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日蓮大聖人・池田大作

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第9巻 「鳳雛」 鳳雛

小説「新・人間革命」

前後
2  鳳雛(2)
 男子部のある幹部が、発言した。
 「実は、中学生や、小学生の高学年のなかにも、男子部、女子部として活動したいというメンバーが増えております。
 高校生の場合もそうですが、学会の子供たちは、喜々として信心に励む両親の姿を見て育っていますので、自分たちも、学会活動がしたくて仕方ないようなんです。
 しかし、男女青年部の場合、平日の夜の会合も多いですし、会合の終了は、午後の九時ごろになってしまいます。
 そうした時間の活動に、中学生や小学生が参加するのは、問題があります。したがいまして、中学生などの場合も、独自の組織をつくってはどうでしょうか」
 男子部、女子部には、子供たちをも魅了してやまない輝きがあった。
 この四月の時点で、男子部は、年間目標である部員百五十万の達成に向かって驀進中であった。一方、女子部も、部員百万をめざし、歓喜に燃えて奮闘していた。
 その青年たちの力は、各支部や地区でも、いかんなく発揮され、各部のメンバーの″希望の星″であり、″学会の顔″といってよかった。その姿はまた、子供たちの憧れの的にもなっていたのである。
 学会員の子供に、将来はなんになりたいのかと聞くと、「男子部!」や「女子部!」と答える子供も少なくなかった。
 そして、男女青年部として、本格的に活動する日を夢見ながら、学会の音楽隊や鼓笛隊に入るメンバーも多かった。
 山本伸一は言った。
 「そうだね。中等部をつくることも検討しよう。大切な着眼点といえる。
 ところで、先日、発表された『青少年白書』でも、青少年の非行化の深刻さが浮き彫りにされていたね。
 日本の未来を考えると、これから、若い世代をいかに育成していくかということが、極めて重要なテーマになってくる。
 それを、本当に行うことができるのは、創価学会しかない」
 この年の三月に発表された、『青少年白書』(一九六三年版)によれば、少年犯罪は、年々、増加の一途をたどっていた。
 しかも、犯罪の低年齢化が進み、特に十四歳から十五歳では、前年比三五パーセント増となっていたのである。
 さらに、中流家庭層の子弟による犯罪の増加が、指摘されていた。
3  鳳雛(3)
 青年部の首脳幹部は、真剣な顔で、山本伸一の話に耳をそばだてていた。
 「私は、『青少年白書』のなかで、″都市化″が青少年の非行にも、深くかかわっていると論じていたことが、強く印象に残っているんだよ。
 大都市の盛り場などに遊びに行くと、大勢の人がいるから、そのなかに埋もれてしまったような感覚になる。それで、自分の存在感が希薄になって無責任になり、誤った行動を起こしやすいと分析しているんだ。
 また、近年の少年の犯罪は、かつてのように、貧困が原因ではなく、普通の生活をしていながら、犯罪に走っているとあったが、これも見過ごしてはならないことだと思う。
 日本は、戦後の貧困を完全に脱した。経済的には、確かに豊かになった。
 大学や高校への進学率も上昇している。また、街の景観も変わった。特に、この秋の東京オリンピックをめざして、東京の街はすっかり整備され、様相は一変した。
 しかし、少年犯罪は増えている。非行化傾向も進んでいる。これはなぜだと思うかい」
 女子部の幹部が答えた。
 「子供たちが、自分をかけるものがなく、精神的な空虚感がつのっているせいだと思います。受験に勝つことしか、意味がないようにいわれていますから、ほかに人生の目標が、全く見いだせなくなってしまった……」
 続いて、男子部の幹部が、意見を述べた。
 「私も、白書にあるように、自分という存在感が、希薄になってきているという傾向はあると思います。
 ″自分の役割はなんなのか″″自分なんて、どうでもいい存在ではないのか″という気持ちが、みんなにあるようです。
 そんな自分に対する、不安と焦りが、非行化に駆り立てているように思えてなりません」
 伸一が答えた。
 「つまり、自分というものの根本的な価値も、人生の価値も見いだせなくなっている。それは、言い換えれば、なんのための人生なのかが、わからなくなっているということだ。
 政府も″人づくり″といって、教育に力を入れてはきた。しかし、人間としての使命を教え、人生の価値を創造する教育とは、ほど遠い状態だ。
 また、人間として、何が善であり、何が悪なのかを教えることも、悪と戦うということを教えることもなかった。
 結局、人間の哲学がないがゆえに、本当に人間をつくることができないでいるんだ。
4  鳳雛(4)
 日本の未来、世界の未来を考える時、高校生や中学生などをいかに育成してくかは、極めて重要だ。そして、その模範を示していくことが学会の使命であり、これからの社会的な役割の一つといえる。私は、みんなが賛成ならば、高等部、中等部を結成しようと思う」
 「はい、お願いします」
 皆の元気な声が響いた。
 「あとの具体的な問題については、秋月青年部長を中心によく話し合ってもらいたい。
 結成は、まず高等部からとしよう。五月三日の本部総会を終えたあとがよい。
 といっても、私は引き続き、海外に行くので、帰った時点で、発表できるように準備してほしい。つまり、高等部は『本門の時代』に入って、最初に結成される部ということになる。まさに、『本門の時代』を担うための若き組織だ」
 以来、青年部長の秋月英介を中心に、青年部の首脳で何度か協議が重ねられ、高等部、中等部結成の大綱が練られていった。
 高等部については、モデルケースとして、まず、首都圏、関西で組織化を進めることにした。その準備には、学生部のOB部のメンバーがあたることになった。
 OB部は、学生部員の指導・育成のために、前年の六月に設けられた部門であり、学生部出身の男女青年部の中核によって構成されていた。
 この婦人は、青年部の最優秀のメンバーで、高等部を育てようとする意気込みを示すものといえた。
 また、高等部の場合、高校生が自主的に活動を推進していくことをめざし、まず、各本部ごとに、核となるメンバーを、男女各五十人ずつ、つくっていくという方針が決定した。
 さらに、当面の活動としては、東京で六月に、各本部ごとの結成の会合を開いて、以後、本部単位で日曜日に教学の研鑽などを行っていくことが決まった。
 一方、中等部は、それぞれ支部ごとに、男女青年部の幹部が担当し、日曜日に部員会を開催していくことになった。
 こうして、六月一日の断じ武官部会での、高等部、中等部設置の発表となったのである。
 それは、さらに翌二日の女子部幹部会でも発表されたのである。
 聖教新聞でこの発表を知った、全国の高校生や中学生の喜びは大きかった。青年部の幹部には、問い合わせが殺到した。
5  鳳雛(5)
 六月一日の男子部幹部会から六日後の、七日午後、東京・江東区の東京第二本部の会館には、白い夏の制服に身を包んだ、男子高校生が次々と集って来た。
 からりと晴れ上がった、日曜日であった。
 どの顔にも、喜びがあふれ、会場の広間は、若々しい熱気にあふれていた。
 この日、東京では、各本部別に高等部の結成の集いが開かれ、東京第二本部では、午後三時から、男子高等部の結成式が開催されたのである。
 皆で元気いっぱいに学会歌を合唱したあと、学生部のOB部員などの先輩幹部が、「わが高校時代を振り返って」と題して、体験を披露した。
 笑いあり、涙ありの、先輩たちの体験談に、参加者の心は一つにとけ合っていった。
 やがて、担当幹部を囲んでの質問会となった。
 学業とクラブ活動の両立の問題や、大学進学の考え方など、活発に質問が飛び出した。答える担当幹部も真剣であった。
 高校生の求道心と、先輩の真心の指導が、歓喜の爆発をもたらしながら、瞬く間に時は過ぎていった。
 「じゃあ、質問はあと一問だけ!」
 担当者が、こう言った時であった。
 突然、会場左の入り口付近にどよめきが起こった。
 「やあ、ご苦労様!」
 そこに姿を現したのは、会長の山本伸一であった。
 歓声とともに大拍手が起こった。高校生たちの顔が紅潮した。担当の幹部たちは、驚き、慌てた。
 伸一の後ろには、青年部長の秋月英介と、もう一人の同行の幹部がいた。
 「驚かせてすいません。皆さんの未来への出発を祝って、今日は、一緒に勤行をしましょう」
 伸一は、にこやかに笑みをたたえて言った。
 彼は、秋月から、この日に高等部が結成式を行うという報告を聞くと、高校生たちに一目でも会い、一言でも激励しようと思った。
 そして、時間をこじあけるようにして、この東京第二本部の結成式に立ち寄ったのである。
 皆、山本会長と間近に接するのは初めてであった。伸一の読経に合わせて、弾けるような喜びの声が唱和した。
 勤行が終わると、伸一は参加者に温かいまなざしを注ぎながら、話し始めた。
 「どうぞ、膝を崩して、楽にしてください。
 人の一生は、十代、二十代でどういう努力をしたか、どういう前進をしたかで、明確に決まってしまうものです」
6  鳳雛(6)
 皆、食い入るように山本会長の顔を見つめ、指導に耳を傾けていた。
 「どうか、皆さんは、これからの十年間、しっかり勉強し、学びに学んで、堅固な人生の土台をつくっていってください。
 そして、将来は、人びとの幸福のために、人類の平和のために、諸君が、学会の土台となって、広宣流布を支えていただきたい。
 世界の指導者を見ると、多くは、十代、二十代で、人生の哲学、思想、信念をもち、それを貫いて、三十代、四十代で、偉大な仕事を成し遂げております。
 青春時代に、生き方の骨格をつくり、さらに完成させていくところに、確かな人生の道があります。
 その意味から、諸君も、信心に励み、題目をあげきって、最高の生命の哲学である仏法を、人生の根本の思想にしていっていただきたいのであります」
 次いで、同行の幹部があいさつに立った。
 秋月は、こう訴えた。
 「本日は各地で、高等部の結成式が行われておりますが、山本先生が出席されたのは、ただ一つ、この会場だけであります。
 この会合こそが、広宣流布の歴史に残る、高等部の結成式であることを忘れずに、高等部員の模範となっていただきたいと、念願するものでございます」
 結成式を終え、別室に移った伸一は、担当の幹部たちを部屋に招いた。
 「どうも、ご苦労様!
 高等部は未来の広布を考えると、極めて重要な部になります。本来、私が一人ひとりのメンバーを育んでいきたいが、とても、そこまではできない。
 だから、皆さんのお力をお借りしたい。私に代わって、メンバーを励ましていただきたい。今日は、何か聞きたいことがあれば、なんでも聞いてください」
 すると、一人の担当幹部が尋ねた。
 「高等部や中等部の指導にあたって、最も強調すべきことはなんでしょうか」
 伸一は、即座に答えた。
 「あくまで勉学第一であり、学問に励むようにすることです。当然、根本は信心です。
 何のために勉強するのかという、目的を明確にしてあげれば、勉強への取り組みも、自然と積極的になっていくものです。
 また、大勢の先輩、よき相談相手が周囲にいれば、安心して自分の人生行路を決めていくことができる。
 若芽が未来に、スクスクと伸びゆくための応援をしていくことが、高等部、中等部の結成の趣旨です」
7  鳳雛(7)
 別の担当幹部が尋ねた。
 「子供たちに宗教を教え込むのはどうか、という人もいるようですが」
 山本伸一は言った。
 「豊かな心を培い、また、人間としての生き方の骨格をつくっていくのが信仰です。だから、若いうちから、信心をすることが大事になる。
 人間として大成するために、信仰の『種』、信念の『種』、哲学の『種』を植えていくんです。そして、将来の社会の指導者を、学会の指導者を育てていくことが、担当者の皆さんの使命です」
 さらに、質問は続いた。
 「高等部などの活動としては、折伏などは行わないのでしょうか」
 伸一は答えた。
 「折伏を高等部の活動として打ち出す必要は、全くありません。
 高等部の場合、どれだけ学業に力を注いだか、ということが勝負です。
 そして、伸び伸びと、開放的な雰囲気のなかで、豊かな心の持ち主に成長できるよう、配慮していってもらいたい。
 また、高等部といえば、もう大人です。昔なら、元服を終えている。したがって、担当者としては、どこまでも対等な人格として、若き同志として接していくことです。
 同じ人間として、人格の触発を行っていくことが、本当の指導です。
 君たち青年部の先輩の激励のいかんで、高等部員が大樹へと成長できるかどうかが決まる。頼んだよ」
 記念すべき結成式を終えた高等部では、以来、各本部ごとに、月に一、二回、御書講義など教学の勉強会が開かれていった。
 高等部の集いには活気があった。常に若々しい力と情熱があふれていた。
 男子高等部の東京の担当幹部の責任者には、学生部のOB部員である小森宏明が就いていた。
 この小森を中心に、担当幹部で協議し、夏休み明けの九月には、東京を中心として、男女高等部員が一堂に会して、初の部員会を開催することにした。
 担当者たちは、高校生のなかに飛び込んでいった。
 そのなかで、さまざまな相談をもちかけられるようになった。
 勉強の問題もあれば、将来の進路の相談もあった。なかには、恋愛問題など、親には打ち明けられない悩みを語る高校生もいた。
 担当者は、男子部、女子部の幹部としての活動があり、多忙を極めていた。
 しかし、高等部の育成を最優先し、メンバーの激励のためには、時間を割くことを惜しまなかった。
8  鳳雛(8)
 九月二十日の日曜日、待望の第一回高等部員会が、東京・世田谷区民会館で開催された。
 開会の一時間前の午前九時には、首都圏から集った高校生千八百人で、場内は早くもいっぱいになった。
 部員会は、学会歌「新世紀の歌」の大合唱で幕を開けた。
 どの顔も、晴れ晴れと輝き、清新な息吹に包まれていた。
 席上、首都圏の十七本部に、高等部員のなかから人選された、男女の部長が任命された。
 今後は、このメンバーが中心となって、自主的な活動が展開されていくことになる。
 高等部は、本来、高校生の手によって運営していくことをめざしていた。活動の主体者は、あくまでも高校生であり、その活動をバックアップしていくのが担当幹部である。
 それは、会長山本伸一の考え方でもあった。
 次いで、この日、任命になった、男女の部長の代表が抱負を語った。
 「広宣流布の使命を自覚し、自らの人生の土台を築き上げるとともに、友情の輪を広げていきます!」
 「十年後、二十年後の大人材になるために、青春時代に力をつけ、自分を磨き抜いてまいります!」
 さわやかな決意に、集ったメンバーもまた、誓いを新たにしたのであった。
 続いて、幹部の指導となり、最後に、理事長の原山幸一があいさつに立った。
 この高等部員会を見て、内心、最も驚いていたのは原山であった。
 山本伸一は、八月の初めに、原山に、こう語ったことがあった。
 「来年からは、高等部の夏季講習会を実施してもよいのではないか。また、高等部の代表にも、私が御書講義をしていきたい。
 ともかく、私は、高等部の育成に、全力を傾けようと思う」
 その言葉を聞くと、原山は答えた。
 「正直なところ、私には、山本先生が自ら、高校生に、そこまでされる必要があるのかという疑問があります。
 高校生の場合、どんなに決意を固めても、本当に、生涯、信心を貫いていくという保証はありません。
 もちろん、未来のための布石は大切ですが、優先すべきことが、たくさんあるように思います。
 支部長や支部婦人部長への指導もお願いしたいし、男女青年部の幹部への指導もお願いしたいのです」
 それは、原山だけでなく、当時の最高幹部の率直な気持ちでもあった。
9  鳳雛(9)
 山本伸一は、苦笑しながら、原山幸一に言った。
 「その優先順位を考えたうえで、私は今、高等部の育成に全力を傾けているんです。
 みんなは目先のことしか考えない。しかし、三十年後、四十年後の学会をどうするのか。その時、学会の中核になっているのが、今の高校生です。
 苗を植えなければ、木は育たない。大樹が必要な時になって苗を植えても、手遅れだ。手を打つべき時を逃してはならない。
 そして、最も心を砕き、力を注がなくてはならないのは、苗を植えた時です。枯れずに、ちゃんと根を張って伸びていけるのか、太陽の光が当たるのか、水や肥料は十分に行き渡っているのか、よく見ていく必要がある。
 これから、三、四年は、高等部に手をかけ過ぎるぐらいでなければ、広宣流布の未来は失敗します」
 原山は、「はあ……」と答えはしたものの、まだ、理解しかねている様子であった。
 伸一は言った。
 「私が、今やっていることの意味は、三十年後、四十年後に明確になります」
 また、この第一回高等部員会の前日、伸一は、原山に語った。
 「明日の高等部員会は、原山さんが担当だったね。本当は、私が出席したいんだが、明日は来客がある。
 高等部員は、皆、学会の未来を担う、大事なリーダーです。だから、私の代わりに、しっかり励ましてきてもらいたい。
 そして、その高校生たちの意気込み、顔色、雰囲気をよく見て、私に教えてください」
 原山は、山本会長の言葉を思い出しながら、参加者一人ひとりに視線を注いでいた。
 ――皆、実にいい表情をしている。学会歌の指揮一つ見ても堂々とし、男女青年部に勝るとも劣らない。しかも、すがすがしい。
 また、体験発表や抱負には、創価の後継者として、未来の広宣流布を担おうとする気概が脈打っている。
 世間では、高校生の非行化が問題になっているが、とても同じ高校生とは思えぬほど、さわやかである。
 原山は、率直な思いを語っていった。
 「山本先生は、皆さんに、絶大な期待をかけられております。
 広宣流布は、長い道程ですが、年配者は先が短い。したがって、将来のことは皆さんに託す以外にないというのが、先生のお気持ちであります」
10  鳳雛(10)
 原山幸一は話を続けた。
 「山本先生は、本日は出席できませんでしたが、昨日、お会いした折に、皆さんのことを、大変に気にかけておられました。
 そして、高等部員会に出たら、皆さんの顔色がどんな風であるのか、雰囲気はどうなのかなど、すべて報告するように言われておりました。
 今日の姿を見ておりまして、本当に皆さんが、元気で、はつらつとしているのに、私は驚いております。
 これならば大丈夫だ、先生の期待にも十分に応えられる一人ひとりであると、私も、心強く感じておる次第です。
 帰りましたら、この様子を、早速、先生にお伝えし、喜んでいただこうと思っております」
 それから原山は、高等部員は「日本の宝」であると述べ、五年、十年後をめざして、勉学に励み、成長していってほしいと語って、話を結んだ。
 首都圏に続き、九月二十三日の「秋分の日」には、関西でも、大阪の吹田市民会館で、第一回の高等部員会が開かれた。
 六月一日の高等部結成の発表以来、関西では、関西学生部長の大矢良彦が中心となって、活動を開始してきた。
 この関西の高等部員会には、大阪をはじめ、福井、京都、兵庫などの地域からも、求道心あふれる高等部員が駆けつけた。
 この部員会で、関西に、男女八人ずつ、計十六人の部長が誕生したのである。
 首都圏と関西での高等部員会の開催が聖教新聞に報じられると、全国各地に大きな波動が広がった。
 全国の高校生が、「一日も早く、ぼくらの地域にも高等部の結成を」と祈り、その日を待った。
 一方、首都圏では、さらに十月に、第二回高等部員会を開き、その席上、組織の拡充が図られ、総支部単位にグループ長制が敷かれたのである。
 着々と布陣は整えられていった。
 この高等部員会で、学生部長の渡吾郎から、高等部も歌を作ってはどうかとの、提案があった。
 参加者は、歓声をあげ、大拍手をもって賛成したのである。
 高等部歌の制作は、高等部員が、待ち望んでいたことであった。
 早速、男女部長による部歌作成委員会がつくられ、有志に作詞を呼びかけた。
 我こそはと、たくさんのメンバーが、作詞に挑戦し、すぐに、五十作近くの歌詞が集まった。
 作成委員会で検討が行われた。
11  鳳雛(11)
 高等部の若き部長たちは、我らの部歌は、ぜひ次回の十一月度の、部員会で発表しようと固く心に決めていた。
 集まった歌詞は力作ではあったが、決定打はなかった。結局、作成委員会のメンバーで作り上げることになった。
 世田谷区内の男子の部長宅に集っては、皆で歌詞を練り始めた。行き詰まると、懸命に唱題した。
 そして、歌詞が、ようやくでき上がった。
 歌詞は、担当幹部の中心者である、小森宏明に見てもらうことにした。
 小森は、高等部員から歌詞を受け取ると、青年部長の秋月英介にも、一緒に検討してもらった。
 歌詞には、高等部員が必死になって取り組んだ、苦労のあとが滲み出ていた。
 ほんの一部、筆が加えられたが、ほぼ原案のまま、歌詞は決定をみた。よくできているというのが、秋月らの感想であった。
 作曲は、音楽隊の責任者の有村武志に依頼した。
 こうして完成した高等部の歌は、十一月二十三日に、男女別に開催された、第三回の高等部員会の席上で発表された。
 一、進め 明るく
     未来をめざし
   基礎を築かん
      蛍雪の時
   大志抱いて
      ともどもに
   久遠の理想
      打ち建てん
   希望輝く 高等部
 軽快なテンポで、今までの学会歌にはない、清新な息吹にあふれていた。
 会合が始まる前、部歌の練習が行われると、皆の頬は紅潮した。
 まさに、自分たちの思いが託された、心情にピッタリと合う歌であったからである。
 ″これはぼくたちの歌だ。元気いっぱい歌うぞ!″
 しかし、時間の関係で、一、二度、歌っただけで、練習は終わってしまった。
 会合が始まった。高等部歌の発表となり、皆で合唱することになった。
 ところが、十分な練習時間がとれなかったために、声はそろわなかった。
 青年部長の秋月英介が、立ち上がって語り始めた。
 「みんな、まだ覚えていないんだから、最初は、一節ずつ区切って歌ったらどうだい。
 正しく覚えて、まず、基礎を固めることだよ。この歌詞のなかに、『基礎を築かん 蛍雪の時』とあるじゃないか」
 笑いが広がった。
 一節ずつ練習すると、驚くほど上手になり、ほどなく、意気盛んな大合唱が響いた。
12  鳳雛(12)
 山本伸一は、高等部の結成のその日以来、メンバーの健康と勉学の増進を、懸命に祈り続けていた。
 それだけに、首都圏・関西の高等部の活動が軌道に乗り、大成功しつつあることが、何よりも嬉しかったのである。
 彼は、いよいよ第二段階を迎えたことを感じた。
 伸一は、青年部の幹部と協議の末、翌年の一月には、高等部の組織を全国に広げることを決意する。
 また、中等部も、一月には、東京や大阪、名古屋、福岡などの主要都市で、結成することに決まった。
 年が明けて、一九六五年(昭和四十年)の一月十五日「成人の日」に、高等部は、首都圏と関西を除く、全国の二十七本部で発足の集いが開かれた。
 一方、中等部は、この日、全国の三十四本部で結成をみたのである。
 この前日、伸一は、青年部長の秋月英介に言った。
 「明日は、全国各地で、高等部と中等部の出発の部員会が行われるが、秋月君は、どこに出席することになっているんだい」
 「はい、私は、中等部は東京第四本部の結成式に出まして、高等部は首都圏の部員会に出席することになっております」
 「明日は、未来への新しい出発となる、極めて重要な日だよ。
 ここで、将来のために、高等部、中等部の核をしっかり固めておきたい。
 そのために、これまでに高等部員になった首都圏と関西のメンバー、それに、明日集って来る全国のメンバーを、高等部の一期生にしてはどうだろうか。
 また、中等部も、この日の結成式に参加したメンバーを一期生としては、どうかと思う。
 そうすれば、みんなの自覚が深まるからね」
 「はい。ぜひ、そうさせてください」
 伸一は頷いた。
 「青年部長が賛成ならば、そうしよう。
 それから、中等部に対してだが、指導をしていくうえでの、指針が必要ではないだろうか」
 秋月が答えた。
 「ええ、確かに必要だと思います。男女青年部の担当者たちも、中等部には、何を訴え、どう指導すればよいのか、迷っているようです」
 伸一は言った。
 「そうだろうね。
 中等部のめざすものが、地域によってバラバラでは困るので、指導の指針を示しておこうと思う。
 悪いが、メモをとってくれないか」
13  鳳雛(13)
 秋月英介が手帳を取り出すと、山本伸一は、すらすらと語り始めた。
 「『一、勤行をしっかりしましょう。
 二、勉強をしっかりしましょう。
 三、学校にきちんと行きましょう。
 四、親に心配をかけないようにしましょう。
 五、正しく、強く、明るい毎日を送りましょう』
 これでどうだろうか」
 秋月は、メモを読み返しながら言った。
 「はい、大変に明確で、よいと思います」
 「では、中等部は、この五つを目標に進んでいくことにしよう」
 一九六五年(昭和四十年)一月十五日、全国各地で、高等部、中等部の部員会がもたれた。中等部は、この日が結成の日となったのである。
 東京第四本部の会館で行われた、中等部結成式には、小学校五年生になっていた、山本伸一の長男の正弘も参加していた。
 子供は学会の組織のなかで育てていくというのが、伸一の教育方針であった。
 妻の峯子は、正弘がこの中等部の結成式を、どう受け止めているのか、気がかりであった。
 彼女は、正弘が帰ってきたら、感想を聞いてみようと思っていた。
 正弘は、家に着くなり、意気揚々と、こう語るのであった。
 「ママ、ぼくは、中等部員になったんだよ。それも一期生だよ、一期生。
 これから、二期生、三期生とできて、将来は、三十期とか、五十期とかになるんだって。
 ぼくは、その最初の一期生なんだよ。みんなの模範になるように、頑張らなくちゃ」
 普段は、どちらかといえば、もの静かな正弘が、興奮ぎみに決意を口にしたかと思うと、朗々と勤行を始めた。唱題はなかなか終わらなかった。
 峯子は、その姿を見て、嬉しくもあり、頼もしくもあった。
 正弘に限らず、この日の部員会で、自分たちが第一期生になることを聞いた、全国の高等部員、中等部員の喜びは大きかった。
 特に高等部員からは、その喜びと誓いをつづった手紙が、何通も会長山本伸一のところに届いた。
 すると、伸一は、こう提案した。
 「まず、高等部の一期生のメンバーで、決意の署名をしてはどうかね。それぞれの、今の決意を、永遠にとどめていくんだ」
14  鳳雛(14)
 秋月英介は、山本伸一の提案を聞くと絶句した。
 こんこんとわき出る、泉のごとき山本会長の提案に、驚嘆し、言葉を失ってしまったのである。
 しばらくして、秋月は口を開いた。
 「決意をつづれば、目標も明確になります。
 現在、男子部、女子部、学生部の代表が、決意の署名をすることになっていますので、ぜひ、高等部にもやらせてください」
 それから秋月は、伸一に尋ねた。
 「先生の次々と打たれる手には、今更ながら驚き、感服するのみです。そうしたお考えは、どうすれば出てくるのでしょうか」
 「すべては真剣さだよ。私は、二十一世紀のことを真剣に考えている。
 その時に、誰が広宣流布を、世界の平和を担っていくのか。誰が二十一世紀に、本当の学会の精神を伝えていくのか。
 それは、今の高等部、中等部のメンバーに頼むしかないじゃないか。
 だから、一人ひとりに、しっかりと成長していってもらうしかない。大人材、大指導者に育ってもらうしかない。
 では、どうすればよいのか。何もしなければ、人は育たない。
 大切なのは触発だ。その触発をもたらすには、日々、命を削る思いで、成長を祈ることだ。
 そして、″どうすれば、みんなの励みになるのか″″どうすれば、希望がもてるのか″″どうすれば、勇気が出せるのか″を、瞬間瞬間、懸命に考え続けていくことだ。
 強き祈りの一念が智慧となり、それが、さまざまな発想となる。
 責任感とは、その一念の強さのことだ」
 秋月は、厳粛な思いで、伸一の指導を受け止めた。
 この署名の件は、二月の高等部員会で発表された。
 伸一は、その署名簿の扉に、こう揮毫した。
 「五年後をめざして僕等の希望を」
 署名は二月下旬から開始された。
 ある人は大学受験の必勝を誓い、ある人は教学部の教授になることを決意としてつづった。
 また、ある人は難関といわれる資格試験の合格を目標として記した。
 やがて、この署名簿が山本伸一のもとに届くと、彼は、一人ひとりの決意を生命に焼きつけるように、丹念に目を通した。
 そして、仏前に供えて、皆の成長を真剣に祈念したあと、会長室に保管した。
 しかも、折あるごとに、この署名簿を開き、皆の希望が実現するように、題目を送っていったのである。
15  鳳雛(15)
 卒業式の季節を迎えた三月、首都圏の高等部員会では、新たに二年生を中心に第二期の部長、グループ長が任命された。また、各グループに班長を設けることが発表されたのである。
 この人事は、三年生の卒業にともなうものであったが、高等部の核が完全に固まったことから、部員の拡大を図っていくための布陣であった。
 そして、翌四月には、新入生を迎えたのである。
 この新入生と、二月以降に入部したメンバーを高等部二期生として、再び決意の署名が行われた。
 七月の十一日には、東京・両国の日大講堂で、第八回学生部総会が開催されたが、ここには、多数の高等部の代表も参加した。
 その席上、副理事長の十条潔が、人事を発表した。
 「このたび、新たに、高等部長を設ける。
 高等部長、上野雅也!」
 「はい!」
 太い声が響き、拍手がわき起こった。
 参加した高等部員は、驚いて壇上を見つめた。
 この高等部長の誕生で、全国に組織化された高等部員をまとめ、責任をもって育成していく、中心が定まったことになる。
 上野は、高等部員にとっては、ほとんど馴染みのない顔であった。
 彼は、二十六歳になる男子部の幹部の一人で、山本伸一が学生部の代表に行った、「御義口伝」講義の受講生でもあった。
 上野の入会は、高校一年生の時である。
 彼の実父は、上野が四歳の時に、肺結核で他界していた。その後、母親は再婚するが、彼は小学校六年生の夏まで、山梨の祖父母のもとで育てられた。
 そんな事情もあってか、彼は、横須賀で母と継父と一緒に暮らすようになってからも、継父には、なかなか馴染めず、悶々とした思春期を送っていた。
 その継父が近所の人の勧めで、創価学会に入った。
 上野は、それを批判的に見ていた。学校がミッションスクールであったこともあり、キリスト教にひかれていたのだ。また、お経を唱えることへの恥ずかしさもあった。
 継父を折伏した近所の人たちや、地元の男子部のメンバーが、家に来ては、高校生の上野にも、信心の話をするようになった。
 最初は抵抗を感じたが、年の若い自分を対等の人格として扱い、真剣に信仰のすばらしさを語ってくれる姿に、彼は真心と誠実さを感じて、次第に心を動かされていったのである。
16  鳳雛(16)
 そのころ、上野雅也の母もまた、信心をする意思を固めていたが、できることなら、息子と一緒に入会したいと考えていた。
 上野は、その母の気持ちを知ると、それで母が喜んでくれるならと、入会したのである。
 彼は豪快だが、心の優しい少年であった。
 上野は、入会当初は、なかなか、真剣に信心に励む気にはなれなかったが、そのうち、仏法のことを継父と話し合うようになった。
 それを通して、次第に心が通い合っていったのである。
 ある時、継父が、彼に漏らした。
 「今、私は、信心して、本当によかったと思っている。私が入会したのは、お前と実の親子のように、仲良く暮らしていきたかったからなんだよ」
 上野は、継父の優しさを感じた。熱いものが、胸に込み上げた。
 これを境に、継父との心の距離は縮まった。
 やがて、彼に、大きな転機が訪れる。
 高校三年になり、受験勉強に本腰を入れようとしていた矢先、体調を崩してしまった。
 病院に行くと、医師は静かな口調で告げた。
 「肺に影があります」
 亡くなった父と、同じ結核である。瞬間、「宿命」という言葉が、落雷のように彼の頭をつんざいた。
 当時は、結核といえば、まだ不治の病という印象があった。
 上野は、未来が閉ざされた感じがした。何もする気が起こらなかった。
 そんな時、男子部の先輩が激励に来てくれた。
 「上野君、今こそ、仏法のすごさを知る時だ。本気で題目をあげてみろよ。必ずよくなる! ぼくも応援するから、頑張ろうよ」
 上野は、この時から、猛然と唱題に励んだ。
 数カ月後、肺から影は完全に消えていた。そして、彼の胸には、信心の強固な確信の輝きが、光り始めていた。
 病を克服した上野は、慶応大学に入学した。
 大学に入ると、この前年に誕生したばかりの学生部の一員として、学会活動に駆け巡った。
 学生部の理論誌である、『第三文明』の第二代編集長としても、大いに手腕を発揮した。
 大学卒業後は、学会本部の職員となり、聖教新聞社の記者となった。
 ところが、仕事と学会活動の忙しさに流され、不規則な生活が続き、肺結核が再発し、入院生活を余儀なくされたのである。
 しかも、その間に継父が死去し、多額の借金があったことが明らかになった。
17  鳳雛(17)
 上野雅也にとっては、意気揚々と、社会人としてのスタートを切って間もなくの試練である。
 彼の衝撃は大きかった。地の底に突き落とされたような思いであった。
 その時、山本会長から、一通の手紙が届いた。
 そこには、「冬は必ず春となる。大信力を奮い起こして、希望あふれる第二の人生を」とあった。
 山本会長の励ましに、上野は泣いた。
 ″そうだ。負けてたまるか。すべてを乗り越えて、山本先生に報告するんだ″
 その日から、ひたぶるな唱題が始まった。
 やがて結核は治り、職場に復帰できた。
 継父の借金も、親戚の協力もあり、彼の収入の範囲内で返済していけるめどが立った。
 上野は、以前にも増してたくましく、意気盛んに、広布の庭を駆け巡った。
 山本伸一は、多感な時期に信心を始め、自身の悩みを一つ一つ克服してきた彼なら、高等部員のよき兄になるだろうと考え、高等部長に任命したのである。
 学生部総会の式次第は、新任幹部の抱負となり、上野が登壇した。
 「この晴れの学生部総会の席上、初代高等部長の大任を拝しました。
 山本先生の、次代を担う高等部への限りない期待を思うと、緊張で胸がいっぱいでございます。
 未来の大切な宝である、高等部の皆さんの成長のために、全力を尽くして頑張ってまいりますので、どうか、よろしくお願い申し上げます」
 集った高等部員たちは、身を乗り出して、力いっぱい拍手を送った。
 上野は、話を続けた。
 「今後の高等部の目標といたしまして、信心第一、勉学第一の高等部十万人の達成をめざしてまいりたいと思います。
 よく山本先生は、『私は令法久住のため、日本の将来のために、人材を育てているのだ』と言われておりますが、それは、具体的には、誰のことをさすのか。
 私は、その人材こそ、高等部であると確信するものであります。
 信心を根本に、確かなる目的観をもって勉学に励む、十万人の高等部員が結集できれば、未来を担う人材の基盤をつくることができます。
 私たちは、学会のすべての高校生に、それぞれの使命の大きさを訴え、ともに高等部として集ってまいろうではありませんか」
 メンバーは、大拍手で応えた。
18  鳳雛(18)
 高等部の部員数は、この一九六五年(昭和四十年)七月の時点では、全国に拡大されたとはいえ、二万人ほどに過ぎなかった。
 それが、いよいよ部員十万をめざして、スタートすることになったのである。
 七月十八日、東京第六本部の会館で、高等部長の上野雅也を中心に、初のグループ長会が開かれた。
 ここで、部員十万達成への具体的な活動を討議し、部員の増加への取り組みが開始された。
 高等部員たちは、勉強やクラブ活動の合間を縫い、自分の支部や地区の高校生に、高等部員としてともに活動しようと、声をかけていった。
 支部や地区といっても、当時は入会した際の紹介者の支部・地区に所属する、いわゆる「タテ線」といわれる組織であり、一つの地区でも、メンバーは各地に点在していた。
 高等部員たちは、高校生がいると聞けば、電車を乗り継いだり、自転車で一時間、二時間とかけて、家庭を訪問し、語り合った。
 会った高校生たちの多くは、喜んで、高等部への入部を希望した。聖教新聞などの出版物や映画「聖教ニュース」などを見て、高等部の活動を知り、メンバーになることを待ち望んでいたのである。
 しかし、なかには、子供の時に、親と一緒に入会しただけで、信心をする気はないという高校生もいた。
 そんな時には、メンバーは、自分の体験や実感を通して、信仰の大切さを、懸命に訴えた。
 こうした語らいを通して友情が芽生え、高等部員として活動するようになった人も少なくなかった。
 この年の八月十日、十一日には、初の試みとして、高等部、中等部などの代表の夏季講習会が行われた。
 山本伸一は、皆に思い出をつくってあげたかった。
 彼は、参加者と記念のカメラにも納まり、メンバーを激励した。
 さらに、十日の夜の全国高等部員会には、「信心第一、勉学第一の鳳雛たれ」とのメッセージを送った。
 そして、明年一月にも、再度、高等部、中等部の登山会を実施することを約束したのである。
 また、この高等部員会の席上、高等部が、学生部から独立し、独自の組織としてスタートすることが発表された。
 つまり、これまで、学生部のなかの組織であった高等部を、男子部、女子部、学生部と並列の立場で、より自主的に活動できるようにしたのである。
19  鳳雛(19)
 高等部を学生部から独立させたことには、次のような経緯があった。
 山本伸一は、高等部員のうち、特に男子には、できることならば、全員、大学に進んでほしいと、強く思っていた。
 もし、就職しなければならない場合でも、夜学や通信教育で、しっかり、学問を身につけてほしかった。
 しかし、なかには、それも難しい人もいる。
 高等部が学生部に所属していることは、進学希望者には利点が多いが、就職していく人には、違和感があることも事実であった。
 そこで、伸一は、将来の進路に関係なく、同じ高等部員として、ともに切磋琢磨し合える、独立した組織にすべきであると考えた。
 彼は、その意見を、青年部の幹部に伝え、協議してもらい、学生部からの独立が決定したのである。
 夏季講習会二日目の翌十一日には、伸一は、十人ほどの高等部の代表と懇談の機会をもった。
 「私は、諸君が、伸び伸びと勉学に励み、張り合いをもって成長していくためには、どうすればよいのかを、常に考えています。
 そこで、今日は、幾つかの提案をしたい」
 こう言うと、彼は、まず明一九六六年(昭和四十一年)を「高等部の年」にしてはどうかと諮った。
 皆の顔に、光が走った。
 山本会長が高等部を大切にし、力を注いでくれていることは、皆が実感していたが、高等部のことが、学会としての新しい年のテーマになるとは、誰も想像もしていなかった。
 さらに、伸一は、高等部の旗、並びに、高等部のバッジを作ってはどうかと提案した。
 皆、大賛成であった。
 最後に、伸一は、一人ひとりと握手を交わしながら言った。
 「みんなで、力を合わせて、最高に有意義で楽しい組織をつくろうよ」
 九月に入ると、高等部の組織の拡充が図られていった。まず、方面の高等部長、副高等部長が任命され、指導メンバーの布陣が固められた。
 これには、それぞれの方面の男女青年部の最高幹部が就任した。
 さらに、これまでは本部単位に部があり、総支部単位にグループが設けられていたが、その組織形態を一歩前進させて、総支部単位に部を、支部単位にグループを、つくることになったのである。
 画期的な組織の拡充であった。これによって、部員十万達成の布陣が整えられたのである。
20  鳳雛(20)
 高等部が拡大に向かって始動していった九月二十三日、少年部も結成を迎えたのである。
 小学校の五、六年生は、中等部に所属しており、少年部は、一年生から四年生までの少年少女を対象とすることになった。
 この構成は、一九六七年(昭和四十二年)に、小学校一年生から六年生までの少年少女を、少年部として新編成するまで続けられることになる。
 ともあれ、この少年部の誕生によって、少年・中等・高等部の、今日の未来部の組織が整ったのである。
 十月一日夕刻、学校帰りの高校生たちが、続々と学会本部に集って来た。
 三階の大広間には、鮮やかな緑色の旗が林立し、槍の穂先のかたちをした竿頭の飾りが、銀の光を放っていた。高等部旗である。
 夏季講習会で、山本会長と高等部の代表との懇談の折に決まった、高等部の旗が遂に完成し、この日、首都圏の部長への、授与が行われたのである。
 高等部では、夏季講習会の直後に開かれた、八月十五日の第十一回高等部員会で、部旗の作成を発表。メンバーからも、旗の図案を募り、上野雅也高等部長を中心に検討を重ねてきた。
 そして、青年部の幹部とも相談し、最終案が決まったのである。
 旗の布地は緑で、中央に白抜きの、大きく羽を広げた鳳凰の若鳥が描かれ、その下に、「創価学会高等部」の文字が染め抜かれていた。
 これは、山本伸一が、折に触れて高等部員のことを「鳳雛」、すなわち″鳳凰の雛″と、最大の期待を込めて呼んでいることから、鳳凰の若鳥を図案化したのであった。
 鳳凰とは、中国で古くから尊ばれた想像上の瑞鳥で、仁政を施す天子の出現の前兆として、世に現れる鳥とされている。
 日蓮大聖人は、諸経の王である法華経を、鳳凰に譬えられている。
 伸一は、高等部員が次代の大指導者に育ちゆくことを念じて、「鳳雛」と呼んできたのである。
 また、旗の色を緑にしてはどうかと提案したのも、伸一であった。
 緑には、若葉の清々しさがあり、平和をイメージする色でもある。
 そこから、やがて世界に雄飛し、人類の平和と幸福を築きゆく高等部の旗に、緑は最もふさわしい色と考えたからである。
 部旗の授与式には、首都圏の男女の部長二百七十六人が参加し、やや緊張した顔で、開会を待っていた。
21  鳳雛(21)
 午後五時過ぎ、山本会長が姿を現した。
 「どうも、ご苦労様!」
 伸一の声が響いた。
 「さあ、一緒に勤行をしよう。諸君の前途を祈ります。鳳雛たちの栄光の未来を祈念します」
 勤行が始まった。
 伸一の読経に、若々しい躍動感にあふれた、高等部員の声が唱和した。
 やがて、部旗の授与となった。
 名前が呼ばれ、一人ひとりの部長に、伸一から部旗が手渡されていった。伸一は旗を授与するたびに、励ましの言葉をかけた。
 「しっかり、頑張っていきなさい」
 「はい!」
 「明るく、元気で!」
 「はい!」
 三百人近いメンバーへの授与である。
 しばらくすると、旗立てから部旗を取って、伸一に渡していた、首脳幹部たちの息は荒くなり、ふらふらし始めた。
 背広姿の伸一の額にも、汗が滲んでいたが、彼は毅然としていた。魂魄をとどめるかのように、それぞれの眼をじっと見つめ、激励の言葉をかけ続け、未来に輝く偉大な緑の部旗を授与していった。
 鳳雛たちは、伸一の言葉に、元気な声で応えながら、旗をぎゅっと強く握り締めた。
 その目には、誓いの輝きがあった。
 伸一は、皆の表情から、広布の人材に育ちゆかんとする、清らかな決意を感じとっていた。彼には、それが嬉しくもあり、頼もしくもあり、また、ありがたくもあった。
 彼の目は、未来の大空を自在に舞いゆく鳳の姿をとらえていた。
 全員への部旗の授与が終わると、伸一は、イスに座り、静かだが、力のこもった声で語り始めた。
 「大変に、本日はおめでとうございます。
 私の恩師は、戸田城聖先生であります。その先生が逝去なされて、満七年が過ぎました。
 また、私が会長になったのは、昭和三十五年(一九六〇年)五月三日であり、その就任から満五年が過ぎましたが、最高に嬉しい日は本日であります。
 なぜならば、この高等部員を第一陣として、諸君の後輩である中等部員、並びに少年部員が、第二陣、第三陣と続いております。
 この三つの部より、将来の会長が出なくてはならないし、出てもらいたい。また、出るのが当然ではなかろうか――これが私の希望なのであります」
 参加者の胸に、熱い感動が走った。
22  鳳雛(22)
 山本伸一は、ゆっくりと言葉をついだ。
 「戸田先生は、よく私どもと、″大楠公″の歌を歌われた。
 これは、古い歌なので、皆さん方は知らないかもしれないが、そのなかに『早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為』という個所があります。
 『早く生い立ち』――この言葉に託した先生の真意は何か。早く広布の人材となり、創価学会の中核となって、日本の大指導者となっていきなさいということであります。
 また、『大君に』とは、この詞のうえからは、天皇ということになりますが、先生の元意は違います。
 仏法に尽くせ。大聖人の御遺命を実現していけ。民衆に、人類に尽くせ。そして、世界を、東洋を、また当然、日本の国を救っていけ――というお気持ちでありました。
 私も諸君に対して、″早く生い立て″との思いでいっぱいです。私が会長である限り、諸君の道を開き、見事に広宣流布の総仕上げをさせてあげたい。
 どうか、今日、集まった高等部の第一陣の幹部の諸君は、十年先、三十年先、五十年先までも、結束を固めていっていただきたい。
 そして、創価学会を守っていただきたい。学会員を守っていただきたい。民衆を守っていただきたい。
 とともに、″広宣流布のバトンは引き受けた。広布の総仕上げをするのだ!″との決意をもっていただきたい。
 そのために、現在は、題目をしっかり唱え、あくまでも、勉学第一で進んでいく必要がある。
 また、両親に迷惑をかけたり、嘆かせるようなことがあってはならない。
 人格も優れ、学校の成績も誰よりも優秀であり、健康であるというように、色心不二の人間革命の基礎を確立していっていただきたいのであります」
 伸一の言葉には、高等部員への全幅の信頼があふれていた。参加者は、驚きと感激をもって、その言葉を噛み締めた。
 彼は、最後に、こう語って、話を終えた。
 「なお、高等部員への指針については、十一月号の『大白蓮華』の巻頭言に、『鳳雛よ未来に羽ばたけ』と題して書いておきましたので、それをお読みになっていただきたい」
 期せずして、歓声があがり、大拍手が起こった。
 部旗の授与式は、感動のなかに幕を閉じた。いな、それは、鳳雛たちの飛翔の幕開けであった。
23  鳳雛(23)
 高等部の部旗の授与式から二日後の十月三日、東京・台東体育館で第十三回高等部員会が、はつらつと開催された。
 壇上には、授与されたばかりの、真新しい緑の部旗が並んでいた。
 この席上、会長山本伸一が執筆した、「鳳雛よ未来に羽ばたけ」が、上野雅也高等部長から紹介されたのである。
 「未来を目指し、未来に生きる、若き、高等部諸君よ。
 諸君こそ、広布達成の鳳雛である。すなわち、諸君の成長こそ、学会の希望であり、日本の、そして全世界の黎明を告げる暁鐘である。
 わが高等部は、本門の時代に入って、最初に結成された部であった。しかるに、その急速なる大発展は、渓谷の水が、一挙に大河に入ったごとく、誠に目をみはるものがあった。
 諸君が、やがて、次の社会の、次の時代の奔流となりゆくことは、歴史の必然であろう……」
 高等部員は皆、真剣に聴いていた。
 ――わが学会に、若き、強き、清純なる生命の躍動が漲っているかぎり、永遠に盤石であり、必ずや、立正安国の偉業を実現できることは間違いない。これ、まさしく学会の、令法久住の実相でなくして何であろう。
 山本会長の期待は、絶大であった。次いで、「従藍而青」の原理が示され、高等部員こそ「真の鳳雛」であり、「次の学会を担い、さらに発展せしめてゆく、偉大なる使命をもっていると確信してやまない」との心情が述べられていた。
 さらに、青春時代は人間形成の最も大切な時期であり、十代、二十代の努力、精進によって、その将来は大きく決定されると語り、次のように訴えている。
 「いわんや、若くして、世界最高の日蓮大聖人の大仏法を持った諸君は、青春時代の生活、活動の一齣一齣が、それ自体、貴重な体験であり、同時に、将来に向かっての重要な基礎づくりであることを、強く自覚されたい」
 伸一は、皆が、信心とは何かを知り、その実践として唱題してほしかった。そこに大いなる智慧が磨かれ、生命が豊かになり、健康体となっていく道があるからだ。
 彼は、その思いを記したあと、今は「『勉学第一』で、広く知識を求め、将来の大成を期してゆかれんことを、心から願望するものである」と呼びかけた。
 ここには、高等部が何をすべきかが、明確に示されていた。これによって「勉学第一」は、永遠の指針となったのである。
24  鳳雛(24)
 朗読は続いた。
 ――現在、進学のため、勉強に余念のない人もあろう。昼は働き、夜は定時制高校に通い、大変ななか、真剣に勉強している人もあろう。
 高校卒業後に、直ちに、社会に出る人もいよう。さらに大学に進み、蛍雪の功を重ねる人もあろう……。
 文面には、高等部員一人ひとりを思い、励ましを送る、山本伸一の熱い心があふれていた。
 彼は言う。
 「妙法を根底に、一生涯、強き信仰に生きゆくならば、真実の幸福、真実の人生の勝利、真実の広布の使命に住しうることは、絶対に疑いなかろう」
 次いで、動乱を繰り返す世界と、日本国内の現状に触れ、思想の欠如は、民衆に信念と未来への希望を失わせてしまい、とりわけ非行少年の増加は、混沌たる世相の反映であると指摘。
 そして、新しき世紀をつくりゆくために、こう呼びかけている。
 「今こそ、世界平和、すなわち世界広布のため、全力を傾注して、前進せねばならぬ時代なのである。
 私は、今日まで、全魂を尽くして、諸君のために、道を切り拓いてきた。また、これからも、拓いていく決心である。
 どうか諸君は、その純粋なる信心を、どこまでも、いつまでも持ちつづけ、真の学会精神を受け継ぎ、諸先輩が心血を注いで築き上げた、基盤の上に、やがて、思うがままに雄飛、乱舞していただきたい。
 (中略)社会のため、法のため、自己のために、若き、戦う地涌の菩薩として、立派に成長しゆかれんことを――」
 上野雅也高等部長の「鳳雛よ未来に羽ばたけ」の朗読が終わると、会場を揺るがさんばかりの、大きな拍手がわき起こり、しばし鳴り止まなかった。
 指標を得ることは、勇気を得ることであり、希望を得ることである。
 皆、眼前に、洋々たる希望の大海原が、広がる思いがした。
 『大白蓮華』の十一月号が発刊されると、全国の高等部員は、この巻頭言を、何度も、何度も、貪るように読み返した。
 そして、多くの部員会などでも、必ず朗読し、皆が暗唱するようになった。
 鳳雛たちは、これを通して、自分たちの、あまりにも深く、大きな使命を自覚していったのである。
 経済的に厳しい家庭環境のなかで、大学進学をめざして、新聞配達を始めたメンバーもいた。
 皆の唱題にも、一段と力がこもった。メンバーは競い合うようにして、次々と猛勉強を開始していった。
25  鳳雛(25)
 未来に使命を自覚した人は強い。
 その時、才能の芽は、急速に伸びるといってよい。
 指針「鳳雛よ未来に羽ばたけ」は、青年部の幹部や親たちの、高等部への認識を、一歩も、二歩も深めていった。
 「高等部員の使命は、計り知れないものがある。学会の宝なんだ。大切に育てなければ……」
 そんな雰囲気が、学会のなかにみなぎっていった。
 さらに、感動の追い打ちをかけるように、十一月七日に行われた首都圏の高等部員会では、高等部のバッジ作製が発表された。
 山本伸一から高等部員への、部旗に続くプレゼントであった。
 この十一月の二十三日、第十四回青年部総会が開催され、席上、中等部、少年部にも、それぞれ部長が誕生したのである。
 中等部長になったのは、加藤武久という三十歳になる青年であった。
 彼は苦労人であった。四人兄弟の長男で、父親のメリヤスの製造販売の仕事を手伝いながら、定時制高校に通った。
 そのころ両親が入会し、彼も三カ月後の一九五二年(昭和二十七年)十一月、信心を始めたのである。
 高校卒業後は、大学への進学を希望していたが、それを断念して、家業を支えた。だが、彼の向学心、求道心は、人一倍強かった。
 五六年(同三十一年)、教学部の任用試験では、高い実力が評価され、助師、講師を飛び越え、一挙に助教授になったのである。
 やがて、彼は本部の職員となるが、誠実で正直な人柄に、信頼を寄せる人は多かった。
 伸一は、その人格の輝きこそ、中等部を育成するうえで不可欠な要素と考え、加藤を中等部長に任命したのである。
 一方、少年部長になったのは、森永安志であった。
 彼は、学生部長の渡吾郎らとともに、東大法華経研究会で、戸田城聖の講義を受けてきたメンバーの一人である。
 東大工学部の大学院の修士課程を修了し、貿易会社を経て、学会本部の職員となり、海外局長を務める青年であった。
 森永は、裏表のない性格で、彼には、生命の清らかさが感じられた。
 伸一は、それこそが少年部のリーダーの最も大切な条件であると考え、彼を少年部長に推したのである。
 これによって、中等部、少年部の車軸がつくられ、本格的な回転を開始していくことになるのである。
26  鳳雛(26)
 使命に目覚めよ。
 そこから、新しき世紀の建設が始まる。
 使命に生きよ。
 そこに、最高に価値ある人生の創造がある。
 わが使命を果たしゆくなかにのみ、人間の人間たる深き脈動が流れる。
 使命の鳳雛の飛翔を願って、「高等部の年」と銘打たれた、一九六六年(昭和四十一年)「黎明の年」が明けた。
 一月三日、高等部、中等部、少年部の代表の登山会が行われた。
 二日に登山していた、山本伸一は、高等部員らの到着を楽しみに待っていた。
 彼は「高等部の年」のスタートを、全国の高校生の代表とともに飾りたかったのである。
 晴れ渡った空に、堂々とそびえ立つ美しき富士が、若き鳳雛たちを迎えた。
 伸一は、一行が到着すると、大客殿前で、一緒に記念撮影をしたあと、メンバーの成長を念じて、ヒマラヤ杉の植樹をした。
 そして、その夜、山本会長が出席し、全国高等部員会が開催された。これには中等部、少年部も参加し、若々しいエネルギーが、はじけ飛ぶ会合となった。
 この席上、完成したばかりの、高等部のバッジが、伸一からメンバーの代表に授与されたのである。
 高等部のバッジは、男子はいぶし銀、女子はブロンズで、両方とも、表面には鳳凰があしらわれており、その下に「高」の緑の字が浮き彫りにされていた。
 以後、全国の高等部員の学生服の襟や胸に、このバッジが燦然と輝いていくことになる。
 メンバーは、そのバッジをつけることに、次代を担いゆく若きリーダーの誇りを感じていた。
 全国高等部員会は、幹部のあいさつのあと、伸一の指導となった。
 彼は、開口一番、こう語った。
 「私は、次の第一歩として、一九七一年(昭和四十六年)の一月三日、すなわち、五年後の今日、ここに集った皆様方全員と、再びお会いしたいと思いますがいかがでしょうか」
 皆、大喜びで、大拍手で応えた。
 「この五年間、それぞれが、さまざまな人生の道を進んでいかれることと思うが、一人の退転者もあってはならない。信心強盛に、立派に成長していっていただきたい。
 私は、その日を楽しみにして、あらゆる活動の指揮をとってまいります。
 その時には、一人ももれなく、また必ずお会いしましょう!」
27  鳳雛(27)
 若き同志の成長には、希望の指標が必要である。
 めざすべき目標が定まれば、その歩みには、大きな力がこもる。
 青春の五年の歳月は、かけがえのない黄金の日々であり、その後の人生の、十年、二十年分に相当する。
 山本伸一は、五年間で、皆がどれだけ成長できるのか、じっと見守っていきたかったのである。
 ――伸一は、五年後の一九七一年(昭和四十六年)一月三日、約束を果たし、メンバーと再会した。そして、皆の成長を称え、「五年会」の名称を贈るとともに、五年ごとに集い合っていくことを、提案したのである。
 全国高等部員会で、伸一は、「正義」「親切」「勇気」など、すべては「信心」の二字のなかに収まり、信心強盛な人こそ、最高に立派な人であると訴えた。
 伸一の指導が終わると、上野雅也高等部長らの指揮で、「高等部歌」など、何曲かの学会歌を合唱した。
 部員会は、これで終了のはずであった。
 しかし、伸一は言った。
 「最後に、もう一度、方便・自我偈の勤行をしましょう。諸君の大成長と健康を祈ります」
 皆、自分たちの成長を願う伸一の真心が、痛いほど感じられてならなかった。感慨無量であった。
 勤行・唱題が終わり、伸一が振り向くと、場内から声があがった。
 「先生! 歌の指揮をとってください」
 それに続いて、「お願いします!」という声が、会場のあちこちにあがった。そして、皆の大拍手がこだました。
 高校生らしい物怖じしない″注文″であった。
 伸一は、笑みを浮かべて答えた。
 「わかりました。やりましょう。その前に、副理事長など、最高幹部も来ているので、指揮をとってもらいましょう」
 数人の最高幹部たちが、次々と学会歌の指揮をとった。
 そして、伸一が立ち上がった。
 「では、なんの歌がいいのかい」
 「『武田節』をお願いします!」
 場内から声が響いた。
 伸一は、皆の歌声と手拍子に合わせて、「武田節」の指揮をとった。勇壮な舞であった。
 彼の舞を初めて見るメンバーも少なくなかった。
 指揮が終わるや、「もう一曲、お願いします」という声がした。
 「よし、舞おう。なんでもやります!」
28  鳳雛(28)
 引き続き、山本伸一は、舞い始めた。
 鳳雛たちは、思いっきり手拍子を打ち、声を限りに歌った。
 二曲目が終わると、またしても、「もう一曲、お願いします!」という声があがった。
 伸一は、タオルで額の汗を拭うと、休む間もなく、三曲目の指揮をとった。
 幹部たちは、際限のない高等部員の要望に、ハラハラし始めた。
 高等部長の上野雅也も、皆に、″もし、山本先生が体調を崩されでもしたら、どうするんだ!″と、叫びたい思いをこらえていた。
 しかし、当の伸一が、その要望に応え、「なんでもやります!」と言っている限り、制するわけにもいかなかった。
 さらに、「『日本男子の歌』の指揮をとってください!」という声がした。
 伸一は、ニッコリと頷くと、扇を高く掲げ、すぐに舞い始めた。″広宣流布の総仕上げを頼むぞ!″と、心で叫びながら。
 彼に、息の乱れはなかった。堂々とした、鳳を思わせる指揮であった。
 自分たちの要望をどこまでも聞き入れ、何曲も何曲も、指揮をとってくれる伸一の姿に、メンバーは、目を潤ませながら熱唱した。
 ″先生は、お疲れであるはずだ。しかし、ここまでやってくださる……″
 この部員会は、参加者にとって、生涯、忘れえぬ思い出となった。
 伸一の高等部への激励は、矢継ぎ早に続いた。
 総本山での全国高等部員会の感動も覚めやらぬ一月の六日、東京・台東体育館で、首都圏の第十六回の高等部員会が行われたが、伸一は、ここにも出席したのである。
 この日、彼は、自身の胸に込み上げる思いを、率直に語っていった。
 「今年は、『黎明の年』であり、『高等部の年』でありますが、『黎明の年』といえば、本格的な広宣流布の夜明けを告げる、高等部が出現し、前面に躍り出る年に決まっております。
 私は、皆さんが出現するのを待っていました。
 師匠と弟子というのは、『針』と『糸』の関係にあたります。師匠が『針』、弟子は『糸』です。
 針は、着物を縫う時、先頭を切っていきますが、最後は不要になり、後に残った糸に価値がある。
 私は針です。最後に広宣流布の桧舞台に立つのは皆さんです。
 諸君のために、完璧な布石をしていくことが、私の本門のなかの本門の活動であると決意しております」
29  鳳雛(29)
 ここで、山本伸一は、民族の解放のために戦い、政府軍に捕らえられて銃殺された、二十歳のベトナムの青年と、一九二〇年に十六歳で獄死した「韓国のジャンヌ・ダルク」といわれる、女子学生・柳寛順について語っていった。
 彼女は、日本の過酷な植民地支配に抗し、韓国の独立のために立ち上がった乙女である。
 柳寛順は、一九一九年の「三・一独立運動」で逮捕され、日本の官憲から激しい拷問を受けるが、最後まで、一歩も退くことなく、「独立万歳!」と叫んで死んでいったのである。
 伸一が、ベトナムと韓国の、二人の青年の話をしたのは、命を賭して祖国を守ろうとした、ほぼ同世代の若者の心を知ってほしかったからである。
 また、世界には、戦火に苦しみ、自由を奪われ、貧困に喘ぐ、たくさんの民衆がいる。その苦悩に目を向け、同苦する人に育ってほしかったからでもある。
 特に、柳寛順について語ったのは、日韓の友好のためには、日本人が日韓の歴史を、正しく認識する必要があると考えていたからであった。
 この前年(一九六五年)の六月に、日韓基本条約が調印され、十二月にソウルで批准書が交換されたばかりであった。
 伸一は、両国民が、末永く、信頼と友情で結ばれていくには、若い世代に、真実の歴史を伝えていかなければならないと、痛感していたのである。
 日本の若者たちは、韓国のことも、かつて、日本が韓国で何をしたかも、あまりにも知らなすぎた。
 教育の場でも、ほとんど教えられることがなかったからであろう。
 だから伸一は、高校生たちが隣国・韓国を知る″深き触発″になればと、あえて柳寛順について語ったのである。
 彼は、この話のあと、こう訴えた。
 「もちろん、私は、皆さん方には、そんな苦しい戦いは絶対にさせません。
 体を張って守り、苦労は全部、私が引き受けていくつもりでおります。
 ただし、広宣流布の決意という面では、殉難の覚悟が必要です。遊び半分では、尊き世界の平和を築くことも、不滅の民衆の時代を開くこともできない。
 広宣流布の活動というのは、権力の魔性との厳しき戦いであり、人生をかけた、断じて負けられぬ、真剣勝負の戦いであることを、申し上げておきたい」
 伸一の話は、鳳雛たちの胸に、鮮烈に刻まれていったのである。
30  鳳雛(30)
 この高等部員会の二日後の一月八日、山本伸一の、男女高等部員の代表に対する御書講義が始まった。
 これは、伸一が、以前から考えていたことであったが、彼は前年の秋に、高等部長の上野雅也に、代表への御書講義の計画を伝えたのである。
 高等部員の大多数は、いわゆる「学会二世」で、親が先に入会し、いつの間にか、自分も信心をするようになっていたというメンバーであった。
 したがって、信心で生活苦や病苦を乗り越えたといった、自分自身の体験をもっている人は、至って少なかった。
 そうした世代が、仏法への確信を深めていくには、教学を身につけることだ。
 教学という理は、信を生み、高められた信は、さらに仏法への理解を深めていくからである。
 伸一は、高等部員の本格的な成長を図るために、年明けから、毎月、御書の講義を行うことを決意したのであった。
 上野は、学生部の代表の一人として、山本会長から、「御義口伝」の講義を受けてきた。それは黄金の輝きを放つ、彼の人生の財宝となっていた。
 それだけに、山本会長から、高等部員に講義をしてもらえると思うと、彼の胸は躍った。
 しかし、高校生が会長講義についていけるだろうかと、不安も覚えた。
 高等部では、早速、首都圏のメンバーを対象に、人選を行い、最終的に、男女それぞれ五十人ほどのメンバーを選んだ。
 伸一は、研鑽する御書を「諸法実相抄」とした。この御書は、大聖人が佐渡御流罪中の文永十年(一二七三年)五月、最蓮房日浄に与えられた書である。
 高校生には、少々難しいかもしれないが、日蓮仏法の本義を簡潔に学ぶうえでは、最もふさわしい御書であると、伸一は考えた。
 メンバーは予習に力を注いだが、通解をすることさえ容易ではなかった。
 冒頭の「法華経の第一方便品に云く」の、「第一」という言葉に、まず行き詰まってしまったのだ。
 というのは、勤行要典には「方便品第二」となっているのに、なぜ、この御書では「第一」なのかがわからなかったのである。
 素朴といえば、素朴な疑問であった。
 メンバーは、法華経が第一巻から第八巻まであり、方便品はそのなかの第一巻に収められているために、「第一方便品」とされていることさえ、知らなかったのである。
31  鳳雛(31)
 参考になるものといえば、全部ではないが、この御書の講義が収録された、山本会長の『巻頭言・講義集』くらいであった。
 受講メンバーとなった、ある女子高等部員は、「諸法実相抄」を勉強するために、この本を、ぜひ読みたいと思った。しかし、周囲の女子部の先輩たちのなかには、それを持っている人はいなかった。
 母親に、相談すると、予期せぬ答えが返ってきた。
 「その本なら、うちにあるわよ。うちは貧乏だけど、学会の本だけは、そろえるようにしてきたの。何も子供には残せなくても、信心を深める書物だけは残そうと思ってね。
 やっと、それが役に立つ時が来たのね。お母さんは嬉しいわ」
 彼女は、母の思いに涙しながら、会長講義の日をめざして、研鑽に励んだ。
 第一回の講義の日となった一月八日は、土曜日であった。冬休みが終わり、三学期の始業式の日である。
 午前中に学校を終えたメンバーが、感動と期待と緊張に、胸をわくわくさせながら、学生カバンを手に、学会本部三階の大広間に集って来た。
 午後一時半過ぎ、山本会長が、会場に顔を見せた。
 鳳雛たちから、一斉に「こんにちは!」と、若々しい声があがった。
 「ご苦労様! さあ、一緒に勤行をしよう」
 勤行のあとは、いよいよ講義である。
 伸一は言った。
 「この御書講義は、私が全部行ってもよいのだが、諸君に力をつけさせたいと思う。そこで、諸君が御文を拝読し、その通解をしたあとに、私が講義するかたちにしたい」
 高等部長の上野雅也が司会役となり、拝読の希望者の挙手を求めた。なんと、全員の手があがった。
 最初に指名されたのは、浅田茂雄という、名門といわれる都立高校に通う高等部員であった。元気な力強い声で、よどみなく拝読していった。
 彼は、事前に百三十回も拝読して臨んだのである。
 続いて御書を拝読したメンバーも、実に堂々とした読み方であった。
 学生部の「御義口伝」講義や、「百六箇抄」講義の受講生よりも、むしろ上手なくらいであった。
 伸一は、そこに高等部員の、力の限り、体当たりでぶつかろうとする、一途な求道の心を実感した。確かな手応えを感じた。
32  鳳雛(32)
 山本伸一は、メンバーの拝読と、すばらしき通解を聴き、殊更、平易に語る必要はないと思った。男女青年部の幹部や、学生部の代表への講義と同じように語り始めていった。
 しかし、観念的な理解にならぬように、高校生の生活に即して、説明するように心がけた。
 たとえば、「依正不二」についてはこう語った。
 「『依』とは『依報』のことであり、自分を取り巻く、いっさいの環境です。『正』は『正報』のことであり、主体である自分自身のことです。この『依報』と『正報』とは、不二の関係にあり、『正報』である自身が変われば、環境も変えていくことができる。
 諸君だって、頑張って勉強し、成績がよくなって、喜び勇んで家に帰ったような時には、家のなかの感じも違うでしょう。
 また、実際に、お父さんや、お母さんの、目つきも違ってくるし、お小遣いも多くなるかもしれない。あるいは、食事の楽しさも違ってきます。
 自分の一念、生命が変われば、周囲の感じ方も変わってくるし、環境そのものが変化していく。その原理を示しているのが、『依正不二』ということです」
 伸一の言葉には、熱がこもっていった。
 「一人の人間が、本当に真剣な信心に立ち、生命力強く、英知を輝かせていけば、一家も、一族も、大きくいえば、一国も変えていくことができる。
 戦争といっても、本当の要因は人間の心にある。人間の支配欲、征服欲、権力欲、憎悪、怨念等々から起こるものです。
 だから、平和といっても、人間革命が根本になる。
 また、最近、深刻になっている公害も、現代人の欲望の産物です。
 便利さ、豊かさばかりを追い求め、自然との調和を忘れた人間の生き方に、その大きな原因がある。
 依正不二という考え方に立つならば、結局は、環境の破壊は、人間自身の苦しみに繋がることは明らかになる。
 だからこそ、正しい哲学を確立し、人間の生き方、考え方、そのものを変えていかなくてはならない。それが人間革命です」
 清き鳳雛たちは、仏法の深遠な思想に触れ、感動に瞳を輝かせていた。
 一時間半にわたる講義は、あっという間に過ぎていった。伸一は、最後に、こう締めくくった。
 「教学の研鑽はいうまでもなく、学業にも一生懸命に取り組んでください。諸君の将来のために、私は、この講義を始めたんです」
33  鳳雛(33)
 山本伸一は、講義を終えると、皆にタイ焼きをご馳走した。
 受講生が腹を空かせるだろうと、事前に手配しておいたのである。
 「さあ、一緒に、タイ焼きを食べよう。温かいうちに食べなさい。
 このタイ焼きは、戸田先生もお好きだった。尻尾まで、あんこが入っていて、おいしいんだよ」
 そこには、家族のような温かさが漂っていた。
 伸一は、この日の夜、当時の佐藤栄作首相を、鎌倉の別邸に訪ね、会談することになっていた。
 笑顔で、タイ焼きを頬張るメンバーを見ながら、彼は思った。
 ″私は、皆を、生涯、守り続けていかねばならない。そして、この高校生たちが、自在に活躍できる大舞台を開くのだ。
 そのために、佐藤首相とも、日本の将来のこと、教育の問題、国際問題について、十分に語り合おう″
 伸一は、このころから、日本の、そして、未来のために、各界の要人たちとの対話を、心がけていたのである。
 会長講義は、二月に「諸法実相抄」の後半を終えると、三月に「生死一大事血脈抄」、四、五月に「佐渡御書」と進められた。
 伸一の講義には、常に新たな触発があった。
 「生死一大事血脈抄」の講義の折であった。
 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮しょせん是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か
 この一節に入ると、伸一は、強い口調で語った。
 「諸君は、この御文を胸に刻み、一生涯忘れずに、互いに戒め合い、異体同心の団結で、広宣流布の総仕上げをしていただきたい。
 そうすれば、広宣流布の不滅の流れができる。
 大聖人亡きあと、なぜ、日蓮教団は分裂していったか。それは、日興上人を中心に、団結することができなかったからです。
 人間は、年とともに、権力に心を奪われ、自分の地位、立場などに強い執着をもち、名聞名利に流されていく。『自己中心』になっていくものです。
 すると、信心をもって、団結することができなくなる。それでは、どんな学会の役職についていたとしても、信心の敗北だ。信心というのは、結局は、この『自己中心』の心との戦いなんです」
34  鳳雛(34)
 山本伸一の講義は、時に遺言のように、メンバーの胸に鋭く迫った。
 「佐渡御書」の「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし……」の段では、彼は、こう語った。
 「大聖人の時代も、これからも、悪は徒党を組んで正法を滅ぼそうとする。
 学会憎しの一点で、政治権力も、宗教も合同して、攻撃の牙を剥いてくるにちがいない。
 しかし、たとえ、一人になっても、″師子王″のごとき心をもって、広布の使命を果たしていくのが″師子王″です。
 戸田先生も、師の牧口先生亡きあと、ただ一人、広宣流布に立たれた。それが創価の精神であり、学会っ子の生き方である。
 その精神を失えば″烏合の衆″となってしまう。
 真実の団結というのは、臆病な人間のもたれ合いではない。一人立つ獅子と獅子との共戦です」
 彼の講義には、側近の最高幹部に指導するかのような、厳しい響きがあった。
 「師子身中の虫の師子を食」の講義では、次のように強調している。
 「この御書にも『仏弟子等・必ず仏法を破るべし』と仰せのように、広宣流布を破壊していくのは、外敵ではなく、″師子身中の虫″です。
 たとえば、最高幹部であった者が、野心から、あるいは嫉妬から、学会を裏切り、造反し、躍起になって攻撃しようとする。
 それと戦い、学会を守っていくのが諸君です。
 また、絶対に、″師子身中の虫″になってはならないし、諸君のなかから、″師子身中の虫″をわかしてもならない。
 ″師子身中の虫″というのは、造反者だけではありません。
 仮に、立場は幹部であっても、堕落し、怠惰、無気力になったり、虚栄を張って見栄っぱりになり、すなわち自己中心主義に陥り、一念が広宣流布から離れていくならば、″師子身中の虫″です。
 そうした幹部がいれば、みんながやる気を失い、学会は蝕まれていく。怖いのは内部です。恐ろしいのも内部です。
 どうか、諸君は、創価学会の精神は、広宣流布に通ずる、清らかな精神であることを、生涯、忘れないでいただきたい。また、それを後輩に教えていっていただきたい。
 ともあれ、広宣流布は、諸君に委ねます」
 伸一の渾身の講義は、若き清らかな、高等部員の生命に注がれていった。
35  鳳雛(35)
 山本伸一は、この講義の途中から、長男の正弘にも聴講させた。
 正弘は、まだ中学生であったが、講義を理解する教学の力はあった。
 伸一は、わが子もまた、弟子の一人として、訓練を開始したのである。
 会長講義は、五月で「佐渡御書」が終わると、六月からは、第二期が、新しいメンバーでスタートすることになった。
 そして、六月十一日には、一期生の修了式、並びに、二期生の第一回講義が行われた。
 この席上、講義が修了した一期生に、修了証書が授与された。
 伸一は言った。
 「戸田先生は、かつて、男子部の代表をもって『水滸会』を、また、女子部の代表をもって『華陽会』を結成された。今や、そのメンバーは、学会の中核となり、広宣流布の大発展の推進力となっています。
 今度は、そのうえに、新しい時代を築きゆくために、広布の永遠の流れを開くために、私は、この受講生で、男子は『鳳雛会』を、女子は『鳳雛グループ』を結成することにしたいと思います。
 すべては、未来への確固たる布石です」
 皆の顔に光が走り、拍手が起こった。
 伸一は、メンバーへの講義を、青春時代の思い出に終わらせるのではなく、広宣流布のために、生涯にわたる永続的な軌道をつくっておきたかったのである。
 引き続き、第二期のメンバーの講義が行われた。研鑽御書は「如説修行抄」であった。
 一期生の、講義に臨む姿を見てきた二期生もまた、徹底して予習を重ねており、拝読も通解も、実に見事であった。
 剣豪の修行のごとき研鑽が、既に伝統となりつつあったのである。何事も、肝心なのは最初といえる。
 それから一カ月後の七月十六日、神奈川県・箱根にあった、聖教新聞の箱根研修所(現在の神奈川研修道場)で、初の鳳雛会・鳳雛グループの野外研修が行われた。
 メンバーは、貸し切りバスで、午後に研修所に着くと、バレーボールなど、スポーツ大会で汗を流した。
 その後、仏間に集い、唱題しながら、伸一の到着を待っていた。
 午後五時半、伸一は、研修所に着いた。
 車から降りるなり、彼は言った。
 「さあ、みんなの成長を願ってポプラを植えよう」
36  鳳雛(36)
 山本伸一は、メンバーの代表とともに、研修所の庭に、ポプラの木を記念植樹した。
 「みんなも、このポプラに負けないように、大きく伸びていくんだよ。
 君たちの成長が、本当に楽しみだな……」
 伸一は、こう言って目を細めた。
 「みんな、おなかが減ったと思うから、今日は、先に食事にしよう」
 集会室で、伸一を囲んでの夕食が始まった。
 食事係の役員が作った、″鳳雛汁″と名づけられた豚汁も、食卓を賑わせた。
 「おいしいね。これは、みんなが作ったのかい」
 伸一が尋ねると、食事係のメンバーが元気な声で、「はい!」と答えた。
 「お代わりをもらおう」
 その言葉を聞くと、皆の顔がほころんだ。
 伸一は、高等部員が慣れぬ手つきでジャガイモの皮を剥き、目を赤く腫らしながら玉ネギを切り、料理した真心に、最大に応えたかったのである。
 外は、夕闇のなかに、濃い霧が流れていた。だが、この部屋のなかは、ほのぼのとした師弟の人間愛の光に包まれていた。
 食事のあと、伸一は、皆と一緒に、仏間で勤行し、指導会へと移っていった。
 彼は言った。
 「私の前では、自由でいいんだ。ありのままの姿でいいんだよ。膝も崩して楽にしなさい」
 彼は、形式でメンバーを縛ろうとは思わなかった。真実の思いを、率直に、皆に語ろうとしていた。
 「今日は男子の鳳雛会を中心に話をいたしますが、『男女はきらふべからず』ですので、女子の鳳雛グループの皆さんも、同じ立場で聞いていただきたい。
 皆さんもよくご存じのように、今日七月十六日は、約七百年前に、日蓮大聖人が『立正安国論』をもって国主諫暁をなされた、意義ある日にあたります。
 この『立正安国論』の精神こそが、大聖人の御精神であり、私どもの永遠の生き方であります。
 まず、この意義深き日を、鳳雛会の第一回の野外研修の日としたことを、諸君は永久に忘れないでいただきたい」
 大聖人が「立正安国論」を、時の幕府の最高権力者である北条時頼に提出されたのは、文応元年(一二六〇年)であり、数え年三十九歳であられた。
 伸一はこの時、満三十八歳であり、数え年でいえば三十九歳となる。
 彼は広布への燃える決意を胸に、皆の顔に視線を注いだ。
37  鳳雛(37)
 外は、いつしか雨に変わっていた。霧雨である。
 山本伸一の声の響きが、一段と強さを増した。
 「諸君には、未来二十年、三十年、そして、学会の続く限り、不滅にして燦然と輝く、広宣流布の歴史を築いていく使命がある。
 皆さんは、本来、仏縁深き、栄光輝く歴史に残る人たちだ。これは、私が断言しておきます。
 諸君は、その自覚で、今日の日を思い起こして、前進していただきたい。
 そして、毎年、七月十六日には、鳳雛会が参集し、成長の節を刻む、記念の日にしたいと思う」
 それから伸一は、戸田城聖の事業が行き詰まり、窮地に陥った時に、ただ一人立って、師を守り抜いたことを述べ、こう語った。
 「私は、今日集まった諸君を、頼りにしてまいります。諸君が成長してくれれば、私も、年ごとに安心することができる。
 しかし、私がこれほどまでに期待しているのに、もし、諸君に学会の総仕上げをしていこうという心がなく、団結もできないようならば、それは、もはや諸君が悪いのではなく、私の方に福運がないんだ。
 私は、これからも、諸君のことを、十年、二十年、三十年と、見続けていきます。何人が落ち、何人が残るか、どのように変化していくか――その結果を見たうえで、広布の総仕上げの、バトンタッチの方法を考えていきたい。
 したがって、どんなことがあっても、御本尊を一生涯抱きしめていきなさい。学会を守り、築いていきなさい――この二つが鳳雛会の根本の精神です。
 諸君は、私と師弟の絆で結ばれた人であると思っているが、そう信じていいですね」
 「はい!」という返事が響いた。強い決意のこもった声であった。
 皆、頬を紅潮させながら、伸一を凝視し、次の言葉を待った。
 「私は、今日、諸君に薫発の因を与えた。
 しかし、自ら大使命に生き抜いていこうという一念、努力がなければ、結果として、使命の芽は、出ては来ない。
 自分の立身出世や名聞名利ではなく、広宣流布のために何をするかです。
 どうか、歯を食いしばり、努力を重ねて、使命を果たしていただきたい。
 いいですね」
 「はい!」
 「今日を記念して、七月の三日に発刊された、私の『立正安国論講義』に名前を認め、代表に贈ります」
 そして、男女一人ずつ、代表の名前が呼ばれた。
38  鳳雛(38)
 突然のことであったが、山本伸一から、『立正安国論講義』を贈られた二人の顔は、喜びに輝いた。
 友の大きな拍手が二人を包んだ。
 伸一は、皆に言った。
 「代表は全体に通じる。代表がもらったということは、自分がもらったことと同じだととらえ、喜べるようになることが大事だ。
 その心をもてば、いつか、自分もそうなっていく。それが因果の理法であり、信心の世界です。だから、ヤキモチを焼いたりすれば、自分が損をします。
 それから、諸君は、今のうちに、たくさん本を読んでおきなさい。
 今日は、私が青春時代に読んだ『ナポレオン』(鶴見祐輔著)の本を持って来たので、みんなで回し読みしてはどうだろうか。
 このほかにも、デュマの『三銃士』、ユゴーの『九十三年』など、古今東西の名作を、次々と回すようにします」
 この時、伸一がメンバーに渡した『ナポレオン』の表紙をめくると、伸一の文字で、「吾が道をゆけ 人それぞれに。しかれども 広布の戦に 糧にすべき本は多々なり。七月十六日」と記されていた。
 伸一は、言うべきことを言い終えると、皆から質問を受けることにした。
 就職問題について質問するメンバーもいれば、中国の将来についての展望を尋ねる人もいた。また、アフリカの平和と民衆の幸福に貢献したいと、抱負を語る人もいた。
 何問かの質問に続いて、工藤きみ子という、小児マヒの後遺症で片足が不自由なメンバーが、思いあぐねたような様子で尋ねた。
 「私は、助産婦をしている母と二人暮らしですが、将来は、私が母の面倒をみようと思っています。
 そのために、教師になりたいのですが、体が不自由で体操もできませんし、大学進学は経済的にも難しいようです。
 教師がだめなら、書道で身を立てようと思って、勉強していますが、これからどうすればいいのか、どうなっていくのか、わからないんです……」
 ここまで言うと、彼女の言葉はとぎれた。
 メガネの奥の目に、涙が光っていた。
 工藤は、広宣流布に生きる使命の大きさを思えば思うほど、自分の置かれた現実を、どう開いていけばよいのかわからず、もがき苦しんでいたのであろう。
 その時、伸一の厳しい叱咤が飛んだ。
 「信心は感傷ではない。泣いたからといって、何も解決しないではないか!」
39  鳳雛(39)
 緊張が走った。室内は、静寂に包まれた。
 山本伸一は、工藤きみ子を見すえ、強い語調で語り始めた。
 「あなたには、御本尊があるではないか! 迷ってはいけない。
 ハンディを嘆いて、なんになるのか。いくら嘆いてみても、事態は何も変わりません。
 また、すべての人が、なんらかの悩みをかかえているものだ。いっさいが恵まれた人間などいません。
 学会っ子ならば、どんな立場や状況にあろうが、果敢に挑戦し、人生に勝っていくことだ。どうなるかではなく、自分がどうするかです。
 本当に教員になりたければ、必ず、なってみせると決めなさい。もし、大学に進学することが経済的に大変ならば、アルバイトをして学費をつくればよい。夜学に通ってもよい。
 使命に生きていこうとすることは、理想論を語ることではない。観念の遊戯ではない。足もとを見つめて、現実を打開していくのが信心です。困難を乗り越えていく姿のなかに、信心の輝きがある。
 いかなる状況下にあっても、誰よりも力強く、誰よりも明るく、誰よりも清らかに生き抜き、自分は最高に幸福であると言い切れる人生を送ることが、あなたの使命なんです」
 工藤は、唇を噛み締め、何度も、何度も頷いた。
 伸一は言った。
 「そうだ。負けてはいけない。何があっても、負けてはだめだよ。強くなれ、頑張れ、頑張れ、頑張るんだよ」
 彼の言葉には、厳しさのなかにも、優しさがあふれていた。
 それから彼は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「みんなは、互いに同志であり、仲間であり、友達なんだから、もし、学費が払えない人がいたら、全員で出し合って、助け合っていくぐらいの気持ちをもってほしい。いいね!」
 「はい!」
 皆の声が響いた。
 伸一は、工藤に微笑みかけた。
 「あなたは一人じゃないんだ。同志がいるじゃないか。感傷を吹き飛ばして、朗らかに生きるんだよ」
 この日、集ったメンバーのなかには、工藤だけでなく、両親のうち、どちらかがいない家庭の人が何人もいた。また、経済的に豊かな家庭など、皆無であったといってよい。
 そして、皆、多かれ少なかれ、工藤と同じ気持ちをいだいていた。
 伸一は、それを感じていたからこそ、皆のためにも、あえて、工藤に厳しく指導したのである。
40  鳳雛(40)
 参加者のなかに、藤井清子というメンバーがいた。
 彼女も、六歳の時に両親が離婚し、姉とともに母親の手で育てられた。別れた父親は、重度のアルコール依存症であった。
 母子三人で伯母の家に世話になっていたが、生活はどん底であった。
 その暮らしぶりを見て、一家心中でもするのではないかと心配した近所の人が、彼女の母親に学会員を紹介してくれた。
 この″近所の人″には、創価学会に入れば、どんなに貧しい人でも、皆、元気になっていくという実感があったのであろう。
 清子の母親は、その学会員の話を聞き、信心を始めたのである。
 母親は、わが子を育てるために、ビル清掃や家政婦の仕事などをして、昼夜を分かたず、懸命に働いた。
 姉も中学を卒業すると、昼は働き、定時制高校に進んだ。しかし、それでも一家の生活は苦しかった。
 清子も、中学を出たら、姉と同じように働こうと思っていたが、三つの奨学金をもらい、全日制の高校に進むことができた。
 彼女には、芯の強さがあったが、表情は暗く、何事にも消極的であった。
 高校に入学した年に、高等部が結成され、やがて、彼女は部長になった。
 その部旗の授与の折に、山本会長から言われた言葉が、「明るく頑張りなさい」であった。
 以来、彼女は、この言葉を自分の指標として、友の激励に走り、勉学に力を注いできた。
 そして、会長講義の受講者に選ばれ、広宣流布へのわが使命を自覚していったのである。
 だが、広布のリーダーたらんと思っても、眼前にあるのは、厳しい現実生活であった。高校卒業後は就職し、一時も早く、家計を助けたかった。
 ″大学に行くことも難しく、特別な資質もない自分が、果たして、山本先生が期待されるような、人類の幸福を担うリーダーになれるのだろうか″
 彼女は、こう思うと、工藤きみ子と同じように、どうしてよいのか、わからなくなることがあった。
 また、西中国代というメンバーは、この二週間ほど前に母親を亡くしていた。
 その悲しみのなかで、ともすれば感傷的になる自分と、戦っているさなかであった。
 それだけに、皆、工藤への、山本会長の指導を聞くと、目が覚める思いがし、″現実″に立ち向かう決意を固めたのであった。
41  鳳雛(41)
 質問会が終わると、山本伸一は言った。
 「少し暑くなったので、外へ出よう」
 戸外は、まだ霧雨に煙っていた。ライトに照らされ、夜露を含んだ芝生が、きらきらと光っていた。
 伸一の提案で、皆で「同志の歌」や″大楠公″の歌を合唱した。
 若き友の誓いの歌声が、霧の夜空に美しく響いた。
 このあと、伸一は、用意しておいたスイカやお汁粉、蒸したジャガイモなどを皆に振る舞った。
 懇談が始まった。
 「鳳雛会、鳳雛グループにも歌がほしいね。みんなで作ってみたらどうかね」
 「はい!」
 伸一の提案に、皆が喜々として答えた。
 いつの間にか、霧は晴れて、彼方に、黒々とした山の稜線が見えた。
 鳳雛たちの目は輝き、誓いに燃えていた。
 伸一は思った。
 ″今は皆、純粋な気持ちで、私とともに広布に生き抜く決意を固めている。
 しかし、信仰の道は厳しい。難もある。さまざまな誘惑もある。どれだけのメンバーが、一生涯、同志を裏切ることなく、信心を貫けるだろうか……。
 だが、まことの弟子が、一人でもいればよい。その一人が、広布の永遠の流れを開くはずだ。
 願わくは、全員、一人も漏れなく、この世の自らの使命を果たし抜いてもらいたい″
 最後に彼は、念を押すように言った。
 「どこまでも、私と一緒に進もう。絶対に、信心から、学会から、離れてはいけないよ」
 黄金の思い出を刻んで、初の野外研修は終わった。
 メンバーは、すぐに、歌の制作に取りかかった。
 年が明けて、一九六七年(昭和四十二年)の一月二十一日、伸一を囲んで、鳳雛会、鳳雛グループの懇談会が行われた。
 最初に、伸一とともに、記念のカメラに納まったあと、懇談会に入り、そこで歌の発表となった。
 まず、女子の「鳳雛グループの歌」が披露され、次いで、「鳳雛会の歌」が発表された。
 一、霧雨けむる仙石に
  未来を築く若武者の
  師匠に誓いし
  この意気は
  天にこだまし地に響く
  天にこだまし地に響く
 皆、生涯の決意を固めた、あの箱根での夜を思い起こしながら、声を限りに歌った。それは、メンバーの誓いの表明であった。
42  鳳雛(42)
 「鳳雛グループの歌」は、明るく、はつらつとしていた。
 一方、「鳳雛会の歌」は力強く、堂々としていた。
 山本伸一は、合唱が終わると、微笑みを浮かべて言った。
 「両方とも、すばらしい歌になった。特に『鳳雛会の歌』の方は満点だ。
 一月度の本部幹部会で、『鳳雛会の歌』を発表することにしよう。みんなが、合唱するんだ」
 歓声があがり、拍手が響いた。
 一月三十日、東京・千代田区の日本武道館で行われた本部幹部会の席上、鳳雛会の一、二期生がマイクの前に立った。
 一、霧雨けむる仙石に
  ………… …………
 元気いっぱいの歌声が、会場に轟いた。
 二、世界の民が我等待つ
  今は雌伏の時なりと
  明日の勝利を胸に秘め
  学ぶ久遠の大哲理
  学ぶ久遠の大哲理
 メンバーの表情は凛々しく、声は力強く、まさに、広布の若武者を思わせた。
 山本会長のもとで、創価後継の鳳雛が、たくましく育ちつつあることを、強く実感させる光景であった。
 わが子の成長を念じ、苦労に苦労を重ねて、広布の道を切り開いてきた、壮年、婦人の参加者にとっては、それは最大の希望であり、喜びであった。
 感涙を抑えることができず、ハンカチで目頭を拭う人たちもいた。
 伸一は、鳳雛会、鳳雛グループのメンバーとは、その後も、折々に会い続けていった。
 大学受験が終わり、一期生の大半の進路が決まった、この年の四月一日にも、一、二期生のメンバーと、学会本部で懇談の機会をもった。
 さらに、一流ホテルなどの食事に、皆を招待したこともあった。
 やがて、世界の大リーダーに育っていくメンバーに、食事のマナーなどを教えておきたかったからでもあった。
 鳳雛会、鳳雛グループは、三期生、四期生と期を重ねるとともに、関西をはじめ、北は北海道から南は沖縄まで、各方面にも結成されていった。
 伸一が直接、講義を担当できたのは、二期生までであった。
 しかし、その精神は、各期、各方面のメンバーに受け継がれ、やがて、青年部の、そして、学会の中核に育っていったのである。
43  鳳雛(43)
 鳳雛会、鳳雛グループの結成から三十余年が過ぎた現在、メンバーの活躍は目覚ましいものがある。
 何人もの副会長が誕生しているし、婦人部長をはじめ、婦人部の最高幹部も多数育っている。
 高等部長を務めた人や、男子部長、青年部長を歴任した人もいる。
 海外にあっても、ヨーロッパの中核となっているメンバーをはじめ、世界各地で、広布の推進力に成長している。
 また、大学教授、小・中学校や高校の教師、医師、弁護士、政治家、会社経営者、マスコミ人等々、多くのメンバーが、社会の各界で第一人者となっている。なかには、世界的なオペラ歌手として活躍する鳳雛会員もいる。
 山本伸一が、自らの手で蒔き、育てた人材の種子は見事に成長し、広布後継の大輪となって花開き、実をつけていったのである。
 伸一は、鳳雛会や鳳雛グループだけでなく、全高等部員、そして、中等・少年部員の育成にも力を注ぎ続けた。
 高・中等、少年部の新春登山会、夏季講習会も毎年実施され、新たな伝統がつくられていった。
 一九六六年(昭和四十一年)の夏季講習会でのことである。
 ――伸一はスポーツ大会に出席し、高等部の代表とソフトボールに興じた。青春時代の楽しい思い出になればとの、気持ちからであった。
 高校生チームと、伸一を中心とした最高幹部チームが対戦することになった。彼はファーストを守った。
 高等部員が内野ゴロを打った。ピッチャーがそれを拾って、ファーストに送球した。
 伸一は跳び上がって、球をとろうとした。
 その時であった。全速力で走って来たランナーが、伸一にぶつかった。
 皆、息を飲んだ。
 伸一は倒れ、その拍子に強く左腕を打った。激しい痛みが走った。
 皆が心配して、駆け寄ってきた。
 腕には血が滲んでいた。
 「先生! すいません。大丈夫でしょうか」
 ぶつかった高校生が、申し訳なさそうに尋ねた。
 「心配しないでいいよ。大丈夫だから」
 伸一は、にこやかに言うと、ベンチに下がり、手当てをしてもらった。
 だが、包帯の下の傷口は、いつまでも、ずきずきと痛み、しかも、腫れ始めた。動かすのも辛かった。
 夜には、大客殿で、高等部、中等部、少年部の、合同部員会が待っていた。
44  鳳雛(44)
 最高幹部の一人が、口を開いた。
 「先生、夜の合同部員会では、微力ながら、私たちが全力で参加者を励まします。どうか、ご無理をなさらず、お休みになっていてください。
 先生には、スポーツ大会にご出席いただいたので、メンバーも十分に満足していると思います」
 伸一は答えた。
 「いや、私は出席します。全国から集って来てくれた、大事な、大事な学会の後継者たちが、待っているんだから……」
 彼の腕は、痛んでいた。
 だが、合同部員会に出席した伸一は、怪我のことも忘れたかのように、五十分余にわたって、渾身の指導をした。
 そして、さっそうと学会歌の指揮までとったのである。
 メンバーの多くは、スポーツ大会での伸一の怪我を目にしていた。だから、皆の感激は大きかった。
 彼の、この行動自体が、民衆に、同志のために奉仕する、広宣流布のリーダーの生き方を教えていたといえよう。
 また、伸一は、定時制高校に通う高等部員の育成にも、心を砕いてきた。
 『大白蓮華』の巻頭言「鳳雛よ未来に羽ばたけ」のなかでも、伸一は、定時制高校生に光を当て、その尊き青春の生き方を称えている。
 伸一自身も、戦後間もなく、東洋商業の夜間部に編入学し、印刷会社などで働きながら、勤労学生として青春時代を送ってきた。
 それだけに、定時制に通う高等部員の苦労は、よくわかっていた。
 メンバーのなかには、集団就職で東京に来て、会社の寮で暮らしている人も多かった。同室の人たちが信心に無理解なため、会社の屋上で、日々、勤行をしているという高等部員もいた。
 また、父親が他界し、母親が病弱なために、自分が主に、家計を担っているという人もいた。
 この、人一倍、苦労している友を、なんとしても大成させたいというのが、伸一の願いであった。
 定時制高等部の独自の部員会がもたれたのは、高等部が結成されて一年半が過ぎた、一九六六年(昭和四十一年)の二月のことであった。
 以来、学会の会館を使用して、定期的に定時制部員会が開かれてきたが、六七年(同四十二年)八月十三日には、東京・北区公会堂で、大々的に、第五回の定時制部員会が行われることになったのである。
 一般の公会堂を使用しての、初の会合である。
45  鳳雛(45)
 北区公会堂での定時制部員会の二週間ほど前に行われた夏季講習会で、ある定時制の高等部員が、山本伸一に出会った。
 そのメンバーは意を決して、伸一に言った。
 「先生! 私たちは八月十三日に定時制の部員会を行います。先生、ぜひ出席してください」
 必死さが感じられた。
 伸一は答えた。
 「その日は、地方指導の予定があるので、私は行けないが、行った以上のことをして、応援するよ」
 そして、部員会当日を迎えた。
 この集いでは、まず、上野雅也高等部長から、山本会長のメッセージが伝えられた。
 「私は求道心に燃えて、社会の荒波と戦いつつ、勉学に励む諸君こそ、学会の宝であり、未来の指導者と確信して、本日の集いを心から喜ぶものであります」
 集った二千五百人の熱気が、場内を包んだ。
 「どうか、妙法信受の鳳雛諸君は、世の人々に百千万億倍すぐれた大哲理をもち、いかなる逆境も、これと戦うことがすべて財産となり、福運となることを確信し、誇りある青春時代を堂々と送っていただきたい。
 (中略)″十年先をじっとこらえて今にみろ″の決意を忘れず……」
 メッセージの紹介が終わると、爆発的な拍手が起こった。
 さらに、この日、参加者全員に、伸一が揮毫した色紙の複製が贈られたのである。
 そこには、彼の「若き日の日記」の一節が、毛筆で認められていた。
 「未来生涯 いかなる苦難が打ち続くとも 此の師に学んだ栄誉を 私は最高最大の幸福とする」
 そして、その脇には「私と歩みを共にしゆく友に」と記されていた。
 色紙を手にした参加者の感激は、頂点に達した。
 人生の師と仰ぐ伸一と、同じ道を歩む誇りが、熱い歓喜の血潮となって、皆の全身にうねった。
 苦難は誉れ――誰もがそう感じていた。
 定時制部員会は、その後も回を重ね、翌一九六八年(昭和四十三年)八月十四日には、東京・日比谷公会堂で、第十回の部員会が開催された。
 前々から、メンバーの間で、定時制高等部の歌を作りたいとの声があがっていたが、この第十回の部員会という佳節が、発表の場になったのである。
 曲名は「我が青春譜」で、作詞も作曲も定時制高等部員によるものである。
46  鳳雛(46)
 山本伸一は、担当幹部から、愛唱歌「我が青春譜」の発表をはじめ、部員会の詳細な報告を聞くと、定時制高等部は、完全に軌道に乗ったことを感じた。
 そして、彼は、それを、さらに盤石なものにするために、高等部長の上野雅也と相談し、定時制にも鳳雛会を結成することにしたのである。
 定時制鳳雛会が男女各二十七人をもって発足したのは、この一九六八年(昭和四十三年)の十月二十七日であった。
 翌月の十一月十七日、伸一は、この定時制鳳雛会のメンバーを、すき焼き店に招待した。
 東京・青山にある格式の高い店だけに、皆、最初は緊張した顔をしていた。
 「今日は、おなかがいっぱいになるまで、どんどん食べなさい」
 伸一に促され、湯気を上げた、すき焼きをつつき始めると、屈託のない笑みが広がった。
 やがて、伸一を囲んでの指導会となった。
 「仕事をし、夜学に行っていると、どうしても疲れがたまり、健康を損ないがちになるので、特に体を大事にしていきなさい。
 賢人とは、自分で自分をリードしていける人のことです。健康管理は、自分の智慧で行っていくしかない。
 私は、皆さんの体のことが、一番、心配なんです」
 師の真心の言葉を、皆、胸を熱くして聞いた。
 「今は、どんなに大変な境涯であろうとも、どんなに厳しい職場であろうとも、それでいいんです。若い時に、逆境のなかで生きた人の方が、かえって将来、立派に人生の総仕上げをしていけるものです。
 最も苦労している諸君であるがゆえに、私は、一番大きな期待をかけております。定時制鳳雛会は、本命中の本命です。これだけのメンバーがいれば、広宣流布は必ずできます。
 私は、一年ごとに、十年ごとに、諸君がどう成長していくか、見ていきます。いざという時に、私とともに、広宣流布のために立ち上がることのできる、本当の山本門下生になってもらいたい」
 「はい!」
 元気な声が響いた。
 すると伸一は、意外なほど厳しい口調で言った。
 「返事は簡単です。決意することも簡単だ。口先だけの人を、私は、たくさん見てきた。
 信心は実証です。持続です。まことの時に、また、生涯を通して、何をなしたかです。
 諸君は、本物の勇者だったと、賛嘆される人になってもらいたい」
 厳父の指導であった。
47  鳳雛(47)
 最後に、山本伸一は、つぶやくように語った。
 「私は嬉しい。今日は、本当に嬉しい。
 私も夜学、戸田先生も夜学だった……」
 定時制鳳雛会のメンバーは、自分たちの想像を遙かに超えた、山本会長のありのままの姿に、親しみを覚えた。また、あまりにも大きな期待に、身の引き締まる思いがした。
 伸一は、皆に視線を注ぎながら笑顔で言った。
 「何か歌を歌おう」
 メンバーの一人が答えた。
 「それでは、みんなで作った、定時制高等部の歌を歌わせてください」
 「聴きたいな」
 「はい!」と言って、全員が立ち上がった。
 そして、「我が青春譜」を歌い始めた。
 一、強き同志の 絆もち
  向学に燃え 励みゆく
  負けるな友よ 若人の
  英知溢るる 情熱は
  我が黄金の青春譜
 ゆっくりとしたテンポの、力強い歌である。
 二、若き我等の 精進は
  師匠が歩んだ
       道なれば
  我等無上の 誇りなり
  広布の偉業 我が使命
  ああ感激のこの縁
 三、輝く栄光 ひとすじに
  若き平和の 戦士征く
  世界の友よ 肩くみて
  明日の希望の 太陽を
  謳おう我等の青春譜
 一番では「苦闘」を、二番で「師弟不二」を、三番で「世界への雄飛」の決意を歌っていた。生涯、師とともに生きんとする、誓いを込めた熱唱であった。
 その歌声は、伸一の心に、びんびんと響いた。
 「いい歌だ。もう一度」
 伸一の言葉に、再び力強い合唱が始まった。
 「本当にいい歌だ。今度は、男子が一番を、女子が二番を、三番は男女一緒に歌おう。この歌をテープに吹き込んで、聴かせてもらうよ」
 伸一の要請で、数回、合唱が繰り返された。
 歌が終わると、彼は言った。
 「みんながよければ、今月の本部幹部会で歌って、全国のメンバーにも聴いてもらおう」
 予期せぬ提案に、メンバーは感激に目を潤ませながら、「はい」と、元気な声で答えた。
 「また、この歌の四番の歌詞を、私がみんなのために作ってあげよう」
 皆、わが耳を疑った。誰もが驚きを隠せなかった。
 この日の会食は、メンバーにとって、″生涯の宝″となったのである。
48  鳳雛(48)
 山本伸一は、帰りの車中で、早速、「我が青春譜」の四番の歌詞を考えた。
 彼の思いは、そのまま、歌詞となった。歌は、一瞬にしてできあがった。
 四、富士の高嶺を
       あおぎゆく
   君よおいたて
       ぼくは待つ
   使命は深し 生死あり
   進む君等に 光あれ
   未来に燦たる青春譜
 この歌詞は、翌日には、メンバーに伝えられた。
 約束を虚妄にしない、山本会長の誠実さに、また、その迅速さに、まず、メンバーは感動した。そして、歌詞を見ると、その感動は衝撃に変わった。
 なんという信頼、なんという深き自己の使命か――皆、限りなく優しい師の腕に包まれている喜びに、胸が震えるのであった。
 十一月二十五日、東京・両国の日大講堂で行われた本部幹部会では、定時制高等部員の誓いの歌声がこだました。
 山本伸一は、壇上で、その歌声に耳を傾けながら、心で叫び続けた。
 ″今は、苦しく、辛いこともあるだろう。しかし、負けるな! 断じて、負けるな!
 最も厳しい環境のなかから、最高の大指導者が育つということを、君たちが証明するのだ。
 道を開け! 二十一世紀のパイオニアたちよ″
 こうした山本会長の陣頭指揮ともいうべき育成によって、高等部は、目覚ましい発展を遂げていった。
 結成二年後の一九六六年(昭和四十一年)六月には、部員十万を達成し、さらに、六八年(同四十三年)には、部員十八万へと、飛躍的に拡大していったのである。
 また、この六八年には、女子高等部長が誕生し、本部の海外総局で、英語版の月刊誌「セイキョウ・タイムズ」の編集にあたり、副高等部長を務めてきた大河内智子が、初代女子高等部長に就任している。
 会長山本伸一が、「本門の時代」の出発に際し、高等部、中等部、少年部という、未来の人材の泉を掘ったことによって、創価後継の大河の流れが、一段と開かれ、二十一世紀への洋々たる水平線が見えてきたのである。
 使命の苗を植え、育む、伸一の人間教育は、青少年の心に、精神の不屈なる力を培っていった。
 それは、戦後日本の荒廃した教育に、新しき光を投げかけるものであった。
 だが、それに気づく教育者も、学者も皆無であったといってよい。

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