Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「激流」 激流

小説「新・人間革命」

前後
1  激流(1)
 日本も、世界も、激動していた。
 一九六三年(昭和三十八年)の十一月は、悲惨な事故や事件が相次いで起こった月でもあった。
 十一月九日には、午後三時十分ごろ、福岡県大牟田市の三井三池鉱業所三川鉱で、炭塵爆発事故が発生している。
 死者四百五十八人、負傷者は八百人を超え、命を取りとめた人も、その後、一酸化炭素中毒による後遺症で苦しむことになる。
 また、同じこの日の午後九時五十分ごろ、横浜市鶴見区の東海道本線で貨物列車が脱線。そこに、横須賀線の上り電車が衝突。この電車が下り電車に突っ込み、二重衝突を起こし、死者百六十一人を出す大惨事となった。いわゆる「鶴見事故」である。
 一方、世界に目を転じれば、十一月一日、南ベトナム(ベトナム共和国=当時)で、ズオン・バン・ミン将軍による軍事クーデターが起こり、二日には、ゴ・ジン・ジェム大統領らが殺害されている。
 さらに、十一月二十三日未明(日本時間)、衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。
 ――二十三日の午前六時前、山本伸一は、一本の電話で目を覚ました。
 彼は、鹿児島会館の落成式に出席するため、前日、鹿児島入りし、宿舎のホテルにいたのである。
 「もしもし! 山本先生ですか……」
 副理事長の十条潔からである。声には緊迫した響きがあった。
 「十条さんか。ずいぶん早いね。どうしたんだい」
 「は、はい。大変な事件が起きました。
 ただいま、アメリカの正木本部長から国際電話がありまして、ケネディ大統領が暗殺されたそうです!」
 「本当か!」
 「はい。ケネディはテキサス州のダラスを訪問していたのですが、車で市内をパレード中、何者かに狙撃されたようです」
 「そうか……。
 残念だ、残念だな」
 伸一は、一瞬、絶句したが、すぐに言葉をついだ。
 「まず、アメリカに弔電を打つことにしよう。ホワイトハウスに一通。また、うちのメンバーにも一通送ろう。みんなも悲しんでいるだろうからね」
 すると、十条が言った。
 「はい。実は明日、事件の起こったダラスで、テキサス地区の総会が予定されており、そこに、正木君が出席することになっているそうです」
 「それはよかった。みんなを全力で激励するように伝えてくれないか。その総会は、追悼の意義を込めた集いとしよう」
2  激流(2)
 山本伸一は、さらに、こう付け加えた。
 「それから、正木君には、『ありがとう、ご苦労様』と伝えてほしい。
 情報は、スピードが勝負だ。こうした電光石火の素早い対応が大事なんだ。
 それでは、よろしく」
 伸一は電話を切ると、ケネディの冥福を祈って、心のなかで題目を唱えた。
 彼は思った。
 ″これでケネディ大統領に会う機会は、永遠になくなってしまったな……″
 伸一は、この年の二月、ワシントンで、ケネディ大統領と会見する予定になっていた。しかし、政権党のある政治家の″横槍″が入り、急きょ会見を取り止めたのである。
 もしも、ケネディと会っていれば、世界の平和や人類の未来のことなどについて、どんなに有意義な語らいができたかと思うと、残念で仕方なかった。
 彼は、人の運命の無常を感じた。
 ――ケネディが狙撃されたのは、伸一が十条潔からの電話を受けた、二時間半ほど前にあたる、現地時間の十一月二十二日午後零時半(日本時間二十三日午前三時半)のことであった。
 その日、ケネディは、遊説のためにテキサス州ダラスに入り、オープンカーで市内をパレードしていた。
 この南部の町は、保守的な土地柄で、一部に反ケネディの空気が強かった。彼を「反逆罪により逮捕の要あり」等と、罵倒したビラがまかれたり、彼を容共主義者だと難詰する新聞広告が出るほどであった。
 側近はダラス行きを憂慮したが、彼は、あえてこの町に、飛び込んでいったのである。
 パレードは順調に進んでいた。車にはジャクリーン大統領夫人と州知事夫妻が同乗。沿道は、多数の歓迎の市民で埋まっていた。
 車はエルム通りに入っていった。その時、銃声が響き、二発の弾丸が大統領の頭などに当たった。
 すぐ市内の病院に運ばれたが、間もなく死去したのである。
 享年四十六歳。あまりにも早い死であった。
 アメリカのラスク国務長官は、日本に向かう機中で暗殺を知り、「神よ、祖国を助けたまえ」と叫び、太平洋上で引き返した。
 ケネディの急死にともない、アメリカの新大統領には、副大統領のジョンソンが昇格した。
 また、暗殺の容疑者としてオズワルドという男が捕まったが、二日後、彼も殺害されてしまう。
 真相は、深い闇に覆われていた。
3  激流(3)
 ケネディの暗殺を知ったアメリカ社会の動揺は激しかった。
 多くの市民は息を飲み、声を失った。
 太陽が沈んだような暗い日となった。
 公民権運動の指導者キングは、ケネディ暗殺の報を聞いて、夫人に語った。
 「これは私にもまた起こるかもしれないことだ。話しておくがね、この社会はとても病んでいるよ」
 また、世界にも、大きな衝撃と悲しみを与えた。
 フランスのド・ゴール大統領は、「ケネディ大統領は兵士のように銃火のもとで自らの義務と祖国のために働いている最中に死んだ」と敬意のこもった弔辞を述べた。
 東西冷戦下の一方の雄である、ソ連のフルシチョフ首相も、直ちに弔電を送り、哀悼の意を表した。
 そこには、「卓越した政治家ケネディ大統領の悲劇的な死を、私は心から悲しむ。大統領の死は、平和と米ソ協力を歓迎するすべての人びとにとって大きな打撃である」とあった。
 世界が、ケネディ追悼の″半旗″を掲げた。
 ――ジョン・F・ケネディは、一九六〇年十一月、共和党のニクソン(当時・副大統領)を大接戦の末に破って、大統領選挙に当選。翌年一月、四十三歳の若さで、アメリカの第三十五代大統領に就任した。
 以来、大統領の職務にあること、わずか千日余り。しかし、この若き大統領は激動の世界のまっただなかで、よりよい世界の建設に向けて、懸命の舵取りをしたことは間違いない。
 当時、世界は東西冷戦の″雪どけ″ムードが、一転して″厳冬″に逆戻りしていた時期であった。
 大統領就任から半年余り。まず、ヨーロッパに緊張が走った。
 その後、長らく冷戦の象徴となった″ベルリンの壁″が、東側陣営の手で建設されたのである。
 六二年秋には、キューバのミサイル危機が起こり、人類は一触即発の核戦争の恐怖に震えた。
 だが、ケネディは、米ソの対話の道を探りつつ、冷静な判断力と勇気をもって、この危機を回避していったのであった。
 ″キューバ危機″を乗り越えた直後から、ケネディは、核実験を禁止する条約の締結に向けて、積極的に動き始めた。核戦争の愚かさを、彼は膚で感じ取ったのであろう。
 これには、ソ連のフルシチョフ首相も、前向きな姿勢を見せた。
 ケネディは、戦争の″危機″を、平和への″好機″としていったのである。
4  激流(4)
 核実験の停止条約の交渉は、紆余曲折もあったが、ケネディは決して希望を捨てなかった。
 一九六三年の六月、彼は首都ワシントンのアメリカン大学の卒業式で、「平和の戦略」と題する有名な講演を行い、平和への断固たる決意を表明した。
 「われわれの問題は人間が生んだものである。それゆえ、人間はそれを解決することができる」
 ケネディは、平和は不可能だとか、人類は破滅の運命だといった諦観に対し、「人間」は自らの運命を切り開く英知をもっていると叫んだのである。
 大気圏内、宇宙空間、水中での核実験を禁止する「部分的核実験停止条約」が、米英ソの三国間で仮調印されたのは、七月二十五日のことであった。
 翌日、ケネディはテレビで演説し、「昨日、暗闇に一条の光がさした」と語ったが、まさに実感であったにちがいない。彼は、この条約を、「平和への第一歩」と位置づけている。
 ケネディを「幻想を持たない理想主義者」と評した、大統領特別顧問のソレンセンは言う。
 「ケネディは、核停条約そのものを終着駅とみないで始発駅とみた」
 この「部分的核実験停止条約」は、八月にモスクワで正式に調印され、十月に発効している。これはケネディ政権の、最大の外交的成果と受け止められた。
 もちろん、核実験の全面禁止や核兵器の廃絶という理想から見れば、不十分なものであろう。だが、その不十分な条約さえ、合意することが至難であるほど、冷戦下の相互不信は深刻であったのである。
 ケネディが、この不信感という″氷の壁″を、わずかながらも、解かすことができたのは、彼の人間的資質にも多くを負っているようだ。
 たとえば彼は、″キューバ危機″が去ったあと、ソ連に屈辱感を与えたり、アメリカが勝ったなどと言ってはならないと側近に厳命したという。
 交渉の相手の立場になって考える、柔軟な感受性がなければ、とてもできないことである。弟のロバートは、その大統領の心情を、こう表現している。
 「もしこれが一つの勝利であったとするならば、それは次の世代にとっての勝利であって、特定の政府や、特定の国民にとっての勝利ではなかったのである」
 大統領として″国益″を追求しながらも、政策決定の過程で、それが道義にかなっているか否かを、常に考慮することを忘れなかった、ケネディらしいエピソードといえる。
5  激流(5)
 ケネディは、「対話」を最大の武器とした指導者であった。
 就任演説の有名な一節で彼は言った。
 「われわれは決して恐怖心から交渉してはならない。しかし、交渉することを決して恐れてはならない」
 ケネディは、たとえ相手が、対立する共産主義陣営であっても、対話不可能な「敵」として決め込むような態度はとらなかった。常に、対話の回路を確保しようとした。
 このケネディの政治姿勢のなかに、東西冷戦を超えた、平和共存への新たな萌芽があったといえまいか。
 一方、アメリカ国内にあっては、彼の在任中、根深い差別と対立を打破する、新たな社会変革の渦が巻き起こっていた。
 黒人(アフリカ系アメリカ人)を中心にした、公民権運動の高まりである。
 ケネディは、この問題について心を砕き、誠実に取り組んでいった。
 一九六二年九月、南部のミシシッピ州で、同州立大学に入学を求めていた黒人青年に対し、大学と州政府がそれを拒否し続けたことから、大きな人種差別事件に発展した。
 ケネディは直接、州知事に電話し、″法の正義″に則って、入学を認めるよう説得したが、州内の険悪な情勢は変わらず、遂には、二千五百人の暴徒が大学に押し寄せ、力ずくで黒人青年の入学を妨害した。そのため、連邦軍が出動する事態ともなったのである。
 ケネディは、この根深い人種差別の″壁″に対し、平等という″法の正義″を求めて、あえて衝突も恐れなかった。
 さらに一九六三年には、アラバマ州のバーミングハムで、″悪に沈黙するな″と、人種差別撤廃を叫ぶ、黒人市民の大規模な抗議運動が展開されていった。
 ケネディは、六月に、テレビ、ラジオを通じて演説を行い、黒人に米国民として平等の権利を認める公民権法の必要性を訴えた。
 「米国はどんなに希望と誇るべきものがあっても、そのあらゆる市民が自由になるまでは、完全に自由とはならないのだ」
 彼は、このあと、間もなく、包括的な公民権法案を議会に提出した。
 この一九六三年は、リンカーンの「奴隷解放宣言」から、ちょうど百周年にあたっていた。
 八月二十八日、公民権運動の支持者が全米からワシントンに集って来た。
 リンカーン記念堂まで、黒人も白人も、手を取り合い、二十数万人の大行進が始まったのである。
6  激流(6)
 公民権法案は、人間の自由と平等を確信する人びとの悲願でもあった。
 この法案が成立すれば、人類史に、新しき光が注がれることになる。
 リンカーン記念堂の前で行われた集会の最後に、キングは有名なスピーチを行い、大群衆に向かって、力強く、こう叫んだ。
 「私には夢がある!」
 人種差別のない、自由と平等の「夢」が光り輝いた公民権運動は、まさに最高潮に達しようとしていた。
 しかし、ケネディは自ら提出した公民権法案の成立を見ることなく、その生涯を終えたのである。
 奴隷解放のために戦ったリンカーンは凶弾に倒れ、人種差別の撤廃を推進したケネディもまた、凶弾に倒れていったのである。
 正義を叫ぶことは、死と隣り合わせに生きることを意味していよう。だが、その覚悟なくして、真の社会の改革は決してできない。
 ケネディ暗殺から、十七時間半ほどあとの十一月二十三日の午前六時(現地時間)、アメリカ本部長の正木永安と、男子部の北米部副部長の中原雄治は、ダラスの空港に降り立った。
 二人は、コロラド支部テキサス地区の総会に出席するため、急きょ、ロサンゼルスから、このダラスにやって来たのである。
 空は、真っ赤な朝焼けであった。それは、人びとの深い悲しみと怒りをたたえているようにも思えた。
 この夜のテキサス地区総会は、約八十人が参加したが、メンバーにとっても、ケネディ暗殺は大きな衝撃であった。参加者の多くがケネディを慕い、尊敬していたのである。
 総会が始まって間もなく、ロサンゼルスのアメリカ本部から長距離電話が入り、会長山本伸一の弔電を伝えてきた。
 その電文は、総会の席上、正木永安によって読み上げられた。
 「ケネディ大統領閣下の突然の逝去を、学会員一同、心からお悼みいたします。山本」
 電文を読む正木は、感極まり、声が震えた。
 山本会長が、アメリカのことを、これほどまで心配してくれていることが、ありがたく、また、嬉しかったのである。
 メンバーは、ケネディの暗殺に、「自由の国」「民主の国」であるアメリカを覆う、限りなく深い闇を感じとっていた。
 ″では、誰がこの国を救うのだ!″
 参加者は、その闇を晴らし、アメリカに真実の民主と平和を築き上げていく決意を新たにしたのである。
7  激流(7)
 日本でも、ケネディ暗殺のニュースは、十一月二十三日朝から、テレビ、ラジオで一斉に報道された。
 皮肉なことに、この二十三日は、ケネディ大統領によって推進されてきた、米通信衛星による、日米間テレビ中継の実験が行われる日であった。
 当初、日本時間の午前五時二十七分四十三秒から開始された第一回の宇宙中継では、ケネディ大統領の日本国民に向けたメッセージで幕を開けることになっていたのである。
 しかし、この二時間ほど前に、大統領は射殺されてしまったのだ。
 結局、録画していた大統領のメッセージの放映は中止となった。
 そして、午前八時五十八分から、第二回中継が始まった。
 「日本の皆様、この輝かしい試みに、悲しいニュースをお送りしなければならないことを、まことに残念に思います」
 特派員の日本人アナウンサーの沈痛な声が流れた。暗殺事件の概要が簡単に語られ、画面に、ありし日のケネディ大統領の姿が映し出された。
 そして、悲しみに沈む、ニューヨークの街の様子が次々と放映されていった。
 画像は至って鮮明であった。日本国内の映像と、ほとんど変わらなかった。宇宙中継は、見事に成功したのである。
 だが、送られてきた、その映像は、人びとの大きな悲しみを伝えていた。
 山本伸一は、この宇宙中継を見ながら、ケネディという人物に、深い思いをめぐらした。
 アメリカという超大国の指導者であった、ケネディの政策などについては、さまざまな評価があることを、彼はよく知っていた。
 しかし、ケネディが大統領として戦った″一千日″は、世界と人類に大いなる指標を残したことは間違いないと彼は思った。
 特に公民権法案は、伸一も念願としてきたことであった。一九六〇年(昭和三十五年)の十月にアメリカを初訪問して以来、彼は、人種差別の撤廃を、日々、祈り念じてきたのである。
 彼は、ケネディに共感するところが多かった。
 伸一も、もし、ケネディの立場にいたならば、多くの面で、同じことをしていただろうと思えた。
 彼には、ケネディの死が、盟友の死のように感じられてならなかった。
 語るべき相手を、ともに世界を担うべき人を亡くした無念さが、今、ひたひたと伸一を包んでいた。
8  激流(8)
 山本伸一は、心の盟友として、自分は何をもって、ケネディの死に応えるべきかを考えた。
 答えは明白であった。ケネディの理想を受け継ぎ、この地上から、人間への差別をなくすことだ。この世界に、永遠の平和を築き上げることだ。
 彼は、ケネディが生命を燃やして、高らかに掲げた理想の松明を、決して、消すまいと心に誓っていた。
 この十一月二十三日、伸一は、鹿児島会館の落成式に出席した。会館の前には錦江湾が広がり、対岸には、桜島が噴煙を上げていた。
 伸一は、開会前のひと時、二階から、この勇壮な景観を見入った。
 桜島を眺めながら、彼の脳裏には、最初に鹿児島を訪問した折のことが、鮮やかに蘇った。
 それは、五年前の一九五八年(昭和三十三年)夏のことであった。彼は、ここで、八月二十四日の入会十一年の記念日を迎えた。
 この年の四月二日に、戸田城聖は逝去していた。
 伸一が、全学会を総括するただ一人の総務として、事実上、師亡きあとの学会のいっさいを担っていた時である。
 実は、この年は、初代会長牧口常三郎が、鹿児島を訪れてから、ちょうど二十年にあたっていた。
 牧口の鹿児島訪問は、一九三八年(同十三年)の夏であった。
 伸一が戸田から聞いた話では、牧口は、十日間ほど鹿児島市内に滞在し、座談会を開催するなど、全力で布教に励んだという。
 この座談会が、九州初の座談会となったのである。
 当時、東京から下関までは、特急列車でも十八時間半を費やした。そして、船で関門海峡を渡り、門司から急行を使っても、鹿児島までは、さらに、八時間余りの時間がかかったのである。
 牧口は、既に六十七歳であった。しかし、彼の弘教の旅は、止まることがなかった。どんなに遠く離れていようが、一人でも会員がいれば、訪ね、励まし、縁者に法を説いていった。
 その行動は、軍部政府の弾圧で逮捕される瞬間まで続いた。最後の最後まで折伏に歩き、戦い続けたのだ。まさに、信仰とは行動である。
 九州には、このあとも三たび、足を運んでいる。ある時には、特高刑事の監視のなかで会合を開き、堂々と神道の誤りを破折したこともあった。
 伸一は、初めて鹿児島の地に立った日、先師の死身弘法の実践をしのびながら、孫弟子の自分もまた、その精神のままに生き抜かねばならぬと、決意したことが忘れられなかった。
9  激流(9)
 あれから五年――。
 今回は、山本伸一の四度目の鹿児島訪問である。
 伸一は思った。
 ″この会館の落成を機に、鹿児島の広宣流布は、一段と加速されるにちがいない。日本は既に盤石といえる。
 しかし、世界の広宣流布は、まだ緒についたばかりである。世界の民衆が、幸福と平和を手にするまで、私はこの身をなげうち、生涯、広布の旅を続けるのだ。
 それが、牧口先生の孫弟子である、私の使命だ!″
 こう心に誓い、桜島を仰いだ。噴煙が、一段と濃さを増していた。
 彼は、一首の和歌を思い起こした。
 「我胸の 燃ゆる思ひに くらふれは 烟はうすし 桜島山」
 幕末の志士・平野国臣の歌である。
 伸一もまた、広宣流布に生きんとする、自分の胸に燃える情熱からすれば、桜島の噴煙は、まだまだ淡く感じられてならなかった。
 鹿児島会館の落成式を終えた伸一は、福岡に移動し、翌二十四日には、北九州市の八幡市民会館で行われた、九州女子部幹部会、九州男子部幹部会に、相次ぎ出席した。
 伸一が福岡を訪れ、さらに男女青年部の幹部会に出席したのは、十一月九日に起きた、福岡県大牟田市の三井三池鉱業所の炭塵爆発事故で犠牲となった学会員の家族らに、なんらかの励ましの手を差し伸べたかったからである。
 伸一は、事故発生の報告を受けた時から、九州の中心の幹部自らが、家族を激励することなど、さまざまな指示を出し、対応にあたってきた。
 働き手の夫を亡くした妻や家族は、途方に暮れているにちがいない。また、信心をしていたのに、なぜ事故にあうのかといった、批判にさらされているかもしれない。
 そう思うと、彼の心は痛んだ。
 福岡で、伸一は、幹部から、被災した会員の、その後の詳細な報告を聞いた。
 一人の婦人部の幹部が、伸一に伝えた。
 「事故でご主人を亡くした方のなかに、女子部の時代から信心に励み、結婚間もない婦人がおりました。
 家族を亡くされた方は、皆、ただ悲嘆に暮れるばかりでしたが、彼女は毅然としていました。そして、むしろ弔問客を励ますかのような応対が、周囲の感動を呼んでいました」
 「すごいことだね!」
 「はい、彼女は、普段からよく御書を拝し、しっかり教学を研鑽している人でした」
10  激流(10)
 山本伸一は言った。
 「それが、教学の力であり、信心の力です。
 御書には、生死の根本的な解決の方途が示されている。御書を拝し、仏法の眼を開いていくならば、死も決して恐れるに足らないものであることがわかる。
 また、唱題に励むことによって、それを実感し、確信することができる。
 もちろん、最愛の夫の死は、悲しいのは当然です。しかし、そのことと、悲しみに負けてしまうこととは違う。
 人間は死を避けることはできない。死という問題に直面した時には、人は無力にならざるをえない。
 だが、仏法にだけは、そして、信心にだけは、その死の問題の確かな解決の道がある。
 それを教え、一人ひとりの同志に、勇気を与え、希望を与え、確信を与えていくのが幹部です。
 だから幹部は、苦しんでいる人の立場になって、激励につぐ激励を重ねていってもらいたい」
 彼はここで、学会としても追善の法要を行うことなどを提案し、皆で協議を重ねたのである。
 この十一月もまた、学会の前進は目覚ましかった。
 「勇将の下に弱卒なし」との言葉のごとく、勇将・山本伸一のもとに、全同志は心を一つに、勇猛果敢に広布に走った。
 月末の本部幹部会で、折伏の結果が発表されたが、二十万六千七百九十四世帯という、空前の本尊流布となったのである。
 これは、過去最高であった、この年二月の本尊流布十六万七百七十七世帯を大きく上回るものであった。
 広宣流布の流れは、月々、年々に勢いを増し、今や、新しき民衆運動の大潮流となったのである。
 明年四月二日の恩師戸田城聖の七回忌までには、当初、目標として掲げた会員三百万世帯を、はるかに超え、四百万世帯を達成することは、もはや間違いなかった。
 社会では、暗く悲惨な事故や事件が続いていたが、だからこそ正法を流布し、広宣流布を成し遂げなければならないという、強い思いが、会員たち一人ひとりに脈打っていた。
 その使命の自覚が、十一月の折伏の、大勝利の原動力となっていたのである。
 この本部幹部会の席上、副理事長の関久男から、明一九六四年(昭和三十九年)の「三大目標」として、「三百万総登山の完遂」「座談会の充実と勤行の徹底」「人材の育成」を掲げて前進していくことが発表された。
11  激流(11)
 この日、山本伸一は、あいさつのなかで、二十万世帯を超える、学会始まって以来の大折伏に対して、心から同志の労をねぎらったあと、次のように語った。
 「戸田先生が亡くなられた時、私どもは、『団結』の二字を合言葉に、前進を開始いたしました。
 そして、以来今日まで、『団結』第一に、怒涛のごとき大前進を遂げてまいりました。
 そこで、この新しき出発にあたり、来年は『団結の年』と定め、再び『団結』を合言葉に、次の七年間へのスタートを切ってまいりたいと思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 万雷の拍手が、会場の台東体育館に響いた。
 一大民衆勢力となった学会の会員一人ひとりが、さらに団結していくならば、日本の国を平和の楽土としていくことも、決して不可能ではない。
 団結は、五倍、十倍、百倍と、飛躍的に力を増大させるものであるからだ。
 この一九六三年(昭和三十八年)の最後の主要行事は、十二月十五日の、第十一回女子部総会、第十二回男子部総会であった。
 会場は、いずれも、東京・両国の日大講堂であり、女子部は午前、男子部は午後の開催となっていた。
 五カ月前にあたる、七月一日の男子部幹部会で、伸一は、明年四月二日の恩師戸田城聖の七回忌を期して、学会は「本門の時代」に入ることを宣言したが、今回の男女青年部の総会は、その幕開けの意義をこめた総会であった。
 「本門」とは、理論や観念ではなく、現実に広宣流布の証を打ち立てる時代であるというのが、青年たちの共通の理解であり、決意であった。
 メンバーは、その具体的な実践として、七月五日の女子部幹部会で伸一が提案した、男女各部の部員百万達成をめざした。男子部は戸田の七回忌までの、女子部は翌秋の女子部総会までの目標に掲げ、折伏、部員増加に走り抜いてきた。
 そして、女子部は、この総会までに、部員四十三万人から、一躍、七十万人を超えるに至った。
 一方、男子部は、部員六十四万人から、十一月末には九十一万人を突破し、なんと、この日までに、念願の部員百万人を達成したのである。
 まさにこの総会は、「本門の時代」への大行進を開始した青年たちの、凱歌の集いとなったのである。
 大理想の実現は、空想の彼方にはない。毎回、毎回の、勝利の着実な積み重ねのなかにこそ、それがあることを知らねばならない。
12  激流(12)
 午前の女子部総会も、午後の男子部総会も、意気軒昂であった。
 山本伸一は、この青年たちとともに「本門の時代」を走破し、今世紀の広宣流布を荘厳しようと決意しながら、男女両部の晴れの門出を祝した。
 彼は、女子部の総会では、悲哀と不幸に泣いてきた女性の歴史に触れ、その根本的な解決の方途は、妙法によって宿命を転換し、福運を積んでいく以外にないことを強く訴えた。
 そして、一人ひとりが現実の姿のうえで、幸福の実証を示しきっていただきたいと呼びかけたのである。
 また、男子部の総会では、今後の広宣流布の展望のうえから、時代は、数多の人材を希求しており、それぞれが、真心を込めて、後輩を育成していってほしいと念願した。
 この一年も、学会は、未曾有の広布の歴史を開いた。弘教の波は、日本列島を包み、民衆の勝利の旗は翻った。新しい学会本部も完成し、平和と文化の法城として始動した。
 また、海外の布陣も、着々と整いつつある。
 しかし、何よりも目を見張るべきは、青年部の大成長であった。
 伸一は、集った青年たちを見て思った。
 ″青年が力をつけ、陸続と育っていれば、何があっても心配はない。前途に輝くのは、勝利の栄光の太陽である″
 はつらつたる、創価の若人の姿は、伸一に、大きな喜びと希望を与えた。
 この男女青年部の総会をもって、学会は、「本門の時代」の助走を、勢いよく開始したのである。
 そして、年末。学会本部で統監業務が行われた。
 十二月度の折伏の成果が集計されると、学会の総世帯数は、四百万世帯になんなんとしていた。
 その報告を聞くと、伸一は言った。
 「いよいよ、四百万世帯か! これでまた一つ、私たちの手で、広布の新しい歴史が開かれる。すごいことじゃないか。
 きっと、戸田先生もお喜びになっているだろう。大聖人様もお褒めくださるにちがいない」
 三百万世帯の達成が昨年の十一月であり、以来一年余りで、百万世帯の拡大がなされたのだ。驚嘆すべき速さの、広宣流布の上げ潮といってよい。
 それが、まことの学会の力である。まことの民衆の力である。まことの団結の力である。
 伸一は、胸に闘魂の血潮をたぎらせながら、新しき年の展望に、思いをめぐらすのであった。
13  激流(13)
  黎明の
    我等が船出に
      民ぞ待つ
    障魔の怒涛も
      砕き進まむ(男子部へ)
  今日もまた
    幸せ築く
      法戦に
    強く気高く
      君等舞いゆけ(女子部へ)
  大聖の
    使いと吾等
      いざ征かむ
    悔いなき戦に
      勝利めざして(壮年へ)
  今日もまた
    仏の使いと
      誇りもち
    白き蓮華と
      楽土に咲きゆけ(婦人部へ)
 一九六四年(昭和三十九年)「団結の年」は、会長山本伸一が各部の友に贈った、この四首の和歌で幕を開いた。
 元日、東京・信濃町の学会本部での初勤行に集った幹部たちは、この和歌を力強く朗詠し、伸一とともに晴れやかなスタートを切ったのである。
 いよいよ今年は、戸田先生の七回忌を期して、「本門の時代」を迎える。広宣流布の新段階に入るのだ――こう思うと、参加者の瞳は、一段と決意に輝くのであった。
 四月には、学会が総本山に建立寄進する大客殿が落成し、三百万総登山も開始される。一方、世界広布の推進にも、ますます力を注いでいく一年となる。
 伸一も、五月には、オーストラリア、セイロン(現在のスリランカ)、インドなどを訪問し、さらに、十月には、東欧を含む、ヨーロッパ訪問が決まっていたのである。
 また、この一月十五日には、理事の鈴本実らの五人が、韓国のソウル、大邱、順天、光州、済州、蔚山、釜山の七都市を訪問し、メンバーと交流することになっていた。
 韓国には、当時、信心をしている人が、少なくとも、千世帯以上になっていたようであった。しかし、活動は各地によって異なり、それぞれの都市で、自主的に座談会や教学の勉強会などが行われていた。
 日本の会員たちは、韓国に対しては、特に強い親近感をいだいていた。
 戦時中、朝鮮に行った人もいたし、各組織には、同志として、日々、ともに信心に励んでいる、在日韓国人のメンバーも少なくなかったからである。
14  激流(14)
 鈴本実らの韓国訪問を、日本の学会員は、東洋広布の新たな前進をもたらすものとして、心から喜び、希望を感じていた。
 韓国は、かつて日本の侵略の犠牲になった。だから今度は、私たちが、韓国の人びとの幸福のために尽力していくのだ――というのが、日本の同志の共通した思いであった。
 山本伸一も、鈴本らの韓国訪問に大きな期待を託していた。
 伸一の父親は、戦前、京城(現在のソウル)にいたことがあった。徴兵を受け派遣されたのである。
 その話題になると、父は日本人の傲慢と横暴を、「本当に日本は、ひどい」と、小学生の伸一を相手に憤るのが常であった。
 それだけに、伸一の韓国への思いは深かった。
 彼は、韓国は日本にとって、「文化の大恩人」であり、その恩に報いるためにも、幸福と平和の大哲理を伝えていかなくてはならないと考えていた。
 また、日韓の民衆と民衆が交流を図り、深い友情で結ばれていくことが、将来のために、何よりも必要であるというのが、伸一の主張であった。
 思えば日本が、韓・朝鮮半島の国々から受けた「文化の宝」の恩恵は、計り知れないものがある。
 古くは、稲作も、青銅器も、鉄器も、この″隣人″によって伝えられた。土木・潅漑技術や漢字、医学、薬学、暦学もそうだ。
 ″千年の都″となる京都盆地の開拓にも、渡来人が活躍している。
 こうした絶大なる恩恵のなかの「大恩」こそ、仏教の伝来であった。
 仏教は、インドから西域を経て中国、朝鮮に入り、六世紀半ばまでに、東漸の終着駅ともいうべき日本に伝えられた。
 韓・朝鮮半島では、既に四世紀には、仏教が入っており、日本への渡来人のなかにも、仏教徒はかなりいたものと思われる。
 最初は、これらの人びとを通じて、次第に仏教が知られていったのであろう。
 そして、「仏教公伝」となるのである。
 日蓮大聖人は、御書のなかで、この「精神の宝」を伝えてくれた偉業に、何度も言及されている。
 「百済国より経・論・僧等をわたすのみならず金銅の教主釈尊を渡し奉る
 「百済国と申す国より聖明皇・日本国に仏法をわたす
 韓国の地は、まさに文化の先進地であった。ここから、釈尊の仏法が日本に伝えられ、今日、仏法西還の時代を迎えるのである。
15  激流(15)
 古来、韓国は、『日本書紀』にも、「眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在り」と謳われた、日本人の憧れの国であった。
 ところが、一方で、同じ『日本書紀』には、韓国を見下し、蔑視する記述も現れている。
 そこには、ようやく国家の体裁を整えた、新興の島国のナショナリズム(国家主義)による競争心が働いていたのであろう。だが、それは、恩恵を受けた国への、嫉妬と劣等感の裏返しでもある。
 他者を蔑み、貶めることによって、自分を偉く見せようとするのが、心に劣等感をいだく人間の常であるからだ。
 時移り、十六世紀末、日本は、韓・朝鮮半島に、侵略の駒を進める。豊臣秀吉による朝鮮侵攻である。
 一五九二年(文禄元年)、豊臣秀吉は朝鮮に大軍を送り、進撃を開始した。明(中国)を攻めるため、朝鮮に″道案内″を求めるという奇妙な理由であった。
 そして、二回にわたって、延べ約三十万人の軍隊が韓・朝鮮半島を蹂躙した。文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)である。
 当初、豊臣軍は、奇襲攻撃によって、国土の大半を手中に収めるかに見えた。朝鮮の国王も都を捨て、北方に避難した。
 「最も奸悪巧猾」「諸道に散開して狂暴のかぎりをつくした」と糾弾された、暴虐非道な侵略であった。
 しかし、救国の英雄・李舜臣将軍の奮戦と、各地で勇敢に立ち上がった民衆、すなわち「義兵」の戦いによって、豊臣軍は追い詰められていった。
 一五九八年(慶長三年)、遂に、侵略は失敗に終わるのである。
 だが、その間、民衆が多数殺され、日本に連れ去られた人も、五、六万人に上ったといわれる。
 また、多くの文化財が焼失し、木版や活版刷りの、貴重な朝鮮本などが略奪されたのである。
 さらに十九世紀の後半、近代化へ踏み出した日本は、「富国強兵」のスローガンを掲げ、″脱亜入欧″を叫び、アジアへの新たな侵略を開始していった。
 日本が国力をつけ、欧米列強の圧力によって失ったものを、今度はアジアから補うというのが、その基本にある考えであった。
 そして、この国策の、最大の惨禍を被ることになるのが韓国であった。
 日本は、一八七五年(明治八年)、江華島事件をきっかけに、朝鮮に開国を要求し、翌年、日朝修好条規(江華島条約)を結んだのである。
16  激流(16)
 日朝修好条規(江華島条約)は、朝鮮を自主国と規定し、中国の宗主権を否定する一方、日本人の治外法権や半島沿岸の測量の自由をうたい、日本に都合のよい条約であった。
 韓・朝鮮半島は、大陸進出をめざす日本が、なんとしても獲得したい領土であった。
 やがて、日清・日露の戦争に突入していくが、そのころから、日本国内では、盛んに「日鮮同祖論」が喧伝されていった。
 それは、日朝両民族は、祖先を同じくし、いわば兄弟の関係にあり、本来、一体になるべきであるとの主張であった。
 だが、兄弟の関係といっても、日本を「兄」とする上下の関係であり、日本が朝鮮を保護すべきだとしているのである。
 これによって、日本の侵略と支配を、正当化していったのである。
 しかし、文化の恩恵という歴史的事実を見ても、もし、あえて兄弟の関係に置き換えるならば、「兄」は朝鮮といわねばなるまい。
 にもかかわらず、日本は、大恩あるこの国の支配に踏み切っていったのだ。
 日清戦争は日本と清(中国)との戦争であるが、その舞台は、韓・朝鮮半島であった。日露戦争もまた、半島における利権の争いが引き金となっている。
 なお、日清戦争後、朝鮮の国号は「大韓帝国」に改まっている。
 日露戦争では、日本は開戦とともに、中立の立場を宣言していた韓国と日韓議定書を結んで、対日協力を取りつける。
 日本の狙いは、韓国を政治的、軍事的に保護して実権を獲得し、経済的な利権を得て、大陸進出の拠点とすることにあった。
 一九〇四年(明治三十七年)八月、日露戦争のさなかに、第一次日韓協約を結んだ。次いで、翌年九月、戦争終結後の日露講和条約では、日本は韓国の指導権を獲得した。
 さらに、この年十一月に第二次日韓協約(乙巳保護条約)を結び、日本は韓国の外交権を完全に奪うと、韓国統監府を設け、初代統監に伊藤博文を任命した。
 日本側は、この条約の交渉にあたって、首都に軍を配置して圧力をかけた。
 さらに、韓国の閣僚と個別に談判するなどして、強引に賛成を取りつけ、調印させるという、強圧的な対応に終始したことが明らかになっている。
 当然、各地で激しい抗日運動が起こった。しかし、日本は、一九〇七年(同四十年)七月の第三次日韓協約で、韓国の内政全般を掌握したのである。
17  激流(17)
 一九一〇年(明治四十三年)の八月、遂に「韓国併合条約」の調印となった。
 「保護」から「併合」へ――それは、日本による韓国の、徹底した支配の確立であった。「併合」といえば、聞こえはよいが、その意味するところは、韓国を「廃滅」させ、日本の植民地にすることにあった。
 「韓国」(大韓帝国)の国号は廃され、日本の一地域としての「朝鮮」に変えられた。そして、朝鮮総督府が設置された。
 ここに、足かけ三十六年の、日本による暗黒の韓国支配が始まったのである。
 しかし、この韓国併合が発表された時、多くの日本人は、それを当然のように受け入れた。
 マスコミも、宗教界も、同様であった。
 当時、日蓮宗富士派を名乗っていた宗門は、機関誌『白蓮華』の巻頭に「韓国併合詔書」の全文を掲げ、加えて、「永久に韓国併合の事、聖詔煥発之を宣布せらる、吾人臣民たる者謹て 聖旨を奉体し、此新同胞を得たるを喜び……」と追従の賛辞を連ねている。
 以後、韓・朝鮮半島は、日本の大陸侵略の基地として、過酷な搾取を強いられ続けていくのである。
 さらに、日中戦争が激化していくと、「内鮮一体」のスローガンのもと、韓民族の「皇民化」が進められていった。
 学校では、皇民化教育が推進され、皇国臣民の誓詞暗唱、宮城遙拝などが強要され、日本語を学ぶように強制された。
 また、「信教の自由」も否定されていった。
 京城(現在のソウル)を睥睨するかのように、南山に建てられた朝鮮神宮をはじめ、各地に神社が設置された。そして、神社参拝や皇大神宮の神札の礼拝を強要したのである。
 日本にあって、その神札を拒否し、信教の自由を叫び、軍部政府の弾圧で投獄されたのが、学会の初代会長牧口常三郎であり、二代会長戸田城聖(当時・理事長)であった。
 高齢の牧口は、一年四カ月の獄中闘争の末に、七十三歳で殉教している。
 牧口を獄死に至らしめた悪法・治安維持法は、朝鮮にも適用され、民族独立運動は、すべて「国体変革」をめざすものとして、内地以上に、過酷な弾圧が猛威をふるった。
 それは、民族文化を守ろうと、″朝鮮語辞典″を編纂していた学者たちにさえ及んだのである。
 日本は、韓民族の文化や伝統、精神性を、徹底して否定していった。
 そして、韓国の人びとの姓名をも奪い、日本名に変えさせたのである。いわゆる「創氏改名」である。
18  激流(18)
 日本が韓・朝鮮半島を支配した歴史は、あまりにも暗く、長い夜であった。
 だが、不屈の人びとは、″魂の虐殺″に等しい、日本の蛮行に耐えに耐えた。
 その間、幾千幾万の決死の勇者たちが、独立の炎をともし続けた。
 光なき痛哭の大地に、自由と希望の夜明けが到来することを絶対に信じて。
 そして、その日は、遂に訪れた。
 一九四五年(昭和二十年)の八月十五日――。
 日本の敗戦が決まり、韓・朝鮮半島の民衆に、解放の光が降り注いだ。全土に「万歳」の声が轟いた。
 この日は、日本の軍国主義の闇に決別した、″光復の日″となった。
 しかし、悲劇は、まだ続いた。
 戦争が終わると、日本に代わって、南と北から、それぞれアメリカ軍とソ連軍が進駐し、北緯三八度線を境に、南北で別個の占領政策が進められた。
 やがて、米ソの冷戦が表面化し、民衆の願いとは逆に、南北の分断は固定されていった。
 一九四八年の五月、国連の監視下に、独立政府をつくるための総選挙が南だけで行われた。そして、初代大統領には、李承晩が就任し、八月十五日、大韓民国が誕生する。
 一方、北にも、同年九月九日、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立する。
 韓・朝鮮半島は、二つの国家に分断されてしまったのである。
 それから二年後の、一九五〇年六月二十五日、同じ民族が相争う″朝鮮戦争″(韓国戦争)が勃発した。
 北朝鮮軍は、三八度線を突破して、一気に南下した。わずか三日後には、ソウルが占領され、韓国政府は南に逃れた。
 こうした事態に、韓国の支援のために、アメリカ軍を主力とする国連軍が介入した。
 攻勢に出た国連軍が三八度線を遙かに越えて、鴨緑江の付近まで北上した時、中国の義勇軍が参戦。国連軍は再び押し戻され、一進一退の戦況となった。
 このころ、アメリカでは、原爆使用も検討されていたといわれる。
 戦後の東西両陣営の冷戦は、同族同士が血で血を洗う、最も凄惨な激戦をもたらしたのである。
 日本の支配から解放されても、祖国の平和の春は、いまだ遠かった。
 三八度線付近を休戦ラインとして、ようやく休戦協定が結ばれたのは三年後の七月であった。
 この間、百二十六万人もの韓国・朝鮮人の死者を出したといわれ、国土は荒廃し続けていった。
19  激流(19)
 朝鮮戦争(韓国戦争)が始まると、アメリカの占領下に置かれていた日本は、米軍の後方基地としての役割を果たした。
 また、警察予備隊(後の自衛隊)が発足し、日本の再軍備の道が開かれるとともに、サンフランシスコ講和会議で西側諸国と対日講和条約が結ばれ、日本が占領状態を脱するのも、この戦争の渦中であった。
 一方、経済面では、日本は、この戦争から恩恵を受けることになる。
 ″朝鮮特需″といわれる米軍が使う物資の需要が殺到し、その好景気によって、敗戦後の不況に苦しんでいた日本経済は復興するのである。
 いわば日本は、戦後も、韓・朝鮮半島の人びとの犠牲の上に、経済発展を遂げたといえる。
 日本と韓国の国交正常化をめざして、日韓会談が始まったのは、朝鮮戦争の悲劇が、まだ打ち続く一九五二年(昭和二十七年)二月であった。
 以後、数次にわたって、両国の基本関係、在日韓国人の法的地位などをめぐって話し合いが行われたが、交渉は難航した。
 日本は、韓国併合条約は有効であり、それが無効になるのは終戦後だと主張。
 一方、韓国側は、併合自体を無効であるとし、三十六年に及ぶ日本の支配の間の賠償を求めていた。
 その第三次日韓会談(一九五三年十月)の席上、日本側首席代表が、″日本は朝鮮の鉄道・港を造ったり、農地の造成をした″″(植民地時代の朝鮮人は)奴隷状態にあったとは考えない″等と発言した。
 それは、日本の統治は、韓国に恩恵も与えたというものであった。また、講和条約前の韓国の独立などについても、国際法違反だとの見解を述べた。
 韓国側は、「妄言」として猛反発した。一片の謝罪もなく、植民地支配を正当化する日本の姿勢に対する怒りである。
 その後も、日本の政治家が繰り返してきた″問題発言″の原型といってよい。
 これによって、日韓会談は四年半にわたって途絶したのである。
 過去の過ちを忘れることは恥である。そして、過去の過ちを歪曲し、正当化することは、さらに恥ずべき行為である。
 日本の指導者層の、こうした傲慢な言動が、どれほど日韓の真の友好を妨げているか計り知れない。
 会談が再開し、日韓基本条約が調印されるのは一九六五年(昭和四十年)六月であった。以後、日本は「賠償」としてではなく、「経済協力」というかたちで、韓国を支援することになるのである。
20  激流(20)
 一九四八年八月の大韓民国の独立以来、第一次共和制が敷かれ、李承晩が大統領を務めていたが、次第に独裁を強めたため、国民の支持を失っていった。
 一九六〇年の四月には、前月行われた大統領選挙の不正をきっかけに、大規模な大衆デモが拡大した。
 その先頭に立ったのが、学生たちであった。
 正義と自由を叫ぶ、学生の呼びかけに応え、四月十九日、万余の大衆が、大統領官邸に向かった。デモを阻止しようとした警察の実弾射撃により、多数の死者、負傷者が出た。
 さらに二十六日には、官憲の圧迫にもかかわらず、大衆デモは首都を埋め尽くし、AP電などによれば、十万人にも達したという。
 この結果、李承晩はアメリカの支持も失い、退陣を余儀なくされた。
 歴史的な「四・一九学生革命」である。
 そして、第二次共和制がスタートしたが、それも束の間、翌六一年の五月、朴正煕を中心とした軍部がクーデターを起こして、権力を奪取するのである。
 彼は、反共体制の再編、自立経済の確立、民政移管などを公約。そして、軍服を脱いで一九六三年十月の大統領選挙に出馬し、当選を果たした。
 朴大統領の就任式が行われ、第三次共和制が発足したのは、十二月十七日のことであった。
 韓・朝鮮半島の人びとは、この激動の歴史のなかで、あたかも、激流に翻弄される木の葉のように生きねばならなかった。また、日本に渡った「在日」と呼ばれる人たちの歩みも、辛苦と忍従に満ちていた。
 韓国併合直後の一九一一年(明治四十四年)当時の、日本在住者は約二千五百人であったといわれているが、日本の支配の拡大とともに急増していった。
 終戦時の一九四五年(昭和二十年)には、実に、二百万人を超えていたと推定されている。
 そのなかには、日本の植民地政策によって、農地を失い、働き口を求めて日本に来た人もいた。
 さらに、三七年(同十二年)に、日本と中国が全面戦争に突入すると、徴用などによって、強制的に、日本に連れて来られる人が多くなっていった。
 労働力の確保のために、国策として、国家総動員法、国民徴用令を公布し、朝鮮からも、人びとを動員したのである。
 日本に連れて来られた人たちは、炭坑や鉱山、土建関係の仕事などに従事させられたが、賃金は日本人よりもはるかに安く、労働は過酷であった。
21  激流(21)
 『もうひとつの被爆碑 在日韓国人被爆体験の記録』(創価学会青年部反戦出版委員会)には、在日韓国人の張福順の、次のような証言が掲載されている。
 「(父は)日本人よりも安い賃金で、炭坑とか地下鉄・道路工事現場のような所で危険な仕事ばかりしてました。行っては怪我をして帰って来て、治るまで保障も何もないんです。
 だから、我が家はもう本当に貧しくて、まともに御飯なんて食べたことはなかったです」
 彼女の父親は慶尚南道で農業に従事していたが、日本の土地調査事業のために、土地を失い、やむなく、職を求めて日本に渡った。一九三一年(昭和六年)のことである。
 その翌年に、彼女は生まれている。
 戦争が始まり、空襲が激しくなると、強制疎開させられることになり、一家は農業をするため、大阪から広島県の比婆郡に移る。
 山奥の村で、養蚕所の一角をむしろで仕切った仮小屋と、収穫の難しい、山かげの沼地のような田んぼが割り当てられた。一家は、差別を実感する。
 それでも、供出の厳しいノルマを果たさなければならず、食べられそうな草や木の実を片っ端から食料にするという生活であった。
 彼女は語っている。
 「私は朝鮮人だからいうことで、そりゃいじめられたんですよ。
 『よーい、ドン』で走っても、お嬢さん――当時、私達は日本人の娘さんのことをこう呼んでいたんじゃけど、そのお嬢さんより、前へ出ちゃいけん、立ててあげんといけんのんです。
 それは、もうどこでも常識じゃったんです。偉かったらいけん」
 「子供同士で遊んでも、すぐ『朝鮮、朝鮮』言うて石を投げられたり、『あんた臭い』とか言われたりしてね。
 でも、家へ帰って親に言うと、『ニンニクかね。うち食べるからね、臭いからね。そりゃ言うのが当たり前じゃ』言うわけです。
 だから、私も『いじめられるのももっともじゃ。ニンニクできるだけ食べんようにしましょう』思いよったんですよ。
 私は素直じゃったと思うのよ。親から言われたこと、あとから考えると、子供達が日本人社会で生きていくための手段として教育したんでしょうね。
 逆ろうたら、得なことが一つもないから……」
 差別への忍従を教えねばならない親の気持ちは、いかばかりであったか。
22  激流(22)
 やがて、広島に原爆が投下される。
 一週間ほどして、張福順は母親と、被爆した親戚や知人の安否を気遣い、広島市内に向かう。
 やっとのことで探し当てた、知り合いの「おばさん」は、大火傷を負いながら、息子の傷口に群がるハエを追っていた。
 「おばさん」は言う。
 「医者や薬が足らなくて、朝鮮人までは手がまわらんから、治療も思い通りに受けられん。こうしていても皆次々と死んでいっとるから、私らもこのまま死ぬのを待つだけじゃ」
 それを聞いた張福順の母は泣き出す。
 「体裁も何もかも捨てて、『アイゴー(哀号)。アイゴー』ってね。
 『他国へ来て、牛や馬のようにこき使われて、最後はこうやって焼かれて……。ひと思いに殺してくれずに、何の罪でこうやって半焼きにして苦しめるのか……』というような意味の母国語で怒りを爆発させて、こぶしで地面を打ちながら、気が狂ったみたいにわめき散らしてるんです。
 周りにいた人達も皆泣いてました。
 私は、母があんなに取り乱して、日本に恨みつらみを言うのを、あの時初めて見たんです。
 それまでの母は、日本人社会で生きていかなければいけんいうことで、心の中に民族意識を持ってても、体裁をつくろってたんですよ。だけど、その時から母の本心が分かったんです。
 父も、絶対に日本語を覚えようとせずに、祖国愛といったものが、芯に入っとるような感じじゃったんです。
 『何で敵国の言葉を使わなくちゃいけんのか。死ぬに死ねんからこうやって生きてはいるけど』言うて。だから家の中では絶対母国語じゃったんですよ」
 同じ″皇民″といわれながら、実際には、甚だしい差別と屈辱に泣かされてきたのである。
 しかも、その悲劇は、戦後も続いた。
 終戦を迎え、日本の植民地支配から解放されると、「在日」の人びとの大半は祖国に帰還したが、六十数万人が日本に残った。
 やがて一九五二年(昭和二十七年)、前年に調印されたサンフランシスコ講和条約が発効した。この時、日本政府は、在日韓国・朝鮮人は、すべて日本国籍を喪失するとした。
 そして、「在日」の人びとが日本在住を続けるには、「外国人」として登録することが義務づけられ、さもなければ、日本国籍を取得しなければならないとしたのである。
23  激流(23)
 戦後の、日本政府の在日韓国・朝鮮人への冷酷な対応もさることながら、日本人の根強い偏見と差別の意識も変わらなかった。
 表向きはともかく、実際には、就職の門戸を固く閉ざしている企業は少なくなかったし、部屋一つ借りるにも、断られることが多かった。
 そうしたなかで、戸田城聖は、隣国の民の幸福を祈り、心を砕いていた。
 彼は、朝鮮戦争(韓国戦争)のさなかの一九五一年(昭和二十六年)に第二代会長に就任した直後、『大白蓮華』に「朝鮮動乱と広宣流布」と題する論文を発表している。
 「この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親をさがす民衆が多くおりはしないかと嘆くものである。(中略)なんのために死なねばならぬかを知らずに、死んでいった若者もあるであろう。『私はなにも悪いことをしない』と叫んで殺されていった老婆もいるにちがいない」
 彼は、常に民衆の幸福を念願していた。それが、創価学会の目的であった。
 学会の世界には、なんの差別もない。学会が弘めんとする日蓮仏法は、人種、民族、国籍、性別、年齢等のいかんにかかわらず、すべての人が、必ず幸福になる方途を説き明かした生命の法理であるからだ。
 すべての人が幸福になる権利をもっている。いな、最も苦しんだ人こそが最も幸せになる権利がある――それを実現してきたのが創価学会である。
 戸田の会長就任後、大折伏が始まると、「在日」の人たちのなかにも、信心をする人が増えていった。
 そして、「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日をぞ送らん」と歌い、東洋広布を訴える戸田の心に触れ、メンバーは、同胞の幸福のために働きたいという思いをつのらせていったのである。
 そうした在日韓国人のメンバーに、田島正治(金永煕)、美恵(李明玉)という夫妻がいた。
 田島正治は、慶尚南道の蔚山に生まれ、六歳で家族とともに、日本に渡った。
 植民地支配下に、農地を失い、移住を余儀なくされた一族であった。
 妻の美恵は、慶尚北道の大邱が本籍地だが、東京生まれの在日二世である。
 二人は一九四四年(昭和十九年)に結婚していた。
 翌年、戦争が終わると、正治の一家は祖国に引き揚げることになった。だが、正治は、ある医科大学で働きながら、医学部への進学をめざして勉強していたため、日本に残った。
 美恵は長男の嫁として、初めて海峡を渡り、祖国の大地を踏んだのである。
24  激流(24)
 田島美恵(李明玉)は、最初に落ち着いた釜山で、長男を出産した。
 この町は、祖国に戻って来た人、日本に去る人でごった返していた。
 混乱を避けるために、夫の故郷の蔚山に移った。
 当時、祖国に戻った「在日」の人びとのなかには、土地になじめず、″日本から戻った者は役に立たぬ″と言われる人もいた。
 また、日本に住んでいたために母国語がしゃべれない子供たちは、″パンチョクパリ(半日本人)″と言われて、いじめられることもあった。
 美恵は、祖国で信頼を得なければと、慣れない農作業にも、懸命に、汗して働いた。
 夜明け前に農地に出て、日没まで働き、星々が輝くころ、泥まみれの足を洗うという毎日であった。
 しかし、それでも一家は、食べていくのが精いっぱいであった。
 そこに、朝鮮戦争(韓国戦争)が勃発した。美恵が実家に帰省した折、戦火が迫り、死を覚悟したこともあった。そんななかで、実父が病死する。
 祖国もまた、苦悩と悲嘆に満ちていたのである。
 彼女は、夫のいる日本に行きたいと思うようになっていた。
 一九五二年(昭和二十七年)のこと。美恵は、日本に渡る船があると聞いた。
 ある晩、彼女は、幼い長男の手を引き、意を決して、小さな漁船に乗り込んだ。当時、日韓関係は険悪で国交もなく、一般の渡航は困難だったのである。
 小船の船倉に身を潜め、韓国を出たが、途中、日本の巡視船に捕らえられ、密入国者として身柄を拘束されてしまった。
 だが、夫の正治(金永煕)の奔走で入国が認められ、横浜での生活が始まった。
 正治は、小さいながらもホテルを経営し、順風な新生活のスタートであった。
 やがて、長女を出産するが、その子が一歳の時に、結核で入院することになってしまった。
 その時、家事の手伝いに来ていた婦人から、信心の話を聞いた。美恵は、娘の病気を乗り越えられるならと、入会した。五四年(同二十九年)のことだ。
 夫も形だけは入会したが、学会活動には猛反対していた。美恵もいつしか、それに負け、学会の組織から遠ざかっていった。
 そのうち、夫の事業が傾き、ホテルを手放すことになった。乾物屋や菓子屋などもやってみたが、どれもうまくいかなかった。
 気がついてみると、六畳一間に六人が暮らすという生活ぶりであった。
25  激流(25)
 経済苦のどん底のなかで、田島美恵は、同志から激励を受けた。
 彼女は、自身の宿命を痛感し、信心で立ち上がろうと決意する。
 また、夫の正治も、この経済苦を機に、信心に目覚めていったのである。
 夫婦で、よく学会本部を訪ね、唱題する姿が見られるようになった。
 田島夫妻は、働きに働いた。職業安定所の前で、早朝、「めし屋」を開いた。
 といっても、店舗も屋台もなかった。リヤカーに調理器具や材料を積んで運び、その場で煮炊きし、豚汁を飯の上にかけて手渡すのである。
 信心以外に、頼れるものは何もなかった。自分たちの力で、歯を食いしばって生きるしかないということを、彼らは、いやというほど痛感してきた。
 そのなかで、戸田城聖に指導を受ける機会にも恵まれた。夫妻は戸田の大確信に触れ、宿命転換を誓い、猛然と折伏に走った。
 二人は、未明に家を出て、重いリヤカーを引き、職安の前で店開きをすると、夫の正治は、それから肉体労働に出ていく毎日であった。
 そして、夜は、二人で喜々として学会活動に励むのであった。
 在日韓国人に向けられる、日本社会の冷たい仕打ちにも泣いてきた。しかし、学会の世界は、どこまでも温かかった。
 自分たちのことを親身になって考え、肉親以上の思いやりをもって、温かく励ましてくれる同志の心に、夫妻は、いつも胸を熱くしてきた。
 やがて、正治は、友人と貿易商を営み、そして、独立することになった。
 さらに、金融の仕事も手がけ、見事に困窮を脱していったのである。
 ″この仏法はすごい! 必ず誰でも幸福になれる。祖国の人たちに、なんとしても、信心を教えたい″
 強い確信をいだいた田島夫妻は、一九五九年(昭和三十四年)秋、韓国に帰り、親族や知人に、仏法を語っていった。
 この時には、美恵の母親が入会。その後、正治の実家や、美恵の兄嫁も信心を始めている。
 また、六一年(同三十六年)には、美恵は早稲田支部の婦人部長になる。
 その面接の時、彼女は、会長の山本伸一に、涙ながらに不安を訴えた。
 「私には、力もないし、とても、支部婦人部長の大任は、全うできそうにもありません」
 すると、伸一は力強く言った。
 「大丈夫! 私が守ります。自信をもって頑張りなさい」
26  激流(26)
 会長山本伸一の言葉に、田島美恵は、勇気がわいてくるのを覚えた。
 彼女は、二年後に総支部婦人部長になり、夫の正治は副支部長として活躍するまでになっていた。
 夫妻は、幾度となく、韓国に里帰りし、蔚山、大邱、釜山などで、妙法の種子を、一人、また一人と植えていったのである。
 また、大井純江(李純姫)という、ソウル出身の、日本国籍をもつ四十代半ばの女性がいた。彼女は、戦時中、日本に渡り、終戦とともに祖国に帰ったが、一九四七年(昭和二十二年)に、再び日本で暮らし始めた。
 そして、五九年(同三十四年)に入会し、日々の活動を通して、信仰への確信を深めていった。
 翌年のこと、ソウルの実家にいた妹の李蓮姫から手紙が届いた。
 妹は、更年期障害のためか、体調がおもわしくなく、寝たり起きたりの生活をしていると伝えてきた。
 大井は、十三年ぶりに、帰郷を決意した。
 ″妹を救いたい。祖国の同胞を幸せにしたい″
 その一心で、彼女は韓国に帰った。
 李蓮姫は、久しぶりに故郷に帰ってきた姉が、明るく、はつらつとしている姿に驚いた。さらに、驚いたことは、姉が朝夕、一生懸命に、難しそうなお経を唱えていることであった。
 大井純江は、妹に力強く訴えた。
 「この信心をすれば、生命力がわき、必ず、幸福になっていけるよ。病気だって治すことができる。私は、あなたに幸福になってもらうために来たのよ」
 姉の言葉には、強い確信があふれていた。何よりも、自分を思う、温かい情愛があった。
 李蓮姫は、姉と語り合ううちに、真心に打たれて、信心をする決意を固めたのである。
 彼女は、姉が帰国してしまうと、日本から送られてくる『聖教新聞』や『大白蓮華』を貪り読んで、真面目に信仰に励んでいった。
 いつの間にか、李蓮姫の健康は回復していた。彼女は、姉からの便りで、韓国在住のメンバーの住所を教えてもらうと、家を訪ねては、力の限り励ましていったのである。
 当時、山本伸一が第三代会長に就任し、世界広布のうねりが広がるなか、祖国の縁者に正法を伝えに行く在日韓国人や韓国出身者のメンバーは、さらに増えていった。
 こうして誕生した現地のメンバーによって、韓国内での布教が進められていったのである。
27  激流(27)
 やがて、韓国の主要都市で、座談会や教学の勉強会が開かれるようになっていった。
 まさに、大聖人が仰せの「地涌の義」さながらに、不思議なる使命の人びとが、韓国のあの地、この地に生まれたのである。
 学会本部の海外局でまとめたところによると、一九六三年(昭和三十八年)十月には、韓国のメンバーの広がりは、次のようになっていた。
 ソウルを中心に、京畿道・江原道・忠清北道・忠清南道に百七世帯、大邱とその周辺地域に百六十七世帯、釜山、蔚山とその周辺で五百二十四世帯、光州など全羅南道・全羅北道に百五世帯、済州島に四十五世帯。
 合計すると、九百四十八世帯であり、その後も、大邱などで、会員は急増していると伝えられていた。
 しかし、組織化はほとんどなされず、内得信仰をしている人も多かった。
 メンバーにとっては、日本から送られてくる学会の出版物や日本の会員からの手紙が、唯一の信心の栄養であったといってよい。
 そのなかで、韓国の同志は、求道心を燃やし続けてきた。学会本部には、指導を求め、幹部の派遣を要望するメンバーの手紙が、これまでに何百通も届いていたのである。
 こうしたことから、学会本部では、翌六四年(同三十九年)の一月十五日から二十五日まで、十一日間にわたって、鈴本実をはじめ、在日韓国人の田島正治・美恵夫妻などの幹部の派遣を決定したのである。
 その目的は、韓国メンバーを激励するとともに、民衆レベルでの日韓の友好を深めることにあった。
 日本から幹部が激励に来てくれることを知った韓国の同志は、小躍りするかのように、訪問の日を待ちわびていた。
 各地で総会などの開催も企画され、組織化の準備も進められた。
 ところが、派遣メンバーの鈴本実らが韓国の駐日代表部に申請したビザが、なかなか下りないのである。
 鈴本たちは、駐日代表部に、何度か足を運んだが、毎回、「本国と連絡をとっているところなので、まだ許可は下りていない」という返事であった。
 渡航予定日は、次第に迫ってきた。
 ″何か問題があるのだろうか……″
 派遣メンバーは、日を追うごとに、不安をつのらせていった。
 年が明けて、一月上旬から、韓国の新聞が、突然、学会への批判記事を掲載し始めたのである。
28  激流(28)
 韓国の各紙には、連日、「日本製の『幸福』を量産」とか「創価学会の内部調査に着手」といった見出しが躍り、学会を日本から来た怪しげな宗教であるかのように報じていた。
 戸惑ったのは、韓国のメンバーであった。
 ″私たちは、何も悪いことなどしていないのに、なぜ、こんなことを書かれるのだろう″
 こうした批判が渦巻くなか、派遣メンバーのビザも下りぬまま、韓国への出発予定日である一月十五日は空しく過ぎていった。
 このマスコミの批判と時を同じくして、韓国政府では、日本の文部省に該当する文教部で、学会への対応を協議していた。
 一月十六日付の毎日新聞朝刊は、特派員電として、「韓国が布教に制限」の見出しを掲げ、政府が一月十四日に、″創価学会は韓国とは相いれない″との見解を固めた旨を伝えた。
 記事は、学会が問題とされている事柄を次のように伝えていた。
 第一には「″南無妙法蓮華経″など、日本語で経をとなえ、また開祖、日蓮上人の生まれた日本の方向に当たる東を拝むなど、韓国民の民族感情としては許しがたいもの」がある。
 第二には「日本での実例では第三の政治勢力化しており、韓国内で政治活動を始める場合、どう対処するか」という問題があるというものであった。
 さらに当局は、韓国内の会員数についても、″一万人を突破したらしい″と、推測していた。
 そして、この十六日になって、韓国の駐日代表部から、学会本部あてに、正式に渡航不許可の通知が届いたのである。
 韓国では、この翌日の十七日、文教部が宗教審議会を開き、次のような結論を下したのである。
 「創価学会は、皇国的色彩が濃厚であり、国粋主義的で排他的な集団として断定できるので、宗教団体か、似非宗教団体か、または政治団体かを判断するまでもなく、我が国家民族にとって、現段階では反国家的、反民族的な団体として規定する以外にない。
 これは、民族精神を濁すようになるので、間接的な精神的侵略を免れないと憂慮される観点から、直ちに、全国民が一致団結して、この蔓延を防止する切実な必要がある」
 次いで、十八日朝には、韓国の文教部長官が、「創価学会は反民族的な性格をもつため、韓国では布教を禁止する」との見解を語ったのである。
 事態は急速に、険悪な方向へと動いていた。
29  激流(29)
 学会を「反国家的、反民族的な団体」とする、一月十七日の宗教審議会の結論や文教部長官の発言は、日本の新聞にも報道された。
 こうした記事を目にした在日韓国人のメンバーの驚きは大きかった。
 ″何があったのだろう。一体、どうなってしまうのだろう″
 皆にとっては、まさに、雲をつかむような、不可解な話であった。
 山本伸一は、韓国各紙の学会への激しい批判が始まって以来、現地のメンバーから寄せられた報告と合わせ、冷静に、また鋭く、事態の分析に努めていた。
 ――新聞報道などで、韓国側があげている創価学会の問題点は、大要、次の五点になる。
 一、東方遙拝をさせる=朝の勤行の際、初座において東に向かう。これは日本の位置する方角への礼拝である。
 二、日本語の経文を読む=日本語で「南無妙法蓮華経」と唱え、また同じく日本語読みで読経をする。
 三、天照大神を拝ませる=天照大神の文字の書かれた曼荼羅を本尊として拝んでいる。
 四、軍国主義的である=学会は日本の国粋主義的な傾向が強く、過去の日本軍の侵略性を帯びている。
 五、創価学会は政治団体である=宗教的なワクを超えて、政治的な領域まで深く根差している。ゆえに、「宗教の自由」は憲法で保障されているが、学会は政治的な色彩が強く、その対象から外れるものである。
 一つ一つの内容を見ていくと、いずれも、誤認識がもたらしたものであることは明らかであった。
 韓国の社会では、宗教というのは、寺院や教会に集って、祈りを捧げ、儀式を行うものであるとの考えが定着していた。
 ところが、学会員は自宅で勤行・唱題し、市民の家が宗教活動の場となっている。また、座談会を開けば、戸外にまで人があふれることが珍しくなかった。
 その活気に満ちた姿は、韓国の宗教の常識を覆すものであり、周囲の人びとの目には、奇異なものに映っていたのであろう。
 メンバーは、信心を始めてから、日は浅かったが、病気や貧乏、家庭不和といった悩みを克服した体験をもっていた。
 皆、その体験を感動をもって語っていった。
 しかし、それが周囲の人には「病気が治り、金が儲かると教える怪しい宗教」との印象を与えていったようだ。
30  激流(30)
 真実を知らないということは、不安をかきたてるものだ。そして、不安は恐れへと変わっていく。
 信心をする人たちが、次第に増え続けていくにつれて、韓国の宗教関係者や政府の関係者も慌て出したようだ。また、反日感情の激しい時代でもあった。
 そこに、『聖教新聞』に、韓国への幹部の派遣が発表されたことから、日本の宗教による侵略が始まるかのように感じられたのであろう。
 韓国政府には、創価学会を正しく認識するための情報が、ほとんど入っていなかったにちがいない。
 韓国が学会を問題視している事柄の大半は、かつての植民地時代の皇民化政策や軍国主義と結びつけられたものである。
 それは、甚だしい誤解に基づくものであるが、そこに、足かけ三十六年にも及んだ、日本の支配の傷の深さをうかがい知ることができる。
 日本は、神社への参拝を強制し、人間の精神の基盤ともいうべき信仰をも、力ずくで抑え込もうとしたのである。信教の自由を奪うことは、精神の圧殺といってよい。
 それだけに、日本の宗教には、過敏になっていたのであろう。
 さらに、当時、日本のマスコミによる学会批判の一つが、学会は「軍隊調」で危険な団体であるということであった。
 だが、その根拠にしているのは、青年部に「部隊長」や「隊長」という、かつての軍隊と同じ呼称の役職を設けていたことにすぎなかった。
 しかし、学会に張られた「軍隊調」というレッテルは、日本軍によって蹂躙され続けた韓国にとっては、強い嫌悪感をもたらすに十分な効果があったようだ。
 また、一部の評論家などが、学会は政界に人を送り、公明会をつくっているが、それは、政教一致であると、盛んに喧伝していたのである。
 さらに、前年の九月、アメリカの著名な雑誌が、創価学会を特集し、学会は世界征服を狙っていると報じていたことも、影響を与えたのかもしれない。
 韓国側が、何に基づいて学会を判断したかはわからないが、こうした情報をもとにしているなら、学会は危険極まりない宗教であると考えるのも無理からぬことといえよう。
 山本伸一は、分析の末に、今回の韓国の問題は、誤解から生じているものであり、その誤解を取り除いていくならば、本質的には、何も問題はないと確信していた。
31  激流(31)
 山本伸一は、ともかく、韓国政府やマスコミの誤解を解くとともに、在日韓国人のメンバーに事実をありのままに伝え、いたずらに動揺することを防がなくてはならないと思った。
 そこで彼は、『聖教新聞』で、今、韓国で起こっている問題を特集してはどうかと提案したのである。
 それを受けて、早速、一月二十一日付で、「韓国問題をめぐって」と題する特集が組まれた。
 そこでは、これまでの事実経過が明らかにされるとともに、韓国側がいだいている、誤った認識を具体的に指摘し、その一つ一つについて、明確に説明していた。
 ――第一に、勤行の時、初座で東方を向くのは、決して日本を礼拝するのではなく、太陽をはじめとした諸天善神を象徴する「東天」にあいさつを送る意義からである。
 ゆえに、太平洋を隔てたアメリカのメンバーも、日本にではなく、「東」に向かって読経する。
 第二に、日本語で経文を読むという点であるが、たとえば、「南無妙法蓮華経」の題目は、大聖人が「梵漢共時」と仰せのように、語源的には梵語・漢語に由来している。経文も漢語である。
 大聖人は、こうした国際性を、むしろ誇りとされ、国境を超えた、全人類的な宝として残されようとしたのである。
 第三に、天照大神を拝ませるという問題も、誤解であり、学会では、天照大神を信仰の対象とすることはない。
 仏法の目から見るなら、天照大神も、正しい仏法の実践者を守る働きの一つであるにすぎない。
 戦時中、日本が皇民化政策のために礼拝を強要したものとは、根本的に違うのである。
 初代会長牧口常三郎、第二代会長戸田城聖は、戦時中、この天照大神の神札を厳然と拒否している。それゆえに、二人は、軍部政府の弾圧で投獄され、初代会長は獄死したのである。
 第四の軍国主義的であるという批判も同じである。歴史を見れば明らかなように、学会ほど軍国主義と戦ってきた団体はない。
 学会は、軍国主義と正反対の平和と文化の団体であり、全人類、全民衆の幸福のための団体である。
 第五に、学会は政治団体ではなく、純粋な宗教団体である。
 日本においては、民衆を忘れた政治の、腐敗した現状を憂え、慈悲の精神から政治に参加したが、海外ではいっさい政治活動を行う意思はない。
32  激流(32)
 その紙面には、理事長の原山幸一の、次のような談話も掲載されていた。
 「今回、韓国において、創価学会をめぐる論議が種々起こって、一部には政府見解が発表されているようであるが、その根拠となるべき理由が、いろいろと誤解に基づくものが多いことは、まことに残念なことである。
 われわれとしては、一日も早く誤解が解け、正しい理解と認識が行われるよう、心から望んでやまないものである。
 宗教に国境はない。キリスト教にしても、仏教にしても、それぞれ人種・民族の差別を超えて伝播された。なかんずく、仏教においては、インド、中国を経て、百済から日本へ伝えられたのである。
 いま、日蓮大聖人の仏教が、世界平和のために、人種・民族の差別を超えて、広く全民衆に理解され、信仰する人びとが増えることは、真実の宗教たるゆえんでもある。
 日蓮大聖人の仏教は、世界の宗教であり、万人が納得できる生命哲学をもち、幸福への指導原理を示す宗教である。
 われわれは、韓国の民衆が真の仏教を理解し、みずからの手で自国の繁栄を図り、ともどもに幸福生活を確立し、世界平和実現をめざして前進されんことを常に願っているのである」
 次いで、韓国への幹部の派遣の問題について言及している。
 「今回の幹部派遣についても、韓国民との友好を兼ね、現地会員の信仰に誤りや行き過ぎのないよう指導すべく準備したものであるが、この点を十分理解されなかったことは、まことに残念なことである。
 これを機会に、韓国においても、創価学会に対する研究が行われ、正しい理解と認識に基づく評価が、やがて行われるであろうことを信じてやまない。
 韓国民のために、創価学会が、いかに幸福を願い、平和実現を心から望んでいるか、すべての人がよく認識されるよう期待するものである」
 しかし、学会本部としては、韓国への渡航も許可が下りない状況である以上、直接、当事者に会って話し合い、誤解を解くこともできなかった。
 韓国を訪問することになっていたメンバーは、何よりも、それが残念でならなかった。
 一方、韓国では、この一月二十一日の国務会議で、「今後、創価学会に関しては、これを取り締まり、その蔓延を防止する方向で施策を講ずる」との方針が、決議されていたのである。
33  激流(33)
 一月二十三日には、韓国の国務会議で決定した方針を受けて、文教部長官から、逓信部長官、治安局長に、創価学会に関する郵便物の取り締まりに協力するよう、要請が出された。
 つまり、日本から韓国への、学会の出版物の郵送も困難になったのである。
 慶尚北道にある韓国第三の都市・大邱に、染物業を営む、崔正烈という三十代半ばの男性がいた。
 彼は、二年ほど前に信心を始め、大邱のメンバーの中心的な存在として、活動に励んできた。
 崔は、学会への政府の対応を、新聞の報道などで知ると、これを放置してはならないと思った。
 そして、政府に学会を正しく理解してもらいたいとの一心で、学会がいかなる宗教団体かを記した文書を、内務部に送った。
 それから十日ほどした二月初め、彼のもとに、内容証明で一通の封書が届いた。三十一日付で出された内務部長官からの「回答書」であった。
 そこには、次のように記されていた。
 貴下が信奉する創価学会は日本皇国的であり、排他的色彩が濃厚であり、国粋主義的で排他的な集団と断定できるばかりでなく、わが国家と民族の現状においては反国家的、反民族的な団体と規定するという政府方針が明らかにされたことを通告いたします。
 したがいまして、今後、同会の布教のための集会、及び通信連絡、布教宣伝に対し、媒介的な役割を担う出版物の搬入配布はもちろん、取得閲覧も国是に違背する行為であることを考慮され、愛国愛族的な立場で、政府の施策に協力していただくよう望みます。
 文書を読む崔正烈の顔から血の気が引き、体は怒りに震えた。
 ″どうして、こんな結論が導き出されるんだ。学会が何をしたというのだ!
 最初から、学会を危険な団体と決めつけているじゃないか。
 私たちは、韓国の同胞を救おう、平和な社会をつくろうと、必死になって頑張ってきた。それが、なんでいけないのだ!″
 彼は、これからどうすればよいのかを考えながら、題目を唱えた。
 唱題を続けるうちに、彼は″これが仏法で説く三障四魔の働きなんだ。負けるものか″との思いが胸に脈打つのを覚えた。
34  激流(34)
 「回答書」が届いて間もなく、大邱の会員の家に、崔正烈をはじめ、六、七人のメンバーが集まった。
 大邱の中核として活動してきた人たちである。
 崔は、まず、「回答書」を読み上げた。
 皆、沈痛な顔で、それを聞いていた。
 誰もが、このまま信心を続ければ、逮捕・投獄されるかもしれないという、不安に襲われた。
 実際に、これまで、刑事が座談会を見張っていることも、珍しくなかった。
 崔は、自らを鼓舞するように語り始めた。
 「この文書では、学会は、反国家的、反民族的な団体であり、その布教のための会合や連絡、宣伝につながることになる、学会の出版物の搬入、配布も、取得も、国是に反すると明言しています。
 しかし、韓国の憲法では、『宗教の自由』は保障されています。私たちは、法に触れるような悪いことは、何一つしていないではないですか。
 私は、今回の問題は、韓国政府の、学会への誤った認識から生じたものであると思っています。したがって私たちは、本来、何も恐れる必要はない」
 語るにつれて、崔正烈の言葉には、力がこもっていった。
 「これは、御書に照らして考えるならば、信心を妨げようとする三障四魔の働きです。
 つまり、私たちの信仰が試されているのです。
 状況が状況だけに、社会的な配慮は大切ですが、一歩たりとも退くことなく、今こそ、堂々と、仏法と学会の正義を訴え抜いていこうではありませんか。
 もし、私たちが、こんなことに負けて、信心の火を消してしまったらどうなるのか。
 宿命に泣いてきた、わが韓国の同胞を幸福にすることは、永遠にできなくなってしまうではないですか。
 私は立ち上がります。何があっても、信心を貫いていきます。皆さんも、どうか、私とともに立ち上がってください。
 そして、一人たりとも、絶対に退転させまいという決意で、同志を励まし、勇気の光を送っていこうではありませんか」
 皆、信心を始めて、日も浅い人たちであったが、崔の懸命な訴えに、集ったメンバーの瞳は、次第に輝きを増していった。
 さらに、二月八日には、このメンバーを中心に二十人ほどが集い、不屈の決意を固め合った。
 烈風のなかで、大邱の友の信仰の火は、赤々と燃え上がったのである。
35  激流(35)
 一方、ソウルにも、激しい嵐が吹き荒れていた。
 大井純江(李純姫)は、前年のうちに韓国に里帰りし、日本から派遣される幹部の受け入れをしようと、妹の李蓮姫の家に身を寄せていた。
 ところが、新聞各紙の学会批判が始まった一月上旬ごろから、妹の李蓮姫の家に、刑事がやって来ては、家族の行動を監視するようになった。
 そして、何度も取り調べを受けたのである。
 大井には、何もやましいことはなかった。
 それだけに、当局の誤解を解こうと、彼女は懸命に学会の歴史と真実を語り、説明に努めた。
 ″ここで負けてしまったら、ソウルに萌え出た妙法の若芽が断ち切られてしまうことになる……″
 彼女は必死だった。
 事態は、日一日と厳しさを増していった。
 そのなかで大井は、「魔競はずは正法と知るべからず」との御聖訓の通りであることを実感していた。
 ″みんなにも、何があっても負けないように、訴えなければ……″
 嵐の渦中、市内の中華料理店にソウルのメンバーが集った。監視の目が光っており、個人の家に集うことは危険であったからだ。
 皆、不安に曇った顔であった。
 大井が口を開いた。
 「御書に『法華経を信ずる人は冬のごとし』とあります。今がそうです。
 でも、さらに『冬は必ず春となる』と仰せです。信心を貫く限り、必ず春は来る。希望の季節は来ます。
 どうか、皆さん、互いに助け合い、団結して進んでください。頼みます!」
 彼女は、祈るような思いで訴えていった。
 うなずく同志の目には、涙が光っていた。
 嵐は、ようやく芽吹き始めた、韓国の友の妙法の種子を、押し流さんとしていた。しかし、皆、大地にしがみつくかのように、必死になって信仰の根を張ろうとしていったのである。
 大邱では、内務部長官の「回答書」を受け取った崔正烈が、この状況を打破する方法はないものかと、真剣に思索を重ねていた。
 彼が腑に落ちなかったのは、「大韓民国憲法」には、基本的人権として、国民が「宗教の自由」を有することが明記されていることであった。
 ″学会の出版物の搬入、配布も、取得、閲覧も、国是に違背する行為だとすることは、この基本的人権を侵すことではないか!″
36  激流(36)
 崔正烈は、大邱の主だったメンバーに、熟慮した末の自分の考えを伝えた。
 「内務部の『回答書』は、政府の施策への協力を要請するというかたちをとってはいるが、学会の布教活動を禁じようという狙いがあることは明白だ。
 黙っていれば、憲法に保障された『宗教の自由』の原則が崩され、国民の基本的人権が奪われてしまうことになる。
 『回答書』は、学会の活動を禁止する行政処分なのだから、その取り消しを要求しようと思う」
 二月下旬、崔正烈は内務部長官にあてて、一月三十一日付の『回答書』は、違法な行政処分であるとし、取り消しを求める訴願状を送付した。
 ところが、三月初め、内務部長官は崔の訴願状を却下するとの決定を下した。
 そこで崔は、内務部長官を相手取り、行政処分の取消請求訴訟をソウル高等法院に起こすことにした。
 いつしか、四月に入っていた。
 崔は、有形無形の圧迫のもとで、家業の染物業が立ち行かなくなるという苦境を味わっていたが、信仰の炎を燃やし続けた。
 その彼を、義弟をはじめ、同志が懸命に支えた。
 崔が提起した訴訟の判決は、翌六五年の二月、ソウル高等法院で下された。
 被告の内務部長官は、次のように主張してきた。
 ″「回答書」は政府の方針を説明し、協力を要望したものであり、行政権を発動したものではない。
 また、郵便物の押収などの事実があったとしても、これは、国防上、治安上、危害を及ぼすおそれがあると認定された、郵便物の発送の停止や押収をうたった、臨時郵便取締法に基づくものであり、行政処分ではない″
 だが、結果は、原告の崔正烈の勝訴であった。
 判決の主文は、「被告が原告に対し、一九六四年一月三十一日に行った、創価学会の布教のため、集会及び通信連絡と刊行物の搬入、配布、取得、閲覧を禁ずるとの処分は、これを取り消す」となっていた。
 しかし、この判決を不服として、内務部側は大法院に上告したのである。
 それから半年が過ぎたころであった。
 当時、崔正烈はソウル近郊の農場で働いていたが、突然、刑事に逮捕され、ソウルの西大門拘置所に拘束されたのである。
 容疑は、外国為替管理法違反であった。
 学会が金銭的な面で、外為法に抵触しているのではないかという嫌疑をかけられたのである。
37  激流(37)
 学会本部では、韓国のメンバーの活動のために、資金を援助しているわけでもないし、韓国から供養を募り、日本に運び込んだこともない。
 つまり、学会本部との間で、金銭的なやり取りは、いっさいなかった。したがって、外国為替管理法に違反するはずがなかった。
 崔正烈は、この取り調べのなかで、担当官から学会の批判を聞かされ、学会をやめれば釈放すると、脱会を勧められたのである。
 だが、彼は、激流にそそり立つ巌のように、厳として、いささかも揺らぐことはなかった。
 崔は二十九日後、結局、起訴されることなく、釈放されたのである。
 他の同志も、こうした信仰ゆえの迫害を、さまざまなかたちで味わった。
 メンバーを見る社会の目は、一段と冷たくなっていった。
 多くの会員が、周囲の人から、「なぜ、日本の宗教を信仰するのか!」と詰問され、非難されもした。
 関わりを恐れて、付き合いを断たれた人もいた。また、職場を追われた同志もいた。
 大邱以外の地域でも、メンバーは厳しい試練にさらされていた。
 座談会には、刑事の監視がついた。刑事から調査のためだと言われて、御本尊や学会書籍を押収された人もいた。
 しかし、メンバーは、″いよいよ本当の信心を奮い起こすんだ″と、学会と仏法の正義を叫び、必死に、嵐に耐えた。
 皆、懸命に唱題に励んだ。韓国の同志の″信心の火″は、激しい嵐にも、決して消えることはなかった。
 そのなかで、功徳の体験も次々と生まれ、ますます皆が、仏法に確信をもつようになっていった。
 その姿を見て、信心をする人たちが、増え続けていったのである。
 大法院の判決は、翌一九六六年の十月に下りた。
 ソウル高等法院での判決は破棄された。
 大法院は、崔正烈の訴えについて、内務部の「回答書」は法律上、「観念の通知」といわれるものにすぎないのに、公権力の行使である行政処分と誤解したことによるものであるとしたのだ。
 そして、そもそも取り消しの対象にならないと、却下したのである。
 つまり、「回答書」は、政府の、日蓮正宗、または創価学会に対する認識を知らせるためだけの内容にすぎず、信教に対する行政処分としての性格のものではないというのである。
38  激流(38)
 大法院の判決に、メンバーは釈然としないものを感じた。
 理由はどうあれ、韓国では、現実に同志が逮捕されたり、御本尊や学会の書籍を持っていかれた人も少なくなかったからである。
 そうした苦しみや恐怖と、学会を「反国家的、反民族的な団体」と断じた、あの「回答書」とを、切り離して考えることなど、できようはずがなかった。
 メンバーには、現実を直視せず、形式的な法論理に逃げ込んだ、それこそ観念的な判決であると思えた。
 だが、この判決によって、憲法上、信教の自由は保障されているとの確認がなされたことは大きな意味をもっていた。
 考えようによっては、それは、暗夜に差した一条の光明ともいえた。
 とはいえ、「反国家的、反民族的な団体」という創価学会への認識に変わりはなかったし、学会の宗教活動は、「国是に違背する行為である」とする方針も変わらなかった。
 また、韓国のメンバーの宗教活動は可能でも、学会本部から幹部を派遣し、メンバーの激励にあたることは困難であった。
 そのなかで、韓国の同志は、皆で力を合わせ、自分たちの手で、信心の松明を守っていくしかなかった。
 まだ「冬」の季節は続いていたのだ。
 メンバーは、以前に入手していた学会の出版物を、皆で貪るように読み、信心を学んでいった。
 そこに書かれた、十界論や依正不二、一念三千などの法理を通して、人間革命や宿命転換の原理を知り、仏法への確信を、深めていったのである。
 また、会長山本伸一の指導を読むなかで、日蓮仏法が全人類の幸福のため、世界平和のための宗教であることを学び取っていった。
 そして、それぞれが、韓国の人びとの幸福のために頑張り抜こうとの、決意を固めた。
 何をもってしても、人間の強き一念をさえぎることなどできない。
 祖国愛に燃える勇者たちには、諦めも、挫折もなかった。
 「根深き木は日照りを寄せつけぬ」という。
 同胞を幸福にしたいという、メンバーの熱き思いは、逆境をもはねのけ、着実に、同信の友の輪を広げていったのである。
 なんと一九六九年には、メンバーは三万世帯へと大発展し、功徳と喜びの花が各地に開いていった。
 そして、自主的に支部や地区などの組織もつくられ、意気盛んに活動が進められていたのである。
39  激流(39)
 強き一念は、宇宙をも動かす。ゆえに、どんなに困難な社会の状況であったとしても、それが変わらぬわけがない。
 韓国のメンバーは、社会的にも胸を張り、名実ともに、自由に活動できる日が来ることを信じて、一人ひとりが模範の市民をめざしつつ、着実に信心に励んできた。
 そうしたなか、一九七〇年代の半ばごろになると、韓国政府は、違法行為がない限り、学会の活動を静観するという、方針をとるようになっていった。
 布教は国是に違背するとの見解を前面に打ち出していた時代と比べると、かなりの変化といってよい。
 その間も、韓国のメンバーは増えていたが、組織として全体がまとまることはなかった。
 韓国の組織は、各地域で自然発生的に拡大していったために、折伏を受けた人間関係で組織がつくられ、活動も、それぞれ独自に進められていた。
 協議を重ね、責任者、副責任者を定めたこともあったが、皆が団結するには至らなかったのである。
 学会本部の基本方針をふまえて、組織を運営していこうと決議しても、自分勝手な行動をする幹部もいた。結局、結束は図れず、いくつかのグループに分かれたままであった。
 一人ひとりの同志は、純粋であり、求道の心も強かった。
 しかし、あるグループでは、幹部の野心によって、こうしたメンバーの純粋な信心を利用する動きが現れ、中心者が自分のために、供養も集めるようになっていた。
 後に、このグループの幹部は、学会から離反していくことになる。
 一九七三、四年ごろには、韓国には、大別して、三つのグループがあるという状況であったのである。
 一九七五年の一月二十六日、グアムに、世界五十一カ国・地域の代表が集い、SGI(創価学会インタナショナル)が発足した。
 人類の幸福と平和の実現のために、世界広宣流布の新たなスタートが切られたのである。
 ところが、韓国の幹部は、心を一つに合わせることができず、その新出発の儀式に、代表を出せる状態ではなかったのである。
 一部の幹部が、我流の信心に陥って、「自分中心」になってしまった結果であった。
 そこに、確固たる指導原理が、法を中心とした厳正なる広宣流布の師の存在が不可欠なゆえんがある。
40  激流(40)
 山本伸一は、SGI(創価学会インタナショナル)の発足に、韓国の代表が参加できなかったことが、残念でならなかった。
 また、長い試練に耐え抜いてきた、韓国の第一線の同志のことを思うと、かわいそうでならなかった。
 彼は、韓国のメンバーが仲良く団結し、尊い使命ある仏弟子として、互いに尊敬し合い、前進していくために、この時、韓国の同志の激励と相談の窓口を設けることにした。
 そして、当時、理事長であった十条潔、また、副会長であった泉田弘らが、その担当者となった。
 翌一九七六年五月、韓国のメンバーは、何度かの話し合いの末に、ソウルで全国代表者会議を開き、″仏教会″を発足させた。
 席上、九人の運営委員が決まり、そのなかから三人が議長団に選出された。
 ″三人議長制″というかたちではあったが、ようやく、全韓国を統合する組織が誕生したのである。
 しかし、その後も、韓国の同志は、さまざまな風雪にさらされた。正法に違背し、分派していく者もあった。宗門の破戒僧や日本の反逆者が、組織撹乱に暗躍したこともあった。
 だが、そのたびに、むしろ、信仰の純度は高まっていった。組織を利用して私利私欲を貪ろうとする者や、わがままな幹部は、淘汰されていったのである。
 そして、祖国の平和と繁栄を築く「同心」の大河ともいうべき、今日のSGI韓国仏教会へと発展していくのである。
 だが、韓国社会の創価学会への認識は、このころも依然として厳しかった。
 たとえば、韓国の新聞の記事には、学会について、日本色が強く、国粋主義的性格を色濃くもった宗教であるとし、韓国の民族精神を蝕む危険が大きい、といった批判的な論調が、しばしば掲載されていた。
 しかし、日蓮仏法は本来、日本という一国家の枠を突き抜けた、全人類のための宗教である。
 「一切衆生・皆成仏道の教」と、大聖人が仰せのように、全人類を一人残らず救いゆくための妙法である。
 また、大聖人が、当時の日本の最高権力者たちを「わづかの小島のぬしら主等」と言われていることを見ても、大聖人の仏法は、日本の″国粋主義的性格″をもつものでは断じてない。
 さらに、仏法では「随方毘尼」を説き、仏教の本義に違わないかぎり、その国や民族、地域の、文化、精神、習慣などを尊重していくべきことを教えている。
41  激流(41)
 御書には「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」と仰せである。
 つまり、社会を大事にして、社会のために貢献し、活躍していくことが仏法であり、その人が「智者」であるというのである。
 韓国の同志は、この日蓮仏法の、また、創価学会の「真実」と「正義」を、なんとしても証明していかなければならないと思った。
 誤解が誤解のままであれば、「真実」は葬り去られてしまう。誤解を放置しておくことは、「正義」の死を意味する。
 ″私たちが実際に何をなし、どれだけ社会に貢献できるかだ。その行動のなかに、学会の正しさを証明する道がある″
 こう考えたメンバーは、各地域で、自主的に、社会貢献の歩みを開始していったのである。
 一九七〇年代から、韓国では「セマウル(新しい村)運動」という農村の近代化政策が推進された。
 それは、国民の生活の向上をめざすものであり、この運動は、後に、市民意識の開発、街の清掃、緑化などを掲げ、都市部にも広がっていった。
 メンバーは、その社会奉仕の諸活動に勇んで参画し、田植えや刈り入れを手伝う「農村助け合い運動」や、自然保護運動に取り組んでいった。
 さらに、一九九〇年代に入ると、メンバーは、大規模な「国土大清掃運動」を展開していったのである。
 このほか、教育や福祉にも光をあて、学校への「良書贈呈運動」や、社会的に恵まれない人びとへの奉仕活動も進められた。
 仏法の人間主義に基づく韓国の″仏教会″のこうした地道な努力は、着実に信頼の輪を韓国社会に広げていった。
 一九七九年の十二月には、食糧増産と農作物災害克服への尽力が高く評価され、メンバーは農水産部長官から表彰された。
 それは、韓国社会からの最初の顕彰であった。
 八四年一月には、「農村助け合い運動」による、農漁村所得の増大への貢献に対して、当時の全斗煥大統領から、表彰状が贈られたのである。
 また、九六年六月には、環境保全への献身的な努力が称えられ、環境部長官から表彰を受けた。さらに、各地の行政機関等からの顕彰も相次いでいる。
 まさに、″仏教会″が、韓国社会になくてはならぬ″希望の存在″となった証左といってよい。メンバーの粘り強い努力が、厚い誤解の壁を打ち破っていったのである。
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 一方、山本伸一も、韓国の敬愛する同志の、幸福と活躍を念じ、「功徳の雨よ降れ!」と、日々、題目を送り続けてきた。
 また、韓国の同志が日本にやって来ると聞けば、真っ先に会い、一人ひとり、抱きかかえる思いで、全魂を込めて激励した。
 さらに、日本と韓国の間に、信義と友情の、永遠の「宝の橋」を架けようと、文化・教育の交流に、力を注いでいったのである。
 そうした努力が実り、一九九〇年秋、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」が、ソウルで開催されることになった。
 そのオープニングの式典に出席するため、彼は東京富士美術館の創立者として、この時、初めて、念願の韓国を訪問した。
 そして、一九九八年五月、伸一は、再び韓国の大地に立ったのである。
 創価大学の創立者として、名門・慶煕大学から招かれ、「名誉哲学博士号」を贈られたのである。
 伸一の「世界平和への献身的努力」と、「韓国の文化と歴史への深い洞察を通し、韓日の友好に大きく寄与した」ことを称えての授与であった。
 この韓国訪問中の五月十八日、伸一は、ソウルにある、SGI韓国仏教会本部を初訪問したのである。
 初夏の風がさわやかであった。
 同志は、待っていた。一九六四年に、あの試練の嵐が吹き荒れて以来三十四年、メンバーは、この日が来ることを夢に見、祈り、待ちわびてきたのである。
 それは、伸一も同じであった。
 彼は、韓国の″信心の大英雄″たちに、万感の思いを込めて呼びかけた。
 「皆様方がおられれば、いっさいを勝利に導いていけるということが、厳然と証明されました。皆様は勝ちました!」
 喜びの大拍手が舞った。
 「社会に奉仕し、人間性を広げていく。二十一世紀の仏法ルネサンスは、韓国から始まっています。私は嬉しい。全世界が皆様を賛嘆しています!」
 一言一言に、全生命を注ぐ思いで、伸一は語った。
 「どうか、『楽しき人生』を! 『偉大な人生』を! 『勝利の人生』を!」
 誰もが泣いていた。誰もが大歓喜に包まれていた。そして、誰もが新たな旅立ちの誓いに燃えていた。
 嵐を越えた樹木には、みずみずしい鮮やかな緑の栄冠が輝く。艱難を乗り越えた韓国の同志の胸中には、二十一世紀を照らしゆく、黄金の太陽が輝いていた。

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