Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第10巻 「幸風」 幸風

小説「新・人間革命」

前後
2  幸風(2)
 翌十二日朝(現地時間)には、街は平静を取り戻したかに見えた。
 だが、日没になり、黒人少年が、白人に投石したのを契機に、再び騒動が始まった。
 黒人約七千人が、深夜まで投石などを繰り返したのである。
 白人の店のショーウインドーは割られ、商品の略奪も行われた。
 「燃やせ、ワッツを燃やせ!」という言葉が、あらゆる建物の壁に、ペンキで書かれた。
 また、教会や商店など、多くの建物が放火された。
 銃砲店から、銃を奪う者もいた。
 火は、真夏のロスの夜空を焦がした。
 それは、白人による、黒人への長い不当な差別に対する、怒りと怨念の火を思わせた――。
 黒木昭は、その翌日の十三日の朝、ロサンゼルスに着き、日本が朝になるのを待って、電話をしてきたのである。
 十条潔は、眉間に深い皺を寄せながら、受話器を握り締め、黒木の話を聞いていた。
 「したがいまして、山本先生のご一行がロスに来られることについては、安全面で、大きな問題があることは確かです」
 「そうか。さっき私も、新聞の朝刊を見て、ロスの事件を心配していたところなんだ。
 ともかく、事態が変化したら、すぐにまた、連絡をしてくれないか」
 十条は、こう言って、国際電話を切った。
 彼は困惑した。
 山本会長は、宗門の日達法主夫妻を案内し、この日の午後十時の便で羽田を出発し、ロサンゼルスに向かうことになっていた。
 また、十条自身も、副理事長の清原かつ、泉田弘らとともに、同行することになっていたのである。
 十条は、早速、首脳幹部と対応を検討した。
 皆、一様に頭を抱えていたが、″ロサンゼルスが危険な状態にある今、山本会長と日達上人に行っていただくべきではない″という結論に達した。
 渡航は延期してもらおうというのである。
 代表して十条が、山本会長に首脳幹部の意見を伝えることになり、会長室に向かった。
 十条の顔を見ると、山本伸一は言った。
 「ロスの騒ぎのことを言いに来たんだね」
 「はい。そうです」
 十条は、すべてを見通しているかのような、山本会長の言葉に、驚きを隠せなかった。
3  幸風(3)
 山本伸一は、笑みを浮かべた。
 「もうそろそろ、十条さんが、何か言ってくるころだと思ったよ」
 十条潔は、険しい顔で言った。
 「実は、先発隊として出発した黒木君から電話が入り、ロサンゼルスの状況を報告してまいりました。
 それによると、かなり危険であるとのことです」
 「私も、朝から、ロスの事件の報道を見て、いろいろと、考えていたところなんだよ。
 それで、十条さんは、私に、ロス行きは中止にせよと言いたいんだね」
 伸一の言葉を聞くと、十条は、安心したように、頷いた。
 「中止でなくとも、せめて、延期していただいて、事態が治まり、安全が確認された段階で、出発してはどうかと思います」
 しかし、伸一は、きっぱりと言った。
 「そういうわけにはいかないんだ。みんなの気遣いはありがたいし、気持ちもよくわかるが、私は、今こそ、ロスに行き、メンバーを全力で励まさなければならない。
 今こそ、アメリカの同志に、立ち上がってもらいたいんだ。
 こうした騒ぎが、なぜ起こったのか。その原因は、不当な人種差別にあることは明白だ。
 差別をなくすことは、黒人(アフリカ系アメリカ人)の悲願であった。また、心ある政治家も、差別の撤廃に取り組んできた。
 そして、黒人の公民権を保障する法律も、ようやく整ってきた。
 しかし、法のうえで平等が定められても、依然として差別はなくならないのはなぜか。
 差別は、人間の心のなかにあるからだ。
 法の改革から、人間の心の改革へ――アメリカ社会を、真実の自由と民主の国にしていくには、そこに向かって、進んでいかざるをえない」
 伸一の声は、ここで、一段と力強さを増した。
 「その人間の心の改革を、生命の改革を可能にするものは、断じて仏法しかない。
 アメリカの野外文化祭が行われる八月十五日は、日本と時差はあるが、終戦二十周年の記念日だ。
 私は、この日を、民衆の本当の幸福と平和の哲学である仏法の旗を、アメリカの大地に、高らかに打ち立てる日にしたい。
 日本の敗戦は、悲しく、痛ましかったが、戦後、日本は、アメリカによって、信教の自由が保障され、広宣流布の朝が訪れた。だから、私は、そのアメリカに恩返しをしたいんだ」
4  幸風(4)
 アメリカでは、ローザ・パークスの逮捕から始まったバス・ボイコット運動以来、この十年の間で、公民権運動は大きな広がりを見せ、法律上、人種差別は、急速に撤廃へと向かっていった。
 特に一九六三年六月、ケネディ大統領が議会に提案し、彼の死後の六四年七月に、ジョンソン大統領の時代に成立した公民権法は、画期的なものであった。
 ここでは、レストラン、劇場、また、公園、プールなどの公共施設における人種差別の禁止や、雇用面での差別の禁止などが、明確に定められていたのである。
 しかし、この公民権法でも、選挙権に関する差別の撤廃については、十分とはいえなかった。
 アメリカでは、一八六三年の、リンカーンによる奴隷解放宣言から三年後の六六年には、最初の公民権法が連邦議会で成立した。
 これによって、人種、皮膚の色、または奴隷の身分にあったことなどに関係なく、完全に公民権の保障が約束されたのである。
 さらに、一八七〇年には、合衆国憲法修正第一五条により、黒人にも選挙権が与えられることが正式に認められたが、白人の憎悪と反発はすさまじかった。
 白人による黒人へのリンチ事件が頻発し、投票に行く黒人を、白人が暴力によって阻止することも珍しくなかった。
 長い間、自分たちが支配し、侮蔑し抜いてきた黒人が、選挙権をもつことに、白人の多くは、恐れと憎悪をいだいたのだ。
 そして、選挙権を有する年齢に達すると、裁判所に投票者として登録しなければならないという制度を利用して、各地で、アフリカ系アメリカ人への差別が行われたのである。
 南部のミシシッピ州では、投票者として登録するための資格を厳しくし、登録官に、税金納入証書を提示することや、示された憲法の一節を読んで解釈することなどが、州の法律に定められた。すると、南部の諸州もこれに続いた。
 なかには、一定の面積の土地など、財産の所有を、投票者の条件として定める州もあった。
 奴隷として働かされてきた、アフリカ系アメリカ人は、教育を受ける機会に恵まれなかったために、読み書きのできない人も多かった。また、土地や財産を持っている人は、至って少なかった。
 したがって、これは、州の法律によって、合法的にアフリカ系アメリカ人の選挙権を制限しようとするものであった。
5  幸風(5)
 選挙権の登録時の読み書き試験や、税金納入証書の提示など、アフリカ系アメリカ人への投票権に対する差別撤廃のための公民権法に、ジョンソン大統領が署名したのは、一九六五年の八月六日のことであった。
 山本伸一たちがアメリカ入りする、ほんの八日前のことである。
 遅々とした歩みではあったが、法的には、差別の撤廃に向かい、着実な前進を見せていたのである。
 しかし、現実には、差別は依然としてなくならなかった。
 就職や社内での昇進をはじめ、住居や学校など、さまざまなかたちで、アフリカ系アメリカ人の苦しみは続いていた。
 なかでも、仕事の面での差別は深刻であった。まず就職自体が厳しく、自分の希望する職種に就ける人は極めて少なかった。
 また、同じ職業でも、黒人は、賃金は白人よりも低く、不況になれば、最初に解雇され、雇われる時は一番、最後であった。
 人間の心に宿る偏見は、まさに、ウイルスが濾過紙を通って侵入してくるように、法の網の目を潜り抜けて、冷酷な人種差別を生み出していたのである。
 ロサンゼルスのワッツ地区には、職に就けない、アフリカ系アメリカ人があふれていた。
 その鬱積した憤懣は、いつ爆発しても、おかしくなかったのである。
 山本伸一は、人間の内なる″差別の心″を打ち破るために、今こそ、仏法という生命の平等の哲学を、アメリカの天地に流布せねばならないと、強く決意を固めていたのだ。
 伸一の一行は、当初の予定通り、八月十四日の午後十時に羽田を発った。
 十八年前のこの日、伸一は、初めて出席した座談会で、戸田城聖と出会ったのである。いわば、八月十四日は、彼の人生の原点の日であり、伸一は、戸田の心を抱き締めて、機上の人となった。
 ハワイのホノルルを経由して、ロサンゼルスに到着したのは、時差の関係で、現地時間の十四日午後八時過ぎであった。
 空港には、懐かしいアメリカのメンバーと、先発していた副理事長の岡田一哲らが迎えに来ていた。
 ホテルに向かう車中、アメリカ本部長の正木永安が、伸一に騒動の様子を報告した。
 「ワッツ地区周辺では、まだ、放火や発砲、略奪が続いていますし、むしろ、今後、騒動はさらに激しくなるのではないかといわれております」
6  幸風(6)
 ワッツの騒動三日目の八月十三日には、遂に、警官隊支援のために、カリフォルニア州の州兵の出動が命じられた。
 このころ、既に、ワッツ地区の二ブロックは、壊滅状態になっていた。
 さらに、山本伸一が到着した、十四日には、戒厳令とほぼ同等の意味をもつ、「暴動状態」宣言が布告されたのである。
 それは、暴動地区における法と秩序の回復のためには、いかなる措置をもとりうる態勢を整えるということであった。
 暴動地区には、午後八時以後の夜間外出禁止令が出された。
 州兵との撃ち合いで、死傷者の数も、増える一方であった。
 また、アフリカ系アメリカ人の、怒りの炎が飛び火するかのように、シカゴなどでも、騒ぎが起こった。
 エチワンダの寺院の起工式、並びに野外文化祭が行われる十五日になっても、事態は治まらなかった。
 カリフォルニア州の州知事が、「暴動は終わった」と言明したのは、野外文化祭が終わった翌十六日のことであった。
 ロスの夏の夜空を、憎悪の紅蓮の炎で染めた六日間であった。
 この収束のために、ライフル銃、機関銃などで武装した一万数千人の州兵が動員された。また、約四千人の逮捕者、三十数人の死者、約九百人の重軽傷者が出たのである。
 だが、そのなかで、事態の収拾に懸命に取り組んだ、アフリカ系アメリカ人も少なくなかった。
 激昂する同胞たちに、冷静になるようにと、呼びかけて歩く人もいた。
 また、火災で崩れた建物の下敷きになった白人を、自分の身の危険も顧みずに、助け出そうとする姿も見られた。
 さらに、献身的に、怪我をした白人の手当てをする人もいたのである。
 最悪の状況のなかでも、人間の良心と善意の光は、決して、消えることはなかった。
 「暴動は社会的に憎むべきであり、自滅行為だ」
 公民権運動の指導者で、ノーベル平和賞の受賞者のマーチン・ルーサー・キングは、こう暴動を批判している。
 暴力からは、何も解決は図れない。
 むしろ、人種間の分断の溝を深め、排斥の口実を与え、自らを追い込んでしまうことになる。
 ワッツの騒動は、キングが、そして、多くのアフリカ系アメリカ人が描いてきた、人種を超えて、ともに兄弟として手を取り合うという「夢」を、踏み躙るものでしかなかった。
7  幸風(7)
 この日の朝、山本伸一は同行の幹部らとともに、イースト・ロサンゼルスにある、ロサンゼルス会館を訪問した。
 会館の通りを挟んだ向かい側には、警察の建物があった。その屋上を見ると、銃を手にした警察官が立っていた。
 会館の職員の話では、ここ数日間、暴動への警戒のために、警察官がこうして見張っているとのことであった。
 伸一は、会館で代表のメンバーとともに、厳粛に勤行し、アメリカ社会の安穏と、人びとの無事を、真剣に祈念した。
 そのあと、彼は、日達法主夫妻を、カリフォルニア州のオレンジ郡にある、ディズニーランドなどに案内することにした。
 ロサンゼルスの市内にいて、法主に万一のことがあってはならないと考え、市内から離れるようにしたのである。
 伸一たちは、幸い、何事もなく、見学を終えて、夕刻、エチワンダの寺院の建設用地に到着した。
 ここで、寺院の起工式に引き続き、アメリカ初の野外文化祭が開催されるのである。
 午後六時半、山本会長と日達法主が、会場に現れると、集った約五千人のメンバーの、怒涛のような拍手が、二人を迎えた。
 そこには、青々とした芝生が、夕日に映えて、まばゆく光っていた。
 メンバーが汗を流し、多忙な仕事の時間を割きながら、苦労して育てた、尊い芝生であった。
 このエチワンダの寺院の建立は、伸一が、前回のアメリカ訪問(一九六三年)の折に、提案したものである。
 寺院の建立は、アメリカの全メンバーの念願であった。本来、寺院は、民衆化導の法城であり、広宣流布を推進しゆく、活動の拠点であるからだ。
 そして、翌六四年の夏、ロサンゼルス郊外の、サンバナディーノ郡エチワンダの、この建設用地を購入したのである。
 ここは、オレンジ畑とブドウ畑であり、寺院を建てるには、土地を整備しなければならなかった。
 十二月から、メンバーの手で整地作業が進められ、毎週日曜日ごとに、朝から日没まで、泥まみれになって作業に励んできた。
 周囲の木を切り、ブルドーザーで根を取り除き、スコップで地ならしをし、さらに芝生の植え込みを行うという労作業であった。
8  幸風(8)
 エチワンダの寺院建立用地は、約三万九千六百平方メートル(約一万二千坪)の広さである。
 日曜日の整地作業には、毎回、百人ほどの人が参加していたが、作業はなかなか終わらなかった。
 年が明けて、夏が近づくにつれて、炎熱が作業を阻んだ。水撒きも、日中に行うと、水が熱くなり、芝生をだめにしてしまうので、深夜にやらなければならなかった。
 しかし、メンバーは「フクロウのようだ」と笑い合いながら、喜々として、作業にあたったのである。
 やがて、野外文化祭の練習が始まるが、整地作業はまだ終わらなかった。各演目の出演者も、整地に携わりながら、演技の練習に励んできた。
 その努力によって、見事な芝生の庭がつくられたのである。
 午後六時四十五分、海外初の寺院の起工式が挙行された。
 夏の太陽も、ようやく、サンガブリエル山脈の尾根にかかり、辺りは、夕暮れに包まれ始めていた。
 頬を撫でる風が、心地よかった。
 司会は、日本語と英語で行われた。
 日本語の司会は、本部の海外局長の森永安志が、英語は、ロサンゼルス支部の副支部長になっていたタッド・フジカワが担当した。
 起工式は、読経・唱題、鍬入れ式、経過報告、理事長らのあいさつと続いた。
 席上、この寺院の名を、「恵日山妙法寺」とすることが、日達法主から発表された。
 続いて、山本会長が、大拍手のなか、あいさつに立った。
 伸一は、力強い口調で語り始めた。
 「アメリカの同志の皆さん、大変にしばらくでございました。
 このエチワンダという地名は、先住民族の言葉で、『風の吹く丘』という意味であると伺いました。まことにすばらしい、意義ある名前であります。
 日蓮大聖人は、『御義口伝』のなかで、『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹くが如くなり』と仰せになっております。
 私どもが正法を流布していく姿は、まさに、いっさいの不幸の塵埃を払う、大風であります。
 どうか、このエチワンダの法城から、アメリカに、広宣流布の風を、幸福の風を、希望の風を送っていただきたいと、私は、心から念願いたします。
 また、それが、寺院を建設する、真実の意義であります」
9  幸風(9)
 山本伸一は、集ったメンバーに視線を注ぎながら、話を続けた。
 「大聖人の仏法は、一閻浮提、すなわち、世界の仏法です。
 日本国内にあって、学会は、さまざまに非難、中傷されてきましたが、今や、日本の未来を決定しゆくまでに成長しました。
 アメリカにあっても、今は何かと偏見をもって見られることもあるでしょう。
 しかし、断じて、そんなことに負けてはならない。やがては、必ずや、人びとが、この仏法を賛嘆し、感謝する日がくることは間違いありません。
 日米両国が争い、不幸な歴史を刻んだ、あの悲惨な戦争が終わって、ちょうど二十年が過ぎました。
 しかし、日本もアメリカも、幸福と平和を実現したかというと、今もなお、さまざまな問題をかかえて、苦しんでいます。
 だが、この大聖人の仏法が弘まるならば、恒久平和への道が開かれ、核兵器の問題も、人種差別や民族問題も、すべて解決できるということを、私は、断言しておきます。
 いずれの国の人も、いずれの人種、民族も、皆、人間として平等であり、すべての人が、『仏』という尊極無比なる生命を具えていることを説いた、最高の哲学が仏法だからです。
 いな、この仏法以外に、世界の永遠の平和を築き、人類を幸福にしゆく道はありえません。
 どうか、力を合わせ、世界の平和のために、『仲良く』をモットーに、前進していただきたい。
 皆さんのご健康と、ご健闘とを、心から念願申し上げまして、私のあいさつとさせていただきます」
 夕暮れの空に、歓声が響き、拍手がこだました。
 通訳を通して伝えられるこの山本会長の指導を聴いて、身を乗り出すようにして拍手を送る、一人の整理役員の青年がいた。
 彼はロバート・マイケルという、二十七歳のアフリカ系アメリカ人であった。
 青年の顔には、幾筋もの涙が光っていた。
 彼は誓った。
 ″このアメリカに、真実の人間の平等を実現するために、ぼくは、広宣流布に生き抜こう。それが、ぼくの使命なんだ!″
 ロバートは、少年時代から、″黒人″ゆえの不当な差別を受け続けてきた。
 あまりにも理不尽な仕打ちに、何度、はらわたが煮えくり返るような思いをしてきたことか。悔しさのあまり、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。
10  幸風(10)
 ロバート・マイケルは、ニューヨークのスラム街で生まれ育った。
 父親は、アパートの管理人として勤めていたが、低賃金であり、妻と五人の子供を養うのは、容易ではなかった。食べるものにも事欠くような生活であった。
 マイケルは、学校に通うようになると、差別を肌身で感じるようになる。白人の家の前を通ると、その家の子供たちに、瓶や石を投げつけられたのである。
 傷ついた心で家に帰っても、狭い家のなかには、彼を癒してくれる場所はなかった。
 いくら働いても、貧しさから脱しきれない父は、酒を飲んでは母を罵り、殴った。その罵声と悲鳴が、傷ついた少年の心を、ますます苛立たせた。
 やがて、彼は神に救いを求めるようになった。
 しかし、ある時、教会に行くと、白人の牧師から怒鳴りつけられた。
 「おい、帰れ! 今はお前たちが来る時間じゃない。すぐに出て行け!」
 教会に来る時間も、白人と黒人は、分けられていたのだ。
 彼は、やり場のない怒りを胸に、仲間と街にたむろし、喧嘩に明け暮れた。
 盗みも働いた。恐喝で得た金で、マリフアナを買っては、むさぼるように吸った。自分の置かれた、いまわしい現実を、少しでも忘れたかったのである。
 銃も持つようになった。警察に捕まったことも、二度ほどあった。高校もやめてしまった。
 十七歳になった時、彼は母親の勧めで軍隊に入ったが、ここでも、白人と黒人の間には、歴然とした差別があった。
 最初は、白人と黒人とでは、寝る建物も違っていたし、黒人は、危険な作業に回されることが多かった。
 軍務で派遣された南部の町で、間違えて白人用のトイレに入り、白人の警察官から、激しく怒鳴られたこともあった。
 彼の心は、さらに荒んでいった。
 そんな彼が仏法に巡りあったのは、日本に派遣されていた、一九五八年六月のことであった。
 日本で知り合った友人から、学会の話を聞いたのである。
 願いは必ず叶うという、確信ある言葉に打たれて、彼は入会した。
 唱題に励むなかで、功徳の体験もつかんだ。
 また、何よりも、皆が等しく仏の生命を具え、幸福になれるという、仏法の法理を聞いて、目から鱗が落ちる思いがした。
11  幸風(11)
 やがて、除隊したロバート・マイケルは、新しい人生を生きゆくために、ロサンゼルスの建設関係の会社に勤務した。
 学会活動にも、いつもいつも、真剣に取り組んでいった。
 確かに学会の世界には、人種による差別など、いっさいなかった。アフリカ系であろうと、メキシコ系であろうと、日系であろうと、皆、平等であった。
 そこには、常に家族以上の温かさがあり、真実の語らいと、励ましと、友情があった。彼は、人生を覆っていた闇のなかに、まばゆいばかりの、ヒューマニズムの光彩を見始めていたのである。
 マイケルは、学会の活動に参加するようになってから、自分の内面に、大きな変化が起きていることに気づいた。
 あれほど憎んでも憎み足りなかった白人に対する考え方が、変わってきたのである。
 彼は、アフリカ系アメリカ人に偏見をもち、蔑視する人たちに、いつとはなしに憎しみよりも、むしろ、哀れさを感じるようになっていったのである。
 彼は思った。
 ″万人に仏の命があると説く、仏法の大哲理に立てば、黒人は自信をもち、白人は黒人への偏見をもたなくなるにちがいない。そして、学会の世界に見られるように、互いが、信頼と尊敬の心で結ばれるはずだ……。
 そうだ! そのために自分は、広布に生き抜こう″
 彼は、深く決意して、猛然と、布教に励んだ。
 黒人だけでなく、白人にも、仏法の話をしていった。初めは、まったく相手にされなかったが、次第に信心する人が出始めた。
 マイケルは、自分の周囲に、人種の壁を超えた、人間共和の輪が広がっていく手応えを感じていた。
 彼は、ワッツ地区で起こった今回の事件が残念でならなかった。
 虐げられ、差別され続けてきた、アフリカ系アメリカ人の苦しみも、怒りも、悔しさもよくわかった。
 しかし、白人を襲い、街を焼いたとしても、事態は何も変わらない。いや、かえって、自分たちを追い込んでしまうだけである。
 なぜ、それに気づかないのかと思うと、苛立ちさえ覚えた。
 また、こんな危険なさなかに、山本会長がロサンゼルスを訪問してくれたことに、強い感謝の念をいだかざるをえなかった。
 そして、この起工式の席で、人種差別の解決への、伸一の宣言ともいうべき話を聞いて、電撃に打たれた思いで、自らの使命を再確認したのであった。
12  幸風(12)
 起工式に引き続き、新しい組織の布陣と新任幹部の発表、支部旗などの返還授与が行われた。
 これまで、アメリカ本部は二総支部であったが、ハワイ総支部などが誕生し、六総支部に分割された。
 支部も十四支部から、二十三支部となり、飛躍的な組織の拡充が図られたのである。
 また、男子部の北米部の部長をしていた武藤靖が、アメリカ本部の副本部長に就任した。
 武藤は、学会本部の海外局に勤務していたが、前年の七月に、山本伸一がアメリカの強化のために、派遣した青年であった。
 その半年ほど前、伸一は、海外局の代表を食事に招き、その席で、武藤に、アメリカ行きを打診した。
 「武藤君、実は、君にアメリカに行ってもらいたいんだ。アメリカでは、事務長を必要としている。
 アメリカは、世界の広宣流布の重要な拠点だ。向こうで、本部長の正木君を助けてやってほしいんだが、どうだろうか」
 武藤は即座に答えた。
 「はい。広宣流布のためでしたら、どこへでも行かせていただきます。しっかり頑張ります!」
 伸一は、その武藤の心意気が嬉しかった。そこには、広布に生きる、職員の精神が脈打っていたといってよい。
 武藤は、どちらかといえば、地味で、堅実な性格であった。急速に大発展していくであろうアメリカの組織を、事務長として陰で支えていくには、その堅実さが必要であると、伸一は考えていたのである。
 「君は、本部の職員のなかで、私が初めて、海外に送る人です。
 ひとたび行く限りは、何年かしたら日本に帰ろうなどと考えるのではなく、同志に仕え、広布のために、アメリカに骨を埋める決意で行ってもらいたい。
 そうでないと、すぐに愚痴や文句が出たり、何かというと、″日本に帰りたい″と漏らすようになる。
 また、みんなの上に君臨しようとしたり、自分の生活を守ることが第一義になっていく。
 それでは、現地の人びとの信頼を得ることは、もちろんできないし、みんなから相手にされなくなってしまう。
 そうなれば、広宣流布のリーダーとしても、職員としても失格です。
 さらには、広宣流布の組織を破壊する、″魔もの″の働きとなっていく。
 大事なのは一念だ。広布に生きようとする、決定した心だよ」
 武藤の、「はい!」という、決意にあふれた元気な声が響いた。
13  幸風(13)
 山本伸一は、独身であった武藤靖の結婚についても心を配り、十条潔に、よく相談に乗り、全面的に応援するように頼んだ。
 武藤は、十条に紹介された、アメリカの女子部の中心者の一人である、チカコ・ハヤシダと結婚し、アメリカに渡った。
 アメリカの組織は、既に独立した法人となっていたことから、彼は、学会本部を退職し、現地の法人の職員として、新たに採用されるというかたちになった。
 伸一は今、その武藤が、アメリカ本部の副本部長になったことから、組織的にも正木永安を守り、いかんなく力を発揮してくれることを、強く願った。
 支部旗などの返還授与が終わると、伸一は、いったん退場し、トレーラーハウスで休憩した。
 エチワンダの空は、とっぷりと日が暮れ、星々が輝き始めた。
 寺院建設用地であるグラウンドには、照明がともされ、芝生の緑が鮮やかに浮かび上がった。
 あとは、第一回の野外文化祭の開催を待つばかりとなった。
 そのころ、文化祭の運営担当者たちは、緊迫した雰囲気のなかで、打ち合わせを行っていた。
 ワッツ地区の騒動で、バスが遅れたり、運行を取りやめたりしているために、かなりの出演者が、到着していないのである。
 乗用車を持っているメンバーが、ロサンゼルスからピストン輸送にあたったが、それでも、とうてい対処しきれなかった。
 文化祭の開会時刻は、刻々と迫っていた。
 文化祭の指導にあたっていた黒木昭は決断した。
 「ともかく、今いるメンバーで行う以外にない。
 出演者の数が大幅に減少してしまう演目は、グループの編成も変えることにしよう」
 もはや、そうするしかなかったのである。
 それから、まるで、戦争のような慌ただしさのなかで、調整が行われた。
 急きょ、入場の仕方も変えなければならなかった。
 しかし、異体を同心とした、実に見事な連携プレーで、迅速な対応がなされていった。
 団結の真価とは、緊急の事態の時にこそ、発揮されるものだ。
 各演目の出演者は、急な変更に戸惑いながらも、新しい手順を、周囲の人たちと確認し合いながら、文化祭の開始を待った。
 午後八時過ぎ、雷鳴のような拍手が轟き、文化祭は開会となった。
14  幸風(14)
 入場行進が始まった。
 羽根飾りのついた帽子を被り、儀仗兵のような赤い制服の音楽隊と、純白のベレー帽に深紅のジャケット、真っ白なスカートに身を包んだ鼓笛隊が、力強く学会歌の調べを奏でた。
 グラウンドを囲むように設けられたスタンドから、拍手がわき起こった。
 アメリカでは、二年前にシカゴで行われた全米総会の折に、男子部が有志を募って演奏を行い、音楽隊をスタートさせていた。
 それから半年余りが過ぎたころ、女子部にも鼓笛隊を結成しようという話がもちあがった。
 学会が建立寄進した総本山の大客殿の落慶法要に、アメリカの代表も参加することが決まって、間もなくのことである。
 参加メンバーとして、鼓笛隊も日本に派遣し、″アメリカここにあり!″との意気を示すとともに、参加者を元気づけようというのである。
 しかし、鼓笛隊をつくるといっても、当時のアメリカの女子部のなかには、音楽の指導ができる人はいなかった。
 男子部の音楽隊に、ドラムの上手な人がいたことから、その人に技術を教えてもらうことにし、ドラムだけの鼓笛隊を誕生させた。
 そして、前年四月の大客殿の落慶法要の折には、五人の鼓笛隊員が来日したのである。
 このメンバーの中心となってきたのが、ミユキ・イノハシという女子部員であった。
 彼女は、アメリカ生まれの日系三世であり、戦後、一家は日本に帰り、一九五七年に、広島で、母親とともに入会した。
 二年後、一家は、再びアメリカに渡り、母親は、地区担当員として、健気に信心に励んできた。
 母親とミユキは、よく語り合った。
 「戸田先生の七回忌がきたら、一緒に、日本に行こうね」
 その日を夢に見て、母と子は、広布の開拓に、懸命に汗を流してきた。
 ところが、その年の二月に、母親は脳溢血で倒れ、他界してしまった。
 ミユキ・イノハシは、アメリカの鼓笛隊として、大きなドラムと、納骨のための母の遺骨を抱えて、日本の土を踏んだ。
 彼女は、亡き母に、心で語りかけた。
 ″ママ、二人で行こうと約束した日本よ。これからは、私がママの分まで頑張るからね″
 ミユキは、母への誓いを込めて、この日本で、力の限り、ドラムを演奏しようと思った。
15  幸風(15)
 アメリカの鼓笛隊は、まず、到着した羽田の空港でドラム演奏を披露した。
 はつらつとした、その音の響きに、アメリカのメンバーの、長旅の疲れは吹き飛んだ。
 山本伸一は、アメリカから女子部の鼓笛隊が来ていることを聞くと、こう提案した。
 「日本の鼓笛隊が、大客殿の落慶を記念し、パレードを行うことになっているので、一緒に参加してはどうだろうか」
 そして、彼は、日本の鼓笛隊の制服を、五着、プレゼントしたのである。
 彼女たちは、大喜びであった。
 しかし、満足に譜面を読める人もいない状態のアメリカの鼓笛隊にとって、日本の鼓笛隊が演奏する曲を、すぐに覚えることは難しかった。
 一生懸命に挑戦したが、時間が足りず、ただドラムを持って歩くだけの、情けない、パレード参加となってしまった。
 だが、山本会長からは、励ましの言葉とともに、五本のファイフ(横笛)が贈られたのである。
 ミユキ・イノハシをはじめ、メンバーは決意を新たにした。
 ″私たちも、必ず、見事な、世界一流の鼓笛隊に育とう。そして、いつの日か、山本先生の前で演奏させていただこう!″
 アメリカに帰ったメンバーは、懸命に練習に取り組むとともに、鼓笛隊の希望者を探して歩いた。
 しかし、メンバーは集まっても、楽器のファイフは、山本会長から贈られた五本しかない。また、それぞれが楽器を買うほどの、経済的な余裕もなかった。
 最初は、コーラの瓶をファイフ代わりにして、練習に励んだ。
 やがて、年が明け、八月にエチワンダで、アメリカ初の野外文化祭が開催されることが決まった。
 鼓笛隊の練習に、一段と拍車がかかった。
 そこに、また、山本会長から、新たに十本のファイフが贈られたのである。
 その後、さらに楽器もそろい、この野外文化祭には、なんと約四十人の鼓笛隊が出場していた。
 深紅のジャケットと白のスカートの制服は、かつて山本会長から贈られた五着以外は、すべて、メンバーの手作りであった。
 ミユキ・イノハシは、鼓笛隊の先頭で、誇らかに胸を張り、メジャーを振っていた。その顔からは、歓喜と幸福の笑みがあふれていた。
 さらに行進は、男子部、女子部、アメリカ本部の各支部の代表と続いた。
16  幸風(16)
 「シアトル」「ニューヨーク」など、生き生きとして、プラカードを高く掲げ、各支部の代表が入場してくるたびに、大きな拍手がわき起こった。
 当時は、アメリカ本部には、カナダ、メキシコも所属しており、この二つの国からも、多くのメンバーが参加していた。
 千三百人の堂々の入場行進のあと、西部の婦人部のコーラスに合わせ、女子部が、すばらしきダンスを披露し、いよいよ、男子部二百人による体操となった。
 照明が、芝の緑と、トレーニングウエアの白を、鮮やかに照らし出していた。
 青と黄の手旗が、波のようにグラウンドに広がったかと思うと、五人一組の人間の「扇」が、美しくつくられていった。
 メンバーには、さまざまな人種の青年がいる。黒人も白人もいた。それが互いに、強く、強く、スクラムを組み、実に見事な、芸術的な演技を展開しているのである。
 最後に、「四段ピラミッド」が堂々と築かれ、それをまた、一瞬のうちに見事に崩して、男子部の演技は終了した。
 そこには、人種、民族を超えた、崇高なる人間と人間の、信頼と生命の融合の絆が光っていた。
 取材にあたった、一人の記者が語っていた。
 「ここにこそ、人類の真実の平和と、平等主義の現実があった」と。
 メンバーは、黒人も白人も一緒になって、この野外文化祭の成功を祈り、練習に励んできたのである。
 騒ぎが起こってからは、白人のメンバーが、ワッツ地区に住む黒人の同志のことを心配し、安全な地域にある、自分の家に泊めたり、練習会場まで、車で送迎する姿も見られた。
 その人間愛と友情が、見事なる団結の演技を織り成したのである。
 あのキング牧師は、一九六三年八月、奴隷解放百年を記念して行われたワシントン大行進の折、リンカーン記念堂の階段の上から、「私には夢がある」と訴えた。
 そして、「それは、いつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルに着くことができることである」と。
 整理役員のロバート・マイケルは、この演技を見ながら、しみじみと思った。
 ″学会は、私たちは、キング牧師が語った「夢」を、着実に、現実のものにしているのだ。
 なんと、すばらしいことだろうか。
 私たちの手で、きっと、このアメリカ社会を変えてみせる!″
17  幸風(17)
 野外文化祭は、さらに、婦人部の美しき民謡へと移っていった。
 東部の各支部の婦人二百人が「元禄花見踊り」「東京五輪音頭」を披露したあと、西部の各支部の婦人三百人が「花笠音頭」を美事に舞った。
 揃いの浴衣に、番傘を手に、金髪をなびかせて、懸命に踊る姿も見られた。
 この衣装も、すべて、メンバーの手作りである。
 やがて、場内には、ヤシの木が配置され、ハワイ総支部員二百五十人による、ハワイアンフラダンスが始まった。
 飛行機二機をチャーターし、太平洋を越えて、勇んでやって来たのである。
 首に美しいレイをかけ、緑と白の衣装に身を包み、ハワイアンギターの奏でる音楽に乗って、グラウンドいっぱいに、フラダンスの花が咲いた。
 さらに、剣の先に火をともして、くるくる回しながら踊る、古くからの勇壮な舞が披露された。
 熱演するメンバーの体に噴き出る汗が、ライトに照らされて、きらきらと光っていた。
 山本伸一は、身を乗り出して、この遠来の友の演技に、盛んに拍手を送った。
 次は、ロサンゼルス関係の婦人部三百人による「黒田節」の踊りであった。
 伸一は、同行の幹部たちに言った。
 「みんなも出ていって、一緒に歌うんだよ。アメリカのメンバーが喜ぶから」
 理事長の十条潔、副理事長の泉田弘、清原かつをはじめ、日本から派遣された幹部たちが、マイクの前に立って、「黒田節」を熱唱した。
 ♪ 酒は飲め飲め  飲むならば……
 すると、スタンドの日系人も、一緒に歌い始めた。日本語がわからないメンバーも、嬉しそうに、盛んに手拍子を打ち始めた。
 グラウンドの踊りにも、一段と力がこもった。
 それは、派遣された幹部と、出演者と、観衆とが一体になってのフィナーレとなった。
 喜びの合唱は、幸福の風の吹く丘・エチワンダの夜空にこだました。
 これで、文化祭の演目は終了となり、学会歌「世界広布の歌」の大合唱に送られて、山本会長と日達法主が退場した。
 伸一は、グラウンドを後にし、車に向かう途中、立っていた役員の青年たちに、励ましの声をかけ、次々と握手を交わした。
 「ご苦労様! ありがとう!」
 青年たちは、頬を紅潮させ、力の限り、伸一の手を握り返した。
18  幸風(18)
 山本伸一が、役員の青年と握手をしていると、一人のアフリカ系アメリカ人の青年が駆け寄って来て、手を差し出した。
 伸一がその手を握ると、彼は、盛んに、何か語りかけた。傍らにいた正木永安が通訳した。
 「山本先生。ワッツで騒ぎが起こっている、こんな危険な時に、アメリカにおいでいただき、本当にありがとうございます。
 その先生の行動から、私は″勇気″ということを教えていただきました。
 また、人びとの平和のために生きる″指導者の心″を教えていただきました。
 私は、勇気百倍です。必ず、いつの日か、私たちの力で、人種間の争いなどのない、人間共和のアメリカ社会を築き上げてまいります。ご安心ください」
 こう語る青年の目から、幾筋もの涙があふれた。
 伸一は言った。
 「ありがとう! あなたが、広宣流布への決意を定めてくだされば、私がアメリカに来た目的は、すべて果たせたといっても過言ではありません。
 一人の人が、あなたが、私と同じ心で立ち上がってくだされば、それでいいんです。大河の流れも一滴の水から始まるように、あなたから、アメリカの平和の大河が始まるからです。
 わがアメリカを、よろしく頼みます」
 その青年は、伸一の手を、両手で、ぎゅっと握り締めた。
 互いの目と目が光った。
 この十五日、ロサンゼルスのワッツ地区では、まだ、騒ぎが続いており、武装警官と州兵が鎮圧にあたっていた。
 カリフォルニア州の州知事が、「暴動は終わった」と宣言したのは、翌日のことであった。
 その十六日の夜、伸一はロサンゼルス会館に行き、十五日に任命になった新任幹部をはじめ、アメリカのメンバーと勤行した。
 伸一は、人間が人間を見下し、差別するという、魔性の心を打ち砕かんと、真剣な祈りを捧げた。
 勤行のあとは、懇談会となった。
 彼は語った。
 「アメリカ本部の皆さんは、海外初の文化祭という、新しい広宣流布の歴史を開かれた。世界の同志が賛嘆する大壮挙です。
 大変にご苦労様でした。また、本当におめでとうございます。
 それはそのまま、皆様ご自身の、生命の新しき開拓となり、幸福への開道の歴史となっていることを知っていただきたい」
19  幸風(19)
 山本伸一は、力を込めて語っていった。
 「なぜ、今回、文化祭を行ったのか。なんのための文化祭であったのか。
 もちろん、アメリカの人びとに、学会の真実の姿を見てもらい、学会への理解を促すということも、大きな目的の一つです。
 しかし、何よりも、大切なことは、皆さんが幸せになっていくための文化祭であるということです。
 今回の文化祭は、グラウンドの整地から始まり、寺院の起工式の準備をしながら、練習に励むという、極めて大変な条件のなかでの文化祭であったと思う。
 途中で、やめてしまおうかと思った人もいるかもしれない。だが、そんな自分と戦い、懸命に唱題し、それぞれの分野で、真剣に努力されてきた。
 まず、広宣流布の大きな布石となる文化祭のための唱題が、努力が、献身が、そのまま、大功徳、大福運となりゆくことは、絶対に間違いありません。これが妙法の因果の力用です。
 また、皆さんは、文化祭を大成功させるために、不可能と思われた限界の壁、困難の壁を、一つ一つ破ってこられた。
 そして、この文化祭を通して、自信と、信心への揺るぎない確信をつかまれたことと思う。
 実は、それが何よりも、大事なことなんです。
 人生には、さまざまな試練がある。病に倒れることもあれば、仕事で行き詰まることもある。
 その時に、悠々と乗り越えていくためには、生命の鍛錬が必要です。精神の骨格となる、信心への大確信が必要なんです。
 この文化祭に全力で取り組み、唱題を根本に、あらゆる困難を克服してこられた皆さんは、″仏法に行き詰まりはない″との体験をつかまれたと思います。
 こうした体験を、どれだけ積んできたかによって、仏法への揺るぎない大確信が育まれ、何があっても負けることのない、強い自身の生命が鍛え上げられていきます。
 そのための『場』となるのが、学会活動です。また、文化祭でもあります。つまり、自分の幸福の礎を築いていくための活動なんです」
 伸一の言葉を正木永安が通訳し終えると、メンバーから拍手が起こった。学会活動の意義を、よく理解することができた、喜びの拍手であった。
 それから伸一は、会場にいた南米本部長の斎木安弘に言った。
 「来年は、ブラジルに行くから、ブラジルでも文化祭をやろう」
20  幸風(20)
 山本伸一が言うと、斎木安弘と妻の説子が立ち上がり、声をそろえて答えた。
 「はい、よろしくお願いします」
 斎木は、一九六二年(昭和三十七年)の十二月に、商社マンとして、ブラジルのサンパウロに赴任するにあたり、男子部の南米部長の任命を受けた。
 彼の入会は、この年の九月初めのことであった。妻の説子の勧めで、信心を始めたのである。
 ――二人は、五六年(同三十一年)の八月に結婚したが、式を挙げた日の夜、説子は激しい喘息の発作を起こした。以来、日に何度となく、発作を繰り返していたのだ。
 二カ月後には、安弘は仕事で、南米に単身赴任しなければならなかった。
 彼は、後ろ髪を引かれる思いで、日本を発った。
 説子は、幼少期から、喘息に苦しんできた。五五年(同三十年)の秋に、彼女は、実家のある京都で入会したが、最初に信心をしたのは、母親であった。娘の病を治したい一心で、信心を始めたのである。
 入会した説子は、病と闘いながら、真面目に信仰に励んだ。
 山本伸一が指揮をとり、大阪支部で一万一千百十一世帯の布教を成し遂げ、広布の金字塔を打ち立てた、あの五六年の大阪での活動にも、彼女は女子部員として、勇んで参加していた。
 その時、伸一に受けた励ましが、彼女の信仰の支えとなってきた。
 この五六年の春には、説子は、喘息を克服したかに見えた。
 そして、安弘と結婚するが、その夜から、再び、喘息の発作で苦しむようになったのである。
 彼女は、安弘を南米に送り出すと、深く決意した。
 ″この病気は、私の宿命なんだ。信心で治す以外にない。必ず、病を乗り越えて、夫が帰国する時には、元気な姿で迎えよう″
 説子は、猛然と唱題に励み、真剣勝負で学会活動に取り組んでいった。
 そして、夫の安弘が、三年の任期を終えて、日本に戻った時、彼を出迎えたのは、美しく、はつらつとした、健康そうな説子の笑顔であった。
 この現証を目の当たりにして、安弘は学会に強い関心をもつようになり、やがて、六二年九月、妻の勧めにしたがい、入会したのである。
 そのころ安弘は、再び、単身、ブラジルに赴任することになっていた。彼は、日本にいるうちに、少しでも信心を学ぼうと、懸命に学会活動を開始した。毎日、折伏もした。
21  幸風(21)
 斎木安弘は、仏法を学ぶことに必死であった。
 斎木がブラジルに赴任する一カ月前、山本伸一は、聖教新聞社で彼と懇談した。
 斎木は、まだ入会したばかりの一青年であったが、ブラジルに行くという彼を、伸一は、力の限り励ましたのである。
 「ともかく、しっかり仕事に取り組んで、会社で信頼される人間になることです。それが、広宣流布の力にもなっていきます」
 そして、伸一は、斎木を男子部の南米部長に任命することにしたのである。いまだかつてない、大抜擢ともいえる人事であった。
 伸一は、斎木の未来に賭けたのである。
 ブラジルに向かう日、空港に、伸一から、一枚の色紙が届けられた。
 そこには、こう認められていた。
 「法華経に勝る兵法なし 伸一」
 この言葉を心に刻んで、斎木のブラジルでの奮闘が始まった。
 仕事にも、人一倍、力を注いだ。学会の組織での信頼も厚かった。
 ブラジルの男子部は、最初、百人ほどであったが、二年を迎えるころには、五、六百人になっていた。
 ところが、そのころ、社から、帰国の指示が出た。
 斎木は思い悩んだ。日本に帰ってしまえば、自分が思い描いた、「南米広布」の夢は、果たせなくなってしまうからだ。
 ″俺は、ブラジルから離れるわけにはいかない。
 自分がいなくなったら、南米の青年たちはどうなるのだ……。
 俺は商社を辞めよう。そして、ここに残って、生涯を広布に捧げ、ブラジルの土になるのだ!″
 斎木は、こう結論した。
 彼は、東京外国語大学を卒業し、商社マンとなって以来、エリートコースを歩き続けてきた。商社マンとしての彼は、未来を嘱望されていた。
 しかし、そんな自分の栄誉栄達よりも、はるかに大きく重要な、人間としての使命があることを、彼は自覚しつつあった。
 一九六四年(昭和三十九年)の年末、斎木は帰国すると、会社に辞表を提出したのである。
 彼には、会社を辞めても、貿易の仕事で、独り立ちしていけるだけの自信も、力もあった。
 上司は、慰留に努めたが、彼の決意は固かった。
 それから、斎木は、学会本部に行き、山本伸一と会った。伸一は、彼を温かく迎えた。
22  幸風(22)
 山本伸一は、斎木安弘の話を聞くと、笑顔で包み込むように語った。
 「わかりました。あなたの希望通りにやり抜きなさい。全面的に応援します。
 今度は、家族も連れて行き、永住するつもりで頑張るんです」
 この一九六四年(昭和三十九年)の十二月の本部幹部会で、斎木は南米本部長に、妻の説子は南米本部の婦人部長に任命になった。
 斎木たちがブラジルに渡ったのは、年が明けた、一月半ばのことであった。
 以来、八カ月、斎木は、南米本部長として各地を駆け巡ってきた。バスで、片道二十時間、三十時間がかりで、指導に通うことも珍しくなかった。
 そして、ブラジルをはじめ、南米の組織は、さらに大きな発展を遂げようとしていたのである。
 必死の行動あるところ、必ずや、広宣流布の新しい歴史が開かれる。
 山本伸一が、斎木夫妻をエチワンダでの文化祭に招いたのは、ブラジルでも文化祭を行うことを、提案したかったからであった。
 八月十七日には、伸一は日達法主とともに、メキシコに飛んだ。
 五カ月前に誕生した、メキシコ支部のメンバーを激励するとともに、正本堂の建設資材等を視察するためであった。
 メキシコには、十条潔、清原かつ、南米本部の斎木夫妻、アメリカ本部の正木永安らが同行した。
 さらに、先発隊として、森永安志と、女子部の北米部長の山西清子が、前日にメキシコ入りしていた。
 山西は、四国の女子部の副部長をしていたが、結婚後、商社に勤める夫がメキシコに転勤したことから、一九六三年(同三十八年)の十一月に、女子部の中米の責任者として、メキシコに渡った。
 そして、翌年の八月、それまで北米部長をしていた春山栄美子の帰国にともない、山西が後任の北米部長に就き、中米の女子部も、北米部の所属となった。
 それから間もなく、彼女は、夫の仕事の関係で、メキシコとの国境に近い、アメリカのカリフォルニア州に移った。
 カリフォルニアに来てからも、山西はメキシコを訪れては、後輩たちの面倒をみてきた。
 伸一の一行が、ロサンゼルスの空港を発ったのは、正午過ぎのことであった。
 海抜二、二四〇メートルに位置するといわれる、メキシコ市が近づくと、伸一は、眼下の景色をじっと眺めながら、戸田城聖をしのんだ。
23  幸風(23)
 山本伸一にとって、メキシコの訪問は、特別な意味をもっていた。
 それは、戸田城聖が夢に見、訪問を念願した国であったからだ。
 学会が総本山に建立寄進した大講堂の完成を祝う、記念の登山会が行われていた、一九五八年(昭和三十三年)三月の下旬のことである。
 戸田は、理境坊の二階で病床に伏していたが、伸一が部屋に姿を現すと、静かに語り始めた。
 「伸一、昨日は、メキシコへ行った夢を見たよ。
 待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。
 行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……」
 そして、こう言うのであった。
 「伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ……」
 戸田が布団のなかから出した手を、伸一が無言で握り締めると、戸田は、あらん限りの力を、振り絞るようにして語った。
 「伸一、生きろ。うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」
 その言葉は、今も、伸一の胸にこだまし、新たなる闘志を燃え上がらせるのであった。
 戸田は、メキシコには、ことのほか、強い関心をもっていた。
 それは、ラテンアメリカで最初の日本人の組織的な移住が行われたのが、メキシコであったからかもしれない。
 メキシコへの移住を推進したのは、明治政府の文部大臣、外務大臣、農商務大臣等を歴任した榎本武揚であった。
 彼は、一八九七年(明治三十年)、通称「榎本殖民団」と呼ばれる、三十数人の人びとをメキシコに送っている。
 これは、笠戸丸による最初のブラジル移住よりも、十一年も早い。
 さらに、牧口常三郎が『人生地理学』のなかで、「山は水源たり、土質の調整者たり、気候の調和者たり」と述べ、例として、メキシコをあげていることも、戸田のメキシコへの関心を募らせたようだ。
 彼は、メキシコに関する本を、よく読んでおり、折に触れて、伸一にも、その話をした。
 また、戸田は、春木征一郎の妻の文子が、父親の貿易の仕事の関係で、幼少期をメキシコで過ごしたことから、彼女に、現地の生活の様子や習慣などについて、よく尋ねていた。
 そして、彼女の話に、愉快そうに頷きながら、目を細めて、聞いていることが多かった。
24  幸風(24)
 戸田城聖が逝去する前年の一九五七年(昭和三十二年)の夏のことであった。
 戸田は、知人から、禅の研究者として著名な仏教学者の鈴木大拙が、前の年に引き続いてメキシコを訪問し、大学で講演するなどして、禅の普及に努めたことを聞いた。
 その時、戸田は口惜しそうに言った。
 「禅ではだめだ。大聖人の仏法を、真実の人間仏法を伝えなくては、メキシコの人びとがかわいそうだ。誰かが正法をもって、メキシコに渡らなければ、民衆の本当の幸福は、実現できないぞ」
 メキシコの人びとの幸福を願う戸田の、この強い思いが、死の直前に、メキシコに行った夢を見させたのであろう。
 山本伸一たちが、首都のメキシコ市に到着したのは、現地時間の午後四時過ぎであった。
 空港では、メキシコ支部長のラウロ・イワダテをはじめ、十人ほどのメンバーが出迎えてくれた。
 イワダテは、六十代半ばに近い、恰幅のよい紳士であった。五カ月前、大客殿落慶を記念する三百万総登山で、イワダテが日本に来た時、メキシコ支部が結成され、彼が支部長になったのである。
 彼は、エチワンダで行われた野外文化祭に参加していたが、先にメキシコに戻り、伸一の到着を待っていたのであった。
 イワダテは、頬を紅潮させて言った。
 「先生、ようこそおいでくださいました……」
 伸一は、彼と固い握手を交わした。
 「お世話になります。
 メキシコ訪問は、私の願いでした。それは、戸田先生が夢にまで見た、願望であったからです。
 そのメキシコに、こうして支部が誕生し、私が先生に代わってメキシコの大地を踏み、皆さんとお会いすることができた。
 先生も、どれほどお喜びくださっていることかと思うと、感慨無量です。
 さあ、メキシコ広布の新しい幕を開きましょう!」
 伸一の言葉を聞くと、イワダテは目を潤ませた。
 彼は、メキシコの、名士の一人であった。
 イワダテがメキシコに来たのは、一九二三年(大正十二年)のことであった。
 ″世界を見てみたい″という、青年らしい、大胆な発想をもって、日本を飛び出したのである。
 そして、一、二年の軽い気持ちで、メキシコに向かった。だが、メキシコは、イワダテの人生ドラマの、終生の大舞台となったのである。
25  幸風(25)
 ラウロ・イワダテは、メキシコに着くと、ここで、商売をして身を立てようと思った。
 彼は、まず、果物の露天商から始め、資金を蓄え、食料品店を開いた。
 これが当たった。寝る間も惜しむように、働きに働いた。店の評判は至ってよかった。
 しかし、この成功が妬みをかったのか、何者かが店に放火したのである。
 それでも、彼は挫けなかった。そこから立ち直り、さらに、事業を拡大していった。
 食料品店のほかに、硫黄鉱山も持つようになり、農場も経営し、従業員は五百人を超えるまでになった。
 いつしか彼は、在留邦人のなかでも、一、二を争う成功者となっていた。
 だが、あの第二次世界大戦が、イワダテの人生に暗い影を落としたのである。
 連合国側の一員となったメキシコは、日本に宣戦布告し、日系人の財産は、政府によって凍結されてしまったのである。
 この時も、イワダテは屈しなかった。戦争が終わると、彼は、いち早く立ち上がり、再び、食料品店を営むようになった。
 しかし、三度、不運が彼を襲った。
 人に騙され、土地を、ただ同然で買い取られてしまったのである。あとには、莫大な借金が残った。
 さらに、それまで頑健を誇っていた体も壊してしまった。血圧が異様に高くなり、体調が悪く、寝込むことも多くなったのである。
 「かわいそうに、もうあの人も、おしまいだな」
 同情とも、蔑みともつかぬ、そんな声が、病床の彼の耳にも聞こえてきた。
 彼自身も、もうダメではないかと感じ、気力も衰えていく一方であった。
 ″俺は、成功したかと思うと、すぐ落とし穴にはまるように、行き詰まってしまう。努力に努力を重ねても、最後は、それが実らない。なぜ、こうなってしまうんだろう……″
 イワダテは思い悩んだ。
 彼は、以前から信頼を寄せていた、東京の親戚に手紙を出し、そこに、自分の心境をつづった。
 この親戚が、学会員であった。
 早速、親戚から、聖教新聞や『大白蓮華』などが送られてきた。
 イワダテは、山本会長の指導をはじめ、社説、教学の解説など、むさぼるように読んでいった。
 そのなかで語られていた「宿命」「福運」という言葉が、彼の胸に、痛いほど響いた。
26  幸風(26)
 ラウロ・イワダテは、しみじみと思った。
 ″俺は、少なくとも、精いっぱい努力し、信念をもって生きてきた。朝早くから夜中まで、懸命に働いた。社会がどうなるのかも、常に考え抜いてきた。
 その努力は、誰にも負けないはずだと思う。
 しかし、同じように努力しても、必ずしも成功するとは限らない。また、成功しても、そのままずっと軌道に乗る人間もいれば、俺のように、予期せぬ問題で足もとをすくわれてしまう人間もいる。
 その違いは、どこにあるのか。やはり、人間には、宿命や運というものがあるのだろうか″
 このイワダテの問いに、聖教新聞に掲載されていた山本会長の指導や、教学の解説記事は、真正面から答えるものであった。
 彼は、宿命の転換の方途を説いているのが日蓮仏法であるという主張に、強い興味を覚えた。闇のなかに、一条の光を見た思いがした。
 そして、一九六三年の六月、イワダテは進んで信心を始めた。
 手紙で教えられた通り、勤行・唱題を真面目に実践し、布教にも力を注いだ。
 すると、異常に高かった血圧も、次第に安定し始めた。彼は、初信の功徳を実感した。
 信心して二カ月後、メキシコに立ち寄った、副理事長の春木征一郎と理事の山際洋を囲み、空港で座談会が開かれた。
 この時、五世帯、八人のメンバーが集い、メキシコに班が結成され、イワダテが班長になったのである。
 班長といっても、彼は、まだ、仏法のことは、よくわからなかったし、先輩幹部もいないために、直接、会って、指導を受けることもできなかった。
 ただ、日本から送られてくる聖教新聞だけを頼りに、メキシコ班の活動が始まったのである。
 イワダテは、聖教新聞には隅から隅まで目を通し、暗記するほど熟読した。
 さらに、その新聞を、日本語のわかるメンバーで回し読みし、仏法を研鑽し合った。
 それが布教への活力となって、次第に、同志の輪も広がっていった。
 また、健康を回復したイワダテは、仕事にも、新たな決意で、精力的に取り組んでいった。
 彼は、大豆や梅干しの加工食品を製造販売した。
 文化も習慣も異なるメキシコで、梅干しなどが売れるのだろうかという不安もあったが、予想に反して、飛ぶように売れていったのである。
27  幸風(27)
 やがて、「メキシコのあらゆる町、あらゆる店に、イワダテの会社の製品がある」とまで言われるようになったのである。
 ラウロ・イワダテの事業は、ますます発展し、抱えていた借金も、完済することができた。
 その功徳の喜びを胸に、彼は一九六五年の春に、三人の同志とともに来日。三月度の本部幹部会で、メキシコ支部の支部長の任命を受けたのである。
 山本伸一の一行は、空港からホテルに向かった。
 伸一は、メキシコでは、支部長のイワダテを全力で励ますとともに、婦人部、男子部の中心者を定め、組織の整備を行うことを目的としていた。
 この日の夜は、メキシコ市のコヨアカン通りにあるイワダテの家で、日達法主に同行してきた僧侶によって、入信の儀式である″御授戒″が行われた。
 終了後、伸一は、ホテルで、十条潔、清原かつ、正木永安らとともに、メキシコの人事を検討した。
 その結果、イワダテの妻のチサコを、メキシコ支部の婦人部長に任命することが決まった。また、男子部の支部の責任者には、中田恒光という青年が就くことになった。
 さらに、メキシコに三つの地区を結成することが決定をみた。
 翌日、山本伸一は、日達法主とともに、市内を視察した。案内役は、支部長のイワダテであった。
 一九六八年には、メキシコでオリンピックが開催されるとあって、街は活気にあふれていた。
 伸一たちは、フアレス通りから、十九世紀半ばに、皇帝マクシミリアンが、パリのシャンゼリゼ通りを模してつくらせたといわれるレフォルマ通りを進んでいった。この通りは、市内随一の繁華街である。
 しばらく行くと、独立記念塔が見えてきた。塔の頂上には、黄金に輝く天使の像が立っている。下には、独立の英雄たちが埋葬されているという。
 道には、街路樹が並び、美しい公園や広場が、あちらこちらに目に入った。
 時折、ソンブレロと呼ばれる、つば広の帽子に、中央に頭を出す穴があいた、ポンチョという衣服を着た人の姿も見受けられた。
 伸一は、戸田城聖が夢にまで見たメキシコの街を、今、自分が、師に代わって歩いていると思うと、深い感慨を覚えた。
 ″先生、このメキシコにも、必ず、幸福の花園をつくってまいります!″
 伸一は、心で戸田に誓っていた。
28  幸風(28)
 山本伸一たちは、有名なチャプルテペック公園に立ち寄った。
 この公園内には、国立人類学博物館、国立歴史博物館となっているチャプルテペック城、近代美術館など、多くの施設がある。
 なかでも、池のある中庭を中心に、建物が四方に配置された国立人類学博物館は、前年の秋に完成したもので、建築物自体が一つの作品として、鑑賞に値するといわれている。
 伸一は、それらの建物の一つ一つを、正本堂の建設の参考にしようと、丹念に見学した。
 さらに、一行は、遺跡で知られる、テオティワカンにも足を延ばした。
 テオティワカンは、メキシコ市から北東約五十キロメートルほどのところにある古代都市である。諸説あるが、紀元前二世紀ごろから後八世紀ごろにかけて栄えたといわれる。
 ここには、高さ六十五メートルの、「太陽のピラミッド」と呼ばれるピラミッドがある。
 年二回、太陽がこのピラミッドの真上にくる日には、後光が差すかのように光り輝くという。
 この日の夜は、支部長のイワダテの家で、座談会が行われた。
 しかし、伸一は、これには出席することができなかった。
 正本堂の建設について、日達法主と打ち合わせをしておく必要があったし、小説『人間革命』をはじめ、『大白蓮華』の巻頭言や婦人雑誌の原稿などの締め切りが、差し迫っていたからである。
 座談会は、理事長の十条潔らに任せ、伸一は、伝言を託した。
 座談会では、十条から、新しい人事が発表された。
 「このたび、メキシコ支部に婦人部長が誕生することになりました。チサコ・イワダテさんです」
 十条が言うと、大きな拍手がわき起こった。
 彼女は、控えめであったが、優しい、面倒見のよい人柄で、誰からも慕われていたのである。
 チサコは、静かに立ち上がると、はにかみながら、皆におじぎをした。
 純真で頑固な支部長のラウロ・イワダテと、妻のチサコとは、絶妙な取り合わせといえた。
 婦人部は、創価の太陽である。太陽が燦然と輝くならば、周囲は、希望の光に満ち、悲しみの闇は破られ、家庭に、地域に、笑顔と幸の花々が咲き薫る。
 この婦人部長の人事には、メキシコに幸福の花園を開かんとする、伸一の願いが込められていた。
29  幸風(29)
 さらに、男子部の支部の責任者として、若き中田恒光が紹介された。
 中田は、二十一歳の関西出身の青年で、三カ月前にメキシコに渡って来たばかりであった。
 彼は、九歳の時、両親とともに信心をした。父親の病弱なことが、一家の悩みであった。
 中田は大阪の中学を卒業後、住み込み店員を経て、大手家電メーカーの部品管理の仕事に就いていた。
 その彼の目を世界に向けさせたのが、『大白蓮華』(一九六三年八月号)に掲載された、山本会長の巻頭言「青年よ世界の指導者たれ」であった。
 ″ぼくも、いつか、海外に雄飛したい!″
 青年・中田の思いは、日ごとに強くなっていったが、人に話すと、はかない夢だと、一笑に付された。
 彼は、家に帰ると、毎日のように、「青年よ世界の指導者たれ」を、声を出して読み、自らを鼓舞しながら、唱題に励んだ。
 そんなある日、知人から、「メキシコの家電製造の会社で働いてみないか」との話をもちかけられた。
 語学は、英語もスペイン語も全くできなかったが、彼は、即座に答えた。
 「ぜひ、やらせてください。お願いします」
 中田は、嬉しさに、小躍りしたいような気持ちであった。彼は、御本尊の功力を実感した。
 そして、三カ月前にメキシコに来たのである。
 しかし、実際に生活を始めてみると、言葉の壁はもちろんのこと、閉口することばかりであった。
 海抜二、二〇〇メートルを超す高地にあるメキシコ市は、少し走ると、呼吸も苦しくなり、めまいに襲われた。
 また、会社の経営状態は至ってひどく、半ば倒産の状態であり、給料さえも満足に支払われなかった。住まいは、社長の自宅の物置である。
 ″日本に帰ろう″と思ったが、旅費もなかった。そこで、貨物船で働きながら帰国することも考えた。
 そんな彼をメキシコにとどまらせたのは、「八月に、山本先生が来てくださるよ!」という、イワダテ支部長の言葉であった。
 そして、この座談会で、中田は、男子部の支部の責任者に任命になったのだ。
 彼は、十条潔に名前を呼ばれて、返事をして立ち上がりはしたものの、戸惑いを隠せなかった。
 ″ぼくは、生活の確たる基盤もない。また、言葉もわからない。
 こんな自分が、メキシコの男子部のリーダーになってよいのだろうか……″
30  幸風(30)
 中田恒光は、すぐに思い直した。
 ″これは、ぼくの未来を期待してくれての人事であることは明らかだ。それならば、これから、ぼくがどうしていくかだ……″
 十条潔は、次いで、メキシコ支部に、アステカ、タクバ、ラテンアメリカの三地区を結成することを発表し、それぞれの地区部長、地区担当員を紹介していった。
 中田は、新たな闘魂をみなぎらせていた。
 彼は、日本を発った時から、メキシコの広布のために、生きたいとの強い思いがあった。
 ″それには、自分は何をすべきか――必ず、社会で勝利の実証を示し、信心の正しさを証明していく以外にない″
 中田には、メキシコ社会での地歩も、財産も、何もなかった。しかし、広宣流布に生きようという、燃え上がらんばかりの情熱があった。
 この日から、彼の不屈の挑戦が始まるのである。
 ″広布のために、力をください″と懸命に祈り、必死になって働いた。
 だが、それでも、最初に勤めた家電製造の会社は、倒産し、やむなく、自動車の整備会社に就職する。
 そこで、実績と信用を築き上げ、後年、自動車部品の販売会社を設立することになるのである。
 ″広宣流布″に一念を定めた人は強い。人生の勝利も、成功も、知恵も、活力も、その一念のなかに収まっているからだ。
 十条は、座談会で人事を発表したあと、こう語っていった。
 「山本先生は、まず皆様方に、『日達上人との大事な打ち合わせがあり、座談会でお会いすることはできませんが、くれぐれもよろしくお伝えください』と言われておりました。
 そして、さらに、次のようなメッセージを、お預かりしてまいりました。
 『信心の世界は、皆、平等です。先輩であるからとか、後輩であるからといって、区別するのではなく、どこまでも、支部長を中心に、仲良く前進していってください。
 仲の良い、和気あいあいとした姿のなかにこそ、仏法の精神があります。
 メキシコは、未来への大きな可能性を秘めています。また、三年後にオリンピックを控え、今後ますます脚光を浴びることは間違いありません。
 その三年後の目標としまして、まず、五百人の同志が集い合うことをめざしてはどうかと思いますが、いかがでしょうか』」
31  幸風(31)
 十条潔が、山本会長からの提案を伝えると、嵐のような大拍手が鳴り響いた。
 わずか二十六世帯のメンバーで、三年後に五百人の同志を糾合するには、一人ひとりが一騎当千の闘将として立たねばならない。
 メキシコの同志は、伸一の提案を契機に、その一大決意を固めたのである。
 十条は、最後に、こう呼びかけた。
 「山本先生の、メキシコ支部への期待は限りなく大きいことを、私も実感いたしております。
 皆さん、ともに力を合わせて、メキシコの広布と幸福の歴史を開いてまいろうではありませんか」
 このあと、一緒に出席した幹部があいさつに立ち、参加者を激励した。
 また、袱紗や、「安穏」と揮毫された山本伸一の色紙が、記念品として参加者に贈呈され、座談会は喜びのうちに幕を閉じた。
 座談会のあと、イワダテ夫妻と中田恒光は、山本伸一が宿泊しているホテルに行くことにした。
 外は雨であったが、足取りは軽かった。
 彼らは、山本会長の部屋に、三人で押し掛けたのでは迷惑になると考え、中田はロビーで待ち、イワダテ夫妻だけで、訪問することにした。
 伸一は、夫妻の来訪を喜び、丁重に迎え入れた。
 十条潔や正木永安らも交え、伸一を囲んでの懇談となった。
 イワダテは、伸一に尋ねられ、メキシコに住むようになった経緯を語った。そして、深い感慨を込めて言った。
 「ほんの一、二年のつもりが、四十年間にもなってしまいました。
 いつの間にか、私はメキシコが大好きになっていたんです。
 どことなく日本人に顔が似ている人が多く、親しみやすいこともあったのかもしれません。
 また、メキシコは、中南米のなかでは、政情も安定していて、真面目に働けば、いくらでもチャンスを生かせる国であることに、私は魅了されました」
 伸一は頷いた。
 「そうですか。大切なことですね。
 自分のいるところが好きにならなければ、そこで、使命を果たし抜いていくことはできません。
 いやだなという思いがあれば、どこかへ行きたい、日本へ帰りたい、という心が働き、すぐに逃げ腰になってしまい、本当の仕事はできないものです。
 自分が、そこを好きになれる″良さ″を見つけることから、価値の創造は始まっていくといえます」
32  幸風(32)
 山本伸一は、ラウロ・イワダテに尋ねた。
 「ところで、何か困ったことはありませんか」
 「はい。学会の出版物が私たちの信心の糧になっておりますが、聖教新聞にしても、日本からの郵送料が高くて、みんなが個人で購読することは、とてもできません。
 今は、一部の新聞を、みんなで、ボロボロになるまで、回し読みしているような状態です」
 「わかりました。応援しましょう。
 本部としてではなく、私が個人的に、聖教新聞を、数部、メキシコに送るようにします」
 イワダテの顔に、光が差した。
 「申し訳ございません。本当にありがとうございます。みんなも大喜びすると思います」
 こう言うと、何度も頭を下げた。
 それを制して、伸一は言った。
 「書籍など、ほかの学会の出版物についても、できる限り応援していきます。
 戸田先生が夢にまで見られたメキシコを、私は大発展させたいんです。
 三年後には、オリンピックがありますが、それまでに、盤石な広宣流布の基盤を築きましょう。イワダテさん、時は″今″ですよ。
 あなたがメキシコに渡って四十年。それは、なんのための歳月であったか。
 仏法の眼から見れば、すべて、メキシコの広布に立ち上がる準備期間だったんです。いよいよ、これからが人生の本舞台です。
 やりましょう! 戦いましょう! メキシコに真実の幸福の風を起こすために」
 イワダテは、頬を紅潮させて頷いた。
 伸一は、それから、イワダテの妻のチサコに語りかけた。
 「これからは婦人部長として、大いに力を発揮してください。
 婦人の力こそ、広布の前進の原動力なんです。それは、メキシコ独立の、あのホセファ夫人の活躍が、明確に物語っています」
 ホセファ夫人とは、″独立のヒロイン″といわれる、ホセファ・オルティース・デ・ドミンゲスのことである。
 メキシコは、十六世紀前半、スペインに征服され、植民地となり、「ヌエバ・エスパーニャ」(ニュー・スペイン)と呼ばれるようになった。
 しかし、ナポレオン軍によって、スペイン本国が侵攻され、スペイン王の権威が失墜したことなどから、十九世紀に入ると、独立への機運が高まっていった。
 その独立の大功労者が、ホセファ夫人であった。
33  幸風(33)
 ホセファ夫人は、地方行政官である、夫のミゲル・ドミンゲスとともに、独立運動に身を投じ、運動の指導者であった、ドローレス村の主任司祭のミゲル・イダルゴを支援してきた。
 彼女は、聡明にして強い精神力をもつ、勇気ある女性であった。
 同志は、文学の会と称して、ホセファ夫人の応接間などに集まり、着々と独立への準備を進めていった。
 彼らは語り合った。
 「独立を勝ち取ったならば、屈辱的な『ヌエバ・エスパーニャ』(ニュー・スペイン)の名を捨て、『メヒコ』(メキシコ)の国名にしよう」と。
 「メヒコ」とは、一説には、先住民がつくったアステカ帝国の神(メシトリ)の大地を意味する言葉といわれる。
 また、新しい国は、共和国とし、奴隷を廃止して、すべての民衆に平等の権利を与えることなども検討されたのである。
 そして、遂に、蜂起の時は、一八一〇年十月一日と決まった。
 ところが、その計画は、密告などにより、事前に発覚してしまったのである。
 九月半ば、ミゲル・ドミンゲスにも、ホセファ夫人にも、逮捕の手が迫ろうとしていた。
 それを知ったホセファ夫人は考えた。
 ″今、立ち上がらなくては、独立の夢は消え去り、永遠に成就できない。チャンスは今しかない!″
 逮捕される直前、彼女は同志に告げる。
 「急いで、イダルゴ司祭のところへ行って、こう伝えてください。
 『私たちの計画は、既に漏れてしまっています。十月を待たずに、今、すぐに蜂起してください』と」
 イダルゴは、伝言を聞くと、九月十六日、直ちにドローレス村で決起した。メキシコ人の囚人を解放し、横暴なスペイン人の支配者を捕らえたのである。
 イダルゴは叫んだ。
 「独立万歳!」「メヒコ万歳!」
 それに呼応して、民衆も叫んだ。
 「独立万歳!」「メヒコ万歳!」
 これが、独立の狼煙となった、有名な「ドローレスの叫び」である。
 最初、イダルゴのもとに集った民衆は数百人であったが、数日後には、何万人にも膨れ上がった。
 民衆を組織しての戦いは紆余曲折をたどるが、それから十一年後の一八二一年に、遂に独立は成就するのである。まさに、ホセファ夫人の勇気と英知の決断が、メキシコを独立に導いたといえよう。
34  幸風(34)
 山本伸一は、チサコ・イワダテに言った。
 「あなたは、妙法のホセファ夫人となり、メキシコの同志を守ってください」
 「はい!」
 はつらつとした、チサコの声が響いた。
 それから伸一は、再び、ラウロ・イワダテに語りかけた。
 「イワダテさん、人の一生には限りがあります。その限りある人生をなんのために使うかです。
 自分の小さな幸福を追い求めるのも人生です。しかし、あなたには、メキシコの広宣流布に生き、この国の人びとを幸福にしていく使命がある。
 御書に照らして考えるならば、あなたは、そのために、地涌の菩薩として出現したんです。
 どうか、メキシコの民衆の、幸福と平和のパイオニアとして、また、リーダーとして、生涯、広宣流布に生き抜いてください」
 イワダテは、大きく頷くと、伸一の手を、ぎゅっと握り締めた。
 その目には、涙が滲んでいた。
 「頑張ります。頑張り抜きます。命の限り……」
 熱い、生命の交流の一瞬であった。
 この時、メキシコに、広宣流布の柱が、打ち立てられたのである。
 イワダテ夫妻は、決意の炎を胸に燃え上がらせながら、ホテルの伸一の部屋を後にした。
 ロビーには、中田恒光が待っていた。
 中田は、涙で潤んだラウロ・イワダテの顔を見て、″いったい、先生のお部屋で何があったんだろう″と思った。
 これまで、イワダテの涙を見ることなど、なかったからである。
 イワダテは、何も語らなかった。ただ、「行こう」と、つぶやくように言い、ホテルを出た。
 外は、しとしとと雨が降り続いていたが、イワダテは、傘も差さなかった。
 中田は、イワダテの妻のチサコと、後に続いた。
 歓喜に紅潮し、ほてったイワダテの顔には、降りかかる雨が心地よかった。
 黄金の天使の像が輝く独立記念塔の前で、彼は、静かに口を開いた。
 「私は、自分がメキシコに渡って来た、本当の意味が、今、よくわかった。
 いや、この世に生を受けた、真実の使命を知ることができた……。
 私の残りの人生は、このメキシコの広宣流布に捧げようと思う。山本会長に会って、私は腹が決まった。前進あるのみだ。
 中田君、一緒にやってくれるね」
35  幸風(35)
 ラウロ・イワダテは、中田恒光の手を取ると、強く握った。
 中田も、目を潤ませながら、イワダテの手を握り返した。
 「やりましょう! イワダテさん。
 ぼくも、メキシコの広宣流布をしようと、ここに来たんです。頑張ります。断じて頑張りますよ」
 ライトに照らされて、光り輝く天使の像の下で、イワダテと中田は、強く手を握り合い、頷き合った。
 傍らにいた、イワダテの妻のチサコも、ハンカチで涙を拭いながら、頷いていた。
 それは、メキシコ支部の支部幹部三人の、歴史的な誓いの夜となった。
 既に、時刻は、午後十一時を過ぎていた。
 いつの間にか、雨はあがっていた。
 翌八月十九日は、山本伸一が、メキシコを発つ日であった。
 午後四時、伸一たちは、ホテルを出発した。
 空港に着くと、二、三十人のメンバーが、見送りに来てくれていた。
 海外局 長 の森永安志が、中田を伸一に紹介した。
 「先生、彼が、メキシコの男子部の中心者になった中田恒光君です」
 伸一は、中田と握手を交わしながら言った。
 「未来を開くのは、若い力です。だから私は、青年部に期待します。
 メキシコは、まだまだ青年部は少ないが、君が立ち上がればいいんです。
 一つの火が燃えれば、野原を焼き尽くすように、すべては、一人から始まる。広宣流布の成否は、先駆者の双肩にかかっている。
 だから、どんなに困難なことがあっても、どんなに辛いことがあっても、絶対に負けてはいけない。
 自分の弱さを乗り越え、自己の悲哀を制覇し、メキシコの未来に向かって、力強く、堂々と、走り始めるんだ」
 伸一の言葉は、中田の胸に、深く突き刺さった。
 「はい!」
 闘志に満ちた、中田の声が跳ね返ってきた。
 伸一は、それから、見送りに来てくれたメンバーと、記念撮影をした。
 写真を撮り終えたところで、搭乗を告げるアナウンスが流れた。
 「ともかく、仲良く、楽しく、明るく、頑張ってください。
 皆さんが、健康で、幸福な人生を歩めるように、日々、お題目を送ります。また、お会いしましょう」
 伸一は、最後に、こう励まし、メキシコの同志に別れを告げた。
36  幸風(36)
 山本伸一のメキシコ訪問を契機に、メキシコ支部は旭日が昇りゆくように、歓喜の大前進が始まった。
 「メンバー五百人を達成して、メキシコ・オリンピックを迎えよう!」
 それが、メキシコの同志の合言葉となった。
 支部長のラウロ・イワダテも、支部婦人部長のチサコ・イワダテも、男子部の責任者の中田恒光も、皆、真剣であった。
 それぞれが自分だけになっても、この山本会長との誓いを、必ず果たそうと決意していた。皆が一人立ったのである。
 同じ目的に向かって、皆が立ち上がる時、そこに真の団結が生まれ、力が生まれる。これは、永遠の法則といってよい。
 反対に、いかに仲が良さそうに見えても、互いにもたれ合っているだけなら、烏合の衆にすぎず、本当の力を出すことはできない。
 ″この国の人びとに、幸福の哲学を教えたい″
 メンバーは懸命に祈り、あの町で、この町で、友人たちに、仏法を語っていった。
 そのなかで、日系人以外のメキシコ人も、次々と信心を始めるようになった。
 一年が過ぎた時には、メンバーは百世帯になっていた。二十六世帯からのスタートであり、四倍近い飛躍を遂げたことになる。
 イワダテの家には、常に誰かが、新来の友を連れて来た。ここでは、連日、仏法対話の花が開いていたのである。
 イワダテたちは、仏法対話や御本尊送りのために、どこまでも勇んで出かけていった。千キロメートル以上も離れた地域まで、車を駆って、一週間がかりで出かけることもあった。
 ある地区部長の車は、かなり乗り尽くしたせいか、山岳地帯に入ると、決まってオーバーヒートした。
 ラジエーターに入れる水を求めて、何度も谷底まで下りていくことも珍しくなかった。
 だが、皆、意気軒昂であった。愛するメキシコを、″幸風″の吹く、平和の園にするのだという、太陽のごとき燃える心があった。
 伸一の訪問から二年後には、メキシコ支部は約二百五十世帯となり、この年の五月には、総支部が結成された。
 そして、オリンピックの年の一九六八年を迎えた。
 メキシコでは、この年の五月二十五日に総会を企画し、なんとこの日までに、メンバーは、七百世帯を達成したのである。人数にすれば、目標とした五百人の優に倍以上である。
 伸一との誓いを、見事に果たしたのだ。
37  幸風(37)
 メキシコを後にした山本伸一の一行は、ロサンゼルスを経由し、サンフランシスコに向かった。
 伸一がメキシコに滞在している間に、理事の黒木昭などの四人の派遣幹部は、先発隊としてサンフランシスコ入りし、地区部長会や教学試験を担当した。
 そして、伸一がサンフランシスコに着いた翌日の二十日には、派遣僧侶によって、″出張御授戒″が行われた。
 サンフランシスコには、一九六三年の末に会館がオープンして以来、メンバーの活動にも一段と弾みがつき、急速な拡大を遂げていたところから、″御授戒″の希望者が多かった。
 当初、サンフランシスコでの″御授戒″は、二回の予定であったが、次々と希望者が訪れ、結局、六回にわたって行われた。
 伸一は、ここでは、サンフランシスコの支部長になった、タッド・オザキの激励に全魂を傾けた。
 オザキは、伸一のドライバーをしてくれることになっていた。
 伸一が、サンフランシスコの空港に到着したのは、十九日の午後十時を回っていたが、彼はホテルに着くと、オザキと懇談した。
 疲れてはいたが、シスコ滞在中に、オザキとゆっくり語り合えるのは、この時しかなかったからである。
 タッド・オザキは、三十代半ばの日系二世の空軍大尉で、一年ほど前に信心を始めた。
 彼は、それまで、学会に対しては、極めて懐疑的であった。
 オザキと仏法との出あいは、重い腎臓病で苦しんできた妻が、先に入会したことであった。
 医師は、あと一、二年の命であると診断したにもかかわらず、学会のメンバーはオザキに、「必ず、奥さんの病気はよくなります」と、強い語調で語り、彼にも信心を勧めたのだ。
 オザキは、その言葉に反発した。
 ″医師もだめだと言っているのに、根拠もないことを言って、希望を与えるなんて、無責任ではないか″
 オザキは、いい加減なことが大嫌いだった。
 彼は大尉であったが、その地位も不断の努力によって勝ち取ってきたものであった。
 オザキは、十歳の時、結核で母親を亡くしていた。
 そして、その翌年、太平洋戦争が始まると、日系人は収容所に入れられることになり、オザキ一家も、オレゴン州の収容所に抑留された。
 彼は、その後、五年間を、このなかで過ごさねばならなかったのである。
38  幸風(38)
 収容所には正規の学校がなかったために、戦後、タッド・オザキは、何歳も年下の子供たちと一緒に、机を並べなければならなかった。
 彼は、苦学しながら高校まで進んだが、今度は父親が、不慮の事故で他界したのである。
 幾度となく、試練の烈風に襲われながら、彼は歯をくいしばって頑張り抜き、高校を卒業すると、空軍に入隊した。
 第二次世界大戦で、日系人で構成される四四二部隊が武勲をあげ、称賛を得たことから、軍隊ならば、人種や家柄に関係なく、実力が評価されるのではないかと考えたのである。
 勤勉で努力家の彼は、軍隊のなかで、着実に昇進を重ねていった。
 やがて、オザキは、日本に赴任する。そこで知り合い、結婚したのが、妻のアイコであった。
 しかし、その最愛の妻の、持病の腎臓病が悪化し、命にもかかわる事態に陥ってしまったのである。
 オザキの落胆は大きかったが、自らの信念で人生を切り開いてきた彼のプライドが、″病気を治す宗教″を、認めるわけにはいかなかった。また、人の弱みにつけ込むような、言い分にも腹が立った。
 さらに彼は、日本で学会が公明政治連盟をつくり、政界に進出していたことから、きっと、危険な意図を隠しもった宗教団体にちがいないと、思い込んでいたのである。
 彼は、密かに決意した。
 ″私は軍人として、創価学会の黒い陰謀を暴いてみせる!″
 オザキは穏やかな人柄だが、内には強い正義感と情熱を秘めていた。
 彼は、まず、座談会に出席してみた。
 座談会では、参加者のさまざまな信仰体験が語られていた。経済苦を克服した体験もあれば、病苦を乗り越えた体験もあった。時には、感極まって、涙で言葉を詰まらせる人もいた。
 その話は、嘘ではないだろうと、オザキは思った。
 また、参加者の表情は明るく、抹香臭さは全くなかった。
 中心者の男性も、誠実そうであった。宗教団体のリーダーたちにありがちな、神秘がかったうさん臭さや、権威ぶったところは、まるでなかった。
 やがて、中心者を囲んで質疑応答が始まった。皆がぶつける率直な質問に、明快に、丁寧に、確信をもって答えていた。
 参加者の一人が尋ねた。
 「さきほどの体験にもありましたが、なぜ、信心で病気が治るのでしょうか」
 オザキが最も聞きたかったことである。
39  幸風(39)
 中心者の男性は答えた。
 「結論からいうと、信心によって、仏界という、最高の生命が涌現され、強い生命力がつくから、病気を治すこともできるんです。
 たとえば、同じような病気やケガをして、同じ薬を使って治療しても、早く治る人もいれば、なかなか治らない人もいますね。
 それが、生命力の違いなんです。そして、その生命力の源泉が信心です」
 中心者の男性は、それから、人間の心と肉体とは不二の関係にあることを、さまざまな事例をあげて説明し、人間の一念の大切さを強調していった。
 「また、仏法は、決して医学を否定するものではありません。
 病気になったら、医者にかかるのは当然です。仏法は道理ですから、医学の力は、大いに役立てるべきです。しかし、病気を克服する根本の力は、自分自身の生命力なんです」
 理路整然とした回答であると、オザキは思った。
 オザキは、その後も、学会の会合に出席してみた。
 彼を最も驚かせたのは、メンバーの、他人を思いやる心であった。
 癌の宣告を受けた老婦人のために、何人かのメンバーが、毎日、激励に通うとともに、必死になって、健康の回復を祈っているというのである。
 そして、メンバーの一人は、こう語った。
 「私は、この仏法によって幸せになれました。ですから、仏法を、私につながるすべての人に、教えていきたいと思っています。
 一人の人を幸福にすることと、世界の平和とは、同じ根っこから始まると思います」
 オザキの学会に対する見方は、次第に、大きく変化していった。
 それまで彼は、病気が治るなどと吹聴する″いかがわしい宗教″は、社会から遊離し、秘密めいた儀式などを行っているはずであると考えていた。しかし、学会は、そうではなかった。
 ――社会に開かれた対話の場として、座談会を活発に行い、メンバーは、「よき市民たれ」という合言葉のもと、社会、職場の第一人者をめざしている。
 また、″教祖″の独断ですべてが進められていると予測していたが、根本となっているのは、日蓮の遺文を収めた、「御書」という分厚い本であり、仏教の教えである。
 皆が、山本会長という若いリーダーに心酔していることは確かだが、それは、人格的な触発による部分が大きいようだし、メンバーの話では、会長は対話を重んじる人物のようである。
40  幸風(40)
 自分の目と耳で、創価学会を検証してみたタッド・オザキの結論は、「入信」であった。
 学会にあるのは、″黒い陰謀″ではなく、人びとの幸福と世界の平和を築こうとする、″純白で気高い理想″であることを確信した彼は、一途に学会活動に励んだ。
 猛然と布教にも駆けた。サクラメントヘ、モントレーへ、フレズノへと、車を二時間、三時間と走らせ、広布開拓の道を突き進んできた。
 そして、あのエチワンダでの文化祭の日に、サンフランシスコ支部の支部長に就任したのである。
 山本伸一は、宿舎のホテルの部屋で、オザキの入信に至った経緯を聞くと、力を込めて言った。
 「日系二世のあなたは、日本人のことも、アメリカ人の考え方もよくわかると思います。
 日本人は、日本の文化や伝統のなかで、仏法をとらえ、それをアメリカ人にも教えようとします。そのために、仏法の本義ではない部分で、アメリカ人が戸惑ったり、理解できないことも少なくありません。
 そこで、アメリカ人がよくわかり、納得できるように、仏法を伝えていくことが、極めて大事になる。それを、あなたにお願いしたいんです。
 アメリカの広宣流布は、決して焦る必要はない。
 一人ひとりが、仏法の世界とは、これほど楽しいものか、これほど充実したものか、これほどすばらしいものかと、実感し、納得していくことが肝要です。
 そうすれば、その人が核となって、仏法は広がっていく。
 華やかなことばかりに目を奪われ、一時的には大発展したように見えても、その基本を忘れてしまえば、アメリカの広宣流布は失敗します。
 焦るのではなく、みんなが信心のすばらしさを、心から納得していくような組織にしていかなくてはいけない。
 リーダーの責任は重たいんです。アメリカが成功したか、失敗したかは、三十年、四十年後に、すべて明らかになります」
 オザキは、山本会長の言葉を、生命に刻む思いで聞いていた。
 伸一は、最後に、「私に代わって、サンフランシスコを頼みます」と言って、彼の手を握り締めた。
 それから、日本から持ってきた、伸一の著書である『科学と宗教』にサインして、オザキに贈った。
41  幸風(41)
 山本伸一は、サンフランシスコに二泊したあと、シアトル、そして、ハワイのホノルルを回り、八月二十五日に帰国した。
 シアトルでも、ホノルルでも、伸一は、中核となる幹部の育成に力を注ぎ、個人指導に多くの時間を費やした。
 また、伸一が訪問した各地で、僧侶による″出張御授戒″が行われたが、その数は、合計千百七十人にも上った。
 五年前の十月、伸一が初めてアメリカの大地を踏んだ時、最も多くの人が集った、あのロサンゼルスの支部結成式でさえ、百数十人ほどにすぎなかった。
 それが、今回、″御授戒″を受けた人だけで、千人を超えたのである。それを思うと、まさに隔世の感があった。
 世界広布のこの伸展を、いったい誰が予想したであろうか。
 ともあれ、今また、新しき幸風を起こして、伸一のアメリカ、メキシコ訪問は終わったのである。
 帰国した山本伸一は、休む間もなく、国内の会員の激励に奔走した。
 彼は、この年の四月から五月にかけて、東京の各本部の地区幹部と記念撮影を行ったが、そのメンバーの喜びが絶大であったことから、全国の地区幹部とも記念撮影をしようと、各地を回っていたのである。
 すると、今度は、班長や班担当員から、「私たちも、山本先生と一緒に、ぜひ記念撮影をしてほしい」との声が起こった。
 本部にも、記念撮影の実現を要望する、何百通もの手紙が届いていた。
 当時の学会の組織は、最前線組織として組があり、幾つかの組が集まって班がつくられ、さらに、数班で地区となり、数地区で支部となっていた。
 もし、班の幹部と記念撮影をすることになれば、伸一は、これまでの何倍もの労力を費やすことになる。
 本部では、理事長の十条潔を中心に、班長、班担当員の記念撮影の件を検討したが、結論は、山本会長のスケジュールなどから考えて、実現は不可能ということになった。
 その報告を聞くと、伸一は言った。
 「本当に無理なのか。日程は組めないのか。
 私は、会長は会員のためにあり、会員への奉仕が本部の第一の使命であると思っている。だから、私の体のことなど心配しなくていいから、もう一度、よく検討してもらいたい。
 私は、班の幹部との記念撮影は、ぜひ実施したいと思っている」
42  幸風(42)
 山本伸一は、できることならば、広宣流布のためにともに働いてくれた、すべての同志と、記念のカメラに納まり、その功労を称えたかった。
 しかし、同志の数は、あまりにも多い。そこで、せめて、地区部長、地区担当員のもとで、各地区を支えている、班長、班担当員の方々と、記念撮影してさしあげたいというのが、彼の決意であった。
 学会本部では、再度、班の幹部との記念撮影について、実施の方向で検討が加えられた。
 そして、伸一のスケジュールの調整が行われ、まず十月三日に、関西で班長、班担当員との記念撮影が行われることになった。
 関西では、早速、準備を始め、大阪府布施市(現在の東大阪市)の体育館を会場にすることが決まった。
 今回の撮影の対象者は、大阪府内の各本部に所属する班長、班担当員としたが、それでも、全部で二万四千人となった。
 仮に、五十人単位で撮影するとしたら、四百八十回になる。
 入退場、整列、撮影などで、一グループに五分かかれば、四十時間も費やす計算になってしまう。
 「これでは、とても対応しきれない!」
 運営にあたった関西のメンバーは、頭を痛めた。
 数十人単位での撮影という発想をやめて、一回の撮影人数を最大限に増やすしかなかった。
 しかし、大きなフィルムを使って撮影しても、皆の顔を鮮明に写すには、数百人が限度である。
 検討の末に、一グループを五百人とし、十二段の階段式の撮影台を作り、その上に並んでもらって、写真を撮ることにした。
 さらに、体育館の三方に撮影台を設け、一回の入退場で、千五百人を撮影することになった。
 少しでも、進行を速めようとの工夫であった。
 また、鮮明な写真を撮るために、ライトも特設することにした。
 三つの撮影台は、男子部の有志約百人が、二昼夜がかりで作り上げた。使用した木材は、丸太六百本、角材千本、パネル六百枚であった。
 この撮影台が完成したのは、記念撮影当日の、三日午前三時半であった。
 その一時間半後の、午前五時には、早くも役員が体育館に集合し、打ち合わせが始まった。
 二万四千人という、前代未聞の記念撮影の一日が、いよいよ、明けようとしていた。
43  幸風(43)
 記念撮影の開始は昼だというのに、午前十時には、待機場所の公園は、参加者でいっぱいになった。
 皆、盛装し、きちんと髪を整え、明るく、晴れやかな顔である。
 十月の三日に、山本先生との記念撮影がある――こう知らされた班長、班担当員は、皆、躍り上がらんばかりの喜びようであった。
 「″真を写す″のが写真やから、折伏もせえへんで記念撮影に参加したら、覇気のない顔が永遠に残ってしまうことになるで。えらいこっちゃ!」
 皆、広宣流布のために戦い抜いた姿を、この写真にとどめようと、懸命に折伏に励み、唱題を重ね、さっそうと、撮影会に駆けつけて来たのである。
 一方、山本伸一は、この数日前から、風邪をひき、体調を崩していた。喉が腫れ、熱も下がらず、体もだるかった。
 しかし、第一線で活躍する班長、班担当員が、記念撮影を、どれほど楽しみにし、また、この日を目標に頑張ってきたかを思うと、行かないわけにはいかなかった。
 正午前、伸一は、会場の体育館に姿を現した。
 体育館にセットされた三つの撮影台には、壮年部の班長が、五百人ずつ並び、緊張した顔で待っていた。
 山本会長と、直接、会うのは初めてという人がほとんどである。
 伸一は、場内に入ると、笑顔で語りかけた。
 「もうかりまっかー」
 彼の大阪弁を聞くと、参加者のこわ張った顔に、笑みの花が咲いた。そして、場内の一角から、「もうかってまっせ」という声が返ってきた。
 伸一と関西の友の心は、すぐに一つにとけ合った。
 撮影に入った。ピカッとフラッシュが光った。
 体調の悪い伸一には、その光が、ことさらまぶしく感じられた。
 最初の撮影が終わると、副理事長の春木征一郎が、携帯マイクを使って、入会して何年になるかをメンバーに尋ねていった。
 伸一が用意してきた、色紙などの激励の品々を、贈呈するためであった。
 「まず、信心して十二年目以上の人は手をあげてください」
 手をあげた人は、ほんの二、三人であった。
 「では、信心して十一年目の方?」
 今度は、誰の手もあがらなかった。
 「それでは、十年目の方はいますか」
 いっせいに、四分の一ほどの人の手があがった。
44  幸風(44)
 入会十年目といえば、一九五六年(昭和三十一年)に、信心を始めた人たちである。
 つまり、この年こそ、民衆勝利の新しき歴史を開くために、山本伸一が戸田城聖から関西に派遣された年であった。
 そして、五月には、伸一が担当した大阪支部は、一万一千百十一世帯の折伏という不滅の金字塔を打ち立て、「常勝関西」の礎が築かれたのである。
 彼が巻き起こした、この拡大の大波のなかで、信心した人たちの多くが、今、班長、班担当員として、功徳の光を浴びながら、広布の大空に、雄々しく乱舞していたのである。
 伸一は、皆を笑顔で包みながら、語り始めた。
 「今日は、ゆっくりお話しできないのが残念ですが、私が皆様に申し上げたいことは、『うんと長生きしてください』『たくさんお題目を唱えてください』ということです。
 特に、大きな悩みに直面している方は、五十万遍、百万遍、二百万遍と、真剣に、着実に、祈り抜いていくことです。
 宇宙の根本法の御当体たる、最高の御本尊様です。なんで悩みが解決しないことがありましょうか。
 人生には、悩みはあります。しかし、それに負けているのは、自分の弱さに原因があるんです。
 また、皆様のお子さんたちが、日本はもとより、世界の平和のために、あらゆる舞台で、自在に活躍ができるように、すべて道は開いておきます。
 未来は盤石です。安心して、戦ってください。
 そして、せっかく一緒に写真を撮ったんですから、一緒に常寂光土に行こうじゃないですか!」
 「はい!」という、元気な声が響いた。
 盛んに目をしばたたき、涙をこらえる人がいた。
 ハンカチで目頭を拭う人もいた。
 どの顔も紅潮していた。
 どの顔も輝いていた。
 伸一は、一つのグループの撮影が終わるたびに、全力で激励した。
 一回目の三つのグループの撮影が終わると、メンバーの入れ替えである。
 当初、一つのグループが撮影をしている間に、ほかの二グループが並ぶという計画もあったが、その入退場によって床が揺れ、撮影に影響するとの配慮から、三グループ一緒に入れ替えることにしたのである。
 この入れ替えの時間は、伸一にとっては、貴重な休憩時間であった。
 しかし、彼は、場外で待っているメンバーの激励に向かったのである。
45  幸風(45)
 体育館を出ると、山本伸一は、待機していた人に語りかけた。
 「お待たせしちゃって、すいません。人数が多いものですから……」
 伸一の姿を見ると、歓声があがった。
 彼は、そのなかに、松葉杖をついた、五十歳前後の男性を見つけると、近づいていって声をかけた。
 「ケガですか。早く治してください。そして、いつまでも、元気で生き抜いてください」
 彼は、この壮年に、念珠を贈った。
 すぐに、次の撮影が始まった。
 伸一は、撮影が終わるたびに、マイクを手にして、力の限り、メンバーを励ました。生命を振り絞っての渾身の指導である。
 腫れた彼の喉は、声を出すと痛かった。
 壮年の撮影が終了したのは、午後二時前であった。
 控室に戻った伸一の体は、発熱のために、ビッショリと汗が滲み、呼吸も荒かった。
 伸一は、下着を着替え、控室のソファにもたれ、額に冷やしたオシボリをあてた。意識が遠のいていくような感じを覚えた。
 控室には、東京から同行してきた、二、三人の幹部がいるだけであった。
 「先生! 大丈夫でしょうか」
 伸一の異変に気づいた、同行の幹部が尋ねた。
 「大丈夫だ。ちょっと休んでいるだけだよ。ともかく、みんなに心配をさせてはいけない」
 同行の幹部たちは、山本会長の強靱な責任感に感嘆しながら、無事に撮影会が終わることを祈った。
 その時、控室のドアがノックされた。
 「山本先生、準備ができました」
 関西の幹部が、控室に伝えに来た。
 「よし! 行こう!」
 伸一は、イスの肘掛けをバンと叩いて、勢いよく立ち上がった。
 それは、さっきまでの伸一とは、まったく別人のようであった。
 ここからは、婦人部との記念撮影である。
 会場に入ると、彼は、また、大阪弁で呼びかけた。
 「ごめんやす。ほんまにおおきに」
 大拍手が響いた。
 「皆さん、今日は、大変にお美しく、若々しい。朝から、一生懸命、お題目を唱えてこられたことが、よくわかります。
 いつも、今日のように、真剣に、たくさんお題目を唱え、はつらつとしていてください」
46  幸風(46)
 山本伸一の激励は、撮影のあとも続いた。
 「皆さんは、常勝関西の尊い基礎をつくった功労者です。私は、生涯、皆さんのことを忘れません。
 今日の写真は、皆さんとともに生きるという意義を込めて、会長室にも一枚ずつ保管します。
 そして、皆さんに題目を送りますから、しっかり受けとってくださいよ」
 その時、会場の隅の方から、「先生!」と呼ぶ、かわいらしい声が響いた。母親についてきた、五歳ぐらいの男の子の声であった。
 伸一は、手を振りながら、目を細めて言った。
 「もうすぐ、終わるから待っていてね」
 それから、伸一のために用意してあった、テーブルの上のブドウを、坊やにあげた。
 そして、再びマイクを手にした。
 「どうか、お子さんが立派に成長し、広宣流布の晴れ舞台に立てるように、よろしくお願いします。
 お子さんにとって、お母さんは、信心の最大の手本です。純粋な母の信心があれば、必ず、子供も信心に励むようになります。
 お母さんは太陽です。どんな苦しみの闇も、太陽が輝けば、すべては希望の光に包まれる。
 何があっても、お母さんさえしっかりしていれば、ご一家は安穏です。幸福の花園となることは間違いありません」
 さらに、伸一は、年配者の姿を見ると、言葉をかけ、色紙や、念珠、書籍などを贈った。
 だが、メンバーの入れ替えとなり、控室に戻ると、彼は、倒れるようにソファにもたれるのであった。
 熱のために、顔はますます上気していた。目も充血して赤かった。体は熱いのに、悪寒を感じた。
 しかし、数分もすると、伸一は、生命力を振り絞って、毅然として起き上がって言うのである。
 「さあ、行こう! みんなが待っているから」
 歩きながら、彼は、同行の幹部に伝えた。
 「最後に、役員の青年とも記念撮影をしよう。みんな、一生懸命にやってくれたんだもの」
 同行の幹部は、何を言い出すのだろうと思ったが、伸一の気持ちを考えると、制するわけにはいかなかった。まさに、「臨終只今」の思いで、同志を励ます山本会長の姿に、皆、胸を熱くするのであった。
 班長、班担当員の記念撮影は四十八グループで終わり、最後の役員の記念撮影となった。
47  幸風(47)
 役員の撮影は、二グループに分かれて行われた。
 山本伸一は、一人ひとりに視線を注ぐように、撮影台に立つ青年を見上げながら語った。
 「お休みの日曜日に、朝早くから、陰の力として頑張ってくれた諸君に、心から感謝いたします。
 ありがとう。また、ご苦労様です。
 最高の王者とは誰か。常に民衆を守りゆく人です。
 最も尊い人は誰か。大切な仏子のために、黙々と汗を流した人です。
 ゆえに、役員の皆さんこそ、一番、尊敬すべき方であり、私は、最大の敬意を表して、皆さんと写真を撮ります」
 最後のフラッシュが閃光を放った。
 実に、四時間五十五分を費やし、五十グループにわたる撮影会は、午後五時前に終了した。
 閃光を浴び続けたせいか、伸一の目は痛み、目を閉じても、炸裂する光が瞼の裏に点滅していた。
 発熱に苛まれながらの記念撮影であったが、それに気づいた関西の同志はいなかった。
 彼は、翌日には、舞台を名古屋に移し、愛知県の班長、班担当員一万二千人と記念のカメラに納まった。
 以来、班の幹部をはじめ、組織の最前線の同志との記念撮影は、約十年にわたり、北は北海道から、南は沖縄の宮古島、石垣島まで、全国各地で行われたのである。
 その間、伸一は、激務のために、何度か、体調を崩したが、走り続けた。
 最愛の同志とともに、カメラに納まり、刹那に永劫をとどめんと。励ましの言葉を贈らんと。
 広宣流布とは、全同志が獅子となって立ち上がってこそ、初めて成就できる聖業である。
 ゆえに、伸一は、同志の心の暖炉に、永遠なる「誓いの火」を、「歓喜の火」を、「勇気の火」を、断じて、ともさねばならないと決意していたのだ。
 石と石とがぶつかり合うなかで、火は生まれる。広宣流布の火もまた、人間の魂と魂の触発のなかからしか生まれないことを、伸一は熟知していた。
 写真撮影の、どの会場にも、伸一との、生命の熱い交流のドラマがあった。
 多くの同志は、今なお、その写真を大切に保管し、感動をもって口々に語る。「生涯の宝」「人生の誓いの原点」と。
 そして、記念撮影を通して彼が結んだ、数十万の同志との魂の絆が、新しき広布の飛翔の原動力となっていったのである。

1
2