Nichiren・Ikeda
Search & Study
48 新時代(48)
一九五七年(昭和三十二年)の十月には、ネルーは日本を初訪問している。
山本伸一も、日記にこの来日のことを書いた。
「インドのネルー首相来日中。
慶応義塾大学と早稲田大学にて、『青年は″明日の世界″だ』と呼びかけ、世界平和と人類愛についての演説あり、と。
仏法発祥のインドに一日も早くゆきたし」と。
そのネルーの死は、伸一の心を曇らせた。
前年、アメリカでケネディが死に、今また、ネルーが逝いたのである。
二十世紀の巨星たちの死に、伸一は、時代の激動を感じていた。しかし、その流れが、どこへ向かっていくのかは、彼にもわからなかった。
ただ、偉大なリーダー亡きあとの、世界の混乱を、伸一は憂慮していた。そして、人類の融合と平和の哲学を、一日も早く、世界に流布しなければならないと誓うのであった。
「本門の時代」とは、世界の恒久平和を、現実に築き上げていく時代である。師の戸田城聖が示した、地球民族主義を、世界の思想の大潮流としていく時代である。
伸一の胸には、世界平和の実現のための、さまざまな構想があふれていた。
だが、彼は、高鳴る鼓動を抑え、努めて冷静に、堅実な歩みを運ぶことを心がけていた。千里の道も、一歩一歩の着実な積み重ねであることを、彼は熟知していたからである。
オーストラリア、セイロン(現在のスリランカ)、インドの旅を終えて、伸一が最初に着手したのは、翻訳委員会の設置であった。
この委員会は、世界に向けて創価学会を紹介する、新しいパンフレットの制作を当面の課題としていた。
パンフレットには、創価学会の歴史や活動、日蓮仏法の世界性、南無妙法蓮華経とは何か、信仰と生活、さらには、学会に関する一問一答なども収め、創価学会の入門書とする計画であった。
最初は、英語、ドイツ語、フランス語、ポルトガル語、タイ語、インドネシア語、中国語の七カ国語での発刊を予定していた。
諸外国でも、学会への批判は、ことごとく無認識による誤解から生じており、正しい理解を促すための入門書の制作は、早急の課題といえた。
今なすべきことを、今なし、今日やるべきことを、完璧に仕上げていく――この現実の地平の彼方に、山本伸一は、世界平和の旭日を見ていた。
(この章終わり)