Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第8巻 「布陣」 布陣

小説「新・人間革命」

前後
2  布陣(2)
 山本伸一は、会長就任三周年となる、五月三日の第二十五回本部総会を前にして、今なすべきことは何かを考え続けていた。
 この五月三日は、伸一が第一の指標と定めた、恩師戸田城聖の七回忌に向かう総仕上げの一年となる。
 彼が会長就任時に掲げた目標は、着実に成就されつつあった。
 会員三百万世帯は、五カ月前に達成し、今や学会は三百三十余万世帯となっていた。また、総本山に建立寄進する大客殿も、着々と工事が進み、来春の完成を待つばかりとなっている。
 更に、新学会本部もこの八月に完成し、九月初めには落成式が行われることになっていた。
 一方、学会が母体となって誕生した、公明政治連盟も大きな飛躍を遂げ、地方議員は千名を上回るまでになった。
 政治を民衆の手に取り戻し、民衆が主役となる社会を建設するための大きな流れも、着実につくられていった。
 伸一の会長就任以来、学会は上昇に次ぐ上昇を重ね、大発展していることは間違いなかった。
 それだけに、次の飛翔のためには、更に、各地に本部、総支部の布陣を整え、組織の強化を図る必要があることはわかっていた。
 しかし、伸一は、もっと重要な課題があることを痛感していた。
 それは、殉難をも恐れず、民衆の幸福と人類の平和に生涯を捧げた、先師牧口常三郎と恩師戸田城聖の精神を、いかにして永遠のものにしていくかということであった。
 彼は、学会が発展するにつれて、幹部のなかに、その精神が希薄になっていきつつあることに、憂慮を覚えたのである。
 たとえば、学会のため、広宣流布のために、自分が何をするのかではなく、できあがった組織の上に乗っかり、学会に何かしてもらうことを期待する幹部が出始めていることを、彼は感じとっていた。
 また、学会のなかで、より高い役職につくことが、立身出世であるかのように勘違いし、いわゆる″偉くなる″ことに執心し、人事のたびごとに一喜一憂している者もいた。
 名聞名利の心をいだき、自分のために学会を利用しようとするような者が幹部になれば、会員が不幸である。やがては、学会自体が蝕まれ、内部から崩壊していく要因となることは必定である。
 伸一は、未来の大発展のために、この兆候の根を断ち、まず幹部の胸中に、学会精神をみなぎらせることから始めようと、密かに決意したのである。
3  布陣(3)
 五月三日、第二十五回本部総会の日を迎えた。
 山本伸一が第三代会長に就任した、あの三年前の本部総会の日と同じく、東京地方は、朝から、五月晴れの空が広がっていた。
 入場完了は午前九時となっていたが、会場の東京・両国の日大講堂には、早朝から多数の参加者が集って来た。
 午前七時、アメリカ総支部、東南アジア総支部など、海外のメンバーが入場すると、既に、人で埋まった場内から、大きな拍手と歓声がわき起こった。
 ロサンゼルス支部、香港支部、バンコク支部、サイゴン支部、ジャカルタ地区などと書かれた幟を立て、喜々として胸を張り、入場して来る海外のメンバーの姿を目にした参加者は、誰もが広宣流布の世界的な広がりを実感していた。
 山本会長の初の海外訪問から二年半、世界広布は夢から現実となり、眼前にその姿が展開されているのである。
 午前九時四十五分、開会が宣言され、学会歌「革新の歌」の大合唱のなか、学会本部旗を先頭に、山本会長が入場した。
 「開会の辞」に続いて、副理事長で指導部長の関久男が、この一年間の学会の歩みを報告したが、すべてにわたって大発展の足跡を刻んでいた。
 会員世帯数は、前年の五月には、二百六十万世帯であったが、それが三百三十数万世帯となり、一年間で七十数万世帯の増加を見たのである。
 組織の面では、この一年間で、四本部、二十一総支部、百三十五支部が誕生。
 特に海外の発展は目覚ましく、南米、ヨーロッパの二総支部が誕生したのをはじめ、サイゴン、ラングーン、ペルー、ボリビア、ハワイ、ドイツ、ニューヨーク、パリ、シアトルの九支部が、順次、結成された。
 しかも、アメリカのロサンゼルスには、会館も設置されたのである。
 一方、学会がこの一年間で建立寄進した新寺院は十五カ寺となった。
 更に、文化局では、学芸部を発展的に解消し、新たに学術部と芸術部が発足したのである。
 参加者は、これらがすべて、わずか一年間のうちになされたことであると思うと、感慨を新たにするのであった。
 まさしく、一年一年が、昇りゆく旭日のごとき、未聞の広布の大前進であり、大飛躍である。
 学会には勢いがあった。勝利の喜びが、次の勝利を生む。そして、それが、更に大勝利への勢いと活力となっていったのである。
4  布陣(4)
 やがて、人事の発表となった。
 この日、新たに八人の理事が誕生し、これで理事室は、百二十七人の陣容となった。また、九州本部が三分割されて、九州第一から第三までの三人の本部長が誕生したのである。
 更に、女子部では、女子部長であった谷時枝が婦人部に進出し、これまで女子部の企画部長を務めてきた渡道代が、新女子部長となった。
 一方、海外では、香港支部の支部長に、日本に帰国した岡郁代に代わって、周志剛(チャウ・チーゴン)が就任した。
 女子部長になった渡道代は、学生部長の渡吾郎の妻であり、夫妻ともに、山本伸一が手塩にかけて育ててきた人材であった。
 彼女は、一九三二年(昭和七年)、韓国の裡里に生まれ、十三歳の時に京城(現在のソウル)で終戦を迎えた。
 鉄道の仕事をしていた父親は、すぐに引き揚げることができず、父親を残して、一家は日本に帰ることになった。
 祖父と祖母、それに身重の母と子供たち三人の、心細い帰国の旅であった。
 ようやく下関に着いた一家は、親戚のいる埼玉県の秩父に身を寄せるために、満員の汽車に乗り込んだ。
 だが、焼け野原と化した街で汽車は止まってしまった。広島である。この無残な祖国の姿が、彼女の胸に焼きついて離れなかった。
 広島から、石炭を積んだ、屋根もない貨物列車に乗ったが、そこにも人があふれていた。
 途中、雨が降り始めた。雨と涙が、道代の頬を濡らした。
 秩父での生活が始まった。牛小屋に床を張った一間の家で、家族六人が暮らした。家計を支えるために、道代も女学校に通いながら働いた。
 山から車の通る道まで、柴を運び出すのが、彼女の仕事だった。荷でこすられた肩に、血が滲むこともあったし、冬は、しもやけで痛む足を引きずりながらの労作業であった。
 やがて父親も引き揚げ、一家は熊谷に移った。
 道代は、大学進学を決意していた。だが、家には、そんな経済的な余裕はなかった。高校さえも、アルバイトで学費を捻出しなければならなかった。
 更に、一家が大宮に移転すると、彼女は、中学校の近くという地の利を生かして、玄関先を改造し、父親に資金を出してもらい、文房具店を開いた。
 そして、入学金を蓄え、早稲田大学の法学部に進んだのである。
5  布陣(5)
 道代は、高校時代から社会主義の運動に参加するようになっていた。貧しい者、弱い者が切り捨てられてしまう社会の矛盾を解決し、平和な国を築こうとの思いからであった。
 しかし、自分の幸福を犠牲にして活動し、遂には、挫折していく運動家たちの姿を見ていると、やるせなさを覚えた。
 また、世の中には不治の病や家庭不和など、社会の制度の改革だけでは、解決しようのない苦悩が数多くあることを思うと、その運動にも限界を感じた。
 そんな時、自分の家に牛乳を配達していた、小山誠一郎という青年から、学会の話を聞いた。
 個人の幸福と社会の繁栄の一致をめざしているのが仏法であるとの言葉に、彼女は、心を動かされたのである。
 大学在学中の一九五二年(昭和二十七年)十一月、道代は入会した。一年間、信心に励んで、思うような結果が得られなければやめようとの考えで、始めた信仰であった。
 彼女は、何かをつかもうと、真剣に信心に励んだ。毎日のように、市ケ谷の学会本部の分室にも通い、会長の戸田城聖にも指導を求めた。
 そうしたなかで、民衆を苦悩から解放できるのは仏法しかないとの、強い確信をもつようになった。
 一年たった時、彼女は、生涯、学会とともに生き抜く決意を固めていた。
 やがて、大学を卒業すると、本部職員となり、聖教新聞の記者となった。聖教初の女性記者である。
 彼女は記者として、社会的な視点を大切にした。たとえば、病気の体験を記事にする時にも、治療した医師を訪問し、医学的には、その現象をどう見るのかを取材していった。
 独断ではなく、誰もが仏法の力を納得することができる記事を書こうと、心がけていたのである。
 また、雑誌などの名編集長がいると知れば、聖教新聞を持って訪ね、意見を求めた。
 自分のかかわった仕事を完璧なものにしていこうという、強い向上心が彼女にはあった。
 人間の成長を大きく分けるものは、この″向上の心″の有無といってよいであろう。
 彼女は、女子部の企画部長になり、女子部長の谷時枝のもとで、大きな力を発揮していった。
 彼女の発想は、斬新であった。しかし、それゆえに、婦人部や女子部の先輩たちには、受け入れられないこともあった。
 行き詰まった道代は、山本伸一に、指導を求めに来ることがよくあった。
6  布陣(6)
 山本伸一は、道代の資質を女子部のためにも生かしたかった。
 だからこそ、時には厳しい指導もした。
 ある時、自信をもって出した提案が通らず、気落ちして相談に来た彼女に、伸一は言った。
 「広宣流布とは、人びとの幸福と平和を築く、無血革命ともいえる。社会主義の革命家だって、弾圧に次ぐ弾圧のなかで、信念を曲げず、命がけで戦ってきたではないか。
 周囲が自分の意見を聞き入れてくれないからといって、弱気になってしまうような人間には、広宣流布をしていく資格などない」
 それで決意を新たにし、なりふりかまわず、懸命に活動に励んでいる道代の姿を見ると、彼は言った。
 「女性として、身だしなみや服装には気を使い、いつも、きちんとしていなくてはならない。
 世界の一流の女性リーダーというのは、その点にも心を配っているものだ。心のゆとりのないリーダーでは、人はついてこない」
 また、こう指導したこともあった。
 「″自分が、自分が″という自己中心的な生き方やスタンドプレーでは、後輩は育たない。みんながどうすれば、明るく、楽しく、力を発揮できるのかを考えて、自分よりも、皆に光が当たるようにしていくことが大事だ。
 そして、みんなの話をよく聞き、一人ひとりを温かく包んでいくことだ。心の冷たい、機械のような幹部であれば、最後は、誰からも相手にされなくなってしまう。
 信仰というのは、人間性の錬磨であることを忘れてはいけない」
 道代は、女子部のリーダーの一人として、着実に成長していった。
 彼女が渡吾郎と結婚したのは、戸田城聖が逝去した翌年の、一九五九年(昭和三十四年)の五月のことである。
 渡も聖教新聞の記者をしており、恋愛の末の結婚であった。
 二人が結婚の報告に来た時、伸一は言った。
 「そうか、おめでとう。戸田先生がご存命ならば、どれほどお喜びになられただろうか……」
 伸一は、かつて、戸田が「あの二人を一緒にしたいな。きっと愉快な夫婦になるだろう」と語っていたことが、忘れられなかったのである。
 渡道代は、結婚後、出産してからも、聖教新聞の記者を続け、女子部の企画部長の任も全うしてきた。
 彼女には、環境が変わっても、一歩も引くことなく自身の使命を果たし抜こうとの、強い思いがあった。
7  布陣(7)
 本部総会では、人事発表の後、香港支部旗の返還授与、そして、一月に結成された、ハワイ支部とシアトル支部の、支部旗の授与が行われた。
 次いで、副理事長の秋月英介が、戸田第二代会長の七回忌までの活動の流れを語った後、各部の代表者の抱負となった。
 まず、学生部長の渡吾郎が、真紅と紺青の学生部旗のもとに、二万人の学生を結集していきたいと決意を述べた。
 次は、新女子部長の渡道代が登壇し、はつらつと抱負を語り始めた。
 「会長就任三周年の、輝かしい新たな前進の時にあたり、女子部長の大任を拝しました。
 全生命力を奮い起こし、ただひたすら、広宣流布に邁進してまいる決意でございます」
 そして、女子部のテーマとして、第一に「不動なる信心の確立」を掲げた。
 根のない人生は、波間に漂う浮草のように、時流や自分の弱さに流されてしまう。また、試練の嵐の前には、あえなく挫折してしまうことになる。
 その根こそ、「信心」であり、それは、唱題に始まり、唱題に終わることを、彼女は訴えていった。
 第二に「生涯勉強」を呼びかけた。学ばぬ人間には、成長も進歩もない。″学ばずは卑し″である。ましてや次代の女性リーダーに育とうとするならば、勉強は最大の権利であり、義務といってよい。
 彼女は、特に女子部は、生き方の根本となる教学の研鑽に力を注ぎ、仏法の生命の哲理を、自身の生き方の哲学としていきたいと語った。
 続いて、男子部長の石川健四郎が登壇した。
 彼は、この四月に、初のヨーロッパ男子部総会がパリで開催されたことを報告するとともに、世界の各地で、青年の力によって、新しい広宣流布の波が起こりつつあることを語った。
 そして、この広布の大前進のためには、幾多の新しい人材が要請されていると強調。
 あらゆる分野の逸材を育成し、それに応えていきたいと述べ、次のように話を締めくくった。
 「人材を育む母体は、学会の組織です。組織は民衆の海であり、そのなかに飛び込み、揉まれてこそ、強い、シャチのごとき自分をつくることができます。
 私たち男子部は、盤石な組織をつくり上げるとともに、組織の最前線を駆け巡り、各部の皆さんの依怙依託となりながら、社会建設の大闘争を展開してまいる決意であります」
8  布陣(8)
 青年部に続き、婦人部を代表して、清原かつが登壇した。
 彼女は、堂々と胸を張って、婦人部の活躍を語り始めた。
 「私は、平和社会を建設する学会の原動力、推進力は婦人部であると、叫びたいのであります。
 医師に見放され、病に泣く人に、信心を勧めてきたのも婦人、貧困に苦しむ家に、何回となく足を運び、仏法を教えてきたのも婦人ではないでしょうか!
 また、家庭にあっても、生活苦に疲れた夫を激励するのも婦人、子供を学会の後継の人材に育てているのも婦人です。
 戸田先生は、『広宣流布は婦人の手でできる』と言われましたが、実質、学会員の半数以上が婦人部であるという事実が、それを、明確に裏づけています。
 だからこそ、会長山本先生は、婦人部を大切にし、『大白蓮華』の三月号の巻頭言に、『婦人部に与う』を寄稿してくださったのだと思います」
 ここで清原は、「婦人部に与う」の内容に触れ、言論、芸術、教育など、さまざまな分野で、婦人解放の先駆者として、新しき社会建設の道を切り開いていきたいと呼びかけた。
 山本伸一は、各部がそれぞれの持ち味を生かしながら、広宣流布への情熱を燃やし、新しい前進を誓う姿に、頼もしさを感じた。
 この後、副理事長らのあいさつが続き、会長講演となった。
 参加者は、雷鳴のような大拍手を送りながら、会長就任三周年の、新出発の獅子吼を待った。
 場内に、凛とした伸一の声が響いた。
 「理事室の皆様をはじめ、幹部並びに会員の皆様方のご尽力によって、未熟な私ではございますが、『命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也』との御聖訓のままに、今日まで、前進の駒を進めることができました。
 心より御礼申し上げるものでございます」
 喜びの拍手が広がった。
 「今また、『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』との御金言を胸に刻み、皆様方のご協力を賜りながら、来年の四月二日の恩師の七回忌を、五月三日をめざして、再び広宣流布への一歩前進の陣頭指揮をとっていく決意でございます」
 新たなる前進の獅子吼が轟き渡った。
 再び、日大講堂の大鉄傘を揺るがさんばかりの大拍手が起こり、しばし鳴りやまなかった。
9  布陣(9)
 山本伸一は、この席で、四月に行われた統一地方選挙の際に、一部の評論家やマスコミが盛んに取り上げた、″学会は保守か、革新か″という問題を明らかにしておきたかった。
 伸一は、創価学会と公政連(公明政治連盟の略称)は、根底となる理念は同じであっても、運営面などでは一線を画し、宗教活動と政治活動は立て分ける方向を模索していた。
 しかし、評論家の多くは、創価学会は政教一致をめざし、両者は完全に一心同体であるととらえていたようだ。
 そして、″公政連は保守か、革新か″を問うのではなく、学会がどちらの道を選ぶのかが、関心事となっていたのである。
 この問題については、伸一は、懇談の折などに語ってきたことではあったが、総会の場で、正式に、学会の立場を明確にしようと考えていたのである。
 「創価学会は、どれほど社会のために貢献しても、決して、ほめられることはなく、常に批判にさらされてまいりました。
 しかし、その批判の根拠は何かを見ていきますと、極めてあいまいなものにすぎません。
 たとえば、青年部に『部隊長』や『隊長』という役職があり、一糸乱れぬ団結の姿があることから、軍国主義ではないか、軍隊調ではないかと批判するというお粗末さです。
 同じような発想で、学会は、保守か革新かということが、盛んに取り沙汰されております。
 都知事選で公政連が、自民党が推していた候補者を支持したから、学会は自民党の別動隊であり、保守であると言う。
 一方、人間性を生かした″新社会主義″の在り方に言及しているから、学会は社会党の別動隊で、革新であると言う人もいる。
 あるいは、中世の日蓮仏法を根本にしているのだから、学会は保守であると言う人がいるかと思えば、反対に、社会を変えようと、多くの青年が活動しているのだから、革新であると言う人もいる。
 なかには、年配者は保守だが、青年は革新のようであると見ている人もいる。
 つまり、世間は、学会を保守か革新かに立て分けたいと思いながらも、確かな答えを出せないでいるのが実情のようです。
 そもそも、保守・革新という枠にあてはめ、物事をとらえようとする考え方自体が、いかに革新を口にしようが、既に保守的な思考に凝り固まった、行き詰まった姿であると、私は思うのであります」
10  布陣(10)
 次いで山本伸一は、学会の根本的な立場について、言及していった。
 「経文には、『無量義とは一法より生ず』と仰せですが、南無妙法蓮華経を、御本尊を根本とし、日蓮大聖人の生命の大哲理を根底に、全世界の民衆を幸福にし、永遠の平和を築いていくのが、学会の精神であります。
 したがって、保守の人であろうが、革新の人であろうが、三世の生命のうえから、すべて平等に幸福の道を教えていくのが、私どもの使命といえます。
 自由主義も、自身を律する生命の規範がなければ、退廃と混乱の弱肉強食の社会になってしまう。
 社会主義もまた、人間自身の革命がなければ、人間を抑圧する冷酷な制度となってしまう。
 自由主義も社会主義も、保守も革新も、ともに指導していく大哲理に生きるのが、わが創価学会です。
 その意味では、もし革新という言葉を使うならば、学会は、現在、社会でいわれている″革新勢力″とは次元を異にした、真実の革新ということができます。
 大聖人の仏法は、永遠不滅の、三世にわたる幸福を説く生命の大法であり、一切衆生の成仏のための法であります。また、御本尊の力は無限であり、宇宙大であります。
 私どもは、その法を弘めて、現実に三百万世帯を超す人びとに、幸福の道を開いてまいりました。
 この人間革命を機軸とした、民衆の蘇生の大運動に確信をもって、保守か、革新かといった、極めて政治的な狭い次元にとらわれることなく、堂々と、わが使命の道に邁進してまいろうではありませんか」
 賛同の大拍手が鳴り響き、場内を包んだ。
 伸一は、大事な会員が、学会を政治の次元でとらえようとする世間の論評に惑わされ、信仰の王道を見失っていくことを憂慮していたのである。
 彼は、更に話を続けた。
 「皆さんに支援していただき、公明政治連盟も大躍進を遂げました。
 そこで、私が心配しておりますことは、いわゆる便乗主義というか、自分が政界に出ていくために学会を利用したり、学会の組織を選挙のために上手に操ろうとする人間が、今後、出てくるのではないかということです。
 この点については、十分な警戒をしていかなければなりませんし、私どもは、どこまでも信心第一に進んでまいりたいと思うのであります」
11  布陣(11)
 最後に山本伸一は″人間の輝き″について語った。
 「人間の本当の輝きは、なんによって決まるか。
 それは、財力でもなければ、権力でもありません。日蓮大聖人の弟子として、仏の使いとして、不幸な人びとの味方となりゆくことです。
 そのわが使命に生き抜く時に、最高最大の歓喜と輝きの人生を歩むことができる。
 この内なる生命の燃焼こそが、色褪せぬ人間性の輝きであり、三世を荘厳する光彩であります。
 ゆえに、生涯、流れる水のごとき信心を貫き、自身を成長させながら、また、一家の和楽を築きながら、使命の大道を、誉れの大道を、ともどもに前進していこうではありませんか」
 今、会長就任三周年の、新しき旅立ちの号砲は鳴りわたった。
 決意を込めた拍手が、ドームに響きわたった。
 この後、副理事長の小西武雄の指揮で、「新世紀の歌」を合唱した。
 合唱が終わった時、山本会長が上着を脱ぎ、扇を手にして、すっくと立ち上がった。
 「今度は、私が指揮をとります! なんの歌がいいですか」
 真っ先に声があがったのが「革新の歌」であった。
 「学会は、本当の意味での″革新″だから、この歌にしましょう」
 音楽隊、鼓笛隊が「革新の歌」の調べを奏で、参加者の力強い手拍子がこだました。
 伸一は大空を舞う大鷲のように、悠々と、堂々と舞い始めた。
 集った二万人の代表幹部は、山本会長の指揮に合わせ、恩師戸田城聖の七回忌への新出発を誓い、声高らかに合唱した。
 それは、この日、再び陣頭指揮をとると語った伸一の、燃え立つ決意の表明でもあった。
 また、それは、新しき前進の鼓動であった。新しき開幕のファンファーレでもあった。
 この日から、また再びの、伸一の陣頭指揮が始まったのである。
 彼は、翌五月四日には総本山に行き、五日は静岡県富士市の富士会館の落成式に出席。六日は東京・台東体育館での五月度男子部幹部会に臨んだ。
 更に、九日には女子部の幹部に「三重秘伝抄」を講義し、翌十日には、東京・日比谷公会堂での、女子部の新出発となる幹部会に出席した。
 彼は、自らの行動を通して、学会の真実の精神を、幹部の在り方を、皆に教えようとしていたのである。
12  布陣(12)
 本部総会が終わって間もなく、山本伸一は、理事の代表と、戸田城聖の七回忌までの活動の打ち合わせを行った。
 まず、統監部長の山際洋が、組織の実態を知る資料として、総支部や支部ごとの世帯の伸び率の一覧表を配布した。
 それを参考にしながら、各組織の検討が始まった。
 一人の副理事長が、つぶやくように語った。
 「これを見ると、伸びているところと、停滞しているところの差が、だんだん大きくなってきている。
 全体的に都市部は発展しているが、農村部はかなり遅れが目立つな」
 すると、別の副理事長が言った。
 「農村部は旧習が深く、折伏が難しいという面もあるが、要は支部長だな。支部長が駄目だと、どうしても組織は伸びない」
 その言葉を聞くと、伸一は、この二人の副理事長に尋ねた。
 「それでは、あなたたちは、副理事長として、その支部に対して、何をしてきたのですか」
 厳しい口調であった。
 二人は驚いた様子で、黙って、気まずそうに、上目遣いで伸一を見た。
 「牧口先生は高齢になってからも、たった一人でも会員がいれば、日本中、どこまでも足を運ばれた。そして、そこで折伏を行じられた。
 これが、学会の幹部の精神であり、幹部の行動であらねばならない。
 全国どこへ行っても、支部長も、支部婦人部長も、また、地区部長も、地区担も、皆、必死です。悩みに悩んで、懸命に活動しています。
 それを、最高幹部でありながら、自らは何もせず、野球でも観戦するかのように、どこの支部が強いとか、弱いとか言っているのは、低級な評論家ではないですか。
 自分は苦労もしないで、高みから見下ろし、あれこれ言うのは、官僚主義に毒されている。自分では気づかなくとも、堕落が始まっているんです。
 私は、そういう幹部とは断固、戦います。そうでなければ、会員がかわいそうであるからだ。
 戸田先生の七回忌への総仕上げにあたり、まず、なさねばならないことは、全幹部が学会精神に、草創の心に立ち返ることだ。
 戸田先生は、逝去された年の二月十一日、ご自身の快気祝いと誕生祝いを兼ねた祝宴をもってくださったが、その時に、先生は、なんと言われたか覚えていますか」
 伸一は、皆の顔を見渡した。誰も、答える者はいなかった。
13  布陣(13)
 山本伸一は話を続けた。
 「戸田先生は、あの日、最近は指導の成果が出ていないようだと語られた。
 そして、それは会員のせいではなく、むしろ、根本となる幹部の信心の問題であり、幹部に成長がないことが、その原因であると指摘された。
 しかも、その後で、『学会の発展のためには、まず会長である私自身が、しっかりしなければならん。私自身が自分を教育し、磨いていかねばならんと思っている』と言われた。
 そのうえで、同様に、各組織にあっては、幹部がしっかりしなければならないと、指導してくださった。
 つまり、戸田先生は、ご自身の、また、幹部の″自己教育″ということを、叫ばれたのです。これは、先生の遺言です。常に″自己教育″していける人でなければ、本当の幹部とはいえません。
 今、私も、戸田先生と同じ気持ちであり、同じ決意でいます。
 日々、学び、日々、自分を戒めながら、日々、自己に挑戦し、″自己教育″しています。学会のいっさいは、私の責任であり、私の問題であるからです。
 その強い自覚があるがゆえに、私は、評論家のような、傍観者のような、無責任な発言は絶対にできないんです。
 皆さんも、副理事長ならば、あるいは、理事であるならば、私と同じ決意に立っていただきたい。
 そうでなければ、何人、理事が増えようが、広宣流布の力にはなりません。かえって足手まといになるだけです」
 伸一は、幹部の精神の衰退を、最も恐れていた。
 学会が発展し、大きくなるにつれて、自分が学会に貢献するのではなく、学会に依存し、寄生して生きるかのような幹部の姿が、目につくようになっていたからである。
 彼は、言葉をついだ。
 「戸田先生が第二代会長に就任された時、学会は十二支部であり、その十二人の支部長は、命をなげうつ思いで、先生とともに、広宣流布に生き抜こうと心を定めた。
 皆、″地位も、名誉も、財宝もいらない。ただ、ただ広布に走り、この世の使命を果たしていこう″と決意していた。それが学会精神であり、草創の心です。
 その決意が、広布の原動力となっていった。このなかには、その時の支部長もいるし、みんな草創からの幹部なんだから、あの生き生きとした心意気を思い起こしていただきたい。
 そして、まず、ここにいる私たちが、学会精神に、草創の心に帰ろうではありませんか!」
14  布陣(14)
 皆の目に決意が光った。
 山本伸一は、一人ひとりに、鋭い視線を注ぎながら言った。
 「戸田先生の七回忌をめざし、最高幹部が草創の精神を体現していくうえからも、理事長の原山さんをはじめ、全副理事長が本部長として、組織の責任をもっていくようにしたい。
 責任が明確でないと、どうしても、組織から浮き上がってしまう。そして、そこから、無責任な体質がつくられていく。私は、そうした風潮を、学会から一掃していきたいんです。
 この人事は、今月の本部幹部会で発表します。
 もちろん、皆さんだけでなく、私も会長として、これまでの何倍も働きます。徹して、仏子である会員に尽くしていきます。見ていてください」
 事実、伸一は、陰で広宣流布を支える人びとを、サーチライトで照らし出すように探し出し、励ましのためのさまざまな手を打っていった。
 その一つが、「おとしよりの集い」であった。
 これは、本部総会前に伸一が提案したもので、各方面ごとに、五月十二日と十四日の両日に分かれて開催され、音楽の演奏や合唱、舞踊、演劇などを観賞することになっていた。
 恩師の七回忌への新しい出発にあたり、高齢者の同志を慰労したいとの、伸一の思いから生まれた企画であった。
 伸一は、組織のリーダーとして、縦横無尽に活動の指揮をとっている人を見ると、その人を陰で支えているのは誰かを、常に考えてきた。
 海面に現れた氷山は、ほんの一角であるように、表面に出て活躍する人の陰には、その人を支える多くの人間がいるものだ。
 伸一が、陰でリーダーを支えている人を探していくと、必ず、年配者の存在が浮上してきた。
 メンバーが勇んで活動できるように、地道に家庭指導に歩き、悩みを聞き、豊富な人生経験を生かしながら、きめ細かな激励を重ねる″指導の達人″もいる。
 また、幹部として活動に励む嫁などに代わって、孫の面倒や家事を引き受け、しっかりと家を守ってくれているお年寄りも多い。
 仏法は平等である。広宣流布のために尽力していくならば、誰も称賛してくれることはなくとも、御本仏が必ず御称賛くださる。
 また、それはすべて、偉大なる功徳、福運となって、自身を荘厳していくことは間違いない。
 しかし、伸一は会長として、そうした同志を称え、慰労したかったのである。
15  布陣(15)
 ″陰の人″への配慮は、指導者の義務といえる。
 大聖人御自身も、常に、″陰の人″への配慮に徹してこられた。
 御書を拝すると、随所に、日ごろ接する機会のない、門下の夫人や老親への、思いやりあふれる労いの御言葉が記されている。
 特に、高齢者への深い真心のこもった御振る舞いには、強い感動を覚える。
 たとえば、下総の中心者である富木常忍が、大聖人に「帷」を御供養申し上げたことがあった。「帷」とは夏用の着物である。
 それは齢九十になる老母が、愛息の常忍のために、精魂込めて縫い上げたもののようである。
 常忍は、自分などでは、この母の尊い真心に応えることができないと考えたのであろうか、その「帷」を大聖人に御供養した。
 母親は高齢である。目も悪く、手先もおぼつかないなかで、命を削る思いをしながら、一生懸命に縫ったのであろう。
 大聖人は、「我と両眼をしぼり身命を尽くせり」と述べられ、母親の苦労を思いやっておられる。
 そして、御自身も、母親の恩に報ずることは難しいが、お返しするべきでもないので、この着物を身に着けて、日天の前で、その由来を詳細に報告しましょうと言われている。
 「老いたる親」「老いたる母」の健気なる心を、大聖人は慈しまれた。ともに泣き、ともに喜ばれ、安心と希望を与えられた。
 ″どこまでも、私たちは一緒ですよ。何も心配いりませんよ″――その大聖人の慈愛に温かく包まれて、老年の門下は、わが人生の総仕上げを恐れなく飾っていったにちがいない。
 山本伸一も、この大聖人の御心を、わが心としていかなければならないと、常に、自分に言い聞かせてきたのである。
 五月十四日、伸一は、東京・神田の共立講堂で行われた、東京の「おとしよりの集い」に出席した。
 午後一時に始まったこの集いでは、女子部鼓笛隊による「春の海」の演奏をはじめ、女子部合唱団による合唱、女子学生部員の狂言や芸術部員の歌や踊り、男子部音楽隊の演奏が、相次ぎ披露された。
 皆、普段は留守番をしていることが多いために、ほとんどの人が、鼓笛隊や音楽隊の演奏を聴くのは、初めてであった。
 それだけに、喜びも大きく、知っている歌が演奏されると、身を乗り出して、手拍子を取ったり、調べに合わせて歌い出す姿もみられた。
16  布陣(16)
 「おとしよりの集い」の最後に、山本伸一はあいさつに立った。
 彼は、まず、率直な自分の心情を語っていった。
 「皆様方が、本当に元気で、また、大変に喜んでくださっている姿を拝見いたしまして、私も、心から感動しております。ありがとうございました。
 私は、皆様方から見るならば、子供のような年齢でございます。しかし、戸田先生の後を継いで、会長となったからには、一生懸命に、同志の皆様のために、真心をもって、尽くし抜いてまいる決意です。
 皆様は、この泥沼のような世の中にあって、御本尊を抱き締め、歯を食いしばって、信心に励んでこられた。そして、どんなに悪口を言われ、蔑まれても、不幸な人を救おうと、折伏行に邁進してこられた。
 また、広宣流布の活動に励むご家族などの、陰の力となって、守り続けておられる。
 その尊い皆様方が、幸福を満喫しながら、大威張りで信心ができ、悠々と人生を生きていくために、私は外護の任を全うしてまいりますので、どうか、よろしくお願い申し上げます」
 伸一の決意に、目頭を潤ませる人もいた。
 「ところで、お詫びしなければならないことがございます。
 最初、私は、この催しを『老人の集い』にしようと申し上げましたところ、あるお年寄りの方から、お叱りを受けてしまいました。
 『信心をしている人に、老人はおりません。私たちは、男子部、女子部のような青年の気持ちで、信心に励んでいるんですよ』
 確かにそうだ。申し訳ないことを言ってしまったと思って、急いで会場の看板を、『おとしよりの集い』に変えさせていただいたのですが、それでも、まだ胸が痛むのです。
 しかし、御書には『不老不死』とございますので、この『不老』のうちの一字を取って、『老人』と言ったとお考えいただき、お許し願いたいと存じます」
 笑いと拍手が起こった。
 伸一は、更に、強い確信を込めて語った。
 「大聖人は″現在は法華経の行者であるのだから、未来の成仏は間違いない。また、過去世も地涌の菩薩として、虚空会の儀式にもいたのであろう″と仰せになり、『三世各別あるべからず』と断言されております。
 皆様方が、日々、題目を唱え、広宣流布に貢献されながら、幸福を満喫されているということは、未来の成仏も、絶対に間違いありません」
17  布陣(17)
 山本伸一は、最後に、万感の思いを込めて語った。
 「若くても、老いている人もいる。年は老いても若い人もいる。人間の若さの最大の要因は、常に向上の心を忘れない、柔軟な精神にあるといえます。
 また、人間の幸福は、人生の晩年を、いかに生きたかによって決まるといえます。
 過去がどんなに栄光に輝き、幸福であったとしても、晩年が不幸であり、愚痴と恨みばかりの日々であれば、これほど悲惨なものはありません。
 更に、幸福は、財産によって決まるものではない。社会的な地位や名誉によって決まるものでもない。
 幾つになっても、生きがいをもち、使命をもって、生き抜くことができるかどうかです。
 信心をしてこられた、人生の大先輩である皆様が、お元気で、はつらつと、希望に燃え、悠々と日々を送られていること自体が、仏法が真実である最大の証明であります。
 皆様方が、いつまでもお元気で、長寿であられんことをお祈り申し上げ、本日のあいさつとさせていただきます」
 これで、「おとしよりの集い」は終了となった。
 この後、伸一には、学会本部での理事たちとの打ち合わせが控えていた。
 しかし、彼は、退場すると、そのまま会場の正面玄関に回り、参加者の激励にあたった。
 人の命には限りがある。今、この時に、会って励ましておかなければ、生涯、会えなくなってしまう人もいるかと思うと、一人ひとりに声をかけずにはいられなかった。
 「ご苦労様! おばあちゃんは、お幾つ?」
 「はい、八十三です」
 「そうですか。大変に若々しい。いついつまでも、お元気で!」
 参加者は、伸一が差し出した手を強く握り締めながら、満面に笑みの花を咲かせるのであった。なかには喜びのあまり、目に涙を浮かべる人もいた。
 言葉は光である。たった一言が、人間の心に、希望の光を送ることもある。
 彼は、命を振り絞るようにして、″励ましの言葉″″称賛の言葉″″勇気の言葉″を紡ぎ出し、参加者に語りかけた。
 ところで、この五月の二十四日、アメリカでは、学会の組織が、海外初の法人格として正式に認められている。
 伸一の構想のもと、世界広布の先駆を切って、アメリカの未来への盤石な布陣が、整えられていったのである。
18  布陣(18)
 五月度の本部幹部会は、二十五日の夜、東京・両国の日大講堂で行われた。
 この幹部会は、大がかりな新組織の誕生となった。
 まず本部として、中部第二本部、兵庫本部の二本部が誕生したのをはじめ、二十九総支部、六十九支部が新設された。これによって学会は、二十本部、八十七総支部、四百六十三支部の陣容となったのである。
 また、理事長の原山幸一を筆頭に、各副理事長が本部長に就任。最高幹部が組織の第一線に立って、陣頭指揮をとることになった。更に、森川一正と石川幸男が副理事長に就任した。
 一方、東京に設けられた東洋学術研究所と並んで、関西にもアジア文化研究所が設置され、大矢良彦が所長に就いた。
 今回、会長山本伸一が、組織の大拡充に踏み切ったのは、戸田城聖の七回忌を期して、いよいよ本格的な広宣流布の大前進を開始しようと決意していたからであった。
 彼は、自分が生きているうちに、世界広布の揺るぎない基盤をつくり上げておかなければ、大聖人御在世から約七百年を経て、ようやく到来した広宣流布の好機を、逸してしまうことを痛感していた。だから、力の限り、前へ、前へと進むしかなかった。
 しかし、最高幹部であっても、その伸一の深い決意を知る者はいなかったといってよい。
 皆、伸一の会長就任以来の、広布の大進展に、ただ驚くばかりであり、なかには、学会は、これだけ大きくなったのだから、もう十分ではないかと考える幹部さえいたのである。
 日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を自身の使命とし、そこに一身を捧げた伸一と、その一念の定まらぬ幹部との間には、既に大きな心の開きが生じ始めていたといえる。
 伸一は、本部幹部会の席上、任命を受ける新任の幹部の姿を見ながら、このメンバーを、自分と同じ決意と自覚をもった、真正の同志に育て上げることを、心に誓っていた。
 広宣流布は人で決まる。御聖訓には「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と仰せである。
 求められるのは、「自分」中心ではなく、どこまでも「法」を中心に考え、会員のため、人びとのために奉仕し抜く、私心なき「信念の人」である。
 そして「真剣の人」「正義の人」「勇気の人」「誠実の人」「英知の人」であり、「覚悟の人」である。
19  布陣(19)
 山本伸一の、この日の講演は簡潔であった。
 彼はまず、これで、支部幹部以上の中核となる幹部が約三千人となり、広宣流布の大布陣が整ったことを述べた。
 「戸田先生が亡くなられた時には、支部幹部以上の幹部といえば、二百人ほどでした。
 私は会長に就任した時、組織拡充の第一段階として、三千人の支部幹部をつくろうと決意しました。
 今、その布陣が整い、各支部の中核となる、これだけの幹部が誕生した限り、学会は、どんなことがあっても微動だにしない、大盤石の堅固な礎が築かれたと確信するものであります。
 この幹部が、鉄の団結をもって進んでいくならば、広宣流布の不滅の流れを開くことは間違いないと、私は断言しておきたいのであります。
 その第一歩として、また本日より、戸田先生の七回忌にあたる来年の四月二日を、更に、本部総会の五月三日をめざして、悠々と、楽しく、獅子王のごとく、大勝利の前進を開始してまいろうではありませんか」
 この本部幹部会で発表された組織の拡充にともなって、男女青年部でも、大幅な人事が行われた。
 伸一は、五月二十七日の昼に開かれた婦人部幹部会で指導した後、夜は男子部幹部会に、翌二十八日の夜には女子部幹部会に出席し、青年たちの新しき出発を祝した。
 更に三十日からは、舞台を関西に移し、本部別の幹部会に出席した。
 三十日は、滋賀県大津市の皇子山体育館で行われた、京都本部の幹部会であった。
 これまで、京都本部の本部長は、学生部長の渡吾郎であったが、彼は兵庫本部の新設にともない、兵庫本部長となった。そして、新京都本部長に、歯科医師をしている尾山辰造が就任したのである。
 伸一が、この京都本部の幹部会に来たのは、人事を行ったからには、皆が納得して活動を開始するまで、最高幹部は責任をもたなければならないと、考えていたからである。
 ゆえに彼は、幹部会では新本部長の尾山の人柄などを紹介するとともに、なぜ今回、こうした人事に踏み切ったのかを、明快に語っていった。
 広布の布陣とは、単に組織を新設し、人事を行うことではない。
 新しいリーダーの自覚を促すとともに、一人ひとりの同志に、清新な息吹を送り、新出発の決意を呼び覚ましていくことこそ、最大の眼目といえる。
20  布陣(20)
 この日は気温が高かったうえに、会場にはたくさんの同志が詰めかけた。
 そのなかで力の限り、メンバーを励まし抜いた山本伸一の体は、汗にまみれていた。
 彼は、大津市での京都本部の幹部会を終えて、京都に戻ると、数人の幹部に声をかけ、一緒に銭湯に出かけた。
 タオルを手に、皆で銭湯を探したが、なかなか見つからなかった。ようやく、銭湯にたどりついた時には数十分が経過していた。
 湯につかりながら、一人の京都の幹部が言った。
 「わざわざ銭湯に来なくとも、風呂なら、会館でも入れましたよ」
 伸一は、笑いながら答えた。
 「そんなことはわかっているが、みんなで銭湯に来れば、心の距離が、ぐっと縮まるじゃないか。
 リーダーというのは、時には、そういう配慮も必要なんだ。
 幹部は、権威ぶっているのではなく、みんなと一緒に行動することが大事だ。
 また、激励や指導、触発は、会合でなければできないというものではない。風呂に入りながらでも、食事をしながらでもできる」
 それから、伸一は、兵庫本部の本部長になった、渡吾郎に語りかけた。
 「渡君は、京都から兵庫に活動の舞台は変わるが、みんなと仲良くやっていくんだよ。
 君は若いんだから、常に年配者の意見を聞いて、尊重していくことだ。
 若い世代で周囲を固め、活動を進めていく方が、やりやすいにはちがいないが、それでは組織としては、偏頗なものになってしまうし、中心者として、皆から浮き上がってしまう。
 また、反対に年配者は、自分の周りに若い人を置いて、その意見を大切にしなければならない。
 学会の組織には、お年寄りもいれば、青年もいる。それぞれが互いの持ち味を生かしながら、団結し、調和していってこそ、学会の本当の力が出せるんだよ」
 風呂帰りには、皆でアイスクリームを食べながら、それぞれが広布の展望を語った。
 伸一は、極力、形式主義は排したかった。ありのままの人間であることが、彼の一貫して変わることのない生き方であった。
 京都本部幹部会の翌三十一日の昼には、伸一は、大阪府立体育会館での関西本部の幹部会に臨み、この日の夜には、尼崎市体育会館での兵庫本部の幹部会に出席した。
 そして、六月に入ると、今度は、東京・関東の各本部の、新出発の幹部会が待ち構えていた。
21  布陣(21)
 六月の三日には、東京・関東の各本部の先陣を切って、東京第一本部の幹部会が、台東体育館で開催された。本部長は、理事長の原山幸一である。
 この日は、あいにくの雨であったが、各副理事長も祝福に駆けつけ、あいさつに立った。その副理事長たちも、それぞれ本部長に就任しただけに、あいさつには、よい意味での競争の息吹があふれていた。
 「第一本部の最大の強敵になるのは、これからは第五本部であると思ってください。私たち第五も負けませんよ」と述べたのは、東京第五本部長になった清原かつであった。
 また、東京第四本部長になった秋月英介は、「私は本日、第一本部に折伏の挑戦状を叩きつけにまいりました」とあいさつ。
 更に、東京第二本部長に就任した十条潔は、「東京第一本部は、常に学会で一番であることを願うものでありますが、わが第二本部は、その上を行くつもりですので、ご了承願いたいと思います」と語った。
 場内からは、そのつど、拍手の渦が起こり、闘魂を秘めた笑顔の花が咲いた。
 広宣流布の活動にあっては、皆で楽しく競い合っていくことも大切である。
 個人でも、組織でも、良きライバルがいれば張り合いもあるし、闘志がわく。
 山本伸一は、本部長となった各副理事長たちの、自分の担当した本部を最高のものにしようとする気概が嬉しかった。
 恩師の七回忌をめざして「善の競争」を繰り広げる弟子たちを、戸田城聖は目を細めて見ているにちがいないと、伸一は思った。
 あいさつに立った彼は、ユーモアを込めて語った。
 「このたび、理事長が東京第一本部の本部長になりましたが、ほかの本部の本部長になった副理事長たちは、理事長の本部を打ち負かしてやろうという魂胆なんです。
 私は、立場上、どこかの本部を応援するわけにはいきませんが、今日は、第一本部員のつもりで、この幹部会に出席しています。
 したがいまして、本日だけは、東京第一本部こそ、東京の、日本の、世界の広布のトップランナーたれと申し上げたいと思います。
 そして、ひとたび戦いを起こすならば、必ず勝つという伝統をつくっていただきたいのであります。
 何ごとも勝てば嬉しい。活動の勝利は、わが生命に躍動と歓喜をもたらし、希望と活力の源泉となる。しかし、負ければ歓喜もなくなり、元気も出ません」
22  布陣(22)
 山本伸一は、広宣流布の活動において、なぜ、勝利を収めなければならないかを、今度は、個人に即して語っていった。
 「折伏にせよ、あるいは会合の結集にせよ、勝とうと思えば、目標を立て、決意を定め、真剣に唱題に励むことから始めなければならない。更に、知恵を絞って、勇気をもって挑戦し、粘り強く行動していく以外にありません。
 そして、一つ一つの課題に勝利していくならば、それは、大きな功徳、福運となっていきます。
 また、何よりも、それが人生に勝つための方程式を習得していくことになる。更に、活動を通してつかんだ信仰への大確信は、人生のいかなる困難をも切り開いていく力となります。
 御書には『仏法と申すは勝負をさきとし』と仰せです。
 それは、広宣流布とは、第六天の魔王という生命破壊の魔性との戦いであり、更には人間が生きるということ自体が、人生そのものが戦いであるからです。
 人間の幸福といっても、自分の臆病や怠惰などの弱さと戦い、勝つことから始まります。
 人間革命とは、自己自身に勝利していくことであり、そのための、いわば道場が、学会活動の場であるともいえます。
 私は、その時々の折伏の成果など、問題にしておりません。大事なことは、皆さんが強盛に信心に励み、大功徳を受け、生活も豊かになり、幸福に満ち満ちた悠々たる大境涯になっていくことです。
 そのための布教であり、学会の活動であることを、銘記していただきたいのであります」
 伸一は、この日から、東京・関東の各本部の幹部会に相次ぎ出席し、全魂を注いで、激励にあたった。
 組織の人事にともない、一人ひとりの胸中に、広布への「精神の布陣」を整えることを主眼としていたのである。
 彼は、これらの幹部会のほとんどで、自ら学会歌の指揮をとった。
 伸一の肩は腫れ、疲労も激しかったが、大切な会員を励まし、元気づけるためには、なんでもするつもりであったし、奉仕し抜く決意を固めていた。
 また、それを身をもって示すことによって、幹部に本来の姿勢を教えようとしていたのである。
 東京・関東の各本部の幹部会は、六月十四日の三多摩本部幹部会をもって終了し、新たな前進の歯車が回転し始めた。
 その十四日の深夜から、一つのニュースが流れた。
23  布陣(23)
 テレビ、ラジオなどのニュースは、ソ連が六月十四日午後三時(日本時間午後九時)、男性宇宙飛行士ワレリー・ブイコフスキー中佐を乗せた、衛星船ボストーク5号を打ち上げ、地球を回る軌道に入ったことを伝えていた。
 既に有人宇宙飛行は、二年前の一九六一年四月、ガガーリン少佐を乗せたボストーク1号の成功で幕が開かれており、ボストーク5号の打ち上げは、それほど人びとを驚嘆させるものではなかった。
 しかし、このニュースとともに、ソ連は引き続き、最初の女性宇宙飛行士を乗せた衛星船を打ち上げるであろうとの情報が流れたことから、ソ連の衛星船の打ち上げに、人びとの強い関心が寄せられたのである。
 そして、二日後の十六日午後零時三十分(同午後六時三十分)、ソ連が女性宇宙飛行士を乗せたボストーク6号を打ち上げた――というニュースが世界を駆け巡ったのである。
 その女性宇宙飛行士の名は、ワレンチナ・ウラジーミロブナ・テレシコワ。二十六歳の少尉であった。
 「ヤー、チャイカ(私はカモメ)」
 遙かな宇宙から、テレシコワの明るく弾んだ声が、地上に届いた。
 モスクワ・テレビは、ボストーク6号の船内の模様を放映。画面には、無重力状態のもとでの、彼女の表情が大映しにされた。
 毅然たる意志と、美しい微笑をたたえたその顔は、全世界に知られるところとなった。
 「私はカモメ。地平線が見える。
 明るい青、青い線、ああ地球だ。なんて美しいんだろう。すべて順調……」
 「カモメ」というのは、彼女が地上と交信する際のコールサインである。二日前に打ち上げられたボストーク5号の、男性飛行士ブイコフスキーのコールサインは「タカ」であった。
 この二つの衛星船を打ち上げた目的は、長時間の飛行が、男女の体にいかなる影響を与えるかを調査することであった。
 「カモメ」と「タカ」は仲良く地球を回った。
 ボストーク6号は、七十時間五十分にわたって宇宙飛行し、地球を四十八周。十九日の午前十一時二十分(同午後五時二十分)に無事帰還した。
 一方、ボストーク5号の方も、百十九時間六分の宇宙滞空時間の新記録を打ち立て、地球を八十一周。同日午後二時六分(同午後八時六分)、無事に帰還したのである。
24  布陣(24)
 世界は、自由の大空に飛翔するかのような、女性宇宙飛行士テレシコワに、大喝采を送った。
 彼女は、ごく平凡な勤労女性であった。
 父親は優秀なトラクターの運転手であったが、彼女が幼少のころ、第二次世界大戦で他界していた。母親は紡績工場で懸命に働きながら、三人の子供を育て上げてきた。
 この困難に屈しない母の背中を見て育った彼女は、十七歳でヤロスラブリ州のタイヤ工場に入り、次いで紡績工場で働いていた。
 その彼女が、宇宙飛行士を志したきっかけは、ガガーリン少佐が乗った衛星船ボストーク1号が、世界初の有人飛行に成功したニュースを耳にしたことであった。
 ″私も、あの宇宙に飛んで行きたい!″
 彼女の胸は躍った。大きな夢が広がった。
 それは、当時の世界の青年たちがいだいた、共通の夢であり、憧れであった。
 夢をもたない青年はいない。夢や憧れをいだくことは、青春の特権といってもいいだろう。
 しかし、その夢を実現していく人は、あまりにも少ない。多くの場合、現実の困難という逆風にあうと、たちまち穴のあいた風船のようにしぼんでしまうものである。
 その現実のなかで、夢に向かって、最後まで飛翔し続けてこそ、夢は現実となるのである。
 彼女は、ボストーク1号の有人飛行が成功を収めたころ、州の航空クラブに所属し、パラシュート降下に熟練していた。この若き紡績技手は、既に大空への大志を、紡ぎ始めていたのであろう。
 もともと、航空クラブに入ったのは、空から故郷の大地を見たかったからだ。
 彼女が最初に大空に舞った時は、風雨のなかの決行であった。不安も恐れもあったにちがいない。
 しかし、彼女は、自らと戦い、大空に飛び出し、心の暗雲を突き破っていったのである。
 以来、テレシコワはますます大空に魅了されていく。そんな時に、ガガーリンの有人飛行成功のニュースに接したのである。
 それから一年もたたないうちに、彼女は、宇宙飛行士部隊の一員に選ばれることになる。
 だが、宇宙飛行士の訓練は、彼女の予想以上に厳しかったようだ。
 激しい肉体的な訓練はもとより、ロケット工学などの専門知識の習得も要求された。毎日が、心身の限界に挑むかのような、苦しい訓練の連続であった。
25  布陣(25)
 目前の困難が、人間の夢を厳しく淘汰していく。だが、テレシコワは負けなかった。自由時間も勉強にあて、来る日も、来る日も、深夜まで学んだ。
 わからないことは、納得するまで教官や先輩の飛行士に質問した。
 厳しい鍛錬も、粘り強く、愚痴も言わず、黙々とやり抜いた。
 その徹底した頑張りは、宇宙飛行士第一号のガガーリンも、舌を巻くほどであったといわれる。
 しかも、そうした激務のなかでも、故郷の母親に、手紙を添えて仕送りをすることを忘れない、思いやりのある女性だった。
 彼女は、優しく、しなやかななかに、鉄の意志を秘めた女性といえよう。
 冬の寒さに耐えて、美しい花が開くように、努力と忍耐なくして、夢の開花はない。
 テレシコワが宇宙船のなかで見せた、あのふくよかな微笑みは、自らが決めた理想に向かって、死力を尽くした満足の笑みであったのかもしれない。
 学会の女子部員にとっても、テレシコワは、大きな関心事であったようだ。
 山本伸一は、聖教新聞社で女子部の幹部と懇談した折、話題が彼女の宇宙飛行に及ぶと言った。
 「テレシコワさんは、女性も宇宙飛行士として活躍できることを、世界の女性に示した。まさに、女性が社会の第一線で活躍していく時代の、幕を開いた一人といえる。
 日本は、まだまだ男性中心の社会だが、やがて、日本も変わらざるをえない。また、そうしていくためには、女性の側にも、自分は女性なのだからという甘えがあってはならない。
 もちろん、男性の側の問題は数多くあるが、女性もひとたび仕事に臨んだならば、男性以上の仕事をしていかなければ、社会的な面での、女性の地位の向上は図れないと思う。
 それには、確固たる人生観、生き方の哲学がなくてはならないだろうね」
 すると、女子部長の渡道代が言った。
 「山本先生、そのためにも、ぜひ女子部の指針をいただけないでしょうか。
 これまでは、女子部も、『青年訓』や『国士訓』を指針としてきました。根本の精神は、男子部も女子部も同じですが、若い女性の生き方に即した指針が必要ではないかと思います」
 「そうか。確かに必要だな。考えておくよ。時期をみて発表しよう」
 それから二カ月後、『大白蓮華』の九月号の巻頭言に、「女子部に与う」が発表されるのである。
26  布陣(26)
 六月二十日、山本伸一は鹿児島、宮崎の指導に飛び立った。
 この日の夕刻には、鹿児島市内の鴨池町に建設されることになった、鹿児島会館の起工式に参列。引き続き午後七時からは、市中央公民館で行われた、鹿児島総支部幹部会に出席した。
 そして、翌二十一日には奄美大島に向かった。
 今回の九州訪問の最大の目的は、この奄美の友の激励にあった。
 彼は、離島で活動に励む同志に、最も心を砕いてきたのである。
 交通の便も悪いうえに、医師のいない島もあれば、電気のないところもある。
 また、暮らしは天候の影響をもろに受け、台風などで海が荒れれば、生活に必要な物資さえ、途絶えてしまうこともある。日照りが続けば、飲料水にも事欠く島が少なくない。
 更に、旧習も深い。そこで広宣流布の活動に励むことは、並大抵のことではなかった。
 伸一は、会長に就任した時から、離島の友の激励に駆け巡ることを念願としてきた。最も苦しんできた同志を、最大に励まし、称えなくてはならないというのが、彼の信条であった。
 しかし、伸一には、なすべき課題が山積し、月日を経るごとに多忙さは増していった。そのなかで、時間をこじあけるようにして、奄美大島の訪問を計画したのである。
 この島は、沖縄本島を除けば、佐渡島に次ぐ大きな島で、奄美諸島のなかでは最大の島であった。
 奄美大島は、中世には琉球王朝の勢力・文化圏に入っていたが、十七世紀初めの、島津家久の琉球征服以来、薩摩藩の支配下に置かれた。
 特に、江戸時代の後半、圧政が強まり、島民は、砂糖キビ栽培と砂糖の製造を強制され、過酷な労働と租税に苦しまなければならなかった。
 また、太平洋戦争の折には、米軍の激しい空襲を受け、名瀬の市街地などは、九〇パーセントが焼けたといわれる。
 そして、敗戦後は日本から切り離され、アメリカの軍政下に置かれてしまう。
 同じアメリカの軍政下に置かれた沖縄本島が、極東戦略上の要石とされ、広大な米軍基地が設けられたのに対して、奄美大島は、基地の島となることはなかった。
 しかし、十分な戦災復興の資金援助もなく、放置されたといってよい。
 貿易は困難となり、砂糖キビや大島紬などの産業も衰退し、奄美の経済は窮乏を極めた。そのなかで祖国復帰運動が高まっていったのである。
27  布陣(27)
 奄美諸島が日本に返還されたのは、戦後八年が過ぎた、一九五三年(昭和二十八年)の十二月二十五日のことであった。
 その奄美諸島に、五五年(同三十年)ごろから、仏法の種子が蒔かれていったのである。
 喜界島、加計呂麻島、奄美大島、沖永良部島、与論島、徳之島に、次々と同志が誕生していった。
 そして、六一年(同三十六年)七月には、奄美大島支部が発足する。
 更に、山本伸一が訪問したこの時には、既に会員世帯は六千世帯を大きく上回っていたのである。
 伸一は、奄美の忍耐と苦渋の歴史を思うと、この地の広宣流布の前進が嬉しかった。彼は、その功労者である奄美大島支部のメンバーを、全国の離島に先駆けて激励しようと、奄美大島に向かったのである。
 伸一は、二十一日の午後一時発の飛行機で、まず徳之島に渡った。
 飛行機といっても、デハビランド・ヘロン機と呼ばれる、十数人乗りの、小さなプロペラ機である。
 当時、奄美大島の空港は開設前であったため、飛行機で徳之島に飛び、そこから船で奄美大島に行くことにしたのである。
 徳之島の空港に到着したのは、午後三時ごろであった。空港は島の北部にあり、ここから、地元のメンバーが手配してくれた車で、島の南部の亀徳港に向かうことになっていた。
 徳之島の空港に着いた時から、伸一のメンバーへの激励が始まった。
 木陰に隠れるように立っていた会員の姿を見ると、彼は早速、労いと励ましの言葉をかけた。日焼けした友の顔に、笑みが広がり、白い歯が光った。
 港までの道は、舗装もされておらず、車が走ると、もうもうと土ぼこりが上がった。
 だが、車窓の風景は美しく、そこかしこに、ヤシやアダンと呼ばれる木々が茂り、ハイビスカスの赤い花が咲き誇っていた。
 家々の多くは、カヤ葺きであった。
 伸一は、沿道で彼を待つ会員らしい人びとを見つけると、すぐに車を止めて声をかけ、握手を交わした。
 それが、何度も、何度も、繰り返された。
 一時間ぐらいかかって亀徳港に着いた。
 港には、「あけぼの丸」という四〇〇トンほどの船が停泊し、波止場には大勢の人びとが待機していた。
 この船は、地元のメンバーが、奄美大島の大会に出席するためにチャーターしたもので、待機していた人は、皆、学会員であった。
28  布陣(28)
 メンバーは、山本会長を歓迎しようと、亀徳港に集まり、一行の到着を、今か今かと待ち受けていたのである。
 「皆さん、ご苦労様!」
 伸一は車を降りると、大きく手を振りながら、友の輪のなかへ入っていった。
 奄美諸島で、わずか七、八年のうちに、六千を上回る世帯になった陰には、どれほど、メンバーの健気な努力があったことか。
 事実、折伏をすれば悪口も言われた。怒鳴られもした。村八分もあった。離島の暮らしのなかで、村八分にあえば、死活問題にもつながりかねなかった。
 しかし、悔し涙を堪え、歯を食いしばって、広宣流布に走り抜いてきたのだ。そのメンバーの最大の願いが、山本会長の奄美への来訪であった。
 「皆さんにお会いしに来ましたよ。
 徳之島にも、こんなにたくさんの同志がいるんだね。すごいなあ」
 伸一が語りかけると、皆のすすり泣く声が聞こえた。メンバーのあまりにも大きな喜びは、感涙となって、止めどなくあふれてくるのである。
 伸一には、皆の気持ちが痛いほどよくわかった。
 彼は、メンバーに次々と声をかけていった。
 赤子を抱いた婦人を見ると、「お子さんだね。立派な後継者に育ててくださいね」と語り、子供の頭を撫でた。
 また、男子部員には、「徳之島を頼むよ。私と一緒に立とうよ!」と共戦を呼びかけた。
 ハブに咬まれて、片足が不自由だという婦人には、「必ず幸福になれるのが信心です。心配いりません」と励まし、固い握手を交わすのであった。
 限られた時間のなかで、一瞬に全魂を注いでの激励であった。
 「それではお先に。向こうで、お待ちしています。またお会いしましょう」
 彼は、こう言って、船上の人となった。
 この船で、伸一と一緒に八十人ほどのメンバーが、奄美大島の名瀬に向かった。船は奄美大島支部の大会のために、三往復する予定で、伸一が乗ったのは、二回目の便であった。
 名瀬までの所要時間は、五、六時間であるという。
 地元のメンバーは、今日の海は穏やかであると語っていた。しかし、東京から伸一に同行してきた、船に乗り慣れない幹部にとっては、揺れに揺れているように感じられた。
 出港して、しばらくすると、伸一以外は皆、船に酔い、蒼白な顔でシートの背にもたれていた。
29  布陣(29)
 船内でも、山本伸一には休む暇はなかった。船長にあいさつに行き、機関室を見学したかと思うと、地元の幹部らと懇談しながら、奄美の広宣流布の未来構想を練り上げていった。
 夕日に赤く染まっていた海は、いつしか、夜の帳に包まれていた。満天の星である。
 彼方に、うっすらと島影が見えていた。奄美大島である。しかし、名瀬に到着するまでには、まだ二時間ほどかかるとのことであった。
 伸一は、同行の幹部に言った。
 「船酔いの方は大丈夫かい。でも、降りるわけにはいかないからな。
 広宣流布も、信心も同じだよ。ひとたび帆を上げたら、嵐がこようが、何があろうが、前進するしかないんだ」
 何気ない言葉のようであったが、それは、伸一の切実な思いでもあった。
 「あけぼの丸」が名瀬の港に到着したのは、午後十時ごろであった。
 船着き場は、山本会長を迎えようというメンバーであふれていた。
 伸一が船のデッキに立って手を振ると、「ワーッ」と、唸り声のような歓声がわき起こった。
 多くのメンバーは、伸一の来島を聞かされても、直接、姿を見るまでは半信半疑であった。直前まで、台風四号の影響で海は荒れ、鹿児島からの定期船は欠航していた。また、飛行機も、予定通り運航するかどうか心配だったのである。
 ″山本先生は、本当に来てくださった!″
 この瞬間、皆の喜びは爆発したのだ。
 「ありがとう! 皆さん、ありがとう!」
 伸一は、何度も、何度もこう叫んで、同志の歓迎に応えた。
 一行は、港から車で、名瀬市に完成したばかりの奄美大島会館に向かった。
 この会館は、白亜の鉄筋コンクリート造り二階建てで、一階には、七十畳の大広間を持つ、奄美諸島で初の会館であった。
 明日は、その落成式が予定されていたのである。
 会館に着き、題目を三唱すると、同行の幹部たちはさすがに疲れたらしく、足を投げ出した。
 理事長の原山幸一がつぶやいた。
 「やはり、奄美は遠いな。それに、あの船の揺れにはまいったね」
 すると、すかさず伸一が言った。
 「やっと念願の奄美に来たんだ。来たからには、ここに魂魄をとどめて道を開くよ。まず、五年分の広宣流布の楔を打とう!」
30  布陣(30)
 気迫にあふれた山本伸一の言葉で、同行の幹部たちの雰囲気は一変した。
 副理事長の石川幸男が口を開いた。
 「確かに、わざわざ奄美まで来たんだから、大いに健闘しなければ意味はありませんな。私もしっかり、信心指導にあたりますよ」
 伸一は、笑みを浮かべて言った。
 「石川さん、指導をするという発想ではなく、奄美の同志から、信心を学んで帰ることだよ。
 ここの支部長や婦人部長は、この遠く離れた奄美から、毎月、東京の本部幹部会に来ているんだ。それだけでも一週間はかかってしまう。その間、仕事もできないし、送り出す家族の苦労も大変なものだ。
 そして、会員の激励に島から島を駆け巡り、命がけで広布の道を開いてきた。生活だって犠牲にしなければできなかったはずだ。一人ひとりが広宣流布の大功労者だ。
 幹部で役職が上だから、信心が強盛とは限らないし、偉いわけでもない。話をさせれば、みんなの方がうまいだろうし、教学力もあるだろう。しかし、それと信心とは、必ずしもイコールではない。
 大事なことは、実際に広宣流布のために何をしてきたかだ。どれだけ折伏し、どれだけ同志を立ち上がらせ、どれだけ動き、どれだけ汗を流し、悔し涙を流してきたかだ。
 奄美は確かに遠い。しかし、奄美の同志の心は、私に最も近い。私とともにあるといってよい。学会本部にいても、心は私と離れている幹部もいる。心の距離は、決して場所によって決まるものではない。
 私がみんなを連れて来たのは、奄美の友と接するなかで、本当の信心を、そして、本当の戦いと、本当の苦労を知ってほしかったからだ」
 それから伸一は、皆を見回すと、こう語った。
 「今回、奄美諸島に総支部をつくろうと思う。
 奄美は、宿命の島だ。圧政の歴史だった。江戸時代には、薩摩藩の過酷な支配に泣いた。戦後は、アメリカによる軍政の時代もあった。
 その宿命を転換し、自立していくためにも、まだ世帯数は少ないかもしれないが、早く総支部をつくっておきたい。それが、私の考え抜いた末の結論だ。
 これから、その組織案と人事案を検討しよう」
 伸一を中心に、打ち合わせが始まった。
 時刻は、既に午後十一時近かった。伸一の広布のエンジンは、唸りをあげて回転し始めていた。
31  布陣(31)
 未明に及ぶ検討の結果、総支部の名は奄美総支部とし、奄美大島支部、名瀬支部、古仁屋支部の三支部の布陣で出発することに決まった。
 また、総支部長には、これまで奄美大島の支部長を務めてきた野川高志が、総支部婦人部長には、支部婦人部長だった藤沢ハルが就任することになった。
 野川は、奄美大島で雑貨店を営む、三十代後半の精悍な顔立ちの、一途な性格の人物であった。
 戦時中は軍隊に入り、戦後、復員したものの、米軍統治下の奄美大島での生活は厳しく、赤貧洗うがごとき日々が続いた。
 やがて雑貨店を開き、結婚し、ようやく仕事も軌道に乗り始めたころ、今度は結核に侵された。
 彼は、幼少期に相次ぎ母と父を亡くし、姉も十六歳で他界していた。一家の短命の宿命を感じていた野川は、自分に迫る死魔の影に怯えた。
 病のためにやせ細り、店に出る時には、頬紅を塗らなければならないほど顔色も悪かった。
 仏法の話を聞いたのは、そんな時であった。折伏に来てくれた学会員の確信にあふれた言葉に、この病が治るものならと、家族で信心を始めたのである。一九五七年(昭和三十二年)の五月のことであった。
 野川は、病気を治して生き抜きたい一心で、懸命に信心に励んだ。
 すると、確かに、日増しに元気になっていった。一年ほどしたころ、レントゲンを撮ると、なんと胸部の影が消えていたのだ。医者も驚嘆の声をあげた。
 この体験は、野川に信心への大確信を与えた。彼の学会活動に一段と拍車がかかった。彼は、信仰による宿命の転換の手応えをつかんだのである。
 入会して三年余が過ぎた六〇年(同三十五年)十月、鹿児島支部の古仁屋地区ができると、野川は地区部長になった。
 それから十カ月後の六一年(同三十六年)七月に、奄美大島支部が誕生すると、彼は支部長に就任することになる。しかし、支部長の任命を受けるかどうか、彼は悩みに悩んだ。
 支部名こそ奄美大島支部だが、支部の範囲は、奄美大島はもとより、喜界島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島など、奄美諸島全域である。
 その支部長として責任を全うしていくには、全生活を支部員のために捧げる覚悟がなくては不可能であることを、彼はよく知っていたからである。
32  布陣(32)
 当時の奄美大島は、島内の道路事情は極めて悪かった。
 また、奄美諸島を回るには、定期船を乗り継ぎ、あるいは小舟に揺られて行かなくてはならない。
 たとえば定期船だと、名瀬から与論島の茶花まで、順調にいっても、往路で十三時間半、復路で十八時間半もかかっていた。
 支部長として、全奄美諸島の同志の激励、指導に回るには、仕事をする時間も削らざるをえない――それが、奄美の草創期の現実であった。だから、野川高志も支部長の就任をためらったのである。
 野川の妻の好美も、奄美の支部長の任が、いかに重いかを痛感していた。夫が支部長になれば、雑貨店の仕事も、家庭のことも、ほとんどできなくなることは目に見えていた。
 しかし、この奄美の宿命を転換し、皆が幸福になっていくには、誰かが支部長に就かなければならないと思うと、好美は覚悟を決めて夫に言った。
 「やってできないことはないじゃないの。店のことは私がやる!」
 この妻の言葉が、野川の心を決めさせた。
 ″そうだ。俺の命は、信心で救われた命だ。それならば、この命を、広宣流布に捧げよう!″
 野川は、本部幹部会で支部長の任命を受けた日、学会本部で、初めて会長山本伸一と会った。
 伸一は、奄美大島支部の新出発を心から祝し、野川の健闘に期待を寄せた。
 支部長になった野川は、身を粉にして広布に走り抜いた。それは、彼の予想通りの、いや、それ以上の困難な戦いであった。
 ひとたび、島々を巡るとなれば、一週間や二週間は帰って来られないことも珍しくなかった。
 家を出る時も、「行ってきます」と言うだけで、いつ帰って来るとは言わなかった。天候次第で、どうなるかわからないからだ。
 島のなかには、定期船の通わぬ島もある。そうした島へは、漁船やクリ舟に乗せてもらって渡るしかなかった。
 また、奄美で二番目に大きい徳之島に行く場合は、野川は、船にバイクを乗せて渡り、それで島のなかを駆け巡った。
 家でゆっくり眠ることなどなかった。常に雨ガッパをバイクに積み、眠くなると、カッパを被って、道端で眠ることもあった。
 ある時、深夜の走行中に睡魔に襲われ、道路脇で眠っていると、腹の上で何かが動いているのを感じた。目を開けた野川は、息を飲んだ。ハブであった。
33  布陣(33)
 野川高志は、自分の腹の上を這うハブを見ると、体が凍りつく思いがした。
 しかし、声をあげたり、動いたりすれば、余計に咬まれやすい。とっさに彼は息を殺して、身動ぎもせずに、心のなかで懸命に題目を唱えた。
 ハブはゆっくりと体をくねらせながら、野川の腹の上を通り過ぎていった。それは、十秒ほどの出来事であったかもしれないが、彼には、途方もなく長い時間に感じられた。
 奄美大島や徳之島では、いつハブに襲われるかわからなかった。ハブは夜行性であり、特に夜道が危険であった。
 そのなかを動き回る野川は、常に唱題を心がけた。バイクに乗っている時も、歩いている時も、絶えず心のなかでは、題目を唱え続けていた。
 また、船での移動中は、むさぼるように学会の出版物を読み、御書を拝した。
 「俺は小学校しか出ていないし、頭が悪いから、しっかり勉強しないと、人並みにはなれない。
 広宣流布をするには、人を納得させる力が必要だ。それには、人一倍、学ぶしか道はない」
 これが、野川の口癖でもあった。
 彼が島々を巡り、動けば動くほど、当然、家計の支出も増していった。
 妻の好美は、生活費を切り詰めに切り詰め、いつも、やりくりに四苦八苦していた。
 しかし、夫が「金はあるか」と聞けば、食べる物もなくとも、「大丈夫よ」と微笑みを浮かべ、金を渡すのであった。
 ″奄美の人たちの幸福のために、夫は働いている。家ぐらいは、私が守らなければ……″
 それが彼女の誓いでもあった。
 夫妻は、ひたすら、広宣流布の大願に生きることを使命とし、誉れとしてきたのである。
 一方、奄美総支部の総支部婦人部長に決まった藤沢ハルは、五十過ぎの、聡明さと優しさを備えた女性であった。
 夫の恵介は、高校の教師をしており、郷土史の研究家でもあった。
 夫妻は、ともに奄美の出身であったが、東京で結婚した。
 その後、満州(現在の中国東北部)に渡って、そこで終戦を迎え、故郷の奄美に引き揚げてきた。
 ハルは、もともと体が弱く、月のうちの半分は床に伏すような生活であり、健康になることが願いであった。また、子供は娘一人だけで、三児が早世し、死産や流産も繰り返してきた。
34  布陣(34)
 藤沢ハルの入会は、一九五六年(昭和三十一年)の十二月である。
 一人娘の千鶴子が鹿児島市内の高校に進学することになり、夫を奄美に残して、ハルも鹿児島で暮らしていた時であった。
 その鹿児島に、甥にあたる茂原三郎という青年が訪ねて来て、娘に仏法の話をしたのである。茂原は、不治の病とされた結核を、信仰で乗り越えた体験をもっていた。
 千鶴子は、最初は信心の話に抵抗を感じていたが、「願いは絶対に叶う」との茂原の確信ある話に心を打たれ、入会を決意したのである。
 彼女は、父親の恵介に入会の承諾を得るために、手紙を出した。父親からは、″自分が正しいと思うならば、信仰をすればよい″との返事が来た。
 しかし、母親のハルは、宗教には懐疑的であった。それだけに、娘を変な宗教に取られたら困ると思った。
 そして、自分がしっかり監視し、娘を守ろうとの親心から、一緒に入会したのである。
 やがて、千鶴子が高校を卒業し、静岡の薬科大学に進むと、ハルは奄美に帰って来た。彼女は入会はしたものの、決して熱心に活動するわけではなかった。
 そんなハルの転機となったのが、教学の任用試験である。先輩の強い勧めで彼女は受験を決意した。
 受験者のために、鹿児島から先輩幹部が、毎週、奄美に来て、教学を教えてくれた。彼女はまず、後輩たちのために、船で二十時間もかけて自費で奄美まで来て、無償で勉強を教えてくれる、献身的な姿に感動を覚えた。
 更に、御書を拝し、教学を学んでいくなかで、宗教は皆、迷信じみた、いかがわしいものという認識が、全く覆されていった。
 そして、宗教には正邪、高低浅深があることや、日蓮仏法には、確かなる哲理の裏付けがあることを知ったのである。
 仏法への確信をもったハルは、任用試験に合格すると、勇んで活動を始めるようになった。その溌剌たる姿を見て、夫の恵介も信心を始め、彼女の活動を支えてくれた。
 ハルは、肝臓、腎臓を病み、座骨神経痛や高血圧にも苦しんできたが、いつの間にか、その持病が治まってきた。これがますます、彼女の信心への確信を深めさせ、次第に布教の闘士となっていった。
 そして、奄美大島支部が結成された時には、支部の婦人部長に任命されたのである。
35  布陣(35)
 支部婦人部長になった藤沢ハルは、島から島へ、妙法の火をともして歩いた。
 青く澄んだ美しい海は、ひとたび荒れれば、阿修羅の怒涛となって、行く手を阻んだ。波が高く、船が着岸できずに、沖で七時間も待機しなければならないこともあった。
 本船から迎えの小舟に乗り移ろうとして、足を滑らせたこともあった。
 更に、陸ではハブがいつ襲ってくるかもしれない夜道を、二時間、三時間と歩いての活動も常であった。
 同志とともに折伏に行って、頭から塩を撒かれたこともある。雪のようにパラパラと落ちてくる塩を見ながら、彼女は、こう心に誓ってきた。
 ″負けるものか。どんなことがあっても、日本のどこよりも早く、この奄美の広宣流布をし、日本一幸せな地域にしなくては……″
 この思いは、藤沢ハルだけでなく、野川高志もまた同じであり、奄美の同志に共通した決意であったといってよい。
 奄美では、地域の神事をつかさどる女性司祭者のノロ(祝女)や、神の心を伺い、神がのりうつるとされるユタへの信仰が盛んで、それに逆らえばタタリがあるとされてきた。
 メンバーはそのなかで、旧習を打ち破り、宗教の正邪を訴え、布教の旗を高らかに掲げたのである。
 島の人びとは慌て驚き、感情的な反発も、実に強かった。
 こんな出来事もあった。
 ――茂原三郎が故郷の加計呂麻島で折伏を始め、百世帯ほどの地域のうち、二十世帯ほどの人びとが入会したころ、八十五歳になる彼の祖母が他界した。
 そして、いとこ、叔母、弟、父と、三カ月の間に、五回の葬式を出すことになってしまった。
 すると、「学会に入ると死ぬ」「タタリだ!」という噂が地域中に広まった。この時とばかりに、学会への批判が噴き上げ、学会員の間にも動揺が起こった。
 確かに、皆、入会後の他界であったが、茂原は動揺しなかった。
 一人ひとりの臨終の相が、これまでに自分が見てきたものとは、全く違っていたからである。皆、顔色もよく、笑みを浮かべているかのような、すばらしい死相である。
 彼は、むしろ、″やはりこの信心は正しかった″との、強い確信をいだいた。
 茂原は、同志に言った。
 「茂原の家の俺が、何も動揺していないのに、なぜみんなが動揺するんだ。この信心はすごいぞ!」
 茂原の微動だにしない姿に、皆の動揺は治まった。
36  布陣(36)
 海原に太陽が躍り出た。
 待ちに待った、新生の朝が来た。
 山本伸一は、六月二十二日の早朝、奄美大島会館の庭に出て、大空に昇りゆく太陽を仰いだ。
 漆黒の闇は、まるで幻のごとく消え、まばゆい光の世界が広がっていた。
 黄金の旭日であった。荘厳な朝であった。
 空は雲一つない青空が広がり、庭に植えられた、パパイア、バナナ、フェニックス、ソテツなどの木々の緑が、太陽の光に、鮮やかに映えている。
 伸一は思った。
 ″心に燃える太陽があれば、いかなる闇をも払い、必ずや栄光と勝利の朝が訪れる。
 わが地域を変えゆかんとするなら、ただ一つ、わが心に闘魂の太陽ありや、広宣流布への情熱ありやを、問うことだ″
 彼の胸には、満々たる闘志をたたえた、王者の太陽が燃え輝いていた。
 彼にとっては、一日一日がすべてであった。一瞬一瞬が「只今臨終」の思いであった。それが歴史を開かんとする者の決意である。
 この日は、午前十時前から、待望の奄美大島会館の落成式が挙行された。
 会館には、約五百人の代表が詰めかけ、庭も人で埋まっていた。
 メンバーの顔には喜びがあふれ、会館は笑みの花園であった。
 その友の顔が、伸一の長旅の疲れを吹き払った。
 読経・唱題、経過報告、幹部のあいさつに続いて、伸一は、奄美の全同志が大功徳に浴してほしいとの願いを込めて、御本尊の偉大なる功力について語った。
 「御本尊、すなわち曼荼羅のことを、功徳聚、また輪円具足といいます。これは、諸仏、諸法のいっさいの功徳が、一つも欠けることなく、すべて収まっているということであります。
 その御本尊に具わった仏力、法力を引き出していくのが、私どもの信力、行力です。そして、それぞれの信力、行力が、そのまま仏力、法力となってあらわれてくるのです……」
 そして、彼は、唱題の大切さを訴えた後、こう呼びかけた。
 「この会館は、広宣流布のために、自由に、皆さんに使っていただくための法城です。日本最南端のこの法城から、皆さんの勇気と団結で、広布の大潮流を起こしていっていただきたいのであります。
 私に代わって、奄美の広宣流布を頼みます」
 その言葉を、メンバーは命で受け止めたのである。
37  布陣(37)
 奄美大島会館の落成式の後、奄美総支部の結成にともなう人事の面接が、会館の二階で行われた。
 奄美のメンバーは、そこで初めて、総支部の結成を知らされた。その驚きは大きかった。
 総支部長の候補として面接に臨んだ野川高志は、自分は、支部長としての責任も、十分に果たし切れていないのに、更に重い責任を担うことはできないのではないかと考え、総支部長は辞退しようと思った。
 それを、面接の場で語ると、伸一は言った。
 「確かに奄美総支部の舞台は広いし、総支部長の責任は重い。しかし、できないことはない。
 私は三十二歳で、全世界を引き受けた。それを考えれば、奄美諸島が広いといっても、たかが知れているじゃないか」
 伸一にこう言われると、野川は何も言えなかった。
 ″俺も、山本先生とともに、広布に命をかけようと誓ってきた男だ。とことんやってみようじゃないか″
 野川の腹は決まった。
 一方、そのころ、名瀬港に面した塩浜海岸の埋め立て地には、続々とメンバーが集っていた。
 ここが、この日の、大会の会場である。
 山を背にして、屋根つきの舞台が特設され、その上には、墨痕鮮やかに「創価学会奄美大島支部大会」と書かれた横断幕が掲げられていた。会合は「奄美総支部結成大会」に変わっていたが、もはや文字を書き換える時間はなかった。
 午前十一時過ぎには、約六千人のメンバーで会場は埋まった。皆、ムシロを敷いて座り、昼食をとりながら、午後一時の開会を待っていた。
 午後零時四十五分、怒涛のような大拍手のなか、山本会長らが入場すると、奄美総支部結成大会の開会が宣言された。
 学会歌の合唱に続いて、副理事長の十条潔が、奄美総支部の結成と人事を発表した。
 総支部の結成が伝えられると、「ウオー」という海鳴りのような歓声と拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。
 続いて、総支部長の野川高志の抱負である。
 「皆さん、本日、この奄美に、総支部が結成されました。今日は、奄美の第二の出発であります。
 七、八年前には、ほとんど信心をしている人もいなかった奄美に、総支部ができたということは、信心の勝利の姿であり、絶対に広宣流布はできるという証明であります」
38  布陣(38)
 野川高志は、声を限りに叫んだ。
 「奄美諸島は宿命の島であります。歴史的にも不幸な過去をもち、毎年、台風のたびごとに大きな被害を出し、島民は塗炭の苦しみにあえいでおります。
 その奄美の宿命を変えるのが私たちです。私は、奄美の仏国土建設のために、全力で頑張り抜いてまいる決意です。
 山本先生は『苦労し、不幸に泣いてきた地域ほど、強い組織になるものだ』と言われております。
 みんなで力を合わせて、この奄美に、日本一の総支部をつくろうではありませんか。私と一緒に、再び立ち上がってください!」
 参加者は、「オー」と拳を振り上げ、野川の呼びかけに応えた。
 打てば響く、絶妙な呼吸であり、意気天を衝くかのごとき勢いである。
 結成大会の式次第は着々と進み、女子部長の渡道代や理事の澤田良一、また、副理事長の石川幸男、清原かつ、秋月英介らが、相次ぎあいさつに立った。
 理事長の原山幸一の話に続いて、いよいよ会長山本伸一の講演となった。
 彼は、参加者の労を深くねぎらった後、日焼けした顔に微笑を浮かべて語り始めた。
 伸一は、日蓮大聖人の仏法こそ、経文のうえからも、法理のうえからも、最高の教えであることを訴えるとともに、その功徳は、「冥益」となって現れることを述べていった。
 「功徳には、祈りの結果が、直ちに目に見える利益、つまり顕益と、目には見えない利益である、冥益とがあります。
 大聖人の仏法は、このうち、冥益が主となって、私たちに幸福をもたらしてくれます。
 ある場合には、信心してすぐに病気が治るということもありますが、本当の功徳とは、信心をしたら大金が手に入ったとかいうものではありません。
 『棚からボタモチ』のような、自分は何もせずに、どこかから幸運が舞い込んで来るのが功徳だとしたら、かえって、人間を堕落させてしまいます。
 では、冥益とは何か。
 たとえば、木というものは、毎日、見ていても、何も変化していないように見えますが、五年、十年、二十年とたつうちに、大きく生長していきます。
 それと同様に、五年、十年、二十年と信心に励むうちに、次第に、罪障を消滅し、宿命を転換し、福運を積み、大利益を得ることができるのが冥益であり、それが大聖人の仏法の真実の功徳なのであります」
39  布陣(39)
 多くのメンバーは、功徳といえば、「顕益」と思い込んできた。それだけに、山本伸一の話を聞いて、驚いた人もいた。
 伸一は、皆に、正しい信仰観を確立してほしかったのである。
 彼は話を続けた。
 「冥益とは、言い換えれば、信仰によって、生命力と智慧を涌現し、人格を磨き、自らを人間革命して、崩れざる幸福境涯を築くということでもあります。
 したがって、焦らず、弛まず、木が大地に深く根を張って、大樹に育っていくように、学会とともに、広布とともに生き抜き、自らの生命を、磨き、鍛えていっていただきたいのであります。
 そうして、十年、二十年、三十年とたった時には、考えもしなかった幸福境涯になることは間違いないと、断言しておきます」
 伸一は、この後、戸田城聖が示した、学会の三指針を確認した。
 「戸田先生は、『一家和楽の信心』『各人が幸福をつかむ信心』『難を乗り越える信心』という、三つの指針を示されました。
 広宣流布といっても、その縮図は家庭のなかにあります。一家が仲良く、楽しく、誰からも羨まれるような家庭になってこそ、信心の証といえます。
 また、皆様方が『自分はこんなに幸福である』と、胸を張って言い切れるようになるための信心であります。最終的には、広宣流布も、仏道修行も、人のためではなく、自分の幸福のためです。
 そして、その幸福をつかむには、難を乗り越えなくてはならない。
 正法には、必ず難があります。悪と戦うがゆえに、難が競い起こるのです。
 しかし、風がなければ、凧も揚がりません。私どもも、悪と戦い、難を受けてこそ、磨き鍛えられ、人格の光彩を増していきます。
 難に負けず、邪悪と戦い続ける人生こそ、最も崇高であり、そこに湧きいずる無限の生命力が、使命の躍動が、幸福の大空へと自らを飛翔させる活力となるのであります。
 自分を幸福にするのは、他人ではありません。科学でも、また、政治でもありません。自己自身の一念であり、自らの生命を開きゆく尊き信心にあります。
 どうか皆様方は、時代の先端をゆく信心の勇者として、最高の幸福境涯への道を開かれんことをお願い申し上げ、本日の私のあいさつとさせていただきます」
 怒涛の拍手が地に響き、天に舞った。
40  布陣(40)
 奄美総支部結成大会は、「東洋広布の歌」の大合唱で幕を閉じた。
 奄美大島にこれだけの人が集うことは、社会的にも大きなニュースであった。
 この結成大会の模様を、奄美の新聞各紙も、こぞって報道した。
 翌六月二十三日付の「南海日日新聞」は、写真入りで詳しく紹介。また、「大島新聞」は、コラムでも大会を取り上げ、こう記している。
 「……創価学会奄美総支部大会は本島の各町村はもちろん、喜界島や徳之島からの信徒も参加して、その数は七千人余り
 さしもの塩浜埋立地もこれらの人々ですっかり埋めつくされた感じだったが、塩浜への道はただ一本というわけで弁天山下の道路は大変な混雑ぶり
 ″創価学会″の腕章をつけた青年部の連中が交通巡査よろしく交通整理。海岸中央突堤の四辻では本職のお巡りが手持ち無沙汰のかっこうだった」
 どことなく、皮肉めいた書き方ではあるが、この大集会が、周囲の人が驚くほど、整然と行われたことは間違いない。
 総支部結成大会の後は、引き続き、壮年、婦人、男女青年部に分かれ、幹部の指導会が行われることになっていた。
 山本伸一は、壮年の班長会に出席することになっていたが、開会までの時間を利用して、同行のメンバーや奄美総支部長になった野川高志らとともに、名瀬市内を視察した。
 一行は、赤崎の岬で車を止め、散策した。
 右には、港湾を隔てて名瀬の街の家並みが見え、左には、青く澄んだ東シナ海が広がっていた。海を渡る風が心地よかった。
 海を眺めながら、伸一は野川に尋ねた。
 「奄美の人たちが、一番困っている問題というのはなんですか」
 「はい、ハブです。去年は二百二十人ほどが咬まれていますし、今年も既に五十人ぐらいが被害にあっています。
 ハブに咬まれたら、傷口を切って、毒を出し、すぐに医者に駆け込むしかないのですが、医者がいない地域もあるので大変です。なかには死亡するケースもあります」
 「こうした問題は、人命にかかわることだけに、国が全力をあげて対応していくべきことだ。しかし、国会議員は、なぜ、この問題を取り上げないのかね」
 野川が答えた。
 「離島は人口が少なく、票にならないからです」
 「そうか、ハブの被害は人災でもあるな」
41  布陣(41)
 山本伸一は、傍らにいた参議院議員でもある理事長の原山幸一に語った。
 「政治家は、こういう声によく耳を傾けて、真剣に対策を考えるべきではないかね。公明会の議員は、人びとの呻き声ひとつ、聞きのがしてはならないと、私は思う」
 伸一は、更に、野川高志に尋ねた。
 「ハブの問題以外には、何がありますか」
 「台風です。なにしろ、奄美は″台風銀座″といわれているぐらいですから。毎年、甚大な被害を受けています」
 「これも、さまざまな保障を考えるなど、政治の次元で対応していくべきことも多いが、問題解決の根本となるのは、みんなの祈りの一念だよ。
 一念は大宇宙を包むと教えているのが仏法だ。人の一念が変われば、衆生世間が変わり、国土世間も変わる。それが、依正不二であり、一念三千の原理だ。
 だから、学会員が増え、みんなが題目を唱えるようになれば、どんな環境でも変えていくことができる。
 すべては人の一念から始まる。たとえば、台風で吹き飛ばされない家はどんな家か、被害の少ない農作物は何かなどの研究や工夫も、一念から生まれる。更に、行政を動かしていくのも一念だよ。
 自分のいるところを常寂光土とし、幸福と平和の天地にしていくことが、私たちの使命だ。私は、奄美の同志には、その先駆を切ってもらいたいんです」
 伸一は、ここから、壮年の班長会の会場になっている立安寺に向かった。
 立安寺は一九五九年(昭和三十四年)の十二月に、学会によって建立寄進された寺であった。当時、まだ奄美の会員の数は少なかったが、伸一は、広宣流布の大きな力になると信じて、寺を供養したのである。
 学会の会館建設は後回しにしても、寺院を建立し、宗門の発展に尽くすというのが、一貫した学会の姿勢であった。
 その学会の誠実さに付け込んで、会員を奴隷のごとく支配するために、後に宗門は、最高最大の大功労者・山本伸一を破門にし、学会を解散させようとする、卑劣極まりない画策を行った。
 この坊主らの罪は永劫に消えることはないだろう。
 そしてまた、この立安寺も、後年は、奄美諸島における仏法破壊の極悪の根城となったのである。
 これらの悪は、人間に巣くうガンと同じである。放置すればするほど、ガン細胞は広がり、生命を倒す。ゆえに、断じて悪とは戦わなければならない。これしか、善の世界を守り、仏道修行の道を安全ならしめるものはないからである。
42  布陣(42)
 立安寺での班長会で、山本伸一は、幹部の自覚と責任について語っていった。
 彼は、奄美諸島の人びとの生活の大変さも痛感していた。皆の苦労もよくわかっているつもりである。
 しかし、広宣流布の進展なくしては、奄美の宿命の転換も、人びとの幸福もありえない。
 ゆえに、彼は、広布の活動の指揮をとる幹部の姿勢を語ったのである。
 「日々の活動、本当にご苦労様です。
 地理的な条件といい、旧習の強さといい、また、経済的な面でも、皆さんのご苦労は筆舌に尽くしがたいものがあると思います。
 しかし、皆さんもご存じのように、御書にも『願兼於業』と仰せです。つまり衆生を哀れみ、救済せんとして、自ら願って悪業をつくり、悪世に生まれてきたのが私たちです。
 仏法の法理に照らしてみるならば、末法に生まれてきたことは、地涌の菩薩として、広宣流布をしていくためです。皆さんは、願って、この奄美諸島に生まれてこられた方々なんです。
 台風は頻繁に来る、ハブはいる、交通の便は悪い、経済的にも苦しい――そんなことは承知のうえで、奄美広布をしようと誓願し、あえて多くの宿業を背負って、地涌の菩薩として出現してきたのが皆さんです。
 それを、こんなはずではなかったとか、ここまで大変だとは思わなかったなどと、不平不満を言っているうちは、まだ、その自らの使命の真髄たる本地を現していないということです。
 したがって、本来の力も、智慧も、発揮できないし、事態の打開もないということになります。
 断固として、広宣流布の使命を自覚してこそ、地涌の菩薩です。
 そして、その使命を果たし抜いていくなかで、久遠の自己が現れ、無限の力が、無限の智慧がわき、あらゆる苦難を乗り越えていくことができるんです」
 どの顔にも、真剣さが漂っていた。伸一は、皆に視線を注ぐと言った。
 「今日は、壮年の皆さんに、何が広宣流布を阻むかということを申し上げておきたい。
 それは、環境や状況の厳しさではなく、幹部の一念に宿る『妥協』と『あきらめ』の心です。
 ″私の地域は、ここまできたんだから、もうこれ以上は無理である″″目標は掲げたが、実際には達成できなくても仕方ない″などという思いが、リーダーである幹部の心のなかにあれば、戦いは既に敗れたも同然です。
 一念は、勝利の原動力です。それが崩れてしまえば敗北しかありません」
43  布陣(43)
 会場は、熱気に包まれていた。皆、額に汗を滲ませながら、会長山本伸一の話に聞き入っていた。
 「布教は宗教の生命であり、広宣流布とは正法の拡大にある。この正法を弘めずしては、人びとの幸福はない。
 その拡大の方法は、時により、地域により、異なることは当然であるが、月々年々に、拡大がなければ、それは停滞である。
 世間では、創価学会は三百万世帯を達成したんだから、これ以上、発展することはないだろうと言われていますが、それはとんでもないことです。一生涯、広宣流布の道を開き、進展させていかねばならないのであります。
 ″誰がなんと言おうが、広宣流布をしてみせる!″″たった一人になっても、法を弘め抜いて死んでいくぞ!″という決意をもって、行動し抜いていくならば、学会は無限に発展していきます。
 奄美が短期間のうちに、大きく広宣流布が進んだのも、これまで皆さんが、何があっても恐れずに、この島中の人たちに、一人ももれなく信心を教えようと、一途に、懸命に、折伏を展開してきたからです。
 それが学会精神です。永遠に、その精神を燃やし続け、会員から会員に、子に孫に、伝え抜いていくならば、広宣流布は必ず成就していきます。
 また、幹部というのは、広宣流布の責任をもつ人の異名です。ゆえに、自分が組織の中心者として、どれだけ広布を進めたのかを、常に考えていなくてはなりません。
 奄美は、日本のハワイです。私は大好きです。
 隣の沖縄は、『沖縄健児の歌』を作って、誇らかに前進しています。奄美でも『奄美健児の歌』を作ってはどうでしょうか。
 そして、みんなで朗らかに歌いながら、とにもかくにも仲良く、『団結第一』を合言葉に前進してまいりましょう。
 この奄美の広宣流布は、ここに生きる皆さんにお願いするしかありません。どうか私と同じ心で、同じ決意で、新しい前進を開始していってください」
 伸一の渾身の指導に、参加者は奮い立った。
 会合を終えて、車に乗り込むと、伸一は、軽いめまいを覚えた。慣れぬ暑さのうえに、疲労と睡眠不足が重なったせいであろう。
 彼が会館に到着すると、会館の広間には、船が大幅に遅れたために、奄美総支部の結成大会に間にあわなかった、沖永良部島、与論島のメンバー二百六十九人が待っていた。
44  布陣(44)
 「皆さん、ご苦労様!」
 奄美大島会館の広間に待つ遠来の友に、山本伸一は力強く呼びかけた。
 「皆さんは、ここに来るまで、どのぐらいかかったんですか」
 伸一が尋ねると、与論島のメンバーが元気な声で答えた。
 「はい、海がシケていたもので、三十八時間かかりました」
 「そうですか。疲れたでしょう。
 この会館は、皆さんの会館ですから、ゆっくり休んでいってください」
 伸一の激励が始まった。 彼は、メンバーの求道の心を称えた後、最高の仏法に巡りあえた喜びを胸に、生涯、不退の道を貫き、皆が「私は、こんなに幸福になれました」と言える、境涯革命を成し遂げてほしいと語った。
 それから、一人ひとりに言葉をかけながら、固い握手を交わしていった。
 ある老婦人には、「いつまでも、いつまでも、長生きをしてください。元気で健やかにいること自体が、仏法の正しさの証明になります」と励ましを送った。
 ある青年には、「これからは君たちの時代だ。力をつけ、立派な指導者になっていくんだ! 沖永良部の大リーダーに」と訴えた。
 握手をしながら、決意を語る壮年がいた。目頭を潤ませ、功徳の喜びの報告をする婦人もいた。
 おざなりの激励では、人の心を揺さぶることはできない。伸一は一言一言に、一回一回の握手に、全魂を注ぎ、一人ひとりを抱き締める思いで激励を続けたのである。
 二十分ほどかかって全員と握手をし終えた時には、彼の右手は痺れていた。
 夕食後、伸一は、奄美総支部の幹部と懇談し、更にそれから、同志の代表に贈るために、色紙に毛筆で、恩師戸田城聖の和歌を次々と認めていった。
  辛くとも
    嘆くな友よ
      明日の日に
    広宣流布の
      楽土をぞ見ん
  一度は
    死する命ぞ
      恐れずに
    仏の敵を
      一人あますな
  いざ往かん
    月氏の果まで
      妙法を
    拡むる旅に
      心勇みて
 一人ひとりの発心と大成長とを祈り念じて、命を振り絞るようにして書いた、励ましの揮毫であった。
45  布陣(45)
 奄美の夜は、刻々と更けていった。
 時刻は既に、午前零時を回っていた。しかし、山本伸一は、まだ揮毫の筆を置かなかった。
 二十三日の朝、彼は奄美の友の学会歌の合唱に送られ、名瀬の港を発った。帰りも船で徳之島まで戻り、そこから空路、鹿児島に向かった。
 鹿児島の空港に着いたのは、午後五時半であった。そこで飛行機を乗り継ぎ、宮崎に飛んだ。この日の夜、宮崎県公会堂で行われる、宮崎総支部幹部会に出席するためであった。
 伸一の疲労は極みに達していた。しかし、彼はここでも、創価学会の発展は″地涌の義″であることを訴え、全力で参加者を指導した。更に、終了後は、第二会場となっていた県の教育会館にも姿を見せ、メンバーを励ましていった。
 参加者は、はつらつとした山本会長の姿からは、彼の激闘も疲労も、想像することはできなかったにちがいない。
 伸一は「日興遺誡置文」の「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」との御文を命に刻んできた。
 それは裏返せば、身命を捨てて随力弘通する人びとによって、広宣流布は初めて可能になることを述べられた御指南でもある。
 恩師戸田城聖は、まさにこの御遺誡を身をもって示し、会員七十五万世帯の達成という壮挙を成し遂げて世を去った。
 伸一は、広宣流布という「人類の幸福」と「世界の平和」の実現に、いっさいを捧げたこの恩師の精神を、自分が体現し、伝え抜いていくことを心に深く深く誓っていた。
 精神の継承とは、観念の世界でなされるものではない。行動、振る舞いを通して伝えられ、受け継がれていくものだ。
 それゆえに彼は、一瞬一瞬に命をかけた。全魂を注いだ。
 精神とは、瞬時の、今の行動として現れるものであるからだ。
 彼は痛感していた。
 ″本部、総支部など、組織の布陣は着々と整いつつあるが、そこに魂を吹き込むのは精神の布陣である。
 戸田先生の精神を受け継ぎ、常に「師はわが胸にあり」と言い切れる、まことの師子が勢揃いする日が、先生の七回忌でなければならない″
 彼は、先駆けの走者として、ただ一人、力走に力走を続けた。後に真正の同志が、二陣、三陣と続くことを信じて。

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