Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第5巻 「勝利」 勝利

小説「新・人間革命」

前後
1  勝利(1)
 仏法は勝負である。
 なれば、人生も勝負であり、広宣流布の道もまた、勝負である。
 人間の幸福とは、人生の勝者の栄冠といえる。そして、世界の平和は、人類のヒューマニズムの凱歌にほかならない。
 その勝利とは、自己自身に勝つことから始まり、必死の一人から、大勝利の金波の怒涛は起こる。
 十月二十三日にヨーロッパから帰国した山本伸一は、残り二カ月余となった一九六一年(昭和三十六年)「躍進の年」の総仕上げの活動に、全力で取り組んでいった。
 十月二十七日夜、東京・両国の日大講堂で行われた本部幹部会に出席した伸一は、ヨーロッパ指導の模様に触れた後、全同志が待望している総本山の大客殿の建設について語った。
 大客殿の建設にあたっては、前年の春以来、毎月、学会の代表、宗門の僧侶の代表が集い、専門家の意見を聞きながら、設計やスケジュール等、さまざまな角度から検討を重ねてきた。
 その間、設計も改良につぐ改良が行われ、遂に、正式に、来春、着工の運びとなったのである。
 伸一が、それを発表すると、講堂の大鉄傘を揺るがさんばかりの大拍手が鳴り響いた。大客殿の建立は、三百万世帯の達成に向かって突き進む同志の、希望であった。
 翌二十八日と二十九日の両日、伸一は、総本山で営まれた第六十五世日淳上人の三回忌法要に参列した。
 この法要の後、客殿で日達上人から、総本山の大総合計画委員会の設立が発表された。
 これは、広宣流布の未来を展望して、総本山を整備、荘厳していくための委員会であった。委員会は宗門の僧侶など九人で構成されていたが、学会からは、会長の伸一をはじめ四人が委員になった。
 伸一が辞令を受ける際、日達上人は彼に言った。
 「いっさい、お任せいたします」
 伸一はこの言葉を受け、宗門の発展を第一義として、誠心誠意、総本山を荘厳しようと、大客殿の建立に最大の力を注いでいったのである。
 しかし、その大客殿は、一九六四年(昭和三十九年)に完成してから、わずか三十一年後の九五年(平成七年)、第六十七世の法主日顕によって、無残にも取り壊されることになる。
 それは供養に参加した百四十二万世帯の同志の真心を踏みにじる、冷酷非道な行為であり、仏法破壊の天魔の姿を象徴している。
2  勝利(2)
 十月三十日と十一月一日は、山本伸一は大阪事件の公判のため、大阪地裁の法廷にいた。
 いよいよ裁判は、大詰めを迎えようとしていた。
 このころ、裁判では、選挙違反の証拠となる、警察官、検察官の取り調べに対する供述調書の採否が、大きな問題となっていたのである。
 実は、裁判の過程で、取り調べが過酷を極め、その供述調書は被告人の意思ではなく、強要によるものであることが明らかになりつつあったのである。
 事実、何時間にもわたって、手錠をはめられ、取り調べられた学会員もいた。
 また、警察官に″選挙違反は、選挙の最高責任者であった山本伸一の指示であると認めなければ、夜も眠らせないで取り調べる″と脅され、虚偽の供述をさせられた人もいた。
 当然、この調書と、法廷での供述の内容には、大きな食い違いが生じてきた。
 検察側は″調書は被告人たちの意思によるものではないので、証拠能力はない″と判断されることを恐れ出した。そして、法廷における供述よりも、取り調べの調書の方が信頼できるとする意見書を、裁判長に提出した。
 一方、弁護側も、それに反論する意見書を、裁判長に提出した。
 この調書の採否のいかんで、伸一の裁判の行方が、大きく影響されることはいうまでもない。
 伸一が選挙違反を行ったとする最大の証拠も、検察官の取り調べに対する供述調書であったからだ。
 検察の伸一への取り調べは、常軌を逸していた。連日のように深夜に及び、時には夕食さえ与えられぬこともあった。
 だが、あくまでも、身の潔白を主張する伸一に、遂に検事は、彼が罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田城聖を逮捕すると言い出したのである。
 伸一が、何よりも心を痛めたのは、恩師の健康であった。
 彼が逮捕された一九五七年(昭和三十二年)七月といえば、戸田の逝去のわずか九カ月前である。既に、戸田の体は、激しく衰弱していた。
 もし、その戸田が逮捕されることになれば、命にも及びかねないことは明らかであった。
 ″なんの罪もない、体の弱った先生を、獄につなぐことだけは、なんとしても避けなければならない″
 伸一は、獄舎にあって、一人、呻吟し悩み抜いた。そして、やむなく、検事の言うように、罪を認める供述をしたのである。
3  勝利(3)
 山本伸一は、法廷の場で真実を明らかにしようと思った。それしか、彼の無実を証明する道はなかった。
 伸一は、弁護士の多くが有罪を覚悟せよというなかで、ただ一人、断じて、負けまいと決意していた。そして、自ら裁判の場で、検事たちの虚偽の発言を鋭く暴いていったのである。
 たとえば、法廷では、取り調べをめぐって、証人として証言した主任検事と伸一との間で、こんなやりとりもあった。
 主任検事は、伸一が釈放になった日のことを、次のように語ったのである。
 「その日は、朝から八千人の人が中央公会堂に集まりまして、その一部の人が、検察庁のなかに一気に入って来たんです。廊下が真っ黒になるほどでした。
 それで、私は山本君に『これでは調べにならんじゃないか』と言いましたら、山本君が『それでは、私が注意して解散させましょう』と言ってくれました。
 そして、目の前にずらっといた一人に、山本君が『ひかえさせろ』と言うと、わずか五分ほどのうちに人が去り、構内は真っ白になってしまったんです」
 主任検事の発言は、伸一が学会のなかで絶対的な権力を誇り、彼の一言で、すべてが行われるとともに、学会は反民主的な団体であるかのように印象づけようとするものであった。
 伸一から、主任検事への質問が行われた。
 「お話のなかで、検察庁のなかが真っ黒になるほどの人が来て、私が合図をしたら、いっせいに退散したという、なにか検察庁に対して圧力をかけたかのような発言がございました。
 それは検察庁のどの場所でしょうか。また、何人ぐらいの人が来ていたのでしょうか」
 主任検事は、一瞬、口ごもったが、虚勢を張って言った。
 「正確な人数まではわかりません」
 「では、私は、どこで合図をしたのでしょうか」
 「…………」
 「そのようなことは、ほかの検事の方は一度も証言されておりません。錯覚か、それとも嘘か、どちらかではございませんでしょうか」
 「それは事実です」
 主任検事は、憮然としてこう答えるのが、精いっぱいであった。
 誰の目にも、主任検事の嘘は明らかになった。
 伸一を陥れようとしたにもかかわらず、むしろ、裁判長の、検察官の取り調べに対する不信をつのらせる結果を招いたに違いない。
4  勝利(4)
 十一月一日の公判では、遂に、調書の採否の決定が下された。
 採否が問題になっていた、検察官に対する供述調書の半数近くが、警察官に対する供述調書は、すべてが却下となった。
 なかでも、山本伸一に関する四通の検察調書は、取り調べのやり方からみて、黙秘権の侵害を認めざるをえず、強要による自白の疑いがあるとして、すべて却下されたのである。
 伸一が、やむなく検察官の言うことを認めた、違反行為の証拠となる調書が却下されたことは、彼を有罪に追い込む根拠が大きく崩れたことになる。
 深い闇のなかを進んできた伸一に、ようやく一条の光が差したのである。しかし、その光が、彼を無罪という白日のもとに導くことになるかどうかは、いまだ測りかねた。
 伸一は、十一月二日には関西の青年部員の二組の合同結婚披露宴に臨み、その夜、京都に移った。
 京都では、翌三日に、洛北の地に購入した会館の開館式が行われることになっていたのである。この会館は、やがて、衣笠会館となるが、開館当初は、京都分室と呼ばれた。
 これは、ある会社が所有していた既存の建物を購入したもので、閑静な住宅街にあった。
 伸一は、開館式の前夜、地元の幹部と、会館をくまなく見て回った。納戸も開けて、点検しながら、整理整頓の大切さを語った。
 「細かいことまでチェックしているようで申し訳ないが、実は小事が大事なんです。火事や事故の原因というのは、すべて小さなことから起こっている。
 幹部は、そうした細かいことに気を使っていくことが、結果的に、会員を、同志を守ることになる」
 更に、ここに勤務することになる職員に言った。
 「会館の調度品や備品も大切に扱ってください。皆が仕事で使う鉛筆一本にいたるまで、その財源を担ってくれているのは学会員であり、同志の尊い浄財です。だから、紙一枚にしても無駄なことをしてはならない。
 私も、そういう気持ちで、封筒一つ、無駄にはしていません。たとえば、私あてに出された書類の封筒があれば、そのあて名を消して、再利用するようにしています。その精神が職員の伝統です」
 会員世帯の増加にともなって、学会の職員の数も次第に増えつつあった。それだけに、伸一は、会員に奉仕する職員の精神を、一人一人に徹して伝えようとしていた。
5  勝利(5)
 山本伸一は、会館の庭に出た。夜といっても、それほど遅い時間ではなかったが、辺りはひっそりと静まりかえっていた。
 彼は、近隣のことを考えた。ここに、連日のように大勢の人が詰めかけ、会合がもたれることになれば、近隣の人びとにとっては迷惑に違いない。
 伸一は、地元の幹部に言った。
 「ここは、閑静な住宅街だから、大人数での会合はできる限り控え、小人数の打ち合わせや、懇談会を主に行うようにしてみてはどうだろうか。
 また、将来、関西にアジア文化研究所をつくる構想もあるから、ここに、その研究所を設置してもよいと思う。あるいは、学生部の代表への御書の講義をするなど、静けさに適した会館の使い方を考えていこう」
 こう言うと、皆が寂しそうな顔をした。この会館に大勢の同志が集い、声を限りに学会歌を歌い、元気に賑やかに、活動を進めたいという思いがあったのであろう。
 伸一は、そんな皆の心を察して言った。
 「みんなが寂しくならないように、私もたびたび、ここに来るよ。そして、京都の、関西の、広宣流布の未来を語り合おう。
 ともかく、近隣を大切にすることです。幹部に、その配慮がないために、周囲に異様な印象を与え、学会に反感をいだかせてしまうとするなら、会館をつくったことが、かえってマイナスになってしまう。
 学会の会館ができたことによって、周囲の人たちも心から喜べるようにしていかなくてはならない」
 伸一のこうしたやりとりを、驚いて見ていたのは、東京からやって来た、理事長らの同行の幹部たちであった。
 彼らは、今、伸一が、大詰めを迎えようとしている裁判で、熾烈な攻防戦を展開していることをよく知っていた。伸一は無実の罪とはいえ、被告人の身であり、有罪の判決が下されるかもしれないのだ。
 しかし、そんなことは歯牙にもかけぬかのように、彼は悠然としていた。そして、会館や同志のことを気遣い、配慮し、こまやかなアドバイスを続けているのである。
 建物のなかに入ると、部屋には、「あゝ新選組」の歌が流れていた。京都にちなんだ歌を聴かせようと、誰かがレコードを用意してくれたのであろう。
 その選曲はともあれ、そうした同志の真心が、彼は嬉しかった。
6  勝利(6)
 部屋に流れる「あゝ新選組」のレコードを聴きながら、山本伸一は地元の幹部に語った。
 「私は、新選組の一員となった青年たちのことを思うと、かわいそうでならない。新選組の末路は哀れだ。結局は、幕府の犠牲になってしまった。時代の流れを見抜いていくことができなかったのだ。
 時代を見すえ、時代を創造していくのが、本来、青年の使命だが、それを教える指導者がいなかったのだろう。
 三日後には、東京の国立競技場で、男子部の代表十万人が集って総会が行われる。私は、この集いを、二十一世紀への新しい時代を開く、青年の旅立ちの総会にしたいと思っている。
 常に歴史は、青年の力でつくられてきた。明治維新から約百年、永遠の平和を担う、日本の若人の出発の日が来る」
 彼はこう語ると、嬉しそうな目で、皆の顔を見た。
 翌三日、京都分室の開館式が行われた。
 伸一は、この晴れの式典に、戸田城聖の妻の幾枝を招待していた。
 日蓮正宗の寺院の数に比べれば、まだ、会館の数はいたって少なかったが、新たに会館が誕生した喜びを、彼は恩師の夫人と、ともに分かち合いたかったのである。
 戸田の晩年になって、学会本部もある程度は大きくなり、関西などにも会館を建てることができたが、戸田が会長になった当初は満足な会館などなかった。
 戸田も、会員のために、大きな会館を建設する必要性を痛感していた。だが、まだ、学会には、そんな経済的な余裕はなかったし、彼は、何よりも、総本山への供養と寺院の建立を優先していたのである。
 幹部が立派な本部を建てたいと口にすると、彼は、こう語るのが常であった。
 「建物など、どうでもよい。そんなものは形式だ。本部、本部というが、会長の私のいる所が、本部ではないか」
 しかし、伸一と二人だけになると、しばしば、戸田は語っていた。
 「本部も必要だし、各地に会館も建ててやりたい。皆で勤行する場所さえないのでは、あまりにもかわいそうだ。学会も、ビルを建てるような時代が来ればすごいのだがな……。
 だが、今は無理だ。そうすれば、皆に大きな負担をかけることになってしまうからだ。しかし、やがて、いつの日か、そうしなければならない」
 伸一は、その恩師の言葉を、必ず、実現しようと心に誓ってきたのである。
7  勝利(7)
 山本伸一は、学会は戸田城聖の構想の実現に向かって、着実に前進していることを、亡き恩師の夫人である幾枝に見てもらおうと、この京都分室の開館式に招待したのである。
 伸一は、戸田が広宣流布のために一身を投げ出し、縦横無尽に指揮をとった陰には、妻の幾枝の内助の功があったことを、よく知っていた。
 彼女は、軍部政府の弾圧による戸田の投獄、更に、度重なる夫の事業の危機に胸を痛めながら、じっと耐え抜いてきたのである。
 日蓮大聖人も、夫の働きは妻の力によって決まると言われている。また「をとこ善人なれば女人・仏になる」とも仰せである。
 伸一は、戸田が専務理事をしていた東光建設信用組合が、閉鎖のやむなきにいたり、残務整理にあたっていた一九五一年(昭和二十六年)の一月、恩師から言われた言葉が頭から離れなかった。
 「伸一君、私にもし万一のことがあったら、学会のことも、事業のことも、いっさい君に任せるから、引き受けてくれまいか。そして、できることなら、私の家族のこともだ」
 その時、伸一は答えた。
 「先生、決してご心配なさらないでください。私の一生は先生に捧げて悔いのない覚悟だけは、とうにできております。この覚悟は、また将来にわたって永遠に変わることはありません」
 伸一は、その言葉の通りに、師を守り、いっさいの責任を担い、死力を尽くして走り抜いた。彼は、戸田の使命はまた、自分の使命であると決意していたのである。
 その覚悟は、今も、いささかも変わらなかった。彼は、これから先も、恩師の夫人を、戸田家を、終生、守り続ける決意でいた。
 開館式がすむと、伸一は庭に出て、幾枝と記念のカメラに納まった。
 庭を散策しながら、彼は語った。
 「戸田先生あっての学会でした。そして、奥様あっての戸田先生であったといえます。私は、奥様のご恩を永遠に忘れません。どうか、いついつまでもお元気で、私どもを見守ってください。
 ところで、いよいよ明後日、戸田先生のご遺言となった、『国士十万』の結集となる男子部総会を、国立競技場で行います。これが、私の青年部の室長としての最後の仕事です。先生も、お喜びくださっていることと思います」
 幾枝は、微笑みを浮かべて頷いた。
8  勝利(8)
 澄んだ青空が広がっていた。太陽は、まばゆい希望の光を放っていた。
 一九六一年(昭和三十六年)十一月五日、国鉄(現在のJR)千駄ケ谷駅、信濃町駅から国立競技場に向かう道には、朝から、長蛇の列ができた。
 また、明治神宮外苑には、次々と貸し切りバスが到着し、バスを降りた人びとも、国立競技場を目指した。
 この周辺では、何かの競技があれば、長蛇の列ができることは珍しくなかったが、この日は、普段とは様子が異なっていた。
 集って来る人は、皆、男子青年であり、しかも、ほとんどの人が背広姿で、きちんと髪を整えている。どの顔も紅潮し、瞳は生き生きと輝き、さっそうと胸を張り、会場に急ぐ姿がさわやかであった。
 「おはようございます」
 「ご苦労様です」
 整理班の青年たちの弾んだ声が、神宮外苑の木々にこだましていた。
 青年たちの誰もが、この日を、男子部の代表十万人が集う、この第十回男子部総会を、待ちに待っていたのだ。
 会場の国立競技場のスタンドは、午前八時半には、ぎっしりと人で埋まった。
 スタンドの上の電光掲示板は、白い布で覆われ、そこに墨痕鮮やかに「勝利」の文字が浮かび上がっていた。それは、明年の学会のテーマであったが、この日を迎えた青年たちの心情でもあった。
 彼らは、戸田城聖の遺言となった青年部の指針「国士訓」(青年よ国士たれ)に示された「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう。かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」との言葉を実現するために、青春の命を燃やしてきた。
 「国士」というと、大時代的な印象があるが、そこには、青年たちへの、戸田の限りない期待がこめられていた。つまり、一国の、そして、世界の民衆の幸福と平和を築きゆく人材を、彼は「国士」と表現したのである。
 その青年男子十万人が集うならば、新しき時代を建設する堅固な礎が築かれるというのが、戸田の信念であり、確信であった。
 この「国士訓」が、一九五四年(昭和二十九年)十月、『大白蓮華』第四十二号の巻頭言に掲載された時、まずその構想の実現に立ち上がったのは、当時、青年部の室長の山本伸一であった。彼は、男子部員十万の達成を深く心に期した。
9  勝利(9)
 山本伸一は、戸田城聖が元気なうちに、男子部十万人を達成し、その姿を、恩師に見てもらいたかった。
 当時、男子部員は、わずか一万人ほどにすぎなかった。しかし、彼は誓った。
 ″たとえ、誰がやらなくとも、私は、断じて、先生の構想を実現してみせる″
 彼は立ち上がった。青年部の室長として、自ら身を粉にして戦うとともに、同志に「国士十万」の達成を訴えてきた。
 この伸一の行動と叫びに呼応して、次第に、男子部の心は一つになり、部員十万の達成は、皆の誓願となっていった。
 そして、一九五七年(昭和三十二年)十二月には、男子部は部員七万八千を数えるに至った。後一年あれば、部員十万の達成ができることを伸一は確信した。
 戸田は、この年の秋に病に倒れ、その後、快方には向かいつつあったが、体の衰弱は、なお著しかった。
 五八年(同三十三年)の一月、伸一は恩師に語った。
 「先生、今年は、男子部は部員十万人の達成ができます」
 「そうか!」
 布団の上に身を起こしていた戸田は、嬉しそうに目を細めて、言葉をついだ。
 「十万人の青年が集まれば、なんでもできるな。民衆のための、新しい時代の夜明けが来る」
 「はい。男子部が十万人を達成いたしましたら、国士十万の結集を行いますので、ぜひ、ご覧になってください」
 「うん、そうだな。そうだな……」
 戸田は、何度も頷いた。
 だが、恩師は、男子部十万人の達成の報告を耳にすることなく、四月二日、世を去ったのである。
 男子部がこの目標を達成したのは、その年の九月末のことであった。
 伸一は、十万の青年の乱舞を、恩師に見てもらえぬことが、残念で仕方なかった。後継の青年が勢揃いした姿を、一目なりとも、戸田に見てほしかった。
 この十万人の青年たちが核となって、伸一とともに学会を支え、特に、彼が会長に就任してからは、三百万世帯の達成を目指して、彼と同じ心で、怒涛の前進を開始したのだ。
 新しき学会を、新しき時代を開きゆくその青年たちの、新しき未来への出発として、伸一は青年部の幹部に、代表十万の集いを提案してきた。
 それを受けて、伸一の会長就任一周年となった五月三日の本部総会で、青年部長の秋月英介が男子部十万の結集を発表したのだ。
10  勝利(10)
 凛々しき、若き十万の友の結集が発表された翌月の、六月度男子部幹部会に出席した山本伸一は、参加した青年たちに訴えた。
 「戸田先生は、国に十万の国士がいるならば、苦悩の民衆を救うことは間違いないと断言された。
 私は、この恩師の叫びを絶対に虚妄にしたくはないのです。
 今や、わが創価学会が『日本の柱』であることは、間違いない事実であります。では、その壮大なる創価学会の柱は何か。
 それは、結論的に言えば、わが偉大なる男子部であると、私は宣言したいのであります」
 伸一は、創価の旗のもとに集った青年たちの力で、日本から「不幸」と「悲惨」の文字を追放したかった。世界に平和の大波を起こしたかった。いや、戸田の弟子として、必ず、そうしなければならないと決意していた。
 そして、男子部の代表十万の結集をもって、その確かなる出発の儀式にしたいと考えたのである。
 男子部の首脳幹部たちも、伸一の心を受け止め、彼の期待に、見事に応えてくれた。
 彼らは東京での代表十万の総会を目標として、それに向かって、各方面ごとに総会を開催し、新しき時代、新しき社会を建設する青年の使命の自覚を、全男子部員に促していった。
 東京での十万結集の男子部総会に参加できるのは、当然、一部の代表に限られてしまう。しかし、出席できない青年たちも、この総会の深き意義を噛み締めながら、死に物狂いで、各地で果敢に折伏の渦を巻き起こしていったのである。
 その結果、半年前の五月三日の本部総会の時点では、二十五万人であった男子部が、なんと、この男子部総会の時には、三十五万人となっていた。
 あの日、伸一が、今年を「青年の年」とするよう提案してから、更に十万人の部員増加を達成したのだ。
 若き力が使命の光を放って爆発したのだ。心を一つにした団結の力であった。
 参加者のなかには、五人、六人と友人に弘教し、集った青年もいた。職場の第一人者になろうと誓い、会社一番の営業成績を上げ、上司を入会させて参加した青年もいた。
 この国立競技場に集った男子部員の誰もが、誇り高き人材として、集う決意をしてきた。そして、それぞれが、社会で模範となるような実証を示して、喜々として参加したのである。
 まさに、スタンドの上の「勝利」の文字は、広宣流布の使命に生きようとする創価の青年たちの、青春の勝利を象徴していた。
11  勝利(11)
 若々しき男子部の代表十万が勢揃いするこの総会は、広宣流布の新世紀への堂々たる旅立ちの、歴史的な式典であった。
 しかし、この総会を真に荘厳するものは、それを目指して、一人一人が何を成し遂げ、自身の人生に、いかなる勝利の歴史を打ち立てて集ったかである。
 どんなに盛大な催しや儀式も、見方によっては一つの″化城″にすぎない。その本当の目的は、それらを通し、一人一人が自身に挑み、勝って、わが胸中に、堅固なる″生命の城″を築いていくことにある。
 午前九時から、男子部総会の開会を前にして、会場では、音楽隊による祝賀のパレードが晴れやかに行われた。
 参加者は、その音楽隊の姿に目を奪われた。新しい制服を着用しての登場である。紺色の上下に白いベルトを締め、帽子には金色の鷲の記章が輝いていた。
 引き続き、海外の同志からの祝電が披露された。
 アメリカ、ブラジル、フランスと、世界の同志からの祝福の言葉が読み上げられるたびに、スタンドからわき起こる大拍手が、秋空高く響いた。
 山本伸一は、その拍手を控室で聞いていた。彼は午前九時前に会場に到着すると、青年部長の秋月英介や男子部長の谷田昇一らの青年部の幹部に語りかけた。
 「さあ、新しい時代の開幕だ! 戸田先生も、きっと喜んでおられるよ」
 そして、控室に入る前にスタンドを見た。既に参加者で埋まっていた。
 控室で、伸一は秋月たちに尋ねた。
 「役員は何時に集合しているの」
 谷田が答えた。
 「部門によって、多少、違いがありますが、ほとんどの部門が午前六時です」
 「そうか。食事は?」
 「各人、必ず朝食をとってから来るように、徹底してあります」
 「後で、役員のメンバーには、パンと牛乳を。それから、『大変にありがとうございました』と伝えてください。
 方面の参加メンバーで、一番早い列車は何時に着いたの」
 「まず、東北関係の第一陣として、百三十八名が午前四時二十分に上野駅に到着しました。これが最初の到着メンバーです」
 「夜行列車か。疲れているだろうな。体調の悪い人は出ていないね」
 「そういう連絡は入っておりません」
 「それは、よかった。
 みんな疲れているだろうから、今日は、私の話も簡潔にして早めに終わろう」
12  勝利(12)
 山本伸一は、矢継ぎ早に皆の状況などを質問していった。
 「あの『勝利』の文字を取りつけた設営は、何人で行ったのかい」
 谷田昇一は、手帳を見ながら答えた。
 「はい。『勝利』の設営は、全部で五十名です」
 「準備には、どれぐらいかかったの」
 「文字を書くのは、十一月二日に行いましたが、取りつけ作業は、昨日の朝からです」
 「そうか。よくできている。大変だっただろうな。皆さんに、くれぐれもよろしく」
 この「勝利」の文字の設営には、作業にあたったメンバーの奮闘があった。
 前日の朝から電光掲示板を囲むように木材を組み、その上にベニヤ板を打ちつけていった。電光掲示板はスタンドの最上部にあり、危険なために、鳶職などの男子部員を中心にメンバーを構成した。
 午後三時半にベニヤ板の取りつけは完了したが、「勝利」の文字が書かれた布を張る段になって、雨が降り始めた。しかし、布には膠を塗って、防水の処置をしていたので、雨で字が滲む心配はなかった。
 しばらく雨が上がるのを待っていたが、しとしとと降り続いていた。やむなく雨の中で作業を開始した。
 布を広げると、布には皺がたくさんできていた。
 作業の責任者は、皺を見て、アイロンをかけようかと思った。だが、文字が書かれた面だけでも、縦六メートル、横十八メートルという大きさである。ここには、そんな作業をする場所もなければ、そのための準備をすることも、もはや困難であった。
 雨の中の取りつけ作業は、思うようにはかどらず、間もなく日が暮れた。日没までには、終了する予定でいたので、競技場の照明を使用する許可などは取っていなかった。暗がりのなかで、高い電光掲示板の上の作業が続けられた。
 布はなんとか張り終わったが、メンバーは、布の皺が気にかかってしかたなかった。
 「ぼくたちは、やれるところまでやった。今夜は、ともかく、明日の総会の成功を祈ろうじゃないか」
 作業の責任者が言った。
 その夜、彼らは、総会の成功を祈って唱題し、当日は、午前五時に会場にやってきた。やがて、太陽が昇った。朝の光に照らされた「勝利」の文字を見ると、布にあった皺が、なくなっていた。雨が皺をきれいに消してくれたのである。
 「諸天も協力してくれたんだ!」
 誰かが叫んだ。歓声があがった。
13  勝利(13)
 「勝利」の文字の皺は解決したが、新たな問題が持ち上がった。
 文字を書いた布が少し短く、ベニヤ板を完全に覆いきれず、下の方は板が露出してしまった。
 これでは、どうにも不格好である。
 運営にあたっていた青年部の幹部が、機転を働かせて言った。
 「ここにも、何か布を張ろう」
 ところが、布は、濃紺のものしか調達できないという。色の組み合わせとして不安はあったが、ともかく作業に取りかかった。作業は迅速であった。間もなく布張りは完了した。
 少し離れたところから眺めてみると、下に濃紺の布が張られたことで、全体が引き締まり、「勝利」の文字がくっきりと浮かび上がって見えた。
 午前七時三十分には、すべての準備が終わった。
 参加者の入場が始まった。スタンドは次第に人で埋まり、八時三十分にはいっぱいになった。
 運営の中心になっている青年部の幹部は、一安心して、スタンドを見渡した。参加者は黒っぽい背広を着ている人が多いために、スタンド全体が黒く、沈んで見えた。
 晴れの代表十万が集った儀式だけに、もっと華やかな雰囲気がほしかった。
 さっそく、何人かの幹部で相談した。しかし、開会時刻が迫っていた。
 ある幹部が言った。
 「スタンドの下半分の席にいるメンバーは、上着をとってもらったらどうでしょうか。今日は、総会ということで、皆、白いシャツを着ているので、遠くから見ると、ツー・トーン・カラーのようになると思うんですが……」
 すぐに、その案を実行に移してみた。
 全体を見渡すと、白い輪と黒い輪が、スタンドいっぱいに広がった。華やかな感じになった。
 総会を大成功させようという青年たちの一念が、次々に知恵となって発揮されていったのである。
 この日は、多くの大学教授や作家、各新聞社の編集局長など、各界から百人ほどの来賓が出席していた。学会の真実の姿を知ってもらおうとの思いで、青年部が招待したのである。
 その来賓も、九時半ごろには、入場が完了した。
 晴れ渡った大空に包まれて、集い合った崇高な使命を胸にもつ青年たちは、世紀を開く歴史の瞬間を、固唾を飲んで待っていた。
 午前九時四十五分、予定より十五分早く、新世紀への旅立ちとなる第十回男子部総会は幕を開いた。
14  勝利(14)
 青年部長の秋月英介らに先導され、会長の山本伸一をはじめ、理事たちがグラウンドに姿を現した。
 天空に響けとばかり、青年たちの喜びの大拍手が、わき起こった。
 号砲が轟き、音楽隊の奏でるファンファーレが、さわやかに鳴り渡った。
 入場式の開始である。音楽隊の演奏に合わせ、代表による、十四列七十人縦隊の梯団が、続々と入場してきた。一糸乱れぬ堂々たる行進である。
 背広の下にはいた、揃いの白いトレーニングパンツがまばゆかった。
 彼らは、この行進を通して、人類の幸福と世界の平和という崇高な目的に向かって、心を一つにした、若人の団結の姿を表現したかったのであろう。
 皆、生き生きとした顔で手を高く振り上げ、力強くトラックを踏み締めて、胸を張って行進していった。
 この日のために、彼らは、十月の二十二日から、各部(総支部)ごとに、荒川の土手や晴海埠頭などに集まって、何度も練習を重ねてきた。
 皆、当初は、行進といっても、ただ、歩くだけのことではないかと思っていた。しかし、実際に練習を始めてみると、全く歩調も歩幅も合わず、列も乱れた。メンバーは、行進が思っていた以上に難しいことを痛感した。
 ″どうせ、やるなら、日本一の行進をして、我らの心意気を天下に示そう!″
 誰もが、そんな思いをいだき始めた。
 彼らは、最高の行進を目指して、練習のたびに、ひたすら歩いた。足も、腕も痛くなった。
 しかし、そのなかで、それぞれが多くのことを学んだようだ。
 ある人は、皆で一つの物事を仕上げるには、自分のことだけを考えるのではなく、それぞれが互いに周囲の人を気遣うことの大切さを、身をもって知った。
 また、ある人は、単調に思えることでも、それを完璧なものにするには、苦労と工夫が必要であり、それは、人生のすべてに通ずることを感じ取った。
 山本伸一は、特設された壇上で、行進して来るメンバーに、時には会釈し、時には大きく手を振って、励まし続けた。
 入場行進は、約三十分にわたって繰り広げられ、メンバー一万三千人がフィールドに整列した。
 戸田城聖が、一九五四年(昭和二十九年)の十月に「国士訓」(青年よ国士たれ)を発表し、民衆を救済しゆく十万の青年の誕生を熱望して以来満七年、今、ここに、男子部の代表十万人が、威風堂々と勢揃いしたのである。
15  勝利(15)
 青年たちの頭上には、秋晴れの空が広がり、太陽が燦々と輝いていた。
 壇上では、「経過報告」が始まった。
 一九五一年(昭和二十六年)七月の男子青年部の結成から、この日の代表十万人の総会に至るまでの経過が、簡潔に語られた。
 「……いまだ社会は、混沌たる様相を呈していた、男子青年部結成の年の秋、戸田先生は『青年訓』をもって、私たち青年部の行く手を、明確に示してくださいました。
 すなわち『世界の大哲・東洋の救世主・日本出世の末法御本仏たる日蓮大聖人の教えを奉じ、最高唯一の宗 教 の力によって、人間革命を行い、人世の苦を救って、各個人の幸福境涯を建設し、ひいては、楽土日本を現出せしめんことを願う者である』と。
 恩師のこの叫びにより、私たちは、民衆を救済しゆく地涌の菩薩の使命を自覚し、広宣流布に立ち上がったのであります。
 更に、先生は、昭和二十九年十月、『国士訓』をもって、利己主義の人が多きこの社会にあって、国を憂い、大衆を憂いていくなかにこそ、仏法を持った真実の青年の生き方があることを教えてくださいました。
 そして、そのなかで、十万の″国士″の誕生を待望されたのであります。″国士″とは、社会を、そして、国を救う指導者ということです。これに応えて、まず一人立たれたのが、会長の山本先生でありました。
 以来、男子部は、山本先生に続かんと、『青年訓』の実践と、『国士訓』に示された十万の″国士″の結集を目標として、毎年、総会に集ってまいりました。
 しかし、その戸田先生は逝去され、十万の青年の姿を、お目にかけることはできませんでした。だが、先生逝いて三年有余、後継の愛弟子たる会長山本先生のもとに、本日、十万の青年が集ったのであります。
 ここに集った私たち創価学会男子部こそ、この日本に、そして、世界に、幸福と平和をもたらす、若き指導者であると確信いたしますが、皆さん、いかがでしょうか!」
 怒涛のような大拍手がわき起こった。新しき時代、新しき社会を担いゆく十万の若人が、未来へと旅立つ、誓いの拍手であった。
 青年たちの多くは貧しかった。地方から、集団就職で上京し、商店や町工場、建築現場などで働く人びとも少なくない。
 その青年たちが、一国を、世界を救済しようと、立ち上がったのだ。
 それは、民衆が社会の主役となる、人類史の地殻変動の瞬間でもあった。
16  勝利(16)
 「経過報告」に続いて、戸田城聖の「国士訓」(青年よ国士たれ)が、代表によって朗読された。
 「われらは、宗教の浅深・善悪・邪正をどこまでも研究する。文献により、あるいは実態の調査により、日一日も怠ることはない。いかなる宗教が正しく、いかなる宗教が邪であるか、また、いかなる宗教が最高であり、いかなる宗教が低級であるかを、哲学的に討究する……」
 山本伸一は、恩師戸田城聖をしのびながら、朗読の声に耳を澄ましていた。
 「……諸君よ、目を世界に転じたまえ。世界の列強国も、弱小国も、共に平和を望みながら、絶えず戦争の脅威におびやかされているではないか。
 一転して目を国内に向けよ。政治の貧困・経済の不安定・自然力の脅威、この国に、いずこに安処なるところがあるであろうか。『国に華洛の土地なし』とは、この日本の国のことである。
 隣人を見よ! 道行く人を見よ! 貧乏と病気とに悩んでいるではないか」
 日本の、更には、世界の民衆を思う、恩師の熱い心が、伸一の胸にびんびんと響いてきてならなかった。
 「……『不幸』よ! 汝はいずこよりきたり、いずこへ去らんとするか。目をあげて見るに、いま、国を憂い、大衆を憂うる者はわが国人に幾人ぞ。国に人なきか、はたまた、利己の人のみ充満せるか。これを憂うて、吾人は叫ばざるをえない、日蓮大聖人の大師子吼を!
 『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず
 この大師子吼は、われ三徳具備の仏として、日本民衆を苦悩の底より救いいださんとのご決意であられる。
 われらは、この大師子吼の跡を紹継した良き大聖人の弟子なれば、また共に国士と任じて、現今の大苦悩に沈む民衆を救わなくてはならぬ。
  青年よ、一人立て!
  二人は必ず立たん、
  三人は また 続くであろう。
 かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである。
 青年は国の柱である。柱が腐っては国は保たない。諸君は重大な責任を感じなくてはならぬ。
 青年は日本の眼目である。批判力猛しければなり。眼目破れてはいかにせん。国のゆくてを失うではないか。諸君は重大な使命を感じなくてはならぬ……」
17  勝利(17)
 「国士訓」(青年よ国士たれ)の朗読は続いた。
 「青年は日本の大船である。大船なればこそ、民衆は安心して青年をたよるのである。諸君らは重大な民衆の依頼を忘れてはならぬ。
 諸君よ! ……」
 「国士訓」は、戸田城聖の魂からほとばしる、熱き救国の叫びであった。後継の青年への、全幅の信頼と期待の叫びであった。
 この「国士訓」が、青年時代の山本伸一の生命を揺さぶり、大使命を自覚させ、民衆とともに進む創価の青年運動の渦を巻き起こしていったのである。
 戸田ほど、民衆を愛し、民衆の幸福のために尽くした指導者はいない。
 ここに脈打つ、戸田の民衆救済の心こそ、日蓮大聖人の御精神であり、創価学会の永遠の精神にほかならない。伸一は、その実践に彼の全生涯をかけようとしていた。
 「国士訓」の朗読が終わると、男子部長の谷田昇一が登壇した。「男子部長決意」である。
 谷田は、叫ぶような口調で語り始めた。
 「本日、ここに、全国男子青年部員を代表し、国を憂い、民衆の苦悩をわが苦悩として、″国士″と任ずる精鋭十万人が、結集いたしました。
 私たちが人生の師と慕う山本先生のもとに、関東を中心に全国の代表十万人が集い、こうして、日本の民衆の救済と世界の平和のために、出発の式典ができましたことは、われわれにとりまして無上の光栄であります。
 山本先生は、恩師戸田先生の心をわが心とされ、大仏法をもって、日本の民衆の幸福の道を開き、広く世界の平和の道を開かれました。そして、私たち男子部が後に続き、世界へと雄飛する日を待ち望んでおられます。
 ″理想に生きて、われ死なん″とは、私たち男子部の確信であります。日本、東洋、更に、世界の平和と救済という最高の大理想に向かって、いよいよ私たちが、旅立つ出発の時がまいりました。
 職場、社会にあって、一人一人が人間革命の実証を示しながら、大慈悲の旗を翻し、本日より、広宣流布に邁進してまいろうではありませんか」
 烈々たる気迫にあふれた決意の表明であった。
 そこには、民衆のため、平和のために献身しようとする、若人の気概が脈打っていた。この創価の青年たちの息吹と情熱が、戦後の日本の多くの若者を覚醒させ、新しき時代を建設する精神の渦潮となって、社会を包んでいったのである。
18  勝利(18)
 壇上には、青年部長の秋月英介が立った。
 彼は、一言一言、噛み締めるように話し始めた。
 「……戸田先生が『国士訓』を発表されて間もないころ、山本先生は、戸田先生に、こう言われておりました。
 『必ず十万の青年を結集いたします。どうか、見ていてください』
 当時、まだ、男子部は、一万人を超えたにすぎないころでありました。
 この山本先生の一念が、この一言が、本日の十万結集の原動力となっていったのであります。同様に、今後の日本、世界の民衆の救済と平和の実現も、私ども一人一人の一念に、すべては、かかっていると思うのでございます。
 十万の結集は、『十方』すなわち、全世界、全宇宙に通じ、また、『十法界』すなわち、十界の全衆生に通ずると思います。
 ゆえに、ここに集った、この十万の私たちの手で、全世界の民衆を、一人も残らず、絶対に幸福にしていくことを、宣言しようではありませんか」
 この呼びかけに呼応し、万雷の拍手が轟いた。
 秋月は、最後に「私たちは、何があっても、絶対に同志を裏切ることなく、おのおのの立場で、それぞれの分野で力をつけ、日本の、世界の柱になっていくことを誓い合い、私のあいさつといたします」と言って、話を結んだ。
 山本伸一は、燃え上がるかのような青年たちの心意気に、新しき時代の到来を感じていた。
 ついで、日達上人の講演となった。
 日達上人は、第十回の男子部総会の開催を祝福した後、東西両陣営の対立の激化や国内の物価高など、社会の現況について述べ、学会の青年の使命に言及していった。
 「こういうとき、この国を救うのが、わが創価学会の青年部であるのであります。時代の先覚者であり、時代の救済者である重大なる責任は、いまこそ諸君の双肩にかかっておるというべきであるのであります。
 では、なにをもって、この五濁乱漫の時代を救うかと申しますと、本仏の慈悲をもって救うのであります……」
 そして、末法の御本仏の慈悲を信受した、この十万の青年が大仏法を流布し、その慈悲をもって、世界を包むことが、人類を救う唯一の道であると訴えた。
 更に、世界の大国は武力に走っているが、歴史を振り返れば、武力によって真実の平和を築けないことは明白であると語った。
19  勝利(19)
 日達上人は、更に妙法の慈悲の「泉」をもって武力に抗し、世界の平和を実現していくことが大切であると強調し、こう力説した。
 「いま、その水をくみとるところの大将として、創価学会の会長山本先生がある。そのあとにつぐ十万の諸君は、堂々一致団結して、この水をくみとり、日本はおろか世界のすみずみまでもこれを散布して、どうぞ世界平和の実現を期していただきたいと存ずるのでございます」
 日達上人は山本伸一に、学会の青年たちに、世界の平和という大聖人の大願の実現を、切に期待していたのであろう。
 伸一は、強く拳を握り締めて、彼方を仰いだ。
 澄み渡る空に、「勝利」の文字がくっきりと浮かんで見えた。
 それは、戸田城聖の遺命となった十万の青年の集いを実現し、青年部の室長として最後の仕事を成就した伸一の、勝利を示すかのようでもあった。
 また、その文字は、広宣流布、すなわち、人類の幸福と平和の実現に旅立つ、伸一と青年たちの勝利への誓いでもあった。
 壇上では、副理事長の十条潔、そして、理事長の原山幸一のあいさつが続いていた。
 伸一は、無限の大空に戸田の姿を思い描いた。
 ″先生! 伸一は今、先生との誓いを一つ果たしました。先生の御精神を体した、十万の若人の代表をご覧ください″
 彼の胸いっぱいに、喜びの笑みを浮かべ、頷く恩師の顔が広がった。
 彼は、この青年たちとともに、二十一世紀の平和へと旅立つことを思うと、胸が高鳴るのを覚えた。
 ――行く手には、嵐の峰が、怒涛の海が待ち受けていよう。毎日が、悪戦苦闘の連続であるに違いない。しかし、進まねばならない。世界の民衆のために。
 それが、戸田の弟子として、伸一が選んだ、彼の人生の行路であった。
 「会長講演……」
 司会の声が響いた。
 伸一が立ち上がると、雷鳴のような大拍手が轟き、やがて、競技場を静寂が包んだ。十万人の青年の眼が彼に注がれ、獅子吼の瞬間を待った。
 「十万の代表が集った、この第十回男子部総会の開催を、私は、諸君とともに心から喜び合いたいと思います。
 もし、戸田先生がおられたならば、どれほど、お喜びになられるかと思うと、さきほどから、胸がいっぱいでありました……」
20  勝利(20)
 山本伸一は、まず、世界を指導すべき大国が、原水爆によって、全人類を恐怖と不安のどん底に叩き落としていることを述べるとともに、国内にあっても、本来、民衆を守るべき指導者が、権力の虜となっていることを指摘していった。
 そして、その原因に言及していったのである。
 「なぜ、世界も、日本国内も、不幸と悲惨が絶えないのか。それは、日蓮大聖人の大仏法を鏡として拝すれば、すべては明らかであります。
 その原因は、いずれの指導者にも、社会を支えゆく民衆にも、確かなる指導理念、哲学がないことにあります。仮に、哲学をもっていても、自他ともの幸福を実現しゆく生命の大哲学ではありません。
 そのなかにあって、私どもは、自己の人間革命と、社会、世界の平和を可能にする、完全無欠なる日蓮大聖哲の大生命哲学をもっております。この大生命哲学こそ、人類を救済しゆく、最高の指導原理であるということを、声を大にして、叫び続けていこうではありませんか」
 賛同と誓いの大拍手が、競技場の空高く舞った。
 拍手がやむのを待って、伸一は言葉をついだ。
 「願わくは、諸君が、それぞれの立場で、全民衆の幸福のため、広宣流布のために、大仏法の正義を証明する、人生の勝利者になっていただきたいことを念願するものでございます。
 私は、ただただ、学会の宝であり、人類の希望である、諸君の成長と健闘を祈っております。
 以上、簡単ではございますが、一言、ごあいさつ申し上げ、講演に代えさせていただきます。大変に、ご苦労様でございました」
 伸一の話は、簡潔であった。彼は、哲学不在の時代に、民衆の幸福と人類の平和を築く、真実のヒューマニズムの指導原理が日蓮仏法にあることを、宣言したのである。
 十万の青年による「黎明の歌」の合唱が始まった。
 ああ若き血は燃えたぎる
 いま黎明の とき来り
 貧しき民を救わんと……
 意気天を衝くばかりの、大合唱である。
 合唱が終わると、伸一はトラックを一周した。拍手と大歓声が起こった。
 彼は手を振り、一人一人に視線を注ぐかのように、青年たちを見ながら、心で語りかけていた。
 ″戦おう、友よ! 人類の新しき歴史の幕を開くために。この限りある一生を永遠に輝かせゆくために″
 空は青く澄み渡り、青年たちの無限の未来を象徴しているかのようであった。
21  勝利(21)
 意気天を衝くこの総会では、最後に、男子部長の谷田昇一の音頭で、勝鬨をあげた。
 「エイ、エイ、オー!」
 満々たる闘志にあふれた十万の若人の雄叫びが、一つになって、神宮の森にこだました。
 日本の国に、今、厳然たる柱は立った。彼らは二十一世紀に向かって、山本伸一を先頭に、堂々たる平和への行進を開始したのだ。
 それは、広宣流布の歴史に、いや、人類の歴史に、永遠に残るであろう壮挙であった。
 前年の新安保条約の反対運動には、学生たちの燃え上がる情熱が見られたが、それとても、永続的なものではなかった。
 安保が最終的に自然承認されると、若者たちの心は政治から離れ、更には、未来の社会を担おうとする気概も、次第に喪失していったといってよい。
 そして、高度経済成長と相まって、拝金主義の風潮が高まっていくとともに、いわゆる「レジャー・ブーム」といわれる現象なども生まれていった。
 レジャーもよい。だが、そこにばかり関心が向けられ、自己の楽しみを追い求めることに終始してしまえば、世界の明日を、誰が担っていくのか。
 青年には、時代と社会を担い立つ責任がある。しかし、青年たちに、その使命を自覚させることのできる指導者も、民衆の幸福と平和を約束する指導原理を示せる指導者もいなかった。
 そこに、不世出の大指導者である戸田城聖に代わって、青年たちの進むべき大道を開く、伸一の使命もあった。
 ここに集った青年たちは新しき人間世紀の幕を開く主体者として、生涯、広宣流布に生き抜くことを固く心に誓い、それを自身の誇りとし、誉れとしていた。
 歴史を振り返れば、国家を思い、理想的な社会を目指して、改革に立ち上がった青年たちは多くいた。
 だが、その大半は、武力による改革であった。
 創価の青年が、彼らと、明確に一線を画すのは、武力とは対極に立つ精神の力をもって、人間の尊厳を守り、民衆の幸福と世界の平和を打ち立てようとしていたことである。
 それは、人間革命という人間自身の生命の変革を機軸とした、平和裏に漸進的な社会の改革であり、民衆が主役となる時代の建設であった。
 この十万人の総会は、まさに、新たな人間の復権の運動の勃興を象徴する歴史的な集いといえた。
 ところが、この第十回の男子部総会の開催を報じた、一般の新聞は一紙もなかった。
22  勝利(22)
 女子部総会は、男子部総会の一週間後の十一月十二日の日曜日に、横浜・三ツ沢の競技場で開催された。
 この会場は、四年前の九月八日、戸田城聖があの歴史的な「原水爆禁止宣言」を行った場所であり、女子部にとっては、初の野外での総会であった。
 この日も、空は美しく晴れ渡っていた。メーンスタンドの正面には、男子部総会と同様、明年のテーマである「勝利」の文字が掲げられていた。
 午前十一時三十分、会長山本伸一をはじめ、理事たちが入場し、第九回女子部総会の幕が開かれた。
 入場行進が始まった。白と赤の真新しい制服に身を包んだ、六百名の鼓笛隊を先頭に、清楚な黒のスーツ姿の代表一万一千人によるパレードである。
 鼓笛隊の奏でる軽やかな調べに乗って、さっそうと歩みを運ぶ女子部員の姿には、社会の希望の光となり、新しき時代を築こうとする気概があふれていた。
 約二十分にわたる入場行進が終わると、競技場は、スタンド、グラウンドを合わせて、八万五千人の女子部員で埋まった。
 当初、女子部は、この総会は、関東を中心に各地の代表七万人が参加して行う予定でいた。
 関東の女子部員は、結集に力を注ぎ、一人一人のメンバーの個人指導にあたるとともに、大きな布教の波を起こしてきた。
 その結果、関東各地の全女子部員の総会参加の息吹は、日ごとに高まり、参加希望者の数は、七万人を大幅に上回ってしまった。
 そこで、急きょ、参加人数を増やし、八万五千人とした。しかし、それでも、全参加希望者を収容することはできず、幹部は、むしろ、参加を控えてもらうために、説得に歩くという一幕もあった。
 女子部が使命に燃え、ひとたび立ち上がった時に、それがどれほど大きな力を発揮するかを物語るものといえよう。
 ここで、女子部歌「希望の歌」の合唱が行われた。
 いざ新しき 時は来ぬ
 希望に燃える 若人よ
 ………… …………
 さわやかな、希望と歓喜の歌声が大空に広がった。
 次いで、女子部企画部長の渡道代が登壇し、「現況報告」が始まった。
 「……ただ今、関東を中心に、全国の女子部代表八万五千人が、ここに集い合うことができました。
 一言に八万五千と申しますが、若き世代の女性が、同じ目的に胸を弾ませ、これだけ整然と集ったことが、果たして、歴史上、あったでありましょうか」
23  勝利(23)
 渡道代は、澄んだ声で、この日を迎えるまでの経過を語っていった。
 「『青年の年』とうたわれました輝かしい本年、私たち女子部は、いまだかつてない、目覚ましい発展を遂げてまいりました。
 昨年の第八回女子部総会の折には、十五万人であった女子部員が、今年の五月三日の本部総会では、十八万人に達し、更に、現在、二十六万四千人を数えるに至ったのであります。
 また、女子部の手による布教も、月平均六千世帯を超え、座談会にあっては花となり、地区にあっては希望の光となって、各部の皆様の信頼と期待に応えてまいりました。
 さて、本日は、新しき世紀に向かって、女子部がスタートする日であると同時に、近くは、明年の『勝利の年』への出発の日であります。
 山本先生は、常々、『女子部は教学をもって、信心を貫いていきなさい』、また『家庭、職場で、太陽のように光り輝く人に』と指導されております。
 社会を、また、世界を救うといっても、その確かなる土台は、人生の哲学をもち、信心を貫き、自己自身を人間革命することにあります。そして、自分がいる家庭、職場に、喜びと希望の火を点じていけるかどうかに、かかっているといえます。
 私たちは、彼方に理想を追い求めるのではなく、自己を輝かせ、自分が立っている大地ともいうべき、家庭、職場にあって、信仰の実証を示し、社会の灯台となっていこうではありませんか」
 渡は、最後に、悩める人びとを救うために、朗らかに歓喜の前進を開始しようと呼びかけ、話を結んだ。
 続いて、女子部長の抱負に移った。
 女子部長の谷時枝は、総会が晴れやかに開催できた喜びを述べた後、女性の幸福とは何かについて語っていった。
 「本年、女子部は、結成から満十年を迎えることができましたが、その間に、戸田先生、山本先生が、一貫して指導されてきたことは『女子部は幸せになりなさい』ということでした。
 では、私たちにとって、幸せとは何か――このことについて、私自身、考え、悩んでまいりましたし、また、皆で、何度も、話し合いもいたしました。
 そして、私が今、確信しておりますことは、幸せとは、過去にあるのでも、未来にあるのでもなく、人間革命の大道をまっしぐらに突き進んで行く、現在の境涯のなかにあるということでございます」
24  勝利(24)
 谷時枝をはじめ、女子部の首脳メンバーが、この結論に達するまでには、長い紆余曲折があった。
 戸田城聖から「女子部は幸せになりなさい」との指導を受けたメンバーの多くは、最初、誰もが、経済的な豊かさや結婚を考えた。
 当時は、皆、貧しかったし、女性の幸せは結婚にあると見るのが、社会の一般的な認識でもあった。
 しかし、彼女たちは、結婚していった友人や、既婚女性の姿を見るうちに、結婚は必ずしも、女性の幸せを約束するものではないと思い始めた。
 ――熱烈な恋愛の末に結ばれた夫婦が、やがて、不和で悩むケースもある。
 あるいは、経済的にも、社会的な地位にも恵まれた男性を夫にもっても、やはり、夫婦の不和、子供の病気や非行に苦しむ婦人もいる。また、経済的な豊かさといっても、それが永続するという保証はない。
 つまり、結婚というかたちが、人生の幸・不幸を決するのではなく、どんな悩みや試練にも負けない自分自身を築くことが、幸福の要諦ではないのか。
 こう考えた時、彼女たちは、戸田城聖から教えられた「相対的幸福」と「絶対的幸福」という問題に、立ち返らざるを得なかった。
 「相対的幸福」とは、経済的な豊かさや社会的な地位など、自分の外の世界から得られる幸福である。そんな幸福は、ひとたび環境条件が変われば、いともたやすく崩れ去ってしまう。
 それに対して、「絶対的幸福」とは、いかなる困難や試練にも負けることなく、生きていること自体が楽しくてしようがないという境涯の確立である。
 彼女たちは、戸田が、山本伸一が、常に訴えてきた″幸せ″とは、この「絶対的幸福」にあったことを知ったのである。
 そして、具体的には、日々、力強く唱題に励みながら、″妙法″という確かな生命の軌道に乗り、自身の人間革命を目指して、生き生きと生活に、学会活動に取り組んでいくなかに幸福があるとの、結論となっていった。
 一人一人のメンバーは、皆、それぞれ、深刻な悩みを抱えていた。しかし、彼女たちは、真剣に信心に励み、広宣流布の使命に生きようとしている時には、生き抜く喜びを実感していた。それは「絶対的幸福」に至る、確かなる生命の手応えといってよい。
 彼女たちは、自分の幸福だけを追い求めるのではなく、友人など、他者の幸福のため、社会のために生きる人生にこそ、最高の歓喜と充実があり、そこに自分の本当の幸福もあることに気づいたのである。
25  勝利(25)
 この女子部総会を前にして、女子部長の谷時枝を中心に、企画部長の渡道代などの首脳幹部が集まり、女性の幸福について、話し合いを重ねてきた。
 そうして導き出された結論が、この日の谷女子部長の話であった。
 彼女は、はつらつとした声で、語りかけていった。
 「幸福とは、決して、外に向かって求めるものではありません。
 山本先生は『革命とは、命を革めることである』と指導されておりますが、宿命に押し流されてしまう自分を、弱さに負けてしまう自分を、いかに革命していくかが、いっさいの根本であります。
 なぜなら、幸福の源泉は自身の胸中に、一念にこそあるからです」
 それは、まさに谷時枝の生命の実感であったともいえよう。
 彼女は、若くして人生の辛酸をなめ、真実の幸せとは何かを、肌で感じてきた女性であった。
 ――時枝は、戦前、九人兄弟の末っ子として東京で生まれた。父は銀行の支店長をしていたが、彼女が五歳になる前に他界した。
 それを契機に、一家は不幸のどん底に叩き落とされる。たくさんの子供を抱えて、母親は奮闘するが、やがて屋敷も失い、食べるに事欠くような生活が続く。
 そんな暮らしのなかでも、母親は彼女を旧制の女学校に進学させてくれた。しかし、虚弱であった時枝は、やむなく女学校を中途退学し、静養しなければならなかった。
 やがて、タイプを習い、兄のいる中国大陸に渡って役所勤めをした。だが、そのころから胸を病み、また、戦争も激しくなっていった。
 ″どうせ死ぬなら、せめて日本で死にたい″と、母のいる東京に戻った。
 空襲による地獄のような日々が続き、ようやく迎えた終戦も、新たな苦悩の始まりであった。食糧難、経済苦、そのうえ、母親が癌にかかり、終戦から四年後に、息を引き取ったのである。
 愛する母を亡くした彼女は、心の支えを失った。そのうえ、自身の結核も悪化していた。人生に、なんの希望も見いだせなかった。
 一九五一年(昭和二十六年)、勤めていた会社の先輩にあたる女子社員から、初めて仏法の話を聞いた。
 何度か座談会にも出席した。集って来る人たちの多くは、貧しかったが、その人たちが、皆、朗らかであり、そして、強く、明るく生きている姿に、次第に魅了されていった。
 ″こんな私でも、幸せになれるのなら……″
 谷は入会を決意した。
26  勝利(26)
 入会した谷時枝の、御本尊の御安置にやって来たのが、後に山本伸一の妻となる、春木峯子であった。
 当時、峯子は女子部の班長であった。谷の方が年上ではあったが、峯子は谷を包み込むように励まし、信心の基本を教えてくれた。
 信心に励むようになると、谷の結核は快方に向かい始めた。霧に閉ざされたような彼女の青春に一条の希望の光が差した。
 彼女は、自分の生い立ちや闘病を思うと、宿命というものを考えざるを得なかった。そして、その宿命の鉄鎖からの解放がない限り、幸せはないことを感じた。それゆえに、ひたぶるに信仰に励んだ。
 戸田城聖は、両親もなく貧しい暮らしのなかで結核と闘い、必死に生きようとする彼女のことを、いつも心にかけていた。ある時、戸田は、谷に言った。
 「どんなに貧乏しても、心が貧しくなってはいけないよ」
 彼女は、その言葉を、深く心に刻んだ。
 やがて、谷は、タイピストとして独立し、家で仕事をすることにした。
 借りていた三畳一間を事務所にしての出発であった。でも、最初は、仕事はなかった。唱題し、知恵を絞り、自分で広告をつくって、近所の家の塀などに張らせてもらった。
 仕事は、次第に軌道に乗り始めた。すると、学会活動と仕事の両立で、悩まねばならなかった。
 その時、親身になって、相談に乗り、力強く励ましてくれたのが、青年部の室長の山本伸一であった。
 谷は、伸一の指導を受けて、仕事も、学会活動も、絶対に負けてはならないと決意した。
 いかに仕事が多忙でも、夕方になると、必ず、会合や友の激励に出かけた。そして、夜が更けて、再びタイプライターを打ち、明け方近くまで仕事に挑んだ。
 苦しく感じることもあった。辛いと思うこともあった。しかし、彼女には、それに勝る、充実感と歓喜と躍動があった。
 彼女の努力は実を結び、何人かのタイピストを雇うまでになっていった。
 また、女子部のなかにあっても、頭角を現し、女子部の最高幹部となり、戸田が逝去した直後の一九五八年(昭和三十三年)五月三日の本部総会で、女子部長に就任する。
 だが、彼女は思い悩む。
 ″周囲には大学を出た優秀な人材がたくさんいる。それなのに、家庭的にも恵まれず、学歴もなく、そのうえ病弱な自分のような者が、女子部長になってよいのだろうか……″
27  勝利(27)
 谷時枝は、女子部長として真剣に活動に取り組んではいたが、自信のなさが、しばしば表れた。
 それは、一見、謙虚さのようにも見えたが、心の迷いから生じていた。
 そして、そこには、自分の生い立ちや学歴といった問題にこだわり、自己を卑下し、悲哀から脱し切れずにいる生命の弱さが潜んでいた。
 その自分の生命を変えていくことができないのでは、なんのための仏法かわからなくなってしまう。
 また、ひとたび女子部長となったからには、すべてを乗り越え、皆のために、まっしぐらに前進していかなくてはならない。リーダーには、その責任がある。
 だが、そこに迷いがあるのは、厳しく言えば、透徹した使命の自覚がないということである。
 山本伸一は、谷の気持ちをよく理解していた。それだけに、自在に力を発揮できないでいる谷の弱さを、断ち切ってやりたかった。
 ある時、谷は、伸一のところへ、女子部長として、いかに活動を進めればよいか、相談にやって来た。
 伸一は、あえて、厳しい口調で言った。
 「自分自身の心の指揮も満足にとれない者が、女子部という大軍の指揮など、とれるわけがない。結局、自分に負けているだけだ。
 自分に力がないと思うなら、必死になって祈り、動き、力をつけることだ」
 その言葉は、谷の心に突き刺さった。彼女は、自分の弱さに気づいた。
 谷は、毅然として、顔を上げた。その瞬間、迷いはなくなっていた。
 以来、彼女の活躍は目覚ましかった。女子部は急速に発展していった。
 伸一は、谷にねぎらいの心を込めて和歌を贈った。
 悠々と
   高き理想に
     指揮ぞとる
  君が生命に
    諸天もたたえむ
 谷は、使命に生きる歓喜を全身に感じていた。
 彼女は思った。
 ″女性の、人間の幸せとは、学歴や財産、あるいは結婚といったことで決まるものではない。すべては、人間として、自分に勝つ強さをもつことから始まる。それがあってこそ、結婚生活も、幸せに満ちたものにすることができる。
 そして、日々、仏道修行に励み、自分を磨きながら、仏の使いとして友の幸福のために献身できること自体が、喜びであり、幸せなのだ″
 女子部総会で彼女は、その実感を語ったのである。
28  勝利(28)
 女子部長の谷時枝の話は続いた。
 「いよいよ、私たちは、明年『勝利の年』のスタートを切りますが、私たちが勝たなければならないのは、自分自身に対してではないでしょうか。
 自分に勝つならば、いっさいに勝てます。そして、″勝利の人″には、人間の輝きがあります。その人格の輝きこそが、友を触発し、幸せへと導く光彩となります。
 ともどもに、弱い自分と戦い、折伏に、唱題に、教学に挑戦し、この一年で、『ここまで成長いたしました』と報告できる一人一人になっていくことを誓い合い、私の話とさせていただきます」
 嵐のような拍手が、競技場の空に轟いた。
 自分に勝つ――谷はこう語ったが、その意味は深い。実はそこに、いわゆる「女性解放」のキーワードがあるといえる。
 社会運動家の平塚らいてう(雷鳥)は、一九一一年(明治四十四年)九月、機関誌『青鞜』の発刊に際して、こう述べている。
 「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
 今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」
 そして、「私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取戻さねばならぬ。
 『隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ』」と叫ぶ。
 彼女のいう「我が太陽」「潜める天才」とは、人間の″仏性″″大我″ともいうべきものといえよう。
 彼女は記している。
 「釈迦は雪山に入って端座六年一夜大悟して、『奇なる哉、一切衆生、如来の智恵徳相を具有す。又曰く、一仏成道して法界を観見するに、草木国土悉皆成仏す』と。彼は始めて事物そのままの真を徹見し、自然の完全に驚嘆したのだ。かくて釈迦は真の現実家になった。真の自然主義者になった。空想家ではない。実に全自我を解放した大自覚者となったのだ」
 この″全自我の解放″が、彼女の目指した「真の自由解放」であった。それは、「偉大なる潜在能力を十二分に発揮させること」であり、その妨害となるものを、取り除かなければならないと説く。
 妨害となるものには、「外的の圧迫」や「智識の不足」もあるが、主たるものは、自身の「我」であるという。
 彼女のいう「我」とは、いわば″小我″のことであり、それにとらわれた生き方が、女性の自由解放を妨げているというのである。
 「我れ我を遊離する時、潜める天才は発現する」と彼女は訴える。
29  勝利(29)
 ″小我″から″大我″へ――これが仏法で説く、人間革命の道である。
 谷時枝は、そのために、結婚や財産など、外的なものに頼るのではなく、自己自身に勝つことを訴えたのである。
 それは、まさに、平塚らいてう(雷鳥)の主張と軌を一にするものといってよい。そして、彼女が理想とした、「真の自由解放」が創価の女性たちによって、観念ではなく、現実の姿として、日本全国に広がったのだ。
 広宣流布という、人間革命の運動に、人類の幸福と平和を実現する運動に、主体的にかかわっていくなかで、女子部の友は、己心の″大我″を開き、「元始の太陽」の輝きを、「真正の人」の光を取り戻していく道を実感したのである。
 山本伸一は、この女子部総会に、宿命に泣いてきた女性たちの、新しき「人権宣言」の叫びを聞く思いがしてならなかった。
 式次第は、青年部の幹部の指導、日達上人の講演、理事のあいさつと進んでいった。
 空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
 伸一は、四年前の九月八日、戸田城聖が、この会場で、「原水爆禁止宣言」を行った折のことを思い起こしていた。
 あの時、戸田は、体育大会の競技に汗を流す青年たちを見て、寂しさを含んだ微笑を浮かべて、伸一に言った。
 「みんな立派に育ったな。しかし、いつまで育てられるかな……」
 戸田は、できることならば、あの青年たちが見事に大成し、社会の大リーダーとして巣立つ日まで、自らの手で、育成したかったに違いない。しかし、彼は、七カ月後に世を去った。
 もし、恩師が生きていたなら、かくも立派に成長した八万五千人の女子部員の姿を見れば、心から喜んでくれたであろうと、伸一は思った。
 彼は今、戸田の弟子として、恩師に代わって、この青年たちを最後まで育て上げねばならぬ責任を、強く感じていた。
 師の心を受け継ぎ、その構想を、必ず実現させていってこそ、まことの弟子である。そして、そこに仏法の永遠の継承がある。
 女子部総会は、いよいよ会長講演となった。
 歓声と大拍手のなか、伸一が登壇した。
 「本日は、第九回女子部総会が、このように盛大に開催できましたことを、皆さんとともに、心より喜ぶものでございます……」
30  勝利(30)
 この日、山本伸一は、信仰の目的について語っていった。
 「信仰の目的とは何か。それは、ただ一つ、成仏にあります。わかりやすくいえば、永遠の幸福を確立していくことであり、何があっても崩れることのない、絶対的幸福境涯を築き上げることであります。
 さきほどから、種々、話がありましたが、常々、戸田先生が女子部に指導されていたことも、『幸せになりなさい』ということでありました。そこには、信仰の目的が要約されているといえます。
 では、どうすれば、その絶対的幸福境涯を確立することができるか。その方途を示されたのが日蓮大聖人であり、それは、御本尊への唱題以外にありません。
 簡単といえば、これほど簡単なことはないし、万人に幸福の道を開いた、これほど偉大なる仏法、大哲理はありません。
 しかし、かつて、戸田先生が会長になって、広宣流布の指揮をとられたころ、″そんなに偉大な教えならば、もっと大勢の人が、もっと早く信心をしているはずではないか″との批判がよくありました。
 それから十年がたち、今や二百万世帯を超える人が信心をするようになりました。それで、皆、納得するかと思うと、今度は、″学会員は多くなったが、有名人はあまりいませんね″と言う人がおりました。
 有名人というのは、ある道では、専門家であり、権威者である場合もありますが、有名人が必ずしも、仏法に精通しているとはいえません。
 更に、著名な学者や哲学者で、仏法を研究したことのある人でも、大聖人の仏法を学び、修行し、実践したわけではありません。
 また、有名人だからといって、万人が絶対に幸福になるという方法を示せるわけでもありません。
 有名人であれば、すばらしい人であるかのように思い、その言動をそのまま受け入れてしまう現代の風潮こそ、私は、自ら考えることを忘れた姿であり、良識が失われつつあることを物語っていると思うのであります。
 いつの世にも、学会への非難や中傷、また、無責任な批判は、必ずあるものです。むしろ、それは、御聖訓に照らして、仏法が、学会が真実であり、正義であることの証明にほかなりません。
 そうした、煙のように移ろいやすい、無責任な批判に、断じて、一喜一憂してはならないと思います」
31  勝利(31)
 幸福は、自身の胸中にある。その胸中の幸福という宮殿を開くことができる唯一の鍵は、自身の信仰しかない。
 もし、無責任な批判に紛動され、自身の幸福の道を見失ってしまうとしたら、あまりにも愚かという以外にない。
 山本伸一は、学会の″太陽″となるべき大切な女子部のメンバーに、決して、そんな失敗をさせたくなかったのである。
 伸一は、話を続けた。
 「仏法を本当に知っているのは誰か。それは、まぎれもなく、日々、信心に励んでいる、仏法を実践している私どもであります。
 したがって、皆さんは、誰に対しても、『仏法のことを一番知っているのは私たちです。教えてあげましょう』と言える人たちであります。更に、『その証拠として、私の生活を見てご覧なさい』と、言い切れるように、なっていただきたいのであります。
 ともあれ、次の時代の女性指導者は、最高の哲学をもった皆さんであるし、また、そうなっていかなければなりません。
 皆さん方には、日蓮大聖人の子供として、弟子として、仏法を持った先覚者として、東洋、世界の人びとに、仏法を流布し、幸福にしていく役割があります。
 どうか、その崇高な使命を自覚して、一人一人が、更に仏法を研鑽していっていただきたいと思います。そして、女子部は全員が教学部員になることを目標にしてはどうかと提案し、私のあいさつといたします。
 本日は、大変にご苦労様でした」
 教学は、信仰の道標である。人間の感情は、移ろいやすい。燃え立つばかりの信仰への情熱も、時には冷め、心揺らぐこともある。その時に、自らの進むべき信仰の道を照らし出すのが教学である。
 また、仏法者の生き方の根幹をなす哲学を身につけることも、教学を通して学ぶことから始まる。
 それゆえに、伸一は、若い女性たちが信仰と人生の「芯」を確立するために、教学部員になることを提案したのである。
 伸一の講演が終わると、大地を揺るがすような大拍手が轟いた。
 続いて、学会歌の大合唱となった。八万五千の友の歌声が一つに溶け合い、青空高く流れた。
 それは、使命に生きる、青春の凱歌であった。
 どの頬も紅潮していた。どの瞳にも決意の輝きがあった。どの顔も晴れやかであった。
32  勝利(32)
 学会歌の合唱の後、山本伸一は、参加者の激励のために、場内を一巡しようと立ち上がった。
 その時、彼は、来賓として招待されていた婦人部の幹部に言った。
 「女子部は勝ったね。見事に成長した。婦人部は女子部を守り、皆で応援していこうよ」
 彼が、こう語ったのは、当時、女子部出身の婦人部の幹部のなかには、女子部の後輩たちが、独自に、自由に、伸び伸びと活動を進めることに対して、快く思っていない人もいたからである。
 経験の豊富な先輩から見れば、若い世代の未熟さが目につくものであるし、また、新しい感覚や発想というのは、なかなか理解しがたいものだ。
 しかし、若い世代が未熟であるのは、当然のことといえる。むしろ、それゆえに、無限の可能性をもっているのである。
 要するに、未熟だといって、すべての可能性をつぶしてしまうのではなく、若い世代のよさを、いかに引き出していくかである。
 更に、世代の感覚は、時代を経るごとに大きく異なっていく。そして、若い世代の感覚や発想が、いつの間にか、社会の主流となっていくものであろう。
 もし、先輩の世代が、自分たちの経験や感覚を絶対視して、若い世代のセンスや斬新な発想を排斥していけば、やがて、学会そのものが、時代から取り残されてしまうことになる。
 信心という原点は不変であるが、活動の在り方は、時代の流れや世代の感覚に即して、変化させていく柔軟性が必要であろう。
 伸一は、青年たちが、新しい試みを行うことに対して、婦人だけでなく、壮年の間にも、何か批判的な空気があることを察知し、心を砕いてきた。
 しかし、かといって、会長の自分が、男女青年部の側に立って、青年たちの意見を全面的に支持し、応援することは、あえて控えてきた。
 青年が新しい流れをつくろうとするなら、自分たちの力で実績を示し、先輩たちを納得させていかなければならないことであるからだ。
 自らの手では、何も成し遂げることができず、ただ″先輩が、自分たちを認めてくれない″というのでは、甘えにすぎない。そんな惰弱なことでは、広宣流布の後継の使命を、果たせるわけがあるまい。
 伸一は、愛する後継の青年たちを、軟弱な人間にはしたくなかったからこそ、何も言わずに、じっと見守ってきたのである。
33  勝利(33)
 青年が、自分たちの力でどこまでできるか見るという育成の仕方は、戸田城聖の山本伸一に対する訓練でもあった。
 伸一は、入会当初、青年部の先輩たちの姿を見て、学会が好きになれなかった。先輩たちの多くは、権威的で威圧的であり、自らは、なんの責任も負おうとはしなかった。
 彼は、そんな姿に、いつも失望していた。
 ある時、伸一は、その思いを、戸田城聖に率直に打ち明けた。すると、戸田は言った。
 「それならば、伸一、君自身が、本当に好きになれる学会をつくればよいではないか。うんと苦労し、真剣に戦って、君の力で、理想的な学会をつくれ!」
 明快な答えであった。
 伸一は、その戸田の言葉の通り、理想的な学会をつくろうと、苦闘に苦闘を重ねてきた。
 一九五四年(昭和二十九年)の五月に、広宣流布は大文化運動であると考え、音楽隊を結成したのも、当時、青年部の室長の伸一であった。
 この時、先輩幹部や理事たちは、まったく関心を示さなかった。結局、彼が一人で、音楽隊に楽器を買い与え、今日の世界に誇る、大音楽隊がスタートしたのだ。
 また、この年の十一月、広宣流布への青年の熱と力を表現する新たな試みとして、体育大会を企画し、開催したのも伸一であった。
 これが、現在の平和文化祭の淵源となったのであるが、当時、理事たちは、こぞって反対した。
 ――そんな余計なことをすれば、布教の足が止まり、広宣流布のマイナスになる、というのである。
 戸田に相談すると、戸田は「将来のために意味があるだろうから、やりなさい」と許可してくれた。しかし、決して、伸一を庇いはしなかった。ただ彼がどこまでやるのか、じっと見ていた。
 伸一は、理事たちに、こう宣言した。
 「皆さんには、いっさいご迷惑はおかけしません。布教は、これを契機に、大きく前進させてみせます。見ていてください。
 この体育大会は、いかに大事な意義をもったものであるか、後になればなるほど、明らかになっていくと思います」
 伸一は、開催のための資金の調達をはじめ、運営のいっさいを、自分たちの手で行った。学会にも、壮年や婦人にも、なんの負担もかけなかった。
 そして、体育大会によって、青年たちの意気は大いに上がり、それが新たな活力となって、布教の大波が起こっていったのである。
34  勝利(34)
 新しき時代の幕は、青年が自らの力で、自らの戦いで、開くものだ。
 他の力によって用意された檜舞台など、本物の獅子が躍り出る舞台ではない。
 次代のリーダーたらんとするならば、その舞台は、自らの手で勝ち取る以外にない。
 今、男子部の代表十万人の結集に続き、女子部の代表八万五千人が、この三ツ沢の競技場に集い、総会を大成功させたことは、まぎれもなく、青年たちの勝利の証であった。
 過去の青年部が、いや、壮年も、婦人もできなかったことを、新しき若人の力でやってみせたのである。
 だから、山本伸一は、その健闘を称え、この席で、婦人部の幹部たちに、女子部を守り、応援するように促したのである。
 伸一は、婦人部の来賓席にいた、かつて女子部長を務め、現在、婦人部の幹部になっている石川英子に、視線を注ぎながら言った。
 「特に、女子部出身の人は、後輩に優しくね。女子部を頼むよ」
 石川は、女子部の後輩たちに対して、甚だしく傲慢であった。そのために、いやな思いをしてきた女子部員も、少なくなかったのである。
 たとえば、彼女が女子部長を退き、先輩として女子部の指導にあたっていた、一九五九年(昭和三十四年)のことである。戸田城聖の逝去の悲しみのなかから立ち上がった女子部は、広宣流布への新出発の誓いを込めて、新しい女子部の歌を作成することにした。
 そして、有志が考えに考え、何度も検討を重ねて、ようやく歌が完成した。それは、若々しい希望にあふれた歌であった。
 それまで、女子部歌としては、石川英子が作詞した歌があったが、既に古めかしく、女子部員のなかには、歌うことにためらいを感じている人もいた。
 そうしたことからも、新しい女子部の歌を待望する声は強かったのである。
 この歌が、女子部の代表幹部の会合で紹介されると、皆、大喜びし、称賛を惜しまなかった。
 その時、石川は険しい顔で、冷ややかに言った。
 「これは正式な女子部歌ではないでしょ。女子部歌というのは、私が作詞し、戸田先生が認めてくださった、あの歌だけです。それ以外に女子部歌といえるものはありません」
 新しい出発を期そうとする後輩たちの、燃え上がる心に、冷水を浴びせるかのような言葉であった。
 皆、愕然とした。
35  勝利(35)
 石川英子には、自分が中心でなければ気がすまないという、心の偏狭さがあった。
 それゆえに、後輩たちが何かを創造し、伸びていくことに、嫉妬ともいうべき感情をいだいてしまうのであった。
 また、夫を″偉くしたい″という思いも、人一倍強かった。
 彼女は、理事の石川幸男と結婚していたが、戸田城聖が逝去すると、次の会長は自分の夫なのだから、つくべき人を間違えてはいけないと、女子部の幹部に吹聴していった。夫を会長にするための画策である。
 いかに幹部になっても、人生の目的が広宣流布から名聞名利へと入れ替わってしまうならば、すべてが狂ってしまう。そして、最後は同志を苦しめ、仏法を破壊する魔性の働きとなっていくものである。
 信仰とは、自己自身との生涯の戦いであり、それを忘れた瞬間から、堕落と人生の敗北が始まる。
 彼女は、婦人部に移行してからも、横柄極まりない態度で女子部の後輩たちに接してきた。女子部が何か発案すると、鼻先でせせら笑うような態度を取り、真っ先に反対するのも石川であった。
 すると、それに扇動されて、同様に批判する幾人かの婦人部の幹部も現れた。
 山本伸一は、健気に頑張ろうとしている女子部員が、かわいそうでならなかった。
 また、せっかく信仰の道に入りながら、自分を見つめ、人間革命をしようともしない石川が、哀れでもあった。彼は、彼女の幸せのために、折に触れ、指導もしてきたが、石川は聞く耳さえ、もたなかった。
 ともあれ、伸一は、女子部が、すべての困難を跳ね返し、確固不動なる勝利の金字塔を打ち立てることを期待し、祈り続けてきた。
 その若き女性たちが、遂に、女子部の歴史上、未聞の大結集を成し遂げ、女性の幸福への道を示す、大総会を開催したのである。
 伸一は、壇上から降り、トラックを回り始めた。歓声と拍手が、怒涛のようにうねった。彼は、谷時枝をはじめ、これまで苦労し抜いてきた全女子部員を、心から称賛したかった。
 ″次代を担う、八万五千の幸福の使者よ。君たちは勝った。その頭上には、燦然たる青春の栄冠が輝いている。女子部、万歳!″
 彼は、心で、こう叫びながら、大きく手を振って、女子部の門出を祝福した。
 ――広宣流布の歴史に不滅の光を放つ、黄金の一ページを開いた創価の青年たちは、今、新しき世紀へ、さっそうと勝利の大前進を開始したのである。
36  勝利(36)
 十一月十五日、山本伸一は、大阪事件の第八十一回公判のため、大阪地裁にいた。権力の魔性との、真っ向からの対決が続いていたのである。
 この日は、検察の論告求刑が行われた。
 伸一への求刑は、なんと禁固十カ月であり、公民権の停止も含まれていた。
 これは、仮に、伸一が、検察側がいうように、戸別訪問を指示していたとしても、異常に重い求刑といってよい。
 実際には、伸一の指示で戸別訪問したと供述している人は、一人にすぎない。しかも、それは、取り調べの際、警察官が、伸一の指示であることを認めなければ、夜も眠らせずに取り調べ、いつまでも家には帰さないと脅して、でっち上げた供述であった。
 更に、検察は、情状のなかで、学会員の選挙違反は「表面、宗教活動を仮装」し、「広範囲にわたって組織的に敢行」したもので、起訴された違反行為は「氷山の一角にすぎない」と断定していた。
 これには、裁判長も、唖然として息を飲み、検事の顔にきつい視線を注いだ。
 そして、論告求刑が終わると、とがめるような口調で検事に問いただした。
 「今、本件が氷山の一角と言われましたが、では、ほかにどういう事実がありましたか。その証拠はありますか」
 検事は、平然として、こう答えた。
 「別に証拠があるわけではありません」
 「それでは、あなたの推測ですか」
 「そういえば、そういうことになります」
 証拠もないことを、″事実″に仕立て上げた、この論告求刑自体が、検察の悪質な意図を物語っていた。
 しかし、伸一の判決がどう下されるかは、皆目、わからなかった。この求刑通りの判決がでないとも限らないのだ。
 会長である伸一が、もしも、有罪になれば、学会は極めて反社会的な団体であるということになってしまう。また、伸一自身も宗教法人法によって、代表役員の資格を失うことになる。そして、それは、広宣流布の行く手に、大きな暗い影を落とすことになるに違いない。
 そう思うと、伸一の心は暗かった。いかにして、この険難の山を越えて行くかに、広宣流布の前途のすべてはかかっていた。
 しかし、周囲から見れば、伸一は何も意に介さず、堂々としているように見えた。彼は自己自身と、人知れず、必死になって戦っていたのである。人間の強さとは、自己に打ち勝つ力にほかならない。
37  勝利(37)
 みちのくは、既に冬の気配に包まれていた。
 十一月二十日、山本伸一は、東北本部の落成入仏式に出席するため、仙台に走った。
 このころ、ようやく各地の本部の会館が整い始めていた。十一月の十一日には東京第一本部が、十四日には東京第二本部が落成入仏式を行い、徐々にではあるが、輝く法城が誕生していたのである。
 東北本部は、仙台市のほぼ中央に位置する榴ケ岡にあり、鉄骨木造モルタル造りで、礼拝堂の大広間は八十四畳である。場内は、待望し続けてきた会館の落成の喜びにわき返っていた。
 落成入仏式は二十日の午後四時過ぎから行われた。勤行、唱題の後、東北本部長の関久男や副理事長の十条潔らの話に続いて、伸一があいさつに立った。
 彼は、在りし日の戸田城聖をしのびながら、静かに語り始めた。
 「戸田先生が第二代会長として立たれた時、新たな広宣流布の布陣として、最初に結成された二つの地方支部が、西の八女支部と東の仙台支部でありました。まさに大阪よりも、名古屋よりも、北海道よりも早く、戸田先生とともに立ち上がったのが、この仙台であります。
 したがって、もし、戸田先生がご存命であったならば、本日のこの仙台の法城の完成を、誰よりもお喜びくださったであろうと確信いたします。
 また、戸田先生は、何度も、この仙台の地に足を運ばれました。そして、ある時は指導にあたり、ある時は講義をされ、また、ある時は青葉城址に立たれて、あの有名な『学会は人材の城をもって広宣流布に進むのだ』とのお言葉を残されております。
 この『人材の城』をもって広宣流布をしていくということが、学会の永遠の考え方であります。そして、その人材を育成するための城が、ここに完成したことが、私は何よりも嬉しいのであります。
 どうか、仙台の皆様は、戸田先生とともに最初に立ち上がった地方拠点であるとの誇りを胸に、ともに人材として信頼し合い、尊敬し合って、鉄の団結をもって、仲良く、朗らかに前進していってください」
 伸一は、更に、知識は知恵によって生かされ、その知恵の源泉となっていくのが仏法であると語った。
 そして、「ゆえに、仏法を持った皆様方こそ、新時代を開くリーダーであると確信し、一人一人が社会の第一人者になっていただきたい」と訴え、この日の指導とした。
38  勝利(38)
 山本伸一のあいさつの後、新たに作られた″東北健児の歌″が発表された。
 伸一は、手渡された歌詞に、じっと視線を注ぎながら、参加者の合唱に耳を傾けた。
  ひらけゆく大空に
    舞う若鷲
  日本の柱 師のもとに
  ………… …………
 歌詞も曲も、勇壮で、力強かった。
 合唱を聴くと、伸一は言った。
 「いい歌だ。東北も明るくなったね。もう一度!」
 再び合唱が始まった。
 皆、はつらつと、喜びを満面にたたえて、力いっぱい歌った。
 歌い終わると、伸一は提案した。
 「この歌を、東北だけでなく、日本国中で歌っていきたいと思うが、どうだろうか」
 大拍手が鳴り響いた。
 「では、もう一度、皆で歌おう」
 三たびの合唱となった。
 実は、この歌が完成するまでには、東北の青年たちの苦闘があった。
 伸一が、″東北健児の歌″の作成について、最初に話をしたのは、この年の五月に、福島の郡山を訪問した折のことであった。
 彼は、この時、東北三総支部の結成大会に出席し、終了後、東北の幹部の指導会をもった。その最後に、彼は言った。
 「それでは、東北の新しい旅立ちの誓いを込めて、皆で″東北健児の歌″を歌おう!」
 すると、幹部の一人が小さな声で答えた。
 「″東北健児の歌″というのはないのです」
 「そうか。関西には『威風堂々の歌』があるし、九州にも『東洋広布の歌』がある。また、中国には『躍進の歌』があり、沖縄にも『沖縄健児の歌』がある。
 どの地域も、自分たちで歌を作り、高らかに歌いながら、楽しく、堂々と前進している。東北も、未来への出発のために、新しい歌を作ったらどうだろう。
 民衆の興隆のあるところには、必ず歌がある。歌には、人びとの理想があり、その歌を通して、団結も生まれる。
 だから、声高らかに歌を歌って、明るく、うんと陽気に、人生を楽しみながら、広宣流布を進めていくんだよ」
 以来、東北の幹部たちは、自分たちの歌を作ろうという思いをもつようになり、青森や山形、福島などの各支部で、相次ぎ支部歌が作られていった。
 しかし、東北全体の歌はできなかった。
39  勝利(39)
 東北の幹部には、皆、歌を作らなくてはという気持ちはあった。
 しかし、自分が中心になって進めようとする人は、誰もいなかったのである。
 東北の青年部の幹部も同じであった。彼らは、歌の作成は壮年や婦人が進めることであると考え、青年部が先行することを、むしろ控えてきたのである。
 青年たちは、もし、青年部で作成するように指示があれば、総力を挙げて取り組むつもりではいたが、遠慮があったのである。
 だが、それは、厳しくいえば、青年たちの、体のよい責任逃れであるといわざるを得ない。
 皆が希望と喜びをもって活動を推進するために、歌が必要であることが明らかであるならば、指示を待つのではなく、自分たちから相談するなどして、行動を開始すべきである。
 しかし、彼らは、そうはしなかった。
 こうして、約二カ月が過ぎていった。
 七月の九日には、方面別の青年部総会の掉尾を飾る東北の総会が、男女別に仙台で開催された。
 このうち、東北男子部の総会で山本伸一は、「広宣流布の総仕上げは、東北健児の手で」と呼びかけ、その使命を明らかにした。
 この総会の後、彼は東北の男子部の幹部に尋ねた。
 「ところで、″東北健児の歌″の方は、どうなっているんだい」
 「…………」
 すぐには、誰も答えなかった。しばらくして、幹部の一人が、額に汗をにじませながら言った。
 「今、準備を進めておりますが……」
 伸一は、厳しい口調で語り始めた。
 「遅いよ。東北の同志は待っている。
 学会の勝利の源泉はスピードにあった。日蓮大聖人も、門下が病気であると聞かれれば、すぐに手紙を出して励まされている。大聖人の御振る舞いは、常に、極めて迅速であられた。
 ましてや現代は、スピードの時代である。だから、私も同志から報告を聞いたら、すぐに反応し、激励するように努力している。
 たとえば、本部に会員の皆さんが報告に来られる。私は、伝言を託すなど、すぐになんらかの行動を起こしてきた。これがリーダーの鉄則です。
 この迅速な反応、行動がある限り、学会は発展していくし、君たちも、そうすることによって、成長することができる。
 それがなくなれば、みんなは不安になるし、やがて不満を感じるようになってしまうものです」
40  勝利(40)
 山本伸一は話を続けた。
 「それなのに君たちは、同志のために、歌があった方がよいとわかっていながら、いつまでたっても、行動を起こそうとはしない。
 これでは、青年部の幹部としては、あまりにも無責任ではないか。
 やろうという気持ちはあった、そのつもりでいたといっても、行動に出なければ、何も考えていなかったことと同じだ。
 何事かを成そうという時に、誰も進んでその事を言い出さないのは、互いに責任を押しつけ合っているからだ。本当の団結がない証拠だよ。
 そんなことでは、東北の発展は永遠にない。いつも真っ先に立ち上がるのが青年部ではないか」
 伸一のこの指導に、東北の青年たちは、決意を新たにした。
 ″そうだ。壮年や婦人の問題ではない。私たちの手で、最高の歌を作ろう″
 その日から、歌の作成に向かって、皆の心は燃え上がった。
 青年部が中心になって委員会を作り、まず、歌詞を公募した。歌の発表は、十一月二十日の東北本部の落成入仏式とし、十一月初めには、歌詞も曲も、すべて完成させることになった。
 やがて、何十かの作品が集まったが、これといった歌詞はなかった。幹部たちも、率先して作り始めた。
 直せばなんとかなりそうなものには筆を加え、最終選考に八点が残った。しかし、いずれも、皆が納得できるものではなかった。
 既に時期は、十月の下旬になっていた。選考の場に集まった委員会のメンバーは、次第に絶望的な気持ちになってきた。
 その時、佐山俊夫という東北大学に学ぶ学生部員が歌詞を持ってやって来た。
 「遅くなりましたが、まだ、間に合うでしょうか」
 委員会のメンバーは、あまり期待もせず、差し出された歌詞に目を通した。
 歌詞を見ていた中心の幹部の顔色が変わった。
 「これは、すごいぞ。いいよ、すごくいい……」
 ほかのメンバーが、一斉に、この幹部の顔を見た。彼は、声を出して歌詞を読み始めた。
 「ひらけゆく大空に 舞う若鷲……」
 皆の目が光った。
 斬新で、勇壮であった。
 その後、佐山の了解を得て、皆で更に推敲を重ねた。そして、原案にあった「人類の待つ大偉業」が「世界を結ぶ大偉業」となり、二番の歌詞を三番と入れ替えるなどの手直しがなされた。
41  勝利(41)
 佐山俊夫は、山本伸一がヨーロッパ訪問に向かう直前の十月二日、東京の日大講堂で行われた男子部幹部会に出席していた。
 その時、伸一は、世界広宣流布への決意を語り、自分が開いた道は、すべて、学会直系の青年部に託していくと指導した。
 佐山は、その指導を電撃に打たれる思いで聞いた。
 ″この師の心を受け継いで、自分たち青年が、新しき世紀へ、新しき世界へと雄飛していくのだ!″
 彼は、その熱い思いを、″東北健児の歌″の歌詞として表現しようとしたのである。
 佐山は、かつて、戸田城聖と山本伸一が立った青葉城址を歩いて、その師弟の姿に思いをめぐらしながら、自分も未来への飛翔を誓った。
 松林の上には、澄んだ秋空が広がっていた。彼の頭に、上昇しゆく、空飛ぶ者の王・鷲の姿が描かれた。
 「ひらけゆく大空に 舞う若鷲……」
 世界広布の大空に飛び立つ、歌詞のイメージができあがった。
 大空とくれば、大地である。そして、地走る者の王・獅子の広布の雄叫びが、今、轟いたことを歌わねばならないと、彼は思った。
 更に、佐山は、天と地に対して、新世紀への船出の海を表現したかった。
 彼は、戸田城聖が一九五七年(昭和三十二年)の年頭に詠んだ「荒海の鯱にも似たる若人の 広布の集い頼もしくぞある」との和歌を思い起こし、荒海と鯱を歌詞にすることにした。
 こうした考えをもとに、佐山は唱題を重ねて歌詞を作り、推敲し抜いた末に、それを提出したのである。
 歌詞はできた。次の問題は曲であった。
 作成委員会のメンバーが、作曲をどうするか悩んでいると、宮城支部の男子部の責任者の上畑金治という青年が言った。
 「もしかしたら、この歌詞に合う曲があるかもしれません」
 上畑が、以前、自分の支部の男子部の歌を作ろうとして、彼が作曲をした曲があったのである。
 上畑は、特別に音楽を学んだわけではなかったが、頭に浮かんだメロディーを口ずさみ、それをなんとか譜面に書きとめていたのである。
 上畑は、それをもとに、″東北健児の歌″の歌詞に合わせ、一部、直しを加え、曲を作り上げた。
 歌が完成すると、メンバーの代表が東京へ行き、音楽隊長の有村武志に見てもらった。有村の話では、歌詞も曲も完璧であるとのことだった。
42  勝利(42)
 ″東北健児の歌″は、こうして、この日の発表となったのである。
 山本伸一は、落成入仏式の後、幹部との懇談会に臨み、その席で、再び歌詞を目にしながら言った。
 「この歌は、全国の同志が歌っていくのだから、『新世紀の歌』としてはどうだろうか。
 それと、一番の歌詞に『苦悩にあえぐはらからを』とあるが、この『はらから』を『ともどち』としてはどうかね。その方が親しみやすいように思うが」
 作成に携わった青年たちから、ひときわ大きな賛同の拍手がわき起こった。
 ここに、「新世紀の歌」が誕生したのである。
 一、ひらけゆく大空に
       舞う若鷲
   日本の柱 師のもとに
   苦悩にあえぐ
       ともどちを
   救わん地涌の誇りもて
 二、荒海に躍る鯱
       轟く大号令
   七つの海を征くところ
   世界を結ぶ大偉業
   進まん今ぞ意気高く
 三、師子王の雄叫びは
       大地ゆるがす
   広宣流布の大進軍
   破邪顕正の剣もて
   築かんわれら新世紀
 伸一は、この日は仙台に泊まり、翌朝、青葉城址を散策した。東北本部の落成入仏式には、戸田城聖の妻の幾枝を招待しており、七年前、伸一が戸田とともに歩いた青葉城址に、彼女を案内したかったのである。
 伸一は、恩師と、ここに立ったことを思い起こし、苔むす石垣を眺めながら、幾枝と語らい、石段を上がっていった。
 青葉城址には、東北の青年部の幹部や学生部員も姿を見せていた。
 彼は、皆で城址を巡りながら、石垣を指さした。
 「ほら、見てごらん。大きな石も、小さな石も、いろいろな石が、きれいに、きちっと積み重ねられている。だから、この石垣は堅固なんだね。これは、団結の象徴だよ。
 私たちも、一人一人が力をつけることは当然だが、それだけでは広宣流布という大偉業を成し遂げることはできない。この石垣のように、互いに補い合い、団結していくことが大事だ。
 人材の城というのは、人材の団結の城ということだ。団結は力であり、そこに学会の強さがある。
 東北に人材の牙城をつくろう。そして、あの『新世紀の歌』のように、東北の君たちの力で、民衆の新世紀を開いていくんだよ」
 青年たちの瞳が光った。
43  勝利(43)
 山本伸一は、青葉城址の一角に立ち、一首の和歌を詠んだ。
  人材の
    城を築けと
      決意ます
    恩師の去りし
      青葉に立つれば
 伸一の胸には、常に、師である戸田城聖の言葉がこだましていた。
 伸一の独創的な広宣流布の展望も、師の構想の実現という、原点から発したものであり、その原点が不動であったがゆえに、自由自在に、過つことなく、広布の絵巻を描き続けることができたといってよい。
 伸一は、今、その戸田の妻の幾枝とともに、恩師のゆかりの地を訪ねることができた喜びを、噛み締めていた。
 伸一は、この日、東京に戻ると、深夜まで、学会本部で執務を続けた。
 本部には何人かの理事や職員が残っていた。
 やがて、時計の針は、午前零時を回った。
 「まだかな……」
 伸一が言うと、傍らにいた職員が答えた。
 「はい。羽田到着は午前二時近くになります」
 「そうだったね。みんな元気だといいが……」
 この十一月二十二日の未明に、アメリカのメンバーが来日することになっていたのである。
 午前二時半過ぎ、羽田空港に出迎えに行っていた、アメリカ総支部長で副理事長の十条潔から、伸一に電話が入った。
 「さきほど、午前一時五十八分に、一行五十九名が到着いたしました。別便で来ておりましたハワイからの七名と、ロサンゼルスからの二名も合流し、総員六十八名が勢揃いしました。
 これから、バス二台で、本日の宿泊場所になっております、蒲田の東京第一本部に向かいます」
 「そうか。どうもご苦労様。それで、みんな体調は大丈夫かい」
 「はい。全員、元気いっぱいです」
 「一番、年配の方は幾つになるの」
 「トミノ・オカダさんという、八十歳の女性です」
 「ワシントンで自宅を座談会場に提供してくれた、フミエ・シアリングさんのお母さんだね」
 「はい。そうです」
 「ともかく、皆さんを、早く休ませてください。私は、本部で皆さんをお待ちしています。くれぐれもよろしく」
 伸一は、こう言って電話を切った。
44  勝利(44)
 二十二日の午前、アメリカのメンバーは学会本部にやって来た。
 山本伸一がメンバーの前に姿を現すと、激しい歓声と拍手がわき起こった。額のあたりで手を打ち、全身で喜びを表すかのような拍手である。
 伸一にとっては、見覚えのある顔ばかりである。ロサンゼルス支部の婦人部長のキヨコ・クワノもいた。支部婦人部長の人事でさんざんすねたカズコ・エリックもいた。ワシントンの支部長となったフミエ・シアリングも、ハワイのミツル・カワカミもいた。
 「ようこそ日本へ。ご苦労様です!
 皆さんとお会いできて嬉しい……」
 伸一が語り出すと、満面に笑みをたたえていたメンバーの目に、大粒の涙があふれた。そして、皆、泣きじゃくり始めた。
 メンバーの多くは、国際結婚をして、アメリカに渡った女性たちである。現地での生活も苦しく、望郷の念をつのらせつつも、日本に帰ることなどできないと思っていた人がほとんどであった。
 それが、一年前の伸一のアメリカ訪問で、″アメリカといっても、今は日本とは目と鼻の先であり、庭先のようなものである″との指導を聞いて、考えを新たにしたのである。
 そして、″来年は日本でお会いしましょう″との、彼の言葉を目標とし、希望として、この日を目指して、懸命に、信心に励んできたのである。
 しかし、一言に日本に行くといっても、休みをとるのも、その費用を捻出するのも、並大抵のことではなかった。
 しかも、今回はジェット機を使っての来日であり、旅費はニューヨークなどアメリカ東部地域からだと、日本円にして三十一万円ほどが必要であった。
 日米の物価の差はあるにせよ、日本では、ラーメン一杯が五十円といわれていたころである。一朝一夕に工面できる人など、ほとんどいなかった。
 皆、レストランでアルバイトをしたり、アイロン掛けの仕事をしたりして、約一年がかりで費用をためた。なかには、十回、二十回の分割で、旅費を支払うようにした人もいた。
 それでも、ともかく日本に来て、会長の伸一をはじめ、日本の同志に会い、日本の信仰の息吹に触れたかったのである。
 メンバーは、熱い求道の心を燃やしながら、生活費を切り詰め、仕事に励んできた。
 ″日本に行こう。そして、山本先生との約束を果たそう″――その一念で、太平洋を渡って来たのである。
45  勝利(45)
 山本伸一は、メンバーをねぎらい、優しい口調で語っていった。
 「皆さんが私との約束を果たそうと、こうして日本に来てくださったことが、何よりも嬉しいのです。
 旅費を工面し、休みをとることが、いかに大変であったかも、よく知っております。
 しかし、皆さんは、晴れて日本の大地を踏まれた。皆さんは勝った!
 私は、皆さんは、広宣流布のために自由自在に活躍できる境涯の因をつくられたと、確信しております。
 どうか、日本に滞在されている、この約二週間、健康に留意しながら、多くの日本の同志と接し、十分に信心の栄養を蓄えて、生涯の最大の思い出をつくってお帰りください。
 私も、全力で皆さんを応援します。また、お会いしましょう」
 伸一から「皆さんは勝った!」との言葉を聞いた時、皆の胸に、一筋の黄金の光が走った。
 メンバーは、ただ日本に行きたいという一心で、この一年間、頑張りに頑張り抜いてきた。
 しかし、振り返ってみると、異境の地で埋もれていくだけのように思っていた自分たちが、いつの間にか希望に燃え、友の幸福のために、夢中になってアメリカの大地を駆け巡っていたのである。
 そして、信心を根本に努力を重ねていけば、どんな境涯にもなれ、崩れざる幸福を築けることを、皆、実感していた。そこには、目には見えないが、確かに大きな精神の勝利があった。
 こうして、メンバーの日本での研修が始まった。
 この時期、日本では、教学部の助教授を対象とした昇格試験などが予定されていたが、それに合わせて、アメリカのメンバーのための教学試験も実施されることになった。
 これも、日本での研修を、より有意義なものにし、未来への前進の励みになればと、伸一が提案したものであった。
 十一月二十七日、東京体育館で、十一月度の本部幹部会が開かれたが、アメリカのメンバーは、ここにも参加し、全国の同志から、真心の大歓迎を受けた。
 席上、この年の八月に結成された、ワシントン、シカゴ、サンフランシスコの各支部に、支部旗が授与された。
 また、国内に二十二の支部が結成されたほか、新たに二十四人の理事が誕生。また、全国の各本部に教学部長、教学運営委員長を置くことが発表された。
46  勝利(46)
 十一月度の本部幹部会で発表された、この月の布教は、六万一千六百七十世帯であった。これで、学会の総世帯数は二百三十万世帯に迫ろうとしていた。
 更に、この席上、明年の「勝利の年」の活動方針が打ち出され、学会は二百七十万世帯達成を目指してスタートすることになった。
 勝利の上げ潮は、着実に高まっていた。
 参加者一人一人に勢いがあり、歓喜があった。小単位の座談会も軌道に乗ってきている。
 山本伸一は明年のすべての大勝利を確信することができた。
 この日、指導に立った伸一は、大阪事件の裁判について触れ、こう語った。
 「先日来、大阪での選挙違反について、新聞やラジオなどで報道され、皆様方には、大変にご心配をおかけいたしております。まことに申し訳ございません。
 しかし、大聖人の御金言を拝しましても、広宣流布の途上において、三類の強敵が競い起こることは間違いありません。
 また、民衆を組織し、民衆の時代を創ろうとする創価学会に対し、民衆を支配しようとする権力が、今のうちに弾圧し、力を弱めようとするのも、当然といえましょう。
 だが、権力がいかに牙をむこうとも、私たちの崇高な理想を、信心を、破壊することは絶対にできないという大信念をもって、堂々と、朗らかに前進していこうではありませんか。
 裁判は、来年の初めごろには、判決が出ると思いますが、悠々と大勝利してまいりますので、どうか、ご安心ください。
 ともあれ、無実であるにもかかわらず、何か大きな犯罪行為があるかのように喧伝し、罪に陥れようとすることは、古来、権力者の常套手段であります。
 今回の裁判は、長い広宣流布の戦いを思えば、さざ波のような小難にすぎません。今後も、こうしたことは、幾度となくあるでしょう。しかし、何も恐れることはありません。
 戸田先生は、よく『法華経のため、仏法のために、もう一度、牢に入りたいものだ』と言われておりました。そこには恩師の、仏法への大確信があります。これが広布の丈夫の心です。
 そして、その決定した一念の人の頭上に、最後の勝利の栄冠が輝くことを知っていただきたいのです」
 獅子吼は轟いた。嵐のような大拍手がうねった。
 なお、この日、あの「新世紀の歌」が紹介され、集った友は、意気天を衝く勢いで、″勝利″の大空に羽ばたいていったのである。
47  勝利(47)
 十二月に入ると、山本伸一の動きは、一層、激しさを増した。
 定例の十二月度女子部幹部会(四日)、男子部幹部会(五日)をはじめ、第四回学生部弁論大会(八日)、東京・関東の教育部員任命式(九日)などに出席する一方、十五、十六の両日には、大阪事件の裁判に出廷しなければならなかった。
 特に十六日は、伸一の意見陳述が行われ、彼は、ここで、検察の横暴を突いていった。
 伸一は、まず、検察の論告求刑のなかで、「宗教活動を仮装」してうんぬんとあったが、学会が選挙運動を行うのは憲法に保障された国民の権利であり、それを否定するかのような検察の求刑には、明らかに偏見があることを指摘した。
 更に、従来、戸別訪問は罰金刑等の軽い刑であるにもかかわらず、大阪地検の禁固という求刑は、はなはだ過酷であると述べるとともに、その取り調べも非道であり、権力をカサに着た弱い者いじめのようなやり方は、断じて許しがたいものであると語った。
 無実の者に罪を着せようとする、不当な検察に対する鋭い反論であり、伸一の正義の叫びであった。
 これで、後は明年一月二十五日の判決公判を待つことになった。
 十二月の後半も、彼は、精力的に各種の会合に出席し、指導を重ねた。婦人部のメンバーで構成される言論部の第三部が十月に発足していたが、彼は、十二月の二十日と二十四日の二度にわたり、その部会にも出席した。
 これまで、社会を陰で支えてきた婦人たちが、堂々と自己の主張を語り、表現していかなければ、本当の民主の時代の世論をつくることはできない。
 伸一は、創価の婦人たちが、新しい時代、社会を建設する言論人として育っていくことを期待し、彼女たちの育成に全力を注いだのである。
 思えば、伸一の会長就任二年目を迎えた、一九六一年(昭和三十六年)「躍進の年」は、広宣流布の新たな創造への基盤が確立した年であった。
 「国士十万」の結集をはじめ、「青年の年」にふさわしい、青年部の盤石な構築がなされ、アジア、ヨーロッパにも、広宣流布の種が蒔かれた。
 伸一は、更に新しき飛躍を心に誓いながら、慌ただしい年の瀬を、黙々と友の激励のために走り続けた。
 彼には、春の桜にも、秋の紅葉にも、親しむ暇はなかった。しかし、その胸中には、民衆の幸福の桜が咲き薫る、絢爛たる創価山の雄姿が映し出されていた。
 (この章終わり)

1
1