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日蓮大聖人・池田大作

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第6巻 「波浪」 波浪

小説「新・人間革命」

前後
2  波浪(2)
 四国本部幹部会の会場となった香川県立屋島陸上競技場のある屋島は、源平の古戦場で知られるところである。
 源義経は、寿永三年(一一八四年)の一ノ谷(神戸市須磨区内)の合戦に続いて、翌年二月、この屋島の戦いで再び平家を破り、長門壇ノ浦(下関市内)に追い込んでいる。
 四国本部にとって、三万余の同志が参加し、会長就任三周年への出発をする今回の幹部会は、未来の広宣流布の命運を決する集いといえた。
 それゆえに山本伸一は、この幹部会に義経の心意気で臨み、全同志の総決起を促し、四国の勝利への突破口を開こうとしていた。
 六月二日は、天候が危ぶまれていたが、曇り空で、昼近くには薄日が差し、むしろ、野外での集いには、絶好の日和となった。
 会場には、早朝から続々と人びとが詰めかけ、正午前には、スタンドも、グラウンドも、約三万人の参加者であふれた。
 伸一は、予定している参加者が、既に集まったことを聞くと、開会時刻を早めるように指示した。
 学会本部への脅迫電話は、単なる脅しであるのか、あるいは、実際になんらかの妨害を計画しているのか、伸一にも予測がつかなかった。
 そこで彼は、皆が集まり次第、直ちに幹部会を開始し、当初の開会予定時刻には、終了してしまおうと考えたのである。
 予定は、二時間近く繰り上げられ、午後零時十五分、伸一が入場し、開会が宣言された。まだ、当分の間、待たなければならないと思っていた参加者は、予想外の早い開会に大喜びであった。
 幹部会は、体験発表や各部の代表抱負、理事のあいさつなど、式次第通りに順調に進んでいった。
 脅迫電話の件は、運営役員などの一部に伝えられただけで、一般の参加者には知らされていなかった。無用な心配をさせないための配慮である。
 参加者は、壇上の幹部の話に、瞳を輝かせ、満面に笑みをたたえ、拍手を送っていた。それは、求道の息吹と、歓喜と熱気にあふれた、いつもの学会の幹部会であった。
 ただ、日頃は柔和な伸一の目が、この日は、絶えず鋭く光っていた。その目には、一分の隙もなかった。
 ″何があっても、同志は私が守る!″
 彼は、そう決意して、壇上にあっても、心で唱題しながら、会場の隅々にまで、注意深く視線を注いでいたのである。
3  波浪(3)
 やがて、万雷の拍手のなか、山本伸一が登壇した。
 彼は、皆を笑顔で包みながら、ユーモアを交えて話し始めた。
 「皆さんは、会長が来るということで、待っていてくださったと聞いておりますが、実際に、私をご覧になって、″なんだ、あんなに小柄で、貧相で、平凡な会長じゃないか″と、がっかりされた方も、いらっしゃることでしょう。
 しかし、これは、生まれつきなもので、どうか、ごかんべんいただきたいと思います」
 爆笑が広がった。
 伸一は悠々としていた。
 彼は、この幹部会では、四国は板垣退助らによる立志社の設立や、ルソーの『民約論』(社会契約論)を翻訳した中江兆民を輩出するなど、自由民権思想の台頭をもたらした地であることから、民主の時代を築く創価学会の使命について語った。
 更に、学会の目的は、御本尊を根本とした全民衆の救済であり、それを実現していくためには、皆が、周囲の人たちから賛嘆されるような、幸福生活の実証を示していくことが大切であると強調した。
 そして、強き信心と強き団結をもって、広宣流布の新たな前進を開始するよう呼びかけ、あいさつとしたのである。
 四国本部幹部会は、最後に「新世紀の歌」を大合唱し、午後一時十五分に閉会が宣言された。
 席を立った伸一は、グラウンドに下りると、そのまま場内を回り、参加者を激励し始めた。
 メンバーは、歓声をあげて立ち上がり、大きな拍手で彼を迎えた。
 脅迫電話の一件を知っている幹部は、ハラハラしながら伸一の後を追った。
 伸一は、参加者の一人一人に視線を注ぎ、微笑を浮かべながら、皆の歓声に手を振って応え、ゆっくりと歩いていった。
 時には、同志の求めに応じて握手を交わし、「ありがとう!」「ご苦労様!」「また、お会いしましょう!」と声をかけ、彼は、皆を励まし続けた。
 その伸一の足が、スタンドの一角で止まった。
 そこにいたメンバーは、伸一に向かって、盛んに何か叫んでいたが、それは言葉にはなっていなかった。
 伸一は、このメンバーがろうあ者で、「先生!」と自分を求めて、呼んでいることを知っていた。
 彼は幹部会の最中から、ろうあ者の同志が多数参加しており、その人たちに、登壇者の話を手話で伝える同志がいることにも気づいていたのである。
4  波浪(4)
 山本伸一は、四国の幹部から、高松支部に幸地区という、ろうあ者の人がほとんどの地区があることを聞いていた。
 また、その幸地区の地区部長が、福山静也という四十代半ばの壮年であり、彼が自分の生涯を、ろうあ者のために捧げたいと考えていることも、報告を受けていたのである。
 福山は、若いころから、人の役に立ちたいとの思いが強く、ろうあ者の学校の教員となり、手話も習得した。しかし、戦争が始まると、彼も徴兵された。
 中国で終戦を迎え、ソ連軍によってシベリアに貨車で運ばれる途中、福山は脱走する。その時、彼を助けてくれたのも、中国人の、ろうあ者であった。
 その後、故郷の広島に帰った福山は、せめてもの恩返しの気持ちで、ろうあ者のための慈善団体の結成や会社の設立を手掛けたが、失敗してしまう。
 やがて、妻の郷里である高松に来て、看板の絵を描きながら暮らしていたが、生活は苦しく、借金はかさむ一方であった。
 そんな暮らしのなかで、彼は仏法の話を聞き、一九五六年(昭和三十一年)に妻とともに入会する。
 信仰によって、人生の根本的な苦悩の解決の道を知った福山は、ろうあ者の知人に、積極的に仏法を語っていった。また、手話のできる彼のもとに、ろうあ者の学会員が集まるようになった。
 彼は、そうした同志を励ますことが自分の使命であると自覚し、献身的にメンバーの面倒をみてきた。
 そして、この日、福山は、ろうあ者のメンバー二百四十人とともに、幹部会に参加したのである。
 メンバーの最前列に、メガネをかけた小柄な壮年が立っていた。地区部長の福山静也であった。
 伸一は、福山の顔を見ると、大きく頷いた。
 それから、メンバー一人一人の顔を自分の命に焼きつけるように、じっと眼を注いだ。皆、大事な、大事な使命の人であり、尊い仏子である。
 彼は言った。
 「皆さんのことは、よく知っています。大聖人は、絶対に幸福になれると約束してくださっている。だから何があっても挫けずに、お題目を唱え抜いてください。負けてはいけない。自分に勝つことですよ!」
 福山は、その言葉を手話で皆に伝えた。伝えながら彼の目に涙があふれた。手話を見るメンバーの目にも涙が光っていた。
 皆、泣きながら笑みを浮かべ、言葉にならぬ歓喜の声を発した。そして、伸一に向かって盛んに手を振っていた。
5  波浪(5)
 山本伸一も、ろうあ者のメンバーに、力の限り、手を振って応えた。
 メンバーは、信心によって、悲哀の淵から敢然と立ち上がり、使命の大道を歩もうとしていた。
 人生の苦悩を背負い、嘆き、悲しむ人たちのなかに分け入り、幸福の道を教え、勇気と希望の光を注ぎ、生きる力を呼び覚ましてきた唯一の団体が創価学会である。
 伸一は、見えざる敵に向かって、心で叫んだ。
 ″この尊い学会に、弓を引くなら引け! 私を撃つなら撃て! しかし、私は断じて戦う。絶対に負けはしないぞ!″
 彼は拳を握り、彼方を仰いだ。そこには厳とした緑の山が、薄曇りの空にそびえ立っていた。
 伸一が、更に皆のなかを進んでいくと、いっせいに「高知です」という声が上がった。
 彼は言った。
 「ご苦労様! 気をつけてお帰りください。今度は、高知にも会館をつくりますからね」
 高知の友の歓声がこだました。
 伸一は、三万人の参加者を包み込むように、激励の言葉をかけ、手を振り続けて、会場を一巡した。回り終えた時には、彼の声はかれ、喉が痛んだ。腕も肩も痛かった。
 脅迫電話はあったものの、幸いにして、事件は何も起こらなかった。
 この幹部会終了後、伸一は、四国本部での地区部長会に出席し、そこで「長楽寺への御状」の御書講義を行った。更に、その夜は遅くまで、四国の幹部と今後の活動の進め方について協議を重ねた。
 翌三日、彼は高松から岡山に移動し、岡山県体育館で行われた、中国本部幹部会に出席した。
 幹部会は、正午前に開会となったが、二万五千人が詰めかけ、たくさんの人が場外にあふれた。
 中国地方は二日に梅雨入りしており、場外の人たちは、雨のなか、スピーカーを通して流れる場内の指導に、耳をそばだてていた。
 伸一は、この席上、学会の会合には、信仰によって皆が幸福になった体験という確証があり、また、最高の法理である日蓮大聖人の教え通りの指導がなされているがゆえに、歓喜に満ちた偉大なる集いとなることを述べた。
 そして、教学の重要性について語るとともに、明年は「教学の年」とすることを発表した。
 講演の後、彼は、この中国でつくられた「躍進の歌」の指揮をとった。皆を奮い立たせずにはおくものかという、気迫にあふれた指揮であった。
6  波浪(6)
 中国本部の幹部会が終わると、山本伸一は、直ちに場外に向かった。
 雨に打たれて話を聞いていた同志を、せめて、励ましたかったのである。
 彼が体育館から出ると、同行の幹部が、すかさず、後ろから傘を開いて差し出した。伸一は言った。
 「傘はいりません。みんなが雨に濡れているんですから」
 彼は、雨のなかを歩き始めた。伸一の姿に気づいた場外のメンバーから、拍手と歓声がわき起こった。
 「皆さん、ご苦労様! どうか、風邪をひかないようにしてください」
 皆に声をかけながら、手を振り、彼は場外を回り始めた。降り続く雨で、伸一の衣服は、瞬く間に、びっしょりと濡れていった。
 伸一は、集った同志が、ともに広宣流布に立ち上がるためには、どんなことでもするつもりであった。できることなら、雨に濡れた一人一人の肩を抱き、「頑張れ、頑張れ!」と、体を揺すりたい思いであった。
 彼は雨に打たれながら、この友、あの友の生命を揺り動かさんと、渾身の激励を続けた。
 幹部会の後は、地区部長会である。
 伸一は、ここでは「一昨日御書」の講義を行った。
 この御書は文永八年(一二七一年)九月十二日、鎌倉にいた日蓮大聖人が、平左衛門尉頼綱にあてた書状であり、文応元年(一二六〇年)に著した「立正安国論」の予言の的中を示し、為政者のとるべき姿勢を教えられている。
 同抄を認められた日の二日前(一昨日)にあたる九月十日、大聖人は、実質的に幕府の軍事・警察・政務を統括していた実力者である、平左衛門尉の尋問を受けた。
 大聖人は、その尋問の場で、平左衛門尉に、誤った教えを捨てて、正法に帰依するように厳然と諫めたのである。
 だが、平左衛門尉には、その諫暁を受け入れる様子は全く見られなかった。そこで、大聖人は改めてこの御書を認め、送付された。
 ところが、その同じ日、平左衛門尉は、自ら数百人の武装兵を指揮して大聖人を捕らえ、この夜、竜の口で処刑しようとしたのである。竜の口の法難である。
 大聖人は、法難という怒涛が競い起こることを覚悟のうえで、あえて、諫暁されたのであった。
 伸一は、この講義では、心から国を憂い、救済しようとされた大聖人が、なぜ、迫害されるに至ったのかを語った。そして、迫害の構図を浮き彫りにしていったのである。
7  波浪(7)
 山本伸一は訴えた。
 「大聖人が北条時頼や平左衛門尉らを諫暁されなければ、あのように陰険な策謀がめぐらされ、迫害が競い起こることはなかったといえます。
 しかし、民衆の苦悩を救うには、社会的に最も大きな影響力をもつ為政者の考え、生き方を正さざるを得なくなってくる。
 だが、一般的にも忠言は耳に逆らうし、権威、権力に平伏しない屹立した人格の人を、権力者は憎悪するものです。実は、それ自体が権力者の傲慢であり、権力の魔性なのです。
 そして、権力に取り入ってきた極楽寺良観や念仏者たちは、もし、時頼らが、大聖人の諫言を受け入れ、正法に帰依してしまったら、自分たちへの庇護や特権も打ち切られてしまうのではないかという、恐れをいだいた。
 そこで、大聖人を大悪人に仕立てあげようとする。だが、もともと、『世間の失一分もなし』と仰せのように、大聖人は、悪いことなど何一つしていません。
 だから、彼らは、自分たちが人を使って、放火や殺人などの事件を起こし、それを日蓮の弟子たちの仕業であると言って騒ぎたて、大聖人を佐渡に流罪しようとしたのです。
 つまり、無実の罪をつくりあげ、大悪人に仕立て、断罪するというのが、いつの世も変わらぬ弾圧の図式です」
 伸一は、初めに、こう述べた後、講義に入り、「法を知り国を思うの志尤も賞せらる可きの処・邪法邪教の輩・讒奏讒言するの間久しく大忠を懐いて而も未だ微望を達せず」の御文では、次のように語った。
 「仏法を会得し、国を救おうとする大聖人の志は、本来、最大に称賛され、最高に評価されるべきです。
 しかし、他宗の者たちが大聖人を陥れようとして讒奏讒言を、つまり、悪意に満ちた偽りの報告をしたり、悪口を流してきた。それによって、為政者も大聖人を誤解し、敵意をもって退けようとしてきた。
 ゆえに、大聖人が長い間、一国を救済しようとする大忠義をいだいていても、いまだその望みを、ほんのわずかばかりも実現することができないでいると仰せなのです。
 讒言というのは、正義を陥れる常套手段であり、学会を取り巻く、今日の社会の状況も全く同じです。
 私たちは、日本の国をよくし、人びとを幸福にし、世界を平和にしようと、懸命に働いてきました。これほど、純粋で、清らかな、誠実な団体は、ほかにはないではありませんか」
8  波浪(8)
 参加者は、山本伸一の講義を、一言も聴き漏らすまいと、食い入るように彼を見つめていた。
 伸一の声が響いた。
 「その誠実な人間の集いである学会を、一部のマスコミなどが、暴力宗教であるとか、政治を牛耳り、日本を支配しようとしているとか、盛んに中傷、デマを流しています。
 そして、社会は、それを鵜呑みにして学会を排斥しようとする。まさに、讒言による学会への攻撃です。
 ゆえに、広宣流布の道とは、見方によっては、讒言との戦いであるともいえます。讒言の包囲網を破り、仏法の、また学会の真実を知らしめ、賛同と共感を勝ち取る言論の戦いであり、人間性の戦いです。
 本来、学会の勝利は明らかなのです。なぜならば、いかに、嘘、偽りを重ねても、真実を覆すことは絶対にできないからです。御聖訓にも『悪は多けれども一善にかつ事なし』と仰せではないですか。
 しかし、どんなに荒唐無稽な嘘であっても、真実を知らなければ、その嘘がわからない。最初は、半信半疑であっても、やがて、そんなこともあるのかもしれないと、思うようになります。
 そして、何度も嘘を聞くうちには、多分そうなのだろうと考えるようになり、やがて、嘘が真実であるかのように、皆、思い込んでしまう。
 『沈黙は金、雄弁は銀』という西洋の諺がありますが、黙っていればよいということではありません。これは、沈黙を守る方が、雄弁よりも説得力をもつ場合もあるということであって、言うべき時に、言うべきことも言わず、戦わないのは単なる臆病です。
 これだけの同志がいて、もし、讒言に敗れることがあるならば、大聖人門下の恥さらしです。牧口先生、戸田先生も、さぞかしお嘆きになられるでしょう。
 もし、みんなの心のなかに、自分が立たなくとも、誰かが戦うだろうという、他人任せの考えが少しでもあれば、その油断が、哀れな敗北を生みます。
 要は私たちに、悪と戦う勇気があるかどうかです。
 讒言を打ち破るものは、真剣さです。全魂を傾けた生命の叫びです。
 全員が一人立ち、獅子となって、学会の正義と真実を語りに語り、訴えに訴え抜いていってこそ、勝利を打ち立てることができるのです」
 伸一の講義に、中国の友の心は燃えた。そして、言論の闘士として立ち上がったのだ。
9  波浪(9)
 六月七日は、第六回参議院議員選挙の公示の日であった。
 公政連(公明政治連盟の略称)推薦の九人の同志も、朝のうちに立候補の届け出をすませた。
 地方区では、東京地方区に泉田弘(理事、東京第三総支部長)、大阪地方区に春木征一郎(理事、関西本部長)が立候補した。
 また、全国区には、関久男(副理事長、東北本部長)、十条俊三(理事、埼玉総支部長)、鈴本実(理事、茨城総支部長)、白谷邦男(理事、中部第一総支部長)、浅田宏(理事、関西第二総支部長)、西宮文治(理事、四国本部長)、鬼山勝春(理事、九州第二総支部長)が出馬した。
 公示第一日の七日、立候補が予想された顔ぶれは、ほぼ出そろった。
 全国区は、五十一議席(補欠を含む)に対して百人が立候補の届け出を行った。約二倍の競争率である。一方、東京地方区の競争率は四倍を上回り、大阪地方区は三倍の競争率となった。
 各候補者は七月一日の投票日をめざして、選挙戦の火蓋を切ったのである。
 今回の選挙で、学会が支援する公政連推薦の九人の候補者が当選し、非改選の六人と合わせて十五人になれば、議員十人以上という院内交渉団体の資格をもつことになる。すると国会運営にも、更に大きな影響力を発揮することができる。
 会員たちは、これまで、支援した参議院議員の活躍を見てきた。
 たとえば、ドミニカに農業移住した人びとが、石コロだらけの営農不能な土地に暮らし、餓死寸前の事態にあることを知ると、彼らは、すぐに、この問題を取り上げ、事前調査のあいまいさなど、政府の責任を厳しく追及した。そして、移住者の帰国の費用を国が負担し、その後の生活も保障するよう求めてきた。
 また、清原かつが中心となり、義務教育の教科書の無償配布を推進。ようやくその法案が成立するに至ったのである。
 一方、三河島の二重衝突事故についても、無所属を代表して質問に立ったのは春木征一郎であった。
 彼は人命軽視の風潮を指摘するとともに、適切な事後処理を訴え、首相から、被害者に対する補償は、早急に、誠意をもって、でき得るだけのことをする旨の答弁を引き出している。
 これらは、彼らの活躍の一部にすぎないが、そのメンバーが院内交渉団体をつくり、より一層、影響力をもつことに、会員たちは大きな期待をいだいていたのである。
10  波浪(10)
 梅雨空を突いて、同志である九人の候補者の選挙戦が始まった。
 公政連(公明政治連盟の略称)の議員の改選は三議席であり、今回、九人全員が当選すれば、三倍の飛躍ということになる。
 三年前の参議院議員選挙では、地方区、全国区あわせて、学会が支援した六人の候補者全員が、上位で当選していた。
 しかも、今回は三年前と比べ、学会の世帯数が急増していることから、候補者の数は増えても、九人全員が当選するであろうというのが、世間の大方の予測であった。それだけに支援する同志は、楽観ムードを払拭し、ともすれば油断しがちな、自らの心と戦うことから始めなければならなかった。
 この参院選挙は、与党の自民党にとっては、池田勇人首相が誕生し、二年が経過した内閣の施政に対する国民の評価を問う選挙であった。また、革新勢力にとっては、改憲阻止のために必要な三分の一の議席(八十四議席)を確保できるかどうかが、重要なポイントになっていた。
 一方、公政連にとっては、イデオロギーを超えて、世界の平和と国民の生活を守る第三の勢力を確立していく初陣となった。
 支援する学会員は、今回は公政連という政治団体結成後の初めての選挙とあって、単に候補者個人のことだけでなく、公政連の政策をよく理解し、訴えていく必要があった。
 この年の四月に、公政連の機関紙として、「公明新聞」が創刊されたが、同志は、これを熟読しては、公政連の政策や、現状の政治の問題点を、友人や知人に語っていった。
 そのやりとりのなかで、答えに窮したり、要望を耳にしたりすると、すぐに東京・品川区上大崎の公政連本部に連絡をとった。
 公政連本部でも、そうした支援者の声を大事にし、政策に反映できるものは、積極的に取り入れるように努力していた。
 つまり、支援者と公政連本部とが一体となって、民衆のための新しい政治をめざしながら、支援活動が進められていったのである。
 この支援活動のなかで、多くの同志は、かなりの政策通になっていた。
 たとえば、住宅問題一つとっても、住宅行政の一元化の必要性を説き、住宅用地の確保や建物の高層不燃化の推進など、具体的な政策を堂々と論ずるまでになっていたのである。
 同志は、自分たちの力で新たな日本の政治の歴史を開く、使命と誇りに燃え、自分が立候補しているような気持ちで、公政連の政策を訴えた。
11  波浪(11)
 この参議院議員選挙の支援活動の、大きな推進力となっていたのが、一般的には政治への関心が低いといわれていた主婦層にあたる、婦人部員であった。
 それは、政治を自分たちの手に取り戻そうとする、目覚めた大衆の、新しい力の台頭となっていった。
 彼女たちが、支援活動のなかで、説明に困った問題の一つに、公政連(公明政治連盟の略称)は保守か、革新かとの質問があった。
 ある日、山本伸一が、学会本部にやって来た婦人たちを激励していると、そのなかの一人が、彼にこのことを尋ねた。
 伸一は言った。
 「本来は、公政連に答えてもらう問題だが、私の考えを話しておきましょう。
 公政連は、保守や革新といった従来の判別には収まり切らない、中道をめざす政治団体です。
 この中道というのは、中間ということではありません。従来の資本主義、あるいは、社会主義といったイデオロギーにとらわれることなく、国民の幸福と世界の平和を、どこまでも基本にして、是々非々を貫く在り方といえます。
 全民衆の幸福の実現という観点から見て、良いものは推進し、悪いものは反対するという姿勢です。
 公政連は、過去に類例のない、新しい政治団体といえる。それだけに、一般の人には、理解しにくい面もあるかもしれないし、上手に説明できないこともあると思う。
 しかし、新たなものを創造する時には、苦労はつきものです。新しい問題に直面した場合には、議員や公政連の関係者だけでなく、皆で議論し合いながら考えていこう。
 ともかく、私たちの手で、新しい政治団体を育てようよ」
 公政連は、学会員に代表される、民衆によって支えられ、民衆に根差した政治団体として、この選挙で大きな飛躍を遂げようとしていたのである。
 山本伸一は、その後も各地を回り、会長就任三周年に出発する同志の激励に全力を注いでいた。
 六月九日には、豊橋市体育館で行われた中部本部の幹部会に出席し、引き続き地区部長会で「新池御書」を講義。更に、翌十日には、大阪球場での関西本部の幹部会に出席した。
 そして、十二日には、東京・台東体育館で開かれた六月度婦人部幹部会で激励に全魂を注いだ。
 婦人部幹部会は、伸一の提案で、この年の四月から月例となっていた。彼は、時代の流れを展望し、婦人こそ、新しい社会を建設する力であると確信していたのである。
12  波浪(12)
 山本伸一の激励の旅は、間断なかった。
 六月十五日には、北海道・札幌での指導会に臨み、「大井荘司入道御書」を講義。十八日には長野県の岡谷市での諏訪支部の幹部会に出席し、それに先立って、長野県の代表の幹部に「松野殿女房御返事」を講義している。
 そして、二十日には和歌山支部の幹部会に出席。ここでは「法華初心成仏抄」「弥三郎殿御返事」を拝して、信心とは仏と魔との闘争であることを指導。翌日は地区部長、地区担当員の代表と懇談した後、和歌山の会館建設予定地を視察している。
 更に、和歌山から九州に飛び、二十二日は福岡県・大牟田の会員の指導にあたり、この後、地元幹部と「新池御書」を研鑽。翌日には九州本部の幹部会に出席し、「法華初心成仏抄」を講義したのである。
 文字通り、一瞬の休息もない、東奔西走の日々であった。
 昨日は名古屋にいたかと思えば、今日は大阪に姿を見せ、東京に戻ったかと思うと、北海道に飛んでいるといった伸一の素早い行動に、幹部たちは「まるで、山本先生が四人も五人もいるようだ」と、感嘆しながら語り合った。
 更に、周囲の幹部が驚いたことは、もともと病弱で疲れやすい体質の山本会長が、激闘が続けば続くほど、元気になっていくことであった。
 ある時、同行の幹部が尋ねた。
 「先生は、こんなに動いておられるのに、どうしてお元気なのでしょうか」
 伸一は、笑みを浮かべながら答えた。
 「それが学会活動の不思議さなんだよ。
 私には、励まさなければならない人がたくさんいる。みんなが私を待っている――そう思うと、じっとしてはいられないし、勇気がわく。そして、同志に会うと、この人を奮い立たせよう、この人を絶対に不幸にしてなるものかという、強い思いが込み上げ、生命力があふれてくる。
 妙法流布の仏子を称え、励まし、仏法を語れば、歓喜がわき、力がみなぎるものだ。それは、菩薩の、また仏の、強い生命が全身にあふれてくるからだよ。
 だから、学会活動をすればするほど、ますます元気になる。戦うことが、私の健康法でもある。
 もちろん、人間だから疲れもする。仏法は道理だから、休養も大切だ。
 しかし、学会活動をやり抜いた疲労は、心地よい、さわやかな疲労であり、すぐに疲れも取れる」
13  波浪(13)
 同行の幹部は、じっと山本伸一の話を聞いていた。
 伸一は、淡々と話を続けていった。
 「しかし、同じように学会活動をしているように見えても、疲労が溜まる一方の場合もある。それは、受け身の場合だね。心のどこかに、言われたから仕方なくやっているという気持ちがあれば、歓喜もないし、元気も出てきません。
 元気になるには、自ら勇んで活動していくことが大事だ。そして、自分の具体的な目標を決めて挑戦していくことだ。目標をもって力を尽くし、それが達成できれば喜びも大きい。
 また、学会活動の素晴らしさは、同志のため、人びとのためという、慈悲の行動であることだ。それが、自分を強くしていく。
 かつて、こんな話を聞いたことがある。
 終戦直後、ソ連に抑留された日本人のなかで、収容所から逃げ出した一団があった。餓死寸前のなかで逃避行を続けるが、最後まで生きのびたのは、一番体力があるはずの若い男性や女性ではなく、幼子を抱えた母親であったというのだ。
 ″自分が死ねば、この子供も死ぬことになる。この子の命を助けなければ″という、わが子への思いが母を強くし、強靭な精神力と生命力を奮い起こさせていったのであろう。
 私も、学会のこと、同志のことを考えると、倒れたり、休んだりしているわけにはいかない。その一念が、私を強くし、元気にしてくれる。
 みんなも、どんな立場であっても、学会の組織の責任をもち、使命を果たし抜いていけば、強くなるし、必ず元気になっていくよ」
 伸一の各地での激闘は、会員たちに、平和社会の建設という広宣流布への決意を促した。そして、仏法者の社会的使命を自覚した同志は、選挙の支援活動にも一段と力を注いでいった。
 それにともない、公政連(公明政治連盟の略称)推薦の候補者や学会への、脅しや、いやがらせが激しくなっていった。
 遊説の場で、自分の政策などは何も語らず、学会を中傷するだけの他陣営の候補者も現れた。
 公政連推薦の候補者が、遊説中に罵声を浴びせられることも少なくなかった。
 関久男などは、小樽市内を遊説中に、後頭部に石をぶつけられたりもした。
 また、各地で選挙用のポスターが破られる事件が頻発し、大阪では春木征一郎のポスターが、二千二百枚もはがされた。
 更に、自分は学会員に一票千円で票を売ったと、事実無根の話を吹聴して回る、悪質な妨害も行われたのである。
14  波浪(14)
 学会員への圧迫や締めつけも激しかった。
 ある自民党の候補者を支持しなければ、仕事を回さないと、親会社から圧力をかけられた、下請け会社の学会員もいた。
 あるいは、労働組合の推す社会党の候補者を支持しなければ、組合を除名すると、組合の幹部から言われた学会員もいたのである。
 一方、一部のマスコミによる学会への中傷も続いていた。そうした記事の多くは、学会を″暴力宗教″や″ファッショ″と決めつけるものであったが、中部地方のある新聞には、こんな記述もあった。
 「公明政治連盟のコロモの下から″ナムミョウホウレンゲキョウ″の読経の声も勇ましく日蓮正宗・創価学会のヨロイを着た僧兵姿がおどりだす」
 「こんどは九人の熱心な折伏の教祖さまがたが、公称二百七十万世帯の″ありがたや″票をねらう」
 学会への嫉妬と愚弄以外の何ものでもない。だが、これらの妨害や中傷は、同志の闘魂の火に油を注ぐことでしかなかった。烈風のなかを、敢然と同志はひた走ったのである。
 参院選挙の投票日を六日後に控えた六月二十五日の夕刻、六月度本部幹部会が東京体育館で開催された。
 席上、六月度の弘教の結果が発表された。
 六月は、通常の活動のほかに、各人が参議院議員選挙の支援活動を展開してきたにもかかわらず、弘教はなんと五万八千七百世帯を上回っていた。
 それは、何があっても、仏道修行の基本である、自行化他を実践し抜くという生き方が、一人一人に定着したことを意味している。また、すべてに勝利する力を、皆がつけ始めたのだ。
 本部幹部会の途中、選挙遊説中の東京地方区の泉田弘、全国区の十条俊三、鈴本実の各候補が駆けつけ、元気いっぱいに決意を披瀝すると、場内は割れんばかりの拍手に包まれた。
 この日、伸一は、指導のなかで選挙に触れ、腐敗した日本の政治を改革するために、残り五日間の支援活動に、力を注いでいきたいと語った。
 そして、どこまでも公明選挙を貫き、無事故で大勝利を収め、下半期の出発となる七月三日の臨時本部幹部会に、再び集い合おうと呼びかけた。
 参加者は、必ずこの選挙に勝利し、同志を政界に送り、民衆のための政治を実現しようとの誓いを新たにした。
 社会の建設に船出した学会は、波浪が猛り狂う荒海のなかを、威風堂々と進んでいったのである。
15  波浪(15)
 山本伸一は、本部幹部会の翌日からは、東京の各本部の幹部会に出席し、会員の激励に奔走した。
 六月二十六日には、東京第二本部の幹部会で「御義口伝」を講義し、更に、東京第五本部の幹部会で「持妙法華問答抄」を拝して指導した。
 翌二十七日には、東京第一本部の幹部会で「上野殿後家尼御返事」を、東京第三本部の幹部会で「聖愚問答抄」を、東京第四本部の幹部会で「法蓮抄」を講義し、広宣流布への、同志の深き使命を訴えていった。
 七月一日、第六回参議院議員選挙の投票日がやってきた。
 この日は、北海道、東北を除き、朝から雨にたたられ、投票率の低下が心配されたが、東京地方をはじめ、各地とも次第に天候は回復に向かい、有権者の出足もよくなっていった。
 最終的に、投票率は全国平均で六八・二二パーセントとなり、参議院議員選挙では、昭和二十五年(一九五〇年)の第二回選挙の七二・一九パーセントに次ぐ高投票率となった。
 開票は、この夜から、東京、大阪、埼玉の三都府県を除く四十三道府県で、一斉に進められた。翌二日朝からは、東京、大阪、埼玉でも開票が始まった。
 東京・品川区の公政連(公明政治連盟の略称)本部には、二日朝から、新聞やテレビ、ラジオ等の報道関係者が詰めかけていた。
 午前九時過ぎ、全国区の関久男の当選確実の一報が入ると、公政連本部はにわかに活気を帯びてきた。午前九時半、関が姿を見せ、各社の取材が始まった。
 そこに、鈴本実、白谷邦男、西宮文治の当確が伝えられた。更に、正午ごろには東京地方区の泉田弘が当確となった。
 その後、全国区の鬼山勝春、浅田宏、大阪地方区の春木征一郎が相次ぎ当確になり、最後に十条俊三の当確が出た。
 公政連本部には万歳の声と拍手が轟き、勝利の喜びにわき返った。
 三日未明には九人全員の当選が決まった。このうち三十七歳の鈴本実は、全国最年少の当選者となった。
 開票は三日朝までにすべてが終わり、公政連推薦の全国区の七人の候補者が獲得した得票総数は、四百十二万四千二百六十七票であった。
 また、東京地方区の泉田弘は、五十二万九千五百七十五票で、定数四、補欠一の五議席のうち第二位で当選となった。一方、大阪地方区の春木征一郎は、四十二万八千六百四票で、定数三のうち第二位で当選したのである。
16  波浪(16)
 参院選挙の党派別の当選者を見ると、自民党は全国区二十一、地方区四十八で、非改選の残りの議員を加えると、参議院二百五十議席のうち、百四十二議席を占めることになる。
 また、社会党は、当選者が全国区十五、地方区二十二で、非改選の二十九を加えて六十六議席。そして、民社党は全国区三、地方区一で、非改選の七を加えても十一議席であった。
 それに対して公政連(公明政治連盟の略称)は、全国区七、地方区二の当選に、非改選の六議席を加えると、合計十五議席になる。政治の世界に、今、新たな地殻変動が起きようとしていた。
 山本伸一は、七月三日の朝、学会本部の御本尊に深い祈りを捧げ、恩師である戸田城聖に参院選挙の大勝利を報告した。
 十七年前のこの日は、戸田が二年間の獄中生活を終えて出獄し、権力の魔性との、生涯の闘争を開始した日である。
 そして、奇しくも五年前の同じこの日、伸一が選挙違反の容疑で、大阪府警に不当逮捕された。それは、学会という新しき民衆勢力の台頭を恐れる権力の謀略であり、この事件が、伸一の生涯にわたる人権闘争の出発点となっていったのである。
 その時、伸一を支えたものは、戸田が妙悟空のペンネームで書いた、発刊されたばかりの小説『人間革命』であった。
 彼は、この意義深き七月三日に、同志である公政連推薦の候補者が全員当選の快挙を成し遂げ、民衆の手に政治を取り戻すための新たな船出ができたことが、このうえなく嬉しかった。
 伸一は、唱題しながら、この庶民の連帯の力の基盤を築き上げた戸田城聖の、尊き生涯に思いを馳せた。
 彼の胸には、直弟子の自分が、その恩師の正義の歩みを『人間革命』の続編として書きとどめ、永遠に顕彰していかなくてはならないという、強い決意がみなぎっていた。
 そして、その「時」が、次第に近づきつつあることを彼は感じた。
 ″いよいよ、先生の七回忌を期して『人間革命』の続編を執筆しよう″
 ペンネームは既に決めていた。「法悟空」である。戸田のペンネームの「妙悟空」には、獄中で、仏法の真髄である″妙″ともいうべき空観を悟った意義がこめられている。
 仏法では、妙は仏界、法は九界。妙は本源、法は現象。その原理からいえば、妙は師、法は弟子となる。ゆえに、伸一は、師弟の不二の誓いを込めて、「法悟空」としたのである。
 彼の心は燃えていた。
17  波浪(17)
 公明政治連盟では、今回の参院選挙で九人全員が当選し、議員が十五人となったことから、参議院に院内交渉団体として、独自の会派「公明会」を結成することを決定し、発表した。
 今回の選挙の結果、社会党、民社党、共産党の革新政党は、憲法改定阻止に必要な、三分の一にあたる八十四議席を確保することができなかった。したがって、この「公明会」が護憲の鍵を握る存在として、クローズアップされることになる。
 昭和三十七年(一九六二年)の下半期のスタートとなる臨時本部幹部会は、参院選挙の大勝利の喜びのなか、七月三日午後六時から東京体育館で開催された。
 席上、当選を果たした九人のメンバーが紹介されると、場内は怒涛のような拍手と歓声に包まれた。
 会員たちは、自分たちの支援が、民衆のための新たな政治勢力を誕生させた、歓喜と誇りに胸を高鳴らせていた。そして、更に、自分たちの手で、日本の平和と繁栄を築かなければならないという、社会建設の主役としての自覚を新たにするのであった。
 会員の多くは、いまだ貧しかった。風呂さえない六畳一間の木造アパートに、親子五人が、重なり合うようにして寝なければならない人もいた。夫を亡くし、女手一つで三人の子供を育てるために、昼夜にわたって働く婦人もいた。
 満足に休みさえなく、朝から晩まで、小さな町工場の一隅で油まみれになって働く青年もいた。昼は会社に勤め、夜は夜間の大学に通う苦学生もいた。
 そうした人びとが、社会を、政治をよくしようと、時間をやり繰りして、手弁当で支援活動に参加し、この勝利を獲得したのだ。
 信仰によって覚醒した民衆の力を、満天下に示した選挙戦であったといえる。
 本部幹部会では、理事の森川一正から、下半期の活動方針として、「組織の充実」「教学の研鑽」「文化活動の推進」の三点が発表された。
 このうち「組織の充実」は、会員の急速な増加のなかで、一人一人を育成していくために、新しい支部や地区を結成するとともに、新たな人材を幹部に登用し、組織を整備していこうというものであった。
 また、「教学の研鑽」では、十一月に教学部の昇格試験が実施されることが発表された。
 更に「文化活動の推進」では、各地方本部ごとに体育大会を開催するほか、教育部、言論部など文化局各部の活動の充実を図っていくことが打ち出された。
18  波浪(18)
 山本伸一が、本部幹部会の最後に登壇した。
 そして、まず、今回の支援活動への参加者の労を深くねぎらい、心から感謝の意を表した後、彼は今後の学会の、政治への基本姿勢について語っていった。
 「このたび、公明会が結成の運びとなりましたことを、私は、同志の皆様とともに、心から祝福したいと思います。
 さて、私ども創価学会は、宗教団体であります。人類を幸福にする、世界の平和を実現するという、根本目的においては、公政連(公明政治連盟の略称)、公明会も同じですが、宗教団体である学会が担う第一の使命は、正しき仏法の流布であります。
 したがいまして、今後、政策の問題については、公政連、並びに公明会に、すべてお任せをしたいと考えております。
 また、私自身は、政界に入ることはありませんし、今後も、どこまでも創価学会の会長として、信心第一に仏道修行に励み、いっさいの根本である日蓮大聖人の仏法をもって、民衆を救いゆくために、皆さんとともに、広宣流布に邁進してまいります」
 伸一がこう言明した背景には、当時、あらぬ憶測が世間に流されていたからである。それは、学会の政界進出の狙いは、政治を支配することであり、やがて、山本会長は自ら政界入りして、総理大臣の座を手に入れようとしているというものであった。
 学会が、えたいの知れない野望集団であるかのような印象を植えつけようとする、謀略といえる。
 もとより、彼には、そんな考えは微塵もなかった。彼は、それを、この席で明らかにしておきたかったのである。
 伸一は、話を続けた。
 「私は、公政連、公明会の議員の皆さんは、皆、立派な方であると信じております。
 これからも、更に、衆望を担って、全国民から『私たちが期待していた政治家は、この学会員の人たちである』と言われ、称賛される政治家に育っていっていただきたいと、心から念願するものであります。
 そして、あくまでも、全民衆のための議員として、活躍していただきたい。それが学会精神です。
 しかし、もしも将来、自分の名聞名利にとらわれ、民衆のためという、所期の目的を忘れるような議員が出るならば、仏法を持つ者として、日蓮大聖人のお叱りを、厳しく受けるでしょうし、私どもも、学会から追放していくという決意でまいりたいと思いますが、いかがでしょうか」
 賛同の拍手が起こった。
19  波浪(19)
 民衆のために生き、民衆のために戦うことこそ、全学会員の、公明政治連盟の議員への期待である。
 山本伸一は、議員のメンバーには、何があっても、その精神だけは貫いてほしかった。もし、それを踏み外して私利私欲に走り、腐敗、堕落するなら、彼らを政界に送り出した意味も、公明政治連盟を結成した意味もなくなってしまう。
 だから、伸一は、未来への警鐘として、あえて厳しく戒めておいたのである。
 彼は最後に、「また新しい心で、新たなる目標に向かい、鉄の団結をもって、大功徳を受けながら、ともに前進してまいろうではありませんか」と呼びかけ、この日のあいさつとした。
 学会は、参院選挙の勝利の喜びのなか、勇躍、下半期へのスタートを切った。しかし、伸一は、この勝利が各政党などに脅威を与え、大きな波紋を呼ぶであろうことを覚悟していた。
 当時、各政党が、創価学会をどのように見ていたかについて、朝日新聞の七月四日付夕刊の「参院の第三勢力 創価学会」と題する記事には、次のような記述がある。
 「自民党は創価学会が将来、自民党に対抗してくるような政治勢力にまで成長するものとは見ていない。熱烈な宗教団体に限って冷却も早いというこれまでの新興宗教の多くの例からも、創価学会の政界進出は早晩頭打ちになるものとみているようだ。
 しかし社会党や共産党の場合は保守党の場合より深刻のようだ。
 かつて北海道の炭労組織が創価学会に食荒らされたことは、いまなお革新政党幹部の記憶に生々しい。一般に労働者は全体としてみれば宗教に関心がうすいといわれている。
 それが最近、日教組や国労など組織労働者にまで創価学会は食込んでいるようで、社会党内に党のあり方や日常の組織活動についての反省も起り、創価学会に対する対抗策の検討が続けられている」
 当時、自民党が、本当にこの記事のような見解であったのか、あるいは、政権政党の余裕を誇示するために、あえて学会を過小評価する発言をしたのかは不明である。
 一方、労働組合の幹部たちは、学会の躍進に対して大きな脅威をいだいていたことは確かなようだ。
 事実、この参院選挙をきっかけとして、一部の労働組合は、組合に所属する学会員に、陰湿な圧迫を加えてきた。
 なかでも、秋田の尾去沢鉱山と長崎・佐世保の中里炭鉱の労働組合では、それが実際に、「組合除名」となって現れたのである。
20  波浪(20)
 秋田県の北部。国鉄(現在のJR)花輪線の陸中花輪駅から、西へ四キロメートルほど、曲がりくねった山道を登っていくと、木一本、生えていない、赤茶けた山肌が現れる。
 その山裾に、選鉱場、製錬所などがひしめき合い、山の中腹の巨大な煙突から煙が立ちのぼっている。
 尾去沢鉱山である。
 ここは、″日本の三大銅山″の一つとして名高く、銅を主体として、金、銀、亜鉛などを産出する、日本有数の歴史と規模をもつ鉱山であった。
 この鉱山の組合で、除名事件が起こったのである。
 参院選挙の全国区で、東北の学会員は、公明政治連盟推薦の関久男を支援し、関は、この尾去沢町(現・鹿角市内)では三百五票を獲得していた。
 その関が二十六位で当選を果たしたのに対し、鉱山の労働組合が推した革新政党の候補は、大接戦の末、次点と約千七百票差で、かろうじて最下位当選に滑り込むという結果となった。
 この肝を冷やすような大苦戦と、学会員が支援した関の、町内からの意外な高得票は、尾去沢鉱山の労組の幹部にとって、看過できない事態と映ったようだ。
 昭和三十年代の半ば、尾去沢の鉱山は活気を呈し、一時、町の税収の九割強が鉱山がもたらす利益であったという。町のテレビの普及率が全国一になったほどであった。
 従業員はおよそ三千人といわれ、家族などを含めれば、町の人口約一万人のうち、七、八割を、鉱山関係者が占めていた。
 また、尾去沢鉱山の労働組合は、全国組織の全鉱(全日本金属鉱山労働組合連合会)のなかでも重きをなし、力も強かった。
 その組合の幹部が、学会員の支援活動に恐れをいだき、このままいけば、労組の基盤が揺るがされるとの、強い危機感を募らせたのであろう。
 参院選挙が終わった直後の七月六日、学会の地区部長をしている山尾久也という壮年が組合事務所に呼ばれた。
 山尾は、五十歳近い、温厚な人物であった。二十年ほど、この鉱山で仕事をしてきたベテランの鉱員である。また、町議会議員も務め、周囲の人びとの信頼は厚かった。
 彼の妻のミヤは、学会の十和田支部の婦人部長をしていた。夫妻は、八年前に入会し、尾去沢の学会員の中心となって信心に励んできたのである。
 山尾が組合の事務所に行くと、労組の幹部が勢揃いし、威圧的な険しい目で彼を睨みつけた。
21  波浪(21)
 査問が始まった。山尾久也は組合の統制委員会にかけられたのだ。
 山尾には、組合幹部が参院選挙の結果に狼狽し、自分をつぶしにかかってきたことがよくわかった。公明政治連盟推薦の関久男が、尾去沢町で三百五票を獲得したことで、学会を目の敵にしているとの話を耳にしていたからだ。
 しかし、彼らは参院選挙のことには触れなかった。組合側が山尾を追及し、攻撃の口実にしてきたのは、彼の町議会議員としての所属政党のことであった。
 ――三年前に山尾が学会から推され、町議会議員選挙に立候補した時、彼が組合員であることから、労組も推薦した。その後、鉱山の労組関係の議員で政治連盟が結成された際、組合側は、山尾に社会党に入るように勧めた。
 だが、最終的に彼が、それを拒否したことから、組合の統制を破ったというのである。
 事務所の机の上で胡座をかいていた、全鉱(全日本金属鉱山労働組合連合会)の幹部が、恫喝するかのように山尾に言った。
 「組合の組織につかんもんは、やめてしまえ!」
 実は、この前日の七月五日にも、本郷四郎という学会員が組合事務所に呼ばれ、統制委員会にかけられていたのである。
 本郷の場合は、一九五六年(昭和三十一年)の参院選挙の折、関久男の支援活動中、戸別訪問をしてしまい、公職選挙法違反で罰金刑となった。
 その時、組合幹部は、組合の名を汚したので処分するところだが、″今後、創価学会とは手を切る″という誓約書を書けば穏便にすませてやろうと、本郷に迫った。
 当時、入会して間もない本郷は、言われるままに、誓約書を書いてしまったのである。
 しかし、本郷は、その後、学会員の真心に触れて、仏法のすばらしさを実感するようになり、学会をやめることはなかった。
 組合側は、それを取り上げ、なぜ、学会をやめないのか、約束不履行であると責め立てたのである。
 だが、本来、信仰は個人の自由であり、組合がそれを制限するのは、全くお門違いな違法な行為であった。
 しかも、山尾の場合も、本郷の場合も、かなり前の問題である。それが、今回の参院選挙の直後に、にわかに問題にされて、統制委員会にかけられたのだ。
 学会員が組合推薦の候補者を支援しなかったことを理由にすれば、「信教の自由」や「選挙活動の自由」に抵触することを懸念し、別の処分の口実を考えたのであろう。
22  波浪(22)
 組合の事務所から、山尾久也が帰って来ると、妻のミヤが心配そうに尋ねた。
 「父さん、組合はなんて言ってるの?」
 彼は答えた。鷹揚な響きをもつ秋田の方言だが、久也の口調には怒りがあふれていた。
 「今日は、なぜ、社会党に入らねが追及されただけだが、『組合に従わねば、組合をやめれ』って言われただ。結局、おれをクビにしたいんだべ。
 本当のところは、選挙で学会員が、組合推薦の候補者を推さながったがら、弾圧したいんだべ」
 尾去沢鉱山ではユニオン・ショップ制をとっていたため、従業員は組合員でなければならず、組合から除名され、組合員の資格を失えば、会社からも解雇されることになる。
 本来、ユニオン・ショップ制は、労働者が団結して雇用者と交渉するために生まれたものである。ところが、それを逆手に取って、組合は、学会員の労働者のクビを切ろうとしていたのである。
 山尾は町議会議員をしていたが、その報酬は微々たるものであり、会社を解雇されれば、一家は路頭に迷うことになる。
 夫の話を聞くと、気丈な性格のミヤもまた、怒りを含んだ声で言った。
 「こっちは、なあんも悪いごどしてねぇ。クビにするならしてみれ!
 父さん、遂に、来るべきもんが来たな。『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る』だものな……。
 こんなごどで、負げでなんかいられね」
 ミヤのその言葉は、久也にとって最大の励ましであった。彼は、相槌を打ちながら、自らを鼓舞するように言った。
 「おれをクビにしたら、このヤマの学会員は、みんな恐れで、信心をやめるど思ってるんだ……。そんなごどにはならねぇ。
 山本先生も五月に仙台に来られだ時、広宣流布の前進には、必ず大難が起ごるって言われだ。
 おれだちの信心も、ようやぐ一人前になったのかもしれないな」
 山本伸一は、五月八日、仙台市レジャーセンターで行われた東北本部幹部会に出席した。その席上、戸田城聖の「いやまして険しき山にかかりけり 広布の旅に心してゆけ」との和歌を紹介し、広布の道には必ず難が競い起こることを語ったのである。
 それは、創価学会が社会の建設に本格的な取り組みを開始し、影響力をもてばもつほど、襲い来る難の風も強くなることを予感しての指導であった。それが、今、現実となったのだ。
23  波浪(23)
 山尾久也とミヤは、一九五四年(昭和二十九年)の入会以来、一途に信心を貫いてきた。
 そのなかで二人は、御本尊の力を実感してきた。久也が作業中に、間一髪のところで命拾いしたこともあった。その歓喜を胸に、弘教に駆け巡った。
 尾去沢のヤマで働く仲間たちは、それぞれが、それぞれの悩みをかかえていた。病苦、体の不自由な子供をもつ親の悩み、家庭不和。あるいは、夫が稼ぎを博打や酒に注ぎ込み、貧乏暮らしに喘ぐ家族もいた。
 皆の悩みの一つ一つは、組合活動による労働条件の改善だけでは癒し難い苦悩であった。
 ″この仲間を幸福にするのが、おれだちの使命だ″
 山尾夫妻は、一棟六軒の″ハモニカ長屋″で、「生活改善座談会」と銘打ち、活発に座談会を開いた。
 座談会をこう名づけたのは、信心をした人たちの体験を座談会に出て聞けば、その生活が、いかに見事に改善されていったかがよくわかるからだ。
 山尾は、この尾去沢の鉱山を愛し、ともに働く仲間たちを愛していた。
 夫妻の相手を思う真剣な対話に、信心を始める人が次第に増え始めた。
 この一九六二年(同三十七年)ごろには、同志は、尾去沢町で、百二、三十世帯を数えるほどになっていた。
 こうして燃え広がった信仰の火が、今、激しい嵐にさらされようとしていたのである。
 尾去沢の事件のことは、すぐに学会本部にも連絡が入った。
 山本伸一は、その報告を聞くと、理事たちに言った。
 「尾去沢の山尾久也さんというのは、秋田の十和田支部の婦人部長のご主人だね。よく覚えているよ。
 その山尾さんたちが、いったい、どんな悪いことをしたというのだ。組合を除名され、解雇されれば死活問題じゃないか。こんな理不尽なことがまかり通ってしまえば、あまりにも同志がかわいそうだ。
 どうか、学会本部としても最高幹部を派遣して、最大の応援をしてあげてほしい。大事なわが同志を守ることだ。
 事の本質は、『信教の自由』という基本的人権の根幹にかかわってくる。それだけに、これは重大な問題だよ」
 彼の声も、怒りをはらんでいた。
 さっそく、渉外局員などを派遣し、詳しい実情を調査するとともに、対策を協議することになった。
24  波浪(24)
 尾去沢には、十和田支部長の島津達夫をはじめ、渉外局員らが駆けつけ、調査にあたった。
 彼らは、労働組合の事務所で組合幹部とも会い、山尾久也と本郷四郎が、統制にかけられた理由を尋ねていった。
 すると、応対した組合幹部の二人のうちの一人が、本音を漏らした。
 「そりゃあ、今度の選挙のことだよ」
 やはり、今回の参院選挙で山尾たちが、公政連(公明政治連盟の略称)推薦の関久男を推したことが、統制にかけた本当の理由だったのである。
 もう一人の幹部が、慌てて、それを制して言った。
 「いや、選挙のことだげでねぇ。ほかにも問題がある。しかし、統制委員会からの答申も出でないんだがら、今は話すわけにはいがねぇな」
 組合幹部には、早く会見を打ち切りたいという様子が、ありありと見えた。
 このころ、既に組合では八月の二十九日に臨時大会を開き、そこで山尾ら二人に対する統制委員会の答申が出されることが決まっていた。
 大会の四日前の二十五日、学会本部から派遣された山際洋ら三人の理事と十和田支部長の島津が、組合の代表と会見した。
 ここで、再度、組合幹部に、山尾たちが統制にかけられた理由を聞くと、今回の参院選挙で、組合の決定に従わず、公政連推薦の候補者の支援活動を行ったことであると明言したのだ。
 既に組合幹部の一人が本音を漏らしてしまったことから、作戦を変え、今回の参院選挙のことも、処分の理由に加えたようだ。
 彼らは、宗教を問題にしているのではない、としたうえで、個人が誰に投票するかは自由だが、組合員として組織決定に反して、他候補の支援の運動を行ったことが問題であるというのである。
 学会の理事の一人が確認した。
 「つまり、国法で自由を保障された選挙運動についても、組合で決議したことに従わなければ、統制処分を受けなければならないというわけですね」
 組合幹部は答えた。
 「選挙で投票する際の個人の意思は拘束しようがない。しかし、組合で決めた候補者以外の選挙運動は統制する」
 そして、突っぱねるように言い放った。
 「組合には組合のルールがある。もし、それに従えない者は、ほかで働けばいいんだ」
25  波浪(25)
 組合側の言葉には、明らかな嘘があった。
 彼らは宗教を問題にしているのではないと言いながら、本郷四郎には、学会とは手を切る旨の誓約書を書かせ、それを守らなかったということを問題にしているのだ。
 組合がどんな決議をしようとも、個人の信仰は自由であり、また、政治活動も自由である。それは、国民としての権利である。
 組合がやろうとしていることは、憲法に反することはもちろん、労働組合法が組合規約に必ず盛り込むよう定めている、「何人も、いかなる場合においても、人種、宗教、性別、門地又は身分によって組合員たる資格を奪われないこと」という規定にも反することになる。
 八月二十九日、尾去沢労組の臨時大会が開かれた。ここで山尾久也と本郷のことが、議題にかけられることになっていた。
 ところが、当事者の山尾たちが、″弁明するなら出席せよ″と通知されたのは、大会のわずか二時間前であった。結局、二人は大会を欠席した。
 そして、大会は、当事者不在のまま、統制委員会の答申通り、除名処分を決議したのであった。
 それは、二人の会社からの解雇を意味している。民主国家であり、法治国家である日本で、こんな不当な人権を踏みにじる処分が許されてよいわけがない。
 翌三十日、二人は、直ちに、秋田地方裁判所大館支部に対して、尾去沢鉱山労働組合を相手取り、除名決議の効力停止の仮処分を申請した。
 除名・解雇によって生じる生活上の危険・不安を防止し、また、除去するための措置である。
 その翌日、山尾と本郷は組合事務所に呼び出された。そこには、組合執行部の全員が勢揃いし、威圧するような目で二人を見た。
 組合の委員長が除名通知書を手にして、冷笑を浮かべながら言った。
 「大会で決定したから、除名の通知書を渡すよ。君たちは大会には出ないし、弁明もしないから、権利放棄と見なして、議決させてもらった」
 あまりにも、非道で冷酷な言葉である。
 山尾は、激しい憤りを覚えた。握り締めた拳がブルブルと震えた。しかし、最後に勝つのはこっちなんだと、必死に自分に言い聞かせ、通知書を受け取った。
 そこには、除名の理由さえなく、「……貴方は昭和三十七年八月二十九日の尾去沢鉱山労働組合第五十四回臨時大会に於いて統制委員会の答申通り除名に決定なったので通知する」とだけ記されていた。
26  波浪(26)
 組合は、除名した山尾久也らの二人を、ユニオン・ショップ協定に基づき、早急に解雇するよう会社に迫った。もしも、二人を解雇しなかったら、ストライキを強行するとまで主張したのである。
 会社は、九月五日の午後、二人を呼び出し、解雇を告げた。このままでは、社宅の住居も立ち退かなければならないことになる。
 周囲の人は、山尾たちとは口を聞かなくなった。山尾の妻のミヤが共同浴場に行くと、皆、さっと顔をそむけるのである。
 また、町を歩けば、婦人たちが声をひそめて囁き合った。
 「ほれ、あれが、創価学会の山尾の嬶だ……」
 そんなある日、同居しているミヤの母親が、ぽつりと言った。
 「尾去沢を出て、ほかに行ぐか……」
 尾去沢では、鉱山で働く以外に仕事はないが、ほかのところならば、働き口はいくらでもある。
 町を出ようかと言う母親の辛い気持ちも、ミヤには痛いほどよくわかった。
 しかし、すぐに首を振って言った。
 「とんでもね。おれだちが出で行ったら、後に残った同志はどうするの。みんながかわいそうだ! おれだちは絶対、ここは動がれねぇ」
 山尾らが解雇された後、組合は、ほかの学会員にも監視の目を光らせるようになった。じわじわと真綿で首をしめるように、陰湿な圧迫が加えられていった。
 ごく少数ではあるが、尾去沢の学会員のなかにも、動揺する人が出始めた。
 十和田支部長の島津達夫をはじめ、地元の幹部は、団結して、会員の激励・指導に走り回った。そして、同志は、激しき苦難の嵐に、決然と立ち上がった。
 この頃、尾去沢の同志が合言葉のように語り合っていたことがあった。
 「あの夕張も、″天下の炭労″に勝った。おれだちも負けるはずはねぇ」
 それは、北海道の夕張炭労事件のことであった。
 一九五七年(昭和三十二年)、泣く子も黙るとさえいわれ、大きな影響力をもっていた炭労(日本炭鉱労働組合)が、学会を敵視する方針を打ち出し、なかでも、北海道で最大の炭労組織であった夕張炭労は、公然と学会員の排斥に動き出したのである。
 この事件も、前年の参院選挙で、炭労に所属する学会員が、学会推薦の候補者を推したことを理由に、炭労の団結を乱したとして起こったものであった。
27  波浪(27)
 夕張炭労の学会員への圧迫は、憲法の保障する「信教の自由」の破壊行為であることは明らかであった。
 この人権侵害に対して、学会は断固として戦い、戸田城聖は、青年部の室長であった山本伸一を北海道に派遣し、問題の解決と同志の激励にあたらせた。
 伸一は、人権を守り、民衆を守るために、北海の大地をひた走った。
 そして、遂に、夕張炭労は、学会員排除の方針を全面撤回するに至った。
 この夕張炭労事件の勝利は、晴れ渡る民衆大運動の栄光の歴史として、尾去沢の友の、勇気と希望の光源となっていたのである。
 組合除名により会社を解雇された、山尾久也と本郷四郎の二人をはじめ、尾去沢の同志は、固く勝利を信じていた。
 山尾は、こんな不正と横暴がまかり通れば、正義も道理もなくなってしまうという、義憤に燃えていた。自分のためだけではなく、多くの同志のためにも、除名処分を撤回させなければならないと、彼は思った。
 山尾たちが秋田地裁大館支部に提出した仮処分申請は受理され、法廷闘争に移っていった。
 審理の過程で、「信教の自由」の解釈について、両者の言い分は真っ向から食い違った。
 組合側は「信教の自由」といっても、労働組合の団結権を乱さないという制限のうえに立つ自由であり、組合の統制は憲法が保障する「信教の自由」に優先するという認識であった。
 十月十八日、第三回の口頭弁論の終了時に、裁判所は、組合側は除名処分を取り消し、両者は和解するように勧告した。
 組合側は、この和解勧告を受け入れた。裁判では敗れる可能性が極めて高いと判断したのであろう。
 一方、山尾たちも、不当な除名処分を撤回させればよいのであって、裁判で争うことが本意ではない。彼らも、和解に応じることになった。
 その後、和解の条件をめぐって、紛糾する一幕もあったが、結局、組合は、十二月二十日に臨時大会を開いて、山尾ら二人の学会員の除名処分の撤回を決議したのである。
 道理のうえから見れば、当然のことであるが、その当然のことが通らず、山尾たちは、半年近くにわたって、苦渋と屈辱の日々を強いられた。
 だが、わが同志は勝った。組合が自分たちの決議を自ら覆すという、未聞の大逆転となったのだ。
 尾去沢のヤマに、不屈の信仰の勝利の旗が翻ったのである。
28  波浪(28)
 秋田の尾去沢で、事件が突発したころ、西の長崎の佐世保でも、同様の事件が起こった。
 佐世保の中心街の北西、相浦川を挟んだ丘陵地帯にある中里炭鉱が、その烈風の舞台となった。
 ここでも、参議院議員選挙の直後、学会の佐世保支部の吉山恒造と木田悟郎という二人の会員が、組合が推薦する候補者を支援せず、公政連(公明政治連盟の略称)推薦の候補者を支援したことで、組合から除名処分されたのである。
 彼らは、炭鉱の社宅近くの鮮魚店に、公政連推薦の鬼山勝春候補のポスターを一枚張った。その行為が問題にされたのである。
 二人は、七月下旬から、数回、組合事務所に呼び出され、組合幹部の査問を受けた。そして、参院選挙から一カ月余りが過ぎた八月四日、中里炭鉱組合の臨時大会で、二人の除名問題が取り上げられた。
 その採決は、組合員の投票に委ねられたが、投票用紙に賛否を記入する机の前には、組合幹部がずらりと陣取り、睨みを利かせていた。これでは、組合員の自由意思を尊重した秘密投票になるはずがなかった。
 結局、圧倒的多数で、吉山と木田の除名が決議されたのである。あまりにも理不尽な処分であった。
 この中里炭鉱でも、ユニオン・ショップ制をとっており、組合からの除名処分によって、二人が会社から解雇されることは決定的となった。
 そのため、二人は十日、長崎地裁佐世保支部に対して、組合除名決議の効力停止の仮処分申請を行った。
 このころ、学会からは、幹部が現地に派遣され、二人の相談に応じながら、組合との交渉や、同志への激励が続けられていた。
 そして、八月十三日、吉山と木田の仮処分申請が認められたのである。迅速な仮処分の決定であった。これで当面、二人は、除名によって、職場を追われることはなくなったのである。
 この日、東京から、青年部長で理事の秋月英介らが駆けつけ、佐世保市公会堂で、組合の不当処分を糾弾する、佐世保の学会員の大会が開かれた。
 参加者は、不当な人権侵害と徹底して戦う息吹に満ちあふれていた。
 その大会の席上、吉山と木田の仮処分決定が報告されると、場内を大拍手と大歓声が包んだ。同志の胸に、「正義は必ず勝つ」との確信が広がった。
 しかし、事態は、それほど、生易しいものではなかった。職場では、陰湿極まりない謀略が待ち受けていたのである。
29  波浪(29)
 九月の下旬、木田悟郎が、突然、会社から解雇されてしまった。解雇の理由は、除名問題とは全く別の理由であった。
 木田は働き盛りの四十歳であったが、一年近く前に勤務中に足を骨折し、通院などのため、欠勤することが多かった。それが勤務怠慢として、解雇の理由にされたのである。
 一方、吉山恒造は、仮処分の決定と前後して、それまでの「採炭」、つまり坑内で石炭を採掘する仕事から外され、「坑内日役」に異動させられた。「坑内日役」とは、坑道内の掃除などの雑役である。
 それにともない、これまで月三万円から三万二千円あった給料が、一万円ほどに減ってしまった。三十六歳の吉山には、育ち盛りの四人の子供がおり、生活はたちまち逼迫していった。
 民生委員に生活保護を受けたいと相談したが、その民生委員も組合員で、会社の体面に傷がつくなどと理由をつけて、なんの対応もしてくれなかった。
 また、吉山が採炭への復職を希望しても、会社では採炭の人員が不足しているにもかかわらず、認められなかった。
 それでも、職場の不遇は、まだ我慢できた。しかし、幼い子供たちが除け者にされ、いじめられて帰って来るのを見ると、身を切られるように辛かった。
 「なんで罪もなか子供たちまで、いじめるのか!」
 吉山は、悔しさと怒りに震えた。しかし、耐えるしかなかった。
 そんな時、妻のヨシエの明るさが、彼を励ました。彼女は、吉山が組合から査問された時も、「なんも悪かことはしとらんけん、謝ることはなか!」と言い切っていた。
 その確信にあふれた言葉が、彼に、不当な組合の仕打ちに屈することなく、最後まで、戦い抜く腹を決めさせたといえる。
 尾去沢鉱山の山尾久也の妻も、吉山の妻も、何があっても動じることなく、明るさを失わなかった。だからこそ、夫も挫けなかったのだ。もし、妻が弱音を吐いていたら、夫の心も揺らいでいたであろう。
 一途な性格の吉山は、苦しいと思うと、真剣に唱題に励み、むさぼるように御書を拝していった。
 「……大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひ満干ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
 この御文が、彼の一番好きな御書の一節であった。
 山本伸一が推進してきた教学の研鑽の運動が、同志の不動な信仰を築き上げていたのである。
30  波浪(30)
 事件が起こってからは、吉山恒造の住むハモニカ長屋への部外者の立ち入りにも、厳しい監視の目が向けられるようになった。
 しかし、夜、周囲が寝静まるのを待って、先輩幹部が激励に通ってくれた。
 ある夜、佐世保支部長の松川徹がやって来た。
 「元気かね。
 ところで、腹が減ったけんが、ウドンばつくってもらえんかね」
 そう言って、松川は持っていた袋を、吉山の妻に渡した。そこには、ウドンが十玉ほど入っていた。
 「あんたたちも、よかったら一緒に食わんか」
 松川は、吉山の苦境をよく知っていた。だが、吉山に、他人から施しを受けているような惨めな思いをさせたくなかった。
 だから、あえて自分が腹が減っていると言って、ウドンを出したのである。
 松川は言った。
 「吉山さん、自分は金銭的には、なんの応援もできんたい。
 それに、この信心は、誰やらに助けてもらうということば、お願いする信心じゃなか。
 自分ば人間革命する信心たい。自分で立ち上がり、自分の力で勝つしかなかとたい。人ば頼ろうと思っちゃ負けばい。
 いくら、金ばもらっても自分の宿命は変わらん。宿命ば転換せんば、幸福にはならんとばい。
 信心して、こぎゃん難が来たことは、いよいよ宿命転換ばできるということたい。戦うことたい。獅子のごと戦うことたい」
 真の信仰とは、″おすがり信仰″ではない。自分の幸福をつくるのは自分自身である。
 ゆえに、どんな苦境にあっても、自分で立ち上がってみせるという″負けじ魂″こそ、幸福の根本条件であることを、松川は教えたかったのである。
 吉山には、松川の気遣いも、思いも、痛いほどわかった。
 湯気のたつウドンを夢中ですする子供たちを見ながら、吉山の心に、学会の同志の厳しくも温かい励ましが熱く染みた。彼は、そっと涙を拭い、決意を新たにするのであった。
 こうした同志の激励をバネに、吉山は苦境を耐え抜いたのである。
 一方、解雇されてしまった木田悟郎は、別の炭鉱で働くことになった。
 足の怪我も回復し、どうにか、生活を維持することができた。
 そして、移り住んだ借家を学会活動の会場に提供して、黙々と信心に励んだ。
 彼が日々、念じていたことは、組合が、後に残った吉山の除名処分を撤回することであった。
31  波浪(31)
 尾去沢鉱山の事件は、和解によって、除名から四カ月で終止符が打たれたが、中里炭鉱の事件は、本裁判に持ち込まれた。
 中里炭鉱に残っている吉山恒造一人が原告となり、組合を相手取って除名決議の無効を訴えたのである。
 そして、八回にわたる公判の末、長崎地裁佐世保支部は、一九六四年(昭和三十九年)三月三十日、吉山の主張通り、除名決議は無効との判決を下したのだ。
 しかし、組合側は、判決を不服として控訴した。
 翌一九六五年(同四十年)の四月、福岡高裁は、控訴棄却の判決を出すが、更に組合側は、最高裁に上告したのである。組合の体面を守るためだけの醜い姿であった。
 その結果、裁判の決着は最高裁判決まで持ち越されることになった。中里炭鉱は一九六七年(同四十二年)一月に閉鎖されるが、裁判はその後も続いていた。
 最高裁の判決は、上告から四年後であった。一九六九年(同四十四年)の五月二日、最高裁第二小法廷は、一審、二審判決を支持し、″組合員の政治活動を制限することは、組合の統制権の限界を超えるものであり、違法である″という趣旨の判決を下し、組合の除名処分を無効とした。
 実に、事件勃発から七年の歳月を経て、遂に、全面勝訴が決まったのである。
 吉山は「悪は多けれども一善にかつ事なし」の御文を実感した。いかなる謀略も、道理をねじ曲げることなど、できはしなかったのだ。
 既に中里炭鉱の閉山から二年余が過ぎ、吉山の長年の苦闘を思えば、判決は遅すぎたといえるが、彼が裁判で勝ったことには、大きな意味があった。
 組合の統制権によって、組合員の信教の自由、政治活動の自由を拘束できないことが、判例としても明らかになったからである。
 暗雲を破って、勝利の輝く太陽は、佐世保の大空に、悠然と昇っていった。
 山本伸一は、尾去沢鉱山と中里炭鉱の事件が起こった時、これは広宣流布の行く手をさえぎる嵐の、ほんの前ぶれにすぎないことを感じていた。
 学会は、仏法者の社会的使命を果たすために、波の穏やかな内海から、時代の建設という、波浪の猛る大海に乗り出したのだ。
 彼は、疾風も、怒涛も、覚悟のうえであった。人類の永遠の平和とヒューマニズムの勝利のために、伸一は、殉難を恐れず、創価の大船の舵を必死に取り続けるしかなかった。
 ただ、船内の同志たちの幸福と安穏とを、祈り念じながら――。

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