Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第9巻 「新時代」 新時代

小説「新・人間革命」

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1  新時代(1)
 生命は永遠である。
 それゆえに、人間革命が必要である。
 それは、何故か。
 今世の善への修行が、因果の厳しき理法により、来世への、永遠の自己それ自体の生命となるからである。
 一九六四年(昭和三十九年)四月一日――。
 この日、総本山に落成した大客殿で、第二代会長戸田城聖の七回忌法要のお逮夜が、海外を含む代表五千人が参列し、盛大に営まれたのである。
 戸田の七回忌法要に先立ち、午前十一時半からは、大客殿落成慶讃大法要が執り行われた。
 参加者は、杉木立のなかにそびえ立つ、大客殿に息を飲んだ。春の日差しに映える、白亜の大殿堂は、雄大であり、荘厳であった。
 建物の高さは三十・八七メートル、延べ床面積は一万四百五十五平方メートルの、鉄筋コンクリート五階建てである。各階には、蓮華の花弁をかたどった回廊が設けられていた。
 また、屋根は、シェル構造という、二枚の貝を重ね合わせたような形をしており、その大屋根と柱の接点は、四百八十個の鋼球で支えられていた。
 これは、地震などの揺れに備えた耐震設計で、安全性の確保に、この大客殿の一つの特徴があった。
 一階は広場で、隣の奉安殿で御開扉を受ける人たちなどが、雨に打たれたりすることなく、待機できるように配慮されていた。
 イタリア産の大理石の手すりが光る、正面の中央階段を上ると、鮮やかな赤と白と黒の陶板を張った、鳳凰の壁画が偉観を放っていた。高さ三メートル、幅十二メートルの大作である。
 雄々しく翼を広げた鳳凰の姿は、世界の大空に飛翔する日蓮仏法を象徴しているかのようであった。
 下絵は、後に日本芸術大賞を受賞し、現代日本画の巨匠といわれる加山又造であり、陶板は、陶芸界の名匠の誉れ高い加藤唐九郎が焼いたものであった。
 加山は、この下絵のために、三十六枚のデッサンをつくったといわれる。
 まさに、現代日本を代表する芸術家による、世界に誇る最高の壁画である。
 二階には、下足箱、洗面所などが設けられているが、数千人の人が遅滞なく入退場でき、トイレも混雑することのないよう、工夫が施されていた。
 願主の山本伸一の、人間を大切にするという考えが反映された設計であった。
 三階がこの建物の中心となる大広間で、吹き抜けになった天井には、台湾産の桧の梁が、美しい幾何学模様をつくり出していた。
2  新時代(2)
 この大広間は、畳の数は五百六十畳だが、内陣、外陣、広縁を合わせると、最高五千人まで収容することができる。
 大広間正面の、御本尊を安置する厨子には、金色のアルミパネルが用いられ、扉は、当時としては画期的な、電動によって開閉するシステムを導入していた。
 須弥壇の床には、スウェーデン産の黒御影石が使われ、その真下にあるコンクリートの礎石には、山本伸一が世界を回って集めた石など、四十六カ国の石が打ち込まれていた。
 そして、大広間の天井には、ヨーロッパ製のシャンデリアが燦然と輝きを放っている。
 また、広縁の天井に使われているのは、カナダの杉の柾目板である。
 戸田城聖が、大客殿の建立を山本伸一に遺言したのは、大講堂を建立した直後のことであった。
 戸田は、それ以前から、講堂の次は客殿であると語っていたが、この時、次の七年の目標として、世界平和の祈願のために、世界の名材を集めて、大客殿を建立するように、指示したのである。
 その言葉通りに、伸一が世界各地を回り、入手した貴重な名材をもって、大客殿が荘厳されたのである。
 設計は、総本山の奉安殿、大講堂を手がけ、寺院建築の近代化を開いた旗手として注目されていた、建築家であった。
 彼は、この建物は、後世永遠に残る、大建築にしなければならないとの思いで、研究、工夫、実験を重ねてきたのである。
 伸一が、戸田の七回忌をめざし、大客殿を建立することを発表したのは、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日の、会長就任式の本部総会であった。
 直ちに、大客殿建立委員会が発足。翌六一年(同三十六年)の七月二十一日から、四日間にわたって、大客殿建立の供養の受け付けが行われたのである。
 この供養には、百四十万世帯の会員が参加し、三十二億円余の、真心の浄財が集められた。
 そして、戸田の五回忌にあたる翌六二年(同三十七年)四月二日に、起工式が営まれ、工事が始まったのである。
 基礎工事では、間口約六十メートル、奥行き約五十メートルにわたって、七メートルの深さまで掘り下げられ、コンクリートが打たれた。
 建物がいつまでも崩れることのないよう、土台づくりには、ことのほか力が注がれたのである。
3  新時代(3)
 大客殿の設計者も、施工者も、千年、二千年と残る、日本を代表する宗教建築をつくり上げようとの、決意に燃えていた。
 また、建設の槌音とともに、同志の広宣流布への意気は高まっていった。
 ″戸田先生の七回忌を、大客殿の落成を、折伏で荘厳しよう!″
 それが同志の合言葉のようになっていった。
 そして、当初の目標の三百万世帯を優に突破し、四百万世帯を超える、広布の広がりの大歓喜のなかで、この日を迎えたのである。
 落慶大法要には多数の来賓も参列し、政・財界人や各国の大使館関係者、海外の報道陣の姿も見られた。
 四階部分の大広間の回廊には、整然と並んだ二千二百余本の支部旗、男女青年部の旗がライトに映え、晴れの式典を飾っていた。
 第一部慶讃法要が開幕した。
 読経に続いて、日達法主による慶讃文の奉読が始まった。
 「……今正に広宣流布の時来れるか 創価学会の出現して此処に三十年 折伏未だ日浅きに信徒既に四百万世帯を越せり 誠に地涌千界の菩薩今世に久遠下種の仏法を興行すると云ふべし」
 さらに慶讃文では、山本伸一が戸田城聖の大客殿寄進の遺志を継承し、世界を回り、各国の土石と名産を収集し、完成をみたことを称えたあと、こう述べられていた。
 「これよりは修理を加へ勤行を致し 謗法の魔縁を退けて広宣流布を迎えんことを誓ふ」
 歓喜に満ちた七百年来の慶事の場での、宗門人の誓いであった。
 ところが、この落慶からわずか三十余年、総本山大石寺は「謗法の魔山」そのものとなった。
 そして、法主日顕によって、この華麗な大客殿は、なんら修理もされぬまま、無残に取り壊されてしまうことになる。
 日顕にとって日達法主は先師である。師匠である。それを、嫉妬に狂った彼は、師の業績の証となる建物を、ことごとく破壊していったのである。
 それは、大客殿という建物にとどまらず、浄財を供養した百四十万世帯の会員の、赤誠の破壊であった。
 いや、甚深なる日蓮仏法の大法理そのものを、日顕は破壊したといってよい。
 法要では、会長山本伸一の御供養目録の奉納を受けて、日達法主は請書を伸一に手渡すと、こう告げた。
 「日蓮正宗法華講総講頭に任ずる」
 突然の発表であったが、それは前々から、日達法主の意向として、伸一に伝えられていたことであった。
4  新時代(4)
 山本伸一は、法華講総講頭として全信徒をまとめ、広宣流布の指揮をとることになったのである。
 式典は、第一部の法要の部から、第二部の落成式に移り、経過報告に続いて、宗門の総監のあいさつとなった。
 「日本仏教建築史上にも、いな、世界の宗教建築史上にもしるすべきところの、この大白蓮華の白い花びらに包まれたような、美しい大客殿を御供養くださいまして、一宗を代表して、ここに、お礼の言葉を申し上げるものでございます。
 会長先生、大客殿の御供養ありがとう存じました」
 総監は、このあと、世界の人類が待ち望んでいることは、世界の平和であり、大聖人の理想も、地球人としての自覚を促し、人類の平和を実現することにあったと強調した。
 そして、ここに、日々、丑寅勤行をもって、世界の平和と広宣流布を祈願する大客殿の存在の理由があると述べた。
 さらに、山本会長が世界の資材を集めて、大客殿を建立したことは、世界各国から訪ねて来る来賓に、仏縁を結ばせんとする、大慈悲の表れであると語って、話を結んだ。
 来賓の祝辞などに続き、いよいよ伸一のあいさつとなった。
 彼は、大客殿建立の喜びを述べたあと、力強く訴えていった。
 「日蓮大聖人は、″三大秘法抄″に『時を待つ可きのみ』と仰せでございます。
 その広宣流布の時が、遂にやって来たのだとの実感を、深くしているのは、私一人ではないと思います。
 わが創価学会も、激戦に激戦を重ね、ここに三十数年の歴史を刻んでまいりましたが、その歩みは、苦難の連続でございました。
 しかし、春がやって来た。黄金時代が到来いたしました。
 私ども一人ひとりが、より以上の大功徳を受けながら、人生を楽しみきっていくとともに、さらに、団結を強め、必ずや広宣流布を実現してまいりたい。
 本日は、その誓いを固め合う日にしようではありませんか」
 怒涛のような、賛同の拍手が鳴り響いた。
 彼は、言葉をついだ。
 「本日の盛儀に列席できなかった同志の方々に、くれぐれもよろしくお伝え願いたいと思います。
 最後に、ご多忙のなか、ご遠方より、わざわざおいでいただきましたご来賓の方々に、深く御礼申し上げまして、私のあいさつとさせていただきます」
5  新時代(5)
 このあと、祝賀会が行われ、大客殿前の広場での、音楽隊、鼓笛隊のパレードをもって、落慶大法要は終了した。
 そして、午後六時から、戸田城聖の七回忌法要が、この大客殿で営まれたのである。
 夜は、あいにく小雨がパラついたが、霧のなかでライトに浮かぶ大客殿は、銀の輝きを放ち、赤、青、緑、黄の四色の照明を浴びて踊る広場の噴水は、夢の世界を思わせた。
 山本伸一の第三代会長就任以来、学会が第一の目標としてきた、戸田の七回忌法要が、今まさに始まろうとしていた。
 師との誓いを果たし抜いて、この日を迎えた伸一の胸には、弟子としての誇りと喜びがみなぎっていた。
 戸田亡きあと、門下生たちの、師の構想を必ず実現し抜くのだという決意は、次第に薄らいでいった。
 しかし、そのなかで、伸一は一人立ち上がり、走り抜いてきたのだ。
 彼は、戸田から受けた数々の黄金不滅の指導は、むしろ、師の没後のための指標であり、規範であるととらえてきた。そして、戸田の言葉に込められた真意をくみ取り、現実のものとしてきたのである。
 たとえば、「世界の名材を集めて大客殿を建立せよ」との言葉を聞いた伸一は、戸田の念願は世界広宣流布にあると考え、自ら世界を回り、名材を購入することはもとより、実際に世界広布の開拓に着手した。
 そして、海外二十五支部をつくり、一万有余の海外メンバーを誕生させてきたのである。
 ただ、世界の名材を集めるだけなら、決して難しいことではなかった。
 彼は、形式のみに目を奪われるのではなく、戸田の精神に立ち返って、師の言葉に込められた深甚の意義を見極め、その実現のために、全魂を傾けてきた。
 ここに、まことの「師弟の道」がある。
 伸一は大客殿の広間に姿を現すと、全国から集った五千人の同志に、深く一礼した。
 一緒にこの日をめざし、寝食を忘れて折伏に汗を流してきた、共戦の勇者たちに、心から敬意を表したかったからである。
 読経が始まった。
 伸一は、懇ろに焼香しながら、万感の思いを込めて、戸田に報告した。
 ″先生! 伸一は、生前、お約束申し上げ、第三代会長就任の日に先生の七回忌までの目標として発表いたしました、会員三百万世帯の達成、並びに大客殿の建立寄進を、ともに成就いたしました″
6  新時代(6)
 山本伸一の胸には、戸田城聖が満面に笑みをたたえて、頷く顔が浮かんだ。
 読経・唱題に続き、遺弟たちのあいさつとなった。
 青年部長の秋月英介、婦人部長の清原かつ、副理事長の関久男、十条潔、そして、理事長の原山幸一が、それぞれの思いを述べた。
 なかでも関は、深い感慨を込めながら、こう語っていった。
 「かつて、戸田先生は、牧口初代会長に、『先生の本当の偉さというものは、生前にはわかりませんね。死後においてでなければ、先生の偉大さはわかりませんね』と言われていたことがございました。
 振り返ってみますと、戸田先生の偉大さもまた、亡くなられたあとになって、山本先生の行動を通して、改めて知ることができた次第です。
 山本先生は、戸田先生が示された原理を、ことごとく実現され、師匠を宣揚してこられた。
 また、先生はよく、『私は実践、行動の会長である』とおっしゃっていますが、山本先生がなされた偉業を見て、戸田先生はこれほどの構想をおもちであったのだ、ここまでのことを教えてくださっていたのだと、しみじみと感じておる毎日でございます。
 私は、山本先生の本当の弟子となって、先生に付ききってまいります。なぜなら、それが戸田門下生のまことの生き方であり、戸田先生の示された師弟の道であるからです。
 山本先生は、『いよいよ本門の時代だ。広宣流布をやり抜いていこうじゃないか』と言われました。
 私は、次の七年をめざして、先生のその言葉を胸に抱き締め、広布に邁進していく決意です」
 この関の決意は、すべての戸田門下生の思いであったにちがいない。
 戸田は、「三代会長を支えていきなさい」と言い、「三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」と宣言した。
 本当の意味で第三代会長を″支える″力となるのは弟子である。
 本来、創価の師弟とは、師という中心軸のもとに、広宣流布という至上の目的のために、ともに生涯をかける、″無私の勇者″の結合の輪であるからだ。
 師弟を離れて、広宣流布はない。
 実に、この七回忌法要を期して、伸一を中心に師弟の歯車が、唸りをあげて回り始めたといってよい。
 それこそが、新しき広布の展開となる「本門の時代」の、原動力となっていくのである。
7  新時代(7)
 会長山本伸一のあいさつとなった。
 大拍手がうねり、皆、伸一に視線を注ぎ、彼の言葉を待った。
 彼は、戸田城聖の七回忌法要が盛大に挙行できたことへの御礼を述べたあと、力強く呼びかけた。
 「私ども戸田門下生は、本日をまた第一歩として、再び七年先を第二の目標として、広宣流布のために、平和社会の建設のために、勇敢に、力強く、大勝利の前進を開始してまいろうではありませんか!」
 賛同と共感の拍手が起こった。伸一は、静かに言葉をついだ。
 「戸田先生は、小説『人間革命』を書き残してくださいました。
 その小説は、戸田先生ご自身をモデルにした、主人公の″巌さん″が、独房のなかで、生涯を広宣流布に捧げる決意を固め、こう叫んだところで、終わっております。
 『彼に遅るる事五年にして惑わず、彼に先立つこと五年にして天命を知る』
 この彼とは、孔子のことです。
 当時、戸田先生は、数え年四十五歳であり、孔子が『四十にして惑わず、五十にして天命を知る』と述べていることに対して、ご自身の境地を語られているところであります。
 出獄した先生は、やがて会長となられ、会員七十五万世帯の達成を宣言なされた。そして、その誓願を果たし、昭和三十三年(一九五八年)四月二日、霊山に帰られるわけであります。
 戸田先生が″妙悟空″というペンネームで、『人間革命』を書き始められた時、先生は私に、『伸一、この小説を読め。もし、直すところがあったら、自由に直してもよろしい』と言われたことがありました。
 また、『人間革命』を書き終えられた時、先生は、大変に嬉しそうなお顔をされていたことが忘れられません。
 その先生が、出獄後のことについては、何も書こうとはされなかった。
 そこには、″私の出獄後の『人間革命』の続編は、伸一、お前が必ず書け!私が死ぬまでの姿を、厳然と書き残していくのはお前である″との、深いお心があったことを、私は先生の言々句々から、痛感いたしておりました。
 そして、その先生の意志を、胸深く受け止めてまいりました」
 ――山本先生が、いよいよ『人間革命』の続編を書かれるのだ!
 同志の顔に光が走った。
 参加者の喜びは、歓声と怒涛のような拍手となって、場内にこだました。
8  新時代(8)
 山本伸一は、さらに話を続けた。
 「したがって、この戸田先生の七回忌を期して、先生の出獄から、亡くなられるまでの歩みを、『人間革命』の続編として書き残すための準備に、取りかかってまいりたいと思います。
 それが、弟子としての、報恩の誠の一つであると考えております。
 先生は″妙悟空″というペンネームを使われましたので、弟子の私は、″法悟空″という名前にいたします。二人の名前の最初の文字を合わせれば、″妙法″となります。
 ″悟空″というのは、仏法で説く『空』を『悟る』ということです。
 妙法の『妙』は、仏法では仏界を意味し、『法』は九界を意味します。また、『妙』は法性、すなわち悟りであり、『法』は無明、すなわち迷いです。その原理からいえば、『妙』は師であり、『法』は弟子ということになります。
 期間はどのぐらいかかるかわかりませんが、三巻、五巻、七巻、十巻と巻を重ね、これまで、戸田先生から賜った指導を全部含め、先生の業績を書きつづってまいります。
 また、先生をいじめ、弾圧してきた人間たちのことも書き残します。さらに、学会への、評論家や学者、政治家などの誹謗や批判についても、それを、ことごとく打ち破る小説にしていく決意であります。
 この執筆は、膨大な作業となり、私一人で、すべてを行うことは困難な面もございます。
 そこで、戸田門下生を代表して、一、二名の方に、資料のまとめなど、手伝ってもらうこともあるかもしれません。また、何かと、皆さんのご協力を仰ぐこともあろうかと思われますので、よろしくお願い申し上げます」
 参加者は、期待に胸を弾ませながら、盛んに拍手を送った。
 最後に、伸一は、こう訴えた。
 「本日、ここに集われた幹部の皆さんは、長い広布の険しき道であるゆえに、健康に留意され、体を頑健にしていただきたい。
 そして、後輩を包容し、立派に育てながら、団結第一で、次の七年の大勝利に向かって、船出してまいろうではありませんか。
 また、戸田先生のご遺族、ご親戚の方々は、先生の与同利益を受けられることは当然でありますが、戸田先生を師と仰いで、広宣流布に邁進されんことを、心から切望申し上げ、私のあいさつといたします」
9  新時代(9)
 戸田城聖の七回忌法要のお逮夜の最後は、「世界広布の歌」の大合唱で幕を閉じた。
 翌四月二日は、前日とは打って変わって、澄んだ青空が広がり、太陽の光を浴びて、富士が秀麗な姿を見せていた。
 この日は、午前九時から大客殿で、戸田城聖の七回忌御正当会が営まれた。
 このあいさつで、山本伸一は、「本門の時代」の意義に言及していった。
 「いよいよわが創価学会も、本門の戦いの時代に入りました。
 『本門の時代』とは、化儀の広宣流布、すなわち、仏法を根底にした平和・文化の花を咲かせる、王仏冥合への総仕上げの時代であります。
 また、個人に即していえば、一人ひとりが自己の人間革命の総仕上げをするとともに、地域、職場にあって、見事な実証を示し、信頼の大輪を咲かせゆく時代であります。
 そして、地涌の菩薩たる私たちが、あらゆる分野で一流のリーダーに育ち、民衆の幸福のために自在に指揮をとり、社会に大きく貢献していく時代が、『本門の時代』であると確信するものであります。
 私たちはこれまで、戸田先生の七回忌を目標に進んでまいりましたが、既にこの七回忌法要は、法華経でいうならば、迹門の化城喩品であると思っていただきたい。
 つまり、それは化城の譬喩のように、一つの仮の目標であったにすぎません。
 今度は、それぞれが、己心の化城喩品を去って、ある人は、己心の本門従地涌出品を現し、地涌の菩薩の姿を示し、広布の大リーダーとして活躍していっていただきたい。
 また、ある人は、己心の本門神力品を現し、大法弘通の闘士となって、妙法流布の使命に生き抜いていただきたい。
 またある人は、己心の本門寿量品を現し、一切衆生成仏得道の姿を示しきっていただきたい。
 つまり、それぞれが己心に本門を現し、一人も退転することなく、王仏冥合の勇者として、次の七年をめざして、前進されんことをお願い申し上げます」
 ここに、新しき「本門の時代」の扉は開かれたのである。
 法要のあと、伸一は代表のメンバーとともに、総本山にある戸田城聖の墓に向かった。
 一行が戸田の墓前に到着すると、待機していた音楽隊が、「世界広布の歌」を奏でた。
10  新時代(10)
 山本伸一は、杉木立にこだまする、学会歌の調べを聴きながら、東洋の、世界の、民衆の幸福と平和を念願し続けた師に代わって、力の限り、世界の大空に羽ばたこうと決意した。
 墓前での、読経・唱題が始まった。
 伸一は、師の戸田城聖に、次の七年の目標として、会員六百万世帯の達成を誓った。
 拡大なくして広布はない。布教の実践のなかにこそ、″慈悲の行″があり、そこに、自身の人間革命の直道がある。
 当時、日本の総世帯数は、約二千三百万世帯であった。会員六百万世帯が達成されれば、日本の約四分の一の家庭に、御本尊が流布されることになる。
 学会は既に四百万世帯を超えており、今の勢いをもってすれば、もっと高い目標を掲げても、達成できるにちがいない。
 しかし、伸一は、焦った拡大をするのではなく、数多くの人材を育成しながら、着実に広布の水かさを増していくことを考えていたのである。
 また、折伏一本の活動であれば、拡大は容易であるかもしれないが、これからは、文化、教育、政治など、あらゆる分野にわたって、社会の建設に取り組みながらの拡大となる。
 いわば、一人が何役もの仕事をこなしつつ、布教に邁進していくことになる。
 そう考えるならば、六百万世帯の達成は、決して容易なことではないはずだ。
 ともかく、「本門の時代」の伸一の構想を実現していくには、それは、なんとしても果たさねばならない課題であった。
 読経・唱題のあと、青年部長の秋月英介の指揮で、「新世紀の歌」を皆で合唱した。
 伸一は、心でこう叫んでいた。
 ″先生! 青年部も陸続と育っております。学会はさらに力強く、新世紀の空高く飛翔してまいります。ご安心ください″
 最後に理事長の原山幸一が御礼のあいさつをし、戸田城聖の七回忌法要のすべての儀式は、滞りなく終了したのである。
 杉の巨木の向こうには、白雪をいただいた富士が光っていた。
 伸一の心は、晴れやかであった。
 天空にそそり立つ富士のように、彼の胸中には今、六百万世帯達成という指標が、大山のごとくそびえ立っていた。また再びの大前進が開始されたのだ。
 まばゆい日差しが、伸一をとらえた。その目には、新しき挑戦の闘魂が燃えていた。
11  新時代(11)
 墓参の終了後は、総本山の大講堂で、初の「仏教哲学大辞典」の編纂会議が行われた。
 この大辞典の編纂は、三月度の本部幹部会の席上、会長山本伸一が提案したものであった。
 それまで、学会には、教学の解説書はあったが、本格的な仏教辞典は出版されていなかった。
 もちろん、社会には、幾つかの仏教辞典があったが、日蓮仏法の記述となると、間違いが目立った。
 学会が「本門の時代」に入り、仏法を根底にした多角的な平和・文化の活動を展開していくには、基盤となる教学を深化させゆくことが大切になる。
 それには、教学研鑽の参考となる、正しい仏教辞典の制作が不可欠であった。
 教学は、複雑な現実の荒海にあって、人びとの進むべき航路を示す羅針盤となる。
 仏法を社会に開く「本門の時代」の活動のためには、教学という確固たる軌道の確立に力を注ぐ必要があった。
 そこで、学会として、「仏教哲学大辞典」を発刊することにし、まず、第一巻の年内完成をめざして、いよいよ、作業が開始されたのである。
 三百万総登山は、この四月二日から翌年の三月二十五日まで、約一年間にわたって行われることになっていた。
 このうち、登山会が開催される日は、二百五十七日で、一日平均一万二千人近くが登山することになる。
 登山会を無事故、大成功に終わらせるために、伸一は、運営の細部に至るまで、一つ一つ、全神経を研ぎ澄まし、検討を重ねてきた。
 彼は、三百万総登山を迎えるにあたって、首脳幹部たちにも、何度も、こう訴えてきた。
 「信心をしているから、また祈っているから、事故が起きないなどという考えは誤りです。
 信心をしているからこそ、絶対に事故など起こすものかという、強い決意、一念が大事なんです。
 そして、御書に『前前の用心』と仰せの通り、事故を起こさないための、万全な対策を、徹底して練り上げることです。それが信心です。
 日蓮仏法は、真実の人間主義です。行事に参加した人が、学会は、安全のために、ここまで工夫し、神経を使ってくれているのかと、感嘆するようでなければならない」
 三百万総登山は、まさにこの伸一の思想が、見事に貫かれた運営であった。
12  新時代(12)
 三百万総登山に向け、輸送対策委員会、衛生対策協議会などが設置され、いずれの部門も、万全の対策が整えられていた。
 輸送では、国鉄(現在のJR)と話し合いを重ね、月間三、四百本の臨時列車が確保されていた。
 さらに、登山者が危険な場所を歩いたり、雨に濡れたりすることのないよう、駅の改築も進められた。
 特に、東海道本線富士駅から、乗り換えなしで、身延線富士宮駅まで列車が乗り入れられるように、この両駅は、全面改築されることになったのである。
 さらに、総本山で急病人が出た場合の、輸送や病院の確保なども、円滑にできるように、綿密な態勢が組まれていた。
 また、衛生面には最も神経を配り、食事は、完全に熱殺菌し、真空パックした、「真空弁当」が配布されることになった。
 そして、一回、四十五分で三千食を超す弁当をつくることができる、厨房も建設されたのである。
 そのほか、寝具センターも建てられ、一日に千二、三百枚の布団乾燥や、綿の打ち直し、布団のクリーニングなどが行えるようになっていたのである。
 いずれも、極めて画期的な試みであった。
 一方、下水処理場も完璧なものをとの、山本伸一の指示で建設に着手し、前年十月に完成をみていた。
 彼は、建物の外見だけでなく、人目にはつかないところにも、徹底して光をあて、対策のための先頭に立ってきた。
 この下水処理場に、伸一は自ら足を運び、入念に下水処理のチェックを重ねてきたのである。
 待ちに待った三百万総登山の幕が開いた。
 これには、日本国内だけでなく、海外各国からも、多数のメンバーが参加することになっていた。
 アメリカ総支部の第一陣は、三月十九日にジェット機で来日。戸田城聖の七回忌法要にも参加し、四月七日には、一行百二十六人が帰国の途についた。
 そして、このあとも、五月、六月、七月と、アメリカのメンバーの登山が予定されていた。
 また、南米総支部のメンバーは、まず、第一陣五人が、空路、三月二十六日に来日した。
 次いで、四月五日、南米の第二陣十三人が、船で横浜港に到着したのである。
 当時、ブラジルのサンパウロから日本までの往復の旅費は、飛行機で千五百米ドル(五十四万円)、船でも五百米ドル(十八万円)かかった。
13  新時代(13)
 来日した南米総支部のメンバーの大半は、移住して数年の日系人で、裸一貫からスタートし、ようやく生活の基盤をつくりあげたという状態であった。
 それだけに、皆、渡航の費用の捻出は容易ではなかった。
 メンバーを乗せた「あるぜんちな丸」が、ブラジルのサントスの港を発ったのは、二月二十五日のことであった。
 一行の団長は、小山万造という地区部長である。
 彼は一九五六年(昭和三十一年)の入会で、その二年後に、日本からブラジルに農業移住した。
 しかし、暮らしは、決して楽ではなかった。
 六〇年(同三十五年)の十月、山本会長が初めてブラジルを訪問した折、小山は、その指導を聞いて決意した。
 ″よし、俺も必ず功徳の体験を示して、戸田先生の七回忌には日本に行こう″
 彼は、日本で花の栽培をしていたことから、グラジオラスの栽培を始めた。
 周囲は、花の栽培で生活が成り立つのかと、疑問視していたが、これが軌道に乗った。
 ところが、前年、大寒波のため、せっかく育てた花が、ほとんど霜でだめになってしまったのである。
 ″これでは、日本に行く旅費も出せない!″
 小山は絶望的な気持ちを抑え、苦境の打開を願って、必死に唱題した。
 そして、わずかに残ったグラジオラスの花を売ってみると、寒波で生花は希少になっており、価格も跳ね上がっていた。
 急転直下、渡航費用を確保することができたのだ。
 小山は勇んで、サントス港を出発したのである。
 一行十三人は、皆、同じような生活状態であった。
 経済的に豊かといえる人はいなかった。生活費をあらゆる面で切り詰め、あるいは、何年にもわたるローンを組んで、渡航費用を捻出したのであった。
 サントスから日本までの船旅は、片道四十日近くを要する。その間の仕事の段取りをつけるのも、容易ではない。
 しかし、″自分たちが目標としてきた、戸田先生の七回忌の年に日本に行き、山本会長と会いたい″という一心で、出港の日を迎えたのである。
 メンバーには、日本に行って、信心を学んで帰ろうとの、求道の息吹が脈打っていた。船内での日々も、決して無駄にはすまいと、皆で誓い合っていた。
 座談会も、男女に分かれて、週に二回開かれ、毎週日曜日には、全体の座談会がもたれた。
14  新時代(14)
 船内では、毎日、午前と午後の二回、それぞれ一時間ずつ、御書の勉強会も開かれた。「兄弟抄」「諫暁八幡抄」「治病大小権実違目」などを、次々と研鑽していった。
 一行の乗った「あるぜんちな丸」は、大西洋を北上し、カリブ海を渡り、三月十一日には、パナマ運河を通って太平洋に出た。
 そして、三月十九日に、アメリカのロサンゼルスに到着した。
 ここでロスのメンバーと連絡を取り、「あるぜんちな丸」の船内で、アメリカとブラジルの合同座談会が開かれた。ロスからは、二十五人が参加した。二十数日間の航海を経て、同志と会ったブラジルの友の喜びは大きかった。
 初対面であったが、固い握手を交わし合うと、親戚のような親しみを覚え、すぐに心はとけ合った。長旅の疲れも吹き飛び、勇気がわいてくるのを感じた。
 合同座談会は、体験と決意発表が相次ぎ、最後に、皆で、「世界広布の歌」を合唱した。この歌も、船旅のなかで教えられ、覚えたものである。
 歌いながら、皆、いよいよ広布の「大航海時代」が始まったことを、肌で実感していた。また、自分たちがその先駆を切るのだと思うと、喜びと誇りが込み上げてきてならなかった。
 二時間ほどの合同座談会であったが、ブラジルのメンバーは、最大の活力を得た思いがした。
 「お元気で!」
 「また、お会いしましょう!」
 別れ際には、肩をいだき合い、互いに励ましの言葉を交わし合ったのである。
 「あるぜんちな丸」は、ロサンゼルスから、さらに北上し、サンフランシスコに寄港した。そして、太平洋を横断し、一路、日本をめざしたのである。
 サントスの港を発って以来、皆、船酔いに苦しめられてきたが、太平洋を横断し始めると、船の揺れは一段と激しさを増した。
 大揺れのため、食事の際も、テーブルに食器を置くことも、イスに座ることもできない日が続いた。
 窓から外を見ると、叩きつけるように雨が降り、波浪が牙を剥くように、船体に襲いかかっていた。
 船酔いで、頭がフラフラになり、起き上がれなくなったメンバーが続出した。ほとんどの人が、食事も喉を通らなかった。
 また、起き上がって勤行ができるのは、十三人のメンバーのうち、二人ということもあった。
 やむなく、何日かは、御書の勉強や座談会も中止にせざるをえなかった。
15  新時代(15)
 ある日、団長の小山万造が、揺れる船内で、壁にもたれながら、つぶやくように言った。
 「この船旅は、広宣流布に似ているな。
 穏やかな日もあれば、大シケの日もある。それでも、大波を乗り越えて、進んでいくしかない。
 考えてみると、山本先生は、大荒れの嵐のなかでも、いつも、はつらつと、広布の船長として、指揮をとられているんだな……」
 皆、その言葉に、ハッとした。
 船の揺れが、いくらか収まった時、一人の壮年が提案した。
 「小山さん、座談会を開きましょう。いくら船が揺れるからといって、ただ横になったまま、日本に着いてしまったんでは、なんの意味もありませんし……」
 その言葉を待っていたように、婦人部のメンバーが言った。
 「ぜひ、そうしましょうよ。それから、山本先生の写真を飾って、座談会を開きませんか」
 「それはいい。先生が座談会に出席されていると思えば、元気も出るしね」
 小山が答えた。
 まだ、揺れは、かなり激しかったが、座談会が始まり、元気な決意が、皆の口から飛び出した。
 船内で行われている座談会は、ほかの乗客たちの間でも話題を呼んでいた。
 最初は皆、朝晩、お経を唱え、集会で聞き慣れない歌を歌っている一団を、不可解に思っていたようだ。
 そのメンバーが、創価学会員であることを知ると、多くの人は眉をひそめた。学会は「暴力宗教」であるとか、「貧乏人と病人の集まり」であると、聞かされていたからだ。
 ところが、船のなかで、日々、メンバーと接しているうちに、その明るさ、礼儀正しさに、好感をもつようになった。
 さらに、座談会の場には、朗らかな笑いがあり、そこは、和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。
 乗客は、次第に、学会に強い関心をもつようになっていったのである。
 座談会が開かれるたびに、新来者も、二人、三人と参加するようになった。そのなかには、後日、入会した人もいた。また、御書の勉強会も続けられ、最後には、船内で教学試験まで行われたのである。
 一方、山本伸一は、南米総支部のメンバーが、二月二十五日にサントスを出発したという報告を受けると、朝な夕な、航海の無事と皆の健康を祈念し、真剣に題目を送り続けてきた。
16  新時代(16)
 山本伸一は、四月五日の朝に、南米のメンバーが乗った船が横浜に入港することを聞くと、最高の歓迎態勢をとるように指示した。
 五日未明、「あるぜんちな丸」は、横浜港の沖合で停泊していた。
 接岸は、午前九時半の予定である。
 メンバーは、いよいよ日本に到着すると思うと、感激と興奮で眠れなかった。
 夜が明けると、入れ代わり立ち代わり、デッキに出ては、久し振りの日本の景色を眺めた。
 午前七時ごろには、皆、外に姿を現した。
 七時半を回ったころ、波を蹴立てて、港から一艘のランチがやって来た。
 メンバーが手にしていた「創価学会 南米総支部」と書かれたノボリの下で、ランチは止まり、乗っていた三人の人が、盛んに手を振りながら叫んだ。
 「学会員の皆さんですね。ようこそ、いらっしゃいました!」
 ランチに乗っていたのは、学会の理事らの出迎えの幹部であった。
 ″こんなところまで、来てくれたんだ……″
 メンバーは、一斉に手を振った。ノボリも大きく、左右に揺れた。
 込み上げる涙で、眼前のランチが曇った。
 午前九時四十分、「あるぜんちな丸」は桟橋に接岸された。
 すると、港から「世界広布の歌」の歌声が響いた。
 待機していた地元・横浜の学会員三百人による、歓迎の合唱であった。
 デッキに立つ南米のメンバーの目には、たちまち涙があふれた。埠頭の友の歌声に合わせて、涙を拭き拭き、声を限りに学会歌を歌った。
 皆、長旅の疲れも吹き飛び、見る見る元気になっていった。
 歓迎に応えて、団長の小山万造が、デッキの上からあいさつした。
 「同志の皆さん、出迎えありがとうございます。
 南米総支部から十三名、元気に、日本にやってまいりました。私たちは皆、ようやく南米で、生活の基盤を確立したばかりで、楽な暮らしをしている者は、一人もおりません。
 ただ、ただ、日本に行きたい、日本に行って、山本先生にお会いしたいという一心で、約四十日がかりで日本にまいりました。
 旅費を工面するのも大変でした。休みを取るにも苦労しました。船酔いにも苦しみました。
 しかし、こうして、同志の皆さんの、真心こもる、歓迎を受け、勇気がわいてきました。歓喜がわいてきました……」
17  新時代(17)
 感極まってか、小山万造の言葉は、とぎれがちであった。彼は、拳で涙を拭い、深呼吸をすると、力強い声で話を続けた。
 「今、私は、日本に来てよかった、同志の皆さんに、こんなに温かくお迎えしていただき、本当に幸せであるとの思いで、いっぱいでございます。
 日本で、皆さんから、しっかり信心を学び、十三人全員が大きく成長して、南米に帰って、広宣流布のうねりを起こしていく決意でおりますので、どうか、よろしくお願いいたします」
 埠頭に、拍手がこだました。歓迎の同志の目にも、涙が光っていた。
 埠頭と船上で、同信の友は、互いに手を振り、励ましの言葉をかけ合った。
 南米の同志の心と、日本の同志の心が織り成した、交歓の名画であった。
 山本伸一は、総本山の大講堂で南米の友を迎えた。
 「遠いところ、ご苦労様です」
 伸一は、こう言うと、手を差し出し、一人ひとりと固い握手を交わした。
 「懐かしい。お元気そうで嬉しい」
 メンバーのなかには、初のブラジル訪問の折に会った人が少なくなかった。伸一は、一人ひとりのことを、鮮明に記憶していた。
 団長の小山を見ると、彼は、抱きかかえるようにして、何度も肩を叩きながら言った。
 「お久しぶりです。よく来てくださった。
 何カ月も仕事を休んで、大丈夫ですか」
 「はい、息子たちが一生懸命に働いてくれていますから、問題はありません」
 「お帰りになったら、息子さんたちに、よろしくお伝えください。
 今回、皆さんが、求道の心を燃やし、わざわざ日本に来られたということは、信心の成長と幸福の種子を植えたことになります。
 また、これだけ多くの方がおいでになったことは、ブラジルの大発展の因がつくられたということです。
 将来、ブラジルは世界広布の模範となっていくでしょう。
 しかし、広宣流布の途上には、必ず難があります。苦闘の連続です。その苦難を乗り越えてこそ、幸福への、発展への飛躍を遂げることができる。
 だから、何があっても、決して信心を捨てたり、学会から離れるようなことがあってはならない。
 なぜならば、自分が不幸になっていくからです。
 また、私は必ずブラジルに行きます。その時には、福運と功徳に満ち満ちた境涯になっていてください」
18  新時代(18)
 南米の友は皆、この時を、また、この一瞬を胸に描き、苦難に耐え、万里の波涛を越えて来たのである。
 山本伸一と握手を交わす友の目には、熱い涙があふれていた。ある婦人は、泣きじゃくりながら語った。
 「先生、私は花の栽培をし、それを売って歩いて、お金をためて、日本に来たんです」
 「頑張ったんだね。大変だったでしょう。
 でも、こうして日本に来たこと自体が勝利です。勝ったんです。必ず幸せになれますよ。
 十年たったら、また、日本へいらっしゃい」
 伸一は、南米の友の心の奥深く、不動の信心の楔を打とうと、渾身の力を振り絞って励ましていった。
 人間の一念を転換し、発心の種子を植えてこそ、まことの激励といえるからだ。
 戸田城聖の七回忌法要を終えた山本伸一は、四月九日には九州に飛んだ。
 九日は宮崎会館の落成式に、十日は大分会館の落成式に、十一日は北九州会館の落成式に出席。翌十二日には、新九州本部の起工式に参列した。
 広宣流布の伸展にともない、会員が飛躍的に増大してきた学会にとって、各県の活動の拠点となる会館の設置は、早急に対処しなければならない課題となっていたのである。
 当時の他宗の寺院の数と比べてみると、学会の会館が、いかに少ないかがよくわかる。
 たとえば、信徒数約六百七十万とされる曹洞宗の寺院は一万四千八百九カ寺、信徒数約六百万の浄土真宗本願寺派は一万五百六十三カ寺となっている。
 それに対して、学会の会館は、会員四百万世帯を達成した段階でも、わずか四十会館ほどであり、日蓮正宗の寺院もまた、大石寺の各坊を含めて、二百四十カ寺余りであった。
 伸一は、会長就任以来、各地の会館の設置を考えてはいたが、何よりも大客殿の落成を最大の目標としてきただけに、会館の購入や建設は、これまで、抑えに抑えてきた。
 しかし、いよいよ、これからは、各地に会館が誕生することになるのである。
 それでも、宮崎、大分、北九州の会館は、いずれも既存の建物を購入したものであり、まだまだ、小さな会館であった。
 伸一は、いつの日か、皆に心から満足してもらえる、立派な会館を各地に建てようと、一人、深く決意しながら、各会館の記念の式典に臨んだ。そして、力の限り、大切な同志を激励していったのである。
19  新時代(19)
 一九六四年(昭和三十九年)五月三日、第二十七回本部総会が、東京・両国の日大講堂で行われた。
 「本門の時代」の開幕の本部総会である。
 この総会には、海外からも、六百人のメンバーが参加していた。
 午前九時前、総会の開会が宣言された。
 式次第は、開会の辞に始まり、海外の活動報告、山平忠平ら六人の副理事長、並びに二十四人の理事の就任の発表、経過報告と続いた。そして、理事長のあいさつのあと、いよいよ会長山本伸一の講演となった。
 大拍手のなか、彼は立ち上がると、会場の参加者に深々と礼をした。
 皆、固唾を飲んで、伸一の言葉を待った。
 彼の凛とした声が、場内に響いた。
 「私たちが念願としてまいりました、大客殿の落慶法要、そして、戸田城聖先生の七回忌法要を終え、確信に満ち満ちた代表の皆様方とともに、第二十七回本部総会を開催できましたことを、私は心から感謝申し上げる次第でございます。
 皆様方の山をも抜く信心と、民衆救済の大情熱をもった活動によって、会長就任以来、この四年間の活動を、連続勝利をもって飾ることができました。大変にありがとうございました。
 本日を第一歩として、次の七年間を広布の総仕上げの第一期とし、再び勇気と希望と知恵とをもって、栄光ある勝利の歴史を飾ることを、ともどもに誓い合おうではありませんか!」
 会場の大鉄傘を揺るがさんばかりの大拍手が轟き、しばし鳴りやまなかった。
 「先日来、副理事長会等で、向こう七年間の活動の大綱を検討いたしましたので、本日は、それを発表させていただきます。
 その第一は、総本山への、正本堂の建立、寄進でございます。
 戸田先生は、大客殿の建立が終わったならば、引き続いて、世界の建築の粋を集めて、一閻浮提総与の大御本尊を御安置する、正本堂の建立をしなさいと、遺言されております。
 この正本堂の基礎には、全世界の恒久平和を祈る意味から、日本の各都道府県はもとより、世界各国の石を集めて、基礎に埋めるとともに、五大州の代表的名産をもって荘厳し、五千人は収容可能の大殿堂としてまいりたいと思います。
 そして、そのための御供養を、大御本尊建立の日である、来年の十月十二日を中心に、四日ないし五日ほど、実施してまいりたいと思います」
20  新時代(20)
 山本伸一は、さらに言葉をついだ。
 「御供養は、当然のことながら、信心の真心で参加するものであります。
 したがって、信心のない人から供養を受け、法を下げるようなことはしないとの決意で、推進してまいります。
 この正本堂の御供養については、皆さん、ご賛同いただけますでしょうか」
 場内から、一斉に、「はい!」という元気な声があがり、雷鳴のような拍手が起こった。
 「それでは、満場一致で賛成していただきましたので、決定といたします。
 御供養の件では、また皆様に、大変にご苦労をおかけすることになりますが、どうか、よろしくお願い申し上げます。
 この正本堂の建立は、事実上、総本山における広宣流布への布陣としては、最後となります。
 したがいまして、全体的な総本山への御供養も、これが最後になることを、併せて申し上げておきます」
 伸一は、ここでハンカチを取り出し、額の汗を拭ってから話を続けた。
 「第二には、次の七年間で、会員六百万世帯を達成してまいりたい、ということであります。
 皆様のなかには、″現在、学会は約四百三十万世帯だから、六百万世帯ぐらい簡単ではないか。そんな目標でいいのか″と、お考えの方がおられることも、よく存じております。
 しかし、私は、決して無理をさせたくないのです。折伏によって、事故を起こすようなことがあっては、絶対にならない。
 また、一騎当千の地涌の闘士を、立派な民衆のリーダーを、つくっていきたいのであります。
 それには、先輩幹部は、今いる後輩の方々の成長を図りながら、入会してくる方々を、一人ひとり手塩にかけて、育成していかなくてはならない。
 ゆえに、焦って、無理な拡大をするのではなく、着実に活動を進めていくことが大切になります。
 現在、学会には、四百三十万世帯、一千万人を超える会員がおり、そのうち、役職のある方の数は、二百万人近くであります。
 計算上は、その幹部が、向こう七年間で、一世帯の折伏をすれば、六百万世帯は、悠々と達成できることになります。
 そして、六百万世帯を達成し、正本堂が建立された時には、また、総登山を行いたいと思いますが、この点も、皆さん、いかがでしょうか」
21  新時代(21)
 次いで山本伸一は、第三の目標として、第三文明の建設の大牙城として、学会本部のある信濃町に、「創価文化会館」を建設することを発表した。
 さらに、各地の会館設置の展望にも触れ、この二、三年の間に、大都市の場合は数会館を、また、すべての県に、最低、一会館を設置することを語った。
 総会に集った全国の同志の代表は、一つ一つの発表を、目から鱗の落ちる思いで聞いていた。
 どれも、自分たちが考えもしなかった指標である。壮大な広宣流布の展望が、眼前に織り成されていくのを見る、喜びと感動が、参加者を包んでいた。
 伸一の話は、次に移っていった。
 「第四に、公明政治連盟を一歩、前進させたいということであります。
 すなわち、これまで学会には政治部が文化局のなかにあり、公政連(公明政治連盟の略称)の議員は、政治部員でもありました。
 しかし、学会は、あくまで宗教団体であり、政治部の活動も、国政レベルでは、政治の監視を主眼として、参議院に限ってまいりました。
 だが、政治団体には、政治団体の考え方があります。仏法の慈悲をもって、民衆の幸福を実現する、世界の平和を築くという、根本の考え方は同じですが、宗教と政治とは、次元が異なっております。
 そこで、学会は、政治部を解散し、公政連は、自由に、独自の路線を歩むようにすべきであると考えるものであります。
 すなわち、時代の要求、民衆の要望に応えて、公政連を政党にするもよし、衆議院に進出するもよし、社会の繁栄と平和のために、自在に、活動していっていただきたいというのが、私の考えであります」
 伸一は、こう語ると、公政連の件について、参加者に賛否を求めた。全員が賛同し、大拍手をもって採択されたのである。
 そこで、伸一は、学会の立場を明らかにした。
 「創価学会は、どこまでも宗教団体として、宗教活動に、折伏行に邁進し、公政連の支持団体として、その活躍を見守ってまいりたいと思います」
 それは、創価学会としての、″政教分離″への宣言であった。
 公政連が完全に独り立ちするまでには、まだ、さまざまな応援が必要ではあったが、未来のために、伸一は、学会がめざす宗教と政治の関係を、明らかにしたのである。
22  新時代(22)
 山本伸一は、さらに話を続けた。
 「この十年、政界に進出していったわが同志は、民衆のために戦い、徹底して勉強し、一流の政治家に育ってまいりました。
 先日、公政連(公明政治連盟の略称)の同志が、自分たちの政治活動の体験をもとに、研究を重ね、国家百年の大計のうえから、今後の新たな政策をつくりあげました。
 私も読みましたが、実に見事な政策でありました。
 右にも寄らず、左にも寄らず、大衆福祉を使命として中道を貫こうとする、決意にあふれる政策であり、これならば、多くの学会員が、誇りをもって支持していくことができると、感心した次第でございます。
 しかし、多数の会員の皆様方のなかには、その政策に対して、異議、異論のある方も、当然いらっしゃると思います。もとより、それは自由です。
 政策は政策であり、あくまでも信心は信心であります。たとえ、政策のうえで異論を唱える人があったとしても、学会員は学会員として、信心のうえから、大きく包容していくよう、お願い申し上げます。
 また、政策について、異議、異論のある方は、よく議員と話し合っていただきたい。皆が心から納得し、一番よい政策にしていきたいというのが、公政連の議員の考え方であります。
 ゆえに、皆様の意見が、さらに優れた政策をつくっていくことにもなります。
 社会を、日本をよくしよう、世界の平和を実現しようと、立ち上がったのが公政連の同志です。政策は、秋の公政連の大会で決定をみると思いますが、私どもは、その公政連を、最高の政治団体に育ててまいろうではありませんか。
 なお、公政連等の政治活動については、日本国内のみであり、海外ではいっさい行わないことを、ここで確認しておきます」
 そして、伸一は、発表した四項目について、再度、皆に諮った。会場に、賛同の声と拍手が轟き、全員の賛成をもって四項目の目標が決定した。
 伸一は、最後に語った。
 「大聖人は『いまだこりず候』と仰せになり、敢然と、広宣流布への戦いの駒を進められました。また、寿量品には『未曾暫廃』(未だ曾て暫くも廃せず)と、仏の間断なき衆生救済の姿が説かれております。
 私どもも、この七年間、決意も新たに、仲良く、楽しく、大いなる前進をしていこうではありませんか」
23  新時代(23)
 本部総会に集った幹部の総意で、「本門の時代」の第一期となる、向こう七年間の目標は決まった。
 「新時代」の船出の、新しき帆は上がったのである。
 会場を包む大拍手は、出発の銅鑼のごとく、日大講堂の大天井に轟いた。
 この四項目の指針の発表にいたるまで、山本伸一は幾日も深い思索を重ね、首脳幹部らとも、幾度となく協議してきた。
 なかでも、公明政治連盟の問題については、彼が悩み抜いたテーマであった。
 公政連の大多数の議員の意見は、政党をつくり、衆議院にも進出すべきであるとするものであった。
 それは大要、次のような考えからであった。
 ――自分たちが政界に進んだのは、政治を監視し、民衆の手に政治を取り戻すためであるが、さらにいえば、王仏冥合の実現のためである。すなわち、日本国民を幸福にしゆく、慈悲の哲理を、政治に反映させることである。
 それには、国政に最も大きな影響力をもつ、衆議院に進出すべきであるというものであった。
 伸一も、皆の気持ちは、よくわかったが、すぐには同意しかねた。
 師である戸田城聖は、よく、「衆議院には進出しなくともよい」と語っていたからである。
 だが、将来についても、衆議院への進出を否定していたわけではない。
 「来るべき時が来たら、衆議院にも人を送る。しかし、今は、そんなことを考える必要はない」と語っていたことを、伸一は忘れなかった。
 では、戸田の言った「来るべき時」とは、いつをいうのであろうか。
 それは、まず、民衆の要望といえよう。
 このころ、保守も革新も、党利党略に走り、政治不信がつのるなかで、新しい政治家、政党を求める声が澎湃と起こってきたことは事実である。
 しかも、学会は会員四百万世帯を超え、盤石な基礎も固まった。本来の宗教活動のうえに、選挙をはじめ、社会的な活動にも即応できる布陣は整っていた。
 これも、一つの「時」とみることができよう。
 また、衆議院に進出するに足る政治家が、育っているかどうかも、「時」の要件とみていたのであろう。
 これは、地方議会、参議院での活躍に明らかなように、大衆福祉という新たな政治の柱を打ち立てたのをはじめ、政界の浄化など、多くの実績を残し、一人ひとりの議員が着実に力をつけつつあった。
24  新時代(24)
 さらに、「時」の最大の要件となるのは、同志の意思といってよい。
 会員の多くは、社会建設の自覚に燃え、政治の分野でも、より積極的な改革を望み、衆議院進出を期待する声も強く高まっている。
 山本伸一自身、この二、三年の間、メンバーと懇談するたび、その要望を耳にしていた。
 また、今や公明政治連盟の支持者は、社会にも着実に広がっており、その人たちからも、同様の声が起こっていた。
 伸一は、それらを思い合わせると、衆議院への進出の「時」は来ていると、考えざるをえなかった。
 しかし、創価学会の政治部員が、そのまま公政連の議員というかたちで、衆議院に同志を送り出すことは、避けなければならないと思った。
 仮に学会の政治部のままで、衆議院に進出したとしても、それは本来、憲法で定める政教分離の原則に抵触するものではない。
 政教分離の原則は、もともと、戦時中の歴史をふまえ、国家権力から宗教を守るために、国家権力の非宗教性を制度として定めたものであるからだ。
 だが、伸一は、宗教と政治とは、次元を異にするがゆえに、学会と政治団体である公政連とは、一定の距離を置くべきであると、かねてから考えてきた。
 そもそも、政治団体として公政連を発足させたのも、そのためであった。
 創価学会を大地とするなら、公明政治連盟も、民主音楽協会も、東洋学術研究所も、そこに繁茂する樹木といってよい。
 豊かな大地は、樹木に養分を与えはするが、その樹木が、どう花開き、実を結ぶかは、最終的には、それぞれの樹木の問題と考えるべきである。
 宗教の大地は限りなく広い。全人類、全世界を包み込むものだ。
 さまざまな利害がぶつかり合う、政治という狭い世界の事柄によって、学会が規定されたり、利用されるようなことがあってはならないと、伸一は深く考えていた。
 そして、協議の末に、学会の政治部を解消することにしたのである。
 しかし、それでも、やがて公政連が、衆議院に進出することになれば、支援団体である創価学会は、既成政党の激しい攻撃の的になるであろうことは、覚悟しなければならなかった。
 また、諸外国の政府は、学会を政治的な団体と見て、警戒を強めるであろうことも予測された。
25  新時代(25)
 山本伸一の苦悩は、限りなく深かった。
 ――民衆の救済と社会の安穏を願われた日蓮大聖人の御精神を、現代にあっていかに実現していくか。
 しかも、日本国内のみならず、世界各国のことをも十分に考慮していかねばならない。事態は、あまりにも複雑であり、関門と障害は、あまりにも多かった。
 しかし、日本という国の現実を見るならば、政治の立て直しを、避けて通るわけにはいかなかった。
 東西冷戦の対立構造が、そのまま日本の政界にも持ち込まれ、主要な政党の政策は、大企業擁護か組織労働者擁護かに二分されていたからである。
 そして、未組織労働者をはじめ、いわゆる庶民の大多数は切り捨てられ、政治の恩恵に浴すことは極めて少なかった。
 そう考えると、民衆の手に政治を取り戻すことは、不可欠な課題と見えた。
 だが、政党をつくり、衆議院に進出するならば、それにともなう危険は、あまりにも大きい。
 場合によっては、衆議院に進出すれば、政治上の問題から、学会が撹乱されないとも限らない。
 しかし、それでも、大聖人の仏法を社会に開くために、あえて突き進むしかないというのが、伸一の結論であった。
 いわば彼は、広宣流布の人類史的実験に、果敢に挑もうとしていたのである。
 本部総会を終えて、山本伸一が学会本部に戻ると、学会の理事長で公明政治連盟の委員長でもある原山幸一をはじめ、数人の議員のメンバーが会長室に来た。
 原山が、懇願するような口調で語り始めた。
 「先生、大変にお疲れさまでした。
 ところで、学会の政治部は解散することになりましたが、しばらくはまだ、先生のお力を全面的にお借りしたいと思います。
 先日来、協議してまいりましたように、今後は公政連を政党にし、衆議院にも進出していきたいというのが、私どもの考えですが、まだ、とても自立していくだけの力はありません。
 衆議院の候補者を考えても、全面的に、学会に頼らざるをえません。現在の公政連は、残念ながら、まだ幼虫からサナギになった段階です。
 したがいまして、政党になって、いわば蝶として、自分の力で舞い上がれるまで、猶予をお願いしたいのです。つまり、先生の手で、政党を設立していただきたいということを、お願いにまいったのです」
26  新時代(26)
 山本伸一は、静かな口調で答えた。
 「皆さんの意向は、わかりました。
 政党の結成までは、全面的に応援しましょう。
 しかし、公政連(公明政治連盟の略称)が早く独り立ちしていくことが、私の切実な願いなんです。
 学会も公政連も、根底となる哲理、根本目的は、永遠に一緒です。それは、慈悲であり、生命の尊厳を守ることであり、民衆の幸福と世界の平和です。
 したがって、学会も、また、私も、皆さんを支持し、支援していきます。
 しかし、学会は宗教団体であり、公政連は政治団体です。
 公政連のめざすものは、慈悲や生命の尊厳という理念を『根底』とした政治であって、宗教を直接、政治の世界に持ち込むことではない。
 ところが、社会は、なかなか、この問題を理解できないでいる。学会が権力を手に入れるために、公政連をつくり、さらに、政党をつくろうとしていると見る人も多い。
 そうした誤解を晴らすためにも、公政連と学会は、より早く、明確な立て分けをしておきたいんです」
 伸一は、「本門の時代」とは、学会としても、また会員個人としても、仏法を根底に、本格的な人間文化を開花させ、社会に貢献していく時代であるととらえていた。
 公政連だけでなく、東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)や民主音楽協会など、さまざまな外郭団体を発足させてきたのも、そのためであった。
 しかし、世間は、その趣旨を理解しようとはしなかった。だが、それは一面、やむをえぬことであったのかもしれない。
 当時から、平和や社会貢献を唱える宗教は多かったが、大多数は宣伝が目的であり、本気になって取り組む姿は、ほとんど見られなかったからである。
 だから、民音(民主音楽協会の略称)に対しても、教勢拡大のための窓口として設立したかのように考える人が少なくなかったし、公政連もまた、学会が権力を獲得するための手段であるかのように、とらえられていたのである。
 すべてに裏があるかのように考え、崇高なものを卑小化してとらえる日本の風土は、精神の貧困さの反映といえまいか。
 その誤った認識を打ち砕くには、それぞれの分野にあって、着実に実績を積み上げていく以外にない。
 それは、長く、遠い道程であろうが、真実は必ず勝つものだ。
27  新時代(27)
 「本門の時代」の開幕を待っていたかのように、会長山本伸一は、世界への新しき旅を開始した。
 五月十二日の夕刻、伸一は、副理事長の白谷邦男、アメリカ本部長の正木永安とともに、オーストラリアに向け、羽田の東京国際空港を飛び立っていった。
 彼の今回の訪問国は、オーストラリア、セイロン(現在のスリランカ)、インドの三カ国であった。
 訪問の目的は、現地の会員の指導、国情の視察、そして、五月三日の本部総会で発表した、正本堂建立のための資材の購入であり、二十七日の夜に、帰国の予定であった。
 この伸一の海外指導と並行して、「オーストラリア」「インド・セイロン・シンガポール」「インドネシア・フィリピン」「タイ・カンボジア・ベトナム」「香港・沖縄」の、五つの海外指導グループが、派遣されることになっていた。
 アジアへの本格的な指導の開幕であった。
 午後五時半に羽田を発った、山本伸一の一行のジェット機は、香港を経て、現地時間の午後十時過ぎに、次の経由地である、フィリピンのマニラに到着した。
 ここでは、一時間半ほど待ち時間があった。
 空港には、マニラ支部の支部長の伊丹芳郎と妻の貴久子が、伸一に会いに来ることになっていた。
 一行が待合室に入ると、伊丹夫妻と一緒に、一人の青年が待っていた。
 伊丹芳郎は四十過ぎの商社マンで、前年八月の夏季海外指導の折に、派遣幹部としてフィリピンの指導を担当した、東南アジア総支部長の森川一正らから、マニラ支部長の任命を受けていた。
 彼は、先に信心をしていた妻の勧めで、三年半ほど前に入会したが、日本では学会の活動には、ほとんど参加していなかった。
 入会して一年ほどしたころ、マニラの駐在員として単身赴任し、やがて、地区部長になった。
 彼は、最初は、趣味のゴルフも控え、地区部長として懸命に活動に励んだ。だが、そのうちに、仕事の忙しさに流され、活動は怠りがちになっていった。
 そんな時、自分の過失から、仕事のうえで、大きな損失を出してしまったのである。
 彼は思った。
 ″自分には、地区部長として、この国の広宣流布をしていく使命と責任があるのに、それを果たしていなかった。
 仏法は体、世間は影である。仕事の失敗の根本原因はそこにあったのだろう。仏法とは厳しいものだ″
28  新時代(28)
 伊丹芳郎が派遣幹部から、マニラに支部を結成するので、支部長になるように言われたのは、仕事上の大失敗の直後であった。
 彼の駐在期間は、間もなく終わろうとしていたし、時間的にも、支部長の大任を全うできるかどうか、自信はなかった。
 しかし、わずかな期間であっても、力の限り、広布の使命を果たそうと、支部長を引き受けたのである。
 その伊丹を支えてきたのが、一緒に空港にやって来た、柴山昭男という青年であった。
 柴山は、日本とフィリピンの合弁会社に、親会社の日本の貿易会社から、経理と技術指導を兼ねて派遣されてきた男子部員である。
 二人で力を合わせ、支部建設に取り組んだが、メンバーの大半は婦人であり、伊丹は、婦人の幹部の必要性を痛切に感じていた。
 そんなある日、伊丹は本社から、さらにマニラで仕事を続けてほしいと、要請されたのである。
 会社は、過失はあったものの、彼の仕事の実績を評価したのである。
 伊丹は、マニラに残ることはかまわないが、家族を呼びたいと申し出た。
 本社は快諾してくれた。
 彼は、日本で班担当員として信心に励んできた妻の貴久子が来れば、フィリピンの広布は、さらに進むと考えたのである。
 翌年二月、伊丹は、日本に一時帰国した。
 その時、会長山本伸一から、マニラ支部の支部旗を授与されたのである。
 彼がフィリピンに戻ってしばらくすると、貴久子もマニラにやって来た。
 伸一は、出発前に、彼女と会って励ますとともに、心尽くしの餞別を贈った。
 貴久子は、その餞別で、御本尊に供える水入れ百個を購入した。
 まず百人の人に信心を教え、この水入れをプレゼントしようと思ったのだ。
 彼女は、マニラで、懸命に学会活動に励んだ。
 しかし、カトリックの影響の強い国であり、文化の違いからか、大聖人の仏法を理解させることは、かなり難しかった。
 また、戦時中、日本軍の侵略を受けているだけに、反日感情も強かった。
 貴久子は、幾分、弱気になりかけていた時に、オーストラリアに向かう山本会長一行と、空港で会うことになったのである。
 伊丹たちの姿を見つけると、伸一の方から先に声をかけた。
 「どうも、ご苦労様。夜も遅いのに、わざわざありがとう!」
29  新時代(29)
 山本伸一は、待合室のソファに腰を下ろすと、フィリピンのメンバーにも座るように勧めた。
 伸一を挟んで、伊丹夫妻が左右に座った。
 柴山昭男が、みんなのジュースを買いに行った。
 伊丹貴久子は、伸一に、フィリピンでの活動の現状を語り始めた。
 「先生、フィリピンでは、広宣流布は、なかなか進みません。
 仏法を語っても、戦時中の日本軍の残虐な行為が頭に焼きついていて、『日本は、今度は、ミリタリズム(軍国主義)の宗教で侵略を考えているのか』って言い出す始末なんです。
 それに、カトリックが人びとの生活に深く根を下ろし、教会が結婚の証明書も出して、役所のようなことまでしていますから、そのなかで仏法を信ずるということは、本当に難しいことなんです」
 彼女の顔には、疲労の色が滲んでいた。日々、悩みつつ、初めての国で、頑張り続けてきたのであろう。
 伸一は、包み込むような優しい口調で言った。
 「あなたの苦労は、よくわかります。でも、大変なところで、人びとに信心を教えていくことこそ、本当の仏道修行です。
 御書にも『極楽百年の修行は穢土えどの一日の功徳に及ばず』とあるじゃないか。
 穢土とは、娑婆世界のことであり、現実というものの厳しさともいえる。
 しかし、厳しい環境であればあるほど、広宣流布に励む功徳は大きいよ。
 また、地涌の菩薩はどこにでもいる。この国にだけは、出現しないなんていうことは絶対にないから、大丈夫だよ。
 真剣に広布を祈り、粘り強く、仏法対話を重ねていけば、必ず信心をする人が出てきます」
 広宣流布が至難であることは、御書に照らしてみれば明らかである。御本仏の御遺命を果たす聖業が、容易であるはずがない。
 伸一は、もし、怠惰になり、真剣に広布の活動もしない人が、同じことを言ったならば、厳しく指導していたかもしれない。
 しかし、彼女は、懸命に働き、壁に突き当たり、悩み抜いているのである。
 今、伊丹貴久子に何よりも必要なものは、励ましであった。
 指導といっても、一様ではない。
 信心がわからぬ人には、仏法のなんたるかを、懇切に教えなくてはならない。また、怠惰に流されていれば、惰眠を覚ます、厳しい指導が必要な場合もある。
 そして、必死になって頑張っている人は、称え励まし、元気づけることだ。
30  新時代(30)
 しばらくすると、柴山昭男が、ジュースを持って戻って来た。
 「ありがとう。君も、こっちへ来て座りなさい」
 山本伸一が言うと、伊丹貴久子が席を空け、柴山は伸一の隣に座った。
 伸一は、伊丹芳郎と柴山に、仕事のことなどを尋ねたあと、柴山に言った。
 「君をフィリピンの男子部の責任者に任命しようと思うが……」
 「責任者といわれましても、男子部はほとんどいないんです」
 柴山が答えた。
 「いいんだよ。君が一人立てばいいんだ。そうすれば、必ず人は出てくる。一人が大切なんだ。
 大聖人も、お一人で立たれた。戸田先生も、戦時中の弾圧で、みんなが退転してしまったなかで一人立たれた。そこから戦後の学会は始まった。
 一人立つ人がいれば、必ず広がっていく。それが広宣流布の原理だよ。
 来年の五月三日には、日本にいらっしゃい。そこで男子部の旗を授与しよう」
 「はい!」
 決意のこもった、柴山の声が響いた。
 伸一は頷きながら、話を続けた。
 「大聖人は『からんは不思議わるからんは一定とをもへ』と仰せになっている。
 広宣流布の道が険しいのは当然です。困難ばかりであると、覚悟を決めることです。
 弾圧下にある国もある。そのなかでも、同志は、必死になって、命がけで頑張っている。
 私だって、大悪人のように言われ、国によっては、入国するのだって、大変なこともある」
 伸一の言葉には、次のような背景があった。
 ――前年の九月、アメリカの有名な雑誌が、日本を特集したなかで、その三分の一を使って学会を紹介したが、その記事は、甚だしい誤解と偏見に基づく内容になっていた。
 学会は世界征服を狙う教団で、軍隊式組織を使って布教し、改宗を断れば、悲惨な結末と地獄が待っていると脅すというのである。
 さらに、教団の指導者は独裁的で、その言葉は絶対であり、会員は羊のように従っているとしていた。
 アメリカを代表する、この雑誌が、学会を激しく中傷していることから、英語圏を中心に各国のメディアが、これにならって、同じような見方で学会を取り上げ始めたのである。
 また、この中傷記事を、そのまま転載する雑誌もあった。
31  新時代(31)
 学会のことを紹介した、海外の雑誌や新聞、テレビ番組のうち、幾つかは、客観的に学会をとらえ、正しく評価していたが、多くは偏見が露骨に表れていた。
 しかも、その影響は、思いのほか、大きかった。
 各国のメンバーからは、人びとが、それらの報道を鵜呑みにして、学会への警戒心を強めているとの連絡も、頻繁に入っていた。
 また、海外指導で渡航するメンバーが、ビザを申請に行った折にも、「学会は軍隊調であるというのは本当か」とか、「山本会長はヒトラーのような人物ではないのか」と、盛んに尋ねる大使館もあった。
 海外のマスコミ報道を、真に受けた質問であった。
 そして、ビザを取るのにも、かなり難航するケースがあったのである。
 山本伸一がこれから向かうオーストラリアでも、新聞などが学会を取り上げ、どこから情報をつかんだのか、″恐怖の指導者が来る″という、中傷記事を掲載していたのである。
 伸一は、フィリピンのメンバーに言った。
 「何ごとにも平坦な道はない。しかし、苦労があるから強くなれる。
 苦難がまことの信仰を育む。労苦が魂を鍛える。
 嵐に向かい、怒涛に向かって進んでいくのが、広宣流布の開拓者だ。
 この三人が立ち上がり、真剣になれば、フィリピンの基礎は築ける。未来は安泰だ。私と同じ心で、同じ決意で前進しよう。
 私は、マニラに親戚ができたと思っているからね」
 ほどなく、出発の時間になった。
 「握手をしよう」
 こう言って伸一は、柴山昭男に手を差し出した。
 「青年が頑張るんだよ。時代、社会を変えていくのは、青年の力しかない。
 頑張れ、頑張るんだ!
 今度、会う時には、一段と成長した姿で会おう。待っているよ」
 伸一の手に、力がこもった。柴山も、その手をしっかりと握り締めた。
 別れ際、伸一は、自分の念珠を包んでいた袱紗を、柴山に差し出した。
 「手元に、何もお土産がないから、これを記念に差し上げます」
 柴山は、両手で袱紗を受けた。彼の目には、涙が潤んでいた。
 この柴山は、以後、マニラに永住し、フィリピンの中核の一人として、活躍することになる。
 語らいは数十分にすぎなかったが、三人のメンバーの心には、永遠の誓いの種子が植えられたのである。
32  新時代(32)
 山本伸一の一行は、マニラから一路、オーストラリアのシドニーへ飛んだ。
 伸一たちがシドニーの空港に到着したのは、現地時間で十三日の午前九時四十分であった。
 機外に出ると、美しい青空が広がっていた。
 空港には、先にオーストラリアを訪問していた副理事長の十条潔、男子部の幹部の安岡広之、女子部の企画部員の本城絢子、そして、オーストラリア国立大学に留学している廷野修らのメンバーが待っていた。
 廷野は、メガネをかけ、学者らしい雰囲気のある、小柄な青年である。
 彼の頭はボサボサで、背広も、ネクタイもよれよれであった。
 伸一は、廷野に尋ねた。
 「元気だったかい」
 「はい!」
 「ところで、どうしたんだい、その頭は? ヤマアラシみたいじゃないか」
 「昨夜は豪雨でしたもので、外出した時に、濡れてしまったんです。それで、髪の毛も油っけがなくなってしまいまして……」
 「大変だったね。風邪は引かなかったかい」
 「はい、大丈夫です。
 実は、天気予報では、今日も雨ということだったんです」
 「そうか、晴れてくれてよかったな。でも、一番嬉しいのは、廷野君が元気なことだよ。少し太ったようだし、本当によかった」
 廷野は、日本で東京教育大学の大学院で修士課程を終え、二年前、医化学の研究のために、オーストラリアに渡ったのである。
 彼の入会は、一九五七年(昭和三十二年)の十月であった。
 入会後、戸田城聖が″学生部の半分は重役に、半分は博士に″と指導したことを聞いて、彼も奮起した。
 さらに、山本伸一の「青年は世界に知識を求めよ」との指導に触発され、二年前に留学したのである。
 日本を発つ直前、彼は山本会長に留学を報告した。
 伸一は、そのころ、やせ細っていた廷野を見ると、こう言って励ました。
 「元気で行ってらっしゃい。食べ物にもきちんと気を使ってね。健康が大事だからね。そして、力をつけ、立派になって帰ってくるんだよ」
 この時、伸一は、記念に御書を贈った。
 今、その青年が、オーストラリア広布の使命に燃えて、自分を空港に迎えてくれたことが、彼は、たまらなく嬉しかったのである。
 伸一は、皆と一緒に、宿泊することになっているホテルに向かった。
33  新時代(33)
 ホテルに到着すると、山本伸一は、ロビーで、廷野修と語り合った。
 廷野は、伸一に近況を報告した。
 「先生、なんとか博士号が取れそうなところまでまいりました」
 伸一は笑顔で答えた。
 「それはよかった。よく頑張ったね。
 ところで、オーストラリアには、今、メンバーは何人ぐらいいるんだい」
 「首都のキャンベラには、私だけですが、オーストラリア全体では、私がつかんでいるだけで、五、六人おります。
 このほかにも、おそらく、まだ何人かは、いるのではないかと思います」
 伸一は、その一人ひとりの状況を尋ねたあと、力強い声で語った。
 「人数は少ないが、オーストラリアに支部をつくろう。支部長は廷野君、君がなるんだよ」
 「はい……」
 廷野は答えた。しかし、戸惑いを隠せなかった。
 すると、伸一は言った。
 「支部長でも、地区部長でも、すべて、原理は一緒だよ。
 一人ひとりを、自分以上の人材に育て上げていけばよい。そして、同志を着実に増やしていくことだ。心配しなくて大丈夫だよ。
 それから、支部名だが、オーストラリア支部ではなく、メルボルン支部にしようと思う。
 今後、オーストラリアも、広宣流布が進めば、各地に支部がつくられていくんだから、国名を支部名にするのはよそう」
 未来の大発展を想定しての、支部の名に、同行のメンバーは、伸一の大確信と決意を感じ取った。
 伸一は、さらに廷野に語っていった。
 「君はオーストラリアで大学者になることも大事だが、君の深い任務は、この国の広宣流布にある。それが地涌の菩薩としての、根本の使命だ。
 学問の力では、人びとを根底から救いきることはできない。それができるのは仏法だけです。
 人間として、何が偉いのか。何が尊いのか――社会的な立場や経済力にばかり目がいき、その基準がわからなくなってしまっているのが、現代の社会です。
 仏法は、その根本的な価値を教えている。それが、広宣流布に生きることです。人を救い、人を幸福にしていく作業に励んでいくなかにこそ、人間としての最大の輝きがある。
 なんのための人生かを見失えば、社会的に、どんなに成功したとしても、本当の充実も、幸福もない。これを忘れてはならない」
34  新時代(34)
 山本伸一のオーストラリアの訪問の最大の目的は、この支部の結成にあった。
 そして、その中心となる廷野修を励まし、彼の胸中に、発心の種を植えることにあった。
 伸一は、ホテルで一休みすると、すぐにシドニーの街の視察に出かけた。
 正本堂の建設に使える、名産を探すためであった。
 また彼は、街の建築物にも、正本堂の設計の参考になればと、細心の注意を払った。
 伸一は、途中、デパートに立ち寄ると、ネクタイを買って、廷野にプレゼントした。
 一行がホテルに戻ると、三十半ば過ぎと思われる、オーストラリア人の男性が待っていた。廷野が伸一に会わせたくて、呼んだ人である。
 この男性は、空手を習い、日本の文化や宗教に関心をもっていたところに、学会を批判した英字の雑誌や新聞を目にした。
 彼は、″創価学会というのは、本当にここに書いてあるような団体なのだろうか。また、そうだとしたら、なぜ、こんなに発展するのだろうか″との疑問をいだいた。
 そして、直接、学会本部に連絡してきたのである。
 本部の海外局は、オーストラリアにも、メンバーがいるからと、廷野のことを教えたのであった。
 以来、廷野との間に文通が始まり、彼は、雑誌や新聞に書かれていた学会批判は、見当外れであることを感じ始めていたのである。
 伸一は、この来客を丁重に迎えた。
 「私が会長の山本です。わざわざお訪ねくださり、ありがとうございます」
 最初、オーストラリア人の男性の顔には、警戒と緊張が漂っていたが、伸一が言葉を交わすと、屈託のない微笑が浮かんだ。
 通訳を通しての、語らいが始まった。
 伸一は、日蓮大聖人の仏法とはいかなる教えか、創価学会は何をめざしているのかなどを、諄々と語っていった。
 彼は、伸一の話を、目を輝かせて聞いていたが、一時間ほど語り合うと、入会したいと言い出した。
 伸一は言った。
 「実践がなければ、仏法の真実はわかりませんし、自身の人間革命もありません。ですから、勇気をもって行動に移すことが大事です。あなたの入会を心から祝福します。
 せっかく信心をするんですから、オーストラリア広布の歴史に残る人になってください」
 この男性は、感激した顔で握手を求めた。
35  新時代(35)
 夕食のあとも、山本伸一は、廷野修、そして、安岡広之、本城絢子と懇談の時間をもった。
 青年部の幹部である、安岡や本城とも、日本では、ゆっくり懇談する時間は、なかなかもてなかったからである。
 安岡は三十を過ぎたばかりの、聖教新聞社に勤務する青年であった。
 彼の入会は、大学受験に失敗し、浪人していた、一九五一年(昭和二十六年)のことであった。
 最初に信心をした母親、次いで信心を始めた父親が、相次いで病を克服していった姿を見て、多少、学会に関心をもつようになっていった。
 そして、出席した座談会で、「仏法は生活法である」と聞かされ、信心を始めることにしたが、なかなか御本尊を信ずることができなかった。
 彼は祈った。
 ″祈りが叶う御本尊だというのなら、罰を出してくれ。俺は、どうしても信じることができない″
 受験が間近に迫ったある日、彼は突然、血を吐いて倒れた。
 医師に来てもらったが、原因はわからなかった。喀血は、三日間も続いた。
 近所の学会員の老婦人が激励に来て、安岡の背中をさすり、一緒に題目を唱えてくれた。
 その老婦人は、さらに別の医師を呼んでくれた。注射をしてもらうと、喀血はピタリと治まった。
 それで大学を受験することはできたものの、体力は消耗したままであり、頭もフラフラしており、結果は不合格であった。
 二浪することを思うと、絶望の底に、突き落とされた感じがした。人生も、人格も、存在さえも、否定されたようで、何もする気になれなかった。
 こうなると、自分で罰が出るように祈っておきながら、怒りが込み上げてきてならなかった。
 ″功徳があるというから信心をしたのに、どうなっているんだ!″
 彼は、学会の幹部に指導を求めた。
 その幹部は、仏法は道理であり、正しい信仰を貫くならば、必ず功徳を受け、幸福を実感できると、懇々と指導してくれた。
 安岡は確認した。
 「では、一年間、本気になって信心すれば、功徳が出るのかね」
 「いや、一カ月でも結果は出る」
 彼は、今度は功徳を願って、真面目に信心をしてみようと思った。
 それからは、日々、勤行・唱題に励むとともに、学会活動にも参加した。
36  新時代(36)
 安岡広之は、本格的に信心に取り組み始めてから一カ月後、自分の気持ちが、大きく変わっていったことに気づいた。
 それまでは、挫折感にさいなまれ、熟睡することもできず、日々、悶々としていた。
 ところが、突然、視界が開けるように、″長い人生からみれば、こんな失敗なんか、すぐに取り戻せるはずだ。くよくよするのではなく、自分らしく、人生の課題に、一つ一つ、挑戦していこう!″と思えるようになったのだ。
 また、心の底から活力がわいてくるのを覚えた。
 そして、翌年の大学受験では、自分の力をいかんなく発揮し、東京大学に合格したのである。以来、知勇兼備の闘将をめざして、広布の庭を駆け巡り、学生部の結成にも尽力した。
 そして、大学卒業後、商社勤務を経て、本部職員となり、聖教新聞の記者をしていたのである。
 一方、本城絢子も、有名な女子大学を卒業し、本部の職員となった女性であった。彼女は、どちらかといえば、大変に恵まれた家の娘さんといえた。
 家庭的なことなどで苦労がない分、広宣流布のため、法のため、友のために苦労しようと、彼女は心に決めていた。
 不遇な環境のなかで、苦悩を乗り越えて、信心の確信を深めていく人もいる。
 だが、本城は、学会活動を通して、多くの友と同苦し、励ましを送り、一緒にその苦悩を克服していくなかで、信心の確信をつかんでいったのである。
 学会活動は、自分の枠を超え、友の体験を共有し、境涯を広げ、高めゆく力といえる。
 山本伸一は、メルボルン支部の支部長になった廷野修に対し、指導者の在り方について語っていった。
 「学会のリーダーとして大事なことは、誰からも好かれるということです。
 人間は感情の動物だ。だから、どんなに話が理路整然として正しくても、あの人はいやだなと思ってしまえば、素直に話を聞けなくなってしまう。
 では、人に好かれるにはどうしたらよいか。
 こちらから笑顔で言葉をかけ、語り合い、友人になっていくことです。絶対に威張るようなことがあってはならない。
 また、思いやりをもつことです。その思いやりの根本は、祈りです。
 人間は、自分の幸福を祈り、念じてくれている人には、必ず心も開くし、好感をもつものです」
37  新時代(37)
 廷野修は、山本伸一に尋ねた。
 「今、アメリカに留学しないかという話があるんですが、学問の研究のうえでは、ここにいるよりも、アメリカに渡った方が、実りは多いと思います。
 このまま、オーストラリアにいた方がよいのか、それとも、アメリカに留学して、それから日本に帰った方がよいのか、迷っているのですが……」
 「できることなら、オーストラリアにいて、博士号を取ったら、ここで仕事を探してみてはどうかね。
 私の希望としては、君には、末長く、オーストラリアの中心として、頑張ってもらいたいんだ」
 伸一が答えると、廷野は言った。
 「正直なところ、ここで就職することは、考えていませんでした。
 この国では、白豪主義が根深く、白人以外の人種が就職したり、社会に食い込んでいくのは、並大抵のことではありません」
 「そうかもしれない。しかし、だからこそ、誰かが、それを打ち破っていかなければならない。
 どこの国でも、さまざまな差別や障害がある。それが現実だよ。矛盾だ、不平等だと文句を言うだけで、それが解決できるなら、こんなに簡単なことはない。
 その現実を直視して、道を切り開いてきたのが、世界広布の歩みです。
 学会が掲げているのは地球民族主義だ。その実現の第一歩は、君がこのオーストラリアで、力をもち、実証を示して、誰からも信頼され、尊敬されていくことだよ。
 時代は、地球民族主義の方向に動いていかざるをえない。
 それは、オーストラリアの人びとの、意識を革命していくことでもある。
 だが、これは大変なことだ。生活に根差した、粘り強い戦いだ。君は、その先駆者になりたまえ」
 この時、廷野の心に、広布への誓いの種子が蒔かれた。彼は、この伸一の指導で、生涯、オーストラリアの広布に生き抜くことを決意したのだ。
 廷野は、翌年四月には博士号を取得し、オーストラリアの代表的な研究機関である「連邦科学産業研究機構」に就職が決まった。
 そして、ここで着実に実績を残して、信頼の輪を広げ、上級研究員、主任研究員となっていく。
 また、組織の発展にともない、総支部長、本部長、理事長となり、オーストラリアSGI(創価学会インタナショナル)のリーダーとして、活躍していくことになるのである。
38  新時代(38)
 シドニーでの仕事を終えた山本伸一は、十五日、メルボルンに移った。
 彼は、空港に到着すると、すぐに、メルボルンの街の様子を知っておこうと、同行のメンバーと語り合いながら、タクシーを走らせた。
 そして、旅行案内書を見ながら、急所、急所の場所を見学したりした。
 夕刻、伸一がホテルに着くと、先に到着していた十条潔らが、慌てた様子で彼の部屋にやって来た。
 「先生、実は、テレビ局が私どもの到着を待っておりまして、それにつかまってしまい、ついさっきまで取材されていたところなんです。
 なんのために、オーストラリアに来たのか。また、世界各地を回っているのはどうしてか。学会が政治に出るのはなぜか――といった類いの質問でした。
 スタッフは全部で七人来ておりましたが、このインタビュアーは、有名人のインタビューしかしない著名な人物だそうです。
 先方は、私が会っただけでは満足できぬ様子で、短時間でも、先生に取材したいと言っておりました。
 私は、『山本先生は、お忙しいから、取材の時間は取れない』と言っておきましたが……」
 その話を聞くと、伸一は言った。
 「先方の取材の態度は、どんな様子でしたか」
 「学会に対して、他の雑誌による先入観はあるようですが、取材態度は真面目でした」
 「それなら、明日、私が会おう」
 十条は、驚いた顔で、伸一の顔をまじまじと見た。
 伸一は、静かな口調で語り始めた。
 「私は、オーストラリアの将来のために、誤解と無認識による学会批判の報道を打ち破っておきたい。
 悪意にもとづく取材なら、応じても悪用されるだけだが、今回は、私が会って、真実の学会の姿を認識させたいと思う。
 学会のことを、深く理解すれば、間違った報道はしなくなるだろう。
 戸田先生は、よく外交のできない者は信じるなと言われた。これも外交であり、戦いだ」
 「わかりました。では、これから、先方に連絡を取ります。
 ところで、インタビューには、何名ぐらい同行いたしましょうか」
 伸一は、言下に答えた。
 「私一人でよい」
 「はあ……」
 「ぞろぞろ何人も行ったのでは、権威主義のように思われる。といっても、向こうは日本語がわからないだろうから、通訳として正木君を同席させよう」
39  新時代(39)
 この夜は、メルボルンの郊外で、座談会が行われることになっていた。
 しかし、山本伸一は、正木永安、本城絢子とともにホテルに残った。
 明日のテレビ局のインタビューに備えて、これまでのオーストラリア各紙誌の学会批判などを調べ、研究しておくためであった。
 座談会には、十条潔、白谷邦男、安岡広之、そして、廷野修が出席した。
 座談会の会場提供者は、廷野から仏法の話を聞いて入会した人であった。
 会場には、五人が集っていた。
 このうち、三人は日系の女性のメンバーで、二人は未入会の夫であった。
 遅れて、もう一人、日系の女性がやって来た。
 彼女は、しばらく十条らの話を聞いていたが、批判めいた口調で質問した。
 「山本先生がオーストラリアに来た目的っていうのはなんですか。政界に人を送って、政治を牛耳る準備のためですか」
 それは、雑誌などの学会批判の記事と、同じ趣旨の質問であった。
 十条たちは、伸一の訪問の目的は、オーストラリアに組織をつくるためであり、また、正本堂の資材や調度品の買いつけにあることを語った。
 そして、海外で政界に進出するというのは、全くの邪推であり、山本会長も絶対にそういうことはしないと、宣言していることを訴えていった。
 正しい情報に触れる機会がなかったメンバーは、雑誌などの言い分を、そのまま信じ込んでしまっていたのである。
 十条は、この時、伸一が明日、自らテレビ局のインタビューを受けることにした理由が、よくわかった。
 マスコミの誤解と偏見を打ち砕いておかなければ、折に触れ、同じような学会批判が繰り返されるにちがいないからだ。
 座談会を担当した幹部たちは、皆から出される、一つ一つの質問に、懇切丁寧に答えていった。
 その語らいによって、疑問は解け、皆、心から納得することができたようだ。座談会が終わるころには、誰もが、晴れやかな顔をしていた。
 友のさまざまな疑問や悩みに、真っ向から立ち向かっていくのが幹部であり、小単位の座談会は、民衆啓発の格好の場といえよう。
 最後に十条が、このほどオーストラリアにメルボルン支部が結成され、廷野修が支部長に就任したことを紹介すると、拍手が起こり、笑みの花が咲いた。
40  新時代(40)
 翌十六日、テレビ局の山本伸一への取材は、午前十一時から、伸一が宿泊しているホテルで行われることになっていた。
 伸一は、約束の時間の十分前には、いっさいの準備を完了して待っていた。しかし、定刻を過ぎても、先方は姿を見せなかった。
 テレビ局のメンバーが到着したのは、午前十一時を十分ほど回ったころであった。
 伸一は、テレビ局のスタッフを丁重に出迎え、握手を交わしながら、自己紹介すると言った。
 「お会いできるのを楽しみにしておりました。
 さあ、どんなことでも、遠慮なさらずに、どんどんお聞きください」
 気さくで友好的な彼の応対自体が、伸一を独裁者に仕立て上げてきた、これまでのマスコミ報道の先入観を覆すものであった。
 インタビュアーの質問は簡潔で的を射ていた。
 「創価学会は、軍国主義的な団体であり、軍隊同様な組織によって、教勢を拡大してきたといわれていますが、それに対して、どうお考えですか」
 伸一は、ニッコリと頷きながら答えた。
 「大きな誤解があるようです。日本の軍国主義と、最も戦ってきたのが創価学会なんです。戦時中は、日本の宗教も、マスコミも、軍部政府に追随し、侵略戦争を賛美し、戦争に協力してきました。
 そのなかで、牧口初代会長、戸田第二代会長は、信教の自由を叫び、軍部政府の弾圧を受け、逮捕・投獄されました。しかも、初代会長は獄死しています。
 信教の自由を守り、人類の平和と幸福を築くための宗教が創価学会です」
 「しかし、学会の組織では、『参謀』とか、『部隊長』や『隊長』といった役職がありますね?」
 「はい。青年部の組織で、そうした名称が使われていることは事実です。
 でも、それをもって、軍国主義であるといえるのでしょうか。
 たとえば、キリスト教の関係者は、『救世軍』と名乗って、街頭で音楽を演奏し、寄付金を募り、慈善事業を行っています。
 しかし、『救世軍』を″軍国主義である″などといって批判する人は、一人もおりません。
 それは、戦争とは、全く別の目的をもって行っていることを、皆が認識しているからです。
 学会の組織も、さきほど申し上げましたように、人類の平和と幸福を実現することが目的です」
41  新時代(41)
 インタビュアーは、さらに尋ねた。
 「しかし、なぜ、軍隊の役職の名称なんか使ったんですか」
 「それは、自分たちは″平和の戦士″であるとの、自覚によるものです。
 また、男子部の結成は一九五一年ですが、その名称は、当時の青年たちに馴染みがあり、意気盛んに活動を進めるのによいという判断からでした。
 日本の会社組織には『係長』や『課長』といった役職名が使われておりますが、これでは、会社の延長のようで、元気が出ないではありませんか」
 質問は、さまざまな観点にわたった。
 「学会が政界に同志を送った目的は?」「学会は、政教一致をめざしているのではないのか」「入会に際して暴力を用いるなど、強制的な方法を用いたことはないか」など、歯に衣着せぬ質問であった。
 山本伸一は、一問一問、丁寧に、あらゆる角度から答えていった。
 最初、インタビュアーの目の動きには、警戒心と猜疑心が漂っていたが、語らいが進むにつれて、彼の顔は柔和になり、屈託のない微笑を浮かべるようになっていた。いや、彼の態度、物腰からは、むしろ尊敬の念が感じられた。
 インタビューが終わった時、伸一は言った。
 「今日は、わざわざおいでくださり、公平に、当事者である私の話を聞いてくださったことに、心から感謝申し上げます。
 実は、必ず当事者に話を聞くということや、先入観をもたないといったマスコミ人の基本を、怠っている雑誌の記者などが、かなり多いんです。
 偏見と憶測で記事を書かれ、これまで学会は、本当に迷惑を被ってきました。アメリカで一流といわれてきた雑誌もそうでした。
 事実を確認し、正しい認識に基づいて批判することは、いっこうにかまいませんし、私も、そうした批判は大切にしてきました。
 しかし、事実も確かめずに見当違いな批判をする、また、誤った報道をするというのは困ったことです。
 それだけに、真摯な、本来のマスコミ人の姿勢をもった方と会うと、私は嬉しくなるんです。
 私は、あなたを、日本にご招待します。そして、学会本部も、総本山も、学会の文化祭も、各部の活動の様子も、つぶさにご覧になってください。
 そうすれば、さらに、学会のことを正しく認識していただけると思います」
42  新時代(42)
 山本伸一への取材時間は、二時間ほどになった。
 インタビュアーの日本への招待は、先方の都合もあり、実現しなかったが、彼が学会のよき理解者となったことは間違いなかった。
 この日、伸一は、メルボルンの視察を終えたあと、メンバーの一人の婦人と懇談することになっていた。
 婦人の中心者を立てるなら、誰にすべきかと、皆で話し合った末に、彼女が適任ではないかということになったのである。
 ところが、約束の時間の少し前に、夫から電話が入った。
 彼女は、急に熱を出して、来られなくなってしまったというのである。
 伸一は、「できれば、ご主人とお会いしたいのですが」と、伝えてもらった。
 夫は快諾し、自分の方から、ホテルに行くとのことであった。
 「ご主人は未入会という話だったね。だから、話し合って、最高の学会の理解者にしておきたいんだ。
 奥さんが、今日、発熱したのは、ご主人が私と会うためであったともいえる。仏法に偶然はないからね」
 その夫は、十五分後にはホテルに到着した。
 伸一は、敬意をもって夫を迎え、なぜ、信心が必要なのかなど、一時間余にわたって、さまざまな角度から論じていった。
 「ともかく、最愛の奥様が、一日も早く元気になるように、一緒にお題目を送りましょう」
 最後に、伸一がこう言うと、彼も、唱題することを誓ったのである。
 伸一は、一瞬一瞬を的確にとらえ、あらゆる人と、全魂を注いで語り合った。そして、未来への発展の布石をすることに、心を砕き続けたのである。
 十七日には、美しい砂浜で知られる、ゴールドコーストにも足を延ばした。正本堂の基礎に埋める石を採取するためであった。
 延々と続く海岸線は、壮観であった。岸辺を洗う、銀色の波がまばゆかった。
 「いいところだ。青年部を、連れて来たいな」
 伸一は、つぶやくように言った。彼の頭からは、どこへ行っても、青年たちのことが離れなかった。彼は青年に、すべてをかけていたからである。
 翌十八日は、オーストラリアを発って、セイロン(現在のスリランカ)に移動する日であった。
 ブリスベーンの空港を飛び立ち、オーストラリアのダーウィンを経て、シンガポールに着いた時には、既に夜になっていた。
 ここから、十条潔、安岡広之、本城絢子の三人は、日本に帰ることになる。
43  新時代(43)
 山本伸一と白谷邦男、正木永安の三人は、このシンガポールで、ヨーロッパ本部長の川崎鋭治や女子部長の渡道代らと合流し、セイロン(現在のスリランカ)に向かった。
 一行がセイロンのコロンボに到着し、さらに、ホテルに着いた時には、午前一時半になっていた。
 セイロンは、三年前に訪問した国だけに、セイロン大学の視察など、かなり多くの予定があったが、仕事は至って順調に進んだ。
 そこで、伸一は、帰国の日を早めるために、スケジュールを、二日繰り上げることにした。
 次のインドも、二度目の訪問であり、交渉等の手順もよくわかっているので、予定よりも早く、仕事を片付けることができそうであった。
 二十日には、インドのボンベイ(現在のムンバイ)に入り、二十二日には、ニューデリーに向かった。
 飛行機がニューデリーに着く少し前、伸一は隣の席にいた正木に言った。
 「ところで、アメリカの新聞には、どんな名前の新聞があるかね」
 正木には、山本会長が、アメリカの機関紙の紙名を考えてくれていることが、すぐにわかった。
 実は、オーストラリア入りした日の夜、伸一は正木に、こう語ったのである。
 「正木君、そろそろ、アメリカでも、機関紙をつくろうよ。
 日本語のできる人ばかりなら、聖教新聞があればいいかもしれないが、今、アメリカでは、日本語のわからない人が、どんどん入会している。
 さらに、その傾向は強まっていくし、また、それは、広宣流布の広がりを意味している。
 そう考えると、将来のためにも、英語の機関紙が必要ではないかと思う。
 一部、日本語が入っていてもよいが、基本は英語だ。そして、この機関紙をもって、アメリカでも言論戦を展開していこう」
 正木は、その時、機関紙の発刊を念頭にとどめはしたが、旅の慌ただしさのなかで、思い出す暇もなかったのである。
 正木は答えた。
 「そうですね。ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、シカゴ・トリビューンあたりが有名です」
 「トリビューンというのは、もともと、どんな意味なんだい」
 「本来は、古代ローマの貴族から民衆を守った護民官のことです。正義の声を世に訴え、民衆を守るという意味で、新聞の名に、トリビューンとつけるようになったと思います」
44  新時代(44)
 山本伸一は言った。
 「そうか。トリビューンというのはいいね。
 私たちは、世界の平和を築き、人類の幸福を守ることが目的だから、アメリカの機関紙は『ワールド・トリビューン』としたら、どうだろうか」
 「はい、ぜひ、そうさせていただきます」
 こう答えた正木永安の顔は、感動に紅潮していた。
 それは「ワールド・トリビューン」という、名前のすばらしさもさることながら、山本会長がこの旅の間、アメリカの機関紙の名を、考え続けていてくれたことへの感動であった。
 伸一は、一言一言、言葉を噛み締めるように語っていった。
 「これからは、ますますアメリカが大事になる。
 しばらく前の、アメリカの雑誌の学会批判に対しても、現地のメンバーが、すぐに英字の機関紙に反論を出せば、世間の評価を変える、かなり大きな力になったのではないかと思う。
 二年前から、日本で、『ザ・セイキョウ・ニューズ』を発刊してきたが、これは、いわば、聖教新聞の海外向けだ。
 これから必要なのは、単に日本の情報を伝えるだけではなく、現地のメンバーによって編集され、体験なども、現地の人を取り上げた新聞だ。
 仏法を本気になって、アメリカ社会に開いていこうとするなら、日本のものを翻訳しているだけでは限界がある」
 「その際、編集スタッフ等は、どう考えればよいでしょうか」
 「編集長は君がやるんだよ。あとは現在の職員をスタッフにして、新聞制作に詳しいメンバーがいたら、手伝ってもらえばよい。
 聖教新聞も、最初は、戸田先生が事実上の編集長だった。
 先生は小説も、論文も、コラムの『寸鉄』も、ご自分で書かれた。どこを見ても、学会精神がほとばしっていた。
 アメリカでも、そんな新聞をつくっていくんだよ」
 「はい!」
 それから伸一は、力のこもった声で言った。
 「この釈尊有縁のインド上空で、『ワールド・トリビューン』という名前が決まったことは、大きな意味がある。さらに、仏法が世界に広がっていく瑞相だ」
 正木は帰国後、機関紙発刊の準備に入り、八月十五日付で、英字新聞「ワールド・トリビューン」が創刊された。
 月二回刊、タブロイド判、四ページ建てであったが、これが海外初の機関紙となったのである。
45  新時代(45)
 山本伸一の一行は、二十四日早朝、ニューデリーを発ち、タイのバンコク、香港を経由して、この日の午後九時前に羽田の東京国際空港に戻って来た。
 予定より、三日も早い帰国である。
 彼には、なすべき仕事が山積していた。たとえ一日でも、半日でも、可能ならば、時間を節約したかったのである。
 帰国から三日後の二十七日夜、山本伸一は、衝撃的なニュースに接することになる。
 インドのネルー首相の死である。
 ネルーは、この年の一月に、病に倒れたが、その後、強靱な生命力で職務に復帰していた。
 そして、伸一のインド滞在中には、ネルー首相は久し振りに記者会見に臨み、「私の寿命は短くはない。まだ死なない」と語っていたのである。
 ところが、現地時間の二十七日午後二時(日本時間午後五時半)、彼は、娘のインディラのほか、数人の閣僚に見守られ、ニューデリーの首相官邸で、急逝したのである。七十四歳であった。
 「巨星、墜つ」の衝撃にインドも世界も震えた。
 ジャワハルラル・ネルーは、一八八九年の十一月十四日、北部インドのアラハバードに生まれた。名前の「ジャワハルラル」とは、「宝石のような子供」の意味である。
 父のモティラルは弁護士として成功しており、極めて裕福な名門家庭で、ネルーは育った。
 十五歳で英国に留学。名門のハロー校、ケンブリッジ大学に学び、次いで、ロンドンで弁護士資格を取得し、一九一二年に帰郷している。
 しかし、彼は弁護士業に飽き足らず、インドの民族運動の活動家であった父の影響もあり、やがて、時代の激流に、身を投じることになる。
 また、一九一六年末、ネルーは初めてマハトマ・ガンジーと相見える。時にネルーは二十七歳、ガンジーは四十七歳。ちょうど二十歳の年齢差であった。
 第一次世界大戦が終結したあと、インドでは自治が進むどころか、イギリスの植民地支配のもと、民族運動への弾圧が強まっていったのである。
 特に、一九一九年、パンジャブ地方のアムリッツァルで、イギリス人将軍の命令で、多数のインド人が虐殺された事件は、ネルーに大きな衝撃を与えた。
 このころから、彼はガンジーの感化を受け、インドの独立のために、生涯をかける覚悟を固めていく。
46  新時代(46)
 ネルーの父は当初、彼がガンジーの抵抗運動に加わることに反対した。参加すれば、逮捕・投獄は覚悟しなければならないからだ。
 しかし、反対しながらも、父は、息子が入るかもしれない牢獄を思い、自ら冷たい廊下に横たわってみるのだった。
 一九二〇年六月、ネルーは、農村に行き、人びとの純朴な心に触れるとともに、民衆の悲惨な生活を目の当たりにした。
 「私自身の気楽な、また乏しきを知らぬ生活、またこの数知れぬ半裸のインドの息子たち娘たちを眼中に置いてない市井の小政治家たち、恥にあらずして何ぞ。インドの頽廃と気圧されるばかりの貧窮、悲しみにあらずして何ぞ」
 貧しき民衆への共感と、社会の悲惨な現実に対する正義の怒り――ネルーは、この経験を「私の開眼」と呼んでいる。
 彼の偉大さは、この若き日の心を、生涯、忘れなかったことであろう。
 続く二一年、ネルーは、ガンジーの非暴力の闘争に参加し、逮捕・投獄されている。それは通算九回、延べ三千二百六十二日(約九年)に及ぶ、獄中生活の最初の経験であった。
 しかも、この時、父も一緒に投獄されたのである。
 一九三〇年、ネルーが五回目に投獄された時にも、父は病床から敢然と立ち上がった。
 そして、息子の四十一歳の誕生日を、「ジャワハルラルの日」とし、彼の逮捕の原因となった演説を、各地の集会で読み上げる運動を推進したのである。
 ネルーの演説の言葉に民衆は決起した。この時、恐れを知らぬ逮捕者は、全国各地で五千人に上った。
 その後、ネルーの妻カマラも逮捕されている。
 娘のインディラも十三歳にして、雑用を一手に引き受ける″モンキー団″という子供組織を作るなど、独立運動に参加した。
 ネルーの家庭は、一家をあげて、独立運動に挺身していったのである。
 また、牢獄はネルーの思索と執筆の道場であった。
 彼は、五度目と六度目の投獄では、愛娘に手紙で世界史を教えた。最後の九度目の時は、名著『インドの発見』を著している。
 ネルーは、二九年に国民会議派の議長に選出され、以後、一貫して、インドの独立運動の中心的存在として活躍していく。
 若いネルーは、急進主義に傾いたり、社会主義を標榜するなど、ガンジーと意見を異にする場面も少なくなかったが、彼は、ガンジーを「わが師」と呼ぶ、後継者であった。
47  新時代(47)
 一九四五年六月、ネルーは、千四十日に及んだ九度目の獄中生活から解放された。
 しかし、独立を目前にして、不幸にも、ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立が激化し、最終的に、インドとパキスタンは分離独立することになった。
 一九四七年八月十五日、遂に、インドは独立の日を迎え、ネルーは首相兼外相として新国家の建設を担うことになる。
 しかも、その矢先の四八年一月、独立の父ガンジーが暗殺され、ネルーの双肩には、想像を絶する重責がのしかかった。
 ネルーは、「人のために働いて、働いて、眠れぬ夜を何日過ごすかが大切だ」との言葉を残しているが、これこそ、真正の指導者の心であろう。
 彼は民主主義の確立に心血を注ぐ一方、計画経済と社会福祉を柱とし、社会主義的な政策を推進。
 また、米ソの冷戦下で、「非同盟」を原則とする、インド外交を確立していった。それは、東西のいずれの軍事同盟にも属さず、平和共存をめざすものであった。
 さらに、五四年には、中国の周恩来首相との間で、領土・主権の尊重、相互不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和共存の「平和五原則」を確認している。
 これは、翌年、インドネシアのバンドンで開かれた、アジア・アフリカ会議において、「平和十原則」へと発展し、世界平和の原則を打ち立てるものとなった。
 彼の晩年には、中印国境紛争など、悲劇的な現実が影を落としたが、彼の掲げた理想は色褪せることはなかった。
 「末長くあなたがインドの宝石であるように」と、ガンジーが期待した通り、人類愛を訴え、世界平和を希求したネルーの理想主義は、不滅の光を放ち続けたのである。
 一方、ネルーはインドと日本の友好にも、忘れ得ぬ刻印を残した。
 独立の二年後には、「本当の象が見たい」という日本の児童の要望に応え、彼は一頭のインド象を寄贈している。
 「インディラ」と命名されたこの象は、上野動物園の人気者となり、長く日印友好の象徴となった。
 また、ネルーは、サンフランシスコ講和条約が発効すると、すぐに対日平和条約を結んだ。
 これは、占領状態を脱した日本が、自主的に結んだ最初の対外条約であった。しかも、この時、インドは対日賠償請求権を放棄したのである。
48  新時代(48)
 一九五七年(昭和三十二年)の十月には、ネルーは日本を初訪問している。
 山本伸一も、日記にこの来日のことを書いた。
 「インドのネルー首相来日中。
 慶応義塾大学と早稲田大学にて、『青年は″明日の世界″だ』と呼びかけ、世界平和と人類愛についての演説あり、と。
 仏法発祥のインドに一日も早くゆきたし」と。
 そのネルーの死は、伸一の心を曇らせた。
 前年、アメリカでケネディが死に、今また、ネルーが逝いたのである。
 二十世紀の巨星たちの死に、伸一は、時代の激動を感じていた。しかし、その流れが、どこへ向かっていくのかは、彼にもわからなかった。
 ただ、偉大なリーダー亡きあとの、世界の混乱を、伸一は憂慮していた。そして、人類の融合と平和の哲学を、一日も早く、世界に流布しなければならないと誓うのであった。
 「本門の時代」とは、世界の恒久平和を、現実に築き上げていく時代である。師の戸田城聖が示した、地球民族主義を、世界の思想の大潮流としていく時代である。
 伸一の胸には、世界平和の実現のための、さまざまな構想があふれていた。
 だが、彼は、高鳴る鼓動を抑え、努めて冷静に、堅実な歩みを運ぶことを心がけていた。千里の道も、一歩一歩の着実な積み重ねであることを、彼は熟知していたからである。
 オーストラリア、セイロン(現在のスリランカ)、インドの旅を終えて、伸一が最初に着手したのは、翻訳委員会の設置であった。
 この委員会は、世界に向けて創価学会を紹介する、新しいパンフレットの制作を当面の課題としていた。
 パンフレットには、創価学会の歴史や活動、日蓮仏法の世界性、南無妙法蓮華経とは何か、信仰と生活、さらには、学会に関する一問一答なども収め、創価学会の入門書とする計画であった。
 最初は、英語、ドイツ語、フランス語、ポルトガル語、タイ語、インドネシア語、中国語の七カ国語での発刊を予定していた。
 諸外国でも、学会への批判は、ことごとく無認識による誤解から生じており、正しい理解を促すための入門書の制作は、早急の課題といえた。
 今なすべきことを、今なし、今日やるべきことを、完璧に仕上げていく――この現実の地平の彼方に、山本伸一は、世界平和の旭日を見ていた。
 (この章終わり)

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