Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第9巻 「衆望」 衆望

小説「新・人間革命」

前後
2  衆望(2)
 オリンピックの東京大会が中止となった理由は、戦争の激化であった。
 前年の一九三七年(昭和十二年)七月七日に起こった盧溝橋事件を契機に、日中全面戦争に突入していったことから、政府は、″時局の重大性にかんがみ″、東京大会の中止を決めたのである。
 平和の祭典・オリンピックは、戦争によって、いともたやすく、つぶされてしまったのだ。
 その中止の決定から四半世紀余りが過ぎた、一九六四年(同三十九年)の十月十日、快晴の東京・国立競技場に七万四千人の観衆が集い、第十八回オリンピック東京大会の開会式が、盛大に行われたのである。
 その間、日本は敗戦という辛酸をなめ、そこから、目覚ましい復興を果たしたのである。
 アジアで初の開催となるこの大会には、オリンピック史上最多の九十四カ国、役員を含めて七千余人が参加していた。
 山本伸一は、その開会式の模様を、ヨーロッパ訪問中に、チェコスロバキア(当時)のプラハで、テレビで見たのである。
 この大会に、東西ドイツは、″統一ドイツ″として参加していた。東も、西もなく、一つの選手団としての入場であった。
 ″統一ドイツ″は、メルボルン大会、ローマ大会に続く試みであったが、この四年間のうちに、″ベルリンの壁″が建設されるなど、東西冷戦は厳しさを増していた。
 しかし、その壁を取り払い、同じドイツ人として参加したのである。
 観客は、平和を祈りながら、ドイツの選手に盛大な拍手を送った。
 さらに、この大会の特色として、アルジェリア、カメルーン、コートジボワールなど、アフリカの新興独立国の参加があった。
 民族衣装も鮮やかな、若々しいアフリカの選手団の入場に、スタンドからは、惜しみない拍手がわき起こった。
 その一方、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)とインドネシアが、選手の参加資格の問題から、直前になって引き揚げるという出来事もあったが、この日、東京オリンピックは、晴れやかに開幕したのである。
 競技は、翌十一日から、最終日の二十四日まで、十四日間にわたって熱戦が繰り広げられたが、日本選手の活躍も目覚ましかった。
 なかでも、大松博文監督の率いる、女子バレーボールチームは、相手チームの強烈なスパイクを、「回転レシーブ」で拾いに拾い、快進撃を続けたのである。
3  衆望(3)
 日本の女子バレーボールチームは、二十三日に行われた決勝でも、強豪のソ連をストレートで下し、全戦全勝で見事に金メダルを獲得。″東洋の魔女″として、世界に名を馳せたのである。
 試合開始の直後は、ソ連が先行したが、次第に落ち着きを取り戻した日本は、ほどなく逆転し、第一、第二セットを連取。
 第三セットは、ソ連も必死に食い下がり、接戦となったが、十五対十三で日本が勝ったのである。
 ヨーロッパ方面を歴訪して、十月十九日に帰国していた山本伸一も、この女子バレーボールの決勝戦の模様を、学会本部で女子部の幹部たちと一緒に、テレビで観戦した。
 得点が動くたび、歓声があがったり、嘆息が漏れたり、賑やかなテレビ観戦であった。
 試合が終わると、伸一は女子部の幹部に語った。
 「見事な勝利だったね。やはり、勝つことは嬉しいし、気持ちがいい。
 しかし、三対〇のストレート勝ちといっても、実力の差は紙一重でしょう。
 また、選手一人ひとりの力からいえば、体力的にも、技量的にも、ソ連チームの方が上かもしれない。
 それなのに、日本チームが圧勝したのはなぜか――ここが大事なポイントだ。
 もちろん、勝負の大前提として、大松監督のもとで徹底した訓練があったことはいうまでもない。
 そのうえで、今、試合を見ていて感じたのは、日本チームは、″絶対勝つ″という確信に燃えていたことだ。選手が皆、躍動しているし、しかも、チームワークがよい。
 ″どんな球でも、必ず拾うぞ″″決してあきらめないぞ″という、執念と攻撃精神にあふれていた。
 そして、勝利への強き一念で、皆が団結していた。
 回転レシーブで、床に落ちる寸前のボールも巧みに受け、別の選手が、それをトスでつなぐ。さらに、次の選手が、力いっぱい打ち込む。
 調子が落ちると、『頑張ろう!』と声がかかり、『はい!』という、打てば響くような皆の声が返る。
 スポーツという一次元ではあるが、実に見事です。
 あなたたちには、新しい時代を開くために、広布と人生の戦いに、勝ち続ける責任がある。
 その意味で、今の試合から学ぶべきことは多いよ」
 女子部の幹部たちは、真剣な顔で頷いていた。
 文豪・吉川英治に、「我以外皆我師」との有名な言葉があるが、伸一もまた、すべてのものから学びゆかんとする、強き向上心に満ちあふれていたのである。
4  衆望(4)
 また、男子体操では、前回のローマ大会に引き続いて、日本チームは団体戦で優勝。
 個人総合でも、遠藤幸雄が金メダルを獲得するなど、″体操ニッポン″の名をほしいままにした。
 一方、女子体操では、チェコスロバキア(当時)のチャスラフスカが華麗な演技で個人総合優勝を飾り、″オリンピックの華″として人気を集めた。
 マラソンでは、エチオピアのアベベが、ローマ大会に続いて二大会連続優勝を飾った。
 タイムは前大会の記録を三分以上も縮める、二時間十二分十一秒二の世界最高記録であった。また、日本の円谷幸吉が三位に入る健闘を見せた。
 男子一万メートルでは、上位三人が最後の百メートルでデッドヒートを演じ、一位から三位まで、わずか一秒余りの差という大接戦となった。
 だが、それ以上に競技場を沸かせたのは、セイロン(現在のスリランカ)のガルナナンダであった。
 彼は一週間ほど前に風邪をひいて体調を崩し、レースでも、他の選手にどんどん抜かれていった。
 彼の前の選手がゴールしても、まだ三周しなければならなかった。
 彼は、セイロンから出場した、初の一万メートル選手であり、その強い誇りがあった。
 ガルナナンダは、黙々と、たった一人で、懸命にトラックを走った。
 最初は、笑いまじりだったスタンドも、彼の力走に熱い視線を送り始め、最後の一周では、拍手がわき起こった。
 そして、ゴールの瞬間には、大喝采に包まれたのである。
 この東京オリンピックから正式種目になった柔道では、無差別級でオランダのヘーシンクが日本選手を破って優勝している。
 それは、柔道は、もはや日本の″御家芸″ではなく、世界のスポーツとなったことを印象づけた。
 さらに、こんな出来事もあった。
 大会五日目の十四日、風速十二メートルを超える強い風のなか、相模湾で行われた二人乗りのヨット競技では、オーストラリアのヨットが転覆するという事故が起きた。
 すると、スウェーデンのキエル兄弟が競技をやめ、投げ出されたオーストラリア選手を救助した。
 兄弟は、それから競技に復帰し、十二位に入った。
 彼らは語った。
 「救助するのが海の男の友情、当然のルールを守ったまで」と。
 そこには、人道の金メダルの輝きがあった。
5  衆望(5)
 東京オリンピックは、各競技の内容も充実し、世界新記録だけでも、四十を超えている。
 日本選手も大健闘し、金メダル十六、銀メダル五、銅メダル八を獲得。金メダルの数では、アメリカ、ソ連に次いで、三位となったのである。
 十月二十四日夕刻、幾つもの人間ドラマを織り成しながら、十五日間にわたって開催された東京大会は、遂に閉会式を迎えた。
 わずかに光の残る夕暮れのなかに、黒い雲が流れていた。
 午後五時、閉会式が始まった。
 各国の旗の入場である。開会式では、各国の旗のあとに、それぞれの国の選手団が整然と行進していたが、閉会式は、まず、旗だけの入場であり、寂しさを感じさせた。
 しかし、緑地の右下に、赤、黒、オレンジの縦三色旗をあしらい、その上に鷲を描いた旗が、九十三番目に入場すると、大拍手が空に響いた。
 この日、英領から独立して、新たに誕生したばかりの、アフリカのザンビア共和国である。
 そして、最後の九十四番目が、開催国日本の、日の丸の入場であった。
 この日本の旗に続いて、各国の選手団、約四千人が入場することになる。
 七万五千人の観客も、テレビを見ていた人たちも、開会式と同じように、整然とした入場行進が始まるものと思った。
 ところが、歓声をあげ、笑いながら、各国の選手が、トラックに、勢いよく、なだれこんできたのである。
 観客の誰もが息をのみ、目を見張った。
 歩きながら、手を振る選手もいれば、跳び上がる選手も、踊る選手もいる。
 大声で笑い、語り合い、記念撮影する人もいる。
 「ワッショ、ワッショ」と言いながら、日本やザンビアの選手を、次々と肩車していく選手団もあった。
 既にユニホームを脱いで、思い思いの服に着替えている選手たちも少なくなかった。
 国や民族の区別もなく、互いに入り交じり、ともに腕や肩を組み、選手たちは進んでいった。
 意表をつく、楽しく、愉快な行進であった。
 そして、何よりも、ともに同じ人間であるという自覚に結ばれた、「平和」を愛する「自由の行進」であった。
 そこには、権威も権力もなかった。
 激しい戦いを繰り広げたスポーツの祭典は、友情の祭典に変わったのだ。
6  衆望(6)
 実は、主催者側は、閉会式でも、八列縦隊にきちんと並んで入場することを計画していた。
 ところが、選手たちには、″楽しく、自由にやりたい″という、強い思いがあったようだ。
 そして、役員の制止を振り切り、横の人と腕を組み、「ウォー」と叫びながら、グラウンドになだれ込んでいったのである。
 「八列に並んで行進してください!」
 「プラカードの後ろに並んでください」
 英語やフランス語で、アナウンスが響いたが、効果はなかった。
 どの国の選手も、自由に歩き、自由に踊った。コウモリ傘を振り回しながら、踊る選手もいた。この自由さが、″人間の顔″を浮かび上がらせ、大きな感動を広げていったのである。
 そのなかで、整然と、八列縦隊で行進する日本の選手団が、むしろ違和感を感じさせた。
 他国の選手のなかには、日本の選手団の最後尾について、茶目っけたっぷりに両手を交互に高くあげ、真面目くさった顔で行進し、日本人の真似をして見せる人もいた。
 また、それが、大きな笑いを呼んだのである。
 閉会式での、この入場行進は、多くの日本人に、少なからず、衝撃を与えたようであった。
 常に、整然と一糸乱れぬ姿をよしとし、そうでなければならないとする、日本人の感覚が、決して、普遍的なものではないことを、実感せざるをえなかったからである。
 この大会期間中、世界の政治の舞台では、ソ連のフルシチョフ首相の突然の辞任という政変をはじめ、中国の核実験など、激動が続いていた。
 しかし、閉会式の行進を通し、人びとは、国家や民族、人種、イデオロギーの違いを超えて、「世界は一つ」という理想を、一瞬であれ、分かち合ったことは間違いない。
 だが、″その理想を、いかにして実現していくか″を、真剣に受け止め、考えていた人が、果たして何人いたであろうか。
 山本伸一も、閉会式の模様を、テレビで見ていた。
 彼は、その光景の一コマ一コマから、人間と人間の間には、本来、国家も、イデオロギーも、民族もないことを、改めて確信した。
 そして、地球民族主義の思想を、全世界に伝えゆかねばならないことを、痛感するのであった。
 彼の心の眼には、既に日の暮れた、国立競技場の空の彼方に、昇りゆく大仏法の太陽が見えた。
7  衆望(7)
 東京オリンピックは、成功裏に終わった。
 それは、日本が敗戦の荒廃から、完全に復興したことを世界に示す大会となった。まさに、戦後二十年の節目を前にして、戦後史の一つの転換点をなす、象徴的な出来事といえた。
 このオリンピックの開催は、東京という一都市の事業ではなく、日本の国家的な事業として位置づけられてきた。
 東京は、世界に恥ずかしくない首都の顔をもたねばならないと、首都圏整備計画の一環として、オリンピックの関連事業が推進されてきたのである。
 そして、巨額の公的資金が投入され、オリンピック開催までの七年間に使われた経費は、実に、九千九百億円にも上った。
 このうち、競技施設の建設や運営にあてられた費用は、二百九十五億円に過ぎず、その三十二倍の約九千六百億円は、間接的事業に使われたのである。
 主要な事業をあげれば、国鉄(現在のJR)の東海道新幹線建設に約三千八百億円、地下鉄整備に約一千九百億円、道路整備に約一千七百五十億円であり、これだけで、間接的経費の八割近くを占めていた。
 こうして、オリンピックに間に合わせるため、東京のあちこちで、土地が掘り返され、日夜、突貫工事が続けられたのである。
 その結果、首都高速道路の一号線、二号線、三号線、四号線が開通し、環状七号線などの一般道路も整備された。
 さらに、都営地下鉄一号線(現・浅草線)や営団地下鉄の日比谷線が開業し、オリンピック直後には、東西線の一部も開通したのである。
 また、都心と羽田空港を結ぶ東京モノレールも開業した。
 そして、東京オリンピックの開幕を目前に控えた十月一日には、国鉄の東海道新幹線が、営業を開始している。
 一九五九年(昭和三十四年)四月の着工から、わずか五年半にして、新しい日本の大動脈の開通にこぎつけたのである。
 この日の午前六時、東京駅から「ひかり一号」が、ブラスバンドの演奏に送られ、滑るように発車。同時刻、新大阪駅からは「ひかり二号」がスタートした。
 上下線とも、東西両ターミナルを、わずか四時間で結び、それまでの所要時間を、二時間三十分も短縮したのである。
 「ひかり」の最高時速は二百十キロメートルであり、当時の人びとの実感としては、まさに「夢の超特急」であった。
8  衆望(8)
 東海道新幹線の開通によって、ビジネスマンの東京―大阪間の″日帰り出張″も可能となった。
 それは、″旅情″よりも″スピード″の時代の象徴であった。
 また、輸送力も三八パーセントもアップされ、「大量・高速輸送時代」の幕開けを告げたのである。
 ともあれ、新幹線をはじめ、高速道路等、交通網も整備され、ホテルなどのビル建設も急ピッチで進められた結果、東京の街並みは一変した。
 メーンストリートを見る限り、ビルが美しく立ち並び、高速道路が走り、国際都市TOKYOの華やかな外観を整えるに至ったのである。
 東京を訪れた諸外国の人びとは、″敗戦国・日本″の復興に目を見張った。
 各国の東京オリンピックの評価も、おおむね良好であった。
 そして、これによって、日本人は、日本は一流国入りしたという、自信を得たといってよい。
 敗戦から、東京オリンピックに至る歩みは、飢えに苦しみ、耐乏生活を余儀なくされた時代から、欧米並みといわれる経済水準を確保し、世界の一流国をめざす過程といえた。
 『経済白書』が「もはや『戦後』ではない」としたのは、一九五六年(昭和三十一年)のことであった。
 この時に、九兆七千億円であった国民総生産(GNP)は、オリンピックが開催された六四年(同三十九年)には、三十兆三千億円に伸張することになる。
 わずか八年にして、三倍の″成長″である。
 特に、六〇年(同三十五年)の九月、池田勇人首相が、今後十年間で国民所得を二倍にするという、いわゆる「国民所得倍増計画」を発表したころから、日本の経済成長に、拍車がかかり、大きな飛躍をもたらしていった。
 では、「日本の奇跡」とさえいわれた、この復興を可能にした原動力は、なんであったのか。
 それは、民衆である。民衆一人ひとりに内在する、エネルギーである。
 日本に駐在し、復興の模様をつぶさに見聞したフランスのジャーナリストのロベール・ギランは、後に次のように記している。
 「わたしが強烈な印象をうけ、一般化できると思うことは、日本人は、あらゆるレベルにわたり、貧窮にあってさえ、事態に立ち向う、ということだ」
 彼は、日本の政治家や指導者たちを評価したのではなかった。日本の民衆の、「挑戦の心」に着目したのである。
9  衆望(9)
 ロベール・ギランは、さらに、こう書いている。
 「労働者、農民、漁夫、これらの民衆には、不屈の勇気がある。それは日本が持っている最良のものだ。都会の数知れぬ下層民、職人、従業員、小商人、あらゆる種類の家内労働者など、骨身おしまず、一心に働く男女についても、同じことがいえる。自分たちの国の成功をきずきあげるのは、彼らである」
 「彼らこそ、よき道を進もうと願い、よりよい行く手に通じる道はただひとつ、努力の道しかないと、見定めることができた。働くこと、それは偉い人びとの命令で天降って来たのではなく、彼ら自身から生じた。働く者たちの長きにわたる忍耐、間もなく西洋人たちによって〈日本の奇蹟〉とよばれるものの根拠がそこにある」
 ――すなわち、日本の民衆の自主的な勤勉さ、向上への努力こそ、日本の復興の原動力であったと分析しているのである。
 ところで、日本の、この経済成長は、創価学会が大発展しゆく時期と、符合していることを見逃してはなるまい。
 伝統的に、勤勉や努力は日本人の美徳とされてきたが、戦後は、そうした意識は、次第に薄れていった時期でもある。
 特に、人びとが、「資本家」と「労働者」といった対立意識を強くもつようになるにつれて、労働者の勤労意欲も、低下しがちであった。
 そのなかで、学会員は、仕事は、単に賃金を得るためだけでなく、自分を磨き高める、″人間修行の場″であるという、仕事観、労働観を培っていった。
 それは、日蓮大聖人の「みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ」との御指南に基づく生き方であった。
 宮仕え、すなわち、自分の仕事を、法華経の修行であると思いなさいというのである。
 また、学会員として、職場で、なくてはならない人になり、信頼を勝ち得ていくために、「信心は一人前、仕事は三人前」というのが、第二代会長戸田城聖の指導であった。
 日蓮仏法は、自他ともの幸福の実現をめざす教えであり、学会は、社会の繁栄と個人の幸福の一致を目的としてきた。
 創価の同志は、その実現のために、自分の仕事を通して、社会に貢献しよう、人格を磨こう、職場の勝利者になろうと、自ら、懸命に働いた。
 仏法者としての誇りと信念と哲学が、勤労の原動力となっていたのである。
10  衆望(10)
 学会は、一九六二年(昭和三十七年)の十一月には三百万世帯を達成し、オリンピックの行われた六四年(同三十九年)の十月の末には、五百万世帯を突破していた。
 このメンバーが、社会の建設を誓い、それぞれの職場で、″第一人者″をめざして、あらゆる困難に挑戦し、はつらつと仕事に取り組んできたのである。
 そこには、無数の人間革命のドラマがあった。
 大阪に、コンピューターの管理技師の仕事に携わる二十二歳の青年がいた。
 彼は、工業高校を卒業すると、大阪の電気会社に勤務し、配線設備などに従事してきた。
 信心を始める前は、何事にも消極的で、仕事の面でも、それが災いし、苦しんできた。
 しかし、六二年に入会し、学会活動に励むなかで、自らが積極的になっていくのを実感していった。職場でも「明るくなったね」と言われ、自信がもてるようになった。
 さらに、「職場で、なくてはならない人に」との学会の指導に奮起し、任せられた仕事を、真剣に、丁寧にと心がけていった。
 そうした彼の姿を、会社の上司は見ていた。
 彼は、やがて、大手商社が購入した、最新のコンピューターの管理技師に、社員約五百人のなかから選ばれたのである。
 それは、普通なら、大学卒業の社員が選抜される職種だった。
 仕事は難しく、多くの専門書を学習しなければならなかった。製造元のアメリカのコンピューター会社の派遣技術員による講習も、すべて英語である。
 彼は、学会活動を終え、帰宅後、深夜まで、英会話や機械の構造の勉強、技術の習得に励んだ。
 ともすれば、挫けそうになる彼を支えたのが、同志の励ましと、かつて、山本会長が若き友に贈った「友よ強く」の詩であった。
 苦しき仕事 深夜の勉強
 これも修行ぞ 苦は楽し
 君が信念 情熱を
 仏は じっとみているぞ
 彼は、猛勉強を重ね、見事に、重責を果たしていったのである。
 学会員が、職場で勝利の実証を打ち立てた事例は、枚挙に暇がない。
 製鉄工場での、単調な労働に嫌気がさし、夜遊びに興じていた青年が、信心を始めて、職場の″第一人者″になった体験もある。
 労働を金銭のためだけと考え、拝金主義の風潮が強まりつつあるなかで、学会員は労働の新しい意義を見いだし、社会の発展の原動力になってきたのである。
11  衆望(11)
 また、戦後十九年間で、農村から都市への人口移動も激増していた。
 特に、東京には人口が集中し、一九六二年(昭和三十七年)に、推計で一千万人を突破するに至った。
 単身世帯、核家族が増加し、アパートや新興住宅地も増えるにつれて、地域的な連帯感の希薄化や、人びとの孤独感が、新たな問題として浮上していった。
 そのなかで、人間の心と心を結び合い、「励まし」と「希望」のネットワークを広げてきたのが、創価学会であった。
 同志は民衆のなかに分け入り、友の悩みに同苦し、幸福を願って、励ましの対話を重ねてきた。
 さらに、老若男女が集う座談会は、人間交流の広場となり、心のオアシスとなっていった。
 こうした学会の運動は、民衆の「自立」と「調和」の、新たなる共同体をつくりあげ、民衆の力を引き出し、育む土壌となっていったのである。
 国や社会が繁栄していく源泉は、民衆である。決して、国家権力ではない。その民衆が希望をなくし、活力を失い、また、利己主義や怠惰に陥るならば、すべては、衰退していかざるをえない。
 学会は、その民衆に力を与え、勇気を与えてきた。
 しかし、当時、学会のなしていることの尊さに気づく人は、ほとんどいなかったといってよい。
 知識人もマスコミも、学会を見る目は、むしろ、侮蔑的でさえあった。
 日本の政治は、社会の最高の宝ともいうべき民衆の存在を忘れていた。
 政府の経済政策を見ても、経済成長を図るために、民間の設備投資の拡大を推進し、生産力を向上させることに力を注いできたが、常に擁護され、融資なども最優先されてきたのは、大企業であった。
 個人経営の町工場などが、その恩恵にあずかることは、ほとんどなかった。
 もちろん、「国民所得倍増計画」によって、人びとの所得は増えはしたが、物価もまた急上昇し、それがそのまま、国民一人ひとりの生活の豊かさには、つながらなかった。
 東京では、立派なビルが林立し、高速道路が走る街並みから、一歩横道に入れば、掘っ立て小屋のような家々が立ち並ぶ光景もよく見られた。
 華やかなオリンピックの陰で、住宅問題をはじめ、上下水道、社会福祉など、民衆の生活に、直接かかわる環境整備は、後回しにされてきたのである。
 いわば、繁栄は″外観″であり、政治の恩恵の光がささない路地裏には、庶民の悲しみの声が聞こえた。
12  衆望(12)
 日本の民衆の暮らしは、″世界の一流国″とは、ほど遠かった。
 たとえば、オリンピックを四カ月後に控えた六月十六日、新潟県北部の粟島付近を震源地に、マグニチュード七・五という大地震が起こったが、その備えや対応も、民衆不在の政治を実感させた。
 この地震は、死者二十六人、負傷者四百四十七人を出す惨事となった。
 被害を広げたのは、石油会社の石油タンクの爆発による火災であった。火のついた油が、住宅街に流れ込み、燃え始めたのである。
 そもそも、タンクを設置するための基礎づくりが、強い地震に耐えうるものではなかったのだ。
 また、出火すれば、すぐに民家に燃え移るような場所に、石油タンクが設置されていたことにも、大きな問題がある。
 しかも、石油会社の消火設備は、ほとんど機能しなかったうえに、新潟市の消防署には、化学消防車は一台もなかったのである。
 企業も、行政も、危機管理の意識に乏しく、人びとの生命と暮らしの安全を守ることが、なおざりにされてきたのだ。
 また、この年の夏、東京は水不足に悩まされ、陸上自衛隊が出動し、トラックなど、延べ約六千四百台で病院や家庭に給水するという有り様であった。
 東京は、「東京砂漠」といわれ、それが流行語にもなったのである。
 これもまた、国際都市・東京の、外観の華々しさとは裏腹に、水の確保といった人びとの生活に不可欠な環境整備を後回しにしてきた、「発展」の偏頗さの弊害といってよい。
 社会の豊かさとは何か。
 それは、国民総生産などの数字だけで示されるものではないし、また、モノの豊かさだけでもない。
 ――たとえば、皆の生命の安全、健康が保障されているのか。ひとり暮らしのお年寄り、体の不自由な人、病身の方々が、安心して暮らせるかどうか。
 母子家庭や父子家庭の親たちが、無理なく、勤労、子育てができるのか。
 未来を担う子供たちの目に、どれだけ希望の光が輝いているのか。
 中小・零細企業や、小売り商店の人たちが、生き生きと仕事に励んでいけるのかどうか。
 万人が、希望をもって生きることのできる社会であるのか――。
 こうしたことが、叶えられていってこそ、豊かな社会といえよう。
 人間の復権――それこそが、創価学会がめざしているテーマであった。
13  衆望(13)
 一九六四年(昭和三十九年)の十二月一日の夕刻、山本伸一は、沖縄の那覇の空港に降り立った。
 師走とはいえ、南国・沖縄は、抜けるような青空が広がり、春を思わせる、暖かな陽気であった。
 伸一の沖縄訪問は、沖縄本部の落成式が行われた、六二年(同三十七年)の七月以来、二年半ぶりであり、これが四度目の訪問であった。
 今回の訪問では、組織の強化などが課題としてあったが、それとは別に、伸一が、密かに心に決めていた仕事があった。
 沖縄本部の前には、山本会長にひと目会いたいと、大勢の会員が、到着を待っていた。
 車から降りた伸一は、メンバーに語りかけた。
 「どうも、お世話になります。みんな待っていてくれたんだね。
 さあ、なかに入って、一緒に勤行をしましょう」
 メンバーとの勤行で、この沖縄指導は幕を開けたのである。
 午後六時からは、沖縄本部の広間で、地区部長会が開催された。
 席上、これまで一本部二総支部十一支部であった沖縄が、三総支部十六支部の布陣で、新出発することが発表された。
 伸一は、ここでは、環境という国土世間を転換しゆく根本原理について、語っていった。
 「法華経の寿量品には、三妙合論といって、本因妙、本果妙、本国土妙の三つが、合わせ説かれています。
 本因妙というのは、仏の境界を得るための根本原因が妙、不可思議であるということであり、本果妙とは、その仏道修行によって得た仏果のことをいっています。
 そして、本国土とは、仏が居住して活動するところです。
 この娑婆世界こそ、その仏のおわします国土であると説かれている。
 これを、私たちの姿にあてはめてみるならば、信心に励み、人間革命していくことが本因妙となります。
 そして、絶対的幸福境涯を確立していくことが、本果妙となります。
 さらに、それによって、皆さんの住んでいる場所がそのまま本国土妙となり、常寂光土となっていくのであります。
 国土世間といっても、社会といっても、依正不二であり、根本は人間です。国土世間を変えゆく要諦は、人間革命にあります。
 したがって、同志の皆さんがお題目を唱え、懸命に信心に励んでいる限り、必ず沖縄を、平和と繁栄の、模範の社会に転じていけることは間違いありません」
14  衆望(14)
 山本伸一は、この日、多くの新任の幹部が誕生したことから、幹部の在り方についても言及していった。
 「私が、本日、強調しておきたいことの一つは、幹部になったからといって、権威主義になり、後輩に威張り散らすようなことがあっては、絶対にならないということであります。
 どこまでも誠実に、真心をもって励ましていくのが幹部です。仏子である会員に仕え、奉仕していくのが幹部です。また、皆に、安心を与えていけるかどうかです。
 会員を自分の手下のように思って見下したり、あるいは怒鳴ったりして、人に緊張を与えるのは、権力主義者です。
 あの人の前に行くと、心から安心できる、元気になれる、希望を感じる、勇気がわいてくる――と言われてこそ、本当の学会の幹部といえます。
 また、皆が仲よく、互いに尊敬し合って、団結していくことが、広宣流布の前進の力になる。
 反対に同志を恨んだり、憎んだり、軽んじたり、嫉妬するようなことは、絶対にあってはならない。それは大謗法になる。
 自分も罰を受けるし、組織を歪んだものにし、広宣流布を破壊していくことになります。
 では、どうすれば、同志の団結が図れるのか。
 根本は祈りです。題目を唱え抜いていくことです。
 いやだな、苦手だなと思う人がいたら、その人のことを、真剣に祈っていくんです。
 いがみ合ったり、争い合うということは、互いの境涯が低いからです。
 相手の幸福を祈っていくことが、自分の境涯を大きく開いていくことになる。
 また、誤解から、感情の行き違いを生むことも多いから、心を開いて、よく話し合うことです。勇気をもって、対話することです。
 互いの根本の目的が、本当に、広宣流布のためであるならば、信心をしている人同士が、共鳴できないはずはありません」
 一人ひとりは、どんなに力があっても、仲が悪ければ、全体として力を発揮することはできない。
 逆に仲のよい組織というのは、それぞれが、もてる力の、二倍、三倍の力を発揮しているものである。
 伸一は、沖縄は、幸福の春風をアジアへと送る、東洋広布の″要石″であると考えていた。
 それゆえに、この沖縄の天地に、堅固なる信仰の、団結の要塞を築き上げたかったのである。
15  衆望(15)
 翌十二月二日、山本伸一は、朝から、沖縄本部の二階の和室で、机に向かっていた。
 二日は、師の戸田城聖の命日である。
 窓から差し込む、南国の朝の日差しがまばゆかった。机には、四百字詰めの原稿用紙が置かれていた。
 彼は、この日、この朝、小説『人間革命』の筆を起こそうと心に決め、沖縄にやって来たのである。
 思えば、伸一が、戸田の生涯を書き残そうとの発想をもったのは、十九歳の時であり、入会して三カ月が過ぎたころであった。
 軍部政府の弾圧と戦い、投獄されても、なお信念を貫き、人民の救済に立ち上がった戸田城聖という、傑出した指導者を知った伸一の感動は、あまりにも大きかった。
 伸一は、″わが生涯の師と定めた戸田先生のことを、広く社会に、後世に、伝え抜いていかなくてはならない″と、深く深く決意していた。
 その時の、炎のごとき思いは、生命の限りを尽くして、師弟の尊き共戦の歴史を織り成していくなかで、不動の誓いとなっていくのである。
 一九五一年(昭和二十六年)の春であった。
 彼は、戸田が妙悟空のペンネームで、聖教新聞に連載することになった、小説『人間革命』の原稿を見せられた時、″いつの日か、この続編ともいうべき戸田先生の伝記を、私が書かねばならない″と直感したのであった。
 さらに、三年余りが過ぎた五四年(同二十九年)の夏、戸田と一緒に、師の故郷の北海道・厚田村を訪ねた折のことである。
 伸一は、厚田港の防波堤に立って、断崖が屏風のごとく迫る、厚田の浜辺を見ながら、戸田の人生の旅立ちをうたった、「厚田村」と題する詩をつくった。
 その時、自分が″戸田先生の伝記を、必ず書き残すのだ″と、改めて心に誓ったのである。
 それから三年後の八月、伸一は、戸田とともに、軽井沢で思い出のひとときを過ごした。
 師の逝去の八カ月前のことである。
 そこで、発刊されて間もない、戸田の小説『人間革命』(妙悟空著)が話題になった。
 戸田は、照れたように笑いを浮かべて言った。
 「牧口先生のことは書けても、自分のことを一から十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先にたってできないということだよ」
 その師の言葉は、深く、強く、伸一の胸に突き刺さった。
16  衆望(16)
 戸田城聖の『人間革命』は、戸田の分身ともいうべき主人公の″巌さん″が、獄中にあって、広宣流布のために、わが生涯を捧げようと決意するところで終わっている。
 それからあとの、実践については、戸田は、何も書こうとはしなかった。
 山本伸一は、この軽井沢での語らいのなかで、広宣流布に一人立った、その後の戸田の歩みを、続『人間革命』として書きつづることこそ、師の期待であると確信したのである。
 そして、一九六四年(昭和三十九年)四月の、戸田の七回忌法要の席で、いよいよ、小説『人間革命』の執筆を開始することを、深い決意をもって発表したのである。
 法悟空のペンネームで、伸一がつづる、この『人間革命』は、聖教新聞からの強い要請もあって、明六五年(同四十年)の元日付から、聖教紙上に連載されることになった。
 伸一は、その最初の原稿を、どこで書き始めようかと考えた。
 ――『人間革命』は、戸田を中心とした、創価学会の広宣流布の歩みをつづる小説となるが、それは、最も根源的な、人類の幸福と平和を建設しゆく物語である。
 そして、そのテーマは、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする――ことである。
 ならば、最も戦争の辛酸をなめ、人びとが苦悩してきた天地で、その『人間革命』の最初の原稿を書こうと決め、伸一は、沖縄の地を選んだのである。
 沖縄は、あの大戦では、日本本土の「捨て石」とされ、日本で唯一、地上戦が行われ、住民の約四分の一が死んだ悲劇の島である。
 さらに、戦後も、アメリカの施政権下に置かれ、基地の島となってきた。
 これもまた、かたちを変えた、本土の「捨て石」であったといってよい。
 村によっては、基地の占める面積は、九割近いところもあった。しかも、アメリカの極東戦略のうえで、「太平洋の要石」とされ、中距離弾道ミサイルのメースB基地も四カ所に設けられ、また、原子力潜水艦の補給基地としても、重要視されていた。
 基地周辺の住民は、米軍のジェット機や輸送機の墜落、演習による自然破壊等々に苦しめられ続けてきたのである。
 その沖縄から、幸福と平和の波を広げようと、伸一は、『人間革命』の執筆を開始したのである。
17  衆望(17)
 山本伸一は、万年筆を手にすると、「人間革命」と書き、それから「第一章黎明一」と記した。
 第一章の、この「黎明」という題は、以前から考えて、決めていたものだ。
 伸一の頭のなかでは、既に構想は、緻密に練り上げられていた。
 ――物語は、一九四五年(昭和二十年)の七月三日の、戸田城聖の出獄から書き起こすことにしていた。
 広宣流布の大指導者である戸田の出獄は、人類の平和の朝を告げる「黎明」にほかならないことから、彼は、それを第一巻の第一章の章名としたのである。
 しかし、章名を記したところで、彼のペンは止まっていた。
 冒頭の言葉が、思い浮かばないのである。
 幾つかの案が頭をよぎりはしたが、どこか違っていた。これから書こうとする『人間革命』の出だしとしては、どれも、満足がいくものではなかった。
 彼は、一度、手にした万年筆を、机の上に置いた。
 しばらく思索を重ねるうちに、伸一は、四年前の七月、沖縄の地を初めて訪問し、「ひめゆりの塔」や「健児之塔」など、南部戦跡を見て回った折のことを、思い起こしていた。
 それは、よく晴れた、暑い日であった。
 彼は、無残な戦跡を目にし、案内者の説明に耳を傾けたあと、戦争の悲惨さ、残酷さに激怒しながら、「黎明之塔」などがある、摩文仁丘に立った。
 青い空と珊瑚礁の海の美しさが、戦争という行為の醜悪さを、一段と際立たせているように感じられたことが、忘れられなかった。
 その回想は、伸一自身の戦争の思い出を呼び起こしていった。
 ――胸を病みながら、軍事教練に参加し、倒れてしまった日のこと。
 空襲で家族がバラバラになり、火の海のなかを逃げ惑ったこと。
 強制疎開のために、新築した家もまた、空襲で焼かれてしまったこと。
 兄たちが次々と戦争に取られ、最愛の長兄は、遂に帰らなかったこと……。
 伸一は、その追憶から、終戦間際の七月三日に出獄し、廃墟と化した東京の街を目にした、戸田城聖の心を思った。
 ″先生は、焼け野原となった無残な街の姿を目の当たりにされ、何よりも、戦火にあえぐ民衆に、胸を痛められたにちがいない。
 そして、戦争という、最も卑劣な愚行を、憎まれたはずである。国民を戦争に駆り立ててきた指導者への怒りに、胸を焦がされていたはずである″
18  衆望(18)
 山本伸一は、戸田城聖の心に思いを馳せた時、脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
 「戦争ほど、残酷なものはない。
 戦争ほど、悲惨なものはない。
 だが、その戦争はまだ、つづいていた……」
 伸一のペンが走った。
 数行ほど書いて、それを読み返してみた。
 気負いのない、率直な表現だと思った。
 ″できた。できたぞ。これで、いこう!″
 冒頭が決まると、ペンは滑らかに走り始めた。
 「七月三日、午後七時――。
 豊多摩刑務所(中野刑務所)の、いかめしい鉄の門の外側には、さっきから数人の人影が立ちつくしていて、人影の絶えた構内を、じっとみつめていた。かれこれ二時間にもなる。あたりは閑散としていた」
 快調である。伸一のペンの運びは速かった。
 「その時、鉄門の右の隅にある小さな鉄の扉から、一人の、やせ細った中年の男が、いそぎ足で出てきた。手には大きな風呂敷包みをかかえている。そのいそぎ足がもつれた。
 門の外に立ちつくしていた人影は、この時、なにやら鋭く口走ると、さっと駆けよった。
 『おお!』
 出てきた男の眼鏡が、キラリと光り、思わず立ちどまって、顔をあげた……」
 伸一は、戸田の出獄風景を書きながら、何度も、目頭が熱くなった。
 戦時下での二年間の獄中闘争の末の出獄である。
 高齢であった師の牧口常三郎は、獄中に逝いた。広宣流布を誓い合った同志はことごとく退転している。
 そのなかで、一人立った、戸田の心中を思うと、万感が胸に迫り、感涙が眼を濡らした。
 しかし、胸の高鳴りを抑え、一気に原稿を書き上げていった。
 「彼は四十五歳になっていた。入獄前は二十数貫もあった。いまは十二、三貫もない。
 この出獄は、戦時下の一未決囚の、平凡な保釈出所の風景と人は思うかもしれない。
 しかし、この浴衣の着ながしで出獄した、坊主頭の中年の男こそ、戸田城聖その人であったのである」
 彼は、ここでペンを置いた。原稿は、連載二回分になっていた。
 二、三度、推敲したが、直すところは、ほとんどなかった。
 ″よし、これでいい!″
 伸一は、満ち足りた思いで、立ち上がった。
19  衆望(19)
 山本伸一は、二回分の原稿を書き終えると、″それにしても、大変な道に足を踏み込んでしまったものだな″と思った。
 ひとたび連載小説の執筆を開始したならば、一つの区切りを迎えるまでは、途中で休むわけにはいかないからだ。
 しかも、戸田城聖の出獄から逝去までをつづるとなれば、どう考えても、十巻を超える大作にならざるをえない。
 『人間革命』の執筆を発表した時から、覚悟してきたことではあったが、この連載が、相当、自分を苦しめるであろうことは、目に見えていた。
 しかし、伸一の心は燃えていた。
 それによって、どんなに苦しむことになったとしても、偉大なる師の思想と真実を、自分が書き残していく以外にないという使命感と喜びが、彼の胸にたぎっていたのである。
 伸一は、沖縄本部の二階の窓から、外を眺めた。
 赤い、南国特有のハイビスカスの花が、風に揺れていた。
 その時、窓の下の方から人の声が響いた。
 「山本先生!」
 「先生、窓を開けてください!」
 路上にいた人たちが、伸一を見つけたようだ。
 窓の下では、数人の人たちが集まって、手を振っていた。
 「拘置所を思わせるな」
 伸一は、こうつぶやきながら、窓を開け、手を振って応えた。
 彼が、そう言ったのは、今し方まで、戸田が長く捕らえられていた、東京拘置所での監視下の生活を、思い描いていたからである。
 いつも衆人環視のなかにいる自分を、そこに、重ね合わせたのである。
 沖縄で、最初の原稿を書き上げた伸一の心は、軽やかであった。
 この日の午後は、山本会長に同行してきた幹部たちが担当して、班長会、班担当員会、男女青年部の班長会、学生部員会が、開催されることになっていた。
 伸一は、このうち、沖縄本部で開かれた、学生部員会に出席することにした。参加者は、三十人ほどと聞いていた。
 この日、予定されていた会合のなかでは、一番小さな集いであったが、彼は、新しき時代のリーダーたる学生部員に、後継の魂を打ち込んでおきたかったのである。
 英知の青年が育てば、未来は開かれる。次代は、青年に託す以外にない。
 ゆえに、若い力を育むことだ。
20  衆望(20)
 山本伸一が、学生部員会に姿を現したのは、青年部長の秋月英介の指導の最中であった。
 「やあ、みんな、やっているね!」
 会場の後方に伸一の声が響いた。
 振り向いたメンバーの顔に、驚きの色が浮かんだ。
 まさか、自分たちの部員会に、山本会長が出席してくれるとは、夢にも思わなかったからである。
 伸一は、イスに座ると、確信のこもった口調で、語り始めた。
 「私は、諸君の前途を祝いたいんです。
 沖縄の歴史は、悲惨であった。宿命の嵐のごとき歴史であった。だからこそ、ここから、幸福の風が吹かねばならない。平和の波が起こらねばならない。
 また、みんなのなかから、沖縄の出身であることを誇りとし、日本を、世界を背負うような大人材が出なくてはならない。
 今日を、その出発の日としていくために、私は、学生部の皆さんとお会いしたんです。
 宿命を転換していくことは、政治でも、経済でもできない。人間の生命を、一念を転換していく以外にありません。
 そのためには、仏法の流布しかない。広宣流布していくしかありません。
 ゆえに諸君は、広宣流布の獅子として立ってもらいたい。
 仏法は、絶対に間違いありません。まず、十年間、私についていらっしゃい」
 「はい!」
 間髪を入れずに、元気な声が跳ね返った。
 伸一は、メンバーに視線を注いだ。
 「今日は、みんなと握手をしよう。諸君のことを、生命に刻みつけておきたいんです」
 彼は、立ち上がると、一人ひとりの手を、強く握り締めていった。
 学生部員たちも、頬を紅潮させながら、強い力で、彼の手を握り返した。
 皆と握手をした伸一は、笑みを浮かべて言った。
 「みんなの出発を祝い、何か差し上げたいが、お土産が何もないんです。
 そうだ、おソバをご馳走しよう。みんなで食べに行ってらっしゃい」
 日焼けした学生たちの顔に、白い歯が光った。
 伸一は、財布を取り出して、小遣いを渡すと、「またいつか、お会いしましょう。お元気で」と言って、学生部員会の会場を後にした。
 この時、伸一が励ましたメンバーのなかから、副会長をはじめ、沖縄広布を担う中核の幹部や、中学校長など、社会の第一線で活躍する人材が、陸続と育っていったのである。
21  衆望(21)
 山本伸一は、この朝、小説『人間革命』の最初の原稿を書き上げたことは、口に出さなかった。
 しかし、起稿の日に、自分が会った沖縄の学生部員に、『人間革命』の思想を実現し、この悲劇の島を、仏国土に変えていってもらいたいという、強い、強い期待と願望があった。
 学生部を激励したあと、伸一は、同行の幹部に、こう語った。
 「沖縄の学生部は燃えている。目を見ればわかる。未来が見えたよ。
 学生部は、現実がどんなに苦しくとも、それにめげずに、伸びていく芽だ。未来が楽しみだ……」
 伸一は、翌三日には、東京に戻ることになっていた。
 伸一が沖縄で、小説『人間革命』の筆を起こしたことは、沖縄のメンバーも、同行の幹部も、ほとんど知らなかった。
 ただ、沖縄本部長である高見福安には、伸一は、こう語ったのである。
 「高見さん、沖縄で、小説『人間革命』を書いたからね。いい出だしの文章ができたよ」
 高見は、顔をほころばせながら言った。
 「そうですか! ありがとうございます。それを知ったら、沖縄の同志は、大喜びすると思います」
 「沖縄の皆さんは宿命に泣き、苦労に苦労を重ねてこられた。私は、その沖縄の宿命を転換したい。必ず、勝ってほしいんだ。
 ところで、沖縄の皆さんが、今、一番、念願していることはなんですか」
 「日本への復帰です」
 高見は、即座に答えた。そして、言葉をついだ。
 「現在の沖縄の住民の立場は、非常に中途半端であり、不平等なんです。
 自分たちは、日本人なのに、日本に行くにも、アメリカの民政府のパスポートが必要です。しかも、審査が厳しく、発給を拒否される人もおります。
 かといって、アメリカの施政権下にあるからといって、アメリカ人としての権利が認められているわけではありません。
 最近では、日本本土との格差は、給与などの経済的な面をはじめ、社会福祉、医療制度などでも、ますます広がってきております。
 今年の四月には、立法院で、日本復帰要請が全会一致で決議されましたが、あらゆる面で、日本と一体化してほしいというのが、沖縄の住民に共通した、切実な願いとなっています。
 ですから、東京オリンピックの聖火が、沖縄本島を通って運ばれた時には、みんなが復帰への願いを込めて、喜び勇んで、日の丸の旗を振っていました」
22  衆望(22)
 約三カ月前の九月七日の正午、ギリシャから、インド、タイ、マレーシア、台湾などを経て、那覇の空港に着いた東京五輪の聖火は、まず、聖火ランナーによって奥武山の陸上競技場に運ばれた。
 沿道には、十五万人もの人波が広がり、日の丸の小旗が盛んに振られていた。
 アメリカの施政権下にある沖縄でも、この時ばかりは、誰憚ることなく、日の丸の旗を振ることができたのである。
 聖火は沖縄本島を一周した。「ひめゆりの塔」「健児之塔」などがある、南部戦跡も駆け抜けた。
 沖縄戦で父親を亡くした青年も、聖火を高く掲げて走った。次のランナーに聖火を手渡した彼は、「平和を祈りながら走りました」と語っている。
 まさに、この聖火リレーには、平和への強い思いと日本復帰への願いが託されていたのである。
 高見福安は、力を込めて語っていった。
 「沖縄の自治は、大きく制限されています。すぐに日本に復帰できなくとも、せめて、自治権を拡大したいというのが、みんなの願いです」
 沖縄で全権を掌握しているのは、琉球列島米国民政府であった。これは、沖縄統治のための、米国政府の出先機関であり、米本国の国防長官が、現役軍人のなかから選任する高等弁務官が、その最高権力者で、絶対的ともいえる権力を有していた。
 一応、沖縄にも、自治は認められてはいたが、琉球政府のトップである行政主席は、立法院で指名した者を、高等弁務官が任命することになっていた。
 また、なんらかの事情で立法院による主席指名ができない場合には、高等弁務官が、直接、主席を任命できる制度であった。
 ″アメリカ民政府による任命制ではなく、自分たちの主席は、自分たちで決める権利があるはずだ!″というのが、住民の思いであり、叫びであった。
 それが道理であり、当然の権利であろう。
 この年の六月十日には、自治権の拡大、主席公選の要請が、立法院で決議されたのである。
 また、六月の二十六日には、主席公選などを求める県民大会も、盛大に開催された。しかし、事態は、一向に変わらなかった。
 高見は言った。
 「沖縄の力だけでは、どうにもなりません。日本政府が、どこまで本気になって、沖縄のことを考え、アメリカと交渉するかです。
 さらにいえば、日本の政治家たちが、本当に、沖縄住民の痛みを、わかっているのかということです」
23  衆望(23)
 沖縄では、米軍がらみの事故が多発していた。
 五年前の一九五九年(昭和三十四年)の六月には、米軍のジェット戦闘機が小学校の校舎に墜落し、児童ら十七人の生命が奪われる大惨事が起こっている。
 三年前の六一年(同三十六年)の十二月には、民家にジェット戦闘機が墜落し、付近にいた住民二人が命を落とした。
 その翌年にも、米軍の輸送機が墜落。乗員のほか、住民二人が死亡している。
 さらに、六四年(同三十九年)七月にも、米軍の練習機が着陸に失敗するなど、危険な事故が相次いでいたのである。
 また、誤射による住民の射殺や轢き逃げ、あるいは女性が襲われるといった、アメリカの軍人による事件も後を絶たなかった。
 山本伸一には、高見福安の気持ちがよくわかった。
 高見は、伸一に言った。
 「私たちにとって、最大の希望は、先日、公明党が結成されたということなんです。
 公明党は、公明政治連盟の時代から、政策として、沖縄の自治権拡大、日本への復帰を掲げてきました。
 この公明党が力をつけ、政界で大きな影響力をもつようになれば、沖縄も大きく変わると思っています」
 公明党は、二週間前の十一月十七日に結成されたばかりであった。
 「そうだね。公明党に期待しよう。ちょうど、総理大臣も代わったし、日本の政治も、新しい段階に入った。沖縄の日本への復帰は、なんとしても、実現してもらいたいね」
 この年の十月二十五日、病気療養のため、池田勇人首相が辞意を表明。十一月九日、全閣僚留任のまま、佐藤栄作内閣が発足したのである。
 伸一は、高見に語った。
 「広宣流布というのは、総体革命ともいえる。仏法の慈悲の思想を、生命の尊厳の哲理を、社会のあらゆる分野で実現していく作業であり、政治の分野の改革のために、私は、公明党をつくった。
 ほかの国で、政党をつくる必要はありませんが、日本の場合、政治家の腐敗、堕落は、目にあまるものがあるし、金権政治が罷り通っている。
 何も手を打たず、そんな政治が、いつまでも続いていたのでは、日本はだめになってしまうし、何よりも、民衆があまりにもかわいそうだ。
 だから、私は、公明党には、どこまでも民衆を守り抜く、真の民主の担い手の政党として、育っていってほしいんです」
 高見は、大きく頷いた。
24  衆望(24)
 人間のため、民衆のための社会の建設――この当然のことが、忘れられていたのが、戦後十九年を経た、日本の社会の現実であったといってよい。
 本来、そのために立ち上がるのが、政治家である。
 しかし、その政治家たちの大多数は、保身と党利党略に終始し、疑獄事件も、毎年のように取り沙汰されていた。
 政治家が、民衆を意識するのは、選挙の時だけという有り様であった。
 山本伸一は、そうした政治の現状を見るにつけ、胸を痛めてきた。
 そして、公明政治連盟の議員たちが、「人間のための政治」「民衆のための政治」を実現していってくれることを、熱願し続けてきたのである。
 伸一のこの期待に、公政連(公明政治連盟の略称)の議員たちは、懸命に応えてくれた。皆、庶民の衆望を担って、民衆の幸福の実現のために、政界に進出していった同志である。
 仏法者である公政連のメンバーは、特に、人間の生命を守るということについては、最も敏感であった。
 たとえば、このころ、社会的にクローズアップされてきたのが、交通事故の問題であった。
 当時、自動車の保有台数が飛躍的に伸び、一九五六年(昭和三十一年)には百七十八万台であったが、六四年(同三十九年)には約七百万台になっていた。
 なかでも、乗用車は、″マイカー時代″を迎え、五六年の十九万台足らずから、この八年間で、百四十六万台へと、八倍近くに増えていたのである。
 それに伴い、交通事故も急増し、一九五九年(同三十四年)以降、毎年、道路交通事故で亡くなる人は年間一万人を超えていた。
 ちなみに、東京オリンピックが開催された、この六四年の交通事故は、約五十五万七千件に上り、死者は過去最高の一万三千三百十八人を数え、負傷者も四十万人を超えている。
 つまり、毎日、日本のどこかで、三十六人以上の人が大切な生命を失い、およそ千百人が怪我を負っている計算になる。
 この膨大な犠牲者の数を思うと、まさに「交通戦争」という以外になかった。
 そして、ひとたび事故が起これば、被害者も、加害者も、また、その家族も、悲惨であった。
 ″なんとかしなければ! 国民の生命を守ることは、政治家の義務だ″
 公政連の議員たちは、まず、事故の原因調査から徹底して始め、事故の多発地域には、昼となく、夜となく、何度も足を運んだ。
25  衆望(25)
 交通事故の原因をつぶさに見ていくと、単に当事者だけの問題とは言い切れない面が少なくなかった。
 信号機や横断歩道の不備、道路事情の悪さといった、道路行政に起因しているものも多かった。
 「信号機があれば、事故は防げたのに」
 「ガードレールがあれば、こんなことには……」
 しかし、こうした声に耳をそばだて、そのために奔走する政治家は、極めて少なかった。
 民衆の苦悩の声が聞こえない政治家は、あまりにも無神経である。その声を聞こうとしない政治家は、傲慢である。
 また、政治家とは、交通事故ひとつとっても、仕方がなかったととらえるのではなく、事故の絶滅のために、当事者の苦悩の解決のために、ありとあらゆる対策を講じていく人である。
 ――事故現場の、道路の見通しはどうだったのか。悪ければ、どうすればよいのか。信号機、横断歩道、陸橋などは設置されていたのか。
 さらに、事故の当事者や、その家族の生活は大丈夫かなど、対処すべき事柄は多い。
 だが、それは、議員としての、華々しい実績とはなりにくかった。そのためか、多くの議員は、こうした地道な努力を怠ってきたといってよい。
 そのなかで、公明政治連盟の議員たちは、この交通事故の問題にも、懸命に取り組んできた。
 市民生活の安全を守ることは、政治家の第一の責務である――というのが、公政連の議員たちを貫く信念であった。
 そして、参議院と各地方議会の議員が力を合わせ、住民との対話と調査を重ね、高速道路や立体交差の建設の推進から、身近なところでは、信号機、ガードレール、歩道橋、道路標識の設置など、着実に実現してきたのである。
 どの議会の公明会も、人びとの生命を、生活を守るために、真剣であったが、なかでも、東京都議会の公明会の活躍は、一つの模範となっていた。
 学会が東京都議会に初めて同志を送ったのは、一九五五年(昭和三十年)のことであった。小西武雄が大田区から立候補し、トップ当選を果たした。
 そして、五九年(同三十四年)の都議選では、四人が当選したのである。
 彼らは、政治の恩恵の届かぬ谷間で、呻吟する庶民の声を汲み上げ、民衆を守る政治を実現しようと、懸命に戦った。
26  衆望(26)
 やがて、創価学会推薦の議員によって公明政治連盟がつくられ、都議会にも会派として公明会が結成されると、都議会議員の活動に一段と力がこもった。
 そして、「伏魔殿」といわれた東京都政に、鋭いメスを入れ、″宴会政治″の追放を叫び、断固として、都政の浄化を進めたのである。
 それに対して、「重箱の隅をつつくようなことをするな」という、転倒した批判や、「大人気ない」という揶揄もあった。
 しかし、馴れ合い政治や業界との癒着を一掃し、クリーンな都政を実現していく第一歩として、この″宴会政治″の追放は、大きな意味をもっていた。
 また、こんなドラマもあった。
 一九六三年(昭和三十八年)六月二十八日、都議会の本会議のことであった。
 公明会の澤田良一が、一般質問に立った。
 彼は都知事に迫った。
 「大量の″し尿″が、消毒もなされぬまま、隅田川に不法投棄されているという事実をご存じか!」
 ――都清掃局の江北作業所には、足立・荒川・北の三区から″し尿″が集められ、その″し尿″は、ここのタンクに収容される。
 そして、これを運搬船に積んで、大島沖まで運び、黒潮に乗せて放流することになっていた。
 ところが、″し尿″を作業所の貯留タンクから運搬船に移す際に、一部の業者が船底の放流口を開け、そのまま隅田川に流していたというのである。
 実際より多量の″し尿″を運んだことにして、運搬料金の水増し請求をするためであった。
 澤田の質問を聞くと、最初、議場には、笑いが起こった。
 ″そんなことがあるはずがない″と、誰もが思っていたからである。
 澤田は、一枚のキャビネ大の写真を示した。写真には、雪のようなものが帯状に、川面に広がっていた。
 「この白いのは、全部、不法投棄された″し尿″から発生したウジです。
 これでは、都民は、まるで肥溜めのなかに住んでいるのも同然です。私たちは、″し尿″のなかに埋まっているといっても過言ではない。
 私は、その実態を、その現場を、この目で見てきたのです!」
 議場は騒然とした。
 都知事も、清掃局長も、初めて耳にする話であったようだ。
 ただ驚き、狼狽するばかりであった。
27  衆望(27)
 隅田川は、「澄江」(澄んだ川)の別名をもっているが、一九六三年(昭和三十八年)ごろには、汚濁は激しく、この年の調査では、水中の溶存酸素がゼロという、魚も住めない「死の川」と判定されたほどであった。
 この悪質な″し尿″の放流も、水質汚濁を加速させてきた、一つの原因であったといえる。
 公政連の調査では、一回に不法投棄されてきた″し尿″は、小型バキュームカーにして、四、五十台分であり、それが少なくとも、週に二、三回にわたっていたのである。
 そもそも、この問題は、一人の公政連の区議が、住民と語り合うなかでキャッチした情報であった。民衆の声には、真実がある。
 彼は、それを聞き逃すことなく、自ら現場に足を運んだ。人びとの証言から、不法投棄が行われていることは間違いなかった。
 そして、都議会の公明会と連携をとり、調査に乗り出した。
 周辺の住民の被害は大きかった。想像を超える、大変な悪臭であった。また、堤防のコンクリートも、ウジで真っ白になり、家の中にも、ウジが入って来るというのである。
 今日の環境保全の見地からいえば、海洋投棄自体、根本的に見直さねばならないものではあったが、まずは、川への不法投棄をやめさせることが先決である。
 そこで、澤田良一の都議会の本会議での質問となったのである。
 隅田川の″し尿″処理事件は、七月一日、都議会衛生経済清掃委員会で取り上げられ、翌二日には、都の清掃局長や委員会所属の議員らで、実態調査が行われたのである。
 公明会からは、衛生経済清掃委員会の委員長を務めていた上川清光や、澤田らが参加した。
 一行は、江北作業所のタンクを調査したあと、し尿運搬船に乗り込んだ。
 夏の太陽がジリジリと照りつけ、耐えがたい悪臭が広がっていた。
 公明会の議員は、不法投棄はないと言い張る、運搬船の業者らに尋ねた。
 「この船の底に、″し尿″を放流するための開閉口はありませんか」
 「ありませんね」
 議員は、甲板の下にある、カラになった糞尿槽をのぞき込んで言った。
 「あそこにあるのは、あれは開閉口のフタではないのか!」
 「今は使ってませんよ。二年も前に釘を打って、開かないようにしてある」
 業者は、平然とした顔で答えた。
28  衆望(28)
 他党の委員たちは、異臭の漂う甲板で、顔をしかめながら、公明会の議員と運搬船の業者とのやりとりを見ていた。
 公明会の議員の、力強い声が響いた。
 「よし、ハシゴを掛けてくれ! この糞尿槽のなかを調査するから」
 皆、唖然として、公明会の議員に視線を注いだ。
 運搬船の業者は、「″し尿″は、大島沖で、ポンプを使って捨てているので、開閉口は使っていない」と断言していたが、議員が糞尿槽に入ると聞いて、狼狽の色を浮かべた。
 公明会の澤田良一や上川清光らは、顔色一つ変えずに、ハシゴを下り、糞尿槽のなかに入っていった。
 ″し尿″を抜いて、洗ってあるとはいえ、なかには、強烈な臭気が充満していた。残っているメタンガスのせいか、一瞬、頭がクラクラした。
 そのなかで、公明会の議員は、鋭く業者の隠蔽工作を見抜いていった。
 開閉口のフタを閉ざすために打たれている釘が、新しく、光っていることを見逃さなかったのである。
 二年も前に打っている釘ならば、錆びていて当然である。
 また、鎖をつないでフタを上げるための鉄の輪も、錆びついていなかった。
 ″し尿″を密かに、川に流すために、頻繁に使われていた可能性が高い。
 「この釘と鉄の輪は、科学検査のために、持って帰ります」
 公明会の議員が言うと、業者は慌てた。
 「いや、それはだめだ」
 「なぜですか!」
 「なぜって……。
 釘を抜くにしても、ここには、釘抜きもないから、抜けないよ」
 上川たちは、江北作業所の職員に、バールを持ってくるように頼み、釘と輪を引き抜いた。
 それから間もない、ある日のことである。深夜、議員の家に、脅迫電話がかかってきた。
 「この件には、これ以上かかわるな! 深入りするなら、消すぞ!」
 男の声は、そう告げたあと、再び念を押すように、「消すぞ!」と繰り返して電話を切った。
 だが、公明会の議員は、いささかも怯まなかった。
 ″し尿″が消毒もされぬまま、大量に川に放流されるような事態が続けば、赤痢などの病気が発生しないとも限らない。
 いや、これまで、病気が発生しなかったことが、不思議なぐらいである。
 そう思うと、彼らは、断じて、退くわけにはいかなかった。
29  衆望(29)
 大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆のなかに死んでいく――それが公政連(公明政治連盟の 略称)の議員たちの、偉大なる精神であったからだ。
 この精神を訴えたのは、山本伸一であった。
 一九六二年(昭和三十七年)の九月十三日、公政連の第一回全国大会に出席した彼は、大衆の真実の友たるべき、公政連の政治家の在り方を、次のように語ったのである。
 「……最後の最後まで、生涯、政治家として、そして指導者として、大衆に直結していってもらいたい。
 偉くなったからといって、大衆から遊離して、孤立したり、また、組織の上にあぐらをかいたりするような政治家には、絶対に、なっていただきたくないのであります。
 大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆のなかに死んでいっていただきたい。
 どうか、公政連の同志の皆さん方だけは、全民衆のための、大衆のなかの政治家として、一生を貫き通していただきたいと、切望するものであります」
 以来、メンバーは、この言葉を、胸深く刻み、民衆を守り抜く決意を固めてきたのである。
 都議会公明会の追及によって、隅田川への、″し尿″の不法投棄はなくなっていった。
 公政連は、その後も、引き続き、隅田川の浄化に徹底して取り組み、やがて、魚が川に戻るまでになるのである。
 この″し尿″の不法投棄も、より根本的には、最も民衆の生活にかかわる、下水道の整備などを、後回しにしてきた弊害であったといってよい。
 民衆を守り、幸福に寄与する政治の実現――それが、公政連の政治家たちの誓いであった。
 そして、人びとの生活を直視し、「大衆福祉」の実現に全魂を傾けていった。
 教科書の無償配布についても、公政連の参議院議員が、その推進に、懸命に力を注いできたのである。
 教科書無償法、すなわち「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」が国会で成立したのは、一九六二年の三月のことであった。
 そして、十一月に、法律の実施に向けての答申が、文部大臣に提出された。
 その内容は、国公立だけでなく、私立も含む全小中学校の児童・生徒を対象に、教科書を無償配布するというものであり、翌六三年(同三十八年)度以降、数年をかけて、実現されることになったのである。
30  衆望(30)
 憲法第二六条の第二項には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」とある。
 この憲法に照らして、清原かつ、関久男らの参議院議員は、教科書の無償配布をはじめ、PTA会費の全廃、無償の完全給食などを、主張してきた。
 だが、その道程は、限りなく険しかった。
 それは、国家の認識を、根底から覆す作業でもあったからだ。
 教科書無償法が可決された前年の、一九六一年(昭和三十六年)の五月のことである。
 愛知県の男性が、国を相手どって、「憲法第二六条は義務教育の無償制度を規定しており、この教科書代は国家が負担すべきだ」として、娘の小中学校の九年間の教科書代金五千八百三十六円を、請求する訴訟を起こした。
 この年の十一月、東京地裁は一審判決を下し、教育基本法第四条には、授業料の無料は決めているが、教科書代までは含まれないとしたのである。
 当時、義務教育の無償といっても、それは授業料に限られるというのが、政府をはじめ、大多数の人びとの認識であった。
 しかし、清原も、関も、かつて教員をしていた経験のうえから、教科書を買ったり、給食費を払うことが大変な家庭が、いかに多いかを痛感してきた。
 また、議員として、民衆のなかに入り、対話するなかで、教科書などの教育費の捻出に苦しむ声を耳にしてきた。
 そして、その声を、必ず政治に反映していこうと、義務教育の無償化を、一段と力強く、訴えてきたのである。
 こうしたなかで、教科書無償化を求める世論が起こり、六二年(同三十七年)二月、政府は、教科書無償法案を国会に提出。法案は三月に成立した。
 しかし、法案は通過しても、予算の確保などが不十分であり、実施は遅々として進まなかった。
 たとえば、文部省は、六三年(同三十八年)度の予算編成にあたって、当初、教科書代として七十億円を要求していたが、計上された予算は半額にも及ばない、二十七億円に削られてしまったのである。
 こんなことでは、すべての義務教育の教科書を無償にすることなど、とうていできない。
 参議院公明会の議員たちは、強い憤りを覚えた。
31  衆望(31)
 一九六三年(昭和三十八年)の三月、清原かつは、参院本会議で質問に立ち、「教科書無償配布の実現」を、当時の池田勇人首相に強く迫った。
 「憲法第二六条第二項にうたってある『義務教育は、これを無償とする』について、総理は、授業料を無償とすることだといわれておりますが、″PTA会費を全廃せよ″″給食費を無償とせよ″との声が起こっております。
 これは当然、そうあるべきだと思いますが、総理の見解はいかがでしょうか」
 さらに、清原は尋ねた。
 「三十八年度予算折衝の際、文部省は当初、義務教育における教科書代として七十億円を要求したにもかかわらず、実際には、大幅に削減され、その半額にも及ばない二十七億円になっております。
 これでは、ようやく小学校三年生までの配布が認められたにすぎません。
 中学校三年生までの教科書無償配布を実現するために、少なくとも、毎年、百四十億円程度は計上していただきたいと思います。
 また、昭和四十年以降の無償配布計画を明らかにしていただきたい」
 小柄な体に、気迫をたたえた清原の質問に、突き動かされるように、首相は、国公立学校の授業料の無償化に限らず、教科書、給食費など、義務教育の無償という理想の実現に努めたいと明言したのである。
 また、六六年(同四十一年)までに、中学校三年生までの教科書無償配布を実施したいと決意を語った。
 政府の公式な見解として、教科書無償配布の完全実施への計画が示されたのである。
 さらに、公政連(公明政治連盟の略称)では、この年の九月から十二月にかけて、東京都内の小学校三年生の子供をもつ家庭を対象にして、教育費の実態調査を行った。
 調査なくして発言なし――それが、公政連の合言葉であった。
 およそ一万世帯が協力した調査によると、給食費、PTA会費、学校学習費、家庭学習費など、一カ月に要した金額は、東京二十三区の平均が二千二百六十四円となった。
 こうした負担に加えて、教科書代が年間で七百円から千円かかっていた。
 しかも、毎年、使用する教科書が替わるため、兄や姉の″お古″を使うこともできない。
 また、学校によっても教科書が違うため、転校してきた子供は、新しい教科書を買わされることになる。
32  衆望(32)
 小学校三年生の子供一人当たり、教育費が約二千三百円というと、むしろ、低額と感じるかもしれない。
 しかし、一九六三年(昭和三十八年)といえば、大学卒の国家公務 員上級職の初任給が、一万七千百円の時代である。
 女手一つで、何人もの子供を養わねばならない母子家庭の場合など、教育費の負担の重さはいかばかりであったろうか。
 公政連(公明政治連盟の略称)の調査は、その負担の大きさを、明らかにしたのである。
 公政連が積み上げてきた、さまざまな実績に対して、国民の評価は、年ごとに高まっていった。
 そして、学会員をはじめ、多くの支持者たちからは、一日も早く政党を結成し、衆議院にも進出してほしいという、強い要望が寄せられるようになっていたのである。
 この六四年(同三十九年)五月三日に行われた、学会の第二十七回本部総会以来、公政連としても、公明党の結成に向けて、着々と準備を重ねてきた。
 また、衆議院への進出の準備も進められていた。
 山本伸一が、公明党の結成を正式に提案したのは、本部総会から八日後に、日大講堂で行われた、男子部幹部会の席上であった。
 「創価学会は、公政連、公明会の支持団体であり、推薦団体であります。
 本日は、その私どもの意向を明らかにし、決議をいたしたいと思います。
 それは、本年も秋に、公政連の全国大会が行われますが、その時に、公政連、公明会を、名実ともに一歩前進させて、公明党にすべきではないかと考える次第でございます」
 この瞬間、大鉄傘を揺るがさんばかりの、大拍手が轟き、いつまでも鳴りやまなかった。
 公明党の結成――それはすべての学会員の念願であったといってよい。
 公政連の議員の目覚ましい活躍を、目の当たりにしてきた同志は、公政連が政党となり、衆議院にも進出していくならば、「民衆不在」の日本の政治を、変えることができると確信していた。
 いや、″断じて、そうしなければならない″という、使命感に燃えていたのであった。
 伸一は、重ねて参加者に呼びかけた。
 「未来の学会を、日本の国を背負って立つ、わが男子部の決議として、公明党を結成していくことにしたいと思いますが、よろしいでしょうか」
 再び、賛同の大拍手が起こった。
33  衆望(33)
 全国から集い来った若き男子部の代表幹部は、学会が公明党の結成に踏み切ることを、待ち望んでいたのである。
 山本伸一も、この決断を下すまでには、長い、長い呻吟があった。
 地方議会や、衆議院の行き過ぎを是正する参議院に同志を送るのと、政党をつくって、衆議院にも進出するのとでは、意義のうえでも、費やす力のうえでも、大きな開きがある。
 党を結成し、衆議院に進出するということは、政権をめざし、一国の政治を担っていくことにつながるからだ。
 また、もし、公明党に何か問題が生じれば、党を誕生させた母体である創価学会が、批判の矢面にさらされることも、覚悟せねばならなかったからである。
 さらに、公明党が力を増せば増すほど、権力や既成政党は、学会に恐れをいだき、警戒の目を向けるにちがいない。そして、さまざまな圧力をかけてくることも予測された。
 しかし、仏法者として、立正安国という民衆の幸福と平和を実現していくためには、日本の政治の改革を避けて通るわけにはいかなかった。
 日本の政治家には、何よりも、まず指導理念が欠落していた。
 たとえば、世界の平和を口にしても、イデオロギーや民族の違いをどう乗り越えるかという哲学をもつ、政治家はいなかった。
 それゆえに、仏法の大哲理に基づく、「地球民族主義」という理念を掲げた政党の必要性を、伸一は、痛切に感じていたのである。
 「地球民族主義」は、かつて、戸田城聖が提唱したものである。
 ――人類は、運命共同体であり、民族や国家、あるいはイデオロギーなどの違いを超えて、地球民族として結ばれるべきであるとする考え方である。
 公政連の「国連中心主義」の主張も、「地球民族主義」から導き出されたものであった。
 また、東西冷戦の構図がそのまま日本の政界に持ち込まれ、既成政党は、片やアメリカに追随し、片やソ連に従うなど、政党としての自主性に乏しかった。
 イデオロギーや他国の意向に、左右されるのではなく、民衆の幸福と平和の実現を第一義とし、中道の立場から、政治をリードしていく政党を、人びとは待ち望んでいるはずである。
 さらに、日本の政治改革のためには、腐敗と敢然と戦う、清潔な党が出現しなければならない。
 政界浄化は、公政連の出発の時からの旗印であり、これまでの腐敗追及の輝かしい実績は、比類がない。
34  衆望(34)
 また、日本には、真実の大衆政党がなかった。
 保守党は、大企業擁護の立場に立ち、革新政党はその企業などに働く、組織労働者に基盤を置いている。
 しかし、大衆は多様化しており、数のうえで最も多く、一番、政治の恩恵を必要としているのが、革新政党の枠からも漏れた、未組織労働者であった。
 民衆の手に政治を取り戻すためには、組織労働者だけでなく、さまざまな大衆を基盤とした、新たな政党の誕生が不可欠である。
 多様な大衆に深く根を下ろし、大衆の味方となり、仏法の慈悲の精神を政治に反映させゆく政党が、今こそ躍り出るべきであろう。それが衆望ではないか――山本伸一は、こう結論したのである。
 彼は、日本の政治の現状を検証していくなかで、公明党の結成を決断し、あえて嵐に向かって、船出しようとしていたのである。
 伸一は、公政連が公明党となって、独り立ちしていくまでは、創立者として、全面的に応援していこうと心に決めていた。
 しかし、一刻も早く、党は党として、自立してもらいたいというのが、彼の願望であった。
 学会は、公明党の支持団体である限り、党とよく連携を取っていくことは当然である。
 さらに、民衆の幸福と人類の平和を実現していくという根本精神においては、両者は、どこまでも同じであらねばならない。
 だが、宗教と政治は次元が異なる。また、公明党は広く全国民のための政党である。
 ゆえに、伸一は、運営面などにおいては、それぞれの独自性を重んじるべきであると考えていた。
 また、伸一は、公明党の議員については、誰よりも厳しく、自らを磨き鍛えて、成長し続けていくことを念願としていた。
 政治の改革とは、政治家自身の人間革命を離れてはありえないからである。
 公明党の結成を半月後に控えた、一九六四年(昭和三十九年)の十一月二日、党本部となる公明会館が完成し、この日、午前十時前から落成式が行われた。
 公明会館は、国鉄(現在のJR)の信濃町駅に近い、新宿区南元町一七番地にあり、学会本部とは、線路を挟んで、反対側の位置にある。
 公明会館の敷地面積は千三十六平方メートル、延べ床面積は二千七百二十三平方メートルで、地上四階、地下一階建ての、鉄筋コンクリート造りの堂々たる建物である。
35  衆望(35)
 公明会館は、公明政治連盟の会館として、前年の十月に起工式が行われ、以来、一年余にして、完成をみたのである。
 このため、公明党は、既に発足の時から、独自の堂々たる建物をもつことになったのである。
 当時、与党の自民党は、東京・永田町に、自前の鉄筋コンクリートの党本部を建設中であった。
 また、野党第一党の社会党が、永田町に、地上七階、地下一階の党本部を建てたのは、この年の五月のことであった。
 いずれも、その前身の時代も含め、党としての長い歴史を経て、ようやく立派な党本部を建設したのである。そう考えると、公明党は、極めて恵まれたスタートといってよい。
 十一月十七日の公明党結成大会の準備は、着々と進められていた。
 スローガンも、「日本の柱 公明党」「大衆福祉の公明党」に決まった。
 ″日本の柱″とは、議員たちの確信であり、公明党を支援する創価学会員の期待でもあった。
 一方、″大衆福祉″というスローガンには、党の精神が端的に表れていた。
 公政連の議員たちは、仏法の慈悲の精神を根底にした政治をめざし、苦悩する人びとの声に、真剣に耳をそばだててきた。
 社会保障の不備、重い税負担、低い賃金……。六、七人の家族が、一間のアパートで、折り重なるようにして寝ている一家もあった。病気になっても、病院に行けない人もいた。
 そうした人びとに接するたびに、議員たちは胸を痛めた。そして、福祉の大切さを痛感し、その充実を図るために、全力を尽くしてきたのである。
 いわば、″大衆福祉″のスローガンは、大衆とともに語り、大衆とともに戦ってきた、わが同志である議員の、信念の叫びであり、決意でもあった。
 また、党旗や党章、党歌もつくられ、結成大会当日を待つばかりとなった。
 結党の準備が進むなか、公政連の委員長である原山幸一は、山本伸一に、公明党の結成大会への出席を、何度か依頼してきた。
 しかし、伸一は、それを断り続けた。
 彼には、結党までは、自分が責任をもつが、あとは党として、皆でよく話し合い、自主的に運営していってもらいたいとの、強い思いがあったからである。
 それゆえに、伸一は、党の政策や方針など、一つ一つの具体的な事柄についても、議員たちに任せてきたのである。
36  衆望(36)
 山本伸一が、政策について提案したことは、ただ一つであった。
 それは、党の外交政策の骨格をつくるにあたり、中華人民共和国を正式承認し、日本は中国との国交回復に努めるべきである、ということであった。
 伸一は、同志である議員たちに、全幅の信頼を寄せていた。
 多くの議員たちは、その信頼に応えようと、真剣であり、誠実であった。
 会員たちは、そんな公政連の議員を、誇りに思い、必死になって支援してきたが、なかには、ほんの一部ではあるが、皆が、頭を抱え込むような、傲慢でわがままな議員も出始めていたのである。
 結党の日が迫るにつれて、それらの議員への、怒りの声が噴出していった。
 それは、同志の、公明党を最高の政党にしたいという、強い思いから発せられた声であった。
 伸一も、幾人かの会員から、そうした訴えを耳にしてきた。
 ある議員が、陰では、学会員を見下すような発言をしていることに対して、涙ながらに怒りをぶつける、年配の婦人もいた。
 また、別の議員の、あまりにも高慢な態度が、周囲の人びとの顰蹙をかっているので、注意してほしいとの要請もあった。
 さらに、一人の議員の具体的な事例をあげて、私利私欲を貪るような生き方は改めさせてほしいと、懇願する人もいた。
 このほかにも、議員が親身になって相談に乗ってくれないといった声や、約束を守ってほしいといった訴えもあった。
 真実を語れば、憎まれ、恨まれることになるかもしれない。しかし、皆、公明党への熱い期待を胸に、勇気をもって語ってくれたのである。
 伸一が最も恐れ、憂慮していたことは、議員たちが傲慢になり、民衆に仕えるという根本精神を見失ってしまうことであった。
 伸一は思った。
 ″今、激しく警鐘を鳴らしておかなければ、公明党の将来が心配だ!″
 党の結成大会が翌日に迫った、十一月十六日のことである。
 この夜、原山幸一をはじめ、何人かの議員が、学会本部の伸一のところに、あいさつに来た。
 原山は、前日の十五日に開かれた、公政連の全国代議員大会で、公明党の初代委員長に就任することが決定していた。
 「いよいよ明日、日大講堂で、公明党の結成大会を行います。日本の新しい歴史を開く、見事な出発の大会にしてまいります」
37  衆望(37)
 山本伸一は、気迫のこもった声で語り始めた。
 「真実の政治家とは、民衆を支配するためにいるのではない。民衆に奉仕し、民衆のために、命をかけて働く人です。
 そして、民衆のための政治を実現することが、公明党の原点ではないですか」
 いぶかしそうな顔で、原山幸一が返事をした。
 「はい……」
 「ところが、その精神を忘れ、傲慢になり、民衆を見下げるような態度をとる議員が出始めている。
 私は、何人かの議員には指摘しておきましたが、原山さんは、そういう傾向に気がついていましたか」
 「議員のなかに、慢心になっている者がいることは、事実だと思います」
 一際、大きな、伸一の声が響いた。
 「それならば、なぜ、そのことを、指摘しないんですか!
 なぜ、放置しておくんですか!
 原山さんは、これからは公明党の委員長として、党をまとめていかなければならない。
 そのあなたが、腐った精神の議員がいることに気づきながら、戦おうともしないで黙認している。
 そんなことでは、公明党は、見栄っぱりで、堕落した人間たちによって、いいように操られてしまうことになる」
 悪の芽に気づいたら、すぐに断ち切らなければ、手遅れになる。
 しかし、それができない原山の弱さが、伸一は心配でならなかった。その一念の弱さが、生命力の衰えを招くからである。
 伸一は、言葉をついだ。
 「たとえば、結成大会の会場を日大講堂にしたことにも、虚栄と驕りが、端的に表れています。
 私は、党のことには口を出すことは控えてきましたし、これからも、そうしていくつもりですが、この会場の選定には、大きな勘違いがある。
 日大講堂といえば、日本で最大級の会場です。
 歴史のある大政党の党大会でも、そんな大きな会場は使いません。
 その大会場を、これから発足しようという、なんの実績もない、小政党の公明党が使うというのは、どういうわけですか!」
 口ごもりながら、原山が答えた。
 「はあ……。これまで日大講堂は、学会の総会や本部幹部会で、よく使ってまいりましたので、使い勝手もわかっておりますし、何かと好都合ではないかと思いまして」
38  衆望(38)
 山本伸一の語気は、鋭かった。
 「学会と党は別です。勘違いしてもらっては困る。
 創価学会は、事実上、日本一の宗教団体です。大発展しているし、幹部の数も何十万人といる。
 本部幹部会にしても、日大講堂ぐらいの規模の大会場でなければ、収容しきれないから、必要性のうえから使っているんです。
 また、学会には、誰が見ても、大会場を使うにふさわしい実績がある。
 ところが、明日、スタートする公明党には、党としての実績は何もない。
 それでいて、格好ばかり考え、大きな会場に派手に人を集め、華々しく、結成大会をやろうとする。
 それ自体、虚栄ではないですか!
 実績を積み重ね、力をつけてからなら、どんなに豪華な大会場を使おうがかまいません。
 しかし、最初から、そんな考えをもつのは、思い上がりであり、傲慢になっているからです。
 私は、その心を打ち破ってほしいから、全民衆に信頼される公明党になってほしいから、あえて言っているんです」
 伸一に言われて、原山幸一は、自分たちの一念の狂いに、初めて気がついた。
 伸一は、今度は、諭すように語っていった。
 「学会は今や、堂々たる宗教界の王者になりました。しかし、この大発展も、一朝一夕につくられたのではありません。
 初代会長の牧口先生は殉教なされた。
 二代会長の戸田先生もまた、二年間の獄中闘争の末に、敗戦間際の焼け野原に一人立たれ、広布に人生を捧げられた。
 私も、日々、殉難の思いで戦い、走り抜いてきました。無実の罪で投獄もされました。
 広布に一身をなげうつ思いで、徹して一人ひとりの友を大切にし、守り、励ましてきたがゆえに、今日の学会の発展があるんです。
 公明党も、その決意で、堅実に、懸命に、民衆のために働き、粘り強く、信頼を積み上げていくんです」
 議員たちが頷いた。
 伸一は、話を続けた。
 「学会員は、選挙となれば、手弁当で、懸命に応援してくれます。
 それは、社会をよくしよう、みんなを幸福にしようという、強い使命感で、頑張ってくれるんです。
 同志である議員だから、民衆のためにすばらしい仕事をしてくれると信じて、応援してくれるんです。
 その尽力を、当然のように考えては、絶対になりません」
39  衆望(39)
 皆、襟を正して、山本伸一の話を聞いていた。
 「普通は、命がけで働き、輝かしい実績をつくり上げた人でなければ、誰も、懸命な応援なんかしてくれません。
 学会員だから、応援してくれるんです。
 ですから議員は、皆の期待に応え、″さすが公明党の議員だ″といわれる働きをすることです。民衆に尽くし抜き、民衆のために死んでいける、本物の政治家になることです」
 伸一は、いよいよ船出する公明党の未来のために、議員の心に兆し始めた、油断と驕りの芽を摘んでおきたかったのである。
 一九六四年(昭和三十九年)十一月十七日――。
 いよいよ、公明党の結成大会の日を迎えた。
 この日は、朝から、美しい青空が広がっていた。
 会場となった、東京・両国の日大講堂の場内正面には、「公明党結成大会」の横幕が掲げられ、その右には「日本の柱 公明党」、左には「大衆福祉の公明党」のスローガンの文字が躍っていた。
 午前九時半過ぎ、結成大会は幕を開いた。
 「開会の辞」に続いて、原山幸一が、結党に先立って行われた、全国代議員大会で決定した人事を読み上げていった。
 党委員長は原山である。そして、副委員長には関久男、書記長には十条潔が、副書記長には白谷邦男ら三人が就いた。
 結成大会は、経過報告、結党宣言、代表決意、綱領の発表と続き、十条から活動方針が発表された。
 十条は、まず、公明党の誕生によって、日本に初めて、大衆のための本当の政党ができたと述べ、国民一人ひとりの意思を結集して誕生した、この公明党の力で、民主の新たな夜明けを開きたいと訴えた。
 さらに、仏法を根底とした平和思想のうえから、平和憲法の精神を守り抜くことを確認し、人間性尊重の福祉経済理念にもとづく、国内の当面の重点政策を打ち出した。
 「一、年収百万円以下の勤労者の所得税撤廃。
 一、生産の拡大と高能率による高賃金の確保。
 一、生産コスト引き下げによる、物価の引き下げ安定。
 一、生活保護費の倍増を行って、西欧並みの社会保障の実現。
 一、中小企業の振興をはかり、特に大企業との間の分野調整をはかる。
 一、農村、漁村の近代化を促進し、恒久的対策を樹立する。
 一、公営による一世帯一住宅の実現を推進し、庶民の住宅問題を解決する」
40  衆望(40)
 次いで、十条潔は、「地球民族主義による全世界の軍備の撤廃」「自主外交の推進」「国連中心主義による外交姿勢の立て直し」などを発表し、団結を呼びかけて話を結んだ。
 ここで、組織局長になった泉田弘から、翌年六月に予定されている参院選の立候補予定者十四人と、次回の衆院選の立候補予定者三十二人が発表された。
 なかでも、衆議院の立候補予定者が紹介されると、雷鳴のような大拍手と歓声が轟き、いつまでも鳴りやまなかった。
 ″いよいよ、慈悲の哲理をもって、衆議院に打って出るのだ! 本当の政治改革の時代を迎えたのだ!″
 こう思うと、皆の胸は躍った。
 やがて、委員長の原山幸一のあいさつとなった。
 彼は、最初に、山本会長の祝電を紹介した。
 「公明党の結成大会、まことに、まことにおめでとうございます。
 私は、この壮挙が、必ずや日本の政界の黎明となることを信じております。
 どうか、民衆の幸福のため、日本の安泰のため、世界の平和のために、勇敢に前進されますことを祈っております」
 またしても大拍手が、会場を包んだ。
 次いで原山は、党員の在り方として、″大衆との直結″を強調していった。
 「あくまでも、大衆のなかに入り、大衆とともに語り、ともに戦い、大衆のために働き、大衆のなかで死んでいくという覚悟を、生涯、貫いていきたい。
 そして、もしも、将来、その心を忘れて、名聞名利などにとらわれるような者が出たならば、直ちに、公明党から追放しようではありませんか!」
 結成大会の最後は、全参加者の勝鬨によって締めくくられた。
 「エイ、エイ、オー!」
 怒涛のような、その声の響きには、民衆が主役の政治を、断じて実現しようとする、決意が弾んでいた。
 山本伸一は、公明党の結成大会が開会される時刻になると、学会本部の広間の御本尊に向かい、深い祈りを捧げた。
 彼は、立正安国の実現のために、政治の分野に、いよいよ、本格的な開拓の道が刻まれたことが、何よりも嬉しかった。
 しかし、公明党のめざす政治がいかなるものかを、人びとに正しく理解してもらうのは、決して、容易ではないはずである。
 公明党という政党も、その理念も、過去に類例を見ない、全く新しいものであるからだ。
41  衆望(41)
 たとえば、結党宣言や綱領にうたっている、「王仏冥合」や「仏法民主主義」という言葉にしても、人びとの理解を得るには、長い歳月を必要とするにちがいない。
 「王仏冥合」とは、一切衆生の幸福を願う仏法の慈悲や、生命の尊厳の哲理を根底にした政治であり、宗教が直接、政治権力に関与していくことでは、決してない。
 しかし、「王仏冥合」といっても、「祭政一致」「政教一致」と同じように考え、古代の女王卑弥呼や、戦前の国家神道と軍部政府の関係を連想する人がほとんどであった。
 山本伸一は、創価学会と公明党の関係について、正しい認識を促すために、『政治と宗教』の筆を執り、この結党の日の十一月十七日に、上梓したのである。
 その「はしがき」のなかで、伸一は、こう訴えていった。
 「よく『宗教団体の政治への介入』とか『宗教の絶対性を、妥協の世界である政治の場に持ち込む』等の批判があるが、これがいかに的外れのものであるかは論をまたない。
 宗教は宗教の広場で、政治に拘束されることなく、あくまで、その高低浅深の討究をなすべきであり、信教の自由は永久に存続させなければならないことは当然のことである。
 そして、政治は、より最大公約数の幸福実現のために妥協せざるをえないのも当然のことである。
 しかし、政治がいかに妥協の世界であるからといって、根底に理念のない政治は、なれあいのみの妥協となり、所詮、党利党略におちいり、民主政治を犠牲にする場合が実に多い。
 政治は大地に育つ千草万木のごとく変化の世界であり、相対的な世界である。
 宗教は大地のごとく政治・経済・教育等のあらゆる文化の本源であり、永久不変の哲理である。
 偉大なる宗教、偉大なる哲学のない政治は根無し草であり、権力の争奪、民衆の不幸をくり返すのみである」
 伸一は、さらに、次のように記している。
 「私はあくまでも仏法の指導者である。政治・経済・文化等、万般にわたる大地、土壌を創っているのであり、また創っていく決心である。
 政治のことは政治家にまかせ、私が政治家になるという意思は毛頭ない。
 ただし、国民の一人として、政治を監視し、また意見も述べることは当然のことと考えている」
42  衆望(42)
 しかし、学会と公明党の関係を、いかに訴えても、マスコミ関係者の多くは、どうしても自分たちの先入観から、脱却できなかったようだ。
 たとえば、結成大会の翌十八日の、「朝日新聞」朝刊に掲載された、「公明党の発足に望む」と題する社説では、「『王仏冥合』が結局は、特定の信仰の政治的強制につながりはしまいか、などの疑問が起る」としている。
 「王仏冥合」とは、一言でいえば、仏法の慈悲の精神を政治に生かすということである。
 何を根拠に、「王仏冥合」が「特定の信仰の政治的強制」につながるというのか、それこそ疑問だが、これが当時の社会の認識であったのである。
 理念なき、哲学なき政治が、「常識」となってしまった日本にあっては、政治の根底に指導理念が必要であるという「常識」さえ、通じなかったのである。
 ともあれ、この公明党の結成の日から、日本の政治の改革の歯車が、動き始めることになるのである。
 山本伸一が沖縄指導から帰って六日後の、十二月九日の朝のことであった。
 熱海会館の開館の式典に出席するため、熱海にいた伸一のもとに、突然、訃報がもたらされた。
 学会の理事長で、公明党の委員長になった原山幸一が、この日の朝、自宅の玄関で倒れ、心筋梗塞のため、他界したのである。享年五十五歳であった。
 伸一は、この連絡を受けるや、直ちに熱海を発ち、原山家を弔問し、全力で遺族を励ましたのである。
 既に、大学を卒業し、本部の職員となっていた、次男の高夫は言った。
 「父の遺志を受け継ぎ、生涯、山本先生とともに広布に邁進してまいります」
 伸一は、その言葉を信じ、大きな期待を寄せた。
 また、午後四時からは、学会本部で緊急理事会を開き、後任の理事長等の人事について検討した。その結果、副理事長の十条潔が理事長に就任した。
 一方、公明党でも、この日の午後二時から、党の中央幹部会を開催し、関久男が、後任の委員長に就任することが決まった。
 人は死を避けることはできない。しかし、最高幹部の死は、伸一にとって、あまりにも悲しかった。
 だが、何があろうが、瞬時たりとも、大前進の歩みをとどめるわけにはいかなかった。
 伸一にも、また、創価学会にも、広宣流布という仏意仏勅の偉大なる使命と責任があるからだ。
43  衆望(43)
 この年は、十二月二十五日に、一年の掉尾を飾る本部幹部会が開かれたが、山本伸一に休みはなかった。
 彼は、二十七日、北海道の雪の大地に立った。
 札幌市琴似町(当時)に、新たに完成した北海道本部の落成式に出席するためである。
 新北海道本部は、鉄筋コンクリート四階建てで、全道の活動の中心拠点として、使われることになる。
 なお、これにともない、それまでの北海道本部は、札幌会館として使用されることになった。
 この新北海道本部の完成をもって、学会の会館は百八になったのである。
 伸一は、この年の五月三日の本部総会で、二、三年の間に、大都市の場合は数会館を、また、最低、各県に一会館を設置することを発表したが、その構想は着々と実行に移されていたのである。
 彼は、牧口初代会長、戸田第二代会長のゆかりの地である北海道に、立派な会館が誕生したことが、何よりも嬉しかった。
 広宣流布に生涯を捧げた先師、恩師に報いる道は、ただ一つしかない。
 それは、現実のうえで、どれだけ広宣流布を進めることができたかである。そのための法城となる会館であるがゆえに、彼は、新本部の落成が、嬉しくてならなかったのだ。
 落成式は、午後三時過ぎから行われることになっていたが、開会直前まで、雪が降り続いていた。
 伸一は、新北海道本部に向かう車中、一面の銀世界を見ながら思った。
 ″この北の国にも、やがて春が来る。白雪はとけ、大地は緑に変わり、色とりどりの花が咲き香る。
 学会は今年、遂に「本門の時代」の幕を開いた。それは、幸福の春、平和の春の夜明けだ。
 いよいよ、広布の歯車は動き始め、フル回転の時代が始まったのだ。
 時は、瞬く間に過ぎ去ってしまう。一日一日が勝負だ。一瞬一瞬が勝負だ。今しかない! 走れ、走り抜くんだ!″
 車は、雪の原野を疾走していった。
 明一九六五年(昭和四十年)のテーマは、「勝利の年」であった。
 伸一は、その勝利への助走を、北海道の吹雪の大地で、さっそうと開始した。
 勝敗の鍵は、助走にこそある。新しき年の夜明けに向かい、伸一は、まず自らが、あらん限りの力を振り絞って、全速力で走り始めたのである。

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