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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「清流」 清流

小説「新・人間革命」

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1  清流(1)
 言論は、人間の人間たる証である。
 暴力、武力に抗して、平和を築きゆく力こそ言論である。
 広宣流布とは、言論によって、精神の勝利を打ち立て、民衆の幸福と永遠の平和を建設する、新しきヒューマニズム運動といえる。
 一九六三年(昭和三十八年)七月二十八日、山本伸一は、東京・神田の共立講堂で行われた、言論部の第一回全国大会に出席した。
 この言論部は、二年前の六一年(同三十六年)五月三日、文化局の誕生とともに新設された部で、部長には、青年部長でもある秋月英介が就いていた。
 当初は、男女青年部の代表によって構成される言論部第一部と、文筆の専門家による言論部第二部を置くことでスタートを切った。
 その後、婦人部の要請もあり、″女性の声″を社会建設の大きな力にしていこうとの趣旨から、婦人部のメンバーで構成される言論部第三部が誕生した。
 さらに、言論部第二部は、壮年の言論部となり、文筆の専門家も、それぞれ各部の言論部に所属することになった。
 また、首都圏だけでなく、全国の各方面にも順次、言論部が設置され、本格的な活動が展開されていったのである。
 六二年(同三十七年)の十一月には、言論部の機関誌として月刊雑誌『言論』が創刊された。
 これは言論部員の意見の発表の場として発刊されたもので、時事問題への論評もあれば、マスコミの学会への批判に対する鋭い反論もあった。
 山本伸一は、この第一号に「創刊のことば」を寄稿した。
 そのなかで彼は、「文は武よりも強し」との信念のうえから、東西冷戦も、武力の抗争も、「正義の言論戦」によって方向転換させることが可能であると宣言している。
 さらに、日蓮大聖人が民衆救済の大慈悲をもって著された御書こそ、「民主主義の大原則たる言論戦の火ぶたを切られた証左である」と強調。
 「今こそ広宣流布のため、民衆救済のため、勇ましく正義の言論の剣をとって前進しようではないか」と訴えたのである。
 言論の真実の担い手は民衆である。
 しかし、民衆が自ら、ものを考えることをやめ、自身の権利と尊厳を守るための言論を放棄してきたのが、日本の現実といえた。
 伸一は、言論を民衆の手に取り戻すことを、この言論部の使命と考えていた。
2  清流(2)
 言論の力は大きい。それは、人の意識を変え、時代を変える。
 ゆえに、民衆の支配を目論む権力は、言論を意のままに操り、言論の暴力をもって、改革者を社会的に抹殺してきた。
 マスコミを使って、デマを流し、″極悪人″や″異常者″″狂気″のレッテルを張り、改革者への嫌悪と恐れをいだかせるというのが、彼らの常套手段といってよい。
 民衆の「喝采の時代」を開かんとする創価学会もまた、この言論の暴力に晒され続けてきた。
 それを打ち砕く、正義の言論を起こさずしては、真実は歪められ、踏みにじられていく。そうなれば、民衆の永遠の勝利はない。
 山本伸一が言論部の育成に力を注いできたのも、まさに、それゆえであった。
 彼は、言論の勝利というと思い出す、アメリカの独立に関する話があった。
 ――一七七六年の一月、アメリカのフィラデルフィアの町で、『コモン・センス(常識)』というパンフレットが出版された。
 イギリスの植民地であったアメリカが、有名なレキシントンとコンコードの戦いで、独立戦争の最初の砲声を轟かせて、九カ月後のことである。
 このわずか四十七ページの小冊子が、アメリカを独立へと鼓舞する、大きな力となっていったのである。
 当時、イギリスの統治下にあって、公然と独立を口にすることは、官憲の厳しい追及を覚悟しなければならなかった。
 しかも、アメリカ住民の世論も、独立派はまだ三分の一にすぎず、三分の一が国王派、三分の一が中立派である。
 多くの人びとは、アメリカの自治を獲得しただけで満足し、独立には懐疑的であったり、時流を傍観するという態度であった。
 そのなかで、この小冊子が叫びをあげ、アメリカの独立は、もはや″常識″の帰結であると訴える。
 「大陸が永久に島によって統治されるというのは、いささかばかげている」
 「おお! 人類を愛する諸君! 暴政ばかりか暴君に対しても決然と反抗する諸君、決起せよ!」
 「公然の断固とした独立宣言以外には、現在の事態を速やかに解決できる道はないのだ」
 決して難解な言葉ではなかった。誰にでもわかる、平易な言葉で、明快に、ほとばしる情熱をもって、独立の必要性を説いたのである。
 小冊子の著者は匿名で、「一イギリス人」とだけ印刷されていた。
3  清流(3)
 やがて判明した、『コモン・センス(常識)』の著者は、トマス・ペインという三十九歳の編集者であった。
 二年前、イギリスからアメリカに渡って来たばかりの、社会的には全く無名の人物である。
 だが、この小冊子は、たった三カ月の間に十二万部も売れ、大反響を呼ぶことになる。
 まだ、人口が二百五十万ほどの独立前のアメリカである。十二万部は驚異的な数字といってよい。しかも最終的には、五十万部に達したといわれる。
 『コモン・センス』を手にした人びとは、心を射貫かれ、独立にアメリカの未来の旭日を見た。
 人びとの頭のなかで、旧来の″常識″は音を立てて崩れ去り、新しい″常識″が打ち立てられていったのである。
 イギリスのある新聞は、その反響を、こう報じたという。
 「読者が増えれば増えるほど、考えを変える者が多くなっている」
 後に初代大統領になったワシントンは、この小冊子の「正当な主張と反駁の余地のない論理」を評価し、早晩、「独立の妥当性に軍配を上げかねて途方にくれる者はいなくなるでありましょう」と述べている。
 農民や貧しい都市住民たちも、競って『コモン・センス』を買い求め、続々と独立派に加わっていった。
 次のような感想を記した市民もいた。
 「数週間前まで、独立を取り巻く途方もない障害に身震いしていた民衆の心情」は、一気に「あらゆる障壁を飛び越えてしまった」と。
 この小冊子が、アメリカの民衆の胸に、″独立は必ずできる″という確信を与え、立ち上がる勇気を呼び覚ましたのだ。
 決起した民衆の力は大きい。もう何ものも、その潮流を止めることはできなかった。アメリカ独立宣言が採択されたのは、この一七七六年の七月四日のことであった。
 独立は、時の趨勢であったのかもしれない。
 だが、無名の一市民が書いたこの小冊子が、絶大な援軍となったことは間違いない。
 「注目すべきは主張そのものであって、筆者ではない」との、ペインの言葉の通り、言論の力が歴史を動かしていったのだ。
 権力の横暴や社会の矛盾に対し、民衆が正義の声をあげる。そこにこそ、民主の基礎がある。
 「真実」をもって「悪」のまやかしを打ち破るところから、未来は開かれる。
4  清流(4)
 言うべきことを、断固として言い切る。正しいことを「正しい」と言い切る。間違っていることを「間違っている」と言い切る。
 そこに、本来の仏法者の生き方がある。
 たとえば、初期の仏教で説かれた「八正道」(悟りに至る八つの正しい道)には、「正語」(正しい言葉)があげられている。
 「正語」とは、「妄言・両舌・麁言・猗語を離る」(中阿含経)ことである。
 「妄言」は嘘や偽り。「両舌」は陰口、二枚舌。「麁言」は粗悪な言葉や悪口。「猗語」は粉飾のみで真実のない言葉をさす。
 これらを離れよ、真実を語れ――それが釈尊の教えであった。
 王舎城(ラージャガハ)で弘教を開始した釈尊のもとには、次々と立派な弟子たちが帰依していった。
 それを妬み、また恐れをいだいた町の人びとから、釈尊への非難の嵐が巻き起こった。
 弟子たちは不安にかられた。だが、釈尊は顔色一つ変えることなく、非難には、こう反駁するように教えたのである。
 「仏は正しい法をもって誘っている。それを妬む者は誰なのか」と。
 師の言葉に、弟子たちも、決然と立ち上がった。
 町のどこかで、批判めいた言葉を聞くと、彼らは、堂々と、この道理を語った。釈尊の正義を語りに語って、相手を納得させた。折伏である。
 いつしか中傷は雲散霧消していったのである。
 また、提婆達多(デーヴァダッタ)が、釈尊の教団の乗っ取りを画策し、悪の本性が明らかになった時、釈尊は直ちに、舎利弗(サーリプッタ)らに命じた。
 「王舎城において、提婆達多の本性を、ありのままに暴露せよ!」
 このエピソードにも明らかなように、釈尊は、悪と徹して戦った。弾丸のような言論で、正邪を言い切っていったのである。
 日蓮大聖人の御生涯もまた、火を噴くような言論戦の連続であられた。
 三十二歳にして立教の叫びを放たれ、諸宗の誤りをただ一人、正し抜かれていった。
 社会的な高い地位も身分も何一つない。
 しかし、幕府の最高権力者も恐れなかった。日本中が敵に回ることも、大難も、覚悟のうえであった。
 ただ苦悩にあえぐ民衆に幸福をもたらし、社会の繁栄と平和を築かんがための大師子吼である。
 それゆえに、迫害に次ぐ迫害の人生であった。
5  清流(5)
 大聖人は、事実上の国主である北条時頼を諫め、宗教界の権力者・極楽寺良観の邪悪を責められた。
 大聖人の戦いは、電光石火の行動であり、言論戦であられた。敵に対しては、もちろんのこと、弟子から報告があれば、常に素早く反応された。
 特に、弟子が苦境に陥っていたり、なんらかの事件が起きた際の、大聖人の打つ手の迅速さ、的確さ、そして、細やかさは目を見張るものがある。
 建治三年(一二七七年)の六月、四条金吾が主君の不興を買い、法華経を捨てるとの誓約書を書けと迫られる事件が起きた。
 それは、四条金吾が竜象房の説法の場に徒党を組んで乱入したという、全くのデッチ上げに端を発したものであった。
 大聖人は、主君あてに金吾の弁明書を代筆される。乱入事件なるものは「跡形も無き虚言なり」と喝破され、堂々と金吾の正義を証明された。「頼基陳状」である。
 大聖人は、金吾が急使に託した書状をご覧になり、事件の真相をつかむと、直ちに、筆を執られたようである。
 黙っていれば、嘘の闇が広がる。その邪悪を破る光こそ、正義の言論である。
 人が苦悩の悲鳴をあげている時、ただ傍観しているのは無慈悲である。邪悪の黒雲が、真実の空を覆わんとしている時、正義の声をあげないのは臆病である。
 弘安二年(一二七九年)の十月、あの熱原法難の渦中でも、大聖人は「聖人御難事」「伯耆殿等御返事」「滝泉寺申状」「聖人等御返事」など、矢継ぎ早に文書を送られた。
 そのなかには、法難に遭っている農民信徒への激励もあれば、弟子のための訴状の代筆もある。
 また、日興上人らに裁判上の指示を子細に与えられるなど、激しく推移する事態を的確に掌握され、次々に手を打たれている。
 常に正確な情報をつかんで、敏速に応戦していく。敵との攻防戦においては、このスピードこそが死命を制することになるからだ。
 また、力ある言論とは、「悪の本質を切る」ものでなくてはならない。
 大聖人は、当時、幕府の権力者をはじめ、人びとから「生き仏」と崇められていた極楽寺良観に対して、その本質は、三類の強敵の第三「僣聖増上慢」であると断ぜられた。
 つまり聖人のように振る舞いながら、その実、利欲を貪り、人をたぶらかす、″ニセ聖人″であると破折されたのだ。このために大聖人を憎んだ良観は、権力者に讒言し、亡きものにしようと暗躍したのである。
6  清流(6)
 文永十二年(一二七五年)の三月、良観の極楽寺から出火し、堂舎がことごとく焼亡した。
 また、良観が手厚い庇護を受けていた、幕府の御所でも火災が起こった。
 経文に照らせば、これらの災害の根本原因は、良観らの謗法の教えにあることは明らかである。
 火災の詳細を聞かれた大聖人は、極楽寺と御所の炎上から、″良観房″を″両火房″と揶揄され、「極楽寺焼て地獄寺となりぬ」と痛烈に破折されている。
 さらに、その火は、現世の国を焼き、やがて日本中の人びとが地獄の炎に焼かれる先兆であると、このような悪侶を用いる人びとに警鐘を鳴らされている。
 ″両火房″のただ一言をもって、この良観の本質、″ニセ聖人″の本質を撃たれたのである。
 それは、単なる悪口や罵倒では決してない。経文を拠り所とし、明快な論理に裏付けられた、容赦のない呵責の弾丸であった。
 悪を切らなければ、善が失われてしまう。真実を叫ばなければ、虚偽が蔓延してしまう。正法が隠没し、邪法が支配すれば、不幸になるのは民衆だ。
 大聖人の仮借なき舌鋒、言葉の弾丸の数々は、まさに「正法を惜む心の強盛なる」ゆえであったといえる。
 言論によって人間の勝利を打ち立てるのは、決して容易な道程ではない。大聖人の御生涯がそうであったように、ありとあらゆる迫害が広布の途上にはあるだろう。
 しかし、それでも「いまだこりず候」と、正義の言論の矢を放ち続けることである。その不屈なる魂の叫びが、人びとの心を揺り動かすのである。
 真の言論人とは、不屈の信念の人の異名でなければならない。
 それが山本伸一の、言論部への期待であり、願いであった。
 言論部の第一回全国大会の会場となった、東京・神田の共立講堂は、全国から集った″言論の闘士″の熱気にわき返っていた。
 大会では、副理事長の森川一正から、これまで男女青年部によって言論部の第一部が構成されていたが、女子部が言論部の第四部としてスタートすることが発表された。
 これによって言論部は、四部体制となった。
 さらに、言論活動の報告や、「現代ジャーナリスト批判」「ゆがめられたマスコミ」と題した、言論界の腐敗を鋭く糾弾する主張の発表もあった。
7  清流(7)
 幹部指導に続いて、会長山本伸一の講演となった。
 彼は言論部のこの二年間の活動に敬意を表したあと、広宣流布における言論活動の意義について言及していった。
 「言論による時代の建設こそ、民主主義の根本原理であります。私どもが進める広宣流布は、正義の言論を武器とし、民衆を守り、民衆が主役となる人間の勝利の時代を築く運動であります」
 そして、彼は、「言論の自由」を永遠に守り続けていかなければならないと語るとともに、「言論の自由」を盾に、無責任で勝手気ままな言論や、真実を歪め、人をたぶらかす、邪悪な言論が横行していることを指摘していった。
 「言論の自由」とは「嘘やデマを流す自由」ではない。
 伸一は訴えた。
 「悪質な意図をもって、民衆を扇動するような、一部の評論家やジャーナリスト、あるいは指導者によって、日本が左右されてしまえば、いったいどうなるか。
 そうした邪悪な言論と戦い、その嘘を暴き、人間の″幸福″と″平和真実″のための新しい世論をつくりあげていくことこそ、言論部の使命であります。
 私は、一握りの評論家やジャーナリスト、あるいは一部の″偉い人″だけが、言論の自由を謳歌するような時代は、もはや去ったと叫びたい。
 また、本来、言論の自由とは、そういう特権階級のためのものではないはずであります。
 私どもは、善良なる世論を結集し、燃え上がる民衆の言論戦をもって、新しき時代の幕を開いていこうではありませんか!」
 民衆が、堂々と真実を語り、正義を叫ぶことこそ、「言論の自由」の画竜点睛である。
 「一」の暴言、中傷を聞いたならば、「十」の正論を語り抜く。その言論の戦いのなかにこそ、「声仏事を為す」という精神も、生き生きと脈打つのである。
 伸一は、最後に、どこまでも民衆の味方として、人びとの心を揺り動かす情熱と理念、緻密な論理とを備えた大言論戦の勇者たれと呼びかけ、講演としたのである。
 創価学会の強さは、民衆を組織したことにあると見る識者は多い。しかし、組織したから、学会の強さがつくられたわけではない。
 その組織のなかで、民衆が自立し、自らの主張を堂々と展開する、社会建設の主役になっていったからこそ、いかなる権力にも屈しない、強靱な民衆の力の連帯が形成されたのである。
8  清流(8)
 七月三十日、山本伸一は長野市を訪問した。長野市民会館で行われた、中部第二本部の幹部会に出席するためであった。
 当時の学会の組織では、中部第二本部には、甲信・北陸地方の各支部が所属していた。
 この幹部会の開催が決まると、中部第二本部のメンバーは、弘教の大波を起こし、勝利の喜びのなかで山本会長を迎えようと、懸命に折伏に励んだ。
 そして、七月度の布教では、中部第二本部は大躍進を遂げ、特に幹部会の開催地となった甲信総支部は、東京や関西などの強豪といわれる総支部を抑え、堂々、弘教第一位の栄冠に輝いたのである。
 この日は、盆地である長野の盛夏の特徴か、気温は朝から急上昇し、午後二時半の開会前には、場内の温度は摂氏三七度という暑さであった。
 金沢や富山のメンバーのなかには、前夜、バスで地元を発ち、朝の六時に長野に到着した人たちも多くいた。
 伸一は、皆が疲れきっているのではないかと、心配でならなかった。
 しかし、参加者は意気軒昂であった。
 会場を揺るがすような元気な拍手に、伸一は皆の胸に、広宣流布に生きる歓喜の炎が、赤々と燃えていることを感じた。
 広布の行動あるところには喜びがあり、そこには功徳の光彩がある。
 伸一は、この日の幹部会で、こう語りかけた。
 「皆さんの元気いっぱいのお姿を拝見し、これほどの喜びはございません。
 元気なお姿でありますゆえに、皆さんは、一人残らず大功徳を受けていらっしゃると信じてよろしいでしょうか」
 拍手が起こった。
 伸一は、会場の人びとに尋ねた。
 「ちなみに、信心をして功徳を受けたという方は、どれくらいいらっしゃいますか。手をあげてみてください」
 「はい!」という声とともに一斉に手があがった。
 「はい、結構です。手を下ろしてください。これならば、もう私の話は終わらせてもいいんです。皆さんが功徳を受けることが、信心の目的ですから」
 場内は、明るい笑いに包まれた。
 自分が功徳を受けるための信仰である。また、そのための仏道修行であり、学会活動である。
 そして、皆に功徳を受けさせるための組織であり、幹部である。
 この目的を見失う時、組織はみずみずしい活力を失い、停滞し、活動は空転を始める。
9  清流(9)
 山本伸一は、次いで、中部第二本部の会館建設を発表した。
 参加者の喜びは、万雷の大拍手となって轟いた。
 さらに彼は、幸福の要諦は自分の心に打ち勝つことであり、何があっても御本尊を信じ抜く、「無疑曰信」(疑いなきを信という)の清流のごとき信心が肝要であることを訴えていった。
 「大聖人の仏法の正しさは、文証、理証、現証のうえから証明されております。
 しかし、ちょっと商売が行き詰まると、すぐに御本尊には力がないと疑いの心をいだく。子供が怪我をしたといっては、御本尊は守ってくれなかったと思う。
 また、一部のマスコミが学会を批判したからといって、学会の指導を疑い、御本尊への確信をなくし、勤行もしなくなってしまう。
 よく、こういう方がおりますが、そうした人に限って、自分自身の生き方や信心を振り返ろうとはしない。それでいて、何かにつけて御本尊を疑い、学会を疑う。それは大功徳を消していくことになります。
 赤ん坊は、何も疑うことなく、お母さんのお乳を飲んで成長していきます。しかし、お乳を飲まなくなれば、成長も遅くなり、病気にもかかりやすい。
 それと同じように、御本尊を信じ、生涯、題目を唱え抜いていくならば、仏の生命を涌現し、生活のうえにも、絶対的幸福境涯の姿を示していけることは間違いないのであります。
 どうか、御本尊を疑うことなく、題目を唱えに唱え、唱えきって、広宣流布の団体である学会とともに走り抜き、この人生を、最高に有意義に、最高に幸福に、荘厳してまいろうではありませんか」
 愛する会員が、一人も残らず、充実した人生のなかに、功徳と福運に包まれゆくことを念じての、渾身の指導であった。
 終わりに、伸一の指揮で、「新世紀の歌」を大合唱して、中部第二本部の幹部会は幕を閉じた。
 伸一は、幹部会が終了すると、会場に入りきれなかった場外のメンバーを激励し、支部幹部の指導会に出席。ここで彼は、わが人生の師・戸田城聖の和歌を認めた色紙を、一人ひとりに手渡していった。
 これは、出発の前日に、深夜までかかって、伸一が揮毫したものであった。
 さらに、支部幹部の指導会のあとは、中部第二本部の会館の建設予定地を視察し、それから正宗寺院で行われた地区部長会に臨み、約三十分にわたって、力の限り指導、激励を重ねた。
10  清流(10)
 夜は、総支部の幹部との打ち合わせがあり、いっさいの行事が終わった時には、山本伸一の体は、首筋も肩も凝り固まり、腰も痛んだ。
 彼は宿舎の旅館に、マッサージ師に来てもらった。目の不自由な初老の男性であった。
 肩を揉みながら、マッサージ師は言った。
 「お若いのに、ひどく凝っていますね。今まで随分たくさんの人を揉んできましたが、こんなに凝っている人は初めてですよ」
 「そうですか。
 マッサージがお上手ですね。よく効きます。それに、大変にお元気ですね」
 「ええ、私は、半年ほど前に創価学会に入り、信心を始めたんです。だから元気なんですよ。
 目の方は、生まれつき見えませんが、信心をしてから、来世は絶対に目が見えると、確信できるようになったんです」
 こう言うと、マッサージ師は伸一に尋ねた。
 「あなたは、創価学会のことを知っていますか」
 「ええ、もちろん、よく知っています。
 さらに信心に励んでいけば、目は見えなくとも、心眼が開けていきますよ」
 伸一は、自分が学会の会長であることを言いそびれてしまった。
 「私は、もう、心眼は開いていると思っています。だって、毎日が楽しくて、楽しくて仕方ないんですからね」
 「そうですか。しっかり信心に励んで、もっと功徳を受けてください」
 「あなたの言うことは、うちの地区部長の言うことと、よく似ていますよ。うちの地区部長は人柄のよい人でしてね……」
 マッサージ師は、学会のことを盛んに語り始めた。
 伸一は言った。
 「信心してよかったという、あなたのお気持ちはよくわかります。しかし、お客のなかには、ゆっくり休みたい方もいるんですから、仕事中に学会や信心の話は、しない方がいいのではないでしょうか」
 「それはそうです。支部長にも、よく注意されるんです。あなたの言うことは支部長にも似ています」
 二十分ほどしたころ、伸一は、ねぎらいの言葉をかけた。
 「若い私のために、お年を召したあなたが、一生懸命に体を揉んでくださる。申し訳ない限りです。お疲れでしょうから、ジュースをご馳走しましょう」
 「私は仕事ですから、いつも、誰に対しても一生懸命ですよ」
 マッサージ師は、伸一が冷蔵庫から持って来たジュースを、うまそうに飲み干した。
11  清流(11)
 山本伸一の体を揉みながら、マッサージ師は、また語り始めた。
 「実は、今日は学会の山本会長が長野に見えて、会合があったんです。
 この前、学会の理事の人が来て、山本会長というのはすごい方だ、日本の、世界のために、なくてはならない人だという話をしていましたので、今日は、ぜひその会合に参加して、会長と会いたいと思っていたんです。
 それで、ずっと祈ってきたんですがね。ところが、今日に限って断れない仕事が次々に入ってしまい、会合に行けなかった。残念で仕方ないんですよ」
 この話を聞くと、伸一はなんだか余計に肩が凝ってしまう気がした。
 「そうでしたか……。
 でも、真剣に祈っていけば、すべて御本尊に通じるという指導を聞きませんでしたか。
 大丈夫ですよ。そういうお気持ちでいるならば、願いは必ず叶いますよ」
 「そう言って、励ましてもらえると嬉しいですね。お若いが、あなたの言葉には思いやりがある。
 なんだか、学会の会長と会っているような気持ちがしてきますよ」
 マッサージ師は、こう言って微笑を浮かべた。
 三、四十分ほど揉んでもらい、ようやく体は楽になった。
 伸一が丁重に礼を述べると、彼は言った。
 「お客さんは、本当によく気を使われる。これじゃあ、肩も凝るはずですよ」
 「そうですね。肩が凝るのはよくない。信心は凝ればいいんですがね」
 二人の朗らかな笑いが響いた。
 このマッサージ師の壮年は、後日、自分が肩を揉んだのが山本会長であったことを知り、祈りの力を実感するのであった。
 学会は、この七月で、堂々、三百六十万世帯を達成していたが、伸一は、いたるところに、尊き使命の地涌の菩薩が誕生し、功徳に浴しながら喜々として信心に励んでいることが嬉しかった。
 広宣流布とは、民衆の心に、希望と幸福の花々を咲かせゆく作業である。
 伸一が長野指導から帰った七月三十一日の夜、東京の台東体育館では、八月度の男子部幹部会が盛大に開催された。
 この席上、新しい男子部の愛唱歌として、「世界広布の歌」が発表されたのである。
 見よ雄渾の気は満ちて
 白雪輝くヒマラヤの嶺
 歴史を刻む黄河の流れ
 理想に燃えて我等征く
 ああ
 世界広布の意気高し
12  清流(12)
 「世界広布の歌」は、スケールの大きな、雄大な心意気を感じさせる歌詞であった。曲もまた、一節ごとに音が高くなり、開けゆく未来を象徴しているかのような響きがあった。
 男子部では、前年十二月の男子部総会で、石川健四郎が男子部長に就任してから、新しい愛唱歌を作ろうとの機運が高まっていた。
 年が明けて、各地のメンバーに呼びかけ、歌詞を募ったが決定打はなかった。
 だが、そのなかに「世界広布の歌」と題する作品があった。検討すべき個所も少なくなかったが、歌詞の内容は、スケールが大きかった。
 「太平洋」や「ロッキー山脈」「ゴビ砂漠」などを歌っており、「ああ世界広布の鐘は鳴る」で結ばれていた。
 これは、群馬県の太田市と栃木県の足利市を活動の舞台としていた、支部の男子部の有志が、二、三人で作詞したものであった。
 彼らは、活動を終えて支部の拠点に集まり、語り合った。
 「ぼくらは現実の目先のことで右往左往している。でも、山本先生は世界広布を叫ばれている。
 だから、自分たちの殻を破り、先生とともに、平和のために世界に羽ばたいていくような、気宇壮大な歌を作ろうじゃないか」
 彼らは、数日を費やし、なんとか一編の歌詞を作りあげたのである。
 男子部の最高幹部で構成された制作のスタッフが、これに手を加え、推敲に推敲を重ねるうちに、数カ月が過ぎていった。
 ようやく歌詞も完成し、音楽隊長の有村武志が作曲を担当して、曲もできた。これまでの学会歌にはない、斬新な歌になった。
 しかし、発表の時期が決まらなかった。
 ところが、七月十一日の男子部結成十二周年を記念して、山本会長が『大白蓮華』の巻頭言に、「青年よ世界の指導者たれ」を執筆したのだ。
 「世界広布の歌」の発表の好機であった。制作スタッフは、この巻頭言に応える、誓いの歌にしようと、さらに検討を重ねた。
 そして、七月三十一日の八月度男子部幹部会で発表したのである。
 学会健児の謳声は
 七つの海に轟き渡り
 若き地涌の天翔ける
 ともに讃えん平和境
 ああ
 世界広布の鐘は鳴る
 「本門の時代」へ先駆けんとする男子部は、世界広布を誓い、この歌とともに旅立ったのであった。
13  清流(13)
 ″鍛えの八月″は、一日に東京・台東体育館で行われた、教育部の第二回全国大会で幕を開けた。
 この大会では、教育部長の更迭があり、清原かつに代わって、副理事長で、文化局長の関久男が、新教育部長に就任した。
 そして、三日には、伝統の夏季講習会が開幕した。
 この年の講習会は、全国の各部の代表二万人が参加し、十一日までの九日間、四期にわたって行われたのである。
 会長山本伸一も、夏季講習会の運営にあたる一方、質問会を担当するなど、各期のメンバーの指導と激励に全力を注いだ。
 講習会最終日の八月十一日の夕刻、羽田の東京国際空港から、副理事長の春木征一郎と、理事で南米総支部長の山際洋が、アルゼンチンへ向けて出発した。
 これは夏季海外指導の第一陣で、二人はカナダのバンクーバーを経由し、アルゼンチンに入り、パラグアイ、ブラジル、ペルー、ボリビアなどを歴訪して、メンバーの指導、激励にあたり、八月二十九日に帰国の予定であった。
 この南米グループに続いて、十五日には、関久男らの北米グループが出発し、二十七日に帰国。さらに十七日には、副理事長で東南アジア総支部長の森川一正らの、東南アジアグループが出発し、二十五日に帰国することになっていた。
 草創期から行われてきた夏季地方指導が、今や世界指導となったのである。
 伸一は、夏季講習会の担当幹部として総本山にいた春木と山際が、出発のあいさつに来た時、二人にこう語った。
 「二人はメキシコも経由することになっていたね」
 「はい」
 「戸田先生が亡くなる直前、『昨日は、メキシコへ行った夢を見たよ』と、嬉しそうに語っておられたことが、私は忘れられないんだ。
 そして、『待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ』と言われた。
 あなたたちは、その戸田先生の代わりに、今回、南米に行くのだという、強い自覚をもってほしい。
 私も、どこに行っても、いつも、その自覚で行動している。″戸田先生ならどうされるだろう。どんな戦いをなされるだろう″と、常に考えている。
 また、先生がご覧になって、お喜びいただける自分であるかと、常に問い続けている。
 だから力が出せた。勇気を出すことができた。
 師弟の道とは、そうした生き方であると、私は思っているんだよ」
14  清流(14)
 山本伸一は、さらに、言葉を続けた。
 「私もできることなら、メキシコにも、アルゼンチンにも、ペルーにも行きたい。いや、すべての国を回って、力の限り、一人ひとりを励ましたい。
 しかし、今の私には、その時間がない。だから、あなたたちは、私の代わりでもある。
 ひとたび行く限りは、そこに魂魄をとどめる思いで、メンバーの指導、激励にあたってくることだ。
 遊び半分では、メンバーに申し訳ない」
 春木征一郎と山際洋は、決意を新たにして、南米へ旅立って行った。
 伸一は、夏季講習会の期間中、派遣メンバーと、世界各地の組織について、何回となく、綿密な検討を重ねてきた。
 各国の組織を整備し、未来の発展への布石をするためであった。
 それは、夏季海外指導の際に、再度、現地のメンバーと検討のうえ、発表された。
 最も注目すべきは、海外に初の本部として、欧米本部が誕生したことである。欧米本部長は、正木永安であった。
 また、アメリカ総支部はアメリカ西総支部とアメリカ東総支部に分割された。
 欧米本部には、このアメリカの二つの総支部と南米総支部、ヨーロッパ総支部の計四総支部が所属することになる。
 さらに、北米では、アメリカにサンディエゴ支部、コロラド支部、ケンタッキー支部を新設。カナダには班が誕生した。
 一方、南米では、パラグアイ支部が結成されたのをはじめ、ブラジル支部が三分割され、新たにサンパウロ西支部とサンパウロ北支部が誕生。
 南米は、これまでのブラジル、ペルー、ボリビアの三支部と合わせ、六支部の布陣となった。
 このほか、アルゼンチンに地区が、メキシコにも班が結成されたのである。
 また、東南アジアでは、インドネシアにジャカルタ支部が、フィリピンにマニラ支部が結成されたほか、シンガポール、カンボジアのプノンペンにも地区がつくられたのである。
 ここに、世界の広布の基盤は、着々と整いつつあった。
 山本伸一は、夏季講習会を終えると、八月十四日には北陸を訪問した。
 富山支部長であった、高松俊治の支部葬に参列するためである。
 高松が他界したのは、二週間前の七月三十一日、伸一が出席して長野で行われた、中部第二本部の幹部会から帰る、夜行列車の車中であった。
15  清流(15)
 中部第二本部の幹部会では、高松俊治も、ほかの支部長と一緒に、楽しく学会歌の指揮をとった。
 彼の指揮は、ひときわ勇壮であった。
 幹部会が終わって、山本伸一が控室に入ると、高松が笑顔で駆け寄って来た。
 「山本先生、しばらくでした!」
 「やあ、ご苦労様!
 高松さんは、いつ富山に帰るの?」
 「はい、今晩の夜行で、みんなと一緒に帰ります」
 「そうか、気をつけて帰ってください。今日の幹部会を記念して、あなたにも戸田先生の和歌を差し上げようと思って、揮毫してきたんですよ」
 こう言うと伸一は、高松にあてて、戸田の和歌を認めた色紙を取り出し、彼に手渡した。
  信ぜかし
    宇宙の宝と
      御仏を
    必ず守らん
      君も子なれば
 高松は、色紙を見ると、目を輝かせて言った。
 「……ありがとうございます。心の底から、勇気がわいてきます」
 彼の入会は、一九五五年(昭和三十年)。人柄のよい、純朴な性格であった。
 かつては、鉄工所を経営していたが、根っからのお人好しで、人にだまされやすく、商売には不向きであった。
 一時は、当時の金で、数百万円の借金をかかえ、家も人手に渡り、農家の納屋のような住居や、長屋を転々としながら、信心に励んできた。
 子供六人と夫婦の八人家族である。生活は困窮を極めた。妻の静子は、何度も質屋の門をくぐらなければならなかった。
 しかし、夫妻は、意気揚々として、広布の道を走り抜いた。
 一九六〇年(同三十五年)九月に、富山支部が誕生すると、俊治は支部長に、静子は支部婦人部長になった。
 一家の経済も、次第に好転していった。
 そして、六三年(同三十八年)の春には、周囲から推され、市議会議員選挙に立候補し、トップ当選を果たしていた。
 中部第二本部の幹部会から帰る夜行列車のなかで、高松は支部員を激励して回った。さらに、深夜まで個人指導を続け、座席で眠りについた。
 早朝、彼はぐっすりと眠っているように見えた。
 前の席に座っていた人が、高松を起こした。
 「そろそろ富山ですよ」
 だが、返事はなかった。
16  清流(16)
 妻の高松静子も、夫の俊治を起こしたが、やはり返事はなかった。既に息を引き取っていたのである。
 安らかな最期であった。その顔は、微笑んでいるかのようでもあった。
 山本伸一は、高松俊治の訃報を聞くと、すぐに彼の自宅に電話を入れた。
 電話に出た静子が語る、高松の臨終の相から、伸一は彼の成仏を確信した。
 静子は、しっかりとした口調で言った。
 「私は大丈夫です。ご安心ください。それより、同志の皆さんのことが心配です……」
 最愛の夫を亡くして、一番、悲しく、辛いのは、彼女であるはずだ。しかし、そのなかで、支部員のことを心配する、毅然とした静子の言葉に、伸一は胸を強く打たれた。
 伸一は、その時、富山を訪問する約束をした。
 そして、八月十四日の、高松の支部葬に、彼は駆けつけたのである。
 高松俊治は五十三歳であった。平均寿命からするならば、若い死である。
 しかし、人は死を避けることはできない。そして、生命は三世永遠である。
 長寿は大事であるが、それ以上に大切なことは、この世で何をしたか、自身の使命を果たし抜いたかであろう。ゆえに、日蓮大聖人も「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と仰せなのである。
 高松は、広宣流布をわが目的とし、多くの人びとに真実の幸福への道を教え、ともに多くの人材を育んできた。
 彼は、この世にあって、地涌の菩薩としての使命を果たして、確かに霊山に旅立ったのだ。高松の志は、彼に育まれた、数多の同志に受け継がれていこう。
 広宣流布に生き抜いた同志は、御聖訓に照らして、成仏は絶対に間違いない。
 高松はすぐに生まれ変わって、二十一世紀を迎えるころには、若きリーダーとして、学会の庭で、凛々しく指揮をとっているにちがいないと、伸一は思った。
 葬儀の際、伸一は、高松の家族一人ひとりを力の限り励ました。あとに残った家族が、その後、幸福の人生を歩めるかどうかが、高松の成仏の証明となるからだ。
 支部葬が終わると、伸一は、富山市公会堂で行われた、北陸総支部の幹部会に出席した。北陸総支部の発足は、この年の五月であり、この幹部会が、総支部として、山本会長を迎えての初の集いとなった。
 午後二時前、伸一が到着すると、直ちに幹部会は開会された。
17  清流(17)
 山本伸一は、支部長であった高松俊治の死を、富山の同志が、いかに受けとめているのかが、気がかりであった。
 しかし、会場を埋めたメンバーの表情を見ると、伸一は安堵した。高松の死の悲しみを乗り越え、彼の遺志を受け継いで、広布に生き抜こうとする決意がみなぎっていたからである。
 伸一は、「生涯、妙法を胸に、大勝利の人生を」と訴え、この日の指導としたが、参加者の反応には確かな手応えを感じた。
 高松という、必死の一人の一念は、死してなお万波となって広がり、北陸中にうねり始めたのである。
 伸一の入会十六周年の記念日にあたる八月二十四日、彼は、師である戸田城聖の、青春の飛翔の天地・北海道に立っていた。
 この日は、北海道本部での幹部会に出席し、翌二十五日には、札幌で開催された、第五回北海道体育大会に臨んだ。
 これは、この年の「若人の祭典」青年部体育大会の幕開けとなるもので、九月二十二日の全国大会に向かって、以後、各方面で開催されることになる。
 青年の育成には、活躍の舞台が必要である。体育大会は、青年たちが思う存分に力を発揮できる、絶好の青春乱舞の舞台といえた。
 伸一は、この体育大会で各地の青年部が何を企画し、どこまで成長するのかを、じっと見ていた。
 ただ単に体育大会という催しを″こなす″のか、それとも、そこに何か新しい意義を見いだし、創意と工夫を重ね、未来への前進の飛躍台にしていくのか――それによって、意味も、価値も、全く異なってくる。
 学会が行うさまざまな行事は、一人ひとりの信心の成長を図り、広宣流布を前進させるための場である。
 その根本の目的が見失われ、行事を″こなす″ことのみに目を奪われてしまえば、開催の意味はないといっても過言ではない。
 北海道の体育大会には、若人の躍動の息吹があふれていた。演技にも、工夫が光っていた。
 グラウンドいっぱいに、「開拓」の人文字が描き出されると、大喝采が天に舞った。
 メンバーは、折伏の大きなうねりを起こし、全員が広布の「開拓」の実証をもって、この体育大会に臨もうと布教に取り組んできたのである。
 伸一は、六年前のあの炭労事件で、無数の庶民を守り抜くために、自分が闘魂の汗を流した北海道に、青年の飛翔の号砲が鳴り渡ったことが嬉しくてならなかった。
18  清流(18)
 見事な青空が広がり、黄金の太陽が輝いていた。
 九月一日、東京・両国の日大講堂は、喜びの大合唱に揺れた。
 この日、待望久しかった信濃町の新学会本部が落成し、それを記念する第二十六回の本部総会が、午前九時半過ぎから開催されたのである。
 この新本部を電源地として、「本門の時代」の、本格的な広宣流布の大運動の回転が始まるのである。
 秋晴れの空のもとに、全国から集った同志たちは、新本部落成の喜びを胸に、晴れやかに、新しき広布への出発を誓い合った。
 あいさつに立った会長山本伸一は、日達法主が対面の折に、「山本先生、もう広宣流布だよ。今が広宣流布だな」と喜びながら語っていたことを伝えた。
 そして、会員三百万世帯の達成、並びに東洋広布への道を開くという、戸田城聖との誓いは、既に実現したことを、ここに宣言したのである。
 事実、学会は会員三百六十万世帯を超え、戸田が″幸の光″を送らんとして心を砕いてきたアジアにも、七支部が誕生。広宣流布の基盤は着々と整いつつあった。
 伸一は、もはや、日本の全民衆を幸福にしゆくことは間違いないと述べ、こう話を結んだ。
 「信心第一に、大功徳にあふれた生活をしていただくことが、私の念願なのであります。また、そのために、幹部の皆様は、後輩の面倒をよくみていただきたいのです。
 学会が大発展したからといって、慢心になったり、油断することがあってはなりません。
 ともどもに、勝って兜の緒を締め、あくまでも庶民の味方として、一歩一歩、着実に、楽しく前進してまいろうではありませんか」
 この歓喜に包まれた本部総会のあと、午後一時半から、信濃町の新本部の落成式が営まれた。
 新しき我らの本部は、澄み渡る空に、白い輝きを放っていた。
 敷地面積は千三百六十平方メートル、建て面積九百五十平方メートル、延べ面積三千八百四十二平方メートルの、堂々たる四階建て、地下一階の本部である。
 打ち放しのコンクリートに、砕いた大理石を張った壁、力強い斜めの柱の線が、質実剛健な重量感と荘厳さを感じさせた。
 陽光に映える新本部を見上げる同志の瞳は光り、微笑が浮かんだ。
 ここから、いよいよ新しい広宣流布の大波が起こっていくのだと思うと、皆の心は躍った。
19  清流(19)
 山本伸一は、新本部の落成を喜ぶ、愛する同志の姿を見ることが、何よりも嬉しかった。
 思えば、戸田城聖が一九四五年(昭和二十年)の七月三日に出獄し、学会の再建に着手してから、八年の間は、学会として独自の本部の建物はなかった。
 東京・西神田にあった、戸田の会社の二階が、学会本部として使われてきた。
 この本部で、戸田の法華経講義が行われ、記念すべき男女青年部の結成式も行われたのである。
 さらに、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の創価学会常住の御本尊も、この本部に安置されたのである。
 また、ここから、七十五万世帯の達成をめざす、あの「折伏大行進」が始まったのだ。
 その間、側近の幹部が、本部の建設を提案すると、言下に戸田は答えた。
 「建物などいらん。形式ではないか。私のいる所が本部だ!」
 しかし、本部の建物の必要性を最も強く感じていたのは、戸田自身であった。
 西神田の本部は、使える部屋は二間しかなく、あまりにも狭かった。
 会合や指導を求めてやって来た人たちが、路地にまであふれることも少なくなかった。
 戸田は、会場に入れぬ会員が、かわいそうでならなかった。
 ましてや、雨の日や、厳寒の季節などは、外にいる会員たちのことを思うと胸が痛んだ。
 だが、本部を建てるとなれば、彼一人の財力では賄いきれない。会員たちからも資金を募ることになる。
 当時、同志の大多数は、食べるにも事欠くような生活である。
 それを考えると、会員に負担をかけるわけにはいかず、結局、本部の建設は、あとに回すしかなかったのである。
 戸田は、伸一と二人きりになると、よく自分の思いを語った。
 「伸一、いつか立派な本部を建てよう。学会もビルを建てたいな」
 本部建設の計画が、ようやく具体化したのは、一九五二年(同二十七年)の夏のことであった。
 そして、この年、現在の学会本部に近い、新宿区信濃町二五番地に、千四百二・五平方メートルの建設用地を購入。建物の建設を進めようとしたが、この計画は頓挫する。
 総本山の五重塔が風雪に傷み、修復が急務であることがわかったためである。
 戸田は、総本山の整備を最優先し、五重塔の修復に着手したのである。
20  清流(20)
 総本山の五重塔を修復すると、学会本部の建設のための資金は、底をついてしまった。
 そこで翌一九五三年(昭和二十八年)、本部建設用地として購入していた土地を売却。
 信濃町三二番地にあった、建築面積六百八十三・一平方メートルの古い洋館を購入して改築。これを本部にすることにし、この年の十一月、学会本部は信濃町に移転したのである。
 以来、九年間、この建物が、広宣流布の本陣となってきたのである。
 その間、ここで、多くの弟子たちが、会長戸田城聖の薫陶を受けてきた。まさに、人材育成の道場となってきたのである。
 戸田亡きあと、山本伸一の会長推戴式が行われたのも、この旧本部であった。
 本部の建て替えは、戸田の存命中から懸案となっていたが、伸一が会長に就任し、広宣流布の進展にともない、会員が飛躍的に増大すると、建て替えは喫緊の課題となった。
 そこで、新本部の建設に踏み切ったのである。
 学会本部常住の御本尊が安置されている真下の基礎コンクリートには、インドのガンジス川の石やエジプトの石など、世界四十二カ国の石が埋められていた。
 これは、伸一が海外訪問の折に採取してきた石などで、世界の平和を祈念して埋められたものである。
 新本部の地階には、機械室、電気室、食堂、倉庫等があり、一階は、ロビー、事務室、応接室である。
 二階には、事務室、会議室、応接室のほか、各部の部屋があった。三階には、礼拝堂となる大広間、会長室などがあり、四階には大会議室がある。
 落成式は、三階の大広間で行われた。同志の喜びが弾む読経・唱題のなか、伸一は、この新本部を中心に、世界広宣流布への指揮を、力の限りとり続けることを決意していた。
 落成式で彼は、こうあいさつした。
 「牧口先生が信心を始め、広宣流布の旗を掲げられて以来、三十五年にして、初めて、学会も、本部らしい本部を建設することができました。
 本部は、広宣流布の法城です。民衆救済に戦う勇者の城です。この建物には各部の部屋もありますが、全部、広布のために、縦横無尽に使ってください。
 そして、不幸な人びとの味方となり、皆が、私こそ広布の責任者であるとの自覚で、堂々と指揮をとっていただきたいのであります」
 同志の顔は、大きな窓から差し込む、太陽の光に輝いていた。
21  清流(21)
 落成式の終了後は、多数の来賓が参加し、祝賀会が開かれた。
 山本伸一が、御礼のあいさつに回ると、来賓たちは口々に、新学会本部の感想を語った。
 「雄大さと清楚さを併せもつ建物ですな」
 「軍艦のような、力強さがありますね」
 来賓のなかには、近隣の人びともいた。
 「本日はお忙しいなか、わざわざお出でいただき、大変にありがとうございます。私が会長の山本でございます。
 大勢の会員が出入りするもので、近隣の皆様には、何かとご迷惑をおかけすることもあろうかと思いますが、なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。
 また、地域のために、協力できますことは、どんなことでもさせていただきますので、何かお困りのことなどございましたら、なんでもご相談ください」
 伸一は、丁重にあいさつし、深々と頭を下げた。
 近隣の来賓は、むしろ恐縮しているようであった。
 地域の広布を進めるうえで最も大切なことは、会館の近隣の人びとへの配慮である。
 学会の会館ができると、地域も栄え、安心できると喜ばれてこそ、社会に根差した運動を展開していくことができよう。
 祝賀会は、喜びのなかに幕を閉じた。
 学会は、この新本部を中心に、広布の大回転を開始し、明年四月二日の戸田城聖の七回忌を期して、勇躍、「本門の時代」へと突き進むことになる。
 「本門の時代」とは、これまでに築き上げてきた広宣流布の基盤のうえに、教育、芸術、政治、経済などの各分野に、本格的な文化の花を咲かせていく時代といってよい。
 「理」から「事」へ。いわば、仏法で説く、生命の尊厳や慈悲、また、人間主義の哲理を、現実の社会に展開し、具体的に、社会の繁栄と平和に寄与する段階に入ることを意味する。
 それは、三百万世帯の達成という、師との誓いを果たした山本伸一が、いよいよ自ら、新しき広布の構想を描き、前進しゆく、弟子の飛翔の時代でもあった。
 このころ、女子部には新たな波動が起こっていた。
 『大白蓮華』九月号の巻頭言に、山本伸一が「女子部に与う」と題する指針を発表したのである。
 女子部としての指針が、巻頭言としてまとめられ、明確に示されたのは、これが初めてのことであった。
 全国の女子部員の喜びは大きかった。
22  清流(22)
 「女子部に与う」は、こう書き起こされていた。
 「『女子部は太陽のごとく朗らかで、そして美しくあれ』とは、恩師のつねに述べられていた言葉である」
 山本伸一は、まず、女子部員の幸福を願い続けた戸田の心を語ったあと、自身の宿命に泣き、社会の″くびき″に泣いてきた女性の歴史に言及した。
 次いで、仏法の「女人成仏」に触れ、それは「正しい人生観、生活観、社会観を強くもち続けて、家庭や職場や、ひいては社会に対して、幸福への価値を創造していくことにほかならない」と、その意義を明らかにしていった。
 そして、「かつての女性にみられたように、ただ周囲のものに従い、紛動され、不幸になってはけっしてならぬ」と強調。自己自身の使命に生き抜くことが大切であると述べ、女子部が社会のあらゆる分野に堂々と進出していくよう望んだ。
 その心構えとして、「封建的な、姑息な女性であっては断じてならない。あくまでも、新時代、新世紀を築くべく、その先駆をきる知性と教養と情熱をもった、最高の近代女性であるとの誇りをもつべきである」と訴えている。
 また、″自己の幸福″を築きながら、社会の繁栄と世界の平和に活躍しゆく女子部の使命を述べ、四点にわたって、具体的な日々の在り方を示した。
 第一に、信行に徹し、教学に全力を注ぐこと。
 第二に、女子部がいるところ、いつも明るく、慈悲に包まれた温かい会合にすべきであること。
 第三に、家庭・職場等の日常生活では、リズムある楽しい日々を送ること。
 第四に結婚については、両親はもちろん、先輩・同志によく相談し、女子部出身の先輩の幸福生活を範としてほしいと要望した。
 続いて、「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず」等の御文を拝し、「妙法護持の女子部こそ、大法王の子であり、遣い」であると訴え、最後にこう結ばれていた。
 「ときあたかも、第三文明建設のその秋にあたり、わが女子部こそ、かつての祖国フランスの危機を救った、かのジャンヌ・ダルクにも勝る存在であれ、と心より念願するものである」
 当時の日本で、若い女性たちに、人間としての使命を教え、国や社会の建設を訴える指導者は、皆無といってよかった。
 そのなかで、広宣流布という平和社会の創造を、伸一は呼びかけたのである。
23  清流(23)
 高度経済成長の時代に入った日本は、経済的には、年ごとに豊かになっていった。人びとの消費は伸び、レジャーブームにも拍車がかかっていた。
 それとともに、若い女性たちの多くが自分本位になり、表面的な華やかさのみを追い求め、精神の″芯″が失われつつあることを、山本伸一は憂えていた。
 自分の幸福のみを願う、利己的な生き方には、人生の本当の喜びはないし、また、華やかさは、空しさと表裏であることを知らねばならない。
 わが人生を荘厳しゆくために不可欠なことは、青年時代に、精神の強固な芯をつくりあげることである。そのための哲学を確立することである。
 伸一は、女子部員には、社会のために、人びとのために、自己を生かし、人生の真実の価値を創造し、本当の幸福をつかんでほしいと願い、「女子部に与う」の筆をとったのである。
 女子部員は、これによって、進むべき明確な指針を得た。
 その喜びは大きかった。
 ″私たちが女性の歴史を変えよう!″
 彼女たちは、さっそうと立ち上がった。
 以来、「妙法のジャンヌ・ダルク」が、女子部の合言葉となった。
 そして、座談の園に、職場に、はつらつとした、清流のごとき女子部員の笑顔が光った。
 山本伸一は、この九月も青年の育成に全力を注ぎ続けた。
 青年部のスポーツ行事にも、東北体育大会(八日)、大阪での東西対抗水上競技大会(十四日)、関西体育大会(十五日)、東京体育大会(二十一日)、全国体育大会(二十二日)、全国柔・剣道大会(三十日)と、相次ぎ出席した。
 また、その間に、学生部の機関紙編集委員の初会合に出席し、ともに機関紙の名称を検討している。
 そして、「学生ジャーナル」の名称が決定したのである。この「学生ジャーナル」は、後に「学園ジャーナル」、さらに「大学新報」となる。
 その後、学生部の機関紙は発展的に解消。今日の青年部の機関紙「創価新報」となっていくのである。
 人を育成するには、会うことである。語り合うことである。ともに、行動することである。そして、触発をもたらすことである。
 伸一は、日々、広布の前進の指揮をとりながら、後継の育成に、精魂を傾け続けていた。
24  清流(24)
 十月に入ると、東京・関東の各本部の地区部長会が、信濃町の学会本部で、順次、開催されていった。
 皆のための新本部である。山本伸一は、支部を支え、活動の要となっている大切な地区部長、地区担当員に、ぜひ本部に来てもらい、新しい出発をしてほしかった。
 彼は、この地区部長会には、すべて出席し、質問会をもち、参加者を全力で励ました。
 これまで、支部長、支部婦人部長については、さまざまな折に、直接、指導と激励をする機会があったが、地区幹部に直接会うことは極めて限られていた。
 伸一は、いよいよ地区幹部に光を当て、新しい広宣流布の流れを開こうとしていたのである。
 その間、東北、北海道の釧路・室蘭、中国など、各方面の指導に奔走する一方、文化運動への基盤も着々と整えていった。
 九月の十五日に、関西でアジア文化研究所の発足式を行い、続いて十月十八日には、民音(民主音楽協会の略称)の創立記念演奏会が、東京・文京公会堂で開催されたのである。
 この民音は、一九六一年(昭和三十六年)の二月、伸一が初めてインドを訪問し、ビルマ(現在のミャンマー)を経て、タイ、カンボジアに向かう旅のなかで構想したものであった。
 ビルマは、伸一の長兄が戦死したところである。
 伸一は、人類が悲惨な戦争と決別し、平和を築き上げていくには、何が必要なのかを考え続けた。
 ――そのために不可欠なことは、民衆と民衆の相互理解を図ることである。それには、音楽などの芸術、文化の交流が大切になる。
 こう考えた伸一は、学会が母体となって、音楽、芸術の交流などを目的とした団体をつくろうと決意したのである。
 以来、首脳幹部で検討を重ね、この年の八月一日に行われた教育部の第二回全国大会の席上、伸一から音楽・芸術の文化協会の設立が発表された。
 続いて、準備委員会を発足させ、設立に向かい、最終的な準備に入った。ここで、団体の名称やモットー、代表理事などの役員の人事や、具体的な活動も煮詰まっていった。
 そして、この十月十八日の、創立記念演奏会となったのである。
 午後六時半、音楽隊の代表によって構成された吹奏楽団の、行進曲「錨を上げて」の勇壮な演奏で、記念演奏会は幕を開いた。
 舞台の背後には、音符をデザインした、民音のマークが掲げられていた。
25  清流(25)
 民音の創立記念演奏会では、合唱やアンサンブル、また、第一線で活躍中のバイオリンやチェロの奏者などの演奏が披露された。
 続いて、来賓を代表し、音楽大学の学長が祝辞を述べたあと、民音の専任理事となった秋月英介があいさつに立った。
 秋月は、まず、民音の正式名称を「民主音楽協会」とし、広く民衆のための音楽の興隆に努めていくことを発表した。
 この名称については、当初、「民衆音楽協会」にしようとの意見もあったが、伸一は「民主音楽協会」にしてはどうかと提案した。
 そこには、民衆こそ、国家、社会の主人であるとともに、音楽、芸術を育成していく主役であるとの思いが込められていた。
 秋月は、話を続けた。
 「次に、わが民主音楽協会のスローガンを発表いたします。
 『一、広く民衆の間に、健康で明るい音楽運動を起こす。
 一、新しい民衆音楽を創造し、これを育成する。
 一、青少年の音楽教育を推進し、並びに一般音楽レベルの向上を図り、以て情操豊かな民衆文化の興隆を目指す。
 一、音楽を通じ国際間の文化交流を推進し、世界の民衆と友誼を結ぶ。
 一、日本の音楽家を育成し、その優秀な作品、並びに演奏を、広く内外に紹介する』
 この五項目のモットーのもと、民衆の新しい音楽運動を展開していくために、まず、定期演奏会、都民コンサートなどを活発に行ってまいります。
 そして、民衆の手に音楽を取り戻す、新しい音楽の潮流をつくってまいる所存でございます」
 秋月に続いて、民音の代表理事になった、学会の副理事長の泉田弘が、民音への支援をお願いしたいとあいさつした。
 このあと、富士吹奏楽団が「軽騎兵序曲」等を演奏。フィナーレは、指揮者、作曲家として著名な近衛秀麿の指揮による、行進曲「旧友」である。
 演奏が終わると、場内から、盛んな拍手がわき起こった。
 ここに、民音は、民衆の新たな音楽・文化運動の旗手として、社会に船出したのである。
 この日は、多数の来賓も出席していたが、民音創立の趣旨やモットーに、皆、大きな共感を示したようであった。
 人びとは、民衆の音楽の興隆を、心から待ち望んでいたのである。
26  清流(26)
 当時、日本にあっては、歌謡曲やポップスなどは民衆に親しまれていたが、クラシック音楽やオペラなどは、民衆とは大きな隔たりがあった。
 利潤の追求のゆえか、鑑賞券が至って高額なコンサートも多く、庶民にはとても手が届かなかった。
 山本伸一は、クラシックやオペラ、邦楽など、すべての音楽に、民衆が接する機会をもてるようにすることを、民音のまず最初の課題と考えていた。
 音楽は、みんなのものである。一部の特権階級や金持ちの専有物ではない。
 このころ、大きな音楽鑑賞組織としては、既に労音(勤労者音楽協議会の略称)があった。
 しかし、政治的なものに左右され、イデオロギー色が強いというのが、大方の見方であった。
 また、この年には、労音に対抗して、日経連(日本経営者団体連盟)の呼びかけで、音協(音楽文化協会)が設立され、活動を開始していたが、まだ、規模は小さかった。
 伸一は、労音であれ、音協であれ、民衆のためによい音楽を、幅広く提供できるならば、それは喜ばしいことであると考えていた。
 ともかく、民音の創立によって、さらに民衆全体が最高の音楽に触れ、新たな文化の創造が図られていくことを、彼は期待していたのである。
 民音の創立記念演奏会が行われていた時、伸一は学会本部で、この演奏会の成功と民音の大発展を祈って、唱題した。
 午後十時過ぎに、創立記念演奏会を終えた、泉田弘と秋月英介が、学会本部に帰って来た。
 「先生、大成功でした。来賓も、民音の設立の趣旨に、大いに共感しておりました。また、大きな期待をもったようです」
 泉田の話を聞くと、伸一は言った。
 「そうですか。それはよかった。おめでとう!」
 秋月が報告した。
 「実は、音楽関係者の多くは、今日の演奏会に出るまで、学会は音楽や芸術を使って、勢力を拡大するために、民音を設立したと思っていたようなんです。
 また、ある来賓は、『民音では、クリスマスソングのような、他の宗教に関係する曲は、演奏できないんでしょうね』と、尋ねてきました。
 学会は、宗教の正邪について妥協しないから、民音もまた、宗教性のある音楽や芸術は受け入れないと思っているんです」
 すると、泉田が言った。
 「秋月さん、学会員も、そう考えているよ」
27  清流(27)
 学会は、宗教の高低、浅深、正邪を、厳格に立て分けてきた。いかなる宗教を信ずるかが、人間の幸・不幸を決するからである。
 それだけに、会員のなかにも、他の宗教に関係する音楽を演奏したり、聴いたりすることに、かなり抵抗を感じている人も少なくなかった。
 宗教と、音楽などの芸術とは、確かに不可分の関係にある。宗教は、人間の生命という土壌を耕し、その大地のうえに花開き、実を結んでいくのが、芸術であるからだ。
 しかし、その芸術に親しむことと、宗教そのものを信ずることとは、イコールではない。
 宗教的な情熱が、芸術創造の源泉となっていても、芸術として花開く時、それは宗教の枠を超える。
 美しい花は、どんな土地に咲いても、万人の心を和ませ、魅了する。それが美の力である。優れた芸術も同じであろう。
 詩人ハイネは歌った。
 「さやがはじけたとたんに、甘えんどうは万人のものだ!」
 芸術を、宗教やイデオロギーで色分けし、否定したりすることは、人間性そのものを否定するに等しい。
 ましてや、仏法は、生命の尊厳と自由と平等とを説き、人間性の開花の方途を示した慈悲の哲理である。
 その仏法を根底にした音楽運動である限り、人間性の発露である音楽を、色分けして、排斥するようなことは、絶対にあってはならない――それが山本伸一の考えであり、また、信念でもあった。
 伸一は、泉田弘と秋月英介に言った。
 「私が恐れているのは、学会員が、そうした教条的で偏狭な考え方に陥ってしまうことです。
 私たちが厳格なのは、宗教の教えそのものに対してです。芸術や文化に対しては、いっさい自由であることを、社会にも、学会員にも、語っていかなくてはならない。
 芸術は、イデオロギーや政治の僕ではないし、宗教の僕でもない。独立した価値をもっているのだから、それを認め、尊重していくのは当然です。
 また、私には、民音の音楽活動を利用して、布教しようとか、音楽愛好家を学会に取り込んでいこうなどという考えは、毛頭ありません。みんなも、それをよく知ってほしい。
 民音を設立した目的は、あくまでも、民衆の手に音楽を取り戻すことにある。人間文化を創造し、音楽をもって、世界の民衆の心と心を結び、平和建設の一助とすることにある」
28  清流(28)
 山本伸一は、決意のこもった声で語っていった。
 「これまで、芸術や文化、あるいは平和を、教勢拡大の手段にしてきた宗教が、あまりにも多い。
 しかし、そんなことが長続きするわけがない。もともと、教団のために、一時的に利用するのが目的であり、本気ではないからだ。
 また、見せかけだけであることが露呈し、最初は賛同していた人も、次第に離れていくからだ。メッキは、所詮、メッキである。
 だが、私たちの文化と平和の運動は違う。本気だ。真剣です。民衆のため、人類のための大運動です。
 民音といっても、最初、社会の人びとの多くは、警戒し、うさん臭いもののように思うだろう。しかし、やがて、その認識が誤っていたことに気づくはずだ。
 三十年、四十年とたった時には、民音の社会的な意義の深さに感嘆するにちがいない。また、そうしていかなくてはならない。
 私は、『世界の民音』に育てたいと思っている。
 『民音があって、音楽は蘇った』『民音があって、新しい、最高の音楽が生まれた』『民音があって、民衆の心と心が結ばれ、世界が結ばれた』と言われるようになるんだ」
 泉田と秋月は、大きく頷いた。
 民音は、それから間もなく、全国組織に発展し、一九六五年(昭和四十年)一月には、財団法人となり、さらに音楽、芸術の興隆に、大きく貢献していくことになる。そして、賛助会員百三十万人の、日本を代表する音楽文化団体へと発展していくのである。
 その活動は多方面にわたり、クラシック、ポピュラー、歌謡曲、伝統芸能にいたる幅広い演奏会を開催してきた。
 また、無料の「市(都)民コンサート」を開催したのをはじめ、青少年の情操教育に寄与するための「学校コンサート」、未来の人材発掘をめざした「東京国際音楽コンクール」などを実施。
 海外との文化交流では、六五年(同四十年)にイスラエルのピアニストを、翌年にソ連のノボシビルスク・バレエ団を招聘したのを最初期として、世界最高峰のウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座などの招聘を実現した。
 その一方で、日本の音楽家、舞踊団などを海外に派遣してきた。
 これまで、海外との文化交流は、七十六カ国・地域に及んでいる。
 学会を母体とする、この民音の創立によって、音楽・芸術の復興の春が、到来したのである。
29  清流(29)
 このころ、ある地方では、深刻な問題が持ち上がっていた。この地方の幹部の金銭問題である。
 それは、一人の女子部の幹部の、勇気ある行動から明確になっていった。
 彼女は岸坂幸子という、聡明な、正義感の強い女性であった。
 女子部員の激励に行った折には、その母親ともよく懇談するようにしていたこともあり、婦人部員からも信頼されていた。
 ――この年の春のことである。
 岸坂が、勤務先の銀行で窓口業務を担当していると、顔見知りの婦人部員がやって来た。
 女手一つで事業を営んでいる婦人であった。
 その婦人は、岸坂に囁くように言った。
 「お金のことで相談したいことがあるんです。仕事が終わったら、あとで自宅に来てくれませんか」
 岸坂は、定期預金か何かの相談であろうと思い、軽い気持ちで、その夜、彼女の家に出向いた。
 そこで、意外な話を打ち明けられたのである。
 「私、実は、沼山広司さんに頼まれて十万円貸しています。ところが、いつまでたっても返してもらえずに、困っているんです」
 沼山広司というのは、この地方の中心的な幹部の一人であった。
 岸坂は絶句した。学会では、戸田第二代会長の時代から、金銭貸借は、いっさい厳禁とされていたからである。沼山がそれを知らないわけがない。
 岸坂は言った。
 「それで、催促はしたんですか」
 「いいえ……」
 「本来、学会では、会員間の金銭貸借は禁止しています。幹部が会員からお金を借りること自体、あってはならないことです。
 相手が幹部なので、言いにくいとは思いますが、あいまいにせず、勇気をもって、ちゃんと催促すべきではないでしょうか。
 私も、しかるべき人と相談してみますが」
 岸坂は、信じられないような気持ちであった。
 しかし、彼女は、別の二人の婦人部員からも、立て続けに、貸した金を沼山が返してくれないという、同じ内容の相談を受けたのである。
 彼女たちは、困り果ててはいたが、事を荒立てたくないという気持ちをもっているようであった。
 問題はあまりにも重大である。岸坂は思い悩んだ。
 すぐに、壮年か婦人の最高幹部に相談しようとも考えたが、告げ口をするようでいやだった。
 悶々とする日が続いた。
30  清流(30)
 岸坂幸子は、沼山広司とは、一緒に活動をしてきた間柄である。
 彼女は悩み抜いた末に、まず自分が直接、沼山と会って、事実を確認したうえで、忠告すべきは忠告しようと決断した。
 九月下旬、岸坂は、沼山の自宅を訪ねた。
 彼女の気は重かった。
 玄関先に姿を現した沼山に、岸坂は単刀直入に話を切り出した。
 「今日はお話があってまいりました。
 沼山さん、学会は、金銭貸借は厳禁ですよね」
 彼は無表情に頷いた。
 岸坂は、自分が聞いたことを、一つ一つぶつけてみた。沼山は、立ったまま、ムッとした顔で話を聞いていた。
 岸坂は言った。
 「私が申し上げた話は、事実なんでしょうか。もし、事実ならば、とにかく、お金を返してあげていただけないでしょうか。お願いします。
 学会の幹部が、こんなことをしては、絶対にいけないと思うんです」
 その言葉が、沼山の怒りに火をつけたのか、彼の形相は一変した。
 「なんでお前が、とやかく言うんだ!」
 今にも殴りかからんばかりであった。
 その時、婦人部の幹部である、妻の三重子が飛び出して来た。
 二人の話を聞いていたのであろう。
 「岸坂さん、この人は悪くないのよ。全部、私がさせたことなの。悪いのは私なのよ。だから、主人を許してあげて!」
 三重子は、涙ぐみながら懇願した。
 夫の広司も、冷静さを取り戻したのか、ポツリ、ポツリと、弁解を始めた。
 ――自分が関係している会社の経営が行き詰まり、その資金繰りに奔走していたが、打開の目途は立たなかった。また、以前に、手がけた事業の失敗もあり、その返済もあって金を借りたというのである。
 岸坂は、沼山夫婦に、きっぱりと言った。
 「事情はともあれ、学会員に借金をするなんて、いけないことではないでしょうか」
 三重子が答えた。
 「その通りよ。本当に申し訳ないことをしたと思っているわ。
 でも、心配しなくて大丈夫よ。その人たちには、すぐにお返しするから」
 岸坂は、これで問題は解決できたと思った。
 彼女は、肩の荷が下りた気がした。
 しかし、しばらくして、沼山に金を貸した婦人に会うと、まだ、金は返してもらっていないというのである。
31  清流(31)
 岸坂幸子は、沼山の借金問題は、自分が考えている以上に根が深いのではないかと思った。
 数日後、彼女は、方面の壮年の中心幹部に会って、沼山の件を伝えた。
 その幹部も、さすがに驚きの表情を隠せなかった。
 「そんなことをしていたのか。それで、何人ぐらいの人から借金をしているのかね」
 「詳しいことはわかりませんが、私が聞いているだけでも数件はあります」
 「これは大変な問題だ」
 彼は、すぐさま学会本部の指示を仰いだ。
 早速、この地方を担当している副理事長らが現地入りし、調査を開始した。
 調査を進めていくと、沼山広司は予想した以上に多くの会員から、借金を重ねていたことが明らかになっていった。
 しかも、その手口は、いずれも、巧妙に信心を利用したものであった。
 被害者の一人で、百八十万円ほどの金を貸していた地区部長の岡島正太郎も、それに騙されてしまったのである。
 岡島は会社の経営者であり、仕事は至って順調であった。
 沼山は、よく彼の家に来ては、仕事の状況などを聞いていた。
 岡島は、自分の仕事のことにまで気を配ってくれる、面倒みのよい幹部だと、感謝していた。
 ある時、沼山は、思い詰めた表情で岡島に言った。
 「実はな、困ったことになっているんだよ……」
 彼は、ある地域の名をあげて、そこの聖教新聞の代金が、まだ着かずにいると語った。
 その地域は交通の便も悪く、そこから金品を送付する場合、到着まで三、四日かかるのが普通であった。
 このころは、現在のような新聞販売店のシステムを全国的に確立しつつある段階であり、各組織で、新聞代金を集めている地域もあったのである。
 「新聞代を遅らせるわけにはいかんので、少しの間、その金を融通してもらえないかね。金が届けば、すぐに返せるから……」
 岡島は、″それは大変なことだ″と思った。
 ちょうどその日は、十五人いる従業員に、給料を支払う日だった。
 手元にあった五十万円を、その場で、沼山に貸した。学会の幹部ということで信用し、借用書も作らなかった。
 だが、沼山の話は、全くの作り話であった。
 岡島は″すぐに送金されて来るだろう。そうしたら返してもらえる″と、信じきっていた。
32  清流(32)
 一カ月たち、二カ月たっても、沼山広司は、金を返さず、なんの音沙汰もなかった。
 三カ月が過ぎたころ、沼山が突然、岡島正太郎の家にやって来た。
 返済に来たものだと、岡島は思った。
 ところが、沼山の口からは意外な言葉が出てきた。
 「また、困ったことになってしまってな。実はな、登山費も送られて来ないんだよ」
 岡島は、機先を制するように言った。
 「沼山さん、この前の新聞代も、まだ返してもらってないんだが」
 「わかっている。新聞代もまだなのに、登山費も来ないから大変なんだ。百万円ほどなんだが、それが納められないと、みんなの登山ができないことになる」
 沼山の困り果てた顔を見ると、人のよい岡島は、″百万は大金だが、同志が登山できなくなったら、それこそ大変だ。俺が何とかしよう。これも同志を守るためだ″と思った。
 彼は、銀行に行って金を引き出し、沼山に渡した。
 しばらくして、沼山は岡島の家に顔を見せると、また、臆面もなく、借金を申し入れた。
 「東京から幹部が来ることになった。食事などを出さなければならんのだが、手元に金がないんだ。何とかならないか、岡島君」
 今度もまた、困り果てた顔で懇願された。
 ″そんなことまでしなければならないのか。これじゃあ、金がかかるはずだ″
 学会の指導では、幹部の接待等を禁止していた。しかし、何も知らない岡島は、沼山に、金を貸すことにした。
 こうして、貸した金は、百八十万円を超えていた。
 しかし、金は一向に返してもらえなかった。
 「まだ、新聞代も、登山費も、送られて来ないのでしょうか」
 岡島が尋ねると、沼山は面倒くさそうに、「まだなんだよ」と、答えるだけであった。
 次第に岡島も、おかしいと考えるようになった。
 沼山は、岡島の態度から彼が不審に思っていることを感じたのか、機嫌を取るかのように、自分が総本山の法主からもらったというお香入れを持って来た。
 「これは大変に貴重な物だ。これを君にあげよう」
 岡島は「いらない」と突っぱね、借金の返済の催促をした。
 「金なんかない。まだ来てないものは、仕方ないじゃないか!」
 沼山は開き直った。
 岡島は″騙された″と思った。体は怒りに震えた。
33  清流(33)
 沼山広司は、全く同じ手口で、何人もの学会員を騙していた。
 ある班長も、「登山費が届かない」「財務のお金が届かない」などと言われ、百六十五万円を沼山に貸していた。
 さらに調査が進むと、妻の三重子の不正行為も浮かび上がっていった。
 支部事務所に出入りしては、婦人の中心幹部であることを利用し、適当な理由をつけて、自分が私用で使ったタクシー代などを、精算させていたことが判明したのである。
 三重子は派手好みの、見栄っ張りな性格であった。高価な服を着込み、ちょっと買い物に行くにも、自宅にタクシーを呼ぶという生活ぶりであった。
 広司の借金にしても、三重子自身が岸坂幸子に語ったように、浪費癖のある彼女が、そうするように仕向けていたのである。
 沼山夫婦は、十年ほど前に、学会に入った。沼山広司も、妻の三重子も、最初は一生懸命に学会活動に励んだ。
 やがて、夫婦で、地区部長、地区担当員になるが、夫婦仲は至って悪く、喧嘩が絶えなかった。
 三重子は「発展家」と言われ、異性との噂も絶えなかった。
 しかし、広司は口下手であり、口八丁手八丁の三重子が喚き散らすと、彼に勝ち目はなかった。
 地区部長夫婦の喧嘩を学会員は、頻繁に目にした。皆、辟易していた。
 地区のメンバーは、よくこう囁き合っていた。
 「夫婦喧嘩は、犬も食わないというが、ありゃあ、地区担が悪い。三重子さんがあれじゃあ、地区部長もかわいそうだ」
 ある時、三重子は、戸田城聖に指導を受ける機会があった。
 彼女は、その席で、夫の悪口を並べ立てた。
 それを聞くと、戸田は厳しい口調で言った。
 「あなたは、天下の悪妻だ。夫を駄目にしていることに気づかないのか。
 沼山君のことをとやかく言うより、自分を見詰めなさい」
 三重子の本質を見抜いた、戸田の指導であった。
 以来、三重子は、周囲の人びとの目には、深く反省しているように映った。
 やがて沼山広司と三重子は、支部長、支部婦人部長となった。
 しかし、しばらくすると、三重子の行方がわからなくなってしまった。異性との問題であった。
 ほどなく、姿を現しはしたものの、結局、支部婦人部長を解任せざるをえなかった。
34  清流(34)
 それから数年後、沼山三重子は、支部婦人部長に復帰した。
 この人事には、かなりの異論があったが、三重子も今は反省し、夫婦仲も良くなってきているのだから、活躍の場を与えようということになったのである。
 また、ほかに適任者が見つからないということも、大きな理由であった。
 人を信じることから始まり、善意で成り立つ、創価学会という信仰の組織の性格が、彼女の復帰を許してしまったのであった。
 これが、不信を前提に人間を見ていく、世間の組織であるならば、彼女が登用されることはなかったにちがいない。
 しかし、学会は一面、無防備なまでに寛容であった。そこに、「悪」が付け入ってきたのである。
 三重子は、人の心をつかむ才には長けていた。また、如才なく人の面倒をみるという面もあった。
 彼女の場合、そうした性格が自分の取り巻きを増やすために発揮され、次第に″親分・子分″のような、いびつな組織をつくりあげていったのである。
 人事も、すべて自分の感情が優先され、″腰巾着″のような、メンバーで固められていった。
 彼女から、「私の言うことが聞けないの!」と迫られれば、誰も反論などできない雰囲気が、組織内につくられていったのである。
 また、三重子は、自分の意のままにならない相手には、容赦しなかった。
 みんなの前で激しく罵倒したり、反対に何を言っても無視するという、陰湿な″いじめ″を執拗に繰り返すのである。
 皆、「白蛇」と呼んで、彼女を恐れるようになっていった。
 彼女が夜中に、電話で、「ちょっと、お寿司が食べたいんだけど」と言えば、市内を車で駆け回り、買い求めて届ける、取り巻きの婦人部の幹部もいた。
 だが、組織としての活動の結果だけは出ていたこともあり、東京の首脳幹部たちには、その実態がわからなかった。
 しかし、山本伸一の彼女を見る目は厳しかった。
 幹部との懇談の折などにも、彼女には、「会員のために奉仕するのが幹部である。自分のために会員を利用するようなことは、絶対にあってはならない」と厳しく言い続けてきた。
 ある時、理事長の原山幸一と、この地方の担当幹部から、沼山三重子を、さらに幹部に登用したいという人事案を聞くと、伸一は二人に尋ねた。
 「本当に、それで大丈夫なんですね」
35  清流(35)
 担当幹部が答えた。
 「はい、沼山三重子さんはファイトもありますし、大きな力をもっています」
 すると、伸一は言った。
 「私が心配しているのは心根です。信心の一念の問題です」
 再び、担当幹部が意見を述べた。
 「解任後、再び支部の婦人部長になってからは、人が変わったように頑張っています。
 それに、彼女に代わる適任者は、おりませんし、彼女の一家は、この地域の草創期から頑張ってきていますので、みんな、納得すると思います」
 「原山さんは、理事長として、どう考えているんですか」
 「私も同じ意見です」
 伸一は、二人の顔をじっと見つめた。
 「みんなで検討し抜き、これでいこうというのなら仕方がない。しかし、人事の失敗は怖いよ。
 よく面倒をみ、また、指導してあげることだ」
 首脳幹部を育成していくには、人事をはじめ、さまざまな仕事を委ねていかなくてはならない。
 しかし、伸一の目から見れば、失敗につながりかねないと感じられることも、少なくなかった。
 かといって、すべてを彼が行ってしまえば、いつまでたっても、皆が力をつけることはできない。
 そこに、伸一の悩みもあった。
 日頃、沼山三重子と接する機会の多い、支部事務所の職員の角谷藤子は、公私の区別さえあいまいな、彼女の金銭感覚のだらしなさに疑問を感じていた。
 それを察知したのか、三重子は、ある日、角谷に、こんな話をし始めた。
 「私は以前、支部の婦人部長を解任されたでしょ。だから、みんなから、なかなか信頼してもらえない面があるのね。
 解任になってから、私は一会員として、信心をやり直したのよ。でも、自分の蒔いた種とはいえ、苦しかったわ。
 解任になると、それまで毎日のように、婦人部長、婦人部長と言って慕ってきた人たちの態度も、豹変していった。
 みんなが私を見る目は、このうえなく冷たかった。
 指導を受けたくて、受けたくて、地区部長会に出たら、『ここは、あんたの来るところじゃない』って、帰されたこともあった。
 自分が惨めだったわ。本当に悲しかった。
 家に帰って、仏壇の前に座って、泣きながらお題目を唱えた。そうするしかなかったのよ」
36  清流(36)
 沼山三重子は、悲しげに遠くを見るような目をしながら、角谷藤子に語っていった。
 「山本先生も、私には、優しい言葉なんか、かけてくれなかった。支部の婦人部長に復帰してからも、そうだったわ。でも、先生は、そのなかで、私がどうするのか、じっとご覧になっていたのね。
 二年前だったわ。私、何時間もかけて、先生が指導に来られるという町まで行って、お待ちしていたことがあるのよ。
 そこで山本先生とお会いした時、先生は初めて、『よく頑張ったね』って、言ってくださった。嬉しかった。本当に嬉しかったわ。
 私は、先生にわかっていただいたんだから、もうこれで十分だと思った。
 そして、何があっても負けずに、先生についていこう、弟子の道を歩もうって心に決めたの」
 三重子の目には、うっすらと涙がにじんでいた。
 彼女はそれから、角谷を見て言った。
 「角谷さん、組織の幹部になると、人には言えない難しいことが多いのよ。みんなのために、いろいろとお金も必要。ずいぶん自腹を切ることも多いわ。
 また、私を追い落とそうとしている人もいるのよ。
 でも私は、誰に何を言われようとも、山本先生と一緒に、広宣流布に生きていこうと思うの。これが私の決意よ」
 話を聞いていると、感動的でさえあった。
 しかし、それは、いかに山本会長を慕っているかを強調することによって、自らの純粋さを演出し、角谷の自分への不信感を払拭しようとしていたにすぎなかった。
 また、その言葉に酔うことで、無意識のうちに、自分の心のなかで、悪事が正当化されていたのかもしれない。
 そこに、魔性の心理があるといえよう。
 角谷は、三重子の話は、どこかおかしいと思った。
 ″山本先生とともに、広布に生きようという人が、なんで、いい加減なことをするのだろう。
 それに、この人の口を通すと、善悪が反対になり、自分が悲劇のヒロインになっている″
 現地入りした副理事長らは、沼山広司に金を貸したという会員に、一人ひとり来てもらい、借金の金額や手口などを語ってもらった。
 そこに沼山を呼び、その事実を確認していった。沼山は、ことごとく皆の訴えを認めた。
 沼山の借金は、次々と明るみに出て、総額で二千万円を超えた。
37  清流(37)
 沼山の借金問題についての調査が続くなか、事の重大さから、学会本部としても、総力をあげて、会員の激励にあたることになった。
 理事長の原山幸一をはじめ、副理事長の十条潔、泉田弘、関久男、清原かつ、秋月英介、春木征一郎らが現地入りしたのである。
 沼山に金を貸した会員たちは、学会が会員間の金銭貸借を厳禁していることはよく知っていた。
 しかし、幹部である沼山から、登山費、新聞代、財務などの納金が間に合わないと聞かされ、広布のためだと思い、やむなく金を貸してしまったのである。
 だが、どこまでも、学会の指導を守り抜いていれば、こうした問題は生じなかったし、事実、それによって被害を免れた人も少なくなかった。
 そもそも戸田城聖が、会員間の金銭貸借を厳しく禁じたのは、そのために組織が利用されることを防ぐためであった。
 また、金銭関係のもつれが組織に波及し、怨嫉などを引き起こすことになるからである。
 よく会員のなかには、誰に金を貸そうが、そんなことは、個人の自由ではないかという者もいた。
 そういう声を聞くと、戸田は言った。
 「私が金銭貸借を禁じているのは、そのことから、結局は、信心がおかしくなり、学会という正義の組織が破壊されていくからだ。
 金を借りた幹部は、相手にきちんと信心指導ができなくなり、わがままを許すようになる。また、人事も公平さを欠いていく。
 一方、幹部や会員に金を貸して、返してもらえないというと、学会や信心に不信をいだき、怨嫉し、やがては退転していく。実際にみんなそうだった。
 私は、みんなを不幸にさせないために、金銭貸借を禁じたのだ。
 もし、どうしても貸したいというのならば、貸せばよい。だが、学会は知らぬぞ。また、返さないからといって恨みごとをいうな。貸したいのなら、あげるつもりで貸しなさい」
 金銭貸借の厳禁は、どこまでも信仰の世界の純粋さを守るための、戸田の決断であった。
 沼山広司に金を貸した会員たちは、返済を求めて法的措置を取った人など、それぞれが事後処理にあたったが、幹部の不正行為だけに、組織への影響は大きかった。
 現地から戻った理事長の原山幸一たちは、協議の末に、沼山広司、並びに、妻の三重子の役職を解任することにし、会長の山本伸一に決裁を求めた。
38  清流(38)
 山本伸一は、沼山広司・三重子の夫婦を解任したいという、皆の意向を聞くと言った。
 「当然、そうせざるをえない。戸田先生は『学会の組織は、戸田の命より大切だ』と言われた。
 その組織を利用し、会員を騙して、金を借りるなど、もってのほかだ。その罪は大きい。厳格な対応が必要だ」
 皆、大きく頷いた。
 しかし、次の瞬間、伸一から、意外な言葉が発せられた。
 「ところで、それはそれとして、私は、彼らの生活を助けてやりたいんだ」
 すると、一人の首脳幹部が血相を変えて答えた。
 「先生、彼らは学会に迷惑をかけたんです!」
 「それはわかっている。しかし、事業も行き詰まっているんだから、これから先も、借金の返済に追われるだろう。惨めこのうえないではないか。それを思うと、かわいそうでならない。
 本当に反省しているのなら、私が個人的に援助し、なんとか立ち直る契機をつくってやりたいんだ」
 伸一の言葉に、皆、驚きを隠せなかった。
 ある人は、″山本会長というのは、どこまで人がよいのだ″と思った。
 また、ある人は、学会に迷惑をかけた者のことを、最後まで心配し、面倒をみようとする伸一の心に、感動を覚えた。
 結局、ずる賢い沼山夫婦は解任になり、彼らが担当していた組織は、別の方面で幹部として活動してきた、大原清と妻の久子が担当することになった。
 現地には、一人の副理事長が残留し、その後も沼山の問題の処理にあたっていた。
 支部の拠点として使っていた会員宅に、この副理事長がいると、沼山広司が逆上して乗り込んで来た。
 「俺はな、これまで、ずいぶん学会には尽くしてきたんだ! それなのに、クビにしやがって!」
 これまでとは打って変わって、すごい剣幕である。
 「解任については、納得したことではないか……」
 副理事長は諭そうとしたが、もはや沼山には、話は通じなかった。
 「この野郎!」
 沼山は、副理事長の胸倉をつかんで、殴打した。
 「こんなことをすれば、取り返しのつかないことになるぞ!」
 「うるせえ!」
 沼山は吐き捨てるように言い、部屋を出ていった。
 副理事長はがっくりと肩を落とした。
 殴打されたことへの驚きや悔しさからではない。山本会長の心もわからず、反省もない、沼山という人間に対する落胆であった。
39  清流(39)
 沼山夫婦の処遇については、再度、審議され、学会除名に決定した。
 山本伸一は、この沼山夫婦の問題を最も深刻にとらえていた。
 彼らは、地域の学会の草分けともいうべき存在であり、周囲の幹部も、それを評価し、敬意を表してきた。また、彼らなりに、真剣に活動に励んできた時期もあった。
 だから、幹部に登用されてきたのである。
 人間には、誰にも、名聞名利や私利私欲を貪る心はある。だが、広布に生きようと、懸命に信心に打ち込んでいる時には、そうした生命は冥伏されている。
 しかし、油断が生じ、惰性に陥る時、悪しき性癖が噴き出し、心は邪心に染まっていく。
 ゆえに、大聖人は「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せなのである。
 信仰とは、己心の魔と仏との戦いでもある。
 幹部として広宣流布の力となり、一生成仏の道を歩むか、あるいは、退転・反逆していくかは、わずかな一念の差であり、紙一重ともいえよう。
 自己の生命の魔性に敗れた、沼山広司・三重子夫婦は、学会の組織や会員を、自分のために利用することしか考えないようになっていったのであろう。
 では、どうすれば、こうした問題を防ぐことができるのか。
 少しでも、学会の指導に反する行為が見られたならば、相手が誰であろうと、すぐに指摘し、戒めていくという、勇気ある行動をとることである。
 それが根本的には、学会の組織を守り、相手を守ることにもなる。
 ともかく、皆が聡明になることだ。悪を見逃さぬ目をもち、悪とは敢然と戦うことだ――それを訴え続けていく以外にないと、山本伸一は思った。
 学会から除名された沼山夫婦は、いよいよその本性を露にしていった。
 自分たちは、創価学会の被害者であるかのように、盛んに学会を中傷し始めたのである。
 この地方の会員たちの驚きは、あまりにも大きかった。
 皆、広宣流布の途上に、障魔が競い起こることは、よく知っていた。事実、多くの会員が、信心を反対され、悪口を言われてきた。
 しかし、幹部として皆を指導していた者が、不正な問題を起こし、しかも、学会を非難するという事態に直面したのは、初めてのことであった。
40  清流(40)
 動揺した会員も少なくなかった。
 学会本部から派遣された幹部が、指導、激励にあたった時にも、しばしば、こんな質問が出た。
 「信心が強盛で、立派な人だから、幹部になったんでしょう。それが、どうしてこんな問題を起こすのですか。誰を信じて信心をしていけばよいのですか」
 そう考えるのも無理からぬことではあるが、御聖訓に照らしてみれば、不思議なことは何もなかった。
 御書には、この世界は第六天の魔王の領土であり、魔王は、広宣流布が進み、仏の軍勢にその領土を奪われることを恐れて、ありとあらゆる手を尽くし、法華経の行者を迫害することが述べられている。
 沼山夫婦の問題も、その一つの現れである。
 「三沢抄」には、第六天の魔王が、法華経の行者を悩ませるために、自分の眷属に次のように命令したと仰せである。
 「かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ
 つまり、弟子檀那の心のなかに入って、仏子を惑わし、広宣流布の前進をとどめさせよというのである。
 それは、人びとの意表を突き、不信をいだかせるのに、極めて効果のある、魔の現れ方といえよう。
 ゆえに、広宣流布が魔軍と仏の軍との戦いである限り、魔は、幹部の不祥事、退転、反逆というかたちとなって、永遠に現れ続けるにちがいない。
 だが、何も恐れるには足りない。魔は魔であると見破った時に、打ち破ることができるからである。
 要は、現象に惑わされるのではなく、″信心の眼″を開き、御書に立ち返ることだ。
 一見、複雑そうに見える問題も、″信心の眼″で見るならば、すべては明瞭である。
 派遣幹部は、必死になって、魔の狙いは信心の心を失わせることにあると、力説していった。
 沼山夫婦の後任として派遣された大原清と、彼の妻の久子も、懸命に友の激励に走り抜いた。
 会員の心に生じた、不信感を拭うには、自分たちが本当の学会のリーダーの在り方を身をもって示し、信心の清流を伝えゆく以外にないというのが、大原夫妻の結論であった。
 それには、″無私の心″で、会員に奉仕し抜くことだ。誠心誠意、一人ひとりと語り合うことだ――と彼らは思った。
41  清流(41)
 大原清・久子の夫妻の、地道な、そして、堅実な労作業が始まった。
 当初、彼らを見る目は、決して、温かいものではなかった。
 だが、ここに仏道修行があると心に決め、誠実に、粘り強く、活動を開始したのである。
 山本伸一も、十一月初め、この方面を訪問した。
 伸一は、友の心に生じた迷いの雲を払い、信仰の太陽が放つ希望の光を、一人ひとりの胸中に送りたかった。
 また、この地で、奮闘を重ねるメンバーを励ましたかったのである。
 伸一は、この方面に新たに誕生した会館を訪れ、そこで、幹部の姿勢について訴えていった。
 「姿のうえでは、学会についてきているように見えても、心のなかでは自分のために学会を利用しようと考え、卑怯な態度で、信心をしている人もいます。
 過去にも、そういう人たちが何人かおり、結局は学会に迷惑をかけ、同志を裏切っていきました。
 だが、その人たちは、今になって、本当に悔いております。それが仏法の厳しさです。
 大勢の幹部がおりますゆえに、これからも、学会を利用し、私利私欲を貪り、名聞名利のために、退転していく人も出るでしょう。
 しかし、皆様方は、絶対にそうなってはならない。あとになって、地獄の苦しみを受けるようでは、信心をしてきた意味がありません。
 信心第一に、何があっても、御書に仰せの通りに、純粋に、一途に、自身の一生成仏のために、清らかな信心を貫いていっていただきたいのであります」
 伸一は、さらに、沼山三重子のもとで活動していた、数人の婦人部の幹部と会った。
 彼は、信心は、どこまでも「法」が中心であり、つくべき人を間違えることなく、学会の指導を根本に、広宣流布に生き抜くことの大切さを、諄々と語っていった。
 彼は、できることなら、沼山夫婦が居住している場所にも足を運び、地元の組織のメンバーを、一人ひとり、激励したかった。
 しかし、伸一のスケジュールは、既にぎっしりと詰まり、変更することは困難であった。
 彼は、東京に戻る途中、空港からメンバーに激励の電報を打った。
 「……必ず後日、応援にまいります。どうか仲良く、たくましく前進して、幸福になってください」
 地元のメンバーは、皆、その言葉を胸に刻んで、新たな出発を誓い合ったのである。
42  清流(42)
 沼山広司・三重子の問題から、山本伸一は、妻の夫への影響の大きさを痛感していた。
 調査にあたった幹部の報告を聞くと、表面に出ているのは夫の広司であるが、彼を動かしているのは、むしろ、妻の三重子であることは明らかであった。
 妻の信心、生き方、考え方は、そのまま夫の人生を左右し、決定づけていくといっても過言ではない。
 それだけに、あらゆる機会を通して、夫人への指導を重ねていくことが必要であると、彼は思った。
 伸一は、十一月の十日には、北海道・函館での北海道第二本部結成大会に出席したが、彼はここでも、妻の在り方について指導することにした。
 函館は、会長就任後、初めての訪問である。
 彼は、数人の友と懇談しているかのように、静かな口調で話を進めた。
 「今日は、私は奥さん方に申し上げておきたいことがあります。
 ご主人がどこまでも広宣流布のために、また、職場で頑張るためには、夫人の力が非常に大事になるということです。
 大聖人も、男は『矢』、女は『弓』と仰せであり、妻の信心によって、夫は大きく左右されていきます。いわば、妻あっての夫といえます。
 戦時中、学会は、軍部政府と戦い、大弾圧を受け、牧口先生、戸田先生をはじめ、二十人ほどの幹部が牢獄に入りました。
 投獄された幹部は、最初は皆、何があっても正義を貫こう、信心を貫こうと心に決めていましたが、しばらくすると、次々と退転してしまった。
 結局、最後まで戦い抜いたのは、牧口先生と戸田先生だけでした。
 では、ほかの最高幹部が退転していった原因はなんであったか。
 それは、最初に、妻が信心を失ったからです。そして、夫にも信仰を捨てて、早く家に帰って来るように迫ったことが原因です」
 ここで、伸一の声に力がこもった。
 「先日も、ある方面で、幹部夫妻が学会を除名になりました。学会員を騙して金を借り、大勢の人たちに迷惑をかけたんです。
 よく調べていきますと、妻の生活は派手であり、たくさんの洋服を買うなど、自分自身の虚栄のために、主人を動かして、会員から金を借りるように仕向けていたということでした。
 結局、妻に操られていたようなものです。皆さんは自覚していないかもしれないが、妻の影響は、それほど大きなものなんです」
43  清流(43)
 婦人部のメンバーは、真剣な目で、山本会長の指導に耳を傾けていた。
 「極端な言い方をすれば、夫がよくなるのも、悪くなるのも、また、子供がよくなるのも、悪くなるのも、ひとえに、妻であり、母である婦人の皆さんにかかっているといえます。
 その婦人が、ひねくれてしまったり、自分の虚栄心のままに生きたり、あるいは鬼子母神のごとく、わが子を溺愛し、ほかの人の子供を食うかのような生き方になればどうなるか。
 やがては、夫も、子供も、また、周囲の人びとも不幸になってしまう。
 どうか皆さんは、ご主人も学会の庭で、社会で、立派に活躍し、子供も真っすぐに成長できるように、信心第一で、自身の人間革命に励んでください。
 また、しっかりと、ご家族を励ましていっていただきたいと思います。
 もし、ご主人が退転しかかったり、学会精神に反するようなことがあった場合には、毅然として、『あなた、そんなことでいいんですか!』と、言ってあげてください。
 そうすれば、たいてい、ご主人の方は、『すいません』となるものです」
 爆笑が広がった。
 伸一は言葉をついだ。
 「ご婦人は、一家の幸福と信心の太陽であります。
 ゆえに、どこまでも、信心強盛であっていただきたい。また、見栄を張り、派手になって、生活を破壊していくことのないよう、堅実で、清楚で、聡明であっていただきたい。
 生活も無駄をなくして、賢く、価値的にやりくりしてください。
 そして、たとえば、ご主人が東京の会合に行きたいが、お金がないなどという時があったら、『私が用意しておきましたよ』と言って、お金を渡せるぐらいになってほしいんです。
 でも、ご主人は、それをあてにしてはいけませんよ。これは、たとえばの話ですから」
 会場は、再び笑いに包まれた。
 「皆さんは、何かあれば愚痴をこぼしたり、人を嫉妬したりする、暗い沼地のような生き方であってはならないと思います。
 明るく、はつらつと、日々、生活の軌道を力強く歩みゆく、″太陽の人″であってください。
 また、ご一家を守りながら、宿命に泣く人びとを励まし、地域に希望の光を送る、″太陽の人″であってください。
 北海道の婦人部の皆さんの健闘を、私は心から願っております」
 伸一は、未来のために、警鐘を鳴らしておきたかったのである。
44  清流(44)
 山本伸一は、沼山の問題が起こった地域の、同志のことが、日々、頭から離れなかった。
 彼は、この地のメンバーの発心と前進と幸福とを祈り続けていた。
 年が明けて、翌一九六四年(昭和三十九年)一月半ば、彼は再び、この方面を訪問し、沼山夫婦が担当していた地域の幹部会に出席した。
 二カ月前に送った電報の、「必ず後日、応援にまいります」との約束を果たしたのである。
 この地域のメンバーの成長は目覚ましかった。
 幹部の退転は、信心を妨げようとする「天魔」の働きである。
 それに真っ正面から挑み、戦い、打ち破っていく時、広宣流布の進展は大きく加速する。
 風がなければ、旗はなびかない。障害があるからこそ、鍛えがあり、信心の成長が図られるのである。
 障害こそが、飛躍のチャンスである。勇気と、祈りと、自身の限界に挑む行動があれば、いっさいを好転させていくことができる。
 試練を乗り越えた同志の顔は、光り輝いていた。新たな建設の息吹がみなぎっていた。皆の心も一つに結ばれ、強い団結が生まれていた。
 この日、伸一は、出迎えた幹部に言った。
 「おめでとう! みんなよく頑張ったね。これから、この地域は、大発展していくよ。
 滾々と水が湧き出る泉のように、信心の清らかな水源があれば、何も恐れるものはない。泥をもって汚そうが、清流は、すべてを洗い流していくものだ。
 みんな、生涯、信心の清流を貫いていくんだよ」
 伸一の第三代会長就任以来、広宣流布の水かさは増し、幹部の数も増大した。それにともない、名聞名利の心をいだき、学会を利用しようとする人間が会員となり、幹部となることもあるにちがいない。
 しかし、学会は、いかに大河の時代を迎えようとも、一点の濁りもない、清流のごとく、清らかな信心の団体であらねばならない。
 伸一の眼は、これから戦いゆかねばならぬ、未来にわたる、新たな課題をとらえていた。
 この日は、美しい青空がどこまでも広がり、太陽がまばゆく輝いていた。
 伸一は、希望の春の到来を感じた。
 ――ところで、あれほど同志を苦しめ、尊い仏子の集いである学会に迷惑をかけた、沼山広司・三重子は、そのあと、どうなっていったのか。
45  清流(45)
 あの事件から十数年後のことであった。
 六十年配の男が、ある男性に付き添われて学会本部にやって来た。男の顔色は悪く、全く生彩がなかった。沼山広司であった。
 沼山と一緒にやって来たのは、彼が面倒をみてもらっている縁者であった。
 本部では、この時、副会長であった関久男が応対した。沼山の姿は、哀れこのうえなかった。
 沼山は、意を決したように言った。
 「学会を除名になってから、すべて悪くなるばかりで、まるで地獄のようでした。一家も離散の状態です。今日は、学会の組織につけていただきたくて、お詫びにまいりました」
 同行してきた男性が口を挟んだ。
 「学会は、沼山がよい時には用いて、大変な状況になると解任し、除名にしてしまう。これはひどいではないですか」
 関は言った。
 「してはいけないことをして、学会にさんざん迷惑をかけたから、除名にしたのです。そうでしょ、沼山さん!」
 「はい、その通りです」
 沼山が答えると、同行の男性は怒りを含んだ声で、つぶやいた。
 「そんなこと、聞いていなかったぞ」
 沼山は、「お詫び」と言いながら、縁者にも、自分の都合のよいように、事実を歪曲して伝えていたのであろう。そこに、彼の心根のずるさがあった。
 沼山は、自分の非を棚に上げ、担当の副理事長を殴打までした人間である。
 それが、ともかく本部まで詫びに来た背景には、筆舌に尽くしがたい苦悩があったにちがいない。
 まさに「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」との御聖訓通りの姿である。
 関は、沼山を前にして、仏法の厳しさを、改めて痛感するのであった。
 一方、妻の三重子は、後年、低俗な週刊誌などに登場し、山本伸一の事実無根のスキャンダルを流すようになった。
 そこでは、自分が学会の被害者であるかのように装い、聞くに堪えない中傷と誹謗を重ねたのである。
 彼女は、信仰の根本である御本尊さえも不敬するに至っていた。
 民衆の時代を開く、学会の前進を阻もうとする勢力は、″団結の要″である会長山本伸一を狙い撃とうとする。
 その勢力にしてみれば、沼山三重子の″告発″は、いかに嘘で塗り固められていようとも、学会攻撃の貴重な武器になると考え、彼女を巧妙に利用したのであろう。
46  清流(46)
 学会を叩きつぶすためには、手段を選ばず、利用できるものは何でも利用するというのが、民衆の力の台頭を阻止しようとする勢力のやり方である。
 そこに、広宣流布の戦いの熾烈さもある。
 ところで、不祥事を起こし、学会に迷惑をかけて、退転していった人間は、必ずといってよいほど、学会を逆恨みし、攻撃の牙を剥くものである。
 それは、一つには、学会を利用し、果たそうとした野望が実現できなかったことから、学会を憎悪し、嫉妬をいだくためといえる。
 また、不祥事を起こした、脱落者、敗北者の″負い目″″劣等感″を、拭い去ろうとする心理の表れともいえる。そのためには、自己を正当化する以外にないからだ。
 そこで、学会や山本伸一を「巨悪」に仕立て上げ、自分を、その被害者、犠牲者として、「悪」と戦う「正義」を演じようとするのである。
 この本末転倒の心の在り方を、「悪鬼入其身」というのである。
 しかし、そうした輩の中傷は、なぜか、自分の犯した悪事と同じことを、学会が犯していると吹聴するケースが多い。
 たとえば、金銭問題や異性問題を起こして退転していった者の手にかかると、学会は、そうした問題の温床であり、伸一は、その元凶ということになる。
 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といわれるが、人間の思考も、自分の境涯の投影であるからであろう。
 そして、退転者の流すスキャンダルを鵜呑みにする人もいれば、本質を見抜き、一笑に付す人もいる。
 この反応にも、その人の境涯、人格、人間観が端的に表れる。人間は、常に自分を基準にしてしか、他者や物事を推し量ることができないからである。
 ともあれ、ものに憑かれたように、憎悪を剥き出して、伸一と学会への中傷を重ねた沼山三重子であったが、その末路は、無残この上なかった。
 彼女は、なんと、晩年になると、かつて、ともに活動した学会員のところへ電話をしてきては愚痴をこぼし、学会に戻りたいと語るようになった。
 彼女からの電話を受けたメンバーは、一様に驚きと怒りを覚えた。
 ある婦人部員は、こう叫ぼうとした。
 「ふざけないでよ! 学会を裏切り、さんざん迷惑をかけておいて」
 しかし、言葉にはできなかった。三重子の声は、あまりにも苦しそうな、うめくような声であったからだ。哀れさが先に立ってしまったのである。
47  清流(47)
 ある時、沼山三重子は、かつての婦人部長である、清原かつを訪ねて来た。
 清原は、その変わり果てた姿に、息を飲んだ。
 体はやつれ、顔色は青黒く、生気は全くなかった。
 三重子が、弱々しい声で、喘ぐように語ったところでは、癌に侵され、しかも、転移してしまっているとのことであった。
 彼女は、深々と頭を垂れて言った。
 「学会にご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんでした。もう一度、もう一度、学会員にしてください……」
 病に苦しみ、死を見すえた彼女は、学会に敵対し、仏法に違背した罪の深さに、気づかざるをえなかったのであろう。
 仏意仏勅の団体である創価学会の組織を撹乱し、反旗を翻した罪はあまりにも重く、限りなく深い。
 大聖人は「法華経には行者を怨む者は阿鼻地獄の人と定む」と仰せである。
 かつて教学を学んだ彼女は、病苦のなかで、わが身の罪業の限りない深さに気づき、恐れおののき、地獄の苦にあえぎ続けていたにちがいない。しかも、その業苦は、生々世々にわたることであろう。
 清原は、哀れ極まりない沼山三重子の姿を目の当たりにすると、胸が締めつけられ、怒る気にもなれなかった。そして、あまりにも厳しい仏法の因果に慄然とした。
 清原は言った。
 「懺悔滅罪のお題目よ。ともかく、命ある限り、御本尊に、罪をお詫びし抜くしかないでしょ」
 しかし、ほどなく三重子は他界している。無残な末路といわざるをえない。
 人は騙せても、自分は騙せない。また、自分は騙せても、仏法の法理をごまかすことは絶対にできない。
 生命の因果の法則の審判は、どこまでも厳格であり、峻厳であることを知らねばならない。
 広宣流布の航海は、波瀾万丈である。疾風もある。怒涛もある。嵐もある。
 しかし、風を突き、波を砕き、ただひたすら、前へ、前へと、進み続ける以外にない。
 あの地にも、この地にも、苦悩の岸辺をさまよい、われらを待ちわびている、数多の友がいるからだ。
 山本伸一は、来る日も、来る日も、広布の舵を必死に操りながら、「本門の時代」への前進の指揮をとり続けていた。
 希望の帆を張り、勇気の汽笛を、高らかに轟かせながら。
 (この章終わり)

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