長女の幸代は、高校に通うようになると、食堂でアルバイトをして、家計を助けた。食堂を選んだのは、賄いつきで、食事の心配をしなくてすんだからだ。
 父の心はすさみ、母の心は暗く凍てつき、家で笑い声を聞くことはなかった。
 ある日、神戸の実家に行った母親が、親戚の人から学会の話を聞いた。
 彼女は思った。
 ″本当に幸福になれるなら、私も信心をしよう!″
 千葉に戻ったキクは、夫に信心をしたいと打ち明け、一緒に学会に入るように勧めたが、はねつけられてしまった。
 やむなく、彼女は、自分だけで信心を始めることにしたのである。
 だが、どこに行けば、入会できるのか、わからなかった。
 そこで、市役所に行って尋ねてみた。
 「あのー、創価学会に入るには、どこへ行ったらよいのでしょうか」
 応対に出た市役所の職員は、面食らったようだ。
 だが、別の職員が「確か、うちの隣の人が創価学会だったから、その家に行ってみてはどうかね」と教えてくれた。
 そこは、三女の敏枝の同級生の家であった。
 その家族から、改めて仏法の話を聞き、キクは、喜び勇んで入会した。一九五七年(昭和三十二年)の三月のことである。
 キクは、勤行し、活動に参加するようになると、日ごとに明るくなっていった。
 泣いてばかりいた母親の大きな変化を見て、次々と子供たちが、信心をするようになったのである。
11  桂冠(11)
 家族が、皆、入会してしまうと、父親は、自分一人だけ、除け者にされているようで、寂しくてしかたなかった。
 父親は、家族の信心に、猛反対するようになった。酒量も増していった。
 しかし、母親のキクは負けなかった。幸福になるには、この信心しかないと、強い確信をもつようになっていたのである。
 彼女は、反対が激しくなると、御本尊を押し入れに隠し、夫が眠ってから御本尊を御安置して、声を押し殺して、必死になって題目を唱えた。
 その御本尊を父親が見つけ、不敬されてしまった時には、母子して、泣きながら唱題した。
 だが、母は、娘たちに、会合の帰り道、こう語るのであった。
 「今、お父さんが、信心に反対しているけど、私たちの信心が本物かどうか、御本尊様が、お父さんの姿を借りて、試してくださっているのよ。
 また、仏法の法理に照らして見ると、過去世で、私たちは、正法を誹謗し、法華経の行者を迫害してきたんでしょうね。
 それで、今世では、私たちがお父さんの反対にあっているのよ。
 でも、反対されるなかで頑張ることによって、私たちは罪障を消滅することができる。これが、変毒為薬(毒を変じて薬と為す)ということなの。
 そう考えると、お父さんに感謝し、大切にしなくてはと、心から思うわ。
 それに、一番、寂しい思いをしているのは、お父さんなんだから。
 お父さんだって、学会のことが本当にわかれば、きっと信心をするようになるわ。そうできるかどうかは、私たちの問題よ」
 母の言葉を聞くと、父を憎むようになっていた娘たちの気持ちは、大きく変わっていった。
 一方、父親は、さらにわずかな額の金しか、家に入れなくなった。
 しかし、娘たちは、力を合わせ、アルバイトに精を出し、皆で家計を支えた。
 入会して、三、四年は、母子の食事は、毎日、ウドンだけだった。
 アサリの採れる季節になると、近くの浜で、アサリを採り、それをウドンに入れて食べた。
 生活は貧しかったが、母も子も、明るく、朗らかであった。
 何よりも、未来への希望に輝いていた。
 そして、少しずつではあるが、父親の、信心への反対が治まり、学会に理解を示すようになっていったのである。
12  桂冠(12)
 入会して五年が過ぎたころ、母親のキクは、婦人部の班担当員となり、長女の幸代、次女の睦美、三女の敏枝は、地区の女子部の責任者となった。
 母子して、広宣流布の尊き使命を担い、法のため、友のために、力の限り奔走したのである。
 そして、入会して七年を迎えた、一九六四年(昭和三十九年)の五月、長女の幸代が女子部の支部の責任者の任命を受けた。
 それを、一番喜んだのは母親のキクであった。貧しいながらも、赤飯を炊き、心から祝ってくれた。
 キクは、目に涙を浮かべながら、娘たちに言った。
 「子供が、広宣流布のリーダーに育ってくれたことが、母さんは何よりも嬉しいのよ。苦労してきた甲斐があった。生きてきた甲斐があったわ。
 あなたたちは、みんな、幸せになるのよ」
 また、念願であった家も新築することになった。
 宗田一家の、長く厳しかった試練の冬は終わり、春が到来するかに見えた。
 しかし、子供たちの心の柱であった最愛の母が、肝臓を病み、十月に急逝してしまったのである。
 姉弟の衝撃は、あまりにも大きかった。しかし、母親の臨終の相のすばらしさが、信心のなんたるかを教えていた。
 息を引き取ると同時に、それまで、顔に出ていた黄ばみは消えて白くなり、頬には、ほんのりと赤みさえ差し、笑みをたたえているかのような、穏やかな顔であった。
 この見事な臨終の相に、父親も、何かを感じたようであった。
 以来、信心のことで、子供たちに文句を言うことはなくなった。
 姉弟は、誓い合った。
 「私たちが、母さんの分まで頑張ろう」
 子供たちは、力を合わせて家庭を守りながら、信心の成長こそが亡き母への最高の親孝行であると決め、広布の庭に乱舞してきた。
 四女の千佳も、高等部の部長となり、姉弟は、健気に、たくましく、育ってきたのである。
 睦美と敏枝は、学会本部で、千葉の地区幹部の記念撮影が行われることを聞くと、″ぜひ、山本先生に、自分たち一家の現況を報告したい″と思った。
 母亡きあとも、姉弟で力を合わせて、頑張っていることを、なんとしても、山本会長に伝え、また、新しい決意で、出発したかったのである。
 そして、二人は、この日をめざし、真剣に唱題に励んできた。
13  桂冠(13)
 山本伸一は、次女の宗田睦美の報告を聞くと、彼女と、その後ろにいる三女の敏枝に、じっと、視線を注いだ。
 「大変だったね。でも、よく頑張ったね。あなたたちの、はつらつとした姿を見て、きっと、お母さんも喜んでいるよ」
 そして、彼は、姉弟の幸福を、強く、強く、祈り念じつつ、こう励ました。
 「これから先も、まだまだ、大変なことがあるだろうが、絶対に負けてはいけない。
 生涯、学会から離れることなく、必ず幸せになりなさい。
 ご家族の皆さんにも、よろしく伝えてください」
 「はい!」
 二人が同時に答えた。
 さらに伸一は、「高等部の妹さんに」と言って、記念の品を渡した。
 束の間の語らいであったが、睦美と敏枝にとって、いや、宗田家の六人の姉弟にとって、彼の言葉は、未来を照らす、心の光彩となったのである。
 年が明けて、一九六六年(昭和四十一年)の一月六日、東京・台東体育館で行われた高等部員会で、四女の千佳は体験発表をした。
 母親の死の悲しみを乗り越え、高等部員の使命を胸に、勉学と唱題に挑戦し、優秀な学業成績を収めたという体験である。
 その体験は、集った高校生に、大きな感動をもたらした。
 この高等部員会に出席した伸一は、彼女の話を聞きながら、″頑張れ! 頑張れ!″と、心で声援を送り続けていた。
 そして、部員会の終了後には、彼女に念珠を届けるように、高等部の担当幹部に託したのである。
 彼は、健気なる、この姉弟を、生涯、見守っていこうと思った。
 宗田家では、この年に長女の幸代が結婚し、翌年には次女の睦美が結婚した。
 また、父親も再婚したのである。
 父の再婚後、しばらくの間、幼稚園に勤めていた三女の敏枝が、妹や弟の面倒をみることになった。
 彼女は、アパートを借りて、二人の妹と弟と一緒に暮らした。
 給料をもらっても、家賃を払い、一カ月分の米を買い、妹たちに学費などを渡すと、敏枝の手には、ほとんど金は残らなかった。
 食事は、毎日、御飯とキャベツ炒めだけだった。
 しかし、姉弟は、「必ず幸せになりなさい」との、山本会長の言葉を支えに、互いに助け合いながら、広布の道を邁進していった。
14  桂冠(14)
 以来、あの記念撮影から三十五年を迎えようとしているが、宗田姉弟は、それぞれ、幸せを噛み締めながら、広布の第一線で活躍している。
 逆境が人を不幸にするのではない。苦難が人を不幸にするのでもない。
 自身に敗れて、荒み、歪んだ心が、人を羨み憎む貧しき心が、人間を不幸にするのだ。
 「負けるな!」「強くあれ!」――山本伸一は、わずかな時間を見つけては、苦悩と戦う同志のなかに分け入り、励ましの言葉をかけ続けた。
 たとえ、出会いは、一瞬であったとしても、友の幸福を願う、強き一念から紡ぎ出された″生命の言葉″は、人間の胸奥に深く響きわたり、その魂を蘇らせる。そして、生涯の飛躍の力となる。
 十一月の二十八日には、正午から、東京・神田三崎町(当時)の日本大学法学部の三号館で、教学部の教授、教授補の試験が行われたが、伸一は、ここにも、激励に駆けつけた。
 この試験は、教授、教授補の資格審査のための試験であり、教授補にとっては教授昇格の第一次試験にもなっていた。
 受験者は、全国の教授百二十一人、教授補千百七十五人であり、試験の時間は三時間である。
 試験問題は、教授も、教授補も、それぞれ十五問のなかから、十問を選んで答えるようになっていた。
 設問は、経文や御書の解釈だけでなく、「科学の限界について論ぜよ」「『五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ』を現代社会にあてはめて説明せよ」など、仏法と社会の事象との関係を考察するものも多かった。
 伸一は、会場に到着すると、各教室を回って、受験者を激励した。
 途中、彼を案内していた役員の青年が、目の不自由な、川瀬泰久という壮年が別室で受験するようになっていると教えてくれた。
 伸一は、その名前に聞き覚えがあった。
 「その方は、五十過ぎの沖縄の方だね」
 「はい、そうです」
 「お会いしたいな……」
 彼は、すぐに、その教室に向かった。
 伸一は、これまでに何度か川瀬と会い、目は不自由でも、教授をめざして教学の研鑽に取り組むように、励ましてきたのである。
 教室には、川瀬の口述した解答を筆記するために、妻が付き添っていた。
 伸一は言った。
 「ご苦労様です! お邪魔していいですか」
15  桂冠(15)
 山本伸一が教室に入っていくと、川瀬泰久は、声から、それが伸一であることを察したのか、「先生!」と言って、イスから立ち上がった。
 そして、伸一の姿を生命に焼きつけでもするかのように、見えない目を、盛んに凝らした。
 その目から、いく筋もの涙があふれた。
 ――川瀬は、網膜色素変性症で、先天性の弱視であった。成人し、年をとるにつれて、彼の視力は、ますます衰えていった。
 その視力の衰えと闘いながら、彼は行政書士の資格を取り、妻の澄の力を借りて、仕事を続けてきたのである。
 一九五七年(昭和三十二年)、川瀬は入会するが、そのころには、新聞の大きな見出しも、よく見えなくなっていた。
 六〇年(同三十五年)七月、山本伸一が初めて沖縄を訪問し、支部が結成された時には、彼は、勇んで地区部長の任命を受けた。
 ″この沖縄を、世界一、平和で幸福な島にしていくのが、俺たちの使命だ!命をかけて戦うぞ!″
 川瀬は、かすかな視力を頼りに、意気盛んに、どこまでも折伏に出かけた。
 離島へも通った。折伏が実るまでは、何日たとうが家に帰らぬ決意で、船に乗るのである。その姿が、同志の闘魂を燃え上がらせていった。
 だが、彼は、視力を、ほとんど失うことになる。
 しかし、一途に信仰に励んできた川瀬には、不思議と、恐れも、狼狽もなかった。既に覚悟してきたことであったからだ。
 川瀬は決意する。
 ″これは、俺の宿命だ。でも、そんなものに、負けないぞ! これからは、心の眼を開くのだ。
 視力を奪われても、俺には、仏法を語り、題目を唱えることができる、立派な口がある。折伏に歩くことができる足もある。
 俺は、命ある限り、広宣流布に生き抜き、皆に勇気を与える存在になろう″
 以来、妻の澄が、彼の目となった。妻に手を引かれ、家庭指導にも、くまなく回った。
 視力がなくなってしまったことは、不自由ではあったが、それまで見えなかったものが、彼には、見えるようになったのである。
 何よりも、人の親切や厚意が、よく見えるようになった。
 妻をはじめ、周囲の人びとへの、感謝の念が増し、それが、歓喜の光を、彼の胸に投げかけていた。
 また、声の響きから、みんなの心の微妙な動きが、わかるようになった。
 鳥や虫の音の美しさも、改めて知った思いがした。
16  桂冠(16)
 川瀬は、学会活動は一生成仏のために、等しく人間に与えられた権利であるととらえていた。だから、目が不自由だからといって、その大事な権利を自ら放棄するようなことは絶対になかった。
 時には、杖を頼りに一人で家庭指導に出かけることもあった。教学の研鑽についても旺盛な求道心を燃やし続けた。御書は毎日、妻の澄に読んでもらい、どの御書が何ページにあるのか、ほとんど頭に入っていた。
 また、地区の人に会えば『大白蓮華』や聖教新聞などを必ず読んでもらった。さらに、家に来る人には、学会員であるなしに関係なく読んでもらうのである。
 川瀬は、全神経を研ぎ澄ますかのように真剣に耳をそばだて、その場ですべてを吸収しようとした。目が見える人ならば、何度でも読み返すことができるが、彼はそれができないだけに必死だった。
 また彼は、教学を研鑽するうえのライバルを、心密かに決めていた。それは、当時、現役の大学生で、初めて教学部の教授になった、ある学生部の幹部であった。
 その存在を機関誌で知ると、彼は″この人に負けないで、自分も早く教授になろう″と、いよいよ懸命に研鑽に励んだ。そして、教授補にまでなったのである。
 川瀬は、今、教学試験の会場に、突然姿を現した山本伸一を前にして、驚きと嬉しさで、何も語ることができなかった。
 伸一は、笑みを浮かべていった。
 「どうぞお座りになってください。遠くからよくおいでにくださいました。本当にご苦労様です。私も応援しますから、必ず教授になってください」
 伸一は、川瀬の手を握った。その手を川瀬は、強く強く握り返した。
 生命と生命の熱い交流の瞬間であった。
 学会には、あの地この地に、金色の輝きを放つ尊き仏子がいる。民衆の大英雄がいる。伸一は、その一人ひとりを心から称え、人間王者の桂冠を捧げたかった。
 この出会いには、川瀬夫妻にとって、新しい飛躍のバネになったようだ。
 川瀬は、山本会長と出会った感激と決意を、後日、歌に詠んでいる。
  師と倶に
    生まれし契り
      三世なる
    広布の旅路
      行くぞたのしき
17  桂冠(17)
 苦しんでいる人を、励ましたい。悲しみに沈んでいる人に、勇気を与えたい。努力の人には、称賛を送りたい――山本伸一の心は、常に、サーチライトのごとく、一人ひとりの同志に注がれていた。
 ″一人の友″を、どこまでも大切にし、同苦し、守らんとすることこそ、御本仏・日蓮大聖人の御精神であり、創価の心である。
 また、そこに、人間主義の原点がある。
 全幹部が、この一念に貫かれている限り、学会は、永遠に大発展を遂げ続けることは間違いない。
 しかし、その一人ひとりを見失い、人間を「数」としか考えなかったり、「役職」や「立場」で人を見る時、社会の多くの組織がそうであるように、学会もまた、冷酷な官僚主義に陥ってしまうことになる。
 そして、「師子身中の虫の師子を食」との御聖訓のごとく、内部から、しかも、中枢から、学会を滅ぼしていくことになろう。
 では、組織が官僚主義化していってしまう根本原因は、どこにあるのか。
 ――それは、幹部が、広宣流布と仏子である会員への「献身」という、本来の組織の目的を忘れて、「保身」に陥ってしまうことにある。つまり、幹部の、「広布中心」から「自分中心」への、一念の揺らぎである。
 この一年、山本伸一が最も心を砕いてきたのは、組織の中核を担っている本部職員に、学会の精神を、彼の心を、いかに伝え、世界一流の人材に育て上げていくかということであった。
 ″人は石垣″であり、″人は城″である。ゆえに学会は、人材城をもって立つ――というのが、戸田城聖の教えである。
 当時、会員数の激増にともなって、学会本部をはじめ、地方本部の事務機構も整備しなければならないことから、本部職員の数は急速に増えつつあった。
 たとえば、伸一が会長に就任した一九六〇年(昭和三十五年)には、本部職員は百三十人であったが、この六五年(同四十年)の初めには、全国で千百人を超えていた。
 さらに、七月の聖教新聞の日刊化にともない、その後も、職員の数は増え続けていたのである。
 また、本部職員には、次代を担う、新しい人材を採用しているために、平均年齢も若かった。事務総局が二十九歳、編集総局、出版総局が、ともに二十七歳という若さである。
 若さには、無限の可能性がある。
 しかし、磨き、鍛えなければ、いかに優れた原石も、光り輝くことはない。
18  桂冠(18)
 山本伸一は、職員一人ひとりを磨き抜くために、あらゆる努力を重ねてきた。
 さまざまな機会に、皆と対話し、それぞれの職員の性格から家庭の状況まで、よく知るように努め、少しでも時間があれば、質問や意見を聞くようにした。
 質問が出ない時には、伸一の方から質問した。その内容は、教学に始まり、文学や哲学、国際情勢の分析や核問題など、多岐にわたっていた。
 だから、職員たちは、常に問題意識をもつように心がけねばならなかったし、あらゆることに関心をもち、何を聞かれても答えられるように、勉強しなければならなかった。
 さらに、彼は、読書の習慣を身につけるように、訴え続けていた。
 職員と会うと、彼は、よく、最近は、なんの本を読んだかを尋ね、その感想を聞くのであった。
 また、以前から、仕事で実績を上げたり、機関紙誌に優れた原稿を書いた職員には、「金賞」や「銀賞」などの賞を出してきたが、皆の励みになるように、こうしたことにも、さらに力を注いだ。
 したがって、伸一は聖教新聞や『大白蓮華』をはじめ、学会のすべての出版物に、細かく目を通さなければならなかった。
 だが、そんなことは、伸一には、全く苦にはならなかった。
 むしろ、彼は、人材を見つけ出す喜びに胸を躍らせながら、丹念に、機関紙誌に目を通していった。
 また、職員が、日々、生き生きと、力強く仕事に取り組めるよう、事務局の黒板に、折々に、指標を書き記してきた。
 「リズムある毎日を」
 「今日のことは、今日やろう」
 「自信を持って、事に処せ」
 「冷静なる判断、敏速なる処置」
 「学会精神に立ち戻れ」
 「題目第一、仕事第一、折伏第一」
 「仕事を義務と思うな、権利と思え」
 「良い工夫を、良き仕事を」
 「朝は元気で、一日の出発なれば」
 だが、何よりも伸一が心がけてきたのは、彼自身の行動を通して、すべての本部職員に、広宣流布に生き抜き、会員を守り、奉仕する精神を、伝えることであった。
 それこそが、官僚主義、組織主義の対極にあるものだからだ。
19  桂冠(19)
 十一月下旬のある日のことであった。
 山本伸一は、本部一階の事務局の机に向かい、山と積まれた書籍や色紙に、友への励ましのための揮毫をしていた。
 筆に墨をつけるために顔を上げると、ロビーに立っている一人の婦人の姿が見えた。学会員のようである。
 彼が、二、三分してロビーを見ると、その婦人は、まだ待っていた。
 伸一は筆を置き、席を立ってロビーに向かった。
 「お待たせして、すいません。どなたにご用事でしょうか」
 「まあ、山本先生……」
 婦人は、頬を紅潮させて、自分が本部に来た理由を、伸一に語り始めた。
 ――彼女は、班担当員をしており、組織の人間関係の問題で行き詰まってしまい、職員である所属組織の幹部に、指導を受けたいと電話をすると、本部に訪ねて来るように言われた。
 そこで、指定された時間に来たのだが、その職員は席を外しており、ここで待たせてもらっているというのである。
 伸一は、いつまでも待たせては申し訳ないと思い、自分が、代わって相談にのることにした。
 彼は、親身になって婦人の話に耳を傾け、真心を込めて励まし、指導した。
 さらに、書籍に激励の一文と彼女の名前を揮毫して、記念に贈った。
 その時、この婦人と会うことになっていた職員が、外出先から帰ってきた。約束の時間より、一時間近くも遅れていた。
 彼は、伸一の姿を目にすると、顔色を変えて、「先生、誠に申し訳ございません」と言って、深々と頭を下げた。
 「謝るのは、私にではなく、長い時間、お待たせしてしまった、この方に対してだよ」
 「はい。大変に遅くなりまして、すいません」
 職員が言うと、婦人は笑顔で答えた。
 「いいえ。とんでもございません。お忙しいのに、無理なお願いをいたしまして、私の方こそ、申し訳ございません。
 それに、今日は、こうして山本先生にご指導をお受けすることができ、生涯の記念の日となりました。まるで夢のようです。
 『本部に来なさい』と言っていただかなければ、先生にお目にかかることもなかったと思います。
 本当にありがとうございました」
 婦人は満面に笑みをたたえ、喜んで帰って行った。
20  桂冠(20)
 山本伸一は、事務局に戻ると、その職員に尋ねた。
 「君は、なんで遅れたんだい」
 「はい。業者との打ち合わせが、予定より長引いてしまいまして……」
 「そういう時は、当然、途中で電話を入れ、遅れる旨、誰かに、伝言を頼むべきではないか」
 それは、ささいな問題であるかもしれない。しかし、そこに、官僚主義の萌芽があるがゆえに、伸一は、見逃すわけにはいかなかった。むしろ、小さな芽のうちに、摘んでおかなければならないと思った。
 彼は言った。
 「もし、君が約束していた人が、学会と取引のある、大会社の社長だとしたら、連絡もせずに、一時間近くも遅れるようなことをしたかい」
 「いいえ、していないと思います」
 「そうだろう。それは、君の心のどこかに、″相手は学会員なんだから、遅れてもいいだろう″という、安易な考えがあるということではないか。
 また、裏返せば、″自分は幹部なんだから、遅れても許される″という、傲慢さがあるということだ。
 それ自体、民衆を睥睨する姿であり、既に官僚主義に毒されている証拠ではないか。
 幹部は、なかでも本部職員は、会員を守り、奉仕するためにいる。
 それなのに、学会の幹部ということで、同志が信頼し、尊敬してくれるのをいいことに、自分が偉くなったように錯覚し、傲慢になってしまう。
 こんなに恐ろしいことはありません」
 それから、伸一は、皆に向かって言った。
 「こうしたことは、彼だけの問題ではありません。
 たとえば、受付が来客を知らせてきた時に、電話を受けた者が、ただ『いません』と言ってすませてしまうのも問題です。
 その職員は、どこへ行き、いつ帰って来るのかなどを把握して、それを、伝えるべきです。
 場合によっては、自分が代わりに会って、用件を聞くなど、相手が納得できるようにすべきです。
 また、最近は、自分の席以外の電話には、なかなか出ようとせず、出ても、冷たい、つっけんどんな対応をする者がいる。
 これは、直接、自分が関係し、責任が問われることでなければ、できる限り避けようとする、利己主義で怠惰な姿です。
 職員は、常に全体観に立つことだ」
21  桂冠(21)
 山本伸一の言葉は、鋭さを増していった。
 「電話の応対一つとっても、そうしたことがあれば、会員は学会本部に失望し、不信をいだくようになってしまう。
 外部の人ならば、学会はひどいところだという印象をもち、批判的になり、学会の敵のようになってしまうかもしれない。
 一つ一つは小さなことだが、その積み重ねが、学会という、堅固な信頼の城を崩していくことになる。
 だから、小事が大事なんです。大問題、大事故も、みんな小さなことから始まっている。
 先日、マイアミ沖で起こった、観光船の大火災も、小さな失敗が積み重なり、大惨事になっているではないか」
 この大火災とは、十一月十三日に起こった、パナマ船籍の観光船「ヤーマス・キャッスル号」(五、〇〇二トン)の火災のことであり、約九十人の尊い人命が失われたのである。
 同船は、前日の十二日午後五時、五百五十二人を乗せて、アメリカのフロリダ州のマイアミから、バハマのナッソーへ向かって出発した。約十二時間の夜間航路である。
 火災の原因や経過は、後にまとめられた、米国沿岸警備隊の調査報告等によれば、次のようになる。
 ――「ヤーマス・キャッスル号」は、建造されてから三十八年ほどもたち、木造部分が多く、防火対策も十分ではなかった。
 また、航海スケジュールにも遅れがみられるなど、老朽化の兆候も出始めていた。
 船に火の手が上がったのは、十三日の午前零時五分ごろ、メーンデッキの物置からであった。原因は、今なお、不明である。
 トイレを改造した、この部屋には、使えなくなった調度品など、燃えやすい物が詰め込まれており、スプリンクラー(自動散水装置)は設置されていなかった。
 出火から二十五分が過ぎた午前零時三十分、乗組員が船内を点検に回った。
 ところが、これが、かたちばかりの点検であり、丹念に部屋を調べようとはしなかった。
 もし、一部屋ずつ細かくチェックしていたならば、当然、この時に、火災は、発見されたはずである。
 午前一時十分、ようやく船の司令室の航海士に、火災の報告が入った。
 だが、発生から一時間以上が過ぎており、発見された時には、既に、消し止めることはできぬほど、火勢は強くなっていた。
22  桂冠(22)
 乗組員は、消火作業にあたったが、消火ポンプの水も十分に出なかった。
 火は、瞬く間に燃え広がり、もはや、なす術はなかった。
 船全体が、炎と煙に包まれ、逃げ惑う乗客たちの悲鳴が響いた。
 日ごろの点検が不十分であったために、部屋の窓が開かず、脱出できずに、命を失った人もいた。
 乗客は、まだ火の手が回っていない、後部の甲板部分にあった救命ボートに殺到した。
 その時、人びとは、信じがたい光景を目にした。船長や航海士たちが、救命ボートを使って、われ先に脱出してしまったのである。
 後に、この船長は、世論の激しい非難を浴びることになる。
 しかし、その一方で、船長たちが、責任を放棄して逃げ出したあとも、船にとどまって、乗客の救出にあたった乗組員もいた。
 たとえば、テリー・ワイズという、簿記・会計担当の二十三歳の青年は、わが身の危険も顧みず、救出作業にあたった。
 彼は、船の窓から抜け出そうとしている人びとを、甲板に引き上げ、また救命具を持たずに、海に飛び込んだ人のために、海のなかへ、マットレスやイスなどを投げ込んでいった。
 さらに火の手が迫ると、一緒に救援作業にあたっていた空軍士官に自分の救命具を与え、海に飛び込めと促した。
 そして、足を骨折して、意識を失いかけた婦人を励まし、助け出すなど、最後の最後まで、逃げ遅れた人の救出にあたった。
 彼は、こうして約三十人もの、尊い人命を救ったのである。
 また、近くにいたフィンランド船や、約二十キロメートル後方を航海していた客船「バハマ・スター号」も、救援に駆けつけたのである。
 なかでも「バハマ・スター号」は、燃え盛る船の、わずか百メートルにまで近づき、ブラウン船長の陣頭指揮で、乗客の救出にあたった。
 しかし、出火から六時間後の午前六時五分、「ヤーマス・キャッスル号」は、遂に沈没したのである。
 この火災については、日本の新聞各紙にも、大きく報じられ、アメリカのメンバーからも、山本伸一のもとに、詳細な報告が寄せられていた。
 伸一は、この事故を、他人事とは考えなかった。自分たちの身にあてはめて、大事な教訓としてとらえていたのである。
23  桂冠(23)
 山本伸一は、厳しい口調で語っていった。
 「大きな事故が起こる前には、必ず、なんらかの予兆となる現象がある。来客を平気で待たせるような風潮ができつつあることも、その一つです。また、以前は遅刻する者など皆無であったが、最近は遅刻者も出ている。こうしたことも、大問題が生ずる予兆といえる。その兆しを見逃してしまい、迅速に改めるべきを改めておかなければ、将来に、大きな禍根を残すことになる。だから、私は、口うるさいようだが、厳しく言うんです。
 また、『ヤーマス・キャッスル号』の場合、船内の点検で、火災の発生を発見できるはずなのに、それができなかった。これは、本来、当然やるべきチェックを怠ったからです。要するに、手抜きです。そこには、″少しぐらいは、手を抜いても大丈夫だろう″という油断と惰性がある。乗組員の、ほんの少しの油断と惰性が、取り返しのつかない、大惨事につながっていった。
 では、そういう油断や惰性、怠惰は、どこから生じるのか。それは、責任感の欠如からです。
 ゆえに、広宣流布を推進しゆく使命を担った本部職員は、自分に与えられた仕事だけをこなせばよいという、雇われ人の根性であっては絶対にならない。ともかく、職員は、自分が、全学会の責任を担うのだという、私と同じ自覚、同じ決意に立ってもらいたい。全員が、私の代理であると思いなさい。そして、学会を、職場を死守していくんです」
 伸一は、広宣流布を願うがゆえに、学会を思うがゆえに、本部職員には厳しかった。だが、彼は、誰よりも、自分自身に対して、最も厳格であった。だから、いかに厳しくとも、皆が彼を信頼し、付き従ってきたのである。
 人間の育成とは、口先だけでできるものではない。ともに行動し、自らが範を示してこそ、初めてなされるものだ。
 彼は、毎朝、本部に到着すると、職員一人ひとりの顔色を注意深く見た。疲労がたまったり、生活のリズムを崩して、体調を壊してはいないかを、気遣っていたのである。
 また、職員の両親をはじめ、家族のことにも心を配り、時には、父親の就職の世話をすることもあった。
 皆が、何も心配せずに、自在に力を発揮できるように、伸一は、学会本部を、あらゆる面で最高の職場にしようと、心に決めていたのである。
24  桂冠(24)
 暮れも押し詰まったある日、山本伸一は、学会本部と聖教新聞社の各部署を、くまなく点検して歩いた。新聞社の地下のボイラー室も見て回った。そこでは、煤で汚れた作業着を身にまとって、一人の男性職員が、黙々と清掃に励んでいた。
 「いつも、ご苦労様!」伸一が声をかけると、彼は、驚いて振り向いた。
 「山本先生!」その職員は、首にかけていた手ぬぐいを取り、改まった口調で言った。
 「この一年間、大変にありがとうございました。先生のもとで、悔いのない、有意義な、勝利の一年にすることができました。来年も、新たな決意で頑張りますので、よろしくお願い申し上げます」
 その顔は、明るく、はつらつとしていた。周囲も、よく整理整頓されている。目立たぬ、地味な仕事である。しかし、彼は、誇りと責任をもって、自分の仕事に取り組んでいるにちがいない。伸一は、彼に王者の桂冠を捧げる思いで、深く頭を下げ、丁重に礼を言った。
 ひとことに本部職員といっても、脚光を浴びる、華やかな部署で働く人もいれば、目立たぬ職場で、陰で本部を支える人もいる。人は、日の当たる場所にいて、期待され、称賛されている時には、はりきりもする。
 だが、その部署や立場を外れた時に、どこまで真剣に、意欲的に、仕事に取り組んでいけるかである。また、華やかさもない、苦労の多い職場や、自分の希望と異なる部署に配属された時に、頑張り抜けるかどうかである。
 実は、その時こそ、人間としての、さらには、仏法者としての真価が問われているのだ。
 それは、かつて、伸一自身が、心の底から感じてきたことであった。
 彼は、一九四九年(昭和二十四年)の一月、少年雑誌の編集者として、戸田城聖の経営する日本正学館に勤務した。
 しかし、戸田の事業は行き詰まり、一年足らずで、戸田が専務理事となって始めた東光建設信用組合の、外交の仕事に替わらなければならなかった。
 だが、ほどなく、この信用組合も苦境に陥り、倒産のやむなきに至る。そして、戸田が顧問となって設立された大東商工でも、伸一は営業を担当することになるのである。金融の営業は、文学青年であった彼が、最も苦手とする仕事であった。
25  桂冠(25)
 山本伸一は、戸田城聖の会社に勤めることになった時から、自分の人生は、広宣流布に捧げゆくことを決意していた。そして、その具体的な実践の道は、不世出の広布の指導者である戸田を師と定め、弟子として仕え、守り抜くことにあると、彼は結論していたのである。
 だから、伸一は、給料の遅配が続いた時も、微動だにしなかったし、いかなる仕事も、喜び勇んで引き受けてきた。それが、学会を守り、広宣流布を進めていくことになるからだ。
 大東商工で、最も不得手な営業の仕事をするようになった時も、そこを人間修行の場と決め、最高の仕事をしようと心に誓った。そして、社員の模範となる見事な実績を残し、会社を大きく発展させてきた。
 一方、戸田のもとで働いていた社員たちの多くは、事態の急変に狼狽し、結局は、戸田を憎み、罵りながら、退職していった。彼らは、日ごろは、口を開けば、「戸田先生のために」「広布のために」と語り、人にも、そう指導してきた者たちである。
 戸田は、彼らを、引き止めようとはしなかった。ただ「やっと、本性を現したな」と、鋭い眼を光らせ、伸一に言うのであった。いつの時代も、自分中心で、名聞名利の者は、厳しい環境に置かれると、すぐにその馬脚を現すものだ。落胆し、不貞腐れ、愚痴と文句を並べ立てて……。「冥の照覧」を、仏法の因果の理法を、信じられないゆえの弱さである。
 伸一は思った。″本部職員とは、広宣流布に生き抜くことを至上の目的とし、自ら献身を志願した、勇者の集いであるはずだ。いかに、時代は変わろうが、その原点だけは、絶対に忘れてはならない。
 この精神が、全職員に脈動していけば、学会は、官僚主義や組織主義に毒されることなく、麗しき人間主義の組織として、永劫に栄えゆくであろう″
 伸一は、最後に、聖教新聞社の屋上に足を運んだ。途中で出会った数人の職員にも、一緒に屋上に上がろうと、声をかけた。師走の風が肌を刺した。「ほら、見てごらん」
 伸一の指さす彼方には、威風堂々、胸を張り、万人を包み込むかのように、大きく腕を広げ、紅に燃える富士の姿があった。「みんな、あの富士のように、何があっても微動だにしない、″信念の人″に、会員の″希望″の存在になっていくんだよ」頷く職員の顔も、紅に光っていた。
26  桂冠(26)
  黎明は
  少年の心だ
  若人の希望だ
  やがて 地平線のかなた
  夜明けの空に
  一条の閃光が走る
  最高の芸術
  名画を描いて
  太陽は昇る
  まんまるく
  真っ赤に
  堂々たる威風
  歓喜と情熱にもえ
  大空に躍り出る
  黎明の太陽
  雨の日も
  風の日も
  そんなことには 頓着しない
  揺がない大宇宙のリズム
  暁暗を突いて
  必ず 太陽は昇る
  まばゆい光は
  人びとに
    勇気と力をあたえ
  世界の果てまで
  平等に救いゆく
  最高の誇りと使命に
  太陽は輝く
  …………
 一九六六年(昭和四十一年)「黎明の年」の開幕にあたり、山本伸一は、潮出版社が発刊した少年少女向けの月刊雑誌『希望の友』の新年号に、「伸一郎」のペンネームで、「黎明」と題する、この詩を発表した。
 彼は、太陽の光が、「人びとに勇気と力をあたえ 世界の果てまで 平等に救いゆく」とうたったように、全世界に、幸福の光を、平和の光を、命の限り、送ろうと決意していた。
 そして、一月の十四日には、早くも、ハワイに出発したのである。
 学会が、最初に「黎明の年」をモットーに掲げたのは、戸田城聖が逝去した翌年の、五九年(同三十四年)であった。
 まだ、同志の悲しみの癒えぬなかに迎える、この新しき年を、「黎明の年」にしようと提案したのは、当時、総務として、実質的に学会の指揮をとっていた伸一であった。
 師亡きあと、弟子が立ち上がり、弟子が戦い、新しき勝利の夜明けを開かんとの決意を込めて、名づけたのである。
 黎明とは出発である。そこから、新しき旭日のドラマが始まる。
 黎明とは希望である。ひとたび、闇を破って太陽が昇れば、海も、山も、大地も、人も、すべては金色に染まる。まさに黎明は、未来の無限の可能性を象徴しているといってよい。
 伸一は、今、再び迎えた「黎明の年」を、世界広布の新しき黎明を告げる年にしようと、固く心に誓っていたのであった。
27  桂冠(27)
 山本伸一の今回のハワイ訪問の最大の目的は、ハワイ会館の開館式に出席することであった。
 ハワイ会館は、前年の八月、伸一がアメリカ、メキシコ訪問の帰途、ハワイに立ち寄った折に設置が決まったもので、海外で五番目の会館となる。
 この会館は、ホノルル市中央の丘陵地帯にあり、敷地面積は約三千五百平方メートルで、建物は白い瀟洒な木造二階建てであった。
 伸一は、会館の設置が決まると、オープンの準備と青年の育成のために、男子部の幹部で理事の三根忠義をハワイに派遣した。
 三根は、前年の九月末に、ハワイに渡った。彼がそこで目にしたものは、ハワイの同志の広宣流布へのひたぶるな情熱と、あふれる求道心であった。なかでも、「パイナップル部隊」を自称する男子部員の気迫に、三根は舌を巻いた。
 彼らの決めた合言葉は、「ゴー・フォー・ブローク!」(全力を尽くせ!)である。これは、第二次世界大戦中、アメリカ本土とハワイの日系人の志願兵で構成された、米軍の四四二部隊のスローガンであった。この部隊は、勇猛果敢をもって知られ、最も多くの武勲をあげている。
 ハワイの男子部は、このスローガンを平和建設のための活動の合言葉として使い、広宣流布に邁進してきたのである。彼らは、あえて、アロハシャツではなく、白い半袖のシャツにネクタイを締めるように申し合わせ、さっそうと布教に、友の激励に奔走してきた。
 この″制服″は、″自分たちはハワイの行楽ムードに浸ることなく、広宣流布の闘士として戦い抜こう″という、決意の象徴であった。
 メンバーは、ともかくよく動いた。会合があれば、手際よく運営にあたり、車の整理をするのも彼らであった。
 地区のなかで、信心を始める人がいると聞けば、勤行指導も、積極的に買って出た。毎日、家に通うなどして、新入会の友が、正しい発音で、きちんと勤行できるようになるまで、一緒に勤行するのである。
 壮年や婦人たちは、「彼らが座談会に来ると、司会から学会歌の指揮、体験発表など、なんでもやってしまうので、自分たちの仕事がなくなってしまう」と、嬉しそうに苦情を言うのであった。皆、彼らの姿を見ると安心し、希望を感じ、元気づけられるのである。
28  桂冠(28)
 三根忠義は、ハワイ会館に宿泊し、開館式の準備にあたっていたが、会合が終わると、男子部員がやって来て、質問会が始まるのである。
 「東京の男子部は、どんな活動をしているのか」
 「五老僧は、なぜ、退転してしまったのか」
 「依正不二とは、どういうことか」
 質問は、活動上の問題や教学など多岐にわたった。通訳を介してのやりとりとなることもあって、深夜になっても終わらなかった。会館の整備、清掃は、メンバー全員があたった。既存の家を購入したことから、内装を替え、外壁のペンキも塗り直さなければならなかった。しかし、皆、喜々として作業に取り組んでいった。
 特に、前年の十一月、山本会長が、年明けの一月半ばに、ハワイを訪問することが伝えられると、メンバーの作業には、一段と力がこもった。
 会館の庭には、バナナ、グアバ、パパイア、ココナツなど、ハワイにできる、ほとんどの果実の木が生い茂り、美しい緑の芝生が広がっていた。ハワイを象徴するかのような、この会館が、メンバーは誇らしかった。ハワイ中の人びとに、「これが私たちの会館です」と言って胸を張りたかった。そして、隅々まで手を入れた状態で、山本会長を迎えようと思った。
 山本伸一は、ハワイ訪問について協議した際に、こう提案した。
 「今回は、各部の代表も百人ほど、一緒に行くようにしてはどうだろうか。指導者として、世界を知っておくことは大事であるし、広宣流布の未来のためにも、海外交流の流れを開きたいんだよ」
 この提案を受けて、本部として検討を重ね、各部の代表百二十余人と僧侶ら十数人が、交流団としてハワイを訪問することになったのである。
 十三日午後十時、交流団の第一陣として、副理事長の泉田弘を団長とする約百三十人が羽田を出発し、現地時間の十三日午前九時過ぎ、ホノルルに到着した。空港では、現地のメンバー数十人が出迎えたほか、地元紙の記者とカメラマンが待機していた。
 泉田がロビーに姿を現すと、記者たちのインタビューが始まった。一行の訪問の目的や学会の歴史、学会と公明党の関係などについて、矢継ぎ早に質問が飛び出した。ハワイでも、マスコミは、学会に強い関心を寄せているようであった。
29  桂冠(29)
 十三日の午後五時過ぎからは、ホノルル市内の小学校を借りて″出張御授戒″が行われ、二百六十四人の新メンバーが、御授戒を受けた。
 引き続き、夜には、十七会場に分かれて、交流座談会がもたれたのである。
 約五年前に、山本伸一が初めてハワイを訪問した折の座談会に集ったのは、三十人余りのメンバーにすぎなかった。それが今、十七会場で一斉に座談会が開かれ、各会場とも、何十人もの人が詰めかけているのだ。
 また、初訪問の折に地区が結成されたが、現在ではハワイ総支部となり、二支部二十地区の陣容に発展したのである。
 歓喜に燃えて、座談会が行われていたころ、第二陣として、伸一が、理事長の十条潔らとともに、ホノルルの空港に到着した。
 そして、現地時間の翌十四日午前十時半過ぎから、盛大に開館式が挙行されたのである。
 この日は、朝から、抜けるような青空であった。澄んだ空、青い海、鮮やかな木々の緑――。ハワイ会館のオープンを祝福するかのように、陽光に照らされ、すべてが美しく輝いていた。
 「大変におめでとうございます!」
 こう言って、伸一が姿を現すと、会場を埋めたメンバーの顔に歓喜の笑顔が光り、大きな拍手がわき起こった。すぐに勤行が始まった。参加者のなかには、日本語のわからないメンバーも多かったが、勤行の声は、見事に唱和し、軽やかに弾んでいた。
 読経・唱題のあと、ハワイに派遣され、開館式の準備にあたってきた三根忠義が、会館の購入から、現在に至るまでの経過を報告した。次いで、アメリカ本部長の正木永安、女子部の企画部長の藤矢弓枝があいさつに立った。
 藤矢は、感極まった顔で語り始めた。
 「山本先生は、日本からハワイに向かわれる飛行機のなかでも、ハワイの女子部のことを心配されていたと、同行の方からお伺いいたしました。そして、太平洋上で、私たち女子部のために、和歌をつくってくださいましたので、発表させていただきます。
  妙法の
    空に舞いゆく
      乙女等は
    強く気高く
      幸をいだきて
30  桂冠(30)
 ハワイには、このころ、約一千世帯のメンバーがいたが、女子部員は六、七十人にすぎなかった。
 人数が少ないこともあってか、活発さに欠け、いつも寂しそうであった。
 山本伸一は、その様子を耳にし、なんとしても女子部を元気づけ、希望を与えたいと、機中、和歌を詠んだのである。
 伸一の和歌を紹介した藤矢弓枝は、こう訴えた。
 「ハワイの女子部は、先生から勇気をいただきました。少数ではありますが、今日からは、一人ひとりが大輪の花のように輝いていきたいと思います。
 花は、人びとに希望を与え、安らぎを与えます。花あるところに、人は集ってまいります。
 私たちが″創価の花″として、魅力ある女性に成長していってこそ、多くの若い女性を引きつけ、触発をもたらすことができます。
 さて、花が美しく咲いているのは、大地に根を張って、養分を吸い上げ続けているからです。
 人間にも、成長のための養分が必要です。それが、生き方の根幹となる哲学であり、信心です。
 表面的な華やかさや、刹那的な喜びに目を奪われて、自身を向上させることを忘れ、根無し草のような生き方になってしまえば、自分を輝かせていくことも、本当の幸福をつかむこともできません。
 私たち女子部は、信心の大地に、深く、強く、しっかりと根を張って、希望の大輪を、幸福の大輪を、見事に咲かせてまいろうではありませんか」
 副理事長、理事長のあいさつが続いて、いよいよ山本伸一の話である。
 彼は、まず、ハワイに会館を建設した意義から語り始めた。
 「今、世界は、あのベトナム戦争に代表されるように、暗いニュースにあふれております。
 このハワイは、五年余り前に、世界広宣流布の第一歩を印した、思い出の地であります。
 その地に、平和の法城である会館ができたということは、仏法の因果倶時の原理のうえから、世界の平和に向かい、一歩、また一歩と、新たな歩みが始まるものと確信いたします。
 国家、民族、イデオロギーを超越して、人間と人間の心を結び、世界の平和を築いていく哲学が仏法であり、そこに、私たちの使命もあります。
 いや、仏法の叡智なくして、世界の平和はありえません」
31  桂冠(31)
 庭の木々が、常夏の太陽を浴びながら、風に揺れていた。
 山本伸一は話を続けた。
 「私の願いは、ハワイの皆様が信心強盛になり、物心ともに幸せになっていただくことであります。
 どうか、皆様は、その先駆けとなり、彼方に幸福を求めるのではなく、この地で、ハワイの友のために、献身していただきたい。
 そして、口笛を吹きながら、楽しく歌を歌いながら、幸福を満喫して、仏法の正しさ、すばらしさを証明していっていただきたいのであります。
 信心の世界は、何か特別な世界でもなければ、堅苦しい世界でもありません。
 ただし、絶対に忘れてはならないのは、何があっても御本尊を抱き締め、絶対に学会から離れないということです。
 皆様は、これまで、信心をして、数多くの功徳を受けてこられたでありましょうが、御本尊の功徳は無量無辺です。
 さらに、たくさんの功徳を受け、御本尊の力がどれほどすごいものであるかを、もっと実感し、強い確信をもっていただきたい。
 それには、信心の体験を積むことです。勇気ある実践です。体験が確信を培い、信心を不動のものとしていきます。
 ところで、懸命に活動に励んでも、布教が実らないこともあるかもしれない。だからといって、悶々としたり、卑下する必要はありません。
 広宣流布を願い、真面目に活動に励んでいる人には、御本尊の大慈悲の光が、等しく注がれます。
 ともかく皆様は、誰とでも仲良くし、皆から慕われながら、明るく、楽しい前進を開始していってください。そこから、広宣流布の広がりが生まれます。
 私は、皆様方に、いつも題目を送っておりますし、これからも、送り続けてまいりますから、しっかりと受け止めてください。
 また、元気でお会いしましょう」
 皆、自分たちの幸せを願う、伸一の温かい心に触れた思いがした。
 参加者は、目に涙を浮かべ、頷きながら、伸一の指導に大拍手で応えた。
 開館式は、「世界広布の歌」の歓喜の大合唱で幕を閉じた。
 引き続き、ハワイ総支部の新人事を、理事長の十条潔が発表した。
 これまで総支部長をしてきたミツル・カワカミが総支部顧問となり、新総支部長には、ホノルル支部の支部長として活躍してきたヒロト・ヒラタが就任したのである。
32  桂冠(32)
 さらに、ハワイ総支部に、ワイキキとオアフの二支部の結成が発表された。
 これで、ハワイは、一総支部四支部の布陣で、スタートすることになったのである。
 また、新たに女子部の部長も誕生した。部長に就任したのは、ヨシエ・ハラダという女性で、山本伸一が最初にハワイを訪問した折に、空港でただ一人、彼を迎えてくれた、トニー・ハラダの妻である。
 彼女は、高校生の時に、母親とともに入会した。
 大学は英文科に進み、卒業後は、教職に就いたが、女子部として学会活動に励むなかで、海外に雄飛し、世界広布のために生きたいとの、強い思いをいだくようになっていった。
 そのころ、女子部の幹部から、ハワイのトニー・ハラダとの結婚を勧められたのである。
 一九六五年(昭和四十年)の五月、彼女は、日本に来たハラダと会った。
 そして、二人は結婚し、ハワイに渡ったのである。
 人事発表に続いて、支部旗の返還授与があり、再び、伸一は指導に立った。
 ここで、彼は、ハワイにも寺院を建立することなど、次々と未来構想を発表していった。
 常に、希望あふれる、新しき目標を示しゆくこともまた、大事な指導者の責任といえよう。
 このあと、会館の庭で、参加者全員が山本伸一と一緒に、記念の写真に納まることになっていた。
 撮影は、五グループに分かれて行われた。
 日系人もいれば、アフリカ系の人も、ハワイアンもいる。まさに、人種の坩堝といわれるハワイである。
 しかし、肌の色は違っていても、どの顔にも、弾ける笑顔があった。
 山本伸一のハワイ滞在は三泊四日である。
 彼は、その間に、ハワイの大飛躍の布石を打とうと、必死であった。
 撮影が終わるたびに、友の輪のなかに入り、一人ひとりに声をかけ、握手を交わし、念珠など、記念の品を手渡していった。
 老婦人には、「長生きをして、二十一世紀まで生き抜いてください」と語りかけ、子供には、「大きくなったら、日本にいらっしゃい。創価大学で待っています」と励ましていった。
 一瞬一瞬が真剣勝負であり、全魂を傾けての激励・指導であった。
 撮影した写真は、皆にとって、記念に残る″大切な宝″になることから、背広を着て臨んだ伸一の体は、びっしょりと汗をかいていた。
33  桂冠(33)
 いっさいの行事が終わると、山本伸一は、開館式の記念として同志に贈るために、書籍や色紙に、激励の言葉を認めていった。
 伸一がハワイに到着して以来、役員として、同志のために献身する彼の激闘を目の当たりにしてきたのが、あの「パイナップル部隊」の青年たちであった。
 彼らは、その姿に大きな感動を覚え、山本会長とともに、生涯、広宣流布に生き抜こうと、誓いを新たにするのであった。
 ――この日の深夜のことである。交流団に同行してきた聖教新聞の記者二人が、本社に原稿を電話で送るために、ハワイ会館にやって来た。
 記者は、会館で休んでいる山本会長が、物音で目を覚ましてはいけないと、正面からは入らず、忍び足で建物の裏口に向かった。
 その時、黒い影が、脱兎のごとく飛び出して来た。長身の人影である。
 記者が叫んだ。
 「誰だ!」
 同時に、その人影も、英語で叫んだ。
 「フー・イズ・ゼア!」(誰だ!)
 月明かりに照らされた影の正体は、ハワイの男子部の幹部であり、その後ろにも、もう一人、青年が立っていた。
 彼らには、不審者は、一歩たりとも近づけまいとする、気迫があふれていた。
 相手が聖教の記者であることがわかると、ホッとした顔で、彼らの一人が英語で語った。
 「私たちは、山本先生の安全を守るために、警備をしています。あなたたちを″不審人物″と間違えてしまい、失礼いたしました」
 彼らは、誰に言われたわけでもなく、夜通し、警備をしようと決め、交代で、会館の車庫のなかにいたのである。
 記者たちの驚きは大きかった。そこには、人生の「師」を求め、仕え、守ろうとする「弟子」の姿があったからだ。
 「師」と「弟子」という関係は、文化的な風土や伝統から見て、日本人でなければ理解できないのではないかと、記者たちは考えていた。
 だが、それは、自分たちの思い上がりにすぎなかったことを、彼らは痛感したのであった。
 いかなる道であれ、それを深めようとする時、教えを受け、指標とし、模範となる人の存在は不可欠である。それが「師」である。
 そして、その「師」に応えんとする時、そこに、おのずから「弟子」の道が生まれる。まさに、それは、求道に生きる人間の、必然的な帰結といえよう。
34  桂冠(34)
 ハワイの青年たちの願いは、山本会長に、直接、指導を受けることであった。
 しかし、″奮闘し抜いている山本先生は、さぞかしお疲れだろう″と思うと、そんな要請を口にすることはできなかった。
 だが、それでも、その思いは、ますます強くなっていった。彼らは思い悩んだ末に、日本から来ていた幹部に相談した。
 「題目だよ。どうしてよいのかわからないなら、御本尊に、ひたぶるに祈ることだ」
 彼らは、その通りだ、と思った。皆、必死になって唱題した。
 開館式の翌日の午後のことであった。
 伸一は、会館で、この日の夕刻の便で帰国することになっていた交流団のメンバーと勤行をしたが、唱題の声が、なかなかそろわなかった。
 彼は、勤行を終えると、交流団に言った。
 「最後まで、油断することなく、広宣流布のために派遣されたのだという自覚を忘れないで、帰国の途についてください」
 伸一がこう語ったのは、皆の雰囲気のなかに、どこか、うわついたものを感じていたからだ。
 また、前夜、交流団の婦人幹部に、ハワイの感想を尋ねると、こんな答えが返ってきたことが、気になっていた。
 「楽しい思い出をつくらせていただいております。
 みんな初めての海外旅行のせいか、飛行機に乗った時から興奮ぎみでした。
 機内で、かなりお酒を召し上がり、真っ赤な顔でフラフラしながら、トイレに行かれる僧侶もおり、みんなで心配したほどです。
 私たちも、すべてが珍しく、ホテルでも、夜遅くまで、話し込んでいます」
 残念なことに、その話からは、ハワイの広宣流布への熱意は、何も感じられなかった。
 交流団のメンバーは、各部を代表する幹部である。しかし、限られた滞在時間のなかで、ハワイの大発展の流れを開こうと、獅子奮迅の戦いをしている伸一とは、大きな一念の隔たりが生じていたのである。
 伸一は、立ち上がって庭を見た。
 すると、何人ものハワイの青年たちが、芝生のうえで、正座して、待機していた。
 彼は、手を振りながら、庭に出て行った。瞬間、青年たちの顔がほころび、目には光が差した。
 伸一もまた、ハワイの青年たちと会い、ぜひ、激励しなければならないと思っていたのである。
35  桂冠(35)
 山本伸一は言った。
 「ご苦労様! 膝を崩してください」
 しかし、誰も、膝を崩そうとはしなかった。
 彼らは、伸一への最高の敬意を、そうすることによって表したかったようだ。
 「さあ、楽な姿勢になってください。仏法も、学会も、自由なんです。そんな格好をする必要はないし、させてもいけません。
 堅苦しいまねをすることは、かえって、周囲の人に仏法を誤解させることにもなりかねません」
 伸一にこう言われて、ようやく膝を崩し始めた。懇談が始まった。メンバーは、日系人以外の人がほとんどであった。
 「皆さんのことは、詳しく報告を受けております。全人類に平和と幸福をもたらす、妙法の『パイナップル部隊』の大活躍は、日本でもよく知られておりますし、世界中のメンバーが注目しています。諸君にお会いできて嬉しい」
 彼は、目を細め、皆に視線を注ぎながら言った。
 「ところで、何か質問があれば、遠慮せずに、自由に聞いてください」
 待ち構えていたかのように、すぐに幾つもの手があがった。
 「日蓮大聖人の仏法と、釈尊、天台の仏法と、どのように違うのでしょうか」教学の研鑽に、懸命に励んでいることを感じさせる質問であった。このほかにも、「信心の確信をつかむためには、どうすればよいか」など、どれも、広宣流布への息吹あふれる、前向きな質問ばかりであった。
 伸一は、喜びと期待に胸を躍らせながら、一つ一つの質問に、全生命を注ぐ思いで答えていった。
 青年たちも、真剣そのものであった。一言も聞き漏らすまいと、瞳を輝かせ、耳をそばだてていた。
 伸一は、ハワイに、後継の青年たちが、すくすくと育っていることが、たまらなく嬉しかった。
 「みんなの力で、ハワイに広宣流布の模範をつくってください。互いに尊敬し、信頼し合い、誰もが幸福を満喫しつつ、はつらつと平和社会の建設に生きる人間組織をつくり上げていくことが、世界広布の先駆けの地であるハワイの使命です。皆さんの健闘を期待します。お元気で!」
 伸一の渾身の指導に、青年たちの心は決まった。目を潤ませ、拳を握り、奮起を誓うハワイの若獅子たちに、喝采を送るかのように、木々の葉が風に揺れていた。
36  桂冠(36)
 ハワイの青年たちを囲むように、帰国する交流団のメンバーも、山本伸一の話を聞いていた。伸一は、交流団を見て、険しい表情で語った。
 「ハワイの青年たちは真剣だ。この真剣さが大事なんだ。広宣流布は障魔との戦いなんだから、遊び半分であったり、心に油断があれば魔にやられてしまう。これを忘れてはならない」
 だが、交流団のなかで、この伸一の指導を、今の自分のこととして受け止めたメンバーは、ほとんどいなかった。やがて交流団は会館を後にし、空港に向かった。
 夕刻、伸一は、十条潔ら同行の幹部やハワイの代表とともに、空港の近くに車を走らせた。交流団のチャーター機を見送るためであった。伸一は車を降り、空港を眺めた。空は、夕焼けに染まり始めていた。空港からは、旅客機だけでなく輸送機など、さまざまな飛行機が、次々と離陸していった。空を見上げながら、伸一がつぶやいた。
 「みんなの飛行機はどれだろう……」
 「先生! あれだと思います。あのマークの航空会社の飛行機ですから」
 メンバーが指さす方を見ると、今まさに、一機の旅客機が飛び立っていった。
 「そうだ、あの飛行機だね。間違いない」
 そして、次の瞬間、伸一の口から、題目の声が漏れた。彼は、交流団全員が、元気で、また、無事故で帰国できるように、真剣に祈った。唱題は、飛行機の姿が見えなくなっても、いつまでも続いていた。
 一方、チャーター機の中では、メンバーが名残惜しそうに、窓の下に広がる美しい海岸線を眺めていた。
 「暖かい気候といい、ハワイは、本当に楽園だね」
 「このまま、ずっと、ハワイにいたかったな」
 隣の席のメンバーと、くつろぎながら談笑する人もいれば、早くも、まどろみ始めている人もいた。飛行機がようやく水平飛行に移り始めたころ、乗務員が早足で、団長の泉田弘のところにやって来て、緊張した顔で告げた。
 「実は、離陸後、操縦室の窓ガラスにひび割れがあることが判明しました。飛行に支障はないと思われますが、万全を期すために、引き返すことにいたしましたので、ご了承願いたいと思います」
 泉田は、ヒヤリとした。彼は、今になって、伸一が、油断するなと言っていた意味が、よくわかった気がした。
37  桂冠(37)
 泉田弘は、皆が不安にならないように、機内放送で、引き返す理由などについて、説明してもらった。ところが、アナウンスが流れ、ホノルルに戻ることが伝えられると、気楽なことに、期せずして歓声があがった。
 山本伸一は、交流団のチャーター機を見送ったあと、夕食をとってハワイ会館に戻った。すると会館には、日本に帰ったはずの交流団の代表が待機していた。
 「どうしたんですか」
 「はあ……」
 泉田が気まずそうに、いきさつを報告した。伸一は、ともかく、全員が無事であることを知り、胸を撫で下ろした。
 「それにしても、みんなが無事でよかった。すると、出発は明日ということですね」
 泉田が頷くと、伸一は、皆に言った。
 「いくらハワイがいいところだからって、今度は帰ってくるんじゃないよ」
 明るい笑いが広がった。彼は、それ以外は、何も語らなかった。交流団のメンバーは、その後、十条潔から、伸一がチャーター機を見送り、題目を唱え続けていたことを聞くと、目から鱗が落ちたような思いにかられた。
 ″自分たちは、ただ安心しきって、定められた行事に出席した以外は、修学旅行に来た生徒のように、ハワイの日々を楽しんでいたにすぎなかった。
 だから、飛行機がホノルルに戻ると聞いても、みんなで歓声をあげ、はしゃいでいた。広宣流布のために、ハワイに来させていただいたという自覚は、まるでなかった。
 でも、山本先生は、私たちが無事に帰国できるように、祈ってくださっていたのだ。もし、事故に遭遇してしまえば、取り返しのつかないことになると、懸命に、必死に、祈られたにちがいない。本来、私たちこそ、真剣に、無事故を祈らなければならないのに……。まったく、油断という魔に食い破られるところだった″
 皆、うわついていた自分たちの姿勢を恥じた。そして、伸一の行動から、瞬時たりとも気を抜くことの許されない、広宣流布の指導者の責任の重さを、しみじみと感じるのであった。交流団がハワイを後にしたのは、翌十六日の午前十時五十分のことであった。
 伸一も、この日の午後の便でハワイを発ち、日本時間の十七日午後八時半、羽田に到着したのである。
38  桂冠(38)
 一月の後半から二月も、山本伸一は、大阪、香川、岐阜などを回るとともに、学会本部での首都圏各地の記念撮影に臨み、同志の激励に全魂を注いでいた。
 そのなかで彼は、時代に即応した新しい飛躍を期すために、最高幹部の人事を行い、指導陣を強化するとともに、青年部の新たな布陣を考えてきた。
 そして、副理事長会等で検討を重ね、二月二十七日に日大講堂で行われた、二月度の本部幹部会で発表したのである。
 伸一が会長に就任して以来、最高幹部の最も大がかりな人事であり、本来は、五月の本部総会で発表する予定であった。しかし、学会の前進は、あまりにも速く、一カ月が三カ月にも、半年にも、一年にも相当する。そこで、二カ月余り早く、二月度の本部幹部会での発表となったのである。
 今回の布陣の最大の焦点は、理事長が十条潔から泉田弘に交代し、併せて、総務制が敷かれたことであった。
 これまで理事長を務めてきた十条は、前任者の原山幸一が、一九六四年(昭和三十九年)十二月に急逝したことにともない、四十一歳で理事長に就任した。以来一年余、彼は、全力で走り抜いてきたが、広宣流布の新段階を迎えて、幅広い人材の育成が大きなテーマとなってきた。
 そこで、年配者の理事長を立てるとともに、新たに総務制を設け、複数の総務が理事長と同じ権限と責任をもって、会内の運営、指導にあたることになったのである。そして、戦後の学会再建期に、戸田会長のもとで、現在の理事長に相当する筆頭理事を務めた、五十四歳の泉田が理事長に就き、十条をはじめ、関久男、森川一正ら六人が、総務に就任したのである。
 もともと総務は、戸田城聖が逝去した年の六月、青年部の室長であった山本伸一に、事実上、いっさいの学会の指揮をとってほしいとの要請から、当時の理事長の小西武雄らで協議し、伸一のために設けた役職であった。
 以来、伸一は、第三代会長に就任するまでの約二年間、学会のただ一人の総務として、陰で理事長を支えながら、実質的に、学会のすべてを担ってきたのである。
 彼は今、この六人の総務が、自分が総務として戦い抜いた精神を受け継ぎ、同じ決意、同じ自覚で、縦横無尽に力を発揮していくならば、学会は、ますます大発展することは間違いないと確信していた。
39  桂冠(39)
 また、十条潔が理事長を交代したことには、山本伸一の深い配慮があった。伸一は、十条の体を心配していたのである。責任を分かち合う総務もいないなかで、五百万世帯を超える学会の理事長職を全うしていくことは、大変な激務であった。
 海軍兵学校出身の十条は、頑健な体を誇っていたが、このまま理事長として奮闘し続ければ、いずれは、体のどこかに支障をきたすことになりかねない。
 そこで、彼の将来のために、もう少し、余裕をもたせたいと、伸一は考えたのである。また、この席上、壮年部の設置が発表され、壮年部長には、新理事長の泉田弘が、副部長には、十条や関久男ら七人が就いた。壮年部の設置は、今後の広宣流布の新展開を考えるうえで、極めて重要な意味をもっていた。
 これまで学会は、婦人と青年を表に立てて、活動を推進し、壮年は、各部の要ということから、あえて組織化されずにきた。しかし、学会が社会の信頼をさらに獲得していくには、壮年が活動の前面に躍り出て、力を発揮し、各部の友をリードしていくべきではないかとの声が、一年ほど前から起こり始めた。
 伸一は、いよいよ壮年が立ち上がる時が来たと感じ、壮年部の結成に踏みきったのである。
 一方、青年部でも、各部の部長が交代した。まず、青年部長であった秋月英介が青年部参与となり、かつて男子部長を務めた谷田昇一が青年部長に就任した。さらに、男子部長には、石川健四郎に代わって、学生部長であった渡吾郎が就き、学生部長は、男子部の中核の一人であった立松昭広が任命になった。
 女子部長には、渡道代の後を受け、企画部長であった藤矢弓枝が就いた。
 青年部では、このほかに副青年部長制、副男子部長制、副女子部長制を設け、幅広く人材を登用し、重層的な布陣でスタートすることになったのである。
 学生部長になった立松昭広は、眉の濃い、精悍な顔をした、三十四歳の青年であった。彼は、父親の事業が不振に陥ったために、大学を中退していた。家は、祖父の代まで三代続いた医者の家であり、彼も医師をめざして勉学に励んでいた時であった。
 大学を休学し、最初は、臨時工員、アイスキャンデーの販売、夜は家庭教師と身を粉にして働いたが、父親の事業の借金は、かさむばかりであった。
40  桂冠(40)
 結局、立松昭広は、断腸の思いで学業を断念せざるをえなかった。そのころ、叔母から学会の話を聞かされた。
 叔母は以前、結核に苦しんでいたが、信心を始めて病を克服した体験をもっていた。その叔母が、「ぜひ読むように」と熱心に勧めてくれたのが、戸田城聖の「生命論」であった。
 彼は、医師だった祖父を癌で亡くしていた。医学の専門家でありながら、自らの生命に対しては無力であったことを思うと、立松は生命というものがわからなかった。
 生命とは何かを知りたい――立松は、大学を中退し、社会人として仕事に励むなか、哲学書を読み耽ってきた。だが、彼の問いに答えてくれる哲学には出合えなかった。
 ところが、戸田の「生命論」には、三世の生命に始まり、生命の因果の理法など、彼が疑問に思っていたことが、実に明解に説き明かされていた。この論文が立松の人生を変えた。彼は、感動し、一九五四年(昭和二十九年)に自ら入会したのである。
 入会して三カ月ほどしたころ、東大法華経研究会の戸田の講義に、彼も参加させてもらった。講義自体は、十分に理解できたとは言い難かったが、戸田の大確信に触れた彼は、信仰に人生をかける決意を固めたのである。
 その後、彼は胸を患うが、信心を根本に克服し、やがて、横浜・横須賀方面の男子部のリーダーとして活躍するようになる。
 立松は、勤勉であり、常に書物を手放さず、向学心に燃えていた。また、時間のないなか、聖教新聞をはじめ、機関紙誌に、経済、文学、政治問題など、意欲的に原稿を執筆し、大きな共感と高い評価を得ていた。
 さらに、後輩には、こまやかな配慮ができる、面倒みのよい青年であり、寸暇を惜しんで、個人指導の時間をつくっては、激励に回ることでは定評があった。
 山本伸一は、彼を見続けてきた。
 立松は、大学は卒業していないが、向学心は人一倍強く、苦労を重ね、学会活動を通して、人格を磨いてきた。学会という校舎なき総合大学で学び、力をつけてきた青年といってよい。その彼なら、次代の指導者たる学生部員の育成に、よき兄として、いかんなく力を発揮していけると、伸一は思った。
41  桂冠(41)
 また、女子部長になった藤矢弓枝は、快活で、行動力のある女性であった。
 彼女は、既に結婚し、一児の母であり、旧姓は加賀といった。入会は、中学三年生の時である。――学校の社会科の授業で、「宗教が社会に及ぼした影響」という研究テーマを与えられた彼女は、図書館で本を調べてみたが、参考になる資料は見つからなかった。
 そこで、寺院などを回って話を聞こうと、家の近くの鬼子母神に行ってみた。住職は不在であった。応対に出た夫人は、彼女の質問に困惑しながら言った。
 「そういうことなら、よくここに、『鬼子母神では民衆は救えない』とか言って、議論をしに来る青年がいるから、聞いてみたらどうかしら。あの人なら、詳しそうだから」
 彼女は、その青年の住所を教えてもらい、家を訪ねてみたが、留守であった。青年と会えたのは、四回目の訪問の時である。
 青年の名は、有村武志といった。この有村が、後に音楽隊長として、活躍することになるのである。
 奥の間に通されると、数人の青年が集まっていた。
 有村は、そのなかの、結核であるという、痩せて青白い顔の、メガネをかけた大学生に、宗教こそ、人間の生き方の根本であることを、諄々と語っていた。また、宗教には正邪があり、創価学会こそが、人びとを幸福にできる唯一の宗教であると訴えていった。彼の話は、理路整然としており、説得性があった。
 有村は大学生に言った。「この信心をすれば、その病気も乗り越えることができるし、必ず、願いは叶う。君も信心をしようじゃないか!」
 しかし、大学生は、上目遣いに有村の顔を見るばかりで、信心をするとは言わなかった。″やればいいのに″と弓枝は思ったが、大学生はかたくなであった。
 家に帰った弓枝は、父に学会の話をすると、頭からはねつけられてしまった。しかし、彼女は、青年たちの真剣で誠実な態度や、「願いは叶う」と言い切る確信に心を動かされ、どうしても信心がしたかった。
 弓枝は、有村に、自宅に来て、父親に仏法の話をしてほしいと頼んだ。彼は、喜んで訪問してくれた。懸命な有村の訴えに、父も遂に入会の決意を固め、彼女と一緒に信心を始めたのである。
 それから、ほどなく、あの胸を病んでいた大学生も信心した。その大学生が、秋月英介であった。
42  桂冠(42)
 高校を卒業した藤矢弓枝は、都内の銀行に勤めた。
 その銀行は、夜まで営業することで知られており、出納係に回されてからは、一週間おきに夜の勤務につかねばならず、思うように学会活動に参加することができなかった。
 入会以来、信心第一に頑張ってきた弓枝にとって、それが何よりも辛かった。
 勤務の都合で、教学部員になるための講義にも、出席できなかった。一緒に活動していた同志が、次々と教学部員になっていった。
 自分だけが取り残されたような思いにかられ、寂しくもあった。焦りもした。
 しかし、「みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ」との御文を何度も拝読しては、職場の勝利者をめざして仕事に励んだ。
 また、″いつか必ず、存分に学会活動ができますように″と、真剣に祈った。
 二年後、願いは叶い、昼間だけの勤務となった。
 その直後に行われた教学試験では、一躍、助師を飛び越えて、講師になった。
 また、戸田城聖が逝去した一九五八年(昭和三十三年)の五月三日の本部総会で、彼女は女子部の支部の責任者の任命を受けた。二十一歳であり、全国で最年少であった。
 当時の支部は、大所帯であり、彼女が責任をもつ女子部員は千四百人余りであった。しかも、居住地は、東北や四国にまで広がっているのである。
 青年部の室長であった山本伸一は、まだ少女の面影を残す、年の若い彼女が、大組織のリーダーとして、どこまで活躍できるのか、心を砕いた。
 彼は、すぐに励ましの手紙を書き送った。
 「就任、誠に、誠に、おめでとう。若き地涌の菩薩の旗頭として、明るく、強く、雄々しく、指揮を。
 信ずる者は常に勝つ。信心一途の最大の組織を築きゆかれんことを祈る」
 伸一の手紙に、藤矢は、最高の組織をつくろうと、決意を新たにした。
 しかし、彼女のもとで、ともに活動する幹部は、皆、年上である。最初は、遠慮と気後れがあり、何事にも消極的であった。活動も、なかなか軌道に乗らなかった。
 それから二カ月が過ぎたころ、伸一は、あえて厳しい口調で言った。
 「女子部の全幹部のなかで、一番、意気地なしはあなたです! そんなことでどうするんですか。勇気がない者には、広宣流布の指揮などとれません」
 その言葉は、彼女の胸に突き刺さり、臆病の壁を射貫いた。
43  桂冠(43)
 藤矢弓枝は、″強くならなければ″と思った。また、信心に遠慮があってはならないと痛感した。
 彼女は、どうすれば、自分より年上である、担当組織の幹部やメンバーを励まし、指導することができるようになるのか、考え、悩み、祈った。
 そして、最大限に皆を称えながら、真心で一人ひとりに接していった。
 さらに、誰よりも動きに動いた。いつも懸命に、一つ一つの事柄に取り組み、必ず、見事な結果を出していったのである。
 次第に皆が彼女の人柄と力を認め、「年は若いが、あの人にはかなわない」と称賛するようになり、悩みごとを相談に来るメンバーも増え始めた。
 同時に、彼女を中心に強い団結が生まれ、最強の組織がつくられていった。
 山本伸一が第三代会長に就任した年(一九六〇年)の五月には、彼女が指揮をとる組織は、弘教日本一の成果をあげた。
 その月、弓枝は、本部職員となるが、しばらくすると、肋膜を患い、休職しなければならなかった。
 いよいよこれからという時に、病床に伏すことは、たまらなく悲しかった。だが、心の片隅に、″病気だから仕方がないのだ″という弱い気持ちがあった。
 弓枝をよく知る伸一は、彼女の幸福のためには、病に屈服してしまう、その弱い一念こそ、立て直さなければならないと思った。
 彼女が二カ月後に、復職してきた時、伸一は、いたわりの言葉をのみ込み、鋭い口調で言った。
 「病気に負けたということは、信心が敗れたんだ。女子部のリーダーとして、情けないではないか!」
 電撃のような言葉であった。彼女は「はっ」とした。″戦う心″を忘れかけていた自分に気づいた。
 やがて、彼女は、男子部の幹部で建築家の藤矢英雄と結婚し、さらに、一児の母となった。
 環境の変化があると、懸命に頑張り抜いてきた人であっても、多かれ少なかれ、信心の勢いを失ってしまうものだ。
 だが、彼女は、結婚後も一歩も退くことなく、広布のために奔走し、女性リーダーとして、ますます力をつけていった。
 そこで、本格的な広宣流布の新時代を迎えるにあたり、伸一は、彼女を女子部長に推したのであった。
 青年部長の谷田昇一、男子部長の渡吾郎、学生部長の立松昭広、そして、女子部長の藤矢弓枝と、創価の新時代の黎明を告げる青年リーダーが、今、さっそうと躍り出たのである。
44  桂冠(44)
 三月五日、東京地方は好天に恵まれ、春らしい、うららかな一日となった。
 山本伸一は、この日を、胸躍らせて待っていた。
 二月二十七日の本部幹部会で新設が発表された壮年部の結成式が、夕刻から、学会本部で行われることになっていたからである。
 執務中も、伸一は、壮年幹部の顔を見ると、嬉しそうに、何度も話しかけた。
 「いよいよ壮年が立つんだね。これで、本格的な広宣流布の時代が幕を開けるぞ……」
 広宣流布という壮大なる建築の柱は壮年であると、伸一は確信していた。
 日蓮大聖人の時代、在家の中心となって活躍していたのは、いずれも壮年信徒であるからだ。
 たとえば、鎌倉の中心人物であった四条金吾が、竜の口の法難で、殉死の覚悟で大聖人のお供をしたのは、四十歳ごろである。
 そして、極楽寺良観の信奉者であった主君の江間氏を折伏し、所領を没収されるなどの迫害のなか、果敢に戦い抜いたのは、四十代半ばからである。
 しかし、四条金吾というと青年信徒の印象が強い。
 それは、彼が大聖人に帰依したのが二十七歳ごろであったせいもあるが、何よりも広宣流布への一途さ、真剣さ、大情熱が、青年を思わせるからであろう。
 壮年の「壮」は、本来、「盛ん」の意味である。
 ゆえに、壮年は、沈着、冷静ななかにも、大情熱を秘めた、勇気の人、活力の人、行動の人でなければならない。
 四条金吾だけでなく、下総(現在の千葉・茨城県の一部)方面の中心であった、富木常忍、大田乗明、曾谷教信も壮年である。
 富木常忍が、松葉ケ谷の法難後、自邸に大聖人をかくまい、大闘争を開始したのは四十代半ばであり、彼は大聖人より、数歳年上であった。
 彼の折伏によって、正法に帰依した大田乗明は、大聖人と同年代と思われる。その大田より、二歳ほど年下であったのが曾谷教信である。
 つまり、大聖人の竜の口の法難の時は、富木は五十六歳前後、大田は五十歳前後、曾谷は四十八歳前後であったようだ。
 この壮年たちが、今こそ立ち上がろうと、勇猛果敢に戦い、同志を励ましていったからこそ、大法難のなかでも確信の柱を得て、多くの人びとが、信仰を貫き通せたにちがいない。
 壮年がいれば、皆が安心する。壮年が立てば、皆が勇気を燃え上がらせる。
 壮年の存在は重い。その力はあまりにも大きい。
45  桂冠(45)
 午後五時、金色の夕日が差し込む学会本部の三階広間で、壮年部結成式が開会された。
 山本伸一の導師で、厳粛に勤行が始まった。
 参加者の顔にも、黄金の輝きがあった。
 いよいよ自分たち壮年が、本領を発揮する時代が到来したと思うと、皆、胸が高鳴るのである。
 伸一は、壮年部という創価の大柱が、厳然と立ちゆくことを懸命に祈った。
 勤行が終わると、壮年部長になった理事長の泉田弘があいさつに立った。
 泉田は、壮年部は、「職場の勝利者」「地域貢献の第一人者」となり、社会にあって、″信頼の柱″となることを訴えていった。伸一は、身を乗り出して拍手を送った。
 社会の指導者の多くは壮年である。ゆえに壮年部員が社会のあらゆる分野で力を発揮し、大リーダーに育っていくことが、立正安国を実現していくための要諦となるからだ。
 「本門の時代」とは、信心即生活の実証を、一人ひとりが現実に示していく時であるといってよい。
 続いて、副壮年部長らの話があり、山本会長の指導となった。彼は、満面に笑みをたたえて語り始めた。
 「壮年部の結成式、誠におめでとうございました。
 私は、壮年部の結成を心から嬉しく思うとともに、広宣流布の将来に対して、安心感を深めております」
 それは、彼の率直な思いであった。
 次いで伸一は、永続的な発展のためには、分別のある″保守″の力と、若々しい、勢いのある″革新″の力が噛み合っていくことが肝要であると強調。学会の発展も、壮年と青年の模範的な組み合わせによるものであると述べた。
 そして、広宣流布の新展開の時代に入った今、広布推進の強力なエンジンとしての青年の力とともに、豊かな経験や判断力など、総合的な円熟した壮年の力が求められていることを訴えたのである。
 ここで彼は、組織における壮年部の役割に言及していった。
 「学会は、各部が協調し合いながら進んでいくのは当然ですが、一家においても父親が柱であるように、最高責任者は壮年です。各支部にあっては支部長であり、各地区にあっては地区部長です。
 したがって壮年部は、壮年の育成に責任をもつのは当然ですが、各部のなかの一つの部であると考えるのではなく、各部の調和をとり、責任をもって、学会を、会員を守っていただきたいのであります」
46  桂冠(46)
 元気な返事とともに大拍手が鳴り響いた。
 拍手がやむのを待って、言葉をついだ。
 「壮年部が立派であるならば、婦人部も男女青年部も、立派に成長します。壮年のよき励ましは、各部から大人材を輩出させていく力となります。
 したがって、これから伸びゆく男子部を擁護し、活躍の場を与え、責任をもって育てていただきたい。そして、婦人部並びに女子部に対しては大きく包み込み、かばってあげていただきたい。
 また、壮年部は、各部の友にとって信心の手本であります。さまざまな人生経験を経てきた壮年部がどうするかを、みんなが見ています。
 ゆえに、なにがあろうが、壮年部が強盛に信心を貫いていけば、その尊い姿を見て、男子部も女子部も、そして婦人部も喜んでついてくるものです。
 それが反対に、壮年が不誠実で要領よく立ち回ったり、いい加減であったり、あるいは退転してしまったりすれば、後輩の人たちは目標を見失い、時には信心への疑問をいだかせてしまうことになる。ゆえに、壮年部の皆さんの責任は重いといえます」
 伸一はこのあと、一生涯、信心を貫くことの大切さを訴えようと思った。
 青年時代は、懸命に活動に励み、広宣流布に生き抜くことを誓い合っても、壮年になると、情熱をなくしてしまう人が少なくないからだ。
 その理由は、さまざまであろう。
 職場で重責を担うなど、仕事が多忙になったことが契機になる場合もある。体の不調や体力の衰えが原因の場合もある。あるいは、″これまで一生懸命に頑張ってきたんだから、少し休んでもよいだろう″と考え、信心を後退させてしまう人もある。
 もちろん、人生には仕事を最優先させなければならない時もある。体調を崩している場合には、休養も必要であろう。しかし、生涯が仏道修行である。いかなる状況に置かれようが、信心に後退があってはならない。いささかでも、退く心があるならば、身は落ちねども心は落ちている姿といえる。
 大聖人は「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せである。
 ほんの毛筋ほどでも、後退の一念、怠惰な心、臆する気持ちがあるならば、そこに魔がつけ入り、信心を狂わせ、幸福の土台が破壊されていくのである。
47  桂冠(47)
 山本伸一は、全壮年部員に、一生成仏の道を、人間革命の道を、三世にわたる栄光と勝利の道を、歩み通してほしかった。
 退転は、自分自身を裏切ることである。
 彼は、かつて、学会員でありながら、戸田城聖や学会を誹謗、中傷した反逆の徒が、最後は惨めこの上ない姿になった事実をあげて、生涯、信心を貫き通していくことの大切さを語っていった。
 その声の響きには、一人たりとも落とすまいとの、強い思いがあふれていた。
 「仏法の厳然たる因果の理法からは、誰人も逃げることはできない。
 だから、たとえ、どんなに批判され、罵倒されようが、御本尊、学会を疑わず、大冥益を確信し、生涯、信心を全うし抜いていくことです。
 大聖人は、法華経を引かれて、強盛に信心を貫いていくならば、『現世安穏、後生善処』(現世安穏にして、後に善処に生ず)と明言されています。御本仏の御言葉に嘘はありません」
 ここで、彼の声に、一段と力がこもった。
 「壮年部の皆さんは、これからが、人生の総仕上げの時代です。
 壮年には力がある。それをすべて、広宣流布のために生かしていくんです。
 大聖人は『かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ』と仰せです。
 死は一定です。それならば、その命を、生命の永遠の大法である、法華経のために捨てなさい。つまり、広宣流布のために使っていきなさい――と、大聖人は言われている。
 それこそが、露を大海に入れ、塵を大地に埋めるように、自らが、妙法という大宇宙の生命に融合し、永遠の生命を生きることになるからです。
 一生は早い。しかも、元気に動き回れる時代は、限られています。壮年になれば、人生は、あっという間に過ぎていきます。
 その壮年が、今、立たずして、いつ立ち上がるんですか! 今、戦わずして、いつ戦うんですか!
 いったい、何十年後に立ち上がるというんですか。そのころには、どうなっているか、わからないではありませんか。
 今が黄金の時なんです。限りある命の時間ではないですか。悔いを残すようなことをさせたくないから、私は言うんです!」
 彼の声は、獅子吼のように、壮年の胸深く轟きわたった。
48  桂冠(48)
 参加者は皆、すべてを受け止めていこうとする真剣な顔で、山本伸一の指導に耳をそばだてていた。
 「牧口先生が信心を始められたのは五十七歳です。戸田先生が出獄され、広宣流布にただ一人立たれたのは四十五歳です。
 いずれも、壮年時代に一大発心をされ、広宣流布の戦を起こされた。それが、わが学会の伝統です。
 私もまた、壮年部です。
 どうか、皆さんは、私とともに、学会精神を根本として雄々しく立ち上がり、創価の城を支えゆく、黄金柱になっていただきたいのであります」
 どの顔も紅潮していた。どの顔にも、広宣流布の闘将の輝きがあった。
 最後に伸一は、「頼みとなるのは皆さんです。壮年部が大きく成長し、堅固な広宣流布の構えができるならば、わが創価学会は永久に盤石です」と語って、話を結んだ。
 誇りと歓喜にあふれた誓いの大拍手が、雷鳴のように轟き、いつまでも鳴りやまなかった。
 このあと、総務の森川一正が、伸一が壮年部の結成を記念して書き上げたばかりの、『大白蓮華』四月号の巻頭言「妙法の名将」を朗読した。
 そのなかで伸一は、″妙法の名将″の資格を論じていた。
 第一に御本尊への絶対の確信。第二に難事をも成し遂げゆく力。第三に社会のすべてに通暁した世雄。第四に後輩を育成していく熱意。第五に人間性豊かな包容力ある指導者。第六に旺盛な責任感と計画性――である。
 この巻頭言によって、壮年部のめざすべき指標も、すべて明らかになった。
 伸一の会長就任以来、約六年。ここに、新しい時代への本格的な布陣は、すべて整ったのだ。
 伸一は、参加者に一礼すると、出口に向かって歩き始めたが、足を止めた。そして、拳を掲げて言った。
 「皆さん! 一緒に戦いましょう! 新しい歴史をつくりましょう! 同じ一生ならば、花の法戦に生きようではないですか!」
 「ウォー」という歓声をあげながら、皆も拳を突き出した。
 その目は感涙で潤んでいた。闘魂は火柱となって燃え上がったのだ。
 誇り高き桂冠の王者が、妙法の名将が、今、出陣を開始したのだ。
 外は、既に夜の帳に包まれていたが、学会本部の三階広間は、明々とした歓喜の光に包まれていた。

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