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日蓮大聖人・池田大作

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第10巻 「新航路」 新航路

小説「新・人間革命」

前後
1  新航路(1)
 日本列島は、秋晴れの空に包まれていた。
 創価の同志の信心を、諸天も称え、微笑んでいるかのような好天であった。
 一九六五年(昭和四十年)の、十月九日のことである。
 この日から十二日までの四日間、全国約一万六千の各地区拠点で、待望の正本堂の供養の受け付けが行われたのである。
 供養の受付時間は、午前九時から午後八時までであった。
 しかし、初日の九日には、″御供養一番乗り″をめざして、早くから受け付けの開始を待つメンバーの姿が、各会場に見られた。
 同志の顔は、歓喜に燃え輝いていた。
 ″正本堂は、やがて広宣流布された時には、御書に仰せの「本門寺の戒壇」となる。その正本堂の御供養に参加できることは、最高の福運であり、最大の誉れである″
 同志は、そう信じ、確信して、命を削る思いで、供養に取り組んできたのである。
 正本堂建立の計画が発表されたのは、前年の五月三日のことであった。
 この日、日大講堂で行われた、「本門の時代」への出発となる、第二十七回本部総会の席上、会長山本伸一から、次の七年間の目標の一つとして、総本山への正本堂の建立寄進が打ち出された。
 この正本堂は、大御本尊を御安置する本堂となるもので、戸田城聖が、大客殿に引き続いて建立するように、遺言していた建物であった。
 伸一は、その正本堂の基礎には、全世界の恒久平和を祈る意味から、世界各国の石を集めて埋めるとともに、五大州の代表的な名産をもって荘厳していきたいと訴えた。
 さらに、その供養の受付期間を、六五年(同四十年)十月十二日を中心に、四、五日間とすることを発表したのである。
 以来、同志は、この日をめざして、供養の準備に取り組んできた。
 一方、伸一は、世界各国の石の収集や、建設資材となる五大州の名産の視察のために奔走してきた。
 また、六五年の一月二十一日には、正本堂建設委員会が設置され、委員長、副委員長、委員が、日達法主から任命された。
 当初、委員会は、委員長を除いて、宗門二十人、学会三十人の計五十人(後に法華講から五人が加わる)で構成された。
 委員長は山本伸一であり、副委員長には、宗門から四人、学会から九人が任命されたのである。
2  新航路(2)
 第一回の正本堂建設委員会は、二月十六日に総本山大石寺の大講堂会議室で開催された。
 その席上、日達法主は、正本堂の意義について、明らかにしたのである。
 「さて正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置申し上げるかということでございます。(中略)
 大聖人より日興上人への二箇の相承に『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご遺訓であります。
 これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。
 堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。
 小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。
 よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。
 したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。
 それゆえ、百六箇抄には『三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり』と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。
 また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされておるのでございます。
 (中略)したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。
 ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります」
 つまり、大聖人御遺命の本門寺の戒壇は、特別な戒壇堂を建てるのではなく、大御本尊まします本堂が、そのまま戒壇となり、正本堂こそが、その戒壇の大御本尊が安置されるところであるというのである。
 ここに、日達法主によって、正本堂は、広宣流布の暁には戒壇となる建物であり、その建立は、実質的な戒壇の建立であることが、明らかにされたのである。
 この指南は、二十日付の聖教新聞に掲載された。
3  新航路(3)
 山本伸一は、前年の五月三日の本部総会で、正本堂の建立寄進を発表した時には、正本堂のあとに、戒壇堂の建立を考えていた。
 したがって、彼は、正本堂を建立すれば、「あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」と語ったのである。
 しかし、広宣流布の暁には、正本堂がそのまま戒壇堂になるとの、日達法主の指南である。
 正本堂建設委員会では、この指南によって明らかにされた正本堂建立の意義を徹底し、供養への参加を呼びかけるために、三月二十六日付で、「正本堂建立御供養趣意書」を作成し、配布した。
 趣意書では、第一回正本堂建設委員会での日達法主の説法をあげ、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であることを明らかにし、次のように述べている。
 「正本堂建立の意義は、まことに甚深であり、その御供養に参加できる私たちの大福運は、なにものをもっても、たとえようがないと思うのであります。ここに僧俗一致して、この壮挙を達成したいと願うものであります。
 正本堂建立の位置は『大御本尊は客殿の奥深く安置する』との御相伝にもとづいて、大客殿の後方に建てられることになっております。
 近代建築の粋を集め、資材には五大陸の名産を用い、世界各国の石を集めて礎石とすること、前庭には『涌出泉水』の義にちなんで、大噴水も造られることになりました。
 まさに世紀の大建築となることでありましょう。
 さて、その御供養につきましては、本年十月十二日、戒壇の大御本尊建立の吉日を選んで、十月九日より四日間をもって行ないたいと存じます。
 総本山における大建築についての御供養は、これで最後の機会となるでありましょう。千載一遇とはまさにこのことであります。
 末法万年の外、未来までも人類救済の大御本尊様を御安置申し上げるこの正本堂建立の大事業に参加できることは、永遠の誇りであり、大福運であります。
 願わくは、おのおの信心の誠を尽くし、全員がこの栄ある大業に、参加されんことを望むしだいであります」
 趣意書を手にした同志の感激は、計り知れない大きなものがあった。
 私たちの手で、本門の戒壇となる正本堂を建立することができるのだ。頑張って、頑張り抜いて、最高の御供養をしよう――それが同志の決意であった。
4  新航路(4)
 「正本堂建立御供養趣意書」とともに、会員からの要請もあり、貯金箱も全会員に配布された。
 総本山と富士の写真を張った、立方体のブルーの貯金箱である。
 同志は、報恩の真心をもって応えようと、喜び勇んで供養のための貯金に励んでいった。
 この一九六五年(昭和四十年)は、戦後、最も厳しい不況の年といわれた。
 年が明けてから、大日機械製作所、日本繊維工業など、中堅企業の倒産が続いていたが、三月には、山陽特殊製鋼が破綻したのである。戦後、最大規模といわれる倒産であった。
 また、東京証券取引所の第一部、第二部上場の九月期決算(五百四十六社の集計)では、増収率一パーセント余り、減益率は二〇パーセントを超え、戦後最悪の決算となった。
 企業の求人数も激減し、深刻な就職難となっていたのである。
 しかも、不況にもかかわらず、物価は上昇を続け、年間で消費者物価は、前年比七・六パーセントの上昇率となり、人びとの生活を圧迫していた。
 そのなかで、全会員が全力で正本堂の供養に取り組めるように、学会本部としても、できる限り、会員に負担をかけまいと、懸命に努力していた。
 各地の会館の建設などで出費が増大し、本部の財政は厳しいものがあったが、節約に節約を重ね、ほかの出費を必要最小限度に抑えていたのである。
 好評であった、映画「聖教ニュース」の制作も、この年の五月の第四十八号をもって、しばらく、中断することにした。
 だが、激しい不況の風を受けながらも、同志の供養への志の火は、ますます燃え上がっていた。
 「正本堂は、事実上の本門の戒壇だ。その御供養に参加できるなんて、まさに千載一遇だ。
 室町時代や江戸時代に生まれたら、こんな機会には巡りあえなかった。これほどの大福運はない。
 不況だからといって、負けるわけにはいかない!」
 「私は、大変な時だからこそ、頑張ろうと思うの。
 釈尊の時代の須達長者にしても、大聖人の時代の南条時光にしても、みんな命を削るようにして御供養しているでしょ。
 だからこそ、真心の御供養といえるのよ。私も、信心の誠を尽くして、悔いのない御供養をしたいわ」
 こう決意を語り合いながら、それぞれが精いっぱいの目標を立て、喜びに燃えて、全力で供養に取り組んでいったのである。
5  新航路(5)
 同志の供養には、信心の赤誠があふれていた。
 供養のために、酒もタバコも、キッパリとやめたという壮年もいた。
 「お陰で、ずいぶん、健康になったんですよ」と語る夫人の声も、喜びに弾んでいた。
 また、子供の衣服も自分で作り、生活費を切り詰めに切り詰めて、供養に参加した婦人もいた。
 さらに、新聞配達のアルバイトをして、供養の金をためた高校生や、親からもらった小遣いをためて、供養に参加した小学生もいたのである。
 質素な身なりで、百円玉をはじめ、十円玉、一円玉などがギッシリ詰まった貯金箱や缶を、大事そうに抱えて、納金にやって来る人もいた。
 そこには、金額の多寡だけでは推し量れぬ、真心の輝きがあった。ドッシリとしたその重みは、健気なる信心の重さであった。
 福岡県では、約四十キロメートルの道程を、自転車で三時間かかって納金に来た、十代の三兄妹が話題を呼んだ。
 供養の受付会場までの、往復の交通費を節約し、その分も供養に回そうと考えたのである。
 地域によっては、十キロメートル、二十キロメートルと、歩いて会場に来た人も珍しくなかった。
 富山県では、東礪波郡の五箇山から、二十六人のメンバーが、船に乗って庄川を下り、井波町の会場に駆けつけている。
 対馬では、伝馬船に乗って納金に来る、光景も見られた。
 供養に取り組んできた、メンバーの歓喜が爆発したのは、供養の受け付けの五日前にあたる、十月四日付の聖教新聞一面に、正本堂正面外観図が発表された時であった。
 紙面には、「世紀の正本堂、構想図なる」との見出しが躍り、一ページの上半分を使って、外観図が描かれていた。
 左右に大きく玄関ホールが広がり、正面後方には支柱を兼ねた塔がそびえ、その左右には、富士のかたちをした屋根が続いている。
 説明の文章によれば、この塔の高さは、大客殿の約二倍にあたる六十六メートルで、総本山第六十六世の日達法主の時代にちなんだものであるという。また、間口、奥行きは、ともに約百メートルである。
 外観図の、近代的で壮麗な姿に、誰もが感嘆した。
 正本堂の建立が、実感となって、皆の胸に迫った。
 自分たちが、この大殿堂を建てるのだと思うと、誰もが喜びに震えるのであった。
6  新航路(6)
 正本堂の正面外観図は、大きな紙に描くなどして、多くの受付会場に張り出された。
 宮殿や寺院など、壮大な建築物は、世界中に数多くあるが、この正本堂は、民衆の力で建立する、民衆立の戒壇なのだという誇りが、同志にはあった。
 十月九日から、四日間にわたって行われた供養の受け付けは、十二日の午後八時、歓喜のなかに、無事故で終了した。
 山本伸一は、十四日に正本堂建設委員会の副委員長会を開催し、供養の経過報告を行った。次いで、十五日には登山し、日達法主と会い、供養についての詳細な報告をした。
 そして、十七日、十月度の本部幹部会を迎えたのである。
 午後二時前から、東京・両国の日大講堂で開かれたこの本部幹部会では、初めに、山本会長が立ち、正本堂の供養について、御礼と報告を行った。
 「このたびの正本堂の御供養につきましては、八百万人を超える皆様方の、真心のご尽力を賜り、目標をはるかに突破することができました。まことにありがとうございました。
 その結果は、僧侶寺族同心会が一億五千七百八十七万八千二百六十五円、法華講が三億一千三百八十二万百六十二円、創価学会が三百五十億六千四百三十万五千八百八十二円で、総額は、三百五十五億三千六百万四千三百九円となりました。謹んでご報告申し上げます」
 感嘆の声があがり、大拍手が轟いた。
 皆の信心の勝利であり、民衆の力の結実であった。
 当初、学会本部では、正本堂の供養は、三十億円を目標にしていた。それは、戸田城聖が、かつて「正本堂の建設は、三十億円の費用をもってしなさい」と遺言していたからである。
 しかし、より多くの人びとを収容できるものをと考えると、正本堂の規模は、最初の構想の二倍にせざるをえなかった。
 それだけ、建設費用もかさむうえに、戸田の存命中と比べ、物価は大幅に高騰していた。
 だが、同志の真心の供養は、当初の目標の十倍を上回ったのである。これで金銭的には、なんの心配もなく、最高の建物を建設することができるのだ。
 伸一は、さらに言葉をついだ。
 「なお、海外につきましては、十一月の十二日から十五日までの四日間、御供養の受け付けを行いますので、海外の御供養の結果は、十一月度の本部幹部会で発表したいと思います」
7  新航路(7)
 続いて、「御供養奉呈」に移り、山本伸一が目録を読み上げていった。
 そして、演台を前にして立つ日達法主に、三方に載せた目録を伸一が差し出すと、法主は題目を三唱してこれを受け、受書を朗読。伸一に手渡した。
 場内には、再び大拍手がわき起こった。
 ここで、日達法主のあいさつとなった。
 「ただいまお聞きのとおり、だれも想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました」
 そして、山本会長が、宗祖大聖人の「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」の御遺言のままに、戒壇の大御本尊安置の正本堂建立を発願した意義に言及していった。
 まず、「香を売る者、香を買う者、傍に観る者、その香りひとしきがごとく、能化、所化、随喜みなその功徳最高なり」との言葉を引き、正本堂の供養を発願し、皆にも供養の発願をなさしめた山本会長は能化であり、供養に参加した学会員、法華講員、寺族は、所化であると語った。
 また、山本会長が、供養の達成のために三百五十万遍の題目をあげたと聞いたが、その題目が三百五十億円の供養になったと述べ、次のように断言した。
 「昔から発願をする――大願を立てるということは、その行の大半をいくものなりといわれております。いまこの三百五十億の御供養をもって、正本堂建立は、まさしくその大半を成就したことになるのであります」
 さらに、仏教では、この世界を、一須弥山の世界といい、宇宙には、百億の須弥があるといわれているが、今、正本堂の供養をもって、百億の須弥の人びとに功徳をほどこすことになると訴えた。
 そして、それは「正本堂に大御本尊を安置し奉って、南無妙法蓮華経と信心するところに、かならず宇宙全体に、その功徳がおよぶ」からであると指南したのである。
 また、日達法主は、この供養の全額を、正本堂建立、並びに広宣流布達成の事業、設備等に使用してもらうために、山本会長に委任したいと述べて、あいさつを結んだ。
 次いで、法主から山本伸一に、委任状が手渡されたのである。
 会場には、怒涛のような拍手がうねり、いつまでも鳴りやまなかった。
 それは、歴史的な儀式となった。
 真心を尽くし、供養に参加した人びとの顔は、歓喜と誇りに輝いていた。
8  新航路(8)
 この日、山本伸一は、同志への深い感謝の念を込めて、あいさつに立った。
 「日蓮大聖人様の御遺命である、本門戒壇の事実上の建立が、七百年を経て、私どもの時代に、私どもの手で、私どもの御供養によって、達成することができるんです。本当におめでとうございます」
 大地を揺るがすような、大拍手が起こった。
 「これだけの立派な御供養ができたんですから、私たちは、もう大福運は間違いないと、確信しようではありませんか!
 御供養の功徳は、御書に厳然としたためられております。
 もし、広宣流布のために御供養申し上げて、御書に仰せの通りに、確たる証拠が出なかったならば、仏法は嘘になります。また、そんな力のない御本尊ではありません。
 そのことは、これまでの体験を通して、皆様方が、一番よくご存じであると思います。
 私どもは、絶対の福運を確信し、勝って兜の緒を締めて、また、次の目標に向かい、和気あいあいと、楽しく、朗らかに前進してまいろうではありませんか。
 また、御供養は、金額のいかんではなく、その人の真心です。御本尊は、それをすべて御照覧であり、功徳も信心の一念によって決定していきます。
 したがいまして、誰が、幾ら御供養をしたなどと、金額についてうんぬんしたり、それを軽々しく口にするのは、間違いであると申し上げておきます。」
 伸一は、さらに、供養に参加した人全員に、日達法主から、記念の袱紗が贈られることを伝え、こう話を締めくくった。
 「今まで創価学会は、貧乏人の集まりであるとか、病人の集まりであるとか、さんざん誹謗され、中傷され続けてきました。
 しかし、この不景気のさなかに、これだけの御供養ができたことは、学会が日本一の実力をもつに至った裏付けといえます。この事実こそ、御本尊の偉大なる大功徳の証明であると、私は訴えたいのであります。
 今後は、さらに幸せになって、日本一の幸福者であると言い切れる実証を、示していっていただきたい。真心を尽くして御供養に参加された皆様には、その権利があると申し上げて、私のあいさつとさせていただきます」
 供養の大歓喜がみなぎるなか、本部幹部会は幕を閉じた。本門の戒壇となる正本堂の建設へ、歯車は勢いよく回り始めたのである。
9  新航路(9)
 さて、この正本堂は、一九六七年(昭和四十二年)十月十二日に、建立発願式(起工式)が行われた。
 完工式が営まれたのは、五年後の七二年(同四十七年)の十月一日であった。
 そして、十一日の大御本尊御遷座大法要に始まり、十二日の完成奉告大法要、十三日の法庭涌出泉水大法要、十四日の落慶大法要、十五日の世界平和祈願大法要、世界平和文化祭等々、大歓喜のなか、慶祝行事が、連日、盛大に挙行されたのである。
 正本堂は、日達法主の指南にもとづき、誰もが「本門の戒壇」と信じて疑わなかった。
 それゆえに、美的にも優れ、人類の遺産として永遠に残る、最高の建物にしようと、建築技術の粋を集め、設計、建設された。
 ところが、日達法主亡きあと、第六十七世の法主となった阿部日顕が、正本堂の完成から十八年余りが過ぎた九一年(平成三年)一月、突如、正本堂は「終極究竟の意義における事の戒壇ではない」と言い出したのである。
 しかも、正本堂を「本門の戒壇」としたのは、当時の学会の会長であった、山本伸一の独断であったかのように言い始めたのだ。
 これは、明らかに、日達法主の指南を、根底から 覆す発言であり、学会員だけでなく、法華講員にとっても、寺族同心会のメンバーにとっても、詐欺に等しい裏切りであった。
 学会員は皆、日達法主の指南のもと、正本堂こそ、「本門の戒壇」と信じたがゆえに、食べるものも惜しんで、命を削る思いで、供養に参加したのである。
 さらに、日顕は、九八年(同十年)四月に、突然、大御本尊を正本堂から奉安殿に遷座し、なんと、正本堂の破壊を発表したのだ。
 そして、老朽化などの理由をでっち上げ、遂に、六月には、八百万信徒の真心を踏みにじり、正本堂の解体を開始したのである。
 広宣流布の大功労の団体である創価学会への嫉妬ゆえの、所業といえよう。
 また、慢心と強い自己顕示欲のゆえに、先師たる日達法主の尊き事跡を、ことごとく破壊したかったのであろう。
 まさに、天魔と化した、頭破作七分の狂乱の姿であり、その罪は、無間地獄を免れまい。
 一方、正本堂は破壊されても、蓮祖大聖人の御遺命を実現せんとして、供養に参加した同志の信心の赤誠は、永遠の福運となって、自身を荘厳しゆくことは、絶対に間違いない。
 それが、仏法の厳たる因果の理法である。
10  新航路(10)
 十月度本部幹部会の翌々日の十九日には、山本伸一は、正本堂の資材買い付けと、現地会員の激励のために、ヨーロッパに飛び立っていた。
 訪問国は、フランス、西ドイツ(当時)、イタリア、ポルトガルの四カ国である。
 今回の訪問には、副理事長の秋月英介、岡田一哲、西宮文治らと、婦人部を代表して、副婦人部長の岡田郁枝、春木文子、そして、伸一の妻の峯子が同行していた。
 出発前の打ち合わせの際に、伸一は、同行のメンバーに言った。
 「今回の訪問では、積極的に文化交流を推進していこう。
 世界平和の推進は、仏法者の使命だが、その平和の堅固な礎こそ、民衆と民衆の心の結合であると、私は思っている。
 そして、民衆の心を結び合い、相互理解を促していくのが文化交流だ。
 国内での民音(民主音楽協会の略称)の活動も、軌道に乗ってきたし、いよいよ世界を舞台にして、本格的な活動を開始する時が来たといってよいだろう」
 この提案を受けて、同行メンバーは、文化交流の第一歩を印す決意で、旅立ったのである。
 一行がフランスのパリに着いたのは、現地時間の二十日の午前九時半過ぎであった。
 伸一は、まず、ホテルに向かい、そこで、ヨーロッパ本部長の川崎鋭治と、ヨーロッパの組織の拡充の打ち合わせを行った。
 この日は、午後から、ヨーロッパの事務所の開所式が行われることになっていた。事務所といっても、川崎夫妻の自宅である。
 川崎はこれまで、一間のアパートに住んでいたが、彼の職場のコレージュ・ド・フランスにほど近い、パスカル通りに面した、二間のアパートに引っ越し、そこを事務所にすることにしたのである。
 伸一たちが、到着した時には、川崎のアパートは、代表のメンバーで、あふれんばかりであった。
 一行が日本から持参した御本尊を奉掲し、伸一の導師で、厳粛に勤行が行われた。日本語がわからないメンバーもいたが、勤行の声は見事に唱和していた。
 勤行を終えると、伸一は言った。
 「今日は、おめでとう。小さくとも、欧州の事務所ができたということは、大きな大きな一歩です。
 また、いずれ、フランスにも、立派な会館をつくりますので、皆さん、楽しみにしてください」
 友の瞳が輝いた。
11  新航路(11)
 山本伸一は、微笑を浮かべながら語っていった。
 「ヨーロッパは、昨年の四月に本部となり、二百九世帯の陣容でスタートいたしましたが、この約一年半の間に大発展を遂げ、四百四十六世帯に倍増したという報告を受けております。
 そこで、今回、将来のヨーロッパの発展のための布石として、ヨーロッパ本部を分割し、第一本部と第二本部にしてまいりたいと思います。
 第一本部には、このフランスをはじめ、イギリス、イタリア、スイス、ベルギーなどが所属します。
 また、第二本部は、ドイツをはじめ、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、オランダ、オーストリアなどとなります。
 さらに、今回、ヨーロッパに総合本部を設置いたします」
 拍手が起こった。
 当時の学会の組織は、支部のうえが総支部、総支部のうえが本部であり、そのうえに総合本部がつくられていた。
 総合本部制は、前年の一月に、まず、関西が総合本部としてスタートし、その後、全国に設置されたもので、当時、国内には、二十五の総合本部があった。海外では、これが初めての布陣である。
 「日本で総合本部といえば、だいたい二十万世帯ぐらいあります。ヨーロッパは、世帯は少ないですが、将来の大発展に備えて、あえて総合本部を結成することにしました。
 総合本部長には、ここにおります、副理事長で青年部長の秋月英介さんが就任します。
 また、第一本部長は、これまでヨーロッパ本部長をしてこられた、川崎鋭治さんです。
 第二本部長には、ドイツ支部長の佐田幸一郎さんが就くことになります。
 さらに、パリ支部を分割し、シャンゼリゼ支部を新設します。支部長は春野心作さん、副支部長は長谷部彰太郎さんです。
 どうですか。皆さんが、待ち望んでいた通りの人事になったでしょうか」
 歓声が起こり、賛同の拍手が広がった。
 「私たちが発表した人事と、皆さんの考えとが一致したことは、大変に嬉しい。実は、これが何よりも大切なことなんです。
 たとえば、人事を現場の皆さんの意見だけで決めると、人気投票のようになってしまう場合がある。
 リーダーは、誰からも好かれる人柄であることは大事ですが、悪と戦わない人が包容力のある人のように思われ、みんなに支持されることもある」
12  新航路(12)
 皆、真剣に、山本伸一の話に耳を澄ましていた。
 伸一は、学会の幹部登用の根本的な考え方について話しておこうと思った。
 「皆さんのなかには、民主主義が世界の流れなんだから、学会もすべて、多数決で決めるべきだと思っている方もいるでしょう。
 私も、みんなでよく話し合い、決議していくことは大賛成ですが、仏法の世界は、すべて多数決というわけにはいきません。
 初代会長の牧口先生は、宗門が軍部政府を恐れて、学会も神札をまつってはどうかと言い出した時、敢然とそれを拒否しました。
 宗門では、首脳たちが集まって協議し、神札をまつることに決めたのでしょう。
 しかし、たとえ、みんなで決めたことでも、大聖人の教え、精神に反するものであれば、それに従ってはならないというのが、仏法の考え方です。中心となり、基準となるのは、どこまでも″法″だからです。
 皆が間違った方向に進んだ場合には、たった一人になっても、その誤りを正していかなくてはならない。それができてこそ、真実のリーダーです。
 ですから、人気投票のように、ただ、みんなの支持があるからといって、人事を決めるわけにはいかないんです。
 かといって、現地の人たちの意見も聞かずに、最高幹部が自分の考えだけで、人事を行うと、これも失敗につながってしまう。
 ですから、最高幹部は、みんなの意見をよく聞いたうえで、登用する人の、根本となる信心を、鋭く見ていかなければならない。
 私は、これまで、さまざまな機会に、皆さんの意見をお聞きしてきました。また、日本を発つ前も、パリに着いてからも、いろいろな角度から、慎重に人事の検討を行いました。
 だから、皆さんに喜んでいただける人事になったといえます」
 皆が頷いた。
 伸一は、さらに、力を込めて言った。
 「ところで、今回、ヨーロッパを二つの本部に分けたのは、いい意味での競い合いがないと、惰性化してしまうからです。
 よきライバルは、よき触発をもたらし、向上への力となっていきます。互いに″負けるものか!″という心意気で、大前進していってください」
 参加者のなかには、伸一が、初めて見る顔も多かった。そのこと自体が、ヨーロッパの広宣流布の前進を物語っていた。
13  新航路(13)
 山本伸一の話が一段落すると、川崎鋭治が彼に、会場の後方にいた一人の婦人を紹介した。
 「先生、アフリカから、駆けつけて来た人がいます。フジエ・ジェイムズさんです」
 細面の品の良さそうな女性が、立ち上がって会釈をした。
 伸一も、深く礼をし、言葉をかけた。
 「どうも、遠いところ、ご苦労様です。どうぞ、前にいらしてください」
 彼女が前に来ると、伸一は尋ねた。
 「アフリカのどこから来られたんですか」
 「ナイジェリアのカズナというところです」
 「ナイジェリアには、メンバーは、今、何人ぐらいいるんですか」
 「はい、三十四人おります。現地の人が三十人で、技術指導に来ている人など、日本人は私を含めて四人です」
 「そうですか。そんなにいるんですか……」
 伸一の言葉には、深い感慨があふれていた。
 彼は、五年前にニューヨークの国連本部を訪れ、国連総会の委員会や本会議を傍聴した折、独立間もないアフリカ諸国の若き代表たちが、生き生きとした表情で、意見を述べていた光景が忘れられなかった。
 大国の指導者に見られがちな傲慢さや老獪さは、微塵も感じられなかった。
 清新な息吹をたたえ、しかも、自信と誇りに満ち満ちていた。
 伸一は、その時、二十一世紀は、アフリカの世紀になることを、直感したのである。
 そのアフリカにも、地涌の菩薩が出現し、広宣流布の流れがつくられようとしていることが、伸一は嬉しくてならなかった。
 しかも、三十四人といえば、十分に、広布の拠点となり得る数である。
 伸一は、フジエ・ジェイムズが海外に渡った経緯やアフリカの活動の様子を聞いていった。
 ――彼女は、一九五七年(昭和三十二年)に、友人の勧めで入会した。以来、女子部として、真面目に活動に励んできた。
 二年前に、航空会社のマネジャーをしているイギリス人の男性と結婚し、イギリスのバーミンガムで新婚生活を始めた。
 ロンドンに、エイコ・リッチというメンバーがいると聞いていたフジエは、早速、彼女と連絡をとり、ロンドンに会いに行った。
 イギリスには、夫以外に知人もなく、言葉もあまり通じないフジエにとって、エイコの存在は、大きな心の支えとなった。
14  新航路(14)
 結婚して半年ほど過ぎたころ、フジエ・ジェイムズは、夫の仕事の関係で、ナイジェリアに移り住むことになった。
 彼女は、心細くて、不安でならなかった。
 ナイジェリアといえば、独立間もない、赤道に近い暑い国という程度の、印象しかなかったのである。
 彼女は、当時、ヨーロッパ総支部長であった川崎鋭治を訪ねた。
 フジエの気持ちを聞いた川崎は言った。
 「今は寂しい思いでいっぱいかもしれないが、仏法の眼から見れば、アフリカ広布のパイオニアとしての使命を果たすために、ナイジェリアへ行くんです。
 それは、久遠の昔に、自ら願い出て、日蓮大聖人と交わした約束なんです。
 確かに、気候、風土も、文化も違う土地で生活することは大変でしょう。しかし、いよいよ、久遠のわが使命を果たす時がきたのだと考えることです。
 何があっても、負けてはいけません。辛いなと思った時は、うんとお題目を唱えるんですよ」
 彼女は、ナイジェリア行きは自分の使命なのだと思うと、不安の雲は晴れ、スーッと心が軽くなっていく気がした。
 ″よし、頑張ろう! アフリカ中に、幸福の種をまこう!″
 最初は、ナイジェリアのカーノという街で暮らすことになった。
 イギリスとは全く異なる生活環境に、彼女は戸惑いを覚えた。
 この街でビルといえるのは、三、四階建てのホテルや空港の建物ぐらいであった。少し郊外に行けば、どこまでも赤土の大地が続いていた。
 彼女が特に驚いたのは、カメレオンであった。木の上だけでなく、保護色に紛れて、車の上にもいたりするのである。また、家の中にトカゲがいることや、マラリアにも悩まされた。
 しかし、ここを、わが使命の天地と定め、アフリカ全土に題目を染み込ませる思いで、唱題を開始した。
 コンクリートの床に毛布を敷いて座り、アフリカの地図を見ては、都市名を念じて、題目を送っていくのである。
 さらに、やっと覚えた英語で、布教も始めた。だが、信心する人は誰もいなかった。
 やがて、彼女はカズナという街に移った。
 ロンドンのエイコ・リッチからの便りによれば、この街には、紡績会社から技術指導で派遣された日本人の壮年のメンバーがいるとのことだった。彼女は、大喜びで連絡を取った。
15  新航路(15)
 フジエ・ジェイムズは、その壮年と会った。
 彼は、ナイジェリアの公用語である英語は苦手のようであったが、技術指導の仕事を通して知り合った現地の人たちに、題目を教えたりしていた。
 フジエは、心強さを覚えた。彼女も、決して英語は上手ではなかったが、自分がその人たちに、なぜ仏法がすばらしいのかを説明することにした。
 こうして、二人で力を合わせての活動が始まった。
 やがて、信心を始める人が増えていった。
 また、週に一回、土曜日の夜に、現地のメンバーの家で座談会を開いた。時には、三十人、四十人と集まり、部屋に入りきれない日もあった。
 一九六五年(昭和四十年)の十月上旬に、エイコ・リッチから手紙がきた。
 そこには、「間もなく、山本先生が、ヨーロッパを訪問されるそうです」と記されていた。だが、その日程については、彼女もわからないようだった。
 ″なんとしても、先生にお会いしたい!″
 フジエは思った。そして、真剣に祈り続けた。
 十月の十六日、夫が、南アフリカに旅行に行こうと言い出した。その言葉を聞くと、彼女は、旅行に行くなら、パリに連れていってほしいと頼んだ。
 山本会長は、ヨーロッパに来れば、中心者の川崎鋭治がいる、パリに滞在するだろうと考えたからだ。
 夫は、快く、承諾してくれた。
 十月十九日、パリに着いて、川崎に連絡を取った。
 「山本先生が、いらっしゃると聞いたのですが、もう、来られましたか」
 「先生は、明日、到着されますよ」
 こうして彼女は、喜び勇んで、この集いに参加したのである。
 フジエ・ジェイムズの話を聞き、山本伸一は、アフリカにも、使命の友が誕生したことが嬉しかった。
 伸一は、即座に決断し、皆に諮った。
 「アフリカに、支部を結成しましょう。支部名はアフリカ支部、支部長はジェイムズさんにお願いしてはどうだろうか」
 突然の提案に、彼女は驚いたようであったが、決意のこもった顔で頷いた。
 そして、次の瞬間、大きな拍手が会場を包んだ。
 伸一は、彼女に、記念として、念珠を手渡しながら言った。
 「二十一世紀はアフリカの時代になるでしょう。
 その未来を、開き、創るために、頑張るんです。未来の創造こそが、人間に与えられた力であり、尊き使命なんです」
16  新航路(16)
 「はい、頑張ります!」
 フジエ・ジェイムズの、元気な声が響いた。
 その彼女を見て、嬉しそうに、盛んに拍手を送る、日系の女性がいた。
 山本伸一は尋ねた。
 「あなたのお名前は?」
 「はい、ロンドンのエイコ・リッチと申します」
 フジエを温かく励まし続けてきた、イギリスのメンバーであった。彼女もロンドンから、駆けつけて来ていたのである。
 伸一は、エイコ・リッチと会うのは初めてであったが、川崎から、彼女のことは、詳しく聞いていた。
 「あなたが、イギリスで中心になって頑張ってくださっていることは、よく知っています。
 イギリスの同志にも、色紙と袱紗をお土産に持ってきましたので、皆さんにお渡しください」
 頬を紅潮させて、エイコは言った。
 「本当にありがとうございます。メンバーも大喜びすると思います」
 エイコ・リッチは、メンバーのことを常に考える、思いやりにあふれたリーダーであった。
 彼女は、一九五八年(昭和三十三年)に、横浜で、姉の勧めで入会した。
 恋愛に行き詰まり、悶々としていた時であった。
 妹の幸せを願い、真剣に信仰を勧める姉の真心に打たれて、彼女は信心を始めたのである。
 やがて、世界周遊の観光船で働くイギリス人の男性と知り合い、結婚し、六一年(同三十六年)にイギリスに渡った。彼女は、ここで仏法への大確信をつかむことになる。
 イギリスで彼女は、子供を身篭もる。
 医師は、つわりの際の鎮静・睡眠薬をくれた。その薬を服用した途端に、嘔吐が起こり、錠剤も一緒に吐き出してしまった。
 また、下腹部が痛み、出血が始まった。
 病院へ行くと、医師からは、流産の恐れがあると診断され、すぐに入院することになった。
 ″無事に出産したい″
 彼女は、病院のベッドのなかで、懸命に唱題した。
 再度、検査し、医師から「出産は可能です」と告げられた時には、思わず涙があふれた。
 そして、やがて、元気な男の子を出産したのだ。喜びは大きかった。
 御本尊の功力に感嘆したが、さらに、その力を身に染みて感じたのは、後年、サリドマイド禍が社会問題となった時であった。
 彼女が妊娠初期に医師からもらった薬が、そのサリドマイド錠であったからである。
17  新航路(17)
 すくすくと育つわが子を見て、エイコ・リッチは思った。
 ″あの時、嘔吐することなく、サリドマイド錠をのみ、その後も服用するようになっていたら……″
 彼女は、深い感謝のなかで、イギリス広布に生き抜く決意を固めたのである。
 一九六三年八月、それまでロンドンの中心者であったシズコ・グラントが、夫の仕事の関係でイギリスを離れることになり、エイコ・リッチが連絡責任者になった。
 そのころ、イギリスのメンバーは、わずか五世帯にすぎなかった。
 しかし、彼女には、広布への燃える心があった。希望があった。
 「千里の道も一歩から始まるのだ」と、自宅で座談会を開き、メンバーに、毎日のように励ましの手紙を書き続けた。
 生活は決して楽ではなかったが、口紅一つ買うのも惜しんで活動費を捻出し、友の激励と布教に、イギリス中を駆け巡った。
 そして、三十世帯を超える人たちが、信心に励むようになったのである。
 エイコ・リッチやフジエ・ジェイムズに限らず、アメリカでも、東南アジアでも、日蓮仏法を弘めてきたのは、キリスト教のような宣教師ではなかった。
 世界広布を担ってきたのは、″衣の権威″に身を包んだ僧侶たちではなく、在家である創価学会の、名もなき会員たちであった。しかも、その多くは女性たちである。
 なんの後ろ盾もない、不慣れな土地で、日々の生活と格闘しながら、言葉や風俗、習慣の違いを超えて、人びとの信頼と友情を育み、法を伝えてきたのだ。
 誤解や偏見による、非難もあったにちがいない。まさに、忍耐の労作業といってよい。
 宗教の歴史には、武力や権力、財力などを背景にした布教も少なくなかった。
 しかし、それでは、どこまでも対話主義を貫き、触発と共感をもって布教してきた、日蓮大聖人の御精神を踏みにじることになる。
 「力」に頼ることなく、民衆が主役となって布教を推進してきたところに、日蓮仏法の最大の特徴があるといってよい。
 また、それ自体が、「民衆のための宗教」であることを裏付けている。
 山本伸一は、遠く異国の地にあって、広宣流布に生き抜こうとする、健気なる同志に、仏を見る思いがしてならなかった。
 彼は、このあと、参加者の質問に答えながら、尊敬と賛嘆の心で、力の限り、励ましを送った。
18  新航路(18)
 山本伸一は、パリでは、会館となる建物を見て回るとともに、正本堂の資材や調度品の視察に奔走した。
 一方、民音(民主音楽協会)の専任理事でもある秋月英介は、フランスの青少年音楽団体ジュネス・ミュジカル・ド・フランスのニコリ会長と会見した。
 民衆に根差した文化・音楽運動を、さらに推進していくために、あらゆる団体から学び、交流を深めようとしていたのである。
 二十一日の午後五時からは、パリ大学ソルボンヌ校の留学生会館の一室を借りて、教学試験と指導会が行われた。
 十九人のメンバーが受験し、終了後に、同じ会場で開かれた指導会には、五十人が参加した。
 この指導会の席上、ロンドンの地区部長に、あのエイコ・リッチが就任し、ベルギーにも地区が結成された。
 伸一の一行は、翌二十二日の昼、パリを発ち、次の訪問地である西ドイツに向かった。
 フランクフルトの空港に出迎えてくれた、炭鉱で働く、佐田幸一郎や諸岡道也らの顔を見ると、伸一は、にこやかに声をかけた。
 「やあ、しばらくだったね。元気かい」
 佐田が、頬を紅潮させて答えた。
 「はい。日本から西ドイツにまいりました十名も、全員、元気に頑張っております」
 「それはよかった。ドイツの広宣流布に、人生を捧げようという青年たちだ。学会の宝です。大切に、大切に育ててください」
 「はい!」
 間髪を入れずに、二人の元気な声が返ってきた。
 伸一は、静かに頷きながら言った。
 「さあ、一緒にホテルに行こう。日本から来た、その青年たちの様子を聞かせてください。また、ドイツの大発展のために、組織の新しい布陣を検討しよう」
 佐田は、山本会長が、日本から来た十人の青年たちに、心から期待を寄せ、気遣ってくれていることに、熱いものが込み上げてきてならなかった。
 彼は、前年の十月、ヨーロッパ
 伸一の顔に、微笑が浮かんだ。を訪問した伸一とパリで会い、ドイツの広宣流布のために、信心をしっかり身につけた青年たちを、西ドイツに呼びたいと、相談したのである。
 その時、伸一は、世界に雄飛したいという青年がいたら、先輩が活躍の舞台を開いてあげることの大切さを語り、佐田を励ましたのである。
19  新航路(19)
 佐田幸一郎は、翌月の十一月初めに日本に帰ると、まず、自分が、再び西ドイツに滞在するための手続きを進めるとともに、一緒に西ドイツに渡るメンバーを探し始めた。
 北海道を中心に、人づてに、男子部員に、「ドイツの広布のために、炭鉱で働きながら、一緒に戦うという人はいないか」と、呼びかけて歩いた。
 日本から行くメンバーの就職については、佐田も働いていたカストロプラウクセル市の炭鉱に採用してもらうように、諸岡道也が話を進めていた。
 西ドイツの炭鉱は、人手不足で、就職を希望する者は、大歓迎されていたのである。
 また、一九六五年(昭和四十年)の三月には、諸岡も日本に戻ってきた。
 佐田たちの呼びかけに応じて、十数人の青年が名乗りをあげたが、最終的に十人のメンバーに決定した。
 そのなかの最年長は、札幌で自動車の整備士をしていた、雄勝久蔵という、三十二歳の青年であった。
 彼は、三年前に結婚式を挙げるつもりで準備を進めてきたが、式の直前、婚約者が腹痛で苦しみ出した。
 病院で検査をすると、腹部に悪性の腫瘍があると診断された。
 しかも、腫瘍は大きく、体も著しく衰弱しているため、手術は不可能だというのである。
 その婚約者が、病院で学会員と知り合い、仏法の話を聞き、信心をしたいと言い出した。
 彼は、宗教に関心はなかったが、最愛の人のためならと、自分も一緒に入会することにした。六三年(同三十八年)の一月のことである。
 その日から男子部員が、勤行を教えに来てくれた。来る日も、来る日も、自分のために、真冬の凍てた四キロメートルの道程を、自転車で通って来てくれる姿に、彼は感動した。
 だが、間もなく、婚約者は他界したのである。家族に見守られながらの、安らかな死であった。
 雄勝の悲しみは、あまりにも大きかった。信心の目標も失い、学会の組織からも遠のき始めた。彼のことを心配して、学会の先輩が足しげく激励に来てくれたが、積極的に信心する気にはなれなかった。
 ある日、彼は、交通事故を起こしてしまう。命に別条はなかったものの、車は横転し、大惨事にもなりかねない事故であった。
 ″救われた!″という思いとともに、それが、″信心から離れてはならない″という警鐘のように感じられた。
20  新航路(20)
 雄勝久蔵は、もう一度、親権に信心してみようと思った。
 以来、真面目に学会活動に励んだ。また、仏法の生命論を学ぶなかで、亡くなった婚約者の追善のたもにも、強情な信心を貫き、広宣流布に生き抜こうとの決意が膨らみ始めた。
 雄勝は、聖教新聞などの機関紙誌で、海外に活躍する同志の体験などを目にするたびに、自分も世界広布に尽くしたいと考えるようになった。
 一九六五(昭和四十年)の春、所属組織の先輩が彼の家にやって来た。
 「実は今、西ドイツの炭坑で働いていた。佐田幸一郎さんという人が北海道本部に来ている。日本の男子部員を十人ほど連れて、また西ドイツに帰り、広宣流布したいと言っているんだが、雄勝君は向こうに渡る気はないかね」
 突然の話であり、雄勝はなんと答えてよいのかわからなかった。ともかく、会って話を聞いてみようと、佐田がいる北海道本部に向かった。
 車中、彼の頭は激しく回転した。
 ″今は世界広布の時代だ。山本先生も、これからは若い人がどんどん世界に出て、広宣流布を進めていくのだと言われている。俺も世界広布を夢見て活動してきたはずだ……″
 佐田と会う前に心はほぼ固まっていた。
 ″よし、ひとつ、ドイツの広布に人生を賭けてみよう!″
 北海道本部では、連絡を受けた佐田が雄勝の到着を待っていた。
 佐田は、彼を笑顔で迎えた。
 「よく来てくれた。ぼくと一緒にドイツの広布をやろうじゃないか!」
 それから、大きな声で世界に羽ばたく青年の使命を力説し始めた。佐田の全身にはドイツ広布への情熱があふれていた。
 現地での仕事について尋ねると、佐田は言った。
 「炭坑に行けば、働き口はいくらでもあるから、生活のことは心配ない。当面は炭坑で働き、基盤ができた段階で、君の場合なら自動車の整備関係の仕事をするなど、別の職業にかえてみてはどうかね。大事なことは、広宣流布のために、ドイツに骨を埋める覚悟があるかどうかだよ」
 佐田の言葉に、雄勝はきっぱりと答えた。
 「わかりました。ドイツに骨を埋める覚悟で、一緒にまいります。よろしくお願いします」
 これで、決まったのだ。
21  新航路(21)
 メンバーの最年少は、青山大五という、釧路で調理師をしていた、二十歳の青年であった。
 彼は、同じ店に勤めていた、調理師仲間の田丸進司という青年から、仏法の話を聞き、一九六三年(昭和三十八年)の十二月に信心を始めた。
 二人は、ともに学会活動に励んだ。そして、『大白蓮華』の巻頭言として山本会長が書いた、「青年よ世界の指導者たれ」を読んでは、必ず、世界に雄飛しようと語り合ってきた。
 釧路には、かつて、佐田幸一郎が勤めていた炭鉱があり、地元の組織の人たちは、佐田のことをよく知っていた。
 ドイツ広布のパイオニアになった佐田は、釧路の同志の誇りであり、青山も田丸も、地区の人たちから、何度となく、佐田のことを聞かされていた。
 二人は、その佐田が、一緒に西ドイツに行き、広宣流布のために頑張りたいというメンバーを募っているとの話を、先輩幹部から聞いたのである。
 青山と田丸は、ぜひ、西ドイツに行きたいと思った。迷いはなかった。
 彼らは、佐田に会うと、必死になって訴えた。
 「西ドイツに連れて行ってください! 世界広布のために戦いたいのです」
 「しかし、西ドイツに行っても、苦労は多いぞ。ドイツ広布に人生を賭ける覚悟はあるのか」
 すぐに、元気な言葉がはね返ってきた。
 「もちろんです! 広布のための人生であると、決めています」
 佐田も、彼らの心意気に打たれた。
 二人の西ドイツ行きは、決定をみた。
 札幌の長内耕作という青年も、山本会長の「青年よ世界の指導者たれ」を読んで、五体に電撃が走るのを感じた一人であった。
 彼は、決意した。
 ″よし、俺も広宣流布のために海外に出よう!″
 その日から彼は、″三年以内に、海外に雄飛させてください″と、懸命に祈り始めた。
 佐田が、西ドイツに渡るメンバーを探していると聞いたのは、それから一年後のことである。
 長内は、大学の夜間部で、第二外国語はドイツ語をとったことから、ドイツには親しみがあった。
 ″これは、御本尊が与えてくださったチャンスにちがいない。自分が願ってきたのは、まさに、このことではなかったのか!″
 彼は雀躍した。
 そして、佐田と会って、西ドイツ行きを申し出たのである。
22  新航路(22)
 西ドイツに渡ることになったメンバーは、皆、ただ一途に、広宣流布のために生き抜こうと、決意を固めていた。
 家も、財産も、社会的な地位や名誉も、眼中になかった。楽をしようとか、他人よりいい思いをしたいなどといった考えも、微塵もなかった。
 仏法の厳然たる法理に照らして、人間としていかに生きるべきかという思索のうえから、人類の幸福と平和を実現する広宣流布こそ、最高最極の人間道であると結論し、広布に人生を捧げる決意を固めていたのである。
 それは、彼らだけでなく、多くの創価の青年たちの思いでもあった。
 自分のみの、小さな目先の幸せを追い求め、汲々としている人間には、その精神の崇高さは、決してわかるまい。
 日蓮大聖人は、こう仰せである。
 「魚は命を惜む故に池にむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもにばかされて釣をのむ
 これは、有名な「佐渡御書」の一節である。
 魚は自分の身を守るために、池の底に穴を掘って生息しているが、餌に騙され、釣り上げられてしまう愚かさを述べている。
 そして、次のように御指摘されている。
 「人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし
 生命は尊厳無比である。これに勝る財宝はない。そうであるからこそ、この一生をいかに生き、その尊い生命を、なんのために使うのかが、最重要のテーマとなる。
 大聖人は、仏法のため、すなわち、広宣流布のために、命を使っていきなさいと言われているのである。なぜならば、そこに、一生成仏という絶対的幸福境涯を確立しゆく、直道があるからである。
 メンバーは、皆、それを確信していた。
 ″広宣流布のためなら、どんな苦労も厭うまい。どんなところへも行こう″というのが、学会の青年部の心意気であった。
 彼らを喜んで送り出した家族の多くもまた、同じ心であった。
 札幌で男子部の班長をしていた小野田栄治という青年は、西ドイツに行くことを決意すると、近くに住む母親を訪ねた。
 彼は、六人の兄弟の三男であり、長男と父親は既に他界し、母親は次男夫婦と一緒に暮らしていた。
23  新航路(23)
 一家で最初に入会して、家族の反対のなかで信心を貫き、小野田栄治に仏法を教えてくれたのも母親であった。
 小野田は、母親に、ドイツの広宣流布に尽くしたいとの希望を告げ、居住まいを正して言った。
 「母さん、西ドイツに行ってもいいですか」
 母親の声は、驚くふうもなく、穏やかだった。
 「何年、行くのかい」
 彼は、ドイツに骨を埋める覚悟であったが、母親を心配させまいとして、こう答えた。
 「二年間だけ……」
 すると、意外な言葉が返ってきた。
 「せっかく、行くのなら、一生涯、ドイツ広布に生き抜きなさい。どんなことがあっても、御本尊を抱きしめて、絶対に退転せずに、頑張り通しなさい。
 そして、そこで幸せな人生を築いていくんです」
 彼は、母の言葉を、熱い涙で聞いた。
 西ドイツに渡るメンバーは、早速、渡航手続きを開始した。
 メンバーにとって、大きな課題は、いかに渡航費用を捻出するかであった。
 皆、貯金もなく、それまで勤めていた会社の退職金をあてても、渡航費用には及ばなかった。そのため、アルバイトなどをして、渡航の費用をつくらなければならなかったのである。
 メンバーの出発の日は、八月十二日と決まった。
 札幌の男子部の、ある中心幹部は、地元から五人のメンバーが西ドイツに渡ることを知ると、何回かにわたって、特別研修会を開いてくれた。
 ドイツで、しっかり仏法の精神を伝えきっていけるようにとの配慮である。
 多忙ななか、五人のために時間をつくり、御書をはじめ、学会の歴史などを講義してくれたのである。
 彼らは、その真心に胸を熱くしながら、一つ一つを生命に刻みつける思いで、講義を聴いた。
 また、この五人に、出発の記念に万年筆を贈ってくれた。その一本一本には、法華経化城喩品の「常与師倶生」(常に師と倶に生ぜん)の文字が、一文字ずつ彫り込まれていた。
 たとえ、いかなる地にいようが、常に人生の師たる山本会長とともに、広宣流布に生きていることを忘れず、五人がしっかり団結して進むようにとの、思いを込めた餞別であった。
 さらに、男子部の班長以上の幹部が北海道本部に集い、盛大に壮行会を開いてくれたのである。
24  新航路(24)
 十人の男子部員が渡航の準備を進めていた、六月の末、日本に帰っていた諸岡道也のもとに、西ドイツの友人から手紙が届いた。
 手紙には、西ドイツの景気は、急速に悪化し始め、解雇される外国人労働者が増えているとあった。
 不安を感じた諸岡は、佐田幸一郎と相談した。そして、諸岡が、渡独メンバーで学生の砂山照夫を連れて、先発隊として出発することになった。
 実は、諸岡は、この日本滞在中に結婚式を挙げることになっていた。妻となるのは、安西三千代という、中学時代に同級生であった女子部員である。
 また、彼女の弟の安西明人も、西ドイツに渡るメンバーに入っていた。
 諸岡は、七月九日に結婚式を挙げると、妻の三千代を残して、砂山と二人で、すぐに日本を発った。
 三千代は、新婚旅行もせずに、西ドイツに行く新郎に戸惑いを覚えたが、広布のために、懸命に頑張ろうとしている夫の姿に、頼もしさを感じた。
 一方、佐田幸一郎もまた、北海道の壮年の幹部の紹介で、七月十一日に、川田雪子という女子部員と見合いをした。
 彼女は、高校二年生の時に父親を亡くしていた。
 佐田は言った。
 「ぼくの場合は、父を早く亡くし、小学校も満足に行けませんでした。母も十八歳で亡くしました。
 だから、学歴も、財産も、何もありません。ぼくの唯一の財産は、信心です。御本尊への確信と、山本先生の指導を実践し抜くという決意は、誰にも負けない自信があります。
 ところで、急な話で申し訳ありませんが、一カ月後の八月十二日には、ぼくは西ドイツに出発することが決まっています。
 『イエス』でも『ノー』でも結構ですから、明日の朝までに返事をいただけないでしょうか」
 わずか一時間ほどの語らいである。
 雪子は面食らった。しかし、どこかに、心引かれるものがあった。率直で、温かい人柄であると思った。
 その夜、彼女は、夜通し唱題した。
 ″御本尊様! 三世を見通す仏様の眼から見て、あの方は、ともに広宣流布に生きて、ともに幸せになれる方なのでしょうか″
 必死に祈った。東の空が白々とし始めたころ、″この人と生きていこう″という強い思いが、胸に込み上げてきた。
 雪子の心は決まった。
 彼女が結婚の意向を母親に伝えると、家族はこぞって反対した。
25  新航路(25)
 川田雪子の家族が、彼女と佐田幸一郎との結婚に反対したのは、当然のことといえよう。
 前日に、初めて一時間ほど会っただけで、まだ、相手のこともよくわからないまま、すぐに結婚するというのである。
 しかも、結婚後は、言葉さえわからない、西ドイツの炭鉱で暮らすことになるのだ。
 母親は、目に涙を浮かべながら訴えた。
 「あんたは、父親を亡くして、洋服一つ買うでもなく、おしゃれを楽しむこともなく、娘ざかりを、一生懸命に働いて、妹や弟のために頑張ってくれた。
 だから、あんたには、誰よりも幸せになってもらいたい。私は、そのことを祈り続けてきたんだよ。
 ところが、どんな人かもよくわからない男と一緒になって、遠い異国に行くという。苦労は、目に見えているじゃないか。
 これから、どんなに苦労をしなければならないのかと思うと、不憫で不憫で、私は、とても、そんな結婚を認めるわけにはいかないんだよ」
 雪子には、娘を思いやる母親の気持ちが、痛いほどよくわかった。温かさが胸に染みた。
 しかし、彼女の心は変わらなかった。
 「お母さんの心配はもっともだし、ありがたいと思います。でも、私の決意は変わりません。
 あの人と、ドイツの広宣流布のために、働きたいんです。それが、私の使命ではないかという気がするんです。
 必ず、幸せになって、親孝行しますから、結婚させてください」
 彼女は、両手をつき、畳の上に額をこすりつけるようにして頭を下げた。
 その姿を、母親はじっと見ていた。
 しばらくして、雪子の頭上に、母親の声が響いた。
 「あんたが、そこまで決心しているなら、もう、私は何も言わないよ。
 そのかわり、あの人と一緒になって、西ドイツに行くなら、何があっても、五年間は、うちの敷居はまたがない覚悟で行きなさい。
 中途半端な決意じゃ、何もできやしないよ」
 雪子の目にも涙があふれていた。彼女も全くその通りだと思った。
 「ありがとう、ありがとう、お母さん! 必ず、頑張り抜きます。見ていてください!」
 彼女は、母親の手を、ぎゅっと握り締めた。
 佐田と雪子が結婚式を挙げたのは、見合いから十日後の、七月二十一日のことであった。
26  新航路(26)
 七月の下旬に、山本伸一は、佐田幸一郎からの手紙を受け取った。
 そこには、佐田と一緒に西ドイツに行く十人のメンバーが決まり、八月の十二日に出発する予定であることが記されていた。
 また、そのメンバーの一人は、先発隊として、諸岡道也とともに、既に出発したこと、さらに、自分も諸岡も、結婚式を挙げたことなどがつづられていた。
 手紙に目を通すと、伸一は、側近の幹部に言った。
 「間もなく、総本山で夏季講習会が始まるから、男子部の講習会の時に、招待してあげよう。
 そこで、全国の同志に紹介してあげれば、意気揚々と出発できるじゃないか」
 西ドイツに行く青年は、北海道から八人、神奈川から二人である。
 北海道のメンバーは、八月初めに、それぞれ、同志に見送られ、北の大地を後にした。
 そして、八月四日には、総本山で神奈川のメンバーと合流し、第二期の男子部の夏季講習会に参加した。メンバーが一堂に会するのは、これが最初である。
 講習会二日目の翌五日、伸一は、佐田をはじめとする渡航メンバーと一緒に、記念のカメラに納まった。
 「みんなと会えるのを、楽しみにしていたんだよ」
 伸一は、笑顔で語りかけた。彼は、皆が、どんな決意で、どんな思いで、西ドイツに渡ろうとしているのか、よくわかっていた。
 「ありがたいな……。
 皆さんこそ、広宣流布のパイオニアです。学会の宝です。
 誰かが、礎を築かなければならない。誰かが、道を開かなければならない。
 私とともに、また、私に代わって、世界広布を頼みます」
 その言葉は、メンバーの生命に、熱い感動の矢となって突き刺さった。
 夜には、大客殿で、全国の男子部幹部が集い、山本会長が出席して、指導会が開かれたが、この席上、西ドイツに渡るメンバーが紹介されたのである。
 「今度、青年部のなかから、西ドイツに渡るメンバーがいるので、紹介しておきます」
 伸一が言うと、青年部長の秋月英介が、一人ずつ、メンバーの名前を読み上げていった。
 名前が呼ばれるたびに、「はい!」と、力のこもった返事が響いた。
 その声は、若武者の出陣の雄叫びを思わせ、その瞳は、決意に爛々と燃え輝いていた。
27  新航路(27)
 佐田幸一郎を含め、十人の渡航メンバーの名前が読み上げられると、山本伸一は、一人ひとりと握手を交わして、励ましの言葉を贈った。
 横浜の大沢俊之という青年には、「しっかり団結していきなさい」と、また、札幌の浅田勝造という青年には、「健康に気をつけて頑張りなさい」と……。
 会場の参加者も、万雷の拍手をもって、彼らの出発を祝った。夏季講習会は、彼らの″壮行会″となったのである。
 メンバーは、感激の涙をこらえ、拳を握り締めながら、ドイツ広布への決意を固めたのであった。
 翌朝、メンバーは、夏季講習会の参加者の代表とともに、富士山に登った。
 山頂を仰ぎながら、これから先、何年も、この雄姿を見ることができないのだと思うと、一際、感慨深いものがあった。
 天にそびえる、秀麗にして勇壮な富士に、彼らは、皆、心で誓っていた。
 ″この富士のように、微動だにしない、広宣流布の信念をもって、堂々たる人生を生きよう!″
 総本山では、八日から、夏季講習会の第四期として、女子部と一緒に、海外メンバーの講習会が行われることになっていた。
 彼らは、一度、東京の宿舎に行き、この講習会に参加するため、八日に再び総本山へ向かった。
 これには、佐田幸一郎の妻の雪子と、諸岡道也の妻の三千代も参加した。
 ここでも、メンバーは、伸一と記念のカメラに納まり、指導会の折には、再度、講習会の参加者に紹介された。
 また、結婚早々、西ドイツに出発することになった佐田雪子と諸岡三千代は、伸一から、個人的に激励を受ける機会を得た。
 彼は、諄々と語った。
 「向こうでの生活は、想像以上に大変なはずです。しかし、絶対に負けてはいけません。必ず、幸せになっていくんです。
 それには、純粋な信心を貫き、お題目を唱えきっていく以外にありません。
 ご主人を支えていくのが妻です。あなたたちが、負けなければ、ご主人たちは頑張れる。何があっても、へこたれないことです。
 明るく、楽しく、使命のヒロインとして、人生の大ドラマを演じてください。
 私も、近々、西ドイツに行きます。その時に、またお会いしましょう」
 二人の夫人の決意は、この伸一の言葉で、いよいよ不動のものとなった。
 その彼女たちを、陽光に染まった富士が、微笑むように見つめていた。
28  新航路(28)
 その日も、灼熱の太陽が燃えていた。
 八月十二日の昼、佐田幸一郎をはじめ、西ドイツに渡る一行十二人は、三、四十人の同志に見送られて、バイカル号で横浜港を出発した。
 渡航費用を少しでも安くするために、船でソ連(当時)のナホトカに行き、そこから、列車と飛行機を乗り継いで大陸を横断するという旅となった。
 メンバーの荷物は、それぞれ、トランク一つに納まってしまった。
 持っていったものといえば、御本尊以外は、当座の着替えの衣類と、御書や学会の書籍ぐらいのものであった。
 しかし、皆の胸には、広布への大きな希望が、いっぱいに詰まっていた。熱い血潮が、怒涛のごとく、脈打ち、あふれていた。
 一方、そのころ、先発隊として先に西ドイツ入りしていた、諸岡道也は、必死になって、青年たちの受け入れ先を探していた。
 諸岡が西ドイツに来てみると、友人が手紙で知らせてきたように、確かに、景気は悪くなっていた。
 当初、メンバーを受け入れてもらうことになっていた、カストロプラウクセル市の炭鉱も、外国人労働者を採用する余裕はなくなったとのことで、就職の道が閉ざされてしまったのである。
 諸岡は、全身から血の気が引く思いであった。
 ″みんな、既に仕事も辞めてしまっている。今更、西ドイツ行きを中止にするわけにはいかない。なんとかしなければ……″
 諸岡は、皆が来るまでには、受け入れ先を決めようと、日々、奔走した。しかし、どこからも採用の返事はもらえなかった。
 そして、遂に、メンバーは、日本を出発してしまったのである。
 一行が、西ドイツのドルトムント駅に着いたのは、現地時間で、八月十八日の朝のことであった。
 駅には、諸岡や砂山をはじめ、西ドイツの各地に住んでいる日系の婦人メンバーが、二百キロメートル、三百キロメートルもの距離を、ものともせずに駆けつけ、大歓迎してくれた。
 出迎えの人たちと握手を交わすと、メンバーの長旅の疲れは吹き飛んだ。
 「お出迎えいただき、ありがとうございます!」
 あいさつをする青年たちも、迎える婦人たちも、笑顔がまばゆかった。
 だが、そのなかで、ただ一人、諸岡の顔だけが暗かった。
29  新航路(29)
 ドイツでは、八月の二十九日に、欧州総会と初の欧州文化祭が、フランクフルトで開催されることになっていた。
 日本から来た青年たちは、この総会までは、メンバーの家に分宿させてもらい、総会の準備にあたることになっていたのである。
 皆を、それぞれの宿泊先に送り出すと、諸岡道也は佐田幸一郎に言った。
 「佐田さん、カストロプラウクセルの炭鉱は、今は、外国人を雇うゆとりはないと言っていますし、いろいろあたってみましたが、ほかの炭鉱も受け入れてはくれません」
 「そうか……」
 こう言ったきり、佐田は黙り込んでしまった。
 一応の覚悟はしていたものの、諸岡から聞かされた実情の厳しさに、大きな衝撃を覚えたのである。
 このままでは、自分を信じて西ドイツに渡って来た青年たちが、路頭に迷ってしまうことになる。
 もともと、佐田の考えで始めたことなのだ。
 ″山本先生には、仕事の面は、いっさい問題はありませんと言ってきたが、こんな事態になっていることを先生が聞かれたら、激怒されるにちがいない。
 俺のせいだ。人を呼ぶなら、もっと周到に準備をすべきだった。俺は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない″
 彼は、自分を責めた。どんなに責めても、責めたりない気持ちだった。
 「それで、これから、どうしますか……」
 諸岡の声で、佐田はわれに返った。
 彼は思った。
 ″悔やんでいても、何も開けるわけではない。結論は、山本先生の、大切な、大切な弟子を、路頭に迷わせては絶対にならないということだ。
 題目しかない。必死になって唱題すれば、道は必ず開けるはずだ″
 佐田は、自らを鼓舞しながら、諸岡に言った。
 「祈ろう。真剣に唱題しよう。そして、あたれる限りの炭鉱をあたろう。御本尊があるんだから、絶対に大丈夫だよ」
 西ドイツに到着した青年たちは、自分たちの手で、欧州総会と文化祭を大成功させるのだと、意気軒昂であった。
 文化祭では、不屈の信仰を貫いた、四条金吾の演劇を上演しようということになり、そのための準備と練習に余念がなかった。
 また、各地区の地区部長らとともに、メンバーの家を回って激励にあたり、総会への参加を呼びかけていった。
30  新航路(30)
 欧州総会の準備を進めながら、佐田幸一郎と諸岡道也は、懸命に青年たちの受け入れ先を探した。
 しかし、いっこうに、めどは立たなかった。
 八月二十九日、フランクフルトのホールで、欧州総会並びに欧州文化祭が晴れやかに行われた。
 西ドイツはもとより、イギリス、フランス、イタリアなどから、五百人のメンバーが参加し、会場は、新たな出発の息吹に満ちあふれていた。
 設営や整理役員など、この行事の推進力となったのも、日本から渡った青年たちであった。
 また、文化祭での、彼らの演劇「四条金吾」も、大好評を博した。
 だが、佐田と諸岡の心は晴れなかった。まだ、青年たちの受け入れ先が決まっていなかったからである。
 ところが、なんとこの日になって、諸岡のもとに連絡が入り、彼が頼み込んでいた、デュイスブルクのハンボーンの炭鉱が、皆を雇ってくれることになった。
 二人は、手を取り合って喜んだ。
 しかし、当面は、男は炭鉱の寮で共同生活をすることになるため、佐田も、諸岡も、妻と別れて暮らすことになったのである。
 彼女たちは、しばらく、ドイツの婦人部の家に、それぞれ、寄宿させてもらうことになった。
 二人の新妻にとっては、あまりにも心細く、悲しい″新婚生活″のスタートであった。
 だが、佐田雪子も諸岡三千代も、「私のことは心配しないで、元気に頑張ってください」と、笑顔で夫と別れたのである。
 それでも、夫の姿が見えなくなると、二人とも、声をあげて泣き出したい思いにかられた。
 それを必死になってこらえ、″負けちゃあだめ! 頑張るのよ!″と、自分に言い聞かすのであった。
 夫を思えば、溜め息が出る。日本を思えば、涙があふれる。
 だから、ただ、ただ、前を見つめた。ドイツ広布の希望の未来に思いを馳せ、わが人生の師と定めた山本会長を思った。
 総会の三日後の九月一日から、青年たちの炭鉱での生活が始まった。
 最初の一カ月間は、仕事で必要な最低限のドイツ語の学習や、機械・用具の扱い方、保安教育などの研修にあてられた。
 そして、十月一日から、坑内での作業となった。佐田と諸岡以外は、炭鉱の仕事は初めてであった。
31  新航路(31)
 地下約一千メートルの採炭現場での作業は、青年たちにとって、想像以上に過酷な仕事であった。
 作業現場は、摂氏三〇度を超える暑さである。
 全身から滝のように汗が流れ、携帯していた二リットルの容器に入った飲み物は、すぐになくなった。
 皆、しばらくは、疲労困憊して、食事も喉を通らない日が続いた。
 また、手袋をしても、手はマメだらけになり、飛び散る石などで、生傷も絶えなかった。落盤も珍しくなかった。
 彼らは、慣れぬ重労働に耐えかね、何もかも投げ出して、日本に帰りたいと思うこともあった。
 しかし、そんな時には、″俺は広宣流布のために、自ら願ってここに来た。くじけるものか!″と、自分に言い聞かせた。
 仕事が終わり、地上に出ると、″今日も勝ったぞ″という喜びに満たされた。
 そして、炭塵で真っ黒になった顔に、白い歯を浮かべて、「地下から出てくる俺たちこそ、まさに地涌の菩薩だ」と、互いに肩を叩き合い、大笑いした。
 寮では、皆で給料を一カ所に集め、そこから、必要なものを購入していった。
 彼らが最初に買ったものは、学会活動のための車であった。この車でアウトバーン(高速自動車専用道路)を疾駆し、ドイツ広布への誇らかな前進を開始していったのである。
 また、青年たちは、競い合うようにして、ドイツ語や教学の勉強に励んだ。寮のなかで、彼らの部屋だけは、深夜まで明かりが消えることがなかった。
 青年たちをまとめ、仕事と活動に明け暮れる佐田幸一郎と諸岡道也は、妻と会う機会も、なかなかつくれなかった。
 ある時、佐田は久し振りに、妻の雪子と会った。美しい満月の夜であった。
 彼は、月を指さすと、言葉少なに語った。
 「あのお月様は、日本のお母さんも見ているお月様だ。だから、雪子は、独りぼっちじゃないんだよ」
 それから彼は、雪子を見つめて言った。
 「みんな、慣れない炭鉱の仕事をして、苦しいなかで、必死になって頑張っている。みんなにとっては、ぼくが頼りであり、支えなんだ。
 雪子とは、なかなか会えないが、ぼくの心はわかってくれるね」
 彼女は、黙って頷いた。その目に涙が光り、声をあげて泣き始めた。
 広布に生きる、温かい夫の心に包まれている嬉しさに、雪子は泣いたのである。
32  新航路(32)
 一念は大宇宙を動かす。
 「因果倶時」であるがゆえに、今の一念に、いっさいの結果は収まっている。
 口先だけの「決意」などありえない。
 「決意」には、真剣な祈りがある。ほとばしる気迫がある。懸命な行動がある。そして、必ずや輝ける勝利がある。
 妙法流布のためには、いかなる苦労も引き受けようと決意し、青年たちが西ドイツに渡った瞬間に、既にドイツの広宣流布の大前進は、決定づけられたといってよい。
 やがて、待ちに待っていた朗報が、彼らのもとに届いた。
 十月十一日、ヨーロッパ本部長であった川崎鋭治が西ドイツに来て、山本会長の一行は、二十日からヨーロッパを訪問し、二十二日に西ドイツ入りすることが正式に決まったと、伝えたのである。
 ″山本先生は、約束された通りに、ドイツに来てくださるんだ!″
 皆の顔に、喜びの光が差した。炭鉱での、慣れぬ労働の疲れも吹き飛んだ。
 「到着まで、期間は短いが、ここまで広布を推進しましたと、胸を張って言える結果をもって、先生をお迎えしようじゃないか!」
 メンバーの一人が、こう提案した。誰もが、同じ思いであった。皆、即座に同意した。
 彼らは、今という「時」の重要性を感じていた。
 今、立ち上がってこそ、未来の勝利がある。今日を切り開いてこそ、明日の栄光がある。
 この時の打ち合わせで、二十三日には、フランクフルトで、教学試験や指導会を行うことなどが、決定したのである。
 皆の学会活動に、一段と拍車がかかった。また、教学試験には絶対に合格しようと誓い合い、御書の研鑽にも力がこもった。
 こうして、皆が大歓喜のなかに、伸一の到着の日を迎えたのである。
 フランクフルトの空港を歩きながら、山本伸一は、佐田幸一郎に言った。
 「若鷲たちが飛び立ったね。本当に嬉しい。
 二十一世紀の広布の山をめざして、凛々しく飛翔していく、みんなの姿が、私の胸には、一幅の名画となって広がっている。
 だが、ひとたび飛び立ったからには、途中で翼を休めるわけにはいかない。飛翔に失敗すれば、落下するしかない。負けるわけにはいかないんだ。
 特に、この一年が勝負になる。『今』が大事だ。新しいドイツ広布の流れを開くのは『今』だよ」
33  新航路(33)
 ホテルに着くと、山本伸一は、同行の幹部に、佐田幸一郎、諸岡道也を加え、ドイツの組織の新しい布陣の検討に入った。
 伸一は、佐田に言った。
 「実は、今回、ヨーロッパ本部を分割し、フランス方面を第一本部とし、ドイツ方面を第二本部にすることになった。
 事後承諾になるが、既にパリで、第二本部長は、佐田君ということで発表してしまったんだよ。また、諸岡君を副本部長に任命したいんだが、二人とも、引き受けてくれるね」
 二人は、「はい」と言って頷きはしたが、驚きの表情を隠せなかった。
 しばらくして、佐田が、申し訳なさそうな顔をして言った。
 「どんなことでもやらせていただく決意でおりますが、私には、なんの力もありません。正直なところ、そんな大任を、全うできる自信がないんです」
 伸一は、笑みを浮かべて語り始めた。
 「やる前から、自信のある人なんていやしないよ。もし、そういう人がいるなら、甘く考えているか、慢心といえるだろう。
 日本では、野球といえばジャイアンツの長嶋といわれているが、今では、野球の天才と称えられている彼だって、最初は自信などなかったはずだ。
 どうすればもっと打てるようになるのか、何が問題なのかを考え、徹底して練習し、工夫を重ねていったにちがいない。
 そのなかで、″こうすれば打てる!″″こうすれば勝てる!″という感触をつかみ、挑戦してみる。しかし、なかなか思った通りにはいかない。そこでまた、研究・工夫し、練習する。
 その繰り返しのなかで、″打てた!″″勝てた!″という体験が生まれ、やがて、それが確かな自信につながっていく――。
 自信なんて、一朝一夕につくものではない。最初はなくていいんだ。
 大切なのは、挑戦していく心だ。挑戦し続ける勇気だ。何があっても、くじけず、あきらめず、投げ出さずに進んでいこうとする持続の力だ。
 佐田君は、この人事を、自分の使命であると決めて、まず一年間、走り抜いてみることだよ」
 「わかりました。力はありませんが、精いっぱい頑張ります」
 佐田の元気な声が返ってきた。
 それから、組織の検討が始まり、フランクフルトとニュルンベルクの、二つの支部を新設し、ドイツは三支部でスタートすることなどが決まった。
34  新航路(34)
 翌日、山本伸一は、朝から正本堂の建築資材などを見て回り、秋月英介、岡田一哲、西宮文治の三人は、フランクフルトの女子高校の視察に出かけた。
 創価大学、創価高校を設立するための参考として、市内の高校の視察を申し入れていたのである。
 秋月たちは、まず、一クラスの人数が、十二人から二十五人と聞かされて驚いた。当時の大多数の日本の高校と比べると、半分以下であったからだ。
 また、授業も、生徒の質問を中心に進められ、個人に光を当てた教育をめざしていることが実感された。
 午後三時半からは、秋月らの同行の幹部の担当で、フランクフルト郊外の集会所を借りて、教学試験が実施された。
 そして、午後六時過ぎ、伸一とドイツの代表との会食が、フランクフルト市内の中華料理店で行われたのである。
 伸一が、会場に姿を現した時には、既に全員がそろっていた。
 「どうも、お待たせしてすいません。
 正本堂の購入資材の検討で、手間取ってしまったものですから。まだ、このあとも、続きがあるんです」
 席は、円卓と長テーブルに分かれ、円卓には、伸一をはじめ、同行のメンバーが座るようになっていた。
 だが、伸一は、自分の席には着かず、ドイツのメンバーがいる長テーブルのところへ来て、尋ねた。
 「日本から来た青年たちは元気かい」
 「はい!」
 代表として招かれていた青年たちが、声をそろえて答えた。
 「嬉しいな、本当に嬉しい。広宣流布の新航路を開く使命を担った、大切な人たちだもの。
 みんなは、自分の仕事の都合などで、ドイツに来たのではなく、ドイツの人びとの幸福を願って、自らここまで来た。いわば、広布の志願兵といえる。
 その志を、日蓮大聖人は最大に御称賛してくださることは間違いないし、私も皆さんを、心から尊敬しております。
 どうか、何があっても負けないでいただきたい。負けないことが勝利です。
 今日は、会場の関係で、全員をお呼びすることができなかったが、皆さんのために、日々、題目を送っています」
 それから、伸一は、ヨーロッパ本部を総合本部とし、ヨーロッパは二本部の布陣となり、ドイツを中心に第二本部が結成されることを発表し、その人事を紹介していった。
35  新航路(35)
 山本伸一は、さらに、ドイツの新しい組織について語った。
 「ドイツには、これまでのドイツ支部に加えて、新たにフランクフルトとニュルンベルクの、二つの支部をつくります。
 これから発表する皆さんは、それぞれ支部長、支部婦人部長、また、男子部、女子部の責任者として、頑張っていただきたいと思います。
 もし、ご意見があれば、遠慮せずにおっしゃってください。なければ、決定とし、すぐに日本にも国際電話を入れて、聖教新聞にも発表します」
 伸一は、人事を読み上げていった。
 ドイツ支部長は、ヨーロッパ第二本部長になった佐田幸一郎が、兼任することになった。
 また、新設されたフランクフルト支部の支部長には副本部長兼任で諸岡道也が、ニュルンベルクの支部長には、日本から渡ったばかりの長内耕作が就いた。
 長内だけでなく、ほかの青年たちにも、大きな活躍の舞台が与えられた。
 大沢俊之はドイツ支部の、砂山照夫はフランクフルト支部の、安西明人はニュルンベルク支部の、それぞれ男子部の責任者に就任した。
 さらに、佐田の妻の雪子も、ドイツ支部の婦人部長となり、諸岡の妻の三千代は、ドイツの女子部の責任者となったのである。
 人事を発表したあと、伸一は尋ねた。
 「皆さん、これでよろしいでしょうか」
 「はい!」という、皆の明るい声が返ってきた。
 日本から来た青年たちが住んでいるデュイスブルクは、デュッセルドルフから、二、三十キロメートルのところであり、フランクフルトまでは二百五十キロメートルを超える。
 ニュルンベルクは、そこから、さらに二百キロメートル以上も離れている。
 そうした組織を担当するとなれば、時間を捻出することも、車のガソリン代など、交通費の経済的な負担も、大変であることはいうまでもない。
 しかし、不平や不満を口にする人は、誰一人としていなかった。
 広宣流布の新航路を開こうと決めた、信念の勇者には、労苦の波浪は、決して障害とはならない。むしろ、波浪が高ければ高いほど、闘魂を燃え上がらせるものだ。
 やがて、料理が運ばれてきた。伸一は、自分の席に着くと、皆に視線を注ぎながら言った。
 「さあ、いただこう。今日は新出発のお祝いだ」
36  新航路(36)
 食事が始まった。
 「遠慮しないで、おあがりなさい」
 山本伸一は、炭鉱で働く青年たちに料理を勧めた。
 彼は、出発前に日本で会った時よりも、青年たちが痩せていることが、気になっていた。
 炭鉱での力仕事で、体が締まってきているのであろうが、食事も口に合わないのかもしれないと、彼は思った。
 事実、寮の食堂の料理には、青年たちの多くが、なかなか馴染めなかった。
 皆が、比較的、抵抗なく口にできたのがソーセージであったが、最初に、一、二度出されただけで、食卓に上ることはなくなった。
 実は、この寮には、イスラム教徒のトルコ人労働者が数多くおり、イスラム教では豚肉を食べることを禁じているため、以前から、豚肉は献立から外されていた。
 しかし、料理人が、日本人労働者のことを考え、彼らにはソーセージを出してくれたのだ。
 ところが、″食事は平等にすべきだ″との声があがり、ソーセージは食卓から消えてしまったのである。
 伸一に勧められ、料理を口にした彼らの顔に、笑みが広がった。
 「みんなは、若いんだから、どんどん、おあがりなさい。こっちのお皿も空にしなさい」
 伸一は、自分たちのテーブルの料理も、青年たちに回した。
 彼らにとっては、人生の師匠と定めた伸一の、その真心こそが、最高のご馳走であった。
 しばらくすると、諸岡道也が、伸一のところに来て言った。
 「先生! お願いがございます。ドイツでも機関紙を出したいと思います。それで、先生に、ぜひ、名前をつけていただきたいのですが……」
 「わかりました。みんなで考えた案はないのかい」
 「『セイキョウ・ツァイトゥング』という案がございます。″ツァイトゥング″というのは、新聞の意味です」
 「『セイキョウ・ツァイトゥング』か。すっきりしているね。それにしよう。新聞の名前というのは、複雑でないほうが、覚えやすくていいんだよ」
 「はい。ありがとうございます」
 「機関紙を作るというけど、カメラはあるの?」
 「いいえ」
 それを聞くと、伸一は笑いながら語った。
 「それじゃあ、しょうがないな。日本から持ってきたカメラをあげよう。応援したいんだ」
37  新航路(37)
 山本伸一とメンバーとの会食は、ほのぼのとした兄弟の語らいとなった。
 食事を終えると、伸一は言った。
 「まだ、私は、仕事が残っているので、これで失礼しますが、お会いできなかった皆様に、くれぐれも、よろしくお伝えください。お元気で!」
 皆、名残惜しそうに、伸一を見送った。
 このあとは、教学試験が行われた集会所で、秋月英介を中心に、指導会が開かれることになっていた。
 これには、西ドイツ各地から、約六十人の代表が駆けつけて来た。
 ここで秋月から、再度、組織の新たな布陣と人事が発表されると、大きな拍手がわき起こった。
 さらに、秋月は言葉をついだ。
 「先生は、この指導会のことを聞かれると、皆様へのメッセージを託されましたので、発表いたします。
 『本日は、お会いすることができずに残念ですが、私の心は、常に皆様とともにあります。私は、日々、皆様のご健康とご多幸を、祈り、念じて、お題目を送っております……』」
 当時、西ドイツのメンバーは、二百数十世帯になっていたが、その大多数は、アメリカの軍人と結婚し、夫の仕事の関係で渡独して来た婦人たちであった。
 したがって、伸一のメッセージも、婦人への励ましが中心になっていた。
 「特にご婦人の皆様は、見栄や虚栄に生きるのではなく、信心の輝きにあふれる、誰からも信頼される人になってください。
 信心の目的は『衆生所遊楽』にあり、生きていて、楽しくて、楽しくてしかたがないという人生を送ることにあります。
 その『衆生所遊楽』の国土は、どこか別のところにあるのではなく、今、自分がいるところにあります。
 自分のいる場所が、そのまま仏国土となり、常寂光土となると教えているのが仏法です。
 それを実現していくためには、今いる場所こそ、自身の使命の大舞台であると決めて、勇んで広宣流布に邁進していくことです。
 勇んで戦う人には、生命の躍動があります。希望の鼓動があります。歓喜の脈動があります。そして、絶対的幸福境涯への大道が開かれることは間違いありません。
 どうか、仲良く団結し、世界一のドイツ創価学会をつくっていってください」
 秋月がメッセージを伝えると、歓喜の拍手が、いつまでも鳴りやまなかった。
38  新航路(38)
 秋月英介は、拍手がやむのを待って、話を続けた。
 「また、先生は、ドイツの皆様にお贈りしようと、さきほど、和歌を詠まれましたので、ご紹介申し上げます。
  霊山の
    誓いも広し
      君ら西
    我ら東と
      白馬も雄々しく
 皆さん、大変におめでとうございます」
 またしても、大拍手がわき起こった。メンバーのなかには、感極まって、涙ぐむ人もいた。
 このあと、新任の幹部が次々と立ってあいさつしたが、いずれも、やらんかなの息吹に満ちあふれた、烈々たる決意発表となった。
 また、参加者全員に、伸一の揮毫の色紙や袱紗などが贈られ、感激のなかに指導会は終了した。
 秋月は、集会所の建物を出た。
 空には、星が美しく瞬いていた。
 熱気に満ちた場内とは打って変わって、外気は冷たかった。もう、冬が間近に迫りつつあることを感じさせた。
 「青年部長!」
 背後で声がした。
 振り返ると、佐田幸一郎をはじめ、日本から来た青年たちが駆け寄ってきた。
 息を弾ませながら、佐田が語った。
 「実は、今回、ドイツの男子部の歌を作りましたので、ぜひ、お聴きいただきたいと思いまして……」
 「それなら、さっき、先生に聴いていただけばよかったのに。では、先生にお伝えしますので、聴かせてください」
 青年たちは、集会所の前の庭で円陣を組んだ。淡い街灯の光に、彼らの紅潮した顔が映し出された。
 若き獅子たちの、はつらつとした歌声が響いた。
 一、朝もや払う
      アウトバーン
  若き血潮は燃えたぎる
  世紀の黎明 欧州に
  ドイツ部隊ここにあり
 二、先駆の道は厳しくも
  師匠の心を胸に秘め
  戦い抜かん どこまでも
  熱血たぎる革命児
 三、理想も高き我がドイツ
  集え若人 旗のもと
  不滅の哲理かかげつつ
  第三文明築かなん
 合唱が終わると、周囲にいたメンバーから、拍手が起こった。
 「力強い歌だね」秋月が言った。
39  新航路(39)
 秋月英介の言葉に、青年たちの顔には、笑みの花が咲いた。
 秋月は、称賛を惜しまなかった。
 「日本の各支部の、男女青年部の歌のなかにも、これほど力強い歌は、なかなかないよ」
 青年部では、この年の夏季講習会で、各支部ごとに男子部の歌、女子部の歌をつくることになり、日本全国の支部で、新しい歌が誕生していたのである。
 「いい歌だから、日本に帰ったら、男子部幹部会で紹介することにしよう。この歌の楽譜をくれないか」
 秋月が言うと、佐田幸一郎が、少し口ごもりながら答えた。
 「はあ……、つまり、その、楽譜といったものはありません。私たちのなかには、オタマジャクシが読める者は、一人もいないものですから」
 彼らが、歌の制作に取りかかったのは、九月十日のことであった。
 炭鉱の寮に集まり、作詞から始めたが、作詞といっても、それぞれが歌に入れたいと思う言葉を、持ち寄ってきたにすぎなかった。
 歌詞に使う言葉が、ある程度、決まったところで、二、三人の代表がそれを並べて歌詞をつくり、さらに全員で推敲を重ねた。
 歌詞は、どうにかできあがったが、問題は、作曲であった。
 作曲のできるメンバーなど、誰もいなかったからである。
 彼らは、思い思いに節をつけて、歌い合った。しかし、「今の節は良かったから、もう一度歌ってくれ」と言われても、二度と、同じように歌うことはできなかった。
 それでも、節をつないでなんとか曲にし、皆で歌いながら修正を加え、磨きをかけていった。
 ようやく歌が完成するまでに、一週間を要した。
 曲を忘れないために、歌詞を書いた紙の行間に、線で波を書き、音の高低だけはわかるように工夫した。
 また、学会活動をする時も、仕事をする時も、常にこの歌を口ずさんだ。
 自分たちの決意の歌としての、誇りがあった。
 秋月は、彼らの歌にほとばしる、作詞作曲の技術的な問題を超えた、熱い広布の心意気に感嘆しながら言った。
 「楽譜がないなら、今月の二十八日の男子部幹部会に間に合うように、歌をテープに吹き込んで送ってください。
 では、もう一度、ドイツの男子部の歌を聴かせてくれないか」
 「はい!」
 再び、若人の歌声が、夜空にこだました。
40  新航路(40)
 翌二十四日は、山本伸一たちの出発の日である。
 朝八時、西ドイツを発つ伸一を送るために、何人ものメンバーがホテルに駆けつけてくれた。
 伸一は、出発までのわずかな時間ではあったが、同志をねぎらい、ロビーで懇談のひと時をもった。
 彼は、皆の仕事の様子などを聞き、握手を交わしながら励ましていった。
 メンバーのなかに、元気そうにしていても、どこか疲れた表情をしている青年たちがいた。
 大沢俊之と砂山照夫、浅田勝造の三人であった。
 伸一は尋ねた。
 「顔色が優れないが、寝ていないのかい」
 大沢が答えた。
 「はい。昨夜から御本尊送りに行き、明け方に帰って来たものですから」
 昨夜、山本会長に会い、大歓喜した彼らは、会合が終わると、以前から仏法対話をし、入会を希望していたドイツ人の友人のところへ、御本尊送りに行ったのである。
 片道三時間という距離であったが、それをものともせずに車を走らせた。
 ドイツ広布への決意を新たにして、より早く、一人でも多くの人に信心をさせたいとの、強い思いがほとばしり、直ちに行動に移したのである。
 彼らは、友人の家で御本尊を御安置し、勤行・唱題すると、朝方、フランクフルトに戻った。
 そして、伸一が宿泊しているホテルの地下の駐車場に車を入れ、その車のなかで仮眠をとって、ロビーに現れたのである。
 彼らの話を聞くと、伸一は、あえて、厳しい口調で言った。
 「無理な活動や、非常識な行動をしては、絶対にいけない。
 事故を起こしたり、社会の顰蹙をかうようなことになれば、なんにもならないではないか!
 仏法は道理なんです。道理、常識を無視した活動というのは、一生懸命であっても、結局は自己満足にすぎない。
 そして、長い目で見た時には、社会の無用な反発をかい、かえって、広宣流布の邪魔をすることになってしまう。
 したがって、十分な睡眠を取り、きちんと食事をして、しっかり題目を唱え、はつらつと、常識豊かに活動を進めていくことだ。
 広宣流布の道は長い。その悠久の道を行くには、体を大事にし、元気でいなければならない。いいね!」
 伸一は、大切な、かわいい、ドイツの宝の弟子たちの健康を、何よりも心配していたのである。
41  新航路(41)
 三人の青年は、「はい」と返事はしたものの、意気消沈していた。
 すると、山本伸一は、笑いながら言った。
 「しかし、昨晩、すぐに御本尊送りに行くという、心意気はたいしたものだ。行動力があっていいね。青年らしいな」
 その言葉を聞くと、三人の顔に微笑が浮かんだ。
 「先生!」
 ニュルンベルク支部の支部長になった長内耕作が尋ねた。
 「御書には、『わたうども和党共二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし』とございますが、私たちがドイツに来たこともまた、この御文を実践していると考えてよろしいのでしょうか」
 この御文は、日蓮大聖人こそ、「法華経の肝心・諸仏の眼目」である妙法蓮華経の五字を、末法の始めに全世界に弘めていく先駆けであることをお述べになったあと、門下の在り方を示された個所である。
 すなわち、「わが一党の者は、二陣、三陣と日蓮に続いて大法を弘通して、迦葉や阿難よりも勝れ、天台や伝教をも超えていきなさい」と。
 伸一は、大きく頷いた。
 「そうだよ。世界広布をわが使命として立ち上がった君たちは、大聖人に続いている人たちであり、広宣流布の先駆けの人だ。
 そして、最高の法を弘通するがゆえに、一人ひとりが、迦葉、阿難や天台、伝教をも超えゆく人となる。
 御書に照らし、仏法の眼を開いて見るならば、広宣流布に生き抜く人生が、どれほどすばらしいかが、よくわかるものだ。
 また、今はわからなくとも、三十年、四十年とたった時には、それがすべて明確になる。しっかり頑張りなさい」
 「はい!」
 長内だけでなく、皆が声をそろえて返事をした。
 伸一は、時計を見た。もう時間はなかった。
 「お世話になりました。また、お会いしましょう」
 伸一は、こう言って、見送りの人たちに会釈をし、車に乗り込んだ。
 青年たちは、車の窓に顔をつけるように、口々に叫んだ。
 「先生、お元気で!」
 「必ず、またドイツに来てください!」
 「頑張ります!」
 車が走り出すと、青年たちも一緒に、手を振りながら走り始めた。その目に、涙が光っていた。
 伸一も、振り返って、皆の姿が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも手を振り続けた。
42  新航路(42)
 十月二十四日の午前九時三十五分にフランクフルトを飛び立った山本伸一の一行は、アルプスを越え、約一時間後には、次の訪問地である、イタリアのミラノに到着した。
 ミラノは、商工業の盛んな、北部イタリアの中心地である。
 ここでは、百三十五の尖塔がそびえ立つ、大理石造りのドゥオモ(大聖堂)をはじめ、正本堂建設の参考にするために、視察すべき建物が多かった。
 一行は、いったんホテルに入り、そこで打ち合わせを行った。
 同行のメンバーが集まって来ると、伸一は言った。
 「秋月君、いよいよスカラ座の訪問だね」
 秋月英介が答えた。
 「はい。私と岡田さん、西宮さんの三人で、午後四時半に、お訪ねすることになっていますが、総裁とお会いできるかどうかは、まだわかりません」
 スカラ座は、一七七八年の開場で、専属のオーケストラ、合唱団をもつ、イタリアのオペラ界の最高峰の歌劇場である。
 ベルディの「オテロ」や「ファルスタッフ」、プッチーニの「蝶々夫人」といった、名作とされるオペラの数々が、ここで初演されてきた。
 また、トスカニーニをはじめ、世界的な音楽家が、芸術監督、音楽監督として迎えられている。
 このスカラ座を日本に招聘し、芸術の国際交流を図るというのが、民音(民主音楽協会の略称)の創立者である伸一をはじめ、民音関係者の念願であった。
 そもそも、民衆が最高の芸術に触れる機会を提供することが、民音を創立した目的の一つであったからである。
 そして、今回、ミラノに寄り、民音の専任理事である秋月らがスカラ座を訪問し、招聘の交渉にあたることになったのであった。
 だが、秋月の表情は硬かった。彼は、緊張していたのである。それも、無理からぬ話であった。
 日本では、スカラ座の何人かの歌手を招いての公演はあったが、スカラ座全体を招聘するなど、日本のみならず、アジアでも例がなかったからである。
 日本の文化関係者や芸術関係者のなかには、民音がスカラ座を招聘したい意向であると聞くと、こう嘲笑する人もいた。
 「夢想だね。民音や学会に、スカラ座のような世界一の大歌劇団を呼べるわけがない」
 当時は、民音の創立者の伸一も、三十七歳の青年であったために、多くの人が甘く見ていたようだ。
43  新航路(43)
 山本伸一は、秋月英介の顔を見ると、笑いながら言った。
 「秋月君、心配しなくても大丈夫だよ。
 スカラ座には、どこまでも音楽の興隆のために尽くそうという、誇り高い精神を感じる。
 その伝統を受け継ぐ音楽の担い手たちが、民衆の新たな大音楽運動を推進している民音に、関心をもたないわけがないと、私は確信している。
 どこまでも誠実に、そして、懸命に、民音の理念、精神を訴えようよ。
 できることなら、私も、総裁とお会いしたいが、私は、民音の創立者ではあっても、民音を代表する立場ではない。また、正本堂の資材の買い付け等も、すませておかねばならない。
 今回の交渉は、民音の専任理事である君に任せるから、いっさいの責任と、自信をもって、堂々と対応してほしい」
 秋月は、伸一の言葉を聞くと、勇気がわいてきた。
 夕刻、秋月たちは、スカラ座に出かけていった。
 彼らは、まず、石造りの外観の重厚さに感嘆した。三千六百といわれる観客席(かんきゃくせき)は、一階フロア席のほか、六層になっており、天井には、シャンデリアが絢爛たる光を放っていた。
 応接室に通されて間もなく、精悍な顔立ちをした、銀髪の紳士が現れた。
 アントニオ・ギリンゲッリ総裁であった。
 秋月は、最初の訪問で、直接、総裁とは会えないかもしれないと思っていただけに、喜びは大きかった。
 互いの自己紹介のあと、秋月の話が、民衆音楽運動の興隆や国際交流など、民音の目的と活動に及ぶと、総裁の瞳は輝き、満面に、微笑が広がった。
 秋月は、確かな手応えを感じながら、話を続けた。
 「したがいまして、国際交流のためにも、若い芸術家を育成するためにも、私どもはスカラ座を日本にお呼びしたいのです。ぜひ、日本で公演してください」
 総裁は、頷きながら、明快に語った。
 「お話の趣旨は、よくわかりました。私も、原則的には賛成です。私どもは、″音楽使節″としての意義を感じておりますし、文化・芸術の交流は、常に心がけていることです。
 しかし、既に、来年も、再来年も、ソ連やカナダ、アメリカなどの公演予定が入っておりますから、六八年以降ではいかがでしょうか。
 演目や公演の期日など、具体的な問題については、今後、担当者と詰めていただければと思います」
 秋月の顔に光が差した。
44  新航路(44)
 秋月英介は、ホテルに戻ると、早速、山本伸一に報告した。
 「そうか。それはよかった。秋月君の一念だね」
 秋月は、音楽・芸術の国際交流という、民音の使命を果たすために、スカラ座の招聘が実現することを、ひたすら祈り、唱題し続けてきたのである。
 伸一は、言葉をついだ。
 「音楽・芸術には、国家や民族の違いを超えて、相互理解を深め、民衆と民衆の心を結ぶ力がある。
 音楽・芸術をもって、世界中の人びとの心を結ぶことが、私の願いでもある。
 十二月には、フランク・ペレグ氏を招聘することになっていたね」
 「はい。十二月の十五日に来日の予定です」
 秋月が答えた。
 ペレグは、イスラエルのピアニストで、民音によって招聘される、海外の音楽家の第一号であった。
 最初に、ヨーロッパやアメリカの音楽家ではなく、イスラエルのピアニストを招くことにしたのは、日本とほとんど交流のないイスラエルへの理解を、音楽を通して深めたいとの考えによるものであった。
 伸一は、秋月を笑顔で包みながら言った。
 「スカラ座の日本への招聘は、これから始まる民音の国際交流の、大事なホシになるだろう。
 スカラ座というのは、ミラノの、いや、イタリアの人びとの誇りであり、平和の象徴といってよい。
 スカラ座は、第二次世界大戦で破壊されたが、戦火がおさまったあと、ミラノ市民は、最初に、スカラ座の再建にとりかかったという、有名な話がある。
 スカラ座の日本への招聘が実現したら、すごいことになるぞ。
 ともかく、焦らずに進めよう。私も、全面的に応援するからね」
 秋月は決意を新たにし、″必ず実現させよう″と心に誓いながら、伸一の部屋を後にした。
 彼は、翌日、再びスカラ座を訪ね、招聘の大綱についての話し合いを行った。
 さらに、秋月は、翌年の四月、海外の芸術団体の招聘に詳しい、バレエ団の代表に同行してもらい、スカラ座を訪問した。
 ギリンゲッリ総裁と、公演日程等の詳細な打ち合わせを行うためであった。
 そして、公演は、一九六八年(昭和四十三年)に実施することで合意し、仮契約を結ぶに至った。
 だが、実現への道程は遠かった。その後、来日の予定は七〇年(同四十五年)に変わり、それも先方の経済事情などから、暗礁に乗り上げてしまうのである。
45  新航路(45)
 民音としては、引き続いて、スカラ座の来日公演の実現のために努力を続けたが、ギリンゲッリ総裁が亡くなり、後任のパオロ・グラッシ総裁も、数年後には病のために引退したこともあり、事態はなかなか進展しなかった。
 山本伸一は、表面に出ることはなかったが、民音の創立者として、公演の実現に手を尽くし、さまざまな機会に、あらゆる関係者に協力を呼びかけてきた。
 そして、一九八一年(昭和五十六年)秋、スカラ座の日本初公演(ミラノ・スカラ座日本招聘委員会主催、民音・朝日新聞社共催)が、遂に、実現の運びとなったのである。
 実に、秋月英介が最初にスカラ座を訪問し、交渉を開始してから、十六年近くがたっていた。
 その年の六月、伸一は、再びミラノを訪れた。
 そして、ミラノ市庁舎に、スカラ座の理事会の理事長でもある市長を、表敬訪問した。
 市長は、決定をみたスカラ座の日本公演を心から喜び、市の銀メダルを伸一に贈った。
 さらに、伸一は、スカラ座を訪問し、カルロ・マリア・バディーニ総裁らと会談したのである。
 総裁は言った。
 「民音の創立者をお迎えできて、大変に光栄です。民音とスカラ座は、深い友情で結ばれております」
 また、日本公演への決意を披瀝し、「この公演は、山本先生の力がなければ、実現しなかったでしょう」と語るのであった。
 総裁は、伸一の陰ながらの奮闘を、よく知っていたようだ。
 伸一は、音楽・芸術をもって民衆の心をつなぐという彼の理想を、スカラ座が理解し、賛同してくれたことが、何よりも、ありがたく、嬉しかった。
 こうして、総勢約五百人という、世界的にも特筆すべき、壮大にして華麗なる日本初のスカラ座の″引っ越し大公演″が現実となったのだ。
 それはまさに、絢爛たる芸術の大輪であり、美の精華であった。
 ある専門家は、「完璧な舞台です。よくぞ、これだけの舞台を招聘してくださった」と感謝の声を寄せ、ある文化人は、「一波から万波をつくりましたね」と感嘆していた。
 伸一は、この舞台の実現を、最後の勝利を、確信していた。ゆえに、途中の批判など、なんとも思わなかった。
 偉大なる信念のままに、粘り強く戦い抜くなかに、燦然たる勝利の栄冠が輝くのである。
46  新航路(46)
 十月二十五日の午後、山本伸一の一行は、イタリアのミラノから、次の訪問地である南フランスのニースに移動した。
 ここでは伸一は、彼を訪ねて来た、メンバーの激励をはじめ、予定した仕事を慌ただしく終えると、二十七日には、スペインのバルセロナを経由し、ポルトガルのリスボンに向かった。
 午後一時前にリスボンに到着した一行は、すぐに、市内の視察に出かけた。
 ポルトガルは、日本が最初に出合ったヨーロッパの国であり、鉄砲の伝来をはじめとして、多くの文化の恩恵を受けた国である。
 それだけに、伸一は、この国に、強い関心をいだいていた。
 リスボンの市内で、一番高い丘の上にあるといわれるサン・ジョルジェ城跡に立つと、赤い屋根が連なり、その向こうには、テージョ川、建設中のサラザール橋(現在の四月二十五日橋)が見えた。
 リスボンと、その郊外には、要塞であった石造りのベレンの塔や、ベルサイユ宮殿を模したケルース宮殿など、正本堂を建設するうえで、参考にすべき建物が多かった。
 視察の途中、テージョ川に沿って車を走らせると、帆船をかたどった白大理石の建造物が現れた。
 伸一たちは、車から降りて、見学することにした。
 それは、エンリケ航海王子の没後五百年を記念して、五年前に建てられた、発見の記念碑であった。
 碑の高さは五十二メートルで、エンリケ王子を先頭に、新航路発見に功績のあった学者や冒険家の像が、何人も刻まれていた。
 伸一は、エンリケ航海王子については、戸田城聖からも話を聞き、彼自身も何冊かの関係書を読み、その生涯に大きな感動を覚えていたのである。
 彼は、同行のメンバーに語った。
 「いつだったか、戸田先生が、『ポルトガル人の勇気は大したものだ。私も、あの国に行ってみたい』と、嬉しそうに話されたことがある。
 十四世紀に、チムール帝国の興隆によって、シルクロードが閉ざされ、東洋との交通が遮断されると、ポルトガルは、″陸がだめなら、海がある″と、新しき海の道の開拓を開始した。
 ヨーロッパ大陸の西端のイベリア半島の、さらに、その西端にある資源も乏しい小国であるこの国が、十五世紀には、あの″大航海時代″の突破口を開き、世界に領土をもつ大帝国になっていく。
 では、なぜ、それが可能になったのか」
47  新航路(47)
 山本伸一は話を続けた。
 「ポルトガルが大航海時代の覇者となっていった最大の功労者が、このエンリケ航海王子なんだよ」
 エンリケは、一三九四年に、ポルトガル国王ジョアン一世の三男として生まれている。
 青年となった彼は、大ポルトガル建設の大志をいだいて、イベリア半島西南端のサグレスで、航海学校を創設したといわれている。
 そこは、大西洋の荒波が寄せ返す、荒涼たる地であった。
 だが、王子もここで暮らし、民族を問わず、航海術や地図作製、造船、地理学、天文学、数学など、さまざまな分野の一流の学者を招いた。
 王子は、ポルトガルの新しき時代を開くには、東洋への新航路を発見しなければならないと考えていた。
 それには、新しき人材が必要であると、粘り強く、育成に取り組んでいったのである。
 人びとは、結婚もせず、新航路発見の礎をつくり続ける彼を、「海と結婚した王子」と呼んだ。
 王子は、この事業のために、次々と財産を注ぎ込んでいった。
 彼は、″大航海″の成功のために、最新の情報、学問、知識を集め、人材を集めた。そして、目的のために、皆の力が有効に発揮されるように、「組織」をつくり上げていった。
 さらに、造船の技術改良を重ね、風に向かって走ることのできる船を開発させたのである。
 しかし、エンリケによって育まれた船乗りが、アフリカ西海岸を、何度、探索しても、新航路を発見することはなかった。
 彼らは、カナリア諸島の南二百四十キロメートルにあるボジャドール岬より先へは、決して、進もうとはしなかったからである。
 そこから先は、怪物たちが住み、海は煮えたぎり、通過を試みる船は二度と帰ることができない、「暗黒の海」であるとの中世以来の迷信を、誰もが信じていたからだ。
 エンリケは叫ぶ。
 ″岬を越えよ! 勇気をもて! 根拠のない妄想を捨てよ!″
 それに応えたのは、エンリケの従士の、ジル・エアネスであった。
 彼も探索の航海に出て、恐怖にとらわれて逃げ帰って来た一人であったが、再度、エンリケから、航海を命じられると、成功を収めるまでは、決して帰るまいと心に決めて出発した。
 そして、一四三四年に、ボジャドール岬を越えたとの報告をもって、王子のもとに帰って来たのである。
48  新航路(48)
 ジル・エアネスの航海の成功は、小さな成功にすぎなかった。
 カナリア諸島に近い、ボジャドール岬を越えただけであり、新航路の発見にはほど遠かった。しかし、その成功の意義は、限りなく大きく、深かった。
 「暗黒の海」として、ひたすら恐れられていた岬の先が、実は、なんの変わりもない海であったことが明らかになり、人びとの心を覆っていた迷信の雲が、吹き払われたからである。
 「暗黒の海」は、人間の心のなかにあったのだ。エアネスは、勇気の舵をもって、自身の″臆病の岬″を越えたのである。
 ポルトガルの航海者の船は、アフリカ沿岸をさらに南下するようになるが、エンリケは、新航路の発見を待つことなく、一四六〇年に世を去る。
 だが、エンリケによる人材の育成が礎となって、ポルトガルは、喜望峰の発見、インド航路の発見と、ヨーロッパからアフリカを回って東洋に至る新航路を次々と開き、「世界の王者」の地位をつくり上げていくのである。
 山本伸一は、しみじみとした口調で語った。
 「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。
 大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。
 広布の新航路を開くのは勇気だ。自身の心の″臆病の岬″を越えることだ」
 それから伸一は、テージョ川の彼方を仰ぎながら語った。
 「未来を築くということは、人間をつくることだ。それには教育しかない。
 二十一世紀は、民族や国家などの壁を超えて、人類が、ともに人間として結ばれる、″精神の交流の時代″であり、″平和への大航海時代″としなければならない。
 そのために、私も、いよいよ、創価高校、そして、創価大学の設立に着手するからね。私の最後の事業は、教育であると思っている。大切なのは礎だ。
 輝ける未来を開こうよ。黄金の未来を創ろうよ」
 西の空に燃える太陽が、記念碑を赤く染め始めた。
 伸一の顔も燃えていた。
 彼は、自らに語りかけるように言った。
 「時は来ている。時は今だ。さあ、出発しよう! 平和の新航路を開く、広宣流布の大航海に」
 真っ赤な夕日が、微笑んでいるように、伸一には思えた。

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