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日蓮大聖人・池田大作

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第6巻 「遠路」 遠路

小説「新・人間革命」

前後
1  遠路(1)
 「人間によって人間の世界は結合される」と言った詩人がいた。
 友情は人間を結び、世界を繋ぎ、平和への黄金の橋を架ける。
 山本伸一の旅は、友情の花を咲かせ、心の道を開く人間対話の旅であった。
 一九六二年(昭和三十七年)二月二日の朝、伸一の一行は、イラクの首都バグダッドを発って、空路、トルコのイスタンブールに向かった。
 イスタンブールの空港では、この国の首都のアンカラに住むハルコ・ハリルという日系の婦人と、トルコ人の夫が迎えてくれた。
 彼女は元侯爵家の令嬢であったが、父親は戦死し、人生の辛酸をなめてきた。伸一は日本で、学会員の紹介で、彼女と会っていた。
 夫はトルコの外交官として、日本に五年ほど赴任していたことがあり、日本語も話すことができた。彼はにこやかに語り始めた。
 「ようこそトルコへおいでくださいました。
 私は、トルコと日本は不思議な関係にあるように思います。たとえば、トルコの国旗は、赤地に白い三日月と星。日本の国旗は、白地に日の丸、つまり、太陽ですね。これは″兄弟″の関係ではないでしょうか。
 また、トルコはアジアとヨーロッパの境にあり、日本はアジアとアメリカの境にあります。そして、日本はシルクロードの東の端、トルコは西の端です。
 二つの国は、両端にあって、一見、遠いように見えますが、実は、共通性をもった親しい国なのです」
 伸一が答えた。
 「私も同感です。磁石も″N極″と″S極″という両極同士は、互いに強く引き合います。トルコ人のあなたと日本人の奥様の、仲睦まじい姿が、そのことを象徴的に物語っているのではないでしょうか」
 笑いが広がった。ユーモアは気持ちを和ませる心の清涼剤といえる。
 一行は、この夫妻と昼食をともにした後、彼らの案内で市内を視察した。
 イスタンブールはトルコ最大の都市であり、古代にはビザンチウムといわれ、西暦三三〇年にローマ皇帝コンスタンティヌスが、ローマから、ここに都を移すと、コンスタンチノープル(コンスタンティヌスの都の意)と呼ばれた。
 ローマ帝国が西と東に分かれてからは、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都として栄え、一四五三年にオスマン帝国が征服すると、やがて、イスタンブールといわれるようになる。
 こうした歴史をもち、東西交易の要路ともなってきたこの都市は、東西文化が混ざり合い、独特の雰囲気を醸し出していた。
2  遠路(2)
 イスタンブールは、黒海からマルマラ海に至るボスポラス海峡を挟んで、東岸(アジア側)と西岸(ヨーロッパ側)から成り、アジア大陸とヨーロッパ大陸にまたがる都市である。
 西側の地域には、ボスポラス海峡から金角湾が細長く食い込み、その南側は旧市街と呼ばれ、オスマン帝国時代からの遺跡が多い。また、北側は新市街と呼ばれ、近代的なオフィス・ビルなどが建ち並んでいる。
 旧市街では、いたるところにモスクと、エンピツのような形をした尖塔がそびえていた。
 一行は、アヤ・ソフィア博物館を視察した。ここは、建設当初はキリスト教の教会であったが、オスマン・トルコの時代にイスラムのモスクとなった。そして、トルコ共和国の誕生後、初代大統領のケマル・アタチュルクは無宗教の博物館とした。
 更に、オスマン帝国の歴代スルタン(皇帝)の居城として知られるトプカプ宮殿を見学し、グランド・バザールで、絨毯などの買い付けにあたった。
 ここは「カパル・チャルシュ(屋根付き市場)」と呼ばれ、一際、賑わいを見せていた。値段の交渉にはハリル夫妻があたってくれたが、店の人は途中、お茶を出したりして、客をもてなしながら、じっくりと交渉に応じていた。
 ある店では、一行が日本人だとわかると、店の主人は、顔をほころばせ、最初に示した値段を急に下げ、ほぼこちらの言い値で商品を売ってくれた。
 買い物の後、ハリル夫妻が海の見える小高い丘に案内してくれた時、山本伸一は、ハリルに尋ねた。
 「先ほどの買い物の時、店の人が日本人だと聞いて安くしてくれましたが、トルコの人たちは日本人に対して、どのような感じをいだいているのですか」
 「極めて親日的で好感をもっています。といっても誰もがあの店の主人のように、安くしてくれるというわけではありませんが。
 トルコは長年、ロシアとの関係で苦労していましたから、日露戦争で日本がロシアを破った時には、生まれた子供に、海軍の東郷元帥の名前などをつける人もいました。
 また、トルコの使節を乗せて、初めて日本を訪問した船が、帰国の途中、嵐のために遭難し、六百人近い人が亡くなるという痛ましい大事故があったことは、ご存じでしょうか」
 「それは一八九〇年(明治二十三年)の九月に、和歌山沖で起こったエルトゥールル号の遭難ですね。
 その時に、日本人が必死で救助にあたったという話は、よく知られています」
3  遠路(3)
 日本とトルコ(オスマン帝国)の間に国交が結ばれたのは、一八八七年(明治二十年)のことであった。
 八九年(同二十二年)七月、トルコ皇帝は、日本に使節団を送った。
 皇帝から明治天皇への親書と勲章を持った使節団の軍艦エルトゥールル号が、東南アジアを歴訪し、長崎、神戸を経て、横浜港に入港したのは、翌年の六月のことであった。
 日本の皇室・政府もこの訪問を大歓迎した。
 しかし、エルトゥールル号は帰国の途についた翌日の九月十六日午後、大惨事に見舞われることになる。
 和歌山沖を航行中、台風に遭遇したのだ。豪雨と濃霧、高波と暴風。舵は折れ、エンジンも破損した。船は荒波に流され、沖合四十メートルほどのところで座礁し、船体は大破、沈没してしまったのである。
 場所は、和歌山県南端の大島(現・串本町)の樫野崎灯台の沖合で、暗礁の多い、航海の難所として知られる海域であった。
 一瞬の出来事で、救命ボートを使うことさえできなかった。また、暴風雨のために、村人も家に引きこもり、海岸には誰もいなかった。急場の救助の手立てはなかった。
 同艦には、オスマン・パシャ提督をはじめ、六百五十余名が乗っていたが、ほとんどの乗員が命を失うことになったのである。
 しかし、そのなかでも、ごく少数の人が、海岸にたどり着き、灯台職員に助けを求めた。村人たちは、そこで初めて、この大事故の発生を知ることになるのである。
 すぐさま、地元の村長、村人が駆けつけ、生存者の救助に当たった。
 旅先で思いもよらぬ惨事に遭った異国の人びとに対する村人の救援は、まことに迅速であり、献身的なものがあったようだ。
 当然、話す言葉はわからない。また、貧しい漁村であり、病院などの医療の設備もなかった。しかし、村人たちは傷付き苦しむ生存者を助け、重傷者は戸板に乗せ、軽傷者は体を支えて、学校や寺院、民家に連れていき、夜を徹して救護に当たった。
 更に、村人たちは、嵐が収まると、遺体を収容し、手厚く葬っていった。
 生存者は六十九名、死者は実に五百八十名を超える大惨事であった。
 エルトゥールル号の遭難の報は、新聞でも大きく取り上げられ、全国から義援金が寄せられた。
 政府も、生存者を見舞うとともに、彼らを二隻の巡洋艦で、トルコまで送り届けたのである。
4  遠路(4)
 山本伸一は言った。
 「エルトゥールル号の遭難者の救助は、日本とトルコの友好の原点となって、長く語り伝えられてきました。事故のあった樫野崎には、慰霊の石碑が建てられています」
 ハリルは頷いた。
 「トルコ人の間でも、あの出来事は語り伝えられています。ですから、日本人への信頼は厚いのです」
 伸一は、微笑みを浮かべて語った。
 「苦しんでいる人に手を差し伸べ、胸を痛める人間の心に国境はありません。
 外交という″国家次元″の交流も大事ですが、根本はこの″民衆次元″の交流であることを忘れてはならないと私は思います。
 民衆は海です。海が穏やかであれば、たくさんの船が往来できます。
 同じように、民衆同士がしっかりと友情で結ばれていれば、信頼が生まれ、平和が生まれる。そして、その平和の海を、あらゆる次元の友好交流の船が渡っていけます。
 私たち創価学会がやろうとしていることは、世界を結ぶ″人間の海″″友情の海″をつくるということなんです」
 ハリルは、感嘆の声を上げて言った。
 「すばらしいことです。私はイスラム教徒であり、あなたたちとは宗教は異なっています。しかし、あなたがなさろうとしていることは、私の理想でもあります。私にお手伝いできることがあれば、なんでも言ってください」
 「ご厚意に感謝します。それでは、一つお願いがあります。これからトルコにも、仕事などで日本人がたくさん来るでしょうし、なかには、私どものメンバーもいると思います。
 そうした日本人が困った問題にぶつかった時などには、よき相談相手になっていただければと思います」
 「わかりました。日本とトルコの友好の一端を担えるのですから、喜んで協力させていただきます」
 伸一は「ありがとうございます」と言って、彼と握手を交わした。
 眼下には、夕日に染まった海が広がっていた。穏やかな海であった。
 翌日は、ここで予定していた仕事をすませた後、金角湾の北側にある新市街を視察した。新市街は、モスクの数は少なく、かわって、キリスト教のギリシャ正教会、アルメニア教会、カトリック教会などの建物が見られた。
 「トルコの父」と言われる初代大統領ケマル・アタチュルクが官邸として使用したドルマバフチェ宮殿もここにあった。
5  遠路(5)
 一行は、ドルマバフチェ宮殿も見学した。
 この宮殿が、十九世紀半ばに建てられると、スルタン(皇帝)の居城はトプカプ宮殿からここに移された。
 そして、共和国が成立した後は、初代大統領ムスタファ・ケマル・アタチュルクが、イスタンブール滞在中の官邸として使用していた。彼は一九三八年の十一月十日、この宮殿で、五十七歳で急逝している。
 ――ケマル・アタチュルク大統領は、一八八一年に、現在のギリシャのテッサロニキに生まれ、ムスタファと名づけられた。幼少期に父親が他界し、母親の手で育てられている。
 彼は向上心の旺盛な子供で、学校の教師から「ケマル(完成の意)」の愛称をつけられるほどであった。
 やがて、陸軍大学に進むが、スルタンの専制政治に対する反対運動に加わり、逮捕されている。だが、軍人となった彼は、次第に頭角を現していった。
 第一次世界大戦でドイツと組んだオスマン・トルコは、次第に敗戦の色が濃厚になっていくが、そのころから、この英雄は、いよいよ真の輝きを放ち始める。
 ダーダネルス海峡を突破して、当時の首都のイスタンブールを落とさんとした英仏軍を、彼は見事に撃破し、勇名を轟かせる。
 だが、最終的にトルコが連合国に降伏すると、彼は民族の独立と自由のために決然と立ち上がった。スルタンが連合国に追従し、民衆を見捨てた今、祖国を守るのは民衆の力であると信じ、自ら村々を巡り歩き、民衆の決起を呼びかけたのである。
 人びとは戦いに疲れていた。しかし、彼は、あきらめなかった。誠心誠意、訴え抜いた。
 「祖国のために立ち上がろう! それには、あなたたちの力が必要なのだ」
 その魂の叫びが、民族の誇りを目覚めさせた。
 人の心を揺り動かすものは、粘り強い、信念と情熱の語らいである。
 彼は民衆の力を結集し、「国民軍」を組織し、更に現在のトルコの首都のアンカラで「トルコ大国民議会」を招集する。スルタンの中央政府に対抗する新政府の誕生であった。
 中央政府は彼に死刑を宣告するが、彼の新政府は、民衆の圧倒的な支持を集めていった。
 彼は優れた外交手腕を発揮し、連合国の領土要求を譲歩させ、和平を実現した。また、「トルコ大国民議会」によって、スルタン制は廃止され、一九二三年十月二十九日、ムスタファ・ケマルはトルコ共和国の初代大統領に就任する。
 ここにトルコ人の新しい国家が誕生したのである。
6  遠路(6)
 一行はドルマバフチェ宮殿から、タクシム広場に向かった。そこには、十数人の人びとの銅像を配した、共和国記念碑が建っていた。その中央の像が、初代大統領のムスタファ・ケマル・アタチュルクであった。
 皆、記念碑の前で車を降り、案内をしてくれたハリルから、トルコ共和国の誕生の説明を聞いた。
 彼の話を聞くと、吉川雄助が驚きの声を上げた。
 「スルタン(皇帝)の中央政府が連合国軍の傀儡だったとはいえ、国民軍は、よく彼らを倒せましたね」
 山本伸一が答えた。
 「一言すれば、アタチュルクという勇将を中心に、祖国を守ろうとして立ち上がったトルコ人の、建国の主体者としての自覚と団結の強さが、勝利をもたらしたと私には思える。
 それに対して、スルタンは保身を第一とし、連合国軍と戦う気迫も力もなく、過去の権威で民衆を従わせようとした。倒れるのは当然だと思うよ」
 更に、黒木昭が言った。
 「私は、アタチュルクが連合国を向こうに回して、トルコの領土を確保したことがすごいと思いますね」
 「そうなんだよ。これは″トルコの奇跡″と言われている。第一次大戦の戦勝国である連合国が、結局、アタチュルクの主張を受け入れてしまったんだからね。
 実は、連合国は、トルコの戦後処理の問題で、互いの利害がぶつかり合っていた。彼は、連合国には本当の″連合″はないことを見破り、その相互不信の間隙を、巧妙に突いていったといえるだろう。
 連合国軍は、連合しているからこそ強大な敵だが、バラバラになれば、たいした力はない。しかし、普通は連合国軍というだけで、恐れてしまうものだ。
 人間は、ともすれば、敵に対して幻影をいだき、その幻影に怯え、自ら敗北していく場合が多い。
 ところが、彼には″絶対に勝つ″という決意があった。だから、敵の弱点もよくわかった。そして、最後の最後まで全力で戦い抜いた。そこに勝因があった。
 敵は恐れるに足りず――この確信が、困難な局面を切り開き、交渉を成功に導いたといってよい。
 ところで、私が何よりも心引かれるのは、大統領としての彼の『古い友人と仲良くし、新しい友人をつくれ』というモットーだ。
 この言葉の背景はともかく、人間は、ともすれば古い友人とは疎遠になりがちである。また、古い友人との交流があれば、新しい友人をつくろうとはしないものだ。しかし、人間を大切にし、人間関係を広げていくなかで、新たな世界が開かれていく」
7  遠路(7)
 古い友人と仲良くし、新しい友人をつくれ――山本伸一は、このアタチュルク大統領の言葉に、新時代を建設しゆく方程式を感じていたのである。
 だからこそ、彼は、この中東の訪問でも、出会った人びとが、すべて新しき友人となるよう、誠実に、真剣に、相手の幸福を願い、対話を交わし、友情を育もうとしてきたのである。
 ケマル・アタチュルクは、トルコに大改革をもたらし、新しい国家の建設に着手していった。
 新共和国憲法の制定をはじめ、スルタン(皇帝)が兼ねていた宗教上の最高指導者を意味するカリフの制度の廃止や政教分離、婦人参政権の実施などを、次々と行っていった。
 また、太陽暦の採用やローマ字の採用による国語の改革、国内産業の育成など、政治、経済、文化等々の各方面で、改革を推進していったのである。
 彼は、大統領になってからも、民衆とともに生き、民衆のなかで戦う率先垂範のリーダーであった。
 たとえば、新トルコ文字の普及運動でも、彼は先頭に立った。トルコ語は、それまでアラビア文字で書かれていたが、読み書きのできる人は二割程度に過ぎなかったようだ。そのため、近代になって、文字改革の問題は、しばしば論議の的になっていた。
 大統領は、ローマ字のアルファベットを基本とした新トルコ文字の採用を決定すると、自ら率先して各地を回った。そして、村の広場に黒板を立て、新トルコ文字を書きながら、人びとに教えていった。
 ある村人は、黒板の前に呼ばれ、たった今、大統領に教えてもらった字で、自分の名前を書くと、感極まって叫んだ。
 「わしは字が書ける!」
 こうした感動は、全国に大きく広がり、トルコ全土が、さながら「大きな学校」の様相を呈したといわれる。その結果、民衆の読み書きが一気に向上していったのである。
 歴史家のアーノルド・J・トインビーは、このケマル・アタチュルクの改革について、その著『世界と西欧』(吉田健一訳、社会思想社刊)のなかで、次のように評価している。
 「一九二〇年代に、かれはそのように短い期間にそれほど徹底的には、どこの国でもまだ行われたことがない根本的な改革をトルコで実現した。
 それは西欧の世界で、ルネッサンスと、宗教改革と、十七世紀の終りに科学の発達が人間の精神にあたえた変化と、フランス革命と、工業革命が一人の人間がまだ生きているうちにおこり、法律によって強制されることになったのも同じである」
8  遠路(8)
 二月四日の朝、一行はトルコのイスタンブールを後にし、ギリシャのアテネに飛んだ。
 二月のアテネは、思ったより寒かったが、太陽の光が、まばゆかった。
 古代ギリシャの哲人ヘラクレイトスは「太陽は日ごとに新しい」と言った。人もまた、一日一日が、新しい出発である。新しい前進である。
 前年の二月四日、山本伸一は、インドの釈尊成道の地ブッダガヤにいた。一年後の同じ日、今度は西洋文明の源流の地であり、ソクラテスやプラトンが活躍した哲学の都に立ったのだ。
 初めてギリシャの大地を踏んだ彼の心は躍った。
 ここでは、案内者はなく、自分たちだけで、タクシーを使っての視察である。
 一行が最初に向かったのは、アテネの中心にそびえるアクロポリスであった。
 アクロポリスとは、ポリス(都市)の中心にあって高く突き出した小高い丘のことである。海抜約一六〇メートルの丘の上には、白亜のパルテノン神殿が青い空に美しく映えていた。
 伸一たちは、タクシーを降りると、アクロポリスの急な参道を上った。
 パルテノンは、簡素で荘重なドーリア式の列柱で囲まれた、東西が七十メートル、南北が三十メートルほどの神殿である。
 一本一本の柱は、高さ約十メートルで、下部の直径は約二メートルもある。それが四十六本も林立するさまは壮観であった。
 このパルテノン神殿は、紀元前四四七年から十年ほどの歳月を費やして完成したもので、対ペルシャ戦争の勝利を感謝し、アテネの守護神であるアテナ神に捧げた神殿といわれる。
 当時、アテネは地中海世界の覇者として、最盛期にあった。その充実した国力を注いだ古代最高峰の建築といってよいだろう。
 五百数十年の後に、伝記作家のプルタークは、それらの建築物を「迫力の点では今日に至るも生気にあふれ、竣工したばかりのようである」と称えている。
 そして、二千四百年後の現在も、大理石の柱は、なお不滅の輝きを放ち、荘厳ななかに、優しい人間的な色調を保っていた。
 伸一は、パルテノンには永遠性を願う人びとの思いが、結晶しているように感じられてならなかった。
 そして、将来、総本山に建立する正本堂は、石造りを基本に、大理石もふんだんに用い、このアテネの神殿よりも立派な、白雪を頂く富士と美しく調和した建物にしていかなければならないと思った。
9  遠路(9)
 アクロポリスの南側の斜面には、古代の劇場跡などがあり、家並みの向こうには、青い海が光っていた。
 一行は、丘の北側にあるエレクティオンと呼ばれる神殿を見学した。ここは優美なイオニア式の列柱となっており、ポーチには、六体の美しい乙女の像が柱として立っている。
 そこから、眼下を一望すると、官公庁などの中心街が広がり、左手の木立の間には、神殿などの遺跡が見えた。
 秋月英介が地図を見ながら、山本伸一に説明した。
 「あそこに見えるのが、ヘファイストス神殿です。
 その手前あたりに、かつては、古代のアゴラがあったと思います」
 アゴラというのは、市民が集まる広場である。
 伸一は言った。
 「すると、ソクラテスやプラトンも、あの場所で人びとと語り合い、対話を繰り広げたわけだな。よし、行ってみよう」
 一行は、アクロポリスを降りて、アゴラに向かって歩いていった。
 途中、ギリシャ人らしい男性が、「ヤポネゾス?(日本人か?)」と声をかけてきた。
 吉川雄助が「そうだ」と答えると、人懐っこい笑顔を浮かべた。
 「いやあ、ギリシャ人はずいぶん気さくですね」
 吉川の言葉に、黒木昭も頷いて言った。
 「そうですね。さきほど、町中でも感じましたが、店先を歩いていると、すぐニコニコと手招きして、店に呼び込もうとしていましたし……。
 でも、これが、古代の哲人たちの子孫なのかと思うと、なんだかイメージが違いますね」
 伸一は、笑って言った。
 「黒木君の話だと、哲学者は皆、深刻な顔をしていなくちゃいけなくなるな。でも、それは日本人が勝手に作り上げたイメージかもしれないよ。
 ソクラテスにしても、民衆のなかで語り、民衆とともに生きた哲人であった。何か考えている時はともかく、いつも、苦虫を噛みつぶしたような難しい顔をしていたわけではないよ。
 もっと気さくで、もっと精力的で、人間味のある人物ではなかったかと、私は思うがね。
 世俗を離れ、常人には関係のないことを、頭のなかでこねくりまわすのが哲人だとしたら、それは、もはや生きた哲学が失われた姿ではないだろうか。哲学も、民衆の生き方に根差してこそ、本当の意味をもつのだからね」
 語り合ううちに、一行はアゴラに着いた。
10  遠路(10)
 アゴラの周りには、当時は、議事堂や文書館、裁判所、迎賓館などが建っていたというが、今は礎石を残すのみであった。
 アゴラは本来、「集会」を意味した言葉で、後に、「人びとが集まる場所」すなわち「広場」を指すようになった。
 天然の要害でもあるアクロポリスが、神域と要塞を兼ねた中心部とすれば、アゴラは市民生活の中心であった。政令が公示される場所であり、市民が買い物をする市場であり、情報交換の場であった。
 山本伸一は、アゴラの遺跡を歩きながら語った。
 「ここには、さまざまな年齢の人、職業の人が集まって来た。そして、世間話から国家の大事まで、あらゆることが議論されていたといわれる。
 まさに、自由な″対話の広場″″言論の広場″であったわけだ。有名なアテネの民主主義も、一面、このアゴラから生まれたといっても過言ではないだろう」
 それを聞くと、吉川雄助が言った。
 「お話をうかがって思ったのですが、学会の座談会は、アゴラに似ていますね。座談会には、いろんな人が集い、喜びの体験を語る人もいれば、悩みや疑問を抱えてやって来る人もいる。なかには論争を挑んでくる人もいる。そして、赤裸々な庶民の語らいが展開されますからね」
 伸一は頷いた。
 「そうだね。しかも、学会の座談会は″民衆の幸福のためのアゴラ″であり、また、自他ともの成長のために仏法を学び合う、人間錬磨の広場でもある。
 この″現代のアゴラ″ともいうべき座談会から、新しい民主の大波が起こっていくことは間違いない」
 秋月英介が、怒りを含んだ声で言った。
 「しかし、学会のことを批判する評論家やマスコミは多いのに、学会の座談会に着目する人は、ほとんどいない。みんな見過ごしている……」
 伸一は、青年たちに語っていった。
 「なんでもないように思えることが、実は一番すばらしい、偉大なことである場合が多いものだよ。
 人間は立派な家には目を向けるが、土台を見ようとはしない。しかし、家を支えているのは土台だ。学会の大運動も、この座談会が土台だ。
 そして、更に言えば、大切なのは個人指導だよ。座談会に来た人を最大限に励ますのは当然だが、私は、むしろ、来れなかった人のことを考えてしまう。
 だから私は、よく、そうしたメンバーを励ましに行った。これが幹部の活動の基本だよ」
11  遠路(11)
 山本伸一は話を続けた。
 「人体は一つ一つの細胞から成り立っている。その細胞が生き生きとしていてこそ、人体の健康が維持される。
 同じように、学会を支えているのは、一人一人の会員であり、その会員が歓喜し、はつらつとしていてこそ、社会を蘇らせるダイナミックな運動を展開していくことができる。
 したがって、一人一人に光を当てる個人指導が、最も重要な活動になる。
 ソクラテスも対話の名人だった。彼の哲学は、人びととの対話のなかで、輝きを放っていった。私たちも最高の生命哲学をもっているのだから、人びとの心の深海を照らすような、幸福への深い対話、激励をしていかなければならないね」
 一行は、それから、アクロポリスと谷を挟んで南西にある、ムセイオンの丘(別名フィロパポスの丘)の麓に向かった。
 そこには、哲人ソクラテスが投獄されたと伝えられる牢がある。
 それは、剥き出しの岩壁の下にある、鉄格子のついた小さな岩穴であった。
 この薄暗い牢で、高齢のソクラテスが、約一カ月もの間、処刑の日を待っていたのかと思うと、伸一の胸は痛んだ。
 アテネは民主主義の源流の地であった。また、多くの哲学者が活躍する理性の街であった。そして、ソクラテスは、″万人の中で最も賢い人″といわれた当代随一の知者であり、″正しき人″であった。
 にもかかわらず、いや、むしろ、それゆえに、彼は人びとから嘲られ、誤解され、中傷され続けた。その最後は、まったく無実の罪によって、死刑にされたのである。
 伸一は、そこに、人間という世界の、暗き業ともいうべき不条理を、深く感じていた。
 ――紀元前三九九年、ソクラテスは告訴される。その罪状は、大要、国家の認める神々を認めず、青年に害毒を与えているというものであった。
 訴えたのは、メレトスという無名の男であったが、その黒幕は、政治家のアニュトスという人物であったといわれている。
 また、ソクラテスが訴えられた背景として、ソフィスト(詭弁家)たちの存在も見逃せない。
 ソフィストとは、当時流行の、論争を事とする似非学者である。
 彼らは賢者であるかのように振る舞い、どんなことでも論争のネタにし、自分が優位に立つための弁論術を若者に教え、金を取っていたのである。
12  遠路(12)
 ソフィスト(詭弁家)にとっては、何が真実であるかも、そして、何が人間の人生や幸福にとって大事かも関係なかった。
 ともかく、博学を装い、白も黒と言いくるめて、相手を打ち負かし、自分の主張が正しいと信じ込ませることが狙いとなっていた。
 彼らは、多くの若者たちの人気を集める一方で、伝統を重んじる市民たちからは危険視されていた。
 ソクラテスは、彼らソフィストが、人生の本質については、実は全く無知であることを見破っていた。
 彼はいつも飄々としていた。小柄だが、たくましい体躯で、獅子鼻をした、服装には無頓着な彼がアゴラに姿を現すと、真理を探究しようとする青年たちは、彼を慕い、教えを求めた。
 また、ソフィストも彼を打ち負かそうと、議論をふっかけてきたが、ソクラテスの″真理の言葉″″正義の言論″に、詭弁が太刀打ちできるわけがなかった。詐術を暴かれた彼らは、ソクラテスを妬み、憎んだに違いない。
 ところが、そのソクラテスは、抜きんでた言論の力ゆえか、青年への感化力のゆえか、一般市民からは、かえってソフィストの代表のように誤解されていたのである。
 このように、真偽・正邪が混濁したなかで、ソクラテスを排斥する世論がつくられ、民主主義のアテネにあって、一見、民主的な手続きのもとに、彼は死刑を宣告されることになる。
 ここに″アテネの民主主義がソクラテスを殺した″と言われるゆえんがある。
 アテネの民主主義――。それは、ギリシャの七賢人の一人といわれ、詩人として知られるソロンや、部族制度の改革を行った政治家クレイステネスによって、紀元前六世紀に基礎がつくられている。やがて、前五世紀の半ば、民主派の指導者ペリクレスの時代に黄金期を迎えた。
 彼は、それまで貴族の権威の牙城であった元老院を解体した。そして、「少数者の独占を排し多数者の公平を守る」という理念から、貴族と民衆の区別なく、誰でも、クジ引きで民会の議員にも、裁判の陪審員にもなれるようにしたのである。
 しかし、強力な指導力を発揮していたペリクレスが前四二九年に死去すると、たちまち、民主政治の腐敗が始まっていった。
 政治家として、取り立てて優れた能力をもたない彼の後継者たちは、「民衆の幸福」や「正義の実現」という理想の代わりに、自分の野心のために民衆を利用していくようになる。
13  遠路(13)
 アテネの政治家たちは、民衆に取り入り、人気を得ることに汲々としていた。
 そのなかで、「デマ」の語源ともなったデマゴゴス(民衆扇動家)が台頭していくのである。
 大衆の喜びそうなスキャンダル(醜聞)を捏造し、流すことによって、秀でた人物、崇高なる者、正義の人、真実の人を汚辱にまみれさせ、″悪人″の烙印を押して葬り去る――それが彼らの常套手段であった。
 真実はどうあれ、追い落とそうとする人物の悪しき強烈なイメージを、民衆に植えつけることができればよいのである。人の足を引っ張ったり、蹴落としたりすることが、彼らの狙いであった。
 こうした扇動家がはびこっていったのは、既にアテネが″嫉妬社会″の様相を深めていたからにほかならない。
 その象徴的な事例として「陶片追放」(オストラキスモス)がある。
 これは、本来、僣主(不法な独裁者)の出現を防ぐ目的で設けられたもので、市民の秘密投票により、「僣主の野心あり」と見なされれば、危険人物として十年間、追放するという制度である。
 ″陶器の破片″に名前を書いて投票したことから、「陶片追放」といわれた。
 しかし、この民主政治を守るはずの制度も、いつか本末転倒し、優れた力ある人物を陥れるために悪用されていったのである。
 たとえば、正義感にあふれる行動によって、人びとから「正義の人」と称賛されたアリステイデスという人物は、まさにその名声のゆえに妬まれ、陶片追放にあっている。
 プルタークは、『英雄伝』に、こんな逸話を記している。
 ――文字を知らない男が、アリステイデス本人に陶片を渡して言った。
 「これに名前を書いてくれないか」
 「誰の名前かね」
 「アリステイデス」
 「なんだって? 彼は、あなたに何か悪い事をしたのかい」
 「いや、第一、私は、あの人を知らないんだ。だけど、どこへ行っても、『正義の人』『正義の人』と聞くので、いやになってしまうんだよ」
 悲劇作家のエウリピデスは「嫉妬心は、目立つものを目がけてとびかかるのが常だ」と言ったが、まさに、その通りの、嫉妬による排斥であった。
 表向きは″民主主義″の看板が掛けられていても、正義や道理ではなく、嫉妬や敵視によって社会が動かされていけばどうなるか。
14  遠路(14)
 紀元前四〇四年、アテネは、都市国家の一方の雄スパルタと、二十七年にわたってギリシャの覇権を争ったペロポネソス戦争で敗北し、無条件降伏した。
 アテネの市民が低次元の″足の引っ張り合い″に明け暮れていたことが、その本当の敗因であるといわれている。″嫉妬社会″は、結局、衰退の坂を転げ落ちていったのである。
 この戦時中と戦争直後の二度、アテネの民主制は倒壊する。戦後は「三十人僣主」と呼ばれるグループが″恐怖政治″を敷いたが、これも短期間に瓦解し、民主派は政権を取り戻す。しかし、その基盤はいまだ不安定であったことから、彼らは反対勢力を一掃しようとした。
 「三十人僣主」のなかには、ソクラテスの弟子と目されていた人物が入っていたことなどから、民主派の指導者の一人であったアニュトスは、ソクラテスもアテネの民主主義を破壊する危険な存在と見ていた。
 しかし、ソクラテスは、「三十人僣主」の暴政に反対し、その命令に従わなかったために、命を狙われたことさえあったのである。だが、そんな事実は無視された。
 アニュトスは、智者の誉れ高いソクラテスを処刑すれば、見せしめとして、反対派を追い払う絶大な効果があると考えたようだ。
 そして、遂に、ソクラテスは、国家の認める神を敬わず、青年を腐敗させたとして、無実の罪で告訴されるのである。
 アテネの「良心」が、偉大なる「精神の柱」が倒れようとしていたのだ。
 しかし、市民の多くは、むしろ、それを喜んでいた。
 ソクラテスは、彼がまさに正真正銘の「正義の人」であったがゆえに、嫉妬され、デマが流され続けた。そのために、いつしか、市民の間に、社会に害をなす人物であるかのようなイメージが定着してしまっていたからである。
 たとえば、当時の有名な作家アリストファネスは、ソクラテスが告訴される二十四年前に、彼を主人公にした喜劇「雲」を発表し、もの笑いのタネにした。
 そこに描かれたソクラテスは、「われわれのところでは、神さまなんてものは通用しないのだ」とうそぶく邪教徒であり、若者をたぶらかすソフィスト(詭弁家)の親分に仕立て上げられていた。
 もとより、彼の実像とは正反対の、似ても似つかぬ捏造された人物像であったが、大衆は、それを信じてしまった。
 ソクラテスは、こうした悪のイメージに塗り固められたなかで、一人、真実の叫びをあげたのである。
15  遠路(15)
 ソクラテスの裁判の模様は、全貌をつぶさに見ていた弟子のプラトンが、『ソクラテスの弁明』に詳しく書いている。
 ソクラテスは、法廷に立ち、五百人(五百一人説もある)の陪審員と聴衆を前に、堂々と所信を述べていった。
 彼には、許しを請うような卑屈な態度は微塵もなかった。裁く側が反対に裁かれているような、激烈な「弁明」であった。
 ――人は自分自身について、魂について、何を知っているというのか。その無知を知り、謙虚に真理を求める人が賢者である。それなのに、人びとは、賢ならずして賢者を気取り、無知に気づいてもいない。
 彼は叫ぶ。
 「偉大な国都の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけすぐれたものにするということに気もつかわず心配もしていないとは」
 更に、ソクラテスは、もしもアテネの人びとが自分を殺すなら、それは殺された自分の損害であるより、むしろ、彼ら自身の大きな損害になるだろうと断言したのである。
 不屈なる信念の弁論であった。それは、心ある陪審員たちの胸を激しく揺さぶった。
 しかし、それでも彼が有罪か無罪かを決める陪審員の投票の結果では、およそ二百八十票対二百二十票で有罪となったといわれる。あと三十人余りが無罪の票を投じていれば、判決はひっくり返っていたのだ。
 続いて刑罰を決める番である。当時の慣習では、訴えられた人も自分で適当と思える刑罰を申し出ることができた。
 ここで彼が有罪を認め、反省の態度をもって死刑以外の刑を求めれば、当然、命は助かったであろう。
 ところが、彼は「自分にふさわしきものは、『迎賓館』での食事である」と主張したのだ。″最高の国賓的扱いで自分を遇せよ″というのである。
 そこには、正義によって立つ、アテネの「精神の柱」「魂の王者」としての自負があった。
 しかし、その毅然たる姿は、陪審員への傲慢な挑戦とも受け取られたのであろう。刑を決める二度目の投票では、圧倒的多数で「死刑」が確定してしまった。
 ソクラテスは、不正に屈して魂を堕落させるより、死を選んだのだ。彼は自分の命をかけて、人びとに崇高な″人間の道″を教えようとしていたに違いない。
16  遠路(16)
 獄中にあっても、ソクラテスは堂々としていた。
 死の二日前、友人のクリトンは獄中のソクラテスのもとを訪ね、死刑の執行が近いことを伝え、彼に脱獄を勧めた。
 ところが、ソクラテスは「不正に報いるに不正をもってすべきではない」と、脱獄を拒否し、従容として死を受け入れている。
 不正を受ける者と、不正を働く者と、どちらが幸福か。「善き人には、生きているときも、死んでからも、悪しきことは一つもない」との信念に生きる彼には、恐れるものなど、何もなかった。
 しかも、死刑の当日、ソクラテスの最後の対話は、「魂の不死」をめぐる語らいであった。
 そこで、彼は、哲学とは「死の練習」であると語り、思慮や正義、勇気、自由、真実によって自らの魂を仕上げていきなさい、と友人に勧めたのである。
 彼は、仏法で説く永遠の生命を志向していたのかもしれない。ともあれ、人間は生命の永遠を自覚せずしては、死の恐怖を乗り越えることはできない。
 また、ソクラテスは友人に対して、「言論嫌い(ミソロゴス)になるな」と戒めてもいる。「それはちょうど、あの人間嫌い(ミサントローポス)みたいなものになることだが――それを用心しろというのだ。なぜなら、言論を憎むようになるというのは、およそひとがおちいる、こころの情態のうちで最悪のものだから、だ」と。
 言論、対話に生き抜いてほしい――ソクラテスは、こう訴え、最後の最後までわが道を貫き通した。
 日が暮れて、遂に、刑の執行が伝えられた。
 ソクラテスが、刑吏から毒杯を受け取って飲み干すと、付き添っていた友人たちは、いたたまれなくなって号泣し始めた。
 「おいおい、君たち、こんなことのないように妻たちを帰したのに。″死は静謐のうちにこそ″というじゃないか。どうか、静かにしてくれたまえ」
 ソクラテスは、こう言って友人をなだめ、やがて、死の床に横たわった。
 荘厳な最期であった。
 ソクラテスが囚われていたという牢獄の前に立つ山本伸一の胸には、無量の思いが込み上げてきてならなかった。
 ″アテネ市民はソクラテスを裁いた。しかし、裁かれていたのは、むしろ、アテネ市民ではなかったか。
 彼らは「民主」を下落させ、人類の歴史に汚点を刻んだ者として、永遠に語り継がれていくことになる″
17  遠路(17)
 同行の青年たちも、ソクラテスの話は、よく知っていた。皆、この哲人の殉難の生涯を思い描きながら、岩穴の牢獄の前で、黙ってたたずんでいた。
 秋月英介が、感無量の表情で語った。
 「先生、私はソクラテスのことから、牧口先生の戦いを考えていました。日本の軍部政府もまた、あの偉大な先生を獄死させました。そして、牧口先生も、その理不尽な仕打ちを莞爾として受け入れて、殉教されている……。
 本当の偉人というのは、共通していますね」
 「確かにそうだね。そして、必ず、その師の遺志を受け継いだ弟子が立ち上がっている。ソクラテスにはプラトンがいた。
 ソクラテスは、死刑の判決後、陪審員たちに、自分の死後、直ちに復讐がもたらされるであろうと、予言している。この復讐という意味は、自分の弟子たちが″真理の戦い″を挑み、彼らを追い詰めていくということだ。
 ソクラテスは、プラトンならば、自分の思想を、哲学を人びとに伝え、自分の正義を証明してくれるであろうという確信があったはずだ。死の時を待つ彼の胸には、若き愛弟子プラトンの英姿が、鮮やかに躍動していたに違いない。
 牧口先生もそうだ。獄中にあっても、戸田先生がいたから安心しておられた。戸田先生も、私がいるから安心だと言われた。私も、そう言い切れる後継の青年たちを、全力をあげてつくる以外にない。
 ″自分が偉くなろう″とか、″地位を得て楽をしよう″といった、名聞名利の人間が学会を牛耳るようになったら会員が不幸だ。
 だから、私は本物の弟子をつくる。″正義の師子″を育てるしかない。あのプラトンのような……」
 ソクラテスの裁判は、プラトンが二十八歳の時であった。彼は二十歳から、足かけ九年にわたってソクラテスに仕え、師とともに青春を歩んできた。
 そのソクラテスに対する、理不尽な裁判を見ていたプラトンは激怒する。ある記録によれば、彼は法廷で発言を求めるが、裁判官に制止されたという。
 敬愛する師が殺されたプラトンの衝撃は限りなく大きく、心労はあまりにも激しかった。そのため、病に倒れもした。
 しかし、彼は憤怒の涙を拭って立ち上がった。
 絶対に師の正義を証明しなければならない。師が願ったように、正義に適った国家にしなければならない――それが、彼の生涯をかけた決心であった。
18  遠路(18)
 プラトンは、八十歳で死ぬまでの約五十年間、師のソクラテスの真実を明らかにするために、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』をはじめ、膨大な著作を書き残していった。それは、哲学と言論の大闘争であった。
 また、学園アカデメイアを創立して、教育、人材の育成にも励んだ。
 プラトンが生涯を捧げたテーマ――それは、どうすれば、この世に「正義」を実現できるのかという根本的な問題であった。
 その探究の結論が、「哲人政治」の理想であった。
 彼は、大著『国家』のなかで、いわゆる″哲人王の統治″こそが、国家と人類に幸福をもたらす「最小限の変革」であると主張したのである。
 彼は、政治制度の在り方を分類して、第一を王制とし、以下、名誉制、寡頭制、民主制、僣主制の五つを挙げている。民主制は、四番目の低い評価である。
 民主制は人類の偉大なる知恵であり、発明である。しかし、それも、民主制を担い立つ人間自身のエゴイズムを制御し、自律する術を知らなければ、本来の民主とは全く異質な″衆愚″に陥りかねないことへの鋭い批判の矢を、プラトンは放ったのである。
 彼は言う。
 ――民主制の国では、自由を最高の善とし、誇らしげに、こう主張する。
 「自由こそその国のもつ最も美しいものであり、それゆえに、本性において自由である人間が住むに値するのはこの国だけである」と。
 ところが、その民主制は、自由のあくなき追求のあまり、欲望の大群を生み出し、いつしか「青年の魂の城砦」は、この欲望に占領されてしまう。
 やがて青年たちは、自由の意味をはき違え、「慎しみをお人好しと名づけ」「思慮を女々しさと呼んで」「ほどのよさやしまりのある金の使い方を、やぼったいとか自由人らしくないとか理由をつけて」軽蔑し、それらの美徳を追放してしまう。
 また、反対に、「傲慢を育ちの良さと呼び、無秩序を自由と呼び、浪費を気まえの良さと呼び、無恥を男らしさと呼び」、多くの悪徳が人びとに称賛され、はびこるようになっていくというのである。
 こうした野放図な自由による混乱は、やがて手のつけられないものになり、事態収拾のために、民衆は強い指導者を待望するようになる。
 そして、その強い指導者は、抵抗しがたい権力の魔性によって、最も悪い「僣主」へと変化していくというのである。
19  遠路(19)
 プラトンは指摘する。
 「過度の自由は、私人においても、国家においても、ただ過度の隷属へと変化する以外にはない」
 つまり、民主制のもとで、際限のない自由を手にすることによって、かえって、人間の魂は腐敗、堕落していく。そして、人びとが最も美しいと思う、この民主制のなかから、独裁者(僣主)の支配が生まれ、自由なき隷属が始まるというのである。
 そこには、″自由の背理″が、また″自由の病理″が浮き彫りにされているとはいえないだろうか。
 プラトンは、アテネの民主主義の功罪を底の底まで見つめていた。
 人間の魂が正しく健康でなければ、いかなる制度も正しく機能しない。
 水は低きに流れる。人間もまた、内なる鍛錬、人格の陶冶がなければ、欲望の重力の赴くままに堕落を免れないのである。
 ゆえに、プラトンは、引き続いて「魂の健康」「魂における調和」を考察し、″自己の内なる国制″に目を向けるように促す。
 ″外なる国制″を正義に適った最良のものにしていこうとするならば、必然的に″内なる国制″の整備を必要とするのである。
 つまり、「魂の健康」を育む哲学こそが、民主制を支える柱なのである。
 プラトンは「哲学者たちが国々において王となって統治するか、あるいは現在王と呼ばれ権力者と呼ばれている人々が、真実にかつ充分に哲学するのでないかぎり」、「国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だ」と述べている。
 プラトンの民主制批判には、古来、さまざまな評価がある。しかし、人間の魂、人間の内なる規範を確立することなくして、幸福な国家などあり得ないとした彼の洞察は、不滅の輝きを放っていた。
 山本伸一は、再び青年たちに語りかけた。
 「師のソクラテスのような『正義の人』が、絶対に殺されることのない国家を建設しようと、プラトンは民主制の″落とし穴″を徹底的に解明していった。
 現代でも、しばしば民主政治に対して″衆愚政治″などという非難があるが、民衆の健全なる魂の開花がなければ、真実の民主はあり得ない。
 結局、民衆を賢く、聡明にし、哲人王にしていくことが、民主主義の画竜点睛であり、それを行っているのが創価学会なんだよ」
 その言葉には、民主の本当の勝利の時代を開こうとする伸一の、確信と決意が込められていた。
20  遠路(20)
 翌二月五日は、日本企業の駐在員と会うなど、慌ただしい一日を過ごした。
 六日はエジプトのカイロに移動する日であったが、出発は夕刻なので、これまでに視察できなかった博物館などを見て回った。
 途中、広場で凧揚げをしている、数人の小学生ぐらいの子供たちがいた。
 凧は白い六角形で、そこに大人の背丈ほどの長さの尾があり、尾には紙の房がついている。
 山本伸一は、自分も子供のころ、羽田の海岸で凧揚げをして遊んだことを、懐かしく思い出しながら、しばらく立ち止まって、その光景を見ていた。
 子供たちの凧は、なかなか上手に揚がらなかった。
 「ソクラテスの末裔も、凧揚げは苦手のようだな。
 よし、子供たちに凧揚げのコツを教えよう。私は凧揚げは得意だったんだ」
 伸一は、こう言うと、子供たちの輪のなかに入っていった。
 そして、凧を借り、自ら手本を示した。着ていたオーバーが少し動作を鈍らせたが、凧は風に乗り、空に舞った。子供たちの歓声があがった。
 「黒木君、英語でいいから通訳を頼むよ。
 『凧揚げのコツは、風が来るのを待って、風が来たら糸を引きながら、風上に進んでいくこと』
 それから、『凧も強い風を受けて上昇する。みんなも、辛いことや苦しいことに出あったら、それを自分の成長のチャンスだととらえていくことが大事だ』と伝えてくれないか」
 黒木昭は、子供たちに英語で話したが、ギリシャはギリシャ語が公用語であるせいか、ほとんど通じなかった。
 伸一が、黒木と子供たちのやりとりに気を取られていると、せっかく揚がった凧が落ちてしまった。
 子供たちが、一斉に笑いを浮かべた。
 「『何事も油断していると失敗する』――黒木君、すぐに通訳してくれ」
 伸一の言葉を聞くと、今度は同行の青年たちが笑い声をあげた。
 ″ソクラテスの末裔″たちとの、和やかな交流のひとときであった。
 伸一は、この子供たちの心に、一人の日本人と一緒に凧を揚げたという思い出を残したかった。それが、ささやかではあるが、国境を超えて、人間と人間の心を通い合わせる、第一歩になるからだ。
 言葉は通じなかったが、数分後には、伸一と少年たちとは、すっかり打ち解けていた。彼らは、別れ際には、名残惜しそうに手を振って見送ってくれた。
21  遠路(21)
 アテネを発った一行が、エジプトの首都カイロに到着したのは、二月六日の午後八時過ぎである。
 アフリカの大地に、山本伸一が初めて立った瞬間であった。
 翌日、一行は、午前中、仕事をすませると、午後からはカイロ市内の視察にあてた。
 ここは、十世紀に建設された町で、その名はアラビア語の「カーヒラ」(勝利者の意)に由来している。
 市内には、ナイル川がゆったりと流れていた。
 その豊かにして悠然たる大河は、はるか五千年の昔から、エジプトの大地を潤し、偉大なる古代文明を育んできた。
 エジプトの王朝時代の始まりは、紀元前三〇〇〇年にさかのぼる。幾度かの外国の侵略はあったが、前三〇年にプトレマイオス朝が滅んでローマの属州になるまで、三十余りの王朝が興亡を繰り返してきた。
 それらの王朝が栄えたのも、ナイル川によって、肥沃な大地がつくられていたからである。まさに、エジプトは「ナイルの賜物」といえるだろう。
 一行はその後、カイロの西方十三キロメートルにある、ギザのピラミッドに向かった。
 ナイル川の西岸の市街地を、車でしばらく走ると、茫々たる砂漠が始まる高台に、巨大なピラミッドが姿を現した。
 眼前には、クフ王の大ピラミッドが迫り、南西に向かって、カフラー王、メンカウラー王のピラミッドが並んでいる。これが、有名なギザの三大ピラミッドであった。
 この三大ピラミッドの建造は、古王国時代の第四王朝で、紀元前二五〇〇年代というから、およそ四千五百年前になる。
 山本伸一は、クフ王の大ピラミッドを仰いだ。
 それは、歳月の風化作用を超越するかのように、堂々とそびえ立っていた。
 無数の石材を整然と積み重ねた斜面は、頂上部をめざして狭まっていき、そのまま青い空のなかに吸い込まれていった。
 底辺の一辺は二三〇メートル、創建時の高さは約一四七メートル(現在は頂上部の石が失われ、約一三七メートル)。″四角錐″の四つの側面は、ほぼ正確に東西南北を向き、五一度五二分の急勾配で、天空高くそびえていた。
 また、建造には、平均二・五トンの石を二百数十万個積み上げたとされ、建設された当時は、美しく磨かれた白い化粧石がピラミッド全体を飾り、太陽の光を浴びて、荘厳に輝いていたといわれている。
22  遠路(22)
 クフ王の大ピラミッドは、圧倒的な量感をたたえていた。
 それは、砂漠に忽然と姿を現した大山であり、地上から天空に向けて突き出した壮大な塔であった。
 だからといって、傲慢な威圧感はなかった。太陽と語り、星々と語るために、古代エジプト人が築いた″宇宙との対話″の発信塔の感じさえした。
 山本伸一は、大ピラミッドの内部を見学し、更に、周辺を歩いてみた。
 スケールが大きいだけでなく、その建築技術も極めて高度であった。方形に切り出されて、磨かれた石材は、一つ一つがしっかりと継ぎ合わせてある。
 ピラミッドほど、何十世紀もの間、人びとを魅了し、鼓舞し、謎をかけ、驚嘆させてきたものはない。
 ともかく、「古代の七不思議」の筆頭であり、唯一現存するものである。
 伸一がイラクで見学したバビロンにあったとされる「空中庭園」などは、はるか昔に崩壊していたことを思えば、ピラミッドはまさに「永遠性」が結晶したモニュメント(記念碑)といえるだろう。
 ギザの三つのピラミッドのうち、真ん中のカフラー王のピラミッドは、最大のクフ王のものとほぼ同じ大きさだが、メンカウラー王のものが最も小さく、高さも半分以下である。
 この三大ピラミッドを頂点として、時代が下るにつれ、ピラミッドは小型化したばかりか、歳月の重みに耐え切れず、あえなく崩壊したものもあるという。
 技術的にも、また、堅固さの面でも、三大ピラミッド――なかんずくクフ王の大ピラミッドは最高、最大、最強のピラミッドということになる。
 また、カフラー王のピラミッドの東には、獅子の体に人間の顔をもつスフィンクスの像がある。
 これは、自然の岩盤からつくられたもので、全長五十七メートル、高さ二十メートルの巨像である。
 伸一たちは、スフィンクスの前に立ち、巨大な人面像を見上げた。その背後にはカフラー王、そして、右手には、クフ王の大ピラミッドがそびえていた。
 吉川雄助が感嘆しながら語った。
 「大したものですね。しかし、ピラミッドは、結局は王様の墓ですよね。そんな墓の建設のために、無数の奴隷たちが、何年も何十年も強制労働させられたと思うと、哀れな気がしてきますね」
 すると、伸一は答えた。
 「本当に奴隷が強制労働で、この大ピラミッドをつくったのだろうか。私は、違うように思えてならないのだがね……」
23  遠路(23)
 山本伸一の話に、青年たちは意外な顔をしていた。
 彼は言葉をついだ。
 「確かにギリシャの歴史家ヘロドトスも、有名な史書『歴史』のなかで、このクフ王の大ピラミッドの建造について、祭司の話として、エジプト全国民を強制的に自分のために働かせた、と記してはいる」
 ヘロドトスは、三大ピラミッドについて、外国人の目で、最初に詳細な記録を残した人物である。彼はピラミッドは″王墓″であるとし、ギザの三大ピラミッドを築いた王のことを、「ケオプス」「ケプレン」「ミュケリノス」の名で記録している。
 今日では、この三人は、エジプト名でクフ王、カフラー王、メンカウラー王が該当するとされる。
 そして、それによると、「ケオプス」つまり「クフ王」のピラミッドは、常に十万人もの人間が、三カ月交代で苦役を強いられ、石材を引く道路をつくるのに十年、ピラミッド自体の建設には二十年を費やしたとなっている。
 このヘロドトスの記述によって、長い間、ピラミッドは、国民を奴隷のように酷使して建設されたという見方が″常識″となっていたのである。
 伸一は言った。
 「なぜ、私がそのヘロドトスの記述に疑問を感じるかというと、民衆が強制的に働かされ、いやいやながらつくったものが、何千年も崩れることなく残るとは思えないからだ。
 数あるピラミッドのなかには、王の命令で、民衆の強制労働によって建造されたものもあるかもしれない。だが、このクフ王の大ピラミッドなどは違うという気がする。
 なんの責任感もなく、ただ奴隷根性で、強制と義務感によって行われた仕事が永遠性をもつだろうか。
 ピラミッドのような大建造物の場合、わずかの手抜きや狂いがあっても、崩壊の原因となってしまうだろう。
 ずっと後代のピラミッドでも、既に崩れてしまっているものがたくさんある。
 しかし、こうして、クフ王の大ピラミッドが残っているということは、作業にあたった一人一人が、強い責任感をもって、自分の仕事を完璧に仕上げていったからだ。更に、皆が互いに補い合おうとする、団結の心がなければ不可能といえる。
 その真剣さ、建設への大情熱がどこから生まれたのか。少なくとも強制労働では、そんな人間の心は育たない。私は、この建設には民衆自身の意志が、強く反映されているように思う」
24  遠路(24)
 山本伸一は、大ピラミッドを見つめながら、しみじみとした口調で言った。
 「大ピラミッドは立派だ。しかし、結局、一番偉大なのは、それをつくった人間だよ。
 人間の力、人間の英知、人間の情熱は、無限の可能性をもっている。この人間の宝庫を開き、世界の平和を築くのが、これからの私たちのテーマだ」
 青年たちは、真剣な顔で頷いた。
 ――当時は、クフ王の大ピラミッドは奴隷などの強制労働によるものではないという伸一の考えが、正しいかどうかを確かめる手立てはなかった。
 しかし、それから二十年余を経た一九八三年(昭和五十八年)、フランスのエジプト学の権威であるジャン・ルクランと対談した折、伸一は、自分の考えが間違いではなかったことを確認したのである。
 今日の研究では、大ピラミッドは、奴隷ではなく、自由民の手によってつくられたことが明らかになっている。
 ピラミッドの建設作業には、毎年、ナイル川の氾濫によって、農閑期にあたる三カ月があてられた。その間は、労働者には″衣食住″も保障され、失業対策ともなっていた。
 もちろん、建設の作業が、楽であったわけではない。しかし、労働に従事した人びとの胸中には、大事業を担う誇りと喜びが脈打っていたようだ。
 たとえば、当時の石切り場の跡には、石工たちの労働歌や、王をたたえる歌などの落書きも残っていたというのである。
 また、石切り作業には、「精力隊」「持久隊」「健全隊」のような名前をもったグループもあり、互いに競い合いながら作業にいそしんだらしい。
 おそらく、尊敬する王の偉大さを、永遠に残すのだという気概と誇りと意欲をもって、人びとは喜々として作業に取り組んでいったのであろう。
 こうしたことから、ピラミッドの建設は「本質的に自発的活動であった」のであり、その建設の労苦のなかで、エジプト人が初めて「民族の意識をもつ国民になった」ことこそ、ピラミッドがエジプト史上に果たした真の意味があったとする見方もある。
 今日まで残っている大型のピラミッドは、すべて、このクフ王の大ピラミッドを中心にして、一世紀ほどの間につくられている。
 大ピラミッドは、まさにエジプト民族の″昇りゆく太陽″のごとき勢いの結晶であり、民衆の情熱がもたらした金字塔といえよう。
25  遠路(25)
 翌八日、一行は、カイロのエジプト博物館に足を運んだ。
 ここには、新王国時代の第十八王朝の王で、紀元前一三五二年に十八歳で早世したと伝えられるツタンカーメン王の遺宝をはじめ、エジプト文明の至宝の数々が収められていた。
 なかでも、ツタンカーメンの黄金のマスクや棺は、約三千三百年前につくられたとは思えぬ、不滅の光を放っていた。
 この博物館で、山本伸一は、カイロ大学で経済学の講師をしているという、ドイツ人の青年の学者と知り合い、黒木昭の通訳で語り合った。
 伸一がこれまでに、インドをはじめとして、イタリアのローマ、イラクのバグダッド、ギリシャのアテネなど、古代文明が栄えた地を訪問して来たことを語ると、若き学者は、瞳を輝かせて尋ねた。
 「あなたは、文明の旅をして来られたわけですね。
 ところで、高度に発達した文明をもった国々が滅び去った共通の原因は、どこにあると思われますか」
 伸一は答えた。
 「すばらしい質問です。もちろん、そこには、国内の経済的な衰退や内乱、他国による侵略、あるいは疫病の蔓延、自然災害など、その時々の複合的な要素があったと思います。
 しかし、一言すれば、本質的な要因は、専制国家であれ、民主国家であれ、指導者をはじめ、その国の人びとの魂の腐敗、精神の退廃にあったのではないでしょうか。
 人間が皆、自分のことしか考えず、享楽的になっていけば、どんなに優れた文明をもっていても、国としての活力もなくなるし、まとまることはできません。
 そして、そこを狙って、他国は戦争をしかけてくるともいえるでしょうし、内乱も起こる。また、そんな時に大きな自然災害に遭遇すれば、復興を図ることも難しくなる。
 私は、一国の滅亡の要因は、国のなかに、更にいえば、常に人間の心のなかにあるととらえています。その視点で歴史を見る時、歴史は単に過去の出来事ではなく、人間の生き方の、現在と未来を照らし出す道標として、光を放つように思います」
 学者は感嘆して語った。
 「深い洞察です。また、大変に新しい視点ですね」
 「この発想は、決して新しいものではありません。既に七百年も前に、日本の日蓮という方が述べられた見解です」
 「ニチレン? その方はヘロドトスのような歴史家でしょうか」
26  遠路(26)
 山本伸一は、微笑みながら、ドイツの若き学者の質問に答えた。
 「いいえ。日蓮という方は、日本の民衆が自然災害に苦しみ、内乱や他国の侵略の脅威に怯えていた時、救済に立ち上がられた仏法者です。
 そして、国家、社会の根本となるのは人間であり、その人間の心を、破壊から建設へ、利己から利他へ、受動から能動へと転じ、民衆が社会の主体者となって、永遠の平和を確立していく哲理を示されました。
 私たちは、その哲理を研究し、実践する創価学会のメンバーであり、私はその会長をしております」
 「その創価学会というあなたのグループには、メンバーは何人ぐらいいるのですか」
 「現在、二百三十万世帯ですが、毎月、メンバーは増えつづけています」
 伸一が答えると、学者は驚きの表情を浮かべた。彼は、学会に興味をもったようで、学会の運動や仏法の人間観などについて、重ねて質問をしてきた。
 そして、別れ際に、伸一と固い握手を交わしながら言った。
 「今日は、大変に有意義な、お話を聞くことができました。いつの日か、私も必ず日本に行きたいと思います」
 「そうですか。その時には、ぜひ、またお会いしましょう。お元気で」
 学者の青年と別れた後、吉川雄助が言った。
 「先生は、どこで、誰と話していても、自然に仏法の話をされていますね。私なんか、学会や仏法の話をする時には、精神的に身構えるといいますか、すごく気負ってしまいます。
 どうすれば、先生のように、自然に信心の話ができるのでしょうか」
 「本来、社会全般が、一切の法が、皆、仏法なんだから、歴史や政治を語っても、また、人生を語っても、仏法のものの見方、考え方に触れざるを得ないものだよ。
 仏法を、信心を、本当に自分の生き方の根底にし、そのことに誇りと確信をもっていれば、自然に仏法対話になっていくものだ。そうならないのは、自分の心のなかに、仏法に対して、垣根を設けているということだろうね。
 仏法を語るたびに、こちらが身構え、緊張して、険しい顔をしていたら、相手も心を開くことはできなくなってしまうじゃないか。私たちにとって、仏法対話とは、人間性の自然な発露なんだよ」
 伸一は、仏法に根差した人間の生き方を、青年たちに知ってほしかった。
27  遠路(27)
 一行は、博物館から、カイロの南約三十キロメートルにある、サッカラへ車を走らせた。
 ここでは最古のピラミッドといわれる″階段ピラミッド″を視察した。クフ王より一世紀も前の、紀元前二六五〇年ごろに創建された、ジョセル王のピラミッドである。
 このピラミッドは、砂漠のなかに、天空への階段のようにそびえていた。
 更に、一行は、そこからほど近い、古王国時代の王都であった、メンフィスの遺跡も見学した。
 夕方、ホテルに戻ると、日本から、山本伸一あてに電報が届いていた。
 伸一が自分の部屋で電報を開くと、ローマ字で打たれた「KOUSONASI(控訴なし)……」の文字が目に飛び込んできた。
 大阪事件の第一審の大阪地裁の判決で、伸一は無罪となったが、検察が控訴することが懸念されていたのだ。しかし、判決後十四日間の控訴期間内に、検察は控訴の手続きを取らなかったのである。
 あの検察の厳しい求刑を思うと、意外な感じもしたが、第一審の無罪判決を覆すことは困難であると判断し、やむなく控訴を断念したのであろう。
 これで大阪地裁の判決が最終の審判となったのである。
 伸一は、鉛のように、重くのしかかっていた心労が、霧が晴れるように消えていくのを覚えた。彼の顔に微笑が浮かんだ。
 窓際に立つと、真っ赤な大きな夕日が、ナイルの流れを深紅に染めて燃えていた。その太陽のなかに、恩師である戸田城聖の顔が浮かんだ。
 伸一は、恩師に心で語りかけた。
 ″先生! 無罪は、最終的に確定いたしました。これで、先生の命であった創価学会に、傷をつけずにすみました。なんの憂いもなく、後継の若獅子として、世界平和の大舞台に乱舞することができます。
 地上から「悲惨」の二字をなくすために、先生の広宣流布の構想は、必ずこの伸一が、すべて実現してまいります。先生の分身の、まことの弟子の戦いをご覧ください″
 その夜、伸一の部屋に同行のメンバーが集まり、皆で真剣に勤行・唱題した。
 それは、感謝の祈りであり、新しき広宣流布への旅立ちの、誓願の祈りでもあった。
 また、このエジプトだけでなく、伸一が初めて足を踏み入れた、未来の大陸アフリカに生きる人びとの、永遠の平和と幸福を祈っての唱題でもあった。
28  遠路(28)
 二月九日は、カイロからパキスタンのカラチに移動する日にあたっていた。
 飛行機の出発予定時刻は午前八時十五分であった。七時過ぎに、一行が空港へ行くと、便の出発は大幅に遅れるとの話であった。
 航空会社の係員の説明では、この便はロンドン発の飛行機で、霧のために、まだロンドンを飛び立つことができないという。
 今のところ、いつロンドンを出発できるか見通しは立たないようだ。
 それを聞くと、吉川雄助が怒りながらつぶやいた。
 「まったく、いい加減だな。全部、計画が狂ってしまうじゃないか」
 黒木昭が、吉川をなだめるように言った。
 「よくあることですよ。前回、ヨーロッパに連れていっていただいた時にも、霧のためにロンドンの空港で、六時間以上も待たされましたからね」
 傍らにいた山本伸一が、笑いながら言った。
 「黒木君も、すっかり世界通になったね。
 吉川君、日本の電車は時間には正確だが、それを基準に考えないことだ。乗るのは飛行機なんだし、世界は多様なんだから。
 発想を変えて、むしろ、時間ができてよかったと思って、じっくり今後のことを検討しておこうよ。
 大聖人も『謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり』と仰せになっているように、綿密な打ち合わせが大事だからね」
 空港の待合室で、打ち合わせが始まった。
 伸一が提案した。
 「パキスタンの後、タイのバンコクに寄るが、その時、バンコクに支部を結成しようと思うが、どうだろうか」
 秋月英介が答えた。
 「新しい布石になると思います。東南アジアで、初の支部結成ですね」
 伸一は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「異論がなければ、そうしよう。
 それから、バンコクからの帰りの飛行機は香港を経由するはずだが、この時、香港のメンバーは空港に来るだろうか」
 また、秋月が答えた。
 「空港で、みんなで先生をお迎えしたいという連絡が、日本を発つ時に、海外局に入っておりました」
 「そうか。それでは、そこで香港支部を結成しようよ。本部とも連絡をとって、この二つの支部の人事案を考えてくれないか」
 昼になっても、飛行機の予定はつかめなかった。
 一行は、昼食を挟んで、夕刻まで、「3・16」の青年部の記念行事をはじめ、帰国後の活動を徹底して検討した。
29  遠路(29)
 飛行機がカイロを発ったのは、夜になってからであった。
 パキスタンのカラチに着いた時には、時差の関係もあり、現地の時刻で二月十日の午前三時であった。
 未明にもかかわらず、空港には、数人の人が出迎えてくれた。
 そのうちの一人は、白山新吾という五十代後半の日本人男性のメンバーで、日本の商社に依頼され、染め物の技術指導の指導員として、カラチに在住している人であった。
 また、もう一人は、川喜多正男という二十七、八歳の日本人の青年で、貿易関係の仕事で、妻とともにパキスタンに来ている男性である。カラチでは、彼が案内をしてくれることになっていた。
 川喜多は学会のメンバーではなかったが、彼の妻の母親が入会しており、山本伸一は出発前に日本で、その母親と会っていた。
 更に、パキスタン人の青年も出迎えてくれた。この青年は、カラチ大学の学生で、自分の父親が経営するゴムタイヤの製造会社に、日本から技術指導に来ている小森朝信という学会員から、会長一行を迎え、案内などもするように頼まれたのだという。
 小森自身は、この時、日本に一時帰国しているとのことであった。
 伸一は、パキスタン人の青年に、案内は川喜多にしてもらうことになっていることを伝え、丁重に御礼を言った。
 そのほか、学会が大客殿などの資材の購入を依頼している商社の駐在員も出迎えてくれた。
 伸一は、未明に空港に駆けつけてくれた人たちに、心から感謝の意を表した。
 そして、十日は、朝から市内の視察等を予定していたが、すべて午後からにすることを皆に伝えた。
 ホテルに着くと、吉川雄助が言った。
 「午後から行動開始ということになると、かなり慌ただしいスケジュールになりますね」
 「私は朝から動いた方がよいが、車を運転してくれる人のことを考えれば、当然、午後からにすべきだ。
 未明に出迎え、朝から車を運転し、案内するとなれば、睡眠不足になってしまう。それによって、もし、事故でも起こしてしまったら大変なことになる。本人にも家族にも、お詫びのしようがないではないか。
 物事は自分を中心に考えるのではなく、お骨折りくださる人の立場に立って考えなくてはならない。また、無事故への配慮を怠ってはいけない。これは、リーダーの大事な在り方だよ」
30  遠路(30)
 十日の昼から、一行はカラチ市内を視察した。これには、案内をしてくれることになっている川喜多正男のほか、メンバーの白山新吾も同行した。
 パキスタンは、一九四七年、インドのイギリスからの独立とともに、イスラム教国としてインドから分離・独立した。しかし、地理的には、インドを挟んで西と東に分かれていた。
 後に、一九七一年に至って、東パキスタンが分離・独立し、バングラデシュとなるのである。
 また、このカラチは、かつて、パキスタンの首都であったところで、インドから分離・独立する際に、イスラム教徒が流入し、人口が急激に増大したパキスタン最大の都市である。
 ここでは、いたるところでラクダが目についた。背に人や荷物を乗せるだけでなく、大きな荷車を引くのもラクダであった。生活に密着した労働力として最大に活用されていた。
 一行は、市内の主要な建物を視察した後、カラチから東へ六十数キロメートルのところにある、バンボールの遺跡を訪ねた。
 ここは、紀元前後から栄えた古い港町の跡である。また、八世紀の初め、イスラム国家であるウマイヤ朝の将軍ムハンマド・ブン・アルカーシムが上陸し、インド亜大陸へ、イスラム教が第一歩を印した場所といわれている。
 いわば、ここに、今日のイスラム教国パキスタンの源流があるといえよう。
 山本伸一は思った。
 ″歴史とは、新しき一歩一歩の積み重ねといえる。はるかなる未来も、「今」という一瞬から始まる。ゆえに「今」が草創であり、旅立ちの第一歩となる。
 永遠なる平和の歴史絵巻を織り成すには、「今」を勝つことだ。胸中に勇気の太陽を輝かせ、希望の虹を描いて、今日も、また明日も勝ち抜き、凱歌の扉を開き続けるしかない″
 この日の夜は、案内をしてくれたメンバーや、空港で出迎えてくれた商社員などを招き、カラチ市内の中華料理店で食事をすることになっていた。
 食事が始まると、白山が、伸一に、自分の悩みを打ち明けた。
 「先生、私には、五人の子供がおりますが、そのうち、息子一人と娘一人が信心をしていません。
 戸田先生の言われた『一家和楽の信心』が実現できないことが、残念でもありますし、また、腑甲斐なく思っております」
 「子供さんは、お幾つですか」
 「はい。皆、もう成人しております」
31  遠路(31)
 山本伸一は、白山新吾に言った。
 「親だからといって、いつまでも、子供さんがあなたの言うことを聞くと思うのは間違いです。信仰は自由なのですから」
 「はあ……」
 白山は、拍子抜けしたような目で伸一を見た。
 「自分の子供だから、信心に理解を示すだろうと考えるのは、実は親の甘えです。ましてや、成人していれば、子供さんたちも、それぞれ自分の考えをもって生きているのだから、その考え方、生き方を尊重していくべきです。
 そのうえで、本当に信心をさせたいのならば、あなた自身が、生活のうえでも、あるいは人格のうえでも、信心の素晴らしさを示しきっていくことです。つまり、子供たちが心から誇りに思い、尊敬する父親になることです。
 家族というのは、最も身近にいるだけに、ごまかしは通じません。一番厳しい批評家でもあります。
 これは婦人にありがちなケースですが、外では一生懸命に学会活動をしていても、家では愚痴をこぼし、同志を批判していれば、当然、子供は、信心しようとは思いません。
 また、子供さんたちの幸せを、本気になって祈り念じていくならば、その心は必ず通じ、いつか信心に目覚める時が来ます。
 それに、あなたが真剣に信心に励んでいくなら、ご家族も、その功徳、福運によって守られていきます。
 だから、決して焦る必要もありませんし、ましてや信心を無理強いする必要は全くありません」
 白山は、大きく頷いた。
 伸一は、微笑みながら言った。
 「ところで、あなたにはこのパキスタンの連絡責任者になっていただきたいと思います。
 今後、この国に、日本からやって来るメンバーと連携を取っていくための責任者ですが、よろしいでしょうか」
 「はい。わかりました」
 白山は即座に答えた。
 「もう一人、今は日本に一時帰国中の、小森朝信という壮年がいますので、その方にも連絡責任者になってもらう予定でおります」
 伸一は、それから、白山の隣にいた、川喜多正男の妻の孝子に語りかけた。
 「あなたのお母さんと、出発前に、日本でお会いいたしました。お母さんは元気に頑張っておいでです。また、娘さんのパキスタンでの暮らしに、心を砕いておられましたよ。
 お母さんのお話では、あなたも学会に入会されているとのことですが……」
32  遠路(32)
 山本伸一の質問に、川喜多孝子は答えた。
 「いいえ。私は学会員ではございません。母には入会を勧められ、お寺にはまいりましたが、入会した覚えはありませんし、これからも、するつもりはございません」
 強い語調であった。
 彼女は、入会を勧められることを、警戒しているのであろう。おそらく、母親は、彼女のことを心配し、幾度となく、信心の話をしてきたに違いない。
 伸一は笑みを浮かべ、包み込むように言った。
 「いいんですよ。信仰は自分の意志でするものです。お母さんが、あなたの幸福を願って、頑張っておられるのだから、必ず、あなたも守られますよ。
 お母さんは、いつも、あなたが健康で、無事であることを祈っているとおっしゃっておりました。ですから手紙を出すなどして、よく連絡を取り、お母さんを大切にしてあげてください。実は、その心が仏法の精神なんです。
 また、あなたは、こうしてご主人とともにパキスタンの地に来ているのですから、人間として大切な使命があるはずです。慣れない環境で、大変なこともあるでしょうが、何があっても挫けずに、ご主人を支えていってください」
 彼女は、ほっとしたように、静かに頷くと、小さな包みを取り出した。
 「山本先生、一つお願いがあります」
 「なんでしょうか」
 「母に、これを届けていただきたいのですが……」
 母親のために購入した指輪であるという。
 「わかりました。お届けいたします。きっと、お母さんも喜ばれるでしょう」
 食事会は、新来者を交えての座談会のようでもあった。メンバーではない商社の駐在員たちも、政治と宗教などについて、次々と伸一に質問をぶつけてきた。なかには、人生相談をもちかける人もいた。
 彼は、相手が学会員であるか否かなど、まるで関係ないかのように、皆から出される一つ一つの問いに、丁寧に、また真剣に答え、励ましていった。
 伸一は、入会のいかんによって人間を区別することはなかったといってよい。皆、同じ人間であり、友人であるというのが、彼の信念であった。それゆえに、出会った人が幸福になるように、元気になるように、真心をこめ、力の限り激励していったのである。
 仏法が全人類を幸福にするための法である限り、その法を信奉する仏法者は、万人の幸福を願い、行動する人でなければならない。
33  遠路(33)
 二月十一日の戸田城聖の誕生日の朝を、山本伸一はパキスタンで迎えた。
 この日は、タイのバンコクに向かう日であった。飛行機の出発は正午であり、時間があったので、川喜多正男が、一行をクリフトン・ビーチという海岸に案内してくれた。そこは市民の憩いの場所となっていた。
 伸一は、同行のメンバーとともに、海岸に設けられた長いテラスに立った。眼前には、紺青のアラビア海が広がっている。
 アラビア海は、古代から人びとの交流の大舞台であり、海の道であった。
 伸一は、ふと、あのアレキサンダー(アレクサンドロス)大王の東方遠征が、西北インド、つまり現在のパキスタンまで至っていたことを思い出した。
 彼は、同行の青年たちに言った。
 「確かアレキサンダー大王も、パキスタンまで来ていたね。また、大王が遠征から帰還する時、このアラビア海を見たはずだよ」
 秋月英介が答えた。
 「そうですか。すると、今回、先生が回られたところは、すべて、アレキサンダーのゆかりの地でもあったわけですね。彼は、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、そして、エジプトにも行っていますから。
 二千年以上も昔に、バルカン半島にあったマケドニアから、こんなところまで遠征して、戦いに勝利を収めていったのですから、大変な壮挙ですね」
 アレキサンダーは、紀元前三五六年にマケドニアの王子として生まれた。
 彼の少年期に、プラトンの弟子のアリストテレスが家庭教師をしていたことはよく知られている。
 前三三六年、彼は二十歳で王位につくと、二年後、東方の大帝国ペルシャに戦いを挑んだ。
 この遠征に旅立つ際に、アレキサンダーが、自分の財産を惜しげもなく臣下に与え、″我に残すは希望のみ″と叫んだことは有名な逸話である。
 アレキサンダーは、ペルシャ王との最初の会戦に勝利すると、次いでペルシャの支配下にあったエジプトを解放。そして、再び、ペルシャとの大激戦の末、この老大国を倒した。
 だが、彼の遠征は休むことを知らず、中央アジアを東へ進んで、インダス川を渡り、未知の国インドに足を踏み入れたのである。
 故国のマケドニアを出発し、遙かな東方をめざして八年。しかし、世界の果てまで突き進むかのような彼の前進は、突然、そこで止まっている。
 そして、インダス川を下り、アラビア海を望むと、再び、懐かしい西方世界への帰路を急いだのである。
34  遠路(34)
 山本伸一は、青年たちに問いかけた。
 「アレキサンダー大王は、遠征の末にインダス川を渡った。その先は、ガンジス川が潤すインドの大平原だ。ところが、そこで突然、引き揚げてしまった。
 なぜだと思う?」
 皆、黙って考え込んでいたが、誰からも答えは返ってこなかった。
 伸一は語り始めた。
 「アレキサンダーは、常に先陣を切って、前進、また前進で突き進み、いかなる困難も乗り越え、常勝の道を切り開いて来た。
 インダスを渡った時も、新天地への希望に、胸を高鳴らせていたに違いない。
 その彼が、ここで遠征をやめ、引き返さざるを得なかったのは、外敵や障害のせいではない。味方の将兵たちが、前進することを拒絶したからである。
 アレキサンダーは、将兵たちの心が、次第に冷めてきていることを知悉していた。だから、士気を鼓舞しようと、決起を呼びかけ、不屈の前進を訴えた。
 だが、彼らは、大王の意に反して、それ以上、動こうとしなかった。
 アレキサンダーは″何を恐れているのか、臆病者どもよ″と、歯ぎしりする思いだったはずだ。
 結局、懸命の説得も空しく、彼は前進をあきらめるしかなかったのだ」
 今度は、黒木昭が伸一に尋ねた。
 「将兵たちは、アレキサンダー大王と苦楽をともにして戦ってきた闘士のはずですが、それがなぜ、大王と一緒に進もうとしなくなったのでしょうか」
 「これは、極めて大事な問題だね。
 故国を遠く離れて、八年にもわたる遠征で、将兵の胸に、望郷の念がつのり始めていたこともあったのだろう。また、心身ともに、連戦に疲れ果ててしまっていたのかもしれない。
 しかし、私は、むしろ、大王が何をめざして戦っているのか、将兵がわからなかったことに、最大の要因があったように思う。
 彼の遠征の動機には、自国の安全を守るとともに、支配を拡大し、経済的にも豊かなものにしようという狙いがあったことは間違いない。しかし、アレキサンダーは、もっと大きな理想をいだくようになる。
 もし、金銀財宝が目当てなら、ペルシャ帝国を滅ぼした時点で、莫大な財宝をわが物にし、遠征をやめていたはずだ。また、自国の領土の安全を確保するためなら、やはり、その段階で目的は達せられていた。
 ところが、彼は、遠征をやめなかった。ちっぽけな欲望や利権には見向きもせずに、遠征の先頭に立ち続けている。
 なぜか。彼は世界の西と東を結び、人類を統一するという理想の実現のために戦おうとしていたからだ」
35  遠路(35)
 アレキサンダー大王は、エジプトで″人類は一つである″との啓示を得たといわれる。以来、彼は、その実現を、自身の使命としていった。
 もちろん、彼も武力による征服を行いはしたが、東方の異民族を低く見たり、差別する発想はほとんどない。敵として戦っても、ひとたび相手が帰服すれば、手厚く遇し、敵の貴族などを領主にすることさえ少なくなかった。
 そして、アレキサンダーの方が、異民族の文化や風俗などを、積極的に受け入れていった。
 それが新たな文化の創造の基盤となり、後にパキスタン北部に開花したガンダーラ美術のように、仏教というインドの文明と、ギリシャの文明との融合をも、もたらしたといってよい。
 当時は、あのアリストテレスでさえも、ギリシャ人以外は、生まれながらの野蛮人という認識があったくらいである。
 そのなかで、人は皆、同じ人間であると考え、世界を結ぼうとするアレキサンダーの理想を理解できる将兵など、誰もいなかった。
 将兵たちにとっては、遠征は、マケドニアの支配を拡大し、自分たちが富を得るためのものであった。
 そのため、ペルシャ征服後の遠征に従った者は、次第に、これ以上、苦労し、危険を冒す必要などないではないかと、考えるようになったのであろう。
 山本伸一は言った。
 「大王と将兵たちの間には、遠征の目的に大きな違いがあった。
 アレキサンダーは、崇高な理想の実現のために、はるかなる遠路をめざしたが、将兵たちの心は保身にあったようだ。保身は人間を臆病にする。そして、ひとたび臆病になれば、戦いには勝てない。
 信心の世界でも同じことがいえる。戸田先生の時代も、懸命に学会活動に励み、病苦や経済苦を克服してしまうと、活動に力が入らなくなる幹部がいた。
 もう功徳も受け、悩みも解決できたのだから、あくせく信心に励む必要はないというわけだ。
 そして、どこまでも広宣流布に生き抜こうとする戸田先生を批判する者さえいた。『なぜ、そこまで弘教しなければならないのか』『もっと、休みながら、ゆとりのある活動をすればよいではないか』――そんな批判を、私は何度となく耳にしてきた。
 先生の念願は、この地上から″悲惨″の二字をなくし、全人類を救済することであった。世界の永遠の平和を築くことにあった。
 しかし、悲しいかな、彼らは、その心が、本当にわかってはいなかったのだ」
36  遠路(36)
 浜辺に打ち寄せる波が、太陽の光を浴びて、まばゆく光っていた。
 皆、緊張した顔で、山本伸一の話を聞いていた。
 「戸田先生の心を知り、本気になって、その理想を実現しようとしてきたのは私だけであったと確信している。私の思いは今も、いささかも変わっていない。
 私は、戸田先生から、人類の幸福と平和の実現という、広宣流布のいっさいを託された。それは、はるかなる遠路だ。また、終わりのない旅である。命ある限り、歩み続けなければならない間断なき闘争である。
 自分の安泰だけを願う保身の心では、広宣流布の遠路を踏破することなど絶対にできるものではない。
 みんなが悩みを克服し、健康になり、生活が豊かになる。豪邸にも住めるようになり、社会的にも立派な地位や名声を得ていく――それは、私の願いであるし、功徳といえば功徳だが、極めてちっぽけな功徳です。信心の目的の一つにすぎない。
 それだけでは、相対的な幸福であるし、自分だけの幸福に終わってしまう。そして、そこに安住するならば、アレキサンダー大王の将兵たちのように、更に前進しようとする気概を失ってしまうだろう。
 私たちが最終的にめざすものは、個人に即していえば絶対的幸福だ。どんな逆境に立とうが、崩れることのない、生命の大宮殿を自身の胸中に築き上げていくことです。また、自他ともの幸福であり、広宣流布こそが本当の目的だ。
 私たちは、それを成し遂げる使命をもって、この世に生まれてきた。そして、その使命に生き抜くなかに最高の歓喜が、最大の充実が、絶対的幸福がある。
 ところが、人間は、環境が整い、年をとるにつれて、次第に保身に陥り、臆病になってしまう。若い時や一時期は、必死になって頑張ることができても、生涯、それを持続し、貫いていく人は少ないものだ。
 しかし、それでは、自分自身の完成もなければ、人類の幸福と平和の実現もあり得ない。それまでの努力も水の泡となってしまう。だから、私は、最後まで広布に走り抜こうと、厳しく言うのです。
 ともあれ、アレキサンダーの将兵たちの心は、大王と同じではなくなっていた。そこに、アレキサンダーの限界の壁もあった。
 つまり、どんなに偉大な指導者がいても、皆がその本当の心を知り、力を合わせなければ、偉業の成功はない。真の同志とは、また弟子とは、同じ″志″を、生涯、もち続ける人だ」
37  遠路(37)
 山本伸一は、目を細め、アラビア海を眺めながら、恩師の戸田城聖を思った。
 ″戸田先生がご存命であれば、今日で六十二歳になられたことになる。
 もし、ご一緒に、ここに立つことができたならば、先生はなんと言われたであろうか……。
 先生は、世界の民衆の、なかでもアジアの民衆の幸福を、念願し続けておられた。しかし、日本を出ることはなく、五十八歳の生涯を閉じられた。
 その先生に代わって、いや、先生の分身として、私は世界に羽ばたいた……″
 伸一は、戸田の念願を成就することが、弟子としての自分の生涯の使命であることを痛感していた。
 しかし、それがいかに重く大きな課題であり、はるかなる遠路であるかも、いやというほど感じていた。
 世界に会員がいる国も、まだ、ほんの一握りにすぎないし、いたとしても、微々たる存在でしかない。しかも、それぞれ国情は異なっており、入国さえできない国もあれば、信教の自由が保障されていない国も少なくない。
 そのなかで、仏法を基調にした平和の哲理とヒューマニズムの思想を人びとの心のなかに植え、世界を結ぶことは、砂漠の砂を一粒一粒拾い上げるに等しい、迂遠な作業といえよう。
 伸一は、時として、気の遠くなるような思いをいだくこともあった。焦りを感じもした。
 しかし、そんな時には、彼は、いつも、敗戦の焼け野原に一人立った恩師が、七十五万世帯の友の幸福の城を築き、自身の生涯の使命を果たしたことを思い起こした。
 すると、彼の胸には、暗雲を破って太陽が昇るかのように、常に勇気と力が込み上げてくるのだった。
 ″その先生の弟子である私も、使命を果たせぬわけがない″
 勇気は希望となり、大いなる確信となっていった。
 そして、いつも、心でこう叫んだ。
 ″先生、見ていてください!″
 伸一は、恩師を思い、勇気を奮い起こしながら、遠路を黙々と進んでいった。
 今日、世界に広がったSGI(創価学会インタナショナル)の、民衆の平和の大潮流も、また、各国各界のリーダーたちとの間に築いた、幾多の対話と友情と信頼の橋も、その原動力となったものは、彼の師弟の誓いであった。
 この時も、一年前に初めて訪問し、地区を結成したタイと香港に、いよいよ支部が結成されようとしていたのである。
38  遠路(38)
 一行の搭乗機が定刻の正午にカラチを発ち、インドのデリーを経由し、タイのバンコクに到着したのは、現地時間の午後七時半を回っていた。
 空港に出迎えてくれた十五人ほどのメンバーとともに、山本伸一はホテルに行き、そのまま座談会を開き、そこでバンコク支部の結成を発表した。
 彼は言った。
 「今日二月十一日は、奇しくも戸田先生の生誕の日であります。
 昨年のこの日は、私が第三代会長に就任して、初めて迎えた戸田先生の誕生日でしたが、その時も、私はバンコクにおりました。そして、ここから、カンボジアに向かいました。
 また、会長になって二度目の先生の誕生日である今日も、このバンコクにやってまいりました。私は、そこに、何か不思議な縁を感じてなりません。
 この意義深き日に、このバンコクに、アジアで初の支部を結成したいと思いますが、いかがでしょうか」
 集ったメンバーは、一瞬、驚いたように、伸一の顔を見た。それから一呼吸おいて、拍手が起こり、笑みの花が咲いた。
 「それでは、皆さんの総意として、ここにバンコク支部を結成いたします。
 このバンコク支部は、アジアで初の支部というだけでなく、メンバーも三十世帯に満たない、世界で一番小さな支部です。ということは、世界一、大きな発展の可能性をはらんだ支部ということになります。
 戸田先生は『雲の井に月こそ見んと願いてし アジアの民に日をぞ送らん』との和歌を詠まれましたが、タイは、そのアジアに幸の光を送る一大拠点であり、アジアの灯台となる使命の天地であります。
 また、絶対にそうなっていただきたい。
 私も、皆さんが堂々と胸を張り、のびのびと友の幸せのために活躍できるように、未来にわたって、全力で応援していきます。
 したがいまして、先駆の誇りに燃えて、人びとの幸福の模範の園を、この地につくり上げていただきたいのです」
 メンバーは、タイという国に生きる、深い使命に、気づき始めたようだ。
 続いて、彼は人事を発表していった。支部長には、仕事でタイに赴任している、築地政造という日本人の壮年が、支部婦人部長には、アン・ライズ・ミヤコが就任した。
 また、男子部の組織も誕生した。
 参加者は、この人事に賛同の拍手で応えた。
 一年前に植えられた広布の種子は、今、支部となって芽吹いたのである。
39  遠路(39)
 この日、バンコク支部の婦人部長になったアン・ライズ・ミヤコは、出産直後で入院中のために、支部結成の集いには参加できなかった。
 会合が終わると、山本伸一は、秋月英介に言った。
 「申し訳ないが、明日の午前中に、私に代わって、アン・ライズさんのお見舞いに行き、記念の品を届けてくれないか。そして、こう伝えてほしい。
 『出産、おめでとう。また、支部婦人部長の就任、大変におめでとうございます。何かとご苦労をおかけすることになりますが、よろしくお願いします。
 どうか、仏子である大事なメンバーを、守り抜いてください。くれぐれもお体を大切に。今度は日本でお会いしましょう』
 支部の結成を最も喜んでいるのは彼女であろうし、また、その場にいることができずに、最も寂しい思いをしているのも、彼女ではないかと思う。だから、一番、励ましたい人なのだ。
 支部という組織のかたちをつくることは、誰にでもできる。しかし、それだけでは、意味がない。大事なことは、それを契機に、中心となるメンバーをはじめ、全員が新しい決意に立って、発心の旅立ちができるかどうかである。
 つまり、組織という形式ではなく、メンバーの胸中に、広宣流布の建設の一念を打ち立てることが最大の眼目だ。そのためには、徹底して同志を励ますことです。命を削る思いで、触発の対話をすることです」
 伸一は、青年たちに、組織といっても、根本はどこまでも人間によって決まっていくことを、教えようとしていた。
 人間を見失い、機構の操作に目を奪われてしまうところから、官僚主義が始まるからである。
 翌二月十二日、伸一は朝のうちにタイでの仕事を片付け、正午発の便で、香港経由で帰国の途についた。
 香港には、現地の時刻で午後三時半に到着した。ここで、二時間ほど待機することになる。
 送迎デッキには、香港のメンバーが集まり、一行の姿を見ると、元気に手を振って歓迎してくれた。
 伸一たちが、ロビーに出ると、香港の地区担当員の岡郁代たちが待っていた。一年ぶりの再会である。
 「先生、お久しぶりでございます。みんなで、お待ちしておりました」
 岡たちは、空港内にある一室を借り切っていた。
 そこに、会合用にイスを並べて、四十人ほどのメンバーが集まっていた。
 伸一が姿を現すと、拍手と歓声が起こった。
40  遠路(40)
 一年前、香港に地区を結成した時には、メンバーは十数人にすぎなかった。
 それが今、空港にやって来た人だけでも、四十人ほどになるのである。
 山本伸一は、正面に置かれたイスに座ると、岡郁代を見て言った。
 「たくさんの人が集まったね。頑張ったね」
 地区結成の時には、地区部長も誕生したのだが、その壮年は仕事の都合でほとんど香港にいなかったことから、地区担当員の岡を中心に、皆で活動を進めてきたのである。
 伸一は、皆に視線を注ぎながら語り始めた。
 「香港は、この一年間、大きな発展を遂げました。大勝利です。ありがとう。
 そこで、今回、香港に支部をつくりたいと思いますが、いかがでしょうか」
 賛同の拍手が起こった。
 彼は人事を発表した。
 「香港は、これまで地区担当員の岡郁代さんを中心に活動してきましたので、支部長は岡さんにお願いしたいと思います。
 岡さん、いいですね」
 岡が頷いた。
 「では、あいさつを!」
 彼女は立ち上がると、元気な声で抱負を語った。
 「去年、わずか十数人で地区を結成していただき、今また、支部結成のお話を耳にし、感激でいっぱいでございます。ともかく、力の限り、この香港の人びとの幸福のために頑張ってまいります」
 岡は、こう言うと、皆に深々と頭を下げた。
 伸一は、話を続けた。
 「また、支部の婦人部長は、これまで地区幹事であった、平田君江さんにお願いいたします」
 平田も、「はい」と返事をして立ち上がったが、実は、支部婦人部長がどんな役職なのか、わからなかったのだ。
 彼女は、地区の婦人部の責任者は「地区担」なのだから、支部の婦人部の責任者は「支部担」であると思い込んでいた。
 そして、支部婦人部長というのは、「支部担」のもとで働くスタッフで、責任はそれほど重くないのだろうと考えた。だから、比較的、軽い気持ちで返事をしたのであった。
 平田は、二年前に、日本人の商社員から仏法の話を聞き、香港で入会した人で、真面目に信心に励んできたが、学会の組織のことは、よく知らなかったのである。
 「平田さんも、婦人部長の就任のあいさつを……」
 支部婦人部長という役職が、どういうものか理解できずにいた平田は、何を言えばよいのかわからず、立ち往生してしまった。
41  遠路(41)
 山本伸一は、平田君江に言った。
 「平田さん、日本でも、実際に支部を支えているのは、全部、婦人です。
 あなたは、その婦人部の最高責任者である婦人部長として、活動を推進していくのだから、生半可な気持ちではやっていけません。あなたの決意が、香港の未来を決定していきます」
 それを聞くと、平田は大変なことになったと思った。すると、余計に、何を言えばよいのか、わからなくなってしまった。
 伸一は笑みを浮かべて、平田に言った。
 「こういう時は、皆さんに、『何もできませんが、一生懸命に頑張りますのでよろしくお願いします』と丁重に言うものですよ」
 彼女は、ホッとして、言われた通りに話し、皆にお辞儀をした。温かい拍手が場内を包んだ。
 「平田さん、今の言葉を忘れず、この精神でやっていくんですよ。そうすれば大丈夫です」
 彼女は、その言葉を心のなかで復唱してみた。
 ″何もできませんが、一生懸命に頑張りますのでよろしくお願いします″
 ――私は経験も乏しいし、本当に何もできない。でも、一生懸命に頑張ることはできる。いつも、まず自分から一生懸命に動こう。
 そして、よろしくお願いします、という心で、皆に接していけば、力のない私でも、支部婦人部長の大任が果たせると、山本先生は教えてくださったのだ。
 この時、まだ入会二年の平田の心に、幹部としてのあるべき姿が、明確に刻まれたのである。
 最後に、伸一の提案で、皆で学会歌を合唱した。その高らかな歌声には、香港支部結成の喜びがあふれていた。歌ううちに、皆の心は一つに溶け合い、新しき出発に生命は躍り、ますます元気になっていった。
 語らいは、時間にすれば数十分にすぎなかったが、今再び、香港の大いなる発展の楔が打たれたのだ。
 やがて、機上の人となった伸一は、この香港をはじめ、今回、歴訪した国々の平和と友の幸福を祈りながら、自分に言い聞かせた。
 ――広宣流布の道は、遠路である。
 遠路なればこそ、一歩一歩の地道な歩みが大事だ。
 遠路なればこそ、何ものにも挫けぬ、信念と勇気の火を燃やし続けることだ。
 そして、遠路なればこそ、皆で肩を組みながら、朗らかな、楽しき行進を繰り広げていかなければならない。
 窓の外には、星々が微笑むように、清らかに、また美しく瞬いていた。
 (この章終わり)

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