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日蓮大聖人・池田大作

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第7巻 「早春」 早春

小説「新・人間革命」

前後
2  早春(2)
 佐田幸一郎は、医師からは、左足を切断しなければならないかもしれないと告げられた。光の差さない、炭鉱の坑道さながらに、人生の前途に何一つ希望は見いだせなかった。
 そんな時、同僚から仏法の話を聞かされた。宿命を転換していくのが、この仏法であるとの確信あふれる言葉に、彼は入会を決意した。一九五七年(昭和三十二年)四月のことである。
 幸いなことに左足の切断は免れ、怪我は完治した。
 彼は、男子部員として、歓喜に燃えて活動に励むようになった。
 学会活動を始めて困ったことは、学校に行けなかったために、漢字がほとんど読めないことであった。
 戸田城聖が男子部に与えた「青年訓」や「国士訓」を見ても、漢字がわからないのである。
 佐田は、読み方を、年下の男子部員に聞いて、振り仮名をつけることから始めなければならなかった。
 やがて、六〇年(同三十五年)に、山本伸一が第三代会長に就任した。伸一は、その年の秋には、北・南米の指導に旅立ったのをはじめ、アジア、ヨーロッパと、世界への平和旅を展開していった。
 ″青年よ、世界へ″と呼びかける伸一の指導に、佐田も、世界広布に青春を捧げたいとの希望をいだき、ヨーロッパに渡ることを夢見るようになっていった。
 しかし、アルファベットもわからない自分には、それは叶わぬ夢であると考えていた。
 そのころ、西ドイツ(当時)のルール地方の炭鉱が、炭鉱技術派遣として、労働者を募集していることを知った。
 駄目でもともとと思いながら、彼は意を決して応募した。すると、派遣メンバーに選ばれていた。
 佐田は思った。
 ″不思議だ! これは、自分には、ヨーロッパ広布の使命があるということなのだろう″
 六一年(同三十六年)十月、出発を前に海外局を訪ねたところ、職員が、聖教新聞社にいた山本会長のところへ案内してくれた。
 伸一は、ヨーロッパ訪問から帰った直後であった。
 彼は、笑みを浮かべて、佐田を迎えた。
 「ドイツに行って、広宣流布をやろうというのは君だね。ご苦労様!
 ヨーロッパの広布の道は切り開いてきたから、安心して行ってらっしゃい。向こうでも、地涌の菩薩が待っているよ。
 これから、君の後にも、たくさんの同志が続くだろうから、決して、焦る必要はない。一歩一歩、階段を上るように、着実にやっていきなさい」
3  早春(3)
 山本伸一は、西ドイツ(当時)に渡って、広宣流布をやろうという、佐田幸一郎の青年らしい心意気が嬉しかった。
 伸一は、この時、佐田に約束した。
 「もし、ドイツのメンバーが十世帯になったら、その時には地区をつくろう。また、三十世帯になったら、支部を結成することにしよう」
 佐田は、それは山本会長から、自分に与えられた目標であると受け止めた。
 彼が日本を発ったのは、十一月一日であった。二十八歳になっていた。
 デュッセルドルフに着いた佐田は、山本会長がヨーロッパ初訪問の折に宿泊したホテルを見に行った。
 ″先生は、ここでドイツの広布を考えられた。ここには先生の題目が染み込んでいる。俺も頑張るぞ!″
 彼は、ホテルの前に立って誓った。
 佐田は、ヨーロッパの連絡責任者の川崎鋭治に連絡を取り、当時、西ドイツにいた三世帯のメンバーの激励から始めた。
 更に、炭鉱で働く日本人の同僚たちに、仏法の話をしていった。
 一方、ゲルゼンキルヘンの炭鉱のメンバーの中心となっていたのが、諸岡道也という二十三歳の青年であった。
 彼も北海道の出身で、一九五六年(昭和三十一年)に、十七歳で信心を始めた。十八歳から炭鉱で働き、男子部員として活動に励んできた。
 諸岡は、「東洋広布」を訴える第二代会長の戸田城聖の指導や、第三代会長に就任した山本伸一の「世界広布」という言葉を、機関紙で目にするにつれ、自分も、その一翼を担いたいとの、強い思いをいだくようになった。
 しかし、彼もまた、それは、実現性の乏しい夢物語であると感じていた。ところが、日本の炭鉱離職者を西ドイツの炭鉱が受け入れるという話を耳にし、勇んで名乗りをあげた。
 だが、諸岡を悩ませたのは、家庭の問題であった。自分が中心になって、家計を支えなければならなかったからである。
 ある日、思い切って、両親に、自分の希望を話してみた。彼より先に入会し、地道に信心を貫いてきた父親は、わが子の熱い思いを知ると、即座に言った。
 「そうか。ぜひ行ってこい。家のことは心配するな。思う存分、広宣流布のために頑張れ!」
 彼の西ドイツ行きは決まった。出発は六二年(同三十七年)の三月である。
 この年の一月、札幌を訪問した会長の伸一に、彼は西ドイツに渡ることを報告した。更に、出発前にも、学会本部に行き、伸一の激励を受けた。
4  早春(4)
 佐田幸一郎も、諸岡道也も、意気揚々と、西ドイツ(当時)に渡ったが、炭鉱での仕事は決して楽ではなかった。
 ドイツ語を話せない彼らは、職場でドイツ人の同僚と、意思の疎通を図ることも難しかった。
 ノルマも厳しかった。
 特に、小柄で体重が六十キロにも満たない諸岡にとっては、体格のよいドイツ人に伍して仕事をすることは、予想以上に過酷な、辛い作業であった。
 朝は四時半には起き、六時には仕事を始めなければならない。彼は体力の限界を感じたが、毎日、死力を尽くして働き抜いた。
 ドイツの広布を誓い、日本で地区のメンバーに見送られて、ここに来たことを思うと、決して弱音は吐くわけにはいかなかった。
 体の小さな諸岡が仕事をしていくには、人一倍食べて、体をつくらなければならなかった。
 しかし、黒パンにチーズやソーセージといった食事は、日本食で育った諸岡には抵抗があった。喉を通らないのである。
 黒パンを水と一緒に、無理やり喉に流し込むと、目には涙がにじんだ。
 やがて、彼の努力は次第に実り始めた。体格もよくなり、体力も増し、人並み以上に仕事ができるようになっていった。
 そうした実証を積み重ねるなかで、職場での信頼は高まっていった。それは、そのまま、日本人への評価ともなった。
 諸岡は、寮生活で西ドイツでの暮らしをスタートしたが、弘教を進めるためには、一日も早くドイツ語をマスターしなければならないと思った。そのために、寮を出て、ドイツ人の家に下宿をすることにした。
 彼は、習い覚えたドイツ語を駆使して、その下宿の主人にも布教した。
 佐田や諸岡の活動によって、二人、三人とメンバーも増え始めた。彼らは、座談会を開き、ドイツ広布への夢を語り合った。
 だが、炭鉱で働くメンバー以外は、彼らが住んでいる地域から何百キロメートルも離れたところに点在していた。
 その同志を激励し、弘教に駆け回るには、どうしても車が必要であった。
 佐田は、一大決心をして、中古の車をローンで購入することにした。
 そのために、彼は食べる物も、着る物も惜しんで金を節約した。
 そして、買った車が、フォルクスワーゲンであった。日本では当時、″高嶺の花″と言われていた車を買えたことが嬉しかった。
 その車を「若獅子号」と名づけ、西ドイツ中を駆け巡ってきたのである。
5  早春(5)
 一九六二年(昭和三十七年)の九月には、男子部員に続いて、一人の女子部員が西ドイツ(当時)にやって来た。耳鼻咽喉科の医師の高石松子である。
 彼女は千葉大学の医学部を卒業し、念願の医師となったが、友人との人間関係に行き詰まり、また、医師としての自信も失いかけていた。
 彼女の義姉は、医学の粋を尽くして治療しても治らなかった病を、信心で克服した体験をもっていた。その義姉に勧められ、五八年(同三十三年)に入会したのである。
 彼女は、無我夢中で信心に励んでいるうちに、思いがけず母校の千葉大学の助手になることができた。信仰の力を確信した。
 やがて、山本伸一が会長に就任すると、世界広布が叫ばれ始めた。
 高石も、西ドイツへの留学を決意した。いつか西ドイツの地で、自分が山本会長を迎えようというのが、彼女の念願であった。
 しかし、交換留学生の試験を受けると、不合格になってしまった。
 子供のころから、優秀と言われ、試験に落ちたことがない高石にとっては、大きな衝撃であった。
 彼女は、自分には、世界広布の使命はないのかもしれないと考えるようになっていった。更に、願いの叶わぬ信心に、疑いさえいだき始めた。
 学会活動はしていても、心は悶々としていた。彼女は、山本会長に指導を受けたいと思った。
 六一年(同三十六年)の暮れに、高石は学会の先輩である女性の医師とともに、聖教新聞社にいた伸一に会いに行った。
 伸一は、高石の家庭の状況などを聞いた後、こう尋ねた。
 「教学は?」
 「まだ、教学部員にはなっていません」
 彼女は教学部の任用試験に落ちていた。ろくに勉強もしなかったからである。留学生の試験に落ちたことは衝撃でも、任用試験に落ちたことは、全く気にもかけなかった。
 そこには、社会的な立場や肩書を優先し、信心の世界を軽く見てしまう、彼女の姿勢が表れていたといってよい。
 「最高学府を出ても、教学はできないんだね……」
 その言葉は、高石の胸に突き刺さった。それは、高石の信心の姿勢を正す、明快な指導でもあった。
 彼女は、自分は一生懸命に信心をしてきたように思っていたが、心のどこかで仏法をみくびっていたことに気づいた。
 そんな姿勢であれば、願いが叶わないのも、当然だと思えた。
6  早春(6)
 高石松子は、信心を第一歩からやり直すつもりで、翌年一月の任用試験に挑戦した。
 彼女の心は一変して、真摯な気持ちで教学を研鑽し、真剣に唱題に励んだ。そのなかで、仏法の偉大さを痛感していった。
 任用試験の結果は合格であった。それは、彼女にとっては、″信心の合格者″になったことでもあった。
 それから間もなく、高石は研修医として、ハイデルベルク大学医学部の耳鼻咽喉科への留学が決まったのである。
 彼女は、喜々として、西ドイツ(当時)の大地を踏んだ。
 炭鉱で働く佐田幸一郎や諸岡道也らの男子部員と、医師である女子部員の高石が核となって、青年の力で、西ドイツの広布は飛躍的に進んでいった。
 そして、この一九六三年(昭和三十八年)の一月には、会員の世帯は、山本伸一が佐田に支部の結成を約束した三十世帯をはるかに上回り、五十世帯を超えていたのである。
 一月十二日の午前中、秋月英介たちは、自分たちが宿泊していたホテルを会場にして、西ドイツの教学試験を行った。
 試験の合否は、パリで山本会長と合流して検討の会議を開き、そこで決定することになっていた。
 更に、午後からは、別のホテルの部屋を借り、三十人余りのメンバーが参加し、支部の結成大会が行われた。
 結成大会では、ヨーロッパ連絡責任者の川崎鋭治の開会の辞、体験発表の後、副理事長の秋月があいさつした。
 「山本先生は、かねてより、″ドイツのメンバーが三十世帯を超えたら支部をつくろう″と言われておりましたが、今やドイツは、五十世帯を上回るに至りました。
 これは、ひとえに、皆様方の労苦をいとわぬ、献身的な日夜の活動の賜物であります。大変にご苦労様でございました。
 先生は、現在、アメリカにいらっしゃいますが、日本を出発される前に、『いよいよ、ドイツに支部を結成する時が来た。君たちが行って支部をつくっていらっしゃい』とのお話がございました。
 その後、アメリカにおられる先生と連携を取りながら、準備を進めてまいりましたが、いよいよ本日、このドイツに、ヨーロッパで最初の支部を結成する運びとなりました。
 まことにおめでとうございます」
 参加者の笑顔が広がり、大きな拍手が起こった。
 佐田の目には、涙が光っていた。
7  早春(7)
 拍手がやむのを待って、秋月英介は話を続けた。
 「更に山本先生からは、次のような伝言がございました。
 『支部名はドイツ支部にしたいと思う。私の心には西ドイツも、東ドイツもありません。あの悲惨の象徴であるベルリンの壁をなくして、平和を建設していくことが皆さんの使命です。また、それを成し遂げていくためのドイツ支部です』
 したがいまして、支部名は、この壁にも張ってありますように、ドイツ支部にしたいと思いますが、この点は、いかがでしょうか」
 賛同の拍手が広がった。
 「ただ今の伝言に明らかなように、先生の、ドイツの皆さんへの期待はあまりにも大きい。
 山本先生は、一昨年の十月、ベルリンのブランデンブルク門の前に立たれた時、『三十年後には、きっとこのベルリンの壁は取り払われているだろう』と言われました。
 それは、単なる未来の予測ではなく、先生のご決意でもあると思います。
 そして、その先生と同じ心で、ドイツに幸福と平和の潮流を起こしていくのが皆さん方です。
 今後の皆さんのご活躍を心から期待し、私のあいさつといたします」
 集ったメンバーは、支部結成の深い意義を感じ取っていた。
 次いで、理事の谷田昇一が、ドイツ支部の人事を発表した。
 支部長は、ヨーロッパの連絡責任者の川崎鋭治であった。川崎はパリに在住していたが、今後は支部長として西ドイツ(当時)にも通うことになる。
 更に、佐田幸一郎が副支部長に就任。支部婦人部長には、商社マンの夫の仕事の関係で西ドイツに来ていた女性が就いた。
 そして、ヨーロッパ全体の男子部の責任者に諸岡道也が、女子部の責任者に高石松子が任命になった。
 また、ドイツ支部には、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハイデルベルク、ニュルンベルクの四地区が誕生したのである。
 続いて、各部の代表が、闘志にあふれた抱負を発表した。
 更に、理事の大矢良彦、谷田昇一から指導があり、最後に秋月英介が「四条金吾殿御返事」(御書1116㌻)を講義し、ドイツ支部結成大会は終了した。
 秋月たちは、翌十三日、イギリスのロンドンに向かい、ここでも、教学の任用試験を実施するとともに、座談会を開催した。
 この座談会の席上、ロンドンにも地区が結成され、連絡責任者であったシズコ・グラントが地区部長に就任した。
8  早春(8)
 山本伸一が、パリのオルリー空港に到着したのは、一月十五日の午後十時であった。
 アメリカからは、副理事長の十条潔とともに、アメリカ総支部長の正木永安が同行してきた。
 空港では、十四日にロンドンからパリに入った秋月英介らの派遣メンバーや、川崎鋭治をはじめ、フランスのメンバーが出迎えた。
 舞台をヨーロッパに移しての、海外指導の第二ラウンドの開始である。
 パリのホテルに着いた伸一は、早速、秋月から、スウェーデン、西ドイツ(当時)、イギリス、フランスの報告を受けた。
 秋月たちは、フランスに入ると、ここでも教学試験を行い、更に、パリ支部の結成の準備にあたり、組織の編成案を作成していた。
 伸一は、彼らとともに、ヨーロッパ各地で行われた教学試験の受験者の合否を協議し、パリ支部の人事を検討した。
 その時、伸一は言った。
 「明日はパリに支部を結成しますが、併せて、ヨーロッパを総支部にしようと思う。総支部長は、川崎さんにお願いします」
 「はい!」
 間髪を入れず、決意のこもった、元気な声が返ってきた。伸一は目を細めた。
 翌十六日の午後一時からは、ヨーロッパ各国の代表も参加して、パリ支部の結成大会が行われることになっていたのである。
 人事の検討は午前零時を回っても続けられた。
 そのころ、佐田幸一郎、諸岡道也ら四人のドイツの青年たちは、彼らの愛車の「若獅子号」で、デュッセルドルフを発って、パリをめざしていた。
 飛行機や列車の便もあったが、経済的なゆとりのない彼らは、車で行くしかなかったのである。
 当時はパリまで、通常なら車で十二時間ほどであった。ところが、この日は寒波のために道が凍結し、徐行運転をしなければならなかった。
 ケルンを経て、西ドイツ国境を越え、ベルギーに入ったころから、吹雪になってしまった。
 途中、事故を起こした何台もの車に出くわした。谷に転落した車も見た。
 彼らは、真剣に題目を唱えながら、必死になってハンドルを操った。しかし、雪で車が動かなくなり、皆で押さなくてはならないこともあった。
 佐田たちは、秋月らと打ち合わせ、十六日の朝には、伸一の宿泊しているホテルに到着し、伸一と会うことになっていた。
 だが、とても、約束の時間には、パリに入れそうにもなかった。彼らは、焦りを覚えた。
9  早春(9)
 人事の検討が終わった深夜、山本伸一は秋月英介から、ドイツ支部のメンバーの代表が、車でパリに向かっていることを聞いた。
 伸一は言った。
 「そうか、車でやって来るのか。寒波だけに、相当遅れるだろうな。無理をして、事故など起こさなければよいが……。
 明日、そのメンバーが到着したら、すぐに会おう」
 彼は、皆が解散すると、ドイツのメンバーの無事故を祈って唱題した。明け方近くにベッドに入りはしたものの、彼らのことが気になって、ほとんど眠れなかった。
 伸一は、午前六時過ぎにはベッドを出て、勤行・唱題をし、ドイツのメンバーの到着を待っていた。
 八時ごろ、正木永安が伸一の部屋に入って来た。
 正木の顔を見ると、伸一は言った。
 「どうだい、腹は決まったかい」
 伸一は、アメリカ滞在中から、ロサンゼルスに会館も誕生したことから、正木に、本部職員として、現地の会館に勤務するように話をしていたのである。
 「はい、職員にさせていただきます」
 正木は、明るい元気そうな顔をしながら、明快に答えた。
 そして、更に、言葉をついだ。
 「私の願望は、アメリカの広宣流布にあります。私にできることなら、なんでもさせていただきます」
 伸一は嬉しかった。それが、学会の職員の生き方である。
 また、正木は、青年らしい晴れ晴れとした態度で、決意を披瀝した。
 「私は先生の弟子です。必ず、実証を示してまいります」
 伸一は、大きく頷いた。
 「では、これで決まった。学会本部の人事担当者に、すぐ伝えるようにしよう」
 ともかく、伸一は、アメリカの広宣流布のためには、多少の費用がかかっても、誰かを職員とし、陰で組織を支える人をつくる必要があると思っていた。
 職員が決まったことは、アメリカ広布の一歩前進である。
 伸一は、正木の顔を見つめて言った。
 「学会の職員として戦うことは、君にとって、最高の人生の道だろうと、私は思う。
 しかし、職員の精神は、二十四時間、会員への奉仕だ。自分の自由な時間もなければ、プライバシーさえなくなると思わなければ、職員の使命を全うすることなどできないよ。
 職員というのは、自ら願って、人生を広布に捧げる人だ」
10  早春(10)
 正木永安は、緊張した顔で、山本伸一の話を聞いていた。
 「君がアメリカ総支部長として、更に、職員として、全力でアメリカ広布に生き抜いていくならば、世界広布の大功労者として、君の名前は永遠に輝いていくだろう。
 しかし、広宣流布という目的を見失い、″自分″が中心になれば、名聞名利に流され、尊い仏子である会員を、自分のために利用するようになってしまう。そうなれば、獅子身中の虫であり、内部から、学会を破壊することになる。
 それほど、最高幹部の存在、職員の存在は、大きな影響力をもつものだ。
 人間は、最初は決意に燃えているが、二十年、三十年とたつうちに、どうしても惰性化していきやすい。
 しかも、自分が苦労して組織をつくってきたという自負があればあるほど、慢心に陥り、ついつい組織を自分の所有物であるかのように、錯覚してしまいがちである。
 すると、自分でも気づかぬうちに、後輩を押さえつけ、人材の芽を摘んでしまい、やがては、みんなから嫌われるようになる。
 また、人の忠告も聞かなくなり、誰かが、真心から指摘してくれても、逆恨みし、結局は、学会に弓を引き、反逆していくことにもなりかねない。
 実は、そこに、リーダーの陥りやすい魔性の落とし穴があると、私は思っている。その自分の心と、生涯、戦い続けることが、信心であるともいえる。
 だから、アメリカの中心者となり、職員となったからには、最後の最後まで清らかな信心で、初心を忘れず、会員のために、広宣流布のために、奉仕し抜いていくことだよ。
 君は、世界広布のパイオニアだ。これから各国のメンバーも、正木君を一つの手本とし、君がどういう生き方をするか、見ているだろう。責任は大きいよ」
 正木は伸一の言葉に、一言一言、頷いていた。
 「それでは、正木君は、今日のヨーロッパ総支部の結成大会に出たら、すぐにアメリカに帰りなさい。
 そして、アメリカ指導を続けている清原さんたちに合流し、一緒に、新しい前進の渦を全米に巻き起こしていくんだ。
 それから、私は来月、ケネディ大統領に会いにワシントンに行くから、君は、二月いっぱいはワシントンにいて、三月にロサンゼルスに移るようにしてはどうだろうか」
 これで、ようやくアメリカの布陣が整ったと、伸一は思った。
11  早春(11)
 一月十六日は、パリも朝方は雪がちらついていた。
 ドイツ支部のメンバーが到着したのは、雪もやんだ昼近くのことであった。
 彼らの到着を待ち続けていた山本伸一は、すぐにロビーに降りていった。
 頬を紅潮させた、四人の青年たちの元気な笑顔を見て、伸一はやっと、ほっとすることができた。
 「よく来たね。遠いところ、ご苦労様!」
 彼は、皆を抱きかかえる思いで、一人ひとりと握手を交わした。
 「ところで、どうやって来たんだい」
 「はい。車でベルギーを通って来ました。道が凍っていたうえに、途中で吹雪にあい、遅くなってしまいました」
 「そういう時は、絶対に無理をしないことだ。安全第一だよ。車は大丈夫だったのかい」
 「はい」
 「ところで、どんな車に乗っているの?」
 伸一が尋ねると、佐田幸一郎が胸を張って答えた。
 「中古ですが、フォルクスワーゲンです」
 「では、その車を見せてもらおう」
 佐田は、山本会長が車を見てくれることが、嬉しくて仕方なかった。
 学会活動のために生活費を切り詰めに切り詰め、手に入れた最高の″宝″ともいうべき車である。
 伸一は、メンバーと一緒に、車を見に行った。
 「先生、これです!」
 「いい車じゃないか」
 「はい! この車を『若獅子号』と名づけました」
 佐田は、ニコニコしながら言った。
 「そうか、すばらしい名前をつけたね。
 しかし、吹雪をついて、車でここまで来るとは、すごい壮挙だな。明日は、パリでゆっくりしていきなさい。みんなで一緒に、市内見学をしようよ」
 ヨーロッパ総支部・パリ支部の結成大会は、午後一時から、伸一の宿泊していたクリヨン・ホテルの一室で行われた。
 西ドイツ(当時)からは佐田たちのほかに、女子部の高石松子も参加した。
 また、オーストリアからもメンバーが駆けつけ、スウェーデンからは大原清子が、ノルウェーからは橋本浩治と、その妻の恵子が参加していた。
 橋本は、伸一が二年前にセイロン(現在のスリランカ)を訪問し、激励した青年であった。
 当時、橋本は、セイロンの日本大使館の調理師をしていたが、前年の九月に、大使がノルウェーのオスロに赴任することになり、彼も同行したのである。
12  早春(12)
 ヨーロッパ総支部・パリ支部の結成大会の会場となったクリヨン・ホテルは、十八世紀の著名な建築家ガブリエルが設計した、パリを代表する格式あるホテルであった。
 ホテルの前は、やはりガブリエルの設計による、世界一美しい広場といわれるコンコルド広場である。
 広場には、雲間から差し始めた陽光を浴びて、噴水が金色にきらめき躍っていた。
 現在、この広場は、フランス全体の和合を願って、「コンコルド(和合)広場」といわれているが、最初は「ルイ十五世広場」と呼ばれていた。
 そして、フランスの大革命時代には「革命広場」と改称され、ルイ十六世やマリー・アントワネットなど、多くの人びとが、ここでギロチン(断頭台)の露と消えたのである。
 更に、この広場は、第二次世界大戦で連合軍がノルマンディー上陸作戦を敢行し、ナチス・ドイツを破ってパリが解放された時、ド・ゴールが凱旋門から意気揚々と行進した場所としても知られている。
 山本伸一は、栄光と悲惨の歴史を刻むコンコルド広場に建つ、このクリヨン・ホテルこそ、ヨーロッパの永遠の平和を築く、広布の新出発に、最もふさわしい場所であると考えていた。
 また、今回、ここに集うメンバーの多くは、経済的には、決して豊かとはいえないが、それぞれの国を思い、人びとの幸福と平和を願って、日々、広布に献身している人たちである。
 その存在は、国家の首脳にも匹敵する重さをもっていると伸一は確信していた。ゆえに彼は、メンバーに敬意を表して、あえて、このホテルを会場に選んだのである。
 更に、皆が、社会でも力をつけ、どんな一流ホテルであろうが、自由自在に使えるような、堂々たる境涯になってほしいとの願いも込められていた。
 大会には、三十五人のメンバーが集った。
 開会を待つメンバーは、クリヨン・ホテルの荘重さに気おくれしてか、幾分、硬くなっていた。
 やがて、伸一が会場に姿を現した。彼は、部屋に入った瞬間に、皆が緊張していることを察知すると、少しおどけながら言った。
 「ボンジュール!(こんにちは)
 フランスに来たら、やはりフランス語であいさつをしないと失礼ですから。
 そうだ、今日はドイツの人もいたんだね。グーテンターク!(こんにちは)
 儲かりまっか!
 これは″関西語″です。今日は大阪の人も来ているんです」
13  早春(13)
 山本伸一の言葉で、参加者の緊張は、次第に解けていった。
 彼は、席に着くと、笑みを浮かべて語り始めた。
 「今回は、たくさんお土産を用意したんです。ところが、ここにいる副理事長の十条さんは、自分が持って来るのが重たいものだから、アメリカで全部、配っちゃったんですよ。
 私が『ヨーロッパの分はどうするんだ』って聞きましたら、『向こうで買えばいいですよ』って言うんです。でも、フランスの人がフランスのお土産をもらっても、あまり嬉しくないでしょ。
 きっと、こういうこともあると思い、私が皆さんへのお土産として、メダルや袱紗などを残しておきましたので、後ほど、差し上げたいと思います。
 周りの幹部がこういう調子だから、私も苦労が絶えないんですよ」
 笑いが広がった。
 これで完全に、会場の空気は和らいだ。
 伸一は言葉をついだ。
 「今日は、モンマルトルのカフェテラスで、お茶を飲みながら、懇談するような気持ちで、皆さんと語り合いたいと思います。
 私が初めてヨーロッパを訪問したのは、一九六一年の十月でした。当時、ヨーロッパ全土で、メンバーは十世帯ぐらいしかいなかった。同行した幹部が、心配して、本当にヨーロッパにもメンバーが増えていくのかと、私に聞いたことが忘れられません。
 しかし、以来、一年三カ月、ヨーロッパの広宣流布は、各国とも着実に進み、既に発展の基盤は整ったといえます。これは、皆様方の功労であり、奮闘の賜物であります。
 そこで、今回、ヨーロッパに総支部を結成することにしました。賛成の方?」
 全員が手をあげた。
 「ヨーロッパの総支部長は、これまでヨーロッパの連絡責任者であった、川崎鋭治さんにお願いしたいと思います」
 伸一は、ここで、既に西ドイツ(当時)で発表された、男女青年部のヨーロッパの責任者をはじめ、ドイツ支部の幹部も改めて紹介した。
 次いで、今回、フランスにパリ支部を結成することを伝え、その人事を発表していった。支部長は川崎鋭治の妻の良枝であり、パリ支部には、モンマルトル、シャンゼリゼ、ノルマンディーの三地区が誕生することになった。
 更に、ノルウェーにも地区を新設し、地区部長に橋本浩治が、地区担当員に橋本の妻の恵子が就任することを告げた。
14  早春(14)
 会長山本伸一が、ヨーロッパ総支部並びにパリ支部などの組織編成と人事を発表した後、副理事長の秋月英介から、教学試験の結果が伝えられた。
 続いて、川崎鋭治の司会で、山本会長を囲んでの質問会が行われた。
 ここでも「二処三会」などの教学の問題や、活動の進め方に関する質問が相次いだ。
 伸一は質問会の最後に、こう締めくくった。
 「本日は、日本から副理事長や理事が来ておりますので、この後は何グループかに分かれて、懇談の時間をもつことにいたします。
 もっと聞きたいことや、相談がありましたら、遠慮なく、そこで、言ってくださればと思います。
 私は、今回、アメリカを回ってまいりましたが、わずか二年余りの間に、組織も大発展を遂げ、皆が功徳に包まれている姿を見て、アメリカに春が来たことを実感いたしました。
 そして、今、はつらつとした皆さんの姿を拝見し、いよいよヨーロッパにも春が来たのだとの思いを、深くいたしております。
 朝方は雪が降っていましたが、今は太陽が輝き、早春を感じさせます。
 太陽あるところ、希望の光が差し、幸福の花々が咲き乱れる。その春を告げる太陽はどこにあるのか。それは皆さんの胸中にある。いな、皆さん自身が、家庭に、地域に、職場に、社会に、幸福と平和の春をもたらす太陽なのです。
 そして、その太陽がある限り、やがては、必ず東西の冷戦の雪をもとかしゆくことを、私は確信しております。
 最後に、太陽の皆さんに栄光あれと申し上げ、私のあいさつといたします」
 この後、何グループかに分かれ、同行の幹部が担当して、懇談会がもたれた。
 皆が席を立って動き始めた時、ガタンという大きな音が響いた。一人のメンバーがイスにつまずいて転んでしまったのだ。その拍子にイスが壊れてしまった。
 このホテルの調度品は、皆、格調の高い一流品である。転んだメンバーの顔色が蒼白になった。大変なことになったと思ったのであろう。
 伸一は、急いで飛んで行った。
 「怪我はありませんか」
 「はい」
 「それはよかった」
 「でも、イスが……」
 「いいんだよ、イスなんか。大事なのは、あなたです。イスはお金を払えば買えるんだから、心配しなくていいんだよ」
 伸一が微笑むと、そのメンバーの顔に光が差した。
15  早春(15)
 結成大会の後、山本伸一は、同行の幹部とともに、川崎鋭治のアパートを訪問した。
 川崎の住まいは、パリ五区のロモン通りにある、古いつくりの八、九階建てのビルの一階であった。
 部屋は狭く、医学博士のアパートにしては、余りにも慎ましやかに思えた。
 伸一が、トイレを借りると、バスタブのなかにベッドが立て掛けてあった。今日の結成大会の準備で、多くのメンバーが出入りするために、片付けたのであろう。
 伸一は川崎に言った。
 「驚いたね。ベッドが風呂に入っていたよ」
 川崎は照れくさそうに頭を掻いた。
 「見られてしまいましたか。部屋が狭いもので、雑然としておりまして……」
 「いや、質素で美しい。民衆のリーダーは、それでいいんだ。
 いつの日か、あなたはヨーロッパ広布の大指導者として、歴史に名を残すことになるでしょう。その時に、ドクターでもある大リーダーが、狭いアパートに住んでいたということが、きっと語り継がれることになるよ。
 人間は、寝る時も、死ぬ時も、畳一畳分のスペースですんでしまう。境涯が広く、大きければ、住むのは狭い家で十分だ。広ければ掃除が大変だよ」
 二人は、声をあげて笑い合った。
 やがて、夕食になった。
 この日は、ノルウェーの日本大使館で調理師をしている橋本浩治が、腕によりをかけて、料理を作ってくれた。橋本は、ヨーロッパ総支部の結成の記念として、ぜひ、自分に料理を作らせてほしいと、申し出たのである。
 伸一は、その真心がありがたかった。
 食卓には大きなお頭つきの鯛が置かれ、その周りには小さな鯛やエビなどがあしらってあった。大きな鯛には串が立てられ、串に付けられた紙には「欧州広布」と書かれていた。
 大きな鯛を船体に、串と紙を帆に見立てた、新出発の祝いの膳である。
 「見事なものだね……。
 さあ、みんなで御馳走になろう」
 伸一が箸をつけた。
 「おいしいね。二度、正月を迎えたような気分になる。たいしたものだ。
 これじゃあ、大使がどこに赴任しても、あなたを放さないわけだよ。
 これほどの腕前になるには、相当厳しい修業をしたんだろうね。食べてみれば、わかります。
 橋本さんは、どこの料理屋で修業したんですか」
 橋本は嬉しそうに、顔をほころばせた。
16  早春(16)
 橋本浩治は語り始めた。
 「私は中学を卒業してから、銀座にある『長治郎』という店に入って、板前の仕事を覚えました。
 店のオヤジは渡瀬四次郎といいますが、最初に『お前を一人前の料理人にしてやるから十年は辛抱しろ』と言われたんです。
 そりゃあ、厳しく仕込まれました。失敗なんてしようものなら、高下駄で殴られました。しかも、若いうちに金をもたせると遊んでしまうからと言って、給料も、小遣い程度しか渡してくれないんです。
 店に入っても、ほとんどの者が、半年ともたずに辞めていきました。私も、何回か夜逃げを考えました。
 でも、なんとか、そこで頑張り通したおかげで、五年で調理師の免許も取れましたし、フグ料理の資格も若くして取ることができました。
 勤めて十年たって、二十五歳で独立し、浅草に店をもちました。その資金になったのも、オヤジが毎月ためておいてくれた十年間の給料なんです。
 その時、オヤジのありがたさが胸に染みました。
 厳しいけれど、優しい、いいオヤジでした。信心を勧められたのも、このオヤジからなんです」
 「確かに、若い時の苦労が大事だね。それは生涯の財産になる。
 戸田先生も、『若い時代に苦労せよ、苦労せよ』と、いつも言われていた。そして、私を厳しく鍛え、育ててくれた。
 戸田先生の事業が危機に瀕した時には、何カ月も給料は遅配になった。真冬もオーバーなしで過ごしたものです。
 夜中の二時、三時に、すぐ来いと言って呼び出されることもあった。
 偉大な師こそ、あえて弟子を厳しく訓練し、苦労を背負わせるものです。それは、弟子のためにそうしているんです。
 私には、それがよくわかった。だから、戸田先生に仕える誇りを感じていた。私は、そのころ、日記にこう綴ったことがある。
 『未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、此の師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする』
 人間は苦闘のなかで、真の人間になるというのが、私の結論です。苦闘のなかでこそ、鉄の意志が育ち、真実の涙を知り、人間革命がなされるからです。
 しかし、私は人には厳しくできない性格なんです。ついついかわいそうになって、甘やかしてしまう。
 また、時代も変わってきているのかもしれない。厳しくすると、今は、誰もついて来なくなってしまう」
17  早春(17)
 料理を囲んでの語らいは弾んだ。
 橋本浩治が言った。
 「私の場合、オヤジに厳しく叱られている時には、そのありがたさは全くわかりませんでした。今になって感謝していますが……」
 山本伸一は頷いた。
 「そうだろうね。そういうものです。その時は、ただ苦しいと感じるだけだ。
 でも、きっとオヤジさんは、あなたのことを考え、心で泣きながら叱っていたんだろうね。
 私も、幹部に厳しく言う時もあるが、決して、憎くて言っているのではない。期待が大きいからこそ厳しく言うんです。
 しかし、それがわからず去っていく者もある。本当に残念です。
 人間は言われなければ、生命の悪い傾向性に流されたり、いつの間にか惰性化してしまうものです。
 そして、そのまま放置しておけば、優れた力をもっていても、それを生かし切ることもできず、結局、破綻していくことになる。
 だから、大成させるためには、気がついた時に指摘し、生命の悪の根っこを断ち切っておかなければならない。それも、若い時でないと、いくら言っても改めることができなくなってしまう。
 私は、人を叱った後も、その人のことを思い続けている。″彼は、私の心を本当にわかってくれたかな″″これからも食らいついてこられるかな″″めげずに頑張れるかな″と、祈るような気持ちです。
 何ごとによらず、そういう師がいるということは、本来、人生にとって一番ありがたいことなんです。
 それに、たまには叱られることもなければ、心も引き締まらないでしょう。お汁粉を作る時に、砂糖だけでなく、少し塩を入れるようなものです。
 私も、今になって、もっともっと、戸田先生に叱っていただきたかったと思っています」
 一緒に食卓を囲んでいたメンバーにとっては、伸一の指導もまた、信心の栄養であり、御馳走であった。
 翌日、伸一は、同行の幹部とドイツの青年たちとともに、パリを見学した。彼は青年たちに、楽しい思い出をつくらせたかった。
 一行は、ルーヴル美術館に足を運んだ。昼は炭鉱で真っ黒になって働き、夜は寸暇を惜しんで、学会活動をしてきた、ドイツの青年たちに、最高の芸術に触れる機会を与えたかったのである。
 更に、凱旋門やブーローニュの森、モンマルトルの丘などを巡った。
 川崎鋭治の説明を聞き、珍しそうに景観を眺め、無邪気に喜ぶドイツのメンバーが、修学旅行の中学生のようで微笑ましかった。
18  早春(18)
 モンマルトルの丘でパリの街を眺めながら、山本伸一は川崎鋭治に尋ねた。
 「EEC(ヨーロッパ経済共同体)は、これからどうなるかな」
 この一九六三年は、イギリスがEECに加盟することになるかどうかが、世界の注目を集めていた。それが、今後のヨーロッパの統合の流れを左右すると考えられていたからである。
 このEECは、一九五八年に、フランス、西ドイツ(当時)、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクという、ヨーロッパ大陸の六カ国で発足し、経済統合をめざしてきた。
 しかし、英連邦という経済市場をもつイギリスは、これに対抗し、一九六〇年、EECに加盟しなかった北欧諸国など七カ国でEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)を発足させた。
 だが、EECが大発展を遂げたのに対して、EFTAの経済の伸びは振るわなかった。
 しかも、EECには、経済統合から政治統合への機運が高まり、イギリスはヨーロッパで孤立化しかねなかったのである。
 そこで、イギリスは、一九六一年八月、EECに加盟を申請した。以来、EECとの間で、加盟交渉が続けられてきた。
 そして、伸一がパリに入る前日の一月十四日、EEC本部のあるベルギーのブリュッセルで、最終交渉の会議が始まった。
 これまでの加盟交渉では、英連邦という経済市場をもち、その利益を守りたいイギリスの思惑などが、難しい障壁になっていた。
 しかし、今回の会議では、それらの問題を乗り越え、イギリスはEECに加盟することになるだろうというのが、大方の予想であった。
 ところが、その同じ日、フランスのド・ゴール大統領は、パリのエリゼ宮で記者会見し、イギリスのEEC加盟を拒否する姿勢を明らかにしたのである。
 更にド・ゴールは、アメリカからフランスへの核ミサイルの供与についても、拒否することを表明した。
 当時、フランスは独自に核開発を進めており、アメリカ主導の西側防衛戦略には追随しないという意思表示でもあった。
 伸一の問いに、川崎は答えた。
 「こうなると、今回は、イギリスのEECへの加盟は難しいかもしれません。
 ド・ゴールには、イギリスに対しても、アメリカに対しても、フランスの力を示したいという意地があります。やはり、力の誇示が、政治というものなんでしょうかね」
19  早春(19)
 EEC(ヨーロッパ経済共同体)へのイギリスの加盟に、拒否の姿勢を明らかにしたフランスのド・ゴール大統領に対して、他のEEC加盟国からも、非難の声が上がった。
 その一方で、関係各国は、ド・ゴールの翻意を促そうと説得に努めた。
 しかし、ド・ゴールは、まだイギリス加盟の機は熟していないとの拒絶の意思を変えず、約二週間後の一月二十九日、結局、イギリスのEEC加盟交渉は決裂することになるのである。
 ところで、この″ヨーロッパ統合″という理念は、長い歴史をもっている。
 その萌芽は、さかのぼれば、早くも十四世紀ごろに現れ、具体的な計画としては、十八世紀前半、フランスの思想家サン・ピエールが発表した構想などが、先駆的業績とされている。
 彼は、ヨーロッパの恒久平和のために、諸国間の同盟やヨーロッパ議院の設置を訴えたのである。
 これ以後も、ドイツの哲人カントをはじめ、多くの賢人たちが、ヨーロッパの統合への夢を追った。
 十九世紀のフランスの文豪ヴィクトル・ユゴーは、その代表格であった。
 ″いつの日か、ヨーロッパ諸国が、それぞれの特質や栄光ある個性を失うことなく、より高い結合の中にしっかりと溶け込み、ヨーロッパの友愛をつくる時が来るだろう″
 彼は、繰り返し″ヨーロッパ合衆国″の理想を謳い上げた。
 しかし、その美しい理念を無視するかのように、ヨーロッパの諸国家は、強大な軍事力を背景として、領土と経済市場を奪い合い、分断と対立の様相を深めていった。
 そして、二十世紀前半に至り、ヨーロッパは二度の世界大戦という辛酸をなめることになるのである。
 第一次大戦後、荒廃したヨーロッパの大地に立ち、人びとは″西欧の没落″の深い危機感を抱いた。
 そのなかで、『パン・ヨーロッパ』という著作を発表し、ヨーロッパ統合を熱烈に訴えたのが、オーストリアの思想家リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーであった。一九二三年、満二十八歳の時である。
 それは、パン・ヨーロッパ運動として、多くの賛同を得て、世界的なうねりとなっていった。
 だが、にわかに台頭したファシズムとナチズムが、全ヨーロッパを再び戦火に包むに至り、凶暴な武力の前に、またも統合の理想は葬り去られてしまった。
 ヨーロッパ統合の夢が、ようやく具体的な形となり始めたのは、一九四五年、第二次世界大戦が終わりを告げてからである。
20  早春(20)
 世界は激しく回転していった。
 戦後は、米ソの冷戦が表面化し、ヨーロッパも東西に分断されていくが、そのなかにあって、二度の大戦の反省に基づき、心ある人びとは、平和のための方途を真剣に模索していった。
 そうした一人が、フランスの政治家で経済政策家のジャン・モネである。
 彼は「国民を結合させ、彼らを分離させている諸問題を解決し、共同の利益を見い出すよう導くこと」を原則として、ヨーロッパの結合を追求した。
 その第一歩として、モネは、ヨーロッパなかんずくフランスとドイツが、二度と戦争ができなくなる機構をつくろうと考え、まず経済の領域から統合を図ろうとした。
 その彼の提案を受けて、一九五〇年に、フランスのシューマン外相が提唱したのが、長年、独仏間の紛争の火種となっていた石炭・鉄鋼を共同管理するという構想であった。
 これは五二年、フランス、西ドイツ(当時)、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの六カ国が加盟して、ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)として発足するのである。
 東西ヨーロッパを合わせれば、三十数カ国に及ぶヨーロッパ全体から見ると、小さな出発ではあったが、これが、その後の統合の中核となっていった。
 次いで五七年、この六カ国は、EEC(ヨーロッパ経済共同体)設立条約とEURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)設立条約に調印し、翌年、それぞれ発足をみたのである。
 後に、これら三つのヨーロッパの共同体は、徐々に統合され、EC(ヨーロッパ共同体)と総称されるようになる。
 しかし、この一九六三年当時は、ヨーロッパの統合は、まだ、はるかな道程といってよかった。
 川崎鋭治は、つぶやくように言った。
 「ド・ゴールが、イギリスのEECへの加盟を拒否したことから、ヨーロッパの統合がいかに難しいか、改めて痛感しました。
 また、東西冷戦の溝が深まっているだけでなく、自由主義陣営では、核をめぐって、フランスとアメリカの対立も深刻化してきています。一方、社会主義陣営でも、ソ連と中国の関係に軋みが生じています。こうした現象を見ますと、世界もヨーロッパも、分断の方向に進んでいるのではないでしょうか」
 それを聞くと、山本伸一は強い語調で語り始めた。
 「私はむしろ、長い目で見るなら、ヨーロッパの統合は″歴史の必然″であると思っている」
21  早春(21)
 同行の幹部も、山本伸一の話に耳を澄ましていた。
 「このヨーロッパのなかで、多くの国と民族が争うことなく、互いに繁栄していくためには、統合に向かって、歴史の歯車を動かす以外に道はない。
 しかも、この統合の流れは、新しい可能性を秘めていると私は思う。
 それは、戦後の経済同盟から出発し、次第に政治的にも統合の度合いを強めるという、極めて漸進的な国家関係の改善といえる。
 更に、そのめざしている方向は、国家と国家が単純に合併し、巨大な統一国家をつくることではない。また、一つの国家に、多様な民族や文化が吸収され、画一化していくということでもない。
 それぞれの国が独自性と自立性をもちながら、平等な立場で連合しようとしている。それは、従来の国境の性質の変化であり、同時に、国家の性質そのものの変化であると見ることができる」
 彼の展望は続いた。
 「これまで国際政治といえば、戦争を″最後の手段″とした、国家間の力の政治が常識だった。だが、戦後のヨーロッパ統合の動きには、過去の国家の枠組みを変え、国境を超越していく萌芽が感じられる。
 そして、何よりも大事なことは、この統合への流れが、あの悲惨な戦争を二度と起こしたくないという決意に始まっているということだ。平和を願う民衆の声がある限り、ヨーロッパの統合への流れも、川幅を広げ、水流を増していくに違いない」
 彼は、一段と語気を強めて語った。
 「更に、このヨーロッパの統合化への試みは、将来の人類の統合化、一体化への実験場ではないかと思っている。
 クーデンホーフ・カレルギー伯は、『すべての偉大なる歴史的事実はユートピアに始まり実現に終わった』と言っている。
 これは、彼がパン・ヨーロッパ運動に踏み出した時の言葉だ。偉大な理想への挑戦が、偉大な歴史をつくる。それは、私たちの考えと響き合うものだ。
 東西冷戦の下で、核兵器は今や、人類を滅亡させるほど増えてしまった。
 人類は将来も存続していけるのか、核戦争で滅亡の坂を転げ落ちていくのか――この問いを前にした時、もはや人類は、戦争と分裂に明け暮れていることはできないはずだ。
 その意味では、世界連邦にせよ、あるいは世界国家にせよ、いずれ、歴史は、世界平和へ、人類の一体化へと向かっていくに違いない。いな、そうさせなければならない」
22  早春(22)
 山本伸一の話を聞くと、大矢良彦が言った。
 「私は今回、ヨーロッパに連れて来ていただき、メンバーと懇談するなかで、創価学会が国家を超えて、人間と人間を結ぶ宗教であることを実感しました。
 たとえば、昨日の結成大会の後、フランスのメンバーが、自分の知人のイギリス人に、ぜひ仏法を教え、彼を幸せにしたいと語っていました。
 また、デュッセルドルフでは、東ドイツ(当時)にいる友人に布教することはできないものかと、言っているメンバーもおりました。
 みんな、まだ教学の力は十分でないにせよ、信心をしていくなかで、どの国の人も、どの民族の人も、自分と同じ人間であり、ともに幸福になろうという、強い思いをもつようになっています」
 「そうなんだよ。戸田先生が『地球民族主義』と言われた通り、創価学会は、やがて、国家や民族、人種の違いも超えた、世界市民、地球市民の模範の集まりになっていくだろう。
 仏法の哲理が、それを教えているからだ。
 また、学会員は、本来、本当の意味での国際人であると思う。
 国際人として最も大事なポイントは、利己主義に陥ることなく、人びとを幸福にする哲学をもち、実践し、人間として尊敬されているかどうかである。
 仏法を持ち、日々、世界の平和と友の幸福を祈り、行動し、自らの人間革命に挑む学会員は、まさに、その条件を満たしている。語学ができる、できないということより、まず、これが根本条件だ。
 ともかく、友を幸福にしようというメンバーの心が友情を織り成し、世界に広がっていくならば、それは人類を結ぶ、草の根の力となることは間違いない」
 モンマルトルの丘から見るパリの街は、夕日を浴びて金色に染まっていた。
 伸一は、ゆっくりと歩きながら語った。
 「私は、あのヴィクトル・ユゴーが、ヨーロッパの民衆の、幸福のため、平和のために、統合を叫び続けたことを思い出す。
 彼は、統合された″ヨーロッパ合衆国″の未来について、境界も、関税も、戦乱も、軍備もなく、貧困と無知と不幸もなくなるだろう、と書いている。
 ヨーロッパの統合は、まだまだ遠い先のことになるだろうが、今回のヨーロッパ総支部の誕生は、統合の先駆けだ。この意義は大きいよ」
 風は冷たかったが、伸一の心には、未来への決意が燃えていた。
23  早春(23)
 一月十八日は、会長山本伸一の一行が、パリを発つ日であった。
 ヨーロッパ総支部長の川崎鋭治は、スイスのジュネーブ、イタリアのローマ、レバノンのベイルートまで、会長一行に同行することになっていた。
 午前九時前に、一行が空港に着くと、十数人のメンバーが見送りに来ていた。
 空港のロビーで、伸一を囲み、懇談が始まった。
 皆、それぞれに決意を語り始めた。
 スウェーデンの大原清子が言った。
 「先生、スウェーデンには、まだ、ほとんどメンバーはおりませんが、これから増やしていきますから、必ず来てください」
 「わかりました。きっと行くよ。それより、向こうは寒いから、体に気をつけてね」
 「先生、ぜひノルウェーにもおいでください。それまでに、しっかり弘教し、盤石な地区をつくっておきます」
 こう語ったのは、橋本浩治であった。
 「あなたには、料理のお礼もあるから、行かなくちゃいけないな。おいしかったよ。橋本さんも、これからは広宣流布のためにうんと苦労して、生命の永遠の財産をつくろうよ」
 すると、ドイツの佐田幸一郎が元気な声で言った。
 「ドイツ支部は、ヨーロッパの先駆を切って広宣流布していきますので、見ていてください」
 「ドイツは元気だね。みんなで仲良くやっていくんだよ。団結は力だからね」
 「はい!」
 大きな声で佐田が返事をした。
 「こんなところで、そんなに大きな声を出さなくてもいいから……」
 「はい!」
 更に大きな声で、佐田が答えた。笑いが広がった。和やかな語らいであった。
 「みんなの決意は大事だけれど、布教といっても、そんなに、まなじりを決して、戦争に行くような感じでやる必要はないんです。
 ヨーロッパは個人主義だが、個人主義というのは、内心は寂しいものです。だから、みんなが団結して、和気あいあいと、明るく、はつらつと集い合い、楽しく活動している姿を見れば、向こうの方から寄ってきます。
 そして、自然のうちに、皆が信心をしたいと言い出すようになります」
 伸一が、こう語りながら周囲を見ると、メンバーを遠巻きにするように、何人もの人たちが、こちらに視線を注ぎ、興味深そうに聞き耳を立てていた。
 「ほら、この姿自体がそうだよ」
 また、笑いの花が咲いた。
24  早春(24)
 午前十時十五分に、パリのオルリー空港を出発した一行の搭乗機は、一時間ほどでスイスのジュネーブに到着した。
 空港には、スイスの連絡責任者の本杉光子が迎えに来てくれた。
 ジュネーブは一面の銀世界であった。
 レマン湖のほとりにあるホテルに着き、昼食をとると、山本伸一は、皆で市内を見学しようと提案した。
 彼が、こう言い出したのは、雪のジュネーブを歩いて、現地の人びとの冬の生活を実感しておきたかったからである。
 雪がしんしんと降る戸外に出た伸一は、先頭に立って歩き始めると、同行のメンバーに言った。
 「寒い寒いと言って、ぬくぬくとした部屋のなかにいたのでは、何もできずに終わってしまう。
 こういう時は、″雪なんかに負けるものか!″と自分に言い聞かせて、外へ出ていけば、寒さも、それほど辛くは感じないものだ。
 そして、何よりも、行動すれば、縮こまった心の世界が大きく広がっていく。
 信心も同じことだよ。批判され、叩かれるからいやだと思って、閉じこもっていたのでは、何も事態は開けない。
 しかし、勇気をもって、戦うぞと決意してぶつかっていけば、敵をも味方にすることができる……」
 伸一は、白い息を吐きながら足早に歩いていった。皆、その後についていくのが精いっぱいだった。歩くうちに皆の体も熱くなり、汗がにじんだ。
 この日の夜は、一行が宿泊するホテルで、教学試験と座談会が行われた。
 スイスでは、弘教は実を結ぶには至っていなかったが、仏法対話は着実に進んでいるとのことであった。
 座談会には、本杉の双子の娘たちも、元気な姿を見せていた。
 また、前回、伸一がスイスを訪問した折に、結婚の相談をした高山サチは、その後、結婚し、サチ・ブルーノとなり、夫とともに出席していた。
 語らいが始まると、彼女は言った。
 「山本先生、今回、私は教学の試験を受けませんでした。本当に申し訳ありません。
 川崎さんが、パリから勉強を教えに、何度か通ってくれたんですが、さっぱりわからないもので……。
 でも、いつかは、きっと教学部員になりますから」
 「それでいいよ。生涯、勉強だからね。大事なのはあきらめないことです。少しずつでも勉強していけばいいんです。
 それより、幸せそうなあなたの顔を見て、私は安心しました」
25  早春(25)
 山本伸一は、更に言葉をついだ。
 「私は、スイスへは、本杉さんと高山さんの顔を見に来たんだよ。いや、高山さんは、ブルーノさんになったんだね。
 ともかく、お二人と、そのご家族がお元気であればいいんです。だから、今日は、難しい話はしません。むしろ、皆さんの近況を聞かせてください」
 すると、サチ・ブルーノは、自分たちの結婚に至る経過について、喜々として語り始めた。
 「あの時、先生に指導をお受けしてから、真剣にお題目をあげました。
 そして、日本に残してきた息子にも、私の気持ちを率直に手紙に書いて伝えましたところ、結婚に賛成してくれました。
 やがては、息子もスイスに呼び、私たちと一緒に暮らそうと思っています。
 それにしても、山本先生が、わざわざ私たちのために、寒いさなか、スイスまでおいでくださるなんて感激です。なんとお礼を申し上げればよいのやら……」
 「いいえ、私は学会のリーダーとして、当然のことをしているんです。
 大切な会員が、一人でもいるならば、どこまでも激励に行くというのが、学会の会長の精神であり、幹部の在り方です。しかも、メンバーも少ない、大変なところで頑張っている方がいれば、なおさらです。
 やがて、スイスにも、これからは、どんどんメンバーが増えていくでしょう。その時は、あなたたちが、私と同じ気持ち、同じ決意で皆を元気づけ、尽くしていってください。
 先輩が一人ひとりのメンバーを″宝″のごとく思い、全魂を傾け、大誠実をもって、守り、励まし、育んでいくところに、学会の強さ、美しさがある。
 それがわかれば、私がここに来た意味は、十分にあります。私と同じ心の人が、二人も誕生したことになるんですから」
 ジュネーブでの座談会の参加者は、数人ではあったが、戸外の寒さとは反対に、温かいほのぼのとした集いとなった。そこには、一足早い春が来ていた。
 ジュネーブに一泊した一行は、翌日はイタリアのローマに向かった。
 機中から見ると、スイスは雪化粧をした山々が連なり、白一色であったが、イタリアに入ると、緑の大地が広がっていた。
 一行は、ローマの空港に出迎えてくれた数人のメンバーとともにホテルに行くと、そこで、直ちに、イタリアのメンバーの教学試験を行った。
 その後、イタリアの連絡責任者である山岸政雄の家を訪問した。
26  早春(26)
 山本伸一は、山岸政雄の家族をはじめ、数人のメンバーとともに勤行・唱題した後、ここで、イタリアにローマ地区を結成することを発表した。
 地区部長には山岸が、地区担当員には彼の妻の公枝が就任した。
 また、伸一は、絵の勉強のために、ローマの美術学校に留学していた小島寿美子という女性を、ヨーロッパの女子部の幹事に任命した。
 彼女は、留学が決まった前年の八月、西ドイツ(当時)に留学することになっていた高石松子とともに、聖教新聞社にいた伸一を訪ねて来たことがあった。
 伸一は、その時、二人に御書を贈り、海外への雄飛を祝福した。
 彼は、小島のことが気掛かりであった。海外で、自立して生きていくには、大地に根を張る雑草のような強さが必要である。だが、彼女には、その強さが感じられなかったからだ。
 以来、小島とは、五カ月ぶりの再会である。
 伸一は尋ねた。
 「小島さんは、イタリア語はできるようになったのかい」
 「はい。なんとか日常会話でしたら……」
 「そうか。まず語学を徹底して身につけていくことだね。あなたは学生部員だったんだから、イタリア語といえば小島、小島といえばイタリア語といわれるぐらいになるんだよ。
 あなたも、使命があってイタリアに来た。その使命を果たすために、語学は不可欠といえる。今、本腰を入れてやっておけば、それが将来、きっと役に立つ。
 ところで、明日、私はポンペイの遺跡に行こうと思っている。あなたも知っているように、約千九百年前、ポンペイの街は火山の大爆発で滅んでしまった。
 戸田先生は、その悲劇を描いた『ポンペイ最後の日』という小説を愛読されていた。これは女子部の華陽会の研修教材にも使われたことがあるんだよ。
 明日は、小島さんも一緒にポンペイに行こう。あなたには、私の通訳をしてもらいたいんだ」
 ポンペイには、山岸夫妻も同行することになっていたが、伸一は留学生の小島の語学力を伸ばすために、あえて、彼女に通訳をするように言ったのである。
 翌日、伸一たちは、午前九時に汽車でローマを発ち、正午前にはナポリに到着した。ここは「ナポリを見て死ね」といわれたほど、美しい街である。
 そこからは二台のタクシーに分乗して、ポンペイに向かった。
 風光明媚なナポリ湾を右手に見ながら、海岸沿いの道を南に進んでいった。
27  早春(27)
 ポンペイへの道すがら、一行は、イタリアの有名な工芸品である「カメオ」の店に立ち寄った。
 貝に細工をして、浮き彫りにする工程を見ながら、山本伸一は小島寿美子に言った。
 「普通なら、貝殻として捨ててしまうものに細工をして、大きな価値をもたらしている。知恵があるね。
 人間が社会で生き抜くうえで大切なのは知恵だよ。
 広宣流布も、人生も、勝利していくためには知恵が必要だ。知恵を出すには、旺盛な責任感、使命感をもって、題目を唱え、強い生命力を湧現しながら、考え抜いていくことだ」
 伸一は、ここでブローチやカフスボタンなどを土産として購入し、そのブローチの一つを小島に贈った。 彼は、単身、イタリアに渡った、この女性の将来に心を砕いていた。
 彼女の考えとしては、留学後もイタリアに残ろうとしているようであるが、絵で生計を立てていくということは並大抵のことではないからだ。
 また、今は山岸夫妻がイタリアにいるが、仕事で赴任している彼らは、何年かすれば、日本に帰ることになるだろう。
 そうなれば、小島が、イタリアのメンバーの中核となっていかなければならない。その時に、堅実に社会に根を張りながら、広宣流布のリーダーとして活躍していくことを、伸一は期待していたからである。
 そのためにも、彼女には強くなってほしかった。
 一行は、再びタクシーに乗った。左手には、ヨーロッパ有数の活火山といわれるヴェスヴィオ火山がそびえていた。
 この山は、二十年ほど前の一九四四年にも、大噴火しているが、今、車窓から見る山は、穏やかな姿であった。
 伸一は、同乗のメンバーに言った。
 「そういえば、イタリアの有名な民謡に『フニクリ・フニクラ』があるが、そこに出てくる″火の山″というのは、このヴェスヴィオ火山のことらしいね。
 この山の登山鉄道の完成を記念して作られた歌だと聞いたことがある」
 車は間もなく、ポンペイの遺跡に着いた。
 ポンペイは、商業都市として、またローマの貴族の保養地として繁栄を誇った古代都市である。
 それが紀元七九年に起こった、ヴェスヴィオ火山の大爆発によって壊滅し、地中に埋もれてしまったのであった。
 そして、十八世紀半ばに再発見され、発掘が続けられた結果、かつての繁栄の姿そのままが蘇ってきたのである。
28  早春(28)
 山本伸一たちは、ポンペイの遺跡の入り口のそばにある博物館を見学した後、遺跡を巡った。
 イタリア人の初老の男性ガイドの説明を、小島寿美子が必死になって通訳してくれた。
 市街は、ほぼ楕円の形に広がっており、東西千二百メートル、南北六百五十メートルほどという。
 マリーナ街と呼ばれる遺跡の道を抜けると、すぐに中央広場がある。ここには神殿や公共の施設が集中し、ポンペイの市民生活の中心的な場所であった。
 一行は、広場北側にある門をくぐり、道路の敷石を踏みながら進んでいった。道沿いには、石造りの住居や公衆浴場が並んでいた。建物の多くは屋根が失われているものの、当時の繁栄の様子を伝えていた。
 一軒の家の前で、ガイドの男性が足を止めた。玄関の床にほどこされた、犬のモザイクが美しかった。
 「この家は″悲劇詩人の家″と呼ばれております。有名な小説『ポンペイ最後の日』の、主人公の邸宅のモデルになったものです」
 『ポンペイ最後の日』の作者は、バルワー・リットン卿である。
 彼は一八〇三年にイギリスのロンドンに生まれ、ジャーナリスト、詩人、劇作家として活躍する一方、政治家としても知られた人物である。
 リットン卿は三十歳の秋、イタリアを旅し、このポンペイの廃墟に立った。
 その時、繁栄を誇った古代都市の滅亡の情景を思い描き、胸に、ふつふつとわき上がる感慨があったようだ。
 それを長編小説に書き上げたのが『ポンペイ最後の日』である。
 伸一たちは、更に、邸宅や劇場、商店、地下牢などの遺跡を見て回った。美しい壁画や彫刻が、そのまま残されている家も少なくなかった。
 歩みを運ぶたびに、道路の敷石が、コツコツと乾いた音を響かせた。かつてはポンペイ市民が行き交い、賑やかな声が聞こえていたことであろう。
 伸一が視線を上げると、家並みの向こうに、ヴェスヴィオ火山が悠然とそびえていた。
 火口のある山頂は、標高約一二八〇メートル、右手にかつての噴火でできた外輪山がある。その裾野が、なだらかに広がっていた。
 約千九百年前――このヴェスヴィオの大噴火によって、ポンペイの時計は止まってしまっていた。
 当時、ポンペイの人口は約二万人。死亡したのは、そのうちの一割、二千人程度と推定されている。
29  早春(29)
 ポンペイは、紀元七九年の大噴火の十七年前にも、大地震で甚大な被害を受けており、あちこちに傷跡が残っていた。そこに大噴火が起こったのである。
 山本伸一の胸には、小説『ポンペイ最後の日』のクライマックスの光景が、生き生きと蘇ってきた。
 ――淫蕩な偽聖者アーバシズのワナによって、無実の罪を着せられ、闘技場で猛獣の餌食にならんとする主人公の青年グローカス。それを平然と眺める悪人アーバシズ。真実を知らず、残虐な見世物を待ちわびるポンペイ市民たち。
 そこへ、アーバシズの悪事を告発する証人が現れ、場面は緊迫する……。
 まさにその時、ヴェスヴィオ火山が大噴火する。
 「松の巨木のような形で煙の柱が見えた。その幹は黒煙であり、その枝は白熱の火であった。その輝きは一瞬のあいだ赤く薄れるかとみると、たちまちまた激しい光を見せて、天にほとばしり、刻々にその形と色を変えていた」
 大地が激しく揺れ、黒煙に覆われた空から、火山灰や軽石が降りしきった。
 富豪も貧者も、市民も奴隷も、男も女も、老いも若きも、まったく区別なしに、一瞬のうちに生死の境に突き落とされてしまったのである。
 この大混乱に乗じて、″今こそひともうけする時だ″と、財物の略奪に夢中になり、逃げられなくなった愚かな男がいる。息子が父親を打ち倒して、その財布を奪うという非道な場面もある。
 だが、そこで見られたのは、人間の卑しい行状ばかりではなかった。このパニック状態のなかでも、燦然と輝く、気高く、高貴な人間の振る舞いがあった。
 それは、友を気遣う心であり、危険を顧みず、人を助ける勇気であった。たとえば、盲目の少女ニディアが、奇跡的に再会したグローカスとその恋人アイオンを、決死の思いで導く姿のように……。
 リットン卿の筆は、極限状態における人間模様を鮮烈に描き出してやまない。
 ところで、今日では、発見された遺体や堆積物の様子から、被災の状況もかなりわかってきている。
 それによると、ヴェスヴィオ火山の噴火は翌日まで続き、軽石及び火山灰が数メートルも降り積もった。また、この間、数度にわたって、細かい灰を含んだ高温の爆風や火砕流が、瀕死の街を襲ったようだ。
 助かった人びとは、おそらく取るものも取りあえず避難したのであろう。街が軽石などに埋もれ、身動きもできなくなるまでには、まだ、時間の余裕があったはずだからである。
30  早春(30)
 一方、噴火で亡くなった人びとには、富裕な階層や、その家で働いていた人が多かったようだ。
 豪邸を離れるのをためらったり、財産を持ち出すために時間がかかり、逃げるチャンスを逸してしまったのであろう。金貨や銀貨、装身具などを持ったまま息絶えた人もいた。
 また、堅固な家や地下室で災難の治まるのを待とうとして、かえって崩れてきた屋根の下敷きになったり、高温の爆風の犠牲になった人びともいた。
 山本伸一は、路傍の石に腰を下ろすと、同行のメンバーに語り始めた。
 「『ポンペイ最後の日』は、人間にとって、人生にとって、何が最も大切かという、根本問題を問いかけているように思える。
 小説では、この世の終わりのような大惨事のなかでも、神の下の永遠の生命を信じて、従容として振る舞う、キリスト教徒オリントスの姿が描かれている。
 実際には、当時、キリスト教は、まだ、ポンペイにほとんど広まっていなかったようだが、リットン卿は、オリントスのような姿を通して、人生の根本問題や、本当の宗教というものの在り方を語ろうとしたのであろう。
 どんな人であれ、生死の苦悩から逃れることはできない。世界中から金銀財宝を集めても、どんなに地位があり、権力をもっていても、この問題だけは決して解決できない。
 大聖人は『世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし』と仰せになっているが、誰でも死ぬのは怖いし、また、それほど大事なものが生命といえる。
 だからこそ、その大切な生命を何のために使うのか――ここが焦点だよ。
 ところが、人間は、ともすれば、この根本問題から目をそらして、眼前の楽しみや利害に心を奪われ、流されていってしまう。残念なことだ。
 しかし、私たちは、日蓮大聖人の仏法を持ち、地涌の菩薩の使命を自覚して、人類を救うため、広宣流布のために働いている。
 最も大切な生命を、最も崇高な目的のために使う、最高の人生なのだ」
 伸一は、更に、小島寿美子に言った。
 「小島さん、人生は短いよ。また、何があるかもわからないし、無常なものだ。しかし、仏法という永遠常住の法に生き抜くならば、永遠の幸福の道を開くことができる。
 だから、確固不動の自分をつくり、何があっても、どんなに苦しく、辛いことがあっても、生涯、広布の使命に生き抜くことだよ」
31  早春(31)
 ポンペイを見学した翌二十一日、山本伸一の一行はローマの遺跡やヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂などを視察した。
 この日の朝は、小雨が降っていたが、やがて雨もあがり、伸一がサン・ピエトロ大聖堂の前に立った時には、雲間から太陽の光が差し始めた。
 彼は、ローマの名所旧跡を、ヨーロッパは初めての秋月英介や大矢良彦に、後学のために見せておきたかったのである。
 その晩は、山岸政雄の家で座談会が開かれた。座談会といっても、形式を排した懇談であった。
 懇談の最後に、伸一は、前年の十月に行われた第一回文化祭のシートレコードを、山岸の妻にかけてもらい、皆で聴いた。
 音楽隊や鼓笛隊の奏でるクラシックや日本民謡、そして、学会歌の力強い演奏が部屋中に響き渡った。
 このシートレコードを聴いているうちに、山岸夫妻も、小島寿美子も、生き生きと瞳が輝き始めた。
 それを見ると、伸一は言った。
 「どうだい、学会歌は元気が出るだろう。寂しくなったら、勤行の後に、このシートレコードを聴いて、勇気を出していくんだよ。
 みんなには、いつも身近にいて励ましてくれる人がいない。それが海外のメンバーの大変なところだ。
 御書には、仏法者の進むべき道は明確に示されている。しかし、励まし、指導してくれる人がいないと、ともすれば、自分の弱い心や感情、わがままに負けてしまいそうになる。
 信心というのは、その弱い自分の心との戦いなんだ。御書にも『心の師とはなるとも心を師とせざれ』と仰せじゃないか。
 自分の心を制することができてこそ、まことの信仰の勇者といえる。
 私は、いつも、皆さんのことを祈っています。一生涯、見守っていきます。だから、どんなことでもよいから、手紙で報告してください。私たちは創価の兄弟なんだから」
 西ドイツ(当時)、フランスと比べて、イタリアのメンバーはまだ少なかった。だが、核さえ育んでおけば、いつか時が来れば、大発展していくものだ。
 伸一は、今、ここにいる人たちに、人生の大飛躍の種子を、懸命に植えようとしていたのである。
 座談会を終えて、ホテルに戻ると、アメリカにいる清原かつから、一月十九日にシアトル支部を結成した旨の電報が届いていた。
 世界広布の歯車は、ヨーロッパでも、また、アメリカでも、勢いよく、回り始めていたのである。
32  早春(32)
 一行がローマを発って、中東のレバノンの首都ベイルートに向かったのは、二十二日の午前十一時半過ぎのことであった。
 雲海を眺めながら、約二時間半の飛行の後、雲の下に降りると、青い地中海が見えた。そして、彼方に、白雪を頂いたレバノン山脈の山々が現れた。
 「レバノン」という国名は、「白」を意味する言葉に由来し、もともと、白き山脈の景観から、その名がつけられたといわれる。
 地中海に面したレバノンは、良港に恵まれた地の利を生かし、はるか数千年の昔、フェニキア人が根拠地を置いた国である。
 以来、メソポタミアと地中海を結ぶ、交易の中心として栄えてきたが、文明の十字路の宿命か、幾度となく、他国の侵略や支配を受けてきた。
 ペルシャ帝国やイスラム帝国の支配、中世の十字軍の侵略、更に、エジプトのマムルーク朝やオスマン・トルコ帝国の支配が続いてきた。
 近代には、西欧列強の影響が強まり、二十世紀半ばに独立するまで、二十年余のフランスの委任統治時代も経験している。
 こうした歴史を経て、レバノンには、キリスト教、イスラム教の各派が広まることになり、宗教上の対立も繰り返されてきた。
 レバノンには、まだ学会員は一人もいなかった。
 伸一がこの時、あえてベイルートを訪問したのは、イギリスの歴史家アーノルド・J・トインビーをして「生きた宗教史の博物館」と言わしめた、レバノンの宗教事情を視察するためであった。
 レバノンは、当時、中東諸国のなかでは、唯一、キリスト教とイスラム教が二大宗教として並び立ち、しかも、キリスト教徒の方が半数を上回っているとされていた。
 そのキリスト教も事情は複雑で、最大勢力のマロン派をはじめ、ギリシャ正教、ギリシャ・カトリック、アルメニア正教が主要四派となり、このほかに、アルメニア・カトリック、プロテスタントなどがあった。
 一方、イスラム教では、双璧をなすスンニー(スンナ)派とシーア派、そして、ここレバノンやシリアで勢力をもつドルーズ派が主要三派となっていた。
 更に、少数ながら、ユダヤ教徒もいた。
 これらの公認されている宗派だけでも十数派に上り、それぞれが独自の社会集団を形成していた。
 レバノンの社会では、これらの宗派がモザイクのように、複雑に入り組んでいたのである。
33  早春(33)
 レバノンの、公認された宗派が十数派というのは、日本と比べて少ないと感じるかもしれない。
 確かに、日本には、主な宗派だけでも六十近くあり、宗教法人は約十八万といわれる。
 しかし、レバノンの人口は、当時、日本の約六十分の一であり、しかも、宗教のもつ意味も、重さも、日本とは全く異なっている。
 日本の宗教の多くは、国家に隷属してきた長い歴史をもち、冠婚葬祭のための儀式宗教となって久しい。およそ宗教が社会的な力となることは稀であるし、宗教が個人の思想、信条、生活に、深く根差しているとはいい難い。
 だから、一人が複数の宗教に所属しているケースもあるし、自分の宗教や宗派の教義を、いっさい知らないということも、決して珍しくはない。
 いわば、形骸化した宗教の氾濫が、日本の宗教事情といえよう。
 しかし、レバノンにあっては、それぞれの宗派は、共同体を形成し、政治的にも結束力をもち、生活習慣にも深く根を下ろしている。いわば、精神的にも、社会的にも、各人の存在を支える基盤となっているのである。
 しかも、時には、支配権力と対峙してきた歴史をもっている。
 レバノン社会の、この強い宗派性は、政治にも顕著であり、″宗派主義″ともいうべき政治制度がつくられている。各宗派の人口比率を基準に、政治上のポストが割り振られているのである。
 この政治制度は、第一次世界大戦の後、フランスの委任統治の時代に確立されたもので、第二次大戦中、レバノンの独立運動が勢いを増し、一九四四年に、完全独立を勝ち取ってからも、″宗派主義″は受け継がれてきた。
 たとえば、大統領は、伝統的に、マロン派キリスト教徒から、首相はスンニー派イスラム教徒から出していた。
 更に、主要な閣僚ポストや、国会議員数も、宗派別に配分されてきた。
 ところが、山本伸一が訪問した一九六三年ごろには、イスラム教徒の増加が目立ってきていた。
 つまり、実質的な宗派の人口比率も変わりつつあり、旧来の宗派別の勢力配分には、一部に強い不満も出ていたようだ。
 また、中東戦争のなかで、イスラム教徒のパレスチナ人が難民となって、レバノン南部を中心に移住し、それが更に、イスラム教徒の増加に拍車をかけていたのである。
34  早春(34)
 山本伸一たちは、ホテルに荷物を置くと、早速、ベイルート市内の視察に出かけた。
 中東というと、″砂漠″のイメージが強いが、紺碧の地中海に臨むベイルートは暖かく、緑も多く、南欧を思わせた。彼方には、秀麗なレバノン山脈が輝いていた。
 ベイルートは、中東の金融・経済の中心であり、当時、レバノンの人口は約百六十万人であったが、このうち、三分の一が、ベイルートに集中していた。
 それだけに、街は活気にあふれ、しかも、商店の看板にはアラビア語のほか、フランス語や英語も混在し、豊かな国際性を感じさせた。
 また、イラクなどでは、街で出会うのは、大半が男性で、たまに見かける女性は、黒いチャドルという服に全身を包んでいたが、ここでは、女性も数多く街を闊歩していたし、服装も多彩であった。
 市内には、各宗派ごとに居住区ができており、ある地域にはマロン派キリスト教徒が、また、別の地域にはスンニー派のイスラム教徒が住んでいた。
 青年部長の秋月英介が、山本伸一に語りかけた。
 「レバノンの政治、社会の在り方は、共存のための一つの知恵だったのでしょうが、宗派ごとの小社会が寄り集まっているという感じで、民衆一人ひとりが、宗派を超えて、積極的に交流し合っているわけではないように見えます。
 やはり、宗派間の溝は深そうですね。
 しかも、聞くところでは、イスラム教徒が増え、宗派間の均衡が崩れてきており、政治や社会の現状に対して、強い不満をもつ人もいるようです。
 こうした状態が続いていくと、小さなもめごとでもあれば、宗派間の紛争に発展するのではないかと心配です」
 伸一が答えた。
 「私も、そう思う。
 また、国境を接している、ユダヤ教の国であるイスラエルとの問題もある。
 だから、ここに着いてから、レバノンの平和を念じて、ずっと、心で唱題していたんだよ」
 大矢良彦が、思案顔で伸一に尋ねた。
 「先生、レバノンの安定と平和のために最も必要なことは、やはり宗派間の対話なのでしょうか」
 伸一は言った。
 「宗派間の話し合いは、これまでにも、何回も行われてきたと思う。しかし、互いの利害がぶつかり合い、なかなか協調できないでいるのが、現状ではないだろうか」
35  早春(35)
 山本伸一は、言葉を選ぶように語っていった。
 「この中東にしても、ヨーロッパにしても、宗教の社会的な影響力や存在感は日本と違って格段に重い。
 その宗教、宗派のうえに、政治的、社会的な利害が絡めば、問題はますますこじれてしまう。だから、対話といっても、宗派を超えた人間対人間の対話が必要だと私は思う。
 つまり、同じ国民として、あるいは同じ人間として、まず、共通の課題について、忌憚なく語り合うことだ。そして、″共感″の土壌をつくっていくことが、最も大切ではないだろうか。
 それには、宗教や宗派で一律に人間を割り切ってしまうという発想を、転換していくことだ。
 私は、人を一個の具体的な人間としてではなく、民族や宗教、国籍、階級などの抽象的な集団としてとらえ、判別していくことは間違いであると思っている。
 そうした発想は、人間を″分断″していくだけで、そこからは、本当の対話も、真の友情も生まれることはない。
 レバノンの場合も、大前提、大原則は、同じ権利をもった国民、同じ尊厳と生存の権利をもった人間という視座に立っての、対話を始めることだ。
 ″宗派″ではなく、″人間″を見つめ、宗派間の対話以上に、人間間の対話をしていく以外にない。
 もちろん、これは容易なことではないだろうが、そうした視点に立って、話し合いを進めていこうとしなければ、事態はますます紛糾していくだろう。
 実は、私がこれから、生涯をかけて行おうとしていることも、この″人間対人間″の対話を、世界に広げていくことです。
 仏教も本来、宗派などなかった。また、特定の民族や階級のためでもない。人間のために、一切衆生のために説かれたものです。
 大聖人の御心もまた、一切衆生をどうすれば幸福にできるか、この一点に尽くされている。
 戸田先生は『学会は人間宗でいくんだ』と言われたことがあるが、どこまでも、人間が根本です。我々は、こういう大きな心でいこうよ。
 現実の世界は、宗教も、民族も、文化も多様だ。その多様性のなかで生きる人類が結合していくには、万人共通の、人間という原点に立ち返るしかない。
 それを教えているのが仏法であり、人類の幸福と平和のために生きるのが仏法者です」
 伸一の話に、皆、眼が開かれた思いがした。
36  早春(36)
 二十三日の午後、山本伸一は、ベイルートの北東のベカー高原にある、古代ローマ時代に建造され、″太陽の町″と呼ばれたバールベックの遺跡を視察した。
 その夜遅く、一行はホテルを出発して、午前一時十分発の便で、イランのテヘランを経由し、インドのニューデリーに向かうことになっていた。
 ところが空港に着くと、一行が搭乗する便は、強風のためにキプロス島に退避しており、まだ、到着していなかった。航空会社の話では、確かな出発時刻はわからないが、おそらく十時間以上は遅れるだろうとのことであった。
 伸一たちは、ホテルに戻り、朝になって空港に電話をしてみたが、まだ出発の目途は立っていなかった。
 ホテルで朝食をとりながら、十条潔がイライラした口調でつぶやいた。
 「どうも、海外での移動は、スムーズにいかないな。何があるか、わからないんだから……」
 それを聞くと、伸一は、笑いながら言った。
 「それは、人生も、広宣流布の道も一緒だよ。すべては波乱万丈のドラマだ。でも、だから面白いんじゃないか。いっさいが計画通りだったら、つまらないものだよ。
 私は、試練や障害に出あうたびに、これでまた一つ、人生のドラマができたと思い、勇んで立ち向かってきた。
 人間は皆、わが人生劇場の主役なんだから、どうせなら堂々たるヒーローを演じようじゃないか。青年には、その気概が大事だよ。
 何かあるたびに、いちいち驚き、慌て、嘆き、悲しんでいたならば、ヒーローにはなれない。せっかくのドラマも台無しになってしまうよ」
 その言葉には、伸一の人生哲学ともいうべきものがあった。
 結局、ベイルートを出発したのは、二十四日の午後五時ごろであった。十六時間ほどの遅れである。
 当初の予定では、一行はニューデリーで一泊することになっていたが、ここでは泊まらず、そのまま次の訪問地である香港まで行くことにした。
 テヘランを経て、ニューデリーに着いた時には、深夜であり、更に、次の経由地のタイのバンコクに到着したのは朝であった。
 バンコクの空港で、伸一はタイのメンバーと会うことになっていた。
 彼が空港のロビーに出ると、五十人ほどの人が待機していた。前年の二月にバンコクを訪問し、支部を結成した時には、メンバーは二十数世帯であったが、今では、二百世帯に迫る勢いであった。
37  早春(37)
 「どうも、ご苦労様!」
 山本伸一は、タイのメンバーに笑顔で語りかけた。
 飛行機の給油の時間を使っての激励であり、立ち話の語らいとなった。時間はわずか十五分ほどしかなかった。
 しかし、伸一は、力の限り、メンバーを一人ひとり励ました後、最後にこう語った。
 「バンコク支部の発展は目覚ましいものがある。アジアの希望です。
 しかし、タイにあっては、組織を大きくしようとすることより、小さくとも、皆が団結して、仲良く、明るく、楽しく信心に励んでいくことです。
 時が来れば花は開く。焦る必要はありません。むしろ、一人ひとりが功徳を受けて、幸福になっていくことが大事です。それが私の願いです。
 では、またお会いしましょう。お元気で!」
 この日、バンコク支部の婦人部長のアン・ライズ・ミヤコも、一行と一緒に、香港に行くことになっていた。彼女は、香港で行われる教学試験を受け、更に、香港支部の大会にも出席する予定であった。
 伸一は、メンバーが明るい笑顔の花を咲かせていたなかで、彼女だけが、思い詰めた表情をしていることが気になっていた。
 一行は、バンコクから、一路、香港に向かった。
 香港のホテルに到着した伸一は、すぐにアン・ライズを呼んで懇談した。
 「何かあったんですか」
 伸一が言うと、彼女は答えた。
 「はい。実は、先日、警察に呼ばれて、学会のことを聞かれたんです」
 「どんなことを聞かれたんですか」
 「創価学会とはどういう団体なのかとか、共産党と関係があるのかとか、いろいろ聞かれました。
 私は、創価学会は日蓮大聖人の仏法を信奉する団体で、座談会では皆で勤行したり、御書を勉強していることをお話ししたんですが、ちゃんと理解してくれたかどうか、よくわからないんです。
 どうも、警察は学会のことを、危険な団体のように思っているようなんです。
 それで、タイでは会員を増やしたり、会合を開いたりすることは、やめるように言われまして……。
 みんなに話して、動揺させてもいけないと思い、メンバーには伝えていませんから、このことはまだ、一部の人しか知りません。
 これから、どうやって信心をしていけばよいのかわからないので、ともかく先生にご相談しようと思っておりました」
38  早春(38)
 山本伸一は、アン・ライズ・ミヤコを笑顔で包み込むように語り始めた。
 「それは、警察が学会に対して、何か誤解しているのでしょう。
 しかし、心配しなくても大丈夫です。皆さんは、私が守ります。しばらく様子を見たうえで、最高幹部をタイに派遣し、警察や政府の関係者を訪ね、学会の真実を、よく理解してもらうようにしますから。
 学会がめざしているのは、その国の繁栄であり、国民の幸福です。そして、会員一人ひとりが、よき市民となり、社会に貢献していくことが、私たちの目標です。
 本来の学会の目的、真実の姿を知るならば、どこの国でも、心ある指導者は、学会を称賛せざるをえないはずです。
 だから、何も恐れることはありません。堂々と、確信をもって皆を励ましていくことです。一歩も退いてはなりません。
 しかし、活動に際してはタイの法律を順守することはもとより、誤解を招くようなことや、非常識な行動は厳に慎むことです。
 中心者には、単に勢いだけでなく、そうしたこまやかな配慮が必要になる。
 今後は、学会本部とよく連携を取りながら、慎重に進めていってください」
 伸一は、歴史的な経緯や国情から、宗教に強い警戒心をいだいている国も少なくないだけに、誤解から生ずる無用な摩擦は、絶対に避けなければならないと考えていた。
 そうなれば、結局は、会員が苦しむことになるからである。
 そのために、彼は、海外での活動は、慎重のうえにも、慎重を期していく必要性を感じていた。
 しかし、世界広布のうねりが起こり始めた今、仏法の法理に照らすならば、各国の組織が試練の大波を受けることも、当然、覚悟しなければならなかった。
 現に、学会の大前進に恐れをなした、日本国内の他教団や政党の関係者が、海外での学会の動きを封じようと、各国の政府機関などに、さまざまな画策を行っているとの情報も耳にしていた。
 その一つが、伸一が二年前の会合で、″国連は、中華人民共和国を認めてもよいのではないか″と語ったことなどを取り上げ、学会は共産主義を支持する危険な団体であるという喧伝であった。
 だが、いかなる中傷がなされようが、日頃から常識豊かな行動を心がけ、社会の信頼を勝ち取っていれば、やがて、必ず真実は明らかになるはずである。
39  早春(39)
 山本伸一は、アン・ライズ・ミヤコを激励した後、諸外国での活動の在り方について、思索をめぐらしていった。
 ――海外で学会が誤解されるとしたら、どこに原因があるのだろうか。
 まず、創価学会という耳慣れぬ名前から、新奇で不可解な宗教という印象をもってしまうこともあるのかもしれない。わからないということは、警戒心をいだかせるものだ。
 したがって、学会は、日蓮大聖人の仏法の教えを根本とする仏教徒の団体であり、その大聖人の教えは、釈尊の仏法の精髄であることを、明らかにしていく必要があろう。
 つまり、二千数百年の伝統をもつ仏法を、現代に開花させ、世界の平和と人びとの幸福を願い、その国の発展と文化の興隆に貢献し、価値の創造をめざしているのが、創価学会であることを、語っていかなくてはならない。
 また、日本で、学会が母体となって、公政連(公明政治連盟の略称)が結成されたことから、学会を、政界進出を目的とした宗教団体であると思い込むケースもあるのかもしれない。
 だが、政界への進出は、日本の混迷した政治状況のなかで、新しい道を開くうえから行った選択であり、ほかの国が、それにならう必要は全くない。
 いや、むしろ、各国のメンバーが、政治に巻き込まれていくようなことになれば、それぞれの国で宗教活動を展開していくうえで、大きなマイナスになる。
 しかも、日本の他教団や既成政党が、学会と政治の関係をことさらに強調し、諸外国での学会への警戒心を煽り立てていることを思うと、海外では政治に関わる意思はないことを、明言していくべきであろう。
 更に、学会は、決して日本人のためだけの宗教ではなく、全人類のための世界宗教であることを、認識させる努力が大切である。
 そのためには、各国の組織がそれぞれ法人として登録し、その国の実情を踏まえて、独自の活動を推進していくことが、これからはますます重要になろう。
 仏法では「随方毘尼」を説き、仏法の本義に違わない限り、その地域や時代の風俗、習慣に従うべきであるとしている。
 この原理を各国のメンバーがよく理解し、深く社会に根を張り、その国の繁栄と幸福の実現に取り組んでいくことだ。
 ともあれ、メンバーを守るためにも、自分が各国の指導者と会い、学会の真実を訴え抜いていこうと、伸一は思った。
40  早春(40)
 一行は、山本伸一を中心に、ホテルで香港の組織の検討に入った。
 明二十六日に開催が予定されている、香港の支部大会で、幾つかの地区を結成することになっていたのである。
 また、香港支部長の岡郁代が、夫の仕事の関係で、支部結成から四カ月後の前年の六月に帰国したため、支部長の人事も考える必要があった。
 この協議には、伸一に同行していた十条潔、秋月英介、谷田昇一、大矢良彦のほかに、沖縄からやって来た、沖縄総支部長で東南アジア副総支部長でもある高見福安、沖縄総支部の婦人部長の上間球子も参加していた。
 伸一は、沖縄が東南アジアの玄関口ともいうべき位置にあることから、二人に香港をはじめ、東南アジアの面倒をみていくように、依頼していたのである。
 皆で協議した結果、香港には三地区を結成することが決まったが、新支部長については、今後、更に検討を重ね、別の機会に任命することにした。
 明けて二十六日は、支部大会に先立ち、大会の会場である九竜(カオルン)の立信(ラップション)ビルで教学の口頭試問が行われた。
 受験者が会場に行くと、入り口には、日本に帰ったはずの岡郁代が立っていた。
 彼女は、山本会長が出席して香港の支部大会が行われると聞き、日本から駆けつけて来たのだ。そして、教学試験も実施されることを知ると、受験者が来たら、わずかな時間でも教学を教えようと、会場の前に待機していたのである。
 岡は、日本に住んではいたが、香港の支部長として、少しでも地元のメンバーの役に立ちたいとの、強い思いがあった。
 彼女は、集って来た受験者に、三大秘法などの語句や宗教批判の原理を説明するとともに、自信をもって受験するように励ました。
 メンバーは、もう会うこともできないのではないかと思っていた支部長の″特別講義″に、決意を新たにし、勇んで試験に臨んだ。
 伸一は、この日の昼は、初めて香港を訪問した大矢と沖縄の上間が、香港の実情や人びとの暮らしを理解するように、二人を連れて視察に出かけた。
 香港は、ちょうど旧正月とあって、街は家族連れで賑わい、獅子舞の姿も見られた。
 商店の壁などには、小さな子供が大きな金魚や鯉、桃を抱えた「年画」という絵や、金色の文字で「福」などと書かれた赤い紙が掲げられ、随所で祝賀の爆竹の音が響いていた。
41  早春(41)
 山本伸一が香港支部大会の会場となった立信(ラップション)ビルに到着すると、エレベーターの前に、スーツにネクタイをして、「創価学会」と書かれた輸送班の腕章をした十歳ぐらいの少年が立っていた。整理役員の手伝いをしていたのであろう。
 伸一は、少年を見ると、「ありがとう!」と言って微笑みかけた。
 少年は、伸一が誰かわからず、最初はキョトンとしていたが、彼の笑顔を見て、微笑み返した。
 会場に入ると、一斉に拍手がわき起こった。
 会場正面の壁には、模造紙に書いた「新世紀の歌」や「東洋広布の歌」などの歌詞が張り出されていた。日本語の歌詞もあれば、ローマ字で書かれた歌詞もあった。
 その下に、数脚のイスが、壁に沿って並べられていた。そこに伸一たちが座ると、開会が宣言された。
 上間球子、高見福安、更に、伸一に同行して来た幹部が、次々にあいさつに立った。
 この大会には、広東語の通訳がついた。日本語のわからない新しいメンバーが増えているのだ。それは、香港の広布の進展を物語っていた。
 やがて、十条潔が香港に中央(チョンイヨン)、九竜(カオルン)、湾仔の三地区を結成することを発表し、その人事を紹介した。
 伸一は、この席上、御本尊の功力について、大確信をもって訴えた後、こう話を締めくくった。
 「幸福への決め手は、何があっても、負けることのない精神の強さ、価値を創造していく智慧、そして、喜びと希望にあふれた、豊かな心をつくり上げていくことにあります。
 また、本当に社会を繁栄させていくにも、人への思いやりや友情、信頼が大切になります。
 つまり、すべては自分自身の生命の変革から始まります。その人間革命の道を示し、絶対的幸福と永遠の平和の原理を教えているのが仏法なのです。
 皆さんが、人間性の輝きを放ちながら、香港を幸福の花園に変えゆくことを、心から期待しております」
 高らかな学会歌の合唱で香港支部大会は終了した。
 大会が終わると、伸一は通訳をしていた周志剛(チャウ・チーゴン)という壮年と、その妻の周徐玉珍(チャウ・チョイ・ヨッチャン)と懇談の時間をもった。
 周志剛は、東南アジア総支部長の森川一正らが前年の八月から九月にかけて、東南アジア指導を行った折に、副支部長に任命した人であった。
42  早春(42)
 周志剛(チャウ・チーゴン)は、貿易会社を営む、温厚な感じの五十歳前後の壮年であった。
 東南アジア総支部長の森川一正や副総支部長の高見福安は、やがては彼を香港支部の支部長にしたいとの意見であった。
 また、周の妻の徐玉珍(チョイ・ヨッチャン)は、この日、湾仔地区の地区担当員に任命になっていた。
 山本伸一は、周志剛に語りかけた。
 「周さんですね。あなたには、近い将来、香港の支部長として活躍してもらおうと思っています。したがって、今から支部長の自覚に立って、香港の全責任を担っていってください」
 「はい。私は信心を始めて、一年三カ月ほどですので、まだ、わからないこともたくさんありますが、ご期待に応えられるように、力の限り、頑張ってまいります」
 「ところで、日本語がお上手ですね」
 伸一が言うと、彼は柔和な笑みを浮かべて答えた。
 「実は、私は日本人なんです。生まれは鹿児島ですが、貿易の仕事で中国の広州(コワンチョウ)に来て結婚し、戦後、香港に来てからは、中国名を名乗っています」
 周は、自分の来し方を語り始めた。
 ――彼は、三人兄弟の末っ子として生まれたが、漁師をしていた父は、彼が一歳の時に、母は九歳の時に他界していた。
 しばらく兄たちと漁業の仕事をした後、呉服商の手伝いとして中国大陸に渡った。少年だった彼に与えられた仕事は、最初は雑用であったが、そこで、商売の手順とコツを覚えた。
 やがて、周志剛は広州に行き、貿易会社に勤めた。その広州で、日本人の経営する会社の経理を担当していた、妻の徐玉珍と知り合うのである。
 彼女は一人娘で、既に父親は他界していた。
 二人は互いに愛し合うようになるが、彼女の周囲の人びとは、相手が日本人とあって、結婚には難色を示した。
 だが、彼女の母親は、二人の結婚を許してくれた。
 結婚後、間もなく終戦を迎え、日本人は中国から引き揚げなければならなくなった。その時、彼は妻の母に言った。
 「私は、この中国で、日本軍がやったことを見てきましたが、あまりにも残酷です。私は、そんな日本を祖国とは思いません。中国で、中国人として生きていきます」
 しかし、中国で生きることは、決して容易なことではなかった。日本人とわかれば捕らえられてしまうし、そのうえ、人びとの反日感情は強く、襲われる危険性も高かった。
43  早春(43)
 周志剛(チャウ・チーゴン)の家には、何度も日本人がいないかと、役人が調べに来た。
 そのつど、妻の母が応対に出て、毅然として言い放った。
 「ウチには、鬼のような日本人なんかいません!」
 近隣の人びとも、周に信頼を寄せており、彼を守ってくれた。彼が日本人であると密告したりする者は、誰もいなかった。
 しかし、日本人が引き揚げた後の広州(コワンチョウ)では、彼の仕事はなかった。また、中国国内は内戦状態にあった。
 やむなく周志剛は、妻の徐玉珍(チョイ・ヨッチャン)と義母とともに、香港にやって来た。そこで、沖縄と香港の貿易の仕事を始めたのである。彼には、仕事を通して、平和のためのパイプになりたいという思いがあった。
 香港に来てからも、中国人になり通そうとしていた彼は、家でも、いっさい日本語は使わなかったし、子供が生まれても、自分が日本人であることは話さなかった。
 その周志剛が信心を始めたのは、一九六一年の十月のことである。貿易の仕事で付き合いのあった日本人に勧められ、御本尊を受持したのだ。
 入会に際して、紹介者からは、納得のいく十分な説明はなかったが、ただ、日蓮大聖人の仏法はすごいという言葉を信じて、入会したのである。そして、手紙で教えられた通りに勤行を始めた。
 彼は、人間の信義を大切にしたかったのである。
 周志剛が信心を始めたことから、妻の徐玉珍も、一緒に信心をするようになったが、夫への信頼から、そうしたにすぎなかった。
 周の家に、岡郁代や平田君江をはじめ、中国人の女性と結婚していた佐川康二という日本人の壮年など、メンバーが激励に通って来るようになった。
 周志剛は、学会活動に真面目に励むうちに、いつの間にか、持病の胃潰瘍が治っていた。それが彼の、初信の功徳であった。
 その体験を目の当たりにして、妻の徐玉珍も仏法への確信をいだき始めた。
 周一家は、家族全員が信心に励むようになっていった。会場で輸送班の腕章をして、整理役員の手伝いをしていた少年も、周の子息であった。
 周志剛は、日本から学会の出版物を取り寄せては、仏法の法理を学ぶようになった。また、弘教にも力を注いだ。
 この日、九竜(カオルン)地区の地区部長になった、陳済民(チャン・チャイマン)という壮年も、周の勧めで入会した人であった。
44  早春(44)
 山本伸一は、周志剛(チャウ・チーゴン)に言った。
 「今日は、奥さんにもお会いできて本当によかった。奥さんも立派な方なので安心しました。
 また、奥さんのお母さんも偉大な方ですね。そのお母さんを、大切にしてあげてください。
 お話を聞いて、周さんの人柄がよくわかりました。
 香港の人びとの幸福のために、これからの人生を、私とともに、広宣流布に生き抜きましょう」
 伸一が手を差し出すと、周志剛は元気な声で、「はい」と答えながら、彼の手を握りしめた。
 伸一は、持参してきた新しい御書を取り出すと、そこに周の名前を認めた。
 「本日の記念に、これをお贈りします」
 周は頬を紅潮させ、御書を受け取ると言った。
 「教学も、真剣に勉強いたします」
 「今度は日本でお会いしましょう。その時は、あなたが支部長になる時です」
 周の目に決意が光った。
 伸一は、これで、当面の香港の布石も終わったと思った。彼が会場を後にした時には、既に午後十時を回っていた。
 いよいよ明日は、日本に帰る日である。一月八日の出発以来、全力を尽くして働き抜いた、心地よい疲労が、今、彼を包んでいた。
 翌二十七日の早朝、一行が日本に帰る便の飛行状況を確認するため、大矢良彦は空港に電話した。伸一たちが乗ることになっていたのは、ロンドン発の、香港から東京に直行する便であった。
 ところが、電話に出た係員の話では、その便はエンジントラブルのため、出発は二十時間以上も遅れるというのだ。
 大矢は、それをすぐに十条潔に知らせた。
 「本当か。困ったことになったな。ともかく、私は空港に行って来る」
 十条は、周に連絡をとり、ホテルに来てもらい、一緒に空港に向かった。
 山本会長のスケジュールを考えると、なんとしてもこの日のうちに、東京に帰る必要があった。十条は、たまたま空席のあった、東京着午後八時四十分の日本航空七〇二便に変えることにした。
 この便は、台湾の台北(タイペイ)を経由することになっていたが、十条は、それには気づかなかった。
 ホテルに戻った十条は、伸一に便の変更を伝えると、苛立ちを抑えきれない様子でつぶやいた。
 「しかし、飛行機というのは、本当にトラブルが多いですな……」
 「いや、これは、きっと、何か大きな意味があるはずだよ」
45  早春(45)
 香港の啓徳(カイタック)空港には、山本会長を見送ろうと、二、三十人のメンバーが集まっていた。
 そこには、周志剛(チャウ・チーゴン)の子息の少年もいた。伸一は、少年に話しかけた。
 「私は、やがて大学をつくるから、大きくなったら日本にいらっしゃい。
 今は、しっかり勉強しておくんだよ」
 少年は怪訝な顔で、伸一を見ていた。日本語が全くわからないのである。
 後ろにいた父親の周志剛が、慌てて、伸一の言葉を訳して伝えると、少年はニッコリと笑って頷いた。
 伸一は、出発間際まで香港のメンバーを激励し、皆の笑顔に送られて、機上の人となった。
 そのころ台湾の台北(タイペイ)では、支部長を中心に数人の地区幹部が集い、会合が開かれていた。
 台湾には、前年の八月に台北支部が結成され、朱千尋(チュー・チェンシュン)という壮年が支部長になっていた。
 彼は一九二三年に中国の江蘇(チアンスー)省に生まれ、二十三歳の時に台湾に渡った。戦時中、日本の早稲田大学で学んだこともあり、日本語も堪能であった。
 一九六〇年、朱千尋は、会社から派遣され、日本の商工業界を視察した。その時、日本人の友人から、創価学会の話を聞いたのである。
 彼は、戦後の日本の急速な復興に着目し、それを可能にした、民衆の活力を引き出す、思想、宗教があるはずだと考えていた。
 そして、学会の話、日蓮大聖人の仏法の話を聞くうちに、民衆に根差したこの信仰こそ、社会を建設する力となったのではないかと感じて、入会を決意した。
 台湾に帰った彼は、日本から送られて来る聖教新聞を熟読し、それを糧に信心に励んでいった。また、学会本部と連絡を取り、メンバーの激励に歩いた。
 一九六一年五月に、森川一正らが台湾を訪問した折に、台湾には、台北、高雄(カオシュン)など五地区が結成され、朱千尋も地区部長になった。更に、六二年八月に台北支部が誕生すると、彼は支部長に就任したのである。
 だが、そのころから、警備総司令部が、創価学会への警戒を強め始めたようだ。朱千尋は尾行されたり、出頭を求められるようになったのである。
 当時、台湾では、本省人といわれる台湾生まれの人たちと、外省人といわれる大陸から渡って来た人たちとの間に、感情的な溝があった。
 そのなかで、大陸反攻を打ち出していた、当時の中華民国政府は、戒厳令を敷き、言論や集会等を厳しく統制していたのである。
46  早春(46)
 一九六三年に入って間もなく、朱千尋(チュー・チェンシュン)は、日本から届いた元日付の聖教新聞を目にした。そこには、一月八日から始まる、会長山本伸一の海外訪問のスケジュールが発表されていた。
 その予定には、会長の台湾の訪問はなかった。
 しかし、東南アジア総支部長の森川一正から、「先生は台湾の皆さんのことを心配されていますよ」と聞かされていた朱は、″山本先生はきっと台湾に来てくださるだろう″と思った。
 朱千尋は、メンバーに呼びかけた。
 「山本先生は、一月八日から海外指導に出発され、二十七日には、香港から日本に戻られます。
 その時に、台湾にも寄っていただけるように、真剣に唱題するとともに、この日の午後、台北(タイペイ)の松山(ソンサン)空港に集まりましょう。
 たとえ、山本先生が来られなくとも、台湾上空は通られるのだから、先生を思い、大空を仰ぎながら、広宣流布を誓おうではありませんか」
 以来、朱は、″なんとしても、山本先生に台湾に来ていただきたい″と、懸命に唱題を重ねてきた。
 二十七日の昼、彼は地区幹部の会合を終えた後、皆には待機していてもらい、急いで自転車で自宅に向かった。家にあった魚の塩漬けを持って来て、皆に分けようと思ったのだ。
 自宅の近くに来た時、一台のタクシーが朱の横で止まり、彼を呼ぶ声がした。
 「朱さん、山本先生が、山本先生が空港に来ていますよ! それで、あなたを呼んでいるんです」
 高雄(カオシュン)の壮年のメンバーであった。高雄の人たちは、夜行列車で台北にやって来て、早朝から、空港で待っていたというのである。
 朱は、その人に、ほかのメンバーにも、すぐに空港に来るように伝えてもらうことにし、タクシーで空港に急いだ。
 空港に着くと、フェンスの前に、何人かの高雄のメンバーが立っていた。
 金網を隔てた向こうには山本会長の姿があった。
 「先生! 山本先生!」
 朱は、声を限りに叫んで手を振りながら、フェンスをめざして走った。
 伸一の前に立った時には息が弾み、「先生……」と言うのがやっとだった。
 「支部長の朱さんだね。いつも、ありがとう!」
 伸一は手を差し出したが、金網が二人を遮った。彼は網の目に手を入れた。指が二本ほどしか入らなかったが、その指を朱の指が握った。指と指を絡ませての握手である。
 朱の目に涙が光った。
47  早春(47)
 山本伸一は、笑みをたたえて、朱千尋(チュー・チェンシュン)に語った。
 「飛行機を降りたら、ここで、『先生、先生』と呼んでいる人たちがいてね。そうしたら、ウチの人たちだった。でも、なぜ、みんなが、私の来ることを知っていたんだろう」
 「私たちは、先生が台湾にお寄りくださるように、皆で、ずっと、お題目を唱えてきました。そして、必ず、先生はおいでになると確信し、空港に集まるようにしておりました」
 「そうか。台湾に来る予定はなかったんだが、乗ることになっていた飛行機が遅れて、便を変えたんだ。ところが、私たちは、この便が、ここに降りることも知らなかったんです。
 不思議だな。唱題に引かれて来てしまったんだね」
 「先生、しばらく、お待ちいただけますか」
 朱はこう言うと、空港ビルに向かった。彼は、空港の係官に、自分たちを空港のなかに入れてほしいと頼み込んだ。
 彼の懇願に、係官は、三人だけ、空港内に入ることを許してくれた。
 今度は、フェンスの内側での語らいとなった。
 伸一は、台湾の活動の状況を尋ねていった。
 ――台湾では、憲法で信教の自由も、集会・結社の自由も認められていたが、戒厳令下では、それも厳しく制限され、団体として活動を行うには、人民団体の登録が必要であった。
 朱千尋は、学会本部の海外局と連絡を取り、内政部に台湾の創価学会の登録を申請していたが、許可は下りずにいた。
 当時は、まだ反日感情も強い時代であり、日本で誕生した創価学会を、当局は警戒していたのであろう。座談会に、警察が踏み込んできたこともあった。
 伸一は、その話を聞くと言った。
 「すると、内政部が登録を許可しないと、組織的な活動は難しいわけだね。
 どこまでも、定められた法律を守っていくことが大事です。しかし、個人の信仰は認められているのだから、状況が厳しいからといって、臆病になり、信心そのものが後退するようなことがあってはならない。勇気をもつことです。
 また、何があっても、どんなに辛くとも、台湾の人びとの幸福のために、絶対に仏法の火を消してはならない。本当の勝負は、三十年、四十年先です。最後は必ず勝ちます」
 朱は、静かに、しかし、力強く頷いた。
 「わかりました。頑張ります」
 空港には、メンバーが次々と詰めかけ、五十人ほどの人になっていた。
48  早春(48)
 朱千尋(チュー・チェンシュン)は、空港に来ているすべてのメンバーを、山本会長に激励してもらいたかった。
 彼は再び係官に、山本伸一を、皆が入れる空港のロビーまで出してほしいと、必死に懇願した。
 人の良さそうな係官も、いささか困惑した様子であったが、空港に大勢の人が詰めかけて、伸一と会いたがっていることを知ると、許可してくれた。
 伸一がロビーに姿を見せると、歓声があがった。
 「皆さん、わざわざありがとう!」
 彼は、一人ひとりに、じっと視線を注ぎながら、力強い口調で語り始めた。
 「今、台湾は、信心をするうえで、何かと大変なことが多いと思います。
 しかし、冬は必ず春となります。台湾にも、御本尊を持った、たくさんのメンバーが誕生したこと自体が、既に春の到来を告げているといえます。
 しかし、春はまだ浅い。早春です。風も冷たい。日本ならば、霜が降り、雪が降ることもあります。
 だが、花が香り、鳥が歌い、平和のそよ風が吹く、本格的な春はきっと来る。
 時代は変わります。また皆さんの祈りで変えていくんです。そして、春たけなわの日が来るまで、忍耐強く、生命の大地に深く信心の根を張り巡らせていってください。
 皆さんの大健闘を祈ります。皆さんのご健康と、ご一家のご多幸を祈っております」
 それから伸一は、皆と記念のカメラに納まった。写真撮影の間も、彼は「生涯、御本尊を離さないことです」「絶対に負けてはいけません」と、一人ひとりに声をかけ続けた。
 彼は、何があろうが、一人たりとも、退転などさせまいと、必死になって、台湾の友を励ました。
 やがて、出発の時刻となった。
 「今度は日本でお会いしましょう。お元気で!」
 彼は、搭乗機に向かったが、途中、何度も、何度も振り返っては手を振った。
 愛する台湾の同志に見送られ、伸一の乗ったジェット機は、轟音を響かせ、雲のなかに消えていった。
 アジアの春は浅く、暗雲が低く垂れこめていることを、伸一はひしひしと感じていた。
 しかし、雲を突き抜ければ、空には、春の太陽が燦々と輝いている。
 ″友よ、飛び立て! 雄々しく、使命の空高く″
 伸一は心で、こう祈り念じながら、一路、東京に向かった。
 (この章終わり)

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