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日蓮大聖人・池田大作

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第7巻 「萌芽」 萌芽

小説「新・人間革命」

前後
2  萌芽(2)
 今回の山本伸一の海外訪問では、各地で支部結成や教学試験などが予定されていた。
 伸一は、この訪問で、十年先、三十年先、百年先のために、世界の広宣流布の楔を打つ決意であった。
 一日一日が勝負である。一瞬一瞬が決戦である。″この時″を逃さず、力の限り道を切り開いてこそ、未来の燦たる栄光が待っている。
 彼の主な訪問地は、アメリカではホノルル、ロサンゼルス、ニューヨーク、ヨーロッパではフランスのパリ、スイスのジュネーブ、イタリアのローマ、中東ではレバノンのベイルート、南アジアではインドのニューデリー、東南アジアでは香港となっていた。
 伸一に同行し、同じコースを回るのは副理事長の十条潔だけであったが、そのほかに、「アメリカ北回り」「アメリカ南回り」「ヨーロッパ」の三コースが計画されていた。
 「アメリカ北回り」は、婦人部長で副理事長の清原かつ、学生部長で理事の渡吾郎、女子部長の谷時枝の三人である。
 このメンバーは、ニューヨークまでは、世界を一周する伸一たちと行動をともにするが、その後、ワシントンDC、ルイスビル、カンザスシティー、シカゴ、シアトル、サンフランシスコなどを回って、一月二十四日に帰国することになっていた。
 また、「アメリカ南回り」は、副理事長の春木征一郎で、ワシントンDCまでは、「アメリカ北回り」と一緒だが、そこから分かれて、マイアミ、エルパソ、コロラドスプリングスなどを回り、シアトルで再び、北回りのメンバーと合流することになる。
 更に、「ヨーロッパ」コースは、青年部長で副理事長の秋月英介、理事の谷田昇一、大阪大学の歯学部で助手をしている、理事の大矢良彦である。
 このメンバーは、一月九日の夜に日本を発って、スウェーデンのストックホルム、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフ、イギリスのロンドンなどを回り、フランスのパリで、伸一たちと合流する計画であった。
 重層的な、世界への指導の展開である。
 一月八日に、伸一とともに羽田を発ったのは、十条と「アメリカ北回り」の清原、渡、谷、「アメリカ南回り」の春木であった。
 機中、伸一は、はるかなる未来を見すえながら、世界広布の設計図を胸に描いていた。
 一行の乗ったジェット機は、定刻通りに、現地時間の七日午後九時(日本時間八日午後四時)過ぎ、ハワイのホノルルに到着した。
3  萌芽(3)
 山本伸一がハワイの地に降り立ったのは、一九六〇年(昭和三十五年)十月の初訪問以来、二年三カ月ぶりであった。
 一行が通関手続きを終えて、空港ロビーに出ると、大勢のメンバーが待ち構えていた。拍手が起こり、メンバーの手で、皆の首にレイが掛けられた。
 「出迎え、ありがとう」
 伸一は、メンバーの歓迎に手を振って応えた。
 続いて、学会歌の「威風堂々の歌」の合唱が始まった。
 前回の訪問の折に、伸一の一行を出迎えたのは、連絡の手違いもあり、トニー・ハラダという青年一人であった。また、座談会に集まったのも、三、四十人であったし、誰もが希望もない、暗い表情をしていた。
 それが今回は、空港に出迎えに来てくれたメンバーだけでも、五十人はいるのである。しかも、どの顔も喜びに輝き、歌声は弾んでいた。
 夜の空港での合唱とあって、伸一は周囲の人びとのことを気遣った。幸いなことに、メンバーのほかには、人の姿はほとんどなかった。
 メンバーは、山本会長を再びハワイに迎えた喜びと決意を、どうしても学会歌に託して表現したかったのであろう。
 伸一は微笑を浮かべ、真心の合唱を聴いた。
 出迎えた友のなかには、アメリカ副総支部長の正木永安をはじめ、あのトニー・ハラダの姿もあった。
 伸一が初訪問の折に、ハワイ地区部長に任命したヒロト・ヒラタもいた。伸一にレイを掛けてくれたのは、ヒラタの妻のタツコである。
 また、ハワイの座談会で伸一に質問をしたミツル・カワカミの顔もあった。
 更に、昨年の七月にニューヨークに渡った春山栄美子もいた。彼女は、ヨーロッパの連絡責任者で医学博士の川崎鋭治の妹である。
 春山は一九五五年(昭和三十年)の入会で、日本にいた時には、女子部の企画部員、中部第三部の部長などを務めてきた。
 六一年(同三十六年)に結婚し、夫の春山富夫が商社マンとしてニューヨークに赴任したために、栄美子も渡米したのである。
 彼女の出発にあたって、伸一は「夫婦して 功徳の華を 咲しゆけ 妙法の宝
 深く刻みて」との和歌を認めて贈り、その前途を祝福した。
 また、この時、伸一は春山栄美子を、アメリカ総支部の副婦人部長と、女子部のアメリカ部の部長に任命したのである。
 女子部の中核として活躍してきた彼女への、伸一の期待は大きかった。
4  萌芽(4)
 学会歌の合唱が終わるのを待って、山本伸一は春山栄美子に声をかけた。
 「春山さん、わざわざニューヨークからハワイまで来てくれたんだね。ここまで来てくれるとは思わなかったよ。ありがとう」
 一行と出迎えのメンバーとの交歓が始まった。
 清原かつが、終始、微笑みを浮かべていた一人の女性に語りかけた。
 「あら、あなたは、前に先生が訪問された時、座談会で泣いてばかりいた人じゃないの?」
 「はい、そうです」
 「元気になったわね。ハウ・アー・ユー!」
 差し出された清原の手を握り締める女性の顔は、明るく輝いていた。
 初訪問の時とは、皆の表情も、雰囲気も一変し、元気になり、まるで別人のようであった。
 使命を自覚した人には、輝きがある。使命に生きる人には、歓喜がある。そこに、悲哀と苦悩の宿命の鉄鎖を断ち、幸福の大空に飛翔しゆく翼がある。
 伸一は、メンバーの出迎えに対して、心からねぎらいの言葉をかけた後、車でホテルに向かった。
 空には、月が輝き、無数の星が瞬いていた。ヤシの並木の向こうには、月の光を浴びた金波の海が広がっていた。
 車を運転していたミツル・カワカミが言った。
 「今日は、すごい豪雨だったんです。それが先生の到着前にカラリと上がり、街中が清められてしまいました」
 一行の宿舎は、初訪問の時と同じ、ワイキキの海岸の外れにあるカイマナ・ホテルであった。
 ホテルに着くと、同行の幹部と、十人ほどのハワイの中心メンバーが、伸一の部屋に集まって来た。
 早速、懇談が始まった。
 伸一は語った。
 「学会は、今や三百万世帯を達成し、日本の指導者も、また世界の指導者も、学会の行く手を注目する時代になりました。
 日本はかつて、このハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、あの太平洋戦争の惨劇に突入していった。今度は、学会が、幸福と平和の使者となって、日米の友情の橋を架けていくのです。
 そのために、明日はハワイに支部を結成します。ザッツ・オーケー?」
 伸一がこう言うと、「はい!」という元気な声が返ってきたが、何人かのメンバーは、キョトンとした顔をしていた。日本語がわからないのである。
 前回の訪問の折には、日本語だけで話は通じたが、今ではアメリカ人も増え、状況は大きく変わっていたのだ。それ自体がハワイの発展を物語っていた。
5  萌芽(5)
 山本伸一の言葉を、正木永安が英語に訳して伝えると、日本語のわからないメンバーの間からも、歓声があがった。
 伸一は話を続けた。
 「世界中の人たちが学会に注目しているだけに、これからは、皆さんが功徳を受け、幸福になり、社会にも貢献していくことが、極めて大切になってきます。皆さん方こそ、学会の代表です。
 歴史をつくるのは民衆です。一人ひとりが自己自身に挑み、わが人生、わが舞台の″主役″として力を出し切っていく時、必ず新しい時代の扉は開かれます。
 それぞれが広宣流布の大ドラマを綴りながら、力を合わせ、更に、更に、ハワイの平和と繁栄を築いていってください」
 こう語ると、伸一はバッグから袋を取り出した。中には栗が入っていた。
 「これは、皆さんへのお土産として、日本から持ってきた栗です。おいしい日本の味です。一人五個ずつ差し上げましょう」
 自ら栗を配る伸一に、メンバーは近況などを報告し始めた。アメリカ人の夫を紹介する日系の婦人もいた。誰もが伸一に会うことを待ちに待っていたのだ。
 その後、同行の幹部とハワイの中心メンバーで、支部結成にともなう組織の検討を行うことになり、皆は別室に移った。
 伸一は、正木永安と春山栄美子に、部屋に残るように言った。彼は、この二人と、アメリカ総支部の人事について話し合っておきたかったのである。
 春山は、彼女の渡米の直前に伸一に会って以来、約半年ぶりの対面である。相談し、指導を受けたいことが山ほどあった。
 アメリカ広布の道を開こうとの決意を胸に、意気揚々と渡米した春山であったが、実際に、アメリカに来てみると、戸惑うことばかりだったのである。
 メンバーは、増えてきてはいたが、まだまだ少なかった。家庭指導といえば、バスや飛行機を乗り継いで、何時間もかけて行かなければならない。
 しかも、そのメンバーの多くは、アメリカの軍人と結婚して渡米した日系の女性で、異文化のなかでの慣れない生活、言葉の壁、夫との不仲などが重なり、悩みは至って深刻であった。
 なかには、結婚して渡米はしたものの、相手の男性の両親から、″敵国人″だった日本人と結婚させるわけにはいかないと、離婚させられた人もいた。また、渡米してみると、自分が結婚したはずの男性に、妻子がいたという人もいる。
 皆、言うに言えない悩みをかかえ、自殺を考えている人さえいたのである。
6  萌芽(6)
 春山栄美子は立教大学の英米文学科を卒業していたが、果たして自分の英語で、アメリカのメンバーを激励することができるかどうか、不安であった。
 しかし、アメリカでの個人指導では、ほとんど英語を使う必要がなかった。会うのは日系の女性ばかりであり、相手も日本語しかわからなかったからだ。
 彼女が痛感したのは、語学力よりも、むしろ指導力の不足であった。
 メンバーの悩みは、彼女が日本で、指導・激励してきた女子部員の悩みとは異なり、ほとんどが生きるか死ぬかを考える、切羽詰まった問題であった。会合で、壇上から指導するのとは勝手が違っていた。
 御書を研鑽しようと呼びかけても、御書を拝したことなど一度もないという人もいたのである。
 そのなかで、友に勇気を与え、希望の光を注いでいくことが、本当の指導である。本当の対話である。
 彼女は自らを鼓舞しながら、全力で激励に走った。
 だが、アメリカ全土に点在するメンバーを、一人、二人と励まし、立ち上がらせても、自分の思い描くアメリカ広布には、ほど遠かった。まるで太平洋の水をスプーンですくっているような、もどかしさを覚えてならなかった。
 彼女は、自分の思いとは裏腹に、遅々として進まぬ現実に焦りを感じ、自責の念をつのらせていった。次第に自信もなくなっていった。誰かに指導を受けたくとも、周りには相談する人もいない。
 春山は孤独を感じた。多くの先輩に守られながら、日本で活動していた日々が、どんなに幸せであったかと思うと、感傷的な気持ちにもなった。
 山本先生に会って指導を受けたい――彼女は心の底から、そう思った。
 そんな時に、山本会長がアメリカを訪問することを知ったのだ。
 彼女はこの時、身篭もっていたが、いても立ってもいられずに、ハワイに駆けつけて来たのである。
 春山は、山本会長と会った時には、これも報告しよう、あれも相談しようと思っていたが、実際に伸一を前にすると、何も言葉にならなかった。
 それを察してか、伸一の方から彼女に語りかけた。
 「春山さん、アメリカはどうだい」
 しかし、春山は、何を言えばよいのかわからなかった。次の瞬間、こんな言葉が口をついて出ていた。
 「先生、アメリカは広いんです……」
 それは、動いても動いても、目に見える結果を出すことができないでいた春山の実感でもあった。
7  萌芽(7)
 山本伸一は、微笑を浮かべながら、春山栄美子に言った。
 「そんなことは、わかっているよ。でも、私から見れば、アメリカといっても、庭先のようなものだ。
 大事なことは、自分の境涯の革命だよ。
 地表から見ている時には、限りなく高く感じられる石の壁も、飛行機から眺めれば、地にへばりついているような、低い境目にしか見えない。
 同じように、自分の境涯が変われば、物事の感じ方、とらえ方も変わっていくものだ。逆境も、苦難も、人生のドラマを楽しむように、悠々と乗り越えていくことができる。
 その境涯革命の原動力は、強い一念を込めた真剣な唱題だ。題目を唱え抜いて、勇気を奮い起こして行動し、自分の壁を打ち破った時に、境涯を開くことができる。
 南無妙法蓮華経は大宇宙に通ずる。御書にも『一身一念法界に遍し』とあるじゃないか。宇宙をも包み込む大境涯に、自分を変えていくことができるのが仏法だ」
 その言葉を聞くと、春山は、電撃に打たれた思いがした。
 ″そうだ。アメリカが広いのではなく、私の境涯が狭く、小さなために、現実の厳しさに負けてしまっているにすぎないのだ。
 先生は、アメリカを、決して遠い国とは思っていらっしゃらない。離れていたのは、先生と私の心の距離ではなかったのか……″
 彼女は、目の前の霧が、すっと晴れていくような気がした。
 伸一は、静かに言葉をついだ。
 「今日は、ここでアメリカ全体の組織の検討をしたいと思う。
 アメリカ総支部は、これまで、十条さんが総支部長で、清原さんが総支部の婦人部長だったが、二人とも日本に住んでいる。
 アメリカはメンバーも増えてきているし、今後の発展を考えると、現地にいる人が中心者になって運営していくことが望ましい。
 そこで、正木君と春山さんに、総支部長、婦人部長をやってもらいたい。十条さんと清原さんには、総支部の顧問というかたちで、応援してもらうようにしようと思うが、どうだろうか」
 「はい!」
 二人は、緊張した顔で返事をした。
 「よし、これでアメリカは決まった。
 また、今回はハワイだけでなく、ニューヨーク、シアトルにも支部をつくりたい。それから、ロサンゼルスには、学会の会館を設置するからね」
8  萌芽(8)
 矢継ぎ早に、山本伸一のアメリカ広布の構想が語られていった。正木永安と春山栄美子は、目を輝かせて伸一の話を聞いていた。
 午前零時(ハワイ時間)を回ったころ、副理事長の十条潔らの同行の幹部が、ハワイ支部の地区の構成案や人事案を持ってやって来た。
 「先生、組織の原案が出来上がりました」
 「そうか。こっちも、アメリカ総支部の布石が終わったよ。では、ハワイの人事を検討しよう。人事が一番大事だからね」
 ここで、十条たちがつくった案をもとに、更に、検討が重ねられた。
 一夜明けて、八日の午前中には、日系人が経営するホテルを会場に、教学部の任用試験と助師を対象にした昇格試験が行われた。
 伸一は、同行の幹部に、ユーモアを込めて言った。
 「今日の試験は、私が直接、担当しない方がよいのではないかと思う。受験者がかわいそうになって、全員、合格にしてしまいそうだからね。みんなに任せるから、しっかり頼むよ」
 教学試験は口頭試問で、日本語と英語に分かれて実施された。英語グループは正木の通訳で、伸一に同行した幹部が出題するというかたちで進められた。
 会場では、こんなやりとりも見られた。
 「Why is Nembutsu in error?」(念仏の誤りは何か)と質問されたアメリカ人の青年は、「オウ」と手を広げ、日本語で答えた。
 「ワカリマセン!」
 アメリカで生まれ育った彼は、念仏という宗教自体を、全く知らないのだ。
 質問は、事前に用意されていた問題のなかから選んだものだが、試験の後、担当した幹部は考え込んでしまった。
 ″アメリカでは、念仏は一部の日系人の間に流布されているだけで、アメリカ人にとっては、全く無縁の存在といってよい。
 それなのに、念仏の誤りを正せという質問が妥当であったのだろうか。仏教史を学ぶうえでは意味はあるが、実践の教学という観点ではどうなのだろうか″
 担当の幹部は、日本では当然と思われていたことも、国が違えば考え直さなければならない問題がたくさんあることに気づいた。
 伸一が教学試験を同行の幹部に委ねたのは、そうした一つ一つの問題を肌で実感してほしかったからでもあった。
 広宣流布は、決して画一的な方法では進めることはできない。国情や文化、民族性などを深く理解し、その国、その地域に価値をもたらす方法を見極めていくことが大切になる。
9  萌芽(9)
 ハワイでの教学試験の結果は、三十七人が助師となり、十人が講師となった。
 試験の後は、同行の幹部がそれぞれ担当して、班長会、組長会、そして、青年部の指導会がもたれた。
 どの会合にも、若々しい求道の輝きがあった。質問も、弘教や組織の運営など多岐にわたっており、広宣流布を推進するうえで、大事な質問が多かった。
 また、人生のさまざまな試練を乗り越えた報告や、功徳の体験、決意発表も相次いだ。
 山本伸一の初訪問から二年三カ月で、ハワイは、メンバーも約三百世帯になり、一人ひとりが大きな成長を遂げていた。それが伸一には最大の喜びであった。
 この日の夜は、ハワイ支部の結成式を兼ねたハワイ大会が、ホノルルのカエワイ小学校で行われた。
 会場の多目的ホールには、四百人ほどの人が集って来た。
 伸一が姿を現すと、拍手と歓声があがった。
 彼は、それに手を振って応えながら言った。
 「ハロー。グッド・イブニング!
 お久しぶりです。はつらつとした、元気な皆さんとお会いできて嬉しい」
 会場には大きな舞台があり、そこに白布を掛けた演台が置かれ、幹部の席が設けられていたが、それがいかにも仰々しかった。
 伸一は、まず自分で、舞台の上にあったイスを、フロアに下ろした。
 「今日は形式張ったことはやめましょう。御本尊のもとでは、皆、平等なのだから、演台もフロアに下ろすようにします。
 大勢の参加者がいて、後ろの人が見えないのであれば別ですが、この人数ならば、壇上を使う必要もないでしょう。
 私たちは、皆が同志であり、創価家族であり、世界の家族です。分け隔てはいっさいありません」
 伸一は、役員の青年たちに、演台などを舞台から下ろすように頼んだ。
 演台やマイクなどの移動が終わると、彼は着席し、皆に呼びかけた。
 「さあ、朗らかに、ハワイ大会を始めましょう」
 大会では、同行の幹部のあいさつなどがあり、やがて、ハワイ支部の結成が発表され、その人事が紹介された。
 支部長はミツル・カワカミであった。彼の入会は、伸一のハワイ初訪問の直前であったが、純粋に信心に励み、ハワイの二番目の地区としてホノルル地区が誕生してからは、地区部長を務めてきた。
 日本語も英語も堪能で、仕事の面でも社会の信頼を集めている四十七歳の男性であった。
10  萌芽(10)
 ハワイ支部の婦人部長には、タツコ・ヒラタが任命になった。
 彼女の夫は、山本伸一が初訪問の折に、プロレスラーの力道山に似ているところから、″リキさん″とニックネームをつけたヒロト・ヒラタである。
 その時、ハワイ地区が結成され、彼が地区部長になったが、日本で地区担当員をしていた妻のタツコがハワイに来てからは、彼女が事実上、ハワイの中心者として活動してきた。
 ハワイ生まれのヒロトは、英語はできるが、日本語はよく話せなかったからである。メンバーの大多数は日系の女性であり、指導や激励は、日本語でなければ通じなかったのだ。
 そして、一九六一年の八月に十条潔らによってアメリカ指導が行われた時に、妻のタツコがハワイ地区の地区部長になり、ヒロトは地区の顧問になったのである。
 そのタツコが、今度は支部婦人部長に就任し、ヒロトは、ハワイ支部の男子部の責任者になった。
 ハワイのメンバーの主力は日系の女性だが、その夫や息子たちには、英語しかわからない人が多かった。それだけにヒロトは、男子部の責任者には適任といえた。
 しかし、壮年部から男子部に移行した、ヒロト・ヒラタの人事に、戸惑ったメンバーもいたようだ。
 この日、大柄な体をスーツに包み、汗まみれになって大会の写真を撮っていた、S・G・ライクという三十歳ぐらいの男性がいた。
 彼は、日本人の妻のカツエに勧められ、一年半ほど前に信心を始めた軍人であった。
 以来、数少ない壮年部員の一人として、ヒロトとともに仲良く活動してきた。ところが、ヒロトが急に男子部に移ったと知り、取り残されたような寂しさを感じた。
 純情で短気な彼は、会合が終わると、英語で「なぜ俺は、男子部に入れないのだ!」と叫びながら、カメラを肩にかけたまま、上着を乱暴に脱ぎ、床に叩きつけた。
 服は破れ、カメラも壊れてしまった。
 後日、彼も男子部として活動することになるが、ヒロト・ヒラタへの信頼を物語るエピソードといえる。
 このハワイの男子部は、″パイナップル部隊″と呼ばれ、大いに勇名を轟かせていくのである。
 大会では、女子部の支部の責任者も誕生した。
 更に、これまで、ハワイは、ハワイ地区とホノルル地区の二地区であったが、地区の編成も変わり、八地区に拡大して、新出発することになった。
11  萌芽(11)
 ハワイのメンバーの成長は目覚ましかった。
 たとえば、山本伸一が初訪問した時の座談会の後、清原かつに「題目を唱えたら背が高くなりますか」と質問してきた女性がいた。S・G・ライクの妻のカツエであった。
 小柄な彼女は、結婚後、ハワイに渡ったが、周囲の人が皆、長身で体も大きいので、強い劣等感をいだいた。だから、小柄な清原を見て、きっと自分の気持ちをわかってくれるだろうと思い、質問したのである。
 その話を、清原から聞いた伸一は、「そのままの姿で幸せになれますよ」と答えるように伝えた。
 カツエは、それを聞くと、少しがっかりした。
 ″題目を唱えても、叶わない願いもあるのか……″
 今も彼女の背丈は変わらなかったが、歓喜に燃えて学会活動に励み、信心は大成長を遂げ、この日、新しい地区部長の一人になったのである。
 人事の紹介の後、新任の幹部たちが、闘志あふれる決意を発表していった。
 最後に、伸一のあいさつとなった。
 「ハワイ支部の結成、おめでとう。いよいよハワイは立ち上がった。
 ハワイは、私が世界広布の第一歩を印した、先駆けの天地です。ハワイの皆さんは、私とともに、平和のため、人びとの幸福のために、世界の先駆を切って、広宣流布の拡大に取り組んでいただきたいと思いますが、いかがでしょうか」
 まず、日本語のわかるメンバーから、「ハイ!」という声と拍手が響き、正木が通訳すると、更に大きな返事と拍手が場内にこだました。
 「私が入会した時、青年部員は、実質七人しかおりませんでした。
 私は、そのメンバーを見ながら、″いつの日か、日本一の最高最大の青年の集いにしていこう。誰がやらなくても私はやろう″と決意し、恩師戸田先生に誓いました。
 そして、今、学会は、男子部だけでも五十六万人となり、実際に、日本最大の青年集団となっています。
 使命を自覚した、真剣な一人がいれば、本物の獅子がいれば、そこから、すべては広がっていきます。
 さて、布教は、友の幸福を念じ、自分の信ずる最高の教えを、最高の生き方を教えていく、崇高な慈悲の行為です。ゆえに、布教をしていけば、真の友情と信頼が生まれます。
 更に布教のなかにこそ、真実の仏道修行があり、人間革命がある。なぜならば布教は、自分の臆病な心や生命の弱さを打ち破るという、自己自身との戦いから始まるからです」
12  萌芽(12)
 山本伸一は、広宣流布の拡大を訴えていった。
 「懸命に、わが友に仏法を語り抜いていくならば、歓喜がみなぎり、自身の境涯が開かれていきます。その時に、地涌の菩薩の大生命が、わが胸中に脈打っていくからです。
 この弘教のなかにこそ、自らの人間革命があり、自身の、更に社会の宿命を転換し、永遠の幸福と平和を築きゆく直道があります。
 ゆえに、私は、ハワイに弘教の大法旗よ翻れと、訴えたいのです」
 その指導を、皆は心躍る思いで聞いた。ハワイの同志は今、地涌の菩薩としての、尊い使命に生き抜こうとしていたのである。
 伸一は、更に語った。
 「そして、拡大の要諦は団結です。今日、ミツル・カワカミさんが支部長になりましたが、この人にはついていけないという方は、手をあげてください」
 手をあげる人は、誰もいなかった。
 「これで安心しました。
 大聖人は『法に依って人に依らざれ』との経文を通して、信心の在り方を指導されています。
 私どもの信心は、どこまでも『法』が根本です。広宣流布という崇高な大目的を成就するために、みんなが心を合わせ、団結して活動を進めていく必要があるのです。
 もし、中心者が嫌いだからとか、自分の方が信心が古いからといって、あの人のもとでは活動できないという人がいたならば、その人は『法』が根本ではなく、『人』に対する自分の感情が根本になっているのです。
 また、それは、わがままです。わがままは、自分の心に負け、信心の軌道を踏み外した姿です。結局は、その人自身が不幸になります。反対に、中心者を守れば、自分が守られる。それが因果の理法です。
 一方、幹部になった人は、絶対に威張ったりせずに、よく後輩の面倒をみていただきたい。
 皆に奉仕するために幹部はいるのです。広宣流布に戦う人は、皆、地涌の菩薩であり、仏です。その方々を励まし、尽くした分だけ、自身も偉大な福運を積んでいけるのです。
 ともかく、皆が同志として尊敬し、信頼し合って、また、足りない点は補い、守り合えれば、鉄の団結が生まれます。その団結が、最大の力になるのです。
 御書には『異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし』と仰せです。
 広宣流布に向かって、心を一つにすれば、すべてに大勝利できる。どうか、この決心で、ハワイの旭日の前進をお願いいたします」
13  萌芽(13)
 ハワイ大会は、この後、会長山本伸一を囲んでの質問会となった。
 伸一の初訪問の折の座談会では、人生の悲哀と苦悩に打ちひしがれ、質問の途中で泣きじゃくる人もいたが、ここには、そんな光景は全くなかった。あるのは希望の旅立ちへの、朗らかな誓いの笑顔であった。
 質問の内容も、どうすれば広宣流布が進むのかという、妙法流布の使命と責任から発する問いである。
 その質問のなかで、新入会のメンバーが増えているので、僧侶を派遣して出張御授戒をしてほしいとの要望も出された。
 日蓮仏法における戒律とは、受持即観心、受持即持戒であり、三大秘法の御本尊を受持することが、そのまま戒律となる。
 したがって、授戒といっても、その本義は、生涯、御本尊を受持し、信心に励んでいくとの誓いを立てることにこそある。つまり、授戒の儀式自体は、そのための形式といえる。
 しかし、初代会長牧口常三郎は、正しい信心を始める″けじめ″をつけさせ、発心を固めさせる意味から、授戒の儀式を宗門に要請した。以来、入信に伴う儀式として「御授戒」が定着していったのである。
 伸一は答えた。
 「わかりました。その件については、日達上人にお願いしましょう」
 彼は、帰国後、直ちに、出張御授戒のために、僧侶を派遣するよう、日達上人に要請している。
 そして、二カ月後の三月十六日から三十日まで、当時、宗門の教学部長で、後に第六十七世の法主日顕となる阿部信雄と、もう一人の僧侶が、アメリカ各地を回り、出張御授戒を行うことになる。
 その最初の御授戒が行われたのがハワイであり、会場も、このハワイ大会が開催された、カエワイ小学校の多目的ホールであった。
 ところが、その時、阿部は、御授戒で使った御本尊を、こともあろうに、なんと会場の控室のトイレに置き忘れたのである。
 幸い、会場の最終点検をしていたヒロト・ヒラタとS・G・ライクが御本尊を発見し、二人で阿部を探して届けたので、事なきを得た。
 もはや、この時、阿部は、僧侶を名のりながら、信仰心のかけらさえない、腐り切った本質を、自ら暴露したのである。
 しかも、事件は、これだけではなかった。出張御授戒が行われたシアトルでの、阿部の破廉恥極まりない行為について、現地の責任者が、後年、証言することになるのである。
14  萌芽(14)
 ハワイ広布への新出発となったハワイ大会の翌九日、山本伸一の一行は、雄大なワイメア峡谷で知られる、カウアイ島の視察に出かけた。
 ハワイといえば、日本人の多くは、オアフ島のホノルルを思い、それがハワイのすべてであるかのように考えてしまうようだ。
 しかし、ハワイには、カウアイ島やハワイ島、マウイ島など、たくさんの島があり、自然環境も人びとの暮らしも多様である。
 ハワイの広宣流布を考えれば、それぞれの島の真実の姿を、知っておく必要があった。
 伸一は、もし、時間があるならば、ほかの島も視察したかったが、そこまでの時間を確保することは難しかった。メンバーの個人指導に、十分な時間を割かなければならなかったからである。
 伸一が宿泊していたホテルには、入れ代わり立ち代わり、指導を求めるメンバーが訪ねて来た。彼の激励は、九日の夜も、ハワイを発つ十日も、寸暇を惜しんで続けられた。
 一人ひとりの現実生活の苦悩の闇に光を注ぎ、その生命のなかに発心の種子を植えてこそ、人間は育つ。また、広宣流布の芽も育つものである。
 反対に、対話なき組織は、いつしか官僚主義の悪弊に侵され、人間の温かな心の通わぬ、冷たい管理制度に堕してしまう。
 伸一は、組織が大きくなればなるほど、そこに人間の血を通わせるために、命を削る思いで、渾身の力を振り絞って、対話を重ねようとしていた。
 伸一の一行がハワイのメンバーに送られ、ホノルルの空港を発ったのは、十日の午後二時であった。
 約五時間の飛行で、次の訪問地のロサンゼルスに到着したが、ハワイと時差があるために、既に午後九時を回っていた。
 空には月が出ていたが、それまで雨が降っていたらしく、滑走路は濡れ、随所に水溜まりができていた。
 空港には、五、六十人のメンバーの代表が待っていた。ロサンゼルスの支部長のアキオ・イシバシも、支部婦人部長のキヨコ・クワノも、支部幹事のカズコ・エリックも、はつらつとした姿で一行を迎えた。
 伸一が真っ先に声をかけたのは、中原雄治という青年であった。
 「勉強で忙しいのに、前回も、今回も、よく迎えてくれたね。ありがとう」
 中原は、伸一が前回の訪問の折に、ロスの男子部の責任者に任命した青年である。彼は、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で政治学を専攻する留学生であった。
15  萌芽(15)
 中原雄治は、山本伸一が会長に就任する半年ほど前、伸一の出席したある会合に参加していた。
 その会合の後、伸一は、何人かの青年たちと懇談会をもった。メンバーは、それぞれの悩みを伸一にぶつけ、指導を求めた。
 彼は、みんなの質問に丹念に答え、力の限り励ました後、こう言った。
 「みんなの希望が叶うように、一緒に勤行しよう。私も真剣にご祈念します」
 当時、中原は、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)への留学を強く希望していたが、幾つもの障害があり、実現の難しさを感じていた。
 中原は、唱題しながら、必死になってメンバーのために祈る伸一の背を見て、胸が熱くなった。
 ″自分のことのように、後輩の幸せを真剣に祈ってくれている。ありがたい。頑張らなければ……″
 不思議なことに、それから四カ月ほどで、とんとん拍子に、彼の留学は決まっていった。
 中原は、それを伸一に報告しに行った。その時も、伸一は、我がことのように喜んでくれた。
 「そうか、よかったな。私も、そのうちにアメリカに行くから、向こうで会おう。その時は、必ず迎えに来るんだよ」
 伸一は、ほとんどメンバーもいない海外で、信仰を貫くことが、いかに難しいかをよく知っていた。だから、中原に、一つの目標を与えたかったのである。
 それから間もなく、伸一は第三代会長に就任した。
 中原が日本を出発したのは、その年の七月の末であった。出発前に、彼は学会本部に山本会長を訪ねた。
 伸一は、書籍に「厳護」と認めて彼に贈り、アメリカの人たちと仲良くするとともに、環境の変化に目を奪われることなく、自身の成長を心がけていくように励ました。
 伸一は、その中原が、今回も、こうして約束を果たそうと空港に出迎え、しかも、アメリカの青年部の中核に成長しつつあることがたまらなく嬉しかった。
 一行はホテルに着くと、早速、ロサンゼルス支部の組織の検討を行った。メンバーの増加にともない、組織を整備し、かなり多くの地区を新設する必要があったのである。
 未来の発展の布石となるだけに、人事は、深夜までかかって、慎重に、真剣に検討された。一人ひとりの信心、人格はもとより、仕事や家庭の状況なども考慮し、あらゆる観点から検討が加えられていった。
16  萌芽(16)
 翌十一日の午前中、山本伸一は、人事の面接を行うことになっていた。会場はロサンゼルス支部の婦人部長のキヨコ・クワノの家であった。
 面接に向かう途中、伸一は、ロサンゼルスの会館の候補にあげられていた建物を視察した。
 それは、イースト・ロサンゼルスにあり、郵便局として使われていた、五百三十平方メートルほどの一階建ての建物であった。彼は、交通の便や環境、建物の間取りなどを確認すると、ここを借りて会館にすることにした。
 伸一は、同行していた正木永安に言った。
 「最初は、これだけの建物があれば十分だろう。
 ここの名称は、ロサンゼルス会館としよう。やがて出張御授戒が行われることになれば、その会場としても使っていこう。また、聖教新聞の支局も、ここに置くことにしたいと思う」
 それから、中原雄治に語りかけた。
 「会館ができると、管理人も必要になる。中原君、君がここに住むようにしたらどうかね。管理者としての手当も考えるが……」
 中原は、ここに住めば、部屋代を払わなくてすむ。伸一は、留学生である中原の生活のことも心配していたのだ。
 「はい、お願いします」
 中原の元気な声が返ってきた。
 伸一がクワノの家に着いた時には、既に三十人ほどの人が集まっていた。
 彼が目を見張ったのは、地区部長の候補にあがった人たちの、半数以上が男性であったことである。
 というのは、二年三カ月前にロサンゼルス支部が結成された時に、六地区が誕生したが、地区部長は全員日系人の女性であった。
 その時は、ここにいる男性のほとんどが、信心をしていなかった。いや、むしろ、学会を否定的に見ていた人たちである。
 たとえば、セントルイス地区の地区部長の候補として面接に来ていたテツヤ・ハガには、伸一は、こんな思い出があった。
 ロサンゼルスの支部の結成式の後、伸一が、ハガの妻のサユリに頼まれ、激励の揮毫をしていると、会場の入り口から、苛立った怒鳴り声が聞こえた。
 「おい、いつまでかかっているんだ。帰るぞ!」
 伸一は、声のする方に視線を注いだ。そこにいたのがテツヤ・ハガであった。
 妻のサユリは、申し訳なさそうな顔で伸一を見た。
 彼は、揮毫のペンを走らせた。
 「真の一家の幸福と平和を築かれん事を祈る」
 そして、末尾に「……夫妻殿」と記したのである。
17  萌芽(17)
 アメリカの場合、夫は信心をしていなくとも、学会の会合に参加する妻を、車で送り迎えしてくれるケースは珍しくない。
 そして、妻を会場に送り届けると、夫は、会合が終わるまで待っているのである。
 テツヤ・ハガも、妻の送迎はしていたが、信心には反対であり、仏壇を隠してしまうこともよくあった。
 その彼が入会するようになったきっかけは、妻を送り迎えするうちに親しくなった、いわば″送迎仲間″の一人であるタッド・フジカワが、信心を始めたことであった。
 最初、彼らは、会合が終わるのを待ちながら、ともに学会を批判しては、妻が信仰していることを嘆き合っていた。
 ところがフジカワが、妻に付き添い、アメリカの第二回の団体登山に参加したのだ。前年の五月のことである。
 彼は、妻に請われて、仕方なく日本に行ったにすぎなかったが、アメリカに帰って来た時には、考えは一変していた。
 日本で、第二十四回本部総会などに参加したフジカワは、そこで直接、山本会長の指導や学会の真実の姿に触れて感動し、入会したのである。
 フジカワは、弘教にも挑戦し、最初に仏法の話をしたのが、″送迎仲間″のハガであった。
 ハガは、フジカワの変わり様に驚いた。
 ハガ自身も、信心に反対し続けているなかで、交通事故を起こし、″俺も信心をした方がよいのかもしれない″と、思い始めていたところであった。
 こうして入会したハガが目覚ましい成長を遂げ、セントルイス地区の地区部長の候補となり、また、フジカワも、ボイルハイツ地区の地区部長の候補となったのである。
 山本伸一は、面接に来たメンバーに、仕事の状況などを尋ねながら、学会の幹部として、役職を全うしていけるかどうかを確認していった。
 皆、幹部としての責任を果たし、広宣流布に生きる決意を固めていた。
 ロサンゼルス支部を結成した時には、支部長のアキオ・イシバシや支部婦人部長のキヨコ・クワノでさえも、ひとたびは就任を辞退したほどであった。
 それが今や、面接にやって来た、すべてのメンバーが、戦う決意に燃えているのである。
 アメリカのメンバーが大きく成長したことを、伸一は実感した。
 ちょうど、面接が終わったころ、一人の日系人らしい壮年が、キッチンのドアから部屋に入って来た。
18  萌芽(18)
 山本伸一が尋ねた。
 「クワノさんのご主人ですか」
 「はい、夫のバートです。ランチを食べに、戻ってきたんです」
 キヨコ・クワノが代わって答えた。
 バートは、ハワイ出身の日系二世で、マーケットのマネジャーをしていた。彼は未入会で、どちらかといえば、妻の信心を苦々しく思っていることを、伸一は耳にしていた。
 「そうですか。お世話になっております」
 伸一はこう言うと、居住まいを正して、深々と頭を下げた。
 「私が会長の山本でございます。
 いつも、お宅を会場として使わせていただき、ありがとうございます。また、奥様には、支部の婦人部長として、日々、ご活躍いただいております。それも、ご主人のご理解、ご協力があるからであり、感謝に堪えません」
 丁重なあいさつに、バートも恐縮し、慌てて居住まいを正した。
 それから、二人の語らいが始まった。バートは、信心を勧められることを恐れているようであった。
 伸一は言った。
 「ご主人は、無理に信心をする必要はありません。一生懸命に信心に励んでいる奥様に協力し、陰で支えてくださっているのですから、それ自体、信心をしていることと一緒です。あなたも、ご一家も、その福運によって、必ず守られ、栄えていきます」
 バートは、その言葉を聞くと、安心したように笑みを浮かべた。
 その時、伸一は、ベッド・ルームから、こちらを覗いている四人の男の子がいることに気づいた。クワノ家の子供たちである。
 「こちらへ、いらっしゃい。カム・ヒア」
 伸一が呼ぶと、子供たちは、恥ずかしそうに彼の前に来た。一番上の子が十四、五歳で、小さな子は六歳ぐらいであった。
 「お土産をあげたいが、今日は持ってこなかったので、お小遣いをあげよう」
 伸一は、財布を取り出すと、「いつも、お留守番ありがとう」と言いながら、一人に一ドルずつ手渡していった。
 「しっかり勉強してね」
 やがて、この子供たちの時代が来ると思うと、励ましにも力がこもった。
 帰り際に、伸一は、バートと握手を交わした。
 「私たちは、友達になりましょう。またお会いする日を楽しみにしています」
 バートは、微笑みを浮かべて、強く伸一の手を握り締めた。それから一年足らずのうちに、バートは入会したのである。
19  萌芽(19)
 クワノの家から帰る山本伸一たちを、車で送ってくれたのは、女子部のチカコ・ハヤシダであった。
 彼女は、ロサンゼルス郡立病院に勤める看護婦で、肺疾患の病棟の夜間業務を任されていたが、それ自体が信仰の実証であった。
 ハヤシダは、ワシントン州生まれの日系三世であった。太平洋戦争で日米関係が険悪になると、一家は日系人収容所に入れられ、そこで幼少期を過ごした。
 戦後は日本に引き揚げ、熊本で暮らした。そして、高校から看護学校に進み、看護婦になると、実兄のいるアメリカに渡った。
 アメリカ生まれとはいっても、英語がまるでわからない彼女は、ロサンゼルスの日本人病院で、看護婦の手伝いとして働いた。
 そして、その病院に勤めていた、メンバーのカズコ・エリックから、初めて仏法の話を聞かされたのである。人間が生きるうえで、宗教は必要だと考えていたハヤシダは、素直に入会を決意した。
 彼女は、信心に励むうちに、学会員ならば、社会で実証を示さなければならないと考えるようになった。そのためには英語をマスターすることだと思い、夜学に通って英語を学んだ。
 更に、アメリカの看護婦の資格を得るために、ロサンゼルス郡立病院の実習生となり、免許を取得した。
 彼女は、そのまま看護婦としてこの病院に勤務することになり、やがて、肺疾患の病棟の夜間業務を任されるようになるのである。
 また、一九六〇年に山本会長が初訪問した折に、日系人のメンバーに、「市民権を取得し、良きアメリカ市民に」「自動車の免許を取得する」「英語をマスターする」の三指針が示されると、車の免許を取ることにも挑戦した。
 彼女にとって、車の免許を取るのは、時間的にも、経済的にも大変だった。でも、それが広宣流布の前進につながると思うと、闘志がわいた。
 メンバーの女性たちのなかで、真っ先にドライバーのライセンスを取得したのが彼女であった。
 眼前の課題に一つ一つ挑戦し、勝利していくなかに、栄光の未来が開かれる。人生の勝利者とは、今日を勝ち抜く人である。
 ハヤシダは、早速、ローンで車を購入した。職場で信頼を勝ち得ていたことから、収入も増えていた。彼女は、その車にメンバーを乗せては、カリフォルニアの大地を弘教に疾駆した。
 ハヤシダは、山本会長がアメリカに来たら、ぜひ、自分の車に乗ってもらいたいと思い続けてきた。会長の指導を実現した姿を、見てほしかったのである。
20  萌芽(20)
 アメリカの日系人のメンバーは、山本伸一が示した三指針の重要性を身に染みて感じ始めていた。
 チカコ・ハヤシダに限らず、三指針を実践したメンバーは、驚くほど早く、アメリカ社会に根差すことができたからである。
 アメリカで長年暮らしてきた、ある日系の婦人は、メンバーから三指針を聞いて、こう語ったという。
 「それは、私たちが何十年も住んで、どうすればアメリカ社会に根づくことができるのかを考え抜いた末に、やっと、導き出された結論なんです。創価学会の皆さんが、いち早く、そこにたどりついてしまったなんて驚きです。
 学会の皆さんは、きっと成功すると思います」
 ハヤシダは、伸一たちを車に乗せると、事故を起こさないように慎重に、またエンジンの音も控え目にしながら、静かに運転した。
 「運転が上手だね」
 伸一が言った。
 彼女は嬉しかった。
 「ところで、今、女子部は何人ぐらいいるの?」
 「はい。二十一人になりました」
 「そうか。増えたね」
 ハヤシダは、伸一の初訪問の時に、女子部の区長に任命になった。区長というのは、現在でいえば、地区リーダーといってよい。
 その時には、女子部員として、ともに活動する人は誰もいなかった。
 そもそも、アメリカで入会した彼女は、女子部がどういう部なのかも、よくわからなかったのである。
 だから、任命は受けたものの、責任を全うできる自信はまるでなかった。そこで、伸一に同行して来た、青年部長の秋月英介や、婦人部長の清原かつに、役職は辞退したいと申し出た。しかし、二人に説得され、区長になったのである。
 彼女は、日本から機関紙誌を取り寄せ、女子部に関する記述を読みあさり、女子部の使命と活動を学ぶことから始めた。
 使命を自覚した彼女は、女子部に該当する、若い女性がいると聞けば、どこまでも愛車を駆って激励に走った。
 ところが、メンバーから質問をされても、答えられないことが多かった。
 だが、幹部である自分の責任を思うと、わからないですませるわけにはいかなかった。家に帰ると、何度も機関紙などを読み返しては、どう語れば、相手が納得できるかを考え、懸命に唱題した。
 彼女は、状況の厳しさを理由に、力不足を正当化するのではなく、すべて自分が受けて立とうと、心に決めていた。人はそのなかで、最大の力を発揮していくことができるのである。
21  萌芽(21)
 チカコ・ハヤシダは「真剣」であった。
 「真剣」とは、命をかけることである。その決定した一念から発する、正義と誠実の叫びが、友の閉ざされた心の壁を破り、共感の調べを奏でるのだ。
 彼女の胸に刻まれた「真剣」の二字が、アメリカ女子部の大いなる飛躍を可能にしたのである。
 使命に目覚めた一人が立ち上がれば、波が起こり、広布の渦潮ができる。戦後の学会の歴史も、戸田城聖が一人立ったところから始まっている。いかに時代が変わっても、その原理は不変である。
 地道に活動を続け、二十一人の組織をつくりあげたハヤシダの顔は、輝きを放ち、はつらつとしていた。
 人に仏法を教え、信心に目覚めさせるには、その人の人生と深く関わり、同苦し、真剣な祈りを捧げていかざるを得ない。
 そして、相手が信仰によって苦悩を克服した時には、その喜びと体験を共有することができる。この積み重ねが、自身の仏法への確信を強め、不屈の信仰をつくりあげていく。
 つまり、学会活動こそ、自己の成長と境涯革命の原動力となるのである。
 この日の午後は、ロサンゼルス支部の教学試験が行われた。
 試験は、ロサンゼルスとサンディエゴの二会場に分かれて実施され、任用・昇格試験を合わせ、二百五十人が受験した。いずれも口頭試問である。
 山本伸一は、ロスの会場となった日本語学校で、受験者を励ました。
 「本日は、大変にご苦労様です。
 皆さんのなかには、″なぜ、難しい教学なんてやるのだろう。お題目を唱えて功徳があれば、それで十分だ″と思っている方もいるのではないでしょうか。
 正しい信仰には大功徳がありますが、同時に必ず難もあります。その時に教学がないと、信心に疑問をいだくようになってしまう。
 戦時中、軍部政府の弾圧によって、牧口先生、戸田先生が逮捕された時、幹部は皆、退転してしまった。教学がなかったからです。
 しかし、教学を身につけていれば、なぜ、正しい信仰に難が競い起こるのか、どうすれば一生成仏できるのかがわかります。
 また、仏法を語る場合も、なぜ大聖人の仏法が偉大なのか、正しい宗教とは何かなど、理路整然と語り、納得させることができる。
 だから、大聖人は『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず』と、『行』とともに『学』の重要性を強調されているのです」
22  萌芽(22)
 山本伸一は、教学を研鑚する異議を、わかりやすく語った後、こう激励した。
 「学会の試験は、皆さんが教学を研鑽するうえの、励みとなるために実施しているのです。
 大事なことは、生涯、教学を研鑽していこうとの決意を固めるとともに、試験を通して学んだことを、一言一句でも実践していくことです。めざすべきは、″信心の合格者″″幸福の合格者″です。
 ところで、今日の試験については、私は直接、担当しないことにします。私が試験を担当すると、ついつい甘くなり、全員、合格にしてしまいそうなのです。
 ここにいる副理事長の十条さんをはじめ、教授の先生方も、教学試験は厳正なものなのだから、会長は担当しない方がよいという意見なのです」
 どっと笑いが起こった。試験を前にして、険しい顔をしていたメンバーの表情が一変した。
 「今日は、子供さんを連れてこられた方も、大勢、いらっしゃるようなので、皆さんが試験を受けていらっしゃる間、私が子供さんたちと遊んでおります。
 どうか、安心して試験を受け、日ごろ蓄えた力を発揮してください」
 伸一の話を聞いているうちに、皆、ほのぼのとした気持ちになっていった。
 試験会場に来るだけで、人の心は緊張しているものだ。彼は、その緊張を解きほぐしたかったのである。
 どうすれば、一人ひとりが最高に力を出せるのかを、常に考えていくことが幹部の責任である。
 皆の心を知り、緊張があれば解きほぐし、不安があれば安心させ、自信と希望と勇気と活力を与えていってこそ、本当のリーダーといえよう。
 伸一は、それを、正木永安らのアメリカの幹部に、教えておきたかったのだ。
 彼は、校庭に出ると、子供たちとバスケットボールを始めた。
 伸一が手にしたボールを、一人の少年が素早く奪っていった。少年は、上手にドリブルしていたが、しばらく行くと足を止め、振り返った。その瞬間、伸一がボールを奪い返した。
 「油断したな。せっかくボールを手にしても、気を緩めると、また、取られてしまうよ。最後まで、勢いのある方が勝つんだ」
 彼が話しているすきをついて、今度は、別の少年がボールを奪った。
 この微笑ましい光景に、メンバーは、山本会長という存在が身近に感じられ、嬉しくなった。
 受験者は、伸び伸びとした気持ちで試験に臨み、いかんなく力を発揮したようであった。
23  萌芽(23)
 教学試験の後は、ロサンゼルスとサンディエゴで御書講義が行われた。
 翌十二日も、一行は人事の最終検討を重ね、更に、個人指導に力を注いだ。
 そして、夜には、ロサンゼルスでのメーン行事となる、アメリカの西部総会に出席した。
 会場は、ロスのダウンタウンにあるエンバシー・ホールであった。総会には、サンフランシスコやシアトルからも、メンバーがバスを仕立てて集って来た。
 会場は、詰めかけた千人ほどの人たちで、熱気に包まれていた。
 山本伸一が入場すると、メンバーは大きな拍手で彼を迎えた。初のアメリカ西部総会の開会が宣言され、体験発表が始まった。
 人生の波浪を乗り越えた体験は、人間の凱歌の証である。それは、広宣流布の確かなる軌道を進みゆく人の、頭上に輝く栄冠といえる。ゆえに、常に広布の大道をわが行路と定め、一つ一つの活動に、宿命の転換をかけ、全力で挑戦していくことだ。
 登壇したのは、マサコ・クラークというシアトル地区の地区部長をしている女性であった。
 彼女は、二年三カ月前に、伸一が初めてロサンゼルスを訪問し、支部結成式が行われた折、夫の仕事の関係で、シアトルに転居しなければならないことを報告してきた人であった。
 その時、伸一は、彼女の持っていた本に、「妙法に照らされ 女王の如く舞いゆけ」と揮毫し、前途を祝福したのである。
 その彼女が、自らの体験を語り始めた。
 ――マサコ・クラークの夫のハリーは、アメリカ軍の将校であったが、かつて原爆の開発実験の折に、灰を浴びていた。そのため体も弱く、医師からは、子供をつくることも難しいと言われていたのである。
 マサコは、一九五五年(昭和三十年)に日本で入会したが、夫のハリーは未入会であった。
 それから二年ほどしたころ、ハリーが胃潰瘍で倒れてしまった。しかし、彼女の必死の祈りが通じたのか、絶望視された夫の病は、奇跡的に回復した。
 そして、五九年(同三十四年)に、夫の勤務地がアメリカ本国に変わり、彼女も渡米して、サンディエゴで暮らすようになった。
 彼女は英語はまだ上手ではなかったが、宿命の転換を決意して、懸命に布教に励んだ。
 それから間もなく、彼女は妊娠した。翌年七月、女の子を出産。その時、夫は日本に出張中であった。
 彼女は夫に、出産の喜びを手紙に認めて送った。ハリーは感激した。
24  萌芽(24)
 子供の誕生を契機に、マサコ・クラークの夫のハリーも、信心を始めるようになった。 それから三カ月後、山本会長がアメリカを訪問し、ロサンゼルス支部が結成され、そこで彼女は、会長に激励されたのである。
 彼女は、その後、間もなく、夫の転勤でサンディエゴからシアトルに移った。
 そして、シアトルの地区担当員になったが、しばらくすると、地区部長だった女性が組織から離れていった。事実上、地区部長不在のまま、マサコ・クラークが中心になって、活動を進めなければならなかった。
 その時、彼女は自らに言い聞かせた。
 ″少しでも人を頼ろうとする心があれば負けだ。私が立たずして、誰が立つのか。今、立ち上がらずして、いつ立ち上がるのか。
 広宣流布の全責任を担って立つのが、学会の師弟の道ではないか!″
 彼女は、山本会長のロサンゼルスでの激励を思い起こし、あの揮毫を胸にいだいて、地区の建設に取りかかった。妙法の先覚者の勇気は、必ず新しい道を開くと心に決めて。
 来る日も、来る日も、彼女は友の家々を訪ねては語り合い、学会の正義と仏法の真実を訴え続けた。
 やがて、マサコ・クラークが地区部長になると、シアトル地区は大きく発展していった。
 一九六二年、彼女は二人目の子供を身篭もった。夫のハリーも仏法の計り知れない力を実感していた。
 十二月、遂に、第二子が誕生した。今度は男の子であった。
 ハリーの喜びは大きかった。妻に付き添っていた夫は、病室を出ると、出産を祝って、ランの花を買って来た。
 だが、なんと、その日に、ハリーは再び胃潰瘍で倒れてしまったのである。
 妻と同じ病院に夫も入院した。何日間か昏睡状態が続いていたが、意識が戻ると、彼は妻に、一緒に勤行をしたいと言い出した。
 夫妻は病室で勤行し、唱題した。そして、ハリーは、安らかに息を引き取ったのである。
 最愛の夫を亡くした悲しみに、彼女は途方に暮れた。しかし、経済的には困ることはなかった。夫の残した遺産は、二人の子供を養育するうえで十分すぎるくらいあったし、年金も支給され、その後のマサコの生活は保障されていた。
 西部総会の壇上で、彼女は、ここまで語ると、言葉を詰まらせた。その目に涙があふれた。夫が他界してから、まだ、ほんの十数日しかたっていない。
 会場のメンバーも、皆、目頭を潤ませていた。
25  萌芽(25)
 マサコ・クラークは、涙を拭い、話を続けようとしたが、言葉はすぐに涙でとぎれた。
 「すいません……」
 彼女は参加者に詫びながら、会場一階の最前列の席に視線を注いだ。
 そこには、額に入った夫の遺影が立て掛けられてあった。彼女は、山本会長が出席する西部総会に、夫とともに参加したいと願ってきた。しかし、その夫が他界した今、せめて写真だけでもと、持参してきたのである。
 彼女は、その写真を見ると、毅然として顔を上げ、力強い口調で語り始めた。
 「愛する夫に先立たれ、アメリカの地で、子供をかかえて生きることは、これまでの私なら、とうてい、できなかったと思います。
 しかし、私には御本尊様があり、たくさんの同志がおります。
 私がめそめそして、悲しんでいれば、霊山の夫も悲しんでいるに違いありません。また、私が広宣流布の決意に燃えていれば、夫も喜んで声援を送ってくれているはずです。
 夫は私に、二人の子供を残してくれました。私には母として、この子供たちを広宣流布の人材に育て上げる責任があります。
 そして、何よりも私には、シアトルの広布を、アメリカの広布を、成し遂げていく使命があります。その尊き使命を果たしゆくために、強く、強く生き抜き、幸福の女王の実証を示してまいる決意です。
 本日は、大変にありがとうございました」
 大拍手がわき起こり、しばし鳴り止まなかった。
 使命に燃える心には、黄金の光彩がある。それは、勇気と希望の光源となり、いかなる苦しみ、悲しみの闇をも、絢爛たる光の世界へと変えていく。
 彼女の体験と決意は、強く参加者の胸を打った。
 西部総会では、同行の幹部のあいさつの後、アメリカの新たな組織の布陣が発表された。
 まず、アメリカ総支部長に正木永安が、総支部婦人部長に春山栄美子が就任したことが紹介された。
 ついで、新たな人事の発表があり、副総支部長に、ロサンゼルス支部長兼任でアキオ・イシバシが、総支部副婦人部長に、ユキコ・ギルモアがサンフランシスコ支部長兼任で就任した。
 また、青年部では、中原雄治が男子部の北米部の副部長になり、チカコ・ハヤシダが女子部のロサンゼルス支部の責任者になった。
 更に、ロサンゼルス支部には、新地区も結成され、伸一が目を見張ったように、新たに、何人かの男性の地区部長も誕生したのである。
26  萌芽(26)
 続いて、新任の幹部の抱負となり、皆、力強く、広布への決意を語った。
 更に、十条潔があいさつに立ち、このたび、ロサンゼルス会館がオープンする運びとなったことを発表した。
 そして、十条は、この会館は、アメリカ総支部の事務所、また、聖教新聞のロサンゼルス支局などとして、使用していく予定であると述べ、アメリカの発展を祝福した。
 いよいよ、会長山本伸一の指導である。
 彼は笑顔で語りかけた。
 「グッドイブニング!
 お久しぶりです。
 また、本日は、シアトルをはじめ、サンフランシスコなど、遠くからはるばるお出でくださり、大変にご苦労様です。
 さきほどから、皆さんの功徳と歓喜にあふれた姿を拝見していて、私は、ロサンゼルスにも、いよいよ春が来たとの実感を深くしておりました。
 厳しい冬の試練に耐え、種子は萌芽の春を迎える。人生もまた、労苦を乗り越えてこそ勝利があり、そこに大歓喜が生まれる。逆に、労苦を避け、挑戦の心を失えば、最後は敗北であり、後悔しか残らない。
 ゆえに″今日もまた、困難の森を切り開け!″″明日もまた、広宣流布の汗を流そう!″と、私は申し上げておきたい。
 さて、大切な話は、これまでの幹部の話で尽きていますので、私は、皆さんの質問を受けたいと思います。もし、聞きたいことがあれば、なんでも遠慮なく質問してください」
 何人かの手があがった。
 質問の内容は「五陰世間とは何か」といった教学の問題から、アメリカでのキリスト教の文化的習慣を、どうとらえればよいかなど多岐にわたった。
 なかには、「学会歌には、昔の日本の軍隊の歌もありますが、なぜ、そうした歌を歌うのでしょうか」という質問もあった。
 草創期には、作曲のできるメンバーもいなかったことから、軍歌を学会歌としたり、軍歌の歌詞の一部を変えて、歌ってきたこともあったのである。
 伸一は答えた。
 「同じ曲であっても、歌詞によって歌の精神は違ってくるし、また、同じ歌詞であっても、とらえ方によって、意味が全く異なってきます。
 古い学会歌のなかには、軍歌であった歌もありますが、私たちは、人類の幸福と平和を実現する、広宣流布への決意の歌として歌っているのです。
 そして、実際に、その精神を感じ取ることができるからこそ、皆が共感し、歌い継がれてきたのです」
27  萌芽(27)
 山本伸一は、微笑みながら言った。
 「これまで、学会歌は日本で作り、皆さんも、それを歌ってきましたが、これから先も、そうしなければならないということはありません。
 今までの歌は、どうも感覚が違うなと思うなら、皆さんが、新しい学会歌を作ればよいのです。
 その歌が共感を呼べば、日本でも、更に、全世界でも歌われていくようになるでしょう。
 将来は、英語の学会歌を日本でも歌う時代が、きっと来ますよ」
 更に、質問のなかには、御書や学会の指導を、もっとたくさん英訳してほしいとの要請や、英語版の聖教新聞を発刊してほしいとの意見もあった。
 メンバーは皆、真剣にアメリカの広宣流布のことを考えていることが、それらの要望からも、よくわかった。伸一は、その心意気が嬉しかった。
 彼は、十問ほどの質問に答えた後、こう語って、指導を締め括った。
 「皆さんは、愛するアメリカのために、友の幸福のために、決然と立ち上がり、人生の闘争を開始された。言葉の壁、文化の壁も厚いなかで、苦労に苦労を重ね、歯をくいしばって頑張り抜いてこられた。
 それは、すべて皆さん自身の偉大なる功徳となり、福運となっていくことは間違いありません。自分が動いた分だけ、苦労した分だけ、自分を輝かせていけるのが仏法です。
 その皆さんの努力によって、アメリカの組織は、ここまで発展した。しかし、まだまだ草創期であり、これからも、多くの困難が待ち受けているでしょう。
 でも、アメリカを救うには、仏法の平和と人権の思想を、生命の尊厳と慈悲の哲理を、民衆一人ひとりに伝え、弘めていく以外に道はないのです。
 ゆえに、更に私とともに、妙法の種子を、幸福の種子を、このアメリカの大地に蒔き続け、われらの手で、広布の荘厳なる凱歌の歴史を、開いてまいろうではありませんか! また、人生の大勝利を飾ってまいろうではありませんか!」
 雷鳴のような大きな拍手がわき起こった。メンバーの顔は決意に燃えていた。
 広宣流布の若芽は、今、アメリカの大地に萌え、新しき朝の、新しき春の到来を告げていた。
 西部総会を終えて、伸一が控室に入ってしばらくすると、幹部が次々とあいさつに来た。皆、頬を紅潮させていた。
 彼は笑顔で、一人ひとりを迎えた。
 「アメリカの新出発、本当におめでとう!」
28  萌芽(28)
 山本伸一は、控室に来たメンバーに声をかけ、お土産に用意してきた三百万世帯達成の記念のメダルや袱紗、書籍などを贈り、励ましていった。
 そのなかに、マサコ・クラークの姿もあった。
 伸一は、彼女を見ると、傍らのイスに座るように勧めた。
 「すばらしい体験発表でした。感動しました。
 これから先、辛いことも苦しいことも、たくさんあるでしょう。しかし、決して負けてはいけません。
 ご主人の成仏は、残されたご家族が、幸福になって生きていくことによって証明されるからです。だから周囲から羨ましがられるぐらい、幸せになっていくのです。また、絶対に、そうなれます。
 そして、ご主人が残された二人の子供さんを、立派な広宣流布の人材に育てることです。それがご主人への愛情です」
 伸一は、そう言うと、学会の最高幹部の金のバッジを取り出した。
 「このバッジを、今度、生まれた男の子に差し上げましょう。大きくなって、学会活動をする時につけさせてください。
 頑張るんですよ。何があっても負けてはいけない」
 伸一が、金のバッジを渡して握手をすると、彼女は涙ぐみながらも、決意のこもった声で、「はい!」と答えた。
 彼はここでも、最後の最後まで、同志の激励に全力を傾けた。今日という日は二度と来ない。その時を逃せば、皆の飛躍のチャンスを逸してしまう。
 更に伸一は、ホテルに戻ると、次の訪問地であるニューヨークをはじめ、アメリカの各地の組織の検討を行った。
 ニューヨークまでは、皆が一緒に行動するが、その後、伸一は、十条潔と正木永安を連れてヨーロッパに向かい、そのほかの幹部がアメリカ各地を回って、支部や地区を結成することになっていたからである。
 ニューヨークでは、支部を結成することが予定されていた。そこで出された支部長の人事案のなかに、春山栄美子の夫の富夫の名もあった。それを見ると、伸一は言った。
 「そうだな。支部長は春山富夫さんかな。
 春山さん、あなたのご主人に、明日、ニューヨークの空港に来るように伝えてもらえますか」
 翌朝、一行はロサンゼルスを発ち、夕刻にニューヨークに着き、その夜には、ニューヨーク支部結成式を兼ねた東部総会が開かれることになっていた。
 伸一が春山富夫と会うというのは、人事の面接のためであった。
29  萌芽(29)
 春山栄美子は、山本伸一に言った。
 「山本先生、うちの主人が支部長になるなんて、とても無理だと思います。
 仕事も忙しいですし、幹部として活動したこともありません。勤行がやっとという状態ですから。
 それに、支部長の候補として名前があがっているほかの方のなかに、もっとすばらしい方がいらっしゃいます……」
 春山は、口には出さなかったが、何よりも、夫の富夫自身が、支部長を引き受けたりはしないだろうと思っていた。
 伸一は、これまでに富夫とは、一、二度会っていたし、栄美子との結婚が決まった時には、二人を食事に招き、妻の峯子と四人で語り合ったこともあった。彼はそのなかで、富夫の資質を見抜いていたのである。
 伸一は言った。
 「私は、ご主人には、ニューヨークの支部長だけでなく、男子部の北米部の部長も兼任してもらおうと思っている。
 あなたは、ご主人のことは、妻である自分が一番よく知っていると思っているかもしれないが、一緒に生活しているからといって、その人の真価がわかっているとは限らないものだよ。
 彼は広宣流布の使命を自覚していけば、大きな力を発揮していくに違いない」
 そう言われても、栄美子は、不安を拭えなかった。
 ニューヨークの人事についで、シアトルの組織の検討に入った。
 ここにも、支部を結成することになっていたが、支部長にふさわしい壮年はいなかった。
 候補として名前が出ていたのは、あのマサコ・クラークであった。
 「どうでしょうか」
 十条潔が伸一に尋ねた。
 「クラークさんは、これまでシアトルの地区部長として、中心になって頑張ってきた人だ。
 ご主人を亡くされ、子供さんも小さくて大変だろうが、彼女なら大丈夫だろう。真剣に頑張り抜いてきた人だけに、きっと、シアトルをすばらしい支部にするよ。
 また、支部長になれば大きな生きがいができる。彼女のためにも、その方がよいだろう」
 次々と組織の検討が行われ、ホテルの部屋の明かりは深夜まで消えなかった。
 そして、翌十三日の朝には、一行はロサンゼルスを飛び立ち、ニューヨークに向かっていた。
 広宣流布とは、常に新しき希望への旅立ちである。
 アメリカ大陸を横断する五、六時間の飛行だが、ニューヨークに到着した時には、時差の関係で夕刻になっていた。
30  萌芽(30)
 ニューヨークの空港では、五十人ほどのメンバーが、元気に一行を出迎えた。
 そのなかに、春山富夫の姿もあった。
 山本伸一は、出迎えのメンバーに、丁重に感謝の言葉を述べると、彼に語り始めた。
 「春山さん、今日、ニューヨークに支部を結成しますが、あなたに、その支部長になってもらおうと考えています。
 また、併せて、男子部の北米部の部長もやってもらおうと思っています」
 春山富夫は、驚きの表情を浮かべ、黒ぶちのメガネに手をあて、伸一の顔をまじまじと見た。それから、キッパリと言った。
 「そんな大任は、私にはとても果たせません。お断りいたします」
 妻の栄美子は、富夫が失礼なものの言い方をするのではないかと、ハラハラしながら、傍らでそのやりとりを見ていた。
 「いや、あなたならできると、私は信じています。
 それに、何も初めから、完璧なものを求めているわけではありません。
 たとえば、ロサンゼルスの支部長のイシバシさんも、最初は何もわからなかった。しかし、学会本部と連携を取り、何をすればよいのかを学びながら活動し、支部長として立派に成長しています。
 この人事は、未来を期待しての人事であり、要は、あなたに、その決意があるかどうかです」
 富夫は、困惑した顔で尋ねた。
 「では、具体的に、どんなことをすればよいのでしょうか」
 「そうだな、奥さんは、子供が生まれるということだから、しばらくは大変になると思うので、土曜日や日曜日に車を運転して、活動に連れていくことから始めてほしい」
 「ああ、運転をしろということですね。運転手の支部長ですか」
 伸一は、声をあげて、笑いながら答えた。
 「そうです。最初は、それでいいんです」
 「そのぐらいでしたら、できないことはないと思いますが……」
 「よし、決定だ!」
 同行の幹部は、富夫を、不安そうな顔で見ていた。
 伸一は、空港に出迎えてくれた矢部孝一という壮年と、車で一緒に、彼の自宅に向かった。
 そこで、支部結成大会の式次第などの、最終的な打ち合わせをすることになっていたのである。
 矢部は、一九五三年(昭和二十八年)の入会で、海運会社のニューヨーク支店長として赴任している、社会的にも信頼の厚い、五十三歳の紳士であった。
31  萌芽(31)
 市街に向かう道路は水に濡れ、ヘッドライトの光が反射していた。
 矢部孝一の話では、しばらく前まで激しい雨が降っていたが、山本伸一の到着前にあがったのだという。
 伸一は、諸天の加護を感じた。もし、ニューヨーク支部の結成大会となる東部総会の時に、雨が降っていれば、参加者が大変な思いをしなければならない。
 矢部の家には、十人ほどの地元のメンバーが集っていた。伸一は、支部結成大会の打ち合わせは同行の幹部に任せ、メンバーと懇談会を開き、質問を受けた。
 ニューヨークでも、明日、教学試験を行うことになっていたせいか、質問はすべて教学のことであった。
 伸一がニューヨークを初めて訪問し、座談会を開いた時には、自分の境遇に打ちひしがれ、幸せになれると聞いても、「アンビリーバブル(信じられない)」「インポッシブル(不可能だ)」と、何人もの人が声をあげ、会場が騒然としたほどであった。
 それが今は、喜々として教学の質問をし、求道の心をたぎらせて、真剣に仏法を学ぼうとしているのだ。
 伸一は、ニューヨークのメンバーも、大きく成長したことを感じていた。
 伸一の回答にも力がこもった。
 彼は問いが発せられるたびに、「大事な質問です」「いい質問ですね」と称賛しながら、わかりやすく答えていった。
 何問かの質問を受けているうちに、東部総会の開会時刻が近づいてきた。皆、残念そうであったが、質問会は打ち切られた。
 メンバーも、同行の幹部も、急いで会場に向かったが、伸一は、まだ出発するわけにはいかなかった。彼は、アメリカの創価学会の法人設立について、矢部と打ち合わせをしなければならなかったのである。
 学会は日本では宗教法人として認証を受けていたが、各国で社会に根差した活動を展開していくには、それぞれの国で法人格を取得していく必要があると、伸一は考えていた。
 仏法は本来、全世界の人びとのために説かれたものであり、創価学会もまた、日本だけのものではない。
 信心という根本は同じだが、それぞれの国に創価学会をつくり、メンバーはその国の良き市民となり、各国の実情に即した自主的な活動を展開しながら、人びとの幸福を築いていくべきであるというのが、彼の信念であった。
 矢部は、仕事の関係もあり、現地の法人の設立についての知識も豊富であったし、アメリカの法律に詳しい専門家の人たちとの交友もあった。
32  萌芽(32)
 矢部孝一は、山本伸一から、アメリカでの創価学会の法人格の取得の話を聞くと言った。
 「そうですか。そこまでお考えになっていたのですか。それは、今後のことを思えば、絶対に、必要なことですね。
 わかりました。具体的な手続きについて、私の方で調べ、ご報告いたします」
 矢部は、伸一から相談を受けたことが嬉しかった。彼が、学会についてきたのは、伸一の人柄に負うところが大きかったのである。
 矢部が日蓮大聖人の仏法の話を聞いたのは、戸田城聖からであった。一九五三年(昭和二十八年)の春、妻の華恵の弟である十条潔の結婚式で、彼は戸田と初めて会った。
 華恵は学会に入会していたが、矢部は信心には反対であった。その折の語らいのなかで、戸田が矢部の宗教観の誤りを鋭く指摘すると、彼は素直に話を聞けず、戸田に腹を立てた。
 ところが、それから一カ月ほどして、仕事のうえで行き詰まりが生じた。彼は悩み続け、遂にノイローゼぎみになってしまった。
 そして、それが契機となって、矢部は信心に目覚めたのである。
 それからは戸田を慕い、個人的に指導を求めるようになっていった。しかし、戸田が逝去すると、彼は信心の意欲を、全くなくしてしまった。「戸田先生のいない学会には、ついていきたくない」というのだ。
 やがて伸一が会長に就任してまもなく、矢部はアメリカに行くことになった。彼の義弟にあたる十条潔は、その話を聞くと、ぜひ渡米前に、山本会長に会うように勧めた。義弟の強い勧めに、彼は、しぶしぶ学会本部を訪ねた。
 伸一は、丁重に矢部を迎え入れ、礼を尽くして応対し、渡米を祝福した。
 矢部は伸一よりも、十八歳も年長であったが、自分のことを心配し、励ましてくれる青年会長の誠実さに、心を打たれた。
 また、人類の平和と幸福を熱願し、そのために世界に仏法を流布しようとする、伸一の気概とスケールの大きさに魅了された。
 矢部の胸に、再び学会についていこうとの思いがわいてきた。人間を触発するのは人間である。
 矢部は今、ニューヨークで伸一に再会できたことに喜びを覚えながら、自分にできる限りのことはしようとの決意を固めていた。
 伸一は言った。
 「ところで、矢部さんには総支部の顧問に、奥様には、クイーンズ地区の地区担当員兼任で、支部の婦人部顧問になっていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
 矢部も、傍らにいた妻の華恵も笑顔で頷いた。
33  萌芽(33)
 ニューヨーク支部の結成大会となる、アメリカ総支部の東部総会は、ワシントン、シカゴなどからもメンバーが参加し、二百人ほどが集い、日本クラブを借りて行われた。
 山本伸一が会場に到着した時には、既に東部総会は始まっており、ちょうど十条潔が、ニューヨーク支部の結成を発表したところであった。
 支部結成の喜びにわき返るなか、伸一が、会場に姿を現すと、大歓声が起こった。
 「やあ、こんばんは!
 いや、そのまま続けてください」
 伸一に促され、十条は、地区幹部の人事を読み上げていった。
 ニューヨーク支部は、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴ、ワシントン、ハワイに次いで、アメリカ六番目の支部として、六地区の布陣で出発することになった。
 この後、伸一が、アメリカ総支部、ニューヨーク支部の人事を紹介した。
 「これはハワイで決定をみた人事ですが、このたびアメリカ総支部の総支部長に正木永安さんが、総支部婦人部長に春山栄美子さんが任命になりました。
 また、これまで、総支部長、総支部婦人部長であった十条さん、清原さんは、ともに総支部の顧問として皆さんを応援することになっております。
 更に、新たに矢部孝一さんが、同じく総支部の顧問となります。
 男子部では、春山富夫さんが北米部の部長に就任いたします。
 次に、ニューヨーク支部の支部幹部の人事を発表します。
 支部長には、男子部の北米部長兼任で春山富夫さん、支部婦人部長には、これまでワシントン支部の婦人部長をしていただいたユキコ・ニシノさんが就任いたします。
 また、支部幹事には杉原光男さんが、支部の顧問には、これまでワシントン支部の顧問であったロバート・ニシノさんが、支部の婦人部顧問に矢部華恵さんが就任します。
 それでは、新任の幹部の皆さんに、あいさつをしていただきます」
 新任の幹部が、次々と登壇し、抱負を述べ始めた。
 春山栄美子は、夫の富夫が何を言うのか、心配でならなかった。
 富夫は山本会長に言われ、支部長と男子部の北米部長を引き受けはしたものの、これまでの彼の言動から考えて、幹部として、皆を鼓舞していくような決意を発表するとは、とても思えなかった。
 栄美子は、気がつくと、心で題目を唱えていた。
34  萌芽(34)
 やがて、支部長の春山富夫の抱負となった。
 彼は、飄々としてマイクの前に立った。
 「春山です。信・行・学に頑張ります」
 皆、期待に胸を躍らせて、支部長の次の言葉を待った。しかし、彼の話は、それで終わりであった。
 春山は、さっさと席に戻ってしまった。
 皆が呆気にとられているなかで、山本伸一は、真っ先に拍手を送った。
 春山の妻の栄美子は、複雑な気持ちであった。それは富夫としては、精いっぱいの決意発表であったに違いないが、それにしても、もう少しほかに言うことはなかったのか、と思えてならなかった。
 そのうちに、栄美子の抱負となった。
 「このたび、アメリカ総支部の婦人部長の大任を拝しました。皆様に仕える思いで、力の限り頑張ってまいりますので、よろしくお願いいたします。
 また、ニューヨーク支部の結成、まことにおめでとうございます。ニューヨークは経済などの国際的な中心都市であり、世界の心臓部であるといえます。
 そのニューヨークに支部が結成されましたことは、世界の広宣流布を推進していくうえで、極めて重要な布石であり、それだけにまた、私たちの使命の重大さを痛感いたしております」
 春山栄美子の話には、広宣流布への新たな誓いがあふれていた。アメリカでの活動に自信を失っていた数日前までと、ハワイで山本会長に激励された後では、彼女の心は大きく変わっていた。
 未来に希望の光が差し、自分らしく、着実に、このアメリカで広宣流布の開拓に力を注ごうとの意欲が、泉のようにこんこんと湧いてくるのである。
 彼女のさわやかな抱負には、そんな生命の躍動感がみなぎっていた。
 次いで、総支部長の正木永安があいさつに立った。
 彼は、まず、総支部長として、全力で戦い抜き、アメリカの土となっていくとの決意を披瀝したが、語りながら、感極まってしまい、涙声になり、言葉を詰まらせた。
 「……ニューヨークにも、待ちに待った先生に来ていただき、こんなに立派な会合ができたと思うと、嬉しくて、嬉しくて。
 山本先生は、ロサンゼルスで、いよいよロサンゼルスに春が来た、と言われましたが、私は、ニューヨークにも春が来たと実感いたしております。
 地涌の菩薩が立ち上がれば、必ず春が来ます。私たちは力を合わせ、アメリカに幸福と平和の春を呼ぼうではありませんか!」
35  萌芽(35)
 その後、同行メンバーの渡吾郎学生部長、谷時枝女子部長、春木征一郎副理事長、清原かつ副理事長が、次々とあいさつに立った。
 なかでも、清原は、二年三カ月前に山本会長とともに、ニューヨークの地区結成の座談会に出席しているだけに、大きな発展の足跡を実感していた。
 彼女は、率直な感想を語り始めた。
 「私には、これが同じニューヨークだとは、とても思えない変わり様です。最初のニューヨークの座談会の時なんか、みんな泣いてばかりいて、信心の歓喜なんて、全くなかったんですから。
 それが、すっかり元気になって、顔も輝いているし、みんな、お姫様みたいですよ。皆さんの心は、きっと、お正月のようだと思います。ハッピー・ニューイヤー!」
 笑いが弾けた。
 「さあ、いよいよ、これからですよ。
 よく山本先生は『信心は勇敢でなければならない』と指導されておりますが、考えてみると、勇敢であるのか、臆病であるのかによって、人生の幸・不幸も、社会の行方も、決定づけられていくといえます。
 臆病であれば、自分の弱さや惰性を打ち破ることもできなければ、言うべきことを言い切って、悪と戦うこともできません。信心に励むというのは、勇気をもって、すべてに挑戦するということです。
 私は、ニューヨークの皆さんこそ、『信心の勇者』として、アメリカ広布の先駆を切っていく方たちであると思います」
 すると、演台の傍らで山本伸一は、自分の膝を叩いて、「そうだ!」と合いの手を入れた。
 どっと笑いが起こった。
 清原は微笑みながら、話を続けた。
 「ニューヨークの皆さんの勝利は、そのままアメリカの勝利であり、世界の勝利につながります」
 「その通り!」
 また、伸一の合いの手が入った。
 「皆さん、立ち上がりましょう!」
 「もう立っている!」
 「そして、世界広布の新時代を開いてまいろうではありませんか」
 「そうだ! 開くぞ!」
 伸一が、言葉をさしはさむたびに、爆笑が広がり、大笑いのなかで、清原は話を終えた。
 一月のニューヨークはさすがに寒く、外の冷え込みは激しかった。しかし、この会場の明るさは、一足早い春の到来を思わせた。
 メンバーの心には、悲しみの雲を破って、希望と躍動と歓喜の太陽が昇り、燦々と燃え輝いていたのだ。
36  萌芽(36)
 東部総会でも、山本伸一は、参加者の質問を受けることにした。
 彼は、できることなら、一軒一軒、友の家を訪問して対話し、それぞれの悩みや疑問に答えながら、励まして歩きたかった。
 しかし、メンバーも増えた今、短い滞在時間のなかで、そうすることは、到底、不可能であった。そこで、質問会をもつことにしたのである。
 伸一は、日本にあっても、会合の折には、一方的に話をするのではなく、できる限り質問会の形式を取り、皆の悩みや疑問に即して、指導していくようにしていた。
 質問会は、担当する中心者の人格、力量が厳しく問われる場といってよい。
 そもそも、担当した幹部に信頼がなかったり、威圧的な雰囲気があれば、参加者は質問をしようとさえ思わないものである。
 また、どんな質問が出てくるか、予測することはできないだけに、すべての問題に、的確に答え得る勉強と指導力が要請される。しかも、極めて限られた時間のなかで、明快な答えを出さなければならない。
 もし、何を聞いても、担当の幹部が明確な回答ができず、いい加減な、お茶を濁すような対応をしていれば、かえって不信感を植えつけてしまうことになる。
 もちろん、幹部だからといって、すべての問題に答えられるとは限らないし、わからないこともあって当然である。
 だが、その場合には、後で、幹部自身が、しかるべき人に相談したり、教学の問題であれば調べて研究し、誠意をもって回答していくことが大事である。
 更に、なかには、要を得ない質問もある。そんな場合には、質問した人が何を言わんとし、どこに疑問点があるのかをつかみ、問題点を整理してあげながら、回答していくことも必要である。
 あるいは、学会や仏法を否定したくて、中心者を困らせるために、質問する人もいるかもしれない。そうした時には、堂々と論破していかなければならない場合もある。
 ともあれ、質問会は、質問した人だけでなく、皆が心から納得し、信心に奮い立たせることができるかどうかの、真剣勝負の場といってよい。
 それだけに、質問会を担当するには、信仰へのあふれる大確信と、理路整然とした明快さと、臨機応変な対応力が必要となる。
 また、幹部が、活動の打ち出しと、一方通行の指導だけでよしとするなら、皆の心は、離れていってしまうことを忘れてはならない。
37  萌芽(37)
 質問会は、初代会長牧口常三郎以来、創価学会の伝統であった。
 座談会といえば、牧口が中心となって、新来者などの質問に答えるかたちで進められてきた。
 戸田城聖もまた、会合や講義の折には、可能な限り質問会を行ってきた。
 戸田はよく、経典自体が、無問自説の方便品を除いて、すべて質問会になっていると語っていた。
 そして、仏の説法の会座に集った、発起衆、影響衆、当機衆、結縁衆の四衆を、現代の質問会の参加者にあてはめて、わかりやすく述べたことがある。
 ――発起衆は、仏に対して説法を請い、仏の化導を促す衆生のことであるが、これは、質問会で皆を代表して質問する人である。
 また、影響衆は、仏のそばに従って法を賛嘆する衆生である。質問会でいえば、たとえば病気の質問に対する指導を聞いて、自分にもこういう体験があると言って、その体験を語り、指導を助ける人が、これにあたる。
 更に、当機衆とは、既に時が熟して、その場で得益する機をもつ衆生をいう。これは、その病気の質問に対する指導を聞いて納得し、自分も必ず治るのだと知り、確信をもつ人といえる。
 結縁衆は、未来に得益すべき縁を、その場で結ぶ衆生のことである。質問会での指導を聞いて、″それならば、私も信心して、もっと理解を深めていこう″と決意する人が、これにあたる――と語っている。
 そして、戸田は、この四衆のなかでも、発起衆にあたる質問者が、最も大切であると訴えている。
 大勢の人の前で質問するには、強い求道の心と勇気を必要とする。だが、問いを発する人がいなければ、質問会は成り立たないし、指導もできない。
 だから戸田は、皆が最も欲している的確な質問や、深い法理を語る契機となるような質問が出ると、「よく聞いてくれた。ありがとう!」と、称賛を惜しまなかった。
 戸田城聖は、質問会の達人であり、座談会の名人であった。難解な仏法の法理を、身近な例やわかりやすい比喩を用いて語り、ユーモアとウイットで、会場を笑いの花園に変え、開かれた心のなかに、珠玉の指導を注ぎ込んでいった。
 山本伸一もまた、質問会を学会の良き伝統として、何よりも大切にしてきたのである。
 質問会には対話がある。対話は納得をもたらす。そして、この納得こそが、信仰の活力の源泉となり、新しき前進を促していくのである。
38  萌芽(38)
 山本伸一は、東部総会で何問かの質問を受けた後、メンバーに語った。
 「本日は、二年三カ月ぶりのニューヨーク訪問となりますが、はつらつとした皆さんの姿に接することができて、私は、本当に嬉しい。
 アメリカは自由の国であり、民主主義の国です。その象徴ともいうべき都市が、このニューヨークであり、世界中の人びとが、ニューヨークに憧れをいだいております。
 しかし、自由であればあるほど、また、民主の理想に生きるならば、自分で自分を律して、自らの心を鍛え上げていかなければならない。
 そうでなければ、欲望の奴隷となり、見せかけの華やかさや、目先の利益だけを追い求め、真実の幸福とはほど遠い、人生となってしまう。
 そうした弱い自分の心を、生命を鍛えて、人格を磨いていくことが人間革命であり、それなくしては、真実の幸福の軌道を邁進していくことはできません。そして、その人間革命を可能にする大哲理が、日蓮大聖人の仏法です。
 ゆえに、人間の幸福につながる、自由の模範を築くうえからも、アメリカに、このニューヨークに、仏法を流布していく意義は、極めて大きいといえます。
 一方、国際政治のうえでも、アメリカは西側陣営のリーダーです。
 それだけにアメリカの対応のいかんによって、昨年秋の″キューバ危機″のように、いつ、核戦争に発展するかわからないという、厳しい現実があります。
 そのアメリカに仏法を流布することは、核を廃絶する根本の哲学が広まることであり、世界平和の大潮流をつくることになります。
 だからこそ私は、アメリカの皆さんの活躍を、心から期待したいのです。
 ケネディ大統領は、″ニューフロンティア″を訴えてきましたが、学会の精神も開拓にある。
 信心とは、自分自身の生命の開拓であり、無限の可能性の開拓であり、広宣流布の開拓です。
 その原動力は唱題であり、強盛な祈りです。そして、果敢に、粘り強く、挑戦を重ねていくことです。
 どうか、広布の″ニューフロンティア″精神の火を、赤々と燃やして、幸福と平和の新しき道を開いていってください。
 また、仲良く、和気あいあいと、団結第一に進んでいっていただきたいとお願い申し上げ、私のあいさつといたします」
 歓声と拍手が、伸一を包んだ。ニューヨークも決然と立ち上がった。広布の種子の萌芽の瞬間であった。
39  萌芽(39)
 東部総会が終了すると、山本伸一の周りに、新任の幹部などが集まって来た。
 幹部としての決意を語る人もいれば、この機会を逃すまいと、更に質問をする人もいた。
 男性の一人が、頬を紅潮させて尋ねた。
 「先生、日蓮大聖人の立正安国の精神を実現していくためには、やがて、世界各国で、学会員が政界に進出していくことになるのでしょうか」
 伸一は言下に答えた。
 「いいえ。そういう必要はありません」
 質問した男性は、意外そうな顔をした。
 伸一は語り始めた。
 「一人ひとりがよき市民として、″この国をよくしよう″″この社会をよりよいものにしていこう″と考えながら、社会や地域で活躍し、信頼されていくことが、立正安国の精神の実現になっていくのです。
 日本で、会員を政界に送り、更に、その人たちが公明政治連盟をつくったからといって、ほかの国がそれにならう必要は全くありません。
 日本の場合は、そうせざるを得なかった状況があるのです。ある政党は大企業ばかりを擁護し、また、ある政党は労働組合の人たちの利益を最優先する。しかも、与党も野党も馴れ合いの政治を行い、政治そのものが腐敗し堕落していた。
 組合もない小さな町工場で働くような民衆は、長い間、政治の恩恵にも浴さなかったし、民衆の幸福のために、懸命に働く政治家の姿は見られなかった。
 だから、戸田先生は、このままでは日本の政治はだめになる、民衆がかわいそうだと考えられ、政治を監視し、政治を民衆の手に取り戻すために、弟子たちを政界に送ったのです。
 また、公明政治連盟、公明会をつくったのも、日本の政治制度のなかでは、そうしなければ、自分たちの主張を反映させることが難しかったからです。
 しかし、それを、そのまま、ほかの国にあてはめるべきではありません。全く事情が違います。
 立正安国の精神とは、それぞれが、慈悲や生命の尊厳など、仏法で説かれた哲理を自身の生き方の根幹として、人びとが幸福に暮らせる社会の実現に、平和社会の建設に、取り組んでいくことです。
 それは、何も政治に限られたことではなく、文化、教育など、あらゆる分野にわたって、仏法者として社会に貢献していくことを意味します。
 そして、その基本は、教団として何かを行う場合もあるでしょうが、むしろ、個人個人の自発的な行動が中心となります」
40  萌芽(40)
 一言に広宣流布といっても、その進め方は、それぞれの国情によって異なってくる。
 日本で行ってきたからといって、国情も考えずに、ほかの国でも、同じことをすれば、将来、取り返しのつかない失敗を犯してしまう場合もある。
 山本伸一は、前々から、そのことを心配していたのである。
 翌十四日は、一行のホテルを会場にして、教学試験が行われた。この時は伸一も試験官となり、何人かの口頭試問を担当した。
 午後からはニューヨーク市内の視察に回り、エンパイアステートビルにものぼった。伸一は、初めてアメリカを訪問した同行のメンバーのために、あえて、見学の時間を取るようにしたのである。
 その夜、彼はホテルで、春山富夫・栄美子の夫妻と懇談した。ニューヨーク支部長になった富夫に、深い信心の楔を打ち込んでおきたいと思ったからである。
 伸一は、春山の仕事の様子などを尋ねた後、諄々と語り始めた。
 「あなたが、現在の商社で、有望視され、期待されていることは間違いないでしょう。
 しかし、大切なことは、企業の規模や資産を評価するような尺度で、学会を推し量ることは間違いであるということです。
 企業の最大の目的は利潤の追求です。それに対して学会の目的は、世界の民衆を幸福にしていくことであり、人類の永遠の平和を打ち立てるということです。
 それを行おうとして、初代会長の牧口先生は、軍部政府の弾圧を受け、牢に繋がれ、獄死されました。第二代会長の戸田先生も投獄されました。
 しかし、生きて出獄された戸田先生は、恩師の遺志を受け継いで、広宣流布に立ち上がられた。
 そして、学会は、これまでに、現実に三百万世帯を超える人びとを救ってきました。
 私たちは、悩める友のなかに飛び込み、同苦し、励まし、勇気づけ、宿命の転換の道を教え、一人ひとりを人生の勝利者にしてきました。しかも、それは全部、無償の行為です。
 ところが、その学会が、貧乏人と病人の集団であると蔑まれ、また、ファッショであるとか、暴力宗教であると言われ続けてきた。
 しかし、それでも、会員は一歩も退かずに、人びとの幸福のために働いてきました。こんな団体は、ほかにないではありませんか。
 人間として何が尊いのか、いかなる生き方に最高の価値があるのかを、あなたも明確に見極めていくべきです」
41  萌芽(41)
 春山富夫は、早稲田大学の政経学部を出て、難関といわれた商社に入り、エリートコースを驀進してきた有能な青年であった。
 入会は一九五四年(昭和二十九年)で、先に入会した両親の姿を見て、自分も信心を始めたのである。
 彼は、信心に励むなかで、題目の力は実感してきたようであったが、本格的に学会活動に取り組んだことはなかったし、広宣流布をしていこうという自覚も乏しかった。
 また、はっきりとものを言う性格で、頑固で、皮肉屋な一面もあった。
 しかし、山本伸一は、彼が学会のすばらしさを心から理解すれば、大きな力を発揮していくであろうと確信していた。
 春山は、理性的なものの考え方をする人物であったが、それも広宣流布を進めるうえでは大事なことであるし、また、アメリカにあっては、はっきりとものを言うことも、必要不可欠な資質である。
 更に、彼が信心に励んでいくならば、頑固さは、不屈の信念となって輝いていくはずである。
 初めから完成された人間などはいない。一人ひとりのもっている可能性を見いだし、全力を注いで、皆を人材に育て上げていくことが、幹部としての責任といってよい。
 春山は、伸一の話を、真剣に聞いていた。
 「学会の真実の姿を見極めずに、軽く見ていると、将来、大きな後悔をすることになります。
 学会はこれからも、更に大発展していきます。やがては、世界各国に、たくさんの学会員が誕生することになるでしょう。
 また、学会が母体となって、将来は、高校や大学もつくっていきます。音楽の交流のための財団もつくります。
 仏法を根底に、政治、教育、芸術など、あらゆる文化の大輪を咲かせ、人びとの幸福を実現する社会をつくり、人類の永遠の平和を築こうとしているのが創価学会です。
 人間の一生には限りがある。そのなかで、人生をいかに生きるかが、最も重要な問題です。
 もしも、自分の社会的な地位や名声、財産を得ることに汲々として、人生を送るとするならば、最後は、空しさだけが残るに違いありません。
 結論していうならば、人びとの絶対的な幸福のために、世界の平和のために貢献していくことです。
 つまり、広宣流布のために生き抜いてこそ、最高の歓喜と充実のなかに、最も意義ある自分自身の人生を完結していくことができる。そのための信仰です」
42  萌芽(42)
 山本伸一の言葉には、強い力が込められていた。彼は必死であった。
 ここで春山富夫に本当の信仰をわからせ、奮い立たせなければ、妻の栄美子も十分に力を発揮することができないし、メンバーがかわいそうであると思ったからだ。
 また、春山を幹部に推薦したのは伸一であり、彼の奮起を促すことは、自分の責務であると、伸一は決意していた。
 「春山さん、私は、あなたなら、立派な組織をつくると確信しております。二人して、戦おうではないですか!」
 伸一は、こう言うと、じっと春山の目を見た。春山の隣にいた妻の栄美子も、夫の顔に視線を注いだ。春山の目がキラリと光り、静かに頷いた。
 伸一は更に続けた。
 「ニューヨークの支部長になり、男子部の北米部長になったということは、このニューヨーク中の人びとを、また、アメリカ中の人びとを、幸福にしていく使命を担ったことです。
 最初は、総支部の婦人部長である奥さんの運転手でかまいませんが、みんなをどう励ますのか、いかに指導するのかを早く吸収して、大支部長になってください。
 あなたの場合、仕事の関係で、いつ、どこへ行くのかわからないのだから、特に一日一日が勝負になる。まず、このニューヨークで、人生最大の広宣流布の思い出をつくることです。
 ニューヨークを頼みますよ。アメリカを頼みます」
 春山は、幾分、緊張した顔で、「はい!」と返事をした。
 伸一が笑みを浮かべると、細面の春山の顔にも、微笑の花が咲いた。
 栄美子は瞳を潤ませて、その光景を見ていた。
 この日から春山夫妻の二人三脚が始まるのである。夫妻は、富夫の運転する車でロングアイランドへ、ボストンへ、ワシントンへと友の激励に走った。一日に三百キロ、四百キロと走ることも珍しくなかった。
 最初、富夫は、話は栄美子に任せ、彼は一言、「頑張りましょう!」と言うだけであったが、しばらくすると、自分の体験などを語り、力強く指導、激励するようになった。
 更に、座談会の後などに、栄美子がメンバーの婦人たちを激励していると、彼は、妻の送迎のためにやって来た未入会の夫たちと英語で懇談し、仏法への理解を促していった。
 そして、富夫は後年、商社を退職し、学会本部の職員となり、SGI(創価学会インタナショナル)の発展に貢献していくことになるのである。
43  萌芽(43)
 一夜が明けて一月十五日は、山本伸一がヨーロッパに発つ日であった。
 伸一は、午前七時三十分に、春山富夫の運転する車で、空港に向かった。
 ヨーロッパに行くのは、伸一と十条潔、それに正木永安の三人で、ほかのメンバーは二手に分かれ、アメリカ各地を回って、会員の指導にあたることになっていたのである。
 空港には、八時過ぎに着いた。
 伸一は、出発までの間、見送りに来てくれた十数人のメンバーとロビーで懇談した。
 清原かつが言った。
 「ハワイは夏で暑かったし、ロサンゼルスは春の陽気、そして、ニューヨークは真冬でこの寒さ……。
 日本を出発して、まだ一週間ぐらいしかたっていないのに、一年間もたったような気がするわ」
 それを聞くと、伸一は笑いながら言った。
 「清原さん、ニューヨークにも春が来ていたよ。妙法の太陽に照らされて、たくさんの地涌の若芽が育っていたじゃないか。
 また、一週間で、春から冬まで体験できたというのは、それだけ世界が狭くなったということだよ。
 これからも、ますます交通手段は発達し、一日もあれば、世界中、どこへでも行けるようになる。しかし、時間の溝は埋まっても、社会体制の溝、国家の溝が埋まらなければ、人間は交流することはできない。
 アメリカとソ連が、その最たるものだ」
 「先生、次はアメリカには、いつ、おいでいただけるのでしょうか」
 一人の婦人が尋ねた。
 「また、すぐに来ます。実は来月、ワシントンでケネディ大統領と会うようになると思います。ある筋を通して、私に会いたいという連絡があったのです。
 あの″キューバ危機″のような危険な事態を、再び引き起こさないためにも、私は会って話し合おうと思っている。
 体制の溝、国家の溝といっても、結局は、人間の心の溝から、すべては始まっている。だから、その人間の心の溝に、私は橋を架けたいんだ。
 こんなに小さな地球に住む人間同士が、争い合っていることほど、愚かなことはない……」
 メンバーは、伸一がケネディと会見する予定であることを聞いて驚きはしたものの、彼が何を成そうとしているのかは、想像もつかなかった。
 この時、伸一の胸中には、燦然と光り輝く、世界を結ぶ友情と平和の金の橋が、幾重にも、描かれていたのである。
   (この章終わり)

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