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日蓮大聖人・池田大作

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第9巻 「光彩」 光彩

小説「新・人間革命」

前後
1  光彩(1)
 青年は、時代の宝である。先駆けの光である。
 一条の光が闇を破り、朝を告げるように、さっそうとした青年の活躍が、希望の朝を開いていく。
 わが「本門の時代」の先駆を切ったのも、青年たちであった。
 一九六四年(昭和三十九年)六月二日、東京・台東体育館で開かれた女子部幹部会の席上、女子部は、念願の部員百万を達成したことが発表されたのである。
 これは、前年七月の女子部幹部会で、会長山本伸一が目標として提案したものであった。
 当時、女子部の部員数は四十三万人であり、わずか一年たらずで、二倍を大きく上回る部員増加を成し遂げたのである。
 次いで、翌三日に、東京・豊島公会堂で開かれた学生部幹部会では、五月末で、部員が四万人を突破したことが報告された。
 これは、前年の七月に行われた学生部総会で、向こう一年間の目標として、決議したものであった。
 その時、部員は二万であり、学生部もまた、一年を待たずして、部員の倍増を果たしたことになる。
 さらに、学生部は、六月三十日に、東京・台東体育館で第七回学生部総会を開催したが、なんと、この日までに、部員五万を達成してしまったのであった。
 一カ月で、一万人の部員増加である。
 学生部員たちは、この総会の日が、ちょうど学生部の結成から七周年にあたることから、大躍進の偉大なる歴史をもって、総会を飾ろうと誓い合ってきたのである。
 戦う若人には、覇気がある。情熱がある。エネルギーがある。
 山本伸一は、学生たちの大奮闘に驚嘆した。新しい力が大きく育ちつつあることに、無量の喜びを感じていた。
 学生部総会の席上、伸一は、「本門の時代」を担いゆく、新しきリーダーたる学生部員に、万感の思いで語りかけていった。
 「よく戸田先生は、『後生畏る可し』と言われておりました。
 そこには、″弟子は、必ず師匠よりも偉くなってもらいたい。いや、偉くなるものである。偉大なる後継ぎになって、社会に、世界に、貢献していくべきである″との、先生のお心が託されておりました。
 今、私は、諸君を同志として信頼し、尊敬いたしております。
 どうか、大聖人の弟子として、民衆の幸福と世界の平和のために、雄々しく羽ばたいていっていただきたいのであります」
2  光彩(2)
 学生部の結成大会が行われた、七年前の六月三十日、山本伸一は、北海道の天地に立っていた。
 夕張の炭労で起こった、学会員への不当弾圧から、同志を守るために、彼は、敢然と大闘争を展開していたのである。
 信教の自由を守ることは、基本的人権を守ることである。
 思えば、北海道の開拓の陰には、国家権力による人権蹂躙の歴史があった。
 明治政府は、受刑者を北海道に送り、開墾、鉱山の採掘、道路開削などに従事させた。いわゆる「囚人労働」である。
 足に鉄鎖を付けられ、食料や飲料水の補給も不十分な原始林のなかでの過酷な労働であり、北見道路の開削では、二百人以上もの死者を出している。
 伸一は、その悲惨な歴史が刻まれた北海道に、人権の勝利の旗を打ち立てるために立ったのである。
 そのさなかの、学生部の結成であった。彼は、北海道の地から、万感の思いを込めて、祝電を打った。
 伸一は、その学生部が、かくも力をつけ、部員五万を達成したことが、嬉しくてならなかった。
 彼は、ここで、「本門の時代」の未来構想に言及していった。
 「現在、創価学会が母体となって、公明党結成の準備が進んでおりますが、まず、この公明党を軌道に乗せてまいりたい。
 そして、いよいよ、仮称『創価大学』、あるいは、仮称『富士文化大学』を設立してまいります。その大学で、世界の平和に寄与する大人材を、大指導者をつくり上げていきたい」
 場内は、大拍手と歓声に揺れた。
 「本門の時代」とは、社会への具体的な貢献の時代であるといえる。
 山本伸一は、その教育の場での一つのかたちを、まず、「創価大学」の設立として、学生部員に示したのである。
 翌七月一日、台東体育館で開かれた、七月度男子部幹部会では、今度は、男子部が、年間目標である部員百五十万を、いち早く達成したことが発表されたのである。
 皆が燃えていた。皆が輝いていた。
 伸一は、この七、八、九月は、各方面の指導に東奔西走し、十月二日には、東南アジア、中東、ヨーロッパ訪問の旅に出発した。
 同行は、副理事長の西宮文治、アメリカ本部長の正木永安らで、さらに、先発隊として、副理事長の秋月英介(青年部長)、白谷邦男、女子部の幹部の青山麗子、そして、伸一の妻の峯子が、前日の十月一日に、日本を発っていた。
3  光彩(3)
 山本伸一の妻の峯子が、海外訪問に同行することになったのは、本部の首脳たちの、強い要請によるものであった。
 毎回、海外を訪問するたびに、伸一の疲労は、計り知れないものがあった。また、慣れない現地の食事などのために、体調を崩すことも少なくなかった。
 さらに、海外では、伸一は各国の要人と交流する機会が増えつつあり、夫婦同伴の方がふさわしい場合もあった。
 そこで、本部では、伸一の健康や食生活にも精通している妻の峯子に、ぜひ同行してもらおうということになったのである。
 二日の午前九時過ぎに、羽田を出発した伸一の一行は、給油のため、香港に現地時間の午後一時過ぎ、到着した。
 香港の空港では、香港支部長の周志剛(チャウ・チーゴン)をはじめ、数人のメンバーが元気に迎えてくれた。
 「先生! お待ちしておりました」
 伸一が姿を現すと、最初に声をかけたのは、この五月に、東南アジア総支部の婦人部長になった、高井敏枝という女性であった。
 伸一は、微笑みを浮かべて言った。
 「高井さん、香港には慣れたかい」
 「はい」
 「ご主人は、今日は日本に帰っているんだったね」
 「はい、まだ、仕事が残っておりますもので、鹿児島に帰っています」
 敏枝の夫の平治は、東南アジア本部の本部長と東南アジア総支部長に就いていたが、日本での仕事が片付かず、香港と鹿児島を往復する生活が続いていたのである。
 平治は、一九一二年(明治四十五年)に広島に生まれ、戦前、朝鮮(当時)の高等農林学校に進学し、向こうで仕事に就いた。
 一方、敏枝は、朝鮮の生まれで、結婚した二人は、平治の仕事の関係で、中国の北京で新婚生活をスタートした。
 だが、平治は、ほどなく徴兵されてしまった。
 戦地に派遣された彼は、インドシナ半島の密林をさまよい、九死に一生を得て、ようやく、タイのバンコクにたどりついた。
 しかし、そこで待っていたものは、なんと、日本の敗戦のニュースであった。
 彼は、抑留されるが、やがて、日本に帰る日を迎えた。その前夜、タイの兵士が言った言葉が心に残っていた。
 「日本の皆さん、いつかまた、アジアに来て、戦争で示した力を、今度は平和のために使ってください」
4  光彩(4)
 高井平治は日本に引き揚げ、一家は、やがて、鹿児島で暮らし始めた。
 だが、平治の仕事はうまくいかなかった。妻の敏枝は、身につけていた洋裁の技術を生かし、″洋裁学校″を開いて生計を立てた。
 その後、夫妻で洋装店を営むことになった。
 店は繁盛していったが、それも束の間、何度も盗難にあい、さらに、詐欺にあったのである。生地を仕入れようと、借金して工面した金を、騙し取られてしまったのだ。
 あとには、莫大な借金だけが残った。
 一時は、一家心中も考えたが、二人の子供のかわいい寝顔を見ると、そんなことはできなかった。死んだつもりで、無我夢中で働こうと思った。
 しかし、働いても、働いても、暮らしは楽にならなかった。
 平治は、日ごとに、暗くなっていった。
 仕事の性格上、どうしても技術をもっている敏枝が中心となり、店では、彼は裏方であった。
 窮地にあって、力も発揮できない自分に、彼は男として不甲斐なさを覚え、内心、強く、自分を責め続けていたのである。
 彼は、人生の不運と自らの無力さを感じ、宗教に救いを求めた。
 日蓮宗に入って、大聖人の遺文集を貪るように読んだ。身延にも、勇んで出かけていった。だが、すぐに帰って来た。
 「身延はおかしい。鬼子母神なんかを拝ませている。宗祖の言われていることと違う。納得できん」
 彼は、日蓮宗をやめてしまった。
 そのころ、東京から地方折伏に来ていた学会員と会い、真実の日蓮仏法の話を聞いたのである。
 平治は、妻の敏枝と一緒に入会した。一九五五年(昭和三十年)の夏のことであった。
 彼は、真剣に信心に励んだが、敏枝は半信半疑であり、活動にも参加せず、むしろ、批判的に夫の信心を見ていた。
 平治は、日増しに、はつらつとしてきた。一方、敏枝は、裁断ミスなど、仕事上の失敗が続いた。
 この現証を前に、遂に、敏枝も、本腰を入れて、信心に励まざるをえなくなったのである。
 彼女も、平治とともに、折伏に歩くようになった。
 平治は熱血漢であり、敏枝は勝ち気な性格である。その二人が燃え始めると、勢いは、とどまるところを知らなかった。
 折伏にも、力がこもり、月に二十世帯以上の布教を実らせたこともあった。
5  光彩(5)
 入会して一年ほどしたころのことである。
 高井平治が自宅で来客と話し合っていると、突然、舌がもつれた。右目も、開いたままになり、瞬きもできなくなった。
 右半身が痺れていた。
 「お父さん! どうしたの。すぐに病院に行きましょう!」
 敏枝は言ったが、平治は回らぬ口で答えた。
 「行かん……。いよいよ……業が出た。俺は……、俺は、信、信心で……、治してみせる」
 彼には″自分は戦争で、一度は、死んだはずの人間である″という強い思いがあった。
 それが、彼に、病院には行かん、という、あらぬ決断をさせたのであろう。
 非常識ではあったが、彼には、既に、信心への並々ならぬ確信があった。
 平治は頑固であった。一度、言い出したら、誰がなんと言おうが、決して考えは変えなかった。
 その夜も、右足を引き摺りながら、座談会に出かけていった。自分では、靴も履けなかった。
 彼は、「転重軽受」(重きを転じて軽く受く)という、仏法の功力を信じていた。そして、この機会に、自分の姿を通して、仏法の力を、多くの人たちに教えたいと考えた。
 連日、半身不随の体で、仏法を語って歩いた。
 右目は閉じることもままならず、ろれつは回らず、口の端からは、涎が滴り落ちた。笑えば、顔が引きつった。
 空気の漏れる唇から発せられる言葉は、不明瞭このうえなかった。
 しかし、彼の心は、毅然としていた。″必ず、信心でよくなるから、この姿をよく見ていてくれ″と、懸命に訴えて歩いた。
 しかし、周囲の反応は、冷淡であった。嘲笑の的となった。
 「信心して、そげんなっとなら、死んでもやらん」
 だが、彼は、足を引き摺りながら、必死になって信心指導に、折伏に歩いた。唱題にも力がこもった。
 発病から十日ほどしたころ、帰宅した彼は、敏枝に声をかけた。
 「今、帰ったよ」
 その声を聞くと、敏枝が叫んだ。
 「父ちゃん! 治っているじゃないか。
 普通に話しているじゃないか!」
 平治も、言われてみて、初めて気がついた。
 確かに、普通にしゃべっていたのだ。
 彼は、何度も言葉を発してみた。
 「しゃべれる! 本当に治っている!」
6  光彩(6)
 高井敏枝は、夫の平治にたずねた。
 「父ちゃん、手足の痺れは、どうなの」
 平治は、手をあげ、足を動かしてみた。
 「おい、治ってるぞ、治っているぞ!」
 「へー、よかったね!」
 夫妻は、涙ぐみ、手を取り合って喜んだ。
 体験に勝る証明はない。この実証の波動は大きかった。鹿児島一帯の妙法流布は大いなる伸展をみせた。
 高井夫妻は、交代で屋久島や奄美大島にも、弘教の足を延ばした。夫妻の胸には、いよいよ仏法への大確信が燃えていた。
 一九五八年(昭和三十三年)十一月に鹿児島支部が結成されると、敏枝は支部婦人部長になり、平治は地区部長として活躍した。
 しばらくは、借金の返済に苦しむ生活が続いたが、いつしか、それも克服していた。
 また、六三年(同三十八年)五月に鹿児島総支部が誕生すると、敏枝は総支部婦人部長になり、平治もその翌月には、副総支部長の任命を受けた。
 平治には、以前からいだいていた、一つの夢があった。それは、年を追うごとに、次第に大きく膨らんでいった。
 アジアは、自分の青春の舞台である。その東洋の民衆の幸福と平和のために、力いっぱい働きたい――というのが、彼の強い願望であった。
 彼は、日本に引き揚げる時に、今度は平和のために働いてくれと言われた、タイの兵士の言葉が、頭から離れなかったのである。
 そして、信心を始め、戸田城聖の「東洋広布を!」との指導を耳にした時、彼は、いつか、必ずアジアに渡ろうと、密かに心を決めたのであった。
 さらに、一九六一年(同三十六年)一月に、山本伸一が、初のアジア訪問に出発し、インドの釈尊成道の地に、「仏法西還」への誓いを込めて、「東洋広布」の石碑を埋納したことを知ると、彼の雄飛の決意は、動かしがたいものになっていった。
 平治は、その思いを、妻の敏枝に打ち明けた。
 彼女は、驚きはしたが、反対はしなかった。いや、むしろ嬉しかった。
 かつての朝鮮で生まれ育ち、結婚後は、中国で暮らしてきた敏枝にも、アジアの民衆の幸福のために貢献したいという、強い気持ちがあったからである。
 二人は、東洋広布に生きることを念願としながら、時の到来を待ち続けていたのである。
7  光彩(7)
 一九六二年(昭和三十七年)の九月、熊本で行われた九州の体育大会に出席するため、山本会長が熊本を訪問した。
 その時、熊本から大分に向かう、会長一行に同行した高井敏枝は、車中、伸一に、″アジアの民衆の幸福のために、生涯をかけたい″という、自分たちの決意を打ち明けた。
 彼女の話を聞くと、伸一は言った。
 「そうか。東洋広布に生きようというのか。やっぱり、そういう人が出てきたか。嬉しいね。行きなさい。私が応援します。
 ところで、どういうかたちで、行くようになるんですか」
 「弟が貿易商を営んでいますから、私たちも、その仕事をするようになると思います」
 「それはいい。いつごろ行けるのかな」
 「具体的なことは、これから詰めていくことになります」
 そして、この六四年(同三十九年)の四月、宮崎会館の落成式に出席した伸一は、敏枝の顔を見ると尋ねた。
 「東南アジアには、いつ出発できるんだい」
 「はい、タイのバンコクに行こうと思っているのですが、仕事のうえで、準備に手間取っております。香港ならば、いつでも行けるのですが……」
 すると、伸一は言った。
 「香港でいいんだよ。まず、香港を盤石にしたいんだ。今、大事なのは、むしろ香港だよ」
 「それなら、香港にいたします。二カ月ほどで、出発できると思います」
 「では、すぐに人事を発表するからね」
 こうして、高井平治は東南アジア本部長、並びに東南アジア総支部長となり、敏枝は、総支部の婦人部長となったのである。
 高井夫妻が日本を発ったのは、六月の末であった。
 出発の二日前、渡航の報告に来た高井夫妻に、伸一は言った。
 「香港に行ったら、絶対に威張ってはいけない。みんなと仲良くなり、友達になることです。
 信心の面では、あなたたちの方が大先輩だが、香港では、一番、後輩になる。
 だから、一年目は、何があっても、『そうですか、そうですか』と、みんなの言うことを聞くことです。
 そして、二年目には、『仏法の生き方では、こうです』『日本では、このようにやっていますよ』とだけ話しなさい。
 三年目になったら、今までの香港のやり方と、日本のやり方と、どちらがよいか、決めてもらうんです」
8  光彩(8)
 山本伸一は話を続けた。
 「もし、皆が、信心に反するような方向に進んでいきそうな場合には、なぜ、それが間違いなのかを、忍耐強く、丁寧に、噛んで含めるように、教えてあげることです。
 同志を、自分の部下や手下のように考えていれば、やがて、みんな離れていきます。
 また、自分の言うことを聞く、使いやすい人だけを集めたりすれば、親分と子分のような、いびつな関係が生まれ、変な派閥がつくられていきます。
 それは、結果的に、尊い広宣流布の組織を破壊することであり、最終的に、自分が罰を受けます。
 どこまでも公平に、みんなのために奉仕していってもらいたい。それが本当の学会の幹部の姿です。香港を、アジアを頼みますよ」
 二日後、高井夫妻は香港に向かったが、夫の平治は、仕事の関係で、その後も、しばらくは鹿児島にとどまり、日本と香港を往復していた。
 今、香港で再会した高井敏枝は、現地の組織にとけ込んでいるように思えた。
 伸一は、出迎えてくれたメンバーに言った。
 「みんな元気そうなので安心しました」
 香港支部の婦人部長の平田君江が、頬を赤らめながら報告した。
 「先生、私も、周支部長の奥さんも、この十二月に出産の予定なんです。先生に名前をつけていただいてよろしいでしょうか」
 「それはおめでとう。命名させていただきます」
 短い時間だが、和やかな語らいが始まった。
 伸一は、小柄な、一人の青年に語りかけた。
 「君も、香港の生活に慣れたかい」
 「はい、ようやく慣れてまいりました」
 彼は、梶山久雄という、日本の亜細亜大学からの交換留学生で、香港中文大学で経済学を学んでいた。
 梶山は一九五八年(昭和三十三年)、定時制高校に通っていた十七歳の時に入会していた。やがて、高校を卒業した彼は、昼間の大学への進学をめざし、プレス会社で働きながら、予備校に通った。
 六一年(同三十六年)の二月八日のことである。
 聖教新聞を手にすると、「東洋広布に輝く第一歩 アジアに初の地区結成広布の玄関・香港」の見出しが目に飛び込んできた。
 山本会長一行の、初のアジア訪問の報道であった。
 梶山は思った。
 ″いよいよ、東洋広布の幕が開いたのだ。ぼくも香港に行きたい″
9  光彩(9)
 梶山久雄は、その日、仕事を終えてから予備校に行くと、掲示板に、香港中文大学との交換留学生制度をうたった、亜細亜大学の案内があった。
 ″ここにしよう!″
 彼は、迷っていた最終志望校を決めた。
 梶山は、亜細亜大学に入学すると、留学をめざして勉強に励んだ。
 そして、一九六三年(昭和三十八年)十二月、香港中文大学への交換留学生の試験を受け、見事、パスしたのである。
 学費、寮費は無料、食費も支給されるという好条件であった。出発は翌年の八月である。
 日本を発つ三日前、彼は直接、山本会長に、香港への留学を報告することができた。
 それから、二カ月ぶりの山本会長との対面である。
 伸一は、梶山が、日本で会った時と比べ、痩せていることが気になっていた。
 実は、梶山は、ここでの食事が合わないうえに、神経疲れが重なり、下痢が続いていたのである。また、語学の壁にも突き当たり、自信を失っていたところでもあった。
 伸一は、彼を包み込むように言った。
 「香港の生活に慣れてきたのならよいが、ともかく体を大事にすることだよ。
 焦らずに、一つ一つの課題に、粘り強く挑戦していきなさい。
 自信というのは、一朝一夕につくものではない。雪だってすぐには、降り積もらないもの。
 勇気をもって、日々、努力を重ねていくなかで、自信もついてくるからね」
 この梶山久雄や高井夫妻のように、広宣流布のために、自ら海外に渡ろうという人たちが、次々と誕生しつつあることが、伸一は嬉しかった。
 彼は、世界広布の新時代の到来を感じていた。新しき扉を開くのは、新しき決意の人であるからだ。
 語らいは、瞬く間に過ぎていった。
 伸一は、再会を約して、機上の人となった。
 彼は、機内で、同行のメンバーに尋ねた。
 「梶山君の役職はなんだったかね」
 「日本では、学生部のグループ長をしていたと聞いております」
 「そうか。彼は、誠実そうな人物だね。しばらくしたら、香港の男子部の責任者にしよう。卒業後も、香港に住んで、頑張ってくれるといいんだがな。
 私は、今回の旅では、命を注ぐ思いで、中核となるメンバーに、生涯の発心の種子を植える決意でいるんだよ」
10  光彩(10)
 機内にあっても、山本伸一は、小声で真剣に題目を唱えていた。
 訪問する国々の同志を思い、その成長と幸福を祈り念じての唱題であった。
 香港を発って二時間余りで、最初の訪問地である、タイのバンコクに着いた。
 空港では、先発隊として出発した秋月英介たちや、三十人ほどの現地のメンバーが出迎えてくれた。
 伸一が前回、バンコクを訪問したのは、一九六三年(昭和三十八年)の一月であり、その後、バンコク支部の支部長には、潘錦鐘(パン・ジンチョン)が、支部婦人部長には、妻の和代が就任していた。
 また、女子部の組織も整い、支部の責任者も誕生していた。
 支部長の潘錦鐘は、料理の仕出し業を営んでおり、六一年(同三十六年)に、友人の勧めで入会した。
 生活苦と、喧嘩の絶えない妻との不仲を、打開したいとの思いからであった。
 妻の和代も、信心を始めたが、彼女は、夫の活動を冷ややかに見ていた。
 しかし、その後、学会本部から派遣され、タイを訪問した森川一正らの指導に触れて、和代も発心する。
 彼女の面倒をよくみてくれたのが、後にバンコクの初代支部婦人部長となる、アン・ミヤコ・ライズであった。
 和代は、タイ語に不慣れなライズの通訳として、一緒にメンバーの家を回るようになった。
 そこで、ライズの指導を聞くうちに、次第に信心を学んでいった。
 そして、六二年(同三十七年)二月に、会長山本伸一がタイを訪問し、支部が結成された時には、夫の錦鐘が地区部長となった。
 その時、伸一は、潘夫妻に言った。
 「今度は、日本でお会いしましょう。お待ちしています」
 和代は、タイに渡って以来、日本に帰ったことは一度もなかった。しかし、初めて、帰ろうと思った。
 その年の九月、彼女は、地区担当員となった。地区の世帯は、二十世帯前後であったが、百世帯にして、日本へ行こうと決意した。
 やがて、翌年の五月三日の総会に、タイからも十数人の代表が参加できることになった。
 皆と一緒に、和代も、パスポートの申請をした。
 しかし、皆のパスポートは、なんら支障なく発行されたが、彼女のパスポートだけは、いつまでたっても、発行されなかった。
 それも、当然といえば、当然であった。手続きに必要な身分証明書が、提出できないでいたのである。
11  光彩(11)
 潘(パン)和代が、身分証明書を持っていないのは、こんな経緯からであった。
 ――和代は、東京・目黒で育った。
 十七歳の時、自分を育ててくれた両親が、実の父母でないことを知らされる。
 その衝撃は大きかった。
 彼女は、名前を頼りに、実の親を捜して歩き回ったが、見つからなかった。
 時代は、太平洋戦争のさなかであった。
 傷心を抱え、戦火をくぐり抜け、終戦を迎えると、ほどなく、タイからの留学生と結婚し、バンコクに渡った。
 厚い言葉の壁や、異国での慣れぬ生活習慣の違いなども影響し、結婚は、一年で破局を迎えた。
 和代の心の傷は、あまりにも深かった。すべてが、ずたずたに引き裂かれた思いがした。
 彼女は自暴自棄になり、身分証明書など、いっさいの書類を破り捨ててしまった。自分の過去も、日本のことも、何もかも忘れてしまいたかった。
 和代は、その後、潘錦鐘(パン・ジンチョン)と結ばれ、家庭をもつが、身分を証明するものがないままの結婚であった。
 彼女は、日本に出発する一カ月前になっても、パスポートは発行してもらえなかった。
 ″でも、どうしても、日本へ行きたい……″
 和代は、必死になって祈り始めた。
 ″私は、山本先生との約束を果たしたいのです。日本に行かせてください″
 涙ながらの唱題である。
 すると、役所に勤めていた友人が、協力してくれると言い出した。
 この友人は、八方手を尽くし、前夫のところにあった、古い、渡航時の身分証明書を取り寄せてくれた。
 さらに、警察官が申請書を書いてくれたために、それから十日ほどで、とんとん拍子に、パスポートを手に入れることができた。
 渡航費用も、なんとか確保することができた。
 その間、彼女は、タイの人びとの幸福を願い、対話を重ねていった。信心をしたいという人が増え、出発直前に、地区は百世帯になったのである。
 和代は、タイに渡って以来、十七年ぶりに、喜びのなか、日本の大地を踏んだのである。
 山本伸一は、和代との再会を喜び、戸田城聖の和歌を色紙に認めて贈った。
 また、こう励ました。
 「誰からも慕われる、タイの広布のお母さんに」
 こうした激励に、和代は感動を新たにし、タイの広宣流布に生涯を捧げようと、心に誓ったのである。
12  光彩(12)
 潘(パン)和代の日本滞在中、夫の錦鐘(ジンチョン)が、バンコク支部の支部長に任命されたのである。
 そして、三カ月後には、それまで支部婦人部長を務めてきた、アン・ミヤコ・ライズがタイを離れることになり、和代が婦人部長になった。
 潘夫妻は、信心に励むようになってから、いつの間にか、生活苦も見事に乗り越えていった。また、夫婦仲も大変によくなり、皆からも親しまれるようになったのである。
 山本伸一は、バンコクの空港に出迎えてくれたメンバーと、しばらく、ロビーで懇談した。
 なかには、一家九人で、出迎えに来てくれたメンバーもいる。
 チュラロンコン地区の地区部長をしている、王大成(ワン・ダーチャン)の一家である。
 王は、山本会長と会えたことが、嬉しくて仕方ない様子で、終始、微笑みを浮かべていた。
 「あなたのご家族は、どなたと、どなたですか」
 伸一が尋ねると、王は、日本語で、妻と七人の子供たちを紹介していった。
 妻の麗華(レイファー)は、チュラロンコン地区の地区担当員であり、娘の一人が、女子部の支部の責任者である。
 伸一は言った。
 「まさしく『一家和楽の信心』の姿ですね。これは戸田先生が示された、学会の永遠の三指針の一つなんです。
 『一家和楽の信心』であれば、家族が共通の根本目的をもつことができる。それによって、家族が団結することができる。
 だから、一家が栄えていくんです。
 また、広宣流布には、横と縦の二つの広がりが必要になります。
 友人から、また友人へ、仏法への理解の輪を広げていくのが横の広がりです。
 そして、縦の広がりというのは、親から子へ、子から孫へと、信心を伝え抜いていくことです。
 どんなに広宣流布が進んだように見えても、一代限りで終わってしまえば、未来への流れは途絶えてしまいます。
 信心の継承こそが、広宣流布を永遠ならしめる道であり、一家、一族の永遠の繁栄の根本です。
 そして、その要諦が『一家和楽の信心』です。どうか、王さんのご一家は、タイの模範の信心の一家になってください」
 このあと、ホテルに移動し、伸一は、潘錦鐘・和代夫妻と、バンコクの活動について話し合った。
13  光彩(13)
 山本伸一は、潘(パン)和代の話に、耳を傾けた。
 夫の錦鐘(ジンチョン)は、日本語がわからないため、彼女が話をしたのである。
 和代の表情は硬かった。
 「これまでも、ご報告してまいりましたが、タイでは、学会に対して誤解があります。
 昨年、私たちの組織を協会にする申請を出したのですが、それも、却下されました。
 その後、日本から原山理事長たちが来てくださり、政府や警察の関係者と会って、学会のことを説明してくれましたので、理解者も出てはいますが、全体的には、警戒の目で学会を見ているようです。
 しかも、以前、クーデターが起こって以来、戒厳令が敷かれたりして、大勢の人が集まって会合を開くこともできません。
 個人指導に行くのも、何かと難しく、非常に活動しにくくなっています」
 和代は、それから、意を決したように言った。
 「ところが、学会本部から派遣されて来る幹部の方には、こうしたタイの実情がよくわからないで、こうしろ、ああしろと言う方がおります。
 でも、それでは、問題が起こりかねません。ですから、タイは、タイのやり方で、やらせていただければと思います」
 伸一は、言下に答えた。
 「わかりました。当然、そうすべきです。
 実情を無視して、日本でやってきたことや、自分の意見を押しつけるのは、愚かなことです。それは、私が一番、心配していることなんです。
 海外に派遣する幹部には、私から厳しく注意しておきます。
 ただ、あなたたちも遠慮するのではなく、よく説明し、意見を言わなくてはいけません。言わなければ、何もわかりません。
 本部から派遣される幹部は、基本的には、どうすればタイのメンバーが幸福になるのか、どうすることが、みんなのために一番よいのかを、真剣に考えています。
 それで、自分の体験や活動をもとに、よいと思うことを、いろいろ提案し、意見を言っているんです。
 そのなかには、タイの実情にそぐわないこともあるでしょう。
 人間というのは、自分が実際に行ってみて、″よかった″という体験があると、ほかにたくさんの方法があっても、″それしかない″と思い込んでしまいがちなんです。
 だから、よく話し合う必要があるんです」
14  光彩(14)
 山本伸一は、幹部と会員や、幹部同士の対話の大切さを痛感していた。
 日本でも、活動が思うように進まない組織というのは、対話がなく、その活動の意義などを、皆が心から納得していない場合が、ほとんどである。
 納得がなければ、人は押しつけられたように感じ、意欲をもって、活動に取り組むことはできない。
 対話というのは、まず、相手の意見、考えを、よく聞くことから始まる。
 ところが、幹部は、多忙なこともあり、ともすると、自分の意見を伝えるだけに終わってしまうことが少なくない。
 潘(パン)和代が、「タイは、タイのやり方で……」と語ったのも、そこに原因があったといえよう。
 伸一は、静かに、言葉をついだ。
 「自分たちの国のことは、その国の人たちが、責任をもって考えていくというのが大原則です。
 しかし、信心の面では、先輩に指導を求めていくことが大事です。
 先輩にぶつかり、信心を学んで、自分を磨き、鍛えていこうという姿勢がないと、結局は、わがままになってしまうからです」
 潘夫妻は、タイを担って立つ人である。だからこそ山本伸一は、本当の信心の在り方、組織の在り方を語っておこうと思った。
 「人間には、自分たちがやりたいように、自由に、勝手気ままにやりたいという思いがあります。
 しかし、それでは、最終的に、自分の弱さに負け、広宣流布という目的を見失っていくことになる。
 そうなると、最後は、信心を利用して、私利私欲を貪るなど、尊い仏意仏勅の団体である学会を食い物にし、破壊していくことにもなりかねない。
 だから、自らを律していくことが必要です。常に求道心を燃やしていくことが大事です。根本に信心がなければ、安易な方向へ、妥協の方向へと流されていってしまうからです。
 ゆえに、御書には『心の師とは・なるとも心を師とせざれ』と述べられているんです。
 その『師』とすべき規範を確認し合い、ともに広宣流布の大道を進んでいけるように、触発し合っていく存在が先輩幹部です。
 したがって、先輩幹部との接触が大事ですし、何よりも皆さんが、強い求道心を燃やし続けていかなくてはならない。
 中心者の成長が止まってしまえば、口先の指導はできても、メンバーの生命を触発していくことはできません」
15  光彩(15)
 山本伸一は、潘(パン)夫妻に話を続けた。
 「タイも、大変な状況にありますが、台湾や韓国では、事実上、学会の活動は禁止されています。
 しかし、メンバーの信心は、一歩も引いてはいません。個人の信仰は自由なんだと、必死に唱題し、未来の大発展を期し、懸命に努力しています。
 学会は、何一つ、悪いことなどしていません。人びとの幸福のために、奉仕している団体です。
 ですから、潘さんご夫妻も、堂々と、このタイにあって、学会の真実と正義を訴え抜いてください。
 社会は動いています。時代は変わります。いや、みんなで変えていくんです」
 潘夫妻が頷いた。
 伸一は、笑顔を浮かべて言った。
 「仏法のために苦労したことは、全部、自分の大福運、大功徳になります。
 だから、″大変だな″と思うことに出あうたびに、″これで、一つ福運を積めたな″″また一つ、功徳の因をつくったな″と、考えていくことです」
 「はい!」
 明るい声が返ってきた。
 タイの状況を考えると、今回の訪問では、皆が一堂に会する、大きな会合をもつことは難しかった。ゆえに伸一は、中核となるメンバーの個人指導に、最大の力点を置いていた。
 翌三日も、彼は何人かの友を励まし、夕刻にはバンコクを発った。
 搭乗機は、パキスタンのカラチを経由し、イランのテヘランに向かった。
 機内でも、伸一は仕事に没頭し、翌月に発刊が予定されていた『政治と宗教』の最終ゲラを、丹念にチェックしていた。
 日本では、公明党の結成に向けて、準備が進められており、伸一は、学会と政治との関係を明らかにしようと、自ら、この『政治と宗教』の執筆に取り組んできたのである。
 テヘランの上空にさしかかったのは、十月三日の深夜であった。
 砂嵐のために、着陸は難航したが、一行は、四日の午前零時半、無事にテヘランの空港に降り立った。
 空港には、ヨーロッパ本部長の川崎鋭治が迎えに来ていた。
 四日の昼、伸一たちは、一人の婦人部員を訪ね、励ますために、市内に出た。
 彼女は、太田美樹という日本人で、二年ほど前からテヘランに来ているとの話であった。
 前回、伸一が訪問した時に激励した上野頼子というメンバーは、既に帰国していたので、太田が唯一のメンバーということになる。
16  光彩(16)
 山本伸一たちが、太田美樹が勤めているという中華料理店を探すのに、そう時間はかからなかった。
 通訳を頼んだ男性が、店員に、用件を告げると、オーナーだというロシア系の女性が応対に出てきた。
 彼女は、すまなさそうな顔で何か語っていた。通訳が、それを伝えた。
 「太田さんは、ここのマネジャーでしたが、契約が切れて、既に店を辞め、今、旅行中だそうです」
 伸一は言った。
 「そうか。残念だが、仕方がないな……」
 その時、イラン人の店員が、彼の顔をしげしげと見て、「オウッ!」と声をあげた。
 そして、店の奥に入り、何冊かの雑誌を持って戻ってきた。それは、「聖教グラフ」であった。
 店員はページを開き、伸一の写真を指さして、叫ぶように言った。
 「オー! ミスター・ヤマモト!」
 その声を聞くと、店の奥から、数人の男性の店員が出て来て、伸一の顔をのぞきこんだ。
 彼らは、口々に「ヤマモト」「ヤマモト」と言いながら、握手を求めてきた。
 オーナーの女性も、満面に笑みを浮かべていた。
 店員たちが、頬を紅潮させながら、伸一に話しかけた。その言葉を通訳が要約して教えてくれた。
 「彼らは、太田美樹さんから、学会の話を聞き、この『聖教グラフ』を見ているので、会長の山本先生のことは、よく知っているそうです。また、学会は、すばらしい団体であると思っているとのことです」
 オーナーも、伸一に握手を求めると、こう語った。
 「わざわざ、お訪ねくださって、大変に光栄です。太田さんには、山本先生が来られたことを、必ず、お伝えしておきます」
 伸一は、答えた。
 「ありがとう。今回は、太田さんには、お会いできませんでしたが、皆さんにお会いできてよかった。
 友人になりましょう。
 空がつながっているように、人間の心にも、本来、国境はありません。私たちは、皆、兄弟であり、同胞です。
 いつか、日本に来てください。皆さんのご多幸をお祈りします」
 伸一は、こう言うと、念のために、自分たちが宿泊しているホテルの名前を伝え、再び、一人ひとりと握手を交わして別れた。
 一行は、それから、テヘランの市内を視察して、ホテルに戻った。
 しばらくすると、四十過ぎの婦人が訪ねて来た。太田美樹であった。
17  光彩(17)
 山本伸一は、妻の峯子とともに、太田美樹の訪問を大歓迎し、懇談した。
 太田は、この日、旅行から帰り、土産を持って、中華料理店にあいさつに行った。すると、店員たちが、山本会長が訪ねて来たと言って、大騒ぎしていた。
 彼女は、半信半疑ではあったが、ともかく、伸一が宿泊しているホテルの名を聞き、ここに駆けつけて来たのである。
 太田は、テヘランにやって来た経緯などを語るとともに、今後のことについて、伸一に指導を求めた。
 「私は、古美術商をやろうと思っているんですが、カナダ人の方から求婚されており、どちらにすべきか迷っているんです」
 伸一は、深く頷くと、語り始めた。
 「幸福は彼方にあるのではない。自分の胸中にある。それを開いていくのが信心です。
 信心さえ、がっちりし抜いていくならば、商売をしても、結婚をしても、すべてうまくいきます。
 仏法は道理であり、信心は、その人の人生の原動力であるからです。
 要するに、広宣流布という大道から、離れてはならない。何があっても、どんなに辛いことがあっても、決して退転しないということです。
 世界中、どこに行ったとしても、着実に、謙虚に、粘り強く、最後まで信心を貫いていくことです。途中でやめてしまえば、すべて敗北です。
 信心は、全うしていかなければ意味はない。そうでなければ、宿命の転換もできないし、幸福の土台ができないからです。
 しかし、人間は、ともすれば自分に負けてしまう。
 一時期は頑張っても、周りの人に信心を反対されると、すぐに臆病になってしまう。あるいは、病気になったり、少し生活が行き詰まったりすると、意気地なしになり、不信の心をもってしまう。
 また、ちょっとした、学会員との人間関係のもつれや怨嫉から、信心をやめたり、仏の和合僧というべき学会の組織から離れていってしまう。
 そうならぬためには、自分の感情を中心にするのではなく、あくまでも、仏法の教えを、御書を根本にして生きていくことです。
 私は、あなたの勝利を待ちます。勝って輝く姿を見たいんです」
 彼女は、初対面の自分を、全魂で励ましてくれる山本会長に、深い思いやりの心を感じた。
 太田は、ホテルを後にする時には、新たな決意を固めていた。
18  光彩(18)
 一行は、翌日は、午前五時半発の便で、トルコのイスタンブールへ向かうことになっていた。
 出発の一時間ほど前に空港に行くと、太田美樹をはじめ、あの中華料理店の従業員である、五、六人のイラン人が見送りに来てくれていた。
 山本伸一は、その姿を見つけると、大きく手を振りながら語りかけた。
 「早くから、わざわざ、ありがとう! 皆さんの友情に感謝します」
 イラン人の一人が、笑みを浮かべて言った。
 「旅立つ″兄″を、″弟″が送るのは当然です」
 未明の空港に、談笑の花が咲いた。
 だが、すぐに、搭乗の時刻になった。伸一は、皆と握手を交わして別れた。
 見送りの人たちは、名残惜しそうに、いつまでも、手を振っていた。
 機内に入ると、川崎鋭治が、伸一に言った。
 「あのイランの人たちとも、心が結ばれましたね」
 「人間を分断させる宗教もあるが、人と人とを結び合うことが、広宣流布ということなんだよ」
 テヘランでは二泊したとはいえ、午前零時過ぎに到着し、正本堂の購入資材の視察や個人指導で、休む間もなく、早朝に出発というのは、かなり厳しいスケジュールであった。
 山本伸一は、自分の体調が気になっていたが、今のところ、良好であった。
 それには、妻の峯子の努力が大きかった。
 先発隊として出発した峯子は、伸一とバンコクで合流して以来、彼のいっさいの身の回りの世話をしていた。
 特に、食事には、ことのほか気を使い、ホテルでは、バスルームで、日本から持って来た、固形燃料のコンロとナベを使って、ご飯を炊き、味噌汁をつくるようにしていたのである。
 しかも、伸一の体調を考えて、消化のよい食事を用意するように心がけた。
 伸一は、海外に出ると、睡眠不足による疲労、気候の違い、さらに、食べ物が体に合わないことなどから、体調を崩してしまうことが少なくなかった。
 もっとも、同行のメンバーを心配させまいという配慮から、それを口にすることはなかったが、その苦しみは大きかった。
 しかし、幸いなことに、今回は、食事の心配は無用になりそうである。彼は、峯子を同行させるように提案してくれた首脳幹部に、感謝していた。
 一行は、イスタンブールでは、資材の購入に駆け回り、十月六日の昼に、イタリアのローマに到着した。
19  光彩(19)
 この夜は、ローマ地区の地区部長・地区担当員の山岸政雄・公枝夫妻の家で、懇談会がもたれた。
 山本伸一は、ここでも、女子部の小島寿美子をはじめ、メンバーの現況に耳を傾けながら、個人指導に全力を注いだ。
 ホテルに帰る車の中で、同行の幹部が漏らした。
 「みんな個人的には、いろいろな悩みを抱えているものですね。経済問題、将来の生活設計、健康……。
 しかも、皆、その悩みを克服できずにいる。
 正直なところ、そういう人たちが、一国の学会のリーダーとなって、指揮をとっていけるのか、疑問を感じてしまいます。大丈夫なんでしょうかね」
 伸一は鋭い声で言った。
 「それでは君は、地位もお金もあり、なんの悩みもない人を探して、リーダーにするつもりなのか」
 「…………」
 「そんな人は、まずいないよ。皆、なんらかの課題や悩みをかかえている。そもそも、人間が避けることのできない悩みが、生老病死ではないか。
 それに、苦悩のない人からは、偉大な人間性の輝きは生まれない。
 悩みをかかえているということ自体は、恥でもなんでもない。
 今の学会の首脳幹部も、悩みをバネにしながら、学会活動に挑戦してきたではないか。
 言い換えれば、悩みがあるからこそ、真剣に、広布の活動に励めたといえる。
 学会のリーダーとして、最も重要なことは、悩みに負けないということだ。これが一番の条件だ」
 翌日、伸一たちは、ローマの街を視察した。
 一行の車は、やがて、バチカンのサン・ピエトロ広場に着いた。
 伸一は、これまでのイタリア訪問でも、バチカン宮殿を見学していたが、正本堂の建設の参考にするために、世界を代表する宗 教 建築のサン・ピエトロ大聖堂などを、さらに詳細に見ておきたかったのである。
 ところが、この日は、バチカン公会議が行われており、中に入ることはできなかった。
 一行がサン・ピエトロ大聖堂の外観を眺め、写真を撮っていると、若いイタリア人のカップルが、話しかけてきた。
 伸一が振り向くと、男性の方が、手にしていたカメラを差し出した。自分たちのことを、撮ってほしいというのである。
 「お撮りしましょう」
 満面に笑みをうかべて、腕を組んで立つ二人を、伸一はカメラに収めた。
20  光彩(20)
 この二人は、シチリア島から新婚旅行に来た、カップルであった。
 「そうですか。ご結婚おめでとう。今度は、私と一緒に写真を撮りましょう」
 山本伸一は、自分のカメラを秋月英介に渡し、撮影を頼んだ。
 伸一は、夫妻の住所を聞き、写真ができたら送ることを約束した。
 このあと、山岸政雄が、イタリア語で、伸一について語っていった。
 夫妻は、伸一が日本の、五百万世帯に近い仏教徒の団体のリーダーであることを聞くと、目を丸くした。
 夫人が、首を左右に振りながら言った。
 「まあ、そんなすばらしい方に、写真を頼んでしまって……」
 すると、伸一は、それを制して、笑顔で語った。
 「人間は、皆、平等ではないですか。ましてや、信仰をもった者が、少しでも人のために働こうとするのは当然のことです」
 夫の方が尋ねた。
 「仏教の指導者というのは、皆、あなたのように気さくなのでしょうか」
 「さあ、それは、わかりません。
 ただ、仏法では、すべての人に仏という最高の生命が具わっていると教えています。そうであるなら、人間が人間に接するのに、権威的であったり、威張ったりすることは間違いです」
 夫は、頬を紅潮させて言った。
 「私はカトリック教徒ですが、何か、信仰というものの、魂に触れた思いがいたします。今日、あなたにお会いできて、本当によかったと思います」
 「それは、ありがとうございます。いつか、ぜひ日本にいらしてください」
 「できれば、そうしたいと思います。日本では、間もなく、オリンピックですね。四年前は、ローマが開催地だったんですよ」
 短い時間ではあったが、和やかな友情の語らいが弾んだ。
 伸一は、この夫妻と、固い握手をして別れた。
 二人を見送りながら、伸一は、同行の友に語った。
 「これからの世界の平和を考えるうえで、大切なことは、人間と人間とが結び合うことだ。
 国家とか、民族といったもので、人間を束ねてしまうと、人間の実像から、離れていってしまう。
 たとえば、戦時中、私たちは、″鬼畜米英″と教えられてきたが、皆、同じ人間ではないか。
 もし、民衆の一人ひとりが、国境を超えた友情で結ばれていれば、そんなまやかしのスローガンなど、通用しなかったと思う……」
21  光彩(21)
 秋月英介、白谷邦男、西宮文治、そして、川崎鋭治は、この七日の午後、ローマを発って、山本伸一より一日早く、フランスのパリに行き、パリでメンバーの指導会を担当することになっていた。
 さらに、彼らは、翌八日に、西ドイツ(当時)のフランクフルトに行って指導会を開き、九日に、パリに戻る予定であった。
 伸一は、ローマ市内の視察から帰ると、秋月たちと、ドイツ支部の人事について検討した。
 これまで、ドイツ支部の支部長は、ヨーロッパ本部長の川崎鋭治が兼任してきたが、今回、ドイツにいるメンバーを支部長にすべきであるというのが、伸一の意見であった。
 皆で検討の結果、それまでドイツ支部の副支部長であった佐田幸一郎を支部長に、また、ヨーロッパの男子部の責任者を務めている諸岡道也を副支部長に任命することになった。
 伸一が、パリに着いたのは、十月八日の正午過ぎであった。
 空港には、先に到着していた秋月たちが迎えに来ていた。秋月は、パリでの指導会の模様を報告した。
 指導会は、ホテルの一室を借りて行われ、メンバーと新来者を合わせて、四十人ほどが参加したという。
 秋月らは、それからフランクフルトに出発した。
 伸一は、パリでは、今後のフランスを担っていく主だったメンバーと会い、励ますことに力を注ごうと考えていた。
 翌九日の夜、彼は、中核となる数人の人たちを中華料理店に招き、食事をしながら懇談することにした。
 伸一は、早めに、パリのカルチェ・ラタンにある中華料理店に行き、メンバーの到着を待っていた。
 伸一は、ここで、フランクフルトから戻った秋月たちから、ドイツ支部の指導会の詳細な報告を聞いた。
 川崎鋭治が、指導会には五十四人が集い、皆、元気いっぱいであったことを告げると、伸一は言った。
 「そうか、すごいね。ドイツ支部で、五十四人も集まるなんて、大発展だね。
 佐田さんたちは必死なんだ。その必死さが、″無理だ″という、皆の心に巣くう諦めと臆病の心を破り、新しい歴史を開くんだ。
 今度は、ヨーロッパ全体で、千人の結集をめざしてみてはどうだろうか。
 大変かもしれないが、ヨーロッパで千人の闘士が誕生すれば、欧州広布の礎が築かれ、新時代の幕を開くことができる」
22  光彩(22)
 「はい、やりましょう!」
 ヨーロッパ本部長の川崎鋭治は、山本伸一のこの提案に、決意のこもった声で答えた。
 伸一は、微笑みながら言った。
 「川崎さん、広宣流布を進めるうえで大事なのは、常に目標をもつということです。目標がなければ、空虚になり、活動も空転してしまう。
 しかし、目標があれば、未来への希望がわいてくるし、力も出る。また、みんなが、定めた目標を必ず達成しようと思うならば、おのずから、団結も生まれてくる。
 ところが、中心者に、″挑戦の心″と″強い生命力″がないと、たやすく達成できる目標を掲げたり、いい加減に目標を決めて、それを、みんなに押しつけたりするようになる。
 それでは、みんなが本気になって力を出すことはできない。
 だから中心者には、″挑戦の心″が、″強い生命力″がなくてはならない。
 さらに、自分一人になっても、この目標は達成してみせるという、偉大なる責任感がなければならない。
 リーダーの、その心意気に、気迫に打たれて、みんなも頑張ろうという気になるんです」
 伸一が語っていると、そこに、フランスのメンバーがやって来た。
 長谷部彰太郎という、三十代半ばの長身の画家であった。
 長谷部の姿を見ると、伸一は声をかけた。
 「よくいらっしゃいました。こちらに来て、お座りください」
 伸一は、長谷部を心から歓迎したあと、彼の入会に至るいきさつなどについて、聞いていった。
 ――長谷部彰太郎は、一年ほど前の入会である。
 三年前に、絵の勉強のために、フランスに来た。
 日本では、電電公社(現在のNTT)に勤務しながら、画家を志して勉強に励み、美術展でも入選を重ね、個展も開くようになっていた。
 水彩による日本画などを手がけ、日本の美術を、古い伝統を打ち破って現代に生かし、国際的にしようというのが、長谷部の夢であった。
 彼は、日本の良さを見直して、それを、作品に反映するには、海外に行って勉強すべきではないかと考えるようになり、私費留学生として、妻とともに、パリにやって来た。
 彼は、国際的な画家として大成していくためには、創作の思想的なバックボーンが必要であると痛感していた。
23  光彩(23)
 長谷部彰太郎は、日本にいる時には、思想的なバックボーンを、マルクス主義に求めていた。
 社会革命のエネルギーのなかから、新たな創作の息吹が生まれると考えていたからである。
 しかし、社会主義の国々の絵画に対しては、イデオロギー色が強く、芸術的には、優れているとは思えなかった。
 しかも、パリに来ている東欧の留学生などと話し合うと、耳にするのは、社会主義に対する否定的な言葉ばかりであった。
 さらに、東欧から亡命してきた画家たちに言わせれば、社会主義は″最悪の社会のシステム″だというのである。
 長谷部がいだいていた、社会主義への期待は、次第に色褪せていった。
 また、パリでの生活も、思いのほか、苦しかった。
 画廊を回っても、自分の絵を置いてくれるところは、一軒もなかった。
 先にパリに来ていた、日本人の画家たちと語り合っても、愚痴が目立ち、希望は感じられなかった。
 「もう少し、絵が売れるようになって、金が儲かったら、日本に帰って、畳の上で死にたいな」と言う画家もいた。
 長谷部にとって、芸術の都・パリは、憧れの街であったが、その現実は、あまりにも厳しかった。
 日本を出る時に、長谷部は二年分の生活費を用意してきたが、出費も予想以上に多く、思ったより早く、生活費は底をついた。
 雑役や皿洗いのアルバイトを始めたが、すぐにやめた。金のために、パリに来た目的を見失いたくなかったのである。
 彼は、どんなに貧しくとも、絵を描き続けようと思った。だが、そのために、彼に代わって、妻が働かなくてはならなかった。
 長谷部がパリに来て一年半ほどしたころ、日本で知り合った、春野心作という画家から、パリに勉強に来るという連絡が入った。
 春野は、日本では二科展の常連画家として知られており、学会員であった。
 長谷部は、彼から、パリで、学会の話を聞かされたのである。
 「優れた芸術の創造のためには、それを生み出す人間を、磨き、深める思想、哲学が不可欠だと思う。
 その思想、哲学こそ、日蓮大聖人の仏法だ」
 長谷部は、この春野の話に、興味をいだいた。
 また、春野の絵が、画廊から高く評価され、売れ始めたことに、信仰の実証を見る思いがした。
 一九六三年の九月、長谷部は入会を決意した。
24  光彩(24)
 長谷部彰太郎は、入会した直後から、不思議なことに、版画が売れてきた。
 彼は、春野心作から、それが初信の功徳であると聞かされたが、半信半疑であった。
 しかし、作品が売れ始めたとはいえ、生活苦は、相変わらず続いていた。
 春野は、そんな長谷部を、こう励ました。
 「シャンパンだって、栓を抜くのは力がいる。信心も同じだよ。栓を抜くためには、歯を食いしばって頑張ることだ」
 長谷部も、日々、懸命に唱題に励んだ。
 木枯らしの冷たさが身にしみる、年の瀬のある日のことであった。朝、妻が溜め息まじりに告げた。
 「あなた、今夜の夕食代で、一文なしよ……」
 通っていた版画教室の月謝も滞納している。
 長谷部は、版画を持って有名な画廊を訪ねてみた。作品を置いてもらうのも難しいことはわかっていたが、″当たって砕けろ!″と自らに言い聞かせ、画廊のドアを恐る恐る開けた。
 彼は、勇気を奮って、画廊の主人に版画を見せた。
 主人は、眉間に皺を寄せ、鋭い眼で、版画に視線を注いでいたが、顔を上げると言った。
 「面白いじゃないか!」
 予期せぬ言葉であった。主人は、作品を買い取ってくれた。
 長谷部は六十フラン(当時、約四千四百円)を握り締め、家路を急いだ。
 金額はわずかだが、有名な画廊が、自分の作品を認めてくれ、当面の苦境を脱したことが嬉しかった。
 長谷部にとって、これが大きな自信となり、信心への確信につながっていったのである。
 彼は、仏法の力を実感すると、春野と二人で、画家や彫刻家、デザイナーなどの友人たちに、信心の話をしては、よく川崎鋭治の家に連れていった。
 そのなかから、次々と入会する人が出始めていた。
 山本伸一が、長谷部の話を聞いていると、そこに春野がやって来た。
 春野は小柄であり、長身の長谷部とは対照的であったが、伸一には、二人が、よいコンビに思えた。
 春野は、先に信心を始めた妻の勧めで、七年前に入会したようだ。
 中学校の美術の教師やデザイン会社勤めを経て、画家としての道を歩み出し、画壇の期待を集め始めたころである。
 彼も、パリに行って、絵を勉強したいという、強い希望をもっていた。
 そして、信心に励むなかで、「世界広布」という指導が、彼に決断を促したのである。
25  光彩(25)
 春野心作は、家族を日本に残して、フランスに渡った。間もなく四十歳になろうとしている。
 長谷部彰太郎も、また春野も、失敗は許されなかった。このパリで、画家として大成するしかなかった。ともに人生の背水の陣であったといってよい。
 山本伸一は、長谷部と春野の話を聞くと、力強い口調で言った。
 「仏法のうえから見るならば、二人とも深い使命があって、パリに来たのだから、精進を重ねていくならば、大成することは間違いありません。
 要は、その使命を、本当に自覚できるかどうかです。使命の自覚とは、自分で″断じてこうするのだ″と決めていくことです。
 あとは、強い生命力をみなぎらせ、現実に押しつぶされることなく、人生を楽しみながら、伸び伸びと仕事をしていくんです。
 パリのルーブル美術館の作品を見ても、キリスト教が根底となっています。宗教は芸術の土壌であり、キリスト教というものが、画家の精神に大きな影響を与えています。
 すると、これからは、真実の仏法を根底にした、新しい文化、芸術が花開いていかなければならない。
 その先駆者が、また、それを証明していくのが、あなたたちです。
 今日は、あなたたちお二人を、フランスの芸術部員に任命します」
 二人は、緊張した顔で、「はい」と答えた。
 長谷部が、意を決したように語り始めた。
 「先生、近いうちに、必ず日本に行きます。その時までに、なんらかの実証を示してまいります」
 伸一は言った。
 「期待しています。
 そうだ、お二人の絵を買って差し上げましょう。応援したいんです。絵を見せてください」
 このころには、既に、招かれたメンバーは、全員そろっていた。
 伸一は、一人ひとりに視線を注いだ。
 「今日は、お忙しいところ、おいでくださってありがとうございます。
 私は、これからのフランスの組織を担って立たれる中核の皆様と、ぜひ語り合いたいと思い、こうした席を設けさせていただいた次第です」
 メンバーのなかに二人のフランス人がいた。
 一人は、三年前に日本で入会した、商社に勤務する三十代半ばを過ぎた壮年であった。
 もう一人は、仏教を研究し、パリ大学の東洋語学校で語学を学ぶ、二十歳の男子学生である。
26  光彩(26)
 このフランス青年の入会は、前年の二月のことであった。
 ヨーロッパ総支部の結成大会のために、西ドイツ(当時)からパリに来ていた、日本人のメンバーと、彼は書店で出会った。
 メンバーが、書店で、フランス語がわからずに困っているのを見て、日本語の話せる彼は、通訳を買って出たのである。
 これが契機となって話し合ううちに、彼は、仏教に興味をもっていることを語った。メンバーは、川崎鋭治の家に、このフランスの青年を案内した。
 川崎の家には、西ドイツから来ていた佐田幸一郎や諸岡道也たちがいた。
 そこで、日蓮仏法の話を聞いた彼は、深い感銘を受け、一カ月後に入会したのである。
 山本伸一は、二人のフランス人に、大きな期待を託した。フランスの広宣流布を考えるならば、やはりフランス人のなかから、信心の強盛な人材が出なければならないからだ。
 伸一は、皆の現況を聞いたあと、包み込むような口調で語りかけた。
 「今日は、聞いておきたいことや、疑問に思うことがあったら、遠慮せずに、なんでもおっしゃってください」
 伸一の言葉を待っていたかのように、フランス人の青年が質問した。
 「信心をする目的とは、なんでしょうか」
 彼は、仏教を研究し、その目的は、自身が悟りを開くことであると思ってきたが、日蓮仏法は、それだけを目的としているのではないことに、気づき始めていたのである。
 伸一は、即座に答えた。
 「個人に即していえば、一生成仏です。それは、自分自身の永遠に崩れることのない、絶対的幸福境涯を築くことです。
 もっと、わかりやすくいえば、何があっても、負けない自分をつくりあげていくことです。つまり、人間革命です。
 しかし、それだけではありません。仏法者の使命という観点からいえば、広宣流布ということです。
 広宣流布というのは、人びとに、正しい仏法を教えて、みんなを幸福にしていくことです。人類の平和を築き上げることです」
 また、すぐに、青年は尋ねた。
 「すると、自分だけが信心するのではなく、折伏を行わなければならないことになりますね」
 彼は、禅などを研究してきたことから、自分が修行をすることが信仰のすべてであるとの考えが、抜けなかったようだ。
27  光彩(27)
 山本伸一は、にこやかに頷き、質問に答えた。
 「大聖人の仏法の仏道修行は、『自行化他』です。
 自行、すなわち、自らが勤行・唱題し、御書を研鑽して教学を学ぶとともに、化他、すなわち、人に仏法を教えていくことを修行としています。
 これは車の両輪のようなもので、この二つを実践していくなかに、成仏の道が開かれていくんです。
 また、今度は、人間の生き方として考えた時に、自分一人で修行し、悟りを開けばよいというのでは利己主義です。
 もし、周囲の人びとが、不幸になるのを、黙って見ているとしたら、あまりにも無慈悲です。
 日蓮大聖人は、私たちは地涌の菩薩であり、末法の衆生を救うために、この世に出現したのだと言われている。
 つまり、自他ともの幸福のために、平和のため、社会の繁栄のために生きよ、というのが、大聖人の教えです。また、それでこそ、生きた宗教といえます。
 釈尊も、生涯、布教の旅を続けられている。大聖人の御生涯も、折伏につぐ折伏です。私たちの使命も、正法の流布にあります」
 フランス人の青年は、さらに質問した。
 「では、信心は、どのようにして、学んでいけばよいのでしょうか」
 「それは、学会の組織のなかで、皆と一緒に、仏法の教えを実践していくことから始まります。柔道や空手だって、本を読んで学んだだけでは、身につかないのと一緒です」
 次々と発せられるフランス青年の質問に、伸一は、丁寧に、明快に答えていった。彼は、その求道の心が何よりも嬉しかった。
 伸一は、出会った一人ひとりを、徹して磨き、育て上げようとしていた。
 一本の薪が燃え上がれば、火は、次々と、ほかの薪に燃え広がり、暖炉は、まばゆい炎に包まれる。
 同様に、一人が立ち上がれば、そこから、人材の流れがつくられていく。
 食事が終わると、伸一は言った。
 「私は、明日から東欧を回って、パリに戻って来ますので、その時に、またお会いしましょう」
 それから、彼は、川崎鋭治に語った。
 「その時は、ドイツの代表にも会って、励まそうと思う。すまないが、すぐにドイツと、連絡を取ってくれないか」
 一人の人の発心こそが、広布推進の原動力となる。
 伸一は、ヨーロッパの大発展の因を、つくろうとしていたのである。
28  光彩(28)
 明けて十月十日、山本伸一は、東欧のチェコスロバキア(現在のチェコ)のプラハに向かった。
 一行は、プラハで一泊したあと、ハンガリーのブダペストを訪れる予定になっていた。いずれも、社会主義国である。
 伸一は、三年前に″ベルリンの壁″を訪れ、東西冷戦の境界に立っていたが、実際に、共産圏の国に足を踏み入れるのは、これが初めてであった。
 「東欧」という言葉は、米ソの冷戦下にあっては、地理上の区分というより、イデオロギー上の区分といえた。
 つまり、ヨーロッパ地域のうち、東ドイツ(当時)、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ユーゴスラビア(当時)、アルバニアの東側諸国が「東欧」と呼ばれていたのである。
 ただ、一口に東欧といっても、歴史的、民族的な背景は多様である。
 戦前から工業化の進んでいた国もあれば、戦後、社会主義体制になって、急速に重工業に力を注ぎ始めた国もあった。
 また、「宗教否定」のマルクス主義を国是としていても、キリスト教など、宗教の伝統が強い国もある。
 一行は、パリのオルリー空港で、チェコスロバキア航空の飛行機に、搭乗することになっていた。
 出発の予定時刻は午後二時二十分であったが、搭乗機の到着が遅れ、かなりの時間、待たされた。
 やがて、機内に入ったものの、まだ、飛行機が飛び立つ気配はなかった。しかも、乗員からも、なんの説明もない。
 「いったい、どうなっているんですかね」
 西宮文治がつぶやいた。
 こういうことは珍しくないのか、ほかの乗客は、何も言わずに待っていた。
 それから、四、五十分したころ、三人の人物が、他の乗客を睥睨するかのように、乗り込んで来た。
 外国人の目にも、チェコスロバキアの政府高官であることは察しがついた。
 彼らが傲然たる態度で席に着くと、飛行機は、ようやく滑走路を走り始めた。
 伸一は、彼らの態度から、社会主義国では階級的差別はないという説明と、現実とは、相当な違いがあることを直感した。
 飛行機は揺れに揺れた。気流の悪さだけでなく、操縦も、相当荒っぽかった。
 プラハに到着したのは、午後の六時ごろであった。
 パリや東京の街に比べ、明かりが少なく、暗いというのが皆の印象であった。
29  光彩(29)
 チェコスロバキアでは、戦後の一九四八年に、共産党の一党独裁の体制がつくられてから、十六年が過ぎていた。
 空港からホテルに向かう車中、山本伸一は、依頼していた通訳を介して、ドライバーに話しかけた。
 子供や家族のことなどを尋ねると、屈託なく話してくれた。
 ところが、「この国の暮らしはいかがですか」と聞くと、「苦しいね……」と言ったきり口を閉ざした。
 自分たちを警戒していることが、よくわかった。
 何か、目に見えぬ力に抑えられ、怯えているかのようでもあった。
 宿舎は、プラハの新市街にある、ヤルタ・ホテルであった。
 一行は、荷物を置くと、ホテルの喫茶室に入った。そこにはテレビがあり、人だかりができていた。
 ちょうど、東京オリンピックの開会式の模様が放映されていた。宿泊の客以外の一般の市民も、見に来ているようであった。
 画面は、秋晴れのもと、続々と入場する、各国の選手団を映し出していった。
 東京オリンピックの開会式は、日本時間の十月十日午後二時から、学会本部にほど近い、東京・国立競技場で行われていた。
 伸一たちが、プラハでテレビを見た時には、既に日本は十一日になっていたが、一行は、ここで初めて、オリンピックの開会式が、好天のもとで行われたことを知ったのである。
 「晴れて、よかったな」
 伸一は微笑んだ。
 パリで、日本では雨が続いていると聞いた彼は、当日の天候を心配していたのである。
 その時、テレビを見ている人たちのなかから、「オー、ヤポンスカ(日本)」という声があがった。
 画面には、入場行進の最後の、日本選手団が映し出されていた。そろいのブレザーを着た、約三百七十人の行進である。
 「みんな堂々としていますね!」
 同行のメンバーが、興奮気味に語った。
 その声に、テレビの前にいた一人が振り向いた。そして、伸一たちに話しかけてきた。
 通訳を頼んでいた人が、外に出ていたために、言葉は通じなかったが、「あなたたちは日本人か?」と聞いているようであった。
 「イエス」と伝えると、にっこりと笑い、周囲にいた人に、一行が日本人であることを教えた。
 すると、皆が、次々と握手を求めてきた。
 思いがけぬ、楽しい交流であった。
30  光彩(30)
 このあと、有名なチェコのガラス製品を見るため、街を回った。
 山本伸一は、美しいカットガラスを用いたシャンデリアで、正本堂を荘厳したいと考えていた。だが、案内された店には、気に入るものがなく、購入はあきらめることにした。
 翌朝、伸一は、朝食前に街を散策しようと、一人でホテルを出た。
 大気は肌寒かった。
 ホテルは、バーツラフ広場に面していた。この広場の突き当たりに国民博物館があり、その前に建っているのが、チェコ人の民族的象徴である、バーツラフ一世の騎馬像であった。
 一九一八年、チェコスロバキアが独立を達成した時には、初代大統領となったマサリクが、この像の前から凱旋行進したことはよく知られている。
 伸一は街を歩いてみた。ふと、建物の壁を見ると、そこには、東京オリンピックのポスターが張ってあった。陸上競技のスタートの瞬間をとらえた写真が印象的なポスターである。
 日本で、よく目にしてきた、そのポスターに、彼は懐かしさを覚えた。
 しばらく、その前にたたずんでいると、背後に人の気配がした。
 振り向くと、長身の青年が立っていた。二十五、六歳であろうか。黙って、無表情に、伸一を見ていた。
 しかし、伸一が、微笑みを浮かべ、会釈をすると、青年の目に、かすかに光が差した。
 伸一は、オリンピック記念の百円銀貨がポケットに何枚かあったことを思い出し、青年に贈ろうと、その一枚を差し出した。
 青年は、いぶかしげな顔で、硬貨を手にしたが、そこに五輪のマークを発見すると、「オーッ!」と声をあげた。
 そして、青年はポケットから財布を出すと、何か話し始めた。どうやら、この硬貨の代金を聞いているようであった。
 伸一は、まず、自分の胸を指さして、それから、その指を、青年の胸に向けて言った。
 「プレゼント!」
 「もらっていいのか?」
 不可解そうな青年の顔は、そう語っていた。
 伸一は頷いた。
 彼のささやかな好意が伝わったのであろうか、次の瞬間、青年の顔には、子供のような純朴な笑みが、満面に広がった。
 「ジェクユバーム(ありがとう)」と、青年は繰り返した。
 伸一は、その笑顔に胸を打たれた。心の窓が開かれて、「人間」の顔が現れたような気がした。
31  光彩(31)
 朝食をすませた一行は、旧市内や「時計の塔」をもつ旧市庁舎、プラハ城などを、慌ただしく回り、昼前には、ハンガリーのブダペストに向かった。
 今度は、飛行機は予定通りに飛び、約一時間十五分で、ブダペストの空港に到着した。
 いったんホテルに荷物を置くと、一行は、市内の視察に出かけた。
 ブダペストは″ドナウの真珠″ともいわれる、美しい街で、温泉があることでも知られている。
 また、ハンガリーは、ヨーロッパの国々のなかで、唯一、東洋系のマジャール人の建てた国であり、人の名前の表記も、日本と同様に、「姓・名」の順になっている。
 一行は、車で、英雄広場など、市街を見学した。
 途中、像の台座だけが、ポツンと置かれているのが目についた。
 「あれは、なんの像だったんですか」
 案内の人に、同行のメンバーが尋ねた。
 「あそこには、スターリンの銅像があったんです。あの八年前のハンガリーの事件の時に、民衆が銅像を倒して、市中を引き回したんです」
 さらに車を走らせると、今度は、壁に幾つもの弾痕が残る建物があった。
 「これも、事件の時の市街戦でできたものです」
 一行は、ここで車を降りて、無残な弾痕が刻まれた石壁の前に立った。
 一九五六年(昭和三十一年)の十月に起こった、あの「ハンガリー事件」のニュースは、山本伸一にとっても、大きな衝撃であった。
 この年の二月、ソ連共産党の第二十回大会で、フルシチョフ第一書記らが、三年前に死去したスターリンの残忍さ、権力の濫用などを、激しく弾劾した。
 いわゆる「スターリン批判」である。
 この党大会は、同じ共産主義圏の東欧諸国にも、激しい動揺をもたらし、自由を求める機運が一挙に高まっていった。
 それから、八カ月が過ぎた十月二十三日、ハンガリーの人びとが動いた。
 その日、ハンガリー駐留のソ連軍の撤退や、自由化政策を推進して解任された前首相のナジ・イムレの復帰、自由選挙の実施などを掲げた、学生や労働者のデモが行われていた。
 ところが、治安警察がデモ隊に発砲したことから、一転、市民のデモは暴動と化した。
 激昂した市民は、スターリンの肖像を焼き、また、彼の銅像にロープをつけて引き倒したのである。
32  光彩(32)
 政権を独占してきた、ハンガリー労働者党(共産党)は、事態を収拾するため、市民の要求を聞き入れ、ナジ・イムレを首相に再任することを発表した。
 だが、その一方で、戒厳令を敷き、ワルシャワ条約機構により、駐留ソ連軍の出動を要請。ソ連軍の戦車や兵士が、ブダペスト市内に侵入した。
 これによって、市民の怒りは頂点に達した。
 ハンガリー国防軍も、事態収拾のために出動したが、国防軍は市民側に加わり、ソ連軍との戦闘に入ったのである。
 ブダペストの内乱は、ハンガリー全土に広がった。
 各地に、市民、兵士によって、革命委員会が組織されていった。
 ナジ首相は、革命委員会の要求をいれ、複数政党制への移行を発表した。
 さらに、ソ連政府と協議し、駐留ソ連軍の撤退も始まったのである。
 革命は成就したかに見えた。しかし、それは、束の間の夢にすぎなかった。
 三十一日、ソ連軍が再びハンガリーに侵入を開始。このため、ナジはワルシャワ条約機構の脱退などを宣言するが、十一月四日、ソ連の戦車約二千五百台がブダペストを蹂躙したのだ。
 戦車と銃砲によって、人びとの「自由」の夢は打ち砕かれたのである。
 ナジは、その後、捕らえられ、事件の首謀者として処刑されている。
 この事件により、数千人が死亡し、約二十万人が亡命したといわれる。
 当時、この事件を知った戸田城聖は、激しく胸を痛めていた。
 彼は、一九五七年(昭和三十二年)の元日付の聖教新聞でハンガリー事件に触れ、こうつづっている。
 「ただ、国民が悲痛な境遇にあることだけは察せられる。貧乏と困苦の生活上に加えられたものは鉄火の見舞いである。悲しむべき民衆ではなかろうか。われらは、この苦しみを想像しうる……」
 「一日も早く、地上からかかる悲惨事のないような世界をつくりたいと念願するだけである。
 民主主義にもせよ、共産主義にもせよ、相争うために考えられたものではないと吾人は断言する。
 しかるに、この二つの思想が、地球において、政治に、経済に、相争うものをつくりつつあることは、悲しむべき事実である」
 山本伸一は、その戸田の心を思い返しながら、弾痕の残る建物を、じっと見つめた。
 それから彼は、この大地に、題目を染み込ませる思いで、心で唱題した。
33  光彩(33)
 山本伸一は、社会主義について、考えざるをえなかった。
 ――プラハでも、ブダペストでも、飢える民衆の姿も、物乞いをする子供たちも見ることはなかった。
 しかし、人びとの表情は暗く、寡黙であり、何かに怯えるかのような印象があったことは否めない。
 八年前の、あのハンガリーの事件が示すように、賢明な民衆は、解放を求め、自由を渇望していることは間違いない。
 それにしても、社会主義国にあって、なぜ、スターリンのような、血の粛清を重ね、無数の人びとの生命を奪った独裁者がつくられたのか。
 また、強権主義、官僚支配が生まれ、かくも民衆の自由が奪われてしまうのだろうか。
 共産主義を生み出すに至ったマルクスの理論構築の動機には、ヒューマニズムがあったことは事実だ。
 十九世紀の先進工業国であったイギリスの労働者の、あまりにも悲惨な状態が、何に由来するのか、どう救済すべきかの解明から、マルクスの理論構築は始まっているからだ。
 彼は、人間を「階級」という枠でとらえ、社会の矛盾や悪の根源を、「階級」の対立に見いだした。
 そして、この対立をなくすことによって、矛盾や悪の根を断つことができると考え、歴史の新たな担い手を、「プロレタリアート」(労働者階級)という集団的人間に仮託した。
 しかし、その人間の洞察は、あまりにも表層的であった。当時の進歩主義的な風潮もあずかって、マルクスは、いわば「理性のモノサシ」をもって、極めて単純化して人間をとらえたのである。
 だが、人間の欲望やエゴイズムは、理性や自覚化された意識の力で、すべてコントロールできるほど、単純なものではない。
 一念三千の当体である人間の心には、大宇宙が内包されている。善も、悪も具え、無限の可能性を秘め、瞬間瞬間、躍動してやまぬ生命的存在が人間である。
 ところが、マルクスは、この限りなく深い、人間の内面を、徹底して見すえ、その全体像を把握することはなかった。
 人間とは何かを、正しく認識せずしては、人間の幸福を実現することは不可能である。
 にもかかわらず、完全無欠な社会を想定し、そこに強引に、人間を当てはめようとしたことによって、マルクスの理論構築の動機にあったヒューマニズムの芽は、摘み取られていったといえる。
34  光彩(34)
 ロシア革命は、レーニンなどに代表されるように、知識人によって、意図的に計画され、遂行された、世界最初の革命であった。
 現実のなかで、いかに革命を推進するかを考えたレーニンは、前衛党の強力なリーダーシップなくしては、革命の持続的発展はないことを痛感していた。
 そして、生まれたのが、レーニンの「大衆―前衛」論であった。
 前衛党は、彼が大衆を思い、愛するがゆえの、指導的役割の担い手として誕生したことは否定できない。
 しかし、この考え方のなかに、既に「指導する前衛党」と、「遅れた民衆」とが分断されていく萌芽が、潜んでいたといってよい。
 前衛党のリーダーたちには、民衆以上に民衆の欲求を知っているという自負があった。
 それは、「理性のモノサシ」で人間を推し量り、理性の刃だけで社会の進歩を裁量しようとする、傲慢に裏打ちされた自負である。
 その独善が、民衆蔑視の特権意識となり、遂には、「赤い貴族」といわれる、官僚たちを生み出すに至ることになる。
 民衆への蔑視とは、徹底した不信感である。そこにあるのは、人間は放っておけば悪い方向に向かうという、いわば″性悪説″ともいうべき発想といえよう。
 それゆえに、スターリニズムに象徴されるように、徹底した管理下、監視下に民衆を置く、巨大な官僚支配のシステムがつくられ、さらに、″密告″など、民衆間の相互監視、相互不信のシステムがつくり上げられていったのである。
 人間を見失えば、イデオロギーが独り歩きする。そして、イデオロギーの論理が優先し、権力で社会体制を抑え、維持することが第一の目的となってしまう。
 あのレーニンさえも、プロレタリアートの勝利という、「階級的価値」のためには、裏切りや密告、テロさえも肯定しているのだ。
 血の粛清を繰り返した独裁者スターリンの登場も、彼の性格の特異性もさることながら、そうした偏った人間観、歴史観に起因するところが大きいのである。
 こんな話がある。
 パベル・モロゾフという少年がいた。彼は、自分の両親が富農であると密告し、そのため、両親はシベリア送りとなり、最終的に殺害された。
 ところが、この″親を売った″少年は、英雄、愛国者として称賛され、銅像まで建てられたのである。
 「イデオロギー」と「人間性」との倒錯である。
35  光彩(35)
 ロシア革命の後に、国外追放された哲学者のベルジャーエフは、次のように指摘している。
 「マルクス主義は人格の内面的な精神的な生活を考慮に入れていない。人格は社会的な建築工事の役に立つ石にすぎず、社会の活動力の向けられている対象にすぎず、主体ではない」
 後のスターリン時代に、″ネジの理論″として猛威をふるう、誤った思考形態を、彼は、いち早く突いたのである。
 また、一九三六年、つまり、革命から十九年後にソ連を訪れた、フランスの作家アンドレ・ジッドは、ソ連の民衆ほど、深く強くヒューマニティーの感情を感じさせる民衆はいないと述べる一方、次のように警告している。
 「あれだけの努力を尽し、あれだけの年月を経たからには、彼ら民衆も少しは頭を擡げてきたことだろう、とわれわれは期待していた。――だが、彼らの頭はいまだ嘗つてこれほどまでに低くかがめられたことはないのである」
 山本伸一も、チェコスロバキア、ハンガリーの民衆に、国家の前に小さく身を屈した姿を感じていた。
 しかし、では、社会主義そのものが根本的に否定されるべきものかというと、決してそうではあるまい。
 ある時代、ある段階では、社会全体の発展のために、計画経済を必要とし、それが大きな効果をあげることもある。
 また、自由主義、市場経済をとっている国であっても、社会主義の道徳的な特質である、「平等」や「公正」の理念を忘れれば、弱肉強食に堕してしまうであろう。
 問われるべきは、社会主義の政治的、社会的側面というよりも、それが歴史を動かすすべてであるとの錯覚――つまり、「人間」という視点の欠落である。
 要するに、自由主義か社会主義かという国家体制の選択よりも、「人間不在の政治」から「人間尊重の政治」への転換こそが、不可欠といってよいだろう。
 伸一は、その新しい社会主義の指標として、「人間性社会主義」を提唱していたが、その確信を、ますます強くしたのである。
 社会主義国の指導者も、真に自国の民衆の苦悩に耳を傾け、人間が歴史の主役になることを真摯に考えるならば、ヒューマニズムに立ち返ることの大切さを、自覚するはずである。
 伸一は、社会主義国の指導者たちと、会って語り合いたいと思った。いや、そうしていかねばならないと思った。
36  光彩(36)
 翌十月十二日、山本伸一の一行は、ブダペストを発ち、スイスのチューリヒに到着した。
 街を歩き、レストランに入ると、同行のメンバーが伸一に語りかけた。
 「やはり、自由主義の国に来ると、なんだか、ホッとしますね」
 それは、皆の実感であったようだ。
 伸一は答えた。
 「しかし、自由主義の国も、本当の民主を実現するのは容易ではない。
 日本を見ても、かたちは民主主義でも、その実態には大きな疑問がある。
 指導者や政治家が、民衆に対する信頼と尊敬の念をもっているだろうか。
 選挙の時だけは、国民に頭を下げるが、その実、民衆を見下している政治家が、いかに多いか。
 『大衆即大智識』という吉川英治の言葉があるが、民衆に学ぼうという真摯な姿勢をもった政治家が、何人いるだろうか。
 また、民衆自身、主権者の自覚をもって、社会をどうするか、政治をどうするかと、真剣に考えているとは言いがたい」
 秋月英介が、頷きながら言った。
 「それだけに、一人の人間に光を当て、民衆同士が互いに磨き高めていく、学会の運動が、極めて大事になりますね」
 伸一の目が光った。
 「そうなんだよ。
 ロシア革命も革命であったが、私たちが今なそうとしていることは、人間革命を機軸とした総体革命だ。
 わが内なる悪と戦い、すべての根源である人間の内面を、生命を変革していく人間革命だ。
 そして、政治や経済に限らず、教育、科学、文化、芸術など、人間のもたらすいっさいの所産を、人間の幸福のためのものとしていく作業である。
 ゆえに、それは、過去の革命とは全く次元を異にしている。
 まず、その方法は、急進的な暴力革命ではない。どこまでも、漸進的な非暴力の革命である。
 強引に、性急に事を運ぼうとすれば、必ず無理が生じ、歪みが起こる。偉大なことは、一朝一夕にできるものではないからね。
 では、その武器は何か。一人ひとりとの対話だ。言論の力による革命だよ。
 そして、より根本的には、人格による触発作業といえる。したがって、自己の人格を磨くということが、私たちの運動の不可欠な要件となっていく」
 皆、伸一の話に、真剣に耳をそばだてていた。
37  光彩(37)
 山本伸一は、皆の顔を見ながら、言葉をついだ。
 「どこまでも一人の人間に光を当て、同苦しながら進む広宣流布の運動は、イデオロギーを優先する生き方や全体主義とは、対極にある。
 全体主義などの考え方は、人間を一個の人格としてとらえるのではなく、『階級』や『民族』といったように、抽象的にとらえていく。しかし、人間は、そんな枠でとらえきれるものではない。
 既にその時に、いかにスローガンとして、″民衆のため″と叫ぼうが、本当の人間、本当の人民を見失ってしまっている。
 そして、異なる意見の持ち主には、『人民の敵』などというレッテルを張り、『悪』として括り、排斥、抹殺していく。それがスターリニズムであり、また、ナチズムではなかったか。
 戦時中の日本も、そうだった。国を愛し、民衆を愛した、あの牧口先生、戸田先生も『非国民』とされたのだ。
 人間の真実を知る生命の哲学なきゆえの、根本的な人間不信が、次々と人間を分断していくことになる。
 私は、この分断こそが、最大の悪の要因であると断定したい。
 広宣流布は、一人ひとりの人間に、『仏』を見て、人間と人間を、信頼で結び合う尊き運動である。
 今、私たちは、人類の歴史上、類を見なかった、全く新しい、未聞の革命を起こそうとしている。しかも一人の犠牲者もなく。
 これは、壮大な実験だ。しかも、失敗が許されない実験といってよい。
 二十世紀は、『戦争と革命の世紀』といわれているが、同時に、人間革命の開幕の世紀となるだろう。
 いや、むしろ、人間革命の開幕の世紀ゆえに、二十世紀は、人類史上、最も輝かしい、生命の光彩の世紀への序曲として記録されることになると、私は確信している。みんなは、そのヒーローだよ」
 話は、雄大な広がりを見せ、希望の光が差していくかのようであった。
 伸一たちは、チューリヒには二泊して、予定していた仕事をすませ、十月十四日に、パリに戻った。
 翌十五日は、ドイツの青年たちと会うことになっていた。
 ドイツのメンバーは、パリの川崎鋭治の家に、朝早く到着し、夕刻から開かれる指導会に出席して帰ることになっていた。
 伸一は、前夜、ドイツの青年たちのことを考え、カレーライスを作ってくれるように、川崎鋭治の妻の良枝たちに頼んだ。
38  光彩(38)
 朝、山本伸一が川崎鋭治のアパートに行った時には、既に、ドイツに留学している、女医の高石松子が到着していた。
 「いやー、よく来たね。ドイツから、ここまで、どうやって来たんだい」
 伸一が聞くと、高石は、頬を紅潮させて答えた。
 「自分で車を運転して来ました。私は、ペーパードライバーなもので、こんなに長い距離を運転するのは初めてだったんです。
 ところが、途中、濃霧だったので、必死になって、お題目を唱えながら運転して、なんとか無事に、パリにたどり着きました」
 「時間は、どのぐらいかかったの」
 「十八、九時間です。不眠不休でした」
 「そうか、それは、大変だったね。
 でも、無理をしては、絶対にいけないよ。こういう時は、ゆとりをもって、ゆっくり休みながら、運転するようにするんだ。
 もし、事故を起こしてしまったら、なんにもならないからね。事故を起こさないようにする知恵が大事であるし、それが信心だよ」
 伸一には、小柄な高石が、ハンドルにしがみつくようにして、必死になって運転している様子が、瞼に浮かぶようであった。
 「乗って来たのは、どんな車なの。車を見たいね」
 「はい」
 高石は先に立って、アパートの前に止めておいた車に、伸一を案内した。
 車は、青いフォルクスワーゲンであった。
 「いい車だね。名前はあるのかい」
 「はい、『若鮎号』と名づけました」
 「すばらしい名前だね」
 伸一が、車に近づいて見ると、なかに一人の女性が乗っていた。
 「この方は?」
 伸一は高石に尋ねた。
 「ドイツの女子部のメンバーで、波山広子さんといいます。先月の末にドイツに来られました。
 ドイツから一緒に来たのですが、ご招待を受けていないので、車で待機していたのです」
 「なんだ、そんなことは気にしなくていいから、一緒にいらっしゃい。
 車の中なんかで、待たせてしまって悪かったね」
 伸一は、部屋に戻ると、波山に声をかけた。
 「生活は大丈夫なの?」
 「はい。私は、日本で看護婦をしていたのですが、高石さんの紹介で、ドイツの病院に勤務することが決まっています。ドイツの広宣流布をしようと思ってやって来ました」
39  光彩(39)
 波山広子の話を聞くと、山本伸一は言った。
 「嬉しいね、そういう人が来てくれて。
 では、ドイツに、ずっといるつもりなんだね」
 「はい、骨を埋める決意でまいりました」
 「それならば、まず、ドイツ語をしっかり勉強することだよ。言葉は、最大の財産になるからね。あとは、体を大切にしながら、自分らしく頑張りなさい」
 波山や高石松子らと懇談していると、やがて、ドイツの支部長になった、佐田幸一郎たちが到着した。
 伸一は言った。
 「みんな、おなかが減っているだろうから、食事をしながら語り合おう。カレーライスを作ってもらっておいたんだよ。カレーライスは、みんな、懐かしいんじゃないかと思ってね」
 皆の顔がほころんだ。
 ドイツのメンバーのなかに、ミツコ・ナカハタという女性がいた。
 彼女は、日系二世で米軍の軍人である夫の仕事の関係で、一年ほど前に西ドイツ(当時)に来たが、それまではアメリカのケンタッキーで支部の婦人部長をしていた。
 夫は未入会であり、そのなかで、西ドイツに来てからも、懸命に、学会活動に励んできた。
 伸一は、彼女が活動で、家を空けることも多いのではないかと思うと、ナカハタの家庭のことが心配でならなかった。
 彼は尋ねた。
 「ご主人は、お元気でしょうか」
 「はい、元気です。夫はこの二週間、演習に行っておりまして、今日、帰ってまいります」
 「それはいけない!」
 伸一は、こう言うと、諭すように語り始めた。
 「ご主人の身になってごらんなさい。
 二週間もの演習で、疲れ果てて、わが家に帰って来る。ところが、家には妻もいない。明かりもついていない。食事のしたくもできていない。
 誰もいない、冷たく、暗い家に帰ったご主人は、どんな思いをするか……。
 広宣流布のために全力を尽くすのは当然ですが、″信心のためだから、これでいいんだ″などと考えては、絶対にいけません。
 どんなに忙しくとも、家族への配慮を忘れてはならない。それが信心なんです。それが、一家和楽の勝利への道です。
 せっかく来たのに、残念かもしれないが、夜の指導会には出ずに、カレーを食べたら、すぐに帰ってあげてください。
 これが、あなたへの指導会です」
40  光彩(40)
 ミツコ・ナカハタは、目を潤ませながら、山本伸一の話を聞いていた。
 彼女は、皆と一緒に、夜の指導会に参加したいという思いで、いっぱいであったのであろう。
 伸一は、ナカハタの気持ちは痛いほどわかっていたが、彼女の家庭の事情を考えると、帰さないわけにはいかなかった。
 婦人が学会活動に励むには、当然、家族の理解と協力が必要になる。
 理解を得るには、家族を大切にすることである。自身の振る舞いを通して、仏法がいかなる教えであり、学会の指導がいかなるものであるかを、示していく以外にないからだ。
 つまり、家族の間にあって、信頼と尊敬を勝ち得ることだ。
 しかし、ともすれば、自分が信心に励み、学会活動をしているのは、一家の幸福のためなのだから、家のことは手を抜いても仕方がないと、考えてしまいがちである。
 それは、甘えであり、信心の利用といってよい。
 伸一は、彼女が、気づかぬうちに陥りがちな考えを、打ち破っておきたかったのである。
 最後に、伸一が「ご主人に、くれぐれもよろしく」と言うと、ナカハタの顔に笑みが浮かんだ。
 さらに、伸一は、佐田幸一郎に、後で彼女を、駅まで車で送るように頼んだ。
 青年部長の秋月英介らが、ご飯を盛って、カレーをかけ、皆に配った。
 部屋に、香ばしいカレーの匂いが漂った。
 「さあ、食べよう」
 今度は、カレーを食べながらの、和やかな懇談が始まった。
 佐田が伸一に報告した。
 「先生、実は、私は、十月いっぱいで、日本に帰ります」
 「そうか、それは残念だな。それで、日本に帰って、どうするんだい」
 伸一は尋ねた。
 「帰国するといっても、ドイツに滞在するための手続きをすませたら、すぐに戻って来る予定でおります。
 ドイツの広宣流布のためには、日本でしっかり信心を身につけた、力ある青年が、まだまだ、たくさん必要です。
 幸い、ドイツの場合、男性なら、炭鉱の仕事はいくらでもありますし、女性では、看護婦ならば、すぐに仕事があります。
 そこで、日本に帰って、ドイツの広宣流布のために頑張りたいという青年を、三十人ぐらい探して、連れて来ようと思うんです。
 青年がいなければ、未来は開けませんから」
41  光彩(41)
 山本伸一は、ドイツの広宣流布にかける、佐田幸一郎の気概が頼もしかった。
 伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「三十人も連れて来なくてもいいよ。十人ぐらいでいいから、世界に雄飛したいという青年を見つけて、活躍の舞台を開いてあげることだね。
 海外に来て、みんな、大変だと思っているかもしれないが、日本にいたって、つまらないよ。
 日本は狭いし、閉鎖的で、細かいことばかり気にして、嫉妬深いし、いやなところじゃないか」
 笑いが広がった。
 彼は、言葉をついだ。
 「佐田さんは、日本とドイツの懸け橋となり、ドイツの人びとの幸福の大道を開こうとしている。尊いことだね。私も、全力で応援するよ」
 伸一は、若き広布の英雄たちを、称え、元気づけたかった。
 午後から、伸一は、パリの建築物の視察に出かけ、夜には、再び川崎宅で開かれた指導会に臨んだ。
 指導会では、何人かの、フランスのメンバーの体験が感動を呼んだ。
 そのなかに、ジャンヌという名の女性がいた。
 彼女は子供のころから、喘息や脊椎の病気で苦しんできた。
 喘息の発作で、何度も死ぬ思いをし、学校にも、満足に通えなかった。
 母親は彼女の病を治そうと、病院を転々とし、よい治療法があると聞けば、すべて試みた。
 しかし、喘息は治らず、何年も、自宅で、ゼーゼーと喘ぎながら、寝て過ごす生活が続いた。
 寝るといっても、横になると苦しいために、クッションを体の下に置き、体を斜めにしていなければならず、熟睡することもできなかった。
 生きること自体が、地獄の苦しみであった。
 ジャンヌの母親のフランソワーズ・ウォールトン・ビオレは、画廊を経営していたが、娘の治療に使う金は膨大であった。
 次第に、借金が膨らんでいった。
 この画廊に、画家の長谷部彰太郎が出入りするようになった。
 ある時、ウォールトン・ビオレは、長谷部に金策の相談をもちかけた。
 彼は答えた。
 「私は、金はありませんし、金を持っている人も知りません。しかし、あなたが経済苦を克服し、幸せになる方法は知っています」
 そして、彼女を川崎の家に案内し、川崎と一緒に、仏法の話をしたのである。
42  光彩(42)
 フランソワーズ・ウォールトン・ビオレは、経済苦が乗り越えられるのならと、入会を決意したが、その帰り、長谷部彰太郎に、こう打ち明けた。
 「実は、私は、資金繰りの問題よりも、もっと大きな悩みを抱えているのよ。
 娘が病気で、子供のころから苦しみ続けているの。
 これも、信心で乗り越えることができるのかしら」
 長谷部は、確信をもって答えた。
 「もちろんです」
 彼女は、家に帰ると、早速、娘のジャンヌに、仏法のことを語った。
 ジャンヌは、母親が勧めるので、入会してもよいと思ったが、信心に期待はしていなかった。これまで、さまざまなものを試みてきたが、一向に治らなかったからである。
 しかし、題目を唱えてみると、その夜は、ぐっすりと眠ることができた。
 唱題すると、次の日も、その次の日も熟睡できた。かつてないことである。
 次第に彼女は、体力を回復していった。
 幾日か過ぎたころ、病院への通院以外で、初めて外に出ることができた。
 やがて、喘息の発作も治まり、日ごとに、健康になっていったのである――。
 ジャンヌは、随喜の涙を浮かべながら、体験を語り終えた。温かい拍手が彼女を包んだ。
 その姿を見ながら、目を真っ赤に腫らし、嗚咽する銀髪の婦人がいた。母親のフランソワーズであった。
 山本伸一は声をかけた。
 「お母さんですか」
 川崎鋭治が通訳をすると、彼女は「ウィ」(はい)と答え、そして、自分の来し方を語り始めた。
 ――父親が裁判所の長官を務める名門の家に育ち、パリ大学で哲学を学んだこと。
 ナチス・ドイツによってフランスが占領下に置かれた時には、夫とともにレジスタンス(抵抗)運動に身を投じ、夫はゲシュタポに捕らえられ、非業の死を遂げたこと……。
 彼女は言った。
 「私は、レジスタンス運動に加わりながら、″フランスが解放されれば、平和が訪れる。平和が訪れれば、私たちは幸せになれる″と信じてきました。
 事実、フランスは解放され、平和になりました。
 しかし、私は、娘の病に苦しんできましたし、娘を幸福にしてあげることもできませんでした。私の心には、いつも暗雲が垂れこめていました。
 ところが、仏法に巡りあうことによって、長年、苦しみ続けてきた病に、娘が打ち勝ったのです」
43  光彩(43)
 フランソワーズ・ウォールトン・ビオレは、最後にこう語った。
 「私の仕事である、画廊の経営も、軌道に乗り始めました。今、私の胸には、希望が輝いています。
 一人ひとりが幸福になってこそ、本当の平和です。
 私は、この仏法を人びとに教え、悲願としてきた真実の平和のために、生きようと決意しています」
 会場に、再び大きな拍手が起こった。
 山本伸一は、フランソワーズに言った。
 「どうか、世界一、幸せになってください。最も苦しんできた方だもの、そうなる権利があります」
 婦人は、瞳を輝かせ、にこやかに頷いた。
 指導会は、山本会長を囲んでの、質問会となった。
 伸一は、十問ほどの質問に、懇切丁寧に答えた。
 そのあと、彼は、青年部の人事を発表した。ヨーロッパに、新たに、男女青年部の部制が敷かれることになったのである。
 そして、男子部欧州部長には、これまでヨーロッパの男子部の責任者をしてきた諸岡道也が、また、女子部欧州部長には、女子部の責任者をしてきた高石松子が就任したのである。
 伸一は、ヨーロッパの組織の基盤が、着々と築かれつつあり、新しい人材が、陸続と育ってきたことが嬉しかった。
 時代は動き、常に時代は変わっていく。春になれば、花が咲くように、ヨーロッパの大地にも、さらに多くの地涌の友が育ち、人華の花園が広がるにちがいない。
 彼は、その確かな手応えを感じていた。
 十月十六日、伸一の一行は、パリを後にし、ノルウェーのオスロに向かって旅立った。
 今回の海外訪問は、かなりのハードスケジュールであった。伸一の体調を気遣った同行の幹部は、あまり学会員のいないノルウェーへの訪問は、中止にしてはどうかと意見を述べた。
 しかし、伸一は、予定通りノルウェーに行くことを主張して譲らなかった。
 この国には地区があり、調理師をしている橋本浩治と、妻の恵子が、地区部長・地区担当員になっていた。といっても、彼ら二人だけで、一年九カ月前に発足した地区である。
 この夫妻の双肩に、ノルウェーの広布の未来はかかっているといってよい。
 伸一は、橋本夫妻が、頼るべき同志もいないなかで、必死になって頑張っていることを思うと、なんとしても、会って励ましたかったのである。
44  光彩(44)
 オスロに向かう途中、デンマークのコペンハーゲンの空港で、一行が待機していた時であった。
 テレビのニュースで、ソ連のフルシチョフ首相の辞任の報道が流れた。
 十月十六日の午前零時過ぎから、ソ連のタス通信が伝えたものらしかった。
 それによると、ソ連共産党が十四日に開いた、中央委員会の緊急総会の席上、フルシチョフから、党第一書記、首相、党幹部会員の辞任の申請があり、党としても、彼の高齢、健康悪化を考慮し、これを承認したというのである。
 さらに、後任の党第一書記にはブレジネフが、首相にはコスイギンが就任したと発表された。
 フルシチョフは、独裁者スターリンが死去した一九五三年に、党第一書記に就任。以来、十一年にわたり、東西冷戦下の一方の雄であるソ連の最高権力を握ってきた。
 彼の辞任が、高齢などによるものであるとするなら、あまりにも唐突である。辞任の背景には、激しい政争があったにちがいないと、山本伸一は思った。
 やがて、フルシチョフの首相辞任の真相は、キューバ危機や経済の失政などの責任をとらされての、「解任」であったことが明らかになっていくのである。
 ところで、この十月十六日は、いくつもの重大ニュースが、飛び交った日であった。
 この日、中国は、初の核実験を行ったことを発表したのである。
 ソ連に続き、東洋の社会主義国からも、世界に激震が伝えられたのだ。
 さらに、海を隔てたイギリスでは、前日の十五日に投票が行われた総選挙の結果、ウィルソン党首の率いる労働党が僅差で保守党を破り、十三年ぶりに政権に返り咲いた。
 伸一は、世界の激動を肌で感じながら、愛する同志のために、ノルウェーへと向かっていた。
 オスロの空港では、橋本浩治が一行の到着を待っていた。
 彼は緊張していた。山本会長が、わざわざ自分のために、オスロまで足を運んでくれることが、夢のようでもあり、信じられないような気持ちであった。
 ″今や、学会といえば、日本では、既に五百万世帯になろうとする、実質的には日本第一の宗教団体だ。
 その会長の山本先生が、一介の調理人で、なんの力もない、自分に会いに、わざわざオスロまで来てくれるのだ″
 橋本は、いよいよ山本会長が到着するのだと思うと、感慨無量であった。
45  光彩(45)
 橋本浩治は、自分のしてきたことを思うと、反省することばかりであった。
 ″前回の山本会長のヨーロッパ訪問の時に、ノルウェーに地区をつくってもらったが、ほとんど発展はしていない。
 学会員といっても、自分たち夫婦と、自分が信心をさせた、もう一人のメンバーがいるにすぎない″
 そう考えると、彼は、山本会長に対する申し訳なさを覚え、胸がいっぱいになった。
 「橋本さん!」
 彼は、自分を呼ぶ声で、ふと、われに返った。
 見ると、山本会長をはじめ、秋月英介たちが、手を振っていた。
 橋本は、慌てて駆け寄って行った。
 「先生! ようこそおいでくださいました……」
 彼は、あいさつもそこそこに、山本伸一の手を、ぎゅっと握り締めた。
 伸一が笑顔で言った。
 「さっきから、みんなで何度も、君のことを呼んでいたんだよ。どうしちゃったんだい」
 「はい、緊張しておりまして、申し訳ありません」
 外に出ると、既に夜になっていた。北欧のオスロは、さすがに寒く、吐く息が白かった。
 それぞれ、持参して来たオーバーやコートを着た。
 一行は、橋本が手配してくれた車に分乗し、ホテルに向かった。
 車のヘッドライトが街路樹を照らすと、木々が鮮やかな黄色に染まっていた。
 昼間見れば、紅葉が美しいにちがいない。
 車中、橋本は、車を運転している青年を、伸一に紹介した。
 「先生、彼は、パーク君といって、今年の一月に入会したメンバーです」
 伸一は、青年に、深々と頭を下げて言った。
 「そうですか。お世話になります」
 橋本は、改まった口調で、伸一に語り始めた。
 「先生が、わざわざノルウェーまでおいでくださるなんて、まるで、夢のようです。
 昨年の一月、パリの空港で、ノルウェーに来ていただきたいと申し上げた時、先生は、訪問のお約束をしてくださいました。
 その約束を、本当に果たしてくださり、申し訳ない限りです。
 それに対して、私の方は、何も先生にお応えすることができません。
 しかし、そんな私のために、おいでくださったと思うと、感謝の言葉もありません。本当にありがとうございます」
 橋本の声は、喜びのためか、涙声になっていた。
46  光彩(46)
 山本伸一は、橋本浩治に言った。
 「いや、感謝しなければならないのは私の方だ。橋本さんに苦労をかけるんだもの……」
 それから、伸一は、こう語った。
 「それはそれとして、何事につけても、その感謝の心は大切だね。
 感謝があり、ありがたいなと思えれば、歓喜がわいてくる。歓喜があれば、勇気も出てくる。人に報いよう、頑張ろうという気持ちにもなる。
 感謝がある人は幸せであるというのが、多くの人びとを見てきた、私の結論でもあるんです。
 また、裏切っていく人間には、この感謝の心がないというのも真実だ。
 感謝がない人間は、人が自分のために、何かしてくれてあたりまえだと思っている。結局、人に依存し、甘えて生きているといってよい。
 だから、人が何かしてくれないと、不平と不満を感じ、いつも、文句ばかりが出てしまう。そして、少し大変な思いをすると、落ち込んだり、ふてくされたりする。
 それは、自分で自分を惨めにし、不幸の迷路をさまようことになる。
 御書に『妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず』と仰せだ。
 人がどうだとか、何もしてくれないと文句を言うのは、己心の外に法を求めていることになる。
 結局、精神の弱さだ。すべては自分にある、自分が何をなすかだという、人間としての″自立の哲学″がないからなんだ。その哲学こそが、仏法なんだよ。
 橋本さんは、調理師として厳しい修業に耐え、苦労を重ねてきたから、感謝の心をもてるんだね」
 間もなく、車はホテルに着いた。
 伸一が橋本を伴って、ホテルの部屋に入ると、運転をしてくれたパークが、荷物を運んできてくれた。
 「どうも、ありがとう」
 伸一は、お礼を言うと、この青年に、入会した感想を聞いた。
 青年は、ヨーロッパ人でありながら、東洋の宗教に入ったことに、どことなく恥じらいを感じているような口ぶりであった。
 伸一は言った。
 「この仏法は、全世界の民衆を幸福にするための教えなんです。
 まだ、今は、ノルウェーのメンバーで、ヨーロッパ人はあなたしかいないから、違和感を感じているかもしれない。しかし、仏法に国境はありません」
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 山本伸一の言葉には、情熱があふれていた。
 「フランスでも、アメリカでも、たくさんの欧米人が信心に励んでいます。これから、ますます増えていくでしょう。
 あなたは、ノルウェーの先駆者なんです。
 先駆者の道には、苦労はつきものです。でも、道ができれば、みんながついて来ます」
 青年の目が輝いた。
 「まず、しっかり題目を唱え、生命力をみなぎらせて仕事に取り組み、職場になくてはならない人になることが大事です。信心の実証を示すことが、仏法理解の先駆の道を開くことになります。
 また、一度、日本にいらっしゃい。そして、学会の姿を、よく見てください。
 あなたには、一年間、私から『ザ・セイキョウ・ニューズ』をプレゼントしましょう。しっかり、仏法を学んでください」
 パーク青年は、喜びにあふれた顔で言った。
 「わかりました。私も、しっかり信心に励んでまいります。今日は、私の人生の出発の日となりました」
 伸一は、彼と固い握手を交わした。
 翌日は、オスロ市内を視察し、午後四時前の便で、コペンハーゲンに向かうことになっていた。
 一行が最初に見学したのは、フログネル公園であった。
 そこには、黄色に燃える森の木々をバックに、随所に、人間の裸像の彫刻が立っていた。
 そのすべての作品を制作したのが、ノルウェーが生んだ大彫刻家グスタフ・ビーゲランである。
 これらの彫刻群は、「人間の一生」をテーマにつくられ、生々流転の様が、生き生きと表現されていた。
 なかでも目を引くのが、丘の上に立つ、約十七メートルの高さの、一本の円柱に刻まれた彫刻(モノリッテン)であった。
 そこに刻まれた百二十一人の老若男女が、もがくようにして、下から上へと向かっていく姿は、「生」そのものであるかのように感じられてならなかった。
 伸一は、石柱の前に、しばらく立っていた。
 ビーゲランのつくり上げた像は、特別な人間ではない。民衆であり、権威も権力もまとわぬ、裸の人間である。
 民衆こそ、力である。
 民衆こそ、主役である。
 ビーゲランは、民衆のなかに、人間の尊貴なる″光彩″を見いだしていたのであろう。
 伸一は、その真実を見抜く眼に感嘆したのである。
48  光彩(48)
 一行は、橋本浩治らの案内で、バイキング船博物館や、北極と南極に行ったことで知られるフラム号を展示した、フラム号博物館なども見学した。
 昼過ぎにホテルに戻り、オスロの空港に行くと、橋本の妻の恵子も、子供を抱いて、見送りに来てくれていた。
 山本伸一の妻の峯子が、恵子に声をかけた。
 「どうも、橋本さん、このたびは、大変にお世話になりまして、ありがとうございました」
 そして、恵子が抱いている子供を見て尋ねた。
 「かわいいお子さんですね。いつ、お生まれになったんですか」
 「今年の二月です」
 峯子は、その子を抱き上げた。子供は、無邪気な笑い声をあげた。
 伸一を囲んでの、和やかな語らいが始まった。
 伸一は、橋本夫妻に語りかけた。
 「ノルウェーは、いいところだね。何度も来たいところです」
 すると、恵子が喜びの声をあげた。
 「本当ですか! ぜひ、そうしてください」
 伸一は、恵子に微笑を向けて言った。
 「ありがとう。でも、残念ながら、そうもいかないので、私は、いつも、いつも、皆さんのことを祈っていきます」
 それから、橋本の目を見つめ、力を込めて語った。
 「橋本さん、あなたは、このノルウェーの地で、人生の幸福の大輪を咲かせていってください。
 それぞれの国で、誰か一人が立ち上がれば、幸福の波が広がっていきます。あなたが立てばいいんです。
 あなたは、南国のセイロン(現在のスリランカ)から、北欧のノルウェーに、調理人としてやって来た。しかし、それは、決して偶然ではない。
 仏法の眼で見るならば、この地で幸せの実証を示すとともに、この国の社会に貢献していくためです」
 橋本は、真剣な顔で、伸一の話を聞いていたが、決意のこもった声で言った。
 「先生、私は、生涯、ノルウェーの人びとの幸福のために、生き抜いていきたいと思います」
 「あなたの、その言葉を聞けば、ここに来た私の目的は、すべて達せられた。
 ありがとう!」
 伸一と橋本は、固い、固い握手を交わした。
 魂を注がずしては、人に触発をもたらすことは、決してできない。
 全生命を振り絞り、一念を尽くして、一人ひとりへの励ましを続ける、伸一の旅であった。
49  光彩(49)
 山本伸一の一行は、ノルウェーのあとは、デンマークのコペンハーゲンに一泊し、ここでも建築物の視察などをすませ、午後六時半、空路、帰国の途についたのである。
 人を励まし、勇気づけ、使命の種子を芽吹かせる作業は、地味であり、多大な労力を必要とする。
 皆、なかなか、その尊き意義に気づかない。
 たとえ、気づいたとしても、労作業ゆえに、回避しようとする。
 だが、どこまでも、一個の人間を見つめ、人間を信じ、人間の光彩を引き出すことからしか、人類の平和の夜明けは始まらないというのが、伸一の不動の信念であった。
 機内は、食事が終わって間もなく、明かりが消された。眠りにつく人も多かった。
 伸一は、一人、思索のひと時を過ごした。
 ――結成の決まった公明党をどうするか、この年の総仕上げをどうするかなど、彼の頭は、目まぐるしく回転していた。
 しばらくすると、機内放送が、オーロラ(極光)が見えると伝えた。
 伸一の隣の席にいた正木永安が、後ろに座っていた白谷邦男に語りかけた。
 「白谷さん、オーロラが見えますよ」
 しかし、白谷は、眠っているようであった。
 「白谷さん、起きた方がいいですよ。こんな機会は、滅多にありませんよ」
 起こそうとする正木を、伸一は笑いながら制した。
 「寝かしておいてあげなさい。疲れているんだよ」
 それから、伸一は、窓の外を眺めた。彼は、思わず息をのんだ。
 見事なオーロラであった。暗闇のなかに雲海が広がり、その上に、白いベールに似た美しい光が、波のようにうねっていた。
 じっと、目を凝らしていると、その光は、黄色みを帯び、また、青みがかっても見えた。
 きらめく星々が、ベールにちりばめられた、ダイヤモンドのようである。
 オーロラの妙なる光は、刻々と変化していく。それは大宇宙の詩を思わせた。
 伸一は、思った。
 ――かくも美しく、オーロラは輝く。宇宙は、こんなにも輝きに満ちている。小宇宙である人間もまた、本来、まばゆい光に満ちているはずである。
 その人間の光彩をめざして、人間のなかへ、生命のなかへ、私は励ましの旅を、断固として続けよう。
 人類の闇を開くために、輝ける人間の勝利の時代を開くために――。
 (この章終わり)

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