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日蓮大聖人・池田大作

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第7巻 「操舵」 操舵

小説「新・人間革命」

前後
1  操舵(1)
 吹雪が、列車の窓ガラスを激しく叩いていた。
 それは、闇のなかから、次々と襲いかかる白い魔物のようでもあった。
 車内のどの顔にも、疲れが滲んでいた。乗客は、空腹をかかえながら、動き出す目途さえ立たぬ列車のなかで、ただひたすら、待っているしかなかった。
 一九六三年(昭和三十八年)一月二十四日の夜のことである。
 この列車が新潟県の、ここ宮内駅に停車してから、既に十六、七時間が経過していた。
 団体列車であるこの車内には、静岡県富士宮市の総本山に登山し、新潟駅まで帰る、新潟支部と羽越支部の会員約九百人が乗車していた。
 一行は、二十三日の午後三時ごろ総本山を発って、午後八時ごろ、東京の上野駅で新潟行の団体列車に乗り換えた。
 上野駅で、豪雪のため大幅にダイヤが乱れているとのアナウンスがあったが、しばらくは、列車は順調に運行していた。予定では、二十四日の朝、新潟駅に到着することになっていた。
 やがて、乗客が眠り始めたころ、列車は、長岡駅から七駅手前にある上越線の小出駅で停車し、なかなか動き出さなかった。
 次第に、皆、不安がつのり始めた。メンバーの多くは朝から仕事に出なければならない人たちである。
 一時間ばかりして、ガタンという音とともに、ようやく列車は走り始めた。
 皆、胸を撫で下ろした。
 だが、あえぐような、遅い進み方である。
 一時間ほど走ったころ、長岡駅の一つ手前の宮内駅で、再び列車は止まった。二十四日の午前三時半であった。外は猛吹雪である。
 今度は、いつまでたっても、列車は止まったままであった。
 新潟支部長で列車の責任者であった江田金治は、輸送班の責任者とともに、宮内駅の駅長室に向かった。
 駅長の話では、北陸線、上・信越線などの随所で、豪雪のために列車がストップしており、復旧については、まったく予測がつかないとのことであった。
 江田は、ともかく、皆の食事の手配とともに、車内での待機が長時間に及ぶようなら、乳幼児や高齢者を旅館に宿泊させるように、駅長に要請した。
 食事は駅弁を確保してくれることになったが、旅館は既にいっぱいであった。
 更に彼は、各車両の責任者を集め、事情を説明した。そして、最後まで登山会を無事故で終わらせるために、連携を密にし、団結第一で、すべてに対処していこうと訴えた。
2  操舵(2)
 朝になると江田金治は、メンバーに、駅などの公衆電話を使って、家族や会社と連絡を取っておくように指示した。
 そして、車内で、皆で朝の勤行をした。やがて、駅弁が届いた。勤行をし、弁当を腹に入れると、メンバーは元気になった。
 江田は、各車両ごとに、御書の勉強会をもつことにした。車内の人びとは意気揚々としていた。
 「朝から御書を勉強できるなんて、夏季講習会に参加してる気分だな」
 「冬だから、″冬季講習会″だ。だけど、講習会なら二泊三日になる」
 皆、愉快そうに話をしていた。
 雪は一向にやむ気配はなかった。周囲の民家は雪に埋まっていた。
 昼に、もう一度、駅弁が配られた。だが、それが最後であった。豪雪ですべての交通機関がストップしており、弁当の材料も底をついてしまったのであろう。
 その後、駅長の配慮でパンが配られたが、この状況下では、古いパンしか手に入らなかったようだ。パンの中のジャムなどが腐っているものもあった。
 もはや、駅長もなす術がなかった。
 江田は、なんとしても、皆の腹だけは満たさなければならないと思った。彼は長岡支部の支部長の竹川正志に電話し、無理を承知でメンバーの食事を手配してもらえないかと頼んだ。
 一言に食事といっても九百人分である。おいそれと準備できる数ではない。しかし、竹川は、二つ返事で引き受けてくれた。
 吹雪は、ますます激しくなっていた。
 この豪雪は「三八豪雪」といわれ、北陸・信越地方に、記録的な被害をもたらし、新潟県下の被害も大きかった。
 新潟県豪雪害対策本部がまとめた「豪雪害の状況」(一月三十日調べ)によれば、降雪は一月二十五日には長岡市で九三センチメートル、入広瀬村では一四〇センチメートルを記録している。
 雪は、更に降り続け、三十日までの最大積雪深は、長岡駅では三七〇センチメートルに、入広瀬駅では、なんと五一〇センチメートルに達したのである。
 この雪で、二十三日夕刻には、県内で百四十四本の列車が運休し、二十六本の列車が立ち往生している。
 また、一月三十日の時点で、県内の死者九人、行方不明一人、全壊した建物九十八棟、半壊九十五棟、河川や下水道の閉塞による床下・床上浸水は百九十三棟となっている。
 このほかに農作物や、鉄道、道路の不通による商工業の被害も甚大であった。
3  操舵(3)
 二十四日も暮れて、夜になると、皆の不安は増していった。空腹にもさいなまれ始めた。
 飲料水もなかった。喉の渇きを癒すために、外に出て雪を食べた。
 列車には暖房が入ってはいたが、それでも寒さが身に染みるようになった。
 目を閉じてはいても、熟睡している人は誰もいなかった。会社のことや、家に残してきた幼子や病身の家族のことなどを思うと、誰もが、いたたまれぬ気持ちになるのである。
 だが、幹部の多くは、自分たちのことよりも、家族が未入会のなかで、登山会に参加した同志のことを心配していた。
 このうえ、更に何日も家に帰ることができないとなれば、家族はどう思うだろうかと考えると、胸が痛むのである。
 静寂な車内に、時折、火のついたように泣く、赤ん坊の声が響いた。それが、一層、皆のせつなさをつのらせた。持参してきたオムツも既に使い果たし、子をあやす母親の声もくぐもっていた。
 そのころ、長岡支部のメンバーは炊き出しに大わらわであった。
 夕方、長岡支部長の竹川正志から、新潟支部と羽越支部の登山者九百人が乗った登山列車が、宮内駅に立ち往生しているので、オニギリをつくってほしいとの連絡が流れるや、五十人ほどの人たちが、すぐに準備に取りかかった。
 この時、長岡支部からも、五百数十人の支部員が登山会に参加していたが、長岡支部の登山日は、新潟、羽越両支部の一日後であったために、上野駅に着いた時には、長岡に帰る団体列車は、既に運休になっていた。
 そこで、登山者は、東京の学会の会館などに宿泊することになった。
 つまり、長岡支部の中核となるメンバーの大半が、不在だったのである。
 そのうえ、長岡に残った人たちは、自分の家の屋根の雪下ろしや雪掻きをしなければならなかった。
 しかし、同志が雪で止まった列車にいることを思うと、自分の家の雪下ろしどころではなかった。どの家でも、自分たちの食事も早々に、炊けるだけの飯を炊き、大急ぎでオニギリをつくり始めた。
 どこも、残っている家族が総出で準備をした。炊き上がったばかりの飯はまだ熱く、手はすぐに真っ赤になったが、水で冷やしながら、飯を握り続けた。
 長岡のメンバーは、オニギリが出来上がると、菓子箱やボウルなどに入れ、風呂敷で包み、急いで、吹雪の夜道を徒歩で宮内駅に向かった。
4  操舵(4)
 二メートルを超える積雪とあって、車も、自転車も使えなかった。
 皆、長靴の口を荒縄やヒモで縛り、オニギリの入った大きな荷物を抱えたり、背負ったりしながらの運搬であった。
 胸まで雪に漬かり、白い息を弾ませ、泳ぐようにして歩いた。場所によっては電柱が雪に埋まり、電線を跨ぎながら、進んでいかなければならないところもあった。
 雪に滑って、転んだ人もいたが、オニギリだけは必死に守った。
 長岡支部の人たちの多くは、長岡駅の周辺に住んでいた。長岡駅から宮内駅まではおよそ三キロメートルの道程である。
 普段なら、四、五十分の距離であったが、吹雪の夜道とあって、宮内駅まで、一時間半から二時間もかかった。
 オニギリは、いったん宮内駅近くの会員の家に集められることになっていた。
 この会員の家は鮮魚店で、仕出しも行っており、大きな釜や鍋、椀なども揃っていた。ここにも、二十人ほどの人が集まり、味噌汁をつくっていた。
 オニギリの数がまとまったところで、駅に止まっている列車に運び込まれた。時刻は、既に午後十一時ごろであった。
 新潟支部長の江田金治が乗っていた車両でも、輸送班の青年の元気な声が響いた。
 「皆さん、長岡支部の方々がオニギリを届けてくれました。温かい味噌汁もあります。これから、お配りいたします!」
 疲労と空腹で曇ったメンバーの顔に光が差し、歓声と拍手がわき起こった。
 長岡支部の婦人が、車内に入り、味噌汁とオニギリを配り始めた。その肩や頭には、雪が積もっていた。そして、手のひらは赤くなっていた。熱い飯を握ったためであろう。
 車内に、湯気を上げた味噌汁の匂いが漂った。
 「さあ、温かいうちに召し上がってください」
 皆、フーフー言いながら味噌汁をすすった。
 配り終えると、長岡の婦人は言った。
 「皆さん、大変でしょうが、頑張ってください。私たちも、できる限りのことは応援させてもらいます。必要な物があったら、遠慮せずに言ってください」
 車内の人びとの目が潤んだ。豪雪となれば、本来、自分の家を守るだけで精いっぱいのはずである。
 それなのに、ほかの支部員のことを心配し、オニギリだけでなく、味噌汁までつくって、吹雪のなかを届けてくれる同志の熱い真心が、痛いほど、窮地に立つメンバーの胸に染みた。
5  操舵(5)
 九百人の乗客全員が食事を終えるまでに、三時間ほどかかった。長岡のメンバーが家路についたのは午前二時ごろだった。
 このオニギリと味噌汁が、どれほど車内のメンバーを元気づけたか、計り知れなかった。
 同志愛のこもった一杯の味噌汁は、創価学会員であることの誇りと、試練に耐える勇気を呼び覚ました。
 ″こんなことに負けてなるものか!″
 誰もがそう思った。車内は、明るさを取り戻した。
 「心のこもった、あったけぇ味噌汁はすげぇ。幹部十人分の指導に勝る」
 こんな冗談も出るほどだった。
 長岡のメンバーは家に帰ると、引き続き、朝食の準備に取りかかった。ほとんど徹夜の作業であった。
 翌二十五日の朝にも、オニギリが届いた。昼には、オニギリと味噌汁が、そして、夜には、オニギリに豚汁が用意された。
 また、赤ん坊のオムツやミルク、子供のための菓子のほか、ミカン、茶、チリ紙、医薬品、マスクまで届けてくれた。
 これらの品々は、車内の人たちが要求したものではなかった。親身になって同志のことを思う、長岡の友の真心から生まれた周到な気遣いであった。
 その間も、雪は降り続いていた。列車の屋根には一メートルほども雪が積もり、幾本もの、つららが垂れていた。
 車内では、トイレが詰まり、悪臭が漂い始めた。輸送班の青年が、棒などを使い、必死になって、トイレの詰まりを直した。
 彼らは大奮闘していた。ほとんど不眠不休で任務を遂行していたのである。
 輸送班のメンバーのなかには、連絡のためにホームを駆け回っていて、水を流して雪をとかすための溝に落ち、びしょ濡れになってしまった人もいた。
 しかし、それでも登山者を守ろうと、微笑を浮かべて快活に動き回る、責任感あふれる姿に、誰もが感動を覚えた。
 窮地のなかでこそ、人間の真価が発揮されるというが、まったくその通りの姿であった。
 二十五日の明け方には、暖房が切れた。
 暖房用の燃料がなくなってしまったようだ。
 車内の温度は、瞬く間に下がっていった。豪雪のなかで暖房が入らなければ、人命にもかかわってくる。
 新潟支部長の江田金治や輸送班の責任者が、駅長と対策を協議した。
 駅長も懸命に対応し、八方、手を尽くしてくれた。そして、燃料を確保し、なんとか、暖房の維持が可能になった。
6  操舵(6)
 二十五日も暮れた。総本山を発ってから三度目の夜を迎えたことになる。
 長岡の同志の激励に勇気を得たものの、皆の憔悴は激しかった。何しろ、足を伸ばして寝ることもできない。どの人の足も腫れて膨らんでいた。
 しかし、激しかったのは、肉体よりも、むしろ心の疲労であった。宮内駅で列車が止まってから四十時間余り、心休まることがなかったのである。
 次第に皆、不安と焦りがつのり、イライラが高じてきた。語る言葉もトゲトゲしくなっていた。
 支部長の江田金治は、なんとかしなければと、心で唱題しながら、必死で対応を考えた。そして、自分が乗っていた車両のメンバーに向かって呼びかけた。
 「皆さん、座談会を開きましょう。まず、学会歌を歌おう!」
 すると、すかさず輸送班の青年が言った。
 「それでは、私が『輸送班の歌』を歌います」
 彼らも、なんとか皆を元気づけなくてはと、思っていたのであろう。
 青年は拳を握って、自ら指揮をとりながら、歌い始めた。手拍子が起こった。
  前進みなぎる
    我が学会に
  今若獅子は
    毅然たり……
 力強い、朗々たる歌声であった。そこには″絶対に負けてたまるか!″という強い気迫があふれていた。
 歌を知っている人は、ともに唱和した。皆の手拍子にも次第に力がこもり、顔に生気がみなぎり始めた。
 青年の懸命な姿が、皆の心を鼓舞したのである。
 歌が終わった。
 「もっと歌いましょう」
 江田は言った。
 「では『威風堂々の歌』の指揮をとります」
 輸送班の青年が、また元気いっぱいに、冒頭の一節を歌った。
 「『濁悪の此の世行く 学会の』、それ!」
 今度は、車両全員の大合唱となった。
  ……行く手を阻むは
     何奴なるぞ
  威風堂々と 信行たてて
  進む我らの 確信ここに
 熱唱するうちに、広宣流布の使命に生きる喜びと希望が脈打ち、″頑張ろう!″との思いが、皆の胸中にうねっていった。
 学会歌の合唱は、何曲も何曲も続けられた。最後は、誰もが目を潤ませながらの合唱となった。
 この歌声を聞くと、隣の車両でも学会歌を歌い始めた。更にそれは、次の車両にも広がり、やがて、列車中で大合唱が始まった。
 吹雪の夜空に、高らかに歌声がこだましていた。
7  操舵(7)
 どの車両でも「日本男子の歌」や「東洋広布の歌」「新世紀の歌」など、何曲も学会歌を歌った。
 学会歌の合唱が終わった時には、皆、新しい息吹がみなぎっていた。
 引き続き座談会を開いた車両では、次々と決意発表が飛び出した。
 ある壮年は、涙ぐみながら語った。
 「最初は、信心をすれば功徳があるはずなのに、なんでこげんことになるんだろっかと、腹立たしい思いでいっぱいでした。
 しかし、吹雪いているなかを、片道一時間半、二時間とかかって、何往復もしてくれる、長岡支部の同志の姿に、あったけぇ、あったけぇ、″学会の心″を知ることができました。
 この″学会の心″を、本当の″人間の心″を、社会に広げていくために、新潟に帰ったら全力で弘教に走り抜いていぐ決意です」
 また、ある婦人は、頬を紅潮させながら語った。
 「大聖人は『大悪をこれば大善きたる』とおっしゃっていますが、私は今、『学会員でよかった』と、大声で叫びたい思いです。今回の体験を、決意に変えて頑張り抜き、大功徳の実証を示してまいります」
 皆の心は一変していた。
 一方、長岡支部の人たちは、不眠不休で食事づくりに励んでいた。
 明けて、二十六日の朝も昼も、オニギリが届けられた。しかも、そこには、味噌汁のほかに、ニンジンやキャベツなどの野菜も、ふんだんに添えられていた。車内のメンバーの栄養を気遣っての配慮である。
 二十六日の昼過ぎ、宮内駅に、東京の学会本部から電話が入った。江田金治が駅舎の電話に出ると、理事長の原山幸一の声がした。
 原山は、メンバーの様子を尋ね、本部としても、周辺の支部に協力を頼むなど、支援態勢を取っているので、頑張り抜くようにと励ましてくれた。
 江田が電話の件を伝えると、歓声があがった。皆、学会本部の心遣いに、勇気がわいてくるのを覚えた。
 午後三時過ぎ、駅長が、夕刻には長岡駅まで列車を動かすことができると連絡に来た。
 江田は言った。
 「それはありがたい。ところで、長岡では、旅館で宿泊させてもらえるんでしょうね」
 駅長は、困惑した顔で言った。
 「それが駄目なんです。長岡駅の方で手配はしてみましたが、ほかの列車の乗客でいっぱいだということでした。
 申し訳ありませんが、皆さんの方で、なんとかしていただくしかありません」
8  操舵(8)
 江田金治は、宮内駅から長岡支部長の竹川正志に電話を入れた。
 もはや、長岡のメンバーの家に、分宿させてもらう以外に方法はなかった。
 毎回、食事をつくって、列車まで運ぶことさえ大変であったのに、更に、支部員の宿泊場所の提供を頼むことは心苦しかった。
 しかし、車内での待機は既に限界を超えていた。なかには、心臓病などの持病のある人もいる。そうした人たちが、まだ元気でいることが、むしろ不思議なくらいであった。
 竹川は、江田の話を聞くと、言下に答えた。
 「わかりました。心配はいりません。これからすぐに、全員の宿泊先を決めるすけ。困っている時はお互いさまだがね」
 江田は、その言葉に涙が出た。
 「無理なことばっか言って、申し訳ねぇですね。ありがとうございます」
 彼は、こう言って、電話機に向かって、何度も何度も頭を下げた。
 車内のメンバーは、今夜は長岡で、同志の家に分宿することを聞くと、歓声をあげて喜んだ。
 やがて、列車が動き出した。二十四日の午前三時半に停車して以来、約六十時間ぶりに宮内駅を発車したのである。
 列車は、ゆっくり、ゆっくりと、吹雪のなかを進み始めた。
 途中、何度も停車し、長岡駅に着いたのは午後五時であった。
 駅には、長岡支部のメンバーが迎えに来ていた。
 車内にいた九百人のメンバーが、三人、五人と振り分けられ、次々に受け入れ先の会員の家に向かった。
 なかには、二、三十人のメンバーを受け入れてくれた人もいた。
 列車が長岡に到着してから、わずか一時間ほど後には、皆、宿泊先の会員の家に行き、駅にはメンバーは誰もいなくなっていた。
 それを見て驚きの声をあげたのは、長岡駅の駅員たちであった。
 彼らは、乗客の数が九百人にも上るだけに、自分たちの経験から、かなりの混乱を予想した。
 移動が完了するまでには、少なくとも、二時間はかかるとみていた。また、宿泊できない人も出るのではないかと考えていたのである。
 駅員の一人が、しみじみとした口調で言った。
 「こんな状態のなかで、一瞬にして宿泊先が決まるなんて、とても考えられないことです。創価学会さんの力はさすがですね。
 同じ信仰をもった人たちの団結の強さと、学会の方々の、思いやりの強さを実感しました」
9  操舵(9)
 それぞれの宿泊先では、メンバーに、真心の食事が振る舞われた。
 風呂に入れてもらった人も多かった。登山会に出発したのは、二十一日の夜であり、誰もが五、六日ぶりの入浴であった。
 急に分宿が決まったこともあり、フトンが揃わず、皆で炬燵に足を入れ、雑魚寝した人もいたが、それでも暖かい部屋で、手足を伸ばして眠れることが、何よりもありがたかった。
 メンバーは、皆、長岡の同志に、計り知れない恩義を感じた。ある人は、せめてもの恩返しにと、屋根の雪下ろしを買って出た。また、家の掃除を手伝った人もいた。
 この時、新潟、羽越の両支部と、長岡支部の同志の間には、太く固い、友情の絆が結ばれたのである。以来、今日に至るまで、親戚以上のつきあいを続けているという人たちもいる。
 翌二十七日の朝には、メンバーは再び列車に戻って来た。
 当初の見通しでは、午前九時には新潟へ出発できそうだとのことであったが、列車は、いつになっても発車しなかった。出発間際になって、駅構内で機関車の脱線事故が起こり、またも足留めをくうことになってしまったのである。
 この日の午後四時ごろ、参議院の公明会の山際洋と浅田宏が、北陸・新潟方面の雪害の調査のために、ヘリコプターで長岡に飛んで来た。現地に急行した最初の国会議員である。
 二人の姿を見ると、車内から歓声があがった。
 会員たちは、豪雪害の被災地に真っ先に足を運ぶ、公明会の議員の真剣な姿が頼もしくもあり、嬉しくもあった。
 長岡駅には、会員が乗った団体列車以外に、一般の列車も止まっていた。
 山際と浅田は、早速、乗客や駅員、住民たちから状況を聞き、実態を調査するとともに、救援対策を練り上げていった。
 山際たちが調査をして驚いたのは、救援のための指揮系統があいまいであり、国鉄職員、自衛隊、消防団などの連携が、まるで取られていないことであった。したがって、情報さえ、共有されていないのである。
 やがて、二十七日の日が暮れても、列車は、動き出す気配はなかった。
 しかし、昨夜、長岡の会員の家に泊めてもらい、ゆっくりと休み、活力を蓄えた新潟支部と羽越支部のメンバーは、落ち着いていた。皆、元気であった。
 夜になると、駅の構内で怒鳴り声が響き、騒然となった。痺れをきらした一般の列車の乗客たちが、列車を早く動かせと、駅員に詰め寄ったのだ。
10  操舵(10)
 この一月二十七日の午後九時過ぎ、会長山本伸一は海外指導から帰国した。
 彼は、羽田の東京国際空港で、出迎えた理事長の原山幸一たちから、この豪雪の話を聞いた。
 伸一は、登山会に参加した新潟、羽越の両支部のメンバー約九百人が乗った団体列車が、まだ、長岡駅に止まっていることを聞くと、顔を曇らせた。
 「大変なことになっていますね。病人などは出ていませんか」
 「持病をもっている人がいたので、大事をとって病院に行かせたそうですが、あとは風邪ぎみの人が何人かいるだけだとの報告が入っております」
 「そうですか。全力で応援してあげてください」
 彼は、午後十一時過ぎに自宅に着くと、すぐに、そのまま、仏壇の前に座り、メンバーの無事を祈って、真剣に勤行・唱題した。
 そのころ、長岡駅では、駅長が、新潟支部長の江田金治らに、午前零時ごろには発車できそうだと伝えてきた。
 駅には、長岡支部長の竹川正志をはじめ、長岡支部の何人かの幹部が、深夜にもかかわらず、メンバーの見送りのために集まってくれていた。
 二十八日午前零時八分、新潟行の発車のベルが長岡駅に響いた。
 列車が宮内駅に止まってから、約九十三時間ぶりの運転の再開である。
 皆、列車の窓を開け、長岡の同志に、口々に感謝の言葉を語っていた。あるメンバーは、竹川の手を強く握り締めて言った。
 「大変にお世話になりました。長岡支部の同志の皆さんのご親切は、生涯、忘れません。きっと、長岡を通るたんびに、この出来事を思い出すでしょう。本当にありがとうございました。皆さんにくれぐれもよろしくお伝えください」
 間もなく、列車はホームを滑り出した。
 長岡のメンバーは一斉に手を振った。車窓から伸びた幾本もの手は、列車が夜の闇のなかに消えるまで、振り続けられていた。
 メンバーは、ようやく、これで新潟に着けると、安堵に胸を撫で下ろした。しかし、列車の進み方は、極めて遅かった。進んでは停車し、また、進んでは停車した。
 普段なら各駅停車でも二時間ほどであるが、約四時間を費やし、新潟駅に到着したのは、二十八日の午前四時過ぎであった。
 二十三日の午後三時ごろ総本山を出発してから、約百九時間という、長い長い帰途になった。
 しかし、メンバーの胸には、信仰への確信の火が燃え上がっていたのである。
11  操舵(11)
 留守を預かっていた新潟支部、羽越支部のメンバーも、地元にあって大奮闘していた。
 列車が宮内駅で止まってしまったという電話が入ると、すぐに、多くの幹部が、その連絡に動いた。当時は、まだ、電話がある家は少なく、吹雪のなかを歩いて、一軒一軒、訪問していった。
 そして、訪問先で、家族に状況を説明し、時には励まし、時には、未入会の家族をなだめなくてはならなかった。
 妻が登山会に参加している、ある未入会の夫は、訪ねてきた婦人に、怒りを露にして言った。
 「ほうれみろ、いったい何がご利益じゃ。お前さん方の信心が正しいというなら、ほかの列車は止まっても、学会員が乗った列車は動くはずらねっか。
 嬶が、どうしても本山に行きたい、行きたいというすけ、行かせたけど、帰って来たら、もう信心はやめさせるすけな」
 婦人はひたすら謝った。
 「本当に、こんげなことになって、申し訳ございません。
 学会としても、無事に全員が帰宅できますように、最善を尽くしておりますので、ご安心ください」
 「安心なんか、できねわや! もし、嬶が病気にでもなってみれ、どうやって責任を取んだ!
 お前さんには、俺の気持ちが、わからんだろ」
 「よくわかります。その列車には、うちの父ちゃんも乗っていますから」
 「お前さんとこの父ちゃんも!
 ……そうらったんか。そんなかで、こうやって、一軒一軒、回って歩いてんかね。まあ、大雪が降ったのは、お前さんのせいじゃねぇすけな」
 彼は、同志の誠実さを知り、次第に穏やかになっていった。
 そして、帰り際には、わざわざ連絡に来たことに対して、礼を言うようになっていた。
 メンバーのこうした努力が実を結んで、登山会の参加者が帰宅した時には、未入会の家族も、皆、温かく迎え入れてくれた。
 しかも、長岡の同志たちの献身的な尽力の模様を聞くと、驚嘆し、それまで信心に批判的だった家族が、学会の深い理解者となったケースも少なくなかった。
 更にメンバーは、皆の無事を願って真剣に唱題した。幹部のなかには、登山に参加した人たちの名簿を仏壇の前に置き、夜通し題目を唱えた人もいた。
 豪雪禍の試練のなかで、新潟の友の団結は、一段と強まっていったのである。
12  操舵(12)
 新潟県下では、一月二十三日に二十六本の列車が止まり、そのうち六本が、二十七日まで立ち往生していたが、乗客はパニック状態に陥っていた。
 不安と焦燥から、苛立って喧嘩をする人も少なくなかった。
 弁当が配られるたびに、先を争い、罵声が飛び交う光景もあった。
 また、病人も続出した。信越本線の押切駅に止まっていた新潟発上野行の急行「越路」では、暖房が止まったために炭火を車内に持ち込んだところ、乗客が中毒症状を起こすという事態も生じた。
 更に、ある駅では、列車が動き始め、特急や急行が先に運行を開始したのを見て、各駅停車の乗客が怒り出し、駅長室になだれ込む一幕もあった。
 そのなかで、学会員の乗った団体列車では、皆、最後まで整然と行動していたことは注目に値しよう。
 それは、長岡の同志の救援も含め、信仰の力を証明するものであったといってよいだろう。
 山本伸一は、海外訪問から帰った翌日の二十八日には、この年初の教学部の教授会に出席し、更に、二十九日には、本部幹部会に臨んだ。
 その一方で、彼は二月に予定していたアメリカのケネディ大統領との、会見の準備に力を注いでいた。伸一は、ケネディとは、語り合いたいことがたくさんあったが、時間的な制約もあるだけに、話す内容を整理しておく必要があった。
 彼が、なんとしてもケネディに伝えなければならないと考えていたのは、恩師戸田城聖が「第一の遺訓」とした「原水爆禁止宣言」であった。
 伸一の脳裏には、あの三ツ沢の陸上競技場での恩師の叫びがこだましていた。
 「……核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。
 それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。
 なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」
 常々、仏法者として死刑には反対の立場をとっていた戸田が、あえて「死刑にせよ」と叫んだのは、原水爆を「絶対悪」と断ずるゆえであった。
13  操舵(13)
 戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を行った一九五七年(昭和三十二年)当時、大国の核兵器の開発と製造に拍車がかかっていた。
 そして、この核兵器を正当化していたのが、いわゆる核抑止論であった。つまり全面核戦争になれば、人類が滅びるかもしれないという恐怖が、戦争を″抑止する″というのである。
 しかし、人類の生存の権利を″人質″にとり、その恐怖を前提としたこの思考こそが、″魔性の爪″を育んでいるといってよい。
 戸田の宣言は、その魔性を、根本から打ち砕こうとするものであった。
 山本伸一は、前年十月の″キューバ危機″を思い起こした。
 全世界を震憾させたあの事件は、核抑止論という″恐怖の均衡″による平和の維持が、いかに脆く、危ういものであり、それ自体、幻想にすぎないことを、白日のもとにさらしたといえる。
 ケネディは、大統領に就任した年(一九六一年)の九月、第十六回国連総会で演説を行い、現代の人類の置かれた状況を、古代ギリシャの故事にある「ダモクレスの剣」にたとえた。
 ――主君ディオニュシオスの王座の幸福を賛嘆してやまないダモクレスという臣下がいた。その追従に我慢がならなくなった王は、ある日、宴の席で、ダモクレスを王座に座らせる。
 彼の頭上には、一本の馬の毛で結ばれた剣が吊されていた。いつ、馬の毛が切れて、剣が落ちて来るかわからない。
 ダモクレスは、恐怖のなかで、栄光の王座が、常に大きな危険にさらされていることを悟らざるをえなかったという話である。
 ケネディは、大量の核兵器の下で生きている人類の姿は、この「ダモクレス」と同じであると指摘したのである。
 ″キューバ危機″が起こったのは、それから一年後のことであった。
 原水爆の使用は、″人類の自殺″″地球の自殺″につながる。
 自分の判断のいかんによって、全人類の破滅の扉を開くことになりかねない瀬戸際に立たされたケネディは、「ダモクレスの剣」の下に座った、戦慄と孤独とを感じていたであろう。
 その緊張のなかで、彼は強い精神力と冷静な判断をもって、核戦争の回避のために、最大限の努力をしたといってよい。
 そのケネディならば、恩師の「原水爆禁止宣言」の心を深く理解するであろうし、彼の偉大な人格は、全人類の幸福と平和を願う恩師の精神と、共鳴の調べを奏でるにちがいないと、伸一は確信していた。
14  操舵(14)
 山本伸一は、世界の平和を打ち立てていくには、戸田城聖の「原水爆禁止宣言」の精神を、現実化せねばならぬと思っていた。
 彼は、そのために、ケネディに提案したいことがあった。
 それは、米ソ首脳会談の早期再開であった。
 ――″キューバ危機″によって、米ソ両首脳は全面核戦争の危険を実感したはずである。ゆえに、今こそ、両首脳が直接会い、胸襟を開いた対話を重ね、対立から共存へと関係を改善していくチャンスといえる。
 なかでも、原水爆の問題については、大きく発想を変え、撤廃に向かって歩み出していかなければならない時が来ている。
 そして、これ以上、地球上に核兵器を増やさないために、まず、米ソ両国の間で、核実験の全面禁止を取り決めることだ。
 東西両陣営のリーダーたる米ソが、核実験の全面禁止に踏み切れば、各国の核兵器の開発に歯止めをかけることができる。
 この土台の上に、今度は、核兵器の撤廃に向かって、英知を結集していくべきである。
 それは、むしろ、米ソ両国が担わなければならない責務といえよう。
 また、伸一は、核を廃絶し、恒久平和への流れを開くために、米ソ首脳会談とともに、世界各国の首脳が同じテーブルに着き、原水爆や戦争の問題などを忌憚なく語り合う、世界首脳会議の開催も提案しようと考えていた。
 核兵器のために膨大な国家予算を投入することは、できることならやめたいというのが、すべての国の本音であるにちがいない。
 しかし、核保有国が増えるにつれて、それらの国々と伍していくには、自国も核を持たなければならないという不安と焦燥にかられて、多くの国々が、核軍拡競争の泥沼にのめり込もうとしている。
 その流れの底には、「相互不信」「疑心暗鬼」という、暗い深淵が横たわっている。この深淵を埋めるのは、各国の最高指導者の、胸襟を開いた語らい以外にない。
 もちろん、伸一は、一朝一夕で「不信」が「信頼」に変わるほど簡単なものではないことは、よくわかっていた。また、さまざまな思惑の入り乱れた、複雑な国際政治の現実の厳しさも知り抜いていた。
 だが、対話へと踏み出さずしては、永遠に事態を変えることはできない。一見、迂遠な道のように見えても、結局は、それが平和への最も近道であるというのが、彼の信念であった。
15  操舵(15)
 山本伸一は、核の脅威に怯え、「ダモクレスの剣」の下に生きるかのような、現代の世界を思うと、常に頭に浮かぶのは、法華経譬喩品の「三界は安きことなし猶火宅の如し 衆苦充満して 甚だ怖畏すべし」の文であった。
 彼は世界を巡りながら、民衆の生活に眼を凝らしてきた。
 どの国にも貧困や差別などの深刻な矛盾があり、国によっては紛争の影があった。そのなかで、どの国の民衆も幸福と平和を願い、懸命に生き抜いていた。
 しかし、ひとたび全面核戦争になれば、いかなる国にも、その被害は及び、滅亡の危険性をはらんでいるのだ。しかも、あの″キューバ危機″が図らずも実感させたように、全面核戦争は、今や切実さを増してきているのである。
 伸一は、恩師戸田城聖が叫んだ、地球民族主義の大理念をもって世界を結び、恒久平和を実現しなければならない時が来たことを、深く自覚していた。
 彼は世界の平和への突破口を開くために、ケネディとの語らいに多大な期待を寄せていた。いや、そこにかけていたといってよい。
 ところが、事態は思わぬ展開を遂げることになる。
 伸一とケネディとの会見は、先方の要請もあり、極めて密かに準備を進めて来たが、伸一が海外訪問から帰った時には、渡航手続きなどの関係からか、外部の知るところとなっていた。
 そして、政権政党の大物といわれている古老の代議士が、突然、伸一に会見を求めて来たのである。
 伸一は、無下に断っては失礼であると考え、会見に応じることにし、彼の方から出向いていった。
 代議士は、あいさつもそこそこに、横柄な馴れ馴れしい口調で語り始めた。
 「山本君、今度、君はケネディに会うことになっているらしいが、それに対して、わが党のなかで、強い反対意見が出ていてね。
 早い話が、″外交問題にもかかわってくるのだから、勝手なまねはさせるな。なんで、そんなことを放置しておくのだ″というわけなんだ。
 実は外務省の方でも、君の動きに対して、かなり神経を尖らせているようだ。
 今のままでは、一波乱起こることは間違いない。政権を担っているわが党のなかで、強硬に反対している者がかなりいるとなれば、この会見の実現も、極めて危ういことになるのではないかと思う」
 それは、自分たちの圧力で、いつでも会見などつぶしてみせるぞという、伸一への威嚇であった。
16  操舵(16)
 山本伸一は強い憤りを感じながらも、静かに相手の話を聞いていた。
 代議士は、上目遣いで伸一を見て、反応をうかがいながら語っていった。
 「山本君にとっては、ケネディと会うことは創価学会の会長として箔をつけることにもなるし、社会に学会をアピールする絶好のチャンスであることはよくわかる。
 しかし、状況はあまりにも厳しい。わが党にも、外務省にも、君の対応によって、日米関係に支障をきたすようなことになっては大変だという、強い気持ちがあるからね。
 だが、私は、なんとか君を守りたい。学会の青年会長である君には、まだまだ未来がある。君はこれから、もっともっと大きくなっていく人物だと、私は思っている。それだけに、今回のチャンスを、ぜひものにしてほしい。
 だから、私が骨を折ろうと思う。私が動けば、反対を押さえ込むことはできる。これは私の親心と思ってもらってよい。誠意から言っているのだ。
 その代わりといってはなんだが、君にも、力を貸してもらいたい。これからは、お互いに協力し合っていこうじゃないか。
 そうすれば、君も得るものは大きいはずだ。
 たとえば、学会は参議院に公明会をつくったが、はっきり言ってしまえば、まだ取るに足らない力だ。
 しかし、もし私と一緒にやるなら、もっと政界での力をもてるようにしよう」
 伸一は黙って聞いていたが、彼の頭は目まぐるしく回転していた。
 ――この代議士の狙いは明らかだ。
 私に恩を着せ、それを糸口に、学会を政治的に利用しようというのであろう。
 政治権力の薄汚れた手で、この純粋な学会の世界が掻き回されるようなことは、絶対に避けなければならない。
 しかし、この政治家の意向を無視すれば、ケネディ大統領との会見をつぶしにかかるだろう。
 そうして自分たちの力を見せつけ、勝ち誇ったように、何度でも、自分の軍門に下れと言って来るにちがいない。
 彼らに付け入る隙など、与えてなるものか!
 そのためには、残念ではあるが、この際、ケネディ大統領との会見は取り止めるしかない。守るべきは学会である。
 私は、自分のために会おうというのではない。彼らにお願いしてまで、会わせてもらう必要はない。
 伸一は、航路を急旋回させたのである。
17  操舵(17)
 山本伸一は、代議士の話が一段落すると、微笑を浮かべて、しかし、きっぱりと言った。
 「お話の趣旨はよくわかりました。あなた方のご意向を尊重いたします。
 ケネディ大統領との会見の話は、なかったことにいたしましょう。すべて中止します。
 またの機会を待つことにしましょう」
 伸一の回答は、あまりにも予想外であったのであろう。狼狽したのは、代議士の方であった。
 「会見は中止にする?
 し、しかし、そんなことをして、この機会を逃してしまえばだね……」
 伸一は、相手の言葉を遮って言った。
 「私は、皆さんのお力をお借りして、大統領とお会いするつもりは、毛頭ありません。それでは、話が違ってきます。
 また、アメリカの大統領と会って、箔をつけようなどという卑しい考えも、私には全くありません。それが政治家の方々の考え方なのかもしれませんが、甚だしい勘違いです。
 私がケネディ大統領とお会いしようとしたのは、人類の平和への流れをつくりたかったからです。東西両陣営の対話の道を開きたいからです。そして、それが日本の国のためにもなると考えているからです。
 公明会をつくったのも、民衆のための政治を実現させたいからです。現在の政権が、あまりにも民衆を度外視しているから、私たちが一石を投じたのです。
 私には、公明会を使って政治権力を手に入れ、国を支配しようなどという野望めいた考えは、いっさいありません。
 民衆の幸福を、社会の繁栄を、世界の平和を、純粋に、一途に考え、行動しているのが創価学会です。その学会に、私利私欲の絡んだ政治的な駆け引きは通用しません。
 私は、誠実には、大誠実をもって応えます。傲慢には、力をもって応えます。邪悪には、正義をもって戦います。それが私の信条であり、信念です」
 代議士の額には、汗が噴き出していた。彼はそれをハンカチで拭いながら、狼狽を押し隠し、鷹揚さを装って言った。
 「いやあ、実に見事な決断だ。
 私は前々から、山本君は見どころのある青年だと思っていたが、ますます確信がもてたよ。頼もしいかぎりだ。
 また、会って話し合おうじゃないか」
 会見は終わった。
 ケネディと伸一との会見は、白紙に戻った。
18  操舵(18)
 山本伸一は、学会に迫る、政治権力の影を感じた。
 彼は代議士との会見が終わると、この″横槍″の背後に、何があるのかを考えざるをえなかった。
 ″多くの政治家たちは、三百万世帯を超えた創価学会に恐れをいだく一方で、自分の傘下に置いて、自在に操りたいと、考えているのであろう。
 その学会の会長である自分が、政権政党の頭越しにケネディと会見することになったことが、悔しくてならないにちがいない。彼らの本質は、嫉妬以外の何ものでもない″
 そう考えると、伸一は、日本の国を動かしている政治家たちの狭量さに、情けなさを覚えた。
 同時に、学会は、これからも、政治権力に、永遠に狙われ続けるであろうことを、彼は覚悟しなければならなかった。
 学会は民衆を組織し、民衆の力をもって、人類の幸福と世界の平和の実現をめざしてきた。それゆえに、民衆を支配しようとする権力から、さまざまな圧力が加えられるのは、むしろ当然といってよい。
 二月一日の夜、伸一は、早稲田大学の記念会堂で行われた、二月度の男子部幹部会に出席した。
 彼は、この日の講演のなかで、世界の現状について言及していった。
 「今回、五度目の海外訪問をいたしまして、痛感したことは、地球はますます狭くなってきているということでありました。
 それだけに、これからの指導者は、過去の世界観に縛られるのではなく、新しい世界観に立った指導理念を、もたなければならないと思います。
 時代は宇宙開発の時代に入っているし、また、さまざまな困難はあるにせよ、世界連邦の方向へと向かわざるをえないといえます。
 しかし、世界の現状を見ると、ヨーロッパでは、EEC(欧州経済共同体)のイギリスの加盟が失敗に終わっている。また、アメリカにあっては、人種問題が大きなテーマとなってきています。
 更に、社会主義諸国に目を転じれば、ソ連と中国の対立の溝が深まり、暗い影を投げかけております。
 一方、AA(アジア・アフリカ)諸国にも、東西の対立の構図が持ち込まれ、新たな紛争の火種をかかえている国も少なくありません。
 また、ひとたび核戦争が起これば、いったいどうなってしまうか。
 まさに、法華経譬喩品に『三界は安きことなし 猶火宅の如し 衆苦充満して……』と述べられた通りの安穏なき姿が、世界の現実といえましょう」
19  操舵(19)
 山本伸一の声には、「衆苦充満」の世界から、「悲惨」の二字をなくし、永遠の平和を築かんとする大情熱があふれていた。
 「今や、世は″無責任時代″といわれていますが、このまま放置していれば、世界はどうなるのか。
 この火宅のごとき世界を変えゆく、大哲学をもった指導者が出なければ、時代は、ますます混迷の度を深めていきます。
 そのなかにあって、わが創価学会は、全人類の生命の尊厳と平等とを説く、日蓮大聖人の仏法の大哲理をもって、一閻浮提第一の御本尊を根本に、地球民族主義を旗印として、高らかに前進しております。
 一国の繁栄や利益のために、あるいは、一国を守るために、他の国を犠牲にしては絶対にならないし、そのための指導原理こそが仏法なのです。
 ゆえに、その仏法を持った私どもが立ち上がり、十年先、二十年先、いや、百年先の人類のために、平和と幸福を樹立する仏法の種子を、世界に蒔いてまいろうではありませんか。
 来年の四月には、恩師戸田城聖先生の七回忌を迎えますが、恩師亡き後、いつも私の胸に響き渡っているのが、あの『原水爆禁止宣言』の叫びであります。
 この恩師の宣言には、核戦争の脅威から人類を解放しゆく、大原理が示されております。
 私は、この宣言の精神を、どんなことがあっても、人類のため、子孫のために、世界の指導者に、絶対に伝え抜いていかなければならないと、強く決意しておりました。
 そして、その機会を考えていたところ、ある有力な民間人を通して、アメリカのケネディ大統領から、個人的に会いたい旨の要請があり、会見が具体化していました。
 ところが、日本の政界から横槍が入ったのです。そして、恩着せがましい、お節介なことを言い出す政治家がおりましたので、いろいろ考え、今回は見送ることにいたしました。
 そうした動きに迎合し、学会が政治的に利用されるようなことを、私はしたくないのです。
 しかし、遅かれ早かれ、世界の民衆に、全世界の指導者に、この『原水爆禁止宣言』の思想を訴え抜いていかなくてはなりません。
 その時には、皆さんも、私とともに、全情熱を込めて、語り抜いていっていただきたいのであります」
 会見の機会を逸した伸一とケネディは、遂に見えることはなかった。この約十カ月後、ケネディは銃弾に倒れるのである。
20  操舵(20)
 二月一日の男子部幹部会に引き続き、山本伸一は、四日には、同じ早稲田大学記念会堂で行われた、女子部幹部会にも出席し、戸田城聖の「原水爆禁止宣言」について、次のように述べている。
 「日本は、戦争で原子爆弾の犠牲になった、ただ一つの国であります。
 ゆえに、『決して核戦争を起こしてはならない。原水爆の使用は禁止すべきである』と言い得る資格があるし、また、そうする義務を負っているといえます。
 その意味からも、私は、戸田先生の『原水爆禁止宣言』の思想を、皆さんとともに、生涯、叫び抜いていく決意であります。
 また、平和実現への一つのステップとして、世界各国の首脳が一堂に会して、できれば毎月、あるいは、二カ月か三カ月に一度でもよいから、平和のための協議をすることを提唱したいと思います。
 会議の場所も、ソ連やアメリカに限らず、中国や日本、タイ、あるいは、アフリカのエチオピアといった具合に、順番に世界各国で行っていく。会議の目的は、世界の平和であり、人類の幸福であり、戦争の阻止です。
 そうした会議を、一年、二年と続けていくならば、極めて有意義な結果が得られると思うのです。
 ともあれ、私たちは、各人がそれぞれの幸福を築いていくことはもとより、不幸な人びとのため、社会のため、世界のために、力を合わせて、前進してまいろうではありませんか」
 青年たちは、恩師戸田城聖の遺志を受け継ぎ、なんとしても、世界の平和を実現しようとしている伸一の心に触れた思いがした。
 この二月は、学会伝統の折伏の月であった。
 その淵源は、一九五二年(昭和二十七年)の二月、山本伸一が蒲田支部の支部幹事として活動の指揮をとり、当時としては未曾有の、一支部で二百一世帯という弘教を成し遂げたことにあった。
 それが突破口となり、戸田が生涯の願業とした、会員七十五万世帯達成への流れを開いたのである。
 その「伝統の二月」とあって、同志の布教への意気は高まっていた。
 なかでも、婦人部の活躍は目覚ましかった。
 彼女たちが、友を笑顔で包みながら、懸命に、誠実に、幸福への道を語り説くと、あたかも暖炉のような、ほのぼのとした人間性の温もりが漂った。
 そして、かたくなに閉ざされていた友の心も、いつしか開かれ、共感の調べが広がっていくのである。
21  操舵(21)
 婦人部は学会の太陽である――というのが、山本伸一の確信であった。
 彼は、その婦人部に、感謝と敬意を込めて、未来への希望となる指針を贈りたいと思った。
 戸田城聖の誕生日にあたる二月十一日、伸一は、恩師をしのびながら、婦人部への指針を書き始めた。
 「婦人部に与う」というのが、その題名である。
 彼は冒頭、「白ゆりの香りも高き集いかな 心の清き友どちなれば」との、戸田が婦人部に贈った和歌を記した。
 そこには、学会婦人部の姿が、象徴的に示されているからである。
 「この歌は、かつて戸田前会長が、婦人部にくださった歌である。この歌のごとく、清らかな、そして、水のごとき信心を根本に、一生成仏をめざし、また、広宣流布達成まで、団結強き、世界一の婦人部であっていただきたい。
 御書にいわく『のはしる事は弓のちから・くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはのちからなり』と。
 この御文は、いかに婦人が、家庭にあり、社会にあって、重要であるかとのお言葉である。
 一家にあっては、つねに太陽のごとくあっていただきたい。いかなる苦難の嵐にあうとも、厳然と題目をあげきり、夫が、職場においても、かつは、学会活動の面でも、十分働けるよう、賢明なる婦人であらねばならぬ。
 ともに、子女のよき母とし、よき友として、愛情と理解とをもって、次代のよき指導者に成長せしむる責任あることを自覚していくべきであろう」
 彼はまず、主婦であり、妻であり、母である女性の在り方について、こう綴った後、広範な婦人の使命について言及していった。
 「御書にいわく『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり』と。
 これは、民主主義、男女同権の御文である。
 (中略)いま広宣流布に向かうわが婦人部も、それぞれの境遇、才能、性格に応じて、教養をおおいに高め、言論界をはじめとし、科学界に、芸術界に、教育界に、医学界にと、自在に振る舞っていかれんことを切望するものである。
 また一面、地道に、家庭を守り、男性のできえぬ細かいところに気をつかい、学会員等のめんどうをみていくことも、広布への戦いの立派な活動であることは当然のことである」
22  操舵(22)
 次いで、山本伸一は、婦人部の信心について記していった。
 彼は、熱原法難で神四郎兄弟が斬首された時、女人なるがゆえに処刑を後回しにせず、直ちに自分も処刑するように迫った女性の話が、一説にあることを述べ、この死身弘法の生き方こそ、信心の鑑とすべきであると訴えた。
 更に、婦人の信心が、家族に及ぼす影響がいかに大きいかを語った。
 「かつて、牧口初代会長法難のさい、あまたの幹部、同志が退転したのは、当時の婦人たちに信心がなく、その婦人たちが、夫や子息に先立って退転してしまったことが原因であると聞く。じつに恐ろしきことである。
 未来に向かって向上していかねばならぬ学会は、同じ轍を断じて踏んではならぬ。(中略)夫を、子らを支えていく、磐石なる信心であっていただきたい」
 また、婦人部の幹部の心遣いに触れ、夫が信心をしていないなかで活動に励んでいる人や、夫を亡くした人に対しては、包容力をもって、温かく、親切に激励してほしいと望んだ。
 そして、婦人部員の生き方を示していった。
 「学会婦人は、学会内からは当然のこと、一般社会の人々からも、信頼され、好かれる婦人であるべきである。
 なお、学会婦人は、教学を身につけ、地味であっても、庶民の生活法の哲学者であり、婦人のリーダーであっていただきたい。
 ひるがえって、いかなる男性幹部の言葉なりとも、学会指導に反した、感情、利害、利用等の話であった場合は、断じて聞く必要もなければ、むしろ厳しく戒めあっていく、強き強き婦人であっていただきたいものである。
 最後に、創価学会婦人部こそ、妙法をだきしめた、真の女性解放の先駆者である。自由と平和の旗を掲げた名誉を自覚し、仲良く、楽しく、美しく前進していこうではないか」
 伸一は、婦人部のメンバーへの、期待と感謝と尊敬の念を込めて、一気に書き上げた後、何度も、何度も推敲を重ねた。
 彼は、翌十二日の朝、その原稿を、伸一のところへあいさつにやって来た婦人部長の清原かつに渡した。この日は、台東体育館で婦人部の幹部会が開かれることになっていた。
 「清原さん、私は、今日の婦人部幹部会には出席できないが、その代わりに婦人部への指針を書いたよ。
 これは『大白蓮華』の三月号の巻頭言として発表するが、今日の参加者に読んであげてください」
 清原の顔が光った。
23  操舵(23)
 婦人部幹部会は、会長山本伸一が示した指針「婦人部に与う」の発表にわき返った。
 婦人部の幹部の朗読が始まると、参加者は瞳を輝かせて、聞き入っていた。
 最後の「創価学会婦人部こそ、妙法をだきしめた、真の女性解放の先駆者である」との一節では、誰もが電撃に打たれたような思いにかられた。
 彼女たちの多くは、経済苦や病苦にあえぎながら、自身の、わが家の宿命転換を願い、ただ幸福になりたいとの一心で、懸命に信心に励んできた。
 しかし、それだけではなく、「女性解放」という、もっと大きく崇高な使命を果たすための信仰であることを自覚したのである。
 「女性解放」とは、単に制度などの社会的な差別からの解放にとどまるものではない。いっさいの不幸からの解放でなければならない。彼女たちは、自らの体験を通して、その唯一の道が日蓮仏法にあることを確信することができた。
 生活という大地に根を張った婦人たちが、時代の建設に立ち上がってこそ、初めて、社会を蘇生させることができる。
 自分たちの生きゆく社会を、楽しい、平和なものにしていくことが、広宣流布である。
 この「婦人部に与う」を受けて、婦人部長の清原かつは、この日、次のようにあいさつした。
 「今日は、わが婦人部にとって、歴史的な日になりました。
 山本先生は、この原稿を書かれた後も、何度も何度も推敲されたとうかがっております。
 しかも、戸田先生のお誕生日に執筆してくださったということは、私たち婦人部が、戸田先生の遺志を継いで、断じて広宣流布を成し遂げていきなさいとの、ご指導であると思えてなりません。
 山本先生は、この『婦人部に与う』のなかで、私たちこそ『真の女性解放の先駆者』であると述べられております。
 つまり、自分や一家の幸福を築いていくことはもとより、広く社会に目を開き、すべての女性を、宿業の鉄鎖から解放していくことが、創価学会婦人部の使命なのであります。
 要するに、私たちには、学会員である人も、ない人も、その地域中の人びとを幸福にしていく責任があるということです。
 そう考えるならば、地域にあって、自分の受け持っている組織は、小さな単位であるブロックという組織でも、私たちの使命は、限りなく大きいと思います」
24  操舵(24)
 清原かつは、声を大にして訴えた。
 「ブロック組織という、地域に根を張った学会の力は、台風や火災などの際に証明されております。
 その連携のすばらしさ、助け合い、励まし合いのすばらしさは、内外の称賛を得ています。『あの台風の時、学会員が助けてくれた』、あるいは『学会員が団結して火災を消し止めてくれた』といった話は、枚挙に暇がありません。
 私たちは、そうした非常事態の時だけでなく、常日頃から、不幸に泣く地域の人びとを、一人も残らず、励ましていくのだとの決意で、広宣流布の活動に取り組んでまいろうではありませんか」
 参加者は、新たな決意で二月度の後半の活動に向かって、出発していった。
 また、「婦人部に与う」が『大白蓮華』の三月号に巻頭言として掲載されることを知った全国の婦人部員は、その発刊の日を指折り数え、期待に胸を弾ませながら、寒風のなかを弘教に走った。
 山本伸一は、この二月の後半、関西、四国、中国の激励に走った。
 二月二十日の朝、淡い雪化粧をした京都の街を、三々五々、京都駅方面に向かう人びとの姿があった。
 待望久しかった京都本部が完成し、その落成式に参列するメンバーである。
 この京都本部は、京都駅に近い、南区東九条の一角にあった。民家の瓦屋根のなかに、真新しい鉄筋コンクリートの三階建ての建物が、一際、勇壮にそびえ立っていた。
 落成式に集って来たメンバーは、山本会長を出迎えようと、小雪の舞うなか、新本部の入り口付近に待機していた。
 午前十時ごろには、雪もやみ、十時半に、伸一が到着した時には、雲間から太陽が差していた。
 伸一は、京都本部の少し手前で車を降り、待っていたメンバーの労をねぎらい、会釈しながら会場に向かった。
 彼が京都本部の前庭に入ると、「山本先生!」と、叫ぶ声が聞こえた。
 そこには高齢の女性が立っていた。伸一に会うことを願って、ここで待ち続け、喜びのあまり、声をかけたのであろう。
 伸一は、その老婦人の側までいくと、笑みをたたえて語りかけた。
 「どうも、朝早くから、ご苦労様です。寒かったでしょう。さあ、風邪をひいてはいけないから、なかに入りましょう」
 伸一は、老婦人の手を取って、一緒に建物のなかに入った。
25  操舵(25)
 会長山本伸一の、老婦人への心遣いは、雪のなかで待っていた人びとの心を、温かく包んだ。
 場内には、参加者の笑みの花が咲いていた。
 伸一は、京都本部の落成を喜ぶ友を見ると、二条城の近くにある、京都会館のことが思い出された。
 そこは、京都の活動の中心拠点で、古い木造の建物であった。広間も板敷きで、屋根は雨漏りがし、すき間風も吹き込むといったありさまであった。
 京都は、神社仏閣が甍を連ね、名刹といわれる寺や既成仏教の本山なども多いところである。
 それだけに、宗教改革に立ち上がり、人間のための宗教の在り方を問い、他宗の教えの誤りを正す学会員への圧迫は激しかった。
 そのなかで同志は、この京都会館に集まっては、会合を開き、御書を研鑽し、唱題に励み、弘教に駆け回って来た。
 伸一は、三年前の早春、この会館を訪問した。
 メンバーは皆、意気軒高であったが、会館は狭く、みすぼらしかった。
 彼は、この建物では、あまりにもかわいそうだと思い、京都本部の建設を心に決めたのである。
 彼は、創価学会の会長として、大聖人を信奉する会員を大切にすることに、常に心を砕いてきた。また、どうすれば同志を守れるのかを考え続けてきた。
 広宣流布を使命として、創価学会に集い来った同志は皆、地涌の菩薩であり、民衆を救いゆく仏である。その方々に仕えずして、仏に仕える道はない――それが彼の哲学であり、信念であった。
 落成式は、友の喜びのなか、晴れやかに行われた。
 伸一は、あいさつに立つと、この新本部を大仏法興隆の原動力として、新しき心で、次の十年に向かって前進しようと呼びかけた。
 落成式の後、京都分室で支部長会がもたれた。
 この席で伸一は、一人の支部長から、「山本先生に会いたい」と言って、朝から会館の周辺で待っていた七十三歳の老婦人がいたが、健康のことなどを考え、自宅に帰したという報告を受けた。
 ――その老婦人は落成式の参加者にはなっていなかった。収容人数の関係で、参加者は地区幹部以上となっていたからである。
 しかし、彼女は、山本会長に会いに行くといって聞かなかった。
 家族も、″気持ちはわかるが、参加者ではない人が会場に行けば混乱するので、家にいるように″と言って説得に努めたが、彼女は納得しなかった。
26  操舵(26)
 老婦人は、もし、この機会に山本会長と会わなかったら、自分は永遠に会えないかもしれないと思ったようだ。
 彼女は、朝早く伏見区内の自宅を出て、京都本部の近くに来た。この辺りで待っていれば、山本会長に会えると考えたのである。
 二時間ほど待ったころ、支部長が通りかかったのだ。支部長は老婦人から話を聞くと、寒さで風邪をひいてはいけないし、近隣の迷惑にもなるので、家に帰るように説得した。
 彼女は、やむなく帰宅することにしたが、支部長に言った。
 「ほな、私はうちに戻りますけど、山本先生に、くれぐれもよろしゅう申し上げておくれやす」
 「わかりました。必ず先生にお伝えします」
 支部長は、彼女との約束を果たすために、山本会長に、老婦人のことを報告したのである。
 山本伸一は、支部長に言った。
 「そうか、寒いなかで私を待ち続けていてくれたのか。申し訳ないことをしてしまった……。でも、倒れたりしなくてよかった。
 そのおばあちゃんに、『ありがとう。いついつまでもお元気で』と伝えてください。それから、『会長講演集』をお贈りしよう。おばあちゃんのお名前は?」
 「寺崎さんです」
 「寺崎なんというの?」
 「は、はい。……『寺崎あき』さんです」
 「『あき』というのは、どういう字を書くの?」
 「確か平仮名でした」
 実は、この支部長は、彼女の名前を正しく覚えていなかった。
 老婦人の名前は「寺崎トミ」で、同居している息子の嫁の名前が「秋子」であった。それが頭のなかで混ざり合って、「あき」と答えてしまったのである。
 伸一は、用意してきた『会長講演集』の第五巻を取り出すと、「京都落成記念
 寺崎あき様 山本伸一」と揮毫し、同行の副理事長に託した。
 彼女は、伸一から贈られた『会長講演集』を開き、名前が「寺崎あき」となっているのを見て戸惑った。
 しかし、この本は、やがて嫁が受け継ぐことになると考え、山本先生はこう書かれたのではないかと解釈した。
 後日、支部長が、自分がうろ覚えであったために、間違えた名前を山本会長に伝えたことに気づき、彼女のところに謝りに来た。
 「ゆくゆくは嫁のものになりますから、かましまへん」との言葉に、支部長は安堵したが、彼は長たる者の責任の重大さを痛感したのであった。
27  操舵(27)
 山本伸一は、翌二十一日の午前中、大阪での関西第二本部(関西本部新館)の起工式に出席した。
 ここでは、″今日は第二期の関西の時代の出発である″と訴え、関西の大前進に限りない期待を寄せた。
 次いで、午後には、兵庫の尼崎市体育会館で行われた、初の関西婦人部の幹部会に出席。
 この席では、創価学会婦人部こそ、日本最高の新しき女性解放の第一級の婦人団体であり、婦人部員一人ひとりが、学会のみならず、社会のリーダーとなるために、常に勉強を心がけていくよう呼びかけた。
 そして、最高の生命の法理を説き明かした東洋哲学を、仏法の哲理を、自分のものとし、後輩や友人にわかりやすく、納得のいくように語っていくことの大切さを語った。
 とともに、仏法即社会であるゆえに、広く社会に目を向け、一流の婦人雑誌や総合雑誌、新聞、教養書なども読み、幅広い知識を身につけていくよう望んだのである。
 更に翌二十二日には、空路、四国に入り、三月に落慶式が予定されている高松市の寺院を視察。
 夜には、高松市民会館で行われた四国三総支部の合同幹部会で、「御義口伝」を講義した。
 あくる日は、船で瀬戸内海を渡り、午後二時から岡山市公会堂で開催された、中国三総支部合同の幹部指導会に臨んだ。
 そして、東京に戻ると、二十七日には、二月度の本部幹部会が待っていた。
 この本部幹部会で発表された二月度の弘教は、なんと学会始まって以来の、十六万世帯余であった。三百万世帯を達成した学会の広宣流布への勢いは、とどまることを知らなかった。
 会員たちは、組織の指示によって弘教に励んでいるのではなかった。
 信仰によって自身が人生の苦悩を乗り越えてきたという確信と、広宣流布の使命に生きる喜びが、同志を弘教に走らせるのである。
 会員たちは、人生に行き詰まり、悩み苦しむ友がいると、黙って見過ごすことはできなかった。
 この人を幸せにしたいとの強い思いが込み上げ、自然に仏法対話が始まった。そして、その布教がますます歓喜を呼び覚まし、更に、布教への活力となっていったのである。
 しかも、同志は、自分たちの、そうした日々の活動が、着実に社会を変えている手応えを感じていた。
 現代社会を蘇生させる新しき大宗教運動の潮流は、希望の銀波を広げ、躍動の潮騒を奏でながら、人類の大海原に、滔々と流れ始めたのである。
28  操舵(28)
 この三月、公明会は、三日の名古屋に始まって、横浜、北九州、川口、札幌、仙台で、地方大会を開催することになっていた。
 公明会は、前年七月の参議院議員選挙で公明政治連盟推薦の候補者九人が当選し、非改選の六人と合わせて十五人になったことを契機に、参議院の独立会派として結成された。
 そして、十二月六日に、東京・台東体育館で公明会結成国民大会の東京大会が行われ、次いで、十六日には、大阪・中之島の中央公会堂で大阪大会が開催されたのである。
 三月の各地の大会は、それに引き続いての開催であった。
 公明会の大会の開催にあたって、公政連(公明政治連盟の略称)の委員長で、公明会の幹事長である原山幸一は、山本伸一に出席を依頼してきた。
 伸一は、創価学会の会長である自分の、政治団体への関わり方については、慎重に考えてきた。
 学会も公政連も、また、公明会も、世界の平和と民衆の幸福を実現していくという根本目的は同じでなければならないが、宗教と政治とは次元が異なっている。
 少なくとも、制度的には一定の距離を置き、それぞれ自主的に運営していくべきだとの判断から、彼は当初、公明会の国民大会に出席するつもりはなかった。
 しかし、原山は、懸命に説得にあたった。
 ――公明会も公政連も、それを生み出した母体は創価学会であり、山本会長が創立者である。また、公明会、公政連の支持者は、現在のところ、その多くは学会員であるので、支援団体の代表として、ぜひ出席してほしいというのである。
 原山の言うことも一理あった。
 また、学会員のなかには、学会と公明会や公政連の関係を、十分に理解できないでいる人もいた。
 たとえば、公明会は、学会に利益をもたらす政策を推進していくための会派であるかのように、思い込んでいる人もいたのである。
 しかし、これは甚だしい勘違いである。公明会は、すべての国民の真の幸福と繁栄、更には、広く世界の永遠の平和を目的とした会派である。
 この年の四月には、都道府県議会議員選挙などの統一地方選挙も行われることになっていた。
 それだけに伸一は、この機会に、学会と公明会の関係について、再度考え方を明らかにし、社会的にも、正しい認識を促しておきたいと考えた。
 彼は、最終的に、原山の要請を受け入れ、公明会の地方大会に出席することにしたのである。
29  操舵(29)
 山本伸一は、各地の公明会の国民大会に出席するにあたって、訴えるべき骨子を整理していった。
 ――まず、第一に確認すべきは公明会の精神ではないか。
 これは、議員のメンバーと何度も語り合ったことであるが、既成政党は、大企業や労働組合の擁護、利益を考え、全民衆の幸福ということを忘れているといってよい。
 そうした偏狭な既成政党の悪弊を打破して、全国民が、全民衆が、等しく政治の恩恵を受け、幸せになれる政治を実現することが、公明会結成の原点であったはずである。
 創価学会が政治を牛耳るなどといった狭小な考えから、公明政治連盟を、あるいは、公明会をつくったのではないことを、徹底しておくべきであろう。
 また、第二には、公明会は、参議院で第三勢力になったとはいえ、まだ少数勢力にすぎない。その公明会が、現実の政治の世界で、自分たちの主張を実現していくうえでは、時には他の政党と協力し合っていくこともあるであろう。
 現実の政治は、ある意味で妥協がなければ成り立たない世界であるといえる。
 そして、そうした具体的な対応については、支援団体である学会は一線を画し、すべて公明会に任せていくという原則を明らかにしなければならない。
 第三に、″政治を監視せよ!″というのが、戸田先生の指導であった。
 学会は、民衆の幸福と世界の平和を実現するために、各政党の在り方にも厳しく監視の目を向けていくが、それは公明会に対しても同様である。
 もし、公明会の議員が堕落し、私利私欲に走り、所期の目的とその精神を忘れ、不祥事を起こすようなことがあれば、学会はそうした人物とは徹底して戦うことを、明言しておく必要があると伸一は思った。
 ――それぞれの地方の、公明会の国民大会での伸一のあいさつは、この三つの骨子を踏まえて行われた。
 伸一は、三月三日には、名古屋市の金山体育館で開催された公明会の名古屋の大会に出席した。
 彼は、この日、まず、公明会は全民衆を守る会派たれと訴えた。
 その後、二月二十八日に名古屋高裁で無罪判決が下った、「昭和の巌窟王」といわれた「吉田石松翁」の冤罪事件について述べていった。
 吉田は、一九一三年(大正二年)八月十三日に、愛知郡千種町野輪(現在の名古屋市千種区今池)で農業に従事する男性が殺され、財布を奪われた事件の主犯とされたのである。
30  操舵(30)
 強盗殺人事件が起こった翌日、捜査の結果、ガラス工場に勤める二人の男性工員が逮捕された。
 その二人が、吉田石松が主犯であると自供したことから、別のガラス工場に勤務していた吉田が逮捕されたのである。当時三十四歳であった。
 全く身に覚えのないことであり、まさに青天の霹靂といえよう。
 取り調べは、すさまじい拷問であった。丸裸にされ、殴られ、蹴られて、気を失うと水をかけられた。
 しかし、彼は取り調べでも、裁判でも、犯行を否認し続けた。だが、二人の言い分が取り上げられ、一九一四年(大正三年)の四月、名古屋地裁で事件の主犯として死刑の判決を受けた。二人は″共犯″として無期懲役となった。
 当然、吉田は控訴したが、同年七月に、名古屋控訴院(当時)で無期懲役が言い渡された。
 同年十一月、最後の望みである大審院(同)への上告も棄却され、彼の無期懲役刑が確定した。
 彼は刑務所でも無罪を叫び、しばらくは囚人服を着ることも労役も拒否した。また、主犯は吉田だと供述した人物を所内で見つけると、つかみかかった。そのたびに、彼は懲罰を受けなければならなかった。
 吉田は、母親思いの、心の優しい人間であった。母親の存命中は、獄中から仕送りも続けた。それだけに犯罪者とされ、手錠姿で母親と面会しなければならないことが、悔しくて仕方なかった。
 彼は、獄中から二回、再審請求したが棄却された。
 自分の冤罪を晴らしたい一心で、真実を克明に記録しようと決意し、獄中で読み書きも勉強した。
 一九三五年(昭和十年)三月、吉田は仮釈放になった。逮捕から二十二年がたっていた。
 彼は、身の潔白を証明するため、再審への道を開こうとしていた。その彼に、何人かの協力者が現れた。正義感の強い、若手の新聞記者たちであった。
 裁判で彼が有罪になった最大の証拠は、先に逮捕された二人の″共犯者″の偽りの供述であった。
 青年記者たちの協力によって、二人の″共犯者″を捜し出し、供述が偽りであったことを認めさせる、詫び状を書かせることができた。吉田は、一条の希望の光を見た思いであった。
 三七年(同十二年)に、三回目の再審請求が出されたが、七年後の四四年(同十九年)に、大審院は、詫び状は脅して書かせたものとして、これを棄却したのである。
31  操舵(31)
 三回目の再審請求の棄却は、吉田石松の一縷の希望を無残に打ち砕いた。
 やがて、日本は終戦を迎えた。時代は大きく変わろうとしていた。しかし、断じて「無実」を証明しようとする、彼の執念は変わらなかった。
 彼は、出所後、結婚した妻の郷里の栃木県で暮らしていたが、会う人ごとに「無実」を訴えた。
 その叫びが実り、一九五二年(昭和二十七年)、約六百人の地元民の署名が集まり、地方法務局に調査の訴えがなされた。
 遂に、″共犯者″の一人と東京法務局で対決するまでに至り、五七年(同三十二年)に四回目の再審請求を行ったが、これも棄却された。
 法務大臣に直訴しようとして法務省に行き、退去させようとする守衛に抵抗して、床の絨毯をつかんで、叫び続けたこともあった。
 こうした不屈な行動に、支援の輪が広がり、日弁連(日本弁護士連合会の略称)人権擁護委員会の協力も得られた。
 そして、六〇年(同三十五年)の十一月、名古屋高裁に五回目の再審請求がなされ、翌年四月、再審開始が決定した。
 ところが、名古屋高検から異議申し立てがあり、高裁は、翌六二年(同三十七年)に入って、一転、再審開始の決定を取り消したのである。
 吉田は最高裁へ特別抗告した。最高裁は名古屋高裁の決定を取り消し、ここに遂に、再審が開始されることになったのである。
 再審の初公判は、同年十二月に開かれた。そして、六三年(同三十八年)一月三十一日に論告求刑が行われたが、検察はここでも、無期懲役を求刑した。
 だが、二月二十八日の判決で、彼はとうとう、晴れて無罪となったのである。
 逮捕から、実に五十年、既に彼は八十三歳になっていた。
 判決の最後に、裁判長は、「当裁判所は、被告人、いな、ここでは吉田翁と呼ぼう」と述べ、切々とこう語りかけた。
 「われわれの先輩が翁に対しておかした過誤をひたすら陳謝するとともに、実に半世紀の久しきにわたり、よくあらゆる迫害にたえ、自己の無実を叫び続けてきたその崇高なる態度、その不撓不屈のまさに驚嘆すべきたぐいなき精神力、生命力に対して深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である」
 裁判長による異例の謝罪である。しかし、冤罪を晴らすために費やされた、この半世紀の人生の苦渋を、いったい誰が償えるというのだろうか。
32  操舵(32)
 山本伸一は、「昭和の巌窟王」吉田石松の無罪判決に喝采を送った。
 伸一自身、無実の罪によって、短い期間ではあったが獄に繋がれ、四年数カ月にわたる裁判闘争を展開してきただけに、彼の苦しみ、悲しみ、怒りを、誰よりも、よく理解することができた。
 犯罪者の汚名を晴らすために、最後まで戦い抜いた吉田の強靱な信念は、不滅の輝きを放っている。そして、戦わずしては、人権は守り抜けないことを教えているともいえよう。
 無罪判決に、伸一は大きな喜びを感じた。
 しかし、その一方で、冤罪によって名誉を傷つけられ、社会的に葬り去られた人や、投獄された人、あるいは命を奪われた人など、数多の″吉田石松″がいたであろうことを思うと、彼の胸は痛んだ。
 吉田の冤罪は、司法関係者の「過誤」によるものであったが、冤罪には、権力が弾圧のために仕組んだものも、数多くあったにちがいない。
 伸一は、公明会の名古屋大会で、力強く訴えた。
 「私も、吉田翁が無罪になって、本当によかったと思った一人であります。
 とともに、凶暴な権力によって、どれほど多くの人が不幸になり、悲惨な目にあうかを思い、慄然といたしました。
 本来、国家の権力は、国民を守るために行使されるものでなければならない。また、そのための政治でもあります。
 しかし、ともすれば、権力は、民衆を支配し、隷属させ、人権さえも踏みにじろうとする魔性をもっております。
 公明会は、その権力に監視の目を向け、もしも、権力が魔性の牙をむいたならば、民衆の幸福、人権擁護のために、身を賭して戦う勇者であっていただきたいのであります。
 権力の魔性と命をかけて戦おうとせず、民衆を守り切れぬ政治家であれば、民衆を自分の選挙のために利用し、踏み台にしているだけにすぎません。
 それ自体が、既に自らが権力の魔性に同化した姿であります。
 どうか、公明会の皆さんは、人権を守り抜くために戦う、勇敢な闘士であってください」
 名古屋大会は、政界浄化への息吹がみなぎるなか、閉幕したが、伸一は、この夜、″権力の魔性″について、更に思索を重ねた。
 今後、公明会が多くの国民の支持を得ていけばいくほど、その母体である創価学会に対して、既成政党が、圧力を加えてくるであろうことが予感されたからである。
33  操舵(33)
 山本伸一は、戸田城聖の言葉を思い返した。
 一九五七年(昭和三十二年)七月、選挙違反という無実の容疑で逮捕され、出獄した伸一に、戸田は関西本部でこう語ったのだ。
 「今回の事件は、私が弟子たちを参議院に送ったことから起こったものだ。
 国家権力は、新しい民衆勢力が台頭してきたことに恐れをいだいた。民衆を組織した学会の団結が怖いのだよ。
 民衆が力を合わせれば、どんなに大きな力になるかを知っているから、学会を叩きつぶそうとしたのだ。
 そこで、この戸田を逮捕しようとした。それが彼らの本当の狙いだ。そのために、会員の小さな選挙違反を見つけて、無理にでも、会長である私に結びつけようとした。
 私を捕らえて、犯罪者にすれば、学会は極めて反社会的な、犯罪集団であるとのイメージをつくることができる。
 リーダーを狙い撃ちにするというのは、弾圧の常套手段なのだ。
 君を逮捕し、責め立てたのも、私に捜査の手を伸ばしたかったからだ。
 伸一、君は、それを見破った。そして、罪を一身に被ろうとした……」
 この時、戸田の目頭が潤んだ。その瞬間の光景が、伸一の心に焼きついて離れなかった。
 戸田はそれから、強い口調で言った。
 「伸一、今回のことは、君の人生にとっては、予行演習のようなものだ。やがて将来、権力は魔性の牙を剥いて、本格的に襲いかかって来るにちがいない。
 弾圧は、決して戦時中の昔の話ではない。
 確かに、戦後、日本は民主主義の国家になった。私や牧口先生を逮捕するのに使った、不敬罪や治安維持法もなくなった。そして、信教の自由も保障されるようになった。
 しかし、権力のもつ、魔性の本質は何も変わっていない。それだけに、より巧妙な手口で、弾圧することになる。
 それが、いつ起こるかはわからないが、学会がもっと社会的にも力をつけ、飛躍的に発展した時が危ないぞ。権力にとっても、存亡をかけた攻防戦だけに、学会を封じ込めるために、なりふり構わず、卑劣な攻撃を仕掛けてくるだろう。
 その時は、君が狙われることになる。覚悟しておくことだ」
 それは、獄死した先師牧口常三郎の正義を天下に知らしめるために、阿修羅のごとく戦い抜いた、「妙法の巌窟王」戸田城聖の渾身の叫びであった。
34  操舵(34)
 戸田城聖は、更に力を込めて、山本伸一に語った。
 「私が政界に弟子たちを送り出したのは、この日本にあっては、政治を民衆の手に取り戻さなければ、人びとの幸福の実現も難しいと考えたからだ。
 現実に社会の建設に立ち上がれば、弾圧が始まることはよくわかっていた。水面に石を投げれば、波が立つようなものだ。
 しかし、社会の不幸に目をつぶり、宗教の世界に閉じこもり、安穏として、ただ題目を唱えているだけだとしたら、大聖人の立正安国の御精神に反する。
 この世の悲惨をなくし、不幸をなくし、人権を、人間の尊厳を守り、平和な社会を築いていくなかにこそ仏法の実践がある。
 それを断行するならば、当然、難が競い起こる。しかし、そんなことを恐れていたのでは、仏法者の本当の使命を果たすことはできない。それに、われわれが宿業を転換し、一生成仏していくためには、法難にあい、障魔と戦って勝つしかないのだ。
 だから私は、社会の建設に向かって舵を取った。障魔を、三類の強敵を呼び出したのだ。
 日蓮大聖人は『今の世間を見るに人をよくなすものはかたうど方人よりも強敵が人をば・よくなしけるなり』と仰せだ。
 広宣流布を破壊しようとする大悪人、また、魔性の権力と戦い、勝てば、成仏することができる。ゆえに大聖人は、方人、つまり味方よりも、強敵が人をよくすると言われているのだ。
 大難の時に、勇気を奮い起こして戦えば、人は強くなる。獅子になるのだ。
 今回、関西の同志は、実によく戦った。君が逮捕されたことを、他人事のように感じていた者は、一人もいなかった。すばらしい団結だ。
 皆、怒りに胸を焦がし、悪を打ち砕かんと、必死に祈った。学会の正義を、声を限りに叫び、走りに走った。君に代わって、自分が牢に入りたいと言う者が何人もいた。君が今日、釈放されていなかったら、関西は大変なことになっていただろう。
 学会が難を受けた時に、自分には、直接、関係ないといって黙って見ているのか、自分も難の渦中に躍り出て、勇んで戦っていくのかが、永遠不滅なる生命の勝利、すなわち、一生成仏ができるかどうかの境目といえる。
 関西の同志は、伸一と一緒に難に立ち向かった。何ものも恐れずに、大悪と戦った。これで関西は、ますます強くなるぞ。福運に満ち満ちた、大境涯への飛躍を遂げたといえる」
35  操舵(35)
 戸田城聖は、最後に、山本伸一の眼を、じっと見すえて言った。
 「仏法者として、人類の平和と幸福のために行動を起こせば、必ず障魔が競い起こる。大難が起こる。
 しかし、伸一、勇気をもって進め。生涯、あえて、難を呼び起こし続けていくのだ。
 君が先頭となり、大難と戦うことで、君だけでなく、本末究竟して、みんなの一生成仏の道が開かれることになる。
 また、難が起これば、人間の真価がわかるし、一人ひとりの信心の真偽も明らかになる。そして、学会を利用しようとしていた者や、臆病者は去っていく。
 難はまやかしの信仰者を淘汰し、獅子をつくる。それでよいのだ」
 伸一は、この時の戸田の言葉を、片時も忘れることはなかった。自分に大難が競い起こり、弾圧の嵐が吹き荒れる日が、いつになるのかは予測しかねたが、その兆しを感じていた。
 彼は思った。
 ――政権党の大物代議士が、自分とケネディとの会見に横槍を入れてきたことも、その一つの現れといえるだろう。
 戸田先生は、学会を封じ込めるために、権力はリーダーを狙い撃ちにすると言われたが、ありとあらゆる手段を駆使して来るにちがいない。
 あの大阪事件の時のように、無実の罪を着せ、逮捕しようと画策することもあるだろう。
 後で、いかに無実が証明されても、会長である自分を逮捕や起訴にもち込み、大々的に報道させれば、学会は危険極まりない、反社会的な犯罪集団であるかのようなイメージを定着させることができる。
 そうなれば、社会的な信用を失い、学会は孤立していくことになるからだ。
 あるいは、退転者を取り込み、″内部告発″というかたちをとって、ありもしないスキャンダルをでっち上げることも十分に考えられる。
 その虚偽の″告発″を、一部のマスコミを使って流すことによって、会員に不信感を植えつけ、団結に亀裂を生じさせようとする謀略である。
 かつてナチスは、カトリック教会の声望を失墜させるために、民衆の尊敬を集める修道士のスキャンダルを流したが、宗教弾圧によく用いられる手口といってよいだろう。
 いずれにせよ、政党から宗教団体、マスコミなど、学会の前進を恐れる、ありとあらゆる勢力が、学会憎しの一点で、主義主張もかなぐり捨てて手を結び、集中砲火を浴びせる事態が、必ず来るにちがいない。
36  操舵(36)
 山本伸一は、一九五六年(昭和三十一年)七月八日の参議院議員選挙が終わった翌九日の未明に、戸田城聖が詠んだ、一首の和歌を思い起こした。
  いやまして
    険しき山に
      かかりけり
    広布の旅に
      心してゆけ
 伸一は、ぎゅっと拳を握り締めた。
 やがて至るであろう広宣流布の険路を思うと、彼の胸に、闘魂が赤々と燃え上がるのであった。
 三月十六日の東京地方は朝から小雨が降っていた。
 羽田の東京国際空港の特別控室は、見送りの学会員であふれていた。
 会長の伸一の要請によって、海外初の出張御授戒が行われることになり、この日、二人の僧侶がアメリカに出発することになったのである。
 派遣僧侶の一人は、後に日蓮正宗第六十七世の法主の日顕となる、当時、宗門の教学部長をしていた阿部信雄である。
 御授戒は、途中、二手に分かれ、ホノルル、ロサンゼルス、サンディエゴ、ロングビーチ、シアトル、シカゴ、ルイビル、ワシントン、ニューバーン、コロラドスプリングス、ジャンクションシティー、アビリーン、マイアミ、ニューヨーク、サンフランシスコ、サクラメントの各都市で実施されることになっていた。
 そして、彼らは、二週間後の三月三十日の夜、帰国する予定であった。
 この三月十六日は、五年前の一九五八年(昭和三十三年)に、恩師戸田城聖のもと、青年六千人が集い、広宣流布の後事を託す、記念の儀式が行われた日であった。
 その意義ある日が、海外初の出張御授戒の出発の日になったとあって、集ったメンバーの喜びはひとしおであった。
 だが、その出発の日に、朝から小雨が降り始めたことが気がかりであった。
 これまで、山本会長の海外への出発の時には、雨が降ることなどなかっただけに、この雨が、皆の心を曇らせていた。
 午前九時前、歓送会が始まった。宗門の総監に続いて、学会を代表して理事長の原山幸一が歓送の辞を述べた。
 原山は、学会の歴史に燦然と輝く三月十六日が、海外初の出張御授戒の出発の日となったことを喜ぶとともに、このたびの二人の僧侶の派遣は、宗門史に永遠にとどめられる「壮挙」であると語った。
37  操舵(37)
 海外初の出張御授戒を称える、原山幸一のあいさつは、当時の会員の心情を代弁するものであった。
 ″広宣流布のために、出張御授戒のために、御僧侶が海外に行ってくださる″と思うと、会員たちは、ありがたさと喜びで、胸がいっぱいになるのである。
 しかし、阿部信雄のこの海外派遣は、日蓮正宗の歴史に、未聞の大汚点を永遠にとどめることになる。
 次いで、阿部があいさつに立った。
 彼は軽い咳払いをして、威厳を誇示するように周囲を見渡してから、おもむろに話し始めた。
 「会長先生の要請にもとづき、また、畏くも御法主上人猊下の御命により、そのお使いとして、派遣されることになりました。
 世界広宣流布の第一歩としての、この出張授戒に対し、その意義に真にめざめ、なおかつ日蓮正宗の僧侶としての自覚のもとに、アメリカの将来の広宣流布達成の、本当のもととなるような気持ちをもって御授戒いたしてまいります。
 また、現地の方々と語り合い、使命を遂行してまいりたいと存じます」
 特別控室は、大きな拍手につつまれた。
 集った会員の多くは、感動に目を潤ませていた。
 しかし、まことしやかに「世界広布」を語りながらも、阿部はこの時、アメリカでの享楽を思い、心でほくそ笑んでいたのかもしれない。
 後年、法主となった阿部は、尊い仏子である学会員からも、創価学会からも、巧妙に供養を搾り取っていった。そして、栄耀栄華を誇り、真心の浄財を湯水のごとく使って、遊興を重ねてきた。
 その末に、宗門が直接、学会員を操り、支配しようと、学会を破門し、更に宗門興隆の最大の功労者であった山本伸一を信徒除名処分にするのである。
 この奸智にたけた極悪人にしてみれば、見送りに来た純真な会員たちを欺くことなど、赤子の手を捻るよりたやすかったであろう。
 この三月十六日の夜、東京・日比谷公会堂では、会長山本伸一が出席して、青年部の弁論大会が盛大に開催された。
 五年前のこの日、戸田城聖は、衰弱した体で、死力を振り絞るようにして、伸一をはじめとする青年たちに、広宣流布の後事のいっさいを託す、広布の記念の式典を断行した。
 その戸田の精神は、日本の国の、いや、全世界の人びとの幸福と平和の建設にあった。
 青年たちは、この師の精神をわが心とし、広布に走り抜いてきた。
38  操舵(38)
 弁論大会の会場には、民衆を守り抜かんとする、創価の若人の情熱があふれていた。
 各弁士は「マスコミの改革を叫ぶ」「現代の評論家を批判する」「東京都政の実態を突く」などをテーマに、旺盛な批判力にあふれた熱弁を展開した。
 そこには、無責任極まりないマスコミや評論家、また、腐り切った政治家への怒りが燃えていた。
 日本は高度経済成長の時代に入り、経済的に豊かになるにつれて、青年層にも拝金主義の風潮が強まっていった。
 そして、本来、生き方の最も大事な基準となるべき「善悪」や「正邪」に代わって、物質的な豊かさや格好のよさが、判断の尺度になろうとしていた。
 その風潮こそが、「悪」を温存させ、政治権力の横暴や腐敗をもたらす土壌を形成しつつあった。
 民衆を苦しめる「悪」を絶対に許すな――それが、戸田城聖の信念であり、教えでもあった。
 青年が「悪」と戦わずして誰が戦うのか。青年が叫ばずして誰が叫ぶのか。青年が先駆を切って行動せずして、誰が行動するのか。
 もし、「邪悪」「不正」が大手を振って闊歩し、人びとが苦しみあえぐ姿を目の当たりにして、怒りさえ覚えない青年がいるなら、それは、もはや「青年」ではない。「魂」が麻痺した、無残な「精神の老醜者」である。
 反対に、いかに齢を重ねようとも、「邪悪」に対しては一歩も退かず、敢然と挑み戦う人は、その「魂」は「永遠の青年」である。
 創価のスクラムとは、この「永遠の青年」の尊貴なる魂と魂の結合である。戦う正義の人の輪である。
 山本伸一は、「邪悪」を打ち砕かんとする、青年たちの熱弁に、社会の闇を開く、希望の暁鐘を聞く思いがした。
 弁論大会であいさつに立った彼は、最後に、声を大にして、後継の青年たちに呼びかけた。
 「広宣流布は青年の手で成さなければなりません。
 そのために、青年部の諸君は、いっさいの指導原理であり、人間の根本の規範を説き明かした御書を徹して学び、仏法の哲理を究明し抜いていただきたい。
 また、御本尊を抱きしめる思いで、題目を唱えに唱え、偉大なる功力を、わが身で体験し抜いていただきたい。
 そして、大聖人の仏法こそ絶対であるとの、大確信をつかんでいただきたいのであります」
 確信は信仰の「芯」である。彼は、その大切さを、若き魂に打ち込もうとしたのである。
39  操舵(39)
 この年も、桜の季節が訪れようとしていた。
 しかし、今の山本伸一には、ゆっくりと桜を観賞し、憩う暇などもとよりなかった。
 ただ、移動の車中から眺める、束の間の桜の姿に心を和ませ、桜の季節に霊山に旅立った恩師をしのぶのであった。
 戸田城聖の祥月命日である四月二日、東京・品川区の聖教新聞社別館で、恩師の六回忌法要が行われた。
 恩師逝いて五年、学会は既に会員三百三十万世帯に達していた。
 それは、ただひたすら師の構想を実現せんとする伸一とともに、同志が心を一つにして戦い抜いた、師弟の精神の結晶といえる。
 伸一は、毎年この日に、恩師に″勝利″の報告をすることを、自らの義務としていた。
 いかに苦戦を強いられようとも、必ずなんらかの勝利の実証をもって、法要の席に馳せ参じることが、弟子の道であると、彼は決めていたのである。
 戸田は、口先だけの決意の人間を、絶対に信用しなかった。最も厳しく弾呵した。「ハッタリ屋」「ペテン師」「イカサマ師」と言って憚らなかった。
 たとえ、草の根を噛み、岩盤に爪を立てても、前へ進み、勝って、誓いを果たし抜いてこそ、″獅子″であるというのが、戸田の指導であった。それは広宣流布の責任の重さを、弟子たちに教えようとする、師の慈愛でもあった。
 伸一は、法要の読経・唱題のなか、来年の恩師の七回忌には、更に広宣流布の流れを広げ、再び大前進の「証」をもって、恩師のもとに集う決意を強く固めていた。
 ちょうどこの日は、統一地方選挙の前半戦ともいうべき、全国の四十六都道府県議会議員、横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の五大市議会議員の選挙の告示の日であった。
 公明政治連盟からも、都道府県議選に五十七人が、五大市議選に三十八人が立候補の届け出をすませた。
 各候補者も、支援する学会員も、四月十七日の投票日をめざして、選挙戦に突入していった。
 伸一は、この四月も関西に足を運び、五日には、創価学会が建立寄進した、京都市右京区の平安寺の落慶入仏式に参列した。
 二月の京都本部の落成に引き続いて、正宗寺院も建立されたとあって、京都の会員の喜びは大きかった。
 平安寺は鉄筋コンクリート三階建ての近代的センスと重厚さを備えた大寺院であり、住職は、宗門の教学部長で、海外初の出張御授戒に派遣された、あの阿部信雄であった。
40  操舵(40)
 会員たちは、名刹といわれる他宗派の寺院がひしめく京都に、日蓮正宗の大寺院が建立されたことに、自信と誇りをいだいた。
 しかも、住職が阿部信雄と聞いて、心から喝采を送り、語り合ったのである。
 「阿部先生というたら、宗門の教学部長さんで、世界広布のためにアメリカの出張御授戒に行かはったお方やろ。それに、何代か前の猊下様の息子さんやそうや」
 「ほんまに素晴らしい方が来てくれはったな。
 猊下様の息子さんやったら、″破邪顕正″″死身弘法″の大聖人の御心通りに、この京都で大折伏戦を展開しはるんやろうね。
 やがていつかは、東本願寺も、西本願寺も、清水寺も、大徳寺も、京都中の寺が、みんな大聖人の仏法に帰依するようになる日がくるんやね。私たちも頑張らなあかん」
 当時、まだ、阿部の正体は誰もわからなかった。純粋な学会員の、彼に対する期待は、あまりにも大きかったのである。
 落慶入仏式の席上、日達法主は「慶讃文」のなかで次のように述べている。
 「当地には数多の寺院甍を並べ軒を連ぬと雖も全て権迹浅近の諸宗にして我が邦第一の魔境とも謂う可き所なればかかる地に於て将来の竜象をして邪魔を破し研磨し鍛せしめんが為なり」
 誤った教えの宗派の寺院が連なる「魔境」ともいうべき京都で、将来の宗門の大人材に、破邪顕正の戦いを起こさせ、磨き上げていくために、この寺を建立したというのである。
 この日、伸一は、あいさつのなかで、仏法者の在り方に言及し、次のように結論した。
 「仏法を持った私どもは、周囲の人びとから『なるほど立派な人である。これほどの人が信心しているならば、私も信心をしよう』と言われるような姿でなければならないと思うのであります」
 御書に「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と仰せのように、仏法とは、人間の生き方の究極を説いたものである。
 したがって、人として、いかなる行為、振る舞いをなすかが、仏法者として最も大切な問題となる。ゆえに伸一は、その在り方について語ったのである。
 平安寺では、十六日後の四月二十一日に、関西方面の新住職の赴任披露式が行われたが、伸一は、その時も、京都に足を運び、阿部の住職としての新しい出発を祝った。
 信徒の代表として、伸一もまた阿部に期待し、最高に遇していたのである。
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 平安寺の阿部信雄によって、京都の広宣流布は進むと信じて、会員たちは苦しい生活のなかでも、寺への供養を続けた。
 だが、何年たっても、日蓮正宗に改宗する寺など、ただの一カ寺もなかった。そもそも阿部は、折伏を行じようとさえしなかったのである。
 では、彼がしたことは、なんであったか。
 ――やがて、高級料亭に出入りし、芸妓を呼んで遊びほうける阿部の姿が、目撃されるようになった。
 京都では、腐敗、堕落した日本の仏教界を象徴するかのように、他宗派の住職らが、そうした遊びをすることは珍しくなかった。
 しかし、学会員は日蓮正宗の僧侶に限って、そんなことは絶対にないと確信し、周囲の人びとにも、そう断言してきた。
 日興上人の門流として、少欲知足の聖僧の伝統を堅持していると信じていたからである。
 学会員のなかには、料亭の従業員もいたし、さまざまな職業の人がいた。
 阿部の放蕩の現場を見た、会員たちの衝撃は大きかった。まさに、「法師の皮を著たる畜生」さながらの姿である。
 失望のあまり、呆然と立ちすくむ人もいれば、体を震わせながら、悔し涙を必死に堪える人もいた。
 だが、会員たちは、それを自分の心に秘め続けてきた。″僧俗和合して広宣流布に進もうとしているのだから、事を荒立ててはいけない。自分が目をつぶっていればよいのだ″と考えてきたのである。
 阿部の正体は、単に法師の皮を著た「畜生」どころではなかった。
 彼は、遂には仏子の団体である創価学会の壊滅を狙い、仏法を大破壊し、「第六天の魔王」と化していくことになるのである。
 山本伸一は、平安寺の落慶入仏式の翌日の六日には西淀川会館の落成式に、翌七日には和歌山会館の落成式に出席した。
 この二つの会館が建設された大阪市の西淀川区と和歌山市は、一年七カ月前、関西方面を急襲した第二室戸台風で、甚大な被害を受けた地域であった。
 その時、伸一は、両地域の同志のために、復興への新たな指標として、会館の建設を約束したのである。
 不幸に苦しむ人びとに希望を与え、励まし、元気づけていくことを、彼は、自らの義務としていた。
 伸一は、この関西指導でも、行く先々で、同志のなかへ、人間のなかへ分け入り、激励を重ねた。そこに現代における、「不軽の実践」が、菩薩の道がある。
42  操舵(42)
 四月十七日は、統一地方選挙の前半戦となる四十六都道府県議会、五大市(横浜・名古屋・京都・大阪・神戸)議会の議員選挙の投票日であった。
 この選挙で、公政連(公明政治連盟の略称)から立候補した、都道府県議選五十七人、五大市議選三十八人の、計九十五人の候補者は、全員が善戦。茨城県議選で一人が次点に終わったものの、五大市議選は完勝し、九十四人が当選を果たしたのである。
 公政連では、これを機に各地方議会ごとに、交渉団体として「公明会」を結成し、公政連選出の議員団の名称を「公明会」としていくことを発表した。
 次いで二十日は、統一地方選挙の後半戦となる、東京特別区の区議会議員、市議会議員の選挙の告示であった。
 これには、公政連から七百四十人が立候補した。
 更に、二十三日には、全国町村議会議員の選挙も告示され、百五十七人が立候補。ともに三十日の投票日をめざして、激戦を展開していった。
 この選挙でも、公政連は大勝利を収めた。東京の区議会議員選挙では百三十六人が全員当選。これは、自民党に次いで、第二党の立場を守ってきた社会党の当選者百二十四人を上回るものであった。
 また、全国の公政連の候補者の当選率は、九七・八パーセントという高率であった。
 一連の統一地方選挙の当選者に、それ以前に改選された現職の議員を合わせると、公政連の地方議員は、千七十九人となった。
 地域に密着し、人びとの生活に直結した地方政治には、政治の原点がある。
 一地域で推進された政策がモデルとなり、国政の新しい道を開くこともある。
 しかし、現実は、名誉と利権を手にするために議員になった、「町のボス」たちによって議会が牛耳られ、民衆不在の地方政治が行われていることが少なくなかった。それが、どれほど人びとの政治への失望と不信の念をつのらせてきたことか。
 それだけに山本伸一は、今、千人を超す公政連の地方議員が誕生したことに、大きな喜びを覚えた。
 地元民の幸福を願い、献身しようとする、これだけの議員がいれば、地方政治の新たな夜明けをもたらすにちがいないからだ。
 彼は、このメンバーが、民衆のなかに入り、民衆の声に耳をそばだて、民衆とともに悩み、知恵を絞り、「民衆の守り手」として、大健闘、大活躍することを期待していた。
43  操舵(43)
 この四月、台湾には、試練の嵐が吹き荒れた。
 台北(タイペイ)支部長の朱千尋(チュー・チェンシュン)は、四月三日の朝、警備総司令部に出頭するように命じられていた。
 出頭する彼に、心配そうな顔で、妻が言った。
 「大丈夫かしら。帰してもらえるのでしょうか」
 妻の父親は、戦時中、思想犯として日本軍に捕らえられ、三年もの間、投獄されていた。そのことが思い出され、彼女は不安でならなかったのである。
 「心配ないよ。学会も、私も、悪いことはしていないのだから。むしろ、学会の真実の姿を理解させる、よい機会じゃないか」
 警備総司令部での取り調べが始まった。
 係官は、台湾の学会の組織や活動、会員の数、日本の創価学会との関係、教義などについて詳細に尋問していった。
 朱は、一つ一つの問いに対して、ありのままに答えていった。隠し立てすることなど何もなかった。
 取り調べは、深夜まで続いたが、終わらなかった。その日は、警備総司令部に泊まることになった。
 翌日、取り調べが終わると、係官は言った。
 「創価学会は、やはり違法な団体ということになるな。解散させられるようになると思いなさい」
 中華民国の憲法では「信教の自由」も、「集会、結社の自由」も認められていたが、戒厳令下の台湾では、「非常時期人民団体組織法」により、組織的な活動を行うためには、人民団体として申請し、許可を受ける必要があった。
 台湾の創価学会も、登録の申請をしてきたが、許可は出なかった。
 既に台湾には、仏教会の組織がつくられているので、新たに仏教系の団体を許可することはできないというのである。
 この法律では、同じ性質の人民団体は一つに限ることなどが規定されていたからだ。
 許可されなければ、創価学会は違法な団体ということになる。だが、朱は、申請の過程で、釈然としないものを感じていた。
 というのは、学会と台湾の仏教会とは、教義が全く異なっており、決して同一の性質ではないことをいくら訴えても、いっさい取り合おうとしなかったからである。
 ――まだ、反日感情の強かった時代でもあり、内実は、学会は″日本の宗教″ということで、許可されなかったのかもしれない。また、日本から、学会が危険な思想団体であるかのような情報が、意図的に流されていた可能性もある。
 ともかく、朱の努力は実らず、人民団体の許可は下りなかったのである。
44  操舵(44)
 朱千尋(チュー・チェンシュン)が警備総司令部に呼ばれた日から六日後の四月九日のことであった。
 彼の家に役人が来て、創価学会の台北(タイペイ)支部は、「非常時期人民団体組織法」に基づき、解散を命ずることが伝えられた。
 朱は、東南アジア総支部長の森川一正に、電話で事態の経緯を知らせた。
 森川は、早速、それを山本会長に報告した。
 「なに、解散させられることになったのか! かわいそうだ……」
 伸一は、こう言って絶句した。
 しかし、しばらくすると、強い決意のこもった口調で語り始めた。
 「これは、仏法の目から見れば、台湾のメンバーの信心が本物になった証拠といえる。御書には『行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る』と仰せじゃないか。難があるからこそ正法なんだ。難を受けるからこそ一生成仏ができるんだ。
 法律は法律として従わなくてはならないから、組織は解散するにしても、絶対に、信心までも失ってはならない。台湾でも、信教の自由は認められているのだから、いくらでも信心は貫ける。
 大聖人は、『王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず』と言われている。
 王の支配する国に生まれたから、身は従えられているようであるが、心まで従えられているのではないぞという、精神の自由の大宣言だよ。
 台湾の同志も、この心意気でいくんだ。
 どんな力をもってしても、本来、人間の信仰を奪うことなんかできない。自分の心を支配しているのは自分自身だからだ。
 したがって、退転する人は、外圧によって退転していくというより、外圧を恐れて臆病になり、自ら信心を捨ててしまっているといえる。
 ところで、今、支部長の朱さんは何歳なのかい」
 「確か、間もなく四十歳になると思います」
 「そうか。勝負は七十代、八十代だよ。こんなことが何十年も続くわけがない。やがて、台湾も自由に活動できる時が必ず来る。
 朝の来ない夜はない。春の来ない冬はない。
 夜明けが来た時に、春が来た時に、一挙に広宣流布の大輪を咲かせるために、草木が地中深く根を張るように、今のうちに活力を蓄えておくことだよ。
 一歩も引くものかとの決意で、じっと耐えながら、着々と未来の広布の土台をつくっていくことだ。
 この試練に打ち勝てば、台湾の創価学会は大発展するぞ。二十一世紀は、きっと″黄金の時代″になる」
45  操舵(45)
 この九日の夜、朱の自宅に地区幹部が集い、台北(タイペイ)警察局外事巡査長の立ち会いのもとに、解散を通達する会合が開かれた。会場には、台湾各紙の記者も詰めかけていた。
 朱は、集って来たメンバーを見ると、胸を締めつけられる思いがした。もうこうして、同志が一堂に会することも許されないのだ。
 悔しくもあり、当局を説得できなかった自分が不甲斐なくもあった。また、皆に対して、申し訳なくもあった。
 彼の胸には、激情が怒涛のように荒れ狂っていた。だが、波立つ心を抑え、平静さを保とうと努めながら、朱は、静かな口調で語り始めた。
 「本日、四月九日、創価学会台北支部は、人民団体として許可が得られないため、政府より解散を命じられました。ここに解散を宣言いたします。
 したがいまして、これからは、集会をはじめ、学会の組織的な活動は、いっさい行えないことになります……」
 ここまで話すと、朱は言葉を詰まらせた。目には涙があふれ、体はブルブルと震えた。
 沈黙が続いた。
 この瞬間、彼の脳裏に、二カ月余り前の一月二十七日、あの松山(ソンサン)空港で山本会長が語った言葉が鮮やかに蘇った。
 ――「何があっても、どんなに辛くとも、台湾の人びとの幸福のために、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は、三十年、四十年先です。最後は必ず勝ちます」
 その言葉が、今、電撃のごとく朱の胸を貫いた。
 彼は唇を噛み締め、拳で涙を拭うと、力を込めて言った。
 「支部は解散しますが、中華民国の憲法で、信教の自由は保障されています。誰憚ることなく、信心をしていくことはできます。
 私たちが幸福になる道は、決して閉ざされたわけではないのです。私たちに信心ある限り、冬は必ず、必ず、春になるのです」
 警察立ち会いの解散通達の会合では、ここまで語るのが精いっぱいであった。
 翌十日付の台湾各紙は、創価学会台北支部の解散とともに、この会合の模様を写真付きで一斉に報じた。紙面には″不法組織『日蓮教』昨日解散宣告″などの見出しが躍っていた。
 新聞を見て、初めて解散を知ったメンバーの衝撃は大きかった。
 四月十一日から十四日までは、各地区で会合がもたれ、解散が徹底されたが、皆にとってこれほど辛く、悲しい会合はなかった。
46  操舵(46)
 台湾で学会が解散させられると、台北(タイペイ)支部の主立った幹部たちは、警備総司令部に呼ばれ、今後、いっさい信仰活動は行わない旨の念書を書かされた。
 だが、これで嵐は過ぎ去ったわけではなかった。むしろ始まりであった。以来、警察は、一人ひとりに監視の目を光らせ、取り締まりを強化していった。
 突然、家に踏み込まれ、御本尊を持っていかれた人もいた。御書をはじめ、学会の出版物やバッジなども没収された。
 「信心をするなら牢獄にぶち込むぞ!」と、脅された人もいた。
 また、信心をしていることがわかると、会社では昇進することはなかったし、左遷されたり、解雇されることさえあった。
 個人の信仰の自由は認められていたが、解散後は、事実上、それさえも奪われたに等しかった。
 この試練は、それぞれの信仰が、ホンモノなのか、ニセモノなのかを明らかにしていった。
 名聞名利の心をいだいて信心をしていた者は、迫害を恐れて、次々と退転していったのである。
 しかし、台北支部長であった朱千尋(チュー・チェンシュン)をはじめとする真正の同志は、苦難を誉れとして、獅子となって立ち上がった。
 朱は、大手のセメント会社で課長を務める、未来を嘱望される人物であったが、彼が警察に監視されるようになると、会社の幹部は、信心をやめるように迫った。
 もとより、そんなことで、朱の決意は揺るがなかった。すると、彼は昇進の道を断たれただけでなく、会社での役職を外されてしまったのである。
 閑職に追いやられた朱は、帰宅時間も早くなり、休みもきちんと取ることができた。
 彼は、空いた時間を利用し、御書の中国語への翻訳を始めた。しかも、正確を期すため、中国語の文語体での翻訳であった。
 彼は、それをわが使命と定め、黙々と翻訳作業に励み続けた。
 ――この翻訳は、台北支部の解散から三十四年後の一九九七年(平成九年)に、御書全編が終了し、中国語版御書の完成となるのである。
 更に、文化・芸術と宗教が密接不可分の関係にあるならば、文化活動を通して、仏法の人間主義の精神を次の世代に伝えていくことも可能なはずだと考え、青少年のためのハーモニカ隊を結成したのである。
 いかなる状況下でも、信心はできる。広宣流布に生きることはできる――それが朱の信念であり、決意でもあった。
47  操舵(47)
 朱千尋(チュー・チェンシュン)は、時間を見つけては、個人的に同志を励ました。皆に功徳を受けさせ、仏法への不動の確信をもたせたかったのである。
 彼から激励された人びとは、懸命に唱題に励み、多くの功徳の体験をつかんだ。すると、その喜びを人に語らずにはいられなかった。それを聞いた人たちのなかから、自ら題目を唱える人が出始めた。
 この″冬の時代″にあっても、正法は、自然のうちに、深く社会に根差していったのである。
 やがて、台湾は民主化の道をたどり始め、宗教に対しても寛容な態度がとられるようになった。
 一九八七年には戒厳令も解除され、九〇年には台湾の組織として「仏学会」が、晴れて団体登録されることになる。台北(タイペイ)支部の解散から、実に二十七星霜が流れていた。
 しかも「仏学会」は、その後、文化祭などの諸活動による社会貢献の業績が高く評価され、内政部から″優良社会団体″として、何度も表彰されるようになるのである――。
 山本伸一は、台湾の組織が解散させられた報告を聞くと、いよいよ激動の時代に入ったことを、深く自覚せざるをえなかった。
 ″創価学会丸″が社会の海原へ、世界の大海に船出した今、激浪が猛り狂うことは当然といってよい。
 たとえば、日本で公明会が政治改革に乗り出せば、その母体の学会が既成政党の攻撃の的となり、更には、世界の国々も、学会に警戒の目を向けることは明らかであった。
 また、学会は地球民族主義を掲げ、全人類の幸福と平和を目的としている。しかし、社会主義陣営の国と交流すれば、自由主義陣営の国からは批判を浴びることになるし、逆のケースもあることを覚悟しなければならなかった。
 そのなかで、イデオロギー、国家、民族を超えて、人間の心と心を結び、恒久平和の実現という、世界の広宣流布をめざすことは、まさに人類史的実験といってよかった。
 しかし、いかに波浪は激しく、嵐は猛るとも、人間の勝利の旗を打ち立てるために、伸一は新世紀の大陸に向かって、必死になって舵を操るしかなかった。
 三十五歳の青年会長の操舵に、広宣流布のすべてはかかっていたのである。
 目前には、会長就任三周年となる五月三日が迫っていた。

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