Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第5巻 「歓喜」 歓喜

小説「新・人間革命」

前後
2  歓喜(2)
 スペイン市民戦争は、フランコ軍が勝ち、フランコの長い独裁が始まる。
 ピカソは、フランコの独裁を憎み、第二次世界大戦でパリがドイツの占領下に置かれた時にも、パリに住み続けた。ドイツ軍は、彼が作品を発表することを禁止したが、彼はパリから立ち去ろうとはしなかった。
 熱いヒューマニズムの血が、彼の体に脈打っていたのであろう。
 また、ピカソと同じく、フランコ独裁、ナチス・ドイツと戦った人に、スペインの生んだ大音楽家パブロ・カザルスがいる。
 彼は、一八七六年の十二月、バルセロナに近いヴェンドレルの町に生まれた。
 幼いころから、チェロ奏者としての才能を発揮したカザルスは、若くして世界的名声を博した。
 カザルスは、パリを中心に広く欧米で演奏活動を行う一方、バルセロナにオーケストラを設立し、自ら指揮者となるなど、ここでも音楽活動を続けた。
 しかし、フランコの反乱が彼を嵐に巻き込む。
 熱烈な愛国者にして共和主義者であった彼は、″フランコ独裁″のスペインを認めず、フランスに亡命する。
 だが、彼の愛郷の情はやみがたく、生まれ故郷に程近い南フランスのピレネー山脈の麓の町、プラードに移り住むのである。
 間もなく、第二次世界大戦が始まった。彼は、そこから、フランコ政権や、それを支持するドイツやイタリアに、断固として反対の意思を表明し続けた。ナチス・ドイツによる脅しも、懐柔の誘いもあった。
 しかし、彼は信念を曲げなかった。そして、スペインからの亡命者の救済にも力を尽くしていった。
 カザルスは言う。
 「私は政治家ではない。(中略)まったく単なる一芸術家にすぎない。そこで問題は、芸術が一つの気晴らしで、人間生活の欄外の玩具であるべきか、それともその本来の人間的意義を保持すべきかということだ。
 政治的な諸機能は、芸術家のあずかり知らぬことだが、私の考えでは、人間の権威ということが問題になるときには、芸術家も、どんな犠牲を払っても立場をはっきりさせなければならないのだ」
 それは、彼の、人間としての誇りと使命の、断固たる表明であった。
 第二次世界大戦が終わって、フランスに平和が戻ると、カザルスを慕う音楽家たちが次々とプラードを訪れ、教えを求めた。
 彼は、若き俊英たちのために、一九五〇年六月、音楽祭を開催した。これが後に世界的な音楽祭となる「プラード音楽祭」である。
3  歓喜(3)
 カザルスは、一九五八年十月二十四日の国連デーにニューヨークの国連本部に招かれ、記念演奏を行うとともに、プログラムに平和を祈念するメッセージを印刷し、配布した。
 そのメッセージは、核廃絶を訴え、平和を希求する、カザルスの魂の叫びでもあった。
 彼は、そこで音楽の使命に触れ、次のように提案している。
 「あらゆる人々から理解されるすばらしき世界語である音楽は、人と人とを近づけることに貢献すべきです。されば私は、特に私の同志に、またすべての音楽家に呼びかけて、人類のために彼らの芸術の純粋さを役立てるように、ひとりひとりに求めているのです。
 ……ベートーヴェンの《第九シンフォニー》の《歓喜の歌》は、人類愛の象徴となりました。私はそこで、ここに提案するのです。それは、オーケストラと合唱団を持つすべての町が、同じ日にこの《歓喜の歌》を演奏して、それがラジオ、テレビによって世界中のもっとも小さな社会にも放送されるということです。
 私はこの歌が祈りとして、私たちすべての者が望み、待ち受けている平和への祈りとして演奏されることを望むものです」
 カザルスは、ベートーヴェンの″歓喜の歌″をもって、平和を願う人類の心を結ぼうとしたのである。
 ピカソとカザルス−−この同じパブロという名を持つ二人の巨匠は、激動の同時代を生き、ともに一九七三年に世を去っている。
 山本伸一は、スペインの現代史に燦然と輝く、この二人の生き方に、深く共鳴していた。
 そこには、邪悪と戦い、平和を、ヒューマニズムを守り抜く、不屈の精神がある。正義の心がある。
 伸一は思った。
 ″このスペインには、彼らの精神を受け継ぐ、多くの地涌の友が、情熱の平和の使徒が、必ず誕生するはずである。
 そして、あらゆる試練を乗り越えて、民衆の勝利の旗を打ち立て、ここに平和の楽土を築いてくれるに違いない″
 それが果たして、いつになるかは測りかねた。しかし、二十一世紀の幕開けには、地涌の同志の奏でる幸と歓喜のシンフォニーが、この国のここかしこに、こだますることを、伸一は確信できた。
 彼は祈った。
 ″出よ! 妙法のピカソよ、妙法のカザルスよ″
 そして、まだ見ぬスペインの友に、″頑張れ! 負けるな! 新しき世紀の扉を開け!″と、語りかけたい思いにかられた。
4  歓喜(4)
 翌日、山本伸一は、早朝、ホテルを出発し、スペインでの仕事を次々と済ませていった。
 この日は、午前十時三十分の便で、スイスに出発することになっていたので、朝のうちに、すべて終わらせなければならなかったのである。
 市内をタクシーで走っている時、同乗していた川崎鋭治が、伸一に尋ねた。
 「私は、ヨーロッパの連絡責任者に任命されましたが、これから、何を、どのように進めていけばよいのでしょうか」
 川崎は、強い決意に燃えてはいたが、実際に何をすればよいのかがわからず、この二、三日、考え悩んでいたのである。
 伸一は、しばらく黙っていた。彼は、川崎の気持ちがよくわかっていたし、また、いくらでも、アドバイスすることはできた。しかし、具体的なことには触れずに、こう語った。
 「川崎さん。先駆者というのは辛いものだよ。すべて自分で考え、次々と手を打っていかなくてはならない。誰も頼りにすることはできない。しかし、だからこそやりがいもあるし、功徳も大きい……」
 川崎が今後、名実ともにヨーロッパの中心者になっていくためには、彼が自ら未来の構想を描き、それに向かって、自分のなすべきことを考え、行動していくことが必要であると、伸一は思ったのである。
 つまり、伸一は、リーダーとしての川崎の自発性、主体性を育みたかった。
 広宣流布は、友の幸福と平和の実現を、わが使命として自覚した人が、情熱と英知で織り成す、人間の賛歌の絵巻である。
 自分を深め、磨き、信心の在り方を学ぶうえでは、謙虚に指導を求め、求道の心を燃やしていくことは当然である。また、活動を進めるうえで、協議や意見の調整が重要であることは言うまでもない。
 しかし、広宣流布の活動の根本をなすものは、どこまでも個人の内発的な自覚である。具体的な方法は、その責任感から発する知恵をもって考え、対応していくべきであるというのが、伸一の信念であった。
 川崎は、釈然としない顔をしていた。それを見て取ると、伸一は言った。
 「ともかく御本尊に真剣に祈り、今いる同志を激励しながら、何をすべきかは考えていけばよい。
 そう堅苦しく考えることはないよ。これからは、日本のメンバーも、どんどん世界に出ていくだろうから、ヨーロッパも、すぐに五十世帯や六十世帯にはなるだろう」
5  歓喜(5)
 川崎鋭治は、山本伸一の話を聞いても、実感はわいてこなかった。
 川崎が会ったヨーロッパのメンバーは、まだ、三人にすぎない。それがすぐに五十世帯以上になるとは、とうてい思えなかったのである。
 ただ、自分が考えている以上に、広宣流布の伸展は早いのかもしれないと思った。また、そうするためにも、自分が立ち上がらなければならないと感じた。
 伸一たちは、スペイン広場に近いグラン・ビーアと呼ばれる、商店が立ち並ぶ通りで車を降り、しばらく街を散歩した。
 伸一は、その途中、一軒の店に立ち寄ると、スペイン訪問の記念として、カバンを購入した。
 すべての仕事を大急ぎで終えた一行は、午前十時半の飛行機でマドリードを発ち、スイスのチューリヒへ飛んだ。
 午後一時過ぎ、スイスのジュネーブに到着した。ここで、チューリヒ行の飛行機に乗り換えである。
 一行がロビーに姿を現すと、待っていた数人の日本人のなかから、一人の婦人が駆け寄って来た。
 「先生、お久しぶりでございます」
 夫の仕事の関係でジュネーブに来た本杉光子という婦人であった。
 半年前、彼女はスイスに行くことを報告するため、学会本部にやって来た。前年の十一月の入会ということであったが、その時は、学会活動はほとんどしていない様子であった。
 伸一は本杉を励まし、自分も必ず、スイスに行くからと語り、再会を約した。
 その本杉が、今、はつらつとした姿で出迎えてくれたことが、伸一は何よりも嬉しかった。
 彼が本杉と言葉を交わしていると、傍らにいた二十歳くらいの双子の姉妹の一人が、伸一の顔をのぞき込むようにして言った。
 「先生は、どうして、今日は、メガネをかけていらっしゃらないのですか」
 彼は、笑って答えた。
 「メガネがなくても、よく見えるからですよ」
 本杉が、慌てて言った。
 「まあ、失礼なことを申し上げて……。私の娘でございます。
 日本におりました時に、学会員のお宅で、メガネをかけた戸田先生のお写真を見せられ、この方が第二代会長だと教えられたものですから。それで、メガネをかけた方が会長だと思っていたようで……」
 母親はいたく恐縮していたが、姉妹は、肩をすくめて囁き合っていた。
 「あの写真の人とは、違う方なのよ」
6  歓喜(6)
 本杉光子の話では、双子の娘は、一応、入会はしているが、信心はしていないとのことであった。
 山本伸一は、本杉の娘たちに話しかけた。
 「言葉の通じないスイスで暮らすのは大変でしょうが、少しでも早く語学をマスターして、お母さんを、しっかり支えてあげてくださいね」
 娘の一人が答えた。
 「ジュネーブはフランス語圏なんですが、フランス語は、発音がすごく難しいんです。簡単には、マスターできないと思いますわ」
 もう一人の娘が競い合うように言った。
 「私たち、英語だってダメなんですものね」
 そして、二人で顔を見合わせて笑った。
 伸一も、思わず苦笑してしまった。
 チューリヒ行の便は、午後一時五十分の出発である。わずかな時間ではあったが、伸一は、全力でメンバーを励ましていった。
 出迎えてくれた人たちのなかに、髪の毛を後ろで丸く束ねた、肉付きのよい四十歳くらいの婦人がいた。
 彼女は、質素な身なりをしていたが、笑顔を絶やさなかった。そして、何か尋ねたい様子で、伸一の顔をじっと見ていた。
 「聞きたいことがあったら、なんでもおっしゃってください」
 伸一が言葉を向けると、彼女は自己紹介した。
 「私は、高山サチと申します。信心をして、一年半ほどになります。私がお手伝いをしている家のご主人が、仕事でこちらに赴任した関係で、一緒にジュネーブにまいりました」
 横にいた本杉が、高山の言葉を補った。
 「サチさんは、お手伝いさんといっても、料理人も兼ねており、何人かのメードさんの責任者をしていらっしゃる方です。
 それに、特に語学を学んだわけではないのに、現地の方たちとも、よくお話しされて、すぐお友達になってしまうんですのよ。
 こちらに来る前、私もサチさんも、神奈川県の葉山に住んでいましたので、その時から知っております」
 それを聞くと、高山は朗らかに声を上げて笑った。
 「そんなに、たいしたもんじゃございません。ただのメードでございますよ。
 それで、私がご相談したいのは、日本に残してきた息子のことなんです。
 私は、夫がいないもので、息子を親戚に預け、住み込みで働いているうちに、スイスまで来てしまいました。今、息子も十七になっております」
7  歓喜(7)
 高山サチの話を聞き、山本伸一は言った。
 「ご苦労をされたんですね。お母さんは息子さんのために、一生懸命に働いてこられた。まして、信心をされ、日々、息子さんの幸せを祈っていらっしゃる。その心は、必ず息子さんに通じますよ。
 ところで、息子さんの、何が心配なんですか」
 伸一が言うと、高山は、意を決したように語った。
 「私、こちらで、好きな人ができたんです。スイスの方ですが、結婚を考えています。でも、息子がどう思うか心配なんです」
 こう言って、高山は顔を赤らめた。
 「要するに、悩んでいらっしゃるのは、結婚の問題ですね」
 「はい。そうなんです」
 「結婚については、決して焦るのではなく、あなた自身が、生涯をともにして悔いがないか、その人を信頼し、愛し合っていけるのかを、冷静に考えて決めるべきです。
 たとえば、相手の人柄はどうなのか。生活習慣や言葉の違いを超えて、一緒に暮らしていくことができるか。信条やものの考え方の面でも、夫婦として理解し合えるのか。更に、息子さんのことや経済的な問題などを熟慮し、″この人となら何があっても頑張っていける″と思えれば決断すればよいでしょう。
 また、息子さんとは、会えなかったら手紙でもよいから、率直に話し合ってみることです。
 息子さんも十七歳になれば、考えようによれば、立派な大人です。お母さんの気持ちも、十分に察することができる年代です。
 ただ、一つ大切なことは、結婚すれば幸福になれると考えるのは誤りです。
 確かに、結婚によって、一時は幸せであると感じるかもしれない。しかし、長い人生には、何があるかわかりません。結婚したことによって、辛い、苦しい思いをしなければならないケースもあります。
 結婚生活を幸せなものにしていくかどうかは、その後の夫婦の努力次第です。
 また、結婚し、環境が変わったからといって、自分の宿命が変わるわけではありません。どこで、誰と暮らそうが、病気の宿業があれば、病気で苦しまなければならないし、経済苦の宿業があれば、経済苦で悩まなければならない。
 だから、その宿業を、どう打開していくかです。そして、どんな苦悩にも負けることなく、堂々と乗り越えていける生命力を培っていくことです。
 その源泉となっていくのが信心なんです。ゆえに、幸福になれるかどうかの鍵は信心にある」
8  歓喜(8)
 山本伸一は、諄々と語っていった。
 「幸福というものは、自分の外にあるのではありません。自分の生命のなかにある。私たちの胸中に幸福のダイヤモンドが、幸福の大宮殿があるのです。
 だから、何があっても、信心を根本に自分の生命を磨いていくことです。そして、周囲のお友達にも仏法を教え、みんなを幸せにしていってください。それがあなたの使命ですよ」
 高山サチは、真剣な顔で話を聞いていたが、心配そうな顔で尋ねた。
 「……でも、私のような者でも、みんなを幸せにしていくなんていうことができるんでしょうか」
 伸一は、言下に答えた。
 「できます。あなたは人一倍、苦労をされてきた。その人こそ、誰よりも幸せになっていけるし、みんなを幸せにしていく、最高の資格がある人です。それが仏法の原理です」
 高山の顔に、微笑が浮かんだ。
 これまで、ひたすら子供のために働き続けてきた女性が、愛し合える男性と巡り会ったのだから、結婚したいと思う気持ちは、伸一には痛いほどわかった。
 それだけに、彼女には、なんとしても幸せになってほしかった。
 彼女の人生には、口には出せぬような、辛いこと、悲しいことも、数限りなくあったに違いない。だが、それも、仏法の眼から見れば、使命ゆえのことだ。過去の苦労も、あらゆる試練も、すべてが生かされていくのが仏法である。
 伸一は、高山の幸せを念じながら尋ねた。
 「それで、結婚したいと思っている男性は、どんな方ですか」
 「連れて来ています。あそこにいるのが彼です」
 高山は、ロビーの壁際に立って、こちらを見ていたメガネをかけたスイス人の男性を手招きした。
 「なんだ。それなら、最初から、紹介してくれればよかったのに……」
 伸一が、笑いながら言うと、高山は、嬉しそうに語った。
 「彼も、うちの息子と同じような境遇で育った人なんです。そのせいか、息子のことを心配し、もし、結婚したら、やがては、息子もスイスに呼んで、一緒に暮らそうと言ってくれているんです」
 その男性を紹介された伸一は、丁重に、初対面のあいさつを交わした。
 彼は、電気関係の会社に勤めている修理技師であるという。真面目で、誠実そうな人であった。
9  歓喜(9)
 空港のアナウンスが、チューリヒ行の飛行機の出発時刻が近づいたことを告げていた。
 本杉光子の娘の一人が、山本伸一に尋ねた。
 「山本先生は、いつまでスイスにいらっしゃるんですか」
 「チューリヒで二泊し、それからオーストリアに行きます」
 「たったそれだけじゃ、ゆっくりスイスを見学することもできませんね」
 こう言いながら、彼女は胸のペンダントの鎖を指に絡めていた。それは、オリンピックのメダルほどの大きさの、丸いペンダントであった。
 「すごく大きなペンダントだね」
 伸一が言うと、もう一人の娘が答えた。
 「そうですよね。こちらの方は、みんな体が大きいせいなのか、ペンダントも大きなものしか売っていないんです。もっと小さいのがほしいのに……」
 「そうか。それなら、チューリヒで、小さなペンダントを探して、買ってあげましょう。明日にでも、お母さんと一緒に、チューリヒにいらっしゃい」
 それを聞くと、母親の本杉が、身を乗り出して言った。
 「チューリヒにお訪ねして、よろしいのですか! ありがとうございます。ぜひ伺わせていただきます」
 伸一は、チューリヒで時間を取って、本杉親子を激励したいと思っていた。
 母親は、スイスの中心となるべき人であるし、無邪気な娘たちも、スイスの女子部の中核となっていくべきメンバーである。
 そのための発心の種を、彼は植えたかった。
 伸一は、高山サチもチューリヒに招いたが、どうしても仕事の都合がつかないようであった。
 搭乗機は、ほぼ定刻通りにジュネーブを発ち、午後二時四十分にチューリヒに到着した。
 ホテルに荷物を置くと、皆で、スイスにいる学会員と連携を取ることに全力をあげた。また、日本のメンバーから依頼された、何人かの人を訪ねることも考えていた。
 街に出ると、十月とはいえ、寒さが身に染みた。
 チューリヒは、スイス最大の都市だが、静かで、美しい街であった。旧市街に足を踏み入れると、古い建物が残され、中世の街並みを歩いているような思いにかられた。
 チューリヒ湖から流れるリマト川の向こうには、グロースミュンスター(大寺院)の二つの塔が見えた。
10  歓喜(10)
 一行は、チューリヒ湖のほとりを歩いた。歩きながら、同行の青年の一人が、山本伸一に語りかけた。
 「先生は、広宣流布の道を開こうとされて、こうしてたくさんの国々を回っておられますが、やがて、同志は、本当に、後に続くのでしょうか」
 日本には、二百万世帯を超える会員が活躍しているが、ヨーロッパには、メンバーのいない国がほとんどである。また、いても、ほんの数人にすぎない。
 この青年は、そんな現実を目の当たりにして、広宣流布の未来に対して、不安を覚えたのであろう。
 伸一は言った。
 「大丈夫だよ。三年、五年、十年とたつうちに、学会員は、このヨーロッパにも続々とやって来る。やがて、現地の人たちも、どんどん信心するようになるよ。
 大聖人が広宣流布に立ち上がられてから七百年、世界に仏法が広まる時は来ている。地涌の菩薩が陸続と現れないはずはない。
 そのためにも、今、各国にいるメンバーを力の限り励まし、大切に育てていくことだ。すべては、その一人から広がっていく」
 一行は語り合いながら、チューリヒ湖から、ショッピング街のバーンホーフ通りを通って、中央駅に向かった。しばらく行くと、左側の芝生の上に、子供に手を差し伸べた男性のブロンズ像があった。
 「誰の銅像かな?」
 伸一が言うと、川崎鋭治が答えた。
 「……有名な教育者のペスタロッチですね」
 「そうか。ペスタロッチは、ここチューリヒの生まれだったね」
 伸一は、懐かしそうに微笑んだ。彼は、かつて、戸田城聖の出版社で、少年雑誌『少年日本』の編集長をしていた時、「大教育家ペスタロッチ」という一文を書いたことがあった。
 伸一は、じっと銅像を見つめていたが、ふと思いついたように言った。
 「ところで、ペスタロッチに大きな影響を与えた人で、バーベリの愛称で呼ばれていたバーバラ・シュミットという女性のことを知っているかい」
 同行の青年たちは、誰も知らなかった。
 「この人は、ペスタロッチの家のお手伝いさんだ。ペスタロッチが五歳の時、父親は亡くなるが、死を間近にして、バーベリにこう遺言したんだ。
 『私が死んでも、妻を見捨てないでくれ。お前の力を借りなければ、妻は子供を育てることはできない』
 彼女は『死ぬまで奥様にお仕えします』と約束し、その約束を守り抜く……」
11  歓喜(11)
 空は暮れかかり、紫に染まっていた。
 山本伸一は話を続けた。
 「ペスタロッチには、兄と妹がいた。つまり、彼の母親は、女手で三人の子供を育て上げなければならなかった。とりたてて資産があるわけでもなく、生活は至って苦しかった。
 そのなかで、バーベリは、家族の一員として、労苦をともにしながら、夫人を助けて子供たちを育てていった。
 彼女は、野菜や卵も、少しでも安く買おうと、市場の商人が急いで家路に向かおうとする時を狙い、何度も足を運んだという。
 バーベリは、教育は受けていなかったが、一途で誠実であり、聡明であった。決して、約束は破らず、敬虔な、強い信仰心と忍耐力をもっていた。
 ペスタロッチは、そのバーベリが一生懸命に自分を守り、育て、愛情を注いでくれる姿に、大きな感動を覚えたという。この女性の人間的な影響、触発がなければ、大教育者ペスタロッチもなかったに違いない。
 彼自身、『この女性のことを、私は永久に忘れることはできないでしょう』と語っている。
 大切なのは、ここです。
 人間の真価というのは、学歴や立場、肩書によって決まるのではない。信義を守るかどうか、誠実であるかどうかです。真剣であるかどうかです。そして、″信義の人″″誠実の人″″真剣の人″には、人間性の光彩がある。
 その人間性は、人の心を開き、必ず触発を与えていくものです。
 学会の世界を見ても、これまで、黙々と、陰で学会を支えてきたのは、そうした庶民ともいうべき、無名の人たちです。
 有名大学を出たエリートでもなければ、本部の職員でもありません。
 今、アメリカで必死になって頑張っているのも、国際結婚をして、向こうに渡り、地を這うように生き、苦労し抜いてきた婦人たちです。その人たちの力で、アメリカもこの一年間、大発展を遂げた。
 そして、その人たちの手で、新しい人材が続々と育とうとしている。
 だから、肩書や立場で人を判断するのではなく、人間の真価を見抜いていくことです。また、幹部は、会員に、民衆に仕えていくことです。
 たとえば、今日、ジュネーブで会った高山サチさんも、その民衆の代表のような方です。学歴はないかもしれないが、聡明で誠実です。私は、素晴らしい人材とお会いできたと思っています」
12  歓喜(12)
 山本伸一は、スイスの人事の構想を語っていった。
 「高山サチさんの存在は、今後、スイスで大変に重要になってきます。
 というのは、当面、スイスの中心になっていくのは本杉光子さんであると思うが、彼女の場合は、何年かしてご主人が転勤になれば、当然、一緒にスイスを離れることになる。
 しかし、もし、高山さんが、あのスイス人の男性と結婚するならば、彼女は、ずっと、ここで暮らすことになる。
 彼女の人柄の良さや明るさを考えれば、将来はスイスの中心者となるにふさわしい人ではないかと思う。彼女なら、メンバーが増えていっても、きっと、上手にみんなをまとめていけるでしょう。
 学会のリーダーは、社会的な地位や立場もあるにこしたことはないが、それにこだわる必要はない。本当に信心に励んでいけば、やがて、自然に社会のなかでも信頼を得て、輝いてくるし、誰の目から見ても、幸福になっていくものです。
 そして、その人が社会的にも立派な人をどんどん育てていけばよいのです。それには、なんといっても人柄です。私は、彼女の将来に期待しているんです」
 伸一の、この時の期待通り、高山は、以来、真剣に信心に励んだ。仕事の面でも周囲の信頼は、ますます厚くなっていった。
 しかし、彼女の雇主は、当初、信心には理解を示さなかった。学会への偏見があったのである。
 そして、信心をやめるように迫った。その時、高山は毅然として言った。
 「私は、使用人でございます。ご主人様のおっしゃることは、いつも、なんでも聞いてまいりました。
 でも、私にも、幸福になる権利はございます。ですから、そればかりは、従うわけにはまいりません」
 やがて、高山は結婚し、スイスに永住する。そして後年、スイスの中心者となり、この国の広宣流布の発展の原動力となっていく。
 また、日本に残してきた子息も、後にスイスに渡って信心を始め、母親に続き、スイスの中心者として活躍することになっていくのである。
 仏法流布の学会の強さは、民衆が、民衆の手で、民衆のための組織をつくり上げてきたことにあるといえる。
 そして、学会は、民衆という大地に、深く根を張っているがゆえに、いかなる権威にも媚びず、権力にも屈せず、何があっても揺らぐことなく、楽しく、また、たくましきスクラムを組んでいけるのである。
13  歓喜(13)
 山本伸一は、同行のメンバーに言った。
 「すまないが、ホテルに帰ったら、高山サチさんに電話をして、こう伝言してください。
 『今日、ご紹介いただいた、結婚なさりたいお相手の方は、真面目な立派な方であると思います。私も心から祝福申し上げます』
 おそらく、彼女は、あの男性を連れて来たということは、私の意見を聞きたかったのでしょう。
 本来、結婚は自分で決める問題だが、こう伝言しておけば、彼女も安心できると思う」
 それから、伸一は、川崎鋭治に語った。
 「リーダーというのは、みんなの心を考え、こうした細かい配慮をしていくことが大切なんです。
 大偉業を成し遂げるといっても、成すべき一つ一つのことは、すべて小さいことです。ペスタロッチにも、こんな話がある」
 伸一は、ペスタロッチの晩年のエピソードを語っていった。
 −−一人の老人が杖をつき、何かを拾いながら歩いていた。
 それを見掛けた警官が、不審に思って尋ねた。この警官は、昨日も、老人が何かを拾いながら歩いている姿を目撃していた。
 「いったい、何を拾っているんだい」
 老人は、笑って答えた。
 「お目にかけるようなものではないが……」
 警官は、ますます不審に思い、無理やり、ポケットの中を調べようとした。老人は、仕方ないという顔でポケットに手を入れた。そこから出したものは、ガラスの破片であった。
 警官は問いただした。
 「これを拾って、どうしようというのかね」
 「もし、子供たちが踏めば、怪我をするかもしれないからね」
 老人は、また、ガラスの破片を拾い始めた。この老人こそ、不世出の大教育者ペスタロッチであった。
 伸一は、川崎に言った。
 「その行為自体は、小さなことかもしれない。しかし、そこには子供への大きく深い、海のような思いがある。
 裏返せば、人への強く大きな思いやりがあれば、こまやかな心遣いができる。それがなければ、いかに、同志のため、友のためと言っても、観念にすぎないことになってしまう」
 伸一が日本に帰ってしまえば、川崎とは、しばらくの間、会うこともできない。
 川崎は、ヨーロッパの大リーダーになっていくべき人物である。それだけに、伸一は、この旅の間に、仏法のリーダーの精神を徹底して教えておきたかったのである。
14  歓喜(14)
 翌十七日、山本伸一は、朝から大客殿に使用する絨毯の買いつけにあたった。
 前日、何軒かの店で下見をしておいたが、なかなか思うような絨毯は見つからなかった。
 大客殿は、広宣流布に大きな意義を添える、後世に大切に残すべき重要な建物である。
 それだけに、伸一は、絨毯一つ選ぶにも、適当に妥協する気は毛頭なかった。そんなことをすれば、信心の至誠をもって、供養に参加してくれた同志に申し訳ないというのが、彼の心情であった。
 結局、彼が心から納得できる絨毯を購入するまでには、六時間以上も店から店へと、歩き続けなければならなかった。
 その帰り、伸一は、更にアクセサリーの店を何軒か見て回った。
 「先生、何をお買い求めになるんですか」
 同行の幹部が尋ねた。
 「ペンダントだよ。小さなやつだ。本杉光子さんの双子の娘さんに、買ってあげる約束をしたからね」
 しかし、どの店にも、彼女たちに似合う、小さなペンダントはなかった。
 彼はやむなく、ペンダントの代わりに、赤い宝石箱を二つ購入した。
 伸一がホテルに戻ると、本杉と娘たちがロビーで待っていた。
 「やあ、待たせてごめんね。小さなペンダントを探してみたけど、確かに、ここでも小さなものはなかった。だから、代わりに宝石箱を買ってきたよ」
 彼は、手にしていた袋を双子の娘たちに手渡した。
 それから、本杉親子との語らいが始まった。
 伸一は、まず二人の娘に尋ねた。
 「あなたたちは、将来、どういう人生を歩んでいきたいと考えている?」
 二人は、しばらく考えていたが、一人がニッコリとしながら、こう答えた。
 「そうですね……。私、お金持ちになりたい。それで、世界中、好きなところに旅行したいわ」
 「私も、そう。できれば豪華客船の旅がいい」
 伸一は笑い出した。率直といえば率直な答えだが、いささか予想外の答えでもあった。
 「しっかり題目を唱え、信心に励んでいけば、自然に、そういう境涯になっていくだろう。
 しかし、人間には、福運があるか、ないかという、大きな問題があるよ……」
 彼は、人間にとって、努力は、もちろん大切であるが、福運が人生を左右していくことを語っていった。
15  歓喜(15)
 姉妹は、人生についても、信仰についても、まだ、何も深く考えていない様子であった。
 しかし、山本伸一は、笑みをたたえながら、姉妹のこれからの人生に、なぜ、仏法が必要不可欠であるかを、諄々と説いた。
 この姉妹は、すぐには信心に目覚めないにしても、人間には必ず転機がある。
 人生には、深刻な悩みにぶつかることもあれば、行き詰まることもある。そして、その時に、信心を思い出せば、幸福への軌道を踏み外さずにすむ。
 彼は、姉妹の幸せを念じながら、精魂込めて、話を続けた。
 更に、伸一は、母親の本杉光子に、一人立つことの大切さを訴えるとともに、未入会の夫への対応の心構えなどについても語っていった。
 最後に、彼は、こう言って本杉を励ました。
 「国連欧州本部があり、永世中立国であるスイスは平和の国です。また、アルプスを擁し、美しい大自然に恵まれたスイスは、ロマンの国です。
 その国に、あなたの周りから、人間共和を築き、広宣流布という平和の大ロマンに生きてほしいのです。
 自分という小さな殻にこもり、自身の幸福だけを願っていたのでは、本当の幸福をつかむことはできない。自分も、周囲の人も、自他ともに幸せになっていってこそ、真実の幸福です。
 ゆえに、人のため、友のために法を説き、幸福への道を教えていくことが大事になります。その慈悲の生き方こそが仏法であり、そこに自分の幸せもある。
 どうか、自分だけの幸福を目指す人生から、人びとの幸せを考え、祈る、新たな人生への、力強い歩みを開始していってください」
 本杉は、瞳を輝かせながら、「はい」と言って、大きく頷いた。
 伸一は、その後、本杉親子と一緒に、ホテルの周辺を散策しながら、語らいを続けた。
 しばらくすると、空からチラチラと白いものが降り出した。
 伸一の背後から、姉妹の声がした。
 「いやだわ、雪よ! どうりで寒いと思ったわ」
 「だから、チューリヒには行きたくないって、お母様に言ったのに……」
 伸一は、振り返って、微笑みながら言った。
 「寒い冬があるから、暖かい春が待ち遠しいし、春になった時には喜びがある。いつも春ばかりだったら、喜びを味わうことなんかできないじゃないか」
16  歓喜(16)
 山本伸一は、姉妹に語っていった。
 「人生も一緒だよ。いつも春ばかりではない。冬のように、辛いこと、苦しいこともある。しかし、それに負けないで、必ず春が来るのだと信じて、頑張り続けていくことだ。
 苦労なんてしたくないな、楽だけしていたいなと思っても、そんな人生は絶対にない。
 お汁粉にだって、砂糖だけでなく、塩も入れるでしょ。それによって、砂糖の甘さが生きてくる。
 あなたたちはこれまで、お父さん、お母さんに守られ、なんの不自由もなく、生きてきたと思う」
 「山本先生、違います。結構、不自由なことが多いんです。お小遣いだって少ないし……」
 姉妹の一人が言うと、もう一人も相槌を打った。
 「そうなんですよ。私たちも苦労しているんです」
 「しかし、世の中には、もっと大変な思いをして生きている人がたくさんいるんだよ。
 中学を卒業して、住み込みで都会に働きに出て、家に仕送りをしなければならない人もいる。新聞配達や牛乳配達をしながら、学校に通っている人もいる。
 それを思えば、幸せすぎるくらい幸せじゃないか。
 それは、ありがたいことなのだから、自分を磨き、深めていくために、何か目標を決めて、苦しいなと思っても、負けずに挑戦していくことだよ。苦労というのは、本当は、人間としての最高の財産なんだ。
 花が春になると、きれいに咲き香るのは、それまでに、たくさんの養分を蓄えてきたからなんだ。
 あなたたちも、人生の幸福という花を咲かせてほしい。そのための生命の養分が信心であり、仏道修行なんです」
 二人は頷いていたが、伸一の話をどこまで理解できたのかは、彼自身もわからなかった。
 ただ、こうして語り合ったことを、彼女たちもいつか思い起こし、信心に奮い立つ日が必ず来ると、伸一は確信していた。
 本杉の一家が帰っていったのは、午後六時半ごろであった。雪は雨に変わっていた。
 「どうか、お元気で。私は、また、スイスにやって来ます。その時に、再びお目にかかれることを楽しみにしております。
 高山サチさんにも、よろしくお伝えください」
 伸一は、こう言って、彼女たちを見送った。
 彼は、ともかく、スイスの大地に、全力で人材の種子を植え、育てようとしていたのである。
17  歓喜(17)
 翌十八日の朝早く、一行は飛行機でチューリヒを発ち、午前十時過ぎには、オーストリアの首都ウィーンに到着した。
 このウィーンの訪問の目的は、大客殿のシャンデリアなどの購入にあった。
 ウィーンでは、一泊するだけで、翌日はイタリアに移動である。山本伸一は、ホテルに着くと、すぐに、同行のメンバーと視察に出かけた。
 ウィーンには、中世の建物も多く、古都の歴史を感じさせた。
 街の至る所から、百三十六・七メートルの高さを誇るという、聖シュテファン大寺院のゴシックスタイルの尖塔が見えた。
 この大寺院は、一説によれば、十二世紀前半に建設が始められ、約四百年後に一応の完成をみるが、更にその後も工事が続けられたといわれる。
 伸一は、何軒かの店を回って、時間をかけて絨毯を選び、更に、ガラス細工の店で、見本としてシャンデリアを一つ購入した。
 伸一が、オーストリアでシャンデリアなどを購入しようとしたのは、ここが、東西ヨーロッパの中央に位置し、ゲルマン系、ラテン系、スラヴ系の異なる民族の文化の交流の要衝であったからである。
 オーストリアという国名も、「東の国」を意味し、なかでもウィーンは、神聖ローマ帝国の時代から、東方の要塞としての役割を担ってきた。
 そして、近世になって、ハプスブルク家が巨大な権力をもち、この地に大きな繁栄をもたらすと、広くイタリアやフランスからも、音楽家や画家、詩人などを招いた。
 ウィーンは、芸術家たちの憧れの地となり、各地から多くの芸術家が、ここに集って来た。
 いわば、ウィーンは国際都市として、異なる文化が競い合い、融合する文化の都であった。ベートーヴェンやハイドン、モーツァルト、ブラームスなども、ウィーンにやって来た音楽家たちである。
 その人間と文化の融合の意義をとどめ、人類の平和を祈願していくことになる大客殿を荘厳する品を、伸一はウィーンの地で購入しようとしたのである。
 街を歩きながら、伸一は思った。
 ″広宣流布とは、人間文化の興隆の運動である。そうであるならば、文化の融合の大地オーストリアは、未来の広布の大舞台となるべき天地である。ゆえに、この地にも、幾多の地涌の友が必ず出現するはずだ″
 彼は、その″時″が、一日も早く来ることを願いながら、心で題目を唱え続けていた。
18  歓喜(18)
 明くる日、山本伸一の一行は、大客殿に埋納するドナウ川の石を採取した後、中央墓地に立ち寄った。
 この墓地には、″音楽の都″ウィーンで活躍した、多くの著名な音楽家たちが、永久の眠りについているのである。
 門を入って、しばらく行くと、生い茂る緑のなかに、ベートーヴェン、ブラームス、シューベルトなどの墓碑が建っていた。
 周囲には木々と芝生が配置され、墓地全体がさながら美しい公園を思わせた。
 ベートーヴェンの墓碑は白い大理石で、メトロノームのような形をしており、その表面に竪琴がデザインされていた。
 伸一は、その前に立つと、大好きな交響曲第五番″運命″や第九番の″歓喜の歌″が聞こえてくる気がして、言い知れぬ懐かしさを覚えた。
 彼は、青春時代から、これらの曲に、苦悩に打ち勝ったベートーヴェンという人間の、魂の凱歌の響きを感じ、魅せられていたのである。
 文豪ロマン・ロランは、伝記『ベートーヴェンの生涯』に、こう書いた。
 「思想もしくは力によって勝った人々を私は英雄と呼ばない。私が英雄と呼ぶのは心によって偉大であった人々だけである」
 およそ、ベートーヴェンほど、多くの苦悩と戦い、壮大な精神の勝利を収めた音楽家はいないだろう。
 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、一七七〇年、ドイツのボンに生まれた。
 父親は、宮廷楽団のテノール歌手をしていたが、貧しく、ひどい飲んだくれであった。息子を″神童″に仕立てて食い物にするために、幼少期から力ずくで音楽を教えた。
 ベートーヴェンは、十歳で劇場のオーケストラの一員となり、早くも生活費を稼ぐようになる。更に、十六歳の時に、最愛の母親が亡くなると、二人の弟の教育も含め、一家の生活のいっさいを担わねばならなかった。
 二十一歳で、彼はウィーンに出て、ハイドンに師事する。ここで、鍵盤楽器の演奏者として、また、作曲家として、脚光を浴びていくのである。
 しかし、やがて、過酷な運命の扉は、強く、激しく叩かれることになる。
 ベートーヴェンは、二十代の後半から耳鳴りや腹痛に襲われ、次第に聴覚が衰えていった。音を失うこと−−それは、音楽家として死を意味するに等しいといえよう。
19  歓喜(19)
 次第に、音が聞こえなくなる恐怖−−。
 生来、快活な気性だったベートーヴェンも、孤独に陥り、悶々とする日が続く。彼の苦悩は、いかばかりであったか。
 「運命の喉元をつかまえてやる」とまで言い切り、運命に抵抗していた彼にして、自殺を考えた時期もあったようだ。
 一八〇二年十月に書かれた、いわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」には、耳の病気の苦しみが切々と綴られ、「僕はほとんど絶望し、もう少しのことで自殺するところだった」と記されている。
 しかし、彼は負けなかった。絶望の闇のなかに、使命の光を見いだしていく。
 「僕には自分に課せられていると感ぜられる創造を、全部やり遂げずにこの世を去ることはできない」と、残酷な運命に耐え、創造的な新しき人生への出発を決断するのである。
 この「遺書」は、いわば過去の自分に対する″決別(死)の宣告″であり、同時に、新たな人生を開始する″新生の宣言″であったのかもしれない。
 それ以後、彼は、作曲に挑戦の炎を燃やし、次々と傑作を世に送り出し、名声を博す。
 交響曲第三番″英雄″も第五番″運命″も、また、第六番″田園″も、「遺書」から五、六年のうちに完成させている。
 しかし、生活上の苦労は絶えなかった。
 ベートーヴェンは、王侯・貴族にへつらうことを嫌い、彼らの庇護に縛られない、自立した生活を望んでいた。自分の芸術は、貧しい人びとに捧げられなくてはならないとも考えていた。
 それは、当時の音楽家としては、革新的な思想であった。
 だが、そうした生き方は半面、経済的な苦闘を強いられることにもなったのである。
 一八一〇年代に入ると、苦しみは、更に怒涛のように彼を襲った。
 恋愛の破局もあった。名声が最高潮になる一方で、数年間にわたる創作活動の沈滞もあった。ベートーヴェンほどの天才と努力の人にして、スランプの苦悩を避けられなかった。
 それだけではない。
 一八一五年には、最愛の弟が、病死している。
 ベートーヴェンは、悲嘆にくれながらも、弟の息子であるカールの後見人になろうとした。ところが、事態はもつれ、この少年の実母と裁判で争わねばならなかった。
 それでも、彼は、カールに愛情を注ぎ、高い教育を受けさせようとした。
20  歓喜(20)
 甥にあたるカールは、ベートーヴェンの期待に反して放蕩を重ねた。そして、後には、自殺未遂までしてしまう。
 その心労は、確実にベートーヴェンの寿命を縮めたといわれている。
 更に、耳の病は悪化し、会話帳を使った筆談に頼るしかなくなっていった。
 そうした苦悩に次ぐ苦悩の激浪を身に受けながら、彼は、大詩人シラーの頌詩『歓喜に寄す』の合唱を伴う、交響曲第九番の作曲に取り組んでいくのである。
 苦悩−−それは、ベートーヴェンの多くの肖像画の表情にも刻まれている。だが、その苦悩の雲も、彼の内面の大空を覆うことはできなかった。
 地上の喧騒にも、万波と寄せ来る非難中傷にも、病気や経済苦にも、彼は微動だにすることなく、″苦悩″から″歓喜″を鍛え出していった。
 シラーが『歓喜に寄す』の詩をつくったのは一七八五年。ベートーヴェンが十五歳のころのことであった。人間の自由や人類愛の勝利を謳い上げたこの詩は、ドイツの人びとに熱狂的に歓迎された。
 ベートーヴェンが、この詩をいつ知ったかは定かではない。しかし、終生消えることのない鮮烈な感動を覚え、早くも二十二歳のころには、この詩に曲をつけようとしていたことがわかっている。そして、″歓喜の歌″のメロディーの着想も得ている。
 しかし、詩とメロディーが結びつき、この詩の合唱を終曲(フィナーレ)とした交響曲第九番が完成するまでには、更に三十余年の歳月を要したのである。
 交響曲に合唱を組み込むことは、技術的にも極めて難しかったに違いない。
 しかし、ベートーヴェンは、あえて艱難辛苦の道に挑み、″歓喜″の調べをつくりあげていったのだ。
 「第九」−−それは、ベートーヴェンの嵐の生涯を集大成した精神の凱歌であり、人間の聖なる魂の賛歌である。
 第四楽章の冒頭、過酷な運命のごとく、嵐の乱調が襲い、たて続けに、第一、第二、第三楽章の調べが現れては、打ち消されていく。これは″歓喜″の響きではないのだ、と。
 一瞬、神秘な静寂があたりを包む。そして、どこからか優しいメロディーが、小川のせせらぎのように、赤子をあやす母の声のように流れてくる。″歓喜″のメロディーである。
 その調べは聴く者の苦悩を癒し、心に生気を注ぎ、歓喜を呼び覚ましながら、次第に音量を増し、全管弦楽の演奏となって響く。
21  歓喜(21)
 管弦楽の奏でる″歓喜″のメロディーは、再び嵐のような乱調で中断する。
 その時、断固たる強さで、男声が響き渡る。
 「おお、友よ、この音ではなく! われわれに好ましい、歓びにみちた音を歌いはじめしめよ」
 これはシラーの原詩にはなく、ベートーヴェンが挿入した言葉である。
 友よ、古い歌ではなく、新しい歌を!−−それは、音楽による革命の宣言といってよい。
 新しい歌声がわき起こり、やがて、全員による合唱になる。生命力みなぎる声は、歓喜が苦悩を打ち砕くかのように、激しく、強く、″歓喜″のテーマを歌い上げる。
 続いて、行進曲風の調べに乗り、先導者の「喜べ、喜べ」という歌声に励まされ、皆が一体となって、英雄のように勝利への歩みを進める。
 その歌声を、ロマン・ロランは「たたかう若い歓喜の讃歌、突撃への行進、ひとつの『マルセイエーズ』なのだ」と評した。
 ″歓喜の歌″には、フランス革命を鼓舞した「ラ・マルセイエーズ」と同様の民衆の凱歌の響きがあるというのだ。勝利の凱旋門をめざして胸を張り進みゆく大衆の歌声、まさに、それが″歓喜の歌″であった。
 その快活な歌声は、いつしか人びとを荘厳な聖なる空間へと運ぶ。
 「抱き合え、百万の人々よ! この接吻を全世界に!」−−歓喜に包まれて、いっさいの差別は消え、万人が友愛のもとに、兄弟として結ばれる。
 そして、一つに溶け合った民衆は、にぎやかな祝祭を繰り広げ、天に昇るような歓喜の渦のなかで、クライマックスを迎えるのだ。
 ベートーヴェンは、このラストに、まったく庶民的な音楽を用いている。
 それは「民衆こそ偉大」「民衆こそ神聖」という洞察ではなかったか。
 また、それは、主役となった民衆が、重苦しい地上の束縛を断ち切り、精神の大空へ飛翔する、″民衆の境涯の革命″を象徴しているのかもしれない。
 しかも、当時のウィーンは、ナポレオン戦争の反動から、反自由、反民主の空気が漂っていた。あちこちに警察の目が光り、共和主義者として知られたベートーヴェンには、当局の監視もついていたようである。
 まさに、「第九」は、時代の闇を突き抜けた、自由と民主の光彩であった。精神の英雄の凱歌であり、″人類の交響曲″であった。
 「第九」の初演は一八二四年五月。それは大反響を引き起こし、演奏が終わると、皇帝を迎える時以上の大拍手が劇場を包んだ。
22  歓喜(22)
 第九交響曲への絶賛−−しかし、それは束の間にすぎなかった。この名曲も、二回目の公演からは不人気となってしまった。
 「第九」は、時代をはるかに超えていた。人類の未来に永遠の響きを放つ、希望の曲であった。
 無理解、無認識によるベートーヴェンへの攻撃も、後を絶たなかった。だが、彼は、黙々と働き続けた。最後の最後まで、ただ自らの使命を果たすために。
 一八二七年の早春、彼は五十六歳で生涯を閉じた。それは、ある書簡に記された彼の言葉そのものの生涯であったといえよう。
 すなわち「苦悩を突き抜けて歓喜へ」−−。
 山本伸一にとって、ベートーヴェンの音楽は、彼の青春の曲であり、魂の調べであった。
 戦後の殺伐とした世相のなかで、これからの人生をいかに生きるべきかを、悩み、考えていたころ、心を癒してくれた曲が、「第九」であり、また「第五」であった。
 その調べは、彼の胸の琴線に共鳴し、勇気を呼び覚ましていった。
 また、ベートーヴェンに関する伝記なども、伸一はむさぼるように読み、その不屈な強さをもつ生き方に共感していった。
 いつの間にか、友人たちは、伸一のことを″ベートーヴェン博士″と呼ぶようになっていた。そんな話が広まり、自宅近くの中学校の夏季学校で、招かれて講義をしたこともあった。
 やがて、戸田城聖と出会い、信仰の道に進んだ伸一は、戸田の経営する会社で仕事をすることになる。
 しかし、ほどなく、戸田の事業が行き詰まってしまう。給料の遅配が続き、伸一の体調も最悪な状態となる。その時も、彼は、手回しの蓄音機で、レコード盤の溝が磨滅するまで、何度となくベートーヴェンの音楽を聴きながら、自らを励ましてきた。
 なかでも「苦悩を突き抜けて歓喜へ」と呼びかけるかのような「第九」は、どれほど彼の魂を燃え上がらせたか、計り知れない。
 このころ、師の戸田は、最大の窮地に立たされていた。世間の非難は嵐のように猛り、それに乗じて、したり顔に批判する会員も多くなってきた。
 あの誇り高い戸田が、事業の失敗の責任を取って、土下座する光景を目の当たりにしたこともあった。その時の悔しさ、悲しさを、伸一は、決して忘れることはできなかった。
 当時、戸田の会社の社員も、一人去り、二人去りして、伸一以外には、戸田を守り抜こうとする人物は、誰もいなかったのである。
23  歓喜(23)
 山本伸一は、身を突き刺すような冬の寒さ、世間の風の冷たさのなかで、戸田城聖の弟子として、決然と一人立った。
 戸田がともした、広宣流布という民衆の救済の火を絶やさぬために、彼は走りに走った。
 伸一は、この青春の苦闘のなかで、後継の弟子としての、自己の使命を自覚していた。
 そして、その使命に生き抜こうと決意した時、彼は、苦悩の雲を破って、歓喜の太陽が胸中に昇りゆくのを感じた。
 戸田は、波立つ世事のすべてを包み込むかのように悠然としていた。いかに追い詰められても、言動には再起への大確信があふれ、微動だにすることなく、その目は、遠く遙かな、広宣流布の希望の未来に注がれていた。
 ある時、伸一は、戸田に言った。
 「先生は、これほどの苦難に遭われながら、いつも堂々としていらっしゃいます。ほかの人ならば、おそらく自殺をしているに違いありません。先生のお心の強さに感服いたします」
 戸田は、笑いを浮かべながら答えた。
 「ぼくだって、夜も眠れぬほど、悩み、考えているよ。ただ、負けるわけにはいかないだけだ。
 それに、ぼくには、君がいる。だから、何があっても、最後は安心していられるのだよ」
 その言葉は、深く伸一の胸を射た。熱い感動が全身に走った。弟子として、これほどの栄誉はなかった。
 戸田は、静かに言葉をついだ。
 「もし、ぼくが、人より多少は強い精神の持ち主のように見えるとしたら、それは、戦争中に牢獄のなかで、自分の使命を知ったからだね。
 使命を知るとは、自分の生涯を捧げて悔いない道を見つけたということだ。そうなれば人間は強いぞ。恐れも、不安もなくなる。
 ぼくにも、以前から、牧口先生とともに、仏法の正義を守るために戦おうという決意はあった。
 それでも、いざ逮捕され、牢獄に入れられてしまうと、不安でいっぱいだった。妻や子のことを思い、泣きもした。自分の事業のことを考え、苦しみもした。ぼくは、滑稽なほど、弱い人間ではなかったかと思う。
 しかし、高齢の身である牧口先生が牢獄のなかで戦っておられることを考えると、そんな自分が腑甲斐なかった。ぼくは、強くならねばならぬと思い、それで、真剣に唱題を始めたのだよ」
24  歓喜(24)
 出獄後、戸田城聖は、獄中で詠んだ歌を中心に、当時の心境をノートにまとめている。
 そこには、囚われの身となった戸田の悲しみ、苦しみ、嘆きが、率直に綴られていた。
  今日もまた
    なすなく生きて
      日ごよみを
  独房の窓に
    涙して消す
  帰りたさに
    泣きわめきつつ
      御仏に
  だだをこねつつ
    年をおくりぬ
  つかれ果て
    生きる力も
      失いて
  独房の窓に
    母を呼びにき
 獄中で冬を迎え、毎日、氷を割って身を洗う辛さは、体験した者でなければわかるまい。そのなかで、「もうすぐ帰るぞ、辛抱せい。今予審が始まっているぞ、帰れるぞ」と、心で妻に叫んだとの記述もある。
 しかし、唱題を重ねるうちに、戸田の歌に大きな変化が表れる。歌には、力が、勇気が、希望がみなぎり始める。
 彼は、人間としての自身の弱さを痛感し、自己の心と、必死になって格闘していたのだ。
  永劫の
    命に染みし
      我が罪垢
  浄むる今の
    つらく嬉しき
 この歌には、苦しみはあっても、既に嘆きはない。地獄のような独房の生活であるにもかかわらず、むしろ、命の底から込み上げる喜びと安穏がある。
 やがて、次の歌となっていく。
  安らかな
    強き力の
      我が命
  友と国とに
    捧げてぞ見ん
 この歌に至るまでに、戸田の獄中での唱題は二百万遍に達していた。そして、彼は法華経の真意を悟り、地涌の菩薩として自分がこの世で果たすべき大使命を知ったのであった。
 広宣流布、すなわち、人びとの幸福を実現するという、久遠からの尊き使命の自覚は、自己の苦悩という、小さな生命の扉を突き破り、大宇宙の生命の大空へと、自らの境涯を飛翔させていったのである。
 そこに戸田の、偉大なる人間革命の輝ける軌跡を見ることができる。
25  歓喜(25)
 戸田城聖は、もはや、何ものをも恐れなかった。
 彼は、確固不動なる永遠の自己を、高鳴る生命の歓喜の律動を感じた。獄舎にあって、法悦に身を震わせながら、彼は誓う。
 「これでおれの一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ!」
 それは、同時に、戸田という一人の存在が、万人に人間革命の道を開いた瞬間でもあった。
 苦悩を離れて、人間はない。苦悩するがゆえに人間である。その苦悩に挑み、乗り越えていくところに、真実の人間の偉大さがあり、ヒューマニズムの勝利がある。
 そして、その源泉こそが歓喜である。歓喜の炎は、使命の自覚とともに燃え上がり、烈風に向かって突き進むなかで、黄金の光彩となって、自己と世界とを照らし出す。
 山本伸一は、ベートーヴェンの墓碑の前にたたずみながら思った。
 ″わが学会のリーダーとして、万人の幸福と世界の平和を実現しなければならない自分の人生は、苦悩の連続であろう。しかし、私は、敢えて、その道を征こう。戸田先生の誉れある弟子なれば……″
 彼の胸に、「御義口伝」の一節が鮮烈に浮かんだ。
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり
 <わが一念に億劫(計り知れないほど長い間)にもわたる大変な辛労を尽くして仏道修行に励んでいくならば、本来、自分の身に備わっている無作三身の仏の生命が、瞬間、瞬間に起こってくる>
 伸一は、苦悩を突き抜けて歓喜へと至る、あのベートーヴェンの「第九」も、この仏法の大原理の一次元を、表現したものではないかと思えてならなかった。
 一行は、この十月十九日の夕刻、オーストリアのウィーンを発ち、空路、最終訪問地となるイタリアのローマに向かった。
 ローマの空港では、仕事でイタリアに赴任している、山岸政雄という四十歳ぐらいの壮年とその妻が、一行を出迎えてくれた。
 山岸は、一九五四年(昭和二十九年)の入会で、日本では地区部長として活躍し、結核を克服した体験をもっていた。病気をしていたせいか、体は痩せていたが、闘志を内に秘めた、生真面目で一途な感じの壮年であった。
 伸一は、山岸の車でホテルに向かった。
26  歓喜(26)
 ホテルに着くと、山本伸一は、山岸夫妻と館内にあるレストランに出かけた。
 伸一は、夫妻の労をねぎらい、一緒に食事をしようと思ったのである。
 しかし、既に夕食の時間が過ぎており、用意できるものは、サンドイッチしかないとのことであった。サンドイッチをつまみながらの懇談が始まった。
 伸一は、山岸政雄に言った。
 「一緒に回っている川崎さんを除いて、ヨーロッパ在住の壮年のメンバーと会ったのは、山岸さんが初めてです。何か大きな意義を感じます。
 私が、お願いしたいことは、ともかく、イタリアにいるうちに、一人の人でもよいから、同志をつくり、未来への広宣流布の種子を植えていただきたいということです。すべてはそこから始まるからです。
 人間の最大の偉業とは何か。それは、同じ志をもった人間を残すことです。人が一生の間にできることは限られている。ましてや、二年や三年の間にできることは、極めて限られてしまう。だから、人間を育てていくことです。
 それが、永遠の流れを開き、大きな社会への広がりをつくっていきます」
 一つの種子が育てば、それが、いくつもの種子を生み、その一粒一粒が、またいくつもの種子をもたらしていく。すべては一人から始まる。ゆえに、一人一人を大切にしていくことである。そこに広宣流布の要諦があるからだ。
 伸一が、常に心掛けてきたことも、それであった。
 翌日は、朝から、大客殿関係の買い物に出かけた。
 山岸夫妻も、仕事の都合をつけ、同行してくれた。
 スペイン広場に近い、コルソ通りの一軒の店で、伸一は、天使の彫像を購入することにした。
 大客殿の前庭に、噴水の一部として設置したいと考えていたのである。
 その後、ヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂を見学した。
 カトリックの総本山ともいうべきヴァチカンは、面積〇・四四平方キロメートルにすぎないが、独自の切手や貨幣も発行し、ローマ教皇を元首とする、世界最小の主権国家である。
 テヴェレ川を渡り、コンチリアツィオーネ通りを行くと、円形の大広場があった。
 その向こうには、高さ四十五メートル、直径四十二メートルといわれる、大きなドームをもつ建物がそびえ立っていた。
 このドームのある建物が世界的に有名な、サン・ピエトロ大聖堂である。
27  歓喜(27)
 現在のサン・ピエトロ大聖堂は、一五〇六年に教皇が起工を命じて以来、百二十年を費やし、一六二六年に建物が完成している。
 大競技場を思わせる、大回廊で囲まれたサン・ピエトロ広場に立つと、大聖堂のドームが青い空に白く映えていた。このドームを設計したのが、ミケランジェロである。
 大聖堂を見学した後、一行は、感想を語り合いながら、広場を歩いた。
 同行の青年の一人が、山本伸一に質問した。
 「ヨーロッパは、基本的にはキリスト教ですし、中東に行けば、ほとんどがイスラム教です。そして、世界の歴史をひもとけば、宗教戦争という悲惨な歴史があります。
 世界に日蓮大聖人の仏法を広め、折伏していこうとすれば、必ず摩擦が生じるのではないでしょうか。
 今後、世界にあって、他の宗教と、いかに接していくかということは、難しい大問題ですね」
 「海外に出ると、皆、必ず、そのことを考えるようだ。インドへ行った時も、同行したメンバーから、同じような質問を受けたよ。
 まず、宗教戦争については、宗教と人間の関係が逆転し、宗教のための人間になってしまったことに最大の原因がある。宗教が違うからといって、異教徒を弾圧したり、虐殺したりすることは、それ自体が本末転倒だ。
 宗教は、どこまでも、人間のためのものであり、最優先されるべきは人間の尊厳です。宗教の違いによって、人間を差別するようなことがあっては絶対にならない。
 また、いかなる宗派の人であれ、人間として最大限に尊重していくことが、本来の仏法の精神であり、創価学会の永遠不変の大原則です。
 なぜなら、平和を、そして、一人一人の幸福を実現していくための仏法であり、それが人間の道であるからだ。
 私の友人にキリスト教に入った人がいた。戦後間もなく、森ケ崎に住んでいたころ、一緒に読書会を開き、文学や哲学を学び合った親しい仲間だった。
 彼は、ある大きな悩みを抱え、キリスト教の門を叩いた。私が、学会に入会する直前のことです。
 その後、彼も、私も移転してしまい、消息は途絶えてしまったが、今も私は、この友人の幸せを祈っている。心の友情は、決して色あせてはいません……」
 伸一は、語りながら、大森の森ケ崎の海岸で、友と語り合った、青春の日々を思い起こした。
28  歓喜(28)
 それは、山本伸一が十九歳の時のことであった。
 時代は、いまだ戦後の混乱期であった。旧来の価値観が崩れ去った空虚さのなかで、心ある青年たちは、精神の渇きを癒すかのように、文学書や哲学書をむさぼり読んでいった。
 その友人も、そんな読書仲間の一人であった。
 伸一は、読書会の後、よく彼と、夜の森ケ崎の海辺を歩きながら、人生を、哲学を語り合った。互いに即興詩をつくり、披露し合うこともあった。
 そのうちに友人は、自分の悩みを打ち明けるようになっていった。
 貧しい暮らし、複雑な家庭環境、人間への不信、失恋の痛手……。友人は、時には涙ながらに、自分の心境を語ることもあった。
 運命の嵐に翻弄される小舟のように、友人は苦悩しながら、必死に人生の指標を、魂の救済の道を求めていた。そして、彼は、キリスト教の教会に足を運ぶようになった。
 月の美しい夜であった。二人で森ケ崎の海岸で、いかに生きるべきかを語り合っているうちに、友人は意を決したように言った。
 「山本君、ぼくは、キリスト教に入ってみようと思う。人間は、心に神をもたなければ、人を信ずることも、自分を信ずることもできないような気がする。
 神の存在とは何かは、まだ、よくわからないけど、バイブル(聖書)を読んでいると、心の安らぎを覚えるし、神を信じられそうな気がしてくる……」
 伸一も、キリスト教に心引かれる部分はあったが、矛盾も感じていた。
 しかし、何よりも友人の考えを尊重したかったし、彼には、まだ、友人に確信をもって語ることのできる思想や哲学はなかった。
 「君が、そう決めたのなら、それもよいと思う。ともかく、ぼくの願いは、君が幸せになることだ。
 ぼくが進もうとする道とは異なると思うが、そこから君が何かをつかみ、人生の大空に飛び立ってもらいたい。
 ぼくも今は結核だし、生活も苦しいが、すべてを乗り越えて、社会のため、人びとのために貢献できる、堂々たる人生を開こうと思う。お互いに頑張ろう」
 伸一がこう言って手を差し出すと、友人は固く、その手を握り締めた。
 月明かりに照らされ、銀波が揺れていた。寄せ返す波の音のなかに、どこかで鳴く虫の声が聞こえた。
 二人は深く頷き、微笑みを交わし合って別れた。
 伸一が、戸田城聖と出会うのは、その直後のことである。
29  歓喜(29)
 山本伸一は、この友人との語らいを詩にしてノートに記し、「森ケ崎海岸」という題をつけた。
 岸辺に友と 森ケ崎
 磯の香高く 波かえし
 十九の青春 道まよい
 哲学語り 時はすぐ
 友は悩めり 貧しけれ
 基督の道 われ行くと
 瞳きびしく 月映えて
 つよき鼓動に 波寄せり
 崩れし土手に 草深く
 いかなる虫か
 知らねども
 今宵は詩歌を
 つくらんと
 楽 平安の 念いあり
 ………… …………
 ………… …………
 友の孤愁に われもまた
 無限の願望 人生を
 苦しみ開くと 誓いしに
 友は微笑み 約しけん
 友の求むる 遠き世に
 たがうも吾れは 己が道
 長歌の舞台 涯しなく
 白髪までも 月語る
 君に幸あれ わが友よ
 つぎに会う日は
 いつの日か
 無言のうちの 離別旅
 銀波ゆれゆく 森ケ崎
 伸一は、その思い出を、同行の青年たちに語っていった。
 「……もし、彼と会うことができたら、また、人生を語り合いたい。そして、仏法を教えたいと思う。
 布教といっても友情から始まる。相手を尊重してこそ、本当の対話ができる」
 伸一の話を聞いて、谷田昇一が言った。
 「先生のお話を聞いていると、布教は、人間としての友情の発露であるということが、よくわかります。
 しかし、世間では、日蓮大聖人というと、折伏を行うということで、非寛容な宗教であるととらえている人がほとんどですよ」
 「確かにそういう見方はある。しかし、民衆の苦しみをわが苦とされ、自らが命を捨てることも辞さない大聖人の御振る舞いは、大慈悲に貫かれている。
 仮に、大聖人を非寛容というなら、それは、権力者や、権力に取り入って民衆を蔑む、宗教指導者に対してだ。民衆に対しては、このうえなく寛容です。
 また、大聖人は、諸経のそれぞれの意義というものは十分に認められていた。だから、御書にも、あらゆる経典を引用されている。
 ただ、部分観や仮の教えをもって、それが最高であり、仏法の根本であると主張する諸宗の在り方を、厳しく戒められたのだ。
 大聖人が、折伏を展開された背景には、当時の時代状況があったことを、忘れてはならない」
30  歓喜(30)
 山本伸一は、日蓮大聖人の御在世当時の、日本の仏教界の状況について語り始めた。
 −−天台大師は、釈尊の教えを明確に立て分け、どの経文が真実で最高の教えであり、どれが部分観にすぎない仮の教えであるかを判別し、教えの高低浅深を明らかにした。
 しかし、大聖人の御在世当時には、その原理が見失われ、何が真実の釈尊の教えであるかがあいまいにされ、さまざまな教えが入り交じり、乱れた、仏法雑乱の時代であった。
 なかでも、念仏や禅などの宗派は、すべての経を包含した釈尊の出世の本懐である法華経を、明確に否定していたのである。
 たとえば、日本の浄土宗の開祖である法然は、その著『選択本願念仏集(選択集)』のなかで「捨閉閣抛」と説いている。これは、浄土宗の依経である浄土三部経以外の法華経などの教えは、捨てよ、閉じよ、閣け、抛て−−というもので、法然の死後も、浄土宗に受け継がれていた。
 浄土宗では、法華経などの修行によって成仏した者は、千人のうち一人もいないとしていたのである。
 また、禅宗では「教外別伝・不立文字」との教義を立てていた。これは、仏の本意は、教説を用いずに伝えられ、言語や文字によって明らかにされるものではないとの意味である。
 彼らは、仏法の真髄は、一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、密かに伝えられたものであるとしていた。そして、その教外の法を伝承しているのが禅宗であり、それは、座禅によって悟ることができると主張したのである。
 伸一は言った。
 「もし、こうした事態を放置しておくならば、真実の仏法が滅してしまうことになる。そこで、大聖人は何が真実であり、最高の法であるかを、法論を通し、言論によって明らかにされていった。
 大聖人は、まず仏法である限り、その教えは、釈尊の一代聖教のうちの、いかなる経典に基づくものかを論究され、文献的証拠に立ち返って、教えの高低浅深を論じられた。
 更に、道理に適っているかどうかという理証のうえから、そして、実際にその教えがいかなる結果をもたらしたかという現証のうえから、徹底して、各宗派の教えを検証された。つまり、独善を排されている。
 この大聖人の行動を、非寛容というならば、寛容とは、全く道理に合わない非難・中傷や暴論を、ただ黙って聞き入れていくことになってしまう」
31  歓喜(31)
 宗教をめぐる語らいは弾んだ。
 二十一世紀を、人類の平和の世紀としていく使命を担う創価学会である。その流れを開いていくために、山本伸一は未来を展望して、仏法者の在り方を青年たちに教えておきたかった。
 男子部長の谷田昇一が言った。
 「日蓮大聖人の御在世当時の状況を考えますと、大聖人が破邪顕正の大折伏を展開された意味がよくわかります。
 そうしますと、時代や状況に応じては、折伏の必要はなくなってしまうということなのでしょうか」
 「そうではない。人びとの幸福のために正法を説いていく折伏の大精神は、決して変わることはない。
 今、日本では、弘教の大波を起こし、皆、必死で戦っているが、誤った教えを正すことは当然です。
 特に戦後になって、さまざまな宗教が台頭し、何もわからずに、それを信じ、結果的に不幸に泣いている人はあまりにも多い。それだけに、宗教にも厳然と正邪があることを教え、人びとが宗教批判の眼を培っていくことは、現在の大事な課題なのです。
 しかし、そのうえで、方法においては、国や時代によって異なってくる。
 たとえば、大聖人は、当時の日本のように、仏法が広まりながら正法が破壊されている邪智・謗法の国においては、折伏を前面に立てていきなさいと言われているが、仏法を知らない国では、摂受を表にしていくように述べられている。
 摂受というのは、宗教上の考え方の違いがあったとしても、その考えを容認しながら、次第に正法に誘引していくことです」
 谷田は、重ねて尋ねた。
 「では、海外では、他宗教への対応も、日本国内とは、おのずから異なってくるということですか」
 伸一が頷くと、更に、谷田は質問した。
 「そうしますと、ヨーロッパなどでは、キリスト教などの他の宗教に、学会としては、どう対応していけばよいのでしょうか」
 「大事なことは、まず対話をすることでしょう。他の宗教は謗法であるからと言って、対話もしないのは臆病だからです。
 宗教的な信条や信念は異なっていたとしても、まことの宗教者ならば、世界の平和を願い、人類の幸福の実現を、真摯に考えているものです。
 私は、その心が、既に仏法に通ずると思っています。その善なる心を引き出し、人間としての共通項に立って、平和のため、幸福のために、それぞれの立場で貢献していくことです」
32  歓喜(32)
 青年たちは、一言も聞き漏らすまいとするかのような真剣な顔で、山本伸一の話に耳を傾けていた。
 「人類の歴史は、確かに一面では、宗教と宗教の戦争の歴史でもあった。だからこそ、平和の世紀を築き上げるには、宗教者同士の対話が必要になる。特に将来は、それが切実な問題になってくるでしょう。
 仏教とキリスト教、仏教とユダヤ教、仏教とイスラム教なども、対話を開始していかなければならない。
 それぞれ立場は違っていても、人間の幸福と平和という理想は一緒であるはずだ。要するに、原点は人間であり、そこに人類が融合していく鍵がある。
 そして、宗教同士が戦争をするのではなく、″善の競争″をしていくことだと思う」
 皆、一瞬、不可解な顔をしていた。
 「″善の競争″というのは、平和のために何をしたか、人類のために何ができたかを、競い合っていくことです。また、牧口先生が言われた、自他ともの幸福を増進する″人道的競争″ということでもある。
 たとえば、世界平和に貢献する優れた人格の人を、どれだけ輩出したか、あるいは、民衆に希望や勇気を与えたかなど、さまざまなことが考えられる」
 青年の一人が尋ねた。
 「でも、学会が対話をしていこうとしても、他の宗教がそれに応じるでしょうか」
 「人類の未来について、真剣に考えている宗教指導者ならば、喜んで話し合おうとするでしょう」
 「では、キリスト教との対話も始まる……」
 川崎鋭治が、興奮した顔で言った。
 すると、伸一は、笑いながら答えた。
 「今すぐには無理かもしれない。川崎さんが、ヨーロッパの創価学会の代表として、キリスト教の最高指導者と会ったとしよう。
 相手が『ヨーロッパに学会員は何人ぐらいいるんですか』と尋ねる。その時に『はい。十人ぐらいです』としか答えようがないのでは、話にならないよ。
 時をつくり、時を待ち、私たちは、平和のため、人類のためにこうしてきましたという実証を、着実に積み上げていくことです。
 また、そうした行動を起こす時には、宗門も世界の平和を担うという、宗教者の責任を深く自覚し、私たちと同じ認識に立つ必要がある。
 ともかく、いつか、その流れをつくり、宗教の違いによる人間同士の争いや反目は、根絶していかなければならない。私は、それが最終的には、学会の大事な使命になると思っている」
33  歓喜(33)
 ためらいがちに、十条潔が言った。
 「摂受ということも、先生のおっしゃることも、よくわかりますが、何か他の宗教と妥協するような感じがしますね。
 海外にあっても、まず教えの正邪を明らかにし、仏法を受け入れない場合は、既に謗法ですから、厳しく糾弾していくわけにはいかないのでしょうか」
 山本伸一は苦笑した。
 それが、十条に限らず、当時の最高幹部の感覚であったのかもしれない。
 「それでは、考えがあまりにも浅い。そうしたやり方で、理解と信頼と友情が深まり、広宣流布が進めばよいが……。
 しかし、必ず無用な誤解と摩擦を招く結果になってしまうだろう。いや、場合によっては、宗教同士の争いにもなりかねない。
 道理を尽くし、仏法者として自分の宗教的信念を語っていくことは大事だが、十条さんのような考えでは自己満足に終わり、友情も壊れ、反目し合うことになる。それは勇ましいように聞こえるが、結局は、現実から逃げていることではないだろうか。
 複雑な現実の世界のなかで、人類の融合を目指していくには、粘り強く対話を重ね、人間として、深い友情を育んでいく以外にない。宗教で人間を裁断するという発想は改めなければならないと、私は思う。
 フランスの作家のヴォルテールは『私は、君の言うことには反対だ。しかし、君がそれを言う権利を、私は命をかけて守る』という、まことに有名な言葉を残している。私たちも、この精神から出発すべきではないだろうか。
 仏法は、全世界の民衆を包む、大海のような大慈大悲の法です。人間の尊厳と自由と平等を説く、普遍の大哲理です。
 ゆえに、仏法者は、たとえ、宗教、思想、信条が違っても、相手を人間として尊重していかなければならない。また、それが人間の道だと思うが……」
 伸一は、十条にこう語りながら、今の最高幹部と自分の間に、仏法への大きな認識の違いが生じていることに気づいた。
 戦時中、一国を狂わせ、初代会長牧口常三郎を死に至らしめ、民衆に塗炭の苦しみをなめさせた根本の原因は宗教にあった。だから学会は、戦後、そうした宗教の誤りを正すことを、第一義としてきた。
 それは、当然、大事な精神ではあるが、未来を展望する時、それのみが、仏法の在り方のすべてであるかのように思い、宗教者の社会的使命に眼を閉ざした幹部の思考に、彼は一抹の不安を感じた。
34  歓喜(34)
 山本伸一たちは、明日、もう一度、ヴァチカンに来て、壁画などを鑑賞することにし、古代ローマ時代の遺跡のフォロ・ロマーノに向かった。
 ここは、古代ローマの政治、経済、宗教などの中心地であったといわれる。
 歩道の敷石の間から雑草が生え、大円柱や彫刻も崩れてはいるが、凱旋門や神殿跡から、「永遠の都」といわれたローマの、古代の繁栄をしのぶことができた。
 ローマ帝国は、紀元前七世紀ごろ、イタリア半島のテヴェレ川河口につくられた都市に発している。
 前六世紀ごろから、ローマは、共和制都市国家として栄えていったが、前二六四年に勃発したカルタゴとの第一次ポエニ戦争を機に、次第に軍事力が強化されていく。
 そして、ローマは、前二世紀半ばにかけて、カルタゴを撃ち破り、シチリア、コルシカ、サルデーニャなどを手に入れ、更に、マケドニアを属州とし、カルタゴ領であった北アフリカ、スペインも支配下に置いた。
 前二世紀には、ローマの支配は、地中海全域に及んだのである。
 しかし、一方で、共和制は綻びを見せ、元老院の腐敗と堕落が進んでいた。
 前六〇年には、カエサル(英語ではシーザー)が、ポンペイウス、クラッススとともに、三頭政治を開き、ガリア(現在の北イタリア、フランス、ベルギーのある地域)を討った。
 更に、カエサルは、腐敗したローマを立て直す者は、自分しかいないと考え、クラッススの死後、ポンペイウスに戦いを挑んだ。
 内戦である。そして、ポンペイウスを破り、ローマで独裁者の地位を固めた。
 だが、それに反対する共和主義者によって、カエサルは、元老院で凶刃に倒れたのである。
 しかし、紀元前二七年、彼の養子であるオクタウィアヌス(アウグストゥス)が元首となり、ローマ帝国がスタートする。
 皇帝のなかにはネロのような暴虐の王もいたが、賢帝も多く、ローマ帝国は繁栄を誇ることになる。
 そのローマ帝国も、やがて、統一が困難になり、三世紀以降は内乱が続く。
 そして、三九五年に、遂に、ローマを都とする西ローマ帝国と、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を都とする東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に分割される。
 その後、約八十年で、西ローマ帝国は、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルのクーデターによって滅亡することになるのである。
35  歓喜(35)
 山本伸一は、太陽の光に映える、遺跡の白い柱を見ながら、崩れかかってはいるが、約二千年の歳月を経て、今なお、その建物が残っていることに、大きな驚きを覚えていた。
 おそらく、古代ローマの人びとは、一つ一つの建造物を永遠に残そうと思いながら建設し、最高の美を追求していったに違いない。
 伸一は、これから総本山に建設する大客殿も、正本堂も、二千年後、三千年後にも微動だにしない、堅固で芸術性、人間性の美を備えた建物にしなければならないと、深く思った。
 一行は、それからホテルに帰り、夕食の後に、ヨーロッパの人事を検討した。
 スイスの連絡責任者には本杉光子が、イタリアの連絡責任者には山岸政雄がなることが内定した。
 これで、ドイツ、フランス、イギリス、スイス、イタリアの五カ国に連絡責任者が誕生することになる。
 この後、伸一は、皆と一緒に、再びフォロ・ロマーノに出かけた。彼は、夜の遺跡を散策しながら、思索のひと時をもちたかったのである。
 空には、丸い、美しい月が輝き、青白い月光が遺跡の大円柱を照らしていた。
 静寂な夜の遺跡には、昼間とは異なった幽遠な趣があった。
 伸一は思った。
 −−繁栄を誇ったローマ帝国が滅びゆくことを、当時の人びとは、想像することができたであろうか。
 人の世は栄枯盛衰を避けることはできない。永遠に続くと思われたローマも、帝政の始まりから約五百年にして、西ローマ帝国の滅亡を迎えた……。
 しかし、大聖人は「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」と仰せである。
 妙法は永遠である。なれば、その妙法を根本に築かれた人類の平和と繁栄もまた、永遠であるはずだ。それは、武力や権力の支配に対して、人間性が勝利する″精神の大世界″といってよい。
 この永遠なる″精神の大世界″、すなわち″妙法の国″を、一人一人の胸中に築き上げ、人間共和の「永遠の都」を建設することがわが創価学会の使命だ。新しき人類史の扉を開くために、断じて成し遂げなければならない。
 ローマの月を仰いで、こう誓う伸一の胸に、一首の和歌が浮かんだ。
  ローマの
    廃墟に立ちて
      吾思う
    妙法の国
      とわにくずれじ
36  歓喜(36)
 十月二十一日は、ヨーロッパでの最後の滞在の日であった。翌二十二日には、イタリアを出発し、帰国の途につくことになる。
 一行は、この日、再びヴァチカンに出かけ、壁画や美術品を鑑賞した。
 山本伸一が目を見張ったのは、ヴァチカン宮殿のシスティナ礼拝堂の、壁面から天井いっぱいに描かれたミケランジェロの絵画であった。
 ミケランジェロは、高さ約二十メートル、縦約四十メートル、横約十三メートルの、この礼拝堂の天井と壁に、聖書の劇的な物語を描いたのだ。
 天井には″光と闇の分離″や、″アダム″と″イヴ″、ノアの″大洪水″など、旧約聖書の創世記の世界が、生き生きと描かれている。そして、大小三百人を超す一人一人の人物が、鮮烈な個性を放っているのである。
 ミケランジェロは、一五〇八年に、この天井画の制作に着手し、完成までに、実に四年の歳月を費やしている。
 複雑な曲面の天井に、不自然な姿勢で絵を描き続ける作業は、困難を極めたに違いない。それは肉体の限界をはるかに超えた作業といえよう。
 しかし、彼は、体を害しながらも、一心不乱に描き続けたのである。
 更に、祭壇の奥の壁面には、キリストによって全人類が裁かれる、「最後の審判」が描かれている。
 青白い光を背景にして、人びとの絶望や驚き、喜びが、壮絶な渦のように迫ってくる。
 この壁画の制作には、一五三六年から五年の歳月を要したといわれる。
 ゲーテは「システィナの礼拝堂を見ずしては、およそ一個の人間が何をなしうるか、はっきりした概念をつかむわけにいかない」と述べているが、そこには創作の極限に挑んだミケランジェロの、不屈の魂が刻印されている。
 伸一は、肉体の苦痛と闘いながら、黙々と作業に励むミケランジェロの姿を思い描いた。
 ミケランジェロは、その仕事に自己の使命を自覚し、突き上げる歓喜のなかで、不滅の普遍的形式を模索しながら、彼の心に燦然と輝く大宇宙を描き続けたのであろう。
 この一人の芸術家によって、どれほど多くの人が、キリスト教に魅せられていったか計り知れない。
 仏法という生命の大法の世界も、それを表現する技をもってこそ、共感と理解を広げることができる。
 伸一は、やがて創価の友のなかからも、あまたの妙法のミケランジェロが育ちゆくことを祈り、願った。
37  歓喜(37)
 一行は、ヴァチカン宮殿から車で、アッピア旧街道にある聖カリストゥスのカタコンベに向かった。
 途中、激しい雨が降り出したが、カタコンベに到着したころには、雨はすっかり上がっていた。
 カタコンベとは、主に初期キリスト教時代の地下墓所を言い、このカリストゥスのカタコンベは、最も有名なカタコンベの一つで、三世紀の何人かの教皇をはじめ、多くの殉教者が葬られている。
 ガイドの案内で、十数人が一団となって、迷路のような、薄暗く、狭い地下道を進んでいった。それは、あのヴァチカンの美しく豪華な建物とは、あまりにも対照的であった。
 地下には、いくつもの部屋があり、なかには壁に絵の描かれた部屋もあった。絵は素朴なもので、随所に魚の姿が描かれていた。
 ガイドの説明では、魚はイエス・キリストを象徴しているという。
 そのころは、まだ迫害の時代であり、キリスト教徒であることが発覚せぬように、比喩的に魚の姿で表現したのである。
 今日、ローマは、キリスト教の中心地となっているが、かつて、イエスを十字架にかけて刑死させ、三百年の長きにわたってキリスト教徒を弾圧し続けてきたのは、ほかならぬローマ帝国であった。
 イエスは、紀元前四年ごろ、エルサレム近郊のベツレヘムに生まれたとされるが、北パレスチナのガリラヤのナザレの町に生まれたとする説もある。
 パレスチナは、五百年以上の長きにわたって、外国の支配下に置かれ、当時はローマ帝国の属州となっていた。
 この他国による蹂躙という、屈辱の歴史のなかで、人びとは、ユダヤ教徒として、唯一の神ヤハウェを信じてきた。
 そして、いつの日か、ヤハウェが救世主(メシア)を送って、自分たちの国土を取り戻し、「神の国(天の国)」が築かれることを信じて疑わなかった。
 その間に、ヤハウェの言葉を預かる幾多の預言者が出現し、「神の国」は近いと訴えてきたが、実現されることはなかった。それでも人びとは、願望を捨てなかった。
 彼らは、町にローマ風の神殿が建てられ、ユダヤ教の祭司たちまで、ローマの支配者に追従し、妥協していく姿に、憤りをいだきながら、その日を待った。
 イエスの前にも、一人の預言者が現れた。ヨハネである。彼は叫ぶ。
 「悔い改めよ。『天の国』は近づいた!」
 その言葉は、イエスの心を激しく揺さぶった。
38  歓喜(38)
 イエスは、ヨハネの洗礼を受け、彼の教団に身を投じた。
 エルサレムの神殿を管理し、祭儀を司るだけの特権階級となってしまった貴族祭司や、律法の観念的な解釈にふける律法学者たちを激しく攻撃するヨハネに、イエスは強く共感した。
 しかし、叩きつけるかのように、神の怒りと罰とを語るばかりのヨハネに、イエスは、やがて、疑問をいだいたようだ。彼は、民衆の苦しみを、また、弱さを痛感していたのであろう。イエスのまなざしは、神の愛に向けられていく。
 一方、ヨハネは、ガリラヤの支配者によって、捕らえられ、殺されてしまう。
 イエスは民衆のなかに入り、伝道を始めていた。彼は、神の愛を説き、他人への愛を説いた。罪人にも救いの道を開いた。
 そして、「目には目を、歯には歯を」という争いをもたらす考え方を戒め、相手を改めさせるには、自分の心を改めよ、と教えた。
 彼は、誰に対しても平等であった。貧しき人にも、病人にも、老若男女を問わず、同じように愛を注ぎ、温かく励ましていった。
 そして、ユダヤ教のモーセの律法も、外から人間を縛るためのものではなく、人間のためのものであることを示した。
 民衆は、自分たちに慈愛を注ぎ、愛と正義を説くイエスを敬愛していった。
 それゆえに、イエスは、祭司や律法学者、モーセの律法の厳格な順守を主張するパリサイ派などの人びとの恨みをかうことになる。彼らは自分たちの権威と立場が、足元から崩されていく恐れをいだき、イエスを陥れようと考える。
 ヨハネの福音書には、こんな話が残されている。
 ある時、イエスのもとにユダヤ教の律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕まえられた女性を連れて来た。周囲には、人びとが大勢集まっていた。
 モーセの律法では、姦淫を犯した女性は、石で撃ち殺さなければならないとしている。
 彼らはイエスに尋ねる。
 「あなたは、こうした場合、なんと言うのか」
 もし、イエスが「石で撃ち殺すな」と答えれば、律法を破ることになる。愛を説くイエスを、追い込もうというのである。
 イエスは黙っていた。彼らは、しつこく、何度も尋ねた。イエスは言った。
 「あなたたちのなかで、罪を犯していない者が、まず、この女に石を投げよ」
 誰も石を投げられなかった。権威を振りかざす律法学者たちも、陰で罪を犯す偽善者であったわけだ。
39  歓喜(39)
 イエスは、モーセの律法そのものを、否定しようとしていたのではない。
 彼は、その律法は、人間の心のなかに打ち立てられてこそ、本当の意味をもつと考えていたのであろう。
 たとえば、″姦淫してはならない″というモーセの律法にしても、情欲をもって人を見ること自体、同じ罪を犯していることであると、彼は説く。
 律法の精神化、内在化であり、そこには、人間の内なる規範の確立がある。
 イエスを敵視する人びとは、彼がモーセの律法を冒涜する異端者であることを印象づけ、民衆と離間させようとした。
 また、ローマ帝国に反旗を翻す危険人物に仕立てあげようと画策し、その証拠づくりに躍起となった。
 律法学者などが、しばしば彼に論争を挑んでいるが、それは、そのための巧妙な罠であった。
 論争は、彼らが最も得意とするところであり、相手を窮地に陥れる言質を引き出す能力にたけていた。
 ある時、パリサイ人などが、イエスのところへやって来た。周りには、イエスを慕う民衆がいた。
 彼らは、丁寧な口調でイエスに言った。
 「あなたは、正直な方です。本当のことを語って神の道を説き、誰にも遠慮などされないことを、よく存じております。それは人の顔色をうかがうことがないからです。そこで、ぜひ、お聞きしたいのです」
 そして、こう尋ねた。
 「私どもは、異教人であるローマ皇帝に、税金を納めるべきですか、納めるべきではないのでしょうか」
 人びとの多くは、ローマの支配に、憤りを感じている。イエスが「納めるべきだ」と答えれば、彼はユダヤ教徒である民衆を失望させることになる。
 しかし、「納めるべきではない」と言えば、ローマに反逆し、民衆を扇動しようとしている言質となる。
 イエスは、税に納める貨幣を見せるように言い、そこには、誰の像が彫られているかを尋ねた。貨幣にはカエサル(皇帝)の肖像が彫られている。彼らが、カエサルである、と答えると、イエスは言った。
 「では、カエサルのものはカエサルへ、神のものは神に返しなさい」
 税は納めても、心は神とともにあれ、との表明である。彼らは言葉を失った。
 ローマへの反逆者としての言質を取ることもできなければ、ユダヤの神を裏切る異端者として、民衆に失望を与えることもできなかったからである。
 イエスは巧みな言論をもって、次々と窮地を切り抜けていった。それは、人びとを救わなければならぬという使命感から発した、信念と英知の言といえよう。
40  歓喜(40)
 イエスに嫉妬する者、あるいは憎しみをいだく者は多かった。
 律法学者やパリサイ人らだけでなく、武力でローマ帝国の支配から脱しようとする人びとも、武力を否定するイエスを憎んだ。
 また、民衆に熱い支持を受け、人間は神の下に平等であると説く彼を、ローマ軍は危険視していたことはいうまでもないし、ローマ軍と組んで金儲けを企む商人も彼を敵視していた。
 イエスの味方は、彼を慕う民衆だけであった。
 その民衆の多くは、イエスこそ、「神の国」をつくるために出現した救世主(メシア)であると信じ、彼が決起することを願望していた。
 イエスへの支持が集まるにつれて、エルサレムの指導者たちの恐れはつのり、彼を亡き者にする機会を、虎視眈々と狙っていた。
 そこに、イエスの弟子の一人、ユダが出頭し、イエスの逮捕に協力することを申し出たのである。
 イエスは逮捕された。
 エルサレムの最高法院は、イエスが自ら救世主であると認めたとして、死刑を決議した。そして、ローマから派遣され、死刑の執行権をもつ、総督のピラトのもとに、イエスは連れていかれた。
 ピラトは、イエスの罪に疑問をいだいたが、最高法院に扇動された人びとの暴動を恐れて、死刑に処したのである。
 イエスは鞭打たれた後、イバラの冠を被せられて、エルサレムの街を引き回された。
 そして、ゴルゴタの丘で手足に釘を打たれ、十字架にかけられた。
 人びとの信じた奇跡は起こらず、無力な一人の人間として、やがて、彼は息絶える。
 人間は神の下に平等であるとするイエスの教えは、万人平等の思想として、仏法に通ずる面がある。だが、神と人間の間に絶対的な差別を置く点では、人間は本来、皆、尊極の仏であると説く仏法とは、大きく異なっている。
 しかし、イエスは、その受難の生涯を通して、民族や国家を超えた、普遍なる愛の原理を残したといってよいだろう。
 ところで、彼に付き従ってきた弟子たちは、師のイエスが逮捕され、危険が自分の身にも及びそうになると、皆、逃げてしまった。
 ともに牢獄で死ぬ覚悟であると、イエスに決意を述べた弟子のペテロも、イエスと一緒にいたことが発覚しそうになると、自分は無関係だと言って、師を見捨てたのである。
 最後まで、イエスを慕って処刑場に来たのは、女性たちであったという。
41  歓喜(41)
 男性の弟子たちは逃げてしまったにもかかわらず、なぜ、女性信徒たちはイエスを慕い続け、処刑場まで付いてゆくことができたのであろうか。
 女性信徒は、男性の弟子たちほど、危険視されていなかったという事情もあったであろうが、そこには、信仰の本義にかかわる問題が潜んでいる。
 女性信徒の一人、マグダラのマリアは、イエスによって悪霊を追い払ってもらったとされている。つまり、病気を治してもらったのであろう。
 福音書には、イエスが人びとの病を治した後、彼が「あなたの信仰が治した」と語る場面がある。それはイエスが奇跡を起こしたというより、彼の励ましが、触発となり、相手の心を変え、病を克服する生命の力を引き出したと見ることができる。
 彼女たちは、なんらかの個人の体験的な実感を支えとして、一途に信仰に励んできたのであろう。
 それゆえに、イエスへの強い感謝の念があったはずである。また、イエスは愛を説き、人びとを救おうとしてきただけで、何も悪いことなどしていないではないかという、権力への憤りもあったに違いない。
 だから、イエスを取り巻く状況が変化し、彼が捕らえられても、彼女たちの心が揺らぐことはなかった。
 それに対して、男性の弟子たちの多くは、イエスにユダヤ復興のための救世主の夢を託していた。つまり、イエスを押し立てて、この世に「神の国」という名のユダヤの国をつくろうとして、彼に付き従ってきた。多分に世俗的な野望が働いていたといえる。
 そして、彼らはイエスを旗頭として「神の国」を建設しようとすれば、現状に甘んじる貴族祭司やユダヤの指導者を敵に回し、更には支配者であるローマへの反逆になることを、よく知っていたはずである。
 だからこそ、イエスが捕らえられた時、世俗的な野望の崩壊が、そのまま信仰の崩壊となり、彼らは強い恐怖に襲われ、逃げ出したのである。
 しかし、それにもかかわらず、イエスの死後、その教えが世界に広まり、いかなる弾圧にも屈せぬ信仰心を人びとに培うことができたのはなぜか。
 福音書のなかでは、イエスの遺体は、エルサレムの最高法院の議員で、彼を密かに支持していたヨセフが引き取り、自分の所有している墓に葬ったとある。
 ところが、そのイエスの遺体は消えてなくなり、彼自身が予告していた通り、「復活」を遂げたとされている。更に「復活」したイエスに、まず最初に女性信徒が、そして、弟子たちが会ったとの記述がある。
42  歓喜(42)
 イエスの「復活」については、キリスト教徒でなければ、およそ信じ難い話といえよう。
 それはともあれ、イエスの処刑から三日目の朝、女性信徒たちがイエスの墓場に行くと、彼の遺体は消えていたとされている。
 イエスを信じ、慕い続けてきた彼女たちも、初めは戸惑い、途方に暮れたようだ。だが、やがて、イエスは自ら予告していた通りに「復活」したのだ、との思いをいだいていったに違いない。
 そして、そんな女性信徒の心の目には、イエスの姿が、ありありと映し出されたのかもしれない。
 一方、男性の弟子たちは、師のイエスが逮捕されるや、四散して身を潜めていたが、その後、イエスがどうなるか、気が気でなかったはずである。
 イエスが救世主ならば、奇跡を起こし、窮地を脱するのではないかという期待もあったであろう。また、イエスを見捨て、裏切った自分たちを、彼が恨んでいるのではないかという恐れもいだいていたであろう。
 しかし、奇跡は何も起こらず、イエスは刑場に散った。それは、あまりにも無力で、無残な姿であったかもしれないが、裏切った弟子たちへの、恨みの言葉を吐くこともなかった。そこには、愛への不屈なる意志があるように思える。
 弟子たちは、無力なイエスの姿から、彼は救世主ではなかったのだと、師を捨てた自分たちの行為を、必死になって正当化しようとしたに違いない。
 しかし、信義を捨てた彼らの心の傷は、いかに自己弁護しようが、決して、拭い去れるものではない。
 また、イエスの弟子と名乗り、師の遺志を受け継ごうとするならば、待っているのは死である。
 彼らは悩み、苦しみながら、イエスの教えを思い起こしたことであろう。
 −−愛に生きよと、説き続けたイエス。己を捨てて十字架を背負えと教えたイエス……。
 福音書では、イエスが自分の受難・死刑を語っていただけでなく、弟子たちが信仰につまずくことも予告していたとされている。少くとも、彼が殉難を覚悟し、弟子たちの信仰に警鐘を鳴らしていたことは間違いない。
 つまり、事態は、ほぼイエスの予告通りに、展開していったといえる。
 弟子たちは、苦しみ、思い悩みつつ、イエスの死の意味を考えざるを得なかったであろう。そして、彼の死は、″神を愛せ、隣人を愛せ、敵を愛せ″との教えを身をもって示したのだと、感じ取っていったのではないだろうか。
43  歓喜(43)
 イエスの死の意味を悟った弟子たちは、同時に、イエスの言う「神の国」が、自分たちが欲していたような地上の国ではなく、永遠なる「心の国」であることにも気づいたであろう。
 彼らは、ますます師を裏切ったことの罪の深さを感じ、自らの愚かさを、臆病を、惰弱さを悔い、強い自責の念にさいなまれたのではないか。
 弟子たちは、自分たちを待っているのは地獄ではないかという、恐れと悔恨のなかで、イエスの遺体が消えたことを耳にする。
 ある者は、イエスは予告通りに「復活」したのだと思い、また、ある者は、そんな考えを盛んに打ち消そうとしたに違いない。そこに、イエスを見たという女性信徒の話を聞く。
 悔恨と恐れと師への渇仰が交錯し、疲弊しきった弟子たちの心にも、イエスの姿が見えたとしても、さして不思議ではあるまい。
 彼らは、己心に「復活」を見たのである。彼らの心の奥に、埋み火のように残っていた信仰の火が、自己の胸中に、イエスを蘇らせたのだ。
 それは、イエスの説く「永遠の命」「神の国」を確信させたはずである。
 その時、悔恨は不退転への誓いとなり、愛を説き、″十字架を背負え!″とのイエスの言葉を全うすることに、弟子としての使命を見いだしたに違いない。
 弟子たちの伝道が始まった。「永遠の命」に目覚めた彼らは、もはや、死をも恐れはしなかった。いや、殉難こそが誉れであった。それが、不屈の信仰をつくり上げ、布教の原動力となっていったのである。
 ――想像を交えていえば、最初期の「キリスト教」は、こうして誕生したのではないだろうか。
 弾圧は、その後も続いた。しかし、弟子たちから、また、弟子たちへと、その精神は伝えられ、ローマ帝国にも、イエスの教えは広まっていった。
 ローマ皇帝のなかには、次第に流布されていくキリスト教を、躍起になって迫害した皇帝もいた。市民が見物するなか、キリスト教徒たちを猛獣の餌食にしたり、生きながら火あぶりにするという残酷な処刑も行われたと伝えられる。
 自分は「キリスト教徒」であると認めれば、それだけで処罰の理由となった。ローマの神々や皇帝を崇拝せず、神殿に供物も捧げないことなどが、帝国の秩序と安寧を乱す危険な宗教とみなされていたのである。
 しかし、迫害の嵐は、いよいよ信仰の炎を燃え上がらせていった。恐怖や苦痛、利害をもってする、いかなる権力の迫害にも屈服しない――それが人間の心の偉大さであり、信仰の真髄である。
44  歓喜(44)
 ローマ帝国の弾圧のなかでも、殉教を誉れとする人びとの最期は、崇高であった。
 猛獣の餌食となっても、なお、毅然とし、悠然としていた。その姿こそ、彼らの「正義」の証明であり、それは、むしろ、ローマ市民に感動を与え、権力の暴虐を浮かび上がらせることにもなった。
 迫害も功を奏さず、次第に指導者層や兵士のなかにも、キリスト教徒が増えていった。
 そして、約三百年。屈したのは、キリスト教徒ではなく、武力を自在に操り、弾圧してきたローマ帝国であった。
 三一三年、遂にローマ皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教を公認し、やがて、ローマは、キリスト教の都となったのである。
 山本伸一は、カタコンベで、キリスト教の歴史を振り返りながら、信仰の道の険しさを思った。
 ――キリスト教が公認されるまでの三百年の間に、いかに多くの人びとが拷問され、処刑されていったことか。その苦闘と試練のなかで、彼らは殉難を誉れとして、教えを広めていったのだ。
 学会は、牧口先生の殉教から、まだ、わずか十七年である。今は、時代も、社会状況も、戦時中とは異なり、平和と民主の時代となった。
 しかし、経文に、また、日蓮大聖人の御聖訓に照らしてみるならば、仏法という最高の大法を行ずる我らに、大弾圧、大迫害が競い起こることは間違いない。
 「からんは不思議わるからんは一定」との御聖訓は、永遠の光を放っている。
 戦後、戸田先生が学会の再建に立ち上がられてから今日に至るまで、学会は幾多の難を受けはしたが、まだまだ小難にすぎない。
 すると、前途には、想像を絶する大難が待ち受けていよう。それも″民主″の仮面を被り、巧妙に世論を操作しての弾圧となるに違いない。全人類を救いゆく広宣流布の道が安穏のわけがないからである。
 それが十年後か、二十年後か、あるいは三十年、四十年後になるのかは、今は伸一には測りかねた。
 彼は、既に殉難の生涯を誉れとする不屈の決意を固めていた。そして、いかなる事態に直面しても、微動だにしない多くの信仰の人がいなければ、仏法の永遠の大道は開けぬことも痛感していた。
 しかし、できることならば、犠牲は、自分一人にとどめたいというのが、彼の会長としての切実な願いであった。
45  歓喜(45)
 カタコンベの見学を終えて、外に出ると、同行の青年が感無量の顔で、山本伸一に言った。
 「先生、苦難の歴史を経ることによって、不屈の信仰が形成されていくものなんですね……」
 「そうだ。私も、そのことを、ずっと考えていた。
 キリスト教の歴史を見る時、三百年という長い苦節はあったが、その教えはローマに広まり、遂に勝利を得たことで、彼らの信ずるイエスの『正義』は証明された。大切なのは後に残った弟子がどうするかだ。
 学会も、初代会長の牧口先生は獄死された。戸田先生という弟子がいなければ、学会も壊滅していたし、大聖人の仏法も滅していた。
 更に今後、私たちが何をするかだ。もし、学会が滅びてしまえば、真実の仏法を伝えることはできない。牧口先生の価値創造の哲学も、戸田先生の平和思想も滅びてしまうことになる。いや、牧口先生の死も犬死にになってしまう。
 ともかく、残った弟子がすべてに勝つ以外にない。自分に勝ち、宿命に勝ち、逆境に勝ち、人間王者になることだ。大勝が仏法を、広宣流布を永遠ならしめる。また、大勝のなかにこそ、信仰の大歓喜がある。
 さあ、いよいよ明日は帰国の途につく。日本の広宣流布という、民衆の幸福のための新しき戦場が待っている。
 戦おうよ、力の限り。そして、勝とう!」
 皆、決意に燃えた目で、伸一を見ながら、大きく頷いた。
 一行は車で、ローマ市内を目指した。
 石造りの建物が建ち並ぶローマの街は、美しい夕焼けに染まっていた。
 伸一は、「ローマは一日にして成らず」との言葉を思い出していた。一都市国家から始まったローマが、大帝国を築き上げるまでには、数百年の歳月を要している。
 ましてや、人類の胸中に「永遠の都」ともいうべき生命の黄金の城を築き、世界の平和を打ち立てんとするのが広宣流布である。その大偉業は、もとより、一朝一夕に成るものでは決してない。
 百年、二百年、あるいは、数百年以上の歳月を要するかもしれない。
 しかし、それは、断じて成し遂げなければならない創価学会のテーマである。
 そのためには、当面する一つ一つの課題に勝ち切ることだ。
 今の勝利なくして未来の栄光はない――伸一は、落日に燃えるローマの街並みを見ながら、強く拳を握り締めた。

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