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日蓮大聖人・池田大作

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第5巻 「獅子」 獅子

小説「新・人間革命」

前後
2  獅子(2)
 集った幹部たちは、破竹の勢いともいうべき学会の前進のなかで、いつの間にか、学会の本来の目的を忘れかけていたのである。
 中心となる幹部が、なんのためかを忘れる時、組織は空転する。仮に、成績本位の活動で、一時的に勝利を収めたとしても、必ず、いつかは、その歪みが出るに違いない。
 ましてや、リーダーが自分の名聞名利のために、活動を推進すれば、組織そのものを大きく狂わせてしまうことになる。
 山本伸一は、戸田城聖の示した、永遠の三指針を年頭に再確認することによって、″なんのため″の信心かという深い楔を打ち込んでおきたかったのである。
 彼は、このころ、幹部の育成に最も心を配り、力を注いでいた。
 前年の十二月二十三、四日の両日には、全国の支部幹部以上が総本山に集い、「勝利の年」への出発を期したが、その折の会合でも伸一は、幹部の在り方について指導している。
 「創価学会の幹部は、決して、名誉主義であってはならない。組織で、五年、十年と幹部をやってきたから、自分は、いつも、そういう立場にいて当然であると考えているとしたら、それは大きな間違いです。
 そんな感覚をもってしまえば、他の団体や会社などと同じことになる。学会は過去にとらわれた功績主義や名誉主義に、絶対になってはならない。
 したがって、たとえば、支部長等の役職を後輩に譲るようになったならば、今度は、場合によっては、一兵卒として組織の最前線に躍り出て戦い、同志のために、広宣流布のために尽くしていこうという精神が必要です。
 なぜ、私がこう言うか。学会の最高幹部も、当然のことながら、やがては若い世代にバトン・タッチしていくことになるでしょう。
 その時に、皆さんが、以前は自分の方が偉かったとか、先輩であったとか言って、学会の新しい流れについていけなくなれば、組織も混乱するし、皆さん自身が自らの福運を消すことになる。そして、敗者になってしまうからです。
 私は、皆さんを信心の敗北者にはしたくないから、あえて、こういう話をしているのです。
 また、ここにいる時は、謙虚そうに見えても、各方面や支部に帰れば、傲慢で無礼な態度で会員に接し、『なぜ、あんな人が幹部なのか』と、同志から言われている人も、なかにはいるかもしれない」
3  獅子(3)
 この総本山での山本伸一の指導は、いつになく、厳しかった。
 彼は、更に力を込めて語っていった。
 「幹部が、まるで殿様のように威張り、傲慢になれば、それは既に堕落です。
 なぜなら、学会の幹部の基本は、会員への奉仕、広宣流布への奉仕であるからです。
 皆を確信をもって指導していくことは大事です。しかし、それは威張ることとは違う。
 一人一人を大切にし、相手の幸福を願い、丁重に、礼儀正しく語るなかにも、おのずから滲み出てくるのが、信仰への確信です。
 幹部になれば、皆も一応は尊敬してくれます。それでいい気になり、私利私欲のために、会員を利用したりするならば、即刻、解任せよというのが、戸田先生の指導でした。
 これからも、そうした、やましい、卑しい根性をもつ人が、幹部であっては絶対にならない。
 また、反対に幹部に取り入って、うまく学会を利用しようとする者もいるでしょう。それに乗ってしまうのも、油断であり、幹部に慢心があるからです。
 私たちは、それらを、互いに、厳しく戒め合っていきたいと思います。
 更に、幹部は、組織のことは、すべて責任をもたなければなりません。
 さきほど、私は、理事室のメンバーに、今日集まった各総支部ごとの人数は何人かを聞きました。ところが、誰もわからない。
 だから、私は厳しく言いました。理事室は、学会のいっさいの責任をもつ立場にあるのに、すべて、他人任せにして、自分は何もつかんでいない。これでは無責任であり、横着です。
 自分が、すべてつかんだうえで、後輩に任せ、鷹揚に構えていることはよい。しかし、その場合も、無責任になるのではなく、最後のいっさいの責任は自分がとるという決意がなくてはなりません。
 それは、各支部長や副支部長の場合も同じです。自分の支部に、いくつの班や組があり、それぞれの実態がどうなっているのかを、直接、自分でつかんでいてこそ幹部です。
 中心者に、幹部に、全会員を幸福にするぞという、強い一念があるならば、無責任になど、なれるわけがありません。
 ともあれ、大聖人も『身はをちねども心をち』と戒められておりますが、栄えある学会の幹部として、堕落するようなことがあっては絶対にならないと、申し上げておきたいのであります」
4  獅子(4)
 山本伸一は、更に言葉をついだ。
 「そのうえで、後は、責任をもって、自由に活動を展開していただきたい。
 年間の活動方針も、月々の活動も明確であります。
 したがって、それを踏まえて、皆で話し合い、知恵を出し合いながら、その地域の持ち味を生かして、伸び伸びと、活動を進めていってほしいのです。
 なんでも本部の指示を待つという、受け身の姿勢であってはならない。もちろん、本部と連携を取ることは大事です。また、学会全体として行う、共通の企画もあるでしょう。そのうえで、現場の自主性、主体性を最大限に生かしていくことが、勝利の決め手となっていく。
 幹部が自分の保身を考えているところほど、すべて画一的に事を進めようとするものです。結局、失敗をして、自分が責任を取りたくないから、なんでもかんでも、形式に当てはめようとする。
 これでは、皆が頑張ろうとする意欲の芽を摘み取っているに等しい。
 どうか、運営にあたっては、どこまでも、皆が主体的に、自由自在に取り組めるように、配慮していっていただくことを、お願い申し上げます」
 この総本山での伸一の指導も、また、本部での初勤行での指導も、幹部の在り方の基本を明らかにするためのものであった。
 組織が良くなるか、悪くなるかは、中心者や幹部のいかんによって決まってしまうからだ。彼は、学会が官僚主義的な、画一的で偏狭な組織になることを何よりも恐れていた。
 また、学会は、社会的にも、その存在の重さを、日ごとに増しつつあった。
 それだけに、幹部が自分自身を教育し、磨いて、一流のリーダーに育っていかなければ、学会の社会での信頼にも傷をつけてしまうことになる。
 だから彼は、幹部には常に厳しかったし、その育成に全力を注ごうとしていたのである。
 だが、彼が最も厳しかったのは、自分自身に対してであった。
 たとえば、この新年の初勤行は、学会本部のほか、各方面の地方本部でも、代表幹部が集って行われていたが、伸一は、大晦日の深夜までかかって、各地にメッセージを送った。
 その文面も、各地の諸状況を考えに考え、この一年の、そして、各地の原点の指針となる指導性を含んだメッセージであった。
 それも、会員のために尽くそうとする、彼の一念から発した激励であった。
5  獅子(5)
 元日の初勤行に続いて、山本伸一は、二、三の両日は、総本山に初登山した。
 そして、四日からは、学会本部もフル回転し始め、七日には、全国百五十六都市と、沖縄の那覇市で、教学部の講師・助師を対象とした昇格試験と、任用試験が行われた。
 この日、山本伸一も、東京のいくつかの会場を回って、受験者を励ました。
 試験の開始前に、山本会長が姿を現すと、どの会場の受験者も驚き、そして、喜びの声を上げた。
 彼は、皆の緊張を解きほぐすかのように言った。
 「今度の試験は、みんなができるように出題されています。安心して試験に臨んでください。
 それでも、今の宗教学者だってわからないことばかりでしょう。皆さんは職業をもち、仕事をしながら、これだけのことを勉強してこられた。それ自体がすごいことなんです。健闘を期待します」
 また、ある会場では、こう励ました。
 「勉強不足でだめだと思っている人は、何度でも試験に挑戦するつもりで頑張ってください。仏法を研鑽できるということ自体が、既に功徳なんですから、その喜びと誇りをもつことが大切です」
 この試験の全国の受験者は、講師・助師の昇格試験と任用試験を合わせ、二十二万人余りであった。生命哲理の研鑽の波は、民衆の一大運動となって、着実に広がっていたのである。
 新年の諸活動が軌道に乗り始めた一月十三日、伸一は、雪の北海道へ飛んだ。
 この日の夕刻、北海道の女子部の部長であった嵐山春子の北海道女子部葬が、翌十四日には、北海道総支部幹部会が行われることになっていたのである。
 嵐山が他界したのは、一カ月前の十二月十四日のことであった。
 伸一は、学会本部でその訃報を聞くと、一瞬、目の前が真っ暗になるような気がした。
 彼は、嵐山の葬儀に、すぐにも飛んで行きたかったが、年末の彼のスケジュールには、一瞬の余裕もなかった。
 やむなく、理事室や女子部の幹部らと相談して、一月の十三日に北海道女子部葬を行うことにし、そこに出席することにした。
 伸一は、いかに深き宿命とはいえ、若くして、広宣流布の途上に散った嵐山のことを考えると、胸が張り裂けそうな思いであった。
 その夜、彼は、嵐山の冥福を祈って唱題した。若き同志の死ほど、彼を苦しめるものはなかった。
6  獅子(6)
 嵐山春子は、前年の六月、山本伸一から、結核を治すために療養に専念するよう指導されて以来、静養を心掛けてきた。
 それによって、幾分、健康を取り戻したかのように見えた。だが、彼女は、いつまでも病床に伏していることに、耐えられなかったようだ。
 十一月十二日に横浜・三ツ沢の競技場で開催された第九回女子部総会には、彼女は、北海道女子部の副部長の漆原芳子とともにやって来た。
 伸一は、事前に、青年部長の秋月英介を通し、「無理をせず、参加は見合わせるように」と伝えたが、彼女は、じっとしてはいられなかったのであろう。
 しかし、総会の前日、嵐山が上野駅に着いた時には、彼女の病状は、最悪の事態になってしまっていた。歩く力もないほど疲れ、タクシーで横浜の旅館にたどり着くのが、やっとという状態であった。
 それでも、総会の当日には、自分の力で歩き、晴れの集いに出席した。総会を静かに見守る彼女の瞳は、澄み渡る秋空よりも、もっと澄んでいた。
 総会終了後、彼女は学会本部を訪ねた。一目、山本会長に会い、近況などを報告しようと、道に何度もしゃがみ込みながら、学会本部まで来たのである。
 しかし、あいにく、伸一は不在であった。彼女は、しばらく待っていたが、列車の関係で、伸一とは会えないまま帰っていった。
 やがて、本部に戻った伸一は、応対した幹部から、嵐山の様子を聞くと、つぶやくように言った。
 「なんで、そんな無理をしたんだ。彼女は、療養して、病気を治すと約束したのに……」
 伸一は、こう言いはしたが、彼女の気持ちもよくわかっていた。自分が嵐山の立場であっても、やはり、総会と聞けば、参加していたに違いないと思った。
 また、病に苦しみながらも、自分を訪ね、待っていた嵐山が、不憫でならなかった。
 ″もし、彼女が本部に来ることがわかっていれば、会って、一言でも励ますことができたのだが……″
 彼は、夜行列車に揺られて、札幌に帰る嵐山の体が心配でならなかった。
 嵐山は、札幌に帰ると、自宅療養することにした。だが、容体は、ますます悪化し、十一月の末に、遂に入院したのである。
 それを聞いた伸一は、すぐに、回復を祈っている旨の、激励の電報を打った。
 嵐山は、その電報を握り締め、病室のベッドで泣きながら再起を誓った。
7  獅子(7)
 山本伸一は、嵐山春子の健康を念じて、日々、題目を送った。
 嬉しいことに、彼女は、日を追うごとに元気になっていった。
 時折、後輩の女子部の幹部が見舞いに来ると、彼女は、活動の様子などを尋ねながら、懸命に激励するのであった。
 入院して、十日ほどすると、咳も、微熱も完全に治まっていった。やせ衰えてはいたが、彼女の頬には、ほのかな赤みが差し、血色もよくなっていた。
 ある朝、医師が検査の結果を告げた。
 「嵐山さん、不思議なことだが、あなたの結核は治っているよ。少し心臓が弱っているようだが、体力が回復すれば、一カ月ぐらいで退院できるよ」
 嵐山は、この日、見舞いに来た女子部員に、嬉しそうにその話をした。
 「私、山本先生に、病気を治しますと誓ったのだけれど、これで、その約束が果たせるわ。よかった、本当によかった……」
 しかし、それから間もない十二月十四日、嵐山は臨終の時を迎えた。死因は心不全であった。
 それは、結核という病を乗り越え、宿業を転換し、今世の使命を終えた証明とも見える。
 彼女は、その日も、見舞いに来てくれた後輩の女子部員を、優しい笑顔で包み込むように励ました。そして、見舞い客が帰って間もなく、眠るように息を引き取り、二十六年の人生を閉じたのである。
 雪のように清らかな信仰を貫いた嵐山を称えるかのように、夜の帳に包まれた病室の窓べに、純白の雪がひらひらと舞っていた。
 嵐山春子の北海道女子部葬は、一月十三日の午後五時から、札幌の正宗寺院で営まれた。
 山本伸一は、車で会場に向かいながら、雪の積もった札幌の街を見ていた。
 この街を、さっそうと駆け巡っていた嵐山の姿が、彼の頭に浮かんでは消えていった。
 北海道女子部葬には、伸一のほか理事長の原山幸一や青年部長の秋月英介、女子部の幹部らが駆けつけ、約千人の女子部員が参列して、厳粛に営まれた。
 焼香に立った伸一は、清楚な、どこかあどけなさの残る嵐山の写真に、じっと視線を注いだ。
 この一女性の活躍によって、どれほど多くの女子部員が立ち上がり、北海道の広布の流れが広がっていったか計り知れない。
 友の幸福のために一身を捧げて、広宣流布に生き抜いた彼女は、さながら″妙法のジャンヌ・ダルク″であった。
8  獅子(8)
 やがて、弔辞に続き、秋月英介らの幹部が、次々とあいさつに立った。
 山本伸一は、嵐山春子の死の意味について、思いをめぐらしていた。
 ――二十六年という彼女の人生は、あまりにも短かった。だが、それは、自身の生涯の使命を全うしての死であったと、私には思えてならない。
 彼女は、純白の雪のように清らかな信心の模範を、後世に残してくれた。その炎のごとき求道の姿勢と、友を思う心は、永遠に色あせることはない。
 いや、それは、時とともに、ますます黄金の輝きを放ち、彼女の志を受け継ぐ幾千幾万の嵐山春子が誕生するに違いない。
 また、地涌の使命に生きる同志の絆は永遠である。
 伸一は、「総勘文抄」の御文を思い起こした。
 「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり顛倒なり本覚の寤を以て我が心性を糾せば生ず可き始めも無きが故に死す可き終りも無し
 〈生と死との二つの理は生死の夢の理であり、妄想であり、顛倒した見方である。本覚の寤の悟りをもって自身の心性をただしてみれば、生ずるという始めもないので、死ぬという終わりもないのである〉
 今、嵐山の死は、会長の伸一にとって、たまらなく辛く、悲しい出来事であった。しかし、仏法の眼から見るならば、彼女の生命は滅することなく、大宇宙とともに、永遠に生き続けているのだ。
 伸一は、この御文を噛み締めると、やがて、また彼女が、同志として自分の身近なところに生まれ、広宣流布の大舞台をさっそうと駆け巡る日が来ることを、強く確信できた。
 幹部のあいさつが終わると、嵐山によって結成された北海道鼓笛隊が、北海道女子部の愛唱歌を演奏した。この歌は有志が作詞したものに、メンバーの要請で伸一も筆を加えて完成した思い出の歌である。
  嵐の中を かけめぐり
  妙法流布を ひとすじに
  手を取り合うは
      わが女子部
  明日への希望 抱きつつ
  進め乙女よ 清らかに
  ………… …………
 しかし、ファイフ(横笛)の音もかすれ、調べはしばしばとぎれそうになった。皆、涙が込み上げ、演奏することができないのである。演奏に耳を傾ける友の顔も、涙に濡れていた。
 その涙は、嵐山の志を受け継ごうとする北海道女子部の、珠玉の誓いの輝きでもあった。
9  獅子(9)
 嵐山春子の女子部葬を終え、北海道本部に戻った山本伸一は、女子部のメンバーに語った。
 「雪が解け、春になったら、この北海道本部に、嵐山さんの遺徳を称えて、桜の木を植えよう。
 みんなも、その桜の木を見ながら、嵐山さんを思い出し、彼女に負けないように、成長を競い合っていくんだよ。
 その植樹の時には、必ず私も来るからね」
 彼がこう提案したのは、嵐山を顕彰するためであったことはもちろんだが、同時に、悲しみに沈む彼女たちの心に、未来への希望の明かりをともしたかったからでもある。
 翌日、札幌は吹雪であった。そのなかを同志は、喜々として胸を張り、全道から北海道総支部幹部会に集ってきた。会場となった札幌の中島スポーツセンターは、一万二千人の参加者であふれた。
 幹部会は、午前十時過ぎに開会した。場内は、吹雪をはねのけ、根雪も溶かさんばかりの、息吹と熱気に満ちていた。
 席上、北海道総支部長の宮城正治が、弘教への決意を述べたが、そこには「勝利の年」の先駆を北海道が切ろうとする気概が脈動していた。
 彼は訴えた。
 「『勝利の年』と名づけられた本年は、広宣流布の関所であると思います。
 時は今です。この一年、この一カ月、更には、この一瞬こそがすべてであり、現在を勝たずしては、未来の勝利もありません。
 私たちは、この時にあたり、自己の人間革命も、生活革命も、人生の福運をつけるのも、今年こそが勝負だと決め、いっさいの活動に勝利を収めてまいろうではありませんか!」
 賛同の拍手が場内を揺るがした。
 宮城は、前年の八月に総支部長に就任した四十代後半の壮年であった。彼は、文京支部の出身で、横須賀支部の支部長をしていたが、北海道の強化のために、伸一が総支部長に推薦した人物である。
 また、彼の妻の初子も、北海道の総支部婦人部長の任命を受けていた。
 いわば、この宮城夫妻の双肩に、北海道の未来がかかっていたといってよい。
 伸一は、彼らが広大な北の大地で、どこまで、皆の信望を得て活動できるのか、心配もしていた。
 それだけに、宮城の話に喜々として拍手を送る同志の姿を見て、伸一は安心した。″北海道は勝てるぞ″と彼は思った。
10  獅子(10)
 山本伸一は、北海道総支部幹部会では、北海道に来るたびに、同志の身なりも立派になり、生気にあふれた姿になってきていること自体、仏法の偉大なる功力の実証であると述べ、皆の成長を称えた。
 そして、いよいよ広宣流布の時が来ていることを訴えていった。
 「戸田先生は、よく、こう言われておりました。
 ――戦国時代であれば、武士には、鎧や兜が必要であった。太平洋戦争の時には、女性にとってモンペは必需品であった。でも、今は、鎧兜もモンペもいらなくなった。時代が変わったからである。
 また、暑い時に、炭を売ろうとしても売れないし、寒い時に、氷を売ろうとしても売れない。
 何ごとにも時がある。仏法も同じだ。今は、大聖人の仏法が広宣流布する時になったのである、と。
 事実、学会は、破竹の勢いで、三百万世帯の達成に向かって前進しています。広布の時は来ております。地涌の菩薩として立ち上がる時は、今であると申し上げたいのであります。
 今年もまた、自信をもって、喜び勇んで、友の幸せのために、駆け巡ってまいろうではありませんか」
 総支部幹部会の後、伸一は、北海道本部で開催された、全道の地区部長会に出席した。
 そこで伸一は、再度、今が広宣流布の「時」であることを強調し、次のように指導した。
 「広宣流布の時代であるならば、御書に照らして、三障四魔が現れ、難が競い起こることは間違いありません。さまざまな謀略や非難・中傷もあるでしょう。しかし、難と戦うがゆえに成仏できるのです。
 北海道は、あの夕張の炭労事件を見事に乗り越え、勝利した栄光の歴史の天地です。邪悪を許さぬ正義の心こそ、北海道に脈打つ大精神です。その正義の心で、民衆の勝利の旗を打ち立てていってください。北海の獅子よ立て――それが私の念願であります」
 この翌日、伸一は寸暇を割いて、北海道の男子部の部長である藤田房太郎と、北海道の女子部員である青井牧子の結婚披露宴に出席した。次代を担う青年たちの門出を、彼は祝福したかったのである。
 厳冬のさなかの北海道訪問は、伸一の体調を狂わせもした。しかし、彼は、力の限り、友と会い、友を励まし、友のために走った。
 そして、彼に接した誰もが、心に希望の春の到来を感じていた。
11  獅子(11)
 一月十七日、東京の街は煙霧に覆われていた。
 この日から、国会議事堂では、年末年始のため休会中だった第四十通常国会が再開され、午前十一時から、参院本会議場で開会式が行われた。
 この開会式の終了後、参議院三階の記者クラブには朝日、毎日、NHKなど、十数社の記者やカメラマンが集まって来た。部屋の中央のソファには、関久男や山平忠平などの、学会員の参議院議員が座っていた。
 関が、少し緊張した顔で話し始めた。
 「実は、私ども創価学会推薦の議員によりまして、このほど『公明政治連盟』という政治団体を発足させました」
 記者たちの間に、一瞬、ざわめきが起こったが、関はそのまま話を続けた。
 「本日は、その旨、発表したいと思い、記者会見をさせていただいた次第でございます」
 そして、「公明政治連盟」の基本要綱を読み上げていった。
 「一、現今の政界は保守・革新を問わず、派閥抗争に明け暮れ、党利党略を重んじ、日本国民の福祉を忘れ、大衆とまったく遊離しつつあることを深く憂うるものである。
 一、公明政治連盟はこれらと本質的に異なり、『社会の繁栄が即個人の幸福と一致する』諸政策を推進し、日本国民の真の幸福と繁栄のみならず、広く世界人類永遠の平和実現を期するものである。
 一、われらの政治理念は日蓮大聖人の立正安国の精神を根本とし、その最高の哲理と最大の慈悲を基調とし、近代的にして、最も民主的な政治団体としての活動を行うとともに、いっさいの不正に対し、厳然たる態度を明確に示すことを公約する。
 ――以上が基本要綱でございます。
 ここで、引き続いて、公明政治連盟の基本政策を発表いたします……」
 そこでは「核兵器反対」「民主的平和憲法の擁護」「公明選挙、政界の浄化」「参議院の自主性確立」が政策の柱として掲げられていた。
 このうち「参議院の自主性確立」とは、本来の二院制の使命を果たすために、参議院の独自性を確立しようとするものであった。
 参議院は、衆議院の行き過ぎを是正し、不足を補充する役割を担っているにもかかわらず、どの政党も党利党略に走り、あたかも衆議院の延長のようになっていた。そこで、良識の府としての、本来の参議院の機能を取り戻そうとする政策であった。
12  獅子(12)
 山本伸一が「公明政治連盟」という政治団体結成に踏み切った最大の理由は、創価学会は、どこまでも宗教団体であり、その宗教団体が、直接、政治そのものに関与することは、将来的に見て、避けた方がよいという判断からであった。
 いわば、学会として自主的に、組織のうえで宗教と政治の分離を図っていこうとしていたのである。
 本来、宗教団体が候補者を立てることも、政治に関与することも、憲法で保障された自由であり、権利である。
 宗教団体であるからといって、政治に関与することを制限するなら、「表現の自由」「法の下の平等」、更には「信教の自由」をも侵害することになる。
 憲法の第二〇条には「政教分離」がうたわれているが、ここでいう「政」とは国家のことであり、「教」とは宗教、または宗教団体をいい、国と宗教との分離をうたったものである。
 つまり、国は、宗教に対しては中立の立場を取り、宗教に介入してはならないということであり、宗教が政治に関与することや、宗教団体の政治活動を禁じたものではない。
 憲法にうたわれた「政教分離」の原則とは、欧米の歴史をふまえつつ、戦前、戦中の、国家神道を国策とした政府による宗教弾圧の歴史の反省のうえに立って、「信教の自由」を実質的に保障しようとする条文にほかならない。
 したがって、創価学会が政界に同志を送り出すことも、学会自体が政治活動を行うことも自由である。
 宗教も政治も、民衆の幸福の実現という根本目的は同じである。しかし、宗教が大地であるならば、政治はその土壌の上に繁茂する樹木の関係にあり、両者は次元も異なるし、そのための取り組み方も異なる。
 たとえば、核兵器の問題一つとっても、核兵器は、人類の生存の権利を脅かすものであり、絶対に廃絶しなければならないという思想を、一人一人の心に培っていくことが、宗教としての学会の立場である。
 それに対して、政治の立場は、さまざまな利害が絡み合う国際政治のなかで、核兵器の廃絶に向かい、具体的に削減交渉などを重ね、協調、合意できる点を見いだすことから始まる。
 また、宗教は教えの絶対性から出発するが、政治の世界は相対的なものだ。
 そうした意味から、やはり、宗教団体のなかでの政治活動と宗教活動との、組織的な立て分けが必要であると伸一は結論したのだ。
 そして、政治活動は、政治団体が主体的に行い、学会は、その支援をするという方向性を考えてきた。
13  獅子(13)
 学会員の議員たちも、議員活動を行うなかで、政治団体の結成の必要性を痛感してきた。
 戸田城聖は、彼の弟子たちを政界に送り出した時、それぞれが好きな政党に所属して、活動すればよいとしていた。
 彼は、党派にはこだわらなかった。一人一人の議員が、それぞれの立場で、政界の浄化のために立ち上がり、政治を民衆の手に取り戻すことが、戸田の願いであったからだ。
 しかし、議員たちは、実際に議員活動を開始してみると、どの政党の在り方にも、心から賛同することはできなかった。
 当時、東西両陣営のイデオロギーの対決は、そのまま既成政党に反映され、資本主義体制か、社会主義体制かに二分されていた。
 そして、各政党は、多様な国民の要請に応えるための政策を、一応は掲げていたものの、結局、政策の基調は、有産階級に立脚するか、無産階級に立脚するかに偏っていた。保守政党は大企業擁護を優先し、革新政党は、いわゆる組織労働者のための政策に傾斜していたのである。
 なかには、中間政党もあったが、明確な理念を提示することができず、その性格のあいまいさのためか、衰退傾向にあった。
 やむなく、学会員の議員たちは無所属のまま、議員活動を続けてきた。
 参議院議員は、院内にあっては、他の無所属の議員と一緒に、無所属クラブに加わり、党利党略に左右されない、真に民衆の生活の向上と平和に寄与する政治を目指してきた。
 しかし、寄り合い所帯の無所属クラブでは、それぞれの考え方も異なり、具体的な見解を発表する段になると、意見の調整は、しばしば難航せざるを得なかった。
 学会員の議員たちは、たとえば、町工場に働く人など、いわゆる未組織労働者に政治の光を当て、その生活をいかに守るかに心を砕いてきた。
 また、世界の平和を考える時、東西の対立を超え、かつて、戸田城聖が主張していたように、地球民族主義という考えに立ち、国連を中心に、世界がまとまるべきであるとの見解をいだいていた。
 しかし、それを政治の世界に、声として反映させることができないでいたのである。
 参議院では、学会員の議員は、まだ九人で少数にすぎなかったこともあるが、独自の会派をつくっていないことも、その主張を全面的に打ち出せない要因となっていた。
14  獅子(14)
 無所属の議員の政策や意見は、議会にあっても大きな力をもたないばかりでなく、社会に対しても、訴える力に乏しかった。
 人びとは、議員個人というより、党派としての政策や見解を重要視していたのである。
 やはり、政治の世界にあっては、政治団体という立脚点が必要であると、学会員の参議院議員たちは痛感していった。
 それは地方議会にあっても同じであった。皆、一種のはがゆさを覚えながら、議員として活動に取り組んできたのである。
 その思いは、次第に、自分たちの独自の政治団体をつくらなければならないとの声となり、山本伸一に意見を具申する議員も少なくなかった。
 伸一が議員たちと、最初に政治団体の結成について打ち合わせを行ったのは、前年の一九六一年(昭和三十六年)の春のことであった。学会本部にやって来た議員の代表や理事室のメンバーに、伸一は言った。
 「新たに政治団体をつくるということについては、私も賛成です。
 皆さんは、政治家として活動していくなかで、政治団体や会派の必要性を感じてきたのでしょうが、私は広宣流布の未来を展望し、そうするべきではないかと考えました。
 学会の目的は、民衆の幸福の実現です。そして、そのためには、世界の平和を築き、社会を繁栄させていかなくてはならない。
 すると、必然的に私たちは、政治、経済、教育、平和運動など、広い意味での文化を推進する活動を展開していかざるを得ない。
 それらの文化を創造する主体である人間を育み、社会建設の土壌を開拓していく母体が、宗教団体である創価学会です。
 この学会という母体から育った人材が各分野で、必要であれば、それぞれ団体や機関をつくり、社会に貢献していくべきであるというのが、私の考えです。
 それは、何も政治の分野だけでなく、音楽・芸術や学術の分野でも、また、教育や平和研究の分野でも同じです。
 今回、政治団体を結成するということは、その突破口を開くことになる」
 それから伸一は、鋭い口調で言った。
 「ただ、勘違いしてもらっては困るのは、この政治団体は、学会のためのものではない。
 私は、そんな小さな考えではなく、広く国民の幸福を願い、民衆に奉仕していく、慈悲の精神に貫かれた新たな政治団体をつくろうとしているのです」
15  獅子(15)
 議員たちは、緊張した顔で、山本伸一の話に耳をそばだてていた。
 「私の願いは、政治団体がスタートしたならば、一日も早く自立し、民衆の大きな信頼と支持を得るものにしていってほしいということです。
 学会は、その母体として今後も選挙の支援はしていきます。しかし、具体的な政策については、皆でよく話し合い、すべて決定していくのです。
 やがては、学会が支援などしなくとも、この政治団体の政策と実績に、多くの国民が賛同し、また、一人一人の議員が幅広い支持と信頼を得て、選挙でも、悠々と当選するようになってもらいたい」
 伸一が語り終わると、理事で神奈川の県会議員である鈴本実が尋ねた。
 「今回、政治団体を結成するということは、政党をつくるということなのでしょうか」
 「いや、今はまだ、そこまでは考えていません。
 衆議院にも進出していないのだから、政党にはしないで、単なる政治団体でよいのではないかと思う。
 戸田先生は、まず、政治を監視することが大事であると言われ、また、国政に問題があれば、それを是正するために、参議院に人を送れば十分ではないかと言われていた」
 伸一が言うと、関久男が意見を述べた。
 「確かに戸田先生は、そう言われておりましたが、最近、学会員をはじめ、私たちの支持者からは、学会の主張である『立正安国』という理想を実現しようとするなら、衆議院にも人を送るべきではないかとの声が上がっています。
 私も、これからは、衆議院への進出も必要なのではないかと思います」
 伸一は、静かに頷きながら答えた。
 「そうした意見は、私も聞いています。それは今後の大きな課題ではあるが、当面は、まず、参議院の問題から取り組んでいこう。
 現在、参議院は、衆議院の行き過ぎを是正し、補うべきは補うという機能が働かなくなってしまった。
 議員が自分の所属している党の、党利党略によって動いているからだ。党が、ある法案を通そうと考えていれば、衆議院で可決された法案は、参議院議員個人が廃案にすべきだと判断しても、党の決定ということで、つぶされてしまう。
 その参議院を、本来の″良識の府″にしていくことが、政治を国民の手に取り戻すうえで、差し迫った課題ではないかと思う」
 伸一は、こう言って、皆の顔を見た。
16  獅子(16)
 山本伸一は話を続けた。
 「ともかく、今は、参議院、地方議会も含め、学会員の議員の有志からなる政治団体を結成するということでスタートしよう。
 そして、参議院をはじめとして、それぞれの議会にあって、必要とあれば、その人たちで会派をつくればよいのではないか」
 議員たちは、伸一の意見に同意し、頷いた。
 伸一は、一人一人に視線を注ぎながら言った。
 「衆議院のことについては、これから、みんなで話し合っていこう。
 また、もしも将来、みんなの意見で、政党を結成しようということになった場合は、十分、よく協議をしていこうよ」
 伸一は、政党の結成や衆議院への進出については、その必要性も感じてはいたが、まだ、結論を導き出すことはできなかった。
 それは、「立正安国」の精神の反映ということでは、日本の政治の現状から見て、避けて通ることのできない課題であるかもしれない。
 しかし、政党をつくり、衆議院にも人を送ることになれば、少なくとも支援団体としての学会の負担は大きくなる。また、それによって、学会までも政争に巻き込まれ、既存の政党から、更に激しい攻撃にさらされるであろうことは目に見えていた。
 衆議院への進出は、伸一の一存で決まる問題ではないが、その選択をしなければならぬ時が、次第に迫りつつあることを、彼は痛感せざるを得なかった。
 政治団体の結成の打ち合わせは、その後も何度も続けられた。
 ある打ち合わせの席で、清原かつが言った。
 「ところで、この政治団体の名称については、どうしましょうか」
 それを聞くと、関久男が待ちかねていたように、勢い込んで語り始めた。
 「昭和三十一年(一九五六年)の七月、学会が初めて参議院議員の候補者を出した選挙の後、戸田先生は当選したメンバーに、こう言われたことがあります。
 『君たちは、どの政党に入ってもよいが、もし、将来、君たちが会派をつくろうという時には、″公明会″としよう』
 そして、学会の選挙運動は、金もかけず、買収などとは無縁の公明選挙であるし、宴会政治のような腐敗した政界を正すのが君たちの使命であるからだとも、おっしゃっていました。
 したがって、この戸田先生のご精神を堅持していく意味からも、『公明』という言葉を使った名称にしてはどうでしょうか」
17  獅子(17)
 山本伸一は、関久男の提案に、頷きながら答えた。
 「そうだったね。私も、戸田先生が『公明会』の話をされた時のことはよく覚えている。
 しかし、『公明会』では会派のようだから、政治団体としての名称は、『公明政治連盟』としてはどうだろうか。そして、各議会で会派をつくる時には、『公明会』にすればよい」
 それから、伸一は、彼の心情を語り始めた。
 「現在の政治を見ると、政党も政治家も、企業や業界、組合などの利益代表のようになっている。
 自分たちを選挙で支援してくれた団体などが、有利になるような法案や政策を推進し、便宜を図ることしか考えない政治家があまりにも多い。
 また、支援する方も、利権などの見返りを期待し、要求してくる。
 これでは、本当に国民のための政治はできない。
 それに対して、学会は、同志である皆さんを政界に送り出すために、全力で応援してきたが、見返りなどを求めたことは、ただの一度もない。まさに、公明選挙、公明政治の基盤をつくってきました。
 それは、これからも変わりません」
 政治の善し悪しは、ただ政治家だけによって決まるものではない。
 政治家を支援し、投票する人びとの意識、要望が、政治家を動かし、政治を決定づける大きな要因となっていくものである。ゆえに、政治の本当の改革は、民衆の良識と意識の向上を抜きにしてはあり得ない。
 学会は、その民衆を目覚めさせ、聡明にし、社会の行く手を見すえる眼を開かせてきた。
 彼は、祈るような思いで議員たちに語っていった。
 「皆さんは、学会のために、政治家として何か便宜を図ろうなどと考える必要は、いっさいありません。
 そんなことは、何も心配せずに、どこまでも全民衆の幸福を第一義に、国家百年の、いや、世界千年の大計を考え、行動する大政治家であっていただきたい。
 また、地方議会にあっても、民衆に仕えるという気持ちで、地域住民の手足となってください。
 議員というのは、住民のためにあそこまで泥まみれになって働いてくれるのかと、誰からも称賛されるような、模範を示していってほしいのです。
 民衆を守る獅子となれ――それが私の願いであり、期待です。また、皆さんを支援してきた同志も、同じ思いでいるでしょう」
18  獅子(18)
 打ち合わせを重ねるたびに、「公明政治連盟」の方向性も、次第に明確になっていった。
 ある時、議員のメンバーが、基本要綱と基本政策の原案を持って、山本伸一のところへやって来た。
 伸一は、待ちかねていたようにすぐに目を通した。
 基本政策には、核兵器の反対や平和憲法の擁護、政界の浄化などが記されていた。それは、これまでに、皆で語り合ってきたことであった。
 しかし、基本要綱を見ると、伸一は、しばらく考え込んだ。
 基本要綱の骨子は、やはり、これまで検討し、合意してきたことであったが、基本要綱の三番目にある、「われらの政治理念は日蓮大聖人の立正安国の精神を根本とし、その最高の哲理と最大の慈悲を基調とし、近代的にして、最も民主的な政治団体としての……」との表現が、気にかかったのである。
 彼は顔を上げると、静かな口調で言った。
 「この『日蓮大聖人の立正安国の精神』という表現は、一般的には理解し難いように思う。こう言っても、人びとは、それが、どんなものかわからないし、『公明政治連盟』が、まるで政教一致を目指しているかのような誤解を与えはしないだろうか。
 学会員以外の人でも、よくわかるような言葉に、言い換えてはどうかね」
 関久男が答えた。
 「しかし、これに代わる適当な言葉があるでしょうかね……」
 「たとえば、『生命の尊厳の哲理』とか、『真のヒューマニズム』といった言い方はできないだろうか」
 皆、黙って、考えていたが、やがて、理事長で参議院議員の原山幸一が口を開いた。
 「確かに、先生のおっしゃるように、世間の人が誤解する可能性もあるし、別の言葉に言い換えることもできるとは思います。
 しかし、これを明記することによって、むしろ、ほかの政治団体との違いが明確になるし、『公明政治連盟』の特色が出ます。
 また、人びとに、この『立正安国』とは、国家と宗教が一体化した政教一致などとは、全く異なるものだという、正しい理解を促していくのも、私たち議員の仕事であると考えています。皆、その決意はできております。したがいまして、できれば、これでいきたいのですが……」
 伸一は、皆が真剣に考えて討議し、決めたものであれば、それを覆すつもりはなかった。
 「そうですか。みんなはこれでいいんですね。
 では、これでいこう!」
19  獅子(19)
 「公明政治連盟」は、前年の一九六一年(昭和三十六年)の十一月末に、政治団体の手続きが取られ、年明けの国会の再開を待って、この一月十七日の記者会見となったのである。
 関久男が、「公明政治連盟」の基本要綱、基本政策を発表した後、記者団から質問が出された。
 一人の記者が尋ねた。
 「創価学会として、今年の参院選に推薦候補を出すことを発表していますが、この要綱や政策は、今回の参院選に限ったものなんですか」
 関が答えた。
 「いいえ。今後もこの基本要綱、基本政策にしたがって、『公明政治連盟』は活動を推進していきます」
 別の記者が質問した。
 「基本政策のなかに、憲法を擁護し、改悪に反対するとありますが、それは、すべての憲法の条文を擁護するということですか」
 「もちろんです」
 関がこう答えると、記者たちは不思議そうに、互いに顔を見合わせた。
 更に、もう一人の記者が質問した。
 「憲法のすべての条文も擁護するとなると、『信教の自由』も守り続けていくということになるわけですが、基本要綱には『日蓮大聖人の立正安国の精神を根本とし』とありますね。
 日蓮は他宗派を認めず、折伏を行ってきた。また、学会もそうしていますね。
 それなのに、『公明政治連盟』は、『信教の自由』を守るというのは矛盾ではないですか」
 一瞬、関は山本伸一の指摘を思い出しながら、懸命に説明していった。
 「確かに学会は折伏を行っていますが、そのことと憲法に保障された『信教の自由』とは、決して、相反するものではありません。
 折伏というのは、自らの宗教的信念を語ることであり、対話による布教です。それは、一人一人の納得と共感のうえに成り立つものです。
 つまり、『信教の自由』『言論の自由』を大前提として、私たちは布教を行っているのです。
 また、学会は、日蓮大聖人の仏法を、最高唯一の教えであると主張していますが、それは宗教としては当然のことです。
 もしも、自分たちの信ずる宗教が最高であると言い切れないとするなら、それを布教することほど無責任なものはありません。
 キリスト教にしても、あるいはイスラム教にせよ、皆、自分たちの教えが最高であると主張しています。その確信こそ宗教の生命であり、そこに宗教者の誇りと良心があるんです」
20  獅子(20)
 記者たちの質問には、宗教への誤解と偏見が潜んでいた。
 ある記者が尋ねた。
 「端的にお伺いいたしますが、学会は『公明政治連盟』の力で、やがて日蓮正宗を国教にするという考えはあるのですか、ないのですか」
 関久男は言下に答えた。
 「ありません」
 本来、信仰とは、人間の最も内発的な営みである。政治権力など、他からの外圧的な力で強制し、本当の信仰心を育てることなど絶対にできない。もし、国教になどなれば、かえって、信仰の堕落を招き、大聖人の仏法の精神は滅び、形骸化していくだけである。
 また別の記者が、皮肉な笑いを浮かべながら質問した。
 「基本政策のなかで『公明選挙』をうたっていますが、折伏などといって、無理やり投票させるようなことが、公明選挙になるんでしょうかね」
 関は憮然として言った。
 「君、学会がいつ、選挙を折伏だなどと言って、無理やり投票させたことがありましたか!」
 「…………」
 「調べもせずに、偏見と憶測で、ものを言うことは慎んでもらいたい」
 学会への無認識をさらけ出す問いであった。
 記者会見は間もなく終わったが、「公明政治連盟」の結成を取り上げた新聞はいたって少なかった。一、二の新聞が一段ほどで、報道しただけであった。
 山本伸一は、この夜、関たちから、記者会見の内容について、つぶさに報告を受けた。
 多くの記者たちは、創価学会は政治を支配し、日蓮正宗を国教にするために、個人の意思とは無関係に、会員を選挙に駆り立てていると、勝手に憶測しているようであった。
 彼らが、その憶測の根拠としていたのが、かつて、戸田城聖が広宣流布の姿として、「国立戒壇」の建立という表現を、何度か使っていたことであった。
 戒壇とは、一般的には、授戒の儀式の場をいうが、奈良時代に渡来僧の鑑真によって、南都(奈良)の東大寺に建立された小乗戒の戒壇が、日本最初の戒壇であった。
 更に、平安時代には、最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺に大乗戒の戒壇建立に力を尽くし、彼の死後、それが実現している。
 しかし、延暦寺の大乗戒壇といっても、法華経の迹門の戒壇であり、仏法の真髄である、法華経本門の戒壇ではなかった。
21  獅子(21)
 日蓮大聖人は、法華経の本門文底の教えである三大秘法の戒壇の建立を、後世の弟子たちに託された。
 「三大秘法抄」には、次のように仰せである。
 「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か
 〈戒壇とは、王法すなわち世間の法が仏法に冥じ、仏法が王法に合して、国王も臣下も一同に本門の三大秘法の仏法を持って、有徳王が正法の僧である覚徳比丘を命をかけて守った昔の姿を、末法濁悪の未来に移す時、天皇の勅宣、並びに将軍の御教書を賜り、霊鷲山の浄土に似た最も優れた地を尋ね求めて、戒壇を建立すべきものであろうか〉
 この「三大秘法抄」の戒壇を、「国立戒壇」と言い出したのは、明治期に日蓮宗身延派から出て、立正安国会(後に国柱会)をつくった田中智学であった。
 田中の発想は、国威発揚に狂奔する時代状況が投影されているにせよ、極めて国粋主義的、国家主義的であった。彼は大聖人の御書を論じはしたが、自らの″国体至上主義″を鼓吹するための道具とし、″国体思想″に沿って、この御文を解釈していった。
 そのため、「王法」は即、″神国日本″という国家に直結し、すべては、そこに組み込まれていった。
 しかも、彼は、常々、法華経は世界を統一すべき教えであり、日本は世界を統一すべき国であると主張していた。
 田中は、「王法仏法に冥じ」は、「仏法は国家の精神たるに至る」ことであり、「仏法王法に合して」は、仏法を国体擁護と世界統一の大思想として「国法化」し、「国家ただちに仏法の身体となるに至る」ことであると述べている(『妙宗式目講義録』)。
 更に、「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を……」に至ると、彼の解釈は、一段と激烈になっていく。
 有徳王と覚徳比丘は、もともと涅槃経に説かれたもので、破戒の悪僧と戦い、正法を護持し抜いた覚徳比丘を、有徳王が命をかけて守ったという話である。
 田中の手にかかると、この故事は、「国家国力を以て正法を護り、道に順ぜざる国を討伐しても、世界の有道的統一を実現するの義」(前掲書)を示す事例になる。つまり、日本が世界を統一するために、武力侵略をも、積極的に肯定していったのである。
22  獅子(22)
 田中智学は、戒壇を建立すべき「霊山浄土に似たらん最勝の地」を、日本を代表する名山である富士とした。
 この″富士戒壇論″をめぐって、大正から昭和にかけて、国柱会を中心に日蓮系各派の間で、論議がわき起こった。
 そのなかで、本門の戒壇に安置すべき御本尊にも議論が及び、大石寺の大御本尊への批判があったことから、日蓮正宗も反論するに至った。
 このやりとりのなかで、先方が用いた「国立戒壇」という言葉を、日蓮正宗側も使ったために、日蓮正宗も、戒壇は「国立」を前提としているかのような論の展開になっていった。
 そして、軍国主義の流れのなかで、次第に宗門も国家主義的な考え方に傾斜していき、「国立戒壇」は当然であるかのような風潮がつくられていった。更に、戦後も、宗門では本門の戒壇を、「国立戒壇」と言っていたのである。
 そのため、信徒である戸田城聖も、本門の戒壇について語る際に、「国立戒壇」という言葉を使用したことがあった。
 しかし、戸田が念願としていたのは、単に、戒壇という建物を建立し、それを「国立」にするなどといったことではなかった。
 彼は、日蓮大聖人の大願は民衆の幸福にあり、戒壇の建立といっても、そのための広宣流布の象徴であると考えていた。
 だから、七十五万世帯の弘教を達成して、広宣流布の確かな基盤を築き上げることに全力を注いできたのである。
 一人一人の強き信仰の確立こそ、幸福を実現する根本となるからだ。
 一九五五年(昭和三十年)三月の第四回鶴見支部総会での戸田の指導は、彼の考えを明確に物語っている。
 「いまより数年前に御本山において、ある僧侶が『いまでこそお山は、このとおり貧乏しているけれども、広宣流布の暁には、天皇陛下がお寺を建ててくださって、そうしてりっぱになるのだ』とあぐらをかいて、悠然とたばこをのみながらいわれたそうです。
 これには、じつに驚いた。いまかりに、広宣流布ということが現実に行われたとする。勅宣・御教書をたまわって、御本山が広宣流布の姿をとって、大客殿に大御本尊様がお出ましになったとする。だれが、大御本尊様のありがたさを、日本国じゅうの人に伝えるでしょう。
 すると、信心なき者が、たくさん参詣にくる。そうして、この信心なき人々が、どれほど御本尊様をそまつにすることでしょうか」
23  獅子(23)
 戸田城聖は、この第四回鶴見支部総会の指導にも明らかなように、仮に「国立戒壇」ができたとしても、人びとの信仰の確立がなければ、民衆の幸福も一国の繁栄もありえないことを痛感していた。
 むしろ、それによって、人びとの信仰が失われ、形骸化を招くことを、彼は恐れていたのである。
 当時、宗門が戒壇を「国立」とする根拠と考えていたのが、「三大秘法抄」の「勅宣並に御教書を申し下して」の御文であった。
 もともと「勅宣」(勅旨と宣旨)は、「天皇の命令を伝える公文書」であり、「御教書」は、鎌倉時代では、将軍の仰せを奉るとして、執権などが出した文書であった。
 しかし、現代では、天皇は象徴となり、将軍も執権もいない。主権在民の時代であり、民衆こそが社会の主役である。
 戸田は、宗門の言う「国立戒壇」を、現代の社会で実現するとしたら、「勅宣並に御教書」の御文を、どうとらえればよいかに苦慮していた。
 そして、民主主義の現代にあっては、天皇の勅書ではなく、民衆の意思を代表する議会の議決が、それに該当するのかもしれないと考えもした。
 だが、「国立」であるかどうかはともあれ、戒壇の建立は、広宣流布を象徴する一つの形式であり、遠い未来の問題となる。
 戸田は、戒壇建立の作業は、後に続く弟子たちに委ねようとしていた。
 そして、彼自身は、戒壇建立の前になすべき、「王仏冥合」をどのようにとらえ、いかに実現していくかを課題にし、全精力を注いでいった。それこそが、民衆の幸福に直接かかわる問題であったからである。
 山本伸一が青年部の室長に就任して間もない、一九五四年(昭和二十九年)の春のある夜、戸田は信濃町の学会本部で伸一に語った。
 「伸一君、『王仏冥合』をどう考えるかということが、これからの大事な課題になるぞ。
 『王法』とは、そのまま解釈すれば、王の政治ということになるが、ただ政治だけに限定するわけにはいかない。
 むしろ、王の定めた法の及ぶ範囲、すなわち、世間法ととらえるべきだろう。つまり、政治だけでなく、経済も、教育も、学術も含め、社会の文化的な営みのすべてを、『王法』と解釈すべきだ。
 そして、『王法』と『仏法』の『冥合』とは、いかなる姿をいうのかが、極めて重要になってくる」
24  獅子(24)
 山本伸一は、今後、青年部の室長として、学会のいっさいの路線を考えていかなくてはならない使命を担っていた。また、そこに、戸田城聖の大きな期待があった。
 だからこそ、戸田は、やがて、学会が直面するであろう「王仏冥合」についての、彼の思索の結論を、伸一に伝えようとしていたのである。
 戸田は話を続けた。
 「『王仏冥合』は、政治と仏法が制度的に、直接、一体化することでは決してない。
 まず、大聖人が『王仏冥合』を述べられた、『三大秘法抄』の『王法仏法に冥じ仏法王法に合して』とは、いかなることかから考えなくてはならない。
 この『王法仏法に冥じ』の『冥』の字には『暗い』『幽か』『深い』という意味がある。つまり、表面的な形式や制度上の合体とは異なっている。
 『王法』と『仏法』が、奥深くで合致することであり、人間の営みである、あらゆる文化の根底に、仏法の哲理、精神が、しっかりと定着するということだ。もちろん、文化の根底といっても、社会を建設していく人間の心、一念のなかに仏法の哲理が確立されることを意味する。
 また、『仏法王法に合して』とは、仏法の哲理、精神が、一人一人の生き方、行動を通して表れ、世間の法が、社会そのものが、仏法の在り方と合致していく姿だ。
 仏法の哲理とは、簡単にいえば、『皆宝塔』『皆仏子』なるがゆえに、人間の生命は尊極無上であり、誰もが皆、幸福になる権利をもつというものだ。また、それを実現するための慈悲のことだよ。
 そして、自身の仏の生命を開き、いかなる環境にも負けない、創造的で主体的な自己を確立する人間革命の思想が仏法だ。
 いわば、仏法の哲理は、生命の尊厳と、人類の平等と、自由の原理であり、人権を守り、本当の民主主義を実現する根本の理念になるものといえる。
 その仏法を一人一人の心に打ち立て、人格を陶冶していくことが、大聖人の示された社会建設の基本原理であり、その帰結が『王仏冥合』ということだ。
 要するに『王仏冥合』といっても、あるいは『立正安国』といっても、具体的な一個の人間を離れてはありえない。それは、どこまでも、人間一人一人の一念を変え、生命を変革していく人間革命ということが、最大のポイントになるのだよ」
25  獅子(25)
 夜は、深々と更けていった。しかし、戸田城聖は、時のたつのも忘れているかのように語っていった。
 「大聖人は『自身仏にならずしては父母をだにもすくがたし・いわうや他人をや』と仰せだ。
 親や他人を救い、社会を救済するといっても、自分が仏になること、つまり、人間革命が基本になることを訴えられているのだ。
 ゆえに、大聖人の仏法から導き出される社会建設の方法は、決して、破壊的で急進的な革命ではない。一人一人との対話に始まり、各人の人格を磨き、人間革命を成し遂げていく、平和的で漸進的な運動となる。
 それは、大聖人の御生涯の戦いを見れば明らかだ。どこまでも、折伏という対話に徹して生命を触発し、人間の覚醒を促す『精神の闘争』『思想の闘争』であられたではないか。
 ところが、いわゆる日蓮主義者たちは、大聖人の教えをねじ曲げて国家主義的に解釈し、『精神の闘争』を放棄して侵略やクーデター、テロに走っていった。
 たとえば、田中智学の教えを受け、日本による世界の統一を実行しようとした石原莞爾は、関東軍参謀として、満州事変を立案し、アジアへの侵略を推進していった。
 また、『一人一殺』を掲げ、政治家の井上準之助らを暗殺した血盟団事件の首謀者・井上日召。国家改造を唱え、二・二六事件を起こした青年将校に多大な影響を与えた北一輝もそうだった。
 結局、彼らが行ったことは、仏法の精神を根底から覆すものであった。まさしく『摧尊入卑』(尊きを摧きて卑しきに入れる)であり、大聖人の仏法を砕き、歪曲して、自分たちの偏狭な考えのなかに取り入れたにすぎない。
 彼らのなかで、民衆に光を当て、徹して語り合って布教し、広宣流布を実現しようとしていた者はいないではないか。人間の内面をどう変革していくかという、根本を見失ってしまったのだ。
 そうした彼らの行動が、どれほど大聖人の仏法を歪め、社会に誤解を与えてきたか計り知れない。今日もなお、人びとは、日蓮というと、過激な超国家主義的な教えであるかのような印象をもってしまっている。
 その日蓮主義者たちの暴走の時代のなかで、牧口先生は、真実の大聖人の御精神を叫び、実践してこられた。民衆のなかに入り、地道に座談会を重ね、一人一人の苦悩の解決に力を注がれた。それが学会の、誇り高き栄光の歴史なのだよ」
26  獅子(26)
 山本伸一は、戸田城聖の話を、生命に刻む思いで聞いていた。
 戸田の話には、次第に熱がこもっていった。
 「ところで、われわれが今、『王仏冥合』を実現しようというのは、これまで政治にせよ、経済や教育にせよ、正しく人間の幸福のために寄与してこなかったからである。
 日本の国も、かつて、富国強兵を推し進め、列強の仲間入りをしたことがあった。しかし、国家は大国になっても、民衆の生活はどうであったか。
 当時、潤ったのは国民というよりも、財閥など、一部の人間にすぎなかった。そして、遂にはあの悲惨な戦争を始めることになる。
 つまり、国の政治も、経済も、民衆を守り、豊かにするのではなく、むしろ、人びとを不幸に陥れてきたとはいえないだろうか。
 では、科学はどうか。
 たしかに、今日の科学技術の進歩は目覚ましい。しかし、その結果、人類を滅ぼしかねない原水爆が生まれ、人びとは恐怖におののいているではないか。
 教育はどうだ。日本の教育の普及は、明治以降、急速に進み、戦後は、中学まで義務教育となり、大学も増大した。しかし、それが、人間の幸せに、本当につながっているかね。
 大学生の数は増えても、人格も、知恵も、見識も乏しい人間が増え、学歴自体が目的になってしまった。
 また、国際社会に目を向けてみたまえ。大国の繁栄の陰で、その犠牲に泣いている国は数多い。そして、経済や教育の面などにも、あまりにも大きな格差が生じている。
 ある国は栄えても、別の国がその犠牲になり、また国や社会は繁栄しても、民衆は不幸であるというのが、悲しいかな現実だ。
 伸一君、問題はここなんだよ。それは、結局、人間が進むべき正しき道を教え、政治、経済、科学、教育などをリードする、生命の哲学が確立されていないからだ。
 その不幸を転換するために大聖人が示された原理が『王仏冥合』なのだよ。
 私は、結論すれば、『王仏冥合』の姿とは、世界のすべての国が栄え、それぞれの国の社会の繁栄と個人の幸福とが一致することであると思っている。
 政治も、経済も、科学も、教育も、すべて人間の手に取り戻して、人類の幸福の糧としていくことだ。
 そこに、これからの創価学会が果たしていかねばならぬ使命があり、仏法の社会的行動がある。
 そして、この課題に本格的に取り組むことが、君の生涯の仕事となっていかざるを得ないだろう」
27  獅子(27)
 「王仏冥合」を″社会の繁栄と個人の幸福の一致″と考えていた戸田城聖は、民衆の生活に、直接、大きな影響をもたらす政治の混迷を、黙って見過ごすわけにはいかなかった。
 それゆえに、戸田は、手塩にかけた弟子たちを、まず、地方議会に送り、更に、参議院へと送り出したのである。
 山本伸一も、この戸田の精神を継承し、民衆の幸福のための政治の実現を目指し、戸田亡き後も、同志を政界に送り出すことに力を注いできた。
 そして、一九六〇年(昭和三十五年)五月三日に、伸一が会長に就任すると、破竹の勢いで弘教の波は広がり、広宣流布への機運は高まっていった。
 それに伴い、戒壇の建立について、いかなるかたちをとるかを問う声が、次第に学会のなかでも高まっていったのである。
 本門の戒壇をどうするかは、師の戸田から広宣流布の後事のいっさいを託された伸一の、避けることのできないテーマであった。
 宗門は、依然として、広宣流布とは「国立戒壇」を建立することであるとの認識に立っていた。
 学会も宗門の考えを尊重してきたが、伸一は、本当にそうすることが、大聖人の御真意なのかと、熟慮せざるを得なかった。
 ――「三大秘法抄」に仰せの「勅宣・御教書」が、「国立戒壇」建立の根拠とされてきたが、本当に、そう言えるのであろうか。
 平安時代、最澄(伝教大師)が宿願とした延暦寺の大乗戒壇の建立の時にも、確かに天皇の「勅宣」は出されている。だが、当時、僧といえば、すべて国家公認の官僧であり、いわゆる私度僧は禁制であった。
 したがって、僧になるための授戒を行う戒壇は、国家の監督下にあり、当然、その建立のためには、天皇の「勅宣」は不可欠の条件であった。
 大聖人の時代になると、律令制は形骸化し、政治の実権は鎌倉幕府に移っていたが、天皇は政治的権威として存在していた。
 また、そのころは、既に官僧と私度僧の区別もなくなり、授戒の制度は崩れていたが、新たに戒壇を建立しようとすれば、先例に従って天皇の「勅宣」と、更に幕府の「御教書」が必要であったに違いない。
 また、当時の時代からすれば、一国の広宣流布は、天皇や幕府の指導者の正法への帰依がなければ、あり得ないことから、「勅宣・御教書」を戒壇建立の条件とされたのであろう。
28  獅子(28)
 山本伸一は、昼となく、夜となく、また、指導の旅先にあっても、御書を拝し、歴史書などの文献を調べながら、思索の糸を手繰り寄せていった。
 ――鎌倉時代と今日とでは、ある意味で時代状況は一変している。信教の自由が保障されている現代では、「勅宣・御教書」などはなくとも、戒壇を建立することはできる。
 また、主権在民の時代には、国民一人一人が社会の主役であり、民衆が正法に帰依していけば、それがそのまま、広宣流布の姿となっていく。
 そう考えると、今日では民衆の意思こそ、「勅宣・御教書」に代わるものといえよう。また、それを法的な手続きととらえるならば、戒壇という建物の建設に必要な認可を取れば、それですむことである。
 すると「勅宣・御教書」の御文から、本門の戒壇を「国立」と断定するわけにはいかないことになる。
 では、大聖人の御精神のうえから、戒壇は「国立」にすべきなのであろうか。
 大聖人は、佐渡の流罪から帰り、幕府から、土地や堂舎を寄進することを条件に、国家の安泰を祈るように要請された時、それを敢然と拒否されている。
 そこには、謗法の供養は受けないという理由だけではなく、国家の権力に縛られない、仏法者としての屹立した姿勢を見ることができよう。
 更に、幕府の最高権力者のことを「わづかの小島のぬしら主等」と言い切られている。
 また、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」とも仰せである。つまり、王の支配する地に生まれたがゆえに、身は権力の下に従えられているようでも、決して、心まで従えられることはないというのである。
 そして、一閻浮提、すなわち、世界の広宣流布を説かれている。
 こうした事実を思い合わせるならば、国教化や「国立戒壇」は、大聖人の御意志とは、全く相反するものではないのか。
 日蓮正宗を日本の国教にしたり、戒壇を「国立」にしたりするならば、かえって、大仏法を一国のものとし、一切衆生のために法を説かれた大聖人の御精神に反してしまうことになるだろう。
 とにかく、明治以降、宗門でも言われてきた国立戒壇論は、改めるべきであろう。そうしなければ、大聖人の仏法の真実を歪め、いたずらに社会の誤解を招くことになる。
29  獅子(29)
 山本伸一は、日達上人に、「国立戒壇」は、本来の大聖人の御精神とは異なることをアジア指導の折や、さまざまな機会に語っていった。
 日達上人も、やがて、伸一の意見に全面的に同意してくれた。そして、後年、正式に「国立戒壇」は誤りであるとして、次のように述べている。
 「……わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。
 しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。
 日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
 (中略)今日では『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。
 創価学会においても、かつて『国立戒壇』という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その″国立″なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。
 今日、世間の人々が″国立″という名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、あたらないと思います」(一九七〇年五月三日、第三十三回本部総会での特別講演)
 伸一は今、「公明政治連盟」が発足したことによって、個人の幸福と社会の繁栄の一致という、「王仏冥合」の実現に向かい、内海から大海に乗り出したことを実感していた。
 既成の政治勢力は、学会がいよいよ本格的に政治の世界に力を入れ始めたととらえ、危惧と恐れとをいだき、学会を排斥しようと躍起になるに違いない。
 彼は、未来に競い起こるであろう怒涛を予感していた。しかし、政治を民衆の手に取り戻し、人びとの幸福に真に寄与するものにするためには、あえて、その怒涛に向かって、突き進んでいくしかない。
 それが、人間の凱歌の時代を開く、創価の誉れの使命であり、民衆を守りゆく獅子の道であるからだ。
30  獅子(30)
 大阪事件の裁判の判決公判は、一月二十五日に開かれることになっていた。
 それによって、もし、会長の山本伸一が有罪となれば、彼の人生の障害となるだけでなく、学会の広宣流布の前進にとって、大きな障害となることは明らかであった。
 首脳幹部たちは、事の重大さを考えると、じっとしてはいられなかった。しかし、自分たちは何をすべきかわからなかった。
 弁護士たちに、判決の見通しを尋ねても、無罪と言い切る人は一人もいなかった。皆、暗い顔で、「こればかりは、なんとも言いかねます。ある程度の覚悟はしておかないと……」と、言葉を濁すのであった。
 判決の日が迫るにつれ、首脳幹部の口数は次第に少なくなっていった。
 そのなかで、伸一だけは常と変わらず、悠々としているように見えた。
 彼は、一月十八日は男子部幹部会に、翌十九日は女子部幹部会に出席し、この一年の力強い出発を呼びかけた。更に二十一日には、八日後に控えた中東訪問を前に、総本山に参詣した。
 そして、二十三日は教学部の教授会に出席。この月に行われた助師、講師を対象とした昇格試験の結果を審議し、合格者を決定した。そして、新たに助教授六百五十人、講師七千九百八十人が誕生することになった。
 既に一月二十二日付の聖教新聞の号外で発表された任用試験の合格者を加えると、教学部の陣容は、それまでの約四万人から、一挙に、十一万三千六百人余りに飛躍したのである。
 伸一は、大阪事件の判決公判のため、翌二十四日に、大阪に向かうことになっていた。
 教学部の教授会の後、首脳幹部が、揃って伸一の前に来て言った。
 「先生、いよいよ明後日は判決公判を迎えますが、私どもの覚悟はできております。もし、仮に、先生が有罪となり、学会がいかなる非難を浴びたとしても、一人たりとも動揺するような会員は出さない決意でおります……」
 それを聞くと、伸一は笑い出した。
 「何を言っているんだ。私は無罪だよ。
 戸田先生も『裁判長は、かならずわかるはずだ』とおっしゃっていた。絶対に勝つから大丈夫だ。
 何も悪いことをしていない者が、有罪になる道理はない。大聖人も『道理と申すは主に勝つ物なり』と仰せになっている。つまり、道理は権力にも勝つ。判決を楽しみにしていてください」
31  獅子(31)
 山本伸一は、首脳幹部を見ながら、話を続けた。
 「今、私が心配しているのは、熱心さゆえに、公職選挙法のこともよくわからず、戸別訪問をしてしまい、被告人となっている人たちのことです。
 法を破ったことは、確かによくない。そんなことがないように、厳しく徹底していかなければならないが、その人たちが有罪になってしまうのかと思うと、かわいそうでならない。
 皆、社会をよくしよう、日本の政治をなんとかしようとの思いで、必死になって頑張ってきた。買収を行ったわけではない。言論で自分の主張を、信念を訴えて、選挙の支援を頼んだにすぎない。
 罪は罪で仕方がないが、そうした人たちが取り調べで、警察官や検事から、不当にいじめられてきた。そして、更に有罪となれば、また、苦しい思いをするだろう。そう考えると、私は、身を切られるように辛いのです。
 だから、私が皆さんにお願いしたいのは、そうした同志を、心から励まし、元気づけていただきたいということです。
 広宣流布のために、私は断じて無罪を勝ち取らなければならないが、もし、その人たちが投獄されるようなら、私が代わりに牢に入りたい気持ちなのです」
 首脳幹部は、伸一の心境を初めて聞き、胸が熱くなるのを覚えた。
 二十四日、伸一は、空路、大阪に入った。そして、その夜、中之島の中央公会堂で開かれた関西の女子部幹部会と、尼崎市体育会館で行われた関西男子部幹部会に、相次ぎ出席した。
 女子部幹部会の会場となったこの中之島の公会堂は、伸一が大阪事件で不当逮捕され、釈放になった一九五七年(昭和三十二年)七月十七日に、大阪大会が行われた場所である。
 あの日、伸一は、この公会堂の壇上で叫んだ。
 「……すべてのことは、大御本尊様がお見通しであると、私は信じています。
 戸田先生は、三類の強敵のなかにも、僣聖増上慢が現れてきたと言われております。
 私も、更に『大悪をこれば大善きたる』との、日蓮大聖人様の御金言を確信し、強盛な信心を奮い起こし、皆様とともに、広宣流布に邁進する決心であります。
 最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、かならず勝つという信念でやろうではありませんか」
 それは、大勝利への伸一の宣言でもあった。
32  獅子(32)
 大阪大会から、既に、四年六カ月が過ぎていた。
 「かならず勝つ」との山本伸一の信念が、果たして実を結ぶことになるのか、あるいは、まだ、この先、苦戦を強いられることになるのかは、すべて明日の判決で明らかになる。
 伸一は、中之島の中央公会堂が近づくと、車窓から堂島川を見た。川面には、判決公判が開かれる大阪地裁や、不当な取り調べが行われた大阪地検などがある、レンガづくりの建物の明かりが揺れていた。
 関西の青年たちは、非道な大阪地検への怒りと、判決への不安を感じながら、男女それぞれの幹部会に集って来た。
 中央公会堂の壇上に伸一が姿を現すと、会場を揺るがさんばかりの大拍手が起こった。集った女子部員たちは、いつもと変わらぬ堂々たる伸一の姿を目の当たりにすると、不安が吹き飛んでしまった。
 指導に立った伸一は、裁判のことには、いっさい触れなかった。
 最初に彼は、前年九月の台風十八号(第二室戸台風)で大きな被害を受けた、西淀川方面に建設する会館の土地が購入できたことを発表した。
 この会館は、台風の直後に、被災地の激励にやって来た伸一が、皆の復興の励みになればと、建設を約束したものであった。
 更に伸一は、関西の新本部の建設計画を発表した後、関西は、広宣流布の要衝であり、自分も関西を舞台に、広布の黄金の歴史を開いてきたことを語り、学会の模範となる関西の建設を呼びかけた。
 また、絶対的幸福を確立する道は、日蓮大聖人の仏法しかないことは、幾多の同志の実験証明によって明らかであり、それぞれが大確信をもって、信仰を全うしていくように望んだ。
 そして、何があっても、縁に紛動されて信心を後退させることなく、「大いなる幸福への前進の一年を」と訴え、話を結んだ。
 力強い指導であった。そこから、ある人は、明日の判決の勝利を確信し、ある人は、何ものをも恐れぬ獅子の生き方を学び取った。
 後に、ある女子部員は、この日のことを、こう語っている。
 「普通なら、裁判のことを考えると、不安で不安でたまらないはずなのに、先生はご自分のことより、台風の被害にあった人たちを心配し、会館建設の話をして勇気づけてくださった。
 その人間としての強さと温かさに、泣けて、泣けて仕方ありませんでした。私も、何があっても負けるものかと誓ったのです」
33  獅子(33)
 関西女子部の幹部会に続いて、山本伸一は、男子部の幹部会に出席した。
 ここでは、伸一は、大阪事件の経過を述べ、彼の逮捕自体、デッチあげにもとづく、不当なものであったことを断言した後、こう語った。
 「私は、いかなる迫害も受けて立ちます。もし、有罪となり、再び投獄されたとしても、大聖人の大難を思えば小さなことです。
 また、牧口先生、戸田先生の遺志を継ぐ私には、自分の命を惜しむ心などありません。
 だが、善良なる市民を、真面目に人びとのために尽くしている民衆を苦しめるような権力とは、生涯、断固として戦い抜く決意であります。これは、私の宣言です。
 仏法は勝負である。残酷な取り調べをした検事たちと、また、そうさせた権力と、私たちと、どちらが正しいか、永遠に見続けてまいりたいと思います」
 伸一の言葉には、烈々たる気迫が込められていた。彼は、男子部には、自分と同じ心で、邪悪な権力とは敢然と戦い、民衆を守り抜く、獅子として立ってほしかった。
 関西の若き同志は、伸一の言葉に、悪に抗する巌窟王のごとき、不撓不屈の金剛の信念を感じ取った。そして、それをわが心とし、広宣流布の長征の旅路を行くことを決意した。
 伸一は、更に、力を込めて呼びかけていった。
 「日蓮大聖人の仏法は、いかなる哲学も及ばない、全人類を幸福にしゆく不滅の原理を説く大生命哲学であります。その仏法を広めて、人びとを幸福にしていくのが地涌の菩薩であり、大聖人の弟子である私どもの使命です。
 したがって、その自覚と信念のもとに、不幸な人の味方となり、どこまでも民衆の幸福を第一に、更に、堂々と前進を開始しようではありませんか」
 関西男子部の幹部会は、民衆とともに生きゆく、誓いの集いとなった。
 一月二十五日――。
 判決の朝が来た。すがすがしい朝であった。
 伸一は、宿泊していたホテルから、西淵良治という本部の職員の運転する車で関西本部に向かった。
 そして、関西本部の仏間で朗々と勤行・唱題した。
 唱題が終わると、彼の勝利への確信は、ますます不動のものとなっていた。
 「さあ、行こう!」
 伸一は、力強い声で言うと、外に出た。見送りに来た人びとを微笑みで包みながら、彼は待機していた車に乗り込んだ。
34  獅子(34)
 山本伸一は、車の後部座席に座り、この四年半の歳月を振り返っていた。
 ″あの不当逮捕から九カ月後には、戸田先生は逝去された。そして、その二年後に、自分は第三代会長に就任したが、それまで何度も、会長就任の要請を辞退せざるを得なかった最大の理由が、この裁判で被告人という立場にあることであった……″
 もしも、会長になって、自分が有罪になれば、学会に傷をつけ、広宣流布の進展を大きく遅らせる結果になることを、伸一は最も恐れていたのである。
 しかし、今、彼は無罪を確信していた。だが、客観的には、そんな確証は何もなかった。
 それでも無罪を確信できたのは、一つには無実のものが負けるわけがないという、彼の信念によるところが大きかったといえよう。
 そして、もう一つは、たとえ、有罪になったとしても、それもまた御仏意であり、真実は御本尊がことごとくご存じであるとの、決定した彼の一念によるものであった。
 つまり、彼が無罪であると言い切る言葉の奥には、裁判の成り行きを超えて、真実を仏法という普遍の法に照らすならば、誰も、自分に罪など着せることはできないという、大確信があったのである。
 開廷の十分ほど前に、伸一は大阪地方裁判所の法廷に姿を現した。報道関係者も二十人ほどが詰めかけていた。
 伸一以外の、選挙違反の容疑で被告人となっていた二十人のメンバーも、弁護士たちも、ほとんど揃っていた。
 彼は微笑みを浮かべ、皆に向かって軽く会釈をすると、被告人席に着席した。
 やがて、検察陣も席に着き、田上雄介裁判長ら裁判官が入廷し、第八十四回の公判となる判決公判が開始された。
 緊張した雰囲気のなか、裁判長は、被告人全員の名前を呼び上げると、厳かな口調で告げた。
 「それでは、判決を言い渡します」
 そして、よく通る声で、ゆっくりと判決文を読み上げていった。
 「主文……」
 刑の言い渡しである。
 伸一を除き、罰金一万円が九人に、七千円が四人に、五千円が二人に、四千円が二人に、三千円が三人に言い渡された。この二十人のうち、公民権停止は十七人に適用された。
 求刑では、罰金は二人だけで、あとは伸一の禁固十カ月をはじめ、最低でも禁固二カ月であり、いずれも公民権停止が含まれていた。それよりも、はるかに軽い判決であった。
35  獅子(35)
 田上雄介裁判長は、ここで一呼吸した後、最後の主文を読み上げた。
 「山本伸一は無罪!」
 傍聴席にざわめきが起こり、皆の顔に歓喜の光が差した。
 審判は下った。
 伸一の正義が証明された勝利の瞬間であった。
 裁判長は、引き続き、全員の判決理由を朗読していった。
 そこでは、罪となる事実として、二十人の被告人が戸別訪問を行ったことをあげていた。
 また、伸一については、裁判長は、まず、彼が、当時、関西総支部幹事であった鳥山邦三、岡山支部長であった岡田一哲らの幹部と謀議し、選挙違反を行わせたという検察の公訴事実を一つ一つ反駁し、「これを証明し得る証拠は存しない」と述べた。
 そして、戸別訪問で現行犯逮捕された、京都の壮年会員が、会合の折、伸一から戸別訪問をするように指示されたと供述していることに言及していった。
 この壮年会員は、警察官に、伸一の指示であることを認めなければ、いつまでも家にも帰さないし、夜も寝かせずに取り調べると脅され、無理やり「自白」させられたのであった。
 裁判長は、供述調書の内容は直ちに信ずることはできないとしたうえで、こう語っていった。
 「……被告人山本伸一から、直接に『堂々と戸別訪問をしてください。責任は私がもちます』とたのまれ、もしくは、命令されたと仮定するならば、これを聞いた百名以上の学会員のうち、一名のみが戸別訪問し、他の誰もがしないなどということは、およそ考えられないことであります」
 明快であった。伸一の冤罪は晴れ、検事たちの陰険な意図が浮かび上がっていったのである。
 やがて公判は終了した。
 遂に、伸一は晴れて無罪の身となった。
 正義が、魔性の権力を打ち砕いたのだ。彼をさいなみ、学会の前途を覆っていた黒い雲は、ここに払われたのである。
 「先生、おめでとうございます!」
 傍聴席にいた幹部たちが駆け寄ってきた。どの顔も喜びに輝いていた。皆、伸一と苦楽をともにしてきた同志である。
 そこに、一人の検事が、つかつかとやって来た。
 皆、一斉に、険しい目で検事を見た。伸一たちを取り調べた人ではなく、公判を担当した検事であった。
 検事は、にこやかに伸一に言った。
 「私の思っていた通りです。これで、当然です」
36  獅子(36)
 検事の言葉に、周囲にいた幹部たちは、憮然としていた。さんざん学会を苦しめた検事が、今更、何を言うのかというのが、皆の思いであった。
 しかし、山本伸一は、静かに頷いた。おそらく、この検事は、伸一の逮捕にも取り調べにも、不当なものを感じていたのであろう。
 伸一は、車で関西本部に向かった。幹部たちが笑顔で伸一を出迎えた。
 「みんな、ありがとう。勝ったよ!」
 彼は、御本尊に向かって題目を三唱すると、広間に掲げられていた戸田の遺影をじっと見ていた。
 ″先生、伸一は無罪を勝ち取りました……″
 戸田は、最後まで、伸一の裁判の行方を心配していた。大切な後継の弟子の前途に、心を砕き続けていたのであろう。
 ″できるものなら、裁判の勝利を、元気な先生にご報告したかった。
 私が逮捕された日、東京・羽田の空港で、私を抱き締めて、「もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」と言われた先生。
 私を釈放せよと、足元もおぼつかぬ衰弱した体で大阪地検に乗り込み、強く抗議された先生……。
 この無罪の判決を聞かれたら、先生は、どれほどお喜びくださるであろうか″
 そう思うと、彼は残念でならなかった。
 間もなく、この日、一緒に判決を受けたメンバーが関西本部にやって来た。勾留中、手錠を嵌められたまま、長時間にわたる過酷な取り調べを受けた、岡田一哲や鳥山邦三もいた。
 伸一が今、一番気がかりであったのが、罰金とはいえ有罪になった、これらの人たちのことであった。
 彼は、そのメンバーと、懇談の一時をもち、優しい口調で語り始めた。
 「私も、これまでは同じ被告人の身でもあったので、皆さんを励ますことは、あまりしませんでした。今、改めて申し上げますが、この四年半の間、本当によく耐えてこられた。大変にご苦労様でした。
 皆さんに代わって、私が牢に入ってすむものなら、そうしたいというのが、私の偽らざる気持ちでした」
 皆の目に涙が光った。
 もとはといえば、熱心さのゆえとはいえ、自分たちが違反してしまったことから、伸一が無実の罪で逮捕・投獄されたのである。
 ところが、そのことには何も触れずに、自分たちのことを心配し、励ましてくれる伸一の温かさに、皆は泣いたのである。
37  獅子(37)
 山本伸一は、静かに言葉をついだ。
 「罪は罪として償わなければならないが、人生の幸福は、最後まで信心をし抜いていけば、必ずつかむことができる。生涯、何があっても、一緒に広宣流布に生き抜こうよ」
 彼は、一人一人に視線を注いだ。皆、決意に燃えた目で、彼を見返した。
 伸一は、それから、大阪事件のもつ意味について語り始めた。彼の声には、今度は怒りがあふれていた。
 「この大阪の事件の本質はなんであったか。
 学会は民衆を組織し、立正安国の精神のうえから、民衆のための政治を実現しようと、政界にも同志を送り出してきました。
 その学会が飛躍的な発展を遂げているのを見て、権力は、このままでは、学会が自分たちの存在を脅かす一大民衆勢力になるであろうと、恐れをいだいた。そして、今のうちに学会を叩きつぶそうとしたのが、今回の事件です。
 そのために、戸別訪問という、いわば微罪で逮捕された皆さんを脅し、いじめ抜いて、違反行為は私の指示であり、学会の組織的犯行であるとする調書をでっち上げていった。学会を危険な犯罪集団に、仕立て上げようとしたのです。
 本来、権力というものは民衆を守るものであって、善良な民衆を苦しめるためのものでは断じてない。
 社会の主役、国家の主役は民衆です。その民衆を虐げ、苦しめ、人権を踏みにじる魔性の権力とは、断固戦わなければならない。それが学会の使命であると、私は宣言しておきます。
 そして、学会が民衆の旗を掲げて戦う限り、権力や、それに迎合する勢力の弾圧は続くでしょう。この事件は迫害の終わりではない。むしろ、始まりです。
 ある場合には、法解釈をねじ曲げ、学会を違法な団体に仕立て、断罪しようとするかもしれない。また、ある場合には、かつての治安維持法のような悪法をつくり、弾圧に乗り出すこともあるかもしれない。
 更には、学会とは関係のない犯罪や事件を、学会の仕業であると喧伝したり、ありとあらゆるスキャンダルを捏造し、流したりすることもあるでしょう。
 また、これは過去にもあったことだが、人を使って学会に批判的な人たちに、いやがらせをし、それを学会の仕業であると思わせ、れようとする謀略もあるかもしれない。
 ともかく、魔性の権力と、学会を憎むあらゆる勢力が手を組み、手段を選ばず、民衆と学会を、また、私と同志を離間させて、学会を壊滅に追い込もうとすることは間違いない」
38  獅子(38)
 部屋には、厳粛な空気が流れていた。
 会長山本伸一の無罪判決の喜びに酔っていた幹部たちは、彼の話に、目の覚める思いがした。
 伸一は、更に、力を込めて語っていった。
 「そうした弾圧というものは、競い起こる時には、一斉に、集中砲火のように起こるものです。
 しかし、私は何ものも恐れません。大聖人は大迫害のなか、『世間の失一分もなし』と断言なされたが、私も悪いことなど、何もしていないからです。だから、権力は、謀略をめぐらし、無実の罪を着せようとする。
 私は、権力の魔性とは徹底抗戦します。『いまだこりず候』です。民衆の、人間の勝利のための人権闘争です」
 それは、権力の鉄鎖を断ち切った王者の獅子吼を思わせた。彼の目には、不屈の決意がみなぎっていた。
 創価学会の歩みは、常に権力の魔性との闘争であり、それが初代会長の牧口常三郎以来、学会を貫く大精神である。
 日本の宗教の多くが、こぞって権力を恐れ、権力の前に膝を屈してきたのに対して、学会は民衆の幸福、人間の勝利のために、敢然と正義の旗を掲げた。
 それゆえに、初代会長は獄中で、尊き殉教の生涯を終えた。人権の基をなす信教の自由を貫いたがゆえである。
 また、それゆえに、学会には、常に弾圧の嵐が吹き荒れた。しかし、そこにこそ、人間のための真実の宗教の、創価学会の進むべき誉れの大道がある。
 御聖訓には「師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」と。
 広宣流布とは、「獅子の道」である。何ものをも恐れぬ、「勇気の人」「正義の人」「信念の人」でなければ、広布の峰を登攀することはできない。
 そして、「獅子の道」はまた、師の心をわが心とする、弟子のみが走破し得る「師子の道」でもある。
 伸一は、最後に、皆に言った。
 「私たちは獅子だ。嵐のなかを、太陽に向かって進もう!」
 彼は、愛する関西の同志に別れを告げて、車で空港に向かった。
 権力の魔性の鉄鎖を打ち砕いた若獅子は、自由の大地を蹴って、さっそうと使命の疾走を開始したのだ。
 伸一は、車窓の景色に視線を注いだ。空には、雲の切れ間から太陽が、まばゆい光を投げかけ、彼の行く手を照らし出していた。

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