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日蓮大聖人・池田大作

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第10巻 「言論城」 言論城

小説「新・人間革命」

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2  言論城(2)
 また、この新年、もう一つ山本伸一から、学会員への贈り物があった。
 それは、旬刊の雑誌『言論』の一月一日号から、「若き日の日記から」と題して、伸一の青春時代の日記が連載されたことであった。
 雑誌『言論』は、最初は言論部の機関誌として、一九六二年(昭和三十七年)十一月に、月刊でスタートした。
 そして、この六五年(同四十年)から旬刊となり、新たに、自由言論社から、一般の雑誌として発刊されることになったのである。
 伸一の日記が連載されるようになったのには、こんないきさつがあった。
 ――伸一は、よく青年たちに、青春時代から、ずっと日記を書きつづってきたことを語り、「青春の一日一日を、自分らしく戦い抜いたといえる、金文字の日記帳をつづろう」と励ましてきた。
 それを聞いた青年部の幹部から、「ぜひ、山本先生の青春時代の日記を、拝見させてください」との、強い要請が出されていた。
 しかし、日記など、もともと人に見せる性格のものではない。若い時代のものとはいえ、自分の日記を公表することには、伸一は、強い抵抗があった。
 彼は、こう言って、断り続けてきた。
 「自分の日記を公開するわけにはいかないよ。
 また、内容も主観的であるし、全般的に、意味がわからない個所も多いのではないかと思う。
 それに、ほかの人に迷惑がかかってしまう場合もあるからね」
 だが、青年部長の秋月英介が、再三にわたって、伸一の日記の公表を要請してきたのである。
 「雑誌『言論』が旬刊となりますので、そこに、ぜひ、先生の若き日の日記を掲載させてください。
 実現できれば、全青年部員にとって、これほどの喜びはありませんし、皆が元気になると思います。
 どうか、未来を託す青年のために、よろしくお願いいたします」
 青年部長にこう言われると、伸一は、拒み続けるわけにはいかなかった。
 青年部員と自分とは、兄弟のような仲であるというのが、彼の率直な気持ちであった。その青年たちに、飾らずに、ありのままの自分の過去の姿を知ってもらうことも、よいのではないかと彼は考えた。
 そして、連載は三十六回限りとし、また、ほかの人のプライバシーに触れるようなところは削るということで、やむなく了承したのである。
3  言論城(3)
 山本伸一の「若き日の日記から」は、一九四九年(昭和二十四年)の五月三十一日の日記から掲載が始まった。
 伸一、二十一歳の記録である。
 「五月三十一日(火)
 小雨
 人生には、あまりにも仮面者が多い。真実を尊しとしてゆかねばならぬ。特に青年は。一生、真実を追求しゆく人は、偉大なる人だ。
 戸田先生の会社に、お世話になって、早、半年。実に、波乱激流の月日であった。あらゆる苦悩に莞爾と精進しゆくのみ。生涯の師匠、否、永遠の師の下に、大曙光を目指し、信念を忘却せず前進せん。
 少年雑誌『冒険少年』七月号でき上がる。自分の処女作となる。純情なる少年を相手に、文化の先端を進む、編集を、自分の親友と念い、恋人の如く思うて、力の限り、向上発展をさせよう。
 『今日の使命を果たすべし』
 これ、将来に光りあらしめる所以なり……」
 伸一は、この年の一月から、戸田城聖の経営する出版社「日本正学館」に勤め、この五月に、少年雑誌『冒険少年』の編集長となった。そして、最初の雑誌を作り上げたのである。
 その仕事の傍ら、大世学院(現在の富士短期大学)の夜間部に籍を置く、苦学生でもあった。
 伸一の「若き日の日記から」の反響は、彼の予想以上に大きかった。
 学会の青年の多くは、高い学歴があるわけでもなければ、社会的な地位や名誉があるわけでもなかった。皆が庶民であり、無名の青年といってよい。
 日記を目にした青年たちは、山本会長もまた、自分たちと同じような境遇のなかで、働き学ぶ、貧しい一青年であったことを知り、強い親近感をいだいたようである。
 そして、広宣流布の崇高な使命を自覚し、あえて苦難に挑んできた伸一の生き方に、共感を覚え、未来への希望と勇気を見いだしていった。
 ある青年は、次のように感想を語っている。
 「この日記は、″反省″と″未来への決意″に貫かれています。誰よりも厳しい眼で、自分を見つめ、自分に挑戦していく――そこに広布の指導者に育つ要件があると感じました。
 また、師弟の道とは何かを学びました。私の生き方の規範にしたいと思っています」
4  言論城(4)
 元日の朝、学会本部で行われた新年勤行会の席上、山本伸一は、こうあいさつした。
 「生命は永遠である。その永遠の生命から見るならば、この一生は、一瞬の夢のようなものです。
 今、どんなに栄耀栄華を誇っていても、それが、永遠に続くわけではない。また、それが、幸福につながっているとも限りません。
 三世にわたる、永遠の大福運を積むものは、ただ妙法であり、真実の仏道修行だけであります。そして、この一瞬の夢のような、今世の仏道修行が、永遠の幸福を決定していきます。
 したがって、一生成仏のため、永遠の幸福のために、いかなる嵐があろうが、決して、たじろいではならない。雄々しく、堂々と戦い、広宣流布の勝利を導いていただきたい。
 私たちの広宣流布の戦いは、十年や二十年先をめざしての戦いではありません。末法万年、尽未来際の一切衆生を救いゆく戦いであります。人類の悲願である、恒久平和を実現する前進であります。
 つまり、私どもの、この一生は、この一年は、この一日は、永劫の未来を決していくものであることを、深く心に刻み、すべてを大勝利で飾ってまいろうではありませんか」
 「一瞬」に「永遠」を凝縮しての行動――それは、伸一が、常に自身に課していたテーマでもあった。
 この年も、彼は、一月半ばから、九州、関西、中部と、全魂を傾けて、メンバーの指導に回ろうと決意していた。
 この訪問で、彼が特に力を注ごうとしていたのは、活動の要ともいうべき、地区幹部への激励であった。
 励ましは力となり、希望となり、人びとの飛躍のバネとなっていくにちがいない。
 伸一が、いつも、いつも考え続けているのは、いかにして同志を励まし、元気づけるかであった。
 たとえば、この年の活動方針に、「座談会の推進」が掲げられると、彼は、すぐに、『会長講演集』第十一巻に、「常仏土」と揮毫して、全国の座談会場の提供者に贈呈することを発表している。
 新しき年の活動が始まって間もない一月十日、伸一のもとに訃報が届いた。かつて、男子部長、青年部長などを歴任した理事の山際洋が、癌のため死去したのである。
 山際は、前年の春ごろから健康が優れず、一時、入院加療し、その後、自宅療養していたが、十日正午、他界したのである。
5  言論城(5)
 山際洋は、享年四十九歳であった。
 前年十二月の、理事長の原山幸一に続いての、最高幹部の死去である。
 ともに戦った同志の死ほど、山本伸一にとって、悲しいものはなかった。
 伸一は、山際の逝去の連絡を受けると、真っ先に弔問に駆けつけた。
 山際の入会は一九四七年(昭和二十二年)で、伸一と同じ時期に信心を始めたこともあり、青年時代から親しい間柄であった。
 山際は、参議院議員になるまで、東京都立大学の工学部の講師をしていたが、幼少期から病弱で、成人してからも、結核で八年間の療養生活を送っていた。
 その彼が、これまで、元気に活躍してこられたこと自体が、法華経の寿量品に説かれた、「更賜寿命」(更に寿命を賜う)の姿であったのかもしれないと、伸一は思った。
 伸一は、昨年の秋、ヨーロッパ訪問から帰って間もなく、山際が癌であると聞くと、一人で、病院に見舞いに出かけた。
 その時、既に、癌はかなり進行していたようであったが、「医師が不思議がるほど痛みがないんです」と、笑顔で語っていたことが忘れられなかった。
 また、元日の新年勤行会には、「なんとしても出席する!」と言って、学会本部に来たのである。
 それから、九日後の臨終であった。立派な、安らかな、まるで、眠っているかのような顔であった。
 伸一は、″この相を見れば、誰もが、成仏を確信するにちがいない″と思いつつ、山際の枕元で、静かに語りかけた。
 「長い間、本当にご苦労様でした。ゆっくりお休みください……」
 それから、高校二年生になる長男に言った。
 「お父さんの一番の喜びは、君が広宣流布の指導者として、立派になっていくことだ。だから、一生涯、広布の使命に生き抜いていくんだよ」
 「はい!」と言って、長男は頷いた。父親とよく似た顔立ちである。
 さらに、山際の妻に視線を注いだ。
 「生命は永遠です。ご主人は、すぐにまた、生まれてきますよ。それを確信していくことです」
 山際には、高校生の長男を頭に五人の子供がいた。
 伸一は、ともに広布に生きた「戦友」として、この一家を先々まで守り抜き、絶対に幸福にしてみせると決意していた。
 十二日には、告別式が営まれたが、伸一は、そこにも参列し、遺族への激励を重ねたのである。
6  言論城(6)
 一月十六日の午後、山本伸一は、九州の福岡に完成した新九州本部の落成式に出席した。
 この新本部は鉄筋三階建てで、玄界灘に面して、これまでの九州本部の隣に建てられていた。
 いよいよ九州から、「勝利の年」の、山本会長の地方指導が開始されたのだ。
 伸一は、落成式のあとには、新本部で開催された地区部長会に出席。引き続いて、男女青年部の会合にも臨み、全魂を傾けて指導にあたった。
 そして、翌十七日には、舞台を大阪に移し、支部幹部の指導会に出席。夜は、学生部に対する御書講義を行っている。
 さらに、十八日には、急きょ、鳥取県の米子に向かい、米子会館で行われていた地区部長会に出席したのである。
 伸一は、米子のことに心を砕き続けてきた。
 前年の七月に、島根、鳥取は、両県で死者百十人、負傷者は四百人を超す集中豪雨に襲われ、米子の被害も甚大であった。
 だが、同志たちは、郷土の宿命転換のために、今こそ信心で立とうと、布教の大波を起こすことを誓い合ったのである。
 ところが、その翌月、米子支部長であった石崎勇が、交通事故で、四十二歳の若さで亡くなってしまったのである。
 「創価学会の信心が、ほんに正しゅうて、ご利益があるなら、なんで、幹部が事故で死ぬだぁ!」
 周囲から、非難の声があがった。
 学会員のなかにも、同じ疑問をいだいている人が少なくなかったのであろう。不信が爆発し、学会を批判し始めるなど、動揺する多くの同志の姿が見られた。
 座談会を開いても、盛り上がりに欠け、暗い雰囲気に包まれた。
 皆、″なんとかしなければ……″と思った。
 しかし、残念なことには、地元には、支部長の事故死について、明確に指導できる幹部がいなかったのである。
 信心への確信に乏しく、教学に暗いゆえであった。
 御書の随所で、日蓮大聖人は、「三障四魔」について説かれているが、そのなかに「死魔」とある。
 仏法に精進する人が死ぬことによって、信心への疑いと迷いを生じさせることなどをいうのである。
 人には宿業があるが、凡夫には、その宿業の深さはわからない。たとえ、若くして亡くなったとしても、信心を貫いた人は、宿業を「転重軽受」(重きを転じて軽く受く)しての死なのである。
7  言論城(7)
 ともあれ、真の信仰者として広宣流布に邁進している人は、いかなるかたちで命を終えようとも、成仏は間違いない。
 初期の仏典には、次のような話がある。
 ――摩訶男(マハーナーマ)という、在家の信者がいた。
 彼は、もし、街の雑踏のなかで、三宝への念を忘れている時に、災難に遭って命を失うならば、自分はどこで、いかなる生を受けるのかと、仏陀に尋ねる。
 すると、仏陀は言う。
 「摩訶男よ、たとえば、一本の樹木があるとする。その樹は、東を向き、東に傾き、東に伸びているとする。もしも、その根を断つならば、樹木は、いずれの方向に倒れるであろうか」
 摩訶男は答えた。
 「その樹木が傾き、伸びている方向です」
 仏陀は、仏法に帰依し、修行に励んでいるものは、たとえ、事故等で不慮の死を遂げたとしても、法の流れに預かり、善処に生まれることを教えたのである。
 また、日蓮大聖人は、南条時光に、弟の死に際して与えられた御手紙で、「釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり」と仰せになっている。
 信心に励んだ人の、成仏は間違いないとの、大聖人の御指南である。
 しかし、米子の同志は、その確信がもてなかった。
 確信は、広布の活力源である。それを失えば、前進はない。
 支部長の石崎勇が他界してから、三カ月が過ぎ、四カ月が過ぎても、折伏は、遅々として進まなかった。
 中国の担当の幹部から、その報告を受けた山本伸一は、副理事長の泉田弘と関久男を、鳥取県に派遣することにした。
 二人は、一月十七日に、鳥取と米子に分かれて一般講義を行い、翌十八日、米子会館の地区部長会に出席することになっていた。
 十七日、空路、九州から大阪入りした伸一に、夜、米子で講義を担当した関から電話があり、こう伝えてきた。
 「私は、同志の死ということについて、御書を拝して、さまざまな角度から訴えましたが、まだ、雰囲気は暗いものがあります。
 明日の地区部長会では、皆の心の迷いを、断固、打ち破ります」
 伸一は、それを聞くと、″明日、自分が米子に行こう″と決断したのである。
 彼は、十八日、空路、大阪から米子に向かった。
 最も大変なところへ、自ら足を運ぶ――それが山本伸一の、指導者としての哲学であった。
8  言論城(8)
 山本伸一は、米子に向かう飛行機のなかで、初めて鳥取を訪問した折のことが思い出された。
 それは、彼が第三代会長に就任する二カ月ほど前の、一九六〇年(昭和三十五年)の二月二十二日のことであった。
 鳥取市行徳の市立体育館で行われた、大会に出席するために、伸一は、岡山から列車で米子に向かったのである。
 彼の鳥取訪問は、一人の会員との、約束であった。
 その前年の三月、京都の福知山で開かれた会合で質問会をもった折、初老の男性が手をあげた。
 「私は、鳥取からまいりました、森山大蔵と申しますが、山本先生にお願いがございます。
 現在では、鳥取にも学会員が増えております。ぜひとも、山本総務においでいただき、学会員に会って、激励をしていただきたいのです。よろしく、お願い申し上げます」
 真剣な訴えであった。
 伸一は、即座に答えた。
 「わかりました。必ずお伺いします」
 それから十一カ月後、伸一は、鳥取を訪問したのである。
 鳥取駅のホームは、出迎えてくれた学会員でいっぱいであった。伸一は、そのなかから、森山の姿を見つけると、声をかけた。
 「やあ、お父さん、ご壮健で何よりです。お父さんとの約束を果たすために来ましたよ」
 森山は、感極まった顔で言った。
 「いやー、ありがとうございます。まるで夢のようです。
 ところで、実は、もう一つお願いがございます。鳥取に支部をつくってもらえないでしょうか」
 当時、鳥取県には、大阪支部や築地支部、足立支部などに所属するメンバーが混在しており、鳥取県としては、支部は結成されていなかった。
 伸一は、微笑みながら答えた。
 「私も、そのつもりで来たんです。ぜひ、支部をつくるようにしましょう。
 あなたは、お年を召しておられますが、全体が正しい方向に進むように、″大久保彦左衛門″のような存在として、みんなを守ってください」
 この日の大会では、伸一は質問会をもち、一人ひとりと対話する思いで、指導にあたった。
 さらに、大会の終了後には、地区幹部と懇談し、支部の結成について話し合っている。
 鳥取の発展の布石は、この時、山本伸一によって打たれたのである。
9  言論城(9)
 翌日、山本伸一は、十人ほどの幹部とともに、鳥取砂丘に向かった。
 空は晴れていたが、砂丘のところどころに残雪が光り、風は冷たかった。
 遠くに観光用のラクダが見えた。
 伸一は、同行のメンバーに提案した。
 「みんなで『月の沙漠』の歌を歌おうよ」
 皆で合唱しながらの、楽しい散策であった。
 小高い砂丘の上で、車座になり、懇談が始まった。
 伸一は言った。
 「この景色を見ると、心も雄大になるね。
 今日は、雄大な心で、広宣流布の決意を和歌に詠もうじゃないか。それを保管して、十年後に開けるようにしてはどうだろうか」
 皆、笑みをたたえて頷くと、和歌をつくり始めた。
 五分ほどしたころ、伸一が尋ねた。
 「できたかい」
 「はい!」と、元気に答える人もいれば、頭を掻く人もいた。
 順番に、自分がつくった和歌を披露していった。
 伸一は詠んだ。
  東洋の
    広宣流布に
      断固征け
    日本海の
      波は荒くも
 東洋広布を叫んだ戸田城聖の逝去から、間もなく二年がたとうとしていた。
 弟子たちの多くは、いつの間にか、戸田との誓いを忘れつつあった。しかし、伸一は、いよいよ、師の構想の実現のために、立ち上がる決意を固めていたのである。
 誰もが厳粛な思いで、この和歌を聴いた。まことの弟子の覚悟に、皆、強く、強く、胸を打たれた。
 伸一は、砂丘に立ち、海を見つめながら、力強い声で語った。
 「怒涛に向かって、嵐に向かって、突き進んでいくのが仏法だ。臆病では、広宣流布はできない。
 私たちは、使命あって、この世に生を受けた。
 みんなも、広布の大英雄として、壮大な人生のドラマを演じていこうよ」
 鳥取県に鳥取支部が誕生したのは、伸一の鳥取訪問から二カ月余りが過ぎた、五月三日の第二十二回本部総会でのことであった。
 日大講堂で行われた、この本部総会こそ、山本伸一が第三代会長に就任した、創価の新しき出陣の集いとなったのである。
 つまり、鳥取は、伸一とともに船出したのだ。
 さらに、一九六二年(昭和三十七年)八月、米子に米子支部が誕生し、次いで翌年九月には、米子支部が分割され、伯耆支部が発足したのである。
10  言論城(10)
 山本伸一は、米子に向かう飛行機にあって、懸命に心で唱題していた。
 愛する米子の同志の心に生じた、迷いの雲を晴らさんと、彼は必死であった。
 一方、米子会館では、午後一時から、壮年・婦人・男女青年部の地区幹部以上のメンバーが集い、副理事長の関久男、泉田弘を囲んで、地区部長会が開かれていた。
 この会合の冒頭、関が立ち上がり、頬を紅潮させて、皆に伝えた。
 「皆さん、朗報です。実は、ただ今、連絡が入りまして、山本先生が、この米子会館に向かわれており、一時間後に到着するということでございます」
 参加者からは驚きの声があがった。しかし、皆、半信半疑であった。
 午後二時十分、伸一は米子会館に着いた。
 この会館は、前年の一九六四年(昭和三十九年)十二月にオープンしたばかりで、まだ、一カ月余りしかたっていなかった。
 どこの地域でも、会館が誕生すると、メンバーの喜びが爆発し、地域への仏法の拡大も、飛躍的に前進するのが常であった。
 しかし、米子の同志は、会館の誕生を喜んではいたものの、爆発的な歓喜にまでは至らなかった。
 先輩幹部の死に対する、心の″わだかまり″が、歓喜の燃焼を妨げていたのである。
 指導とは、この″わだかまり″を取り除き、勇気を与えることである。希望を与えることである。
 伸一は、米子の友の一念を転換しようと、深く、深く決意していた。
 前々日までは猛吹雪が続き、つい三十分ほど前も雨が降っていたが、伸一が会館に到着した時には、空は晴れ、太陽の光がまぶしかった。
 「こんにちは! お世話になります」
 彼の元気な声が響いた。
 歓声と拍手が起こった。
 「ご一家の繁栄と、ご健康、ご長寿を祈念して、一緒に、勤行をしましょう」
 勤行が始まった。読経、そして、唱題と進むにつれて、皆の声は、力強さを増していった。
 伸一は、″米子の友よ、負けるな!″と、真剣に、深い祈りを捧げた。
 勤行が終わると、彼は、前列の婦人に声をかけた。亡くなった米子支部長・石崎勇の妻の利子である。
 「ご主人は、米子の草分けであり、大功労者です。本当に残念で、残念で、仕方ありません。
 しかし、妙法を信じ抜いていくなら、ご家族は必ず守られます。心配はありません」
11  言論城(11)
 山本伸一は、それから、会場に集った全幹部に向かって語り始めた。
 「今日は、元気で、たくましい、米子の同志の皆様に接することができ、大変に嬉しく思っております。
 これならば、米子は大丈夫だ、大盤石だと思いますが、そのように確信して、よろしいでしょうか」
 「はい!」
 元気な声が響いた。
 「米子にも、小さいながらも、この会館が誕生いたしました。
 学会の会館は、皆様方のものであり、この会館は、皆様に差し上げたものと、私は思っております。
 どうか、ここを自由に使って、楽しく仏道修行に励み、幸福になっていただきたい」
 そして、伸一は、石崎の死について語っていった。
 「石崎さんが事故で亡くなられたことから、信心をしているのに、どうして、ああいう事故に遭ってしまったのかと、思われた方もいることでしょう。
 生命の深い因果というものは、宿命というものは、まことに厳しい。それゆえに、信心をしていても、さまざまな死があります。
 牧口先生のように、獄中で亡くなられ、殉教されることもあります。病気や事故で、若くして亡くなることもあるでしょう。
 しかし、信心の眼をもって見るならば、そこには、深い、深い、意味がある。
 広宣流布に生き抜いてきた人は、地涌の菩薩です。仏の眷属です。
 生命は永遠であり、妙法の原理のうえから、その地涌の菩薩が、仏の眷属が、救われないわけがないではありませんか!」
 強い、強い、声の響きであった。
 「後に残ったご家族も、必ず守られます。
 信心を貫いていくならば、広布のために献身されたご主人の、福運、功徳をも身に受け、誰よりも幸福になれることは、絶対に間違いないと、私は宣言しておきます」
 伸一の大確信に触れ、皆の心を覆っていた、迷いの暗雲は晴れ、胸中に、希望の太陽が昇り始めた。
 「ご主人がいないから不幸とは限らない。
 また、栄誉栄達も、財産も、決して、幸福を保証するものではありません。
 真実の幸福、絶対的幸福とは、信心によって、自身が妙法の当体であることを自覚し、人間革命し、仏の大生命を涌現していく以外にない。
 人は、生まれる時も、死んでいく時も一人である。三世にわたって自分を守ることができる力は、妙法しかありません」
12  言論城(12)
 山本伸一は、米子の同志の生命を、揺さぶる思いで話を続けた。
 「懸命に、広布に走り抜くならば、三世十方の仏菩薩が擁護してくれます。
 したがって、何があっても、何を言われようが、いかに苛められようが、絶対に、紛動されるようなことがあってはならない。
 もし、臆病になり、信心から離れていくならば、結局は惨めです。
 米子は、東京の本部からも遠く、幹部も、なかなか応援には来られない。地域の学会への理解も、なかなか進まないかもしれない。
 そのなかで、辛い思い、苦しい思いをしながら、皆様方は、懸命に頑張ってこられた。
 誰もわからなくとも、御本尊は、何もかも、お見通しです。大聖人は御存じでいらっしゃる。
 それは、すべて福運となり、大功徳となる。そうでなければ、信心をする価値がないことになる。
 生命は永遠ですが、一生は瞬く間に終わってしまいます。この世の使命を自覚し、広布に走り、大福運を積みきっていただきたいんです。
 また、皆様方が頑張り抜いて、もし、米子の、鳥取の、広宣流布ができなかったとしても、子供さん、お孫さんがいる。
 どうか、立派な後継者に育てていただきたい。
 皆さんは、永遠なる未来の広布の礎になってください。広布の歴史の源泉になってください。
 私も、東京から、一生懸命にお題目を送っております。信心は、魔と仏との戦いです。米子の人びとの幸福のために、魔を打ち破るために、ともどもに、力の限り戦いましょう!」
 「はい!」
 弾むような声が、返ってきた。
 伸一は、さらに、皆を元気づけたかった。
 「今日は、新生・米子の出発の日です。その記念として、これから一緒に、庭に出て記念撮影をしましょう。写真には、一枚一枚、裏に日付を書いて、全員に差し上げます。
 また、私も米子にいて、米子の皆様とともに戦っているつもりで、会館の庭に記念植樹をしておきます」
 そして、伸一は、石崎利子に視線を注いだ。
 「石崎さんは、子供さんは三人でしたね」
 「はい、長女が十一歳、長男が八歳、次男が六歳になります」
 「子供さんが小さいために、しばらくは大変かもしれないが、必ず、幸せになれますよ。
 強く、明るく、太陽のごとく、お子さんたちを温かく、照らし、包んでいってください」
13  言論城(13)
 記念撮影が終わると、山本伸一は言った。
 「では、もう一度、勤行しよう」
 さらに、石崎利子に声をかけた。
 「さあ、一緒に、ご主人の追善をしましょう」
 彼は、石崎が、悲しみを跳ね返し、いかなる困難も乗り越えていくための、″生命の楔″を打ち込もうとしていた。
 再び、伸一の、力強い読経・唱題の声が響いた。
 勤行のあとも、同志への激励は終わらなかった。
 彼は立ち上がると、この地区部長会に集った、百七十人の参加者全員と、握手をし始めたのである。
 それも、一人ひとりに励ましの言葉をかけながらの握手であった。
 ある人には、「一緒に頑張りましょう」と呼びかけ、年配者には、「長生きをしてくださいね」「病気をしないように」と激励していった。
 また、青年には、「若々しく、力の限り戦おう」と声をかけ、固く手を握り合った。
 伸一は、日々の活動の中心となる地区幹部こそ、広宣流布を決定づける、重要な存在であり、そのメンバーへの激励の大切さを痛感していた。
 会長就任以来、この五年間、支部幹部以上のメンバーとは、幾度となく語り合う機会があった。
 そのなかで、皆の性格や力量、家族や生活の状況などを、よく知ることができたし、さまざまな励ましを送ることもできた。
 しかし、地区幹部となると、人数が多いこともあって、そうした機会は少なかった。だが、各支部を支え、直接、第一線の会員と接する機会が多いのも、地区の幹部である。
 その人たちが確信を深め、力をつけ、賢者になっていくならば、広宣流布は大きく加速していくにちがいない。
 ゆえに、彼は、地区幹部の励ましにこそ、「本門の時代」の新しき飛躍の鍵があると考えていた。
 最後に、伸一は、会館の庭に、錦松を記念植樹し、米子を後にしたのである。
 米子のメンバーは、古い昔から続いてきた″冬の時代″が、一遍に、″春″へと変わった思いがしてならなかった。
 同志の胸には、新しい生命がみなぎり、希望の音楽が響き、喜びの花が微笑んでいた。
 伸一は、さらに二十日には、岐阜会館で開館式を行い、引き続き名古屋を訪問し、広宣流布の尊き意義を語り、自身の生命を発光させながら、我を忘れて走り続けた。
14  言論城(14)
 山本伸一は、地区の幹部の激励のために、寸暇を惜しんで各方面を回った。
 そして、地区部長会に出席し、朝日の昇りゆくがごとく、希望を開こうと、質問を受けたり、可能な限り、全員と握手をするなど、体当たりの励ましの旅を続けたのである。
 彼は、三月の二十二日には、仙台での、東北第一本部の地区部長会に臨み、ここでも、六百人ほどの参加者全員と握手した。
 ″皆の手は、仏の手″と確信し、握手を交わす彼の胸には、同志への尊敬と感謝の、熱い鼓動が脈打っていた。
 伸一の手は、次第に赤く腫れ、痛み始めた。
 だが、彼は、毅然として、励ましの声をかけながら、握手を続けた。
 伸一には、涼やかに光る友の目が、「凡夫即極」「諸法実相の仏」と蓮祖が説かれたごとく、あまりにも尊く感じられた。
 終了後、伸一は、オシボリで、そっと手を包みながら、笑顔で語った。
 「すごい力で握ってくれたよ。みんな、喜んでいたな……」
 その話を聞いていた幹部が、いたたまれない様子で伸一に申し出た。
 「先生、地区幹部全員と握手していたのでは、先生の負担が大きすぎます!」
 「心配してくれてありがとう。ただ、全国の地区幹部とゆっくり会う機会は、そう何度もないからね。なんとかして、みんなの、生涯の原点となる出会いをつくっておきたいんだよ」
 伸一に、そう言われると、幹部たちも、返す言葉がなかった。
 彼の右手の痛みは、なかなか治まらず、万年筆を握ることもできなくなってしまった。
 伸一には、小説『人間革命』や『大白蓮華』の巻頭言をはじめ、書かねばならない、たくさんの原稿があった。
 やむなく、握手は控えることにした。
 八日後の三十日には、彼は長野本部の地区部長会に出席することになっていたが、直前になっても、手の痛みは引かなかった。
 彼は、握手に代わる、激励の方法を考えなければならなかった。
 伸一のところには、鳥取県の米子の会館で、一緒に記念のカメラに納まった地区幹部から、「生涯の思い出になりました」「毎日、あの写真を見ながら、決意を新たにしております」といった、数多くの手紙が届いていた。
 そこで伸一は、長野でも記念撮影をしようと思ったのである。
 長野で、ともに写真に納まったメンバーの喜びもまた、大きかった。
15  言論城(15)
 間もなく、山本伸一の会長就任五周年の、五月三日を迎えようとしていた。
 東京では、四月、五月にかけて、その新しい出発の地区部長会が、各本部ごとに開催されることになっていた。
 伸一は、この地区部長会に、すべて出席する決意でいたが、どうすれば、みんなが、喜び勇んで、次の五年へのスタートを切れるのか、考え続けていた。
 そして、米子でも、長野でも、一緒に記念撮影した人たちが、大いに喜び、発奮してくれたことを思い起こし、東京でも、ともに記念のカメラに納まることにしたのである。
 四月の半ばからは、東京の各本部の地区部長会が、生き生きと、また晴れ晴れと開催されていった。
 当日、写真を撮ることが発表されると、どの会場でも、怒涛のような拍手と歓声が起こった。
 記念撮影の反響は、あまりにも大きかった。
 後日、写真を手にした参加者は、誰もが、喜びを胸に、誓いを新たにした。
 その写真は、山本伸一とともに、広宣流布の激闘につぐ激闘の歴史を開いた無名の英雄の刻印となり、人生の深き因果の理法に生きる勇者の証となった。
 また、それは、「生涯の宝」となり、「家宝」となったのである。
 しかし、記念撮影を担当することになった、聖教新聞のカメラマンたちは大童であった。
 懸命に唱題して撮影に臨み、真剣勝負の思いでファインダーを覗いた。
 この写真に込められた意義を考えると、絶対に失敗は許されなかった。
 人数の多い本部になると、参加者は千数百人にも上る。それを、何回かに分けて撮影し、現像したあと、人数分の焼きつけをするのである。
 夜を徹して作業することも珍しくなかった。しかし、彼らは、″これほど尊い作業は、一生のうちに、あまりないであろう″と、誇り高く、深夜まで作業に奔走した。
 この記念撮影の喜びのなか、五月三日には、伸一の会長就任五周年となる、第二十八回本部総会が開かれた。
 会場となった、東京・両国の日大講堂の壇上の上には、鮮やかな毛筆で大書された「祝会長就任五周年」の文字が躍っていた。
 この日は、前夜から雨がやまず、伸一の会長就任後、初めての雨の総会となったが、同志の意気は軒昂であった。
 皆、降りしきる雨に、広宣流布の前途の多難を思いながら、断じて負けまいとの決意を固めていた。
16  言論城(16)
 本部総会の席上、あいさつに立った山本伸一は、まず、全幹部への、深い、深い感謝の思いを語った。
 「私は、この五年間で、広宣流布の盤石な基礎を、見事につくり上げることができたと、強く確信するものでございます。
 その間、未熟なる私を支え、立正安国の大精神、死身弘法の実践のために、日々、月々、年々に、戦ってくださった幹部の方々に、衷心より敬意を表するものでございます。
 まことにありがとうございました」
 そして、この五年間の創価学会の前進の歩みを振り返った。
 ――五年前に百四十万世帯であった会員世帯は、今や、三・八倍を超える五百四十万世帯となり、実に四百万世帯の新たな同志の誕生をみたのである。
 なかでも青年部の発展は目覚ましく、男子部は部員十五万八千人から百八十万人へ、女子部は十一万九千人から百三十万人へと、ともに約十一倍の飛躍を遂げていた。
 さらに、学生部は二千二百人から七万一千人へと、約三十二倍の成長を遂げたのである。
 それにともない、組織の発展、拡充も目覚ましく、伸一の会長就任前の支部数は、六十一支部にすぎなかったが、それが千二百十支部となったのである。
 また、海外にあっては、会員四百四十一世帯から五万世帯へと、百倍を超える急増となった。
 一方、教学部員も、一万七千人から八十五万人へと、五十倍の増加をみたのである。
 伸一は、この大発展に触れて、こう語った。
 「この聖業を成し遂げた創価学会は、まさしく、仏の御金言通りの、信心を骨髄にし、慈悲を血管にした一大和合僧の、仏の生命体であります。
 そして、鉄壁の団結をもって、民衆救済に進む、この姿、この力こそ、世界最高の、平和の不沈大戦艦であり、これを私は、″異体同心丸″と名づけたいのであります。
 また、この世界広布の流れこそ、民族を超え、国境を超えて、いよいよ日蓮大聖人の大生命哲学が、東土の日本より世界の大空に、太陽のごとく昇りゆく証明であると、強く、確信するものであります。
 いわば、創価学会は日本の柱であるのみならず、世界の希望であり、太陽であり、二十一世紀を導きゆく先駆の光であると思いますが、いかがでしょうか!」
 大拍手が鳴り響いた。
17  言論城(17)
 求道心に燃えゆく参加者は、山本会長の講演を聴きながら、この五年間の、奇跡的ともいうべき広宣流布の大前進に、感嘆するのであった。
 参加者の多くは、自分自身の苦悩を解決したいという一心で、ただ、学会の指導通りに、がむしゃらに活動に励んできた。
 ところが、改めて振り返ってみると、自分たちの手で、人類史上、未曽有の、崇高な広宣流布の歴史が築かれていたのだ。
 ある人は、″ああ、自分も、尊き如来の使いの一人であったのだ″と実感され、熱い涙が込み上げてきてならなかった。
 創価学会とともに、広宣流布に生き抜くことは、まさに、「蒼蠅そうよう驥尾に附して万里を渡り碧蘿へきら松頭に懸りて千尋を延ぶ」であると、皆、しみじみと思うのであった。
 そして、今さらながら、学会員であることの不思議さに、人生の真髄の道を歩む尊さに、歓喜の波、希望の波が、怒涛となって心にうねった。
 歴史学者は、やがて、こう言うにちがいない。
 「仏法史上、三千年来、世界を舞台にした、忍耐と使命の、民衆の平和のスクラムは、いまだかつて見たこともない」と。
 伸一は、続いて、前年の五月三日の本部総会で、次の七年間の目標として示した、「正本堂の建立寄進」「会員六百万世帯の達成」「創価文化会館の建設」などは、いずれも着々と実現しつつあることを語っていった。
 なかでも、「六百万世帯の達成」については、この一年間で四百三十万世帯から五百四十万世帯へと、百十万世帯の増加をみたことから、来年の初めごろには六百万世帯を達成する見通しであると発表した。
 そうなれば、七年間の目標を、二年足らずで達成してしまうことになる。
 伸一は、ここで、自分の率直な気持ちを述べた。
 「したがって、折伏については、決して焦るのではなく、悠々と、楽しく、堅実に進めてまいりたいと思っております。
 ただ、世界に目を転じますと、ベトナムでも戦火が上がっておりますし、各地で動乱が絶えません。
 真実の平和を築くには、正しき生命の哲理を流布していく以外にない。学会の前進が速ければ、それだけ平和も早く訪れる。
 戸田先生は、『一度は 死する命ぞ 恐れずに 仏の敵を 一人あますな』と詠まれましたが、私どもは、人間を脅かす魔性の生命への追撃の手を、断固、ゆるめることなく、果敢に広宣流布に生き抜いていこうではありませんか!」
18  言論城(18)
 山本伸一は、さらに、この年の七月に予定されている参議院議員選挙に、既成仏教の各派や、新興の宗教教団が、代表を立候補させる予定でいることに言及していった。
 「それらの教団は、これまで、学会が同志を政界に送ってきたことに対して、宗教の政治への介入であると、激しく非難してきたのであります。
 ところが、今度は、なんの臆面もなく、自分たちが代表を政界に送ろうというのです。しかも、ほとんどが政権政党からの立候補なんです。
 大聖人の御在世当時、極楽寺良観をはじめとする謗法の僧らが、幕府の政治権力と結託し、大聖人を迫害しましたが、それに等しい構図が、つくられようとしているといえます。
 しかし、私どもは、どこまでも民衆の味方として、民衆とともに、民衆の勝利のために、前進してまいろうではありませんか!」
 賛同の大拍手が、場内に広がった。
 ――英雄ナポレオンは叫んだ。
 「命を賭してこの旗を守り、勇気凛々と掲げながら、常に勝利の大道を歩みゆこうではないか」
 それは、まさに伸一の思いであった。
 既成政党は、学会が公明党を誕生させ、その公明党が衆議院への進出を明らかにしたことから、自分たちの存在基盤を危うくするものとして、ますます学会への警戒心を強めていた。
 そして、保守系の政党のなかには、宗教団体の票に目をつけ、各教団と手を結び、新たな活路を開こうとする動きが出始めていたのである。
 一方、折伏を恐れ、学会を排斥しようと、躍起になってきた各教団は、学会が母体となって結成した公明党には、強い反発があり、その前進を、なんとしても阻止したかったようだ。
 ともあれ、″学会憎し″の感情と利害によって、政権政党と各教団とが結びつき、参議院議員選挙に候補者を立てることを表明していたのである。
 伸一は、この動きから、やがて、政治権力と各教団とが一緒になり、学会攻撃の包囲網がつくられかねないことを懸念していた。
 「佐渡御書」には、「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして」と仰せである。
 現代に即して考えれば、「悪王」とは邪な政治権力であり、その権力が正法を滅ぼそうとする時に、「邪法の僧等」がこれに味方して、徒党を組んで、正法の人に集中砲火を浴びせると言われているのである。
19  言論城(19)
 「ひとたび戦いを決意したならば、その決意を持続しなければならない。もはや、″いや″とか″しかし″とか言うことは、断じて許されない」
 これも、ナポレオンの言葉だが、広宣流布の道も、また同じである。
 大聖人の時代から、権力に宗教が群がり、それらが徒党を組んで正法に牙をむくという構図は、決して変わることはない。
 山本伸一は、公明党が選挙で議席を伸ばし、力をつけていけばいくほど、既成政党も、各教団も、学会への反発の度を強め、早晩、学会への激しい攻撃がなされるであろうことを、覚悟しなければならなかった。
 伸一の会長就任五周年となる本部総会は、新しき出発の誓いを固め合い、感動のなかに幕を閉じた。
 なお、この五月三日を記念して、山本伸一が書き下ろした『科学と宗教』が発刊されている。
 この書では、本来、「科学」と「宗教」は、決して矛盾するものではなく、科学を人類の幸福と平和のために貢献させていくには、その根底に、仏法という生命の哲理が不可欠であることを説き明かしていた。
 また、さらにこの日、牧口初代会長の『牧口常三郎全集』第一巻も出版されたのである。
 「本門の時代」の幕を開いた前年の春以来、学会の言論・出版活動の歯車は、目を見張るばかりの大回転を開始していたのだ。
 まず、戸田城聖の七回忌にあたる、前年の四月二日に、御書の十大部の「報恩抄」の講義録を発刊。十大部とは、日蓮大聖人の御書のうち、最も重要とされる十編の御抄である。
 実は、十大部の講義録の刊行は、生前、戸田が構想していたことであった。
 戸田は、一九五一年(昭和二十六年)五月三日に第二代会長に就任するや、直ちに御書の編纂に着手し、翌年の四月二十八日に御書を発刊した。
 そして、彼は、会員が、大聖人の御真意を正確に学び、揺るぎない信心を築くことを願い、十大部の講義録の作成に取り組んだのである。
 五二年(同二十七年)十二月に、『日蓮大聖人御書十大部講義』として、「立正安国論」を発刊したのをはじめ、「開目抄」「観心本尊抄」と、講義録が出版されたのである。
 次いで、戸田は、「撰時抄」の講義録の執筆に着手するが、その完成を見ることなく、五八年(同三十三年)の四月二日に、世を去ったのである。
20  言論城(20)
 山本伸一は、戸田城聖亡きあと、残された諸御抄の講義録の発刊を、引き継がなければならぬ責務を痛感していた。
 彼は、それを、いつから始めるべきか、考え抜いた末に、一九六四年(昭和三十九年)四月二日の戸田の七回忌に、報恩の思いを込めて、恩師に捧げる意味から、まず、「報恩抄」の講義録の執筆に着手したのである。
 そして、「報恩抄」を発刊した伸一は、戸田が手がけた「撰時抄」の講義録に取り組み、七カ月後の十一月十七日に、刊行したのである。
 さらに、この日付で、伸一の『政治と宗教』、創価学会教学部編の『仏教哲学大辞典』の第一巻が刊行されている。
 『政治と宗教』の発刊から、『科学と宗教』の発刊までは、わずか半年足らずであった。
 日々、会長として激務につぐ激務のなかでの執筆であり、しかも、その間に、小説『人間革命』や、毎月の『大白蓮華』の巻頭言など、数多くの原稿が待っていた。
 だが、伸一は、固く、強く、決意していた。
 ″広宣流布とは、言論戦である。仏法の真実と学会の正義を訴え、論証し、同志を勇気づける言論なくしては、広布の前進はない。
 人間革命という、一個の人間の生命を変えゆく、平和革命の武器は、魂を触発する言葉である。
 言葉は生命である。言葉は光である。言葉は希望である。
 わが生命の泉が涸れ果てる瞬間まで、力の限り、語りに語り、書いて書いて、書き続けるのだ!″
 「本門の時代」に入り、怒涛のごとく勢いを増していった、創価の言論・出版活動の原動力もまた、山本伸一であったのである。
 このころ、聖教新聞社では、新たな大飛躍への助走が始まっていた。
 前年の秋以来、聖教新聞の日刊化の準備が進められていたのである。
 聖教新聞は、戸田城聖が第二代会長に就任する直前の、一九五一年(同二十六年)四月二十日に創刊された。
 当初は、月三回刊のブランケット版二ページ建てであったが、二年後の九月には週刊となり、その後、ページ建ても、四ページ、六ページ、八ページと、次第に充実していった。
 さらに、山本伸一が会長に就任した六〇年(同三十五年)の九月には、週刊八ぺージから、週二回刊(水曜版四ぺージ、土曜版八ページ)となった。
21  言論城(21)
 次いで、一九六二年(昭和三十七年)一月には、聖教新聞は、週三回刊(火曜・木曜版四ぺージ、土曜版八ページ)に踏み切った。そして、翌年の一月からは、すべて八ページとなったのである。
 また、発行部数も、飛躍的な伸びを記録してきた。
 五一年(同二十六年)の創刊時には五千部でスタートしたが、十年後の六一年(同三十六年)には、百万部を超えている。
 さらに、三年後の六四年(同三十九年)九月の一千号の発刊の時には、二百万部を突破したのである。
 この急速な部数の増加にともない、東京一カ所だけで、すべてを印刷し、輸送することは、時間的にも、量的にも困難となり、地方での印刷が開始されることになる。
 六一年(同三十六年)十月、まず、札幌で、現地印刷がスタートした。
 翌六二年(同三十七年)一月には、大阪で印刷が始まり、続いて、七月には福岡でも印刷が開始されたのである。
 六五年(同四十年)の四月には、名古屋と高松でも印刷が始まり、全国六カ所での印刷体制が整っていった。
 そして、いよいよ、日刊化への、本格的な準備段階に入っていたのである。
 聖教新聞の日刊化は、全国の学会員の、長年の念願であった。
 一般紙と同じように、毎朝、聖教新聞を読み、信仰の歓喜と確信を得て、一日を出発したいというのが、皆の強い願望であった。
 以前から、聖教新聞社や学会本部にも、そうした声が、多数、寄せられていたのである。
 山本伸一も、新時代の大言論戦を展開していくうえで、機関紙を日刊化する必要性を、強く感じていた。
 広宣流布の言論戦も、情報も、スピードが勝負であるからだ。
 聖教新聞は、前年の六四年(同三十九年)九月十二日付で創刊一千号を迎えたが、その直前、伸一は、聖教新聞社の編集総局長である秋月英介に言った。
 「いよいよ一千号だね。おめでとう!
 次の目標は日刊化だよ。聖教新聞が日刊化されてこそ、学会の言論活動も、『本門の時代』に入るといえる。
 いろいろと、準備も大変だろうが、なんとしても、来年には、実現しようじゃないか。
 読者も、待ち望んでいるんだからね。頼んだよ」
 秋月も覚悟を決めていたとみえ、「はい! よくわかっております」と言って、笑顔で頷いた。
22  言論城(22)
 秋月英介は、山本伸一が聖教新聞の日刊化の構想をもっていることは、以前から承知していた。
 秋月は、いよいよ、時の到来を感じた。
 年が明け、一九六五年(昭和四十年)になると、聖教新聞社では、日刊化の開始を十月とした。
 五月末のことである。学会の首脳幹部の打ち合わせが行われた。
 その時、伸一は、秋月に尋ねた。
 「日刊化の準備は進んでいるかね」
 「はい。十月を目標に、準備を進めております」
 「十月か。もう少し、早くできないだろうか。
 学会の前進は、日ごとに速まっている。週三回の発行では、もう、学会の前進のスピードに、ついて行けない時代になった。
 また、会員の皆さんからも、このところ、毎日のように、日刊にしてほしいという要望がきている。
 公明党の機関紙の公明新聞も、六月十五日付から日刊になることが決まったから、聖教も早い方がよい」
 協議の末に、聖教新聞は、七月十五日付から、日刊にすることが決定した。
 しかし、実際に日刊に踏み切るとなると、具体的な問題が山積していた。
 伸一は、秋月の胸の内を察したかのように言った。
 「もし、困っていることがあったら、何でも相談しなさい」
 記者の増員や、支局のカメラ等の機材を充実させることなどが、秋月から、要望として出された。
 伸一は、それを、すべて聞き入れると、力強い声で語った。
 「さあ、今日から戦闘開始だ!」
 それから間もない、六月八日、伸一は、聖教新聞社を訪問した。
 彼は、日刊化の準備に取り組む聖教のメンバーを励まし、新しき前進の活力を与えたかったのである。
 伸一は、仏間で、代表メンバーとともに勤行したあと、こう語りかけた。
 「今日は、天気もいいから、屋上で、語り合おう」
 青空の下、伸一を囲んで懇談が始まった。
 「いよいよ聖教も日刊になる。しばらくは、忙しく、大変であると思うが、常に挑戦の心を忘れることなく、勉強し抜いて、力をつけていってもらいたい。
 若い時代に、どれだけ、自分を磨き、力をつけたかが、人生を大きく決していくからです。
 今の苦労は、すべて、自分を磨き、鍛えていくための、大事な訓練です」
23  言論城(23)
 彼方には富士が見えた。
 山本伸一は話を続けた。
 「戸田先生は、『富士の高嶺を 知らざるか 競うて来たれ 速やかに』と歌われた。
 みんなも、言論の勇者として、自分一人いれば、広宣流布の道を開いていけるという、″広布の偉大なる獅子″に育ってほしい。
 指導者には、力と知恵と責任がなければならない。
 どんなつらいことがあっても、それを乗り越え、頑張り抜く、責任感のある人物が、大指導者に育っていくというのが永遠不変の法則である。
 また、後輩に対しても、自分以上の力をつけさせていける、雅量のあるリーダーでなければならない。
 それには、まず率先垂範だ。その姿、行動が、真実の触発をもたらしていくことは間違いない。
 ただ、命令したり、文句を言うだけの、権威主義の人物の下では、人は、決して育たない。
 聖教新聞が、どうなるかは、すべて諸君の双肩にかかっている。いっさいは人間で決まっていくものだ。
 大事な聖教新聞の発展を妨げる敵は何か――自分の心に忍び寄る惰性である。挑戦を忘れた、あきらめの心であり、怠惰である。
 一人ひとりが、常に、新鮮味あふれる自身となり、知性と勇敢なる人格をもった記者でなければ、勝利と栄光をつづりゆく聖教新聞にはならない。
 ところで、今日は、聞きたいことがあったら、なんでも質問しなさい」
 すぐに、前列にいた新聞編集に携わる青年が、手をあげて言った。
 「先生、聖教新聞の各紙面に対する感想と評価を、ぜひ、参考のために聞かせてください」
 「わかった。では、編集室に行って、紙面の検討会をやろうじゃないか」
 伸一は、二階の編集室に下りていくと、この日の新聞を広げた。
 「一面の青年部の座談会は、六十八点だな。記事の内容はまあまあだが、割り付けが読みにくい」
 彼はページをめくった。
 「二面の社説は、七十六点だ。全体的には、それなりにまとまっているが、最初の入り方が平凡だ。
 冒頭で、人の心をつかむことだよ。どんなに、後からいい話が出てきても、最初がつまらなければ、読んではもらえないからね。
 では、どうやって、人の心をつかむのか。
 名言を引用するという方法もあるだろうし、最初に結論をもってくるというやり方もある。ともかく、意表をつく、斬新な入り方を研究することだよ」
24  言論城(24)
 山本伸一の新聞評は、さらに続いた。
 彼は、各紙面の記事や写真、割り付けなどに点数をつけながら、時に文章論や写真論を展開していった。
 「体験談の文章というのは、生き生きとした状況の描写が大事だね。
 それには、動作を描くことだよ。『彼は、悲しくて泣いた』では、味も素っ気もないじゃないか。
 たとえば、『彼は泥にまみれた拳で、あふれる涙を拭った』とすれば、映像が浮かんでくる。それに、泥という言葉から、色彩も浮かんでくるだろう。こういう工夫が大事なんだ。
 また、体験談は、掲載できる原稿の分量は、そう長いものではないんだから、焦点を絞り込んで、掘り下げて書いていくことだ。一代記のように、あれもこれも入れすぎると、結局は、何を書きたいのか、わからない原稿になってしまう。
 さらに、体験談の記事には、社会的にも皆が納得できる常識と道理が必要だ。
 ただ病気が治ったとか、商売がうまくいったというだけでは、信心の在り方を歪めてしまうことにもなりかねない」
 伸一のアドバイスは的確であった。
 「ともかく、新聞の生命は正確さだ。青田君が、いつも言っているスローガンがあるそうじゃないか」
 青田とは、青田進のことである。
 彼は、学生時代には、東大の法華経研究会のメンバーとして、戸田城聖から、直接、訓練を受け、大学卒業後は、石油会社に勤務していたが、その後、本部の職員となり、聖教新聞等の編集業務を担当する、第一編集局の局長となっていたのである。
 青田は、伸一に言われ、顔を赤らめながら答えた。
 「はい、『確認、確認、また確認。この目と、この手で、また確認』です」
 「そうか。それだよ、それでいくんだ。一カ所でも間違いがあれば、その新聞全体の信用をなくしてしまうからね」
 伸一の各紙面の採点と講評が続けられた。皆にとって、それは、緊張感と喜びに包まれた、また、最も楽しみな、ひと時であった。
 点数の高い時は、皆の顔に笑みがこぼれた。
 最後に、伸一は言った。
 「全体としては、七十九点から八十二点というところかな。ともかく、勉強し、みんなで力を合わせて、最高の新聞にしよう。
 聖教は、思想と哲学の電源地であり、世界最強の言論城にしていかなければならない」
25  言論城(25)
 山本伸一の励ましによって、聖教新聞の職員の、広宣流布を担いゆく自覚は一段と深まり、この日から、日刊化への、全力疾走が開始されたのである。
 読者にも、日刊化を知らせるために、六月十二日付の聖教新聞に、社告が掲載されることになった。
 「本紙、待望の日刊へ 七月十五日から実施」との見出しを立てた、四段の社告であった。
 当時、原稿は、聖教新聞の製版、印刷を委託していた、東京・港区の印刷会社の工場に運ばれた。
 この工場では、聖教の職員で、新聞のレイアウトを決める整理部員と、文章や文字の誤りなどをチェックする校閲部員が、三階にある編集室で作業にあたっていた。
 社告の入った新聞が、降版される日のことであった。この印刷会社の工場長が、真っ青な顔をして、聖教新聞の編集室に飛び込んできた。
 工場長の左手には、日刊化の社告の部分だけを印刷したゲラ刷りが握られていた。その手は、ブルブル震えていた。
 彼は、整理部の部長であった小森宏明の前に進み出ると、社告のゲラを見ながら、沈痛な面持ちで語りかけた。
 「小森さん、日刊にするという話は、私も聞いていますが、これだけはおやめなさい。いくらなんでも無理ですよ。
 新聞を日刊にしようと思うなら、二年や三年の準備が必要だ。
 私は、学会の会合や文化祭にも招待してもらい、学会の底力のすごさは知っているつもりです。
 しかし、日刊紙を出すということは、並大抵のことじゃない。おそらく、三日もたてば、パンクして新聞が出せなくなってしまう。悪いことは言わない。考え直した方がいい」
 長年、新聞制作に携わってきた、工場長の忠告であった。
 小森は、工場長が善意で言ってくれていることはよくわかったが、やめるわけにはいかなかった。
 「七月十五日から日刊にするというのは、既に決まったことです。もう、延ばしたりするわけにはいかないんです」
 それでも工場長は、社告を出すのはやめて、日刊に踏み切る日については、再度、検討してはどうかと、説得に努めた。
 しかし、小森が「絶対に成功させますから、見ていてください」と言い切ると、工場長は、仕方がないという表情で言った。
 「わかりました。うちも全力で応援しましょう」
26  言論城(26)
 いよいよ日刊化まで、一カ月を切った。
 編集総局長の秋月英介の最大の悩みは、スタッフの不足であった。
 制作する紙面は、これまでの倍以上になるが、人材を確保することは、容易ではなかった。
 聖教新聞社は、学会本部の機関紙誌を発行する部門であり、構成メンバーは、本部の職員である。
 それだけに、記者を採用するにも、取材力や文章力などはもとより、広宣流布を担う学会本部の職員として、会員の依怙依託となりうる信心、人格を備えているかどうかが、重要な要件となる。
 したがって、採用人事は、極めて慎重に進められ、人員の補充には、時間を要していた。
 しかし、補充が間に合わなくとも、日刊になれば、毎日、新聞を発行し続けなければならない。
 それまで編集では、新入職員には、三カ月の研修期間を設けていたが、それが一カ月になり、三日となった。より早く各部署に配属し、実務を通して、習得すべき基本を教えざるをえなかったのである。
 また、広告も、これまでの倍以上の獲得が必要になる。だが、それは、決して簡単なことではなかった。
 広告局長の館山蔵造は訴えた。
 「いよいよ正念場だ。ひとたび出て行ったら、結果を出すまでは、帰らないという思いでやろうじゃないか!」
 担当者も、皆、その決意であった。広告部門には、社会の、学会への誤解と偏見を正し、理解と信頼を勝ち取ってきた、輝かしい伝統があった。
 ――聖教新聞の広告は、創刊からしばらくの間は、ほとんど、会員によって支えられていた。そのほかの広告といえば、仏壇と線香、ロウソクくらいのものであった。
 一九五六年(昭和三十一年)、戸田城聖は、大阪に指導に訪れた折、関西の広告担当者に語った。
 「新聞は広告を見れば、その信用がわかるんだ。
 会員の出してくれる広告はありがたいし、これからも大切にしていかなければならないが、それにすがっているだけでは、君たちの本当の戦いにはならない。
 一流といわれる企業にもどんどんぶつかり、学会がいかなる団体であり、聖教新聞がいかにすごい新聞かを、認識・理解させ、広告を獲得していくのだ。
 営業が満足にできない者は、指導者にはなれんぞ」
 この時の戸田の指導は、東京の広告担当者にも伝えられた。
27  言論城(27)
 戸田城聖の指導を聞いた全国の広告担当者は、決意を新たにした。
 ″広告の活動を通して、経済界に、学会を正しく認識させるのだ。その広布開拓の作業が、自分たちの使命だ!″
 しかし、彼らの前に立ちはだかる壁は厚かった。
 ある会社の宣伝部長は、聖教新聞を手にすると、線香とロウソクの広告が多いのに眉をしかめ、冷ややかに言った。
 「今にも煙が立ち込めてきそうな新聞ですな……」
 また、ある製薬会社では、無認識極まりない言葉が返ってきた。
 「学会員は、みんな拝んで病気を治すことになっているんでしょ。薬や医療器具の広告を載せても、買う人はいないんじゃないですかね」
 ある自動車メーカーでは、応対に出た社員が、「学会の会員で車を買うような人がいるんですか。オートバイでも、結構高いですからね」と、蔑むように言うのであった。
 広告担当者は、壁が厚ければ厚いほど、闘志を燃え上がらせた。各企業の誤解と偏見を打ち破るために、粘り強く足を運んだ。
 そして、誠実にして、真剣な訴えに、各企業の学会への認識は、次第に改まり、大手企業の広告が、聖教新聞の紙面を飾るようになったのである――。
 館山蔵造は、その敢闘の精神に立ち返り、今再び、新しい挑戦を開始しようと呼びかけたのであった。
 広告担当者の胸には、日刊化という、新たな歴史を開く誇りがあふれ、闘魂が燃え盛った。
 皆、必死であった。短期間のうちに、目覚ましい勢いで、新規開拓が進められていった。
 そして、日刊化の直前には、万全の態勢が整ったのである。
 一方、新聞の輸送、配達や集金などを担当する業務局も、日刊化の準備に、連日、奮闘していた。
 輸送部門の責任者をしていたのは、矢代隆文という温厚な青年であった。
 当初、日刊のスタートは、十月とされていたことから、彼は、国鉄(現在のJR)との、新聞の列車輸送の打ち合わせを、七月半ばから始める予定でいた。
 国鉄では、十月にダイヤを改正することになっており、新しいダイヤが決まるころでなければ、話し合いはできないからだ。
 ところが、七月十五日が日刊の開始となったために、急きょ、国鉄と交渉し、輸送する列車を確保しなければならなくなった。
28  言論城(28)
 いかに新聞の取次店(現在の販売店)や配達員の態勢が整っても、円滑な輸送手段を確保できなければ、すべては水泡に帰してしまう。
 矢代隆文は、日刊になるのだから、なんとしても、その日のうちに、読者に新聞が届くようにしようと、真剣に、貨物便のダイヤを研究し、国鉄との交渉に臨んだ。
 しかし、東北本線で青森方面に向かう便が、確保できなかった。
 まるでパズルでも解くかのように、詳細にダイヤを検討し、最終的に決定をみたのは、日刊第一号の新聞の輪転機が回り始めた、七月十四日のことであった。
 関西でも、関西業務部長の十和田光一が、大阪で印刷した新聞を輸送するルートの確保に奮闘していた。
 ここでの最後の問題は、バスの通っていない、ある地域への、輸送ルートの確保であった。
 新聞の部数は、トラックを仕立てるほどではなかった。彼は、祈りに祈り、該当地域を歩きに歩いた。
 そして、そこを通って、大阪に魚を仕入れに行く鮮魚店を探し出し、その車に新聞を運んでもらうように交渉したのである。
 必死の一念がもたらした知恵の勝利であった。
 七月十五日、遂に、待望久しい、聖教新聞の日刊がスタートした。
 その日刊の第一号となる一面を飾ったのは、日大講堂で行われた、学生部の第八回総会の記事であった。
 本門の言論戦の開幕にふさわしく、英知と情熱の若人の出発を伝える紙面となった。
 また、この新聞から、一般のニュースや天気予報も掲載されるようになった。
 さらに、五日後の二十日付からは、ラジオ・テレビ欄も入ることになる。
 日刊の作業が始まると、編集室は、連日、戦場のような緊張感に包まれた。
 時間との壮絶な戦いである。夜の降版を終えると、息をつぐ間もなく、翌日の昼の降版の、準備にあたる記者も多かった。
 結局、当初は、ほとんどの記者たちが、取材と出稿のために、毎日のように、社に泊まり込むという状況であった。
 泊まるといっても、原稿を書き上げたあと、イスを並べて横になり、仮眠をとるだけである。
 そのなかで、イスに座って腕組みをしたままの姿勢で眠るという、″特技″を見せる者がいた。第一編集局長の、青田進である。
 記者たちは、その姿に感嘆しつつ、それを、密かに″垂直睡眠″と名づけた。
29  言論城(29)
 聖教新聞社の誰もが輝いていた。
 社の首脳幹部から、新入職員に至るまで、″たとえ自分一人になっても、必ず、日刊化を軌道に乗せるぞ″との決意を固め、希望に胸を躍らせていた。
 編集総局長の秋月英介が、記者たちの体調を心配し、早めに切り上げて帰るように訴えても、誰も帰ろうとはしなかった。
 自分の書いた記事を見て、読者が勇気を鼓舞し、一日のスタートを切ることを思うと、誰の胸にも、″もっと頑張ろう、もっと頑張ろう″という、闘志がわいてくるのであった。
 また、「会員への奉仕」「広布への奉仕」を根本精神とする本部職員として、同志が喜んでくれる新聞をつくるために苦労することは、当然であると、皆が考えていたのだ。
 聖教新聞の日刊化によって、小説『人間革命』を執筆する山本伸一も、ますます多忙を極めることになった。週三回の連載が、週七回になったのである。
 伸一は、移動の車中などで、小説の資料となる文献を読み、構想を練り、早朝や深夜に、原稿用紙に向かう日が続いた。
 それは、自身への過酷な挑戦であったが、師の戸田城聖と心で対話しながら、会員への励ましの手紙をしたためる思いで、ペンを執り続けていった。
 この日刊化を一番喜び、最も張り切っていたのが、配達員であった。
 日刊化を前に、その趣旨などを説明するために、各地で配達員会が開かれたが、どの地域でも、集ったメンバーは、闘志に満ちあふれていた。
 新しき広布の幕を開く聖教新聞を、自分たちが支えるのだという、誇りと歓喜を、皆が噛み締めていたのであった。
 また、これまで郵送で届けていた、交通の不便な遠隔地にも、配達員の希望者が、続々と出てきた。
 郵送だと、一日、二日は遅くなるが、配達員がいれば、その日のうちに、新聞を読者の手に届けることができる。
 聖教新聞の日刊化の意義を、深く理解した会員が、ぜひ自分も配達員として、皆のために献身したいと、希望してきたのである。
 同志も少なく、直接、幹部に会って指導を受ける機会もあまりない、遠隔地で信心に励む会員にとって、聖教新聞を、毎日、目にできることは、最大の励ましであった。
 荘厳なる朝日を仰ぎながら、配達員は、″広布の便り″を携えて、誇らかに走った。友のため、広布のために――。
30  言論城(30)
 秋田県・阿仁町の比立内は、一般の全国紙も、地元紙も、郵送されていた地域であった。
 奥羽本線の鷹ノ巣駅から阿仁合線で約一時間半。終点(当時)の山間の駅が比立内駅である。
 聖教新聞は、ここでも、配達員によって、即日配達されたのである。
 配達員は、毎朝、駅留めで送られてくる新聞を、比立内駅に受け取りに行く。
 まず、駅周辺を配り、それから、バスで四十分ほどの購読者の家に、配達に行くのである。
 この地域の配達員には、″即日配達をしているのは、聖教新聞だけである″という誇りがあった。
 一方、山口県の山間部である佐波郡徳地町でも、日刊になってほどなく、郵送から、配達員の手で、その日のうちに、購読者に新聞が配られるようになった。
 配達員は、早朝六時に、防府市内で新聞を受け取り、徳地町に向かう。単車で片道一時間半の道程である。
 それから、散在する集落の、一軒一軒の購読者に、新聞を配達する。
 舗装道路は、ほとんどなく、坂道も多い。山や田圃のなかの道を、砂塵を上げて、単車で走る。一日の走行距離は、百六十キロメートルを上回る。
 雨の日は、カッパを着ていても、全身がずぶ濡れになる。それでも、新聞だけは、絶対に濡らすまいと、幾重にもビニールで包み、大切に守った。
 徳地町の学会員にとっては、聖教新聞こそが、日々の信心の最大の活力源であった。配達員は、新聞を待っていた読者の、嬉しそうな顔を見ると、どんな疲れも吹き飛んだ。
 山本伸一は、各地の配達員の奮闘を聞くにつけ、深い感謝の思いをいだき、合掌するのであった。
 彼は、配達員や取次店の店主らの無事故を、日々、真剣に祈り、念じていた。
 また、配達に携わるメンバーが、睡眠時間をしっかりとるために、幹部に、活動の終了時間を早めるように徹底するなど、心を配ってきた。
 皆のことが頭から離れずに、深夜、目を覚ますことも少なくなかった。
 そして、取次店のメンバーは、そろそろ仕事に取りかかるころかと思うと、目が冴えて、眠れなくなってしまうのである。
 また、全国の天気が、気がかりでならなかった。
 朝、起きて、雨が降っていたりすると、配達員のことを思い、胸が痛んだ。
 そんな日は、唱題にも、一段と力がこもった。
31  言論城(31)
 山本伸一は、聖教新聞が日刊になって以来、取次店の店主や配達員が、張り合いをもって業務に取り組めるように、さまざまな提案と激励を重ねてきた。
 その一つが、メンバーが互いに励まし合い、業務の指針となるような、機関紙を発刊してはどうかとの提案であった。
 そして、この機関紙は、日刊化一周年にあたる、一九六六年(昭和四十一年)の七月に、月刊でスタートすることになる。
 伸一は、メンバーの要請を受け、機関紙の名を「無冠」と命名した。
 それは、「無冠の王」の意味である。
 権力も、王冠も欲することなく、地涌の菩薩の誇りに燃え、言論城の王者として、民衆のために戦い走ろうとする、取次店、配達員のメンバーの心意気を表現したものである。
 日刊紙としてスタートした聖教新聞は、発行部数も飛躍的に増加し、三大紙といわれる、朝日、読売、毎日の各紙と肩を並べるまでになった。
 秋月英介をはじめ、聖教の記者たちは、紙面の内容においても、三大紙をしのぎたいと、記事の書き方や見出しのつけ方、紙面構成、レイアウトなどの技術を徹底して学んでいった。
 ある時、伸一は、秋月らの編集首脳と、懇談の機会をもった。
 秋月が口を開いた。
 「現在、編集のメンバーは、日本一の新聞をつくろうと、一般紙も参考にして、一生懸命に努力しております。
 しかし、″スマートにはなったが、以前の聖教新聞にあふれていた大確信がなくなっている″との、読者からの指摘もあります。
 今後の聖教新聞のめざすべき方向について、お聞かせ願えればと思います」
 伸一は答えた。
 「大事な問題だね。
 技術的な面で、一般紙から学ぶことは大切だが、聖教新聞は、広宣流布の機関紙だということを忘れてはならない。
 一般紙は、不偏不党の立場で、物事を客観的に報道するというのが基本だ。
 しかし、機関紙というのは、自分たちの主張を、どう伝え、いかに波動を起こし、共感を広げていくかが勝負になる。
 したがって、一般紙を模倣したり、また、目標にしていく必要は全くない。
 あくまでも、聖教は聖教らしく、独自の道を切り開いていくことだよ」
 伸一の答えは、明快であった。
32  言論城(32)
 山本伸一は、聖教新聞への熱い思いを込めて語っていった。
 「では、聖教らしさとは何か。
 第一に、どこまでも、広宣流布のための機関紙であり、読めば、民衆の幸福と平和のために立ち上がろうという思いがわき起こる、新聞でなければならない。
 また、邪悪とは敢然と戦う、折伏の精神がみなぎっていることが大事だ。
 第二に、すべての人が、真実の仏法とは何かを、よく理解することができる新聞だ。聖教新聞に触れることは、仏法に触れることになるんだからね。
 そして、生命の大哲学の視点から、あらゆる物事を的確にとらえ、問題の解決の方途を示していくんだ。
 第三に、読者に勇気と希望を与える、″励ましの便り″でなければならない。
 聖教は、既に学会員以外にも読者をもち、広く『人間の機関紙』として愛読されている。
 その人たちが、人間としての生き方を学び、活力の源泉となるような新聞にしていくことだ」
 秋月は、さらに尋ねた。
 「日刊化によって、一般ニュースも入るようになりましたし、文化欄、家庭欄など、直接、信心に結びつかない紙面もあります。こうした紙面については、どう考えるべきでしょうか」
 伸一は、体を乗り出すようにして答えた。
 「これからは、そうした紙面が、重要になる。
 会合の報道や指導記事、体験談というのは、聖教独自のものだが、一般ニュースや文化欄などは、他紙にもある。
 読者は、そこを見て一般紙と比較する。ゆえに、その紙面こそ、光っていなければならない。
 たとえば、聖教の一般ニュースだったら、掲載できる記事の分量は少ないんだから、″よくまとまっていて、わかりやすい″と言われるようにすべきだ。
 また、文化欄、家庭欄などは、仏法を根底にした人間主義の視点からの企画、論調が大事になってくる。
 ともかく、これらのページが、社会的な聖教新聞の評価を決め、そのすばらしさの証明となっていく。それだけに、担当記者は、常に、勉強、研究、工夫を重ねていく必要がある。
 もし、他紙と比べて見劣りするような、マンネリ化した紙面であれば、聖教新聞の価値を下げ、恥を晒しているようなものだ。
 紙面を担当したからには、他紙の模範となる、日本一、世界一のページをめざさねばならない」
 伸一の聖教新聞への期待は大きかった。
33  言論城(33)
 聖教新聞の日刊化と相前後して、世界各地で、各国語の機関紙誌が、続々と誕生していった。
 日本人から話を聞くのではなく、自分たちの国の言葉で、直接、学会の指導を読み、仏法を学びたいというのが、各国のメンバーの切実な願いであった。
 山本伸一は、そうしたメンバーの心を察知して、まず最初に、アメリカで、英語の機関紙を発行してはどうかと提案したのである。
 そして、一九六四年八月に、英語(一部日本語)でタブロイド判、四ページ建て、月二回刊の「ワールド・トリビューン」(世界の護民官の意)が、アメリカのメンバーの機関紙として創刊されたのである。
 アメリカには、英語の苦手な日系人のメンバーも少なくなかったが、「ワールド・トリビューン」が発刊されると、これを使って、積極的に、アメリカ人に布教していくようになった。
 また、新聞に載った、アメリカのメンバーの体験談を読んで、その体験と同じ悩みをもつ青年から、「もっと話を聞かせてほしい」と連絡がきたりもした。
 英語の機関紙の発刊によって、学会理解の輪は、アメリカ社会に大きく広がっていったのである。
 次いで、六四年の十月には、フランスで、フランス語の「ラブニール」(未来の意)が創刊された。
 これは、最初はガリ版刷りの四ページほどの小冊子で、月に一回程度の発刊であったが、フランスだけでなく、スイス、ベルギーなど、フランス語を用いる地域のメンバーの、大きな信心の糧となっていった。
 翌六五年の五月には、ブラジルで、ポルトガル語の月刊紙「ノーバ・エラ」(新時代の意)が出された。
 「ノーバ・エラ」も、当初はタイプで打ち、それをガリ版で刷る、四ページほどの新聞であったが、これが後の「ブラジル・セイキョウ」へと発展していくのである。
 さらに、この年の十二月には、西ドイツ(当時)でも、ガリ版刷りで、ドイツ語(一部日本語)の「セイキョウ・ツァイトゥング」(聖教新聞の意)が、月刊紙として出された。
 そして、六六年一月、香港で中国語の「黎明聖報」(当初はタブロイド判四ページ、月刊)がスタート。
 次いで、四月になると、ペルーで、スペイン語の「ペルー・セイキョウ」(当初はタブロイド判四ページ、月刊)が誕生するのである。
 まさに、世界各地に、民衆の幸福と平和を創造する創価の言論城が、着々とつくられていったのである。
34  言論城(34)
 山本伸一も、こうした各国の機関紙誌への応援を惜しまなかった。
 ″機関紙に名前をつけてほしい″″発刊の祝辞を書いてほしい″などの要請があれば、快く引き受けた。
 それぞれの機関紙誌の編集に携わるスタッフは、皆、素人の集まりだった。メンバーは、仕事と活動が終わってから、編集室に集って来ては作業に励んだ。
 といっても、専用の編集室がある機関紙誌は、ほとんどなかった。
 会館の事務所の一角やメンバーの家の一室を借りての作業である。
 深夜までかかって、原稿を書き、見出しをつけ、割り付けを考え、タイプを打ったり、ガリ版を切ったりするのである。
 アメリカの「ワールド・トリビューン」は活版印刷であったが、原稿を時間通りに持ち込めず、印刷所の文選の担当者が帰宅してしまうこともあった。
 翌日に回せば、発行が遅れてしまう。やむなく、編集部員が、インクで真っ黒になりながら、自ら活字を拾い、版組みに挑戦したこともあった。
 また、香港では、印刷会社に、仏法用語などで使われている活字がなかったために、編集スタッフが他の印刷会社を走り回り、活字を借りて、発行に間に合わせたこともあった。
 各国の編集スタッフが、常に頭を抱えていたのが、翻訳であった。
 仏法の解説や山本伸一の講演など、聖教新聞の翻訳が多かったが、これが困難を極めた。
 たいていの国の日本人スタッフは、現地の言葉ができるといっても、日常会話程度であった。また、現地で生まれ育ったスタッフは、ほとんど日本語はわからなかった。
 それだけに、仏法用語などが出てくると、翻訳には著しく手間取った。
 日本人スタッフが一生懸命に翻訳しても、現地の人にとっては、意味不明の文章も多かった。
 そこで、その原稿を、現地のスタッフが、人びとに通じる文章に、再度、″翻訳″し直さなければならなかったのである。
 機関紙誌の発刊は、各国のメンバーの、涙ぐましい努力の結晶であった。しかし、メンバーは、その作業を通して、信心を深め、教学力を高めていった。
 さらに、これらの機関紙誌を、それぞれの国の文化団体や大学の図書館などに贈呈していくなかで、社会の学会への、誤った認識が次第に改まっていった。
 そして、学会を正しく評価するようになっていったのである。
35  言論城(35)
 聖教新聞の日刊化に向かって、大奮闘が続いていた七月四日、第七回参議院議員選挙が行われた。
 各党とも、六月十日の公示以来、熱戦を展開してきたが、公明党からは、全国区九人、地方区五人が立候補していた。
 この参院選は、公明党結成後、初の国政選挙である。しかも、公明政治連盟の時代には候補者を立てなかった、愛知、兵庫、福岡の各地方区で、候補を擁立しての選挙戦である。
 公明党の初陣となる、この参院選を大勝利で飾ろうと、学会員も懸命に支援活動に取り組んできた。
 そして、全国区は九人全員が当選を果たし、地方区は、東京、大阪で議席を獲得した。
 初挑戦となった、愛知、兵庫、福岡では、惜しくも当選には至らなかったが、改選数四に対して、十一人が当選したことは、驚異的な大躍進といってよい。
 これによって、参議院公明党の勢力は、改選前の十三議席から、一挙に二十議席となったのである。
 さらに、全国区の得票数は、五百九万七千余票を獲得。これは前回の公明政治連盟の四百十二万余票を大幅に上回り、百万票近くの得票増となった。
 また、惜敗した愛知などの三地方区は、いずれも次点であり、次回の勝利への飛躍台を築き上げたといってよいだろう。
 この選挙戦のさなかの六月十四日、東京都議会が解散となり、参院選の投票日の四日後の七月八日が、都議会議員選挙の告示日となったのである。
 都議選は、二年前の一九六三年(昭和三十八年)四月に行われており、通常ならば、選挙が実施されるのは、任期が満了する六七年(同四十二年)の春のはずであった。
 ところが、三月九日に行われた、都議会議長選挙などをめぐって、自民党議員のなかから多くの逮捕者が出たことから、最終的に都議会は解散となり、選挙となったのである。
 そこには、「伏魔殿」といわれていた都議会から、金権腐敗を払拭しようとする公明党議員の、政界浄化への必死の戦いがあった。
 そもそも、最初の逮捕者が出たのは、三月十五日のことであった。議長選に先立って行われた、自民党内の議長候補指名投票に際し、現金をばらまいて、票集めを工作した容疑で逮捕されたのである。
 さらに、翌十六日にも、同党の議員二人が収賄の容疑で逮捕され、四月七日までに、議長選をめぐって、七人の議員が逮捕されたのである。
36  言論城(36)
 四月十六日には、遂に、都議会議長が、議長選挙をめぐる贈賄容疑で、逮捕されるに至った。現職の議長の逮捕は、都政始まって以来のことである。
 都議会公明党では、直ちに今後の対応を協議した。
 ――都議会議員のなかから、次々と逮捕者を出したことは、都議会史上、類例のない不祥事である。
 この問題によって、都議会は、都民の信頼を失い、その名誉・権威は、完全に失墜してしまった。このままでは、議会で何を審議しようが、都民から支持されるはずがない。
 まず、徹底して不正・腐敗を明らかにし、都政の膿を出して、腐敗都政の浄化に向け、改革に着手すべきである――。
 これが公明党議員の、一致した考えであった。
 そして、次の四点を議案に、臨時都議会の開催を要求することにした。
 ①逮捕された議員たちへの辞職の勧告。
 ②議長不信任案の提出。
 ③都議会の解散決議案の提出。
 ④知事不信任案の提出。
 このうち、三番目の「都議会の解散決議案の提出」とは、議員の総辞職による解散を意味していた。
 地方議会の解散権は、議会の多数決では発動されず、議員全員が辞職しなければ解散はできない。
 そのほかの解散の仕方としては、知事の不信任案が議決された場合に、対抗策として、知事は議会を解散することができた。
 さらに、もう一つが、リコールによる解散である。
 翌十七日付の各紙の朝刊は、一斉に、都議会議長の逮捕を大々的に報じた。
 「都議会は狂っている 議長のイスも金しだい」「出直せ、都議会 腐り切った感覚」などの見出しが躍った。
 人びとも議員の腐敗を腹に据えかね、″都議会を解散し、一新せよ″との世論が高まっていった。
 ここに至って、共産党を除く各党(自民、社会、公明)の幹事長会が開かれたが、逮捕者を出した、与党である自民党の意見は、議長への辞任勧告にとどまっていた。
 また、野党第一党の社会党は、公明党とほぼ同意見であったが、解散については、態度をあいまいにしていたのである。
 選挙が行われれば、必ずしも、当選するとは限らないことから、自社両党は、選挙を恐れ、解散に難色を示していたにちがいない。
 そのなかで、公明党の都議会議員は、都民に信を問おうと、全員、辞表を幹事長に預け、総辞職の決意を固めていた。
37  言論城(37)
 世論を無視した、自社両党の対応を見て、公明党の議員たちは、強く思った。
 ″このままでは、都議会は、永久に都民から見放されてしまう。断じて、そうさせてはならない!″
 四月二十四日、遂に公明党は、やむをえず、最後の手段ともいえる、議会解散を請求する、リコール署名運動に踏み切ることを決定した。
 つまり、有権者総数の三分の一以上の署名を集め、東京都の選挙管理委員会に対して、議会の解散を請求するのである。
 その請求に基づき、住民投票が行われ、過半数の同意があれば、解散ということになる。
 ここに至って、ようやく社会党も、総辞職による解散を打ち出してきた。
 しかし、リコールについては、時間がかかることを理由に、否定的であった。
 都議会で二議席をもつ共産党は、公明党の後追いをするかたちで、リコール実施を表明したが、総辞職については、反対の立場をとっていた。
 このころになると、自民党も慌て出した。
 相次ぐ逮捕者を出して、解散もしないとなれば、世論の批判は、ますます厳しくなるからである。
 四月二十八日、自民党も総辞職を承諾し、党内の都議会議員に、辞職するよう説得に努めたが、何人かの議員は、頑として、最後まで辞表の提出には応じなかった。
 また、共産党の二人も、辞表の提出を拒んでいた。
 これによって、総辞職による解散の道は、断たれてしまったのである。
 ″なぜ、都議のイスにしがみつき、都議会として責任をとらないのだ!″
 都民の怒りは、頂点に達した。
 五月になると、学者、文化人らによる都政刷新連盟や、都政刷新市民委員会の結成をはじめ、都議会の浄化を求める都民団体が、次々と誕生していった。
 一方、公明党によるリコール運動は、都民の絶大な支持を得て、急速な広がりを見せていった。
 また、独自にリコール運動を実施する団体も出始めていた。
 そこで、五月二十四日には、リコール推進の各種団体が一体となり、″統一リコール運動″として、進めていくことが決定された。
 当初は反対だった社会党も加え、公明、共産、民社の四政党、さらに四労組、九市民団体が共同で、リコール運動を推進していくことになったのである。
 民衆の怒りは、リコールを求める声となって、怒涛のごとく街々にうねった。
38  言論城(38)
 リコール運動が開始されて半月ほどしたころ、自民党本部でも、都議会解散の方法について、真剣に検討し始めていた。
 同党から、十数人の逮捕者を出しながら、党内の全都議会議員の辞表がそろわず、解散もできないとなれば、七月の参院選にも、大きな影響があると判断したのであろう。
 辞職を拒否する議員を説得できない場合、知事の不信任案が決議された段階で、知事が議会を解散するという方法もあった。
 しかし、自民党としては、これは避けたかった。知事は自民党の推薦であり、不信任案が可決されれば、都政の失敗を証明することになってしまうからだ。
 かといって、うかうかしていれば、リコールの署名が集まってしまう。
 そこで、国会で法律を定め、地方公共団体において、議会の多数決によって自主解散できる道を開こうとしたのである。
 臨時都議会の最終日となった五月十九日、まず逮捕された都議会議長の辞任が承認された。
 続いて、公明、社会、共産の三党の共同提案で、都知事不信任案が上程されたが、これは否決された。
 さらに、会期は一日延長され、二十日の午前二時過ぎ、公明、自民、社会、共産の共同提案による解散決議案が可決された。
 この決議は、都議会自らが解散への姿勢を示すものではあったが、決議自体に、法的な力はなかった。国会における法律の制定を前提としての決議であったのである。
 六月一日、「地方公共団体の議会の解散に関する特例法」が国会を通過し、二日後には、公布、施行された。
 この法律は、国が地方自治に介入する格好となり、地方自治の理念のうえから問題視する向きもあったが、都議会への信頼を回復するための緊急措置としては、やむをえないとの判断が大勢を占めた。
 これにより、議員の四分の三以上の出席で、五分の四以上の同意があれば、自主解散が可能となった。
 そして、六月十四日、臨時本会議で″特例法″に基づく解散決議案が可決され、東京都議会は解散したのである。
 断じて悪を許さず、リコールに立ち上がった公明党の戦いが、世論を動かし、「伏魔殿」といわれた都議会を、自主解散させる最大の力となったのだ。
 公明党の都議会議員は、都政への信頼を回復しなければならないという一心であった。信頼こそが、政治の根本であるからだ。
39  言論城(39)
 徹底して不正と戦い抜く都議会公明党の活躍を、最も喜んだのは、党を支援してきた学会員であった。
 最初、公明党が、党として総辞職を決めた時、皆、心で喝采を送った。
 他党の議員が、解散し、選挙することを恐れ、自分のポストを守ることに汲々としている時に、ためらうことなく解散を主張し、都議会の信頼回復を第一義とした姿勢に、共感したのである。
 その私利私欲を捨てた責任感と勇気に、会員たちは感動さえ覚えた。
 ″公明党なら、政界浄化ができる!″
 ″公明党なら、政治の改革ができる!″
 それが、この都議会の解散に至る、公明党の活躍を目にした、学会員の実感であった。
 山本伸一もまた、都議会から不正を一掃し、人びとの信頼を勝ち得る都議会をつくろうと、懸命に努力する公明議員の奮闘に、党を結成してよかったという実感をもつことができた。
 七月八日、東京都議会議員選挙が告示された。投票日は、二十三日である。
 改選時の公明党の議席は十七であったが、この選挙では、二十三人の候補者を立てた。
 激戦であった。
 しかし、見事に、この二十三人が、全員当選を果たしたのである。しかも、そのうち九人は、トップ当選であった。大躍進といってよい。
 一方、与党の自民党は、二年前の前回の選挙では、定数百二十議席のうち、六十九議席を占めたが、今回は三十八議席と激減し、過半数を大幅に割った。
 都民は、清潔な政治を要望していたのである。
 伸一は、公明議員の、ますますの活躍を期待した。
 だが、政界を浄化し、政治を民衆の手に取り戻すというのは、決して、容易なことではない。
 政治の世界の金権的な体質そのものを改めなければ、また、すぐに、不祥事は起こるからだ。
 マックス・ウェーバーが「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」と語っているように、それは息の長い戦いになる。
 ましてや政界は、ある意味で、魑魅魍魎の世界といえる。利害につながるだけに、さまざまな誘惑もあれば、恫喝もある。
 そのなかで、議員となった一人ひとりが、民衆に奉仕し抜くという信念と情熱と哲学を、どこまで貫き通せるか――すべては、そこにかかっているといってよい。
40  言論城(40)
 山本伸一は、かつて、戸田城聖が、初めて同志を政界に送り出した時、こう語っていたことが思い出されてならなかった。
 「私の心を忘れぬ者は、政治革新を成し遂げ、民衆のための偉大なる政治家に育つだろうが、私利私欲に狂えば、広布を破壊する魔の働きになってしまうだろう。
 政界への進出は、私にとっても、学会にとっても、大きな賭けなのだ。
 私は、獅子がわが子を、谷底に突き落とす思いで、弟子たちを政界に送り出そうとしているのだ」
 伸一は、公明党の未来に思いを馳せつつ、祈り、念じた。
 全議員が、どこまでも戸田の心を忘れることなく、民衆を守りゆく獅子となることを――。
 八月に入ると、伝統の夏季講習会が待っていた。
 この講習会は、八月二日から、壮年(第一期)、男子(第二期)、婦人(第三期)、女子(第四期)の順で、それぞれ二泊三日で、総本山で実施されることになっていた。
 また、これに引き続き、十、十一日には、初の試みとして、高・中等部など、後継の若き世代の講習会が開催されるほか、第四期の講習会には、海外メンバー約三百人が参加することが決まっていた。
 伸一は、この講習会で、学会精神をわが同志の胸に深く打ち込むため、全力を注ごうと決意していた。
 ――「本門の時代」に入り、広宣流布の流れは、社会のあらゆる分野で、仏法の人間主義ともいうべき思想を実現していく、多様多岐にわたる「展開」の時を迎えた。
 そうであればこそ、皆が原点である学会精神に立ち返ることが、何よりも大切になる。
 学会精神とは、浅きを去って深きに就く、一人立つ「丈夫の心」である。
 殉難を恐れぬ、「死身弘法」の決意である。
 間断なき、「未曾暫廃」の持続の闘争である。
 情熱と勇気の、「勇猛精進」の実践である。
 いかなる難も、莞爾として耐え忍ぶ、「忍辱大力」である。
 大聖人の仰せのままに、広宣流布に生き抜く、「如説修行」の行動である。
 邪悪を許さぬ、「破邪顕正」の精神である。
 正しき信心の血脈に結ばれた、「師弟不二」の道である。
 堅固なる「異体同心」の団結である。
 一人ひとりを仏を敬うがごとく大切にする、「当如敬仏」の心である。
41  言論城(41)
 学会精神を伝えるには、どうすればよいのか――答えは明らかである。自らが行動することだ。
 精神の継承は、振る舞いのなかにのみある。
 山本伸一は、夏季講習会でも、全国から集い来った同志の激励に挺身した。
 記念撮影や質問会などに次々と出席し、丑寅勤行の前後にも、指導会をもち、各部のメンバーを励ましていった。
 壮年には「生涯、御本尊とともに」と、男子部には「妙法の革命児たれ」と訴えた。
 また、婦人部には「妙法こそ、幸福の源泉」と、女子部には「悔いなき青春時代を」と呼びかけた。
 境内を移動中に出会ったメンバーにも、寸暇を惜しんで激励を続けた。
 伸一の、その姿自体が、「勇猛精進」であり、「未曾暫廃」であり、「当如敬仏」であった。
 第四期の講習会が行われていた八日には、伸一が出席し、海外の支部旗などの授与式が行われた。
 席上、香港の男子部の責任者に、香港中文大学に留学している梶山久雄が、また、香港の女子部の責任者には、現地の航空会社に勤務している加藤祥子というメンバーが任命になった。
 また、アメリカのハリウッド支部長になっていたカズコ・エリックに、山本会長から、支部旗が授与されたのをはじめ、ペルーの男子部の責任者や、アメリカのロサンゼルス、ドイツ、タイの女子部の責任者に、それぞれ部の旗が手渡された。
 伸一は、この授与式で、海外メンバーの求道の心をたたえたあと、総本山に建立が決まった正本堂は、すべてイス席とし、世界の大仏法にふさわしい建物にすることを発表した。
 さらに、ここに集ったメンバーは、何十億という人類の、幸福を実現する先駆けの勇者であり、地涌の菩薩であると語り、こう訴えた。
 「自身の幸福のために、楽しく信心をし抜いていただきたい。
 不幸な人びとを救うために、朗らかに、勇敢なる信心を貫いていっていただきたい。
 恒久平和のために、世界平和のために、誇らかに、粘り強く、信心を全うし抜いていっていただきたい」
 海外の同志は、この指導に、心から納得した。
 そして、それぞれが、自らの使命を深く自覚した。
 伸一は、日本に来るまでの海外の同志の苦労が、痛いほどわかっていた。旅費を捻出するにも、休暇を取るにも、計り知れない苦労があったはずである。
42  言論城(42)
 今回の夏季講習会には、船で何十日もかかって来日した人はいなかったが、川崎鋭治をはじめ、フランスのメンバー八人は、汽車、飛行機、船を乗り継いで、八日がかりで、日本にやって来た。
 一行は、七月二十五日の午後二時半に、汽車でパリを出発。ベルギー、西ドイツ(当時)、東ドイツ(同)、ポーランドを通り、ソ連(同)に入った。
 ソ連の最初の駅となるブレストで、パスポート、所持品、所持金、各種の予防注射の有無などの審査を受けた。
 チェックは厳格であり、車内のベッドまで持ち上げ、丹念に調べられた。
 列車がスモレンスクを経て、モスクワに到着したのは、二十七日の午後四時二十分であった。
 モスクワでホテルに一泊し、翌二十八日の午後八時半発の飛行機で、ハバロフスクに向かった。ロシア横断の旅だが、搭乗機はプロペラ機であった。
 二十九日の午前四時半にハバロフスクに到着し、ここから、再び汽車に乗り、三十日の午前八時過ぎにナホトカに着いた。
 そして、ナホトカから船に乗り、八月一日の午後五時前、横浜港に到着したのである。
 道中、メンバーは、寸暇を惜しんで唱題に励み、船のなかでは教学の試験も行っている。
 パリから東京まで、ジェット機を使えば、こんなに時間もかからず、快適な旅ができるが、皆の経済的な事情が、それを許さなかったのである。
 山本伸一は、法を求めて日本にやって来た、海外の同志の求道心に、深い感動を覚え、熱い涙が込み上げてならなかった。
 そして、幸福に包まれた皆の未来と、それぞれの国の大発展を確信した。
 求道心こそ、信心の養分を吸い上げ、自身の成長をもたらす根である。その根が強ければ、必ずや、幸福の花々を咲かせゆくからである。
 伸一は、海外メンバーが講習会を終え、総本山を後にする時にも、力の限り、励ましを送った。
 メンバーが、自分たちの国への、伸一の訪問を要請すると、彼は明言した。
 「必ず行きます。皆さんにお会いするために……。
 私は、この週末には、アメリカへ出発することになっているんです。
 『本門の時代』というのは、世界広布の時代のことです。一緒に、世界の平和の扉を開きましょう!」
 赤銅色の山肌を見せた富士が、夏の太陽を浴びながら、澄んだ青空に、厳然として、そびえ立っていた。
 (この章終わり)

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