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第6巻 「宝土」 宝土

小説「新・人間革命」

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1  宝土(1)
 新世紀の大舞台は、世界といってよい。そこには、戦火にあえぐ友がいる。悲嘆に暮れる母がいる。飢えに泣く子らもいる。
 泉が砂漠をオアシスに変えるように、人間の生命からわき出る慈悲と英知の泉をもって、この地球を平和の楽園へ、永遠の宝土へと転じゆくヒューマニズムの勝利を、我らは広宣流布と呼ぶ。
 一九六二年(昭和三十七年)一月二十九日、山本伸一は中東へ出発した。
 午前十一時に羽田の東京国際空港を飛び立ったSK(スカンジナビア航空)九八四便は、最初の経由地であるフィリピンのマニラに向かっていた。
 伸一の今回の正式な訪問国は、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、エジプト、パキスタン、そして、タイの七カ国であり、イランの首都テヘランが第一の訪問地であった。
 訪問の目的は、現地の会員の指導、宗教事情の視察等々である。
 同行のメンバーは、今回は青年に絞り、青年部長の秋月英介、青年部の幹部である吉川雄助、黒木昭の三人の理事であった。
 伸一のこの中東訪問を最も喜んでくれたのは、当時、東京外国語大学でアラビア語の教鞭を執り、後に日本で最初の『アラブ語辞典』を執筆・編集し、発刊する、河原崎寅造というアラブの研究者であった。
 伸一は、出発の前々日の一月二十七日に、河原崎と初めて会った。
 その日は、聖教新聞社で東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)の発足式が行われた。
 この研究所は、一年前のアジア訪問の折に、伸一が構想し、提案したもので、東洋の思想・哲学の学術資料を収集し、アジア文化を研究する機関である。これが、学会が設立する各種文化団体の先駆けとなったのである。
 席上、伸一は、この研究所から、世界的な学術研究者を輩出し、新文化を創造する知性の府としていってほしいと要望。そして、メンバー一人一人に研究所のバッジを手渡し、自分もそのバッジを胸につけた。
 それは、彼も所員の自覚で、学術研究者を育成していこうとする、決意の表明でもあった。
 伸一は、その後、学会本部で河原崎と会うことになっていた。
 河原崎の所属する組織の幹部から、アラブの専門家の会員がいるので激励してほしいとの、要請を受けていたのであった。
 彼は、まず自ら、真っ先に学術研究者の育成に取り組んだのである。
2  宝土(2)
 河原崎寅造は、黒ぶちのメガネに口髭をたくわえ、堂々たる体格をした″快男児″といった印象の、四十代後半の壮年であった。
 山本伸一は、河原崎を丁重に迎えた。彼は、中東訪問を前に、アラブの事情に精通した河原崎から、旅のアドバイスなども受けられればと思っていた。
 「お忙しいところ、わざわざおいでいただいて申し訳ありません」
 伸一が言うと、河原崎は抑揚のある、大きな声で答えた。
 「いいえ、いいえ、とんでもございません。
 今回、山本先生がアラブにも足を運ばれると聞きまして、私は大変に嬉しく思っております。アラブは私の第二の故郷なんです」
 河原崎は青年時代に外務省の留学生としてエジプトに渡り、カイロ大学のアラビア語科を卒業した後、エジプト、イラクなどの中東各地の日本公館に勤務し、アラブの文化への造詣を深くしていった。
 戦後、官僚生活を嫌って外務省を辞めると、経済苦との戦いが待っていた。しかも、妻と息子が結核に侵されていたのである。
 河原崎一家の苦境を見かねた親戚から、最初に仏法の話を聞かされたのは、彼の妻であった。
 そして、一九五三年(昭和二十八年)の夏に、妻は信心を始めた。その妻の勧めで、河原崎も翌年の四月に入会した。
 しかし、学会に関心があったわけではない。愛する妻の頼みなら、できることならなんでもしようという思いからであった。
 そのころ、アラブの石油資源が日本でも脚光を浴びてきており、河原崎は、ある石油会社に勤務するようになった。更に、その後、別の石油会社に迎えられ、やがて調査役となり、再びアラブの砂漠を闊歩するようになった。日本による、アラブでの初の油田開発にも携わってきた。
 また、東京外国語大学でも、講師としてアラビア語を教えるようになった。
 河原崎は、頬を紅潮させながら、中東情勢 を語り始めた。
 「ご存じのように、中東は″世界の火薬庫″といわれておりますが、その背景には、豊富な石油資源を持つアラブ諸国を巡る、東西両陣営の争奪と衝突があります。
 アラブ諸国は植民地としてヨーロッパに支配され、独立も遅れました。それだけに、アラブの結束を図ろうとする流れがあり、それが、民族主義の台頭をもたらしているともいえます」
3  宝土(3)
 河原崎寅造の言葉には、語るにつれて力がこもっていった。
 「しかし、イスラム教をもとに、アラブの結束が強まるにつれて、一方では、ユダヤ教の国であるイスラエルとの対立の溝は、ますます深まってきています。
 また、アラブ連合共和国からのシリアの脱退ということもあり、アラブが団結を図っていくには、数多くの問題があります。
 更に、石油を発掘し、国が豊かになったことによって貧富の差が広がっているという面もあります。そうした国では、革命が起こる可能性が非常に高い。
 つまり、アラブには、東西冷戦、民族紛争、宗教紛争、階級闘争など、あらゆる対立の構図があります。
 中東は、地理的にも、アジア、ヨーロッパ、アフリカを結ぶ懸け橋です。
 また、今や国連に加盟したAA(アジア・アフリカ)グループは四十八カ国を数え、そのなかでアラブ諸国は、大きな一角を占めております。つまり、今後のアラブの動向が、世界平和の鍵を握っているともいえます。
 しかし、日本の官僚も、政治家も、経済人も、アラブを単に石油の取引の対象としてしか考えておりません。石油の確保に影響がなければ、アラブで何が起ころうが、対岸の火事のような見方をしている。本当に残念なことです。
 また、日本人は、アラブのことについては、ほとんど何も理解していません。
 アジアの西にある中東と、東にある日本はもっと交流し、ともに互いの国のために、何ができるかを考えていくべきです。
 そこに、国境を超えた人間の連帯が生まれ、それが世界に広がれば、平和の下地が築かれていくというのが私の意見なのです」
 山本伸一が言った。
 「全く同感です。あなたのアラブを愛する心が、よくわかります。私が今回、アラブを訪問するのも、そのためです。
 平和といっても、決して特別なことではない。まず人間の心と心を結び合うことから始まります。それには、文化の交流が大切になります。
 私はアラブと日本の間に、平和と文化の交流の道を開いておきたいのです。
 日本では、欧米の文化ばかりが、もてはやされていますが、欧米だけが外国ではない。アラブにはアラブの文化があり、日本が学ぶべきことも、たくさんあるのではないかと思います」
 「そうなんです。そうなんですよ、山本先生」
 河原崎の目が輝き、口元に微笑が浮かんだ。
4  宝土(4)
 山本伸一と河原崎寅造との語らいは弾んだ。
 二人の心は、強く、激しく、共鳴していった。
 伸一は語った。
 「実はさきほど、東洋学術研究所という研究機関の発足式を行いました。これは東洋を中心に、世界の文化や宗教、民族性などを研究して、人間の相互理解を図る糧とし、東洋、更には世界の平和に寄与していこうとするものなのです」
 「その東洋学術研究所というのは、創価学会がおつくりになったのですか」
 河原崎が尋ねた。
 伸一は、ニッコリと頷いて言った。
 「そうです。学会が母体となって設立した学術研究所です。人類の相互理解を図るためには、それぞれの国や民族の文化を研究し、理解することが不可欠ですから。
 宗教の使命というのは、民衆の幸福と世界の平和を実現することであり、それを本気になって考えているのが創価学会です」
 伸一の言葉を聞くと、河原崎は、背筋を伸ばし、膝の上に両手を揃えた。
 「山本先生、どうも私は創価学会について、誤解をしておったようです。
 正直なところ、拝めば病気が治るなどといって、勧誘するだけの宗教ではないかという考えが、頭のどこかにありました。
 もちろん、信仰によって病気が治るということもあり得るとは思いますし、いわゆる功徳ということも、あるのかもしれないとは思っていました。
 しかし、学会が平和といった課題に、本当に取り組もうとしているとは考えてもいませんでした。平和を口にする宗教者は多いが、そのために本気で行動する人は、あまりにも少なかったからです。
 しかし、今のお話を聞いて、敬服いたしました。
 今日も、家内から、山本先生がお会いしてくれるそうだから、ぜひ行くようにと言われ、家内の顔を立てるつもりで来たのです。
 会長はアラブにも行かれるというし、妻がお世話になっている教団の会長さんに、一度ぐらいごあいさつしておくことも、よいのではないかと思いまして。
 しかし、不遜でした。自分で確かめもしないで、偏見をもって学会を見ていたのです。申し訳ないことをしました」
 河原崎は、こう言うと、深々と頭を下げた。それを制して、伸一が言った。
 「真実を知らなければ、誤解があるのも当然です。では、河原崎さんは勤行をしたこともありませんね」
 「はい。名ばかりの会員なもので……」
5  宝土(5)
 山本伸一は、仏法について、諄々と語っていった。
 「仏法は、すべての人間は、本来、尊極なる『仏』であり、皆が平等に、幸福になる権利があることを教えています。つまり、人類の平等を説くヒューマニズムの思想であり、平和の哲学です。
 そして、その『仏』の慈悲と智慧と生命の力を湧現していく道を教えているのが仏法なんです。
 人間には、それぞれ理想もあれば信念もある。皆、それに向かって、必死に努力しています。
 しかし、慈悲をもって人に接しようと思っても、その思いとは裏腹に、ともすれば、利己的な生き方に流されてしまうのが、人間ではないでしょうか。
 また、人生には、挫折もあれば行き詰まりもある。そうした時に、何ものにも負けない強さをもち、それを堂々と乗り越えていけるかどうかに、幸・不幸の鍵がある。そこに、仏法を求めざるを得ない理由があります」
 河原崎寅造は、神妙な口調で言った。
 「よくわかります。実は今、私も行き詰まりを感じているのです。私は、自分の一生はアラブのために捧げたいと思ってまいりました。しかし、どうも独り相撲だったようです。
 日本人がアラブを理解するための文化事業や文化交流を提案しても、誰も見向きもしません。壁は極めて厚いのです。結局、私は夢を描いていただけかもしれないと思うと、どうも弱気になってしまいます」
 伸一は、力を込めて河原崎に語った。
 「河原崎さん。奥さんがあなたに信仰を勧めたとうかがっていますが、それはアラブにかけるご主人の夢を、なんとしても実現してもらいたいという一心からであったと思います。
 奥さんは、あなたのアラブを思う一途な心を、何よりも大切にしているはずです。あなたの最大の理解者であり、支持者であると思います。
 河原崎さんは、かつて外務省を辞められたと聞きましたが、その時も、きっと奥さんは愚痴一つ言わず、あなたを支えてこられたのではないでしょうか」
 河原崎は大きく頷いた。
 「そうです。苦労をかけました。体も弱いのに、文句一つ言わず、乏しい家計をやりくりして、じっと耐えてくれました……」
 「奥さんの願いは、アラブに貢献するという、あなたの夢を叶えることです。
 負けてはいけません。人間には行き詰まりがあっても、仏法に行き詰まりはないのです」
6  宝土(6)
 山本伸一は、真剣であった。河原崎寅造という、アラブを愛する逸材の大成を願いつつ、彼は語った。
 「人間は使命をもって生まれてきています。あなたの使命は、日本とアラブを結ぶ、友情と文化の橋を架けることだと思います。
 確かに、政治家でもない一民間人が、アラブのためにできることは限られているかもしれない。しかし、あなたが学生たちにアラビア語を教え、人びとにアラブの文化と心を伝えていくことで、未来の交流の大道が、必ず開かれていきます。
 あなたにどこまで、その情熱があるかです。情熱は人間を触発し、伝播していくものです。自分と同じ心をもつ、人間の流れをつくることです。
 弱気なあなたの発言を聞いたら、奥さんが悲しみます。弱さは不誠実につながります」
 口髭をたくわえた″アラブの快男児″の目に、大粒の涙が光っていた。
 伸一は、言葉をついだ。
 「あなたの担うべき役割は大きい。
 人間の心にヒューマニズムを育み、平和の道、文化の橋を架ける――それが仏法なんです。私も応援します。この限りある生涯を、ともに、人類の平和のために、未来のために捧げていこうではありませんか」
 河原崎は、目を潤ませながら、何度も、何度も頷くと、メガネを外して、涙を拭った。それから、決意のこもった声で言った。
 「私は、今、『アラブ語辞典』を作ろうとしております。日本にはまだ、『アラブ語辞典』さえないのです。しかし、どの出版社も、商売にはならんといって、見向きもしません。
 ですから、自費出版になると思いますが、なんとしてもこの辞典を完成させ、山本先生にお届けします」
 「そうですか。ありがとうございます。後世に光を放つ尊い偉大な仕事です。
 しかし、誰も関心を示さないかもしれません。皆、目先の損得だけで動いているからです。
 先駆者の仕事というのは、その時は、無視され、あるいは、批判され続けるものです」
 「そう言っていただけると、勇気がわいてきます」
 伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「しかし、河原崎さんは不思議な方だ。おそらく、アラブ人よりもアラブ人らしい。きっと、前世はアラブ人だったのでしょう」
 「いや、私もそう思っていたのです。光栄ですな」
 こう言って、河原崎は大きな声で笑った。
 豪快な笑いであった。また、さわやかな笑いであった。
7  宝土(7)
 山本伸一は、河原崎寅造に、アラブの気候や風土、また、旅の注意事項などをアドバイスしてもらい、再会を約して彼と別れた。
 この日、河原崎は、家に帰ると、直ちに仏壇の前に座り、題目を三唱した。そして、家族に宣言した。
 「今日から俺も、信心をするからな!」
 もともと一途な″アラブの快男児″は、その日を契機に、一騎当千の″広布の快男児″となっていったのである。
 伸一は、機中、河原崎との語らいを思い起こしながら、これから訪問するアラブの国々を心に描いた。
 搭乗機が最初の経由地であるフィリピンのマニラに到着したのは、現地時間で一月二十九日の午後二時過ぎであった。羽田を発って四時間余が過ぎていた。
 空港の一室に移って、三、四十分、待機することになった。
 東京では、道路に薄氷が張り、道行く人はオーバーの襟を立てていたが、マニラは摂氏二六度で、蒸し暑かった。冬の背広を着ていた一行は、額に汗を滴らせながら、盛んに冷えたジュースを飲んだ。
 伸一は、同行の青年たちに尋ねた。
 「ここに、フィリピンのメンバーが訪ねて来ることになっているんだね」
 フィリピンには、前年の五月にマニラ地区が結成されていた。
 青年部長の秋月英介が答えた。
 「はい。海外局から、そのように報告を受けております」
 しかし、十分が過ぎ、二十分が経過しても、メンバーはやって来なかった。
 「どうしたんだろう。黒木君、外を見て来てくれないか」
 黒木昭は、メンバーを探しに行き、しばらくすると戻って来た。
 「それらしい人たちは、見あたりませんでした」
 伸一は、フィリピンの同志とは、まだ会ったことがなかった。それだけに、ここでのメンバーとの語らいを、楽しみにしていたのである。
 といっても、語り合える時間は、三十分ほどにすぎない。しかし、人間が奮い立つのも、反対に、退転してしまうのも、ほんの一瞬の出来事からだ。
 対話によって強い一念が定まり、それが鳳のように自らを飛翔させることもあれば、一瞬の一念の狂いが自身を破滅へと向かわせてしまうこともある。
 ゆえに、伸一は、この語らいに全精力を傾け、一人一人の友を励まそうと、心に決めていたのである。
8  宝土(8)
 やがて、搭乗を知らせるアナウンスがあった。
 「残念だったな……」
 山本伸一は、こう言いながら休憩室を出た。
 一行が外に出て、搭乗機に向かうと、背後から声がした。
 「シェンシェー、シェンシェー」
 振り向くと、送迎デッキの上から、盛んに手を振る数人の人たちがいた。
 「シェンシェー」と聞こえるが、「先生」と言って伸一に向かって手を振っているのだ。フィリピンのメンバーである。
 伸一は足を止め、彼も大きく手を振って叫んだ。
 「皆さん! わざわざありがとう。お元気で。また、必ずお会いしましょう」
 伸一は、一人一人の顔を眼に焼きつけながら、何度も何度も、振り返っては手を振った。
 伸一が搭乗し、外を見ると、メンバーは腕も千切れんばかりに、まだ、手を振っていた。彼も離陸するまで、手を振り続けた。
 搭乗機が飛び立つと、隣の席の秋月英介が伸一に言った。
 「メンバーは、休憩室に来ると言っていたようなのですが、なかまで入れなかったのでしょうかね」
 「そうだろうね。かわいそうなことをしたな……」
 メンバーは、同志の数も少ないなかで、互いに身を寄せ合うようにして、信心に励んできたのであろう。
 それだけに、きっと、この日を楽しみに、何時間も前から待っていたに違いない。仕事を休んで来た人もいたかもしれない。
 伸一は、メンバーと語らいの機会がもてなかったことが、悔やまれてならなかった。申し訳ない思いがして、身を切られるような辛さを覚えた。
 彼は機中、一人一人の顔を思い浮かべながら、友の健康と健闘を念じて、題目を送り続けた。
 マニラからは三時間ほどで、次の経由地であるタイのバンコクに到着した。
 バンコクにも、前年の五月に地区が誕生している。伸一は、ここでもメンバーと会うことになっていた。
 ジェット機を降りると、熱気が一行を包んだ。気温は摂氏三二度であった。
 伸一は、空港のロビーで十人余のメンバーと会い、皆と一緒に空港のレストランに入り、懇談した。
 メンバーのうち三人は、最近、信心を始めたばかりで、そのうちの一人の男性は、昨日、入会を決意したという。また、メンバーには女子部も五人いた。
 伸一がタイを初訪問してから約一年、この地でも同志は、着実に育ち始めていたのである。
9  宝土(9)
 山本伸一は、一人一人に視線を注ぎながら言った。
 「皆さんとお会いできて本当に嬉しい。同志も少なく、心細かったことと思いますが、もう大丈夫です。
 これからタイは、香港と並んで、東南アジアの広布の中心となっていく国です。私も、そのために、全力で応援します。
 今日は、すぐに出発しなければなりませんが、イラン、イラク、トルコ、ギリシャ、エジプト、パキスタンを回った後、また、タイにやって来ます。その時は、バンコクに一泊しますので、座談会を開くことにしましょう」
 タイの婦人の中心となってきた、アン・ライズ・ミヤコというマタニティードレスを着た女性が、嬉しそうに目を細めて語った。
 「今、バンコクには、二十一世帯のメンバーがおりますが、座談会の時には、今日、参加できなかった方も、必ず集うようにいたします」
 すると、伸一は言った。
 「無理をする必要はありません。来れる人が来ればよいのです。
 ところで、あなたは間もなく出産ですね」
 「はい」
 「あなたも決して無理をしないで、十分に休養をとって、元気なお子さんを産んでください。
 ともかく、みんなに無理をさせたり、非常識な行動はいっさい慎むべきです。海外にあっては、周囲の人は、皆さんの姿を通してしか、学会のことは認識できない。
 もしも、皆さんに非常識な言動があれば、周囲は、それが学会の真実の姿であり、仏法であると思い込んでしまう。したがって、その国の文化や風俗、習慣を考え、どこまでも常識豊かに、信心をしていくことが大切なんです。
 ひとたび社会に、学会が非常識で反社会的な団体であるかのような誤解を与えてしまえば、広宣流布は、十年、二十年と遅れることになってしまうでしょう。
 指導者には責任がある。一生懸命であることは当然ですが、ただ、それだけでよいと思ってしまえば、自己満足に終わってしまう。一つのことを行うにも、それがいかなる意味をもち、結果的にどうなるのかを、長い目で見て、考え抜いていかなければならない。
 つまり、知恵が大事であり、その知恵は、強い責任感から生まれるのです」
 彼は、リーダーの配慮の欠如から、海外にあって無用な摩擦を起こしてしまうことを最も憂慮していた。そうなれば、そこにいるメンバーが一番苦しむことになってしまうからだ。
10  宝土(10)
 タイ王国のメンバーと語り合っているうちに、待ち時間は、瞬く間に過ぎていった。
 「時間は大丈夫だね」
 山本伸一が同行の青年たちに尋ねた。黒木昭が腕時計を見ながら、驚きの声を上げた。
 「す、すいません。間もなく出発時刻です」
 「そうか。それでは、また、帰りに座談会でお会いしましょう」
 伸一は、こう言って、タイの同志に別れを告げた。
 同じ便の乗客が待機していた休憩室に戻ると、既にそこには誰もいなかった。空港の時計の針は、ちょうど予定されていた出発時刻を差している。
 一行は搭乗機に向かって急いだ。三〇度を超す暑さとあって、皆、体中に汗が噴き出した。
 「まさか、出発してしまうことはないだろうな」
 速足で歩きながら、秋月英介が言った。すると、黒木昭が答えた。
 「わかりませんよ。日本とは違いますからね。外国は、その辺は割り切っていますから」
 途中、空港の係員が、一行の姿を見ると、急ぐように手で合図した。
 皆、走り始めた。走りながら、吉川雄助が言った。
 「係員が急げと言っているのだから、まだ大丈夫ということだね」
 伸一たちが飛行機に乗り込むのを待って、すぐにドアが閉められた。
 皆、しばらくは、あえぐように息をしていた。
 青年部長の秋月英介が、伸一に言った。
 「もう少し早く、私たちが気づけばよかったのに、申し訳ありません」
 「仕方がない。だいたい海外に来ると、どっちが秘書役なのか、わからなくなるんだよ。みんな″のんき″だから。
 バンコクまで来て、マラソンをしたなんて、最高の思い出になるだろう」
 伸一が笑いながらこう言うと、皆も笑った。
 同行メンバーとしては、搭乗時刻を意識していなかったというのは大きな失敗である。
 伸一は、彼らに、その自覚と反省がなければ、それを厳しく指摘していたであろう。
 しかし、皆、深く反省しているのがよくわかった。だから、伸一は、むしろ、青年たちの心を和ませたかった。
 皆が同じ失敗を繰り返さないように注意を払い、気持ちよく意欲をもって、仕事に励めるようにするのが、リーダーの大事な任務でもある。
 搭乗機が次の経由地であるインドのカルカッタに着いたのは、バンコクを発って約二時間半後であった。
11  宝土(11)
 カルカッタでも、数十分間待機し、それから、三時間ほどの飛行で、四番目の経由地のパキスタンのカラチに到着した。ここを飛び立つと、いよいよ最初の訪問国であるイランの首都テヘランである。
 テヘランには、現地時間の一月三十日の午前一時近くに到着した。東京とテヘランの時差は五時間半というから、日本では午前六時半ごろになる。日本を飛び立ってから、十九時間半が経過したわけである。
 空港では、深夜であるにもかかわらず、上野頼子という学会員と、その夫の英夫が出迎えてくれた。彼女は夫の仕事の関係で、テヘランに居住していた。
 夫は未入会であったが、妻の信仰には協力的で、テヘランでの案内を自ら買って出てくれた。
 一行が宿舎のダルバンド・ホテルに到着したのは、午前二時過ぎであった。
 イラン高原に位置するテヘランは、海抜千二百メートルもあり、しかも未明とあって、思いのほか寒く、空気は乾燥していた。
 日本を発って、わずか丸一日の間に、かなり激しい気候の変化を体験したことになる。
 一夜明けると、街の彼方には、白雪を頂いた山々が連なっていた。
 山本伸一は、ホテルのテラスに出てみた。
 このテヘランは、一九四三年十一月二十八日から四日間にわたって、アメリカのルーズヴェルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の三国首脳が初めて一堂に会して、テヘラン会談が行われた場所である。
 そこでは、米英両国による北フランスの上陸作戦などについて語り合われたほか、ドイツ降伏後、ソ連は速やかに対日戦に加わることが確認された。
 いわば、この会談は、第二次世界大戦の、その後の世界の流れを決定づける重要なものであった。会談は、主にソ連大使館で行われたが、このダルバンド・ホテルも、使われたといわれる。
 以来十八年余、その三国も二つの陣営に分かれ、世界は米ソを中心とした東西の冷戦という、新たな悲劇の渦中にあった。
 あの三国の首脳が武力によって、世界史の流れを変えようとしたのに対して、今、伸一は、人間の精神の力によって、人類の融合と永遠の平和を開こうと、このテヘランに、人知れず中東訪問の第一歩を印したのである。
 それは、遠く、はるかな道程ではあるが、断じて進まねばならぬ、彼の使命の道であった。
12  宝土(12)
 一行は、朝食をすませた後、日本にテヘラン安着の電報を打った。
 しばらくすると、上野英夫が迎えに来た。しかし、妻の頼子の姿はなかった。
 山本伸一が尋ねた。
 「奥さんは、どうされたんですか」
 上野の話では、彼女は体調を崩し、家で休んでいるとのことであった。
 この日は、彼の案内でテヘランの街を視察した。
 道行く女性は、イスラム教徒の伝統的な衣装である、頭から全身をすっぽり覆う「チャドル」と呼ばれる黒い服を着ていた。そして、礼拝の時間になると、人びとが一斉に祈りを捧げる姿が印象的であった。
 イスラム教が、民衆の生活に深く根差していることを感じさせた。
 一行は、十八世紀末にテヘランを都と定めた、カージャール朝の創設者アーガー・ムハンマドが着工したゴレスタン・パレス(バラ宮殿)や、王室所蔵の宝石などが展示されているイラン中央銀行の地下室、バザールなどを見学した。
 宮殿の豪華さもさることながら、活気に満ちたバザールに、伸一は民衆の活力を感じた。
 車で市内を巡りながら、伸一は、案内をしてくれている上野に、夫人の頼子の様子を聞いた。
 夫人の体調が思わしくないのは、精神的なことに原因があるという。彼女は、このイランでの生活に、なかなか馴染めないようであった。
 伸一は言った。
 「もし、お宅にお寄りすることができれば、奥さんを励ましてさしあげたいのですが……」
 「山本先生においでいただければ、妻は大喜びすると思います。でも、お忙しい先生に、そんなことをお願いしても、よろしいのでしょうか」
 確かに、この日の伸一のスケジュールは、ぎっしりと詰まっていた。まだ、博物館の視察などのほか、大客殿の調度品のペルシャ絨毯の購入や、日本の商社などの駐在員たちとの会談も予定されていた。
 しかし、伸一は、言下に答えた。
 「私の訪問の最大の目的は、その国にいる会員の方々を激励することです。まして、奥さんは苦しんでおられる。むしろ、お会いするのが私の義務です」
 伸一たちが上野の自宅を訪ねると、妻の頼子は恐縮して言った。
 「まあ、山本先生にわざわざおいでいただくなんて……。本当にありがとうございます。また、本日は、ご案内もできずに、まことに申し訳ございません」
13  宝土(13)
 上野頼子は嬉しそうに微笑んでいたが、その顔色は蒼白であった。
 山本伸一は言った。
 「おかまいなく。奥さんの体調が優れないと聞いたものですから、ちょっと、お見舞いに伺っただけです。
 もし、よろしければ、少し一緒にお題目を唱えましょう」
 「はい」
 伸一の導師で、唱題が始まった。ほんの十分ほどではあったが、伸一は、強い一念を込め、真剣に彼女の健康の回復を祈った。
 唱題が終わった時には、頼子の頬に、ほのかな赤みが差していた。
 伸一は、彼女を笑顔で包み込むように語り始めた。
 「イランは、日本から遠く離れているし、言葉も通じなければ、食べる物も、気候も、習慣も違う。奥さんは、こんなところに来てしまって、大変なことになってしまったと、思っているのではないでしょうか」
 彼女は素直に頷いた。
 「はい。ここは、私にはとても合いません。一刻も早く日本に帰りたいというのが、私の正直な気持ちなのです」
 「どういう点が、自分には合わないと感じられるんですか」
 「何もかもです。
 それに、心から打ち解けて話せる友人も、ここにはいませんし……」
 夫の上野英夫が困惑した顔で語った。
 「妻は、いつもこう言うものですから、私も困っているんです。私のここでの仕事が終わるまでには、まだ、最低一、二年はかかるようですので……」
 伸一は、労るように頼子を見て、言葉をついだ。
 「奥さんは、悩んでこられたんですね。大変だったでしょう。
 しかし、どこにいても、苦しいと思うか、そこに意義を見いだして、喜びや充実を感じていけるかどうかは、最終的には、自分自身の一念であり、心の持ち方ですよ。
 初代会長の牧口先生は、戦時中、牢獄のなかにあっても、『心一つで地獄にも楽しみがあります』と言われています。
 イランといっても、今では、飛行機だと、日本から一日で着いてしまう。考えようによっては近いところではないですか。
 そもそも、この地球自体が、大宇宙から見れば、小さな小さな星であり、そのなかの更に小さな島が日本です。
 そんな小島に、一生、閉じ込められて生きるより、十年や二十年ぐらい、広々とした国で暮らせる方が、はるかに楽しいではないですか」
14  宝土(14)
 眼前の一人に対して、幸福の道をいかに開くか。
 そこに、仏法者の実践があり、また、それが創価学会の発展の源泉となってきたのである。
 山本伸一は、上野頼子の心中を考えながら、懸命に励まし続けた。
 「人間は、悲観的になると、心が暗雲に覆われ、喜びも、楽しさも、希望の光も、自らさえぎってしまうことになる。
 仏法というのは、最高の楽観主義なんです。苦しみに満ちた娑婆世界のなかに寂光土があると教え、どんな悪人や、不幸に泣く人でも、仏になると教えています。そこには、絶望はありません。あるのは、無限の幸福への可能性を開く、無限の希望です。
 あなたは日本での生活を理想とし、それと、このテヘランでの生活を比べ、落胆しているのではないでしょうか。
 しかし、実際には、日本にいた時でも、それなりに悩みも苦しみもあったのではないかと思います」
 上野頼子に代わって、夫の英夫が答えた。
 「ええ、そうなんです。日本では、私の母と同居しておりましたが、母と別れて暮らしたいというのが、妻の願いでした。二人は折り合いが悪かったんです。
 でも、妻も努力していました。母も努力していたと思います。ところが、妻は完璧を求める性格なものですから、自分で努力して、思うような結果にならないと、自信をなくし、落ち込んでしまうんです」
 伸一は、大きく頷くと言った。
 「奥さん、人間には、完璧な人はいないし、また、すべて満たされた理想的な生活環境というものもありません。
 しかし、あなたは、妻である自分はこうあらねばならない、姑はこうあるべきだ、あるいは生活環境はこうでなければならないと、自分の頭のなかに理想的な基準をつくってしまっているように思います。
 そして、その観念のモノサシに現実を合わせようとする。ところが、現実というものは、理想や観念の尺度に、きちんと合うことはあり得ない。
 すると、ここが悪い、あそこが悪いとなり、失望が重なって、不平や不満だらけになってしまう。
 それは、たとえば、桜の木を基準に梅の木を見て、これは変な桜だと言って、落胆しているようなものでしょう。
 むしろ、こうでなくてはならないという、頭のなかでつくり上げた基準にこだわらず、もっと自由にものを見るべきです」
15  宝土(15)
 山本伸一は、噛んで含めるように、上野頼子に話していった。
 「テヘランでの生活は、慣れないために、確かに大変な面もあると思います。でも、多かれ少なかれ、どこにいても、大変なことや、いやなことはあります。それは、どんな生活環境でも、どんな人間でも同じです。
 百パーセントすばらしい環境もなければ、そんな人間もいません。
 あなたが基準とすべきは日本での暮らしではなく、ここでの生活です。それが現実なのですから、まず、そのまま受け入れ、ありのままに見つめてみようとすることです。
 経文にも『如実知見』、つまり『実の如く知見す』とあります。これは仏の智慧についていわれたものですが、私たちが生きるうえでも大事なことです。
 自分が思い描いた観念的な基準にこだわり、縛られるのではなく、ありのままに現実を見つめて、なんらかのよい面を、楽しいことを発見し、それを生かしていこうとすることです。
 これは、自分自身に対しても同じです。自分はどこまでいっても自分なのですから、他人を羨んでも仕方ありません。人間には短所もあれば、長所もある。だから、自分を見つめ、長所を発見し、それを伸ばしていけばよいのです。そこに価値の創造もある」
 上野頼子が口を開いた。
 「確かに山本先生のおっしゃる通りだと思います。でも、頭ではわかっても、こんな暮らしが続くのかと思うと、やはり、嫌気が先に立ってしまいます」
 「奥さん、だからこそ信心が大事になるんです。行き詰まったら題目ですよ。お題目を唱えれば、自分のことも、環境も、ありのままに見つめることができるし、生命力がわいてくる。自分に負けない強さをつけることができます。
 そして、何よりも、あなたが、このイランにやって来た使命を自覚することができます」
 「私が、ここに来たことに、何か使命のようなものがあるのでしょうか」
 「もちろんです。使命のない仏子はいません。
 これから先、仕事などの関係で、このイランに来る日本人は、次第に増えていくことになるでしょう。学会員も来るでしょう。
 そして、なかにはあなたのように、見ず知らずの国に来たことで、寂しい思いをする女性もいるかもしれない。
 その時に、イラン在住の先輩として、そうした人たちを励まし、元気づけていくことです」
16  宝土(16)
 上野頼子の目は、次第に生気を取り戻していった。
 山本伸一は話を続けた。
 「また、もう一つ、大事なことがあります。
 それは、このイランに友情の苗を育んでいくことができるのは、日本人多しといえども、ここに来ている、ほんの一握りの人だけだということです。
 あなたとイランの人たちとの間に友情が結ばれるならば、その人たちは、日本を身近に感じ、ほかの日本人に対しても心を開いてくれるようになるでしょう。
 人間と人間の友情と信頼の絆は、国家の壁を超え、世界を結んでいきます。日本とイランの、また、世界の平和を考える時、こんなすばらしいことはない。
 あなたの周囲に、友情の苗をたくさん植え、大切に育てていけば、イランも必ず、緑したたる心のオアシスになっていきます」
 伸一の言葉に、彼女は笑顔で頷いた。
 伸一も笑みを浮かべた。
 「真実の仏法は、やがていつか、どこかで幸福になることを教えているのではありません。今、この場所で幸福をつくり出していくための法です。
 その幸福を生み出していく力は、あなた自身の胸中にある。それを引き出していくのが信仰です。
 日本を離れれば不幸になるのか――違います。日本にいても不幸を嘆いている人はいるし、海外で充実した日々を送っている人もいます。今いる場所で、幸福になる方法を知らないから不幸なのです。
 信仰とは無限の希望であり、無限の活力です。自己の一念によって、どんな環境も最高の宝土となる。それが仏法です。
 だからあなたも、このテヘランにあって、幸福の女王になってほしいのです」
 「はい! 頑張ります」
 きっぱりとした言葉が返ってきた。
 彼女の頬には、感激の涙が光っていた。夫の英夫の目も潤んでいた。
 伸一は言った。
 「テヘランは美しい街です。景色も雄大だし、これほど澄み渡った青空は、日本ではなかなか見ることはできない。
 この青空を楽しみ、愛しながら、ここで幸せの曲を奏でてください」
 別れ際に、皆で題目を三唱した。彼女の声には、強い決意の響きがあった。
 伸一の一行は、それから博物館の視察のほか、日本の商社の駐在員らと懇談のひとときをもち、更に大客殿用のペルシャ絨毯の買い付けにあたった。
 こうして、テヘランの一日は、慌ただしく、瞬く間に過ぎていった。
17  宝土(17)
 夜はホテルの山本伸一の部屋で、皆で遅くまで、イランの感想を語り合った。
 伸一と青年部長の秋月英介は、インドでイスラム教のモスクを視察していたが、吉川雄助と黒木昭は、イスラム教に初めて接しただけに、驚きは大きかったようだ。
 吉川は勢い込んで語っていった。
 「私たちの勤行は、朝晩の二回ですが、イスラム教では、礼拝は一日に五回なんですね。でも、皆、それをきちんと励行しているのには驚きました。
 また、女性は、イスラムの伝統を守って、あのチャドルといわれる、頭も覆う黒い服を着ている。ここでは、宗教が生活のなかに溶け込んでいますね。
 私は、イスラムというと、『剣か、コーランか』との言葉を思い出し、怖い宗教という印象がありましたが、実際にイスラム教国に来てみると、そんな感じはしませんね」
 吉川の話を聞くと、伸一は言った。
 「今の言葉は、イスラムが征服の際に″改宗か、それとも死か″と迫ったとして、ヨーロッパで言われ出したものらしいが、多分に誤解がある。
 イスラムは武力を用いもしたが、その一方で、異教徒に対しては、かなり寛容であったようだ。イスラム教に改宗しなくとも、税金を払うなどの義務を果たせば、生命や財産の安全は約束されていたといわれる。
 確かコーランでも、″宗教には無理強いがあってはならない″と言っていたはずだ」
 吉川が答えた。
 「そうなんですか。それは知りませんでした」
 「考えてもごらんよ。ただ武力だけで、宗教を世界的に広め、流布することなど、絶対にできるものではない。教えが広まったということは、人びとが共感するなんらかの要素が、必ずあったはずだ。
 これからは学会も、世界の宗教に対する、しっかりとした研究と勉強が必要だよ。そして、たとえ一つの言葉でも、誰が言ったものなのか、どこから出たものなのか、本当のことなのかを、見極めていかなくてはならない。
 カーライルも『英雄及び英雄崇拝』のなかで、マホメットを一個の″英雄″として描いている。
 この本が出たのは十九世紀の半ばだ。当時、ヨーロッパでは、マホメットといえば、大悪人のように敵視されていた。
 しかし、カーライルは、人間として真剣なもの、誠実なものがなければ、十数世紀もの間、多くの人びとの信仰を得られるはずがないと見抜いていた」
18  宝土(18)
 山本伸一は教え諭すように、青年たちに言った。
 「学会も、香典を持っていってしまうとか、先祖の位牌を焼き払うとか、暴力宗教などといわれてきたが、全部、事実無根の中傷だったじゃないか。結局、学会への嫌悪を煽るために流したデマだった。
 牧口先生は″認識せずして評価するな″と言われたが、青年は事実を正しくおさえたうえで、評価を下していくという姿勢を忘れてはいけない」
 対話のテーマは、自然にイスラム教をめぐる語らいとなっていった。
 ――イスラム教の開祖となるマホメット(ムハンマド=非常に称賛された者の意)は西暦五七〇年ごろ、アラビア半島のメッカで、クライシュ族のハーシム家に生まれた。
 父は、彼の誕生前に死去し、六歳で母も失い、マホメットは孤児となった。
 その後、面倒をみてくれた祖父も他界し、彼は、叔父アブー・ターリブのもとに身を寄せる。
 叔父の保護を受けたといっても、暮らしは貧しかった。幼くして親を亡くした彼は、当時のアラブの習慣で、遺産を相続することができなかったからだともいわれている。
 やがて、彼はメッカの商人の隊商に加わり、商人として働くようになる。商才もあり、よく働く、真面目な若者であったようだ。彼は「アミーン(誠実な者)」と呼ばれた。
 その後、商売上の付き合いから、富裕な未亡人ハディージャと知り合い、彼は結婚する。マホメット二十五歳、ハディージャ四十歳の時である。
 結婚によって、マホメットは、裕福な商人となったが、生活そのものは、いたって平凡な暮らしぶりであった。ただ、いつのころからか、メッカ近郊のヒラー山の洞窟にこもり、瞑想するようになっていた。
 そんなある日、彼は瞑想中、人生を一変させる不思議な体験をする。天使を通じて神の言葉を聞いたというのだ。いわゆる″神の啓示″とされる体験である。時にマホメットは四十歳であった。
 当初、彼は、悪霊に憑かれたのではないかと、恐れおののいた。それを″神の啓示″だと真っ先に信じ、彼にそう確信させたのは妻のハディージャであった。
 この不思議な体験は何度も繰り返され、マホメットは、自分が啓示を人に伝える「神の使徒」であるという自覚を得る。
 こうして、イスラム教が誕生するのである。
19  宝土(19)
 マホメットの教えの最初の信徒は、妻のハディージャであった。そして、その教えは、少しずつ近親者の間に広まっていった。
 イスラム教も、キリスト教や仏教の出発と同じように、小さな信仰の集いにすぎなかった。
 ところで、イスラムの教えの核心は、なんであったか。要約していえば、「唯一の主アッラーと使徒マホメットを信じよ」ということであろう。
 そもそも、「イスラム」という言葉は、唯一神への「絶対的な帰依・服従」を意味し、自らの全存在を、唯一神の手にゆだねた人を「ムスリム」(イスラム教徒)というのである。
 この唯一の創造神である「アッラー」は、ユダヤ教やキリスト教の神と同じ神とされる。
 そして、マホメットは、自分を、モーセやイエスのように、神の言葉(啓示)を預かる預言者の系譜に連なる者とし、その「最後の預言者」であると考えていた。
 また、イスラム教では、神の啓示を記した″啓典″の最も神聖なものとして『コーラン』のほかに、『旧約聖書』のモーセの五書・詩篇、『新約聖書』の福音書も含めているのである。
 マホメットには、最初、新しい宗教を創始したという意識は、全くなかったといってよいだろう。
 二、三年後、彼は、広く一般の人びとにも、唯一神への信仰を説き始めた。
 ところが、それは、アラビア半島の″宗教の常識″に対する、不遜な挑戦と受け取られたのである。
 当時、一般のアラブ人の宗教は″多神教″であり、また、部族の習慣が善悪是非を決める基準となっていた。更に、高貴な血統をもつかどうかが、人間の価値を決定づけるものとされていた。
 しかし、マホメットは、唯一神アッラーへの服従を訴えるとともに、人間の高貴さは血統などではなく、信仰の深さによって決まり、いかなる人間もアッラーの下に平等であり、皆、同胞になると主張していったのである。
 人間の価値の根拠を「血統」「生まれ」などの外在的な要因に求めるのではなく、「信仰」という内在的なものに見いだしていったところに、マホメットの卓見があったといえる。
 そこには、釈尊の「人は生まれによってバラモン(高貴な人の意)になるのではない。行いによってバラモンとなる」との言葉に通ずるものがある。
 それはいわば、アラビア半島における″宗教改革″の叫びであった。
20  宝土(20)
 やがて、マホメットの信徒は、若者を中心に次第に増えていった。彼の伝える神の言葉は、激烈であり、妥協を許さなかった。
 メッカには、『旧約聖書』に出てくるアブラハムとその息子のイシュマエルが建設したとされる、カーバという神殿があった。その神殿の最高神は、本来「アッラー」とされてはいたが、さまざまな神々の偶像が祭られていた。
 この神殿には、アラビア各地から人びとが巡礼に訪れ、それがメッカに大きな利益をもたらしていた。
 だが、マホメットは「アッラー」以外の神々を認めず、偶像崇拝を強固に否定していった。
 メッカの指導者たちは、彼の主張が広まり、自分たちの立場や利権が脅かされることを恐れた。
 マホメットは先祖伝来の神を冒涜する者とされ、迫害が始まった。弟子たちのなかにも、迫害によって部族の保護を失う者が増えていった。彼は、その信徒たちを、キリスト教国のアビシニア(現在のエチオピア)に移住させたりもした。
 迫害はマホメットの一族ハーシム家にも及んだが、家長である叔父のアブー・ターリブは、マホメットを守り抜いてきた。
 ところが、六一九年、愛妻のハディージャと叔父のターリブが、相次いで亡くなるのである。
 最大の後ろ盾を失って、彼は、窮地に立たされた。メッカでの布教も困難となった。故郷の町は、改革者ゆえに、マホメットの存在を許さなかったのである。
 また、近郊の町でも、布教をすると、石を投げられ、追われるようになっていった。
 遂に、彼は新しい天地を求めて、メッカの北方三百数十キロメートルにある、ヤスリブの町へ移ることを決意する。
 六二二年、マホメットはまず、七十余人の信徒をヤスリブに向かわせた。彼は最後にメッカから脱出するが、既に命を狙われていたため、洞窟に身を潜めて追っ手を逃れたのである。
 ヤスリブは、オアシスの町であった。
 そこでは、長年にわたってアラブの部族の間で紛争が続き、人びとは疲弊しきっていた。そして、その混乱を収束させる指導者を望んでいたのである。
 マホメットは指導者として迎えられ、ここに最初のイスラム共同体(ウンマ)が誕生する。
 これが世にいう「ヒジュラ(移住)」であり、イスラム暦はこの年をもって、「元年」とするのである。
 また、ヤスリブは、預言者の町という意義から、「メディナ」と呼ばれるようになった。
21  宝土(21)
 マホメットは、新天地メディナでは、宗教上の指導者であるだけでなく、政治的指導者でもあり、また、調停者、裁判官、立法者でもあった。
 当然、彼のもとには、共同体の存続にかかわる大事から、日常の瑣事に至るまで、さまざまな問題が持ち込まれたが、彼は、必要に応じて、それらの問題に対処する神の啓示を、次々と伝えていった。
 こうして、イスラム教徒の現世の生活万般を律する道徳的な規範が定められ、以後、この教えに基づいて、人びとの生活が営まれていく。それが後に「イスラム法(シャリーア)」となるのである。
 イスラム教では、「聖」と「俗」――いわば個人の「信仰の次元」と、日常の生活から国家の運営に至る「世俗の次元」が一体化しているのである。
 つまり、宗教の教えが、そのまま生活すべての規則となり、共同体、国家の法律となって、独自の文明を形成していったところに、イスラム教の特徴がある。
 また、聖俗両面にわたる指導者層は存在しても、世俗を離れた聖職者制度は設けないことも、イスラムの特色となっている。
 マホメットは、この新たな共同体であるイスラム国家の建設を進める一方、それを阻む敵とは、徹底的に戦うことを訴えた。
 いわゆる「聖戦(ジハード)」である。
 彼は、カーバの神殿があるメッカをはじめ、諸部族に戦いを挑んだ。メディナ移住(六二二年)から、彼の死までの十年間で、実に大小約七十回もの戦争が繰り広げられたという。
 だが、そこには、過酷な砂漠という現実があったことを知らねばなるまい。食糧の確保さえ難しく、他部族が、いつ攻めて来るかもしれない砂漠にあって、自分たちの平和を守るためには、戦いは、やむをえぬ選択であったのであろう。
 六三〇年、メッカの勢力を圧倒するに至ったマホメットは、大軍を率いて、遂に、故郷メッカに凱旋する。
 彼は、直ちに、カーバの神殿に祭られた数百の偶像をことごとく破壊した。やがて、マホメットを拒否し続けてきたメッカの人びとも、次々にイスラム教に帰依していったのである。
 ただ、マホメットは、メッカを征服する際にも、住民感情を気遣い、寛大な政策をとって、住民を協力者にしている。彼の最大の狙いは、敵をも味方にすることにあったに違いない。
 彼は、その後、アラブの他の部族とも同盟関係を結び、彼の影響力はアラビア半島全域に及んでいった。
22  宝土(22)
 六三二年の三月、マホメットは、自らメッカ巡礼の指揮をとった。
 しかし、巡礼を終えてメディナに戻った時、彼の体は、病に侵され始めていたようだ。それから間もない六月八日、六十余年の波乱の生涯を閉じたのである。
 マホメットが神の啓示を受けてから、イスラム教がアラビア半島に広がるまで、わずか二十余年にすぎない。それは、彼の力の大きさを物語っている。
 それだけに、創始者の死は、人びとに大きな衝撃をもたらした。動揺のあまりか、マホメットは死んだのではなく、再び帰ってくるはずだと語る者もいた。
 その時に立ち上がったのが、マホメットの最初の壮年の信徒であり、よき片腕であったアブー・バクルである。
 彼は「使徒マホメットは死んだが、神を信ずる者にとっては、神は死ぬことはない」と宣言する。死という現実が受け入れられず、嘆き悲しむ人びとの心の弱さを打ち破り、信仰の眼を開かせたのだ。
 更に、彼は、マホメットの継承者(ハリーファ)、すなわち「カリフ」に選ばれる。そして、部族の反乱が相次ぐ、最大の難局を果敢に切り開き、全体をまとめていったのである。
 師亡き後、その真実の精神を受け継ぎ、新しき希望を掲げて立つ弟子がいてこそ、永続の道が開かれるのである。
 このアブー・バクルを初代カリフとして、第四代のアリー(マホメットの娘婿)までが「正統カリフ時代」といわれている。マホメットの教えを直接聞き、ともに行動した直弟子、長老による統治時代といえる。
 この間、マホメットへの神の啓示が収集され、『コーラン』が現在の形で編纂されている。
 文字として原典を残したからこそ、イスラム教は一時代の宗教として終わることなく、後世に伝えゆく確かなる規範ができ、世界宗教として、今日に受け継がれてきたといってよい。
 イスラムは、その後も勢力を広げ、エジプトを支配下に置き、ササン朝ペルシャも滅ぼした。しかし、六六一年、第四代カリフのアリーが暗殺され、正統カリフ時代は終焉する。
 代わってウマイヤ朝の時代になると、イスラムの勢力範囲は、中央アジア、西北インドからイベリア半島にまで及んだ。
 更に、七五〇年に誕生したアッバース朝は、現在のイラクのバグダッドを首都として、強固なイスラム帝国をつくり上げ、当時、世界最大の繁栄を謳歌することになるのである。
23  宝土(23)
 山本伸一は、同行の青年たちに、イスラム教の歴史と概要を述べた後、更に、イスラム文明のヨーロッパへの影響について語っていった。
 「最近の研究では、今日のヨーロッパ文明の発展は、イスラム文明との出合いを抜きに考えられないそうだ。つまり、イスラム文明が、ヨーロッパの文明の一つの基礎になっているという学者が多い。
 たとえば、アラビア数字がそうだし、アルコールやアルカリも、アラビア語に由来する言葉だ。人類史の大発明とされる火薬、羅針盤、製紙法も、中国からイスラム世界を経由して、ヨーロッパに伝わっている。
 また、もっと興味深いことは、イスラムが古代ギリシャの知的遺産を継承、発展させ、ヨーロッパに伝えたことだね。中世のヨーロッパでは、自分たちの過去の知的遺産を、長い間、忘れてしまっていたんだ。
 更に、イスラム世界には、天文台や大学もあり、最も先進的な文明を築いていたといえる」
 その話を聞くと、黒木昭が尋ねた。
 「しかし、イスラムがなぜ、それほど優れた文明を育むことができたのでしょうか」
 「よい質問だね。みんなで考えてみよう。秋月君はどう思う?」
 伸一は青年部長の秋月英介に言った。
 「そうですね、さきほど先生が言われたように、宗教と生活全般とが一体化していたことに、深くかかわっているのではないかと思います。
 つまり、私たちの感覚で言うと、『信心即生活』のような姿勢が培われて、それが優れた文明を創造するエネルギー源になったような気がしますが……」
 伸一は微笑んだ。
 「『信心即生活』というのは、学会員には、わかりやすい言い方だね。それに近い考え方が、人びとのなかに確立されていったことは間違いないと思う。
 宗教上の律法として、国家の在り方や生活の細かい規則を定めていなくとも、その教えや理想を実生活に反映させていくことはできるし、また、今後も世界的に、そうした宗教の在り方が受け入れられるかどうかという問題もある。
 しかし、ともあれ、イスラム教の場合、生活全般にわたる宗教上の規範が人びとの向上的な生き方に結びつき、当時は、優れた文明をつくり出す大きな力になっていたようだ」
 青年たちの目は、生き生きと輝いていた。彼らの胸には、山本会長と語り合うなかで、新しき知識を吸収し、新しきテーマを考える喜びがあふれていた。
24  宝土(24)
 テヘランのホテルの一室は、今や大学のゼミナールの様相を呈していた。
 同行の青年たちは、ノートやメモ用紙を出し、山本伸一の次の言葉を待った。
 伸一は話を続けた。
 「確か、カーライルも書いていたが、イスラムの思想には、世界はそれ自体が奇跡であり、神聖なものとする考え方があるようだ。
 いわば、この世は、本来いいものだという肯定がある。それは、人間の知識や文化を肯定するとともに、イスラムの威光が及ぶ世界を荘厳しようとする生き方を、強く促すことになるのではないだろうか。
 それから、イスラムでは、伝統的に″知識の探求は信徒の義務である″と教えていたらしいね。
 そうしてみると、イスラムは、一面、知識を重んじる宗教であったといえるし、そこに高度なイスラム文明を生み出した淵源があったといってよいだろう」
 吉川雄助が質問した。
 「しかし、ヨーロッパなど、キリスト教世界の側では、マホメットやイスラム教への評価は、全く違っています。特にマホメットについては、怪物か悪魔のように言われていますが、それはどうしてでしょうか」
 伸一は、ニッコリと笑って答えた。
 「大事な質問だね。
 これは推測だが、やはりキリスト教世界は、イスラムの急速な拡大に恐れをいだいていたことが、大きな原因ではないかと思う。
 それに、イスラム教がどんなものなのかという、正しい認識がなかったこともあるだろう。さまざまな経緯があったにせよ、結局、″対話″がなかったために、″対立″の溝を深めてしまったといえる。
 また、中世のヨーロッパは、文明的にもイスラムに遅れをとっていただけに、嫉妬もあったに違いない。
 要するに″恐れ″と″誤解″と″嫉妬″によるものだと思う。それが常に憎悪と偏見をつくり出す。
 学会への非難や中傷も、すべてそこからきている。これが、世界に共通した、どうしようもない事実だ」
 秋月英介が尋ねた。
 「そうしますと、マホメットの本当の人間像は、どうなのでしょうか。私は、やはり、かなり激しい気性の人であるという気がしますが……」
 「会ったことはないのだから、わからないよ」
 どっと笑いが起こった。
 伸一は言葉をついだ。
 「しかし、伝記などでは、風貌としては、額が広く秀でて、鉤鼻で、顎鬚、口髭も濃く、茶色がかった黒い大きな目をしていたといわれている。そして、肩幅や胸幅も大きく、歩くのも速かったようだ。
 また、いつも笑みをたたえて、人当たりもよく、対応も丁重であったとされている」
25  宝土(25)
 山本伸一は話を続けた。
 「もちろん、マホメットは、内には強い信念を秘めていたし、厳格で、激しい情熱をぶつけることもあったとは思う。
 しかし、それだけではなかったということだ。短期間のうちにアラビア半島に勢力を拡大するのは、並大抵のことではない。能力的にも、人間的にも、大きな魅力があったはずだ。
 まず、彼は皆の意見によく耳を傾け、積極的にそれを採用している。また、優れた戦略家であった。
 メッカ軍を主力とした一万の連合軍がメディナに攻めて来たことがあった。そのまま戦えば、兵力の劣るメディナ軍は、一気に攻略されてしまうことになる。
 この時、マホメットは、塹壕を掘るように指示する。当時のアラビアでは、全く前例のない作戦であった。この塹壕を使っての戦いが功を奏して、連合軍は約二週間にわたってメディナを包囲したものの、攻めきれず、結局、ばらばらになってメディナを去らなければならなかった。
 更に、マホメットは、粘り強い、深謀遠慮の人でもあったようだ。
 彼は、一見、不利と思える和議をメッカと結び、相互に自由な通行ができるようにしておいて、メッカの実情を把握し、軍事力を強化する。そうして、時をつくり、時を待って、ほとんど戦闘による血を流すことなく、メッカを征服したのだ。
 彼は、人の心、住民感情というものを、的確につかんでいた。メッカの人びとに対しても、安心感を与え、信頼を得るためのさまざまな工夫を重ねている。
 ただ武力や権力だけで、人間を心から従わせることなど、絶対にできない。民衆をはじめ、敵であった人にも信頼の心をいだかせ、味方にしていったからこそ、アラブを統一することができたといえる。
 そう考えると、マホメットは、緻密さと情熱を併せもち、明るく、誠実で、信義に厚い人物であったのではないだろうか。
 伝記には、彼はニンニクなどを使った、強い臭いの料理は、勧められても、決して、口にしなかったとある。その理由は『人と秘密に話をする』からであるという。つまり、強い口臭を嗅がせてはならないという配慮である。
 また、握手をする時も、自分から先に手を放すことはなかった。更に、自らも孤児として辛い経験をしたことから、孤児に親切にせよと、常に教えていたし、小鳥が死んで悲しんでいる子供を懸命に慰め、励ましたともいわれている。
 こうした、こまやかな気遣いのエピソードこそ、彼の人間性を端的に物語っているように思う」
26  宝土(26)
 夜は更けていったが、山本伸一の部屋の明かりは、いつまでも消えなかった。伸一と青年たちとの、熱い語らいが続いていた。
 黒木昭が言った。
 「昨年の秋、ヨーロッパに同行させていただいた折に、先生はヴァチカンで、仏教とキリスト教、仏教とユダヤ教、仏教とイスラム教なども対話を開始していかなければならないと、おっしゃっておりましたね」
 「そうだ。それは時代の要請であり、また、必然でもあるからだよ」
 黒木は思案顔で、重ねて尋ねた。
 「しかし、イスラム教は、神の唯一絶対性を、極めて強烈に打ち出しているように思います。それだけに、イスラム教との対話は、最も難しいのではないでしょうか」
 伸一は、黒木を諭すように言った。
 「黒木君、なぜ、そう決めつけてしまうんだい。実際にやってみなければ、わからないじゃないか。自分の先入観にとらわれてはいけないよ。
 それに、イスラム教との対話といっても、宗教上の教義をめぐって、語り合わなければならないということではない。同じ人間として、まず語り合える問題から、語り合っていけばよいではないか。
 文化や教育のことについてでもよい。あるいは、人道的な立場から、平和への取り組みについて語り合ってもよい。文化の向上や平和を願う人間の心は、皆、一緒だよ。
 また、そうした問題を忌憚なく話し合っていくならば、自然に宗教そのものについても、語り合っていけるようになるに違いない。
 いずれにしても、対話の目的は、どうすれば、みんなが幸福になり、平和な世界を築いていけるかということだ。
 それにイスラムは、偶像は認めないが、文字は大事にしている。これは、大聖人の仏法に近い側面といえるのではないだろうか。
 また、唯一神アッラーについては、イスラム神学上の難しい議論もあるとは思うが、全知全能にして天地万物の創造者という考え方は、宇宙の根源の法則である妙法を志向しているようにも思える。
 それは、ユダヤ教も、あるいは、キリスト教も同じかもしれない。そうだということになれば話は早い。
 私は、対話を重ねていくならば、イスラム教の人びとも、仏法との多くの共通項を見いだし、仏法への理解と共感を示すに違いないと確信している」
27  宝土(27)
 山本伸一は、彼方を仰ぐように目を細めて語った。
 「よく戸田先生は、こう言われていた。
 ――大聖人をはじめ、釈尊、イエス・キリスト、マホメットといった、各宗教の創始者が一堂に会して、『会議』を開けば、話は早いのだ、と。
 たとえば、企業でも、トップ同士だと、話は通じやすいし、決断も早い。自分が責任をもって、あらゆることを考えているからね。
 同じように、世界宗教の創始者は、それぞれの時代の状況は異なっていても、迫害のなかで、民衆の幸福を願い、戦い抜いてきている。いずれも時代の改革者であり、聡明な″勇気の人″″信念の人″だ。
 だから、お互いに会って、語り合えば、仏法の深さもわかったであろうし、これからの人類のために何が必要であり、何をなすべきかも、すぐに結論を出すことができたと思う。
 残念ながら、この会談は実現することはできないから、現在の人びとが、民衆の救済に生きた創始者の心に立ち返って、対話を重ねていく以外にない」
 青年たちとの語らいが終わった時には、既に深夜になってしまった。明日は午前十時の飛行機で、イラクのバグダッドに向かわなければならなかった。
 翌三十一日の朝、上野夫妻が、テヘランの空港に見送りに来てくれた。
 妻の頼子は、昨日とはまるで別人のように血色もよく、はつらつとしていた。
 伸一は、出発間際まで、上野夫妻を全力で励まし続けた。
 「今日は、元気な奥さんとお目にかかれて、大変に嬉しい。
 ともかく、何かあったらお題目ですよ。御本尊の力は無限であり、行き詰まりはありません。だから、自分では、どうしようもないと思っても、御本尊に祈ることによって、いかなる事態も打開していくことができるんです」
 上野頼子は、笑顔で頷きながら、目を輝かせて、伸一の話を聞いていた。
 「それから、あなたにお願いしたいことが一つあります。これから先、この国にやって来るメンバーも増えるでしょうから、その人たちと連携を取っていく、連絡責任者になっていただきたいのです」
 彼女が「はい!」と答えると、伸一は夫の英夫に尋ねた。
 「ご主人も、ご了承いただけるでしょうか」
 「はい。なんでも協力させていただきます」
 快諾の言葉を聞くと、伸一は夫妻と固い握手を交わして、搭乗機に向かった。
28  宝土(28)
 イラクの首都バグダッドには、現地時間の午前十一時二十分に到着した。
 イラクは戒厳令が敷かれており、空港の入国審査も厳しく、荷物も丹念にチェックされた。
 イラクでは一九五八年七月に軍部のクーデターがあり、国王のファイサル二世と皇太子らが暗殺され、イラク革命が起こっている。これによって王制が廃止され、共和制が発足したが、内外ともに難しい課題をかかえていた。
 革命後、首相となったカセムは、五九年三月、西側の反共戦線であるバグダッド条約からの脱退を宣言。
 更に、六一年六月、クウェートがイギリスの保護下から完全独立を果たすと、カセム首相は「クウェートはかつてオスマン・トルコ時代、イラクの一州であったから、イギリスが手を引いた以上はイラクのものである」として、クウェートの領有を主張した。だが、それは、アラブ諸国の猛反発を招く結果となったのである。
 また、北部山岳地帯に住み、自治を求めるクルド人との紛争も起こっていた。
 一方、六一年十月には、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四カ国の資本が共同所有しているイラク石油会社との、利潤の分配をめぐる石油交渉も決裂していたのである。
 空港では、現地の案内を依頼していた商社の駐在員が、山本伸一たちを出迎えてくれた。
 ホテルに向かう車のなかで、伸一は、同行の青年たちに言った。
 「日本では、二月一日の夜には男子部の幹部会が、二日の夜には女子部の幹部会が行われることになっていたね。ホテルに着いたら激励の電報を打とうよ」
 青年部長の秋月英介が答えた。
 「はい。文面は、どのようにいたしましょうか」
 「いや、私からの電報ではなく、みんなの名前の電報にすべきだよ。同じ青年部として互いに励まし合い、広宣流布を進めていくことが大事だからね。
 本来は、私がこんなことを言い出さなくとも、君たちが自発的に行うべきことだ。青年部の幹部として、どこにいても後輩を思い、激励に心を砕いていってこそ、幹部ではないか。
 いつまでも、私に頼ってばかりいてはいけない。青年部の幹部は、口先だけでなく、早く本当の指導者としての自覚をもつことだ」
 伸一は、彼らに、リーダーとしての強い自覚を促したかったのである。
 この伸一の旅は、同行の青年たちの育成の旅でもあった。
29  宝土(29)
 ホテルに着くと、昼食の時間であった。
 山本伸一が部屋で荷物を整理していると、吉川雄助がやって来た。
 「先生、海外での食事もそろそろ飽きてこられたのではないかと思い、昼食はご飯を炊きますので、しばらくお待ちください」
 「そんなことができるのかい」
 「はい。最高にうまい日本食をお召し上がりいただけると思います」
 青年たちは、持参してきた固形燃料のコンロと鍋を使い、ご飯を炊き始めた。
 しかし、できあがったものは、飯粒の表面はグシャグシャで、中は芯があって硬いという、最悪なできあがりになってしまった。
 そのご飯に、鮭の缶詰、紫蘇の実、梅干しという食事は″最高にうまい日本食″とはほど遠かった。
 だが、伸一は「結構、うまいじゃないか。中が硬いだけ食べごたえがあっていい」と言いながら、おかわりまでした。
 青年たちは、伸一が自分たちのことを気遣ってくれていることが、痛いほどわかった。皆、申し訳ない思いでいっぱいだった。
 一行は、食事をすませると、市内見学に出かけた。
 バグダッドは、チグリス川の両岸に広がる街であった。チグリス、ユーフラテスの両河を擁し、メソポタミアとして知られるこの一帯の地域は、エジプト文明と並ぶ世界最古の文明の発祥の地である。
 この街で一際目を引くのが、近代的なビルと、青、赤、黄、白と色とりどりの石でつくられた丸い屋根を持つモスクであった。
 また、街のあちこちで、軍人と警官が警備にあたっており、戒厳令下にあることが実感された。写真撮影も随所で禁止されていた。
 伸一は見学を早めに切り上げ、東京との連絡をはじめ、次々となすべき仕事を片付けていった。
 夜の食事の時、ホテルのレストランに行くと、吉川が言った。
 「昼食のご飯は、失敗してしまってすいません。今度は、日本から持ってきたインスタント・ラーメンをつくってもらうことにしました」
 「そうか、ありがとう」
 しばらくすると、大きな皿が運ばれてきた。ホテルの従業員は、それをテーブルの上に置きながら、笑顔で言った。
 「プリーズ、ジャパニーズ・スパゲティ」
 見ると、スープはすべて捨てられ、麺だけが盛られていた。伸一は思わず笑い出した。
30  宝土(30)
 秋月英介が、すまなさそうに言った。
 「昼食に続き、夕食もこんなことになってしまい、申し訳ありません」
 吉川雄助がつぶやいた。
 「インスタント・ラーメンの作り方を説明したら、『オーケイ』と言っていたのにな……」
 最初にフォークを取り、汁のないラーメンを試食したのは伸一であった。
 「こういうものだと思って食べれば、食べられないこともない。ちょっと物足りない感じもするが……」
 和やかな雰囲気のなかで食事が始まったが、青年たちの心は重たかった。
 食事を終えると、伸一は言った。
 「明日は、また、ご飯を食べたいな」
 食事の後、同行の青年たちは、秋月の部屋に集まって語り合った。
 吉川が言った。
 「これで食事だけでも、二度も失敗してしまった。結局、ぼくたちはなんの役にも立っていない。我ながら情けないよ」
 すると、秋月が吉川を励ますように語った。
 「吉川君、先生は、ぼくらが何一つ満足にできないことも、よくご存じのうえで、訓練してくださっているのだと思うよ。むしろ、失敗した時、ぼくらがどうするのかを、じっと、ご覧になっているのではないだろうか」
 黒木昭が頷いた。
 「私も、そんな気がしますね。先生が『明日は、また、ご飯を食べたいな』と言われたのは、私たちに、もう一度、挑戦するチャンスを与えてくださったのだと思いますよ」
 秋月の目が光った。
 「そうだな。よし、明日の朝食で勝負だ」
 三人は、翌二月一日は夜明け前に起きて、祈るような気持ちで、食事の準備に取りかかった。
 今度は成功だった。ふっくらとしたご飯が炊けた。
 伸一の部屋で、朝食が始まった。
 「みんなの真心が染み込んでいる。うまい、うまいな。やっと成功したね」
 その言葉に、青年たちは胸を撫で下ろした。
 伸一は語った。
 「人間には、常に失敗はある。大事なことは、それからどうするかだ。何があっても、負けずに、めげずに、失敗を飛躍台にして、最後は必ず勝つことだよ。
 このご飯は本当においしいから、オニギリにして、案内の駐在員の人にも、食べてもらおうよ」
 一行は、この日は、まず、バグダッドの南東、チグリス川東岸にあるクテシフォンの遺跡に向かった。
31  宝土(31)
 クテシフォンは、イラン族の国パルティアと、ササン朝ペルシャの都が置かれた地である。
 一行は、ササン朝のシャープール一世が造営し、六世紀にホスロー一世が再建した「ホスローのアーチ」といわれる、高さ三十七メートルの大ドームをもつ宮殿の遺跡を見学した。
 宮殿の近くで、白い布を被った老楽士が路上に座って、ラバーブという、バイオリンを四角くしたような形の弦楽器を奏でていた。
 山本伸一が演奏に耳を傾けていると、若者や子供が集まって来た。皆、人懐っこかった。秋月英介がカメラを向けると、彼らは一斉に笑みを浮かべた。
 彼らの衣服は、泥にまみれ、子供たちは裸足である。政府は、土地を再分配するなど、貧富の差をなくそうと努力してきたが、人びとの生活は決して楽ではないようであった。
 伸一は、案内役の商社の駐在員に通訳を頼み、彼らと語り合った。
 最初に伸一は、日本からやって来たことを告げた。しかし、皆、日本がどこにあるのか、知らなかった。
 二人の子供に、将来、何になりたいかを尋ねると、彼らは、すかさず「軍人!」と答えて、銃を撃つまねをした。
 若者たちは、ここで観光客に飲料水などを売り、生計を立てているという。彼らの希望は、もっと豊かになることであった。
 伸一は言った。
 「豊かな暮らしを求めるのは、人間として当然の思いです。そして、そのために大切なのは、向上心をもって、人一倍、努力することだと思う。
 たとえば、商売をする場合でも、お客は、どんなものを必要としているのか、より良い品物を仕入れるにはどうすればよいか、どんなサービスをすれば買った人に喜んでもらえるかなどを、よく考え、工夫していくことが大事です。
 世界のどの国を見ても、人生で成功を収めた人は、みんな必死になって勉強し、努力し、苦労をいとわずに働いています。
 イラクの大地には石油が眠っている。しかし、採掘しなければ使うことはできない。同じように、人間の心の中にも、幸福のダイヤモンドがある。
 そのダイヤを採掘するには、あきらめたり、落胆したりせずに、懸命に努力し続けることです。そこに、知恵がわき、工夫が生まれ、困難の壁を破る道が開かれる。
 要は、真剣な一念です。苦労した分だけ、成功という実りが約束される。だから私は、あえて皆さんに『努力せよ、苦労せよ』と言いたいのです」
32  宝土(32)
 出会ったイラクの青年たちは、真剣な表情で、山本伸一の話を聞いていた。
 皆、眉が濃く、彫りの深い屈強そうな顔立ちだが、人柄のよさそうな青年たちである。
 青年の一人が尋ねた。
 「あなたは、教師をしているのですか」
 「教師といえば、教師でもあります」
 「なんの教師ですか」
 伸一は、笑みを浮かべて答えた。
 「人生の教師です」
 「学生は何人ぐらいいるのですか」
 「青年だけで六十万人以上います」
 彼らは、驚きの目で伸一を見た。
 「しかし、私の学校には校舎はありません。社会全体が、世界中が学生たちの学びの場です」
 「なんという名前の学校ですか」
 「創価学会です。授業料は無料です。入学試験もありません。ここに一緒に来ているのは、みんな私の生徒です」
 伸一は、こう言って同行のメンバーを紹介した。
 最後に、彼は言った。
 「皆さんとお話しできてよかった。皆さんの将来には、いろいろな出来事があるかもしれない。しかし、『何があっても、希望を捨てるな、自己自身に負けるな』との言葉を贈りたい。
 あなたたちのことは、生涯、忘れません。今日はありがとう。お元気で」
 傍らで、伸一と若者たちとの話を聞いていた、老楽士が語りかけてきた。
 「あなたは、よい話をしてくださった。一曲、あなたのために奏でよう」
 老楽士の奏でる軽やかな調べが流れた。
 伸一は、老楽士に御礼をした後、皆に、ポケットに入っていた日本の小銭を記念として贈り、握手を交わして別れた。和やかな交歓のひとときであった。
 一行は、それから、ユーフラテス河畔にある、バビロンの遺跡に向かった。
 車は茫々たる砂漠を南へ進んでいった。砂漠といっても土であり、むしろ″土漠″といえる。視界をさえぎるものは何もなかった。人びとの住まいも泥土でつくられ、大地に溶け込み、ただ一本の道だけが、地平線に向かって真っ直ぐに延びていた。
 途中、雨が降り始めた。車は道路の土に車輪を取られ、何度もスリップした。
 一時間半ほど走ったであろうか、ナツメヤシの林の側に、レンガ造りの壁の一部が見えた。バビロンの遺跡であった。
 まだ、雨は降り続いていた。誰も傘の用意はしていなかった。
33  宝土(33)
 一行は、雨に濡れながら、バビロンの遺跡を巡った。
 この地を都にして、バビロン第一王朝が栄えたのは、紀元前十九世紀から前十六世紀初頭のことであった。「ハムラビ法典」で知られるハムラビ王の治世も、この王朝時代である。
 その後、バビロンは、北メソポタミアのアッシリアの支配を経て、前七世紀に興った新バビロニア王国が、バビロンの町の再建に取りかかる。
 新バビロニア王国は、ネブカドネザル二世(在位・前六〇五〜前五六二年)の時に最盛期を迎える。
 この王は、エジプトを攻略したほか、二度、ユダ王国を攻めて、多数のユダヤ人を捕虜としてバビロンに強制移住させた。これが、有名な「バビロン捕囚」であり、ユダヤ人は約六十年にわたり、過酷な労役を強いられたのである。
 また、『旧約聖書』にある、「バベルの塔」も、ここにあったといわれる。この塔は人間が天まで届かせようとした高い塔で、人間の慢心の象徴とされている。
 盛時のバビロンは、城壁を巡らせた広大な町を水濠が囲み、城壁には百の門があったという。
 そのなかに彩色を施したレンガ造りの、壮麗な宮殿や神殿がそびえ、立派な道路が縦横に走り、無数の家々が整然と並んでいた。
 また、ここには、古代の「世界の七不思議」の一つである「空中庭園」もあった。その由来の一つに、こんな話が伝わっている。
 ――ネブカドネザル二世は、イラン高原にあったメディア王国の王女アミティスを后に迎えるが、森の豊かな故国を離れ、乾いた土地の広がるバビロンに嫁いだ后は、あまりの環境の変化に戸惑い、心楽しむことがなかった。そこで、王は后を慰めるために、緑の森が生い茂る庭園をつくることにしたという。
 それは、一説では、階段状の高いテラスに、多種多様な果樹を植えたもので、水車を使って水を汲み上げ、緑を保たせていたとされている。
 栄華を誇ったこの新バビロニア王国も、前五三九年に、ペルシャに滅ぼされてしまった。
 その背景には内部抗争があり、王に疎んじられた神官たちの、ペルシャ軍への内通があったといわれる。つまり、人心は、既に王から離れてしまっていたのであろう。歴史を動かす原動力は、見えざる人の心である。人心をつかんでこそ、勝利と永遠の栄光がある。
 遺跡は、確かに壮大であった。見上げるようなレンガ造りの建物、整備された町並みは、往時のバビロンの繁栄をしのばせた。それだけに、栄枯盛衰の厳しさも強く実感された。
34  宝土(34)
 やがて、雨は止み、雲間から差す太陽の光線がまぶしかった。
 遺跡を眺めながら、吉川雄助が言った。
 「本で読んだのですが、このメソポタミア一帯の遺跡は、長い間、土砂に埋もれ、現地の人びとは、どこも皆、ただの丘だと思っていたようなんですね」
 山本伸一は頷いた。
 「そうなんだよ。
 ところが、十九世紀になって、ヨーロッパの探検家や研究家たちがやって来て、丘の上に立ち、ここに宮殿が眠っている、と叫ぶんだ。
 彼らの話を聞いても、土地の人は半信半疑であったに違いない。しかし、実際に掘ってみると、その話の通り、城壁や門が出てきて、宮殿が現れる。
 メソポタミアの遺跡の発掘は次々と進められ、やがて、このバビロンの遺跡も掘り起こされる。″失われた文明″が、現代に呼び覚まされたわけだ」
 「遺跡の発掘には、ロマンがありますね」
 黒木昭が目を輝かせて語ると、伸一が言った。
 「確かに、過去の文明の発掘にも胸躍るものがあるが、今、私たちがやろうとしていることの方が、もっと大きなロマンだよ。
 広宣流布というのは、人間の生命の大地に眠っている″智慧の宝″″善の力″を発掘し、平和と幸福の花開く、新しい未来の文明をつくることだ。これは、誰人も成し得なかった未聞の大作業なのだから。
 黒木君、新しき歴史を創造する、この大理想に向かって、限りある人生を、ともに走り抜いていこうよ」
 太陽の光を浴びて、雨上がりのバビロンの廃墟は、黄金に染まっていた。
 伸一は思った。
 ――この太陽は、バビロンの栄枯盛衰を、じっと見続けてきた。悠久の太陽の輝きに比べ、人の世は、いかに空しく、はかないものであろうか。
 どんなに高度な文明も、人間が戦争という野蛮と決別しなければ、やがて、また滅びゆくに違いない。この″人類の宿命″ともいうべき、殺戮と流転の歴史の闇はあまりにも深い。
 しかし、生命の大法たる仏法の太陽が昇れば、その闇は払われ、世界は「黄金の宝土」となって、永遠に輝いていくことであろう。そこに、わが創価学会の使命もある。
 永劫の太陽の輝きも一瞬一瞬の燃焼の連続である。使命に生きるとは、瞬間瞬間、わが命を燃え上がらせ、行動することだ。その絶え間なき完全燃焼が発する熱きヒューマニズムの光彩が、永遠なる平和の朝を開いていくからだ――。
 (この章終わり)

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